Quantcast
Channel: 仮想旅へ
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live

神々のお怒り

0
0
此処3日間かけっ放しのラジオは国会を中継しています。私は読書をしながら聞き流しています。国会は先ず黙祷に始まりました。今年は黙祷続きです。議場でズット寝通ししの先生もおいでのようですが。
10月は八百万の神様は出雲に集まるそうです。
出雲で神様たちは何をしているのでしょうか?
八百万の神様が国連総会のようにして鳩首相談をしているようです。
議長は大国主命です。
 
大国主命は少彦名(スクナヒコナ」に質問します。
「少彦名よお前さん今回の噴火はは少しやり過ぎではないか。紅葉の山を楽しみにしていた善男善女が50人近く亡くなってしまった。何をそんなに怒っているのだ?」
少彦名は答弁します。
「昨今下界では山を削ってコンクリートで固めて宅地に変えて来ている。山は私自身であります。削って田圃にするのは良いと思ってきたのだが、コンクリートはいけません。土石流を起こして何度も警告してきたんですが、最近の政治(まつりごと)を見ていると国土堅牢かと言ってはをコンクリートで固めようとしている。コンクリートは水を通さないし、命も育たない。この国は人間だけのものじゃないのだから、私は思い知らせてやろうと御岳山を噴火させたんです。・・・・」
イメージ 1
10月は全国の神々が出雲に集まって協議をするので神無月と言います神々が合議する「和を重んじる」のが日本の特長です。
大国主命は天照大神に伺いました。
政治(まつりりごと)は天照大神にお任せしたんだが昨今の政治をどのように見ておいでかな?」
天照大神は答えます。
「私の子孫の仁徳の頃は政治の要点が良く守られていました。何しろ仁徳は自宅(皇居)が朽ちても再建しないで「民の竃を心配して減税していたほどでしたが昨今の政治は民の生活を犠牲にしても増税させ、官舎を建て直したり企業支援を厚くしているんですから・・・・。私も怒っているんです。!」
イメージ 2
昨年は伊勢神宮の遷宮が営まれました。伊勢神宮は日本の最高神であり天皇家の神天照大神をお祭りしています。
大国主命は言います。
「でも天照大神よ今年はお前の処は昨年新居も建て直して貰ったし、我が子孫とお宅の子孫の結婚も決まったのだから機嫌よくしたら如何かな?それに今の内閣は女性を大切にしそうではないか!」
天照大神は怒りを押えかねた様に言いました。
イメージ 3
藤沢の皇大神宮際の山車に祀られた仁徳天皇像「民の竈を懸念して見渡している姿。です。日本の聖人像の原型です。
イメージ 4
子供は男神女神の共同作業の成果ですが日本の歴史も男神の時代と女神の時代が交互して進んできました。
 「そこが癪に障るんですよ、「女性が社会進出しやすいように…何かと言えば言って居るんですが、その本音は女性に働かせて、女性から税金を取ろうと言うのが本音でしょう。我が家訓は女性が太陽のように輝くように喜ぶように政治をするようにしたものですが、今の政治は経済が最優先で、経済の拡大の施策として女性を働かせようとするものでしょう。女性の喜びを増大させようとするもんじゃない。政治のピントがずれて居るので怒っているのですよ。
消費税増税で一番苦しむのは家計の財布を守っている女性ですし。円高で最も苦しんでいるのも女性でしょう、そして平和憲法を大切だと思っているのも女性でしょう。私達女性の気持ちを逆手にとって政治を進めるのが不愉快なんですよ!」
天照大神のお怒りは如何ともなしがたいようです。神様の大半は女性ですし、リーダーの天照大神がお怒りになるとその他の神々も不平不満を漏らし始めて、会議は収拾できそうもありません。
議長のの大国主命は年長者の貫録で紛糾している議場の収拾を図りました。
「今までも下界は我らの期待に反して政治をしたことが再三であった。その時々に警告してきたが人間は謙虚で聞き耳を持っていた。でも、何時の時代も「命が一番大切である事がしんじつであった。我ら神ももそうだが下界も命こそが大切である筈だ。我々は怒る事があっても、命は守ってやろうではないか、軽々に命を奪う事が無いようにいたしましょう。
今までもこの国は男の神が中心の時代と女の神が中死因の時代が交互して、上手に営まれてきました高度成長時代は攻めろ攻めろと言って男の時代でしたが、これから暫くは守りや心の平和を大切にする女の時代が続く事でしょう。女神の方々の出番です。」
いずれにしても命が継続しない事には始まりません。男神諸君も女神が美しく輝き子供を産んでくれることは悦びです。。このことは下界も同じはず。それでは例年通り新嘗祭の件に議題を移しましょう。一番の議題は食品の安全と食品の種の保存の問題です。
口火は鯨や鰻で騒がしい綿津見(わたつみ)の神こと伊邪那美(イザナミ)さんに切って戴きましょう。
次いで今年の稲作の神事日程を議論していただきます。
伊邪那美は待ちかねたように言い出します。
「地方創成と耳に良い事ばかりを言っていますが。今年の買取米価はどうしてかように低いのですか。農協の倉庫に余剰米が在庫しているのが現認のようですが、米価を決めているのは農協では無くて国でしょう。これでは農家は米作を放棄してしまって国は荒れてしまいます。地方が廃れてきたのは農協の責任では無くて、国の責任です。今の政治は農業を農協から取り上げて企業に任せる様なものです。政治は民の為にあるもので企業の為経済成長のためにあるものではありません。」
それに牛肉の価格です。牛肉は中国に買い占められて日本人は食べられなくなってしまいそうです。そんな気の毒な民の姿は見たくありません。
イメージ 6
伊勢神宮の建物は先史時代の倉庫のような形です。種籾を倉庫に積んでおいて神が元気に芽をだし育ってくれる事を祈願したものでしょう。新嘗祭は今年の豊作を感謝し翌年の豊作を祈るものでした。
イメージ 5
神田で御田植神事が挙行されます。出雲では八百万の神々が集まり、一年の収穫と翌年の計画を協議したものと思われます。先史時代の人々もそうして稲作に励んでいたことでしょう
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 
 

江の島の猫の生き様に倣って・・・。

0
0
2年前の今頃に発覚した事件でした。パソコンマニアの(PC)元IT会社員片山祐輔被告は面白半分でしょう、江の島の野良猫君の首輪にSDカードを取り付けて、マスコミに通知しました。その時点では警察当局は爆破予告の真犯人として4人も逮捕して送検手続きを取っていました。警察当局は真犯人が別の処に居てこの事件はPCの遠隔操作事件であるという実態が解ったのでした。
イメージ 1
夕焼けの江の島
イメージ 2
江の島は磯釣りの漁場でもあります。野良猫君は釣り人からもお裾分けを頂戴します。
真犯人であった片山被告にも赤の他人が逮捕された事実を目の当りにして、良心の咎めを感じていたのかも知れません。警察当局は人員を江の島に集中させ、野良猫君を捕まえてSDカード探しに没頭しました。その結果事件の全貌を掴んだ上に防犯カメラに映った片山被告を確認し、逮捕に向かいました。でもこの間のプロセスを見ていた国民は次の事実に愕然として恐怖を覚えたのでした。
イメージ 5
 
イメージ 6
 
1、警察の犯人逮捕能力は著しく時代遅れでアナログであること。
2、マスコミは警察の発表をニュースとして流すだけで、少しも検証をしていない。
この結果、善良な第三者がいつ犯人として誤認逮捕され、社会に報道されて社会的に抹殺されてしまうかも知れない。片山被告が全面自供した現在では、社会的な教訓として受け止められているのですが。誤認逮捕された4人の方の名誉は毀損されたままです。
イメージ 7
他にも被害者が居ます。江の島に棲んでいる1000匹と言われる野良猫君です。
社会から好奇の眼で見られるし、追い掛け回されてしまいました。
イメージ 3
この猫ちゃんは尻尾が長い三毛です。日本猫とシャムネコの混血でしょう。でも民宿に区に居座っているので飼い猫ののような品があります。
イメージ 4
江の島下の民宿街には野良ネコの自由さと飼い猫の安定を享受した猫君が沢山住んでいます。羨む生活環境です。背中を掻いてもらってご機嫌な野良猫君。
江の島の野良猫君たちは観光客のお裾分けで食べる事に心配はありませんでしたし、神社の床下や木の洞や岩陰など棲家も充分にありましたから・・・・・、野良猫仲間から追い出されなければ江の島は天国のように住み心地は良かったのでした。 
向かいの龍口光寺の野良猫はお墓の供え物を食べているのです。亡者の供え物を盗んで食べるのに比べれば遥かに独立自尊の精神に満ちているのでした。だから江の島の野良猫は孤高な精神に満ちているんです。
 
PCの遠隔操作事件でしたが、片山容疑者は日隔操作事件で威力業務妨害なで止めて置き「真犯人」を装うメールを自作自演しなければ闇のままだったでしょう。自分が全く知らない第三者が誤認逮捕されたのでた「その人は真犯人ではないと」警察に知らせ高く思ったのでしょう。
そこで犯人しか知らない事実を江の島の野良猫君にSDカードを付ける事で公にしました。
その姿が防犯カメラに映ってしまい犯人逮捕のきっかけになりました。
この事件の最大の被害者は誤認逮捕された人とその家族でした。その後も「冤罪」報道の誤りを見直すようには見えませんなど、イメージ 8
龍口寺の墓石の上でお供え物を待つ猫君
 
猫君元来日本に住んでいたのかも知れません。山猫が鼠を捕るので好まれて、稲作の集落に住み着いたのかも知れません。日光東照宮の眠り猫はお米を守るお使いとして鼠の番をしているのでしょう。左様に猫は好まれました。。紫式部も清少納言もペットとして猫を可愛がっていたようです。遣唐使船で中国の猫が遣って来て近代になるとシャムネコやペルシャ猫も遣って来て、日本の尻尾の無い猫は混血してきました。混血に混血が重なって今では日本の猫のルーツは解らなくなってしまったようです。。真っ暗闇の中でも真実を見通す姿に憧れる人は数多く居ます。黄泉の国と現世を往復できる動物と思われたものも闇夜でも、目が効くからでしょう。
私の上司(М副頭取)は長銀が破綻した時こういわれました。
「これからは猫の生き方に徹するよ!」キョトンとする私に説明してくださいました。
猫も象も死に際を見せないのは野良ネコもまた死期が近づくと身を隠すのだそうです。
世間から仲間から離れて静かな時間を過ごしながら余生を生きよう・・・。
暗闇の中でも真実を見詰めながら孤高に死んでゆきます。そんな宣言だったようです。
江の島の野良猫君もこんな生き様は常識のようには骨身に浸み込んでいるのでしょう。
自分の欲望に身を汚して他人や他の生き物に迷惑をかけるのもいい加減にしろ。
『生きざまは自分の身の丈で他人や地球上の生き物に迷惑にならない範囲に納めて静かに幕引きをするのがケジメだ・・・』と
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

