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芦名海岸の「雛流し」

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昨年の3月3日も横須賀淡島神社の「流し雛祭り」を見物しました。
それが、良かったもので・・・、今年も昨日出かけました。
今年は、お天気が悪かったにも拘らず、大変な人出でした。
全国各地で「流し雛」が催されて・・・・、報道されているものですから、
首都圏にも横須賀にある・・・、というので人出になっているのでしょう。
マイカーで来ても、駐車場が無いので・・・・、もう限界のような状況です。
 
寿永元年(1182)源頼朝は妻政子の安産を祈願します。
祈願した先は、伊豆山権現、箱根権現、そして芦名の12所(社)神社でした。
12所神社には弘法大師作の「帯解地蔵尊」が祀られていましたし、
地続きの淡島神社も安産の霊験があらたかであると信じられていました。
淡島神社は和歌山海草郡加太にある神社で、何時の時か三浦のこの地に勧請してあったものでした。
少彦名命(すくなひこなのみこと)や神功皇后を祀る、女性の味方ともいえる神社です。
 
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                                                     芦名の12所神社
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   12所神社の西側に帯解地蔵尊が祀られています。淡島神社の法被を着た氏子さんが祈願を受け付けていまし   た。子宝が欲しい、安産であった欲しい・・・、お祈りから少し広がって、子供が元気で育ってほしい…願掛けも    受けていました。
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                                                       此方が竜宮社です。
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    淡島神社。筆者は淡島神社を中核にして、残りの三社が併せ祀られるようにして発展した・・・、と推測しまし     た。と、言うのは子宝が欲しい・・・、願から安産であった欲しい、子供が元気に育ってほしい・・・、一連の願い    事だからです。人々の願いに寄り添うようにして神社が呼び寄せられたのでしょう。
 
淡島神社は芦名の漁港を見下ろす高台の中腹にあります。
東に側には竜宮社が祀られ、更に30m程東に行けば、帯解地蔵尊が祀られています。
帯解地蔵尊のお隣が12所神社です。
神主さんも、巫女さんも、氏子さんも4社共通しているようであり、
何れにも安産を祈願する「底抜けの柄杓」が願掛けグッズとして用意されています。
葉山から遣ってくれば「森戸神社」の子産(安)石、子産(安)海岸の「子安地蔵尊」「子産石」・・・、
そして芦名の帯解地蔵尊や淡島神社・・・・、何れも元気な良いこの子宝と、安産を祈願しています。
 
何で? 三浦半島西海岸は安産祈願社が多いのか?
少し気になります。
此処は自然も紀伊半島に似ていますし、歴史的にも熊野信仰が色濃いのです。
楠等の照葉樹林が広がっていますから・・・「葉山」であり、それは熊野の景色に酷似しています。
 
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   安産の前は・・・・、先ず子宝を授かりたい・・・・、神前には二体の陽石と一体の子産石が祀られます。
   そのそばには底抜けの柄杓も奉じられています。
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                                  素敵な絵馬(淡島神社)は昭和53年(1977)奉納されました。
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                   此方の(帯解地蔵尊)の絵馬も昭和53年に奉納されました。
 
帯解地蔵尊と言えば、大和の帯解寺が有名です。
美智子妃殿下もご出産に際し、此処の腹帯を用いられました。
大きな、丸い頭が乳児を思わせるお地蔵様がご本尊です。
芦名の帯解地蔵尊は・・・・弘法大師の作と伝えられているし・・・、
秘仏としてお厨子の中に納まっていられるとばかり思っていました。
 
ところがこのお祭り日はお厨子の中から・・・、人目に出されておいででした。
氏子さんに・・・写真を写しても良いですか?
伺うと・・・、好きなようにしろ…、という事でした。
氏子さんのお話では「ゴマの実を弘法大師が彫った」のだそうです。
ゴマが胡麻であれば・・・、実に大きな胡麻ですが・・・・、違ったゴマかも知れません。
御祈祷に使われた護摩の木かも知れません。
カメラで写した写真を見れば、霊験あらたかなお姿です。
人間の命も子宮の中では小さな身体で始まります。
 
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           ”女の身を わけて情を かけ帯の むすぶちかひは さんのひもとく” と書かれていました。
                     何時もはお厨子の中でしょうが、この日は下の段に帯解地蔵尊が出されています。
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                                       背丈10㎝足らずの帯解地蔵尊様
 
800年も前、源頼朝が安産を祈願した神社です。
その後も様々に変遷してきたのでしょう。
1989年、神社は大きな工夫をしました。
「芦名の浜辺で流し雛」を始めたのでした。
子供を産むには“厄除け”が大事です。
厄除けには「伝統の底抜け柄杓」がありました。
産まれた子供が元気に育つには・・・、矢張り病気にならないように、苛められないように・・・・、何でも食べるように・・・、算数や体育が上手でありますように・・・、様々な厄除けが必要になります。
厄除けには・・・・、厄を人形(ひとがた)に移して、川や海に流してしまおう・・・、
千曲川には半纏を着た子供が藁船にお雛様を乗せて・・・・、厄を流します。
そんな伝統行事が全国各地に残されています。
では・・・・・・、芦名の砂浜から・・・・、雛流しをしようじゃないか!
考え付いたのでしょう。
 
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   竜宮社から芦名の砂浜を眺める。砂浜に注連縄が張られ、ここで神事が執り行われます。
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      砂浜から淡島神社を望む。高台の中腹にあるのが社殿です。その右側の森の中に12所神社があります。
 
 
毎年、雛流しがマスコミや口コミに載って・・・・、今年は大賑わいです。
 
3月3日午後3時30分、3通しの時間に”流し雛”が始まります。
砂浜で神事が執り行われると船に乗せられたお雛様を漁船が曳航します。
お雛様は信者から「雛供養」として預かったものです。
小さな芦名の湾内を三周します。
お巫女さんは信者から預かった紙人形(雛形)を海に流します。
 
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海に流す紙人形
 
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伝統の上に、新しい工夫を乗せて・・・・、素敵な雛祭りに発展しました。
素晴らしい・・・感服します。
 
 
【追記】昨年の淡島神社の雛流しは次に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44799174.html
 
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作家「高木彬光」氏と鎌倉

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桜の季節が近づいてきました。
今年の計画はもう決まっている積りですが、新聞広告も気になります。
JTBの「桜ミステリーツアー」が出ていました。
朝、羽田空港に集まって下さい。
行き先はミステリーです。
到着空港は国内の”とある空港”で、宿も“JTB 指定の人気のとあるホテル”です。
桜はお任せください、満喫できること間違いありません!
そんな企画です。
2泊3日で3万円とは、良く出来るものだ感服します。
 
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                                              JTBの桜ミステリーツアーの広告
 
全国の桜を見続けたファンには受ける企画でしょう。
こんな企画・・・・、何処かで見た記憶があります。
ミステリー作家で、歴史ものも得意な「高木彬光氏」が“邪馬台国ミステリーツアー”を実施されました。
羽田空港に集まった歴史・推理ファンに、行き先は知らせられていません。
大坂空港(奈良・箸墓)か、佐賀空港(筑紫地方他)か・・・・、想像していると・・・・、
北九州空港に到着・・・・、そしてバスに乗って宇佐地方に向かいます。
車内では、高木彬光氏がマイクを持って推論を陳述されたのでしょう。(邪馬台国の秘密/1973年)
 
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                                      高木彬光氏(ウィキペディアから転載)
 
 『想い出大事箱 父・高木彬光と高木家の物語/2008年』がある高木晶子さんからメールを受け取りました。
「今、 鎌倉文学館で展示されていますから・・・・」
晶子さんとは、大学時代日本文化研究会で一緒しました。
でも、その頃彼女は滅多に顔も出されませんでしたし、マルチに好奇心の強くて、忙しくされていました。
そんな、彼女が4年ほど前から、日本文化研究会の旅行会に顔を出すようになりました。
「越後路木喰ツアー」「出羽三山・即身仏ツアー」「豊後路石仏ツアー」・・・、何れもツアーを主導して下さいました。
即身仏を拝観したときには「父にはミイラ志願」という小品もあります」、教えられました。
読んでみました・・・、
面白い・・・・、同じミイラ(事実)を見ても・・・・、こんなに推論を発展させるのだ・・・・、
文学よりも、推理は科学に近い・・・・、と言っても科学に重きを置けば面白くも無くなってしまいます。
文学と科学の間・・・、推理の面白さを知りました。
 
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                                             鎌倉文学館の展示「ミステリー作家展」
 
高木氏の代表作の一つには「成吉思汗の秘密/1953年」があります。
義経ファンには「義経は大陸に渡り・・・・、成吉思汗になった・・・」話に胸躍ります。
勿論、「そんな荒唐無稽な!」非難する歴史派も数多くあります。
高岸は科学者の眼で・・・・両論を併記しながら・・・・、面白く読ませてゆきます。
確かに戦い上手の義経があっけなく討ち取られたのも不思議ですし、
討ち取られた義経の首が4か月もして首確かめされたのも…不可解です。
”日本史て、こんなに面白かったのか!” 教えてくれる著作でした。
 
高木氏は1975年(昭和50年)から3年間、鎌倉の腰越に住まい、仕事部屋として使われたようです。
腰越は義経が「腰越状」をしたため兄頼朝の怒りを解くべく切々と心情を述べた所でした。
満福寺があって、魚屋や蕎麦屋が、イタリアンもあります。庶民的な良い街です。
屹度、出世作「成吉思汗の秘密」を書くため、取材に留まった事でしょう。
晩年、そんな思い出の地に書斎を用意したのでしょう。
 
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                                         鎌倉文学館、手前は薔薇園です。
 
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                              鎌倉文学館、椎の木の樹下に造られたクリスマスロース園
 
鎌倉文学館には高木氏の原稿が展示されていました。
筆圧の高い・・・、男らしい・・・、活字のようなしっかりした字でした。
字はブラックのインキで、漢字のルビはブルーのインキで書かれています。
几帳面で・・・、しっかりして性格だったのでしょう。
 
鎌倉文学館のある場所は、長谷ではあっても、大仏や長谷観音からは少し離れています。
閑静な住宅地の奥です。
でも、文学好きが多くいて・・・、沢山の人が見学していました。
 
春になれば薔薇園に花が咲きます。
花好きが集まる事でしょう。
薔薇の木は丸坊主にされて骨格しか残されていません。
でも花芽が用意され、赤く尖っていました。
そして・・・・、椎の大木の樹下には・・・・、クリスマスローズが植えられて・・・・、
花をつけていました。
こんなに大きなクリスマスローズの歌壇は初めて観ます。
矢張り、この花は西洋風の庭にも、和風のお庭に良く似合います。
鎌倉文学館にすれば・・・・、薔薇の咲く春秋だけでなく・・・、冬にも来てくださいな!
期待を込めて栽培されているのでしょう。
こんあ反日蔭で、少し渇き気味の環境が好きなようです。
 
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慶応大学の後輩には壇ふみ氏(父:壇一夫氏) 阿川佐和子氏(父:阿川弘之氏)が居られます。
主としてタレントとして活躍されていますし・・・、彩色あわせもって居られてます。
高木晶子氏は子育ても終えられ・・・・今、自由な時間をお持ちです。
マルチな好奇心、深い洞察力、多角的なものの見方、鋭い感性を併せ持っていられ・・・、
眩しいばかりの才能で居られます。
作家デビューも・・・・、待ち遠しい気がしますが・・・、私は正面から訊いた事はありません。
少し、シャイなところがあるのは…、
クリスマスローズ似なのかもしれません。
 
鎌倉文学館の庭隅に植えられた河津桜が咲き始めています。
もう、三浦海岸の河津桜も咲き出したことでしょう。
来週頃に桜見物に出かける事にしましょう。
高木晶子さん始め日本文化研究会の仲間とは4月に慈雲寺の枝垂れ桜を見に行きます。
今から楽しみです。
 
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                                     もう咲き出した鎌倉文学館の河津さくら(3月1日撮影)
 
 
 
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海ほたるの夕焼けとスバル

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千葉の茂原に所用があって、出かけました。
その帰路、アクアラインを通ると、丁度夕焼けになってきました。
そこで、海ほたるで夕焼けを見ながら一服することにしました。
陽が傾くと急に寒くなりましたから・・・・、喫茶店の室内でぬくぬくしながら夕焼けを眺めます。
 
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       陽が傾くと富士山がシルエットになって現れました。富士山の左(南)に沈んでゆきます。
       横浜では春分の日の頃に富士山の山頂に沈みます。屹度海ほたるでもその頃に「ダイヤモンド富士」が       見られることでしょう。
 
見る見る陽が沈んでゆきます。
次第に緋色が濃くなります。
すると、霞んで見えなかった富士山がシルエットになって浮かび上がってきました。
富士山の左肩、南側に陽が沈むのです。
その右、北側には横浜みなとみらいのビル群がひかえています。
上空には羽田空港に離着陸する飛行機が、見渡せます。
海には、タンカーをはじめ沢山の貨物船が停泊しています。
何時もは海ほたるを慌ただしく通過してしまうのですが・・・・、ゆっくり景色を眺めるのは初めてです。
良いもんだ・・・・、この道路が出来たから観られる・・・・・、絶景だな・・・、感心します。
ピーナッツを使ったソフトクリームを食べ終えて、屋上のデッキに立ちました。
東京の方角を見れば、もう黄昏てしまって、ネオンも点きはじめたようです。
レインボーブリッジの東側に、スカイツリーがポツンと立っています。
 
