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鎌倉の仏師「大森昭夫」さんのお蕎麦屋さん

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私は“麺好き”です。
でも、胃手術後ラーメンもパスタも1年間は避けるよう指示されています。
そして、最も胃に負担が多いのが蕎麦です。
でも、秋も深まると”新蕎麦入りました”案内が出ています。
私は新蕎麦の香りに弱いのです。
屹度焼畑時代、蕎麦を食べた縄文人の血が私に流れているからでしょう。
で…、蕎麦屋の暖簾を潜ってしまいます。
 
鎌倉には蕎麦屋が数多くあります。
その中で、麺が柔い蕎麦屋を探します。
常盤の交差点にある「秀福」はそんなお店です。
オテモヤンに似たお人形が出迎えてくれます。
この人形は店主をモデルにしている…、私は推測しています。
 
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                      鎌倉秀福の店頭ではオテモヤン似のお人形が迎えてくれます。
 
注文を聞いてから茹でるのでしょう。
暫く待ちます。
待っている間、私はお店の造作を見ています。
何といっても目につくのが、襖に描かれた仙人図です。
仙和尚(江戸時代の禅画家)を髣髴させる、自由な表現です。
窓際などに陶人形が飾られています。
鬼もあれば、お茶を戴く老夫婦もあります。
どれもこれも良く出来ています。
 
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        鎌倉秀福の店内には主として陶人形が飾られています。大森仏師は粘土も得意」のようです。
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                               鎌倉秀福の襖絵、仙和尚を髣髴させる筆さばきです。
                           手前の小机にも陶人形が飾られています。
 
私はオテモヤンに似た叔母さん(多分店主)に訊きます。
「襖絵と言い、人形といい、素晴らしいと思います。どなたの作ですか?」
オテモヤンは答えられます。
「家のは仏師でして…、その作品ですよ。
興味がおありなら、大仏坂に教室を開いています。尋ねられたら良いですよ。」
 
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         陶人形のお爺ちゃん、お婆ちゃん…、何時かこうなりたいものです。
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                           鎌倉秀福の肝腎のお蕎麦。胃の負担は少しは軽いかな?
 
もう30年も前の事です。
玉縄の龍宝寺のご住職(先代)が500羅漢を始められました。
理由が変わっていました。
「私は葬式に際して戒名をつけます。戒名の代金が何故か高いのです。バカ高いお代を頂戴するので、そのお金で羅漢様を奉納していただきます。羅漢さんは何処か故人のお顔つきに似ているものです。羅漢さんは本堂の長押に祀ります。お檀家はお経を聞いている間羅漢さんを見やります。そこに故人が居るように思うんですよ。そして、感謝します。
で、羅漢さんを彫ってくれる仏師ですか。大仏坂にお住まいですよ。」
以来、鎌倉にも本格的な仏師が居られる…、知りました。
 
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          鎌倉玉縄の龍宝寺の500羅漢。同寺の事は度々書いています。
               http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44438782.html 
 
大森仏師は1951年山形県の鶴岡で生まれました。
お隣に彫刻家が板ことから、小さい時から木の欠片や粘土で遊ばれたそうです。
上京後1969年鶴見総持寺の仁王像(1丈八尺)製作に参加します。
1992年には西村公朝仏師の監修の下、長谷寺の十一面観音(9m余り)の修復をします。
2005年には仏像彫刻教室を始められます。
店内には仏像教室の案内もさりげなく貼られています。
 
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                   大森仏師の作品 (同氏のHPから転載)青森県青龍寺
                 www1.kamakuranet.ne.jp/b-oomori/
                  
日曜日には家族連れや観光客で賑わう店内ですが普段は落ち着いています。
美術品に囲まれてお蕎麦を戴くのも良いものです。
舌で楽しみ、香りを楽しみ、目も楽しめます。
そんな次第で・・・・、私は時々秀福に入ります。
もうじき、術後半年の検診です。
「1年間は麺は控えてくださいね!」
看護婦さんの退院時指導が……、思い浮かびますが・・・、もう大丈夫そうです。
 
 
 
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平成の500羅漢(仙石原長安寺)

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観光業者は”今年は10年に一度の紅葉”とPRしています。
期待がたかまりますが・・・・、関東地方ではマダマダのようです。
そこで、箱根に出かけました。
山頂から染まり始めた紅葉は、今宮ノ下辺りまで下ってきました。
相変わらず「富士屋ホテル」の紅葉は見事ですが、例年ほどの鮮やかさではないように感じます。
少なくとも昨年のほうが良かったです。
”10年に一度の紅葉”は早く染まり始めた西日本の事でしょう。
 
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                           宮ノ下富士屋ホテルの紅葉。今が8分といった感じです。
 
私は箱根で一番の紅葉は「塔ノ沢・環翠楼(かんすいろう)」だと思います。
早川の渓流に沿って、嶺洞門から東電吊り橋辺りまで、約1Kは美しい遊歩道です。
紅葉、石に砕ける急流、そして趣深い旅館の家並み、石仏群・・・・、どれも惹かれます。
環翠楼は皇女和宮が亡くなられた旅館です。
明治10年9月2日、鴨川の上流、鞍馬川や貴船川を懐かしまれた事でしょう。
この辺りはもう染まり始めましたが、もう1週間後が見頃でしょう。
 
昨日、大森仏師の500羅漢(龍宝寺/曹洞宗)に触れました。
昭和50年代に始まりました。
同じころ、箱根仙石原の長安寺(曹洞宗)でも500羅漢の建立が始まりました。
長安寺は箱根外輪山「金時山」の麓にあります。
本堂の裏山には豊川稲荷さんが勧請されています。
山楓を中心にした雑木林です。
その林の中に、てんでバラバラに石仏(羅漢)が祀られています。
朱に染まった紅葉を背景に、落ち葉の音を、吹き始めた木枯らしの風音を聴くようにして、
羅漢さんが佇んでいます。
羅漢さんが一番美しく見える季節が今頃です。
 
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    仙石原長安寺は金時山の麓にあります。その稲荷堂の周囲は紅葉が見事です。
    その樹下に500羅漢が祀られています。昭和60年代に始まり、現在進行形の500羅漢さんです。
 
仏教伝来とともに羅漢は日本に伝わりました。
法隆寺五重塔の基壇にはお釈迦様の一生を塑造群で表現しています。
最後が釈迦涅槃の場面です。
横たわったお釈迦様の周囲に沢山の人が集まっています。
文殊菩薩、維摩居士らはジッとして「祖師が亡くなられた」現実を受け止めているようです。
でも、羅漢さんは大きく口を開いて、膝頭に拳を打ちつけて…、悲しみを露わにしています。
お釈迦様には500人ものお弟子さんがおられ、
説法を聴き、お釈迦様と同じように日夜修行に明け暮れたいました。
 
彼らがお釈迦様の教えを仏典にまとめた・・、と言われます。
 
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                法隆寺五重塔の釈迦涅槃の場面。前列左右で大泣きしているのが羅漢です。
 
菩薩の境地に至れば、いくら悲しくとも現実をそのまま受け止めるのでしょう。
でも、悲しい時は泣き叫び、嬉しい時は呵々大笑し、怒ったときには青筋を立てて怒り狂う・・・、
それも、人間であり、喜怒哀楽を発散させることも逞しい生き方でしょう。
 
飛鳥時代に伝わった羅漢さんが脚光を浴びたのは鎌倉時代の禅宗興隆の時代です。
お釈迦様と同じように修行し、悟りを得ようとする姿は羅漢さんをお手本にします。
ですから、禅寺には必ずと言っていいほど羅漢様が祀られました。
 
最初に庶民に親しまれたのは江戸時代初頭1600年代でした。
大分の羅漢寺に500羅漢が祀られ、話題になると、江戸目黒にも500羅漢寺が建立され、
江戸の名所になりました。
北条(播磨)でも500羅漢が建立されました。
モアイ像のような羅漢さんでした。
どれも、強いインパクトを与えてくれます。
羅漢に励まされて、また明日から働こう、勉強しよう・・・・!
奮い立った人が多い事でしょう。
 
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                      北条の500羅漢、江戸初期の作と言われています。北条HPから転載
 
次に羅漢さんが沢山作られるのは幕末明治維新です。
鋸山日本寺(房総)には500羅漢が建立されます。
時代空気の変わる時には羅漢が祀られるようです。
”喜怒哀楽を表に出して、新しい時代を切り開こう・・・・!”
”神仏に祈るだけではなく・・・、自分の力を思う存分発揮して…、新時代を切り開こう・・・・”
そんな時代空気が羅漢さんを見返らせた…、そう考えます。
 
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                                           長安寺500羅漢
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昭和から平成に変わる頃から、全国各地で羅漢さんの建立が目立っています。
”もはや戦後は終わった!” 言われてから30年経ちました。
 
”このままじゃ、いけないぞ・・・”
時代空気が変わってきたようです。
だから…、再び羅漢に戻ろう・・・・!
お釈迦様(原始仏教)に戻ろう・・・・・!
そんな現れのように思います。
 
昔は石工と呼ばれた匠も、今ではアーチストです。
ジーンズを着たアーチストは鑿を振るって羅漢を刻みます。
漫画を愛読した世代は喜怒哀楽を表現することは巧みです。
漫画から飛び出したような羅漢さんが彫られています。
 
時代空気に押し流されるだけではなく・・・・、
俗に堕さず・・・、
品というか、格調というか、人間の本質に迫るような表現が難しい所です。
 
時代空気の変換期には羅漢が祀られるようです。
 
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柊の大樹

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木偏に「春」と書けば「椿」です。
椿の字は日本人が作った漢字だそうです。
日本人が椿の花を春の魁と感じて愛してきた、その思いが伝わってきます。
木偏に「夏」と書けば「榎(えのき」です。
緑陰を届けてくれる常緑樹です。
一里塚には大抵「榎」が植えられています。
暑い日盛りを歩いてきて、榎の樹下で一服して、また旅を進めたことでしょう。
木偏に「秋」と書けば「楸(ひさぎ)」です。
これは馴染みの薄い樹ですが、柏の仲間です。
そして木偏に「冬」と書けば「柊(ひいらぎ)」です。
丁度今頃が花の盛りです。
 
椿の字が日本人の作った漢字なら、榎も楸も柊も何れも日本人が作った漢字でしょう。
中国にも四季があります。
内陸部は日本以上に夏は暑く、冬は寒いものです。
しかし、日本人ほどには四季を愛でる感覚や習慣は無かったのでしょう。
だから、日本人は「木偏に四季」の漢字を作りました。
 
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   三溪園の鬼門に植えられた柊の大樹。節分には柊の枝先に鰯を吊るします。
   鬼は柊の鋭い鋸刃と臭い鰯が苦手なのです。
 
 
木偏に「圭」と書けば私の好きな桂(かつら)です。
日本人は「優れた木」として桂(かつら)を尊重しました。
同じ字を中国では「金木犀」に付けています。
中国の名勝地「桂林」を旅行しているときに教わりました。
桂花酒を戴いた時に、
お酒に金木犀の花を漬けて香りを移していました。
 
漢字は表意文字ですから、同じ漢字でも日本人は本来と違う木を充てたのでしょう。
 
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       今が盛りの柊の花。香りも花も銀木犀に似ています。唯一の違いの鋸刃も老樹になると消え         て、丸くなってしまいます。
 
柊は銀木犀に似た木です。
同じように芳香が強いですし、白い小さな花が枝にビッシリ付きます。
常緑樹ですし・・・、
違いは葉っぱが厚くて、葉の端がギザギザで鋸の刃状に尖っている事です。
だから、柊は垣根に使われました。
柊の垣根を破って盗人が侵入することは困難だからです。
そして、木枯らしを防ぐ効果があります。
 
加えて、鬼門から災いが押し寄せてくることを防ぐ効果も期待されます。
鬼門の方位には柊と南天(難を転じる)を植えたものです。
節分になれば玄関先に柊の枝先に鰯を吊るしました。
災難を避ける…、信じられました。
 
横浜の名勝「三溪園」の東北の角に大きな柊の樹があります。
柊ってこんなに大きくなるんだ・・・! 感服する大樹であり、姿も良いものです。
 
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                  地面を覆った柊の落花(鎌倉中外製薬も鬼門の方角に柊の垣根があります)
 
小田原の「だるまや」さんの玄関にも姿の良い柊があります。
柊の根元にはお多福さんが”いらっしゃい!”言わんばかりに笑顔で立っています。
その向かいには厳めしい顔をした「達磨さん」が立っています。
達磨さんの足元には赤い実をつけた千両が茂っています。
この老舗のランチは1000円ですから・・・・、千両なのかな? 思ったりします。
入り難い店構えですが、お安くお寿司や天麩羅が食べられます。
 
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      小田原本町の老舗「達磨屋料理店」 桃山楼閣風の建物の玄関左に柊の大樹があります。
 
 
桃山風の唐破風には見事な彫り物が施され、重厚な感じがします。(重要有形文化財)
楼閣二階建てです。
それでいて、アールデコの意匠実も見出せます。
桃山建築も500年前はアールデコだったのでしょう。
屋根の付いた黒塀が老舗料理店の風情を醸しています。
 
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  鬼達磨屋料理店の室内、組み入れ格天井の格調高い室内ですが、アールデコの意匠も見られます。
 
そして、何といっても柊の大樹が格調の高さを示しているようです。
店内に張れば、天井が高く、それも神社の様な「組み入れ格天井」です。
此処で、千円のランチでは申し訳ない…、そんな気になってしまいます。
 
達磨や料理店の創業は明治26年だそうです。
ところが関東大震災で倒壊してしまいます。
しかし達磨屋は本業が網本でした。
二代目廣澤吉蔵は相模湾沖のブリ漁で当てます。
当時は相模湾でブリが捕れたのでした。
大正15年達磨屋を再建して、今日に至ります。
 
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   鬼達磨屋料理店は小田原の網本でした。関東大震災で倒壊したもののブリ漁で当てて、再建されま    した。
 
美味しかった・・・・・、おか目と達磨に挨拶して、柊を見上げて・・・・、
帰路に着きます。
 
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達磨屋料理店の玄関右には達磨が立っています。この達磨さんが創業者?
 
