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鎌倉浜辺の花火大会

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7月23日、小雨が降るなか、鎌倉の由比ヶ浜に花火を見に出かけました。
鎌倉駅からもう大混雑で、車道も半分に狭めて歩行者を優先、
下馬から先の若宮大路は歩行者専用道路になっていました。
流石に浴衣姿が目立ちます。
 与謝野晶子をもじれば
   由井ヶ浜へ 若宮大路を辿る人 今宵会う人 皆浴衣美人
でしょう。
 
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                花火の打ち上げを待つ由比ヶ浜海岸、向こうの丘陵が稲村ケ崎
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   7時20分、沖合300mに置かれた台船上から東日本大震災慰霊の花火が打ちあがって、始まりです。
 
由比ヶ浜の海水浴場が開かれて130年、花火大会も今回が第65回だそうです。
隅田川の花火は江戸時代から始まったんでしょうが、隅田川花火大会としては今年が36回だそうですから、
鎌倉花火は関東で最も伝統がある花火という事でしょうか?
思い起こしてみれば、戸塚でも昭和には花火が盛んに打ち上げられていました。
日立がまだ元気で、スポンサーが集まっていたからでしょう。
花火大会が無くなってもう久しく、花火好きは鎌倉に横浜に江の島に・・・・、
カレンダーに書きこんで出かけているんでしょう。
私もそんな花火好きの一人です。
 
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花火は中国人が始めた・・・、よく言われます。
あのケタタマシイ爆竹も花火です。
中世のヨーロッパでは貴族の娯楽、権威の表われとして花火をしたそうです。
貴族だけが見るのですから、その館から眺めるように設計されていました。
いま世界で楽しんでいる花火のスタイルを作ったのは、後発の日本人だったのでしょう。
大和榛原の鍵屋弥兵衛は江戸に出て花火を売り出します。
享保2年(1717年)には打ち上げ花火を水神祭りに献上します。
享保18年には江戸でコレラが猛威を振るいました。
 
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                                          両国の花火
 
徳川吉宗は死者の鎮魂と悪霊の退散を意図して両国花火を命じました。
江戸市民がこぞって見るもんです。
何処から見ても同じように綺麗に見えなくてはなりません。
花火の種(火薬)を球形に仕込みました。
こうして、民主的な花火が出来上がりました。
世界に冠たる、打ち上げ花火が出来たのでした。
日本人のつけた「花火」の名は世界に広がって、fireworksになりました。
漫画も花火も日本人の果たした役割は大きなものがあります。
 
 
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これが水中花火です。扇形に水面の上に花火が打ちあがります。
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由比ヶ浜は庶民の住居があり、市が立ち、そして墓場がありました。
砂は掘り易かったので、墓には好適だったのでしょう。
滑川には閻魔堂橋がかかっています。
閻魔堂(現在の円応寺・建長寺門前)が以前は前浜にあったのでした。
それが津波で壊されて現在地に転居したのでした。
浜辺に閻魔堂があったのは・・・・・・、浜辺が庶民の集団墓地だったからでしょう。
 
子供や罪人の死体は由比ヶ浜から流されました。
東鏡には静御前の行状が詳細に記されています。
文治2年(1186)7月29日、静御前は男の子(義経が父)を出産します。
出産を待ってから京都に帰すことになっていました。
予め頼朝から「女の子なら静かに渡すが、男の子なら命を絶つ」ように命じられていました。
安達清常は静から赤子を受け取ろうとしますが、静はこれを拒みます。
政子は頼朝を諌めますが、頼朝は聞く耳を持ちません。
やむなく磯禅尼が赤子を取り上げ、遣いに渡します。
赤子は由比ヶ浜の波に消えて行きます。
 
    男児(おのこ)にて 生まれてきしを恨むべし
      武士(もののふ)の時代(とき) 一日の命を
 
材木座海岸に私は陣取りました。
由比ヶ浜から長谷にまで。海岸にも海岸通りにも沢山の見物人が出ています。
鎌倉花火大会の呼び物は水中花火です。
移動する船の上から水中に投下された花火が海上で爆発します。
火の玉が海上に打ち上げられて・・・・・・、扇状に開きます。
その爆音は海底までに届いている事でしょう。
 
    わだつみの 神々揃いて 驚かん
       由井の浜辺の 水中花火に
 
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                 水中花火、海底の魚も霊も眠りから覚まされている事でしょう。
 
時折、小雨が降りましたが今年も無事に、見事な花をを楽しむことが出来ました。
明後日(25日)は葉山で、
27日は大磯、8月3日は茅ヶ崎、20日は藤沢(片瀬西浜)、
一方、横浜が8月1日です。
お天気を見ながら・・・・、楽しむことが出来そうです。
 
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        沖合の船は、花火鑑賞の釣り船です。花火を打ち上げる台船が三つあります。
 
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白浜山頂の「風神・雷神石像」

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外房の海の色は相模湾のそれとは違います。
群青色とも呼ぶのでしょう。
それは黒潮の色なのでしょう。
有名な青木繁は布良海岸に遊びます。
1904年、22歳で東京美術学校を卒業した年でした。
多くの学生は就職する中で、就職すれば「自分の絵が描けなくなる!」
”最大限に自分の能力を発揮したい!” 
そんな思いで、仲間の坂本繁二郎、森田恒友そして恋人の福田たねを同行させて、
4人の男女が一つ屋根の下で、2か月間共同生活いたします。
そんな中で名作「海の幸」が描かれました。
裸の漁師がマグロなど巨大な魚を背負って、磯から上がってくる光景でした。
 
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                                                 青木繁22歳の大作「海の幸」
 
その布良海岸の北側続きに千倉海岸があります。
海に面して道の駅「潮風王国」があります。
この日は夏休み前でしたから、気の毒な程静まり返っていました。
プールにも水が張られていませんでした。
 
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                                    潮風王国のある千倉海岸。この石が蛇紋岩です。
 
私と家内の目標は、高塚不動尊の奥ノ院にある風神・雷神を拝観する事です。
珍しいほど大きくて、迫力のある石像の「風神・雷神」がある・・・、というので出かけたのです。
千葉ですから・・・・、たいした山があるわけではなかろう・・・・、たかをくくっていたんですが・・・、
それが間違いで、大変な山奥にありました。
 
近代的な七浦小学校の脇の路地を入ると、突き当りが大聖院(高塚不動尊)です。
このお寺は初代伊八(武志伊八郎信由)24歳の作品、「波と龍」「麒麟」の欄間彫刻があります。
ですから、伊八ファンは良くご存じの事でしょう。
 
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      大聖院(高塚不動尊)裏山山頂に奥ノ院が祀られていています。
      其処の仁王門の位置に風神・雷神が祀られています。
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                                      大聖院は初代伊八の欄間彫刻で有名です。
 
 
この辺りは白浜フラワーラインと呼ばれる観光地です。
黒潮のお蔭でいち早く春の花が咲き誇るのです。
畑は・・・・、花が栽培されている筈なんですが・・・・、一面荒れ果てています。
高齢化などの影響で耕作放棄されているんでしょう。
そんな、畑を通って奥ノ院の登り口につきます。
高塚山(216m)の略頂上に高塚不動尊奥の院が祀られているのです。
 
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     お花畑は耕作放棄されていて・・・・・・・・・、一面の荒れ地に化していました。
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                       高塚山中腹から千倉の街を望む。手前が大聖院、その先が七浦小学校。
 
大聖院境内から急な石段を800m、35分ほど登る事になります。
”どうしようか?登ろうか、登るまいか?”
”でも、今登らなければ・・・・、一生登る事はあるまい・・・・”
今やら拝観しなければ…、一生拝観出来ないんです。
そう思うと、必ず登る事になります。
今までも、何回もこんな場面がありました。
 
スダジイや楠の照葉樹林の下闇を歩き続けます。
マムシでも潜んでいないか・・・、不気味な山道です。
殆ど人が歩いた形跡はありませんが、石段自体は整備されています。
でも、滑りやすいんので、慎重に歩を進めます。
途中に幾つかベンチが置かれています。
ベンチからは見渡せるよう木々が伐採されています。
梢の隙間から群青の太平洋が見渡せます。
途中に富士山講の記念碑が建っています。
 
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     高塚山を含んだ丘陵は照葉樹林です。群青色の海は黒潮だからでしょう。
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山頂が見えてきます。
最後の石段を登ると、思いのほか広い境内に出ます。
此処が高塚不動尊の奥ノ院です。
トタン板の門があります。
トタンも腐っていますし、棟も傾いています。
大風が吹いたら・・・・、倒れてしまいそうです。
この山門で高塚不動尊をはじめ、白浜一帯の自然を守っているのが風神・雷神なのです。
 
お寺を守っている風神・雷神といえば・・・・、江戸っ子は浅草浅草寺の雷門を思い出します。
大きな雷門と書かれた提灯がある・・・、浅草の名所である雷門で、お寺を守っているのが「風神・雷神」です。
風神・雷神は千手観音を守護する眷属です。
京都の三十三間堂には有名な風人雷神が祀られています。
でも、高塚不動尊のご本尊は不動明王です。
だから、この風神・雷神は別の意味なのでしょう。
 
高塚山はこのあたりで最も高い、空に聳えている山です。
村を強風や雷等・・・・、自然の猛威から守ってくれるよう建立されたものでしょう。
とりわけ、此処は漁村でしたから・・・・、強風が吹けば漁に出られません。
また、沖合で強風に煽られれば命を失います。
安全に漁が出来るように、豊漁であるように祈った・・・、その為の風神・雷神なのでしょう。
 
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          雷神像
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                                                          雷神像
 
 
基台の銘文には文政13年(1830)、長狭郷平塚村の三木甚右衛門他が寄進した・・・、刻まれています。
石はこの辺りに多い「蛇紋岩」です。
この巨大な石像を刻むのも大変ですが・・・・・、此処まで持ち上げるのも大変な事だったでしょう。
お堂はこじんまりしているものの・・・・、この風神・雷神はお堂の割に大きいのです。
もう二回り小さくても良かったものを・・・・、それも木造にしたら楽に祀られたでしょうに・・・・、思います。
だからこそ、珍しい風神・雷神に有難味を覚えます。
木造は腐ってしまいます。
石像なら・・・、腐ることも無いし・・・、歳を経れば年々風格も出てきます。
 
それにしても、少し滑稽というか…、愛嬌のあるお顔をした風神・雷神です。
風神は大きな風袋を背負っています。
雷神は小太鼓を付けた輪を背にして、バチを振りかざしています。
顔は・・・・、豆撒きの鬼と同じです。
”風神・雷神は元来鬼だったのかしら?”
思い起こします。
 
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                                 雷神のお顔、愛嬌のある節分会の鬼の顔です。
 
登りは大変でしたが・・・、下りは楽なものの細心の注意を払いながら・・・・・、進みます。
滑ったら大怪我になる事必定です。
爽やかな海風が吹き上がってきます。
”良く参拝してくれたな!”
人懐っこい風神さんが煽ってくれているような気がしました。
 
青木繁、福田たね達はこの高塚不動尊に上る事は無かったのでしょう。
もし来ていれば・・・・、伊八の欄間や風神・雷神を見たことでしょう。
そうしたら・・・・、何と想った事でしょう。
屹度、友人に手紙を書いた事でしょう。
「今日、近くの山に登って滑稽な風神・雷神を見た。石工の腕が未だ拙いんで節分の鬼のような顔をしていた。
でも、風神・雷神に祈る気持ちは良く表現されていた。
芸術の神髄は表現技法ではなく、製作者のスピリットにある。
私達は今、精神を研ぎ澄ます時なんだ!」
そうとでも言ったかもしれません。
 
福田たねは身籠ります。
理想は高く情熱に厚い青木繁でしたが・・・・現実が許してくれません。
今でこそ重文の作品ですが・・・・、誰も購入してくれませんでした。
こんな力作飾る場所もないし・・・・、芸術を理解する程民衆の眼は肥えていなかったのでした。
青木繁の作品は売れずに・・・・、
貧しく、肺結核に侵されて、1911年、28歳で亡くなります。
 
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                 高塚不動尊奥の院、この朽ちかけた門に風神・雷神が祀られています。
 
 
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浜木綿に寄せて、吉野秀雄へのメッセージ

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慶応大学図書館の前に素晴らしい歌碑があります。
   図書館の前に沈丁咲くころは 恋も試験も苦しかりにき
作者は経済学部の学生「吉野秀雄」氏でした。
私は平々凡々と過ごしていましたから・・・・・、試験も恋も特段苦しむことなく卒業してしまいました。
この、歌碑を読んで何処か羨ましく思った記憶があります。
 
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   今日の話題は浜木綿の花です。写真は佐島天神島の浜木綿です。此処は浜木綿の北限と言われ、
   吉野秀雄が遥々見に来ました。
 
吉野秀雄氏を敬愛する人は多く、氏を偲んで南校舎の南面には浜木綿を植えました。
丁度今頃が浜木綿の白い花が咲く頃です。
当時私は浜木綿の花を知りませんでした。
その万年青のような瑞々しい葉っぱを見ながら・・・・、私はどんな花が咲くのか? 想像しました。
 
浜木綿子という大柄な女優さんがいました・・・・。
女優さんのような、大らかな華やかな花なんだろうな・・・・、想像しました。
浜木綿の咲く季節、夏休みですから・・・・、学生のほとんどが浜木綿の花を見る事はありませんでした。
 
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          これは由比ヶ浜稲瀬川河口の砂丘に咲く浜木綿です。もうじきこの夏の花もお終いです。
 
吉野秀雄氏は学生時代から肺結核を患っていました。
病気や貧乏のお蔭で大学を中退せざるを得なくなってしまいます。
経済学部の学生でしたが、会津八一や子規に感銘し、文学にも志します。
そんな中で作られた歌が前述のそれでした。
 
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     右の小川が稲瀬川(歌舞伎の白波五人男で有名)、その河口の砂丘に浜木綿が咲きます。
 
昭和29年(1954)7月末、吉野秀雄は連絡を受けます。
「横須賀佐島の浜木綿が咲き出した・・・」
秀雄は早速にバスに乗って逗子に出ます。
更に逗子駅で横須賀行きのバスに乗り換え、芦名で降ります。
海岸通りのバス停から、佐島の天神島にある浜木綿の自生地に向けて坂道を下ります。
 
此処は浜木綿の北限でした。
浜木綿は実を付けます。
コルクのような実の中に種が三つほど入っています。
南国の砂浜で実って、黒潮にのって日本の砂浜に流れついたのでした。
でも、発根するには温度が必要ですし、特に冬の寒さは浜木綿の大敵でした。
此処佐島が浜木綿の北限自生地だと言われていました。
 
