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応永寺の茶釜

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長野街道(国道145号線)を嬬恋から吾妻川渓谷に沿って下ります。
川原湯温泉駅の遥か上方に八場ダムの建設が進んでいます。
駅も温泉旅館も総て水底に沈んでしまうのです。
名勝「吾妻渓谷」ももうじき見納めになる事でしょう。
吾妻渓谷の紅葉を一度は見ておきたいものだ…、いかばかりか美しかろう…、思います。
 
渓谷がパッと開けて、目の前に田圃が広がります。
山村から農村に出てきた感じがします。
このあたりからが「東吾妻村」です。
私達の目的は東吾妻村の双体道祖神です。
そして、古刹「応永寺」です。
 
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                                                      応永寺の山門
 
JR岩島駅を見下ろす高台に目指す「応永寺」はありました。
寺の背後には吾妻山、薬師岳、岩櫃山が連なります。
岩櫃山には「岩下城」があり、吾妻氏の居城でありました。
応永寺の歴史は室町時代後半、吾妻氏の興隆と共に始まりました。
吾妻氏は小田原の後北条氏と盟友関係になり、発展を遂げます。
 
遠目にも山裾に聳える応永寺の山門が見えました。
山門を目指して坂道をたどります。
寺の参道も、門の周囲も桜の古木が連なっています。
桜の季節はさぞかし美しい事でありましょう。
桜が咲けば田植えの準備をし、桜が紅葉する前に収穫を終えるのでしょう。
 
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                                         正面9間もある立派な本堂
 
古刹応永寺ですが、古い建物は山門だけで本堂も庫裏も禅宗(曹洞禅)の古式に従って、
新しく建築されています。
山門の左右に阿吽の仁王像が立っています。
仁王様の天井には天女が飛んでいます。
上半身は人、でも下半身には大きな翼と美しい尾羽を持った鳥の姿をしています。
迦陵頻伽(がりょうびんが)が飛んで、山門な先は浄土であることを示しているのでしょう。
山門を見上げると、天井には墨で描かれた龍が睨んでいます。
絵師の名が書かれていますが…、遠目では読めません。
迫力がありますので、相当の力量のある絵師の作なのでしょう。
門からして浄土と禅が隣り合わせているようです。
 
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                                         阿形の仁王像
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                                     仁王像の天井に描かれた迦陵頻伽
 
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                       山門天井の龍の図(真ん中左に絵師の落款があります)
 
小田原には曹洞宗の古道場「大雄山最乗寺(道了尊)」があります。
無庵禅師は最乗寺で修業をしていました。
最乗寺には全国から雲水さんが集まり修行していましたから・・・・、
全国各地の情報が集まっていたことでしょう。
「どこどこの寺が立派に修復された、何処のお寺に誰のお弟子さんが住職に入った。
何処かのお寺の住職は最近素行が悪い。何処かのお寺に奇妙な事件が起きた・・・」などなど。
そんな話の中にこんな話がありました。
 
「吾妻村の清竜寺が荒れ果てている…、残念なことだ。」
無庵禅師は北関東への旅を計画します。
目的の第一は館林の茂林寺に詣でる事、同寺の開基は尊敬する正通禅師でした。(応仁元年)
そして、吾妻氏の衰退とともに荒れ果てているという清竜寺を再建し、禅寺とする事でした。
清竜寺を再建し「応永寺」と致します。(大永7年1527)
 
 茂林寺は山号を清竜山と言います。
応永寺の旧名は清竜寺でしたから、両寺院は兄弟のようです。
茂林寺の開基正通禅師は信州の生まれですから・・・、清竜寺を経て茂林寺に入った事でしょう。
その折に分福茶釜の伝説が出来た…、推測されます。
 
と言うのは東吾妻村には次の茶釜狸伝説が残されているそうです。
農民は困っていました、清竜寺は無住の寺になって荒れ果てているのでした。
これでは祖先にも申し訳が立たないし、お寺には和尚が住んでもらわなくては困る。
そんあある日、本堂の方角からお経が響いてきました。
農民がお寺ののぼると見目麗しい和尚さんがお勤めをしていました。
農民たちは不思議なことだ…、思いましたが先ずは歓喜しました。
懸案が氷解したのでした。
 
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                             曹洞宗開祖道元禅師に因んだ見事な笠松(五葉の松)
 
ところが真面目にお勤めしていたのは最初の頃だけ、
しばらくするとお寺に在った大きな茶釜にお湯を沸かし、お茶ばかり飲んでいる様になりました。
そして、木魚を叩いてお経を読むわけでは無しに、鉦を叩いて祭囃子に興じるようになりました。
農民は困ったものだ…、小言を言おうとお寺に登りました。
ところが、小言どころか言い含まれてお囃子仲間に入ってしまいます。
毎晩、お寺ではお囃子が響くようになってしまいます。
 
これではお寺ばかりか村も廃れてしまう…、古老が揃って怒りを和尚にぶつけました。
和尚は茶釜を盗むようにして持ち出します。
そして街道を館林の方角に消えてしまいました。
ただ、余程慌てたのでしょう、茶釜の蓋を落としていってしまいました。
 
正通禅師が清竜寺を訪れた時、住職は四角い顔をした「四角和尚」でした。
四角和尚は正通禅師に心酔し茂林寺に随身させて欲しい…、願い出ます。
この時、大寺の茂林寺には相応しい大きな茶釜が必要であろう・・・、
飲んでも飲んでも後からお湯が沸いて…、千人法会で役に立つ・・・、
そんな茶釜があればきっと喜ばれよう・・・。(茂林寺は千人法会で有名でした)
そう考えて、清竜寺にあった茶釜を手土産にして、正通禅師の後を追って茂林寺に入ったのでしょう。
茂林寺の話とも符合します。
   (この段は東吾妻村の郷土史家「富澤朗」氏の著「岩櫃城興亡史」をベースに筆者の推測を加えて   書きました)
 
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                                        茂林寺の分福茶釜
 
応永寺は吾妻村の歴史と自然に育まれた、いいお寺さんです。
筆者に馴染みの最乗寺、茂林寺に近しいことも楽しい事です。
田舎に思いがけず正法を伝える寺があって、素敵な伝説が残っていて・・・、
自然景観と調和している。
そんな場所に行くのは心底嬉しいものです。
 
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日本武尊の神代杉

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応永寺を後にして、長野街道(国道145号線を1㌔も下ると、左側に大きな杉の森が見えてきます。
これが次の目的「矢島鳥頭神社」です。
「鳥の頭」と書いて何と読むのか、どうして鳥の頭で烏の頭でないのか? 疑問が湧きますが、
誰にも聞けませんでした。
神社の朱塗りの鳥居の右側に目指す神代杉が立っています。
 
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                                        東吾妻村矢島にある「鳥頭神社」の神代杉
 
写真で見てお判りのように奇妙な形をしています。
幹回り10mもある強大な杉ですが、すでに枯れていて根も無ければ幹(髄)もありません。
樹皮だけの空洞です。
鋼のバンドで杉の皮が剥がれたり踊ったりしないように締め付けられています。
そして、高さ6mの位置で樹皮はカットされ屋根が付いています。
 
巨大な杉の幹の空洞の中を覘けば小さな祠が祀られています。
この杉の霊を祀っているのでしょうか。
そして、杉の幹のマン中から勢いよく若い杉が伸びています。
若杉と言っても樹齢は240年はあり、一般に言えば大杉です。
隣の二本の杉が合体したものは・・・・、同じ太さですが注連縄が張られています。
さしづめ合体した杉は「夫婦杉」とでも名がついているのでしょう。
上流の双体道祖神を思い出させます。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46633878.html
 
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          神代杉は国道145号線(通称長野街道)に面しています。 手前左の杉は夫婦杉です。
 
大杉の横に案内板が立っています。
この大杉を「神代杉」と呼びます。
日本武尊が東征の際にお手植えされたと言い伝えられています。
しかし、その後天保年間に火災に遭い、天明3年の浅間山の大噴火に際に被害を受けて枯れてしまいました。
その後、空洞内に新しく杉が生えてきて…、今では親子杉とも言われています。
 
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                     昭和63年に立てられた案内板。筆者はこの年に国道の拡幅工事が行われ、
                     神代杉が現在の形で保存された、と思います。
 
神代杉と言えば、一般的には「長期間土中に埋もれていた杉材。火山灰のために埋まったものと言われ、
木目が美しく堅い。高級な建材」のことであります。
でも、最近は神代桜(甲斐)や幻想の森神代杉(山形)など、
古代から、いやその前の神代から生き続けてきた神々しい大木だから・・・「神代」の名を付けています。
   (筆者は月山山峡の神代杉をhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44242823.htmlに書きました。)
この意味では東吾妻村の神代杉は「神々しい大木」だが…、枯れてしまった、そんな位置にありましょう。
日本武尊は神代のスーパーヒーローです。
だから・・・、神代杉なのでしょう。
 
神代杉をじっと見ていると、案内板は一寸違うんじゃないかな?
思えてきます。
看板は次のように読めます。
「杉の大木が枯れて腐り始めて…、そこに杉の種が発根してきて…、子供は親の体を栄養に大木に育った。」
でも、大木が腐って、樹皮だけを残すことは想像し難いのです。
木の髄から腐り始め樹皮も腐ってしまうのが普通です。
 
昭和63年、長野街道(国道145号線)の拡幅工事が始まりました。
工事対象地域に神代杉がありました。
もう枯れてしまっていましたが…、どうした事か樹皮を含んだ幹は大方形を残していました。
東吾妻の村民は神代杉をどうかして残したい…、考えました。
丁度昨日切られた「陸前高田の一本松」のように、枯れても村のシンボルとして残したい・・、そんな試みでした。
そこで、神代杉の樹皮を剥いで、鳥頭神社の鳥居の横にあった大杉の周囲を囲ってみました。
そうして、国道の拡幅と村のシンボルを残す…、二つの目的を達したのでしょう。
 
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出来上がってみれば、若杉がスカートを着たような、ユーモラスな形になりました。
「親子杉」のネーミングも出来ました。
隣に「夫婦杉」もありましたから・・・・、見物が二つ揃いました。
東吾妻村の村民の神代杉への愛着がこうした形になったのでしょう。
ついつい、笑ってしまいます。
「良かったですね、残すことが出来て・・・」
 
鳥頭神社はスギ林の中に神殿が建っています。
神苑には二つの「力石」があります。
立派な神楽殿があって、神武天皇遥拝所もあります。
此処は山間が急に開ける扇状地のような地形です。
日本武尊は此処で戦線を整えたのでしょう。
そこで岩櫃山の麓に逗留しました。
岩櫃山は中世には山城(岩下城)になって吾妻地方の守りの要になりました。
 
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                       鳥頭神社の神殿。壁に屋根の鬼瓦が吊るされています。
                       建て替え前の社殿はもう一回り大きかったことが解ります。
 
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           社殿正面。左奥に土盛りがあり角柱が建っています。此処が神武天皇遥拝所です。山(岩下            城)を向いています。
 
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                                          社殿正面、細工が見事でした。
 
 
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「丸くまん丸」木喰の教え

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私は来る10月13日(土)日本文化研究会セミナーで「木喰仏の宗教社会学的考察」と題して発表する予定です。(慶応三田校舎)
私の主関心は仏像や石仏ですからその一環での研究です。
江戸時代後半木喰が農村を回って彫った仏像を素材にして、農民の宗教観や社会観、思想を社会学的な手法で考察を試みたものです。
でも、木喰にはもう一つ良い研究素材があります。
 
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           筆者が最も好きな木喰作「薬師如来像」(越後柏崎)神戸新聞社目録から転写
 
それは570首残された和歌です。
和歌というより「ご詠歌」といった方が適切かもしれません。
ご詠歌とは平安時代中期(花山天皇の御世)西国巡礼が盛んになります。
仏教の教えや仏やお寺への感謝の気持ちを5・7・5・7・7和歌の形式で、旋律に載せて唱えたものでした。
更に5・7、7・5調にして長くすれば和讃と呼ばれる日本語のお経になりました。
 
木喰行道上人が和歌を始めたのは天明2年(1782年64歳)佐渡でした。(集堂帳)
晩年にかけて作品が多くなります。表現は口語調で読み易く、覚えやすく、教えやすい和歌です。
木喰自身が言い回しを楽しんでいる風があります。
多分旅から旅に歩いているときに口ずさみながら、作ったものでしょう。
口に出しては直して、また口に出して歌ってみる。
何度も作り直してゆくうちにリズムが出てきます。
同音の繰り返しも多くなりました。
結果、口語性が強くなりました。
 
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                   木喰作「青表紙」歌集 寛政8年(1796) 木喰は何度も何度も口ずさん                    で「良し」とした和歌を纏めて筆録したものと思われます。
                   ま行に「丸くまん丸」の和歌があります。
 