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達磨屋料理店の玄関左にはおか目さんがにこやかなお顔出迎えてくれます。頭上は柊です。
このおか目さんが達磨屋料理店の大黒さんだったのでしょう。
 
 
 
 
 
 
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伊勢佐木町の桂の街路

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本当に久々に伊勢佐木町に出かけました。
かって横浜以南に住む人にとって、伊勢佐木町は”ハレのストリート”でした。
明治時代創業の「カステラの文明堂}「洋菓子の不二家」「本の有隣堂」「百貨店の松坂屋」等など錚々たる企業が立地していましたし、牛肉鍋屋さんはじめ美食家を満足させてくれていました。
青江美奈が「伊勢佐木町ブルース」を唄った頃は、
伊勢佐木町が横浜一番の繁華街であることを疑う人は居なかったのでした。
 
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                         昭和43年ヒットした「伊勢佐木町ブルース」のモニュメント
 
 
昭和34年、横浜駅西口に高島屋が創業しました。
相模鉄道の砂利置場、貯油場であった駅前に、
相鉄・高島屋のジョイベンで百貨店をオープンさせたのでした。
以来、伊勢佐木町は斜陽に道を歩みます。
一時カレーミュージアムが出来て話題になりましたが、
カレーはラーメンほどには集客力は無く、2007年に閉店します。
加えて横浜MMがオープンすると一層に客足を奪われます。
 
伊勢佐木町は日本有数のドヤ街「寿町」が近く、風俗街である「福富町」「曙町」に隣接し、
パチンコ店やファーストフードの店が連担しています。
これでは、普通の買い物客には見向かれません。
今でも裏通りに行けばアジア系売春婦が客引きし、
怪しげな店があり、表通りにも客引きが出て、浮浪者が見られます。
 
2008年旗艦店舗であった松坂屋が店を閉じました。
昔を知る者にとっては寂しい限りです。
 
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    伊勢佐木町松坂屋、2007年閉店し、現在は大丸系の不動産会社が保有し、ダイソー等の店がテナ    ントになっています。この店頭でユズがストリート演奏をしていました。
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                       黄葉した桂の梢の先に「ユズ」の垂れ幕が架かっています。
 
松坂屋の店頭で、当時まだ無名であったユズがストリートライブをしていました。
ですから、伊勢佐木町には「ユズ」の垂れ幕が架かっています。
でも、伊勢佐木町でユズが凱旋公演するような場所はありません。
大岡川を越せば野毛町で美空ひばりの生家があります。
でも、野毛町にも音楽施設は何もありません。
寄席の「にぎわい座が」があるだけです。
昔は大相撲が公演された…、と聞きますが”何処で?” 聞くばかりです。
 
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                         舗道上に散った桂の葉っぱ。味噌蔵のような芳香が漂います。
 
街の衰退が陰であれば、日なたもあります。
それは「街路樹の桂」でありましょう。
 
防犯パトロールをしている人に訊きました。
この立派な街路樹は何時植えられたのですか?
「植えられたのは関東大震災直後か、焦土と化した終戦後か、米軍から返還された昭和26年か?
何れかでしょう。残念ですが解りません。」
実は筆者は以前からこの街路樹の事を知りたいと思っていました。
その気持ちは当時中田市長が「横浜緑税」と称して、怪しげな地方税を導入した時に始まりました。
 
「何時ごろ、どんな思いを込めて、桂の樹を選んだのか?」
横浜市の区政推進課に行って聞いたこともありました。
でも、解らずじまいです。
横浜市には真剣に緑を大切にする…、思想は無く、欲しいのは財源だけです。
 
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                                    喫茶店の店先に桂の黄葉が調和しています
 
横浜の代表的な街路樹、山下公園通り、日本大通りの銀杏は関東大震災直後に植えられました。
今は、とてもきれいです。
写生する人が沢山います。
 
伊勢佐木町は今では年中歩行者天国です。
カラータイルもお洒落で、馬車道に続いています。
その舗道の上に桂の黄葉が散って行きます。
桂は米軍返還後植えられた(1951年)・・・、としても還暦を過ぎています。
樹の保護を兼ねて、樹の周りにはステンレス製のベンチを置きました。
サークルベンチを置けば根が踏みつけられないからです。
良く見れば自動給水装置も設置されています。
 
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          桂の根元を囲むステンレス製のベンチ。樹が成長してベンチに食い込んでいます。
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       喫茶店の店先に慌ててベンチを撤去しましたが、ステンレスを体内に食い込んでしまいました。
       向こうのベンチは大丈夫のようです。
 
桂は見事に成長して、今では大樹の風格を有しています。
幹の成長が予測を超えていたのでしょう。
ステンレスベンチに食い込んで、ステンレスを体内に組み込んでしまっています。
慌てて、ベンチを除去しました。
でも、所々撤去が遅れてしまいました。
お蔭で、幹の根元が鯨の歯のように光っています。
 
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                                   風格が出てきている桂の大樹
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                 桂の黄葉、葉っぱはハートの形をしていています。
                 匂いも形も色も、最も癒し系の樹木です。
 
 
大岡川の遊歩道に行けば、榎の大樹がフェンスを破って、川面に葉を茂らせています。
植物の生命力は改めて凄まじい…、感じます。
 
中田市長の緑税は個人割900円/年でした。(平成21年)
横浜市民は300万人を超えていますから30億円の財源が確保できました。
目標は横浜市の緑の減少に歯止めをかける事でした。
ところが、緑の減少は一向に収まりません。
もう30%を割ってしまいました。
平均で3900円/1戸の負担額ですから・・・、NHK並です。
もう少し、真剣に緑の保護をして貰わなくては…、不払いしたくなります。
 
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         大岡川の川沿いで、フェンスを打ち破って生育している榎の大樹。右側が野毛町です。
 
 
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王様の耳はロバの耳(常楽寺庚申塔)

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大船の語源と言われている「粟船山常楽寺」の境内に奇妙な石碑があります。
本堂左手前に銀杏の木があり、その向かいの万両などの灌木の中にあります。
角柱の頂上に蛙のような生物が居ます。
お尻の割れ目が確認できますが、頭は地面の中に埋もれているようです。
 
昔読んだ童話に”王様の耳はロバの耳”がありました。
主人公は”本当の事”を言いたくて我慢が出来ません。
そこで、地面に穴を掘って穴に向けて大声で叫びます。
”王様の耳はロバのようだ”
常楽寺の石碑はその童話を思い出させます。
 
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           粟船山常楽寺 銀杏の大木がありましたが、落雷によって枯れてしまいました。
          根元からひこばえが生えて、林のようになりました。実はなりません。
          右側本堂、左に文殊堂が建っています。その手前に今日話題にした石碑があります。
 
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常楽寺文殊堂、手前左に石碑があります。
 
石碑の側面を見ると、正面に「粟船文殊菩薩道」、左脇下に「常楽寺」、
右脇下に「粟船山」と書かれています。 享保3年(1718)に建立されたことが判ります。
何のことはない、これは「庚申供養塔」なのです。
本来置かれていたのは、現在の「松竹・離山道路」近くの田圃道にあったのだそうです。
その田圃が昭和13年に始まった田圃の埋め立て事業で邪魔になったので・・・・、
常楽寺の標識を、寺の境内文殊堂の前に移したのでした。
 (この時の事は次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43887089.html)
 
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文殊堂手前の石碑。正面に「粟船文殊菩薩道」と刻まれています。問題は頂の生き物です。
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石碑の天辺に置かれた生き物。筆者はお猿さんだと確信しています。
 
江戸時代、離婚する権利は男の側だけにありました。
でも、女性が東慶寺(俗称縁切り寺)に駆け込めば、
公正な(どちらかと言えば女性に有利な)裁判が開かれたのでした。
女性が「縁切り寺」にたどり着くまでには難所が幾つかありました。
最初の難所が多摩川(六郷川)でした。この船着場で女性がキャッチされてしまうのです。
次ぐ難所が戸塚の権太坂でした。箱根駅伝でも有名な坂道です。
  運のなさが 焼き餅坂で追いつかれ   (松が丘御所川柳)
 
二つの難所を越えれば大船の離れ山が見えてきます。
もう、縁切り寺は目の前です。
もう一息でストーカーのような夫と離れられます。
  女房の旅は亭主と離れ山      (松が丘御所川柳)
 
離山は崩されて田圃を埋め立てられました。
新しい宅地に松竹大船撮影所が出来、三菱電機が立地してきました。
大船の町が大発展しました。
離山の山頂に祀られていたお地蔵さんは麓にあった道路の交差点に移されました。
 
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       離山地蔵尊、背後の住宅地が離山という名の山であったことを留めています。
 
庚申とは干支の「かのえ・さる」の日ですから、60日に一度めぐってきます。
その夜には60日間の行動を天帝(帝釈天のような存在)に報告されます。
嘘をついたり、役割を怠れば天帝から罰を受けます。
本人やその家族に災いが降ってくるのです。
そこで、「悪い事を天帝に報告されないように」、
「見ざる・聞かず・言わず」…、そんな姿勢が尊ばれました。
 
三猿が庚申信仰の看板のように扱われます。
庚申待ちを18回、3年間行うと、その記念碑を建立しました。
集落(多くが5人組と一致します)が絆を強めて、一致協力して無事に過ごせた…、感謝しよう・・・、
そんな気持ちで記念碑を建てたのでした。
 
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      一般的な庚申塔。右が主尊が阿弥陀様ですから、僧侶が庚申講を指導したものでしょう。
      左が青面金剛が主尊になっています。畏怖される天帝の姿だったのでしょう。
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                     庚申塔は三猿を看板にして普及されました。猿のデザインは様々です。
                     三匹の猿を一匹で表現すれば、本件のような形になります。
                     デザインした石工の”いなせ”な姿が想われます。
 
常楽寺門前の郷五人組では、庚申講の記念碑に”標識を立てよう…” 考えました。
鎌倉詣での旅人に「常楽寺文殊堂」に寄ってもらう・・・、そんな気持ちを込めました。
で、普通なら三猿を刻むところです。
目を、耳を、口を塞いだお猿さんです。
でも、洒落っ気を出して冒頭に書いたように、地面の中に頭を突っ込ませてしまいました。
顔を伏せてしまえば、「見ざる、聞かざる、言わざる」になります。
一匹で三匹分の役を果たしてしまいます。
それが、江戸時代の人の合理性であり、”粋”であり”洒落”だったのでしょう。
 
今年も銀杏の樹が黄葉し始めました。
もうじき、境内は一面黄色い絨毯が敷かれます。
 
文殊堂の懸魚の陰に出来たスズメバチの巣も相当に傷んでしまいました。
庚申塔には空蝉がいくつもくっ付いていました。
 
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   もう6年ぐらいたったでしょうか、寄棟の懸魚の陰に作られたスズメバチの巣も傷んでしまいました。
 
 
 
 
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塔ノ沢の「阿弥陀寺」と皇女和宮

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今年の京都の紅葉は10年に一度の鮮やかさのようです。
京都のブログを見ていると、すぐにでも行きたくなります。
今もNHK「お早う日本」では東福寺の通天峡を実況中継しています。
 
私が孫悟空なら、古知谷の阿弥陀寺に行きたいです。
大原から鯖街道を約3キロ下った(山道を登った)谷合に阿弥陀寺が建っています。
新緑も、石楠花の季節も良いのですが、一番は紅葉です。
樹齢800年の紅葉の大木(天然記念物)が染まり、次第に谷川沿いに自生した紅葉に色移りしてゆきます。
紅葉の落ち葉を踏んで境内を進みます。
 
山門は竜宮城の門のような意匠です。
その脇に「弾誓仏一流本山」と刻まれた石碑があります。
浄土宗知恩院系のお寺ですが、開山の弾誓上人ご自身(ミイラ)がご本尊なので、
「本山」と称しているのでしょう。
 
本堂(阿弥陀堂)の右奥に石窟があります。
石窟の奥に即身仏になった弾誓上人のお体が祀られています。
また、宝物館には大聖寺、有栖川、閑院等の宮家から賜った品々が陳列されています。
弾誓上人が宮家の尊崇されていた事実は意外な感じがします。
 
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       木喰弾誓上人が開いた塔の峰の阿弥陀寺の登り道。
       紫陽花の葉影に馬頭観音が道案内されています。
 
私が木喰弾誓上人を知ったのは、円空に興味を持ち、円空以前を調べた時でした。
少年「円空」は岐阜羽島に「父なし子」として生まれますが、幼くして母に死に別れます。
天涯孤独になった円空少年は近くの神社で遊びます。
その神社には素朴な仏像が祀られていました。
作者は木喰長音上人、木喰弾誓上人の孫弟子でした。
多感な少年時の原体験が円空を育てた…、確信します。
 
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            塔の峰阿弥陀寺境内に奉納された道祖神、比翼連理の姿です。
 
木喰弾誓上人(1573年~1613年)は全国各地を巡ります。
行く先々は修験者の溜まり場の「宿」でした。
修験者たちの拠点を整備して・・・・「阿弥陀寺」にします。
そうして出来た阿弥陀寺の総本山が京都の古知谷阿弥陀寺でした。
 
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                                       塔の峰阿弥陀寺の参道。
 
相模にも阿弥陀寺を建立します。
箱根外輪山塔の峰の東の尾根でした。
塔ノ沢温泉から早川を渡って、沢道を約3キロ登れば阿弥陀寺がひっそり佇んでいます。
私は古知谷阿弥陀寺を思いながら、石段を登ります。
山道の左右にはもう花の影も無い紫陽花が萎れています。
その陰に石仏も佇んでいます。
 
ご住職の琵琶の音と、唄い声が響いてきます。
朝のお勤めは読経ではなく、平家琵琶なのかもしれません。
私は本堂の裏を廻って、沢道を登ります。
標識には塔の峰まで40分と表示されています。
道は角の尖った石がゴロゴロ転がっています。
手入れが去れていない竹林は痛々しい感じがします。
もう、冬ですからマムシは出ないでしょうが・・・、岩陰に居そうな不気味さです。
 
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       塔の峰阿弥陀寺本堂、裏山塔の峰道を10分ほど登れば石窟があります。
       京都古知谷阿弥陀寺にそっくりの佇まいです。
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   本堂の玄関。右手に皇女和宮様のご位牌を祀ってあることを案内しています。
   ご住職の琵琶の案内も貼られています。
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   奥ノ院(石窟)への登り道。雨が降れば渓流になり、岩石を押し流す「澤」になります。
   登り難い、道なき道です。
 
 
弾誓上人の岩窟は随分奥です。
10分も登ると・・・・、ようやく大岩が出現、石窟がありました。
此処がお寺の言う「弾誓上人の修行場」です。
入口から中を覘けば卵塔(お坊さんの墓標塔)が見えます。
矢張り弾誓上人のお墓でもあるようです。
 
流石に、霊気が立ち込めていて、私は圧倒されました。
私の皮膚感覚が”早く戻れ!”私の霊の命令を察知しました。
お墓の3m前で合掌して去る事にしました。
 
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   大石窟が見えてきます。
   巨大な櫓です。 入口の宝篋印塔等は記念塔ではなく墓標塔と思います。
   此処は修験者の墓地であり、同時に修行の場であったのでした。
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   大石窟の中を見る。正面奥(少し下の方)に卵塔(お坊さんの墓標塔)が見えます。その背後にも夥しい   墓標が並んでいます。霊感がビンビンと響くパワースポットです。
 
私は今まで、数多くの霊場を巡り、お墓を廻ってきましたが…、
これほどのパワーを感じたことは在りませんでした。
 
皇女和宮は脚気を患っていられました。
箱根塔ノ沢温泉「環翠楼」に転地療養されました。
温泉から阿弥陀寺までは女性の、脚気を患った人では中々難儀な山道です。
明治10年9月、和宮様は亡くなられます。
ご位牌は阿弥陀寺さんに祀られています。
ということは、本葬は芝の増上寺で行われたものの、密葬は阿弥陀寺さんで営まれたということでしょう。
湯元温泉には古刹「早雲寺(曹洞宗)」がありますから、同寺で密葬を営めば楽だったことでしょう。
でも、阿弥陀寺を選ばれたのは・・・、徳川家が浄土宗であったからか?
それ以上に、塔ノ沢の自然や景色が京都大原、古知谷に似ていたからでしょう。
 
明日は塔ノ沢温泉の環翠楼を書きます。
 
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        塔ノ沢温泉「環翠楼」、此処での転地療養の最中皇女和宮様は息を引き取られました。
 
 
 
 
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塔ノ沢温泉「環翠楼」と和宮様

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箱根湯元の温泉街から、湯の坂道を登ります。
急に山間は狭くなり、道は急坂になります。
早川の右に左に移ります。
旭橋、函嶺洞門、千歳橋と近代土木遺産が続きます。
美しい紅葉と早川の渓流に半トンネルや石橋が調和しています。
箱根で私が一番好きな景色が展開しています。
その先に美しい景色の極みが見られます。
道の左に「環翠楼」、道の左に「塔ノ沢一ノ湯」が見えてきます。
二つの旅館共に国の有形文化財です。
早川の瀬は白波を立て、紅葉は一層鮮烈に染まっています。
環翠楼の名は明治23年伊藤博文が付けました。
旅館の周囲を早川が回っている事、そして翡翠が多く見られた事から、この名がついたのでしょう。
美しい翡翠に、この旅館で息を引き取られた和宮様を髣髴されたことでしょう。
 
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                                      環翠楼前の早川の流れ
 
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皇女和宮像(徳川博物館HPから転載)
 