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  佐島の天満宮、参道左に吉野秀雄の歌碑があります。周囲は浜木綿はじめ海浜植物の宝庫です。
 
 
でも、地球温暖化の影響でしょう。
最近は浜木綿は佐島以外にも、もっと北でも自生しています。
でも、昭和20年代には鎌倉には浜木綿は咲いていなかったのでしょう。
 
  この島を北限とせる浜木綿の
  身を寄せ合ふがごとき茂りよ
  草質(くさだち)といへど逞し浜おもと
  佐島の磯にいのち根づきし
 
 
八木登美子は夫の八木重吉に先立たれ、更に残された愛児二人も逝ってしまいました。
一人きりになった登美子は重吉の残した詩を胸に抱いて、清貧な日々を送っていました。
一方、秀雄は昭和19年妻に先立たれ、4人の子供を抱えて途方に暮れていました。
登美子は女中と云うか、子供の教育係りというか・・・・、吉野家に入ります。
そして家事をすべて引き受けます。
 
屹度二人は家族を失った悲しみを共有し、併せて詩人(歌人)の魂も共有していたのでしょう。
昭和22年、登美子は秀雄のプロポーズを受け入れます。
 
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                                             若宮大路一の鳥居下の浜木綿の花
 
秀雄は屹度登美子と一緒に浜木綿の花を見たかった事でしょう。
でも、家事に忙しいので一緒に行く事は出来ません。
一人でバスを乗り継いで見に行くほかはありませんでした。
若しも、今の様に由比ヶ浜に、若宮大路に咲いていたら・・・・、一緒に見る事が出来たことでしょう。
 
何で秀雄が浜木綿の花が好きであったのか?
それは知る由もありませんが・・・・、思いつく事は沢山あります。
先ず第一は秀雄は民俗学にも秀でていたからです。
同時に万葉風の歌を得意にしていたからです。
 
浜木綿の名は「浜辺に咲く由布のような花」の意味です。
由布とは神社の祭祀で使う「お祓いの神具」の事です。
数枚の紙垂を木の幣串に挟んだものです。
自身の体に巣食った肺結核の病根を祓ってくれる・・・・、そんな由布のように見えます。
だから・・・・、浜木綿の花に託する思いは深いものがあったのでしょう。
 
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   浜木綿の茎の髄を食う「ハマオモトヨトウ/蛾の幼虫」
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由比ヶ浜の浜木綿を秀雄と登美子が見詰めたら・・・・、
何と言ったでしょうか?
登美子の前夫、八木重吉は茅ヶ崎の結核病棟で息を引き取りました。
そして、縁あって結ばれた秀雄も肺結核を患っています。
いっそ、この浜木綿の花を握って、夫の胸の中の病巣に入って、病原菌を祓ってしまいたい…、思った事でしょう。
悲しい程に純白な花です。
それでいて、雄蕊の先には薄く紫が入っています。
 
由比ヶ浜の浜木綿の脇には、ビキニのお嬢さんが甲羅干しをしています。
未だ半世紀前までは、肺結核は死に至る病でありました。
そのころは浜木綿を見る人の想いも深いものがあったのでしょう。
 
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    参考:吉野登美子著「我が胸の底ひに-吉野秀雄の妻として」
 
 
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タダの蓮の美しさ

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横浜の「三溪園」では今年の蓮は小さくて、外れ年のようです。
梅雨に雨が少なかったので、蓮が充分に育たなかったので・・・・・、蓮の花が小さいのだそうです。
雨が良く降って、蓮池に水がふんだんに注がれて・・・・、
蓮の根(茎)が良く呼吸出来ないと蓮は育たないそうです。
 
三溪園の蓮の名前を聞きました。
「蓮だよ、蓮以外に特段名前は無いよ!」 つれなく答えられてしまいました。
桜だって、染井吉野に始まって大島など様々な名があります。
蓮に名前が無い筈がありません。
 
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   横浜三溪園の蓮、今年の花は小さくて・・・・イマイチです。この蓮は”普通の蓮”で食用にもなります。
 
大船のフラワーセンターの蓮は、素晴らしい高さに育っています。
私の背の丈の遥か上方に花を咲かせています。
ですから・・・・、下から花を見上げます。
青空を背に赤い蓮が鮮やかです。
屹度カンダタ(蜘蛛の糸の主人公)はこんな風に見えて、天空に極楽があると考えたのだろう・・・、と思います。
 
職員に訊きました。
「この蓮の名は何ていうんですか?」
三溪園と同じ答えでした。
「これは蓮だよ、蓮以外に特段の名は無いよ・・・・・。」
日本人は蓮と言えばこの朱色の蓮で、食用にしてきたのでしょうか?
園芸種なら特別に凝った名が着くのに・・・・・、食用蓮には名が無いのでしょうか?
 
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    大船フラワーセンターの蓮。今年は2m以上に背丈が伸び、花は見上げるような高さです。
    此方の蓮も特段名がありません。これも普通の蓮です。
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     普通の蓮の池にはオタマジャクシが棲んでいます。オタマジャクシはカンダタ(蜘蛛の糸)を思わせます。
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                                     一面の普通の蓮。(大磯の東の池/溜池で撮影)
 
平塚に「要法寺」があります。
平塚宿の本陣の近くです。
南隣に桓武天皇の孫政子の墓があります。
857年政子が此処で病死し、埋められました。
その塚が放置されて、長い間平たかったので”平塚”の地名になったそうです。
 
    
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     桓武天皇の孫「政子」の塚(墓)、通常塚は墳丘になっているものですが、この塚は平たいので
     「平塚」と呼ばれ、この地名になりました。北側が要法寺になります。
 
要法寺の本堂の前庭に夥しい数の蓮鉢が並んでいて、見事に蓮の花が咲いています。
6月半ばに大賀蓮が咲き始め大賀蓮はもう終わりましたが、大半の蓮は今が見頃です。
家内と「綺麗だなあ・・・」見詰めていると、面倒を見ている人に気付きました。
私は、感謝の気持ちと併せて、いろいろ聞いてみました。
 
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     要法寺本堂の前庭は蓮鉢が置かれ、様々な園芸種の蓮が咲き競っています。
 
此処には蓮鉢が60あります。
蓮1種類につき3鉢弱用意していますから・・・・・・、20種以上ある事になります。
毎年気温が15度になると鉢の植え替えをします。今年も3月末に植え替えを始めました。
 
古い土は新しい腐葉土に入れ替えます。
地下茎を2節用意して、鉢底に置きます。
地下茎は前に向かって茎を伸ばします。
新しい茎の節の処から花芽が育ちます。
この鉢に二周くらい地下茎が這っている事になります。
翌年の春にまた植え替える事になります。
60鉢を二人で植えかえするんですが・・・・・、1週間では終えられません。
目標は・・・・、8月6日、お寺の施餓鬼会でお檀家が集まります。
この時に見て貰うのです。
今年は咲くのが早すぎたのですが・・・・、まあ、施餓鬼会までは花はもつことでしょう。
 
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     この叔父さんが蓮の面倒を見ていられる「蓮守」の叔父さんです。
 
綺麗に花を咲かせるには、人知れず誰かの無償の丹精が隠れているもんです。
桜の場合は”桜守”・・・・・、ならば”蓮守”という事になるんでしょうか?
 
中国風の名が多いようですね!
尋ねます。
「そう、蓮は中国から伝わったもんだから・・・・・!」
そう、園芸種は中国から伝わったんでしょう。
でも、縄文の時代から大賀蓮が育てられ・・・・、食用にされ、今に伝わりました。
その、本来種が・・・・・・特段名の無い・・・・”唯の蓮”なんでしょう・・・。
 
そう思うと、飾り気の少ない、単衣の蓮が一層綺麗に見える様な気がしてきました。
 
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    手前が巨椋池 奥が蜀紅。名前からすると白い京美人のような蓮が日本の園芸種で、
    蜀軍の旗のような紅色が中国園芸種でしょうか?
 
本堂に登ると、格天井に描かれた花々が目に飛び込んできます。
壁には雲中供養仏が架かっています。
屹度宇治の平等院の鳳凰堂の意匠でしょう。
蓮の中を通ってこの本堂に登り、沢山の花々の下で、仏に囲まれて・・・祖先の供養をする・・・、
そんな場面を想います。
充分に心が満たされることでしょう。
仏教はお釈迦様の始められた教えですが・・・・、
蓮の花が無ければ・・・・・、広まらなかった教えでもあるような気がします。
 
現実世界は何時の時代も苦界でした。
それは、蓮の地下茎が伸びる泥の中のようです。
泥の中から花芽を伸ばし、水面遥か上空に・・・・、花を咲かせる。
花の中央に蓮台が出来て、その上に仏が座られて居られる・・・・、
そんな姿がイメージ出来なければ・・・・、仏教は広がらなかった事でしょう。
 
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                                        薬師寺の散華(蓮の花弁)
 
【要法寺説明】
松雲山要法寺、日蓮宗の寺院です。鎌倉幕府の執権北条泰時の次男泰知は、平塚に住んで平塚左衛門尉泰知といいました。弘安5年(1282)日蓮上人は身延山を出て池上(本門寺)に向かいます。その時平塚の泰知邸に一泊されました。この宗祖の霊跡に建立されたのが要法寺です。(新編相模風土記)
 
 
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爽やかな朝のラジオ体操

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夏休みに入って、最初の1週間毎朝ラジオ体操をします。
子供会がNHKのラジオ体操をしていたものに、町内会が共催させてもらったものです。
平時は子供の姿が見えない町内ですが、こんなに子供がいたのか?
驚く程の子供の数です。
町内会の方は・・・・・、動員力が無いのでしょう・・・・、数えるほどの人数も集まりません。
まあ、町内会はこんなもんでしょう。
 
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                         戸塚の上倉田の朝のラジオ体操の光景。子之八幡社境内です。
 
我が家からラジオ体操会場の鎮守の森まで5分ほどの距離です。
我が家にも朝顔が咲いていますが、ご近所の朝顔を見ながら歩いて行きます。
隣の朝顔の方が花が大きくて・・・・、秋になったら種を分けて貰う事にしましょう。
 
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                                                      道筋の朝顔
 
鎮守の森で・・・・・・、早朝の動植物を観察する楽しみもあります。
子供達が屈んで地面の上の一点を見詰めています。
油蝉が地上で悶えています。
理由は、地上に降りたところを蟻に噛まれてしまったようです。
でも、飛び立つほどの力はもうないのでしょう。
生きたまま蟻に噛まれて、先ず翅を取られてしまったようです。
”未だ生きたいんだから・・・・、噛むのは止めてくれ!” 叫んでいる様にも見えます。
子供達は、凄惨な場面を見ているんです。
屹度 ”生きるって、大変なんだな! 死にそうな蝉にとっても、食べようとしている蟻にとっても・・・・・”
思っている事でしょう。
 
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         手前右下に油蝉が身悶えています。全身に蟻が嚙付いています。
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      蟻に噛まれて身悶える油蝉(左端) 右上には蝉の翅が巣に運ばれています。
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    油蝉の断末魔、苦悶の表情を見詰める子供達、そんな光景を庚申塔が見ています。
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                              庚申塔の背には空蝉が、屹度1週間前に羽化したのでしょう。
 
叔父さんは少しだけ、説明してあげます。
「油蝉は7年間、地中で生活しているんだよ。 幼虫から蛹として地中で樹の根っこから樹液を吸って大きくなる。そして、地上に現れて、夜のうちに成虫になる(羽化する)。そして雄は7日間大声で鳴き続ける。鳴くのはお嫁さんを誘って、子孫を残すためだよ。そして7日後疲れ果てて死んでしまう。
蟻さんは蝉の体をバラバラにして自分の家にしまっておくんだよ。蟻の家は地面の中にあるから、そこまで運んで貯めておくんだ。冬の食料として・・・・。」
そんなこと、知っているよ・・・・! そんな表情の子供も居ます、でもみんなじっと蝉の苦悶の表情を見ています。
 
おせっかいな叔父さんは説明を補足します。
「このセミは男だよ、どうしてか解るかな?」
「そう、雌はお尻に槍が付いているんだよ。槍を地面に挿して卵を産むんだ。槍の無いのが雄だ、鳴いているのも雄だ」
「何処で鳴くのか解るかな? 何処に耳があるのか知ってるかな?」 
 
                                 
「お腹の上部に脚がある、その脚の下辺りに鳴く仕組みがあるんだ、中央に共鳴室があって、その周囲に発音筋があって、震えて音を出だす。
そして、その外側に鼓膜があって・・・・・・、耳の仕組みがある。
でも、蝉の耳は自分の仲間の声しか聞こえないんだ。耳元で大砲を鳴らしても蝉には聞こえないんだ。ファーブル先生はそんな実験もしたんだ。」
 
人だかりは更に増えて、お母さんも私の説明を聞いてくれます。
町内会長は歴史が本職かと思っていたら・・・・、生物も詳しいんだ!
思ったかも知れません。
 
蝉も蛍も雄は力の限り鳴いて、光って雌を誘う。子孫を遺したらさっさと死んで行きます。
雌は産卵したら、此方も儚い地上での生活を終えてしまいます。
人間だけが・・・・・? 子孫を残しても、長く生きる事が出来ます。
 
 
 
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                                  ラジオ体操を庚申塔も見詰めています。
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     体操が終わったら、境内のお掃除です。
 
スダジイの木陰でするラジオ体操は良いもんです。
最初は体中が軋みます。
使っていなかった筋や筋肉がギシギシ音を立てていますが・・・・、
次第に油が回って、音もしなくなります。
ラジオ体操が終わる頃には・・・・、クレ556で錆びたボルトが滑るように廻り出した・・・、そんな感覚です。
 
それに、ラジオ体操の放送がまたいいもんです。
全国巡回ラジオ体操です、今朝の会場は富良野です・・・・、
聴かされると富良野のラベンダー一杯の景色が浮かんできます。
1000万人ラジオ体操・・・とアナウンスしている事は、全国で1000万人が同時に体操しているという事でしょう。
もっと、多そうな気がしますが・・・・、意外と少ないもんです。
でも、NHKラジオの国民の健康に果たしている役割は甚大です。
 
ラジオ体操を終えれば、スタンプを押してもらいます。
スタンプが並べば最終日に子供会から、町内会からご褒美が貰えます。
子供達は町内会などのご褒美より、マクドナルドで食べられる方が嬉しいようです。
スタンプの台帳はマクドナルドが用意してくれています。
これを持って行けばマックでサービスを受ける事が出来るようです。
 
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                 6年生のお兄さんにスタンプを押してもらいます。台紙はマクドナルドでもらえます。
 
子供も親爺も・・・・、それぞれに朝のラジオ体操は良いもんです。
3世代、一緒にする・・・から・・・・、楽しいもんです。
 
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   ラジオ体操が終わったら、子供神輿を担ぐお稽古です。この夏でお神輿を始めて3度目になります。
 
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素晴らしい「遊行の盆踊」

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仏教はインドから中国に伝わり、漢語で表されました。
日本に伝来しても、古代の日本人は漢文の素養がありましたから、音読みして意味も理解していました。
でも、中世以降近世にかけて、仏教は漢文の読めない庶民にも幅広く伝播します。
すると、日本人は和讃と呼ばれる日本語によるお経を作りました。
その多くが七五調・4句で作られていました。七五調5句が和歌ですから・・・・、
日本人は直ぐ覚えられ、口にもし易かった事でしょう。
和讃は数多くつくられましたが、中世最高傑作は「一遍上人語録」の中の「百利口語」(ひゃくりくご)という和讃でしょう。
全体は192句に及ぶ長いものです。その冒頭が以下の句です。
   六道輪廻のあいだには
   弔う人もなかりけり
   一人に生まれて 一人死す
   生死の道こそ悲しけれ
 
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     一遍聖絵、櫓の上で上人一行の踊念仏される姿が描かれています。
     お経は和讃で、チンチンと鉦が鳴っていたことでしょう。最後にお札が撒かれました。
 
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   遊行の盆第8回のポスター。遊行寺本堂の戸で、左はご本尊の阿弥陀如来
 
 
日本の三大盆踊りは「阿波踊り」「郡上踊り」そして秋田の「西馬音内盆踊り」だそうです。
何れも踊りの中に寂寥感が漂うのは・・・・、屹度一遍上人の踊念仏がルーツにあるからでしょう。
”生死の道こそ悲しけれ・・・・”
そんな諦観があるからこそ・・・・・・踊り狂うのであって、
踊る光景が悲しみを漂わせるのは、そんな諦観が原因でしょう。
西馬音内盆踊りは誰も顔を見せません。
大きなスゲ笠か真っ黒な頭巾を被っています。
顔を隠しているのは・・・・・、見る人にその人の姿が死者の霊であると思わせる為でしょうか?
 
