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三河屋の餅花

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鎌倉の若宮大路は年年歳歳変わってきます。
新しいビルが建ち、新しく出店します。
昔ながらの建物は残り少なくなってしまいました。
そんな中で、昔ながらの店構えで、繁盛しているお店があります。
「三河屋」さんがそんな店の筆頭で・・・・、店を覗くと大変に楽しいものがあります。
特にお正月は賑やかにお店飾りをされますので・・・・、入店する楽しみも普段のそれに倍増します。
 
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    若宮大路に面した「三河屋」さんの表面。間口5間ですが奥行8間の総二階の伝統建物です。
    店と蔵が国と鎌倉市の有形文化財等の指定を受けています。
 
サザエさんに登場する「三河屋さん」は酒屋さんです。
鎌倉の三河屋さんも酒屋さんです。
何故、酒屋と言えば「三河屋」なのか? 訳は良く解りません。
江戸庶民にとって、廉価で親しみやすいお酒が三河だったのでしょうが・・・・、
三河には味噌屋はあっても酒屋は余り聞きません。
 
鎌倉の三河屋は明治33年創業で、現在の店舗は昭和2年竹内福蔵氏が建てたものだそうです。
そのお嬢さんが婿さんを取ってお店を守り続け、現在も店頭に出て商っておいでです。
昔ながらの帳場こそありますが・・・・、其処には座られずに店先で絶えず動き回っていられます。
でも、昔からの店飾りは変わらないようです。
 
昔ながらのお道具も大事にされて・・・・、お店狭しと陳列されています。
女将さんは、大事にされている事・・・・、思い出が染みついていて捨てられないのでしょう。
 
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   一人で甲斐甲斐しく働く女将さん。店内には女将さんの愛情が満ちています。
   天井の根太や長押の太さに感嘆します。
 
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北側の冷蔵棚の上に飾られた看板。手前が餅花飾りです。
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   お店南側の棚。徳利は「三河屋」と書かれたものと「八幡前」と書かれたものと二種類あります。どちらも当店   の特注でお得意さんに配ったものでしょう。右上段奥に角樽があります。その上の天井は「根太天井」です。根太の太さが柱程もあります。感服する頑健な作りです。
 
壁には看板が二枚も飾られています。
「安福又四郎吟醸」と書かれています。
今はその蔵元も無くなってしまったので・・・・、看板は店頭に架けられなくなったのでしょう。
蔵元も減ってしまいましたが・・・・・、酒屋はもっと減ってしまいました。
量販店には敵わないようです。
でも、お酒は地元の酒屋さんで買わなくちゃ・・・・、私のモットーです。
 
反対側の壁には棚が設えられていて・・・・、三河屋の徳利をはじめ、
べコ人形や招き猫や福助などの縁起物、結婚式や棟上げで使った角樽が所狭しと並んでいます。
”角樽はご結婚された時使われたのですか?”
 聞いてみたかったのですが・・・、少し気が引けました。
 
杉玉に並んで大きなスズメバチの巣が飾られています。
あれは何ですか?
尋ねると・・・・、
「スズメバチの巣なんですが・・・・、信濃の蔵元さんが置いて帰られたので・・・・、
仕方ないので飾っているんです・・・、」
意外に素っ気ないお答えでした。
 
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                     お正月らしい店内の飾りが楽しいものです。
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    此方はプラスチックを使った現代風の餅花飾りです。
    餅花の奥にスズメバチの巣がアクリルケースに収まっています。
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          美しい向かいながらの帳場です。
          帳場の前にも餅花が飾られています。小さくても本格的です。
 
凧が多く飾られているのは・・・・、お正月だから・・・・、景気や運が上向け・・・、
と言ったお呪いでもあるのでしょう。
そして、何とも賑やかなのは・・・・、餅花飾りです。
 
「餅花」とは丸めた餅や団子を柳やミズキの枝に刺して・・・・、
作物の豊かな稔りを祈念した”予祝飾り”です。
越後が始まりと聞きますが・・・、信濃や相模では繭玉飾りになります。
お蚕が良く出来ますように・・・・、繭を模ってお餅を飾ったのでした。
飛騨高山では「花もち」になります。
先月行った湯布院でも餅花を見ました。
 
柳の枝に紅白のお餅・・・、と言った本格的な物も飾られていますし、
プラスチック製のお飾りもあって・・・・、それは賑やかです。
桃の花のようにも見えます。
女将さんに”綺麗ですね”声を掛ければ・・・
笑って”お正月ですから” 答えられます。
娘のころから・・・餅花を飾って・・・・・・、
”今年も良い事が続きますように・・・、お店が繁盛しますように”
祈ったのでしょう。
 
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古時計の下には黄ばんだポスターが貼られています。
その左に神棚があって・・・・、右側には伊吹文明文部大臣のサインが付いた国の「有形文化財」のお墨付きが架けられています。鎌倉市の重要建築物の指定の文書も架けられています。
 
間口が5間もありますから立派です。
でも、脇道に入ってみると奥行が8間もありますから・・・・、大規模なお店です。
現状は大きな建物の三分の一程度しか使っていないので・・・・、経済的には不合理にも見えます。
若宮大路にお面した130坪もの建物、広大な敷地を使い切っていないのですから・・・・。
二階部分は若宮大路側にオーバーハングした「出桁造り」になっています。
正面に大黒柱以上に太く長大な鴨居があります。
鴨居に太い根太が乗っかって・・・・、根太天井が広がっています。
根太天井の上は二階部分を支えています。
根太の下が道路に向けて庇になっていますから…、お客さんはお店に入りやすくなっています。
これが、井桁造りの工夫です。
宿場町や古い商店街では一般的な造りでした。
現在はアーケードになっていますから、井桁造りは流行りません。
 
この頑丈さなら・・・、関東大震災にも歪まなかったであろう・・・・、思われます。
 
頑健な昭和初めの建物に・・・・、可愛く綺麗に飾ったお店のバランスが良いんです。
そして、現代では稀にしか見られなくなった餅花飾りが良いんです。
 
私は酒粕を求めました。
女将さんは
「酒粕なら・・・・、八海山か玉乃光(伏見)です」
私は魚沼が好きですから八海山にしました。
先の地震で傷んだ酒蔵も修復されて・・・・、今は雪の中仕込みに励んでいる事でしょう。
酒粕は鍋に良し、甘酒に良し・・・・、使い道は広いもんです。
 
店先には「鎌倉五山(沼田の永井本家醸造)」や「古都鎌倉」等も並んでいます。
純米酒は未だお預けです。
女将さんは「何故、お酒を買わないの?」
不審気です。
 
 
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   これが井桁造り。1階上部に太い長押を置き、その上に頑丈に根太を組んで、二階部分をオーバーハングし   ます。店先が二階部分の庇の下に入りますから…、お客さんは便利です。 木組みの頑丈さに感服します。
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私の町の「繭玉飾り」

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昨日は鎌倉・若宮大路の三河屋さんの店先の正月飾りを紹介しました。
沢山の縁起飾りの主役は「餅花」でした。
餅花は団子状に丸めたお餅を、柳やミズキの枯れ枝に飾ります。
お餅に宿った年神様が、新年になって一層強力になって、豊穣や幸福を招いてくれるからです。
柳やミズキは春一番早くに芽吹きます。
新芽が勢いよく膨れると・・・・、今年も春が来た、年神様が柳の芽に降りられた・・・、確信したのでしょう。
 
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      鎌倉三河屋さんの餅花は柳の枝に、赤・白・緑三色の餅団子を飾っています。
 
お正月のショーウィンドーも花生けに代わって、餅花を飾っているのを度々見つけます。
見れば、楽しくなって「花咲き爺さん」の”枯れ木に花を咲かせましょう”を髣髴させてくれます。
 
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                                蕎麦屋のショーウィンドーに飾られた「餅花」
 
小正月にはこの餅花をどんど火で焼いて食べました。
年神様が体の中に入って、健康で若い体にしてくれる・・・、信じられました。
今年、久里浜で見た左義長では立派な餅花飾りが出現していました。
丸い筈のお餅が切り餅であった事、紅白二色であったこと、紐で通していたこと等・・・、
略式というか現代風でしたが、「餅花のこころ」はしっかり継承していて・・・、嬉しいものがありました。
とりわけ、お汁粉にして餅花を振る舞って戴いたのは感激でした。
 
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                        久里浜町内の餅花。お餅はお汁粉にして振舞われました。
 
私の町内には「子之八幡社」があります。
私はその世話人です。
鎌倉郡豊田村は明治末には300戸ばかりの農家がありましたが・・・・、
現代はベッドタウンの様相を濃くしています。瀟洒な戸建て住宅や大きなマンションが林立しています。
そんな町内で、昔ながらの鎮守を守って行くのは・・・・、難儀です。
お隣の長沼町の神社では氏子制度を整備して・・・・、
年間3千円の会費を徴収して神社を維持していると聞きます。
子之八幡社は其処まで追い込まれていませんが・・・・、
早晩運営に困難な場面が出現すると思われます。
 
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                 横浜戸塚の子之八幡社の餅花。此処では「繭玉」と呼ばれています。
 
今年も左義長には社殿の左右に餅花が飾られました。
豊田村では養蚕が盛んでしたから・・・・、餅花とは呼ばずに”繭玉”と呼んでいます。
繭が良く出来る事が一番の願いだったからでしょう。
そして、柳の枝ではなく山桜の枝に繭玉を飾ります。
さくらは「穀神」が宿る木(依代)であると信じられました。
桜が咲いたら「田植え」を始めます。
全国各地に「田植え桜」「種蒔き桜」があります。
安曇野の水田で田植えをする景色・・・、美しいと思います。
山裾には山桜が咲いています。
穀神が見守ってくれているんだなあ・・・・!
思います。
だから・・・・、柳より桜の枯れ枝に繭玉を飾るのも正しい・・・、思います。
 
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                   紅白と緑、三色の繭玉が山桜の枯れ木に飾られます。
 
子之八幡社の繭玉は例年実方さんが作られています。
我が町内の歴史遺産”実方塚(藤原実方の墓)”を守っている・・・・、旧家です。
お百姓が作る繭玉ですから・・・・、総じて大きくて、不恰好で、不揃いですが・・・、
心が籠っています。
本来の”予祝祈願行事”であることがしみじみと解ります。
 
実方さんは昨年喜寿を祝われました。
この世代がしっかりしているから・・・・、鎮守の伝統が守られています。
私の世代には・・・・、祭りを維持継続する知識も情熱も・・・、そして信心も欠けています。
”どのようにして・・・・、鎮守を維持してゆくのか?”
立派な繭玉を見ていると・・・、問われているようです。
 
こんなに美しい習俗は大切にして・・・・、次世代に繋いでゆきたいものです。
 
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       これは横浜栄区にある「本郷ひじやま公園」の古民家に飾られた餅花。
       七夕飾りと吊るし雛飾りと・・・・、餅花飾りのミックスです。
       皆が楽しんで飾ったのが伺われます。
 
 
 
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川鵜の糞害は・・・、益にならないかな・・・・・?

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昨日(1月24日)のニュースから二題、一つは長崎で、もう梅が咲き出したそうです。
湘南では節分の頃梅が咲き出します。
遊行寺の節分会は咲き出した紅梅の木の下で節分会が催されます。
今年もあと10日もすれば節分です。
もう一つのニュースは、東京スカイツリー。
人気のスカイツリーですが、川鵜がとまって、その糞害で困っているのだそうです。
通行人が天から降ってくる糞に洋服や車が汚されて・・・・・・・、対策に困っているのです。
まあ、この程度は許される”想定外”なのでしょうが・・・・・。
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            東京スカイツリーの川鵜の糞害を伝えるニュース(東京新聞)
 
前々から不思議に思っていました。
川鵜の糞は白ペンキなのです。
藤沢片瀬にある溜池でのことでした。
翡翠が来ないかな・・・・・?
ウォッチングしていると・・・・、目の前に天から降ってきたものがあります。
バケツのペンキを上空から振り撒いた感じです。
驚いて見上げると・・・・、川鵜が上空を飛んでゆきました。
 
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  片瀬の新林公園の溜池に落下した「川鵜」の糞。一瞬爆弾が降下した・・・、驚きでした。こんなのが、スカイツ  リーの上から降ってきたら・・・・、困ります。
 
片瀬川に架かる水道管は水色に塗られています。
ところが、部分的に白く染まっています。
理由はこの水道管が川鵜にとって格好の止まり木になっているからです。
川鵜の足には水かきが付いていますから、トンビのように木の枝を掴む事は不得手です。
平たい所が好きなのです。
でも、犬や猫に狙われない安全な場所・・・、と言えばこの水道管の上が最高なのでしょう。
食事を終えればこの水道管の上で腹ごなしをし、
水に濡れれば此処で羽根を乾かし、
夜も此処で過ごすようです。
だから・・・、この水道管の上が川鵜の「水洗便所」なのです。
流石に子育てだけは・・・・・・、江の島の断崖の上だったりするのでしょう。
 
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   片瀬川には船が繋留されています。そのロープにも川鵜がとまっています。
   恰好良いレジャーボートも糞塗れでしょう。
 
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                片瀬川の釣り船を繋留するロープに止まった川鵜。
                真っ黒と思っていましたが意外とお洒落です。
 
そんな次第で、水道管は川鵜の糞・・・・、白いペンキで塗れています。
でも、不思議な事に白いペンキは剥げたり水に流されることは無いのです。
ペンキに劣らない程の塗装品質があるようです。
お隣の片瀬橋の橋脚も、川鵜の白いペンキが・・・・飛び散っています。
 
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      水色の水道管を白く染めたのは・・・、川鵜の糞です。川鵜の糞は水には溶けずに劣化しなく、落ち難       い・・・・・・・、良質な塗料のようです。
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                     片瀬橋の橋脚にも川鵜の糞が飛沫のなって飛んで、くっ付いています。
 
