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藤原実方の哀れ(人間怒った方が負けです)

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平安時代中期の歌人「藤原実方」と言うと、知る人も少ないかと思います。
しかし、「鎌倉時代西行を、江戸時代芭蕉を陸奥まで行かせた人物である」
と聞くと、「これは大物だ!」と言う事になるでしょう。
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(郵政公社 文の日切手で、藤原実方
かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしもしらじな燃ゆる思ひを)
 
物語は桜刈りに始まります。
一条天皇をはじめ宮中総出で桜がりに出かけます。
ところが突然に雨が降り出します。
大半の人が東屋を見つけて雨宿りして、降る雨をやり過ごそうとします。
しかし、藤原実方だけが桜の樹下に残ります。
桜の花陰で歌を詠みました。
 
    桜がり 雨はふりきぬおなじくは ぬるとも花の かげにやどらむ
 
花見の最中に雨が降ってきた。どうせ濡れるのならば花と共に濡れましょう。
そんな内容でしょう。
 
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                           (藤沢市村岡、古舘は鎌倉権五郎景正の舘の跡)
 
 
この歌が話題になりました。
宮中、満座の激賞の中で、若い藤原行成だけが批評します。
「技巧に過ぎて、真実味が無い」・・・・・と。
この評に、短気な実方は怒って行成の冠を鷲掴みして、庭に打ち捨てます。
行成は大人の風にして、拾いに行かせます。
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                              (古舘は御霊神社の森になっています)
 
一部始終を見ていた一条天皇は実方の振る舞いを叱ります。
「枕詞にある陸奥の3松、その中でも阿古耶の松はまだその所在が解らない。これを見て来い」
と命じます。
命令の意味する所は
「お前のような気性の荒い男は陸奥の守が適当だ」左遷人事だったのでしょう。
でも、松を確認したら直ぐに都に戻れる・・・・そう思った実方は娘などを残して陸奥に向います。
 
実方が大人気ない行動に走った原因は、清少納言との三角関係にありました。
そもそも、実方と清少納言は誰しも認める相愛の関係にありました。
ところが、若い行成が清少納言に接近してきます。
清少納言は行成に歌を贈ります。
  夜をこめて 鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ
 
「まだ夜中だというのに鶏の鳴き声を真似して、夜が明けたと私を騙そうとしても、逢坂の関が決して人を通さないように、私は貴方に騙されませんよ・・・・・」そんな意味でしょう。
読み様によっては「今晩は帰しませんよ・・・・・」とも読めるかもしれません。
才気に走った清少納言は若くて出世しそうな藤原行成、小父さんでプレーボーイの実方、二人と親密だったのでしょう。
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                                     (御霊神社のタブの木)
 
 
恋人実方の左遷を聞いた清少納言は歌を贈ります。
 
 思ひだにかからぬ山のさせも草 誰か伊吹の里は告げしそ
 
「貴方が陸奥の息吹の里にまで行かなくてはならない・・・とは驚くばかりです・・・・」そんな意味でしょうか。
実方は返歌します。
 
 かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしもしらじな燃ゆる思ひを

「私の思いは”どうだこうだ”言い表しがたい燃えるようなものですよ・・・・・」
さしも草とはお灸の材料になる蓬の事です。
燃える思いは「清少納言への愛情」であり、同時にこの度の左遷に拘わる怨念かもしれません・・・・。
 
すると、清少納言は歌を返します。
 
 とこもふち淵も瀬ならぬなみだ河 袖のわたりはあらじとぞ思ふ

私は貴方との別れが悲しすぎて袖が涙で濡れています・・・・というような内容でしょう。
 
 
 
かくして実方は都から奥州古道を陸奥に向けて下ります。
富士山の裾野を足柄に向かい、海老名から鎌倉に向います。
鎌倉の手前、村岡に鎌倉権五郎景正の屋敷に暫く逗留します。
 
柏尾川の西側に小山があります。
現在は御霊神社の社殿がある鎮守の森ですが、地名「古舘/こたて」の示すとおりに権五郎景正の屋敷跡でありました。
屋敷と言っても山城のようなもの、後に前九年の役等で源義家は此処で兵を募ります。(旗たて山)
権五郎景正の処遇に感激したのでしょう、実方は屋敷森の上から田圃を見渡して詠みます。
 
 民もまたにぎわいけり秋の田を 刈りておさむる鎌倉の里
 
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                            (村岡の墓地にある実方の歌碑)
 
 
この歌碑は村岡一族の墓地の傍らにあります。
舘から眺めれば一面田圃でお百姓が沢山出て収穫に励んでいる。
田の中を柏尾川が蛇行して、その彼方には向かいの鎌倉山が眺められる。
鎌倉権五郎景正の所領は上手に治められていて感心するばかりです・・・。
そんな気持ちが込められています。
 
湘南に病気(結核)逗留した正岡子規も訪れ、実方を偲んでいます。
既に陸奥の守としての心の準備も整っているようであります。
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     (村岡一族/鎌倉権五郎景政の子孫、と古舘の案内板)
 
奥州古道を私の住む倉田に下り、此処で一子を失います。
墓と墓守を残して、陸奥多賀城に入ります。(倉田での不幸は当ブログで既述)
早速に一条天皇の命に従い「阿古耶の松」を探し歩きます。
実方の夢枕に塩釜神社の神が現れます。
「阿古耶の松は 最上浦平清水千歳山にある」と告げます。
 
実方は旅支度を整えて最上に向います。
途中、名取郡笠島村塩出で道祖神の前を通り過ぎようとします。
人が忠告します。
「この道祖神には怨霊が居るので下馬して通るように、でないと祟ります」
でも、人の忠告など聞く耳を持たない実方でした。
乗馬したまま通り過ぎようとすると突然に馬が暴れ出し、もんどり打って実方は鞍から落ちてしまいます。
これが原因で実方は陸奥の守着任後3年、40歳で亡くなったと伝えられています。
 
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                              (西行歌碑には実方の事故が書かれています)
 
一条天皇に「阿古耶の松発見しました!」報告し、「では都に戻れ」の人事を期待していたのでしょう。
何時まで待っても辞令は出ない・・・・、実方は失意で亡くなった、想像されます。
 
死んだ実方は赤い雀に変じて、都に戻り稲を食べて災いをしたと言い伝えられています。
それは、菅原道真が大宰府で亡くなった、その怨霊が雷神になった・・・・同じパターンでしょう。
 
歌人としての才能と併せて、不幸な人事に遭遇した・・・・、そんな面も西行、芭蕉の共感を呼んだのかもしれません。実方の墓を笠島の千歳山萬松寺に詣でます。
 
西行は
  くちもせぬその名ばかりをとどめ置きて 枯れ野のすすき形見にぞ見る

さらに500年後、松尾芭蕉は吟じています。
  笠島はいづこ五月のぬかる道 
 
 
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                                            (芭蕉句碑)
 
一条天皇の覚えよく、藤原行成は若くして蔵人の頭(大蔵大臣)になります。
歌の評を悪く言って、女性(清少納言)も地位もゲットしました。
冷静なものがいつの世も勝者になるようです。
 
 
 
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灯篭流しの”文化”について

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8月16日はお盆の送り火、この日の夕闇時刻、全国各地で「灯篭流し」が行われたでしょう。
私の住む、横浜戸塚でも納涼祭にあわせて、柏尾川で灯篭流しが行われました。
柏尾川は源流から河口まで僅か15キロ余りの2級河川です。
戸塚辺り農耕遅滞では暴れ川の治水の歴史、下流の大船から片瀬にかけては古戦場の舞台としての歴史があります。
19日には「首塚祭り」での灯篭流しが予定されています。
柏尾川は「灯篭流し」がよく似合います。
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  (宵闇が近づくと灯篭流しが始まります。橋は桜橋)
 
 
「全国一、美しい灯篭流しは何処かしら?」
訊ねられれば、私は躊躇わず「嵐山渡月橋の灯篭流し」と答えます。
25年前、私は8月の定例異動で、大阪支店勤務(長銀次長)を命じられました。
大阪の暑さは体に堪えました。更に、赴任挨拶の最中に日航機の墜落事故(8月12日)が発生しました。
私は通常仕事に加えて、会葬挨拶が続きました。
肉親の不幸に見舞われた人にお悔やみを申し上げながら、思いました。
「無常たのみ難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、命は光陰に移されて暫らくも停め難し」
道元禅師の教えを・・・・・・。
 
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  (灯篭には故人の戒名などが書かれこの1年亡くなられた方のご冥福を祈っています)
 
 
多忙を極めた8月16日、私は銀行業務が終えると、淀屋橋から電車に乗って、京都に向いました。
目的は嵐山渡月橋、五山の送り火と、灯篭流し、両方が眺められるのです。
保津川が桂川に名前を変えるのが嵐山、そこから灯篭が流されます。
蝋燭の灯りが水面に灯篭の陰を落として、揺れてゆきます。
灯篭を流す人は、故人の魂の冥福を祈ります。
眺める人は、何を思うのでしょうか?
お世話になった人に感謝して、
悲しい思い出、悔しい思い出、忘れてしまいたい出来事など・・・・・、みんな水に流してしまいたい・・・・思っているのかもしれません。
 
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                            (次第に暗くなると灯篭は美しさを増してゆきます)
 
灯篭流しは川が小さくては駄目、大き過ぎてはこれも良くありません。
向こう岸が見渡せる、そんな大きさが相応しいのです。
加えて、歴史があれば良し。
その歴史が人の営みの罪過を深くしていれば、尚一層情趣が濃くなるようです。
 
嵐山で、灯篭流しを見詰めていた浴衣の女性が呟きました。
お精霊(おしょらい)さんが帰らはる-」
 
「精霊流し/しょうろうながし」の精霊とは人魂、霊のこと。
帰る先は淀川を下って難波の海でしょうか?
霊は川を下って海に出ます・・・・海洋文化、「海の民」の伝統でしょう。
五山の送り火は、霊が山の上に戻る意味でしょう。
こちらは狩猟文化、「山の民」の伝統でしょう。
精霊流しは弥生文化、送り火は縄文文化か、私達日本人は双方の血が流れているのでしょう。
 
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精霊流しは平安時代に始まったと言われます。
鎌倉時代の「明月記/和歌の藤原定家の日記」には、寛喜2年(1230年)7月14日、京都で精霊迎えのため、高灯籠が用いられたとあります。
定家の家は嵐山に近い小倉山にありました。
応仁の乱では廃れますが、日野富子(第8代将軍足利義政夫人)の支援により復活し、室町時代にはすでに盛んにおこなわれていたといわれます。
今日の姿になったのは江戸時代で間違いないでしょう。
江戸時代になると庶民の間にも仏壇やお盆行事が普及します。
又ローソクが大量生産されます。
提灯がお盆にも広く用いられるようになりました。
現在の「切子灯篭」に蝋燭を灯して川面をユラユラ照らす、あの風情は江戸時代になって初めて可能になりました。
まさに「文化」でありましょう。
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柏尾川の川風が涼しさを運んできてくれます。
流行歌「千の風になって」が流れます。
さだまさしの「精霊流し」はもう古いのかもしれません。
屹度、「千の風になって」の方が見守る人の思いにフィットしているのでしょう。
河川敷に張り出たデッキでは、ハワイアンダンスが始まりました。
町内のおばさん(お婆さん?)達が、腰を振っています。
まあ、まあ相変わらずお元気な事で・・・・・。
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 (フラダンスをお見せするご婦人方・・・)
 