藤沢市では「遊行の盆」を始めるに際して、先ず「遊行念仏踊り」を創作しました。
音頭は前述の和讃を、踊りは阿波踊りに似て、姿は頭巾を被って西馬音内盆踊を参考にしたようです。
伝統を原点に、NAWい踊りが出来ました。
 
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   遊行寺通りを練る「西馬音内盆踊り」 笠か黒い頭巾を被って踊り子の顔が見えません。
   死者の霊を思わせる為でしょうか? 
   踊り子の衣装がとても綺麗でした。(端布のパッチワーク、暑いと思いますが)
 
藤沢市は藤沢山遊行寺の門前町です。
江戸時代には東海道の宿場町としても発展します。
藤沢市の町興しに「遊行の盆」を始めました。
今年はその8回目になります。
総じて鎌倉ばかりに顔が向いている私は今まで「遊行の盆」を知りませんでした。
遊行寺も一遍上人も敬っていますから・・・・・、早速に出かけました。
 
日本三大盆踊りが見られる事、それを参考に創作した「遊行念仏踊り」「遊行囃子踊り」等を見物できるのです。
26日(金)は藤沢駅南口広場で、27日(土)は遊行寺通りで、
そして最終日の28日(日)は遊行寺境内の市民盆踊り大会で締めくくられました。
 
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  今遊行上人の「他阿真円上人」の盆踊り開始宣言。今一番大切なのは「健康寿命」、
  ”藤沢を健康日本第一の都市にしましょう!それには、盆踊り!” 高らかに開始宣言をされました。
   94歳でいられますがまだまだ青春で居られます。今年「捨ててこそ人生は開かれる」上梓されました。
 
藤沢市は健康志向の高い人が多く住んでいるように思います。
都心に勤務するには少し遠いのですが、海も野菜畑もあって、LOHASな生活をするには最高な都市です。
大学生をはじめ若い世代も多いし、中高齢者も生き生きしています。
この遊行の盆も、小学生から大学生、高齢者までが等しく出演しています。
会場整理も湘南工科大学や慶応大学・日本大学が共同して働いています。
多世代が力を合わせるには・・・・、盆踊りは最高なのでしょう。
遊行囃子のコンテストがあって、25グループ、700人もが参加しました。
 
伝統と現代が上手に織りなして、素晴らしいイベントです。
年々盛大になる事でしょう。
来年は初日から参加する事にしましょう。
何故なら、初日しか郡上踊りが参加しなかったからです。
 
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                                                  小学生の盆踊り
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                                             大学生の盆踊りパレード
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   模範のパレード、総じて高齢者が多いのですが、目を見張る美人も居られます。
 
 
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                                             一遍上人もご満足な事でしょう。
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                                  遊行寺の若いお坊さんも揃って盆踊りです。
 
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      夕暮れから夜9時近くまで踊り明かします。
 
盆踊りの原点が一遍上人の念仏踊りであるのか、それ以前にも盆踊りがあったのか?
異論もあるでしょう。
でも、藤沢市商工会議所が始めた遊行の盆は良い企画です。
地域の文化資源、歴史資源を活かしたグッドな企画です。
見るもよし、踊るもよし・・・です。
 
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私のお墓にお酒を供えて下さい

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今年の夏は書道展が目立ちます。
国立博物館では「和様の書」が催され、
世界記憶遺産に認定され た世界最古の自筆日記「御堂関白日記/国宝藤原道長筆」が展示されています。
国立新美術館では第65回毎日書道展が開催されています。
3万5千人もが応募して、入選した作品が展示されています。
私の同期のA女史が今年も入選、目出度く受賞されました。
当展示会に参加して10年目だそうです。
昭和46年、初めて日本文化研究会でお会いした時から書は上手でしたから・・・・、
そのまま研鑽を続けていたら・・・・、今頃は特選(?)かと思いますが・・・・、
子育てを終えて、また30年ぶりに筆を執られた事に敬意を表します。
同期7人で見学、食事をして受賞をお祝いしました。
 
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     毎日書道展の新聞記事。同期のAさんは受賞しました。
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   私が良いな思った作品、道元禅師の和歌を配した作品。
   春夏秋冬の春と秋の間に丸い穴が開いているのが気になります。(抜けた・・・という事でしょうか?)
 
 
国立新美術館を出て・・・・・、解散、私とT君二人は六本木3丁目なだれ坂にある「善学寺」に向かいました。
目的は江戸時代末期、稀有の狂歌師「天広丸」の墓参りです。
 
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     善学寺は六本木3丁目、なだれ坂に面してあります。坂の下は六本木通りになります。
     なだれ坂の名は土砂崩れが多かったから・・・・、案内されていました。
     道路に面して250mの高層ビルが建築途上でした。
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          善学寺門から本堂を望む。道路向かいは区画整理事業で高層ビル建築中です。
 
 
江戸時代芭蕉が俳句を確立します。
俳句は広く発展します。
町民の間では、俳句の季語などの約束事を排除し、自由にかつ批判精神を発揮した川柳が人気を博します。
川柳は更に、狂歌をうんでゆきます。
 
鎌倉の北に白山神社があります。
その並びに磯田広吉(宝暦5年1756年~文化6年1828年)が出現します。
磯田家は今も鎌倉の今泉にあります。
こんな農村の倅が、江戸に出て狂歌の判者になります。
狂歌に没頭し、酒を好んだのですから・・・・、広吉は当然のように没落してしまいます。
号は「酔亀亭」「酔亀翁」。著作に「狂歌酒百首」、編著に「狂歌玉笹集」があります。
 
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     これが天広丸の句碑。徳利は広丸のサインです。藪茗荷が咲いていました。
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   句碑の背に辞世の句が刻まれていました。
    心あらは 手向て呉よ 酒と水 銭の有る人銭の無き人 酔亀亭
   
   
そんな、広丸のお墓が六本木の善学寺にあるのです。
本堂の左横に緑色の自然石があります。
自然石の表には「天広丸」の号と得意の徳利のサインが、
自然石の裏には辞世の句が刻まれていました。
 
鎌倉の磯田家の子孫たちは、財産を食いつぶした道楽者ですから・・・・、お墓も名にもしなかった事でしょう。
さすれば、この句碑もお墓も・・・・江戸の狂歌仲間や弟子たちがカンパした・・・、想像致します。
辞世の句の通りに、気持ちがあったので・・・・、お金のある人はお墓を建て、句碑も建て、酒を供して・・・・
故人を偲んだ事でしょう。
 
お墓は句碑から遠くない位置に建っていました。
『法名 栄誉浄願信士 文化六巳三月廿八 天広丸事逆終也 本所石原町』
と刻まれています。
という事は・・・・・、広丸は六本木ではなく本所に住まいがあったのでしょう。
六本木の狂歌仲間がシッカリしていて・・・・、此処に埋めてあげたのでしょう。
 
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善学寺の門に続く壁に標語(?)が掲げられていました。
「苦にすまい 雨は降るもの あがるもの」
書かれています。
昨今のゲリラ豪雨の凄まじさでは・・・・・・、いずれあがるから「苦にしない」という訳にも行かないかもしれません。
でも、総じて雨は何れあがるものだから・・・・、苦にせずに遣り過ごしましょう・・・・。
呼びかけは理に適っています。
 
そう理をわきまえれば・・・・・、
「死んでしまえば財産をあの世まで持って行けるものでは無し・・・・、現世でも人と交わり、酒を酌み交わし・・・・、
あの世でも少し酒を飲みたいもんだ・・・。」
思うのは自然です。
金のない人は「水を供してください!」・・・・・とも言い添えています。
生きている間も、死んでも人が欲するのは・・・、人と人との交流、コミュニケーションです。
お盆は生者と死者とのコミュニケーションです。
 
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      六本木交差点。善学寺は写真の右手前、坂の下にあります。
 
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        広丸墓の辺りから、句碑が見え、その向こうに富士フィルムビルが見えます。
 
六本木は今では指折りの盛り場です。
世界中の酒が売られて・・・・、世界中の酒場が営業しています。
もう、日本じゃないのではないかしら? 思う程の多国籍地帯です。
広丸が生きていたら・・・・目を白黒させたことでしょう。
そして、世界中のお酒がそれぞれに美味しいもんだ・・・・、評した事でしょう。
お酒はコミュニケーションを活発にします。
 
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    善学寺無縁塔。 この右手前に小さな角塔があってそれが広丸のお墓です。

【追記】 広丸の生まれた鎌倉今泉の句碑は以下に書きました。
 
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海浜ホテル跡地のハマボウの花

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佐島の天神島海浜植物園で職員に訊きました。
「此処の海浜植物で一番お好きなのは何ですか?」
浜木綿の手入れをしていた職員は、ハマオモトヨトウ(※)を採る手を休めて言われました。
「私が一番好きな植物は、そこのハマボウですよ。」
 
「ハマボウは日本のマングローブと呼ばれ何処にでも自生していたんですが、
日本に自然海浜が少なくなり、今ではレッドリストにあがっています。
南国のハイビスカスには綺麗な花が多いんです。韓国では同国・国花のムクゲ・・・・・・、
日本ではハマボウですよ・・・・。」
 
浜木綿か? それとも浜撫子か? 思っていた私は改めて海辺のハマボウの花を見詰めました。
ハマボウとは「浜辺に咲く朴に似た花」の意味でしょう。
ハマボウは黄色い、少し厚ぼったい花弁です。
5枚の花弁の真ん中に朱が印象的です。
ハイビスカスやムクゲは花の芯にある蕊がツン突立っています。
でもハマボウの蕊は蹲っています。
ハイビスカスの蕊がクレオパトラの鼻ならば、ハマボウの蕊はオカメの鼻のようで、
鼻より頬っぺた(花弁)の方が高いのです。
オテモヤンのように愛くるしいお顔です。
花の芯が赤いのも可愛い所です。
 ※天神島の浜木綿やハマオモトヨトウは次に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47451459.html
 
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   天神島のハマボウ、潮水に浸かってしまう位置にあります。日本のマングローブとも呼ばれる低木(灌木)です。
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                                天神島の浜撫子の花、絡まっているのは浜昼顔です。
 
この花なら鎌倉の海浜公園に咲いているのを思い出しました。
早速に由比ヶ浜に近い海浜公園に出かけました。
この場所は、古い鎌倉の住人なら強い思い入れがある筈です。
此処には素晴らしい「鎌倉海浜ホテル」があったのです。
その跡地が海浜公園やテニスコートになっているのです。
 
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  海浜ホテルの跡地は海浜公園になっています。入口に江ノ電100型車両があって、
  お弁当を食べたり着替えに利用されています。
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  鎌倉海浜ホテルの跡地は手前が野球場、奥がサッカー等の運動公園として利用されています。
 
明治維新に入って沢山の外国人が日本にやって来ます。
日本で問題になっていたのは「結核」でした。
日本人も外国人も等しくこの病に命を失いました。
 
明治20年(1887)に、医学者「長与専斎」はこの場所に結核病院を建設します。
西欧では海水浴を採用したサナトリウムもありましたので、それを日本に建てたのでした。
木造二階建て30室の病室を備えた完璧な施設でした。
しかし、投資が過大で二年で行き詰まってしまいます。
 
もともと、ホテルのような施設でしたから、すぐに「海浜院ホテル」に転用されます。
明治39年、青山和三郎等の出資をうけ、コンドルの設計によって増改築を行います。
同年軽井沢の三笠ホテルが開業しましたから・・・・、似たような投資でした。
 
軽井沢の鹿鳴館と呼ばれた三笠ホテルです。(現・国の重文)
海浜ホテルは「鎌倉の鹿鳴館」とも呼ばれた事でしょう。
海浜ホテルは三笠ホテルより二回りも大きく、設計もコンドル(三笠ホテルは岡田時太郎)ですから、
残っていれば鎌倉のシンボルになり、重要文化財指定も間違いありません。
コンドルは日本の近代建築に大きな功績を残しましたが、
その作品の大半が焼失、震災、戦災で失われてしまっています。
ニコライ堂など数点が重文の指定を受けています。
 
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                                                 海浜ホテルのポストカード
 
大正5年(1916)には明治屋の磯野長城氏が社長になり「鎌倉海浜ホテル」となります。
鎌倉は都心から遠くもなく、温暖な気候や歴史文物も多く別荘地として人気が高まりました。
鎌倉海浜ホテルは別荘地での生活のコアとなり、政財界の名士が交流する場になりました。
現在の鎌倉の街が「武士の都」としての伝統的な側面と、青近代的な華やいだ側面があるのは、こうした別荘文化の名残があるからでしょう。
 