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足元に・・・・ピッカピカの円盤が見えます。
ソウ、アクアラインの川崎側はトンネルで、その時に採用されたシールドの刃(フェイスカッター)の部分なのです。
今では、トンネルと言えば、地下鉄も共同溝も大半の穴掘りはシールド工法で掘られています。
でも、当時ドロドロの東京湾の海底にトンネルを通すには・・・、
当初ケーソン工法(コンクリート製の箱を作って海底に沈める方法、東京湾トンネルがこの工法)で計画していました。
それを、シールド工法にすることによって、コストや工期を短縮し、船舶の運航の妨げないで済んだのでした。
(シールド工法:茶筒の先端に超硬質鋼の刃を付けて、トンネルを掘ると同時にトンネルの壁を作る工法)
 
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    手前右がシールドのカッターフェイス。
    アクアラインをシールド工法で造った技師達の誇りが・・・・・・、眩しく輝いています。
 
私は昭和50年代、長銀に居て日本道路公団も担当していました。
茅場町の高速道路の下に東京湾横断道路株式会社がありました。
建設主体は同社でありましたが、実質は道路公団事業でありました。
アクアラインンが採算が取れるか・・・? 
疑問はあっても、道路網として、東京湾岸のインフラ整備の一環として・・・、
事業に疑問を投げかける人は少なかったとおもいます。
 
普通車一台の通行料が5000円でした。
私は横浜に住んでいながら・・・・・、千葉にゴルフで出かける事が再三でした。
朝、横須賀線に乗れば内房線に直結して五井駅につきます。
五井駅前にはクラブバスが出迎えてくれました。
5000円(乗用車4人乗りなら1250円)はJR利用に勝る価格設定だと思いました。
 
平成元年(1982)工事着工されました。
平成9年(1997)竣工しました。
この間、バブルははじけてしまいました。
アクアラインの利用者は当初の目論見を大幅に下回ってしまいました。
東京湾横断道路株式会社はアクアラインを道路公団に譲渡し、
道路の整備や海ほたるの運営をする会社になりました。
 
アクアラインの赤字は道路公団の大きな懐に入って、もう誰も指摘する人は居なくなりました。
森田健作知事が活発に働きかけ、今は800円(ETC料金)で利用できます。
当初計画の5000円とは比べようのない価格です。
お蔭で・・・、私も恩恵にあずかり、感謝してます。
 
眼の下のシールドの刃は見事に輝いています。
超超硬質鋼と言っても、主成分は鉄ですから・・・、放置しておけば錆びる事でしょう。
まして、此処は海上です。
ピカピカに光っているのは樹脂で覆ったか、磨いているのでしょう。
 
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                          海ほたるの屋上の風景
 
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                                屋上から真下を見ると・・・・、シールドの刃が置かれていました。
 
アクアラインを作った技師のプライドが・・・・、今もシールドの刃をピッカピカに光らせているのでしょう。
アクアラインの挑戦が「黒部の太陽」のように話題になった事はありませんでしたが・・・・、
あの頃は日本中にチャレンジがありました。
 
高松塚古墳にも昴(スバル/星団)が描かれています。
清少納言も“星はスバルが第一よ”言われました。
勿論、谷村新司も、中島美由紀も“風の中のスバル、砂の中の銀河”とうたいました。
東京湾横断道路株式会社の技師達も・・・・、スバル星団の一粒でありましょう。
 
未だ冬空ですから・・・、もうしばらくすればスバルが見上げられることでしょう。
 
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      東京方面はもう夜のしじまに沈んでいるようです。
      もうしばらくすればスカイツリーもライトアップされるでしょう。
 
 
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「眼科記念館」に見る明治人の心意気(千葉茂原にて)

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明治時代の息吹を知りたければ洋館を訪れるのが良い。
洋館には西洋の列強と互角に渡り合おうとする明治人の心意気が如実に表れています。
同時に、日本の伝統建築手法も大事にされています。
ルックスは洋にして、住まうハートは和であって・・・・、和様混交した不思議な空間があります。
150年も前の・・・・、背伸びしている祖先の姿が洋館には眩しく輝いています。
 
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       今日の話題は茂原の「千葉眼科記念病院」建物です。
       建物の右手、裏山は姫春蝉の自生する「ひめはるの山」になります。
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                             千葉眼科病院の前の田圃、もう田起こしが進んでいました。
 
明治維新を迎えて・・・・、人々は競って洋館を建設しました。
数ある洋館でも・・・、コロニアル建築と呼ばれる木造建築が主流になります。
「コロニアル」とは植民地の意味で、欧米人がアジアモンスーンの気候に適した建築を開発したものでした。
外壁を板張りにして、大きな窓を設けて・・・・、広いベランダを設置して、そこでゆっくり椅子に座って読書を楽しむ・・・・・・、そんなライフスタイルの建物でした。
 
横浜の山手にもこうしたコロニアル建築が残され・・・重文に指定されています。
鎌倉にも明治から昭和初年にかけてコロニアル建築が数多くあって、目を惹きます。
横浜や鎌倉にはそんな時代を突っ走った人が多く住んでいたから・・・、自然な事でしょう。
でも、驚くのは弘前や酒田、松本や佐久・・・・・、地方に数多く残っている事です。
日本全国が西洋に憧れていた現れでありましょう。
 
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   鎌倉長谷にある加賀谷家住宅、白い板壁、大きな窓がコロニアル建築の特長で、明治人のハートを鷲掴みしま   した。
 
千葉の茂原にもコロニアル建築が残っている・・・、聞いて出かけました。
在ったのは・・・・、茂原市の郊外田圃の中の街道に面していました。
場所は姫春蝉の自生する「ひめはるのさと」の南側にありました。
 
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     千葉家の豪邸、正面長屋門、棟が一直線で歪みひとつないのが驚きです。庭木も良く手入れされています。
      裏山には姫春蝉が自生しているそうです。
 
明治23年千葉天夢は帝国大学医科を卒業します。
24年には故郷の上永吉村に医院を建設します。
中山栄吉、中山国三郎兄弟に駿河台の井上眼科を見に行かせます。
井上眼科は帝国大学の眼科を創設した井上達也氏の病院でした。
井上眼科病院をモデルにして、延床26坪、白い板壁が印象的な2階建てコロニアル建築が出来ました。
 
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               洋の外観が目立ちますが、蟇股や組み物、玄関の装飾等に和の伝統が使われています。
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        大きな窓、広いベランダ、白い板壁・・・、この三つがコロニアル建築の特長で、明治人が憧れました。
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      千葉眼科記念館の周囲には樹木が生い茂っています。手前の大木は桐の木で、沢山花が咲くようです。
 
千葉家は大変な富豪でもあったのでしょう。
長さが50mもあろうかという程立派な長屋門が屋敷を囲っています。
長屋門の柱には「漢方研究所」の看板がかかっています。
地域の富豪であって・・・、同時に漢方の医師だったのでしょう。
そして、倅を帝国大学医科を卒業させ、眼科医も併設した・・・・。
母屋は大変な建物ですし、土蔵も立派です。
屋敷の裏山の中腹には赤い鳥居のお稲荷様が祀られています。
 
コロニアル建築の屋根は伝統的な灰色の和瓦です。
でも、樋はありません。
建物の周囲には桐をはじめ樹木が茂っているので・・・・、樹木を伐採せずに建てる工夫だったのでしょう。
そこで、樋が無い代わりに、雨水は直接地面に吸い込ませる様にしてあります。
勿論、大きなガラス窓が家の三方から陽射しを室内に取り込んでいます。
ひろいベランダもあります。
薄板で囲った板壁も真っ白で・・・・、まるで白衣の看護婦さんを思わせます。
 
今はこの建物は使用していなく・・・・、ガラス戸にお凸を押し当てて中を覘くと・・・、
沢山の漢方資料等が置かれています。
そして、この西隣には新しい「永吉眼科医院」の白亜の建物があります。
井上達也医師は日本で初めて白内障の手術をした人・・・、と聞きますから、
永吉眼科医院も田舎にあっても・・・、高い技術で患者を集めているのでしょう。
 
茂原市の文化財資料によると、昭和17年に一部手直しされたが、
昭和59年に復元工事が行われ、現在は明治24年の開業当初の状態になっている・・・、案内されています。
感心するのは、建物に全く歪みが無く・・・・、白いペンキも綺麗に塗られれて・・・、剥落ひとつない事です。
大事にされている事が良く解ります。
蟇股等・・・・、寺院建築に特徴的な細工があっちこっちにあって・・・、お洒落と言うか、アクセントと言うか、
魅力になっています。
 
行く途中には蓮田が続き、姫春蝉も啼きだすようです。
桐の大木に花が咲いたら・・・・、綺麗な事でしょう。
桐の花には鳳凰が飛んで来る・・・、と言い伝えられました。
そのころにまた出かける事にしましょう。
 
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                                千葉家の豪壮な母屋、裏山中腹に稲荷の社が見えます。
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                  左が千葉眼科記念病院建物、正面土蔵。
                  土蔵の前には状態の良いクラッシックカーが無造作に置かれていました。
 
 
 
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子供会館の「フクちゃん」凧

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鎌倉文学館は山を背にして建っています、
山裾を東に5分も歩けば古屋信子邸、西に5分も歩けば川端康成邸です。
閑静な住宅地で、海にも近いこの辺りも人気です。
鎌倉文学館と川端康成邸の中間に長谷子供会館が建っています。
この建物も明治時代の洋館、コロニアル建築です。
 
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長谷子供会館の玄関、広いベランダ、ギリシャ風の列柱が印象的です。水仙が終わると花韮が咲きます。
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                                                      長谷子供会館の二階の窓
 
 
この建物は明治41年、戸塚の資産家「福島浪蔵」が建て、大正10年に諸戸清六氏の所有になります。
昭和55年に鎌倉市に寄贈されました。
洋館と和様建物、広い庭があったようですが・・・・、鎌倉市は和様建築を取り壊し、庭を含めて児童公園にしました。そして、洋館は子供達が集い、遊べるように「子供会館」として使用するようにしました。
 
此処の管理人が、私と同じ御成小学校の卒業生です。(私より4年先輩)
ですから・・・・、「室内を見せて!」 おねだりすると、
「此処は子供会館だから・・・・、お孫さんを連れて来なさい。絵本もあるし・・・。」
言われて・・・、入れません。
 
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                          長谷子供会館の1階ホール。 本棚の本は絵本でしょうか?
 
私は言います。
「随分荒れていて・・・痛々しいですね、ペンキは何時塗ったのですか?」
「床下の通風口の金具も腐って・・・猫が棲んでいるんじゃないですか?」
すると、こう答えられました。
「最後にペンキを塗ったのは30年前です・・・」
「床下通風口を壊したのは台湾リスです。床下に入って・・・、寝たり子を産んだりしているようです。」
「台湾リスには閉口しています。先日市役所から捕獲器を借りて設置したところ、5匹も捕獲できました。
捕獲したら・・・・、市役所が取りに来てくれます。捕獲器は直に接収され、他の場所に設置されています」
 
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   台湾リスの出入口になっているという、床下通風口。もう金具は腐ってしまいました。
 
 
私は、廊下の天井に架かっている凧を見つけます。
凧は横山隆一さんの「フクちゃん」が描かれています。
様々質問しました。
管理人の答えは以下の通りです。
 
「この凧は、子供会館新設時からあります。屹度、開館の落慶祝いに寄贈されたのではないでしょうか?
ですから、凧も30歳になるわけです。
問題は誰が描いたか?・・・・・、という事です。
横山隆一さんのサインは無いのですが・・・・、
上手に描かれていますし・・・・、隆一さんは御成町にお住まいでしたから・・・・、
本人以外に描くことは憚れるでしょうに・・・。
結論としては横山隆一さんが描かれた・・・、確信しています。」
 
横山隆一さんは米軍がフクちゃんを無断使用したとして、著作権侵害を米国大使館に請求しました。
米国大使館は謝罪し・・・、要求通りに支払ったのでした。
そんな、横山さんですから・・・・、誰かが、無断で描いたとは思えません。
 
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                       長谷子供会館に懸けられた凧、フクちゃんを描いたのは誰でしょうか?
 
