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美しく、清く食べる為に・・・・、「包丁式」

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お正月には子供や孫が集まってくれます。
家内は精を出しておせち料理を作って、丁寧に、綺麗にお重箱に詰めます。
お重箱は、結婚祝いに叔母様から戴いたものです。
目で愛でて、舌で悦び、胃が歓迎する・・・・、そんなおせち料理が・・・・、
平凡な主婦でも出来るのが日本の家庭であり、日本の料理でしょう。
ゆっくりと時間をかけておせちを味わい、
孫を中心に団欒を楽しみながら・・・・・、平和なお正月を今年も過ごせました。
 
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                    我が家のおせち料理・・・・、孫を中心にして団欒の花が咲きました。
 
我が家のお雑煮は関東風で、四角い切り餅です。
家内も何時しか母の味付けを覚えてくれて…、私にとっては、昔ながらのお雑煮です。
お雑煮を食べて…、家族の一員であると実感します。
 
本来の雑煮餅は京風の丸餅です。
何故なあ丸餅にこそ年神様が依るからです。
神様は四角より丸が・・・、鏡餅がお好きです。
江戸時代、江戸の街には長屋住まいの武士・町人が多かった事から、
切り餅が普及したのでしょう。
京風の一子相伝のお雑煮が食べたくなります。
何しろ私は術後半年でも、食いしん坊ですから。
 
昨年9月農林省はユネスコに伝統的な日本の食文化を「無形文化遺産」に指定するよう申請致しました。
今年の秋には結論が出る事でしょう。
そんなこともあって、家内を誘って1月2日三溪園に「四条流包丁式」を観に出かけました。
此処に和食のルーツがあるからです。
 
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    港北区にある興禅寺の雅楽会が厳かに雅楽を奏上するなか神事「包丁式」が始まりました。
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       補佐役が用意された包丁を確認します。左の白装束の人が介添え役です。
       包丁主が登場する前に、道具や素材の確認の動作が続きます。
 
興禅寺雅楽会の厳かな演奏に送られて、包丁式が進みます。
四条流の包丁式は、光行天皇(在位884年~887年)の勅命によって、
藤原山蔭(内膳職)が整備した事に始まります。
古墳時代日本人は手喰いでありました。(魏志倭人伝などに記載があります)
聖徳太子が遣隋使を派遣し、中国ではお箸が一般化している…、事実が伝わります。
すると、日本でもお箸が普及します。
その後、唐から伝わった食事作法料理手法と日本の食習慣が混乱します。
それが、日本風に消化され定着してきていたのでしょう。
それを光行天皇が有職故実という形に結実させたのでした。
 
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    包丁式で包丁主登場を待つまな板。「ま」とは優良なもの、「な」とは素材の意味だそうです。
    まな板とは「優良な料理板」の意味でしょうか? 四方に注連縄が張られ、清めの塩も盛られまし     た。まな箸、まな紙、松竹梅の花、そして素材の鯛も置かれています。花と鯛はお正月だから目出     度いものを・・・、用意されたものと思います。多くは鯉が使われると思います。
 
 
百人一首中で女性が一番好きな歌
  君がため 春の野に出て若菜摘む 我が衣手に雪は降りつつ
は光行天皇が親王の時代につくられたものです。
貴方のために邪気を祓う若菜を摘みに野に出ましたら・・・、雪が降り出して私の袖にひきりなしに降りました。(でも、こうして若菜を贈りますから、健康にこの一年お過ごしくださいね!)
七草や七草粥の風習は天皇崩御後一般化したと言われます。
日本食文化のルーツは感性に富んだ天皇にありました。
 
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       包丁主が道具を確認します。その後、周囲の邪鬼を祓い、自らの心身も浄めます。
 
包丁式は道具の確認、お浄めに始まりました。
まな紙で陰陽道に沿って作られた”まな板”を浄めます。
その四方に塩を盛ります。
包丁で邪気を払います。
”六根清浄”包丁主の心も体も浄めます。
大きな鯛がまな板の上に乗せられました。
包主も介添えも・・・・、全員が素材の鯛に向かった平身低頭し・・・・「鯛さまのお命を戴きます」・・・、
礼を尽くします。
決して手を鯛にはつけません。
左手にまな箸、右手に包丁、この二つだけで、速やかに鯛の頭と尻尾を切り除き、
次いで、体を三枚におろします。
 
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  先ず鯛の頭と尻尾を落します。
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         次いで鯛の体を三枚におろします。まな箸と包丁だけを使い素材に決して手は触れません。
”清く・美しく”が包丁式のテーマだからです。
 
包丁式に使う包丁は日本刀と同じく片刃です。
良く切れる…、多分世界一良く切れる包丁でしょう。
良く切れるから…、お刺身が出来ます。
良く食材を知り尽くしているから・・・・、日本人だけが「延髄切り/生き締め」を知っていました。
 
日本のお箸は先が細くなっています。
細い先で…、食材を挟んで口元に運びます。
箸は「挟む」に由来するとも言われます。
箸のもう一方は太くなっています。
太い方で神に奉げる食材を挟みます。
おせち料理も「神身一体」で戴くことに有難味があります。
 
包丁も箸も、美しく清らかに食べる為に欠かせません。
和食の神髄は「美しく、清らかに食べる」ことにあると思います。
それは、縄文時代からの変わらぬ伝統でありましょう。
 
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          最後に鯛を切り身を細く連ねて・・・・、波を模ります。
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   包丁式は礼に始まり礼に終わります。
   包丁主はじめ全員が低頭しているのは素材になった鯛の命に向けてです。
 
 
包丁式には登場しませんでしたが、
もう二つ大事なものが「和食器」と「発酵香味料(醤油や味噌など)がありましょう。
世界に愛されているお寿司は美しく切り刻まれた寿司ネタと、
酢飯のシンプルな組み合わせによってできています。
手を加えていない食材(ネタ)と熟成された酢によって豊かな食味が作られていると思います。
包丁式の伝統の上に出来たお料理が寿司だと思います。
寿司が欧米にも人気なのは・・・・、
発酵香味料の酢が欧米の発酵食材(バルサミコ・チーズ・ヨーグルト・アンチョビ等々)にもあって・・・・、
馴染まれているからだと思います。
 
日本料理は健康に良いから…、メタボ対策になるから・・・・、長い間、そんな目で見られてきました。
ところが、最近はもう少し理解が進んで・・・・・、
素材そのものの味が楽しめるから・・・、そんな所に来ていると思います。
 
包丁式も終盤に差し掛かりました。
包丁主は大きなまな板の上に鯛の切り身を使って・・・・、何やら・・・、美しく盛っています。
解説が入りました。
「最後は波を模っています。これでお目出度い宝船が出来上がりました。
今年一年の天下の平安と皆様のご多幸をお祈ります。」
 
満場の拍手が湧きあがりました。
雅楽の調べに送られて、包丁主、介添人等式典のメンバーが退場しました。
 
食文化こそ、文化の精髄である…、実感する「包丁式」でありました。
健康でいるからこそ、美味しく食べられる。
美味しく食べるには・・・・、清く、美しい和食に限ります・・・・、そんな食文化を楽しみたいと思います。
 
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                                     鯛を使って宝船が出来上がりました。
 
 
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”花に聞け” 遊行寺に初詣

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私は地元の鎮守様「子之八幡社」の世話人ですから・・・・、歳旦祭は同社でお祝いします。
でも、お正月ですから・・・・、毎年家内と初詣に・・・、何処か大きな神社を詣でます。
今年は何処にしようか? 
相模一宮の「寒川神社」には大きなねぶたが飾られたそうだから・・・、
それじゃあ、宵に詣でる事にして・・・・、
鶴岡八幡宮は・・・・、混雑するし・・・・、左義長に出かけよう・・・。
矢張り、一昨年と同じく遊行寺にしよう・・・・。
そんな次第で・・・・・、孫たちも帰った1月3日出かけました。
 
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                                            初詣客で賑わう遊行寺
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                                                   遊行寺の本堂
 
参拝客の中には箱根駅伝の応援旗(読売新聞社の社旗)を持っています。
復路の見せ場「遊行寺坂」で応援を終えて、初詣をしているのでしょう。
広い境内の庭ですが、今日は「骨董市」が開かれているので、賑わっています。
一昨年は「酒屋の配達袋」を求めました。
日本酒大瓶が日本すっぽり入って・・・・、帆布製ですから頑丈です。
でも、ずいぶん汚れてしまいました。
今年は何を求めようかな・・・・?
 
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   骨董市で売られるカンナ。大切な道具も電動工具に押されて800円前後で売られていました。
   可愛そうな道具です。
 
本堂からは、テンツク・テンツク、団扇太鼓の音に合わせて、読経の声が広い境内に流れています。
随時に招福厄除けの祈願を受け付けてくれるのです。
お経は般若心経が読まれています。
お経が短いし、多くの人が知っているので・・・・、好都合なのでしょう。
度々遊行寺さんに登っている私達ですが・・・、こんなに賑やかな般若心経は初めて聞く思いです。
「日蓮宗のお寺に来たようだね!」 家内と話します。
「お正月だから、少し派手目なのかしら?」 他愛のない会話をします。
 
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     正月の祈願を受け付けてくれています。
     お願いすると本堂内陣に登り、般若心経を読経して祈願していただけます。
 
日本の宗教人の言葉で最も有名なのは・・・・・、一遍上人の次のお言葉だと思います。
説法中に天から花弁が散ってきました。
紫の雲が漂ってきました。
人々は奇瑞の出現に歓喜します。
すると、一遍上人はこう言い放ちます。
”花のことは花に聞け! 雲のことは雲に聞け! 一遍は知らぬ。”
 
このお言葉は日本人の多くの人の愛語になって馴染まれています。
だからでしょうか?
遊行寺境内には一年中花が切れません。
今は山茶花くらいで少し寂しいのですが・・・・・、
放生池の池畔の白木蓮に始まり、本堂前の紅梅、枝垂れ桜に、八重桜、
山吹、牡丹、菖蒲、秋になれば金木犀に・・・・、銀杏の大木の黄葉も見事です。
花が多いので、花には聞き通しになりそうです。
 
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                                                     遊行寺の白モクレン
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                                                  遊行寺の枝垂れ桜
 
日本の宗教は自然に対話することが多いようです。
道元禅師の短歌では、自然にお釈迦様の姿と声を聞いておいでです。
 峰の色 谷の響きも皆ながら 我が釈迦牟尼の声と姿と
修行に励む心がけを、四季を通して自然に向かって行う様に諭しておいでです。
 春は花夏 ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり
 
仏教詩人の坂村真民さんは一遍上人を愛しておいででした。
花を、とりわけ路傍で踏みつけられても咲くタンポポがお好きでした。
 
     念ずれば花開く
念ずれば花開く
苦しい時、母がいつも口にしていた、
この言葉を私は何時の頃からか、心から唱えるようになった。
そしうしてその度、私の花が不思議と、一つ一つ開いていった。 (原文は平仮名が大半です。)
 
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                                          遊行寺の紅梅は節分の頃です
 
私は先人の境地には遥かに及びませんが・・・・、花を見るのが好きです。
素直に花を見ていれば・・・・、此処遊行寺の境内に咲く花を見詰めていれば・・・・、
そして「花のことは花に聞け!」自らに言い聞かせていれば・・・・、
先人の心や教えにハッと気づくことが出来るかも知れません。
 
本堂からは聞こえてきます。
”摩訶般若波羅蜜経”
何度も繰り返し聞いているうちに・・・・、ふと思い出しました。
山頭火の句です。
  山へ 空へ 摩訶般若波羅蜜経
 
山頭火をもじれば、
  『花に 空に  摩訶般若波羅蜜経』 でしょう。
 
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日本の宗教と花の事を書き始めると・・・・、止めどが無くなってしまいます。
”今年も、遊行寺さんを再三登らせていただいて・・・・、
楽しく、豊かな時間を過ごさせていただきます。
健康と、そこそこの経済力を・・・、よろしくお願いいたします。”
 
両手をあわせて、本堂を下りました。
骨董市の売れ行きはイマイチのようですが…、
インド料理の屋台だけは人だかりでした。
 
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                                             遊行寺の菖蒲
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                                          遊行寺の大銀杏
 
 
 
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片瀬小学校で、「西行戻り松」

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今日は小寒です。
5時過ぎには目覚めたのですが、布団に入ったままラジオを聞いていました。
山口百恵さんの”いい日旅立ち”が流れます。
旅立ち・・・・、に因んで「片瀬の西行戻り松」を書くことにしました。
 
西行が頼朝に会ったのは 治承4年10月6日(1186年)でした。
多分、その帰路でしょう・・・・、東海道を片瀬まで戻ります。
片瀬は奥州街道の分岐点でもありました。
平安時代藤原実方は奥州に下り際に、此処村岡にあった鎌倉権五郎景正の館に逗留します。
そして次の歌を記します。 
   (この段はhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43852907.html に書きました。)
 民もまたにぎわいけり秋の田を 刈りておさむる鎌倉の里
 
仁徳天皇の逸話「民の竈は賑わいける・・・」を髣髴させるような歌です。
 
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                     中央の細道が江の島道。左側の細い松が「西行戻り松」
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       右側が杉山検校が立てた道標。正面に「西行戻り松」 左に「一切衆生」右に「二世安楽」と刻       まれています。現在の黒松は何代目かで、地面が狭く根元がコンクリートで固められています        ので、大きくなれません。
       これなら、昔の位置(本蓮寺の角)に道標ごと移した方が良いと思います。
 
現在の西行戻り松は江の島道に面して、定行寺の北、本蓮寺との中間にあります。
細く、貧弱な黒松です。
案内板と、その根元には杉山検校が立てたという道標があります。
案内板には次のように記されています。
・枝が西に向いているのが特徴です。西行が東北に下ったとき都が恋しい・・・、
 と枝を西に捻ったものです。
・西行が此処で出会った童に行く先を尋ねたところ・・・・、「夏枯れて 冬ほぎ草を刈りに行く」 と答えたので・・・、こんな童が歌で返すとは…、驚いた。
 
