長野街道(国道145号線)を嬬恋から吾妻川渓谷に沿って下ります。
川原湯温泉駅の遥か上方に八場ダムの建設が進んでいます。
駅も温泉旅館も総て水底に沈んでしまうのです。
名勝「吾妻渓谷」ももうじき見納めになる事でしょう。
吾妻渓谷の紅葉を一度は見ておきたいものだ…、いかばかりか美しかろう…、思います。
渓谷がパッと開けて、目の前に田圃が広がります。
山村から農村に出てきた感じがします。
このあたりからが「東吾妻村」です。
私達の目的は東吾妻村の双体道祖神です。
そして、古刹「応永寺」です。
応永寺の山門
JR岩島駅を見下ろす高台に目指す「応永寺」はありました。
寺の背後には吾妻山、薬師岳、岩櫃山が連なります。
岩櫃山には「岩下城」があり、吾妻氏の居城でありました。
応永寺の歴史は室町時代後半、吾妻氏の興隆と共に始まりました。
吾妻氏は小田原の後北条氏と盟友関係になり、発展を遂げます。
遠目にも山裾に聳える応永寺の山門が見えました。
山門を目指して坂道をたどります。
寺の参道も、門の周囲も桜の古木が連なっています。
桜の季節はさぞかし美しい事でありましょう。
桜が咲けば田植えの準備をし、桜が紅葉する前に収穫を終えるのでしょう。
正面9間もある立派な本堂
古刹応永寺ですが、古い建物は山門だけで本堂も庫裏も禅宗(曹洞禅)の古式に従って、
新しく建築されています。
山門の左右に阿吽の仁王像が立っています。
仁王様の天井には天女が飛んでいます。
上半身は人、でも下半身には大きな翼と美しい尾羽を持った鳥の姿をしています。
迦陵頻伽(がりょうびんが)が飛んで、山門な先は浄土であることを示しているのでしょう。
山門を見上げると、天井には墨で描かれた龍が睨んでいます。
絵師の名が書かれていますが…、遠目では読めません。
迫力がありますので、相当の力量のある絵師の作なのでしょう。
門からして浄土と禅が隣り合わせているようです。
阿形の仁王像
仁王像の天井に描かれた迦陵頻伽
山門天井の龍の図(真ん中左に絵師の落款があります)
小田原には曹洞宗の古道場「大雄山最乗寺(道了尊)」があります。
無庵禅師は最乗寺で修業をしていました。
最乗寺には全国から雲水さんが集まり修行していましたから・・・・、
全国各地の情報が集まっていたことでしょう。
「どこどこの寺が立派に修復された、何処のお寺に誰のお弟子さんが住職に入った。
何処かのお寺の住職は最近素行が悪い。何処かのお寺に奇妙な事件が起きた・・・」などなど。
そんな話の中にこんな話がありました。
「吾妻村の清竜寺が荒れ果てている…、残念なことだ。」
無庵禅師は北関東への旅を計画します。
目的の第一は館林の茂林寺に詣でる事、同寺の開基は尊敬する正通禅師でした。(応仁元年)
そして、吾妻氏の衰退とともに荒れ果てているという清竜寺を再建し、禅寺とする事でした。
清竜寺を再建し「応永寺」と致します。(大永7年1527)
茂林寺は山号を清竜山と言います。
応永寺の旧名は清竜寺でしたから、両寺院は兄弟のようです。
茂林寺の開基正通禅師は信州の生まれですから・・・、清竜寺を経て茂林寺に入った事でしょう。
その折に分福茶釜の伝説が出来た…、推測されます。
と言うのは東吾妻村には次の茶釜狸伝説が残されているそうです。
農民は困っていました、清竜寺は無住の寺になって荒れ果てているのでした。
これでは祖先にも申し訳が立たないし、お寺には和尚が住んでもらわなくては困る。
そんあある日、本堂の方角からお経が響いてきました。
農民がお寺ののぼると見目麗しい和尚さんがお勤めをしていました。
農民たちは不思議なことだ…、思いましたが先ずは歓喜しました。
懸案が氷解したのでした。
曹洞宗開祖道元禅師に因んだ見事な笠松(五葉の松)
ところが真面目にお勤めしていたのは最初の頃だけ、
しばらくするとお寺に在った大きな茶釜にお湯を沸かし、お茶ばかり飲んでいる様になりました。
そして、木魚を叩いてお経を読むわけでは無しに、鉦を叩いて祭囃子に興じるようになりました。
農民は困ったものだ…、小言を言おうとお寺に登りました。
ところが、小言どころか言い含まれてお囃子仲間に入ってしまいます。
毎晩、お寺ではお囃子が響くようになってしまいます。
これではお寺ばかりか村も廃れてしまう…、古老が揃って怒りを和尚にぶつけました。
和尚は茶釜を盗むようにして持ち出します。
そして街道を館林の方角に消えてしまいました。
ただ、余程慌てたのでしょう、茶釜の蓋を落としていってしまいました。
正通禅師が清竜寺を訪れた時、住職は四角い顔をした「四角和尚」でした。
四角和尚は正通禅師に心酔し茂林寺に随身させて欲しい…、願い出ます。
この時、大寺の茂林寺には相応しい大きな茶釜が必要であろう・・・、
飲んでも飲んでも後からお湯が沸いて…、千人法会で役に立つ・・・、
そんな茶釜があればきっと喜ばれよう・・・。(茂林寺は千人法会で有名でした)
そう考えて、清竜寺にあった茶釜を手土産にして、正通禅師の後を追って茂林寺に入ったのでしょう。
茂林寺の話とも符合します。
(この段は東吾妻村の郷土史家「富澤朗」氏の著「岩櫃城興亡史」をベースに筆者の推測を加えて 書きました)
茂林寺の分福茶釜
応永寺は吾妻村の歴史と自然に育まれた、いいお寺さんです。
筆者に馴染みの最乗寺、茂林寺に近しいことも楽しい事です。
田舎に思いがけず正法を伝える寺があって、素敵な伝説が残っていて・・・、
自然景観と調和している。
そんな場所に行くのは心底嬉しいものです。