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赤レンガ倉庫のオクトーバーフェスト

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10月9日(火)横浜元町を楽しんで歩きました。
秋風に誘われてみなとみらいの赤レンガ倉庫に向かいました。
「オクトバーフェストが行われているから、見物しよう」 (10月14日まで)
私は今年の5月、此処での「ビール祭り」を知りました。
私は音楽会前の時間潰しでしたし、胃の手術直前でしたので・・・・・、
楽しそうな人達を横目で見て、「秋になったら行きたい!」と思っていました。
    その時のことは http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46255040.htmlに書きました。
 
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     オクトバーフェスト会場、昼下がりですから、屋外のお客さんは疎らですが、テント内は満席で、     熱気に満ちています。飾り絵も本場そのままだそうです。
 
もう40年も前の事です。
私は長銀の札幌支店に勤務していました。
8月の定期異動で1年後輩のS君が赴任してきました。
仕事にも遊びにも大変な猛者で、ある日ライオンサッポロ店に私達融資課の全員を招待してくれました。
    (ライオン:サッポロビール直営のビアーホール、銀座ライオンは有名)
丁度今頃の事でした。
”何で3年目の若手が先輩諸氏を招待してくれるのか?” 怪訝に思いましたが・・・、
奢ってくれるとは有り難い…、皆で行きました。
そこで初めてオクトバーフェストの盛り上がりを知りました。
隣同士で肩を組んで「乾杯の歌」を歌って、ジョッキーを飲み干す、楽しさを知りました。
 
ビアホールの支配人が挨拶に来ました。
S君は「ビール飲みコンテスト」の優勝者で、その賞品が「職場の仲間を招待」なのでした。
同君は京大ラクビー部出身でした。
        (ビール飲みコンテストは大ジョッキをストローで早く飲む競技でした)
 
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      屋外のビール売場、此方は夜にならないと盛り上がらないようです。
      ジャーマンポテト、フランクフルトソーセージとルーム貝が売れ筋のおつまみです。
      枝豆も用意されていますが、注文するのは場違いのようです。
 
赤レンガ倉庫の「オクトバーフェスト」は今年で10年目、でも今年は5月にも実施したので今回が第11回になります。もう、本場ミュンヘンの「ビール祭り」さながら(?)と定着したのでしょう。
事務局の案内パンフによると、ビール祭りの歴史は200年余りだそうです。
『日本ビール産業発祥の横浜で、秋の潮風が吹く絶好のロケーションの中、本場さながらの味と雰囲気をお楽しみください!』 誘ってくれています。
お隣の川崎市では”ハロウィン”で、横浜は”オクトバーフェスト”で地域おこしです。
 
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   盛り上がるテント内。中央にステージがあって生バンドが「乾杯の歌」を演奏します。
   お客さんは場内で肩を組んで練り歩きます。
 
 
ドイツ直送の公式ビールのほか地ビールを含めて80種類ものビールが揃っているそうです。
そして午後1時、「WOHO & KALENDAR BAND」の生演奏が始まりました。
私と同世代の親爺4人とミニスカートのお嬢さん5人のバンドです。
お嬢さんはトランペットを親爺たちはトロンボーンやアコーディオンを演奏します。
そして、4人ほどの日本女性が応援や司会に活躍です。
”アイン フローズィト アイン フローズィト デァ ゲミュートリッヒカイト”
皆で歓び楽しもう・・、恥かしらずに声を出して・・・、
ビールテント内は一気に熱気です。
 
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                                              親爺と娘のバンド
 
 
西洋では、11月になればカトリックでは諸聖人の日が始まります。
10月はキリスト教以前の自然崇拝・原始宗教の月なのでしょう。
ヨーロッパの民俗行事、収穫祭で盛り上がるのがハロウィンであり、
オクトバーフェストのように想像します。
日本でいえば…、収穫祭としては新嘗祭や秋祭りが相当し、飲んで楽しみ、
連帯や絆を強めるといった意味では「どぶろく祭」が相当するのでしょう。
ドイツ人がビールを愛して大切にしてきたように…、
日本ではどの家でも、集落でもどぶろくを醸造していました。
ところが税収確保のために国家は酒の醸造を認可制にし、どぶろくの醸造を禁じました。
「どぶろくは文化であり、その醸造禁止は地域文化の破壊につながる」訴訟が起こりましたが、
司法は国の税収を優先します。
庚申講で飲まれていたどぶろくは無くなり、庚申講も村の連帯も弱くなります。
近年「どぶろく特区」が認められましたが…、どぶろくを飲んで連帯を確かめよう・・・、
そんな共同体は崩れてしまっていました。
”どぶろく特区で地域起こしが成功した・・・” そんな話は聞いたことがありません。
 
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                                         テント内の配置とメニュー
 
そこで、横浜ではオクトバーフェスト、川崎ではハロウィン、を始めました。
収穫祭の精神は置いといて、商業祭として町おこしです。
如何にも日本的ですが・・・、それでも楽しいから良しでしょう。
 
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                   街中に溢れるハロウィン。キリスト教以前の収穫祭を思わせます。
 
ミニスカートのドイツ娘を見ていて思いました。
「何であんなに可愛い女性が、中年になると…、ビア樽のようになってしまうんだ!」
ビールを注いでくれる民族服を着たおばさんを見て思いました。
 
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                             ドイツの公認ビールば次々に持ち込まれます。
 
 
 
 
 
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勝沼ブドウ祭の賑わい

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昨日は横浜の赤レンガ倉庫で行われている「オクトーバーフェスト」を案内しました。
収穫祭は何処でも、何であれ嬉しいものです。
今日は日本最大のワイナリー勝沼の「ブドウ祭」を案内しましょう。
 
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   旧甲州街道に面した葡萄農家の庭先。 葡萄棚一杯に垂れた葡萄が見事です。
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                             葡萄園の店先もブドウ祭モードです。
 
勝沼町の旧甲州街道は、祭り当日の歩行者専用道路になってしまいます。(12時~3時)
そして、勝沼中央公園が祭のメイン会場になります。
会場では舞台が出来て、郷土芸能を披露し、場内を神輿が練って賑わいます。
私が会場に着いたのは3時前、名物のホウトウもイノシシ汁(500円)もは売り切れてしまっていました。
 
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              勝沼中央公園がブドウ祭のメイン会場です。お嬢さんはワイン娘です。
 
何といっても勝沼は日本一のワイナリーです。
30余りのワイナリーが競って出店して、冷えたワインを御馳走してくれます。
会場入り口でワイグラスを求めて(500円)、後は好みのワインを飲むことが出来ます。
ワイナリーの社員や、可愛いワイイン娘が注いでくれます。
呑兵衛はビニールシートを敷いて、一日ワインを飲んでいるようです。
 
私はドライバーですから・・・・、ワインは飲めません。
でも、一口舐めて見たくなります。
でも、ワイングラスを求めたら・・・・、屹度もっと、もっと飲みたくなるでしょう。
30のテントで、各テント10種類のワインを飲めば・・・・・、300杯のワインを飲むことになります。
一晩泊まって、花火を見て帰らなくてはならなくなってしまいます。
それに、隣で家内がチェックしています。
ブドウ祭は宿泊予定か、JRで来なくてはいけないようです。
 
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     ワイングラスを求めたら、後は好みのワインを何杯でも飲むことが出来ます。
     「飲酒運転根絶」の幟が目立ちます。
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                          ブドウジュースのサービス。でも、長蛇の列でした。
 
 
ブドウジュースのサービスもあります。
子供やドライバーはブドウジュースを飲んで…、満足です。
 
看板には第59回と書かれています。
ということは、戦後の昭和20年代に始まったのでしょう。
でも、戦後暫くはワインと言えば「赤玉ポートワイン」程度しかなかったのですから・・・、
ワインが日本人に馴染んだのは私が入社した頃、大阪万博(1970年)の頃でしょう。
その後、千円ワインがブームになり(1975年)、ボジョレーヌーボが人気になりました。(1987年)
昼下がりになると電話がかかってきて”ボジョレー入ったわよ、今晩来てね!”誘われたものでした。
”面倒なものが流行りだしたもんだ” 思いました。
最近は赤ワインが体に良い…、というので話題になったりしましたが・・・、
もう、ワインは日本人の嗜好に確固たる位置を占めているようです。
輸入業者の功績、そして勝沼等の国産ワイナリーの頑張りの成果でしょう。
 
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   此方は大日影トンネルのワイン貯蔵庫、手前が個人利用、奥にワイナリーが法人利用しています。
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   ワイナリーにはメルシャンやマンズワインのような大手から、
   地場伝統の登録有形文化財ワイナリーも多くあります。滅多に飲めないワインも戴けます。
 
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                                   大手のワイナリーでは試飲が出来ます。
 
4時前から大善寺さんでは護摩法要が始まり、その聖なる火が7時に鳥居焼に点火され、
花火が打ちあがり、ワイン祭りは夜の部に移るそうです。
 
勝沼のブドウが何時から始まったのか? 気になります。
 
大善寺の寺伝では養老2年(712年)行基菩薩が柏尾山で修業します。
夢に薬師如来が出現、手に葡萄を持って居られました。
行基菩薩は村人に栽培を勧めます、
”法薬になる・・・”   それが勝沼葡萄の起源だと伝えています。
薬師如来は左手の掌に葡萄を一房載せておいでです。
同像は秘仏で5年に一度御開帳です。次回は来年のようです。
 
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大善寺のHPを転載、掌に葡萄を載せています。
山梨博物館の展示では葡萄を除いていたように記憶しています。葡萄は後世の補作でしょう。
 
それが事実としても、大善寺さんの薬師如来は平安時代前半の作で、
行基菩薩よりは100年程度は後世の作です。
薬師如来の葡萄が行基菩薩が始まりだ…、というのは信仰の世界の話で、
事実はもっと、もっと後世の事でしょう。
葡萄自体が薬師如来の造像より遥かに遅く、後世に後付されたとも考えます。
法薬としての葡萄は鎌倉時代位までは遡る事が出来るのでしょう。
でも、現代のように「商品作物」としての勝沼葡萄は間違いなく江戸時代からでしょう。
というのは、芭蕉の句に以下があります。
 
 勝沼や 馬子も葡萄を食ひながら 芭蕉
 
江戸時代、勝沼の葡萄は江戸の町でも人気であったのでしょう。
笹子峠を通る馬子が葡萄を食べ食べ…、馬の手綱を曳いていたのでした。
 
でも、江戸時代の甲州ブドウは日本種であって、今のヨーロッパ種とは違います。
現代はあれこれ、沢山の種が開発され…、美味しい事驚きです。
 
美味しい・・、美味しい喜んで食べていると・・・、また血糖値が上がってしまいそうです。
行基菩薩の法薬も食べ過ぎれば体に毒になってしまいます。
 
気をつけながら・・、戴くことにしましょう。
 
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       試食をすれば、どれも美味しい…、迷います。
       これほど種の開発が進んだ植物は他にないものでしょう。キリスト様も驚かれる事でしょう。
 
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明治の地方銀行店舗(勝沼田中銀行)

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昨日は勝沼のワイン祭りの賑わいを報告しました。
その歩行者天国の旧甲州街道に「旧田中銀行」の建築群があります。(国の登録有形文化財)
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                        和洋が入り混じった疑似西洋建築が特徴です。
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            道路向かいが田中家の本家、何故か大きなこけしが置かれていました。
 
甲州街道の最大の難所「笹子峠」を越えると宿場町「勝沼」に出ます。
未だ宿場町だった時代の面影を残した家並みです。
その中央少し大善寺寄りに「旧田中銀行」があって、現在は博物館として開放され、
日本の近代化資産として、明治から大正時代の地方銀行の姿を示しています。
そしてボランタリーの叔母さんが熱心に説明してくださります。
 
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   左がレンガ蔵、重要書類を納める金庫でした。煉瓦は勝沼で焼いたそうです。奥は繭を納めた倉庫
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                                      繭を納めた倉庫 
 
何といっても疑似洋風建築が目を惹きます。
明治31年新宿から八王子まで通じていた甲武鉄道(現中央本線)を、
甲府まで延伸させることになりなりました。
その体制整備のため勝沼の名士「田中英作」は「勝沼郵便電信」の所長になり、
その局舎を建築します。
当時甲府には洋風建築の棟梁「松木輝殷」が居ました、松木に発注します。
松木輝殷は甲府で藤村式建築と呼ばれる疑似洋風建築を建てました。
県令の藤村紫朗が学校(旧睦沢小学校)や博物館(現在明治村にある)等に建てさせたので、
藤村式建築と呼ばれる、「甲府スタイルの疑似洋風建築」です。
 
先ず目を惹くのが鬼瓦の載った瓦屋根です。
外壁は白い漆喰で縞模様が描かれています。車寄せの八角の柱には鑿で矢羽の装飾が施されています。建物二階には大きなベランダがあって、窓はロメオとジュリエットのガラス窓です。
田中と書かれた白いフェンスも現代的です。
完成直後には明治天皇が行在所(休憩所)に使われたそうです。
 
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           ワンルームの1階、右奥神棚の下が頭取の執務コーナー。蓄音機の前に簡単なソフ           ァーが置かれています。カメラの手前に応接セットが置かれています。右のカウンター           で入出金手続きをしたのでしょうか?
 
