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山野草の遺り(贈)もの

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一昨念は6月13日に友人I君の軽井沢山荘に遊ばせてもらいました。
その時は九輪草、瑠璃草や二人静の盛りで、楽しませてもらいました。
   (この時は次に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45228863.html)
今年は、少し早めて5月22日に友人2人と訪れました。
今日から暫く、その二泊三日のツアーで行ったところを素材に書かせてもらいます。
 
山荘は中山道の姫街道にある馬取部落の近くにあります。
旧軽井沢のような趣とは異なった、自然、農業、歴史が密接に共存している、そんな別荘です。
ブナや栃、ヒマヤラ杉などの林の中に、各人が好みの家を建てています。
I君の山荘の敷地内には渓流があって、湿性植物(水芭蕉や山葵)も自生しています。
 
I君に言わせると、お父様は先ず第一に浅間山が噴火しても溶岩流や火山灰の被害が無い事、
そして第二に浅間山の姿が一番美しく眺められれる・・・・、そんなことから此処を選んだのだそうです。
 
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     中山道姫街道馬取の集落。I君の山荘は正面の山の右側山裾にあります。
     手前右の白い花が「深山桜」です。
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      山荘近く「発地」の農場、向こうに浅間山が見渡せます。6月末には蛍が飛び交うそうです。
 
確かに山荘を下りて姫街道に出る間、浅間山の本体とその南側に小浅間が見渡せます。
夕陽は二つの山の間に沈みます。
早朝には深い霧が立ち込めます。
風が霧を吹き払って・・・・、次第次第に浅間山の全容が見え始めると・・・・、感動します。
古代から日本人は沈む夕日には阿弥陀様を、昇る朝日には大日如来を観想しました。
此処で、日輪や月輪を眺めると・・・・、その感覚が解ります。
I君のお父様は浅間山の眺めがお好きだったから此処に山荘を建てられた・・・、I君の説明に頷きます。
 
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                                  今が見頃の山吹草(以降も含めてI君の山荘で撮影)
 
I君は実にマメな人です。
山荘の庭を見れば良く解ります。
良く眼くばせして・・・・、
強い山野草が占拠して、か弱い山野草が消えてしまわないように・・・・、
山野草にさりげなく手入れをしています。
茂った葉は落して、覆った小枝は伐採して・・・・・・、山野草が喜ぶ環境を整備して・・・、
雪の下から芽吹いて、竹を伸ばして、花を咲かせる・・・・、それを息を押し殺して見守っているのです。
 
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                                                 瑠璃草、背後の白い花は二輪草
 
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                                                               桜草
 
先ず、山荘のそこかしこに咲いているのが山吹草です。
瑠璃草も、桜草も今咲き出したところです。
延齢草は白い花と朱がさしたものと二種類ありました。
マムシ草もそこかしこに咲いています。
山野草の頭上には灌木が花を咲かせています。
この季節、白い花が目立ちます。
 
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           この樹が何であるのか解りませんでした。でも、ブログにアップしたところ、
           柴犬さくらさんが「アオダモ」であり、バットの素材になる木だと教えてくださいました。
            これがブログの有難い所です。
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                                      手前がレンゲ躑躅 向こうの白い花がガマズミ
 
玄関脇に咲いているのが・・・・、何であるのか・・・、解りません。
一見するとヒトツバタゴ(なんじゃもんじゃ)のようですが、花弁が少し大きい様な気がします。
   (明治神宮外苑のなんじゃもんじゃに比べると)
I君のお父様が遺してくれた図鑑にも良く似た花はあるんですが・・・、ピッタリは見つかりません。
ガマズミも白い花です。
一見すると大手毬のようですが・・・・、
ガマズミであることは昨年の秋赤い実を付けたのを見ているので、間違いはありません。
そして、彼方此方に咲いている白い花は何なのか?
I君は山桜の仲間だろう・・・、言うのですが・・・、樹皮こそ似ていますが花弁は小さく、
真っ白ですし、第一に葉っぱが大違いです。
プラムじゃないか・・・・、梨ではないか・・・・あれや、これや議論したうえで・・・・、
お父様の図鑑で調べると「深山桜」であることが判明しました。
もう、桜は八重桜も終わったのに・・・、深山桜は1か月近く遅れて咲くのだ・・・・、初めて知りました。
 
学生時代、お父様の姿は見てもご挨拶だけしか出来ませんでした。
屹度私達の会話を楽しく聞いておられる事でしょう。
山野草を見詰める私達の肩越しから・・・・、
「この延齢草は・・・・・・」 「この桜草は・・・・」
息子が面倒を見てくれるから・・・、山野草は咲き続ける。
嫁も山野草を大事にしてくれる。
二人の孫娘も軽井沢には良く来てくれて・・・・、曾孫もつれてくる・・・・、
みんな、山野草が綺麗だと言って大事にしてくれる・・・・、
お父様は屹度お喜びのことでしょう。
 
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                                       寒咲きアヤメ(?)、それとも姫シャガ(?)
 
 
恋人は花を送ります。
保育園児の子はシロツメクサを摘んで首輪にして・・・、大好きなお母様にプレゼントします。
亡くなった人の墓前にも花を供えます。
どれも、花が美しいから・・・・、花が人の心を伝えてくれるからでしょう。
墓前の花は息子や娘が亡くなった両親やお爺ちゃんお婆ちゃんに伝える感謝のメッセージでしょう。
 
死んでしまったら・・・・、何も出来ない・・・、それは百も承知です。
だから・・・、生きた証を一つでも残して一生を終えたいもんだ・・・、
誰しもが思います・・・。
でも、誰しもが何も出来ずに・・・・、諦めながら息を引き取るものだ・・・、そう思っていました。
 
でも、こうしてI君のお父様の遺された山野草を眺めていると・・・・、
気付きました、これも生きた証であって・・・・、孫子の、世代を超えて伝えられるメッセージであるのだ・・・・、と。
大きなビルや立派な会社の株券は・・・・、必ずしも孫子に喜ばれるとは限りません。
時には(往々にして)兄弟喧嘩の火種になります。
山野草を遺すのであれば・・・・、
山野草を介して幾世代にも連綿と・・・、メッセージは伝えられて・・・・、生きた証になるもんです。
 
勿論、I君に、そして素敵な山野草を遺してくれたお父様に感謝して・・・・、山荘を後にしました。
 
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                                      延齢草、此方は白い花、朱色がさしたものもありました。
 
 
 
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中山道姫街道の馬頭観音

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I君の山荘の進入路を下るとバス道路に出ます。
可愛らしい循環バスが通っています。
バス道路には馬頭観音と書かれた石塔が目立ちます。
また、額に馬の顔を乗せた馬頭観音像も多く見受けられます。
私達は山荘に遊ぶ度に先ず馬頭観音像にご挨拶します。
「また来ましたよ・・・・、楽しく遊ばせてくださいね・・・!」
 
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     馬取の百観音像。馬頭観音の石塔を中心に88観音像と庚申塔や寒念仏塔など100基が並んでいます。
     6月、マロニエの咲く季節の馬取百観音は次に書きました。:
 
江戸時代になると流通が活発になり、遊びや信仰で旅をする人が増えます。
五街道の峠道には馬子唄が聞こえるようになります。
箱根馬子唄、小諸馬子唄、等耳慣れた唄もありますが、何と言っても一番は追分の馬子唄でしょう。
馬子が馬の口を引きながら・・・・浅間山の麓を通る・・・・・、そんな光景が目に浮かぶ良い甚句です。
馬は馬子唄にあわせて歩きます。
乗る人には快いリズムになります。
また、突然に狐や鹿が現われて馬が暴れない・・・、そんな効果があったのでしょう。
勿論旅人は旅情を楽しみました。
そんな馬子が多く住んでいたのが馬取りの集落だったのでしょう。
奥の細道に「馬の鼻向け」が出てきます。
馬の鼻に付けた手綱を取る・・・・、馬取の名は其処に由来すると推測します。
 
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      遠くの集落が馬取です。写真中央の森陰に薬師堂があって、その脇に馬取百観音が祀られています
 
このバス道路は中山道の姫街道です。
この脇道は横川から碓井の関所を迂回して借宿で中山道に繋がります。
その距離約10キロ余りでしょうか?
その略中間地点が馬取です。
馬取には牧草地があって馬を育成するにも好都合だったのでしょう。
その南が発地です。
名前からすれば一面の湿地を新田に開発した・・・、新開地だったのでしょう。
休耕田に湿性植物が生い茂り・・・・・、蛍が飛び交うそうです。
山荘の人が土地を借りて野菜や花の育成をしている・・・、そんな光景も見られます。
発地の辻にも馬頭観音の大きな石塔が祀られています。
寛政10年に建立された・・・、と刻まれています。
 
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   発地の馬頭観音石塔。右側面に寛政10年の建立と記されています。二基の地蔵尊が祀られています。
   お地蔵さんの道路向かいにも馬頭観音の石塔や観音像が30基ほど集められています。此方は近年一帯の石    仏を此処に集めて祀った・・・、案内が為されています。
 
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                                                        地蔵ヶ原のお地蔵さん
 
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    発地の石仏群、発地から地蔵ヶ原一帯の石仏が散逸しないように此処に集めたのです。北にある馬取の百     観音は同一作風ですが、此方はバラバラです。中央背の高い二基が馬頭観音石塔です。
 
 
旅人を運び、田起こしや新田開発に従事した馬も歳を重ねれば亡くなります。
馬頭観音の石塔は死んだ馬の墓場だったと思われます。
「素直な性格の優しい馬だった・・・・」
馬子は泣く泣く愛馬を馬頭観音の石塔の下に置いて帰ります。
すると、馬の死骸は専門の人が解体して、皮などは再利用します。
それも馬や牛の宿命なのでした。
島崎藤村は処女作「破戒」を書いたのもこの先、佐久を舞台にしていました。
 
観音菩薩は勢至菩薩と並ぶ阿弥陀如来の脇侍です。
人間の欲求や願望は、時代時代、人それぞれによって変わるものですから・・・・、
観音菩薩も人間の欲求に応じて変化する・・・、便利というか有難い仏なのでした。
その代表的な観音が6観音であり、観音は33にも変化します。
その33の数が西国、坂東、秩父の観音霊場の数にもなりました。
でも、聖観音、十一面観音、千手観音と・・・それぞれの観音自体は変わりません。
人間の欲求には普遍的なものがありますから・・・、33観音自体は余り姿を変えませんでした。
 
でも、馬頭観音は違います。
古代、中世、近世と大きく変化します。
 
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                                      姫街道には浅間山と石仏が美しく見られます。
 
馬頭観音はその梵名を「ハヤグリーヴァ(馬の首)」と言うそうです。
これはヒンドゥー教のヴィシュヌ神に由来するそうです。
衆生の無知や煩悩を排除する仏でありました。
馬が草を根こそぎ食い尽くす・・・、そんな光景を見て・・・・、人間の心に宿る欲望や煩悩を消し去ってくれる・・・、
願ったものが始まりでしょう。
古代の馬頭観音はそうした観音でした。
 
ところが、中世になると馬頭観音は「戦いの神様」に変化します。
中世には武士が馬上から槍で戦いました。
人馬一体になって・・・・、戦うには3面6臂(顔が3つ、腕が6本)は好都合です。
四方の敵を一人で倒すことが出来ます。
ですから・・・、中世の馬頭観音は軍神になります。
 
そして、近世になると、もう戦争の場面は無くなります。
馬は流通に農業に重要性を変えてきました。
そうして、馬頭観音は大切な馬の健康を祈り、亡くなってしまえばその冥福を祈る対象になりました。
 
中山道には何処に行っても馬頭観音が目立ちます。
日本の近世を支えてくれた馬途人間の良い関係に思いを馳せる事が出来ます。
馬頭観音石像の前に人参などが奉げられていると、ほんのりした気持ちになります。
 
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   馬取百観音、合掌した姿の観音像が並びます。もうじき頭上のマロニエが花を咲かせます。
 
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   朝陽が樹間から差し込み、石仏がライトアップされます。
   奥中央に馬頭観音の石塔がありその左に馬頭観音が祀られています。石塔の右は庚申塔です。
   千手観音も聖観音も十一面観音も第1手は合掌をしています。
   合掌する(祈る)事が始まり・・・、確信していたのでしょう。
 
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湯の道道標の「馬頭観音」像

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昨日は中山道の姫街道「馬取」集落の百番観音を案内しました。
集落の誰しもが霊験のある札所を巡って祈りをしたい・・・・、
家族の健康や豊穣な収穫、そして極楽に往生したい・・・・、等々祈りを西国33番、坂東33番、秩父34番と
百番の札所を巡りたい・・・・、思いました。
そこで、集落の代表が札所を巡りました。
また、“札所を村に分祀して貰おう”考え始めます。
こうして村外れに、観音霊場を分祀して、観音様を百体並べて・・・・、お祈りし易く致しました。
観音様を彫ったのは旅の石工でありました。
高遠石工、湯河原石工、上野石工などが居ました。
 
こうした百番観音は各地に残っています。
 
百体の観音様を一か所に集めるのではなく・・・・・、街道の道沿いに祀ったらならば・・・・・、
お祈りするだけではなく、遠い道のりを歩く励みにもなるし、道案内にもなる・・・・、考えたのでしょう。
とりわけ、道が険しかったり迷う危険があれば尚更です。
 
東御市(とおみ)の新張から地蔵峠(1725m)を越えて嬬恋の鹿沢温泉に向かう道にも百体の観音様が祀られています。私達はこの観音様を巡りながら鹿沢温泉、池の平を廻る事にしました。
 
新張の辻に大きな如意輪観音様が建っていました。
眼も鼻も口も大きく少し異形の感じがするお顔です。
地上からの高さは約2.7m、見上げる高さです。
傍に案内板があって、明治2年(1869)に伊那の高遠の石工、 中山暉雲の手で彫られたそうです。
1番、100番が中山暉雲の作で、大半の石仏には石工の名が刻まれていません。
作風も随分違います。
 
矢張り案内によると江戸時代末期文久4年(1864)から明治6年(1873)の約10年間に作られたそうです。
以来、150年傷みも目立つようになってきました。
石仏は風化するもの、とりわけ水が浸みて凍れば風化の進行が早まります。
傷んだ観音様のお隣に新しい石仏が並んで祀られたりしています。
百番観音の考えに賛同する人が今も多いことの顕れでしょう。
 
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  東御市新張の辻にある1番観音、ポストの左に上って行く街道に百体の観音様が1町(110m)間隔で並んでいま   す。
 
観音様の呼び名は様々あるようです。
「地蔵峠道しるべ観音」とか「百番道しるべ観音」「湯の道道しるべ観音」等などです。
最初に道しるべを兼ねて観音様を祀ろう・・・・、考え付いたのは鹿沢温泉の楢原所右衛門だったそうです。
屹度高野山などの有名寺社の登り道に観音様がおられて、迎えてくれるようだ・・・・、
思ったのがヒントだったのでしょう。
 
鹿沢温泉に来て欲しい、そして湯治を終えて元気になって戻られて・・・、また来て欲しい・・・、
そんな思いが「湯治場への道しるべ」になる観音様だったのでしょう。
湯治道の峠が地蔵峠になります。
峠の観音様が80番になります。
そして、百番目を湯治場「紅葉館」の脇に建立しました。
千手観音で、舟形光背を背負って半肉浮彫された立像です。
高さは242㎝もあります。
大半散ってしまった山桜の樹下に立っておいででした。
 
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    百番目の千手観音像。左横に紅葉館が建っています。
 
観音様は33のタイプがあると言いますが、一番多いのが千手観音、次いで十一面観音、聖観音が目立ちます。
馬頭観音はその次に多いでしょうか?
でも、50番観音は馬頭観音の秀作です。
大きな岩の上で、片足を伸ばした半跏の姿をしています。
三面四臂(顔が3つ、腕が4手)憤怒相をしている古典的な姿です。
胸前の馬頭印を結んだ指に力が込められていて・・・、強い願いが窺がわれます。
峠越しの4里の難路ですから・・・、湯治客の無事を祈る為には・・・・、
馬頭観音こそ相応しい仏様という事でしょう。
 
直ぐ近くには巨大な「シナの樹」があります。
根元には二つの祠があって、いかにも神々しい樹です。
森の大樹百選(林野庁)にも数えられる樹だそうで、言い伝えが残っています。
弘法大師が此処で休息されました、
その時傍らに置いた杖に根が生えてこのシナの大樹になったのだそうです。
また、木曾義仲雨宿りのシナとも謂れれいるそうです。
樹齢は300年余りですから・・・、言い伝え通りとすればその何代目かという事でしょう。
良い石仏にはその置かれた場所、環境が大事です。
この馬頭観音は像自体も優れているのですが・・・、置かれた環境が最高です。
湯の道も此処まで来たら半分、馬頭観音様にお祈りして、休息してまた腰を上げて歩き出したのでしょう。
 