話題は変わりますが・・・・、睦月は「鶴に松」、如月は「梅に鶯」・・・、そう花札です。
鶯が梅の木に遣ってくるのは・・・、梅の木の樹皮に巣食っている小虫や毛虫を食べるからです。
小さな鳥でいながら・・・・・、たんぱく質を多量に摂取するのですから・・・・、
強力な消化酵素を持っています。
ですから・・・、鶯の糞も白くて白粉のような色をしています。
脱色効果がありますから・・・・、着物の汚れを取り除いたり・・・・、
家紋をつける為の「染め抜き」に使用されます。
 
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                             如月(2月)は「梅に鶯」です。鶯の糞は古代から化粧品でした。
 
また、白粉として顔に塗って・・・、しっとりしたお肌にもしてくれます。
昨今、米国では「芸者フェイス」の商標で化粧品として売り出しているそうです。
日本女性のお肌の瑞々しさが憧れで・・・、その秘訣を鶯の糞に見出したのでしょう。
でも、流石に鶯は希少ですから・・・・、
カナリアの糞を使っていると聞きます。
見た目では川鵜の糞も鶯の糞も白いですから・・・・、
どちらもたんぱく質を消化酵素の働きで、尿素・尿酸に変えて排出したものですから・・・・、
同じような美容効果が無いのかな? 思ったりします。
 
 
 
小田原には富士フィルムの基幹工場があります。
その、フィルム会社が数年前から松田聖子さんをCMに使って・・・・、化粧品事業をスタートさせました。
最初が「アフタリスト」、最近はスキンケアの「ルナメア」を売り出しました。
どちらも、女性のお肌を”プルルン・ピン”と若返らせる・・・・、そんな効果があるようです。
多くのフィルム会社はデジタル化の中で、沈没気味ですが富士フィルムは至って元気が良さそうです。
写真が歳月が経つとセピア色に変色、劣化してしまうものでした。
その酸化防止策の研究(ナノテク)が化粧品に応用できたのでしょう。
富士フィルムに訊けば
「当社は基礎研究をしっかりやってきましたから・・・、化粧品の開発は応用でしかありません」
さりげなく答える事でしょう。
 
鶯の糞が最高の化粧品であったように・・・・、
若しかしたら・・・・、川鵜の糞も利用できないかしら・・・・、
ボヤッと思いながら川鵜を眺めていました。
 
琵琶湖の竹生島江の島に並んで日本三大弁才天の霊地です。
謡曲にも謡われた風光明媚な景勝地ですが・・・、
もう10年以上も前から、木々が枯れ死にして丸坊主になってしまっています。
原因は川鵜の糞で、土壌が酸性になってしまったからだそうです。
糞害もこうなったら・・・・、対策が必要です。
 
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                          川に落ちても水に溶けずに流されてゆく・・・、川鵜の糞
 
 
 
川鵜は好い気なもので・・・・、尻を浮かせたかな思った瞬間に・・・・、ピーッと糞を放出します。
水平方向に2mは飛んだでしょうか?
後は放物線を描いて水面に落下します。
白い糞は水に混じらずに流れて行きます。
もう、川鵜は恋の季節です。
ドンドン増えて行きます。
 
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                 水道管の上で愛を交歓する川鵜のカップル。水面も鵜ももう季節は”春”です。
 
 
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川鵜の”愛の交歓”(片瀬で)

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昔読んだ童話に「ニルスの不思議な旅」がありました。
”雁に乗って少年が旅をする話”です。
旅は雁の渡りです。
子供心に、”渡り鳥は人間と同じで、一生夫婦が添い遂げるのだな・・・・” 思いました。
渡りという長旅を為し終えて、子供を育て上げるのだから・・・・、
夫婦は一生を共にするんだ・・・、思いました。
哺乳類は一夫多妻制が多いのに、鳥類は一夫一婦制が多いのは・・・、
厳しい自然に立ち向かって・・・・、種を保存する叡知なんだ・・・・・、思います。
 
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川鵜も一夫一婦制です。
雁やオシドリのように雌雄の差が著しくなく、総じて真っ黒ですから「男女の仲が良い」とは思いませんが、
その仕草は愛情に満ちています。
とりわけ、春の繁殖期が近づいて来ると・・・・、愛の交歓で睦まじく賑やかになります。
 
先ず、雌雄とも頭部が白くなります。
また、腰の部分に白い羽毛も目立ってきます。
これが婚姻色と呼ばれる・・・・、繁殖時期の特徴です。
 
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                                   川鵜、頭と腰の白い毛が婚姻色です。
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                                     夏の川鵜、婚姻色は消えてしまっています。
 
 
そして、睦まじい”愛の交歓”が始まります。
私は川べりに立ち止まって、水道管の上で繰り広げられる・・・・、
”鵜の愛情”のこまやかな動作に見入ります。
雌雄とも首を伸ばして、嘴を天に向けて・・・・・・、愛を叫びます。
「グルルルル」「グワワワ」「ゲレレレ」
”私達夫婦はこれから子供を産むぞ・・・!”
”私達夫婦はこれから子育てを始めるぞ・・・!”
とでも、叫んでいるのでしょうか?
 
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    天に向かって愛を叫ぶ鵜のカップル。この後の仕草を観察すると左の大きい方が雌のようです。
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                                              首を擦らせて愛を交歓します。
 
そして、身体を寄せ合い長い首を接触させます。
屹度、首には血管が集中していて・・・・、性感帯でもあるのでしょう。
そして、嘴を咬み合せます。
鵜の”接吻”は・・・・、嘴の先が曲がっていますから・・・、中々堂に入ったものです。
 
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                                                      鵜の接吻
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                                                        鵜の接吻
そして、雌の鵜が足を折って身を屈めます。
”貴男・・・、私の方はもう準備完了ですよ・・・、貴男が頑張る番ですよ・・・・!”
交尾を促します。
ところが、肝心の雄鳥は・・・・、まだ充実していないのか・・・、屈んだ雌を横目にして・・・・、
素知らぬ振りです。
そして・・・、再び首を伸ばして・・・、愛を叫び始めます。
 
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           交尾を促されても・・・・、その気力が充実しないで・・・、頭を垂れるような雄鳥。
 
私がウォッチしている限り・・・、このあたりに棲んでいるカルガモやカイツブリは一年に2度か3度出卵し、子育てをしています。
鵜は何度子育てをするのか・・・・・、ハッキリしませんが・・・・、
春の出卵ばかりが目立ちます。
人間と同じ一夫一婦制ですが・・・・、一年中出産が出来るのは人間だけで・・・・・・、
自然に順応しているカルガモなどが春の他に夏から秋にかけて…、
複数回の子育てをしているのでしょう。
 
片瀬川のさざ波が春の陽光を乱反射させてピカピカと輝いています。
橋脚に光の陰影が映し出されて・・・、揺らいでいます。
光がもっともっと強くなって、日照時間が長くなったら・・・、
雄鳥のパワーも充実して・・・・、交尾が始まるのでしょう。
もうその時期はまじかのようです。
 
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           川鵜の背景は片瀬橋の橋脚。縞模様は川面のさざ波が映っているものです。
でも、雄鳥がよそ見ばかりしていると・・・・、
隣には他に雄鳥がいます。
雌鳥が浮気してしまうかも知れません。
人間と同じように・・・・、鵜も浮気性があるのか・・・・、無いのか・・・・・?
私には大事な関心事です。
誰か、あの川鵜の足に識別リンクをつけて・・・・・・、
川鵜の一夫一婦制と浮気・・・・、を調べる体制を整備して欲しいものです。
 
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   賑やかな川鵜のコロニー。茶色のかかっているのが若鳥。
   全部に婚姻色が出ている訳ではありません。
 
 
 
 
 
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江の島の”眠り猫”

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1月5日に「江の島でパソコン遠隔操作事件」のニュースが報道されました。
江の島の野良猫の首輪にSDカードが見つかりました。
ハッカーの言うとおりにウィールスのデータが記録されていました。
取り付けられたのは1月3日、江の島タワー下の防犯カメラには不審者の姿も記録されていたそうです。
そんなことから・・・・、江の島の野良猫が一躍脚光を浴びたのでした。
筆者は前々から江の島の野良猫に関心を持っていたので・・・・・、
早速に江の島の猫を確認しに出かけました。
 
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      江の島タワー下の公園から富士山を望む。
      此処で「遠隔操作犯人のメッセージが記録されたSDカードを付けた猫」が発見されました。
 
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    江の島は三つの神社で構成されており、下津宮と呼ばれる「辺津宮」が一番大きな社殿です。
 
江の島は片瀬の沖合にぽっかり浮かんだ島でした。
東京オリンピックでヨットレースの会場になります。
島の東側が大規模に埋め立てられ・・・・・、港や灯台が建設されます。
海中にあった聖天島は陸続きになってしまいます。
小さな祠があって、江の島神社(辺津宮)を創建した聖天様が祀られています。
その隣には道祖神が二基祀られています。
何処か怒った様なお顔と、お姫様のような道祖神です。
 
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    江の島の高台からヨットハーバーを見る。道路の手前公園があります。
    これが聖天島公園で、江の島辺津宮を創建した聖天上人が祀られています。
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                                             この方が聖天様です。
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      聖天様横の祠には二基の単身の道祖神が一緒に祀られています。
      この辺りは東京オリンピック前までは小島でありました。
 
聖天様と道祖神の祠の辺りは、北風を岩場が遮り、南から陽光がさしています。
此処に沢山の猫が日向ぼっこをエンジョイしています。
私が近寄っても、全く無視して眠っています。
”ねこ”とは”寝る子”が語源じゃないかしら・・・・、思う程大らかに寝ています。
そういえば日本で最も有名な猫の肖像は「東照宮の眠り猫」です。
どの猫も太っていて、毛並みは綺麗です。
そのままで・・・、飼い猫と変わらない姿です。
でも、猫に訊けば
「俺たちゃ野生だ・・・、人間のお情けは受けても精神は侵されていない、
縄張りを守らなければならないし、子供も増やさなければならない。
子供を産まない人間こそ可笑しいんじゃないか?」
言いたげです。
 
 
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                                      聖天様の祠の前の猫たち。
江の島には千匹を越える猫が住んでいるそうです。
江の島の住人は60人程度ですから・・・・、人の20倍も猫が住んでいる事になります。
最初は屹度捨て猫だったのでしょう。
それが・・・・、子供を産んで・・・・、
一方で観光客の餌やり、釣り人のプレゼント・・・、島民の優しさなどで・・・・・・、許容量が増えて・・・・、
現在のように”猫の島”になったのでしょう。
 
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                                      聖天島公園で・・・・昼寝をしていた猫
 
でも、増えすぎれば問題も大きくなります。
ボランティアが猫の不妊対策をはじめ・・・、もう300匹近くが不妊対策を施してあるのだそうです。
不妊手術を終えた猫は頭の毛をカットしてあって…、見分けがつくのだそうですが・・・・・・、
私がこの時見た限りでは頭の毛をカットした猫は見つけられませんでした。
 
二匹の猫が身を寄せ合って寝ています。
大きい方の猫が小さな猫を愛おしむようにして・・・・、身を屈めています。
自分の体で風を防ぎ、温めてあげているようです。
小さい猫は・・・・じっとして微動だにしません。
若しかしたら・・・・・・、死に際かも知れない・・・・、思って近づいてみました。
私の接近を知っていた大きな猫は寝たままです。
小さな猫は・・・、私の接近で驚いたように目を開きました。
そして・・・・、「何にも呉れないのなら・・・・、安眠を妨げるな・・・」
言いたげにまた眠ってしまいました。
 
今月初めの”パソコン遠隔操作事件”には迷惑した・・・、
言いたげです。
 
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江の島ヨットハーバーをイノベする計画・・・。

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サンフランシスコの人気スポットに”フィッシャーマンズワーフ”があります。
ゴールドコーストにもハワイにも”フィッシャーマンズワーフ”があって、新鮮な料理や水族館、ショッピングモール等が併設されている事が多いようです。
”ディナーは何処でする?”
”フィッシャーマンズワーフ”は海を見ながら、潮騒を聞きながら・・・・、
癒されて食事を楽しむことが出来るので・・・・、人気なのでしょう。
日本にも釧路や若狭、氷見に境港などの港には”フィッシャーマンズワーフ”があります。
バブルの頃には乱立しましたが・・・・、今も生き残っている所には”理由”もあるようです。
 
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      今日の話題は江の島のヨットハーバーの老朽化です。
      写真左側「折鶴」のような屋根が「ヨットハウス」です。
 
湘南には”フィッシャーマンズワーフ”と呼べるような処は・・・・、
小田原の市場レストラン、三崎の鮮魚市場”ウラリ”、最近では大磯漁港にもレストランが出来ました。
そのいずれもが、新鮮でお安く食事ができるところで、精々土産物が買える程度です。
もう一つ、華がありません。
レストランから眺められる景色は・・・・、釣り船がある程度で、ヨットやクルーザーは見られません。
 
ところで、中央高速の笹子トンネル崩落事故以来、首都高速の傷みが声高に指摘されています。
”首都高速はもうだめだ!建て替えだ・・・”
言われると、私の世代は”お前らはもうポンコツだ!”言われたような気がします。
江の島は同じころ(1964年/昭和39)、
そう東京オリンピックのヨット競技会場として華々しくオープンしたものでした。
オリンピックで役割を終えた後は施設も管理運営権限も藤沢市に移されました。
藤沢市は日本最初のパブリックなヨット施設として運営し・・・・、ヨット競技の普及に貢献してきました。
だから、大学のヨット部の選手や、ヨットお宅の親爺には貴重な施設でしたが・・・・、
私のような庶民には、縁遠い施設でした。
 
