Quantcast
Channel: 仮想旅へ
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live

不幸中の幸い

$
0
0
リハビリ専門病院の脳梗塞病棟には様々な症状の患者さんが奮戦中でした。患者が「一期一会」励まし合って、発症以前の状態に戻して、家族の負担を少しでも減らそうと、集中している様はまるで修道院にでもいる様な緊張感がありました。
私が最初に医師に質問したのは「自分は認知症になる危険はあるのか?」でした。医師は「貴方の脳梗塞箇所は右前頭葉ですから・・・・、左半身に麻痺が残りますが、脳髄は問題ないので先ず認知症の危険は少ないでしょう」という事で、一安心でした。
他の患者を観ると、左半身麻痺でも、足の関節も曲がらない人も居れば、失語状態の人もおいでです。症状は色々です。何故症状が人によって違うかと言えば・・・。切れた箇所と発症後の処置が違う事によるのでしょう。
脳血管が切れてしまった、血の海が出来、神経系統が断絶してしまう症状が脳卒中脳梗塞なのですが、
イメージ 3
筆者の作品食堂の掲示板に貼られていました、4月7日、大風の翌朝亡いの庭で散らずに残った桜花を愛でた歌です。
脳血管が切れている間は、、脳には酸素が送られません、その為に次々に脳細胞が死滅してしまって、その死滅箇所や量によって、記憶が失われたり言葉や色を失ってしまうのだそうです。
私は幸いなことに左半身麻痺ひだけで、脳の活動や、記憶に欠陥は生じませんでした。そんなわけで、創作活動や、絵が描けたわけで、他の患者には随分羨ましがられました。利き手が麻痺した人はお箸も持てませんし、名前も書けなくなってしまいます。私の隣のベットの方は大学のノートに逆の利き手で、名前を毎日書いて訓練しておいででした。私が絵を描いて居ると、良く覗き込みながら「羨ましい」言われました。私は上手に歩ける隣人が羨ましいと思っていたのでしたが・・・。
私は脳梗塞くで一命を取り止めたのも、その病状も幸運だった思いました「。不幸中の幸い」です。
神仏が「未だ黄泉に呼ぶには早すぎる。時間を与えるから、生死を極めるように…命じられたものと思いました。ならば、当面は「生きる事に徹しなくて」はいけません、「自分も命に拘り、家内や友人も生かさなくてはいけないと思いました。
 
ところで、切れてしまった神経系統ですが、よくしたもので、生きようとすれば脳は再生命令を発して、脳から左手や左足首に新しく命令系統を作るんだそうです。「だから「左手動け!]念じながら動かそうとするのは有効こうなんだそうです。
で問題は新しい神経はどの程度のスピードで再生するのかという事です。
どうも医師やトレーナー先輩患者の話を総合すると、一日に0.7ミリ程度伸びるそうです。ですから交通事故で腕の神経を断絶した人は腕と脳の距離が50㎝なら70日くらいで神新しい命令系統が出来て、「50㎝÷0.7ミリ≒70日」
ですから私の場合左手が動き出すまで大凡半年余りという事になるでしょうか
(100㎝÷0.7ミリ=130日。左足は2年弱でしょうか(150㎝÷0.7ミリ)=220日
たしかに、髭や爪は1日0.7ミリくらい伸びて行きます。昔の生物の授業で、新啓も爪も外肺胞から生育すると教わりました・・・・。
私の友人から次の手紙を受け取りました。
貴人はは何時も急いでいますね、今回は各駅停車にお乗りなさい、私達同期生は停車場に下りて貴人が戻られのを何時までも待っています。
私は良く自分の事がお分かりなのだ・・・・、涙で貰った手紙が濡れてしまいました。
考えてみれば「自分一人で生きてきた思うのは驕りであって、何時も友人に家族に生かされてきたのだ」悟りました。今回は思いっきり隣人に生かされてゆこう・・・・思います。神仏が期待しているのはこんな真理を悟ることなのでしょう・・・。
 
毎日急がずに、じっくりリハビリに努めながら、来年の桜の季節には二年分エンジョイしようと・・・・、念じながら過ごすことが、私には最適な方法のように思えます。
イメージ 1
来年は家内や友人と吉野に咲く螺旋本を見たいものだ・・・・、念じながら描いた「吉野千本桜」他の患者に、利き手が使える興奮幸運を羨ましがられました
イメージ 2
こちらも「来年の春は吉野に友人rと一緒に行きたい」と念じながら描いたもの、そんな思いが私のリハビリを成功に導いてくれるものと信じています。(中央が吉野蔵王堂)
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
旅行ブログ    
    
 
 
 
 
 

奈良町への憧憬

$
0
0
私の属する慶応大学日本文化研究会は毎年は前記後期の2回に分けて学生と卒業生が机を隣り合わせしてセミナーを行っています。私も毎回報告してきました。
私は40年来全国行脚して確認して回った石仏を中心に報告しています。(前回は馬頭観音の系譜「道祖神の多様性」「日本の近代化と庚申信仰」等の報告(講義」を行ってきました。自分のライフワークを整理するには絶好の機会ですから・・・・、それに個人研究は独善に陥り易いものです、発表する事で仲間の意見を貰う事は良い事です。
私の同期には大学に残った人は居ませんでしたが、前後には大学の名誉教授として、残っている人も多いんです。そんな人の前で発表できるのは光栄です。
私は来る6月28日(土)日吉の来往者会議室で発表する機会を貰いました。
そこで、病室では次は何の講義をしようか?考えた結果順番からしても「地蔵石仏の話をしようと決めました。
病床で、今まで観てきた地蔵石仏を想いだします。
箱根精進池池畔の地蔵菩薩(重要文化財」奈良元興寺十輪院の地蔵菩薩石窟など名品が脳裏に浮かびます、
佐渡外海府海岸や恐山の地蔵菩薩は地獄で、亡者から死者の霊を救おうと待っているようです。
地蔵菩薩ほど日本人に親しまれている仏様はありません、童話や動揺に登場しお経に(和讃)に詠まれました。お地蔵様はまさに日本人の魂の中核にある信仰なのです。
この地蔵信仰が何処で何時ごろ発祥したのか?
それが、奈良の奈良町なんです。十輪院の地蔵石窟がその嚆矢で、正面に現在仏の地蔵菩薩が、左に過去仏の釈迦如来が右に未来物仏のが弥勒菩薩が同じ花崗岩に刻まれています。
イメージ 1
輪院地蔵菩薩像出典十輪院ホームページ)
イメージ 2
十輪院地蔵石窟(左から釈迦地蔵弥勒菩薩/重文)十輪院のホームページから転載
イメージ 3
箱根の25菩薩地蔵磨崖仏鎌倉時代此処の仏群は鎌倉長谷寺の開基「忍性」が、奈良元興寺で活躍していた石工集団「大蔵安」を招き彫らせたものです。
良町は長谷街道の宿場町、奈良市中の市場町として、南北朝の戦乱の中荒れ果てた元興寺の廃墟の中に新しい商工業者が住み着いて出来た街でした。
奈良町のカオスが、地蔵信仰を産んでせ、能や茶の湯等の文化を育成させたのでした。
彼等は織田信長などの攻撃には環濠を作って抵抗しし、まるで京都の川原町と堺を合わせたようなスピリットを持っていたと思われます。古代から中世にかけての出来事でしたが、そのまま近世に突入しそうな先進性を兼ね備えていたのでした。
でも江戸時代に突入しますと、地獄思想はは封建制を支える役割を担ってしまいます。
興味深い事に、ヨーロッパの中世も日本の中世も地獄の思想が席巻します。
悪い事をすると地獄に落ちるぞと言う教えは封建領主に好都合だったのでしょう。
中世教会の地下には頭蓋骨が累々として残され、天井画には最後のの審判が描かれ、キリスト像の足下には地獄のサタンが人間を苛める様相がモザイクで描かれています。一方日本ではも地獄草子が盛んに描かれ、小野小町の頭がい骨は無常観の極みとなりました。
中世的な地獄思想を解き放ったのは人間主義・現世主義でフィレンチェのルネッサンスや北ドイツルターの宗教改革を待たなければなりません
イメージ 8
地獄草子(地獄の獄卒に身体を切り刻まれる図
イメージ 9
中世教会では最後の場審判の天井画に目を奪われますが、キリストの脇にサタンが描かれ、地下には累々とした頭蓋骨を見せつけられます。桟呂連次お代聖堂のモザイク画(髑髏小町を思わせる。目から出ているのは蛆虫イメージ 10
日本の地獄絵には絵解きの楽しさが色濃いです。(鎌倉光明寺)
 
で良く似た中世の地獄の思想ですが、ヨーロッパの地獄は、息きぬく暇もない恐ろしさですが日本の地獄には何処か余裕があります。日本の地獄絵にはお地蔵様がいて態々地獄にまで遠征して魂を救済しようとする地蔵菩薩が描かれています。それに、審判をするのは閻魔大王ですが、えんまさmさはじつはおじぞうさまbつのかおなのです。裁判長と弁護士が同じなんです。
「悪い事をすれ死後ば地獄に落ちるぞ」人間をを脅すばかりの西洋に対し日本では魂は6道に輪廻し、その何処でも地蔵菩薩が重い錫杖を持って出張してきて…魂を救済し、行く行くは現世に生まれ変わって現世を安楽にして下さる・・・教えます。
おおきな違いがあるのです。す。こんな信仰をもったのが南北朝時代の奈良町に住みついた人々だったのでした。
奈良町は日々魅力的に変化てきています。変化のきっかけはJR奈良駅駅舎の保存活動にあったようにおみます。石積み校倉風の駅舎で下、駅前に石灯籠があり石灯籠は春日大社屁にお道を示していました、石灯籠に沿って歩くと奈良町を経て猿沢池の池畔にでました。
既に各地の街並み保存活動は行きづまりの様相を呈していました、町並み保存は街を歴史的ない地一時期に復元固定しようとするものですが、あまり成功している街は少ないようです。生活者や旅行者の視点や利便性を犠牲にしている懸念がありました。最近は街は人によって日々濃く刻変化するものと考えを変えたようです。、生活者や旅行者の欲求を満たすように変わって来ました。町並み保存の反省に立って盛んになったのは修景運動ででした。西洋のヒヒrp広場に行くと建物の広場の前面だけが古風で建物の中は現代的で生活者も利用者も生き生きしている・・・そんな景色を良く見かけます。まるで、映画のセットのようです表面の景色は大切にして建築素材や建物の利用の仕方については自由にする・・・でも街の隣同士の意思疎通は充分にはかるる・・・、そんな考えです。う、日本では小布施や川越で修景は成功しているようですし。日本橋のオフィス街(クレド)の街並みも修景の匂いがします。
奈良町はJR奈良駅駅舎保存活動をきっかけに修景活動が盛んになったように思います。
以前は近鉄奈良駅前の商店街に沿った道路だけが昔の匂いを紛々として残していましたが、現在は十輪院伝香寺等を含んだ面的な広がりを持っています。奈良漬屋さんは白米と味噌汁奈良漬でランチを用意しました。墨屋さんはカラフルな墨や筆を商い始めました、夜になれば銭湯が開きます。
イメージ 4
現在の奈良町の街並み
辻辻にはお地蔵さんや道祖神が祀られ屋根の上には三猿があり、商店や民家の軒先には飛びっ子が吊るされています。この道を紫式部や清少納言藤原道綱の母が下って長谷寺に籠った・・・と思うと歴史の重みを感じます。
私は6月28日全力で「地蔵信仰の系譜をレポートする」ことにしました。病床で草稿も完成させました。…で大好きな奈良町の景色を絵に描いて過ごしました、絵を描くたびに、この町の尊さ有難味がしらされますこれも私のリハビリの一つのハードルです。イメージ 5
筆者が入院中に描いた奈良町の絵、先頭煙突が見えm巣(現役です)
イメージ 6
奈良町は近世になると庚申信仰の発祥の地にな庚申信仰の発祥の地なります。庚申堂の甍には三猿が鎮座しています。
イメージ 7
奈良町漢方薬の葱岡」の店頭赤い吊るし物は「飛び子」
イメージ 11
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