基壇の大岩に陰刻されています。
施主の名が刻まれています、
石工の名も刻まれているか・・・、探しました、匠の字はあるのですが・・・、判読できませんでした。
 
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    50番の馬頭観音像、右足を伸ばした半跏像である所がユニークです。基壇の大岩に50番の他願主の名等が    刻まれ、匠の字もあるんですが判読不能でした。
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   手前はレンゲ躑躅、湯の丸高原はレンゲ躑躅の群落があって天然記念物ですが、未だ咲いていませんでした。
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                                道路脇のシナの樹、此処が百番観音の50番目です。
 
 
1番観音の東御市新張が標高800m位でしょうから、峠まで標高差900mもある事になります。
標高が高まるにつれて景色は様々に変わります。
青草の茂みの中に埋もれそうな観音像もあれば、
落葉松の新芽を背にした観音像、背丈の低い笹の中にも観音像はありました。
自然の中に佇んでいる石仏は一番に美しい、思わせてくれます。
次はどんな観音様が、どんな風景の中に納まっているか・・・・、楽しみにしながら巡って行きます。
 
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20番の千手観音、10番毎に大きな石仏が置かれていました。この辺りは生活感のある風景です。
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22番の千手観音
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57番の十一面観音、背後は落葉松林で、新芽が鮮やかでした。
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地蔵峠も近い77番の聖観音、笹の中。
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地蔵峠を越えて嬬恋村に入った処の83番聖観音。
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96番聖観音
 
こんなアイディアもあって鹿沢温泉は賑わった湯治場だったそうです。
ところが大正7年火事で温泉街は壊滅してしまいました。
その後、温泉街は現在の新鹿沢温泉(嬬恋村)に移転してしまいます。
唯1軒の宿「紅葉館」が遺されます。
紅葉館には前述100番観音と「雪山讃歌」の碑が残されています。
京大山岳部の学生であった西堀栄三郎氏(南極越冬隊初代隊長)が冬場の雪でこの宿に足止めされて、
その退屈しのぎに作成したのだそうです。(昭和2年)
 
紅葉館の湯に浸りたい・・・・、I君の意見でしたが・・・、
あんまりに閑散としていて・・・・、人気も無いので・・・、
結局麓の湯楽里館(東御市振興公社経営)の湯に入りました。
蓼科、美ヶ原、八ヶ岳等の山並みを見渡す、立派な施設です。
料金は紅葉館も湯楽里館も同じ500円です。
これでは、紅葉館は苦しかろう・・・、思いを馳せました。
やっぱり、I君の言うとおり紅葉館に入って、
他にお客もいないのですから・・・
”雪よ岩よ われ等が宿り 俺たちゃ 街には 住めないからに・・・”
4人で唱和すれば良かった・・・、思うのでした。
 
 
 
 
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農耕馬への供養でもあった「春日百番観音」

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名峰蓼科山の西陵に降った雨は幾筋にも分かれて沢を下ります。
八丁地川、布施川、鹿曲川は望月の街で合流し、塩名田宿の先で千曲川に合流します。
塩名田には物資が集積し、市が開かれました。
同宿には、名物の川魚料理がありますし、橋の袂には駒止の岩があります。
馬も市で商いされる重要な物資の一つでした。
御牧ヶ原は奈良時代からの馬の産地でした。
 
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   紀貫之が「逢坂の関の清水に影見えて今や引くらん望月の駒」と歌いました。望月はマンホールの蓋も馬で    す。
 
望月は石仏の質量ともに優れたところで、私達は何度も見ています。
今回は望月から鹿曲川に沿って約8K上流にある「春日百番観音石仏群」を詣でることにしました。
前回は望月宿に近い「昭和百番観音」に上りました。
実は前回も春日百番に行きたかったのですが・・・・、カーナビにも出ていない事から・・・見つけられず、
“まあ、致し方ない”というわけで、昭和に出来た百番観音を拝観したのでした。
 
 
春日温泉から鹿曲川に沿って上ります。
川沿いに集落が点在しています。
次第に山峡に入って行きます。
入新町、岩下が最後で、その先は森になってしまいます。
川幅も狭くなりました。
山の斜面の中腹に石窟寺様式の小さな上屋がありました。
脇に大木があります。
樹は辛夷です、もう青々と茂っていますが・・・・、一番にこの山里に春の訪れを告げるのでしょう。
 
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     春日百番観音岩屋から向かいの岩下新田を見下ろす。向かいの集落が岩下です。河川は鹿曲川、5キロほ     ど下流が春日温泉です。源流を登ると蓼科仙境都市(別荘)があります。
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   岩下の集落は馬頭観音が目立ちます。馬頭観音等を確認する私の友人たち。遠くの山が蓼科山。右側の森の   手前に岩屋があって其処に懸崖造りの上屋があり、その背後に百体の観音石仏群が祀られています。
 
寛永6年(1629)飯塚勘右衛門は一帯を開発して「岩下新田」とします。
新田の最深部に岩屋があって、その裂け目から水が湧いていました。
その岩に霊感を覚えたのでしょう、
この岩屋に馬頭観音を祀り、新田の安全と穀物の豊穣、村民の平和等を祈願しました。
江戸末期から明治初年にかけて佐久の馬主達は馬の供養と安全、豊穣を祈って百体の観音像を寄進しました。
この頃は百番観音が一つのブームだったのでしょう。
 
昨日書いた湯の道の「道しるべ百番観音」も略同時期になります。
発願者は武田喜衛門、石工は矢張り高遠の石工「矢嶋楢蔵政永」と「小平菊弥」でした。
道しるべ百番( 中山暉雲)に比べればデフォルメされていない・・・、大人しい作風です。
また、石材が千曲川の東西で全く違います。
道しるべ観音が黒い安山岩なのに対し、春日百番は白い花崗岩です。
白く硬い花崗岩ですから・・・・・、衣文の裾等に彩色が為されています。
彩色が無ければ石仏自体にメリハリが無くなってしまうでしょうし・・・、有難味が薄らいでしまいます。
小さくても、霊験ある、威厳ある石仏が出来上がりました。
 
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                                         春日百番観音群、入口の十一面観音
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    巌谷の中腹に並べられた観音石仏群。 衣文に彩色されているのが目につきます。
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岩屋の露岩が棚のようになっています。
その岩を背にして石仏群は数体が寄り添うようにして並んでいます。
岩屋を巡る細道は雑草が生い茂っています。
湿潤な岩屋ですから・・・・、マムシが出そうで少し怖いようです。
閻魔さまもありますし、少し滑稽な奪衣婆も祀られています。
調べてみると112体の石仏があって、大半が観音様なのですが十王思想も色濃いのだそうです。
此処に並んだ石仏群がそのまま江戸末期の一帯の信仰を顕しているのでしょう。
 
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        衣文に彩色が施されています。
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これが奪衣婆です。 
 
懸崖造りの上屋は鉄骨で組まれています。
材木より長持ちするし・・・・、致し方ないのでしょう。
その鉄骨で組んだ梁の上に沢山(多分百)のご詠歌が書かれた額が懸けられています。
奉納したのは多分望月の人達でしょう。
もうかすんでしまっていますが・・・、明治37年の奉納とされています。
 
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                                上屋の梁に懸けられたご詠歌、百首あるのでしょう。
 
ご詠歌は字数は短歌と同じです、でも韻を踏んだり・・・、芸術性は薄く、
ストレートに祀られた観音菩薩の功徳やお寺の特徴霊験を表現しています。
詠う事に意義があって、その内容には文学性は薄いもので・・・・、讃美歌のような響きです。
ご詠歌は庶民がわかりやすく仏の存在や有難さを説いて、お覚えさせるものだったからです。
だから・・・・、江戸末期明治初頭の信仰を理解しようとすれば・・・、ご詠歌を素材に検討すれば良いのでしょう。
 
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      上屋の奥に小さな祠があって、中にはご本尊の馬頭観音が祀られています。
      その位置は大きな岩の裂け目です。奈良室生寺の竜神を思わせる様な位置関係です。
 
 
上屋の奥に蔀戸があって、その奥に祠があって、その中に馬頭観音がご本尊として祀られています。
ご本尊の祀られた位置は丁度大岩の裂け目に当ります。
この次代になると、望月では馬頭観音は稲の豊作を祈る対象になっているのでしょう。
私の住む相模なら・・・・、この位置には竜神が祀られたり、弁才天やお稲荷様がご本尊になっているもんです。
 
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            入口の建つ「百番供養塔」の石柱。手前側面に発願者武田喜衛門の名が刻まれていました。
 
岩屋の入口に「百番供養塔」と刻まれた石塔がたっています。
百番観音の標識でありますが・・・・・、私は「供養」という言葉に注目します。
供養という事は、誰を供養したのか? 考えさせます。
間違いなく供養されたのは馬でしょう。
江戸時代初頭に新田が開発されます。
100年にの間に日本の人口は1000万人から3000万人に増えます。
人口爆発を支えたのが新田開発や農耕馬を使ったの生産革命だったのでした。
そんな農耕馬が寿命を終えた時・・・・、この供養塔の下に運んだのでしょう。
そして、馬の屍は鹿曲川の川原で解体され、葬られたのでしょう。
馬は、農家の家族であり、豊作を果たしてくれる労働力であり、豊穣を約束してくれる神様だったのでしょう。
そんな大切な馬も寿命には勝てません・・・。
亡くなればあつく葬ったものと思います。
だから…、供養塔なのでしょう。
 
馬と人間の関係、馬頭観音の重要性を理解させてくれる「春日百番観音群」です。
何れ、辛夷の咲く季節にじっくり百体の観音様を拝観したいものです。
 
【追記】筆者は百体観音石仏群は多く書きました。時代、場所によって随分趣も目的も違います。以下に書きました。
「北軽井沢の道標百」観音: http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46621205.html
霊場「閼伽流山・百観音」:http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46617011.html
「聖なる百観音像(房州日本寺)」: http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46476759.html
雪を溶かす石仏の温み(円覚寺百観音):http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46099895.html
石仏の運命(枯葉に埋もれた馬取百観音) : http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45721879.html
マロニエの樹下の「馬取百観音」:http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45190440.html
コンビニ観音巡り(金沢文庫): http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/9562658.html
 
 
 
 
 
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五郎兵衛新田が伝える事

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I君の軽井沢山荘で戴く食事は美味しい。
一日中散策して、体も快い疲れを感じている事、こまめなI君の手料理が上手であること・・・、理由は数多くある。
出される白米も美味しい。
「このご飯美味しいね!」話せば、
I君は「此処の水が良いから・・・、それにこのお米は”五郎兵衛米”なんだ。」言います。
 
私は日本で一番のお米は「魚沼コシヒカリ」だと思っていましたが、
軽井沢で戴く五郎兵衛米(コシヒカリ)は魚沼産コシヒカリを凌ぐ美味だと思う。
唯、生産量が少ないから、首都圏では流通していない。
インターネットで産直米を買うか、佐久まで行って地元のお店で求めなくてはならない。
 
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    五郎兵衛記念館からの眺め、手前の樹林の中に市川五郎兵衛さんのお墓があります。この樹の陰に浅間山    が聳えています。
 
 
佐久の浅科に五郎兵衛記念館がある。
「道の駅ボートパーク浅科」の前は良く通るのだが、記念館には寄らずに・・・・、何時も素通りしていた。
今回は、何時も美味しく五郎兵衛米を戴くので、その感謝の気持ちもあって記念館を訪れた。
 
道の駅から五郎兵衛記念館の案内矢印に沿って細い道を登って行く。
辻には馬が陰刻された石碑が建っている。
この辺り「五郎兵衛新田」を開墾したとき、働いた馬を讃えたものであろう。
五郎兵衛新田を見下ろす高台に記念館が建っている。
正面には浅間山、千曲川が流れ、その手前に広がるのが五郎兵衛新田、
家並みが続いているのが旧中山道、
そして、背後の山は蓼科山に繋がっている。
田圃には水が張られて、今が田植えの最中である。
”瑞穂の国は美しい” ・・・・、実感する大パノラマだ。
 
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            五郎兵衛記念館下の矢嶋溜池、これが用水の中継拠点である。
           矢嶋には日本最古の道祖神が祀られていました。
 
五郎兵衛記念館は真親神社の境内にありました。
真親とは五郎兵衛新田を開墾した「市川五郎兵衛真親(さねちか)」の名です。
五郎兵衛さんは神になって、諏訪の神様と並んで祀られている。
記念館の西側には大きな池があって、此処が溜池の役割を果たしている。
そして、溜池の前後を疎水が繋がっている。
日本百疎水(農林省)に数えられる美しい疎水である。
 
親爺4人が突然に訪れたので、五郎兵衛記念館の館長さんが出てこられて、丁寧に説明してくれた。
私達も数多く質問させていただいた。
 
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    五郎兵衛新田の開発をジオラマで説明していただきました。右上蓼科山の山中から水を浅科まで、山谷を越    える引く工事でした。
 
市川五郎兵衛真親は上野国甘楽郡羽沢村に生まれた。
甲斐の武田家に仕える武士の家でしたが、五郎兵衛が未だ幼い時に武田氏は滅亡してしまいます。
相当の人物だったのでしょう、家康は自らの家来になるよう再三誘ったのでしたが、
市川家は家康の誘いを断り、家康の領地内なら何処でも自由に鉱山開発、新田開発をすることができる・・・、
朱印状を貰います。(文禄2年1593年)
市川家は武士である事を捨てて、鉱山開発・新田開発と言った事業の道を選択したのでした。
 
 
五郎兵衛は、隣村の砥沢村で砥石山の経営を行うとともに、佐久地方で新田開発を行います。
佐久地方にやってきた五郎兵衛は、まず三河田新田、市村新田(ともに佐久市内)を開発、
最後に五郎兵衛新田、現在の浅科村の開発にとりかかります。(寛永3年1626年)
一帯一面は不毛な葦原であったのでしょう、
でもこの扇状地は粘土質で水田にしたら・・・・、良いお米が収穫できる・・・、確信があったのでしょう。
問題はどうやって用水を確保するか・・・、でした。
 
水源探しを始めて3年、ようやく春日の蓼科山の山奥(昨日書いた春日百番観音の先)に水源を見つけます。
先ず水を岩下川に落とし、湯沢川との合流点、現在の望月町春日でせき止めて取水し、
そこから山谷を越えなくてはなりません。
山はトンネルを掘って、谷は土を盛って・・・、用水路を確保致しました。
そして矢嶋に築いた溜池まで流すのでした。
疎水の総延長は20㌔に及ぶ大工事でした。
 
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                 この図面は水路をメンテナンスする為のものでしょう。正徳2年(1712)の図面です。
 
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                      これは貴重な水を公平に分ける為の水帳です。
 
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                          これは用水路を大切に維持するよう命じた「お定め書」です。
 
ジオラマも、大工事の設計図も、数多く集められた農機具も良かったのでした。
でも、私達が一番感心したのは地元の小学生が作った版画や新聞でした。
先ず下の写真を見てください。
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この大版画は浅科小学校の6年2組の生徒さんが(担任渡辺正喜先生)1990年3月の卒業記念に制作したものだそうです。中央右で指図しているのが五郎兵衛さんでしょう。
周囲のお百姓さんは土をこねて、藁を練りいれて・・・・、土盛り(築堰)をこしらえています。
 
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                                             土盛り(築堰)の説明図
 
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                                   岩壁を穿って用水を通すためのトンネルを掘る図
 
上の版画は用水を通すために硬い岩にトンネルを掘っている場面です。
また、壁新聞にはトンネル掘りと土盛りが一番の難所であった事を伝えています。
小学生は壁新聞を核に際して、自分で鑿を使って岩を穿とうとしました。
ところが全く掘れませんでした・・・・、
改めて・・・、自分達の祖先は偉大だった・・・・、実感して・・・、その感動を壁新聞に書いています。
私はそんな小学生も素晴らしい・・・、感心しました。
五郎兵衛さんらの血と汗の結晶が新田だったのでしたが・・・・、
それを伝える子供達が居る事も貴重だと思います。
 
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この記念館には慶応年間になってキリシタン邪宗門禁令の定め書も残されていました。
幅広く興味のある資料が揃っています。
壁には奈良本達也先生が指導していた・・・、ことを示していました。
 
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   1600年代農業生産量の拡大は、牛馬の活用、農機具の開発が支えました。勿論、五郎兵衛のように武士を   捨てて新田開発をした人の功績も甚大だったのでしょう。
 
 
五郎兵衛さんは死んで美田を残しました。
以来400年、今も変わらず郷土愛を持ち続ける子供達がいます。
形あるもの、形は無いものの最も大事な事・・・・、双方遺している事の尊さを実感します。
 
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                                             小田井宿の馬頭観音像(左)と石塔
 
 
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芦田宿の津金寺

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5月23日、私達は軽井沢から国道142号線を通って、松本から宿のある安曇野に向かいました。
前回は上田から修那羅峠を越えて松本に出たのでしたが、今回は独鈷山の北の谷合の道を通る事にしました。
何故なら・・・・、142号線沿線には奈良時代に開基された古刹が数多く、古くからの湯治場が点在しているからです。
 