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   これがヨットハーバーの中核「ヨットハウス」です。ピンと張った屋根が折鶴のようで好きなデザインです。
   でも、庇のアチコチに錆が出て、コンクリートが剥落してきています。そう、もう50年も経てきているのです。
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                                                 剥落が目立つ階段
 
”オリンピック施設どうなっているかな?”
見に行きました。
ヨットハウスは折鶴のような洒落たデザインです。
でも、今は階段のコンクリートが剥がれて錆びた鉄骨が露わになってしまっています。
屋根を見れば・・・、庇からも錆びた鉄骨が見えますし・・・・、
頭上から剥がれたコンクリートが落下してきそうな・・・、危うさです。
一階はヨット競技者の受付施設やロッカー等で・・・・、此方は利用されています。
二階に上がってみます。
二階の西側半分は会議室になっています。
ヨットレースの表彰式に使われたり、ヨット関係者の会議に使われるのものでしょう。
東半分はレストランになっています。
江の島歌舞伎のポスターが貼られずに置かれていますし、海の図書室も使われていないようです。
第一、お客さんは全くいません。
私は、一人喫茶をしながら・・・・、ウエートレスのお嬢さんに訊いてみました。
 
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  ヨットハウスのレストラン、ビューは最高です。でも、お客さんはありません。学生のヨット部が来たら・・・、忙しく  なるそうです。ヨット関係者以外を誘引できる施設に開放することが良いと思います。
 
「ヨットハウスも随分傷みましたね? 誰が所有していて・・・・、これからどうなるんですか?」
「この施設は藤沢市の施設です。既に取り壊し新築の方針が決まっているのですが・・・・、
二年後の着工になると聞いています。
新築ハウスの位置はクルーザーやヨットを置いている場所になります。
広いですから・・・・、場所の入れ替えで済むのでしょう。」
「それは、楽しみですね。ビューは最高ですし、新鮮な魚介類も豊富に採れるし・・・・、
湘南フィッシャーマンズワーフを作って欲しいものですよね。
江の島に来たお客さんを・・・・、江の島の断崖まで誘導したら良いと思うんですよね・・・・!」
お嬢さんも同意見のようで、頷いていただけました。
仕事をしていて、暇なほど苦痛はありません。
忙しすぎて、悲鳴がでるようになってほしいものです。
 
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   湘南港の岸壁、釣り人がいました。白い灯台は昭和39年、オリンピックの年に竣工しました。
   此方は平成8年改修されていますから…、健康体です。
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               此方はヨット競技者の監視塔だと思います。こっちは錆が浮き出てしまっています。
 
湘南港の岸壁の上は遊歩道になっていますし・・・、
船の甲板のように板張りになっています。
沢山の人が釣りを楽しんでいます。
磯に降りれば・・・、江の島の裏側、断崖の下に出られます。
40m位あるでしょうか?
男性的な景色です・・・・。
狭い江の島ですが・・・・、少し歩けば様々な景色を楽しむ事が出来ます。
 
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                江の島の裏側(南側)の断崖、磯遊びが楽しめます。男性的な景色です。
                湘南港の岸壁を歩けば磯に降りられます。
 
それには、比較的閉鎖的なヨットハーバーをもっと、一般人が楽しめるように
開放的な場にすることが大切でしょう。
今は、江ノ島駅から江の島神社に人の波が続いていますが・・・、
その半分くらいをヨットハーバーに誘引できるように・・・、
江の島のセンタープロムナードをチェンジするには・・・・、
”湘南フィッシャーマンズワーフ”を実現することが肝要でしょう。
 
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   江の島のレストラン街。もう美味しくて大人気で何時も長蛇の列をなします。
   この先、5分も歩けばヨットハウスに着けます。
 
 
江ノ島駅を降りたお客さんは江の島水族館の横を通って、江の島大橋を渡ります。
先ずは、江の島神社を詣でて・・・・・、帰りは湘南フィッシャーマンズワーフに向かいます。
イタリアンのレストランと、湘南シラス丼が名物です。
レストランの窓からは龍口寺の五重塔が眺められます。
腰越漁港のお隣が小動神社で・・・、七里ヶ浜から稲村ケ崎・・・・、海岸線が眺められます。
豪華なクルーザーもあれば、赤銅色の青年も見られます。
磯釣りをする人影も見られます。
江の島が斜陽化しない中に・・・・、
この寂れたヨットハーバーをイノベーションしたら良いと思います。
 
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   ヨットハーバーから北側の龍口寺を見渡す。湘南唯一の五重塔は竹中工務店が明治43年に建築したもの。
   此処から遠望するほか全体の姿は確認できません。こうしてみると、池上本門寺の五重塔を手本にしたよう   に見えます。
 
 
 
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江の島の無縁墓地の悲しみ

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「江の島の野良猫1000匹」、「傷みの目立つヨットハーバー」と江の島の陰になった部分を書きました。
今日は陰の極めつけ「無縁仏」を書くことにします。
私の知見を動員して・・・・、(憶測を含めて書きますので・・・・・)史実とは違うかもしれません。
(憶測は憶測とハッキリ書きます)
 
江の島は安芸の宮島、琵琶湖の竹生島と並んで、日本三大弁才天です。
そのいずれも神仏習合した神社であり、神宮寺がありました。
宮島や竹生島には現在も神宮寺が存在していますが・・・・・、
江の島には神社があるだけで・・・・、現在は神宮寺の影も形もありません。
北斎や広重の浮世絵には三重塔が描かれていて・・・・、しっかり神宮寺があった事が判ります。
 
明治維新の「神仏分離令」に端を発した廃仏毀釈の暴風の中で、
神宮寺は木端微塵に消し去られたのでした。
 
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   海べりの江の島の路地。人影は疎らです。 右側民家の背は断崖です。その断崖に洞窟墓地があります。
 
江の島の奥津宮には「岩本坊」が、中津宮には「上之坊」が、辺津宮には「下之坊」が・・・・、
別当寺がありました。
その中でも岩本坊は総別当として位置し、江の島寺とも呼ばれていました。
その江の島寺は慶安2年(1640)京都の仁和寺の末寺になり、院号の使用が認められ「岩本院」と称します。
二坊一院が競って江の島の縁起を説いて回り、参詣者を集めます。
江戸庶民のツアー先として、圧倒的な人気を博します。
寛永17年(1640)には上之坊、下之坊を吸収し、岩本院が全島の権益を手中に収めます。
しかし、明治維新の廃仏毀釈(明治6年以降)に遭遇します。
岩本院は神宮寺としての役割を終え・・・・、江の島神社になります。
そして、僧侶は僧籍を放棄し・・・・、神職になります。
 
岩本院は宿泊施設もあり機能していましたので・・・・、
岩本楼となり現在も超老舗旅館として経営されています。
 
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                                岩本楼(同社HPから転載)
 
 
気の毒だったのは・・・・・、神宮寺がしっかりしていた時代に葬られた仏たちでした。
江の島に葬られた人達は・・・・、一期に無縁仏になってしまいました。
当初は墓地はそのまま放置されましたが・・・・、
元来狭い江の島です。
無縁仏は押しやられ・・・・・、集められて・・・・、無縁塔に変わってしまいました。
(この5行が憶測です)
 
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                                                江の島の無縁仏
 
 
 
江の島の島内入口、銅の鳥居の横から南に細い路地が始まります。
路地の両側には民家があって・・・、民宿や土産店などを経営する人たちが住んでおいでです。
その路地は屹度海べりの生活道であったのでしょう。
ほんの数メートル先が波打ち際であったと思われます。
背後が断崖で、目の前が海の・・・・、紐のような狭い場所に小さな家が寄せ合うように建っていました。
それが、東京オリンピックの埋め立て工事によって・・・・、内陸部に入ってしまいましたが・・・、
今も昔日の面影を残しています。
 
そんな民家の奥・・・・、断崖に穴を掘って「延命寺」があります。
延命寺という名は藤沢にも鎌倉にもありますから・・・・、
何処の延命寺の墓地になっているのかは解りません。
明らかな事は、墓標は元禄から正暦等江戸時代の墓標ばかりです。
 
憧れの岩本坊の下で永遠の眠りにつきたい・・・・、
此処に埋められた人達でしたが・・・・、岩本坊は無くなってしまいました。
そして・・・・・、放置されましたが・・・・、延命寺の住職が春秋の彼岸等に法要をしてきたのでしょう。
(以上3行憶測です)
 
江の島の島内には吉田検校等、有名人のお墓は残されています。
現在も参拝客が居ますが・・・、この延命寺の墓地は忘れられていました。
 
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江の島延命寺の無縁仏の塔。
 
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          無縁仏は何れも墓標仏(塔)で。江戸時代前期・中期が多いのが特徴です。
 
大正9年10月20日の大雨で土砂崩れが発生しました。
お墓もろとも海に流されしまいます。
人々は墓標を拾い集めて・・・・、無縁塔に積み上げました。
 
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                    江の島の断崖に洞窟を掘り・・・、洞内を墓地(納骨堂形式)に致しました。
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                                           洞の入口に祀られた如意輪観音。
 
そして、昭和36年6月28日にも・・・・、折からの豪雨のために一瞬にして土砂が決壊して・・・、
墓地を再び押し流してしまいました。
江の島神社はその境内地に洞窟を掘る事を認めます。
そして、洞内に納骨堂形式のお墓を用意します。
そして、墓地を整備して土砂崩れにも耐えるように致します。
東京オリンピックの直前、昭和38年3月に延命寺の洞窟墓地が完成しました。
 
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                     無縁仏を集めて積み上げた塔の基台に刻まれた・・・・、縁起。
 
無縁墓地で眠っている人達は思っている事でしょう。
明治以降、私達は大変だった。
人災に始まり・・・、相次ぐ天災に遭遇して・・・、その度に肩身が狭い思いをしてきた。
洞窟に収まったので・・・・・・、もう土砂崩れの心配は無くなったが・・・・、
鉄の扉で・・・、閉じ込められた気がする。
 
そうです。江の島島内に野良猫が増えると・・・・、
野良猫が墓地に入らないように・・・・、洞窟墓地の入口に頑丈なドアを設置されたのでした。
 
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                             延命寺洞窟墓地の入口で睨みをきかせる閻魔大王像
 
ドアを軋ませて開くと・・・・、あの世に入った様な気持ちに陥ります。
眠っていた霊達が一斉に目を開いて・・・・、私の方を見向いた・・・・・、そんな視線を感じて、
背筋を冷たくするものがあります。
 
 
【追記】 この墓地の無縁仏については以下に一度書きました。
 
 
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鶉の文化史(鶉・田鴫・山鴫)

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私は永い間「鶉/うずら」を飼っています。
姿形・色が可愛い事が第一、二番目は鳴き声、そして卵を取る楽しみもあります。
卵には、肌色の殻に茶色の斑点が付いていて・・・・、一つとして同じ模様はありません。
冬は産んでくれませんが、春になれば毎日産んでくれます。
納豆を食べるのに、数個を割って入れます。
味が強くて・・・・、納豆の風味が増します。
 
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      我が家の鶉、意外と虐めをするので2羽づつ分けて飼っています。春から秋まで鳴き続けます。
      鶏のようにけたたましくないので・・・・、近所迷惑にはなりません。
 
鳴き声は・・・・、独特です。
少し甲高く・・・・・・、「グワッグルルー」「クックルクーーー」、響きます。
雉の仲間ですから・・・、似たところがあります。
江戸時代日本人は「鶉合わせ」と言って、鳴き声を楽しみました。
多分、伊勢物語の次の歌を思い浮かべていたのでしょう。
   野とならば鶉となりて鳴きをらん 仮にだにやは君は来ざらむ
女は男を待ち続けていました。
待ちに待って・・・・、とうとう鶉に姿を変えてしまいます。
「うずら」は”うずくまった鳥”であり・・・・、
”憂いよう・・・・、辛いよう・・・・”と鳴いていると聞きました。
 
伊勢物語の鶉は中世になると一層人の心を捉えます。
藤原定家の父「藤原俊成」は秋の夕暮、鄙びた里で鳴く鶉を歌います。
    夕されば野辺の秋風身にしみて 鶉鳴くなり深草の里
 
俊成は単なる叙景に留まらず…、伊勢物語の叙情を盛り込んで・・・・、人々の賞賛を受けました。
中世に入ると、鶉は文学に絵画に盛んに歌われます。
その多くが・・・・俊成の”夕されば野辺の秋風・・・・”を脳裏に描いていたと思われます。
 
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                             坂井抱月の秋草鶉図(重要美術品、山種美術館、同HPから)
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        李安忠の鶉図(根津美術館・国宝/この絵は私が高校の時代は牧谿と言われていました。)

 
中世は鶉が好まれたのですから・・・・、姿形の似た鳥も良く描かれ・・・・、歌われました。
その代表が・・・・、鴫でしょう。
鴫の代表が田鴫です。
鶉の足を延ばして、嘴を長くしたような鳥です。
鶉と同じように雅趣深い姿形です。
西行法師が歌った鳥です。
   心なき身にもあはれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮
 
   (鴫立庵では磯鴫を展示しています。西行が歌ったのは磯鴫か田鴫か?議論がありますが筆者は田鴫であ    ると思います。田鴫のほうが侘びています。磯鴫は 上村淳之氏がよく描かれておいでです)
 
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                     12月、孤独に凍てついた田圃で何やら啄んでいた田鴫でしたが・・・・。
 
