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里山のお寺のオープンカフェ「木の音」

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下時国家を出ればそろそろお茶が欲しい時間です。
私達は町野川を上流に向かいます。
川沿いには美田が広がっています。
でも、能登を廻って気付く事は田圃に適した土地が少ない事です。
能登はその8割が山林です。
クヌギが多い落葉照葉樹が目立ちます。
照葉樹が美味しい米や魚を育んでいるのでしょう。
クヌギが日本一の茶室用の炭になり、
漆が輪島塗を育てたことでしょう。
今、照葉樹は一斉に色づいています。
 
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   下時国家から町野川に沿って上ると金蔵に入ります。田圃は棚に変わって行きます。
 
美田は次第に棚田に変わります。
町野町「金蔵/かなくら」にある慶願寺が目的地です。
お寺にオープンカフェがあるんです。
この日は定休日でしたが、無理を言って開いてもらいました。
16人で、珈琲と古代米で作ったシフォンケーキを戴きます。
   
 
オープンカフェはお寺の本堂と庫裏を繋ぐ渡り廊下にありました。
廊下は下を潜れるように太鼓橋の形になっています。
その段差を利用してテーブル、椅子が並んでいます。
各テーブルにストーブが焚かれています。
丸窓は冬を迎えて透明なビニールで塞がれていますが、
中央の窓だけが開いたままです。
この窓は開けておくから、其処から梢のざわめきをお聞きください・・・、
そんな意図なんでしょう。
そうです、このオープンカフェの名は「木の音/きのこえ」なのです。
お客さんに無言で言いかけます。
「暖かい珈琲を飲みながら、心静かにして木の声に耳を傾けて下さい」
 
 
  
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   渡り廊下はビニールで覆われていました。一か所丸窓が開いていました。
    此処から木の音(こえ)に耳を傾けてください・・・・、そんな意向なのでしょう。
    ”あら?ガラスが張って無いの!確認しています。
 
 
内玄関には見事な投げ入れが活けられていました。
荒れ地野菊にマユミ(赤い実・紅葉も)が目を引きます。
玄関で声を発すると直ぐに出て来て下さいました。
 
慶願寺20世住職の妻(坊守)日向文恵さんは素敵なアラフォー(?)でした。
既にシフォンケーキは用意され、後は珈琲に沸かすだけです。
テキパキと16人分のケーキが配られました。
そして、コップに水が配られました。
身体が芯から冷え切った私達ですから、ほうじ茶が良いのにな・・・・、
思いましたが、コップの水を口にして直ぐに理解しました。
お水は冷たいものの、実に美味しいのです。
      (輪島、和倉の水も美味しかったんですが金蔵が最高でした)
「少し冷たくても金蔵のお水を味わってください・・・・・」
水は坊守さんのご自慢なのでしょう。
 
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     古代米で作ったシフォンケーキ、珈琲セットで850円、しっとりとして美味しかったです。
 
 
古代米のシフォンケーキはしっとりした口触りで、甘くも無く上品なお味でした。
クリームにフルーツが添えられていて・・・・・・、新宿の高野で戴くような気がします。
 
窓の外には時雨が降り止まず、梢が風に吹かれて右に左に揺すられています。
木の音(こえ)を聴けと言われれば・・・・、
私は何度も幹に耳を押し当てた事がありました。
すると・・・・、ゴーゴーと地下鉄の様な音がします。
あの音は風に吹かれた梢の音で・・・・・、畢竟”風の音”なのです。
 
大地や水の音が地蔵菩薩の音声と言うならば、
風に吹かれて洩れる音は虚空蔵菩薩の声なのでしょう。
人間の住む空間は、地と空の間です。
”木の音/こえ”と聞き慣れないネーミングには、
坊守さんの想いが込められているのでしょう。
 
こんな辺鄙な里のお寺でカフェを始めるには、
相当の覚悟が熱い気持ちが在ったに違いありません。
私は、坊守さんにお話をしてくださるようにお願いいたしました。
坊守さんは、ノートブックを読むようにして説明してくださいました。
 
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   本堂(手前)と庫裏(向こう側)を繋ぐ渡り廊下がカフェになっています。
   右側でファイルを手に説明されているのが坊守さんです。
 
以下は坊守さんのお言葉を私なりに解釈して述べるものです。
時代が中世から近世に変わる頃、金蔵にはお寺が5つもありました。
金蔵の名が示すように、総じて貧困な奥能登にあってこの辺りは裕福でした。
 
お寺が核になって、山を開いて棚田にし、水を確保するため池を掘り・・・・・・、
そして何より水を公平に配分するために……、農民はお寺で協議したのでした。
協議した事を実施するには、お寺の鐘(時間管理)が重要です。
鐘が鳴ったら・・・・・・、自分の田圃に水を引く時間です。
水路を塞いで、自分の田圃の畔を切ってす、水を引き込みます。
ボサボサしていたら・・・・・、お隣の田圃の時間になってしまいます。 
 
 
稲は畑でも栽培できます。(陸稲)
でも、お米と言えば水稲です。
田圃に水を充分に入れれば・・・・、植物性のプランクトンが湧きます。
生物の循環がスタートし・・・・・・、それは肥料を作る事になります。
水稲は同じ田圃で何百年も連作が可能な・・・・稀有な耕作方法なのです。
水稲は狭い土地に沢山の人口を養い、同時に生物多様性を維持する
”魔法の水溜り”なのです。
小麦はこんなことは不可能です。
 
 
五つのお寺さんは棚田の開墾や水稲栽培を指導したことをはじめ、
農民の教育にも熱心でした。
その結果強い結束力が出来ました。
近世初頭には一向一揆が起こります。
領主の欲求に抗して立ち上がったのでした。
その結果は金蔵は全村焼討されたのでした。
それでも、再びお寺を核にして農民は村を復興させました。
 
近年、金蔵も過疎問題は深刻になりました。
お寺を核にした教育は500年も前から熱心な土地柄だったのに・・・・、
平成9年金蔵小学校は廃校になりました。
平成12年NPO法人や「すらぎの里金蔵学校」が立ち上がります。
標語は「貴方が先生、私が生徒。私が先生、貴方が生徒」でした。
金蔵の再発見と、新しい時代の金蔵を創造する為に、
知恵を出し合おう、協力しよう、そんな試みが続いています。
 
その結果、ブランド米(金蔵米)や酒(米金蔵)が出来ました。
米や桜のオーナー制度も軌道に乗りました。
棚田では万灯会を催しました。
万灯会は棚田の畔に3万個の蝋燭を灯すイベントです。
白米千枚田(ユネスコ登録農業遺産)よりも先行した万灯会でした。
そんな村おこしの一環で・・・・
慶願寺の渡り廊下でオープンカフェがスタートしたのでした。
 
坊守さんは寂しそうに話します。
過疎化は深刻で、人口は180人しかいません。
そして、二十歳以下の人はたったの2人です。
でも、こんな試みと美しい里山を散策しようとする人が増えて、年間8千人もの人が訪れるようになりました。
 
珈琲を美味しく戴いて、私達は本堂に回って手を合わせました。
本堂の周囲は雪囲いのガラス戸が張られていました。
もう、冬支度を終えたのです。
雪囲いをしたのは10月17日(日)だったようです。
本堂の丸柱に行き囲い奉仕の案内が張られていました。
500年も前からのお寺と村人との関係は続いているのです。
 
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  本堂の縁側から山門を見る。アルミサッシによる雪囲いが出来ていました。
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  雪囲いの案内が本堂に張られていました。講が今もしっかり組織されていることが解ります。
 
私達はお寺を後にしました。
門前の駐車場に下りると、嬉しい事に鮮やかな虹が懸っていました。
此方は時雨が強く、向こうの空も鉛色です。
でも、一か所雲が開いて、光が射しているようです。
それで、鮮やかな虹が出現しました。
こんな天気を「片しぐれ」と呼ぶんだそうです。
 
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私は、天上のM君が虹を渡って、私達と合流してくるように見えました。
M君は今年の1月急逝されました。
真摯な人で、親鸞聖人を崇敬されていました。
  時雨(あめ)あがり 雲間に高く虹渡り
         君天上より 下りて来ぬらん
 
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      時雨の中坊守さんに見送って戴きました。先輩Oさんが作られた句です。
           大黒の見送る笑顔 冬の虹
 
時雨降る中坊守さんに見送って戴き・・・・、勿体ない、感謝しました。
能登の人の優しさ、温かさを痛感致しました。
私達にはシフォンケーキのソフトな味と、珈琲の温かさや香りは忘れ難いものになりました。
それも、時雨や虹のお蔭です。
木の音がそこそこにお客が来られることを確信いたしました。
皆さんも輪島に行ったら時国家の先に金蔵があります。
ぜひお越しください。
 
【追記】
金蔵は「日本の棚田百景」に選ばれています。
それらのついてはいかのHPに詳しいのです。
 
 
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白米千枚田の美しさ

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里山にひろがる金蔵の棚田を下って、海に出ました。
国道249号線を輪島に向かいます。
国道沿いにある白米千枚田が次の目的地です。
奥能登はなだらかな山が連なっています。
田圃は山襞の僅かな隙間に棚田を開墾しました。
海岸線も山が迫り田圃を耕せるような土地は見当たりません。
天候も厳しいし、土地も山ばかり肥沃な平野はありません。
厳格な風土の中に人間の営みが延々と続いてきました。
自然と人間と、そのせめぎ合い、調和が「里山・里海」の景色を作っています。
 
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     国道249号線(里海街道)向こうの灯りは輪島の市街です。
 
国道249号線が峠に差し掛かりました。
其処が白米千枚田の展望台(道の駅)です。
空は鉛色です。
時雨は降りやみません。
海から吹く強う風に乗って、横殴りに降り続いています。
季節風はゴーゴーと海音も届かせます。
岸辺には波が砕けて、波の花が広がっています。
大自然の圧倒的に険しい光景に息を吞むばかりです。
 
 
展望台の位置から海岸までの高低差は60m程でしょう。
20階建てのビルの屋上から眺めるようなものです。
一望して1000枚の田圃が見渡せます。
 
海岸の石でしょうか、それとも山の石でしょうか、石を積んで石垣を作りました。
石垣の上が畔です。
田圃の畔は複雑な幾何学的な模様を見せています。
畔は曲線で、一枚一間の田圃が鱗のように見えます。
屹度この形が土砂崩れを防ぐ堅固な石垣であり、棚田を支えているのでしょう。
 
でも、こんな狭さで、形であれば農作業は手作業により他在りません。
効率は悪いし・・・・・・、
過疎化の中に在っては見捨てられるのが経済合理性でしょう。
でも、人は耕すことを放棄しませんでした。
 
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    展望台から見下ろした白米千枚田
 
ここは一見して土砂崩れの後です。
この秋大島では土砂崩れで大災害が発生しました。
台風による大雨が土石流を発生させ、家も人も海に流してしまいました。
 
白米では、そんな沢崩れの後に、石を積んで棚田にして、
米作と防災を兼ねて千枚田を開墾したのです。
水は上の田から下の田に直接流されたり、竹樋などで配られます。
先人の自然に和して生き抜こうとする知恵と努力が尊いものと教えられます。
それが観る人の感動を呼び起こします。
 
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   手前に細い川があります。川から水を引き、棚田の上から下に水が満たされるのでしょう。
    竹樋も張り廻らされていそうです。
    厳しい自然に寄り添うようにしながら田を耕してきた人間に頭を垂れざるを得ません。
 
 
 
1000枚田を耕している農家はたった3軒だそうです。
大半の田圃は地元のボランタリーの導入したオーナー制度によって総ての棚田が耕されています。
そんな努力で美しい景観が維持されているそうです。
 
私達は余りの強風で田圃まで下りませんでしたが、
田圃の脇には立札がたっていて、オーナーの名が記されているそうです。
立札が無ければどれが自分の田圃であるか混乱してしまう事でしょう。
 
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    写真では波頭が割れて白い泡ばかりに見えますが、波の花も飛んでいました。
     もう、奥能登は冬に突入しています。
 
輪島の宿で荷を下ろして、風呂に入る前にまた千枚田に行く事にしました。
夜になると万灯篭がライトアップするのです。
観光写真で見たことはありますが、実際に自分の眼で見たかったんです。
夜6時過ぎ、展望台に着きました。
遠くで雷鳴も轟いていますし、時雨も降っていますので、
他に来ている人はありませんでした。
 
ソーラで発電して、暗くなればLEDに灯がつく仕組みです。
LEDはペットのボトルを切って、その底部分を上にして保護されています。
新しい技術と人手が万灯篭を実現したのです。
万灯篭は蝋燭のオレンジの灯りでしょうが・・・、この時間は赤紫に灯っていました。
「畔のきらめき」とネーミングしているのだそうです。
蝋燭の灯りより、強い印象を与えてくれます。
 
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   11月から2月までライトアップされます。LEDは紫に灯ります。
    「畔のきらめき」とネーミングされています。
 
海は真っ暗です。
勿論月も星も見えません。
天気なら月で海が照らされ、星も満天に輝いていることでしょう。
時折峠を越えて行く車のテールランプが見渡せます。
 
これから、雪の棚田、水鏡の棚田、青苗の棚田、稔の棚田、刈り入れの棚田、
稲干しの棚田・・・・、様々に棚田は表情を変える事でしょう。
どれもこれも美しいのでしょうが、
厳しい冬に突入する棚田風景は身の引き締まる景色です。
「人間の自然との関係」を教えてくれます。
だからこそ、世界農業遺産に指定されたのでしょう。
 
千枚田は房総(大山)、奥三河(細谷)、信濃(姥捨)など数多く見てきました。
でも、圧倒的な自然の厳しさ、一枚一枚の棚田自体が小さい事・・・・、等々、
最も美しい千枚田は白米でしょう。 
 
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  オレンジの灯がともる事もあるそうです。右上のオレンジは狐火ではありません。テールランプです。
 
 
 
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素晴らしい「能登キリコ会館」

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私はサラリーマン時代、札幌、大坂、福岡に転勤しました。
転勤先で各地のお祭りは観て歩きました。
その土地土地で様々なお祭りがあって、それは興味深いものでした。
熱気では、博多の山笠、季節感では奈良のお水取り、京都の祇園祭、
そして郷土愛では御柱祭(諏訪)が・・・・、
好きな祭りは指折り数えられます。
でも、TVで見た能登の祭りは総ての祭りのエキスがルツボになっていて、
一度祭りに行きたい思っていました。
 
