7月23日、小雨が降るなか、鎌倉の由比ヶ浜に花火を見に出かけました。
鎌倉駅からもう大混雑で、車道も半分に狭めて歩行者を優先、
下馬から先の若宮大路は歩行者専用道路になっていました。
流石に浴衣姿が目立ちます。
与謝野晶子をもじれば
由井ヶ浜へ 若宮大路を辿る人 今宵会う人 皆浴衣美人
でしょう。
花火の打ち上げを待つ由比ヶ浜海岸、向こうの丘陵が稲村ケ崎
7時20分、沖合300mに置かれた台船上から東日本大震災慰霊の花火が打ちあがって、始まりです。
由比ヶ浜の海水浴場が開かれて130年、花火大会も今回が第65回だそうです。
隅田川の花火は江戸時代から始まったんでしょうが、隅田川花火大会としては今年が36回だそうですから、
鎌倉花火は関東で最も伝統がある花火という事でしょうか?
思い起こしてみれば、戸塚でも昭和には花火が盛んに打ち上げられていました。
日立がまだ元気で、スポンサーが集まっていたからでしょう。
花火大会が無くなってもう久しく、花火好きは鎌倉に横浜に江の島に・・・・、
カレンダーに書きこんで出かけているんでしょう。
私もそんな花火好きの一人です。
花火は中国人が始めた・・・、よく言われます。
あのケタタマシイ爆竹も花火です。
中世のヨーロッパでは貴族の娯楽、権威の表われとして花火をしたそうです。
貴族だけが見るのですから、その館から眺めるように設計されていました。
いま世界で楽しんでいる花火のスタイルを作ったのは、後発の日本人だったのでしょう。
大和榛原の鍵屋弥兵衛は江戸に出て花火を売り出します。
享保2年(1717年)には打ち上げ花火を水神祭りに献上します。
享保18年には江戸でコレラが猛威を振るいました。
両国の花火
徳川吉宗は死者の鎮魂と悪霊の退散を意図して両国花火を命じました。
江戸市民がこぞって見るもんです。
何処から見ても同じように綺麗に見えなくてはなりません。
花火の種(火薬)を球形に仕込みました。
こうして、民主的な花火が出来上がりました。
世界に冠たる、打ち上げ花火が出来たのでした。
日本人のつけた「花火」の名は世界に広がって、fireworksになりました。
漫画も花火も日本人の果たした役割は大きなものがあります。
これが水中花火です。扇形に水面の上に花火が打ちあがります。
由比ヶ浜は庶民の住居があり、市が立ち、そして墓場がありました。
砂は掘り易かったので、墓には好適だったのでしょう。
滑川には閻魔堂橋がかかっています。
閻魔堂(現在の円応寺・建長寺門前)が以前は前浜にあったのでした。
それが津波で壊されて現在地に転居したのでした。
浜辺に閻魔堂があったのは・・・・・・、浜辺が庶民の集団墓地だったからでしょう。
子供や罪人の死体は由比ヶ浜から流されました。
東鏡には静御前の行状が詳細に記されています。
文治2年(1186)7月29日、静御前は男の子(義経が父)を出産します。
出産を待ってから京都に帰すことになっていました。
予め頼朝から「女の子なら静かに渡すが、男の子なら命を絶つ」ように命じられていました。
安達清常は静から赤子を受け取ろうとしますが、静はこれを拒みます。
政子は頼朝を諌めますが、頼朝は聞く耳を持ちません。
やむなく磯禅尼が赤子を取り上げ、遣いに渡します。
赤子は由比ヶ浜の波に消えて行きます。
男児(おのこ)にて 生まれてきしを恨むべし
武士(もののふ)の時代(とき) 一日の命を
材木座海岸に私は陣取りました。
由比ヶ浜から長谷にまで。海岸にも海岸通りにも沢山の見物人が出ています。
鎌倉花火大会の呼び物は水中花火です。
移動する船の上から水中に投下された花火が海上で爆発します。
火の玉が海上に打ち上げられて・・・・・・、扇状に開きます。
その爆音は海底までに届いている事でしょう。
わだつみの 神々揃いて 驚かん
由井の浜辺の 水中花火に
水中花火、海底の魚も霊も眠りから覚まされている事でしょう。
時折、小雨が降りましたが今年も無事に、見事な花をを楽しむことが出来ました。
明後日(25日)は葉山で、
27日は大磯、8月3日は茅ヶ崎、20日は藤沢(片瀬西浜)、
一方、横浜が8月1日です。
お天気を見ながら・・・・、楽しむことが出来そうです。
沖合の船は、花火鑑賞の釣り船です。花火を打ち上げる台船が三つあります。
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