追分宿を出ると中山道は北国街道分かれて塩名田宿で千曲川の東岸に渡ります。
その先八幡宿から国道142号線と合流します。
中山道の旧道は昔の面影を留めていますが、国道は旧市街をバイパスして通っています。
八幡宿の先に茂田井宿があります。
茂田井宿を見る為、バイパスを旧道に戻ります。
武重本家酒造、大沢酒造、2軒の造り酒屋があります。
この道を歩くのが楽しみです。
 
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                                                       突き当りが武重本家酒造。
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                                       武重本家酒造の道。向こうが芦田宿に続きます。
 
咋秋来た時には工事中であった芦田宿本陣「土屋家」も立派に修復されました。
前回、”皇女和宮様がお休みになられた・・・・”
自慢されたお婆様の姿はありませんでしたが、
屹度、立派に修復されて安堵された事でしょう。
中山道旧道はこの芦田宿から真っ直ぐ笠取峠を越えて行きます。
峠の手前を西に折れると、古刹「津金寺」があります。
 
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                                     修復を終えた芦田宿本陣土屋家
 
 
中山道バイパスを見下ろす位置に津金寺があります。
茅葺の大きな仁王門がこの寺の格式の高さを示しているようです。
門の棟に武田菱の家紋が並んでいます。
寺伝によると津金寺は大宝2年(702)大和の行基が開き、
以来学問僧育成の寺として役割を果たしたのだそうです。
ところが天正10年(1582)織田信長の兵火によって焼け落ちてしまいました。
その寺を再興したのが武田家であり、江戸時代になっては小諸藩だったのでした。
ですから・・・、堂塔も比較的新しく、仏像も古い物はなさそうです。
 
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                     右側津金寺の仁王門、左の白壁は庫裏、沢山自転車が置かれていました。
 
仁王様の前には沢山の草履が吊るされています。
古代の仁王像は山門にあって、寺院全体を守るボディーガードのような存在だったのでしょう。
筋骨隆々とした姿が、衆生の健康を守る神様、とりわけ旅人の健康や安全を守る神様として信仰されました。
中山道を辿って、笠取峠を越えた旅人も、これから越えようとする旅人もこの寺で安全を感謝し、
これからも無事に旅を進められるように祈願した事でしょう。
 
その時に、懐に収めてきた草履を奉納したものでしょう。
若しかしたら・・・・・、駅の置き傘のように・・・・、草履が切れてしまったら・・・・、仁王様に挨拶して・・・、
一足寸借したのかも知れません。
 
大きな草履も目立ちます。
それは、仁王様が履かれる草履でしょう。
仁王様が草履を履いて村に来られて村の安全、厄病退治をしてくれる・・・・、そんな信仰があったものでしょう。
 
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    仁王門の吽形の仁王像、その前には無数の草履が奉納されています。人間サイズの物もありますが大半は    大きくて、仁王様サイズです。仁王さんに村に出てきて村の厄病を退治して安心・安全に過ごせるように・・・、    祈願したものでしょう。
 
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    此方が阿形の仁王像、鉄人28号を思わせる迫力です。
    沢山の寄木を鎹(カスガイ)で繋いでいる様が良く解ります。
 
 
兵火で焼け落ちたことから・・・、古代からの遺跡は石造物しかありません。
境内には鎌倉時代初期の宝塔が3基をはじめ700基もの五輪塔が林立しています。
大半は中世のものでしょう、古武士の趣をもった堂々とした五輪塔です。
 
五輪塔の足元にカタクリが自生しています。
もう、とっくに花を散らせて、新しい茎が伸びています。
斑模様の葉っぱがカタクリであることを教えてくれます。
私はカタクリの花が大好きで今年も随分見ました。
雑木林のカタクリ、井戸のカタクリ・・・・、等がテーマでしたが・・・・、
五輪の塔のカタクリは未だ見たことがありません。
”強者と寄り添う妹”を思わせて・・・、一度は見てみたいものです。
 
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     境内には700基もの五輪塔が祀られ、そのもとにカタクリ(手前)が自生しています。
     五輪塔の背後は山吹ですがもう終えてしまっていました。裏山は山吹草の自生地です。
 
 
境内中央に樹齢900年と言われる大杉が葉を茂らせています。
その樹下で、中学生が写生をしています。
速く描き終えて・・・、お弁当にしたい・・・・、顔に出ています。
先生が檄を飛ばしています。
「(昼飯まで)あと30分、集中して描こう!」
大杉の樹下やお堂の庇に場所取をした生徒は集中は切れていないようですが・・・・、
日向で場所を取って描き始めた生徒はもう耐えがたい暑さです。
速く、一息入れたくて仕方ありません。
 
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    大杉の下で写生する浅科中学校の生徒さん達。自転車は彼らが乗ってきたものでした。
    奥右が本堂、左が阿弥陀堂。
 
津金寺は山野草も良いようです。
カタクリも山吹草も終えてしまっていましたが・・・・、境内には萩が新芽を勢いよく出していました。
秋も楽しみです。
 
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                  杜若(?)の向こう、石積みの上にあるのが萩です。秋の萩は楽しみです。
 
国道142号線を進みます。
独鈷山の北辺りに虚空蔵堂(法住寺)があります。
此方の本堂は重要文化財です。(昨年秋次に書きました http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46810775.html)
 
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            虚空蔵堂(室町時代)は重要文化財、ご本尊「虚空蔵菩薩(平安時代)も重文です。
 
霊泉寺に寄りました。
このお寺も安和元年(968年)の建立だそうです。
お寺を建立したとき、寺の脇から温泉が湧き出したのでこの名があり、古くからの温泉でした。
ところが明治10年(1877)に火事でお寺は焼失してしまいます。
従って、石造文化財だけが歴史の深さを伝えています。
名物の大欅も枯れてしまって・・・・、
実に静かな温泉町でありました。
 
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   霊泉寺の卵塔群、卵塔は歴代住職のお墓で、中央の五輪塔は開基の墓でしょうか? 
   鎌倉時代のものだそうです。(丸小町文化財)
 
国道142号線を鹿教湯温泉を経て、和田峠手前で西に折れて美ヶ原の麓を松本に向かいました。
松本市街を見下ろす位置に浅間温泉があります。
 鹿教湯温泉は以下に書きました。
 鹿教湯温泉文殊堂の尊さ:: http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46805283.html
 鹿教湯温泉と土門拳さん:http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46807842.html
 
雪を頂いた北アルプスの山並みが迎えてくれます。
久々に眺める北アルプス・・・・、やっぱり最高です。
「松本まで来たんだから・・・・、牛伏寺を詣でて行こうよ!
宿の安曇野とは逆方向だけど・・・・。」
提案します。
皆、賛成してくれます。
 
 
 
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牛伏寺の絵馬

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長野には二つの牛にまつわる故事があります。
一つは布引観音の故事です。
信心の無い老婆が牛にさらわれた布を取り返そうと善光寺まで追いかける話です。
「牛に引かれて善光寺参り」の諺になりました。
 
もう一つは牛伏寺に係るものです。
天平勝宝7年(756年)唐の玄宗皇帝が善光寺へ大般若経六百巻を納めようとします。
経巻を積んだ赤・黒二頭の牛が松本までやって来ましたが、二頭共に寺の門前で倒れてしまいます。
使者達は寺の本尊十一面観世音菩薩の霊力だと判断し、
その経巻を当山に納め、二頭の霊を祀って帰京しました。
この不思議な因縁により寺号を牛伏寺と改めました。
 
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                                             如意輪堂前の牛、左奥が本坊
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                                   仁王門下、如意輪堂前にも牛さんが伏しています。
 
私が前回この寺を詣でたのは30年ほど前、未だ子育ての最中でした。
印象に残っているのは大きな伏した牛と、山の形だけで、記憶が薄くなってしまっています。
松本のの市中から南東に、鉢伏山の中腹にあるのですが・・・・、中々着きません。
もう、塩尻の市街地が遠望できる辺りになって、ようやく参道が現われました。
 
信濃では二番目の大寺ですが、参道に1軒蕎麦屋があるだけで…静かなお寺さんです。
参道右手に渓流が流れ、砂防ダムもある幽谷の地に位置する、山岳密教寺院です。
 
奈良の室生寺と同じ程度の歴史と文化財を有するお寺で、古刹の名に相応しい風格を有しています。
 
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                          牛堂の先、石段の昇り口にある長身の6地蔵さん。
 
駐車場を下りて、坂を上ります。
左手山側に牛堂が建っています。
阿弥陀様を中心に赤黒2頭の牛像が祀られています。
9頭身はありそうな、すらっとした6地蔵さんが迎えてくれます。
長い石段が続いて、ようやく山門に辿り着きます。
 
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        長い石段の先に山門があります。山岳寺院ですから、伽藍配置は地形のなすがままです。
 
山門をくぐると先ず本坊(一般寺院の庫裏)が現われます。
松本らしい本棟造りの壮大な民家です。
大棟上にある雀おどしと呼ばれる装飾が印象的です。
 
その次が大きな茅葺屋根の如意輪堂、仁王門を潜ってその先に観音堂、その先に舞殿、弁天堂と続きます。
主要な堂塔は南向きに建っています。
山側に、南向きに堂塔が並んでいます。
何れの堂塔も飾り気のない風格のある建物です。
1612年(慶長17)と1796年(寛政8年)の大火で堂塔は焼失、
現在の建物は何れもその後に建てられたものばかりです。
その点では室生寺には及びません。
でも、大火でも焼失を免れた仏像類は数多く、
8体の重要文化財(平安時代末期)をはじめ、長野県下一番の質量を誇ります。
 
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                                             大きな茅葺屋根が圧倒する如意輪堂
 
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                                              如意輪堂のご本尊「如意輪観音菩薩」
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                                      これが素晴らしい奪衣婆像(長野県宝)牛伏寺HPから
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                   大威徳明王像(平安末期、国の重要文化財)、密教寺院に相応しい。(牛伏寺HPから)
 
如意輪堂の上の段に観音堂が在ります。
このお堂に祀られている十一面観音が牛伏寺のご本尊です。(33年に一度開帳されます、次回は平成29年です)
このお堂で御祈祷をしていただけるようです。
外陣の長押には沢山の絵馬が懸けられています。
その一枚一枚が興味深いものがあります。
 
牛伏寺に祈祷してもらう・・・・、そのお願いに絵馬を奉納したのでしょう。
また、満願の謝礼に絵馬を奉納した事もあったでしょう。
絵馬は元来は生きた馬(神馬)を奉納することがはじまりだったのでしょうが・・・・、
馬は高価だし、貰った寺院でも処分に困ります。
そこで、絵に描いた馬を奉納し始めたのでしょう。
 
お願い事が神様に良く伝わるように・・・、感謝の気持ちが良く伝わるように・・・・・、絵馬を描きました。
だから・・・・、何時しか馬の絵ではなく、願い事や感謝の気持ちが解りやすい絵を描いて奉納するようになりました。だから、絵馬を見れば昔の人の想いや信心が良く解るものです。
第一級の宗教を考える素材です。
 
牛伏寺の絵馬は雨風が当たらない場所に架かっていますから、
江戸時代前半の絵馬であっても状態は良いものがあります。
 
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                                     牛伏寺の本堂にあたる「観音堂」
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                                            観音堂の外陣に架かっている絵馬
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                                    皆で大念珠送りをしている図を描いた絵馬
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    此方は古典的な絵馬、文久3年に奉納、左手にはご当地の川中島決戦の図が懸けられています。
 
観音堂の南向かいには太子堂、左手(東)には弁天堂、右手(西)には仁王門が見渡せます。
観音堂の前広場は聖なる空間で・・・・、屹度様々な修験の祭りごとが催されることでしょう。
密教寺院には霊気漲るものがものがありますが・・・・、牛伏寺の霊気は一段の凄味がありました。
 
自分の記憶も当てにならないもんだ・・・、ちっとも覚えていなかった・・・、苦笑いをしました。
でも、流石に牛伏寺良い山岳寺院だ・・・、また来よう・・・、思いながら今晩の宿安曇野に向かいました。
 
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                                 観音堂から見渡す、右が仁王門、向かいが太子堂
 
 
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松本サリン事件と死刑囚アート

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車は松本市内の深志町を通ります。
この町には名門「深志高校」があります。
同行の友人M君はお隣の諏訪清涼高校の出身です。
M君は「諏訪清涼高校と松本深志高校は定期戦(甲鶴戦)があるんだよ・・・」話します。
明治前半に出来た両校、切磋琢磨して良い校風を伝えてきているのでしょう。
私は「深志と言えば・・・・、松本サリン事件があった処だね・・・・。
亡くなられた人こそお気の毒だが、河野さんこそ被害者であった。
奥様は寝たきりになるは・・・、警察もマスコミも自分が犯人だ・・・・扱われてきたから」 話します。
 
事件は1994年の6月の夕方に発生しました。
深志の住宅街で神経ガスの猛毒サリンが散布され8人が死亡、660人が負傷したのでした。
事件発生直後、旧家であった河野さんが怪しい・・・・、報道されました。
連日のように河野さんのお宅がTVに映り・・・・、棚に並んだ瓶詰めの化学薬品が怪しい・・・、とされました。
 
地下鉄サリン事件が無ければ・・・・、河野さんの冤罪は晴れなかったかもしれません。
検察当局やマスコミの冤罪をひき起こす危険は以降も変わらない・・・・、
いや一層その危険性が強まっている様に思えます。
 
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   BSジャパンの画面から。死刑囚は極限状態に置かれた毎日を過ごしています。そんな中で限られた画材を
  与えられて絵を描いています。自殺するかも知れないので絵筆や鋏は与えられません。
 
昨日(5月31日)TVを見ようか! 新聞のTV欄で「極限芸術死刑囚アート/BSジャパン」を見つけました。
死刑囚の作品が広島にある「鞆の津ミュージアム」で展示されているのです。
 
死刑囚であっても人間の価値や尊厳は否定されませんし、だから表現の自由はあります。
まして、何時死刑執行されるかもしれない・・・、そんな極限状態にあるのだから・・・、
明日死ぬかもしれない・・・・、ならば、今日中に自分を表現しておきたい・・・、
そんな思いは強いものがあるでしょう。
まして、運悪く状況証拠が重なって・・・・、冤罪になってしまえば尚更です。
 
”自分は犯人では無い!” 口や言葉で重ねても
”状況から判断するに・・・・被告以外に犯人が居るとは思えないんだよな・・・。”
言われると、何とも反論できません。
まして、法廷になれば饒舌に話せる人などいないでしょう。
そうなると・・・絵画が自己主張する唯一の方法になるのでしょう。
自分が真犯人であれば、自ら深く反省し、償いをしようとしても独房に入っていれば・・・・、
絵で償いを表現する他ないでしょう。
絵を見れば・・・・・、死刑囚が今何を訴えているのか、何を求めているのか良く解ります。
 
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                この死刑囚は自分を見詰めているのでしょう。自分自身を見詰める目が怖いようです。
 
和歌山毒物カレー事件は松本サリン事件の後、1997年7月に発生しました。
夏祭りで振舞われるカレーに誰かが毒(ヒ素?)を入れ、4人が亡くなりました。
犯人(主婦の林真須美被告)に容疑が集中し、逮捕前からTV局が競って林氏を報道しました。
林被告は終始一貫して犯行を否定しました。
犯意が不明にも拘らず・・・・、最高裁で死刑が確定しました。
あの時のTVの映像も状況証拠になりました。
林被告の毛髪に青酸反応があったこと、自宅に白蟻退治用の駆除剤があった事、
被告の家から流れ出る下水に青酸反応があった事、
一人でいるときカレーの鍋に近づけたのは被告以外に居ない・・・・、
そんな状況証拠が延々と述べられ・・・・・、死刑が確定したのでした。
 
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    これが和歌山カレー事件の林死刑囚の作品。二本の赤い滴は両目から滴り落ちる血の涙の意味でしょう       か? 表題が「国家と殺人」となっている事からすると中央の赤いバンドは国家で林死刑囚)捕縛してい        る事を表しているのでしょうか?
    林被告は無実を主張し続けているのでしょう。TV画面のコメント「自由な表現を認めていない」の
    コピーは、死刑囚が選べる画材が制限されている意味で、表現内容は束縛されているわけではありません。
 
小さな文化住宅が並ぶ中・・・、林被告のお宅だけが豪邸でしたし、
ミキハウスのブランド服を着て、恰幅の良い被告は町内からは浮いた存在でありました。
でも、夏祭りに参加していたのだから・・・・、普通の人だったのかも知れません。
 
最高裁で刑が確定したからと言って・・・・、人間が断じる事・・・、後味の悪さが残ります。
筆者は死刑反対論者というわけでは無いのですが・・・・、
状況証拠を積み上げて・・・、真犯人はお前だ! 断定するのにはいささか抵抗を覚えます。
松本サリン事件では、地下鉄サリン事件が起こらなければ
「犯人は河野、お前以外に居ない、状況証拠が積み上がっている・・・」
とされ、死刑になっていたかもしれません。
 