文久2年(1862年)和宮様は公武合体策に従われ、家茂(14代将軍)に嫁がれます。
16歳同士の幼い夫婦を時代の激流が呑み込んでゆきます。
慶応2年(1866)、家茂は第二次長州征伐の途上、大阪城で病に倒れ、そのまま亡くなります。
和宮様の手元には約束の西陣織だけが届きます。
政略結婚と言えども心底夫「家茂」を愛して居られたのでしょう。
織物を手にしながら次の歌に悲しみを託されます。
  うつせみの唐織衣なにかせむ
綾も錦も君ありてこそ  
 
家茂の死因は脚気と言われます。
脚気は現代では容易に治癒できます。
ビタミンB1を摂取すれば良いのですから・・・、
ところが、ビタミンの欠乏症が脚気を引き起こす・・・・、原因究明は鈴木梅太郎等を待つことになります。
江戸患い(精米されたお米だけを食べる事に依る国民病)と呼ばれた脚気は直接の死因にはならなくても、
心筋梗塞など死に至る病を誘発したのでした。
 
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                                          環翠楼全景
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                       有形文化財の木造三階建て建物(大正8年) 右は駐車場
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                          環翠楼の玄関、名付け・看板は伊藤博文
 
和宮様は義母の篤姫と力を合わせて、幕府と朝廷・薩長の間を収拾しようと努められます。
その尽力の成果もあって江戸城の無血開城がなされ、江戸の町が焦土と化すリスクから免れました。
 
明治10年(1877)和宮様は脚気を発病されました。
その転地療養の為箱根塔ノ沢の環翠楼に移られました。
旅館の記録では和宮様は地元の子供達を呼んでお菓子をプレゼントするなど、
溶け込んで居られたそうです。
しかし、病魔は夫家茂と同じように、突然の脳梗塞を併発させます。
無常の字の通りに、この温泉町の旅館の一室で亡くなれました。
未だ美しい盛りの32歳でいられました。
 
環翠楼の話はこれでお終いではありません。
篤姫は和宮様を傷んで環翠楼を訪れます。
そして、次の歌を留められました。
 
君が齢とどめかねたる早川の
    水の流れもうらめしきかな
 
篤姫には早川の激流が幕末維新の時代の迸りにも見えたのでしょう。
時代の激流に棹差す立場にたった哀れさでが「恨めしい」と言い表されたのでした。
 
江戸幕府を幕引きした勝海舟も環翠楼を訪れ、石碑を建立しています。
 
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   千歳橋(近代土木遺産)から早川を見る。右手に行くと環翠楼があります
 
環翠楼の創業は慶長19年(1614)に遡るそうです。
当時の名が「元湯」だそうです。
環翠楼のホームページには三戸光圀公やシーボルトが泊った事、
元湯が音頭を取って箱根路の石畳を敷いたこと、
福沢諭吉が未整備だった私道(現、国道一号線)を整備した事を誉めた事…、等々、興味深い歴史を紹介しています。
 
 
 
明治24年(1891)宮ノ下に富士屋ホテルが、明治26年(1893)には小涌谷にホテル奈良屋が開業します。
更に大正8年(1919)には箱根登山鉄道(箱根湯本~強羅)が開通します。
湯治客は箱根の奥に移って行きます。
人気は新しいホテルに移ってしまいます。
塔ノ沢温泉街をお客さんは素通りしてしまいます。
栄光の日々があった事実は忘れ去られてしまいます。
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         宮ノ下にある富士屋ホテル、この商売っ気があれば…、思います。
 
環翠楼は旅館それ自体が文化財です。
3階建て木造建築は関東大震災にも耐えました。
構造も優れているし、装飾も素晴らしいものがあります。
お客を取ろう…、商売する気は全く無いようです。
私が長々書いたような歴史の舞台であった事実も案内していません。
”皇女和宮様が息を引き取られた旅館です”
看板一枚立てれば、歴女達がワンサと押しかける事でしょう。
そんな素振りは全くなく、広い駐車場はガランとしています。
 
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                                   向かいの「一ノ湯旅館」
 
向かいの「一ノ湯」さんは日帰り温泉の幟が立っています。
1000円で一風呂浴びられるのです。
店頭には歓迎看板が立てられ、横文字が並んでいます。
外人観光客には和様の旅館がアピールするのでしょう。
どちらも箱根の老舗旅館であり、有形文化財でありながら経営姿勢は違っているようです。
 
宮ノ下の富士屋ホテルはベーカリーショップもあれば、ランチサービスもあります。
私のような御のぼりさんを受け入れて、豪華な設備の見学も受け入れてくれます。
そんな経営姿勢を拒むかのように、扉は閉ざされているようです。
でも、何か機会があったら泊ってみたい旅館であります。
 
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環翠楼の設え(同社HPから転載)
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和宮様の下賜品。三葵が確認できます。(同上)
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環翠楼の早川に面したお部屋(同上)
 
 
 
 
 
 
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塔ノ沢の「弥八恵比須・大黒天」

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箱根湯本から1号線を登ると、旭橋、函嶺洞門、千歳橋と近代土木遺産が続きます。
千歳橋とは・・・、「千歳飴」を思い起こす、縁起の良い名前です。
橋を渡ると、不思議なスポットがあります。
大きな「七福神の乗った宝船」が置かれています。
細道があって、個人的な石神のようですが・・・・、
”寄ってらっしゃい”  茶店が招いてるようでもあります。
駐車するスペースが無いので・・・・、
”気にはなるが、素通りしてしまう…” そんな人が多いのではないでしょうか?
 
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      函嶺洞門、千歳橋国道1号線に面して宝船意匠の七福神が置かれています。
     この前の細道を30mも登れば弥八恵比須・大黒天が祀られています。
 
私は環翠楼見学(昨日書きました)の序に、登ってみました。
 
名前は「弥八恵比寿・大黒天」です。
恵比須は商売の神様、大黒は豊作を司る神様、七福神の二大スターです。
大体、この種の数合わせは室町時代に始まり、
江戸時代の平和な社会でブレイクしたものが多いのです。
古来の神(仏)を集めて七人にまとめました。
正月には「七福神めぐり」をして、枕の下には「宝船」の絵を置いて、
「七神が船に乗ってやってくる」夢を見ようとしました。
箱根塔ノ沢で湯に浸かったら、
七福神をお参りして、良い歳をお迎えください・・・、そんな便利な社のように思えます。
 
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                                                     此方は寿老人
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                乳児を添わせた弁財天。左側に「子育て弁財天」の表示がありました。
 
 
急な坂道を登ると、山側を背にして次々に七福神が迎えてくれます。
どの石神も新しいものです。
白い御影石を使って、石工の技も現代的なら、デザインも現代的です。
弁財天に子守りをさせている姿は・・・・・はてな(?)マークが点灯します。
弁天様は乙女じゃないのかな?
でも、いいか!
庶民の時代欲求に応じて変化するのが神様の姿ですから・・・。
そのうち、妊婦姿の弁財天や吉祥天が出現するかも知れません。
何しろ、少子高齢化が日本の最大課題ですから。
 
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                                                     此方は布袋様
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                 恵比寿天、大きな鯛を持ち上げて嬉しそうです。
               左下が塔ノ沢温泉の旅館街。右奥が花見茶屋で「昇り鯛焼き」が売りです。
 
ところで、”弥八”とは一体何者なのでしょうか?
昔の塔ノ沢温泉の旅館かお茶屋の店主だったのでしょうか?
その、弥八が商売熱心で、神仏を崇める気持ちも強かったので・・・、
恵比寿と大黒セットで祀ったのかも知れない…、想像が広がります。
 
急坂の上に真新しい社が作られていました。
中を覘くと、恵比須様と大黒様がセットで祀られていました。
真新しい木彫りの神像です。
それは、それで良いのですがピカピカしていて・・・、表面はニスが塗ってあります。
ニスは神様はお嫌いじゃないのか?
思ったりします。
まあ、これも良いか…、思い直します。
 
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                                         昨年新築されたばかりの社です。
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               社に祀られた恵比須(右)、大黒(左)。毎朝おつとめされている事が解ります。
 
社の谷側の隅に「お花見茶屋」がありました。
看板は「昇り鯛焼き」のようです。
そういえば、恵比寿様の石神は大きな鯛を持ち上げていました。
恵比寿の鯛焼きを食べてください、
”もちもちした、白あんの鯛焼きです・・・”
それが、売りのようです。
 
茶店からは国道1号線が見渡せます。
1月2日には箱根駅伝のランナーが函嶺洞門、千歳橋を渡って来るのがズット見渡せるでしょう。
そして、塔ノ沢の温泉街を大平台に向けて消えて行きます。
昇り鯛焼きを頬張りながら・・・、駅伝応援するのも良いものでしょう。
”今年こそ良い歳になりそうだ・・・!”
思いそうです。
 
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       社の下は国道一号線です。遠くに見える半トンネルが函嶺洞門、近くの橋が千歳橋です。
      箱根駅伝は1月2日(往路)、1月3日(復路)この道を通りますので、見物には格好です。
 
でも、お茶屋は夏の間営業していなかったようです。
庭は草が茂っています。
 
もうじき、塔ノ沢も紅葉します。
そのころには、茶店を開店して…、お正月の準備を終える事でしょう。
 
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                         お花見茶は夏閉店していたのでしょう。今は草が茂っていました。
 
弥八さんが何処の誰だったかは解りません。
お茶屋が開いて店主に訊けば解る事でしょう。
「ああ、弥八さんは私のお爺ちゃんだよ!」なんて言われるかもしれません。
 
何時か、一度「昇り鯛焼き」を戴いて、ほっこりした気持ちになりたいもんです。
 
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                            この大黒様、何処かサンタクロースのように見えますが?
 
 
  【追記】
昇り鯛焼きは昨年の6月、日本テレビ「ブラリ途中下車の旅」でオンエアーされたそうです。
 
 
 
 
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紅葉の浄土「白水阿弥陀堂」

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私が最初にいわきの白水阿弥陀堂を見たのは昭和42年の初夏でした。
大学に入ったばかりの、五月病の季節に浅子勝次郎教授(故人)が言われました。
「みなさん、内郷に阿弥陀堂を見学に出かけましょう!」
浅子教授は文学部の教授であると同時に、日本文化研究会の部長でいられました。
迷うことなく日本文化研究会に入会した私は、以来鎌倉や奈良で教授に導かれました。
 
泉温泉から暫く入った山間に阿弥陀堂がありました。
田圃の向こうに柳や楠・銀杏などの木立があって、
その真ん中にこじんまりとした、三間四方の阿弥陀堂が建っていました。
単層宝形造りで、屋根はこけら葺きでした。
でも、屋根が高く三角帽子のようでしたし、頂にチョンと載せられた宝珠が小さく感じました。
 
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                                         白水阿弥陀堂(国宝)
藤原清衡は娘徳姫を岩城則道に嫁がせます。
平泉から浜通りを真っ直ぐ南下すれば、いわきの豪族岩城氏が居ましたから・・・、
結婚によって、両者の良い関係が築かれたのでしょう。
しかし、則道は亡くなってしまいます。
 
永暦1年(1160)徳姫は夫の菩提を弔うため願成寺を建立、その一角に阿弥陀堂を建築したのでした。
阿弥陀堂の北方は屏風のような山がありました。
南から人は阿弥陀堂を眺めます。
そこで、東西南の三方を池で囲みました。
人の視線の集中する位置に阿弥陀堂を建立したのでした。
お堂には阿弥陀如来を中央に、観音・勢至菩薩、持国天・多聞天を配置しました。
平泉の浄土寺院が此処いわきにも建立されたのでした。
 
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                         阿弥陀堂(国宝)には二つの橋を渡ってお堂の前に出ます。
 
平泉の「泉」という字は白と水の 二字からできています。
そこで白水阿弥陀堂…、と呼ぶようになりました。
平泉の「平」は「平市」の地名になった・・・・、言われています。
 
中尊寺金色堂は屋根が極端に平たく出来ていますし、宝珠は大きく出来ています。
屋根は本瓦葺です。
毛越寺の阿弥陀堂は二階建てであった…、記録されています。
ですから・・・・、浄土庭園こそ平泉文化そのものですが…、
阿弥陀堂自体はいわき独特なものであったように思えます。
 
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             白水阿弥陀堂(国宝)の周囲は総て田圃でした。
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      中尊寺金色堂 三間四方の建物ですが白水阿弥陀堂とは屋根を随分違います。
      (東京国立博物館ライブラリーから転載)
 
浅子教授は田圃を指さされて話されます。
「ここら一帯は美しい池が巡っていました。池の南から阿弥陀堂を遥拝します。
阿弥陀様は空から山越えして阿弥陀堂に降りてこられます。
人は虹のような太鼓橋を渡って池に浮いた中島に辿り着きます。
そこで、再び阿弥陀堂を眺めます。
お堂の扉があいて、その奥に阿弥陀様の姿が見えます。
今度は平橋を渡って、お堂の真ん前に出ます。
”阿弥陀様に総てを委ねる・・・”
心は安堵しています。
 
私達学生は教授のお話を聞きながら、目の前の青田を浄土池に変えて…、イメージを膨らませました。
 
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          白水阿弥陀堂(国宝)は山越え阿弥陀来迎図そのもののロケーションです。
 
昭和49年から2年間、私は再三白水阿弥陀堂を訪れました。
当時私は建設省系の公団に出向していました。
いわきニュータウンを計画し、その用地買収に入っていました。
買収予定地に鉱泉があったりして、計画を再三変更していました。
私は監理課の補佐でしたので・・・・、再三現地に行きました。
その折々に阿弥陀堂を訪れました。
既に阿弥陀堂は国宝の指定を受けていましたから・・・、
田圃を買収して浄土庭園も復元する計画でした。
私の脳裏には宇治の平等院が思い浮かびました。
これから・・・、どんな庭園が出来るのだろうか?
平安神宮の神苑ように桜の花園になるのだろうか?
それとも平等院のように藤棚が作られるのだろうか?
想像するのは楽しいものがありました。
 
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                           周囲は紅葉の回廊です。手前に萩の一群もありました。
 
1976年庭園文化研究所の村岡正氏は
観自在王院庭園と白水阿弥陀堂庭園の復元整備」を発表します。
長年発掘調査を続けられ、その成果を白水阿弥陀堂の浄土庭園復元プランに反映させるのでした。
同氏は京都の清風荘など幾つもの実績があります。
 
その結果が写真の通りでした。
浄土庭園の復刻でありますが、同時に昭和の名園が出来ました。
 
浄土庭園の周囲をイロハ楓で囲みました。
楓なら秋ばかりでなく、緑も美しいものがあります。
そして東岸には蓮を活けました。
夏には蓮の花の向こうに阿弥陀堂が浮いている・・・、そんな姿を観想したのでした。
田圃の泥の中から蓮の種が出現したのかも知れませんし、
楓の根っこが発見されたのかも知れません。
若しかしたら…、現代人の持っている浄土へのイメージが…、
春の若葉、夏の蓮、秋の紅葉だろう、同氏が判断されたのかも知れません。
 
 
 
でも、見事な浄土庭園が出来ました。
私も、家内も嬉しくなります。
故浅子教授にもお見せしたい・・・、
そんな美しすぎる浄土庭園です。
脳裏に先生の笑顔が浮かびます。
 
生憎11月28日(水)に行きましたので、曇天で時折小雨が降ってきます。
昨日は小雪だったそうです。
小雪の降る中の阿弥陀堂も見たかった…、思いました。
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           白水阿弥陀堂浄土庭園は冬鳥にとっても楽園であります。
 
阿弥陀堂を後にしました。
田圃を埋め立てて…、木造の仮設住宅が出来ていました。
阿弥陀堂の裏山を北に向かえば…、相馬市です。
原発事故から此処いわきに避難されたのでしょう。
突然に現実に戻された・・・、そんな思いがしました。
見て、次の目的地に向かいます。
遠くで白鳥の啼き声が響きます。
 
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                          二つの丹塗りの橋を渡って阿弥陀堂の前に出ます。
 
 
 
