Quantcast
Channel: 仮想旅へ
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live

修善寺奥の院

$
0
0
修善寺は秋の特別拝観が始まって人混みのようです。庭園の公開、お檀家の方が丹精され菊花が展示されていることでしょうが、今回は修善寺は素通りさせていただき、奥の院に詣でる事に致しました。
修善寺は大同2年(807年)、弘法大師に依って開創されました。、その後約470年間は真言宗として栄えました。
鎌倉時代になり、中国から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)禅師が入山して臨済宗に改宗。やがて
室町時代北条早雲が一帯を治めるようになると曹洞宗に改宗します。
明治になってからは本堂を再建し僧草を整備して曹洞宗の専門僧堂(お坊さんの修行道場)として多くの禅僧を輩出してきました。
曹洞宗のお坊さんになるには永平寺、総持寺を筆頭に各地の専門僧堂で相当期間の修行を積まなくてはなりません、私が大学を卒業する頃は「高卒で3年、大札なら半年は僧堂で修行しなければ・・・・」言われていました。当時僧堂なら「修善寺が良いか、それとも祖父が副住職であった最乗寺が良いか」考えたものでした。以来、修善寺を詣でると「若しもあの時に此処の僧堂に入っていたなら・・・・・?」想像するのでした。
最近は中高年や外人のの修行僧も増えているようで、体調を崩せば病院にも行けるし携帯を持参する事も許されているるそうです。でも地方の人口減によって廃寺になる寺が多く、修善寺の奥ノ院も無住寺だそうです。
修善寺が有名なのは何といっても岡本綺堂の「修善寺物語」です。主禅師に幽閉された「源頼家」は面造りの名手「夜叉王に自分の表を彫らせます。しかしどうしても満足できる面が出来ません。面に死相が出てしまうのでした。夜叉王はむすめの「桂」を頼家の側女として差し出します。ところが北条の刺客が頼家を襲います。桂は面をかぶって頼家の身代わりとなって討たれてしまいます。
イメージ 1
修善寺物語のヒントになった面(修善寺宝物館に展示されています)、鎌倉八幡宮にも残る「面懸行列」の異形面です(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47576859.html)死相が出ているというよりは縦に割れているので袈裟がけに切り殺された事を思わせたのでしょう。面の素材は「桂材」でしょう。
イメージ 2
修善寺前の桂川川の中州に温泉が湧いています(独鈷の湯)は今は足湯です。橋の欄干に笊菊が飾られていました。
 修善寺山門を右手に左手には桂川の中州に涌いた「独鈷の湯」を観ながら修善寺の町屋の中を上流に遡ります。道には道標が建っていて「奥の院道」と表示されています。修善寺本堂から5キロほど山麓に入った谷戸に奥ノ院「正覚寺」があります。私達が境内に入ると老婆が一人で落ち葉を掃いておいででした。
私達を見るなり「掛川からおいでですか?」尋ねられました。主禅師観光協会では、修善寺本堂を拝観して奥の院まで散策して奥の院でお弁当を食べるそんな企画を売り出しているのです。今日はウィークデーでも相当人数の予約が入っているようです。奥の院道は蛇のように曲がりくねった道をダラダラ登って行きます。農家の庭先には柿の実がたわわに実っています。野鳥や山猿の餌になるものでしょう。新米の採りいれも終わって長閑な里山風景です。道標の脇には観音石仏やイボ取り地蔵尊が祀られています。どれも弘法大師が謂れの遺跡と案内されています。
イメージ 3
修善寺奥の院道を奥ノ院「正覚寺」に向かう。右手に桂川が流れています。
イメージ 4
これがイボ石で、中央の窪みに溜まった水でイボをこすると落ちるのだそうです。この左手にイボ取り地蔵が祀られています。
イメージ 5
正覚寺降魔段への石段奥の木は桂手前は銀杏です。石段の上に滝壺があってその左右は巌窟です。
イメージ 6
降魔段に祀られた石仏群。弘法大師像を中核に不動明王像、33観音像など多様です安山岩の柱状列石の洞が降魔段になっています。
イメージ 7
中央の仏座(蓮台)を持った菩薩(勢至?)が可愛い観音石仏群
イメージ 8
滝下の位置に祀られた弘法大師像。この位置で弘法大師が瞑想されたイメージなのでしょう、この右側に降魔段が繋がっています。
弘法大師が悟り得ようと瞑想しているとその邪魔をしようとにマーラ(悪魔)の軍勢が攻撃してきた。それを退けて悪魔に勝利し、成道つまり開悟(悟りを開く)したという場面を表現していると思われます。弘法大師像はお若く柔和なお顔をしておいででした。
 降魔段には桂の木がありましたが、
案内に依れば奥の院には天然記念物の桂の大木があるそうです。私はその桂の大木の根元には弘法大師像が埋もれそうに祀られている写真を見た記憶があります。
友人は私が長く急な石段を上って石仏を拝観するのをサポートしてくれました。屹度桂の大木もその根元の石仏も拝観したいだろう、偵察に行ってくれましたが徒歩50分という事で断念しました。何時か足を治癒して拝観できることを目標にまたリハビリに努める事に致しましょう。
イメージ 10
狩野川台風で多くの堂塔を失った修善寺奥の院「正覚寺」以来無住の寺になっています
 
修善寺奥の院正覚寺は狩野川台風で堂塔の多くを失ったそうです。今では無住のお寺で村人がかんりせいそうしているのです。そして修善寺観光協会が修善寺の参詣客を奥の院まで景色を見ながら歩かせ、奥の院でお弁当を案内しています。(弁当込1000円)修善寺の里山風景を愛でながら歩くのは楽しい事です一昔前でしたら何処にでもあった里山風景でしたが、今では貴重な風景資産です。2004年「景観法」が施行されました。法律は主として都会の景観を守ろうとするものだったのでしょうが、現在のように地方が捨て置かれ荒れてくると地方の景観も貴重な観光資源であることに気づきます。修善寺の河原の露天風呂も観光資源で外国人に人気ですし、奥の院道の里山風景の保存にも心がけてほしいものです。
イメージ 9
奥ノ院桂の大木の洞に祀られて弘法大師像写真の出典はhttp://kodou.lolipop.jp/syuzenji-okunoin.htmのブログです。奥の院道の事は詳しく記されています。
 
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。


修善寺益山寺

$
0
0
修善寺奥の院「正覚寺」から次の目的地益山寺(ますやでら)に向かいます。境内に天然記念物の山楓の大木があり、その樹下に佇む石仏のの写真を見た記憶がありました。私の撮影目的としては格好です。ズット前から撮影したいと思っていたのでしたが、今回が初めてです。
カーナビに頼って進んだところ、修善寺ニュータウンの中で車は行き止まってしまいました。
私には修善寺ニュータウンには苦い思い出があります。
長銀の融資担当者の時代でした(昭和50年代初)融資先の不良資産に修善寺ニュータウンのセンター街区がありました。
修善寺ニュータウンは昭和33年狩野川台風が修善寺の町を襲い、多数の被災者を出しました。修善寺町は災害復興の資金捻出のため、大切な近くの山を売却し、温泉を4本掘りあて、約25万坪に650区画の別荘地を造成する事業に着手したのでした。プロジェクトの中核企業は商社のトーメンでした。温泉はあるし西には狩野川が流れ富士山が遠望できます。避寒別荘地としては理想的であり人気でありました。でも、当時はバブルが破裂し、火傷をした企業が多くありました。現在は既に街並も建物も老朽化しているようです。
ホテルでも建てようか?プランしていたセンター街区は屹度高齢者専用のマンションや医療施設に転換された事でしょう。私達は修善寺ニュータウンで方向転換して西側に聳える発端丈山(410m)の山麓に向かいました。目指す益山寺はこの山の略山頂にあるのです。
麓から細道(舗装済)を登っています。道幅が無いので車はすれ違い出来ません。細道の左右に石仏が迎えてくれます。ご本尊は千手観音だそうで、開いた掌を光背にデザインされた石仏は可愛らしいものです。天然記念物の大楓が紅葉しているものと期待が膨らみます。
イメージ 1
  益山寺参道の千手観音石仏紅葉のように掌を開いた光背が可愛いものでした。白いのは梅の樹苔(環境指標植物)で、石仏にいい味を出してくれます。
私達は3台の車で登って行きます。でも自家用車(BМW)は車の底を擦ってしまうので前進不能です、仕方なし徒歩で登りだします。でも此方の修善寺奥の院は無住とは聞いていません。寺守する人がお住いの筈ですから…どうにかなるでしょう。私達は参道を只管に登って本堂前に出ました。
沢山の赤い幟がはためいています。
石垣の端に石仏が並んでいます。そして境内には三本の大樹が枝をの伸ばしています。最大なのが目的の大楓です。案内板には書かれていました。「根回り5.5m、目通り4mで静岡県最大のカエデである。樹齢推定約900年で、県指定天然記念物になっている。」その横にはもう一本大きな銀杏が幹を張っていました、此方は樹齢400年だそうです。その北側には槇の大木が育っています。槇は深緑銀杏は金色山楓は朱色三色揃えば楽しみです。
イメージ 2
大楓の樹下に観音の石仏が並んでいます。大楓が紅葉していたら撮影チャンスなのですが、紅葉は12月初旬でしょうか?再訪するときの楽しみにしておきましょう。奥は神社で神仏混淆時代のままです。
イメージ 3
本堂前庭には左から大楓銀杏高野槇三種の銘木が並んでいますそして壇の端には石仏が並んでいます。
イメージ 4
大楓の幹には瘤が沢山出来ています。でも髄は既に腐っているようで幹を叩くと太鼓のように響きます。
樹の周囲の簀子は根回りの土を踏み固められないように対策しているのです。正面がご本尊(千手観音)を祀っている本堂。
 
イメージ 5
 
箱根精進池には地蔵石仏が多数残されています。(国の重文」そして箱根の西伊豆は観音霊場巡りが盛んでした。銘石と呼ばれた小松石や伊豆石が産出し、楓や桂の広葉樹が茂って歴史のある風景が広がっているのが伊豆です。台風にバブルの破裂様々な天災人災を受けた伊豆ですが、この
横浜東京に近い佇まいを貴重な資産として次代に残したいものです。
私に横浜から伊豆に転居したらどうだ囁きが聞こえるような懐かしい空間が広がっています。
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

運慶像への愛着

$
0
0
11月19日土肥温泉の夜はワインを回しながら更けてゆきました。昨年の旅行は輪島温泉で雷と霙の中でしたから、熱燗が良かったのでしたが、今年の方が何処か落ち着いています。明日は願成就院に運慶像を拝観するわけで、Iさんに講義をして貰う事にしました。
Iさんは芸術新潮の運慶特集号を片手に話をされました。表紙にはIさんが2008年3月ニューヨークのクリスティーズで落札した運慶の大日如来像が写っています。
あの時は日本中が大騒ぎでした。同仏像は運慶に間違いなしの判断があったものの、重文の指定すら受けていなかったものですから、海外流出やむなしの雰囲気でした。最後の砦は日本の美術館や財団が国宝級文化財の海外流出を防衛買いしてくれることを期待するだけでした。でも、バブルの時代ならゴッホに100億円も投資した美術館も投資家も動きそうな気配はありませんでした。万人が注目した落札結果は三越の美術部が(すなわちIさんが)落札したのでした。後日判明したのは宗教法人の真如会が三越に依頼してオークションに参加したのでした。Iさんの鑑識眼とスキルと顧客との信頼やグッドコミュニケーションが勝って、運慶の大日如来は日本お国に残ったのでした。
この事件は思わぬ幸運を喚起しました。金沢文庫称名寺の棚の奥から大威徳明王像が発見され、同像も古文書から運慶作であり、実朝の念持仏であることまでが判明したのでした。またそうした流れの中から運慶の偉大さが改めて見直され、此処伊豆の蛭ヶ小島の願成就院の運慶仏も今年は全部国宝にランクアップされました。
イメージ 1
芸術新潮運慶特集号表紙はIさんが防衛した運慶の大日如来像(重文)この像はは足利市樺崎[かばさき]町の樺崎八幡宮に伝ったもので出自は鑁阿寺開基足利義兼[よしかね]によるものであるとの記録がある鑁阿寺開も足利氏も源氏であった。
修善寺から狩野川に沿って下って行きます。河原には無数の鷺が止まっています。観察していると砂利の上に鮎が産卵しに集まっているのです。いとも容易く鮎を嘴に咥えています。さぞかし美味しい事でしょう。
狩野川が平野に出て急に流れが澱んでいる辺りです。屹度鎌倉時代はどうしようもない湿原だったのでしょう。湿原を田に開墾しようとすれば無数の蛭に苛まれる、そこでこの辺りを「蛭ヶ小島」と呼んだのでしょう。湿原の中に小高い丘があって、其処で北条時政が勢力を保っていました。其処に保元の乱で敗れた源頼朝が配流されてきました。関東源氏の支援を背に頼朝は平家を打ち滅ぼします。最後の仕上げは欧州の藤原一族でした。
頼朝の奥州藤原氏討伐を祈願して北条時政は故郷に願成就院を建立しました。
願成就院には同時に源の義経始め非業の死を遂げた武士の鎮魂を祈願する役割を負わせたのでしょう。寺の本尊は阿弥陀如来にして、平泉の毛越寺を模した寺院に致しました。
北条時政は武力と知力を背景に武士の時代を築きました。仏像もそうした鎌倉武士好みの「果敢に時代を切り開く気力と知力、肉体を備えた仏像にしたいと思ったのでしょう。前の時代の優雅で優しい定朝様式の仏像では満足しなかったのでしょう。その欲求を満たしたのが運慶を筆頭とした興福寺の慶派仏師でした。
定朝の仏像は定朝の描く優しいお顔の仏像を手分けして数多く彫刻することを基本にしました。そうして出来た規格品の寄木を組み合わせれば大きな仏像も完成したのでした。ですから必要なの鑿を上手に振るえる職人だったのでした。一人の仏師は朝から晩まで手を刻んでいたことでしょう。定朝は仏像のパーツを組み合わせて完成品(仏像)に汲み上げました。ですから職人集団の仕事でした。
鎌倉武士が期待したものは「高い理想を掲げて困難を切り開恋うとする自分達を守護してくれる仏像でしたから、職人の刻むような没個性の仏像は好みません。没個性の仏像では無く個性が色濃く、人間的で力のある困難も切り開く強い意志力の漲る仏像を欲した事でしょう。そうした仏像を近代人はアートと呼びます。
既に運慶は18歳の時に刻んだ大日如来像に自分の名を残していました、日本最初のアート仏師だったのでした。
イメージ 2
運慶18歳の時の大日如来像台座の裏に墨蹟が残っていて確認が出来ます。(出典朝日新聞社版日本の美)
私達の共通の先生だった浅子教授に引率されて此処願成就院を詣でたのはもう半世紀以上も前でした。浅子教授はアート仏師の運慶がお好きだったわけでは無く、どちらかと言えば対極の職人の技に感心をお持ちでした。運慶の弟子が鎌倉にも残って仏師になりましたが、仏像の需要も無くなると仏師は須弥壇や仏壇の彫刻をし、更にはお盆などの日用品の彫刻をするようになり鎌倉彫に転じました…、その筆頭が後藤家でした・・・・。わたしたちがそんな講義を実査を交えながら受けたのでした。
イメージ 3
鎌倉後藤家(博古堂)の人麻呂像