堰堤の桜並木の樹陰には夜店が連なっています。
向こうでは炭坑節が鳴り出して、盆踊りが始まるようです。
今晩(16日夜)は9時まで賑やかです。
霊は仏になる前の一時、賑やかな事が好きと聞きます。
お通夜の精進あげのように。
これで、良いのでしょう。
 
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補注:「精霊流し」は藁で作った舟を川や海に流して行う盆送りの行事です。江戸時代「灯篭」の革新(蝋燭と切子細工を使った灯篭の工夫。回し灯篭はその一つ)が行われると、灯篭流しとなりました。玉菊燈籠/江戸吉原、などが出現、関東では灯篭流しが一般的であります)西の方では灯篭を流しても「精霊流し」と言われているようです。
 
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盆踊りの文化(戸塚納涼祭りで)

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戸塚の「納涼祭」の出し物は「灯篭流し/昨日記述」ともう一つが「盆踊り」です。
灯篭流し会場のお隣が戸塚小学校、この校庭をお借りして、戸塚区27万人の盆踊り大会が行われます。
物見遊山で会場に、傍らで眺めていた所、櫓に登って挨拶をするように指示されました。
櫓の上には葛西区長、議員さんたち、そして戸塚区の町内会連合会の役員。
私はその町内会連合会の役員として挨拶しろ・・・との事でした。
市会議員さんは浴衣姿で・・・・、粋なものです。
挨拶が済んだら、一緒に輪になって踊ろうと・・・・そんな積もりなのでしょう。
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 (戸塚納涼祭り、主催者挨拶。この後、筆者も挨拶させられた・・・)
 
盆踊りには何処か哀愁が漂います。
郡上八幡の盆踊りも、おわら風の盆も、鎮魂のお祭です。
戦争で亡くなった者、百姓一揆で処刑された者、様々な不幸が由縁になりました。
死者や祖先の魂の鎮魂を目的に踊る訳ですから、何処かに郷愁や哀愁が漂うのでしょう。
日本人のDNPには「盆踊り」が刻まれています。
それは弥生文化の昔からかもしれません。
ジャワの民族踊りは盆踊りのようです。
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                                    (郡上踊り、郡上八幡市HPから)
 
盆踊りに欠かせないのは、浴衣に下駄、お囃子に三味線・・・・・、
どれもこれも江戸時代に開発されたものです。
現在の形は江戸時代、長期にわたる平和な時代に出来上がったものでしょう。
盆踊りの主役が庶民(町民や農民)になって、隣町や村単位で行われるものになったと思われます。
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 (櫓の向こうが戸塚区役所庁舎)
 
でも、こうした芸能は突然に出来上がる事はありません。
その前の時代に大流行する伏線があるものです。
安土桃山時代に京都の町に「町衆」が出現します。
彼らは応仁の乱で荒れた京の町に出現します。
鴨川の川原で能を演じ、大道芸を見せ、風流踊りに興じます。
歌舞伎の祖と言われる、阿国(おくに)も川原で風流踊りの演じ手でした。
色っぽい阿国が踊って、町衆も踊る・・・・・盆踊りの形があったと思われます。
 
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                                 (写真上部に上弦の月が昇っています)
 
鎌倉時代には融通念仏が盛んになります。
京都には空也上人が登場、首から鉦鼓を吊るし、これを打ち叩きながら「並阿弥陀仏」・・・・・・。
歌うように念仏を唱えます。
末法に時代に危惧していた人々は空也上人に続いて、「ナムアミダー・ナムアミダー」
行列を作って、歌声念仏が町に響きます。
 
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                                 (空也上人像、六波羅密寺HPから)
一遍上人は鎌倉をはじめ全国各地を遊行します。
空也上人との違いは打楽器の「鉦鼓」を持っていないこと。
「ナムアミダー・ナムアミダー」唱えながら踊ります。
踊る楽しさが苦しみや悲しみから人を解き放ってくれます。
集団で踊り念仏を唱えますので「踊念仏」と呼ばれました。
 
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     (一遍聖絵/国宝から)
 
現在の盆踊りには「融通念仏/歌声念仏」と「踊念仏」、双方の要素を残しています。
 
更に、その前の時代、平安時代に「盆踊り」の要素があったか・・・否か?
明らかな芸能は思い当たりませんが・・・・何かあった筈でしょう。
 
しかし、盆踊りには500年を越える歴史があった事になります。
古い芸能が、新時代になり、芸能の担い手が変わって、新しい風俗が加わり、深化(進化)します。
深化が進めば進むほど日本人の遺伝子に刻まれてゆきます。
 
戸塚盆踊りの輪は三重四重に重なります。
踊りはマダマダ9時まで続きます。
私は未だ夕食前、家内は食卓を用意し、帰りを待っている筈です。
町内の方が生ビールを持ってきて、しきりにすすめてくれます。
小学校の校庭にはそこかしこでビールを楽しんでいます。
火照った頬を柏尾川の川風が通り過ぎてゆきます。
 
またまた「炭坑節」のレコードがかかります。
炭坑節は盆踊りの定番でしょう。
「あんまり煙突が高いので、さぞやお月様煙たかろ・・・・・」
高らかに歌い、踊ります。
もう、三井・三池の炭鉱が閉鎖されて半世紀になろうとします。
でも、日本人は炭坑節が好きなのは、あの時代が好きなのでしょう。
昭和30年代・・・貧しくてもハートのある時代でした。
夢も大きく、戦争の不安から解き放たれた時代でした。
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(バックは戸塚小学校の校舎)
 
三井・三池の炭鉱跡には何度も行きました。
でも、高い煙突はありませんでした。
ピラミッドのようなボタ山だけが記憶を留めていました。
炭鉱の煙突は・・・・・どうなったのかな?
 
お月様を見上げると、上弦の月が区庁舎の上に架かっていました。
 
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                                  (屋台が続きます)
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足柄峠の白塗り地蔵

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足柄峠の白塗り地蔵

神奈川新聞に、仏像ガール廣瀬郁美さんがによる南足柄の朝日観音が紹介されていました。
久々、足柄峠に石仏見学に出かけようか・・・・。
8月16日、お盆の送り火の日、家内と一緒に出かけました。
 
横浜から出かけると、大雄山道了尊の西を登って行きます。
正面に見える金時山が箱根外輪山の最高峰です。
その横の明神ヶ岳では今晩大文字焼きが焚かれます。
芦ノ湖側からは大勢の観光客が、お盆の送り火を見上げる事でしょう。
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                            (バイパスの路傍、拗壁を切り拓いて石仏群が祀られていました)
 
箱根の道が街道として拓かれたのは江戸時代でした。
それまでの街道(奥州古道)は箱根の山を迂回していました。
奥州平定に向った坂上田村麻呂も西行法師も三島から足柄を越えて国府のあった海老名に向いました。
歴史のある街道は石仏の宝庫でもあります。
足柄峠には馬頭観音が目立ちます。
峠道であることから馬が大切にされたのでしょう。
また、双体道祖神に美しいものがあります。
何れも僧形のお地蔵さんが二体並んだものです。
お地蔵様は三途の川の渡しで亡者を導く方、峠の向こうから災い(天然痘などの疫病)が来ない様、「賽の神」の役割なのでしょう。
同時に旅人の安全を守る神様でありました。
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           (浮世絵美女のような馬頭観音)
芭蕉も足柄峠を越えて旅をしました。
箱根を越えずに迂回路を通って遠回りをしたのは、先人の通った道を歩きたかったからでしょう。
芭蕉も見たであろう道祖神に並んで句碑が置かれていました。
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  芭蕉句碑/目にかかる時やことさら五月富士 
  (元禄7年5月に峠を越えている。5月は伊勢物語東くだりを踏まえている。同年芭蕉は死す)
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  (芭蕉句碑の横に置かれていた双体の道祖神)
 
 
目指した「白地蔵尊」は苅野村を過ぎた、路肩にありました。
昔は旧道(矢倉沢往還)にあったものと思われますが、バイパス道路を拓いて、其処に近隣の石仏を集めたようです。
お顔が下膨れ、お多福の観音様も魅力があります。
もしかしたら、旅籠の女将をモデルにしたのかもしれません。
そう思ってみると、舟形光背の表面に刻まれた模様(唐草文様)も小紋風でお洒落です。
馬頭観音も穏やかな女性のお顔です。
一寸、柔らかそうな頬っぺたを人差し指で突っついてみたくなるような、魅力があります。
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        (観音像)
 
そんな石仏群の真ん中に櫓が組んであって、真ん中に白地蔵尊が祀られています。
お顔も体も真っ白です。
傍に案内がされていました。
『安産と授乳に霊験があると伝えられる。お礼参りには尊体にうどんこ(小麦粉)を塗りつける習慣が続いている。室町時代以前から祭られていたと思われる。』
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うどん粉が使われているのは、この地に麦作が多かったからでしょう。
峠道先には地蔵堂があって、美味しいうどん屋(万葉うどん)もあります。
勿論、何時ごろから、どんな経緯があって始まったのか全く解りません。
明治以降でに始まったのなら、白いウドン粉は脱脂粉乳の代わりだったのかもしれません。
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  (地蔵菩薩坐像、右手の錫杖(しゃくじょう)判別できます。左手の宝珠(ほうじゅ)はそれらしき形です)
 
化粧地蔵と言えば若狭小浜のお地蔵さんが思い浮かびます。
地蔵盆にかけて、子供達は町の辻叉に祀られているお地蔵様を綺麗に洗って、クレヨンなどでお化粧して差し上げます。
「お地蔵様を大切にしていますよ・・・・」
そんな心が形に表れています。
「・・・・大切にしていますから・・・・私が大人になれるよう・・・天然痘にならないよう守ってくださいね!」
そんな心も垣間見られるようです。
 
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   (馬頭観音に赤いゆだれかけがかかっていました。お地蔵様も観音さんも同じようなもの?)
 
子供が石仏を化粧する・・・・・
最も美しいのは信州安曇野の化粧道祖神でしょう。
此方の道祖神は賽の神でも旅人の守り神でもありません。
男女の神様が並んで、手を繋いだりして・・・・「夫婦和合の神様」です。
小正月、どんど焼きにあわせて、道祖神を綺麗に磨いて、また新しくお化粧します。
子供心にはこんな風に映るのでしょう。
「お父さんとお母さんは仲良くして、自分が産まれました」
「仲良くする事は大事なことなのです」
 
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    (安曇野双体道祖神/男女神と言ったほうが適当?)
 