そんな、話を聞くと・・・・、横山隆一さん宅に行きたくなりました。
私が小学生だった頃、御成小学校のお隣に鎌倉ローンテニスクラブがありました。
学校が退ける頃、パトカーが通りました。
テニスがご趣味の皇太子殿下(現天皇陛下)が葉山の御用邸から、テニスをしにお出でになったのでした。
今思えば、葉山御用邸の邸内に一面コートを作ればよかったのに・・・、思いますが。
お相手は、加茂さん(元デ杯選手)だったりしました。
何時も、ニコニコと見物する私達に優しくしていただきました。
そのテニスコートの裏側に横山隆一さんの屋敷がありました。
 
横山隆一さんは2001年(平成13)この家で亡くなられました。
死因は脳梗塞と伺います。
 
 
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御成小学校講堂、もう20年も保存問題が懸案になっている疑似洋風建築です。
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   鎌倉市役所の真ん前にスターバックスがあります。
   此処がや小山隆一さんのお宅で、この家で亡くなられました。
 
鎌倉市役所が駅東から、駅西の現在地に移転しました。
その為に、御成中学校は佐助に移転しました。
鎌倉ローンテニスクラブは道路に接収され、テニスコートとしては役に立たなくなりました。
その跡地には紀伊国屋ストアーが出店しました。
横山さんのお宅の前に広い通りが出来ました。
 
屋敷跡には「スターバックスコーヒー」が出店しました。
今は日本中どこに行ってもスターバックスはありますが・・・、鎌倉進出は早い時期に行われました。
市役所に来庁者、観光客は思惑通りに集まったようです。
それ以上に多いのは鎌倉夫人と私のようなリタイヤした叔父さんでした。
 
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           朝9時から満席のスターバックス御成町店。タブレット端末を叩く鎌倉夫人が目立ちます。
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   スターバックスのテラス席。横山さんのお庭がそのまま使われています。古い藤棚、梅の木が盛りでした。
 
横山隆一さんの面影は、庭に残されたプールと、梅の木、
そして室内に懸けられた「フクちゃん」の原画だけのようです。
多くの喫茶店のように新聞も雑誌も・・・置かれていません。
せめて、横山隆一さんの本が置かれていないか・・・、探しても置いてありません。
 
殆どの人がコーヒーとサンドイッチを飲みながら・・・・、携帯やタブレット端末のキーを叩いています。
文庫本を持参して・・・読んでいる人もチラホラいます。
 
満開の梅の梢を見て・・・、春の到来を喜んでいます。
賑やかに、沢山の人が出入りして・・・・、横山隆一さんもお喜びでありましょう。
今年の11月8日が13回忌になります。
 
今日も、鎌倉市内には「フクちゃん号」という名のミニバスが走っています。
 
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   鎌倉柄柄天神社の筆塚は横山隆一さんが委員長になって作られました。
   正面、一番上に横山さんの河童が居ます。
 
 
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梅の花と水月観音像(東慶寺にて)

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此処2日間の暖かい事、驚きです。
我が家の花梅”想いのまま”は咲き出したと思ったら、もう満開です。
この遅咲き梅が散れば、もう今年の梅はもうお終いです。
待ち望んだ春は、意地悪な程駆け足です。
せっせ、せっせと花を追って行かないと・・・・、来年もまた、梅を楽しめる・・・・、保証はありません。
“貪欲に・・・・、楽しんでおこう”  私の気持ちです。
 
もうじき、黄昏時、巨福呂坂を托鉢僧の一団が足早に行きます。
円覚寺に戻られるのでしょう。
こんなに、暖かいと托鉢姿のお坊さんも・・・・、汗びっしょりではないでしょうか。
頭上には・・・、梅の花が香っています。
 
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          巨福呂坂を円覚寺に帰られる托鉢僧の一団、この季節鎌倉の街は梅の香が満ちています。
 
 
東慶寺の前に来ました。
境内を見上げると・・・・、梅の花が“おいで・おいで”をしています。
掲示板には水月観音のポスターが貼られています。
そう、松ヶ丘では毎年梅が咲く頃、「仏像展」をしているのです。
 
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                                                  東慶寺水月堂の水月観音像。
 
私が学生の頃でした。
大学では紛争続きで・・・・、度々突然の休講になってしまいました。
私は今日をどんなにして潰そうか・・・・、考えあぐねて、日本文化研究会の部室に寄ります。
同じようン差仲間が数多くいます。
面倒見の良いK君が言います、
“東慶寺にお願いしたら、水月観音様の拝観許可が取れたので・・・・、皆で行こうよ!”
女性には人気の水月観音です。
女性が“行く行く” 賛成すれば、
男子も“それなら・・・・、僕も行く” 一時に20人ものメンバーで鎌倉仏像ツアーが出発です。
 
当時の私は・・・・・、水月観音の良さが解りませんでした。
何処か・・・・、水面に映った我が身を見ている観音様・・・、
そのナルシスムというか、俗っぽさが気になっていました。
だから・・・・、あえて同行しませんでした。
 
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                     東慶寺23夜塔(宝暦5年)は梅の木の樹下で・・・・、一段と美しい姿です。
 
東慶寺の入口には23夜塔があります。
私の観た石仏の中では一番に美しい23夜塔です。
23夜は女性だけの集う「月待ち行事」です。
梅の花が咲くと・・・・、一段と美しく見えます。
天女のようなお姿で・・・、光背の模様も花柄のようです。
 
東慶寺は尼五山の第二位にありました。
加えて、徳川家康によって『縁切寺法』が是認された事から・・・・、
江戸時代を通して「女性が離婚」を主張できる場になりました。
東慶寺に駆け込めば・・・、離婚が有利に進められて・・・・、離婚を勝ち取れば再婚する事も可能になりました。
そんな訳で・・・・、鎌倉時代から封建時代を通して女性の想いを叶えてきたお寺です。
水月観音や23夜塔が良くお似合いなのです。
 
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          暖かので、ミニスカートが眩しいようです。阿弥陀様も美脚に視線があるようです(?)。
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                          東慶寺境内、正面四方流れの建物が本堂
 
円覚寺の行事は宋風が目立ちます。
靴も法衣も・・・・中国風です。
水月観音様は大岩の上で、岩に背をもたれてくつろいだ姿です。
大岩の下には・・・・渓流流れていて・・・、その水面には観音様の己が姿が水鏡に映っているのでしょう。
お月様が煌々と輝いています。
良く見る宋画の軸です。
水鏡に自らを映す・・・・、洋の東西で人間の真理を突いています。
 
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イソップ寓話では、こんな話がありました。
犬が大きな肉を咥えて橋を渡ります。
水鏡に美味そうな肉を咥えた犬がいました。
アッチの肉も欲しい・・・・、ワンと鳴きました。
すると・・・・、大事にしていた肉を失ってしまいました。
 
「釣月耕雲」とは、宋に渡って悟られた道元禅師の言葉です。
お茶室の軸に見る事があります。
“月を釣る心でお茶湯をすくい、雲を耕す心でお茶を点てました・・・、どうぞお召し上がりください・・・”
そんな風な意味でしょう。
仏道修行者にすれば・・・・、どんな意味であるのか・・・・、中々に難解です。
『月を釣る心で・・・、雲を耕す気持ちで・・・・、日々過ごせれば・・・・』、悟った事になるのでしょう。
水月観音様のお姿は・・・・、そんな禅の公案なのでしょう。
 
水月観音像を松ヶ丘文庫では次のように案内しておいでです。
この仏像は鎌倉時代の作で・・・開山北条時宗夫人「覚山尼」の遺品であろう。
京都の禅が保守的で宋風を嫌ったのに対し・・・、鎌倉の禅寺は宋風を積極的に受け入れた・・・、
その結果・・・・、水月観音様のような宋風の仏像が遺された・・・・と・・・・。
 
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                                枝垂れ梅、背景のぼやけているのが水月観音像のポスター。
 
水月観音とは東慶寺だけの呼び名です。
一般には白衣観音とか楊柳観音と呼ばれます。
でも、水月観音の名があるから・・・・、以下のような光景が瞼に浮かびます。
観音像の背後に聳えるのが補陀洛山、山の端には月が出ています。
岩座に横座りされた観音様の眼の前に渓流があって、
水鏡に己が姿が映っている・・・・と。
この仏像が、鎌倉時代であっても、南北朝時代であっても・・・・・・、
国の文化財に指定されていないのは不思議です。文化庁の役人は宋風が嫌いなのかしら?
 
 
昨年の3月5日日本文化研究会の同期10人と、東慶寺と訪れました。
勿論、K君も居ました。
M君も居ました。
ところが、今年2月M君は突然に亡くなられました。
亡くなったのは梅が咲き出した・・・杵築の旅館だったと聞きます。
水の荏原製作所の人事畑を勤めあげて・・・、定年を迎えたばかりでした。
 
鏡は水鏡だけではありません。
日々、身の回りには鏡が沢山あって・・・、己が姿はそこらじゅうに映っています。
自らの姿も気にしながら・・・・、残された季節を過ごそうと思います。
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三浦台地の河津桜

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“ 梅は咲いたか桜はまだかいな!” 江戸端唄の一節です。
日本人の、今頃の心情を良く言い当てています。
”柳なよなよ 風次第、山吹や浮気でいろばっかり しょんがいな・・・・・、”
と続きます。
綺麗な花を次々移ろいたい・・・・、それは浮気心で・・・、”男って本当にしょうがないな!
 
いい男が謡えば・・・・絵になる文句です。
 
そんな、梅を見たら、桜もすぐに見たいものだ・・・・、日本人の浮気心に応じて、
新種が開発されました。
それが、「河津桜」、「玉縄桜」そして「おか目桜」でしょう。
その中でも河津さくらは、染井吉野に似て、ピンクの色が濃く、花期も幾分長いので人気です。
その名の通り、伊豆の河津で発見され・・・・、今では各地に名所が出来ています。
神奈川県下でも、大井松田や京急三浦海岸が人気です。
 
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           今日の話題は三浦台地の河津桜です。 桜の下の段に京浜急行が走っています。
 
京浜急行は昭和41年、久里浜線を津久井浜から三崎口にまで延伸させました。
兄貴格の東急電鉄の田園都市線の開発を参考に、三浦半島の先端で実施したのでした。
新線を開発して、その開発投資を不動産の開発利益で回収する・・・、そんな事業手法でした。
三浦台地は一面の大根畑であり、スイカ畑でありました。
その真ん中に電車を走らせ・・・・・・、駅周辺には瀟洒な一戸建てやマンションを建てました。
スペイン瓦に白い壁・・・、南仏のような可愛い住宅街にしました。
そして、鉄道沿線の街路樹には・・・・・・、河津桜を植えたのでした。
 
そんな河津桜も半世紀近く経って・・・・・、綺麗さが盛りになってきました。
桜の中を・・・、赤い京急電車が走って行きます。
 
昔、京急に訊いたことがありました。
「貴社の車両は何故赤いのですか?」
「当社の電車は町中を走ります。事故が起きないように・・・目立つ色にしたのですよ・・・・。」
言われれば、確かに京急の踏切には慰霊碑が数多く見られます。
「青い海にスイカ畑・・・・・、三浦の台地には赤い電車が似合うからですよ!」
答えても、良かったのでしょうが・・・・、鉄道事業者にとっては事故撲滅が先ず大切なのでしょう。
私の知る限りでは旧国鉄では、桜木町、生麦、戸塚(秋葉踏切)など大参事がありましたが、
京急には大事故は記憶にありません。
昨年も土砂崩れで線路が埋もれましたが・・・、事故は未然に防止されました。
 
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                          手前が三崎口駅、奥が三浦海岸駅、その間に桜が咲きます。
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  奥が三崎口駅になります。台地の上は随分家が増えました。既に複線化できるように用地も準備されています。
 
河津桜は三浦海岸駅から、三崎口駅までの間・・・、続きます。
身近ですから・・・、沢山の人が今年最初の桜見物に集まります。
桜の樹下には菜の花が咲いています。
菜の花の強い香りが漂います。
菜の花の料理、あの苦さを食べたいな・・・・・、菜の花サラダが良いかな・・・、思いますが・・・・・、
今日は出店していないようです。(週末は様々な店が出ています)
 
緑、黄色、桃色、青い空・・・・、コントラストが鮮やかです。
畑は大根が終わって今はキャベツです。
ビニールハウスの中には・・・・、スイカが育っている事でしょう。
 
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      台地はキャベツが栽培されています。マンション群は三浦海岸駅の辺りです。河津桜の道が見えます。
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   小松ヶ丘池(溜池)があります。この周りの土手に腰掛けてお弁当を広げる人が多いのです。池に群れていた冬   鳥は桜を見ないで北に帰ったようです。池の縁では蟇蛙がガマ合戦をしています。
 
三浦の台地で、小さな畑を借りて耕しながら生活できれば・・・・、良いなあ・・・。
魚は美味いし、野菜は自家栽培で・・・、花も咲くし・・・、都心にも1時間余りで出る事が出来る。
想いながら・・・・、河津さくらの下を散歩します。
 
(写真は3月7日撮影しました。3月10日頃が満開になる事でしょう)
 
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府中郷土の森博物館の梅林

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都下府中市にある「郷土の森」に観梅に行こう、3月10日出かけました。
自宅(横浜)を8時前に出て、郷土の森には開園の9時前に着いてしまいました。
既に、20人ほどのお客さんが開園を待っています。
博物館の入場料は200円ですが、観梅だけなら・・・・、無料かもしれません。
大半の人が、観梅に入園料が必要なのか? 先ず疑問に思います。
実は「府中の森」の優れたコンセプトがこの疑問をひき起こしているのです。
 
 
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一般に「郷土博物館」と言えば、郷土の衣服、住居、食物、生活等を展示して・・・
”昔はこんな生活でした、郷土の先人はこんな工夫や努力をしました” 説明した施設が多いのです。
ところが、府中の郷土の森博物館は、少し違っています。
クヌギや楡の森がキャンバスで、その自然の中に家を置き、田圃や水車小屋を配置しています。
入園者には自然の中で生活体験をさせ、郷土の芸能を演じさせ・・・・、生活体験をさせる・・・、
そんな”生きた博物館”なのです。
だから、博物館らしく展示館もありますが・・・、
武蔵野の雑木林を散策する中で・・・・、見学する、体験する・・・・それがメインの博物館です。
 
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                      クヌギの雑木林の向こうに広がる梅園 樹下には躑躅が植えられていました。
 
京王線は「分倍原駅」です。
でも、住居表示は「分梅」となっています。
1333年新田義貞は鎌倉に攻め上がります。
迎え撃ったのは北条泰家率いる幕府軍でした。
北条一族に反感を高めていた北関東の武士団は競って新田義貞軍に合流します。
有名な分倍川原の戦いでした。
「分倍」「分梅」どちらが正しいのか良く解りません。
でも、府中に梅は昔から馴染みだったのでしょう。
市の花は梅でした。
そこで、郷土の森に梅園を作りました。
14万㎡の広大な敷地のに1200本、60種もの梅を育成しています。
 
