Quantcast
Channel: 仮想旅へ
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live

惨めな段葛の狛犬。

$
0
0
10月に鎌倉若宮大路の段葛の再整備工事が発表され、11月から工事が始まった。総工事費は6億円余り、負担は八幡宮が2割で、過半は国庫補助と地元神奈川県と鎌倉市が3割という事でしょうか。工事費の大半が公費ですから市民や国民の期待通りの事業でなくてはおかしいと思います。(ネットで調べると若宮大路は県道です。ですから今次の工事主体は県で実施主体は鎌倉市になるのでしょう。)
イメージ 1
明治20年の若宮大路(出典横浜開港記念館)
イメージ 2
大正7年段葛を修復染井吉野を植樹する。
イメージ 3
現在の段葛桜の元気が無いのは段葛自体に問題があるのではなくて両側の車道がアスファルト舗装されているので根が傷んでいるからです。計画では300本(現状)ある桜が180本に減数されるそうです。加えて東西の横断歩道も半減され、車椅子も乳母車も入れなくなるそうです。
 
今鎌倉市民が問題にしているのは、段葛に乳母車や車椅子が入れない事、バリアフリーでない事と段葛を東西に横切る歩道が減ってしまう事です。
新聞発表からして八幡宮が実施しました。八幡宮の感覚では段葛は八幡宮の私道なのでしょう。
八幡宮の発表は段葛は八幡宮の参道であり、森厳な神社の一部であると確信しています。
だから、段葛を横切る道など認められない事になります。でも、段葛の東側の商店にとっては死活問題です。横断できなければ客数は半減してしまうでしょう。
若宮大路を造ったのは頼朝でした。武士の都を造営するに際して、由比ヶ浜に南面した山の中腹に武士のシンボル石清水八幡宮を遷座して、その奥に政所を設営しました。八幡宮の権威のもとに武士の忠誠心を纏めたのでした。
山がちな鎌倉を造営して宅地にしたので、鎌倉の町は何時も洪水だったのでしょう八幡宮を参詣するには泥道を進まなくてはなりません、そこで若宮大路の中央を少し高くして段葛を造りました。
大正時代になって段葛の両脇に300本のソメイヨシノを植えました。ですからもうじき100歳になる桜並木ですが。最近は傷みも激しく、我が国を代表する観光地としては寂しい限りです。それに染井吉野が枯れた後には、早咲きの河津桜を植えたので、さくらのパッチワークです、桜は揃って咲かなくては美しさも半減です。
今回の改修の目的の一つがこの桜の復活ですから、どんな桜をどのように植えるか計画が必要です。河津桜、玉縄桜、染井吉野など候補が幾つもあるでしょう。素人目に見ても桜の元気がない理由は明白です。若宮大路の全面がアスファルト舗装されているのです。アスファルトの下に張った桜の根っこは蒸されていることでしょう。アスファルトを剥がして石畳にするか浸水性アスファルトにする必要があるでしょう。弾桜の根元を占めている躑躅は桜に良くないので撤去するそうです。躑躅の後は草花(菜種やひがんばな)を植えるのでしょうか、それとも萩にするのでしょうか?気になります。
この機会る狛犬はどうにかならいでしょうか?
弐の鳥居の左右に阿吽の狛犬が並んでいます。
イメージ 4
八幡宮の弐の鳥居前に並んだ阿吽の狛犬。右の阿像の狛犬の劣化が激しく鉄骨が錆びて裂け目から錆が滲み出ています。
 
阿の狛犬の台座に狛犬の出典がプレートで案内されています。昭和36年(1961)に小野田セメント(現太平洋セメント)が奉納したもので、彫刻家の山脇正邦氏の製作になり、材質は白色セメントで造られていますさくら。白色セメントは石膏のように真っ白で劣化もしないと言う事で。当時積極的に売り出されたものでした。焼結温度が高く、白い顔料を混ぜたものでした大船観音像も白色セメントで作られました。私が中学の頃、白色セメントは青白く光って横須賀線の車窓から眺めると薄気味悪いものがありました。小野田セメントは八幡宮の狛犬に始まり各地の仏像やマリア様建物の擁壁にこの白色セメントを活用したのでしょう。でも作ってから半世紀で劣化が目立ち狛犬にはd裂け目が出来て裂け目から鉄錆が滲み出ているのです。この機会に狛犬も新作寄贈してもらったら、良いのでしょうが・・・。更に鳥居の耐震化も実施してほしいものです。
イメージ 5
此方は状態の良い吽形の狛犬さん
イメージ 6
此方は白色セメントの裂け目から鉄錆びが滲み出てきた阿形の狛犬さん。この台座に制作者や寄進した小野田セメントの名が刻まれた皮レートがあります。
 
鎌倉の歴史は八幡宮を中心にして展開してきましたし。鎌倉市民のシンボルは何といっても八幡宮であることに間違いはありません。
でも八幡宮の改修は八幡宮の専決事項ではないでしょう。工事費の八割は公費で支援してもらう以上は鎌倉市民や国民御期待に沿って工事計画を進めなくてはならないと思います。
段葛は八幡宮の参道であると同時に日本一の遊歩道(緑道)にするようにしてほしいものです。現在雪洞は八幡宮境内だけですが、段葛まで拡げて菱いものです。
例えば段葛に沿って自転車専用道(人力車兼用)を整備するなどすれば桜の根が張るうえでも有効だと思います。段葛に縁台を出してお団子や、蕨餅を食べてみたいと思うものです。弐の鳥居前にお札サービす。(お札を求めたりお返ししたり)身障者にとっては有難いものです。トイレも気になります。(20分間歩き続けでトイレがありません。)
八幡宮の改修をすれば今後数世紀はこのままでしょう。大正の桜工事は良かったにしろ、平成の改修はどのように評価されるのか、市民の善意がすべて参加できるようにしてほしいものです。私は白色セメントの欠陥だけは見落とせません。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

来年は隼人瓜を栽培しよう

$
0
0
白飯が美味しい季節です。何処のお米が日本一か?少なからず興味があります。何かと評判の悪いJA全農(全国農業協同組合連合会)ですが、「全国ユルキャラコンテスト」を真似て「全国お米コンテスト」を実施したら如何?と思います。日本中の白飯の味比べをするんです。お米と言えば「コシヒカリ」ですが発祥の越後が一番か、それとも加賀か、ササニシキも宮城と千葉では味が違うでしょう。山頭火の日記では一番おいしい白飯は育った土地の水で焚いた白飯だと書いています。
評判の悪いフサニシキ(房総のササニシキも「大山千枚田」で食べれば美味しいものです。
今私が食べたいのは山形の竈焚きの艶姫です。お漬物は「青菜漬」で充分です。
イメージ 1
山形の艶姫は少し甘くて白飯が立って艶光しています。蕪などの青菜を味噌漬けにしてお漬物に添えて食べます。(撮影は亀井野のワイワイ広場)
イメージ 2
青い隼人瓜白い瓜もあります。味噌漬けが最高です。(撮影同上)
先日藤沢の亀井野にある「ワイワイ広場/JA相模経営)に野菜の買いこみに出かけました。目的の雪里菜はありませんでしたが、隼人瓜が目につきました。昔奈良で食べた隼人瓜の漬物が食べたくなったのです。
味噌漬けにすると、食感は中華のザーサイに似て、味は胡瓜の味噌漬けで白飯にも中華粥にも良くあうのです。
隼人瓜の名は鹿児島の瓜の意味です。お芋は薩摩芋というのに瓜は隼人と言います。隼人と薩摩の言い訳は何の意味があるのでしょうか?女性名詞破擦まで、男性名詞は隼人なんでしょうか?薩摩オコジョは可愛いのですが、隼人は喧嘩が強くて距離を置きたくなります。
イメージ 7
鎌倉広町緑地の棚田での刈りいれ風景、刈りいれ作業とイナゴ取りと半日遊べて白飯のp握りが食べられます
イメージ 3
これが白い隼人瓜です。棚造りが最適ですが、奈良の農家では庭先で栽培し庭木に絡んでなっているものです。夕方に採って味噌樽に漬けておけば翌朝美味しく食べられます。(撮影鎌倉広町緑地の棚田)
イメージ 4
隼人瓜の棚の下でパンツを履き替える童、どうも、イナゴ取りに夢中になっておしっこを忘れてしまったようです。(撮影鎌倉広町緑地の棚田)
イメージ 5
農作業の後は白飯のオニギリがご馳走です。(撮影鎌倉広町緑地の棚田)
イメージ 6
棚田の刈りいれを終えればイナゴ取りで遊べます。(撮影鎌倉広町緑地の棚田)、採ったイナゴはお母さんが佃煮にしてくれるのでしょうか?
昨今の円安は加速して都市部の生活は苦しくなる一方です。一方地方生活は米は安いし、美味しいし、教育費も負担は小さいし陰湿な虐めも災害リスクも少ないようです。政府は無策のように見えても地方に都市住人を移住させようとしているようにも見えます。地方の出生率は東京の数倍高いの次事実です。無策のようでいて実は地方振興と少子化対策を同時に進めているのかも知れません。東京近郊の鎌倉で棚田に遊んでいる世代は屹度地方に移住したいと思っていることでしょう。若しも今と同じ所得が確保できるなら競って地方に転出する事でしょう。
 
夕飯に隼人瓜の漬物が出ました。ザーサイに似た食感を愉しみました。白飯にはピッタリです。
瓜の種を取っておき、来年は庭に植えて隼人瓜を作る事にしましょう。ご近所が言う事でしょう。
(去年は夕顔だったのに今年は隼人瓜で来年は南瓜になることでしょう。」と夕顔から南瓜にどれも瓜科の植物ですが、実益(食べられる)が次第に増して行きます。
中国産のザーサイは心配で食べる気がしません。ザーサイ自体は三浦でも栽培されていますが、私には塩が強いので、塩抜きしなくてはなりません。隼人瓜を自家で栽培して漬物にすれば問題は一挙に解決です。
昨日は菜種と紅白大根(ラディッシュ)の種をプランターに蒔きました。
イメージ 8
 我が家の隼人瓜の漬物、これなら来年は自家栽培して奈良の農家のように楽しもう・・・。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 

棗の歳時記

$
0
0
一昨日は明治節でした。明治節には私の祖母は乃木大将の話を良く聞かせてくれました。明治天皇の話では無くて、乃木大将か神社の狐の話でした。。祖母の生家は世田谷弦巻の実相院(曹洞宗)で古くは世田谷城で、周囲は畑だったそうです。畑の向こうに森があって其処が松陰神社で、乃木将軍は度々参詣され、祖母は近隣の農家の子女と一緒に憧れの乃木将軍に会いたいと嫁菜の花を手にして、松陰神社の鳥居に走って行ったそうでした。弦巻村の子供達に乃木将軍は優しく声掛けして下さったそうでした。祖母は明治天皇の崩御は平静に受け止めたようでしたが、乃木大将ご夫妻の殉死には大きな衝撃を受けたのでした。
イメージ 9
デーサービスでは唱歌の時間があります。良く軍歌が歌われます。私は「麦と兵隊」を歌えば旅順の戦争を思い起こしますし。ラバウル小唄やモンパルナスの夜を歌うたびに平和な時代に生まれた我が身を感謝します。
乃木将軍と言えば日露戦争での旅順要塞攻防戦を思い起こします。、旅順港を見下ろす高台(203高地)では乃木将軍はステッセルと激戦を戦わせ、二人の息子を失います。そして203高地の戦いで、旅順水師営のある農家で両将軍は相まみえます。ステッセルは自分の馬を農家の木に繋ぎました。そして馬を乃木将軍に敬意を表しました。明治時代には武士道の精神が騎士道の精神も生きていて世界に感動を呼びました。然るにシナ事変以降の戦争では慰安婦問題を惹き起こし、真実は藪の中とはいえ。乃木将軍が聞かれれば軍法会議にもかけずに大罪に処されたでしょう。昭和は見苦しいし世界に恥じなくてはなりません。
今でも乃木坂の松陰神社の境内南側(外苑北通り)には乃木邸(自決した自宅)を移築し旅順水師営の農家を復元してあります。自宅と水師営の農家との間には棗の木も植えられています。その棗の大事にされて、もう大きな樹になって風格が出て来ました。
イメージ 2
乃木坂松陰神社の棗の木随分立派になりました
イメージ 3
同上水師営の会見の行われた農家の復元現在は馬小屋を復元してあります。
イメージ 4
松代象山神社の棗
イメージ 5
漢方では重要な生薬になっている棗デーサービスでは服用されている方が目立ちます酸棗仁(さんそうにん)の名の通り少し青リンゴのような酸味があります。
 