傍らの石仏はお顔が欠けてしまっています。
廃仏稀釈の嵐が吹いた、そのときの仕業でしょう。
歴史は時に狂気が吹き荒れます。
石仏を大切にするのも、壊すのも同じ人間がすることです。
掌を表にするか裏を返すか・・・・そんなに簡単に真反対の行為をします。
狂気にならないよう、冷静、理性的な判断が大切でしょう。
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 (この石仏は二十三夜塔と思われます。天女のお顔が欠けているのが残念です。地蔵堂にて)
 
 
 
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霊気満ちる道了尊

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足柄峠からの帰り道、私は家内に訊ねました。
「この前道了尊にお参りしたのは何時だったかな?」
家内は言います。
「子育てで忙しかったので、一緒に行ったことは無いでしょう!」
齢とともに記憶が朧になって、不用意な発言で私は責を負い始めます。
「まあ、まあ一緒に行ったか同課は別にして、道了尊の門前を素通りは出来ない。お参りして帰ろう」
 
全国各地に曹洞宗の修行道場があります。
一番有名なのは福井の「永平寺」、本山ですから当然でしょう。
でも、一番に霊気が満ち、神々しいのは「大雄山道了尊最乗寺」でしょう。
2年前道元禅師の一生を描いた「禅」が封切りされました。
ロケ地にも此処道了尊が多く使われていました。
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       (参道は杉/天然記念物の間をクネクネ続きます)
 
山門から、本堂までは2キロ近くあるでしょう。
老杉の樹林の下を細い参道がうねうね続いています。
参詣客の為に自動車道が出来ていますが、本来の参道と平行して走っています。
歩行者の休憩所として茶屋が用意されています。
18丁目茶屋、22丁目茶屋等と案内されています。
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              (奥の院への石段、十一面観音が本尊で・・・)
 
地元では、一般に「道了尊」と愛称されています。
「最乗寺」と言えば、「それ何処のお寺さん?」と聞かれるでしょう。
道了尊とは修験道の行者「相模房道了尊者」のこと、
ですから、禅の道場という側面と修験道の霊地としての側面があるのです。
奥の院のご本尊が十一面観音ですから、33観音様が参道に祀られ、奥の院まで続いているのでしょう。
 
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              (参道脇の観音像)
 
参道の両脇に旗がたてられています。
今年は開山了庵慧明(りょうあんえみょう)禅師の600年忌になるのだそうです。
慧明禅師は相模国大住郡糟谷の庄(現在の伊勢原市)に生まれます。
藤原姓の地頭でありました。
ところが乱世の無常に虚しさを覚え出家します。
能登総持寺の峨山禅師をはじめ多くの師の指導を受けます。
相模の国に帰り、曽我の里に竺土庵を結びます。
 
夢に一羽の大鷲が現れます。
自分の袈裟をつかんで足柄の山中に飛び大松(袈裟掛けの松)の枝に掛けてしまいます。
その啓示によって山中に大寺を建立を発念、大雄山と号します。(応永元年(1394)3月10日)
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   (旗は開基了庵禅師の600年忌を示しています)
 
道了尊は 大雄山を拓く話を聞き、三井寺園城寺から空を飛んで、了庵禅師のもとに参じます。
修験者の力を結集して、大伽藍の実現を見ます。
御真殿の前に大天狗、小天狗が並んでいますが、大天狗とは道了尊のこと、小天狗は従った修験者の事でしょうか。
短期間の間に、大伽藍を実現、しました。
神々しく壮大な寺を見上げた人々は驚きの声を発しました。
「これは人間技ではない、天狗の仕事だ!」
天狗は大雄山を開創し、出来上がれば寺を守って現代に到ります。
 
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                           (御真殿前の小天狗/カラス天狗。今はお寺を守る役目)
 
道了尊は明神ヶ岳の登山道にあります。
明神とは「神」に畏敬を込めて呼んだ言葉。
何処の山には神が住まいますが、とりわけ神々しい山でありました。
山の北麓に道了尊が、南の頂には大文字焼きが行われます。
 
天狗(修験者)達は、山麓の大樹を切り倒し、岩を組んで大伽藍を実現しました。
その、獅子奮迅の活躍ぶりは、まさに神業だった事でしょう。
樹齢500年もの老杉は今もなお樹勢が衰えません。
梢の緑も生き生きしています。
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                               (最乗寺本堂、一面の緑に慣れた目に百日紅が新鮮でした)
 
樹の根元には余り光も届きません。
辺り一面、藪茗荷が群生しています。
茗荷は生姜の仲間、ところが藪茗荷は露草の仲間です。
でも、艶々した葉っぱが茗荷を思わすので、藪茗荷の名前を頂戴しているのでしょう。
杉の樹陰には他の植物は入り込めないほどに密生しています。
いま、ヒグラシ蝉が鳴く季節、藪茗荷は一斉に白い花をつけています。
もう一月もすれば青紫の実を結ぶ事でしょう。
 
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                                             (藪茗荷の群生)
 
艶々した葉っぱを見ると、天狗の団扇のようにも見えてきます。
一面の緑を見ていると、この場所は神様の降臨するお座布団(座)に思えてきます。
 
横浜からホンの先に神々しい大寺院があることは嬉しい事です。
美しい自然と、お寺を大切にする気持ちと、先人の仕事を子々孫々に伝えたいものです。
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弘済寺、地蔵フェスティバル瓦版

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弘済寺、地蔵フェスティバル瓦版

大雄山駅では熊にまたがった金太郎(銅像)が出迎えてくれます。
此処から足柄峠、更には峠向こうの山北にかけては、昔から夏の林間学校が盛んでありました。
昔も今も、男子なら金太郎のように、力持ちで親孝行、成人したら大江山の酒呑童子を退治する、そんな人になってほしい・・・・、願うものでしょう。
 
駅西を金時山に向えば、金太郎が生まれ育った足柄山に続きます。
流石に足柄道、道路の左右、辻には石仏が目立ちます。
多いのは道祖神に馬頭観音です。
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                                   (弘済寺入り口の辻にも石仏が祀られていました)
 
景行天皇の皇子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は東征に際し、足柄峠を越えようとします。
ところが峠で白鹿が出現、戦う場面があります。
日本武尊は食事の残り、「蒜」(ノビル)を投げつけます。
蒜が鹿の目に当たって、鹿が死んだという話です。(古事記)
 
鹿とは山賊か東征に反対する地方の郷士でしょう。
ノビルは精が付き、薬効の高い植物、大蒜(にんにく)のようなものです。
古代からこの峠を越える道は、大変な難路だったのでしょう。
近世、行き交う人が増えると、旅人を守る道祖神、馬を守る馬頭観音が信じられ、祀られたのでしょう。
もう一ヶ月もすればこのあたりは曼珠沙華が一斉に咲き出すことでしょう。
石仏が一番美しく見える光景を求めて、また出かけることになるでしょう。
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(弘済寺本堂、足柄神社の別当寺です。本堂の意匠は神社の本殿と瓜二つで・・・)
 
 
弘西寺町の辻に石仏が並んでいます。
石仏に誘われて露地を奥に奥に進んでゆくと、弘西寺の境内に辿りつきました。
弘法大師像がこの寺が真言宗の古寺であることを示しています。(足柄神社の別当寺)
私も家内も寺の掲示板に吸い寄せられます。
「弘済寺瓦版」が掲示されていたのです。
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                                                   (手作り瓦版)
 
瓦版の作者は書画家・田中太山氏、この寺で毎月「書画教室」を開校している様子。
今年も「地蔵まつり」(7月23日)に際して、6枚の大襖絵を作成、本堂に奉納した模様でした。
更に、真言宗・多聞寺住職で落語家の桂米裕氏の高座があって、
万葉うどんの食事がついて、入場料が1,500円であったようです。
笑って、食べて、お地蔵様に守られて、楽しい一日であったことでしょう。
これぞ、地蔵フェスティバルでしょう。
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地蔵講は毎月23日(場所により24日)、
信者が集まって、延命長寿、無病息災を祈ります。
山形や会津などでは手打蕎麦が振舞われます。
足柄では名物の万葉うどんが楽しめるのでした。
地蔵講を発展して、地蔵フェスティバルにしたのでしょう。
7月を選んだのは、新暦の地蔵盆だからでしょうか?
 
 
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(6枚の新作襖絵、お地蔵様が優しく、笑顔で、・・・・・本堂に奉納されたそうです)
 
地蔵堂は参道脇にありました。
外観は風雨に曝されて痛んだ様子ですが、内陣は立派なものです。
また、綺麗に掃除され、埃もありませんでした。
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                                    (地蔵堂の内陣)
 
お堂の本尊は地蔵菩薩像、中々に立派なものでした。
堂内には県博物館学芸員薄井和雄氏の学術調査報告が掲示されていました。
・鎌倉時代末期から室町時代初頭に作像されたこと
・鎌倉地方様式(法衣が台座の下まで垂れ下がっている/法衣垂下)が顕著で、従来旧鎌倉郡程度の狭い範囲と考えられていたものが、神奈川西部まで広がっていた事が実証された。
・江戸時代に解体修理された記録が胎内に収められていた。
以上がその要点でありましょう。
 
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地蔵堂の周囲は石仏が囲んでいました。
お地蔵様に大日如来・・・そして庚申塔に・・・・
沢山の石仏、石神が並んでいます。
 
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(地蔵堂の周囲の石仏達)
 
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横浜の里山に棲む「カワラヒワ」

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テレビで座間の向日葵畑が放映されていました。
子供達が一面の向日葵畑の中に作られた迷路を元気に走り回っています。
 
私の住む戸塚では向日葵迷路こそありませんが、其処此処に向日葵の花を見る事が出来ます。
柏尾川の堤防にはボランティアの方が植えた向日葵が頭を垂れています。
花が終えて、ビッシリ種が実り始めたのです。
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 (舞岡、路傍に咲いた風蝶草。今日の話題カワラヒワの舞台は此処)
 
向日葵の見事だった花が終えて、頭を垂れて、葉っぱが破れた様は季節感があります。
蓮の花の場合は「破蓮」とか「敗蓮」とか呼ばれ、戦場の跡、敗軍が矢が尽き、刀が折れた様をイメージしています。
枯れる向日葵は沢山の種を残し、野鳥を守る訳ですから「敗向日葵」では気の毒です。
今お寺では「施餓鬼の法要」が営まれています。
向日葵の姿こそ、施餓鬼(野鳥に食を施す)の姿のように思えます。
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                                (向日葵ももうお終い、画面中央にカワラヒワがいます)
舞岡自然公園でも畑の畔に向日葵を植えています。
花が綺麗だから、そして野鳥を守りたい、そんな意図が潜んでいます。
 
舞岡公園の地区外、市街化調整区域は田圃や畑、葡萄や梨の果樹園が混在しています。
そんな一角、薩摩芋畑の道路脇に一列の向日葵が植えてありました。
背丈が低く、花数が多い向日葵です。
良く見かける、茎の天辺に大きな顔のような花をつける向日葵と違います。
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  (舞岡のぶどう園、日曜日に葡萄狩、梨狩りが催されています)
 
もう、花も終えて、散った跡では真っ黒な実をつけています。
葉っぱも枯れて少し惨めな姿です。
「もう、夏もお終いだなあ・・・・・」感じさせます。
向日葵の中に目立たない野鳥がせわしなく、アッチの花跡、コッチの花跡、飛び回っています。
雀かな・・・・、ぼやっと見ていたのですが・・・・・・。
雀よりスマートな体です。
羽の一部に黄色いのです。
「あ!川原鶸/カワラヒワだ」
二羽、三羽、居る居るもっと居る。
 
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向日葵がカワラヒワの保護色になっています。
止まっていれば見分けがつかないのですが、せわしなく動いたり、縄張りを争ったりするので、目立ってしまいます。昔はヒワも多かったのですが、最近では余り見かけなくなってしまいました。
里山が少なくなって、好物の草の種が少なくなってしまったのが原因でしょう。
わざわざ、好みの向日葵を育てる努力が野鳥を回復させているのでしょう。
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(縄張りに入ったカワラヒワの争い)
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(奥はカワラヒワ、手前は?)
 
