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中世の精華「吐月峰柴屋寺」

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既に丁字屋は開店の時間でしたが、
もう少し腹を空かせて、美味しくトロロ汁を食べたい・・・・、
そんな思惑で、吐月峰柴屋寺に向かいました。
「吐月峰」「柴屋寺」とは
”月を吐き出す峰の麓にある柴で葺いた質素な寺”そんなネーミングです。
誰がこんな中世の匂いの強いお寺を建てたのか? 
俄然興味が湧きます。
 
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      吐月峰柴屋寺はお寺らしからぬ簡素な構えです。
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   手前のガラス戸の東屋風の建物が本堂、奥が庫裏です。
   以前は茅葺の寄棟だったようですが、今はブリキ板で覆われています。
 
丁字屋の前を流れる川を遡って、匠の里を通り過ぎて、谷戸の奥に柴屋寺がありました。
入口に石塔が建っていて、庭は国の名勝に寺は史蹟であることを示しています。
お寺自体は簡素で・・・・・、高名な禅僧の侘び住いと言った感じです。
 
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 方丈庭園で説明される住職
 
紺の作務衣を着られた住職が柔らかな語り口で案内してくださいました。
このお寺が水無瀬三吟百韻の宗長が最晩年過ごしたお寺である事を知りました。
狭い本堂です。
でも、正面はお庭で在って・・・・・須弥壇ではありません。
 
先ず、お庭を見てください。
奥の方に二つの山が見えます。
その山蔭から月が出ます。
お月様が出るまでの間・・・・、お茶を一服煎じましょう・・・・・。
月見石にお座りになって暫しお待ちください。
宗長さんのおもてなしの心が伝わります。
 
 
月見石の奥に宗祇、宗長二人のお墓があります。
手前、池の周囲にある庭石は北斗七星を表わしています。
庭園全体が宇宙を表現しているんです。
 
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 本堂に入ると正面にお庭が見えます。手前右に須弥壇があります。右端は家康お手植えの槇
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   右端に月見石があります。その奥に宗長・宗祇の墓があります。
    写真では左側に池があって池の周囲の石は北斗七星を表現しています。
 
待てよ、こんな説明は何処かで聞いたことがある・・・・。
そう、銀閣寺です。
銀閣寺より遥かに小さいものの・・・・世界観は同じです。
銀閣寺より粗末な分、侘び・さびを一層強く感じます。
 
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 お茶室の裏、お庭を見渡し位置に祖師堂(?)があります。宗長さんが庭を見渡しておいでです。
 
宗長は師「宗祇」を箱根早雲寺で弔い、
最晩年を故郷であり、時の実力者であった今川家の城下で過ごしたのでした。
宗長のライフスタイルがこの柴屋寺に表わされているんです。
 
こんな感じは・・・・、大和の慈光院で見みました。
慈光院は片桐石州が建立したものです。(昨日書いた誓願寺を見てください)
石州は200年も前の宗長のライフスタイルを踏襲したように思えます。
 
 
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  お庭は天柱山を借景にしています。左の柴屋根はお茶室です。
 
 
ご住職は説明を続けられます。
宗長は京都嵯峨野から竹を移植して、境内に植えました。
庭の西には天柱山が見えます。
その手前に竹林が茂ります。
竹林の上に、突然に月が現れます。
だから・・・・・、「月を吐き出す・・山」と言うのです。
 
南にも竹が見えます。
その彼方に丸子富士が遠望されます。
この庭は南から西に向けて借景になって見渡せるんです。(北は庫裏です)
そういえば、慈光院は四方が借景になっていたように記憶しています。
 
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ご住職はガラス戸の前で寺宝を説明されます。
「この小さなお釜が足利義政から賜った文福茶釜です。」
鉄製の釡ですが・・・小さいので4人分くらいのお湯しか沸かせないようです。
茂林寺の茶釜より遥かに古いようです。
この短冊は後水尾天皇御真筆です。
この柿本人麻呂像は頓阿法師の作です・・・・。
真偽は判りませんが・・・・・・、有名人の名がポンポンと出て来ます。
 
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     右のガラス戸の中に文福茶釜などの寺宝が収められています。
 
柴屋寺なんですから・・・・・・・、屋根は柴で覆われ居なくては・・・・、看板倒れです。でも、柴で葺くのはお金もかかる事でしょう。
そこで止むを得ず・・・・・・ブリキの鉄板で覆われています。
残念ですが・・・・・・・・、致し方ありません。
 
宗祇や宗長というと高校の授業では、芭蕉の前の人、利休の前の人・・・・・、
そんな扱いで学びました。
一人の中世を体現した文化人であって、僧侶であり、インテリで・・・・・・、今川氏義忠と氏親に仕えたのでした。
芭蕉や利休は宗長らの育んだ文化の一つを更に奥深く追及した・・・・、
そんなものでしょう。
今後は芭蕉以前、利休以前に関心が集まる・・・・、確信いたします。
 
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   利休以前の茶室
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  昭和26年の額、屋根は茅葺であったようです。山蔭からポンと月が天中に飛んで出る・・・、
  そんな意味で「吐月」と呼んだのでしょう。
 
    
 
 
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丸子の丁字屋で「トロロ汁」

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「丁字屋」という屋号は全国各地にあります。
私の住む戸塚では和菓子屋の丁字屋があります。
江戸時代は団子を売る茶店だったようです。
近江の今津では鴨鍋の丁字屋がありますし、那須には鰻が丁字屋です。
丁字とはクローブの事で香辛料や胃腸薬ですから、
薬屋の屋号に適当だと思ううんですが・・・・、
薬屋では無くて、殆どが宿場町の飲食店が多いようです。
 
私の亡父は丸子の丁字屋でトロロ汁を食べるのが楽しみでした。
富士市吉原に日産自動車があって、亡父は下請けの仕事を請け負っていましたから・・・…、吉原には良く出かけていました。
すると、決まって丸子まで足を延ばして丁字屋でトロロ汁を食べていました。
私は丁字屋のトロロ汁はどんな味なのか?食べてみたいと常々思っていました。
今回の旅の主目標がそんなトロロ汁を味わう事です。
 
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  広重の丸子宿の図。 丁字屋が描かれています。
  「名物とろろ汁」の看板のほかに「お茶漬け」「酒魚」等の看板も出ています。
  乳児をおぶった女が給仕をしています。これは東海道中膝栗毛(十遍舎一句)の段を
  絵にしたものでしょう。茅葺屋根の脇に梅の木があるのは芭蕉の句をヒントにしたのでしょう。
  実際は茶店の前を丸子川が流れて、京見付と高札場があるのですが、
  広重はそれを省略して丸子峠への峠道を描いています。
  峠越の疲れを取るにはとろろ汁が最適である・・・、そんな意味を表したのでしょう。
 
丁字屋さんは広重の浮世絵通りの藁ぶき屋根です。
目の前を丸子川が流れています。
丸子橋を渡れば京見付で、沢山の高札が建てられています。
お店の前には幾つもの歌碑、句碑が並んでいます。
「うめ若菜 丸子の宿のとろろ汁」 芭蕉の句碑です。
芭蕉も梅や菜の花が咲く季節にトロロ汁を美味しく戴いて、感動したんでしょう。
お店で聞けばこの藁ぶきの建屋は300年もたった農家を移築したもので、
江戸時代からの丁字屋さんの建物ではないそうです。
移築に際して、広重の絵を模したのでしょう。
 
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  丁字屋の店舗は寄棟の茅葺農家を移築(築300年)広重の浮世絵風に
   デザインしたものだそうです。
 
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   丸子橋の袂が京見付で高札場です。遠くの山が丸子富士(多分)、丸子峠への道です。
 
お店の奥は大広間があって、沢山のお客を収容できます。
未だ12時前なので、お客さんは2組しかいませんでした。
私は未だ胃袋が本調子ではないので・・・・・、
丸子定食(1400円弱)と8分ツキのとろろ汁を注文しました。
お料理が出来るまでの時間、資料館を見学します。
 
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流石に有名店、沢山の取材を受けています。
私は読売新聞の記事「400年変わらぬ宿場の味」と、産経新聞の「伝統の味自然薯を時代にあわせて・・」が目に止めました。
これから食べるトロロ汁は・・・・、400年変わらぬ味なのか? 
時代にあわせて変えた味なのか・・・・、どちらなのか? 判断に苦しみます。
そこで、通りがかった女将さん(中居さん)に訊きました。
「この新聞、どちらが正しいんですか?」
すると、こう答えられました。
「自然薯は昔は山で採ってきていました。それが、今では畑で栽培しています。
だから、素材自体の味が変わってしまっているんです。
それでも、昔の味を大切にして料理してきています。
そんなわけで、どちらも正しいのです。」
 
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   丸子の自然薯の栽培方法を説明した掲示。特許のダクトシステムとはパイプの中で
    自然薯を育成させる方法で・・・・・・、あんまりエバルものでもないでしょう。
 
隣の壁にはとろろ芋の栽培方法を解説しています。
ムカゴを拾って、地面に植えます。
生えたトロロの若芽を畑に植えます。
トロロが掘り出し易いように、筒に入れて根(芋)は横に伸ばします。(ダクトシステム)
トロロを栽培する土壌には自然農法を最大限取り入れています・・・。
そんな説明のようです。
 
でも、女将さんも丸子の人も天然の自然薯と畑で育成した自然薯の味の違いは良く承知しているのでしょう。
だから・・・・・・、昔ながらの味を現代の素材で出す為に・・・・・
「料理方法に工夫」をしているのでしょう。
丸子の山には「山芋掘るべからず!」の看板が矢鱈つのも、
畑で栽培したお芋とは違いがあるからでしょう。
 
私達が食べたいのは芭蕉や弥次郎兵衛喜多八が食べたと同じトロロ汁です。
お店もそんな味を守りたいと経営努力をしているのです。
 
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  資料室に展示された擂鉢とすりこ木。これで8人分くらい出来るでしょうか?
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   現在の擂鉢とすりこ木、野球のバットのようでがっかりです。
    すりこ木は山椒でなければ駄目です。
 
資料室には黒光りした擂鉢とすりこ木が展示されていました。
すりおろされた山芋をこの擂鉢でトロロ汁に仕上げます。
私は山芋掘りが得意で、お寺の裏山で掘り出しました。
山芋は母が料理しました。
カツオ出汁に鶉の卵を入れて、ゴリゴリすりこ木で掻き混ぜました。
出汁が足りないときには冷汁の要領で、冷めた味噌汁でコクを出しました。
すりこ木は山椒の丸太でした。
亡父は幸福そうにトロロ汁を食べていました。
もう、あの時の擂鉢は使われていない事でしょう。
 
丁字屋で、今使っている擂鉢は昔より3倍は大きいようです。
そして、すりこ木も野球のバットのようです。(青タモ材)
山椒などは香味料として入れるんでしょう。
そして、擂鉢が大きいのはお客さんが増えたので、一気に大量にお料理するからでしょう。
江戸時代のファーストフードは様々な工夫をしながら、現代ニーズに応じているようです。
 
 
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いよいよ、とろろ汁が運ばれてきました。
麦ご飯にトロロ、香の物、味噌汁で定食です。
ご飯のお代りは幾らでもします・・・・、言われてお櫃をテーブルに置かれまし。
病み上がりですから・・・・、私は麦飯にトロロ汁をかけて・・・・・・、ズルズルと吸い込む訳では無く・・・・、よく噛んで食べます。
蕎麦も、とろろ汁も・・・、よく噛んで食べる訳ですから・・・、
無粋というか、江戸っ子風ではありません。
胃袋が何時怒り出すか解りません。
「幾ら、とろろ汁が好きだと言っても、そんなに呑み込んだら・・・、すぐにストライキをするぞ!」 警告が出そうです。
家内も心配げに窺がっています。
で・・・・・、肝心のお味ですが・・・・・・・、美味しかったです。
 
少し水っぽいかな・・・・?
海苔は入れないのかな?
麦飯だが麦が少ないようだが・・・?
亡父が好きだった味とは違うんじゃないかな?
亡父は野趣このみでしたから・・・・、
こんなに上品で、足腰の無いトロロ汁は好みでないような気がしました。
私が求めるトロロ汁は土の香り、特に関東ロームの匂いが必要です。
 
でも、長年気になっていた丁字屋の味を確認して満足しました。
 
 
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蔦の細道の輝き

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丁字屋さん自体は良い雰囲気なんですが、周囲は東海道の面影も薄らいでいます。東海道をビュンビュンと車が走り抜けて行きます。
道路は直ぐにトンネルに入ります。(宇津之谷トンネル)
トンネルは満観峰等500m級の山を貫いているのです。
少し、東には東名の日本坂トンネルがありますから、同トンネルほど長くは無いものの本格的なトンネルです。
トンネルを出れば次の岡部宿に出ます。
 