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        梅園の向こうは多摩川の川原です。川風を受けて気持ちよさそうにジョギングする人が沢山います。こ        の辺りが分倍川原の古戦場でした。
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                                 早咲きの種はもう散っています。路上は花弁が一杯です。
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                梅の根元はブルーの小花(大犬のふぐり)がカーペットのように敷き詰められていました。
 
 
今年は郷土の森が開園して、25周年になりました。
ですから・・・、平成元年に開園して・・・・、梅の木も25歳になったのでした。
もともとの苗木も立派だったのでしょうが、25年も経つと土地にも馴染んで、立派に育ってきています。
加えて、様々な梅の木が混植されています。
早咲きの梅(寒紅梅や野梅の類)はもう大半が散っていますが、中咲きの梅(加賀白梅、紅チドリ、藤牡丹枝垂れ等)
は今が盛りです。遅咲きの梅は咲き始めです。
アレコレみられること・・・、そしてどの梅にも案内が吊るされているので・・・・、
何ていう種なのか、すぐにわかります。
 
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                  紅チドリの花は今が盛りです。 千鳥のように可愛らしい小花です。背後は加賀白梅。
 
万葉の時代、花と言えば梅の花でした。
日本人のハートを最初に捉えたのが、春は梅、秋は萩でした。
以来、様々な梅の種の開発が進んだのでした。
一つは食用としての梅、もう一つは花を見る梅・・・、双方とも発展してきました。
花梅の名は・・・・、日本の花鳥風月が取られました。
日本人が自然が好きであることの顕れでした。
 
 
平成元年と言えば、バブルがはじけはじめた頃でした。
府中市はそんな時に「郷土の森博物館」を計画して、実現したのでした。
慧眼とはこんなことでしょう。
園内を散策すると、路傍の石仏や民家、商家、疑似洋風建築等が点在しています。
郷土の美しさが誇らしげに展示されています。
そんな郷土博物館を歩いて、見て回る事は至極悦楽です。
 
今年は当初3月10日までが「梅まつり」期間でしたが、梅の開花が遅れたので3月20日まで延長しました。
まだまだ・・・梅を楽しめます。
 
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                                これが藤牡丹枝垂れです。大振袖のように見事です。
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                                           蔵を背にした加賀白梅、今が見頃です。
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梅園に置かれた庚申塔(正徳3年1713年)
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府中市郷土の森公園の建物群

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日に日に日が伸びて、もう朝5時半になると外が明るくなります。
私は、布団の中で外の気配を伺います。
もうじき、小鳥のさえずりが始まるでしょう。
今朝は少し寒そうですが、昨日のように風は吹かないようです。
一日で開いてしまった白木蓮も、今日は安穏でしょう。
 
今日は8か月検診の日、血液検査とエコーを撮らなくてはいけません。
体調も良いので・・・・、癌再発の心配はありませんが・・・・、8時には家を出なくてはなりません。
とはいえ・・・・、布団は離れ難いものです。
 
”春はあけぼの やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。”
枕草子の冒頭が思い起こされます。
清少納言も・・・・、若しかしたら起き上がるのが苦手で・・・、布団の中でヌクヌクしながら・・・・・、
「ものつくし」をしていたのかも知れません。
枕元には紙(草紙)を山と積んで・・・・。
 
中宮定子が高級な料紙の献上を受けて・・・・、“何に使おうかした” 清少納言に訊かれます。
すると、「枕にしたらどうでしょう」 清少納言は答えました。
本来清少納言日記とも呼ぶところを「枕草子」と呼んだのは、このエピソードに依るのでしょう。
枕元に料紙を置いて・・・・・、メモ書きに使ったら良いですよ・・・・、そんな意味でしょう。
 
私も、昨年から枕元にメモを置いて、俳句やら短歌やら・・・、頭に浮かんだものを書き綴り始めました。
難産で思う様に言葉が繋がりません。
 
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 広場に面して移築された旧田中家住宅、
 間口は30m程ですが奥行は200m近い「うなぎの寝床」のような建物です。府中を代表する商家でした。
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   田中家住宅の中庭に咲いた梅、背景は土蔵で、壁の種類と構造を案内してありました。
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   旧田中家住宅、明治天皇が逗留された部屋。5度も訪れられ、明治15年、17年には3泊4日で・・・、兎狩をされ    た・・・、と案内していました。 武蔵野の雑木林で・・・・・兎追いしあの山・・・・♪されたのでした。
 
さて、今日は急いでこのブログを書き終えなくてはなりません。
昨日書いた府中郷土の森博物館を書きます。
今日は「建物」を案内いたします。
 
武蔵野の雑木林の中に梅園を造りました。
同じく、雑木林の中に民家を配置しています。
博物館入口には尋常高等学校建物があり、隣には旧田中家住宅が移築されています。
旧田中家住宅は甲州街道府中宿に面していたから・・・・、大きな商家だったのでした。
京都の街中にも見つけ難いほどの立派な商家で・・・・・驚きです。
 
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                     河岸段丘の下にはある越智家住宅、防風の生垣に囲まれています。
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                                          越智家住宅とその前庭
此処は多摩川の河岸段丘です。
崖(はけ)の上下に農家があります。
はけ下の家は稲城の越智家の母屋で、江戸時代末期の農家です。
常緑樹の防風生垣が母屋を囲って、辰巳の方角から吹く木枯らしを防いでいます。
大きな前庭は農作業の場であり、子供の遊び場であったのでしょう。
土間の広いシンプルな造りです。
 
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  はけ上の旧河内家の母屋。此方は畑作農家で、養蚕を兼業していました。母屋の前庭は楽しい遊具が置かれて  いました。木工の匠の手作り玩具です。子供が敷居をレールにして木工列車で遊んでいました。
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     手前が木工の匠さん、屋根裏全部が養蚕の棚になっています。
     上がれませんが竹組で・・・、それが解ります。
 
 
河岸段丘の上(はけ上)にもう一軒、農家があります。
旧河内家の母屋です。
崖上は畑作農家でした。
江戸時代中期の建物で天保15(1844)に移築され、明治末期に大改造がありました。
屋根裏を養蚕に改造したものでした。
床下を竹で組んで通風を良くしたのでした。
此処では、木工屋さんが出ていて。。。、色々な道具を目の前で作っていました。
木馬や積み木で子供達が楽しげに遊んでいます。
 
商家・農家ともう一つ・・・・、官舎があります。
一つが尋常学校、もう一つが府中市役場、そして郵便局建物です。
何れも、簡素で、丁寧な造りです。
 
大正時代の良い風が吹いているようです。
春風に乗って、国府太鼓の音が響いてきました。
府中は武蔵野国の国府である・・・・、心意気がビンビンと伝わってきました。
太鼓の音は奔馬や多摩川の流れを表現しているとの事・・・・、耳を澄ませば、
原野をたてがみをなびかせて疾走する奔馬の姿、蹄の音に聞こえます。
一粒の滴が大河になって海に流れ込む…多摩川の滔々とした流れが見えて来るようでした。
 
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   尋常高等学校(今でいえば中学校)の教室、机の蓋を開くと・・・、案の定落書きがしてありました。
   実際に使用されていた机や椅子でした。
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     旧府中市市役所の庁舎。大正10年(1921)の洋風建築。屋根上のドーマーウィンドウ、洋風下見張りの板壁      がお洒落です。裏に和風の宿直室が接続されていました。ビデオでこの和室は古材を使ったもので、節約を     徹底した時代の空気を伝えていました。
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   旧府中市郵便局庁舎。旧矢島家住宅(江戸時代末期) 矢島家は府中宿の名主であり問屋でした。郵便制度が   創設されると(明治4年)直ぐに郵便を取り扱い始めました。(明治5年)
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                                                     農家の庭先で「竹馬遊び」
 
昨日も書きましたが・・・、素晴らしい郷土博物館です。
勿論、食べるところも幾つもありますし。地場農産物の販売もしています。
 
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                                                          武蔵国府太鼓
 
 
 
 
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花と一遍上人像

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「春愁といふ傘さして一人かな」 清水浩氏の句です。
咋秋、時宗総本山遊行寺の一遍上人像の足元に句碑が建ちました。
この句は、宗祖の足元に建ったのですから・・・・、その教えに適った内容なのでしょう。
その是非は別にして・・・・・・、
春になると嬉しいのですが、心のどこかに穴が開いたようで・・・孤独な愁いに落ちてしまいます。
若しかしたら・・・・「人は本来孤独である。」
そんな自覚から・・・一遍上人の教えは始まるのかも知れません。
 
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                       昨年10月建立された清水浩氏の句、一遍上人像の足元に建ちました。
 
孤独に沈んだとき・・・・、人は様々に自省します。
「花の事は花に聞け、雲のことは雲に聞け、私は知らない」
一遍の言葉です。
もう一言付け加えれば「自分の事は自分に聞け、師は知らない」ということでしょう。
春愁に落ちても、孤独に悩んでも、人の助けは借りずに自分で自分を見詰めなさい・・・・、そんな教えでしょう。
 
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                            梅の花に囲まれた一遍上人像、左の松の木の下です。
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                                                  河津さくらを背にした一遍上人像
 
遊行寺は一遍上人のお言葉「花の事は花に聞け・・・」を表すためでしょうか、一年中花が切れません。
春は特に花が美しいのです。
梅や椿の花に始まり、今は杏や木蓮が咲き出しました。
桜が終われば八重桜、山吹、石楠花が咲き・・・、藤や菖蒲が続きます。
花が見たくなったら・・・、花に癒されたい・・・、思ったら遊行寺を詣でます。
 
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        梅の花越しに藤沢の街を見下ろす一遍上人像。鎌倉新仏教の宗祖の中で、こんな風な姿は異色です。
 
鎌倉時代、相次いで宗教人が生まれます。
鎌倉新仏教といい、日本人が宗祖になります。
宗祖の姿は絵に像に描かれます。
親鸞聖人の姿は、嵐の中でも毅然として立っておいでです。
時代のあらしに抗して信念を曲げない、み姿です。
日蓮像は逞しく、男らしい姿です。
どんな圧政にも立ち向かう、宗教人の自負に満ちています。
道元像は、自然に耳を傾ける・・・、詩人のような浄い姿です。
 
そして、一遍上人の像は・・・・、
力みも自負も無い・・・、痩せ男で・・・・・、墨染めの枯れた姿です。
でも、私は一番に尊い姿だと思います。
 
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                           親鸞聖人像(西本願寺HPから転載/国宝)
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                              日蓮上人像(波木井の御影) ウィキぺディアから転載)
 
 
少し前屈みです。
心もち、右足が前に出ておいでです。
両の細い腕は、大きな手は強く合掌しておいでです。
私達凡人は一遍上人像の前に立つと・・・、私を一遍上人が合掌して下さっている・・・・、気付きます。
お寺参りは・・・、ご本尊に手を合わせて・・・願い事を聞いていただきたい・・・、そんな思いでするものです。
けれども、時宗のお寺を詣でると・・・、
「よう、お寺に詣でられた・・・」と言いながら、宗祖に合掌されてしまいます。
其処で…、私達は面喰います。
”勿体ない、汚れきった私を拝むなんて・・・止めてください!” 声が喉元まで出そうになります。
 
一遍上人行状図絵を見ると・・・、一遍上人のお姿は何時もこの姿で描かれています。
数人の信者を従えて・・・、そのみすぼらしい一団の先頭を両手を合わせながら、
あの前屈みの姿で歩を進めておいでです。
雪の野原を、田植えをしている畦道を・・・、隣村に歩を進めておいでです。
お一人なら何処にでも居た様な乞食坊主か高野聖です。
 
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      雪道を辿る一遍上人とその信者たち。先頭が一遍上人で、上人を慕う人が後に続きます。(京都歓喜光寺      蔵/遊行の美術アルバムから複写)
 
京都の都には鴨川の川原近くに「市屋道場」がありました。
櫓の上で48日間も踊って念仏を唱えました。
京の街中で話題になり、貴族から貧民まで見物に集まります。
櫓の上からは念仏札が撒かれます。
人々は念仏札を拾って・・・、持ち帰ります。
500年後、念仏札は伊勢講の札や天王様の札に変わって・・・、
“ええじゃないか・・・、ええじゃないか”
民衆運動になって、幕末維新の社会変革の原動力になります。
 
大きな自然災害に見舞われた今日、一遍像の尊さがしみじみと思われます。
花(自然)を見詰め、自分自身を見直し、謙虚な姿こそが尊いと思われます。
 
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   京都市屋での一遍上人の遊行念仏の姿。櫓の真ん中墨染めの僧が一遍上人。国宝一遍聖絵(遊行寺蔵)
   遊行寺のポスターから転載。
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                                           遊行寺の白モクレン、今週末満開です。
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                       遊行寺の枝垂れ桜、もう2週間で今年も見事に咲くでしょう。
 
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豊後梅に友人の死を弔う

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2月10日、日本文化研究会で同期だったM君の葬儀が執り行われました。
故郷の篠栗(北九州)に戻って、旅先の杵築で不幸に遭遇したのでした。
これで、同期生を見送ったのは二人目です。
父が言っていました。
「僧侶である以上、人を送るのは天職だけれど、同級生を送るのは本当に寂しい。
もう同級生は、自分一人になってしまった。」
長生きすれば長生きするほど、悲しい目に遭わなければならないのでしょう。
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                                                       藤沢遊行寺の杏
 
ここ数日暖かい日が続いています。
気象庁は今週末横浜でも桜が開花する・・・・・、予測を発表しました。
例年は辛夷の花が咲く頃、小学校の卒業式ですが、既に満開です。
今年、3月19日の卒業式には、桜が満開になるでしょう。
4月5日の入学式は・・・・、八重桜や海棠が咲くことでしょう。
 