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大船の「離山地蔵尊」のお話

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笠間の十字路には「鎌倉道」の道標がたっています。
小さな祠の中には石仏「延命地蔵」が祀られています。
ご近所の方が祠の周囲を花壇に飾っておいでです。
真っ直ぐ南下して、離山地蔵尊前に出ます。
この間道路標識は「離れ山通り」となっていますが、鎌倉住民は「松竹通り」と呼んでいるようです。
今でこそ松竹大船撮影所はありませんが、撮影所は地域の誇りでした。
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                                                 (笠間の延命地蔵尊)
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                                                        (笠間の道標)
 
「松竹通り」は実は「鎌倉街道中道」と重なっていました。
起点、終点ともお地蔵様、中間の青木神社前にも、今泉不動尊の参道分岐点にも石仏が祀られています。
石仏は季節や時間、天気によって表情が違います。
 ですから、私は度々この道を通って鎌倉府内に入ります。
 
三菱電機前あたりで、何処からともなく、祭囃子の音が流れてきました。
8月22日は何処かのお祭のようです。
このあたりには神社があったかしら?
 
祭囃子は離山地蔵尊の屋根(テント)の上、スピーカーから流れています。
そう、今日のお祭は「離山地蔵尊」のようです。
見れば地蔵尊の向かいの駐車場にテントが張られて、中にはお年寄りが六人程集まってお茶を飲んでいるようです。
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                                (離山地蔵尊、左テントにお祭の主催者が待機しています)
 
 
これはチャンスです。
日頃から興味を持っていました離山、石仏の事を詳しく聞くことが出来ます。
お年よりも私を歓迎してくれそうです。
 
 
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                                            (離山地蔵尊の祠)
 
 
 
大船一帯は一面の田圃でした。
その中に鎌倉道が走っていて、田圃の真ん中に三つの小山がありました。
地蔵山、長山、腰山、この三山を総称して離山と呼んでいました。
田園地帯を見下ろす山ですから、小さくても、越後の国上山のようなものです。
山麓には10を越える塚が建てられ、死者を弔たり、神仏を祭っていました。
江戸元禄時代には、山頂に石仏(地蔵尊)が祀られていました。
地蔵山と呼ばれる由縁でした。
 
お地蔵様のお告げがありました。
「山頂(50メートル)では村人の参拝も負担であろう、山裾に祀ってくれれば村人に幸いをもたらせよう」
また、こんな噂も流れました。
目を蜂に刺されたカラスがいました。困っていたところが、このお地蔵様が治してあげました。
この一部始終を見ていたのは狐。
狐は村中に「目に霊験のあるお地蔵様だ」伝えました。(鎌倉子供風土記)
 
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                                              (離山地蔵尊)
離山の山麓には結核病棟もあったそうです。
山には村人の愛着もありました。
でも、山を切り崩して田圃を埋めたら、町は大きく発展するだろう・・・・。そんな想いもありました。
「お地蔵様も山から下に下りたい、期待しておいでなら・・・・・・」
 
昭和13年頃から離山は崩され始めました。
崩した土で田圃を埋め立て、大船小学校が出来、三菱電機が進出して、松竹撮影所も資生堂も出来ました。
何よりも駅に近い市街地が出来ました。
山が完全に無くなったのは昭和58年でした。
 
で・・・・気になった祭囃子です。
「お地蔵様に祭囃子は似合いませんよね・・・・?」
お年寄りに尋ねてみました。
 
離山にも小袋坂にもお神輿はあるものの、神社が・・・・・ありません。
でも、地域は夏祭りを行いたい。
そこで、離山地蔵尊を祭りの集まる場所にしたまでのこと。
昨晩の盆踊りは
学校のグランで行ったし・・・・・・。
今日はもうじき各町内から子供神輿が担がれてくる・・・・。
 
なんていうことは無い。
私の住む小田急分譲地も山を崩して出来たところ、神社も無ければ寺も無い。
でも、盛大に夏祭りは行っています。
皆が集まりやすい場所、それがお地蔵様の前だったまでのことでした。
 
お地蔵様と祭囃子は全く無関係なのでした。
でも、今日ばかりは、お地蔵様を綺麗に飾って、お地蔵様の期待通りに沢山の人に参拝してもらうようにしたまでのことでした。
 
地蔵尊はゴツゴツとした体躯の坐像です。
お顔も持物も荒削りで良く解りません。
「 これこれ石の 地蔵さん. 西へ行くのは こっちかえ・・・・」(美空ひばり 花笠道中)
と歌われたお地蔵さんとはえらく違った、恐い、修験のような地蔵尊です。 
そう思って、地蔵堂の裏に廻ると、其処に馬頭観音様が祀られていました。
此方は優しげで、美しい。
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お年寄りの茶飲み話は延々と続きます。
「昔はどうでしたか?」・・・質問は格好の話のきっかけだったようです。
話はついつい結核病棟の話になってしまいます。
もう、お寿司も無くなってしまいました。
そろそろ、おいとますることにしましょう。
 
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秋の気配(藤沢新林公園で)

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目にも、耳にも、肌にも感じられる秋の気配(藤沢新林公園で)

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                                                 (新林公園、ミソ萩の花)
 
 
8月22日、東戸塚小学校で開校60周年記念行事の実行委員会がありました。
私は実行副委員長、暑いといって休む訳にも行きません。
PTAや学校の先生達は口をそろえて、
「もう、今週末は学校が始まる。マダマダ暑いので夏休みと思っていたのに・・・・・」
 
いつもの年なら、立秋(8月7日)が過ぎたら、残暑。
時々秋を感じさせる涼風が吹いて、処暑(8月22日)になれば暑さも収まる筈であります、
でも、今週の天気予報は夏日が続く、とのこと。
まだまだ、気合を入れておかないといけないようで・・・・・す。
 
 
 秋来(き)ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる(古今集169 藤原敏行)
 
「立秋の日に詠んだ歌」と頭書きがされています。 
「秋が来た」と目にははっきりと見えないけれども、風の音にはっと気づいた。
そんな意味でしょう。
 
平安時代人の常識は、立秋の日を過ぎれば風が吹き増すことだったのでしょう。
「目に見る」「音に聞く」と、季節の推移を感覚で捉えます。
 
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     (棚田は休耕田に、地元のお爺さんが初夏に花菖蒲、初秋にミソ萩が楽しめるよう手入れをしています)
 
マダマダ暑くとも、目にも耳にも忍び寄る秋が感じられる・・・・・
そんな感覚は1000年以上の間日本人の共感をよんで来たのでしょう。
 
藤沢の新林公園に出かけて見ました。
此処は鎌倉山の西端、片瀬山の麓の棚田を自然公園として残したものです。
季節を感じるのは、自然が豊かな場所が最高です。
アスファルトの上や、ビルの中では「立秋」は左程は感じられません。
 
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池の畔に大きな杉(曙杉の種類)が立っています。
子供が梢に虫取り網をかざして、蝉取りに夢中です。
お父さんは倅に蝉を取らせたい、世話を焼いています。
お母さんは、少し憮然とした表情のようです。
「せっかくの夏休み、旅行にも行かないで!」
お怒りだったのかも知れません。
 
もう蝉も「つくつく法師」が鳴いています。
「暑い夏もオーシーツクツク、お終いだよ!」
告げているようです。
私もこの蝉が鳴きき出すと、夏休みもお終い、宿題を急がなければならない・・・・思っていました。
 
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(姫蝦蟇の穂も大きくなって、秋の準備は進んでいます。案山子には村岡小学校親爺の会、と記されていました)
 
今では棚田は2枚しか耕されていません。
村岡小学校、片瀬小学校の二校だけ・・・・・・。
残りの大半は雑草が生えています。
でも、件のお爺さんが手入れをしているので、今は一面「ミソ萩」が咲いています。(放置された棚田に花菖蒲を植えているお爺さんが居ます/当ブログで既述)
ミソ萩は地蔵盆の供花には欠かせない花でした。
赤紫の花の先に朱色の赤とんぼ、シオカラトンボが体を休めています。
 
棚田を耕しているのは、小学校のPTA,「親爺の会」です。
案山子にそのように書かれています。
小学校の先生も都会育ち、棚田が教育材料に優れている事は解っていても、お米作りは知らないのでしょう。
私の住む倉田の小学校も棚田を耕していますが、主役は農家のお爺ちゃんです。
10枚ほどの棚田の大半は、年中水が張られ、水草が繁茂しています。
「ビオトープ」とは言いようで、手数が足りないまでの事です。
棚田は棚田、全部に水が張られ、稲作されるのが一番良いに決まっています。
 
草叢では虫の音も響き始めました。
 
目にも、耳にも、頬を吹き渡る風にも、秋を感じられる季節になってきました。
 
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足柄地蔵堂、万葉うどんの味

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足柄の峠道は、古代からの難路だったのでしょう。
都から相模、武蔵、そして陸奥には、険しい峠を越えなくては、行けませんでした。
先日紹介した日本武尊も此処で難渋しました。
坂上田村麻呂も八幡太郎義家もこの古道(東海道・奥州古道)を越えて討伐に向いました。
 
万葉集にも足柄は数多く詠われているようです。
長歌なので少し重たいのですが、すぐれているので紹介します。作者は田辺福麻呂でした。歌詞に「足柄を越えようとした折、行き倒れた人を見て詠んだ」と書かれています。任務を終えて国に帰ろうとした折、足柄峠で息を引き取ったのでしょう。
 
小垣内の、麻を引き干し、妹なねが、作り着せけむ、白栲の、紐をも解かず、一重結ふ、帯を三重結ひ、苦しきに、仕へ奉りて、今だにも、国に罷りて、父母も、妻をも見むと、思ひつつ、行きけむ君は、鶏が鳴く、東の国の、畏(かしこ)きや、神の御坂に、和妙(にきたへ)の、衣寒らに、ぬばたまの、髪は乱れて、国問へど、国をも告(の)らず、家問へど、家をも言はず、ますらをの、行きのまにまに、ここに臥やせる
 