私達の目的はこの宇津之谷越えに残っている、歴史の面影です。
 
丁字屋の横の細道を入ると、木の祠がありました。
「いざり地蔵尊」と書かれていて、幾つものご詠歌が添えられています。
私の住む戸塚宿にも権田坂に「投げ込み地蔵尊」というものがあって、行き倒れた旅人を谷底に投げ込んだ・・・・、悲しい記憶が残されています。
宇津之谷を越えてきた旅人が、もう足が動かなくなってしまって・・・・、この場所で息を引き取ったのでしょう。
丸子の人が憐れんで「いざり地蔵尊」として祀ったものと思います。
 
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  いざり地蔵尊
  雨風で目鼻失せたる地蔵ゆえ いざりいざりと人は呼ぶらむ
 
宇津之谷トンネルを越えた岡部側が「坂下」です。
坂下地蔵堂が祀られています。
峠を越えるのは命がけであったから・・・・、峠の入口に地蔵堂が祀られているのだろう・・・・、直感しました。
でも、伝説によればもっともっとご利益の篤い地蔵尊であったようです。
 
ご本尊の延命地蔵さんは一般に「鼻とり地蔵」と呼ばれているそうです。
一日の農作業を終えたお百姓が牛を連れて峠を越えようとしました。
ところが、牛は急に座り込んでしまいます。
すると、何処からともなく少年が現われ牛の鼻をとって、ドンドン峠を越えて行きます。少年は延命地蔵尊で消えてしまいました。
 
翌日は田植えでした。
田植えにも少年が現われてドンドン進めてくれました。
その晩も少年は延命地蔵尊で姿を消してしまいました。
見れば、お地蔵さんの足元が泥で濡れていました。
 
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   坂下地蔵尊
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坂下地蔵尊
 
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                             俵屋 宗達の蔦の細道図
 
 
坂下地蔵尊から谷川に沿って山に入ります。
其処が「蔦の細道」なんです。
蔦の細道ほど日本文化史上有名な所は無いでしょう。
話は伊勢物語の東下りの場面になります。
在原業平は都に人を遺して、東国に下ります。
そして、寂しい峠道に差しかかります。
道の両側から岩壁や大木に絡んで蔦が色付いています。
ここで、懐かしいお坊さんに会います。
業平はお坊さんに都の残してきた人宛てに歌を託します。
  駿河なる宇津の山辺の現(うつつ)にも 夢にも人に逢はぬなりけり
 
哀愁と偶然性が人の心を捕え、後世多くの文化人を蔦の細道に誘いました。
また、尾形光琳等が絵に道具にその場面を描きます。
を求めて、多くの文人墨客(ぶんじんぼっきゃく)が宇津ノ谷峠を訪れました。

 
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  蔦の細道の入口。東屋は業平館、右側のパネルには沢山の歌人の作品が案内されています。
  (定家、西行、俊成、道綱の母他) 多くの人は実際にこの峠を越えた訳ではないでしょう。
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蔦の細道は古代から中世にかけてかけて使われた古道でした。
近世になるとその西側に新しい道が開拓されます。
作ったのは北条氏(小田原)を征伐に遣って来た豊臣秀吉でした。
その近世の古道は時代に取り残されたように保存されています。
名物は秀吉の陣羽織を遺している茶店の団子のようです。
 
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   近世の峠の集落「宇津之谷」 何処か木曾の妻籠を思わせます。
 
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 御羽織屋、団子が名物。秀吉が峠越えした際に馬用の草履を提供した事から誉められて、
 陣羽織を賜った、以来御羽織屋の家宝になっているそうです。
 
宇津之谷の集落の奥には明治時代のトンネルも残されています。
古代から中世、そして近世から現代に様々な表情を遺している宇津之谷です。
トンネルを越えれば岡部宿・・・・、更に西に下って「小夜の中山」が次の目的地です。
 
 
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命なりけり「小夜の中山」

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丸子の道の駅で聞きました。
「小夜の中山の夜泣き石には、このまま東海道を下れば行けますか?」
「東海道から反れていますが、掛川の手前に案内が出て来るから・・・…、
気をつけて行きなさい。」
私のカーナビに「小夜の中山」が入らないのです。
 
西行の歌に次があります。
「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」
私は”命なりけり 小夜の中山”、このフレーズにズット捉えられているんです。
高校生のころから、命の尊さを実感する・・・・・・、どんな景色なんだろうか?
想像していました。
西行が小夜の中山を最初に越えたのは30代の若さでした。
そして69歳になって再度この峠を越えて奥州に向かいました。
「健康で、命あるから・・・再びこの小夜の中山に来れたんだなあ・・・」
そんな感慨でしょう。
私もそんな齢になってきました。
西行の感慨がしみじみ思われる齢であります。
 
東海道には三つの難所があったと言い伝えられます。
箱根と鈴鹿と・・・もう一つが小夜の中山でした。
でも、歌枕になったのは小夜の中山だけでした。
古代(古今集)の時代から、小夜の中山には特別な思いが込められていたんです。
 
 
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   バイパス横にある「夜泣き石公園」向こうの構造物の中に夜泣き石が祀られています。
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    この夜泣き石は小夜の中山に在ったものを現在地に移転したんだそうです。
    この公園の下に「飴屋」がありますから、飴屋の移転に際して看板の夜泣き石も移転して
    もらったんでしょう。
 
 
上の2枚の写真が東海道のバイパス沿いにある公園に祀られている「夜泣き石」です。
説明では以下の通りになっています。
 
ある日の夕刻、臨月を迎えたご婦人が家に戻る途中、丸い石にもたれて休んでいました。
突然に山賊が現われ、命乞いする婦人に切りつけました。
婦人は殺されましたが、刀の先が石に当って、
お腹を切られる事はありませんでした。
赤ちゃんの命はありました。
暫くして、久延寺のお坊様が通りました。
泣声が聞こえます。
泣声は丸い石から聞こえました。
殺されたご婦人と胎児を確認、惨劇の事態を察知されました。
ご婦人の魂が石に乗り移って泣いていたのです。
そこで、お坊さんは臍の緒を切って、寺に連れて行きます。
和尚さんは飴をしゃぶらせて胎児を育てます。
 
乳児は立派に成長し、音八と名付けられました。
音八はお坊様から自分の出生の悲劇を聞かされていました。
そこで、仇をとりたい・・・、考えて刀砥ぎになります。
大和の国、恩知村へ行き、研屋源五郎宅に身を寄せました。
 
ある日、一人の侍が来て一振りの刀を預けて行きます。
見ると刃先に大きな刃こぼれがありました。
尋ねてみると・・・・、
「私が若いころ遠州の山奥で人を切った時に、刀が石に当ってその時に出来た刃こぼれである・・・」話したのでした。
 
音八は母の恨みを晴らすことが出来ました。
 
夜泣き石の登り口には飴屋(小泉屋)のお店を建築中です。
バイパスに近い位置に飴屋を建築し、看板の夜泣き石も馬の背から移転したものでしょう。
丸い大きな石は300貫もあるそうです。
 
私達はバイパスから細道に入ります。
一本道は馬の背をドンドン登って行きます。
道の両脇には歌碑や馬頭観音、神社等が続きます。
車はすれ違う事も出来ない細道です。
道の両側は見事なお茶畑で、未だ花が残っています。
 
 
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      小夜の中山は馬の背でした。 一帯の案内図はもう色褪せていました。
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    小夜の中山は日坂宿と金谷宿の中間の馬の背にありました。
    日坂宿を越えると急な坂で広重も絵にしました。
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        広重の絵のアングル
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     小夜の中山は標高250m余りの馬の背でした。一帯は茶が栽培されていました。
     丁度花が咲いていました。向こうの山の頂には大文字ならぬ「茶」文字が描かれていました。
 
二つ目の夜泣き石は「久延寺」の境内に祀られていました。
先の夜泣き石より一回り小さいし、少し茶色が混じっていました。
(石単独ならば・・・・・、公園の方が銘石です。)
石の上に弘法大師の像が祀られています。
此方の説明は前半は同じですが、エンディングが違います。
この話を聞かれた弘法大師が石を(ご婦人を)憐れんで石に仏号を刻まれました。
(仇を討ったというのは音八が山賊の命を奪ったのか、謝罪させたのか…ハッキリしません。お寺の書き方は賊が後悔したことをもって仇討と表現している風です。)
 
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   小夜の中山のコアは久延寺(真言宗)でした。夜泣き石はじめ数々の史蹟が残されていました。
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   久延寺の夜泣き石。夜泣き石の伝説もエンディングの処で幾つものバリエーションがあるようでした。
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久延寺の伝説によれば、この故事は弘法大師以前の話になります。
でも、話の概要からすれば、戦国時代から江戸時代前半の話のように思います。
西行が「命なりけり・・・小夜の中山」と詠った後に惨劇が生じたともいます。
ですから・・・・西行は夜泣き石の伝説は知らなかったと思います。
 
西行の歌の力が・・・・、この夜泣き石伝説を生む素地になったように思います。
 
西行歌碑から400m程馬の背を下った処松の木が植えられていて、
芭蕉の句碑があります。
  命なりわづかの笠の下涼み
芭蕉が馬の背の道を歩き疲れて、松の木の根元で休憩をとったのでしょう。
木陰で休みながら 「命が洗われる・・・・」思った事でしょう。
勿論、芭蕉の脳裏には西行の歌がありました。
芭蕉は晩年奥の細道でも小夜の中山を思い出しています。
敦賀で次のように吟じました。
  中山や越路も月はまた命
 
旅先で何時死ぬかもしれない・・・・、覚悟が出来ていたからこそ「命なりけり」のフレーズにプリントされていたのでしょう。
 
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  松の木の根元にある芭蕉の句碑。芭蕉も「命」を吟じています。
 
 
 
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静寂な舘山寺温泉

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今晩の宿は舘山寺温泉です。
大阪支店勤務時代には、大晦日には東名高速を下りました。
当時目立ち始めたワゴン車にのって、親子三人で夜に豊中を出発して、舘山寺で一服しました。
舘山寺は丁度中間地点でしたし、風光明媚ですから・・・・。
何時か舘山寺の温泉に浸かりたいと考えていました。
 
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  黄昏の舘山寺、真向いが東名舘山寺SAになります。
 
舘山寺に行くには浜松西ICを下りて30分ほど走ります。
舘山寺SAの眼と鼻の先にあるのに・・・・・・、少しばかり驚きました。
SAにはETC客だけ出入りできるICが良くあります。
舘山寺にETCの出入口が無いのは・・・・、経営努力が足りません。
ETC出入口があれば・・・・、閑散とした舘山寺温泉が賑わうのではないでしょうか?
 
舘山寺温泉のある奥浜名湖は実に美しい処です。
奥琵琶湖に似た雰囲気があります。
奥琵琶湖は岸辺に観音様が祀られた小さなお寺が数多くあります。
水上勉の名作「湖の琴」の舞台です。
 
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   左が西行岩、船は舘山寺から弁天島に向かいます。向こうの赤い橋は東名高速。
 
奥浜名湖一帯にもお寺が数多くあります。
でも、此処は三河の要衝ですから、どのお寺も壮大な伽藍と格式を誇っています。
舘山寺もそんな古寺でした。
 
舘とは古い屋敷、城の意味ですから、
舘山寺はお城の役割を担っていたと想像します。
舘山寺の麓の渚に港を設え、船を隠しておき、
いざとなればこの古舘を根城に戦ったのではないでしょうか?
舘山寺は山形や茨城に同名の城があります。
 
小夜の中山で「夜泣き石」を見ましたが、似た話が奥浜名湖にあります。
本興寺の「幽霊飴」の話です。(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45137761.html)
夜な夜な美しい人が飴を買いにやってくる・・・・、
不思議に思った雨屋の主人がその人の後をつけたところ、本興寺の墓地でスット消えてしまいました。
その墓地の樽棺の中から赤ちゃんが発見されました。
赤ちゃんは飴をしゃぶっていました。
その子は本興寺の和尚さんになりました。
 
どちらが先にあったのか解りません。
共通しているのは女性が死んで、乳児が生き残る話です。
人間も生き物・・・・、生命を伝える以上に崇高な使命はありません。
それを教える説話なんでしょう。
裏を返せば・・・・、子供の命は軽んじられて、間引きが行われていたのでしょう。
「生類憐みの令」は命の尊さを肝に命じる法律でした。
乳児を間引いてはならない・・・・・、
年寄りを捨ててはならない・・・・・、そんな法令が発布されたのは、
倫理観が重んじられる時代が来た・・・、証なのでしょう。
それが元禄時代です。
 