 
屹度今日松陰神社に行けば、棗の実が乃木邸の玄関口に沢山散っていることでしょう。
日本人は棗の実の形に敬意を払ってきました。
現在では濃茶を入れる陶器製の茶入れ(茶壺」に対して、
薄茶を入れる木製の茶入れ(抹茶入れ)を棗と呼んでいます。利休が棗をこのんだと言う事から抹茶容器を棗と呼んでいますが。薬を入れた印篭も棗に由来していると思われます。
イメージ 1
利休好みの棗は抹茶の容器です。形は棗の実、材木も棗の材です。(これは天神様の梅模様で/出典楽天)
 
棗は棗の実に形が似ていた事と、最も大事な形(仁)を思わせたのが理由と思います。
棗は昔から貴重な薬だったのでした。子は酸棗仁(さんそうにん)は今も多用される生薬で、眠れない人、体力の衰えが木になる人は多く飲んでいます。
我が生家にも一本棗がありましたので私は時々取って食べました、
姫リンゴのような甘さと酸っぱさが印象的な味でした。
そんな想いのこもった棗ですから私は庭に一本植えました。
気付いたことが二つあります。一つは芽吹きも花も遅いのです。春になっても新芽や葉が出ないので枯れてしまったのかと思うと卯の花が咲く頃になって芽吹きます。
夏になってから芽吹くので夏の芽と言って棗(なつめ)と呼ぶのでしょう。そして、枯れた枝や幹に良く木耳が生えるのです。
木耳は仙人の食べる茸のようですから、屹度仁が籠っているのでしょう。
イメージ 6
棗の木に生えた木耳
 
私も棗の実を食べて、その根元から生える木耳を食べていれば仙人のようになれるかもしれません。仙人の手前の山崎放代さんに似てくるかもしれません。そんな次第で今晩も水炊き鍋に棗の実を数個投げ入れました。棗を入れただけで、鶏の水炊きは参鶏湯(さんげたん)に変身です。
棗の実を食べれば強い甘みが残ります。これで今晩も熟睡出来て体も充実してきそうな予感がします。筑前煮にもロールキャベツにも棗を煮込みます。
 
もうじき7.5.3の祝い式です。松陰神社は世田谷も乃木坂も賑わう事でしょう。乃木坂の松陰神社を詣でたら乃木将軍の邸宅にも寄られることをお奨めします。宝物館にも見るべきものが数多く展示されています。来年は大河ドラマで賑わう事でしょう。
イメージ 7
前煮にも棗を入れて勿論水炊きにも棗を入れます。
イメージ 8
ロールキャベツにも棗を入れて煮込みます。
イメージ 10
今週末は7.5.3の祝い式で松陰神社も良い子で賑わう事でしょう。私達の孫も岡崎の八幡宮に詣でる事と思います。私が元気なら駆けつけたいのですが・・・。今年も大豊作の棗を戴いて次のお祝いまで楽しみは先送りしましょう。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

伊豆の長八

$
0
0
私は学生時代、故浅子勝二郎先生の訓育を受けました。
その講義に「鏝絵の入江長八」がありました。
当時の私は鏝絵も知らなければ、まして入江長八など全く知りませんでした。
「高々江戸の左官屋さんを何で熱心に講義するのだろうか?」
解らずに、漫然と受講していました。
イメージ 4
この11月19日その長八が生まれ育った伊豆の松崎に日文研の仲間19人と旅行する予定です。屹度浅子教授の授業を思いだして話も弾むことでしょう。
それに当時は長八と言っても見向く人は少なかったのでしたが、最近は違います。
スペインのサクラダファミリア教会の主任彫刻家」の外尾悦郎氏は長八の左官業の流れをくむ人であり。長八美術館の建設にもかかわりモニュメントも残しています
イメージ 1
伊豆松崎の海鼠壁海からの強風と火事対策として伊豆では左官業が発達していましたが明治時代に天才が現われました。それが絵画も本格的に学んだ長八でした。左官(左官」はその字の通り官位を表すもので、古墳時代に始まる伝統技術者でした。
イメージ 6
サクラダファミリア教会の装飾造形には入江長八の左官の技術が活かされています。
 
浅子教授は日文研を長年ご指導いただき、そのお人柄に訓育された私達でしたが、兎角、芸術家やアートは尊敬しても職人や工芸を軽視しがちな私達に職人技の美しさや職人技が一朝一夕で生まれた訳では無く、長い伝統、文化史の中から育ってきたものだと教えてくださいました。切れ長の優しい眼の奥から未熟な私達に接し、同じ目で伝統工芸を見る楽しさを教えて下さったものでした。
 
イメージ 2
長八のおか目の図、胡粉を塗り重ね筆で色を載せた部分と、漆喰に顔料を加えて鏝で造形した部分と二つの技の合作が浮世絵のような美しさと吉祥天のような艶やかさを表現しています。
 
イメージ 3
狐、お稲荷様の注文が多かったので自ずから沢山の狐が造形されています。神狐の毛並みは鏝で神気迫る眼は玉を挿入しているように見えます。
イメージ 7
米俵を詰める大黒様長八74歳の時の絵、仙和尚を思わす描風です長八は江戸に出て谷文晁の系譜で絵を習いました。
 
万年旅行幹事の私はこの機会に入江長八を改めておさらいしておこうと思って、横浜立図書館の蔵書をインターネット検索していると、浅子教授の著「近世庶民芸術・文化に関する研究(抄)(昭和38年)が見つかりました。
その論文の末尾には『長八は何故高村高雲のように職人から芸術家に転身しなかったのか、あるいは転身できなかったのかといった問題にも一考を要しなくてはいけない。浅薄な研究になる事を怖れるものではあるが、今後の発表の機会をえたいものであります』。と結んでおいでです。一つの研究が次の疑問を呼び起こす、先生の姿を偲び、19日の夜は日文研の仲間とこのテーマで話し合いたい思っている次第です。先生も切れ長の眼を更に細くされて聞いて下さることでしょう。
イメージ 5
屋根瓦『鬼瓦』に作られたお多福と布袋さん、こんな家なら招福間違いない事でしょう。
 
私は病院のベッドに寝転んで味気ない石膏ボードを貼った天井と、病室の壁を見詰めて思っていました。何時から日本人は吉野石膏のボードばかり使い出したのだろうか。シックハウスなどの健康障害にとどまらず。ただ白いだけでは精神的にも参ってしまう。
この壁に乙姫様が描かれ、天井に明星が描かれて居たら、メンタルにもッ健康回復が早いだろうに・・・思いました。左官を捨ててエコノミーに走ったのは間違いです。
この機会(伊勢神宮の遷宮等があった)に伝統工芸を改めて見直したいものです。左官屋さんにエールを送り、かつ国も支援してほしいものです。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 

江戸向こうの海苔の味

$
0
0
江戸前の海苔といえば品川沖から大森海岸にかけての浅瀬で採れるたものでした。今も老舗の海苔店は本社を同地に残しています。
私の学生時代は江戸川の東、浦安から幕張の浅瀬が江戸前海苔の養殖場でした。東京デズニーランドの開発はその海苔の養殖場を埋め立てたものでした。埋め立て当時銀行員だった私は「青べか物語/山本周五郎」の舞台を埋め立ててデズニーランドにするのはイメージが湧かない」と真剣に思ったものでした。
イメージ 1
山本周五郎の「青べか物語」は海苔を養殖している貧村を舞台に人々の交流を描きました。筆者の学生時代はこの辺りは貝や海苔の業者が国道沿いに店を連ねていました。
 
大森も浦安も江戸表でしたから江戸前と呼ぶには抵抗がありませんが、今海苔の養殖場は江戸から見れば東京湾の向かいの木更津から富津沖に移っています。「江戸前ではなく「江戸向かい」の海苔です。
流石に江戸前を看板にしている山本山大森屋等の老舗は国産に拘っているのでしょうが。主産地は松島湾や有明海に移っているようです。今では韓国産、中国産の海苔も出回っているようです。マレーシアやタイ、ベトナムを旅行すると海苔の養殖に恰好な浅瀬を見かけます。何れ、東南アジア産の海苔が私達の食卓を賑わすことでしょう。
3.11大地震で千葉県も被災しましたが被害は外房から内房にも及んだのでした。富津の海苔業者も大打撃を被りました。影山さんも船(影丸」を失い、養殖場も流されました。災いに打ち沈んだものの、再起を期します。5千万の借金をして海苔事業の立て直しに取り掛りました。
影丸の親爺さんの説明では海苔の味は格別で、私達は古い海苔をを食べさせられているそうです。 
古海苔は佃煮に戻して再販してるんだそうです。新海苔の味が解れば、お客さんは飛びつく筈だ確信していたんだそうです。
イメージ 2
観光バスを連ねた来客に説明される景山氏奥は鉈を改築した様な海苔工場の装置
イメージ 3
影丸の全景左奥がオーナー影山氏の本宅その納屋だったと思われる建屋が海苔の全自動装置が置かれています。屋敷守のお稲荷様が賑いを見ています。工場右口が売店と試食場です。
イメージ 4
海苔の全自動製造装置。熱風を吹きかけて海苔を乾かして1帖に封じて機械から出て来ます。省力の成果を販促に回さいたことが成功の原因だったのでしょう。
養殖場から採りいれた海苔は全自動の「海苔干し装置に入れます。この機械は日本で最初の機械だったので当時は7千万もしたんだそうです。
全自動化で省力を果たし人員は販促に回すことが可能になりました。
3.11大震災から雄々しく立ち上がった「災い転じて福に変えた」という事でNHケKはじめマスコミが取り上げました。その結果大型バスが相次いで影丸に遣って来ました。
お蔭で漁師さんの庭は大型バスの駐車場に変わりました。
イメージ 5
 アサリの味噌汁と試食に海苔の天麩羅(おつまみに最適スマップの香取君が販売に一役買った商品でした。
 
既にATTの締結は既成の事実のような気がしますが。現在「江戸向かいの海苔」に逆風のようです。韓国産や中国産の海苔が我が国に奔流のごとく流れ込むことでしょう。既に韓国は日本は意図的に海苔に着いては日本は貿易障害を作っているとしてWTO(世界貿易機関)に訴えています。日本がATTに加入して、海苔事業を守ることは至難な事でしょう。江戸前から随分多くの変遷を強いられてきた海苔ですが、将来も波瀾万丈のようです。
お寿司が日本の文化遺産で自慢したいのなら江戸前の海苔も大切にしたいものです。
影丸さんの成功は海苔の素材を活かして無添加で製造し。昔ながらの美味しさを訴求した事に依るのでしょう。日本人の舌は韓国や中国では騙されないものでありたいものです。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

ケルト人の聖跡

$
0
0
いよいよ今日は、日文研セミナーで私が「隠れキリシタンの系譜」と題して報告を致します。
前回は6月に「地蔵信仰の系譜」と題して、報告しました。その折には「神曲」と「往生要集」を素材に、日欧の地獄観の違いに焦点を当てました。
今日はどんな順に話をすれば喜ばれるかな?昨晩ズット寝床の中で考えていた所、想いつきました。
今は旅行シーズンだし、フランスの観光名所を紹介して、それらに共通する「ケルト人文化」から話をすれば、聴きやすだろう、それに私の前のレポートは「日欧の昔話の共通性」でしたから、今昔物語とグリム童話の共通性も話題になった直後です、受けが良さそうな気がします。
そんな次第で今朝は「ケルト人の聖跡」と題して話を致します。
フランスで人気の観光地と言えば先ずモンサンミッシェルでしょう。、フランス西海岸、サン・マロ湾上に浮かぶ 小島であり、同名の修道院が天空に聳えたつ姿は、キリスト教徒の天国への強い願望を現わしているようです。仏教徒の須弥山を形にすれば、モン・サン=ミシェルになるでしょう。その意味は「聖ミカエルの山」の意で、旧約 聖書にその名が記される大天使・ミカエルが「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げをされたことに始まります。でも、この島はもともとモン・トンブ(墓の山)と呼ばれるケルト人の墓地でありました。
イメージ 1
「世界の聖地」から転載。ケルト人の聖地(墓」をキリスト教徒が修道院に建て替えたものです。
次いで人気はは「ルルドブノ泉」でしょう。
ルルドはルルド(Lourdes) は、フランスとスペインの国境ピレネー山脈の国境に在ります。最大のパワースポットルルドの泉が湧いています。
今から150年前少女が、山中で少女が薪拾いをしている最中に聖母マリアを観ます。
肺結核を患っていた少女に聖母は「泉に行って水を飲んで顔を洗いなさい」と教えます。その泉が(ルルドの泉」で不治と思われた病が治癒する奇跡が続々と起こりました。ルルドはカトリック最大の巡礼地になり今日に至っています。
イメージ 2
ルルドのマリア像、この洞窟もケルト人の聖地でした。東京・目白にある「聖カテドラル教会聖マリア大聖堂」はルルドの泉を模したものです
もうひとつフランスの各地に「黒い聖母像」が祀られています。ケルトの大地母神、豊穣の象徴であった女神が聖母マリアのイメージと融合してできたものが「黒い聖母」の像なのだと言われています。
イメージ 3
ノートルダム大聖堂の黒衣聖母像(出典:前記)