 
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中釜戸の枝垂れ紅葉

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カーナビでは「中釜戸」はもうすぐ先、山を下れば「中釜戸」の集落で、
其処に天然記念物の「枝垂れ紅葉」があるのですが・・・・、道が通れないようです。
仕方なく、折り返してもナビの指示からは段々遠ざかってしまいます。
人影も無い山道で、これは困った…、思います。
 
見れば、畑で収穫をしている叔母さんが居ます。
昨日の雪で急いで里芋を収穫して、土中に掘った穴や壺に貯蔵するのでしょう。
叔母さんに枝垂れ紅葉の場所を訊きました。
「其処の山の向こう側なんですが、道が通れないでしょう。
この方向ですからぐるっと山裾を廻って下さい。近くに行けば標識が建ってますよ。」
「ところで、畑の端に石碑が建っていますが、あれはなんですか?」
尋ねました。
向こうの柿の木の根っこに10基ほどの石碑が見えます。
「あれは、子供達のお墓ですよ、その先にお寺があって、子供のお墓は里に近い所に建てられたのですよ。ところが明治維新にお寺は壊されてしまいましたから・・・、ああしてお墓だけ残っているんです。」
何処に行っても廃寺が目につきます。
廃寺は明治維新が多いのでしょうが、昨今も多い事でしょう。
何しろ急速に過疎が進んでいるのですから・・・・。
 
 
 
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    里芋を収穫する叔母さんに道を尋ねました。畑の向こうに石碑が見えます。あの辺りにはお寺が    あって廃寺になってしまったのだそうです。柿の実が野鳥の喰うに任せられていました。
 
言われた通りに進みます。
でも、少し心配です。ナビは「戻れ!戻れ!」指示してきます。
道路端に農家の経営するスーパーがありました。彩花園と洒落た名前です。
レジ横には枝垂れ紅葉のポスターが貼ってあります。
私は、此処でも道を尋ねました。
すると、お客さんが言ってくれました。
「私の車が近くを通りますから・・・、後からついてきてくださいな・・・。」
福島の人はみんな親切です。
 
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    農家スーパー「彩花園」の店主。指さしているのが「中釜戸の枝垂れ紅葉」です。
 
途中、避難住宅の前を通りました。
此処は東海原子力発電所にも近いのです。
でも、風上にあったので避難地域になりませんでした。
そこで、避難する人を多く受け入れているのでした。
 
道端に大小二つの大きな釜戸が飾られています。
此処が「中釜戸」だから・・・・、釜戸を置いたのでしょう。
でも、奇妙な名前です。
地図を見れば、釜戸川が流れていて、上釜戸という集落もあります。
ここら辺りは「釜戸地区」なのでしょう。
何故、釜戸なのか?
大きな巌谷があって、釜戸のように三方が大石で囲われているのかも知れません。
または、民話(神話?)が残っているのかも知れません。
民話は仁徳天皇の仁政にあるような…、お話です。
 
高き屋に のぼりて見れば 煙り立つ
 民の釜戸は 賑わいにけり
 
16代、仁徳天皇は庶民の生活が困窮しているので「向こう3年無税にする」宣言します。
お蔭で、天皇の生活は困窮してしまいます。
3年後皇后とお二人で難波高津美弥宮に登って、里を見下ろされます。
すると、民家から夕餉の支度で、釜戸から昇る煙が見えます。
その光景を目の前にして天皇が歌われたのが先の和歌でした。
 
仁徳天皇は傍らの皇后に言われます。
「朕は既に富んだ、うれしい事だ。」
すると、皇后は反論されます。
「何を言われます。宮殿の屋根は破れ、宮垣も崩れているではないですか、おまけに貴方の衣服も傷んでいる。何処が富んでいるんですか!」
仁徳天皇は
「政治は民を基本にしなくてはならない。民が富んでいるということは、すなわち朕も富んだ…、ということになるのだ!」
民はこんな天皇に感謝して、進んで宮殿を修理し、税を納めました。
 
「釜戸」とは仁徳天皇の故事にならった、善政が敷かれた集落・・・の意味でしょうか?
 
昨日も都内で孤独死した親子が発見されました。
看病する子供が亡くなり、次いで寝たきりの親も息を引き取ったのでした。
水道も電気も・・・・、未納だったので打ち切られていたのでした。
行政や電力会社も代金を払ってもらわなくては…、困るでしょう。
でも、供給を停止してしまえば・・・、死んでしまうことは目に見えています。
停止する前に、行政が立て替え払いをすることは出来ないものでしょうか?
生活補助費の支払いよりも、支払目的が明確です。
仁徳天皇の故事よりも・・・、ずっとずっと解りやすい事です。
 
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      農家の作業小屋の向こうに観音堂が見えます。
      その前に朱に染まっているのが枝垂れ紅葉です。
 
集落の裏山が竹林です。
竹林の前の小さな観音堂がポツンと建っています。
その前に二本の紅葉の大樹が染まっています。
まるで、ひな祭りの雪洞のようです。
それにしても、見たことも無い紅葉です。
大きさだけならもっと大きな樹を見た記憶があります。
でも、こんな樹形の大樹は見たことは在りません。
盆栽のように形が整っていますし、枝先は振袖のように垂れています。
その振袖が黄、橙、朱にグラデーションになって色付いています。
農家スーパーの叔父さんが「紅葉は遅い方が良い」といったのは、
”遅くなるほど朱が色濃くなる” そんな意味だったのでしょう。
案内板にはこんな事が書かれています。
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             観音堂とその前の枝垂れ紅葉。枝垂れの様が振袖のように見えます。
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            観音堂前の土手に二本のイロハ楓が染まっていました。二本とも奇形何て、珍しい            と思います。これを育種したら矢張り奇形が多く出るのでしょうか?
 
この紅葉は「いろは楓」ですが、その突然変異種で樹幹が白くねじ曲がって、瘤が出来ています。
傘の広がりは東西(横)び10m、南北に2mです。
樹高は6.8m、根回りは2.75m。樹齢は不明(400年と案内している事もあります)
昭和12年、国の天然記念物に指定されました。
 
観音堂を含めて相応のお寺があったのでしょう。
ところが、お寺も廃れて観音堂だけが残されました。
同時に境内に植えられた美しい紅葉だけが残って、盛時の面影を留めている様に推測します。
白水阿弥陀堂の浄土庭園も、此処中釜戸のイロハ紅葉があまりに綺麗だから・・・、
植えられたように推測しました。
 
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          この幹が紅葉?タブじゃないの? 思われる瘤だらけの幹です。            
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                                      観音堂の縁から紅葉を見る。
 
福島の人々も先の大震災では酷く傷つき、今もって原発の放射能には故郷を奪われています。
でも、色づいた紅葉に、春爛漫と咲いた桜に励まされている事でしょう。
そうです、この山の向こうの里には「相馬の枝垂れ桜」も半年先には見事に咲く筈です。
そのころ、また来られたら良いのですが・・・。
 
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  観音堂は傷んでいて床も破れそうでした。羽目板も隙間だらけで、其処から中を覘くと二体の観音様  が祀られていました。
 
 
 【追記】 
私の住む町内会には赤十字から歳末協力の依頼があります。目標額が100万円余り案内されています。戸数で割って300円/1戸を寄付します。私は個人的にはこうした寄附の形式に馴染めません。
もう、ハートが感じられません。出来れば、文中記載した「水道や電気のようなライフラインを立て替え払いするファンド」に寄付したい…、思っています。”助け合い”のハートを大切にしたいと思います。
 
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稲田御坊の親鸞聖人

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京都駅を降りると烏丸通り・堀川通りが通っています。
通りを北に登れば二条城や京都御所の前に出ます。観光客の眼は東西の巨大な寺院に注がれます。西本願寺に東本願寺です。
”京都の町はこのお寺の門前町なのかしら?”思います。
とりわけ外国人は自国の町が教会を中心に出来ているので・・・・、そう思うことでしょう。私達は答えます。
「この二つのお寺は浄土真宗の本山です。浄土真宗は日本のルターのような宗教改革者であった親鸞が始めた宗派で日本人では最も多い信者を有しています。」 
外国人は重ねて尋ねてきます。
「何故二つも本山があるのですか?東京にあった築地本願寺や大阪に昔あった石山本願寺はどちらの本山に属していたのですか?」
このあたりから説明が困難になります。
日本人は総じて親鸞聖人が好きです。
理由は歎異抄を愛読してきたから・・・・・。
歎異抄は日本人が”宗教的な真理を追究した青春の書”だからでしょう。
親鸞が好きでも本願寺には馴染めない人が多いと思います。
それは教団が大き過ぎるからです。
親鸞聖人のお人柄や面影は巨大教団・建造物本願寺とは相容れない…、と感じます。
 
親鸞聖人の面影を今も色濃く留めている場所があります。
それが筑波山の北「稲田御坊」です。初冬の雨の日、家内と稲田御坊を詣でました。
後述するように感動しました。
少し長くなりますが、親鸞聖人にとって稲田御坊が何であったのか、説明をいたします。
 
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                          筑波山の北、稲田にある「西念寺」の西門。
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        吉川英治の親鸞中の「稲田」での生活を綴った段、おむつは覚信尼のもの、子守唄を唄っ        ているのは恵信尼・・・・。
 
1207年親鸞聖人35歳の時、越後の国に配流されます。恵信尼も同行し聖人の面倒を見ます。1211年聖人39歳の時流罪を許されます。しかし、京都には戻らず笠間の領主「稲田頼重」に招かれて、稲田の吹雪谷に草庵を結びました。
此処を拠点にして宗教活動をします。教行信証を書き上げます。
草庵の前に広がった田圃に降りて野良仕事に精を出します。
1226年聖人52歳の時女子が産まれます。(覚信尼になります)
1228年には男子に恵まれます。(顕智)
稲田で20年を過ごし、1236年聖人63歳の時京都に戻ります。
私達凡人も子育てをしたときが最も充実したものです。
体力的にも精神的にも、そして人間的にも・・・。
聖人も同様だったことでしょう。
でも、聖人を囲む外部の状況は都から遠く離れた田舎暮らしを許さなかったのでしょう。
都をはじめ各地で宗論が戦われ、聖人は異端を戒めなくてはならなくなっていました。
 
1262年、聖人89歳で亡くなられます。
娘の覚信尼が聖人を荼毘に付し、東山大谷に葬ります。
これが大谷本廟です。
8代蓮如の時、応仁の乱の最中教団組織は膨張します。
本願寺教団は社会的にも経済的にも存在感を増します。
11代顕如は織田信長と対立し石山合戦を戦います。
秀吉の支援を受けて堀川に本願寺を移築します。
顕如の長子が「教如」その子が「如」でありました。
顕如如が開基になって「西本願寺」「東本願寺」が建立されました。
根が親鸞聖人でありましたが幹は大きく二分します。
 
組織が大きくなるにしたがって、始祖の思いとかけ離れる事は往々にしてあるものです。
個人の良さは巨大な組織に押し潰されてしまいます。
信者はそんな教団に面喰います。
その度ごとに始祖の原点に戻ります。
浄土真宗の原点は間違いなく稲田御坊でありましょう。 
 
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      侘び住まいのような稲田御坊「西念寺」の山門。扁額は「稲田山」
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                 親鸞上人お手植えと伝えられる銀杏は落葉して大地を覆っていました。
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      右側の屋根の下には杉の株が残っています。親鸞上人の「御杖杉」と言われています。
 
稲田御坊は筑波山の背を見上げる鄙びた土地でした。でも豊かな田圃がありました。
古い神社もありました。
私は時雨の降る中道を間違えたら困る…、思って尋ねました。
「西念寺さんはどの方向ですか?」
すると、不審な表情をされて・・・
「ああ、稲田御坊ですね、ならば国道を東に走って・・・・、北側の山裾にありますよ。
道路脇に案内板がありますから、見落とさないようにしなさいよ・・・。」
言葉の端々に稲田御坊への愛着と尊敬が滲んでいました。
 
本堂の前で合掌していると、突然に扉が開きました。
私達の気配を感じられたのでしょう。ご住職(?)が声をかけてくださいました。
「良く来られましたな・・、横浜からですか! 寒いからストーブをおつけしましょう。
灯りもつけましょう」
歓迎して下さいました。
「此方のお厨子には親鸞聖人が、向こうのお厨子には恵信尼様が祀られています。
御本尊の阿弥陀様は・・・・・」
丁寧に、特に稲田御坊でのお二人の生活ぶりを話してくださいました。
今でも田舎に行けば沢山いられる、「聖家族」のような坊さん夫婦の姿が目に浮かびました。
 
親鸞聖人時代の堂塔は総て焼失してしまいました。
其処の大銀杏も焼けてしまったのですが・・・、再度芽吹いて、今では傷跡も解らないほど生育しました。 銀杏の根元には古井戸がありました。
この井戸で恵信尼様がオムツを洗い、親鸞聖人が足を洗われた…、想像すると目頭が熱くなる思いがしました。
 
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                               本堂から境内を見る
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              本堂を見る
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                                                     本堂側面
 親鸞聖人の聖跡でありながら・・・・、西念寺さんは裕福では無いようです。
何故なら震災で倒れた思われる築地塀はそのまま修復していません。
本願寺の威容とは随分違います。
倒れた塀の向こうに筑波山が時雨に煙っていました。
 
 
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     震災で(?)倒壊したままの塀。塀の向こうに筑波山が眺められます。
     筑波山が比叡山のように見えたことでしょう。
     お寺の下の田圃に降りて親鸞上人も野良仕事をされたことでしょう。
 
如」家に戻って稲田御坊のホームページを確認しました。
すると、ご住職の意見が掲載されていました。
石原前都知事や維新の会を批判していました。
私も昨今の右傾化が際立つ社会風潮を懸念しています。
同感なので紹介させていただきます。
 
いつの時代も為政者は思想を統制して教育に介入し、近代国家が誕生してからは愛国心の名の下に国民を戦場へ送り出してきました。
その点で、日の丸掲載や君が代唱和を政治権力を用いて強要し、憲法や教育基本法を改定しようとする政治家の言動は、本当に危険に思われます。
 
そもそも主張がねじれていると思いませんか? 
米国に押しつけられた憲法を改訂して国防軍の創設をめざすと言いつつ、集団的自衛権の行使を認めて日米安保の強化を図るというのは…。
筆者はイスラーム諸国を旅することが大好きなのですが、西アジアの国々では日本の評判は本当に素晴らしいものがあります。
その日本が、米軍を助けるために武器を取ることが、彼らには信じられないようです。
 
 
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                                             筑波山 
 
筆者は日本文化研究会の仲間18人と、12月2日から大分県の臼杵・国東に出かけます。
4日の夜に戻ります。
また、このブログに書くつもりです。楽しみにしてください。
 
 
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蔵も大切、お酒はもっと大切。(小手川酒造)

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今日から豊後路の旅を素材に書きます。
初冬の豊後路は心に浸みいる美しさでした。暫くお付き合い下さい。
 
12月2日、朝一番機で羽田をたつと、大分空港に9時半、レンタカーに乗り換えて、
臼杵の街には11時前に着きました。
 
豊後路には小藩が数多くあります。
此処臼杵をはじめ、竹田の「岡城/臥牛城」、杵築の「杵築城」 日田の「丸山城」、佐伯の「鶴屋城」、中津の「中津城」、大分市の「府内城」、日出の「暘谷城」 等々数え切れません。
その大半が海に川が流れ込む河口に位置しています。
真っ青な海を背景に松や桜の樹木の上に、
白壁と瓦の美しい天守閣の聳える景色は実に美しいものがあります。
私のようにお城のない土地に育った者にとっては、城下町は憧れでもあります。
 
関ヶ原の戦いが終わって、平和な時代を実現すべく家康は大名の配置替えを行います。
鹿児島の島津、熊本の加藤(細川)等の雄藩を囲んで、3万石前後の譜代の大名を配置しました。
臼杵は大友宗麟の「丹生城」がありましたが、
1600年岐阜郡上八幡の稲葉貞通が入封します。(5万石)
以来明治まで稲葉家15代が存続し、
稲葉正則、正邦、正住等の大老・老中を輩出する名門になります。
しかし、明治維新、天守閣は取り壊されてしまいました。
 