関東大震災では倒壊こそしなかったものの津波で傷みます。
しかし大震災の被害も修復し、戦後を迎えます。
戦後は米軍に接収されます。
米兵の憩いの施設になったのでした。
ところが、昭和21年に焼失してしまいます。
  (一部の本には米兵の火の不始末が原因であった・・・・・、記述されていました)
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    海浜ホテルのハマボウの花、中央上部に写っているのは燕です。
     燕はハマボウの葉を食う毛虫を食しています。
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                  ハイビスカスの親戚でも、オカメのようなハマボウの花。
 
 
海浜公園の西側、野球グランドの外野の位置に4本のハマボウが咲いています。
背丈こそ低いのですが、灌木の幹は相当の太さです。
環境も適しているのでしょう。
沢山の燕が忙しそうに飛んでいます。
灌木を食う毛虫をハンティングしているのです。
この夏2度目の子育ての最中なのでしょう。
毛虫にすればハマボウの葉っぱは柔らかくて美味しそうに見えます。
 
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                                       お隣は居酒屋レストランです。
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  道路向かいに由比ヶ浜海水浴場100年記念塔が立っています。
  針の孔(目)のように見えるのは100年をデザインしたものだと思います。海の家の看板が見えます。
 
ハマボウを見下ろす位置に居酒屋レストランがあります。
お店は開いていますが、お客は居ないようです。
お客さんが集まるのは夕方からなのでしょう。
そう思ってみると由比ヶ浜海水浴場も海水浴客は疎らなようです。
海水浴場が賑わうのは、陽が傾いてから・・・・なのでしょう。
大音量でダンス曲を流し、お酒とダンスを楽しみに人が集まるのでしょう。
日中の熱い砂浜より、日が沈んで過ごし易い砂浜でダンスに酒に興じるのでしょう。
まるで、夕暮れから啼きだす「日暮蝉」のようなものです。
海浜ホテルの別荘文化に比べれば、現代の文化は随分幼児化している様に見えます。
 
ハマボウは海浜ホテルの時代も知っている事でしょう。
ホテルに集う貴婦人が・・・・・・、お庭を散策してハマボウを見つけたことでしょう。
「まあハマボウ、綺麗なものね、でも田舎臭いわね・・・・・。私はハイカラなのが好きなのよね、ハイビスカスや芙蓉にすればよかったのに・・・・・。」
 
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      今が盛りの木芙蓉の花。これもハマボウの仲間だと思います。
 
お金持ちしか楽しめない別荘文化よりも、現代の海水浴場の方が民主的なような気もします。
ハマボウがもっと増えればいいなあ!、思います。
 
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   由比ヶ浜海水浴場の風景。私の子供の頃はお客が多くて芋の子を洗うようでしたが、
   今は人も少なく海水浴し易いように見えます。
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 海浜公園に置かれた江ノ電車両。100型車両でタンコロと愛称されています。
 50年使われ昭和57年に鎌倉市に寄贈されました。ですから筆者が御成小学校に通学
 していたころ現役だっただったのでした。(昭和30年代)
 木の椅子、吊り皮や広告の無い室内は昭和30年代にタイムスリップ
 させてくれる懐かしさです。今の江ノ電は車両の内外観ともにどぎつくて、
 美しに欠けている様に思います。
 
 
 
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路地裏の「千花庵」

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『庭の千草も 虫の音も
枯れて寂しくなりにけり・・・・』
アイルランド民謡「庭の千草」の歌詞です。
同名の映画も記憶にあります。
アイルランド民謡は日本人のハートに良く響きます。
同じような気候で、同じような島国だからでしょうか?
 
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                    鎌倉西御門の路地、ポストの角を左に折れると突き当りが源頼朝の墓です。
 
鎌倉の西御門、源頼朝の墓の参道を歩いていると、妙齢なご婦人に声をかけられました。
「武士」というお蕎麦屋さんはご存じありませんか?
私は蕎麦好きなので・・・・、良く承知しています。
『武士は10割蕎麦のお店です。
でも、覚園寺参道にありますので、10分ほど歩かなければなりません。
その途中に「宮前」というお店もありますし・・・・、
此処から徒歩1分の位置に「千花庵/ちばなあん」というお蕎麦屋さんもあります。
私は武士も美味しいんですが、のど越しは「千花」も素晴らしいですよ。
お奨めししました。』
ご婦人は、
「昨日TVで武士が案内されて居ましたから・・・・、今日は武士に行きます」
案内に従って、大塔の宮を目指して歩いて行かれました。
大塔の宮の角を北に折れれば武士に行けます。
 
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     千花庵は清泉小学校のグランドの北側にあります。店の角を北に100mで大江広元の墓です。
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     千花庵の店構え、二階建てプレハブ造り民家の1階をお店に改造したのでしょう。
     蕎麦屋ですが清酒の一升瓶が置かれています。蕎麦好きは酒好きが多いのです。
 
私は、触発されたので、迷わず千花庵に入りました。(同店HPhttp://www.100087.com/鎌倉市西御門2-6-13 )  
源頼朝の墓の前で、路地を東に折れた、清泉小学校のグランドに北側に千花庵はあります。
如何にもあるような一般の民家だったものを、
趣味の蕎麦作りが高じてお蕎麦屋さんを始められた、そんな店構えのお店です。
狭いお庭ですが、四季折々沢山の花が切れません。
地面に地下植えした草花もあれば、鉢やプランターもあります。
平成10年(1998)鈴木諭氏(72歳)が蕎麦好きで、奥さんが花好きで・・・・、
そんな夫婦が老後を好きな蕎麦をお客さんに振舞おう・・・として創業しました。
 
私の友人にも蕎麦打ちが趣味の人が沢山います。
大分合同新聞の長野さんは慶応の同窓生です、それに私が博多で単身生活をしていましたので・・・・・、
お手打ちの蕎麦を案内されました。
長野さんもお蕎麦屋さんを開業したい・・・、そんな雰囲気の方でした。
 
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   お店のカウンターには清酒や焼酎が並んでいます。で…、お客さんはアラフォー主婦ばかりです。
   彼女達はおつまみにも凝っていて・・・・・・、お酒を楽しんでシメにお蕎麦を戴きます。
   おつまみの人気は「卵焼き」「牛蒡天」「生湯葉」です。何のことは無い・・、私のサラリーマン時代と同じです。
   でも違うのは男性は仕事帰り、彼女たちは昼日中です。(私は好意的に見ています)
 
先代の主人が蕎麦屋を始めて・・・・、その息子夫婦も事業を引き継いだのでしょう。
 
千花庵のお客さんはアラフォーの女性ばかりです。
女性たちは開店前に店の前に列をなします。
アラフォー女性のハートを掴んだのは・・・・、何よりもお蕎麦が美味しい事、そしておつまみが豊富な事、
加えて、お店の家庭的な雰囲気もあると思います。
 
おつまみが多いのは・・・・・・、同時に清酒も沢山置かれています。
蕎麦屋で酒を飲む・・・・、その楽しみは仕事帰りのサラリーマンだけではなく・・・・、
ご主人を送って、子供を学校に出して・・・・・・、鎌倉アラフォー主婦の楽しみになっているのでしょう。
 
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    これが笊そば(780円)です。10割蕎麦は850円です。美味さは香りと喉越しの良さにあります。
 
現在の経営は息子夫婦がしています。
同世代のニーズを的確に掴んで発展させているようです。
 
今では大半のそば粉は中国などから輸入されています。
国産と名乗っている所も、大半が北海道産のそば粉です。
千花庵は日本各地から取り寄せているようですが、多くが会津産、長野産だそうです。
私の食べた笊そばは会津産ですし、会津風ののど越しです。
蕎麦ほど、地方地方によって微妙に味が違う食材はありません。
風土の違いが蕎麦の味の違いに直結しているのでしょう。
 
雑誌にも良く紹介されているようです。
HPも良く出来ています。
 
人通りのない住宅地の奥ですから・・・・空いているだろうとたかをくくっていると、
行列なので驚いてしまう事もあります。
花を見ながら待つか、近くの源頼朝や大江広元の墓を見学して時間を潰せば良いわけです。
影響していると思います。
 
 
この日もBGMはアイルランド民謡では無くて、ジャズでした。
アラフォーもジャズが好きなのかな・・・・? それとも二代目の好みかな?
憶測します。
 
先刻のご婦人の事を思い出しました。
武士も良いけど、千花庵の方が屹度良かったことでしょう。
でも、私と一緒にならなくて良かったかな・・・・?
思って苦笑いしてしまいました。
 
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        千花庵を取材した雑誌から。地図上②が千花庵です。
        写真の天ぷらそばは1500円、お薦めの牛蒡天蕎麦は100円です。
        筆者は病後1年なので未だ牛蒡天蕎麦は控えています。
        もうじき、新蕎麦の季節、その時は牛蒡天に致しましょう。
 
 
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光明寺「記主庭園」の蓮の花

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鎌倉には京都や奈良程ではありませんが、古いもの、新しいもの数多くの庭園があります。
日本庭園史を形作った二人の人物の庭園があります。
その一つが瑞泉寺の方丈庭園です。
近年、整備をして庭園を覆っていた樹木や草を伐採して、大地の巨岩を露出させました。
造園した夢窓疎石の骨太な世界が出現しました。
 
もう一人が小堀遠州で、材木座の光明寺には遠州作と伝えられる記主庭園があります。
今日は蓮が咲いて見頃の記主庭園をご案内します。
江戸時代、長い戦乱の時代がようやく終結して、平和な時代が始まりました。
人心の安定を期待して徳川家康は全国の寺院を修復させます。
小堀遠州にその作業を命じます。
土木工事に秀で、同時に茶人でもあった遠州でした。
寺院の方丈庭園や大名屋敷の庭園を数多く造ります。
そんな一つが鎌倉光明寺の庭園だったのでしょう。
遠州は長命で徳川3代家光にまで仕えます。
 
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 本堂の渡り廊下から記主庭園を眺める。正面が阿弥陀堂の「大聖堂」、左の建物は方丈。
 橋の左右に鶴島、亀島が見えます。総じて丸い自然石の石組、蘇鉄も所謂遠州好みです。
 一年中綺麗なのですが、矢張り蓮の咲く今が一番でしょう。
 
 
この庭園は何処が正面なのか・・・・、何時も考えます。
山裾に方丈が建っていますから・・・・、方丈に座って眺めると、報道の甍が借景になるのでしょう。
方丈から見た事はありませんが・・・・、それも良さそうです。
でも一昨年開山堂と本堂を繋ぐ渡り廊下に、庭園観賞用の設えをしましたから・・・・、
矢張り開山堂から眺めるように造園された・・・、思うのが順当なのでしょう。
 
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   渡り廊下から記主庭園の南側を見る。巨大な蘇鉄の横に善導上人の銅像が立っています。
   大きな山門が見えます。
 
渡り廊下に座って庭園を眺めます。
正面に大聖閣が見えます。
この建物は八角・重層で、2層には阿弥陀様が祀られています。
手前が庭園で蓮の花が咲いています。
そして向かいの山の中腹に阿弥陀様が浮かんで見えます。
まるで、山越えに阿弥陀様が迎えに来て下さっている・・・・、そんな風に見えます。
 
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  光明寺本堂内陣、ご本尊の阿弥陀如来の前に金色、紅色の蓮が飾られています。
  蓮は仏教にはなくてはならない植物です。
 
光明寺の開山は然阿良忠上人です。
亡くなられた後、伏見天皇から「記主禅師」の諡号を与えられました。
ですから開山堂に面したこの庭園を記主庭園と呼びます。
 
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     裏山は鷺の巣山です。そこから山風が吹いて蓮の葉裏を見せていました。
     見ての通り未だ蓮の花芽が次々に成長しています。
 
昨年まで蓮が水面を覆っていましたが、今年は手入れをして3分の1くらいに蓮を減らしました。
主として紅色の八重咲きの睡蓮です。名前を錦蕊蓮(きんずいれん)というのだそうです。
少し大賀蓮が混じっていたのでしたが・・・・、今年は大賀蓮は見えないようです。
何処に行っても大賀蓮がありますから・・・・・、当初に戻して錦蕊蓮だけにしたのでしょう。
同じ紅色でも大賀蓮は花も大きく、背丈も高いので錦蕊蓮と混植すると、暑苦しく感じてしまうでしょう。
錦蕊蓮オンリーにしたのは正解だと思います。
 
光明寺の錦蕊蓮は神奈川県のそこここで見受けます。
浄土宗のお寺ではなく、鎌倉時代犬猿の間であった日蓮宗のお寺さんにも見られます。
尋ねると、光明寺さんから貰い受けた・・・お答えになります。
光明寺は「鎌倉アカデミア」があったお寺さんです。
昔も今も度量が大きくて、依頼を受けたら快くお受けになられてきたのでしょう。
 
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今年は露の間に降水量が少なかった事、八幡宮の源平池の改修をしたことから、鎌倉の蓮は総じて散々でした。
そんな中にあって、光明寺記主庭園の蓮は見事です。
まだ花芽も育っていますから・・・・、盆明けまでは見頃が続く事でしょう。
小堀遠州の庭園は・・・・・・・、何処から見ても綺麗であることがポイントです。
それが・・・・・・、阿弥陀浄土を幻想させてくれるものでもあるのです。
 
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   風に少しだけ秋を感じましたが・・・・、もう記主庭園は赤とんぼが群れていました。
 
 
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手弱女振りの凌霄花

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TVで南国の自然を放映していました。
世界最小の鳥「ハチドリ」が飛びながら花の蜜を吸っていました。
翼を逆にはためかせて、空中で静止し、長い嘴を花の芯に押し込んでいます。
花蜜を好む鳥は沢山います。
吸うメジロは椿の小枝に止まって、花の中に首を差し込みますが・・・・。
ハチドリが好んで吸う花は・・・・、凌霄花(のうぜんかずら)等ですから、垂れ下がっていて止まり木がありません。
どうしても空中で静止しなければ、凌霄花の蜜は吸えないのです。
 
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                                        ハチドリ(出典はウキペディア)
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                                    農家の槇の垣根に咲いた凌霄花。見事な緋色の花です。
 
 
もう、50年以上も前、私が高校生の頃です。
母が友人から凌霄花の苗を分けて貰い、本堂の前に生けました。(私の実家は曹洞宗のお寺です)
5年ほどたつと見事な花を咲かせるようになりました。
蔓の先から垂れ下がって花が咲きます。
花弁自体も横・下向きですから・・・・、自ずと蜜が落下してしまうんでしょう。
花の蜜で地面が真っ黒になるほどでした。
 
高校生の私は、青空を背に鮮やかな緋色の花に見惚れていました。
すると、母から注意されました。
「凌霄花は蔓にも花にも毒があるから・・・・・、花蜜が目に入ると失明してしまいますよ!」
私は驚いて数歩後ずさりしました。
 
「そんなに毒があるんなら・・・・、注意書きを添えておかなければなりませんね・・・」
というわけで、花が咲く季節になると、注意書きを添えるようになりました。
 
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                                                道にせり出した凌霄花。
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                              凌霄花の落花、花が腐らないのは・・・・、毒があるからでしょうか?
 