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                        (地蔵堂のお地蔵様、合掌する手に力があって、表情も素敵でした)
 
意味は凡そ以下の通りでしょう。
貴方は亡くなられてしまった。貴方の白い衣は奥さんが庭で麻を干して、糸を紡いで作ったものでしょう。腰紐も本来なら一重に結べばよいものを、三重に結んでいる。任地での苦しい生活で瘠せてしまったのだろう。役目を終えて故郷に戻ろうとして、懐かしい父母、奥さんの許に戻ろうとした旅先で、怖ろしい神が棲むと言うこの足柄峠で、貴方は息を引き取った。
衣服は寒く、黒髪は乱れて、貴方は横たわっている。
貴方の国(故郷)は何処か?聞いても何も答えない。
貴方の名前(家)は聞いても何も解らない。(ああ可哀相に・・・・お気の毒に。貴方も何も知らないご家族も・・・・・)
 
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       (地蔵堂の馬頭観音、峠の馬子が馬の健康を祈ったものでしょう、上段の地蔵と同じ作者と思います)
 
車で足柄峠に向うと、地蔵堂前が終点、その先は歩いて峠を越えなくてはなりません。
その先には夕日の瀧キャンプ場があって、峠越えのハイキング、金時山の登山等の、ベースになっています。
地蔵堂は写真のように美しいお堂です。
中には(収蔵庫)には平安時代のお地蔵様が祀られています。
地蔵菩薩は六道の入口で衆生を導いてくださる方、冥途と現世の境目に立っていられるのです。
此処、峠道はその境に似た思いを寄せた事でしょう。
また、峠の向こうから流行り病などの不幸が此方に来ない様、賽の神の役割を担っていたことでしょう。
 
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地蔵堂の傍らには10体ほどの石仏が佇んでいます。
大半がお地蔵様、馬頭観音様です。
墓標仏ではなく、峠を守る、旅人を守るお地蔵様、馬を守る観音様です。
 
地蔵堂の西側に有名な「万葉うどん」があります。
今回出かけた目的も「此処で昼食」、にありました。
ご主人が大汗をかいてうどんを捏ねていました。
瀧の汗をかいて。
テーブルは満席、ご主人の手先を見詰めて、早く食べたい・・・待っていました。
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                (万葉うどんHPから、現在は瓦屋根になっていました)
 
 
腰があって、艶があって、汁には自然薯のお団子が入っていて・・・・実に美味しいうどんでした。
笊うどんが500円、お代わりが100円。
もう一杯、三杯目、お代わり注文が続きます。
長浜ラーメンの「代え玉」の要領です。
 
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                                   (万葉うどん店主、許可を得て撮影しました)
 
地域の愛情が万葉うどんのネーミングの由来でしょう。
うどんは遣唐使が伝えた、弘法大師が始めた、諸説あるようですが、今日の姿は江戸時代でしょう。
万葉の時代には無かった・・・・・、
でも、足柄は万葉の時代から有名な難路にあった。
だから、峠道には万葉うどんなのでしょう。
ご主人は峠で樵や馬子をしていた家だったのでしょう。
何時の時かうどん店を開業、成功した。
味は「地域愛」だった・・・と想像します。
 
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                               (500円、お代わり100円の美味しいうどん)
 
美味しかった、次は彼岸花が咲く頃来ることにしましょうか。
 
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庭の千草

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鎌倉古道中道は笠間を過ぎると丘陵の尾根道になって、小菅ヶ谷から倉田に入ります。
古道を歩いていると、遠く竹薮の手前に花畑が見えました。
花に誘われて、坂道(赤坂)を下って花畑に出ました。
 
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                                            (芙蓉の花)
 
黄色い、菊のような花が一面に咲いています。
百日草も虎の尾も咲いています。
芙蓉も咲いています。
「庭の千草」を思い起こさせます。
花に遠慮するように、孟宗竹の林の手前に里芋や茗荷が栽培されています。
此処の主人は、野菜作りより花の方がお好きのようです。
 
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                                  (竹林の前、茗荷畑、一面の花)
私がカメラを向けていると叔母さんが出てきました。
私は声をかけます。
「庭の千草ですね、お花作りがお好きで・・・・・」
叔母さんは笑顔です。
「この黄色い菊のような花、何て呼ぶのですか?」
「これはね、ルドベキア・タカオと呼ぶのですよ。10年も前サカタの種に注文したら二株届いてね。大変強くてドンドン増える。このあたりの町内は株分けして何処のお庭にも咲いてますよ」
 
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                (ルドベキア・タカオの花)
 
言われてみると、道筋の何処の家にも、道端にも咲いています。
叔母さんは続けて言います。
「お気に入りのようだから株をあげますよ、春先にお越しくださいね・・・・・!」
 
家に戻ってルドベキア・タカオをネットで調べてみると、
17世紀スェーデンの植物学者RUDBEKが開発した種だそうで、その繁殖力は驚異的だそうです。
でも、庭先には良い花だな、思いました。
仏花として夏中使えそうですし、見ていると元気が出てきます。
雑草に負けないところ、病虫害を寄せ付けない所も魅力です。
 
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                                                           (百日草)
 
アイルランド民謡「夏の名残の薔薇/「'Tis the last rose of Summer, Left blooming alone;」
を日本の唱歌にしたのは明治17年でした。
表題は「庭の千草」にしました。
アイルランド民謡では、友人が訪れます。
故人の住んだ家の庭に一つ薔薇が咲き残っていました。
友を失った嘆きを「Oh! who would inhabit This bleak world alone? 」
「この荒涼たる世の中で 誰が一人で生きられようか?」
訴えます。
 
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                                                     (ミソ萩、カンナの花)
 
日本唱歌では薔薇が白菊になりました。
「友人が故人を偲ぶ」ところが「人の操も白菊のようでありたい・・・・」
と、夫婦の思いに変っています。
 
庭にその主人の人柄を偲ぶ所はアイルランドも日本も同じです。
薔薇が菊に変わっているのは、致し方ないにしても、「友情」が「夫婦愛」に変わるところは矢張り国民性の違い、文化の違いでしょうか?
唱歌にはスコットランドやロシア民謡が使われています。
比較文化論の材料としては面白いように思います。
 
小菅ヶ谷の叔母さんの人柄も庭の千草に良く現れているようです。
 
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                        (叔母さん、畑で堆肥や灰を作って草花に野菜にやってあげていました)
 
 
 
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柏尾川で、「川鵜」ウォッチング

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もう、6年も前だったでしょうか?
琵琶湖の竹生島を友人達と旅をした事がありました。
平経正が琵琶をひいて戦勝を祈願し、謡曲『竹生島』の舞台は伝説の霊地でありました。
浜大津から舟に乗って、湖北の小島に渡りました、
途上、荒涼とした景色を眺めました。
歌に詠われた松の木が殆ど枯れてしまい、その枯れ枝に真っ黒な大きな鳥が止まっていました。
鳥は「川鵜」、松を枯らしたのもこの川鵜でありましょう。
琵琶湖に川鵜が異常に増殖した理由は知りません。
でも、私の生活圏の川鵜も近年目だって増えて来ています。
 
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(古舘の柏尾川、右側に神戸製鋼所。川の砂州に、水道管の上に川鵜が群れています)
 
柏尾川には全域で川鵜の姿を見ることが出来ます。
でも、コロニーと言える集団は古舘橋近くの砂州、そして支流鼬川の合流点にあります。
鼬川合流点では、つい先日小学生が上流で溺れて、流れ着きました。
列を為す川鵜を眺めていると、野辺送りの葬列を見る思いがします。
自然が豊かになって、川遊びの子供が増えると、悲しい事故も起きるものでしょう。
それにしてもお気の毒な事件でありました。
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                  (鼬川が柏尾川に合流する地点、この場所にもいつも川鵜が群れています)
 
 
私は、古舘の神戸製鋼工場の前辺りから川鵜の様子を眺めます。
柏尾川を渡る水道管の上に川鵜が並んでいます。
そして、その真下、川中の砂州が川鵜の溜まり場なのです。
この辺りが決して魚影が濃いわけではありません。
魚影は柏尾川全般に渡って濃いのです。
また、水が澱んでいてハンティングに適している訳でもありません。
 
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                             (中洲で憩うっている?川鵜の群れ。光に秋の気配を感じます)
 
 
日が昇ると同時に川に潜って魚を取って、腹一杯食べて・・・・・、
そして、この砂州の上に集まって体を休め、羽を乾かし、夫婦の愛を確かめ合うようです。(川鵜は一夫一婦制)
夏の陽射しが真っ黒い体に当って、黒光りしています。
羽を広げると、「大きいな!」感じます。
長い間羽を広げて、小刻みに体を震わせます。
川鵜の羽根は濡れ易く、乾き難いのかもしれません。
時間をかけて、乾かしています。
 
体が暑くなり過ぎると、大きな喉袋を膨らませます。
喉袋は黄色で目立ちます。
川鵜がペリカンの仲間であることを確認する思いです。
 
一羽が流れに向けて歩きます。
ペンギンのようなぎこちない歩きです。
川鵜は飛ぶのも苦手、歩くのは最も苦手のようです。
「潜水泳法」だけが得意技で・・・・・
夫が川で体を冷やそうとすると、妻も従って行きます。
荒々しい表情でありながら、夫婦愛は確かなようです。
 
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                  (黄色の喉袋を膨らませるのは、体温を下げるため?)
 
どれが群れののリーダーか解りません。
でも、リーダーが飛び立つと全員が後を追います。
30羽程度はいるでしょう。
一斉に飛び立つ姿は圧巻です。
江ノ島方向に飛び立ちました。
砂州に危険が生じたわけでもありません。
屹度、次の縄張りポイントを確認しに行ったのでしょう。
 
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柏尾川の川鵜の営巣地が何処だか私は未だ知りません。
これだけのコロニーですから、営巣地の賑やかさ、糞害は相当なものでしょう。
もしかしたら江ノ島の森かもしれません。
江ノ島も竹生島も弁天様の島、
川鵜の営巣地という事でも共通するのかも知れません。
 
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(魚を追うのでもなく、川面を泳ぐのは体を冷やすため?)
 
でも川鵜は、増え過ぎ、目立ちすぎ、の感が生じてきたようです。
柏尾川には漁協がありませんから、声高に主張するものは居ないかも知れません。
でも、誰かが糞害で泣いているかも知れません。
私のように気軽に川鵜ウォッチングしている者は、お気軽で良いのですが。
 
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(水道管の上の川鵜)
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鎌倉の六地蔵さん

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鎌倉の六地蔵さんは誰が、何故に?