今年は梅の花の咲くのが遅かったので・・・・、
杏と梅が一緒に見られます。
 
鎌倉の街中でも杏の花が目立ちます。
とりわけ立派なのが宝戒寺の杏です。
本堂の北側、裏手にあります。
頭上遥か上方で咲きますので、観光客は殆ど気づきません。
杏はこんなに大樹になるのか? 驚きの大きさです。
お隣の無患子(ムクロギ)と競って、梢を天に伸ばし、花を咲かせています。
お寺の管理人に樹齢を訊いても
「解らない、今度住職に聞いておく・・・」 お返事です。
適当に「300歳くらいかしら・・・・?」聞けば・・・、
「もっと、もっと齢を経ているでしょう」答えます。
屹度、なんか素敵なエピソードがありそうな予感のする大樹です。
 
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      鎌倉宝戒寺の杏の大樹、隣の大樹が無患子(むくろじ)ですが、どちらも天に向かって梢を開いています。
 
M君が亡くなった杵築は別府湾に面して、杵築藩の城下町です。
杵築藩は小藩ながら、藩主は松平家であり、幕閣の中で重要な位置にありました。
文化的にも優れていていましたが・・・・、藩主松平家は「豊後梅」を開発します。
 
梅に杏を交配して、大輪で、淡紅色、八重咲きの見事な梅でした。
花梅は一般に実がなりませんが、豊後梅は大きな実をつけます。
杵築藩は大きな豊後梅の実を砂糖漬けにして・・・、幕府に献上しますし、江戸や大坂で販売します。
 
杵築の武家屋敷の庭先には、必ず豊後梅があります。
今頃は、築地越しに豊後梅を眺められることでしょう。
M君は・・・、豊後梅を見よう・・・、出かけたのかも知れません。
 
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                      北鎌倉東慶寺、仏像の右、左奥の淡紅色の梅が豊後梅です。
 
豊後梅が見事なのが・・・・、鎌倉東慶寺です。
この寺は寒紅梅や野梅に始まり・・・・、最後を遅咲きの豊後梅が締め括ります。
駆け込み寺に豊後梅は良く似合います。
淡紅色であることに加えて・・・、萼片(がくへん)が朱色なのです。
少女が重ね着して・・・、お洒落をしているような風情です。
桃の節句の花にもなりそうです。
 
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             豊後梅の花。淡紅色の花弁と、朱色の萼片が乙女の重ね着のようで、可愛らしいと思います。
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                                           豊後梅は花は杏似で樹は梅です
 
昨年の3月6日、日本文化研究会の同期で、鎌倉ハイキングをしました。
9時集合、集合場所は東慶寺境内でした。
雨の日でしたが・・・・、満開の豊後梅が迎えてくれました。
東慶寺では松ヶ丘宝物庫で仏像を展示していました。
40年以上も前、一緒に拝した水月観音も、奈良新薬師寺の香薬師像(模像)も拝観出来ました。
 
豊後梅の花と杏の花・・・、見分けはつきません。
豊後梅は樹皮がゴツゴツしているのですが、杏は滑々しています。
豊後梅の枝は左右に広がって行きますが・・・、杏は上に向かって伸びて行きます。
要するに樹形が違います。
 
 
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                                                       宝戒寺の杏の大樹
 
 
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完璧に復旧された「偕楽園好文亭」

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毎日暖かいので、桜が咲き始めました。観測史上最早だそうです。
昨年は開花が遅かったのに・・・・、観桜旅行プランも狂ってしまいます。
杉花粉に加えて、黄砂、AM2.5、大風に砂塵が巻き上がって・・・・・・、もう外気は滅茶苦茶です。
『大風吹いて桶屋が儲かる』の諺があります。
説明は、大風が吹くと・・・・、三味線が壊れて、猫が減って・・・・、鼠が増えて屁理屈を並べて・・・・桶屋が繁盛する、
と因果関係を結論付けました。
こんな気象を見ていると・・・・・・、
大風が吹くと・・・・汚れた外気で葬式が増えて、
棺桶屋が繁盛する・・・・、と思われてきます。
 
3月14日、ようやく雨が降って、汚れた外気も洗われたようです。
空気が清んでいないと・・・・、季節を楽しむ気にもなりません。
早朝6時半、傘をさして水戸の偕楽園に向かいました。
私も家内も偕楽園には何度も出かけたことがあったのですが・・・・、
肝心の梅の咲く季節に偕楽園には行ったことが無かったのでした。
 
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                                   今日の話題は水戸偕楽園です。中央が好文亭です。
 
偕楽園のプランは水戸徳川藩2代藩主徳川光圀が作って・・・・・、高枕亭を作った事に始まり(寛文5年1665年)
9代藩主徳川斉昭が天保12年(1841年)完成させました。
中核の建物が「好文亭」です。
好文木は梅の木の別名でですから、好文亭は梅の木を愛でる建物の意味でしょう。
偕楽園の名は衆人共々に楽しむ・・・・の意味ですから・・・、
斉昭公が”衆人共々に梅の花作庭に出て楽しもうじゃないか・・・・!” として作った日本最初の公園でしょう。
斉昭公の作った偕楽園は13haで、100種3,000本の梅が植えられたそうですが、
現在は遠景の千波湖を含めて公園として整備し、300ha、3700本もの梅が植えられているそうです。
ウィキペディアによると、都市公園としてはハイドパーク(NY)に次ぐ世界第二位の規模だそうです。
 
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                          偕楽園は好文亭からの遠望を含めて、300haの広さです。
 
私達は駐車場に近い表門(東門)から入りました。
如何にも脇から入園した・・・、感覚でピッタリ、シックリしません。
手にした地図には黒門(北門)が表示されています。
黒門から入るのが設計者の意図です。
園内梅園を通って黒門に廻ります。
孟宗竹の竹林と、杉の樹林を通ります。
大樹の下闇には一面笹が茂っています。
崖の下からは泉(吐玉泉)が湧いています。
脇には樹齢800年と言われる太郎杉が茂っています。
如何にも蔭の空間です。
 
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    偕楽園の正門にあたる「黒門」
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    黒門から竹林、杉林を抜けると中門が見えてきます。此処までが陰の空間です。好文亭に入ると陽射し        燦々、陽の空間に出ます。偕楽園は陰陽二つの空間を楽しむお庭です。
 
中の門、芝前門と二つもの門を潜れば、好文亭の玄関に出られます。
突然に陽の光が降り注ぎ、陽の空間に出た事が嬉しくなります。
此処で、190円の入場料を払って好文亭に登ります。
偕楽園は斉昭公の思想に倣って・・・・入場は無料ですが、
せめて維持費として好文亭の入場料は払ってください・・・、そんな190円でしょう。
14日は朝雨でしたので、観光客も少なく、好文亭にもスムーズに登れました。
加えて、空気は澄んで・・・・・、陽射しも出始めて・・・・・・、最高の気分です。
 
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     好文亭の高楼から庭を望む。正面の枯れ木が「左近の桜」 遠くの湖が千波湖です。
     東南斜面を眺める位置に好文亭が建っています。
     こうしてみると、梅で有名な偕楽園ですが、桜も躑躅も楽しめそうです。
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                                             好文亭室内から、お庭を見る。
 
 
一昨年の大地震で、好文亭は壁が崩れ、敷地も液状化や崖崩れで1年余り閉園していました。
それが、完全に修復されて・・・・、地震の傷跡は全く見当たりません。
斉昭公の気分になって・・・・・、高楼の上から・・・・、3700本の梅園を遠望できます。
一面の梅園です。
白い花、淡紅色の花、紅色の花が入り混じって・・・・、白赤の霞のようです。
その中に、柳の緑が縁取りしています。
千波湖の堰堤、桜川の堤防だけは柳が植えられているのです。
遠くの甍は護国神社でしょう。
 
近景は芝生の庭で、松の植え込みが目立ちます。
その中央に大きな、形の良い桜が植えられています。
案内地図で確認すると「左近の桜」と書かれています。
案内には天保12年(1831)登美宮(とみのみや)降嫁の折、
仁孝天皇から京都御所の左近の桜の鉢植えを賜りました。
その桜自体は枯れてしまったそうで・・・、
昭和38年(1963)宮内庁より左近の桜と同じ種の桜(山桜?)を賜りました。
当時樹齢7歳だったそうですから・・・、未だ60歳弱ということになります。
若干60歳で、偕楽園のランドマークです。
やっぱり桜は凄い・・・、山桜は素晴らしい・・・、痛感します。
私よりも若いのですから・・・・。
桜の季節も見たいものです。
 
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   これが御所と同じ「左近の桜」、樹齢60年ながらこの壮大さです。満開の樹下に佇みたいものです。正面好文亭
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                左近の桜の横で、黄門様と梅大使のお嬢さんが記念撮影に付き合って呉れます。
 
園内に六角形の柵で囲まれた梅があります。
見事な6種の梅を選んで「水戸の六名木」と名付けたものです。
選んだのは昭和6年(1931)、ですからもう80年以上も前の選別です。
”なるほど・・・、立派だ、美しい”感心する梅もありますが・・・、樹勢の衰えた梅も目立ちます。
日本一の梅園ですが・・・、日本一の梅の木は他の所にあるようです。
でも、マップ片手に六名木を探して梅林を歩くと・・・、予定の2時間は瞬く間に過ぎてしまいました。
 
矢張り、偕楽園は梅の咲いた頃、来てみるものです。
 
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        昭和に整備された田鶴舞梅園を俯瞰する。
        桜川、千波湖を含めて一帯300haを都市公園「偕楽園」として整備されました。
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   「左近の桜」の樹下から好文亭を望む。 桜が咲いて、この樹下でお弁当を広げられたら幸福でしょう。
   徳川斉昭公が名君だったことが偲ばれます。
 
 
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一目千本「筑波山梅園」

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水戸偕楽園の老木(梅)を楽しんで・・・・、私達は高速道を戻って土浦に向かいます。
目的は筑波山の中腹、標高250mにある「筑波山梅園」です。
昨年秋には、筑波山の裏側を、稲田御坊をはじめとした古寺を巡りました。
今春は筑波山の表側を走ります。
表筑波山は採石場が目立ちます。
有名な筑波石の採石場であり、此処の石を運んで地震の復興事業に充てているのでしょう。
堅くて御影石のような感触です。
でも、見た目は黒っぽい石です。
 
車窓から筑波神社の大鳥居が見えます。
その西側に、ポツンと紅白の点が見えます。
あれが、目指す筑波山梅園です。
 
筑波山は女体山(877m)男体山(871m)の2峰を言います。
東が女体山で筑波女大神(伊弉冊尊/いざなみのみこと)を祀っています。
西側が男体山で筑波男大神(伊弉諾尊/いざなぎのみこと)が祀られています。
二人の神様は国造りの神様で、道祖神にも展開します。
全国各地に二人の神様が並んで祀られていますが、
向かって右側が女神で、しかも男神より背が高いのは珍しいと思います。
”北関東は、かかあ殿下”とよく言われますが・・・・、筑波山に始まるのかな? 思ったりします。
 
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      筑波山(女体山)を見上げる位置に筑波梅林があります。 左上方にあるのが展望台の東屋です。
 
女体山、男体山の境の澤地沿いに梅林がありました。
大雨が降れば澤には鉄砲水が流れるのでしょう。
ゴロゴロと大きな筑波石が転がっています。
そんな、使い勝手の悪い澤地を災害防止事業を兼ねて整備ししたのでしょう。
丁度、筑波山神社の参道に位置しています。
そこで、梅林にして参拝客を集めよう・・・、梅は観て良し、食べて良しだ・・・・、
そんな思惑で千本の梅を植林しました。
そして、「筑波山梅まつり」を開催して、今年は第40回を迎えました。
そんなわけで、私のような花好きがはるばる観梅に遣って来るようになりました。
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    筑波山の澤地を活用して梅林が整備されました。真っ黒い筑波石が梅の美しさを引き立てています。
    まるで盆景のようです。
 
梅園入口にはステージがあって、人だかりです。
覘いてみると、恰幅の良い親爺さんが「蝦蟇の油売り」をしています。
馴染みの「油売りの口上」が楽しいのです。
日本刀で、和紙を切ります、「一枚が2枚、2枚が4枚・・・124枚が248枚・・・」
日本刀の切れ味は示されました。
紙吹雪が天空に散って舞います。
その切っ先を二の腕に充てます。
止血剤でもある蝦蟇の油の効用を示すのです。
もう、ガマの油を常用する人は滅多にいないでしょう。
オロナイン軟膏はじめ、各種の薬が売られていますから・・・、
でも、油売りの口上は誰もが知っている・・・、懐かしさに満ちています。
懐かしさで、見物人は笑顔です。
 
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                                              名物の蝦蟇の油売りの口上です。
 
梅園を見上げれば、遥か上方に茅葺の東屋が見えます。
あそこが、展望台なのでしょう。
ゴロゴロ筑波石が転がった澤地に、遊歩道がくねっています。
梅に見惚れていると、足元が危険です。
転がれば・・・捻挫したり、怪我をしかねません。
怪我をすれば早速蝦蟇の油(400円)を求めなくてはなりません。
ゆっくりゆっくり歩を進めます。
 
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                                      梅の花の間から・・・・、東屋を見上げる。
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                                       清水の舞台に似た懸造りの東屋です。
 