長谷寺への篤信

$
0
0
昨日は地蔵信仰が中世に奈良町で起こった事を説明しました。何故奈良町であったのか?、
それは、奈良町が古代から長谷寺への参詣道に在った事が影響していると考えます。
と、気付いたのは日文分研のT教授が朝日新聞の切り抜きをお持ちいただいたからでした。おもちいただいたときでした。偶々長谷寺のご本尊十一面観音像が案内されていました、十一面観音でありながら、その左手には錫杖を持ち、蓮華座上ではなくく岩の上にお立ちです。
ですから十一面観音はお地蔵様に近い形をしておいでなのです。岩の上に立っておいでなのは、「大地から出現された事、錫杖をお持ちなのは遥々衆生の為に遣って来られた事を示していたのでしょう。地蔵菩薩は長谷寺のご本尊や長谷寺・伊勢神宮を勧進した聖の姿を想わせます
イメージ 1
長谷寺のご本尊十一面観音像、立像では日本一で、地蔵菩薩との中間のお姿です。
奈良町の地蔵菩薩は長谷観音の前仏のような位置づけだったのかもしれません。
遥々京の都から長谷寺を詣でようとした人々は奈良町に泊まって、地蔵菩薩を拝んで長谷観音の前仏と思った事でしょう。
イメージ 2
長谷寺の本堂は清水寺と同じ舞台懸崖造りで十ご本尊の礼拝堂でもあります。現本堂(国宝)は徳川家光の寄進により本堂は慶安3年(1650年」に竣工したしたものです。
イメージ 3
玉鬘神社急檀家他眺める長谷寺全景
イメージ 4
本堂横には五重塔が昭和の名塔です。
地蔵菩薩は6道のすべてに赴き、彷徨える死者の霊を導いて地獄から、餓鬼道から救済し、ゆくゆくは天道に導くとされ舞ます。
その姿は頭は比丘形ですし、しゃくじょうをもっています。
人間に最も近い姿の菩薩形です。
長谷寺や伊勢神宮の肝勧進で全国を回った僧の姿をイメージさせてくれます。
浪速の海化海から大和川を上ると長谷山が見えて来ます。三輪山長谷山のh雲と麓から流れ出す霊水が大和の豊穣を約束しているのです。隠国(籠り句)は長谷にかかる枕詞で奥深い山間の土地の意味です。東日本で良きみる里山の風景です。水源地ですから良く水神様が祀られています。紫式部も清少納言も藤原道綱の母も長谷寺に籠りました。源氏物語(玉鬘)では長谷寺が舞台になって玉鬘(夕顔の忘れ形見は)強引な求愛を避けるために長谷寺に隠れてしまいます。
地蔵菩薩は大地の仏様Iの仏様ですから、このような場所には良く地蔵菩薩がまつられています。京都の清水寺でも水源の滝には地蔵様が祀られています。浪速の海から人や物資は長谷山の見え始める辺りで積み荷を下します。そして馬に乗り換え陸路「山の辺の道」を辿ります。陸路・水路の交差点には市場が立ちました、。(海石唾市/つばいち」初瀬川の堤防には海石唾市の案内板が立っています。
筆者は海石市辺りから眺める三輪山が一番美しいと思います。初瀬川の堤防は桜並木です。川の土手は一面菜の花が自生しています。桜井高校の女学生が自転車で通学してゆきます。
三輪山の上空には薄くお月様が残っています。。多武峰の上には太陽が昇って来ました、朝靄が晴れると見る見る桜や菜の花が現われます。日本中どこにでも見られた里山風景です。
イメージ 5
三輪山の山麓から二上山方角を見る
イメージ 6
海石市辺りから眺める三輪山初瀬川は女学生の通学路です、土手は一面菜の花が咲き私の五感は春で満たされます。
イメージ 7
山の辺の道遠くは景行天皇陵、、箸墓桃畑で若草摘みに見夢中な人が居ました。
蔵信仰の草稿も本文中の絵も入院中に作成しました、そんな作業が私のリハビリに効果があると確信したからです。絵の中の人物は私と私の友人です。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 
 
 

冥福!ラーメンの鬼「佐野稔さん」

$
0
0
病院食が続くと患者同士退院したら何がが食べたい?)食べ物の話題が盛んになりました。
私はカツオ、病院のお前の海では浅利や穴子が採れますから、「穴子のの天丼、深川丼」もいいな!」なんて話します。「お豆腐は良く出るが、冷奴で食べたいものだ!」、
隣のお兄さんはラーメンを喰いたい…こだわりがあるようです。
イメージ 2
お豆腐は煮ないで、冷たいまま食べたい・・・・患者の気持ちを絵にしました。食堂の食道の壁貼られました。
4月10日ラーメンの鬼佐野稔の訃報が流れました。糖尿病による多臓器不全が死因だそうですから、私達患者も他人事ではありません。
佐野氏のお店は「支奈蕎麦屋」と言い、藤沢の藤沢警察署の近くにある行列のできるラーメン屋でした。最近では私の住む戸塚に移転しました。日本蕎麦屋の作るラーメンでスープは和風出汁でした。そしてあざやかな鳴門が浮いていました。今日の話題はその「鳴門」です。
イメージ 1
ラーメンの鬼佐野稔さんの冥福を祈りました。
 
鳴門は神田明神の神紋と同じ三つ巴です。巴は勾玉ですから、勾玉を三つ渦潮の様にデザインしたものです。注連縄を切断すれば三つ巴紋が現われます。
イメージ 3
  鳴門は神紋で節会料理であることを示しています。
イメージ 4
提灯に描かれているのが巴紋で神様の依代であり、注連縄が張られていることを示します。
三つ巴紋は鳴門の渦潮の形で注連縄を切断した形です。ですから、鳴門がラーメンに浮いていることは注連縄が張られている事、節会料理であることをしめしています。蕎麦屋の心意気です。
 
鳴門が地蔵信仰にどうして結びつくのか?説明いたします。
地蔵尊を考え付いたのは多分中国人で、チベットを経て中国に伝播すると大地の神様を包含して地蔵尊を考え付いたと思います。仏教は輪廻の思想です。それが日本に伝播しました。日本には元々輪廻の思想が根強くありました。死者は先ず黄泉「よみ」に行き、蘇る(よみがえる)と考えていました、黄泉から帰るのが蘇りで再生を意味します。何度も何度も再生を繰り返す・・・まるで三つ巴紋が回転するように
注連縄は3本の縄が前になったり後ろになったりして捻じれています。後ろになった時が死であれば前になれば誕生を意味します。生死を繰り返す事を表現しています。
イメージ 5
注連縄を切断すれば三つ巴紋にになります。
 
一方、西洋では人生は一直線だと考えているようです。始まりが誕生で最期が死です。生から死までは一直線で、その評価が「最後の審判」になります。
審判の結果次第では地獄に落ちます。
下の絵はスクロベーニ礼拝堂のフレスコ画(出典文芸春秋5月号)です。。画家はルネッサンスで高名なジョットです。フィレンチェの高利貸しレジナルドは財を為します。でもキリスト教では高利貸しは悪とみなします。レジナルドの息子エンリコは地獄で苦し父レジナルド事を心配して、私財を投げ打ってスクロベーニ礼拝堂をた建て、その壁にジョットに依頼して、ゴルゴダの丘で磔刑に処されたキリストの絵を描かせます。空間には無数の天使を舞わせ恰も父の魂も救済されたらいいと願ったと思われます。日本風に結え言えば息子の「追善供養」になります。でもダンテの神曲では追善供養等は一切認めません、生前の行為が審判されるのです。レジナルドは地獄の炎に追い立てられ、その頭がい骨は蛆が這って舐め尽くされてしまいます
イメージ 6
ジョットのフレスコ画ゴルゴダの丘で磔刑いされたキリストの姿が描かれています。上空には無数の天使が舞っています。父レジナルドン魂も無数の天使によって救済されるように祈って礼拝堂をたてたと推測します
イメージ 7
地獄責め苦をうける頭蓋骨、西洋の地獄絵は人間の悪をトコトン許しません。日本の地獄絵は救済の道が数多く用意されています。
死と生が一直線なのが中世の西洋で、渦巻いているのが日本の中世です。
私は日本で産まれた幸いをしみじみと思います。一直線は過酷で辛すぎます、捻じれているのはあらゆる可能性があります。
筆者は仏教伝来以前に日本には輪廻の感性や生死感があって、それが中世奈良町で地蔵信仰を産んだと考えるのです。明日は奈良町の東の山並み高円山が死者の霊が宿る場所であり、その山から霊が再生したと考える根拠を説明いたします。
イメージ 8
奈良町から見た東の山並み、若草山があってその北が三笠山、東が春日大社の森で滝坂道を隔てて南が高円山になります。高円山に留まった霊は再生して奈良に命を吹き込みます。その再生の導きをするのが六地蔵尊です。
イメージ 9
奈良の高円山の山麓にある百毫寺、参道の下が奈良町,境内は地蔵石仏と五弁の椿が咲き乱れます。
杖を突きながら登って来るのが筆者の積りです
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 
 