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   これは埼玉県でペット業者が産まれた子犬を引き取る、口約束して顧客とトラブルになり・・・・連続殺人が起き    た事件。関根死刑囚が描いた井戸のような絵。下に井戸の底から這いあがろうとする手が見えます。今のまま   死刑が執行されたら・・・、自分は地獄に落ちる。どうかして這い上がりたい・・・、そんなもがき・苦しみが窺がえ   るようです。
 
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   これはサリン事件で最初に自白した宮前死刑囚の絵。如意輪観音風の仏様が涙を流しています。死刑囚が未   だ悟れない・・・、苦しい・・・・、そんな精神状態にある事が窺がえます。悔いている事は間違いなく・・・、償いの    毎日を過ごしているのでしょう。
 
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   これは杉並の老資産家を殺害した事件の岡本死刑囚の作品。同死刑は既に執行されました。
   看守が居る植木鉢の中に自分の顔があって、バラの根が顔に伸びています。ピンクのバラが見事な花を咲か    せました。岡本死刑囚は死んで・・・、土に還って、綺麗な薔薇の花を咲かせたい・・・・、思いながら刑の執行を    受けたのでしょう。
 
 
冤罪であるのか、それとも真犯人であるのか・・・・、
それは神のみ知る事でしょう。
それを、状況証拠が限りなく黒であったとしても、犯人と断定することは問題でしょう。
まして、真犯人であっても・・・・、誰しもが言い訳があるもんでしょう。
「自分は不幸な環境で育った・・・」とか
「あの時の自分はどうかしていた・・・・、自分の中にいた悪魔が突然に暴れ出したんだ・・・」  などなど。
不幸な生い立ちを持っている人は数多くいます、
誰もが心の中に悪魔を潜ませているもんです。
でも、どうにか克服して、コントロールしながら大罪を起こさないで・・・、過ごしているもんです。
裁判官は総じて裕福な家庭で育って・・・・、勉強も出来て、犯罪に手を染めることなく社会人になったのでしょう。
自分が裁判官になれた幸運を感謝せずばならない事でしょう。
そんな人に裁判してほしいものです。
 
私達凡人は毎日が網走刑務所の塀の上を歩いているようなもんで・・・・、
風の吹きようでは何時壁の内側に転げ落ちるかもしれません。
現代社会はそんな危うさを多分に含んでいます。
 
私のお爺さんは日野の刑務所の懲戒師でもありました。
だから・・・・、私の生家のお寺には出獄した人が良く顔を出しました。
祖母は少しも怖がらずにお茶を出して・・・・・、もう少しお待ちくださいね・・・、
住職はもうじき帰りますから・・・・、
応じていました。
 
この死刑囚アートを見ていると・・・・、私も囚人の話し相手になりたいな・・・・、
思ったりします。
 
 
 
どうしたらいいのか何も解りませんが・・・、
いずれにしても強烈な作品でした。
事件を知っているから・・・、そのインパクトも強いものがあるのでしょう。
大竹某らコメンテーターの軽口も無く・・・・、”凄い”の一言でした。
未だ、首都圏で展示するか…、未定だそうですが・・・・、直に見てみたいものです。
 
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安曇野の水鏡の素晴らしさ

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松本から安曇野に向かいます。
今晩の宿は「泉郷」という名のホテルで、北アルプス常念岳(2857m)の麓にあります。
アルプスの峰々の中でも特徴がありますから・・・・、遠目で見ても直ぐに判ります。
夕暮れの中ではありますが・・・・、国道148号線「塩の道」から外れて、
田圃の中の一本道を西に向けて走る事にしました。
何故かと言えば、水鏡になった田圃をま近に見たかったからです。
 
もう大半の田圃は田植えを終えています。
アルプスから吹き下ろす風が吹いてきます。
田圃の水面にさざ波が立って、鏡に映っていたアルプスの白い峰が崩れます。
でも、早苗は葉先を揺らして、風を遣り過します。
農夫は帰り支度を始めました。
もうじき、この水鏡には月が映る事でしょう。
遠くの家々には未だ鯉幟が立っています。
安曇野では田植えが終えるまでは、鯉幟はしまわないのでしょう。
 
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   夕暮れに穂高のホテルに着きました。向こうの山裾に塩の道が通っています。私達は「水鏡」見たさで
   田圃の中を走りました。右の黒いもっこりした山が有明山(2268m)、ホテルは中央の山襞の中にあります。
 
安曇野のお水は美味しい、
特に泉郷の水は美味しい、ホテルの人に訊けば、
常念岳に積もった雪が溶けて地中に潜って、麓で泉になって湧き出すのだそうです。
泉の水が美味しいから・・・・、ホテルの創業者は泉郷と名付けました。
 
美味しからといって、何倍も飲めるものではありません。
温泉に浸かったあと、食事の前後、ビール代わりにお水を戴きます。
 
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    ランチ風景、普段ならワインを取るところですが水だけで充分です。
    水が美味しい事と、少し節約気分もあったかな?
 
水が美味しいだけで・・・・、十分幸福です。
私はサラリーマン時代全国に転勤しましたから・・・・、
何処の水が美味しいか、何処の水が不味いか、よく承知しています。
昭和62年当時、大坂の水は最悪でした。
琵琶湖にアオコが湧いて、大量の薬が撒かれていました。
そんな水を浄水しても、美味しくなる筈はありません。
不味い水は冷やしても青臭い匂いが残りました。
ビールやコーラについつい手が伸びてしまいます。
 
 
 
長野県は日本一の長寿県になりました。
長寿の上に健康長寿でもあるんです。
理由はアレコレ言われていますが、案外水が美味しいこと、水に薬が入れられていない事があると思います。
歳をとっても、農作業に勤しみ、喉が乾いたらミネラルを充分含んだ水を飲む、
ビールやコーラは殆ど飲まない・・・・、だから健康寿命が長いのだ・・・、
そんな風に思われます。
 
健康寿命と水道水の相関関係は屹度あると思います。
でも、そんなことを調べたら・・・・、浄水プロセスが解明されて・・・・、
全国の自治体が蜂の巣を突いた状態になる事でしょう。
殺菌、加薬された水に比べれば、天然の水が体に良い事は陽の目を見るより明らかです。
メダカを水道水入れたら・・・・ものの数時間で浮いてしまいます。
そんな水を毎日飲まされたら・・・・、健康で居られる筈ないでしょう。
だから・・・・、各地の水道水のプロセスを調べれば容易に解る事ですが・・・・、調べられていません。
 
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                                                         これが穂高神社。
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   山葵田の三連水車、水が澄んで、川風が気持ちよい。ラフティングと呼ぶゴムボートが人気のようです。
    水鏡が美しい景色は前の穂高神社とこの山葵田の間が美しい水鏡の田圃が広がっています。
 
 
ホテルで充分に寛いで・・・・、翌朝出かけます。
私の脳裏には昨年の今頃、NHKテレビで見た「お日様」の光景があります。
女子高生が安曇野の水鏡の中を颯爽と疾走する光景です。
 
常念岳が一番美しく水鏡に映る場所・・・・、
それは大王山葵田と穂高神社の間広がる水田です。
昨夕とは違って、冠雪が残る峰は鮮やかに水鏡に映っています。
中高生が自転車で学校に向かって行きます。
今朝は生憎女子高生は疎らで、男子高生が競う様なスピードで、農道を疾走してゆきます。
”瑞穂の国は麗しいなあ・・・・!”
心底、思います。
 
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                    正面が常念岳、その左が蝶ヶ岳、お日様のロケ地であった案内がありました。
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    広域農道を疾走する高校生。女学生ならお日様のイメージなんですが・・・。
 
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       水鏡を前にスケッチする叔父さん。冠雪した山は左から大滝山(2616m)蝶ヶ岳(2677)常念岳(2857)
       大天井ヶ岳(2922)、3000mクラスの槍ヶ岳奥穂高岳などは常念岳の奥左右にあります。
 
 
私は突然に「大円鏡智」という言葉を思い起こしました。
卒塔婆の最初に書かれる言葉です。
あの仏教の要諦を表す言葉は・・・・、
田圃に方円に張られた水が作り出す「水鏡」の事を指した言葉だったのだろう・・・、と。
 
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    過半の卒塔婆には大円鏡智と書き出します。仏教の4智は此処から始まります。
 
4智は大円鏡智に始まります。
岩波の仏教用語辞典では以下のように説明されています。
「大きな鏡に一切がありのままに映し出されるように、総てを明らかにする、曇りひとつない清浄な仏の智慧」と。
安曇野の地名は・・・・・、大円鏡智の里で、此処に生きれば仏智の尊さによって安らかに生きる事が出来る・・・、
そんな意味かな?
 
勿論、古代この地で勢力を持っていた安曇氏がこの地名の所以であることは承知してますが・・・・。
この、水鏡を見ていると・・・・、そう思わざるを得ません。
 
『自分の心や眼も、こんな風に、ありのままをそのままに映せたら・・・、安らかであろう・・・』
水が汚れていたら・・・・・、ありのままを映すことは出来ないでしょう。アオコ等が邪魔です。
自分の心や眼が汚れていたり歪んでいては・・・ありのままを映すことは不可能です。
 
趣くままに5月22日から2泊3日の旅を綴り出したら・・・、もう6月になってしまいました。
この旅の目的は「安曇野の道祖神を友と一緒に見に行こう」という事でした。
 
明日は、その道祖神を、特に彩色した道祖神の事を書いて、この旅もそろそろ締め括りたいと思います。
 
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    集落の辻辻に色彩された道祖神が祀られています。明日は特徴のある安曇野の道祖神を案内します。
 
 
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穂高の彩色された道祖神

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梅雨に入って三日目、「梅雨の中休み」ならぬ「梅雨のずる休み」「梅雨の意地悪」のようなお天気が続きます。
我が家の紫陽花も色付き始めて・・・・、萎れ始めています。
今日は安曇野穂高町の彩色道祖神の話をいたします。
 
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   穂高本郷町の彩色道祖神(右側) 安曇野市道祖神マップ41番。安政5年(1858)高さ80㎝幅85㎝,
   白御影の天然石、黒く書かれているのは「安政5年牛年3月吉祥日 上手村中」。背後の山は常念岳
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    これが上記道祖神の昔の彩色です。 絵の具の違いが一目瞭然です。最近の彩色は最悪です。
 
 
北信濃から甲府関東にかけて双体の道祖神が祀られています。
でも、地域地域によってその様式は大いに異なります。
特徴を概括すれば次のようになります。
1、相模は二人の僧が並んでいます、村外れでその境を守り厄病が村に侵入しないようガードしています。
 一般に「賽の神」と呼ばれます。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46708298.html
2、上田地方では男神は衣冠束帯、女神は十二単姿の端正な神が並んで、手をつなぐなど愛睦まじい姿で描かれて います。道祖神と言えばこの上田スタイルを思います。新しい道祖神は殆どが上田スタイルを継承しています。
3、北関東(下野、上野)の男女神は手を握るだけでは飽き足らず、もう一歩も二歩も先の睦まじい姿をしています。
 男神が女神を押し倒して、恍惚の表情をしていたりしています。でも、春画のような卑猥な感じは全くありません。
4、甲府地方は丸い川原石や祠が目立ちます。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46633878.html
5、松本から大町にかけて「塩の道」には男神は衣冠束帯、女神が十二単で描かれています。
 お隣の上田地方が手をつないでいるだけですが、塩の道では多くが「祝言像」か「餅つき」像で描かれています。ど ちらも結婚を象徴する場面です。
 
私が最初に安曇野の道祖神巡りをしたのは大学に入って最初の冬休み、三九郎の火祭りの頃でした。
穂高神社も今のように立派ではありませんでした。
村の辻辻で面白い程簡単に道祖神を見つける事が出来ました。
多くの道祖神が彩色されていました。
訊けば、村の子供達が三九郎の火祭りにあわせて、クレヨンなどの学用品を使って丁寧に塗っているのだそうでした。道祖神の火祭りの主役は子供達で、上手にお化粧してあげれば神様は喜んで下さる・・・・。
神様は上手にお化粧してくれた子供をこれから一年間、無病息災でお勉強も進むよう守って下さる・・・、
そう信じられていました。
そんなら・・・、道祖神であっても字は「童祖神」でもあるんだな…、思いました。
 
以来数回大学の友人(日本文化研究会の仲間)とも安曇野を巡った記憶があります。
卒業して40年、「水鏡の安曇野で道祖神巡りをしようじゃないか!」というわけで今回の旅行になりました。
 
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本郷町消防第9分団詰所前の道祖神、天保4年(1833)高さ137㎝、幅100㎝、厚さ43㎝。
白御影石、背に天保4年巳年 貝梅中と刻まれています。
 
インターネットで調べると安曇野地方には600基もの道祖神があって、市ではナンバーを打って案内しています。
更に、穂高神社などでは道祖神マップ(100円)を売っています。
私達は道祖神マップを片手にして、廻ります。
 
千葉の中学生は観光バスで穂高神社までやってきて、ここで自転車を借りて・・・・、道祖神巡りをしています。
熱心に道祖神の前で両手を合わせています。
何かお祈りしているようです。
「何をお願いしていたの?」
訊けば・・・・、恥ずかしそうに話して貰えません。
「ガールフレンドが出来ますように・・・、ずっと仲良く出来ますように…お祈りしたのかな・・・?」
訊いてみましたが・・・、返事はありませんでした。
若しかしたら・・・図星だったのでしょう。
でも、お祈り姿は合掌であって・・・・、お仏壇に向かうようです。
柏手を打つのが正しいのでしょうが・・・、道祖神様も苦笑いしながら・・・・、
「純情なんだから・・・まあ良いか・・・」
言われている事でしょう。
 
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                                熱心に道祖神にお祈りする千葉の中学生
 
でも、気になる事があります。
私の記憶ではクレヨンなど子供の学用品で色塗りされていたのでしたが・・・・、
油性塗料(ラッカー等)で分厚く色塗りされています。
これでは、お化粧ではありません。
神様もラッカーで色塗りされたのでは、お肌が傷む・・・、お怒りではないでしょうか?
ラッカーは美しくありません。
広告看板に使うもんです。
子供達がラッカーで色塗りしたのでしょうか?
それとも、観光協会の人でしょうか?
 
そもそも、何で此処穂高地方の双体道祖神だけが彩色されたのか?
其処が疑問で、大事な事です。
(以下は筆者の推論が中心です、一般的に云われている事でも、調査された事ではありません)
 
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     穂高の矢原地区の道祖神、元治元年(1864)90㎝×80㎝×42㎝ 
     背に元治元年甲子4年足日、矢原村仲間中と刻まれています。パステルで丁寧に彩色されています。
     白い御影石ですから彩色する事によって像がハッキリと浮き立って見えます。
 
相模でも神様やお地蔵さんが化粧される事があります。
藤沢の「化粧地蔵尊」、南足柄の「白粉地蔵尊」です。
後者は足柄峠の道に祀られていて、お祈りする人は小麦粉でお地蔵さんのお顔を白く塗ります。
白く塗る事によって、霊験がアップすると考えます。
ジャワ等南の国のお祭りでは、顔を原色で塗って踊ります。
化粧する事で、神が乗り移って来るのでしょう。
化粧すると、神は目覚めて・・・・、信者を加護してくれる・・・、そう思うのでしょう。
化粧とお祭りには密接な考えがあったと思います。
だから・・・・、神様に使える白粉は天然ものでなくてはなりません。
石油で溶かした塗料は・・・、相応しくありません。
 
昔は男女の会う機会は少なかったことでしょう。
滅多に会えない、男女が言葉を交わせない社会にあって・・・・、チャンスはお祭りでした。
かねてから気にかかっていた異性に声をかけられるチャンスでありました。
道祖神の火祭りもそんなチャンスであったことでしょう。
 
道祖神の火祭りの準備をし、その火で餅を焼いて食べる・・・、主役はどの地方でも子供でした。
でも、穂高地方の準主役は未婚の女性でした。
子供達が色塗りした後未婚の女性が道祖神にお参りします。
自分の化粧道具を使って、唇に紅をさしました。
「素敵な男性に縁をくださいな・・・」
お願いしました。
だから・・・・、この地方の道祖神は、結婚の祝言像であったり、餅つき像でありました。
女性にとって、素敵な男性と結ばれることは昔も今も人生の最大の問題であったのです。
 
道祖神のお化粧をオイルペイントでする事は、伊勢神宮の遷宮に際して白木の檜を使わないで鉄筋コンクリートでするようなものだと思われます。
毎年色褪せるので、毎年お化粧をする・・・、そんな繰り返しを毎年行う事に意義があるのです。
20年ごとに伊勢の神様のお住まいを造り替えるように・・・・。
 