 
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   キリコ会館は能登地方のお祭り博物館と言えるような施設です。左奥の岬の珠洲側が
    白米千枚田になります。
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   輪島の街にはキリコが目立ちます。(写真中央に立っているのがキリコ、未だ月が残っています)
 
そんな、能登の祭りを展示しているのが「輪島のキリコ会館」なのです。
白米千枚田を出て、キリコ会館に着く頃にはもう辺りは暗くなってしまっていました。
私達16人がキリコ会館に着くと、職員は嬉しそうです。
傘の滴を払う間もなく、早速に案内してくれました。
 
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  キリコ会館のホール、正面は高さ16メートルもある最大のキリコです。
   この大きなキリコを立てて神輿を先導するのは大変な技であり、
   氏子の心が揃わないと出来ないそうです。
 
天上の高い体育館のような建物のホールに、
30本ものキリコが建っている様は壮観です。
案内嬢はその一本一本を誇らしげに、丁寧に説明してくださいました。
 
能登の祭りは夏祭り、秋祭りが大半で、
各町内では巨大なキリコと呼ぶ御神灯を担ぎ出します。
キリコとは「切子灯籠」のことであり、
神様が乗られるお神輿の前後を照らすのが役割です。
古くは子供が笹に御神灯を吊るして持ち歩いた神行行列が始まりだそうです。
ですから、大坂の今宮戎や七夕のようなものだったのでしょう。
笹キリコから4本の柱の笹キリコになり、木製になりました。
1600年代になると木製キリコに漆が塗られ金箔が貼られ、
高さも10mを越える大型キリコになりました。
 
町々が豪華で華麗なキリコを競い合います。
ねぶたのように明るく夜空に映えて、
神様の前後を照らすキリコは能登の匠の総合芸術なんです。
能登の匠が力を技をキリコに集中して、豪華で華麗なキリコを実現させたのです。
 
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 能登には木地師、塗り師、紙梳き、蝋燭…様々な伝統の匠がいます。
 彼らの技がこのキリコの注がれています。
 
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  大きなキリコですが細部を見れば見事な装飾彫刻が目につきます。
  木地師の技です。
 
お神輿の前後に在って、夜道を照らすキリコは現在では7百本もあるそうです。
そんなキリコがこの会館に収納・展示されていているのです。
夏祭り・秋祭り本番になればキリコ会館から搬出され、
氏子達に曳かれるのです。
 
氏子は東京や大阪から故郷に戻って、キリコを曳き、神輿を担ぎます。
祭りの熱気の中で自らのルーツを確認し、
神の加護を得て、また職場に戻る事でしょう。
だから、普段は過疎・高齢化に悩む能登の村・町は熱気に溢れて、興奮がいやがうえにも昂じるんでしょう。
 
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                          恋路の火祭り(キリコ会館のビデオから)
 
キリコ会館の展示場ではビデオが放映されています。
恋路海岸の火祭りでは、灯されたキリコが海面にも映ります。
暴れまくる神輿もあれば、橋の上から川に突き落とされる神輿もあります。
神様は美しく雅な事もお好きなんですが、勇壮で、乱暴な事も大好きなんです。
それは、人間と同じです。
人間の本性を隠さないのが神様なんです。
だからお祭りには本性を、本心を明かすことが”是”とされるんです。
祭りの宵には恋が進展します。
 
そんな有様が各町、各村それぞれの姿で紹介されます。
 
能登の自然は厳しいから・・・・・・、
千枚田を開墾するにも皆が力を合わせなければ不可能です。
水が少ないから・・・・、溜池を作り、公平に田に水を配るのも大切です。
それにはやはり協力しなければ出来ません。
厳しい自然が人の強い結束力がうまれたのでしょう。
お寺を守る結束が講でしたし、神社で結束した結果キリコ祭りが催されました。
 
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 富畑の酒見大祭。キリコを立てたまま神行するのは大変な技です。(キリコ会館のパネルを転写)
 
 
能登では神様は海の彼方からやって来られます。
だから鳥居は何処も海に向かって建っています。
気多大社で、紅い襦袢の少女が裾をめくって海に向かって勢揃いした写真がありました。(幸娘みそぎ神事)
神様はこんな少女が大好きで、海の彼方から喜び勇んで遣って来られるんでしょう。
勿論、叔父さんもおばさんもこんな少女が好きなんです。
でも、今ではこんなに沢山の少女を勢揃いさせるのは不可能でしょう。
神様も寂しがっておいででしょう。
如何すれば、50年時間を逆戻りできるか・・・・・・?
頭を傾げておいででしょう。
 
何時か近いうちにお祭り本番を見たいものです。
キリコ会館の案内嬢に拍手です。
郷土愛のある人は素敵です。
 
 
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  気多大社の幸娘禊神事(キリコ会館の展示を複写)
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       平野勲氏の祭りの熱気を伝える絵画(キリコ会館に展示)
 
 
【追記】
筆者はキリコ祭りに限って案内しましたが、もう一つ奥能登には重要な祭りがあります。
「あえのこと」と呼ばれる農耕神事(田の神祭り)です。ユネスコの無形文化遺産に指定されています。
キリコ会館には「あえのこと」も紹介されています。
 
 
 
 
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能登は優しい土までも・・・・(民宿たなか)

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白米千枚田からキリコ会館を見て、
輪島の市街地に着く頃にはもう辺りも真っ暗でした。
田舎町は日が沈むと人影も無く、静まり返っていました。
私の身体は芯から冷えました。
早く温泉に入りたい・・・…、一心です。
今晩の宿は・・・・、輪島の民宿「たなか」です。
 
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                           最初の泊まりは民宿の「たなか」でした。
 
宿の選択に際して・・・・・、いろいろ迷います。
ネットサーフィンをしながら、最も好みの宿を探します。
寛げて、地域の物産を美味しく食べられて、地域の地誌を詳しく説明してくれそうで・・・・、何よりも宿で働く人たちが、その地方を心から愛していそうな・・・・、
そんな宿を探します。
その結果が、講人宿だったり・・・・、宿坊であったり・・・・、民宿であったりしました。
輪島では偶々「民宿たなか」が私(皆)の好みにフィットしたのでした。
 
「たなか」は京都の町屋風で間口は狭く、奥行きの深い木造3階建ての建物でした。
露地に入って暖簾をくぐると小太りの叔母さん(店主のお母さん)が待ち受けて下さいました。
天井は吹き抜けで、和紙の大きな行灯が吊り下がっています。
そして、框を上がると、囲炉裏が切ってありまし。
板の間は能登ヒバ(※)で張られて・・・・、
拭きうるしが塗られています。
壁は・・・・、珪藻土が塗られています。
木材も、障子も、壁も・・・・、みんな能登の素材が使われています。
白と黒が基調のインテリアは落ち着いて・・・・寛がせてくれます。
 ※能登ヒバ:檜に似ていますが木肌が黒っぽく檜と桂の良さを掛け合わせたような良材です。多分に          檜シオールを含有しているので、心を鎮める芳香が漂います。
 
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                       たなかの吹き抜けに吊るされた行灯
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   たなかの玄関ホール。囲炉裏が切られています。黒いのは拭き漆の所為です。
 
廊下は人がすれ違え難い程狭いのです。
私達夫婦の部屋は6畳間です。
トイレも洗面も、勿論風呂もありません。
でも、小さいながらも床の間がって、花が活けられています。
障子紙は輪島の遠見和紙で、八重さくらが漉き込まれています。
狭い空間であるからこそ・・・・、寛がせてくれます。
 
屑籠を見て驚きました。
漆の桶が使われているのです。
私が使った鼻紙をポイ捨てするのは憚れる・・・・漆の桶です。
 
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  ゴミ籠は漆職人の使った桶です。勿体なくてちり紙もポイ出来ません。
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  6畳間だからこそ、床の間が設えられていて・・・、落ち着いて、寛げます。 まるでお茶席のようです。
  壁は能登地方の土、珪藻土で塗られています。珪藻ですから異臭などを吸収するロハスな壁です。
  七輪の素材でもあります。
 
輪島で京都から来られたNさんと合流しました。
Nさんは70歳を過ぎても50年前と全く変わられません・・・・、
人懐っこさとカリスマ性は色褪せていません。
Nさんが私達研究会の創始者なのです。
Nさんの笑顔と話し口をきくと・・・・、
私達は直ぐに50年前に舞い戻る事が出来るんです。
 
今晩は夕食会場は私達が独占です。
小太り伯母さんが面倒を見てくださいます。
山海の美味・珍味が次々に食膳に運ばれてきます。
その大半が漆の器に盛られています。
漆は縄文時代から使われてきたんですから・・・・・、
日本人には陶器以上に落ち着かせてくれるんでしょう。
 
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 たなかの夕食の膳。これから次々に山海の美味が運ばれてきます。器の大半が漆器です。
 お箸はお土産にくれます。
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   此方が朝食の膳、ご飯は「はざ干し米/棚田米を天日で干したお米」です。
 
能登半島の東は七浦湾で静かな海です。
鰤や甘エビ、牡蠣が名物です。
一方能登半島の西側は荒々しい海で、冬は季節風で荒れてしまいます。
代表的な景勝地、外浦海岸があって、輪島沖に舳倉島や七ツ島があって、
貝類や魚類海藻は日本有数の宝庫だそうです。
海女さんの数は日本一だそうです。
そんな食材が漆の器に並びます。
 
小太りおばさんに聞きます。
「この野菜は金時草です。葉っぱの表は緑ですが裏は紫です。
粘りがいいですよね・・・」
これが、加賀野菜か! 舌で輪島を楽しみます。
和え物は「かじめ」です。
味噌汁には「つるも」が入っています。
煮物は「鰤大根」です。
「鰤は焼いてから大根と併せて煮ていますから・・・臭みは全くありません」
小太りおばさんの説明は的確です。
お造りは・・・お醤油か当地の「いしる」でお召し上がりください。
この「いしる」は鰯の魚醤です。
勿論私はいしるで戴きます。
独特な魚醤はお刺身の味を深めています。
お鍋もいしるの味が効いていました。
 
問題があるとすれば・・・・、私の胃袋が未だ回復途上にある事です。
食べきれないんです。
遠くで家内が「食べ過ぎないか?」心配そうに伺っています。
 
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  店主のお母さん、小太りで、愛嬌のあるお母さんです。良く説明して下さいました。
 
 
 
朝食には「すくい豆腐/湯豆腐」に焼き物はフグが出ました。
温泉卵に・・・・、まあ、よくも私の好みにあった料理が続くもんです。
 
 
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   突然、夜半に霰が降りました。たなかの表通りは霰が踊っていました。
 
夕食も終わりに差し掛かった頃、突然に頭上で雷鳴が轟きました。
そして、バラバラと屋根を打つ音・・・・、霰が降ってきたのです。
私は、表の道路に出ます。
金平糖の形をした霰が道路を覆っています。
金平糖を手にして・・・・口に運んでみます。
”何だ甘くはないや・・・・”金平糖は儚く消えてしまいます。
 
 
 
夕食後は大部屋に集まって、『青春百話』で盛り上げます。
怪談の「百話物語」をもじったものです。
司会はI君です。
何故か(I君にとっては当然のように…)初恋話に集中します。
もう、50年以上も昔の話です。
でも、今もトキメキが変わらないのは・・・・・・、
不思議なような・・・・、うれしい様な・・・・。
 
用意しておいた三本のお酒も、H君の実家から届けて戴いたお酒も空になりました。
もう一風呂浴びてから・・・・・、床に就きました。
狭いながらも・・・・・、風呂桶も腰掛も・・・・漆で塗られていました。
 
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  たなかの風呂桶も漆塗りです。
 
翌朝、快晴でした。
西の空には明け時の月が残っていました。
小太り伯母さんが送って下さいました。
 
能登は外目で見れば・・・・、天候も厳しいし、地形も住みよくは無いでしょう。
でも一見厳しい風土ですが・・・・、厳しい風土だからこそ・・・・、
土も、海も、木も草も・・・・、使ってみれば、口にしてみれば・・・・、優しいようです。
そして、人は心底優しい人が多いようです。
 
私達は小太りおばさんに見送られて・・・・、真っ直ぐ朝市に向かいました。
 
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   早朝の民宿たなか、夜明けの月が白々と残っていました。
 
 
【追記】
たなかのHPおよび奥様のブログは以下の通りです。
http://www.oyado-tanaka.jp/【たなかHP】
http://blogs.yahoo.co.jp/sumire4hanamizuki/【女将のこっそりブログ】
 
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今年は見事「建長寺のカエデ」

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能登の紀行も1日目が終わり三分の一が終了したところです。
その間、鎌倉でも季節が進んでもう今週末はもみじの見頃を迎えます。
そこで、今日は鎌倉のもみじの名所の中から、建長寺を紹介します。
今年は夏暑かったものの、急激に冷え込んだせいでしょう、
もみじが例年以上に鮮やかに染まったのです。
 
TVで「もみじの名所」を中継しています。
その大半が京都の嵐山だったり、嵯峨野、東山辺りです。
やっぱり、もみじは京都だなあ・・・・! 痛感しながら旅立ちたい衝動を押さえます。
おなじ「いろはもみじ」でも京都の方が鎌倉より数段綺麗だと思います。
そして、心なしか京都の方が葉が大きい様な気がします。
京都のもみじは1000年の歴史をかけて作り上げた園芸種だからでしょうか?
 