 
 

奈良の「とこよ」高円山

$
0
0
連日奈良町で起こった地蔵信仰の話をしています。この草稿は入院中に練ったものでした。
ところで死者の魂は何処に行くと考えられてきたのでしょうか?
死者の魂(祖霊)は山の上の彼方に行くと考えられてきました。
そこを常世(「トコヨ)」とよびます。恐山も月山も「常世/とこよ」の山として有名です。死んで魂が山に行く事を「山上他界」とも言います。京都は四方を山で囲まれていますから、その頂きに死者の魂が集まったと考えられます。化野・蓮台野・鳥辺山・紫野等の地名は風葬をした記憶を留めているのかも知れません。
奈良で月山や鳥辺山の役割を担っていたのが高円山(たかまどやま」でした。旧盆に行われる京都の五山の山焼きもその名残です。高円山でも8月16日に大文字焼きが行われます。奈良町の人達は高円山からご先祖を迎え、山に送っているのです。
イメージ 1
奈良の高円山では大文字焼きが行われます(写真は奈良観光協会のホームページを転載させていただきました)
高円山は奈良町の東になります。奈良町から見ると、高円山の上に太陽が昇り、西の生駒山の上に陽が沈むことになります。
奈良の東の山は三笠山に始まり南に向かって若草山、春日大社の森、高円山、巻向山三輪山(南端)と続きます。その山脈の裾を古代の道「山の辺の道」がとおっています。山の辺の道は至る所地蔵尊が祀られています。桜の木があれば大概その下は共同墓地で、奈良の人は高円山を「埋墓(うめはかカ)」にしてきたのでした。両墓制(遺体を土葬する墓を埋め墓とよび、じたくのちかくおてらのぼちなどをお参りする墓(参り墓」とよび2つの墓を用意した。
イメージ 5
三輪大社のご神体は三輪山です。山脈の最南端にあります。その東が長谷です。山がご神体ですから社殿はありません、巨大な鳥居だけが目安です
イメージ 6
山の辺の道の路傍は至る所地蔵尊が祀られています。
イメージ 7山の辺山道の地蔵尊歩いているのは筆者と友人しゃがんでいる人は若草摘み
イメージ 2
沼田発地の苗代桜、梶井基次郎の「桜の木の下には屍が埋まっている」の通りの埋墓(土葬)がありお地蔵さんが祀られています。この桜が咲いたら苗代を作り田植えを準備します。死霊が宿り祖霊になって命の再生を司ります。地蔵信仰は死者の霊を安んじるだけではなく、子孫の命に係わります。だから大地の命・愛(地蔵」という名が付いているのです。このような桜は全国各地にあります。山梨の王仁の桜もそんな意味深いものです)写真の雪山は谷川だけですが王仁の桜の場合は甲斐駒ヶ岳が遠望されます。
 
高円山の山麓に萩の花や五弁の椿で有名な百毫寺があります。このお寺お中世初期の地蔵菩薩が多く祀られています。肉親が亡くなるとたかまどやまに遺体を埋め、その魂の救済を祈願してお地蔵様を祀ったのでしょう。お地蔵様を祀る事は師沙耶の魂が祖霊になって再生をすることを期待しています。山の辺の道には命の再生をいのる「帯解寺」もあります。百毫寺の地蔵石仏を観ていると「なるほど」気付く事があります。お地蔵様の光背が放射状の光なのです。高円山の太陽が昇ってきたそんなデザインです。阿弥陀来迎図の阿弥陀様の光背に陽の碑帰り(夕陽)があるようにお地蔵様の光背に昇る朝陽があるようです。このような頭光を一般に壬生光背(京都壬生寺のお地蔵様の頭光が有名だから)と言いますが、私は放射状の頭光はびゃんらまち近辺が発祥と確信しています
イメージ 3
院中に春の彼岸を向けました。筆者は百毫寺の麓なら街の少女がお墓詣りに来て、椿の落花を篠竹に庵編んで、花飾りにしてお地蔵様に手向ける様子を絵にしてみました。
イメージ 4
 
百毫寺は5弁の椿が自生しているのでも有名です、椿の樹下には地蔵石仏が佇んでいます。筆者は今頃は椿が満開で貼るつっげ鳥が蜜を求めて集まってきて、落花させているだろう、お地蔵さんは落花に驚いて目を開けたかもしれない思って次の歌を作ってみました。
そらみつ大和の国の荒れ寺の5弁の椿に春告げ鳥(鳥)集まりて、地蔵石仏(仏)の前に花散らしたり
奈良町に地蔵信仰が怒ったのは町に隣接して高円山という「常世(常世)があって、常世に集まった霊が祖霊になって生きている人日t歩を守り、新しい命(子孫)を産んでくれると信じrされたからだと考えます。こんな構図は奈良に限らず東国に広く伝播しています。す。それは長谷寺(真言宗豊山派)が東国に多い事にも符合しています。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 

烏はねぐらに帰るのに・・・・。

$
0
0
私の入院していた若草病院は金沢八景の野島公園に面しています。正面の道を山の方へ進めば称名寺に着きます。称名寺は桜の名所でもあります。浄土庭園を囲んで桜が咲きます。太鼓橋を花が囲みます。
イメージ 1
称名寺の太鼓橋
イメージ 2
浄土池は花筏で覆われます。
桜が散れば池の面を花筏が覆います。
私はベッドに横になっても桜の称名寺を思い浮かべます。「もう少し歩けれ称名寺まで行けるかもしれない」
夕闇が迫ると、烏や鵜が空を飛んでネグラニ戻ります。八景の海で一日漁をして、遊んで、称名寺魚裏山にあるコロニーに帰るのです。「カー」(カー)今日も一日愉しかったなあ!「皆でネグラニ戻ってお話ししましょう!」とでも言っていることでしょう。今夜も称名寺の森は賑やかになりそうです。
 
夕暮れになると、金沢八景に面した脳梗塞リハビリ病院にはお婆さんの鳴き声が響き渡ります。
(「お父さん、お母さんお家に帰りたいよう!]大きな泣声が病院の廊下を空しく響いてゆきます。
あんまりの大声なので患者は寝られません。でも誰も怒ったりしません。
誰もがお婆さんと一緒に泣いているからです。
「私はどうして脳梗塞何ていう厄介な病気になってしまったの・・・・!」
「烏のように家に帰って家族とおはなししたいのに・・・・!
イメージ 4
 
散文詩「烏は帰るのに」の部分、食堂の壁に貼らせていただきました。
イメージ 3
床で桜の称名寺を思い浮かべて描きました、裏山がカラスや鵜のコロニーです。その下に北条実時等のお墓があります。五月蝿くて寝られない事でしょう。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

藤の花の奈良町

$
0
0
地蔵信仰の発祥の地が奈良町である事は縷々説明してきました。
いまも、興福寺を南側に下る石段の脇には無数の地蔵石仏が祀られています。
石段を下りれば名勝の猿沢の池です。池の南側が奈良町になります。
入院中にニュースが流れました。
イメージ 1
興福寺の南側石段脇には沢山の地蔵石仏が祀られています、遠方は南円堂です。
子供達が中心になって猿沢の池の清掃が行われたのでした、池の底から無数の空き缶が掘り出され、沢山の数のミシシッピー緑亀が捕獲されたのでした。在来種の泥亀や石亀は外来種に駆逐されてしまっているんだそうです。言われてみれば首筋に赤い斑模様のあるミシシッピー緑亀は不気味です。猿沢の池には似合いません。
 
 
イメージ 2
 猿沢池はミシシッピー緑亀が占領して在来種は駆逐されてしまっています。
イメージ 3
猿沢池の池畔の柳には菜女が衣を懸けた伝説があります。柳の枝の衣を懸けると聞くと地獄の奪衣婆の事を想いだしますが、だ奪衣婆と菜女とでは大違いです。(奪衣婆は亡者の衣服を柳の枝に懸けてが罪の軽重を測定します。)
私はベベッドに横になりながら猿沢の池の騒動を想像します。
池の畔には柳が植わっていますので、その梢かすめて燕が忙しく飛び回っていることでしょう、脇には藤の花房が垂れています。燕は藤の花も掠めて行きます。藤棚の脇を東に上れは春日大社ですから藤の花が丹塗りの社殿を背景に今盛んでしょう。
イメージ 4
 
燕を折って行くと、奈良町の商家の店先にこしらえた巣に向かって行きます。もう小燕が育って賑やかな事です。
「藤の花)
藤の花藤の花
お池(猿沢の池)の畔に咲きました
池に映った藤の花
逆さに咲いて見えました
 
藤の花お池に映った藤の花柳の下の蛙さんが見初めて
ドボンとお池に飛び込みました。
丸く輪が広がって、綺麗なお花は崩れてしまいました。
 
藤の花藤の花
神様(春日明神)のお花です。燕さんも飛んで来てじっと拝んでゆきました。子供達が元気に育つように母さん燕がお祈りしました。
 
 
イメージ 5
燕を追って行くと奈良町の漢方薬商家「葱岡」の軒先に消えました
イメージ 6
もう小燕が育って賑やかです。葱岡は単なる漢方薬やですが.昔は両替商を兼業していったようです。
イメージ 7
漢方薬の葱岡の店頭まるで生きた博物館で見飽きません店内には現役の薬箪笥もお使われています。低い庇久の下には燕の巣が覗いています。
奈良町には今も蚊帳のメーカーがあり、墨屋さんや、奈良漬け屋さん「定食屋さん銭湯が軒を連ねていて、何時行っても飽きません。
イメージ 8
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