東屋は清水寺の舞台のような造りになっていました。
舞台の登れば・・・・、一目千本、紅白の梅が展望できました。
梅の花の向こうには・・・、今盛んに耕しし始めた田圃が広がっています。
霞んでいなければ…、東京スカイツリーからその遥か彼方に富士山も見られるそうです。
 
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                                                舞台の上から・・・、一目千本を見渡す。
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                   梅園の中の瓦屋根は休憩場で、昆布梅茶のお接待を受ける事がで見ます。(無料)
 
偕楽園は人間が意図して造園した梅園です。
筑波山梅林は、自然によりそって・・・・、澤地を整備する中で造った梅林です。
人間の係り方が随分違います。
偕楽園の梅は老梅、古梅が目立ちます。
ですから・・・、自ずと花数が少ないようです。
一方、筑波梅林は、若木が多いので艶やかです。
どっちも良いものです。
どっちも見られて楽しいショートトリップでした。
 
 
 
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藤沢西部丘陵の辛夷の花

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今冬、冠雪した富士山を眺めたいと藤沢西部丘陵にある慶応藤沢キャンパスに行きました。
その時、数ある樹木の中に辛夷(こぶし)の樹が気になりました。
良い樹形で、スックと天に梢を伸ばしていました。
藤沢遊行寺の白モクレンも満開になりましたら・・・・、
その親樹である辛夷も見頃だろう・・・・、3月16日出かけてみました。
 
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                      藤沢遊行寺の放生池淵の白モクレン、お隣の枝垂れ桜も咲き始めました。
 
慶応大学藤沢キャンパスは1990年にオープンしました。
設計したのは槇文彦氏、樹木の選定もグランドデザインの重要項目です。
その折に、辛夷もメモリアルツリーにしよう、考えたのでしょう。
 (グランドデザインは次に書きました。(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47009045.html)
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   慶応藤沢キャンパスの周囲の道路、中央分離帯に曙杉、歩道の街路樹に白モクレンが植えられています。
   右側の常緑樹の向こうが大学です。
 
キャンパスの周囲の街路樹には車道の分離帯に曙杉、歩道の街路樹に辛夷(白モクレン)を植えました。
そして、キャンパスの中央、教室の窓から遠望できる位置に辛夷を植えました。
学生が、一時室外に目を遣れば・・・、きっと辛夷の白い花が目に飛び込んでくる・・・・、
そんな位置に2本の大樹を植えました。
 
今は、大学は春休み・・・・、せっかく咲いたのに・・・・、見てくれない・・・、辛夷は残念に思っているかもしれません。
でも、中学生や高校生は辛夷の樹下を登下校してゆきます。
キャンパスには楡の木が多いのです。
楡の木は箒のように茫々と梢を天に伸ばしていますが、
辛夷はまるで宝珠(仏具)のような形に整って・・・、天に梢を伸ばし、無数の白い花を咲かせています。
楡の間に入って・・・、たった二本ですが目立っています。
 
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       教室の窓を見やると・・・・池の向こう岸に、真っ白な花をつけて・・・、
       形の良い辛夷が目に飛び込んできます。
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              辛夷の樹下からキャンパスを見る。右側円形の建物が本館、左の建物群が教室棟です。
 
藤沢キャンパスには田園の異臭がします。西風、南風の日には堪らない悪臭と感じます。
都会育ちの人には牛糞の臭いさえ・・・、堪え難いと思いますが・・・・、私は牛糞臭なら苦になりません。
今日の日の臭さは耐え難いものがあります。
私は悪臭の原因を突き止めよう・・・、富士山も眺めたい・・・・、思ってキャンパスの南側丘陵に向かいました。
 
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慶応藤沢キャンパスの南側に広がる田園風景。右に富士山、左側のスレート葺きの建物が豚舎。
豚舎の脇には辛夷が続いていました。
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                                                     見事な辛夷の大樹です。
 
悪臭の根元辺りに・・・・・、辛夷の花が咲いています。
そう、悪臭は豚舎から流れてきているのです。
高座豚のブランド名で出荷されています。
多分、豚の糞が臭いのは・・・・、飼料が原因でしょう。
大都会を後背地に控えているので・・・、沢山の残飯が出ます。
これを飼料にするので・・・、豚には負荷が高く、消化が充分できずに排泄されると想像します。
充分消化してあれば・・・糞は自然に発酵して良い肥料になります。
未消化の糞が臭くて・・・、それを肥料にするので・・・、辺りに悪臭を放つのでしょう。
慶応大学当局は我慢しているようですが・・・、湘南ライフタウンはもう近くまで広がって来ています。
早晩、豚舎の悪臭は非難の対象になる事でしょう。
 
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         辛夷の大樹、手前は飼料のタンクでしょうか? それとも糞を肥料にするプラントでしょうか?
 
悪臭の事はさておき、辛夷は見事です。
信州では辛夷の花を「田起こし花」と呼びます。
山に雪形が現れて、辛夷が咲き出したら・・・、田起こしをして、田植えの準備に入らなければなりません。
田起こしは、鋤で重たい田の土を掘り起こす・・・、稲作の重労働です。
藤沢西部丘陵には田圃が無いので・・・・、田起こし花とは呼ばずに・・・、何と呼ぶのか知りません。
 
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                               辛夷は花弁の根元が臙脂色なところが可愛いものです。
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                                           畑には紫の花(仏の座)が群生しています。
 
 
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春を迎えた「鎌倉古道」(横浜俣野)

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関東地方各地に「鎌倉街道」と呼ばれる道があります。
何れも各地から鎌倉に至る道路です。
古代に造られた「奥州街道」や「東海道」は個別の「官道」でですが、鎌倉街道は武士の都「鎌倉」に通じる、
軍用道路の総称です。
 
巨福呂坂や朝比奈の切通しを発した道は、
主として丘陵の尾根や河岸段丘の崖の上、見晴らしの良い所を通ります。
馬がすれ違えるほどの細道で、軽トラックが一台ようやく走れるほどの細道です。
それは、関東各地に散っている御家人が「いざ鎌倉!」という時に早く集まれるように造られたからです。
幕府の記録書である「吾妻鏡」には鎌倉街道の名こそありませんが、
街道の整備や治安の確保のために様々な記録が記されています。
奥州平泉を征伐するため・・・軍勢が下ったのも鎌倉街道(中道)でした。
新田義貞が鎌倉に攻め入ったのも鎌倉街道(上道)でした。
上野国新田庄(現在の群馬県太田市)を発った義貞は府中分倍原に入り、幕府軍と対峙します。
関東各地の御家人は北条得宗家を見放し、義貞軍に合流します。
義貞は分倍原の戦いに勝利すると、
町田から境川に沿って、これまた鎌倉街道(上道)を稲村ケ崎に向かって攻め上がります。
 
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     西俣野に咲く「辛夷の花」、遠方のタワーは「横浜ドリームランド」のランドマーク、インペリアルタワー。
     現在は横浜薬科大学のキャンパスになっています。今日の話題は鎌倉古道上道です。
 
 
私の住む戸塚には鎌倉街道が三本通っていました。
東からあげると、朝比奈から六浦を経て常陸国に通じる「鎌倉街道下道」、
巨福呂坂から、戸塚、中山を経て白河の関に向かう「鎌倉古道中道」
最も西にあるのが、稲村ケ崎から海岸沿いに西に向かい片瀬から境川沿いに北上する「鎌倉街道上道」です。
 
何れの街道も都市化の進展によってズタズタに裁断されてしまっています。
僅かに境川に沿った「上道」だけが部分的に残されています。
境川の河岸段丘、東岸の崖の上や中腹を縫うように走っている細道です。
そんな地勢が開発を防いできたのでしょう。
 
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  西俣野花応院近くの「瞽女渕/ごぜがふち」、100m先に境川が見えます。水路整備の前はこの辺りに境川が流  れていたのでしょう。旅芸人の女(瞽女)がこの辺りで壊れた堤防から落ちて亡くなりました。
  弘化4年(1847)旅人が瞽女淵で水害の境川を目のあたりにします。長旅で疲れていたこともあってか、此処で   「水害に悩む農民の為に人柱になろうと決心します。
  左側の首の無いお地蔵さんは人柱になった旅人で、「土手番様」と呼ばれ慕われています。
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                             俣野の八坂神社の庚申塔。先の細道が鎌倉街道です。
 
 
鎌倉街道上道には見所が沢山あります。
伝説、説話も豊富です。
石仏、石神も、7つもの鯖神社も祀られています。
そして、何よりも昔ながらの自然が・・・、植物相が遺されているのです。
早春の今、様々な花が咲きます。
昭和30年頃までなら、何処にでもあった草花が絶滅懸念に曝されていますが・・・・、
そんな今では貴重な草花を路傍に、農家の庭先に見る事が出来ます。
 
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                             クヌギの落ち葉の下から芽吹いて、花を咲かせた雪割り草。
 
そんな、草花の一つが雪割草です。
残雪を割って咲き出すのでこの名があるのでしょう。
でも、この辺りは滅多に雪は積もりません。
分厚く敷かれたクヌギの落ち葉の下から、枯葉の隙間を縫うようにして伸ばし、葉が生い茂るまでの瞬時に、
花をつけます。
様々な色、形の花があるのが・・・、魅力です。
 
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                                              今年も咲き出したカタクリの花
 
農家の畑の先、雑木林の中には毎年カタクリが咲きます。
農夫一家の丹精は頭が下がるものがあります。
というのは、放っておけば下草が伸びて、雑木が生い茂って、カタクリは溶けて消えてしまいます。
下草の伐採や雑木の枝打ちが必要なのです。
丹精のお蔭で、毎年少しずつ花数が増えているような気がします。
昔は初冬に雑木林に手入れをし、冬を越す薪炭造りが欠かせませんでした。
人間が冬越しをする自然な活動がカタクリの成育を促していたのでしょう。
今は、農家の暖房にも、炊飯にも薪炭を使いません。
だから・・・カタクリを自生させるには特段の努力が必要なのです。
毎年、辛夷が咲き出したらカタクリも咲き始めます。
今年も咲き出しました。もう1週間したら見頃でしょう。(3月23日頃) 
 
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                                                         昨年咲いたカタクリの花
 
東俣野は境川を眼下に、富士山を遠望できるロケーションです。
風光が良いので、住友本家も別荘を建立しました。(1939昭和14年/設計佐藤秀三)
2000年に相続税として物納され、2004年に国の重要文化財に指定され、
横浜市に寄贈されました。
市は一般公開に向けて工事を進めていましたが、2009年3月15日に焼失しました。
重文と言えども関係者以外見たことも無いので・・・・、なかなか資金手当てできないのでしょう。
何時、一般公開できるのか? 懸念されます。
そんなことはさておき、園芸農家が多いのも特徴です。
シクラメンの温室が目立ちます。
そんな園芸農家の庭先には・・・、クロッカスや水芭蕉も見られます。
鎌倉古道をウォーキングすると・・・・、楽しい事があっちこっちに散っています。
それを発見するのも楽しみです。
 
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                                             園芸農家の庭先に咲いたクロッカス
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                                                   もう咲き出した、水芭蕉
 
 
 
 
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資生堂鎌倉工場の「花椿」

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藤沢市から境川を渡って鎌倉市に入ると、気付くことがあります。
道の舗装状況が悪くなるんです。
鎌倉は藤沢市に比べて財政状況が逼迫しているんだな・・・、実感します。
文化財についても・・・・、指定はしても保存は出来ない・・・、それは貧乏だからでしょう。
鎌倉山の山椒堂も、移築さえできずに取り壊してしまいました。
御成小学校の講堂も荒れるに任せています。
 
今年の正月、松尾鎌倉市長は「鎌倉市は来年地方交付金の交付団体になってしまうかもしれません」発言され、
市民を驚かせました。収入で経費が賄いきれず、国から援助して貰わなくてはならなくなる・・・、
危機が迫っているというのです。
 
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   今日の話題の資生堂鎌倉工場。2015年3月期で閉鎖されると発表されました。鎌倉市の事業所のなかで最   大の法人税を納付してきました。
 
1月31日資生堂は鎌倉工場を2015年3月までに閉鎖する・・・、発表しました。
末川社長は若手ながら2年前嘱望されて社長になった期待の人物でした。
それが「断腸の思いでリストラに踏み切る」決断したのでした。
 
鎌倉工場は大船駅に近い、岩瀬にあります。
お隣が松竹大船撮影所であります。(現在は鎌倉女子大、ショッピングセンター)
家内は何度も工場見学をして・・・、鎌倉市民には馴染みで自慢の工場でした。
それが、50年の迎えるとき・・・・、老朽化などを理由に閉鎖するというのです。
松尾市長の発言は、この事態を知っていたから・・・、合点が行きました。
 
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    鎌倉岩瀬にある資生堂鎌倉工場はグリーンベルトに椿の樹が植えられています。今が椿の見頃です。
 
資生堂の業績は売り上げこそ前期比横ばい(6800億/計画7000億)でしたが、
営業利益は37%も減収の245億円でした。
カネボウの化粧品部を買収した花王に大きく置いて行かれる惨状であります。
原因は、期待した中国での事業が尖閣問題に端を発した日本製品ボイコット運動にある・・・・、説明でした。
でも、それは日本企業全般に言える事、
資生堂にはもっと根源的な問題が進行中である・・・・、考えた方が良さそうです。
 