口語であることは農民にとっては聞きやすく覚えやすいという事でした。
文字を知らない農民に教えを説くには先ず仏像を彫って見せました。
そして話して聞かせました。
農民に教えを理解させ覚えさせるには…、
覚えやすい口語調の和歌が最適だったのでしょう。
口語調和歌は農民から農民に伝わって行きました。
 
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                      筆者の版画作成のワンステップ。「丸くまん丸」
 
木喰が仏像を彫っています。
鑿先に全神経を集中して、一心不乱に、驚くほどの速さで彫りあげて行きます。
丸太から見る見る仏が浮き上がってきました。
木喰は何やら吟じながら、今度は仏像のお顔を彫り出しました。
    丸々と 丸め丸めよ 我が心
           丸くまん丸 丸くまん丸
 
仏像のお顔から丸い頬が、丸いおでこが、そして顎も丸く浮き出てきました。
丸いお顔には微笑が湛えられていました。
懐かしいような、ありがたいような微笑する仏が現れました。
今風に言えば「アンパンマン」のお顔でした。
 
仏教の言葉に「六根清浄」があります。
修験者がお山に登るときに「六根清浄・六根清浄」と唱えます。
六根とは五根(眼・耳・鼻・舌・身/五感)と意根(心根)で構成される、と考えられました。
”身も心も清浄にしよう”そう唱えて山に登って修行に励んだわけでした。
でも、若しも農民が教えに従って六根清浄を実践したら・・・・、大変なことになります。
先ず農産物は不作になるでしょう。
農民は栄養失調になり、子供も産まれなくなります。
農民は他の生物の命を奪って農作物を育て家畜を育てなくてはなりません。
 
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       木喰仏の開眼供養は仏像の背に「誰が、何時、何の為に、何を彫ったか」墨書しました。
 
心身ともに清浄になる事は理想ですが…、綺麗ごとでは命を繋ぐ事は出来なくなります。
其処を教えるために、木喰は「六根清浄」に代わって「丸くまん丸」と教えたのでしょう。
農業を営むにはネズミやイノシシを退治しなければなりません。
田の稲に水遣りするには、時に隣を騙さなくてはなりません。
で、「南無阿弥陀仏」唱えて、一寸懺悔して・・・・、行き着くところ「丸くおさめて」貰います。
今日もお隣と喧嘩もしたし、嫁姑の確執もあった。
”仏の戒”は解るものの凡人には守れません。
反省して、心の中で謝罪して、・・・・・行き着くところ「丸くまん丸に」おさめて貰いましょう。
 
木喰の和歌は農民に解りやすく、覚えやすく、教えやすいものだったのでした。
 
農民は木喰に仏を彫ってもらいました。説法も聞きました。
今日は仏像の開眼供養の日です。農民はご馳走を用意しました。
お酒も温めました。
木喰は満面に笑みを浮かべて上座に座りました。
そして農民の厚意を受けました。
「丸くまん丸」の教えが実践されます。
不飲酒戒は破られます。
       いきなりに ころりまるまる その良さは
                  寒さ忘るる 茶碗酒かな
 
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                               筆者作成「丸くまん丸」の墨刷
 
 
一般に木喰はその名(木喰)の通り木喰戒を守って、
穀物(五穀十穀)を一年中絶っていたのではありませんでした。
体が欲すれば、農民が布施して呉れれば、
喜んでお米を食べて、お米から作ったお酒を飲んで、山鳥を食べもしたことでしょう。
 
開眼供養の宴席で、農民が木喰をねぎらいました。
「上人様、お疲れ様でした。お蔭で、私達にも仏様が出来ました。お疲れを取る為に一杯どうぞ・・・!」
茶碗酒を差し出したのでしょう。
お酒は百薬の長があると言われます。
飲み過ぎれば「不飲酒戒」を破ることになります。
適量飲めば、まして農民の厚意を受けるのであれば・・・・・、甘露水でありましょう。
そこで、上記の和歌の通りに「丸く」収まった訳でした。
 
漱石は看破しました。
「山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
筆者は意地っ張りな性格で随分損をしましたが、
最近は少し丸くなってきた・・・、そんな積りですが・・・、果たしてどんなものやら?
せめて木喰の「丸くまん丸」の和歌を口ずさんでみましょう。
 
 
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                                       筆者作成「丸くまん丸」の完成
 
 
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柏尾川「魚の追い込み漁」

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平成19「柏尾川魅力アップフォーラム」立ち上がりました。
柏尾川が戸塚区の真ん中を流れる貴重な地域資源であることから、
川を取り巻くボランティアグループが相互の交流連携を図ろうとするものです。 
私の住む上倉田は柏尾川の東岸に沿って位置しています。
そこで参加することにしました。(参加団体名/柏尾川ジョギング愛好会)
 現在「戸塚さくらセーバー」をはじめ18団体が参加しています。
柏尾川魅力アップフォーラムは戸塚区役所区政推進課を連絡場所にして諸活動を行っています。
全員が揃うのは「柏尾川の清掃」と初秋に行われる「柏尾川フェスティバル」です。
今年も9月9日実施されました。
焼きそばを調理したり、工作をしたり・・・・、様々なイベントがある中で、
私達「柏尾川ジョギング愛好会」は「魚の追い込み漁」に参加しました。
子供達を誘って、柏尾川に入って魚や水生昆虫を網で掬おう・・・・・、そんな企画です。
歳をとっても川に網を入れて魚を掬うこと自体楽しいものです。
でも、この日は子供達にその楽しさを教えてあげる・・・・、その先生役です。
 
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                 柏尾川魅力作りフォーラムが主催する「柏尾川フェスティバル」ポスター
 
 
魚今日は水嵩も浅いし、穏やかな柏尾川です。
でも川は危険な場所です。
突然に深い淵があったりしますし、川底が小石の場所もあればヌルヌル滑る泥の場所もあります。
ウッカリすると事故に遭います。
だから、川で遊ぶのは良いのですが、大人と入る事にしましょう。子供同士で入る事や止しましょう。
魚の捕り方…、網の使い方はこうします。
下流の方に網を差し込んで、上流からジャブジャブ魚を網に追い込むようにします。
それから・・・・、魚を捕ったら・・・・・魚に火傷をさせないように注意しましょう。
魚の体温は水と同じです。
君達が魚を直接触ったら…、魚は「熱い!」・・・・大火傷をしてしまいます。
手を水に入れて指先を水温に近づけて…、その指で魚に触るようにするのです。
実演をしながら説明します。
子供達は真剣に聞いてくれます。
 
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                     ボランティアの説明が終わったら…、一斉に川に入ります。
 
今日は天気も良いし・・・、年々参加者も増えて子供が70人、大人も含めれば参加者は100人を超えているようです。
戸塚区が用意した魚とり網も足りなくなりそうです。
 
子供達は一斉に川に入ります。
中には岸辺で躊躇している子もいます。
「どうしたの?」聞けば・・・。
「川が汚いの・・・・」と答えます。
岸辺の土がヌルヌルしているのが、汚いと見えるのです。
毎日清潔に暮らしているので…、ヌルヌルが嫌なのでしょう。
叔父さんたちは油が流れて、岸辺にゴミが散っている…、それこそ汚い柏尾川を覚えています。
随分綺麗な川になった…、思っているのですが、それは世代によって違っているようです。
こんな子供達が親になる頃には柏尾川はもっともっと清んでいることでしょう。
 
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                   魚は水草の陰にいます。(水草は水金梅です)
 
子供の歓声が響きます。
「捕れたぞ! 何だろう?」
すると、隣の子供が教えています。
これは鮒だ、オイカワだ、泥鰌だ、沼海老だ、藻屑蟹だ、ヤゴだ、トンボの子供だ・・・・、
子供達は何でも知っています。
叔父さんの出番がありません。
 
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                     泥鰌にハゼに鮒、どれも私の好物ですが・・・、
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                       上からオイカワ、藻屑蟹(左) ハゼにオタマジャクシ
一昨年実施した「柏尾川生態調査」では最も多い魚種は「鮎」でした。
   (以下に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45510774.html)
実際鮎は沢山います。
子供達の足元を素早く泳いでいます。
子供体にはどうしてもつかまりません。
そこで、仲間を一緒に囲い込もうとしますが…、そんなことでは鮎は捕まりません。
人間をあざ笑うように・・・・泳ぎ回ります。
生態実態調査では鰻が捕まりました。
川アナゴも捕まりました。
”子供達を驚かせてやろう!”
思って大物を狙いますが・・・・、なかなか捕まりません。
逆にブラックバスが捕まったりして・・・、暗い気持ちに陥ります。
 
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     生態調査で捕まった鰻に川アナゴ。私達や子供には捕まりませんでした。
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            捕まってびっくりしたブラックバス。何れ外来種が圧倒してしまうのかも?
 
8時過ぎに集合して「魚の追い込み漁」の準備をして、子供達と川に入ったのが10時、
12時には疲れて来ました。
最後は岸辺で捕まった魚の説明です。
一通りの説明が終われば川に帰してあげます。
魚も蟹も川に戻ります。
家に持ち帰ることも出来ますし…、そのためのビニール袋を用意しましたが・・・、
大半の子供達は当然のように川に帰してあげています。
 
私の脳裏にぼんやり「命の教育」が浮かび上がってきます。
自殺が増えています。
文部省は自殺者の統計を止めるそうです。
自殺の判断基準が曖昧だからだそうです。
虐めの問題も深刻です。
双方に共通するのは「命が尊い」事を忘れてしまったからのように思えます。
自殺をすれば、その人は生きる苦しみから脱出できるでしょうが・・・、
残された家族や友人には大きな苦しみを残してしまいます。
虐めをする・・・、それは快楽なのでしょう。
快楽で他の命を傷つける・・・、そんな愚かな事をするのは人間だけです。
 
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                       魚とりに興じる子供達。川の東(左)が上倉田、西が戸塚町。
 
自殺も虐めも「命の尊さ」を現代人が忘れてしまったからのように思います。
小学校のカルキュラムに「命の時間」を設けたら・・・・、
生物の観察をすれば・・・、命の尊さが解るのにな…、思います。
先ず、採用されないでしょうが・・・・・。
でも、子供達と柏尾川に入って…、魚の追い込み漁をするのは実に楽しかったです。
事故も熱中症になる子もいませんでした。
 
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                 建設が進む戸塚駅西口、戸塚新庁舎と文化会館ビル。橋は旭橋。
 
 
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ダムの底に沈む前に(川原湯温泉)

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嬬恋から国道145号(長野街道)を東吾妻村まで下り、神代杉を見てまた折り返しました。
国道もJR吾妻線も吾妻川の渓谷に沿って走っています。
紅葉になったらさぞかし美しいだろう…、想像しながら谷の底を眺めます。
私達の遥か上空に橋脚を建設中です。
2011年「八場ダム(やんばだむ)」の建設が再開されたのです。
橋脚の上にはクレーンが据え付けられて・・・、動いているようです。
国道145号も、JR吾妻線も遥か上空に移転することになります。
谷に跨る橋梁が矢鱈に多い道路であり線路です。
橋梁にも流行があるのでしょう。
昭和には斜張橋(吊り橋)ばかりでした。
横浜ベイブリッジも本四架橋も斜張橋(で、その美しさを競うようでした。
でも、八場の橋は大きなコンクリートの塊を繋いだ形が多いようです。
景色と調和するというより・・・・・・、景色とは無関係に作られているようです。
私の感覚では美しいとは思いません。
 
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                       八場ダムの橋脚工事。河原湯温泉から見上げます。
 
ダム工事はこれから本格化するのでしょう。
でも、道路やJRの工事は遥かに先行しているのです。
 
八場ダム計画は昭和24年に遡るのだそうです。
「利根川上流8ダム計画」の一つでした。
でも、工事着工が遅れたのは地盤と水質に問題があったからでした。(強酸性であり飲み水に適さない)
草津や万座の開発を期待して、小渕内閣(昭和42年)工事着工します。
しかし、地元長野原町は反対運動に乗り出します。
住人の移転地をダムの堰堤に移して、補償を提示します。
計画進行を目論む勢力に押されて、地域住人は補償を受けとりますが・・・、
何時におなったらダム湖が出来て、新しい温泉街が出来るのか解りません。
故郷を離れるしか生きる術はありませんでした。
 
平成21年民主党が政権を取ると、マニュフェストに基づき八場ダム計画は凍結されます。
しかし、関東6県の知事会はじめ各団体が凍結見直しを主張します。
前原国交大臣から馬渕大臣に大臣に交代すると「凍結の見直しの再検証」が発表されます。
福島原発事故など外部環境も変ってきました。
そして平成23年11月、前田国交大臣は工事の再着工を決断しました。
世論は民主党の迷走ぶりを非難しました。
何時も何時も、国民の人気取りで迷走する政権です。
被害者は今度も地域住人でした。
 
