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京野菜には赤紫紫蘇が似合います。

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テレビのコマーシャルではありませんが、」連日の暑さが続くと無性に柴漬けが食べたくなります。
柴漬けは野菜に、ソーメンに豆腐に見た目も涼しく食欲も刺激されます。
柴漬けと言えば京都の大原です。
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見た目も涼しげな京柴漬け(出典:土井柴漬け本舗:http://www.doishibazuke.co.jp/)
大原の畑では、柴漬けの原料の紫蘇の収穫も終わって、今頃は聖護院蕪やお茄子が稔っていることでしょう。
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夏の健康造りは夏野菜を食べる事が第一です。お茄子大好きな筆者ですが最近は初めて見る茄子も目立ってきました。でも加茂茄子や大和の丸茄子が食べたくなります。
 
柴漬けは「柴」とは書かないで、紫葉漬けと書いたそうです。寂光院に隠棲された建礼門院に大原の里人がお野菜を届けて、紫蘇に茄子や瓜を漬けて届けた処とお喜びになられ紫葉の漬物と名付けられたそうです。
建礼門院様も柴漬けの赤紫の色を愛でられたのでした。勿論乳酸菌による酸味も好まれたのでしょうが・・・・・・。
そんなわけで大原は日本のハーブ「紫蘇」のルーツでした。
寂光浄土に相応しいお漬物で、今頃は蜩の蝉しぐれの中で美味しく漬かって醗酵していることでしょう。旬の食べごろは冬です。
我が家は今年は茗荷の当たり年のようで、取っても後から後から、芽(実は花)が吹いてきます。食べきれません。紫蘇に漬ければ良さそうです。
分葱の買い置きが無ければ庭先の野蒜を取って来て代用します、大葉や三つ葉共々我が庭の伝統ハーブも活躍しています。
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毎朝4本程度推移隠される庭の茗荷
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庭先の野蒜線香花火のような花が可愛いものです。薬味に使います。
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庭の三つ葉もう野生化しているので少し硬いのが欠点です。この他青紫蘇も自生しています。
我が家は他所様と同じように西洋ハーブもプランターで栽培していますが、西洋ハーブの活躍する場は限られています。我が家では日本ハーブで充分ですから。
町内にある男女参画フォーラムの講堂で映画会が催され、NHKで放映したの「ベニシアさんの四季の庭です」が流されます。
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ポスターには庭先のハーブを採集して籠に積んで嫣然として立っているベニシアさんが映っています。コピーには四季の彩りの中で穏やかに生きるベニシアさんのドキュメントと案内されています。
筆者は思います、八ヶ岳の裾野や那須高原なら洋風ハーブを満喫した生活も解りますが、何も京野菜のルーツ大原で西洋ハーブライフは理解し難いものがあります。
日本のハーブを使ったライフスタイルこそ見てみたいものです。何故なら日本ハーブは何処にでも目に付くものでありますから。
ベニシアさんと同じ竹笊で家内は梅干しを干しています。
ベニシアさんの様に優雅ではありませんが、生きる知恵逞しさは遥かに長けているように思います。ベニシアさんも良いんですが「日本野菜には日本ハーブ、おばあちゃんの知恵にもフォーカスしてほしいものです。彼の世の建礼門院様も西洋ハーブライフを訝しくお思いの事でしょう。
 
 
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デイサービスのホスピタリティー

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私は毎週火曜日と金曜日にデーサービスに出かけます。
施設名は「南横浜マナーハウスhttp://www.k2.dion.ne.jp/~spic-net/」です。主事業はグループホームで、看取りまで親身にしてくれることを長所にしています。
町内にこうした施設がある事は自慢でありますから、私は新参の施設ではなくこの少し古風な施設のサービスを受ける事にしました。
朝9時半ごろにはワゴン車で迎えに来てくれます。昨年はゴーヤで囲まれていましたが今年は朝顔がグリーンカーテンになっています。
私が着く頃には朝顔はもう暑さで萎れ気味ですし、帰宅する頃は西陽を受けてぐったりしています。一度は綺麗な姿を見てあげたいと思っていますが・・・・。
施設ではお風呂を使って、お昼を戴いて、ウォーキングと発声のトレーニングをして、歌を歌って、ゲームをして遊んで帰ります。
私はゲームも歌も苦手なので、その時間は自参した本を読んで過ごします。
多少の我儘は聞いてもらっています。
脳梗塞など高齢者固有の病気を患った人が集まっています。客は相互に励ましながらお互いに気づかいをしながら、半日を過ごします。
施設に着くなり「もう、帰りたい」と「帰るコール」お婆ちゃんもお得意さんです。お風呂に入るなり「ぶっ殺してくれ」と叫ぶ「死にたい願望のお婆さんも居ます。お婆ちゃんは綺麗になると、湯棺してもらった気になるのでしょう。死に顔こそ綺麗でありたい思うのが「女心」なのかも知れません。勝手気ままなお婆ちゃんを見ていると、楽しくなります。BGМに島倉千代子の「人生いろいろ」が響いてきます。私も含めて勝手気儘な高齢者を預かって満足させるのですから尋常のホスピタリティーでは務まりません。
 
私はサラリーマン時代イギリスには何度も出かけました。仕事はロンドンの中心街でしたから、ホテルもシティーの近くを選びました。ホテルは代金は高いし食事は不味いし、狭いし最悪だと思っていました。
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地方の民宿マナーハウス、中世荘園の量巣の館をホテルに再利用したものです。
旅人は田園風景の中でホテルのホスピタリティーを心行くまで楽しむことが出来ます。
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マナーハウスの外観は石積みで古風ですが中は近代的な快適な空間です。
 
でもイギリスには流石と唸らせる宿があります。それが「マナーハウス」です。
長閑な田園風景が広がる湖水地方(コッツウォルズ)は羊が牧草を食んで、足元をピーター・ラビットが走り回っています。
そんな中に貴族の館を再利用したカントリーハウスが点在しています。
日本の里山にも庄屋や百姓代の屋敷があると泊まってみたくなります。
マナーハウスそんな欲求を満たしてくれるのです。
mannersと言えば行儀・作法の事を指します。テーブルマナーとか パブリック マナーを想い出します。
イギリス人が中世の荘園の館を民宿に再利用し始めたのにはテーブルマナーを広めようとするのではなく、ジェントルマンのマナーを伝えたい,と言った意欲が込められているのでしょう。
ホテルは旅人に『スロー来ライフ」を提言してくれます。自然を大切にしながら自然の懐に抱かれて時間を過ごす豊かさを改めて教えてくれます。
牧場の中に開いていた兎の穴を使ってゴルフを始めた事実をさりげなく自慢します。
手作りのパンや庭のハーブを使った料理でもてなしてくれます。オーナーは旅人の美味しいといった評価を心待ちしています。
 
南横浜マナーハウスはこんなイギリスのマナーハウスのホスピタリティーををグループホームの基本理念にしようとして始まったのでしょう。
施設の廊下には石積みのマナーハウスのある風景写真が懸っています。
私は廊下をウォーキングトレーニングするたびごとにイギリスの良さを思い起こします。
7月29日は土用の丑の日を二日過ぎていました。その時のランチが次の写真です。
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これがランチですホスピタリティー溢れるお料理です。マナーハウスの看板です。
 
うな丼というより鰻の乗ったちらしず寿司です。
小鉢には「冬瓜のソボロあんかけ」ともう1鉢「オクラとメカブのノ酢の物」が用意されています。冬瓜は今が筍ですし、オクラもメカブも体に良いのです。
土用の丑の日鰻を食べそびれた人には嬉しい昼食です
。筍の身体に良いご馳走がが並びます。みんな「美味しい美味しい」言って、心を込めて作ってくれた食事に満足します。これで実費800円です。
戸塚の上倉田は、中世は名門御家人和田一族の荘園でしたが、今は横浜の郊外住宅地としてグループホームや高齢者施設が林立しています。そんな中で「マナーハウスの運営方針や運経営目標は出色です。地域住民としては自慢です。
さあ、これで今朝のブログもアップしました。もうじき迎えの車がきそうな気配です。
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この日のランチは鯵の龍田あげと大根サラダにヒジキ、和布ののおすましでした。筆者の食事制限は一日16000カロリー一食5000キロカロリーですからご飯少な目になっています。これで3000キロカロリーだそうです。
 
 
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命の形

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私は毎朝ブログをアップしてNHKの「全国こども科学電話相談室」を聞きながら読書しています。昨日8月5日には出色の質問がありました。質問したのは京都の小学二年生の女の子です。「命はどんな形をしているんですか?」答えは如何に?耳をそばだてて聞きました。「この電話相談は科学相談室ですから断りを入れてから、「命は時間です」答えられました。私が学生の頃は「山びこ学校」で有名な無着成恭先生が居られてこうした哲学的な質問にも明快でユニークな回答をされていました。私は科学者を自負している先生の受け答えに物足りなさを感じながら、自答してみました。
「お嬢さんはどんな形だとと思う?」
「ハートか金平糖のような星の形と答えるでしょうか?」「三角なら幽霊のお凸の上にありますし。勾玉なら祇園祭に並んでいます、三角や勾玉と思っていれば相当のお婆ちゃん子です。
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幽霊の額には三角があります。命の形はが三角だったのでしょうか?百鬼座禅図から
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勾玉は命の形と信じられたのでしょう。
私はの学生時代は音楽ソースはカセットテープ全盛時代でした、今ではCDです。
カセットテープは音がソフトであることが見直されて昨今人気が復活しているようです。でも、素材がビニールテープですから熱による劣化が激しく、経年劣化して、歪んだ音に変わってしまいます。アナログですから、有限で数年で使えなくなってしまいます。使えなくなった状態が死ですから、カセットの命の形は遺伝子の並んだ染色体のようなもんでしょう。カセットテープのの音がソフトで良いと思うのはカセットテープが有限でいずれ死を迎えると知っているからかもしれません。有限である愛おしさが良い音と思わせているです。
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筆者はカセットテープを未だ使っています。それは音源がテープだからです。そしてテープの方がソフトで聞きやすいと感じています。
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居間に設置した仏壇コーナーにカセットテープを保存していますが、古くなってもうテープには歪みが生じて来ています。キリスト・神仏混交している仏壇コーナーは我が家族のメンタルティーを現わしているようです。
子供科学電話相談室で「命のコーナー」を用意したのは先の佐世保での悲惨な事件があって「命の教育」が改めて重要と思われたからでしょう。そこで私は改めて考えてみました「命の形」を・・・。
 
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油蝉の亡骸もう蟻が群がってかいたいにかかっています。
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これはスズメ蜂の巣です此処から新しい命が生まれると考えれば丸い形が命の形かも知れません。
庭を見れば数匹の蝉が亡骸を地表に晒しています。
亡骸には蟻が群がってせっせと解体して地中に運んでゆきます。庭先でけたたましく啼いているのが蝉の命の現われなのでしょう。そして、地中で17年地表で1週間と言った儚さです、だから、時間が命なのです。
蝉君も地下で17年間耐え忍んで地表に出てたった、1週間で命が絶えてしまうとは思っていなかった事ででしょう。さすれば地表に出た瞬間からら全身を震わせて恋を叫んでいるんでしょう。その結果、雌の産卵器から地中に新しい命が産み落とされて、17年後成虫が地表に踊りだしてきます。ですから「命は時間です」の答えは正解でしょう。
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庭の空蝉蝉の命『成虫」。これは命の抜け殻ですから、これが命の形ですと説明してもお嬢さんは納得してくれたかもしれません。
 
命は時間ですからお嬢さんも夏休みは命を燃やして、元気に楽しく過ごしましょう・・・、そうすれば額からは玉の汗が吹き出し、目からにはお星さまが輝きますよ。それが命の形です。
私も後どれ程の時間があるのか解りません。解らないからこそ、「神のみぞ知る時間だからこそ。友人やと家内と過ごし時間に命を形に変える試みを続ける事にしましょう。
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建長寺の人雷戦士墓地翌檜の樹下にある母子像これも命の形です。
 
