平安時代中期の歌人「藤原実方」と言うと、知る人も少ないかと思います。
しかし、「鎌倉時代西行を、江戸時代芭蕉を陸奥まで行かせた人物である」
と聞くと、「これは大物だ!」と言う事になるでしょう。
(郵政公社 文の日切手で、藤原実方
かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしもしらじな燃ゆる思ひを)
物語は桜刈りに始まります。
一条天皇をはじめ宮中総出で桜がりに出かけます。
ところが突然に雨が降り出します。
大半の人が東屋を見つけて雨宿りして、降る雨をやり過ごそうとします。
しかし、藤原実方だけが桜の樹下に残ります。
桜の花陰で歌を詠みました。
桜がり 雨はふりきぬおなじくは ぬるとも花の かげにやどらむ
花見の最中に雨が降ってきた。どうせ濡れるのならば花と共に濡れましょう。
そんな内容でしょう。
(藤沢市村岡、古舘は鎌倉権五郎景正の舘の跡)
この歌が話題になりました。
宮中、満座の激賞の中で、若い藤原行成だけが批評します。
「技巧に過ぎて、真実味が無い」・・・・・と。
この評に、短気な実方は怒って行成の冠を鷲掴みして、庭に打ち捨てます。
行成は大人の風にして、拾いに行かせます。
(古舘は御霊神社の森になっています)
一部始終を見ていた一条天皇は実方の振る舞いを叱ります。
「枕詞にある陸奥の3松、その中でも阿古耶の松はまだその所在が解らない。これを見て来い」
と命じます。
命令の意味する所は
「お前のような気性の荒い男は陸奥の守が適当だ」左遷人事だったのでしょう。
でも、松を確認したら直ぐに都に戻れる・・・・そう思った実方は娘などを残して陸奥に向います。
実方が大人気ない行動に走った原因は、清少納言との三角関係にありました。
そもそも、実方と清少納言は誰しも認める相愛の関係にありました。
ところが、若い行成が清少納言に接近してきます。
清少納言は行成に歌を贈ります。
夜をこめて 鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ
「まだ夜中だというのに鶏の鳴き声を真似して、夜が明けたと私を騙そうとしても、逢坂の関が決して人を通さないように、私は貴方に騙されませんよ・・・・・」そんな意味でしょう。
読み様によっては「今晩は帰しませんよ・・・・・」とも読めるかもしれません。
才気に走った清少納言は若くて出世しそうな藤原行成、小父さんでプレーボーイの実方、二人と親密だったのでしょう。
(御霊神社のタブの木)
恋人実方の左遷を聞いた清少納言は歌を贈ります。
思ひだにかからぬ山のさせも草 誰か伊吹の里は告げしそ
「貴方が陸奥の息吹の里にまで行かなくてはならない・・・とは驚くばかりです・・・・」そんな意味でしょうか。
実方は返歌します。
かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしもしらじな燃ゆる思ひを
「私の思いは”どうだこうだ”言い表しがたい燃えるようなものですよ・・・・・」
「私の思いは”どうだこうだ”言い表しがたい燃えるようなものですよ・・・・・」
さしも草とはお灸の材料になる蓬の事です。
燃える思いは「清少納言への愛情」であり、同時にこの度の左遷に拘わる怨念かもしれません・・・・。
すると、清少納言は歌を返します。
とこもふち淵も瀬ならぬなみだ河 袖のわたりはあらじとぞ思ふ
私は貴方との別れが悲しすぎて袖が涙で濡れています・・・・というような内容でしょう。
私は貴方との別れが悲しすぎて袖が涙で濡れています・・・・というような内容でしょう。
かくして実方は都から奥州古道を陸奥に向けて下ります。
富士山の裾野を足柄に向かい、海老名から鎌倉に向います。
鎌倉の手前、村岡に鎌倉権五郎景正の屋敷に暫く逗留します。
柏尾川の西側に小山があります。
現在は御霊神社の社殿がある鎮守の森ですが、地名「古舘/こたて」の示すとおりに権五郎景正の屋敷跡でありました。
屋敷と言っても山城のようなもの、後に前九年の役等で源義家は此処で兵を募ります。(旗たて山)
権五郎景正の処遇に感激したのでしょう、実方は屋敷森の上から田圃を見渡して詠みます。
民もまたにぎわいけり秋の田を 刈りておさむる鎌倉の里
(村岡の墓地にある実方の歌碑)
この歌碑は村岡一族の墓地の傍らにあります。
舘から眺めれば一面田圃でお百姓が沢山出て収穫に励んでいる。
田の中を柏尾川が蛇行して、その彼方には向かいの鎌倉山が眺められる。
鎌倉権五郎景正の所領は上手に治められていて感心するばかりです・・・。
そんな気持ちが込められています。
湘南に病気(結核)逗留した正岡子規も訪れ、実方を偲んでいます。
既に陸奥の守としての心の準備も整っているようであります。
(村岡一族/鎌倉権五郎景政の子孫、と古舘の案内板)
奥州古道を私の住む倉田に下り、此処で一子を失います。
墓と墓守を残して、陸奥多賀城に入ります。(倉田での不幸は当ブログで既述)
早速に一条天皇の命に従い「阿古耶の松」を探し歩きます。
実方の夢枕に塩釜神社の神が現れます。
「阿古耶の松は 最上浦平清水千歳山にある」と告げます。
実方は旅支度を整えて最上に向います。
途中、名取郡笠島村塩出で道祖神の前を通り過ぎようとします。
人が忠告します。
「この道祖神には怨霊が居るので下馬して通るように、でないと祟ります」
でも、人の忠告など聞く耳を持たない実方でした。
乗馬したまま通り過ぎようとすると突然に馬が暴れ出し、もんどり打って実方は鞍から落ちてしまいます。
これが原因で実方は陸奥の守着任後3年、40歳で亡くなったと伝えられています。
(西行歌碑には実方の事故が書かれています)
一条天皇に「阿古耶の松発見しました!」報告し、「では都に戻れ」の人事を期待していたのでしょう。
何時まで待っても辞令は出ない・・・・、実方は失意で亡くなった、想像されます。
死んだ実方は赤い雀に変じて、都に戻り稲を食べて災いをしたと言い伝えられています。
それは、菅原道真が大宰府で亡くなった、その怨霊が雷神になった・・・・同じパターンでしょう。
歌人としての才能と併せて、不幸な人事に遭遇した・・・・、そんな面も西行、芭蕉の共感を呼んだのかもしれません。実方の墓を笠島の千歳山萬松寺に詣でます。
西行は
くちもせぬその名ばかりをとどめ置きて 枯れ野のすすき形見にぞ見る
さらに500年後、松尾芭蕉は吟じています。
笠島はいづこ五月のぬかる道
さらに500年後、松尾芭蕉は吟じています。
笠島はいづこ五月のぬかる道
(芭蕉句碑)
一条天皇の覚えよく、藤原行成は若くして蔵人の頭(大蔵大臣)になります。
歌の評を悪く言って、女性(清少納言)も地位もゲットしました。
冷静なものがいつの世も勝者になるようです。
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