キリスト教もイスラム教も唯一神を礼拝します。唯一神を信仰する人は他の神に祈りをささげる事は難しいものです。日本人はクリスマスを祝い、大晦日にはジャの鐘を撞き、元旦には神に祈ります。人間が自然に寄り添い、調和しながら生きる事が最善であると確信しています。自然の万物には各々神が宿っていると確信していますから。それぞれの神を祀る事に違和感はありません。自分をウィ中心に考えれば八百万のの神々が恩恵をもたらしてくれます。ですからいずれも等しく敬います。ところが唯一神を信仰する場合はそのような訳にはゆきません。ケルト人の信仰は否定して彼らの聖地に自らの教会を建立します。エルサレムはユダヤ教キリスト教・イスラム教の聖地であります。いずれも唯一神を信仰しているだけにお互いを認め合う、調和することが困難です。
イメージ 5
エルサレムは唯一神を信仰するキリスト教・イスラム教。ユダヤ教の聖地であります。調和の道を探る事は困難なのは唯一神を信仰していることにあるようです。写真はエルサレムの嘆きの壁  出典:前記
日本は八百万の神々を祀る国でしたからキリスト教の受容の早かったのですが、唯一神の本質は受容されなかったと思われます。
キリスト教の本格的な受容は明治維新に始まり、戦後信教の自由が保証されてた、現在が本質的なキリスト教の受容期になっているのでしょう。
シリアやイスラエルの紛争を見るたびに多神教の国日本に産まれたさ祝を痛感します。
イメージ 4
伊勢神宮の遷宮に際して柱になる檜の切り倒し神事。檜の神に敬意を払うと同時に、その切り株に苗を植えて、大木に生き返る事を祈ります。自然の神々を畏敬する事の恩恵を痛感します。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

鎌倉山の櫨の大木(無法な開発を止めて欲しい)

$
0
0
昨日は午後2時半から3時間は日吉の慶応キャンバスでセミナーを、午後7時から1時間は町内会で、都合4時間話し続けでした。流石に疲れて家に帰るとフィギアスケートをテレビでやっていました。テレビ観戦して、羽生結弦さんの入魂の演技に少なからず感動しました。若い人の精神力ほど私達の背中を強く押してくれるものはありません。オリンピックの時以上の関d峰でありました。お蔭で「良いものを見せて戴いた」とばかりに熟睡して朝は庭の井鶉の鳴き声で目を覚ましました。
鶉も鶏と似た習性があるのでしょう。「お父さん、早く眼を醒ましなさいよ、」忙しく啼き続けます。
私は布団の中から首だけ出して鶉に聞き入ります。
屹度今頃の奈良は鹿の声と鶉の鳴き声とが深まりゆく秋を競って告げている事でしょう。私は古都の景色を思い浮かべます。
隣町に小雀町があります。何時も渋滞する原宿交差点の近くです。其処に「深草の宿」という名のモテルがあります。農家が投資したモテルのようで、もう廃墟に近く、来客は全くないようです。でも原宿に来ると看板だけがお目立ちです。モテル「深草の宿」の名は間違いなく、俊成の鶉の和歌から採ったものでしょう。
夕されば野辺の秋風 身にしみて鶉鳴くなり深草の里 藤原俊成
モテルに泊まると本当に鶉が聞こえるのか?私は知りませんが、でも小雀町は深草の雰囲気に満ちている侘びた町で今もススキや葎が茂っています。
俊成の鶉の歌は伊勢物語の「深草の女」を本歌どりしています。

.
『伊勢物語』123段の「むかし、男ありけり。深草に住みける女を、・・・」
夕焼けも終わって、辺りは次第に暗闇に沈んでゆく、そんな時刻です。鶉の鳴き声が闇の中から響いてきた・・・幽玄の世界を表現しています。我家の鶉は夜明けを告げますので、俊成の鶉とは違いますが・・・・。
俊成の歌は平安の美(夕焼け)から中世の美(幽玄)への架け橋の役割を果たしました。
西行は俊成の歌をとって次の歌をかさねます。
鶉なく折にしなれば霧こめてあはれさびしき深草の里 西行
イメージ 2
酒井抱一の鶉秋草の図。西行や寂蓮の歌を屏風に描いたものです
 歌意は深草の里に鶉の鳴く頃になった。あたり一面に霧がたちこめていて、
   いかにも寂しい、深い秋だ、事よ・・・・。
更に西行の師であり友人であった寂蓮は次の様に歌います。
繁き野と荒果てにける宿なれや籬の暮に鶉鳴く也
寂蓮の住まいは大原でしたから深草の里は「大原」とイメージが重なります。
寂光院の景色です。
イメージ 1
我家の鶉君、主として明方に啼いてくれます。鶉小屋には無造作に卵が産み落とされていますから、これで滋養をとります。
 今朝は寒そうなので中々布団からは出難いものがあります。
そう思うと西行にそんな歌があったのを想い出しました。
きりぎりす 夜寒に秋のなるままに 弱るか声の遠ざかりゆく 西行
もう立冬も過ぎました、床下からはコオロギ(キリギリス)の鳴き声が絶え絶えとして響いてきます。
蝋燭の灯が風に吹かれて消え入るようにコオロギの命も吹き飛ばされそうです。
私は昨年脳梗塞で倒れてからもうじき1年過ぎようとしています。
未だ私は左半身の麻痺はとれていません。苦行が続きます。
でも、この病気のお蔭で、西行や俊成の理解共感が深まったと思えば我慢できます。
 
「深草の里」が無用な雑草の生い茂った村の意味以上に鶉が棲む幽玄な世界を言い表しているようなものです。
 
今朝は雨模様です。お天気なら車で鎌倉山の櫨を観に出かける積りでした。
鎌倉はお寺が多いので、昔から櫨を植えて蝋燭を製造した名残でしょう。
櫨は一早く紅葉しますし、朱の色が濃く鮮やかなのです。
櫨は漆科の樹木ですから、鎌倉山には漆の木も多く残っています。でも漆はカブレるというのでハイカーに嫌われます。漆にカブレない様に処置するのが大変です。
手っ取り早いのが伐採してしまう事。ですからもう大半の漆木は伐り倒されてしまいました。一方櫨も漆も種が大量に実って、野鳥の命を繋いでいます。櫨や漆の木の樹下で待っていれば色々な野鳥が来てくれます。待っていればよいのですから。カメラを抱えて釣りをするような気分です。釣り人を太公望というのですから、野鳥ウォッチャーは「鳥公望」とでもいえばよいでしょうか?
イメージ 3
鎌倉山の櫨の大木何れ伐採されて宅地造成されてしまいそうです。斜度30はありますから開発許可は下りないと思うのですが・・・。
イメージ 4
櫨の大木から見た西側風景富士山が眼前です。
イメージ 5
櫨の大木の隣地迄無理な開発が進んでいます。この崖の下は西武不動産の七里ヶ浜ニュータウンです。
イメージ 9
開発に歯止めのかからない鎌倉山の南斜面(海側)山下の住人の命を守るためにも古都の緑と生物の多様性を守るためにも私益の制限が必要です。
上段の写真を見れば、下の西武不動産の住宅地に住む人の嘆きが聞こえるようです。雨が降れば土石流で流されないかと、寝られないでしょう。この秋横浜市では都心の中区と周辺の緑区で土石流が発生し、二人も亡くなりました。広島の悲劇は他人事ではないのです。横浜市は無理な開発であったk所とは承知していた者の、事務引き継ぎが行われていなかったと発表しました。もうじき民事訴訟になるでしょう。その所為でしょうか、最近林市長はお元気が無いようです
 
私は緑を保存古都の風景を守るには法律通りに「開発規制をかけておくのが一番効果的であると思います。
櫨や漆のの大木を守るのも「開発規制をかける」。
それでも開発したいという場合は環境アセスメントをしっかりやったうえで住人の意見を確り聞く事です。
台風18号の時は流石に鎌倉でも土石流の危険性に覚醒したようですが。直に忘れてしま鵜事でしょう。
イメージ 6
開発して小さな宅地に細分化して売り出そうとする気配の鎌倉山の櫨の大木。土石流対策として景観を守るためにも野鳥の保存のためにも櫨の大木のある景観を守って欲しいものです。
イメージ 7
櫨の実が野鳥の命を繋ぎます。この黒い実が蝋燭の材料になります。
イメージ 8
上の櫨の大木の種を野鳥が運んで鎌倉山には櫨の木が多く散っています。写真右上はミノ・モンタ邸。ミノ氏の屋敷は山椒洞(懐石料理/元松竹女優)田中絹代の別荘を取り壊してしんちくしたものです。当時の批判は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/17268215.html)
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

桂の伊勢佐木町

$
0
0
今年は十年来の見事な紅葉だそうです。テレビ(小さな旅/)ではこの秋の那須高原の紅葉を写していました。幼顔の山田敦子アナウンサーがゴンドラから錦の山を眺めている姿を見ていると、宮本輝の「錦繍」を想い出しました。離婚した男女が偶然に蔵王のゴンドラに乗り合わせた処からお話が展開します。
イメージ 1
那須高原茶臼岳ゴンドラから眺めた紅葉、宮本輝氏の小説「錦繍」の冒頭を髣髴させてくれました。(NHK小さな旅の画面から)
紅葉を見ていると人間は恋心を燃やすようです。この秋も京都は恋心を燃やしたい男女で賑わう事でしょう。
 
昨日はいち早く朱に染まる櫨の木を紹介しました。今日は横浜で一番早くにに黄葉する「桂」を紹介します。
桂の街路樹は伊勢佐木町に見られます。
一早く開港した横浜です。 明治2年(1869」には港から馬車道を通って真っ直ぐ南、吉田新田を埋め立てて「港埼遊郭」が建ちました。港湾労働者は昼間働き、日銭を握って遊郭に向かいます。港と遊郭の間を結ぶ道路を伊勢商人が開発しました。伊勢崎町の名は伊勢商人3人の名/伊勢屋中川次郎兵衛、川儀右衛門、佐々新五郎。から採ったものでした。江戸時代商業を席巻したのは近江商人と伊勢商人でしたから、遊郭を核にしたモールの開発は伊勢商人にとってはお手の物だったのでしょう。その後遊郭は高島町・真金町に移りましたが、伊勢佐木町の賑従って伊勢佐木町の賑いは一向に衰えませんでした。伊勢佐木町は相撲の興行を始め、芝居に映画娯楽が集積していたからでした。
松坂屋、文明堂、有隣堂等の横浜の老舗は伊勢佐木町からスタートしました。明治2年当時の街路樹は何であったか解りませんが。関東大震災横浜大空襲で壊滅した伊勢佐木町でしたから、戦後復興し、闇市が並んだそのころにいせざきちょうには桂が良いと植えたものと想像します。ですから、伊勢佐木町の桂の街路樹は筆者と同じでもう3年で古希(70歳)を迎える事になります。
そんな訳で、私が伊勢佐木町の桂の木を眺めるのは強い思い入れがあるのです。
イメージ 8
黄葉が見事な桂
 