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「忘れ草」と「勿忘草」

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今年ももう半分以上が過ぎて今日(7日)は立秋です。
このうだるような暑さもそろそろ峠を越してほしいものです。
ラジオでは故郷歌謡が続けて流されます「お盆の帰省が始まっているのでしょう。
家に居ると季節の進行に残されてしまいます。
。鶉小屋の日陰に今年は朝顔を鶉小屋の正面に作りました。草花の水遣りは家内の仕事になっています。
昨日は「今年最初の朝顔が咲きました」家内が悦んでいたので、今朝小屋の前を見るとまだ蕾つぼみばかりです。朝顔もッ面倒を見てくれる人と見てくれない人と区別しているようです。
向かいの土手は(寺の駐車場)綺麗に刈られてしまいました。
お盆にはお墓詣りが多いので草刈りに精を出したのです。
お蔭で藪萱草の花は消えてしまいました。お墓詣りの人にも御墓から自宅へ帰省する霊(たま」も落胆していることでしょう。
私は土手の萱草で良く遊びました。早春に鶯色の葉っぱをいち早く伸ばすので良く目立ちました。まるで草の伸びた様が雛様の着物の襟のようなので、流し雛・折り紙雛にして遊んだのでした。
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これが萱草の若芽です。写真の様に侘助の花を顔に見立ててお雛様を作って遊んだのでした。
 
私は家で「大磯のマリア道の藪萱草に思いを馳せます。去年は見事に咲いていました。今年も咲いているのでしょうか?。
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大磯マリア道の藪萱草の花。右側の農道が修道院に続いていたのでマリア道と呼ばれます。黒い法衣を召されたシスターが汗を拭き拭き通われていたのでしょう。正面に海が見えます。
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マリア道の藪萱草
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大磯国道1号線松並木の藪萱草
 
ワスレグサ(忘れ草)は、花が一日限りで終わると考えられたため付けられた名です。ならば朝顔だって「忘れ草」です。、中国では萱草と呼ばれ、「金針」、「忘憂草」などとも呼ばれました。 広義には、ユリ科ワスレグサ属(別名キスゲ属、ヘメロカリス属)のことを指しす。ニッコウキスゲや「ユウスゲ(夕萓)」も同じ科であります。萱草の方が緋色で色が濃いのです。どれも猛暑の最後を告げる花です。夕萓と言えばもう秋風が吹き出します。
 
万葉集にはこの花が良く歌われています。
「忘れ草 我が下紐(したひも)に 着けたれど 醜(しこ)の醜草(しこぐさ) 言(こと)にしありけり」大伴旅人
(大意」・・・忘れ草を私の肌着の紐に着けたけれど、何の役にも立たない大馬鹿なバカ草め。忘れ草なんて、名ばかりであったよ。・・・
忘れ草 我が紐に付く 香具山の 古りにし里を 忘れむがため
(大意)忘れ草を私の腰ひもに付けてみた。香具山のあたりのあの懐かしい里のことをわすれようとするために。大伴旅人
上記は何れも大伴旅人の作であります。旅人は名門大伴家にありながら太宰府に仕わせされます。明日香の香具山の麓が故郷だったのでした。
貴方の事を忘れて私の憂さを晴らしてしまおうと、下着の紐に「忘れ草を」結わえてみたものの「忘れ草」何て名ばかりで、少しもあなたを忘れられません、恋しさが募るばかりです・・・・そんな歌でしょう。恋人は故郷の香久山の幼馴染だったのでしょうか?
太宰府から故郷の飛鳥に思いをはせて作ったのでした。丁度い今頃の季節に・・・。
 
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鎌倉明月院道の「忘れ草」
「忘れ草」というと私の世代は菅原洋一の歌った「勿忘草を貴方に」のメロディーを思い起こします。https://www.youtube.com/watch?v=oPc4t3tNePwユーチューブ
別れても別れても 心の奥に
いつまでも いつまでも
憶(おぼ)えておいてほしいから
幸せ祈る言葉にかえて
忘れな草をあなたに あなたに
と切々と歌われました。
丁度今頃にスイスかオーストリアのアルプス高地に咲いていることでしょう、背丈の低い葉に少し綿毛のある植物です。我が家の近くでは大船フラワーセンターで栽培されています。「忘れ草」は緋色であるのに対し「忘れな草」はブルーです。次の説話がある事からブルーはドナウ川の水の色の意味なのでしょう。
 
騎士ルドルフはドナウ川の岸辺に咲くこの花を、恋人ベルタのために摘もうと岸を降りたのですが、誤って川の流れに飲まれてしまいました。ルドルフは最後の力を尽くして花を岸に投げ、「(僕を忘れないで)という言葉を残して水中に消えてしまいます。残されたベルタはルドルフの墓にその花を供えまいた。そして、彼の最期の言葉を花の名にしたのでした。
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これは園芸種の「忘れな草」です。高山植物の忘れなく差とは表情が微妙に違うと思いますブルーはドナウ川の水の色でしょう。。
「忘れ草」「勿忘草」名は似ていますがの東西で随分と違います。勿忘草は否定の意味の「勿/ナ」がついている以上に違いです。
昨今、男性は大きくいって二分されているようです。「草食系男子」「肉食系男子と・・・。現代の評価は総じて草食系は嫌われているようで、肉食系が比較上位の評価を受けているようです。
でも万葉集の事大の男子は「憂い事なら忘れてしまえ」と言った肉食系の匂いを感じます。中世ナイトの方が草食系です。男女の関係は文化で随分違ってくるようです。
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鎌倉八幡宮の東露地に咲いた「忘れ草」この後この築地塀には彼岸花が咲きます。向こうの蔵に絡んでいるブルーの花はルリマツリ(瑠璃茉莉)です。今晩から八幡宮はぼんぼり祭りです。
 
 
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「蝉」と「蟻」

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今日も午前中は暑くなると言いますご午後からは台風11号が接近するので要注意との事だそうで、暑さが山を越すのは来週でしょうか?
あんまり暑いので鶉君も夏バテで卵を産んでくれません。ワン君は満天星(どうだん」の樹の根元を掘って体を半分土土中に埋めています。ワン君の暑さ対策なんでしょうが満天星んの樹は迷惑そうです。庭中の地面に小さな穴が開いています。蝉の蛹が這い出した地下トンネルの出口です。穴を見れば、古くはベトナム今はパレスチナ・ガザを想い起します。
戦地は暑さを通り越していることでしょう。
イザベラ・ バードの「日本奥地紀行」を図書館から借りて読みました。 1878年(明治11)6月から9月にかけて横浜から 蝦夷地までの旅行の記録で、明治維新当時の日本の地方の住居、服装、風俗、自然 を良く観察していられます。
日本の暑さにも閉口し、蝉しぐれにも驚いていました。故郷のイギリスではセミは鳴かないようです。
 
私は暑い暑い悲鳴をあげながらも、烏よりはましだろうと思います。
烏は私より遥かに太陽に近くに居て、しかも真っ黒なんですから、
「神は自分をなぜに黒くした!、お蔭で嫌われるし、暑くて困る」・・・・、泣き言を言って居ることでしょう。
でも烏は本来照葉樹林の下闇に住んでいたものです。
そう、八咫烏の様に熊野の樹林に居たから黒いのが保護色だったのです。烏が勝手に森林から出てきて、ヒートアイランドの都会に出てきたから直射日光を浴びているんです。「文句が在るのなら森に戻れ!」突き放されるでしょう。
都会に移り住んで突然変異で白いカラスが産まれたら白いカラスが優勢になる事でしょう。
でも黒い烏は暑くて困ったら川に飛び込んで水浴びすれば少しは冷える事でしょう。恨むべくは「蟻」です。蟻は真っ黒い上に地表に這いつくばっています。地表は50度もあるでしょうから、黒ゴマの様に焼けてしまう事でしょう。
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真っ黒いカラスも照葉樹林の下闇では保護色です。
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水浴びする烏、烏は羽根に着くダニを落としているので、熱した体を冷やすのは序です。
 
夏の蟻を好んで観ていた人とが居ます。画仙人と呼ばれた熊谷守一さんです。
池袋にある守一美術館が氏の住居跡です。その庭に茣蓙を持ち出して茣蓙の上に寝そべって半日蟻さんを観て居られた。歩きはじめるときどの足から動かすか、ご令嬢(熊谷榧氏)は「お父さん日射病になりますよ」心配されてたことでしょう。今なら熱中症ですが。
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 熊谷守一美術館の壁に移された蟻の図
先日土石流の被害に遭った南木曾の近く付知峡が守一の故郷で美術館が美しい里山にポツンと建っています。今度の台風で被害に遭わないか少し心配です。
 
 
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小さな穴は蝉の唆長野這い出した地下トンネルの出口です。その脇に蟻が行列して進行しています。
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蟻とキリギリス:出典ウィキペディア
蝉君は地上に飛び出した1週間ほどで死んでしまいます。地獄に17年忍耐させて、愉しい天上生活は短くて遺伝子に悲惨さプログラムを刻まれたものです。
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地上に飛び出して僅か1週間ほどで蝉はしんでしまいます。
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子供達は蝉の亡骸を解体して巣に運ぶ蟻を見詰めています。守一さんの芽も粉だったことでしょう。
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一匹の蟻が数倍もある油蝉の翅を運んでゆきます。子供もあり君の力持ちに驚いています。
私はイソップ寓話「アリとキリギリスを想い出します。
16世紀初頭に宣教師によって「伊曽保物語」として「ウサギとカメ」等と共に伝来しました。日本の昔話の様に親しまれてきました。でも、「蟻とキリギリス」はルーツがギリシャにあったそうで、英語では「Theophylacti Simocattae scholastici」「蟻と蝉」だったそうだ、それがアルプスを越えると蝉が居ないのでキリギリスになってしまったのだそうです。ですから宣教師は「アリとキリギリス」としないで「蟻と蝉」に戻せばよかったのでした。その方が日本の子供には納得がいったことでしょう。
キリギリスの鳴き声は良いものではありませんし。
夏に遊んでいたキリギリスよりも蝉の方が実感に近いものがあります。
蝉は遊び疲れて望亡骸を晒して、蟻にが解体されている姿を良く見かけますから・・・。もう少し上手に歩けるようになったら池袋の守一美術館に出かけましょう。池袋には先輩のKさんがお住いですからお声を懸けてランチでも一緒にしいものです。
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秋にかけて大きくなるキリギリス。でも壊れかかったバイオリンのようで良い音色とは思えません。
 
 
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「長崎の鐘」に思う

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今日8月8日(金)は6日続いて日本中が鎮魂の祈りと不戦の誓い」を新たにします。そう1940年8月9日午前11時に長崎に原子爆弾が投下されたのでした。
私は[ラジオ深夜便]に続く「ラジオ朝一番を訊いています。
ラジオからは「藤原一郎の歌う長崎の鐘」が響きます。
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
」のフレーズに惹かれます。
こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の 鐘が鳴る