鎌倉の最も西側にある大路が「今大路」です。
若宮大路に平行に、北は寿福寺あたりから、南は由比ガ浜通りとの交差点まで続きます。
現代は「御成り通り」とも呼ばれています。
 
御成小学校のある通り、更に歴史を紐解けば、御成小学校は天皇家御用邸の跡地に作られたので、
「天皇が御成りになるなる通り」の意味でしょう。
私が御成り小学校の生徒だった頃、現陛下が皇太子でした。
学校隣の「鎌倉ローンテニスクラブ」にお越しでした。
パトカーのサイレンがなると「皇太子が御成りになられた」言ったものでした。
そして、学校帰りに応援に駆けつけました。
 
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                                                (御成り通りの終点、六地蔵)
 
鎌倉御用邸のあたりは、幕府の「問注所」がありました。
裁判所でありました。
御成り小学校を少し下ると「裁許橋」があって、その辺りが刑の執行場所と言い伝えられています。
裁許橋で、源頼朝は馬上から西行を認めます。
西行は刑の執行を見物に来ていたのかな、想像したりします。
 
裁許橋から100メートルほど南下すると、辻に出ます。
御成り通り(今大路)と由比ガ浜通り(鎌倉時代車大路)との交差点です。
この辻に六地蔵さんがあります。
 
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                       (由比ガ浜通り、西の突き当りが長谷観音。旧くて新しい町並みが楽しめる)
 
一般にこの辺りが鎌倉幕府の処刑場と言われています。
処刑された人の霊を導くために六地蔵が建てられた、言い伝えられています。
でも、幕府の大路の中で処刑が執行されたでしょうか?
私は疑問に思います。
 
鎌倉は当時約5万人が住んでいたと想像されます。(根拠は吾妻鏡の酒壷調査)
狭い町の中で、処刑をするのは無理もあります。
実際に有名人は腰越や葛原が丘で処刑されています。
由比ガ浜からは夥しい人骨が出ていますが、其処は埋め墓の場所であって、処刑された人の墓があった訳ではないでしょう。
 
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                         (由比ガ浜通り、板壁の民家に酔芙蓉が映えて咲いていました)
 
六地蔵の頭上には百日紅の木が植えられています。
私の小学校時代から変っていませんから、かれこれ70年以上経ている古樹でしょう。
いつでも供花が絶えないお地蔵さんですが、百日紅の季節が最も美しく見えます。
お地蔵さんは百日紅の樹陰で休んでいられるようです。
赤い頭巾にゆだれかけ、百日紅の花とお似合いです。
 
お顔に樹の陰影が映っています。
目の前を赤い花弁が落ちてゆきます。
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お地蔵さんはお釈迦様が亡くなられて、弥勒様が下生される「無仏時代」に衆生を済度する菩薩として、奈良時代後半から信仰されました。
でも、石仏として一般の信仰の対象になったのは、応仁の乱辺りからでした。
まして、関東地方で辻や寺(墓地)に入り口に立ったのは江戸時代からです。
六地蔵さんは六体がそれぞれ違ったデザインで、細かな持ち物や衣文の形も個別に深く刻まれています。
入念に刻まれています。
いずれも、冥途に行く亡者を導く、僧形をしています。
 
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六地蔵の背後に句碑があります。
芭蕉の「夏草やつわものどもが夢のあと」。
建てたのは松尾百遊、雪ノ下で旅館を経営していた人物でした。
建立したのは芭蕉の死から92年後の1786年でした。
 
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       (鎌倉雪ノ下は閑静で、便利な住宅地。酔芙蓉の道を人力車が進んで、八幡様に向います)
 
雪ノ下は御成り通りを登って、亀ヶ谷切り通しの前に当ります。
江戸の町では「錦絵」が流行って、江ノ島や鎌倉の名所図絵が売られます。
町人に旅行熱が上がってゆきます。
そこで、旅館業の百遊は「鎌倉にお越し下さい」
とばかりに、芭蕉の句碑を建て、新しい名所を用意したのではないでしょうか?
 
そこで、平泉で吟じた「兵どもの夢のあと」の有名な句を建てたのでしょう。
六地蔵も百遊が奉納したのか、その頃既にあったものかは解りません。
でも、略その頃、建立されたものと想像します。
高々、300年の石仏です。
平和ボケした江戸町民に鎌倉に遊山しよう、そう思わせる「ネタ」に六地蔵が利用された、思うのです。
 
でも、鎌倉住民にとっては「六地蔵さん」と言えば、この御成り通り、由比ガ浜通りの辻を思い出します。
勿論、今も人々の信仰を集めています。
大事な石仏です。
 
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  (赤い頭巾にゆだれかけ、百日紅の花にもマッチしてい増す)
 
 
 
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「胡瓜馬」・「茄子牛」の行方は?

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お盆の胡瓜馬・茄子牛、後片付けはどうするのか?

8月28日、三浦半島を巡りました。
丘陵地帯は野菜畑が続きます。
今はスイカの収穫を終えて、大根の種まきの最中。
普段は緑の畑が、今は土色です。
 
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                         (遠方、風力発電機の向こう側が城ヶ島)
 
集落は海よりや谷間に点在しています。
野菜畑から集落に入る辻に、賽の神が祀られています。
道祖神であったり、お地蔵様であったり、庚申塔であったり、賽の神は色々の神仏がおいでです。
 
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                             (庚申塔の並んだ集落の入り口風景。精霊が並んでいます)
 
その脇に、まだ「精霊だな」が残されています。
お供え物のお菓子も、缶ビールも、果物も。
その脇には、「胡瓜馬」と「茄子牛」も・・・・もう干乾びてしまっていますが。
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                (干乾び、腐りかけてしまった胡瓜馬に茄子牛。天邪鬼が見つめています)
 
集落の家族は、お盆の入りの日(8月14日)太陽が沈む頃、この場所に集まった事でしょう。
麻の茎を焚いて、迎え火を灯します。
先祖の霊は、迎え火の灯りを頼りに、家に戻ります。
乗り物は、胡瓜に麻の茎を刺して作った「馬」です。
そして、8月16日の陽が沈む頃、家から冥途に帰られます。
送り火が焚かれて、今度は茄子に麻の茎を刺して作った「牛」が乗り物になります。
 
我が家でも、迎え火、送り火は家内が焚いてくれました。
胡瓜馬と茄子牛も上手に出来ていました。
 
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                               (六地蔵にも迎え火を焚いた名残が残されていました)
 
 
「何故、胡瓜の馬に茄子の牛なのか?」
一寸気になります。
事実は平安時代の昔から行われ、胡瓜・茄子がこの季節を代表する精霊野菜であった事、胡瓜封じなど悪疫を封じ込める効果があったことなど・・・・・様々に説明されます。
 
昔、江戸時代の小話を読んでいて、この胡瓜馬・茄子牛を拾い集めて、細かき切って、漬物にした話を読んだことがありました。
「ああ、福神漬け」のようなものかな・・・?
想像しながら、「グッドアイディア!」感心したことがありました。
 
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      (お地蔵様のゆだれ懸けには地蔵講、信者の名が書かれていました)
 
 
三浦の台地では、お盆の名残を留めるかのように、胡瓜馬も茄子牛も干乾びています。
多くの土地で、一昔前なら、川に流したと思います。
環境問題に厳しい昨今、それは出来ないでしょう。
 
我が、横浜では、大半の方がゴミとして捨てている事でしょう。
我が家ではどうしたか?
ウサギが「美味しい・美味しい」食べたかもしれません。
麻の茎で作った足を引き抜いて、夕餉の食卓に出たら、驚いた事でしょう。
(本当は、食べるのが理に適っていると思いますが)
 
胡瓜も茄子も、土から出来たもの、役割を終えたら土に戻るまで・・・・・
農家の方はそう思っていることでしょう。
 
もうじき精霊棚に彼岸花が咲いて、お盆の名残も目に見えなくなってしまうことでしょう。
 
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白鳥は哀しからずや

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白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

三浦海岸を剣崎に向うと、砂浜が岩場に変ってきます。
この辺りが金田湾、中々に風光明媚です。
三浦丘陵の緑と、青い海、その境に長い海岸線が続きます。
空気の透明度も増して、「秋近し」と感じます。
金田漁港を越すと、海岸の岩場が目立つようになります。
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                              (金田漁港防潮堤、正面が三浦海岸海水浴場)
 
岩場には真っ白な鳥がポツンポツン、立ちつくしています。
動きません、そう、白鷺です。
白鷺は岩場の水溜りに居て、岩陰から出てくる小魚や蟹を捕食しようと、ジッと静止しているのです。
時々、空に舞い上がります。
餌場をチェンジしようとするのです。
白鷺は釣り人と同じ心境でいるのでしょう・・・。
 
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空は真っ青です。
海は空を映して、群青色です。
その中に白鳥が漂います。
私は、思い起こします。
若山牧水、青春の歌を。
 
白鳥は哀しからずや空の青 海のあをにも染まずただよふ
 
歌は三浦半島の対岸、房総半島の白浜に近い岩場で詠んだものでした。
白鳥はカゴメかユリカモメか・・・想像していましたが、白鷺だったのでしょう。
それも、最大種のダイ鷺と思われるます。
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                                                      (岩場のダイ鷺)
 
白浜は青春が似合う海岸でした。
明治37年、盛夏、青木繁は親友の森田恒友、坂本繁次郎、そして恋人の福田たねを誘って、制作旅行に白浜を訪れます。
そして、「海の幸」(重要文化財)「帆船」の名作を描きます。
青木繁は友人に囲まれて、恋人もゲットして、美しい天然と・・・、一気に画家の才能が爆発したのでしょう。
 
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  (海の幸記念館HPから,右から4人目ただ一人此方(青木繁)を見ているのが福田タネ嬢、この後繁とタネの間に男の子が生まれます。名前は幸彦。Y君(日文研の故人)の名前と同じでした
 
明治40年、初秋、早稲田大学の学生、若山牧水も白浜を訪れます。
そして前記の「白鳥は悲しからずや・・・・・・」の代表作を詠います。
名作は読む私達の想像力を駆り立てます。
 
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学校の授業ではこんな風に教わった記憶があります。
 
  白い鳥は哀しくないのだろうか?
  空の青にも海の青にも染まることなく漂っているよ。
 
白鳥は牧水自身を投影して、海や空の色に染まることなく漂流している・・・・孤独感を詠っています。
海や空、圧倒的に多いのはブルーでした。
ブルーは明治の富国強兵、近代化、と言った時代風潮をあらわしています。
でも、牧水には馴染めません。
大分臼杵の漁村で生まれた牧水でした。
「人間は自然の一部、自然に生かされている存在である」
そんな心情を強く持って育っていました。
青年には孤独にならざるを得なかったことでしょう。
また、文学界の人々、「明星派」や「アララギ派」「パンの会」等とも距離がありました。
 
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                              (灰色大きいのが青鷺/昔は灰色をあお色と言った)
 
牧水に聞けば・・・・屹度答えたことでしょう。
私は孤独です、ですから旅に出ます。
私の歩いた道には、1000年前西行が、300年前には芭蕉が歩いていました・・・と。
 
  幾山河越えさりゆかば寂しさの はてなむ国ぞけふも旅ゆく

また、牧水には恋愛の歌も数多くあります。
次は心中を誘うような歌です。
 
  沈丁花 みだれて咲ける 森へ行き 我が恋人は 死になむといふ
 
「空の青、海のあおにも染まず・・・」とは、恋人と心も体も一緒になることが出来ない・・・・悲しい心情もあったかもしれません。
 
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白浜には昨年逝ったY君の家もありました。
学生時代私も誘われて逗留しました。
私にとっても「青春の地」です。
 
私の年齢になると、あの頃、輝いていた頃は懐かしく思い起こされます。
青春は字の通り「青い色」。
年齢と共に、青い色の深みが増すような気がします。
空の青、は青春の青。
「海のあお」・・・・牧水は「あお」を漢字平仮名と使い分けています。
平仮名の「あお」には、舐めれば塩辛いし、涙も混じっている・・・・様々な思いがしみこんでいる・・・複雑な色なのでしょう。
私も「あお」の年齢になりました。
 
 
 
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浦賀の干鰯倉庫の見事さ

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浦賀の干鰯倉庫を残したい!