桜と地蔵尊

$
0
0
桜の鼻花の「さ」は早乙女」や」早苗」「さ」で稲のことだそうです。
桜の花が咲いたら苗代を作って籾「もみ/お米の種」を撒きます。
一粒の籾が秋になればのお米になるその尊さを「神」のお仕業と思ったのでした。
だから、さくらの花が咲くとその無数の花が咲く姿に秋の稔を約束してくれると確信した事でしょう。
だから、家族が亡くなると桜の樹下にその亡骸を埋めて、収穫が多いように見守って欲しいと念じたと思われます。
梶井基次郎の「桜の木の下には屍体が埋まっている」と書きました。桜の木の下が単にに「埋める墓」というわけではなく、先祖が再生し、遺族を守護してくれる信じられたのでした。
そんな「苗代さくらは」各地にあります。
イメージ 1
沼田発地の苗代桜(お地蔵様の閼伽井ゆだれ掛けが印象的です)
が好きなのは、沼田発地の苗代桜で、友人と是非見たいと思い今年の春の「桜ツアー」で行く事に決めていました。した。写真はその桜の姿です、友人が「良かった」言い添えて届けてくれました。遠くに見えるのは上越国境の冠雪した谷川岳で、神々しいばかりばかりです。枝垂れ桜の下にはお地蔵様が祀られています。
棚田には水が引き込まれて田植えの準備も進んでいます。
次の写真は甲斐白秋峡に近い「王仁の桜」です。この桜は円墳の上にぽつんと立っています。遠くに八ヶ岳、甲斐駒ケ岳が冠雪して見えます。。釜無川の下流域の水田を稔らせるのです。
イメージ 2
甲斐白秋の王仁の桜向こうの山は八ヶ岳
話を本題の奈良町に戻します。
奈良町の東側には若草山が望めます。
山焼きで有名なお山です。奈良の人達はお水取りが終わると山焼きを待ちます。
山焼きが終われば野に出て春菜摘みに興じます。
若草山には野上神社が祀られています。
野上神社は若草山山麓に入って、ら50m程の所にありますが若草山山焼きが無事終了することを祈願する神社で山焼きはここ から始まります。
 このお山自体が前方後円墳です。清少納言は「鶯陵」と呼んでいます。
若草山二重目には牛墓(3m余りの地蔵石)があり「南無春日大明神」と銘刻され地蔵仏を刻んであります。
若草山と高円山の間は深い渓谷で、渓谷の細道を辿ると柳生に出らえます。渓谷の左右の岩場に数多くの石仏が彫られています。
地獄谷石窟群と呼ばれる古代末期から中世にかけて彫られた石仏で見応えがあります。
此処に在る六地蔵が日本最初の六地蔵と言われています。
イメージ 3
 
イメージ 5
春日奥山地獄谷にある六地蔵石窟
二枚上の写真は地獄谷六地蔵と同じこ頃刻まれたと言われる臼杵の十王像です。二年前日文研の友人と訪れましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46872105.html。 中央の半跏思惟像は閻魔大王の化身の地蔵菩薩です。左右の八体は裁判官役の十王像です。上下二段に並んでいます。衣冠の中国風の装束で胸前に笏(閻魔大王の持ち物)を持っています。
地蔵菩薩は右手が施無畏印左手に宝珠を持ってています。
十王像の倍する大きさです。裁判官である十王より力がある事を示しているのです。。十王が亡者の罪状を幾つも責めようとも、地蔵菩薩の判断が優先され、
地蔵菩薩を信仰する者は救われることを示しています。
地蔵菩薩は亡者が地蔵菩薩の楽園(伽羅陀山(からだせん)ではなく現世に再生出来ることを約束してくれます。それは亡者の遺族にとってはありがたい事で。死者は祖霊になって生き返って現世の自分達を守ってくれることを意味しています。
地蔵信仰は三蔵法師が仏教を中国に伝えて、中国人が考え付いた偽経だったのでしょうが、日本に伝わると更に変化して日本の民間信仰や稲作文化と習合して大変身したと思われます。
そんな稲作文化との習合は飛鳥に行くと数多く残されています。明日は飛鳥に残された民俗文化財を紹介します。
イメージ 4
高円山麓の地蔵石仏群(無縁仏)矢張り桜の樹下です。若草山も桜の名所です。
イメージ 6
此方は鎌倉にある地獄谷の地蔵石窟(葛原が丘の北側の斜面で藪の中にあります)
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

明日香の予祝神事

$
0
0
筆者の奈良町への憧憬を書き綴って来ました、古代末期から中世にかけて奈良町で地蔵信仰が発祥したと考えるからです。何故奈良町だったか?若草山の野上神に地蔵尊が祀られています。
桜の花は死者の霊の依り所あると同時に、新しい命が生まれる処でもあると信じたと思います。
桜は稲作の豊作、棚籾の命が何万倍にも拡大するその不思議神妙を予兆し、祈るものでもあったと思われます。それは各地の苗代桜、若草山に桜にも記憶を留めています。そんなことを昨日まで説明してきました。
 
奈良のルーツ明日香に行くと、そんな農業神事が幾つも残されています。桜花爛漫な中神事と桜を眺めて回る旅は「日本だなあ!」つくづく思わせてくれます。
飛鳥川に沿って、上流に上ります。石舞台古墳の西を多武峰の西稜線に向けて登って行くと、棚田が開いています。東西の棚田の真ん中底を飛鳥川が流れて行きます。
イメージ 1
石舞台古墳、今では整備され、周囲に桜が見事に咲きます。右の集落が島の庄、向かいの集落の手前を明日香川が流れています。筆者は学生時代友人と明日香の民宿に泊まり石舞台の脳上に上って歌っていました。
手前hは農家が育てた菜の花で夜はライトとアップさえます。
イメージ 2
明日香の橘寺聖、徳太子生誕の寺、田圃は蓮華草の花で埋まります。お百姓は咲いた蓮華を耕して田の肥やしにします。
イメージ 3
明日香の田圃は一面蓮華草で埋まります。遠くのお寺は飛鳥大仏で少女は蓮華草で首飾りを編んでいます。少女の左後ろにある五輪塔は蘇我入鹿の首塚と言われています。左の小高い丘が甘樫の丘で此処に曽我氏の館がありました。
稲淵の集落に入ります、ひときわ見事な桜が川を見下ろす位置に咲いています。それが南淵 請安(みなぶち の しょうあん)先生の墓です。南淵 請安以来200年弱明日香の棚が開墾され明日香川の水を活用してきました。峠を越えればもう東吉野ですし、壺坂寺もすぐ眼の先です。
 
イメージ 5
下が明日香川、桜の中に南淵 請安(みなぶち の しょうあん)先生(百済の帰化人)の墓が祀られています
イメージ 6
川の流域には地蔵尊が祀られています。
川の左右に石が置かれていて、まるで二見ヶ浦夫婦岩のように注連縄が川を渡って張られています。その注連縄が問題なのです。
川に渡された注連縄は略中央に丸く輪が設えられています。そしてその輪の上にまるで土筆の頭の様な藁細工が吊るされているんです。風が吹くと注連縄が揺れます。揺れると、土筆の頭が輪の中を出でたり入ったりします。童謡の「ズイ・ズイズッコロバシ」の箸のお箸とお茶碗の様な仕草です・・・・。「何だろう?」見詰めた人も直に注連縄が何をしているのか気付いて顔を赤くします。
明日香川岸no柳も芽を吹いて。頭を上げれど恥ずかしくて顔も赤らめ俯きたらむ。
 
そう生殖行為を表しているんです。
生殖されて出来た種(命)は飛鳥川の水に浮かんで下流に流れて行きます。明日香ばかりか大和川流域の豊作を約束しているんです。
イメージ 4
明日香川にかかる注連縄、稲の命が田圃に広がって豊かな実りを迎えられる様に、予祝神事と思われます。
イメージ 7
明日香村には随所に陰石陽石が置かれています。伯母ちゃんは陽石の横を朝どりイチゴを運んでゆきました
 地蔵菩薩というと、地獄で掬ってくれる仏様とばかり考えますが、生死の同居していた昔は胃の新しい命を司る神様とい側面もあるのです。 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
!は

二人の仙人

$
0
0
明日香の稲淵まで来れば東吉野、吉野山はもうすぐその先です。
今日は吉野山が何故桜の山になったのかその経緯を説明いたします。
吉野山は良く雨が降る場所ですから、奈良盆地の水源であり、その恵みでお米が獲れていたのでしょう。桜の「さ」は米の事ですから、水源に桜が植わっていることは下流域一帯での豊作が約束されているようなものです。
或る、うららかな日、仙人さんが雲に乗って、自分の生活域を見守りに出かけました。下界では水田に水が張られ、早乙女が田に下りて、忙しく田植えに勤しんでいます。仙人さんが大好きな光景です。早乙女は衣の裾を巻き上げて、裾が汚れないようにしています。でも、泥が跳ねて、脛から太腿が汚れてしまっています。早乙女たちはかまわず田植えに夢中です。一通り田植えが終わると、ソロソロお昼でしょうか、揃って田から上がって家に向かいます。娘たちは井戸に揃いました、井戸で着いた泥を洗い落とすのです。娘たちは白い脛も豊かな腿も出して懸命に洗っています。
仙人さんがは娘の白い肌を見た途端です。乗っていた雲が薄くなってヒューンストン地上に落下してしまったのです。指物神通力が失せてしまったのでした。
落ちた先が娘たちが集まっていた井戸の直ぐ傍でした。娘たちは大騒ぎ自体を知ると大笑いをしました。仙人さんは娘も人も大好きでしたので、おちた場所が気に入って其処にお寺を立って、村の役に立ちました。お寺の名は「久米寺」で和尚さんは「久米の仙人さん」村人から慕われました。
もう一人が役小角(えんのおづぬ)と呼ばれる仙人です。,此方は筋金入りの仙人さんで、,明日香を見下ろす金剛山に住んでいました。広い金剛山のなかでも水源である天河大弁財天社が生まれた処でした、大峯山を拠点に富士山など日本中の霊山に出かけ神通力を高める修行を積んでいました。ある日感得します。大岩を割って。蔵王権現が出現したのでした。その姿を側らの大木を刻みました。日本人が今まで見tことも無い、荒々しい憤怒の仏様でした。
イメージ 1
野の蔵王堂の本尊蔵王権現像、ブルーは水を司るから、金色は仏様の仮の姿であるからでしょう、衣には龍がデザインされています。流域の豊作や現世の平穏を祈ったものでしょう。材は山桜でした。
それが修験道の本尊と呼ばれる蔵王権現で日本人が最初に作った仏様でした。
蔵王権現を刻んだ木が桜だった事から、後々に大嶺山に修行に上る修験者たちは、修行の安全を祈願して、桜の苗木を植えるようになりました、こうして一目千本と呼ばれる吉野の桜が出来た次第でした。
イメージ 2
一目千本で有名な吉野山中央の蔵王堂を桜が取り囲んでいます。入院中にもう一度吉野山に行きたいとと念じて描きました。
 