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   舘山寺の秋葉権現社。私は11日に宿泊しました、週末が火祭りでした。
   大きな天狗が目立ちます。
 
舘山寺は海抜50mの小山の中腹にあります。
裏山には周遊する道があります。
上り下りがかなりきつい道です。
でも観光地らしく見所が数多くあります。
勿論最も素晴らしいのは、木々の間から望められる湖の景色なんですが・・・。
 
山頂に高さ16メートルもある聖観音像が祀られています。
説明では此処で心中した人の霊を供養するために昭和12年(1937)に建てたんだそうです。
心中したのは「お静と俊海」だったように案内されています。
俊海という名からは若いお坊さんと村娘との恋愛が想像されます。
 
でも、慰霊の為なら・・・・、
ひっそりと二基のお地蔵様をたてられたら良かったのに・・・・、
おまけに沢山の絵馬が吊るされて・・・・、恋愛成就の祈願を叶えてくださるそうです。
悲恋のカップルと言えば「静御前と源義経」でしょう。
でも京都はじめ全国各地でこの二人が・・・・
「恋愛成就を叶えて下さる」パワースポットとして祀られています。
私には不幸な人を逆撫でするような気がして・・・・、
現代人の身勝手さに気が引いてしまいます。
これじゃあ、悲恋の魂が浮かばれないような気がします。
命の尊さを教えるのなら・・・・、
飴屋の幽霊や夜泣き石の方が遥かに優れています。
 
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  絵馬に観音像 
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 恋愛成就の絵馬。黒い絵は錠前で相手のハートに懸けられたロックを外す意味だそうです。
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       これが心中したカップルの慰霊の聖観音像
 
舘山遊歩道の最深部に西行岩がありました。
この岩の上に坐して西行は次の歌を詠じたのだそうです。
 舘山の 巌の松の 苔むしろ 都なりせば 君もきてみむ
 
西行が「君も来て見たら良いでしょう・・・」詠じた君とは誰だったのでしょうか?
別離した妻と娘だったのでしょうか?
それとも、親友の平清盛だったのでしょうか?
 
私は、君と温泉に浸かる幸いに浴しましたが・・・・。
 
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              ホテルの玄関に置かれた秋葉権現の松明
 
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   松明行事を描いた油絵、掬水館の廊下で。
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                                舘山寺船着き場の夕暮れ。
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   深夜の舘山寺温泉
 
 
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作手村開成の馬頭観音

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中馬街道の足助宿が今日も目的地です。
石仏ファンなら宿場入口にある馬頭観音をご存知でしょう。
少し彩色してある、大きな石仏です。
是非、一度拝んでみたいとかねてから思っていました。
舘山寺のホテルの支配人に訊きました。
「足助に行くには、高速の豊田ICから回るのと、新城経由で山間地を経由するのと、どちらが速いですか?」
支配人は答えられました。
「香嵐渓の人出は物凄く、ICから先は渋滞してしまいますから、裏から、鳳来寺山街道を行くのが良いでしょう」
 
三ヶ日町から国道301号線を新城市に向かいます。
長閑な田舎道が続きます。
林業が主業の村の雰囲気です。
川を度々渡ります。
カーナビには巴川(矢作川水系)と出ていますから、この下流に香嵐渓があるのでしょう。
既に紅葉は散ってしまっていて、降雪を待つばかりの様子です。
人影は全く見ません。
三ヶ日辺りでは自転車で登校する生徒さんの姿が見られたんですが・・・・。
 
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路傍の石仏が気になります。
見つける度ごとに停車しますので、中々足助に着きそうもありません。
でも、今回石仏の前を通り過ぎてしまったら、多分一生拝むことは出来ません。
つけたら、必ず停車します。
 
路傍の石仏と言えば、お地蔵様か道祖神が多いものですが、
この辺りは馬頭観音が目立ちます。
「道の駅作手(つくりて)」で一服しようとしましたが、今日(木曜日)は閉まっていました。開成小学校、作手消防分団などの名が目につきます。
この辺りは「作手高原」と呼ばれ、明治以降に開発の鋤や鍬が入ったのでしょう。
だから、そんな風の名が多くあります。
 
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   車窓から見た総寺院。手前の民家の屋根瓦の上に石仏が見えます。
 
車の左ガラスに誰かの気配を感じました。
見向くと、屋根の上に石仏が在って私を見ているんです。
家内は助手席で車窓の景色を見ていましたが、突然の停車に驚いています。
「まあ、あんな高い所から石仏がこっちを見ている何て・・・・」
そんなわけで、坂を上って石仏の足元に行きました。
 
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 左の柿の木の下の社は金毘羅様、その右端に巨大な石仏が見えました。
 坂道の突き当りが総持院
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   総持院参道に祀られた馬頭観音像。5段の石積の上に蓮台が置かれその上に
    三面六臂の馬頭観音が坐していられます。
 
それは、小山の中腹にあるお寺(総持院/応永11年1404)の参道にありました。
現在無住のお寺ですが、綺麗に草刈りもされています。
村人が大切にして面倒を見ているんでしょう。
 
それにしても立派な、本格的な馬頭観音像です。
お顔は儀軌の通りの憤怒形ですが・・・・、どこか大黒天のような愛らしさがあります。(大黒天も本来は憤怒形ですが・・・・)
正面に「牛馬安全」と刻まれていますから、
家畜の健康長寿を祈願したのでしょうが、同時に五穀豊穣を祈ったものでしょう。
 
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  本格的な三面六臂の馬頭観音像。でも表情が大黒様の様な愛らしさがあります。
 
第三層、第五層の石の側面には沢山(50人くらい)の名前が刻まれています。
この石仏の建立に際して寄進した村人の名前でしょう。
出来たのは明治27年です。(牛馬安全の裏の位置に刻まれていました)
日清戦争に勝利した興奮の中に落慶法要が為されことでしょう。
明治時代ですから石工の名前も刻まれて居そうです。
望遠レンズでアップして確認したんですが・・・・、確認できませんでした。
 
 
巨大な馬頭観音像の足元にも4基の石仏があって、何れも馬頭観音像です。
この辺りでは神仏に祈るとすれば、馬頭観音だったのでしょう。
 
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                      小さな石仏は総て馬頭観音でした。
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   馬頭観音のお顔はお百姓さんのお顔でした。10円玉が錆びていました。
 
どの馬頭観音さんもお百姓さんのお顔のようで・・・・、頭上に馬頭を被っています。
お顔を見れば先祖(祖霊)の様にも見えます。
そして、冬を前にして新しい前掛けをして貰って・・・・、うれしそうに見えました。
 
筆者は昨晩近くの認知症施設の経営報告会議に出席していました。
日本の認知症患者は500万人(厚労省、九大推計800万人)で、
ロンドンで開催された認知症サミットでは主役だった・・・・、話題になりました。
おとなしい認知症患者は良いんですが、暴力的な性向のある患者は・・・・、
精神病院に送らなければ・・・・ならない。そんな悲しい話題もありました。
 
会議の間、私は作手村の馬頭観音の事を想っていました。
冬を前にして、草刈りをして、前掛けをするような人は・・・・、
認知症にはならない事でしょう。
神仏を失い、TVの前で座っているだけならば・・・・、
認知症になってしまうのも仕方がないのではないでしょうか?
認知症は孤独になって、神仏も失った現代人の病のようです。
 
私達は総持院に上ったんでしたが・・・、雨戸は固く閉められていました。
無住なんですから・・・致し方ないでしょうが・・・・、
村人総出で境内を掃除した事は間違いありません。
こんな村のお寺の住職なら・・・・、私にうってつけかも知れないな?
ぼんやり想っていましたが・・・・。
 
 【石仏のある総持院の案内図】
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作手村のコミュニケーション

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昨日は作手高原、総持院参道にある大きな馬頭観音について案内しました。
その馬頭観音に近いバス停(田原)です。
バス停の前がよろず物を販売している商店がありました。
そのお店の壁に「街角図書館」が設えてありました。
町内会の掲示板状のボックスが図書棚になっています。
屹度新城の市内に出かけたり、学校から戻った中高生がこの図書館を利用するのでしょう。
どんな本が置かれているのかな?
覗いてみました。
 
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   一日4本のバスがやって来ます。そのバス停の下花壇になっていて、
   その向こうに「図書館」が設置されています。
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  陳列された図書は子供向け、大人向け名作と呼ばれる文学が並んでいました。
 
大半の図書は名作と呼ばれる文学書でした。
本の状態も綺麗で、大事にされていることが良く解ります。
バスでの行き帰りに利用し、バスを待っている時間にも読んで過ごすのでしょう。
 
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    和田のバス停、後ろの緑は津島神社の森です。
 
そのバス停の手前に(新城市内寄り)に、立派なバス停(和田)がありました。
バス停は津島神社の鳥居の前ですから、参詣者もバスを利用しているんでしょう。
バス停には立派なログハウスが設置されています。
バス待ち時間、寒風吹きすさぶ中であれば大変な苦痛です。
こんな立派なログハウスなら・・・・、バス待ちも苦痛ではない事でしょう。
バス停の室内に入って驚きました。
壁いっぱいに「新聞受け」が並んでいるのです。
 
新聞の配達員が全戸を廻らなくても、
このバス停の新聞受けに配達すれば済むのでしょう。
どのボックスにも新聞の名が書かれています。
新聞受けの新聞が取られていれば、その家の人が元気でいる事が解ります。
新聞が溜まっていれば・・・・、病気でもしているのかも知れません。
一見すれば、横浜のマンションの新聞受けに似ている様に見えますが、ハッキリした違いがあります。
綺麗に掃除されているのです。
そして・・・・・・、溢れているチラシが無いのです。
新聞を大切にしている人達のお顔が目に浮かびます。
 
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 朝10時、50戸程の新聞受けに取られていない朝刊は10部ほどでした。
 実にお掃除が行き届いているのに感心しました。
 
此処にはどんなお顔をしている人が住んでいるのか?
関心が深まりますが・・・・、なにせ人影が見当たりません。
おまけに「道の駅作手」もこの日は閉まっていました。
 
少し、進んで足助に17キロ、道路標識が出てきた辺りです。
道路左に茅葺の東屋が二棟見えて来ました。
「おうどんをどうぞ・・・・・」ノボリ旗が風に揺れています。
「涼風の里」というんだそうです。(http://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=187)
此処で、休憩しながら情報入手です。
 
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  国道301号線、涼風の里。右手がトイレ、左が農産物販売・軽食棟。
  この建屋に元気なおばさんが5人も集まって・・・賑やかでした。
 
茅葺東屋の一棟はおトイレ、もう一棟は軽食と農産物の販売所となっていました。
驚いたことにその小さなお店におばさんが5人も居て賑やかにしているんです。
おばさん達は大きな大福状のお餅をこしらえています。
普段食べる大福に比べれば二回りほど大きく、皮は3倍ほど厚いようです。
訊けば「えんまん餅」というんだそうです。
夫婦円満のお餅だそうです。
ならば、造りかけを二つ(1個120円)戴きました。
未だ、温かいお餅はプヨ・プヨでした。
甘さは強からず、美味しかったです。(腹持ちが長くて・・・・)
横には混ぜご飯が出来ていました。
ご飯の名は「へぼ(蜂)ご飯」だそうです。
そうです、この辺りでは稲刈りが終わると大人たちはへぼ(蜂)取りに夢中になるんです。
此処は「涼風の里」、夏は良い風が吹くんだそうです。
近くに巴川も流れていますから・・・・、キャンプなどにも最適です。
でも冬はしんどい寒さです。
 
無農薬野菜が並んでいます。
私は「干し柿」「自然薯」「蜜柑」を求めました。
 
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  涼風の里には左写真の8人が働いているようです。このうちこの日は5人出ていました。
   厨房には4人のおばさんが円満餅をこねていました。
   このお店は木・金・土・日営業です。
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  円満餅をこねるおばさん達。大福と同じ練りアンを餅で包むのですが、
  大きく、厚く、甘すぎなく、素朴な所が魅力です。
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   壁には新城歌舞伎のポスターや施設の落慶時の写真が貼られていました。
 
おばさんに石仏や史蹟を確認しました。
壁には「新城歌舞伎」のポスターが貼られています。
飯田線沿線には新城歌舞伎、下條歌舞伎、大鹿歌舞伎と民族歌舞伎が盛んなのです。
壁にはこの施設が竣工した時の記念写真が貼られていました。
 
出来たのは平成17年、一言で言えば「村おこし」なのでしょうが・・・・・、
内容は奥が深いようです。
私達利用者は村の人とコミュニケーションできますし、
おばさん達は女学生のクラブ活動(文化祭)の要領で、
楽しみながら事業をしています。
 