栗ごはん

0
0
今日(10月5日)は高円宮典子さまのご結婚式です。昨日の新聞には天皇陛下皇后妃殿下のお祝いのお言葉も載せられていました。にもかかわらず台風18号の接近で大荒れのお天気です。
一般に紀元・5世紀にお伊勢さんと出雲とは日本の国の覇権を争い大和朝廷が日本の統一に成功した事になっているようですから東西両陣営が争って2500年経て両家の子孫が縁結びしたので。お目出度いことこの上ありません。台風が水を挿すと葉は無粋な事です。大国主命も天照大神も渋顔の事でしょう。
イメージ 7
皇居三宮のご結婚のご報告をされる典子さま(出典FNN)
出雲は縄文文化の代表です。お伊勢さんは弥生文化です。日本のルーツを為した両者の御婚姻と思えばこの上なくお目出度い事で。若しかしたら神殿の正面に大国主命と天照大神の2柱がお並びになり二神のま前で式をあげられるのかも知れません。
縄文遺跡の三内丸山遺跡は膨大な量の栗の実が出土し、栗は太古の昔からの主食であった事が解っています。稲作の前に栗の栽培が行われていたのでした。ですから「栗ご飯」は弥生式食生活と縄文式食生活の合併のようなものです。こんなお目出度い日は栗ご飯んこそ相応しい事でしょう。今日は全国各地で「栗おこわ」が食べられることでしょう。
中国の五行思想がいろこいのでした。。五行とは五輪と同じで万物は五つのものからできていると考えるものです。五行は「木」「火」「土」「金」「水」の五つでそれにに対応した「青」「赤」「黄」「白」「黒」の五色が表に出ています。日本人はこの五色の上に紫(徳・仁)を載せて万物の中で最重要と考えました。五行の一つの「木」ですから木扁の漢字も数多く造りました稲が沢山稔るように念じた木が桜でしたし。栗の漢字は栗の実がたわわに実った状態を象形したそうです。
イメージ 1
その為でしょう、栗の実が枝先にたわわに実っている景色を見ると嬉しくなってしまいます。
せもこの台風で大半の栗の実は枝から落ちてしまう事でしょう。
先日デーサービスで「里の秋」を歌いました。歌詞を確認して驚きました。「里の秋」では囲炉裏端で栗を茹でているんです。私は栗を灰にに入れて焼いているとばかり思っていました縄文時代から栗は焼くのが一番おいしく茹でるのは邪道だと思っていました。
でも栗を茹でながら戦争に出征したお兄さんに想いを馳せているんです。「里の秋」は反戦の童謡なのです。
イメージ 2
栗の実がたわわに実った様が栗の漢字のルーツ(象形文字」です。
イメージ 3
     栗は焼くのがお最もおいしいと思います。
イメージ 4
我が家の「栗ごはん」家内は新米に栗なので全体に水ぽくなってしまった、と悔やんでいました。この秋はもう一度栗ご飯が食べられそうです。「栗ごはん」と汁は「芋煮か「けんちん汁」そして煮しめは「筑前煮」味噌漬けとしたいものです。
 
縄文の色として赤と黒が重要でありました。赤は太陽であり血潮であって、強い生命力を表徴するものでした。。奈良県には藤ノ木古墳という遺跡があります。この石棺の内側は真っ赤でしたが、赤は、紅花の花粉が大量に検出されたのでした。縄文時代から栽培されていた栗のみ実を火に入れれば美味しく食べられ、寒い冬も命を繫げる事を知ったのでしょう。紅花はシルクロードを伝って日本に来て奈良時代の高貴な人の墓を朱塗理にしたのでした。エジプトの遺跡も真っ赤ですから古代人は洋の東西同じような生命観を持っていたのでしょう。もう一方の黒は太陽が沈んだ跡の夜であり死後の世界を想わせる色で畏怖していたのでしょう。
そう考えると、囲炉裏端では炭を焚いて栗の実を焼いて食べるのが良いように思うのですが。
栗が人気だからでしょう、八百屋に行けば「栗南瓜」「栗薩摩」なんていう名に眼を奪われてしまいます。
イメージ 5
我が家のワンちゃん栗南瓜を齧ってみたのでしたが美味しくないと判断したようです。
イメージ 6
和菓子のアイテムにも栗は欠かせません。写真は大磯新杵の栗羊羹
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

那須高原の撫子の花(奥の細道)

0
0
今朝は寒かった事に加えて雷が鳴っていて5時には目が覚めました。庭先から鶉の鳴き声がしてきます。寒いよ、濡れるのは嫌だよ!言っているようですが、私にはどうにもできません。鶉小屋を作るときもっと頑丈にしてあげれば良かったのでした・・・・。
ラジオからは南木曽町の町民避難状況が報道されています。南木曽町は恵那山の麓。木曾川を挟んで向かいが御嶽山です。今年は天災が重なってとんだ厄年でした。
御嶽高原の紅葉は見事だったのでした、遭難者の遺品のカメラに見事な景色が記録されていて写した本人は黄泉に旅立っている何て、人の命の空しさ哀れさを痛感させます。
イメージ 1
那須高原正面が主峰の茶臼岳。手前の噴煙の上がっている一帯が殺生が原になります。老狐が死んで石になったと言われる殺生石(毒ガスが出る)が有名です。
イメージ 7
箱根仙石原芭蕉一行が道に迷った那須高原もこんな景色でしょう。
 
私はもう那須高原の殺生が原を想い出しました。奥に那須の嶺が見えます。その頂きの下は火口が大きく開いて噴煙が湧いています。手前は一面の野原で一面草紅葉に染まっています。殺生が原の名は火口から硫化硫黄が吹き出すので生物が死んでしまうので付いたのでしょう。冷え冷えとした景色です。
1662年(天和2年芭蕉39歳)3月27日(新暦5月16日)芭蕉は江戸深川から旅立ちます。前年に母を失い天涯孤独になってしまいました。、芭蕉庵も焼失してしまって無常を強く感じていたのでした。
神の造形「松島」を観る事、先人西行など漂白聖の行跡を訪れる(歌枕を観る)事も目的だったようです。
イメージ 2
母を失い天涯孤独になって、芭蕉庵も焼失した芭蕉は曽良を伴にして松島に向けて旅立ちます。蕪村を始め蝶夢幻阿弥陀仏などは競って「芭蕉翁絵詞伝」(原本書写し俳画を添えた絵巻物)を遺します。一遍上人絵巻を習ったようなものでした。
 
 行く春や鳥啼き魚の目は泪
5月鰹の眼に泪を観て4月1日(新暦5月19日)には日光に入ります。
 あらとうと青葉若葉の日の光
日光を越えると那須高原に入ります。近道をしようとしたのが間違いでした、已む無く農家に泊めて貰います
広大な原野に分け入って道に迷ってしまいます。。蜘蛛の巣のように踏み分け道が広がっていました。
今風に言えばて箱根の仙石原のような迷路でしょう周囲は背丈を越えるススキが生い茂っています。
どっちが白河の方角か解らなくなってしまったのでした。草を刈っていた農夫に道を尋ねると馬を貸してくれます。利口な馬が道を知っていたのでしょう。下野の人は昔も親切な人が多かったのでした。
鉢の木で有名な佐野介左衛門も下野の住人でしたし・・・。
大切な馬を漂白僧に貸してくれるとは泥棒に車のキーを渡すようなものです。
芭蕉は人情の機微に触れて心温かくなったことでしょう。
イメージ 3
蝶夢幻阿弥陀仏の「芭蕉翁絵詞伝」の「かさね」の場面。美しい自然と人情が織りなす場面は大和絵と絵本のようです。西行・芭蕉の流れは漂泊文学は一遍・良寛の漂白聖を精神的な支えにしてきたようです。
馬に乗ると小さな童二人が芭蕉を追って来ました。芭蕉は小さい方の少女に訊きました
「お名前は?」
尋ねました。可憐な少女はつぶらな瞳を輝かせて
「かさねというの」答えました。
芭蕉は田舎には珍しい優雅な名前だと感心します。奥の細道に童が登場するのはこの那須野と福島の信夫野で「信夫文知摺染め(しのぶもちずり)をする童だけでした。
後人の与謝蕪村も「かさねの段」が気に入ったのでしょう
童の場面を屏風絵巻物に「奥の細道」本文を書写し、その時の絵(俳画)を挿入致します。屏風は山形美術館に絵巻物は山種美術館などで見学できます。
曽良は「撫子の花は一重が多いのだが八重の撫子もあって『重ね』は八重の撫子の事でしょう。」説明しました。そこで、馬の賃料を鞍壺に入れて返したのでした。お利口な馬は農夫の家にに那須野を戻って行きました。
イメージ 8
これが蕪村の奥の細道屏風(山形美術館蔵)日本の古典から転写俳画(重文)の傑作と言われています。
イメージ 5
これが撫子です一重が多く川原撫子と呼ばれています。
イメージ 4
高原に咲く撫子風の花と言えば写真の「浅間ふうろ」か「高嶺撫子」でしょう。私は「ふうろ」が最適だと思います。
那須高原で人の情けに心浸みた芭蕉は白河の関に向かいます。途中に殺傷石を見て更に「遊行柳」と呼ばれた柳を見に行きます。敬慕していた西行ゆかりの柳です。
 道の辺に清水流る柳陰 しばしと手こそ立ち止まれつれ
謡曲「遊行柳」の題材になった柳でした一遍上人(遊行上人)が白河の関を越えた処で老人の姿をした柳の精に出会い朽木の柳に導かれて念仏を授けられたお話です。
芭蕉は「屹度西行も此処で休んだであろう」柳の樹下で腰を下ろして辺りを眺めていると。
早乙女が1枚の田圃の田植えを終えて腰を伸ばして、
「さあ、それでは次の田圃に田植えをしましょう」言いながら腰を伸ばしていました。
深川を出てもう一月経とうとしているのでした。
田一枚植えて立ち去る柳かな。
多分芭蕉は朽木の精と早苗に生死のコントラストと言うか、命の輪廻をしみじみ思った事でしょう。
歌枕の旅は武隈の松(笠島)に向かいます。
イメージ 6
那須野を思わせる高原の景色
今日は筆の進みが遅くてもう11時です。外も静かになって雨も上がって来ました。横浜も台風が通過したようです。区役所から何度も携帯に避難指示、避難勧告が入っていましたが・・・・・。
柏尾川の氾濫も、土砂崩れも無く、く台風18号を遣り過せて幸いでした。
何で綿際達は日本女性を大和撫子と呼ぶのか解りません。撫子の簡素で美しい事それでいて台風にも耐えて強靭なためでしょうか?先のアジア大会でも撫子は活躍しました。阿倍政権下大和撫子は一層活躍しそうです。でもダリアのように目立って態度が大きくなることなく少しだけ控え目で優しく美しくあって欲しいものです。芭蕉もそう思って「子供の名を『かさね』と名付けたのでしょう。テレビでは典子さまの黒髪『お滑らかし』とかさね/小袿(こうちぎ」が映っています。うっとり眺めてしまいます。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

13夜

0
0
旧暦の9月13日、新暦では10月6日、昨夜が13夜でした。15夜を仲秋の名月というのに対し、13夜は「後の月(のちのつき)」「豆名月」「栗名月」ともいいます。15夜には里芋を煮て供えますが13夜には豆や栗を似て煮て供えます。ですから満月を芋名月(満月)と呼ぶのに対し、13夜は栗名月と呼びました。13夜は「お願いをする月」でしたから、日本人は満月よりも、少し足りない13夜を美しいと評価したのでしょう。樋口一葉は「13夜」で男運の悪い女性の薄幸を書いてみせました。13夜のお月様はは幸せを願う「月待ち信仰でした。
藤原道長も平清盛も権勢を欲しい侭にしましたが、日本人には人気がありません。望月は何れ欠け始めるのが道理です。日本人の感覚には反しているからでしょう。
 この世おば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしとおもえば(道長)
13夜を栗名月と呼んだ理由を辞典では「このころ栗の収穫が出来るから」と説明していますが、私は栗の形にあると思います。一般に柴栗は3個毬(いが)に収まっています。端っこは半月(片栗)形になりますが、真ん中の栗は少し歪んで丸くはありません。その少し歪んだ形に13夜の月が見えるので、栗名月の名が付いたものと思います。
イメージ 2
栗の実は毬(胃が)の中に3個並んでいます。真ん中に少し歪んだ丸い実左右に半月の片栗が居ます。13夜を栗名月月と呼ぶ所以です。
イメージ 7
満月にお供えするお餅は里芋を代用させます。ですから15夜を芋名月と呼びます。
イメージ 1
我が町内にもススキが復活してきました。10月4日町内清掃で改めて確認しました。
 