お城を取り囲むように武家屋敷があり、その外側が町人町、丘の上に寺町を置きました。
でも、小さな町です。寺町からお城まで歩けば20分前後です。
そのいずれもが歴史のある、味わいのある街並みが続きます。
 
私達は町人町の外れ、臼杵城に近い駐車場に車を置いて、町人町の歩きました。
目標は小手川酒造です。
 
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     臼杵町人町の街並み、手前ソフトクリームの見える店が「創業1600年、400年以上の歴史を     持つ、カニ醤油。稲葉氏の入府に際して岐阜の郡上八幡からやってきました。ですから、臼杵      の味噌醤油は岐阜の味なのでしょう。
 
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    臼杵の街歩きの名物は味噌ソフト、八丁味噌ソフト(岡崎)を思い出させます。でも、この日は寒す    ぎて流石に食べませんでした。
 
臼杵川に面して大きな味噌樽があります。
樽の壁には両替商の標識「分銅」が描かれています。
これが九州最大の醸造業「フンドー金醤油」の工場です。
 
昔は味噌・醤油を販売するに際し量り売りをしていました。
天秤ばかりに使う錘(おもりのこと)の形です。
錘は裏から見ても表と変わりません。
ですから、「裏表のない商売をする」モットーだそうです。
金は創業者小手川金次郎の「金」をあしらいました。
 
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             フンドー金醤油の工場左手に事務所棟があります。
      手前が臼杵川、4キロほど上流に行けば臼杵石仏群です。
 
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            小手川商店のガラス戸に描かれたフンドー金マーク。
 
何で、お前がそんなに詳しいのか?
それは小手川酒造の番頭さんに訊いたからです。
「有形文化財の醸造蔵を見せて下さい、説明を聞かせていただいたら幸いです・・・」
お願いしたところ、様々な興味深いお話を伺えました。
 
小手川酒造のメイインの仕事は酒造業でした。
お酒を造る片手間に味噌・醤油を作っていたそうです。
味噌・醤油部門を子会社にしたところ、小手川家の努力工夫によって九州最大の企業に、
親を凌ぐ会社に成長しました。
小手川家は作家野上弥生子(文化勲章受賞者)の生家でもあります。
現在の社長小手川強二氏も好人物です。(筆者15年前面識アリ)
お兄様は大蔵官僚と聞いています。
番頭さんは”小手川家は人が続く”・・・・・・、自慢しておいででした。
 
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小手川酒造の主屋に南側は野上弥生子の文学記念館になっています。その北側が蔵です。
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                              小手川酒造の店前                                              イメージ 8
        左手前が小手川酒造の蒸留蔵、小手川酒造の店舗、野上弥生子文学館、道の向かいが        小手川商店で、土産や食事を楽しめます。
 
お小手川酒造の主屋の北側に並んで、奥行きの長い蔵が建っています。(国の有形文化財)
この蔵の中で、清酒、焼酎を醸造しています。
 
建てられたのは慶応元年(1865)だそうです。
全体が白壁ですが、腰の部分は「海鼠/なまこ」で飾っています。
白壁に幾つも窓が付いているのは、明り取りでしょう。 窓の上には水切りの瓦が付いています。
この小さな屋根が1階と2階の境目であり、デザインの上ではアクセントのようになっているようです。
 
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                           向かいが野上弥生子文学館です。(民家の左側)
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    黒麹焼酎の蒸留大甕。甕は中国製、番号と仕込み年度、甕の大きさが書かれています。内容量    は厳密に管理されています。(酒税対策)
 
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                       此方は日本製の甕、蓋に仕込み年度が書かれていました。
 
見せていただいたのは、黒麹焼酎を寝かせている蔵でした。
昔「アリババと40人の盗賊」のクライマックスシーンです。
アリババ達は大甕に身を隠して、盗賊達が酒に酔い潰れるのを待ちます。
あの場面を思い出させるような大甕が並んでいます。
 
最も古いのが1986年で、500ℓと書かれています。
初焼酎は木樽で蒸留し始めた時には70度もあるそうです。
それを甕に移し替えて、調整しながら40度くらいになるまで調整するそうです。
年次毎に大甕を使い分けて、新しい焼酎を混ぜたりしません。
純粋な焼酎を歳月をかけて磨きます。
そんな役割を担う陶器製の大甕です。
 
小手川酒造の焼酎はもう一息で30年物の黒麹焼酎が出来る・・・、そんな仕事です。
焼酎は多く飲むとアルコール中毒症を起こしかねません。
長く蒸留すれば美味しいし、体にも良いのです。
”100年の孤独(宮崎高鍋・黒木本店)”は人気ブランドで、長期醸造を売りにした商標です。
でも、まさか30年は置いていないでしょう。(筆者の想像で未確認です)
 
薩摩の芋焼酎や黒酢を貯蔵している風景を良く見ます。
皆、甕を首まで土に埋めています。
土の温度が醸造に適しているからでしょう。
でも、此処の大甕は総て地表に置かれています。
 
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     大甕を地中に埋めたら・・・・、この壁が崩れてしまうかも知れない…、そこで地表に大甕を置い     ています。現在の建物は一度吊りあげて基礎を固めてありますので、壁が倒れる心配はないそ     うです。
 
地中に埋めれば良いのだが、三和土(蔵の地面)を掘れば壁の足元が弱って、
崩れる心配もあるからだそうです。
もともと、この辺りは川の岸辺ですから、地盤は弱いのでしょう。
 
お蔵も大切にして、長く使う。
お酒も、長い歳月をかけてじっと待つ・・・、
同じような発想です。
でも、尊い考えだと思います。
 
3年で売り出す…、普通私達が飲む焼酎でしょう。
10倍も時間を掛ければ製造原価は2倍を遥かに超える事でしょう。
創業創業者小手川金次郎が伝統になっているのです。
一度飲んで見たいものです。
 
今晩は仲間と遅くまで飲み明かす事でしょう。
H君からは千曲川の銘酒「若緑」が、先輩O氏からは高級ブランデーが差し入れられます。
 
でもこの蔵の暗闇で長年蒸留された黒麹焼酎も飲んでみたいものです。
結局あれこれ、買い込みました。
地域文化の奥行は、お酒や味噌・醤油に閉じ込められています。
良い所には必ず素晴らしい歌(和歌や俳句)があり、醸造業が続いてきているものです。
 
番頭さんの話では「なごり雪」はこの蔵で撮影されたそうです。(作詞作曲の伊勢正三は津久見の出身)
 
今回、私は七輪を抱えて来ています。
臼杵川の岸辺には干物屋さんがあるはずなので、そこで「フグの一夜干し」を買い求め、
焼きながら…、銘酒を味わう魂胆でした。
でも、肝心の干物屋さんは未だ開店していません。
 
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     川に向かう小路。このあたりに干物屋がある。
     向こうの「竹馬」の看板は庶民的な値段でフグ料理を出してくれる店。
 
残念ですか・・・・・、諦めて・・・・、二王座(寺町)に向かいます。
星見寺の星月庵でお精進を戴く予定です。
 
 
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二王座の歴史の街並み

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”魅力のある地方都市”には必ずと言っていいほど「旨い酒・味噌醤油」があるものです。
同時に愛唱歌があります。
臼杵の町も同様です。
 
私の世代は「なごり雪」です。
作詞・作曲の伊勢正三はこの町で生まれ育ちました。(正確には佐伯)
駅で見送る胸キュンのシーンは臼杵駅を思い出します。
母は良く早春賦を口ずさんでいました。
「春は名のみの風の寒さや・・・・」 聞くたびにいつも一生懸命であった母を思い出します。
作詞の吉丸一昌は臼杵の生まれで、唱歌運動をリーダーを務め、
『桃太郎』、『日の丸』、『池の鯉』、『かたつむり』などを作詞、『故郷を離るる歌』等を訳詩しました。
大野川の上流、竹田は滝廉太郎の生まれた町です。
 
日本の近代音楽はこの美しい風土の中で誕生した…、思われます。
伊勢正三や南こうせつには豊後の風土や歴史を強く感じます。
 
私は15年前福岡の天神に勤めていました。
朝早くの由布院号に乗車すれば大分経由で臼杵に午前中に着きました。
臼杵造船での進水式をはじめ幾つもの企業の実査に招かれました。
”臼杵は豊後水道の入口にあります、海峡の天候・波の回復を待つために多くの船が停泊しました。
だから、街が富んだし、造船会社も生まれました”
フェリーを得意にしていた会社ですが、逆境の中でも頑張っている事でしょう。
進水式や実査が終われば海に出て釣りをしました。
何時も釣果はゼロでしたが・・・、帰りの土産には必ず立派な「関アジ・関さば」を持たされました。
単身寮のおかみさんが私の土産を待ってくれていました。
お蔭で、私は釣りで(も)名人の風評を勝ち得ていました。
 
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     「久家の蔵」のタイル画、臼杵が南蛮貿易の船が風待ちした港でした。アズレージョとよばれるポルトガル     の伝統的タイル絵が飾られています。
 
町屋街を抜けて、南から入った辺りが二王座です。
高台になっています。
阿蘇の爆発で降った火山灰が地圧で岩になりました。
そんな高台に中に切通しが出来ています。
少し柔らかい凝灰岩を刳り貫いてできた隘路いです。
臼杵城下に浸入してきた薩摩の島津軍と大友家臣が戦い、
西南戦争でも薩摩軍が臼杵隊との戦場になりました。
切通しは戦場で、接する寺町は防衛軍の砦であったのでした。
 
二王座はそんなお寺の仁王様に因んでつけられた名前でしょう。
 
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  臼杵二王座の切通しに通じる道。 中央に龍原寺・三重塔の九輪が見えます。赤いのは土産物屋の招き猫。
 
今でも重厚な瓦屋根、白い漆喰壁が町並みを形成しています。
でも、所々大正風の洋館が建っています。
江戸時代と明治大正が混じった、でも調和したノスタルジーの強い家並みです。
柊の生垣が美しく、黒い石畳みに白い小花が散っていました。
 
切通しの先に龍原寺があります。
バス停の前に重厚で美しい三重塔が建っていました。
ラッシュタイムでも一時間に3本くらいしかバスは来ないようです。
台風銀座の九州だからでしょうか?
九州地方に塔は二塔しかないそうで、これが貴重な一つです。
 
 
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私達の昼食は星月庵に予約してあります。
星見寺(臨済宗妙心寺派)のご住職がお若いころ修行し、創意工夫を重ね、文字通り「精進料理」を精進し、今では臼杵観光の一翼を担っておいでなのです。
お寺の一堂をご接待用に作り替えたお店でした。
私達は総勢18人、床の間・畳のお座敷に椅子席が用意されていました。
足腰に弱味のある私達世代には椅子席は有難いものがあります。
 
一品、一品には作り手の工夫が凝らされているのでしょう。
スタッフが説明してくださいました。
小麦粉を練って茹でて作った生麩が始まりです。
焼き麩にしたり、揚げ麩にしたり、食感が異なる煮物、汁物、和え物に致します。
そして、まるで「お肉」「焼き鳥」「かば焼き」にしてしまいます。
大変に美味しいし、見た目も美しいのですが・・・・、小麦粉のグルテン(タンパク質)は
胃袋手術半年にならない私にはヘビーなようです。
一口かば焼きを口にすると、胃袋から危険サイン(オエッとした感覚)が出ました。
病院の術後指導には「お精進料理」は出ていませんでしたが、
蕎麦(1年間はダメ)よりも、もっと負担が大きい食べ物のようです。
 
でも、胃袋の指示よりも好奇心が強い私です。
どれもこれも少しずつ口にしました。
その後、吐くことはありませんでしたが・・・・、胃に違和感が残りました。
胃袋さえ健康が回復していれば…、十分に楽しめるお精進です。(松花堂1890円から)
 
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食後、切通しを歩きました。
黒い石畳が時雨に濡れて、歴史の路地は趣き深いものがありました。
稲葉家長屋門の前を通ります。
春日局は稲葉正成の後妻として嫁いだ後、しばらくこの地で暮らしていました。
 
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   稲葉屋敷への道。石畳が濡れて綺麗でした。 左側の生垣は柊で、白い小花が石畳に散っていました。
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     二王座寺町。左遠くが善法寺、手前に蓮花寺。右の生垣の花も柊です。
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                                二王座の路地裏道。左の石垣がこのあたりの凝灰岩です。
 
臼杵川の川岸に戻ります。
住吉橋を渡れば吉丸一昌の記念館です。
でも、左折(南)して、私達は臼杵石仏に向かいました。
左の山脈の先に石仏が祀られています。
 
私は15年前にも拝観しました。
当時は鞘堂を建てていました。
雨風から石仏を守り、同時に厨子のような拝む機能を加えた建物です。
鞘堂が完成して、破損等を修復して・・・・、初めて拝観する臼杵石仏です。
期待で胸が高鳴ります。
 
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                           星見庵の庭先で・・・・、未だホトトギスが残っていました。
 
 
 
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臼杵石窟群と山頭火

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臼杵の二王座で食事を終え、臼杵石仏に向かいました。
時雨は次第に強くなります。
私の脳裏には臼杵石仏に感動した種田山頭火が浮かびます。
丁度今日の様な日だったのでしょう。
昭和4年山頭火は臼杵に来ています。
漂白遍歴の俳人には珍しく8日間も長逗留しました。
友人に宛てた手紙に次のように綴っています。
「秋風に送られて、時雨に迎えられて此処まで来ましたが、毎日の雨で詮方なしに『雨日聴雨受用不尽』などと呟いています。仏陀の慈悲蔭いや深くして、意外な供養を受けました」(中略)
また、「濡れ仏となって臼杵の石仏を拝観しました。
或は観賞し、礼拝しているうちに、すっかりうれしくなって、抱きつきたいやうな気分になりました。
そして豆腐で一杯やりました、こんなに親しみのある仏様、こんなにうまい酒がメッタにあるものではありません」 
    しぐるるや石を刻んで仏となす
    別れて遠いあなたの酒に酔うている  (山頭火)
 
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   山頭火が「抱きたい」叫んだ大日如来仏頭。以前はこのように傷んでいました。路傍の石仏と臼杵石   仏は異なります。美しさを永遠にとどめる事、当初の姿に戻すことが大切だと思います。(パネル複写)
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   修復後現在の古園石窟。落ちていた仏頭は戻され、体も修復されています。庇の天井がガラスなの   で陽の光が仏像に射して、まるで博物館で拝むような効果が出ています。
 
 
私が最後に臼杵石仏を訪れたのは15年前、家内を博多に呼んで、二人で訪れた時でした。
石窟を雨風から守る庇状のお堂を工事していました。
最初から石窟にはお堂があったのでしょう。
石窟の壁のあちこちに穴が開けられています。
この穴に材木を組んで、庇を作り、地面に柱を立て厨子のようなお堂にしていたのでしょう。
庇の下に立ち止まって仏様を見上げる…、そんな様に出来ています。
ですから、お堂を作る、傷んだ石仏を修復する、割れた石を元の位置に戻す、転げ落ちた仏頭は元の位置に戻す・・・、そんな作業は永く石仏を保存する意味でも、当初の姿に戻す、その意味でも自然な作業でした。
で、私は初めて修復を終えた石窟群を拝観するのです。
それも、青春時代一緒に古文化を廻った友人と一緒です。
嬉しさで心膨らむものがあります。
 
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                          草紅葉の臼杵石窟の庭。 向こうは蓮田です。
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     ホキ石仏群の前から谷戸を見る。真向いが満月寺。満月寺にはこの寺を建てた真名野長者夫婦     の石仏が祀られています。
 
国道502号線は臼杵川に沿って走っています。二王座から4Kほど登ると姫岳が見えてきます。
その谷戸の西山に石窟群があります。
東の山裾には満月寺があります。
お寺から眺めれば向かいの山が石窟群で、手前が池(庭園)だったのでしょう。
谷戸全体が浄土になっています。
京都笠置の浄瑠璃寺を数倍大きくしたような構成です。
 