古希にもなると桂には風格が漂います。
遊郭は廃止され、町の核は失われました。その後も闇で営業してきた風俗店も厳しい取締で一掃されてきました。百貨店の松坂屋も松屋も撤退しました。アールデコ風の建物は往時の流向の先端を留めているようです。
大丸系列の不動産会社が松坂屋を買収し、(カトレアプラザ)として様々な店がテナントとして進出しています、カトレアは松坂屋のシンボルマークでした)。
横浜駅西口似合った砂利の集積場が撤去され、西口の再開発が進むとともに伊勢佐木町は廃れて来ました。
松坂屋のカトレアは高島屋のローズの前に完敗してしまいました。
斜陽の兆しが目立ってきたころ青江美奈の「伊勢佐木町ブルース」がヒットします。そして、松坂屋の撤退と同じころにユズが全国に飛び立ちました。街は皮肉なもので廃れはじめると歌謡曲でアピールするようです。
桂は夏に青葉を茂らせて緑陰を提供してくれていた有難い街路樹でしたが、秋になって黄葉を舗道に落して濡れ落ち葉になる頃人々に認められる、そんな風です。
イメージ 2
伊勢佐木町の歩道の落葉は桂です。
イメージ 3
イメージ 6
桂の根元にステンレスのベンチを設えたので、桂の幹はステンレスを幹に食い込んでも生育を続けています。こんな場面を想像できなかったのは残念です。もっと植物に優しくありたいものです。
イメージ 9
髄が腐ってしまった桂、倒壊して被害が大きくなる前に植え替えが必要です。桂は木偏に佳いと書きます。材は彫り易く肌も美しく家具などに最適です。筆者も桂の版木を愛用しているのですが高価なので合板で我慢しています。この大木を版木に製材して子供達に使わせてほしいと思います。
 
素晴らしいも桂ですがそろそろ街路樹としては寿命の尽きるころです。改革的に植え替える事を提案したいものです。先ず痛みの程度によって桂を区分します。最も傷んでいる桂を伐採し、新しい苗に植え替えます。ユズを混植しても良いでしょう。そして次に傷んでいる桂を伐採して、これも新しい苗に植え替えます。10年くらいをかけて全部を植え替えます。
伐採した桂は版画板に製材して地元の小学校に寄付します。
この作業による効果は以下の通りです。
1、傷んだ桂が暴風雨で倒れる危険の未然防止
2、街路樹の手入れ費用の削減。毎年10万円/1本程度のメンテ何紙費用が架っていると思われます。大木ほど枝打ち等のの費用が嵩むものです。
3、植え替え後の美観アップ。
4、歩行の妨げにならない(現在はベンチに桂の幹が食い込んで歩行の邪魔になっています)。
こんなことを提案すると、桂と同じ歳の私もそろそろ入れ替えの頃かなと、寂しい思いがします。
かさむものです、た頃
「此処が松坂屋だったんだよ・・・、」とか「此処の道でユズがストリートライブをしてたんだよ
イメージ 4
カトレアプラザビル元松坂屋の店舗、この前でユズがストリートライブをしたのが、始まりでした。窓や壁にアールデコの色濃い建物です。
イメージ 5
青江美奈さんの伊勢佐木町ブルースのモニュメント
イメージ 7
カトレアプラザの中もう何処でもあるモールで少しも面白くありません。横浜の老舗がお付き合いで出店しています。大丸ではこの程度のものでしょう。「地域愛」をもっと前面に押し出してほしいものです。
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

勝沼ヌーボーへの憧憬

$
0
0
サラリーマン時代夕刻になると良く電話がかかって来ました。「ボジョーレ・ヌーボ」が入ったの!、お若い人を連れていらしてね!」前任者から引き継いだクラブのママさんからです。私の仕事は先ず業務上の顧客の引継ぎでしたが、昔からの社高場も引継ぎも仕事でした。
行かなければ、私の評判が悪くなります。酒が嫌いだとか、付き合いが悪い、くらいの噂なら問題ないのですが、文化人では無い、国際人では無い、そんな風評はサラリーマンとして致命傷です。
そこで、自分の小遣いの残高を確認してクラブにノコノコ出かけました。
「ハッピー・ボジョーレ・ヌーボー」なんて乾杯しても少しも美味しいとは思いませんでした。
毎回飲むたびに、「まぁこんなもんだろうな」、という思いで居ました。『こんなことでお金を使うのなら「キリタンポ」を囲んで一杯やった方がずっと楽しいし、新米も食べられるし・・・・』。
、満足そうななママの横顔をよそに白けた気分で居ました。
「ボジョーレ・ヌーボ」も「バレンタインデー」も、「ハローウィン」も私の学生時代はありませんでした。
迷惑なお祭りを流行らしたもんです。
せめて「おめでとう!甲州ヌーボ」なら喜んで出かけるんですが・・・・。
そんな気持ちもあって、毎年11月の第三週の勝沼や甲州市の「ワイン祭り」に出かけていました。
先ず大善寺に詣でます。お寺のご本尊薬師如来は、薬壺に代わって一房の葡萄を手にされています。
イメージ 1
勝沼の古刹大善寺薬師如来は一房の葡萄をお持ちです。
奈良時代、創建の時から葡萄を手にされていたのか?、それとも後世になって「甲斐の葡萄」が商品作物になってからさ差し替えられたのか解りませんが、古代から葡萄は薬だったのでしょう。
フランスの修道院ではワインを醸造し収入を確保していたのでしょう。
今年も神の恵みで美味しいワインが出来ました。キリストの血を戴いて健康と豊饒を感謝しましょう!」修道女に誘われれば、従うほかありません。
ママが電話で渡しを誘ったのは、中世の修道女以来の伝統だったのかも知れません。
勝沼には大手中小色々な醸造工場が10以上もあって、合同でワイン祭りを実施しています。会場入り口でワイングラス(500円)を求めれば各醸造所の勝沼ヌーボーを試飲する事が出来ますし。様々なイベントやと特産物を食べる事が出来ます。今は砂肝がお勧めですが、何れ鹿肉『ステーキや燻製』が出てくる期待もあります。
綺麗なワインお嬢さんのご接待に私は弱いんです。勝沼葡萄祭は昨年次に書きました: http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46722923.html
イメージ 2
メイン会場(勝沼中央公園)でなくても各ワイナリーでは勝沼ヌーボのサービスがあります。
イメージ 3
ヌーボなお嬢さんのご接待で戴く勝沼ヌーボーは酔いが早いのが欠点です。
イメージ 4
葡萄ジュースはセルフで飲めます。
 
ビールや日本首は穀物から作ります。一度麦芽糖にしてから発酵させるのです。一方ワインは元来果糖ですし、葡萄の果皮に発酵菌が棲んでいるので、絞って樽に詰めれば自然に醗酵します。穀物酒に比べれば一ステップ少なくして酒になるのです。ワインが穀物酒に比べて作り易く合理的であるのは明白です。だからきっと体にも良いのでしょう。
私は昨年来葡萄酢を飲んで入ます。鮭より酢の方が体に良いのは私の体が知っています。勝沼のjy醸造所も酢をつくって欲しいものです。
イメージ 5
ボジョーレヌーボはネットで、ショップで、ガンガン売り出されていま酢(楽天より)
イメージ 6
葡萄棚の下から見上げるだけで豊かな気になれます。
甲州の水は世界的に美味しいものがあります。地球の裏から運んできたワインを有難がって飲むよりもお隣の甲州で醸造したワインを飲みたいものです。その方が地球にも優しいし、美味しい事でしょう。
少なくとも大善寺の薬師如来は喜んで下さることでしょう。早速にネットで注文を出すことにしましょう。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 
 

秋葉様を忘れないで下さい

$
0
0
今や「秋葉原駅」は常磐線の発着するターミナル駅の一つです。「あきはばら」だったか「あきばはら」であったか少し迷ってしまいます。。AKB48ですから「あきばはら」だと記憶すれば良いようです。でも名前の由来は、駅の浅草寄りに「秋葉神社/あきばじんじゃ」に依るのです。秋葉原の地名は秋葉神社の祀られた原っぱの意味です。
横浜市には「市文化財」の指定を受けた民家が沢山あります。ています。三溪園には合掌造り民家は国の重文で管理を横浜市の公園緑地課が担っています。(文化財保護課でないことがそもそも間違いです)
市内最大で最重要な民家が旧矢箆原家住宅『国の重要文化財』です。岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありましたが、御母衣ダム建設により三溪園に寄贈されることになり、1960年(昭和35年)に移築されました。
私にとっては身近な処に最大級の合掌造りがあるので、度々出かけます。
でも気に食わない事が一つあるのです。
イメージ 1
三溪園にある旧矢箆原家住宅『国の重要文化財』今日は、その竈の神様『秋葉明神・又は三宝荒神」の事です。
イメージ 2
円空の荒神像。円空は飛騨高山に数多くの荒神像を残しています。火伏の神としての秋葉様や荒神を求めに応じて彫ったのでした。 
イメージ 3
竈の上には荒神が祀られその柱には秋葉様『本社静岡』のお札が貼られていたものでした。
イメージ 4
秋葉大権現のお札「火の幸を恵み」、悪火を鎮め、火を司り給ふ神様として厚く信仰されました。火事の多かった江戸では愛宕神社や秋葉原の秋葉神社が有名でした。筆者の生家にも烏天狗のお札が貼られていました。
イメージ 5
筆者の自宅に近い富士見公園にある小岩井家住宅『市文化財』http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/26700442.htmlに紹介しました。
イメージ 6
小岩井家住宅の土間立派な竈が3基あってその上に神棚が祀られて鏡餅が置かれています。形は整っていますが肝心の荒神様が不在です。左の笹竹飾りは繭玉と呼ばれる齢神様の依代になるお餅で小正月にさ焼いて食べます『相模では左義長と呼びます。』筆者は此処までk沙汰血を大切にするなら荒神様や秋葉様を祀ったらよいと思うのですが、それは民族を重んじるもので信教の自由とは関係ありません。
イメージ 7
土間は清潔に掃除して作業をし易いように平坦になるように注意を払います。そこで塩を土間に撒きます。マルで土俵のようです。火が清浄であるように、箒も柴も薪も火種『主として赤松の葉』も細心の注意を払います。
イメージ 8
矢箆原家の家族用の居間『食事部屋』小さな囲炉裏が切ってあって濛々と煙が立って、家全体を燻しています。家族や奉公人ははこの部屋で囲炉裏を囲んで食事をしたのでしょう。
囲炉裏を見下ろす位置に神棚が祀られていますが神の名は不明です。仏間は別にあって、床の間に漆塗りの仏壇が組み込まれていました。
イメージ 9
実に美しい竈こんな竈で焚いた新米はさぞかし美味しい事でしょう。こんな清浄な空間で煮炊きした食事を戴けば健康で頑強な体になる事請け合いでしょう。
イメージ 10
囲炉裏の火、灰は藁を燃やした灰で灰汁抜きになりました。だからここで栗や栃や栢の実を焼きました。また、鰹節を灰の中に保存をしたのでした。
矢箆原家は白川村の庄屋さんでしたから広い土間があって、土間には昔ながらの竈が設えられています。
土間の隣は板間で囲炉裏が切られています。囲炉裏は台所にも設えてあり、冬に出かければ囲炉裏2箇所と竈1釜戸箇所で火が焚かれています。屋敷中濛々と煙が立って、燻されています。屋根裏も天井も長押も煤で真っ黒です。囲炉裏や竈を見下ろす位置に神棚が祀られていたのですが、今はL字の棚板だけが残されていて、神様もお札も何も残されていません。
 
本来祀られていたのは三宝荒神又は秋葉荒神の筈なのですが、今はその標は何もありません。
私はボランティアの説明員に尋ねます。
「これだけ大きなお屋敷ですから八百万の神様が祀られていたのでしょう。其処の神棚の神様は何様だったのでしょうか?」すると決まって次のように答えます。
「この文化財の管理は横浜市に委任されています、市は「信教の自由に」を奉じているので、特定の神様を祀らない事になっています。ですから神棚は残していますが今は何も祀っていません。」
私は言葉を継ぎます。「そんなことをお聞きしているのでなくてお聞きしているのでなくて矢箆原家神棚に何を祀られていたのかをお聞きしたいのです。ら飛騨ですから、三宝荒神でしょうかそれとも大黒様でしょうか?
私の生家では荒神様と大黒様が見下ろしていました。
イメージ 11
大黒様が台所や土間を守って下さいます。
 