「綺麗な花には毒がある!」
「トリカブトだってそうだし・・・・、
人でも美人ほど毒がありそうだ・・・・」
私は母の注意に、納得していました。
 
今年の夏も凌霄花が見事に咲きました。
梅雨明けの頃に一番花が咲いて、盆が近い今頃に二番目の花が咲き出します。
昔は農家の庭先やお寺にしかない花でしたが、最近は綺麗ですし、花の少ない夏に咲くんで、
戸建て住宅のフェンスなどに良く見かけます。
 
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                                   鎌倉妙本寺の凌霄花、左右にあります。
 
鎌倉の妙本寺には見事な凌霄花があります。
二天門を潜って、すぐの位置に左右に並んでいます。
屹度同時に植えられたのでしょうが、日当たりの良い北側の凌霄花の成育が良いようです。
どうも、先代のご住職が昭和30年代に植えられたものでしょう。
其処には梅の古木があったようです。
 
凌霄花は梅の幹に這う様にして育ちました。
まるで、少女が逞しい武人を頼りにして生育するように。
梅の木も朝顔が絡んできた・・・・、可愛いもんだ・・・・!
そう思っていたかもしれません。
 
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   左側の凌霄花。中央は凌霄花が絡んだ梅の枯れ木です。凌霄花の蔓はその左に見えます。
   下草は水引で、もう花芽が準備されていました。
 
年々凌霄花は生育して、蔓からは強く短い根を出して、根は梅の皮膚に食い込みます。
手弱女(たおやめ)は次第に益荒男(ますらお)の精魂を吸い尽くして・・・・・、
今では枯れてしまいました。
 
凌霄花の根元を掻き分けて見れば、梅の木の残骸が確認できます。
梅の木も哀れです。
梅を枯らせたのは凌霄花の毒であるのか、その旺盛な生命力で陽の光を遮ってしまったからなのか・・・
良く解りません。
先年、玉縄の龍宝寺でも、凌霄花が絡まって桐の大木を枯らせてしまいました。
 
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     翌檜の木に絡んだ凌霄花、翌檜は未だ青葉を遺していますが、数年先には枯れてしまう事でしょう。
 
矢張り、凌霄花を育てるには藤と同じように棚を作ってあげなければいけないようです。
植物の世界も生存競争が激烈で、殺しあう関係になっていることもあるようですから・・・・。
 
妙本寺の凌霄花の仕打ちを冷静な目で見詰めて居る目が沢山あります。
二天門の獅子と獏です。
高い所から・・・・・、生物の営みを眺めています。
 
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              凌霄花の背景は二天門、木鼻の位置に獅子がこちら向きに、獏が横向きに見えます。
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                                              色褪せた紫陽花の向こうに二天門。
 
 
 
 
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土手でお手製の万灯篭

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8月3日(土)は上倉田町の鎮守社「子之八幡社」の夏祭りでした。
神輿の霊抜きを終え、お旅所を解散して、打ち上げを終えて帰宅したのは夕方でした。
我が家の門から良い香りがしてきます。
そう、今年最初の夕顔が咲き出したのです。
”お父さん、お疲れさん、何事の事故もない良いお祭りでしたね!”
お迎えを受けた気がします。
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   今年初めて咲いた我が家の夕顔。朝顔の陰に地域防犯拠点の看板が見えます。
 
夜9時、ナイターの巨人阪神戦も8回の攻防、見所でしたが、防犯パトロールの時間です。
何時もはカメラなんか持ってパトロールには出ないのですが、今晩は街中の夕顔や柏尾川の月見草も期待されます。
そこで、デジカメ持参で出かけました。
町内のパトロール、今の季節は何かと騒がしい柏尾川堤防をも廻ります。
夕闇の向こうから、ニョッキ白い足がこっちに向かって歩いてきます。
そう、ミニスカートのお嬢さんが一人で帰宅してくるんです。
駅から商店街を歩いても帰られるのですが、柏尾川堤防を歩けば川風が気持ち良いし、
近道なのです。
でも、ミニスカートで一人歩きは危険です。
”わたしを触っても良い事よ!” 看板を背負って歩いているようなものです。
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今日の話題は柏尾川土手のお手作り万灯篭です。この地下道は戸塚駅の東西をJR線路の下を繋いでいます。
  写真はミニスカートで自転車で通る人。
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  先の地下道から100m、携帯を見詰めながら帰宅する人。夕顔が「気をつけてお帰りなさい」心配気です。
 
今年も8月16日、盆送りには精霊流しが行われます。
そんなことを話しながら歩いていると・・・・・・、土手に万灯篭のように灯りが見えます。
オヤオヤ!何だろう・・・・、近くで確認してみました。
 
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夜9時半の柏尾川、左のビル群が戸塚駅。土手に万灯篭でハートマークが描かれています。この土手道が
   防犯パトロールのコースに組み込まれています。
 
堤防の土手がコンクリートで固められています。
その石段を利用して灯篭が置かれています。
灯籠と言っても、紙コップを並べて、コップの中で蝋燭を燃やしているのです。
手作り灯篭は次のように並べられています。
ハートマークがあって、SAYA、その下の段からHAPPYBIRTHDAY と続いています。
 
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   向こう(東側)が舞台で…そこには演出した横浜薬科大学のお友達4人、
  主役の青年、そしてヒロインのSAYAさんがいます。此方側の若い人たちは羨ましさ半分で見ている人です。
 
 
眼が暗闇に慣れてきました。
ハートマークの中央には黒いスーツ姿の青年が対岸(西側)を向いて立っています。
駅から降りてくるSAYAさんが対岸に現れるようです。
側らの青年に訊きました。
今日の午後二時から用意したんです。
紙コップで作った万灯篭は2000個用意しました。
自分達は・・・・・・、横浜薬科大学の大学生です。
SAYAさんも同じ大学生です。
今日は彼女の誕生日では無いんですが・・・・、サタデーナイトにお祝いする事にしました。
後でお目にかかりましたが、SAYAさんは素敵で健康なお嬢さんでした。
そして青年も、その友人も懐かしい感じのいい仲間でした。
 
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                                              記念撮影風景です。
 
学生たちは、防犯パトルール姿の私達6人に向かって遠慮気味に答えます。
屹度、事前に警察許可の届け出をしていないので、若干の後ろめたさがあるのでしょう。
私は話します。
『良いじゃないか! でも、お隣のコンフォール上倉田の住人が寝静まる前の9時までに終えれば、
更に良かったかもね・・・・。皆が見て楽しいんだから・・・・、良いじゃないの。叔父さんも楽しいよ・・・。』
偶々居合わせた学生さんが呟きます。
「良い青春してるんだなあ・・・・!」 心なしか羨ましそうです。
この学生は明治学院大学の生徒さんでしょうか?
戸塚には二つの大学があるんで・・・・・、兎角老けた町に活力があるんです。
 
目隠しされたSAYAさんが堤防に曳かれてきました。
目隠しが外されます。
ハッピーバースデー沙耶・・・・・・、歌声が川の東岸から響いてきます。
今度はSAYAさんが両手で目を塞ぎます。
溢れる涙が抑えきれないようです。
仲間の学生が・・・・・、ハートの中心にいる青年に声をかけます。
「このまま川を渡って、SAYAを迎えに行け!」
常識人の叔父さんは・・・・言います。
「これから、まだまだ楽しい企画があるんだろう! 食事もするんだし。夜の川を渡らなくても・・・・、SAYAさんは此方にはしって来るよ・・・!」
 
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   目隠しを外されて、万灯篭を見詰めるSAYAさん。向こうのマンション群がURのコンフォーク上倉田。
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    ハートの真ん中でSAYAさんと青年が・・・・・抱擁。何とも青春です。
 
 
直にSAYAさんと青年がハートマークの真ん中で抱擁するシーンが現出しました。
なんか韓国ドラマに出てきそうなシーンでした。
 
こんなこともあるから・・・・・・・、学生の多い街は楽しんです。
 
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                        8月16日、送り盆にはこの場所で精霊流しが催されます。
 
 
【追記/防犯パトロールと検挙率について】
上倉田西町の防犯パトロールは初めて30年になります。
30年前に高校生が盛り場のビル陰で恐喝を受け、撲殺される事件が発生しました。
驚いた町内で防犯パトロールがはじまりました。
最近はも市も音頭取りして「町内防犯パトロール」を推進させようとしています。
 
私達だって、防犯パトロールなんかしたくはないんです。
県も市も地域に防犯の責任があるように勘違いしているような気がします。
防犯は第一義的に警察の仕事です。
警察だけでは手に負えないから・・・・、町内会が補助的に活動しているまでです。
 
ここ十年間、町内会長をしてきて痴漢犯人も放火犯人も逮捕されたと聞いたことがありません。
3年前戸塚のおこった強姦犯(2人)を逮捕したのはお隣の大船警察署でした。
 
逮捕実績を質問すると、戸塚警察署は人口当たり警察官の人数を説明します。
戸塚警察署は一番ヘビーだ・・・、だから…仕方がない、と言いたげです。
犯罪発生数の統計は公表していますが、逮捕/事件の割合の報告は見たことがありません。
検挙率が上がる事が犯罪の抑止力になります。
一番の業績を報告できないので・・・・、当局は切歯扼腕している事でしょう。
 
 
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本牧神社の「お馬流し」神事

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お祭りは観ても、やっても楽しいものです。
先人から伝えられてきた祭事の情熱を、今自分も味わっている・・・・、思うだけで嬉しいもんです。
そのお祭りが、古ければ古い程・・・・・・・、心を揺り動かすものがあります。
 
8月4日、私は本牧神社の「お馬流し神事」を見学してきました。
このお祭りは中世室町時代に始まったものだそうです。
それが、中断していました。
その伝統の神事を50年ぶりに再開したのでした。
今、再開しなっければお祭りは途絶えてしまう・・・・、そんな危機感もあって、
再開にこぎ着けたのでしょう。
みんな、うれしそうでしたが、お年寄りの嬉しそうなお顔が印象的でした。
「これで、500年来の伝統を引き継ぐことが出来た!」
安堵が、笑顔になっているのでしょう。
 
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   本牧神社は本牧通りから”お馬通り”に折れて、山の中腹にあります。
   昔は海岸寄りの本牧12所にあったのですが、埋め立てによって現在地に移られたのでした。
   戦後、周囲は米軍の住宅地に接収されていましたが、返還され高級住宅地に分譲されました。
   今は住宅地の奥に鎮座されています。
 
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 米軍から返還された跡地に出来たマイカル本牧。今回の祭事が第448回であると案内しています。
 永禄九年(1566年)に始まり、50年近く中断していましたが、今年再開されたのでした。
 
三浦半島の先端、三崎町にある「海南神社」には”ちゃっきらこ”と呼ばれる少女踊りがあります。
国の重要門族文化財であり、ユネスコの無形文化遺産です。
これは始まりは鎌倉時代、本牧の”お馬送り”共々、神奈川には伝統の神事が揃った次第でしょう。
 
私は学生時代から民俗学に興味がありました。
今回も町の古老と思われる人に幾つも質問を浴びせて、納得できたことを綴ります。
 
8月3日は宵山のようなもの、神事は4日が中心です。
本牧神社では朝5時から神事がはじまりました。
9時に神殿から”お馬さん”が運び出されて、車に乗せられます。
大きなトラックの前面を船首のように飾って、運転席の屋根の上に神棚が設えられて、
その上に6つのお馬様が載せられました。
 
6つあるという事は・・・・、昔から本牧には6村あって、それぞれが半農半漁の漁村だったそうです。
お馬さんはそれぞれの村の”厄”を乗せて・・・・、海に流してしまう・・・、そんな役割を持っているんだそうです。
厄を背負ったお馬さんは東京湾から太平洋に厄を流したのだそうです。
 
古老は言われました。
「今年は妙だ! お馬さんが本牧村に戻ってきた・・・・!」
そう思ったら・・・・、関東大震災が起こったそうです。
だから・・・・・・、お馬流しは東京湾の沖あいまで運んで、流さなくてはいけないのだそうです。
 
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   本牧D埠頭に向かうお祭りの行列。この車はお旅所飾りで山車のようなものでしょう。
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  D埠頭の付け根に本牧漁港があります。釣り船が大半です。この港からお馬送りの舟が出ます。
 
「”お馬流し”が中断していた理由は様々あるんだが・・・、一番は和舟が傷んでしまって、沖合まで運べなくなってしまった・・・・。」
漁師も陸に上がってしまったし、和舟を漕ぐ者も居なくなってしまったのでしょう。
ハードもソフトも状況が変わってしまって・・・・、已む無く中断してきたのでしょう。
 
傷んでしまった和舟を修復する事にしました。和船の外側をグラスファイバーで固めて、
その外側を再び材木で覆いました。勿論和舟ですから・・・昔ながらの櫓も取り付けましたが、
エンジンを取り付けて主動力にしました。
修復工事は千葉の船会社に依頼しました。
こうして、お馬様を乗せる舟が出来たので・・・…、再開が現実になりました。
 
船首の飾り物は本牧の和服卸会社が致しました。
肝心のお馬さんは・・・・・、蓑輪町の羽鳥さんが作られました。
「茅の輪」を作る茅を編んで作ります。
古老は『首から先は鳥で(鳳凰、又は鶴)でお米を咥えている、身体は亀だ』・・・・、説明してくれました。
(本牧神社の公式HPでは首は馬、体は亀と説明しています)
 
6体のお馬さんは車に乗せられて、本牧神社から本牧のD埠頭に向かいます。
10台程の車が後に続きました。
各町内のお旅所から、氏子を乗せてお馬流しを実施する人たちです。
日曜日の本牧埠頭は・・・・・、仕事の車はありません。
海釣り公園で遊ぶ人位しか・・・人影は見えません。
そんな中を警察に先導されたお祭りの行列が続きます。
10時に港に着きました。
 
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                    大型トラックの天井上に設えられた神棚の上から、お馬さんは運ばれます。
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     お馬さんは人の頭上を運動会の「玉送り」の要領で運ばれます。
     子供達は竹竿の先に幣を付けた神具を振って、穢れを祓います。
 
 
車からおろされたお馬さんは、舟まで送られます。
この神事を”お馬送り”とか”お馬とり”と呼ぶのだそうです。
人の汚れた気が神様に触れないように・・・・、運ぶ人の頭上から頭上に運ばれます。
勿論、落としたら大変です。
まるで、運動会の「玉送り」競技のようです。
 
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     お馬さんを落としたら・・・厄は流せません。落さないよう慎重に、かつ隣に遅れないよう迅速に
     お馬送りを致します。
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    2隻の舟の舳左舷にお馬さんは祀られました。これでいよいよ東京湾沖合に向かいます。
 
古老は説明してくれました。
昔はお馬送りも、お馬流しも6村の競争で行われたものでした。
6村が早さを競って・・・・・・、”早く厄を流してしまえ、早く福を乗せて村に戻ろう”
競争でした。
私は相槌を打ちます。
「それでは、博多の祇園山笠のようですね。早さを競う・・・・・。」
すると、古老は
「いや、博多より本牧は古い・・・・。」
 
それはそうでしょう。
山笠は町衆が行ったお祭りですから・・・・・、お馬送りは町衆以前でしょう。
祭事は幾つもの村や部落が競う・・・、そんな要素も重要です。
どちらがより豪華か? どちらが仕掛けが巧妙か? どちらがより速いか?
 