大正9年、田中家は山梨田中銀行を設立し、この局舎を銀行社屋として改修します。
同時に重要書類(借金証書など)の保管庫として煉瓦倉庫、繭蔵を建築します。
主な融資は生糸の生産資金であり、農家に資金を貸出し、出来た繭を貯蔵する倉庫が必要だったのでした。銀行建物は建坪20坪程度の小さなものですが、繭蔵は巨大です。
銀行は同時に生糸商社であったのでしょう。
 
ボランタリーのガイドさんに「ワインの仕込み資金を融資していたのではないか?」
尋ねると、生糸資金であったとのこと・・・、
ワインは貯蔵する期間が長いので必要な資金も多かったのでしょうが・・・、
ワインを作る人は資金があって、銀行に借金する必要は無かったのかもしれません。
少なくてもワイン実物を担保に取る事は無かったのでしょう。
 
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     二階は3室あり、2室が和室、1室が書庫です。調度は北白川宮の従者が使ったもの。
 
田中家は現在の富士急会長「堀内光雄」氏の母方の実家だそうです。
第二次世界大戦中は北白川宮が疎開しました。
二階はその侍従の泊まる部屋に使われていたそうです。
葵の紋所のついた桐箪笥が目につきますし、1階のトイレが青絵だったり、
一点豪華な備品が目につきます。
 
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                         青絵陶器の便器が設置されたトイレ
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            玉音放送を聞いたというラジオ、写真は勝沼宿の街並み
 
応接セットの前には古いラジオが置かれています。
「終戦の玉音放送はこのラジオで聞いたのでした」
「この蓄音機は・・・」ガイドさんが説明して下さります。
「このデスクは、今は私が使っていますが・・・・、昔は頭取の事務机だったのですよ」
言われると、なるほど、思います。
頭取はタイプライターも使える能吏だったようです。
 
銀行建物というと東京駅を設計した辰野金吾の日本銀行(重文)が人気です。
三井本館、横浜正金銀行、秋田銀行、日銀京都支店など重要文化財の指定を受けた建物は数多くあります。何れも重厚長大な建物です。
旧田中銀行は小さくても、何から何まで・・・、働く人の姿が見える様な建物です。
 
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    現役で使われている頭取の事務机、机上が散らかっているのは「頭取は何から何まで働いた」その説明     のためかもしれません。出納長の横に古いタイプライターが置かれています。
 
 
 
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秩父往還道「放光寺」の大文字草

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中山道熊谷宿から秩父往還道が分岐します。
荒川に沿って長瀞、秩父を経て秩父三峰神社の麓を経て、大菩薩峠を超えます。
今は「雁坂トンネル」を通りますので、驚くほど簡単に甲斐の国に出られます。
塩山で秩父往還道は甲州街道に合流します。
 
秩父往還道を見下ろす高台に二つの古刹があります。
一つが夢窓 疎石が開いた「恵林寺」です。
もう一つが恵林寺のお隣にある「放光寺」です。
恵林寺は大型バスが入っていつも参詣客で賑わっていますが、
放光寺は閑静で、自然豊かなお寺です。
甲斐源氏「神羅三郎義光」に遡る、由緒のあるお寺です。
日本最古の天弓愛染明王をはじめ、古仏が祀られています。
  仏像は以下に書きました(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46711088.html)
 
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         放光寺総門、真言宗のお寺さんです。(曼荼羅扁額が架かっています)
         山門への道は萩が埋めています。
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      9間もある美しい放光寺の本堂。左側に桂の木(黄葉している)があって、
      その奥に見えるお堂が愛染堂です。
 
ガイドブックに「放光寺は花木の美しいお寺です」と紹介されていました。
総門から本堂まで一直線の参道です。
右側の土手はずっと萩が茂っています。
生憎萩の花はもうおしまいのようです。
「また、来年おこしなさい」言われているような気がします。
参道の左側は桜です。
 
山門を潜ると金木犀の芳香に包まれます。
何処に金木犀が咲いているのか、辺りを見回しますが中々見つかりません。
実は金木犀は頭上で咲いているのです。
一般に金木犀は精々4m位の樹高にしかならない…、思っていたのは間違いで、10m近い高さです。
その大木に一斉に金の花が咲いています。
桂花酒にすれば、どの位取れるか…、気が遠くなるほどのお酒に香りを注げそうです。
   (中国では金木犀の事を桂と呼びます)
 
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                               山門を潜ると巨大な金木犀の脇に出ます。
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               金木犀は愛染堂の脇にもあって、お堂を見下ろして、本堂の甍の高さです。
 
拝観をお願いしに庫裏に向かいます。
庫裏の入口には花梨の木があって、地面にゴロゴロ花梨の実が転がっています。
花梨の実も良い香りがします。
これも、お酒に香りを移して楽しめます。
秋の放光寺は芳香に包まれます。
 
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庫裏の脇に溝があります。
本堂の裏から流れる水を庭を通して、笛吹川に注がせる・・・、そんな溝のようです。
溝は1mにも満たず、跨げる幅です。
でも、溝の両岸はまるで大河の盆景のように工夫されています。
秋の山野草が植栽されていて…、見ているだけで楽しくなります。
参詣客に「良くお越しになられました・・・」言っているようです。
 
そんな山野草の中に「大文字草」がありました。
赤い大文字草、白い大文字草、仲よく植えられています。
清流と砂質の土壌が大文字草には最適なのでしょう。
株は大きく育って、楚々とした山野草のイメージを超えています。
大株に成長しています。
 
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良く見ると葉っぱは虫に食われています。
何ていう蝶の幼虫なのか私には解りませんが、好んで食べる青虫がいるようです。
お寺は青虫を取り除く…、そんな殺生はしないのでしょう。
大文字草の花は咲き放題、虫は食い放題です。
序に言えば”自然は仕放題”の放光寺です。
 
鎌倉でも東慶寺の境内には大文字草が咲きます。
5月に入ったころ、雪ノ下の咲くころです。(大文字草は雪ノ下の仲間です)
でも、秋には咲かなかったような気がします。
出てこられた美しい大黒さん(お寺の奥様)に尋ねました。
「大文字草は秋にも咲くんですね?」
大黒さんは笑顔で教えてくださいます。
「此処では梅雨入りの頃と、今頃二度咲くんですよ・・・」
 
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              庫裏の梁組、神棚と手前に金魚の弥次郎兵衛が蔓下がっていました。
 
 
放光寺は仏像群も素晴らしいのですが、何より山野草や花木が魅力の…、いいお寺さんです。
秩父往還道らしい、美しいお寺です。
来年の春、桜の季節には再訪することにしましょう。
近くの慈雲寺にも詣でましょう。
 
 
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ハマトラから40年余り、元町の昨今

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TVをつけておいたら、ドンクのパンを放映し始めました。
”美味しいパンを食べたいな!” 思いだし、家内と横浜の元町に出かけました。
 
私達が卒業する頃、全国的に「ハマトラ/横浜のトラディショナル」が流行りでした。
ハマトラは溌剌として、上品で、清楚なお嬢様的なファッションで、
当時の若い女性の圧倒的な支持を得たのでした。
ハマトラブームの発信地が横浜の元町でした。
元町はフエリス女学院をはじめ女学生のお膝元で、良家の子女が居た事、
そして、明治時代以来のクラフトマンが軒を連ねていたことがハマトラを支えたのでした。
クラフトマンがハマトラの商品を作っていたのでした。
女性たちは「フクゾー」のトレーナーを着て、「ミハマ」のローヒールを履いて、「キタムラ」のバックを抱えていました。
それらは何れもクラフトマンのスピリット溢れる元町の老舗でありました。
 
横浜の山の手には外交官や商社マン、そして西洋人が多く住んでいました。
その丘の麓の商店街にクラフトマンが住みついて、彼らの衣食住の注文に応じていたのでした。
職人は「パン屋さん/ウチキパン」「レストラン/霧笛楼」「家具屋さん/松下信平商店」等など
多岐にわたっていました。
ですから、元町には
”手作りで、良質な、使いやすい(美味しい)、衣食住のグッズ(サービス)が揃っている” 
そんなブランドイメージが出来ています。
 
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       ハマトラの必須アイテム「トレーナーのフクゾー」、ベンチに老夫婦が座っていました。
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やがてハマトラのブームは去ってしまいます。
横浜や湘南の商店街は横浜駅近辺の商業集積に圧倒され始めます。
浜っ子には”ハレ”の場であった伊勢佐木町も廃れ始めます。
ユニクロに代表される「中国量産品」が人々に受けます。
元町の街も苦戦を迫られます。
 
今元町の表通りには空き家こそありませんが、縮小した老舗が目につきます。
お洋菓子店の二階は喫茶室で、ケーキセットを注文できたはずだったが・・・、
今は閉鎖されているようです。
歩道にはベンチが置かれて西洋人の老夫婦が座っています。
”昔はお店でケーキを戴けたのに…、今日はベンチで戴くか!”
そんなことを言っているのでしょう。
頭上には百日紅の花が未だ咲いていました。
 
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   元町仲通り、近年急速に変化したようです。マンションに小洒落たレストランが目立ちます。
   昔目立った「職人の仕事場」は目につかなくなりました。
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                元町仲通り、バーガーショップのショーウィンドーを見る女学生。
 
元町の裏通りは今「クラフトマンシップストリート」と名を改めています。
元町仲通り、代官坂通り、水屋敷通り、汐汲み坂通り、本牧通りの商店が「商工組合振興法」に基づいて振興組合を作ってエリア全体の整備事業に乗り出したのでした。
振興法にのっとれば、一般住人も、大企業(銀行の支店など)も、みんなが参加できるのでした。
 
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                      元町仲通りの老舗フランス料理レストラン「霧笛楼」
 
「今も元町は元気か?」
尋ねられれば「元町は変わりつつある・・・」と答える他ないと思います。
と言うのは・・・・、畳屋や家具や、表具や、テーラーなどが並んでいた元町仲通りにそれらのお店は無くなったか・・・・、目立たなくなってしまいました。
それに代わって新たなレストランやバガーショップが進出してきています。
クラフトマンは商売を諦めて、店舗のオーナーになってしまったのかもしれません。
夜なべして仕事をするより、注文通りにお店を作って貸した方が利口だ…、考えているのでしょう。
お店を改造したお米屋さんは、店先で「お結び」を食べさせ始めました。
 