江戸時代にも、西行の逸話は有名だったのでしょう。
だから、杉山検校はこの松の根元に標識を立てたのでした。
検校の標識は江の島道(藤沢橋~江の島) 約一里の間に11本あります。
道標の正面に「恵乃之満遍(江の島道へ)、右面に「一切衆生」左面に「二世安樂」と彫られています。
 
昨年、先輩のTさんが「陸奥の歌枕」研究に松島を訪れて、同地にもある「西行戻り松」を確認されました。
地震にも津波にも全く影響を受けず、青々として茂っている写真を見せて戴きました。
西行戻りの松は各地にあるようです。
また、3年前越後の国上山に良寛さんの五合庵を訪れた際には、
同地で西行法師が矢張り地元の童に歌でおどかされた・・・、そんな伝説を知りました。
 
日本一の歌人が、地方の、童の歌の才に驚かされる…、そんな筈はあるはずありません。
多分、童はその土地の神が出現したもの・・・・・、
そして、西行法師は土地土地の神々に敬意を表しながら旅をしたことを示しているのでしょう。
そうした姿勢が「旅の安全」をキープさせてくれます。
藤原実方のように、道祖神を敬わないと、馬上から落下して、死んでしまいます。
旅をして…、土地の神々に遭遇します。
触らぬ神に祟りなし・・・、では面白くありません。
土地土地の神々に礼を尽くしてこそ…、旅は趣深く、安全に過ごせるものです。
 
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     泉蔵寺参道と江の島道との分岐点にある黒松。 松の根元には庚申塔と馬頭観音が祀られてい     ます。庚申塔の背後は片瀬小学校のグランドです。
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    右側が泉蔵寺、左が片瀬小学校。 その境に黒松が一列植えられています。
    此方の方には「戻り松」の風情があります。
    写真中央、片瀬小学校の門柱の横に杉山検校の道標「恵乃之満遍(江の島道へ)」が見えます。
 
江戸時代には立派な黒松が茂っていたのでしょう。
現在の西行戻り松は、その何代目になるのでしょうか?
そして、もしも説話の通りなら…、
西行が”都に戻ろうか? 陸奥の平泉に行こうか?” 思案した松から・・・、10代目にもなるのでしょうか?
900年もの間で、最も貧粗な松になってしまいました。
あの世の西行さんも苦笑いのことでしょう。
 
本蓮寺の隣が泉蔵寺、その北にある「片瀬小学校」は松の緑に囲まれています。
広い校庭は土ですから…、砂埃が立ちます。
黒松は北風からも、海風からも松が子供達を守っているのでしょう。
学校の校門にも杉山検校の道標が立っています。
子供達は社会の宝です、「二世安楽」はそのまま現代の願いでもありましょう。
形の良い黒松が一本あります。
その根元には数基の庚申塔と2基の馬頭観音が祀られています。
誰がしているのか?…、何時来ても人参が奉じられています。
 
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    泉蔵寺山門側の石仏群。一番右側の馬頭観音には何時でも人参が奉げられています。
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   片瀬小学校寄りの二基の庚申塔と中央の道祖神。昨年綺麗に整備され、一段高い所に祀られるよう   になりました。従来は散歩の犬におしっこをかけられて、惨めでした。
 
”矢張り、松は良いなあ! とりわけ正月には・・・”
松を見上げます。
そして、松を傘に、風除けにする石仏を眺めます。
ふと、その背後の片瀬小学校のグランドを見やると・・・、
グランドの略中央に2本の黒松があります。
生徒たちが鬼ごっこや徒競走で走り回って・・・・、黒松の幹に衝突するのではないかしら・・・・?
心配するような位置です。
PTAの方々から・・・・、邪魔だし危険があるので・・・、伐採しなさい・・・・・、
注文が出そうな・・・、そんな風に見えます。
 
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          片瀬小学校の正門、右が杉山検校の道標、門の奥、グランドには黒松が見えます。
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          片瀬小学校のグランド、中央に校舎より、泉蔵寺寄りに各一本黒松が茂っています。
 
しかし、学校は頑として受け付けないのではないでしょうか?
此処は、西行戻り松の説話のある学校です。
黒松は・・・・、教材でもあるのです。
生徒たちに片瀬の歴史と文化、美しさを教える…、教材なのです。
 
西行法師も貧粗な現在の西行戻り松よりも、小学校のグランドの松を愛でておいででしょう。
童に接することは・・・・・、将来を楽しみにすることです。
将来に楽しみがあるからこそ・・・・、安らかに死後の旅路に発つ事が出来るのでしょう。
失望や悔悟の念、怒りに紛れていては・・・”最期のいい日旅立ち”は出来ませんから・・・。
 
適当に書き出したブログでしたが・・・、どうにか”オチ”になったようです。
 
 
 
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素晴らしい、江の島神社の「群猿庚申塔」

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片瀬までくれば、江の島神社を参拝しなければ帰れません。
明治の写真を見ると、江の島に橋は渡っていません。
干潮の時間に、歩いて渡るか、渡り人足の背に担がれたりして渡ったのでしょう。
波打ち際には銅製の鳥居が建っています。
此処から、江の島神社を詣でます。
 
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                              正月、江の島から見た富士山、手前が湘南平。
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       江の島神社の鳥居、吉原のお茶屋と落語家が奉納したもの。
       奥の髄神門は竜宮城の門を思わせます。竹生島も全く同じような意匠です。
 
鳥居の右の柱には・・・・・・、新吉原と浮き彫りされ、その下には沢山のお茶屋などの名前が並んでいます。左の柱には「志ん生」(落語)と浮き彫りして、その下にも沢山の名が刻まれています。
 
江の島神社は三人姉妹の女神様を祀っています。
海に近い「辺津宮」には「田寸津比賣命」を、中段の「中津宮」には「市寸島比賣命」を、そして島の奥の「奥津宮」には「多紀理比賣命」を祀っています。この三女神を江島大神と称しています。
明治維新の神仏分離令によって、与願寺が廃され、仏教色が払拭されたのが現在の姿です。
 
弁才天はインドの河川の神様でした。
それが、仏教と共に奈良時代に日本に渡ってきます。
ですから…、元来水に馴染みの神様でした。
日本三大弁才天は安芸の宮島「大願寺」、琵琶湖竹生島の「宝厳寺」、そして。江の島神社です。
 (江の島に代わって、奈良天川村の天河大弁財天社を入れる事もあります)
三つの弁才天は何れも「竜宮城」を思わせるロケーションンあり、それらしい建物になっています。
乙姫様はさしづめ「弁天様」なのでしょう。
 
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      江の島神社3社の位置を示す。広重の浮世絵には橋が無く、タワーは与願寺の三重塔でした。
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             江戸歌舞伎市村座の奉納した石灯籠、奥には5代目菊五郎等の手形もあります。
 
中津宮の石灯篭は江戸の「中村座」「市村座」が奉納したものでした。
今も、節分には江の島歌舞伎が奉納されます。
歌舞伎役者の芸を磨くには・・・、弁才天のご加護を祈ったこと、
白波五人男の”弁天小僧菊之助”が当たり役だったこと・・・・・、
等から江戸の歌舞伎座が篤く信心したのでしょう。
 
江戸の町人は二泊三日の小旅行に江の島に出かけるのが人気でした。
日本橋から、江の島までは60キロ、弁天様に詣でました。
お参りが終われば、美味しい海産物を戴き、新吉原の江の島支店で綺麗な女郎さんにお相手して貰い、お芝居を観劇して、落語で笑って・・・・、人生の憂さを晴らしたのでしょう。
江の島の前後には大山のお不動様に詣でて・・・・、トライアングルの旅行は終わります。
 
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    今日の話題、群猿庚申塔。手前が岩屋道。右に行くと奥津宮、左が中津宮、手前が辺津宮、三社     を繋ぐT字路にあります。黒松が如何にも庚申塔らしく、良い環境です。
    塔身は高さ86㎝、幅42㎝、基壇も含めれば高さ143㎝の大きさです。
 
 
前書きばかりが長くなってしまいました。
そんな江の島ですから…、江の島らしい・・・、庚申塔が祀られています。
今は、奥津宮に行く途中、御岩屋道通りのT字路に祀られています。
以前は辺津宮の境内にあったのだそうです。
 
先の尖った四角柱の4つの側面に36匹ものお猿さんが浮き彫りされています。
石材は関東では珍しい花崗岩です。
四面に36匹猿が浮き彫りされている庚申塔。
お猿さんは山王権現の御遣い・・・、神猿ですから、独特の烏帽子をかぶっています。
何れの神猿も芸を見せています。
綱渡りであったり、梯子に登って木遣りをしたり・・・、数人芸もありますし、
踊っている一人芸もあります。
塔身の基壇は岩座のようになっています。
塔身の基座は蛇が浮き彫りされているのは・・・・、白蛇が弁天様のお遣いだからでしょう。
 
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   左が正面(上部に日輪月輪があり、一番下の山王猿が目、耳、口を塞いでいます。)右が西側側面。
   基壇は岩の造形、基身の下部の注連縄みたいな部分は蛇(弁才天のお遣い)がデザインされていま   す。
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      左側面は南側、上部に綱渡りの神猿が浮き彫りされています。
      右側は東側、木遣りをしている神猿が浮き彫りされています。
 
一般に庚申塔はおどろおどろしい青面金剛が刻まれて、その脇に三猿が刻まれて・・・・、
お説教の臭いの濃い・・・・・、楽しくないものです。
でも、此処は人生の憂きを吹き飛ばす…、竜宮城のような処です。
野暮な説教は止しにして・・・・、山王権現の神猿にも楽しませて貰おうじゃないか!
そんな期待から・・・・・、群猿で・・・・、得意技をオンパレードしてもらった・・・・、そんな図柄です。
見ていると、楽しくて飽きません。
まるで…、江戸千代紙を見ているような気持になります。
 
江戸千代紙は歌舞伎役者が舞台で纏う衣裳の縞模様がルーツと言われています。
その意匠が日常のお洒落着となり、様々な文様、柄も生まれました。
柄は浮世絵師によって紙に刷られ・・・・、千代紙になりました。
こんな、粋でお洒落な庚申塔のデザインは…、江戸千代紙のデザイナーが考えて・・・・、
鎌倉の石工に浮き彫りさせたのではないでしょうか?
 
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         正面下面の山王猿、中央に「聞か猿」左右に「言わ猿」「見猿」が刻まれています。この面が         庚申塔であることを示しています。
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                           東面下部の綱渡りを演じる山王猿。手には蛇を掴んでいます。
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                                       南面上部のぶら下がり綱渡りの山王猿。
 
製作年月日も、誰が何の為に建立したのか? 何も刻まれていません。
江戸の職人芸ですから・・・・、名は残しません。
誰が、何のために、何時・・・、なんてことは問題ではありません。
出来上がった庚申塔が、野暮でなく、粋で、イナセで・・・・、人生の憂さを吹き飛ばすものであれば・・・、
良いのですから・・・。
 
何度見ても、良い、面白い庚申塔です。
 
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     東面全体を使って木遣りを演じています。この面がハイライトだと思います。
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          木遣りの山王猿を下から見上げる。昨日は出初式でした。木遣りはお正月必見の演武でした            が、今は何処に行けば見られるのでしょうか?
 
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三浦海岸に「左義長」復活

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今日1月7日は「七草粥」です。
家内は何時も早起きですが、今朝は一層早起きで・・・・、七草粥の準備をしているようです。
 
野原の草も総て枯れ尽くした中で・・・・、新しい命が芽吹いて来ます。
七草粥はその新しい命(年神様)を自分の体に取り込んで・・・、
これから一年無病息災に過ごしたい…、そんな習俗でしょう。
我が実家では、母が七草粥に鏡餅を細かく割って・・・、入れていました。
お粥にお餅のねっとり感が加わって・・・、美味しいものでした。
「鏡開き」は1月11日です、「七草粥」と一緒にするのは、母が超合理主義者であった・・・から、
批判がましく言うと・・・・、あの世から抗議の声が出そうです。
”そんなことはありませんよ。七草粥も、鏡開きも同じ年神様を戴くのだから・・・一緒にして当然でしょう。”
 
母のしきたりを家内も受け継いでいますから・・・、
我が家の七草は鏡餅入りで、ボリュームがあります。
おせちの残りも戴いて・・・・、体も心も元気になります。
 
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                                我が家の7草粥、母の技を継承して、鏡餅入りです。
 
1月6日、何処に行こうか? 家内と協議して・・・・、三浦半島をぐるっと回る事を提案しました。
目的は?”今年の左義長の様子を見に行こう!” 私の主張です。
家内は「左義長は松飾を解いて・・・、それを焼くのだから・・・、松が開かない内は出来ませんよ!」
指摘します。
それは、その通りだが、私の記憶では見た記憶があります。
良いんじゃない・・・・! ということで、出かけました。
 
最初の目的地は観音崎と浦賀の中間にある、鴨井浜です。
期待していたのですが・・・・、未だ左義長は建っていません。
 
次の目的地は金田湾の長沢の浜辺です。
若山牧水記念館の真ん前の浜辺で・・・・、左義長は・・・・・、建てている最中でした。
作業をしているのは、老若男女合わせて30人位は居るでしょうか?
私達は車を止めて作業を見物します。
 
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        立ち上げ作業中左義長、三浦の長沢で。遠景の煙突は久里浜の火力発電所。
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       左義長は竹で組んだ骨組を中心にして、周囲に材料を並べます。これを順次に骨の周りに括        り付けて行きます。 手前は杉の枝と注連縄・・・、後から後からトラックで材料が運ばれてきま       す。
 
先ず、長く太い孟宗竹を三本組んで建てます。
頂上には大きな達磨さんを括り付けます。
これが左義長の骨組です。
木枯らしが吹きすさぶ浜辺ですから・・・・、風で倒れないようにしっかり組んで、建てなくてはなりません。
次いで、長短様々な竹(藪竹)を砂浜に、左義長の骨組の周囲に並べます。
藪竹や破竹を少しずつ、骨組に括り付けて行って、・・・・段々形が様になって行きます。
長い梯子に乗って、先端から縄で固めて行きます。
初老の指揮官が高見から、あれこれ指示をしてゆきます。
トラックで、次々に左義長の材料がを運ばれてきます。
杉の枝に、太い注連縄も運ばれてきました。
何処かの神社に祀られていたものでしょう。
 