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 2隻の舟は沖合に向けて競う様に出航します。昔ながらの櫓を漕ぎますが・・・・・、エンジンも付いています。
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    流されたお馬さん。(本牧神社の公式HPを転載http://www.honmoku.or.jp/rituals/)。
    茅で編んだ体は亀、首は鳳凰か、馬か微妙です。
 
頭上を運ばれたお馬さんは舟先の左舷に祀られました。
いよいよ、東京湾の沖合に向かって出航です。
花火が打ち上げられました。
お馬流しを見学する船が後を追います。
紅い灯台の先を廻って・・・・・・、沖合に姿を消しました。
私は、海釣り公園に出て、沖合を見詰めました。
和船は波間に隠れて見えませんが、見物用に設えられた遊覧船は確認できます。
 
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  手前は本牧の海釣り公園の釣り埠頭。沖合の遊覧船(4隻)はお馬流しの見学に仕立てられたものです。
  和舟は波間に隠れて確認できません。対岸の山が房総の鹿野山になります。
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    本牧漁港に戻る和舟2艘。向こうのクレーンは三菱重工の造船ドックと思われます。
 
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    手前は海釣り公園で遊ぶ人、右の巨船は日産自動車の輸出専用船。左がお馬流しの和舟。
    その先を走るのは見物用に仕立てられた釣り船です。
 
12時前に2艘の和船は滑るようにしてD埠頭に戻ってきました。
向こう岸は日産自動車の輸出専用埠頭です。
車を積む船の大きい事、その向こうには三菱重工の造船所のクレーンも見えます。
本牧は現代と中世(鎌倉時代)が同居しているようです。
大企業と零細な漁業(と言っても釣り船)が同居しています。
 
でも、鎌倉時代も現代も人間の願いは大して変わりません。
変わらないからこそ・・・・・、500年も前から伝えられてきたお祭りは尊いと思います。
本牧神社の関係者がこすして”お馬流し神事”を再開させるまでの尽力は大変なものがあった事でしょう。
その間に神主さんの更迭もあったと新聞紙上で聞きます。
それは、私が八幡社の世話人をしているので、想像がつきます。
 
良いお祭りでした。
加えて、収支など様々な場面で公開が進んでいて、民主的な運営が手に取るように解ります。
おめでとうございました・・・・、
来年も私の町のお祭りが終わったら、早速に駆けつける事にしましょう。
 
【追記】
淡島神社の雛流しは「お雛様/人形」に厄を乗せて沖合に流す神事です。
沖合に流す・・・・、という事では同じような神事です。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44799174.html
でも、沢山の厄、共同体の厄を流すには馬の背に乗せて流したのでしょう。
興味をそそるのは、「亀の背に乗せて厄を流す」の二…、「お馬流し」と呼ぶことです。
馬は神様の乗り物・・・・・、といった敬意があったから・・・・、この名が伝わってきた、と想像します。
それは、道祖神祭りで、藁製の神馬が作られている事からも推測できるのです。
 
 
 
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鬼百合と鹿の子百合

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夏になると、先ず山百合が咲き出します。
続いて盛夏には鬼百合、鹿の子百合が咲いて、盆が開ければ高砂百合が咲きます。
今年も、日当たりの良い土手には高砂百合が目につくようになってきました。
 
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                                        夏空を背景に逞しく花を咲かせた鬼百合。
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                                        農家の庭先、四ツ目垣に咲いた鬼百合の花
 
鬼百合はオレンジ色の花弁、花弁には濃褐色、紫色の斑点がつきます。
鬼の名は、第一には「鬼のように強い」意味でしょう。
そして、第二はその色が鬼のパンツを思わせるからでしょう。(筆者の推測)
鬼は牛のような角が生えていて、虎のパンツを履いています。
牛・虎の方角は”鬼門”です。
鬼門に居るのが鬼です。
鬼門に居る鬼のパンツ模様の花だから・・・・・、鬼百合の名がついたのでしょう。
 
ゲゲゲの鬼太郎は片目です。
片目の鬼は祖霊の意味だから・・・・・、鬼太郎は地獄から戻った祖霊をニュアンスしているのでしょう。
鬼太郎の父は妖怪で、母は人間です。
妖怪と人間の恋愛は禁じられていましたから・・・・・、その愛の結果生まれた鬼太郎は・・・・・、
人間界と妖怪界が共存・共生できる世界を実現しよう・・・・・、活躍することになります。
 
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鬼百合は祖霊が家に戻るお盆の季節に咲きます。
だから・・・・・・、鬼百合には祖霊を思い起こさせてくれます。
 
池袋の熊谷守一氏のお庭には鬼百合が自生していたのでしょう。
鬼百合の花を黒アゲハ蝶が好んで集まってきます。
守一氏は鬼百合と揚羽蝶を描きます。
地面には蟻が這いまわって・・・・、死んだ蝉の身体を強い顎で解体して、地中に運んでゆきました。
鬼百合を描いて・・・・、次に蟻を描いて・・・・・、大して広く無い庭先で一日中絵を描いていられました。
こうして、守一氏の名作「鬼百合と揚羽蝶」が完成しました。
私はこの絵を見詰めていると・・・・、平家納経の扉絵を思い起こします。
鬼百合も揚羽蝶も平家の公達の霊(餓鬼)です。
 
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      熊谷守一の名作「鬼百合と揚羽蝶」の意匠です。(撮影場所は光明寺記主庭園)
 
鬼百合の咲く頃、もう一つ盛んに咲く百合があります。
名は「鹿の子百合」です。
春先に産まれた鹿は夏になると可愛く育って、奈良公園や飛火野を走り回っています。
鹿の体には可愛らしい模様・・・・、鹿の子模様が浮き立って見えます。
だから・・・「鹿の子」は夏の季語になっています。
多分鹿の子模様が樹陰では保護色になっているのでしょう。
 
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   鹿の子模様は鹿に出来る斑点模様の事です。緑陰では保護色になります。夏の季語になっています。
   (撮影は横浜俣野の相州春日神社)
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  鹿の子百合は今が盛りです。シーボルトがオランダに持ち帰ってヨーロッパで人気になった百合です。
  横浜栄区飯島の農家の庭先で撮影。
 
鹿の子百合は鹿の子模様のついた百合の意味でしょう。
白い花弁に朱色の斑点模様が散っています。
花弁がオレンジ色なら・・・・、鬼百合になってしまいます。
白と朱色のツートンカラーだから・・・・、可愛らしい”鹿の子”の名がつきました。
 
鹿の子模様は京友禅や江戸千代紙の模様になって・・・・、可愛い街娘の着物やお道具を飾りました。
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                               千代紙箪笥の模様は鹿の子模様です。
 
農家の庭先に鬼百合と鹿の子百合が並んで咲いています。
鹿の子百合がこの家の娘・・・・、箸が転げても楽しげに笑う娘なら・・・・、
鬼百合はこの家の餓鬼(祖霊)でしょう。
餓鬼は救済されていない魂でありながら・・・・、逞しく力強く子孫を守ります。
 
盆は世代を超えた人の霊が交流する行事です。
鬼百合が亡くなった祖先の霊(餓鬼)ならば・・・・、鹿の子百合は子供達の生霊のようなものでしょう。
餓鬼も生霊もどちらも大切なものです。
”どちらも大切なんだよ・・・・!”
ゲゲゲの鬼太郎のテーマであるように思います。
 
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   鎌倉腰越の路地に咲く鬼百合の花。この路地の先に道祖神の祠があります。
   お盆になると・・・・そこに祖霊(餓鬼)を、お迎えに出ます。
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   鎌倉腰越の道祖神の祠。路地の向こうに鬼百合が咲いています。
   お盆になると祖霊(餓鬼)は海からこの路地を戻ると考えられています。
 
 
 
 
 
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ぼんぼり祭りの「子供の舞」

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今年も鎌倉では”ぼんぼり祭り”の季節になりました。
ぼんぼり祭はは立秋の前日に始まります。
8月7日に「夏越え祭り」、8日(立秋)には「鈴虫を奉納する立秋祭」、
そして9日は源実朝の誕生日ですので「実朝祭」が行われます。
この3日間ともぼんぼりに灯が点されます。
ですからこの3日間(今年は9日まで、4日間)のお祭りを総称して「ぼんぼり祭り」と呼んでいます。
 
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    鎌倉鶴岡八幡宮ぼんぼり祭り。例年なら巫女さんが蝋燭で灯をともして回るのですが、
    今年は天気の様子を見ていて中々灯を灯しませんでした。
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2012年、ぼんぼりに灯が点された光景
 
       鎌倉鶴岡八幡宮の境内には400点のぼんぼりが立てられ、夕暮れとともに灯が点されます。
ぼんぼりには鎌倉在住の文人はじめ、角界の著名人が揮毫した絵や書が描かれています。
私は夕方を待って、今年も初日に出かけてみました。
 2012年のぼんぼり祭りはhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46522680.html
 2011年のぼんぼり祭りはhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43821079.html に書きました。
 
 
昨年は「武士の都鎌倉」をテーマにしたぼんぼりが目立ちました。
鎌倉をユネスコの世界遺産に・・・・、燃えていたのです。
今年は富士山が多いのは、矢張り世界遺産に認められた、その効果なんでしょう。
 
ぼんぼりは火が点かなくては、興も深まりません。
そのうち、お巫女さんが蝋燭で火をともして回るだろう・・・・、待つことにしました。
待っているうちに、空からポツポツ雨が降り出しました。
私は仕方なく、平家池の畔にあるレストラン「風の杜」で待つことにしました。
このレストランは八幡宮の経営です。
大きなパン焼き用のオーブンがあって、洋食やケーキも食べられます。
平家池の周囲は西洋好みなんです。
 
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         平家池の畔にあるレストラン「風の杜」、八幡宮の経営ですが洋風の味付けです。
 
窓側の席からは蓮池が良く見渡せます。
対岸には近代美術館が見えます。
蓮はもう花を閉じて、寝てしまったようです。
水面に雨が降って、丸く轍(わだち)が広がって行きます。
雨粒が激しくなって・・・・、巫女さんが慌ててぼんぼりの撤収を始めました。
訊けば・・・・、天が上がればぼんぼりをまた出して・・・・、灯をともすかも知れない・・・、との事です。
でも、7時からは予定の通り舞殿で日本舞踊を奉納するそうです。
 
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レストラン「風の杜」は平家池の畔にあります。白蓮は寝てしまっていますが、突然に雨が降り出しました。
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   レストラン風の杜は近代美術館の向かい岸にあります。ランプシェードも鳩(八幡宮の紋)さんです。
   パンにもケーキにも鳩の紋が焼き付けされています。鎌倉市民にとって鳩紋は絶大な信頼です。
 
舞殿の前には茅の輪が置かれています。
古式通りに潜って行く人が多いようです。
今では陽暦で茅の輪潜りをする神社が多いのですが・・・・・・・、本来は陰暦の今頃の神事なのでしょう。
立秋も夏越え(茅の輪)も陰暦で実施すれば、季節感とマッチングいたします。
八幡宮は先ず陽暦で実施して、陰暦でも実施しているようです。
  (八幡宮の茅の輪は http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47395720.htmlに書きました)
 
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   急遽、ぼんぼりはて集されてしまいました。手前左は神奈川近代美術館(松田正平展開催中)
 
去年も一昨年も舞殿では筝曲が演奏されました。
モダンな筝曲で、演奏はドレスを着ておいででした。
 
今年は、日本舞踊、「藤間すみれ社中」と案内されています。
八幡宮がモダン好きであっても・・・・、日本舞踊はお着物でしょう。
 
雨も上がりました。
舞殿の甍の上には・・・・、夕焼けが見えます。
もう、天の心配は消えたようです。
でも、ぼんぼりは撤収されたままです。
これから、ぼんぼりを元に戻して、蝋燭で火を点して回るのは・・・・、困難なのでしょう。
私は石段の中腹に腰を下しました。
夕立の雨水は既に蒸発してしまっていて、
お尻から石段の温もりが伝ってきます。
 
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  八幡宮神殿前の石段は舞殿での演舞見物には最高の座席になります。石段に腰掛けると
  段葛から鎌倉の黄昏る景色眺められて、良いものです。
 
一曲目は「卯の花・・・・」とか云う舞で、日本の四季を愛で祝う舞踊のようです。
流石に藤間流舞踊の先頭バッターです。
決まっています。
2曲目は、3歳、5歳の少女の舞です。
阿国歌舞伎が禁じられて、若衆歌舞伎が盛行して・・・・・・、
そんな時の踊りがルーツなんだそうです。
今では藤間流の踊りの、子供の稽古に舞われている・・・・、基本動作が重複する踊りだそうです。
この踊りが可愛い事、華がある事・・・・嬉しくなりました。
観客からは期せずして”可愛い!”歓声が沸きました。
姉妹のお婆ちゃんは・・・・、涙を流さんばかりの笑顔で居られました。
 
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   最初の舞踊は「卯の花・・・」何とかでした。成熟した女性の色香に魅了される踊りでした。
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   二番目の演目は・・・・(失念しましたが・・・・)3歳5歳の姉妹の踊りでした。
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   舞の”決まりのポーズ”がふんだんに散りばめられた・・・・、夢の様に可愛い綺麗な踊りでした。
   八幡宮の神様も可愛い舞に眼を細めてお慶びになられた事でしょう。
    この踊りが1600年代半ばに遡るとは驚きです。(若衆舞)
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     3番目は角兵衛獅子でした。八幡宮のシジマに・・・・、長唄が流れて・・・・良い時間でした。
 
 
肝心のぼんぼりは明日以降に観れば良いんです。
例年3日間なのですが、今年は4日間もあるんですから・・・・。
八幡宮もぼんぼりを雨に濡らしては大変です。
明日以降なら、夕立の心配も無さそうです。
 