召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の 鐘が鳴る

こころの罪を うちあけて
更けゆく夜の 月澄みぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
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浦上天主堂、小此処の鐘が響いて「長崎の鐘」に詠われたと思われます。
この天主堂は江戸時代のキリシタン弾圧(浦上崩れ26聖人に始まり島原の乱と、悲しい歴史を見詰めて来ました。
1945年8月8日午前11時、鈴木貫太郎内閣総理大臣は昭和天皇のご臨席を戴いて閣議を開催していました。当時の内閣総理大臣には民生上の権限はあっても軍隊の統帥権は、天皇に帰属していました、ですからポツダム宣言を「受諾するか否か」の判断は昭和天皇にしかなかったのでした。
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今年も炎天下夾竹桃が咲きました。原爆被爆後最初に咲いたのがこの花だったそうで、日本人はこの赤い花と青い空を見るとあの暑い夏の日を思い起こします
既に6日には広島に原子爆弾が投下され、戦局が開ける期待は無く、「如何に上手に戦争を終結させるか?」それが鈴木内閣に課された命題だったのでした。
すでに山形有朋や伊藤博文など元老は居なく、東条内閣、小磯内閣の後を継いだ鈴木内閣は意思決定機能を欠いていたと思われます。「戦争終結」を口にすれば、本土決戦を主張する陸軍や右翼に狙われた事でしょう。盟友ドイツの降伏は伝えられロシアは日ソ中立条約の破棄を通告していました。そんな状況下の8月8日に開かれた御前会議では陸軍の発言が強く「戦争完遂」が決定されていました。8月9日連日御前会議を開催したのは鈴木内閣の二枚腰だったのでしょう。8月9日午前11時「最高戦争指導会議」を催されます。鈴木首相は「ポツダム宣言受諾已む無し」と意見を述べて、次々に大臣の意見を求めます。東郷外相と米内海軍大臣は「国体の維持を条件にポツダム宣言受託」に賛成します。他方阿南陸軍大臣はじめ陸軍系の指導部は自主的に武装解除をする」と主張し意見はまとまりません。会議の途中で「長崎に原子爆弾」が投下された報告がありました。この場に至っても陸軍の指導部は「戦争は負けていない」と主張し、海軍の「明らかに負けている」の報告に反駁する有様でした。鈴木首相は総辞職の動議にも動じず「自分には総辞職する積りはない」と耳を貸しません。そして昭和天皇の聖断を仰ぎました。午前11時51分昭和天皇は「私は外務大臣(東郷/ポツダム宣言無条件受諾)の意見に賛成である。私自身は如何になろうとも国民の命を守りたい」のお言葉を引き出しました。(日本の一番長い日)
ラジオは藤山一郎の歌声にに変わって朝長万佐男真佐雄氏(原爆ホーム院長」のお話になりました。
同氏は親子2代にわたって被爆者の病(白血病に寄り添ってこられたのでした。
お父様は長崎医科大学の医師として次々に担ぎ込まれる患者の対策に奔走されます。そして原爆投下後2日たってようやく自宅に戻られたのでした。自宅には奥様の姿は既になく、お台所には白い骨が待っていました。すべてを悟ったお父様はお骨を掬おうとします。しかし骨はさらさらと指から零れ落ち、形見にロザリオが光っていたのだそうです。
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ロザリオが背に刻まれた地蔵菩薩像(出典大磯澤田美紀記念館のグラビア冊子)
一時は被爆者で白血病を患う人も減って来たそうです。一時被爆者はもう大半が亡くなられたたからでしょう。でも最近は又白血病患者が増えているんだそうです。原因は遺伝子が原爆の放射能によって損なわれているからだそうです。こうした二次被爆者は精神的にも深く傷ついていて、精神科医師と共同で当たらくてはならないそうです。朝長氏にとっては原爆は母の命を奪った以上に憎く、「悪魔の兵器」と呼んでおられました。
私は歴史を学んできました。「長崎の鐘」の悲劇も原因は「無謀な戦争に」突入した事でした。軍隊の統帥権は天皇にあり、内閣のコントローの外にあった事、そして、正しい情報が軍部に握られ有効な意志決定機能がワークしなかったこと等思い当たる原因は幾つもあります。そして、日本の国が史上初めて原爆の被害を被った事ににとどまり、国家が存続したのには天皇の判断が的確であった事、そして天皇を補佐した内閣に胆力在って幸いでした。天皇の判断が無ければ我が国土はロシア領になり、国民はユダヤの民の様に彷徨っていたかもしれません。
昨今の国政を見ていると、情報を管理したがり、自衛隊の指揮権も閣議に優先させるなど、歴史の教えに逆行しているようで危険をと感じます。改めて昭和史を勉強したいと思います。
安倍首相に陸軍の体質を直感するのは私だけではないでしょう。ようやく靖国参拝を思い留まったようで安堵しました。
「国益は外交にある」もうグローバル世代には常識です。外交にセンスがあれば、情報に耳を立てていれば日本は戦争に突入する事はありませんでした。
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今日は大浦天主堂を始め長崎の教会ではミサがあって鐘が山谷に響く事でしょう。奈良や京都の寺院でも鎮魂の鐘が響いています。
 
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「母」の手紙

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最近になって長銀の先輩2氏から相次いで書籍が送られてきました。一冊は「母の手紙と題して私が初めて融資担当者として札幌に勤務した時の上司(課長)だった北原さん。もう一冊は中堅企業の融資担当役員だった渡辺さんの書かれた「私の80年」お二人とも大変にお世話になった方で、ろくに文章も書けない、人前で意見を述べられない私を一著前のサラリーマンに鍛えて下さいました。学校の先生には教わらなかったスキルを鍛えて戴いたのでした。多分私が最も成長したのは20代から30代の前半まででこの時ご指導いただいたお二人です。今日は先ず北原さんの「母の手紙」を紹介します。
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北原さんが書き溜められた随筆を出版された「母の手紙」フクロウは倅が縁起を担いで筆者にプレゼントしてくれたもの。
昭和48年私は札幌支店の融資担当者として転勤しました。その時の上司が北原さんでした。
北原さんのお名前は長銀の発表する「調査レポート」の筆者としてお名前を伺っていました。私の勤めた長銀札幌支店はは大通りの南側にあって、私の担当する融資先は大通りの北側にありましたので、度々大通り公園を歩いて融資先に出かけました。
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サッポロビール祭り昭和48年当時はこんなに賑やかではなくカニ族が芝生の上に寝転んで焼きモロコシを齧林相良ビールを飲んでいました。これではサッポロビール園が大通り公園に進出して来たようです。
長銀の前身の一部は拓銀でしたので、拓銀に育てて貰った企業は長銀にも丁寧に応じてくれました。札幌トヨタに出かければ同社の資金担当専務の相茶さんが会ってあって下さり「書庫からファイルを持ち出して「これが最初に長銀に融資を申し込んだ時の書類で、その時の資金があったので現在がある、話していただきました。北海道新聞社の本社棟建て替え資金の申し込みの時には「印刷工程が鉛の活版陰猿かららコールドタイプにチェンジする投資効果を若造に理解させるために油で汚れた工場の隅々まで引き連れて説明して貰いました。
私は今日見てきたこと話した事を北原さんに報告して、「面談記録」とし審査部や融資本部に報告しました。
北原さんはわたしの長兄と同じ歳で「良かったね僕も見たかったよ!」言って下さいました。当時デジカメがあれば良かったなあ!思いますそうすれば「あの」とか「その」とか言わないで上手に説明できたことでしょう。。
融資担当者は6人ほどいましたが、私は最も融資の件数が多かったのでした。
それは融資先に恵まれていたいた事、融資先が貸出稟議がし易いように書類が整理されていたからでした。
大通公園を横断して帰ってくると公園では「ビールの模擬店が出ていました。。隣にはとうきび売りやホッケ売りのが模擬店もあって、、芝生に座って生ビールを飲む事が出来ました。土曜日の午後1時頃北原さんを誘って大通公園で生ビールを飲みながら「銀行の仕事って面白い」しみじみ思いました。このころはよもや長銀が破綻するとは微塵も夢にさえ思いませんでした。
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北原さんの「母の手紙の挿絵。北原さんはは日本文化に造詣が深かったので公私ともにお世話になりました。。絵は浄瑠璃寺 
ところで「母の手紙」です。北原さんお随筆は次の書き出しで始まっていました。
「母の手紙は何時も鉛筆で書かれていました、子供の頃母が字を書くのを見ている何時もちびた鉛筆の芯を一寸と舐めながら書いていた。だから鉛筆の文字は一つ一つ濃淡ががあり一字一字力を込めていたことが解る。今私の手元には昭和43年から52年の10年間の20通の手紙が残っている。私が結婚して札幌転勤があり末の息子が生まれるまでの十年間であった。母の手紙はコクヨの便箋2.3枚に漢字は少なく平仮名でびっしり書かれている、点も丸も無く続いているのでなかなか読みづらい、しかし、思ったまま見たままを書いているので、読めばそのまま胸に落ち、春の陽だまりに中に居るような温かさを感じられた。」
何のことはありません。お母様は私の書いた貸出し稟議書を呼んでいる時の北原さんと瓜二つなんです。北原さんは右手に短い鉛筆を握って左手に消しゴムをお持ちでした。鉛筆で書く所作までお母様に似ておいでなのでしょう。私は支店長席で支店長の質問にお答えしてから稟議書お読み返しました。北原さんが添削された個所をしみじみ読みました。それが支店長の質問箇所でもありましたから。そんな繰り返しが私のスキルを鍛えてくれたのでした。
北原さんと私を強く結びつけた因縁はもう一つありました。北原さん丸子実業高校卒業と知っていたのでした。私は学生時代塩田平の道祖神を巡った話をしました。「母の手紙」で北原さんのルーツが丸子から国道151号線を東に和田峠の北大門峠の庄屋であることが書かれていました。大門峠を越えれば白樺湖を経て私の親友М君の生家柏原です。大門の名は諏訪大社の門があったからかな?思っていましたが。「母の手紙」を読むとでは「蓼科神社」のようでした。蓼科山の山頂にある祠には北原さんのお父様のお名前が刻まれてているそうです。
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蓼科山山頂の蓼科神社大門はその門があったためと想像しました。
 
もう一つ「母の手紙」心を打つ随筆が載っていました。お母様の鼻歌です。北原さんは次のように綴っておいでです。
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塩田平独鈷山の北側を東蓼科山に向かうと丸子から大門峠を越えて白樺湖諏訪湖に着きます。
「明治生まれの母は歌が好きで良く歌ってくれた。○○ちゃんたらギチョンチョンでバイのバイのバイとか、一かけ二かけて三かけて都下意味不明の遊び歌が多かった。”キスじゃあるまいに瓜ばかり暮れくれて何で糸目が^ヨーヨー出るものか”
キスとはキリギリスの事で、糸目はj製糸工場で働く女工たちが糸繰り機の鍋に熱湯の中から指先で絹糸をつまみ出す作業の事だそうで、糸目が良ければ輸出用の上等な絹糸が出来るのだそうで徐行は自分が繰り出した糸目を目の前にして検番の芽で評価され、給金を決められたそうです。
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子にある信濃絹糸の博物館 記事は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47638356.html
大門峠から音無し川下って行けば丸子で丸には信濃絹糸がありました。同社は現在は精密電子機器に転業して成功していますが今も創業時の工場を絹糸博物館として保存しています。北原さんと同じく進取と温故の精神に満ちた企業です。大門街道の土地柄でしょうか?信濃絹糸の川向こうの断崖の中腹には鳥葬の遺跡である「岩屋堂遺跡群が保存されています。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47636362.html
私が貸出し稟議書を提出すると、その書類が暫く北原さんの未決済書類箱に収まり次に、支店長席に回り、支店長決済を経て渡辺役員に回って行くのでした。机に座って私の稟議書が今どこにあるのか眼で追いました。
もう銀行時代に培われたスキルを生かす機会はありませんが、先輩諸氏から受けた恩愛を改めて感謝する毎日です。
私もパソコンばかりに頼らずにちびた鉛筆を握って随筆を執筆するようでないと認知症に陥るかも知れません。あすは渡辺さんの「わら氏の80年を紹介します。
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大門峠路傍の道祖神
 
 
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僕の80ねん

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昨日は私が長銀札幌支店勤務時代の上司北原さんの随筆集「母の手紙」を紹介しました。今日は当時の本部長渡辺秀亜紀さんの近著「僕の80年」を紹介します。渡辺さんは既に「長銀48年の興亡」を上梓しておいでですからこの著は前著の続編で、その前後を埋めるものです。
渡辺さんの庫裏上には次のように書かれていました。
「拙著「昭和・平成木の80年」をお届けします。
人生の午後8時傘寿を迎え改めて周囲を見渡しますと、私が体験した戦争や引上げ、廃墟からの復興更には経済の高度成長時代さえ知らない人が大多数を占めるようになっていました。そこで私の80年の体験を書き残すことも意味がいみあるように感じるようになり、また私自身も自分が歩んだ人生がどんな道だったのか、この際整理してみたい衝動に駆れました。
先輩同僚後輩たちと議論した事を時の流れに沿って整理してゆくうちに体験の中で感じていたことが次第に一つの筋道になって、辺りの景色まで見えてくる面白さを体験する事が出来ました。お暇な折にご一読いただければ幸いです。
尚前著は「日本図書館協会の推薦を受け国会図書館や東大早大の図書館などに納められました。
 

芽を踏むな!花も踏むな!