 
寝てまち月 毬の中から 顔を出す 栗名月に恋願う。
 13夜の月の出は遅いので「寝てまち月」とも呼びます。
恋人がいずれ来ることかと待っていたらいつのまにか寝てしまった。これでは恋心は満たされないと観念したお姫様も居たことでしょう。
イメージ 3
台風一過の13夜「写真は昨年撮影した滑川河口向こうは逗子マリーナです。
イメージ 4
台風一過の鵠沼海岸大きな流木が打ち上げられていました。
イメージ 8
茅ヶ崎海岸に打寄せられた流木遠くの岩が烏帽子岩です。
昨日は台風一過で午後には好天になりました。家内は荒れるに任せた庭掃除に出て、大声を立てていました。庭先の枯葉の山に蟇蛙君が座っていると言います。夕飯は私の期待に応えて煮豆が用意されました。13夜には健康を祈る事に致しましょう。
イメージ 5
15夜は芋名月と呼びます。
イメージ 9
晩御飯はロールキャベツにお豆を添えました。故父は煮豆が大好きでした。
イメージ 10
茹で栗も13夜の必携アイテムです。左は自家製のピーナッツバター。
イメージ 6
これが我が庭の主だった初代のガマ君昨日家内が二代目に遭遇しました台風の中二代目のガマ君が登場して、これは縁起が良さそうです。
家内の写した写真を確認すると、十年来我が庭の主として君臨していた蝦蟇君と少し模様も色も違うようです。家内と協議した結果、やっぱり件のガマ君は亡くなってしまい、今日顔を出したのはその後継者2代目であろうと言う事になりました。もう冬も近づいたので、枯葉のお布団にくるまって島民の準備をしていたのだろうと、確信したのでした。
藪蚊を退治してくれるガマガエル君です。二代目も長生きしてほしいものです。
寝床に横になると良寛さんの事が想われました。多分ガマ君が落ち葉に上に出現したというからでしょう。
3年前の秋、越後の国上山に良寛さんを訪ねました。良寛さんは一日中童と毬を突いたりして遊ん過ごしたそうです。
今頃は「お葬式ごっこ」で、五合庵の庭に散った落ち葉に体を埋めて「お墓に埋めて遊んだんだそうです。良寛さんは枯葉に埋められて、そのまま気持ちよく寝てしまったんだそうです。
イメージ 11
の名人と言われた良寛さんの姿を津軽の三森九木が描き良寛さんの姿を描き良寛さんが讃を入れたもの。手毬の要領は1.2.3.4.5.と数えながらすればよい書き加えたのでした。
さんは頭侘袋の中に5つも6つも手毬を入れていて、童と遊んでいたそうです。良寛記念館で見た手毬は御所風では無くて少し歪でした。想いだしながら何時しか熟睡してしまいました。明後日は15夜で更に皆既月食だそうです。見られるのは20時30分頃でしょう。その時刻まで月待ちをする事に致しましょう、古代人と同じように。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

月に祈る(水子供養のあやまち)

0
0
流石に今日は24二四節季の寒露です朝から寒いし、パソコンのキーを叩きながら鼻水も垂れます。
でも今晩は満月で加えて皆既月食が視られそうです。昨日は13夜を書きました。半月は舟のように見えます。
月見は又は月待ち信仰は何処かに裏悲しさが潜んでいるようです。古代から中世にかけて、薄倖を恨みながら黄泉に旅立った人も多かったことでしょう。人々は熊野の海の彼方に補陀落山という浄土があると信じて小舟に乗って沖に向かいました。
イメージ 1
壇ノ浦で二位尼は8歳の安徳天皇を抱いて入水されます。不安気な安徳天皇に「海の底にも都があると聞きます」。と言って安心させます。
『平家物語』巻第十で、「維盛入水」です。インテリで美男であった維盛は衰退してゆく平家を支えるには力不足だったのでしょう、最期の時は余りにも悲しく美しく描かれています。熊野三山を詣でて沖に小船で漕ぎ出して行きます。
子供のお墓に立っている卒塔婆を確認します。子供の戒名は小さい順に。胎内児なら胎児、更に大きくなっていれば嬰児で、更に大きくなって入学年齢なら童子(童女)で孫子(がいし)は胎児と童子の中間です。私の妹は宏子孫子と書かれていますので、3歳頃に亡くなったのでしょう。妊娠初期胎児以前に亡くなった子を「水子」と呼びます。過去帳を開けば戦後は水子は皆無です。理由は明白で、優生保護法が施行され、母体優先の意味で、胎児になる前に水子以前で堕胎下してしまう事が合法になったから。もう戒名も付けなければ法要も要らないと思ったからでしょう。
でも水子なら供養はいらないと割り切れるものではありません。その法律と倫理のはざまで水子供養が盛んです。子安地蔵尊のお寺も何時の間にか水子供養のお寺に看板を付け替えてしまいました。私の好きな長谷寺も帯解寺も水子地蔵尊が並んでしまって空恐ろしい雰囲気です。本堂の裏山の薄暗がりの中に陽の目を「視ずに亡くなった子の霊が集まっています。だから「水子」「視ず子」と呼ぶんでしょう。
イメージ 2
海の上に浮かんだお月様は補陀落浄土を思わせます。月は死と命のクロスするところです。月山のように
それにしても怖ろしいのは性欲の強さです。
イブが食べてしまった林檎は如何ともしがたいほど強烈な魅惑でした。
少しくらい快感のレベルを下げれば、水子は避けられたのですが・・・。
 
昭和40年代初頭私は大坂の豊中に住んでいました。大坂は武庫川の西は水が美味しいんですが、東は水が青臭くて不味いのです。理由は水源の琵琶湖にアオコが大量発生していましたから。私達は雄琴温泉で垂れ流された精液が琵琶湖を汚しているから・・・諦め顔で言ったもんでした。
イメージ 3
これが笹舟団栗や土筆を載せれば一寸法師の流しヒナのようです。
私は小さいころ笹舟を浮かせて遊びました。熊笹を折って組んで小舟にして、小船にはタンポポやチサの花を乗せて小川を流して遊ぶのでした。一寸法師を思い浮かべていました。今思い出せば、流しヒ雛の笹船版でした。
笹舟に乗っていたのは水子のような気がします。
 
今猛威を奮っている御嶽山の西側は笹の生い茂った野麦峠です。野麦峠は女工哀史の娘さんがお腹の胎児を産み落とした峠でした。一昨年トンネル落盤事故で多くの命を奪ったのも笹子トンネルでした。
笹には命と死が同居しているようです。ですから、お月見は死であると同時に命であったのでしょう。
女性の体も月に同調しているようですし。
イメージ 4
鎌倉宝戒寺の水子地蔵尊水子地蔵には願主の名と日付を書く事になっていますが。水子の霊にとってはそんなことは意味をなさず「坊やごめんなさい」その一言が待たれたものと思います。そうした供養の言葉を見つけるとホッと安堵しますし水子も浮かばれることでしょう。そんな気持ちが次の幸せ中ちゃんを呼ぶものと思います。
 
快感を求めてその余り用具もつけないので、自然則に従って子宮には命が宿されます。。
江戸時代には否認用具も無いので中条流など堕胎専門のお医者さんもいたし。遊女には堕胎の術が伝わりましたし。のうそんでは間引き避けられませんでした。貧乏であること、生活の為…様々な事情で堕胎は避けられない事情があったのでしょうが、快感をコントロールできなかった理由で堕胎する事は如何にも精神の貧困を思わせます。神が許すはずがありません。教会で結婚を誓いながら、堕胎をするようでは神はお怒りされることでしょう。「坊やごめんなさい」は懺悔です。仏教では 懺悔滅罪を説いています。. 仏祖憐(あわれ)みの余り広大の慈門(じ もん)を開き置け」。「御免なさい」から罪滅ぼしが始まるのでしょう。
「笹舟流しは水子供養だった」・・・それは私の直感です。
今日から寒露ですが心次第で寒露は甘露です。笹子峠のお団子が食べたくなりました。勿論越後の笹餅でも鳥取の笹寿司も食いたい。コッチの欲望も断ちがたいものがあります。
 
イメージ 5
長谷寺の水子地蔵尊手前の紫の花は岩タバコ(イワヂシャ)です。お星さまのように可愛いのです。小さなお地蔵さんの背中に願主の名と日付が書かれています。
イメージ 6
此方は奈良の帯解寺の水子地蔵尊薄暗闇の中でお地蔵さんの前に立つと背筋に寒いものが走ります。優生保護法が過ちの始まりです。母体の保護は大事ですが水子の生きる権利を誰が奪えるのでしょうか?疑問です。
ラジオでは国会をの中継しています。「命を守る政治」を力説しています。今生きている人はだれも反対しません。でも将来の人の命の事も大事にしてあげたいものです。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

利休汁でお月見

0
0
我が家は朝はパン食です。家内はお皿一杯の葉野菜を出します。「先ずサラダから食べてください」注文も厳しくなってきました。レタスを食べていると兎になった気がしてきます。
秋に美味しいのはお茄子と蓮根など根菜類です。
イメージ 1
牛蒡を掘り出す風景、牛蒡はけんちん汁に天麩羅に美味しい季節ですが掘り出すのが大変です。
イメージ 6
最近は鎌倉でも盛んに京茄子をさいばいするようになりました。
イメージ 7
何時も何時も茄子は焼いて戴いてましたが昨晩は利休汁と注文を付けました。
 
そこで昨日は夕飯に「利休汁)が食べたい、注文を出しました。
「利休汁て何?」家内が聞き返します。私は答えます。
「昨年総持寺祖院で本膳を戴きました、その時の汁は海藻でしたが、今頃行けばお茄子でゴマダレ汁がかかっていると思うよ・・・何しろお茄子は今頃が一番おいしいし利休にするのが一番だから・・・ネットで調べてみて・・・」返事します。
「父は焼きナスが好物であった事、焼きナスの上に焼き胡麻を擂って汁状にして懸ければできるよ・・・」
茄子は油を好む事、風味の良い擂り胡麻を懸ければ美味しいことは必定です。
家内も納得して請け負ってくれまあした。
イメージ 2
これが我が家の利休汁でした。焼きナスに黒ゴマの汁をかけたものです
 
そろそろ満月が山の端から顔を出すのが待たれる頃夕飯の用意が出来ました。
期待通りに汁椀には利休汁が用意されています。
漬物は生姜汁をまぶしたナムルです。
隠元マメとお芋と蓮根の精進揚が主菜です。
身体が欲している野菜を前に私は満足です。
私の背後には父の気配を感じます。
「美味そうだな・・・・、良かったな」言って居そうです。
私は利休がこの汁が好物であった事。胡麻も茄子も堺の名産であったろうし、武士の気力体力を支えるには適切な料理であったろう・・・」話します。
北原白秋が「城ケ島の雨で「利休鼠の雨が降る」と歌ったのはこの黒胡麻を擂った灰色の事だろう・・・」言うと家内は指摘します。
「利休鼠は無い色ではないわ緑がかっていはグレーの事ですよ・・・・・言います。山々に霞が煙っている春を感じさせる色ですよ・・・・・」
イメージ 3
左から深川鼠中央が利休鼠右が錆び鼠鼠色でも利休鼠はお抹茶の緑新緑の色が少し感じられるようです。
 
満足満足、我が家で精進を戴いて。体も力が出て来そうです。
7時半過ぎそろそろ皆既月食の天体ショーも始まるかと言えば家内が庭に出て言います。
「未だお月様は東の山の端に隠れていますよ・・・」
私は思いました
利休汁にウズラの卵を浮かべれば良かった・・お月様が汁の中に浮かんだ・・・。
釣月禅寺の和尚さんも夕餉を戴いておられるでしょう。
イメージ 4
 昨晩の皆既月食読売新聞を転写
典座のお料理は温石と言います。
私の住む戸塚には温石という名の精進料理があります。
温石とは懐石の事です、懐石とは人を懐かしむの意味のような気がしてきます。その意味では懐石に相応しい利休汁でした。ご馳走様。
最後に大津小学校の昨日の給食を紹介します。
学校給食の献立を観ていたら大津町の小学校で懐石のような献立が出ていました。先生のコメントが良くてこれこそ食育だと思いました。今日は日本に昔からある「煮物」と「和え物」の献立です。「煮物」や「和え物」は肉・魚・豆・野菜・海藻など、いろいろな食べ物をたくさん食べることができる料理ですので、栄養もバランス良くとることができます。家であまり野菜を食べない人はとくに食べてほ
しい献立です。残さず食べましょう。」私も野菜が美味しいと判るようになりました半世紀も遅れでしまいましたが・・・・。