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  建長寺仏殿は地蔵菩薩が本尊です、その西側にカエデが自生しています。
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   建長寺のカエデ、バックは法堂です。
 
日本人にとっては「もみじ/紅葉」と「かえで/楓」は略同じいみでしょう。
植物分類上はモミジもカエデも「かえで科」「かえで属」の植物です。
日常の表現や童謡等で「カエデ」とは言わずに「モミジ/紅葉」と呼んでいるようです。
「カエデ」は「蛙の手」が語源で、
5つ以上に深く切り込んだ葉っぱを指しているようです。
以降は分類学に従って「もみじ」とは呼ばずに「カエデ」と言います。
 
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  建長寺法堂、天上の雲龍図は小泉淳作氏(昨年死去)の作。
  現在第一回小泉淳作展を実施中です。
 
世界中にカエデの仲間は数多くあります。
カナダにはメープルシロップを採取するカエデが国旗になっています。
でも紅葉するわけでは無く・・・・黄色く染まります。
中国のカエデは・・・・、「モミジ葉フウ」で大木になりますが、
真っ赤には染まりません。
茶色・黄色そして部分的に紅葉します。
真っ赤に染まるのは日本のカエデの特長です。
日本は紅葉するカエデの宝庫なんです。
 
 
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  向こうの大木が「モミジ葉フウ」です。中国人はこの大樹を楓という字を充てました。
  一方日本人は真っ赤に染まるイロハモミジを楓という字に充てました。
   だから・・・・、「モミジ/紅葉」と「カエデ/楓」がこんがらかるのです。
 
 
建長寺のカエデは所謂「イロハモミジ」ですが、
京都のそれに比べて葉っぱが小さいような気がします。
鎌倉では元々、半蔵坊近くから流れ出す渓流沿いに生えていましたから・・・…、
野生種なのでしょう。
一方京都の庭園のモミジは名木の種を育てたものでしょう。
嵐山や東福寺には野生種も目立ちます。
 
建長寺ではカエデが伽藍のポイントポイントに自生していて、
この時期目立っています。
とりわけ見事なのは仏殿の西側、厠の周囲に自生しているカエデです。
更に方丈の奥に塔頭が並んでいます。
塔頭の周囲にはカエデが目立ちます。
更に半増坊に向かう途中の竹林にもカエデが自生しています。
半蔵坊の石段はカエデに埋まっています。
 
進むと、竹林の間に、露地の石垣の上にもカエデが並んでいます。
今週末が見頃でしょうから、是非お出かけ下さい。
 
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   塔頭にはカエデが目立ちます。塔頭は管主さんらが引退され後のお住いでもあります。
    カエデを意識して植えられたものでしょう。
 
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  龍宝院石垣上のカエデ
 
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 正統院の門前から見た龍宝院のカエデ
 
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    半増坊に行く途中、竹林の中のカエデ
 
 
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輪島の朝市

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私は旅に出ても、朝は早くに目が覚めてしまいます。
朝食は7時半ですから、未だ一時間余りもあります。
そこで、お散歩を兼ねて朝市通りまで出かけてみました。
昨日の夜、到着したときには解りませんでしたが、明るくなれば良く解ります。
輪島は三方を山で囲まれ、その中央に久手川が流れています。
まるで京都の様な町です。
違うのは開いた一方が海であること、そして輪島の市街地は3万人足らず・・・・、
小さな地方都市だという事です。
 
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  輪島朝市は久手川の河口近く、重蔵神社も門前の通りにあります。
   早朝未だ白い月が残っていました。
 
 
朝市通りには次々に露店が出始めて来ています。
軽トラを運転してくるのはお父さん、お母さんと二人して、
テキパキとテントを張って商品を並べます。
6割が鮮魚などの海産物、2割が林檎や柿、野菜のようです。
残りの2割が民芸品です。
寒いので・・・・、イシル汁など温かい飲食物が欲しいのですが・・・・、
飲食の露店は見当たりません。
東南アジアの屋台とは…姿は似ても内容は大違いです。
東南アジアでは・・・・・、朝食を作らずに屋台で済ませます。
輪島では・・・・・、朝早くから朝市で具材を求めて・・・・・、手作りします。
 
屋台の飲食店が出れば賑わう事でしょう。
お母さんが魚を洗っています。
カレイの滑りをたわしで洗い流しているんです。
見るからに冷たそうです。
 
 
 
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 7時前、開店を急ぐ朝市の露店、雨が降っても雪が積もっても朝市は開くのだそうです。
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   カレイの滑りをタワシで洗い拭う伯母さん。輪島の叔母さんは働き者です。
 
朝食を終えて、8時半、皆して朝市に遣って来ました。
海寄りの駐車場に車を置けば、一分で朝市通りに出られます。
これから、一般の店が開店する10時までが朝市の稼ぎ時のようです。
売り子は女性ばかりです。
むさくるしい親爺の出番は無いようです。
伯母さんが多いようですが、若い女性もチラホラ見えます。
お客と売り子との掛け合いが楽しそうです。
鰤もズワイガニも正札は出ていません。
値段を決めるのは・・・、掛け合いの結果です。
値を負けろ、もう一匹蟹をサービスしろ・・・・、丁々発止で掛け合いが続きます。
他人の掛け合いを見ながら・・・、輪島朝市の価格水準を理解します。
翌日、七尾フィッシャーマンズワーフで市場を巡ったのですが、
蟹で言うならば3割は輪島朝市はお安いと思いました。
 
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    名物の鰤を開く伯母さん。切り身におろして、キロ2千円(100g200円)です。
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     鱈、鰤、ズワイガニ、好物が並んだ露店の店先。このズワイはタグが付いていないので、
      正規品(地場産で無傷)ではなさそうです。
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    青いタグのついているズワイガニ(加能蟹/加賀・能登蟹)が正規品です。
    これでも、上手に値切れば4はいで1万円になるようです。左の巨大なズワイはロシア産です。
 
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     巨大なのは鬼柚子。
 
朝市通りの西の外れには重蔵神社があります。
多分、此処の朝市は平安時代には在ったもので、
神社の門前で物々交換していたものでしょう。
今ではお客の8割が旅行客で、2割が地元のお客さん。
此処で今日一日の食べ物を買うんでしょう。
新鮮な魚と野菜が買えれば、もう十二分です。
 
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   売り上手な若い伯母さん。3ハイで1万円、商いを纏めようとしています。
   でも、この立派なズワイに正規品のタグはついていません・・・。でも充分美味しそうです。
 
約400mの通りの両側に200店以上の露店が並んでいます。
筆者は高山の朝市も、呼子の朝市も、勝浦の朝市も経験しましたが、
輪島が最高です。
道路の幅も広いし、道路面も綺麗ですし・・・・・、一番楽しみな店主と買い物客との接触(掛け合い)も密なものがあります。
 
私の仲間もお土産を続々購入していました。
自分が帰る前にお土産が先行して届くようです。
宅急便の会社が一番儲けられるようです。
 
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  朝市通りの西にある重蔵神社
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朝市通りの中央に寂れた美術館があります。
ルーブル美術館の「サモトラケのニケ像」が汚れて立っています。
美術館の入口には裁判所の公告が貼られています。
某漆器屋さんが更生法の適用を申請したのですが、適わず破産が宣告されてしまったようです。
漆器屋さんの更生を引き受ける会社も個人も見当たらなかったのでしょう。
輪島漆器の厳しい現実を窺がわせる・・・・、破産した美術館です。
 
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   朝市通りにある美術館・・・、場違いのギリシャ風。ニケ像が汚れていました。
 
彦十蒔絵(若宮武氏)との約束は午前十時です。
その前に重蔵神社の神前にある「工房長屋」に行く事にしました。
 
 
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    雪靴を作って商う伯母さん、求めるお婆さん。陽射しが温かそうです。
 
 
 
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輪島塗りの「匠の長屋」

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朝市でお買い物を楽しんで、
未だ蒔絵の匠「若宮隆志氏」との約束時間まで小一時間あります。
そこで、輪島塗の匠の長屋「工房長屋」に行く事にしました。
工房長屋は朝市通りの西果、重蔵神社の門前にあります。
 
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   輪島工房長屋の全体図
 
工房長屋は平成11年TMO(中心市街地活性化法)施行によって造られました。
昨今地方都市は商店街に来客が減って、シャッター通りになってしまっています。
そんな中心市街に人が戻ってくるように・・・・、
活性化させるのが同法の目的でありました。
輪島では商工会議所などが核になって、「㈱まちつくり輪島」が設立され、
いくつかの事業をスタートさせたようです。
事業は「中小小売商業高度化事業」でもありました。
そんな事業の目玉が「工房長屋」であったのでした。
 
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  工房長屋は江戸の町屋のようで、まるで映画のセットです。
 
 
重蔵神社の鳥居の前、道の左右に4棟の長屋が建っています。
長屋は黒い瓦が葺かれ、白壁に、黒い板張り・・・・・、
まるで江戸時代の町屋・長屋そのままです。
時代劇のセットに入った様な雰囲気です。
 
北の方から「木地工房/輪島塗の木地を作る工房」、
「塗り工房/塗っては磨く・・・・輪島塗のコア」
「情報工房/観光情報等を発信、体験工房、修理工房」、
「物産工房/製品の販売、軽飲食」、
そして「職人工房/未来の輪島塗を背負う匠を支援する工房」に分かれています。
北の方から入れば・・・・・・、輪島塗の全体が理解できる・・・・、そんな設備です。
見終われば甘味処もあれば足湯もあります。
 
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 工房長屋は若手作家を育てるのも目的です。匠同士の切磋琢磨、
 消費者との交流など様々な成果が期待できそうです。
 
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   甘味処
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         足湯の「ゆらり」
 
朝市では「稲忠美術館」の破たんを確認しました。
美術館を運営していたのは輪島塗・漆芸では能登最大手の稲忠グループでした。
屹度バブル時代の行き過ぎが、糾されたんでしょう。。
稲忠の漆芸技術は高レベルで、
近年の法隆寺の玉虫の厨子を再現したりしています。
稲忠自体は存続しているようです。
キリコ会館やこの工房長屋も同社のリーダーシップがあって実現したようです。
工房長屋のウィンドーには輝かしい玉虫厨子が陳列されていましたし・・・・・・、
工房二軒が「匠が国宝修理中につき、当面工房は見られません」貼り紙されていました。
屹度、日光東照宮に出張しているのでしょう。
 
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 破綻した稲忠美術館
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    稲忠が存在を示した玉虫厨子(法隆寺の復刻版/稲忠のHPから転載)
 
輪島塗の展示場には様々な尊い試みが展示されています。
ルイビトンやコンバースなどとのコラボ、新時代の感覚の香炉や漆器のビヤカップ、どれもこれも良いなあ、欲しいなあ・・・、思わせます。
でも、手が届き難い値段です。
ベトナムに行けば、同じような日本人感覚にフィットした家庭雑貨が○一つ無い価格で購入できます。
輪島塗の本当の競争相手はベトナムの工房なんです。
日本人は片一方でベトナムに高速道路や港湾を建設し(ODA)ています。
そして、もう一方で地方の物産を支援しようとして、財政支援をしています。
ODAの窓口は外務省で、地方都市の活性化は通産省や国土省の管轄でしょう。
どう見ても矛盾しています。
私の様な貧乏人はどうしてもベトナム漆器で我慢してしまいます。
本当は工房長屋で1000円のお箸を買いたいのですが、輪島の街中では300円で2膳のお箸が求められますし、100円ショップにも小綺麗なお箸が並んでいます。
 
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    輪島塗の展示場
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   輪島塗の香炉
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   輪島塗のビヤーカップ
 
輪島塗はベトナムなどの中心国との競争、消費の低迷など・・・・・、
厳しい環境にありながら、まだまだ頑張り抜く意欲があって、
若い人が頑張っているんです。
そんな姿を見ると”尊い”思わずにいられません。
 
大好きな輪島塗ですから・・・・、
少し高かろうが買って使いこなさなくては…いけないようです。
 
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  輪島塗とコンバースとのコラボシューズ
 
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  デザイナーとのコラボで作成したスタンド。
  筆者はこうした伝統工芸品を購入した人には消費税の減免や所得税控除等の支援があっても
  良いと思います。
  1000年以上続いてきた伝統工芸を明日の世代にも引き継ぐのは私達世代の責任だと思うからです。
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  輪島塗のショップ
 
 
 
 
 
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彦十蒔絵の若宮隆志氏

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私達の仲間にIさんが居ます。
Iさんは三越に就職、ずっと美術部におられました。
「輪島では人間国宝の方も紹介してもいいんだが、若手で是非紹介したい人が居る・・・」
そんなことで、若宮隆志氏の工房を訪れる事に致しました。
若宮氏からIさんに電話がかかって来ます。
「私の処は狭いんで・・・・、他の場所で会いませんか・・・」
Iさんは言います。
「いや、貴方の工房でお会いしたいんです・・・・・。」
 
若宮氏の工房は「工房長屋」から車で10分、郊外の日当たりのよいニュータウンにありました。
一般人のマイホームと変わらないお宅です。
前庭を全部取り払って駐車場にしておいでです。
その駐車場に出て、私達を迎えてくださいました。
家の西半分が、工房と書斎です。
 
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書斎の壁は全面が書架になっています。
大変な読書量で、それも文学、美術、歴史、言語学、演劇・・・・多岐にわたります。
古典に対してはマルチな関心がおありです。
 
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     若宮氏の書架、泉鏡花が目立ちます。
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    書斎で説明を聞きました。書架の前に作品が並んでいます。 奥が工房です。
 
若宮氏は1964年輪島の片田舎で産まれました。
お爺さんは漆掻きをされていたそうです。
20歳で塗り師屋に就職、輪島塗の基礎を学びます。
24歳の時喜三誠山師より蒔絵技法を教わります。
34歳の時平澤道和師より乾漆技法や漆の天日黒目など
   漆芸の基礎を教わる。漆掻きや漆木の植樹を始めました。
2002年、38歳で輪島塗漆器青年会第三十代会長を務めます。
40歳で、お仲間を組織し、彦十蒔絵の名前で作品の発表を始めます。
三越、伊勢丹などが支援をしました。
蒔絵という伝統技法を駆使して、現代人の想いを創作する現代作家なんです。
日本画素材はの岩絵の具や絵筆、油絵の素材は洋絵具とカンバス、
それに代わって木地と和漆を素材にする、作家なんです。
 
 
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    手前が棗、一番奥の大きいのは時計(線香を立てて時間を知る)で、様々なお道具が並んでいます。
 
書斎に卓を置き、その上に作品を展示して・・・・、一つ一つ作品を案内してくださいます。
棗や硯箱、矢立等が置かれています。
総じて表面は黒い漆で地味に抑えてあります。
でも、開いてみれば中面は鮮やかな蒔絵の世界です。
若宮さんはお茶目な性格で、お道具を開いた時ビックリする・・・、
驚いた顔を見たくて表面は渋く、中身は派手にしているようです。
そして、その意図するところを尋ねると、膨大な古典への薀蓄が溢れだすのです。
 
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  これは硯箱です。障子から射してくる光で花瓶の陰が手前に来ています。お花はトルコキ桔梗でしょうか。
 
小さな硯箱です。
表面には障子の前に一輪挿しが置かれています。
黒漆を塗って、桐炭で磨いて、また漆を使って・・・、再度桐炭で磨き上げたそうです。
作業も絵も地味で落ち着いたものです。
 
