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乳母桜の艶やかさ

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私はこの春日本文化研究会の仲間19人と秩父往還道に桜を観に出かけました。
   (http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47237264.htmlで書き始めました。ボチボチ続きを書く予定です)
学生時代からの仲間と一緒に旅をすることは楽しい事であります。
その楽しみを増して、更に記憶に留める期待もあって「俳句遊び」をします。
旅先で俳句を作って・・・・、その俳句が誰の作品か当てる・・・、それだけの他愛無い遊びです。
勿論俳句ですから・・・・、作品の優劣も気になりますが・・・、それは問題にしません。
でも、何度も続けていると、皆が上達しているのが解ります。
 
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     今日の写真は群馬県渋川市の白井宿の八重桜です。市場町の中央に堀川が流れていて、その両脇1Kに      八重さくらが花を咲かせます。このピンクの八重は「関山」ですが、沢山の種類の八重が楽しめます。
     文と写真とは桜が共通するだけです。
 
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      足湯もあるのですが、この日は桜まつりの前日で、お休みでした。
 
その俳句遊びでの作品です。
 花びらも 共に愛でるか 露天の湯
 遅咲きに 重ねてみたり うばざくら
露天風呂に入ったら、桜の花弁が飛んできてお湯に浮いたので・・・・桜も一緒に露天風呂に入りたいのか・・・・!
そんな句でしょう。
次の句は・・・・・、「歳を重ねても桜を観ると娘時代のようにはなやいでしまう自分です。
まるで、姥桜のようですね・・・・」  そんな意でしょうか?
”重ねてみたり・・・”が憎いですね。
それで・・・・・、誰が作ったか、作者を推測します。
 
自分自身を姥桜とは言い難いだろう・・・・、矢張り男性の作品であろう・・・、との判断が大勢でした。
で・・・・、蓋を開けてみたらT女史の作品でした。
大半の人が”騙された・・・・!”とぼやきましたが・・・、
もう笑うだけです。
 
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   これは「御衣黄」。貴族の衣服萌黄色に近い事からこの名が付いているのでしょう。京都仁和寺が有名です。
 
 
  
それ以来私はぼんやりですが「姥桜/乳母桜」の事を考えてきました。
今は姥桜と言えば、歳を経ているのに若作りしている叔母さんを言い表し・・・・、
良い意味では使われていないように思います。
 
今朝もNHK朝の連ドラで「あまちゃん」を放映しています。
主演は「能年玲奈」さんですが・・・・・、私は脇役の小泉今日子(天野春子役)に目が注がれてしまいます。
小泉今日子さんは若い時は”なんてたってアイドル”でしたが、歳を重ねて更に輝いているようです。
スッピンがまた素晴らしい・・・・。
脇役が揃っているので・・・、ドラマを安心して見られますし・・・・、多くの世代が一緒に見られます。
”小泉今日子はまるで姥桜だな・・・・!” 思ったりします。
 
小泉八雲の怪談に「乳母桜」があります。
松山にある国宝「大宝寺」の本堂前にある江戸彼岸桜にまつわる民話です。
 
江戸時代の初め伊予の国に徳兵衛と言う名の長者が居ました。
長者夫婦の間には子供が出来ず、お不動さんに願をかけていました。
すると娘を授かります。
娘の名は「露」、でもお母さんは高齢でしたのでお乳が出ません。
そこで、お袖と言う名の乳母に面倒を見て貰いました。
 
露は美しい娘に成長しました。
ところが、15歳の娘盛りに医者も見放す大病を患ってしまいます。
乳母のお袖はお不動さんに祈願します。
その満願の21日目、露は突然に快癒します。
ところが・・・・、お袖は突然に倒れます。
露と入れ替わりに息を引き取ります。
 
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  この八重桜は「普賢象」、普賢菩薩の乗られる象さんのように高貴であり雌蕊が象の牙のように出ているからこ   の名があるのでしょう。乳白色が素敵です。
 
命の際にお袖はこう言いました。
「私はお不動様にお嬢様の命と私の命を引き替えにしてください・・、お祈りしました。
私の願いが叶えられました。その感謝の印としてお不動様のお庭に桜の木を植えてください。」
徳兵衛夫妻は最高に美しい桜の若木を植えました。
その桜はお袖の命日、2月26日にお乳のように白い花を咲かせました。
以来400年、今も見事な花を春の彼岸には咲かせています。
人々は「乳母お袖の桜」と呼びました。
 
彼岸桜は桜の中でも長寿で知られています。
北杜市の神代桜(樹齢2000年)も、今頃咲き誇っている筈の盛岡市の「石割桜」も彼岸桜です。
 
乳母桜とは花の盛りに葉(歯)が無いので・・・・、歯の抜けた姥にかけて呼んだものでしょう。
かなりの年齢でありながら艶めいて美しい女性を誉めた言葉でしょう。
最近は”乳母”よりも”姥”に重点が置かれてしまって・・・、年甲斐もなく若作りの女性を揶揄しているのでしょう。
 
私の友人のT女史は本来の意味の乳母桜で・・・、今も艶めいておいでです。
まるで・・・、あまちゃんの小泉今日子のように・・・・。
 
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     堀川の水は飲めません、300メートルおきに井戸があり、櫓が建っています。
     遠くの雪をかぶった山は白根山と思われます。
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白井宿は新田町・八軒町・上ノ町・中ノ町・下ノ町と整備されている。
各町ごとに共同井戸と火の見櫓が整備されています。
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桜の花弁が堀川を流れていました。堀川はこの市場町が悪路であったので排水を良くするために道の中央に溝を掘ったものだそうです。上流で作られた生糸を白井に集積して、下流の製糸工場に運んで・・・、栄えたものでしょう。
今は観光に精を出しているようです。
 
 
【追記】
白井宿は群馬県渋川市にある歴史的町並みです。
決して宿場町では無い、白井城の城下町、六斎市の開かれる市場町でしたが、村の中央を堀川が流れ、宿場のような景観ですので、白井宿と呼ばれています。
町の東を吾妻川、西を利根川が流れる事から物資の集積地であったのでしょう。
街並み保存の一環で堀川の両側に八重桜が植えられました。
八重さくらは樹齢が30年余り、見栄えも良く成長したので昨今人気です。
4月25日、行ってきました。
文中写真は、この時の写真を掲載しました。
乳母桜が八重桜である…、と言う事ではないのですが。
 
 
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英勝寺の白藤の陰影

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日に日に青葉若葉が色濃くなって来ます。
卯の花を見ようと、鎌倉扇ガ谷の阿仏尼の墓に出かけました。
英勝寺の裏山に櫓があって、その岩壁に貼り付くように卯が根を下ろしています。
その花が良いんです。
あの世の阿仏尼さんも、卯の花がお好きだろうな・・・・、想像します。
何故なら、古代から卯は病虫害に強いので、土地の境界線に植えられたのです。
そして、白い花が咲くと人々は田植えを始めたのです。
阿仏尼さんは京都から遥々鎌倉に下向して、農地の訴訟裁判をします。
十六夜日記はその時の紀行文でした。
だから・・・・、阿仏尼墓に卯の花はピッタリなんです。
 
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                    阿仏尼のお墓。鎌倉石の壁に山藤や卯の花が咲きます。白いのが卯の花です。
 
英勝寺の勝手門に「白藤見頃です!」看板が吊るされていました。
そうそう、此処の書院(お寺では呼んでいます)の縁側の先に、白藤の棚があるんです。
毎年のように見ているのですが・・・・、南・西側が竹林で・・・、東側こそ開けていますが・・・・、
近年は樹勢も衰えてきているようで、少し気がかりです。
先日行った足利フラワーパークでは白藤は未だだったので・・・・、
それじゃあ見て行こう・・・、入ってみました。
 
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      英勝寺書院の縁側の軒先に白藤の棚があります。青楓の間から真っ白い花房の垂れる様を見ると、
      美しさに感嘆の声を発してしまいます。
 
英勝寺は、現在鎌倉にあるただ一つの尼寺です。
お寺を開いたのは家康の側室「於勝」でした。
その戒名「英勝院殿長誉清春大禅定尼」がお寺の名になります。
於勝は名前の通りに勝気な女性だったようです。
家康の徳川幕府の財政を握っていた・・・・、よく言われます。
映画等では出陣する家康を甲冑姿で見送る於勝が出てきます。
 
家康の側室は数も多いし、性格も多士済々であったようです。
於勝は家康の命により徳川頼房の養母になります。
徳川頼房は水戸徳川家を創設します。黄門様のお父様です。
家康公の死後、落飾した於勝は自身の祖先であった太田道灌の屋敷跡に英勝寺を建立し、
その寺に入ります。
現在の仏殿(本堂)は頼房が1636年(寛永13年)に建立したものでした。
以来、水戸徳川家のお姫様が英勝寺の住持(住職)をするなどしてきました。
 
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                         修築を終えた英勝寺の山門、格式の高さを示します。           
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                                                          英勝寺仏殿
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         仏殿の内部、荘厳な装飾はお姫様好みのように見えます。ご本尊の阿弥陀三尊は徳川家光が寄進          したもので、運慶作と伝えています。
 
 
水戸徳川家のお姫様がお寺に入って・・・・、住持をする・・・、少し可哀想な気がします。
於勝のように主が先に亡くなって・・・・、お寺に入るのなら・・・、未だしも、
未だ若くして、綺麗に着飾りたいし、恋もしたいし、遊びもしたい、
それも出来ずに尼寺に入るのは如何にも不条理でしょう。
 
仏殿の四方には蟇股には干支が彫られています。
山門の蟇股は昔話を素材にしています。
若くして尼さんになったお姫様を慰める・・・・、そんな意図だったのではないでしょうか?
四季の移ろいを楽しむ事も、慰めの一つだったことでしょう。
英勝寺は花の寺でもあります。
 
 
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                     書院の南側、青嵐が茂っていて・・・その手前側は竹林です。右端が藤棚です。
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                                                            英勝寺竹林
 
書院とはいっても、少し大きめの平屋建て一軒家のようなものです。
小さな玄関があって、東側に縁側があって・・・・、この家が寺族の住居(庫裏)であり、方丈だったのでしょう。でも肝心の南側は竹林でその先は山です。
日当たりはあんまりよくありません。
戸締りも大変ですし・・・・、決して住みよいようには見えません。
その為に、最近は余り使われていないようです。
 
お寺の方が縁側に腰掛けて、庭を楽しんだことでしょう。
小さな庭先には沢山の山野草が自生しています。
そしてその先には竹林があり大きな山楓があって・・・・、
藤棚があります。
縁側に腰掛けて移ろいゆく季節を楽しめるように・・・・、意図したものでしょう。
 
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                                             白藤の花、バックは青嵐と竹林です。
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      縁台に腰掛けて白藤を見上げます。 時折源氏山から山風が吹きおろしてきて・・・・花房が揺れます。
      もうじき、花も散り始める事でしょう。
 
お姫様には藤の花がお似合いです。
でも、お姫様は綺麗なままで仏門に帰依したのですから・・・・、
白藤が相応しいのです・・・。
「見てください・・・、私綺麗でしょう、真っ白でしょう・・・・!」
そんなつぶやきが聞こえてくるような白藤です。
 
縁台に腰掛けて初老の方がお二人・・・、白藤を見上げておいでです。
手には手帳を持って・・・・、俳句を吟じよう・・・、思っておいでですが・・・、筆は少しも進みません。
美しさは共感しても・・・、言葉が出ないようです。
若しかしたら・・・、言葉が出過ぎて・・・、収拾がつかないのかも知れません。
 
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                            苦吟される叔父さん二人。ガラス戸に藤の花が映っていました。
 
『今年は久々に見事に咲きましたね。
藤は隔年毎に咲くと言いますが・・・、此処の藤は数年来の見事さですね。』
『見れば、藤の幹も太ったように見えますね。
一昨年山門の修復も終えて、境内も整備されました。
竹林も綺麗になったし・・・、
藤棚の土壌も改良したんでしょうかね?』
 
たまにしか見に来ない私達は好き勝手な事を話し合います。
屹度お寺さんは衰え気配だった藤を元気にしようと手入れを良くしておいでなのでしょう。
 
足利フラワーパークの藤には較べることも出来ませんが・・・、
尼寺の白藤には歴史の陰影も籠っていて・・・、ガーデンパークにはない情緒や美しさがあります。
来年、再来年も、咲き誇って欲しいものです。
この勢いなら・・・、連休明けまで楽しめる事でしょう。
 
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   仏殿の蟇股には干支がデザインされています。尼さんが季節の移ろいを楽しんでいただく・・・、そんな意図だっ   たことでしょう。これは鶏と菊の花です。
 
 
 
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朝鮮学校の素晴らしさ

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5月3日憲法記念日、新聞紙上では「憲法改正問題の是非」が特集されています。
憲法改正を容易にできるようにして、次には「自衛隊を国防軍にして・・・」・・・・、
目論見のようです。
世論も安倍さん人気もあってか、憲法改正に傾いているようです。
 