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       資生堂大船工場の社員は500人、リストラされてしまうことでしょう。
       殆ど使われていないようなテニスコートが寂しげです。
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3月11日、末川社長の更新が発表されました。
末川社長(53歳)は健康を理由に引退し、前田会長が4月1日付で社長を兼任する・・・、というのです。
前川会長は社長復帰の会見で、役員指名諮問委員会で推挙された・・・・、説明されました。
マスコミはこの異例人事を誰が決めたか? 一斉に取沙汰し始めました。
社長の選任は取締役会が決定するものです・・・、それが社外の「役員指名委員会」が決定するとは・・・、
それは、いったい何なので・・・・、マスコミの耳目を集めたのでした。
「現代」等の記事によると・・・・・、資生堂の役員は社外の長老が決めると言うのです。
 
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                                             50年も経つと椿も風格が出てきます。
 
資生堂を育てたのは私の母の世代でした。
普段は化粧一つしないのに・・・、ハレの場では資生堂の化粧品を使って装いました。
花椿のパンフレットが郵送されてきて・・・、男勝りで頑張る母に”女”を感じさせました。
家内は団塊世代です・・・・、資生堂のブランド力も褪せているようです。
世界中に飛び出したので・・・、海外の化粧品や自然化粧品にも傾倒し始めていました。
 
そして、私の娘の世代は・・・・、日常的な化粧品を常用し、ハレの場には海外高級品を選考しました。
TPOに合わせて高級品も100円化粧品(?)上手に使い分けているようです。
そんな、娘世代には中途半端な資生堂は見放されているようです。
 
ユーザーの世代交代に着いてゆけなかった・・・・、それが資生堂低迷の原因だろう・・・、思われます。
そうしたのは・・・・、一貫した広告戦略が無かった・・・、のが失敗でしょう。
私が学生時代「前田美波里」がキャンペーンガールで、そのポスターが盗まれました。
あのころがピークで、今では資生堂のCMは記憶にも残っていません。
 
資生堂鎌倉工場の「資生堂」の文字も壁から落ちた状態です。
まさか、老朽化を印象付ける為・・・、あえて会社ロゴが壊れても放置しているわけでは無いのでしょう。
もう、窮すれば・・・、貧ずれば看板が壊れても気にならない・・・、予算もとれないのでしょう。
 
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     工場外壁に貼られていた「資生堂」のロゴも剥落しています。
     「閉鎖する」方針が出ていて壊れているロゴを放置していられるのは・・・、理解できません。
 
今では工場内のテニスコートでプレイする社員の影も見えません。
TVに映るフィギユアスケートリンクには「コーセー化粧品」の広告が目につきます。
花王に抜かれて業界三位のコーセー化粧品の姿もバックミラーに見えている事でしょう。
 
資生堂凋落の原因は・・・・・・、古い経営感覚にあって、ユーザーの世代交代に着いてゆけなかった・・・、
からだと思います。
世代交代に着いてゆけなかったのは・・・・、老人が人事権を掌握していたから・・・、そしりは避けられません。
鎌倉工場を閉鎖して・・・、ベトナムに経営資源を集中させて・・・・・、東アジアから巻き返す・・・、
戦略は妥当でしょう。
でも、ベトナムやタイのご婦人の化粧品としてアピールするには・・・・、
その古い経営感覚では無理な様な気がします。
社外に役員の選任権限がある・・・、そんな体制の打破こそが必要な様な気がします。
 
資生堂鎌倉工場の外周には椿の花が盛んに咲いています。
椿の花の鮮やかさ、妖艶さ、艶々光る葉も美しいものです。
だから…、資生堂のマークは花椿にしたのでしょう。
花椿は色褪せてしまったようです。
捨てられた鎌倉市民にはそう目に映ります。
一際椿の花が綺麗に見えるのは皮肉なものです。
 
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   此方は我が家の椿、放っておいても年々良く咲きます。
   でも、俗称「ケツ曲がり」と呼ばれる毛虫の除去が一苦労です。
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                             藪椿が矢張り一番です。もう、彼岸桜も満開です。(藤沢で)
 
 
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「仰げば尊し」は歌わなくても

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3月19日、横浜の市立小学校は一斉に卒業式が行われました。
私の住む上倉田町には3つの小学校がありますから、役員は手分けして卒業式に参列しました。
私は、東戸塚小学校です。
 
例年の卒業式は辛夷の花が咲く頃でした。
ところが今年は春の来るのが早くて、辛夷は未だ残っているものの、桜が二分咲き、プラムは満開です。
例年は4月5日、入学式の頃に咲くのですから・・・、2週間も季節が早い事になります。
私はもう、10年も町内会長をしています。
長く務める事は良くないので、辞意を申し出ていますが、
誰も交代してくれないので・・・・、今年ももう1期(2年)継続せずばならないようです。
卒業式も入学式も12回目を数える事になりそうです。
・・・・、という事は入学式を迎えた子供が中学生に育ってゆく・・・、
そんな晴れがましい「旅立ち」を二回り見詰める事になります。
 
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                           卒業式は2分咲きの桜の下で行われました。 左が会場の体育館です。
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                                                  雪柳ももう散り始めています。
 
子供達の一年は長く、子供達の成長は目も見張るものがあるのに・・・、
私世代、高齢者の一年は余りにも短いのに・・・、改めて溜息です。
もう少し、一年を長く感じたいものだ・・・・、
もう少し、歳月の長さを感じながら過ごしたいものだ・・・・、しみじみ思うものです。
せめて・・・、歳月を表現する手法・・・、俳句や短歌を始めれば・・・・、一年を長く思えるかもしれない・・・、
昨年から私の書棚にもその方の本が増えました。
 
10年前、東戸塚小学校の評議員会での議論は決まっていました。
評議員の小言は「子供達が挨拶してくれない・・・・・」
私は思っていました。
「子供が気持ちよく挨拶してくれればそんな素敵な事は無いでしょうが・・・、見知らぬ人に挨拶しろ・・・、なんて教わっていません。大人だって隣近所で満足に挨拶できないのに・・・・、子供にそんな注文をするのはおかしなものだ。」
2年前東戸塚小学校は校長が代わって、教育目標も変わりました。
『自然が一杯、挨拶一杯、友達一杯 東戸塚小学校』
 
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                                                東戸塚小学校卒業証書授与式会場
 
東戸塚小学校は市立小学校では最も広く、小学生も1039人と最大です。
だから・・・、自然が一杯、友達一杯は客観的な学校環境です。
でも、豊かな自然に囲まれていても、子供達が自然を見詰め、感じられるかと言えば別問題です。
生徒が多くても・・・、友達一杯と誇れるには・・・・、友情を育む状況を作らねばなりません。
まして、挨拶一杯にするには・・・・・、容易い事では出来ません。
 
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                                     校長先生から一人一人卒業証書を手渡しされます。
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            ブルーのファイルはPTAのプレゼントと聞きました。卒業生にお似合いのカラーです。
            誇らしげに卒業証書を手にした卒業生、もう立派です。背筋がピンと通っている姿が良いもので             す。実は一人一人の表情が素晴らしかったのです。目の輝きに、豊かな知性を痛感させました。
            ブログに載せられないのが残念です。
 
PTAは両親が構成員のはずですが・・・、父親には会社勤務があります。
お母さん方だけがPTA会員でした。
昨年、照井さんは”親爺の会”を組織しました。
校庭の石ひろい、芝生の養生に始まり・・・、様々な力仕事を始めました。
力仕事で汗をかけば 冷たいビールを飲んで、歌を歌いました。
父親の姿が学校で目立つようになりました。
学校に行く人は、胸や帽子に「東戸塚小学校」の緑色のワッペンを吊るしました。
地域の人が学校に出かける機会が数段増えました。
 
何時しか「子供達が挨拶してくれない・・・」小言は無くなりました。
”子供に挨拶してくれない・・・、文句を言う事は自分自身が子供に何もしてあげられていない” 
事実の裏返しであることに気付き始めたからでしょう。
 
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    お辞儀(礼)は腰から45度程折るのが一番美しいものです。中学生の礼が美しくないのはスカートの丈が短す    ぎるから・・、筆者は思っています。礼は服装から始まり、お辞儀に集約される…、思います。
 
今年の卒業生は162人です。
6年前、5分と校長先生のお話が聞けなかった子供が、大きく育って・・・、背筋もピンと伸びています。
礼をする姿も堂にいって、美しいと感じます。
国歌を斉唱し、横浜市歌を斉唱し終えれば・・・・卒業証書が授与されます。
一人一人、担任の先生が名を呼び上げて・・・・、檀上で校長先生から戴きます。
私は、50年前の卒業式の時を思い起こします。
あの時の服装は、卒業証書の授与はクラス代表が受け取りました。
6学級あって、ほとんどのクラス代表は女の子でした。
女の子は皆が泣いていました。
男の子は「女は泣き虫だから・・・・」見ていたような気がします。
あの、卒業式をしてくれた講堂も今は老朽して・・・、使っていません。
 
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            筆者の卒業式を行ってくれた御成小学校の講堂。この中で「仰げば尊し」を歌いたいものです。
 
君が代は歌っても、「蛍の光」や「仰げば尊し」は歌いません。
蛍の光に代わって在校生が「君が輝くとき」を歌います。
仰げば尊しに代わって卒業生が「広い世界へ」「旅立ちの日に」を歌います。
私達昭和世代が馴染んだ歌は「学び舎を去る哀傷歌」であるのに比べて、
今歌われている歌は・・・「青年に飛翔する歌」と言えそうです。
時代が変われば、卒業式の歌も変わるのでしょう。
”家に帰ったら・・・仰げば尊しをYOU-TUBEで聞くことにしよう・・・”、ぼんやり思います。
 
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                                             俯いている卒業生は涙一杯でした。
 
卒業式も終盤になって、お別れの言葉、送る言葉を述べます。
卒業生を見れば・・・、タオルで目をぬぐっています。
仰げば尊しでなくても・・・、あんな「明るい歌」でも、子供は泣けるんだ・・・、思います。
今の子供は、私達の頃より遥かに感受性が強くて、優しい性格なのでしょう。
 
ああ、良い卒業式だった、思います。
来年の卒業式にも列席したい・・・、思います。
その前に4月5日には入学式がありますから・・・、これも楽しみです。
来賓に向かって校長・副校長先生の挨拶がありました。
 
「教員は3月末が定期異動です。私達も60歳になりましたし・・・・2年目を終えました・・・、
ご指導ご支援有難うございました・・・・。」
私達は教育委員会に留任願いを提出しています。
 
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卒業生、おめでとう。
お父さんお母さんに、先生方に・・・、感謝する気持ちを大切に・・・、
感謝する気持ちは君達に勇気を与え・・・、様々な人生の苦難を乗り越える、力を湧き立てて呉れるものです。
君達を雄々しくさせるのは、君達の内に育った感謝する心です。
 
感謝する気持ちがあれば・・・、自然に、友人に、家族に気持ちが強ければ・・・、一年が長くなるかもしれません。
 
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                                              ろくぼくに登って、記念写真
 
 
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「鉞ヶ淵」の言い伝え

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イソップ物語は戦国時代イエズス会の宣教師が伝えました。
天草にあったコレジオではローマ字印刷され、読まれます。
江戸時代になると『伊曾保物語』よして、絵草子、草双紙として各種出版されます。
私達の馴染んだ「ウサギとカメ」や「アリとキリギリス」は日本古来の民話と思う程馴染みですが・・・・、
実はイエズス会の宣教師が伝えたものでした。
屹度、子供達は宣教師の話す民話に耳を傾け・・・・・、眼を輝かせたことでしょう。
そんなイソップ物語の一つに「金の斧」があります。
良く、小学校の学芸会などで演じられます。
 
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                     鉞が淵は森の手前、宇田川にあります。 辛夷の樹の向こう側です。
 
横浜戸塚の南西部に宇田川が流れています。
汲沢に「鉞が淵/まさかりがふち」と呼ばれる、深みがあります。
約6ha森と川沿いを公園として整備しました。
川沿いの遊歩道を散策するには最高の季節を迎えました。
辛夷や桜が咲き、足元には二輪草も咲き出しました。
でも「毒蛇に注意」立て看板も目立ちます。
淵の辺りはマムシが多く棲息しているのでしょう。
宇田川はウイトリッヒの森の脇を流れて・・・・、境川に合流し江の島の海に注ぎます。
 
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                     鉞滝のある鉞ヶ淵。数年前整備され、今では落ち着きが出てきました。
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                   鉞ヶ淵の公園には、辛夷、木蓮(薄紫)枝垂れ桜が同時に咲いています。
 
 
「鉞が淵」には民話が残っています。
今から200年前、青年の木こり「彦八」が住んでいました。
木を切りに山に出たのでしたが、手が誤って鉞を滝壺に落としてしまいます。
滝壺を覗き込むと美しいお姫様が機を織っていました。
「あなたの鉞が滝の魔物を退治してくれた」お礼に御馳走致しましょう。
彦八は3日後帰る事にします。帰るに際してお姫様からこう言われます。
「私はこの滝つぼの主です。私の事を喋らないで下さい。喋ったら貴方は命を落とすことになります。」
彦八が家に帰ると、家では法事をしていました。
森から帰らない彦八は亡くなったものと思われ・・・、その3回忌の法要でした。
家族に”どうしたんだ”問い詰められた彦八は鉞滝のお姫様の話をしてしまいます。
そして、そのまま死んでしまいました。(神奈川の民話より)
 
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             鉞ヶ淵の民話主人公の彦八の墓、と伝えられています。 淵を見下ろす位置にあります。
 
「金の斧」に似た筋立てで始まります。
斧ではなく鉞であるのは、鉞が神性を持っていたからでしょう。
木こりは神性を持った鉞を振るいます。
金太郎も両面宿儺も、鉞を持っているのは、鉞は神性を宿しているからです。
後半部分は浦島太郎です。
ですから・・・・、イソップ物語と浦島草子を合体させた・・・・鉞が淵の民話です。
多くの民話は・・・・・、人々が語り伝えた民話の影響を受けて伝わり、変わって行くものでしょう。
 