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   安曇野地方で最も多い祝言像。こんな場面が未婚の女性にとって最大の願望であったことでしょう。
   勿論男性も同じです。オカメ顔でぽっちゃりした女性に「お一つどうぞ・・・、これから一緒ですね、
   よろしくお願いいたします」 なんていわれたい、願っていたことでしょう。
   こんな気持ちは現代の方が一層強くなっているかもしれません。何しろ嫁さん不足が深刻ですから。
   大王山葵田の堤防上に祀られていました。年代不詳。75㎝×85㎝×25㎝ 白御影石
 
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   穂高神社境内の餅つき道祖神。平成6年(1994)群馬県安中市の神を摸刻、石匠宮下和作。
   杵は男性を、臼は女性を象徴し、男女で餅つきをすることは・・・、子つくりに励むことを意味しました。
   良い縁が出来たら…、次は子孫に恵まれる事ですから・・・、道祖神にはこのお祈りも致しました。
 
 
 
 
新しい道祖神も目立ちます。
最も有名なのは「水色の時道祖神」でしょう。
NHKの連続テレビ小説「水色の時」(19754月~10月)の放送のために製作されたので、
この名前がついているのです。
大王山葵田から西に万水川を渡って、田圃の中にあります。
新しい道祖神ですから・・・・、現代的な意匠で彫られています。
二基の道祖神の周囲は露草が植えられています。
それはそれでよいのですが・・・・、私のような者にとっては安曇野らしい・・・、伝統的で、かつ地域色の濃い道祖神にしてほしかった・・・・、思います。
素敵なカップル像ですが・・・、東京の等々力の近隣公園に置いてありそうな像です。
何故等々力かと言うと・・・・・、このあたりも等々力という地名なのです。
 
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                         水色の時道祖神、左上の山は常念岳です。
          握手像は安曇野でも多いのですが、祝言像の方が安曇野らしい・・・と筆者は思います。
 
新しい道祖神の極めつけは等々力ギャラリー前の道祖神です。
等々力家は穂高の本陣でした。
このギャラリーは等々力義人氏が経営するものです。(本陣の末裔で居られるかは未確認です)
その前に130㎝ほどの道祖神が立っていました。
接吻する神像ですが、裾の方を見ると、女神が太腿を露わにして、男神の一物が・・・・、和合像です。
大らかと言えば・・・大らかな像で・・・、浮世絵春画の伝統をつなぐものです。
若しかしたら・・・・、浮世絵春画の展示ギャライーであるので、こんな道祖神を建立したのかも知れません。
でも、安曇野道祖神には相応しくありません。
 
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                              等々力ギャラr-前の道祖神。平成14年1月建立
 
最初にも書いた通り、道祖神は各地方によって意匠は異なる事が魅力です。
現代のような情報化社会になると・・・、地域性は薄れてしまい、
これでもか…、これでもか…、という様に可愛くなったり、どぎつくなったりします。
より可愛い程、よりどぎつい程お客さんが呼べる・・・・、商業主義の弊害です。
道祖神は地域の先人が祈った宗教文化財です。
文化財を遺したハートを大切にして・・・・、自爆的な道祖神は避けてほしいものです。
 
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                   安曇野大池村の道祖神の拓本(穂高神社で道祖神展で撮影)
 
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    大王山葵田に近い堤防上の道祖神、女神の頭の上に蜂の巣が出来ています。
    男神が他の女性に脇目をすると、蜂が飛んで出て・・・一刺しするわよ・・・・、そんな情景が想われました。
 
 
 
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鎌倉石と岩がらみ

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6月に入って今年も東慶寺で岩がらみの公開が始まりました。
本堂裏の断崖に一本のカズラ「岩がらみ」が這っていて、毎年6月初旬に花を咲かせるのです。
お寺では、是非参拝客にお見せしたい・・・、思っていられたのでしたが・・・・、
狭い空間に沢山の人を導く事も困難でした。
そこで、7年ほど前から本堂を廻れるように欄干を設備して・・・・、時計回りに見物人が廻れるようにしました。
こうして、見事な岩がらみの花を鑑賞出来るようになりました。
 
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                      東慶寺本堂、この裏側竹藪の下の岩壁に岩がらみが自生しています。
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                                東慶寺は紫陽花も色づき始め、花菖蒲も咲き出しました。
 
 
岩がらみはカズラです、その名の通りに幹や枝から気根を伸ばして岩壁に付着しながら這い上って行きます。
葉っぱは紫陽花に似た丸い、端が鋸のようにギザギザしています。
小さな花の周りに白い花びら(額?)が縁取って、全体として額紫陽花のような印象を与えます。
 
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       岩壁には洞窟(野菜の貯蔵庫?)があります。其処に垂れさがった岩がらみの花
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                                                 大岩を覆った岩がらみ
 
私が小学生のころ、東慶寺の山の続き、鎌倉市台には石切り場がありました。
鎌倉石の採石場であったのでした。
鎌倉石は海に積もった砂が地中深くで圧しられて・・・、岩石になったものです。
総じて脆い水成砂岩の一種ですが・・・・・、強く圧さられた物は希少な岩として利用されました。
柔らかいので加工が容易で、我が家では釜戸に使われていました。
浄智寺の石段は鎌倉石で出来ています。
関東大震災で傷んだことから、改めて築かれたものですが・・・・、今では磨滅が進んでいます。
でも、それが鎌倉らしい「侘び・さび」感覚にあふれています。
だから、長持ちしないにもかかわらず、好まれて鎌倉石は使われてきました。
 
今では鎌倉の景観保護の為砕石は全面的に禁じられています。
だから・・・・、一層貴重な石なのです。
 
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   東慶寺お隣の浄智寺の石段。鎌倉石を使って関東大震災後に築かれました。でも、見たとおりに踏まれて
   角が丸く磨滅しています。でもこの表情(風合い)が侘びていて・・・、鎌倉らしいのです。
 
 
東慶寺のお檀家さんの一人がこの鎌倉石の断崖を見て・・・・・・、石の表情に感服されたのでしょう。
そして・・・・、この表情を活かす為にも・・・、保護する為にも・・・、岩がらみを這わせたい・・・、思ったのでした。
住職の許可を得て、一本の岩がらみを植えました。
50年も前の事でした。
たった一本の岩がらみでしたが・・・・・、鎌倉石の表面を這いながら・・・、上に上に、横にも這って行きました。
そして、岩壁全面を覆いました。
 
岩がらみを提案したお檀家の期待通りの景観が現出して・・・・、私達花好きの歓声を誘う様になりました。
岩がらみの事も、鎌倉石の事も良く承知している・・・・、素晴らしい人お檀家さんだったのでした。
お寺が良いと、お檀家も良いのでしょう。
 
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    山法師はもうほとんど散ってしまいました。その先に咲いているのが岩がらみです。
 
 
岩がらみと言えば・・・・、箱根の強羅公園にもあります。
総じてベルサイユ風の庭園ですが・・・その一角に和風庭園があって、お茶室が三棟建っています。
お茶室は何れも重要文化財クラスの凝ったものです。
作ったのは三井物産の創業者「益田鈍翁」でした。
 
三棟の茶室の何れからも見られる位置に巨岩があって、その岩肌に岩がらみが這っているのです。
公園が出来たのは箱根登山鉄道が開通した頃・・・、大正8年ですから・・・・、
東慶寺の岩がらみは強羅公園のそれに比べれば齢半分ということになります。
でも、生育環境が余程良かったのでしょう・・・、幹は劣らぬ太さになり、枝先の張り具合は先輩岩がらみを凌いでいます。
 
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     強羅公園の白雲洞(益田鈍翁作) 左に大岩の一部が写っています。この岩に岩がらみが這っています。
     岩がらみは茶人好みであったのでしょう。
 
 
東慶寺ご本尊のこの季節ばかりは参拝客が背中の方に廻るので・・・、落ち着かない事でしょう。
 
岩がらみに圧倒されながらも・・・・、岩タバコが可愛い顔を覘かせていました。
岩がらみの大きな葉っぱの陰に、楚々として咲いていました。
 
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   岩がらみの太い幹、この一本だけです。
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   良く見れば岩がらみの葉陰から岩タバコが顔を見せています。どちらも鎌倉石に根を張れるのです。
   大半の植物は生育できないので・・・、鎌倉石は格好の成育場になっているのでしょう。
 
 
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明治天皇に奉げる花菖蒲(遊行寺書院内苑)

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6月3日から時宗本山遊行寺書院の花菖蒲の公開が始まりました。
”雨が降ったら観に行こう・・・” 思っていたのですが今週中も雨は降りそうもありません。
一番花(花菖蒲は二度咲きます)を観たい・・・ので、昨日7日に出かけました。
 
私のような檀家でもないものが書院に入れるのは、この花菖蒲鑑賞の機会だけです。
宗務所建物の小さな玄関から入ります。
数個の建物があって、それぞれを渡り廊下で繋いでいます。
本堂で法事を終えたら・・・、廊下伝いに書院に移って、そこで精進落し等が出来るよう・・・、配置されています。
廊下を伝って小書院に向かいます。
小書院と明治天皇行所と書かれた建物(古書院?)の間が庭になっていて、
その庭の過半が菖蒲田になっています。
其処に一面花菖蒲が咲くのです。
 
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                今日の話題は遊行寺の花菖蒲です。書院の間の内苑に咲きます。
                紫色は明治神宮内苑から、黄色は鎌倉光明寺から譲られたものでしょう。
 
此処の花菖蒲は明治神宮内苑の花を移植したのだそうです。
明治神宮のそれは紫の花菖蒲ばかりですが、遊行寺のそれは黄色い花菖蒲が目立ちます。
お坊さんに尋ねると、鎌倉光明寺さんからも譲って戴いたのだそうです。
 
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       宗務所事務棟と書院とをつなぐ渡り廊下の左右に菖蒲田があります。
       縁台に座ってゆっくり花を見られます。右手前に明治天皇のご在所があります。
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   正面建物が明治天皇のご在所建物。アルミサッシが入った現代的な建物です。
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                     向かいの建物は小書院。右(北側)に明治天皇ご在所建物があります。
 
お坊さんが丹精された花菖蒲です。
年々見事になっているし・・・、菖蒲田も広がっている様に見えます。
 
廊下に縁台が置かれています。
”此処に座ってゆっくり花を観て下さいな!”
そんな、うれしい心使いです。
私はゆっくり座って鑑賞です。
私一人では勿体ないようです。
若いお坊さんが合掌して通り過ぎて行かれます。
清々しいのですが・・・・、少し妙な気にもなります。
 
縁台に座って菖蒲をも渡します。
目線お先にお寺の甍があります。
甍に向かって燕が飛んでゆきます。
屹度あの辺りにツバメの巣があるのでしょう。
菖蒲田を飛び回って、瞬時に餌を嘴でゲットして・・・、
小燕にセッセ・セッセと運んでいるのです。
もう1週間もすれば、小燕も姿を見せる事でしょう。
季節は素早く進んでゆきます。
 
菖蒲田の周囲の枯山水も手入れされて、新しく白く光る砂が入れられました。
此処も、お坊さんがされたものでしょう。
私は度々遊行寺さんを参詣しますが・・・、樹木や庭、池の手入れは若いお坊さんがされています。
庭師に任せるのではなく・・・・、お坊さん自らされているのは・・・・、手入れも丹精も修行と心得ているからでしょう。
作務衣を着る訳でも無く、Tシャツにジーンズ姿が清々しいお坊さんです。
 
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                             新しい砂が入れられた枯山水庭園の脇でもあります。
 
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縁台の横に箱が置かれています。
”花菖蒲の肥料などを買います、お志を・・・・” 書かれています。
拝観料を注文されるわけでは無く・・・・、心ばかり納めます。
 
 
菖蒲田を見下ろ位置に建っているのが「明治天皇在所(多分古書院)」です。
廊下に案内がたっています。
随員の名が山岡鉄舟、西郷隆盛、岩倉具視と錚々たるものです。
明治元年(1868)3月江戸城が開場されます。
10月、明治天皇は京都を出発され、東京に向かわれます。
旅立ちして21日目、10月10日に遊行寺に宿泊されました。
随員は50名と言われますから・・・・、そんな大人数泊められる施設は数少なかったことでしょう。
東海道線が東京、京都を結んだのが明治22年、その間6度も遊行寺に泊れました。
 
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関東大震災で遊行寺の堂塔は大半が倒壊してしまったと聞きます。
ですから…、明治天皇ご在所の建物も再建されたものでしょう。(推測、未確認)
遠目で見ても、屋根も建具も新しいように見えます。
でも、大事なお客様が来られた時にはこの建物を使うのでしょう。
 
そして、明治天皇がお泊りになられた・・・・、
ならば…、庭に明治神宮の花菖蒲を植えようではないか・・・・!
そんな思いが見事な花菖蒲を咲かせたのでしょう。
 
藤沢山からの山風が清々しく吹き下ろしてきます。
花菖蒲も気持ちよさそうに花弁を揺るがせています。
 
宗務所を出ると大きな菩提樹があります。
今は蕾ですが・・・・、素晴らし樹形をしています。
帰り際には是非見られるようお勧めします。
 (花が満開になったら・・・、またブログに書く積りです)
 
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    遊行寺宗務所前の菩提樹、今年の蕾は物凄い数です。満開になるまであと1週間でしょう。
    もう咲き出しています。足元の大岩は座禅石です。
 
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提灯のような蛍袋の花が見頃です。

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道端には蛍袋(ホタルブクロ)が咲く季節になりました。
蛍袋が咲き出したから・・・・、主役の蛍も舞い始めるだろう、そんな時期です。
蛍情報が待たれます。
 
蛍袋は鐘というか、提灯のような形をしています。
子供のころ、蛍狩りに行って、この花に蛍を入れて、提灯にして遊んだものでした
屹度、そんな遊びがこの花の由来なんでしょう。
初夏の風情を伝える花です。
 
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                            お茶の木の根元から茎を伸ばして咲いた赤い蛍袋(鎌倉扇ガ谷)
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                         民家の生垣の根元から咲いた白い蛍袋(鎌倉巨福呂坂で)
 
 
蛍は清流に棲息する・・・、と言いますが必ずしも清流でなくても・・・・、少し汚れていても生育するようです。
小学校の校庭の隅に造ったビオトープでも、新しい造成地の雑排水が流れる川でも・・・、
蛍が見られるようになりました。
農薬さえ使われなければ・・・・、蛍の幼虫の餌になるカワニナが生育し、蛍も舞うようです。
お蔭で、私の住む横浜戸塚区内でもあっちこっちに蛍が飛んでいる・・・・、情報が舞い込むようになりました。
 
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                      蛍袋に入った蜜蜂、蜂が蛍ならば提灯のようになって風情があるんですが。
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                             蛍の花陰には蜘蛛が隠れて、獲物を待ち構えています。
 
最大の数が舞うのは瀬上池です。
横浜の最高峰「丸山・円海山」の西側に瀬上池があります。
大きな溜池で、此処から流れ出す渓流沿いに500頭もの蛍が舞うのです。
毎年6月中旬をピークに1週間程度が見頃ですから・・・・・、注意していないと見過ごしてしまいます。
そんなわけで、時々事前調査に出かけます。
蛍は未だでも・・・・、様々な昆虫に遭う事が出来ます。
 
土の道の上には沢山のシジミチョウが止まっています。
露出した土ならそこら中にあるのですが・・・・、道路面上の方が好きなようです。
観察していると・・・・、ストローのような口を使って土を舐めています。
土にミネラルが含まれているのでしょう。
止まっているときはさして綺麗では無いのですが、翅を拡げて舞うと・・・、ブルーの翅面が見えてとても綺麗です。
 
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     ヤマトシジミ蝶は翅を閉じると白いのですが、拡げるとブルーです。
     飛ぶと白とブルーが交錯してとても綺麗です。私が近づくと飛んで蝶の舞を見せてくれますが・・・、
     じきに戻ってまた土を舐めはじめます。
 
池の畔の砂地の上に綺麗な甲虫が居ました。
ナミハンミョウ(斑猫)です。
背中の模様が宝石のように輝いていて・・・・、
玉虫にも劣らぬ美しさです。
 
どうも・・・・、雄が此処で雌を待ち受けていて・・・・、交尾をしようとしているのです。
雌が飛んで来ると・・・、”それ来た!嫁が来た!”
云わんばかりに寄り添って、バックから迫ります。
雌は迷惑そうにして…、先に進もうとします。
雄は必要に追いかけながら、追いついてまた乗りかかります。
私が観察しようと近づくと・・・、2mも先に飛んで、また私を忘れた様に交尾に夢中になります。
 
斑猫の別名は「道教え」だそうです。
私の行く先行く先に止まるので・・・・、まるで道を教えているようだ・・・、そんな意味でこの名があるのでしょう。
 
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   砂地を好むナミハンミョウ(斑猫)。雄(後ろ)は鋭く尖った顎で雌を噛んで交尾しようとします。
   でも一回り大きな雌は雄を無視して前に進んで交尾を避けようとします。
   日なたの砂地の上で・・・・、交尾のドラマが延々と開演しています。
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蛍が舞うのはもうじきです。
蛍が生息するという事は・・・、様々な昆虫が生息している事の証明です。
何時来ても興趣尽きない瀬上池です。
 