5月3日、横浜の関内地区に「ザ・横浜パレード」を見物に出かけました。
爽やかな浜風に吹かれて、燦々と降る陽光を浴びながら・・・・、
道端に腰掛けて約3時間、パレード見物は楽しいものでした。
流石に横浜は国際都市、ベルギーやアンデスの山国、アフリカ、それに在日の中国、コーリアンなど様々な民族のパレードを満喫できました。
 
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                 横浜鳶組合による「木遣り行列」赤レンガ倉庫前で。
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                      横浜ベイスターズのパレード。(馬車道で)
 
神奈川朝鮮中・高級学校のパレードは34番目、最後が44番の横浜市消防隊でしたから・・・・、もうどん尻近くでした。
華やかなチマチョゴリを着た踊り子が先頭で、大半の学生は制服を着ています。
女学生は白いチョゴリ(襦)と黒の巻きスカート(チマ)を着ています。
白いスカーフ(?)が風になびきます。
これが民族服の正装なのでしょう。
”美しい” 感服します。
アオザイ(ベトナム)の女学生の美しさに劣らない美しさです。
 
神奈川朝鮮中・高級学校は1951年に創設されました。
ですから、ザ・横浜パレード(今年61回目)とほぼ同じ歴史を持っている事になります。
全校生徒200人余りのようですから、何らかの形で全校生徒がこのパレードに参加しているのでしょう。
生徒も、先生も喜色満面、輝いています。
綺麗だなあ! チマチョゴリは、良いなあ・・・・朝鮮学校の生徒さんは・・・!
私ならずとも見物人は思ったことでしょう。
拍手が湧きあがります。
 
 
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       朝鮮中・高級学校の生徒さんによるパレード。先頭は踊り子さんです。 
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      パレードの最後はブラスバンドでした。民族服も歩く姿も綺麗でした。馬車道、      日本で最初に生チョコを売った「シルスマリア」の前を通ります。
 
この春、北朝鮮で核実験が実施されました。
世界中が眉根を曇らせ、抗議しました。
神奈川県議会も、黒岩知事も抗議しました。
それは、当然でしょう。
ところが黒岩知事は・・・・、北朝鮮に抗議してその余り県内5つの朝鮮学校に支給してきた助成金6300万円を打ち切ってしまいます。
理由をこう説明します。
「(世界中の反対を押し切って3度目の核実験を実施たのでは)県民の理解は得られない。助成金交付の可能性は北朝鮮政府が国際社会で受容される劇的な変化があるか否かだ・・・」
神奈川県議会も知事の意見を是認してしまいます。
 
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    朝鮮学校に支給されるべき「授業料無償化の県助成金」を打ち切った黒岩知事。
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   此方は林横浜市長。横浜市は朝鮮学校も含めて授業料無償化助成金を支給を決定しま   した。どうしてこうも違うか・・・、それは政治家の資質の違いだと思います。
 
 
朝鮮学校は抗議します。
「高校の授業料無償化の対象から自分達を適用除外するのは差別である・・・・。」
当然の抗議でしょう。
朝鮮学校が反日教育を、反社会的教育をしている・・・、そんな事実があればそんな措置もあり得るでしょうが・・・・、こうして横浜パレードに参加している姿を見ていると、
日本学校にもまして、社会的であります。
 
核実験は政治の問題であり、反論や対策は外交で実施すべきでしょう。
経済封鎖も疑問ですが・・・、
日本国内のコーリアン、それも税金も払えば、教育も・・・、国民の義務を果たしている人達に・・・・、母国が核実験をしたから…、そんな理由で教育の機会均等を奪うのは蛮行としか思えません。
私達日本人の祖先が、先の大戦でアメリカで受けた迫害を髣髴させます。
 
一方横浜の林市長は同じ問題で県とは全く違った対応をいたしました。
先ず学校を視察し、その上で支給を決定しました。
林市長は経済界出身者です。
一方黒岩知事はフジTVのニュースキャスターでした。
TVが視聴率至上で、自信の判断基準を持たず、人気や世論に追従する性質があるんで・・・・、黒岩知事はその悪弊を表したまででしょうか?
 
コーリアンが民族の伝統や文化に誇りを持つ事・・・・、
そして母国語を軸にした文化や語学力を身に着ける事は大切でしょう。
母国の文化を語れない人は国際人として尊敬されませんから・・・。
在日コーリアンが戦後70年近くになっても差別や偏見と闘っている状況は想像できます。
 
今の北朝鮮の体制はもたず・・・早晩劇的な変化をきたすことでしょう。
現体制が変化さえすれば、こんな謂われなき差別は消えてなくなる事でしょう。
でも、中高校生のハートには差別で受けた傷は残るかもしれません。
 
毅然として、差別に負けずしっかり勉強し、在日コーリアンの誇りある姿を横浜で見せ続けて欲しいものです。
そう願いながら、素敵なチマチョゴリの生徒のパレードを見送りました。
 
日本が右傾化して行くのも心配ですが、次第に国際感覚を失い、偏屈になっているようで・・・・、心配です。
今度の参院選挙、自民党の圧勝が予想されますが・・・・、
その後独りよがりの国になり、アジアのお荷物にならないか・・・・・、心配です。
 
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   横浜馬車道をブラスバンドでパレードする朝鮮中高級学校の生徒さん達。
   チマチョゴリの民族服姿が新鮮で…美しい事です。もう、10年近く前だったでしょう   か、高校生の制服が切られた事件がありました。あの時もショックでしたが、今回の   助成金打ち切りは良識ある政治家やや議会が判断した事・・・・、もっとショックで   す。
 
 
 
 
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五月晴れの龍舞(横浜中華学院)

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昨日は「ザ横浜パレード」で活躍した朝鮮中高級学校を紹介しました。
今日はもう一つ、横浜中華学院のパレードを紹介します。
 
同校は横浜中華街の真ん中、関帝廟の南にある中学校・高校です。
横浜市民にとっては春節に際して、獅子舞、龍舞を演じてくれる・・・・、馴染みのある学校です。
でも、春節は旧暦の正月で、一番寒いときです。
見る方も大変ですが、演じる方も難儀でしょう。
加えて、中華街は狭いんです。
狭いから・・・・、龍や獅子に触れられて良い、と言う意見があるかも知れませんが、
やっぱり、広々とした通りで、勢いよく舞わせてやりたいもんです。
 
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       春節での中華学院生徒さんの竜舞。街路が狭いので龍が見物人や電信柱にぶ       つからないように演じます。
 
赤レンガ倉庫の前は6車線もある広い通りです。
遥か彼方、クィーンタワーの前を折れて、龍舞の一団がやってきます。
先頭は・・・・、女学生の踊りです。
そして、2頭の獅子舞と、龍が舞ながらやってきます。
 
道路の左右の観客に・・・・、等しく喜んでもらえるように・・・・、
時に走りだし、時に地に伏し、時に天の昇って・・・・、
龍も5月の風が気に入って、一段と勢いが増しているようです。
春節も観客が多いんですが、ザ横浜パレードは観客がズット多いし、
季節も良いし・・・・・、
まるで息苦しかった中華街から解き放されて・・・・、
歓喜雀躍しているようです。
嬉しいのは龍であり、生徒さんでもあるでしょう。
 
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      中華学院生徒さんのパレード、先頭は華やかな踊りです。
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赤レンガ倉庫の前を行く、龍舞。
 
プログラムには「絆・龍馬精神」と案内されています。
生徒さんのメッセージは、今一番大事なのは人と人との絆であり、時代を切り開こうとする坂本龍馬のスピリットなんだ・・・・、言いたいのでしょう。
心を合わせて難局を切り開こう・・・、メッセージは誰しも共感している事です。
この春、中華街も都心から地下鉄が直結して、一層賑わっているようです。
 
龍舞・獅子舞は中華学院のお父さん達・・・・、「横浜華僑総会」も演じました。
此方は金色の龍と、もう一頭、虹色の龍も舞います。
二頭の龍が、前後になり、横に並び、顔を突き合わせたりしながら・・・、
戯れるようにして舞います。
私は赤レンガ倉庫から龍の後を追って、馬車道で龍を待ちました。
 
 
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     海岸通りを行く二頭の龍、此方も主役は中華学院の生徒さんです。約2キロの行     程ですが、元気に走り回るのは生徒さんの得意で、お父さんにはキツイ事でしょ     う。
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    虹色の龍も良いもんです。黄色い龍が男なら虹色の龍は女性でしょう。
 
馬車道は最も早く賑わったお洒落なストリートでした。
ガス灯が照らし・・・、日本で最初にアイスクリームや生チョコが売られた道です。
街路樹の青葉も色濃くなってきました。
その中を龍が舞います。
爆竹が破裂して、濛々と煙が立ちあがります。
その中から・・・、龍が顔を出します。
新しい街から、古い街に進んで・・・・、
龍は観客さえいれば・・・、どちらも嬉しそうです。
矢張り龍舞は季節の良い5月が似合いそうです。
 
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                       海岸通りから馬車道に入ります。
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                        濛々と立ち込めるのは爆竹の煙です。
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                                馬車道で舞う龍
 
ザ横浜パレードは昔は「国際仮装行列」と呼ばれていました。
でも、近年はメッセージ性の高いパレードになっているようです。
日産自動車やキリンビールのように横浜に縁深いグローバルカンパニーから、
昔ながらの木遣りや祭り太鼓、東北復興の虎踊りや民謡・・・、そして米軍座間キャンプやベルギー、フィリッピン、アンデスの民俗など国際色も豊かです。
 
プログラムには無かったのでしたが・・・・、コスプレの一団がパレードしました。
此方は、コスプレ好きの…、普段は秋葉原にでもいそうな少女たちが・・・・
”私って可愛いでしょう・・・・”主張しながらの行進です。
翌日の読売新聞では、このコスプレ少女がカラー写真で載っていました。
コスプレは最近の流向でしょうが・・・・、
国際仮装行列と言った時代の、元々の姿でもあるのでしょう。
今後はこんな個人個人の主張が増えてくるような予感、期待が膨らむようです。
 
私の住む戸塚区では戸塚高校の生徒さんがパレードに参加していました。
ゴミの総排出量を抑えて、ゴミの資源化を進める・・・、環境負荷の小さい街にする・・・、「横浜3R夢(スリム)プラン」を当局と一緒にパレードをしていました。
最後にその雄姿を載せておきます。
 
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コスプレ少女のパレード。
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戸塚高校バトン部は横浜3R夢プラン(市資源循環局)と一緒にパレードしていました。
 
 
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初夏の腰越風景

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日に日に青葉が濃くなって来て、もう春の装いは脱ぎ捨てなくてはならないようです。
魚屋の店先にはカツオが並び始めましたが、でも未だ地物は出回らないようです。
 
初夏を求めて、鎌倉の西腰越に出かけました。
私の好きな魚屋「腰越平勝」の店頭では、鯵や鰯、カマスを天日干ししています。
陽射しは強いし、良い風が吹いていますから・・・・、良い干物が出来そうです。
シラス屋さんの店先には100mもあるでしょう、長蛇の列です。
腰越の網本「勘浜丸」さんは商売上手で、海岸通りの店を開き、腰越通りの旧店も新装して、どちらも大繁盛です。
みんな、初夏になったら「生シラス」を食べたいのでしょう。
シラスは3月半ばから解禁されています。(鮎の資源保護の為禁漁期間があります)
 
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      この春新装した「しらすや」屋さん。生シラスを食べたい人が長蛇の列です。
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         腰越の魚屋さん「平勝」の店頭風景、天日干しも色々な地物が並んでいます。千鳥の暖簾が粋です。
 
腰越の魅力は昔ながらの漁港風景が残っている事です。
江の島や七里ヶ浜は洋風なレストランやマンションが並んでいますが、
腰越は今も昔ながらの町並みです。
江ノ電も此処だけは路面を走ります。
 
4月の義経祭りは生憎の天気でしたが、盛大に行われたことでしょう。
腰越状で有名な満福寺さんは、新しい道祖神を建立しました。
交通事故が多発する腰越交差点で、4基の道祖神が海の安全を見詰めています。
2基は江戸時代のもの、もう風化が進んで姿形が解らなくなってしまいました。
そこで、お寺さんが新しく道祖神を奉納しました。
今春に二つ目の新しい道祖神を並べたようです。
千曲川沿いに良くある風の、童姿の可愛らしい道祖神です。
 
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   満福寺が祀っている道祖神、中央二基は江戸時代のもの、左右の二基が現住職が祀    りました。一番右はこの春に建ってように思います。腰越の三叉路に祀られていま    す。
 
腰越漁港は小動岬の東西にあります。
東側漁港は大変に小さな漁港で、網元は1軒だけのようです。
上の写真の目の前の交差点を渡った先にあります。
シラスの売店もあります。
腰越漁港では毎月第一、第三木曜日に朝市を開きます。
人気の朝市ですが・・・・、海岸通りの交通量も多いので、
意図的にお客の少ない日にしているのでしょう。
 