エコと言えば「木を植える事」のように言われる昨今ですが、1000年以上前に怖い顔をした修験者が桜の苗木を吉野山に植える姿を想うと古代の人々の知恵や自然への畏敬の念の深さが解ります。形ばかりのエコは住友林業(別紙の住友鉱山の後始末や古川鉱山の足尾銅山を想出させて白けてしまいます。
 
イメージ 3
吉野は桜のほかにもも杉や,紙漉きなどエコな所です。
処です。
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 。
 

石仏の運命

$
0
0
病床で奈良町から山の辺の道を辿る自分を想像します。
道の脇のは桃畑が広がっています。。桃の花の下には若菜摘みをしている人が見えます。古代から,若菜を摘む楽しさは格別なものがあるのでしょう。道には無人の販売店が出ています。どれもこれも100円です。筍も、蕨も、ゼンマイも、蕗の薹も一束100円です。代金は竹筒の貯金箱に投げ込むようになっています。
春の山の辺の道には不可欠な光景です。もう一つ無くてはならない、アイテムがあります。それは石仏です。
三輪山の麓金屋には「古代の石仏が」そして長岳寺から百毫寺にかけては中世から近世の石仏」が観られます。石仏の歴史博物館を歩くようなものです。
私は「また、お目にかかれました」挨拶しながら、道を辿ります。
イメージ 1
桃畑の中を続く山の辺の道
イメージ 2
山の辺の道で蕨を摘んでいる風景三輪山(正面の)右下に金屋の石仏が祀られています
イメージ 3
山菜の無人販売所春の山の辺には欠かせません。
イメージ 5
山の辺の路傍には石仏が迎えてくれます
イメージ 4
長岳寺山門脇の楠の大木の下の石仏群
イメージ 11
山の辺の道に並んだお地蔵様、向こうの御陵は「箸墓」で桃畑で屈んでいる人は若菜を摘んでいる人です。息子はこの絵を見て「屈んでいる人は「雉うち/便をする事をしているもの」と言って笑っていました。
イメージ 12
百毫寺の地蔵尊、倒れたた拍子に自らの重みで割れてしまったのでしょう傷んだ石仏も歴史を思わせて良いものです。
路傍の石仏と言っても横浜とは違います。横浜では排気ガスで黒ずんでいますが、山の辺では苔が蒸し、泥がついています。それでも地震などで倒れた為でしょうか、胴で割れたり首が落ちたりしています。加えて奈良の冬は凍り付くほど寒いのです。凍ると石仏は風化が進んでしまいます。
お顔や形がきえてしまいます。石仏も土に戻るのが運命なのでしょう、石と言っても永遠ではありません。
 
一方、悲しい現実も確認できます。前にも述べた様にこの辺りは奈良の「とこよ」で昔からお墓であったところです。共同墓地だったものが共同体が弱まって最近は無縁墓地に転じてしまったようです。
無縁墓地にとなると、墓石を積み上げて「倶会一処」と表示してあります。
それでも、何か利用計画が出来たのでしょう。倶会一処の墓標塔に裁判所の公告が貼られています。
私は「石仏のある風景は」「山の辺の風景遺産」だと思っています。石仏は三輪山や巻向山同様に山の辺には欠かせません。
石仏が無縁と判断されれば、撤去させて跡地を利用する、石仏自体は古物商に売却してしまうののかもしれません。何れも問題であると思います。
イメージ 6
山の辺の墓標塔(無縁仏を塔状に積み上げたもの」
イメージ 7
無縁仏の中には誰かは判らなくても今もお参りされているお墓もあります。お墓自体は土地の使用貸借ですから、使用人が名乗りでなければ没収されてしまうのでしょうが、山の辺の道は古代から続く日本人の風景遺産ですから、考え直してほしいものです。
イメージ 8
無縁墓地を撤収する公告
 
「地獄の沙汰も金次第」とは最近の諺ですが、現世の方が地獄以上にお金で動いているようで、寂しい限りです。
山の辺を下って大和郡山に向かいます。
山尾郡山は金魚の養殖で有名ですが、此処は近世軍政上の要衝でしたので、急遽豊臣秀長が築城します。
相当に慌てて築城したのでしょう。石垣に積み上げる石を集めるのに苦労したようです。そこで、石であればお墓でも石仏でも何でもよいから求めたようです。天守閣の石垣には墓標や石仏が無造作に積み上げられています。
豊臣氏の滅亡後、そんな心無い状況に心を痛めた人が居たのでしょう、石仏には篤く供養したと思われる五輪塔が立っています。
郡山城は奈良の人が集まってお花見で賑やかです。
石垣にされてしまった石仏はお花見の喧騒をどのように聞いているのでしょうか?
私達は豊臣秀長の暴挙に眉を顰めますが現代石仏を撤去している現実を目の前にすると秀長を責められません、悲しい限りです。私に未だ力があれば、NPО法人を設立して「石仏のある風景遺産」を保存する運動を組織したいものです。
イメージ 9
天守閣の石垣には墓石や石仏が使われています。 
イメージ 10
 大和郡山城の石垣に使われた石仏、石垣の上にはお花見に興じる人が見られます。
そらみつ大和の国の古城の礎石(いしじ)とされし石仏(ほとけ)悲しも
イメージ 13
大和郡山城のお堀の花筏、露店が並んで大賑わいです。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

弥勒磨崖仏

$
0
0
奈良町の十輪院には中世初頭石窟物巌があって、中央に地蔵菩薩左に釈迦如来、右に弥勒菩薩の桟大三体が刻まれていました。そして山の辺の道の南端三輪山の麓には金屋石仏がありにも大きな石に左に釈迦如来右に弥勒菩薩が刻まれています。私が学生のころには三輪山の崖に藪の中に大きな石棺の蓋がたて掛けられていて、良く見れば蓋に二体の仏像が線刻されていました。重要文化財に指定された現在はコンクリートの建屋に収まっています。でも扉が開いていますから拝観することは可能です。線刻に[黒カビが増えたなあ!]印象ですコンクリートの建屋が黒カビの生育を助長しているのでしょう。
イメージ 1
 
イメージ 2
屋の石仏、石棺の蓋を利用したもので、左が釈迦如来右が弥勒菩薩です。
 
イメージ 6
三輪山金屋の石仏はこのお山の麓に祀られています。
 
金屋を過ぎれば長谷はもうすぐ先くです。私は中世の人々が弥勒菩薩に救済を求めて信仰したその先には地蔵菩薩が在った遭ったと考えます。
と言うのは釈迦の没後56億7千万年後に弥勒菩薩が出現して救済してくれると考えられていました・・・・・でも57億年も先ではあてになりません。そこで、その間を面倒見てくれる弥勒菩薩の先駆けになるような菩薩が求められます。その菩薩は来世(往生)を約束してくれるものより現世で救済してくれることが期待されます(来世で救済して)くれることを(上生信仰)と呼びますが現世で救済してくれることを下生信仰とよびます。弥勒菩薩は往生と現世どちらも救済してくれるありがたい菩薩だったのでした。でも、人々は往生して浄土に生まれ変わる事よりも現世で家族共々も平和に生活することを期待しました。そうした考えは現世が不条理であれば反体制運動に発展します、下生信仰の集団が救世主待望論となり莚旗を掲げて一揆になりました。弥勒を穀霊として、弥勒の世は稲が生辱成熟した平和な世界であるとする農耕民族的な観念が色濃くなってゆきました。世直し一揆が近世に頻発しますが弥勒思想の強い影響が認められました。
ですから、この地に弥勒菩薩が信仰されていたことは、地蔵信仰が発祥する素地があった事になります。
金屋の石仏からa初瀬川に沿って、伊勢道を上ると室生口に出ます。
室生寺川の中州に巨大な弥勒菩薩の磨崖仏が祀られています。
弥勒菩薩を遥拝する位置に大野寺が建立されています。弥勒菩薩は大野寺の枝垂れ桜の先に拝むことが出来ます。
イメージ 3
大野寺の枝垂れ桜の間から弥勒磨崖仏を遥拝する事が出来ます。
イメージ 4
大野寺磨崖まがいまがい弥勒仏室生川の中州の大岩に彫られています、子供達はキャンプに興じています。
室生寺川を上流に遡れば竜神や地蔵菩薩の信仰された旧跡、桜を観る事が出来ます。
イメージ 5
室生の里の西林寺枝垂れ桜が見事です。向こうの山の中に室生寺があります。竜神社はもう少し上流です。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

宇陀の古舘の又兵衛桜

$
0
0
月29日、日文研の友人事三人が病床を見舞ってくれました。彼らは沼田発地の「地蔵桜」の見事さを口々に語ってくれました。
その写真が下です。遠くに見える国境の山は谷川岳で、利根川は雪融け水を轟々と流して行きます。棚田の中にポツンと小山があって、その中央に巨大な枝垂れ桜が咲いています。桜の樹下にはお地蔵様を始め数基の墓標石仏が立っています。
イメージ 1
田発地の地蔵桜遠くの冠雪しているのが谷川岳です。棚田を見下ろす丘に立っています。
イメージ 2
此方は甲斐白秋峡に近い王仁の桜、冠雪した山は八ヶ岳です。円墳の上に彼岸桜が見事に咲きます。此方も豊作を予祝するものでしょう。
 
 
人々は地蔵桜が咲くと、苗代を作り田植えの準備を急ぎます。
農民が信じた弥勒菩薩には二つの浄土が用意されていましたその一つが天空にある弥勒浄土(兜率天/天生信仰)でありもう一つが地上の浄土(下生信仰)でありました。地上の浄土とは稲が豊かに実った状態の事でした。
農民は死んであの世に往生できるより生き残って子孫と共に豊作の喜びを重んじたのでしょう。
地上で浄土を実現したいと言う願望は農民一揆の目標になり農民の莚旗には「弥勒の文字が踊りました。
親が死ぬと、その遺体を棚田を見下ろす小高い丘に埋めて、桜の木をその墓標に植えました。ですから関東以北では大きな桜の樹下にはお墓があってその下には遺体が埋まって居る事が多くありました。死者祖霊になっては桜の木に依って花を咲かせ、その年の豊作を実現してくれると信じられたのでしょう。
 