この硯箱はそのまま慈照寺東求堂がモチーフなのです。
東求堂は我が国最初の書院造で、障子が初めて使われたと言われます。
障子の前に花をいけました。
何時しか、私達の仲間に京都から駆け付けた女性が合流されました。
彼女が東求堂で花を生けたんだそうです。
自分がいけたお花がどんな蒔絵になったのか確認しにお越しになられたのでした。
 
硯箱のふたを開けます。
蓋の裏にはもっと渋い水墨画風の絵が描かれています。
水墨画は・・・・西行の「水無瀬三吟百韻」の世界を思わせる寂寞とした風景が描かれています。
狩野派が幕府お抱え絵師になるずっと前の作品だそうです。
讃があります。
読めませんでしたが・・・・、立身出世・栄華を極めるより、自然の中で悠々自適太公望で居る方がズット素晴らしいじゃないか・・・! そんな意味だそうです。
 
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  硯箱の蓋の内側には東求堂の障壁画が描かれています。この硯箱は銀閣寺のワールドなんです。
 
 
矢立はもっとお茶目です。
携帯程の大きさです。
形は一つが熊で、もう一つが猫です。
OLさんが大事にしているスマートフォンのような姿をしています。
加えて熊も猫も暖かそうな毛糸の中に納まっています。
蓋を開くと・・・、小さな筆が収まっていますし、墨壺がありますから矢立であった事が解ります。
そして、内蓋にはまた薀蓄が隠れているんです。
 
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                                手前が棗、向こう側の黒い熊さんは矢立です。
 
若宮氏は作品にかける”想い”を時間をかけて暖めておくんだそうです。
それを形にするときに、彦十の仲間に相談します。(指示します)
木地師には昵懇な関係を築いてあります。
木地師に指示して器を作ってもらいます。
それからは自分の工程になります。
蒔絵師である自分の前後にも沢山の匠の作業があるんです。
全体をコントロールしうるのは若宮氏でありますが、作品は彦十という名の集団の成果なんです。
 
 
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   これは碁盤を使った香炉。碁盤は縦横19本の線が刻まれています。一つの世界観なのです。
   香を楽しむのも世界観だそうです。
 
インターネットでは彦十蒔絵の棗(一番上の作品/楽天)は200万円弱です。
同じ作品は二つとないそうですから・・・・、もう匠の世界では無く、作家の世界です。
高価な価格が付くのは致し方ないんでしょう。
若宮氏もまだこれからのお齢です。
表現しているのは古典的な世界で、実現する技も伝統技法です。
でも、作品自体は現代人の感覚です。
これから、どんな作品を発表されるのか楽しみです。
 
 
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    泉鏡花意匠の手文庫。右端は偏車輪絵巻意匠の香炉。
 
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    泉鏡花の豆本表紙
 
 
買われる人は、外国人が多いそうです。
三日前はロンドンで展示していて、帰られたばかりだそうです。
帰り際に訊いてみました。
「お客さんには外国人が多いそうですが・・・・、日本の古典に理解があるのでしょうか?
若宮さんの作品は古典い理解が無くては面白みがないと思うんですが・・・?」
するとこう答えられました。
「通訳が言葉を介してくれますが・・・・、源氏物語などの古典は私達の血になっています。
言葉だけではない部分がありますし・・・・、訳ししきれない部分もあります。
だから外国人には私の想いは伝わらないでしょう。
でも、外国人は蒔絵の美しさ、良さは認めてくれます。」
 
我が国は幕末維新有田焼を輸出しました。
焼き物を包んだ和紙に・・・・・、浮世絵がプリントされていたそうです。
その浮世絵を評価して、ゴッホやセザンヌが刺激を受けました。
何時の日にか輪島塗が海外で評価されて・・・・、日本人が再認識する・・・・、
浮世絵の様な事態が出現するような気もします。
 
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能登の「間垣の里」

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若宮氏の工房から総持寺祖院まで、山側の道を行けば30分です。
海側の道は遠回りで、約50分はかかりそうです。
海を見たくて、とりわけ能登地方独特の「間垣」と呼ばれる垣根に取り囲まれた集落を見たくて・・・・・。
海側・・・・、海里の道を行く事にしました。
 
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   能登西保海岸の干場(稲架/はさ)、もう稲は吊るされていませんでした。
 
進行右側は海が続き、左側は山が迫っていて・・・・、
道はすれ違いが出来ない程の細道です。
海に向かって道端に丸太を組んだ干場があります。
1か月前には此処で刈ったばかりの稲を干していたんでしょう。
潮風が稲をカラカラに干しあげて、お米は太って美味しくなります。
でも、棚田は見当たりません。
屹度この山の陰に隠れ田があるのでしょう。
 
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    「ぞうぞう鼻展望台」からの景色。左の岬の陰に「大沢」の集落があります。
 
西保海岸の展望台「ぞうぞう鼻」から展望しました。
風が強くて、帽子が吹き飛ばされないように両手で押さえつけながらの展望です。
沖合に舳倉島(へくらじま)、七つ島が見えます。
ま白な海が其処だけ白く波だっているので、岩礁がある事が解ります。
あの岩礁が海女さんの猟場なんです。
あの辺りは対馬海流(暖流)とオホーツク海流(リマン海流)が交錯して、
豊かな海になっているのでしょう。 
若しかしたら、この時間にも海女さんが海に潜っているのかも知れません。
 
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  能登の里海で良く見かけるお墓。一列に並んで海を見詰めています。
 
 
道路の東側、海を見下ろす位置に真っ黒な墓石が続いています。
死者がじっと海を見詰めている・・・・、そんな光景です。
平地が無いから、道路端にお墓をたてているのでしょうか?
海難事故で亡くなった人のお墓でしょうか?
確かな事は、里海の人達にとって、死者の魂は海の底で安らいでいることでしょう。
里山で亡くなった人の魂は山の上に上るように、
里海の魂は海底の都に安らうのでしょう。
 
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  間垣の里「大沢集落」に向かう。路の東側に間垣と呼ばれる防風の竹垣が繋がっています。
 
道は高台に上ったかと思えば、急に下って砂浜に出ます。
小さな漁港が見えてきます。
そこが「大沢」です。
港には4台程の漁船が停泊しています。
もう昼近くですから・・・・、
蟹漁は終えて、漁師さんは熟睡しているのかも知れません。
道路際に一列、家の高さほどの垣が続いています。
近づいてみれば垣の骨組みは材木で組んでありますが、
その間を細い長い竹で埋めてあります。
竹は苦竹と呼ばれるこの地方に自生しているものだそうです。
間垣がシベリアから吹き付ける季節風から民家を守ってくれるのです。
一戸一戸を風から守るという風では無く・・・・、集落全体を間垣が守っています。
一戸一戸の境が不明瞭で、集落全体が家族の様に見えます。
冬の厳しい自然が隣近所の絆を強くしていて・・・・、
集落全員で間垣を組んで、修理して、厳しい冬を遣り過すんでしょう。
 
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  間垣の続く景色、一軒田中屋という旅館が営業していました。
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     間垣の中にバス停の停留所がありました。防風完備の施設です。
 
所々、間垣に穴が開いています。
この穴から海に出たり、バスに乗って町に出かけるんでしょう。
同時に所々風穴をあけておかなくては、間垣自体が風で倒されてしまう事でしょう。
 
集落の略中央に旅館(田中屋)さんがあります。
素泊まりで3000円、一泊2食で7000円程度、案内されています。
こんな辺鄙な処に泊まるお客さんは・・・・、
この間垣の風景に惹かれて来るのでしょう。
大沢では、隣近所でスクラムを組んで、大自然の厳しさに耐え、
大自然の優しさを満喫するのです。
そんな日々を送る事は長い間日本人の理想でありました。
そんな懐かしい景色に自らを置きたい・・・、
思う人がいるんで・・・・、旅館があるんでしょう。
お隣の上大沢にも間垣がありました。
 
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  お地蔵さんも万全の防寒・防風対策済でした。
 
 
上大沢から山間に入ります。
突然に棚田が広がりました。
峠に差しかかるところに滝がありました。
カーナビには「男女滝(なめたき)」と出ています。
紅葉をバックに勇壮で華麗な滝でした。
向かって左、太い滝が男で、右端の細いのが女滝と直感しました。
ところが案内板には、
向かって左の大きな滝が女滝で、右が男滝と案内されています。
能登は女性の方が逞しいからなのかな?
どうも…普段は左の滝が二つに分かれているのですが、折からの時雨続きで水量が増して、女・男二本の滝が合体してしまったようです。
それでも、余った水が右端から落下して・・・・、細い滝が一本出現しているようです。
 
里海から一瞬にして里山に・・・・・、変化が激しい・・・・、楽しみ多い行程です。
 
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  上大沢の峠にある男女滝(なめたき)。時雨続きで水量が増えています。
   左の太い滝が本来は二本に分かれていて、左が女、右が男なんだそうです。
   右端の細い滝は偶々水量が増えて出現したものだそうです。
 
 
 
【追記】
間垣の里の冬景色は次に詳しいです。
このブログはこの日の晩泊った和倉温泉多田屋さんの6代目「多田 健太郎」さんが綴ったものです。
 
 
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能登ヒバの木地師「白井直樹」氏

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彦十蒔絵の若宮さんが「白井直樹」氏を紹介してくださいました。
「総持寺祖院に上るならば、境内に仏師の白井さんが居るんで、寄られたら良い」
どうも、口ぶりからすると彦十蒔絵のお仲間で、木地師のようです。
木地師とは蒔絵の台になる、木地を作る人のことです。
蒔絵を作るには重要な仲間ですが、
単独では仏像を刻んでいるのでしょう。
 
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        中央が白井直樹氏、場所は総持寺祖院の中にあるお店です。
 
白井氏にお会いしたのは、総持寺祖院の中の、総持寺ショップの中にあります。
二軒長屋の一軒でお隣では総持寺がお数珠や経典仏具を商っておいでです。
だからでしょう・・・・、仏壇の脇に置いてみたいような・・・、
お地蔵さんや座禅小僧とネーミングされた小坊主さんが置かれています。
どれもこれも、仏像というよりもこけしのような可愛らしさ、美しさが目立ちます。
 
白井氏は人前で喋るのは苦手で居られるようでした。
「質問が在ったら訊いてください!」そんな風です。
作品は、数点がお店に展示されています。
でも、ファイルに写真が収められています。
能登をはじめ、東京、千葉埼玉県などの寺院に仏像を納めておいでです。
雲中供養菩薩や木鼻などの装飾彫刻も目立ちます。
そこで、作品について、あれこれ訊いてみました。
 
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   「波に兎」の置物。の精である兎は子孫繁栄や豊穣をもたらしますので、縁起物でしょう。
   「私のルーツは欄間彫刻です」仰られるにピッタリの作品です。
 
白井氏は輪島の渋田町で産まれて(昭和29年)、輪島実業高校の木材工芸科に進学されます。
卒業後は富山県の井波町日展参与の横山一夢氏に師事します。
基本技術は欄間彫刻であったようです。
その後10年近く飛騨高山で修業し、平成5年に輪島に戻られたのでした。
 
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   能登の里山、杉のように見える大木が能登ヒバです。輪島塗の素材に使われます。
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  能登ヒバの樹林、檜と杉の中間の様な良材です。
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 能登ヒバは檜のように艶やかですが、木目もはっきりしていて、少し浅黒で、檜以上に芳香です。
 
 
どの仏像も木肌が素地のままです。
漆などの塗料は塗られていませんから、木肌の美しさが目に着きます。
材は檜よりは少し茶色っぽいように感じます。
尋ねてみれば「アテ(档)/能登ヒバ」なんだそうです。
能登地方に多いヒバ(檜の仲間)で、
檜以上に香りが強く、病虫害に強い木材だそうです。
そして、何よりも木肌が檜の様に艶やかなんですが・・・、浅黒いんです。
檜が京女の素肌ならば、能登ヒバは能登の里男の素肌のようです。
白井氏は能登ヒバの木肌がお好きで、素地を活かしておいでのようです。
 
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    総持寺祖院の主足り作品「座禅小僧」
 
 
漆塗りといえば、津軽塗があります。
青森ヒバを使った塗り物です。
高山の春慶塗りは多くが「サワラ」を使います。
そして、輪島は能登ヒバで、何れも地方の良材を使っています。
私の住む鎌倉は…鎌倉彫で、桂が素材です。
でも、桂材も、漆も鎌倉では産していません。
地域の素材を使ってこそ、価値があるように思います。
鎌倉の雑木林に桂や漆を植林させたいと思うものです。
そうしなければ・・・・鎌倉彫は「文化の香りのする産業」であって、
「伝統工芸」とは言えません。
 
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   10年近く飛騨高山で修業されたんで、円空には影響を受けた・・・言われておいででした。
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    これは五月人形でしょうか?
 