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    腰越東漁港、向こうの岩場は小動岬です。手前はもう咲き始めた浜昼顔。家族連れ    が磯遊びをしています。
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                        磯遊びに夢中な子供達。
 
私は、道祖神の見守る交差点を渡って、腰越漁港に下ります。
もう、浜大根の花も種になろうとしています。
一方、もう浜昼顔が咲き始めました。
子供達が磯遊びに夢中です。
何を採っているのか?
バケツ代わりの食器を見せてもらうと・・・ヤドカリです。
蟹もいます。
 
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                           食器に入れられたヤドカリ
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                            ワカメ拾いのお母さん
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                    砂イソメは魚釣りの餌になります。
 
お母さんはワカメ拾いに夢中です。
ワカメを採って帰った船が捨てたものでしょう。
此処のワカメはブランド物・・・・、
形の整わないワカメは干さないで捨ててしまうのでしょう。
でも、捨てらたってワカメの柔らかく、美味しさには違いは無い事でしょう。
 
お父さんは、磯で砂を掘っています。
プラのバケツには・・・・、大きな砂イソメがゴニョ・ゴニョと蠢いています。
訊けばこの後に、漁港を守るテトラポットの上から魚釣りをするそうです。
「何が狙いですか?」聞けば、
「鯛も、鯵も、鯖も・・・・、五目だよ・・・」
「こんなに沢山餌を採っても・・・・、使い切れないと違いませんか?」訊けば、
「魚影は濃いんだよ・・・、これでも足りない・・・」
 
磯は家族皆を楽しませてくれます。
みんな健康的で、活動的です。
海を見詰めているのは・・・・、恋人たちだけです。
でも、みんなそれぞれに夏色が濃くなってくる海をエンジョイしています。
 
浜風がお嬢さんのスカートの裾を悪戯して通り過ぎて行きます。
もう、夏は其処まで来ているようです。
 
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                    浜大根の花、もう種が出来ています。
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                       浜昼顔はもう咲き始めました。
 
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秩父銘仙を伝える情熱(秩父往還紀行3)

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4月10日、秩父札所4番、金昌寺を後にして次の目的地「秩父銘仙館」に向かいました。
(金昌寺の首なし石仏群は次に書きました。
私達はこの旅行の後で「打ち上げ」と称して、懐石料理を楽しみます。
毎回、お着物で来られる方が数人います。
宴席は先ず、着物を誉めて・・・、お酒が進みます。
そんな次第ですから、各地の織物に関心が高いのです。
勿論、秩父銘仙が似合いそうな人ばかりです。
 
秩父銘仙館では伝統工芸士の新井啓一 氏(新啓織物/あらけい織物)が説明して下さいました。
同社のHP(http://www.arakei.com/)によるとこの日は新宿高島屋で催事の初日でありました。
   (因みに5月17日から3日間、横浜三溪園鶴翔閣でも展示されます)
息子夫婦の晴れ舞台を見たかったでしょうが・・・・、一日遅らせて下さったのでしょう。
新井氏のデスクには標語が貼られています。
「良い伝統を後に遺してゆく事が今を生きる者の責務である」
同氏のモットーのでしょう。
 
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    銘仙の道一筋 、デスクに座って熱心に説明される新井伝統工芸士。           新井氏の写真はHPはじめ随所に出ていますので、掲載させていただき戴きました。
 
現在の秩父銘仙館の建物は、秩父銘仙が力があった昭和5年に竣工しました。
秩父銘仙の業者が作る織物組合が繊維産業の向上と振興を図る目的で建築し、
埼玉県秩父工業試験場を誘致したものです。
事務所棟は大谷石の石積みの上に、木造建屋が乗っかって出来ています。
昭和初期と言えば西洋ではアールデコが流行った時代です。
それが日本にも影響して、装飾的な特徴が随所に見られて、ノスタルジックな雰囲気です。
  (複数の柱の重束・軒裏・半円形窓・正面入口部の車寄せ・室内ドアの飾り)
特に渡り廊下の半円形の軒や、北側から採光するために鋸の歯のような形をした工場棟屋根が目を惹きます。
これ等総てが国指定の登録有形文化財となっています。
 
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   鋸の歯のような形をした屋根、板張りの壁、工場棟も国の登録有形文化財です。
 
最も生産量の多かったのは大正10年頃、秩父地方では4,000戸が生産に係り、7割の人が織物に係っていたそうです。
それが、現在は10社(戸)に減ってしまいました。
新井啓一氏は良かった時代に育ち、衰退していく中で必死に伝統を守り、家族を支えてきたのでしょう。
機音(はたおと)を子守唄に育った倅新井教央が後を継ぎ、
嫁さんも迎え、お孫さんに囲まれているそうです。
此処秩父銘仙館で説明をしたり、教室で教えて居られます。
伝統を継承する情熱が一言一言や手振りに伺われて・・・・、心地良いものがあります。
「日本の原点は地方にある・・・」改めて痛感させてくださいます。
 
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  秩父銘仙は屑繭(輸出に向かない不揃い出来の悪い繭)を原料に農家の副業として始まり  ました。素材の強靭さと、手間数のかかった長持ちする織物です。 
 
 
壁に秩父銘仙の製造工程表が貼られています。
まあ、大変な手間数がかかる織物です。
京都の友禅なら真っ白な絹織物に絵筆で美しい伝統模様等を描きます。
表は綺麗ですが・・・・、裏を見せることはありません。
秩父銘仙は明治の後半に「ほぐし捺染(なつせん)」と言う新技法を考案します。
 
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  型染めを説明される新井氏、柿渋で作った型紙の上から刷毛で染色してゆきます。
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   捺染工程を説明する新井氏。型染めの要領で大量生産します。
   手にしているのはシルクスクリーンで、これを使って縦糸に柄を染色します。
   壁には代表的な秩父銘仙の柄が懸けられています。
   その上には工程表が掲示されています。
 
こうして染色された縦糸を巻き戻します。
一方で緯糸も糸繰りしておきます。
用意した縦糸、緯糸を本織りにかけます。
一寸のズレも生じないように細心の注意を払いながら織り込んでゆきます。
 
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   本織りの工程、縦糸に図柄がセットされています。無地の緯糸が絣になる事から独特   の風合い、渋さと言うか奥行のある絵柄が出来上がります。
 
 
私の母は嫁ぐ前、桐生の女学校の先生もしていました。
ですから・・・・、我が家の布団も、座布団も、母のお洒落着も銘仙(主に伊勢崎方面)でした。私の使ったオシメも座布団の古布だったことでしょう。
ですから・・・・、銘仙と聞くと特別な懐かしさが込みあげてきます。
そんな銘仙のルーツが秩父でありました。
 
新井氏には、その秩父銘仙を残したい情熱が迸ります。
伝統を継承する情熱が一言一言や手振りに伺われて・・・・、心地良いものがあります。
「日本の原点は地方にある・・・」改めて痛感させてくださいます。
 
予め説明を30分程度でお願いします。
言っておいたのですが・・・、私の仲間が執拗に質問するもんですから・・・、
ゆうに1時間は越しています。
更に、お土産コーナーで時間がかかります。
まあ、何時もの事だから仕方がありません。
 
理事長室は立派です。
昭和天皇も随行され多様で・・・、その時の写真が誇らしげに架かっています。
一方の壁には武甲山の写真も架かっています。
この山は秩父セメント(現日本セメント)の山でした。
今では秩父市内から見ると山容は変貌してしまいました。
もう、昔日の面影はありません。
 
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  理事長室。歴代の織物組合理事長の写真の横に武甲山の写真が架かっています。中腹が  削られていますが山容は残されています。
 
この理事長室でコーヒーを戴きたいなあ・・・・!
実感です。
 
昭和レトロは大人気で、このゴールデンウィークもラーメン博物館は大混雑だったことでしょう。
ラーメンは昭和30年代は御馳走でした。
でも、喫茶店こそ昭和の文化だったような気がします。
今も、NHKTVでは「あまちゃん」を放映しています。
テーマ音楽は蒲田行進曲のテーマを思わせます。
”スットコドッコイ・スットコドッコイ”とも聞こえます。
昭和歌謡をジャズで流して・・・、深い味のコーヒーを戴きたいものです。
勿論ウエートレスは秩父銘仙を着ています。
 
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   秩父銘仙館の理事長応接室。右のお人形(陶器)は織姫様。壁の写真は昭和天皇(昭和32   年行幸)。昭和レトロの名建築です。此処でコーヒーを戴きたいのが筆者の欲求です。
 
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        理事長室の衣文懸けに懸けられた秩父銘仙の着物。
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   此方は最新の秩父銘仙の絵柄、渋みが薄らいで明るいトレンドのようです。
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                               最新の図柄
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    秩父銘仙は代表的な女優を使って販促していたようです。
    佐久間良子さんも素敵でした。
 
 
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白雲木に寄せる平和への祈念(鎌倉浄智寺)

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4月20日に浄智寺に登り「アートエキスポ2013」を観ました。
           (http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47227679.html)
その折、名物の「白雲木」の蕾を確認しました。
浄智寺の白雲木は大木で花房も大きく・・・、見事なものです。
でも、昨年は殆ど花が着きませんでした。
今年は・・・・、大いに期待できそうです。
楽しみにしてきました。
 
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          国立昭和公園(立川基地跡)の白雲木、向こうはシンボルの大欅。
 
家内が千葉の友人T氏のお庭の白雲木が咲き始めた・・・、言います。
5月5日、立川にある「国立昭和公園」に出かけました。
未だ若木ですが、公園には数本の白雲木が植えられていて、
子供達がその木陰で遊んでいました。
白雲木は春から夏に移る頃、柏のように大きな葉を茂らせ、花をつけます。
一つ一つの花はベルのような形をしています。
花が葡萄の房のように垂れて、優美な姿です。
真っ青な青空を背景に白い花が咲く様が、白い雲が立ち昇って行くように見えるので、
白雲木の名が着いたのでしょう。
白雲木・・・・、響きも素晴らしいものがあります。
 
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     浄智寺の白雲木、緑の山から白雲が立ち昇るように花が咲きます。
     手前の丸いのが「世界平和」の碑です。
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               世界平和の碑、周囲は白雲木の落花で覆われていました。
 
浄智寺の白雲木の樹下、西側に丸い石塔があります。
”世界平和の塔”と記されています。
白雲木の東側にも世界平和と刻まれた碑があります。
碑には次の和歌が見えます。
 待ち侘びし 平和の光さし出でて
    千代に守らん 四方の人々
和歌の作者は大河原幸佑氏で大河原戦友会会長となっています。
その次に、朝比奈宗泉と記されています。
長い戦争が漸く終わった、これからは四方の人々と手を結んで世界平和を実現しよう・・!
兵隊さんだった人の決意が刻まれています。
 
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                      白雲木の向こうには曇華殿の甍が見えます
 
朝比奈氏はこのお寺の住職で昨年8月亡くなられました。
鎌倉には、円覚寺にも建長寺にも、そしてここ浄智寺にも無名戦士や電撃戦士の慰霊碑があります。
何れも「世界平和」を祈念する事こそ・・・・、生き残った人々の責務で、慰霊にもなる、
そんな確信が伺えます。
 
靖国神社には桜が似合います。
桜の花の散る様が、不幸を助長した側面もあります。桜に罪はありませんが・・・・。
建長寺の電撃戦士の慰霊碑は翌檜(あすなろ)の林の奥にあります。
浄智寺は白雲木の樹下です。
勿論、世界平和の碑を建てて、同時に白雲木を植えたのではなく、
碑を建てる場所を何処にしようか?
探したところ、白雲木の樹下が最適だ・・・・、そんな順番だったのでしょう。
碑を建てた時、境内に数本の白雲木を植えられたようです。
参道に二本、方丈庭園に一本、まだ若木ですがいい花をつけています。
平和に白雲木は良く似合います。
 
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                       浄智寺白雲木。バックの暗闇は高野槇の大木です。
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      白藤のように垂れて咲きます。これだけ花をつけるのは大変で、見事に咲くのは隔年毎のようです。
 
お釈迦様は陰暦2月15日に亡くなられました。
お寺では、お釈迦様の涅槃される有様を描いた絵を掲げて、
涅槃会の法要を営みます。
釈迦涅槃図を見ると、誰しも思います。
”自分も死ぬ時は、あんなに安かな顔をして居たいものだ・・・”。
”肉親や友人にも、出来れば動物にも、更に植物も・・・・、自分の死を見送って欲しんものだ・・・” 思います。
そして、また、日々の修行や仕事に励みます。
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   遊行寺の釈迦涅槃図。横臥されたお釈迦様を沙羅双樹が囲んでいます。
   緑の沙羅双樹は見る見る黄ばみ更に白化して行きます。
 