こうした桜の一つに奈良宇陀の又兵衛桜があります。
場所は昨日書いた室生口大野の弥勒磨崖仏から遠くはありません。
伊勢道から少し山に入った谷戸ににあります。
谷戸の底に渓流が流れていて、棚田が広がっています。発地や白秋峡の桜と似たロケーションです。
でも又米兵衛桜が人気なのは、又兵衛が戦国時代の豪傑でありその死に際の潔さにあると思われます。
後藤元次は黒田官兵衛の家臣として仕え黒田八虎の一人に数えられます。
朝鮮出兵や関ヶ原の戦いに参戦し黒田官兵衛死後は黒田家から決別します。
大坂の夏の陣では大坂方につきます。徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊に交戦します。敵方が既に国分村まで進出していた場面で、敵との中間にあった小松山に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次を討ち取るなど、孤軍で奮戦し賞賛されたました。。
そこで討ち死にしたのでしょうが、伝説上は英雄は死んでいませんでした。豊臣秀頼を奉じて飽く迄徳川に反抗します。
又兵営衛の屋敷は宇陀にありました。村を見下ろす古舘を居城にしていました。古舘の石垣の上には大きな枝垂れ桜ありました。いまも見事に咲きます。農民は昔も今もこの桜を叉兵衛桜と呼んで、田植えの合間にお花見をしながら英雄を偲びます。関西一の桜木として人気も高く田圃は観光バスで埋まります。
イメージ 3
宇陀の又兵営衛桜向こうの山の中腹に又兵衛のお墓があります。
イメージ 4
叉兵衛桜、後ろの濃いピンクは花桃です。右手前は三椏です。 
イメージ 5
陀の股兵衛桜の咲いた風景
イメージ 6
大坂夏の陣から帰還して桜の樹下で憩う叉兵衛
イメージ 7
又兵衛桜の樹下でお花見する家族
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 

日本に生まれた幸い(東西地獄比較)

$
0
0
者が6月28日日本文化研究会のセミナーで報告する「地蔵信仰の系譜」の草稿を病床で練って来ました。それは好きな奈良町での出来事でした。そろそろ最終回にしようと思います。
インドで生まれた仏教はガンダーラで仏像を生んで、西域を経て中国に伝わります。
中国人はサンスクリット文字で記された仏典を漢字に写します。漢字で表された仏典は日本に伝わります。日本に伝わったお経の大半は中国人が考えたもの(偽経)でした。地蔵経も偽経の一つと思われます。最初にお経を読んだ日本人は全く内容が解らなかったでしょう。でも、時間を懸けながら理解し、日本化させてゆきます。
釈迦如来から阿弥陀如来にそしてその脇侍であった観音菩薩に信仰の中核が移って行きます、阿弥陀如来につき従った聖衆来迎図の一員であった地蔵菩薩が信仰の中央に位置するようになります。古代から中世に移ると、天変地異もあれば社会の混乱も増えました。末法の時代になると言った仏教の風説は真実味を帯びて来ました。律令制は機能しなくなり荘園や新興階級の地侍が土地を囲い込みます。
人々は混乱の中、現世に諦めて来世は極楽に往生したいと願望するようになります。阿弥陀浄土や観音浄土に往きたい願望が強くなる一方で、地獄への恐怖が勝って行きます。
中世はヨーロッパも日本も地獄思想が人々に浸透します。
封建領主にしてみれば、領民が土地を離れず、農業に勤しんでくれれば幸いです、封建体制は揺るぎ無いものになります。地獄への恐怖を教える事は領主にとっても教会にとっても幸いだったことだったでしょう。
イメージ 1
「死んだら地獄に落ちるか天国に行けるかどちらかです、洋の東西で同じような教えが普及していました。今を生きる私達もその影響を受けています。
2年前システィナ礼拝堂の最後の審判(ミケランジェロ)の修復が完了し公開されました。テレビでも週刊誌でも最後の審判が映し出されて私達は見詰めました。中央に立派な体格のキリストが居られてその脇にマリア様、その周囲を12使徒が囲んでいました。画面の上部には青い空から降りてくる天使が描かれ、キリストの下には審判を待つ人々が群れています。
審判を待つ人を誘惑して悪に落そうとするサタンがいます。
その下の段には地獄の様相が描かれています。
多くの人々がキリストやマリア様その上の天国に目を奪われるでしょうが、中世の一般の人はその手前下段の地獄図や最後の審判を待つ不安げ阿人々を見詰めたことでしょう。それその恐ろしさを自らに投影しました。
教会の地下には往々にして頭蓋骨が散乱していたりします。教会が墓地に建てられる事が多かったのでしょうが。地獄の恐ろしさを見せつけるのも目的てだっと想像します。。
イメージ 2
 教会の床に貼られたモザイクタイルがいこつの眼の窪みから蛆が湧いています。(サンマルコ大聖堂)
日本では小野小町の頭がい骨に茅芽が出て痛いイタ痛い泣いた話が思い起こされます。
今月の文芸春秋のグラビアページに下の絵がありました。
スク路ベーニ礼拝堂のフレスコ画です。画家はルネッサンスで有名なジョットでした。フィレンチェの高利貸しレジナルドは財を成します。でも高利貸しはキリスト教では悪です。レジナルドの息子エンリコは地獄で苦しむ父レジナルドの事を心配して、私財を投じてスク路ベーニ礼拝堂を建てて、その壁にジョットに依頼してゴルゴダの丘で磔刑されるキリストの絵を描かせました。無数の天使を描いて、父の魂も救済されたらよいと願った事でしょう。
イメージ 3
磔刑から下ろされるキリストの絵、無数の天使が舞っています。
 
今昔物語には、平将門三女如蔵尼の話があります。
会津のの慧日寺の話です。亡母の供養のために3千巻の経を奉納すれば亡母は地獄から救済されるというお告げがありました。息子は。苦心の末、この目標を果たすと亡母は地獄から救済され息子に御礼します。
このように遺族が死者に代わって善行をする事を供養と言い、日本では普通の話です。西洋には追善供養のような発想はありません。人間は生まれると一直線に死に向かいます。そして生前の行為を最後の審判に懸けられます。黒白どちらかです。黒なら地獄に落とされます。其処は厳格で情状酌量とか追善供養とか曖昧なものが挟まれる余地はありません。
そればかりか、日本では最後の審判の場面に強力な弁護人が登場します。弁護人が地蔵菩薩で、閻魔大王の前で弁護してくれます。
さらに閻魔大王は地蔵菩薩の化身であると信じられていました。何のことは無い審判長と弁護士が同一人で、死者を擁護してくれるのです。
という事は地蔵菩薩を信じていれば。たとえ、生前悪業を重ねても畢竟地蔵菩薩の浄土に救済されるのです。
日本の地獄思想は地蔵菩薩を考え付く事によって、全く怖くなくなりました。
西洋と日本とどちらが良いかと言えば微妙でしょう。西洋は厳しすぎますし、日本は曖昧すぎるようです。西洋は個人の責任や自覚が求められます。日本は個人よりも先祖とか、家族が重視されるきらいがあります。
筆者は単純に地蔵菩薩を考えてくれて良かった・・・思います。
地獄の思想だけでは息がつまりそうです。
地蔵の浄土が天井だけでは無く現世の秋の収穫時期たわわに稔った田圃にもある・・・、そう知ると、現世をユートピアにしようとする逞しさをおもいます。その逞しさが新田開発を成功させ、近世日本の発展の基礎を築いたと思うのです。(近世初頭に日本の人口は1千万ンンから3千万人に爆発します。地蔵和讃もこのころ作られました。)
イメージ 4
矢田寺絵巻の火炎地獄絵地蔵尊が救出して下さっています。矢田寺は紫陽花の名所でもうじき見頃になる事でしょう。
地蔵の話長くなりましたが読んでいただき感謝します。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

幸せを運ぶ黄色い笛

$
0
0
心原性脳梗塞を発症した私は、長かろうリハビリ生活の目標を一つは「友人とまた旅に出たい」としました。二つ目の目標は家族や友人と今暫く一緒に生活しその恩に感謝したい」と思ったのでした。前者については奈良町に生まれた地蔵信仰と言ったテーマで書きましたのでこれからしばらくは家族や友人への感謝を綴る事に致します。
最初は父の事です。今月13回忌の法要を終えました。
今回の突然の災いを私は「親不孝をしてきたからその報いだ」と直感しました。
親不幸と言っても私は親に反抗した事は全くありませんでした。敢えて言えば父の言いなりだったことが親不孝と思っています。
父が指示した中学・高校(栄光学園大学(慶応)に進学し、父のアドバイスに従い就職先(長銀)も決めました。
栄光学園はカソリックの学校でしたから、一方我が家は寺でしたので私は宗教について思い悩みました。私の理性はカソリックの宗教通教倫理が優れて正しい判断しましたが、私の感性(情緒」は寺の黴の生えそうな暗闇を好んでいました。ですから大学生になっても葬式仏教の一員として木魚を叩く生活を続けていました。その結果でしょう、私は兄弟の中で外れた存在になっていました、私一人が倫理観が強く潔白性で正義感が強くなりました。栄光学園を中退する事も考えましたが踏ん切りも付きませんでした。そして就職は私の性格から預金集めの無い長信銀にするように奨められ縁あって長銀にひっかかりました。
でも、長銀の最晩年になって55歳を過ぎた頃長銀は破綻してしまいました。父は死の間際まで私の事を気遣っていました。父を最後まで悩ませたのは私が素直であった事であったのでした。私が兄の様に自己主張が強ければ父は心置きなく旅立つ事が出来田事でしょう。
 
我が家の庭の隅には今年も野蒜が花を咲かせ始めました。線香花火をさかさまにした様な可憐な花です。野蒜はラッキョウのような香りのする香草です。
この香りを嗅ぐと私は父を想い出します。
父は湯豆腐が好物で、湯豆腐には葱に代えて野蒜、を入れたのでした。
私は日中に野の出てバケツ一杯の野蒜を収穫しておきました。
イメージ 1
野蒜、もう花が咲き出しました。花は葱坊主みたいなものです。
 