 
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見事な八橋の意匠(明月院方丈後庭園)

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”何れがアヤメかカキツバタ”と言われるように、花菖蒲を加えたアヤメ三兄は見分けがつき難いものです。
今年も、カキツバタが終わり、花菖蒲が見頃になってきました。
とりわけ、今朝はようやく小雨が降っています。
こんな日こそ、花菖蒲鑑賞には最高です。
ラジオでは平安神宮の花菖蒲が見頃です・・・・、報道しています。
私の瞼の裏には平安神宮の池に映る花菖蒲が浮かびます。
 
実は、昨日(6月6日)鎌倉の明月院に姫紫陽花と方丈庭園の花菖蒲を見に行きました。
(今日行けば良かった・・・・・!)
ここ数年鑑賞しているのですが…、今年は最高なので案内致します。
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    明月院方丈の丸窓からは方丈後庭園が見渡せます。今は花菖蒲が見えます。
    京都に行けば鷹峯源光庵はじめ丸窓は数多くあります。禅(茶)の一つの表現でもあるのでしょう。
 
 
明月院の方丈後庭園を花菖蒲と紅葉の季節に公開し始めたのは10年程前からだと思います。
私はお寺さんに色々訊いたのですが・・・・、パート雇いの人ばかりでした。
「詳しい事は庭園部の人に訊いてくれ・・・」
というわけで、私は菖蒲田で花柄摘みを終えた庭師さんに直接伺いました。
今日の話はその説明に私の考えを加えて・・・、致します。
 
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      明月院絵図(拝観券に印刷されています) 六国見山から流れ出る渓流が中央に流れています。
      川を挟んで東に本堂、西に三重塔が配置されています。変なマーク(足利家)のあるあたりが庭の
      中心で、此処が今の菖蒲田でしょうか? 二河白道図を表した庭園のように見えます。
      南北朝時代には菖蒲田は無かったでしょう。菖蒲が愛玩されたのは江戸時代です。
 
庭師さんが明月院から方丈後庭園の整備を委託されたのは20年も前の事でした。
江戸時代には既に菖蒲田であったのでしょうか?
江戸系の菖蒲を中心に色とりどり、伊勢系、肥後系など様々な菖蒲が混植されていたそうです。
もう、交雑が進んで庭師さんでさえ分類不能だったそうです。
 
方丈から見て、先ず池を配し、池の奥に枯山水庭園・・・・・・、そしてその先に菖蒲田が配してありました。
方丈に大きな丸窓をつけて、丸窓越しに庭園を眺める・・・・、斬新な意匠を思いつきました。
丸窓は整備された庭園を見て欲しい・・・・、庭園の整備と並行して実施されたと思います。
 
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          渓流は菖蒲田で四方に分かれて流れます。この写真では江戸系花菖蒲ばかりが目につきます。
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     明月院は月を見るお寺の意味でしょう。方丈から見れば六国見山の山の端に、池に月が映るのでしょう。
 
何で・・・、丸窓にしたのか? 
名月院の名はこのお寺から六国見山の山の端に上る月が見事なので・・・、この名がついたのでしょう。
満月を意匠して・・・・、大きな丸窓を付ける事にしたのでしょう。
満月には兎が見えるように・・・・、丸窓の向こうに庭を眺める・・・、
近年、明月院には兎を飼育し、境内に兎の置物が数多く配置されています。
紫陽花、次には花菖蒲、そして兎・・・・、次々に明月院は名物を出し続けます。
何れも此処半世紀の事です。
お寺も事業です。(大半私の推測、私は好意を持って見ています)
 
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     明月院は満月を愛でるお寺の意味でしょう。だから…、ウサギがシンボルです。
 
 
お寺から整備を依頼された庭師は、先ずお寺に残る古地図「明月院絵図(南北朝時代・重要文化財)」に従い、
同庭園の復活を意図しました。
同地図では本堂や開山堂が配置され…様々な堂塔を回廊が巡り、山から渓流が流れて、少し高台に三重塔がある
そんな図面で・・・・、庭園として整備されている風には見えません。(二河白道図庭園)
 
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     雁行形に配置された橋・・・・・、この意匠(八橋)は尾形光琳の考えたものです。
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     尾形光琳作八橋図屏風(メトロ美術館蔵 同HPから)
 
 
そこで、庭師は菖蒲田の復活に精を出したのでした。
六国見山から流れてくる渓流を菖蒲田に分流させ・・・・・、庭の中核を改めて菖蒲田にしました。
そして、菖蒲田を周遊するように通路を配しました。
通路は菖蒲田の中にも廻らせ・・・・橋を渡って行けるようにしました。
 
橋のデザインは・・・・、尾形光琳の八橋図屏風や八橋蒔絵螺鈿硯箱 のそれを使いました。
菖蒲田を真っ直ぐ渡せば20mもあれば十分でしょう。
長さ1間から2間ほどの板を渡し、雁行させて・・・・八橋に致しました。
雁形しているので・・・・、長い距離を印象付け・・・、眺めるときには快いリズムを感じさせます。
光琳の作品を髣髴させるデザインでした。
 
一方で、昔から引き継がれた菖蒲は手入れをして、丹精しながら・・・、大きな花を咲かせるようになりました。
あえて、新しい種をお店から購入したりせず、昔から植えられてきた菖蒲を育成し続けました。
菖蒲の株は年々太って、大きくなり・・・、花も大きくなりました。
そして、伝統の八橋の意匠は花菖蒲を一層引き立てました。
 
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           尾形光琳作「八橋蒔絵螺鈿硯箱」 東京国立博物館蔵(同HP)
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      八橋が配置されているので、菖蒲が引き立って見えますし。逍遥するのが楽しくなります。
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             八橋蒔絵螺鈿硯箱を髣髴させるアングルが其処此処に見られます。
             伝統は先人の意匠を真似る事から始まると思います。
 
八橋の意匠は天才光琳の作品ですが・・・・、
素材は伊勢物語の第9段「八橋」です。
ご存知の方が多いと思いますが、改めて紹介します。
 
昔男がいました(在原業平)。その男は自分が都に居ても生甲斐が無いものと思い・・・・、
東の国に行って住むにふさわしい所を求めて旅立ちました。
旧友が一人連れだって呉れました。
三河の国八橋(現在の知立市)にまでやって来ました。
八橋とは流れる川が蜘蛛の手のように八方に分かれていたからこの名が着いていたものでした。
その沢の木陰で馬を下りて、乾飯を食べました。
目の前にはカキツバタが見事に咲いていました。
「かきつばたという五つの文字を、それぞれ句の上に置いて、旅愁を詠め」と言われました。
そこで男は次のように詠いました。
     ら衣 つつなれにし ましあれば
         るばるきぬる をしぞ思ふ

着慣れた唐衣のように、慣れ親しんだ妻を都に残して、はるばる遠くへやってきた。
この旅が、しみじみと悲しく思われる
こう詠んだので、旅の一行は、乾飯の上にハラハラと涙を落としました。
乾飯は涙でふやけてしまったのでした。
 
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無心で写真を撮っている金髪女性が居られました。
 

今風に言えばこの男こそ「草食系男子」でありましょう。
教養豊かで、ナイーブな性格の男性が都落ちする姿は時代の風潮だったのでしょう。
奈良時代は在原業平、平安時代は藤原実方・・・・、古代は沢山の草食系男子が出現しました。
その、頼りなげな・・・、でも雅な姿が・・・・、アヤメ、花菖蒲のようではありませんか。
 
明月院の方丈後庭園は三方を山に囲まれ、前面を方丈が塞いでいます。
ですから・・・・、八橋を意匠したお庭は緑の額縁で囲まれています。
年々、光琳の意匠がお庭に表現されて・・・、楽しいものです。
 
今日が最高です。
明日明後日は人混みになるでしょう。
雨に濡れた花菖蒲はぞっとする程綺麗でしょう。
清方の描く美人のように・・・・。
 
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          八橋があるから花菖蒲が引き立って見えるんです。八橋の基本意匠は光琳さんから
          戴いても、実際に造形した鎌倉の庭師さんも優秀です。
          明月院の紫陽花は戦後に植えたもので・・・私が小学氏の頃は話題にもなりませんでした。
          「明月院さんは庭の手入れが大変だから一面紫陽花を増やしているんだ・・・」
          程度の扱いでした。
          紫陽花が話題になり、お寺の観光寺院としての整備が進んで、
          平成に入ってから方丈後庭園の整備う公開が始まりました。
 
 
 
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瀬上遊歩道の源氏蛍と山蚕

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6月7日は昨夜来の小雨が降っていました。
これで、絶え絶えの我が家の紫陽花も一息ついて、色づく事でしょう。
私にはもう一つ、楽しみがあります。
蛍狩りに出かける事です。
例年なら、家内と仲良く出かけるのですが、今年はお出かけです。
夕食を早めに終えて、夕闇を待って、一人で出かける事にしました。
行く先は、瀬上池の遊歩道です。
 
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   瀬上池の遊歩道、左の渓流沿いに蛍が舞って、右の棚田にまで広がります。
   菩提樹の下をジョギングする人がすれ違います。
 
瀬上遊歩道には、4日ほど前にも、蛍の様子を確認に出かけました。
 
昭和30年代までは棚田があって、畔には桑の樹を植えてある、何処にもある風景だったのでしょう。
だから・・・・、この谷戸は蛍も舞っていました。
ところが、近隣の開発が進んで住宅や公園墓地に造成されてしまいました。
円海山の西陵だけが取り残されて・・・・、「上郷瀬上自然公園」になりました。
忘れ去られていた棚田もボランティアが掘り起こして・・・・・、蛙もトンボも増えてきました。
そうして、蛍も年々増えて・・・・、5年前はピークでも500頭だったものが、昨年は1300頭にも増えました。
1300頭というのは、瀬上の渓流約1キロ強の間に、目測して1500匹の蛍が舞っていた・・・、という事です。
ですから、見渡しの良い場所なら「一目百頭」出来る訳です。
 
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   遊歩道入口で開発反対の署名運動する人たち。子供連れの若いお母さんが目立ちます。
   蛍が自生する環境は子供の体に心に・・・、良いに決まっています。
 
遊歩道入口で「上郷瀬上の自然を守る会」が署名運動をしていました。
昨年、東急建設が開発申請(33ha/市街化調整区域)し、その協議が進行中なのです。
同社は宅地にするのは三分の一で、残りは緑地で残す・・・、提案しているようですが、
今のままで、今の調子で自然の回復をすることが何にも勝るのです。
訊けば、8万人の署名が集まって、目標は15万人だそうです。
 
中田前市長の平成20年、「横浜緑税」がスタートしました。
市民税の均等割りの上乗せとして900円/一人を「緑税」として徴収しようとするものでした。
最初は900円/年だったものが今では3900円/年に増税されています。
 
28億円もの税収は何処に使われたのか・・・・、
新税スタート時の文書には「平成16年31%あった緑被率が平成21年には29%になってしまった・・・、だから緑を守るために新税を認めてください!」
案内されていましたが・・・、もう緑被率の言葉さえ使われていません。
30%を遥かに割ってしまったから・・・、公表できないのでしょう。
 
「せめて、瀬上の蛍を守れないようなら・・・、緑税は廃止しようじゃないか!」
そんな声も聞こえて来そうです。
 
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                                          遊歩道の周りには桑の木が目立ちます。
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                                              桑の実、山蚕の繭がありました。
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                            桑の梢から落下してきた甲虫は蛍でしょうか? それとも・・・・。
 
4日前私は、桑の実を取りました。
昔はこのあたりも農家の副業で養蚕が盛んでした。
旧家を見れば軒裏が高くて、養蚕をしていた記憶を留めています。
蚕が食べるのが桑の葉です。
桑の木はそこらじゅうに植えてありました。
その桑が忘れられて野放図に伸び出してもう40年になります。
だから、桑の大木になろうとしています。
桑の実は…、野鳥も見放したようで・・・・、誰も取りません。
私が子供のころは、舌が真っ青(紫)になるほど食べたものでしたが・・・・・。
 
桑の実はポリフェノールが含まれる事から・・・、抗ガン食として見直されています。
昨年胃癌の手術をした私ですから・・・・・、桑の実を戴こう・・・、ジャムにしようか・・・・、
採取しました。
梢を見れば、山蚕(やまこ、天蚕とも呼ぶ)の繭があります。
もう、虫は這い出てしまっていて・・・、この桑の木のどこかで葉っぱを食べて育っているのでしょう。
山蚕をそのまま大きくしたものが怪獣の「モスラ」でした。
モスラとゴジラの決闘にワクワクしたものでした。
モスラは東京タワーに繭を作りました。
山蚕を見ると、私は懐かしさで一杯です。
 
山蚕に手を伸ばすと・・・・、私の手に甲虫が一匹落ちてきました。
見れば、蛍(雌)のようにも見えます。
蛍は幼虫の時はカワニナを食べるのですが・・・・、成虫になると桑の実を食べるのでしょうか?
一寸した驚きです。
 
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                                       30分ほどで採れた桑の実です。
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     毎朝手作りの桑の実ジャムを食べています。右上の瓶半分ほど作ったジャムですが・・・・、ブルーベリー
     のジャムと同じようなお味です。
 
 
本題の蛍です。
源氏ボタルの数の多い事に驚きです。
加えて・・・・・、昔は瀬上池の下辺りにしか居ませんでしたが・・・、
今は下流の民家の軒先にまで舞っています。
 
ボランティアの人に訊けば、
「今日は1300頭は超えているだろう・・・、
今日は東京から来た人も多いのだが、宮崎から見た人も居る。
有名になったものです」
言われます。
 
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蛍の写真、筆者は三脚を持参していなかったので詰まらない写真で、
蛍の美しさを写せませんでした。次のブログを推薦します。http://teishoin.net/blog/002075.html
 
子供も大人も嬉しそうです。
手を伸ばすと、指先に止まります。
でも、人の体温は蛍にとっては火傷をするほど高温です。
直に飛んで行ってしまいます。
 
子供が言います。
「蛍は良い人の処に来て止まるんだよ・・・、ほら私の処に来て止まった!」
見れば子供は草の葉を手折って、蛍の先に奉げています。
蛍は「飛び疲れた、丁度良い休憩所がある・・・」
そんな風に止まるんです。
この子は頭が良いなあ感心します。
私も真似しようかな・・・、すると子供が指差します。
「叔父さんのズボンにも止まっているよ・・・・!」
見れば、裾に止まって、光っています。
この子に言わせれば、私も良い人という事でしょう。
なんだか、心底嬉しくなりました。
     
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       木道の上で休む山赤ガエル。こんなところでのんびりしていると鷺やカケスに食べられちゃうぞ! 
 
蛍も蛙の合唱も賑やかです。
殿様蛙と山赤蛙です。
どちらも希少になっている・・・、噂には聞きますが・・・、もう夥しい数の合唱です。
蛍が増えているのも、蛙が多いのも、屹度棚田を復活させたからでしょう。
葦原のままであったら・・・・・、蛍も蛙も増えなかった事でしょう。
 
人間が少しだけ自然に手を加える・・・・、
作為的に農薬や肥料を加えないで・・・・、欲張らないで収穫する・・・、
そうする事に依って、蛍も蛙も増えて行くのでしょう。
里山の田圃こそ最高のビオトープのようです。
 
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              此方も俵グミは人も野鳥も見向きません。もうじき落果してしまう事でしょう。
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       渓流沿いには雪の下が咲いていました。この葉裏には蛍が隠れていて、
       夜になると飛んで出て優雅に舞うのでしょう。
 
 
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「長谷」路地裏の文化

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紫陽花の鎌倉は大人気、大混雑です。
中でも長谷の大仏さんと観音様の間の渋滞は異常です。
鎌倉で、閑静な生活を楽しみたい・・・・、思われている住人には迷惑な事でしょう。
蒲焼の「浅羽屋」さんは、この春二の鳥居本店を閉鎖されました。
でも、長谷のお店は活況を呈しています。
 
鎌倉の混雑は、長谷、北鎌倉明月院通り、鎌倉小町通りの三か所に集中しているようです。
   
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                               長谷観音の参道。紫陽花散策路は30分待ちの大混雑でした。
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  長谷寺参道の浅羽屋さん、繁盛の様子です。段葛にある本店はこの春惜しまれて閉店しました。
  小町通りにお客が集中し、段葛を通る人が少なくなったのが閉店の理由でしょう。
 
長谷でも表通りを一本外れれば・・・・、期待通りの閑静な鎌倉があるのです。
所謂・・・・路地裏ですが・・・、私の好きな長谷路地裏を紹介します。
 
大仏前を出て観音様の方に200m下ったところに「和紙の四葩(よひら)」があります。
この店の角を東に折れると、路地にでます。
この道が良いんです。
 
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    鎌倉長谷の四葩(よひら) この角(左側)が路地の始まりです。姉弟の二人が蛸煎餅を齧っていました。
    美味しい? とてもおいしい! 返事でした。 お母さんは和紙店の中でお買い物中です。
 
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    この路地は鎌倉文学館や甘縄神社に行く裏道でもあります。 人力車が良く通ります。
 
四葩の角を南に折れると、板塀の通りに出ます。
此処に山野草好きの親爺が住んでいます。
得意は「山芍薬」なんですが・・・・、今頃は岩タバコです。
中庭には夥しい数の山野草の鉢が並んでいます。
 
そして、板塀の外には・・・・、鉄砲百合が今が盛りです。
秋になればトリカブトが咲きます。
猛毒でも紫の花はとても綺麗です。
もう、茎が伸びて・・・・、鉄砲百合の根元を葉が隠しています。
 
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    鉄砲百合の咲く路地裏。百合の根元を隠しているのがトリカブトです。突き当りのKAFEの看板は
    由比ヶ浜通りです。ベンチに腰かけている人は「宮代商店」で揚げたてコロッケを食べています。
 
 
 
路地裏を通る人は鉄砲百合を愛でて行きます。
「もう、ユリが咲いて・・・・、早きのねえ・・・!」
が大方の感想でしょう。
でも、外人は感銘深いようです。
必ず足を止めて見入っています。
真っ白な鉄砲百合は純潔の象徴、聖母マリアの”マドンナリリー”なのです。
また、日本は明治時代、生糸、茶に次ぐ第三位の輸出品が「純白のユリ」でした。
イースターも過ぎて、鎌倉にマドンナリリーが咲いていると・・・・、感慨深く見詰めているのでしょう。
 
黒い板塀に英語で注意書きが為されています。 
 be careful abouto pollen when you touchi the lilly
花粉に注意してください!
 