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                        宇田川の両岸は遊歩道になっています。辛夷の先が鉞滝です。
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                                                        辛夷ももう散り際です。
 
青年彦八が宇田川の辺でマムシに噛まれて死んでしまった。
その魂が3回忌の法要に現れて・・・・、自分の消息を家族に伝えようとしたのかも知れません。
お父さんお母さん、3回忌を迎える頃になれば、もう悲しまないで普段通りに生活して下さい、
そんな願いを込めて彦八の魂が瞬時、姿を現した・・・、とも考えられます。
それが、金の斧、浦島太郎、二つのメジャーな民話を借りて・・・・表現した。
 
彦八のお墓と伝えられる墓標には「顕夢童子」「○俄童子」二つの戒名が刻まれています。
(○は廻とも読めそうです)
亡くなった彦八が夢に現れた・・・・、俄に現れた・・・・、と読めそうです。
童子という事は元服前だったからでしょう。
江戸時代は11歳から16歳ころまでに元服させていました。
子供を失った親から見れば、元服させていなければ、何時まで経っても子供は童子なのでしょう。
でも、二人並んでいます。
流行り病で兄弟が略同じ頃相次いで亡くなった・・・・、その墓標と考えられます。
その一人が「顕夢童子」で、彦八だったのかも知れません。
 
開発が進む汲沢ですが・・・、民話が残り、滝も森もあって・・・、ウォーキングには楽しい所です。
今が最高です。
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                                        もう咲き出した二輪草。今年は咲くのが早い。
 
   【注記】 ①当民話の成立プロセスは筆者の推論であり、一般的に言われている事ではありません。
         ②鉞の神性は円空の両面宿儺を素材に以下に書きました。
 
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光則寺の土牢

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鎌倉新仏教には立派なお弟子さんが居られました。
宗祖道元には「正法眼蔵随聞記」を著した「懐奘」
宗祖親鸞には「歎異抄」を著した「唯円」
そして、日蓮には終生お近くに仕えた「日朗」です。
鎌倉には日朗上人の聖跡が数多く残されています。
共通するのは「花の寺」であり、特に「海棠」が見事なのです。
 
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     花の光則寺。もう臥龍梅は終わりましたが枝垂れ桜が満開です。
     スックと建つ本堂は開山「日朗上人」の立ち姿(托鉢)を思わせます。
 
下総の「平賀有国」は日蓮上人に敬服します。
倅「吉祥麿」を日蓮上人に預けます。
日蓮上人のお近くでそのお役にたちながら・・・、修行を積ませたい・・・、そんな思惑だったのでしょう。
吉祥麿は鎌倉松葉ヶ谷で髪をおろし、日朗の名を預かります。
日蓮は松葉ヶ谷に小庵を結び、布教に励んでいたのでした。
その身辺を小坊主の日朗が整理していたのでしょう。
 
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                       光則寺の伽藍、右端が本堂、左端が山門。撮影場所は土牢の前です。
                       左上には長谷の海が見えます。
 
文応1年(1260年)立正安国論を著し、北条時頼に進言します。
時頼はこれを怒り、日蓮を伊豆に配流します。
文永5年(1268年)には元(蒙古)より使者が遣ってきて、国難が現実化します。
文永8年(1271年)には、念仏宗、極楽寺等が「日蓮が他宗を排撃している・・・」訴えて出ます。
日蓮は再度捕えられ・・・、、腰越の「龍ノ口刑場/現在の龍口寺」で処刑されかけます。
ところが天が裂けて落雷します。
処刑は中止され、日蓮は佐渡に配流されます。有名な瀧口の法難でした。(日蓮50歳、日朗26歳)
この時、日朗は北条時頼の重臣「宿屋左衛門尉光則」邸の土牢に監禁されます。
 
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                    光則寺裏山(北側)の山腹にある土牢。牢前には白椿が咲いていました。
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                                       牢前のたちつぼスミレ。お彼岸の頃が見頃です。
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   土牢の中、午前中は牢の中に陽が差し込みます。中央の石仏が日蓮像でしょうか?
   それとも日蓮上人の無事を祈る日朗上人の姿でしょうか?
 
牢の中には日朗が刻んだ日蓮像が置かれていました。
食事はその日蓮像に影膳として供えて、日朗は口にしませんでした。
毎日、毎日そんな生活が続きます。
牢番人は日朗の健康を心配します。
見かねた牢番人は「食べるように、今のままではお前が死んでしまうぞ!」命じます。
日朗は答えます。
「いや、私は食べる訳には行きません。お師匠さんはあの雪深く寒い佐渡でご苦労されているんですから・・・」
日朗は土牢の中から、ジット外を見詰めます。
 
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                          光則寺を南側から見る。正面の山の中腹に土牢があります。
 
こんな日々が続いて・・・・・、牢番人は人にはこんなに強い絆があるのか・・・・!感服します。
牢番の眼から涙が流れます。
牢番人はこう言います。
「お前がそんなに慕う日蓮に会いたいのなら・・・、佐渡に行ってくるが良い。
その間、私がお前の代わりになって、牢に入っていようじゃないか!」
 
日朗の姿が、牢番もその主の光則も説き伏していたのでした。
光則は日蓮の赦免を時頼に進言した事でしょう。
日蓮が赦免されると日朗が赦免状を持参して、迎えに行きます。
日朗の佐渡行きは8度目だったと言い伝えられます。
強い絆が、信念が勝ち得た赦免だったことでしょう。
光則は、自らも日朗の教えに耳を傾けるようになります。
 
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日蓮は文永11年(1274年)身延山久遠寺に入ります。
同年光則の屋敷はお寺になります。(現光則寺)
以来、鎌倉での日蓮宗の布教活動は日朗が主導するようになります。
同年蒙古が来襲します(文永の役)。
神風が吹いて・・・・、我が国は九死に一生を得ました・・・・、
法華の教えを広めるにはフォローウィンドであったことでしょう。
日朗は鎌倉比企ヶ谷に妙本寺を開きます。
 
弘安5年(1282)日蓮は久遠寺を下りて、常陸の国に向かいます。
その旅先の武蔵国池上で病に倒れられます。
日朗をはじめ主だったお弟子さんは枕元に集まります。
死ぬ間際、日蓮上人の右手にはお母様「妙蓮尊尼」の遺髪が握られていました。
日蓮上人は生前、お母様に孝養を尽くしたい・・・願っていながら、叶いませんでした。
親孝行したい・・・・、果たせなかった思いが・・・、遺髪を日夜離さず・・・持ち続けたのでしょう。
その遺髪を日朗上人に託しこう遺言されます。
「私をこの母と一緒に荼毘にふしてほしい・・・」
遺髪は日朗上人に預けられます。
 
日蓮上人の7回忌法要に際して、日朗上人は池上に本門寺を建立します。
元応2年(1320年)日朗は亡くなります。
「自分が日蓮上人に従って、黒髪を落とした松葉ヶ谷で荼毘にふしてほしい」遺言します。
遺言通り火葬され、お猿畠法性寺(松葉ヶ谷の逗子側)に葬られました。
 
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   満開の妙本寺の海棠。昨年撮影、今年はあと1週間経てば見られます。夕暮れ、いわゆる逢魔時が一番綺麗    で・・・・、ゾクッとします。
 
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                                光則寺の海棠、もう5日もすればこんな状態になる事でしょう。
 
今、鎌倉の日蓮宗聖跡寺院は花で飾られています。
その香しさ・・・、美しさは・・・・・、日朗上人の心のように思われます。
花に感謝し、土牢に教わりながら・・・・、一年で一番香しい季節を満喫します。
 
海棠は今3分咲きです。
満開まで後5日、その後1週間は楽しめる事でしょう。
ノー天気に「海棠は綺麗だ・・・、湯浴みしている楊貴妃の肌のようだ・・・!」
エロティックなシーンを妄想していられるのは・・・・本当に幸福な事です。
 
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                                     3月19日で海棠はこんな状態です。(光則寺)
 
 
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筆子塚の絆に思う

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鎌倉の寺社を歩いていると、筆塚を良く目にします。
東慶寺の筆塚は前田青邨夫妻が東慶寺住職「釈宗演」氏に感謝して作ったものでしょう。
荏柄天神社にも立派な筆塚があります。
此方は鎌倉に住んでいた漫画家の横山隆一が音頭を取って、日本中の漫画家が協力して建てました。
建長寺や浄妙寺には茶筅塚や花塚もあります。
筆も茶筅も花も・・・・・、総て人間と同じように「命」が宿っている。
お役目を終えた「命」に感謝する・・・・、そんな気持ちがこれらお道具のお墓を作らせたのでした。
如何にも日本人らしい・・・・・お墓であり、生命観だと思います。
 
日本の近代化を成功させた要因を、日本人の勤勉さや高い教育水準にあった…、よく指摘されます。
「正直な事、勤勉な事、読み書き算術」を教えたのは・・・お寺の住職であり、寺小屋でした。
私の住む倉田村では「蔵田寺」、岡津村には「西林寺」が寺子屋でありました。
蔵田寺の水谷住職はお子さんが居られませんでしたが・・・・・、先年若いご夫婦を跡継ぎに迎えられました。
そうしたら・・・・、直に亡くなられました。
「安心されたから・・・・・、亡くなられた・・・」 近隣の人がお焼香しました。
水谷住職は戸塚中学などで英語を教えておいででした。
 
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   戸塚岡津の西林寺(浄土宗)は戸塚一番の桜の名所です。今日は此処にある筆子塚の話です。
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                                      西林寺の隣、川上の江戸彼岸桜も今が見頃です。
 
岡津村の西林寺も寺小屋でした。
明治になると、寺小屋は尋常小学校にもなりました。
西林寺の住職「大橋俊雄」氏は・・・…、戸塚中学の歴史の先生でありました。
戸塚の歴史(1979年、1981年、1987年)は同氏の功績で、私も図書館で愛読しています。
亡くなられるとその遺徳に感謝して、文殊菩薩像がつくられました。
同氏が亡くなられた時、私は戸塚区史を編纂した功績を認め「戸塚区民賞」にと推挙したのでしたが・・・・、
「亡くなれた人は対象にならない・・・」却下されてしまいました。
戸塚区はスポーツがお好きなようです。
 
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      文殊菩薩像は大橋俊雄先生が文学博士の学士号を授与された時(平成4年)教え子等がお祝いに造像さ       れました。像は日展作家田畑功一氏、鋳造は佐脇義光氏によります。
 
文殊菩薩像の脇に・・・・、古い石碑があります。
読んでみると・・・・、寺子屋の生徒が・・・・、寺子屋の先生(住職)が亡くなられた時、
感謝してつくった頌徳碑であることが解ります。
寺子屋の子供を「筆子」と呼びますから・・・・、これは筆子塚ということになります。
筆子塚は寺子屋だったお寺には必ずという程残されています。
昔の子弟関係は・・・・、想像を超えて強いものがあったようです。
 
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   寺小屋の先生、西林寺の住職だった「原田由右衛門」の頌徳碑。明治6年、同氏の亡くなったとき教え子(寺子)   が感謝して作った。
 
昔は皆貧乏でした。
子供も農作業の働き手として期待されていたのですから・・・・、寺子屋には払われる授業料も無かったことでしょう。
でも、寺子屋の子弟関係・・・、絆の強さは素晴らしいものがあったのでしょう。
だから・・・・・、筆子達はお金が無いのに・・・・、協力して筆子塚を作って・・・・・、感謝の心を表現したのでした。
 
昨今は子弟関係も荒れています。
一時は荒れる教室が問題になって・・・、生徒たちに批難が集中していました。
最近は生徒よりも暴力を振るう教師が指弾されています。
 
教える方にも、教わる方にも・・・、深く、貧しい問題があるようです。
既に、政治問題化していますが・・・・・・。
先人の子弟の絆に・・・・・、改めて教えられる筆子塚であります。
  
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                 西林寺裏山から境内を眺める。落椿の先、崖には土止めをかねて甘茶紫陽花が植えられています。
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   これが芽吹き始めた甘茶紫陽花です。この葉っぱを刈り取り、揉んで灰汁を出し尽くして、乾燥させると甘茶の   茶葉になります。茶葉を煮出すと甘茶になります。筆者は兄弟で甘茶を作って、花祭りに出しました。お賽銭を    兄弟で山分けした・・・、楽しい思い出です。
 
西林寺には寺子屋の良き教育を誇るように・・・、今年も桜が咲きました。
もうじき・・・・、花祭りです。
境内に植えられた甘茶紫陽花で作った・・・甘茶がいただけます。
懐かしい甘味を味わいながら・・・・思います。
寺子屋の絆こそ・・・・、大切だ・・・と。
 
私は小学校以来、沢山の先生に教えられてきた。
大して社会のお役にたてなくて・・・・、期待外れの生徒だったが・・・・、
感謝する気持ちは・・・・、人一倍強いものがあります。
でも、感謝の気持ちが浅くて、一つとして筆子塚を建てたことがありません。
 
感謝の気持ちは甘茶の甘味に似たところがあります。
香ばしく、甘味で、・・・・・・でも、何処かに空しさが漂っています。
”青春”の言葉の・・・・・・味のようです。
 
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                                    西林寺では甘茶の接待を受ける事が出来ます。
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                              嬉しそうに甘茶を戴くのは筆者と同世代の高齢者ばかりです。
 
                          【追記】 西林寺の枝垂れ桜はこの週末が最後です。
 
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