イメージ 8
大津小学校の昨日の献立典座の食事に通じるものがあります。http://www.town.ozu.kumamoto.jp/child/kids/kyushoku.html
イメージ 5
千利休の好みは水ナスとか賀茂ナスと呼ばれた京野菜でしょうか?最近は鎌倉や横浜でも水ナスが目立つようになってきました。今頃京都の割烹では茄子は味噌田楽で食べさせますが味噌に代わってゴマダレで食べさせたら良いと思います。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

沓掛宿(中軽井沢)の地蔵尊

0
0
夕暮れになると魔物が街を徘徊しだすと言います。だから、日が暮れたら家に居るように言われました。朝陽が昇る頃、お地蔵様が街を見回るのだそうです。お地蔵さんは昨夜何か街に悪さが無かったかチェックされるのでしょう。だからお地蔵さんに遭いたかったら早起きして街に出れば良いのだそうです。
「朝起きは三文の得と言いますが」ただ「朝起きは彼岸の得」という事だったようです今昔物語には、そんな説話が幾つも載ってています。
私の親友I君の南軽井沢の山荘の近くに「発地地蔵尊」があります。昨年の今頃は泊めて貰って早朝にお詣りしました。寒露で濡れた草叢の向こうに背の高いお地蔵様が女街道を向いて佇んでおいでです。
発地地蔵尊から西に向かえば中軽井沢の駅です。
中軽井沢は新しい名前で中山道と呼ばれた時代は沓掛と呼ばれていました。碓氷峠を越えると軽井沢宿、沓掛宿、追分宿と三つの宿場が玖波が並んで居ました。長谷川伸さんは沓掛の宿で、一人の子連れので男が泊まっているのを見かけて「沓掛の時次郎」を想いつき、股旅者・無宿者を着想したのでした。
イメージ 10
今日の話題南軽井沢発地に祀られている発地地蔵尊
イメージ 3
中山道沓掛宿
イメージ 4
浅間神社は浅間山だけではありません富士山を祀るのも浅間神社です。あえていえば山の神の最高神が浅間の神様です。沓掛辺りには山の神が多く祀られています。
沓掛宿の時次郎、沓掛とは宿場の中央に浅間神社があって、その神前に沓(草履」がかかっているからでしょう。碓氷峠を前にして浅間神社に旅の安全を祈願して、峠を越えてきた旅人は無事に峠越えをしたことを感謝して浅間神社を詣で、草履を履き替えたことでしょう。そうして神前には夥しい草履が懸けられました。
全国各地に沓掛の名は残っていて、草履が懸けられています。
イメージ 5
 
イメージ 6
中山道麻績から聖山に向かう冠着山山麓にある地智積寺の仁王門に架った草鞋これが沓掛の意味です。林檎畑の奥に千曲川が流れています。沓と靴は同じで足の甲を覆っている履物こうが出ている履物は草履です。
沓掛宿は正しくは「草履掛け宿」だったのでしょう。
イメージ 7
草履は仁王様の前に懸けられています。ですから大きなサイズです。
 
歴史を留める沓掛の名を捨てて中軽井沢なんて今流(当時は)の名にしたのは残念です。
I君の山荘は中山道の脇街道で、女性が多く通ったことと、峠を下れば下仁田、打空っ風の上州であったので「木枯し文次郎」の舞台になりました。石仏も多いし、四季の移ろいが美しく、浅間山が見渡せる良い処です。
イメージ 1
寒露で濡れた発地の休耕田田圃の向こうに旧街道が通っています、霧が晴れれば正面が浅間山です。畔を歩けば濡れてしまいますが雉や鴨が飛び出します。
イメージ 2
発地の休耕田は花や蕎麦、ブルーベリーを栽培する人が増えています。見回りをする地蔵尊もお喜びでしょう。
イメージ 8
発地地蔵尊から浅間山を望む向こうの山林の中に沓掛宿があります。西が追分で東が軽井沢宿です。赤い花は千日草仏花に使われます。
イメージ 9
 草履は仁王門のほか道祖神・延命地蔵尊、庚申塔の祠にに架っていることが多いのです。旅は街道を歩く旅だけでは無く「死への旅」も意識していると思われます。写真は地蔵信仰が発生した奈良の長岳寺門前です。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

生家のルソン壺

0
0
リハビリを兼ねて、私の生家まで歩いて登ります。18日の台風で境内は夥しい団栗の実が落ちていました。団栗は自動車に轢かれて、粉になろうとしています。椎の実はフライパンで焼いて食べた記憶はありますが、団栗は食べた記憶はありません。団栗を生で食べると「ドモリニなる」というのは、語呂が似ているからでしょうか?
団栗の樹下には6地蔵尊が並んでいます。「痛い」お顔をしかめているようにも見えます。
イメージ 2
此処が私の生家戸塚倉田の盛徳寺ですもう20日足らずで写真のように銀杏が黄葉します。
イメージ 3
盛徳寺境内のスダジイの大木樹下には六地蔵が祀られお地蔵様の頭にコツンとぶつかる罰当たりの団栗の実です筆者のように罰当たり者です。
イメージ 1
悪餓鬼でコロコロ転がってお池にはまってしまう団栗のイメージです。
 
栗は生で齧っても美味しいものです。私が団栗も生で食べないように戒めたのかも知れません。
団栗は橡の実同様にシッカリ灰汁抜きすれば食べられることでしょう。団栗を好物にするイベリコ豚は太っているんですから。
境内の片隅の釣鐘草の茂みの中に懐かしいものを見つけました。そう、台所の土間に置かれていた水瓶です。
水は井戸から汲み上げて水瓶に溜めて置き、柄杓で汲んで台所の水場で使っていました。母の面影を写している水瓶です。
私の産湯もこの水甕に依っていたでしょうからご恩のある水甕様です。割って捨てられないで未だ形を留めていたのです。
庫裏を改造し土間を撤去した時に水道を引いて不要になった水甕を姉が何処からか拾い出してきて境内に置いたのでしょう。位置からすると、天水桶に転用したようです。水甕が防火用に、180度違う目的に使われています。水神様が秋葉様に守備位置を後退して戴いたようです。そお、想うと土間には秋葉様が祀られていました。
今賑いの秋葉原も秋葉の神様(防火)が祀られていた所です。
イメージ 4
盛徳寺の本堂前天水桶として置かれた水甕。ボプフラ(亡父等?)遊んでいました。
イメージ 7
これは亀戸天神の水甕です。向こうのタワシで洗えば大黒様のご利益があると言われています。水と火は神様の依るところです。
 
改めて眺めると常滑焼風です。信楽でも笠間でもないようです。
常滑という事は祖父竹内周三の縁故地ですから祖父がこの寺の住職に転居した記念に求めたものでしょう。
 
大坂の堺駅前には原点納屋助左衛門ルソン)の銅像が立っています。
ルソン助左衛門は堺の豪商で、秀吉の怒りをかい、フィリッピンのルソンで一生を終えた人物です。
ルソン助左衛門はルソンで庶民の使っていた水甕を買い求め、利休を介して、秀吉に献上します。
秀吉はルソンの民具を評して買い上げ、大名に下賜しました。何にも知らなかった秀吉は商いの全貌を知って激怒した事でしょう。唯同然の壺が利休の目利きで300両(現在価値6億円)にもなってしまうのですから、下賜した大名にもメンツが立ちません
イメージ 5
               これがルソン壺(彦根城博物館蔵/小浜浜経由で伝わりました)
生家の水甕は私にとってはルソン壺に勝るとも劣らない価値があるものです。
でも、大量の梅干しが漬かっていた朱色の常滑壺は何処に行ったのでしょうか?姉さんの事だから梅干しを漬けている風には見えません。
ルソン助左衛門が朝鮮に行って居れば、水甕では無くてキムチの壺を秀吉は有難がっていたかもしれません。勿論ベトナムに行って居たら、水甕か金魚鉢がお茶室に設えられた事でしょう。
イメージ 6
弥生式土器(МОA美術館蔵)同HP-から)
 
ルソン壺が美しいと思鵜のは普遍的な事です。今でも私達は弥生式土器が美しいと思います。
美しい弥生式土器の底には蓮の種や団栗の実が入っていました。シンプルで使い勝手の良い生活用具(民芸品)は美しいものです。縄文式土器は火炎土器とも呼ばれ、呪術性の濃い、火のように熱いものでした。日本の歴史文化は熱くて攻撃的な縄文風と冷ややかでシンプルな弥生風とが交互に現われて、進取と消化を繰り返してきました。戦国時代が縄文ならその後は平和で国風の弥生でした。
利休の侘びさびは弥生文化の表われだったのでしょう。
時代は原点納屋助左衛門を再評価したいようでNHkも用意しているようです。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 
 

朝顔を来年も咲かせよう!

0
0
「地獄の責め苦」に「火責め」「水責め」があると聞きますが、最近の我国を言い表しているようです。火山が爆発すればに台風が来てに、台風も週一の頻度では息つく暇もありません。
私のが手足が不随意な分、家内の負担が広がっています。
テレビではモンスタークラスの台風が来るんで準備をしましょう焦らせてくれます。
今朝も早くから家内は庭に出て片づけに励んでいます。先ずは朝顔の冬支度です。
朝顔は鶉小屋の陽除けに、門脇に四つ目の竹垣を作って這わせました。更に菊鉢に2つ行灯造りを、家内が全部作ってくれました。
イメージ 1
夏の盛りの朝顔の花鶉小屋のグリーンカーテンです。
イメージ 2
鶉君も朝顔を充分楽しみました。
イメージ 3
四ツ目の竹垣に這わせた朝顔。
昨年の11月末私が種を採取したのですが、12月29日に脳梗塞を発症したしまったので、
家内が種を撒き水遣りをして、鉢つくりや四ツ目の竹垣を作ったのでした。
私は窓から庭を見渡し「今朝は三つ咲いた、明日は幾つ咲くか」楽しみにして夏を過ごしました。
イメージ 4
白い縁取りが可愛い曜白(ようじろ)の朝顔、茶色であれば団十郎なんですが。黄色や茶色の朝顔を作る事が育種家の目標と聞きます。
 
今夏楽しませてくれた朝顔も今では下葉も枯れ始めて、種も散ろうとしています。
テレビの報道に急かされて家内はズボンを履いて庭先に出て行きます。先ずは朝顔の蔓を取り除くようです。最初に種を収穫します。来年も咲かせる予定なのでしょう。
お寺の柿の実を食べ飽きてツグミが我が庭に飛んできます。我が庭にも槇や棗の実があるんです、家内の頭上で騒がしく啼いて実を啄んでは去ってゆきます。もうじきツグミに入れ替わってモズが来そうです。
 
見れば家内の背も腰も丸くなってきたようです。転んだら大変です。
北風が家内の白くなってきた鬢を揺らして吹き抜けて行きます。もう今年も2か月余りです。朝顔ももうお終い、私達夫婦も第四コーナーを廻ってしまったようです。
去年はアケビが成って楽しかった我が庭でしたが、今年はいくら探してもアケビは見つかりませんでした。
入院中に戴いた菊も沈丁花も花瓶の中でで発根していて驚かされました。私は家内に頼んで植木鉢に植えるようにしてもらいました。菊は沢山蕾を持ちましたし。クコに至ってはもう濃紫の花を咲かせています。屹度沈丁花も芳しく咲いてくれることでしょう。改めて植物の生命力の逞しさに驚かされます。
私も植物を手本にしてリハビリに励むことに致しましょう。
イメージ 5
採取を待つ朝顔の種。来年も咲いてもらいましょう。
イメージ 6
昨年のあけび昨年は家内が山に行って自生していたアケビの花を採取して受粉させたのでアケビの実をを楽しむ事が出来ましたが今年は葉ばかり立派です。
院中に戴いた菊も沈丁花もクコも見事にも発根しています。植物の命は逞しいものです。
植物に教わりながら私ももうひと踏ん張りしましょう。
家内の白くなった鬢を観ながら、来年は次代の朝顔を観ようと想いました。
 