私は、年配の方に声を掛けます。
「立派に出来上がって来ていますね! 皆様は何処かの神社の氏子さんですか?」
「いや、私は此処(長沢)の町内会ですよ。例年、町内会で左義長を建てているんですよ・・・・・。」
「今年は何時焚くんですか?」 尋ねると
「1月13日ですよ」
 
長沢の浜辺は三浦海岸の浜辺に続いています。
此処にも、5基程度、左義長が並んでいます。
私は昨年まで見た記憶がありません。
金田湾の西浜に車を止めて・・・・、
砂浜にある大根の干場を越えて…、左義長の元に行ってみます。
 
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                    三浦海岸には、干し大根の向こうに左義長が何本も建っています。
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                               沢庵漬け用の大根は青首大根ばかりです。
 
午後2時、もうすっかり左義長は出来上がっています。
ご近所の方々が、松飾を解いて、左義長の根元に積みあげて帰られています。
私は私と同年配の方に聞いてみました。
「ああ、此処の左義長は今年復活したんですよ。 
数年前にこうして左義長を立てて焚く準備をしてあったのですが・・・・、
誰かが付け火をしたんで・・・・、
危ないから…、とい言って止めていたんですが。
でも、地域起こしにもなるし・・・・、鴨井の方では左義長が続いている事でもあるし・・・、
三浦海岸でも復活したんですよ。 
この辺りは1月13日に火祭りになりますよ・・・。」
 
左義長の根元には丸い川原石が三つ並んでいます。
鏡餅と同じ形をした・・・・、漬物石に良さそうな形です。
年神様はこの形がお好きなのでしょう。
この石を依代にしておいでです。
これを、道祖神さま・・・・、として崇めています。
 
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      三浦海岸の左義長、手前は道祖神と思われます。
      若しかしたら沢庵の漬物石かも? 思われる色をしています。海の向かいは房総半島。
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      立派に出来上がって、拝まずにはいられない左義長。 向かいは房総の鋸山。(三浦海岸)
左義長は松飾など年神様の依代を集めて焼いてしまいます。
焼いてしまう事によって・・・、新しい命がより逞しく勢いよく生まれます。
焼くことは死ぬことですが・・・・、
火祭りを盛大に行う事によって前年より生き生きとした命が復活するのです。
安曇野の道祖神は毎年、どんどの火祭りにあわせて道祖神をお化粧し直します。
子供達がクレヨンや絵の具で道祖神を塗りなおすのです。
綺麗に塗れれば、お化粧が見事であれば・・・・、
道祖神はパワーアップして豊穣や厄除け、子供の成育を見守ってくれるのです。
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         安曇野の化粧道祖神。化粧する事によってパワーが蘇ると信じられた・・・、考えます。
         安曇野では「ドンド」と呼ばれ、道祖神の前で火祭りが催されます。
         ドンドの炎も、化粧の色塗りも同じように「生命の蘇り」です。
 
今年の左義長は分散しています。
私の町では1月12日(土)、
鶴岡八幡宮は13日(日)朝7時から源氏池の畔で行われます。
三浦海岸一帯も13日(日)の午前中です。
そして、大磯の左義長(無形文化財)は14日(祝)です。(こゆるぎ浜夜6時、北浜夜7時)
何処に行こうか?
楽しみであります。
 
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                                       大磯こゆるぎ浜の左義長(2012年)
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                                               大磯北浜の左義長(2012年)
昨年の大磯左義長は以下に書きました。
  左義長が伝えるもの:http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45957776.html
 
 
 
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田鴫の居る日本の風景

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寒に入って暦通りに寒い日が続きます。
加えてズット雨が降りませんから、空気はカラカラです。
ノロウィールスを心配してか、マスクをしている人が目立ちます。
 
麦畑の霜柱を踏みたくなって、舞岡自然公園に出かけました。
母は俳句をたしなんでいましたが、私は麦踏の句が一番良いと思っています。
  子を負いて 星をいただき 麦を踏む
霜柱で浮いてしまった麦を踏みつけることによって、麦は株分かれして逞しく育ちます。
”春は名のみの風の寒さよ・・・・” 母は早春賦を口ずさんでいたことでしょう。
背中に負ぶさっていたのは、乳児の私です。
 
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            麦畑の縁に捨てられた冬瓜、流石も霜柱も重い冬瓜は持ち上げられません。
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               霜柱が立つと、冬野菜が美味しくなります。湯豆腐に葱は欠かせません。
 
田圃は凍っています。
勢いよく群生していたセイタカアワダチソウも、霜に枯れ始めています。
私の仲間のバードウォッチャーが沢山います。
”おめでとう! 今年の鳥はどうですか?”
情報を交換します。
昨年はダメでしたが、今年は昨年よりは良いものの、特段スターが出現した…、
そんな情報も無いようです。 
ただ、ウソが群れを作って飛んでいます。
 
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                 枯れ始めたセイタカアワダチソウ。背後の田圃は氷が張っています。
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   田圃の一部が田起こしされています。
   その中の中央「此処」と書かれた上に一羽ポツンと田鴫が居ます。
 
 
田圃を見ていると・・・・、何やら動いているものが居ます。
田鴫(たしぎ)だな・・・、直観して望遠レンズでアップして見ます。
広い田圃の一部分が田起こししてあります。
その掘り起こされた土塊の陰に一羽の田鴫が居て、
小刻みに細く長い管のような嘴で水の中を突っついています。
5分も採餌行動をしたかと思うと、またじっと静止してしまいます。
「鴫の看經(かんぎん、お経を読むこと)」と呼ばれる、姿です。
 
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             陽がさして氷の緩んだ場所で採餌行動をします。足元からワダチが広がって行きます。
 
鴫は千鳥の仲間です。
千鳥は浜千鳥に歌われるように群れを作りますが、田鴫は一羽だけで行動します。
大自然の中で孤独な存在です。
 
沢山の種がある鴫ですが、「田の鳥」と書くように田鴫が鴫を代表する存在です。
滅多の啼きません、ただ飛び立つとき・・・・、「ジェッ」とか「ヂェッ」としわがれた声を発します。
田圃や谷川に居れば、枯葉のような色をしていますから見つかりません。
日本人の共感を呼ぶ鴫は間違いなく「田鴫」でした。
  田鴫の生態についてはサントリーの次のHPが詳しいです。
 
日本各地に鴫の名のつく村があります。
昨年12月初め、大分の深耶馬渓を旅していました。
そこには鴫良(しぎら)という部落がありました。
鴫が良く見られる地域なのでしょうが…、何で”良”の字が付いたのか? 想像するばかりです。
義父の生まれ育った千葉の長生郡には”鴫谷”村があります。
此処は、鴫の生息する谷間なのでしょう。
因みに義父の名は細谷でした。
細谷の奥が鴫谷なのでしょう。
 
鴫田もあれば、鴫山、鴫野なども各地にあります。
私の直感では、鶴と並んで地名に取られた鳥だと思います。 
 
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          西行法師像(菊池溶斎画) 和歌は「・・・鴫立つ澤」(ウキぺデアから転載)
 
 
何故、鴫が地名に多く取られたのか・・・・、そんなに目立ちもしないのに・・・、思います。
想像するに、間違いなく西行法師のお蔭でしょう。
 
 心なき 身にも哀れは 知られけり 鴫立つ澤の 秋の夕暮   (西行)
三夕の歌は次の通りです。
 見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦のとま屋の 秋の夕暮  (定家)
 さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮  (寂蓮)

各々優れて美意識を表現していますが、定家、寂蓮の歌は叙景歌です。
セピア色一色のモノトーンの景色です。
西行の歌だけが鴫が居ますから・・・・・、
鴫の姿が漂泊の僧西行の姿とダブって・・・、強い、悲しい程の寂寥感を伝えています。
 
鴫の目立つような村は裕福な筈はありません。
田圃は棚田でしょうし、瘠せて、多くの収穫は期待できないでしょう。
そんな、猫の額ほどの田圃にしがみ付く様にして、耕して生き抜いてゆく小部落があって・・・・、
鴫の名が付いたのでしょう。
名を付けるに際して・・・・・・・、西行法師の和歌「鴫立つ澤」を思い起こし・・・、
鴫の名を冠せたと思われます。
”痩せ地でも、寒村でも、貧乏村でも・・・・、雅な心は何処にも劣りません・・・・”
そんな意地というか、愛着か名前からは感じられます。
 
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        5分採餌行動をした後、10分は静止しています。この状態を鴫の看經と呼びます。
        西郷法師が漂白遍歴の旅をしていた時、突然にその足元から鴫が飛び立ちました。
        驚いた西郷法師は飛び去った鴫の彼方を見送ります。 その後、一層の静寂と寂寥に襲わ         れたことでしょう。
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                           鴫は静止状態からまた動き出して、採餌活動を始めます。
 
 
私が手招きしたので、仲間のバードウォッチャーが集まってきました。
「今朝は此処に居たのか!」口口に言われます。
「この冬も、シベリアから渡って来てくれたのか・・・・!よう戻って来てくれたものだ、!」
感謝と畏敬の言葉が洩れてきます。
たった一羽で衆目を集めて・・・・、鴫は無心に嘴を動かしています。
落ち穂を拾ったり・・・、ミミズを啄んだりしているのでしょう。
 
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                                   鴫立つ庵(大磯)西行堂の西行像
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       鴫立つ庵の西行像。手前左は經石(お経の書かれた石)。何れも骨太で痩せた姿です。
 
 
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筑前秋月に「葛粉」あり!

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蕨(わらび)の根から抽出した澱粉を晒して精製したのが「蕨粉」です。
片栗(かたくり)の鱗茎に蓄積された澱粉が「片栗粉」、
そして、葛根に蓄積された澱粉を精製して「葛粉」が出来ます。
和菓子にはこの「精製粉三兄弟」が無ければ・・・・・、始まりません。
現在も乾物屋に行けば求められますが・・・・・、殆どが「まがい物」ではないでしょうか?
じゃが芋やトウモロコシの澱粉ではないかと憶測しています。
 
片栗の花は殆ど見かけませんし、蕨も山菜でこそ見かけますが、
澱粉を精製するのは大変な労力を要します。
TVで丹後篠山の葛粉精製作業を映していましたが、これも気の遠くなる程の労力を要します。
 
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葛の花、片栗も花は紫です。日本人が紫を最も高貴と判断したのは、
紫の花が咲く植物に滋養分を多く宿していたから・・・、そう思っています。
 
 
友人のTさんからお見舞いが届きました。
”胃を患ったそうなので・・・・「葛湯」を召し上がれ・・・” そんなご配慮を戴きました。
 
私が子供のころ、鼻水を垂らしていると・・・・、母は葛湯を作ってくれました。
少し生姜を絞って垂らした・・・、生姜葛湯を飲むと…、体が芯から暖かくなって・・・、
一晩寝れば・・・・、風邪気味だった私は全快している・・・・、魔法の葛湯でした。
ですから・・・・、吉野に行けば「葛きり」や「葛餅」を戴きますし、高野山に行けば「護摩豆腐」を求めます。
何れも、葛粉が材料です。
葛の根には微かに大地の香りがします・・・・・・、
葛の生命力が大地のエキスを吸い上げて・・・・、自分の体に満ちてくるような・・・、
そんな感覚が・・・・・嬉しいものです。
 
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      葛切りの透明感は葛粉が精製されて純粋だから・・・・出来るのでしょう。
      廣久葛本舗のHPから転載http://www.kyusuke.co.jp/
 
友人のTさんは渋谷の松濤のお住まいのお嬢様(昔は)でいられます。
Tさんのルーツが福岡の秋月だというのは知っていましたが・・・・、
秋月の「廣久葛本舗」であったのは・・・・、お見舞いを戴いて初めて知りました。
私は博多に4年間も単身赴任していました。
ですから、秋月から日田に向けては何度も出かけました。
廣久葛本舗の前は通りましたが・・・・、入った記憶はありません。
 
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               文政2年創業、240年余りの歴史を有す「廣久葛本舗」現在は十代目高木久助氏                が社長です。 前記同社HPから転載。
 
廣久葛本舗の包み紙は木版画です。
職人が葛を晒して精製する作業を描いています。
一つ一つの作業を手を抜かずに、昔ながら行っています・・・・・、
そんな姿勢を包み紙にも表現しています。
包み紙を開くと・・・・・、明治神宮大祭奉献・・・・、の栞と会社案内が入っていました。
 
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              葛根を砕いて、澱粉を水に溶かして絞り出す作業を版画に描いています。
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          戴いた廣久葛本舗の葛粉のパック。一袋に一杯分の葛粉が包装されています。
 
現代風に良く出来ています。
「生姜味」「抹茶味」「小倉味」三種類が、小分けした包に包装されています。
私は生姜を、家内は抹茶を選びます。
片栗の花と、蛍袋のカップを出してきました。
私も家内も葛湯作りは熟知しています。
急に熱湯を加えると塊が出来てしまいます。
ぬるま湯で葛粉を馴染ませるようにといでから・・・・、熱湯を加えます。
葛湯は次第にゲル状になりながら・・・・、透き通り始めます。
ネットリ・・・した感覚が生じて来ます。
生姜の香りが鼻孔を刺激します。
実に美味しそうです。
何時もは機関銃のように喋りまくるTさんですが・・・・、実はお優しい人なんだ・・・解ります。
感謝しながら…、戴きます。
 
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    熱湯に溶いて・・・・・、ネットリした葛湯が出来上がりました。
    葛湯は胃腸をはじめ身体の各部に良く効きます。
 
今頃は秋月から奥・・・、筑前の山に入って葛の根っこを掘っている事でしょう。
冬に葛は葉を落としますが・・・・、その滋養分は総て根っこに蓄えています。
この時期に掘りだすのです。
自然薯も同じで、秋に目印をつけておいて・・・、冬に掘りだすのです。
掘り子と呼ばれるお百姓さんも、農閑期だから・・・、葛根の掘り出しに精が出ます。
 
縄文時代、人々は猪を敬っていました。
「山の神様」ですから・・・・・、でも猪を食用にしていました。
神様の生態を観察していると・・・・、冬には大きな鼻を大地に押し当てて穴を掘っていました。
見ていると、何かの根っこを食用にしています。
縄文人は猪に自然薯や葛根が冬の食用になること、滋養分が豊かであることを教わりました。
葛は太古から日本人を育ててきた・・・・、”山の贈り物”でした。
 