前来た時にはお寺と石窟群との間は田圃でしたが、今は公園(庭園)に整備され、蓮田も出来ています。
”良く整備で来たなあ!” 実感です。
おまけに草紅葉が濡れて綺麗です。
谷戸を囲んだ山が霧に霞んでいます。
 
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   ホキ石仏群から山王山石窟を見上げる。 紅葉が散っていました。大雨が降るとこの谷が澤になる    ので石仏は傷みやすかったと思われます。
 
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    山王山石窟。この石仏が最も高い位置にありましたので、傷みが最も少なくて済んでいます。
 
美しい所には必ず伝説があります。
敏達天応(572~585年)の御世の事です。
豊後の国に幼くして両親に死に別れた炭焼き小五郎と呼ばれる青年が居ました。
一方奈良、三輪山の麓には玉津姫という名の美しいお姫様が居ました。
でも、玉津姫にはお顔に痣がありました。
姫は「顔の痣を治したい!」三輪明神い丑の刻参りをしました。
満願の夜、三輪明神のお告げがありました。
「豊後の国三重の山里に炭焼小五郎という者が住んでいる。
この者と夫婦の契りを結ぶなら末は長者となるであろう」
 
姫は豊後にやってきます。
夜になると白髪の老人が現れます。
そして老人お奨めに従い老人の家に泊ります。
その夜、再び夢を見ました。
翌朝、老人は姫を炭焼き小五郎の小屋に案内しました。
小五郎は当惑しましたが、姫と一緒に住むことにしました。
 
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     ホキ第1石仏群第3ガン、中央が金剛印を結んだ大日如来、左阿弥陀如来、右釈迦如来。 
     各石仏の台座にある円、四角の穴は願文や経典を納めたものと思われます。衣文の朱、宝冠や     顔の黄土色が残っています。

姫は黄金を持参していました。
ところが小五郎は池の鴨に向けて黄金を投げてしまいます。
姫は驚いて咎めました。「これは貴重な黄金ですよ!」
すると、小五郎はこんな石なら澤のそこここにありますよ。
驚いたことにこの池が三輪明神のお告げの「金亀ヶ渕」だったのでした。
池には黄金が沈んでおり、その水で顔を洗うと姫の痣は見る見る消えてしまいました。
こうして、小五郎は姫と幸福な日々を送りました。
 
長者夫婦には天女のような娘が生れました。(玉世姫)
姫の美しさは都にも噂が届きました。
欽明天皇の皇子、橘豊日皇子は遥々豊後宇佐八幡にやってきます。
玉世姫を見て、噂通りであれば嫁にするのが目的でした。
 
姫には子が出来ました。
橘豊日皇子は長者夫婦に言い残します。
「生まれた子が男なら世継ぎにするので出産後、連れてくるように。
女の子なら残して玉世姫だけが都に戻るように」
玉世姫は女子を出産します。
長者夫婦は孫を抱いて姫岳の頂上から遠ざかる船を見送ります。
 
これが長者夫婦と玉世姫との別れになりました。
船が遭難してしまったのです。
長者夫婦は悲嘆にくれました。
蓮減法師に祇園精舎の法話を聴きました。
「豊後の国に祇園精舎を作りたい。そして姫の供養もしたい」発願します。
 
こうしてできたのが満月寺であり、臼杵石窟群でありました。
だから、仏は玉世姫の面影を留めていて、優しく美しいのです。
玉津姫は推古天皇の10年(602年)に亡くなります。
長者は推古天皇十三年に九十七才でなくなりました。
 
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    ホキ石仏第二群第一ガンの阿弥陀三尊像。筆者はこの石仏が最も好きです。
    阿弥陀様の背の岩場から生えているのが忍ぶ草、緑が鮮やかでした。
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     ホキ石仏第二群第2ガンの九品の阿弥陀像。浄瑠璃寺の石仏版です。痛みが激しいのです        が・・・、手前の緑が忍ぶ草です。
 
こうしてできたのが臼杵石窟群なのです。(主として柳田国男の真名野長者物語から・・・)
真偽は別として、石仏の優しさや美しさを見詰めていると、物語を信じたくなります。
少なくても平安時代の後半、祇園精舎というユートピアが信じられた時代に、
豊後の長者(豪族)が信心深く、祇園精舎を建てようとしたのは間違いないでしょう。
 
臼杵石窟は凝灰岩の大岩を刳り貫いて出来ています。
阿蘇山が噴火して、火砕流が降り積もって、地圧で固まって出来た岩です。
灰色ですが、柔らかいのが特徴です。
ですから、彫刻するには適していますが、野曝しするには不向きです。
まして、この谷戸は大雨が降れば澤になります。
丈六の如来石仏の結跏趺坐した、下半身はもう崩れきって姿を留めません。
立像も足元は崩れてしまっています。
更に、湿った岩に黒カビが生じてしまって・・・・、足が無いので…、其処だけ見れば幽霊のようです。
ですから、今次の修復工事では大雨が降っても、
増水した激流が石仏を傷めないよう工事をしたものと思われます。
 
お顔やお体には未だ彩色が鮮やかに残っています。
建立されたのは大半が1100年代平安時代後半(一部鎌倉時代)ですから、900年を超えています。
その大半の時代を、野晒で過ごしてこられました。
よくぞ、この美しさを留めてきたものだ・・・・、感動します。
 
 
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ホキ石仏第一群4ガンの地蔵十王像。中尊の地蔵像は半跏姿、錫杖を持たない古式の地蔵です。
左右に配した十王は冥府で亡者を裁く。光背も鮮やか。これだけが鎌倉時代の作と言われています。
 
そして、今次の修復・整備に際して素晴らしい工夫もあります。
庇の上部を透明なガラス(樹脂?)で覆った事です。
お蔭でお日様の光がスポットライトのようにして、石仏を照らしています。
まるで、博物館で拝観するような効果が出来ています。
 
山頭火は時雨に濡れながら、でも大日如来に仏頭を抱きしめたい…、衝動に駆られながら見つめたのでした。
私達は庇の下で濡れないで、じっくり拝観する事が出来ました。
それだけでも、ありがたいと思います。
 
石窟の岩壁に忍ぶ草が自生していました。
陸奥のしのぶもちずり…、とうたわれた枕詞になった「忍ぶ草」です。
水が無くても、陽射しが少なくても、そして岩場でも生きて行ける…、冬も常緑で・・・、
だからこそ「忍ぶ草」なのでしょう。
忍ぶ草のように、永遠に美しく残したい臼杵石窟であります。
 
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   一番低い位置にある古園石仏群は最も傷んでいます。石仏の結跏趺坐した下半身は澤の水で崩れてしまっ    たと思われます。また、黒っぽい黴や苔が生してしまっています。
 
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鎮魂の高瀬石窟

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臼杵石窟を拝観して、私達はもう一つ石窟を見よう…、という次第で高瀬石窟に向かいました。
豊後路には阿蘇山や九重連山の東山麓を水源に、幾つもの河川が流れています。
北から山国川、大分川、大野川、臼杵川などがそれです。
川沿いには古い街道があり、幾つもの石窟があります。
最も多いのが大野川沿いで、竹田から豊後大野にかけては24もの石窟が残っており、
石仏の数は70を超します。
15年前、博多に単身赴任していましたので、週末は良く出かけたものでした。
特徴は犬飼、普光寺、犬迫、志賀八幡、宮迫東、宮迫西磨崖仏のように高さ3mを超す巨像が多い事です。像は不動明王が多く、時代的には大半が臼杵石窟と同じ平安時代後半から鎌倉時代にかけて、一部は室町時代まで下ります。
作者も、発願者も、その動機も良く解りません。
肝腎の経塚が盗掘されているから、石仏以外何も残っていません。
 
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              高瀬石窟(右端)のある谷戸。向かいが霊山。もう冬の日は傾いていました。
 
私は、「臼杵石窟だけじゃない!」 日本文化研究会の仲間に見て欲しい・・・・、期待して高瀬の石窟に向かいました。
高瀬石窟は大分川の支流七瀬川の岸辺にあります。
大分市街から眺めると、西に霊山と呼ばれる小高い山があります。
霊山の中腹には「飛来山霊山寺(天台宗)」があります。
山の姿がインドの「霊鷲山」に似ていたので、この名がついたと言われます。
中国の那伽法師が伽藍を建立し(708年)、その山麓に複数の石窟があり、
その一つが高瀬石窟(重要文化財)なのです。
 
午後3時、もう辺りは薄暗くなり、加えて冷たい時雨が降り止みません。
道から少し谷戸に入る入口付近の丘に石窟はありました。
凝灰岩を掘った石窟は高さが2m足らず、奥行きが1.5m、幅が4mでしかありません。
この中に大日如来をはじめ5像が彫られていました。
この石窟は東向きに出来ていますので、午前中にしか陽射しは入りません。
仲間がLED懐中電灯で照らしますが、青白い光が無気味な感じを増すばかりで、
目が暗闇に慣れてもはっきりとは解りません。
石仏に彩色された朱色ばかりが暗闇に浮き出ています。
加えて石窟の前は狭くて4人位しか立ち止まれません。
私達は18人、拝観には暫く順番待ちです。
 
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         高瀬石窟。中央が胎蔵界大日如来。 左が大威徳明王、右が如意輪観音。
         凝灰岩の岩肌に朱色が鮮やかでした。
 
中央が丸彫りの大日如来、その左に大威徳明王、深沙大将像(じんじゃだいしょう)が、
その右に如意輪観音と馬頭観音が祀られていました。
 
豊後大野の犬迫磨崖仏も大日如来が主尊です。
子の大日如来には恐ろしい祟り伝説が残されています。
大野地方を治めていた豪族緒方氏が滅亡したのち、その怨霊を慰撫するために磨崖仏が建立され、
併せて地域の守護神になって欲しい…、御霊信仰と呼ばれる石窟と言われています。
 
時代は末法時代でした。
末法とは「この世もお終いだ・・・」そんな時代のように教わりましたが、それは正しくなく、
「仏教がそのままではもう役に立たなくなる・・・」そんな時代を言います。
鎮護国家の仏教は役に立た無い事は平安時代末期にかけて人々の実感だったのでしょう。
新興の豪族は自前の武力で荘園を略奪します。
貴族は没落し、殺されます。
彼らの鎮魂を目的に掘られた石窟も数多い事でしょう。
私は、高瀬石窟もそんな鎮魂石窟の一つ思って見詰めます。
 
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左は如意輪観音、右は馬頭観音像。
          
掘られた石仏は何れも密教の仏です。
大威徳明王は牛に跨り、六面六臂六脚の恐ろしい姿です。
普段は優しい阿弥陀様が人々を教え導くために敢えて恐ろしげな姿をとられたものです。
大日如来を挟んで逆の位置に馬頭観音像(馬頭明王)があります。
三面六臂の恐ろしい形相です。
人間の欲望や苦悩、災難など諸悪、諸悪行を喰い尽くします。
大日如来の従って、牛馬二つの鬼神が人間の諸悪を救済してくれる・・・・、そんな石窟なのでしょう。
そんな、考えを端的に表しているのが一番左にある見慣れない仏、深沙大将像です。
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   右が大威徳明王。牛に跨った六面六臂六脚の恐ろしい姿です。
   左の立像が深沙大将像。
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          深沙大将像のお腹には少女の顔があります。
         髑髏の首飾り、腕に絡んだ蛇と対照的です。姿形は恐ろしくても心は仏である・・・、そうな          表現なのでしょう。
 
深沙大将像は怖い表情です。
髪は怒りで逆立っています。
眼は憤怒で見開いていますし、首飾りは髑髏を繋いでいます。
赤いふんどし、虎皮のももひきは赤鬼そのものです。両手両足には蛇が絡んでいます。
奇妙なのは腹に少女の顔が付いている事です。
深沙大将像が恐ろしい形相でありながら、実は心は優しい…、そんなことを示しているのでしょう。
 
人間は現代も1000年前も全く変わっていないものだ・・・・、思わせてくれます。
人を殺せば、昔も今も罰せられました。
現代も人殺しはたくさんいます。
捕まるか、捕まらないか、客観的な証拠があるかないか・・・でしょう。
昔も今も人の怨念は怖いし、怨霊を慰撫したいものだ・・・・、思いました。
昔の人はその為にこうした石窟を彫ったと思われます。
 
臼杵石窟は娘の鎮魂の為に祀られたと思います。
高瀬石窟は殺された荘園領主の魂を慰撫するために祀られたと思います。
どちらも、素晴らしいものがあります。
 
高瀬石仏から国道210号線を1Kほど下れば豊後国分寺、さらにその先が今晩の宿湯布院です。
明日は湯布院の金鱗湖を書きます。
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                右から大日如来、大威徳明王、深沙大将像
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    昨年整備されました。日が傾くと高瀬石窟はもう暗闇で良く解りません。でもその分、霊感を強く感     じます。
 
 
【追記】 
今回私の写真は最悪の環境で撮りましたので鮮明に写っていません。
高瀬石仏で検索されて他の人のブログで確認されることをお奨めします。
 
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湯布院金鱗湖の幻想

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今晩の宿は湯布院です。
友人が言います。
いつから「由布院」から「湯布院」に変えたのだろう?
言われてみれば、由布院と記憶していましたし、此処は由布岳の西山麓ですし、由布市湯布院町です。
湯の字に変えたほうが・・・・、全国にアピールする・・・、そんな思惑があったのかも知れません。
 
私の携帯が鳴ります。
かけてきたのはB-SPEAKUという名のケーキ屋(喫茶店併設)です。
「5時で当店は閉店です。ご予約のロールケーキ早く取りに来てください。」
私は翌日耶馬渓の喫茶店「木精座」でお茶うけにする為、予約を入れておいたのです。
 
湯布院「湯の坪街道」のお店は午後5時になれば閉店してしまうのです。
街にはお酒を飲ませる店も、パチンコ屋も、お姉さんがお相手してくれる店も・・・・、
風俗営業の対象とするようなお店はありません。
”ゆっくり、静かに温泉に浸かって癒しの時間の過ぎるのを楽しむ”
街中がそのように出来ています。
だから、お日様が沈めばお店は閉店なのです。
 
JR九州の駅舎からして、画廊喫茶ですし、街中には民芸店や画廊が数多くあります。
何故、こんな街が出来たか?
それは地域住民がそうした街造りを決めたからです。
そんな街づくりをリードしたのが玉乃井、亀の井別荘だったのでしょう。
そんな、街造り思想が日本有数の人気温泉を作りました。
 
旅から戻ると中村勘三郎さんが亡くなられました。
TVでは人気歌舞伎俳優の追悼番組がオンエアーされていました。
ご家族が湯布院で寛ぐ姿を写していました。
場所は亀の井別荘でした。
湯布院が、亀の井別荘がお好きだったのでしょう。
良くお似合いの温泉旅館でした。
 
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                         夜の金鱗湖。木立の中の灯りが「亀の井別荘」です。
 
私は旅行の出がけにインターネットで湯布院を調べました。
私達は旅に出ると、何時も旅館の風呂のほかに共同浴場の湯につかります。
湯布院には「湯のツボ」と「下ん湯」二つの共同浴場があります。
どちらが良いかな?
金鱗湖の岸辺にある下ん湯が野趣に満ちているようです。
茅葺の湯小屋も詫びているし、露天風呂もあるようです。
ネットサーフィンしていると、「スッチーの混浴露天風呂体験記」に出ました。
「混浴露天風呂に入るのは・・・・趣味だからもう恥ずかしくない・・・、
でも湯布院下ん湯は脱衣場も男女一緒なので・・・・・、着物を脱ぐ時は流石に恥ずかしかった・・・。」
書かれています。
湯浴みするスッチーさんの写真は・・・、大人の色気に満ちています。
私は、下の湯に浸かる事に決めました。
 
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       右端の茅葺屋根が共同浴場「下ん湯」です。霧が立ち上っているのが金鱗湖です。共同浴場        の内部はhttp://www.food-travel.jp/ooita/shitanyu.htmlをご覧ください。
 