12月に凍てついた田圃で一羽採餌に励んでいた田鴫でしたが・・・・、
一昨日訪れた舞岡の湿地では、2羽連れ添っていました。
付かず離れず・・・・、沿う様にして一心不乱に採餌しては・・・・・、しばらく休んで・・・・、
またせわしなく地面を突っついています。
地中にはもうミミズなどが動き出しているのでしょう。
レンズを通してみれば・・・・、細く長い嘴はもう泥がへばりついています。
田鴫にはもう春が来て・・・・、今年の子育ての準備を始めているのです。
私が観察できるのはもうしばらくの間だけです。
 
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   12月、孤独だった田鴫も相方を見つけて・・・、生き生き活発に動き回っていました。
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                                              1月末に、もうペアになった田鴫
 
雑木林の中を見渡せば・・・・、遠くにも鴫が見えます。
此方は田鴫よりは二回りも大きな・・・・、そう「山鴫」です。
良く見れば・・・・、山鴫ももうペアになっています。
 
奈良の生駒山の南端に信貴山があります。
聖徳太子が”信ずべき、貴ぶべき山”と言われたので信貴山の名があると言い伝えられていますが・・・、
此処には山鴫が棲んでいたので・・・・、「山鴫の棲む山」という意味であったと想像しています。
 
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                                           雑木林の中の山鴫のペア
 
クイナもいます。
色は鶉や田鴫と同じた、茶褐色の斑模様ですが・・・・、形は精悍で、嘴も真っ赤です。
熱した火箸のように光っています。
火箸を地中に突き刺して・・・・、此方もミミズを探しているようです。
クイナもペアでいるのかな?
私は眼を開いて葦の根元を見詰めますが・・・・・、
クイナ君は未だ独り者のようです。
 
今朝の「ラジオ朝一番」では鹿児島の出水(いずみ)の鍋鶴が北帰行を始めた…、伝えてくれました。
野鳥の世界では春がまじかに来ているようです。
一年で一番・・・、季節の移り変わりに心をおどろかせる季節です。
クイナの嘴に春を知りました。
   (今年は此処で一句、ここで一首出来るように・・・・、友人と一緒に努めます。)
 
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                                           こっちはクイナ君。
 
 
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慶応大学藤沢キャンパスのグランドデザイン

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毎日快晴が続きます。
こんな日には富士山が眺めたくなります。それも、長い裾をひいた富士山の全景を眺めたくなります。
そこで、日曜日に家内と一緒に藤沢の遠藤にある「慶応大学藤沢キャンパス」に出かけました。
「大学に入れるかしら?」
「大丈夫だろう、大学は地域に開放されているもんだし、それに卒業生なんだから?」
この日に限って家内は大学デザインの腕時計(青と赤の文字盤)をしています。
 
「お散歩ですか?どうぞ・・・・!」守衛さんは気持ちよく通してくれます。
キャンパス内に人影は全くありません。
大学によくある看板類も全くありません。
初めて入るキャンパスですから・・・・、何があるんだろう心が躍ります。
 
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      慶応大学藤沢キャンパス近くからの富士山を仰ぐ。大学からは富士山は見えません。
 
慶応藤沢キャンパスが計画されたのが1986年です。
湘南ライフタウンの西側の丘陵地10万坪に、
総合政策学部、環境情報学部、看護医療学部が新設されました。
1970年代から都心の大学が郊外に移転しました。
既に1980年代には日本の社会経済は「物つくりを品質・量産・効率化を競う」時代が過ぎて、
新しい価値観や文化を希求していました。
慶応藤沢キャンパスは、三田、日吉のキャンパスを更新しながら、
時代の先駆けとして期待される学部を藤沢に新設したのでした。
 
「経済のソフト化」とか「情報の重要性」、「自然環境の重要性」が指摘されていました。
そんな時代変化や社会文化の要求にいち早く対応して、
1990年慶応大学藤沢キャンパスはオープンしました。
 
私は、グランドデザインに少なからず関心があります。
加えて慶応藤沢キャンパスは「地球環境テクノロジー」や「エコロジーランドスケープ」を研究します。
その場になるわけですから・・・・、”地球環境やエコロジー”に逆行するようなグランドデザインは出来ません。
そんな学問のお手本になるようなキャンパスにしなければなりません。
200年先に・・・・・・・、このキャンパスが活きた教材です・・・、言われるようにしなければなりません。
設計したのは槇文彦氏、大変な名誉であり大きなプレッシャーだったでしょう。
 
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    正門は北側にあります。街路樹は中国産のタローツリーです。正面が本館事務棟です。
 
面積は10万坪余り、広大ですが・・・・・・、正面(辻堂駅・湘南台駅から入る)は北側になってしまいます。
加えて北斜面です。
もしも、南斜面なら日当たりは良いし、秀麗な富士山が眼前に見渡せます。
設計は数段容易だった事でしょう。
面積こそ広いものの・・・・・・・、デザインは難しかったと思われます。
加えて・・・・、慶応大学には自由に(安易に)批判する空気が充満しています。
口うるさい人達を納得させるのは・・・・、大変だったと思われます。
 
北斜面ですから・・・・、キャンパスの周囲を樫等の常緑照葉林で囲みました。
防風林の役目と、緑のキャンパスを強く印象付けます。
緑地率は50%を優に越しているそうです。
正門から200m程、道の両側には見慣れない街路樹が植えられています。
日吉なら銀杏、明治学院大学なら鈴懸の・・・・・街路樹ですが・・・、
中国産の「タローツリー」だそうです。
今は落葉して丸坊主ですが、見事に紅葉するのだそうです。
そして、早くに大樹に育つそうです。
 
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    ループ状の道の両側に教室の建物が続きます。この辺りは楡や曙杉が目立ちます。
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     鴨池の向こうに寒々とした梢の楡が続きます。その長い影を水面にも落していました。
 
奥に進むと街路樹も、学生の憩う芝生にも「楡/にれ、材木は欅」が多く植えられています。
舟木和夫の高校三年生も「楡の木」でした。
学生に最も似合う木は楡の木だと思います。
丸坊主の梢が寒々として・・・・、その長い影を地面に落していました。
ループ状の道路を歩くと・・・、学部を巡る事が出来ます。
その所々に池があります。
池は雨水調整池であり・・・、それ以上に景観に重要な役割を担っています。
大昔から・・・・、池は日本の建築の重要なポイントでした。
学生たちは池の周りに集って…、水面を見ながら多くを語り、癒されることでしょう。
大学の案内では「ガリバー池」とされていましたが、
沢山の鴨が棲んでいるので「鴨池」と呼ばれているようです。
鴨池の畔に西脇順三郎先生の「旅人帰らず」の碑が建っています。
 
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                           手前が西脇順三郎先生の「旅人帰らずの碑」
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   鴨池は雨水調整池ですが・・・、景観の上でも重要で、学生の憩いの場になっていると思われます。
   竣工当初は白壁が味気ない…、批判があったかもしれませんが15年近く経つと…白以外は考え難    いと思います。これが赤レンガだと・・・・、樹木の美しさが損なわれます。
 
 
建物はコンクリートの打ちっぱなしで…、白壁が目立ちます。
三田のキャンパスは赤煉瓦多いのですから・・・・、少し味気ないかな・・・、思う人も多いと思いますが・・・。
でも、この白い壁が一番良いと思います。
白い壁こそが・・・・、樹木の美しさを引き立てるし・・・・、青春に相応しい色だからです。
冬の、楡の梢が影を落とすと・・・、白壁で良かった・・・・、気付きます。
 
設計した槇文彦氏は慶応の卒業生です。
幕張メッセや代官山のヒルサイドテラスなどの設計をされています。
人の流れに沿って・・・・建築物を配するのがお得意なのでしょう。
慶応大学藤沢キャンパスの設計に際して・・・・”禅寺”をイメージされたそうです。
禅寺は勉強の場、修養の場でありましたから・・・・・、学生に現代の禅寺という場を用意したのでしょう。
真っ白い建物ですが…、窓は禅寺の連子窓を思わせます。
そして、何といっても授業の度ごとに教室を移る、学生食堂に行く、図書館で調べる・・・、
そんな学生諸君の移動に便利なように配置した事でしょう。
それは、禅寺の雲水さんの動きに似たところがあります。
 
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                                 中庭に福沢先生胸像が置かれています。
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                                 福沢先生胸像は杏らしい樹林に中にあります。
 
中庭に福沢諭吉先生の胸像が置かれています。
その周囲も樹林です。
福沢先生は耶馬渓の景色を保存するため・・・、
私財を投じてわが国最初の環境保存を実施した人・・・、と言われています。
ですから・・・・、胸像の周りを樹林で囲んだのでしょう。
この樹が気になります。
樹形から見れば・・・、杏子なのですが・・・・、樹皮は林檎のようでもあります。
何れにしても春になれば花が咲くことでしょう。
槇文彦氏が選ばれたのですから・・・・、私達の知らない木なのかも知れません。
 
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      三田の演説館を思わせる海鼠壁。楡の向こうの中庭に福沢先生胸像があります。
 
春になったら・・・・、どんな花が咲くのか?
胸像も学生もどんな花に埋もれるのか? 
また見に行きたいものです。
 
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相模野の野蒜

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慶応藤沢キャンパスは丘陵の北斜面にありますので、何処からも富士山は見えませんでした。
私達は丘陵を越えて南・西斜面に出ます。
丘陵の頂上に「宇都母知神社」があります。
このあたりからの富士山の眺めは・・・・、素晴らしいものがあります。
裾が長く広く伸びて・・・・、箱根から伊豆に山脈が続いて見えます。
紫に煙って見えます。
そこから、伸びやかに富士の頂が聳えたっています。
「やはり、富士山は最高だね・・・!」
家内と話します。
 
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   宇都母知神社の森、右側奥の木立が慶応大学藤沢キャンパスです。
 
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    富士山の眺め、右が大山、左が箱根山になります。 
    富士山と箱根の間の足柄峠を越えて、日本武尊は東征に遣ってきます。
 
慶応大学ももう数百mセットバックして、この南西斜面をキャンパスにしていたら・・・、
学生達は毎日富士山を眺めながら、勉強が出来たし・・・・・、
グランドデザインも容易だった事でしょう。
 
先刻から、強い匂がしています。
そう、農村特有の・・・・、牛糞の臭いです。
畜産農家が見えます。
牛糞を発酵させる・・・、特有の匂です。
これでは、学生さんも頭が痛くなることでしょう。
都会育ちの学生には・・・、慣れるまでは相当の苦痛と予測されます。
でも・・・・・・、致し方無い事でしょう。
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    相模野の畜産農家、畑に山と積まれているのは牛糞です。
    牛糞の醗酵する匂いが都会子には堪らない事でしょう。
 
もう、畑には麦が青々と育っています。
葱や白菜が”今が収穫よ・・・、霜降り野菜は甘くて美味しいわよ・・・!” 主張しています。
近くには竹林もあって・・・・、煙が立っています。
そう「竹炭」の生産をしているのです。
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   相模野の麦畑、もう霜にも負けずに根を張っています。
 
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                                                 竹炭のプロジェクト
 
野道の畔にはもう春の花が咲き出しています。
南斜面で、日当たりが良いので・・・・、
”仏の座”や”大犬のふぐり”はもう咲き出しています。
そして、その足元には野蒜が群生しています。
 
此処を東に下れば腰掛神社があります。
日本武尊が東征の折に腰掛けた大石があって・・・・、腰掛けて富士山を眺めた・・・・、
そんな訳で・・・・・、腰掛神社なのです。
 
古色豊かな、森の中に祀られた古い神社です。
古事記には日本武尊が白鹿に化けた土地の蛮神を野蒜で撃ち殺したエピソードが出ています。
学生の頃は不思議に思っていました。
野蒜で鹿の急所・・・・、目を打っても・・・・、鹿を撲殺することは不可能です。
野蒜の根っこの鱗茎で打っても、鉄球のような形のムカゴで打っても・・・・、
鹿にとっては痛くも痒くもないでしょう。
 
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   野道の土手にはもう春の花(仏の座とオオイヌノフグリ)が咲き出しています。
   その脇から伸びている「分葱/わかぎ」のようなものが野蒜です。
 
野蒜は冬も枯れません。
少し白い粉をまぶしたようになりますが・・・・、常緑で生き生きとしています。
如何にも・・・・気を払いそうな・・・・・、生気に満ちています。
 
私は小さなときスコップを持って野山に野蒜採りに良く出かけました。
バケツ一杯に採った野蒜は・・・、母が味噌に合えて・・・・・、父の酒の肴になりました。
父は・・・、野蒜の味噌和えが大好物でありました。
私は嬉しそうに野蒜を口に運ぶ父を見るのが好きでした。
父は修行僧時代を思い起こしていたのかも・・・・知れません。
実際に体に生気が満ちてくる・・・、そんな感覚が野蒜にあったのでしょう。
そんな野蒜の薬効ですから・・・・、邪気をはらんだ白鹿の正体を暴露して・・・・・、
日本武尊が撃ち殺したのでしょう。
実際の武器は弓か剣でしょうが・・・・、野蒜が役にたったのでしょう。
 
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   これが野蒜です。分葱に似ていますが、根が鱗茎(玉ねぎのようなもの)になっていますし・・・、
   味がもっと濃密です。ボケていても凛とするような気に満ちています。
 
この古事記の説話が何処で生まれたか? 解りませんが・・・・。
日本中の野山に野蒜は生えています。
地味で・・・、目立たない草です・・・、
日本中総て・・・・・、野蒜の生えている所総てが・・・・、
日本武尊の説話が生まれた場所と考えたいものです。
 
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    これが野蒜の花。根元の黒紫の物体は「ムカゴ」です。
    このムカゴが散って種が増えます。
    筆者はこのムカゴの塊か先の鱗茎で日本武尊が蛮神を退治したのかな? 最初は思いました。
 