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   漆をひと塗りしたんでしょう。
 
 
能登には輪島塗がある・・・・・、良く承知していましたが、
能登の土を知り、能登の里山を見ました。
雑木林にはクヌギ(炭になる)や漆が自生していて・・・・、能登ヒバが植林されていました。
能登の素材を使って、伝統工芸が今も脈々と存続しつつ、新しい創作が始まっているんです。
Iさんが紹介してくれて、それを確認できました。
幸いでした。
 
さあ、お昼です。
今日は、親爺が修行した総持寺祖院で精進を戴きます。
 
 
【追記】
白井直樹氏の略歴によると関東地方等では以下のお寺に仏像を納めておいでです。
平成11年/東京都 西蔵院
平成14年/千葉県 浄明寺
平成17年/東京都 真照寺 
平成20年/総持寺祖院 不動明王堂 不動明王像【※】下記
平成21年/東京都  雲中菩薩 蟇股 善養寺本堂
平成22年/東京都 高幡不動大師堂
 
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  総持寺祖院の不動明王堂に納めた不動明王の写真(複写)
 
 
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総持寺祖院で精進を戴く

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今年も京都の紅葉は見ませんでした。
今頃は掃き集めた紅葉で、焚火をしていることでしょう。
こんな静かな日は一乗寺門口にある詩仙堂の縁側に座っていたいもんです。
大きな山茶花があって、白い花弁が枯山水に散っています。
築山の紅葉も散ってしまい、後には小さくても硬い芽が用意されています。
縁側に座った積りで作ってみました。
  北風に千葉万葉が散り敷けば 
     梢に現る 春待つ莟(つぼみ)
  初冬の石庭(にわ)に山茶花降り落ちて
     胸の奥でも 散華す白く
  古寺の 甍に寒月 かかり来て
     胸の虚空に 浮かぶも薄月
 
憧れの詩仙堂は曹洞宗のお寺です。
 
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  総持寺祖院、右が本堂
 
今日のお昼は総持寺祖院でお精進を戴きます。
仏殿(本堂)の東側、脇から堂内に入ります。
お座敷はストーブで暖められていました。
清々しい修行僧が二人、私達の面倒を見て下さいます。
背の高い一人は青い目をしておいでです。
何の縁があったのか、此処奥能登で禅の修行をされておいでなんです。
 
 
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   堂々たる総持寺祖院の山門。右奥が本堂で左奥が法堂です。法堂(禅僧が修行するところ)
    は修繕中でした。
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  本堂脇の玄関に飾られた菊、見事なご本仕立てでした。筆者は野菜や花を上手に育てられる人は
  高僧だと思っています。
 
 
17人分のお膳が用意されてありました。
座布団に座ってご飯と汁を待ちます。
用意が済みました。
”「いただきます」「ご馳走様」に代わって、「五観の偈」を全員で唱和しましょう”
私達は修行僧に従って、声を張り上げます。
意外にも綺麗にハモッて・・・・・・、もうお坊様のお経にも遜色ないようです。
【 五観の偈】
一つには 功の多少を計り、かの来処を量る。
二つには おのれか徳行の全欠を忖って供に応ず。
三つには 心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。
四つには まさに良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)を療ぜんがためなり。
五つには 成道のための故に今この食を受く。
 
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  私達の面倒を見て下さった修行僧、凛として清々しい姿でした。
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   全員で、「五観の偈」を唱和してからお膳に箸をつけました。
 
「食事ができるのは大自然の恵みのお蔭です。
感謝しながら一粒のお米、一茎の野菜を戴きます。
食事は自分自身の命を保ち、精進し、成道する為に戴くのです。」
そんな意味なのでしょう。
お経と聞けば難しそうですが、漢文を和文に直せば難しい処は何もありません。
 
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  手前に飯椀が置かれます。左上に向かって花小鉢(茄子)平(筍の煮しめ)、
  中央奥から香の物(沢庵)中猪口 (しょうが)、青皿(精進しぐれ) 手前右から汁物、葛切タレ、
  たかつき(葛切/赤、黄、白きゅうり、わかめ)でした。
 
沢庵は二切れありました。
「一切れは残しておき、食事の最後に飯椀に白湯が注がれますので、一切れの沢庵で椀を綺麗に・・・、一粒残さずご飯を戴いてください・・・」
そんな作法であると案内されました。
大切に戴くとともに、お道具の掃除も、配膳係の負担も減らす・・・、
合理的な作法です。
感心するんですが・・・・・、食いしん坊の私の胃袋は未だ養生中です。
到底食べきれません。
配膳のお坊さんに言い訳をさせて戴き・・・・、ご飯も残させていただきました。
 
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お箸は長寿が祈られています。お土産に持ち帰りました。
箸袋の裏に「五観の偈」がプリントしてありました。
 
総持寺の寺紋は五・七の桐です。
鶴見の総持寺には後醍醐天皇が祀られています。
(明治晩年能登の総持寺が焼失した際に横浜に移転した、以降能登の総持寺は祖院と呼ばれました)
後醍醐天皇は能登から隠岐に流されました。
17世紀初頭総持寺は天皇から曹洞宗の本山であると認められ、天皇家と同じ紋を寺紋とします。(因みに福井の永平寺は桔梗紋です)
以来、永平寺、総持寺は曹洞宗の二つの本山になります。
同じ曹洞宗ですが、永平寺にはお墓がありません。
修行道場です。
一方総持寺には沢山のお墓があります。
悪く言えば葬式仏教であり、よく言えば在家仏教になります。
大きな違いがあって、一時は騒動宗と揶揄されていました。
 
禅に心惹かれても全員が出家できるわけでもありません、
また、坊さんも修行だけでは食っていけません。
妻帯する事にも必然があります。
そこで、在家仏教も大事になります。
永平寺、総持寺は曹洞宗の両輪であって良いんでしょう。
因みに私の生家も含めて曹洞宗の過半は総持寺の末寺であります。
 
総持寺祖院はご位牌を除けばどこも写真を撮っても良いのです。
私はその木魚を叩きたくて衝動に駆られました。
何故だかわかりません。
若しかしたら・・・・、私の父が青年時代叩いたかもしれないと思ったのでした。
 
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  総持寺祖院で展示されていた古色蒼然とした木魚、どこかに親爺の面影が感じられました。
      今は亡き 親爺の頭を叩ければ 木魚のごとき 音がするらむ
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  総持寺祖院に祀られていたトイレの神様(烏枢沙摩明王/うすさまみょうおう)
  道元禅師は宋から禅を伝えましたが・・・・・、トイレを大切にします。
  一方今の中国人のトイレのマナーは最悪です。
  屹度「トイレの神様」の話をしたら目を丸くすることでしょう。
  食事をしても、トイレを使っても・・・・、禅は日本では未だ未だ活きていると思います。
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    総持寺祖院の経蔵
 
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   総持寺祖院の僧堂、座禅道場です。
 
 
 
 
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北前船の「黒島」にて・・・・。

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総持寺祖院を出るころには、空も一転黒ずんで時雨が降り出しました。
私達は外浦海岸を西に、黒島に向かいました。
黒島は北前船で栄えた街なんです。
 
 
 
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    黒島の海、天然の港では無く砂浜でした。北前船は沖合に停泊していたのです。
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   黒島の廻船問屋角海屋の大きな屋敷。海に向かう傾斜地に町は南北に広がっています。
 
 
江戸幕府が鎖国を決めます。
東南アジアまで進出していた船は日本沿岸に戻って来ます。
北陸から越後・出羽の農産物を商い、大阪まで運ぶ需要が顕在化します。
そうした変化の中で、畿内の生活物資、東北の米、蝦夷の海産物等を海運す・・・、北前船が開発されました。
大坂で生活物資を積んだ北前船は瀬戸内海を西に向かいます。
赤穂では塩を積んで、能登黒島では漆器を積んで、酒田では米を積んで、
蝦夷に向かいます。
蝦夷では荷を売却して、昆布や鰯(肥料)を買い上げます。
海産物やお米を満載して、再び天下の台所大阪に戻ります。
この船を北前船と呼びます。
 
北前船の船主は荷を運ぶだけでは無く、
荷を売買して莫大な利益を生んでゆきました。
 
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           能登の廻船問屋が活躍した「北前船」の案内図
 
船主は各地に出現しましたが、能登には「番匠屋善右衛門」を筆頭に角屋、角海家(かどみけ)、森岡屋などが出現します。
黒島はそんな巨大廻船問屋の屋敷があって、
その関連での従事者が住んだ街なのでした。
 
黒島には天然の港がある訳ではありません。
砂浜があって・・・・・、
海に向かった傾斜地に街道沿いに1キロ余り集落が続いていました。
大きな家が廻船問屋の屋敷であって、大半が小さな家です。
小さな家々は船乗りや荷揚げ従事者が住んでいたのでしょう。
季節風に耐える為に、肩を寄せ合う様に軒を連ねています。
 
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  この狭い路地南北1キロ余りの左右に集落は続いています。上から見ると黒い釉を使った屋根瓦、
  下見板張りの外壁、狭い潜り戸、漆喰の壁、京風の格子戸が目につきます。
 
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  平成7年能登地震で倒壊した事から、総じて新しい板壁が目につきます。
 
屋根は黒い釉をかけた瓦が葺かれています。
切妻屋根が続いています、家々外壁は総じて下見板張りです。(薄い板壁の下部を重ねて張る方法) 京都の町屋風の格子戸が目立ちます。
玄関は狭くて「潜り戸付きの開き戸」です。
この町は京都の祇園祭を髣髴させる山車があって、京の雅が感じられるんです。
 
海から吹き付ける季節風に耐える為の工夫が数多く見られます。
その美しさが評価されて・・・・、町並み保存地区に指定されています。
ゆっくり街並みを散策したかったのでしたが、時雨は降るし風は冷たいので・・・・、
早々に車に戻りました。
 
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    角海家の中庭、海に向けて傾斜しています。
 
私達は数戸ある廻船問屋の屋敷の中から、
平成23年修復完成した「角海屋」を訪れました。
 
三人ほどのボランティアの人が居て、
母屋(商い)、蔵(味噌・穀物・道具)、土間など分担して説明してくれました。
家自体が傾斜地にありますから・・・・・、海に向けて三段に分かれています。
主人の部屋の窓からは沖合が見渡せます。
角海屋の舟は沖合に停泊して、荷揚げは小舟を使って行われていたんでしょう。
主人はこの窓から船を見詰めて、作業の進捗状況を確認して、海や風向きを確認して、出航を判断したのでしょう。
 
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  角海家の生活空間、手前が奥様のお部屋で一番奥が主人の部屋です。
  主人の部屋からは海が見えます。
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   主人の部屋からは海が見えます。
 
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 潜り戸を入ると広い土間です。大きな暖簾がかかっていて、ここで商品の売買をします。
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                 帳場から暖簾の向こう、土間を見る。
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   土間には竈や水甕が置かれていました。沢山の使用人の食事を用意したのでしょう。
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  角海家の味噌蔵。味噌醤油、イシル(魚醤)など此処は発酵食品の宝庫でした。
 
三菱商事で働いたKさんにとっては廻船問屋は自社のルーツなんでしょう。
熱っぽく説明してくださいました。
 
同社は20兆以上の売り上げ、当期利益4千億~3千億の業績を続けています。
一時「商社冬の時代」が危惧されましたが・・・・、
なんのそもかわ見事な業績で、納税してくれています。
日本人の智慧は16世紀から今日までズット続いていて、
商社に結実しているんでしょう。
世界中でこんな業態があるのは日本だけです。
 
銀行はリスクをとらなくなってしまいました。
その分、リスクがとれるのは商社だけなんでしょう。
商社は日本のリーディングカンパニーであり続けてきました。
数世紀の間も・・・・。
 
角海家の居間、店主の座敷に座って海を見詰めます。
窓は時雨に濡れています。
季節風は一層強く吹いているようです。
沖合に自社船を停泊させておくのは危険です。
風待ち港に移動させなくてはいけません。
でも、荷揚げ、荷卸し作業は佳境です。
この季節風の中、松前(蝦夷)まで航海し、
来年の春には大阪に戻らなくてはいけません。
角海の店主の脳裏には様々な思いやプランが交錯します。
 
廻船問屋はリスクの中を漕いで行かなくては…生きて行けないし、
黒島に住む400戸の人々の生活も守れません。
商社のリスクテイクする覚悟は500年もの歴史の中で育まれてきたのでしょう。
4千億もの当期利益は敬服するばかりです。
 
 
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 角海家の仏間には仏壇と神棚が共存しています。鬼瓦に代わって経典瓦もある信仰深い土地柄です。
 
 
 
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鳴き砂の「琴ヶ浜」

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阿岸の本誓寺を詣でました。
北陸は蓮如上人が教えを広めます。
信者が集まって話し合う場が「講」、講は集落ごとに結成されました。
講に集まった人々は上人の書かれた「御文/おふみ」を読み聞かされました。
御文は教義を平易な手紙の形で説いたものでした。
識字率が低かった時代にあって、御文は効果的な教化方法だったのでした。
講がさらに大きくなって、大規模な集会場になったものが「道場」、
道場の上に「寺」を設け、寺も「中本山寺坊」その上に「本山・本願寺」というピラミッド型の組織を整備します。
 
能登の厳しい自然が強い結束を培う蓮如上人の教えに適したのでしょう。
蓮如上人によって真宗の教えは急速に広まります。
そして、近世初頭、領主の圧政に対して「一向一揆」が勃発します。
 
阿岸の本誓寺の本堂は大きな、重厚な茅葺です。
屋根の上には無数の百合が自生しています。
もう冬枯れてしまっていますが・・・・・・・、如何にも山里のお寺らしくて、素敵です。
白百合は信徒の敬虔なお祈りにピッタリです。
 
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   阿岸の本誓寺、骨太の能登人を思わせる堂々たる建物です。
   間口は9間奥行も7間もあります。裏山は能登ヒバの林でした。
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   茅葺屋根には無数の百合(多分高砂百合)が自生していました。
 
本誓寺から海岸通りに出ます。
雲は一層厚くなって、時雨は大粒になって来ました。
この様子では今夜の宿「和倉温泉」の名物「夕焼けは」期待できそうもありません。
ゆっくり進むことに致します。
 
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  道の駅「赤神」で一服しました。此処の岩が赤いので「赤神」というのだそうです。
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                猿山の頂には沢山の風力発電の風車が建っていました。
 
 
カーナビに「琴ヶ浜」と出てきます。
鳴き砂で有名な海岸です。
私達は砂浜に下りてみました。
 
雨を吸って砂は湿って重たくなっています。
踏んでも、踏んでも”キュッ、キュッ” 鳴いてくれません。
でも、雨さえ降っていなければ、砂が乾いていれば鳴いてくれそうです。
石英が多い砂質です。
ゴミが在っては、砂は鳴きません。
 
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    琴ヶ浜 岬の向こうが赤神です。
 
それにしてもゴミが多い砂浜です。
ゴミの大半にハングル文字がプリントされています。
朝鮮半島で流されたゴミが海を漂って、
季節風で能登の砂浜に打寄せられているんです。
まあ、困ったもんだ・・・・・!思います。
冬の間は・・・・この鳴き砂の浜はゴミに埋まってしまうのでしょう。
春になれば・・・・、
鳴き砂保存のボランタリーの人達がゴミの清掃をするに違いありません。
冬の間、鳴き砂は「ゴミに泣く砂」です。
 
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   ハングル文字がプリントされたペットボトル
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   一面ゴミが漂着した鳴き砂の浜辺。これじゃあ泣けます。
 
輪島の鳴き砂には素晴らしい悲話が語り繋がれています。
 
重蔵という船乗りがいました。
重蔵は大きな北前船を作りたい・・・・、夢を持っていました。
ですから、勤勉に働いてお金を貯めていました。
そして船大工等の勉強もしていました。
重蔵はある日、ある港に着きました。
その港には「一目千両」と呼ばれる美しい遊女がいました。
重蔵は如何した訳か遊女に会いたくなって、コツコツ貯めたお金を出して言います。
「俺は貧しい船乗りで、これしかお金は無い。
でも、お前に一目会いたかったんだ!」
 