お土産も買ったし、温まったし、腹も満たされました。
「お気をつけて・・・・!」元気な声に送られて、足助に向けて再出発しました。
 
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                   左は牛蒡チップス(200円)吊るし柿(200円)の安さです。
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                                  農産物の販売コーナー
 
 
 
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いてみました。

忘れられた乳観音様

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鳳来寺道(国道301号線)を、足助に3キロ程度に近づいた処でした。
道路の左側は渓流で、香嵐渓の上流になるんでしょう。
道路の右側に石仏群が祀られています。
私達は停車して参詣する事にしました。
 
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道路脇に現れる乳観音・長福寺
 
道路に面して看板が出ています。
「乳観音長福寺」(東加茂郡安実京村)で、
その門前の大岩の上に沢山の石仏が祀られています。
石仏は33観音で、その中央に建立の趣旨が刻まれた石塔が建っています。
長福寺を建立したのは正空覚随上人で(昭和6年)、境内の石仏は想空二世が建立した(昭和7年)・・・・、此処までは境内を見詰めて居れば解ります。
 
強大な岩の略真ん中に割れ目があって、其処にイチイガシ(多分)の巨木が3本も生えています。
まるで、巨岩から巨木が産まれだしたような光景です。
 
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                   この寺と石仏の建立の経緯が解る石塔
 
此処からは筆者の憶測です。
ヒヤリングなど調査をしたものではありません。
 
昔は赤子が産まれると・・・・・、母乳だけで育てました。
今の様にミルクが一般化したのは戦後の事でしょう。
乳が出なければ貰い乳をしなければなりません。
貰い乳が出来るのは・・・、お金がある人、身近に出産間もない人が居る事・・・・
偶然が無くてはなりません。
乳が無ければ・・・・、乳児は育ちません。
だから・・・・・、乳が出る事は母子共に死活の問題でした。
だから・・・・・、全国各地に乳の神社や観音が数多く祀られています。
 
吉備津神社の蔀戸に無数のオッパイが祀られている光景は・・・・、
オッパイ好きでなくとも、尊い光景で頭を垂れてしまいます。
 
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     眠るかのような十一面観音。真新しい前掛けで健やかそうです。
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  小安観音(地蔵?)でしょうか
 
そんな命に直結する乳ですから、此処足助でも子供が産まれたら、次は乳が出ますように祈った事でしょう。
 
覚随さんは足助から鳳来寺に向かいました。
道路脇に巨岩を発見します。
その巨岩は中央が割れていて、割れ目からカシの大木が生えています。
まるで、桃太郎が桃から産まれたような姿です。
覚随さんに霊感が走りました。
 
此処は矢作川の水源域、下流の三河地域の命の源です。
命の尊さを知らしめるためにも、乳観音を祀ろう・・・・、
そんな次第で小さなお寺を建立しました。
石工の想空に命じて33観音を彫らせて、巨岩の上に祀りました。
 
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    石仏の下が鳳来寺街道、その下が渓流です。
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   此処でも馬頭観音がお目立ちでした。
 
でも、戦後になるとミルクが一般化して、母親は自分の乳が出なくても子育てが可能になりました。
乳観音は何時しか忘れられようとしてしまいました。
 
以上は乳観音の境内で筆者が想像したヒストリーです。
ご存知の方が居られたら教えてください。随時書き直します。
 
石工の想空は相当の腕利きです。
観音像の表情も知的ですし、決まり事にも忠実です。
そして何よりも石仏の祀られた環境が素晴らしいのです。
巨大な石の上ですし、同時に巨木の樹下です。
まるで、お釈迦様が悟りを開かれた時を思わせるロケーションです。
カシの梢を差し込む光が石仏のお顔をライトアップした瞬間、
神々しさが広がります。
 
加えて総ての石仏に真新しい前掛けが着せられています。
屹度垂乳根のお婆さんが一生懸命に縫ってさし上げて、お正月前に用意したんでしょう。
でも、大岩の上の石仏に着せるのは危険です。
お孫さんか誰かがお婆ちゃんの指図に従っておつけしたんでしょう。
そんな光景を目の当りにして、石仏も嬉しそうにされて、満足してお正月を迎える事でしょう。
真っ赤な南天の実が鮮やかです。
 
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   お堂の中から境内の石仏群を見下ろす。
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  ご本尊も石仏で、乳が奉げられていました。
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散り紅葉の香積寺(香嵐渓)

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12月12日、楽しみにしていた香嵐渓の紅葉は散りきっていました。
屹度2日前の雨風が最期の紅葉を吹き飛ばしてしまったのでしょう。
下枝に僅かにしがみ付いた紅葉が残っています。
僅かな紅葉を頼りに、全山紅葉した様を瞼に描いてみます。
 
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  香蘭渓の紅葉は散ってしまっていました。
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   紅葉が散って、冬桜が盛りでした。
 
 
大地に散っても未だ朱色が鮮やかです。
もう数日すれば紅葉の落ち葉で焚火が出来るでしょう。
さすれば、白楽天の詩の通り「「林間に酒を煖めて紅葉を焚く」が可能になります。
紅葉は燃やしてもチリチリと力なく燃えますから・・・・・・、酒を温めるには最適です。
美しかった紅葉を愛おしみながらお酒をいただくのは風流というものでしょう。
 
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   香積寺の紅葉も散ってしまいました。
 
香蘭渓では真っ先に香積寺に上りました。
参道を入ると直ぐに羅漢さんが紅葉の中に埋もれていました。
数体の羅漢像の中央にお地蔵さんがいます。
何かと思えば、地蔵塔がこの寺の第11世住職で、紅葉を植えられた参栄禅師なのだそうです。
お地蔵さんを中心にして羅漢さんが集まって何やら叫んでいるようです。
「見事な紅葉だ!」
「紅葉を植えて下さってありがとう!」
とでも言っているようです。
羅漢さんは・・・・、何の事は無い私の様な遊山客です。
 
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    参道に祀られた地蔵塔を囲んだ5基の羅漢像。見事な紅葉を称賛している風です。
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   紅葉を植えた経緯を刻んだ石碑、奥が本堂です。
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   緑苔に紅葉、祇王寺の雰囲気です。
 
山門を潜ると老夫婦が落ち葉掃きをされています。
ご住職ご夫婦でしょう。
参道両脇の溝を埋めた紅葉を吐き出されています。
濡れ紅葉ならぬ、溝落ち紅葉は処理に難儀です。
「大変ですね!」
お声をかければ、
「良くご参詣です・・・。掃いては散って、掃いては散っての繰り返しですが・・・・、毎年の事ですから。」
笑っておいでです。
そう、香積寺は私の生家と同じ曹洞宗のお寺ですから・・・・、懐かしい山寺の香りがします。
 
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   香積寺本堂、紅葉をお掃除しているのはご住職のご夫婦です。
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   山門と本堂の間だけは少しだけ紅葉が残っていました。
 
裏山に歴代和尚さんのお墓を参ります。
卵塔の背後に16羅漢像が並んでいます。
どのお顔も農夫の様な朴訥とした表情です。
羅漢らしく、無理に大笑いや大泣きして喜怒哀楽を表現している像はありません。
羅漢というよりは歴代住職の頂相(肖像)のような石仏群です。
 
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   歴代住職の墓地には16羅漢像が並んでいました。羅漢像はまるで肖像のようでした。
 
 
1630年のことだそうです。
ようやく戦国時代も終わって、平和な時代が訪れました。
参栄住職はやおら境内に紅葉を植え始めました。
紅葉は巴川の上流からその種子が流れ着いて発根していますから・・・・、若い木が無尽蔵にあった事でしょう。徐々に紅葉が増えて、巴川の両岸から飯盛山は全山が紅葉と杉に埋め尽くされました。
春には枯れた紅葉の梢から差し込む光を求めてカタクリが咲きました。
春と秋に楽しみ多いお寺になりました。
こうして、紅葉の名所香嵐渓が出現しました。
 
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  香積寺の下には足助屋敷があります。お寺を寄進したスポンサーです。
   足助の地名はこの足助一族の名に負うています。
 
まてよ、こんな話は幾つも聞いたことがあります。
先ずは桜の名所の吉野山です。
修験道の聖地吉野山は蔵王権現様がご本尊です。
ご本尊のお身体は桜の木で出来ていました。
そこで、修験者は吉野山に入る度ごとに権現様のご加護を祈って桜の苗木を植えました。
そうして、平安時代には「桜の吉野山」が出現しました。
 
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吉野山・蔵王権現像、この像が桜の木で出来たことから吉野山は桜の山になりました。
写真はJR東海のHPから転載。来年は御開帳だそうです。
 
 
次は「梅の月ヶ瀬」です。
文久2年(1205)奈良の裏五月川の真福寺に天神社を建立しました。
その時に菅原道真がお好きであった梅の木を植えました。
1331年元弘の乱で後醍醐天皇は笠置から敗走して月ヶ瀬にやって来ました。
付き添った女官が月ヶ瀬の梅の実から「烏梅」の作り方を教えます。
紅花に烏梅を併せて、紅が出来るのです。
室町時代には月ヶ瀬は烏梅の原料になる梅が埋め尽くされました。
山深い月ヶ瀬ですから・・・・、梅は格好の栽培植物でありました。
日本中の女性を美しく装いました。
 
桜の名所も、梅の名所も、素敵な歴史があります。
ならば、紅葉の名所にも同じように歴史があるものでしょう。
良いお話だとおもいます。
同じころ、香積寺の下流からは「鈴木生三」が出現します。
その話はこの旅の最後に書きます。
 
次回は紅葉の盛んな時期に来ることにしましょう。
 
 
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足助の馬頭観音

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香積寺の駐車場から山門までは坂道で500mはあるでしょう。
この坂道で足助の小学生が駅伝をしていました。
襷を肩にかけて・・・・、くだり道は楽でも登り道は大変です。
先生や父兄は応援をしています。
ノボリを立てて応援です。
ノボリにはユルキャラの「岡崎衛門之介」が画かれています。
足助は豊田市と思っていましたが、今も昔も岡崎文化圏にあるんです。
 
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香積寺参道で駅伝する足助の小学生。観光客も居なくなったし木曜日(足助屋敷など休館)なので   実施したのでしょう。ノボリの絵は岡崎衛門之介です。
 
 
私達は楽しみにしてきた「足助の馬頭観音」を拝みに行きました。
場所は足助の入口「新町」にあります。
三河湾で作られた藻塩は、岡崎から矢作川を上って、巴川に入って、足助まで運ばれたのでした。
足助で荷揚げして、此処からは馬で運ばれます。
塩の名も「三河の塩」とは呼ばずに「足助直し」という名で運ばれました。
山国では「足助の塩」の名で通っていたのです。
塩の道と言えば直江津と善光寺を結ぶ千国街道が有名ですが、南の中馬街道も塩の道でした。
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  矢作川は岡崎から真宗に運ぶ物資を此処足助まで船で運び、足助からは馬で運びました。
   足助は中継地として繁栄しました。川岸には荷を上げ下げした遺構が観られます。
 
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    巴川川岸に並んだ六地蔵尊、これは墓標塔でした。
 
巴川の船着き場で荷卸しされた塩を積みなおして、馬の背にに乗せて伊那街道を運んだのでした。
明治時代になると馬の背から馬車に変わり、一層に荷が増えたことでしょう。
運送組合(馬車組合)が出来ました。
そんな馬車組合「段戸組」が巨大な馬頭観音を建立しました。
 
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   馬頭観音の辺りから香積寺のある飯盛山を見返る。
   赤い橋と灰色の橋の間が香嵐渓の見所になります。
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    馬頭観音は足助の入口に祀られています。
 
馬頭観音の祀られている場所は香積寺の小山(飯盛山)が見渡せる川岸の段丘の上でした。
馬が休憩する為の舟(水飲み場)が設えてあります。
荷が積み上げられるまでこの場所で馬が休んでいたのでしょう。
同時に馬頭観音が道中の安全を見守って下さる・・・・、便利な設計です。
比較的新しいので、制作年月や石工の名が刻まれているだろう・・・・、
探し回ったのですが施主「段戸組」以外に文字はありませんでした。
唯、立派な社の建物の柱には昭和5年墨筆されています。
馬頭観音の礎石もコンクリートで丸石を固めていますから・・・・、
石仏も社も昭和5年に竣工したと考えて良さそうです。
昭和5年とすれば、この旅で拝観した作手村の馬頭観音(明治27年)より新しい事になります。
 
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  お蕎麦も塩で戴きました。(塩の道連れ屋)
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  藻塩はホンダワラ(海藻)を使って製塩したもので、ミネラルも濃いものです。
  「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや 藻塩の 身もこがれつつ 」定家を思い出します。
 
馬頭観音は石仏にした場合三面六臂(お顔が三つ、腕が六つ)が多いような気がしますが、この像は儀軌通りの三面八臂です。
足助辺りは巨岩が多く、それも白い花崗岩が目立ちます。
香蘭渓の美しさも、清流と併せて白い花崗岩が紅葉を引き立てているのです。
そんな、白い花崗岩を刻んで、馬頭観音を彫り出しています。
 
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    大きな馬頭観音像。台座の角石に段戸組(馬運送組合でしょう)と刻まれている他に、
     何も刻まれていません。周囲に三基の馬頭観音も祀られています。
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  三面八臂の馬頭観音像。持物が緑青色で彩色されています。
 
 
石の肌が白い事もあってでしょうか?
所々に緑青色で彩色されています。
腕輪や冠等に彩色が鮮やかです。
塩の道を遡りますと、安曇野に繋がりますから・・・・、
安曇野の彩色石仏の影響でしょうか?
彩色・・・・、と思って足助の石仏を巡りますと・・・・、
祠に祀られている石仏には「一寸彩色」が目立ちます。
 
お地蔵さんの唇には朱が差されていますし、
瞼には黒々とシャドーが入れられています。
白い石に彩色されたところに、彩色された部分に目が注がれます。
 
今日はクリスマス、天気予報を見ると北陸辺りは降雪です。
足助辺りは風花が舞っていることでしょう。
猪鍋が美味そうです。
 
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  馬頭観音の上には芭蕉の句碑がありました。往時の様が良く解る句です。
   『馬をさへながむる雪の朝(あした)かな』
  
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  庚申堂に祀られていたお地蔵様。目鼻に墨が差されてパッチリです。
  朱の唇も愛らしいです。部分彩色はこの地方の特徴でしょうか?
 