夕食は7時からです。
寸時を惜しんで、湯の坪街道を通って、突き当りの金鱗湖に向かいます。
6時過ぎですので、大半の土産物店は閉店し、温泉客の姿も見えません。
静寂な温泉町です。
下ん湯は無人で、入り口にあるポストに200円を投入れて入ります。
お客さんは居ない・・・・、と思ったら一人親爺さんが浸かっていました。
 
金鱗湖の湖面には霧が立ち上っています。
湖底から温泉と清水が湧き出ており、その温度 差のために湖面から霧が立ち上るのでしょう。
今日は一日中時雨でしたが、夜になると、雲が切れてきました。
明日は天気に恵まれそうです。
 
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    翌朝の金鱗湖。 向かいの茅葺屋根が共同浴場「下ん湯」。隣が画廊「シャガール」です。湯布院は    民芸(竹細工や陶器)絵画等の展示がそこここにあります。
 
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          金鱗湖の西岸にある亀の別荘の門。未だ少しだけ冬紅葉が残っていました。
 
私達の宿は野蒜山荘、湯布院の温泉町を見下ろす高台にありました。
由布岳の麓でもあります。
此処のお湯は・・・・、入った途端に肌がツルツルする感触です。
こんなお湯は初めてです。
店主に訊けば、
「湯布院のお湯は総じて単純泉で、無色・無臭です。ところが当館のお湯は無色・無臭でありますが、
「ナトリウム炭酸水素塩泉(重曹泉)」です。
イオンが多量に含まれ手いるので…、お肌がスベスベするのです。
同じ阿蘇火山脈にあっても、由布岳の東「別府温泉」は硫黄泉です。
 
なるほど、下の湯より野蒜山荘の湯は良いのだな! 納得します。
 
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                             金鱗湖の湖岸から見た亀の井別荘母屋
 
翌朝、食事までの1時間を使って、また仲間を誘って金鱗湖を訪れました。
昨晩は湖水の中に佇んでいた水鳥は元気に泳いでいます。
良く知ったもので温泉客の餌やりを期待しているのです。
私達の姿を確認すると・・・・、「何か食い物をくれ!」
言いたげに集まってきます。
これは雁かな? 鴨にしては大きすぎるし、ガチョウにしてはしては綺麗すぎる・・・・。
私達が餌を持っていない…、判断すると直に他の人影を見つけて泳いでゆきます。
 
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      雁(?)が亀の井別荘に向けて泳いでゆきます。雲間が切れて、今日は快晴になりそうです。
 
 
亀の井の庭は綺麗に整備されています。
まだ少しだけ紅葉が残っています。
湖水の霧は昨晩以上に幻想的です。
今日は良い天気に恵まれたようです。
 
もう、通学時間帯です。
湯の坪街道にはランドセルを背負った子供達が急いで歩いてゆきます。
交差点にはお母さんが見守りをしています。
道が狭いうえに、霧が立ち込めるし、外来客ドライバー多いので交通事故が心配されます。
お母さんも一生懸命なのでしょう。
清々しい、湯布院の朝です。
 
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      早朝の湯の坪街道。お店はお土産物屋や民芸村。 
      道筋に立っているのは生徒の交通指導をしているお母さんです。湯布院全体が霧の中です。
 
 
 
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深耶馬渓の一目八景

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12月3日、霧に沈んだ湯布院を後にして、大分高速道を玖珠に向かいました。
昨日までの冷たい時雨は嘘のような快晴に心も弾みます。
昨日は「石仏は濡れたほうが陰影が出るし、紅葉も綺麗だ!」なんて強がりを言っていましたが、
矢張り旅は天気が恵まれないと、難儀です。
 
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                            霧に沈んだ湯布院を後にして、私達は耶馬渓に向かいました。
 
今日の最初の目的地は耶馬渓の「一目八景」です。
里山の道は次第に山中に入ります。
紅葉の木が目立ちますが、もう散ってしまい枯れ木です。
秋の盛りには沢山の観光客を集め、この道路も混雑した事でしょうが、
今日は対向車さえ疎らです。
 
道路の左を渓流が流れています。
左右は真っ黒い岩で囲まれています。
バス停には「軍艦岩」と表示されています。
切り立った岩が軍艦のように見えるから、この名があるのでしょう。
岩場の平面には「南無阿弥陀仏」刻まれています。
見上げれば、遠く切り立った大岩が見えます。
あの辺りが「一目八景」なのでしょう。
渓流の底には真っ赤な紅葉が沈んで居ました。
 
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                                     軍艦岩から見上げた一目八景の大岩
 
 
耶馬渓の魅力は間違いなく切り立った岩のある景色でしょう。
垂直に聳える巨岩には松や紅葉・蔦が色を添えています。
中国の石林や黄崗山(何れも桂林のある浙江省の名勝地)にあるような、南画の風景です。
そんな、岩場の風景を一目で八か所も見られる・・・、だから「一目八景」の名が付き、
耶馬渓の人気スポットになっているのです。
 
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       正面が鷲巣山。石灯籠が見えます。その上に祠が祀られているのでしょう。
       対岸には橋が流されたので渡れません。
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                           正面が群猿山。未だ少しだけ紅葉が残っていました。
 
展望台に上りました。
眼前に聳える岩場が鷲の巣山、その奥が群猿山です。
屹度あの直立した岩場に鷲の酢が巣があったり、群猿が遊んでいるのでしょう。
鷲や猿が似合いそうな景色です。
海望嶺、仙人岩、嘯猿山、夫婦岩、、烏帽子岩、雄鹿長尾嶺が見えるのですが、
私にはどれがどの岩か、どの峰か解りません。
岩場から視線を下げれば松が岩に這っていますし、
大半は散ってしまっても未だ紅葉も色を添えています。
 
細道があって、その先を辿れば祠も建っているようです。
足元には渓流があります。山国川の支流の「山移川」です。
道路の此方側から祠に渡る為に作られたのでしょう。
鉄橋がありますが、見れば押し流されてしまっています。
 
今年の7月14日、山国川は水害に見舞われました。
その時に、この鉄橋も押し流されてしまったのでしょう。
観光地の小さな鉄橋など修復するのは後回しなのでしょう。
そういえば、頼山陽の石碑も流されてしまって、行方知らずのまま…、と聞きます。
 
耶馬渓なんて、いかにも南画的な、漢詩に出てきそうな名前です。
「和」の名前ではありません。
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   頼山陽が美しすぎて筆を投げた…、と言われる本耶馬渓の競秀峰(直下を青の洞門が通っています)
   碑は若山牧水。
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移川にかかっていた鉄橋は流されたままでした。
 
陽明学者であり「日本外史」の執筆で名高い頼山陽がこの地を訪れました。(1818年・文政1年)
長崎に遊学し、その帰路中津に三浦梅園(天文学者)田能村竹田(南画家)に会おうと立ち寄りました。
その折にこの景色に感動し「山国谷は天下一だ・・・!」とうたいます。
山国谷を中国風にいえば「耶馬渓」になるのだそうです。
決して「邪馬台国」とは関係ありません。
 
その耶馬渓の名が渓谷美、岩肌美の代名詞になり、南画の似合いそうな景色は、
日本中に、台湾までに「○○耶馬渓」を作らせたのでした。
 
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                                               深い耶馬渓の土産物店
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もう、10時を過ぎたというのに一目八景は私達以外に人影はありません。
風は冷たいし・・・・、外に長居は苦痛です。
蕎麦饅頭屋には湯気が立ち上って、お婆さんがジッと私達を見ています。
目と目がぶつかって・・・・、未だ、腹は空いていないのですが、蕎麦饅頭を戴くことにしました。
全部で18個、お婆さんの笑顔が見られました。
 
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            右端が蕎麦饅頭を売っているお婆さん。甘すぎない粒餡が美味しかったです。
 
 
 
 
 
 
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耶馬渓の薫り高いコーヒー「木精座」

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12月3日、今日は早めに動いているので、昼食後に予定していた喫茶を前倒しにすることにしました。
喫茶店は耶馬渓町平田にある「木精座」です。
何故、其処を選んだのか?
それは、廃校になってしまった木造校舎を小学校を利用している・・・・、ネットに載っていたからです。
山国川は総じて流れが激しく、谷合を流れていますが、
平田はその名の通り平地が開けて、田圃が目立ちます。
其処に、近在から子供を集めた大きな小学校があったのでした。
学校の名は「城井小学校」でした。
昭和40年、廃校になってしまいました。
 
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     戦後の城井小学校校舎
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      中段の写真、中央が城井小学校の職員室。昭和40年まで使用されました。
         (出典城井小学校周年誌)
 
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   木精座は城井小学校の職員室の跡地利用です。店主の上西さんは二階にお住まいです。
 
10時半、「お約束より大分早いのですが、コーヒーを戴けますか?」
尋ねると、店主の上西賢子(よしこ)さんは、
「未だお化粧もしていないのですが・・・・、待ってて下さいよ!」
言いながら、快く迎え入れてくださいました。
このお店の開店は午後からなのです。
 
早速に薪ストーブに火を入れます。
そして、
「電話で窺がったところ、皆さんは歴史に興味がおありでしたので、
城井(きい)小学校のアルバムを用意しておきました。」
言われながら、周年記念アルバムを2冊お見せ戴きました。
 
『学校は写真のように大きかったのです。
木精座の使っている建物はその職員室でした。
此処だけが二階建てでした。
廃校になってしばらく放置され、イザ取り壊し…、という段になって・・・・、
私が”待った”を掛けたのでした。
”私が此処の1階で喫茶店をする・・・、二階は私が住みこむ・・・・、
だから、城井小学校の校舎を残してほしい”。
私の提言が受け入れられて、職員室だけが取り残されました。
以来、木精座はかれこれ30年の歴史があるんです。』
 
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   木精座の入口では木像(ゴマスリン)が出迎えてくれます。この像も地域の仲間が作ったものです。
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      ピアノを挟んでスピーカーと真空管アンプ、これも仲間が持ち寄ったものだそうです。
 
 
職員室の入口には大きな木像があります。
室内には木工品や陶器、玩具が並んでいます。
真空管方式の古くて大きなアンプがあって、歌舞伎絵(凧絵)が描かれたスピーカーが置かれています。
聞けば、地域の人達が面白がって、あれがある、これは使わなくなった…、
言いながら持ち寄ってくれたそうです。
コーヒーカップも手作りでした。
 
私は真空管アンプの音が聞きたくて・・・・、小学生の唱歌を聴きたいな・・・、
無造作に積み上げられたCDを探してみます。
殆どが、ジャズで、少しバロックが入っていました。
古いソファーに座りながらバロックの響きにしたります。
煙突が室内から…、ガラス窓の外に伝っています。
真っ黒い煙が昇って行きます。
柔らかい温もりが室内に広がっています。
室内にコーヒーの香りが立ち込めてきました。
 
私達は昨夕湯布院で買い求めたケーキロールをカットします。
実は予約を入れる際に「ケーキはありませんか?」
伺ったところ
「18人は無理ですから・・・・、持ち込んでください」言われていたのでした。
 
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     私の仲間18人とコーヒーを戴きながら満ち足りた時間を過ごしました
     中央に薪ストーブ、煙突が左に走っています。
 
 
店主の上西さん多分50代、私達より一回り近くお若いようです。
この平田で生まれ、城井小学校を卒業して、成人になって、大分市街に就職されたそうです。
ある日故郷に戻ってお父様に聞かれました。
「母校の城井小学校はどうなった?」
お父さんは
「こんな過疎になってしまったんで・・・、小学校はずっと前から廃校になってしまった。
利用計画も無いので取り壊してしまうのだろう・・・・」
「私の学び舎の、あの教室が壊されてしまうなんて・・・、それは残念だし・・・・・、私にも何かできる筈だ!」
そう考えると、前述のように、「廃校喫茶店」構想が建ち上がり、行動に移したのでした。
 
こんな思いをしている人は日本中の田舎には沢山いる事でしょう。
過疎化が進んで、廃校の運命の校舎は津々浦々にあるでしょう。
何れも地域住人の迸る愛情が校舎に注がれて、再利用が検討されます。
でも、再利用が進められたのはごく一部で、大半の校舎は取り壊されてしまいました。
城井小学校は稀に見る実行力のある「上西さん」が居られたので、校舎も壊されないで存続しています。
 
考えてみれば私の育った昭和は沢山の誤りをおかして来ました。
その最大の誤りが国土利用です。
日本の国土の66%は山林で、田畑を加えれば80%に及びます。
農林産業は産業であると同時に80%の国土利用計画でもあります。
美しい国土は、「農林業従事者の生活の場」でありますが、
同時に「安心・安全対策」であります。
国民の「癒しの場」でもあり、「様々な生物が命を種を繋ぐ場」であります。
 
それ等を忘れて、GDPを大きくする為の…、人材を送り出す場ばかりが強調されてきました。
都会に働く労働者を送り込む機能ばかりが着目されてきました。
まともに農林業で生計を営む、山間地で産業を育成する・・・、そんな正しい視点は忘れられてきました。
「若い人は大都会に出て働け、残った年寄りには助成金を呉れてやるし、生活ができる程度の価格でお米を買い上げてやるから・・・・、文句を言うな」
そんな政策でした。
結果的に田舎には・・・・、爺さん婆さんが取り残されました。
これでは「国政による姨捨山」と言われても仕方ないでしょう。
そして、何ら国土利用計画を見直すまでも無く・・・・、
今回の総選挙でもTPPの名の下で、姥捨て山政策は加速しようとしています。
 
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                                             左端が上西さん。
  
江戸時代末期日本の人口は3000万人、9割は農山村に住んでいました。
いま、農村人口はどの位でしょうか?
江戸時代よりも過疎が進んでいるのではないかと…、思います。
 
この夏の集中豪雨で耶馬渓では多くの家が流されました。
橋も流され…、放置されています。
原因は地球温暖化による集中豪雨もあるでしょうが・・・・、
山林のダム機能が損なわれている事も重要です。
人手の入った美林は根っこが雨水を貯水する機能があります。
ところが人手が入らないと、木は痩せ細り、根を張れません。
少しの風で根が浮いてしまっていますから・・・、
少し雨が降れば簡単に地滑りが起きてしまいます。
鉄砲水が人家を押し流してしまいます。
 
上西さんが18人分のコーヒーを沸かすのに…、40分はかかったでしょうか?
丁寧に豆をひいて、時間をかけてドリップさせていられます。
心地良い空間で、たおやかな時間が過ぎて行きました。
「美味しいコーヒーですね!」
誉めると上西さんは嬉しそうに言われます。
「コーヒー豆は大分の友人が厳選されて、悪い豆を取り除いて、焙煎してくれました。」
お顔はこうも言っているようです。
「時間を充分にかっけて沸かしたコーヒーです。愛情の入ったコーヒーですから、香り立って当然でしょう」
用意していただいたアップルパイもおいしかった・・・・のでした。
これなら、ケーキは持参しなくてよかった・・・・。
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         コーヒーカップも手作りです。持ち手が無い湯呑のような形は手作りだからでしょう。
         コナコーヒー(ハワイ)のような嫌味の無い少し酸味を感じるコーヒーでした。
 
私達は上西さんを囲んで写真を撮りました。
良い時間を過ごせた・・・・、満ち足りた心で木精座を後にしました。
真っ赤なスモークツリーが見送ってくれました。
この樹は上西さんが植えたものでしょう。
同氏の説明によると、昨年来真夏に一度落葉してしまうのだそうです。
秋口に慌てて若葉を出して、初冬には真っ赤に染まるのだそうです。
 
上西さんにエールを送ります。
こんな人が目立ち始めた昨今です。
明日は、もうひとつ、耶馬渓の「コラボ食堂」を紹介します。
こちらも、激賞ものです。
 
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                                       右端がスモークツリーです。
 