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                              今が盛りの鉄砲百合。黒い板塀に”be careful”書かれています。
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     この道を通る人は路地裏の”花を介したコミュニケーション”を楽しみにして通っています。
     お婆ちゃんも思わず笑みがこぼれます。
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                            手前の葡萄のような葉っぱが秋の主役「トリカブト」です。
 
路地裏の南側の出口にはコロッケの宮代商店があります。
昔は何処にであるお肉やさんで、惣菜としてコロッケを売っていたんですが・・・・、
サザンの桑田佳祐さんが紹介した事からブレイクして、今ではコロッケ専門店の風であります。
 
老夫婦はかなり洒落っ気のある人で、変り者コロッケを揚げています。
普通のじゃが芋コロッケが120円で、かなり小さいんです。
ソースはつけるな・・・・、揚げたてを食え・・・、かなり注文も多いんですが、
皆、喜んで、路地に面して用意された椅子に座って・・・、コロッケを頬張っています。
いま人気のB、C級のグルメで、缶ビール(200円)片手にコロッケを美味しそうに食べています。
(筆者の個人的印象ではローソンのコロッケの方が美味しいと思います。
葉山の旭屋肉店のコロッケの方が断然美味しいと思います)
 
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     注文があってからコロッケを揚げます。壁中に色紙や写真が貼られています。
     次回のアドマチックに出るのは8月15日だそうです。
 
店内には沢山の色紙や有名人の写真が掲載されています。
功労者の桑田佳祐さんや山田邦子さんの扱いは普通扱いで・・・・、
断然小泉今日子さんの扱いが目立っています。
確かに小泉今日子さんがこの店に来られた事は間違いありません。
でも、写真の扱いが断然に丁寧です。
 
明らかに公平・公正な扱いではなく・・・・、店主の親爺が”きょんきょんのファン”であることの表われです。
NHKTVの海女ちゃんでも活躍中の小泉今日子さんです。
まあ、良いか・・・・・、私も今日子さんのファンだし・・・、
でも、親爺の顔を見ると・・・・、何か・・・・・・、笑ってしまいます。
 
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                  明らかに依怙贔屓な小泉今日子さんの扱い。メディアの扱いが目立つお店です。
   
 
コロッケ屋さんの店内は暑いんです。
皆路地に置かれた椅子に座って、コロッケを食べています。
由比ヶ浜通りに設えられた紫陽花が終われば・・・、もう盛夏です。
由比ヶ浜出は海の家も建てられています。
もう、暑い夏は眼の先です。
 
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                             路地に面して・・・椅子に腰かけてコロッケを頬張るおばさん達。
 
私がサラリーマン時代、常務に竹内調査部長がおられました。
今風でいえば森永卓郎氏のような人でした。
同氏は「路地裏経済学者」と渾名されていました。
上梓した「路地裏の経済学」とか「柔構造の経済学」の書名が謂れでしょう。
”路地裏視点から経済を見る””路地裏で生活する人の視点で経済を解析する”
そんな所が評価されていましたが・・・・、銀行が破綻すると、その分析を上梓され、隠れてしまわれました。
 
私の脳裏に”路地裏の文化”が浮かびました。
デフレで庶民の生活水準がカットされると・・・・、路地裏の文化が一層クローズアップされてきます。
アベノミックスで、お金をジャブジャブにして、規制緩和だ、規制改革だ、法人税の減税だ・・・、進めれば、
勝のは一部の大企業、グローバル企業、マネープレイが出来る人だけです。
江戸時代の田沼時代、明治の打ちこわし・・・・、
儲けたのは一部で、過半の庶民は生活困窮しました。
 
生活を切り詰めるとき・・・・、
貧しくても、心を通わせて、心だけは豊かな生活をしたい・・・、思うものです。
 
鉄砲百合も和紙もコロッケも・・・・・・、路地裏の文化ツールだなあ・・・!
思います。 
”路地裏の文化”が見直されると思います。
 
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      由比ヶ浜通りの紫陽花、こんな気配りが”路地裏の文化”だと思います。
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     レストランに入るんではなく、道端に腰掛けて蛸煎餅を食べれば・・・安くて、楽しく、美味しい・・・・、
     屋台のような文化が脚光を浴びると思います。
 
 
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材木座の祭り「海上神輿渡り」

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武士の都「鎌倉」ですから・・・・、一年中お祭りやら催事が行われます。
数多いお祭りの中でも、材木座五所神社の「海上神輿渡り」は趣深いものがあります。
材木座の海に古式豊かなお神輿が担ぎ出される光景は、如何にも鎌倉らしい・・・・、良いもんです。
7月になれば茅ヶ崎・寒川でも海上渡御(かいじょうとぎょ/浜降祭)がおこなわれます。
浜降祭は湘南の夏本番を告げます。
鎌倉の海上渡御は夏の到来を告げます。
昨日、6月9日、例年以上盛大に挙行されました。
今日はその様子をお伝えします。
 
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材木座の海で行われる「海上神輿の渡御」。向こうが稲村ケ崎になります。
 
明治41年(1908)鎌倉の乱橋村(みだれはし)と材木座村が合併しました。
両町内には三島神社(現在の五所神社)のほかに、八雲神社、諏訪神社、金毘羅宮に見目明神社と5社ありました。5社が合祀されて・・・・、五所神社になりました。
そして、5所神社の例大祭を「乱材祭り/みざいまつり」と呼ぶようになりました。
 
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     お祭り当日も静かな五所神社。正面のお神輿庫。
     2年前台風で倒れた大木が棟に激突して屋根だけを修復しました。大棟に寛政19年(1642)に建立され
     た事が判明しました。従って最も古いお神輿はそれ以上の歴史があると推測されます。
 
午後3時、5所神社からお神輿が出発します。
お神輿は3基、山車2基が大本山光明寺の総門前に集合します。
此処で、光明寺さんの管主さんにお経と祝辞を戴きます。
そして・・・・、お神輿に使われたお飾りや紐を・・・・・、海に入っても良いようなものに差し替えます。
担ぎ手も、お神輿も海上お渡りに準備を終えたら・・・・・、いよいよ材木座の海に向かいます。
山車が先行し、三基のお神輿は後に続きます。
何時もは人通りも少ない材木座の本通りですが・・・・、この日ばかりは大変な人出です。
 
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  大本山光明寺の総門前に3基のお神輿、2基の山車が集まります。
此処でお坊さんのお経と祝辞を戴きます。そして、海に入る支度を整えます。
白地に笹竜胆を染め抜いた半纏を着た氏子は白旗神社、その前の緑の半纏が五所神社の氏子です。
 
祭り半纏は色々です。
一番神輿の担ぎ手は緑の半纏で、「五所和賀」と染められています。
彼らが主役であることに間違いありませんが・・・・、
笹竜胆の家紋を染め出したのは八幡宮境内の白旗神社です。
鎌倉中の氏子が担ぎ手になって、集まっています。
「志ん橋」など・・・・・・、東京から遣って来た担ぎ手も目立ちます。
担ぎ手に訊けば、先週は三浦の安浦で、その前は三社祭りで・・・・、担いだそうです。
鎌倉だけでは担ぎ手は足りなくて、相模や武蔵の各地から・・・・、担ぎ手が集まってきているようです。
 
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   これが珍しい仏式のお神輿です。黒漆の屋根に法輪が三つ、頂上に蓮が飾られています。
   他の2基は稲穂を咥えた鳳凰に八咫烏です。
 
お神輿を見ていると・・・・、気になる事がありました。
お神輿の屋根の上には・・・・、1基目、2基目は鳳凰が稲穂を咥えています。
四方には八咫烏(やたがらす)が止まっています。
ただ、3番目のお神輿は、屋根に蓮が飾られています。
屋根自体の装飾も輪宝です。
何れも仏教のシンボルです。
 
五所神社の半纏を着た長老に伺いました。
「五所神社は合祀されて出来た神社だから・・・、仏式の色濃いお神輿だったあるんですよ・・・」
そんな説明でした。
言われてみれば、光明寺の管主さんにお祝いされて出陣するのも・・・・・、神仏混ざっているようです。
 
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                            光明寺で支度を終えて・・・、いよいよ材木座の海に向かいます。
 
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     これが2基の山車のうちの一つです。お囃子を奏でているのは女子高生中心でした。
     これがまた美しかったです。(写真に出せないのが残念) 前方は海です。
 
1基、2基目のお神輿は江戸風に”ドッコイ・ドッコイ”と掛け声を張り上げて・・・・、
なにやら木遣り歌のような声が聞こえます。
訊けば木遣りでは無くて・・・・、甚句だそうです。
私には木遣りも甚句も聞き分けられません。
でも、3基目は少し違っています。
担ぎ手は白装束に小さな烏帽子風のキャップをかぶっています。
そして・・・・、今様風の唄を歌っています。
これが伝わる「天王謡(天王唄)」です。
 
   伊勢の鳥羽から朝山まいて  アーラ ヨイ    
   晩にや下田か  ヤレコラ   わかの浦  オモシロヤ
   潮にもまれてあと一流し   アーラ ヨイ
   筏のせたや  ヤレコラ    和賀の茶屋  オモシロヤ
           (中略・・・…)   
   飯島てるてる  小坪はくもる   アーラ ヨイ
   あさの材木座に ヤレコラ   金がふる  オモシロヤ 
 
字におろして見れば・・・・、江戸風のお目出度い歌です。
 
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                  ミス鎌倉のお隣は10年後のミス・・・・、お稚児さん達。背後がお旅所。

お旅所の前に3人のミス鎌倉さんが・・・・、浴衣姿でお神輿の応援に出ていました。
担ぎ手も、美女に引き込まれたように・・・・、接近します。
気合を入れられて(?)   
緩やかな坂を下って・・・、海岸通りをトンネルで潜れば・・・、
いよいよ材木座の砂浜に出てきます。
 
すでに、お祭りのクライマックスを見ようと沢山の見物人が砂浜を埋めています。
拍手が湧きます。
鎌倉には外国人も沢山住んでいるのでしょう・・・・・、外国人も目立ちます。
北海道から上がってきたという大学生は興奮して言います。
「鎌倉はお祭り一つ見ても歴史を感じる・・・・!」
 
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        材木座海岸に集まって・・・いよいよ海に入ります。 沖にはウィンドサーファーが戻ってきました。
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     海をお祓いする神主さん。手前担ぎ手は武者震いしています。
     既に、肩は真っ赤に腫れたり、擦れたりしてしています。
 
四方に青竹が建って・・・・、注連縄で結界が張られています。
神主さんが祝詞をあげて、四方をお祓いして・・・・、いよいよお神輿が海に入ります。
2基が海に入ります。
各お神輿に黄色い襷をかけたリーダーが居ます。
簡明に注意事項を確認して・・・・、担ぎ手は勢いよく持ち場に着きます。
此処でも、女性の進出が目立ちます。
上半身、裸でないのは女性だけです。
 
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                                   波間のお神輿、黄色い襷をかけた人がリーダーです。
 
海に入るのは・・・・、お祓いの意味と・・・・、多くの神々が海上を渡ってきた・・・、
そんな記憶を留めているからでしょう。
大人が興奮すれば・・・・、子供も雰囲気に吞まれて・・・・、海に入ってしまいます。
未だ海水は冷たかろうに・・・、全身海水に浸かっています。
神様は屹度この子どもと同じような性格で・・・・、遊び好き、賑やか好きなのでしょう。
 
お神輿を揺らせるのは・・・・、子供をお父さんの肩車に乗っけて揺らすと喜ぶようなもので・・・、
神様も子供のように揺れるのが好きだからでしょう。
神様が海上渡りがお好きなのは・・・・、子供が海で濡れて遊ぶのが好きなのと同じだからでしょう。
 
海の上で、神様は充分に揺られて・・・、濡れて・・・・、ご満足される頃にはもう日も傾き始めます。
砂浜に戻ります。
担ぎ手はずぶ濡れです。
お神輿も担ぎ手も濡れたままで・・・・五所神社にご帰還です。
午後5時、フィーバーした「神輿海上渡り」はエンディングを迎えます。
 
今年こそは、良い歳になりますように・・・・、
日本中がそう願っています。
 
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     神様は賑やかな事がお好きです。手前の子供のように遊び心一杯ですから・・・・・、海で揺らされて
     濡れて・・・・、十分満足されました。材木座の平和と繁栄を約束して戴けたことでしょう。
     そろそろ、砂浜に戻って・・・・・、五所神社にご帰還です。
 
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      海から上がって、そのまま五所神社に戻ります。手前のお神輿は屋根の上に稲穂を咥えた鳳凰と
      四方に八咫の烏が飾られています。普通の神式のお神輿です。前掲4枚目の仏式の神輿と違います。
 
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テラスモール湘南に吹く風

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5月に足利のワイナリーで購入した葡萄酢を飲み尽くしてしまいました。
酢を飲み始めて、体調も良いし、何よりも白ワインを飲んでいるような味がします。
食べ物が美味しく感じるんです。
また、葡萄酢を買おうと、三河屋さんに行っても、伊勢屋さんに行っても、飲用酢は置いていません、
言われてしまいました。
銀座に行けば表通りに酢専門店があるというのに・・・・、
こんな不平を娘に言ったところ「テラスモール湘南」には酢専門店があるわよ・・・!」
教えてくれました。
 
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     テラスモール湘南全景、辻堂駅からの入口付近から見る。 各階広いテラスが用意されています。
 
そこで、初めてテラスモール湘南まで出かけました。
横浜から行くには国道1号線を走って、茅ケ崎バイパスを出て、すぐに左折すれば辻堂駅、
JR辻堂駅の西口に面してテラスモール湘南があります。
もともとは関東特殊鋼の工場でしたが・・・・・・、平成11年11月11日にオープンした湘南地方最大の
ショッピングモールです。
国道1号線の渋滞を引き起こしている事は承知していましたが、
オープンして2年、「何処に行ってもショッピングモールなんて変わらない、シネマコンプレックスもあるそうだから・・・・、面白そうな映画が来れば出かけよう・・・!」思っていました。
 
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4階建、17万㎡、280店の専門店とスーパー等で構成されるショッピングモールです。
辻堂駅からはぺでレストりアンデッキを通って直接入れる2階が正面です。
各階ともゆったりとしたテラスが設えられています。
テラスには植え込みがあって、ベンチが置かれて、パラソルがたっています。
湘南の海風がテラスを吹き通って行く・・・・、
テラスモールで湘南の空気を胸いっぱい吸い込んで、青い空と海を眺めながら
”健康でこだわりのある湘南ライフをお過ごしください”・・・…、そんな開発コンセプトと聞いています。
開発主体は住友商事系の住商アーバン開発でした。
沢山の企業コンペで住商グループの提案が勝ったのでした。
 
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私の第一印象は・・・・・、”楽しく、気持ちよく過ごせるモールだなあ!”
でした。
道幅は広いし、テラスはデッキ材が貼られていて良い感じです。
沢山ベンチが置かれていますから、疲れたら休めばよいし、
緑も花もふんだんに置かれています。
ワイキキのアラモアナショッピングセンターを思い起こさせます。
デパートが無いだけで・・・・、ショッピングの楽しみはアラモアナを上回る良質感があります。
 
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                2階エントランスにある案内コーナー、さわやかなお嬢さんが教えてくれます。
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                    4階屋根はガラス張りで燦々と陽の光が降り注ぎます。
 