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                         お米屋さんは「お結びレストラン」を併営しはじめました
 
私達はそんな仲通のベーカリーレストラン「Cafe Four」に入りました。
写真のように好きなパン三つを選んで、スープ、コーヒー、温野菜サラダのセットで1,050円です。
噛めば噛むほどに味の出る、パンでした。
これが天然酵母の味だったかな?
思い出しました。
 
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   ベーカリーレストラン「Cafe Four」のランチセット1050円、こんなのが流行りです。
 
 
家内と話しました。
”もうじき「ルビー婚(40年)」、新婚旅行で着たお揃いの紺ブレは未だありますよ”
”まだ着れるかな? 私は手術であの頃の体重に戻ったけれど?”
”シッカリしたブレザーでしたから・・・、大丈夫ですよ”
”それじゃ、箪笥の奥から紺ブレ出してくるか・・・。”
 
ハマトラを支えた家内たちが元町に戻って来ることを期待します。
そして、若いお嬢さんに受けた元町のクラフトマン精神が、
再び時間と余裕を持った初老の世代に尽くしてくれる事を期待します。
 
 
 
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山門不幸「浄智寺」

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今年の8月14日浄智寺住職の朝比奈宗泉氏が亡くなられました。
浄智寺の門前には白地の板に「山門不幸」(当寺の住職が亡くなりました)と書かれました。
10月15日門前を通ると門の柱に提灯が吊り下がっていました。
いよいよ、本葬なのだな・・・・、思いながら石段を登ってみました。
 
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                     浄智寺の総門前に「山門不幸」と案内がなされていました。
 
もう10年も前の事でした。
浄智寺から帰る途中、石段を登って来る老僧にすれ違いました。
私は止まって頭を垂れました。
「こんにちは、お墓参りですか?」
尋ねると、
「いや、違います。師に会いに参ります」
話されました。
昭和を代表する禅僧「朝比奈宗源」氏はこの寺の住職として亡くなられました。
だから、宗源師の墓参りされる人に良く会います。
 
55歳で若い雲水さんと一緒に修行されるのは大変だったことでしょう。
若い人に慕われるのは普通です。
でも、年上の方からも敬愛されるのは、滅多な事ではありません。
その時初めて朝比奈宗泉氏はご自身より年長者にも敬愛されているのだ・・・・、知りました。
 
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朝比奈健氏はTBSのプロデューサーとして、紀行番組「兼高かおる世界の旅」などを手がけました。
55歳で退社後、円覚寺に修行し、岳父を継いで浄智寺の住職になります。
広い見識と法話の解りやすさで・・・・、鎌倉を代表するお坊さんでした。
今年の夏肺炎をこじらせ89歳で大往生されたのでした。
そして、彼岸も終えて落ち着いた10月16日通夜、17日本葬が行われるのです。
私はその準備で慌ただしい浄智寺境内を訪れた次第でした。
 
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曇華殿前の広場に舞台を作って葬儀会場をこしらえます。
浄智寺は鎌倉五山第4位ですが、小さな曇華殿しかありません。質素です。
 
55歳までTBSで勤められた・・・、此処までは私と似たものです。
でも、その後が違います。
生家の浄智寺の住職を務められたのは、幸福な事でした。
そして、岳父に恥じない業績を納めました、
二度目の人生は輝きを増しました。
本葬は鎌倉仏教界、自治体、会社(TBS)関係、力を合わせて行われる事でしょう。
一方私は未だお墓も決められません。
羨望の思いを禁じ得ない・・・・、そんな思いがします。
 
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            浄智寺の美しい庫裏、右端の百日紅が今頃になって咲き出していました。
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      浄智寺庫裏の庭。庫裏は精進落しの会場になるのでしょう、準備も進んでいました。
 
浄智寺には本堂がありません。
石段の突き当りは(本堂のあるべき場所)は民家が建っています。
参道に面して曇華殿が建っています。三間四方の小さなお堂です。
中には「三世仏座像」(阿弥陀仏、釈迦如来、弥勒菩薩)が祀られています。
その仏像をカーテンで隠して、祭壇を作りました。
中央にご遺骨、ご位牌、ご遺影を置いて、葬儀会場の準備が進んでゆきます。
 
曇華殿前の庭に舞台を設営して、その上で沢山の僧侶がお経を読むのでしょう。
本葬の喪主は長男の恵温氏だそうです。
導師は円覚寺が務められるのでしょうか?(それとも建長寺?)
 
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綺麗に掃除されて現れた大岩、「やぐら」が現れています。
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秋の陽射しを浴びて眠ったような如意輪様
 
私は庫裏に回ります。
お庭には秋明菊が盛りです。
夏に花を着けていなかった…老いた百日紅でした。
葬儀で思い出したかのように、今頃になって花を咲かせています。
何時もは草が生い茂っている墓地の大岩も、
その麓のやぐら(横穴墓)も綺麗にお掃除されて陽が当たっています。
石仏も秋の陽射しを受けて眠ってしまったように…、穏やかな表情です。
屹度宗泉氏も穏やかに逝った事でしょう。
89歳なら…、お目出度いお葬式です。
 
私は、18日は親友と軽井沢に行く約束です。
お焼香は出来ません。
ご遺影に手をあわせて山を下りました。
拝観受付で訊いてみました。
”宗泉氏のご遺喝は披露されていないようですが?”
”私には解りませんが…、本葬で披露されるのではないですか!”
   遺喝:禅僧が死に直面して残す「喝/教え」恵林寺の快川紹喜のそれが有名です。
       「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」
 
それでは、ニュースを楽しみにしておきましょう。
 
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                              茶室「龍縁荘」前にも秋明菊が盛りでした。
 
 
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円応寺の閻魔様と達磨地蔵尊

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今年の萩は総じてダメでした。
毎年秋になると鎌倉の萩をこのブログで案内していたのでしたが、宝戒寺の白萩も、海蔵寺の石段に咲く滝のような萩も咲はしたのでしたが、”咲き揃う”ことはありませんでした。
陽が短くなると咲き出す植物ですが、一気に寒くならないと咲き揃わないのかもしれません。
 
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                        円応寺の萩、10月も半ばになって咲きだした種です。
居福呂坂を通りました。
円応寺の石段の両脇に萩が咲いていました。
見事な赤紫の花が今頃咲いています。
萩の花に誘われて石段を登ってみました。
境内の宮城野萩はもう終わってしまっています。
この赤紫の萩だけが遅咲きなのです。
この萩は短日性ではなく、気温に反応して咲くのかもしれません。
近頃、急に寒くなりました。
 
お寺の受付で萩の種を訊きましたが、解らないという事です。
近年円応寺は綺麗になりました。
と言って境内を改造したのでも、庭師を入れたのでもありません。
裏山の雑木を伐採し、境内に生え放題であった雑草を刈り取っただけです。
そのおかげで、見事な竹林があった事、本堂の前、左右に金木犀が植わっていたこと等・・・・、
改めて気づかされました。
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                  円応寺、本堂前には金木犀が左右にあります。
 
本堂の左前にはお地蔵さんが三体並んでいます。
首も手足も無い・・・、達磨さんのようなお地蔵さんです。
砂岩質の石を使っている為でしょう…、風化が進んでもう姿形が判別し難くなっています。
でも、頭が比丘のようですから…、お地蔵さんには間違いないようです。
数年前ご住職に伺ったところ、元々は亀ヶ谷の切通しに祀られていたものだそうです。
6体揃っていたのですが、盗まれたので何方かが円応寺に持ち込まれたのだそうです。
私は綺麗になった境内を隅々まで見て回りました。
そうしたら、本堂の裏葉蘭の茂みの前にもう一体ありました。
都合4体が円応寺に運び込まれた事になります。
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       円応寺本堂左手前の三体のお地蔵様。何れも達磨さんのようなずんぐりしたお姿です。
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    此方が本堂裏のお地蔵さんです。境内のお掃除が行き届いたので初めて気づきました。
 
円応寺と言えば閻魔像を筆頭に十王像が揃っているので有名です。
何れも慶派の作で、閻魔像は運慶の作と言い伝えられて来ています。(胎内物から1250年作であることが解りましたが、既に運慶は没していたのでそのお弟子さんの作だということが判っています)
閻魔は冥界の王であり死者を裁く悪い事をした人には恐ろしい仏です。
でも、同時に延命地蔵尊の化身でもあると信じられてきました。
ですから、表面は恐ろしん裁判長であり、本当の姿は優しいお地蔵さんでもあるのでした。
円応寺の閻魔様のお顔は何処か笑みがあります。
”お前はどうしようもない奴だ、こんなに悪い事をして…、悪事が出尽くしたと思ったらもっと悪いことしていたのか! 本当に御し難い悪者だ!”
怒りながらも・・・・・・・・、”でも仕方ないか?”
そんな表情です。
だから人気があります。
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        本堂には閻魔を中心にした十王像と、奪衣婆像、延命地蔵尊が祀られています。
 
切通しのお地蔵さんが盗まれた。
盗んだ奴はけしからん!
では、残りのお地蔵さんは閻魔様のある円応寺に疎開させようじゃないか!
そんな経緯があって、この達磨地蔵があるのでしょう。
石段には幟が立っています。
「閻魔大王像」とは書かれていません。
「延命地蔵尊」優しい時の名前が書かれています。
 
私が夢中になって達磨地蔵尊を見ていたら…、いつの間にか三人のご婦人が参詣されていました。
ご婦人は何で年を取ると大声になるのか解りませんが…、境内に響く声で雑談されておいででした。
”私は閻魔様に長生き出来るようにお祈りしたわ!”
”ただの長生きじゃ駄目よ…、健康で長生きしなくちゃ・・・・!”
”でも・・・・、旅行できるくらいのお金も必要よね!”
”あら…、あんたは欲張りね、お月様に行けるほどお金持ちの癖にして・・・、もっとお金が欲しいの”
 
閻魔様も苦笑いをされている事でしょう。
”欲張り叔母さんめ・・・・・”
目では怒っても口元は緩んでいる・・・・、そんな閻魔様です。
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旅行ブロ
 
 
 

素晴らしい「仙石原湿原復元区」

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秋も深まりました。
一面のススキの原を見ようか! 早朝に箱根に向けて出かけました。
今日は生憎の曇り空、箱根は雨が心配されます。
 
それでも、宮ノ下富士屋ホテルでパンを買い、仙石原で食べる予定です。
途中、太閤の湯等で石仏を確認し、昼前に仙石原にある「箱根湿生花園」に入りました。
此処の群落は国の天然記念物に指定されています。
落葉広葉樹林区、ススキ草原区、高層湿原区などなどゾーンが区別され、
各々の環境に適した植物を見学する事が出来ます。
植物にはその名が小さな札に記されています。
日頃は見ない植物の名を知るのは楽しい事です。
名前はその植物の特長を言い表したり、歴史を示したりしています。
名前を覚えただけでも、植物に親しくなれた…、そんな気がしてきます。
私もこのブログを始めてから様々な植物の名を覚えました。
とりわけTENNEN810さんには沢山教えて戴きました。
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仙石原は大昔は芦ノ湖と同じ火口原湖だったそうです。
5千年も前に神山が大噴火して、一気に火砕流が湖に流れ込んで一面の草原に変じたそうです。
   (出典:ウィキペディア)
その原を源頼朝が眺めて、
「この草原を開墾したら千石の田になるだろう」言われたので「仙石原」という、
まことしやかに言い伝えられています。
湿地は千㎡余りでしょう、小さな湿原ですが春の水芭蕉やカタクリに始まり、
秋の山ラッキョウに至るまで、花が咲き続けます。
都心に近い「自然植物園」のような存在です。
加えて箱根町は様々に工夫して来園者を楽しませてくれます。
入園料7百円は入ってみればリーズナブルな価格設定でしょう。
 