私の日文研の親友H君は三浦の出身です。
「父方は浦賀の干鰯問屋であった」、聞いた時は「それは大変な家であった」、思いました。
母方は善行寺の東、味噌醤油の醸造もと、でした。
どうして、浦賀の問屋が善行寺の醸造もとと縁が出来たのか、興味もあります。
いつか、酒を飲みながら聞く事にしましょう。
 
干鰯とは鰯を干したもの、作物の肥料として大変効果のあるものでした。
江戸時代の衣料は綿花、綿花作りには干鰯が必需品です。
干鰯は房総の漁師たちが作ります。
買い集めるのが浦賀の干鰯問屋、
上方に輸送したのが浦賀の回船問屋、
1600年代には干鰯問屋が30軒もあり、回船が60隻も浦賀にはあったそうです。
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                      (東叶神社前の通り、干鰯問屋街でありました)
 
米一石(2,5俵)が一両でした。
一方干鰯1俵で1両以上したといいます。
従って干鰯はお米の2.5倍も価値が在ったのです。
酒田に行けばお米を納めたお蔵があり、壮観です。
観光客も集まってきます。
でも、浦賀の干鰯倉庫もお米以上に価値があって、壮観だったと思われます。
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                              (西叶神社参道、右側が唯一残っていると思われる干鰯倉庫)
 
浦賀の町は閑散としています。
干鰯問屋の資金を元手に作った日本最初の洋式造船所、浦賀ドックも人影が疎らです。
本格的な干鰯倉庫も解体され、今では見る影もありません。
唯一、西叶神社の参道に忘れられたように残っています。
前々から、覗いてみたい、思っていました。
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   (部分的に白い漆喰壁、瓦屋根が残されている干鰯倉庫、湾の向こうに東叶神社が見える)
 
それが、あんまり暑いので、扉を開けていました。
私は、即座に入ってみました。
侵入の罪であるかもしれませんが、好奇心が勝っています。
 
床には生活雑貨が置かれています。
この倉庫のオーナーのものでしょう。
土塀は屹度白い漆喰壁だったと思われます。
今はトタン板で覆われています。
それもさび付いています。
でも、一向に傾いていません。
関東大震災にも、空襲にも負けないで生き延びてきた倉庫です。
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                                  (扉の東側の構造)
 
倉庫オーナーは解体して駐車場を拡幅したい、思っているのでしょう。
でも、倉庫への愛着があって、解体しないで持ち堪えているようです。
梁は松の木でしょう。クネクネ曲がっています。
柱は欅か栗の木でしょう。
クロ光りしています。
それが組み合わさって、見事な構造物を形作っています。
私は見上げて、唸ってしまいました。
美しい、飛騨の合掌作りと同じ技術でしょう。
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                                  (扉の西側の構造)
浦賀市も財政的には困窮している事です。
中々、保存には動けないのでしょう。
しかし、このままでは解体が待っていると想像されます。
西叶神社の装飾彫刻も見事です。
此方も天保年間の作で、作者は房総の彫刻師「後藤利衛兵」と案内されています。
双方とも美術価値、も歴史的評価も高いものと思います。
「今のままでは心配だなあ・・・・!」
思いながら、干鰯倉庫を後にしました。
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                                       (こんな感じの倉庫であったと想像します)
 
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           (右が石の倉庫、左は炭・米の販売店、この程度の倉庫は浦賀の町に散在しています)
 
 
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街道のお地蔵さんに白粉を塗ったのは誰かしら・・・・・?

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街道のお地蔵様にお白粉、紅を塗ったのは何処の誰かしら・・・・・?

湘南藤沢は遊行寺の門前町として発展、加えて江戸時代には東海道の主要な宿場町として繁栄していました。
藤沢の宿場の引地見付(京都方面)の西200㍍、道路端に「化粧地蔵」があります。
お地蔵さんの前には「養命寺」(運慶様式の薬師如来/重文で有名、住職一代に一度、今年4月に開帳しました)があります。
石仏ファンは養命寺の石仏(庚申塔・地蔵)から、化粧地蔵を巡ります。
今日の話題は藤沢宿の外れに佇む石仏です。
 
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(旧東海道引地橋、此処に見付があって東側が藤沢宿。化粧地蔵は西に200メートルの位置にあります) 
 
化粧地蔵は鉄製の祠の中に収まっています。
双体のこけし人形のようです。
人形は僧形です。
僧形ですから、お地蔵様と呼んだのでしょう。
お顔には明らかに真っ白な化粧をして、紅もさしています。
何時見ても花が供えられています。
口紅も置かれています。
今も大切にされています。
藤沢市教育委員会の案内にも、「地蔵ではなく双体道祖神である、でも伝承を大切にして”化粧地蔵尊”と案内している」と書かれています。
 
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相模国には僧形の道祖神が一般的であります。
二人のお地蔵さんが並んでいる形です。
この形の道祖神は藤沢にも数多くありますが、小田原から足柄にかけての一帯が一番数も美しさも勝れています。
芭蕉が奥の細道の冒頭に、旅立つ由縁が「道祖神に招かれたからだ・・・」と書いています。
此処に言う道祖神は「旅人を守る神様」の意味でしょう。
此処藤沢の化粧地蔵は、芭蕉の言うとおりの道祖神です。
こうした石仏の道祖神は江戸時代に始まります。
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                                 (化粧地蔵と同形の僧形の双体道祖神)
 
道祖神は広義には「賽の神」です。
「賽」とは異界との境目です。
自分の住む世界を中心に考えれば、峠の向こう(異界)から厄病や不幸がやってきます。
その境界で災難が襲って来ないよう防衛してくれるのが、賽の神です。
 
古事記では伊耶那岐神(イザナギ)が死んだ奥方 伊耶那美神(イザナミ)を冥界に覗き見します。
腐ったイザナミの体に驚いて逃げ帰ろうとします。
気付いたイザナミは夫を追いかけます。
捕まりそうな瞬間、イザナギを救ったのが道祖神(道反大神)でした。
 
農耕民族は土地の境を大事にします。
江戸時代には石の道祖神を立て、隣村との境界にしました。
江戸時代になって石工が増えて、民間人の信仰が表に出てきて・・・・・、
そうした外部環境が各地に石の道祖神を祀らせました。
 
現世と来世の境目に大きな川が流れていると信じられていました。
その境の川原を「賽の河原」と呼びます。
此処で亡者を導いてくれるのがお地蔵さんです。
地上の境目に立つのが「道祖神」なら、あの世とこの世との境目に立つのがお地蔵さんです。
この化粧地蔵は、正しくは道祖神である、との判断は「どちらでも良い、どちらも正しい」、と言う事でしょう。
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 (引地川の川面には水鳥が遊んでいます。藤沢宿から見ればこの川原が異界と境でありました)
 
どうして道祖神が「化粧地蔵」と呼ばれたのか?
その謎を考えると・・・・・これからは私の想像(仮説)です。
 
この道祖神は他の道祖神と同じように、藤沢宿の西の外れにあって、「賽の神」として宿場住人や旅 人を守っていました。最初は化粧もしていないごく普通の石の双体道祖神でした。
ところで、藤沢は大きな宿場町でしたので、町には沢山の「飯盛り女」が働いていました。
 彼女達は朝晩は旅人の世話を焼き、ご飯を用意しましたが、夜になると旅人の慰みにもなっていまし た。ですから、昼間はスッピンでいても、夕方になると化粧もしていました。
飯盛り女達の生家は貧しく、彼女達には様々な艱難辛苦に遭遇していました。
 最も悲しい事は身籠ってしまった時でした。
飯盛り女は子供を育てる事もできずに、水子として流してしまったり、お金持ちに引き取ってもらったり しました。彼女達は罪穢(ザイエ)感に悩み、祓いや救いを求めました。
身近な所に、僧形の道祖神がありました。飯盛り女にはお地蔵さまに見えました。
 そのお地蔵さまはこけしの小さく、可愛らしく、優しく微笑んでいました。亡くした子供の成仏を守って
 呉れる「水子地蔵さん」と確信しました。
 でも、お賽銭も無いし、お花もお線香も買えません。
 そこで、手元の白粉で顔を塗り、紅を差してあげました。
 
こうして、目立たない僧形道祖神は何時しか「化粧地蔵」と呼ばれるようになりました。
祀った人を核にみれば、「飯盛り女の子安地蔵」でありました。
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(手前の車の左側、目の高さの壇上に錆びた鉄製の祠が見える、その中に化粧地蔵が・・・・。) 
 
京都や、若狭では今年も地蔵盆で、子供達がお地蔵様をお化粧した事でしょう。
子供達は学校で使うクレヨンや水彩絵の具を使って、丁寧に、思い思いにお地蔵さんに彩色します。
化粧地蔵は美しい習俗です。
でも、お地蔵さんに、白粉と紅で化粧してあると・・・・・、
想像は急に生々しくなってしまいます。
 
こんな想像が妥当性が在るか否か、藤沢の古老らに聞いて廻らなくてはならないでしょう。
でも、様々な想像を引き起こしてくれる、石仏です。
 
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                          (化粧地蔵の向いは養命寺、境内のお地蔵さん) 
 
 
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水金梅の花が教えてくれる事

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水金梅の花が教えてくれること
 
柏尾川に水金梅(みずきんばい)の花は今が見頃です。
環境省のレッドデータバンクでは絶滅危惧種に指定されている稀少な植物です。
現在生育が確認されているのは此処のほか、千葉県南部(長生郡)高知県、宮崎県の4件に留まっている、と聞かされています。
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     (水金梅の花、写真は花弁が重なっているので4弁のように見えますが、梅と同じ5弁です)
 