50年物の葛根を探すのだそうです。
葛の蔓はほんの1㎝にも満たない細いものですが・・・・、根っこは大木の太さです。
それも、ゴツゴツしているようで・・・、まるで松の根のようです。
そんな、根を砕いて、水に晒して…、澱粉を抽出します。
何度も何度も水に晒して・・・・・・・、真っ白に精製します。
水に精製する作業は・・・・、何処か水垢離を思わせます。
冷たい、清い水に、体を、心を洗う事に依って・・・・・、心の汚れや澱みが取り除かれます。
ああ、葛粉造りは日本文化そのものの・・・・・
”清く・美しく”、純粋培養作業なのだな・・・・!
思われます。
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          掘りだした「寒根葛」。廣久葛本舗HPから転載。http://www.kyusuke.co.jp/
              根からは僅か7%しか採取できないそうです。こんな労力を要するのですから…、感謝するばかりです
 
勿論、廣久葛本舗の本葛は宮内庁にも入っているそうです。
葛湯を戴いて、今晩はぐっすり寝られそうです。
初夢も楽しみです。
 
 
 
 
 
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今年は鷽(うそ)が群れ飛んで・・・・、吉兆です。

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今年は鷽(うそ)の当たり年です。
舞岡自然公園には6羽以上の群れが飛び回っています。
ウソは雀の仲間、雀より一回り大きく、綺麗ですから・・・・、お目立ちです。
とりわけ雄は首の下に真っ赤な羽根が半月状に生えています。
お地蔵様のゆだれかけのようです。
綺麗だからだから・・・・・・、愛されていて・・・・、郵便切手にも使われています。
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                      郵便切手に使われているウソ。これは雄です。
 
ウソは雀以上に雑食性なようです。
未だ硬い梅の蕾を突っついている…、思ったら
その隣の垣根の山茶花に止まって、赤い花弁をつまんでいます。
花弁に飽きたのか・・・・、一羽が飛び立って・・・・・、卯の木に止まります。
すると、群れは徐々に卯の枝先に移動します。
卯の種は硬くて、食べ難そうですが・・・・、ごっつい嘴で殻を砕いて、無心に食べています。
一羽が落ち葉の上に止まって・・・・、小虫を探し出すと・・・・・・、
仲間も同じように、枯葉を蹴散らかして・・・小虫探しです。
一羽が池に入って、水浴びし始めると・・・・・・、次々に全員が水浴びを始めます。
ウソは綺麗なうえに、仲間意識が強いのでしょう。
 
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                                 未だ硬い梅の蕾をつんざくウソ
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            落ち葉の下に隠れている小虫を探す…ウソ。コッチの地味なのが雌です。
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         葦の枯れ枝に止まって、水浴びを始めるウソ。コッチが雄です。
 
綺麗で、生活力に逞しさが感じられるウソです。
でもウソ(鷽)は嘘(嘘)に通じます。
”ウソなんて可哀想な名前だな、まるで鷺(詐欺に通じる)のようだ・・・”
思いますが・・・・、実は鷽(うそ)とは口笛の古語なのです。
ウソの啼き声がフィー・フィーと口笛のようなので…、鷽の名が付いたのだそうです。
嘘をつく人の口元を見ると心無しか膨らみますから・・・・、
嘘と鷽(口笛)は同じような語源かもしれませんが。
「真っ赤な嘘」は「明らかな嘘」の意で・・・・、鳥のウソとは無関係でしょう。
 
加えて、鷽の字が学の旧字(學)に似ています。
そこから・・・・、学問の神様「菅原道真」のおつかい・・・、とされます。
菅原道真が大宰府に配流された時でした。
当時、大宰府では蜂が大量発生して、人々が困惑していたそうです。
道真一行が大宰府に入ると・・・・、ウソの群れが従って来ました。
ウソは蜂や害虫を食い尽くしてしまったそうです。
以来、ウソは天神様のおつかい・・・・、として崇められるようになりました。
 
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 太宰府天満宮のウソ替え神事(http://www.dazaifutenmangu.or.jp/sanpai/saiten/special/onisube)
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亀戸天神の木彫りのウソ(同社HPから転載http://www.kameidotenjin.or.jp/events/monthly01.html)
 
1月7日は大宰府で盛大に「鷽替え神事」が催されたことでしょう。
天神様ではでは朴の木で作った、ウソを模した木彫りの人形が、お土産になっています。
この人形をお祭りの夜、交換し合う神事です。
ウソは幸運を招く鳥です。
毎年新しいウソの木人形に差し替える事によって・・・・、昨年の悪い事が「ウソ」になり、
今年一年は吉兆になる・・・・、信じられてきました。
亀戸天神では、木彫りのウソを交換し合うのは困難なので・・・、
古い木彫りのウソを神社に戻して、新しい木彫りのウソと差し替えているようです。
12月24日、25日には多くの「ウソ替え参拝者」で賑わうようです。
 
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        鎌倉荏柄天神社の「鷽の絵馬」夢を現実に変える・・・・、目的祈願の絵馬です。
 
昨年末に政権が交代して・・・・、円安・株高・・・・、ウソ替えのようです。
私には「強い日本経済を取り戻す・・・・!」公約は嘘で、
実は「資産インフレを引き起こし、国の借金を棒引きする・・・」
施策が真実のような…、懸念を持っています。
国は膨大な借金(国債)を抱えていますが・・・・、同時に土地や建物有価証券等々膨大な資産を有しています。資産インフレになれば・・・・、資産評価が高くなり・・・・、借金が小さくなるのです。
ウソ替えの筈が・・・・、ウソの雪だるまで膨れ上がらないか…、少し心配です。
 
 
今日もお天気です。
少し、風が強いようですが。
鎌倉二階堂の荏柄天神社は鎌倉で最初に梅の花が咲きます。
梅の蕾を見に、神鳥のウソを求めに・・・・、ついでに甘酒を飲みに・・・・、
最後に・・・、若しかしたら「ウソ鳥」の実物も見られるかも知れない・・・、
期待して出かける事にしましょう。
 
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                                        種を食べるウソの群れ
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6羽以上いたウソの群れ。偶々4羽が一緒に写りました。上と右端が雌。下左の二羽が雄です。
 
 
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真竹の門松の美しさ

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横浜の南、鎌倉に接して栄区鍛冶ヶ谷があります。
その名の通り、鎌倉時代刀鍛冶が住んでいた所です。
無比の名匠と呼ばれる「岡崎正宗」の鍛冶場もここの何処かにあったと思われます。
その高台に本郷ふじやま公園があります。
富士山の眺望が良い事、そして小山の山頂に「富士山講」があったから、この名があるのでしょう。
谷戸に向けて竹林が広がっています。
 
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         鍛冶ヶ谷竹林、見違えるように美しくなったのはボランタリーの方々が愛情を持って、
         お手入れをされてきたからです。でも、孟宗竹です。孟宗竹は外来種です。日本固有種は          真竹です。
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     中野竹林、左下に白壁作りの「栄弓道場」があります。此処も孟宗竹です。
 
本郷ふじやま公園の中心は「古民家」です。
古民家と言っても、江戸時代の名主「小岩井家」の屋敷ですから・・・・、支配階級の屋敷です。
立派過ぎて・・・・、民家の名が適当とも思えません。
格式のある長屋門があります。
1月10日、未だ立派な門松が飾られていました。
 
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   本郷ふじやま公園の中心「小岩井家住宅」長屋門に門松が飾られています。
   門松の竹が「真竹」です。この門松もボランタリーの竹細工名人が作られました。
 
門松の中心は3本建ての竹です。
その先端は槍の刃のように削ぎ取られています。
私は驚きました。
見慣れた孟宗竹ではなく・・・・、青々として、艶のある、滑々した肌・・・・、直棹部(節と節の間)が長く伸びやかな・・・・、そう真竹なのです。
真竹がこんなに太くなるのだろうか? 驚きです。
 
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           真竹は艶やかな肌、スックリ伸びた竹棹、清々しい緑が特長です。
 
顔見知りの竹細工名人に訊くことにしました。
名人は夢中で・・・・・、竹の花入れを作っておいでです。
挨拶すると・・・・、
「いま、投入れを作っています。13日に初釜なので・・・・、お茶のお師匠さんから真新しい花入れを作って欲しい…、ご注文を戴いたんですよ。もうじき来られます。」
 
「ああ、門松ですか? 仰る通り、真竹で作っています。
真竹でも環境さえよければ20mにも伸びるんですよ。
矢張り、門松は真竹でなければ・・・・、日本の年神様は嫌ですよね・・・」
「もう、真竹の太いものは無くなりました。
竹林を手入れしていますから・・・・、今年良いものが育てばよいのですが・・・・。
来年からは孟宗竹にするか・・・・、棹竹に松で門松にすることになるでしょう。」
「普通の、物干し棹になるくらいの真竹なら沢山生えていますよ。
でも、総じて孟宗竹に追われていますので・・・・、竹林の縁に細々と生きていますよ」
「門松は左義長まで飾っておきます。この民家は文化財ですから・・・庭で焼く訳には行きません。
そこで、炭焼き小屋で・・・・、竹炭にしてしまいます。」
名人は私の疑問に次々答えてくれました。
 
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                 ふじやま公園の炭焼き小屋
 
私は、ふじやま公園の小山をぐるっと回ってみます。
竹林は弓道場の裏(中野竹林)と八幡神社脇(鍛冶ヶ谷竹林)二箇所あります。
どちらも、手入れが行き届いていて、数年前から見ると見違えるほどです。
名人をはじめ、ボランタリーの人達の尽力のお蔭でしょう。
でも、言われた通り殆ど総てが孟宗竹ばかりです。
 
孟宗竹が日本に広がったのは、
享保時代(1760頃)薩摩の島津の殿様が江戸の島津屋敷に植えたのが始まり・・・、と言われています。
竹取物語の「竹取の翁」も真竹を伐採して、細工をする人でした。
彼等竹職人は・・・、そのルーツが薩摩隼人で・・・、大和朝廷に統一された人達でした。
彼らは竹細工の専門職人になり、都の周辺に住みます。
(竹の民族誌/沖浦和光に詳しい)
 
都城の弓も真竹で作られますし、茶道具(茶匙や花入れなど)も真竹で作られます。
団扇だって・・・・、果てはエジソンの発明した電球も京都の石清水八幡宮の真竹を使いました。
食べれば・・・・、孟宗竹よりズット美味しいものです。
 
孟宗竹は毛深いですし、肉厚です。
較べれば・・・・・・・、真竹は前述の通りの清々しさです。
外国の女性が毛深くて・・・・・、大味なのに比べて・・・・・・、
真竹は柳腰のようにしなやかで、たおやかです。
日本女性のようです。
 
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       竹の作業場、左が孟宗竹の花入れ。 右が初釜用に試作中の真竹の花入れ。 中央の真竹        のお銚子のようなものは釡の蓋置。右端は水入れです。
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                               真竹の切断面。 薄くて真円なのが特長です。
 
 
「竹を切るには・・・・、回し切りをしなくては・・・ね。」
名人は、鋸と竹割鉈を使って・・・・・、みるみる花入れを作りました。
お茶のお師匠は、「良いわ・・・・!」歓声を上げながら・・・・、
でも、あれこれ注文を出しておいでです。
私は相槌を入れます。
「真竹だから・・・・、お茶室に似合うんでしょうね!竹の香りがお茶室に広がるでしょうね・・・!」
 
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真竹の花入れ、初釜には最適です。花入れ工房さんのHPから転載http://www.ccv.ne.jp/home/y-tanaka/
 
孟宗竹の猛攻に耐えて・・・・、真竹が反抗するには・・・・、何が必要なのか解りません。
でも、先月旅行した豊後路は真竹が勝っています。
山国川の岸辺にも、国東の藪も・・・・・、真竹でした。
別府には竹の博物館もあります。
総て真竹の工芸品、民芸品です。
 
京都嵯峨野の竹林は美しても・・・・、孟宗竹です。
藤原定家も”昔は真竹だったのに・・・・” 苦笑いしておいででしょう。
 
昨日は10日恵比須、福笹飾りも関西では孟宗竹が一般化してしまいました。
300年近く経つと外来種も固有種も見分けがつかなくなってしまったのでしょうか?
 