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      青楓の下を流れる吾妻渓谷、与謝野晶子や牧水が歌った渓谷もダムの底に沈みます。
 
八場ダムは既に半世紀以上の間揉め続けてきました。
気の毒なのは地域住民です。
数少ない人々が今も川原湯温泉街に住んでいますが・・・・、ダムの堰堤に移れるのは何時になるのか? ダム湖が人気になって観光客が来てくれるのか解りません。
温泉は確保できるのだそうですが湯量は解りません。
転居するも地獄、残るも地獄でしょう。
唯、心配だけが膨らんでいることでしょう。
 
私達は河原湯温泉駅から温泉街に入りました。
人影も無い静かな駅です。
案内板に「双体道祖神」を確認します。
石仏ファンの間では人気の「アベック地蔵尊」が温泉街の外れにあるのです。
地図には源泉の「温泉神社」境内にも道祖神は祀られているようです。
 
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   ポストの先が共同浴場「王湯」 笹竜胆のマークは源頼朝が1911年に発見した…、言い伝えによります。
 
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  芭蕉句碑は「山路来て何やらゆかしスミレ草」 伊賀の作でした。芭蕉のお弟子が此処にもいた証でしょう。
 
 
温泉神社の手前に芭蕉句碑がありました。
その向かいに共同浴場「王湯」がありました。
その下には「笹湯」も、混浴の露天風呂「聖天様」もあるそうです。
笹湯、聖天様が営業しているのか不明でした。
そこで、王湯に入ります。(入浴料300円)
渓谷にテラスを張り出し、そこに半露天風呂を設えたものでした。
湯船はさして広くありません。
湯治場の風情です。
少し熱く、温泉特有の臭いがしました。
風呂から上がった私達はアベック地蔵尊の位置を確認しました。
「あの場所は工事用道路に近いので行けないかもしれませんよ!」
心配してくれました。
 
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                                      河原湯温泉の古いポスター。
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                                     共同浴場。テラスの下は渓谷です。
 
温泉街の道路は一本ですが、その周囲の道路は八場ダムの工事用道路になって…、ズタズタです。
工事用車両以外進入禁止ばかりです。
この道の先に「アベック地蔵尊」が祀られているはずだが・・・、
看視員に聞いても通してくれません。
「国道に戻って橋の先を回るように」命じられます。
そこで、やむなく大回りしてアベック地蔵尊の前に出ようとします。
でも、肝心のアベック地蔵尊は不在でした。
工事期間中は何処かに移したのかも知れません。
若しかしたら・・・、アベック地蔵尊は人よりも早くダム堰堤に移転されたのかも知れません。
工事関係者も共同浴場の従業員も、道祖神など興味が無いのかも知れません。
 
もう、温泉街の三分の一は旅館を廃業し、街は歯抜け状態です。
温泉街には裏寂れた悲しさと、どうしようもない住人の諦めが漂っているようです。
せめてダムの底に沈んでしまう前に一度見ておきたい、一度温泉に浸かってみたい・・・、
そんな奇特な旅人だけが立ち寄っているのでしょう。
 
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   温泉街の奥にある「温泉神社」からの眺め。手前左の道祖神。右は足湯。 
   鳥居の左は撤去された温泉旅館が並んでいます。 遠くの建物が共同浴場「王湯」です。
 
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             行方知れずの川原湯温泉「アベック地蔵尊」(道祖神)/じゃらん観光案内HPから転載
 
 
 
 
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稲荷神社の盛衰(鼻顔稲荷神社)

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友人I君の別荘は南軽井沢にあります。
八風山(1315m)の西山麓で、坂を下れば発地湿原に出られます。
この辺りからの浅間山の眺めは、素晴らしいものがあります。
湿原の中に小川が流れています。発地川とでも呼ぶのでしょうか?
小川は姫街道に沿って流れて、田畑の貴重な用水になっています。
街道の辻には沢山の石仏や祠が祀られています。
上流には灌漑池があります。
室町時代から江戸時代にかけて、人々が荒れ地を開墾してきた歴史資産が並んでいます。
 
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        軽井沢発地からの浅間山の眺め。筆者は此処からの浅間山が一番だと思います。
 
山脈は八風山から西に、閼伽流山1027m、平尾富士(1156m)と連なります。
山裾を佐久平に引いています。
     (閼伽流山は次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46617011.html)
発地川は多くの川と合流しながら「湯川」と名を変えます。
そして佐久平の中央で千曲川に合流します。
今頃は稲穂が波打って、もう直に稲刈りが始まる事でしょう。
この辺りは「五郎兵衛米」というブランド米の産地でもあります。
 
湯川は山脈の先端をかすめて佐久平の河岸段丘を形成しています。
その断崖の上に「鼻顔稲荷神社」があります。
此処に室町時代建築の「懸崖造り」の社殿があります。
私達の目的はこの社殿を見る事です。
稲荷神社には断崖の下坂道を登ります。
この坂に沿って横に幾つもの社殿が並んでいます。
春に参詣すれば桜の花の上に社殿が眺められる・・・、そんな景色になる事でしょう。
 
ところで、鼻顔と書いて「はなづら」と読みます。
芥川龍之介の「鼻」を思い起こさせるような名前です。
 
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   鼻顔稲荷神社の社殿。断崖の中腹に懸崖造りされています。手前の川が湯川です。
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今日は初秋の季節です。
私達のほかに参拝客はありませんでした。
ただ、お婆さんが一人軽自動車を社殿前まで運転してきて・・・・・、
境内を箒で掃いておいででした。
境内も断崖も桜の木が目立ちます。
もうじき、掃いても掃いても追いつかないほど落ち葉が散って来ることでしょう。
お婆さんに訊きました。
「何で鼻顔稲荷神社と呼ぶのですか?」
「この辺りを鼻顔というんです。遠目に見れば平尾富士の裾野が人の顔のように見えるんでしょうね。」
 
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              意外と広い懸崖造り社殿内部、舞台のようになっています。
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   部隊の窓からの佐久平眺望。手前の川が湯川で、川はこの先左に折れて岩村田宿の先から千曲   川に合流します。向こうの山脈は菅平でその先は小布施になります。
 
室町時代永禄年間(1558~1569)佐久の人たちは伏見稲荷を分霊し、この地に勧請しました。
何で急な断崖の中断に社殿を建築しようとしたのか?
それが興味を惹きます。
 
参拝順路に沿って進みます。
懸崖造りは上にたどり着けば清水の舞台のようです。
舞台の上からは佐久盆地が見渡せます。
最奥の社殿を参拝すると、社殿の裏に回ります。
社殿の裏は崖で横穴が掘ってあります。
其処が旧社殿です。
最初の神様はこの横穴に祀られていたことになります。
 
私の推測ですが、この稲荷神社も、その北の閼伽流山(あかるさん)も修験者が建てたものでしょう。
修験者は巨岩や断崖に霊感を覚醒して、神仏を祀りました。
三朝の投入堂も修験者の建築でした。
断崖の露出した地層から鉄鉱石を発見し、産鉄した・・・・、
そんな歴史があって、鼻顔に伏見稲荷を勧請したのではないでしょうか?
そして、鉄鉱石を発見した穴を社殿にして祀ったのでしょう。
そう考えると、湯川とは温泉の湧出ではなく、鉄鉱石を溶かす熱水が流れ出したので…、
付いたのだろう・・・・、想像が広がります。
土地では「鬼が洗濯したので、川の色が血の色をしていた」と言い伝えられています。
血の色は鉄錆の色で、この山間に製鉄の作業場があった事を思わせます。
鬼は製鉄の技師でしょう。
 
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  部隊の長押には所狭しと絵馬が架かっています。絵馬を見れば神社を支えてきた人たちの職業が   解ります。
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              北辰一刀流道場の奉納額。刀剣…、製鉄を思い起こさせました。
 
 
養蚕業が盛んであった昔は、随分賑わったそうです。
湯川の堰堤には遊郭もあったそうです。
種田山頭火(※)も萩原聖泉水も逗留したそうです。
境内にはその歌碑・句碑が建っています。
神殿の前には大きな枝垂れの桑の木が生えていますし、絵馬にも桑の葉が描かれています。
戦国時代、産鉄したので武器を生産するためにお稲荷さんを祀り、
明治になると養蚕の盛行を祈ってお稲荷さんを拝んだものでしょう。
産鉄も養蚕も振るわなくなった現在は・・・、お参りする人も稀になってしまったようです。
   ※山頭火の句 浅間を向こうに 深い水を汲み上げる
 
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                               社殿前の枝垂れ桑の木
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               曼荼羅のように並んだ神仏も桑の葉の上に乗っています。
               一時は養蚕業がこの稲荷様を支えていたのでしょう。
 
案内では日本五大稲荷の一つとされています。
伏見稲荷(京都) 笠間稲荷(茨城) 祐徳稲荷(佐賀)までは異論はない事でしょう。
      (豊川稲荷は仏教系です)
残りの二つは種々意見があるようです。
明治時代はこの鼻顔稲荷に異論を挟む人も居ないほど賑わっていたことでしょう。
 
 
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   目測で30mはあるでしょうか? 懸崖上の舞台から足元を見る。遠目では鉄骨と思われた組み物   は木で出来ていました。鉄錆色は防腐剤の色でしょう。
 
 
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瑞泉寺の白芙蓉の花

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「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったものです。
この夏の暑さはお彼岸まで我慢すれば終わる事でしょう。
今年は太平洋高気圧が強いのでいつまでも暑いのですが、
高気圧の縁を台風が通過しているので、本州各地は台風の被害も無く過ごせています。
暑い暑いと文句ばかりを言ってはいけないのでしょう。
 
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                 今日の話題は瑞泉寺の白芙蓉です。本道の石畳、両側に咲いています。
 
”今日は涼しい白芙蓉の花を見よう”
家内を誘って鎌倉二階堂の瑞泉寺に登りました。
鎌倉では、芙蓉の花と言えば妙本寺の紅芙蓉と瑞泉寺の白芙蓉です。
妙本寺は日蓮上人の名跡寺院、
鎌倉の日蓮宗寺院には紅芙蓉や花海棠のように濃いピンクの花が咲いています。
一方、禅寺の瑞泉寺は水仙、梅、そして白芙蓉の花が名物です。
禅寺にはピンクより白が似合うようです。
 
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                                          雨に打たれて、露を宿した芙蓉の花。
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         芙蓉は朝咲いて、夕方には散ってしまう一日花です。その美しさと儚さが人気の理由でしょう。
 
本堂正面参道の両側に白芙蓉の木が植わっています。
初秋になると一斉に白い、一重の花をつけるのです。
丸い大きな緑の葉っぱと真っ白い花の対比が鮮やかで涼しげです。
とりわけ今朝は台風の影響で強い雨が降りました。
雨が一層緑の鮮やかさと、白い花の健気さを引き立てているようです。
花弁には白露が付いています。
花弁は艶やかでもあるのです。
芙蓉の花は一日で散ってしまいます。
花が終われば、白芙蓉に木は根元から伐採されてしまいます。
花は新しい枝に咲くので、来年も咲いてほしい…、思えば可哀そうでも伐採することが必要なのでしょう。
”種を残したい”花の本能が刺激されて…、来年も沢山の蕾が付きます。
 
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私はぼんやり思い出します。
中国で花と言えば先ず牡丹、次いで芙蓉でしょう。
土産店で商っている絵画や七宝は牡丹や芙蓉(蓮)の花が目立ちます。
どの花も濃いピンク色です。
中国人は花と言えば濃いピンクが良い…、思っているのでしょう。
日本では芙蓉も牡丹も蓮も白い色を開発し、好みました。
 
中国では唐代以前は芙蓉と言えば蓮の花を指しました。
白楽天の長恨歌では楊貴妃の美貌を「芙蓉如面柳以眉」と賞賛しました。
私達の知っている芙蓉は「木芙蓉」と言い区別しました。
広辞苑で芙蓉とひくと「蓮の花の別称、美人のたとえ」と出てきます。
 
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         上村松園作「楊貴妃」、 長恨歌では楊貴妃の美貌を芙蓉の花(蓮)のようだ、と表現しています。
 
昔は三国志、現代はパンダで有名な成都の街は芙蓉が咲くと言われます。
成都の芙蓉は八重咲きで、濃いピンクのようです。
白い芙蓉を開発し、更に蕾はピンク、花は白の園芸種を開発し「酔芙蓉」なんて粋な名前を付けたのは日本人です。
白芙蓉も酔芙蓉も本家の芙蓉に比べれば、見た印象は随分違います。
 
咲かせる場所によって紅芙蓉、白芙蓉、酔芙蓉使い分けるのが如何にも日本らしくて良いものです。
瑞泉寺を見ていると、本堂と庫裏の中庭に酔芙蓉の花が咲いています。
本堂は「清浄無垢」な白い花、
庫裏では時にはピンクに染まる酔芙蓉を植えたのでしょう。
偶には般若湯(お酒)も飲みたいものですから・・・。
 