 
 葉は枯れても、未だ咲くと、妹が水遣りに励む垣の朝顔
 朝顔の種取る妹の鬢を揺らして木枯らしの吹く、
 野分来ると庭葎を片づけむと励む妹の傍に咲いたり最後の朝顔
 
イメージ 7
昨年挿し木したくこの花植木鉢で可愛く咲きました。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

水引草と水引の文化

0
0
我が家の水引草は初夏に咲き出し一度は終わったものの、。そして今9月末にもう一度咲き出しましたが、流石にもうお終いのようです、下葉も枯れだしましたし、花から種に変わっているようです。花も種も小さいので見分けがつきません。
イメージ 1
これが水引草です。小枝の先に小花が無数に咲く姿は水引に似ているのでこの名があるのでしょう。
でも、家内が帰ってくるとスカートの裾にの種がくっ付いていますいます。良く見れば種の先っぽにフックが付いていて、フックが衣服に引っ掛かる仕掛けがあるのです。屹度ワンちゃんが何処からか運んできたものでしょう。そして、今では、家内は我が家の水草を撒きながら街に出ているのでしょう。
イメージ 6
水引の花は種を結ぼうとしています。種の頭にフック状の鍵が付いているので、衣服に引っ付きます。
イメージ 2
水引草の叢に凌霄花の花が散りました。まるで花結びの水引のようです。(鎌倉の妙本寺境内)
イメージ 3
水引の上を見上げると女郎蜘蛛が巣を張っていました。水引はタデ科の植物ですから、蝶も虫も寄り付きません。でも、此処が最適と蜘蛛は思っているのでしょう。
イメージ 4
水引は蓼科の植物です。赤まんまもタデ科の植物、蓼食う虫も好き好きと言われる虫もつかない植物です。(撮影場所円海山瀬上遊歩道)
 
深紅の小花をつけた枝先が伸びた様は祝儀袋の水引にそっくりですから、この名が付いたのでしょう。
我が家の門には南天が実を付けその根元を水引草が隠しているわけで、南天が災いを防いで水引草が福を呼んでくれそうです、何か縁起が良さそうな組み合わせです。
この台風で水引草の枝先が絡みそうです。でも「花結び」にはなってもらっては困ります。もう二度と病気にはなるのは御免ですから、結び切りで、お願いたいものです。
イメージ 5
咲き始めた山茶花に水引草を添えて生けて戴きました。昨日は千利休も切腹しました今日は大磯の待庵(復刻建築)が賑わっていることでしょう。我が夫婦ももう少し生きれば利休と同じ齢70歳です。
水引草は虫がつかないので好ましいのですが、兎も食べません。虫が好かない植物は兎も不味いとおもうのでしょう。戯れに噛んでみれば苦いだけで毒では無さそうです。
私は地誌が好きですから。水引草を観ていると長野の飯田に想いを馳せます。
江戸時代初頭飯田藩主堀親昌が殖産事業の一環として藩士に水引旁を奨励したのだそうです。
美濃からもの神旁の職人桜井文七を招き和紙を梳かせて紙縒りに練って糊を染込ませて水引を作らせました。
水引は髷を結ぶ元結として需要もありましたし、贈答品を飾る道具としても需要が膨れていました。
律義で礼を重んじる飯田藩士の気風にもマッチしていたのでしょう。飯田の町興しは今も引き継がれています。
横綱の白鵬は戴いた水引だけでも膨大な数でしょう。白鵬の水引を展示して戴いたら観に行きたいものです。
水引は日明貿易で伝えられた装飾でしたが見事に日本の伝統「和の包」になって今も盛んですhttp://www.nhk.or.jp/tsubo/program/file147.html(NHK美の壺)
 
今頃は飯田街道の街路樹に植えられた林檎は真っ赤な実を付けていることでしょう。
昭和30年代街路樹に林檎を植えると言う事で「物笑いに」された伊那地方ですが、礼を重んじる一帯です。取る者はいないと判断したのでしょう。
「街路樹に林檎を植える」判断は正しくアップルロードは今は壮観な観光道路に成長しました。その成功は長野五輪会場周辺の街路樹も林檎にし、メダルも水引で飾られました
戯れに林檎を捥いで齧ってみれば酸っぱい昔ながらの紅玉の香りがしました。林檎の街路樹の彼方に建つ民家の軒先には市田柿(名産品の干し柿)がぶる下がっています。民家の庭先を上って行けば、小笠原流本家(礼法)に続きます。大河ドラマ黒田官兵衛を演じた岡田准一も此処で稽古したそうです。乗馬姿も凛々しく好演でした。来週は家内を誘って湘南テラスモールに「蜩の記」を観に出かける事にしましょう。
イメージ 7
今年は浅葱マダラを観る事が出来ませんでした。敗れた翅の浅葱マダラ、私の体もこんなもんでしょうか?
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

憂いは深し秋海棠

0
0
秋台風は「種子島で東に曲がらないで、昌直ぐ北上して呉れれば」と思うのですが、毎回決まったように種子島で方向転換して日本列島沿いに遣って来ます。真っ直ぐ北上していればソウルですが、ソウルはもう冬の高気圧の下で気温は7度の寒さです。熱帯生まれの台風は寒いのは苦手で、偏西風に乗って東に方向転換してゆっくりゆっくり関東に向かうようです。台風19号の予想進路通り、テレビでは九州や四国の状況を映していますからこれは大変危機感が高まりました。でも杞憂だったようで今朝は晴れ渡っています。昨晩の雨もはたいしたことは無く、風台風でした。我が家の老木が倒れて、お隣の屋根、新設したソーラー発電機を壊したら心配です。
そんなことで私は外の気配を伺いながら一夜を明かしました。
携帯を見れば13日の7時35分に「避難準備情報」が入って、日が変わった14日の0時30分に「避難解除情報」が入っていました。18号では支社人も出した横浜市職員も安堵していることでしょう。
家内は今朝も暗いうちから庭に出て風台風の被害状況を確認して回っています。ワン君も兎ちゃんも寝不足の様子で出てきて「飯はまだか」催促している気配ですから、先ず一安心しました。
町内をリハビリ歩行していると秋海棠の花が目につくようになってきました。
海棠の咲く頃に今年は入院していましたから見られませんでした。その分秋海棠に眼を奪われてしまいます。
イメージ 1
鎌倉妙本寺の街道の海棠の花。小林秀雄が中原中也の恋人を略奪しこの花を眺めながら葛藤したので有名です。
イメージ 2
同上アップです。向こうのお墓は比企一族の墓です。
秋海棠は春海棠のように華やかな花で秋に咲くのでこの名が付いているのでしょう。秋は地味な花が多いのでピンクの秋海棠は本当にお目立ちです。
イメージ 3
厠の脇の秋海棠の花(葉も花弁も乙女チックなハートです。(海蔵寺)
イメージ 4
路地に咲く秋海棠の花
9月9日は「重陽の節句」ソロソロ菊の花のお料理が食卓を飾るでしょう。菊もホトトギスも秋の花は総じて[老い」を感じさせます。冬には枯れてしまうので、その直前をイメージさせるので「枯れる前の華やかさ」をイメージさせるのでしょう。そんな中で 秋海棠だけは若々しく命を感じさせます。葉っぱもハートならば花弁も一枚一枚がハートの形です。神様が秋海棠をデザインされた時パレットの上にはハートしかなかったのでしょう。
若しかしたら神様もこの時「片思い」していたのかも知れません。
そんな訳で秋海棠の花言葉は「片思い」です。「私を見て視て!私片思いなの、でも綺麗でしょう!」乙女が言っている様に見えるのです。
春海棠は「略奪愛」ですから、春と秋では随分違います。略奪愛には悲しむ人が出ますが、片思いは犠牲者は出ませんし、少女も片思いの時が一番綺麗なのです。
片思いの思い出を偲んで秋海棠の花は頭を垂れながら秋風にゆれています。吾亦紅と言い、秋海棠と言い、野薊といい、秋の花には憂いが深いものです。
 
君待つと我が恋ひ居れば 我が やどの簾動かし秋の風吹く   【額田 王女】(ぬかたのおおきみ)
 
イメージ 6
吾亦紅の花
イメージ 5
野薊(南軽井沢で撮影)
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

青は侍の色

0
0
昨日「10月14日」は台風一過の晴天でした。空は底抜けに青く。風は軽くて爽やかで、気温も25度まで上昇して、好い日でした。ラジオの世界の天気では北京は3度でスモッグで視界不良との事日本の自然は実に恵まれています。
台風や火山で神に恨み辛みを言いそうでしたが、昨日は感謝感謝でした。でも今朝は寒いし、雨が降り出してきました。
秋が深まると、日一日一日空気が澄んで空が高くなるようです。そんな空気や空に呼応してブルーの花が目立つようになってきました。
鎌倉の街を歩けば路地裏に桔梗が咲いていますし、庭隅に咲く笹竜胆も今が盛りです。山に行けば、釣鐘人参もウツボカズラも青色です。
イメージ 1
台風一過空は空気も軽く底抜けのブルーです。
イメージ 2
源氏の紋所笹竜胆も青です
イメージ 3
マツムシソウも青です。
イメージ 4
釣鐘人参イワシャジン(岩沙参)の仲間も青です。
イメージ 5
布袋草も青です。
イメージ 6
鎌倉露地の桔梗(大仏次郎屋敷近く)
イメージ 7
ウツボカズラ(鎌倉の広町緑地)
古代「禁色/きんじき」が厳しく管理されていました。
禁色といっても、お坊さんが女性と交わる事を禁止したのでもなく、高貴な色を着ることを禁止したものです。
上着(袍(ほう』の色は最上位を(櫨染こうろぜん)と呼びは天皇以外誰も使用することが出来ない絶対禁色でした。その次の色は青(青(青白橡)。赤(赤白橡)等と決め皇太子の色にしました。宮中に参上する時、外出する時、家で寛ぐ時でも禁色は守らなくてはなりません。しかし、天皇から禁色を解かれれば合は皇太子しか着られない青も黄丹も着ることが許されました。られたのでした。
春になれば女性は黄色や朱色の着物を着たくなるものでしょうから。禁色も解かれれば得意満面であった事でしょう。そこで御簾の下から裾を見せたのでした。
でも、白と黒は別格で、白は汚れや穢れの無い色で神々しいと思われましたので、斎宮を始め神に仕える人達が着られrれましたし、黒は死者への喪を表現する色でした。だから黒白は着る事は憚れました。
でも、庶民が着る服は次第に汚れて黒くなるもんです。一番安い染料は団栗(黒)でしたから、汚れたような黒は一般色だったようです。
 
源氏が竜胆の花を家紋にしたのも、袴や上着にしたのも、武士が青を好んでいたからでしょう。
この伝統は江戸っ子の祭り半纏にも承継されているようです。鎌倉でも藤沢でもお祭りの着衣は白い晒が基本です。でも晒の上に着る半纏は青が目立ちます。
鶴岡八幡宮の例大祭で赤い袴の巫女さんを観るのも眩しいのですが、青い袴に白い上着、そして黒い烏帽子姿・・・は清々しくていいものです。
清少納言風に言えば「いと おかし」「うつくし」「きよげなり」誉め言葉を浴びるものでしょう。
中世になって武士の地位が上がって来ると武士は好んで青を使う様になります。青は心に二心(ふたごころが無い)意味であったのかも知れません。武士は好んで青を着ました。
武士の肖像画と言えば青い裃を着ています。
新撰組もブルーの半纏を着ました。
イメージ 8
藤沢江の島のお祭りも青い祭り半纏斑点が目立ちます
イメージ 9
鎌倉八幡宮の例大祭白い晒に烏帽子をかぶって袴は青で穢れない姿でお神輿が神前から街中に練って行きます。
イメージ 10
鹿島大明神の鯰絵「自身除けの護符絵)大神様は青い苞を着て居られます。平賀源内の肖像画など武士は大抵が青い上着です。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