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   蕎麦屋の恵比須・大黒様。此方も部分彩色されています。
 
 
 
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メリケン波止場のイブ

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12月24日、クリスマスイブは横浜の大桟橋に夜景を見に出かけました。
横浜市民にとってはメリケン波止場と呼ばれた明治の末から現代にいたるまで、
自慢の埠頭なんです。
 
 
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   手前が大桟橋、デッキは木で葺かれています。船は氷川丸、塔はマリンタワーです。
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   此方は大桟橋に停泊中の飛鳥Ⅱ。氷川丸共々日本郵船のシンボルでした。
 
日米修好条約によって横浜港は開港します。(1859年)
当時の港はイギリス波止場、現在の「象の鼻波止場」でした。
小規模な船溜まりで、荷揚げには艀荷役が必要になります。
この不効率を克服するため本格的な埠頭の建設が急務でした。
そうして、象の鼻波止場の東に埠頭建設計画が立案されます。
東京港計画も持ち上がりましたが、横浜はコンペに勝ちます。
大量の螺旋杭を使って総延長738m、幅19mの時代の最先端の近代埠頭が完成します。
横浜市民はこの波止場を「メリケン波止場」と呼んで、
「赤い靴」をはじめ幾つもの歌に歌いました。
その、埠頭も1923年関東大震災で倒壊してしまいます。
しかし、埠頭は横浜の生命線です。
1925年には大修復も竣工します。
 
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 大桟橋から西、みなとみらい地区を眺める。左の黄色にライトアップされたビルが横浜税関、
 塔をクィーンと呼びます。その並びに郵船博物館があります。
 灯りが疎らな高層ビルは神奈川県警です。
 
 
太平洋戦争後は米軍に接収されます。
GHQは山下公園前のホテルニューグランドに本部を置きます。
その名残でしょう、横浜港には米軍の専門埠頭も残っていますし、
本牧から根岸に懸けては米軍の幹部将校らの住宅が残されています。
米軍は横須賀、厚木らに基地を抱えており、
神奈川県は沖縄県に次いで負担が多いと思います。
 
大桟橋は1952年接収解除されます。
横浜港は再び栄光を取り戻します。
 
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 みなとみらいの中央地区の夜景。ランドマークは上層部は横浜らしく「糸巻き」の形状です。
 その部分がホテルですから灯が疎らです。象の鼻波止場は右端でした。
 
私の学生時代、フルブライトで米国に行く友人を大桟橋で見送りましたし、
ヨーロッパに旅行する友も大桟橋で見送りました。
当時はウラジオストック、シベリア鉄道経由で行く人が多かったのでした。
ブラジルなどに進出(移民?)する人も大桟橋から旅立ちました。
国内派(?)の私でしたが、大桟橋から旅に出るのが夢でした。
未だに実現していません。
 
大桟橋を拠点に活躍したのが日本郵船です。
同社は丸の内が本社ですが、横浜に本社を戻しても良いじゃないか・・・、
期待してしまう会社です。
大桟橋の近くには郵船博物館があります。
大桟橋の東、山下公園には氷川丸が停泊しています。
氷川丸は船こそ大型では無かったものの、
戦前はそのサービスでは最高と評されたものでした。
何よりも戦争中は医療船として、戦後は戦地からの帰還者をを乗せました。
氷川丸は戦争の生き証人なんです。
 
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   手前のブルーの舟はナイトクルージングだと思います。
 
大桟橋は日本郵船「飛鳥Ⅱ」の母港です。
偶々24日は停泊していました。
私がサラリーマン時代の平成元年飛鳥が竣工しました。
お披露目に招待されました。
80日間ならぬ100日間世界1周が確か360万円だった・・・・、記憶があります。
三食付きで一泊3万円強なら・・・・リーズナブルだが、
我が家には夢のまた夢、思いました。
 
 
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     手前が郵船の飛鳥Ⅱ。船内デッキが景色を眺めるには最高でしょう。
 
大桟橋のデッキから眺めると、目の前が象の鼻で、その向こうにみなとみらいの夜景が見えます。
クリスマスイブだけ、高層ビル群が灯をつけるんです。
だから・・・・、クリスマスイブが一番綺麗な夜なんです。
横浜市民はこのことを良く知っていて・・・、大桟橋に集まって来ます。
ひっきりなしにナイトクルーズの舟が出航します。
クリスマスイブの思い出を作ろうと・・・・、カップルも目立ちます。
 
大桟橋は様々な歴史を留め、横浜が未来に飛翔する基地なんです。
 
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  大桟橋に停泊した飛鳥Ⅱ
 
 
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赤レンガパークのイブ

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大桟橋からみなとみらい街区の夜景を堪能しました。
次は、目の前の赤レンガパークに向かいます。
赤レンガパークは何時も何かしら催事が行われています。
クリスマスイブならば、何か楽しい事が催されていそうです。
大桟橋に来ているカップルの多くが赤レンガパークに向かい、
食事をする事でしょう。
 
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  赤レンガ倉庫は税関の保税倉庫でした。左が1号館、右が2号館。埠頭から見る。
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赤レンガは正式名を「新港埠頭保税倉庫」と言います。
埠頭に面した税関の所管する倉庫でした。
二棟の建物で東から1号館(大正2年/1913)、通路を挟んで2号館(明治44年/1911)に竣工しました。
設計したのは明治の建築界をリードした「妻木頼黄/大蔵省建築部」でした。
同氏は近くの馬車道に横浜正金銀行本店/現神奈川県立博物館)も設計しています。関東大震災も耐えた数少ない建物です。
日本の近代化産業遺産に指定されていますが、
近いうちに重要文化財の指定を受ける価値は充分にあるでしょう。
問題があるとすれば、2号館が商業ビルとして、1号館が展示場として活用されていることでしょう。
商業施設として活用されているので、
重文指定を受けると何かと束縛されてしまいます。
私の価値観からすると日銀本店(近代建築遺産、重要文化財、辰野金吾設計)よりも数段美しい建築ですし、文化史的価値も高いんです。
 
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  右が赤レンガ1号館、左が2号館、その中間の通路がクリスマスマーケットになっています。
  奥にクリスマスツリーがあるんですが長蛇の列になっていて前に進めません。
 
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    クリスマスツリーに近寄るには前後からは困難です、横からなら簡単です。
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  二人して鐘を鳴らします。そして記念写真・・・・・、長蛇の列になるわけです。
 
赤レンガパークには年間2000万人を超える人が入場しています。
まして、今夜はクリスマスイブですから・・・・・、芋の子を洗うような人出です。
人波は真っ直ぐクリスマスツリーに向かいます。
1号館、2号館の間にある通路に設えられています。
ツリーの前には「愛の鐘」があって、
カップルが一緒に鐘を打ち鳴らして、記念写真を撮っています。
ですから、ツリーの前はカップルの長蛇の列です。
まるで、初詣に浅草大師か鶴岡八幡宮の鈴(リン)を鳴らすような感覚のようです。
 
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    ログハウスの仲見世ではドイツフーズにホットワイン、土産品等が商われています。
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   ログハウスの屋根の上にはクリスマスの飾り物が並んでいました。
 
そう思ってみれば、マーケットの両側には仲見世のように店が連なっています。
どの店もドイツ感覚で、ソーセージ等のドイツフード、
そしてホットワインを商っています。
流石に体感温度が零度に近い寒さですから・・・・、
ビールではなくって、ホットワインなんでしょう。
ビール祭りの時は沢山のテーブル・椅子が用意されてるんですが、
その場所はスケートリンクになっています。
折角のホットワインにドイツフーズですが・・・・、大半が立ち食い、立ち飲みです。
でも、若い二人には立ち食いも楽しそうです。
 
ソロソロ帰って、我が家のイブを楽しむことにしましょう。
 
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          通路には簡易なログハウスが並んで、仲見世を為しています。
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       右端がスケートリンク、右から1号館、通路、2号館です。
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     スケートリンク、500円です。
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26年の松飾を終える

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クリスマスが終われば、一気にお正月モードに変わります。
街の魚屋さんも、”おせち”が主役に変わりました。
来年の干支は”馬”ですから・・・・、神社の絵馬も入れ替わりました。
 
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  義経がご神体の白旗神社も、真っ黒い馬が絵馬に変わりました。
  もっとも、当神社の絵馬差し替えは「湯花神楽」の時でしたが・・・・・。
 
我が家は夫婦二人に次男の三人暮らしですが、
今度の正月は長男・長女家族が顔を出すとの事、家内もおせち造りに精を出しそうです。
おせち造りの前に大掃除、26日は雨が降りそうでしたが庭掃除から始めました。
一通り終われば、君子欄の霜対策です。
もう、40年以上も前、そう”シクラメンの香り”が流行っていた頃でした。
一鉢の君子欄を求めました。
その君子欄が育って、張った根が鉢を割ってしまい・・・・・、順次鉢分けをしました。
一つの君子欄が二つ、二つが四つ、倍々に増えて、もう10鉢を遥かに超えてしまいました。
冬は室内に取り込んでいたのですが、入りきれません。
そこで、ビニールで覆って、庭に置くようにしました。
君子欄も何時しか耐寒性を増して、凍らなければ冬を越せるようになってきています。
一坪程の空間に君子欄家族が押し込まれます。
まるで”押しくら饅頭”状態です。
 
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   この中に君子欄を押し込めます。
   残りの君子欄は玄関など北風の当らないところに避難させて冬越しします。
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  君子欄で手をかけるのは冬越しと株分けだけです。こんな状態で3月になれば花芽が伸びて来ます。
   新婚の春に求めし君子欄 我が家が好きか 歳々増えぬ
   40年子孫を増やした君子欄 冬至を過ぎて 霜家(いえ)に取り込む
 
君子欄の冬越し対策が終わったら、松飾です。
竹は庭の竹を使います。
松は・・・・、我が家にないので・・・・・、遊行寺さんのお裾分けを戴きます。
 
遊行寺さんでは6か所も松飾を準備されるそうです。
23日には境内の大銀杏の前にテントが張られていました。
このテントで、松飾を作ります。
庭屋さんが、此処を作業場にして松飾を作っているのです。
棟梁が1人、二人の弟子で手分けして作っています。
菰(こも)を作る為、藁の芯だけを取り出します。
竹を切って、その先端を槍の様に尖らせます。
松を綺麗に切りそろえます。
23日は此処までが作業で・・・・、
多分26日、クリスマス明けに門松として立てるのでしょう。
門松が大きいし、数があるんで、飾る場所で組み立てるのでしょう。
26日一気に組み立てるには・・・・、準備が大変です。
私は棟梁にお願いして・・・・・・、捨てようとしていた松を戴きました。
 
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    葉っぱを落とした大銀杏、右のテントで松飾を用意しています。
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  松飾を準備する庭師さん。真竹の緑が清々しいのです。棟梁が松を剪定して、捨てる部分を戴きました。
 