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    成都芙蓉国粋演芸公司の案内。
    踊り子の頭を飾る芙蓉(市花)は八重の濃いピンクです。(同公司のHPから転載)
 
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                     瑞泉寺、花頭窓の向こう、中庭には酔芙蓉の花が咲いています。
 
今日は満州事変の切っ掛けになった柳条溝事件から80年に当たります。
中国各地でデモが計画されています。
デモが暴徒を誘発し、破壊活動が心配されています。
同じ中国の国花「芙蓉の花」でも、日本人は白い花が好きで、酔芙蓉も開発した・・・、
そんな事実を認めて欲しいものです。
少なくとも日本人は中国の文化を最も理解している国民なのですから・・・。
 
 
 
 
 
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瑞泉寺の山門下で・・、白い彼岸花

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我が家のお墓が瑞泉寺にある訳ではないのですが、お彼岸になると同寺に登ります。
お彼岸は季節の変わり目であると同時に、自分を振り返り、
お世話になった人に感謝する時だからです。
私にとって瑞泉寺は自分を振り返る・・・、最高のお寺さんです。
 
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               瑞泉寺を登る。灌木を整理したら…竹林が見渡せるようになりました。
 
境内は随分綺麗になりました。
長い石段の両側に生い茂っていたダルマ等の灌木を伐採しました。
すると、綺麗な竹林が見えるようになりました。
柚子の老木も日当たりが良くなったので、息を吹き返すことでしょう。
石段を上り詰めると山門の前に出ます。
少し息遣いが荒くなった私達ですが、此処で一服して心を静めて境内に入ります。
 
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     参道を登ると小さな門が見えてきます。今日の話題はこの門前の狭い空間の素晴らしさです。
 
 
春の彼岸に登った時には山門にこんな句が示されていました。
   彼岸会や双手について 老いの杖  (助次郎)
私は叔父の句を思い出しました
   彼岸会や 親爺に会いに 墓参り
今日の句は次のように案内されています。
   雲去りて 月の広野になりにけり   (黙念子)
 
夜空を覆っていた雲が一気に取り払われて、煌々と輝く月が見えてきた。
広野を照らしている事である。 そんな叙景句でしょう。
心を曇らせている雲は中々取り払うことが出来ないものです。
せめて、月の美しいこの季節くらいは…、澄み切った心で居たいものです。
 
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           玉紫陽花の蕾が開いて花が咲き出しました。その先には庚申塔が見えます。
 
山門の右手に庚申塔があります。
まるで、仁王様のような位置にあります。
脇侍に二人の童子像を従えています。
三猿、二羽の鶏、ショケラ像、日輪・月輪等など全員出動の青面金剛です。
何といってもその魅力は青面金剛の頬とお凸が丸く突き出ていて・・・、
まるでアンパンマンのようなのです。
鎌倉では他に例がありません。
 
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     フルバージョンの青面金剛像、怖いというより愛らしいお姿です。水引が咲き出しました。
 
アンパンマンの青面金剛像の向かいに山崎方代の歌碑が建っています。
多分、現住職の筆を石に刻んだものでしょう。
短歌も書も素晴らしいものです。
 
 
    手のひらに 豆腐をのせていそいそと いつもの角を曲がりて帰る
 
放代氏は昭和の歌人でした。
「方代」の名は「生き放題、死に放題」の意味と言います。
木喰の生家も近い山梨県八代の貧農の家の8人兄弟の末っ子に生まれます。
(5人の姉兄は早逝します)
昭和30年41歳の時処女歌集「方代」を自費出版しますが、全く売れませんでした。
しかし、吉野秀雄はこれを評価し、方代は吉野に師事し、鎌倉に転居します。
でも、売れない歌人に食う術はありませんでした。
鎌倉飯店(先年閉店した八幡様前の中華飯店)の店主が鎌倉手広の自宅に6畳一間の家を建て、
居候させてくれました。
 
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          方代さんの「お豆腐の歌碑」の前に一本彼岸花が伸びて、咲いていました。
 
上記の歌は鎖薬師の前にある「井上豆腐店」で豆腐を求めて・・・、
竹皮か何かに包んでもらって…、両手で大切にお豆腐を支えて帰宅を急いだ・・・、
そんな光景でしょう。
井上豆腐店でこの歌を照会したところ…、この歌の豆腐が当店なら名誉だが・・・、確認したことはない。
ただ、昔から瑞泉寺にはお豆腐を納めさせていただいている…、とのことでした。
 
天涯孤独になった方代が
「今晩は湯豆腐を楽しもう・・・」ささやかですが、歓びが素直に響いてきます。
 
お豆腐に合わせた訳でも無いのでしょうが・・・、
早咲きの彼岸花が一本すくっと伸びて、白い花を咲かせていました。
「方代さん良かったですね、白い花が豆腐を美味しくさせてくれますね」
呟きます。
 
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                        この歌碑の横に吉野秀雄氏の碑がたっています。
 
瑞泉寺の住職をはじめ吉野秀雄氏、鎌倉飯店の店主等など、
誰もが方代さんの生き様や人柄、その作品を愛していたのでしょう。
 
放浪遍歴の生き様は日本の伝統です。
西行に始まり芭蕉、そして近代になれば山頭火や放哉、そして方代もその一人でしょう。
でも、方代には西行らの伝統にない…、温かみがあります。
心をほぐし、心の中の最も大事な部分を呼び起こしてくれます。
 
方代のことを書きだすと止めどもなくなってしまいます。
最後に好きな歌を一つ紹介します。
 
   こんなにも湯飲茶碗はあたたかく しどろもどろに吾はおるなり
 
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                                               山門横のお手水。
 
井上豆腐店のことや方代氏については以下にも書きました。
 
 
 
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風露の花は香ばしい(アサマフウロ)

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野原に「ゲンノショウコ」の花が咲き出しました。
他の強靭な草に負けまいと懸命に背伸びして小さな花を着けています。
この花を見ると明治の女性だった祖母を思い出します。
多分「小さくても強く逞しかった」事と、胃腸薬になったからでしょう。
「え!こんな草が胃腸薬になったのか?」
訊かれることでしょう。
「ほら、腹下りもテキメンに治ったでしょう。だから”現の証拠”と言うんですよ」
教えてくれました。
 
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                                 「ゲンノショウコ」の花
 
野原の「ゲンノショウコ」を見ていたら、近似種の「風露草」を思い出しました。
軽井沢で友人のI君が高山植物の「アサマフウロ(浅間風露)」を案内してくれたのです。
ハクサンフウロ(白山風露)は白山に咲く風露草なのでしょう。
浅間に咲くから「浅間風露」なのでしょう。
 
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                                     荒船湖から眺めた「荒船山」
 
佐久からコスモス街道(内山街道)を下仁田に向かいます。
群馬県境の峠に神津牧場があります。
日本最初の牧場だそうです。
牧場で昼食をとり、帰路につきます。
友人君の別荘は神津牧場から山を下れば近いのだそうで、彼は散歩がてらに良く来るのだそうです。
健脚なI君だから…、歩けるのでしょう。
私には気が遠くなる距離です。八風山(1315m)を超えなくてはなりません。
 
帰路は八風山の中腹を迂回しながら、草笛ランドの別荘地を通って行きます。
カーナビでは近いのですが、蛇行する道で大変な時間距離に感じられました。
 
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                             荒船湖の湖岸に浅間風露の花が群生しています。
 
アサマフウロは「内山牧場」に近い荒船湖の湖岸に群生していました。
最近は来る人も無いのでしょう。
湖岸の周回路は道が隠れるほど草が生い茂り、木道は腐っていました。
でも、自然そのままです。
 
アサマフウロは日当たりの良い湖岸に群れ咲いています。
「ゲンノショウコ」に花も葉も種も似ています。
でも、花自体がアサマフウロは二倍も大きいのです。
そして、赤紫色が濃いのです。
如何にも高山植物です。
 
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   浅間風露は日当たりが良い場所に群生しています。
   岸辺は背丈の低い植物が多いので良く目立ちます。
 
何で「風露」と名が付いたのか興味が湧きます。
”風に露”と言えば儚いものの喩でしょう。
もうじき横浜も萩の花が盛りになります。
萩には露が宿ります。
少しでも風が吹けば露はハラハラと散ってしまいます。
 
日本人は萩から露が散る様を見て、”無常”を感じました。
「無常たのみ難し、知らず露命はいかなる道の草にか落ちん。
命は光陰に移されて暫くも留め難し。(修証義/道元禅師の教えを要約したお経)」 と教えています。
芭蕉も木喰も山頭火も…、道元と同時期の西行も一遍も、
遍歴放浪の先達は同じような哲学を持っていたことでしょう。
「風露草」とは日本人の人生観「無常」を表した名前でしょう。
 
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           アサマフウロの花。朝露が花についても、花茎が細く長いので少しでも揺れると露は           ハラリと落ちる事でしょう。そんな様を捉えて「風露草」とネーミングしたと思います。
 
「風露香(風露香んばし)」と言います。
求道に命を懸ける人の姿を輝かしい…、と称賛する言葉です。
道元や一遍上人の姿を尊いお姿だ…、敬う人は多い事でしょう。
西行も芭蕉も山頭火も歌人(俳人)として道を究めました。
尊師と同じように眩しい存在です。
また、市井には名は無くても、作品が無くても…輝かしい人は数多くいます。
 
共通することは
「自分の命は何時無くなるのか解らない」「露命いかなる道の草にか落ちん」
自覚があった事でしょう。
「何時死んでも問題はない」そんな生き様が香しく見えるものです。
その姿を「風露草」が教えてくれるのでしょう。
 
随分哲学的な名前を付けたものです。
 
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                                アサマフウロの脇に出現「紅天狗茸?」
 
   追記:この写真は8月30日撮影したものです。もう花は終わっているものと思います。
 
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円覚寺の酔芙蓉の花

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先日瑞泉寺に登って「白芙蓉」を見ました。
今年は夏暑かったせいか…、芙蓉の花が見事です。
そこで、酔芙蓉の花を見ようと…、円覚寺に出かけました。
 
円覚寺の境内には、沢山のスケッチ愛好家が集まって、緑陰や堂塔の庇の下で道具を広げてスケッチをしています。
一番人気は「山門」、次いで座禅道場の「居士林」、そして「舎利殿」のようです。
ヨーロッパに行けば街中に油絵をしている人を見かけます。
「日本も大人になったなあ!」
つくづく思います。
中国や韓国の街並では良い景色だなあ! 思うところでも先ずスケッチをしている人は居ません。
新婚さんが記念撮影をしています。
発展途上です。
 
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              円覚寺方丈庭園の酔芙蓉、朝早くは純白です。 舎利殿は左奥、山の麓です。
 
もうじき、開山忌なのでしょう。
舎利殿からはお経が響いてきます。(舎利殿は開山無学祖元を祀る開山堂です)
沢山のお坊さんがグルグル回りながら、お経を読んで居られます。
ジャージに頭を手拭で巻いた雲水さんは草むしりをしています。
広い境内ですから…、草をむしりきるのは大変です。
 
酔芙蓉は今年も見事に咲いていました。
出家された方の坐禅道場「選仏場」の竹の生垣沿いに5,6本の酔芙蓉の植え込みがあって、
一斉に花を着けています。
 
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                               背後の茅葺の建物が選仏場(坐禅道場)
 
芙蓉の花は遣唐使(奈良時代)によって日本に伝えられたのでしょう。
中国では蓮のことを芙蓉と呼び、私達の知っている芙蓉はわざわざ「木芙蓉」と呼んでいました。
平安時代学問の基本は「漢文」でしたから・・・・、芙蓉の花は人々から愛され、栽培されていました。
何といっても白楽天の長恨歌中で、楊貴妃の美しさを芙蓉のようだ・・・、と表現された事が影響したことでしょう。
 
芙蓉は突然変異種が出難く、槿(ムクゲ/韓国の国花)と違って新種が開発されませんでした。
数少ない変異種が「酔芙蓉」でした。
多分日本人が開発して、日本で好まれて普及したものと思います。
今では芙蓉と言えば「酔芙蓉」を思い浮かべるように…、一般化しています。
 
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                     背後甍は円覚寺開基北条時宗の廟を祀る「仏日庵」です。
 
芙蓉の花は朝早くに咲いて、夕方には萎れてしまう「一日花」です。
その儚さが無常を思わせ、日本人のハートを掴んだのでしょう。
ムクゲも朝顔も夕顔も凌霄花も、夏の花は多くが一日花です。
でも芙蓉が最も無常を思わせるのは、先ず第一に美しいからでしょう。
絶世の美女「楊貴妃」も「小野小町」も・・・・・、美しかったから・・・、栄華を極めたから・・、
人々はその最期に無常を感じ涙をしました。
 