 
お釈迦様の四方は沙羅双樹の大木に囲まれています。
沙羅双樹は全身の力を振絞って花を咲かせ、花を散らします。
そして白化してゆきます。
 
沙羅双樹は暑いインドの樹です。
お釈迦様の教えはヒマヤラを越えて中国から日本、ベトナムからタイに伝わります。
各地方で仏典に記された沙羅双樹に似た木を探します。
中世、日本中が無常観に覆われた時代、日本人は沙羅双樹を夏椿で説明します。
夏椿の、花が白い事、一日花でポトンと散る潔さが選ばせたのでしょう。
でも、夏椿は精々10m位しか樹高がありませんし、樹は硬くても樹形が貧弱です。
大樹特有のピラミッドパワーに欠けます。
その点では白雲木こそ沙羅双樹のイメージに合っています。
ですから、最近は白雲木をお寺で見る事が多くなりました。
お釈迦様の三大聖樹とは
「百日紅(誕生樹)」「菩提樹(悟聖樹)」「白雲木(涅槃樹)」の事です・・・・、と。
 
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                                                 白雲木の花に群がる熊蜂
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白雲木の花蜜を吸う黒い揚羽蝶 
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白雲木の樹下に立つと、後から後から花が散ってきます。
強い芳香が漂います。
メジロも梢を飛び回っています。
ブン・ブン熊蜂が飛んで来ています。
黒い揚羽蝶もやってきて・・・、花蜜を吸っています。
青筋揚羽もやってきます。
人も鳥も虫も・・・、みんな白雲木が好きなのです。
 
極楽寺の白雲木はもう終わりました。
浄智寺の白雲木は今が見頃です。
今週末まではもたないと思います。
咲き出してから散るまで精々1週間の花なんですから・・・。
時間が許せば是非お出かけください。
 
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       浄智寺さんでは卯の花も見頃です。布袋さんの祀られている櫓の前で。
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      浄智寺、如意輪観音。筍が青竹になるのを感慨深そうに見ておいでです。
 
 
 
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初夏の鵠沼海岸スケッチ

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藤沢の鵠沼は、引地川(ひきじがわ)、境川が作る沖積地です。
砂浜に湿地が広がり、一面の葦原だったのでしょう。
屹度、根室の根釧湿原のように・・・・、
其処には沢山の白鳥が見られたから・・・・、鵠沼の名が着いたのでしょう。
今では、憧れの住宅地です。
藤沢駅から都心まで一時間、サンドバレーの会場にもなる広い砂浜と、
サーファーが群れる海があります。
初夏になれば砂浜には浜昼顔の花が咲き始めます。
5月8日、初夏の風景を観に出かけてみました。
 
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   もう咲き始めた初夏の風物詩「浜昼顔」の花。右に引地川が流れ、海に浮いているの   が江の島です。
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      海浜にはジョギングやサイクリングが出来るロードがあります。
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    引地川の河口、遠くに富士山が見えます。ジョガーがひたむきに走ってゆきます。
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    引地川の護岸壁の突端に親子が遊んでいました。
    沢山のサーファーが波乗りに興じています。この日は鎌倉の海はベタに凪いでいま    したから、サーファーにとって鵠沼が一番だったのでしょう。
    この辺りから見ると江の島のタワーも真っ直ぐに見えます。片瀬の辺りから見る     と右(北)に傾いて見えます。島の形が作る錯覚なのでしょう。
 
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  引地川の河口部で、餌を食む磯鴫。波が引いた跡に出る泡が目安になるのでしょう。泡  の跡に長い嘴を突っ込み砂イソメを漁ります。
  西行法師の歌「こころなき 身にもあわれは しられけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」は鵠  沼だろうという意見が多数派です。(大磯鴫立庵の辺りは少数派)
  写真の磯鴫か、田鴫かは意見が分かれます。
  磯鴫は写真のように群れていますが、田鴫は単独で居ますし、静止している事が多いの  です。田鴫は次に書きました。
 
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           砂丘の向こうのブルーの家は小田急の経営するプールです。
 
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  鵠沼海岸から西を見ると、茅ケ崎のサザンビーチから、大磯のこゆるぎ浜に続きます。
  鎌倉だけが浜辺の命名権を売出し、個人一人法人7社が手を揚げたそうです。
  鎌倉市は相模湾にある自治体で一番に窮しているのでしょう。
 
 
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「自産自食」の蕎麦の味。(秩父往還紀行4)

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秩父銘仙館でも予定を遥かに超えて時間を要しました。
ようやく昼食を取る事になりました。
 
当初、銘仙館に近い農園ホテルで「野菜料理」を戴く積りで予約を入れておきました。
ところが、同施設から電話が入りました。
電話の内容を、インターネットで確認すると、宿泊客にノモウィールスが発見された・・・、との事のようです。
そんなこともあって、急遽ランチの施設を変更です。
 
秩父と言えば蕎麦が有名ですし、私をはじめ仲間は蕎麦が好きです。
そんなわけで、蕎麦屋にしました。
 
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  国道140号線(秩父往還道)大滝に看板が出ています。 道路右下の渓谷は秩父湖から流れ  ています。
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      大滝鶉平の集落。右下に国道140号線が走っています。
 
蕎麦屋「紺屋(こうや)」は雁坂道も奥、三峰神社の先も先・・・・、道路端に看板があって・・・、その看板から入った集落の中にあります。
基本的には週末営業ですが、電話予約をすればウィークデイも開店してくれます。
『店主一人の営業だから・・・・・、予め注文はハッキリさせておいてくれ、
蕎麦しか作れない・・・・、セルフでやってくれ・・・』
店側からの注文が五月蠅いようです。
でも、好みを言えば何でも聞いてくれます。
 
電話の向こうの店主黒澤さんは頑固者のようでいて、実は良い人なのでした。
私はもりそば(600円)に蕎麦豆腐(300円)野菜のかき揚げ(300円)を注文しました。
『一人で作るんですから・・・・、時間がかかりますよ!、協力してくださいよ』
終始高飛車です。
『待っているのは構いません・・・・、でもお宅を見学させていただきますよ』
 
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     もりそば600円、実に美味しい、歯触り、喉ごし、風味とも関東好みです。
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     事前から・・・、蕎麦豆腐、かき揚げを頼んでおきました。これ等は店主が普段     食べているもののようです。
 
「大滝鶉平と言うんですから・・・、この辺りは鶉が生息しているんですね?」
訊けば
「鶉は滅多に見ないよ。でもカモシカや猪は頻繁に出て畑を荒らして困るんだ、
そこで、畑の周りには電線を張っておいてあるよ・・・」
言われて改めて畑を見やります。
何処から何処までが畑で、その先が山なのか、お隣の畑なのか解りません。
でも、この畑で黒澤さんは野菜を作り、蕎麦を育てているんです。
自分で育てて・・・、自分で食べる・・・「自作自食」をして・・・、
そのお裾分けを旅行者に振舞っているようです。
 
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    一軒家の黒澤氏宅、周囲の畑で蕎麦をはじめ野菜を自作して、自食しておいでで     す。この大きな家でお一人です。
 
 
私達が食べ始めると、黒澤さんは厨房から出て・・・、話し相手をしてくれます。
一日中話し相手がいないんですから・・・、
お客さんが来れば話したくってしょうがないのでしょう。
「お客さんはどんな仲間なのか?」
「どうして、この店を知ったのか?」
「数ある秩父の蕎麦屋さんの中で・・・・、何故紺屋を選んだのか?」
質問はマーケッティング戦略に乗っているようです。
 
実はこの店を選んだのは私で、感心したのはそのホームページでした。
実に簡略ですが、要を得て、行きたくなる画面なのです。
「ホームページを見て、秩父市内の名店を差し置いて、このお店で食べたい!
と決めたんです。誰があのホームページを作ったんですか?」
訊けば、
「ホームページも含めて、総てが自作ですよ。
自分は秩父を出て、東京で働いていたんですが・・・・、矢張り故郷に戻ろう・・・、ターンしてきたんです。」
サラリーマン時代があったから・・・、ホームページ作りもお手の内だったのでしょう。
「生家の天井の下で雨の日は読書をし、晴れた日は畑を耕し、自作した農作物を食べているんです。得意の蕎麦作りをして、週末はお店を開いてお客さんに食べて戴いています。」
 
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  奥座敷の長押には叙勲状が掲げられていました。昭和45年お爺さんが受けたのでした。
 
屋敷を見れば、額縁に叙勲が掲げられています。
昭和45年のもので、聞けばお爺さんが地元の消防団を始め、代議士もしたそうです。
黒澤家は鶉平の村長だったのだそうです。
そのお孫さんが村を出て・・・、東京で何があったのか?
中年になって一人で戻ってきたのでしょう。
家族はどうなっているのか? 気になりますが・・・、聞けません。
判る事は、今は一人だという事です。
電話の向こうでは、とっつき難そうな人ですが・・・、
実に笑顔が素敵な人懐っこいお人です。
全員で記念写真を撮らせていただきました。
 
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     囲炉裏前、炬燵、座卓3箇所に分かれて19人、お蕎麦を戴きました。
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   蕎麦作りを終えると店主の黒澤さんが厨房を出て・・・、お相手をしてくれました。
 
今「地産地消」が叫ばれています。
地域で生産されたものを地域で消費して・・・、輸送コスト、CO2の排出を抑えようとするのが行政の主張でしょう。
 
消費者は
”安心して農産物を口にしたい、作られた土壌や肥料農薬の事も知りたい・・・・、生産者の顔が知れれば安心だ・・・・”、そんな欲求です。
TPPが実施されればこの欲求は一層強まる事でしょう。
それは「安心して農作物を食べたいから」、
裏を返せば
「食べ物には危険が沢山潜んでいるから・・・、農薬や化学肥料を沢山つぎ込んで・・・遺伝子組替え農作物が出回っている。中国産は特に心配だ・・・」
思っているからでしょう。
20年前までは日本の農家でも
「農作物を商品にするものと自分で食べるものと作り分けている」聞かされたものでした。
 
”安全な農作物を食べたい”欲求は、最近もう一歩進んで・・・
消費者は農産地と結びつきたい・・・、欲求するようになりました。
家内の友人も姨捨山「田毎の月」で棚田を作ったり、
飯山の林檎の樹のオーナーになっています。
生産者サイドでも消費者との関係を密接にすることは、流通コストをカットし、自分達を活性化させると気付き始めました。
こうして『地産地消』は環境対策から数歩前進して・・・・、
農産地と都市の活性化策に、農家とサラリーマン家庭の短絡化になりました。
 
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                  各地に目立ち始めて地場農産物の直売施設
 
でも究極は「農作物を自分で作って、自分で料理する」事でしょう。
最初は安心出来る農作物を食べたい・・・、欲求ですが、
農作物を栽培する喜びに取り込まれます。
なんか・・・・中世の、江戸時代のお坊さんの世界のようになってきます。
「紺屋」のお蕎麦もそんな世界にあるようです。
私の胃袋を喜ばせてくれました。
 
前述のホームページを確認して、是非食べてみてください。
「地産自食」は究極の贅沢です。
そのお裾分けですから・・・・、最高に美味しいんです。
 
 
 
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しとどの窟と石仏群

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黒澤明監督の「七人の侍」、その時代考証をしたのが日本画家の前田青邨画伯でした。
黒澤監督が何故、前田画伯に依頼したのか?
それは、同画伯の新境地を開いた「洞窟の頼朝(重要文化財)」の素晴らしさに感銘したからだと想像します。
岐阜県中津川はもう一人偉大な画家「熊谷守一」を輩出します。
守一は油絵を描きながら・・・、日本画に接近します。
前田青邨は日本画を学びながら、油絵を試みます。
洋行して、フレスコ画を学びます。
帰国後、大和絵の伝統にありながら、フレスコ画の技を使って「洞窟の頼朝」を発表、
歴史画と呼ばれる新ジャンルを開拓しました。
 
中央の赤い鎧をつけた若武者が頼朝です。
巌谷の中から、表を方を大きな眼で見詰めています。
表には追っ手の平家軍が自分を探しています。
緊迫した画面です。
頼朝の眼には「時代を切り開く」意欲と、覚悟が窺がえます。
(前田青邨画伯の事は次に書きました:http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45646235.html)
 
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1159年(平治元年)平治の乱で敗れた頼朝は伊豆国の蛭ヶ小島に流されました。
1180年(治承4年)源氏再興を目論んで挙兵します。
8月23日石橋山で大庭景親が率いる平家軍に敗れ、湯河原の山中に逃れます。
そして、「しとどの窟」に身をひそめます。
 
平家軍の中には梶原景時がいました。
景時は頼朝主従がこの岩屋に身を潜めている事を知りながら・・・・、
「此処には誰も居ない!」大庭景親の手を引いて討っ手を真鶴の海に導きます。
この時、絶体絶命の頼朝を見逃さなかったら・・・・、歴史は変わっていたことでしょう。しとどの窟は一度は見ておきたい、思いながら・・・・・、
行ったことはありませんでした。
そこで、足元がしっかりしているうちに見ておきたい・・・、
思って家内を誘って出かけました。
 