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   水芭蕉のゾーンは枯草を撤去しました。お布団を剥がされた昆虫は大慌てでしょう。
   加えて雉鳩が襲ってきます。
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                          山野草の最後を締め括る「山ラッキョウ」の花
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      団栗の実で作った「トトロ」、この他団栗の実遊びが沢山紹介されています。
 
クヌギの林の足元にはブルーの綺麗な花が咲いています。
これが猛毒の「トリカブト」の花です。
確かに花の形は「兜」のようにも見えます。
西洋の悪魔のお婆さんの帽子のような形です。
「鶏の兜」すなわち「鶏冠のような花だ」・・・、そんな意味でしょう。
見れば実がなっています。
あの実を採取すれば猛毒を手に入れられるのでしょう。
誰にも、一緒の家内にも気付かれないように後ろ手で実を採取しようかな? (冗談です)
冗談も実行できそうなほど手の先に花が咲いています。
 
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                                         青い花がトリカブトです
 
湿性花園の周囲は草原です。
「湿性植物復元区」として保護されています。
この保護区にも湿性花園から回る事が出来ます。
実はこの保護区のほうがずっと広いし、美しいのです。
実に沢山の植物が共存しています。
屹度、「もちず、もたれず」良い隣人関係が出来ているのでしょう。
向こうの丘は一面のススキの原ですが、この湿地ではパラパラとしか育っていません。
生命力の旺盛なススキが独占していないのは、
何か湿地にはススキの苦手な要因が隠れているのでしょう。
 
秋の七草は皆此処に揃っています。
女郎花や藤袴は今では園芸種しか見られない昨今ですが・・・、
此処では野生種が自生しているのです。
それだけで・・・・、私は感激するほど嬉しいのです。
 
晩秋に一番目立つのが山ラッキョウです。
次いで多いのが吾亦紅です。
どちらも臙脂色系です。
赤とんぼの色でもあります。
矢張り一年の花の締めくくりは赤とんぼ色なのでしょうか?
 
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      向こうの丘が仙石原のススキ原、吾亦紅の足元に紅紫色に咲いているのが山ラッキョウ
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私達はベンチに腰かけて富士屋ホテルのパンを戴きました。
パンは噛めば噛むほど深い味わいが出てきます。
仙石原の草原と同じようなものです。
背高泡立ち草をはじめとした外来種植物が無い事も嬉しい事です。
でも、何故だろう、復元区で草取りをしている筈は無いのですが。
 
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秋スミレの花と記念碑石仏群(鎌倉鎖大師)

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コスモスの花も野分で傷んできました。
屹度今頃、奈良坂の般若寺は一面のコスモスの花で覆われて、
石仏群が花陰に眠っているのでしょう。
花が咲けば石仏はより一層美しく見えますし、
石仏も花に飾られて、美しさが際立ちます。
”花と石仏”は私の変わらないテーマです。
 
鎌倉のコスモスと言えば、常盤の円久寺が一番でした。
常葉山円久寺一帯には執権北条氏の住居がありました。
ですから北条氏は「常盤殿」とも呼ばれていました。
円久寺は同氏一族が滅亡した後に出来たお寺で、詫び寺でありました。
境内から本堂裏の墓地にかけて、一面にコスモスが咲いていました。
ところが、源氏山にトンネルが出来て鎌倉駅西口に直結するようになると、墓地を買い求める人が増えました。
年々墓地が増え続け、コスモスを追いやってしまいました。
もうコスモス寺の呼び名は過去の名です。
  (コスモス寺の面影は以下に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/3748933.html)
 
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                    北条屋敷「常盤邸」の跡、この辺りは国有地になっています。
 
今、鎌倉のコスモス寺と言えば、先ず一番は手広の「鎖大師青蓮寺」でしょう。
このお寺のご本尊鎖大師は明治維新までは鶴岡八幡宮の別当寺にあったものでした。
廃仏毀釈の嵐の中で焼かれるところ、寿福寺ご住職などの努力があって、現在青蓮寺に祀られているのです。 現在では鎌倉の人は鎖大師の名で親しんでいます。
鎌倉時代から青蓮寺のご本尊であったような感じがします。
青蓮寺と呼ぶ人は滅多にいなく、皆が鎖大師と呼んでいる真言宗別格本山です。
 
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                                  鎖大師の愛染明王を飾るコスモスの花
 
鎖大師には沢山の石仏が祀られています。
何といっても墓標に作られた石仏が多く、その略総てが無縁仏であります。
どんなに盛んな家でも300年も家が繁栄し、子孫が墓参りを続けるのは難しいのでしょう。
自生したコスモスが無縁仏を慰めています。
 
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                              コスモスが咲いた鎖大師の境内
 
コスモスの他にも沢山の花が自生していて春夏秋冬花が切れません。
でも晩秋の今頃が最も花が数が多く、同時に侘しさも深まります。
葉鶏頭は頭が重くなりすぎて地面に伏してしまっていますし、
ホトトギスも藤袴も咲き誇っています。
もう水引や秋明菊はお終いのようです。
 
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                                                 ホトトギスの花
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                                            倒れ込んでしまった葉鶏頭。
 
夏から咲き出していた「夏スミレ(トレニア)」は今が盛んです。
何で「夏スミレ」と呼んだのか? 秋に盛りになるのだから「秋スミレ」と呼べばよかったのに・・・?
思います。
多分涼しげな青紫の色が「夏」をイメージしたのでしょう。
秋の色は「赤とんぼ」の深い朱のか赤紫のようです。
 
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                                  葉鶏頭を囲んだ「夏スミレ」の花の群落
 
鎖大師の墓地の一番奥、一般墓地を見下ろす位置に歴代住職の墓があります。
更にその奥に石仏が並んでいます。
どれも江戸時代前期、元禄時代から享保時代ごろまでの作です。
下の写真の一番左の石仏(阿弥陀如来)を例にとると、右側に当寺の第16代権の大僧都○○」と名が刻まれて、右側には建立された年月(天和3年9月/1682年)施主の名が刻まれています。
ですからこれ等の石仏は墓標ではなく、
お寺の住職や阿闍梨(指導的なお坊さん)の功績を讃えて建立されたもののようです。
とりわけ禅定尼が多い事は(真ん中の如意輪観音)女性の御恩を讃えて建立されたものです。
住職が自分の母親の為に建立したのか、檀家の方が「お世話になった」と立てたのか・・・・、
いずれかでしょう。
 
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                                 歴代住職の墓の一段高い場所に石仏群があります。
 
石仏群の前は一面夏スミレが咲いています。
実は夏スミレのほかにも様々な雑草が生い茂っているのですが、鎖大師の奥様がお花がお好きで、
丁寧に草むしりをされているので・・・・、花園になっているのです。
草むしりをしなければ、夏スミレよりも背丈の高い雑草が生い茂ってしまいます。
奥様が歴代住職に感謝しながら、草むしりをしている、そのおかげです。
 
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                           年代も作風も石仏の種類も…、バラバラな石仏が並んでいます。
 
石仏の作風も様々であるし、年代がバラバラなのはそうした当お寺に功績のあった御坊様などを讃えて造仏した・・・・、そんな経緯の為でしょう。
様々な石仏を見詰めながら…、花を見る…、
私には至福の時間であり、お寺であります。
 
 
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堀辰夫が愛した追分宿の石仏

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またI君の軽井沢の別荘に親友3人で訪れました。
昨年来訪れていますのでもうあちこち行きました。
学生時代訪れた信濃追分に”堀辰夫の愛した石仏を見ようじゃないか!”
出かけました。
今にも雨が降ってきそうな晩秋の追分宿でした。
 
追分宿は中山道と北国街道の分岐にあるので”追分”の名がついています。
堀辰夫記念館(同作家の住居跡)から浅間神社を越えると、鬱蒼とした樹木の中に泉洞寺(曹洞宗)があります。その境内に堀辰夫氏の愛した石仏が佇んでいる筈です。
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                                      信濃追分宿「泉洞寺」の山門
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                         信濃追分宿「泉洞寺」の本堂
 
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    山門脇の石仏。左から如意輪観音、馬頭観音、庚申塔、そして再び馬頭観音。
    馬頭観音が多いのは追分の土地柄だからでしょう。
 
堀辰夫は明治37年(1904年)広島士族であり裁判官だった堀浜之助の嫡男として生まれます。
しかし、生来の病気がちな体質を持っていたため、大正12年(1923)追分に転地し、
以来30年亡くなるまで此処で過ごします。(昭和28年1953年/49歳)
 
堀辰夫と言えば「大和路信濃路」が代表作でしょう。
この短編の紀行文は珠玉で、特に”浄瑠璃寺の春”は高校の教科書にも載っていました。
堀辰夫は尊敬する芥川龍之介が自殺し、自らも文学の行き詰まりに苦悩していました。
車窓に辛夷の花を見ながら堀辰夫夫妻は大和路に浄瑠璃寺を訪れます。
多恵夫人が馬酔木の花房を手にします。
その美しさに堀辰夫は驚きます。
その瞬間に堀文学の新境地に気付きます。
 
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        右側が北国街道、善光寺に続きます。左が中山道です。追分はその分岐にあります。
 
そんな「大和路信濃路」の一編に「樹下」があります。
元々石仏には無頓着だった堀辰夫でしたが、大きな樹の下に佇む石仏の美しさに気付きます。
そして、毎日する散歩の行き先は泉洞寺の石仏になりました。
 
現在堀辰夫の愛した石仏は墓地の入口満天星躑躅(どうだんつつじ)の植え込みの中にあります。
この場所に移されたのでしょう。
不思議な石仏です。
その不思議さが堀辰夫を惹きつけたのでしょう。
 
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                    これが堀辰夫が愛し「樹下」に書かれた石仏です。
 
手足が異常に長い石仏です。
普通の感覚なら半跏思惟像ですから、如意輪観音菩薩か弥勒菩薩でしょう。
でも、一般に如意輪観音も弥勒菩薩も右ひざを立ち膝にして、右手で頬杖しています。
でも、この石仏は左足を立ち膝にして左手で頬杖しています。
左右が逆転しています。
左利きの仏様です。
 
更に不思議なのは大きく口を開いている事です。
まるでムンクの「叫ぶ」に似ている口です。
だから追分では「虫歯地蔵尊」として崇められているそうです。
如意輪観音も弥勒菩薩も憂いを漂わせる表情で居られるのが普通です。
 
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     如意輪観音は右足を立ち膝にし、右手で頬杖しているのが普通です。(鎌倉浄智寺)
 
軽井沢の別荘に居られた先輩O氏と昼食をとりました。
”今日は何処に行った?”話の中で、「堀辰夫の石仏」の話になりました。
話は自然と堀多恵氏に移ります。
浄瑠璃寺の春では白く長い指先で馬酔木の花房を手にした夫人でした。
O氏の奥様の話です。
「堀辰夫は肺結核を患っていました。夫人は追分の自宅から猿井沢まで買い出しに出られたそうです。体に精の付く食材などを自転車の籠に積んでいたのでしょう。電気冷蔵庫も無い時代です。加えて行きは下り坂でも帰りは上り坂で5キロはあったでしょう。」
 
私達は美しくも逞しい堀多恵夫人を想像しました。
屹度甲斐甲斐しく堀辰夫を面倒見た堀夫人は健康だったのでしょう。
夫を追分の自宅で看取りました。
そのご褒美で健康に長生きしました。
    