 
遊行寺の裏山には竹林もあれば、松の木もありそうです。
でも、松飾に使う程の・・・・、若い、艶のある松はありません。
竹も孟宗竹ばかりで真竹はありません。
自然が一杯の遊行寺ですが、松飾の素材は無くて・・・・、
やっはり庭師さんが市場で買ってくるんだそうです。
矢張り、松、竹であっても・・・・、綺麗な緑の松でなくてはなりません。
日本原産の松・竹でなくてはならないのでしょう。
 
遊行寺で戴いた松を使って・・・・、松飾を作り終えました。
作り終えた途端、1時過ぎから雨が降り出しました。
 
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     我が家の門の松飾
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    年賀状用の版画
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   左はお三時の安納芋の焼きいもです。
 
午後は年賀状作りです。
来年は午年ですから・・・・・・、馬頭観音のイラストを、版画に下します。
一年ぶりに使う彫刻刀です。
彫刻刀は三本しか使いませんが・・・・、もう、30本は在るでしょうか?
大半が錆びついてしまっていて・・・・・、使えません。
砥げば良いんですが・・・・、砥ぎ方が解りません。
そこで、数年おきに買い求めた結果、使えない錆びた彫刻刀ばかりが増えました。
「君子欄の様に面倒見良くしてほしいのに・・・・」
錆びた彫刻刀の恨みつらみが聞こえそうです。
晩御飯前にはどうにか彫り終えました。
 
お三時には大好物の「焼き芋+カルピス」です。
病み上がりの胃袋君がこのセットが好きだよ・・・・! 叫んでいます。
焼き芋の皮を・・・・・・、ウサギが大好物にしているんです。
我が家の兎ももう15歳は遥かに超えています。
私と嗜好が似ていて、ラビットフードは食べ残していても、お芋の皮と蜜柑の皮には目が無いんです。
寝ていても飛んで出てきて・・・・パクつきます。
こんな嗜好が長寿の秘訣のようです。
 
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    焼き芋の皮が大好きな兎君
 
穏やかに平成25年は終えて、幸いな26年になって欲しいものです。
 
 
 
 
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足助の街並み

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香積寺を詣で、新町の馬頭観音を拝観すれば、次は街並み散歩です。
涼風で戴いた「円満餅」が未だ腹にもたれていますから、相当量歩いてから食事に致しましょう。
 
私達夫婦は足助は初めてでしたが、TVで何度か見たことがありました。
その記憶は散漫になりましたが、鮮やかな部分もあります。
村の加治屋さんは農機具から家庭用の包丁等に変わってきているそうですし、
和菓子や猪料理なども記憶に残っています。
TV画面では点と点で在った記憶を、歩けば線から面に繋がって行きます。
 
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  紅葉も終わって静かな街になったからでしょう。道路工事をしていました。
   左の白壁の家は切妻になっています。その隣は平入りになっています。左の切妻は本屋の
   マンリン書店です。伯母さんが経営する文化的な(?)本屋さんです。
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  マンリン書店の横道はマンリン小路と呼ばれている板壁と白壁が美しい路地です。
  本屋さんが洒落た喫茶店を開いています。
 
 
 
足助の魅力は、なんといってもその町並みにあります。
昔は伊那街道、飯田街道と呼ばれた街道の宿場町でしたが、
その栄えた面影が今も残されています。
保存されてきたのは、鉄道が敷かれなかった事も幸いしたのでしょう。
 
京都の町屋は大半が道路に面して狭く、奥行きが長い「妻入り型」になっています。
屋根は道路に切り妻が面しています。
古代からの税制が道路に面した幅で決まっていたことから、奥行きのある建方(切妻型)になったと言われます。
お屋敷は見てくれが立派な「平入り型」に作ります。
足助の街並みは多くが「切り妻型」ですが、「平入り型」も混在しています。
屹度平入り型の家は、格式が高いお大尽だったのでしょう。
 
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  旧鈴木家住宅。平屋建てですが3段の高さに分けているので屋根に変化があります。
   また格子戸も右は出窓格子、左は出格子変化がついています。
   全体としては雅の極みです。こんなに美しい民家は滅多に見たことはありません。
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       旧鈴木家住宅の前景
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   鈴木家の出窓格子。長短の桟を巧みに組んであります。
    檜作りでしょうが、今はアルミ製が一般化してきています。(消防法の制限で)
 
 
何といっても一番立派なのが「鈴木家住宅(重要文化財)」です。
足助の伝統的建物保存群地区の略中央にあります。
2013年に国の重要文化財に指定されました。
国の文化審議会の答申は以下の通りでした。
「旧鈴木家住宅16棟を重要文化財として指定する。江戸時代から明治にかけての建物が良好な状態で残っており、地方の大規模商家の発展過程を示す遺構として評価される。」
鈴木家は建物(敷地/3246㎡、16棟の建物1159㎡)を市に寄付いたします。
市は国の支援を受けながら修理復元しながら順次公開してゆく計画だそうです。
指定後、1年半経っていますが。
足助の街には鈴木家住宅のポスターが至る所に貼られています。
でも、まだ公開していないんです。
見られないのは残念です。
 
修理整備するには、地元は工事費の2割を負担しなくてはなりません。
その財源の捻出に苦労しているのでしょう。
因みに足助町の人口は1万人足らず、過疎化の進行が著しく、
地方税の税収が9億、一方地方交付税の歳入が17億円もあるのです。
税収の倍近く国から支援してもらわなければならない程、税収が不足しているのです。
 
調べてみると鈴木家は屋号を「紙屋」といい、江戸時代は紙問屋を営み、その後は醸造業や金融業荷も発展し、三河湾で新田開発なども手掛け、足助を代表する大商家だったそうです。
 
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   六地蔵のある公園から見た旧鈴木家住宅。蔵は整備・修理が進んでいるようです。
 
何といっても目立つのは宿屋です。
今も営業している宿屋は「玉田屋」一軒だそうです。
玉田屋も鈴木家も共通するのは「繊細な格子戸」です。
格子戸は平等院鳳凰堂の扉にも使われています。
壁でもないし、襖や障子でもありません。
多分家の内外を明確に区分しない、
日本独特の洗練されたデザインと言えるでしょう。
奈良に行けば丸太格子が目立ちますし、
京都に行けば繊細な切子格子戸が目につきます。
足助の格子戸は基本的には京風の切子格子ですが、桟が長いものと短いものが交互しています。
そして、短い桟の上部には花の様な模様が仕組まれています。
出格子や出窓格子もあって、変化を見せています。(出格子、出窓格子共に切子格子の変化形、室内から見れば出窓の様に広く使えます)
鈴木家住宅は京都の町屋以上に繊細です。
 
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   古い宿屋の中で多分一軒営業を続けている「玉田屋」さん。
 
好い気持ちになって歩いていると、驚きの物体が目に飛び込んできました。
壁に4枚も5枚も猪の皮が吊り下がっているんです。
建物はコンクリートですが・・・・、一見して合掌造りを意識しているようです。
井筒屋、と書かれています。
猪を看板にする郷土料理屋さんです。
猪はこの秋獲れたものなのでしょう。
 
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   井筒屋の駐車場に吊るされたこの秋獲れた猪の皮
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  家の裏から足助川の川原に下りられる様に作られています。
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これは米俵、少し造りが弱い気がしますが。この他に塩を積めた俵が案内されていました。
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これは注連縄、俵の一部分で、火縄銃に使われました。
その威力が厄除けに通じると考えたのでしょう。爆竹を思い起こします。
 
家も食べ物も・・・・・・、楽しいものばかりです。
あれもこれも食べたいのですが・・・・、胃袋には限界があります。
 
味の極めつけは・・・・和菓子です。
私達は両国屋という名のお店に入りました。
今年最後の・・・・・・、栗きんとんを戴きます。
中津川の栗きんとんと変わらないようです。
栗を茹でて、裏ごしして、巾着に包む・・・素朴な製法ですから・・・、
何処で作っても同じようになるのでしょう。
でも、吊し柿で包んだお菓子を「中馬柿」として商っていました。
大分耶馬渓の「巻柿」と中津川の栗きんとんの合作の様な・・・、
欲張りなお菓子です。
早速にこれも求めて・・・・・、街歩きを続行です。
 
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   両国やの中馬柿と栗桐きんとん
 
この日は木曜日、加治屋さんはお休みでした。
でも、あれも良かったこれも良かった・・・、街でした。
幾ら書いても書ききれないし、散漫になるのでこれで止めます。
 
明日は足助を育てたスピリッツを江戸時代初頭の経世学者「鈴木正三」を例に案内します。
それで、奥三河の紀行はお終いです。
 
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これが両国やの中馬柿、柿も栗も美味しいから・・・・合作も美味しいに決まっています。
耶馬渓と中津川のお味でした。
 
 
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経世思想家「鈴木正三」の故郷を訪れる

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足助には二人の偉人がいます。
一人が香嵐渓の一角にある香積寺の住職「風外本高禅師/1779~1847」、
もう一人が鈴木正三禅師です。
香蘭渓に紅葉を植える”社会事業”を支えたのも、豊田佐吉をうんだのも、鈴木正三の倫理・社会活動の成果だと私は思っています。
足助の最後の目的は鈴木正三の遺跡を確認する事でした。
 
足助の街から巴川に沿って豊田市に向けて5キロほど下ると、即定という集落が見えて来ます。
此処が鈴木正三が産まれた処です。
此処の「即定城」が鈴木正三の生家であります。
 
即定小学校の下に「鈴木正三記念館」があります。
そして、小学校の上の小山に鈴木正三兄弟の肖像があり、月心寺等鈴木正三の建てたお寺があります。
 
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           即定小学校校庭 
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  月心寺に祀られている鈴木正三の肖像。同寺は鈴木正三が建立したものです。
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 月心寺の鈴木正三の位牌、当院開基鈴木正三和尚禅師としか書かれていません。
 
 
鈴木正三記念館は小学生の「郷土の偉人展示場」のようです。
学芸会で「鈴木正三劇」を演じた記録や、生徒さんが描いた絵が展示されています。
劇も絵も鈴木正三を通して深い・強い「郷土愛」に満ちています。
子供達には「鈴木正三は兄弟愛に満ちた人でした、島原の乱の後社会の混乱を治めた人でした・・・」そんな風に映っているようです。
また、先生はそんな風に教えているようです。
私は、鈴木正三はもっと偉大な人物で、世界に誇れる経世思想家である…、
思っています。でも、・・・・・子供達には少し難解かも知れません。
屹度大学生になる頃、その本当の大きさに気づく事でしょう。
 
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   即定小学校生徒さんの絵。生徒さんには鈴木正三は故郷の偉人で社会事業を良くした・・・、
   と映っているようです。
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   学芸会では毎年鈴木正三劇を演じています。
   この年は念仏する時間の無い人を導いて、「農業や商業に勤しむことが念仏行なんだよ・・・」
   教えている姿を表現したようです。
 
 
 
鈴木正三(1579~1655)は足助の即定城の城主の長男として生まれます。
徳川家康に仕えます。
関が原の合戦では徳川秀忠軍に合流しますが、上田で真田軍の抵抗に遭い
、関ヶ原に行けませんでした。
大阪冬、夏の陣の実戦に参加し、200石の旗本となり、大阪城番士などを勤めます。しかし、42才でその地位を弟の重成公に譲って出家します。
 
豊田市山中町に恩真寺を創建し、此処を拠点に布教活動に精を出します。
島原の乱では荒れ果てた島原に赴き、復興活動に精を出します。
一方、草双紙「二人比丘尼」を書き、平易に在家の人に「仏の心」を教導します。
二人比丘尼はベストセラーになります。
江戸で77歳の生涯を終えるまで、弁道、唱道、教化につとめました。
 
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  鈴木正三記念館の内部。パネルばかりです。(少しガッカリ)
 
鈴木正三には膨大な著書があります。
出家した僧侶には「仁王禅」を教えます。
仁王になったつもりで、一心不乱に禅に勤しめ、そんな教えでしょう。
でも、在家の人には職業があります。
禅や念仏をしたくても・・・・、時間も無いし、殺生もしなくてはなりません。
肉食も、淫行も・・・・・・、種の保存のためには避けられません。
そんな、在家の人に向けて「万民徳用」を書きます。
 
農夫が生を全うするには
”一鍬一鋤田畑を耕すことに専心しなさい、一鍬・一鋤が念仏と同じです”
と説きました。
商人には利を稼ぐのは良くない事だ・・・・、中世的な先入観がありました。
そんな商人には次のように説きました。
”商人無くして世界に自由はありません。
売買する人は先ず利を増やす心遣いを修行しなさい”と説きました。
私達はこんな正三の考えはルターの宗教改革を思い起こします。
そして、社会学者マックスウェバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を思い起こします。
ルターより早くに日本では中世的な宗教の殻を破って、資本主義を呼び起こす思想が芽生えていたことに驚くのです。
 