すると、遊女はこう言い返します。
「今まで沢山の人に遭ったけれど、お前さんほど心のこもった方は居ませんでした。」
遊女の名は「お小夜」、輪島の外れ、剣地の浦土村の生まれでした。
お小夜は唄います。
 山の奥山の一軒家でも
 竹の柱に萱の屋根
 茶碗で米磨ぐ所帯でも
 手に鍋さげても厭やせぬ
いじらしいお小夜の心に重蔵は感動します。
 
そして約束しました。
「この仕事で船乗りは止める事にする。
戻ったら船大工をする、お前を女房にして・・・・。3か月したら蝦夷から戻ってくる。
それまで、待っていて欲しいんだ・・・。」
お小夜は首を縦に振りました。
 
しかし、重蔵は3か月たっても戻りませんでした。
お小夜は重蔵を想うばかりに病気になってしまいます。
遊女の仕事も出来なくなってしまい、故郷の浦上村に戻されてしまいます。
 
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    逆光でしたが、荘厳な琴ヶ浜、海中の岩が「一つ岩」でしょう。
 
 
 
ある吹雪の夜、海はゴー・ゴーと鳴っていました。
お小夜は突然に砂浜に向けて走り出しました。
海鳴りが重蔵の声”お小夜、今帰ったぞ・・・”に聞こえたのでした。
お小夜は沖合を見て叫びます。
「船が、船が、重蔵さんの舟が見える・・・・!」
 
数日後、一つ岩にお小夜の冷たくなった体が浮かびました。
春になっても、重蔵もお小夜も戻って来ませんでした。
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子供達が砂浜で遊んでいます。
その足元で・・・・、砂が鳴いています。
キュッキュッと鳴いています。
 「お小夜さんが・・・・重蔵さん恋しさに泣いているんだろう。」
子供も村人もそう信じています。
 
全国各地に「鳴き砂」の名所があります。
何処の鳴き砂にも似たような悲恋の話が残されています。
自然は厳しくても、美しいので・・・・・・、
人の様々な想いを受け止めてくれているんでしょう。
旅には美しい自然と、悲恋の説話、敬虔な祈り・・・・、美味しいお酒や肴・・・、
どれも、必須です。
 
私のポケットに何処から流れ着いたのか?野球ボールが入れられました。
 
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 【追記】鳴き砂の悲恋は次に詳しいです。
 
 
 
 
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多田屋「花嫁暖簾物語」

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能登旅行二日目の宿は和倉温泉多田屋さんです。
何故、多田屋にしたのか? それはANAスカイホリディーの指定旅館だったこと、そして以前TVで見たことが在ったからです。
その時のTVでは千葉に住んでいた女性が、
古い温泉旅館の女将として苦労する「花嫁暖簾物語」でありました。
 
多田屋は和倉温泉の中心街から5分ほど走って、
温泉街の外れ、静かな海辺にありました。
提灯にも絨毯にも・・・・、真っ赤な藪椿が描かれています。
多田屋さんのシンボル・・・・、商標は紅い「藪椿」なんです。
迎えて下さった中居さんに訊いてみました。
「多田屋さんのシンボルは藪椿なのは何故ですか?」
「良く解りません、創業者が椿が好きだったからでしょう・・・」
愛想のないお返事です。
 
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  和倉温泉多田屋は七尾湾に面した旅館です。この建屋は浴室で、自慢の一つです。
 
 
廊下や階段の隅に見事な「色鍋島」の焼き物が飾られています。
鍋島と言えば、佐賀鍋島藩の藩主お抱えの焼き物です。
見事な色絵で世界に輸出されました。
さりげなく高価な色鍋島が飾られているのは・・・・、不思議です。
何しろ此処は色鍋島では無くて、古九谷(加賀)の本場なんですから・・・・。
 
「藪椿」に「色鍋島」二つの疑問は見事に解き明かされました。
それは、風呂場に続く廊下大きな展示があって・・・・・、
多田屋創業のロマンスが語られていたのでした。
 
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     廊下に飾られた色鍋島の大きな壺
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    多田屋のマークは真っ赤な藪椿です。
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多田屋のフロントも藪椿でした。
 
佐賀鍋島藩最後の藩主が「鍋島直虎」公でした。
その長女が鍋島好子さん・・・・・・、令嬢がお抱え運転手「多田喜教」との恋に落ちたのでした。
藩主の令嬢と運転手では・・・…、違いすぎます。
結婚は許されませんでした。
 
二人は駆け落ちしてしまいます。
駆け落ちの先が多田喜教の実家「和倉温泉」でした。
若い二人は和倉温泉で祖父の始めた旅館で働きます。
最初の女将「多田好子」さんのこだわりは、景色と温泉でした。
海は何処か伊万里に似て、見事な夕焼けが眺められましたし、湯量も自慢でした。
 
でも、ある朝、好子さんは風呂に浮いていられました。
お湯の温度を見に出て・・・・、湯船に落ちてしまったのでしょう。
椿の様にあっけない最期でいられました。
そんな最初の女将「多田(鍋島)好子」さんの遺品が展示されているのでした。
(この段は多田屋のHPに詳しく出ています/http://tadaya.net/story/
 
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     最後の藩主「鍋島直虎公と鍋島家の家紋抱き茗荷の焼き物
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                             初代女将多田好子さん。
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  多田屋のHPから転載
 
旅館の両輪は「料理長」と「女将」とよく言われます。
料理が美味しくなくては・・・・・、二度と行きたくありません。
そして・・・・”おもてなし”を代表するのが女将さんの気配りです。
良い女将さんがいる旅館が・・・・、暖簾を継ぐ秘訣なんでしょう。
女将のサービススピリットは古くからあり、今も変わらぬ”旅館の売り”なのです。
 
私は中居さんにお願いいたしました。
”女将さんにお会いしたいんですが・・・・!”
中居さんに訊かれます。
「大女将ですか? 中女将ですか? 若女将ですか?」
そうそう、多田屋さんには女将さんが3代も居られるんです。
私は答えます。
「多田屋六代目の女将さんです。TVで観た花嫁暖簾の若女将です。」
「若女将は保育園に子供を送ってから戻りますから・・・・、
皆様のご出立を見送りさせていただきます。」
 
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   「フジTV花嫁暖簾物語4」から・・・・。綿帽子姿は多田屋6代目の若女将「多田弥生さん」
 
多田屋の若女将はスーツ姿がお似合いの、スラッとされた美人で居られました。
私達の記念写真に一緒に写っていただきました。
一段背の高いのが若女将です。
 
私は不躾に・・・・・訊いてみました。
「何故、多田屋6代目と結婚したんですか?」
すると、
「あの人は口上手で・・・・、自分の実家は和倉温泉で民宿をやっている、一緒に苦労してほしい・・・・、言うんでした。
私は、話し上手にほだされて千葉から能登に遣って来ましたが・・・、
もうすっかり能登の人になりました・・・・」
 
私が知る限り、6代目多田屋は健太郎氏で、立教大学を出て、広告代理店に勤め、
その後多田屋の東京支店で営業をされていました。
ですから・・・・、営業時代に奥さんに営業の腕を発揮されたのでしょう。
多田屋成功の秘訣は・・・・、先にも述べた様に・・・・・、
すぐれた料理長と女将さんをゲットした事です。
 
口上手でこの二つのハードルを越えたようです。
 
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     多田屋の玄関ホールに飾られた花嫁暖簾。
      加賀友禅で染められた暖簾は花嫁道具の一つです。
      暖簾は婚家の仏間の入り口に掛けられ、結婚当日に花嫁は潜って仏間に報告し、
      結婚式に臨みます。結婚の覚悟と期待を鮮やかに飾る(標す)のが花嫁暖簾です。
 
 
 
若女将さんが言われます。
「TV局は多田屋が好きなようで、12月1日フジTVでオンエアされるんだそうです。
観てくださいね・・・・。」
 
「花嫁暖簾物語パートⅣ」と題されたのノンフィクションでした。
若女将の内助の功(?)宜しきを得て、業績も上昇気流に乗りました。
若旦那は社長に就任しました。
若い夫婦には7代目に期待される男の子が産まれました・・・・・・。」
そんなハッピーな内容です。
 
多田好子さんの”女将スピリット”が生き続けているんだ・・・・、
大きな風呂場の片隅に、七尾湾の夕焼けに・・・・、
初代女将の霊が見守り続けている・・・・、発展し続ける・・・・・、
確信する多田屋でありました。
 
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   多田屋自慢の夕焼け。私達の旅では時雨続きでこんな景色は拝めませんでした。
    写真は多田屋のhPから転載。http://tadaya.net/イメージ 10
 多田屋には桟橋があって、釣りをする事も出来ます。海に浮かんでいる筏は牡蠣です。
 
 
私にとっては初めての多田屋でしたが、お食事は美味しいし、気配りの行き届いた素晴らしい旅館でした。
価格設定もリーズナブルですし・・・・、お勧めいたします。
 
 
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山の寺「瞑想の道」を歩く

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8時30分、和倉温泉多田屋を出立しました。
行き先は七尾市の山の寺寺院群です。
七尾城を見下ろし位置に小高い山があって、山全体に十余りのお寺があるんです。
寺寺を巡る遊歩道が整備されているので・・・・、其処を歩くことに致しました。
 
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 八百屋お七一族のお墓がある「長寿寺」。
 手前の田圃は”ひこばえ”が花をつけた状態で枯れていました。
  ひこばえの 稲花(はな)は咲けども遅すぎて 稔るが前に霜に枯れたり
  恋に生き、恋に滅んだ娘だが 父母と眠るは能登の山寺 (お粗末)
 
1400年代前半で能登の守護「畠山満慶が七尾城(小山を築きました。
北陸の要衝にあった七尾城でしたから、歴代の権力者は此処を重要視します。
前田利家は七尾城のお隣の小山に寺寺を集めます。
越後の覇者上杉への防御を厚くしたのでしょう。
いざ、敵襲出現・・・・・、となればお寺は城に変わったのでしょう。
 
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                        向こうが七尾城(小丸山城、手前が山の寺群のある高台)
 
何処からでも入れる山の寺群ですが、私達は前だけ墓所の祀られている「長齢寺」から入りました。
山に入ってしまえば、人一人が歩ける遊歩道が続きます。
竹林があれば藪椿のトンネルを越え、紅葉や桜の見える場所はお寺です。
何処のお寺も総じて小さく、お墓も数が少ないようです。
屹度、各寺院とも前田のお殿様から経済的な支援を受けていたのでしょう。
そして、お寺自身も農業に精を出していた・・・・、想像されます。
一揆をおこした真宗を除くすべての宗旨が勢揃いして・・・・、
各宗が隣同士でいがみ合わなかったのか、少し心配です。
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  加賀前田家の墓所のある長齢寺。
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   前田のお殿様のお墓、お寺もお墓も前田百万石のそれにしては質素です。
 
道のそこここに石仏が並んでいます。
道案内も良く出来ていますから・・・・、迷う事もありません。
でも、瞑想しながら歩いていたら・・・・、道を踏み外して崖下に落下してしまいそうです。
時雨でぬかるんだ足元に気をつけながら・・・・・、石仏や紅葉を見ながらの遊歩道です。
京都の東山「哲学の小道」は西田幾多郎氏のお宅があったから・・・・・、
その名が付いたものでしょう。
勿論、哲学しながら・・・歩きたくなるような静寂な小道です。
”瞑想の道”ネーミングは・・・・良く出来ていますが・・・・。
静ですし、自然も歴史も豊かですから・・・、ついつい物思いに沈みたくなります。
でも、気を付けて良く目を見開いて歩かないと、とんだことになりそうです。
 
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    竹林と藪椿のトンネル、そして石仏の多い小道です。
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     徳翁寺の塀の前にあったお地蔵様。手前が遊歩道です。
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                                            山楓の奥にある「本延寺」
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  本行寺本堂前に建つ高山右近像。右奥に大きな宝篋印塔があって「ゼウスの塔」と案内されていました。
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   本行寺、高山右近の道場への細道で。右上にあるのが本行寺です。
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                                             印勝寺への細道で
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  本行寺の参道で見つけた烏瓜。今日(12月8日)は雪を被っていることでしょう。
 
 
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歳月人を待たず 紅葉人を愉します

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今年の紅葉は心に染み入る美しさでした。
もう、紅葉もお終いですが、未だ残っていそうな処を探して出かけます。
12月8日には武蔵野の平林寺に出かけました。
 
野火止用水の脇に、島原の乱で亡くなった人の供養塔があります。
島原の乱を平定したのが松平伊豆守信綱、同人をはじめ松平家の廟所なんです。
島原の乱を平定したのは幕閣としての功績ですが、
敵方の慰霊にも心配りする・・・・、素晴らしい事だと思います。
 
島原の乱の慰霊塔の脇にモダンな墓石が並んでいます。
そこが松永安左ヱ門夫妻のお墓です。
奥様のお墓の方が少し古いので、安左ヱ門氏が奥様を弔い、
次いでご自身のお墓が建立されたのでしょう。
近代茶人のお墓は、驚くほどモダンでシンプルでした。
亡くなられたのは、昭和46年(1671)95歳でおられました。
遺言も葬儀も法名も無い・・・・・、お一人での旅立ちでした。
一子夫人のお隣に、まるで布団に入るようにして永眠されました。
母校慶応の志木高校には私財で支援されます。
 
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  耳庵居士(茶人としての号)安左ヱ門とその奥さまの墓。右隣に島原の乱慰霊碑があります。
 
今年の秋は小田原の松永記念館にある安左ヱ門の居宅「老欅荘」(国の有形文化財)に上りました。
見事な紅葉でした。
 
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 小田原板橋にある安左ヱ門の居宅「老欅荘」。大きな欅の下、紅葉に埋もれたような家です。
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 居宅「老欅荘」の居間から庭を見る。何処か京都の栂ノ尾高山寺を思わせます。
 
耳庵居士は紅葉がお好きだったようです。
老欅荘には桜は無く、紅葉ばかりです。
お茶席は秋だけあったのでしょうか?
春のお茶席は・・・・、
お仲間の益田鈍翁さんや原三溪さんらのお茶室に出向いたのかも知れません。
 
何で耳庵なんて…、木耳(きくらげ)のようなお名前にされたのか解りません。
でも、私は次のように憶測します。
”耳庵さんは秋がお好きで、秋は風の音、木の葉の散る音にこそ在る・・・”
思っていらしたのでしょう。
だから”耳のきく人””地獄耳の人”の意味で耳庵と名乗ったのでしょう。
 
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  平林寺門前にある「睡足庵」
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  クヌギと紅葉の林の奥に睡足庵があります。
 