 
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「春近し」由比ヶ浜のスケッチ

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つい1週間も前までは空気が澄みきって、富士山も良く見えましたが、
2月に入ると快晴でありながら・・・・、もう見えません。
中国から吹かれてくる黄砂の為か、それとも汚染物質の為か・・・・、後者であれば心配です。
私は鎌倉の由比ヶ浜に春を求めに出かけてみました。
 
今年は同期のM君に触発されて、俳句を始めてみました。
潮騒と言えば夏の季語であろう・・・・、私の経験では思っていましたが・・・・、季語では無いそうです。
でも、「磯遊び」とか「海苔」「磯菜摘」など磯・砂浜に係る言葉は多くが春の季語や季題であるようです。
待ちに待ってようやく春になった・・・・、野山に出かける…、磯に出かける・・・、
それは春にこそ相応しいからでしょう。
 
由比ヶ浜は・・・・、期待通りに春が踊っていました。
 
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   2月1日に由比ヶ浜。海が眩しいのです。波打ち際には沢山の貝が転がっています。
   桜貝(中央下)も簡単に拾えます。
 
何といっても、先ず目に飛び込んでくるのは・・・、光る海です。
凪いだ海に・・・・、さざ波で反射した光が眩しく照り返してきます。
目の前に在る筈の大島の島影も霞んでしまっています。
私の脳裏には「春の海/宮城道夫」がポロリ・ポロロン、響き出すようです。
サーファーも海には出たが・・・、手持無沙汰のようです。
 
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     遠くの島影が大島。 手前の岩礁には海鵜が濡れた体を干しています。
     穏やかな海面に波が光っていました。
 
                                                   
 
磯の香りが一段と濃く感じられます。
私は波打ち際から・・・・、香りの方向を振り返ります。
そう、ワカメを干しているのです。
此処由比ヶ浜のワカメは長谷「坂の下の竜神丸」さんが・・・・、沖合で養殖されています。
ワカメの胞子を湿らせた縄を沖合に張っておいて・・・・、この季節になると収穫するのです。
早朝に沖合に出て収穫し・・・、朝方に湯がいて・・・、そして砂浜で干します。
漁師の叔母さんでしょう・・・・、アルバイトもいるようです。
世間話に興じながら・・・、下着を物干し棹で干すような要領でワカメを干しています。
先ず、ピンと皺を伸ばして・・・、次いで洗濯挟みで2箇所を固定します。
親爺のステテコのような不細工な姿で・・・・、緑のワカメが次々に干されてゆきます。
芳香の源はこの干されたワカメなのです。
 
つい先日に干したワカメでしょう。
もうカリカリに干し上がって・・・、真っ黒になっています。
聞けば・・・・・、もうすべて買い上げられているそうです。
鎌倉ブランドのワカメは人気で・・・、通販で売られているそうです。
庶民には手が届き難い値段です。
 
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                                          手前がワカメ養殖の竜神丸の船
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                                              砂浜でワカメを干す風景
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                       ワカメは何処か親爺のステテコに似ていて…、失笑してしまいます。イメージ 7
                                         手前が干し上がったワカメ。
 
今(ブログを書いている2月2日)は強風注意報が出ています。
でも、今日の午後は晴れるそうですから・・・・、その時刻に由比ヶ浜から厨子の浜辺を歩けば・・・、
波に揺すれて・・・漂着したワカメを拾う事が出来るでしょう。
昨年はビニール袋を持って出かけました。
チョイ・チョイと拾えば、家内と倅3人家族の味噌汁の具は充分に拾えました。
今日の午後はどうしようかな?
私は胃を切って未だ10か月足らずで・・・・・、
ワカメは禁じられていますが、春を舌でも味わいたいものですし・・・・。
 
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        波打ち際で寄せる波を待っている烏。波と遊んでいるのではありません。波の引き際に砂イ         ソメを見つける・・・瞬間を待っているのです。
 
波打ち際には烏が群れを成して・・・・、波の引くのを待っています。
そして・・・、波が引くと・・・・、その跡を太い嘴で穿っています。
「何をしているんだろう?」観察すると、・・・・、そう砂イソメを採っているのです。
イソメは息をしていて・・・・、水を被ると・・・、泡が上がって来るのです。
烏は目ざとく泡を見つけて・・・、すぐに嘴で掘り上げて・・・、砂イソメをゲットしています。
 
コッチの親爺さんは大きなスコップで砂浜を掘り上げています。
親爺も砂イソメを探しているのです。
烏のほうが利口に見えてきて・・・、何か楽しくなってきました。
 
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                             砂イソメを捕獲しようと太い嘴で砂を掘る烏君
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   コッチはスコップで砂を掘って・・・・、砂イソメを採集する釣り好きの親爺さん。
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                                                イソメは容易に採集できます。
 
 
保育園児も、砂を掘っています。
掘っては、砂山を盛り上げて行きます。
隣の砂山より1㎝でも高くしよう・・・・、競争のようです。
女の子はもうスカートを投げ捨てて・・・、真っ白いパンツ姿です。
寒くは無いのかしら・・・・、心配するのは年寄りばかりのようです。
保母さんは注意深くも優しく見つめていられます。
私の孫も今年は幼稚園に通い始めることになります。
 
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                 磯遊び、砂山造りに夢中の保育園児。スカートを脱いでしまった子もいます。
 
散歩する人、
犬をトレーニングする人・・・、
貝を拾う人・・・・・・、人さまざまです。
皆に共通するのは・・・・、体中で春を感じて・・・、喜々としている事です。
もう、明日(2月3日)は節分で、その翌日は立春です。
”鬼は外、福は内”
叫びながらも・・・、人も鬼も一緒に嬉しそうに・・・、遊ぶのが鬼会式(おにえしき)です。
今年は何処の鬼会式に行こうか・・・・?
迷ってしまいます。
 
 
 
 
 
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節分会の楽しみ

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昨日(2月2日)は暖かくて、20度にもなりました。
天気予報では、今日は一転して寒くなる・・・・、としていますが今朝は未だ暖かいです。
今日の節分会(神道では節分祭)は”何処に行こうか?” 未だ迷っています。
 
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   鬼は強くて意地悪で・・・、御し難いのですが何処か可愛げがあります。人間味も弱味もあります。
   日本人は親しみを込めているようです。(写真は蕎麦屋の秀福、大森仏師の作?)
 
日本は四季がハッキリわかれていて、4等分しています。
最近は春と秋、過ごし易い日が短くなって、暑さ寒さが厳しい夏冬が長くなった・・・、気がします。
各季節の始まりが立春、立夏、立秋、立冬で、その前日が節分です。
「季節を分ける」といった意味でしょう。
でも、「立春前日の節分」だけが盛大に節分会が執り行われます。
1年最初の節分であることと、”冬が去り、待ちに待った春が来た”悦びに溢れた行事だからでしょう。
”酷暑が去って過ごし易い秋が来た” 立秋前の節分もお祝いしたら良さそうなものですが・・・・。
 
今年になってもインフルエンザが流行し、ノモウィールスでは沢山の人が亡くなりました。
杉花粉も、黄砂も心配です。
煎り豆を”鬼は外・福は内”撒くのは・・・・、こんな厄病を追い払う神事なのでしょう。
昔の人は病気の原因は「邪気」であると信じていました。
細菌やウィールスは目に見えませんから・・・、邪気は陰陽の分かれ目に出現して・・・・・、
人に災いをもたらす。
邪気・・・・・・邪鬼を追い払うには・・・、煎り豆が良かったのでしょう。
昔は節分でなくても・・・、煎り豆を食べていました。
 
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                     四天王の足下に蹲る邪鬼。(鎌倉長勝寺、高村光雲作)
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                          建長寺の節分会でカッポレが踊られました。(2012年撮影)
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    建長寺での豆撒き・・・・・、撒いているのは管主さんとミス鎌倉のお嬢さんです。(2012年)
 
 
我が家は門の生垣に「柊」を、玄関横には南天を植えました。
何れも縁起担ぎです。
”柊鰯”は厄除け・・・、鬼除けのお呪いです。
柊の棘が鬼を防いでくれるし・・・・、鰯の臭みを鬼が嫌いだからです。
そんなに・・・・、鰯が臭いかなあ?
少し、疑問です。
鰯の臭みこそ・・・、美味しさのポイントなんですが。
誰か鬼に訊いたのでしょうか?
私は鰯よりも先日書いた「野蒜」や「大蒜/にんにく」の臭さの方が、鬼が嫌いじゃないのかな?
思います。
記紀神話には野蒜が邪鬼を打ち破る話がありますから・・・・。
”柊鬼”を思いついたのは江戸の町民でした。
江戸の長屋住まいの庶民にとっては・・・・、武家の柊をくすねて・・・・、台所で腐ってしまって食用にならなくなった鰯を刺して・・・・”柊鰯”を玄関に飾って・・・・「立春大吉」を祝ったのでしょう。
 
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                       我が家の門、柊の垣根に鰯を刺しました。これで「柊鰯」です。
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                     我が家の玄関、「笑門来福・立春大吉」の準備は整いました。
 
一昨年は遊行寺、昨年は建長寺と八幡宮で節分会に参加しました。
相模二宮川勾神社では赤鬼・青鬼が出るそうですし・・・・、
道了尊では遥々舞妓さんが来るそうです。
少し、遠いし今日は日曜日ですから・・・・・。
ブログを書き終わっても・・・・・・、未だ迷っています。
 
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    鶴岡八幡宮の豆撒き風景。八幡宮の節分祭は古式豊かに「鳴弦の儀(ブルルンと弓を鳴らして邪気を払     う)」から始まりました。(2012年撮影)
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                             今日節分の主役は何と言っても「鬼さん」です。
 
 
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良くわかる「川勾神社の節分祭」

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立春の朝は曇っていても暖かです。
昨日は節分でした。
私は家内と連れ立って道了尊、川勾神社の節分を詣でました。
その清々しさが今朝も残っています。
去年は大病を患いましたが、今年は良い事が沢山ありそうな気がします。
それも、これも節分が良かった・・・、からです。
 
川勾神社の節分祭は節分の意味が良く解る・・・・、伝統を今に伝える・・・・・、
私が節分に抱いてきたイメージ通りの神事でした。
素晴らしい神事に参加できた嬉しさは・・・・、体中の血を湧き立て・・・・、福を招いてくれる気がします。
「こんな素晴らしい節分祭なら・・・・、あらかじめ準備をして置けば良かった・・・・」
思いますが、記録を兼ねて書き残しておきます。
 
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                             二宮海岸から1K程山に入った里に川勾神社があります。
 
JR「二宮駅」から山側に2キロほど入った丘陵の中腹に「相模二宮・川勾神社」があります。
参道には「延喜式内社、川勾神社」の案内がしてあります。
古代律令制の整備が進み、平安時代の927年延喜式が制定され、全国の神社の社各が秩序されます。その時に川勾神社は式内社13社の一つに数えられます。
奈良時代は相模は足柄を中心にした磯長(しなが)と、相模川の東に相武(さがむ)とがありました。
両者が合併するに際し、磯長の川勾神社と相武の寒川神社の間に、どちらを相模一宮にするか、
争いがあったとされます。
 
古代から川勾神社は相模二宮として、西相模の中核神社でありました。
節分祭は平安時代宮中で催されていた「追儺/ついな」が全国に普及してゆきます。
川勾神社の節分祭が、何時ごろまで遡れるのか調べていません。
延喜式まで遡れる、可能性はあるわけです。
 
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     鳶職の先導で社殿に入ります。木遣り歌がまたよかった。(お顔を隠すか迷いました、神事ですか     らそのまま出しましたが、ご指摘がれば指示に従います。悪しからず。以下総て)
 
午後二時、催事関係者が社殿の前に勢揃いしました。
そして、鳶職の先導で、
神職、陰陽師、巫女、鬼、赤鬼・青鬼、神社役員、来賓、年男・年女等の順番で社殿に入ります。
木遣り歌が粋で、祝い心に溢れています。
 
豆撒きは3時からです。
長い神事が始まります。
社殿に貼られた式次第を見れば、私が世話人をしている八幡社の神事と変わりません。
でも、一時間も待つのは長いなあ・・・、思いながら少し日が傾いている中、辛抱強く待ちました。
 
突然に社殿の中で叫び声が響きます。
鬼が鏑矢を構えて、赤鬼・青鬼を威嚇しているのです。
鬼は中央官庁の派遣した武人で、
赤鬼・青鬼は地方に居て中央の言うことに従わばい豪族の意味でしょうか?
(この段は筆者の想像でレビューしたものではありません。後述陰陽師の口上からこう思われます。)
 
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       社殿の中で悪態をつく赤鬼・青鬼。悪態でも「大人の品位」を突く・・・、厳しい内容でした。
 
超長い玉虫奉奠が終わりました。
突然に、社殿の中から笑い声が聞こえてきます。
赤鬼・青鬼が参列者の中に入って、戯れを言っているのでした。
”お父うが亡くなっても・・・・・、年金をくすねて居る者はおらんか!”
”円安・株高で儲けても・・・・、口を竦めている者はおらんか!”
”隣近所の・・・・、弱い者虐めをしている者おらんか!”
”学校で体罰を加えている者、おらんか!”
子供の躾を戒めるのが秋田の”なまはげ”なら、
川勾の赤鬼・青鬼は大人の品位・躾を戒めているようです。
余りに、適切なので(?)ついつい大笑いしているようです。
 
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      社殿の前庭で参拝者にふざける青鬼、子供は泣きだしても・・・・、みんなが満面の笑顔でした。
 
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      陰陽師の(左茶色の衣冠束帯姿の人)の指示に従ってひれ伏した赤鬼・青鬼
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       左の鬼は屹度中央から派遣された強い武人の意味で鬼面をかぶっているのでしょう。
       終始鏑矢を赤鬼・青鬼に向けていました。
 