 
夕暮れになると遠くから「ピーポー・ピーポー」ラッパの音が響いてきました。
お豆腐屋さんの鳴らす笛です。
「今晩はお豆腐をどうぞ・・・・・!」誘っているのです。お隣の集落に着いた頃私は母から100円札とアルマイトのお鍋を渡されて寺の門前の辻まで走ります。お豆腐屋さんは顔馴染みです。眼もとに皴の目立った叔父さんです。
自転車の荷台には檜製の桶が括り付けてあります。
イメージ 2
昭和30年代辻辻で販売していたお豆腐屋さん
桶の蓋をあけると中には未だ小切れしていないお豆腐がしまわれています。
我が家の夕食は今晩も父の好物の湯豆腐です。
アルマイトのお鍋にサイコロ状に切られたれたお豆腐が浮かんでいます。
そして、野蒜が一緒に茹でられています。
イメージ 7
野蒜は湯豆腐と一緒に茹で上げて、酢味噌を和えれば最高の酒の肴になり真っした。
イメージ 3
庭の隅で咲いた野蒜の花
イメージ 4
野蒜を堀上げればこんな風になっています。珠の部分が美味しいんです。(写真は京女ブログから転載させていただきましたhttp://www2.kyoto-wu.ac.jp/club/blog-kyoin/blog.cg...)
茹であがった野蒜を父は酢味噌をつけて戴きます。
今日は母も機嫌が良さそうで、お銚子を1本付けました。円い卓袱台の真ん中に電気コンロに乗った湯豆腐が、そして放し飼いの鶏が産んだ卵焼きが並びました。
美味そうに総てを食べ尽くした父は4お茶碗に番茶を注いで、飲み干します。「ご馳走様でした」湯豆腐2丁で、家族7人の笑顔が弾けました。お豆腐屋さんのラッパは「幸せを運んでくれた黄色い笛の音」でした。
イメージ 5
筆者家族の夕餉風景この頃が幸いでした。
イメージ 6
筆者の好きな山崎放代さんの歌。病院ではお豆腐は良く出るんですが、何時も豆腐独特の味が消える様な料理になっていて、びややっこが食べたくてこんな絵を描いてみました。これが人気で幾つも描いて病院友にプレゼントしました。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 

麦踏み

$
0
0
昨日は亡父の思い出を書きました。今日は亡母を書きます。
母は狛江の龍泉寺の長女に生まれました。
狛江駅の西側はもう、寺の境内ですから、私の生家盛徳寺とは較ぶべくもない大寺です。そんなお嬢さんが、戸塚の貧乏寺に嫁いできたのでした。お仲人は金竜寺((京王線金子駅時の大島住職様でした。
渋かろが知らねど柿の初契り
 
父も母も結婚して端初めてお互いを知ったのでしたから、初契りが甘かったか、渋かったか判りませんが、生前に訊いてみたかったものでした
しかも、嫁いで直に農地解放されてしまい、盛徳寺は寺領の過半を失いました。母は僅かに残った田畑を耕して家計の足しにしていたようです。一方では寺に婦女子を集めて裁縫や習字を習わせていました。それでも家計は苦しくて実家の龍泉寺にも、祖母の実家の実相院(世田谷」にも援助をして貰い、子供4人を大学まで卒業させたのでした。
でも、盛徳寺では檀家の方々が良くしてくれて、母に農作業の手ほどきをしてくれていたのでした。
朝露や百姓の手ほどき不馴れにて
この句を農作業を教えていただいた片岡さんのお婆さんに被露したところ、こんなエピソードを教えて戴きました。
ある朝母が畔で草刈りをしていた手が止まっていたのだそうだ、見れば草刈り鎌の刃先ににマムシが絡んでいる、片岡のお婆さんが鎌を取ってマムシの首を叩き切ったそうで・・・・、お嬢さんにとっては命がけの百姓仕事だったようでした。それでも、百姓仕事にも慣れてきたのでしょう。お嬢様も日に日に逞しくなったようです。
蕗の薹摘む時太き己が指
イメージ 2
蕗の薹
物置の前に二本の梨の木がありました。
梨の木の根元にドラム缶を出してお風呂に浸かっていました。
梨の実のたわわに野風呂楽しめり
 
学校の授業参観に、母は野良仕事から真っ直ぐ学校に来ていました。
教室の後ろにお母さん方が並んで子供達の授業を見守ります。
私は母が来るのが嫌でした
友達のお母さんは綺麗に着飾っているのに私の母だけが野良着で多少匂ったのでした、私は遠慮なく母に「少しは綺麗にして学校に来てよ!」文句を言ったらしいのです。
加えて母は腰が曲がっていました、田植えなどの農作業が腰を曲げてしまったようです。母は腰が曲がった事が遠因で内臓が弱く亡くなってしまいました。母の最期も家内が看取りました。
私の一番好きな母の句が次の句です。
 
子を背負い星を仰ぎ手て麦を踏む
 
母の腰を曲げた農作業の一つが麦踏だったのでした。
今が麦秋で麦の収穫期です。
大麦は穂先が鋭く、収穫すると体中がチクチク痛むものでした。
出も実らせるために大切な作業が麦踏です。母は早春譜を口ずさみがら黙々と麦を踏んだのでしょう。如月の早朝。未だ北斗七星が空に輝いています。
麦を踏めば霜柱が折れます。麦の若芽は踏まれて土に根を下せます。そして株が増えます。踏まれることによって麦は逞しくなって麦秋を迎えられるのです。
麦踏は子育てに通じるところがあるようです。
母が背負っていた子が私でした。
イメージ 3
麦秋間近の麦畑。群馬県は水沢うどんの産地で、麦の収穫が終わると忙しく水田に変わります
親の苦労は子知らず・・・、私は「もう少し綺麗にして学校に来てよ!」母に注文したのでした・・・。
下の絵はこの句を想い出しながら感謝をこめて病院で描いたものです。
麦畑は戸塚駅の近くk柏尾川の堰堤が正しいのですが、私は大好きな奈良の高畠に設定しました。新薬師寺や志賀直哉旧宅があったところです。
遠くの山が生駒山、奈良盆地の中央に興福寺の五重塔等が見渡せます。
好きな景色にご恩のある母の姿を置く事は嬉しくもあります。この絵が病院の患者さんの人気になって。同じ絵の注文が重なりました。
私静岡の興津清見寺に稚近いОお婆さんは共通するような思い出があるそうで、今ももこの絵を病床に貼ってくださっているそうです。
イメージ 1
麦踏をする音は母の姿を大好きな奈良高畠町の麦畑に置いて描いてみました。負ぶさっている子は幼い筆者です。
イメージ 4
平成6年父米寿に際して筆者が父のエッセーと母の句日記を製本したもの
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

結び文

$
0
0
沢文庫にある若草病院に転院したのは2014年1月10日でした、その日から退院した5月9日まで4か月間家内には毎日見舞いに来て貰っていました。
イメージ 3
「もう白梅が咲きだしましたよ」言いながら、庭の白梅の一枝を花瓶に生けて帰りました、数日後には豊後梅も咲き出しました、そして、椿や満天星(どうだん)アケビの花がとどっ届けられ、何時しか山吹に変わっていました。
何れも我が家の庭に咲いた花木で、主人は不在でも、花は健気に咲いていますよ・・・、貴方も病を吹き払って、芳しく戻って来なさいな・・・・、家内の想いが込められているものだろう。
私はベッドに残されて、花の香りを求めながら家内への感謝の思いを強くして過ごしました。花に文は結ばれていませんでしたが40年も共に過ごしてきましたので、結び文は無くても、思いは伝わります。
庭の藪に咲きし山吹は病も吹き飛ばせ
    君の励ましならむと、想えば有難きかな
以下家内の結び文の返事を口語自由詩の型で表現してみました。
イメージ 1
(思い違い)
健康な時には家に垣君が待っていることが当たり前と思っていた。
病気になっても君が毎日見舞って呉れる事が当然と思っていた。
でも、それが間違いであることに気づいた。白梅の香りに包まれているとようやく間違いに気づく事が出来た。
 
今日はイライラが積もって君に愚痴を言ってしまった。
ごめんなさい
これからは遊行寺の大銀杏の様に庵
あんな風に堂々と青空を向いて残りの人生を生きて行くことにしよう
 
(左手が動かないものの)
左手が動かないけれど左手は動かなくても
右手が動く事が嬉しい
字も書けるし絵も描ける
左半身が痺れていても話せないよりずっといい
話せなければ君とも心を通わせられないのだから
病気になって本当の優しさが解る
使える体を使って本当に優しい君と心を通わせられる
イメージ 2
 
(頑張って歩こう)
頑張って頑張って
落ち着いて落ち着いて
ゆっくりゆっくり
真正面を向いてせ背筋を伸ばして
体重を骨盤に乗せて
ゆっくりゆっくり
麻痺した左足出歩いてみよう
 
(何も要らない)
この先死んでゆくのなら
何も要りません。
この先死んでしまうのなら何も出来ません
でも、この先今暫く君と歩人生を満喫するんですから
先ず健康を取り戻したいと思うんです。
 
(涙は無尽蔵)
横になれば自ずと涙が零れてしまいます。
病院では辛い事があるから
愉しかった思い出を想い出すから
それに耐えるには涙が不可欠なのだろう
でも当分の間涙は大事にしまっておこう
家に戻って家族に君と団欒できる時までしまっておこう
感謝の言葉は見当たらないだろうから。
言葉に代えて涙で伝えよう
 
(沈黙こそ大事)
心は言葉にしたときには嘘が混じってしまいます。
本当に君に感謝言葉を伝えようとすれば
言葉では無くて唯黙って微笑んで
涙を落せば感謝の心は伝わる筈だ
微笑みは木喰仏のように
涙は普賢菩薩のように・・・・
 
(息子の一言)
息子が私の眼を見て言いました
「お父さん良い人と一緒になれてよかったね!」
私は真面目になって言い返しました
「当然だろう、お母さんには感謝しているよ」
でも、そのおかげで、お前も生まれたし、
お前も二児の父親になれたんだろう、お前は私とお母さんに感謝資するのが道理だよ」
 
「二本足の猫」
自動車に轢かれて野良猫が二本足で歩いていた
その姿があんまり滑稽だったので
ついつい笑ってしまった事があった。
でも今の私は野良猫全員から笑われてしまう事だろう。
 
(死について解っている事)
死に浮いついて私は未だ解っていない何故ならまだ死んだことが無いから致し方ない
でも解っていることが一つだけある
私がこのまま死んだら君を始め家族が心の支えを失ってしまうだろう。
私が死んだら時計の文字盤に正午の印が無くなってしまう事だろう。
そんな空白は君には耐え難いだろう。
だから私の責務努めは残された人生一途に生き抜いて生きようとする人間の素晴らしさを示す事。
死は葉っぱの裏で表には生がある事を身をもって示す事であろう。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