平林寺の門前、道路向かいに真っ赤な紅葉が見えました。
紅葉に誘われてその家の門を潜りました。
何と、此処も耳庵居士が建てた・・・・・・、「睡足軒」なのでした。
今年の秋は耳庵さんに縁がありました。
 
 
松永安左ヱ門氏は「電力の鬼」と評されて・・・・、実業界から引退されて・・・、
静かな平林寺の門前で老後を過ごされたのでした。
飛騨高山から民家を移築され、居宅の名は「睡足居」と名付けます。
”私は老後は静かな武蔵野の雑木林の中で居眠りして過ごすんだから・・・、邪魔しないで欲しい・・・・”
そんなニュアンスを聞き取れます。
そして庭先には「紅葉庵」という名の茶室も設えます。
 
 
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  睡足庵のお茶席の案内
 
この日は新座市市民茶会が催されていました。
私達夫婦は喜んで、お茶席をお邪魔させていただきます。
「作法は解らないんですが・・・」
尋ねると、
「お師匠さんは男性が来られるとお喜びです。どうぞ、ご遠慮なく!」
言われます。
 
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  手水には鬼柚子が置かれていました。
 
 
囲炉裏の前に座ると…いやな予感がしました。
「男性が少ないので・・・・、私は末席には座れない・・・・」
予感は的中して、床の間に一番近い上に座らされました。
何度かサークルの先輩に教わった作法を思い出しながら・・・・・、
お点前を戴きます。
 
この日は制服を着た中学生がもてなしてくださいました。
お話は裏千家の秋山先生がして下さいます。
先生はお足が痛いようで、お足を崩されていられました。
でも、お話は飽きさせません。
 
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       囲炉裏のあるお部屋で待たされました。庭の紅葉に四十雀が飛んできました。
 
「今日は佃中学の一年生がお点前をしていただいています。
今日はしっかりと出来て・・・、驚くほどですよ。
今朝早くから都心から来てくれて・・・・・、
お道具なども彼女たちが選んだんですよ・・・。」
言われます。
 
家内の使ったお茶碗にはサンタクロースがついていますし、
お菓子もサンタさんです。
棗には雪の結晶が舞っています。
サンタのお菓子を食べるのは少し気が引けましたが・・・・。
 
訊けば、お道具店にゆけば、こんなデザインの茶道具は沢山並んでいるそうです。
”侘び・錆び”だけではなく、”可愛い”とか”楽しい”が大事なアイテムなのでしょう。
耳庵翁も中学生のセンスを楽しんでおいでのような気がします。
 
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  彼女未だ中学一年生だそうです。沢山の生徒さんの中から選抜されてきているんだそうです。
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                             サンタクロースのお茶碗
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   お菓子の皿は小鹿田焼(おんたやき/大分)、私の茶碗は高取焼(博多)でした。 
   この親爺は「茶道は超初歩の人だが、焼き物は詳しい・・・思われた事でしょう。
 
私の背に架った軸には
「歳月人を待たず」記されています。
揮毫は前大徳寺の管主さんのものでした。
もう、今年も二十日余り、実に歳月は早く過ぎ去ってしまいます。
そんな中でも、紅葉が燃えて、散って・・・・人を愉しませてくれます。
お若い中学生の新鮮な感覚も愉しいもんです。
 
生け花には侘助椿に・・・・、綿の実が生けられています。
訊けば、綿の実は雪の積もったイメージなんだそうです。
若い人の季節を楽しむ感覚も鋭いものがあります。
茶道も形を変えて続いてゆくものでしょう。
良いお席でした。
 
 
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    綿の実が生けられていました。
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   軸は前大徳寺の管主さんの揮毫でした。平林寺は妙心寺派ですが・・・。
 
 
 
 
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出会いの一本杉

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長々と綴ってきた能登紀行も今日がお終いです。
私達の旅も最後の目的地「七尾の一本杉通り」を散策する事に致しました。
一本杉通りは小丸山城と海の間、東西広がっています。
お祓い川にかかる仙対橋と同放水路にかかる小島橋の間、
500mの間が通りの中心地、老舗が軒を連ねています。
お祓い川を少し上流に上れば国分寺もありますから、古代から七尾辺りは能登の中心だったのでしょう。
何時ごろから一本杉通りが在ったのか? 尋ねれば、
元和2年(1616)の古地図には一本杉通りの名が記されているそうです。
ですから、既に前田利家の城下として、商人が住んでいたのでしょう。
一本杉は今は在りませんが、当時もランドマークになるような大木だったのでしょう。
 
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  一本杉通り。緩やかな街並み保存が実施されているようです。
  午前11時半人通りが少ないのは何処も同じようです。一本杉通りは次に出ています。
 
商店街は特段強い町並み保存が実施され、
高度化事業が施工されているようでもありません。
個々の商店に任されているようです。
ですから、馬篭や高山のように家の外観が揃っているような風情はありません。
商店は自らの主張で、古い建屋を大切にしているようです。
明治頃に建てられた建屋を大事にすることは暖簾を守ることになるのでしょう。
 
この町には二つのイベントがあるようです。
春4月に実施される「花嫁暖簾」と、
5月に実施される「青柏祭に実施される曳山」です。
どちらも風情があって、雅な催事のようです。
此処こそ「小京都」でしょう。
 
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   数店のショーウィンドーに花嫁暖簾がかかっていました。秋風情の暖簾です。
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  醤油屋さんの語り部処。
  手ぬぐいや風呂敷には「鳥居」と「一本杉」の合体したデザインが染め抜かれています。
  右端にある黄色い本が「出会いの一本杉」、街のガイドブックです。
 
 
街のあちこちに「語り部どころ」があります。
歩き疲れた人には一服できるし、
街に興味ある人には歴史や由緒を教えて貰える所です。
退いた商店の跡地利用としても好都合なのでしょう。
ボランティアと思われる人が相手をしてくださいます。
どの語り部処にも各種パンフレットや土産物が置かれています。
表紙に「出会いの一本杉」と画かれた小冊子が目を引きます。
一本杉通りのガイドブックのようです。
 
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 右端酒屋さんの跡は喫茶店で人気と窺がいましたが、開店は午後1時だそうです。遅い!。
 
私の世代は・・・「出会いの一本杉」と訊くと、
春日八郎の「別れの一本杉」を思い起こします。
何処かパクリのような安易な感じを持ちます。
 
でも、一本杉通りで会いましょう、
懐かしい人に遭いましょう。
「今日は、寒くなりましたね・・・」 挨拶一つで出会いは人を温かくさせてくれます。
加えて古い街で会う事は、昔の人にも、伝統の技や慣習に会う事にもなります。
「出会いの一本杉」のネーミングには街を愛する人の強い思いがこもっているようです。
 
別れの一本杉の歌詞は次の通りでした。
泣けた 泣けた
こらえきれずに 泣けたっけ
あの 娘 ( ) と別れた 哀しさに
山のかけすも 鳴いていた
一本杉の 石の地蔵さんのよ
村はずれ
昭和30年代良い時代でした。
別れも、出会いも一生懸命でした。
 
 
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 高澤蝋燭店の店かまい。 右端に蝋燭の原料になる櫨の木が盆栽になっていました。
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 高澤蝋燭店の外灯、蝋燭は明るくすることと時間を測る目的が在ったようです。
 
 
数ある老舗の中から、高澤蝋燭店に入りました。
お店の入口に「蝋燭の灯り」が取り付けてあります。
一見すればガス灯のようなデザインですが、中には和蝋燭が一本、
そして「蝋燭時計」と書かれています。
灯った蝋燭の長さで時間を測ったのでしょう。
田圃で水を引く時間を計測するのには・・・、蝋燭を使ったのでしょう。
 
お店の大半は和蝋燭を展示して、こんな使い方があります、提案しているようです。
現在の和蝋燭は、アロマテラピーと同じように心を癒す、そんなアイテムになっているようです。
それは、和蝋燭の歴史や文化、風俗等を紹介する事で一層効果が期待できるのでしょう。
故郷の文化人長谷川等伯の紹介もあれば、二階は「灯りの博物館」になっています。
 
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     和蝋燭の売場、生け花があって「和蝋燭のある生活・空間」を展示しているようです。
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     和蝋燭を使うお道具も凝っています。
 
現在私達が使っている蝋燭は石油から作るパラフィンです。
和蝋燭は櫨の木の果実を絞って作る木蝋です。
木蝋を和紙を捻って作った芯に木蝋を塗り重ねて作ります。
木蝋だから、芳香もしますし、社寺の宗教的な静寂にも良く似合います。
因みにキリスト教の教会で使われる蝋燭は鯨などから採られる動物性の蝋です。
日本人には1000年以上もの間、櫨の木からとった木蝋に親しんできたのです。
 
屹度このお店の蝋燭は能登の山に自生している櫨を使っているんだろう・・・、
思ってお店の隅々まで見回しました。
櫨は漆の仲間ですから・・・、見た目も良く似ています。
能登では所々見かけました。
でも此処の蝋燭は九州の筑後川の流域を原料にしている・・・、との事でした。
神埼から久留米にかけて、筑後川とその支流の土手には櫨の木が植えられています。
江戸時代以来、筑後川流域が蝋燭の産地だったのでしょう。
でも、七尾に立派な蝋燭店が繁盛しているのは・・・・、
此処が神仏への信仰が篤い土地柄だったからでしょう。
 
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   長谷川等伯は七尾を代表する文化人でした。「火を灯す人も 蝋燭を擦る人も、そして自然も。
  関わる全ての人を結ぶ蝋燭です。」と案内されています。
  字が小さいのですが筑後川流域の櫨を使っているとも書かれています。
 
お店は蝋燭と香木の香りで咽ぶようです。
外は時雨で・・・、街は素敵なんですが歩くのも難儀です。
蝋燭店を博物館を見るように見て回ってから・・・・、
七尾湾に面したフィッシャーマンズワーフに向かいました。
此処で、この旅最後のランチをとって、お土産を買って・・・・、後は帰るだけです。
京都や松山からも先輩が集まってくれました。
厳しい能登の風土を象徴する初冬に訪れました。
そんな季節だからこそ様々な人と「出会いの旅」でした。
一本杉はもうないけれど・・・。
 
 
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     灯りの博物館
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  香木の売場
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   フィッシャーマンズワーフの魚売り場。 此処で買って浜焼きにして戴きました。
 
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影向寺の乳銀杏

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都心に最も近い、東国らしい、それでいて歴史のある古寺と言えば、間違いなく川崎高津区にある影向寺(ようごうじ)です。
影向寺縁起によれば天平11年(739)光明皇后がお病気になりました。
聖武天皇の夢に僧が現われ、お告げがありました。
「武蔵の国橘郷に霊石がある。その石には霊水が湛えられているので此処に薬師如来を祀りなさい・・・。さすれば皇后は快癒される」
そこで、聖武天皇は夢のお告げ通りに行基に命じて寺を創建させたところ、
皇后の病は快癒されました。
そんな事が記されています。
発掘の結果、天平時代の堂塔の心礎や瓦が発掘されました。
東国に在っては深大寺に並ぶ歴史ある古刹です。
 
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   天台宗影向寺。正面本堂の右奥に大銀杏があります。
   本堂を火事から守る水瓶のような役割を果たしてきました。
 
12月7日、午後から慶応大学日吉でセミナーがあったので、その近くにある影向寺に上りました。
目的には・・・、境内に吃驚する大銀杏があるのです。
ソロソロ黄葉しただろう・・・・、期待して出かけました。
 
銀杏の木は生きた防火用水のようなものです。
決して焼けません。
その上、寺院の甍の遥か上まで伸びます。
雷が堂塔に落ちそうな時、避雷針の役割も果たします。
そんな訳で・・・・・・、大きく育って大切な堂塔を守る役を担っているものです。
遊行寺の大銀杏も、影向寺の大銀杏も何度か落雷を受け、燃えていますが、
枯れることなく、今なおお寺を守っています。
その代わり落雷の傷は残っています。
尊い大銀杏です。
 
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幹回り8メートル、樹高28メートルの大銀杏ですが15mの処で幹はプッツリ切断されています。
落雷の時の傷と思われます。でも大傷を乗り越えて大銀杏は成長しています。
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  此方は遊行寺の大銀杏、樹高10mの位置で幹は段切されています。落雷を受けたからです。
 
 
昭和15年秋、高名な英文学者でありシュルレアリスムの詩人であった西脇順三郎氏は影向寺に上られました。(慶応大学経済学部OB)
戦争に進む中、同氏を含めた詩人は弾圧を受けます。(神戸詩人事件昭和12年)
詩作の発表をやめ、学術研究に没頭します。東洋の古典を読みあさり、古寺にも上ったのでしょう。
その時の詩碑が境内に建っています。
 
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詩碑は大銀杏の前にあります。
巻き毛と表現された薬師如来は屹度本堂に祀られていたことでしょう。
西脇氏の眼には屹度樹齢600年の大銀杏が眩しく映った事でしょう。
 
深大寺には白鳳時代の薬師如来が残されています。
屹度影向寺にも同じような薬師如来がご本尊に祀られていたことでしょう。
平安時代の初期定朝様式の薬師三尊像がご本尊でした。
同仏像が国の重要文化財(戦前国宝)に指定された事から、
現在は宝物館に収まっています。
お寺の関係者は同薬師三尊像を白鳳時代の仏像と確信しておいでのようですが、それは少し無理ではないでしょうか?
今、平等院の雲中供養仏が展示され、話題になっていますが、それと同じ時代で、
東国らしい仏像です。
定朝は寄木造りの大成者ですが、影向寺の像は欅の一木造りです。
(大半の定朝様式の仏像は檜を材にしています)
武蔵の国には武蔵の国の材を使って、
武蔵の国らしい表情の仏像が彫られたのでした。
 
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    影向寺薬師三尊の薬師如来像。柔和な中にも東国仏らしい男性的な表情です。
     (久野健著関東古寺巡りから転写)
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  深大寺の薬師像、此方は白鳳仏を代表するものです。
  狛江の辺りは古代から帰化人が住んでいたので、この像は高麗から運ばれたものでしょう。
 
拝観をお願いしたのですが・・・・、
”大晦日、正月三が日、彼岸に一般公開しているので・・・・・、”
断られてしまいました。
残念ですが、正月の楽しみにとっておきましょう。
 
大銀杏に話を戻しましょう。
大銀杏には幾つもの瘤が出来て、垂れて来ています。
お婆さんの乳房のようです。
まるで垂乳根のようだから・・・・、乳銀杏と呼ばれます。
その垂乳根を削って湯に煎じて飲めば・・・、おっぱいが出ると信じられてきました。
 