 
自らも作家として活躍する中、堀辰夫全集を編纂されました。(作家名は多恵子)
2010年98歳で亡くなられました。
屹度主人に報告されたことでしょう。
「貴方 樹下の石仏は満天星躑躅の植え込みの中に移されてしまいましたよ!
大きな樹の下だからお釈迦様のようで、よかったのにね・・・。」
 
それでも、もうじき満天星躑躅は真っ赤に染まる事でしょう。
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           満天星躑躅の右奥に石仏はあります。躑躅はもう紅葉しはじめています。
 
 
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分去れの地蔵尊(追分宿)

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昨日は泉洞寺の半跏思惟の石仏を案内しました。
信濃追分宿にはもう一つ有名な石仏があります。
 
北国街道と中山道の分岐点が「追分の分去れ(わかされ)」です。
江戸を出た旅人は何時しか仲良しになって一緒に旅をしたのでしょう。
3日、4日仲良しになった旅人は追分宿で「袂を分けて」別れを惜しみます。
「私は左の道に行きます。この道は桜の名所”吉野”に続きます」。
「私は右の北国街道を行きます。この道は月の名所”更級”に続きます。
それではお互いに良い旅を続けましょう。おっ達者で・・・・!」
見送りあった事でしょう。
 
小さな道祖神が祀られています。
石柱の道標が立っています。
正面には「東 二世安楽 追分町」、右側面は「従是北国街道」 左側面は「従是中山道」、そして裏面は「西于時延宝七己未年(1679)三月(延宝7年1679年)」と刻まれています。
 
石造の常夜塔が立っています。
誰の作でしょうか?
     「さらしなは右 みよし野ハ左にて 月と花とを 追分の宿」

 
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        手前から「分去れの道標。その奥の歌碑は森羅万象亭」の作。
        常夜塔があって、その奥に今日の話題の地蔵尊があります。
       大きな坐像ですから信濃追分宿のシンボルになっています。
 
常夜塔のその奥に大きな石像が座っておいでです。
信濃追分宿の観光案内には良く写っているので、ご存知の人も多い事でしょう。
首の無い、ずんぐりした感じの石仏です。
 
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安山岩の表面に苔が生えて、菊の花のような模様を描いています。
結跏趺坐した左膝を少し浮かせて、膝の上で赤ちゃんを抱いています。
昔横綱の千代の富士が祝勝会で子供を抱いた・・・、そんな印象です。
追分宿の石仏は子安地蔵尊だったのです。
 
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      石仏の背には祐唱法師が願主になって天下泰平の為に建立した…、ことが刻まれています。
 
背中に回ってみます。
大きな背中には「願主 祐唱法師」、「天下泰平・国土安全」とだけ刻まれています。
”祐唱法師が天下泰平を祈って地蔵菩薩を奉納した…”、ということが判ります。
でも、何時立てたかは解りません。また石工の名前も解りません。
 
宿場の外れに祀られている地蔵尊ですから…、
「 開運厄除 · 旅路安全」なんて書かれていそうなものですが・・・・・、
天下・国家の安泰を祈願しているとは、祐唱法師は支配階級にあったお坊さんのようです。
「祐」の字があるので、祐天寺の祐天上人の法脈を継ぐ人かな?
想像したりします。
 
天明3年8月(1783年)浅間山は大噴火し、死者は1500人に及びました。
火山灰は田畑に降り積もり天明の大飢饉を引き起こします。
千曲川の中流域塩田平では義民の騒動が頻発しました。
飢饉は先ず乳幼児を襲います。
栄養失調で、流行り病で、乳幼児の命が相次いで奪われたことでしょう。
そんな悲惨な体験から追分宿の地蔵は乳児を抱いた子安地蔵なのでしょう。
 
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             右側が北国街道、その脇にもう一体観音菩薩風の石仏が立っておいでです。
 
子安地蔵尊から10m程後ろにもう一体石仏が立っています。
大きな平らな石の上に将棋の駒のような形の石仏です。
観音菩薩(勢至菩薩?)のようです。
細かな字が刻まれていますが、拓本でも採らなければ何て書かれているのか解りません。
インターネットで調べると、郷土史家は鳥羽天皇の天永年間(1110~1112)の作だそうです。
相当古いとは思いますが…その通りなら「臼杵の石仏」「東尾の石仏(浄瑠璃寺の裏山)」と同じ時代になります。その時代に単独の石仏は彫られなかった…、私は思います。
でも、格式の高い菩薩像です。
 
この石仏の更に後ろに「馬頭観音像」が祀られています。
追分宿の馬借業者が建立したものですが・・・・、長くなるので説明は止めておきましょう。
「分去れの道路分離帯」は石造文化の展示場であります。
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                                                     追分宿「泉洞寺」の6地蔵尊
 
 
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説話に満ちた「御代田の真楽寺」

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追分宿を北国街道街道に沿って下ると次の宿は「小田井宿」です。
大名行列一行は追分宿に泊まり、
小田井宿には姫君が泊まったので「姫の宿」と呼ばれていたそうです。
明治時代に小田井周辺の4町村が合併し「御代田」の町が出来ました。
御代田町は浅間山の南山麓に広がります。
高台ですから、左に佐久、正面に小諸の街が望めます。
谷底を千曲川が流れて、対岸の崖に布引観音があります。
布引観音の上には御牧が原が広がっています。
その先が望月で、大門峠を越えれば諏訪です。
 
「御牧が」原」は天皇に献上する馬が育てられていたからその名がついていました。
御代田は「天皇に献上するお米を栽培したから・・・?」
思わせるようなネーミングです。
平成の町村合併で出来た無味乾燥した新町名に比べれば、歴史と風土を表した良い名前です。
 
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    真楽寺参道辺りから見た田園風景。段丘に田圃が連なります。
    その向こう坂を下ると小諸に出ます。向こうの山の麓が御牧が原です。
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           真楽寺参道の観音像、石段下の観音像と合わせれば33観音になります。
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              真楽寺石段下の観音像、33観音の大半が石段下に集まっています。
 
私達は御代田の真楽寺に向かいました。
この寺には美しい三重塔があります。
信濃には大法寺三重塔・安楽寺八角三重塔を(国宝)筆頭に7つもの三重塔があります。
京都の三重塔・五重塔が8基ですから奈良京都に次ぐ仏都という事が出来ます。
(京都も奈良も市街よりも遠隔地に多い)
奈良や京都は広く分散しているのに比べれば、信濃は大半が千曲川中流域に集中しています。
 
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                              真楽寺参道、石段の上のお堂は観音堂
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真楽寺三重塔( 寛延4年 1751年)
 
浅間山山麓ですから一般には水がありません。
ところが真楽寺には大量の湧水があります。
そのお蔭で一帯には美田が広がっています。
農民は一日田圃で働いて家路を辿ります。
その目線の先には三重塔が望めます。
   (真楽寺の場合は神代杉の陰で見えませんが…)
三重塔はお釈迦様の骨を祀ったお寺のシンボルです。
 
ミレーの晩鐘は一日農作業に勤しんだ農夫婦が手を組んで神に感謝する姿です。
遠くに教会の塔が見えて・・・・、鐘の音が響いてきています。
教会の塔に相当するのが三重塔です。
私達の目の前を老夫婦が通り過ぎてきました。
お爺ちゃんがトラクターのハンドルを握って、お婆ちゃんは荷台に腰掛けて、
笑顔で通り過ぎて行きました。
傍らには観音石像が並んで・・・
”一日お疲れさん・・・・”
声かけてしてくれています。
田園風景は深い安堵を与えてくれます。
 
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   農作業を終えて家路に着いた老夫婦。夫婦で一日田園で働く幸福が見て取れるようでした。
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     老夫婦の目の先に見える浅間山。向こうの鬱蒼とした杉林の中に真楽寺が佇んでいます。
     真に楽しみな生活は田園にあるようです。
 
真楽寺は寺伝によると以下のようになっています。
聖徳太子の父「用明天皇」の御世に浅間山が噴火しました。
天皇は噴火を鎮めるために真楽寺を建立しました。
だから・・・、広い境内には其処此処に菊のご紋章が光っています。
 
それが真実とすれば法隆寺よりも古いお寺ということになります。
信濃では善光寺ですから…、元善光寺より真楽寺は古いということになります。
信頼のおける「長野県の歴史散歩(山川出版)」等でどう書かれているのか?
調べましたが、創建は不詳と言ったところのようです。
 
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    真楽寺観音堂、三重塔。カメラの背後に新本堂などの伽藍が広がっています。
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    手前芭蕉句碑 「むすぶよりはや歯にしみる清水かな」。 三重塔の間に神代杉があります。
 
 
浅間山は小噴火を繰り返していますが、大被害をもたらした大噴火次の通りです。
685年(天武天皇の御世日本書紀)、1108年(平安時代/中右記)、1783年(天明の大噴火)とい500年間隔で大噴火が繰り返されています。
飛鳥時代の大噴火の前衝噴火に驚いてこの場所に祈願所を建てたのかもしれません。
大噴火の後、慰霊の為もあって真楽寺を建立したのかな? 想像してみました。
 
真楽寺の池は深いエメラルド色です。
コンコンと水が湧いて出ています。
浅間山に降った雨が伏流水になって湧き出し・・・、山麓の農家に恵みをもたらしているのです。
信濃と言えば諏訪大社でしょう。
真冬の冷え込ん日が続くと、湖面の氷が競り上がって大音響と共に割れます。
そして、山脈のように盛り上がるます。
その姿を諏訪大社の神様が渡られた跡だと信じられています。(御神渡り)
渡ったのは甲賀三郎と呼ばれる竜神です。
竜神は地下に居て、此処真楽寺の御池に出現した・・・・、信じられています。
甲賀三郎の伝説橋なのを代表する説話です。
 
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             真楽寺の池(竜神池とでも言いましょうか)。奥の龍の首の後ろに湧水があります。
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    御代田の竜神祭。毎年7月の最終土曜日に催されるそうです。長野オリンピックでも演じられた龍    舞は長さ45mに及び日本最大で、弩迫力だそうです。(真楽寺の案内板を撮影)
 
浅間山は大噴火するし、湧水は恵みをもたらします。
伝説を生むには格好の風土です。
美しい田園風景には幸福の秘訣が息づいている様に思えます。
真楽寺は風土に包まれた良いお寺さんです。
 
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   観音堂の絵馬 右は馬市風景の絵図でした。正面の絵馬は虎退治の絵馬でした。(黒い鎧を着た武士が虎   の首を押さえつけている)。そんな伝説があるのでしょう。
 
 
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小諸の朝顔小便器(夢屋の提案)

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私達は御代田(小田井宿)を出ると、北国街道の次の宿場町「小諸」に向かいました。
先ず光岳寺を参詣し、次に宿場町を散策します。
ゆっくり歩きながら、キョロ・キョロ見て回ります。
それにしても車も少なく、人影も疎らです。
良く”地方都市のシャッター通り”を聞きますが、
小諸は宿場街のお店はシャッターこそありませんが、まるで寝ているように静かです。
”これじゃあ商店は遣って行けないじゃないかしら?”
銀行員の私は心配です。
 
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    北国街道小諸の家並み。左から紙屋の「大和」、古布屋「優」、そして古美術商の「夢屋」です。
    夢屋の店先には朝顔小便器が並んでいます。朝顔の口には花が活けられています。
 
紙屋さんがありました。屋号は「大和屋」です。
創業150年、藤村もお得意様でした…、案内されています。
店頭には和紙に黒々と”メールより手紙が一番”書いて、イーゼルに貼ってありました。
その通りだ…、感心します。
 
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紙屋さんのお隣が古布屋さん、そのお隣が骨董品店です。
お店の名が「夢屋古美術」です。
なんか掘り出し物の古美術品を見つけ出せそうな名です。
私がこの店に入ったのは屋号に惹かれたからではありません。
店の前にズラッと並んだ小便器に目を奪われたからです。
 