韮崎に至ると急に狩野川の急流は澱んできます。
河原では沢山のシラサギが止まって嘴を動かしています。浅瀬で産卵に励む鮎を咥えているようです。あれなら私でも手づかみできそうです。子持ちシシャモでも美味しいのだから、子持ちの鮎ならさぞかし美味なものでしょう。車は国道左折して住宅街に入ります、突き当りが願成就院です。半世紀前ですので記憶が定かではありませんが庫裏の茅葺の佇まいは変わらないようです。でも本堂は頑丈な鉄筋コンクリート造りになりました。これなら危険も無いでしょう。多くのご本尊は国宝に指定されると、俄か造りの耐火建築に移されて本堂を開け放たれなくてはなりmさせん。移動させられるご本尊はさぞかし迷惑な事でしょう。前写真の円城寺の大日如来も昔は本堂に祀られていましたが、今は多宝塔に移されています。尊像の美しさは本堂で仰ぎ見ると一層神々しいものでした。本堂で信者に仰ぎ見られる積りで彫られているのですから当然です。宝物館の空間では狭すぎます。
手飢饉コンクリートの味気なさはあっても当ら唆いい本堂は拝みやすい位置に運慶作の所像が並んで見下ろしています。一体でも迫力の凄い運慶像ですから、4体も並ばれると弩迫力です。
イメージ 4
願成就院の本尊阿弥陀如来像珍しい説法印を結んでいられます。寄木造りですが衣文が深く快いので一木造りのような迫力があります。螺髪と指先が傷ついてているのは何かが落ちて来てその拍子に傷跡を残してしまったのでしょう。元々は玉眼だったのでしょうが、その時の傷が眼に多く残って修理した際に漆で塗り固めて伏し目にしてしまったのでしょうで(以上は住職さんの説明)傷跡をじっと見つめるとこの像は桂材の寄木造りと思いました。(私の推測)
イメージ 5
願成就院本堂鉄筋コンクリートで新築されたのは今春に国宝に格上げされたからでしょう。それもこれも足利の運慶大日如来像の海外流出騒動の余波でありましょう。
イメージ 6庫裏は昔ながらの茅葺屋根です。その手前に並んでいるのは羅漢像500羅漢の計画ですから未だ道半ばにも満たないようです。現代作家の羅漢像ですから注文した人(施主)と彫刻家の自己満足の所産です(言い換えればアートです)。見た人が誰しもが感心するような作品ではありません。言い換えれば職人の作ではありません。
お寺にアートは相応しくなく誰しもの心を打つ象であってほしいものです。
イメージ 8
500羅漢を刻んでいる作業所4体が途上にあります。志のある人が思いを込めて奉納する形のようです。最近に始まったようです。
イメージ 7
500羅漢の一つ顔は童子のあどけなさですが腹は鬼というのは人間を皮肉っているのでしょうか。こ面白いもののこの像を祀られても故人は浮かばれないように思います。
願成就院の境内には石工の作業所があって500羅漢彫り事業が進行中です。羅漢像の背中には造立年と施主名が刻まれていますがその目的は伏されています。(「何のために羅漢像を奉納したかはわかりません。
アート感覚の500羅漢は面白くてもお寺に心の疼きを抱えて癒しに来る人にとっては何ら役に立たないと思います。個性をは殺して万人のも心を打つためには職人の技に徹することが大事のように思います。
これが私の浅子先生へのレポートです。先生如何でしょうか?
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

酪農王国「オラッチェ」でランチ

$
0
0
11月20日は早朝に土肥温泉を出発して、修善寺奥の院「正覚寺」から「益山寺」更に韮崎の願成就院を廻る頃には雨も強く降り出してきました。腹は空くし寒いわでメンバーの表情も冴えません。
今日のランチは酪農王国オラッチェを予定しています。オラッチェに入ったらすぐにランチを出して貰えるように電話で確認を入れました。「お肉ランチ1580円を19人分お願いします。」すると愕然とするお返事です。
「お肉ランチセットはもう在庫切れですミックスランチなら19人分用意できます」と言われても「それなら牧場の牛さんをバラして下さい」なんて言えません、「お任せ致します」酪農王国で肉が食べられないなんて想像もしませんでした。
酪農王国オラッチェは丹那トンネルの上にあります。箱根山外輪山の南側、静岡県函南町にある大規模牧場です。近隣の農家も牧畜を営んでいて、オラッチェの工場に肉牛や牛乳を納品しているようです。
行楽地にあるので夏は大いににぎわうようですが、初冬のウィークデーに訪れる人は稀なんでしょう。シーズオフは損失を出さないことが重要、レストランも仕入れを抑えざるを得ないのでしょう。支配人風の叔父さんがしきりに恐縮がっていました。
イメージ 1
向こうの山は箱根外輪山、牧場の下に丹那トンネルと丹那断層が走っています。酪農テーマパークの趣です。
已む無く私達はミックスランチを戴きます。クリームコロッケ一つに、アジフライ2枚に、玉ねぎのリングフライ2個がついて、生野菜がたっぷりのサラダセットです。ソースの味からすると、まずまずのお味のようです。予算も余りそうですからワインを3本とりました。私の仲間は何時しかワイン通が多くなっています。
ワインのラベルを見れば。酪農王国オラッチェ自家製のワインのように見えます。でも良く見ると疑問符が沢山つきました。輸入品の表示がある上に国内産葡萄を原料にしているというのです。
味は甘くて「赤玉ポートワイン」の懐かしい味です。葡萄の風味やコクは少ないのです。
「何だこれは!」思いましたが、輸入したモルトに此処で収穫したブドウを使ったも葡萄酒」を混合して作ったのでしょう。でも51%が国内産あれば国産の表示は間違いないのでしょう。でも家族連れ友達同士なら十分に楽しい施設です。留守居の息子にバームクーヘンをお土産に買いました。
イメージ 4
酪農王国オラッチェのレストランでランチにしました。
イメージ 2
これがミックスフライのランチ(セットで780円)この他にドリンクがつきます(+150円)。パンは自家製です。
イメージ 3
これが美味しかったヨーグトドリンク(+150円)
イメージ 5
これが疑問符を呼び起こした赤ワインの裏ラベル。輸入ワインに国産ブドウしようと記載されているのが疑問の始まりです。此処では自家製ビールもありますので、バーベキュウにはビールがお勧めのようです。
当初の計画では此処でランチした後、箱根山を越えて一夜城にある「一夜城ヨロイヅカファーム」で解散会を行う予定だったのですが。天気と時刻を見て此処で散会する事にしました。東京の南に住んでいる人にとっては箱根まで帰ればもう自宅の庭先に戻った感触ですが。仲間の大半は都内に住んでいますし八王子に戻る人も千葉の安孫子に帰る人もいます。これからが大変です。
私は小田原で電車に乗り換え、戸塚駅からタクシーで戻りました。ワンちゃっもウサコちゃんも雨の中で[ 寒いし腹減ったしようやく帰って来たか・・・・・」私達を迎えてくれました。
帰宅するなり電話が鳴り響きました戸塚区の選挙管理委員会(事務局戸塚区役所総務課)です。
要件は投票会場の予約と投票所責任者依頼の件です。
インフルエンザも流行っていますし、長時間選挙会場に立ち会うのは負担も多いでしょうが、「期待には一つ一つ答えて行くことで回復する」ように思うので受諾する事にしました。
 
今回の旅も、友人らのお世話になり通しでしたが、無事に帰ってきて安堵しました。こんな風にしながら徐々に体力が回復してくることを実感します。足の脹脛をマッサージして呟きます。「お疲れさん、でも仲間は有難いものでこうして遣って行けば何れ元通りになれそうだ・・・。」思うのでした。
 
11月27日は綿際達夫婦の42回目の結婚記念日です。何かするか?ワイフに訊けば「去年も一昨年も何もしなかったでしょ。それに旅行でお友達に重文祝福して貰ったじゃない!」言います。
言われてみれば今回の初参加のFさんは先年ご主人を送られました。Fさんにとっては私達は羨ましい存在だったことでしょう。ワイフは倒れそうな私を支えていてくれて「人」の字になっています。夫婦も友も同じようなもの、支え合いながら残された時間を満喫したいものです。
イメージ 6
来年は未年です。こんなふうにして、支え合いながら「迷わずに」人生をエンジョイする心構えです。
今回で日文研の秋の旅行は終回です。明日から何時ものように日常の想いのままを綴ります。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

散り紅葉

$
0
0
この秋ウx-ンに行かれたTさんのお話です。
「日本の紅葉は素晴らしい、ウィーンの紅葉は良かったけれど黄色一色だった、朱、黄、緑と3色が競って輝くのは日本だけだ!」仰いました。私も20年前ウx-ンの森を歩きました。枯葉を踏み鳴らしながら・・・・、でも木はブナばかりでしたから・・・・・、ブナだけなら奥入瀬渓谷か十日町の美人の森(眠りの美女のイメージ)の方が良いな思いました。雄大さならカナダの黄葉(行ったことは無いのですが、飛行機の窓から見下ろしたことはあります)には劣るでしょうが、錦の美しさ、繊細さでは日本の紅葉は世界一でありましょう。
神様が地球独楽の地軸を少し傾けられたお蔭で四季が出来益した。加えて日本はアジア大陸の西の果で生物多様性の極みにあるお蔭で、秋の紅葉が一番際立っているのです。有難い事です。
 
11月27日42回目の結婚記念日、素晴らしい良い小春日和でした
私はベッドから見上げるj群青の青空を背景に紅葉が鮮やかです。山無花果の葉は黄色く染まりはじめました。でも山茶花の深緑は頑固です。紅葉は次々に散って行きます。未だ地面が濡れていますから、家内がお掃除するのも大変です。
イメージ 1
 
イメージ 2
毎日落ち葉掃きに家内は追い立てられています。
 
こんな日は良寛さんの句や歌を想い出します。
良寛の辞世は、一般には
       「うらを見せおもてを見せて散るもみぢ」
              という句だと言われています。
一方良寛さんの辞世は次のという事になっています。
お弟の吉行さんに託した歌でした。
 かたみとて何をおくらむ春は花夏時鳥秋のもみぢ葉(八重菊
)此方は尊敬する道元さんの代表歌を本歌取りしたものでした。
でも、寂聴さんの「手毬」によると最期を看取った貞心尼の作とされてます。
貞心尼さんは才知に長けた人でが二人連歌のようにして良寛さんに矢次早に歌を送ります。良寛さんが貞心尼さんに返歌をします。そして挙句上記の句になっているのです。手毬のこの場面を読めば余りの美しさに泪が止まりません。日本人が紅葉やその散る様が好きなのは人生を紅葉に託して来たからでしょう。
イメージ 4
鎌倉瑞泉寺の散紅葉
イメージ 5
 平林寺の裏山は今は紅葉山です。
 