いつも頼りにしているカーナビにもしとどの窟は出てきません。
箱根大観山から湯河原に下る「椿ライン」の途中に、伊豆箱根鉄道の路線バスの停留所「しとどの窟」があるから、其処に車を止めて・・・・、
山道を20分も下れば岩窟に着ける・・、聞いていました。
途中「不動の滝」の茶屋の主人に確認すると、
私と家内の顔を見て、
「大変ですよ・・・!」 無理と言わんばかりです。
そう言われると、なおさら行きたくなります。
 
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          城山隧道を潜り、山を下れば「しとどの窟」があります。
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       しとどの窟への山道の入口に祀られた子安地蔵尊。
       左に桜郷史蹟由来の案内があります。
       近辺に散逸しかけていた石仏を此処に集めた経緯を案内してありました。
 
急な坂道ですが・・・・簡易舗装がしてあります。
布引観音や国東熊野磨崖仏の道に比べれば・・・、歩き易い坂道です。
おまけに道の左右に弘法大師像が祀られています。
数えませんでしたが、多分88体あるのでしょう。
岩が転げ落ちているようです。
その岩が大師像を祀った石の祠に激突して・・・、所々祠が壊れています。
立派な石灯籠も続いています。
案内によると、此処は元来関東地方での修験道発祥の土地なんだそうで・・・、
様々な神仏が祀られていました。
散らばって無くなってしまう事を恐れて、此処しとどの窟の道に祀ったのだそうです。(昭和45年)ですから、この地方の様々な神仏が隣同士に並んでいます。
 
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               しとどの窟に下る坂道の両側には大師像が並んでいます。
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                      誰かが大師像の唇に朱をさしました。
 
“しとど”とは猪か、野鳥か…、何かな?
思っていた所、巌谷を見てわかりました。
巌谷の真ん中あたりから細い滝が落ちています。
その滝の裏に大きな7人位が横になれる岩屋が隠れているんです。
“しとど”とは水が多いと言う意味でしょう。
頼朝一行はこの岩屋に身をひそめて、滝の水を飲み、土肥実平の奥方が運ぶ食事を口にしながら、機会をうかがいました。
湯河原の港から、相模湾を横断して安房に逃れ・・・、再起を果たします。
 
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       しとどの窟、表から見る。岩屋の中央から小さな滝が流れ落ちています。
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                        しとどの窟、岩屋の中から外を見る。
 
湯河原は小松石と言われる石の産地です。
沢山の石工を抱えていて、今も石屋さんが数多くいます。
鎌倉の石屋さんも大方が湯河原がルーツです。
そんな、湯河原の石工が彫った石仏、石神がしとどの窟の中にも祀られています。
一目見ると江戸時代のものが多く、馬頭観音が目立つようですが・・・・、
案内板に依るともっと古く中世まで遡れるそうです。
霊気溢れる岩屋であり、石仏です。
 
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         しとどの窟の中に祀られた「不動明王像」
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        聖観音像?、頼朝の持念仏は聖観音でこの岩屋に祀ったと聞きます。
        鎌倉に幕府を開くと、持仏堂(後の法華堂)に移したと言われます。
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      しとどの窟の観音像群
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                しとどの窟の中には不動明王と観音像が目立ちます。
 
 
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最後の同潤会アパートメント

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5月8日、ラジオ深夜便で「上野の同潤会アパートが取り壊される・・・」報道していました。
同潤会アパートと言えば、代官坂や表参道の一等地にありました。
惜しまれながらも取り壊され、代官坂アドレス、表参道ヒルズに再開発されてしまいました。
あれで、同潤会も無くなってしまった・・・、思っていた所、
どっこい東上野に小さいながらもまだ残っていたのでした。
 
5月11日、午後から日本文化研究会セミナーが開かれます。
私は午前中に同潤会アパートメントの最後の姿を見ておきたい・・・、傘をさして出かけました。
 
久々の上野駅表口(東口)です。
昭和通に渡る大きなデッキが出来ていました。
社会人になって直ぐのころ、此処の横断歩道を渡って営団地下鉄本社に良く来ました。
でも、その奥の下町に入るのは初めてです。
この日は下谷神社の例大祭です。
各町内に「お旅所」が設営され、お神輿やお神酒らが出されています。
法被姿の氏子たちが忙しく準備を進めています。
 
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         浅草通りに面して、素晴らしい歯医者さんがありました。
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  浅草通りを清澄通りの交差点を左折して直に同潤会アパートメントがあります。居酒屋の隣が床屋、裏通りに入   ると銭湯があって、いかにも下町の雰囲気です。
 
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                  銭湯の横から奥を覗くと蔦に絡まれた同潤会アパートの窓が見えます。
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     この日は下谷神社の例大祭でした。この裏通りが同潤会アパートの正面になります。
 
上野同潤会アパートメントは清澄通りに面してあります。
翠雲堂をはじめ大手の仏具屋さんの角を曲がれば・・・、その先にひっそりと同潤会アパートメントがありました。
4階建て、鉄筋コンクリート作り、茶色っぽい壁に鉄錆の黒い建具が入っています。
銀杏の樹の陰から・・・、昭和の色濃いアパートが顔を覘かせています。
代官坂や表参道のアパートと全く変わらない表情です。
 
文化財保護法によると、重要文化財の選定事由は以下の何れかに該当するものになっています。
①意匠的に優秀なもの ②技術的に優秀なもの ③歴史的に価値の高いもの ④学術的に価値の高いもの ⑤流派的または地域的に特色顕著なもの。
こんな根拠に基づいて、毎年数件の重要文化財が指定され、
鉄筋コンクリート作りの建造物でも重要文化財に指定されて来ています。
 
近年では旧東京帝室博物館(現上野の国立博物館)が指定されました。
三井、住友、三菱らの旧財閥に始まり地方の富裕な人(例えば灘の山邑家/現ヨドコウ迎賓館)の住居や別荘も数多く重要文化財の指定を受けています。
その一つ一つに異論があるわけでは無いのですが・・・・、
どれもこれも、富裕層の建物であり、庶民感覚には・・・・、距離があります。
 
庶民も文化の担い手なんだから・・・・、
文化財保護法を公平に施行して、庶民の住宅も重文指定の栄誉を受けたいもんだ…、思います。
 
【国立博物館重文指定の根拠】

 
重文指定の根拠(文化庁)
旧東京帝室博物館本館東京都台東区
昭和12年竣工
 鉄骨鉄筋コンクリート造による昭和初期を代表する建築。意匠的に完成度が高く,昭和初期の日本の近代建築の到達点を示す作品のひとつとして高い価値がある。博物館建築としての設備面も,当時最新の技術水準が示されている。
 
国立博物館を重文に指定したと同じように、同潤会アパートメントを重文に指定するとすれば・・・・、
次のようになる事でしょう。
【上野同潤会アパートメント重文指定の根拠/仮想】

 
重文指定の根拠(筆者)
同潤会アパートメント
東京都台東区
2棟76戸
昭和4年竣工
関東大震災後、住宅の復興などの担い手として同潤会が創設された。
鉄骨鉄筋コンクリート造による我が国最初の集合住宅である。昭和初期の段階で高水準の集合住宅を実現させ、その後のマンションと呼ばれる庶民の住宅の先駆を為した。
根拠とすれば国立博物館に劣らない説得力があると思います。
 
また、後世の人が見た時、
”そうか!RC造りの集合住宅は関東大震災の戦後復興を目標に始まったのか!、この住宅の成功が住宅公団の団地をうみ、マンションに発展したのか!”
と言いながら昭和世代の頑張りに敬服してくれることでしょう。
 
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同潤会アパートには部外者が入れないように柵がしてあり、階段入口にある扉には封印がしてありました。
誰かが侵入して、寝泊まりしないように警戒しているのでしょう。
お知らせ看板によると、
この5月から取り壊しが始まり、再開発の建物は8月に着工して2年後竣工することになっています。
再開発後の建物は店舗兼住宅で地下1階地上14階の建物です。
近隣は精々2階建ての木造建築ですから・・・・、迷惑な高層マンションが出現するのでしょう。
建築設計はUR都市機構(旧住宅公団)、
でも事業主体は上野下アパートメントマンション事業協同組合となっています。
この建物が歴史的に、文化史的に如何に価値が高くても、
地権者が住まうのが不便であれば再開発もやむを得ないのでしょう。
加えて、充分に容積率を利用していない・・・、となればなおさらです。
”自分達の財産なんだから・・・、自由に使わせてくれ・・・・!”
と主張されれば・・・、致し方ありません。
同潤会アパートは全部消えてしまう運命なのでしょう。
 
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せめて・・・・、単身者住宅、1ブロック(階段の左右に4戸ずつある)だけでも、残して欲しいもんだ!
期待しますが・・・、そうした事も無理だったのでしょう。
 
もう、解体業者が架設用のパイプなどを持ち込んできています。
「中に入らせてほしい!」
言っても相手にしてくれません。
建物の中は、台所にはどんな設備が在ったのか…、どんな生活が在ったのか・・・、見てみたいものです。
でも…、それもかないません。
 
【お勧め】
本件上野同潤会アパートメントについては次のブログが良く出来ています。ご関心のある方は観られる事をお奨めいたします。http://allxa.web.fc2.com/a-map/jp_tokyo/uenoshita/uenoshita01.html
 
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          解体業者が入って、その準備に取り掛かっていました。正面扉を入ると階段があってその左右に、4          階、8戸の住居が並んでいます。
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            この日は下谷神社の例大祭でした。未だ早い事と雨でしたので人出はイマイチのようです。
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      各町内に下谷神社例大祭のお旅所が設営されていました。近隣は木造二階建ての家が集積してい          る・・・・、昭和ノスタルジー漂う空間です。
 
 
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入り易い「鎌倉雪ノ下教会」

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4月28日(日)、鎌倉の若宮大路を歩きました。
段葛の躑躅が見頃です。
青葉の梢の向こうに雪ノ下教会のチャペル(聖堂と呼ぶのかな?)が見上げられます。
チャペルの正面、高い位置にイコンがかかっています。
何時見上げても輝いて見えます。
 
絵は「絶えざるお助けの聖母」で、マリア様が幼児のキリストを抱いておいでです。
クレタ島に在った古いモザイク画でした。
その聖なる表情が普遍性があったので・・・・、世界中に広がります。
そして、此処鎌倉にも・・・・。
 
 
どんな技法で描かれているのか?
モザイク(タイル)か、漆喰(フレスコ)か、目を凝らして見据えますが・・・・、良く解りません。
でも、実に美しいイコンです。
もう仏都鎌倉に良く馴染んでいます。
 
此処では、3月11日、鎌倉中の宗教人が集まって、東北復興が祈られました。
勿論、仏教も、神道も、カソリックも宗旨宗派を超えて集まりました。
聖歌も、声明も、お経も、チャペルに響いたのでした。
 (YOU-YUBEで見られます。http://www.youtube.com/watch?v=q63T_MMP1TM)
何故プロテスタントの教会が選ばれたのか?
それは雪ノ下教会が一番鎌倉駅に近い宗教施設であり、この教会に属する信者やボーイスカウトの若者が
東北復興ボランタリー活動に熱心だからでしょう。
 
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                       「絶えざるお助けの聖母」をフレスコ技法で描いたイコンがかかっていました。
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                             スカウトの東北復興ボランタリー活動を報告するパネル
 
この日は教会が賑やかです。
敷地内にテントが3ハリも張られて・・・・、模擬店が出ています。
ベンチがあって、沢山の人が、座って焼きそばやフランクを美味しそうに戴いています。
この辺りは私の小学校時代の友人が沢山いました。
並びの浅羽屋さん、島森書店のお嬢さんは優秀で、お二人ともフエリスに進学しました。
夫婦饅頭の山崎君も同じクラスで・・・・、御成中学校に進学しました。
若しかしたら・・・・、会えるかも知れない・・・・、期待して、教会に入ってみました。
子供と母親、そしてお婆ちゃん、そして力仕事はボーイスカウトの青年、3世代、4タイプの人が集まって・・・・、
ボーイスカウト主催のフェスティバルです。
今年で3回目になるようです。
残念ながら・・・・、私の小学校のクラスメイトには会えませんでした。
もし、顔を合わせていても、もうそれなりのお婆ちゃん、お爺ちゃんでしょうから・・・、気づかない事でしょう。
 
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                雪ノ下教会で開催された「スカウト祭り」の様子。車道の中央に段葛が見えます。
 
私は社会人になってから…、数回チャペルに入った事がありました。
何れも結婚式、葬式ばかりでした。
ゆっくりと、チャペルの扉を押し開くのは40年ぶりでしょう。
“昔と変わらないなあ!”
第一印象です。入るとすぐ左に聖書やペンダントを販売するコーナーがありました。
チャペルの扉を開くとき、何時も逡巡してしまいます。
胸に十字を切るのは憚れます。
両手の指をクロスさせて、大きな握り拳を作って祈る姿も・・・、抵抗があります。
私は、素直にお寺に入るとき、何時もしている様に、掌を合わせて、腰を折ります。
“私はキリスト信者ではありませんが、敬愛申し上げています” 
そんな私の礼義であり、表現です。
 