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      今日の話題はこの朝顔小便器です。青絵磁器で草花文か山水が描かれています。
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                              古い朝顔便器にピンクのデージーが良く似合っています。
 
お店の入口左右に11基も並んでいます。
何れも朝顔と呼ばれる小便器で、現代では殆ど使われていないものです。
青絵の染付で草花文や山水が描かれています。
どれもこれもが違った絵付けであり、フォルムも少しずつ違いますから、
店主が長い時間をかけて収集したものでしょう。
小諸の古民家が取り壊される…聞くと、古い民具を買い取りにお出かけた…、
その中に小便器があったのでしょう。
 
店主は収集した小便器に花を活けました。
そして店内では「花器にどうですか?」「傘立に如何?」提案しています。
 
店主の名は?
壁に書いてあります。
草月師範「中島光枝」さんです。
 
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                          骨董屋「夢屋」の入口。 あれこれあって楽しい事です。
 
 
お名前からして女性の方なんでしょう。
女性は朝顔小便器を使うことはありません。
便器を洗うばかりでしょう。
「どうして、男性はトイレをきれいに使わないのかしら・・・!」文句を言いながら・・・。
でも、その形の美しさに心惹かれて過ごしてきたのでしょう。
古民家の取り壊しと一緒に瓦礫に化してしまうのは耐え難くて・・・、
「こんな風に使いませんか?」提案しているようです。
 
私は朝顔便器を誰が最初に考え付いたか・・・・、興味を持ちました。
 
江戸時代の後半、瀬戸で始まったそうです。
最初は陶器でしたが…、屹度尿石がくっ付いて洗うのが大変だったのでしょう。
磁器製に変わりました。
そして明治24年(1891年)濃尾地震で被害が広がると、
瀬戸や常滑では磁器製便器を大々的に売り出しました。
「新築家屋には磁器製便器をどうぞ、何時も清潔でお掃除も楽ですよ!」
そんなPR文句だったことでしょう。
 
青絵染付の便器は白磁の衛生便器に変わりました。
伊那製陶や北九州の東陶が大量生産を始めると・・・・・、青絵の便器は姿を消しました。
 
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              本来の朝顔便器の設置した姿。朝顔便器から小水が直下します。(INAXのHPから)             
 
日本人は清潔好きです。
道元禅師は食べ物の作り方から排便の作法まで事細かく指導しておいでです。
清潔を重んじる伝統はウシュレットを開発しました。
 
トイレを見ればその家の人のレベルが解る…、思います。
少なくとも世界を歩いて、トイレを見ればその国の文化のレベルが解ると思います。
夢屋が朝顔便器に愛着を寄せている事は・・・・、素晴らしい事です。
 
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                                     骨董店「夢屋」の主人は草月の師範です。
 
先人の使った生活民具に愛着を持つことは、先人を尊敬する事でもあるでしょう。
その姿勢にこそ文化の伝承があると思います。
”朝顔便器は壊せばゴミですが、使えば資源(商品)”です。
要は民具の美しさを見つける”眼”であり、使い方を工夫する事だと思います。
 
最後に朝顔小便器の横に貼られていた注意書きを並べて見ます。
これ等は多分加賀の千代女の名句
 「朝顔につるべ取られてもらひ水」  をもじったものでしょう。
千代女もあの世で苦笑いしておいでだったでしょう。
でも、昨今は殆ど見なくなりました。
 
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                                  お店の出入口は恵比須・大黒がお迎えです。
 
 急ぐとも心静かに手を添えて 外に漏らすな松茸の露
 
 
 
 朝顔の外に飛ばすな玉の露
 
 朝顔の外に飛ばすな竿の露
 
小生昨今は松茸も竿も元気が無くなってきて、外に飛ばすほどの勢いを欠いてきました。
もう見なくなった貼り紙を思い出して…、寂しく笑うばかりです。
 
そんなことは別にして、小諸の旧市街は素晴らしい空間です。
宮本輝で言えば「夢見通り」でありましょう。
主人公は草月師範の中島光枝です。
 
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                      夢屋の店先。 北国街道の突き当りに見えるのが光岳寺です。
 
 
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藤村の古井戸(小諸にて)

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小諸の宿場町には丁寧に案内がなされています。
本通りを折れれば藤村の家がある…、案内されています。
私達は案内に従って歩きます。
急に居酒屋が増えだしました。
ワタミの看板も見えます。
ワタミのあるあたりが小諸駅前なのでしょう。
 
十字路に面して小さな空間があって、ポツンと井戸があります。
手押しのポンプがあります。
私達はハンドルを押します。
屹度藤村夫人(秦冬)さんは朝晩この井戸で水汲みをしていたのでしょう。
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     この蕎麦屋さん(蕎麦七)の角を右に折れると駅前に通じます。70m程で藤村住居跡に出ます。
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藤村夫人の秦冬さん。藤村と一緒に壁に貼られてありました。
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井戸、藤村夫妻が6年間使いました。旧宅は佐久の貞祥寺に保存されています。
 
 
明治32年(1899年)27歳の藤村は小諸に下ります。
小諸で結婚し、この駅前の家に住み、駅東の懐古園近くにある「小諸義塾」で教鞭をとります。
33年には長女緑が産まれ、相次いで2人の子供が産まれます。
文壇にロマン派詩人として登場していた藤村でしたが、現実問題に対する関心が高まります。
詩人として、ロマン派文学との決別を写生文「千曲川のスケッチ」に著します。
そして「破戒」の執筆に取り掛かります。
以降、自然主義作家としてもっぱら小説の執筆に終生を費やします。
一方私生活では、3人の娘を栄養失調で相次いで失います。
このあたりの事は「家」で著します。
 
「此処に藤村が住んでいました」
事実はこの古井戸だけが記録を残しています。
唯住まい自体は佐久の貞祥寺 に保存されています。
 
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           貞祥寺の保存されている藤村の住まい。大きな住居でびっくりします。
 
井戸の脇に姫リンゴが植えられていました。
若菜集に収められた「初恋」に因んだものでしょう。
枝もたわわに小さな実が沢山なっています。
友人は戯れに姫リンゴを取って口にしました。
酸っぱい…、言いながらも全部食べてしまいました。
 
東京から小諸に下った藤村でしたが…、社会は、現実はずっと辛いものだったのでしょう。
小諸の古井戸は沢山教えてくれます。
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姫リンゴの陰に藤村夫人の写真が見えます
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若菜集のポスター
 
 
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高井鴻山と和菓子の小布施堂

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10月16日、昨夜来の雨は上がりましたが、生憎の曇り空です。
私達は朝食後真っ直ぐ小布施に向かいました。
秋になると何故か小布施に行きたくなるし、
行けないまでも、百貨店の名店コナーで小布施の和菓子を買い求めてしまいます。
秋の夜長を栗菓子を戴き、渋茶を飲んで、またお菓子を食べて・・・・・、家内と他愛無い話をする・・・、小布施の栗菓子は欠かせない”秋の夜長を過ごすアイテム”です。
 
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         小布施の栗羊羹と栗落雁、栗きんとん…、どれもこれもお茶うけには最高のお菓子です。
 
 
小布施は現代も高々一万人強の小さな町です。
でも、その空間は驚くほど美しく、居心地が良く、目も舌も鼻も・・・・・、五感を楽しませてくれます。
葛飾北斎を筆頭に、佐久間象山、久坂玄瑞、藤本鉄石等の文人墨客が訪れたのもこの空間が魅力だったのでしょう。
昔も今も「小布施は楽しい!」魅力に満ちた町なのです。
高々1万人の小さな町でしたのに。
どうしてこんなにリッチなのでしょうか?
 
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                                 小布施の桝一市村酒造(煙突のある建物)。
 
その秘密の第一はロケーションに在ります。
千曲川は信濃川上を源流に、佐久から小諸、上田を経て川中島で梓川と合流し、信濃川に合流します。物資は川で運ばれ小布施に集まりました。
小布施には商人が集まり、信濃川中流域の商都になりました。
 
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     小布施の立役者「高井鴻山」記念館、桝一市村酒造の敷地内にあります。歩道のブロックは栗
     の木を煉瓦のようにカットしたものを敷いています。
     散歩するには最高に快適です。この路地さえも「快適」さの極致にあるように思います。
 
高井鴻山(※)は商いに成功するとともに文化を大切に済ます。
  (※:宝暦年間の大商人、市村家の12代当主。市村家は桝一市村酒造や小布施堂を経営する)
悠然楼を隠宅を建立し、葛飾北斎をはじめ文人墨客を集め、文化サロンを設立します。
最近話題の小布施町立図書館「まちとしょテラソ」は、
”静かに本を読む”場所ではなく”おしゃべりの場所”だそうです。
図書館は「交流と創造を楽しむ、文化の拠点」がコンセプトだそうです。
     (NHKラジオラジオ深夜便で放送)
鴻山の伝統が今も活きているのでしょう。
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              小布施町立図書館「まちとしょテラソ」(同HPから転載)
 
私達は岩松院、淨光寺、を経て桜井丹精堂で昼食、午後は中島千波館を巡りました。
桝一市村酒造を見学し、小布施堂でお茶を戴き帰宅しました。
 
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         小布施堂の店頭風景、栗の実の暖簾が可愛いです。奥の建物が桝一市村酒造です。
 
 高井鴻山の声が聞こえるような気がしました。
「まあ、そんなに急がないで、小布施に来たからにはゆっくりしなさい。栗菓子を作りましたからゆっくり味わって、渋茶を飲んで・・・・、和菓子と緑茶の取り合わせは最高でしょう。
昨今は茶道人気ですが・・・・、和菓子の良さも忘れちゃ困りますよ。
モンブランは栗を油脂で練って作った洋菓子ですが・・・・・、
栗落雁は栗を粉に挽いて型に嵌めたもの。勿論小布施堂が考え付いた和菓子ですよ。
モンブランがお好きなのも宜しいのですが・・・、もう貴方の齢になったら和菓子の味も解ってもらわなければなりませんな。
過ぎ去る時間や季節を愛おしむ・・・、それには緑茶と和菓子を味わいながら過ごすのですよ。」
 
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     桝一市村酒造の店頭、茶色の杉玉(酒林)が吊るされています。これが緑の時は新酒を絞り始
    めました…、案内になります。杉玉は奈良の大神神社(酒の神様)の三輪山の杉にあやかった
    ものと言われます。酒造りの板絵が見えますが・・・・、江戸っ子の雰囲気があって楽しいです。
    造り酒屋ならではの風情と設えに感心します。
 
「それじゃあ、今日は家内の土産に”栗入り最中”でも求めることにしましょうか?」
最中では鴻山さんは苦笑いでしょうが、緑茶にもコーヒーにも良くあいます。
 
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                                           桝一市村酒造の中庭で
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       この日は栗ソフトはお休みでしたので…、栗のアイスクリームを戴きました。これは洋風ですが・・・。
 
 
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岩松院の北斎鳳凰図

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10月16日、小布施に入った私達は真っ直ぐ「岩松院」に向かいました。
岩松院の裏山はそのまま志賀高原に続きます。
野猿の露天風呂で有名な地獄谷温泉をはじめ名湯が続いています。
今頃は錦秋鮮やかな事でしょう。
志賀高原の西端、善光寺平に岩場が迫り出しています。
山号の由来はこの自然にあるのでしょう。
 
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                       小布施岩松院、裏山は志賀高原に続きます。名湯が並んでいます。
 
福島正則は豊臣秀吉に仕えた槍の名人でした。
関ヶ原の戦いでは東軍に組し、その功績を評価され広島藩50万石の領主になります。
しかし、広島城を無断で修理した事を理由に「信濃の国高井藩」2万石余りに改易されてしまいます。
 (高井藩は現在の須坂市、小布施町)
更に福島正則が死亡すると(1624年64歳)幕府の死体確認を経ずして火葬してしまった事を責められ、福島家は領地没収され3千石の旗本に下ります。
 