木精座の案内です。
TEL :0979-54-2520
住所  :中津市耶馬溪町平田1525
営業時間:12:00~22:00
定休日 :火曜日
コーヒー(小さなケーキ付? 時には御餅も出るようです) 500円
 
 
 
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耶馬渓「ほのぼの茶屋」の尊さ

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「豊後路の旅」の工程表を日本文化研究会のメンバーに見せた時、指摘を受けました。
「12月2日の昼食、予算は300円になっているが、頭の1が足りないのか、お尻の0が抜けているのか・・・・?」
誰しもが、まさか300円で昼食が取れるとは思っていませんでした。
 
県道28号線を深耶馬渓から下ります。
カーナビはこの「該当する電話番号は無いので・・・・、代表番号で表示します・・・」ナビします。
場所は「中津市耶馬渓町大字山移(やまうつり)」です。
道は幾度も橋を渡って、その度に「山移川」が左右に移ります。
風林火山では「動かざること山の如し」・・・・・・、と言うのに、
「山移」なんて、奇妙な地名だなあ・・・? 思います。
 
カーナビの指示する場所に着きました。
でも、道路脇には何もありません。
畑がばかりで、農夫が野菜の収穫をしておいでです。
「ほのぼの茶屋、何処ですか?」
 尋ねましたが即座には・・・・、
「そんなの、知らんなあ・・・!」
仲間は私への不審が増します。
「今日の昼は・・・・、どうなるんだろう? 300円ランチからしておかしいと思った。」
 
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   今年の水害で大被害を受けた耶馬渓町大字山移にある「山移小学校」の復興看板。
   同校の鉄筋校舎は耐震建設ではないので使われていません。写真のようなプレハブ教室に8名の生徒さん   が学んでいます。 こちらも廃校の危機にあるそうです。(写真は大分合同新聞)
   「ほのぼの茶屋」はこの学校の傍にあります。
 
叔父さんが思い出してくれました。
「ああ、酒屋の窪田さんが納屋で始めたレストランちょんかえ! 1Kほど戻れば酒屋さあるちょんかえ。
その裏にレストランさあるちょる。」  (方言は適当です)
 
酒屋さんの裏に小さなレストランがありました。
駐車場にテーブルが倒してあり、”貸切です” 私達を迎える為配慮してくれていました。
レストランの入口には野菜やカボス、麹を使ったドレッシング、蒟蒻や切干大根などが展示されています。
瓶には「ほのぼの茶屋」のレッテルが貼られています。
「ほのぼの茶屋」は登録商標のようです。
 
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   ほのぼの茶屋ブランドの商品(左日本酒、右焼酎)この他に柚子やカボスのドレッシングや甘酒があります。
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      マスコミ取材が多く、すでに有名な「ほのぼの茶屋」。右上写真の右から二人目が代表の窪田エツ子さ       ん。こぼれんばかりの笑顔が素敵な、都会派美人でいられました。
 
窪田エツ子さんが出迎えてくださいました。
「はるばる、よう来なすったのう! 娘ば横浜さいっちょるさばい、横浜から来なさると嬉しか・・・」
             (再び方言は適当です)
テーブルには「ほのぼの茶屋」を記事にした沢山の冊子や本が置かれています。
私達の質問に答えようと、準備されたようです。
 
『ほのぼの茶屋を始めたのは3年前(?)でした。
山移のお爺ちゃん、お婆ちゃんにお昼を食べさせてあげようとして・・・・、300円ランチを用意したのが始まりでした。
それが、評判になって今ではこうした耶馬渓を旅行される方が寄って下さいます。
 
食材は畑で採れた野菜や季節季節に山で採れる山菜やキノコです。
山移には「米造りの達人」「蒟蒻造りの名人」「味噌や甘酒造りが好きな人」 等々沢山います。
そんな達人のお年寄りから知恵を戴き、庭先で出来た農産物を持ち寄って”山移興し”を始めたんです。
小さなチャレンジでしたが、今では口コミでお客さんも増えました。
コラボのメンバーも15人に増えて・・・・、
みんな楽しんで”山移のコラボ茶屋”を運営してるんですよ!』
 
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                    ランチが美味しいのは素材が良いから、素材は有機だから、美味しんです。
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       厨房の様子。左が代表の窪田さん。 右端で働いているのが娘さんらしいのです。
 
代表の窪田エツ子さんは窪田酒店の三代目のお嫁さんのようで・・・・・、
町は過疎化して、娘は横浜に嫁いでゆくし・・・・・、酒店の売り上げは増えない。
とかく暗くなってしまう嫁ぎ先で、山移で何かしたい、山移でなんか役に立ちたい・・・、
始めたランチサービスが口コミで広がって、こうして私達のようにネットで調べて、
はるばるやってくる旅行客も増えているのでしょう。
 
厨房をのぞくと3人の女性が働いておいででした。
一人がお若い美人で、屹度窪田さんのお嬢様でしょう。
二人は窪田さんと同じ50代とお見受けしました。
皆さん、楽しそうに働いておいでです。
コラボ( collaboration)の原点、共に働く、協力する歓びで生き生きしておいでです。
 
 
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                    窪田酒店の味噌蔵。ここで美味しい味噌が出来、味噌漬けが作られています。
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         窪田酒店の店棚、お目当ての「諭吉の里」はありませんでした。半分が耶馬渓の酒でした。
 
 
 
お料理が出てきました。
お盆に9つもの小皿を並べて、各々に少しずつお料理が盛られています。
味噌汁は名物の「ダンゴ汁」ですし、「ひきまめし」もあります。
人参の葉っぱの炒め物なんて、初めて口にしました。
芋サラダも美味しいし、味噌漬けも良かった。
お肉は一切なし・・・、口にするのは総て農家の庭先でできた「有機野菜」ばかりです。
どれもこれも、美味しかったのです。
 
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       これが300円のランチです。空の小皿があるのは私が食べてしまったからです。右手前がウロ抜き人       参の葉の炒め物。その左がひきまめし。
 
300円なんて安すぎる、ご飯のおかわり(50円)なんて・・・、
もっと高くしても…いいんじゃない! 素朴な疑問をぶつけると、
「山移のお年寄りに食べていただくのが最初ですから…、300円なのです。それに食材はタダですから・・・。」
窪田さんのお顔には「コラボでやっているんで…、利益を目標にしているんではないんです・・・。」
書かれています。
「でも、利益はドレッシングや甘酒、私が自費出版した本(大分の田舎料理レシピ)で出しています。
良かったら買っていってください」
私達はレシピ本(1000円)やドレッシングを買い求めました。
 
窪田さんと一緒に記念写真を撮りました。(ほのぼの茶屋のブログに載っています。)
 
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                       これが窪田さんが自費出版した故郷料理のレシピ本です。(1000円)
 
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                                        有機野菜料理を楽しむ私達
 
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                              今人気の麹ドレッシング。 手前左は「鬼柚子」の実です。
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                         ほのぼの茶屋オリジナルの「柚子酢のドレッシング」
 
 
耶馬渓町大字山移とは珍しい地名です。
人名ではないか? ネットで調べると全国で10人ほど居られて、この辺りをルーツに福岡にもいるそうです。
マタギ(猟師)がルーツかな・・・、それにしてはこの辺りには田圃もあるが・・・?
 
私は毛沢東の愛語「愚行移山」を思い出しました。
「愚公、 山を移す」。
昔、愚公が自分の家の前にある山を邪魔に思って、山を移そうと少しずつ削ったという故事(列子)に依ります。
少しずつでも努力する尊さを言い表します。
二宮尊徳のような人が、この山里に住んでいたのかも知れません。
 
「ほのぼの茶屋」の努力は、村興しは「愚行移山」でもあるようです。
 
私は旅に出るといつも「風土」を想います。
地域に住んでいる人を「土の人」と呼びます。
窪田さんらは土の人です。
私達のように通り過ぎて行く旅人はまるで風のようなものでしょう。
土の人には「土着の良さ」は解らないものです。
庭先で作った野菜はタダ同然で、たいした価値は無いと思っているでしょう。
でも「風の人」は庭先野菜を有機野菜と呼び、都会なら価値がある事を知っています。
人参の葉っぱを「美味しい」と言って食べ、有機野菜は良いなあ・・・、実感できます。
 
「土の人」と「風のような人」が交いながら、地方から日本が元気になっていってほしいものです。
それは「愚行移山」の遥かな道程でありましょう。
 
ほのぼの茶屋にエールを送ります。
こんな試みが全国に広がったら・・・・、日本の田舎は魅力が溢れてきますし、私達の生活も楽しくなります。
イギリスの田舎のようになると思います。
     真心に優る味なし ほのぼの茶屋  (拙句)
 
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                山移小学校の俳句教室。今は生徒8人の過疎小学校です。でも、地域の人が俳句や              野外教室を支え、家族も参加する素晴らしい学校のようです。(大分合同新聞から)
 
【ほのぼの茶屋】の案内
大分県中津市耶馬溪町山移3802
電話:0979-55-2214
営業時間 11:00~15:00、定休日:不定
ランチ:300円
 
 
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耶馬渓「羅漢寺」の石仏群

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「ほのぼの茶屋」で食事を終えた私達は羅漢寺に向かいました。
羅漢山の中腹にある岩窟に3700体もの石仏(羅漢と地蔵)が祀られています。
羅漢それ自体も良く出来ているのですが、何といっても天然の石窟に祀られているので、
石窟石仏群、全体が素晴らしいのです。
 
「歩けば6分、ケーブルに乗れば3分」
参道の石段下に案内されています。
何度もお参りしている私が「ケーブルに乗ります」、案内したのですが大半の人が歩いてゆきます。
人の言うことを聞かない私の仲間です。
 
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羅漢寺ロープウェーからの眺め、遠くに山国川が見える。少し下れば青の洞門に出ます。
 
羅漢寺の案内では「大化1年/645年にインドから来た法道仙人が洞窟に感動してお寺を開いた」とされています。
伝説の域を出ない話でしょう。
史実にある歴史は延元2年(1337)に円龕昭覚がこの岩窟に」16羅漢を祀ったとあります。
延元4年(1339年)には、中国から逆流建順という僧が来寺し、円龕昭覚とともに五百羅漢像を造立したという。
天然の岩窟のある景色、それが中国の石窟寺院を髣髴させたのでしょう。
そして、南北朝時代の時代空気が「羅漢像」を信仰させた・・・、考えます。
 
羅漢像は法隆寺五重塔の基壇塑像群の中にもあります。
しかし、羅漢は見向かれません。
鎌倉時代に禅宗が盛んになると、羅漢が見直されます。
そして、南北朝時代には此処大分耶馬渓の山岳寺院にも羅漢が祀られたのでしょう。
多分、日本最古の500羅漢像と思われます。(絵画は除く)
 
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                      右奥が羅漢寺山門、左が千体地蔵の祀られた岩窟。
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                  羅漢寺の本堂、手前左に池があって岩場であるのに水が湧いています。
 
概して、羅漢像は喜怒哀楽を表に出した人間的な表情が魅力です。
でも耶馬渓の羅漢像は憂いの深い、悲しみの表情が多いような気がします。
開山の二人の禅僧の心は時代を憂いていたのかも知れないな…、思います。
僅かに黄や朱の塗料が残されています。
石仏を彫りあげ、お顔や衣を塗料で色づけしたようです。
 
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   膨大な数の羅漢や地蔵の祀られた無漏洞/むろどう、お杓文字は救って欲しい…、願望の表れだそうです。
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私の生活圏にも500羅漢は幾つもあります。
建長寺(鎌倉)の山門の楼上には500羅漢が祀られています。幕末安永5年(1776)の作でした。
龍宝寺(鎌倉玉縄)では今ドンドン羅漢像が増えています。
東京に出れば目黒の五百羅漢寺、此方は1695年に羅漢像の造仏が始まりました。
川越喜多院の5百羅漢は天明2年(1782)に始まり文政8年(1825)に完成しました。
栃木の徳蔵寺(足利)は文政10年(1827)年に完成しました。
 
日本三大5百羅漢と言えば筆頭は最も古く迫力のあるこの耶馬渓羅漢寺が先ずあげられます。
二番目以降が諸説あります。
川越喜多院、栃木徳蔵寺、建長寺など様々です。
京都の石峰寺、播磨の北条5百羅漢も三大五百羅漢に相応しい魅力があります。
私なら、「京都と北条」をあげます。
 
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       無漏洞の羅漢像、石仏群の前に立つと身のすくむ感覚に捉われます。
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        無漏洞の羅漢像には笑顔は一つも無いと見ました。中央の羅漢さんは経典を捧げています。
        羅漢さんはお釈迦様のお弟子で、釈迦涅槃後仏典を整理した人たちの事です。
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                                困ったもんだ! 頭に手をやる羅漢像
 
5百羅漢が造仏された時代には共通するものがあります。
鎌倉時代末期、江戸時代初期、幕末維新。
時代の激流に人間が翻弄され・・・、
このままでは先が開けない、改めて人間が自分の意志と理性で時代を切り開こうとした時代です。
考えてみれば、現代も羅漢が期待される時代なのでしょう。
 
私は案内僧に訊きました。
「羅漢像が祀られているこの洞窟(無漏洞/むろどう)はどのようして出来たのですか?」
「お寺では滝壺である…、考えています。上段の本堂の手前に池があります。池には龍が棲んでいて・・・、大滝の滝壺が干し上がって・・・・・、洞窟が出現したのです。勿論人間が掘ったものではありません。」
人間が掘ったものでは無い事は鑿の跡が無い事でも明白です。
激流が岩を穿って出来た岩窟が隆起したものかもしれません。
噴出した噴煙や蒸気が岩を砕いて出来たのかも知れません。
しかし、この岩窟の凄さが羅漢像を祀らせ、今も羅漢像の迫力を生んでいるのは事実でしょう。
巨大で凄まじく、霊気漲る天然の岩窟があった事、其処に人為によって羅漢像が祀られたので・・・、
強い印象を人間に与えるのでしょう。
15年振りに参詣しましたが、今回も感動しました。
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       入口付近には羅漢とも地蔵とも見える様な「家族石仏」も見られました。別の石工の作でしょう。
 
羅漢像群の下段には千体地蔵が祀られています。
此方は羅漢像より時代は少し下った室町時代の制作です。
普覚禅師(ふかくぜんじ)という高僧が刻んだといわれます。
中央の釈迦如来や、前列に並んだ十王像は同僧の作でしょう。
でも、数え切れない数のお地蔵様が祀られています。
東北地方のこけし人形のようであり、佐渡の小法師像の原形のようです。
この「こけし地蔵像」は屹度時代は更に下って、江戸時代の事でしょう。
幼くして子供が流行り病で亡くなった、水子になってしまった・・・、
そんな哀れな魂がこの岩窟に集まってくる・・・、
その冥福を祈って・・・、麓から子供に似たこけしの様なお地蔵様を奉納したものでしょう。
 
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               十王像とその周囲を無数の地蔵さんが埋めています。
               3700体の大半がこのこけしの様なお地蔵さんです。
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阿蘇山が噴火をしました。
沢山の火山灰、火山弾、溶岩等が噴出しました。
風下の臼杵方面には火山灰が降り積もり・・・・、凝灰岩が出来ました。
凝灰岩の岩に鑿の刃を立てて、臼杵石仏を彫りました。
北西の耶馬渓には火山灰も火山弾も降りました。
灰と礫が堆積して出来た大岩を水が穿って無漏洞が出来ました。
溶岩が冷えて出来た安山岩を使って、膨大な数の石仏を彫りあげ、無漏洞に祀りました。
この先の国東には・・・・・・、磨崖仏が彫られます。
大して離れていないのに・・・、地質・岩質が異なるので、違った石造文化が残されました。
風土、一言で済まされてしまいますが…、奥が深く、面白いものです。
文化を彩る外部環境です。
 
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岩窟の天井を見ると火山弾と火山灰が混在した岩であることが判ります。
「火山礫凝灰岩」が羅漢の祀られた岩窟です。手前羅漢群、下段が千体地蔵群。
 
 
 
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