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                     もう、酔芙蓉も種を漬け始めています。今が今年の見納めです。
 
酔芙蓉は朝のうちは純白の花弁です。
でも午後になると淡い紅色が入ります。
夕方になるにしたがって紅の色が濃くなってゆき、そして日暮れには萎んでしまいます。
萎む頃にはワインのような濃い紅色になります。
 
お酒を飲むと、とりわけ色白美女がお酒を飲むと…、顔色が次第に赤みを帯びて行きます。
まるでお酒を飲んでいるようだ・・・、そう思って「酔芙蓉」と名付けたのでしょう。
 
御隠居が夕方冷酒で一杯やりながら…、縁先の酔芙蓉の花を肴にする。
芙蓉のような美女にお酒のお相手をしてもらったら・・・、いいなあ・・・!
思った事でしょう。
だから…、庭先に酔芙蓉を好んで植えました。
 
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         花弁の真ん中から蕊がニュッと出ています。
         蕊の根元に赤い円が五つ見えます。これが花の色の変わる秘密でしょう。
 
円覚寺の酔芙蓉を見詰めていて、その花芯の奥に秘密を見つけました。
ニュッと出た蕊の根元に紅色の模様がありました。
芙蓉は五弁、模様も五つの円で出来ています。
まるで、天神様の神紋「飛梅」のようです。
紅色はこの神紋に一時貯められて…、徐々に花弁に浸みこんでゆくのでしょう。
そこで、真っ白だった花弁は次第に紅色が差し始めます。
 
日本の仏教は無常を教える事に特化したようです。
それは、日本人の世界観や自然観にそうした考えが深く根ざしていたからでしょう。
そう思うと、酔芙蓉は艶っぽいのですが…、お寺に相応しい花のようにも思えます。
 
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突然、私の背後からお遊戯の音楽が流れてきました。
振り返ると60人位でしょうか?
幼稚園児がお遊戯の練習です。
円覚寺幼稚園の園児さんが運動会でお披露目する・・・・、その練習です。
脇には綱引きの綱もスタンバイしてあります。
保母さんの脇には初老の御坊様が眼を細めて見ておいでです。
訊けば、10月6日(土)が運動会で、運動場は…、この場所(仏殿前の広場)だそうです。
 
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                 仏殿前で綱引きを始めようとする円覚寺幼稚園の園児さん達
 
仏殿と山門の間の広場が園児の運動場なのです。
何時もは厳めしい場所と思っていましたが…、突然に楽しい場所に変わりました。
園児の指先に結ばれたポンポンが踊ります。
運動会当日は仏殿前広場には沢山の家族が集まって、園児の晴れ舞台に声援することでしょう。
 
舎利殿から響いていた読経の響きも、何時しかお遊戯ミュージックに圧倒されたようです。
ご本尊(宝冠釈迦如来)も目の前のお遊戯の方がお好きな事でしょう。
 
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 【追記】昨年も円覚寺の酔芙蓉を書きました。
 
 
 
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パンの美味しい街「葉山一色町」

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私の叔父は4人居ました。
そのうち3人は何れも山がちのお寺の住職でした。
中津川の宋泉寺、福島信夫山の鎌秀院、栃木の洞雲寺、どれも山の麓にありました。
海辺で育った叔父でしたから・・・・、家に来れば御馳走は魚です。
私は来るたびに大きなお皿を風呂敷に包んで、お造りの買い出しをしました。
私自身も魚が好きです。
季節のよって、交代して食卓を飾ってくれて、それぞれに美味しいものです。
だから、何時かは美味しい魚屋の近くに住みたい…、思っていました。
 
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                                      葉山一色町のパン屋さん「プレドール」
 
この歳になると、「魚屋の近く」も良いけれど・・・・、
美味しいパン屋さんの近くが良いな・・・、思うようになりました。
私がおパンの味に目覚めたのは1985年、大阪でした。
当時神戸屋パンがレストラン神戸屋、オープンカフェを展開し始めました。
私はメイン銀行の責任者として、案内を受け食べさせていただきました。
以来、パンの味の目覚めました。
 
最近は町中にオーブンを用意し、焼き立てパンを案内する店が増えてきました。
でも、焼き立てが美味しいのは石焼き芋くらいで、焼き立てだけでは美味しいわけでは無いようです。
どうも、小麦粉からパン生地の作り方が重要なようです。
 
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                     プレドールの店内。様々なパンが並んで、どれも美味しそうです。
 
葉山は食通が多く住んでいるからでしょうか?
美味しいパン屋さんが多くあります。
逗子から葉山に向かうトンネルの手前左にあるのが「ボンジュール」です。(葉山堀之内)
その先の三叉路を湘南国際村方向に左折してすると「プレドール」があります。(葉山一色)
プレドールはボンジュールから独立したお店だそうです。
今日のランチは子安のスープカレーにしようか? プレドールのランチにしようか?
迷いながらハンドルを握りました。
勿論食べたいのはプレドールのパンですが、駐車場が狭いので入れません。
車周りが悪いのが唯一の難点です。
でも、今日は大雨でしたから・・・、運よく駐車場に入れました。
 
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プレドールはパンの店売りのほかに、店内に狭いのですが「イート・イン・コーナー」があります。
此処で焼き立てパンを戴けます。
人気は10時までに入ればモーニングセット(1000円)が食べられます。(食べ放題)
ドリンクに焼き立てパン、ジャムとバターだけですが・・・、次々に新しいパンを案内してくれます。
お嬢さんが”クルミパンが焼きあがりました、如何ですか?”聞いてくれます。
後半にアップルパンなどデザート感覚のパンが出てくるので…、美味しいから沢山食べていると、
お菓子感覚のパンが食べられ無くなってしまいます。
 
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        アップルパイのようなパン。これを食べるには前半のパンを控えておく必要が必要があります。
 
私と家内が入ったのは11時、もうランチメニューから選ぶほかありません。
私は食いしん坊でありますが、胃癌の術後未だ3か月足らずです。
何でも食べられるわけでもないし、一人分は食べきれません。
そこで、卵サンドとツナサンドを注文しました。(各1080円)
私の食べ残し部分は・・・、家内が食べてくれる・・・、安心感もあります。
と言っても、私はもう術後12キロも痩せました。
学生時代と同じ58Kです。
一方、家内は少し太り始めました。
作用反作用の法則は夫婦関係にも働いているようです。
 
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                                            卵サンド、ドリンクセットで1080円
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                                        ツナサンド、台座のパンはカリカリです。
 
サンドイッチはパン自体の味が載せた料理の味に隠れてしまいます。
次回は早く来てモーニングセットを戴くことにしよう・・・・・、思いますが、
早く胃を全快させることが大切なようです。
 
美味しいパン屋さんが近くにある家は憧れでもあります。
勿論、魚が美味しいのは大昔からです。
今頃はタコが旬です。
 
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                              蛸唐草の青絵のコーヒーカップ。店内で販売しています。
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                                        狭い店内ですが様々に楽しませてくれます。
 
 
 
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長狭街道の伊八(大山不動尊にて)

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魚もキノコも美味しい季節になってきました。
私は胃の術後3か月を経て、食欲も出てきました。
秋刀魚なら三分の二程度、食べられます。
でも、お酒は禁じられています。
私は、本来呑兵衛ではないのですが、矢張り一口飲みたいものです。
 
お米の美味しい地方を見分けるには、”美味しい酒蔵”を探せば良いのです。
お酒には美味しい水と、美味しいお米が必須です。
美味しい水と美味しいお米は・・・・、ブナやコナラの照葉樹林があるような地方に出来ます。
魚沼コシヒカリは、上越国境の山々が照葉樹林であることから…、美味しいのですし、
銘酒「八海山」はじめ幾つもの酒蔵があります。
秋田も庄内も宮城も、米どころは酒どころ・・・・、照葉樹林帯です。
 
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              長狭街道、向こうの小山の山頂が大山不動尊です。本堂の甍が樹間に見えます。
 
千葉県は概して照葉樹の茂る山がありません。
だから・・・・、銘酒も、美味しいお米も無いように想像しますが・・・・、
そんなことはありません。
「長狭米」があります。
長狭街道は鋸南町保田から房総半島を鴨川市横渚まで横断する古道です。
全長26k余りですが、道の両側に棚田が見られ、古寺や石仏が点在する…、素晴らしい街道です。
其処に亀田酒造があり「吟醸酒・寿萬亀」があります。
 
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         大山千枚田、オーナー制度によって都会人が耕作する機会が与えられています。
         写真は9月26日でしたので彼岸花が少ししか咲いていませんが、今は盛りだと思います。
 
長狭街道の峠近くに「大山寺」があります。
関東三不動の一つに数えられます。
他の二つは成田山新勝寺、相模の大山不動尊です。
江戸の深川不動尊や高幡不動、目黒不動などの江戸五不動を凌いで、三不動に数えられています。
 
不動尊の周囲は大山千枚田と呼ばれる棚田です。
大山の棚田は「棚田百選」に数えられ、東京の最も近い棚田です。
今はオーナー制度が浸透し、都市の住人が汗水して美味しい長狭米を楽しみながら作っています。
 
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                     大山不動尊の本堂(1802年再建)、初代伊八の彫刻群が見物です。
 
大山不動は奈良時代良弁僧正が開山したと伝えられます。
現在の本堂は棟札からは江戸時代中期(1802年)に建てられた事が判明したそうです。
堂内諸像も流石に奈良時代まで遡るものは無いようです。
朽ち果てたか、落雷などで焼失したものが江戸時代再建されたのでしょう。
房総の大工や彫刻師が総力を上げて古寺復活にいそしんだことでしょう。
 
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                                    不動堂内陣・外陣の境上に飾られた絵馬
 
今、江戸東京博物館で「二条城展」が開催されています。
二条城の唐門や欄間彫刻が私達の目を奪います。
江戸時代初期、豪華絢爛な欄間彫刻が、傷んだ古寺の再建に際して飾られました。
仏像や須弥壇の彫刻が、欄間彫刻に活かされたのでした。
その伝統は京都から富山県南砥市の井波などに残っています。
 
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               不動堂正面の伊八の龍の図。大海原の中からドカーンと出現したようです。
 
江戸時代中期、欄間彫刻師が言ったそうです。
「関東に行ったら波は彫るな!」
江戸には「波の伊八」と呼ばれる匠が居る・・・、下手な波を彫ったら馬鹿にされるぞ・・・!
畏怖されたのでしょう。
 
初代「波の伊八」こと伊武志伊八郎信由は、
長狭街道の下打墨村(鴨川近くの幕府領)の名主「武志家」五代目として生まれました。
10歳の時に彫刻をはじめ、房総の神社寺院の建立に際し、欄間彫刻を納めるようになります。
また、多くの弟子をとり一門を形成します。
 
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                       お堂の欄間は波が飾っています。白い塗料が少し興を削いでいます。
                       伊八の波は北斎の「神奈川沖浪裏」に影響したと言われています。
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              木鼻には獅子と獏(?それとも象?)が据えられています。左奥に波が見えます。
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                                                 再び正面の龍図
 
享和2年(1802)年、大山不動尊が上棟します。(伊八51歳)
享和3年(1803)伊八は大山不動尊の不動堂に彫刻群を納めます。
千葉県はこの頃伊能忠敬、波の伊八二人の偉人を輩出したことになりました。
 
不動堂の周囲は波が覆っています。
大山からは遠目に鴨川の海が見渡せます。
でも、彫刻は白い塗料が塗られています。
腐らないように塗料を塗ったのでしょうが…、いかにも興ざめです。
 
一方、正面は塗料は塗られていません。
龍の眼が藍色に光っています。開いた口からは紅い口内が見えます。
此方は中々の迫力です。
 
不動堂全体が波で飾られていますから・・・、大海原の向こうから大波が打寄せて来て、
海中から巨大な龍が出現した・・・・、そんな図柄です。
伊八は働き盛り、男盛りであったこと、そして故郷長狭の不動堂を飾る彫刻群です。
心血を注いで龍の図柄を完成させた事でしょう。
 
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                                              不動堂の狛犬
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私が次に感心したのは狛犬です。
神仏混淆した時代ですから、
仏式の本堂の前に神式の狛犬が鎮座していて不思議なことはありません。
狛犬が龍に負けずに迫力十分なのです。
頭上の伊八の龍に劣らずに…、立派な狛犬を納めたい…、石工の作品なのでしょう。
房総の石工の腕前は、長狭街道の西端「鋸南町の日本寺の羅漢群像でも示されています。
確かな技量を有した石工が居たことになります。
 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46474116.html に日本寺の石仏を書きました。
 
 
 