出店している会社は地元湘南の実力店、
世界的に活躍している専門店、
そして、日本のメジャーな専門店です。
 
肝心の食用酢の専門店が見当たりません。
娘からは1階、食料店街の中にある・・・、聴かされていたのでしたが・・・・。
仕方なく・・・・、2階モール入口に戻って、案内嬢に訊いてみます。
”食用酢の専門店は当初あったのですが・・・・、撤退されました。
でも食用酢ならスーパーの三和とカルディコーヒーファームにありますよ”
教えてくれました。
オープン2年、お店の出入りは多いんだなあ・・・! 実感しました。
食用酢を求めるのは私のような団塊世代、
客層を窺がうと・・・・・、どうも娘(団塊ジュニア)が圧倒的に多いようです。
団塊世代を標的にしたお店は撤退を余儀なくされているのでしょう。
三和なら・・・・、毎日のように家内が行っています。
折角来たんだから・・・・カルディコーヒーファームでお酢を買い求めました。
 
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                                            食用酢は色々置かれていました
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暫く、楽しんでから、ランチです。
ランチは美味しいパンが食べたい・・・・!
自ずとカフェを探すことになります。
地元からは鎌倉のニュージャーマンが出店しています。
有名店からは・・・神戸のドンクが出ています。
そして・・・・、グローバルカフェとしてはCath's Caféが出ています。
英国風のミールやスイーツが魅力です。
何処に入るか迷ってしまいますが・・・・・、
オープンテラスで食べられるので・・・・、ドンクに入りました。
Cath's Caféには次回、家内と一緒に入る事にしましょう。
ランチを食べ歩くだけでも・・・・、色々あって十分楽しめます。
 
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                                                     ドンクでランチ
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                                  モールには椅子が各所に用意されています。
 
私のサラリーマン時代の職歴が影響して・・・・、利益が出ているのか?、順調なのか?気になります。
初年度は売り上げが509億(計画400億)、来店客2370万人(計画2000万人)、
何れも2割前後計画を上回ったそうです。
先ずは順調なスターを切ったが・・・・、これから3年が正念場・・・、そんな所でしょう。
現在は来店客が少ないように見えますが・・・・。
商社が推進するモールです。
テナントミックスはお手の物でしょう。
 
アラモアナショッピングセンターに行けば、何時でもお嬢さん(?)のフラダンスショーが見られます。
テラスモール湘南にはそんなステージはありません。
伊勢佐木町にゆけばストリート ミュージシャンや大道芸人が居ます。
そんなステージがあったら良いのにな!・・・・、思ったりしました。
でも、後発のショッピングモールですから・・・・、一番魅力的に出来ています。
私の住む戸塚には「オーロラモール/東戸塚駅西武が核」「トツカーナモール/戸塚駅東急ストアが核」
があります。
両モールとも買ったら直ぐ帰りたくなります・・・、長く居たら疲れるだけです。
テラスモール湘南は長く居たくなります。
数段魅力的なモールであることは間違いありません。
当初は鎌倉・大船辺りまでを商圏としてプランしたようですが・・・、
もう少し広範囲から集客しているようです。
 
住友商事にとっては旗艦店ですから・・・、全力集中してモールの運営に注力している事でしょう。
”頑張れ!住商!” エールを送りたくなる、良質なモールです。
 
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                           テラスで食べるときはトンビに注意しなくてはいけません。
 
  【注】これから、手術後1年の検診に出かけます。
     戻ってから校正します。
 
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病院に咲いた鉄砲百合に思う

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昨年の今日(6月12日)に胃癌の手術をいたしました。
昨日は術後1年の定期検診でした。
朝8時半に採血、続いてエコー、9時半に内視鏡検査、10時半に主知医による総合診断の予定です。
検査システムや検査情報処理が迅速になったおかげで半日で全部が終わります。
15年前、筆者は腎臓癌で摘出手術をしましたが、
当時は検査結果が出そろうまで一日以上を要しました。
ですから、格段の進歩です。
 
家内が内視鏡検査の同意書にサインしながら・・・・”同行しましょうか?”訊きます。
私は”体調は良いし、自信があるから・・・・、付添いは要らないよ・・・”答えました。
文庫本とカメラをバックに入れて、早くから出かけました。
切られた胃ですが・・・・、
”腹減った・・・、何か食わせろ・・・・” 文句を言っています。
 
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                                        朝8時の湘南鎌倉総合病院の風景。
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      内視鏡検査室。私も何時しか内視鏡検査を受けるベテランになってしまいました。
      横になりながら画面に映った我が食道、胃袋、十二指腸を見詰めながら・・・・、
      ポリプが無いか、綺麗か見詰められるようになりました。(許可を得て撮影しています)
 
この歳になると、両親も亡くなり友人も数多く見送りました。
私も二度も大病を患うと・・・・・、
『自分は今も生きているんだが・・・・、友人は何故に先に逝ったか?』
自問自答致します。
結論から先に言えば・・・・、私は早くに癌が発見されたから・・・・。
何故、早く発見されたかと言えば・・・・、定期検診を受けていた訳けでもないし・・・、
今回は大量喀血したから・・・・、癌が発覚しました。
何故、喀血したのか?
偶々、由井の名物桜エビの天麩羅を食べて・・・・・、その尖った部分が癌の先っぽに突き刺さったから・・・、
要するに、幸運が重なったので大事に至らないで済んだ・・・、思っています。
これを”運”と呼ぶんでしょうが・・・、
運だけで済ませられない人は”縁があった”言うのでしょう。
私は、”まだまだこの世に縁があるんだ・・・・” 思います。
 
8時過ぎ、湘南鎌倉総合病院に着きました。
驚いたことに、植え込み全体に鉄砲百合が咲いています。
百合は散り始めた躑躅よりも背丈を伸ばして、躑躅を見下ろす位置で、
四方に向けてラッパのような形の花を咲かせています。
昨年、入院前後には全く気付きませんでした。
家族に訊いても、去年は気付かなかった・・・、言います。
私も、家族も胃癌の手術で頭が一杯で・・・・、咲き揃った鉄砲百合が見えなかったのでしょう。
百合の花に気付いたのは・・・・・、四方を見回す余裕が出来たからなのでしょう。
 
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                 湘南鎌倉総合病院の植え込み全体に花を咲かせた鉄砲百合。
 
終末期医療に係った人の調査によると、人は死ぬ間際になると必ず自分の人生を振り返るそうです。
死ぬ間際・・・、後悔だけはせず、感謝だけをしたいものですが・・・・、
なかなかそういうわけには行きません。
 
後悔中で最も多のが「自分にもっと忠実に生きれば良かった」・・・、そんな無念な思いだそうです。
次いで多いのが「あんなに一生懸命に働かなくても良かった・・・」後悔だそうです。
「もっと、遊んだり人生をエンジョイすれば良かった・・・・」そんな思いの裏表でしょう。
日本人は会社人間が多いのですから・・・・・、リストラされた人は屹度同じ思いでしょう。
三番目に多いのが「もっと友人を大切にしておけば良かった・・・」
そんな後悔だそうです。
 
人生の豊かさは友人の数や友情の深さに依るものでしょう。
「家内をもっと大切にすればよかった」
「親孝行をもっとすれば良かった・・・」
「子供達に財産を残してあげれば良かった・・・・」
死に際して、
身内に対する思いやり以上に、友人に対する後悔の想いが勝っているのは意外です。
 
私の親兄弟に癌を患った人は居ませんでした。
だから…、私は遺伝的に癌は心配ない・・・、思っていたんですが、二度も癌の摘出手術をしました。
お蔭で、私の腹には縦横に・・・、十字に傷跡が残っています。
私が勤務していた銀行が破綻する時に腎臓癌が大きくなりました。
退職後事業を始めましたが、
順調かと思えた事業が、大量の不良品のクレーム処理に没しました。
その時も”このままでいると癌が再発する!” 懸念されました。
当時に胃癌が巣食ったのでしょう。
ストレスが癌を大きくする・・・、私の確信です。
だから・・・・、今後はストレスのない生活を送ろう・・・、
それが健康で長生きする秘訣だと思っています。
 
前述、第一、第二の後悔は今更どうしようもありません。
(親の期待に沿って)銀行員にならなければ・・・・・、学校の先生や研究者になれば良かったのに・・・、
思いは消し去る事は出来ません。
破綻した銀行に尽くしたって・・・・、如何ともせなんだ・・・・・、適当にすれば良かった・・・、
思いは今も断ちがたいものがあります。
そんな思いは色褪せて・・・諦観が強くなるまで時間がかかる事でしょう。
 
でも、友人には今も恵まれています。
3番目の後悔だけはしなくて済むよう・・・・・、友人を大切に過ごすことにしましょう。
 
そんな友人も私の胃癌の経過を心配して下さっています。
だから・・・・・・、このブログで報告いたします。
主知医の指導は以下の通りでした。
大事な順に書きましょう。
①胃癌の再発の懸念はありません。食道も十二指腸も綺麗です。
②胆嚢に小さな石がありますが、胃癌の摘出手術をすると出来るものです。心配はありません。
③膵臓、腎臓とも健全で綺麗です。前立腺も肥大していません。
⑤血液の諸データも健康そのものです。血糖値も低くはありませんが健康域にあります。
⑥血液中の鉄分濃度も戻ってきています。
私も、自分自身の体も軽いし、良く寝られるし・・・・、かってない程健康です。
サラリーマン時代もこんなに調子のよい事は稀でした。
 
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      内視鏡検査の診断書、どこもかしこも隅々まで問題なし・・・・、と報告されました。
      これからは定期診断も3か月ごとに減りました。
      これらデータを患者に公開するするところも、医術の進歩だと思います。
      エコー、血液検査の報告データも戴きファイルしてあります。
 
鉄砲百合を眺めながら思いました。
昨年は百合を見過ごしたように・・・、私はきっと沢山の貴重なものを見過ごしている事だろう。
これからはもっと自然を見詰めながら・・・・、美しいものを心して見詰めながら過ごしたいものだ。
そして、家族と友人を大切にしながら過ごそう・・・、と。
後悔は少なく・・・、感謝の心を強くして・・・・、その時(死)を迎えよう・・・・と。
 
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ゆっくりランチを楽しんで病院を後にしました。
鉄砲百合が縦列に並んで、私を見送ってくれました。
”一年後検診、総てが順調で良かったですね・・・・、お大事に・・・・!”
言ってくれているようでした。
友人にも、鉄砲百合にも一言
”有難うございます、お蔭ですこぶる体調は良いんです・・・・。”
 
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   院内の喫茶室ドトールで、12時間ぶりで食事をしました。
   確信はあったのですが・・・・、改めてデータを戴き主知医に太鼓判を押されると・・・、
   ランチも美味しく感じるものです。
 
 
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遊行寺、菩提樹の花

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6月に入り、雨が降らない、このままじゃあ水不足になる、野菜が心配だ!
言われていました。
ところが、今週に入り毎日が雨で・・・・、梅雨らしくなってきました。
これで、様々な心配も消し飛んでしまったようです。
 
6月12日、梅雨空の中、お出かけです。
家内と今日はどうする? 協議です。
「ランチはお寿司にして・・・・、本牧の三溪園に行くか?」
「お寿司は賛成だが・・・・・、梅酒や梅干しを漬ける材料が足りない・・・・、買い物にも寄って・・・・!」
「ならば・・・・・、遊行寺方向に出かけよう・・・・」、
そんな会話があって、遊行寺に出かけました。
 
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         向こうの大木は銀杏です。根の周囲にベンチが置かれています。
         この緑陰で読書する人を良く見かけます。
 
 
遊行寺には思いのほか紫陽花がありました。
雨に濡れて・・・・・、綺麗ですし・・・・、人影もありません。
この雨でこそ、花菖蒲も良い風情なんですが・・・・、観る人が居なくて勿体ないようです。
 
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                    雨に濡れた花菖蒲。筆者は何故か、湯上り美人(浮世絵)を思い出します。
 
 
私の期待は菩提樹の花を観る事です。
5月末から・・・・、何度も訪れ蕾の数や膨らみを確認してきました。
今年の花数はかってない量です。
咲き揃ったら・・・・、どんな景色になるのか? どんな香りがするのか? 観てみたいんです。
いよいよ咲き揃った菩提樹が観られます。
 
 
 
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   1週間前の菩提樹、未だ無数の蕾でした。 向こうの建物が宗務所になります。
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     いよいよ満開の菩提樹。
     向こうの門が中雀門(明治天皇が通られた)、手前が菩提樹、落花が地面を覆っています。
     樹皮は濡れて黒く見えます。この樹皮にシナモンが含有されています。
     
遊行寺の境内には様々な大木、名木があります。
一番有名なのは本堂前の大銀杏でしょう。
形と言い、太さと言い、湘南第一です。
三崎の海南神社には源頼朝お手植えの二本の銀杏がありますから・・・・、
歳では第一ではありませんが・・・・、海南神社の銀杏を凌ぐ姿形です。
広い境内に一本、スックと立っている姿形が良いんです。
海南神社の境内は・・・・、狭すぎます。
銀杏の根元には幹を囲むようにベンチが置かれています。
ベンチに腰掛けて・・・・、銀杏の緑陰を楽しんでください・・・・!
粋なはからいです・・・・、根を踏まれないので、銀杏の養生にもなります。
 
有名な大銀杏ですが・・・・・、藤沢市の保存樹の第一号ではありません。
藤沢の一番は・・・・、宗務所建物玄関前にある・・・、菩提樹なんです。
遊行寺は沢山の古木名木があるんですが・・・・、樹の名前を案内していません。
だから・・・・・、菩提樹も多くの人が気付かずに通り過ぎているようです。
 
地面から5本ほどの幹が同時に生えて来ています。
一本一本は大木という訳でも無いのですが・・・・・、
5本がまとまって一本の樹のような形になっています。
全体で見れば・・・・、圧倒的な存在感です。
 
菩提樹はお釈迦様が樹下で座禅をし、悟られた樹です。
ですから・・・・、仏教の聖樹3本の中で一番有名です。
遊行寺では菩提樹の樹下に大きな石を置いています。
畳一畳程の広さがあって・・・・、石の上で座禅を組む・・・、そんな意匠です。
 
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                   菩提樹の樹下には座禅石が置かれていて、落花が散っていました。
 
座禅石の上にも、地面の上にも、覆い隠すほど沢山の花が散っています。
散り際の花に梅雨が降って・・・、散ってきているのです。
芳香が辺り一面に漂っています。
シナモンの香りにも似ていますが・・・・、数段穏やかで、芳醇な香りです。
 
菩提樹と言えばシューベルトの冬の旅を思い出します。
♪泉に沿いて茂る菩提樹、慕い行きては うまし夢見つ・・・・♪
ロマンの薫り高い歌詞であり、調べです。
唄われた菩提樹は楠木科(シナノキ科)の常緑樹です。
ドイツの菩提樹は白い花をつけるそうですが・・・・、日本や中国の菩提樹は黄色い花が多いようです。
お釈迦様の菩提樹は南国インドの樹で、桑やイチジクの仲間だそうです。
大木になる事、緑陰が素敵である事・・・・、両者は似ていますが・・・・、
樹形は楠木科(中国や日本)の方が良いようです。
日立のコマーシャルの”あの木 何の樹”を髣髴させる、いい形です。
 
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                                      菩提樹の花、遊行寺の花は黄色い。
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                                                          菩提樹の花
 
遊行寺の菩提樹の近くには百日紅、なぎの樹(?)があります。
百日紅が無憂樹の代わりで、なぎの樹が沙羅双樹の代わりのようです。
仏教の三大聖樹は何れも熱帯樹でしたから・・・・、日本に伝来すると別の樹になりました。
無理し無くても・・・・・・、と思っても、
お釈迦様の教えを諭すには・・・・、樹を見せて・・・、樹の下で修業させることが最高に効果的だったのでしょう。
だから・・・・・、違った樹であっても・・・・、
「この樹がお釈迦様の樹だ、この樹の息吹を感じて・・・、貴方もお釈迦様のお弟子さんになりなさい」
そう教えられて・・・・、菩提樹の樹下に座ると・・・、大きな安堵感に浸う事が出来ました。
 
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       菩提樹の近くにある「なぎの樹?」、沙羅双樹の代わりでしょうか?
       樹の髄は腐ってしまって空洞ですが、皮がしっかりしていて樹勢は元気いっぱいです。
 
菩提樹の葉を伝って、雨は地面に吸い込まれてゆきます。
天の恵みを地に蓄えているようです。
やっぱり菩提樹は良いなあ・・・・、感想です。
 
折角来たんだから・・・・、遊行寺の古木を巡って帰る事にしました。
古木は何れも雨を待っていたんでしょう。
何時もより遥かに生き生きとして、荘厳に見えました。
 
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                                                 遊行寺の桂の大木
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                                               遊行寺、槇の根っこ
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       これはタブの樹、この樹皮はお線香になります。
       この幹も腐って空洞になっていますが、皮がしっかりしていて心配無用です。
       なにしろ、遊行寺は若いお坊さんのお手入れが良いので、樹木も花も生き生きしています。
 
 
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