私は一昨年の歌会始での雅子妃殿下のお歌を想い出します。
その時のお題は「葉」でした。
皇太子殿下の歌は
 紅葉する深山に入りてたたずめば木々の葉ゆらす風の音聞こゆ
宮内庁の解説には皇太子殿下が奥多摩をハイキングされた時の作だそうです。紅葉は眼で見て音で楽しむものです。素直なお人柄を偲ばす良いお歌です。雅子妃殿下は次のように詠われました。
吹く風に舞ふいちやうの葉秋の日を表に裏に浴びてかがやく
宮内庁の解説では妃殿下が愛子内親王を学習院にお迎えされた時学院内の銀杏が黄葉して舞い散っていたのでそれを詠われた、としています。
国民の多くは妃殿下のお歌に良寛さんの「散る紅葉」を髣髴したのではないでしょうか?
まだお若く美しい妃殿下の御作としては寂しすぎます。
私は秋篠宮妃殿下の作を確認します。この年秋篠宮妃殿下は2作を発表されておいででした。
イメージ 6
これは学習院ではありませんが慶応日吉キャンパスの銀杏の並木100本の銀杏が見事です。
第一作は
山峡やまかい)に直に立ちたる青松の嫋やか(たおやか)なる葉に清(さやけさ)けさ覚ゆ
この歌こそ皇太子殿下の作を受けた秀歌だと思います。紅葉を眼で愛で耳で確認する伝統的な感性に根差しています。こんな歌を見れば古今集の秋の歌を思い起こします。
そして第二作は
天蚕(やまかゆ)はまてばしひの葉につつまれてうすき緑の繭をつむ
天の蚕と書いて「やまかゆ」と読みます。釣り糸の天草やお数珠を結ぶ糸になる繭の事です。
普通の蚕に比べれば二回りほど大きく10センチ近くになります。そしてモスラ(怪獣)のような大きな蛾が成虫で。繭も大きなものです。夏にスダジイ等の常緑樹を食って大きくなり蛹になります、蛹は薄緑色の繭の中で眠って成虫になる時を待ちます。我が生家にはこの天蚕が多く自生していて、庭が真っ黒いウンコで覆われます。秋の彼岸になると繭を採取する人が沢山いました。
イメージ 3
これが野生の天蚕(山繭)です。薄緑で綺麗なものです
秋篠宮妃殿下はお歌がお上手で、毎年どんな歌をご披露されるか楽しみにしています。
第二首は美智子妃殿下を継ぐに十分な資質がそなわっておいでであることを示したお歌です。
 
皇后陛下はお蚕を育て絹糸を紡がれます。皇后陛下は日本文化の象徴であるからです。私達の知っている蚕は普通の生糸や絹織物の原料になります、でも天蚕(やままゆ)は神様の贈り物のような貴重な蚕です。
イメージ 7
 鎌倉瑞泉寺の散紅葉向こうは改装されたお茶室です。
イメージ 8
 瑞泉寺山門前のお手水
 
 

ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

色づく公孫樹の風景

$
0
0
今朝のNHKラジオ「朝一番で」今日の花は銀杏です、話していました。銀杏は綺麗でも花ではありません。街で目立つフォックスファイスも茄子の実で花ではありません。花が地味な植物は葉や実が華麗に変身して自己主張するようです。我が生家の銀杏も黄葉し始めましたが、今年はバッサリ枝を切り落されて風邪をひきそうです。
イメージ 1
我が生家の銀杏、大正天皇即位を記念して村の青年団が植樹してくれたものですから樹齢百歳です。実はなりません。
ラジオでは銀杏の花言葉は「長寿」であると言います。確かに銀杏は病気にはならないし虫も付きません、腐る事も無いので総じて長寿です。加えて100年も経てば風格も出てきます。我が生家の銀杏も若干百歳ながら横浜市の指定名木になっており、見物に訪れる人も増えています。2年前鶴岡八幡宮の樹齢1000年の銀杏が倒れてしまったので、中世に遡れる銀杏は三崎の海南神社の銀杏しかありません(頼朝植樹と言い伝えられています)
イメージ 2
三浦三崎の海南神社の銀杏
1000年には足りませんが遊行寺の大銀杏も700年程度は経っていると言われています。この樹は落雷をもろに受けて、幹を地上20メートル程度の位置から喪失し、その後見事に回復して現在のように見事な樹形に回復しています。人間も銀杏も同じで、風雪に耐えて打ち克ってこそ風格が出てくるのでしょう。白い注連縄がお似合いです。神様も姿形の良い銀杏がお好きでしょう。
イメージ 3
これが樹齢700年の遊行寺の大銀杏
銀杏「という字は銀色の杏と書きます。その実が杏のように滋養分があるの意味なのでしょう。公孫樹とも書きます、木を植えても孫子の代にならなければ形も整わないし、実もならない、子孫のために植える樹」の意味なのでしょう。お寺や神社に銀杏の木があるのは防火の為です。銀杏の木も葉も水分が多く燃えません、ですから防火対策として植えられるのもです。孫子の代になって防火樹として役に立つ…というのが正しい字の意味でしょう。
イメージ 9
富貴寺(国宝)も銀杏の大樹が防火役を担っています。
NHKの天気予報で南気象予報士が神宮外苑で銀杏の葉を拾って来て見せました。「踏むと落ち葉がカサカサ鳴っていました、今日は午後から雨になるから傘を忘れずに・・・」言って居たんだそうです。お親爺駄洒落は聞き流しても銀杏の葉っぱは通学用の傘のようです。東京都のマークは銀杏の葉っぱです。銀杏の葉っぱを縦に見ると傘にも見えるしTの字にも見えます。東京大学の校章は銀杏の葉が二枚です。小石川植物園に自生していた銀杏を実生して校内に植えたのが始まりで、それを校章にしたのだそうです。銀杏も教育も孫子の代に投資するような気の長いもののようです。
慶応日吉校舎の銀杏は昭和2(1927)年に、東京横浜電鉄株式全社(現・東京急行株式全社)から、沿線の〝日吉台〟の土地72,000余坪を無償提供されて開校し同時に100本の銀杏が植えられたものですから。未だ若干80歳余りの若僧です。でも風格が出てきています。近在の人は孫子を連れてキャンパスで遊んでいます。銀杏の葉を拾うのも良し、腰に段ビニールを敷いて滑り落ちのも良しです。爺婆は銀杏の実を拾って帰ります。
学生が孫と遊ぶ爺婆の横を会釈しながら素通りしてゆきます。の勉学で火照った体には銀杏の梢越しの風が爽やかな事でしょう。
イメージ 4
1927年植樹当時の慶応日吉キャンバスの銀杏の木
イメージ 6
現在の慶応日吉校舎の銀杏並木(横浜市街路樹にされいます。
イメージ 7
翌檜の緑と紅葉の朱銀杏の黄色が鮮やかな晩秋を彩っている日吉キャンパス。
イメージ 8
冬枯れの銀杏の梢
  
 
数日前、中越地震の復興状況をテレビで報道していました。被害が一番深刻であった山古志村には農民も復帰嗣子名物の陶業ウも復活しているようでした。私は「良かったなあ、此処まで戻るには大変だったろうな!」新潟人のへこたれない精神に感服しました。ディレクターは福島県人にエールを送る意図もあって番組組を作ったのでしょう。
山古志村にはさブナも目立ちますが巨大な銀杏が多いのです。今から400年ほど前にも木喰上人が山古志の小栗り観音堂を訪れ此処に33観音像を彫りました。村人は行基菩薩の再来と歓喜しました。村人は村内にあった銀杏の大木を切り倒して牛にひかせて観音堂に運んだのでした。私は3年前の今頃小栗観音堂を日文研の仲間と訪れお堂の暗闇の中で33基もの観音仏に接し、皆で欣喜雀躍したのでした。銀杏の木は孫子の代の役に立った上に全くの他人も助けたのでした。新潟には米百俵の精神が土に浸み込んでいるようです。
 
イメージ 5
山古志村闘牛場の上にある小栗山観音堂このお堂と木喰仏は次に書きました: http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/42223936.html
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

赤い実を食べたから・・・・・。

$
0
0
庭先に「ヒーヨ・ヒーヨ」とヒヨドリの鳴き声が響いてきます。ヒヨドリの季節なんです。
「此処にヒヨドリジョウゴが真っ赤にが実っているよ!皆集まれ・・・」仲間を呼んでいるようです。
私は垣根にヒヨドリジョウゴを植えた訳ではありません、赤い実はヒヨドリサンが撒いたものなんですから
主の私は黙って見ているほか術はありません。「コッチには山無花果があるよ、無花果も食べ頃だからコッチにもおいでよ」思うのですが、ヒヨドリさんはヒヨドリジョウゴに夢中です。中々私の寝ている和室の窓辺には来てくれません。
イメージ 9
これがヒヨドリです。写真は栴檀の実を食べに集まってきたものです。
イメージ 1
庭先のヒヨドリジョウゴの実も真っ赤に染まって食べ頃であることを知らせています。
イメージ 2
藪椿に絡んだヒヨドリ上戸の実
イメージ 6
玄関を飾ったヒヨドリジョウゴの赤い実奥のじゃが芋のような実は郁(ムべ)です。
 
ヒヨドリが好んで食べるのでヒヨドリジョウゴの名が付いているのでしょう。
ヒヨドリは「紅緑色盲」では無いのでしょうヒヨドリジョウゴに実が緑の中は全く反応しないのに赤くなると目ざとく見つけて集まって来ます。
我が庭も庭先の道路もヒヨドリの糞で一杯になります。糞にはヒヨドリジョウゴの種が混じっています。まるで茄子の種のようです。
ヒヨドリジョウゴの実を食べ尽くしたら、お次は実葛もありますし、お寺に行けばモチノキの実もたわわです、血止めの実も酸味が良いものです。最近はピラカンザスの実も随分目立ちます。赤い実は探すのに苦労しません。
イメージ 3
これが血止めの実背後の黒い実は山椒の実です。撮影場所は筆者の友人の軽井沢の山荘です。何時かこの山椒の実を食べる事もあるでしょう。
イメージ 4
この赤いのが実葛の実です。撮影場所は円覚寺の黄梅院観音堂の前です。筆者の友人は実葛に似た五味子(ゴミシ)の実を焼酎に漬けて飲ませてくれます。五味子とはよく言い得たもので、甘い辛い酸っぱい5種の味がするんです。強壮効果があるんだそうです。青い時は酸っぱくて赤くなれば甘いのでしょう。赤い色こそ滋養になりそうな気がします。ヒヨドリジョウゴの果実酒は聞いたことが無いのでクコの実を植え始めました。何時か友人の作った五味子酒徒のみ較べてみたいと思っています。
イメージ 5
これは山茱萸の実これも果実酒になります。
イメージ 7
此方は友人の山荘に自生している軽井沢天南星の実青い実が真っ赤に変じたらもうじき冬です。この赤い実は誰が食べるのでしょうか?烏瓜のように誰にも見向かれずに雑木林に取り残されて寂しげに見えます。
 
大正7年(1918)鈴木三重吉は「赤い鳥」を創刊します。童話と童謡を二本柱にするの児童雑誌でした。三重吉は文部省が主導した「唱歌」に反発して子供の素直な気持ちを表現してこそ意味があるとしたのでした。北原白秋は三重吉に賛同して「赤い鳥」の看板として活躍します。当時貧していた白秋でしたが小田原に住まいを移し生活も安定し始めます。
赤い鳥小鳥、何故何故赤い赤い実を食べた・・・「赤い実」を食べたのは白秋自身だったのかも知れません、『赤い実を食べたので美しい赤い鳥になった・・・』歌は子供の発想です。三重吉は子供が出来た嬉しさから「赤い鳥」を始めたのでした。当初から子供の純真な心こそが大切とする「童心主義」が骨格でしたが、社会は複雑な様相を呈し始めます。社会の矛盾は大きくなりプロレタリア文学者が矛盾を指摘し始めます。童心主義の三重吉はインテリの批判を浴びます。童心主義」との児童観と創作文学のせめぎあいが「赤い鳥を舞台に行われてしまいました。宮沢賢治が投稿しますが三重吉は没にしてしまいます。子どもを「純真無垢」であるからこそ意味があると確信している三重吉にとって宮沢賢治の農本主義は舞台は同じであっても理解し難いものだったのでしょう。
青い実が白くなり最後は赤く実って次世代に繋ぐ、それが自然の摂理であったように、何時までも純真無垢で青いままではいられなかったのでした。
三重吉と白秋は酒の席で対立してしまい両者は者は決裂。1936年に「赤い鳥」は廃刊されてしまいます。社会はプロレタリアを否定し断罪、世相は戦争に転げ落ちてしまいます。
多くの作家は今の北朝鮮のように「右に倣えし」てしまいます。多くの文学者が愛国戦士の意気を軒昂させるような作品に転じてしまいます。童心主義は平和主義を内包させていたのでしょうが社会観を喪失していたので、戦争抑止力にはなりませんでした。
赤い実を見ていると赤いのは戦死した特攻隊の赤い血赤い泪のようにも見えてしまいます。白秋さんも三重吉も時代の流れを凝視して短絡的なな廃刊を留めて欲しいものでした。
赤い実は滋養分が豊富であることを示しているものですから、日本人の心を豊かなモノにして呉れるものと期待します。
でも「赤い鳥の果たした役割は大きく、文学に音楽に多大な業績を残しました。
私達はその恩恵を受けて育ちました。
 