その目線の下で朝晩食事を戴いていたのでしたから、ご飯を一粒も無駄に出来ません。父はお茶碗にお茶を注いで綺麗に食べ尽くしていました。家族全員がに正しい姿勢で食事を完食していました。食育は台所に始まっていたのでした。土間を掃除する箒も決まっていましたし、板の間もピカピカ光っていました。土間を掃く箒はて庭を掃く箒とは区別されていました。台所の道具には不浄があってはいけないからでした。。竈にくべる火にも不浄があっては困ります。火種にする柴も松葉も吹き竹も清潔に保たれていました。秋葉様を祀っているから火災は発生しないし、荒神様が居られえるので家族が健康で居られるし、大黒様が祀られているので家計が回っていたのでした。八百万の神様に感謝する事は家族が健康に円満に暮らせる秘訣だったのでした。
「国家神道」に懲りた我が国は宗教には距離を置いておくのが利口だと思っているのです。
神々は文化の粋です。民家という文化財も行き着くところ「八百万の神々」に行きあたります。大工も左官も神技ですから・・・味噌も酒も水も神様の差配にあります。大晦日に八百万の神々に鏡餅を供えます。我が生家では40近く配って廻りました。
三溪園では鏡餅は飾っています。屹度鏡餅はお飾りで松飾と同じ程度に扱っているのでしょう。
最近は水道・ガスも完備ですから簡単に食事の準備が出来ます。システムキッチンは作る迄にして、食べる喜びや食卓を囲む楽しさを大切にしたいものです。
イメージ 12
神様好みの清浄な空間で食事をする悦び こそ食育の基本です。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 
 

スポーツ新聞の広告の楽しみ

$
0
0
私は週2日(火・金)デーサービスに出かけます。ワゴン車が送り迎えしてくれるので、その積りで居れば良いのです。
ワイフはこの時ばかりは私の束縛を解かれますので。貴重な自由時間です。
庭に自生している「水引草」のようで,上から見れば赤花でも下から見れば白花です。
私が脳梗塞で倒れて以来、ワイフがお友達と過ごす機会が減っているようで少し気がかりです。
今日(火」は私にとっては白日でもお前にとっては赤日だね、何処に行くの?」
訊くと、
ワイフは「欧米で赤の逆は黒なのに日本では赤の逆は白なのは何故だと思う?」
私好みの謎かけをしてきました。
私は10時にデーサービスに到着します。早速に体温と血圧を測定します。そしてお風呂に入ります。
私は湯船に温まりながら痺れている左半身をマッサージします。半半身をへルパーさんも素手で擦ってくれます。
澱んでいた血流が通って行きます。この快感が溜まんないのです。
私は西鶴の「浮世風呂」を想い出します。
私の脳裏ではTシャツのヘルパーさんが赤い浴衣を着た湯女にチェンジします。
江戸時代の欲求の深さに驚きです。
[千と千尋の神隠し」にも沢山お湯女が登場していました、子供に「あのお姉さんたちは何してるの?」訊かれたらお父さんは何と答えたのか少し疑問です。
イメージ 1
浮世風呂の湯女図、コンパニオンが垢擂りのお手伝いをしてくれたのでしょう。浴衣はこの時の一重でした。
 
そんなことを考えながら「デーサービスは天国!天国!」思っていると,今朝の日刊スポーツの広告が想いだされました。
広告主は熱海の旅館でした。襦袢のコンパニオンが出ています。温泉に浸かって、海山のご馳走を食べてコンパニオンに遊んでもらって・・・・、お大尽のように遊んでさぞかしお金がかかりそうですが、3人でシェアーすればサラリーマンでも手が届いて、忘年会向きなのかも知れません。
イメージ 2
思わせぶりな熱海の温泉旅館の広告(ネットはhttp://www.kazusafront.com/contents/shukuhaku_detail/shizuoka/honoka/images/honoka_02.jpgです。
イメージ 3
ネットで確認すれば更に深みに嵌りそうです。昔も今も商魂と助平心は変わりません。
 
私がデーサービスで見ているスポーツ新聞は「日刊紙スポーツです。家では読売を見ていますから日刊スポーツは何処となく新鮮です。日刊スポーツは朝日新聞系列ですから左目で、大坂で見る様な気分になれます。
スポーツ新聞は娯楽新聞ですから日本版のタブロイドで、大衆視線で世の中が見えるようです。特に広告欄をは味深いものがあります。
最近は相当に景気が良くなったようで、タクシー運転手の募集が活発です。「本給+実績給」のほかに宿泊施設付きも出ています。パチンコ店やマージャン屋の募集も活発です、最も多いのは新聞の「配達員募集・集金人」の採用広告です。宿泊施設付きは既に常識のようです。既に朝日新聞は窮地にあるようで募集条件も一番に条件が良いようです。今年の春消費税アップに際して、普通紙(朝刊)は130円から140円に値上がりしました。その影響が一番朝日新聞にきつく当たっているのでしょう。一方スポーツ新聞は値上げしないで未だに130円で頑張っています。大衆紙・娯楽誌の自覚が値上げを押しとどめたのでしょう。テレビ欄を確認するだけなら宅配のスポーツ紙で充分です。「駅売りはテレビ欄は無く、アダルト紙面」になっています。
イメージ 4
タクシー運転手の募集新聞配達員の募集が目立つ広告欄
イメージ 5
親会社朝日新聞の窮地を訴えるかのような日刊スポーツの求人広告
 もう一つ最近の広告欄に目立つのが法律事務所の広告です。
サラチーマン金融に4年以上借入していた人には、「借金を棒引きしたうえで100万円程度払い過ぎた金利を取り返せます」概してそんな広告です。
臨時金利調整法(臨金法)が1947年には公布施行されて 法律で上限金利が決まっていました。ところが1980年台に入るとりサラリーマン金融が急増し借り過ぎによる生活破綻者が増大して社会問題になりました。銀行金利とサラ金の金利の二重金利問題が露呈し暫くはサラ金はグレーゾーン」の金利を適用し続けました。原因は銀行では大蔵省の管轄下なのに対して、サラ金は自治体の指導下にあったからでした。現在の上限金利は「認可貸金業者」認可業者に限って、貸付金額に応じて15〜20%に制限しています。ところが個人の総借入額を年収の3分の1以内に制限する「総量規制」の範囲内なら2010年まで有効だった29.2%の適用も認められました。個人ではわかり難い法律です。行政に個人の生活を守るよりサラ金業者の存続を優先する思惑があるので、解り難い状態になっているのです。そこで法律事務所が歌人とサラ金の間に介在する機会が生じているのです。
法律事務所は故人の救済とは名ばかりで、サラ金と一緒に飴に寄ってたかるような蟻のような存在です。あれだけ社会問題になりながら、サラ金地獄は解消していないのです。
イメージ 6
未だにサラ金地獄が存続していることを証明している法律事務所の広告
私は戦後民主主義になって主権者である個人の生活が次第に良くなる方に向かうと信じて来ましたが、社会はより巧妙に複雑になって個人は生活し難くなっているように思います。
イメージ 7
総てがこの読売新聞の提灯記事から始まった衆院解散年末選挙。
一昨日読売に「消費税アップは延期して衆院解散総選挙の記事」が踊りました。
そうしたら、今朝の新聞では12月2日耕治4日選挙が決まったように書かれています。水曜日の新聞は右に倣えで全紙が解散総選挙モードにになってしまいました。今のマスメディアは何処かおかしくなっているようで、まるで大政翼賛会時代のようです。NHKと読売新聞を牛耳って政治は世論を思うままに操作できるようになってしまいました。こんな苦し句不安な時代に総選挙とは腹立たしい、国民視線とマスコミとのギャップマスコミのが大きくなりすぎています。
インフレと消費税円安でで国民の生活は日に日に困窮の度合いが深まっています。一方大企業はインフレも円円安も歓迎し、内部留保だけが伸びています。読売新聞の提灯記事で国が動いているのなら、私は読売をとるのは止めてまた朝日に戻ろうか?とさえ思います。
若しも読売新聞のの報道の通りこの時期に総選挙になるのなら国民は何を根拠に何を争点に投票すれば良いのでしょうか?その点を解説してくれるのもマスコミの役割でしょう。「大義名分が無くて今なら政権が選挙に勝てる」思惑だけです。そんな選挙は子供にも疑問でしょう。
熱海の湯女広告も説明困難ですが選挙の方が説明できません。
イメージ 8
これは嬉しいベトナム古都ツアーの新聞広告早く元気になって出かけたいものです。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 

鎌倉の地層を見る愉しみ

$
0
0
鎌倉は海に向かって南面し、三方は屏風のような山に囲まれていて天然の要塞と呼ばれています。その屏風山の尾根部分を尾根部分を掘り下げて通行可能とすると同時に、敵の侵入に対する防御施設としたのが切通しです。
 「亀ヶ谷坂・朝夷奈切通・巨福呂坂・化粧坂・大仏切通・名越切通・極楽寺坂の7つを総称して鎌倉7口 (切通) といい、国の「歴史の道百選」に指定されています。どの「切通し」も恰好な歴史ハイキングコースであり、沢山のハイカーが通ります。
イメージ 1
釈迦堂切通し此処は鎌倉府内の通り道で厳密な意味での切通しではありませんが、厳粛な雰囲気が漂っています。道は落ち葉の布団のように柔らかいのです。
イメージ 2
切通しの断崖中腹に掘られた櫓、此処が支配層の墓場になっています。岩場には鑿の跡が鮮やかです。地層がハッキリ見えます。白い層は下の白い地層は砂礫(砂や貝殻の層)でその上の黒い層は溶岩系(富士山噴火による火山灰)であると思われます。
イメージ 3
曼荼羅堂の櫓群(櫓が曼荼羅のように集まっているのでこの名があるのでしょう。まるで中世のお墓の団地のようです。
イメージ 4
曼荼羅堂櫓の一つ五輪塔が並んでいますが、中央の梵字のあるのが主人で、その左右は郎党でしょうか?皆同じ大きさであることは意外と平等だったのかも知れません。
岩場を鑿で切り崩していますから、地層が露出しています。切通しの断崖の中腹には櫓を掘って五輪塔が置かれています。五輪塔は中世の武士や僧侶など支配層のお墓です。どの櫓も苔むしたり偲ぶ草(シダ類)が根を張っていたりします。切通しの外側は地獄とでも思ったのでしょうか、地蔵磨崖仏が浮き彫りされたりしています。
イメージ 5
釈迦堂切通しの地蔵磨崖仏
イメージ 6
朝比奈切通しに立つ地蔵尊
イメージ 7
落ち葉を踏みしげながら切通しを歩くのは楽しいものです。写真は朝比奈切通し岩場に清水が流れて行きます。
イメージ 8
運が良ければ赤ゲラに会う事も出来ます。
イメージ 9
此方は水浴びをしていた「鷽/うそ/悪夢を変えてくれる天神様の聖なる鳥)です。
歴史の道なのですが、歴史をコケや羊歯の自然が優しく包んでいる風情です。「切通しを歩く」古都こそ、鎌倉好きの醍醐味です。
イメージ 12
初夏切通しを飾る山百合
初夏には切通しの上に山百合が咲いてハイカーを見下ろしますし。秋には木通(あけび)烏瓜(カラスウリ)がアクセントになっています。勿論、鶯や時鳥、百舌鳥に小綬鶏等の野鳥も楽しませてくれます。これからは冬ですからバードウォッチャーには格好の季節です。夏には茂っていたクヌギの葉も落葉して、啄木鳥などの野鳥を見つけやすくしてくれています。
イメージ 10
鎌倉手広の鎖大師に近い切通し地層が見事です。
イメージ 11
鎖大師隧道と記されたトンネル切通しもトンネルも取り壊して宅地9区画に変わってしまいました。鎌倉市の古都保存意識の低さに唖然とします。
厳密には中世に出来た切通しではありませんが、「鎖大師の」近くにも切通しがあります。この道は近世に江の島詣でが増えたので手広から腰越に行く近道として造ったものでしょう。切通しとトンネル(隧道)で近道が出来ています。鎌倉山の西端にあるので、ハイカーの人気でした。
ところが2年前開発のお知らせw看板が立ち昨年工事が始まりました。東京の宅地開発会社が切通し隧道を含んだ山林を取り崩して9区画の宅地にするプランでした。間もなく工事が始まり。鎖大師の慶大にキャタピラーの爆音が轟きました。
もう、後戻りはできません。近世に出来た生活道路は消え去ってしまいます。
イメージ 13
鎖大師隧道も崩され宅地開発が進んでしまいました。鎌倉の古都保存意識は最悪で、既にユネスコに再チャレンジする気持ちは無いように見えます。
思います。鎌倉山の景観保存と併せて土砂崩れ防止のためにも私益を制限しなくてはなりません。
元々は礫層と火山灰層が重なって褶曲した美しい断崖で、動植物が生息していました。それが無機質なコンクリートの擁壁に変わってしまうのです。どちらが美しく強靭な国土であるかは訊くまでもありません。鎌倉市民の覚醒を期待するものです。
 