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昨晩の事でした。夕食後、居間に居た私を家内が呼びに来ます。
貴方の枕の辺りに虫が鳴いていますよ!
私は「ゴキブリが鳴く泣く筈はないから、オケラでも入り込んだのだろう・・・」言いながらベッドに向かいました。
私は脳梗塞以来寝室を、1階の和室に移っています。頭を左に向ければお仏壇で右に向ければ障子でその先は縁側、縁の下から涼やかな音が響いてきます。そう鈴虫がもう啼きだしたのです。
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私の枕元縁の下から虫の音が響いてきました。外で笹の葉が揺れると母が来たように思います。もうじき盆提灯に灯りともります。
私は振り向いて家内に語りかけます
「鈴(リン」のようで、お母様が正敏さん如何?お見舞いに来てくれたようだね、それじゃあ、お母さんの声を聴きながら寝るとするか、横になりました。
台風で、乾き切っていた庭も良いお湿りになった。これで虫も花も生き返るだろう・・・。
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を訪ねてくれた蟷螂君、しばらくお邪魔虫してゆきました。
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此方はスイッチョ君。鈴虫が母ならスイッチョは父です。どちらも地下から這い出して私を見舞ってくれたようです。
陰暦7月15日(陽暦8月中旬)は夏解(げげなつ明け)と言います。お釈迦様は、雨期には草木が生え繁り、昆虫、や蛙などの数多くの小動物が活動するため、僧侶は外での修行をやめて一カ所に定住することを奨められました。托鉢行で無暗に野原を歩めば植物の芽や昆虫の卵などを踏みつけて、無用な殺生をしてしまいます。これを防ぐために僧侶が一か所に定住する事でお寺(安居/あんご)が始まりました。
そんなわけで、ソロソロこの夏も雨安居(うあんご)が解ける時期になります。
障子にゴツン何かがぶち当たりました。
確かめて貰えば甲虫が飛んできたようです。
私は家内に「居間の植木の幹に掴ませておくように言いました。餌にはバナナを切って幹の上部に吊るしておくように・・・・。今晩は我が家で休んでもらい、明日の朝に飛ばせてあげる事にしましょう。
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飛び込んできた甲虫君、一泊して青空に向けて飛んでゆきました。手前は食事のバナナの切れ端 
 
遊行寺の庭にも昨晩は沢山の蝉の蛹が這い出して成虫(蝉)になって、今朝から天上世界をエンジョイしていることでしょう。
今頃は菩提樹の大樹が茂ってりょくいんをていきょうしていることでしょう。蝉君も太陽に炙られるよりも菩提樹の木陰で涼しみながら鳴き明かしていることでしょう。
菩提樹も今が花期ですから、大樹の下は一面花が散っていて、勿体なくて歩けない事でしょう。
お釈迦様は菩提樹の樹下で悟られたと、伝えられていまっす。菩提樹のピラミッドパワーがお釈迦様に伝わったのか、それとも烏安居を推奨された自然観が悟りを導いたのかもしれません。
もうじき百日紅の花が咲き始めます。百日紅はお釈迦様が生誕された折に咲いていた「無憂樹の花」とされてい雅ます。
お釈迦様が亡くなられたのは沙羅双樹の樹下でしたから沙羅は「夏椿」.日本の夏は誕生花(百日紅)成道花(菩提樹)涅槃花(沙羅双樹)が観られるのですから幸いです。遊行寺に行けばいずれも見る事が出来ます。勿体なくてどの花もも踏むことが出来ません。
西行法師なら吉野の庵から外出する事を憚れたことでしょう。お釈迦様が植物の芽を踏むなと言われたように、西行法師は桜の花びらを踏むことを慎んだことでしょう。
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遊行寺の菩提樹手前は座禅石「辺り一面黄色い菩提樹の花が散って芳香(良質なお線香の匂い)が漂います。
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この地味な花が菩提樹の花です。
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これが無憂樹(百日紅)の落花です。撮影場所は鎌倉本興寺次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893296.html?m=lc&sv=%C9%B4%C6%FC%B9%C8&sk=0
今朝(12日)庭を見れば朝顔が咲き始めていますし樹のは鈴虫が啼きはじめましたし朝顔が咲き出して。立秋が過ぎてそれらしくなってきました。この夏は汗疹にならないよう家内に度々御シャワーに入れて貰いましたがもうひと頑張りのようです。
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鶉小屋の陽射し除けの朝顔も咲き出しました、朝顔は歳時記では秋の花です。今年で三代目になります。
 
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雪女の子供達はどうなったか?

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8月12日は良い日でした。、私は満足して横になると「ラジオ深夜便」からは「坂本九」さんの歌声が響いてきます。そう、日航機事故からもう29年も経ったのです
横に鳴ると障子を掠めて笹竹が揺るぎます。そう、誰か来たようです。
家内が玄関を出て門まで歩いて行きました。
私は思います。「盆の入り」は明日ですから、お母さんは気が急いてい一晩早く来られたのだろうか?」
お母さんなら怖い事は少しもありませんが、宵が深まった今時が「逢魔時」です。幽霊も百鬼も出かける時刻です。私の家は寺の墓地に続く道に面していますから、色々な霊が通るんです。
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お盆になると必ずと言っていいほど紹介される雪女(雪子」像、丸山応挙作と伝えられるが、作風は応挙とは異なるようです。美しい若い美人画であり、黒白で描かれているので雪女の美しさを想像したものでしょう。江戸時代秀作と言えば絵画は応挙彫刻は甚五郎でした。
ボケた頭で私は考えます。
雪女は宵が深まった吹雪の晩にの雨戸を叩きました。
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歌麿の「金太郎と山姥の絵」(ウィキペィアから転載 
雪女は「山の神」かそれとも「山姥」か、私の住む相模には金時山があって、山姥が住んでいました。子供が「金太郎」で金太郎は長じて坂田金時になり、妖怪大江山酒呑童子を退治します。山姥の子が妖怪を退治するのでした。
山姥は怖いけど「山爺」は怖くありません、逆に少し滑稽で愛されています。山の神の世界でも女はしっかりしていて、生活力も旺盛で、男はボケ多存在のようです。
雪女が有名なのは小泉八雲の怪談のお蔭でしょう、でも八雲以前から全国に雪女の伝説は散らばっていて、中世には「宗祇諸国物語」に採取されています。
新潟の小千谷のお話でした。老夫婦の庵に深夜美しい女が訪れました、老夫婦は「寒かろう」心配してお風呂を奨めます。ところが女は中々風呂から出ません、怪訝に思ってお風呂を見ると、湯船には溶けかかった氷柱が浮いていました。
山形の上山にも雪女の伝説が残されていました。
山住まいの若者の庵にある晩美しい女が一夜の宿を求めて来ました。女の濡れた衣服を庵の炎で乾かしてあげました。冬の間二人は夫婦になりました。春が来て夏が近づくと女は次第に伏しがちになりました。ある朝突然女は姿を消してしまいました。女が座っていた席はしっとり濡れていて書き置きが残されていました。
「私は雪女です。優しいあなたの子供を宿したいと願っていました。幸い子が出来ましたのでこれからは山に戻ります。」
小千谷も上山も雪深く山がちな処です。流石に雪女は怖いと言うより哀れで女の性(さが)愛情の深さを思わせます。
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漫画日本の昔話(雪女」から、雪女は若者(已之助)に4人もの子供を託して山に帰ります。
「小泉八雲の雪女は何処の民話を採取したのか解りませんが、裏日本の風土を感じさせます。
改めて八雲の雪女をあらすじを説明します。
山深く若者が歳老いた父と二人で生活していました。
ある雪深い夜に突然雨戸を叩く音がします。雨戸をあけると美しい若い女が戸口に佇んでいました。「今晩一夜お泊めください」
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出典同上:大雪の夜美しい女が親子の男暮らしの家を訪れます。雪国で男暮らしをしているとこんな想いが湧くものでしょう。男一人の暮らしも老後も心配で若くて優しくて美しい女性が来てくれないかと期待してしまいます。まず妄想でしょう。
 
三人して囲炉裏端でうつらうつらしていました、若者が気づくと女はお父さんの上に屈んで息を吹きかけていました。お父さんは見る見る凍えて死んでしまいました。
女は去り際に若者に言いました。
「おまえもあの老人(父)のように殺してやろうと思ったが、おまえは若くきれいだから、助けてやることにした。だが、おまえは今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はない」
それからしばらく経って春が来ました。若者の庵に若い女が訪れ住み込むようになりました。二人の間に4人も子供ができて幸せな毎日が続きました。
以来若者と女は夫婦として仲良く暮らしました。不思議な事に女は老いる事が無く何時までも変わらない美しさでした。
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出典同上:男が約束を破ったのでしたが女(雪女)は子供の将来を男に託して去りました。
ある夜、子供達を寝かしつけた女(お雪)に、若者が言いました。
「こうしておまえを見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。
あの日、おまえにそっくりな美しい女に出会ったんだ。恐ろしい出来事だったが、
あれは夢だったのか」
若者がそういうと、女(お雪)は突然立ち上り、言いました。
「あの時お前が見たのは私です。私はあの時、”この出来事”を喋ったらら殺す、と言いました。だが、ここで寝ている子供達を見ていると、どうしてもお前を殺せない。どうか子供達の面倒をよく見ておくれ……」
そう言い残して女はみるみる溶けて白い霧になり、消えてしまいました。
 
私はどうしても気になります。
「母親の愛情の深さ」に共感して雪女は口伝されてきたものでしょう。ならば、深い母の愛情のお蔭で成長した子供はどうなったの?誰しも気になるものです。
お雪は子供の将来をを案じて若者を殺さなかったのでした。ならば子供達は長じてどうなったのでしょうか?きっと雪女の期待通りになった事でしょう。
金時山の山姥の子供は立派な武士になって妖怪を退治して社会の役に立ちました。ならば、雪女の子供は成長して愛情の深い立派なお坊様人になりました・・・・。そんな話が想像されます。「幽霊飴」や「小夜の中山夜泣き石の」どちらも女性の子供に託す愛情の深さを留めています。子供は長じて、立派なお坊様になりました。
 
想像ばかりしていると頭が冴えて寝られなくなります。
坂本九さんの歌声も最後です。
 
明日は戴きものの「葛きり」を戴く事にしましょう。
 
 
今朝昨晩の笹竹の辺りを確認してみました。
翡翠色の甲虫が一匹蠢いていました。
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 雪女立ち去った後には子(黄)金虫残れり
 
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迎え火を焚いて

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横浜では盆行事は旧暦の7月15日(新暦では月遅れ)で行われます。
13日、夕刻家内が私のベッド脇に来て盆提灯を出し始めました。納戸を開ければ折り畳んだ盆提灯の上には節句飾りが積み上げられていますから、取り出すのも組み立てるのも一苦労です。
私は身体をを小さくしてかいがしく働く家内を見詰めます、家内の背中が随分小さく見えました。
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お仏壇に盆提灯を灯してお迎えの準備を致します。
盆提灯に灯りが灯れば、門に出て迎え火を焚きます。
今晩お迎えするのは家内の両親とお婆ちゃんです。
お墓は安房の白子ですから東の方から遥々のお戻りです。
私は家内に話しかけます。
「お母さんが言って居るよ、『去年の乗り物素敵だったけど今年のはお疲れのようね!』と」。
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迎え火を焚いてお迎えの牛馬を用意します。今年は家内が作りました。
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此方は昨年の迎え火、牛は白茄子で用意しました。
去年の牛馬は私が作りました。鎌倉野菜売り場で白い茄子を見つけて白茄子を牛車にしたのでした。
でも、おからはパチパチ言って勢いよく燃え上がりました。
 