イメージ 8
これは鷽(鷽)です悪い夢を避けてくれる天神様のお使いと言われる鳥です。今年の天変地異を嘘に転じて欲しいものです。
 
先の大戦が嘘であったら、東日本大震災や原発事故が嘘であったら・・・思うのですが、歴史は嘘にする事は出来ません。赤い実を眺めるだけです。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

大根を干す風景

$
0
0
美味しい野菜と言えば「京野菜」を想いだすからでしょう。毎日のようにテレビでは京野菜を映しています。
でも私は京野菜は鍋には美味しいんですが漬物にはイマイチと思っています。
イメージ 1
根の漬物、自家製だからこそ、家々によって味も違うし、見てくれが悪い程に美味しいものです。
 
江戸野菜と言えば大根でしょう。大根が栄養豊かであることに加えて、日本人が古代から大根好きであったこと、そして冬場の漬物野菜として最適だったからでしょう。
沢庵大根のお蔭で、江戸っ子は健康に冬越しが出来たとも考えられます。
沢庵和尚は品川にある東海寺の住職でした。家光が沢庵漬けを誉めて住職の名を漬物に冠したのでした。
江戸の周辺には大根の産地がありましたから、郊外からお百姓が大八車に大根を載せて運んだのでしょう。朝は野菜を乗せて帰りは人糞を乗せた大八車が江戸の放射街道を押されていたのでした。
亀戸大根(千葉街道)に練馬大根(青梅街道)に大蔵大根(甲州街道)という様に名物大根は放射街道沿いにありました。最近は江戸野菜の復活を主張して古い種の大根をダイコン栽培をするようになったようです。三浦半島津久井浜では大根干しが盛んです。台地の畑で栽培された大根を砂浜で干して乾燥させます。潮風で干すほどに大根は美味しくなるのだそうです。多くの漬物屋さんがあって即売しています。私も買うのですが残念なことが二つあります。
第一は材料になる大根が三浦大根では無くて二十日大根(白首大根/水っぽいだけで野菜の味がしない。)なのです。20日大根はその名の通り1箇月足らずで促成栽培できる水っぽい大根です。
更に沢庵漬けは一般に干し大根を糠に塩をまぶして漬けこんだ乳酸発酵食品の筈ですが…、三浦の漬物屋の大根は乳酸醗酵菌を育む糠を使っていないのです。その代わり糖分とカリウムを加えた溶液に浸します。に・・・・、要するに蜂蜜アリナミンに干し大根を漬けたような食品なのです。食べれば口当たりは良いのですが江戸の武士や職人の健康を支えた沢庵漬けとは違った食べ物です。
イメージ 2
三浦台地の大根畑、畑の大根は総てが20日大根で昔からの三浦大根は殆ど栽培されていません。
イメージ 3
三浦津久井浜の大根干し風景、潮風が風味を増してくれるのでしょう、大根は青首の20日大根ばかりです。
イメージ 4
二本並べて干し大根を眺めると女学生のおみ足のように見えてきます。あんまり食い入るように見ていると変態おじさんンに見られてしまいそうです。この大根で人生を棒に振った人が幾人も居るものです。伯母さんのおみ足なら燻りガッコのようで色気も無いのですが。
イメージ 5
大根をデザインした歓喜天を祀る提灯、昔から大根の滑らかな肌に日本人はエロスを感じていたのでしょう。
昨年韓国のキムチがユネスコの文化遺産に指定されました。あの時私達はキムチが文化遺産なら、沢庵漬けこそ文化遺産だし、中国人はザーサイこそ文化遺産だ、と思った事でしょう。
私達は沢庵漬けを敬遠して、キムチ好きになっている事実を反省する必要があるような気がします。
我が生家には沢庵漬けの漬物樽が3つはありました。今年去年一昨年漬けこんだ沢庵をストックしておいたものでした。お檀家が来られれば、古漬けの沢庵に自家製のお茶をたてておもてなししたのでした。
私の仕事は大根干しでした。庭先の屋敷守の木の幹に棹竹を括り付け、竹の上に大根を星干すのが仕事でした。朝干して、夕方採りいれます。夜も干していたら凍ってしまうのです。両手で大根を抱えるとその冷たい事冷たい事、体温を瞬時に奪われて手先がかじかんでしまいました。
一昨年、越後魚沼の堀之内の簗場でした。私達は名物のアユ料理を食べに立ち寄ったのでしたが、魚野川の土手に大根が干してありました。そして簗場の囲炉裏の上部にも沢山のダイコンが干されていました。
イメージ 6
囲炉裏の上で燻す大根燻りガッコの素材です。
イメージ 10
燻すのは香りを付けるのと酸化を防止するため、私達が量販店で買ってガッコは酸化防止剤を使っているから美味しさに欠けるのです。出羽三県の燻ガッコは語り部婆様の味がします。
根は干すというより燻されていたのでした。綿際達の食卓には鮎の塩焼きのほかに、燻ガッコが並びました。
大根は乳酸発酵させても美味しいし、燻しても美味しいのです。
越後も山形も秋田も燻ガッコは名物です。大根の漬物は裏日本三県それぞれに特徴があります。私を面倒見てくれている看護士は山形村山の大石田の出です。秋田新潟は美人の産地ですが山形は負けているようです。
でも山形は上杉鷹山を大石田は斉藤茂吉を産みました。知性や情けでは両県に勝っています。漬物は情けと知性の産物ですから。山形が一番と私は確信しています。看護士さんは故郷にお父様を残して横浜で私のような脳梗塞親爺の面倒を見ています。先週帰郷して「雪囲い」をしてきたそうです。故郷の美食の話が出来る人は魅力のあるものです。最上川が運んだ土で栽培された大根も蕪も美味しいに決まっています。水も美味いし、土も肥えているからです。
山形のお米「艶姫」でどんがら汁(芋煮みたいな汁物)そして青菜漬けを戴きたいものです。
イメージ 7
山形の漬物「雪あたり青菜漬」出典http://www.umaies.net/SHOP/003-09900.html
イメージ 8
山形田麦俣の民家写真は屋敷守の木に萱を干していますが野菜も干す景色も好いものです
イメージ 9
田麦俣民家の囲炉裏、手前の土間に漬物樽を置いてあるものです。イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird,イギリス人女性紀行家は奥日本紀行記で日本の家の沢庵の臭いはスカンク以上の悪臭で耐えられないと記録しました。この空間も沢庵州臭が充満していたことでしょう。中学生の頃、私の弁当箱も沢庵臭くて閉口しました。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 

土間に棲む神

$
0
0
私の住む町内には、居酒屋が多い。以前は日立の社員が目立ったので、会社帰りに一杯やるお客も多かったであろうが、日立が撤退しつつある昨今はお客も少なかろう・・・・、思うのだがワタミも三間堂も北の家族も「土間土間」も凌ぎを削っている。土間土間は以前は養老乃瀧に代わって同じビルに進出してきたものである。
「土間」と言って懐かしがる世代は、もう居酒屋は引退しているだろうから「囲炉裏」にすればよかったのに、他人事ではあるが思うものである。
我が生家の土間は重要な生活空間でありました。
土間は母を中心とした寺族家族の台所空間であると同時に、檀家やご近所、お寺に縁がある人が自由に出入りする空間でした。だから。蜻蛉口(トンボ)と呼ばれる出入口は出入りが多かったのでした。近所の子供が遊び疲れて土間に入っては「水やおやつ」を所望してゆきました。時にトンボだけでは無く、猫や狸も入って来ました。土を捏ねた竈があってその脇には巨大な水がめが置かれていました。壁には秋葉さまのお札が貼られてあって、板間には木像の荒神様が祀られていました。
イメージ 6
土間の空間神々が人間を見守って呉れる空間でした(写真は藤沢の芯林公園の保存民家)
私のルーツになる「聖なる空間」でした。土間そして囲炉裏のある板間が生活の核にあった時代は平和でした、何より家族が寄り添っていましたし近隣関係も絆も緊密でした。土間の崩壊と同時に絆が弱まり、日本人の幸福度が低下してきたように思います。
私がネットで注文しておいた図書を借りに図書館に出かけました。序にブータンの写真集を借りて来てくれました。ページをめくっていると土間が写っていました。
イメージ 1
 ブータンの風景(3階建ての建物風が強いので板屋根の上に石が置かれています。家の1階は家畜が棲んでいて2回は家族の空間です。トいレを浸かったり残飯が出ると使うと下の階に落します、するとの豚や鶏がそれらを食べてくれます。3階は穀物倉庫であるか仏間です。
イメージ 2
これが2階の台所空間です。土間であり竈と水瓶が置かれています。日本中どこにでも見られた聖なる空間でした。(出典:世界で一番幸せな国ブータン栗原宏光著)
この空間を見ると私は奈良の二月堂を想出だしました。お水取りの行われる空間です。内陣の奥には住地面観音(秘仏)が祀られています、内陣こそ板間ですが外陣は一段低い土間で、土間で連行衆(修二会の行僧)は若狭井から水を汲んで内陣に入るのに小さな「橋」を渡ります。お水をご本尊に供えてから松明行事に移ります。聖なる火と水のお祭りです。二月堂は東大寺の建立以前からある日本人のハートの奥深くにある祭りの空間です。
土間を生活に保ちかつ平坦にするために塩を撒いて踏み固めました。
土間を掃く箒は特別なものを用意しました。
土間に対する敬意はお相撲さんの「土俵」に対する思いに通じるものがあって、四股も土間の神を鎮める役があったのではないでしょうか。そう思うとブータンの土間は相撲部屋の稽古場を髣髴させるようです。
竈で火をおこします。火が消えそうになれば吹き竹で空気を送れば真っ赤に火が起ります。炭になった火は火消壺か灰にくべておきます。灰にくべておいた炭は吹き竹で吹けばすぐに火がつきました。
火を使う事が文明の始まりでしたし。火は水と共に神に相応しい存在でした。
私達は「火の神」「水の神」として敬うと、「八百万の神」として文明度が低いように思いますがそれは過ちで「自然への敬意」に勝る思想は無いのだと思います。
土間に神々が棲んでいた事実はそんな思想が縄文時代以来の深い思想であることを暗示しているのでしょう。
ブータンの写真集を見ていて思いました、何時しかブータンの土間で食事を戴きたいものだと。
イメージ 3
美しい民家の土間は夜の作業空間であると同時に煮炊きする聖なる空間でした。
イメージ 4
写真は高山の合掌集落の囲炉裏空間。
イメージ 5
火を起こし灰に隠せば火種が残りました。灰の中から火種を探し出して吹けば又火をおこすことが出来ました。吹き竹を作る事も箒を作る事も子供の仕事でした 火の神様を荒神と呼ぶのは、怒り易く冷め易いからかもしれません。
日本の神は荒魂・和魂」の2タイプがあって、常時は和魂ですが怒れば荒魂に転じました。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 
 
 

「あき」から「ふゆ」に向けて

$
0
0
「寒の入り」には未だ1か月もあるというのに、今朝の寒い事、加えて新しいストーブが不調で、ワイフはご機嫌も斜めです。私は布団の中でかんがえてました。大和言葉の意味です。漢字は象形文字ですから意味が解り易いのですが大和言葉は日本人のルーツなのに漢字はじめ外来言語が混入しているので解り難いのです。「ふゆ」は「ひゆ/冷える」「震えるほどひえる」がその意味でしょう。
中国人は『秋は木の葉が火のように染まるから木を偏にして旁に火を書いた』のでしょう。一方日本人は「あき」穀物が収穫されて「あく」/飽く」程である・・・収穫期の意味のように思います。
イメージ 1
 秋の柏尾川、桜紅葉が見事です。
イメージ 2
春の柏尾川
『ふゆが震えるほど冷ゆ、の意味であるなら、はるは天気がはれるの意味であり、陰気が晴れるの「晴れる」の意味でしょう。春が種蒔きの時期で秋が収穫の時期で、冬は陰気な季節で閉じこもって春(陽)を待つ時期なのでしょう。陽が出れば自然の命が芽生えて蕾も娘のオッパイも膨らんできます。だから春は「晴れ」であり「腫る」であり「張る」でもあるのでしょう。どれも生命が張り出して行く気配です。
昨日の夕方から強い季節風が吹いて、紅葉は散ってしまいました。
紅葉した葉っぱや虫食いの葉っぱは病葉です。陰の葉っぱです。陰が木枯しで吹き飛ばされると、木は順番からして次は春が来たと錯覚するのでしょう。桜が季節外れの花を咲かせます。我家の姫リンゴも花を咲かせますし、今年は連翹が黄色い花をつけました。ワイフは「狂い咲き」だと笑いますが花木にすれば必死な命の営みです。
イメージ 4
紅葉を吹き飛ばされて花を咲かせた桜(瑞泉寺で)
イメージ 3
此方は二度咲きする冬桜(咲くのが自然です)
 