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  鈴木正三は弟重成公に旗本の席は譲って曹洞宗の僧侶として社会経世活動に従事しました。
  一般的には兄弟愛の深さで話題にされることが多いようです。(記念公園で)
 
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  月心寺の正面には即定城(向かいの山)が見えます。
 
 
来年は黒田官兵衛が大河ドラマの主人公です。
戦国時代のスピリットは様々な思想を育んでいたのでしょう。
鈴木正三の思想は徳川家康の時代感覚にも通じていたでしょうし、
その実行・労働・職業感覚は新田開発や河川整備などの社会事業、
商業資本の蓄積を支えていったものと思われます。
 
そんな経世思想を鈴木正三を通して学びたいものです。
誤った利潤主義はブラック企業に陥ります。
社会観や倫理観がベースになくてはなりません。
 
でも、現代の足助は過疎化に苦労しています。
地下の鈴木正三はどんな思いで故郷を見ているのでしょうか?
次は桜の季節に来ようか、それともカタクリの咲く頃にしようか・・・?
また来たい足助です。
私が好きな総てのアイテムが揃っています。
 
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   月心寺のお地蔵さん、赤い袈裟がお洒落です。
    足助の石仏は部分的に彩色されていることが多いようです。
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  月心寺のご本尊は聖観音像でした。
 
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リハビリ専門病院から只今帰還しました

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長い間ブログを休止していました、その間読者の皆様からどうしたのかご心配を戴きました。実は昨年末の12月29日ようやく正月の待つ松飾りを終え年賀状も投函したとたんに脳梗塞を発症し、救急指定病院に入院、命こそ持ち堪えましたがリハビリ専門病院に1月10日に転院し4か月リハビリに専心し今我が家に戻ったのでした。読者の皆様にはこの病気の恐ろしさや実態を承知いただ決して同じような窮地に陥る事が無いようにご参考にして、戴きたく田来たく思います。そして比較的裕福で暢気に凄してぃた筆者が初めて苦境に立ち人生の陰影を経験しに陰影を生じ、思索に奥行を持ち得た処を知って欲しい思います。結局は家族や友人に感謝の想いを綴る事にないますがお付き合い下さい。
 
本日は朝9時病院で入浴しました。する、実に50回目の入浴で、看護婦さんに感謝しました。
ホールとや食堂に貼られていた私の書画を撤収し、代わって一緒にリハビリに励んだ同病人友人に感謝のメッセージを短歌にして張り出しました。実際に私にとって最も励みになったのはは医者でもトレーナーの発言や指導でも無偶々病院で知り合った,患者さんだったのでした。同病者が必死にリハビリに励む姿に励まされ、その姿に神が乗り移ったように見えたのでした。
必死に生きようとする人の姿ほど崇高で人を撃つ者は無いと思いました。
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平成26年5月9日若草病院退院に際して一期一会した同病者(友に」感謝して
これもまた神が与し苦難ゆえリハビリルする同病者(とも)に))神移れり吾も手本にして今日も励まん
我が同病舎(ともの)リハビリする姿に励まされ吾も荒も歩かむ昨日より上手く
長き人生には斯くも辛い時もあったと何時かは語れる日も日も来るるらむと信じて今日もリハビリに暮れたり
後1時我が家に着きました犬も兎も鶉も私を覚えていて心配していたのでしょう、大興奮で迎えてくれました。
我が庭には大きな古梅が,一本あって若い梅の実を幾つも落しています。
踏んで転んだ襟しないように慎重に歩きます。梅の木根元には君子蘭が10数蜂並んで一斉に緋色の花をつけています。私達夫婦が新婚時代気まぐれで認めた一鉢が40ん年もの間に増えたものです。君子蘭の数や色の艶は私の家庭生活を投影するものでもあります。
私は緋色の花が提灯の様に思えました狐火を思わせましたの。
雪に耐え木の下闇で咲きし君子蘭 吾が退院を祝って提灯を灯してくれたり
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出迎えて出浮代えてくれた君子欄 まるで狐火「狐の提灯行列のようでした
昨年の今頃は友人の軽井沢為る別荘で山野草と石仏に今興じていました、今年の私とは大違いです。。
友の別荘は羨ましけれども今日からは立って半畳寝て一畳の介護ベットの上で季節を楽しまむ
半開きの障子の間から庭が見えやまい山無花果の葉に陽射し差し込み薄い葉が透けてて見えました。無花果は今年も実っても食べることは出来ないでしょう。青くて硬くてて無用なものです、まるで痩せこけた私の胸についている乳首のようなものですから・・・。
熟す事も無き山無花果は今年も只管に種の残さんと薄く青い傘を陽に向けてさしたり
我が方丈より眺める事にせむ
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手前が山無花果のの実鳥取りが運んでじせいしたものでの食べられません
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激痩せしてしまい50K5Kも切ってしまった退院時の筆者
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筆者の帰還大喜びしてくれた老いた兎(17歳)
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同じく慶んでくれた犬(ちーこ)
 
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私の方丈(起きて半畳寝て一畳の介護ベッからは色山無花果と青梅が見えますこれを眺める事が当面の楽しみです。
 
 
 
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アンハッピイーニューイヤー

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平成25年12月28日は夜遅くまで年賀状を書いていました。来年は馬歳、この一年馬頭観音を見て来ていましたので,馬頭観音像をデザインした版画を作りました。門には門松も設えて、明日はおせちの材料を買い出しをすれば、もうお正月です。29日には麻雀の約束が入っていました。麻雀の仲間は鎌倉に在住の栄光学園の先輩で(8期生因みにに私は13期生)、5歳も先輩と仲良くしているのは、学校時代の思い出が共通している事と、近年お世話になった先生方に相次いで不幸があった事、山歩きが共通の趣味であった事もありました。この日は先輩が使わなlくなったトレッキングシューズを戴く事になっていました。
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新年を向けるべく松飾りもも終えました。
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筆者の年賀状は例年木版画です。焼き芋を食べながら、夜なべで賀状を書いたのでしたが・・・・、
この時期お芋や柿を良く食べていたので、血糖値が上昇していたのでしょう。
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 創りかけの木版
10時に遊び初めて11時過ぎに早めの食事をしました。こ時も昼食は7-11の卵サンドをを食べました。
口にした瞬間にヌルットした食感がありました。卵が少なくて・・・マヨネーズの味が強く残りました。私は直ぐに水を飲みました。でも、後で考えると、この時に食後の血糖値k急上昇したのでしょう、私は仲間に注意されました、”次は君の番だよ”私は涎を垂らして麻雀卓にもたれて居たんだそうです。友人は即座に救急車を手配し、湘南鎌倉総合病院に搬送してくれました。救急車の車内で、私は低血糖に陥ったっ主張しました。でも症状は典型的な脳梗塞症状だったようです,次に私の記憶に残っているのは病院の集中治療室です。左手足が動かない事実を確認しました。ベッドの脇には家内がいて、動かなくなった左手を擦ってくれていました。その横には娘も居ました。
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 26年の賀状は馬頭観音像でした。
ようやく私は事態を確認できました。自分は脳梗塞を発症し、命こそ取り止めったものの、重い後遺症が左の手足に残りそうなこと・・・、
正月は集中治療室から、大部屋に移されました。大部屋のベットに横たわって便意に悩まされました。
看護婦に「便が出そうだ訴えても、”オムツをしていますから、オムツにしてください!”」そんな返答です。
私はトイレで便をしたい強く思いました。病人にも人間の尊厳があって、病院は大事にすべきだとおもっていました。
た。私の脳裏に父の晩年の姿が浮かびました、「家に帰りたかった父は、ベットの柵に便を塗りたくって、抗議したというのでした」その時私は何もしなかったので・・・、は罰を食らったのだと・・思いました。
その晩の事です。
夕暮れ時から遠くから悲痛な声が響いてきたのです。声の主はお婆さんと思われます。お婆さんは家に帰りたいと訴えっているのです。最初の中は冷静な訴えで、看護婦さんが数人で対処してました。
「此処は私の家では無いので、帰させて欲しい!」
看護婦さんは
「お医者様の許可が出なければ帰れません、明日にでもおお願いしてみましょう。!」
なだめすかしていましたが・・・、そのうち
「貴方!私は此処よ!早く迎えに来て!」
哀切な訴えが天井を伝って隣隣りの病室まで響き始めました。
「どうなることか」?多くの病人が聞き耳を立てていました。
家に帰りたいのは皆同じで、他人事ではありません。
「若しも死ぬ野なら、家でk族や祖先に見守られて死にたい!」万人の想いでありましょう。
お婆さんはご主人にお迎えを頼むことを諦めたのでしょう。
次には訴える相手が変わりました。
「シゲチャン私は此処よ迎えに来てよ!」
「シゲチャンコッチには白い花が咲いているわよ。赤い花ばかりでなくてて。白い花も使って、私の体を埋めてよ!・・・]
哀願するのです。
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白爪草
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西田幾田郎た旧宅前のしろつめ草イメージ
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此方は赤爪草ならぬ蓮華草
 
私の脳裏に「野菊の墓」が浮かびます。花は野菊ではなくて、お婆ちゃんの言っている花は白爪草と赤爪草でしょうが・・・・。お婆ちゃん少女の頃幼馴染みのシゲチャンと野原に出て、紅白の爪草を積んで遊んだのでしょう・・・・そして、最期はシゲチャンに体を爪草で包んで、大地に戻してほしい、お願いしたんでしょう。
果たして、シゲチャンがお婆さんの最期の枕元に現れたかどうかは知りません。
でも、翌朝、看護婦さんに指示が出されました。棺が霊安室に運ばれたのでした。数人の看護婦さん廊下を歩きンsがら、「寒いわ!」呟句声が聞こえました。
おばさんは夢で興奮してしまっって脳梗塞を再発させってしまたのでしょう。
家内の話では最初の1週間ほど私は寝てばかりいたそうです。
明日は私の見た夢を書く事にします。
眼が覚めると「自分は未だ生きている」自覚しました。
寝ている間は喉が乾きます。そこで吸い口を使ってお茶を飲みます。お茶がのどを潤して行くのが良く解りました。お茶が無事にのどを潤した瞬間に生きて言う事を痛感いました。お茶が気管支に入れば肺炎になってしまいます。私は地獄草子餓鬼の絵(喉の渇きで苦しんでいる)が往生間際の人間の姿の観察に基づいている事が良く解りました。
1月9日カテーテルを入れて脳を撮影しました。
危険な撮影を敢行するのだから・・・・、屹度良い用結果が期待されているのだろう!予感がありました。期待に違わずМRIには脳梗塞の血の海を掻き分けて脳の先に進む血管が映っていました。
以上で、脳梗塞の救急処置は完了しました。
次いで、1月10日私は脳梗塞のリハビリを専門にする病院に移されます。リハビリ病院は湘南鎌倉総合病院の紹介で、金沢八景の海に近い「済生会若草草病院」でした。
私は介護タクシーの後部座席に乗せられて鎌倉の市街を縦断して、円覚寺八幡宮の前を通って朝比奈を越えて六浦に向かいました。朝比奈には焼き場もあります。わたしは霊柩車では無く。タクシーに乗って、金沢に行ける幸運を感謝しました。
「神仏がお前は未だよ黄泉に呼ぶには早すぎる、もう少しの時間猶予を与えるから生死をよくわきまえるように」そう言われている確信しました。
ならば神仏の期待に応えずばならない。そうしている間に死ぬことはあり得ないおもっていました。
問題はどうすれば生死をあきらかにするとができるあというこです。
 
転院に際して湘南鎌倉総合病院の脳神経外科の医師に夫婦そろって叱られました。
「胃を切った患者は食べ物が直ぐに吸収されてしまうんで、食後血糖値が急激に上昇してしまうし。あなたは不整脈もあったので、脳梗塞には十分ケアしなければならなかったのに専門外の外科に通院して、内科の専門医に通院していなかった、今後は内科の主知医を紹介する紹介で、その先生に良く見て貰いなさい」
そんなこと今更言われても、「この病院で、この12月の定期検診では問題は無いので、次の検診は6か月後で良いですといわれましたし。血糖値については元の体重(70きろ)に戻ってた辺りから気を付けなさいい。その間は体力回復に努めなさい・・・なんて暢気な指導を受けていました。」
病院には局があって、患者の事を総合的に見て貰える体制にはないようです
怨み辛みをアレコレ言いたのをじっと我慢致しました。
 
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浅葱まだらににのって

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昨日は、脳梗塞で一命をとり止めたものの、夢で興奮して逝って閉まったお婆さんの話をししました。幼馴染の少年に白爪草でうずめて貰うなんて、考えようによっては幸福な最期だったかもしれません。古代末期には「地獄を垣間見た話が流行しました」。死に瀕して往生際で地獄まで辿り着き、そこでUターンして帰って、地獄の見聞記を記したのでした。普段から悪い事ばかりしているので、死んだら地獄に落ちる心配していたのでしょう。脳(海馬」にはそんな恐怖心が刷り込まれていたので、往生際で、地獄の夢をみたのかもしれません。。
 