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                                  扉を押し開いてチャペルに入る。
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   後方中段にはオルガンが置かれています。今度の土曜日(5月18日)には山本由香里さんの演奏でバッハを聴    けます。(11時~12時)
 
壁には雪ノ下教会の歴史が案内されています。
1948年にカナダから3人の神父が横浜港に到着して、鎌倉の小町に教会が開かれました。
下の写真がそれです。
茅葺屋根で、一部瓦が使われている一般的な民家です。
その大棟のうえに十字架が乗っかっています。
信者の民家を再利用して・・・、教会にしたものだったのでしょう。
民家を取り壊して、石積みのチャペルを築くのではなく、民家の良さを取り込んで教会に利用する・・・、
良い教会です。
少なくても、私のような日本人は抵抗なく教会に入る事が出来ます。
藁ぶき屋根の教会には「昔はこうだった。・・・・」ノスタルジアを越えた、
何時も変わらぬ布教の真実があるように思います。
 
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                               鎌倉小町に在ったという最初の雪ノ下教会
 
鎌倉には隠れキリシタンの悲しい歴史がありました。
その歴史を紹介するコーナーがあります。
元和元年(1623)5人のキリシタンが極楽寺あたりで捕縛されます。
二人は小袋谷に住むヒラリア孫左衛門夫妻、浅草から逃れてきたガルべス神父、ボアン長左衛門、ペドロ孝三郎でした。同年12月、ヒラリオ夫妻は品川鈴ヶ森で他の隠れキリシタン共々処刑されてしまいます。
処刑されたのは46人と伝えられています。
このコーナーは隠れキリシタンの遺物こそ展示されていませんが・・・・、想像画が展示されていて・・・・、
見る者に解りやすく訴えてきます。
 
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  左よりヒラリオ孫左衛門処刑の絵、中央がガルべス神父、右がヒラリオ孫左衛門の奥方。
  伝馬町の牢で夫の殉教をマリア様に祈る図です。
 
今週末の5月18日(土)には「雪ノ下教会フェスタ」が開催されます。
11時から1時間オルガンコンサート、12時からバザールです。
旧友に遭えあるかも知れないし、オルガンも楽しみです。
チャペルの扉こそ・・・・「狭き門」ですが、入り易い、「敷居の無い門」です。
 
 
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保育所児童にマロニエの花

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連休中は寒い日もあったのですが、昨日(5月13日)は夏日でした。
加えて、今朝は少し霧が立っているようで・・・・、今日は一層暑くなりそうです。
未だ暑さに慣れない身体です。
皆さん、体調にケアーしながら、初夏を楽しみましょう。
 
そんな訳で・・・・、初夏の花”マロニエ”を見に港南台駅前通りに出かけました。
マロニエの通りと言えば・・・、パリのシャンゼリゼを想います。
筆者は行ったことがありませんが、旅行写真や絵画で良く見かけます。
こ洒落たカフェがテラス席を用意して、市民は街路樹(マロニエ)の木陰でお喋りや喫茶を楽しんでいます。
マロニエは朱色の花が咲いています。
大きな葉っぱと青空が朱色を引き立てています。
 
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               今日の話題はマロニエの花です。港南台駅前通りに今年も咲いたマロニエの花
 
 
港南台駅が出来たのは昭和48年(1973)でした。
洋光台駅まで来ていた根岸線が大船駅まで延伸されました。
港南台駅周辺の開発事業は日本住宅公団によってなされました。
駅周辺を高層マンション群で囲み、少し離れると戸建て住宅を整然と並べました。
東急電鉄の多摩ニュータウンの湘南版のような街造りでした。
 
センター街区に高島屋を誘致して・・・・、住人の利便性を高め、同時に街の顔にしました。
そんな、お洒落なニュータウンの駅前通りです。
街路樹にはマロニエを選択しました。
もう、40年も経ちました。
マロニエもいい歳になって、風格も備わり始めました。
緑陰も広がり、日傘をさして歩く人も、マロニエの大きな葉っぱが帽子の役割をしてくれています。
 
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    港南台駅前の街路樹はマロニエです。ほとんどが朱色ですが、白い花も混じっています。
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マロニエは日本名で「栃」です。
栃木県の栃でして・・・・、縄文時代人の胃袋を支えた木です。
今も栃餅がお土産です。
更にお盆やお椀など食器にはたいてい栃が使われています。
私達が栃の樹が好きなのは縄文時代から始まるのでしょう。
でも、日本の栃の花は白くて、目立たない花です。
朱色のマロニエのような艶がありません。
 
 
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      保育所の児童はマロニエの街路を通って近隣公園に遊びに出かけます。
      保育士さんは木陰を選んで行きます。
 
港南台駅前を、マロニエの並木道を楽しみながら人が通り過ぎて行きます。
もうじき、梅雨に入るんだから・・・、今のうちに5月の風に吹かれて、胸いっぱい空気を吸い込んでおきたい・・・、
そんな表情です。
 
保育所の子供達でしょう。
3人ほどの幼児を載せた車が行きます。
駅前には保育所がありますから・・・・、
預かった子供(幼児)を近くの公園に連れて行って、そこで遊ばせるのでしょう。
車は乳母車の役割を果たしますが・・・・、沢山の子供を乗せなくてはなりません。
リヤカーに似ています。
ゴト・ゴト揺れるので乗り心地は悪そうです。
でも、子供達はお気に入りのようで、うれしそうです。
見上げた眼にマロニエの朱色の花が映っている事でしょう。
 
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ところで、8月25日は横浜市長選挙です。
中田市長が途中で放り出した市政を引き継いだのは林文子現市長です。
今回の選挙はこの4年間の市政の信任投票・・・、という事でしょう。
 
保育所の待機児童数が5万人にも及ぶこと、国会審議でも問題にされています。
高齢化社会に突入して・・・・、国力を維持するためには・・・・、“女も働け、年寄りも働け” という事です。
でも、女性が働くためには、保育所も必要ですし、産休も取り易くしなくてはなりません。
都市部の保育所は絶対数が不足していて、地方の保育所は空きが出ている現状です。
大都市でも、駅前等交通の便の良い保育所は人気が高く不足しています。
一方、不便な所の保育所は経営も困難です。
保育所の需要と供給のアンマッチングが発生しているのです。
横浜市は4年前までは全国ワーストワンの保育所待機児童数でした。
 
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      保育所の待機児童数推移、2013年には5万人に及んでいます。出典:読売博士のアイディア
 
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横浜市の保育所待機児童数。2010年の1552人をピークに2013年にはゼロになっています。出典:横浜市
 
林市長はワーキングレディーでした。
メンツをかけて待機児童数をゼロにするよう努めました。
でも、秘策があったわけでは無く、アンマッチングを是正するように努めただけでした。
駅前などの利便性の高い場所に保育所を誘致するため・・・・、
土地所有者の情報と、進出したい事業者の情報、それをマッチングさせました。
また、利便性の悪い場所の保育所にはバスなどの足を用意しました。
細かな政策を積み重ねて・・・・・、待機児童数ゼロを実現しました。
そんな情報マッチング政策を「待機児童数ゼロ、横浜方式」と呼ぶんだそうです。
自民党が「横浜方式で待機児童数ゼロにする」というのは、
働くお母さんの視線で・・・・、ソフトな情報マッチング政策を実施するという事でしょう。
 
7月21日には参議院議員の選挙が行われます。
横浜市長選挙・・・・、同時にして貰えたら・・・・、投票管理者の負担も減るのになあ・・・!
思ったりしながら・・・・・、保育所のリヤカーを見送りました。
 
マロニエの街路樹は市民に優しいし、綺麗で・・・、いいもんです。
また、林市政は(政府と異なって・・・・)働け!働け!と言わずに働きやすい環境整備を進めています。
久々に、良い市長さんが出現した・・・・、横浜市民の自慢です。
 
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長谷の鎌倉金魚の提灯

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昨日(5月14日)は夏日でした。
暑い夏の風物詩と言えば金魚でしょう。
お嬢さんの浴衣の柄も金魚、ガラスの風鈴も金魚、どれも金魚の愛くるしさが暑さを忘れさせてくれます。
鎌倉由比ヶ浜通りを長谷観音前から400m程六地蔵方面に歩くと、可愛らしい金魚の提灯がぶら下がっています。
山口県柳井市の民芸品「金魚提灯」です。
でも、良く見ると「鎌倉提灯」と案内されています。
 
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                                 鎌倉長谷の「鎌倉提灯」、これが今日の話題です。
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     鎌倉提灯を製造販売している(有)矢沢商店。お店の左側ガレージを改造して展示コーナーになっています。
 
お店は「(有)矢沢商店」、農機具、下駄、ビーチサンダル、釣り道具に野菜の種・・・・、所謂雑貨屋さんです。
その矢沢商店の店先に数個、店内の天井には10個余り、作りかけの金魚提灯が吊り下がっています。
店先のガレージは展示コーナーに改造され、今は飛騨が案内されています。
枯山水に高山の旧市街地の写真等が陳列されています。
此処にも金魚提灯が吊り下げられています。
 
提灯の中に裸電球が仕組まれていて、点灯しているからぼんやり明るくなっています。
そう、この金魚提灯はお盆提灯として作られたものなのです。
お盆提灯と言えば岐阜提灯を思い出しますが・・・、岐阜のそれは牡丹灯籠を思い出させます。
金魚提灯は可愛らしいので・・・・、怪談話とは縁がありません。
 
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       由比ヶ浜通りの向かいは麩饅頭の三河屋さんです。柏餅を食べながら・・・・・、観光客が通ります。
 
柳井の金魚提灯は幕末に始まったものだそうです。
上領さんという方が作られていたそうですが、矢沢商店の若旦那が興味を持ちました。
そして、上領さんの許可を得て関東地方で唯一販売を許可されていました。
ところが平成11年上領さんが亡くなられました。
一方でこの金魚が欲しい・・・、お客さんの注文もあって、
元来手先が器用で民芸品に愛着のあった矢沢の店主が・・・・、自分で製造を始めました。
年々上手になって・・・・、大小さまざまな金魚提灯も出来るようになりました。
 
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            柳井市の金魚提灯祭り。(柳井市のホームページから転載)
 
お店に入ると、店主のお母さんが出てこられました。
“良く売れるでしょう・・・・” 話しかけると、
“いや、ほとんど売れませんよ・・・、息子は作るのが楽しみで・・・・、こうして沢山作るんですが・・・・”
お母さんの評価はあまり芳しくないようです。
“なんかいいことありそうな・・・・、と言うのがキャッチコピーになっていますが、何か謂れとか、霊験譚なんかないのですか?” 訊いてみます。
“お寺さんに繋がるような話も無いし・・・・、可愛いだけが魅力なんですよ・・・”
“八幡様のぼんぼり祭りや柏尾川の首塚まつりなど、お盆の行事に出せれば売れるでしょうに・・・”
私が話を向けてもお母さんは無反応で・・・・、この金魚提灯は余り評価されてないようです。
 
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                                 電球に灯が入って、提灯が光ります。
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作りかけ、糊を乾かし中の金魚提灯
 
でも、中々良いもんです。
もともと竹ひごで組んで、障子紙を貼り合わせただけのものです。
原価はたかが知れています。
店主が夜なべして作って・・・・、お客さんが喜んでくれれば、数は売れなくても充分でしょう。
少なくても由比ヶ浜に昔ながらの雑貨屋があって、店主は物を大切にしている・・・、そんな記憶が残ります。
私のように、提灯なら自分で作ってみるか・・・・、下駄位なら買って帰ろうか・・・、
そうする人は多い事でしょう。
 
それにしても、今年の夏は猛暑になりそうな・・・、悪い予感です。
 
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         矢沢商店の「郷土展示コーナー」 右端に鎌倉金魚の半纏がかかっていて、その上に電燈の灯った提         灯が吊り下がっています。
 
 
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広町緑地の桐の大木

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「八重の桜」人気からでしょうか?
TVでは会津の旅が度々放映されています。
昨日もBS日テレで日本100巡礼「桜の会津」を旅していました。
会津は桜も良いんですが、私の好きな会津は今頃なんです。
 
田圃に水が張られて、田植えが始まります。
水鏡に・・・、桐の花が映っていて・・・・、自転車に乗った女子高生が疾走して行く、そんな景色です。
会津は桐や桐木工品の産地で、桐下駄や桐箪笥は有名です。
女の子が産まれると、桐の木を2、3本植えます。
お嫁に行く頃には桐は成長して・・・・、嫁入り道具の素材になる・・・、そんな習慣があるのです。
私は、この5月友人と安曇野に道祖神を見に行こう・・・・、約束していますから、今年は会津に行きません。
会津ブームが去ってから行く事にしましょう。
その代わり、玄関の絵は「会津の水鏡」に代えました。
 
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                                            会津出身の斉藤清さんの版画をかけました。
 