病の克服を友人への想いに託して

$
0
0
1月26日病院に日本文化研究会の同期生伊藤君富田君両角君安倍さんが見舞ってくれました。
4人部屋に来客と、私と家内を含めて6人は入りきれないので、病院の待合での歓談になりました。
実はこの日は午前中に長男家族(孫一人。お腹の孫一人/4月末に誕生)の見舞いがあり、、私のベッドには来客が多くて、嬉しいものの相部屋の患者に気が引けていました。
でも、歓談しているときは驚くほど早く過ぎてしまって、一人ベッドに残された時の侘びしさは耐えがたいものがあります。
イメージ 4
海蔵寺薬師堂の薬師如来に私の回復を祈願してくれました。
友人同期生は午前中に北鎌倉から、扇ガ谷の海蔵寺を参詣して、薬師様にお祈りしてきてくれたそうです。海蔵寺ではもう梅がほころんで来ていて伊藤君が学生時代教えてくれた通りの「八木重吉の梅一輪」を確認したそうです。
梅一輪一輪ほどの暖かさ」(嵐雪) 
 「ひとつの気持をもっていて 暖かくなったので 梅の花がさいた その気持ちがそのままよい香いにもなるだろう」(八木重吉)
八木重吉を教えてくれた伊藤君に感謝して
吾 今生わの際(いまわのきわ)にありても、忘れまじ君が教えてくれし「梅一輪」の歌
 
その晩ベッドで横になって、今日一日の事、友人の事を思い返していると、次の歌が出来ましたた。
心より励ましてくれる友ありてぬばたまの夜は明けならむかな
ぬばたまの夜は病院の暗い長い夜の事であり、私の病気(脳梗塞」のことであります。
私はこれからは友人の励ましを頼りに病気を克服してゆきます、そんな覚悟を歌に託しました。
そこで、礼状にこの歌を添えて送った処、安倍さんから墨黒々と毛筆で書いていただいて届けられた。
私の愚作も安倍さんの能筆にかかると名作に変わってしまって、壁に貼って満更では無く飽かずに眺めて過ごしました。
私には友人達の「その通りですよ!エールが聞こえてくる思いがしました。
イメージ 1
安倍さんが拙歌を書にして下さいました。
私は友人と旅をすると必ずアルバムに整理しておきます。そのアルバムを病室に持ち込んで眺めていました。
昨年の5月には安曇野に同期の伊藤君富田君両角君と出かけました。水鏡の田圃に北アルプスが映って梓川の水辺にカキツバタが咲く景色を見ながら、道祖神巡りをしました。もうじき今年もその季節がやって来ます。去年見ておいてよかった・・・しみじみ思いました。
イメージ 3
安曇野大王山葵田辺りの水辺は杜若が咲いていました。
穂高岳の麓の宿で、4人で歌作に励んだのでしたが、今はベッドの上で想い出しながら歌をひねってみました。また歌に詠んだ道祖神の絵を描き始めました
みすずかる信濃の国の道祖神
今年も稚児らに居ろ売ら色塗られ杏の下で手を握り合いたらむ
 
親友と探しあぐねし道祖神
睦みし姿に歓声空に響きたり
 
銀輪のセーラー服の裾翻し
高の神も悪戯が好きなり
イメージ 2
正面が情念岳右が穂高岳、高校生は自転車で通学しています。山風が吹いて爽快です。山風が早苗の穂先を揺らし、水鏡に映った山脈を崩して行きます。
早苗を植え終わりし水鏡
アルプス崩して早苗揺らして
山風の渡る
両角君は今年の4月25日の観桜旅行で水上発知の枝垂れ桜を詠じて次の様に歌ってくれました。美しい枝垂れ桜の樹下に地蔵尊が祀られていて、お地蔵様が善男善女を招いているように見えたのでした。
私と同期生とは里山を歩き回って石仏を巡って青春を過ごしたのでした。
あり招くや花の地蔵尊
イメージ 5
左上の雪山が常念岳道祖神は子供達が馬守り、子供達の守護神です。
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 
 
 
 

1生2生

$
0
0
私が長銀の福岡支店に勤務していたころ、サラ金会社の三洋信販が公開しました。
創業オーナーの椎木 正和氏は警察官だった人で様々な苦労を経て、消費者金融会社を立ちあげっれていました。公開のお祝いに何を用意しようか?考えた挙句に松原 泰道師に揮毫をお願いする事にしました。松原師は当寺も高名なお坊さんで「南無の会」を主宰し般若心経入門などのベストセラーがありました。
慶応大学三田校舎の西側のお寺の方丈で師が南無の会の一員であった椎木氏の自社公開を喜ばれて、机上で筆を運んでいただきました。見詰める私の眼前で(一1生二生/いっせいに生書かれました。尋ねると。人間は生を受けて二度生きるという事だよ、一度は在家で2度目は出家して仏門で生きるというのが表の意味ですが、椎木さんはこれからは公開会社の舵取り、仏に仕える気持ちで働いて欲しい…そんな期待ですよ」穏やかな口調で話されました。私は書きあがったばかりの書を押し頂いて、表具屋さんに向かいました。
 
イメージ 1
そんな三洋信販でしたが近年はプロミスに公開買取されて、同グループに入り、SМBCグループの傘下に入りました。段々企業もつまらないものに見えて来ます。資本の論理には抗しがたいものがあったのでしょう。昔から科学や資本は冷たいものでも宗教や心は温かいものです。人間の前半生は科学を信奉し企業戦士で過ごしますが、後半生は宗教や心を大切にするものです。
松原師も「これからは公開会社のトップなんだから社会的な責任を大切にして品よくしなさい」といった意味以上に「心を大切にしなさい」アドバイスしたのものでしょう。
イメージ 2
 
人生は一回きりだ、誰でも一回きり、度死んでそれでおしまいです。二度三度生まれ変わる事は出来ません。養老孟司氏は人間の細胞は7年で全部入れ替わると言われています。ならば私はもう10回も身体は死んでしまって、心だけが続いていることになります。
「死滅するのは身体だけで、心は永遠だという事にになるのでしょうか・・・?」
私は脳梗塞を患い、今は体の左半身が死んだような状態で居ると、少し考え方が変わって来ます。。前半生は死ぬことなんて意識もしませんでした。「死を考えずに生を邁進した前半生と脳梗塞で生は死に裏打ちされていると意識し始めた後半生と随分考え方も生き方も変わって来ることでしょう。
「一生2生」は私への箴言だったように思えてくるのです。
後半生は死に裏打ちされた生を全うしようと思います。
今まで前半生は他人に感謝する事は滅多にありませんでした。入院して「有り難う」と何万回と言いました。後半生は「他人や他の生物に有難う言う為に生きることになるでしょう。家族や友人に頼りながら、感謝しながら「有難う」生きる事の方が、一人で活きるりもずっと価値があり、人間の本来の生き様であると思われます。
檜の大木は前半生2000年を室生の山中で過ごしましたが後半生は法隆寺の柱になり過ごしてきています。。私達は檜の前半生よりも後半生の2000年に惹かれます。
イメージ 3
美味しい野菜に有難う野菜も収穫される眼の前半生よりも食べられてしまう後半生に意味がありそうです。
イメージ 4
庭墨で収穫される野蒜や青紫蘇に有難う
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 

君が手折りし沈丁花

$
0
0
2014年2月3日は朝から大雪でした。
私は若草病院のべっどに横たわり作秋に友人らと旅した奥能登に想いを馳せます。天気予報では奥能登はずっとお雪だそうです。
(楽しかった奥能登の旅を想い起して慶願寺」
山里のみ寺を守りし坊守は如何に過ごしておわせしや
米粉シフォンケーキの味忘れ難し
今宵は和尚と二人で楽しまれん
イメージ 1
(白米千枚田
千枚田拓くも守るも命がけ
沖行く北前船も船板一枚下は地獄なり
北斗の光り
見上げる眼
小夜山風に海鳴りだけが轟きて
波の華、大雪ばかりが吹き飛ぶなり
 
藪椿無縁の仏に散り落ちて
此処は八百比丘尼の里なり
 (高山右近のセミナリ跡にて)
紫陽花は色褪せてゼウスの塔に散りかかり
キリシタンの夢今に伝えり
残菊に翅を休めし立揚羽
この雪を如何に越さんとするのか
(総持寺祖院にて)
祖院の庭は掃き浄められ
風も吹かずと散る紅葉
彼岸の世界も斯くありなむ
 
夕刻窓の外から私を見つめる視線を感じる。振り向けば昨年今頃脳卒中で逝きしМ君成り
友よ心配してくるるは嬉しけれど
君も知りし吾が皴が妻なればいま暫し吾等に時間を与えよ
目線を病室内に移すと、花瓶に生けた沈丁花あり
数日前に先輩nT夫妻が見舞われ、「庭に咲き出した沈丁花です・・.]
生けて帰られたものだ.
もう数日芳香は衰えず、春を知らせ続けています。
花瓶の底に白いものが見えます。
何時しか沈丁花は切り口から根を生やしているんです。
私は改めてその生命力に感服しました。
イメージ 6
庭先にて君が折られし沈丁花如何なる見舞いにも勝れり
君帰られて花残るれり
香りに添いておりふし蘇りたり
私は改めて家を思い起こしました。
この大雪で庭木は折れにだろうか?
君子蘭も春蘭も生き伸びているだろうか?
君子蘭は新婚時代何も無くて戯れで購入した鉢が2.鉢分けしてきあものです。
 暑きを凌ぎ雪に耐えて今年も咲かなめ君子蘭主帰る日を首長くして待ちたらめ
イメージ 2
h筆者新婚時代に遡る君子欄、筆者のの退院を玄関先で隊列して迎えてくれました。
蘭の脇には呉竹が自生しています。
私の瞼には呉竹の笹の葉に雪が降り積もり、次の瞬間に身をかわしてドサッと雪を振り落す姿が想像されました。
呉竹は積もりし雪をば身を翻し、ドサッと落として元の通りに直立(た)てり
吾も斯くありたし
イメージ 5
我が庭の呉竹、毎年無数の筍が芽を出しますが、食べられません。竹になる前に切り倒してしまいます。
大雪の翌朝、快晴なり、
今朝由比ヶ浜を歩けば桜貝を沢山拾えるであろうと想像して
遥々と波が届けし桜貝
朝に拾いて君に届けむ。
イメージ 3
毎年春先の台湾坊主と呼ばれる低気圧が相模湾沖を通過すると桜貝や和布が拾えました。
イメージ 4
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
荒飴絵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
荒編めて
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
以来
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
不幸が
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
線愛
 
 
 
 
 
 
 
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live




Latest Images