桜の「さ」は早苗の「さ」であり早乙女の「さ」で桜が咲いたら籾を撒いて田植えの準備を始めると聞いていますし。天皇陛下が田に入られます。稲の神様が田に下りて来られるのです。
大和言葉は先ず第一に自然への感性(張られたアンテナ)第二に自然に潜む神への畏敬の念、そして豊饒への祈願にあると思います。桜やブナの紅葉落葉樹が腐食して土になり、稲を育てるのでしょう。そう思うと紅葉して腐敗して土に戻るのは尊いものです。「葉っぱのフレデリー」のことを思います。ラジオから五輪真弓の「 枯葉散る~夕暮れは~・・・・・」の曲が流れて来そうです。
イメージ 5
 
今日は遊行寺の大銀杏を観にワイフと出かける約束です。今週末には日吉の銀杏並木を観にも出かける予定です。あっちこっちの銘木に引っ張られて体も気持ちも陰(病気・冬)から陽(健康・春)に導かれるようです。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

遊行寺の大銀杏

$
0
0
12月4日(水)予定通りに遊行寺に大銀杏の黄葉を観に出かけました。
我家(戸塚倉田)から遊行寺に行くには建設中の都市計画道路(柏尾遠藤線)の脇を通ります。田圃の中を都市計画道路が突っ切っています。この田圃には隼(長元坊やのすり)が渡って来ます。落ち穂を食べる鼠や小鳥が隼の狙いなのです。一昨年まで私は仲間と一緒に見詰めていました。仲間はどうしているか?車窓から覗いても誰も出ていません。今年は隼は出ていないのかも知れません。来年にはバードウォッチングに復帰したいものです。
都市計画道路は道祖神を排除しなければなりません。何処に遷座するのか心配です。常識的には田谷の御霊神社か柄沢神社の境内でしょう。横浜市は緑税を新設したのに、緑地は急激に減少し4割の大台も切ってしまいました。緑地を減らしてできた宅地は土砂崩れの危険をはらんでいます。もう、都市計画道路は充分です。明日の横浜の為には緑を残すことであって道路を増やすのことではないでしょう。
イメージ 1
田谷の田圃を飛ぶ隼(長元坊)。
イメージ 2
雉も現れ子育てします。
イメージ 10
田谷の道路端の道祖神相模では珍しい彩色双胎道祖神です。この石仏が何処に行くのか心配です、この辺りは造園業者が多いので、業者のトラックで持ち去られないか心配もしています。
車は遊行寺に入りました。境内東端の駐車場に駐車します。期待の大銀杏は見事に黄葉しました。一瞬声を発するほども見事さです。例年は単純に黄色く染まるだけなんですが今年は黄色を通り越して金柑の色に見えます。今日は青空が底抜けなので群青です。空が青いと黄色は橙色に見えるのかも知れません。車の屋根にゴトン・ゴトン落ちてくる銀杏のぶつかる音が響きます。
駐車場の脇に敵味方供養塔が祀られています。中先代の乱で失われた武士や牛馬の死を弔った供養塔です。石塔の先端が槍のように尖っているのは。悪い事を思い出させるようで好きになれません。刻むにおは「南無阿弥陀仏念仏」だけで十分だったように思えます。
イメージ 4
遊行寺の大銀杏本堂の手前右に一遍上人像が合掌姿で迎えてくださいます。上人の目線の位置に大銀杏がそしてその彼方に富士山が見えます。
イメージ 3
フェンスの向こうが敵味方供養塔、地面を覆っているのは銀杏の実です。銀杏は種を食用にするもので銀色の杏と書きます。銀杏の実が算盤の珠の形をしていますが銀杏の材を加工して作ります。これは偶然でしょうか?算盤も研鑽を積めば大きな銀杏の木に成長するの意味でしょうか?
ワイフに銀杏の実を拾ってもらいました。去年は東慶寺の銀杏の実を拾いました、今年は遊行寺で拾って食べる予定です。遊行寺の銀杏を食べれば福が体に充満味りんすること間違いなさそうです。息子は車が臭くなると不満気です。
境内略中央の大銀杏の下に佇んで大樹を見上げます。それにしても見事な樹形です。全体で宝珠のように見えます。何で宝珠になったのか、説明は樹下の看板に書かれています。かつては樹高が31mもあったが、 昭和57年(1982)の台風で上部半分でが折損してしまい(現樹高16メートル)ました。折れた部分を確認すると幹は空洞であり。髄は炭化していたそうで。落雷して焼けて弱くなっていた所に台風が災いして真ん中で折れたのでしょう。でも落雷に台風厄災く際に耐えた結果、現在のように尊い宝珠の姿になったのでした。加えて幹は年々太って平成4年に計測須た結果では710㎝になっていたそうです。。樹齢は700年だそうです。
イメージ 5
大銀杏は横から見ると繭玉のように見えます。浅草のアサヒビールの広告等のようにも見えます。
イメージ 6
大銀杏は一遍上人像本堂から見れば宝珠の形をしています。大銀杏の受精に衰えが見えないのは地面をアスファルト舗装していないからでしょう。土を大事にして陽が当たれば木は育ちます。
私は樹下で銀杏の乳根を見上げます。樹に瘤が出来、瘤に養分が蓄積して垂れてきたような格好をしています。これを銀杏の乳根と呼びます。私の祖母は岡目顔で巨乳でした。一緒にお風呂に入ると。湯船の中でお乳をヨイショトと肩にかけました。そして自慢げに私に話してくれました。お父さんもこのお乳で育ったんだよ、それにお前が泣き止まない時はこの乳を吸いながら寝たもんだよ。お乳は出なくても吸わせておけば嬉しそうにして寝たもんだよ・・・・。」
私は垂れ下がったお乳を思い出さない様に目をそらしたのでした。でもこんな思いは古代から想っていたのでしょう。垂乳根は「母」の枕詞に母の漢字も父が二つ付いていますし。地獄の奪衣婆も立派な乳が垂れています。
イメージ 9
自由が丘に近い九品仏浄真寺の奪衣婆像。地獄の入り口で傍受己着物を剥いで生前の罪の重さをはかるのが奪衣婆の役割です。怖い存在なのですが何処で見ても少しユーモアがあります。
閻魔大王像は怖いものの、その脇の奪衣婆は何処か親しみ深い表情をしているものです。
遊行寺の大銀杏は雄の木ですから銀杏はなりません。でも乳は立派に垂れています。人間の雄の乳は役に立ちません…そう思ってお風呂で乳首を弄ると微妙な感覚があります。
人間は男女に分かれてホルモンの分泌自体が区分されてしまったのでしょうが化石生物である銀杏は雌雄の分化が進んでいないのでしょう。成長過程で男性から女性に転換したい思う人も増えているようです。男の乳の研究も進むのかも知れません。無謀な性転換手術に依らなくても刺激やホルモンによって男性の乳も立派な紡錘形に転換出来るのかも知れません。
イメージ 7
遊行寺大銀杏の乳根、未だ発達途上のように見えます。折れた窪みに寄生している蔦を伐採する必要があるようです。
 
年前山形の庄内空港に近い東根に日本最大の欅を観に行ったことがありました。湯殿山のミイラを見学した帰りでした。大樹のパワーに圧倒されました。欅でさえ圧倒されたのですから銀杏ならどんなに凄かろうと思ってネットで大銀杏を検索すると青森の角館にそれはありました。何時か拝みに行きたいものだ思いました。乳根の迫力もものすごいようです。
イメージ 8
これが日本一の大銀杏出典と詳細はhttp://fujita244.blog.fc2.com/blog-entry-447.html幹回りは22メートルもあるそうです(角館)
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 

ジブリが流行り?

$
0
0
私は大学で経済学を勉強しました。「デフレは庶民には暮らし易く、インフレは大敵と教わりました。ですから『日銀が『はインフレの番人』と自認しても疑問に思いませんでした。三重野さんはインフレファイターとして人気がありましたから昭和の鬼平と呼ばれていました。悪役はインフレを助長する「金丸信」でした。
そんな経済の常識がアベノミックスでは逆転してインフレが目標デフレが逆目標になってしまっています。経済学者もマスコミもこの逆転の不思議さを指摘しません。何時の時代も。インフレに苦しむのは庶民です。インフレの度に家壊しや一揆が発生しました。(投票管理者もこの程度の経済の説明は許されると思います)
 
私は町内会長をして10年目で、年度末には表彰の予定になっているそうです。12月14日は衆議院議員総選挙です。私は今回も選挙の「投票管理者」の選任も受けました。
息子は体力的に懸念もあるから辞退するよう奨めるんですが、依頼されたら受けるのが私のスタイルです。脳梗塞発症以前にやってきた仕事は一つ一つこなす中で体力も自信も回復するものと確信しているので、応諾する事にしました。
12月1日は投票管理者と選挙事務職との打ち合わせ会が戸塚区役所で実施されました。呼ばれた人は知人ばかりです。みんなが私の身体を心配してくれます。
ワイフが送り迎ええをしてくれました。楽しみは打ち合わせ会終了後にコーヒーです。
候補はスタバにマックに区役所内の喫茶室『102/リリーのエスプレッソ』そしてカナール『戸塚で評判のケーキ屋さん)です。打ち合わせ会が終了すると自然と「区役所内の喫茶室102」に足が向いてしまいました。このお店はコンセプトが名古屋方式の喫茶室で戸塚駅から同じフロアーを区役所ビルに入ればそのロビーに出店しています。場所も良いのですが名古屋やスタイルが横浜市民に評価されるのかが疑問です。リリーの豆を使ってエスプレッソにしているのはそんな配慮なのでしょう。
イメージ 1
戸塚区役所の喫茶室102は以前に比べればメニューもお客さんの数も増えたようです。
イメージ 2
戸塚区役所内のカフェ102のメニュー、コヒー+ケーキで710円です。
私は珈琲に抹茶ロールをセットにして貰いました。
席からは戸塚駅のホームが見下ろせます。午後3時急に時雨が強くなってきました。時雨が降る度に紅葉が色濃くなって冬本番になるような気がします
 
日野に時雨降る見ゆ明日よりは紅葉かざさむ高円の山(春日野に時雨が降り出した明日は紅葉を髪にさして遊ぼう。高円の山よ/万葉集)。又は/時雨が降り出したので高円山に紅葉が混じりだすであろう・・・・)時雨とは『まとまった雨』の意味です。でも、時雨が尊ばれたのは紅葉を運んでくると信じられていたからでした。歌の意味は彼女の髪に紅葉をかざしあげるのか、お山自体が紅葉を装って遊んでいるように見えるのか不明瞭です。古代の人は天の神が時雨を降らせるので木の葉が紅葉に染まるとと思いました。
私は昨年の今頃奥能登のお寺で戴いた珈琲とお米のシフォンケーキを想い出しました。
用意して下さったのはお寺の坊守さん。身も心も温まりましたし、時雨が上がると大きな虹が見えました。
これからは季節の中で思い出に浸ることが多くなるのでしょう。天気予報では今年は能登の雪も早く積もっているとの事坊守さんも難儀されていることでしょう。
イメージ 5
夜になると此処はワインを始めお酒も出るようです。イタリア産のワインが並んでいます。戸塚産のワインはありませんが、明治学院大学は小諸ワインを発売しておいでです。(藤村の関係です)明治学院大学のワインをならべたら良さそうなものと思いました。
イメージ 4
102にはワインのサービスもあります。筆者は小諸の明治学院ワインがお勧めです。
雨の中、戸塚駅の東口まで駅舎のコンコースを渡りました。駅舎の跨線橋の上にベッグコーヒーが出店していました。ポスターに美味しそうなサンドイッチが案内されています。長野産の鹿肉を素材にしたサンドやハンバーグのようです。野生の鹿肉をジビエと呼んでいるようです。ジビエとは狩猟によって、食材として捕獲された野生の鳥獣の事で、私はウィーンで食べたことがあります。味の濃い赤肉でした。
熊本の鹿牧場で鹿の角ワインを飲んだこともあります。長野ではカモシカを含めて野生のシカが増えすぎて被害を被っているのです。厄介者の鹿を駆除して貰ってその肉を捨ててしまっては山の神の怒りを買います。自然の摂理に反しています。フランス風に料理して食べさせれば、狩猟された鹿も往生するものでしょう。最近は工夫して安定供給できるようになったのでJRの駅舎内のメニューに載っているのでしょう。良い事だと思います。
一昨年は本栖湖の湖岸で鹿肉のカレーを食べる機会もありましたし。昨年は愛知県の足助で猪料理店を確認しました。スタジオジビエでは鹿肉を中華料理で案内しているそうです。数年先には丹沢や秩父に行けばジビエは珍しくなくなっていることでしょう。
足助では紅葉の天麩羅が人気でした。馬肉の鍋が「桜鍋」なら猪の鍋は「牡丹鍋」ならば鹿の鍋は「紅葉鍋」とも呼ぶのでしょう鹿肉に猪肉それに鴨肉を加えたお鍋ならジビエの三種鍋で「亥の鹿蝶鍋」と呼べるでしょう。
信州新町の道の駅に行けば三種のお肉を求められるかもしれません。
体調が戻るに従って食欲が先行して復活したようです。
次回は此処ベックスでジビエのドッグを戴く事にしましょう。
テレビでは助走の為に放牧しておいた山羊がベトナム人によって食べられてしまった報道しています。テレビ解説者は可愛がっていた子供達が可哀想だ憤っていましたが。問題があるとすれば成熟した山羊をどうするのか考えておかなかったことでしょう。ベトナム人ならずとも成獣なら採って食べたい思うのは理にかなっています。可哀想だと怒るのは世界常識に欠けているんです。
イメージ 3
 