蓮の露

0
0
今朝は随分冷え込みました。窓から外を見れば富士山の頂に白いものが見えます。ラジオでは安曇野に白鳥が飛来して来たとか。もう冬は真近かのようです。
図書館に頼んでおいた手毬(瀬戸内寂聴尼)が届いたそうで、家内に取って来てもらいました。
イメージ 1
戸内寂聴さんの書かれた手毬。筆者は落涙止まらず2度読みいたしました。遠藤周作さんの「沈黙」以来の感動の書でした。装丁は中島千波さんでした。
イメージ 2
「手毬」の構想は貞心尼さんの「蜂の露」を基本にしたもの。貞心尼さんの筆は師の良寛さんに似て美しく自由闊達でありました。
手毬は貞心尼が師「良寛和尚」の遺稿や想い出をを整理して「蓮の露」に記した、その遺稿集をベースにして、良寛和尚の信仰を小説に著したものです。
良寛貞心尼の舞台であった新潟や出雲崎や寺泊の旅行記は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/42295771.html
今では良寛さんは知らない人も居まないでしょう。それもこれも貞心尼さんが遺稿集を整理されたからです。私の敬愛する相馬御風も吉野秀雄も貞心尼さんが「蓮の露」を著さなければ、無為な一生を終えていたことでしょう。貞心尼さんの功績は大きなものがあります。
貞心尼は押しかけるようにして良寛に弟子入りして、良寛の最期を看取ります。そして師の思い出を整理して冊子にまとめ、お位牌に供え朝晩供養しますそれが「蓮の露」でした。貞心尼は「自らの追憶の料」として記した、と書いています。屹度地蔵和讃を唱えていたことでしょう。若しかしたら「手毬歌」だったかもしれません。寂聴さんはわらべ歌だと言いたげです。
イメージ 9
23歳で夫と死別した貞心尼は1828年【文政10】貞心尼30歳、良寛70歳」島崎の木村家の離れで遭います。寂聴さんは二人の間には恋愛感情は無く良寛の慈悲と貞心尼の憧れだけがあったと説明しています。
根拠は蓮の露の次の総門うたでした。「もう遅くなったのでお帰り下さいと言う気持ちで良寛は歌にします。
誘いて行かば行かめども人の見て怪しめ見ラらばいかにしてまし。
この歌に対し貞心尼は次のように返します
「鳶はとび雀はすずめ鷺はさぎ烏はからすなにか怪しき」仏に仕える身ですから何もやましい事はありません。
どちらかと言えば貞心尼の勝気な性格や積極性が目立ちます。
 
蓮は、清らかさや聖性の象徴として称えられています。 「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という姿が共感を呼んだのでしょう。泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿が仏の智慧や慈悲の象徴とされました。貞心尼さんにとって良寛さんの短歌や漢詩が、蓮の葉に輝く露のように珠玉に映ったのでこの名を冠したのでしょう。
今はもう蓮の葉は野分で千路に破れています。加えてこの寒さですから、直に枯れてしまうでしょう。
永井荷風は蓮が野分を受けて流す姿を観て荷風の名を名乗りました。蓮は浄土や来世をイメージするだけでなく現世の実相も見せつけるものでありました。蓮の実は枯れてしまうと泥水に浮かんでいます。その姿が髑髏(どくろ、されこうべ)のようにも見えます。小野小町は若いときは美しく、高名を欲しいままにしたものの、何処で死んだかも判りません。日本中に小町の墓があって野垂れ死にした、と伝えられます。
日本人は小野小町を無常と憐み、を蓮の花に連想しました。
イメージ 3
枯れた蓮池殺伐とした景色が寂寥感を深くします。
イメージ 4
鎌倉八幡宮の源平池の蓮
イメージ 5
枯れて沼に浮いた蓮の台この形が蜂の巣の語源です。この上に仏が座られるので、仏座都下蓮台と呼ばれます。
イメージ 8
美人の代表小町の一生は最後に髑髏小町になります。日本人の死生観に強い影響を与えました。
「蓮の露」には、貞心尼が良寛の噂を聞き良寛に憧れて以来押しかけるようにして弟子にして貰い、最後に良寛を看取るまで、二人の間で遣り取りされた相聞歌が記されています。
飾らずにストレートに心情を吐露する歌は万葉集を髣髴させるものであり、プラトニックな愛は万人の共感を呼び、とりわけ良寛の最期は落涙を止められません。
良寛様は下痢をしてなくなります。貞心尼は掌で患部を触ります。下を綺麗に拭いてさし上げます。仕上げに男の印を指でチョンします。良寛さんは貞心尼の掌が温かくて気持ちが良いと言われてを伏せます。
良寛さまの身体がドンドン冷えてゆくことに気づきます。貞心尼は布団に入り自らの体温で良寛さんのお身体を温められます。
すると悟って居た筈の良寛さまはハラハラ涙を落し。「死にたくない」と仰りました。三条地震では「死ぬときは死ぬこと、それが災難を逃れる妙法である」と看破していた良寛さんなのに不思議です、「悟りが冷めて凡夫に戻ってしまったのか」驚きます。寂聴さんは良寛さんが「優しい人に囲まれているので死にたくない」と言わせたのでした。
イメージ 6
良寛が1828年三条地震に際して同地の資産家山田さんに宛てた手紙「災難に遭う時節には死ぬときは死ぬ」これが災難除けの妙法と書いている。(出典良寛朝日新聞社」
イメージ 7
「天寒し自愛せよ」の言葉が胸を打つ良寛の手紙「出典同上」
 
そして流石に寂聴尼さんです。で、手毬と手毬歌を介して良寛の信仰と法華経の真髄を解り易く説いて下さります。明日はそのあたりを書く事にします。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

月の兎の話(良寛長歌)

0
0
昨日に引き続き瀬戸内寂聴さんの「手毬」を素材に書きます。
私達は童謡の「兎」では次のように歌いました。
 「兎、兎なにみて跳ねる十五夜お月さん見て跳ねる」、
童謡は“月の兎”の話は『今昔物語』から採っています。
イメージ 1
 
今昔物語の兎は「今は昔、天竺に兎・狐・猿、三の獣がいて、菩薩行を競っていました。と始まります。
その三匹の獣の前にやつれた老人が現われます。すると、、猿は木の実を拾い、狐は川原から魚を咥えて老人に奉げました。ところが兎はあっちこっち探しても奉げる物が見つけられません。そんな兎を見て老人は「お前は他の二人とは違うな」と言います。
イメージ 2
イメージ 3
法隆寺玉虫厨子下段の正面が』、『雪山童子施身聞偈図』側面が、『捨身飼虎図』、で仏の慈悲を現わしていると言われます。
すると兎は切なそうな顔をして、「猿さん猿に柴を刈ってきてくれ、狐さん、火を焚いてくれ」と言うなり。      自らは燃え盛る火の中に身を捨てたのでした。
老人は実は天の神様の「帝釈天」でした。
帝釈天は「兎の捨身した姿こそ慈悲行であり尊い、あまねく人の見せるため月の表に映すことにする。」こうして私達はお月様を見上げる度ごとに仏の慈悲を想い願う様になったのでした。我が身を捨てて他人に施す、慈悲行の行の教えは法隆寺の玉虫の厨子、『捨身飼虎図』、『雪山童子施身聞偈図』はじめ数多く描かれています。仏教の根幹にある教えでありました。
良寛さんもこの兎さんの話がお好きだったのでしょう、長歌にされています。
貞心尼も良寛さんの長歌を書き写していました。
石の上 古(ふ)りにし美世に(石の上は古いにかかる枕詞です)
有りと云ふ 猿)と兎と狐とがとが 友を結びて
朝)には 野山に遊び夕には 林に帰り
かくしつつ 年のへぬれば
かくしつつ としのへぬれば
久方)の 天(あめ)の帝(みかど)の (久方は天の枕詞です、天の帝は帝釈天の事です) 
聴きまして 其(が実(まこと)を
知らむとて 翁となりて
そが許(もと)に よろぼひ行きて
まうすらく
(中略/兎が捨身をしたのを確認して)
翁は是を 見るよりも
心もしぬに 久方の
天(あめ)を仰ぎて うち泣きて
土に僵(たお)りて ややありて
胸打ち叩き まうすらく
汝らみたりの 友どちは
いづれ劣ると なけれども
兎は殊に やさしとて
骸(から)を抱て ひさかたの
月の宮にぞ 葬りける

この長歌は、兎の捨身の心、慈悲行を賞賛しています。
良寛さんは、悲しい思いをした人に向かって「月を見るごとに此の兎をを想いなさい」と諭しました。
 
貞心尼は木村家の庵に良寛さんを訪ね雅ます。でも良寛さんは不在でしたので
肌着と手毬と手紙を置いて立ち去ります。
イメージ 4
良寛さんが愛用したと伝えられる手毬(長岡分水館蔵)貞心尼は手毬の芯にゼンマイの綿毛を詰めて鈴を蚕の繭に入れて作りました。その結果良く弾み搗くと鈴の音が響きました。良寛さんも大事にされた事でしょう。この手毬は絹糸で鳳凰がデザインされています。
 
すると直に良寛さんから礼状が届きます。
「折角お越しいただいたのに不在して失礼いたさいました。またお越しください、私もお会いしたいものです。手毬と肌着をありがたく頂戴しました。」
つきてみよ ひいふうみいよいむなやこことおとおさめてまたはじまるを
(手毬をついてみなさい、1.2.3.4.5.6.7.8.910で返してまた1.2.3・・・・・」といった極単純な歌が添えられていました。
良寛さんは禅僧ですから、座禅に際しては1.2.3.4と呼吸を整えたことでしょうから。禅の修行法くらいに受け止めるのが普通で、この数え歌に深い意味があるとは思いもよらないものでしょう。
イメージ 5
良寛手毬図。分水町良寛記念館蔵三森三九の絵に良寛さんが讃を書き加えたもの。
 
そしていよいよ貞心尼は良寛さんに遭う事が適います。
貞心尼は初見なのに昔あった事があった様な懐かしさを感じて初めて会ったような気がしません。そこで
「人間には前世があるのでしょうか?」質問します。
すると良寛さんは
「おそらく前世はあるし来世もあるであろう」と答えられます。
すると貞心尼は
「おそらく私は良寛さんの娘か可愛がっていられた兎かも知れません」と答えます。
13夜(慈悲の仏様勢至菩薩の晩)に良寛さんの「月の兎」を読みました。目が潤んでしまい13夜のお月様には兎が一杯に見えました。
イメージ 6
我が家の玄関、兎が重なって3匹に見えてしまいます。、鼠は縁起物です。林檎は香りが良いので置いています。山茶花がもう咲き出しました。
寂聴さんは「手毬」の前半で「月の兎の長歌を紹介しています。それは読者に慈悲行とは何であるかを読書の間中に考えさせる為でありましょう。私は筆者の思惑通りに、読み終わるまで慈悲行を考え続けました。3年前の大津波今月の御嶽山の噴火災難を観るにつけて、慈悲行に思いを馳せざるを得ません。沢山お遭難者の家族が悲嘆に呉れながら13夜の月を見上げて居る事でしょう。
寂聴さんは[月の兎の」ほかに良寛さんの手毬歌も紹介しています。
手毬歌は小説の進行とともに第に変化しながら深化して行きます。私達読者手毬歌の変化に導かれて考えが深化してゆくのです。 
貞心尼は初見のお別れに際して次の歌を口に出しました。
「君にかくあい見ることのうれしさもまださめやらぬゆめかとぞおもう」
即座に良寛さんは返歌します。
「夢の世にかつまどろみてゆめをまたかたるゆめもそれがまにまに
 
次に手毬歌が登場するのは若くして遊郭に売られた娘「きく」が歌鵜場面でした。
 
「菊」は遊女に身を落としていますが、良寛さんを実の親と思い込んでいました。自らの悲哀な身の上と良寛さんに迷惑をかけたという思いから、貞心尼を頼りに出家しようとするのでした。菊は貞心尼が造りかけ手毬を戴いて無心について見せ雅う。その時の手毬歌が次の通りでした。
「お仙」は俗謡であり「お菊」と代えて変えても良いのでしょう。
お仙おせん
何故髪結わぬ
櫛が無いや鏡がないか
櫛や鏡はたくさんあれど
父さん死なれて三吉(弟)は江戸へ
何を楽しみに髪結うぞ
 