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

野良猫君の文明批判

$
0
0
最近目立って、犬が大量のに遺棄される事件が報道されています。山中に大量の犬が死んでいる有様がテレビ画面に映ると悲しくなります。誰が如何して?知りたいと思います。テレビでは「ブリーダーが飼育放棄している、理由はペット犬の価格が暴落したから・・・」説明しますが割り切れません。
イメージ 1
テレビで報道される大量のワンちゃんの飼育放棄
イメージ 2
全国各地で発覚する大量のペットワンちゃんの遺体(NHK)
概してブリーダーは犬が可愛くて、趣味が高じてビジネスにしたものでしょう。多くの人間が好きな職業につけるものではありません。そんな憧れの職業を選んだのに大好きだったもワンちゃんを金にならないからと、殺すことは憚れる筈です。自己嫌悪はないのでしょうか?
大きくなり過ぎてもう利益が見込めなくなったからゴミのように廃棄するのでは・・・・。
何時から私達日本人お精神は斯様に貧困になったのでしょうか?
 
私は原因は悪法の施行にあるように思います。動物の愛護及び管理に関する法律が改悪されました(最終改正 平成26年5月30日)要点は。「行政が犬猫等販売業者からの引取りを拒否できるとの条項が加えられたこと」でした。私達個人は飼い犬を行政に引き取ってもらう事が出来ますがブリーダーは引き取ってもらえないのです。板致し方ないので自己で処分して山林に遺体を放棄するのでしょう。勿論こうした行為は「動物愛護違法」始め幾つかの法律で罰せられる行為ですが「自治体が引き取ってくれなくなったから自分で殺処分するしかないでしょう」といった言い訳にも筋があります。人を悪に引き込むような法律や行政は何処か間違っています。
江戸時代ワンちゃんを苛めれば八丈島に流刑されたじだいもありました。。当時と比べれば今の私達の心の貧しさは同じ民族とも思えません。「生類憐みの法」は学校で悪法と習いましたが、平成の「動物愛護法」はもっと悪い法律のように思えてきます。そんな時代に生きたことは恥ずかしい事です。
ワンちゃんにとっては自分の主人がブリーダーであっても個人であっても、「等しく一生を平安に飼育して貰う権利がある」と思います。。ブリーダーだから、無暗に殺処分され、野山にに捨てられるのでは”妖怪になって人間に祟ってやりたいと”思う事でしょう。
西洋ではワンちゃんは実に幸福そうです。
ワンちゃんの殺処分(安楽死)には厳格で、複数の獣医師が『安楽死以外に動物の苦痛を取り除くことができない』と診断しなければ禁じられています。ワンちゃんはあんまり大事にされているので、公園には犬の糞が放置されていて旅行者は糞を踏んで嫌な気持ちになってしまいます。
西洋人は日本の野山でワンちゃんの大量死骸が発見されたニュースを観たら「日本は野蛮で・・・」卑下する事でしょう。
イメージ 3
公園は野良猫君の住処です。餌やりしてくれる人も居れば、仲間も多いので、楽しくてなりません。でも野良猫の糞尿で臭くて困ります。このベンチでランチするかと思うと、野良猫対策は必要です。
イメージ 4
老老介護で幸せそうな野良猫君(江の島で撮影)、私も老老介護の受益者です。
一方、猫ちゃんは江戸時代に飼い猫として「首輪を付ける事が禁じられました。この時から野良猫と飼い猫の区別が出来なくなりました。首輪の枷を外された猫は放し飼いになって猫族の野性を回復しました。野良猫の持つ、そのプライドが崇高に見えたので、
人間は「吾輩は猫である」をはじめ…猫の目視線でのに文明批判を活発にさせています。
イメージ 5
 野性を取り戻し始めた猫君
イメージ 6
柏尾川の野良猫君、野生の風格が漂っています。
イメージ 7
青大将を攻撃する野良猫君。
野良猫は柏尾川では食物連鎖の頂点に君臨しています。
 
私の生活圏には大仏次郎邸の猫があります。同氏は大変な猫好きで500匹もの野良猫が飼育されていたと言われます。鎌倉の閑静な住宅地で、隣近所の苦情をかっていたでしょう。五月蝿いし、悪戯はするし、糞尿は臭いし・・・・でも著名人でしたし、鎌倉の景色を保存した人であるので、苦情を言う人は無かったのでしょう。
イメージ 8
鎌倉雪ノ下大仏次郎邸の玄関では野良猫君の置物が迎えてくれます。
イメージ 9
横浜みなとの見える丘公園にある大仏次郎文学館のお土産コースター560円(2枚で)
イメージ 10
大仏次郎文学館は猫の意匠で満ちています。(場所は横浜港の見える丘公園)
イメージ 11
 泉ピン子を思わせる猫ちゃん。
 
私達は誰しも社会や権威や金銭に媚づに自由に人間の品位を保って生きたいと希求していますが中々そうはいかないものです。お金や風評には特に弱く出来ています。
しかし、野良猫君はいとも容易く自由を確保し、自らの尊厳をキープしています。其処が私達にとって魅力であり羨ましいものです。
既に猫君は自由を保証されて300年生きて来ています。ソロソロワンちゃんの権利も西洋並に認めないといけない時期に来ているような気がします。
飼い犬を野犬にしては危険ですし病気も心配ですが、今のようにワンちゃんの生存権を軽視していると世界中から蔑視されるしいずれきついしっぺ返しを受ける事でしょう。
せめて、現状のブリーダーに殺処分を誘導させるような法律は改めて欲しいものです。オリンピックまでには・・・。
野良猫は思っていることでしょう。
「自分は犬に生まれなくて良かった、断じて犬にはなりたくないもんだ来世も猫で居たいもんだ・・・・!」と・・・・犬も猫も等しく「生きていてよかった」思わせてあげたいものです。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 

菊の節句に思う事

$
0
0
「「菊の節句」と言えば9月9日で、敬老の日でした。元々は「重陽の節句」と呼ばれ陰陽道では、偶数を陰数、奇数を陽数として奇数の重なる日を祝い、陽数の最大数(老陽)である九を重ねたこの日をめでたい日としました。
古代中国では、家族皆でで野に出て、 まといって高い丘に登り、菊の酒または茱萸(呉茱萸)の酒を飲みまし女性は 邪気を払うため茱萸を入れた袋を身につけたといいます。
イメージ 2
菊の大鉢三本立て作り、丹精の成果です。筆者はこんな大菊を見るたびに祖母の想い出に浸たることが出来ます。。花が終われば花弁は酢の物にして葉っぱは天麩羅にしていただきました。季節の変わり目の邪気祓いに菊を愛でました。
イメージ 3
山茱萸の実この朱色が邪気を祓ってくれると信じられたのでしょう。平安の女性はこのみ実を衣の袖に忍ばせて野に出て邪気腹ををしました。写真の山茱萸は日銀の新館通用口のもの。日銀も一か八かの市場操作(大量の市場通貨の膨張で)で災いを招かないよう祈るばかりです。
 
「敬老の日」が9月の第二周に移されてしまいましたので、重陽の節句の意味合いも解らなくなってしまいました。
春秋に実施される園遊会も秋葉10月になってしまったので「菊の節句」の意味合いも薄れてしまいました。
「伝統よりも連休を増やしたい」、現代人の思惑が「菊の節句」の意味を忘れさせてしまいました。
我が生家には庭に小菊を育てていました。お墓詣りの方々が勝手に小菊を手折って、お墓に奉げる為でした。
小菊が生育するように、落ち葉を掃いては小菊の根元に埋めて遣りました。また祖母は三本立の大菊を20鉢も丹精していました。お檀家は祖母の作る大菊を愛でるのも楽しみにしていました。私がボール遊びをしていてボールが菊鉢に転げて菊の茎を折ってしまう事がありました。茎が折れると直ぐに葉が萎れ始めてしまいます。祖母の悲しむ顔を観るのは苦痛でした。でもそうして不遇に陥った菊の葉は夕食になると天麩羅になって食卓を飾りました。家族は菊の葉の天麩羅を賞味しながら、私の失態を理解しました。彼岸を飾っ菊の花は酢の物になって食卓を飾りました。「菊の花が邪気を祓う」子供の舌でも理解できました。
菊の酢の物を戴いたら一気に冬に突入します。季節の変わり目ですから邪気払いは必要でした。
今年の秋の園遊会がテレビに映っていました。この半年功績の目立った民間人を天皇陛下が招いて功績をおほめ戴く機会です。
私は昔から怪訝に思っていました春の園遊会では新宿御苑の八重桜が映るのに秋の園遊会には菊の花が映らないのです。今年の主役はイルカさんのお着物(色留袖の裾模様に狸が染め抜かれていました。帯は満月でした。イルカさんは自分が狸顔であると自負されているのでしょう。天皇皇后陛下が腰をかがめてイルカさんの裾を見ている光景が楽しいものでした。
だから政子さまのお姿が無い寂しさを忘れさせてくれました。
イメージ 1
イルカさんと談笑される両陛下。この後イルカさんの留袖の裾模様(狸の絵)にお話が転じて、両陛下が腰を折られてイルカさんの裾や帯を愛でられました。秋の陽射しにも似てお優しい眼差しを感じ、「菊の節句」らしいなあ、と思いました。(出典時事通信)
ないのできくをこれは、汝南の桓景という者が、方術の達人費長房のもとに遊学して数年に及びましたが、あるとき、桓景は長房に、「 きたる九月九日にお前の郷里に大災厄がある。急いで家人に赤い袋を縫わせ、茱萸を入れ、臂にかけて山に登り、菊花の酒を飲めば、災いは消えるであろう」という忠告を受け、 これに従ったので桓景の一家は災難をやりすごすことができたのでした。この故実により悪気を払い、初寒を防ぐという茱萸を飾り、高いところに登り、長生の効能がある菊花酒を飲み、長寿を願い、災難を払うという風習を生みました。
 
私が脳梗塞で入院中です。ワイフは毎日見舞ってくれました。そんなある日小菊を持ってきて。透明の花瓶に入れて帰りました。1週間ほど経って、小菊は白い根を生やし始めました。
私はワイフに頼んでこの小菊を庭に植えて貰いました。小菊は期待通りに自生し始め、この秋は黄色い小花を咲かせています。次々に小さな蕾を生やせていますから、正月にも咲いていそうな勢いです。
私は小菊を見る度ごとに、脳梗塞といった災いを想い出します。可愛い小菊は私への戒めです。祖母の作った大輪の菊に比べれば遥かに慎ましやかですが、食べて美味しかどうかはわかりませんが、私にとっては「重陽の節句」の邪気祓いを思い起こさせる花です。
再び家族や友人を心配させないように、「菊の節句」のモニュメントであります。
 
イメージ 4
筆者入院中の見舞い菊が発根して自生しました。この秋花を咲かせてくれました「菊の節句」に相応しい花です。背後は鶉の小屋です。
 
イメージ 5
7-5-3の祝神事も子供の厄除け神事ですから「菊は欠かせません」筆者の住む倉田村は昔かtら菊花造りが盛んで、八幡宮は菊の奈々の香りが漂います。
 
 