イメージ 6
JR東日本の駅中事業ベックスのこの秋の看板はジビエです。今年の流行語になるかな?
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

最期に「さいわい」と思わせてくれる花

$
0
0
「横になって考えます。幸福って何なのだろうか?死ぬ瞬間に「さいわいな人生だった!」と思えるだろうか?何時が一番幸せだったろうか?」幸せだった時と言えば「結婚式でワイフの花嫁姿を見た時、初めての子供を抱いた時・・・・。子供達と笛吹川の河原で花見をしながらお弁当を食べた時」想い起します。「さいわい」を嬉しく思った時は何時も自分と家族の命が漲っていて、花が咲いていました。「さいわい」の古語は「さきわい」で「さく」と「わい」の合成です。「さく」は「さくらさく」の咲くで「わい」は常態を意味しています。ですから「さいわい」という大和言葉は「咲き続ける花を見続ける気持ち」という程度の意味でしょう。
ですから、日本人の理想とする死に際は言われる西行法師往生でした。
願わくば 花の下にて 春死なん その望月の如月の頃
西行法師はとは「さいわいを思いながら黄泉に旅立ちたい、具体的には満開の桜の花を愛でながら死にたい・・・」と歌い、歌の通りに亡くなったのでした。
遠藤周作さんの随筆「老いて思う事」(新潮1月号)を読んで驚きました。作家としても最高の業績をあげ宗教人としても尊敬を集めている賢人も昨今は友人を相次いで送別しておいでだそうで、次のお呼びは自分の番だと思うそうです。、自らも死を自覚して何を想うかと言えば深夜にも体が震えるほどに怖いと言われているんです。そう思うようになった契機は周作さんが尊敬する「グレアムグリーン」晩年に牧師に「自分は次第に信仰を失いかけている」と告白して居られた事を確認した事なんだそうです。
日本人が尊敬する始祖親鸞も道元も死を直前にして「さいわい」を感じていたかは定かではありません。周作さんでさえ迷っておいでなのですから・・・・、私のようにたいした業績も残せず、中途半端な思索を繰り広げた凡人の往生際がどうなるのか甚だ不安です。
でも幸いな事があります。日本の国には何時死んでも何時も花が美しく咲いているのです。旅立つときに灯りと花は欠かせません。
春なら勿論「桜」が、夏には「卯の花」が、秋には菊や萩がそして冬にも「柊」や水仙に山茶花も見事に咲いています。何時お迎えが来ても「さいわい」と祝福してくれるんです。最近は冬空に皇帝ダリアが見事に咲いています、咲いている花を観ながら黄泉に旅立つのも「さいわい」でしょうが、そんな光景を自分の魂が亡骸から遊離して眺めているそんな場面も「さいわい」だと思うのです。
暗夜行路とは黄泉への道が真っ暗だからでしょう。真っ暗な夜道を照らしてくれる灯が欲しいものです。
もう歳末です今年も遊行寺では『御滅灯(一ッ火)』の祭りが執り行われます。
一筋の灯りと「さいわい」を感じたいものです。
イメージ 1
  冬空に見事な皇帝ダリアの花、最近は随分増えました。
イメージ 2
  冬桜も「さいわい」を催してくれる花です。
イメージ 3
嫁菜も赤まんまも送り花としては「さいわい」な花でです。
イメージ 4
遊行寺の枝垂れ桜樹下には静雲さんの歌碑と墓が立っています羨ましい程の樹木葬です。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

日吉の翌檜(あすなろ)

$
0
0
12月8日、今年最後の日文研セミナーでした。私は日吉キャンバスの銀杏の黄葉を観がてら慶応大日吉キャンパスに出かけました。私の住む戸塚から日吉に出るには、乗り継ぎが大変です。とりわけ、横浜駅の人波を通り越すのは難儀です。杖を突いて、左腕を肩から吊ってぴょこたんぴょこたん歩きます。東横線は地下5階で、乗り継ぎ階は地下3階です。人にぶつかって倒れたら、リハビリの苦労も水の泡でになってしまいます。こんな身障者か混雑の中を歩くのも健常者には迷惑な事でしょう。
そんな苦労も日吉の駅舎を下りて日吉の井長男に気を見た瞬間に吹き飛びました。
イメージ 1
日吉駅東口から見た慶応大学の銀杏並木この銀杏も傘寿80歳になって当初デザイン通りの風格が出て来ました。左脇校舎との空間は翌檜の林です。
イメージ 2
この日はグランドでソウルの延世大学とのサッカー定期戦が挙行されていました。 
真っ青な空に向かって金色の円錐が突き立っているのです。ゴチック建築の尖塔のようにも見えます。日吉キャンバスは東急電鉄の五島慶太が1929年(昭和4年慶応大学に用地を寄贈した事に始まります。五島は阪急の小林の手法にならい沿線に東京工業大学を誘致し東横沿線の付加価値を高めていました。東横沿線は学園都市として付加価値が高まっていくことになり今も良いイメージを保ち多くの通学生や住人を抱えて順調な経営を続けています。
駅から校舎に繋がる正面口に銀杏を100本4列に並べました。大学のシンボルツリーに銀杏を選んだのは銀杏が病気に懸らない、防火壁になる夏には緑陰を提供し秋には見事に黄葉するそんな特長を根拠に選択したのでしょう。。序に唯一の欠点銀杏の実の臭さ対策として雄の木を優先したようで。銀杏のなる木は少ないのです。銀杏は西美のあたる坂道に並べました。そして銀杏が「陽」なら「陰」の木として常緑の翌檜(あすなろ)を銀杏の脇に並べました。翌檜は漢字の通り明日には檜になろうと言う木です。井上靖は「翌檜物語」を発表します。伊豆の湯ヶ島で育った井上靖の少年時代を写した小説で。翌檜は一見すれば檜のようにも見えるものの檜のような大樹には育ちません、一生細い木のままです。でもいつかは檜になりたい・・・心がけこそ尊いものです。デザイナーな大きな銀杏の木の脇に丈こそ低くとも必死に天に向けて梢を拡げる翌檜の志を学生達に見せたいと思って日陰に翌檜を植えたのでしょう。
イメージ 3
校舎と銀杏並木との狭い空間には翌檜の林になっています。
日吉キャンバスにはもう一つ歴史の皮肉が隠れています。台地の地下に海軍司令部があったのでした。
地下にはトンネルが阿弥陀くじのように掘られていてトンネルの先の小部屋を繋いでいます。全体で海軍の総司令部でした。海軍の将校達は地下壕の中に潜んで戦艦大和の出撃を命じ人雷(人間魚雷)の出撃を命じたのでした。今見れば核シェルターを見る思いがします。将校は自分が痛い思いをしないで死ねる分のモルヒネを携帯していたそうです。大学の地下に総司令部を置く、そんな計画に学内で反対は無かったのでしょうか?当時の塾長は小泉信三先生でした、総じて大勢に協力的な姿勢が目立ったようです。そんな大学に血の涙を流した人も多かったことでしょう。 
イメージ 7
  日吉キャンバスの地下にあった海軍司令部の塹壕(出典大学のホームページ)http://teishoin.net/blog/005075.html
この日は、キャンバスのグランドでは延世大学(ソウル)との定期船戦が実施されていました。韓国の大学生はこのグランドの地下に海軍司令部が在ったのだ、知ったら定期線を止めよう言い出すような気がします。
イメージ 4
セミナーの終わる頃には陽も沈んでいました。大学は西斜面にあるので月(この日は満月)は見えませんでした。
午後5時過ぎ日文研セミナーも無事終了しました。面白かったのはUさんのお話で、私の同期で信頼するTさんのお話でした。同女のお父上は有名な作家で、ルーツは豊後秋月藩の御典医で、殿様の息女との間で子が出来たのが始まりだそうで・・・・今もT女は「お姫様」で通っているとの事だそうです。何のことは無い先日家内と見た映画「蜩の記」そのもののような話でした。「蜩の記」はTさんが書いてこそ良かった想いました。バスの停留所から家まではピョコタン・ピョコタンと歩きます。ワイフに遅れないように必死です。満月がそんな夫婦を見送ってくれます。今年最後の満月です。家に戻ったらお団子を戴く積りです。日吉の駅舎で求めた栗団子です。私のとっても今年最後のお団子です。
イメージ 5
お月見団子は栗餡です。
 
私はもうじき脳梗塞発症一年です。ワイフにも家族にも友人にも心配をかけた1年でした。でも災いのお蔭で、「日向」ばかりでなく「日陰」にも目をやる事を覚えましたし。自然にも友人にも優しさを教えられました。日吉の覆朝の根元には龍の髭が植えてあり髭は真っ青な球を抱いていました。玉は日陰にこそ潜んでいるものです。倒れたら流の髭の珠を掴んでいたそんな心境です。
イメージ 6
銀杏の根元を覆っている龍の髭の青い球(種子)
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 
 

朝陽のあたる家

$
0
0
私の家は柏尾川の東、三浦半島地盤の西際にあります。向かいの丘は朝陽が燦々とあたっています。窓から眺めると陽の当る向かいの家が羨ましく思えます。向かいは多摩丘陵の東際なのです。多摩丘陵は私の家がある三浦丘陵に較べれば歴史も古く安定しています。
この秋横浜では土砂崩れが発生、2人も亡くなりました。土砂崩れは何れも三浦丘陵で発生しています。
横浜と東京の境に流れる川が境川で柏尾川もその支流の一本です。横浜市と町田市の境は入り組んでいます。相模の国と武蔵野国の境界が入り組んでいるのは。地勢に起因しているのです。
私には向かいの陽の当る家を見ていると思い出すフォークソングがあります。
イメージ 1
夢中だったピーターポール&マリー出典http://hide2338001.at.webry.info/200905/article_27.html
PPМが歌った「朝陽の当る家。"The House of the Rising Sun" 」がそれです。中学生の頃皆で歌っていました。特に英語で歌える人はスターでした。この歌はミシシッピ川河口にある大都市ニューオーリンズのフォークソングで、家は刑務所(もしくは少年院)を指すと思れました。一般民家は朝陽の当る家は暑いので一種の侮蔑感を持って観ていたのでしょう。向こうの家は良く日が当たっているものの、実は少年院(孤児院」であって・・・・。被差別の歌」だと思っていました。それが後年ちあきなおみが歌った歌詞を聞いて驚きました。ちあきなおみの訳詩では「私が着いたのは ニュー オーリンズの朝日楼という名の 娼婦館だった、愛した男は戻らなかった・・・・・。」てな具合です。フォークソングをどのように訳すのも訳詩者の裁量でしょうが、娼婦館と少年院では違いすぎます。フォークファンにとっては侮辱と思われるめ迷訳詩でした。ニューオーリンズは夏暑く湿度も質も高いのでが「陽の当る家」は嫌われていたものの、横浜は寒いので陽の当る家が望まれているのです。
イメージ 2
宇陀の阿騎野の朝陽逆の位置にお月様が沈んでいったのです。日本人の叙景歌であり同時に心情に根差した歌です。参考http://inoues.net/club/ohuda_akiruno4.html
 
人がお日様を背にして立ちます。すると右側が東で字の通りお日様が昇る方角になります。逆の左側が西でお日様が沈む方角になります。そこから命は東から産まれて西に沈む(往生する)と確信されました。三輪神社もお伊勢様も東丘陵に南面して建立されました。逆に西は聖の行くところ(極楽)と考えました。ミレーも種蒔きの絵は東向きに「落穂ひろい」や晩鐘は西向きに描きました。
イメージ 6
ミレーの落穂ひろい群像は西向きに描かれています。逆に種まく人は東向きに描かれています。
イメージ 3
奈良大三輪の神社は大和盆地の東際に在り、西際には二上山があります。
人間は太陽の登る方角に向かって歩くのが自然です。ですから古代の人は外出するときには方角を大事にしました。京都の人は比叡山の方角に先ず一歩進んでから、東山で一泊して目的地に向かった授業で教わりました(方違い)
東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」
来春、日文研では奈良を旅します。伊豆で広い奈良の何処に行こうか?相談したところ1期のAさんが柿本人万呂のの歌の場面(阿騎野)に立ちたい言われ、上の歌を朗々と歌われました。
情景は春の朝ぼらけの野の雄大な風景に心打たれてその様子を率直に詠んだものでしょうが、
私達の心情は叙景以上のものがあります。
東に朝陽が昇って西に月が沈んでゆく、情景以上のものとは人生や命の輪廻です。その生命感が景色に込められていているのです。
奈良の旅は私達が敬愛する西行法師の生誕地と墓(葛城の弘川寺)を詣で、吉野一泊(宿でT名誉教授の西行の講座を受講)の予定です。
イメージ 4
学生時代泊まった明日香の民宿にも泊まる予定です。石舞台古墳も桜に飾られるようになりました。
イメージ 5
後藤又兵衛の桜も阿騎野の近くです。(軍師官兵衛の最終回で、どうも又兵衛が〆るような気配です)
人麻呂の歌を詠むとワイフの想いも代弁しているように響きます。
「古希も近づいて孫も産まれて嬉しいのだが・・・横を見れば主(即ち筆者)が傾いてきてしまった・・・・。
人生晩年になると東も西も見渡せくるようです。
余生は美しい瑞穂の国を存分に眺めて先に黄泉に行った友人への土産話にしたいと思います。
この調子ならマダマダ行けそうです。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。