遊女のおせんよ(お菊よ)何故お化粧をしないのだ
私は父さんも兄弟ももう居ません。私には何も楽しみは無いのでお化粧する気になりません
当時の女性は生まれた家が貧乏であれば遊郭に売られ悲しい一生が運命だったのでしょう。手毬歌は苦界に沈む女性の泪を流し去る歌謡だったのでしょう。それだけに哀切であり美しいのです。
次の場面で、寂聴さん遊女のきくには次の手毬歌を自作させます。
ひい・ふう・みい・よう・いつ・むう・なな
七つ並んで雁が行く八つ山越え海越えて九つ困苦の旅の果、
とうでとうとう着いたとか蓮の花咲く極楽へ
雁になりたや籠の鳥翼切られて繋がれて」
貞心尼が良寛さんを看取る場面でも手毬歌が登場します。
 
貞心尼は良寛さんとの永遠の別れの場面で突然に心の中の幕が切って落されたように、悟ったのです。その悟りを歌で良寛さんにお見せします。
「君なくば千たび百たび数ふとも十づつ十を百と知らじを」
人の世は前世現世そして来世と輪廻します。この世の悲しみは1.2.3.4と数えられます。10数えればまた1から始まります。10を10回重ねれば百になるし、千にもなりますから、10の繰り返しです。
手毬をつくのは、輪廻に身を任せ祈るようなものです。良寛さんとのお別れは辛いけれども「身を輪廻という法に任せて祈るながら生きて行きます。」そんな覚悟を師良寛さんに伝えたのでした。
良寛さんが最初に貞心尼に贈った歌の真意にようやく気付いたのでした。
ところが弟子の悟りに喜び笑う筈の良寛さんはハラハラと涙を落します。
。悟り切っている筈の詩師匠が泣く筈はありませ。ん貞心尼も驚きます。
良寛さんは「優しい人々に囲まれて黄泉に旅立つのが寂しい」とい言うのでした。
悲しい時には泣いて、うれしい時には笑ってこそ禅の悟りがあるのでしょう。
2年前私は工藤美代さんの小説「良寛の恋 炎の女 貞心尼」を読みました。同じく「蓮の露」を素材にした小説で当時話題になりました。読後感は女性週刊誌を読んだような後味の悪さが残りました。貞心尼と良寛さんとの間で肉体関係があった・・・と推測して。相馬御風らのプラトニックな関係を否定するものでした。流石に寂聴さん宗教的な造詣の深さが感動をより高めてくれました。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

親友と囲みたい「闇鍋」

0
0
、昨日(10月17日」の昼食はデイサービス施設(マナーハウス南横浜)で取りました。1食800円で3品バランスある食事を用意してくれるんですからた助かります。メニューは先に渡されていて「水団/すいとん」と案内されていたので、どんな水団だか楽しみにしていました。主菜は「秋鮭」副菜は「篠田巻き煮」という事ですから、どれもこれも私の好物です。
イメージ 1
これがデーサービスのマナーハウスのランチです。ヘルシーで昔ながらの懐かしくも優しいお味です。
左上から柴漬け法蓮草のお浸し、篠田巻き煮 秋鮭水団(右手前)でした。
楽しみにしていた水団は醤油味で油揚げの刻みに豚の細切れ、人参大根そして南瓜が煮込まれていました。肝心の水団は小麦粉の団子でしたから、一昨年大分の耶馬渓の「ほのぼの食堂で食べた」「団子汁」http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46884487.htmlを想い出しました。9品300円の価格設定に驚くと地域の老人の使える昼食代は300円だと教えられました。
団子汁は素戔男尊(スサノオ)が隼人を征伐するに際して食べた軍事食と教えられました。まるで信玄の戦時食「ホウトウ」のようなもんです。味も楽しみも共通するものがありました。
イメージ 2
これがデーサービスの水団、群馬風でした。
イメージ 3
これは甲斐のほうとう、ほうとうも水団も小麦粉を練ってグルテンにして野菜汁に落して煮たものです。水団を紐状にしたのがホウトウでしょう。日本で小麦粉を栽培する前、団栗や栃の実も粉に曳いて水団状にして食べたと思われますので、水団は縄文時代にまで遡る民族食と思われます。
我が町内を流れる柏尾川も台風18号では危機寸前で大洪水になりました。我が町内も床下浸水でありました。
イメージ 4
台風18号で洪水危機寸前に至った柏尾川(戸塚区のホームページから転載)
イメージ 6
柏尾川の堤防中敷きで芋煮を楽しむ人々。U字溝を倒して竈にして鍋を掛けています。戸塚は工場地帯ですから山形出身者も多く毎年仲良くやっているのです。
イメージ 7
この日は醤油味付けで牛肉の芋煮でした。山形でも村山地方の芋煮です。荘内地方では味噌味豚肉になります。
その柏尾川も昨日は水も引いて散歩する人も目立っていました。
昨年はこの柏尾川の堰堤中敷きで芋煮会をする人も目立ちました。
楽しげに芋煮をしている人を見ながら、私は町内でも「芋煮忘年会」をしたいと思いましたが、脳梗塞でそれどころではなくなってしまいました。
そこで、次に思い立つのは学生時代の仲間と「芋煮会」をしたくなります。親友とは芋煮では収まらずの「闇鍋会」になってしまう事でしょう。
闇鍋とは自分以外には不明な突飛な材料を複数人で持ち寄り、暗中で調理して食べる鍋料理です。食事を目的とした料理というよりは遊びやイベントとしての色彩が濃いものでした。
 
親友のI君の軽井沢の山荘には木の実も茸も沢山とれます。
キノコ汁に水団を流し込んで、猪の肉を煮込みます。
畑に出れば、収穫されなかった冬瓜や南瓜が転がっていますし。八百屋の店先には食べた事も無い茸や野菜が並んでいますしスーパーの鶴屋に行けばイノシシの肉も鯉の切り身も売っています。それらを各人の好みに任せて適当に買い込んできて鍋に突っ込みます。味付けは地元の味噌(山吹味噌)でしょう。お酒はI君の仕込んだ「南五味子(なんごみし)酒」です。(実葛の実を浸け込んだ果実酒)
私はかねて食べたかった団栗と烏も見向かないという「烏瓜がどの位不味いものか鍋に入れてみたいと思います。
イメージ 5
I君の山荘で食べたいキノコ汁、これに水団が加われば闇鍋・闇汁です。
イメージ 8
I君の山荘に生えてきているブナシメジ風の茸
イメージ 9
軽井沢の畑に放置されている冬瓜
茸を闇鍋に入れて食べたら食あたりする危険もあります。I君は秋になると[キノコ狩り」の会に参加していると聞きます。しっかり勉強してもらっておくことに致しましょう。
軽井沢の山を下れば「水澤のうどん」があるし。美味しい下仁田の葱もあります。
来年は私が体を完治させて、悪友らと「水団入り闇鍋」を楽しみたいものです。
屹度悪友らは羅漢さんのような表情になる事でしょう。
イメージ 10
 闇鍋を観て「こんなもの喰って大丈夫かな?」思い叫び出した羅漢さん(紫の花は岩シャジン」です。
イメージ 11
「そらみろ!」やっぱり食中りだと、しゃがりこんでしまった羅漢さん。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

土手南瓜VSおたんこ茄子

0
0
街に南瓜飾りが目立ってきました。そう今年もハロウィン祭が近づいてきました。
一昨日は新嘗祭でした、西洋版の新嘗祭もあって当然です。
イメージ 4
ハロウィン祭の主役は南瓜です。南瓜が栄養分豊富なので厄除け福招き(シンデレラの馬車)にされwたのでしょう。
イメージ 1
これは南瓜ではありません。出来そこないのズッキーニです。野菜には必ず出来損ないが出現します。
 
「冬至に南瓜を食べれば夏病みせぬ」といいます。
冬至に南瓜を食べておけば翌年の夏まで健康で居られるとの意味でした。
冬は潜伏していた病が発病し易いものですし。昨今はノロウィールスはじめ香港だスペインだとインフルエンザウイルスが問題になるのも冬季です・・・・・。だから南瓜を食べて冬を遣り過すに勝る策は無さそうです。
江戸時代文化の粋は遊郭から発信したと言われます。
「粋/いき」は身なり振る舞いが洗練されていて恰好が良いと感じられた事で、人情に通じ遊び方を良く知っている人を表しました。
古代は宮廷人中世は僧侶や武士の美意識であったものが近世になると「庶民の生活に」美が重きを置かれてきたのでした。
イメージ 2
ここれはゴーヤです。陽が当たって収穫が遅れると割れてしまって内臓が見えてしまいます。南瓜も同じようなもので土手に実った南瓜は往々にして割れてしまっています。こんな状態の遊女を土手南瓜と悪く言ったのでした。
遊郭でとんでもない遊女に当った時に「何だこの土手南瓜!」と悪態をついて、捨て台詞を吐いて去りました。一方遊女は「なによ!このおたんこ茄子。わっちの方から願い下げだよ二度と来て下さんな!」とやり返しました。
南瓜も茄子も気の毒なものです。
イメージ 3
秋も深まると本来は長茄子でも。小さくて短なままで種を作ってしまいます。こんな短い茄子を「短小野郎/お短んこ茄子!と言って悪態をついたのでした。
 
土手南瓜は誰も耕作しない土手に育った南瓜です。良く育っているので美味しいのですが、見てくれは悪いし,割れてしまった内臓が見えてしまっているのです。その姿から女性の大切な処が拡がってしまっていることを表していたのでしょう。一方おたんこなすは男性のアソコが短小であることを指摘したのでしょう。秋も深まると流石の茄子も大きくは稔れずに小さいままで枯れてしまいます。
南瓜だ茄子だと言いあっている遊女や町民は野暮とか無粋と呼ばれ「粋の文化)ではさげすまれたのでしょう。
イメージ 5
鎌倉野菜売り場の茄子も様々です。子茄子の漬物も美味しそうです。
 
大根も美味しい季節です。精進揚に鰤大根に、おでんに毎日大根を食べています。勿論秋刀魚の焼き物には大量に大根おろしを添えます。
でも最近の大根は辛くないので不満です。
諺にも「大きな大根辛くは無い」と言います。
イメージ 6
これはまた見事なエロ大根です。時無し大根(20日大根とも呼びます)ですから辛くありません。辛くなくては間抜けです。(大磯で)
農家直営の野菜売り場に出かけます。すると、大きな大根や二股大根、おたんこなすに土手南瓜が並んでいます。どれも見てくれが悪いので定価では売れないと判断され、安く値付けされているのです。でも味が劣るのではありませんし、見てくれが悪いものほど美味しい事が多々あるもんです。人間界でも醜(しこめ)ほど情が深いものです。ですから私は土手南瓜やおたんこなすを選んで求めてきます。
イメージ 7
これが野生の茄子(悪茄子」です。
イメージ 8
「A tomato a day keeps the doctor away.」(トマトが赤くなると医者が青くなるとはトマトが医者いらずであることを言います。でも日本語への訳が素晴らしいと思います。赤と青の対比が良いセンスです。
 
土手南瓜におたんこ茄子」出来損ないと蔑まれてもどちらも味に栄養に遜色はありません。
精々土手南瓜やおたんこ茄子を食べて医者いらずでこの冬を越すように致しましょう。書いていたら筑前煮を食べたくなりました。そう今晩の軍師官兵衛は朝鮮出兵ですから筑前煮が出てくるかもしれません。肥前も肥後も蓮が美味しいんです。お肉は鳥にしているか鯰にしているか興味があります。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