突然に赤鬼・青鬼が社殿の前庭に飛び出します。
二者は参拝者に悪たれをついて回ります。
”もう少し、若いオナゴはいないのか!”(筆者同感)
その迫力に泣き出す子供も現れます。
でも、皆が笑顔です。
 
社殿の前に神職はじめ参拝者が勢ぞろいします。
赤鬼・青鬼はその前にひれ伏します。
陰陽師が相撲の行事のような姿・口上で赤鬼・青鬼に問質します。
”その身怪しき・・・お前たちは何者か?名を名乗れ!”
すると、赤鬼・青鬼は神妙になって答えます。
”我は人でなしで・・・恐ろしい気を吐き、人に災いをもたらします。”
”我は水害を引き起こし・・・・・、人の命を狙います。”
陰陽師は二人の鬼に向かって言い放ちます。
”この川勾神社の追儺の神事を聞かせよう。
大名貴命(おおむらじのみこ)がこの地に遣って来て、
弓矢をもって・・・・、鬼どもを追い払い・・・・国造りをしたものである。”
  ( 大名貴命は素戔嗚尊(すさのおのみこと ) の息子である。
   素戔嗚尊はお隣の吾妻神社に祀られている。神事については次のYOU-TUBEを見て欲しい。
   http://www.youtube.com/watch?v=AIKt9J-OkOk。陰陽師と鬼との遣り取りや木遣り歌が聞けます )
 
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                      豆を撒かれて逃げまどう赤鬼・青鬼。暫くすると消えて失せます。
 
陰陽師が言い終わると、全員が赤鬼・青鬼に豆を撒きます。
鬼は逃げまどい・・・・、消えて失せます。
 
次いで、青竹の棹の先に付けられた赤鬼・青鬼の面を鏑矢で射ぬきます。
社殿の前庭東西に建てられていた・・・・・、
二枚の面がものの見事に、射抜かれて・・・、割れて飛び散りました。
その瞬間・・・・”今年は吉事が続くぞ・・・・!” 思われました。(昨年は第一矢が外れたそうです)
 
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      鏑矢を鬼の面に向けて放ちます。射手は二宮弓道界の師範(?)だそうです。
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    東西二つの面は見事に射抜かれました。写真は西側の青鬼の面が二つに割れた瞬間です。
 
そして、その後が恒例の何処でも見られる豆撒きで盛り上がりました。
 
総てが終わったのが3時半でした。
暖かい二宮ももう底冷えがしてきました。
家内と一緒に「今年は素晴らしい節分だったね・・・!」
言い合いながら帰途につきました。
 
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          豆撒き風景、今年は節分が日曜日だったので大変な混雑で・・・、盛り上がったそうです。
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                                                 恒例の豆撒き風景イメージ 6
  私が”良い神社だなあ”最初に思ったのはこの注連縄を見た瞬間でした。拙さが感じられる手作りの注連     縄ですが・・・・、氏子らの思いが浸み込んだ不細工な注連縄です。
 
 
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道了尊の節分会

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昨日に続いて、もう一つ節分のお祭りを紹介します。
足柄山の山麓にある道了尊最乗寺です。
神奈川県民は一般に「道了尊」とか「道了様」と呼んで敬っています。
京都の人が鞍馬山(鞍馬寺)を敬うと同じような位置にあります。
 
鞍馬寺には叡山電鉄でコトコト登って行く様に、
道了尊には小田原駅から伊豆箱根鉄道大雄山線で行きます。
同鉄道は道了尊参詣者向け鉄道として、大正11年に設立されました。
でも、沿線には富士フィルムやアサヒビール等が進出していて、
設立当初とは違った姿を示しているようです。
 
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      道了尊の山門、鬱蒼と茂る杉木立の中にあります。お寺に登るこの時間が最高に良いのです。
 
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                                        杉の梢の隙間から朝日が差し込みます。
 
道了尊には鞍馬山と似ている所はもっとあります。
鬱蒼とした杉林の中にある事です。(天然記念物)
開山了庵慧明禅師が杉の植林を推し進めたそうです。
そして、ご本尊は釈迦如来ですが、何といっても「大天狗」がスターなのです。
鞍馬山には牛若丸を教えた天狗が居たように、道了尊は「道了大薩埵」という名の天狗のお寺です。
道了大薩埵は了庵慧明禅師の徳に憧れ、三井寺から金時山の山麓に飛んで来て、
最乗寺を建立しました。
そして、了庵慧明禅師が亡くなると、山に籠られ最乗寺を守護されている・・・・、と言い伝えられています。
多分、弟子の修験者を指揮して、短時日のうちに伽藍を建立したのでしょう。
 
節分に相応しい生い立ちと環境を維持している、古刹です。
 
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                                                   夫婦和合の下駄
 
昨年の節分会には京都から遥々舞妓さんが来られたそうです。(昨年のブログで確認)
天狗のお寺に雅な舞妓さんは少しアンマッチングな感じがしますが・・・、
でも私も家内も舞妓さんには弱いのです。
あの、本堂で、ご本尊はカーテンで覆って、舞妓さんが踊るのでしょう・・・、
そんな光景を思い浮かべて・・・・、出かけました。
 
何時もは山門横の大駐車場に車を置けるのですが・・・・、節分は近在から沢山の参詣者が集まります。参道の茶店に置かせていただいて・・・・、坂道を、石段を登ります。
それにしても、見事な杉林です。
建立当初の杉もありそうです。(600歳になります)
第二世代も目立ちます。
霊気が肺に入って・・・・、身体中に澱んだ汚れを洗い流してくれるようです。
こんな霊気の中で暮らしていれば・・・・、癌などの病にはならないことでしょう。
 
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                             道了尊最乗寺の本堂、豆撒きは本堂の堂内で行わます。
 
本堂に入ります。
何時もは広い本堂ですが、立錐の余地も無い大混雑です。
若いお母さん、お父さんが目立ちます。
本堂の畳の上に舞台が設えられていて・・・・、少し予測とは違った雰囲気です。
そう、今年は舞妓さんではなく・・・・、幼稚園児のバンドとバトントワリングの遊戯が披露されるのです。
お父さんお母さんが愛児の応援に大挙して遣ってきているのです。
舞妓さんより幼稚園児の遊戯のほうが・・・・、節分会には似合っていそうです。
昨年の鶴岡八幡宮でも、舞殿では白拍子ではなく、幼稚園児の遊戯やお歌が披露されました。
 
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           本堂には特設の舞台が設えられて、足柄の幼稚園児のバンド演奏が行われました。
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                             立錐の余地も無い・・・・本堂内です。(本堂の右方です)
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                                            バトントワリングを応援します
 
奥ノ院で節分会のご祈祷が続いているそうです。
その間、長い説法やら・・・・、案内が続きました。
11時過ぎ、ようやく導師の和尚さんをはじめ沢山のお坊さんや福男福女が堂内に現れました。
そして「鬼は外・福は内」豆撒きが始まりました。
私の前にも、横にも幼児が居ます。
後ろから押されて・・・・、幼児を守る盾のような役割をするのが精一杯です。
写真も撮れない状態でした。
 
拾えた福豆は家内の一つだけ・・・・、二人で一つ食べながら・・・・・、山を降りました。
お茶屋で恵方巻きを3本求めました。
これで、今晩の用意は出来ました。
小田原市内で食事をして、午後は二宮の川勾神社で・・・・、節分の梯子です。
 
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    豆撒き風景。お父さん、お母さんの足元に幼稚園児が戻っていました。立ち見の人が福豆を拾おうと乗り出    してくるものですから、大混乱でした。
 
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今年も四季折々、道了尊を詣でる事でしょう。
 
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「両面宿儺像」を観る(円空展)

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上野のお山は「両面宿儺」像で溢れていました。
そう博物館で、飛騨千光寺の「円空展」が開催されているのです。
2月5日、家内と一緒に出かけました。
このブログでも各地の円空仏は書いていますし、千光寺の旅も書き綴っています。
でも、千光寺の宝物館で拝観するのに比べ、東京博物館で見る円空は遥かに良かった・・・のでした。
先ず、ライティングが素晴らしいので仏像の陰影が深く、深遠に見えます。
ま近によって木肌の隅々まで、蚤の跡も、年輪も良く見られます。
加えて、仏像の横に行けば像が扁平であることが判りますし、木割をした墨線も確認できましたし、
裏に回れば銘や梵字が黒々と墨書されているのを確認できました。
 
唯、残念なのは会場が狭かったこと、そして記念アルバムの写真がです。
アルバムの写真はライティングが為されていないので平凡に写っていました。
展示会場で拝観したときの興奮を留めるように・・・・、
会場で撮影すれば良かったのに思いました。(それでは展示に間に合いませんが)
今日は、その中から今回の展示のハイライト「両面宿儺」像を、私なりに説明させていただきます。
 
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               東京国立博物館、正面の5室で円空展が催されました。
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”鉞(まさかり)担いだ金太郎熊に跨り・・・・”
童謡「金太郎」です。
金太郎は昨日書いた道了尊のある金時山に生まれました。
力持ちで、大江山の酒呑童子を退治するに際し活躍します。
小さいのに、大きな鉞を担いでいる姿で知られています。
鉞は木を切り倒し、木割(材木に挽く前、おおぐりに割る)する時に使う道具です。
樵(きこり)の道具であると同時に、雷神が持つ道具であると信じられていました。
金太郎の母は金時山の山姥で、彼女の脇の大木に雷が落ちます。
樹が裂けてしまいます。
その時に身籠ったのが金太郎でしたから、金太郎の父は雷神であるとされます。
ですから金太郎は父譲りの鉞を持っている・・・・・・、雷神の子供なのでした。
 
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                                      湯島天神蟇股に刻まれた金太郎
 
円空は1632年美濃国(現在の岐阜羽島)で生まれます。
母は郡上美並の木地師(木割をする専門職人)の娘でした。
父は誰であったか諸説ありますが・・・・・・・、郡上星宮神社の宮司西神頭安永と思われます。
何れにしても郡上の名士であり、富豪であったのでしょう。
それが、木地師の娘に手を付けて・・・・、子を孕ませてしまった・・・・、
そこで、羽島に遠ざけて、母息子の面倒を見ようとしたのでしょう。
ところが円空7歳の時に長良川の洪水で母と死別してしまいます。
そこで、円空は西神頭家の庇護を受けて、郡上に引き取られます。
 
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   円空の仏様は樹をこの写真のように割って、その割った面を表にして仏像に彫りました。
   このような技法は「木地師」の技です。因みに上の写真では下半分が主尊(薬師)になり、上の半分を   二つに割って脇侍にしました。
 
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          千光寺護法神立像210㎝余りもあります。
          一本の丸太を4つに割って、角面が正面になっています。
 
諸国を行脚した円空は出羽の湯殿山から、飛騨千光寺に入ります。(1685年54歳)
千光寺の住職「舜乗」と気があったのでしょう。
長い事千光寺に住みついて、この寺から里に下りて、人々の注文に応じて仏像を彫り続けます。
そんな中で、舜乗の話に聞き入った事でしょう。
舜乗は飛騨の伝説「両面宿儺」の話をします。
 
日本書紀にはこう記されています。
「飛騨には両面宿儺という名の鬼が居た。顔が二つ、手足が8本もあり、剣を持ち弓矢を使って、民を苦しめていた。そこで「武振熊」を使わせて両面宿儺を退治させた」
ところが、これは朝廷の言い分で、両面宿儺は良い鬼で洪水をおこしたり旱魃を引き起こす悪龍を退治して・・・・、救世観音の化身である・・・」と言い伝えられています。
そして、この千光寺の開基も両面宿儺なんです。
まるで、先日までNHKで放映していた「阿弖流為(アテルイ)」の飛騨版のような伝説です。
 
飛騨から北アルプスを越せば鬼無里です。
鬼は大和朝廷から見て・・・・・、従わない地方の豪族であったのでしょう。
刃向ったから・・・・、鬼と酷評され、退治して当然と主張しましたが・・・・、
本来は地域に貢献したかけがいの無い実力者だったのでしょう。
一昨日書いた「二宮の節分で追放された赤鬼・青鬼」も朝廷に従わない者でした。
私のような縄文人は”鬼”と聞くだけで・・・・、情け心が湧いてきます。
 
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               両面宿儺像。大きな鉞だけが持物です。如何にも山の神の面目です。
 
円空は千光寺の山に生えている翌檜の木を切り倒します。
そして、舜乗和尚の話と、自分の生い立ちを併せて・・・・、
自分の脳裏に浮かんだ飛騨の英雄「両面宿儺」を彫り出します。
千光寺の開基ですから・・・・、珍しくも像に光背を付けました。
沢山の人々が拝む場面を想うと・・・、光背は欠かせません。
そして、山の民、木地師が多く住む飛騨ですから・・・・、両面宿儺の持物に大きな鉞を彫り出しました。
手は異常に大きく、太い指に長い爪も加えました。
正面の顔は山の神として、雄々しく荒々しい表情にしました。
そして、脇の顔は口を開き、顔の端まで裂けている・・・・、恐ろしい表情にしました。
背面は平カンナで削って平面にしました。
梵字で「ウ/最勝」、その下に「ア」「ウン」その下に大日如来の真言を書き・・・・、仏像開眼としました。
(一般に円空も木喰も真言を墨書するすることによって、仏像開眼としました)
 
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千光寺「おびんずるさま」口元に丹が塗られています。これは後人の作為でしょうか?
 