昔は横浜でも女の子が産まれると桐の木を植える習慣があったのでした。
今では、桐箪笥は結婚家具にしては大きすぎるし・・・・、そんな習慣は消えてしまいました。
そんな次第だからでしょう・・・・、桐の木が忘れられたように残されています。
 
真っ直ぐに幹が伸びるように、少し水気のある窪地や田の畔に植えられるた事が多いようです。
藤の花も薄紫ですし、桐の花も薄紫です。
少し藤の方が先に咲き出しますが・・・、花の時期は重なっています。
「どっちが綺麗か?どっちが高貴な紫か?」競っているようです。
なにしろ、藤は摂関家の花、桐は天皇家の家紋になっているんですから。
紫式部も桐と藤と甲乙つげ難くなっているようです。
お母さんは桐壷、その面影を藤壺に追い求めて行くのですから。
 
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                                            杉の木を覆った山藤の花
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                                                      此方が桐の花
 
 
5月15日、鎌倉広町緑地に桐の大木を見に出かけました。
広町緑地は鎌倉山の南、七里ヶ浜の北に広がる60haの丘陵地で、都市樹林です。
その窪地に二本の桐の巨木があって、毎年人知れず花を咲かせます。
NPO鎌倉広町の森市民協議会が下草を刈っているのでしょう。
スクスクと良く育っています。
 
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     広町緑地、山影の彼方に相模湾が見渡せます。右端に紫の塊が二つ見えます。これが桐の大木の花です。
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        窪地に育った桐の大木、遠くに見渡せるのが西武の七里ヶ浜住宅地です。
        その先の丘陵が鎌倉山です。
 
望遠レンズで覗くと周囲の杉やスダジイは山藤が絡まって・・・、苦境にあるのに、
この桐だけは何にも邪魔されずに育って花をつけています。
今年は、もう花の盛りを過ぎたようです。
でも見応えは充分です。
 
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                     もう散り始めた広町緑地の桐の花。
 
桐の咲く窪地を挟んで、向こうからも此方からも鶯が啼いています。
小綬鶏も啼いていますし・・・・、野鳥が沢山啼いています。
私は今年未だホトトギスを聴いていません。
桐の木には鳳凰が棲むと言いますが・・・・、ホトトギスはまだしも、
せめて尾長かカケスがやってこないか・・・じっと待ちましたが、
見られませんでした。
まあ、桐の花に間に合ったんだから、満足して帰る事にしましょう。
 
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      広町緑地、水木の樹陰でお弁当を楽しむ仲良し叔母さん。桐の大木と多分同じ年頃でしょう。(桐の成長は      早いのです)
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                 棚田の跡の湿地に咲いた黄花菖蒲も今が見頃です。モンキアゲハ蝶がやってきました。
 
 
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チョンガの雉、カップルの雉

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境川の中流域、横浜市泉区の森泉公園に近い田畑に雉を見に出かけました。
境川の河川敷の葦原の中に巣をつくり、毎年子育てをしています。
昨年も雌が5羽の子を引き連れていました。
私を含めて沢山のカメラマンが雉の親子の行進を写そうと構えていますから・・・・、
初めての人でも容易に雉の子育てを観察する事が出来ます。
  親子の雉は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46430152.html
  カップルの雉は次に書いたことがあります。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45027201.html
 
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    田圃の畔で草の種を啄む雉君。赤い鶏冠は”婚姻を求む”と言っているようなものでしょう。
 
畑の真ん中の農業用道路に私は居ます。
その右側に一羽の雄雉が・・・・、草の種を啄んでいます。
時々立ち止まって・・・、首を伸ばして辺りを見渡して・・・・、“ケーン”雄たけびをあげます。
時々、両翼を広げて胴体を“ブルブル”と打ち鳴らします。
この羽音を打つ動作を「母衣打ち(ほろうち)」と呼ぶんだそうです。
岐阜の高山に近い御母衣ダムは雉が多いからあの名が着いたのかな?思ったりします。(筆者の推測です)
どちらも、雄の雉の「縄張り宣言」です。
 
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    母衣打ち(ほろうち)する雄雉、もう5月中旬なのお嫁さんがいないようでは・・・、
    今年の夏は空しい事になりそうです。空しく羽音が響きます。
 
私の左にも、もう一羽雄の雉がいます。
此方は、畑の中で虫を食べています。
二羽の雄雉がニアミスしているのですが・・・・、取っ組み合いの喧嘩をしないのは・・・・、
この農業道路が縄張りの境なのでしょうか?
どうも、この二羽とも今年は奥さんに恵まれていないようです。
今年は雉の子育てが見られないのか? 残念です。
二羽も“チョンガ”が出ないように・・・・、お嫁さんに来て欲しいものです。
(一般に、雉は繁殖期だけの一夫一婦制で、雄の縄張りに入った雌とカップルになります。子育ては雌が行います。)
 
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      葱畑の雉、上段の雉とは別ですが、両者は20メートルの距離にあります。
      その真ん中に筆者が居る…、そんな位置関係になります。
 
 
森泉公園の雉はカップル不成立のようです。
下流に下って2キロ、住友家俣野別邸下に行ってみました。
此方の雉はどうかな?
 
見れば畑の中に堂々とカップルしています。
時々、法蓮草を食べていますが・・・、お百姓さんも目くじらを立てることも無いでしょう。
畑には昆虫やミミズが居るんでしょう。
雄の雉は時折奥さんに向かって・・・、翅を膨らませて・・・・、気を引いているような仕草です。
暖かい日差しの下で・・・・、春情を催しているようです。
私は、交尾の姿を写せるか! 身構えます。
でも、雌は一向に雄を気にしません。
勝手気ままに・・・・、あっちに行ったり、戻ったり。
性欲よりも食欲が旺盛です。
そのうちに、土手の茂みに身を隠してしまいました。
 
雌は地味な色ですから・・・・、茂みに入ってしまうともう見つけられません。
でも、雄は頭こそ隠れましたが・・・、派手な尻尾は隠れません。
まさに、“頭隠して尻隠さず” 状態です。
「雉の草隠れ」と呼びます。
屹度、もう雌は抱卵しているのでしょう。
 
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       俣野の畑の雉の夫婦、時々法蓮草を少し食べます。畑では虫や蜘蛛、ミミズ等を啄んでいるようです。
 
フィールドに出て「雉を撃ちに行く」と言えば男性が用を足しに行く事。
目の前の雄雉の姿が・・・・、用を足す男性の姿を言い表したのでしょう。
女性の場合は「お花摘みに行く」と言います。
女性の場合は全身が草叢に隠れてしまいます。
 
それにしても、雉のカップルは人間に無頓着です。
覘き見親爺には一向に気にしていません。
今年は俣野で親子の雉の行進が見られそうです。
 
雉の世界も人間同様で…、カップル作りは悲喜こもごものようです。
上流の森泉公園のチョンガ二羽が哀れでなりません。
 
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      雄雉は春情をもよおして、雌に寄り添おうとしますが雌は相手にしません。
      後で判ったのですが雌はもう抱卵中なのです。
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                             矢のように飛び立つ雉(ピンボケですいません)
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   トラクターを全く気にしていない雉、実はトラクターが耕して・・・、現われた昆虫やミミズを食べようと近寄ってき    ているのです。
 
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引地川公園「泉の森」自然と子供達

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引地川は藤沢市を縦断して流れていますから、藤沢市民にとっては馴染みの深い川です。
相模湾に鵠沼海岸で注ぎ込みますが、その2キロも上流に大庭城址公園があったり・・・・、
流域両岸は都市公園、近隣公園が数多く整備されています。
八王子道は海産物を八王子に運んだ道と聞いています。
 
馬頭観音や道祖神が数多く祀られている一帯ですから・・・・、石仏好きの私は良く出かけます。
その引地川の源流が大和市にある「引地川公園泉の森」です。
42haもある湿性植物が茂る自然いっぱいの公園です。
元々は谷戸田が広がっていたのでしょうが、近隣の住宅地開発が進んで、
此処が雨水調整池も兼ねた公園として整備したものでしょう。
近くを東名高速が走り、公園の真上を国道246号線が走っています。
でも、公園内からは疾走する車は見えず・・・・、避暑地に来たような閑静で緑あふれる公園です。
 
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                                    公園の中央を国道246号線が横断しています。
 
私の第一の目的はこの公園の入口近くにある馬頭観音の石仏群です。
大和市、座間市、相模原市は我が国有数の軍都計画(軍の主要な設備を整備した都市)のあった一帯です。
軍馬も訓練されていたから・・・・、
江戸時代以降日清・日露戦争やシナ事変で亡くなった軍馬の供養碑が祀られています。(いつか纏めて報告します)
 
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弘化年間から昭和まで、馬頭観音が集めて祀られています。
 
 
湿地であった事から・・・・、その環境に適した植物が自生しています。
今の季節は黄花菖蒲と杜若が一斉に花を咲かせます。
黄色い菖蒲と青紫色の杜若が帯になって池の岸辺を囲っています。
池の中にはカワセミの止まり木が建てられています。
この枯れ木の上からカワセミが池にダイブするのでしょう。
でも、この日は向こうの池に行っているようです。
何しろ、池の周りは水遊びする子供達の歓声で賑やかですから・・・。
如何に人懐っこいカワセミ君でも此処では集中力を欠いてしまう事でしょう。
 
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      池の周囲に自生している杜若(青紫)と黄花菖蒲の花、今が見頃です。右端にカワセミ用の止まり木が建っ      ています。
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       手前の枯れ枝がカワセミ用の止まり木。筆者は30分ほどこの位置でカワセミの飛来を待ちましたが、来ま       せんでした。
 
子供達は画用紙を持っています。
覘いてみると・・・・、紙には二種類の花を写生して、観察するようにセットしてあります。
先生の意図は「黄花菖蒲」と「カキツバタ」を観察して、絵に描いて・・・、
両者の違いを見つけさせる事にあるようです。
黄色と青紫・・・、それ以外にも違いを見つけて欲しい・・・、それが先生の意図でしょう。
私は腹ばいになって、花を見詰めている子供に訊いてみます。
「この花の名は知ってる?」
「いや、知らない・・・」
「花弁の色以外のところも良く見てごらん・・・・」
これ以上話しかけたら・・・、教育妨害になりそうなので止めにしました。
  (菖蒲の花弁の基は黄色い、カキツバタの花弁の基は白い)
 
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                                             黄花菖蒲と杜若の観察をする子供。
 
私は黄花菖蒲の根元を見詰めます。
根元にも両者の違いがあるんです。
其処に、何か蠢いている者がいます。
巨大なシマヘビが・・・・、静かに静かに前進しているのです。
蛙でも見つけて・・・、昼飯にしよう・・・、そんな風です。
浄水の為、カキツバタを植える為に設備した石組がシマヘビの恰好な棲家になっているのでしょう。
そのうえ、この湿地には餌が豊富にいるんですから・・・、シマヘビにとっては天国のような処です。
 
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       杜若の根元を前進する2m以上もありそうな大きなシマヘビ。(竹の組み物の上を向こうに進んでいます)
 
夢中で水遊びしている子もいます。
保育園児はズボンも脱いでパンツ一つで池に中ではしゃいでいます。
もう、お弁当にしたいな! そんな表情の子もいます。
女の子はシロツメクサを摘んで花輪を作っています。
お家に帰ったらお母さんにプレゼントする積りなんでしょう。
馬が好んで食んだ草の向こうに、お母さんの笑顔が覘けるようです。
杜若も菖蒲も綺麗ですが・・・、やっぱり元気な子供が一番です。
 
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  木の吊り橋の下辺りで水遊びする子供達が集まっています。手前の八橋の上では杜若を観察する子がいます。
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      そろそろお弁当にしましょう・・・、集まってきた子供達。
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       パンツ一枚で遊び保育園児、シロツメクサを摘んで花輪を作っている子も居ました。
       子供はそれぞれ・・・、広大な自然公園には危険も潜んでいます。
       それにつけても、保育士さんのお仕事も尊いものがあります。
 
 
私もそろそろランチにしようかな!
万歩計を見ると1万5千歩をカウントしていました。
 
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泉の森の野生

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杜若の根元にゆっくりと前進するシマヘビを見つけました。
こんなに大きなシマヘビは最近見ていません。
少なからず興奮します。
 
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                                                泉の森の杜若、黄花菖蒲の群落
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                          黄花菖蒲の根元を此方に向いて前進するシマヘビ(中央下段に居ます)
 
 
シマヘビは日本人に一番身近な蛇です。
私の生家での経験です。
夜、寝ていた筈なのに物音で目を覚ましました。
天井裏でゴト・ゴト・・・・、走り去る足音がするんです。
ああ!また鼠が逃げ回っている・・・、気付きます。
私の脳裏にある光景が浮かびます。
数匹の鼠の一家が逃げまどいます。
追いかけているのは巨大なシマヘビです。
 
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法事で読経が続いている最中の出来事です。
外で“バターン”大きな物音がします。
お経を読んでいる父も、檀家の人も気に留めません。
みんな、天井裏からシマヘビが落下した・・・・、知っているからです。
鼠を呑み込んだものの、腹の中で鼠は暫くの間もがくのです。
それで蛇が苦しいもんだから・・・・、早く息の根を止めようとして、
シマヘビは天井裏から三和土(たたき)の上に落下するんです。
 