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立秋祭の主役は「鈴虫」と「巫女さん」です

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8月7日は立秋でした。
八幡宮の蓮池にも無数の秋アカネが飛び交い、秋の気配を届けています。
・・・、とは言っても、8日からは残暑、一年で一番暑さが堪える季節になります。
 
私は夕闇が迫る頃、今日も鶴岡八幡宮に参詣です。
立秋祭が催されるのです。
「無事に夏を越せたことを感謝し、秋が来たことを報告する祭事」なのです。
私は夏越祭は良く出かけるのですが・・・・、立秋祭は初めてです。
 
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    立秋祭の挙行された鶴岡八幡宮。夕暮れと同時に一斉にぼんぼりに灯が点されます。
    夕涼みも兼ねて、鎌倉市民は一斉に八幡宮を詣でます。このお祭りは鎌倉ペンクラブの久米正夫
    氏の提言で昭和13年に始まり、今年で75回目になります。もう風物詩として定着しました。
 
私達一般の参詣者は舞殿での祭事を見る事になります。
舞殿での祭事の前後には、神殿で祭事が行われているのでしょう。
でも、舞殿祭事だけを見ても、立秋祭の意味や尊さは良く解ります。
 
 笙、篳篥(ひちりき)、龍笛(横笛)が鳴り渡ります。
雅楽師の横には4人のお巫女さんが坐して居ます。
山風が吹き下ろして、巫女さんの袖を吹き返して行きます。
巫女さんの黒い鬢髪が微かに揺れています。
立秋祭の主役は、神様に奉納舞を踊る巫女さんと、秋を報告する「鈴虫」なんでしょう。
 
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   舞殿の外縁部に雅楽師、巫女が並びました。長い黒髪を結んで、手には秋花の花束を握って、
   神事のクライマックス奉納舞を踊ります。
 
巫女さんのいでたちの美しは、写真を見てください。
緋色の袴、白い小袖はいつも通りですが、打掛をまとった舞姿です。
緑のリボンで鉢巻をし、額には白い花が飾られています。
手には桔梗をはじめ秋花の花束が握られています。
式次第の終盤、巫女さんの奉納舞で一気に盛り上がりました。
 
 
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   舞殿での大役を終えて、降りる巫女さん達。お疲れ様でした。私は次の和歌を思い起こしていました。
   『采女の 袖吹き返す 明日香風 都を遠み いたづらに吹く』 (志貴皇子)
 
深く腰を折った礼、舞姿の艶やかさに眼を奪われます。
神様も屹度お慶びの事でしょう。
人間が好きな物は、神様もお好きで、
人間が嫌いな事は、神様もお嫌いだと思われます。
 
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   神様へのお供え物、お酒、果物、野菜、鯛に寒天、麩もあります。右手前には鈴虫が置かれています。
   どれもこれも、神様のお好きなものです。奉納舞もお好きです。
   私も・・・・、いずれもが好物です。
 
神棚に葉様々な収穫物が並べられています。
大きな鯛、蓮根は八幡宮の源平池で採れたものでしょうか。
寒天やお麩も三宝に盛られています。
茄子にカボチャ・・・、白米にメロン、神様は肉以外は何でもお好きなようです。
そして、鈴虫も奉納されています。
 
屹度神様は暑い夏が少し苦手なのではないでしょうか?
だから・・・・、鈴虫の啼きだす秋が早く来て欲しい・・・・、期待しておいでなのでしょう。
そこで、立秋にはお好きな鈴虫を奉納する・・・・、それがお決まりのようです。
 
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   宮司が退場されます。木靴や草履が綺麗に揃えられています。
   礼の精神は隅々まで行き届いて・・・、清々しいものです。
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                                 お供物を運ぶお若い神職、男性も清々しい・・・・。
 
宮司一拝して、舞殿での立秋祭は終了です。
神官が舞殿を後にします。
黒い木靴が綺麗に揃っています。
靴が揃っているのも気持ちいいものです。
玉砂利を踏む音がして・・・・、立秋祭は終わりました。
 
6時半、夕闇が深まってきました。
巫女さんが蝋燭を持って・・・・ぼんぼりに灯を点して回ります。
ぼんぼりは灯が点って・・・・・、ぼんぼり祭りは佳境に入ります。
昨晩は夕立の所為で、ぼんぼりに灯は点きませんでした。
 
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  養老孟司さんのぼんぼりに灯を点す巫女さん。巫女さんは無意識で蝋燭の火を移すのに懸命ですが・・・・。
  動作一つ一つに美しさを感じます。(この直前にこの場で養老さんは確認しておいででした)
  養老さんは昨年も、その前も昆虫を描かれておいででした。今年は玉虫でカラーですから、大作でした。
 
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   中島千波さんのぼんぼりに灯を点す巫女さん。
 
 
 
お供物は舞殿から下ろされました。
でも、鈴虫だけは残されました。
舞殿では7時から奉納日本舞踊が催されます。
鈴虫は、日本舞踊の傍らで・・・・、秋の夜半を過ごすのです。
 
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  ミス鎌倉を写す女性、浴衣の模様は萩で、良くお似合いでした。
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ミス鎌倉と浴衣を着て鎌倉を歩く催しもありました。ピシッと着た浴衣は女性も男性も色香を感じます。
                                     
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   村田省蔵さんのぼんぼりは鬼灯でした。老い(84歳?)を感じさせない作品でした。
 
 
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言霊とぼんぼり

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ぼんぼりを見に巨福呂坂に差し掛かりました。
風呂桶屋の友野君が今日の店仕舞いをしています。
店先には桶に混じってセルロイドのお人形や市松人形などが並んで・・・・、
得体の知れない民芸屋さんのようです。
 
そんなお店ですが、10台も居並んだ自販機が稼いでくれています。
沢山の観光客が、東慶寺から建長寺に向かうのですが・・・・。
坂の途中、踊り場で一服しようと、自販機にコインを入れて清涼飲料を買ってくれるんです。
自販機が言っているようです。
”親爺さんは道楽していていいよ・・・・、僕ら自販機が稼いであげるから・・・・・”
 
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                          巨福呂坂の友野風呂桶店。手前はお店を終う友野君。(筆者と同じ齢)
 
友野君は小坂小学校から御成中学に行きました。
私と同じ歳です。
「知っているか! 東慶寺の井上正道和尚が亡くなったぞ!」
井上和尚は小坂小学校から、建長寺の鎌倉学園に進学されました。
弟は中学高校と私と一緒でした。
私は井上和尚の面識はありませんでしたが・・・・・、東慶寺で何度もお会いしましたし、
何と言っても同氏の字(書)が好きでした。
東慶寺の墓所には無数の塔婆が立っています。
塔婆には願文が書かれています。
鎌倉のお寺で見る一番に優れた塔婆は東慶寺と瑞泉寺だと確信しています。
あの字(書)なら・・・・、彷徨える餓鬼の霊も救済されるだろう・・・・、思います。
 
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     卒塔婆は五輪塔を模って作られています。
     仏塔であり、同時に卒塔婆を建てる供養によって死者が救済されると考えるのです。(東慶寺)
 
板塔婆の先端はギザギザと切り込まれています。
切り込みは五輪塔を模ったもので、仏塔を意味しているのでしょう。
水塔婆は川に流します。
塔婆のギザギザに死者の魂が引っ掛かって、浮かばれる・・・・、そう信じられたものだそうです。
昔、木曽川(中津川市)で水難事故があって、多数が流されました。
私は叔父と一緒に沢山の水塔婆を流しました。
 
柿本人麻呂は歌人であり、神に昇華した人物です。
それは挽歌に優れ、人麻呂の歌で故人の魂が救済される・・・・、言霊の師であったからでしょう。
 
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                    柿本人麻呂像(円空作/円空展目録を複写)
 
日暮し蝉が啼きだしました・・・・、
カナ・カナ・カナ・・・・、山の方から響いてきます。
 
友野君に話しました。
「松ヶ丘の方から響いてくる日暮は・・・、まるでお経のようだね・・・・。
さすれば、八幡宮の方角で啼いているのは・・・・、祝詞かな・・・・。」
お経だって、祝詞だって・・・・・、死者の霊を救済する力があるのでしょう・・・、
これも人麻呂と同じ言霊信仰というものでしょう。
 
私には、生臭坊主の汚れた息で風呪されるお経に霊力があるとは思えません。
日暮のカナ・カナ・カナの方が霊力を感じます。
 
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八幡宮のぼんぼり祭り
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松尾敏男氏のぼんぼり、平山郁夫氏が亡くなられ、今年は後藤純男氏も奉納されなかったようです。
日本画では松尾氏がリーダーでしょうか?
 
      
私はふと、怪談の「耳無し芳一」を思い出しました。
昔、壇ノ浦に近い阿弥陀寺に平家琵琶を弾き語りする小僧さんが居ました。
ある晩、和尚さんが留守の時でした。
二人の公達が芳一を誘います。
「私の殿がお前の琵琶『壇ノ浦』を聴きたいと仰せだ。私についてまいれ・・・・」
芳一は公達に従って、立派な館に連れて行かれます。
そして、”壇ノ浦の戦”を弾き語ります。
 
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    平家の落人の御霊信仰(修那羅石仏/壇ノ浦で怨念を残したまま死んだ霊が神に祀られています)
 
毎晩、毎晩、芳一は琵琶を持って外出します。
妙に思った別の小僧さんが芳一の後を追いました。
芳一はなんと阿弥陀寺の無縁の墓地で・・・・平家物語を弾き語りしていたのでした。
芳一の周囲には無数の人魂が燃えていました。
小僧さんは和尚さんに報告します。
 
和尚はこのままでは芳一が悪霊に取り殺されてしまう・・・・、危惧いたします。
と言っても、毎晩毎晩小僧さんを見守っている事は適いません。
そこで、芳一に命じます。
「お前の体に般若心経を書いてあげる。さすれば悪霊どもはお前の体が見えないものだ。
後は悪霊に話しかけられて口を塞いで黙っていれば済むことだ・・・・」
 
裸にされた芳一の全身にお経が書かれました。
でも、耳だけは書き忘れてしまいました。
 
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          平松礼二氏の赤富士(今年は富士が多かったので、富士山のぼんぼりを載せます)
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          中島栄一郎氏の海水浴場の富士
 
公達はその夜も芳一を迎えにやって来ました。
ところが芳一の姿はありません。
「芳一、何処ぞや!」 空しく響き渡ります。
公達は虚空に浮かんだ耳を見つけます。
「声も聞こえない、姿も見えない。これでは殿に報告も出来ない! 
仕方がないので耳を証拠に持ち帰ろう・・・!」
芳一は和尚さんのウッカリで耳を失いました。
でも・・・・・、鬼神をも感動させる琵琶の名人である・・・・風評が高まります。
災いは転じて福になりました。
 
芳一の怪談話も、言霊信仰のひとつの形態でしょう。
 
今は何処のお寺でも施餓鬼会の最中です。
人間の体は死んでも・・・・、魂が無くなる事は無い・・・・・・、信じられてきました。
凡人の魂は飢えた鬼(霊)になって彷徨います。
そんな霊を救済しようとする行事が施餓鬼会です。
鬼(霊)が好物の食べ物を揃えて・・・・、家に迎えます。
鬼(霊)が道に迷わないように・・・・、提灯に灯りをともします。
仏壇には鬼灯(ほうずき)を飾ります。
 
ぼんぼりに盆提灯のような役割があったのか・・・・、定かではありません。
でも、盆・施餓鬼といった祖霊に感謝する季節に灯される明かりですから・・・・、
先祖を思い起こす人が多い事は間違いない事でしょう。
 
ぼんぼりを描く人、見る人、様々な思いが交錯します。
 
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                                         佐藤泰生氏の江の島富士
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                                                      小暮郁子氏の富士
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                                                     前島秀章氏の地蔵富士
 
今年のぼんぼり祭りも沢山の拝観者を集めました。
どのぼんぼりも・・・・共通していることがあります。
『日本の自然を大切にしたい・・・・』
『人と人の絆こそ一番大切なものだ・・・・・』
 
そんな思いは、先の震災を機会に一層強くなったようです。
そして、そんな思いは生者にも死者にも共通するものでしょう。
ぼんぼりは私達も、死者の魂も一緒に見ているように思います。
 
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                  昭和50年、平山郁夫画伯が奉納されたぼんぼり(鶴岡会館で展示)
 
昨年亡くなられた平山郁夫画伯・・・・・・、今年はぼんぼりはありませんでしたが・・・・、
回顧展では昭和50年奉納されたぼんぼりが展示されていました。
何かとお騒がせだった未亡人もぼんぼりを見て、故人との深い絆に感謝されておいでのことでしょう。
 
ぼんぼりも生者と死者と、絆を確かめる手段で、素晴らしい風物詩でもあります。
 
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                             大津英敏氏のぼんぼり、今年は団扇に使われていました。
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                                                 大竹正芳氏の富士
 
 
 
 
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紅葉葵の花と諸葛孔明

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街中に紅葉葵(もみじあおい)の花が目立つ季節です。
庭先に、人の背丈を遥かに越すほど伸びて、その頂きで大きな花を咲かせています。
深紅で大輪の五弁の花は見事です。
真っ青な空を背景に咲く様は気高く見えます。
 
夏の花といえば「向日葵」を思い出します。
向日葵は黄色く、大きな菊のような姿です。
太陽に向かった・・・・、いよいよ盛夏ですね! 笑顔で挨拶しているような表情に見えます。
 
紅葉葵は・・・・、「私は青空にも、入道雲にも染まらない、深紅が真実の色だ!」
主張しているように見えます。
私は、紅葉葵に夏を痛感します。
 
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          向日葵は葵の字がつきますが、アオイ科ではなくキク科の一年草です。(厚木の向日葵畑)
 
向日葵の葉っぱは桐のような丸い大きな形をしています。
葵の葉に似ていません。
紅葉葵の葉っぱは、深く切りこんで、紅葉の形をしています。
どう見ても葵の形とは違います。
でも、向日葵も紅葉葵も、葵の字があてられています。
 
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           初夏の花「立葵」(戸塚舞岡の畑で)此方はアオイ科です。紅葉葵もアオイ科です。
 
紅葉葵の姿や葉はを見ると麻を思い出します。
特に深く切りこまれた葉っぱは麻の葉に似ています。
麻の花は薄黄色い、オクラに似た花です。
花の中央から、象の鼻のような雌蕊が突出しています。
この点は両者に共通しています。
でも、紅葉葵は葵の仲間であり、麻科には分類されていません。
紅葉葵は麻のような強靭な体を持って、葵のような気高い花を咲かせる・・・・・、そんな植物です。
 
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    夏空を背に咲く紅葉葵の花。深紅の花に惹かれます。
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        夏祭りを知らせる奉納旗に紅葉葵、季節を感じさせます。(本牧神社)
 