母の愛は深し「月影地蔵」

0
0
昔から「父の恩は山よりも高く、母の愛は海よりも深し」と言われます。
新聞やテレビの家庭相談を観ていると母親の子育ての悩み相談が目につきます。
多くの原因は「携帯電話」「スマートフォン」に係るものです。子供達がコミュニケーション・ンツールに振り回されてしまって、子供同士、家族間で断絶し孤独化してしまう、危うさが垣間見られます。
我が子に「勉強しなさい」心配になり小言を言いたくなるのは母親の常です。
中江藤樹の母もそうでしたし、弘法大師のお母様でさえ、息子が天下第一の高僧と呼ばれるようになっても、高野山に会いに出かけます。流石に高野山に登れないと判ると麓の九度山に逗留しされます。弘法大師は月に九度は野山を下り麓の慈尊院に行かれることになりました。
鎌倉時代には阿仏尼が居ます。有名な十六夜日記の著者です。
イメージ 7
極楽寺橋の民家が展示している十六夜日記「東下りの場面」お人形小母さんが息子さんの作品を展示しているのです。書は十六夜日記です。
イメージ 8
同上裁判の模様
『十六夜日記』(いざよいにっき)は一〇月16日に書き始めた事からこの名が付いています。
でも十六夜は満月の翌日で、いざよう(展望する)の意味です。
母親の息子(藤原為相)に所領を相続させたい一心で京から鎌倉に下ります。その間の紀行文が十六夜日記でした。阿仏尼は鎌倉の外れ極楽寺裏の月影谷に住みました。
月影谷は極楽寺の開基忍性の墓にも近い深い谷間です。
そんな地形と、月が出れば樹木の陰が地面に映る(月影が見える)との意味なのでしょう。月影は勢至菩薩の慈悲、母親の愛情を思わせます。
阿仏尼は鎌倉での住まいを次のように詠っています。
「あづまにてすむ所は月かげのやつとぞいふなる。浦近き山もとにて風いとあらし。」
鎌倉では京都の生活と違って相談相手も居ないし、山蔭で海鳴りの音と嵐の音が激しくて寂寥だったことでしょう。
阿仏尼の頑張りで所領は安堵され、藤原為相は播磨の所領を相続いたします。
藤原為相は定家以来の和歌の家でしたから、鎌倉にも和歌文化が定着します。ママゴン阿仏尼は財産(土地」と稼業(和歌)両面で倅の役に立ったのでした。
今も月影谷は寂寥感あふれる場所で、月影地蔵尊が祀られています。
イメージ 1
鎌倉の極楽寺坂、坂の峠に極楽寺橋があって右側に導き地蔵尊左が極楽寺になります。真っ直ぐ行けば稲村ケ崎小学校、学校の端を左折して住宅地の奥に月影地蔵尊が祀られています。地蔵尊の裏山は極楽寺の墓地が拡がっています。
イメージ 2
これが月影地蔵尊です。沢山の石仏が囲んでいます。石仏にはびっしり苔(梅の木苔)がついて蒸しています。
イメージ 3
 月影には如意輪観音が目立ちます。白い模様は梅の木苔です。
イメージ 4
 月影地蔵は木彫です。何時も綺麗にお掃除が行き届いています。千羽鶴は稲村ケ崎小学校の生徒さんの作です。
イメージ 5
 
月影地蔵には悲しい説話が残されています。此方はダメな親と立派な娘の話です。
露(つゆ)という名の親孝行な娘がいました。母親は北条業時(なりとき)に仕えていましたが、心掛けが悪く、あるとき高価な磁器を割ってしまいました
。 露がその疑いをかぶったため、業時は露を呼んで「母が割ったのだろう」と尋ねました。
しかし、露は「自分です」と言って譲らなかったので、業時は仕方なくふたりに暇を出しました。 母親は慌てて罪を白状しましたが追放され、露も人に預けられてしまいました。
業時は露に高価な梅小紋の小袖をあたえましたが、母親が持って姿を消してしまいます。
露は母親と別れた悲しみから病に倒れて、幼くして亡くなりました。
人々は露を哀れんで、露が生まれた月影ヶ谷にお堂を建てました。 墓には梅の木苔がびっしりとつき、人々は「梅小紋の小袖を着たかったのだろう」と言い伝えて来ました。
イメージ 6
梅花模様の小袖(説話とは無関係です)
 
母親は子を想い、子は母を想うそれが道理です。月と地球のように引力が均衡していれば安定して美しい均衡が保たれます、一方が強くなりすぎてまた一方に我欲が挟まれば偏愛になり執着になってしまいます。均衡させることが重要なようです。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

朝顔を来年も咲かせよう!

0
0
「地獄の責め苦」に「火責め」「水責め」があると聞きますが、最近の我国を言い表しているようです。火山が爆発すればに台風が来てに、台風も週一の頻度では息つく暇もありません。
私のが手足が不随意な分、家内の負担が広がっています。
テレビではモンスタークラスの台風が来るんで準備をしましょう焦らせてくれます。
今朝も早くから家内は庭に出て片づけに励んでいます。先ずは朝顔の冬支度です。
朝顔は鶉小屋の陽除けに、門脇に四つ目の竹垣を作って這わせました。更に菊鉢に2つ行灯造りを、家内が全部作ってくれました。
イメージ 1
夏の盛りの朝顔の花鶉小屋のグリーンカーテンです。
イメージ 2
鶉君も朝顔を充分楽しみました。
イメージ 3
四ツ目の竹垣に這わせた朝顔。
昨年の11月末私が種を採取したのですが、12月29日に脳梗塞を発症したしまったので、
家内が種を撒き水遣りをして、鉢つくりや四ツ目の竹垣を作ったのでした。
私は窓から庭を見渡し「今朝は三つ咲いた、明日は幾つ咲くか」楽しみにして夏を過ごしました。
イメージ 4
白い縁取りが可愛い曜白(ようじろ)の朝顔、茶色であれば団十郎なんですが。黄色や茶色の朝顔を作る事が育種家の目標と聞きます。
 
今夏楽しませてくれた朝顔も今では下葉も枯れ始めて、種も散ろうとしています。
テレビの報道に急かされて家内はズボンを履いて庭先に出て行きます。先ずは朝顔の蔓を取り除くようです。最初に種を収穫します。来年も咲かせる予定なのでしょう。
お寺の柿の実を食べ飽きてツグミが我が庭に飛んできます。我が庭にも槇や棗の実があるんです、家内の頭上で騒がしく啼いて実を啄んでは去ってゆきます。もうじきツグミに入れ替わってモズが来そうです。
 
見れば家内の背も腰も丸くなってきたようです。転んだら大変です。
北風が家内の白くなってきた鬢を揺らして吹き抜けて行きます。もう今年も2か月余りです。朝顔ももうお終い、私達夫婦も第四コーナーを廻ってしまったようです。
去年はアケビが成って楽しかった我が庭でしたが、今年はいくら探してもアケビは見つかりませんでした。
入院中に戴いた菊も沈丁花も花瓶の中でで発根していて驚かされました。私は家内に頼んで植木鉢に植えるようにしてもらいました。菊は沢山蕾を持ちましたし。クコに至ってはもう濃紫の花を咲かせています。屹度沈丁花も芳しく咲いてくれることでしょう。改めて植物の生命力の逞しさに驚かされます。
私も植物を手本にしてリハビリに励むことに致しましょう。
イメージ 5
採取を待つ朝顔の種。来年も咲いてもらいましょう。
イメージ 6
昨年のあけび昨年は家内が山に行って自生していたアケビの花を採取して受粉させたのでアケビの実をを楽しむ事が出来ましたが今年は葉ばかり立派です。
院中に戴いた菊も沈丁花もクコも見事にも発根しています。植物の命は逞しいものです。
植物に教わりながら私ももうひと踏ん張りしましょう。
家内の白くなった鬢を観ながら、来年は次代の朝顔を観ようと想いました。
 
 
 葉は枯れても、未だ咲くと、妹が水遣りに励む垣の朝顔
 朝顔の種取る妹の鬢を揺らして木枯らしの吹く、
 野分来ると庭葎を片づけむと励む妹の傍に咲いたり最後の朝顔
 
イメージ 7
昨年挿し木したくこの花植木鉢で可愛く咲きました。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

水引草と水引の文化

0
0
我が家の水引草は初夏に咲き出し一度は終わったものの、。そして今9月末にもう一度咲き出しましたが、流石にもうお終いのようです、下葉も枯れだしましたし、花から種に変わっているようです。花も種も小さいので見分けがつきません。
イメージ 1
これが水引草です。小枝の先に小花が無数に咲く姿は水引に似ているのでこの名があるのでしょう。
でも、家内が帰ってくるとスカートの裾にの種がくっ付いていますいます。良く見れば種の先っぽにフックが付いていて、フックが衣服に引っ掛かる仕掛けがあるのです。屹度ワンちゃんが何処からか運んできたものでしょう。そして、今では、家内は我が家の水草を撒きながら街に出ているのでしょう。
イメージ 6
水引の花は種を結ぼうとしています。種の頭にフック状の鍵が付いているので、衣服に引っ付きます。
イメージ 2
水引草の叢に凌霄花の花が散りました。まるで花結びの水引のようです。(鎌倉の妙本寺境内)
イメージ 3
水引の上を見上げると女郎蜘蛛が巣を張っていました。水引はタデ科の植物ですから、蝶も虫も寄り付きません。でも、此処が最適と蜘蛛は思っているのでしょう。
イメージ 4
水引は蓼科の植物です。赤まんまもタデ科の植物、蓼食う虫も好き好きと言われる虫もつかない植物です。(撮影場所円海山瀬上遊歩道)
 
深紅の小花をつけた枝先が伸びた様は祝儀袋の水引にそっくりですから、この名が付いたのでしょう。
我が家の門には南天が実を付けその根元を水引草が隠しているわけで、南天が災いを防いで水引草が福を呼んでくれそうです、何か縁起が良さそうな組み合わせです。
この台風で水引草の枝先が絡みそうです。でも「花結び」にはなってもらっては困ります。もう二度と病気にはなるのは御免ですから、結び切りで、お願いたいものです。
イメージ 5
咲き始めた山茶花に水引草を添えて生けて戴きました。昨日は千利休も切腹しました今日は大磯の待庵(復刻建築)が賑わっていることでしょう。我が夫婦ももう少し生きれば利休と同じ齢70歳です。
水引草は虫がつかないので好ましいのですが、兎も食べません。虫が好かない植物は兎も不味いとおもうのでしょう。戯れに噛んでみれば苦いだけで毒では無さそうです。
私は地誌が好きですから。水引草を観ていると長野の飯田に想いを馳せます。
江戸時代初頭飯田藩主堀親昌が殖産事業の一環として藩士に水引旁を奨励したのだそうです。
美濃からもの神旁の職人桜井文七を招き和紙を梳かせて紙縒りに練って糊を染込ませて水引を作らせました。
水引は髷を結ぶ元結として需要もありましたし、贈答品を飾る道具としても需要が膨れていました。
律義で礼を重んじる飯田藩士の気風にもマッチしていたのでしょう。飯田の町興しは今も引き継がれています。
横綱の白鵬は戴いた水引だけでも膨大な数でしょう。白鵬の水引を展示して戴いたら観に行きたいものです。
水引は日明貿易で伝えられた装飾でしたが見事に日本の伝統「和の包」になって今も盛んですhttp://www.nhk.or.jp/tsubo/program/file147.html(NHK美の壺)
 
今頃は飯田街道の街路樹に植えられた林檎は真っ赤な実を付けていることでしょう。
昭和30年代街路樹に林檎を植えると言う事で「物笑いに」された伊那地方ですが、礼を重んじる一帯です。取る者はいないと判断したのでしょう。
「街路樹に林檎を植える」判断は正しくアップルロードは今は壮観な観光道路に成長しました。その成功は長野五輪会場周辺の街路樹も林檎にし、メダルも水引で飾られました
戯れに林檎を捥いで齧ってみれば酸っぱい昔ながらの紅玉の香りがしました。林檎の街路樹の彼方に建つ民家の軒先には市田柿(名産品の干し柿)がぶる下がっています。民家の庭先を上って行けば、小笠原流本家(礼法)に続きます。大河ドラマ黒田官兵衛を演じた岡田准一も此処で稽古したそうです。乗馬姿も凛々しく好演でした。来週は家内を誘って湘南テラスモールに「蜩の記」を観に出かける事にしましょう。
イメージ 7
今年は浅葱マダラを観る事が出来ませんでした。敗れた翅の浅葱マダラ、私の体もこんなもんでしょうか?
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live




Latest Images