初釜は13日とのこと、二人のお師匠さんは、
大事に真竹の香りのする花入れを風呂敷に包んでお帰りになった事でしょう。
 
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    孟宗竹に追われる真竹。左半分の白くて太いのが孟宗竹です。 
    右の青くて竹棹の長いのが真竹です。右端の葉っぱが覆いかぶさっているのも孟宗竹です。
    孟宗竹は葉が小さくても沢山つくので、頭が重くて倒れ気味です。真竹は葉が一回り大きくても余り    茂らないので頭を下げません。
 
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大変な「千社札剥がし」(西叶神社の嘆き)

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千社札(せんじゃふだ)とは神社仏閣を参拝した人が、
その記念に自分の名や住所を書き込んだ札を貼る、その札のことです。
殆どが和紙製ですが、中には木札や金属の札もあります。
最近は、ストラップやワインバー等のボトルキープ用に使われたりしています。
 
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  キーホルダー、ストラップ用の千社札。浅草名入れ専門店のHPから転載(http://www.fudaya.com/)
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芸・舞妓さん等が名刺代わりに使う千社札(銀座歌舞伎座前の千社札屋のHPhttp://www.senjafuda.com/)
 
芸妓さんや舞妓さんが襟の間から名刺を差し出して・・・・
”お贔屓にしてくださいな!” 挨拶してくれます。
その名刺も千社札です。
此方は、名だけで住所も電話番号も記されていません。
連絡先は・・・・、置屋さんや検番ですから・・・・、書く必要もありません。
戴いた名刺(千社札)は妙に色めいて見えるものでした。
 
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         別所温泉北向観音に貼られた千社札。江戸時代には千社札の規格(幅一寸六分(58ミリ)、         高さ四寸八分(174ミリ)が決まっていましたが、今は崩れてしまっています。でも、此処は墨         物ばかりですから…、まだいい方です。
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    塩田の前山寺庫裏に貼られた千社札。平たい所なら長押にも壁にも貼られています。
 
 
1月6日、浦賀の西叶神社を参拝しました。
朝10時、未だ参詣者も疎らです。
でも、本殿には5人ほどの若者が梯子をかけて・・・・、お掃除をしています。
ばけつに水を汲んで、手には金属ブラシと雑巾を持って・・・・・・・。
天井や柱長押に貼られた千社札を剥がしているのです。
この、正月に貼られた千社札を、早いうちに剥がしてしまおう・・・、しているのです。
 
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西叶神社の本殿は1842年再建されました。
その彫り物は若干28歳の「後藤利兵衛義光」が彫りあげます。
安房の千倉出身の若手でしたが・・・・、この叶神社彫り物を皮切りに各地に秀作を残します。
(この項は次に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43952964.html)
勿論、地元三浦市の文化財に指定されています。
 
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   西叶神社、本殿の大棟を支える力士像。(後藤利兵衛作) その上にも千社札が貼られています。
   長い、長い竿を使って貼ったものだそうです。鳶職の札のようで・・・、これはもう広告塔のような千社   札です。
 
私は千社札を剥がしている若者に声掛けします。
「朝早くからご苦労様です。皆さんは叶神社さんの氏子さんですか?」
「そうです、西叶神社の氏子青年部です。千社札を文化財に貼るのは、文化財保護法違反ですから・・・・、困るんですが・・・・、こうして剥がすんですよ。
高い所だし、糊も様々で・・・・、年々剥がし難くなっているんですよ。」
千社札は水に湿らせて、しばらくすると・・・・・、するする剥がれるものがあります。
これは、多分天然の澱粉糊で貼ってあるのでしょう。
障子紙と同じ要領で・・・・、湿らせれば簡単に剥がせます。
でも、化学糊(シールを剥がして貼る)で貼られた千社札は容易に剥がせません。
剥がし難い千社札はマナー違反です。
 
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   西叶神社 本殿前向拝の天井に貼られた千社札を剥がす、氏子青年部の人達。
 
神社仏閣を参拝して、祈願する・・・・、それは個人的な事ですから・・・・、
参拝した記念を残したい・・・・、そんな気持ちは落書きするのと大同小異でしょう。
日本人が落書き好きなのは、法隆寺の天井裏の落書きにも表れています。
だから・・・・、先年ロサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に女子大生が落書きしたのは・・・・、
1000年余の日本人の困った習性です。
千社札なら・・・・、剥がしやすい糊で貼ったお札なら・・・・、少しは益しなような気もします。
 
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    天然糊で貼られた千社札は湿らせれば気持ちよい程綺麗に剥がせます。
    でも化学糊はそうは行きません。
 
最近は「千社札お断り」大書してある神社仏閣も良く見かけます。
千社札が流行って来て・・・・、プリクラのような感覚で作られているのも関係しているのでしょう。
神社仏閣を廻る「歴女」が増えてきたのも……、影響しているかも知れません。
でも、千社札が文化財を損なっている・・・・・・、文化財を鑑賞する者にとって目障りである・・・・、
そんなことも事実です。
 
せめて、千社札は芸妓さん舞妓さんのように、名刺代わりに使って欲しい・・・・、思います。
 
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大磯左義長の「7所巡り」で知る重要無形文化財の訳

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私の町内の左義長は昨日、1月12日、それなりに盛大に行われました。
私が、毎年見物し、深く感銘を受けている大磯の左義長は、1月14日(成人の日)に予定されています。
ところが、天気予報では90%の降水確率で、雪になるかも・・・・・・、報道されています。
そこで、町内の左義長を終えると、急ぎ大磯に出かけました。
 
大磯は東が平塚市、西が二宮町、北を秦野市等に囲まれた、広い街です。
その広い大磯の一角で、大磯漁港に接した狭い街が大磯町大磯です。
コンクリート護岸に囲まれて、ほんの300m位の路地に7町内(現在は8町内)が接しています。
その、7町内が競う様にして左義長祭りを実施しています。
小正月に行われる道祖神祭りはどんど祭り、三九郎まつり、左義長等、
地域によって呼び名が異なります。
大磯の左義長だけ(多分?)が国の重要無形文化財に指定されています。
何故、その栄誉を浴しているのか?
説明するのが今日のブログの目的です。
 
漁師町の路地に入ると、注連縄が道の上に張られています。
両脇は青竹が建っており、注連縄が張られ、神幣が付けられ、その中央に奇妙な物が付いています。
説明が困難なので、先ず下の写真を見てください。
大根の輪切りび神主さんの神具「由布」が突き刺し、全体を注連縄に取り付けています。
この注連縄全体を「みちきり/道切り」と呼ぶのです。
昔は大根を賽の目に切って、サイコロ状に、そのサイコロに由布を刺したそうです。
 
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      道に注連縄を張って、由布を取り付けています。
      由布岳は冠雪した姿が由布に似ているからでしょう。
 
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「道切り」を作って、隣町から厄や災難が自分の街に入らないように・・・・、結界を張ったものでしょう。
道祖神の名前も「道切り」に因んだもののように思います。
 
道脇に「お仮屋」と呼ばれる小屋が作られています。
道祖神と大書された提灯が吊るされ、綺麗に、派手目にお仮り家は飾られています。
普段は海べりの祠に祀られていた道祖神も、祠から小屋に移されます。
道祖神の後ろはカーテン状に茣蓙が吊るされています。
そのむしろの裏に子供達が潜んで、夜中見張っていたそうです。
お仮屋の飾りを隣町の子供に盗まれないように・・・・、見張ったのだそうです。
と、言うことは・・・・、油断したり見張りを怠っているお仮屋があれば・・・、
盗む楽しみもあったのでしょう。
盗んだ、盗まれた・・・・、そんな子供達の遊びだったと思われます。
 
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これが道祖神の「お仮屋」です。小正月には何時もの祠からこのお仮屋に移されます。 
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                       左義長の主役は子供です。お仮屋に子供が籠ります。
 
このお仮屋を廻る事を「7所巡り(ななとこめぐり)」と呼ぶのだそうです。
 (現在は8町なので8所巡りになっていますが)
7つもお仮屋を廻ると、多少の違いが目につきます。
気になったのは・・・・、道祖神の頭の上にお豆腐が置かれているのです。
私はお参りに来る人に訊きました。
「何故、お豆腐が置かれているのですか?」
答えは色々です。
「昔から、道祖神にはお豆腐と思って来ましたよ。お豆腐は体に良いから…、子供に食べさせたいからでしょう・・・、私は大磯に嫁に来たので詳しい事は解らない。城山の民俗資料館い行って調べたら良い。」
指導されたり・・・・、
中には「お祭りが終わったら、皆でお豆腐を鍋にして食べるのです。お豆腐に二は年神様が宿っているから・・・、それを身体に取り込んで…、一年を無病息災に過ごそうとしているんですよ。」
説明して下さった人もいました。
 
お豆腐が奉げられた道祖神は2基だけでした。
此処は漁師町、鍋には豆腐も良いが、魚のほうが美味そうです。
 
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                           道祖神の頭上の白いのはお豆腐です。
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                              道祖神の頭上には由布
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                     この道祖神は目つきが厳しく・・・、賽の神らしい・・・・。
 
 
一番に目立つのは「おんべ」と呼ばれる竹飾りです。
何処のお仮屋にもついていますが・・・、建てられる場所の確保に苦心しているようです。
一見すれば七夕飾りのようです、真竹の紙飾りが沢山綺麗に吊るされています。
でも、完全に違うのは天空に向けて弓が張られている事です。
天に弓を向けるのは…、(恐れ多い事ですが・・・・)天空からも災いが来ないように・・・、
お呪いのようなものでしょう。
諏訪に行けば・・・・御柱(おんばしら)が立ちます。
「おんべ」も「御柱」に似たものでしょう。
 
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   「おんべ」は七夕飾りのようです。でも弓が天空に向けて張られています。
   道祖神祭りは五穀豊穣の予祝行事です。
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                   漁師町のおんべです。 干物が美味しそうです。
 
14日にはこの「おんべ」を大磯の北浜に運びます。
おんべの周囲に門松飾りなどを積み上げて・・・・、左義長に仕上げます。
そして、夕闇も深まった夜7時に焚きあげます。
 
夜空を焦がし・・・、海に火柱が映ります。
私の縄文人の血が湧きたちます。
その模様は昨年も書きましたが・・・・、
今年は民俗資料館で調べたので…、もう少し詳しく書けそうです。
でも、それは明日14日のお天気次第ですが・・・・。
 
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   こちらはこゆるぎ浜の左義長、12日町内総出で飾っていました。
   写真の通り大半の素材は茅でした。
 
昨今の左義長は「お正月の松飾の焼却行事」のように見えます。
松飾を”焼却ごみ”と出すのも拙い様なので・・・・、神社の左義長にかこつけて捨ててしまう・・・、
私にはそんな風に見えます。
 
左義長はこれから1年間、家族元気で健康に・・・、そして収穫も沢山あるように…、
所謂「予祝行事」です。
普段はお参りしない神社に、”正月明けに松飾を捨てに行く”ようでは・・・・、困ったものです。
大磯の左義長を見ていると…、予祝行事の本当の意味が解ります。
だから・・・、国の重要無形文化財であり・・・、
その魅力に惹かれて島崎藤村が移り住んだ・・・、謂れが良く解ります。
 
 
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                         昨年の左義長の風景、8基のおんべが夜空を焦がすさまは壮観です。
昨年の火祭りは以下に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45960341.html
 
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どんど焼でお汁粉を戴きました

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昨夜来の雨は雪に変わってきました。
今夜にかけて爆弾低気圧が通り過ぎるそうです。
楽しみにしていた大磯の左義長(今日予定)が行われるのか? 心配です。
”雨が降っても、雪が降っても左義長は行うよ!”
大磯町の住人が言っていましたが、風は風速30mと台風並みのようです。
 
左義長は小正月の行事でした。
小正月とは元旦から数えて、最初の望の日(満月)に当ります。
例年1月15日で、成人式も実施されてきていましたが・・・・・・・、
小正月が馴染みも薄くなったことから・・・・・、成人式は1月の第二月曜日になりました。
そんなことから、大磯の左義長も成人式の日(祝日)に変更したのでしょう。
1月14日、雨天順延、本来の小正月15日・・・・、にしておいたら良かったのに・・・、思います。
 
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                           久里浜町のどんど焼はペリー公園前の砂浜で行われます。
 
昨日、13日は久里浜のどんど焼きを見に出かけました。
三浦の砂浜で催されるどんど焼きは・・・・、13日の夜明けから始まります。
朝6時過ぎに熊野神社のどんど焼きが長沢海岸で始まり、
朝6時半、牧水記念館下の砂浜で、長岡町内会のどんど焼きが始まります。
どんどの火入れは砂浜を東東に移って行き・・・・、
10時にペリー公園前の久里浜で火入れが行われます。(主催久里浜町内会)
最後が、その東長瀬町のどんど焼きは10時半火入れです。
 
私は5時出発で、三浦のどんど焼きを追いかける積りでいましたが、
娘夫婦がお正月を海外で過ごし、この週末泊って行きましたから・・・・・、
10時からの久里浜海岸のどんど焼きから見物です。
 
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                久里浜町のどんど焼き、遠くの砂浜にはお隣長瀬町のどんどが見えます。
 
小正月には小豆粥を食べました。
正月の間は肉を食べる事はタブーとされていました。
禁忌明けのお祝いに赤い小豆粥を食べたのでしょう。
また、小正月には繭玉団子を作り、ミズキや桜の枝先に飾りました。
餅花とも呼ばれる、綺麗なもので、
繭(養蚕業)や農作の豊穣を繭玉を作ってお祈りした・・・、予祝行事です。
 
この、餅をどんど焼きの火で焼いて食べると・・・・、健康に一年が過ごせると信じられてきました。
お餅に宿った年神様が体内に入って、体の厄や災難を追い払ってくれると考えたものでしょう。
ですから・・・・・小正月には小豆とお餅の入った・・・・、お汁粉を食べれば、最高なのです。
 
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     手前が餅花・・・・、奥がどんど焼。向こうの岬の向こうは浦賀です。岬の山の下が久里浜少年院です。
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                                    久里浜町のどんど焼き。右側は久里浜港です。
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          無事にお役目を終えた達磨さんも焼かれて・・・・、新しい達磨さんに祈願が繋がられます。
 
久里浜の砂浜には餅花が飾られていました。
一般には丸い団子状のお餅ですが、此処では切り餅です。
古式には木の枝の飾られますが…、此処では糸に数珠状に連なっています。
それでも、赤、白の2色です。(古式には緑が加わって三色)
沢山餅花が咲いている様は綺麗で、良いもんです。
 
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                      お汁粉のお裾分け。エコの時代、マイ箸、マイ椀持参が常識です。
 
みんな、椀と箸を持って並んでいます。
餅花を使ったお汁粉を振る舞っているのです。
家内は「お椀は持ってこなかったのですが・・・・」
遠慮しながらも・・・・、お汁粉の行列に並びました。
私も、お汁粉も食べたいし・・・・、
どんど焼きも楽しみたい・・・、カメラを片手にあっちこっち動き回ります。
 
お汁粉は十分な量でした。
お餅は小さめながら・・・、三つも入っていました。
私のような外者も、こうしてお祝いのお裾分けを戴けるとは・・・・、有難い事です。
 
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                     私達は食器を持参していなかったのですが・・・・、お汁粉は戴けました。
 
夢中になっているうちに、お隣の長瀬町のどんどにも火入れが行われました。
私達は長瀬町のどんどに急ぎます。
 
長瀬町のどんどにも沢山の人が集まっていました。
町の消防団が火入れを行い、町内会はお汁粉、甘酒のお裾分けをしていました。
私達は流石に二杯目のお汁粉はお腹に入りません。
甘酒を戴きました。
 
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                       長瀬町のどんど焼きでは甘酒と福銭を戴きました。
 
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                                                  長瀬町のどんど焼。
 