長狭街道は棚田も美しいし、寺院も、伊八の彫刻も、石仏も・・・あって、
山海の美味に恵まれて・・・・・・・・、実に良いところです。
 
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中津川の「栗きんとん」

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9月30日(日曜日)、友人が書を銀座セントラル美術館で展示している…、というので出かけました。
私にとっては久し振りの銀座です。
銀ブラでもしようか・・・、思って4丁目交差点から三原橋に向かって歩き出しました。
銀座三越の角に「酢」の店が出店していました。
小さなお店ですが「酢の専門店」なんて珍しい・・・、
小さなボトルが陳列され、沢山の種類の酢を品ぞろえしています。
誰が買うのかな? 見ていても誰も入店しません。
 
漢字で「酢」「酢」「酢」と書かれているのが…、インパクトが弱いようです。
ワインの店ならお客さんが入りそうです。
 
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                   銀座4丁目の「お酢」の専門店。 何の店だか良く解りません。
 
私は体調を崩すと梅酢を茶碗一杯がぶ飲みします。
どんな病気でも一発で回復してしまいます。
祖母に教えて貰った処方箋で、今でも活用しています。
梅酢は梅干しを作る過程で出てくる「梅のエキス汁」です。
果実酢の代表でしょう。
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                   梅酢は梅干しを作る過程で出来る「梅のエキス」です。
                   我が家の梅干し風景。これでも量は半減しました。
 
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      銀座三越の和菓子売り場にて(たね屋)さんの十五夜飾り付け。
      十五夜団子は「枕団子(通夜の席で奉げる)」に似ています。
      死者の魂は月に昇る…、考えていたのかも知れません。
      「きぬかつき」とは平安時代の女性の絹の被り物。里芋の小芋を茹でて食べる。
      たね屋さんの十五夜のお菓子です。
 
友人のお土産に三越銀座店に入りました。
     (本当は松坂屋に入れば「すや」の栗きんとんが求められたのですが・・・・)
目的は「中津川の栗きんとん」を求める為でした。
この日は十五夜、和菓子売り場は大賑わいです。
栗きんとんは老舗の「恵那屋」さん、そして近江八幡の「たね屋」さんが商っていました。
たね屋さんの栗きんとんは中津川の栗きんとんと同じ茶巾で絞っていましたが、
最後に表面に焼を入れて香ばしさを増しているようです。
 
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                               近江八幡「たね屋」さんの栗きんとん
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中津川「すや」さんの栗きんとん。書は良寛さんのものです。(同社HPから転載)
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                           此方が「恵那や」の栗きんとん
 
岐阜県中津川は中山道の宿場町です。
恵那山の麓にあって、山栗の産地でした。
その山栗を使って、栗きんとんが有名になったのは昭和に入ってからでした。
家々で栗きんとんを作って楽しんでいたものを・・・、
和菓子の「すや」さんが製造販売し…、全国的に有名になりました。
栗自体が美味しい事と…、
ちょうど十五夜の頃に売り出されることが季節感があって、歓迎されたのでしょう。
栗きんとんの形は満月を思わせて…、福を呼ぶ形・色をしています。
すやさんを筆頭に中津川の和菓子屋さんが競って栗きんとんを作っています。
昨年行ったところ「栗ソフト」もあって、もう栗のフェスティバル状態でした。
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       中津川「すや」の包箱。浮世絵にお酢屋だった江戸時代の姿が留められています。
       同社HPから転載。
 
元禄年間、江戸から下ってきた武士が中津川で「お酢」を作り、商いだします。
屋号は「十八屋」でした。
享和2年太田南畝は紀行(壬戌紀行)に書いています。
屹度米酢であって、旅人は酢を取って体力の回復に努めたのでしょう。
その十八屋は明治になって和菓子屋になります。
旅人が汽車に乗るようになって…、お酢の需要が減ったのでしょう。
菓子屋の屋号は「すや」にして先祖の思いを残します。
そして、「すや」の看板を良寛和尚の「いろは」から拾って作りました。
大看板は今も「すや」にかかっています。
 
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川上屋の栗きんとん(東京駅大丸で) 栗きんとんの中で一番甘いと思います。
 
 
友人が軽井沢で拾ってきた「山栗」を茹でました。
帰りがけに東京駅大丸で「川上屋」の栗きんとんを求め、家内と戴きました。
一口、口にすれば恵那山の山容が思い浮かびます。
中津川は懐かしい田舎町です。
 
秋は栗の実が弾ける事に始まります。
「栗きんとん」は中津川の地勢と歴史が育んだ総合文化産業です。
 
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   小さい方が軽井沢でI君が拾ってきた山栗、実はこれが一番甘くて、香ばしい。ただ、剥くのが一苦   労です。
   大きい方は家内が中井の先生(弓道)宅で戴いたもの。台風で栗の老木が倒れたそうで、大量の栗   を拾えたそうです。栗の木の下に射場があるのでしょうか? 丹沢も栗の産地です。
 
 
 
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十六夜の萩の花(淨光明寺で)

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9月30日(土)日本文化研究会のセミナーが始まりました。
始まって7年、春・秋二回行われていますから、14回目、
各会10回程度のセミナーですから、もう140回も実施された事になります。
同日は慶応大学三田校舎で、寺澤教授の講座が皮切りになりました。
同氏は10月13日横浜市民講座で「東北の歌枕を歩く(仮題)」を話されるそうです。
今回はその講義が中心のようでした。
実に素晴らしい講座でした。
まさに「高座(お坊さんのお話に始まり寄席で使われます)」でありました。
 
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                 今日の話題は萩です。鎌倉雪ノ下の淨光明寺の宮城野萩です。
 
東北の歌枕には二群があるようです。
一つは「安達が原」や「塩竈」のように「伝説」「故事」に由来するもの、
そして、最も多いのが植物に由来するものです。
「忍ぶ草」(信夫山)、「末の松山」「武隈の松」そして「宮城野(萩)」など沢山あります。
枕詞は和歌独特の修辞法であり、
特定の言葉の前に置いて、言葉を引き出したり情緒の深みを増したりするものです。
でも、東北各地を愛している枕詞に歌われた景色が思い出され、
私には講座が「風土記」を読むように聞こえました。
 
万葉集で最も歌われた花は萩でした。
萩の枕詞は「宮城野」です。
陸奥の荒涼とした萩の原っぱに万葉人は思いを馳せて、
「萩」の花に託して人生の”儚さ”や”恋心”を歌ったのでした。
   あはれいかに 草葉の露にこぼるらむ
        秋風立ちぬ 宮城野の原    (西行・新古今集)
 
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                                  淨光明寺「不動堂」前の宮城野萩
 
9月30日は中秋の名月でした。
でも生憎の台風でした、
ならば十六夜の月を眺めようとしたのでしたが…、見えませんでした。
でも、十六夜の日、萩を観に淨光明寺に出かけました。
 
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                                          奥が不動堂です。
 
阿仏尼の十六夜日記は「十六夜の日に書き始めた」ので後世の人がネーミングしたものです。
阿仏尼の母性が滲んだ良いネーミングだと思います。
まるで「枕詞」のような表題です。
 
阿仏尼は藤原為家の側室になり、冷泉為相を産みます。
しかし、為家の没後播磨国細川荘の相続をめぐり異母兄二条為氏と争います。
阿仏尼は単身鎌倉に下り、鶴岡八幡宮に勝訴を祈願し、粘り強く訴訟を継続します。
一方倅の冷泉為相も鎌倉に下り訴訟に参加します。
同時に鎌倉の歌壇を指導します。
娘が幕府8代将軍久明親王に嫁ぎ久良親王を産みます。
そんなことから為相は鎌倉で一生を終え、淨光明寺に永眠しています。
 
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阿仏尼の墓は淨光明寺に近い扇ガ谷にあります。
まるで、死んでも愛息「為相」が気がかりのように、淨光明寺の甍を見渡しています。
 
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               阿仏尼の墓。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46282957.htmlで書きました。
               白いのは「卯の花」です。
 
淨光明寺の庭には宮城野萩が生い茂っています。
概して鎌倉では今年の萩は見られませんでした。
台風の影響と秋冷が遅かった為でしょう。
でも、淨光明寺は見事に咲きました。
 
私は露に頭を垂れた宮城野萩を見るたびに・・・・・、阿仏尼親子の愛情の深さを思い出します。
「垂乳根」は母や親の枕詞です。
阿仏尼の乳は為相が吸ったので・・・・、ダラーンと垂れていたことでしょう。
でも、形が崩れて垂れてしまった乳だからこそ、尊いのでしょう。
 
枕詞は日本文化の”粋”だと思います。
 
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           淨光明寺の阿弥陀堂に土手は彼岸花で覆われます。裏山の中腹に為相の墓があります。
 
 
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「エスプレッソのイリー」日本・イタリアの異文化交流

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日本橋高島屋に「上村淳之」さんの日本画展を鑑賞に出かけました。
その待ち合わせに高島屋の並びにある喫茶店「イリー」に入りました。
向かいには風月堂、並びにもルノアールなど老舗の喫茶店が数多くあります。
そんな中に喫茶店のカルチャーショックを与えるような喫茶店の出現でした。
 
先ず第一は空間の広がりです。
天井は高いし、ワンフロアーで全体が見渡せる大空間です。
それもそのはずこの建物は私が働いていたころは富士銀行の日本橋支店の店舗でした。
だから、喫茶店には勿体ないような大空間が利用できたのです。
スターバックスのコーヒーは美味しいのですが、チマチマした店舗は貧乏たらしく感じられます。
 
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壁には大きな浮世絵が3枚かけられています。
入口が北斎の「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」で、真ん中が広重の「東海道五十三次日本橋朝之景」で、最後が歌麿「歌撰恋之部 物思恋」です。
何れも1000倍にしているのですから・・・・、世界最大の浮世絵でしょう。
デジタル処理して、絵の核部分をアップして・・・・・、パテストリーにして壁にかけています。
浮世絵の背から光が当たって、見事に浮き上がって見えます。
 
私は何で歌麿で写楽じゃ無いのか・・・・、少し不満ですが・・・、それは好みの問題でしょう。
訊けば・・・・、ボストン美術館の「スポルティング・コレクション」から使用権を買ったからだそうです。
日本の博物館に相談すれば……良かったのに・・・・、思わざるを得ません。
 
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                               北斎の「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」 
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                                           歌麿「歌撰恋之部 物思恋」                  
店内のインテリアは緋色がメインになっています。
「イリー」のコーポレートカラーが緋色なので、
椅子にもテーブルにも鮮やかな炎の色が使われています。
如何にもイタリ風の色使いです。
店員に訊けば、”イリー”はイタリアの老舗コーヒーブランドだそうです。
同社が日系企業(プロントコーポレーション/港区)と組んで進出したのでした。
 
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    イリーのカウンター。ワイン棚の上に「エスプレッサメンテ・イリー」とイタリア会社名が大書されて    います。
 
コーヒーはセルフ形式でカウンターまで取りに行きます。
ティラミスにジェラート、そしてコーヒーはエスプレッソ・・・・、
どのイタリアンテーストも世界中で人気です。
カウンターにはそれらが並んでいます。
食いしん坊なお嬢さんなら・・・・、どれもこれも注文してしまうでしょう。
コーヒー一杯が300円ですが、落とすお金はもっと多くなりそうです。
老舗喫茶店ならコーヒー一杯のお値段で、ケーキセットが可能になる…、価格設定です。
 
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カウンターの背の棚にはワインが並んでいます。
もうじき夕方です。
勤務帰りのサラリーマンが一杯やって帰るのでしょう。
縄暖簾の焼き鳥やではついつい時間が長くなってしまいます。
ワインバーなら…、長くはなりませんし、OLさんも気軽に付き合って呉れることでしょう。
昔はこんないい店は無かった…、残念であります。
 
約30分あまり、友人4名で昔話に興じてから帰る事になりました。
椅子が固く浅い事・・・、机が鮮やかな緋色であること…、などなどがあって長居はしないのでしょう。
でも、ドトール並みの価格設定で、充分な満足感を与えてくれます。
 
100年前は箪笥の中に入れて閉まっておいた浮世絵が、大胆なタペストリーになって現れました。
その斬新さに改めて浮世絵の現代性を痛感します。
イリー日本橋店は浮世絵とイタリア食文化とのコワークです。
異文化交流は新しいパフォーマンスを生み出してくれます。
そんなチャンスはゴロゴロ転がっている事でしょう。
出来ればボストン美術館でなくて、日系の博物館などが組み込まれて欲しいものです。
若い人には日本文化を掘り返して…、こんな斬新な展開をトライして欲しいものです。
そして、沈滞気味の時代空気を吹き飛ばして貰いたいものです。
 
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                                         窓際のワインが貴女を誘います。
 
 
 
 
 
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私は神奈川5区に住んでいます。
今渦中の田中慶秋議員の地元です。
念願かなって大臣になって三日、火中の栗状態です。
誰も栗を拾って呉れそうもありません。
マスコミは「バーゲンセールで粗製濫造した大臣なんだから…、やっぱり心配が現実になった!」
知り顔で解説します。
 