迎え火も焚いたので、晩御飯です。
晩御飯は私の生家(寺)から、戴きもののお精進です。
お稲荷さんと干瓢の細巻き寿司です。
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今晩はお精進で父母も迎えて慎ましく戴きます。私の祖父は豊川稲荷の僧でしたので、お稲荷さんには思い入れがあります。
 
次男は今日も遅くまで働きづめのようですから、今晩は二人とご先祖三人で静かな食事です。
今年は4月末に長男に初めての男子が生まれました。
私さえ元気なら今頃は岡崎(長男の住まい)で初宮参りをし、豊川稲荷に詣でて稲荷ずしを食べていたことでしょう。
来年には車を運転できるようになりたいものです。
でも「気持ちだけでも豊川稲荷に上った気持ちになりました。豊川稲荷門前の名物いなり寿司は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44448183.html
  夕暮れて迎え火を焚く妹の背も小さく見え
    二人していただくお精進、孫の話を箸休めにして。
 
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秋月名産の葛きりと葛ソーメンと

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秋雨前線が停滞し急に涼しくなってきました。山形ではもうモズの早鳴きが聞こえたそうです。柏尾川の川原でもススキが穂を葉し始め野分が葛葉を翻して、葉裏に咲き始めた赤紫色の花を翻らかしています。
友人の高木さんから葛を送っていただきました。
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葛の花藤の花は垂れ下がりますが葛の花房は天に向かって伸びて行きます。
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葛の花は尾花(ススキ)と共に秋を代表する花です。酒井抱一 「夏秋草図屏風」 東京..博物館(出典とも)
お手紙には普段と違って”食べる食べないは奥様のご指示に従って・・・・”お気遣っておいでです。
勿論私が葛が大好きな事は充分ご承知で、一方脳梗塞ですから糖分は控えなくてはなりません。
その辺の気遣いが普段違った言葉使いになったのでしょう・・・。
葛は高木さんのルーツ秋月の特産品です。
秋月が歴史に出てくるのは1587年(天正15年)戦国時代豊臣秀吉の九州征伐の際でした。、大河筑紫川の北側の戦国領主秋月種実は標高約860m(859.5m)古処山の麓で難攻不落の山城で抗戦します。した。守るのは秋月氏攻めるのは黒田氏、両者は和睦して秋月は黒田12代の城下町になります。
次いで登場するのが明治維新でした。不平士族の乱として有名な「秋月の乱」が勃発します。
私は博多勤務時代「秋月の名や「筑後の小京都と評される歴史風土」に惹かれて何度も訪れました。
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秋月(出典秋月の高木久助本舗のホームページ)から
久大線とも大分道からも距離のある秋月は山の懐でひっそりと佇んででいました、筑後川の支流に沿っ細道をて暫く入ります。細道の突き当りが秋月城で城址は中学校になっています。
袴を着て弓を担いだ中学生がすれ違います。挨拶をしてくれます。
礼儀正しい懐かしい匂いのする生徒さんです。
私は道端に腰掛けて家並みをスケッチしました。そう秋月は町全体が国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けています。
町割り、屋敷割り、道路網と水路網、城館跡、武家屋敷、町屋の城下町の見事に残されていて、
かつ住んでいる人たちが何処か「中世の雰囲気」を残しているのです。
  
町屋の中央にあるのが高木さんのルーツ葛の高木久助本舗でした。
当時はその古風な町屋が高木さんのルーツとは知りませんでしたので、気軽に店に入り食事をしたのでした。
葛と言えば葛湯を想い出します。葛の根を晒して澱粉を精製して、お湯で練って飲みます。葛の葉に蓄積された滋養分が体に(胃腸に)有効で、漢方では葛根湯と呼ばれています。
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戴いた夏向け商品の葛きりと葛ソーメン
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冷たい葛きり黒蜜をつけて美味しくいただきました、気分は秋月に飛んでしまいました。
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此方は葛ソーメンです。三輪のソーメンよりも細く喉越しが良いのが魅力でした。
 
でも葛湯は寒い季節に美味しいものこの暑さでは如何なものか、思えば「葛きり」に「葛ソーメン」もセットされています。
高木商店も季節に依らず通年商品の開発に努力しているのでしょう。
そう思えば中津川の「栗きんとん」も夏期商品として「水彩きんとん」「栗きんとん水まんじゅう」を売り出したそうです。写真で見ると栗きんとんを薄い葛で包んだ涼しげな商品です。
家内に横浜高島屋に出かけて行って求めて貰いたいものです。
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中津川では名物の栗きんとんの夏商品として今夏「栗きんとん水まんじゅう」を売り出しましたみず出典:菓子処のホームページ)
 
葛きりは冷たくして戴きました。一袋の半分を使って家内と半分ずつ十分な量でした。裏山から蜩の声が響いてきます。
秋月の町は「蝉ぐれが似合いそうです。
天守閣さえあれば映画撮影に恰好だったことでしょう。
凛として 美しかった木村佳乃サンにも似合いそうです。
お昼には葛ソーメンを一束茹でて貰いました。
葛ソーメンは三輪ソーメンよりも細くて喉越しが良いのが魅力でした。
 
昼にお三時に葛を戴いて胃腸は一層好調です。
この勢いで夏を越せそうです。
学生時代の友人の情けを頼りにして、着実に回復してゆくことがしみじみ有難いと思います。
 裏山より蜩の音のみぞ繁くして。葛の花を見せて秋風ぞ吹く
  こんな夕べこそ友の情けをありがたく想う。
 
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「母の句集

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今日(16日は「送り盆」です。京都では五山の山に火が焚かれて、渡月橋には灯籠が流されます。
食卓の窓ガラスで蝉の翅音が聞こえます。昨晩我が家で羽化して、さあこれから青空に向けて飛びたとう、としているのです。
今朝も家内と二人していつもながらの食事です。
私は家内に訊きます。
「何故八日目の蝉」と名付けたのかか知ってる」?
「蝉は羽化してから7日目には死んでしまうので。8日目も生きているという事は「死に損ねてしまった」そんな意味かしら、長生きしすぎれば苦しみも増えます。」
 
テレビでは高速道路の渋滞予測を報じています。
そうです、16日は「送り盆」であると同時に「藪入り」入りなのです。
「藪入りと」は一般的に奉公人が勤めを終えてた奉公先からが一時実家に戻る事でした、本来は「嫁取り婚」で奥さんが実家に帰る習慣があったのでした。
家内はもう帰るべき実家も無いし、私も両親が無くなったので「藪」はありません。
実家のことを「藪」と言ったのは、へり下ったですが、、「藪唐蛇」と言いますし。実家の両親は藪に棲むは蛇であり先祖は蛇であった、自覚でもあるのでしょうか?
 
昨日日姉から「母の俳句集が届けられました。早速読んでみます。
「百日紅」と題した姉好きな装丁です。
母の没後、身辺を整理していた姉から「母の未整理未発表の俳句が沢山出てきて、段ボール一箱になった」と相談があったので、私は「自分に預けるように、製本して墓前に捧げよう」提言しておきました。姉は最後まで自分一人でが面倒を見ようと自ら製本したのでしょう・・・・。(最晩年母を姉が一人で看取りました)
 
我が実家には大きな百日紅が一本あります。
多分横浜で一番だろうと自慢しているものです。
 
この樹は母のものではなく祖母の新婚記念樹なんです。
明治37年、祖母が無住の盛徳寺(生家」に夫と共に入山しました。
その時村人が悦んでお寺をそれらしくしたいと言って、銀杏2本と百日紅1本を植樹してくれたのでした。祖母を始めみんなでの手入れをして、出大樹になり毎年お盆の頃に咲き出し彼岸過ぎまで真っ赤は花を咲かせます。
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聖徳寺(筆者盛の生家)の百日紅向こうの観音像は筆者が京都の太秦の仏具屋に行って作って戴いた祖母の篤い観音信仰をを留める「大川観音」
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母の句集「百日紅」とお三時
 
百日紅は盛徳寺のモニュメントツリーーですが、母にしては少し少女趣味のような気がします。
私は入院中に母に感謝しtながら母の俳句を思い起こしました。
子を背負い星を仰ぎて麦を踏む。
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背負われていたのは私でした。
この句集で初めて知った俳句がありました。
子を誉めて夫を貶して盆の客
盆の客とは施餓鬼会に来られたお檀家の事でしょう。父はおよそ住職らしからぬ言動が目立ちましたので。お客様が誉めなかったのでした。誉められたのはお棚経をあげていた私か、学業が秀でていた次兄の事でしょう。
この他にも私が初めて知った句が幾つかありました。
恙無く日暮れてをり終戦日、
母の兄は南方で戦死しました。狛江のお嬢様として育った母でしたから、戦争さえなければ違った一生を送った事でしょう。恙無く終戦記念日を送れたことに深く感謝し、家族共々平和に過ごせる喜びにしたって作句したものと思います。
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戦記念日を家族そろって日暮れを迎えられた事を感謝して作句したものと思います。
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夕食の膳は自作の秋茄子でした。母は祖母を面倒見して看取りました。
農作業も祖母に手ほどきして戴き、野菜造りも上手でした。
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送り火や背を丸めたる母偲ぶ。
母の作句では「送り火を焚きながら祖母を偲んでいたのでしょうが。私は家内が一人で迎え火を焚くのを見て。この句は私の立ち位置に居るようで妙な感覚に陥りました。今晩は家内が一人で「送り火」を焚く事でしょう。屹度小さくなった背中を丸めて痩せ細ったやうなじが白い事でしょう。屹度「母に似て来たなあ」思う事でしょう。
そうしない為には私が健康を回復させなくてはなりません。
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今夕は送り火を焚きます
 
母の句集を読んでいる母の声が聞こえて来ます。
「私はお前を強い体で産んであげたのに病気ばかりしてだらしがない、お嫁さんをこれ以上困らせないようにしっかりしなさいよ!」
子供は子供自分自身が黄泉に行っても、心配で叱られそうです。
 
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長嶋さん金田さんのカーブをレフト前にヒットしてほしいんです!