昭和40年ベルリンで「日本禅美術展」が開催されます。
その時、この両面宿儺像が展示されました。
既に海外では白隠の禅画が人気でしたから・・・・・、円空仏も評価される・・・・、
そんな思惑があったのかも知れません。
期待は・・・・、(思惑と違っていたかもしれませんが)・・・・当りました。
ヨーロッパの人には、ピカソの「ドラ・マールの肖像」等の、二つの顔を持った肖像を髣髴させたのでした。
”円空は東洋のシュールリアリズムだ”  そんな目で見られたのです。
その評価の当否は別にして、円空仏を世界的に有名にし、日本人に改めて円空を知らしめたのは、
この両面宿儺像でした。
 
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                                    ピカソの「ドラ・マールの肖像」
 
展示室(正面5室)を出て、一般展示室に寄ってみました。
円空が一体、木喰が一体展示されていました。
 
国立博物館も円空や木喰を保有しているのだ・・・・・・、初めて知りました。
天平や鎌倉時代の仏像の流れから見れば・・・、円空仏は異端の仏像で評価は低いものでしょう。
しかし、民族の視点で見れば、その流れの正統に位置しています。
何れ、円空や木喰の中から重文・国宝の指定を受けるものが現れる・・・、そんな時代が来ることでしょう。
先ず最初に指定されるのは・・・・、この両面宿儺像でありましょう。
円空も全身の全霊を注ぎ込んで・・・・・・、木地師の祖霊、山の神を彫り込んだと思われます。
 
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                                  千光寺 33観音像
 
 
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品川宿の長八「こて絵」

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月曜日に恒例の”河豚を食べる会”がありました。
もう5年も前、塩田平(上田市郊外)を旅したときの事でした。
名産の「松茸」を横目に旅をしました。
帰って来るなり”松茸を食べたかった・・・”叫びが上がり、乃木坂で「松茸を食べる会」が催されました。
そして、昨年12月にも臼杵を旅したのですが、名産の河豚は口に出来ませんでした。
そこで、再び「河豚の会」を催したのでした。
 
「河豚の会」の始まりは午後6時から・・・・、久々の上京です。
何処に行こうか? 悩んだ挙句に”品川宿に長八を見に行こう”ということになりました。
・・・・、というのは私も家内も学生時代故浅子勝二郎先生の講義「伊豆の長八」を受けたのでした。
勿論伊豆の松崎には重要文化財「岩科学校」をはじめ沢山の作品が残されています。
東京でも、泉岳寺や成田山新勝寺等に残されていますが、
残念なことに大半が関東大震災で倒壊し、瓦礫に化してしまいました。
残された作品が品川の宿場町にあるのでした。
浅子教授は良く学生を連れて、実物を見せてくれたのでしたが・・・・、
「長八は近いのだから自分で見て来い・・・・、」
そんな雰囲気でした。
そこで、40年以上経ちましたが・・・「自分で見に行く」事にしました。
 
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      北品川の船宿、その向こうは品川の高層ビル群。現代と江戸情緒が一緒に見える景色です。
 
品川宿は北品川から鈴ヶ森まで一方通行です。
歩き易く、見どころ、食べどころが随所にありますから・・・・、楽しく歩けます。
電柱も大半が地中に埋められました。
南品川が地中化されていませんから・・・・、電線が如何に風景を損ねているか良く解ります。
私達は張り巡らされた電線があるもんだ・・・、思っていますから余り気になりませんが、
欧米の観光客は気になっている事でしょう。
 
品川駅前の高層ビル群が見えます。
運河には船宿が肩を寄せ合っています。
現代と江戸が同時に眺められるのも品川の特長でしょう。
天麩羅を食べたいところですが・・・・、未だ胃袋は半病人です。
 
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                        善福寺の門、背のマンション群は北品川駅前にあります。
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       善福寺の本堂。寺院建築には珍しい土蔵造りです。
       土蔵の周囲は入江長八の作品で飾られいます。
 
善福寺は黒門横町の奥にありました。
日陰には半月前に積もった雪が未だ残っています。
もう、使っていない倉庫が朽ちながらも残っています。
そんな路地の突き当りに善福寺がありますが・・・・、
広い境内は駐車場になっていて・・・、人影もありません。
お寺の北側が京急の北品川駅ですから・・・・・、駐車する人も多いのでしょう。
西向きに本堂が建っていました。
 
長八は伊豆松崎町で文化12年(1815)に左官の家に生まれます。
天保4年(1833)20歳の時江戸に上がり谷文晁の高弟喜多野清から絵を学びます。
彫刻も学びます。
絵画や彫刻技法を学んで、漆喰細工に応用しました。
建物の外観を装飾する目的で漆喰の壁に鏝(こて)を駆使して装飾し、絵の具で彩色しました。
28歳の時には日本橋茅場町に在った薬師堂の柱に「昇り竜」「下り竜」を造形します。
これが江戸中で話題になります。
 
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   向拝に飾られた鏝絵の龍。これは鏝絵というより「鏝造形」です。
   木鼻なども「鏝造形」で出来ています。
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    一目見た時は「へき眼の龍」かと思いましたが、他の作品を確認するとただ傷んで目が剥落したも    のと判断しました。彩色がしていないのか剥げているのか判断に迷います。
    それにしても細かくこれで鏝絵かと驚きます。
 
 
安政の大地震で江戸の町は被害を受け、火災が発生します。
善福寺も本堂が倒壊してしまいます。
本堂を建築するに際し・・・・、火災対策としてお寺には珍しく土蔵建築にすることになりました。
シンプルな方形の建物にし、外壁は漆喰で固めました。
垂木も蟇股も木鼻等の装飾も、普通ならば木彫で飾るところも・・・・、
総て類焼しないように漆喰で造りました。
そして、最後は長八得意の鏝絵で飾りました。
竣工は安政7年(1863)でした。
 
現在の善福寺本堂は痛ましい程の荒れ様です。
龍も片目が落ちてしまって「へき眼」です。
柳生重兵衛のような龍になってしまいました。
垂木の漆喰も剥落してしまい、芯の木が剥きだしています。
現在は漆喰職人も居なくなってしまったでしょうし・・・・、
多額の負担が嵩んで修復も困難なのでしょう。
松崎町のように自治体で懸命に保存しようとする熱意も無い事でしょう。
当初は屋根は塩葺き瓦だったのでしょうが・・・、今は味気ないトタンが載せられています。
 
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                                                  寄木神社の社殿
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                                        寄木神社社殿の龍は木彫です。
 
 
私達は南に下って・・・・、寄木神社に行きました。
神社の北側は材木屋さんです。
小さな神社ですが・・・・、社殿は小さいながらも立派です。
社殿の扉は鍵がかかっています。
蔀戸に顔を押し当てて中を覘きます。
奥に土蔵があります。
神鏡が見えます。
土蔵の中に神棚が設えられてあるのです。
 
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    寄木神社の神殿は土蔵の中に納まっています。
    土蔵は観音扉で、内扉には天岩戸の伝説が描かれています。入江長八の鏝絵です。
 
 
土蔵の扉は観音開きです。
この扉の両側に長八が居ます。
 
左側の扉には、上部に天照大神が、その下には天鈿女命(あめのうずめのみこと)が描かれています。
そう、土蔵は天岩戸(あまのいわと)を模しているのです。
須佐之男尊(すさのおのみこと)の荒々しさに怒った 「天照大神」は「天磐戸」に隠れてしまいました。
困った神々は磐戸の前で滑稽な踊りを舞い始めます。
スターは天鈿女命です。
胸を肌蹴て豊満な乳房を揺すって・・・・ダンスに興じます。
外の賑やかさが気になって 「天照大神」は扉を少し開けて、外の気配を伺います。
すると、 「天手力男命(あまのたじからおのみこと)がグイッとが磐戸を開いてしまいますく・・・。
誰もが知っている古事記のお話です。
右側の扉の大男は天手力男命のようにも見えます。
案内には猿田彦と書かれていました。
天照大神の子孫が地上に降りる際に、猿田彦は道案内を致します。
 
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                                   左扉の天鈿女命図、背後は天照大神です。
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    右側は道案内をした猿田彦である・・・・説明されていました。
 
 
私は「もっとま近に拝見したい・・・」と社務所を訪れました。
社務所ではお稽古の最中でした。
管理人は門前にお住まいです・・・、ということで管理人宅に行ったのでしたが・・・、お留守でした。
”桜が咲いたらまた来なさい” 
天照大神のご指示なのでしょう。
 
入江長八は明治22年(1889)に故郷伊豆松崎で亡くなります。
そのお墓は故郷の淨感寺と浅草正定寺にあります。
 
浅草にもあるというのは・・・・、沢山の弟子を育てて・・・・・、慕われていたからでしょう。
私の住み神奈川県下でも、浦賀には数多くの鏝絵が残されています。
叶神社や東福寺の鏝絵はこのブログでも書きました。
三浦の善吉とか石川善吉の作品です。
(長岡のサフラン酒の土蔵の鏝絵もかきました。)
江戸職人の技や文化を大事にしたいものです。
 
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                  品川宿の図(広重)で惣菜を商う人がいて・・・・、庶民的な下町です。
 
 
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ネパール料理の「ムスカン」(大船)

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もう四半世紀も昔の事です。
私は長銀の次長として三井不動産の担当をしていました。
当時、国内取引は固定化していましたが、国際取引は固定化せず、プレゼンの優劣が銀行取引に反映していました。
そこで、私は国際部にも頻繁に出入りしていました。
三井不動産のトップは江戸秀雄さん、TDL(東京ディズニーランド)をはじめ夢のあるプロジェクトをたくさん抱えていました。
ある日、チベットのカトマンズから帰ったS君に会いました。
彼は中学高校時代の友人で、人事部に戻ったのでした。
カトマンズではヒマヤラホテルを建てたとのこと・・・・、
長銀の国際部には激励されたこと。(当時の国際担当常務は有名なクライマーでした)
私は目を丸くしました。
カトマンズにホテルを建てても採算は不確かです。
S君は言いました、「江戸さんの夢のプロジェクトの一環だよ」
私は中学の頃の「マナスル発登頂/1956年」のニュースを思い出しました。
ヒマヤラの高峰は日本人にとって夢だなあ・・・、思いました。
その1年後、S君は亡くなりました。
以来、ヒマヤラホテルには一度泊ってみたい・・・・、願望ですが未だ実現していません。
 
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前置きが長くなってしまいました。
大船駅西口を降りて、柏尾川に沿って大船フラワーセンターに続く道を通称”爺婆通り”と呼びます。
沢山のお年寄りがこの道を歩いてフラワーセンターに行き帰りするから・・・、地元の人はこう呼ぶのです。
通りに面したマンションの1階に「ネパール料理ムスカン」がオープンしました。
前はフランス料理のレストラン”赤まんま”がありましたが・・・・、
高齢のシェフと若い娘さんが仲良く働いていました。
私は地が食いしん坊の私ですから・・・・・、
ネパール料理と聞いたら・・・、どんなもんか食べてみたくなります。
 
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      カトマンズ出身の3人の共同経営(?)のネパールレストランです。
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                                              ムスカンの店舗内全景
 
店内は”赤まんま”の頃と殆ど変わりません。
厨房はそのまま・・・、ただ中央に大きな石釜を置きました。
そして、厨房に二人、店内に一人青年が働いています。
お店は私がこの日最初のお客さんのようです。
店内にはネパールの写真、国旗、お人形等が飾られています。
店内にいる時間だけはカトマンズに居る様な雰囲気になれます。
 
私は、ウェートレス係の青年にしつっこく聞きます。
「ネパール料理はインド料理をベースに中華料理、古来のネパール料理が合わさっています。
此処で出す料理は日本人の嗜好に合わせていますから・・・、チベット料理とは少し違います。
チベットではナンなんて食べられません。石釡自体が貴重なものですから。
七輪のような釜でお好み焼き状に焼いたパン「チャパティ」が主食です。」
「ダル(豆のスープ)、バート(お米)も良く食べます」
 
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             これがネパールの国旗、上が「月に太陽」下が「石楠花」のようです。
 
チベットの国旗は三角旗が二枚になっています。
「何故、三角なのか?」 聞かれても良く解らないそうです。
 
「昔から二枚の三角を連ねていますから。
王様と宰相の旗でもあります。ヒンズー教(国民の8割)と仏教の国の意味もありましょう。
赤い色はネパールのナショナルカラー石楠花の色であり、情熱の色です。
緑の縁取りは石楠花の緑であり平和を表しています。
(そう、貴方の言う通り) 旗を横にすればヒマヤラの山脈を表しているのかも知れませんね」
 
「ネパールには2年前に一度帰りました。(運賃が高いので) 中々帰れません。
今年は・・・・、この店で頑張らなくてはならないんで…、(帰れないでしょう)」
「このスカートを着た人形は・・・、土産物です。ネパール民族の信仰とは無関係です・・・・。」
私は男三人の共同経営より、ネパールの女性が加わったら・・・・、良いのにな! 思います。
(早く帰って嫁さんを連れて来なさいな・・・・!)
 