東戸塚小学校のお祭り

$
0
0
昔は地域には怖い叔父さん、口うるさい伯母さんがいて、子供を見てくれたものでした。昨今は、そんな人はいません。昔は「子供は地域の宝・子どもは神様からも預かりもの」と思っていましたから、子供に遊びや道具の使い方を教えてあげたものでした。子供の教育は地域の役割の一つと確信していたもんでした。今は、よその家の子供を叱ればその親から猛攻撃を受けます。ですから、悪い子がいても見て視ぬふりをします。地域の教育力が低下したし、教育に参加する機会も減ってしまいました。実に残念な事です。
そうした風潮の反省からでしょう。地域が教育に参加する機会が増えています。
11月15日(土」に私に住む東戸塚小学校で学校祭が開催されました。学校祭は地域や父兄会がお祭りを用意して子供達がお客様にびなってもらいます。
子供達は自分等が地域の一員であることを改めて自覚して貰えるし、地域には地域を愛している爺さん婆さんが沢山いる事を知ってもらいます。「子供が挨拶しない」文句を言う人が居ますが祭りに参加する人の中にはそんな文句を言う人はいません。
私が会長を務める上倉田町内会は今年も模擬店(焼き芋+ラムネ各50円)と展示「生き物一杯柏尾川」を致しました。
イメージ 1
今日は東戸塚小学校のお祭りです
イメージ 3
上倉田町内会の模擬店は焼き芋とラムネ(各50円です)毎年やっていますから子供達は良く知っています。
最近柏尾川には魚も増え、野鳥も良く見かけられるようになってきました。生物が多くなれば大鷹や隼などの猛禽類も見られるようになりました。これも川の水が綺麗になってヒ素(j工場排水)や燐(家庭排水)などの毒物が流れなくなったためであります。また小学生や地域が清掃活動をしているので、川は公園のように綺麗に維持されています。
イメージ 2
柏尾川の生物多様性復活を象徴する大鷹、フェンスの処まで鷺を追い詰めて捕獲捕食しています。
 
イメージ 4
これが柏尾川の生物多様性を説明するパネル展示
 
昨年、「真っ赤チン釣り」を始めて大好評でした。川にトラップをかけておいてアメリカザリガニを捕獲しておき、これを子供達に釣ってもらいのでした。でも悩みがありました。子供達は既に要領は解っているのですが。肝心のザリガニがもう食欲不振なのです。そろそろ泥の中に蹲ってしまう季節なのでしょう。それに今年は筆者が歩行困難でザリガニの捕獲が想う様になりません。そこで今年は休ませてもらう事に致しました。
イメージ 5
昨年のアメリカザリガニ釣りの光景今年は筆者の病気で休ませて戴きました。
 
町内会活動は会長になって既に10年で、今年は表彰されることになっていますが、嫌な事も多くあります。ゴミ捨て場一つ移動するにしてもご近所の利害が相反してしまいます。
そんな中で学校行事だけは悦びが一杯です。正月の「昔遊びの指導」に始まり卒業式入学式、運動会評議員会、授業参観、学習発表会には招待されます。一方村祭りでは先生方を招待します。
子供の京域に携わっている悦びは違います。今更ながら職業選択を誤ったかな?思う次第です。
イメージ 6
寒くなったので動きの鈍くなってしまったアメリカザリガニ
イメージ 7
桜紅葉の柏尾川、悠然と歩いてくるのは野良猫君野良猫も食物連鎖の頂点に君臨しています。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。


福を招く赤い実

$
0
0
我が家のの庭に花が減って寂しくなってきました。代わりに、木の実の赤い色が日に日に色濃くなってきます。
玄関わきの南天の実も今年は格好がついて今氏。例年は実が少なく貧弱なのですが槇の枝を伐採して陽当たりを良くしたのが良かったようです。此処数年厄続きでしたので、何故か南天の実が着いただけでも嬉しく感じます。
イメージ 4
見事な南天の実写真は七尾の高山右近の墓です。
イメージ 1
我家の裏山の烏瓜
 
イメージ 2
此方は実葛の実我が親友は果実酒に漬けこんでもてなしてくれます。この秋も漬けこんだか?尋ねてみましょう。(写真架鎌倉の海蔵寺
イメージ 3
山茱萸の実も朱色で厄除けにされてきました。写真は日銀新館の通用口
イメージ 6
我が庭の藪椿に絡んだヒヨドリ上戸の実も朱色です。もうじき種蒔きしたヒヨドリが収穫に来ることでしょう。
 
ベッドに横になるとガラス戸越しに山無花果の実も見えます。10月には真っ青でしたがもう濃い朱色にに染まっています。藪の烏瓜も真っ赤です。
赤い実は見ただけでも元気にさせてくれます。
昔の人も赤い実を見ると元気になって、これから来る冬を越そうと励まされる思いがしたのでしょう。
クリスマスにはにも赤い実が飾られています。
白い雪は総てを浄化する効果がありますが、火を思わせる赤はラッキーカラーであり厄除けの色です。
火のような運気を運んでくれる赤い色です。
お稲荷さんの鳥居も動様の眼の色は赤です。
そんな訳で街や野山を歩いて赤い実を探すのは楽しいものです。
路地裏で万年青の根元に簪のような朱色の実を見つけると小唄お師匠さんがいそいそと出て来そうな気がしてきます。
今年は我が家の万年青も勢いがあります。
赤飯に欠かせないのは小豆です。小豆の朱色も福を取り込んでくれるものでしょう。
そお想ったら無性にお伊勢さんの赤福が食べたくなりました。先日の横浜高島屋の折り込みチラシにも出ていました。今頃、もち米の新米を使った赤福が食べたくなる、日本ン人の感性でしょうか?
 
イメージ 5
 玄関わきにあった姫リンゴ木枯しに葉っぱが吹き飛ばされると慌てた様に芽吹いて花が咲いたものでした。
イメージ 7
庭先の万年青の実も朱色です。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

布施柿の見える景色

$
0
0
秋も深くなって柿の実の緋色も濃くなってきました。鎌倉瑞泉寺の墓地にも浄智寺の境内にも柿の木があって、この秋も実が残っていることでしょう。我が生家も墓地の入り口に大きな柿の木があって、実を全部取る事はしませんでした。2.3個は梢の先にワザと残しておくのです。祖母に何故全部取らないのか訊いたところ次のように話してくれました。
イメージ 3
「感謝の気持ちがあるから柿の実を残しておくんだよ、ガツガツ全部食べ尽くせば餓鬼になってしまうんだよ
、「冬鳥は僅かに残った柿の実で命を繋ぐので「布施柿」ともいう。感謝の気持ちは来年も稔って欲しいと願う心になる・・・、こうした柿の実を木守柿とも言うのだよ」
イメージ 4
教科書に「柿右衛門の故事」がありました。布施柿の朱色に感動した柿右衛門は工夫を重ねて赤絵の朱色を出すことに成功したのでした。
日本の里山風景に似合うのは柿の実でしょう。気色も美しいし、人と鳥の営みが持ちつ持たれつ,i労わり合う関係がまたいいものです、京都郊外の嵯峨野に落柿舎があります。芭蕉門下の向井去来向が寓居したのでした。芭蕉が訪れ句会を催したのでしたが、折からの台風で柿の実が総て落ちてしまったので「落柿舎」の名が付いたと記されています。(芭蕉嵯峨日記」)
イメージ 1 
京都嵯峨野の落柿舎には柿の木が何本も囲んでいます。
 
 
 
 
熊本で托鉢の旅に出た山頭火は九州を周回してそろそろ落ち着き晴耕雨読の日を送りたいと欲します。山頭火の友人も何処かの庵主になる事を期待しカンパをしました。昭和8年山頭火は生家に近い小郡にあばら家と畑を借りる事になりました。ようやく漂白遍歴の旅を打ち上げ近郊を托鉢し、畑を耕し句作の日々を送るようになりました。小郡の庵には柿の木やお茶の木があったそうです。山頭火は其中庵と名ずけたのでした
九州中国に散っていた俳句の友人が山頭火を助けます。
イメージ 5
そんな中昭和8年11月に師の萩原井泉水が山頭火を訪ねます。すると近在の俳友が其中庵に集まり句会が催されます。山頭火は心底嬉しかったのでしょう。台所に立って柚子味噌を用意します。ところがその柚子が真っ黒に焦げてしまったのでしょう。井泉水は次の句を案内します
裏から椎茸取ってきて日の射している畳
何もかも嬉しくて柚子窯の焦げすぎてゐる。
イメージ 6
屹度山頭火が裏山に登って茸をとって来て柚子味噌をつけて酒の肴にしようとしたのでしょう。
棒葉味噌のようにして酒を案内したかったのでしょう。師の井泉水は何かと心配事の尽きない山頭火が落ち着いたことが嬉しかったのでしょう。「何もかも嬉しくて」の言葉には新生活俳句運動をお起こし「層雲」を主宰していた井泉水の善意があふれています。
当時尾崎放哉を失っていた層雲は山頭火に期待するところが大であったのでした。
山頭火は庭先に出て熟柿を竹竿で捥いできます。師は愛弟子の姿を目で追って、落ちてきた柿の葉を拾って机の上に載せます。
柿一つ空へ預けてあったと取ってくれる。
そして師は机に向かって「其中一人」と横額用に大書します。。
山頭火は余程うれしかったのでしょう。其「中一人」、「其中一人」と叫びながら盃を重ねたのでした。
この一日は山頭火にとって人生最高の好日だった様に推測します。
小郡の「其中庵」出の日々は山頭火にとって好日だったのでしょう。句作もいよいよ本物になって行きます。swも山頭火は一所に定住する事はしませんでした。ひょうひょうとして旅をする俳人として僧侶としての生活に出ます。山頭火の俳友は全国に散っていましたから、天竜川を遡って伊那谷から木曾への旅に出ます。
伊那谷は柿(市田柿と呼ばれる)。
柿の実を眺めながら山頭火の托鉢行が続きます。
イメージ 2
伊那谷の市田柿を干す風景
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

半世紀遅れのレポート(鏝絵)

$
0
0
11月19日、私は日本文化化研究会の仲間19人と伊豆の松崎に旅行しました。
昭和40年代後半私は日本文化研究会に居ました。
当時の指導教授が故浅子勝二郎先生でした。慶応大学の文学のの看板教授は池田弥三郎先生、江戸の粋粋を体現されたような素敵な人で、西鶴研究の第一人者でした。経済学部には浅子教授が居られ、同じく江戸文化には造詣が深く。後藤家を核にした鎌倉彫の研究や「入江長八に見る江戸左官の伝統」等の講義をされました。
文字と造形ジャンルは違っても江戸庶民が育て支持した文化は共通していました。
浅子教授は実査をする事を推奨されて、度々私達を引率してくださいました。厚い眼鏡の奥から文化財を見詰め、同時に学生を指導される姿は優しさに満ちておいででした。
今回の私達の旅行には浅子教授への報恩と青春に戻りたい欲求があったのでした。
旅行の資料作成中に偶々浅子教授の論文を見つけました。その掉尾で教授は長八は同時代の高村光雲のようにアーティストにならず職人で居続けたのは何故だろう?自問されておいででした、そこでそのレポートを書く積りで長八を見て回りました。最初の目的地は「長八美術館」この美術館自体にその回答があったのです。
イメージ 1
長八美術館のエントランス。全国の左官屋さんが力を合わせて伝統的な左官技術を世間に示し後世に伝えようとしたものです。
長八美術館が竣工したのは昭和59年でしたから、浅子教授らの江戸文化の研究の盛り上がりが長八を見直し美術館建設の気運運を醸成したのでしょう。建設主体は自治体でも国でも無く、左官業業協同組合でした。当時我が国は新建材が流行り伝統的な左官は疎まれ石膏ボードにクロスを張るのが主流になっていました。その方が手間がかからず安価に建築できたのでした。竹で壁を編んで土を塗り、漆喰で何度も上塗りするよりも石膏ボードを釘で貼ってその上にクロスを貼れば時間の費用も圧縮できたのでしたアスベスト問題を惹き起こし、クロス貼りはシックハウス症候群を惹き起こしました。
イメージ 2
風雨が強く火事が多かったので左官業が盛んでした。長八美樹幹の説明んが海鼠壁の構造と工程を説明してくださいました。
イメージ 3
長八の人物を説明する説明員
危機を感じた左官屋さんが力を合わせて伝統技法の素晴らしさを世間に問うたのが「長八美術館」だったのでした。
浅子教授もこの美術館があったら講義が容易かったことでしょう。
そして長八がアーティストにならずに職人で居た事の意義も説明し易かったことでしょう。
イメージ 4
竹と藁で編んで壁の芯を造りフノリ)を炊いてのりを作り、麻すさ(麻の繊維)と塩焼き消石灰を混合して壁とする作業を説明
イメージ 5
顔料は日本が素材と同じ宝石を砕いた岩絵の具です
イメージ 7
長八作の祖天宇受売命(あめのうずめのみこと)見事な豊乳ですイメージ 8
長八作の白虎 眼はガラスが入っています。
されているのは長八の作品40点ほどとそのお弟子さんの作品です、美術館の庭にはサクラダファミリア教会の超克技師長であるスペインのサグラダ・ファミリアで主任彫刻家を務めている「外尾悦郎氏」の作品が2点あります。「ナシミエントの塔」です。塔は、タブノキの芽だそうで、鱗に包まれたようなつぼみの中から芽が出て、さらに次の芽が生まれてくる生命力を現しています。左官業の技が限りなく発展して行く姿を表現したものです。
タブの木はお線香の材料になる常緑樹で、南方熊楠の馴染みの大木です。
勿論伊豆には自生しています。
イメージ 6
「外尾悦郎氏」「ナシミエントの塔」
 