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                                 渦中の田中慶秋氏(ポスター)
田中慶秋氏は中小企業対策が本領です。
野党時代国会の代表質問では舌鋒鋭く攻め込んでいました。
横浜は中小企業で持っている都市ですから・・・・、田中慶秋氏は頼りにされていました。
地域にも頻繁に顔出しし、私達の拙論も我慢強く聞いてくれていました。
そんなおらが街の代議士さんが、何で法務大臣なんだ?
一瞬疑いました。
 
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                  春節で賑わう横浜中華街。中華街の味を支えている外国人が多い。
 
今年新年、中華街は春節で盛り上がりました。
それが、尖閣問題が熱すると・・・・、今中華街は人並みも減ってしまったそうです。
中華街は中小企業か家内経営者で持っています。
彼等にとっては・・・・、お客さんが沢山来てくれることが願いですから・・・・・、
腕を競って御馳走造りに専念します。
尖閣問題は・・・・・、遠くのことでしょう。
中華街の人たちが日本人国籍であろうがなかろうが・・・・、横浜の大切な役割を担っています。
本場の香港に負けない中華料理を作り・・・・、日本一と評価されているのですから。
そんな人が15年間もの間、271万円の政治資金を田中慶秋氏の事務所に収めていたのでした。
 
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                                         今年の春節の賑わい
 
 
先日(9月28日)経団連の米倉会長が尖閣問題について発言されました。
野田佳彦首相は”領土問題は存在しない”と言い続けているが、中国が問題視していることで、
日本側が問題がないというのは非常に理解しがたい。」
米倉氏はマスコミの総攻撃を受けました。
 
日本政府やマスコミは歴史的事実を並べて、日本に理がある…、主張していますが、
世界地図を見れば地政学的には中国に近い…、誰しもが思う事でありましょう。
だから…、中国に理があると言っているのではありません。
様々な意見があって、
グローバルな視点で着地を探さなくては世界中から笑い者になる、ということです。
 
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           論調と無関係ですが、八幡様の彼岸花はようやく満開になりました。(10月4日)
 
問題は日本のマスコミの姿勢にあるようです。
世論に迎合するばかりで・・・・、問題の本質や着地を見失っている…、と思います。
「中国にはリスクが大きい」ので投資は控えるようにアドバイスし、
「中国人の怒りの原因を穿って報道している」と心配です。
 
本件の本質は国内に居る日本人には解りません。
外国で頑張っている日本人、
とりわけ中国で死ぬ想いで耐えている日本人の意見を聞かなくてはいけません。
 
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田中慶秋氏の事件は尖閣問題とは別です。
でも、マスコミの姿勢を見ると同じ過ちが見えています。
物事の全体を見ずに、善悪を決め、一方を徹底して悪く非難しています。
 
中小企業の献金の過ちを同氏の辞任まで要求するのは…、いささか行き過ぎだと思います。
中小企業を応援してきた政治家をもう少し大きな目で見てあげて良いのではないでしょうか?
こんなことで政治家をスポイルし続ければ、日本に政治家は現れなくなって・・・、
叩いても埃も出ない…、気持ちも伝わらない…、つまらない人ばかりになってしまいます。
日本の政治家を育てるのもマスコミの仕事だと思います。
 
本件火付け役をした朝日新聞も、そろそろ叩くのをやめて・・・・、
田中議員も反省していることだし・・・・、活躍してほしい…、言い出せないものだろうか?
法務大臣としてはしは看過できない面もあるが・・・・、人間個人として見れは可愛い過ちでしょう。
 
マスコミは時代と共に幼児化しているように感じられます。
尖閣問題も、外国人献金問題も着地を見失わないように・・・・、留意して欲しいものです。
マッチで火をつけるのがマスコミの役割ではなく…、
社会の木鐸になって欲しいものであります。
 
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                                      これが木鐸です。
 
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「義民」三橋勘十郎を想う(道祖神)

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相模線は茅ヶ崎駅から相模川の東を八王子まで続くJRです。
茅ヶ崎駅から二つ目が「香川駅」です。
駅を降りると目の前に名門スリーハンドレッドクラブの緑が迎えてくれます。
此処からゴルフ場の脇を歩いて、淨見寺(大岡忠助の墓がある)から、
七曲を越えて茅ヶ崎里山公園にハイキングする人が目立ちます。
茅ヶ崎はサザンビーチで有名ですが、里山にも恵まれています。
 
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  茅ヶ崎市香川の里山風景。 正面の緑の中にスリーハンドレッドクラブがあります。
  手前の甍は淨見寺です。淨見寺の手間に勘十郎掘が流れています。
  風光と歴史が混然と輝く一帯です。
 
淨見寺の裏山はそのままゴルフ場です。
その境の高台に三橋家住宅があります。
香川村の名主「三橋家」の住まいをこの高台に移築したものです。
桁行(全長)10間(19m)、 梁行(全幅)5間と大きな長方形の建物です。(文政10年1827年建築)
 
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            三橋家住宅、正面がトンボ口。右壁に大八車が架けられています。
 
相模様式の「田の字」形をした住まいで、出入口(これをトンボ口と言います)を入ると
土間が広がっています。
土間には炊事場があって、沢山の農機具が置かれています。
雨の降る日や夜はこの土間で農作業をしたのでした。
田の字の半分が住居部分で、その半分住居で、そのまた半分が板間で、残りの半分が畳敷きです。
畳み敷きの部屋が客間であり、寝室でありました。
住まいが簡明で合理的なのは、彼等の生活姿勢が合理的でシンプルだったのでしょう。
 
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   左奥が客間。右奥が寝室。手前板間。右の板間に囲炉裏が切られています。光は右側から入っています    が、本来は左側から入っていなければいけません。移築に際して東西を逆転したと思います。縁側は左の   閉まった障子の向こうにあります。(撮影午前十時)
 
唯残念な事に茅葺だった屋根はトタンで覆われています。
何時か、財政的に可能なら茅葺に戻してほしいものです。
そして、もう一つ残念なことがあります。
それは移転に際して東西が反転してしまった事です。(私の判断です)
 
淨見寺側の裏山に建物を置いてみた時、どちらを正面にするか迷ったのでしょう。
人々は坂道を登ってきます。
そして、正面に玄関口を置きました。
でも、正面は西向きなのです。
本来家は東(ないし南)向きに建てられていたものです。
西向きに移転してしまったので、縁側には日が当たりませんし、
客間は北西の角になってしまいました。
本来は東南の角になければならなかったのです。
 
これは、民家を移転保存するとき度々悩む問題なのでしょう・・・、
見学に来る人を優先するか、それとも、建物の方角を重んじるのか?
 
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                  文化6年8月建立された善光寺式阿弥陀三尊の石仏。
 
 
三橋家住宅の庭先に素晴らしい石仏があります。
善光寺様式の阿弥陀三尊像です。
正面に阿弥陀様と、脇侍の観音・勢至菩薩が刻まれています。
基台にはわざわざ信州と刻まれていますし、10人ほどの名前が刻まれています。
建てられたのは文化6年(1809)でした。
多分、香川村の名主三橋家の下で人々は善光寺を信仰していたのでしょう。
 
人達がお金を出し合って誰かが善光寺を詣でた、そしてその記念にこの石仏を建立したのでしょう。
近くには宝生寺があって、国の重要文化である善光寺式阿弥陀三尊(金銅仏)があります。
   (宝生寺阿弥陀三尊は次に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/40146277.html)
 
三橋家住宅から丘を下ると淨見寺の門前に出ます。
此処に「三橋勘十郎の供養塔」があります。
「実相院寿必日量霊 俗名三橋勘十郎」と刻まれています。
近くに掘割があります。
川幅が3尺、道路が6尺の小さな堀ですが、流域25町歩の田を潤していました。
作ったのは三橋勘十郎でした。
寺尾には小出川があって水があった事から、村民を率いて3年をかけて香川に水をひいたのでした。
掘割の名は「勘十郎堀」です。
 
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        右側コンクリートで固められた堀が「勘十郎掘」です。その脇に石仏群が祀られています。
        遠くの山が大山です。
 
香川の領主は本間氏でした。
本間氏執事鈴木唯右衛門は年貢を厳しく取り立てます。
安永8年(1779)香川の村民41名が年貢免除の嘆願書を提出します。
名主勘十郎は捕られられます。
そして毎日指を1本折る拷問を受けます。
10本目を折られたとき役人が「痛いか?」問います。
すると、剛毅な勘十郎は「糞くらえ」と答えます。
勘十郎は斬首されてしまいます。
その後、本間氏は勘十郎の霊に悩まされます。
そこで、淨見寺で法要を執り行い、前記の供養塔を建立したのでした。
 
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                 勘十郎掘り脇に祀られている道祖神、天明6年と刻まれています。
                 勘十郎が斬首されて程なく建立されたのでした。
                 二体の真ん中に庚申とも刻まれています。
 
勘十郎掘には2基の道祖神が建っています。
二体の仏が並んだ…、相模様式の双体道祖神です。
舟形の光背に天明6年(1786)と刻まれています。
道祖神としては古いものです。
良く見ると二体の仏の真ん中に「庚申」とも刻まれています。
だから、この石仏は道祖神であり、同時に庚申塔なのです。
 
道祖神も庚申信仰もルーツを遡れは平安時代に行き着くそうです。
でも、一般に庶民の信仰の対象になったのは江戸時代からでした。
石仏に形を現したのも江戸時代です。
道祖神も庚申塔も相模地方に古いものが多く残っています。
それも相模川の両岸から酒匂川にかけて多く見られます。
この地域が江戸時代になっていち早く農業革命を達したからだと思います。
農業革命とは農機具の改善、牛馬の活用、治水灌漑工事によって農業生産が急増した革命のことです。
その結果日本の人口は1千万人から3倍に増えました。
 
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  三橋家住宅の土間に並べられた農機具。
  こうした農機具の改良は17世紀初頭に実施されお米の生産量を飛躍させました。
 
三橋勘十郎は「義民」として終えましたが、酒匂川の二宮尊徳は成功します。
報徳神社に祀られてもいます。
 
”道祖神も庚申塔も同じようなもので…、二基の石仏を作るまでも無い、
1基の石仏に祀ってしまえ・・・”、
そんな農民の合理性のある考え方に着目します。
 
合理雄性を優先する考え方が相模の国にいち早く農業革命を引き起こし、
二宮尊徳というリーダーを輩出したと考えます。
 
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   淨見寺本堂は耐震工事を実施中です。施行は上野の仏具店「翠雲堂」さんです。
   タレントの「山口もえ」さんの実家です。
  
 
 
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甲斐源氏が守った天弓愛染明王像(放光寺)

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塩山市の名の起こり「塩の山」を越えると雁坂道(国道141号線)に出ます。
大菩薩峠のトンネルを超えれば秩父に出られます。
峡谷の底には笛吹川が流れています。
峡谷を見下ろす高台の上に「高橋山放広寺」があります。
 
放広寺の開基は甲斐源氏「神羅三郎義光」の孫「安田義定」です。
安田義定は以仁王の令旨に応じて挙兵します。
義定は富士川の戦いで先鋒を務め、源氏軍を大勝に導きます。
更に京の都に木曾義仲を追討し、平家を追って一の谷の戦いでは、
平氏の大将、平経正・帥盛・教経等を討ち取ります。(治承8年1184年/吾妻鏡)
同年、義定が修験者の霊場であった大菩薩峠の山麓「一之瀬高橋」に当寺を建立したのでした。
義定は再び平家追討軍に合流し、文次1年(1185)壇ノ浦に平家を滅ぼします。
 
戦功大であった義定でしたが、梶原景時の讒言により源頼朝の嫌疑を受けます。(永福寺事件)
景時の攻められ、建久4年(1193)自刃して果てます(享年61歳)。
梶原景時一門は義定の亡霊の鎮魂を祈願して、多聞天像を納めます。
                     (案内によっては毘沙門天となっています)
放広寺の説明では多聞天像のお顔は安田義定を模した・・・、そうです。
 
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      放光寺多聞天像、開基安田義定の慰霊のため、同武将の姿を模して造像されたと伝えられています。
     (放光寺の写真パネルを転写)
 
放光寺の本堂前庭に入ると、ドンツク・ドンツク太鼓の音が響いていました。
私は山門前の案内によって当寺が真言宗智山派であると確認していたのでしたが・・・、
日蓮宗の寺院だったかな…、錯覚したほどです。
太鼓の音は本堂西側の小さなお堂から響いていました。
ここが愛染堂で・・・・、女性が一人祈願を受けていたのでした。
良縁を求めてか・・・、悪縁との決別を求めてか・・・・?
解りませんが…、相当の事情があるのでしょう。
御祈祷の邪魔にならないように・・・・、忍び足でお堂の縁をまわりました。
色々失う事の多かった私の人生でしたが・・・・、愛染明王には恵まれたようです。
 