檀家の人は笑って言います。
『お寺にはお米など食べ物が豊富だから・・・、鼠が育つ。
鼠も居ればシマヘビも多くいる。
生き物が沢山いるという事は、豊かだという事だよ。』
 
(白)鼠は大黒様のお使いですし、(白)シマヘビはお弁天様のお使いであったり、宇賀神様はシマヘビそのものです。
シマヘビの抜け殻をお財布に入れておくと、お金が増えると信じる人も沢山います。
 
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                                                  シマヘビの宇賀神様(信州望月)
 
泉の森のシマヘビは杜若の根元から出ると、一気に池の水面を泳いで向こう岸に消えてしまいました。
全身が露わになると危険であることを知っているのでしょう。
 
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    シマヘビは成長すると背中に縦縞が4本できます、だからシマヘビと呼ばれます。
 
泉の森にはお墓が点在しています。
お墓は埋墓であって・・・・、お寺に参墓があるのでしょう。(これを両墓制と呼びます)
墓石の上に野良猫がいます。
墓石の温もりが好きなのでしょう。
墓石に彫られた皿の水を飲んでいます。
もうお供え物は食べ尽くしてしまったようです。
バーベキュウ場の屋外ベンチ・テーブルの上には三匹の野良猫が居ます。
身づくろいをしています。
一番大きな野良猫が親分さんのようです。
他の二匹はその子分たちで・・・・、泉の森の野良猫は毎朝一度は親分さんに挨拶するのがお決まりのようです。
お墓に休んでいた野良猫も挨拶に向かってくるようです。
 
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                                                お墓のお供えをあさる野良猫君
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      野良猫一家、この周囲に3匹います。 テーブルの上左が親分のような風格がありました。
 
 
私が近寄ると・・・・
“何かようでもあるのか!” 言いたげに私を睨みます。
もう、飼い猫の面影はありません。
山猫を髣髴させる精悍な顔立ちです。
でも、一匹は明らかな病気のようです。
フィラリアでしょうか?(猫も犬と同じでフィラリアは死に至る病です)
 
シマヘビは怖くはありませんが・・・、野良猫は怖いな・・・、感じます。
 
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                             フィラリア? を病んでいる野良猫、もう山猫の野生です。
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                                        左が野良猫の親分さん?
 
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                                此方は青大将と野良猫のバトルです。(柏尾川で)
 
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秩父銘仙の「伝統と創造」

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4月10日秩父銘仙館を訪問、伝統工芸士「新井啓一」氏の説明を受けました。
その折、この5月17日~19日に三溪園の鶴翔閣で展示をする計画である事を知りました。
 
19日、“今日は三溪園に出かけよう・・・・” 朝食をとっていました。
NHKテレビ「小さな旅」に新井啓一氏とそのご家族が映っていました。
副題が「秩父銘仙のこころ」で、銘仙の素材お蚕を育てる人、銘仙を作る人、そして銘仙を好んで着る人、
それぞれに秩父の風土の中で銘仙を大切に思う心が映し出されていて・・・・、良い番組でした。
食事を終えると、真っ直ぐ三溪園に出かけました。
   4月10日の訪問記は次に書きました。: http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47266576.html
 
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     新啓織物工場で秩父銘仙を織る「新井啓一・ヤス」ご夫妻(NHKTVから)、この柄が展示されていました。
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       秩父銘仙の染色工程(ドラムで乾燥させる/NHKTVから) 、どの工程も古い機械を使って匠の感覚で進       められています。
 
    
三溪園は名物の梅園の梅の実も熟しはじめて、卯の花も散り始めてもう夏の様子です。
ですから・・・・、暑い夏を真近にして・・・、日本人は衣も住も夏じたくをいそぎます。
春を迎えるときは無暗矢鱈に嬉しいのですが・・・・、
夏を迎える今頃は・・・・、多少の覚悟を必要にします。
暑い夏でも、それなりにお洒落をして、涼しさを演出して、季節を楽しもう・・・、と。
桐の下駄、籃胎漆器、ガラスの器、山ブドウで織ったバック・・・・・・、
どれもこれも、夏じたくには欠かせないアイテムです。
でも、日本人なら・・・・、第一は夏の着物でしょう。
日本各地の織物が鶴翔閣に並んでいます。
各ブースには作家が揃っていて、お客さんの声に耳を向けます。
様々な質問に答えておいでです。
人波が減ったら・・・、他の作家の作品を見て回っています。
比較的お若い作家が揃っていますから・・・・、お互いに刺激し合って・・・・、熱気に満ちています。
 
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                            三溪園の大池には卯の花が咲いて・・・、向こうの建物が鶴翔閣です。
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                                                             竹の花入れ
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                                         山ブドウのバッグ(右)、クルミ皮のバック(左)
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                             下駄や団扇を展示するコーナーで・・・・、夏の着物が涼しげでした。
 
新啓織物のコーナーは・・・・・・、
どれも、これも秩父銘仙の既存の観念を打ち破る・・・・、斬新な意匠であり繊細な薄物でした。
今朝TVで織られていた反物を見て聞いてみました。
「忍冬唐草模様のようであり、花は蔓バラのようであり・・・・、斬新ですね?」
説明して下さったのは若奥様(新井教央氏の奥様)で、
「お着物ですから薔薇と思われればそれも良し、
他の花と思われればそれで良いと思います。」
「今朝TVに映っていたあの木製の機械で織られたんですか!
最新の高速織機で織ったら・・・・、安く大量に出来るんでしょうが。
あのアナログな機械でこんな繊細な織物を作るなんて・・・もう、驚異ですね!」
言えば、
「秩父銘仙の風合いはあの古い機械に馴染むところから生まれます」答えられました。
 
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                                                    忍冬唐草風の蔓バラ反物。
 
今回の展示では秩父銘仙の伝統柄に捉われずに、現代人の感覚に訴えるデザインのものを揃えています。
奥様のお着物も勿論秩父銘仙でしょうが・・・・、そうとは思えません。
お洒落な夏着物です。
ショールもバックも・・・、もう秩父の田舎の雰囲気は微塵もありません。
軽い、湘南の風が吹いているようです。
 
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  新啓織物のコーナー、坐して居られるのが新井教央氏。同氏の左の蔓バラ織物が今朝放映されていたもの。
 
 
暫く談笑していた所新井教央氏が来られました。
「機(はたおと)を子守唄に育った教央さんですね?」言えば、
「そう、正しくは反物を入れる箱の中に置かれて、機音を聞いて育ちました。」言われます。
 
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                                                       秩父銘仙のバック
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                                                      秩父銘仙のショール
伝統に捉われているだけなら・・・・、産業として存続できないでしょう。
想像に偏り過ぎれば・・・・、深い風合いや奥行が出てこない事でしょう。
伝統の中に育まれながら・・・・、絶え間ざる創造が必要なのでしょう。
その微妙なバランスの上で作品が創造され続ける事が期待されます。
でも、確かな事が一つあります。
親子二代、三代で秩父銘仙の存続を仕事にすることは・・・、大変ですが喜びも大きいのでしょう。
NHKTVの画面は秩父銘仙を存続させる家族の強い固い絆を映していました。
 
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    新井啓一氏のご家族。もう数年前同氏から伺いました。秩父銘仙は斜陽化しているし、一粒種の倅は東京に    出て商社に勤めた。もう秩父銘仙は自分でお終いだ…、覚悟していた所、息子教央夫妻が秩父に戻ってき     た。孫も連れて・・・・、銘仙作りをを倅に継承して貰えて嬉しかった・・・・。 と
 
 
     
 
「日本の夏じたく展」はアトリエきなみが2007年に三溪園で始めた「手仕事展」です。
総じて若い世代の作品が並んでいます。
三溪園に相応しい展示会です。
出展者などは次のホームページに出ています。
 
 
 
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洗足池の馬頭観音像

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5月20日は夜来の雨が降り続いて、梅雨入り真近を思わせる鬱陶しい日になりました。
夜には日本文化研究会の仲間と、旅の思い出を語る席があります。
宴席は乃木坂、乃木神社の近くです。
乃木神社は本殿と同じくらい大きな厩舎があります。
乃木将軍が愛馬を大切にされていたからです。
 
私は久々の上京です。
序に、何処に行こうか? 考えて・・・・、
こんな日は「洗足池」を廻ってみよう・・・・、出かけました。
私はそろそろ「馬頭観音」について自分の考えを纏めておきたい・・・・、思っていますので・・・・。
 
中原街道は江戸桜田門から五反田、洗足池を通って平塚の中原御殿まで続く一本道です。
東海道の脇街道で、平塚宿からは山坂のある東海道本道よりも平坦で真っ直ぐな中原街道が好まれたそうです。
    (官軍も中原街道を江戸に向けて行進します)
鎌倉時代には池上本門寺で亡くなられた日蓮上人が、池の傍らで休息されました、
袈裟を傍らの黒松の枝にかけて、自ら池の水で足を洗われたので・・・・、千束池は洗足池と名を変えたそうです。
池上の名も洗足池に因んだものでしょう。
 
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                                                      日蓮上人の袈裟かけの松
 
石橋山の戦いで一敗地にまみれた源頼朝は安房の国から勢いを盛り返し鎌倉に向かいます。
その途中この地に宿営しました。
するとある晩野生馬が現われ、池に映りました。
頼朝はこの野生馬出現を吉兆とします。
この馬が名馬「池月」で、宇治川の戦いで佐々木多高綱を乗せて戦功をあげます。
千束八幡神社の本殿には大きな絵馬が懸けられていますし、境内にはブロンズの池月が建立されています。
  (神社名は古い名の千束が使われています。千束はこの池の水を使わせてもらうので租税が稲束にして千を減    免されていたから・・・、そんな説もあるそうです)
 
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                           三連の太鼓橋を渡るとその先の森の中に千束八幡神社があります。
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                                         千束八幡神社の名馬「池月」の像
 
洗足池の周囲を回ります。
湿性植物が茂っています。
今は黄花菖蒲や杜若が咲いています。
半夏生はまだ白く変じる前の状態です。
勝海舟夫妻の墓が祀られています。
勝海舟は池上本門寺に宿営していた西郷隆盛と歓談したと伝えられています。
海舟はこの池の畔で一生を終えました。
夫婦のお墓には黄花菖蒲が供えられていました。
紫陽花の花も色づき始めています。
 
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                              池の向こうの森が千束八幡神社、湿性植物が目立ちます。
 
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                                            勝海舟のお墓(右)、左は夫人の墓
 
池の北側に日蓮宗妙福寺があります。
この境内に目的の馬頭観音が祀られています。
馬頭観音は三面六臂(さんめんろっぴ 顔が3つ、腕が6本)の忿怒像で、本来の造形をしています。
彫りも深く秀作と言えるでしょう。
石仏の背後には案内が為されています。
天保11年(1840)に、馬込村千束の人達が馬の健康と死馬の冥福を祈って建てられたものです。
馬頭観世音像の台座は道標を兼ねていて、「北 堀之内・碑文谷道」「東 江戸中延」「南 池上・大師道」「西 丸子稲毛」と東西南北の方角を示しています。
元々は4差路に建っていたものでしょう。
 
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                                                           洗足池の妙福寺
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                                             妙福寺本堂の大棟を担ぎ上げる力士像
 
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                                               妙福寺の馬頭観音像
 
江戸時代、江戸近郊の農家は野菜等農作物を大八車に乗せて江戸市中に運びました。
夕方野菜を売り終えると、今度は市中の家々を回って人糞を集めました。
行きも帰りも大八車が活躍しました。
その車を曳いたのが主として馬でした。
大切な馬の健康や冥福を祈って建てられたのが江戸時代の馬頭観音でした。
 
でも、頼朝の時代(中世)の馬頭観音は違いました、一言でいえば軍神でありました。
人馬一体で戦いに挑んだ時代、馬の優劣は生死の分かれ目でした。
だから馬頭観音は戦いの神様になりました。
軍神だから・・・・、馬上で四方を睥睨しやすいように三つの顔を持ち、
いずれの顔も怒りに満ちて恐ろしいものでした。
そして6本もある腕にはそれぞれ武具等が握られていました。
 
洗足池の馬頭観音も、近くの目黒銀座の馬頭観音も古風な軍神の形をしています。
でも、祈られたのは平和な時代らしく、
農産物や人糞(肥料)、旅人を運ぶ馬の健康や冥福でした。
 
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                     此方は中目黒、目黒銀座の馬頭観音堂に祀られている馬頭観音
 
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       これは筆者の住んでいる横浜上倉田の馬頭観音。同じ天保時代の作ですが、優しい表情をしています。       馬と人間の信頼や愛情を示すような表情です。
       馬頭観音は時代と地域によって劇的に変化しているものです。其処が馬頭観音の興味を惹くところで         す。
 
 
 
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