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高校野球も3回戦に入りました。我が地元の東海大相模は盛岡大付属高校の引き立て役に回り、あっけなく敗戦してしまいました。今年は信越の学校が全部勝ち進んで、高校野球も「地方の時代」に入ったようです。
昨日は雨中の試合でまるで泥田でやっているようでした。泥田なら八頭高校はお手の中だろうと思って観ていましたら、案の定ノーエラーで8年ぶりに初戦を突破しました。八頭は鳥取から千代川を上った「八咫のおろち伝説」の町、町中の人が造林関係者です。民芸も盛んです。関係者の喜び想像できました。
 
毎朝新聞を読みます。
新聞は下から(広告欄から)見ます。
雑誌や新刊書の広告が目に飛び込んできます。
最近は戦争記事が目立つようで、戦争を阻止できる立場に居た人を無暗に美化するかのような記事が気になります。
高村幸太郎は智恵子の死後、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表します。
しかし戦後自省の念強く、から花巻の「高村山荘」に隠棲します。十和田湖畔の「乙女像」を製作します。線虫の詩を誉められて、地下から光太郎さんの怒声が聞こえるようです・・・・。
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終戦記念日が近づくと戦争を美化するかのごとき記事や単行本の案内が目立ってきて気になります。
私達が高村幸太郎が好きなのは、千恵子抄の愛であると同時に終戦後自省する姿でありました。そんな光太郎の戦意高揚詩を再評価しようとする風潮は困ったものです。もう一つ私の眼は「脳梗塞の記事」に止まります。それにつけても昨日の「天皇陛下のお言葉は」胸を打つものがありました。
もう一つは健康雑誌の公告です
「丹田をさする」、「ふくらはぎをもむ」と、脳梗塞による痺れは取れるのだそうです。
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新聞広告では丹田やふくらはぎを揉めば脳梗塞麻痺は治癒するんだそうですが・・・、本当かいな?
まるで健康機器販社の販促記事のようです。
小椋佳さんがこの秋から生前葬コンサートを開催されるそうです。
そろそろシンガーソングライター小椋佳は幕引きする積りなんだそうで、現代は青春は皆が歌っていますが、辞世を詠って人は稀です。昔は武士やお坊さんは辞世を漢詩に残していますし、
小椋さんは晩年をどう歌うか楽しみにしていたので少し残念な気がします。
でも、深夜ラジオに出演されて息子さんの若年性脳梗塞の体験を話されました。
小椋さんが50代の時息子さん「神田宏司」氏琵琶製作)はまだ中学生でした。宏司君がランニング中に突然転倒、左頭脳は脳梗塞の出血で植物状態だったそうで、それが、小椋佳さんが子供ミュージカル製作中に、病床でメロディーを口ずさんだのが切っ掛けで宏司君の右脳が活性化して、今では全く不自由でなくなったんだそうです。宏司君の不幸は同君の一生にも親爺の生涯にも有意義だったようです。
1週間ほど前NHK総合テレビに西条秀樹さんが登場YМエムAを歌って踊りました。「何秀樹は時までも青年だなあ!」感心しましたが、
西城さんは二度(2003年、2011年)も脳梗塞を発症して回復して現在があるんだそうです。
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        脳梗塞から復活しYCAを詠う西条秀樹さん
言われてみれば発声も良く前より明瞭で聴きやすかったような気がします。
西城さんはまだ若いし体を鍛えていたこともあって回復は早かったのでしょうが、麻痺は辛く体の半分に鉛が入ったようだった回想されておいででした。
小椋佳さんも西条秀樹氏も私には気力を与えてくれます。
私の脳梗塞は「心房性脳梗塞と言って」心房内に血栓ができ心房細動で血栓が脳に飛ばされて脳梗塞を惹き起こしたものだそうです。医師は私に気力を与える意味で長嶋茂さんと同じだと話されました。
以来私は長嶋さんの姿をウォッチし続けて来ました。
同氏はプロ野球の開幕戦に登場され。右手はズボンのポケットに入れて左手で弱弱しくバットを振っておいででした。
痺れている右手はりバンドで肩から吊るすのが良いのでしょうが、
長嶋さんは障害の残った手を晒すのが嫌なのでしょう、如何にも格好が悪く見えました。来年の始球式ではズボンのポケットから右手を出して、バットを両手で振って、金田さんの山なりのカーブをレフト前に飛ばしてほしいものです。ささすれば脳梗塞に病む人にこの上ない励ましになるんですが・・・・。
 
一昨日は前二所の関親方が亡くなられました。死因は脳梗塞65歳でした。大相撲を大震撼させた八百長問題も解決し満員御礼に盛り上がった夏場所も終わって元関脇金剛山にとっては良い往生だったように見えます。
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縁に生きる

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柏尾川の岸辺を覘くと、檜扇の花が咲いています。花はもうじき散って黒い種子が出来て、何れ種子は流されて下流に流れ着き発根する事でしょう。
檜扇の種子は真っ黒ですから「ぬばたま」と呼ばれ、夜とか黒、黒髪の枕詞になりました。檜扇の花が都人の赤い唇なら、檜扇の種子は黒髪のように漆黒でした。でも、発根すれば真っ直ぐ根を伸ばして、其処に群生して新しく花を咲かせます。種子の下に土さえあれば、何処でもお構いなし。何れ柏尾川の岸辺は檜扇が帯のように咲き出すことでしょう。私はヒオウギノ帯を見届けられるか不確実ですが、推測は可能です。
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柏尾川の岸辺に自生してこの夏も見事に咲いている檜扇の花もう種に変わろうとしています。種は流されてそこで発根します。
 
水に流されて増えるのは檜扇だけではありません田圃の用水路に自生している澤瀉/ おもだか」も種子が流されて増えて行きます。お百姓は稲より強いので嫌いですが、緑の葉っぱに白い花は強い生命力を感じさせますので武士は好んで家紋にしました。
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田圃の水路に自生した澤瀉の花
 南国で潮騒を聞きながら育った浜木綿や水仙は波に洗われて球根や種を黒潮に乗せられました。そうして、日本の海浜に漂着して、其処で根を真っ直ぐに伸ばしました。そうして、三浦の磯で群生して夏には浜木綿の花を咲かせます、城ケ島には水洗の群生を実現しました。
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三浦諸磯天神島に自生する浜木綿の花水洗と同じく海流が運んだものです。
 
水や海流が種を運ぶものもありますが風が運ぶものもあります。
山百合はその代表例です。
山百合はムカゴや球根が分裂しても増えますが大半は種が飛ばされて増えます。
花が咲き終わると薄い紙のような種子が出来ます。餃子の皮のような形で餡の位置に種が出来ています。これが風で飛ばされて増えて行くのです。
風の吹きようによっては種は岩の上に落ちます。岩の上でも、不平を漏らさず一心に根を伸ばして岩にへばりつきます。そうして鎌倉の切通しは山百合の自生地になりました。岩屋の上はライバルになる背丈の高い草が生えないからです。
中には上空に飛ばされて大きな欅の木の洞(ウロ)に落ちる種もありました。其処でも文句を言わずに発根して見事に花を咲かせました。
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鎌倉の朝比奈切り通しに岩屋に咲いている山百合の花
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鎌倉小袋坂長寿寺の山門脇の大欅の洞に発根して咲いている山百合の花百合は「高嶺の花」ですから通行人は見上げて歓声をあげています。皆山百合の生命力に驚嘆しているんです。
水に風に運ばれて花は咲いて役割を全うしています。
私はそれでは「自分が生れ落ちて自分の役割は何であったのか自問します。
母の大地に偶然父の種が落ちて私は命を戴き、あれやこれや文句こそ言い通しでしたが、感謝する事は忘れていました。
こうして、夏も暮ゆくく季節に汗疹をしながら寝転んでいると、檜扇や山百合の一途さの尊さを痛感します。
我が庭にはもう臭木の花が咲き出しました、山無花果も少し膨らみました。
これ等は野鳥が運んできて種を落としていったものです。
風も水も海流も鳥も総て偶然、縁があって、自生しているのです。
種は縁に任せるほかありません。自分で土を選べないんですから・・・・。
でも縁に任せてそこで懸命に根を伸ばして岩に絡んで生き抜こうとしています。
 
想い起せば、私には恵まれた縁があります。友達に囲まれていると言った縁です。これからは檜扇や山百合をお手本に縁に任せて生き抜こうと思う次第です。それが一番私らしいのでしょう・・・。
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カタクリの花も百合の様に種を飛ばせて増えて行きます。
 
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暑い時にはタイ料理

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お昼はソーメンを戴く事が多くなってきます。
幾ら好きなソーメンでも、重なるんで家内が色々とと工夫を凝らしてくれます。ウズラの卵を浮かせたり。
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連日のソーメンもアレコレ副菜を工夫して食欲を刺激してくれていますが・・・・。
 
でも鶉君もこの暑さでは、卵を産むピッチが落ちて来ました。
京都なら「鰊蕎麦だね!」呟いたら、秋刀魚のかば焼きが出て来ました。
デーサービスでも工夫してもらっています。
鳥の照り焼きが主菜で、切り干し大根とさつま揚げの煮つけ、加えてモロへーアとおくらの粘々和え物が出されました。これに、ツル紫が加えられれば、トリオ粘々で猛暑を持ち堪えられそうです。
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これがデーサービスのボランチです。切り干し大根と薩摩揚げの煮しめも美味しかったのですが、左上のモロヘーアとオクラの和え物は絶品でした。
暑い時には時にはついつい、さっぱりした食べ物に向いてしまいますが、私の体は違うものを欲しています。
辛い、匂う、酸っぱいものです。要するに適当に刺激のある食べ物を汗を流しながら食べたいものです。タイ料理のナンプラーの上にパクチーをたっぷり乗せてあの匂いを胃袋に落とせば、気力充実してきそうな気がしてきます。
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ショッパーズプラザ横須賀の駐車場入口左にあるアジアンレストランサワディー。
 
今日も横浜の気温は35度と予測バンコク(33度)よりも暑くなりそうです。
ならば、タイ料理を戴くのが、知恵というものでしょう。
私の記憶の中で私の生活圏で最高のタイ料理屋さんは、ショッパーズプラザ横須賀
にあるアジアンレストランサワディーです。ランチタイムは2品で980円のセットものがアレコレ揃っています。
価格もリーズナブルなら味も良いし、ウェートレスのお嬢さんも笑顔が素敵なタイ美人です。調度品も楽しめます。
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お店の前からは横須賀軍港を海側から巡るを巡る遊覧船が出航していますし。
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店はアベニール公園に接しています。公園には旧海軍の軍艦記念碑が並んでいます。
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井店はお店の前からは横須賀を巡る遊覧船が出航していますし。お隣は旧海軍の司令部でしたが今は薔薇の公園になっています。その上、横須賀を拠点にした軍艦の記念碑が並んでいます。
記念碑の前には帰還された軍人が時間待ちをしておいでです。屹度、夕刻にでも集まって旧交を温めあうのでしょう。
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アジアンレストランサワディーのランチ、トムヤムクンラーメンに春雨チマキごはん、茶碗蒸しとドリンクがついて980円です。
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ウェートレスさんの笑顔や調度品も良いんです。
サワディーの前は国道16号線です道沿いに浦賀に向かえば幾つもの記念碑があります。記念碑の横には石仏も数多く祀られています。カタバミが満開の今頃です。今も、青面金剛は群青の海峡を見詰めておいででしょう。
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鴨居の庚申塔はカタバミの花に囲まれています。施行神道の眼の先には群青の海峡が見えて岸辺には軍艦村雨の記念碑があります。
 