 
今日は小春日和で、海はキラキラ光っています。
岸壁や岩場で釣り糸を垂れている人もいます。
青年が、車椅子にお婆さんを乗せて・・・、一緒にどんどを見詰めています。
お婆さんには何枚も毛布が掛けられています。
青年はお婆さんに話しかけています。
お婆さんの手には福銭が強く握られていました。
お婆さんの脳裏には娘時代のどんど焼きの思い出が蘇っている事でしょう。
”寝たきりでも、どんどを見られる・・・・”感謝しておいでのようにお見受けしました。
 
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向こうの岬を越えれば浦賀です。
岬には久里浜少年院があります。
あの、建物の窓からどんどを見ている人もいる事でしょう。
私のように夫婦揃ってどんどを見られるのは幸運でしょう。
 
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                      鉄人28号もベランダからどんど焼きを見て、力が漲ってきたようです。
 
 
 
 
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雪の八幡宮大銀杏

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夜に降り出した雨は朝には雪に変わりました。
見る見る、積もり始めました。
雪の鎌倉に、とりわけ寒牡丹を見たくなって、家内を誘って出かける事にしました。
 
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   八幡宮の寒牡丹、雪に耐えた姿が輝いて見えました。明日のブログにアップします。
 
台湾沖に発生した熱帯性高気圧が北上します。
冷たいシベリア高気圧が張り出して、温度差の大きな溝が出来ます。
すると、熱帯性的気圧は爆弾低気圧(昔は台湾坊主と呼びました)になります。
湘南にも大雪をもたらします。
 
1180年(治承4年)鎌倉に入った源頼朝は八幡宮を現在地に遷宮します。
この時に多分本殿石段の中断脇に銀杏を植えたのでしょう。
銀杏は八幡宮を荘厳に見せる為にも、火災を防ぐためにも適当と思われたのでしょう。
 
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   中央石段の左わきに大銀杏が立っていました。根元から折れてしまいました。
    ところが、銀杏の根元からヒコばえが芽吹いています。また、その左に折れた幹を置いた所、根が生え出し    て芽吹いて来ました。銀杏の逞しい生命力には感動するばかりです。まさに霊樹、ご神木であります。
 
1219年(健保7年)1月17日、鎌倉の鶴岡八幡宮では大饗が催されました。
将軍実朝を筆頭に幕府要人が八幡宮の社殿に籠ります。
しかし、先導役(剣を持つ)の北条義時は「気分が悪い」言い残して、
剣を源仲章に預けて、退出してしまいます。
夜、6時過ぎ儀式も終わり、暗い中を要人たちは退出してゆきます。
公暁(八幡宮別当、源頼家の二男)は八幡宮の石段脇にあった大銀杏の陰に潜んで、
実朝を待ち受けます。
実朝は正装していましたから、丸腰です。
石段で長い裾を踏まれては逃げ場がありません。
実朝も、北条義時の代役を務めた源仲章も惨殺されてしまいます。
 
公暁はかねて協議の通り、三浦義村の元に駆け込もうとします。
ところが、三浦義村は執権北条義時に事態を報告します。
そして、執権の指示通りに長尾定景を派遣して、即日に公暁を殺してしまいます。
 
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                          雪の八幡宮本殿。石段は危険ですので通行禁止です。
 
2010年3月10日の未明にも雨が雪に変わっていました。
雪は大銀杏の梢に凍り付いてゆきます。
加えて台風並みの強風が北から吹き込みます。
凍てついた体を支え切れなくなった大銀杏です、その根元から大音響を伴って折れてしまいます。
1000年近く生きてきた「隠れ大銀杏」が倒れた・・・・、大きな衝撃でありました。
何かこれから災難があるかも知れない・・・・、不安が心をよぎりました。
 
2011年3月11日には大震災が発生します。
湘南に住む人の脳裏には、その大津波の惨状を見るにつけ・・・・明応地震(1498年9月20日)に伴う大津波によって大仏殿が倒壊して流されてしまった・・・・、歴史を思い起こさせました。
 
昨年も1月末に雪が降りました。
最近は良く降るようです。(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46091852.htmlに書きました。)
雪が降ると、歴史を思い起こします。
 
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        雪の鎌倉駅、とんがり帽子が原宿駅に似ています。この日はバスも止まっていました。
 
遅れ気味の横須賀線に乗車しました。
車内では江ノ電は運転をしていません・・・、放送しています。
これでは・・・・・、今日のミニツアー企画・・・・・・、
「鎌倉から藤沢を廻って、夜は大磯の左義長見物・・・、」
は中止せざるを得ません。
 
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       段蔓、見ての通り道は雪がシャーベット状に溶けて、歩き難いこと・・・・。
       加えて私の古いレインシューズは水洩れしていたので大難儀でした。
 
段蔓を歩いてゆきます。
若宮大路は鎌倉の一番の低い所を通っています。
ですから…、雪が溶けてグチャグチャです。
泥田を歩いているような気分です。
北風が正面から吹き付けるは・・・・、20年ぶりに履いたレインシューズは水漏れしていました。
足の指先は冷たくなって、もう感覚が消えています。
これでは・・・・、今日のツアーは八幡宮だけで・・・・、帰宅するのが賢明なようです。
 
矢張り、雪の八幡宮を見物したい・・・・、思う人が多いのでしょう。
そこそこの見物人です。
カメラマンも沢山います。
 
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                                                       白幡神社
 
静かな境内にギリ・ギリッと大音響がします。
雪が積もって、枝が折れたのです。
警備員が音のした方向に走ります。
時折、女性の叫び声が響きます。
社殿の大屋根に積もった雪が、女性たちの頭上に落下したのでしょう。
警備員は大忙しです。
今度も叫び声のした方角に走って行きます。
人が転んだ…、と言っても走って行きます。
 
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      雪の八幡宮、参拝者もそれなりに居ました。
      社殿の庇の下に居ると、雪が頭上に落下して、大災難です。
 
源氏池の畔にはどんどが2基建っています。
警備員に訊いたところ、この事態を見込んでどんどにレインコートを着せたのだそうです。
早々とどんど焼きの火つけは翌朝(今朝)に順延したのだそうです。
2010年の大銀杏倒壊事件以来、八幡宮の危機予知レベルはアップしたようです。
そう思うと、源平池も綺麗に破蓮を掃除しているように見えます。
池の畔で遊んでいる子供も沢山います。
見渡しを良くしておくには・・・・、蓮の手入れをしなくてはいけません。
 
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    源氏池の畔のどんと、14日の早朝に火付けの予定でしたが、
    レインコートを着せて15日の早朝に順延されました。
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       破蓮を綺麗に掃除した源平池は鴨の楽天地です。
 
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雪にまみれた冬牡丹(鶴岡八幡宮で)

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私は古建築や、石仏が好きでこのブログにも度々書いています。
曇りの日には古建築を写すのが適当です。
快晴の日には光ったり、陰が濃くなったりして、写真としては写し難いものの・・・・・、
曇りの日なら、庇の奥や、蟇股などの様々な彫刻が良く見えるからです。
雨の日には石仏を写しに出かけます。
石仏が雨に濡れると、驚くほどリアルに写せます。
私の好きな会津八一の歌は、雨に濡れた石仏を鮮やかに写し取っておいでです。
   奈良坂の石の仏の頤(おとがい)に 小雨流るる春は来にけり
 
冬牡丹なら・・・・、雪の日に写すのが最高です。
 
1月14日夜半に降り出した雨は朝から雪に変わりました。
私は鶴岡八幡宮に冬牡丹を見に行きたくて・・・・、もう居ても立ってもいられません。
家内も一緒に行くとのこと・・・・、早めに昼食を終え、いそいそ出かけました。
 
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   今年1月4日に写した八幡宮の冬牡丹。約半分程が「島」の名が付いています。
   大根島で改良・開発された種だと思われます。
 
実は鶴岡八幡宮の牡丹園には1月4日に出かけました。
初詣の序です。いや、冬牡丹の序に初詣したのかも知れません。
その時の印象は、今年は寒すぎるので・・・・、例年より冬牡丹は不作かな?
思っていました。
 
私の小学生のころ(昭和30年代)、八幡宮の源平池の周囲はススキが生い茂っていて、
鬼ごっこをして遊んでいました。
昭和55年、鶴岡八幡宮創建800年祭の折に、池の周りを整備し、その南の岸辺を牡丹園にしたのでした。
当時から、鶴岡八幡宮の初詣客は物凄い数でしたから・・・・・、
牡丹園にするには春牡丹の他に冬牡丹を見せたい・・・・、思ったことでしょう。
新春を寿ぐ花とすれば、牡丹に勝る豪華な花は思いつきません。
 
と、思っても容易く冬牡丹を咲かせる事は出来ません。
寒牡丹は春と秋冬に二度咲きする品種の牡丹です。
その春咲きの蕾を切り落として、冬だけに咲かせるのが寒牡丹です。
一方冬牡丹は、一般の牡丹を徹底した温度管理を施し、
冬が春だと思わせる事によって冬咲きさせる牡丹のことです。
 
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      1月4日見た「島の輝」も雪にまみれて・・・・・、苦しげに花弁を散らしていました。
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   此方は「島大臣」と案内されていました。大根島で開発された種だと思います。
 
島根県の東「中海」に浮かぶ小さな島があります。
大根島と呼ばれる出雲風土記にも出てくる歴史のある集落です。
大根の名があるのは、大昔から火山灰土で朝鮮人参を栽培していたからでした。
大根島の島民には植物栽培の知識が蓄積していたのでしょう。
冬牡丹の栽培に挑戦します。
そして、冬牡丹のレンタル事業を思いつきます。
 
鶴岡八幡宮は日本三大八幡宮の一つで、日本中に有名です。
牡丹園を作った・・・・・・、でも、春牡丹ばかりです。
そこで、冬牡丹を・・・、お正月からお見せしませんか!
セールスしたのでしょう。
 
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毎年、1000鉢もの牡丹を栽培して、鶴岡八幡宮に運びます。
山陰で・・・・・、寒い中で育てられた冬牡丹は、湘南の温室に移されます。
温室に移された牡丹は「春が来た」勘違いして花を咲かせます。
咲いた花から・・・・、順次牡丹園の庭を飾ります。
花が散ったら・・・・、次の花に差し替えられます。
まるで・・・・、AKB48のお嬢さんのようです。
ですから・・・・、私達は3月一杯冬牡丹を楽しむことが出来るのです。
 
1月14日は成人式、美しく着飾った新成人も折からの大雪で難儀です。
もう、恥も外聞も無いわ・・・・・・、言わんばかりに着物の裾をたくし上げて・・・・、長襦袢も見えています。
大切な晴れ着ですし・・・・・・、汚したら・・・・、染み抜き代も馬鹿になりません。
美人が雪や風で難儀している風情は、ことさら美しいと感じられます。
冬牡丹も同じです。
 
晴れた日には・・・・、余計な物も見えてしまいます。
雪が余計な物を隠して、花の奥まで光を届けてくれます。
そして・・・・、花自体も雪にまみれて・・・・
”わたし、困ったわ・・・、寒いし風も吹くし・・・・、雪が重たくて・・・・、”
思わず、雪の上に花弁を落とします。
ハッとする美しさです。
 
私は荷風の「濹東綺譚」を思い出します。
主人公は「お雪」という玉の井の私娼でした。
純朴な女性です。
 
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私のデジカメのレンズは雪に濡れてしまいます。
拭いても拭いても・・・・・・、次々に雪がレンズを曇らせてしまいます。
でも、冬牡丹の難儀や、大根島の職人さんの丹精を思えば・・・、快い雪です。
シッカリ、美しさを目に焼き付けて帰りました。
 
自宅で、パソコンで見れば・・・・、その輝きは全く写せていません。
がっかりする・・・・、嫌な瞬間です。
写真より、実際はもっともっと美しいのですが・・・・。
実際は遥かに輝いて見えるんだ・・・・、思って写真を見てください。
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 牡丹園の全景。菰を被っているのが冬牡丹です。唐傘は強風で閉じられています。
 冬牡丹の前後に春牡丹が見えます。此方は未だ硬い蕾で、5月の連休の頃花を咲かせます。
 春牡丹は八幡宮で自生させています。
 
 
 
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三浦の浜の水仙の花

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春を告げる魁として、喜ばれる花は幾つもあります。
今年は少し遅れましたが、もう蝋梅も咲き始め、水仙も蕾を開き始めました。
1月13日、久里浜でどんど焼きを見物して・・・・・、
お汁粉を振る舞って戴いた私達は・・・・・・、水仙を見に出かけました。
 
水仙の名所と言えば、越前岬が有名です。
海に落ち込む断崖に一面日本水仙自生しています。
淡路島に・・・・・、伊豆の爪木崎・・・・・・、そして三浦半島の城ケ島など・・・・、
何れも岬です。
黒潮や対馬海流に乗って、南から球根が流されてきて・・・・、岬に自生したのでしょう。
海風が強くて、痩せ地ですから・・・・、背丈の高い植物は育ちません。
背が低く、他の植物が冬枯れしているうちに、花を咲かせるのが日本水仙です。
強い生命力が・・・・、群生地を形成するのでしょう。
強い生命力が・・・・、香しい匂を発散させるのでしょう。
水仙の花一輪で、部屋中が春の香りで一杯になります。
 
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                                  三浦の野比海岸一帯には水仙が咲きます。
 
沈丁花も春を告げる花として人気ですが・・・・、
お茶室では禁花と聞きます。
香りが強すぎて・・・・、清々しさに欠けるので・・・・・、慎まれるのでしょう。
 
久里浜のペリー通りを西に走ると、野比の海岸通りに繋がります。
この道は何処かハワイの裏オアフのような雰囲気があります。
真っ青な海に、背の高い棕櫚の木見えます。
廉価にランチを提供するレストランがあります。
勿論、サーファーが波と戯れています。
 
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その海岸通りに水仙が咲いています。
昔から咲いていたのですが、地元のボランティア団体が手入れをしているのです。
団体の名前は解りません。
でも「私は此処に居ます」と書かれた小さな看板が立っています。
水仙の気持ちになって・・・・・、
「私は此処に居ますから・・・・、ウッカリ踏みつけないでください!」
「私は、此処に生きて春を告げますから・・・・、見てくださいね!」
そんな意味なのでしょう。
何処か「千の風になって」のワンフレーズ
”私はお墓にはいません・・・・”  を思い出してしまいます。
 