たましいの尻尾

$
0
0
NHKテレビで京都東山南禅寺脇にある別荘邸宅の庭を放映していました。明治27年、琵琶湖の水を京都に送るようになって東山の借景と琵琶湖疏水の引き込みを活かした近代的日本庭園群を七代目小川治兵衛が中心になって別荘に開発したものでした。重要文化財2点を含めて圧倒的な美しさです。京都のお庭は室町時代枯山水の盛行時、そして江戸時代初期の遠州好みの綺麗な茶庭に次いで近代的な生活様式と伝統的な様式が合体した昭和モダニズムの生活庭園、の3タイプが残されていますが小川治兵衛は三つ目の現代庭園を開拓するチャンスに恵まれてその才能を、デザイン能力を発揮したのです。全国で小川治兵衛のお庭は見たのですが、南禅寺界隈別荘こそその白眉と評されるでしょう。
イメージ 5
  南禅寺南の対龍山荘(NHKテレビ画面から)池の水は琵琶湖疏水、借景は東玉の峰々紅葉と松が見事です
イメージ 1
紅葉を池に映す仙洞御所
桂離宮も修学院離宮も素晴らしいのですが。近代に作られたお庭にこそ魅力を感じます。昭和47年11月27日私は結婚して。先ず京都に行き御所仙洞御所を見学しました。小川治兵衛のお庭は紅葉の散り際が映されていました。私達は暫し新婚旅行の思い出を話しました。その夜は城崎に泊まり翌日は宍道湖に近い玉造温泉に泊まりましたが朝起きると吃驚大変な積雪で、三朝や出雲はそこそこにして、岡山吉備津に出ました。
玉造温泉でワイフは翡翠の勾玉を求めて嬉しそうでした。
イメージ 2
筆者新婚旅行玉造温泉。降雪に驚いて行き先を吉備津に変更しました
イメージ 3
これが翡翠の勾玉です。
イメージ 4
勾玉を組み合わせれば巴紋になります。神田明神(将門)の神紋です。
 
玉の形が気になります.玉と言っても休憩の部分(頭)だけでなくの尾の部分とで合成されています。
全体でミジンコの形か出生前の胎児の形に見えます。勾玉とは玉と言うよりは「命」の形なのです。
キリスト教社会で命を表す形と言えば「ハート」形で右手と左手で心臓の形を造ります。それで「lab」なんです。
これが中国では一合枡(方寸)になります。中国人は心臓が1合枡の形だと思っていたのでしょう。それが日本では勾玉の形になります。頭と尻尾がセットで命なのです。子内親王の歌に次があります。女性が一番共感する歌です。
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
歌の意味は「命が絶えるなら絶えてしまえ。もし生きながらえていると、隠し続けている私の心が弱まり、恋心を(まわりの人に)知られてしまうだろうから」といったものでしょう。出来れば恋心が燃え盛ったままで命を終えたい。恋が終わってしまったら最悪で、そんな場面は見たくない・・・・、そんな思いです。この恋心が誰に向けられていたのか?日文研では何時も話題になります。男性はこんな対象になりたいものだ ・・・・夢のように思いますし。女性はそんな素敵な男性は存在しないとは思いながらもそんな熱い思いに身も心も燃やしてみたい思うものでしょう。命が一番燃え盛るときが恋心で「萌」なのですから・・・。
霊断ち/たまだち」という言葉があります。意味は霊の緒を切ることです。玉を繋いでいる紐を切ってしまえば玉はバラバラになって散ってしまいます。霊は魂魄で出来ています。「魂」は魂の事で心です。魄は体の事です魂魄を断つとは心が体を離れる事で死ぬことです。魂が勾玉の頭なら「魄」は勾玉の尻尾で。別れた時が死ぬ時です。死んでも「魂」は残るものの魄は枯れたり腐ったりしてしまいます。
イメージ 7
これは狐火(王寺稲荷の狐火)ですが火の玉の形をしています。
そこから幽霊は火の玉になって魂(心)が身体(魄)を求めて彷徨うと考え、幽霊の出る前には火の玉が飛ぶと思ったのでした。神田明神の神紋(巴門)は良くデザインされたもので霊が魄を求めてぐるぐる回り(輪廻)していることを言い表しています。
私達は輪廻の思想は仏教が伝えたものとばかり思っていましたが実は有史以前の勾玉にもそうした考えがあって、命が循環すると考えていたのでしょう。だから仏教が比較的スムーズに受容されたと思います。
さて、小川治兵衛のお庭に戻ります。
イメージ 6
碧雲荘のお庭に置かれた酒船石遺構の一部分(出典前述)
野村財閥創始者(野村徳一)の作った碧雲荘のお庭に奇妙な石がありました。
何処かで見た記憶があります。そう奈良明日香村の酒船石です。丘の中腹竹藪の中にポツンと残されている酒船石です。私が学生の頃はこの石の上に穀物を載せて磨り潰してお酒を醸造する準備をした教わりましたが最近は飛鳥板葺の宮の発掘が進んで、池に水を注善ぐための装置の一部であったと言われています。碧雲荘には酒船石の一部が置かれているのです。
金満家が明日香から取り寄せたのでしょうが如何にも趣味が悪いと思われます。出所が判明したのなら明日香村に戻すのが良識と思います。石も酒も古代の人が神に寄せた敬虔な思いを伝えるものですから。勝手に庭に置いて自慢するのも程々にしてほしいと思います。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 
 
 

柏尾川「いのち」の授業

$
0
0
12月9日東戸塚小学校の先生から電話がかかりました。『同校のお祭りに私が展示した「生物一杯柏尾川」を3年生の授業でしてほしい』といった趣旨の依頼でした。
授業時間は16日(火)の2校時(10時から45分)です。私は嬉しくて快諾いたしました。3校時終了後は給食で、付添いのワイフ共々戴くのだそうです。
電話を受けて以来私はどんな順番にどんな話をしようか?頭を巡らしています。今朝はそのレジュメ作成を兼ねて授業の概要を案内してみたいと思います。
【オナモミの種】
『昨日柏尾川で見つけた雑草「オナモミ」の種です。これは死んでいると思いますか生きていると思いますか?』
冬になったので雑草は皆枯れてしまいました。
雑草は緑色でみずみずしい時は生きているでも枯れて茶色になったら死んでしまった思う人もいるでしょう。
ところが茎は枯れても種は生きているのです。種が地面に落ちて春になれば芽が出てきてまたみずみずしく生き返ります。
イメージ 1
これが「オモナミ」の種。種の先に着いているフォックが衣服にくっ付きます。吉田工業はこれを観察してファスナーを想いつきました。
【燕と雁が覘いて行く】
校歌に鳥が二つ出てきます。知っていますか?
「東戸塚小学校の学び舎を燕も雁も覘いて行く・・・。」柏尾川は燕にとっても雁にとっても大切な川なんです。燕は初夏には柏尾川で虫を取って子育てをします。そして初秋には親子そろって南方に渡って行きます。校舎の渡り廊下の波板の陰に毎年巣作りをしていますね。
一方雁は晩秋にシベリアから日本に渡って来ます。シベリアは冬には凍ってしまうので日本で冬を越すのです。そして初夏には子供を連れてシベリアに帰って行きます。オモナミの種も田圃の落穂も雁の食べ物になるのです。校歌【サトウハチロー作詞】には燕や雁が子育てをするような学校で子供達が元気に生き生きと育ってほしい、そんな想いが込められているのです。
イメージ 2
お父さんが食事【虫】を運んでくるのを待っている燕の子
イメージ 3
子育てをするカイツブリの親子お父さんは海老を赤ちゃんにあげます。お母さんの羽の中には子が沢山隠れています。
イメージ 4
冬のカルガモ柏尾川はカルガモにとっては安全な棲家であり餌場でもあるのです
吉田に倉田】
君達のお家は何処にありますか?そう学校の北東は吉田町ですね、南は倉田町ですね。どちらにも共通していることがあります。そう「」という字です。田という字は四角く囲って真ん中に道が通っています。四角く囲っているのはプールや池のように畔を作って其処に水を貯める意味なのです。学校にも田圃があるから皆知っているでしょう。吉田町は沢山収穫される良い田圃であったからその名が付いたのでしょう。東戸塚小学校も60年前までは田圃で冬は競馬場になっていました。戸塚は日本で最初に酪農がおこなわれていたのでした。倉田はお米の倉庫【飢饉対策や種籾を貯蔵した】があったのでした。吉田も倉田も柏尾川の水を上手に使って米作が盛んだったのです。ところで皆さんは学校の田圃に肥料を入れた事がありますか?そう無いですね肥料を入れなくてもお米は収穫できるのです。何故だかわかりますか?」
『そうです。肥料は太陽が贈ってくれているんです。燦々と太陽が降り注ぐと田圃にはプラントンと呼ばれる生き物が出来ます。これが肥料になるのです。日本を瑞穂の国と云ったりみずみずしいと言うのはこのことです。
そんな訳で水は大事なのです。叔父さんが君たちの歳の時に田圃に農薬や肥料が投げ込まれました。。工場からは毒『ヒ素や燐」が流れ出しましたそうしたら虫も魚も死んでしまいました。燕も雁も居なくなりました。水が命の始まりなのです。オモナミも水気が無くなれば枯れてしまいます。でも水に浸_せば生き返ります。(芽が吹きます)命は水の事なのです。
【食物連鎖】
ところで柏尾川で一番強いのは誰だと思いますか。叔父さんは柏尾川で観察しています。
魚を食べるのは鷺です。鷺は細い首をしているのに大きな魚も牛蛙も呑み込んでしまいます。
イメージ 5
鼠を丸呑みする青大将
イメージ 6
雨蛙を呑み込もうとする山かがし
イメージ 7
牛蛙を呑み込むあおさぎ
イメージ 8
鯉を呑み込むアオサギ
 
そんな鷺の卵も幼鳥も青大将は吞んでしまいます。だから最強は青大将でしょうか?
青大将より強い者が帰って来ました。それは大鷹や隼です。大鷹や隼も鼠や蛙を食べますから蛇のライバルでもありますが蛇なども餌にしているのです。でも、広い柏尾川流域でも限られた数しか生られません。最近大鷹や隼が戻ってきた事実は柏尾川の生き物が豊かである証と言えるのです。
イメージ 10
柏尾川の隼【長元坊】咥えているのはトカゲでしょう。鼠や小鳥を好物にしています。
イメージ 11
戸塚亀井野の水道橋に巣食っている長元坊子育てが上手でもうじき巣立って南国に旅立ちます。
イメージ 9
フェンスに鷺を追い詰めて食べてしまう大鷹
私達はお米を食べて来ました。私達の命をはぐくんできたのはお米でお米はお水で育ちます。お水は人間だけでなく総ての生き物の命であります。
居間この時にも綺麗な水が飲めなくて死んでゆく人が世界には沢山いるのです。そう思ってお水を大切にしましょう。
そして時々柏尾川を覗いてみてください。海よりお魚が沢山いるのでカモメやチドリが江の島から其処の川に登って来ているんですよ。若しも鷽が見えたら幸運です。不運が嘘になって幸運に代わってしまいます。鷽は天神様のお使いなのですから・・・。
イメージ 12
今頃群れでやってくる鷽
 
今日は私とお勉強してくれて有難うございました。風邪に気を付けて良いお正月を迎えましょう。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