紅葉葵は別名で「紅蜀葵(こうしょくき)」と呼ばれます。
この中国名の方が花の印象を良く表現してると思います。

紅蜀葵は「紅蜀旗」の意味だとおもいます。
蜀とは漢の正統を主張した蜀国(三国志)の事で、
義にあつい劉備玄徳が国王で、軍師諸葛孔明が補佐(宰相)いたします。
深紅の軍旗は自軍の正統、誠実、情熱を示した色なのでしょう。
 
赤壁の戦いで魏軍を敗走させます。
しかし、再び両軍は五丈原で戦います。
老体を鞭打って諸葛孔明は戦場で指揮を執りますが、魏軍は持久戦に持ち込みます。
孔明は道半ばにして、五丈原で病死してしまいます。
カリスマがあり軍神と崇められた孔明が亡くなると・・・・・、
蜀軍は劣勢に陥ります。
 
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                  花はハイビスカスに似ていますが、遥かに大輪です。(鎌倉長谷の屋敷町にて)
 
土井晩翠は孔明の死を悲しんで、長編の叙事詩(星落秋風五丈原)を発表しました。
  祁山悲秋の風更けて
  陣雲暗し五丈原
  零露の文は繁くして
  草枯れ馬は肥ゆれども
  蜀軍の旗光無く
  
鼓角の音も今しづか
  丞相病あつかりき
蜀軍の旗は深紅のでしたが、刀が折れて、深紅の軍旗には霜が降りていました。
蜀軍の旗光無く・・・、と詠われています。
 
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                  蜀の軍旗は深紅でした。(レッドクリフ DVD販促HPから転載)
 
中国人は紅葉葵の気高く咲く姿を見て・・・・・、深紅な花弁を愛して・・・・、
諸葛孔明を思い浮かべているのでしょう。
だから・・・・・、紅蜀葵の名を冠したのでしょう。
 
街中で紅葉葵を見ると、この家の人は三国志が好きなんだろうな・・・・・・?
思います。
 
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                      藤沢村岡のある御霊神社鳥居前に咲いた紅葉葵の花
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         埴生の宿に紅葉葵(村岡にて)
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胃癌と朝顔

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私は略15年前、腎臓に癌が確認され、右腎臓を摘出しました。
勤めていた長銀が破綻する・・・・・、公私とも懸命な時の災難でした。
そして、昨年の四月久遠寺を詣でて帰宅した夜に喀血しました。
胃に7箇所ほど止血のフォッチキスを打って、胃カメラ検査を数度致しました。
胃の噴門部に2センチほどの腫瘍が確認され、病理検査の結果悪性と判断されました。
癌の頭部がイチジクのように割れて、其処から出血していたのです。
胃にこれだけの腫瘍があるんだから・・・・・・、転移の可能性も高い・・・・、
胃腸系の検査を進めました。
 
胃に引き続き、食道、腸、大腸と順次に内視鏡で確認しました。
モニターカメラが私の目の前に在りました。
私は医師と一緒に画面を確認します。
思いの外(?)綺麗な腸でしたが・・・・、カメラが止まる度にドキッとしました。
腸に悪性腫瘍が転移していたら・・・・? 背筋に冷たいものが走ります。
”此処にもポリプがあったので、取っておきますよ・・・・!”
軽く医師が言われ、内視鏡で切除して行きます。
まるで少年の顔面に出来たニキビを潰すような・・・・、軽さです。
 
10余前から見ても、大きな医術の技術進歩があります。
内視鏡は日本人の精密機械とCCDカメラ技術の進歩が実現した成果です。
今回の治療では、随分その技術進歩の恩恵に浴しました。
結局危惧された転移は認められず、胃の半分ほどを切除して、退院しました。
 
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   今日の話題は朝顔です。「朝顔の花一時」諺にある通り、儚いこのと喩でもあります。
   朝顔は夏に咲きますが、季語は秋です。儚い花・・・、といった印象が強いので秋なのでしょう。
 
胃癌が確認されて、私は庭に朝顔の種を撒きました。
退院して、家に戻ったら・・・・、朝顔を見よう・・・、思ったからでした。
家の周りのフェンスに朝顔が巻き付いて、沢山の花を咲かせている・・・・、
命拾いして帰る積りだから・・・・、朝顔に出迎えて貰おう・・・・、そんなプランでした。
 
 十年経ち 癌再発と驚きて 祈る思いで 撒きし朝顔
 十年ごとに 巡る病魔に おののきて これも定めと 手術台の上
 
 
 ようやくに 宿に戻れば 朝顔が 命の尊さ 諭していおり
 朝に咲き 夕べに萎るる 理ならば いっそ見事に 咲けるぞ見事 
 
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                                       今年最初の庭の朝顔
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    朝に雨を被った朝顔、花の色素が溶けているのが確認できます。横浜は酸性雨が降っているのです。
 
何で朝顔なのか?
それは方丈記(鴨長明)に次の段があるからです。
『無常を争うさまは 謂わば朝顔の露に異ならず。或いは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或いは花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つ事なし。』
その前後を含めて現代文に直せば以下の通りでしょう。
『私は知りません。この世に生まれた人が死んで何処に行くかも・・・・、知りません。
私が生きているのは僅かの間だけなのだから、現世は仮の宿でしかない。
人間は儚い無常を競い合って生きているようなものだ。
その様子は朝顔の花に宿る露のようなもんだ。
露が落ちて朝顔の花だけが残っていても、朝日が輝き出せば枯れてしまう。
あるいは花が咲きに萎れて露が残っていても・・・・その露も夕べになる前には消えてしまう・・・・』
 
この文意は曹洞宗のお経「修証義/明治時代に作られた日本文のお経」に取られています。
「命は光陰に移されて暫くもとどめ難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん」
 
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   我が家ではフェンス、門扉、植木鉢沢山朝顔を咲かせています。鶉小屋の前も朝顔が鉢植えされています。
 
 
咋秋、良く咲いてくれた朝顔の種を採取しました。
また翌年も、その次の年も、”死ぬかもしれない,覚悟した時の思いを留めておきたい・・・・”
思ったからでした。
今年も、期待通りに花を咲かせています。
 
  野分立ち 黒き種をば 採りいれて また翌年も 花をば咲かせん
  藍と朱に 今年も咲けり朝顔は 去年(こぞ)と変わらじ 翌年(よく)も変わらじ
 
 
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                              朝4時半、ソロソロと咲き出した朝顔の花。
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         朝顔は頂部の花も根元の花も同時に咲き出します。
         朝日の光に反応して咲き出すのではないのです。前日の日没に反応して翌朝咲き出すのです。
 
加えてこの暑さです。
11時には萎れてしまいます。
夕べまでもつことはあり得ません。
西洋朝顔なら・・・・、午後まで花はもつかもしれません。
日本朝顔は儚さこそが特徴なのでしょう。
 
もう、つくつく法師(蝉)が啼きだしました。
暑い暑いと言っても・・・・、秋が近づいているのです。
”オオシーツクツク・オオシーツクツク” 啼いています。
「もうじき夏が終わるよ・・・・惜しい・・・・尽く尽く惜しい・・・・」と啼いているんだよ。
祖母に教えられました。
「夏休みもお終いだ・・・・惜しいよー、惜しいよー」啼いているもんだ・・・、私は思いました。
 
今しばらく、朝顔は楽しませてくれそうです。
 
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  朝4時半、咲き揃い始めた朝顔の花。
 
 
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百日紅の花と観音像

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今日は8月12日、私にとっては大切な日です。
ひとつは、家内の誕生日、ですから、子供達も孫を連れて集まってくれます。
もう一つは、28年前の昭和60年に遡ります。
私は8月の定期異動で、長銀大阪支店の次長(一般会社の課長)を命じられて、着任早々の事件でした。
午後6時過ぎ、羽田をたって大坂に向かっていた日航機は満員の乗客を乗せまま墜落したのでした。
死者は550人に及びました。
死者の大半は大阪住人で、東京に出張した帰路の災難でした。
大坂の企業関係者が多く命を落とされました。
私が勤めていた大阪支店は御堂筋に面していました。
真向いが北御堂でした。
連日のように北御堂で会社葬が営まれ、私は会葬しました。
 
昼は会葬、夜になると地下の食堂から”六甲おろし”の合唱が聞こえました。
この年、阪神タイガースは快進撃、バックスクリーン三連発があって、優勝したのでした。
仕事が終われば、職員は真っ直ぐ自宅に帰れば良いのに、食道のTVの前でみんなして応援していました。
 
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  今日の話題は筆者の生家、横浜戸塚にある盛徳寺の百日紅です。
  今年は猛暑のお蔭で(?)数年来見事な花をつけました。
 
私はそんな職員を後にして、淀屋橋駅から京阪電車に乗って、京都の太秦に向かいました。
父に、”太秦の仏具屋は日本一だ、其処に行って観音様を鋳造って来てくれ” 命じられていたのでした。
私は四度、五度太秦の仏具屋の工場に通いました。
 
先ず、日展作家の観音像を選びました。
職人がそのモデルをベースに丈六の観音立像を、クレー(土)で捏ね上げました。
そのクレー像を四つにカットしました。
そして、像の表面に蝋を塗って、その外側にまたクレーを重ねました。
その上で熱した銅を流し込みます。
銅は蝋を溶かしてクレーの隙間を流れ込んでゆきました。
銅が冷めて、クレーを取り除けばブロンズの観音像ノブロックが出来ました。
このブロックを積み上げれば、観音像の出来上がりです。
何の事は無い、奈良の大仏さんと鋳造法は変わらないものでした。
私は職人の作業に立ち会いました。
見事なものだ、感服しながら見詰めていました。
 
 
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         盛徳寺の観音像は昭和60年、筆者が京都太秦の仏具屋さんで作ってもらったものです。
 
何で、父が観音像を私に命じて鋳造させたのか・・・・?
それは、祖母が観音様をあつく信仰していたから・・・・、
祖母が生きているうちに観音像を実現させて、喜ばせたい・・・・、そんな思いでした。
 
祖母(佐々木ノブ)は世田谷にある実相院の次女として生まれました。
明治42年、豪徳寺の住職松本方丈師の仲人で竹内周三(赤坂豊川稲荷の僧)と結婚しました。
そして、鎌倉郡豊田村にあった無住の「盛徳寺」に、二人で遣ってきたのでした。
結婚も勤務先(新居)も、何もかもが実相院の力で決められたものだったのでしょう。
 
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   盛徳寺は前身が「養東院」という尼寺(天台宗)でした。蜂須賀小六は豊臣秀吉の古くからの家来で、
   関ヶ原では西軍に組します。江戸幕府では三河から阿波に国替えさせられます。
   蜂須賀隆重は身重の奥方共々阿波から江戸に参勤交代の旅にありました。しかし、戸塚の宿で奥方は
   産気づいてしまいます。戸塚の本陣に近い養東院で出産することになりました。
   しかし、この尼寺で娘を遺して息を引き取ります。
   蜂須賀隆重の悲しみは大きなものがあって、奥方の御遺体を寺に葬り寺の名も奥方の戒名をとり
   「盛徳寺」に致しました。奥方の霊を慰撫するため禅僧(大旗義徹和尚)を迎え、近隣の田畑を寺に
   寄進しました。以来盛徳寺は小さいながらも、阿波の大名寺として格式をもっていました。
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                     盛徳院の悲話を留める盛徳寺門前の子安地蔵尊
 
戸塚駅こそありましたが、豊田村は300戸ほどの寒村でした。
でも、若いカップルが生活するには十分な寺領があったようでした。
寺は阿波の蜂須賀家の寺であり、鈴木を筆頭に4人の寺守は居ましたが、檀家はとっていませんでした。
豊田村では
「盛徳寺にハイカラなカップルが東京から派遣されてきた。
田舎暮らしが嫌になって帰られないように工夫しようじゃないか!」
様々努力してくれたようです。
その一つが、最初に掲載した百日紅の木でした。
小野省三氏(故人)が
「ハイカラな大黒様(お寺の家計を守る人)が喜んでくれるように・・・・、結婚祝いに百日紅を植えよう!」
本堂の前に形の良い百日紅を植えたのでした。
ノブもこの百日紅が気に入りました。
庭に散った落ち葉を掃いて根元に盛りました。
籾殻灰も根元に巻いて・・・・、病気にならないよう気遣いました。
 
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                                   私の祖母(ノブ)は洋風好みのハイカラさんでした。
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                              ノブの結婚記念樹の百日紅と、ノブの信じた観音像
 
 
終戦と同時に盛徳寺は困窮しました。
寺領を失ってしまったから・・・・、収入が無くなってしまったのでした。
お嬢様のノブにとっては・・・・、大変な苦労だったのでしょうが・・・・、
それでも、観音様の信仰もあって、どうにか子供達を育て、住職に派遣して・・・・、
役割を果たしました。
爪の先を詰めて蓄えたへそくりを・・・・・・、父が確認して・・・・、観音像に姿を変える事になったのでした。
 
観音像は大川観音と名付けました。
ノブの夢に観音像が現われて・・・・・、諭したというのでした。
観音様は柏尾川の流れを指さされて・・・、こう言われたのでした。
「大川の水は流れて、絶える事は無い。お前の人生も瀬もあり逆流もあり・・・・・、激しく移ろいかわっても・・・、
水の流れ自体は絶える事は無い・・・・・。水の流れの様に生きなさい!」
 
 
大川観音と百日紅は祖母の一生を象徴するものでした。
盛徳寺の施餓鬼会は10日、昔は檀家も少ない静かな施餓鬼会でしたが、
今では檀家も増えて、門前車の列になっています。
檀家の人は百日紅の歴史、結婚祝いなんて知りません。
でも、”見事な百日紅ね!”
見上げて帰る事でしょう。
どんな木にも歴史があって、植えた人、育てた人の想いが籠っているものです。
そんな、歴史を知れば知るほど花の輝きが増すような気がします。
祖母の霊も百日紅の樹下に漂いながら・・・・、梢を埋めた朱の花を愛でている事でしょう。
勿論私もこの百日紅を深い感謝のまなざしで見上げています。
今年は一際綺麗に咲いてくれました。
 
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今が一番花です。
これから秋の彼岸(9月23日)頃まで咲き続けます。
線香花火の先のような花弁が天空から舞い落ちます。
クルクル回りながら・・・・・、天空から舞って、天水桶の上に浮かびました。
 
私は近所の子供達と本堂の前に茣蓙を敷いて・・・・、お飯事遊びをしました。
小さなお茶碗にご飯が盛られました。
ご飯は百日紅の・・・・・、赤まんまでした。
屹度、私のお飯事遊びの周りには沢山の餓鬼(霊)が集まっていて、一緒にお飯事遊びをしていたことでしょう。
 
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                           これも、筆者が編纂した祖母ノブの追悼文(昭和63年)
 
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