波乱万丈の生涯を終えた福島正則の霊廟が岩松院に祀られています。
私達は岩場に生えた赤松を見ながら、長閑な田舎道を歩きます。
道の一方はリンゴ畑、もう一方は葡萄畑です。
お婆ちゃんが梯子に昇ってリンゴを収穫中でした。
梯子から落ちないか…、ちょっと心配です。
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                岩松院福島正則公の霊廟。周囲にはご家来のお墓が囲んでいました。
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                         霊廟前の六地蔵、一番右は庚申塔でした。良いお顔です。
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   岩松院の本堂裏の庭、この池では春先「蝦蟇合戦」が見られます。
   一茶の句碑「やせ蛙負けるな一茶これにあり」が立っています。
 
 
何といっても岩松院を有名にしたのは本堂の天井に描かれた「八方睨みの鳳凰」が北斎の真筆であることが確認されたからでした。
従来この天井画は高井鴻山筆とされていたが、昭和47年北斎89歳の作であることが確認されました。嘉永元年(1848)になります。翌年90歳で北斎は亡くなります)。
 
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              岩松院、北斎による天井画「八方睨みの鳳凰図」、写真は広角レンズを使っているので漫
              画のようですが、実物は実に素晴らしいものです。小布施町のHPから転載。
 
岩松院は曹洞宗の寺院です。
格式を誇るわけでもなく、田舎に馴染んだ地味なお寺です。
でも、一品豪華なものがあります。
それが本堂の天井に描かれた鳳凰図です。
 
この北斎の大作が無ければ・・・・、訪れる人も無いお寺だったでしょう。
本堂に入ると案内のテープが流れます。
天井は21畳の広さ、朱、鉛丹、石黄、岩緑青、花紺青、べろ藍等の顔料を膠で溶いた絵の具で描かれています。絵の具代が150両、天井の素材は桐材で、貼られた金箔は4400枚です。
一両の価値はお米に換算すれば4万円、大工の工賃で換算すれば40万円だそうです。
お米なら600万円、工賃なら6000万円を要した事になります。
スポンサーは高井鴻山でした。
彼が北斎を江戸から招き、数多くの祭りの山車や岩松院の天井に描かせたのでした。
高井鴻山のお墓もこの岩松院にあります。
 
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                 小布施山車の天井に描かれた龍図も北斎作(北斎館HPから転載)
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        北斎による小布施山車の天井画波図。(北斎館HPから」
        「富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」の図と同じ意匠です。渦の中心から龍が出現するのでしょう。
 
北斎館には二つの山車があります。
その何れの天井にも北斎の絵が飾られています。
一つが龍で、もう一つが波です。
波は龍の出現を予兆するものでしょうから・・・・、二つとも龍の図と言えましょう。
 
神様が乗られるのが山車です…、”山車に龍を描いたので、お寺の天井には鳳凰を描こう・・・”
そんな風に考えたのかもしれません。
龍を上回りそうな弩迫力です。
 
描かれてから約200年少しの色褪せも、天井の歪みもありません。
北斎は国際的に高く評価されていますし、私達日本人の誇りでもあります。
でも、不思議な事に重文指定が一件しかありません。(肉筆の練習デッサン)
私達の好きな良寛の書も、北斎の絵も、江戸時代末期の文化は評価が低いようです。
立派な先生の意見ばかりでなく…、国民の感覚も大事にしてもらいたいものです。
勿論、岩松院の天井画も山車の天井画も…、私にとっては国宝の価値があります。
 
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                           山門裏の大黒さま、三面なの珍しい。
 
 
90歳まで生きて、死ぬ間際にこのような天井画を為しえた北斎は改めて偉大です。
私も、90歳までは相当の時間があります。
様々な意味で激励される天井画でありました。
 
岩松院を出て、細い農道を東に回ります。
約1キロ弱で「淨光寺」にたどり着けます。
不思議な事に栗の木はありません。
 
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   庫裏の前では物産を販売していました。無人販売で代金は梅酒瓶に入れます。瓶ごと盗まれる…、
   そんなことは心配ないのでしょう。男性三人は筆者の友人です。これもお寺の「おもてなし」の心でしょう。
 
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   林檎(秋映)を剥いたもの。これを食べながら次のお寺淨光寺に向かいました。
   大和路は柿を、信濃路は林檎をかじりながら歩きます。
 
 
 
 
 
 
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素晴らしい茅葺「淨光寺・薬師堂」

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小布施岩松院を出て、私達は「淨光寺」に向かいました。
淨光寺も岩松院も同じ山の裾にあります。
山の名は「雁田山」、淨光寺の山号も、高井鴻山(小布施の豪商、妖怪画でも有名)の雅号に「雁田山」です。
此処には山城があったそうでその名も「雁田山城」というのだそうです。
 
遠くから眺めると雁が両翼を広げて飛ぶ姿に見えるのでその名がついたのでしょう。
山上は最高の眺めだそうです。
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     雁田山からの眺望、麓が小布施町、信濃川を越えれば長野市、雪を戴いた山脈は北アルプスで、
     その手前が戸隠でしょうか。(写真はひらさんのハイトレッキング)
 
杉林の中に長い石段が続いています。
石段の奥に目指す薬師堂があります。
石段はゴツゴツした自然石が積み上げられて出来ています。
「歩き難そう・・・・!」直感しますが、実際に昇ると歩き易いのに驚きます。
石の上部が平らで、同じ高さなのでしょう。
京都の神護寺の石段を思い起こしました。
 
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   長い石段の先に薬師堂があります。石は固くゴツゴツしています。でも、意外に歩き易いのです。
   秘訣は石の上部が平たく横に揃っているからでしょう。
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                                                     淨光寺山門の仁王像
 
 
東京駅八重洲口から永代通りを東に進むと新大橋通りとの交差点にぶつかります。
この辺りが「茅場町」、更に東が「木場」になります。
江戸の町の「貯木場」であったのが木場で、茅を置いた場所が茅場だったのでしょう。
昔は一般に茅を屋根材にしていましたから、茅の需要が沢山ありました。
 
私の町にも茅場があって、一面ススキの原でした。
私の生家も茅葺で、汗を拭き拭き登ってきた来客は、
”涼しいですね”言いながら茅葺屋根を褒め上げてくれました。
屋根の葺き替えの時には境内一杯に新しい茅が積まれました。
屋根から古くなった茅が下されました。
見れば雨に濡れる先端は腐ってしまっていましたが、大半は瑞々しく・・・・、
まだまだ十分使えたのに・・・、勿体ないような気がしました。
古い茅は畑に敷きました。
茶畑にも、茗荷や芍薬の根元にも敷きました。
茅には植物を育てる効用が数多くあるのだそうです。
日本一の茶畑静岡に行くと点々とススキの原が見えます。
ススキ自体が茶の育成に効果があるし、茅をお茶の木の根元に敷くのだそうです。
縄文の昔から日本民族は茅葺屋根の下で暮らしてきました。
 
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     美しいススキの原、花を尾花と呼び、植物としては薄(ススキ)、屋根材としては茅(萱)と呼びました。
 
 
淨光寺薬師堂の最も美しいのはその屋根でしょう。
奈良や京都の堂塔の屋根は軒先に向かって反り返っているのが普通です。
ところが淨光寺薬師堂の屋根は、軒先が盛り上がってその先がストンと降りています。
一般常識からすれば「逆反り」です。
まるで高速旅客機コンコルドの機首のようです。
豪雪対策であり、同時に山号の雁の翼を模ったのかもしれません。
杉林の中にポツンと薬師堂が黒々と佇んでいる様は私の好きな山頭火の托鉢姿を思わせます。
     後ろ姿の 時雨れて行くか (原文は総て平仮名です)
 
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                 淨光寺薬師堂側面、この姿が山頭火を髣髴させます。
                                      桁行3間、梁間4間で側面の方が広いので正面より側面の方が雄大に見えます。
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     淨光寺薬師堂、桁行3間、梁間4間のそれほど大きくはないお堂ですが、茅葺屋根の存在感が大堂の
     風格を漂わせます。筆者はこの屋根の逆反りの形が雁の飛ぶ姿と推測します。
 
 
淨光寺の案内では昭和21年・22年の大修理に際して発見された墨書により、
応永15年(1408)の建立が明らかになったそうです。
人感センサーでも設置されているのでしょうか?
薬師堂の前に立つと案内がスピーカーから流れます。
 
鎌倉時代に隆盛した唐様建築と伝統の和様建築が見事に交わった、
入母屋造り「新和様」の建築物です。
蛙股が素晴らしい…、アナウンスされると正面の蟇股を見上げます。
側面にあるかな? 見上げるとその位置には蓑束があるだけです。
木鼻(横材の先端装飾)巻き込み渦文です。
外陣天井は化粧屋根裏です。
総じてシンプルな装飾で、和様建築が完成した室井町時代の初期建築の特長を良く表しています。
 
友人H君のお母様はこの先善光寺の北方のご出身です。
自身のルーツの血が騒いでいるのでしょう?
”素晴らしい、素晴らしい”を連発して感動しています。
勿論、私も同感です。
日本人は室町初期が大好きです。
 
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    シンプルな平行垂木、柱の上部には木鼻が置かれています。どれもこれもシンプルで美しいと思います。
 
薬師堂の茅葺の葺き替えは2007年に実施されたそうです。
次回は2040年頃を計画しているのだそうです。
その時にもこのような美しい茅葺を吹き替える技術が存続しているだろうか?
少し心配です。
其処此処のお寺の堂塔は銅板葺きなどに変わってしまっています。
茅葺に比べれば遥かに安価に出来るし、長持ちするからです。
でも、優しい植物で葺いた屋根と、無機物の銅板で葺いた屋根とは感じが全く違います。
茅葺屋根職人を大切にしていってほしいものです。
 
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        前回葺き替え前の淨光寺の本堂。屋根の先端の膨らみがありません。田舎のお堂の感じです。
        葺き替え後の素晴らしさが良く解ります。
 
上気した気持ちのままで石段を下って来ると、参道のお地蔵さんが見送って下さいました。
”またお出でなさいな・・・・”言ってくれているようです。
勿論・・・・・・、出来れば雪をかぶった頃に来ようかな?
思えば・・・・・・・、石段で滑って転んだ私の姿が瞼に浮かびました。
お地蔵さんはマウンテンパーカを着せられて…、若々しく見えました。
 
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     雁田山のハイキングを終えたハイカーが着せたのでしょうか?
     青いマウンテンパーカを着せられたお地蔵さんが見送って下さいました。
 
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小布施「桜井丹精堂の栗おこわ」

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小布施の淨光寺を後にして、私達は市内に戻りました。
昼は桜井丹精堂の「泉石亭」で、先輩のOサンご夫妻と一緒に栗おこわを戴くことにしていました。
小布施には多くのお店で栗おこわを戴けます。
何処の店で戴くか? 相談しました。
Yさんは上田で4年間単身赴任されましたので、この辺りは隅々まで知り尽くしておいでです。
Yさんのご意見でこの店が選ばれました。
私は「竹風堂」を推していたのですが・・・・。
 
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                                桜井丹精堂「泉石亭」の店頭の栗おこわの案内
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                                             蕎麦挿しに活けられた生花(泉石亭で)
 