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夕顔の花

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8月19日はバイクの日であり、俳句の日でもあります。どちらも私の好きなもの、「では、今日は一句ひねってみるか!」朝方寝床の中でで思います。
裏山の奥から「カナカナ・カナカナ、蜩の鳴き声が響いてきます。
「日暮(ひぐらし蜩)は朝に啼いても日暮と云う、。これ何故か?)」。
夕暮れ時より明け方の日暮の方が悲しく寂しく響いてくるのは何故なんでしょうか?
清少納言は「春は曙」に続いて「夏は次のように評しています。
「夏は夜。 月の頃はさらなり。 闇もなほ、蛍のおほく 飛びちがひたる。 また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。」
私なら「夏は明け方、未だ暑からず、外の空気冷涼にして、いと心地良し、頭を枕にもたげ、日暮や名も知らぬ小鳥のさえずりも面白し。小屋に飼いたる鶉が我を呼び起こすのも嬉し、ようよう、褥より這いだし、庭の露草を見れば、小さき花あまた我を向きて挨拶す。滴が輝くも、陽が登れば消えてしまうものなり。夕顔は今だ凛として花弁を拡げ、夜の蝶に未練を残す風情なり・・・・・・「朝帰り」を見送る遊女の面影ならむ。」
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我が家の垣根に這わせた夕顔。最高の見頃は明け方です。家内を源氏物語の夕顔に見立てた訳ではありませんが・・・・・。無花果の木に絡んでいます。
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此方は向か賽ながらの日本の朝顔最近は熱帯アメリカ産の朝顔が目立っていますが、アメリカ種は一日中咲いています。朝顔は朝だけ咲いてこそ朝顔です。一日中咲いていたんでは美名返上して貰わなくてはいけません。
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庭の露草も今が盛りです。露草も露草も儚いことのたとえです。
「今暫く褥で惰眠を貪れば体内時計とラジオの時報が一致するであろう、」思っていると電話のベルが鳴って、
横の家内が起き出しました。「何事かこんなに早くから電話をするとは・・・?
電話口で家内の素っ頓狂な声がしました。
「私と同期の安藤さんが脳溢血で亡くなれたんです・・・」
家内の声が沈んで行きます。
私は思います。一昨年は私と同期の元沢さんが脳溢血で亡くなられました。去年の暮れには私が脳梗塞で倒れて、左脳は出血しました。今はリハビリで苦闘していますが、想い起しても私は幸いでした。亡くなってしまうか生きて居られるかは大違です。
安藤さんや元沢君の様に死んでしまえば残された家族や友人が悲しむだけです。
私は褥で横になったまま学生時代の一シーンを思い起こします。
最初に亡くなったS子さんに叱られた思いです。
「竹内君また女の子の噂話をしてたんでしょう!男の人は勉強もしないで暇さえあれば女の子の品定めばかりしていて不潔なんだから・・・、だから女子は次第に退部してしまうのよ・・・。」
源氏物語の「雨夜の品定めで」はありませんが僕ら男子は集まると「女子の噂話を肴に酒を飲んでいました。そんな雰囲気の中心には亡くなられた安藤さんも居られました。
まるで、源氏物語で女に強いと自負した「頭の中称将」のように・・・。
「頭の中将」は集まった貴公子の前で、女性殿体験話をします。
未だう初心だった源氏は聞き役に回りました。
「女は生まれ育ちが良い才媛よりも少し田舎っぽいお人が良い。気づかいができる人柄が良い。自分はある田舎で侘び住まいの女性を知っているが、気立ては良いし・・優しさに溢れている・・・高貴な女性を口説くよりも田舎くさい女性にこそ楽しみがある・・・。」
源氏が故皇太子の夫人であった女性(六条の御息所)のところへ通っていた頃のこと、その途中の五条にある乳母の家に見舞いがてらに立ち寄った時の事でした。源氏は隣の家の垣根に絡まって咲く夕顔の花を見つけて頭の中将の話を想い出します。そこで、鄙びた里の女を誘ってみるかと思って家の中を伺います。
すると隣家の召使いが扇に夕顔の花を乗せて持参したがその扇には歌が書きつけられていました。
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貝合源氏物語「夕顔の場面図説日本の古典から転載
心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕がほの花
 源氏は自分の下心を見透かされて慌てて歌を返します。
よりてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見つる花の夕顔

近寄って見詰めなければ夕顔とは判らないように、会ってみないと判りませんね。家に入れてくださいな!
源氏は自分の名も相手の名も素性も解らないままに一夜を共にします。匿名であるからこそ男も女も燃えたのでしょう。源氏は身分の無い人にこそ素晴らしい女性がいるもんだと感動します。
しかしその夜が明けるころ事件が起こってしまいました。
生霊が出現して女性に乗り移って女性は怪死してしまったのでした。
生霊は源氏の元恋人の六条の御息所でした。
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月岡 芳年(つきおか よしとし」の夕顔図。
六条の御息所の生霊が夕顔を殺して明け方消え去って行く怪しい情景を見事に描いています。
六条の御息所は
故皇太子の夫人で、教養もあるし、美貌の女性でしたが、気位
が高くて鼻持ちならない女性でした。
六条の御息所は源氏が自分の処に通ってこないと思っていたら、とんだ田舎(野々宮)で身元不詳の女性と同衾した事に怒って生霊になったのでした。でも源氏は夕顔の優しさが忘れられません。夕顔に一人娘が居たことを探り当て、その娘(玉蔓)を長谷に見つけ出します。
 
確かに夕顔の花には生霊が乗り移りそうな怪しさがあります。
白洲正子さんは随筆で夕顔の妖しさをこの花の蕾が開くところを見たいと見詰めていたのだが花は自分の視線に気づいていて、決して開くところを見せてくれなかった…書いています。
 
私が垣根に育てた夕顔は源氏物語の夕顔とは違います。熱帯アメリカ産の種で横浜のの「サカタのタネ」が輸入し販売しているものです。本来の夕顔は干瓢に加工されるもので丸い冬瓜みたいなものです。
外来種は光沢があって絹の輝きがあります。一方本来の夕顔は南瓜の花の様にボテッとしています。南瓜は黄色いのですが夕顔は白いだけの違いです。
外来種の夕顔は六条の御息所のように高貴な感じですが近寄り難さがたさがあります。
本来酒種の夕顔は木綿のような絣の感触です外来種が絹・紬なら本来酒種は木綿・絣の感触です。
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夕顔の実と干瓢を作る景色(NHKテレビで)ろくろのように回して細い紐状に削って冬にかけて干しあげれば干瓢です。
 
人は死んでしまえば修証義(お経」のフレーズの通り、ただ一人で黄泉の深い川を渡るだけです。川の向こうの奥山からは蜩の啼き声が響いているだけでしょう。
思えば「家内の同期の安藤さんの訃報で死因は脳溢血との事。
思えば半年前私は脳梗塞に倒れ、こんな風に思考えていると
自分だけが活かされていることがこううんにおもえます。そして今後の事が思いやられます。
友人が次第に先んじて黄泉に赴く事でしょう。その度ごとに寂しい思いをしなければなりません。
青春を熱く語りし人は如何にと驚きけれど、この寂しさを如何にせむ
夏の花もなべて散るものなれど、次々に友を送りしさてもいづちかもせむ
 
 
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千日紅VS百日紅

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連日の猛暑で今日の横浜の予想最高温度は35度、これじゃ、サイゴンの方が涼しそうです、加えて日本は集中豪雨災害が多発して、一体どうなってしまったのでしょうか?
それでも、季節の巡りは早く、今週末は地蔵盆です。
私の学生時代には地蔵盆の頃に奈良・京都で「合宿」をしていました。
古寺の築地越しに百日紅(猿滑)を見上げ,汗を手拭いで拭き拭きしながら、お寺巡りぐりをしていました。
寺に入れば思いの外に涼しく、虎の子渡しの石庭の説明をうつらうつら聴いていたのも懐かしい思い出です。
でも石砂の上に散った百日紅の朱色の鮮やかさは忘れられません。
今年も京都で合宿が予定されていて、8月25日(月)には)宗守氏ののご厚意で「官休庵」の見学も予定されています。
合宿の主役は現役大学生ですがОBも参加が可能です。茶を戴き、旧交を温めるには最高です。私は心はもう京都に飛んでしまいます。
 
茶も良いんですが、私の想いは地蔵盆です。京や奈良街の辻辻にはお地蔵様を祀った祠があります。
祠の前には莚が敷かれて、小さな座布団が丸く置かれます。この日ばかりはお地蔵様は清水で浄められてサッパリしておいでです。
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日が暮れるころ、子供達集まって来て座布団にが座ります。先ずはお坊さんの法話を訊きます。法話を訊き終えれば地蔵盆歌を詠いながら、目の前に置かれた大数珠を手にして、次々に送って行きます。まるで百万遍の童版です。子供達の歌うわらべ歌は良く聞き取れませんでしたが、美空ひばりや春日八郎の歌でも解るように地蔵盆歌は私達日本人の遺伝子にもう組み込まれてしまったようです。春日八郎も美空ひばりも地蔵盆歌の記憶を留めています。
春日八郎の「別れの一本杉」/山のカケスも泣いていた 一本杉の 石の地蔵さんのよ~ 村はずれ
美空ひばり/ ♪これこれ 石の地蔵さん 西へ行くのはこっちかえ だまっていては 判らない。
地地蔵盆歌は次に採取されていました。内容は大人向けで童の遊び歌とは程遠いものです。採取者の趣向でしょう。http://cgi2.nhk.or.jp/michi/cgi/detail.cgi?dasID=D0004380070_00000
お地蔵様の供花は秋の草花と「千日紅/せんにちこう」が定番です。
「千日紅」はその名の通り千日経っても色が褪せないのです。童のおさげ髪も千日紅の付いた紐ポンポ)ンでで結ばれています。
そう地蔵盆には「千日紅」は欠かせません。
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小布施山長和泉寺のお墓に続く細道に咲いていた千日紅墓参者はこの花を手折って、墓前に供花するのです。相互扶助思い遣りが窺がえます。撮影は昨年今頃親友と4人で小布施に行きました
 
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中山道追分宿に近い野辺道に咲いていた千日紅、道は中山道の女街道で、この辺りにマリア観音がある筈だ・・・・みんなで探しあくねて帰りました後日伊藤君から「マリア漢音を見つけたから再度来てくれ!」メールがありましたが出かけるには足許をしっかりさせなくてはなりません。
 
私の生家でも庭に「千日紅を育てていました。お墓詣りの方が好き勝手に「千日紅か菊芋を手折って戴く為でした。千日紅は盆から彼岸過ぎまで、何時までも花は咲き続けます。その上ドライフラワーにしても紅色は褪せないので。墓場でさえ何時までも綺麗なんです。
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小布施堂前にも千一校がプランターに植えられていました。此処で栗おこわを戴きました。今夏は暑かったので栗は一際おいしく実っていることでしょう。
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横浜元町の商店街は樹木が百日紅で、プランターには千日紅が植えられています。両者ともハローウィンまで咲き続けています。向かいのお店は近澤レース店です。
8月19日には家内を大船のフラワーセンターに誘いました。家内に千日紅を見せたいと思ったのでした。
入口で、職員に
「千日紅は何処で咲いていますか?」
尋ねるとフラワーセンターの略中央を指さしました。
其処は百日紅の咲く小路でした。
何でも今朝テレビで百日紅が紹介されたばかりだったそうで、
私達もテレビを見て来たものと思い違いをしたようです。
私は百日と千日では大違いなのに苦笑いしながら、倅が押す車椅子に身をもたれました。
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大船フラワーセンターの百日紅の小路にて薄紫の百日紅はまるでライラックのようです。
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道元禅師のお言葉に
 「花、紅にして美しといえども、
 ひとり開くにあらず。
 風来たりて初めて開くなり」。とあります。
春になれば花は紅に咲きて美しいのだが、花は自分の力だけで咲くわけではないのだ・・・陽射しが強くなって、暖かくなって、葉が茂ったので花が咲くのだ・・・・、そうした教えです。
 
この教えは日本人が想い伝えてきました。
日本人は自然の美しさを【柳は緑花は紅】と表現してきました。
「丹良し」は 奈良の都の枕詞でしたが、青(緑」と丹(朱色)が揃ってこそ美しいのでした。
 
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奈良の都の美しさは漆喰の白壁に連子窓の緑、丹塗りの柱や貫梁のコントラストに在りました。
残念なことに今年の大船フラワーセンターには千日紅はありませんでした。
園内を廻ってもらって倅には大汗を書かせただけでした。
でも、百日紅は様々な色の花が開発されていることに驚かされました。
白いのは昔もありましたが紫やピンクも開発されました。
私は念じてみました
”何時までも妹は紅にして吾は緑で在りたいものだ”
 
その後、大船フラワーセンターから500m程西側にある久成寺に向かいました。
このお寺には日蓮上人像の頭上に真っ赤な百日紅が咲くのです。
 
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家の雀達

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連日の熱帯夜で我が家のワンちゃんもバテ気味で昨晩の食事も食べ残しています。
昨今は家内が気づかって、ドッグフードに牛乳をかけているんですが、ワン君は食欲不振のようです。そ
れを幸いに雀君がワン君の食べ残しをセッセと突っ突いています。
我が家はワン君のほかにも鶉ちゃんの餌も散らばっているので、我が家は雀君には格好のエサ場です。加えて藪はあるし屋根の樋も雀君の巣には最適で、食住どちらも満たせるんです。天敵の青大将が棲んでいる事だけが欠陥です。でも主人が青大将と仲良くしてるんで諦めて居る事でしょう。雀君のお宿はもう40年は継続しています。
 
今年も4羽ほど子育て中で、親鳥は自慢げに小雀を連れて庭に出て、ワン君の食べ残しや鶉ちゃんの喰い散らかしを拾っています。そのうち翅の付いた虫を追いかけて捕食する特訓を始めるんです。
 