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       お店の外にも飾られた食事の見本。どれも「テークアウト出来ます」PRしていますが・・・。
 
ところで・・・・”ムスカン”とはどんな意味ですか?
ウェートレスは一際大きな笑顔で答えてくれました。
「ムスカンとは笑顔の意味です。(貴方のようにしつこく聞いてくるお客さんにも笑顔で接します)」
私は更に聞いてみました。
「この場所はフラワーセンターに向かうお客さんが多いから・・・、賑わうでしょう?」
ウェートレスは真顔で答えました。
「フラワーセンターに行くお客さんは皆お弁当持参で・・・、お店に入ってもくれないし、
テークアウトもしてくれない・・・、(アテが外れました)」
 
つい先日、寄ってみました。
ウェートレスは笑顔で言いました。
「今日は貸切です・・・、また改めてお越しください」
見れば、若いお母さんたちが貸切で”女子会”で盛り上がっていました。
カトマンズ出身の青年たちは全員嬉しそうに・・・、若いお母さんと・・・・・・、遣っています。
 
「また・・・・・、お越しください・・・」
言っていました。
運営は軌道に乗ったようです。
 
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 キーマカレー、法蓮草カレーのランチセット。(Bランチ750円)、チャ(少し甘めのルクティー)が100円でし た。
 
言い忘れました、肝心のお味です。
ごく普通の、日本人好みのカレー味です。
ナンは巨大ですが・・・・、術後半年余りの私の胃袋にも収まってしまいました。
北インド、ネパールの味をベースに、日本人好みの味で、期待を外しません。
是非寄って、ネパールの青年3人組を応援してあげてください。
 
 
 
 
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北鎌倉の「吊るし雛」飾り

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神奈川新聞を読んでいたら、北鎌倉駅周辺で「吊るし雛飾り」をしているとの事・・・、
早速に出かけました。(4月1日まで)
北鎌倉では10年も前から「古民家ミュージアム」や「陶芸館」で雛飾りをしていたようですが、
街中で「吊るし雛」を飾るのは・・・・知りませんでした。
「北鎌倉まちつくり協議会」や「地元商店街」が実行委員会を作って、
近隣74店の店先で古都の早春を彩ろう・・・・、グッドな企画です。
海が近く暖かい鎌倉ですから、いち早く蝋梅や梅が咲きます。
春を探しに都心から出かける人も多いのですから・・・。
“街ぐるみで吊るし雛を飾ろう!”
計画は人気を博すことでしょう。
展示は大震災で実施が遅れ、今年が実質初年度だそうです。
 
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     北鎌倉の土産物店「陶芸館」の店内は暖簾のように吊るし雛が展示されています。(売り物です)
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精進料理屋さんの店先にも吊るし雛が飾られています。
勿論土産屋さんの店先や店内にも、沢山のお雛様が天井から吊るされています。
経師屋さんの店先には「襖」を模した吊るし雛です。
それぞれのお店が工夫を凝らして・・・吊るし雛を飾り、ショーウィンドーにお雛様を飾りました。
私達はそれを観ながら町を歩きます。
つい、ついお店に入って、求めたり、食べたりしてしまいます。
 
今年が実質初年度、実行委員会では吊るし雛で有名な「伊豆稲取」や「山形酒田」に学んで、
将来は日本三大吊るし雛の一つにしたい・・・・、目標は壮大です。(福岡柳川も有名ですが・・・)
私達も身近に「吊るし雛」の名所が出来るのは・・・・、それは嬉しい事です。
 
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                             経師屋さんの吊るし雛は商品の「襖」と「掛け軸」です。
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鎌倉の商店街と言えば小町通商店街です。
同商店街が吊るし雛を始めたら・・・・、北鎌倉では太刀打ち出来ないでしょう。
北鎌倉の吊るし雛を一層盛り上げるには・・・・、お寺さんを取り込む事ではないでしょうか?
伊豆修善寺では、修善寺の庫裏全体を使って吊るし雛を飾っています。
庭先の梅の香を嗅ぎながら・・・・、吊るし雛を観て回る・・・・、素敵です。
 
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    古民家ミュージアムの吊るし雛飾り。2003年鎌倉雪ノ下の町屋で遺跡を発掘した折り、鎌倉時代    お雛様が発掘されました。多分日本最古の雛人形でしょう。
    最初は古陶器を展示していた私立博物館でしたが、お人形が全国から集まるようになったそうで     す。その結果新旧様々な雛人形が展示されるようになりました。
    また、お稽古事が熱心な鎌倉ですから・・・・、そうした新作・創作物の作品が展示されています。
 
 
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大坂の松と庚申塔

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今年の正月も「箱根駅伝」で盛り上がりました。
私の住む戸塚は「花の二区の中継所」があります。
戸塚は知らない人が多くても「駅伝の戸塚」は知れ渡っている事でしょう。
戸塚には大踏切という難所がありました。
この踏切で運が悪い選手(チーム)は電車の通過待ちを強いられました。
もう一つ、「大坂」がありました。
美しい松が街路樹に植えられた・・・・、権太坂に匹敵する見せ場でありました。
 
吉田首相(大磯在住)が大踏切に怒って、バイパスを作らせました。
今、駅伝はそのバイパス(通称ワンマン道路)を走っています。
その大踏切も現在アンダーパス工事の最中です。
工事が竣工したら・・・・、箱根駅伝のコースを昔に戻してほしい・・・・、
戸塚では呼びかけようとしています。
再開発された駅前広場を中継所にして、大坂を越えて行くコースにしたら・・・・、
見せ場が増える・・・、そんな主張です。
 
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   現在の戸塚大坂、バイパスは渋滞ですが、こっちは静かです。昔はコッチが渋滞でした。
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                               今日の話題庚申塔の前から戸塚見付を見る。
 
大坂は美しい松並木でした。
鎌倉にお住まいだった鏑木清方さんが誉められたので「清方の松」と呼ばれた松もあったそうです。
今では総てが枯れてしまい・・・、チョロチョロと細い松が植えられています。
「お軽寛平道行の碑(仮名手本中心蔵)」にも松が植えられていますが・・・・、息絶え絶えです。
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                   お軽寛平道行の碑、右のフェンスの脇が国道1号線になります。
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           大坂には松は残っていませんが、原宿まで行けば少しは残っています。
 
 
松枯れしてしまった第一の理由は排気ガスでしょう。
大坂を越える為に車はふかします。
排気ガス濃度が一気に濃くなります。
松は呼吸が苦しくなってしまいます。(落葉樹は葉が生え変わりますが、松は生え変わりません)
弱った松に松くい虫と呼ばれるカミキリムシが巣食います。
カミキリムシは松材線虫(外来昆虫/まつのがいせんちゅう)を伝播させました。
松材線虫は松の仮道管(静脈のようなもの)を埋めてしまいます。
その結果、排気ガスで弱っていた松は一気に立ち枯れしてしまいました。
 
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                      戸塚大坂の庚申塔群 どれもこれも排気ガスの煤で真っ黒です。
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                                            元禄6年(1694年)庚申塔
大坂の松の根元に祀られていた庚申塔は・・・・、排気ガスで真っ黒になりましたが・・・、
今も立っておいでです。
排気ガスのお蔭で・・・・、迫力が増している様にもお見受けします。
8基も並んでいますから・・・・、迫力もあります。
特に元禄時代の2基は絵解きのような面白さもあります。
今では、排気ガス問題は左程では無くなったようです。
松並木が立ち枯れするようなことも無い水準でしょうが・・・・、失われた松並木はもう戻りません。
 
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         元禄4年(1692年)庚申塔。戸塚宿の庚申塔にはショケラ(左手に吊るす女性像)があるもの          は少なく、この像のように綱を持っている方が多いようです。綱は人を捕縛する意味でしょう         か?総じて、怖い場面ですが左右の鶏が可愛らしく刻まれています。鶏は怖い夜が明ける         のを告げる存在です。
 
 
庚申塔だけは・・・・・・、戸塚宿を守る「賽の神」のような姿で、昔からの場所に立っておいでです。
誰かが、お賽銭を置いて行きました。
昔なら・・・・・・、小銭でも誰かが持ち去ったでしょうが・・・・、
今は・・・、持ち去る人も居ないようです。
庚申塔は・・・・、小さな悪事も見過ごさない恐ろしい夜叉のような神様です。
賽銭泥棒も見逃さないでしょうが・・・・、心底怒ったとも思えません。
 
でも、松並木の美しかった半世紀も昔が良かった・・・、お思いでしょう。
そして、箱根駅伝が目の前を通って・・・、青年を応援したい・・・、
お思いのように憶測いたします。
戸塚の住人は大阪を上り下りする「箱根駅伝」に期待しています。
 
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  青面金剛足下に蹲る邪鬼の姿。黒いのは排気ガス、白いのは水鳥(鵜や鷺)の糞だと思われます。
 
 
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癌封じ寺の”雪起こしの花”

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私は4人兄弟の末っ子として育ちました。
癌が出来る家系ではないと思っていたのですが、長兄と私が癌を発症してしまいました。
私と長兄に共通するのが受容的な性格です。
他の二人が兄弟が自己主張が強いのに比べ・・・・・、我慢する性格でした。
長兄も私も仕事のストレスが溜まって数年後に発症しました。
 
「ストレスと癌」には相当の相関関係があると・・・・、私は思っています。
ストレスが避けられないのが現代です。
ストレスを自分の心に溜め込まないで・・・・、適当に発散する、自らを癒す手法を開発する・・・・・、
ストレスの原因を憎むよりもっと強い愛情の注ぐ対象や方法を見つける・・・・、
そんな事が大切なように思います。
 
私が最初に腎臓癌を発症したのは、勤務先の長銀が破綻した8か月前でした。(平成10年)
手術を終え、パイプが外されると私は病院から車で通勤していました。
その時の快気祝いが下の写真の4猿でした。
肥後の民芸店で特製していただきました。
庚申塔の3猿にもう一匹猿が加わって・・・・、股間を抑えているお猿さんが居て・・・・、都合4猿です。
4猿の意匠は「見聞き、喋り、そしてあそこと・・・・、自制した生活を送ります」といったものでしょう。
私は、快気祝いにメッセージを書き込みました。
『私はこれから・・・、無理に自分自身を抑制する訳でも無く、
身を自然に委ねて生きて行くことを目標にします・・・・』
ストレスを溜めこまない生き方を自分なりにしよう・・・・・、思いました。
以来二か月ごとに通院検査しましたが・・・・、癌は発症しませんでした。
 
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筆者が最初の腎臓がんの快気祝いに配った「4猿」(熊本にある「木の葉本舗」作成)
 
その15年後、昨年の4月に喀血して胃癌が発覚しました。
思い返せば、独立して最初の商品「ICカード錠前」装置に大量の不良が発覚して・・・、
その跡始末に悪戦苦闘していました。
商品のアイディアは私のものでしたが、実施設計はNSKが行い、
製品化は同社が紹介した東南アジアの会社が行いました。
既に1万台の商品が市場に出ていて・・・・、クレームが殺到していましたが、
NSKは横を向き、製造会社は設計が悪く、製造責任は無い・・・、一点張りでした。
そんなストレスの3年後に胃癌が大量喀血という形で発症した・・・、思います。
 
”身を自然に委ねて生きて行こう” 
決意したのでしたが・・・・・、生活はそんな悠長なことは許してくれませんでした。
 
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              鎌倉大町辻の上行寺は癌封じの寺として湘南では有名です。
              http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/22458526.htmlに書きました。
 
前置きが長くなりすぎました。
そんな癌ですから・・・・、何処に行っても「癌封じの寺」があります。
もともと、薬師寺をはじめ・・・、お寺は病気を封じる為に建立されましたから・・・、
その時代時代最も重い病を封じるお寺が多くなります。
江戸時代なら疱瘡、現代なら癌ということになるでしょう。
 
鎌倉では上行寺(鎌倉市大町)が有名です。
元々は妙法寺の法華堂を大町辻に移して、病気封じの寺としたものでしょう。
それが、「癌が一番怖い死に至る病だ」思われるようになって・・・・、癌封じの寺としてPRしたのでしょう。
 
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   慈眼寺境内にある「癌封じの霊木」 8本の複合樹でその下闇にはクリスマスローズが花をつけます。
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            癌封じの祠があります。木の根っこ辺りの瘤がまるで癌のように見えます。
            白いのが樫の木、右の鰐肌がタブの木、中央がスダジイです。
 
大船フラワーセンターの前を藤沢遊行寺に抜ける道に面して、慈眼寺があります。
道路拡幅でセットバックしましたが・・・・、伽藍が整備された大寺です。
我が実家とは同じ曹洞宗の寺です。
お寺の裏山が区画整備事業によって住宅地に変わりました。
その裏山に・・・・・、自生していた”複合樹”がありました。
何かの大樹が倒れて腐って・・・、其処に幾つもの種が芽吹いたのでしょう。
モチノキ4株、タブノキ3株、スダジイ1株が生存競争に生き残りました。
8本もの命がお互いに競って、戦いながら、時には扶助しながら、巻きつくようにして成長を続けました。
一本の木から見れば、お隣の木は邪魔な存在・・・・・、
気を抜けば自分が殺されてしまいます・・・、
でも、痩せ細った状態では弱い者同士タッグを組んで・・・・、上に上に伸びていったものでしょう。
自分自身から見れば隣の木は癌のような困った存在です。
でも、こうなった以上運命共同体です。
癌と共存共栄していく他ありません。
 
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慈眼寺の奥様は裏山の複合樹を境内に移して「癌封じの霊木」として案内しました。
根元の株には癌のような大きな瘤が幾つも出来ていました。
その瘤の上に「癌封じ」の祠を建てました。
そして、癌の霊木の下闇にクリスマスローズを植えました。
クリスマスローズはクリスマスの頃に咲き出す花の意味でしょう。
花自体には薔薇に似てはいませんが・・・、花の代表は薔薇でしょうから。
 
クリスマスローズの名は花屋さんが付けた名でしょう。
和名は「雪起こし」だそうです。
積もった雪を撥ね退けて花を咲かせる・・・・「雪割草」のような名前です。
慈眼寺の奥様は「雪起こし」が癌に負けずに生きようとする人に勇気を与えてくれる・・・、
そう期待して雪起こしを植えたと思います。
 
1月中旬に積もった雪は中々溶け切りません。
2月に入っても日陰にはまだ残っています。
でも、2月に入って雪起こしは咲き出しました。
これから・・・・、4月末までドンドン咲き続ける事でしょう。
 
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                  「かまくら」の中で遊ぶ子供。(撮影1月末、金沢文庫前の空き地)
 
癌封じの寺に参詣した病人は癌の霊木に手をあわせて・・・、
その根元で可憐な花を咲かせる雪起こしに気付きます。
最初は癒されて・・・・、暫くすると・・・・、癌に負けないぞ・・・、勇気と与えられます。
 
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