私の生家はお寺です。
”おこわ”はハレの日に戴きました。
三世代大家族でしたから一人一人の誕生日のお祝いはしませんでした。
6月10日、祖父母がお寺に入った日を全員の誕生日祝いにしていました。
この日には「山菜・鶏肉・筍」「きのこ」を混ぜたおこわを戴きました。
家族の慶事には赤飯を戴きました。
祖母の喜寿のお祝い、兄の公務員試験や司法試験の合格お祝い、私の中学入試合格、就職祝い・・・・、ことある事に赤飯”おこわ”を戴きました。
ハレの日にはおこわを戴く…、そんな習慣が着いたのは、おこわが精進料理だったからでしょう。
 
おこわはもち米を蒸して作ります。
おこわはうるち米(普通の白米)に比べて栄養価が1.5倍もあると言われています。
加えて、亜鉛・銅などのミネラルも豊富です。蛋白質も豊富です。
禅の僧侶の体力維持にはもち米を蒸した”おこわ”が欠かせなかったのでしょう。
 
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      島津家の客間と案内されている泉石亭の主間。掛け軸は「南無阿弥陀仏」が三行ならんでいました。
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                                               座敷から庭を見る
 
 
小布施の御三家「小布施堂」「桜井丹精堂」「竹風堂」のうち、
最後発は竹風堂でした。(明治26年(1893)竹村安太郎氏が創業) 
既に先行する二者は実績も蓄積もありましたでしょうから・・・・、
後発は様々な工夫を凝らしたことでしょう。
新商品の開発に傾注します。
そんな社風のヒット商品が栗おこわでした。
昭和47年発表し、小布施の食事の定番になりました。
他者も競って栗おこわを品揃えしました。
腹持ちの良いおこわですから…、小布施を歩く人にとっては嬉しいメニューになりました。
 
 
                                                  
桜井丹精堂は文化5年(1808)桜井幾右衛門が創業します。
画期的な「栗落雁」を創製し同社の礎を築きました。
二代の武右衛門が「栗ようかん」を創製します。
文化文政時代は江戸の都市文化が地方に波及し、
旅行に、観劇に、料理に…、自由に生活を楽しむ町人文化の花が咲きました。
栗落雁は諸大名のご洋菓子になり、江戸や京都に名を広めます。
京都伏見宮家では菊のご紋章入りの落雁を注文しました。
 
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                                 泉石亭のお庭。名の通りの石・泉の京風のお庭でした。
 
 
泉石亭はその名の通りお庭には泉が湧き、庭石の間を川になって流れています。
建物は200年の歴史があるそうです。
客間はお庭の正面に位置し、床の間や段違い棚など素晴らしい設えです。
「島津家の客間でした」案内がなされています。
店員に桜井家と島津家の関係を尋ねましたが…、解らないとのことでした。
 
店の外には行列が出来て・・・・、入店を待っています。
でも、店内に入れば驚くほど静かで、お食事を楽しむことが出来ました。
勿論、先輩Oご夫妻とのお話も楽しいものでした。
初めてお目にかかった夫人の物知りには感心しました。
最初に書いた堀辰夫夫人のエピソードもO夫人から伺ったものでした。
 
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         竹風堂の店頭(上田駅前店)、小布施御三家の絶え間ない工夫によって新商品が続々発表され、
         繁栄してきています。
 
蒸したてのおこわは少し柔らかい感じがしました。
栗は甘からず、ホクホクしていて・・・、600年前丹波から取り寄せた丹波栗のお味でした。
美味しかったこと、間違いないのでしたが・・・、
私の胃袋は術後未だ3か月ですからおこわは少しヘビーです。
加えて岩松院で求めた剥き林檎を食べ食べ歩いてきたので…、お腹は出来上がっています。
大半をお弁当風に詰めて…、家内のお土産になってしまいました。
 
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       桜井丹精堂で栗おこわを戴きました。
 
 
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         此方は栗おこわ元祖の竹風堂のお弁当。(600円余り) 
         此方の方が栗が甘く、形の崩れた栗がたくさん入っていました。お米もさっぱりしていました。
 
 
泉石亭の奥に美術館がありました。
思いがけず木喰像(観音像、70㎝程度)を拝観しました。
木喰は(多分)小布施には逗留していません。
小布施の近くは上越市、柏崎などですから、桜井家が越後の何処かで求めたものでしょう。
木喰上人80歳代、独特の微笑仏が彫られた時代のものでした。
 
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             泉石亭美術館の木喰観音像。木喰上人最盛期の微笑仏でした。
 
美味しい栗おこわを戴き、会話を楽しみ、美しいお庭を鑑賞し、大好きな木喰仏に遭遇し・・・・、
私にとっては至福の時間でした。
 
 
 
 
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元町の「ハロウィン健康ウォーキング」

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10月28日(日)はハロウィンでもあり、家内と元町に出かけました。
元町商店街のハロウィンは今日10月31日ですが、直近の日曜日です。
何か楽しい事がありそうな予感がします。
 
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        山手の洋館「ブラフ18番館」のハロウィンのお飾り。
       一流のデザイナーがボランタリーで飾っています。蜘蛛の巣レースが見事です。
 
代官坂のレストランで食事をしていると、表通りをハロウィン衣装で着飾った子供がゾロゾロ歩いてゆきます。両親も一緒で楽しそうです。
この日はハロウィンウォーク、元町商店街と、山の手の洋館を歩こう・・・・、そんなイベントなのです。10月31日、ハロウィン本番では、4時以降ハロウィン衣装を着た子供達が商店に
”ハッピーハロウィン”と言って訪れればお菓子が貰えます。
屹度賑わうことでしょう。
 
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                          元町商店街、この日は子供が目立ちます。
 
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                  元町公園、エリスマン邸前をハロウィン健康ウォーキングする家族連れ
 
 
昨今はハロウィンが行事として定着してきました。
川崎のハロウィンは今年が16回目、東京デズニーランドで始まったのが2000年からでしたから、精々この20年間で日本に馴染の行事になったようです。
 
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                           元町公園で遊ぶ子供達。塀から落ちると危ないよ・・・・・!
 
 
ケルト人の1年の終わりは10月31日だったそうです。
この夜には死者の霊が家族を訪れたり、黄昏時刻になると精霊や魔女が出てくると信じられていました。
これ等から身を守る為仮面をかぶり、たき火をして、カボチャを刳り貫いて蝋燭に灯をともしました。魔女やお化けに仮装した子供達が家々を訪れ、
トリック・オア・トリート( ご馳走をくれないと悪戯するよ)」と唱えます。
お菓子がもらえなかった場合は報復の悪戯をしても良いそうです。
 
日本にも良く似た行事が各地に残っていますが、忘れかけられてきました。
ハロウィンが日本に定着したのは、商店街の商魂が逞しかったこともありましょうが、
「子供が主役」の行事だからでしょう。
子供が嬉しい行事は、家族全員が楽しいものです。
 
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               山手には数多くの教会がありますが、教会とハロウィンとは無関係です。
 
 
元町商店街では10月28日は「家族全員で健康ウォーキングをしよう!」呼びかけたのでしょう。
洋館を廻ればキャンディーやクッキーを貰えそうです。
午前10時にスタートすれば、美味しいランチも食べられますし、
スタートでありゴールでもある元町商店街でショッピングが楽しめそうです。
 
親子三世代で歩いている家族も目立ちます。
素敵な光景です。
横浜元町も大人の町になってきました。
 
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               ブラフ18番館のダイニングルームもハロウィンパーティーの飾りです。
 
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               外交官の家のダイニングルームのハロウィンのテーブル
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                外交官の家からイタリア山公園を望む
                              
 
 
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元町ストリート”子供達のハロウィン”祭り

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10月31日、今日がハロウィン本番です。
所用を終わらせ、横浜元町にハロウィンを見に出かけました。
 
汐汲み坂のレストイランで遅いランチを済ませると、もう午後3時です。
坂の上から女学生が降りてきます。
女学生の群れとすれ違って、
石川町駅から子供達がゾロゾロ元町ショッピングストリートに向かってきます。
石川町商店街では早々と店員が店先に出て、お菓子を配り始めました。
子供達はもうよく知っていて、お目当てのお店でお菓子を貰っています。
少し恥らいながら・・・・、手がお菓子の入ったバスケットに伸びて・・・・、
持参したお菓子袋にしまわれます。
”ハッピーハロウィン” 大きな声が出るのは付添いのお母さんです。
 (「trick or treat(悪魔かお菓子か)」と言うのが子供達、ハッピーハロウィンと言うのはお菓子を差し
    出す側ですが・・・、まあ良いでしょう。)
 
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                 夕闇前は人並みも無くゆったりしていて、ワンちゃんも快適にお散歩です。 
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此方はニャンコのお顔の子供です。
 
午後4時、何時もはゆったりしている元町ショッピングストリートはもう人の波です。
歩行者天国の真ん中に大きなカボチャが置かれています。
この場所がハロウィン風船が貰える場所です。
お母さんが列に並んで、子供達はお目当ての商店を巡って・・・、
お菓子袋はドンドンお菓子がたまってゆきます。
”その先のお店はチョコレートが貰えるよ!”
子供達が情報交換をしています。
悪魔マントを着た男の子、
女の子は背中に蝶の翅が付いています・・・、とてもよくお似合いです。
 
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                    風船配りの始まる4時前、もう人ごみです。
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                   ハロウィンカボチャのプリントされた風船は子供達の人気です。
 
 
午後4時、沢山のハロウィン風船が運ばれてきました。
スタッフが風船を一つずつ子供に配ります。
風船の紐が絡んで…、時間がかかります。
でも、良くしたもので子供達は順番を崩しません。
でも、見る見る減って行く風船に心配げです。
”僕まで風船が回って来るかしら?”
 
突然に泣き声が響きます。
”僕の前で風船が無くなっちゃった!”
スタッフがなだめます。
”このまま此処で待っていてね、お兄さんが新しい風船を取って来るからね・・・・”
泣き声こそ止まりましたが・・・、
でも、心配しているのでしょう…、恨み目は少しも変わっていません。
 
 
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”ハマトラ”を支えた洋服店等も、老舗の家具屋さんも、レース屋さんも、貴金属店も、そろって
小悪魔姿でお菓子を配ります。
無関心なのは真珠の御木本と横浜銀行だけかな?
ハロウィンフィーバーの中でポツンと無関心でいられるのは・・・・、相当な神経です。
 
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                                  子供の目線の先は飛んで行ってしまった風船です。
 
私の住む戸塚の商店街で”ハロウィン”をしても、可愛い子供達が集まる事は先ず不可能でしょう。
元町ショッピングストリートが、横浜の”ハレの場”であるから・・・、
子供達と若いお母さんが集まって来るのでしょう。
各商店が思い思いのお菓子を配る…、その費用はたいした金額にはならないでしょう。
子供達に、若いお母さんに好印象を与える効果は計り知れません。
お菓子が若い親子のハートをガッチリ掴みます。
 
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                        綺麗な店員さんにお菓子をカボチャ鞄に入れて貰う子供達
 
 
陽がくれれば、急いで帰宅した女学生は家でハロウィンファッションに着替えて・・・・、
登場するのかもしれません。
そのころは可愛らしい子供達に入れ替わって、溌剌お嬢様で一杯になるのかも知れません。
それも見たいのですが…、そろそろ底冷えがしてきました。
もう帰宅することにしましょう。
ハロウィンは午後7時まで続きます。
 
深夜にはイルミネーションの工事をして・・・、
商店街はクリスマスに突入です。
11月1日、今晩は木枯らし一号が吹きそうだ…、天気予報です。
 
元町ショッピングストリートがズット繁栄することを期待します。
 
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       賑わいがピークになるのは午後4時過ぎのようです。こんなに人ごみの元町は初めて見ました。
 
 
 (追記) 大人のお顔はモザイクさせていただきました。子供の写真のポイントは”可愛い表情”ですのでモザイクしませんでした。無断で載せたことお詫びいたします。
ご指摘があれば速やかにモザイクさせていただきます。
 
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