私の生家の裏山は竹林でした。夕方になると雀が竹藪のコロニーに戻って来ます。雀が寝静まった頃を見計らって村の青年達がが雀取りをしていました。月夜の方角にカスミ網を仕掛けて、一斉に竹の幹をカンカンと叩くのです。驚いたスズメは一斉に飛び立って、それこそ一網打尽、カスミ網に引っ掛かってしまいます。
村の青年団の小遣い稼ぎだったのでしょう。捕まえた雀は焼き鳥屋に卸します。祖母は烈火のごとく怒っていました。親爺はスズメの味が好みだったようでしたが・・・・お礼にと置いて帰った雀は何時までも放っておかれていました。
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稲を食べる雀、お千穂を食べるだけなら目立ちませんがこんな姿が視られたので雀派が害鳥と思われてきましたが、早苗に着いた虫を食べるし、時に益鳥、時にが害鳥になるのです。中国では雀の撲滅をして、大凶作を惹き起こし慌てて保護策に転じたそうです。
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鶉チャンの餌箱をあさる雀君チュンチュン啼いて子供達を呼んでいます。
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時折室内に飛び込んでくる雀君。鳥籠で買うことも考えられますが。難しいので、外に放してあげます
最近はスズメが居なくなったよく言われます。
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薬師寺東堂の庇の組み物此処が雀の巣に最適です。会津八一は・・・「草に寝て仰げば軒の青空に雀かっと飛ぶ薬師寺の塔」と詠いました。
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都会では思いもしないところに雀は巣を作っています。(大船フラワーセンターの柱の継手)
昭和30年代までは雀は日本に5000万羽は居たそうですが、この30年で五分の一になってしまったそうです。それでも薬師寺や建長寺に行くと仏殿の庇の下には沢山の雀が飛び交っています。庇の下の垂木や組み物の隙間が雀の巣になっているのです。複雑な組み物は恰もスズメの団地です。
 
ですからきっと巣をつくる環境さえあれば雀は減らなくて済むのでしょう。コンクリートのマンションが増えて戸建て住宅が減って、瓦屋根が無くなっては雀は巣作り出来人間の住空間の変化が雀減少の主原因でしょう。
私達が慣れ親しんでいる雀ですが。古代には人間と距離があったようです。その証拠には万葉集には雀は一首も詠われていません。
 古に 恋ふらむ鳥は  霍公鳥(ほととぎす)
       けだしや鳴きし  わが念(も)へる如(ごと)  ~額田王~

恋心を託すには時鳥や鶯でなければ恰好がつきません、雀では「馬鹿にしないでよ、本気なの!」言われてしまった事でしょう。鳥には黄泉と現世と飛んで行ける力があると信じられていました。(鳥葬の名残?)    

古代人は鳥に託して自らの想いを表現するのが得意でしたが、地味すぎる雀はその道具には不向きだったのでしょう。時鳥、雁、鶯、鶴、鴨などが好んで詠われました。何れも季節の変わり目を告げて、夜明けや日没を知らせるものでした。古代の貴族には見向きもされなかった雀でしたが近世になると文化の主人公が庶民になると、俳句に御伽草子に盛んに登場するようになります。
雀の子そこのけそこのけ御馬が通る    (一茶
御伽草子(江戸時代)は誰からも親しまれてきました。
爺さんに助けられてかわいがられていた雀は、お婆さんが障子の張り替えに使おうとしていた糊を食べてしまい、舌を切られて逃げ出します。その雀をお爺さんが追って山へ行くと、雀たちが恩返しにご馳走してくれたり踊りを見せてくれた。お土産として大小2つのつづらのどちらを持って行くか聞かれ、小さい方を持って帰り家に着いて中を見てみるとお宝が詰まっていました。欲張りなお婆さんは、大きなつづらをもらおうと雀の宿に押しかけ、大きい方を強引に持ち帰ります。
で開けてみると中には妖怪や毒虫や蛇が飛び出します。お婆さんは腰を抜かし気絶してしまいました。「つづらを開くと災厄が飛び出す」この段は「パンドラの箱を髣髴させます。
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天界から火を盗んだことに怒ったゼウスは美しい女性パンダラーを地上に送ります「開いてはいけない」とパンドラーは聞かせれていましたが宝の箱と思い違いをして開いてしまいました。箱を開くとそこから様々な災いが飛び出しました。(疫病・犯罪・欠乏・妬み等)写真の出典はウキペディア)
 
若しかしたら近世初頭キリスト教を伝えた宣教師がギリシャ神話の「パンドラ」を伝え、それが浦島太郎の玉手箱や舌切り雀に取り込まれたのかな?想像させます。大きなつづらを欲しがり「開くな!」命じられれば開きたくなるのは人間共通する心理です。「欲張ると良くない」との教えは経験則であって、倫理とは言いかねます。
雀が減っては寂しいのですが、何より気になるのは人間が身近な雀と培ってきた文化や情操が消えてしまう事です。
 
子供達は「メダカの学校」と「雀の学校と」どちらをが好きかと聞けば間違いなく「メダカの学校」です。何故かと聞けばメダカは教室の水槽で飼っていますから知っているんです。雀の学校で「無知を振り振りチーパッパ」が暴力教師を連想させるので嫌いなんです。
馬が農耕で働いていた歴史を知りません。ですから、一茶の句の良さは解らないでしょう。
狸に狐に雀に蛙、そして鶴に雁、日本人は動物と仲良くしながら文化を育んできました、そうした伝統を雀を大事にする事から始めて、伝えていってほしいと思うものです。
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 福良すずめ。寒いので翅を膨らませた「雀」その姿が米俵を想像させたので、福が「来」と縁起を担いだのでしょう。少女の帯の結びにも使われましたし、写真のような根付や水差し(習字用)や家紋にも愛されてきました。筆者は招き猫よりフクロウ(不苦労)や福来雀が好きです。
 
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「最高の往生」『藤村忌に寄せて

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今日は24節期の「処暑」ソロソロ暑さも峠を越す季節です。
今朝はその通りの涼しさで10日先の「白露」に飛び越してしまったような気がします。庭に出れば露草の盛りで、精霊バッタが草をセッセと食んでいます。
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庭の露草、ピンボケですが精霊うバッタが手前に居ます。
新聞を拡げます。何時もの様に紙面の下(広告欄)から読み始めます
眼が婦人公論に止まりました。
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「最高の往生」って何だろう?
瀬戸内寂聴さんと写真家の荒木 経惟(あらき のぶよし)氏と阿川佐和子さんの鼎談です。
聞き上手の佐和子氏が寂聴さんとプロカメラマンで「欲望」に肯定的な荒木氏、それぞれから面白おかしく平易に「往生論」を訊きだしているのでしょう。
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大往生は岩波新書でしたがこれはその続編です。この機会に本棚から取り出して読んでみる事にしましょう。
もう10年も前でした栄六輔氏の書かれた「大往生」を読みました。内容は大往生を遂げられた人のを綴ったものでした。江戸っ子の永氏が収録したものですから、主人公は市井の職人で「名は残さずとも仕事を遺す」そんな人物の往生する様子を描いていました。幸田露伴の五重塔」を想い出させました。
谷中の貧乏長屋に「貧之大工に甘んじている男がいました。
名前は「のっそり重兵衛、」冴えない男でしたが、その仕事に懸ける想いは人一倍強いものがありました。
夜半に江戸の市中を暴風雨が襲います。
重兵衛は自分が建てた五重塔の上層に上って風神と対峙します。
赤いふんどし一丁で、手には鑿を持って喉元に突き付けています。若しも五重塔が倒れるんならば、自分は喉を突いて死んでしまう。そんな覚悟でした。
重兵衛の心意気が風神を動かしたのでしょう。暴風雨は止んで、朝を迎えたのでした・・・。名は無くともこんな職人こそ大往生できるのでしょう。
 
8月22日は島崎藤村の忌日です。大磯でも、小諸でも馬篭でも藤村の縁の深い処ではそれぞれに「藤村忌」が開かれた事でしょう。
筆者は昨年の藤村忌は大磯に行きました。大磯は藤村が息を引き取った草庵です。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/1049865.html?m=lc&sv=%C5%E7%BA%EA%C6%A3%C2%BC&sk=0居ました。
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大磯の地福寺(島崎藤村静子夫妻の墓」が祀られています。
御ふた例のお墓は同じデザインですが夫人の墓は一回り小さいのです。
キリスト教式の平たい墓石と仏教式の角柱都で構成されています。藤村がキリスト教と仏教と死んでも迷っているようにも見えます。
藤村の死因は脳溢血でした。午前中は海に向かった書斎におられて「涼しい風が吹いて来るね!]静子夫人にいわれたそうです。
藤村も処暑を迎えた事を喜んでいられたのでしょう。
でも午後には脳溢血を発症され、黄泉に旅立たれました。
3度目の奥様に看取られて恐れ戦いていた最期の時を平穏に迎えたのでしたから「幸いな往生」と言えるでしょう。
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藤村の終の棲家大磯の草庵から海に向かって露地を下ると鴫立つ庵に出ます。
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藤村と静子夫人多分大磯の草庵で撮影されたものと思います。
藤村の仕事が立派であった事に異論を挟む人はいないでしょう。
でも、問題は2つありましょう。一つは死ぬ時の肉体的な苦痛です。
もう一つは「精神的に穏やかに最期の瞬間を迎えて霊が旅立てるか、」といった問題でしょう。多分藤村もこの2つを問題にしていたと思います。それは第一に藤村の家族や血の問題でありました。
脳溢血ですから1番目の肉体的な苦痛は無かったことでしょう。
藤村の父島崎正樹は郷里の牢で狂死していましたし、姉も狂死していますから藤村には「自分自身の死の恐怖感」が強くあったと思われます。そんな藤村が脳溢血という安楽に死ぬことが出来たのは幸いであったでしょう。
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藤村の最初の夫人佐藤輔子さん、林檎の髪飾が似合いそうな清楚なお嬢様のようです。藤村は愛を選んでキリスト教を棄教したのでした。
次の問題は精神的な満足感です。この問題は藤村の文学者としての業績(満足感」とは別で「愛情の問題」です。
 
藤村は共立立学校時代の恩師の影響を受けてキリスト教の洗礼を受けていました。20歳の時に明治女学校の高等科英語科教師となります。一方で、教え子の佐藤輔子を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職します。(明治27年)、女学校に復職しましたが親友の透谷が自殺。さらに兄秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監され、翌年には輔子が病没します。明治32年には、小諸義塾に赴任し明治女学校卒業生、・秦冬子と結婚しました。
明治33年には
3人の娘も相次いで病死し、4人目の娘が産まれると妻冬子も病死してしまいます。藤村の青年期には死の影が付きまといます。こうした事態から姪の島崎こま子が家事手伝いに入ります。こま子とは愛人関係になり、こま子は妊娠します。すると世間の非難を浴びます。こま子はフランスに旅立ち。地烏孫57歳にして『処女地』の同人・加藤静子と再婚しました。24歳も年下の女性でしたが、藤村のよき秘書であり看護婦でもあったのでした。。大磯で看取ったのも静子さん、地福寺で並んでいるのも静子さんで、青春期極度に憂鬱な歳月を過ごしたものの、晩年は穏やかであったのは、落ち着いて懐の深い女性と一緒だったからでもありましょう。
4人目の奥様に看取られて平安な往生であったと思われます。”涼しい風だね”穏やかな語り口が藤村の『最高の往生』を暗示していると思います。
藤村は近代日本を牽引した文豪ですが最期は大磯の老舗菓子補「新杵」の借家出迎えました。藤村がお金や財産にこだわりが無かった事もありましょうし、3度も結婚すれば財産も出来なかったのも致し方ないでしょう。
 
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  藤村の終の棲家大磯の貸し家。簡素で美しい住居です。手前が藤村の書斎でした
 
 
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