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水仙はもう満開です。
このあたりの水仙は一重の日本水仙ばかりです。
水仙も春の日差しが好きなのでしょう。
精一杯花弁を開いて太陽を浴びています。
今日は南風、潮風も気持ちよさそうです。
 
城ケ島の辺りに行くと八重咲きの水仙が目立つようになります。
砂浜では釣りをする人、
乗馬をする人・・・、様々です。
春の海が光って、眩しいばかりです。
房総の山が霞の向こうに浮かんで見えます。
 
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すっかり、春の気分でしたが・・・・、この日の夜半から雨が降り出し、
雨は明け方から雪に変わって・・・・、14日からは冷蔵庫にいる様な寒さです。
春(?)の天気は気まぐれです。
そんなお天気にもめげずに咲くのが水仙です。
 
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三崎に咲く「キダチアロエの花」

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湘南には住宅の庭先や、路地裏に咲くキダチアロエの花が目立ち始めました。
赤橙色の花が幾つも花を付け、全体で三角柱の形をしています。
道路工事を示すロードコーンのようでもあります。
私は、狐火のようだ…、と思っています。
私自身も実家の裏山で狐火を見たことがあります。
枯れた赤松の大木の根元で・・・・、ボーッと燃えていたものです。
盛徳寺の裏山に人魂が出る・・・・、噂が持ち上がって・・・・、
父と確認したのでしたが・・・・・、
根に溜まっていた「松根油」が自然発火したものと判断しました。
人魂は青白いのですが、狐火は赤いのです。
 
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      広重の江戸名所百景から「王子の狐火」 ボーット燃える炎がキダチアロエを思わせます。
 
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                   三崎に近い砂浜で遊ぶカモメやウミネコ・・・・、温んだ水が嬉しそうです。
 
 
流石に横浜に咲いているキダチアロエの花は霜に傷んでしまっています。
加えて今次の大雪ですから・・・、気の毒な状態です。
ところが、三浦半島は暖かいのでしょう。
いよいよ橙色が鮮やかな赤い色に変わろうとしています。
海風にも負けずに狐の尻尾を押し立てて・・・・、その先端をボーット燃やし続けています。
これは・・・・、大きな狐火だ・・・・、荼枳尼天(だきにてん)様が居られるかも・・・・、
思ったりします。
 
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                             浦賀の市街地に咲いたキダチアロエの花。向こうはカモメ団地。
 
キダチアロエは「医者いらず」と呼ばれて・・・・、重宝していました。
切り傷が出来たり、霜焼けになるとキダチアロエの葉を切って・・・、
ヌルヌルした樹液を患部に塗りました。これで…、不思議な程治癒しました。
舐めると苦いものでしたから・・・・・、便秘などの内服薬としても効果があったのでしょう。
 
もう、15年以上も前のことでした。
アロエがブームになった事がありました。
私は博多で単身赴任中でした。
中州のすし屋に遊んだ時でした。
”先ずはビール” 注文すると・・・・・、
”先ずはお通しを・・・・” と言って蒟蒻の刺身のような小皿が出ました。
板前に訊くと・・・、
”これはアロエべラの刺身です。口当たりは良いし、体にも良い・・・・・、先ずアロエを食べれば深酔いはしないし・・・・、糖脂肪分の吸収も鈍って・・・、良い事尽くめです。”
 
私は尋ねました。
家のアロエでも同じように刺身で食えるのか?
”キダチアロエは苦味が強いので・・・、それに肉が薄いので料理するのは少し難儀ですが…、
食べられますよ。皮を削いで肉を熱湯に潜らせて・・・、冷たい水で締めて・・・・・、刺身におろします。”
そのころからでしょう・・・、アロエの肉片の入ったヨーグルトが店先に並ぶようになりました。
 
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     三崎の花暮岸壁。船は釣り船。 クレーの先から右折して遠洋のマグロ船が接岸しています。
     右側が花暮の市街が続いています。
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      花暮岸壁で釣りをする親子連れ。正面が城ケ島大橋。 橋の右側が城ケ島、左が「通り矢」
 
三浦三崎の花暮岸壁に出ました。
遠洋航海に出るマグロ船が何隻も接岸しています。
その間で親子が釣りに興じています。
そう、今日(1月13日)は休日なのです。
 
目の前は城ケ島大橋です。
ですから・・・、その先が「通り矢」になります。
城ケ島と三崎の間の狭い海峡です。
此処で、源頼朝が通し矢をした・・・・、伝説もあります。
明日(1月15日)は三崎の海南神社でチャッキラコ(ユネスコ無形文化財)が奉納されます。
これも、岬の母娘が頼朝を慰めようとした・・・・、言い伝えです。
 
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花暮岸壁の奥に釣り船屋が集まっています。
釣り船屋の店先にキダチアロエの花が・・・、盛んに咲いています。
花も、舟べりも波にユラユラ揺れています。
もう、春の気分です。
 
私達も・・・・、春の気分です。
 
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      釣り船を背に咲いたキダチアロエの花。1月13日は翌日の大雪が嘘のような小春日和でした。
 
 
 
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冬日が差し込む片瀬のベーカリーレストラン

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今年は1月20日が大寒、一年中で最も寒い季節になります。
大雪も中々溶けずに残っていて・・・・、今年の寒さはひときわ厳しいものがあります。
毎年大寒から・・・・、立春(2月4日)を過ぎたころからインフルエンザが猛威を振るい、
杉花粉も蔓延するようになります。
身体をケアしなければいけない季節です。
 
私は毎朝6時半に朝食を終え、このブログを書くことを日課にしています。
大抵、NHK朝のテレビドラマが始まる頃には書き終えて・・・・・、
ペッとの世話を焼いたりして・・・、9時頃にはお出かけです。
 
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              未だ雪が溶け切りません。雪だるまも長らえています。(片瀬で)
 
家内は袴姿に着替えて、弓道場に稽古に出かけます。
普段は着膨れ気味なのですが・・・・、弓道の姿は白い道着に黒の袴で・・・・、いかにも寒そうです。
寒風の中、凍てつく道を10分弱歩いて道場に着きます。
”寒いから・・・・(もうすこし、厚着をしたら)”、心配すると、何時もこう言います。
”女子は射を行うに優雅にして、容姿凛然たること”
(因みに男子は『従容典雅威儀正しく、質実剛健であること』なんだそうです)
稽古着姿は優雅であるかは別にして、凛としている事は納得です。
寒い中を坂道を下りて行きます。
草履が滑らないか心配です。
 
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                           片瀬の海から大島を望む。海の照り返しはもう「春」です。
 
私は大好きな江の島道に出かけます。
野鳥も多いし、石仏も、社殿の彫刻も・・・・、蝋梅も咲いています。
それに・・・・、居心地の良いレストランや蕎麦屋もあります。
ゆっくり歩いて・・・・、早めにランチを取って、読書する楽しみもあります。
 
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                   ベーカリーレストラン「PINY」。 左が片瀬山の住宅地、右が江の島道です。
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                 PINYの駐車場に面した壁面。パンが大写しされています。木はオリーブです。
 
江の島道の片瀬にバーカリーレストランがあります。
お店の名は「PINY/パイニイ」・・・・、どんな意味だか解りません。
片瀬山の住宅地の入口・・・・、片瀬川に架かった片瀬橋を渡った所にあります。
パンが美味しく、何時もテイクアウトして新林公園などで食べていたのですが・・・・、
この季節は、レストランの室内でモーニングサービスやランチサービスを戴きます。
”パンが美味しく、室内が明るく、快適”なので、お奨めです。
(PINY/パイニイのHPhttp://www.shonanportsite.jp/piny/)
 
平日は8時に開店し、11時までがモーニングサービスの時間です。
朝が早い私はモーニングサービスがランチになります。
モーニングのメニューはモーニングデニッシュセット(1000円)と、
出来たてデニッシュセット(700円)の2種類だけです。
私の病み上がりの胃袋ではどちらも食べきれないボリュームです。
加えて、食パンなどのトーストもセルフサービスで食べられます。
 
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        冬の日差しがレストランの中まで差し込んでいます。
        ベランダにもテーブルが置かれて居ますが、さすがに利用者は居ませんでした。
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                                       ベランダのオリーブ、そしてレモン。
 
冬日がレストランの中まで差し込んできます。
ベランダの先には幾つも植木鉢が置かれていて・・・・、レモンが収穫期であることを告げています。
オリーブの緑も新鮮です。
”此処こそが、湘南なんだなあ・・・” 実感する恵み豊かな景色があります。
 
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             幾つものデニッシュが運ばれて・・・・、三つを選びます。
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                          これで、デニッシュのモーニングサービス700円です。
 
真っ白いプレートに野菜サラダ、ヨーグルト、
の日は杏ジャム(ヨーグルトに合わせて戴く)、が届けられます。
私はミルクティーを注文しました。
ワゴンで幾つものデニッシュが運ばれてきて、清楚なお嬢さんが
”お好きなデニッシュを三つお取りください!”案内してくれます。
どれもこれも美味しそうです。
私は、適当に三つ選びます。
どうみても、一つ食べれば満腹です。
二つはお持ち帰りです。
 
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                            美味しかった杏のジャム、ヨーグルトに添えて戴きました。
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     食材の一つ一つにこだわりがあるようで・・・、各テーブルに案内が置かれていました。
     私のテーブルには紅茶の話でした。
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                                   食パンのトーストサービスはセルフ形式です。
 
 
BGMはリチャード・クレイダーマンの「渚のアデリーヌ」です、何時しか「春の巡り合い」に変わりました。
素敵な女性が居ないかな?
広い室内を見渡しても・・・・、私と同年配が2組いるだけです。
でも、ベランダに面した、日が燦々と降り注ぐテーブルは総て予約されています。
ランチタイムになると片瀬山のマダムが集まって来るのでしょう。
 
片瀬山には家内の友人も、私の同窓生も住んでいます。
みんな良い年齢になっている事でしょう。
 
山を下れば美味しいパンがある・・・・、憧れでもあります。
 
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                                                広く明るいオープンキッチン
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                                                       店頭風景
 
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稲村ケ崎の哀史

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今日1月20日からは大観です。
我が家の二階からも冠雪した富士山が眺められます。
富士山は良いなあ・・・、つくづく思う季節です。
 
昨年12月26日、利根川で高校生14人が遭難しました。
漁師も出漁を見合わせるほど強風下でした。
訓練中のボート部の生徒14人が川に投げ出されたのでした。
TVでは一時全員不明と報道されました。
私達は逗子開成中学の遭難事故が再現か? 不安が脳裏をよぎりました。
新設されたばかりの安倍内閣は「事故調査委員会」を設置しました。
幸いなことに全員の生存が確認され・・・・、事故調査委の結論は不明です。
(勇み足かな?)
 
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   稲村ケ崎から江の島・富士を眺める。 手前のブロンズ像は逗子開成中学の遭難碑です。
 
明治43年(1910)1月23日の午後でした。
当日は大寒中とはいえ、穏やかな日であったそうです。
逗子開成中学校の生徒11人と小学生1人、計12名が
逗子田越川河口から江の島に向けてボートで漕ぎ出しました。
ところが、稲村ケ崎を越えて、七里ヶ浜沖に出たところで突風に煽られ転覆してしまいます。
全員が海に投げ出され…、一名が泳いで漁船に救い上げられた事から事件が判明します。
直ちに捜索が始まりましたが、救出された1名も含めて全員の死亡が確認されました。
 
2月6日、逗子開成中学校で追悼の式が開催されます。
その時、開成中学の姉妹校「鎌倉女学校」の生徒さんが追悼歌を合唱します。
その歌が「ま白き富士の根」でした。
鎌倉女学院の若い教師三角錫子さんが作詞し、讃美歌にのせた歌でした。
大正4年(1915)には「七里ヶ浜の哀歌」としてレコードになり、全国で歌われるようになります。
昭和10年(1935)には映画になります。
この時表題が「ま白き富士の嶺」であったことから・・・・、「ま白き富士の嶺」が一般化されました。
 
最近木下恵介監督が脚光を浴び「24の瞳」がリバイバルされているそうです。
24の瞳は12人の生徒さんと女教師の心の通うお話でした。
私達には12人の生徒・・・・、強い記憶が叩き込まれているようです。
 
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     七里ヶ浜。砂浜が黒いのは砂鉄です。(此処の砂鉄で相州伝の刀が作られました)
 
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          残雪が消えない稲村ケ崎。見上げているのはトンビ
 
わたしは、稲村ケ崎に登りました。
この岬から昨秋、南に飛び立つノスリ(鷹)や浅黄マダラ(蝶)を見送りました。
”来年、暖かくなったら又お出で・・・” 呟きました。
 
今は、富士山は全身が純白で…、明治43年のあの日と変わらぬ秀麗さでありましょう。
二人の少年のブロンズ像が立っています。
 
七里ヶ浜には一人、サーファーが風に吹かれて、波と戯れています。
今日は風も弱く・・・・、ウィンドサーファーには物足りないようです。
波打ち際には数人が歩いて・・・・、屹度桜貝を拾っているのでしょう。
 
砂は真っ黒です。
そう、七里ヶ浜では砂鉄を採っていたのでした。
ここで収集した砂鉄を使って、相州伝(正宗)の刀が鍛造されました。
 
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  稲村ケ崎とその東方。断崖の中央に小窓のような穴が開いているのは、海軍の「上陸する米軍迎撃   用施設」。人間魚雷を援護射撃する砲台が隠されていたそうです。
 
 
 
稲村ケ崎の断崖には複雑な地層がうねって居る様が観察できます。
その断層の中段に洞窟が顔を出しています。
この穴は特攻隊の基地だったそうです。
この穴の中に砲台があって・・・・、砲台から人間魚雷の援護射撃を行う筈だった・・・、
その訓練施設だったそうです。
 
空軍は予科練の生徒で「神風特攻隊」を組織し、実施しました。
海軍は小型ボートの「特攻艇震洋」、海中では「人間魚雷回天」を用意しました。
そして、稲村ケ崎では“人間機雷伏龍”を準備しました。
上陸してくるであろう米軍に対し、上陸用舟艇を海底で待ち伏せして、
機雷もろとも爆死するという任務です。
予科練の生徒にとっては・・・・、無慈悲な任務でした。
人間魚雷の碑は円覚寺にあります。
同じような過ちをしないように・・・・、未来永劫しないように…、日本人を諌めています。
(この項以下に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/33768690.html)
 