 
私も最初の2週間は良く夢を見ていました。夢を二つ紹介します。
私は若い女性を連れて奈良公園を越えて「ササヤキの小道」の奥を歩いて行きました。
馬酔木の咲く樹下で女性の正面を向き、唇を重ねました.
でも、その先は胸の鼓動が激しくなって、目を醒ましてしまいました。
ベッドサイドには家内がいて、私の左手を握っていました。
私は家内に言いました。
「今動悸が激しくて、そのままだったら・・・死ぬところだった、綿際私はは馬酔木の花のトンネルを夢で君と一緒だったのだよ・・・・。」
吾逝きて、吾に笑みがあったならば・・・、君と一緒になったあの時の夢で遊んでいたと思って下さい。
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絵は奈良公園の飛火野桜の木の向こうの森の中の小道が「ささやきの小道です。
 
こんな夢も見ました。
私は鎌倉の稲村ケ崎に佇んで、風が舞いあがるのを待っています。
風が吹きあがると、蝶が風に乗って舞い上がるのです。
(浅葱マダラに乗って)
何処からか沢山の浅葱色をした揚羽蝶が集まって来ました。私は浅葱マダラの背に飛び乗りました。
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これが浅葱マダラです。撮影場所東慶寺花は藤袴、新撰組の愛用した羽織のデザインはこの蝶だと思われます。
は浅葱マダラの背に乗って、相模湾を西に飛んでゆきました。
何度も登った遊行寺や早雲寺の甍を見下ろしながら、駿河灘に出ました、
清見寺の上空を越えると、伊勢湾の向こうにお伊勢さんの森が黒く沈んでいます。
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高円窓山を越えて奈良の市街異を見下ろした図。筆者浅葱マダラの背に乗って薬師寺に向かいます。
 
伊賀上野を越えれば山並が続きます。山の向こうは目的の大和の国です
興福寺の五重塔、大仏殿の甍を見下ろして、今晩の宿は薬師寺の庇です。
蝶は私の思いを総て承知しているようで、水煙に止まって天の乙女にご挨拶しました。
 
水煙からは真下を流れる秋篠川が見えます。
青年が釣り糸を垂れています。
青年の脇には描きかけのスケッチが放られています。
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青年の脇を自転車に乗った奈良高校の女学生が銀輪絵を光らせて通り過ぎて行きました。青年は眩しそうな眼差しで女学生を見送っています。
もう、大和平野は黄金色です。今年も稲作は豊作なのでしょう。秋篠川を遡れば溜池に繋がります。御陵にもつながっています。まるで玉を繋いだ、「揺籃の」ように美しく光っています。(揺籃:ようらん:漢音様の胸を飾る宝石のネックレス)
夕闇が迫って来ました、生駒山の上空を茜色に染めて、夕陽が沈んでゆきます。
浅葱マダラは塔の庇の先に出ました、上昇気流に乗って飛び立って更に南に向かうのです。
浪花の街を見下ろして、瀬戸内海を西にむかいます。
厳島神社を越えれば向こうに山々の重なりがみえます。
そう、国東の六郷満山で、その中心に熊野の磨崖仏があるんです。
鋸の歯の様な岩山に巨大な磨崖仏が鎮座しているんです。
阿弥陀如来の螺髪の上に蝶は止まりました。
眼下には数人の親爺やおばさんが並んで記念撮影をしています。私の顔も見えます。隣の家内も良い顔をしています。私の友人たちも、神々しい磨崖仏を拝観した悦びの表情です。
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熊野磨崖仏阿弥陀如来像の前で筆者型家積ん友人と旅行した時の記念撮影
筆者は入院直後の2週間、こんな家内や友人と旅した思いの深いところを巡っていました。
そんな次第でしたから、転院した後は再び家内や友人とに日本の美しい自然と文化財を巡りたい・・・、その為にもリハビリに精を出そう!、目標が決まったのでした。
 
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旅行ブログ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

春の奈良に行きたくて

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リハビリ専門病院に転院しても私は寝てばかりいました。と言うのは、私は生来低血圧でしたので・・・・、トレーナーが私が卒倒するのではないかとッ血圧を測ってはリハビリを中断していたのでした。
満足に立てないので。平行棒に身を委ねているばかりで、一向に歩く気配を見せられませんでした。そんな私を家内は柱の陰から見詰めてくれていました。眼には涙を浮かべて・・・・。
でも、私が寝ていると、気力を出すように叱ってくれました。
左足に力が入らないのなら起きて、頭を使いなさい!]
そこで、私は今までの人生を振り返って、文章を書き始めました。
挽歌は、逝った人を送る歌です。でも、これから逝く人が歌った歌は「辞世」になってしまいます。辞世を作っても楽しくないので、自作の挽歌を作ろうと思いました。その時思い当たったのは親友のМ君です。М君に代わって自分が逝った場面を想定して挽歌を作ればいいんだ・・・思いました。秋の旅行で、前年亡くなった元沢君へのの挽歌が「まるで相聞歌だ」М君が評してくれたのでした。幾つも作ってみましたが、結局、次のような場面に落ち着きました。私が亡くなれば家内が一人残されてしまいます。
М君を始め私の友人が相手をしてくれて寂しくないものと期待したいものです。
そんな思いを込めて次を作って家内に贈りました。
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リハビリ病院入院前半は創作活動に集中しました
 
いにしえ人が信じたという、来る世があると言うならば吾再び君と結ばれん、子供達も一緒というならば、阿弥陀如来と言えども叶える事難しらむ。
右往左往、右顧左眄人生68年吾路傍の露に希恵な消えなんとする。
されど善き友と家族に恵まれし人生に悔いは無し、
家内は有難うと言ってくれました囁きの小道の時と同じように・・・。
私は次々に創作いたしました。
大半は迷いに迷った青春時代の事になっていました。
人生の分れ道」
吾は再三道に迷いました。
真っ直ぐに進めば神に通じる道で、キリストの道です。でも、右に折れました。何故なら右の道には花が咲いていて、懐かしさが漂っていたのです。
右に折れて、間違っていたのではないののか何度も思い直そうとしました。友人にも相談しました。父も兄もカソリックの学校(栄光学園)を薦めたのに、肝心の処は相談に乗ってくれませんでした。で…就職も父の言いなりにしました。(長銀に就職)私が一存で決めたのは結婚相手だけでした。でも、それだけが正解でした。今しみじみと思います。今道の先に鄙びたお堂がみえます。そう、奈良大宇陀の仏隆寺です。私は迷い通しの68年でしたが正しかったようです。
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大大宇陀の仏隆寺千年桜と石段の両脇に咲き揃う彼岸花が有名、右に道を行くと室生寺に通じる。
私が集中して創作していると医師も声も聞こえませんでした。
お医者は私の集中力を評価して、リハビリにも良いと言ってくれました。
創作に飽きて来ると私は絵を描く事にしました。家内に頼んで画材を用意させると、家内は亡くなった義父が愛用していた色鉛筆と画用紙50枚を持ってきました。
私は大好きな奈良の絵を記憶を頼りに描きました。桜が咲いたら家内や友人と行きたいものだ思いを込めて掻きました、一日2枚描く事を目標にしました。
私はNHKFMで、長唄や歌舞伎を聞きながら絵を描いていると、亡くなった両父母が傍に居るように思えました。
私の絵は婦長さんが評価してくれて、ロビーと食堂に掲示してくれました。すると患者や看護師から「同じ絵で良いから描いて欲しい注文が寄せられました」。
特に夫婦二体の地蔵尊が人気で(健康祈願延命地蔵尊)した、そこで、絵は何時しか道祖神にテーマが変わりました。
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病院で書きかけの道祖神の絵
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最も注文の多かった夫婦地蔵尊。脳梗塞患者が伴侶に気づかいしている事と延命地蔵尊を連想させたためとおもいます。
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池田さん(甲府出身)にプレゼントした絵
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 斉藤さんにプレゼントしたえ画材はおおうだにある叉塀兵衛桜の樹下でお花見する家族。
 
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激痩せの原因はお隣さんの鼾でした

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私のリハビリを妨げたのは、第一に低血圧に依る転倒リスク、そして激痩せでした。計測するたびに体重が減って、看護婦も心配してくれましたが減少傾向は入院中続いて60キロあった体重は退院時は49.6キロになっていました。出される食事は略完食していましたから、瘠せた原因は寝られなかったのでした。時々眩暈がして、天井がぐるぐる回転しましたし、就寝中に背中や脇腹が硬直して目を覚ましました。そのどちらも脳梗塞患者固有の症状だそうで、筋肉や脳が、危険時を記憶していて時折想いだして再発するんだそうです・・・。ドクターは「いずれ消えますよ」お気楽な返事でした。
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 退院した5月9日の最期の食事筆者は1600キロカロリーの制限がかかっていました。
でも、寝られなかった原因の第一は同室患者の鼾きでした。
私は四人部屋に居れられましたが、患者の症状によって、ランク分けされ、退院まじかな人は6人部屋に移されていました。ある日、親しくさせて戴いた小原沢さんが6人部屋に移り個室から別の人が来ました、この人のいびきが激しくて一睡もできませんでした。朝「看護婦さんが「寝られましたか」訊きて回ると同室の三人はそろって、いびきの患者さんの方に指を向けていました。流石に私はその患者に「貴人は無呼吸症候群かも知れないから診察を受けるように」奨めました。するとその患者は家族に「自分の鼾が迷惑をかけているようだ・・・」報告をしていました。
そんな訳で、患者も病院も大いびきをかく事を確認していると思われました。
病院では患者は次のような権利があると思っています。
1、最新の医療を適切に受ける事
2、安全で快適な医療環境を保全される事
3、患者は他の端患者と公平に扱われる事。
4、自分の状況をいつでも正しく隠し立てなく教えられる事
、こうした権利を主張する一方で、患者には義務があると考えます。
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ベットは右奥窓側でした。このベッドに寝た人は皆元気になって「福ベット」と言われていました向かいの左側のベットの患者が大鼾でした。
1、他の患者の快適な医療環境を損なわない事
2、医者や看護婦トレーナーなどの評価を安易に口にしない事
3、他の患者の症状を評価しない事
4、他の患者の情報を口にしない
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庭先で咲いた山吹を生けてくれる家内「山吹」は「病を吹く」のごろあわせかもしれません。この花からミノムシが出現しました。室内を張這うので看護婦さんが大騒ぎでした。庭先の鼻花を届けてくれたのは嬉しかったのですが・・・・、思わぬおもけもついていました。
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黄色いバラは私のの68歳の誕生日を祝って娘が生けてくれたもの(4月13日)
蓑虫は風に揺られて一条の糸に身を委ねてブラリブラリ
吾もブラリブラリと生きて行かむ、春風はさしづめ家内ならむ
一番気に障ったのはお喋りな女性患者が食堂で、「トレーナーの技術評価をしている事でした。「Aトレーナーは上手だの下手だの痛いと言っても訊いてくれないなど・・・、様々話して挙句はああはなりたくないわね!」等と他の患者を評しているんです。女子会と主張するおばさん達には何度か注意をしたいと思いました。
件の鼾の激しい患者については本人も病院も確信犯だと思いました。迷惑この上ありません。
 
私の退院直前になって、その患者は車椅子に乗っていて、廊下を歩行訓練中の患者に衝突して・・・元の個室に戻されました。
病室で大好きなプリンを就寝前食べるなど、病院で共同生活する自覚自体に欠陥がありましたから・・・・・、個室で管理する事が適当だったのでしょう・・・。
そんな次第で自宅に帰ると良く寝られる事、私の脇では家内が寝ていますし、家内も少しは安堵したのでしょう、その心地良い寝息を聞いて寝られるのも40年ぶりです。加えて家内の向こう床の間には仏壇があって、両父母も寝ているのです。
私は熟睡できることで、体力の回復を実感じています。帰宅4日後で体重は50.4キロに回復しました。息子は急速な体重回復の弊害を口にします。
これからは両父母と家内に見守られて、寝て食べて回復せむ、次の春には今年の分まで桜を観る事に致さん
 
と言っても、本格的なリハビリを成功させるためには、体力の回復が重要で、その目安は体重と血圧にあると考えていいます。
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ラジオとミュージックプレーヤーが時間を潰してくれました。
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愛読したのは会津八一の鹿鳴集と山崎放大の歌集、100日の間に10回は読み帰したのでしたが、到底真似ができるものではありませんでした。
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