 
ソロソロ浅子教授へのレポートです。
「自分がいいと思う物を作るのがアーティストです。アーティストは自己実現のために作品を作ります。一方他人や世間を唸らせる作品を作ろうとするものが職人です。幸田露伴の大工のように台風が来てもびくともしない塔を建てようとするものが職人です。
だからアーティストは売れる、売れない、評価される、評価されないは二の次になる。そりゃできれば評価された方が嬉しいだろうけど、他人より自分の作りたいを優先して作るのがアーティスト。だから売れなくても芸術家だし、死んでから評価の付く人もいます。一方職人は他人に評価されなかったら職人じゃない。伝統や社会のニーズに見合った物を作れるのが職人。だから、弟子も作って後世にも伝わる作品を残したいと思います。先人から伝わった技術や地域に感謝して作るのが職人です。明治になってアーティストが跋扈する時代になりました。でも長八は江戸職人で居続けたいと思いました、それは自分の名よりも自分の作品や腕に価値を置いたからでしょう。その技術は先人から受け継いだものであり後世に伝えなくてはならないものだから、伝わった事に意義を見出したのでしょう。だから全国各地に鏝絵が残されました。長八も満足していることでしょう。

ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

宿直室の壁絵(重文岩科学校)

$
0
0
長八美術館を出て私達は岩科学校に向かいました。明治維新になると、人々は西洋文明に憧れます。西洋人は大挙してアジアに移住するようになっていました。彼等はアジアモンスーンの湿潤な気候に適した建物を開発する事を迫られました。大きな庇で強い日光から皮膚を守り、板張りで風雨を避ける建物でした。そうして出来たのがコロニアル建築で、現在のツーバイフォー建築」の始まりでした。明治政府はイギリス人「ジョサイヤ・コンドル」を招致して、コロニアル建築の建築を指導して貰います。(それが現代の東大建築学部の母体になり、近代建築の創始になります。各地の教会や学校は基本的にはコロニアル建築をベースにして、伝統的な寄棟造り(よせむねづくり)と外装は漆喰で塗り固める事によって完成させました。
全国各地の教会や学校はそうした疑似洋風建築で実現しました。習熟した大工さんはコロニアル建築はさして難しい事も無かったことでしょう。既に開発されていた水力により楽に効率的に製材する事は可能になっていたのでした。でも、耐火建築にする為に板張りの壁面を漆喰で塗り固める必要が生じていました。日本でコロニアル建築を盛行させるためには左官技術を必要にしていたのでした。そんな次第で、全国各地で左官屋さんの仕事が増えました。長八の故郷松崎も教育熱心で、「洋風学校を新築しよう!」熱意が盛り上がります。校舎新築のための寄附金2630円が集められ、明治12年に着工し明治13年に竣工します。
大工棟梁菊地丑太郎、高木久五郎らによってによって設計施工されたのでした。正面玄関に掲げられてある「岩科学校」の扁額は、時の太政大臣三条実美の書であり、その上の龍は入江長八が誇らしげに彫り上げたものでした。
イメージ 1
これが地元の寄付金で建立された岩科学校(重要文化財)正面玄関の上にはバルコニーがあって壁は漆喰で固められています。風雨に強く耐火建築にする為です。伊豆の職人総出で完成させた時代の息吹熱意が感じられます。
イメージ 2
二階のバルコニーや柱はバロックの雰囲気があります。扁額は三j張実美の筆で軒飾りの龍は入江長八の細工です。
イメージ 3
明治13年竣工時の記念写真。伊豆の人々の郷土愛が感じられます。今は使われていませんが、彼らは150年後には廃校になってしまうと葉夢にも思わなかったことでしょう。
建物こそ疑似洋風建築ですが教育内容は江戸時代からの伝統に殉じた和魂洋才教育だったようです。校長室の掛け軸や仏壇神棚には古色蒼然としています。
イメージ 4
校長室掛け軸と神棚が印象的です。建物も教育も和魂洋才だったのでしょう。
 
岩科学校二階に畳の教室があります。案内には作法や裁縫の授業にも利用されていた、としています。
和室に入った途端、漱石の坊ちゃんの爽快な場面を髣髴させる空間です。坊ちゃんは初めての宿直の夜に寄宿生達から蚊帳の中にイナゴをを入れられるなど、手ひどい嫌がらせを受けてしまいます。坊ちゃんは、寄宿生らの処分を訴えるが、教頭の赤シャツに反対されてしまいますこの時唯一筋を通すことを主張した山嵐には心を許すようになります。二人はやがて赤シャツに鉄拳をくださいます。鉄斎を下したことを咎められてした坊っちゃんは即刻辞職し、東京に帰郷します。そんな空間ですから時に裁縫室何時もは宿直室だったのでしょう。納戸を開ければ湿った布団と、蚊帳が収まって居そうですし、床の間の違い棚を開けば春本が終われて居そうです。
そんな和室の長押壁に長八は群舞する鶴を描いています。一見すると加山又造さんの琳派絵を想い出します。長八さんの技量は昭和の傑出した芸術家を凌ぐものと思います。
イメージ 5
岩科学校二階和室の壁絵は入江長八さんの作です。
イメージ 6
岩科学校二階床の間の違い棚の扉絵王昭君も入江長八の作です。布団に横になって王昭君を眺めて寝に着けば良い夢が見られそうです。
イメージ 7
二階の和室、宿直室にしては手が入って居ます
イメージ 8

          加山又造さんの鶴の群舞図。

 

ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 
 
 
 
 

伊豆石の変遷。

$
0
0
秋の陽はつるべ落とし、岩科学校を巡るともう日が傾いてきました
当初の予定では中瀬邸や東福寺500羅漢を拝観する予定でしたが、断念して土肥温泉に向かいました。夕焼けを車窓に見ながら北上します。私はこの海岸には思い出がありました。
私の叔父が日鉄鉱業に勤務して居たのでした。ブラジルから帰国すると此処の宇久須安良里の採石場に勤務し始めていました。昭和30年代日鉄鉱業は本社を丸ビル(丸の内)に置いていましたから、私にとっては叔父は成功者で輝いて見えました。そんな憧れの叔父がブラジルで鉄鉱山開発をして、次に用意された職場が伊豆の達磨山の外れの採石場だったのでした。当時の日鉄鉱業は山を崩して砕石して列島改造の大規模プロジェクトを支える1社だったのでした。
イメージ 1
狩野川台風修善寺付近の被害(無謀な採石も被害を大きくした一因だったのでしょう)
イメージ 2
修善寺付近では狩野川は桂川と名尚変えます、独鈷の湯辺りの川原石は黒くて堅い安山岩と白い石灰岩が混在して見えます。足湯を楽しみながら悲哀を潜めた桂川を眺めるの善いものです。独鈷の湯の少し上流で島木赤彦は蛙お見つけて名作「赤ガエルを執筆しました。桂川はその名の通りに桂の林を源流にしています。
1958年9月 21日昭和33年狩野川台風が伊豆を襲いました死者853名を出す未曾有の雨台風でした。私は父の運転するダットサンの運転席に同乗して日鉄鉱業の採石場を見舞いに行きました。未舗装の道路には落石が転がっていました。落石は角が鋭く、パンクの危険に満ちていました、私達は何度も頭を天井にぶっつけて安良里採石場に着きました。伊豆の石は堅い事美しい事をこの時実感したのでした。
 
長八の漆喰壁が成功した要因は伊豆が台風の通り道で屋根や壁を堅固に作る必要があった事が第一にあげられますが、その漆喰材料が豊富であった事も支えていたのでした。
イメージ 3
漆喰壁を用意する手順左から①海藻(フ海苔)を煮て糊成分を抽出する。②粘土に麻を加える、粘土に消石灰を加えて加水して良く練る④こうして用意された漆喰素材を鏝で薄く塗る何度も塗り重ねるほどに強度が増します。漆喰とは漆のように粘度強度があるので名が付いたのでしょう。
 
漆喰の素材は先ずは消石灰です。消石灰は石灰岩炭酸カルシウムを主成分 とする岩石(石灰岩)です。石灰質の殻をもつ貝や珊瑚の遺骸が堆積して地圧によって堅い岩となったものです。そんな石灰岩が南伊豆の岩場から採取されます。石灰岩を焼いて粉砕してすれば消石灰にします。消石灰に工事現場で海藻(フ海苔)を焚いて糊成分を抽出して麻すさ(麻の繊維)と粘土を加えて捏ねれば漆喰素材の完成です。建築現場で現地これを鏝で荒土壁の上に10ミリ前後の厚さになるように塗り重ねます。時間をかけて乾燥させれば硬化しますので完成です。
イメージ 4
海鼠壁がるらなる松崎の町(中瀬家宅)
こうしてできた漆喰壁は水分をはじくと同時に不燃性ですし、空気中の炭酸ガスや、ホルムアルデヒトなどの有害物質を吸収します。体にも優しい建材なのです。そんないいものが昭和30年代に忘れられ石膏ボードに置き換え在られてしまいました。石膏ボード自体は悪くは無いのですが、ボードの上にクロスを貼る際に使われた化学接着剤が有害でシックハウス症候群を発症させ、石膏ボードの表面にペンキを塗ってアスベスト被害を生みました。昭和30年代失われた物は数多いのでした。
半世紀以上前見た採石場は既に閉山して大規模なソーラ発電所に変身しようとしているようです。
イメージ 5
昭和30年代活躍した採石場は次々に地域セクター(公社)による発電所に変身しています。
イメージ 6
安良里漁港の夕日。西伊豆は夕陽が良いんです。
私は美しい夕陽を西に、暗闇に沈む採石場を東に見ながら土肥温泉に向かいました。
人も運によって変遷するように岩も色々です。
 
伊豆の石に脚光が当たったのは中世でした。鎌倉幕府の「都造り」硬い石が必要でした。相模湾お向かい湯河原から堅い安山岩(後世小松石と呼ばれました)を切り出しました。鎌倉の寺寺、遊行寺の礎石も墓石も小松石で賄いました。小松石とは箱根外輪山噴火の時に海に流れ出した溶岩が急激に冷えてできた安山岩で堅い事、表面が黒くて美しい事、採石時に既に大小色々あって割石の手間がかからないのでした。城郭建築には最適な石だったのでした。伊豆には小松石のほかに凝灰岩(火山灰が堆積した物)石灰岩(貝殻や珊瑚が堆積してできたもの)と種類も豊富だったのでした。
今でも鎌倉・湘南の石屋さんは伊豆出身が大半です
次いで江戸幕府の開府に当って、全国の大名に江戸城の江戸の町の普請工事が命じられると大名は競って伊豆から石を切り出しました。その次に伊豆の石が脚光を浴びたのが昭和30年代。日本列島の大改造でした。
私達は翌日(11月20日)修善寺奥の院、願成就院を巡りました。其処には多様な石仏が祀られていました。
石という霊性の豊かな素材を使って仏を刻み拝む事の尊さを想いました。石仏を彫る様な思いを込めて伊豆の石を利用すれば。様々な誤りを避ける事がs出来たのに思う次第です。
イメージ 7
江戸城の石垣も重要部分((隅石角石)は伊豆石を積んで出来ています。黒田長政は江戸城普請新工事の遅れを小松石の確保で凌いだそうです。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live




Latest Images