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                   一人で波と戯れるサーファー。春になったら波も風も穏やかです。

 
何れの任務も進路を断たれた・・・、死あるのみの悲惨な任務でした。
機雷を体に結びつけた兵隊さんの眼には眼下の美しい景色が・・・、
どのように映ったでしょうか?
開成中学の生徒さんが羨ましく見えたかもしれません。
 
 
 
太平記には稲村ケ崎から新田義貞が鎌倉府内に攻め込んだ・・・、戦記が記されています。
歴史は勝者が記したものです。
鎌倉の「地の神」が、新田義貞に味方して・・・・、潮を引かせて進路を作った・・・、とは考えられません。
刀を海に投げて・・・・・、潮を引かせた故事は・・・・・、
砂鉄を恵んでくれる海に祈る神事だったのかも知れません。
 
様々な歴史の舞台になった稲村ケ崎です。
どれも、これも哀史が多いようです。
 
でも、この日は穏やかで美しい岬です。
遠く大島が霞んで見えます。
 
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                                稲村ケ崎からは伊豆大島がまじかに見渡せます。
 
 
 
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龍口寺の白椿に合掌

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毎年春が近づくと、片瀬辰口の「龍口寺」を詣でます。
同寺は日蓮上人辰口の法難で有名な聖跡寺院です。
日蓮上人が閉じ込められた土牢の前に白椿の大樹があります(た)。
日本の椿・・・・・・、10選を上げれば・・・・・、必ず指折りされるされるほど有名な椿です(た)。
奈良高円山の白毫寺の「五色の椿」と共に・・・・、良い椿です(た)。
その椿が・・・・、10年ほど前から樹勢を衰えさせていました。
 
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               往時の龍口寺の白椿。左奥に日蓮上人が閉じ込められた土牢があります。
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         樹勢は衰えても花をつけていた白椿。2011年
 
原因はタイワンリスが樹皮を齧った事・・・・・、
樹勢が衰えると・・・・、根腐れ菌が繁殖して・・・・、根元から腐り始めました。
二本あった幹の北の幹が大風で倒れました。
急遽、藤沢市は樹木医に診断させ、支え木を付けたり・・・・、応急手当てをしてきました。
それでも、精一杯白い花をつけています(た)。
「今年は如何かな?」
病気見舞いをするように・・・・・、龍口寺に登ってきました。
(2年前詳細は以下に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44814644.html)
 
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                                 日蓮上人土牢
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              土牢から本堂を見上げる。昨年までは白椿の大樹があったのでしたが・・・・。
 
「五弁の椿」(山本周五郎)は敵討の話です。
純潔な娘”おしの”は最愛の父”喜兵衛”を失います。
精根尽き果たして働き・・・、労咳を患った末でした。
一方母”おその”は患う父を嫌って移り住み、遊興にふけり次々に男を取り替え、色欲に身を崩します。
おしのは母の遊び相手をその白い肌を武器にして・・・・、殺めます。
死体の傍には・・・・、椿の花弁が1枚置かれていました。
その椿は喜兵衛が丹精していた白(?)椿でした。
 
人間の恨み自体が移ろい易いものでしょう。
遊び相手の男たちにとって・・・・・・、父の敵として命を狙われるのには・・・・、
理不尽と思わずにはいられません。
死に際に”なぜ?自分が敵になるんだ・・・・・、筋違いじゃないか!”
叫んだ事でしょう。
純潔なおしのにはそんな叫びは聞き耳を持たなかった事でしょう。
赤穂浪士で敵役になった吉良義央(上野介)も同じように、恨まれる筈が無い…、叫んでいたことでしょう。
 
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    龍口寺山門。彫刻の見事さに目を奪われます。扁額は新調されたようです。同時に千社札を剥が     しました・・・。でも札があった跡は白く残っています。新しく貼られた千社札も目立ちます。
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   山門欄間の彫刻。左下に衣に刃を刺して恨みを果たした・・・、気になろうとしている場面が表されて   います。江戸で大ムーブになっている忠臣蔵への難波風の提言でしょうか?
 
 
龍口寺の山門は江戸時代難波の豪商鴻池が寄進したものだそうです。
山門自体はそれほど大きくないのですが、彫刻の素晴らしさには目を見張ります。
その欄間が前後左右4枚あります。
欄間自体が前表にはめ込まれていますから・・・・、全部で8コマの画面があります。
この話自体が中国版の”恩讐の彼方に※”です。
    ※青の洞門の話。
    
怨念を果たそうとすると・・・・・・・、相手は高僧であることが判明しました。
そこで、その僧衣に刀を突き刺して・・・・、怨念を果たします。
中国にはこうした合理的な考え方があったのでしょう。
ところが・・・・、日本人は・・・・、中国に比べれば「思い込み」が目立つような気がします。
 
白椿の大樹は伐採されてしまっていました。
その切株からは数本の孫生え(ひこばえ)が生えていました。
水仙が切株を覆い隠して・・・繁茂して・・・・、蕾を膨らせていました。
お寺に訊いたところ、昨年の七月危険だから・・・、と切り倒してしまったのだそうです。
 
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   この空間には白椿が梢を広げていたのでしたが・・・・、
   今年は水仙だけが花をつけようとしています。
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                  切倒された白椿でしたが・・・・、切株からは孫生えが生えていました。
 
私は山門の下で・・・・、漠然と考えます。
白椿が切り倒されたのは・・・・・・、タイワンリスの食害の為だ・・・・。
タイワンリスは・・・・・、江の島の植物園(江ノ電系列会社の経営)から逃げ出して・・・・、
増殖したものです。
繋いでゆけば・・・・、白椿の怨念の先には江ノ電がいる事になります。
五弁の椿よりは”筋違い”の度合いは軽いように思います。
 
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       椿の花や樹皮を食べるタイワンリス。口元が椿の花粉で黄色くなっています。(龍口寺で)
 
まさか・・・・、鴻池が今日の白椿の敵を”江の島大橋の向こうの江ノ電植物園であると思うな”
先読みしていたのかな?
思うと失笑してしまいました。
 
江ノ電は観光専業でありながら・・・・、タイワンリスと言い、江の島タワー(※)と言い・・・・、岩屋洞窟のクリスマスネオン飾りと言い・・・・・・、無神経さが目立つようです。
歴史や植生を大事にしてほしいものです。
 ※北斎の富岳百景江の島図によると、江の島には三重塔が建っています。現在の塔は燈明(蝋燭)の形   なのでしょうが・・・・、本来の三重塔が好ましかったと筆者は考えます。
 
 
 
 
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伊藤博文公の金屏風

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金沢八景の景勝地「野島」に伊藤博文の別邸があります。
この地は伊藤博文が心血注いで「日本国帝国憲法」草稿を練った所でした。
明治31年(1898)、伊藤博文は此処野島に茅葺寄棟の田舎家風の別邸を建築します。
すると、松方正義や井上薫等の新政府要人も近くに別荘を建築しました。
後年、海浜別荘と言えば葉山や大磯になりますが・・・・、海浜別荘地の走りでありました。
 
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   金沢八景野島の「伊藤博文公別邸」右が客室棟、左が居間棟。
   今日の話題は客室棟の左側「帰帆の間」です。
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  往時の伊藤公別邸。向こうの3棟がそれです。手前は永島家、牡丹が見事でしたので現在はその跡地  が牡丹園になっています。沢山の人が海水浴を楽しんでいます。
 
 
すし屋でランチを戴き・・・・、お茶も欲しいね・・・・、なんて言いながら伊藤博文別邸に向かいました。
別邸の庭続きが牡丹園で・・・・、寒牡丹もあります。
花をつける気配もなく・・・・、菰にかこまれてはいますが・・・・、枯葉状態です。
まあ、素人が育てる寒牡丹はこの程度のものでしょう。
鶴岡八幡宮の冬牡丹が出色で、出来過ぎなのです。
もう「神技」です。
 
伊藤博文別邸の庭先には石灯籠が並んでいます。
伊藤公は船で石灯籠の灯りを目標にして来られて・・・、この岸に接岸したのでしょう。
そして・・・・、海上で冷え切った体を、火鉢や風呂で温めた事でしょう。
 
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     客室棟の主室「帰帆の間」から海を見る。庭先に石燈籠が並んでいます。
 
別邸は大凡3棟からできています。
西側にある玄関から入ると・・・、まず台所棟があります。
台所と管理人が住まう空間です。
その次が客間棟で別荘の中央に位置します。
その奥が居間棟で、伊藤公が寛ぐ空間です。
勿論、客間に比べれば2回りも小さな8畳間2室でした。
 
客間棟に入ると、控えの間があります。
客人は此処で案内を待つのでしょう。
目は庭先の松に注がれ…、次いで海に移る事でしょう。
海には八景島が浮かんでいます。
広い縁側があって、ガラス戸が嵌っています。
ガラスは相当古そうです。
数多く気泡が入っていますし・・・・、表面がうねっている様に見えます。(手吹き円筒法で製造)
案内によると、このガラスはベルギーから輸入したものだそうです。
因みに日本板ガラスがベルギーから技術導入して、ガラスを生産し始めたのは明治42年だそうです。
ガラスの大半が当初からのものだそうですが・・・・、建具は大正以降に新調したものだそうです。
 
お隣の部屋が書院の客室です。
部屋を分けへだつ欄間には鳳凰が透かし彫りされています。
でも、襖を取り外せば25畳もの大広間が出来ますし・・・・、
縁側やお庭も使えばパーティーも開けたことでしょう。
 
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     客室棟海側の広い縁側。板は建築時のもの。ガラス戸の建具は大正時代以降のもの、ガラスの     大半は当初のものだそうです。
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      ガラスには気泡が入って、歪んでいます。ベルギーから輸入した板ガラスです。
 
客間棟に入ると・・・・、畳の温かみに驚きます。
そう、横浜市は建て替えに際して床暖房を導入したのです。
お客さんに寛いでもらいたい・・・・、そんな意図が最新の床暖房だったのでしょう。
伊藤公も床暖房をご存じだったら
「これは良い」お誉めになられた事でしょう。
 
私は座布団に座ります。
東側に付書院があって、南側が床の間です。
床の間にはお正月らしい花が活けてあります。
その横には金屏風が置かれています。
 
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                                         帰帆の間の付書院と床の間
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                     「帰帆の間」床の間に置かれた伊藤公自筆の金屏風。
 
 
金屏風には宋代の周敦頤(しゅうとんい)の愛蓮説を伊藤公が自筆されています。
晋の陶淵明は菊を愛し、唐以降の文人は牡丹を愛しているが・・・・、私は蓮が好きだ。
蓮の花は汚泥から育って、汚れに染まらず清く真っ直ぐなところが良い。
明治の政治家のスピリットを指し示すものでしょう。
 
座卓の上には小さな案内が置かれています。
「お抹茶干菓子付きで・・・300円」
私と家内は早速に注文します。
今日は他には来訪者も居ません。
独占状態で・・・・、お抹茶を・・・・・、この空間で温まりながら戴けるなんて・・・、相当な贅沢です。
お抹茶が運ばれてきました。
お正月らしい・・・、鶴の絵が茶碗の外にも内にも描かれています。
干菓子は「二人静」です。
和三盆の上品な甘さが口中に広がります。
そして、お抹茶の苦味が甘くなった口を爽やかにチェンジしてくれます。
 
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お抹茶。鶴のお茶碗が嬉しい。お干菓子は両口屋是清の「二人静」でした。
 
私は、金屏風事件を思い出しました。
昭和時代ユニークな経営で元気だった平和相互銀行を舞台にした事件でした。
平和相互は創業者一族の経営する事業融資が偏重します。
経営陣は小宮山一族に融資金の返還を求めますが・・・、返還に応じる事は困難でありました。
小宮山一族は銀行株を川崎定徳(川崎財閥の持ち株会社)に売却してしまいます。
この株が結局は住友銀行の渡ってしまいます。
平和相互経営陣はこの株を買い戻そうと奔走します。
画商から”三井家に伝わる金屏風を40億円(時価1億円と言われた)で買うから・・・”
画商が見せたメモには「竹下(大蔵大臣)3、 佐藤(川崎定徳)15、井坂(監査役)1」と書かれ・・・・、
売買が成立すれば、裏金として渡される。」
とされていたそうです。
 
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   手前が晴嵐の間と呼ばれる「控えの間」 奥が主室の「帰帆の間」。
   この二室が床暖房されていました。
 
金屏風の裏側で政治家と悪徳業者が蠢いている・・・・・・、庶民の想像をたくましくさせました。
この後、平和相互の融資先企業は次々に泥に塗れます。
「住友・イトマン事件」「東京佐川急便事件」「皇民党褒め殺し事件」と・・・。
1985年4月総てを知ると思われた竹下氏秘書の青木伊平氏は自殺してしまいます。
検察に力が無かったのか・・・・?
それとも検察当局も事件の全容が解らないままで・・・、幕引きをしたかったのか・・・・?
後味の悪い事件でした。
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    松林の中に伊藤博文公の野島別邸があります。平成18年(2006)横浜市の指定文化財になり、平     成19年から解体調査し、平成21年(2009)から一般公開されるようになりました。見学無料です。
 
伊藤博文公の金屏風とは全く逆の・・・・、汚れきった、腐りきった金屏風事件でした。
以降、私達世代は金屏風に偏見を持つようになってしまいました。
本来の金屏風は新婚夫婦やお雛様が「ハレの舞台」に立つとき、背にするものでした。
それが・・・・、金屏風の裏では・・・・・・、闇取引が行われるものだ・・・、思う様になってしまいました。
 
伊藤公の金屏風(愛蓮譜)が似合う政治家に将来を託したいものです。
 
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      伊藤公別邸の正面に八景島シーパラダイスが見えます。海に建っているのはノリ養殖の棹で       す。左手が金沢海浜公園、金沢魚港になります。海には鴨が居ました。
 
【追記】
横浜市は当別邸の運営管理を「財・横浜市緑の協会」に委託しています。文中書いたように各所に細やかな配慮が為されていて、嬉しいものです。是非お出かけください。実は書きませんでしたが野鳥も目立っています。
 
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