柏尾川の洪水対策は護岸のパラペット(コンクリート壁)工事、そして川底を掘り下げる工事、この二つです。
ですから、4~5年に毎に川底をさらいます。
その度毎に、水金梅の対処が問題になります。
2007年の工事では、自生している水金梅を移植しました。
移植先は金井の雨水調整池、此処に沢山のマスを用意しました。
工事完了後、柏尾川の川原に用意した畑に植え戻しました。
工事は小雀にある「生駒造園」が請け負いました。
技術は確かな会社です。
 
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       (2007年、仮移植地に活根した水金梅、小さいが花をつけています)
 
川原に用意した畑に移植した水金梅は確かに活着しました。
でも、大水が出るたびに、畑の土が流され、水金梅も見る見るその姿を無くしてしまいました。
今では、畑の為に打ち込んだ杭が目立っているだけです。
殆どの市民は首をかしげます。
「何で川底に杭が何本も打ち込んであるんだろう?
杭は水金梅移植に失敗した証しです。
 
金井遊水池には大きな畑を用意しました。
此処は大水で土が流されてしまう事はありません。
でも、水金梅は畑の淵に僅かに生きているだけです。
畑は大半が葦や蚊帳釣り草、蒲が繁茂しています。
 
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   (水金梅の移植先に用意された畑、他の稲類の植物が繁茂、水金梅は僅かに水面に這い出している)
 
水金梅の特徴は地面を這うように生育し、その際節から不定根を延ばしてゆきます。
同時に水中でも息をする事が出来る呼吸根を延ばします。
そして節が分かれて増殖します。
節による無性生殖をするわけです。
生駒造園が用意した畑は植物一般にとって環境が良くて、イネ科の雑草によって占領されてしまいました。
葦などの草が伸びてしまうと水金梅は草陰で枯れてしまったのでした。
「水金梅だけが生育できる環境」を用意しなくてはならなかったのでした。
 
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         (水金梅が群落を形成できる場所は決まっています。他の稲類が繁茂できない水辺だけです)
 
ですから、神奈川県がお金をかけて推進した水金梅の移植工事は失敗です。
市民が、川原の畑で咲いた水金梅を眺めて、柏尾川の自然を楽しんでもらおう、環境意識を高めてもらおう・・・・・、そんな試みは失敗と言わざるを得ません。
 
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                            (柏尾川の水金梅最大群落、古舘橋/藤沢市、近くの砂州)
 
でも、柏尾川を眺め歩いていると、其処此処に水金梅を見つける事が出来ます。
川中に自然に出来た砂州に自生しているのです。
砂州ですから、小石だらけです。
洪水で流される事もありません。
他の植物が活根する事もできません。
砂州全体を水金梅が占領して、群落を形成し、写真のように黄金色の花を咲かせています。
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水金梅が絶滅危惧種に指定された事情は、除草剤など有害物が流されてため、急激に数を減らしたからでしょう。
柏尾川や千葉に復活しているのは,川を市民が監視しているから・・・・・でしょう。
水金梅が生育しやすい環境を用意すれば水金梅は生育します。
畑を作ってあげて、「此処で花を咲かせて下さい!」
水金梅を移植するのは、花にとっては無用なお節介。
私達もお金を川に流すようなものでしょう。
川の水質を守ってあげれば・・・・自然と水金梅は増殖します。
 
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柏尾川を見詰めていると当り前の事実に思い知らされます。
発注者の神奈川県も良く見れば判る筈です。
受注者の生駒造園は川底の掘り下げ工事の度ごとに、絶滅危惧種の保存のため、受注が出来ます。
美味しい仕事でしょう。
 
でも、水金梅にとっても人間にとっても水質を良くすること、これこそ大事なことです。
川底を掘り下げても、暫くすれば砂州ができます。
水質さえ良ければ、水金梅は其処に群生して花を咲かせます。
人間は余計な事をしない事が大事です。
自然に任せれば良いのです。
 
 
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方丈様のお庭が訓えること・・・・(浄智寺)

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寺では住職を呼ぶとき「方丈さん居られますか?」と声かけします。
住職の住まいが方丈であること・・・・、ですから四方が身の丈、一間四方の質素な住まいが住職の住まいと言う事になるでしょう。
イメージは良寛上人の五合庵が方丈でしょう。
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                                                       (浄智寺方丈)
 
 
方丈の前庭が方丈庭園です。
方丈庭園というと、私達は「大徳寺」「龍安寺」「東福寺」など京都五山の枯山水を思い起こします。
室町時代、足利義政は鴨川の川原者「善阿弥」を寵愛します。
川原の砂と石だけを組み合わせて大自然を表現する「枯山水」が発達します。
京都の禅寺では枯山水を競って作ります。
砂が水の流れを表現します。
小石のような砂を使えば、瀬を表し、細かな砂は湖や大海を表します。
岩は小島を表し、波が打ち寄せています。
 
自然描写は抽象的になり、哲学的で難解な印象を与えます。
方丈様のお庭は、禅問答のような解り難い庭になりました。
屹度、京都五山の住職は高く遠い位置に居て、
「方丈さん!」と声もかけられない存在になってしまいました。
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                                   (百日紅の古木の右が本堂、正面が方丈)
 
鎌倉五山でも建長寺、円覚寺の方丈庭園は大きなお庭です。
夢想礎石の作庭で、骨太な自然描写であります。
でも、鎌倉4位の浄智寺の方丈庭園は違っています。
龍安寺の方丈庭園を「難解・哲学的」な庭の頂点にすれば、対極は浄智寺の方丈庭園でしょう。
 
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                                       (龍安寺方丈庭園、同寺HP)
浄智寺の方丈は茅葺屋根の優しい建物です。
方丈庭園に向けて、柔い光を受ける縁側が巡っています。
方丈に座れば、目線の位置に百日紅の古樹が見えます。
その背後が本堂(曇華殿)です。
その向こうには高野槙の大樹、梢の向こうに源氏山の山並みが見渡せます。
 
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   (浄智寺方丈からの眺め。手前から白雲木、百日紅、高野槙、その遥か上、源氏山が見られる)
 
目線を手許に引けば、多様な草花が咲き乱れています。
今は「花虎の尾」が一番で、秋海棠、鶏頭、など中背の草花、背丈が高いイヌタデや吾亦紅周明菊はまだ蕾です。
それらの足許には秋スミレが咲いて、ホトトギスも咲き始めました。
 
方丈ガーデンの草花はみんな自生しています。
地面と、空間を適宜に使い分けて、花の美しさを競っています。
方丈の縁の下にはコオロギも鳴いています。
勿論、全山蝉時雨、ミンミン蝉にツクツク法師、日暮れには「日暮蝉」も鳴くことでしょう。
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                                  (薄紫の花が花虎の尾)
 
私は思い出します。
「花薬欄」(碧巌録)を。
雲水が雲門禅師に問います。
「煩悩妄想がすっかりなくなった美しい清浄な悟りの本体とはどんなものでしょうか?」
禅師は答えます。
「花薬欄」と、
雲水は更に問います。
「花薬欄とは何の事でしょうか?」
禅師は言を続けます。
「どんな花でもいい、何も、牡丹や芍薬でなくとも、名も無い花でもいい、色々な花が咲き乱れる花畑と見なさい。花それぞれが、その色を誇る事もなく、花を競う事もなく、ありのままの姿を呈して咲いているでしょう。花は「清浄仏」、仏の真面目を発揮しているのです。
これこそ清浄な悟りです」 と。
 
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                    (様々な花が咲き乱れる方丈庭園、一つ一つを仏と想えば・・・・・)
 
 
龍安寺も浄智寺も名前は同じ「方丈庭園」、
でも一方は高名で国宝です。
浄智寺は何でもない、ただの方丈さんのお庭です。
どちらも「悟り」を訓えるお庭です。
どちらが解り易いか?
私にとっては浄智寺の方丈庭園の方が解りやすいのです。
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   (地面に這うような位置で秋スミレ、コスモスや周明菊はまだ蕾、花虎の尾が盛りで。蓮は実、牡丹
は来年に向けて。写真では解り難いのですが無数のトンボが飛んでいました)
 
 
まして、「悟り」を意識しない現代人にとっては、
浄智寺方丈庭園は私達を癒してくれて、
「明日から如何様に生き抜くか!」示してくださいます。
流行歌「世界に一つだけの花」を思わず口ずさんでしまいます。
示唆してくれるお庭です。
 
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                                    (簡素な本堂と、三世仏)
 
 
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草薮の「仙人草」

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草薮の白い十字花(架)

盛夏から初秋にかけて、藪の草は生茂ります。
その草の頭上に、蔓が延びて、真っ白い花が咲いています。
ベンジャミンのような強い芳香が漂っています。
十字の白い花です。
十字架の花には私はある種の「想い」があります。
私の友人にクリスチャンは多いのです。
でも、私には何処か違和感を覚えています。
原因は一点、民の犠牲になって十字架に磔になる、原罪感が解らないのです。
でも、「尊い」事だ、思っています。
だから、十字花があると見入ってしまいます。
 
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                             (柏尾川の土手に咲いた白い蔓)
 
柏尾川の堰堤には今この十字の白い花が目立っています。
名前は何と言うのだろう?
調べてみると、「仙人草」でした。
この花から種が出来て、その種の四方に髭が伸びて、その様子が「仙人」のようだ、と言うのでこの名があるのだそうです。
花からは想像もできない名前です。
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別名は「馬食わず」、毒性が強いので馬も食わない、意味だそうです。
クローバーが「馬肥やし」、人間の相棒お馬さんの気持ちになったネーミングです。
でも、毒性が強い事は薬にもなること、扁桃腺に良く聞くそうです。
子供が一寸したことでも、扁桃腺を腫らして発熱する、そんな場合この草の液を皮膚に載せると、一年間は効果があるのだそうです。
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仙人草はクレマチスの仲間だそうです。
花の大きさからは想像もできませんが、蔓を観察すると酷似しています。
柏尾川の堰堤ではイタドリが繁茂していました。
その頭上に仙人草が覆いかぶさっています。
蜜蜂が、様々な蝶が集まっています。
花陰には女郎蜘蛛が網を張って、花に群れる虫を捕獲しようと潜んでいます。
黄色スズメバチが蜜蜂をゲットしようと飛び回っています。
カメラ片手に緊張しながら撮影です。
 
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柏尾川にはもうボラが遡上してきています。
ススキも穂をもたげようとしています。
秋はもう其処まで来ています。
もうじき、県が草刈をしてしまいます。
草刈してしまうと、私は仙人草の名前の由縁、「髭が生えた種」を見ることが出来ません。
私は枯れるまでそのままにしておき、2月頃に草焼きすれば良いと思っています。
 
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しかし、草焼きは許可が下りないのだそうです。
でも、県は草刈費用が嵩むので、地域ボランタリーで草刈してくれたら・・・助かる。
そう言っていたのでしたが。
「地域と消防団が協働して、柏尾川の草焼きをする、その間草刈は行わない・・・・・」
様々な効用があると思うのですが。
県河川局に「仙人草の種を見たい!」申し出見てみる事にしましょうか・・・・。
 
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                            (柏尾川の土手一面に咲いた仙人草)
 
 
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