此処放光寺は日本最古と言われる愛染明王が祀られているのです。
愛染堂のご本尊でしたが、重要文化財指定となり他の大日如来像、不動明王像と共に
耐火建築の宝蔵庫に移されています。
ですから、宝蔵庫の中で、御祈祷を聞きながら拝観します。
お堂の屋根高く金木犀の大樹が今盛んに咲いています。
芳香に咽ぶような思いです。
 
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      奥が愛染堂、廊下を隔てて左に宝蔵庫があって愛染明王が収まっています。
      甍の遥か上まで金木犀の梢が茂っています。
 
放光寺愛染明王像は檜の寄木造りです。
頭には炎髪に獅子の冠を被っています。
三眼で開いた眼の真ん中に矢を繋いでいます。
矢先は真っ直ぐ天に向けられています。
天弓愛染明王と呼ばれる、特異なお姿です。
 
愛染明王の次の動作は、弓矢を真上から標的に向けるのでしょう。
標的は仏前の人に向けられ之か?
敵対する人に向けられるのか?
又は恋焦がれている佳人か?
観るものに応じて、何れにも動作するのでしょう。
 
天弓愛染明王はこの放広寺を筆頭に高野山金剛峰寺、京都神童寺の三体が数えられます。
 愛染明王は放光寺愛染明王像に始まり、鎌倉時代には盛んに造像されました。
 
放光寺像は総じて高貴な感じがします。
彫は浅く、菱形をした目も、憤怒の表情も鎌倉時代のそれに比べれば大人しく感じます。
お体の肉づけも穏やかで、獅子冠も小さく全体として流麗で静謐な感じがします。
12世紀後半京都で盛行していた円派の造像によるものでしょう。
想像するに、安田義定が木曾義仲追捕のため京に登った折に求めて、
はるばる甲斐の国に運んだのではないでしょうか?
又は円派仏師が甲斐まで招来したのかも知れません。
10キロほど離れた大善寺にも平安時代の仏像が多いのですから・・・・、
甲斐の国に逗留して造仏に励んだのかも知れません。
    (平安時代末期は奈良興福寺の慶派、京都の円派仏師が競っていました。鎌倉の愛染明王像は     慶派の流れを汲んでいます)
 
 
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                     放光寺天弓愛染明王像(ポスターを転写)矢を天に向けた構えています。天に           向けて射る訳では無く、標的に矢を構える前の動作でしょう。
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                   放光寺天弓愛染明王像(全体)同寺HPから
 
 
平安時代になると、従来の静止した穏やかな仏像に代わって、
荒々しい動的な明王像が多く造像され始めます。
その一つが悪魔を降伏させるために大日如来に使わされた不動明王でした。
もう一つが愛染明王です。
 
仏教は伝来以来、愛欲や金銭欲・権力欲等の欲望を抑える術を教えてきました。
しかし、古代から中世への変換機になるといくら祈っても社会も人心も治まりません。
人は、容易に欲望から脱することは出来ません。
”ならば欲望を否定するのではなく、素直にこれを認める事から始めよう”と考えました。
”煩悩と愛欲は人間の本能として認め、むしろこの本能そのものを向上心に変換しよう”考えます。
人間の本能を認める事からスタートする考え方は武士階級の支持を受けます。
ですから、鎌倉には数多くの愛染明王像が祀られました。
覚園寺、宝戒寺、八幡宮(神宮寺・現五島美術館)等には優れた愛染明王が祀られています。
 
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                      五島美術館(元鶴岡八幡宮所蔵)愛染明王像。鎌倉時代。鎌倉御                      仏巡礼から転写
 
放光寺愛染明王像の彩色は殆ど剥落してしまっています。
放光寺はお隣の恵林寺ともども織田軍に攻められ、武田氏滅亡の際に焼け落ちてしまいます。
再建は江戸時代初めまで時間を要します。
幾たびもの戦火を耐えて、星霜を経て・・・、焼けた檜の地肌が出たのでしょう。
一見鉄仏かと見間違うような錆びた地色が出てしまっています。
 
 
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   放光寺には数多くの朽ちた仏像が残されていて、歴史の変遷の無常を教えてくれます。
 
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                            放光寺阿形金剛力士像(鎌倉時代)264㎝の巨像です。
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                                同上 吽形金剛力士像
人間の欲望の処し方を教えて広く信じられた愛染明王ですが、
人間の欲望に翻弄され傷んだ姿を見るにつけ、複雑な気持ちになります。
矢が真っ直ぐ真理に向けて放たれれば・・・・、
安田定信に向けて愛染明王はこう諭したことでしょう。
”真理と確信したことに向けて突っ走れ…”
その結果、姦策を弄した梶原景時に討たれてしまいました。
しかし、甲斐源氏の誇りの高さは続きました。
 
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一葉に見せたかった慈雲寺の糸桜

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塩山駅前にある「甘草屋敷(高野家住宅)」の一間が「樋口一葉」の展示に使われていました。
小さな部屋に数点の簡素な家具を置いて、パネルで一葉と塩山の係りを案内してありました。
5000円札を眺めていると・・・・・、ボランティアの案内係りが「このお札は300万円ですよ!」
言います。
「印刷ミスでもあるのかな?」見詰めましたが…、そうでもないようです。
お札の番号が5番で、当局が塩山に配慮して呉れたのだそうだ。
民間に出た最も若い番号でしょう・・・。
 
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   塩山「甘草屋敷」右端の小部屋が樋口一葉の展示に使われています。黄色い花は女郎花。
   塩山駅から一葉の道が始まります。甘草屋敷の北側(右)です。
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                                   甘草屋敷にある「樋口一葉」展示室
 
『ゆく雲』(明治28年/一葉23歳)は22歳の青年が東京での恋心をおさえ、
慈雲寺のある大藤村にへ帰郷する物語です。
「我が養家は大藤村の中荻原とて、見渡す限りは天目山大菩薩峠の峰々垣をつくりて西南に聳ゆる白妙の富士の峰はをしみて面影を示さねども、冬の雪下ろしは遠慮なく身を切る寒さに・・・」
小説の舞台を説明しています。
 
私と家内はこの案内にも誘われて、大藤村の慈雲寺に登りました。
 
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    右側が一葉の道、桃畑の中に通っています。石仏は庚申塔、二猿、四臂(腕)の青面金剛です。     (一般に六臂が多い)
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桃畑は石垣が積まれて、その中をクネクネ道が通じています。
慈雲寺への道は「一葉の道」と案内がなされているので、良く解ります。
石垣の間に、路傍に、道祖神や庚申塔が目立ちます。
もう、農閑期なのでしょう・・・、人影はありません。
畑に放置されたカボチャも寂しそうです。
 
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           畑に忘れられた(?)カボチャ、そういえばハロウィンの準備も始める季節です。
 
 
慈雲寺の門前には真新しい「樋口一葉像」が出迎えてくれます。
座机に正座して、書物を読んでいます。
此処でも一葉像は若くて聡明で、慎ましやかな姿です。
 
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                                 慈雲寺門前の樋口一葉像
 
 
樋口なつ(一葉)は明治5年(1872)、父「樋口氏則」、「古屋瀧子(多喜)」の間に生まれました。
氏則と多喜は雲寺の寺子屋で知り合い、学び、そして愛し合います。
しかし、二人は周囲の反対に遭い、安政4年(1857)手と手を握り合って江戸に出奔しました。
そうして明治5年(1872)一葉が産まれたのでした。
 
しかし、一葉は一度も大藤村を訪れたことはありませんでした。
貧乏暮らしの中で父母のルーツを訪問する余裕も無かったのでしょう。
でも、大藤村の美しさは両親から良く聞かされていたし・・・・、その恋愛にも共感したことでしょう。
両親の話が大藤村の描写になりました。
「にごりえ」も「たけくらべ」も舞台は東京の下町ですが、主人公は若かった両親の姿だったようです。
 
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                                        本前の糸桜の姿
 
慈雲寺は恵林寺(5Kほど丘を下った位置になります)と同じ、夢想疎石の開基です。
江戸時代末期、白巌和尚は本堂を使って寺子屋を始めます。
寺子屋で一葉の両親は知り合い…、相思相愛になり…、江戸に出奔したのでした。
 
本堂の前には有名な糸桜があります。
幹回りは3mを超え、樹高は15m、枝張は東西20m南北18mに及ぶそうです。
今は黄葉しはじめたところですが、余りの大きさと姿の良さで唖然とします。
花が咲けば、大振袖のお嬢さんが”私綺麗でしょう”見せつける様な艶やかさでしょう。
来年は必ず来たいものだ、朝早く、夜桜も見たい・・・・、思いが深まります。
 
一葉の両親も、本堂から外を眺めてこの糸桜に見惚れていたことでしょう。
現在の本堂は元禄4年(1691)に再建され、その時に糸桜を植えたと記録されているそうです。
ですから樹齢は330年余りということになるのでしょう。
 
大藤村の村民や慈雲寺の人々が大切にして育ててきたものでしょう。
大菩薩山脈の山麓に秀麗な糸桜が守られてきた…、ありがたいと思います。
一葉さんにもこの見事な糸桜を見せてあげたかった…、誰しもが思うことでしょう。
 
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      南フルーツ農園のHPから転載させていただきました。
      慈雲寺の糸桜は花の色が濃いのも特徴です。
 
 
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藤袴の開花が遅れたばかりに・・・・、見そびれた浅黄マダラ

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10月に入って、ようやく藤袴の花が咲き出しました。
私は葉山の「新善光寺」、山之内の「東慶寺」に出かけ、藤袴の花の前で待ちます。
花も良いのですが、「浅黄マダラ」が花に集まるのです。
白い藤袴、赤い藤袴に浅黄色の蝶が舞うさまは、最高に美的です。
幾ら待っても、何時来ても今年は浅黄マダラは姿を見せません。
寄って来るのは「蛍蛾」ばかりです。
今年は如何したのだろうか? 考えます。
 
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   赤い藤袴に寄ってきた蛍蛾。榊の木に卵が産みつけられるので、東慶寺には良く見られます。蛍    蛾の名は紅い頭が蛍のように見えるからでしょう。白線の入った真っ黒いマント、赤い頭が「ゴール   デンバット」のように見えます。
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     浅黄マダラは藤袴の花が大好きです。花蜜を充分吸って、2000キロ先の台湾辺りを目指して旅     に出ます。写真は昨年撮影しました。東慶寺の柴垣の前です。
 
私は思い出しました。
秋の彼岸も最後の9月24日でした。
好天気に恵まれて稲村ケ崎に行きました。
10人ばかりのバードウォッチャーが双眼鏡をかざして、大空を見詰めています。
各人声を上げて数えています。
15、20、数は膨らんでいます。
 
”今日はどうですか?” 声をかけました。
”今日は天気が良すぎて、上昇気流が良すぎて・・・・サシバ(小型の鷹)は遥か上空ですよ”
バードウォッチャーは答えます。
 
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 稲村ケ崎でサシバ(鷹)を見送るバードウォッチャー達。この岬で日本を離れ一路台湾を目指します。
 右側の銅像は「逗子開成中学遭難の碑」です。
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                            稲村ケ崎から七里ヶ浜を見渡す。
 
浅黄マダラもサシバも湘南から遥か南、台湾辺りを目指して”渡り”に旅立つのです。
屹度今年も浅黄マダラは彼岸の頃に、サシバと一緒に旅立ったのでしょう。
私が見そびれただけのことなのでした。
藤袴の咲くのが遅すぎた・・・・、だけのことなのです。
 
藤袴は温度が下がると咲き出すのでしょう。
今年の秋はなかなか気温が下がらなかったので、咲くのが遅れただけの事、
一方、サシバも浅黄マダラも、日照時間が短くなると、渡りに飛び立つのでしょう。
両者の行動基準が違っているので、
今年は「藤袴に群れる浅黄マダラ」を見られなかった・・・・・、のでしょう。
 
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              浅黄マダラには鱗粉がありません、姿かたちも色も爽やかな青春の色です。
              浅黄色は新撰組の羽織の色です。薄い黄色ではありません。
 
浅黄マダラは春になると台湾辺りから日本に戻ってきます。
そして標高1000m前後の高原で夏を過ごします。
そして秋になると、平地に下りて、十分花蜜を吸って体力を養い旅立つのです。
格好の上昇気流を探して、稲村ケ崎や葉山の長者岬から離陸するのです。
 
今年は肝心の藤袴も薊も咲くのが遅れたので・・・・、十分体力が養われたのか?
少し心配です。
でも、来年は・・・・、屹度姿を見せてくれることでしょう。
藤袴を頼りにしないで・・・・・、彼岸になったら探してみる事にしましょう。
 
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                      浅黄マダラは羽ばたかないでフワッと飛びます。
                      飛ぶ姿が優雅で素晴らしいのです。
 
 
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