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         松本の牛伏寺の奪衣婆。垂乳根が特長です。
 
私は乳銀杏を見ると・・・・、奪衣婆のおっぱいを思い起こします。
奪衣婆は、三途の川の岸辺で亡者を待ち受けている婆さんです。
渡し賃である六文銭を持っていないものの衣服を剥いで、柳の木に懸けます。
柳の枝がしなれば罪が重いと判断されます。
そんな怖い怖い婆さんです。
 
でも、良く見ると何処か可愛らしいところがあります。
良く居る意地悪ばあさんの表情です。
そして、おっぱいが垂れ下がっているのです。
だから・・・・、奪衣婆は子供を産んで育てた事のある婆さんだと思われます。
人間の悲しい性を心底解っている婆さんだと判断されます。
閻魔大王は怖いけど、その奥さんである奪衣婆は、
ものが解っている婆さんなのです。
日本人は奪衣婆をそんな者と理解してきたのです。
 
私は銀杏の大木を見上げて、尊い垂乳根に感謝します。
私の祖母も見事な垂乳根でした。
風呂に入ると”ヨイショ”とばかり乳を持ち上げて、肩に乗せる仕草をしました。
そして、「お前のお父さんもこのオッパイで育ったんだよ」
自慢気で言ったのでした。
 
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    影向寺の大銀杏は乳銀杏でもあります。巨大な垂乳根が目を奪います。
     この垂乳根で沢山の母子が助けられた事でしょう。
 
 武蔵野の石段(きざはし)登りて乳銀杏
   祈りし母は数多(あまた)なるらむ銀杏
 
 乳が出ぬ 子が育たない悲劇をば
   薬師仏(ほとけ)は幾たび 救いて来つらむ  
 
 白鳳の古き薬師はその度に
   母の喜悦に安堵されたし
 
 先達が愛し続けた薬師仏
  今は鉄扉の陰に閉ざされたり
 
 
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日吉の銀杏並木と妖怪と・・・・・

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影向寺の乳銀杏を見て、午後1時、慶応大学の日吉キャンバスに入りました。
ランチは学食で済ませます。
最近は何処の大学でも一般人が図書館や売店、
食堂を利用する事が出来ます。
学生も慣れていて、特段気にしません。
隣で親爺が食べていようが、食べながら何をしていようがお構いなしです。
 
セミナーが始まるのは午後2時半、それまで銀杏並木を散歩して過ごします。
毎年のようにキャンパスの銀杏並木を見ていますが、今年のように綺麗に染まったのは初めてです。
近隣の住人も銀杏を見ようと遣ってきています。
日吉の町は大学が大事な資源で、上手に利用されているようです。
また大学も、地域の理解や恩恵に浴しているようです。
 
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     慶応大学日吉キャンパスの銀杏並木(12月7日)
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セミナーも後2回で今年もお終いです。
今日は「百鬼夜行の変遷」と題して現役学生、それも1年生がレポートします。
私達OBはエールする気持ちもあって集まりました。
 
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「百鬼夜行に遭った」話は古代末期から中世初頭、
宇治拾遺物語や今昔物語に出現します。
夜、やんごとなき用事があったので外出したところ、集団で町を徘徊する鬼や妖怪の行進に出会ってしまった・・・・、そんな話で始まります。
そして、最後は「陀羅尼」を読んだり、お札を持っていたり、襟首に縫い込んであったりしたので・・・・、助かった、と結んでいます。
要するに密教の有難味を説く、説話なんです。
 
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      『百鬼夜行絵巻』作者不詳、室町時代。ウィキペディアから転載
 
そんな仏教説話に始まりましたが、近代になると、怖いもの見たさに、
怖い話が好きで、様々な妖怪が現われます。
妖怪は怖いものから、楽しむものに変わって来ます。
ゲゲゲの鬼太郎もドラエモンもアンパンマンも妖怪のスーパースターのようなもののようです。
そう言われてみれば、セント君(奈良)クマモン(熊本)などユルキャラも冷静になってみれば、妖怪のようなもんです。
妖怪の1000年の歴史は、
現在日本のキャラクターとして、世界を席巻しつつある・・・・・、そんなレポートでした。
 
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                        「水虎晩帰之図」(芥川龍之介の描く河童/旺文社複写)
 
東洋大学を創設した井上円了氏は妖怪博士とも呼ばれました。
妖怪を4つのタイプに分類します。
一つが”偽怪”です。人間が意図的に創作した妖怪です。
私の住む処では散在ヶ池(鎌倉湖)に妖怪が出る、説話があります。
子供が近づくと妖怪(河童)が出て池に引き摺り込まれる・・・・、そんな話です。
危険だから近づかないように・・・・、効果を期待して妖怪を創作したものでしょう。
 
二つ目が”誤怪”です。人間の誤解や恐怖心がひき起こす妖怪です。
夜道でススキの穂が妖怪の様に見えた、仕舞い忘れた洗濯物が幽霊に見えた・・・・・、天井に光っていた眼が明るくなったら木の節目であった・・・・、
そんな類のものです。憑依現象も誤怪に分類されます。
 
三つ目が”仮怪”です。
妖怪だと思ってきたものが、実は自然の要因が重なって発生したものであり、物理的、化学的に原因が解明されたものの事です。
例えば、人魂(燐の自然発光)、狐火(松等の根に溜まったオイル成分の発火現象)等は昔は妖怪の前兆現象と思われましたが、今は科学的に解明されています。
 
四つ目が”真怪”です。
これが真宗の家で産まれ、思想家と言われた井上円了氏の真骨頂です。
同氏は科学的にも説明できない宇宙的な真理と説かれます。
読むと、熊野の大岩も三輪山の杉の大木も・・・・真怪と思われます。
 
 
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    佐藤禅忠師(東慶寺の三代前住職)の描く妖怪座禅図
 
私には真怪として思い当たるものが幾つかあります。
誰でも知っているのが芥川龍之介の描く河童です。
河童は井上氏の後、遠野物語(柳田国男)などで民俗学的な手法で解明されます。
全国各地の河童伝説が収集された結果、大凡次が河童という事に落着しました。
河童は子供の水死体であろう。
突然に子供を失って親は嘆き悲しみます。
よくよく変わり果てた子供の姿は・・・・、まるで伝え聞いた河童ではないか!
水死体は、皮膚は緑色をしており、川底の岩ですり減って頭髪が無くなってしまって、肛門は拡大しています。
背中の甲羅はスッポンのそれでしょう。
そこで、全国各地で似たような河童が出現しました。
 
インテリの芥川龍之介が河童の存在を信じていたわけではないでしょう。
でも、好んで河童を描きます。作品にします。
 
それは・・・・・、自分自身を見詰めていると、
内省すればするほど・・・・、河童に似ている・・・、確信したからでしょう。
河童は・・・・人間の水死体であるが・・・・、それは人間自身の「核心」である、そう思ったからでしょう。
 
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   禅忠師は初夏に気まぐれに書いた漫画だと謙遜されておいでですが、魅力抜群です。
    東慶寺ではこの図を付箋やクリヤファイル等の文房具に使われておいでです。
 
 
もう一つ大正末期に東慶寺の住職に「佐藤禅忠師」が現われます。
鈴木大拙と同じ時代、活躍されますが・・・・。絵も良くされます。
松ヶ丘文庫には同氏の作品が多く収蔵されていて、度々展示替えがあります。
常設されているのが・・・・・、「妖怪の座禅絵巻」です。
トイレットペーパー程の小さな巻紙に・・・・・・・、
妖怪が図鑑のように描かれています。
妖怪は皆真面目に座禅をしています。
一つ目小僧は真っ直ぐに前を向いて、目をカット開いています。
禅忠師は愉しみながら妖怪を描いたことでしょう。
でも、座禅する妖怪は・・・・・、自分自身の投影であると思われていたことでしょう。
 
芥川龍之介氏の河童も、佐藤禅忠師の百鬼妖怪も・・・・・・、
井上円了氏の説く真怪のように思えます。
真怪を”三輪山の杉”だ、と説いても納得が行きかねます。
真怪は・・・…、龍之介氏の描く河童であり、禅忠師の妖怪だと説明すれば解るような気がします。
それは・・・・、畢竟人間自身の事のようです。
 
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セミナーを終えて教室を出ました。
もう夕陽も落ちてしまって、わずかに残照が残っています。
近所の子供が銀杏の落ち葉の上で滑って転がって遊んでいます。
真っ黒な銀杏の梢の上に、細い三日月と宵の明星が輝いています。
梢の先を飛んでいるのは・・・・・、防空壕から飛び出した蝙蝠でしょうか?
        (慶応大学日吉キャンバスの台地には地下壕が掘られていて大本営になっていました)
人間こそが妖怪である・・・・、それは蝙蝠を見ていて確信しました。
 
 
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                                         銀杏の落ち葉で遊ぶ子供。
 
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       逢魔ヶ時の銀杏の木、細い月と宵の明星、鳥、蝙蝠が飛んでいました。
 
 
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丸子宿の誓願寺、不動尊

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12月11日から一泊二日で奥三河に旅をしてきました。
今日から暫くその紀行を書きます。
 
日本で一番遅い紅葉は熱海の梅園だと聞きます。
ならば、今年最後の紅葉は静岡に行こう、
静岡には親爺の好きだった丸子丁字屋でトロロを食べて、
小夜の中山を見て・・・・、プランはドンドン広がりました。
宿は浜名湖舘山寺に取りました。
早朝、6時半に横浜を出発しますと、鞠子宿には10時過ぎに着きました。
丁字屋の開店は11時、それまではその近辺の歴史遺産を見て回ります。
先ずは片桐且元公夫妻の墓のある誓願寺です。
 
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 丸子の誓願寺、山間にはありますが堂々たる風格です。門前左の大木は果たして桐でしょうか?
 
丸子は山間の宿場だったのでしょうが、国道一号線のロードサイドは騒がしくなっていました。
でも、国道を少し入ればもう静かで鄙びた谷戸が続いています。
茶畑や正月用の草花が栽培されています。
渓流に沿って谷戸に入ると、立派な屋根瓦が見えます。
そこが大鈩山誓願寺です。
 
大きな鈩(たたら)と書くのですから、砂鉄を製鉄する処だったのでしょう。
太古あの山は海の底で砂鉄が埋もれていたのでしょう。
臨済宗の寺院の風格が漂います。
門前に見慣れない大木があります。
もう、葉を落としてしまっていますから・・・・、葉っぱで判別できません。
家内と何の木だろう? 協議しますが、判断できません。
 
私は「桐一葉だから・・・桐ではないかな?」思いますが、桐にしては木肌が黒すぎます。(桐一葉:坪内逍遥作の歌舞伎、片桐且元が主人公)
近くには西洋柊(クリスマスで良く使う)の大木があって、丁寧に名札も付いています。
地元の人はこの大木の名は判っているのでしょうが・・・、旅人には解りません。
 
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   誓願寺の本堂から門を見返る。
 
建久3年(1192)、源頼朝は両親の追善菩提のために誓願寺を創建したと伝えられています。
天文23年(1554)、今川家と武田家による丸子城の争奪戦が勃発します。
その折に誓願寺は全焼してしまいます。
しかし、丸子城を手にした武田信玄は恵林寺の快川紹喜和尚の進言によって同寺を再興します。
慶長19年(1614)京都方広寺の梵鐘の銘文をめぐって、豊臣家と徳川家康との間に不和が生じます。
この時、豊臣家の重臣片桐且元は駿府を訪れ、徳川家康と折衝しようとします。
且元はこの寺に留まり、家康の許可を待ちます。
結局、且元の努力もむなしく、豊臣家は慶長20年(1615)5月8日、大阪夏の陣で滅亡してしまいます。
その20日後、且元も自害し誓願寺に葬られたと伝えられています。
 
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   片桐且元夫妻の墓標は卵塔でした。一般にお坊様が卵塔を使います。
 
本堂の裏に二基の丸い墓標塔があります。
左側、少し大きい方が且元で、小さい方が奥方だそうです。
お二人が一緒に自害されたのか・・・…、解りません。
解っている事は墓標を建立したのが且元の甥の片桐貞昌(石州)だという事です。
片桐石州は徳川家綱の茶華道の指南役を努めます。
石州流茶華道の流祖であり、庭園の名人だったという事です。
誓願寺の本堂裏にある回遊式庭園も石州の作だそうです。
庭園などには天然記念物のモリアオガエルの生息しているそうです。
この寒さでは、落ち葉の下で眠ってしまったでしょう。
 
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   誓願寺から不動尊への行程は散り紅葉の道でした。
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   左奥が不動尊
 
お寺の門前の渓流を1キロほど遡ると大鈩の不動尊が祀られています。
勿論、誓願寺が管理しています。
地元ではこのお不動さんから流れ出す聖水でイボを洗うと・・・・、
イボがポロリと落ちるんだそうです。
イボ取り不動さんがこの不動尊の霊験なのだそうです。
 
でも、今はイボで悩む人は少ないからでしょう。
神域には沢山のお地蔵さんが祀られています。
お地蔵さんにはゆだれ掛けがしてあります。
ゆだれ掛けには「安産御礼」と書かれています。
沢山の千羽鶴が下がっています。
千羽鶴も安産祈願、安産御礼なのでしょう・・・・。
 
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  不動尊は渓流の湧きだす処に祀られています。夥しい石仏ですが9割はお地蔵様です。
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   千羽鶴の向こう、壇上に祀られているのもお地蔵さんばかりです。
 
一つ一つのお地蔵さんはそれほど古いものでは無いようです。
また素人が彫ったような素朴な表情のお地蔵さんも目立ちます。
お不動さんなのに・・・・・、お地蔵さんが目立つのは・・・・・・、
此処に住む人の生業も変わり、願望も変わってきているからでしょう。
でも、今でも縁日には誓願寺の門前では市が立つそうです。
 
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   お地蔵様といっても小法師像が目立ちます。安産祈願も多いようです。
   (水子は風車など玩具が添えられているものです)
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  お地蔵様は新しいものが目立ちます。
 
 
渓流の道には紅葉がまだ残っていました。
「山芋を掘る事を禁じる・・・・・・」警告板も目立ちました。
 
私は時計を見ます。
ソロソロ、丁字屋さん開店の時刻です。
 
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  道のそこここに「山芋掘りを禁じる」看板が立っていました。
 
 
 
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