多民族国家への道

$
0
0
12月10日ラジオで聞き慣れない言葉が報じられました。
「京都の名所産寧坂で強制代執行が今朝実施されています・・・・。」
場所は京都の清水寺への参道である産寧坂です。近くに高台寺もあるし、銀閣寺への近道でもあるし、何時も何時も観光客が賑う露地です。そこで京都府が強制代執行とは穏やかではありません。何が原因で適格なプロセスを踏んでいるのか興味を持ってネットで確認してみました。又今朝もテレビで報じていました。
イメージ 1
京都の産寧坂、清水寺の帰り道には八坂の塔を眺めながら下って銀閣寺や高台寺に回ります。年中観光客が絶えない露地で清水焼を始め京都の土産物屋が軒を連ねていました。
京都の清水さんにお参りするには1年坂2年坂3年坂(産寧坂)と上って行きます。子安観音様に「お産が寧か(やすらか)でありますように」と祈願するために登る坂であることから「産寧坂」と呼ばれるようになったという言われますが。安産だった後には必ずお礼詣でするので「再念坂」とも言われるようです、その時にこの坂で転ぶと三年以内に死ぬと聞かされたこともあります、ですから脇見をしないで一歩一歩石畳を歩いて行かなければいけません。坂を下るときに露地の向こうに「八坂の塔」が望めます。音羽山【清水寺】の並びは鳥辺山(風葬の丘親鸞が葬じられた大谷がある)ですから、京都の東山は生死は隣り合わせお山です。
強制代執行はこの産寧坂でチリ人の針金細工の職人が店舗を出店し、民家の板塀を剥がしてショーウィンドーとして活用していたのでした。同工事が伝統的町並み保存地区の条例に合致していなかったこと。(テレビ報道では家主が板塀を剥がしてショーウィンドーにしていたものであって、家主がチリ人に賃貸借する時に説明をして置かなかったのが紛争の原因のようです)ショーウィンドーを使い始めてから、1年余り京都府の指導を受けたにも係らず順法の姿勢を見せなかったことから今回強制代執行という荒療治に踏み切ったようです。伝統的に革新色の強い京都ですから。荒療治を実施するまでには十分な時間と協議をしたものと思います、テレビ画面は似合わない作務衣を着こんだチリ人が「何で自分だけ苛められるのだ!」ショーウィンドーが駄目なら私の商売は出来ない・・・・・・叫んでいました。
イメージ 2
テレビ朝日のモーニングバードに映されたチリ人の針金細工屋さん。日本語は流暢ですし、奥さんは日本人ですから日本に長期に在留する資格はあります。日本に同化する資格(言葉と法律)は二つパスしているものの三つ目の文化的壁障壁で撥ね返されてしまいました。
私は京都府が此処で営業するのは構わないが板塀石垣石畳漆喰壁で産ネ寧坂の街並みが構成されているのだから、ショーウィンドーは街並を壊している旧状に戻してほしい・・・」指導していたものと憶測しました。
同じような例は日本人は世界中で経験しています。ロンドンやパリの旧市街地で再開発するに際して中世からの景観である石積みの壁を残すよう指導されて経済的合理性を犠牲にして表面の石積みを保存してきました。
イメージ 4
強制代執行でショーウィンドーを板張りしている京都府職員出典は毎日新聞【http://news.goo.ne.jp/picture/mainichi/nation/mainichi-20141210k0000e040178000c.html
イメージ 3
日本でも遅らせながら景観は公共財であるとの考えが一般化してきました。世界中の人が日本の街並みを評価して東京でもターミナルのホテルよりも谷中や浅草の旅館に押し寄せているようです。まして京都なら日本情緒の家並みを歩きたいでしょう。そして鴨川の川床で和食を堪能して貰いたいものです。
産寧坂には和風の土産物店に甘味店が並んでいますが、その隣にチリの針金細工店があってもチリ風ミートパイのお店があっても良いと思いますが。街並だけは調和してておいてほしいものです。
でも今回のトラブルは「日本の国際化を考える機会を与えてくれたように思います。
今日本には200万人の外国人が働いていると聞きます。人口の2%が外国人で、日本の国の活性化のためには今後ますます増える事でしょう。日本で生活したい外国人は沢山いる事でしょう。その障壁の第一が言語です。日本語は難しいから覚えるのが難儀で第一の障壁になっています。次に障壁になるのは法律です。日本に長期滞留する許可は中々おりません。「私はチリ料理が得意です、チリの細工が出来ます」では長期滞在ビザはおりません。どうにかこうした法的障害をクリヤーできても最後の難関が文化的障壁です。幸い日本人はマルチ好奇心がありますから外国人の文化に興味を持ちますし、特に食べ物や音楽舞踊には好意的です。チリ文化にも好意的な関心を示すことでしょう。でも「心の壁」を解き放つ為には「和」とか「間」といった文化を理解し、共有する事が肝心です。件のチリ人は言葉も法律も二つともクリヤーしていますがもう一つ問題があったのでした。だから今もって「自分だけ苛められた」文句を言い続けています。テレビ画面を見ていると気の毒に思えてきます。。
」だらけの日本文化は多様な文化を受け入れる余裕がありますし。多様な文化を受け入れて調和させる「の精神」に満ちています。今暫く日本に滞在して日本文化に溶け込めば自分の作品が、家族が日本で生活する術を探し出すことでしょう。
京都の人も件のチリ人が「ユネスコの文化遺産に指定された町並みを壊すのなら京都から出ていけ」というのではなく、「文化的多様性を身につける」方法を教えてあげて欲しいものです。
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 

お酒は文化産業です。

$
0
0
NHK総合テレビ「家族に乾杯」で山形県大石田町が2週間にわたり放映されました。私の敬愛する斉藤茂吉の故郷であり釈迦寝仏でも有名な大石田町ですから期待して見詰めました。感心したのは89歳のお爺さんが隗の木の枝打ちをしていたこと。「魁より始めよ」の隗の木です。一見するとアカシアのように見えますが、材木にして孫子が家を建てるときに製材するんだとの事でした。材木になるには後50年は必要だとの事。その頃にはお爺さんは150歳です。
その次に14代という醸造酒(高木酒造)が映りました。十四代は山形の日本酒で非常に高級なプレミア銘柄として有名なのだそうです。私がサラリーマン時代は「越の寒梅」がプレミア銘柄でした。去年は和食が今年は和紙がユネスコの文化遺産に指定されました。来年は「日本酒の番だ」私は確信します。そんな次第で今日は日本酒の話をしたいと思います。
イメージ 1
山形県大石田町にある高木酒造14台という名の吟醸酒がフルーティーで大人気商品だそうです。近代的な建屋に改築されたようですhttp://jyuyondai.seesaa.net/article/126900304.html
初代は江戸時代初め、14代に至って大爆発したのでしょう。隗の木を育てるのもお酒を醸造するのも長い歳月がかかるものです。でも共通しているのは厳しい村山地方の風土と濃い人情です。4年前日文研で月山湯殿山の麓を巡りましたが、大石田には寄りませんでした。次の機会があれば是非とも逗留したい、思いました。
 
先日日文研では西伊豆を廻りました。修善寺の桂川を眺めて居た時親友のH君が言います。
「自分は数年前奈良の正暦寺に紅葉を観に行った、行ったことはあるか?是非行きたまえ!」そんな話でした。勿論私はワイフとも行ったお寺でしたから話は合いましたがもう一つ盛り上がりませんでした。
今思い起こすとH君はお酒の話をしたかったようです・・・。
イメージ 4
奈良正暦時の紅葉方丈のような建物ですが此処にご本尊の快慶作孔雀明王像が祀られています。
イメージ 7
正暦寺は渓流沿いの紅葉の道です。彼岸花の季節も良い処です。
イメージ 5
正暦時の薬師如来像、白鳳時代の銅像ですが香薬師像(新薬師寺)を喪失した今貴重な白鳳時代の銅像です。深大寺にも同時代の金堂仏が祀られています。重文の快慶作の句jy核明王像も彩色が見事です。
イメージ 8
正暦寺日本酒発祥の地記念碑。律令制度が確立され、造酒司(さけのつかさ)という役所が設けられ、酒の醸造体制が出来ましたが実際にお酒を醸造したのは力のある神社や寺院だったようです。「不許葷酒(くんしゅ)入山門」(臭い食べ物やお酒は、山門に入るべからず」禅寺に刻まれていますが、実はお坊さんはお酒や肴が好きだったのでしょう。一休さんは女性もお酒も大好きだったようでしたし・・・・・・。地獄絵図にはお坊さんが地獄の責め苦を受けているものが多くあります。お寺にはお酒がつきものだったと確信します。お坊さんの難敵は酒の誘惑だったのでした。何故ならお寺の闇の中で醸造していたのでしたから。
 
H君の母方のルーツは長野の善光寺に近い造り酒屋ですから。正暦時は稼業のルーツになります。
正暦時は奈良盆地から東を見て三輪山とその左手の巻向く山との山峡に位置する古刹です。延暦寺にも勝る正暦寺が名前ですから畏れ多いお寺で、このお寺が日本酒の起源と言われているのです。
奈良漬けは奈良の名産品ですが。奈良の醪は江戸時代から有名で。奈良漬け屋さんのルーツを訊くと大抵が奈良の造り酒屋です。律令時代に奈良のお寺や神社がお酒を醸造し呈たのでしょう。そして、酒かすを再利用して畑の野菜を漬けたのが奈良漬けの始まりと思います。
もうじき、酒林(さかばやし)とも呼ばれる杉の小枝を編んだ杉玉は造り酒屋が軒先に緑の杉玉が吊りだされます。酒林を見ると山頭火は吸い寄せられたのでしょう。酒林は新酒が出来たことを知らせる役割を果たしました。「日本酒版ボジョールヌーボ」の看板でした。三輪大社の酒林が始まりと言われています。
何の事は無い日本酒も奈良がルーツで。三輪山の近辺で始まったのです。
イメージ 2
奈良大神神社の杉玉懸け(出典奈良新聞http://www.nara-np.co.jp/20111113104331.html杉の小枝は三輪山から採取したもので150キロにも及ぶ重さだそうです。お巫女さん二人で吊るせるとは思えませんが…)
「日本酒は何時から始まったか?」興味があります。日本酒が記録に最初に登場するのは「魏志倭人伝」です。同書には倭国の卑弥呼を次のように記しています。『人性嗜酒(さけをたしなむ)/その人は酒が好きでした』と評しており、喪に当たっては弔問客が「歌舞飲酒」をする風習があることも述べています。葬儀で酒を飲んで踊るのは異常に見えたのでしょう。酒と宗教が深く関わっていたことは今も昔も変わらないのです。葬式の精進落しにお酒は欠かせません。でも卑弥呼の酒が具体的に何を原料とし、またどのような方法で醸造したものなのかまでは、この記述からは解りません。でももう一つ確かな事実を伝えています。禁酒命令が大化の改新の翌年には出ているのです。それほどまでに日本人は酒好きでした。
都が奈良から京都に移ると酒造りも京都『伏見』に移ります。
酒造に係るお寺や寺院が京都に移ると需要の供給も引き連れて行ったのでした。
しかし江戸時代初頭には酒造は伊丹の酒屋の寡占になります。伊丹の酒蔵は伏見と同じ公家好みの上級酒を量産して専用船(菱垣廻船)を作って江戸に送りました。江戸の新川から茅場町に酒蔵が軒を連ね酒蔵から江戸の下町に武家屋敷に運んだのでした。伊丹の酒屋は上酒『上級のお酒』造りは伏見に倣いました。醪造りの手法は伏見に倣い永く持たせるために加熱殺菌する方法を編み出しました。。美味しいお生酒を造った伊丹の酒屋は江戸にターゲットを絞り、加熱殺菌して菱垣廻船を造船して江戸にお酒を送りました。当時成人は3合/1日も飲んでいたと記録されていますし。大名屋敷跡を発掘すると大量の徳利が出土しますので如何に江戸っ子が大酒飲みであったか解ります。
イメージ 6
江戸新川の運河沿いに並んだ伊丹の酒蔵(小西酒造保存出典はNHKトキメキ歴史館)
伊丹の次に市場を独占したのは灘の酒造蔵でした。
良いお酒を造るには美味しくお米を焚く事から始まります。お米の表皮などを削って(削り屑が糠になる)お米の髄だけを磨き出して焚いて醪を作る事に始まります。灘は六甲山から渓谷が流れ落ちる中流域にありました。その岸辺に水車を建てて水車で脱穀・精米をしました。更に出来上がったお酒を直接に港から江戸やに大坂に送るのに好立地でした。加えて豊富な資金力を使って、大きな樽を作らせ、信濃などの酒蔵に貸与し、その代金を先貸ししました。(灘から見れば先買い)その結果、お酒は灘の評価が定着しました。今でもお酒のブランドは伏見(公家向け)伊丹(武士向け)灘(町人向け)が競っているのは歴史の産物です。
江戸っ子は只管お酒を飲むことにだけに勤しみました。武士は武士らしく節度を持ってお酒を楽しむ「酒道」が盛んになります。一方町人はお洒落に粋にお酒を飲むことに熱心でした。
イメージ 3
江戸積銘酒名寄番付と呼ばれる全国の命鮎番付表右上朱筆の伊丹の老松が東の正横綱であることから同社が作成、保存している(出典NHKトキメキ歴史館)
 
お酒の飲めない人を下戸飲める人を上戸と呼びます。律令制(古代)に働き手が多い家を上戸と呼び少ない家を下戸と呼びました。祝の会が上戸であればお酒をたくさん用意しなくてはなりません。下戸であればお酒は多く要りません。だから飲める人を上戸、飲めない人を下戸と呼んだのでした。美人の上戸彩さんは上戸の出なのでしょう。私は下戸ですから、美味しい奈良漬けを食べながら酔っぱらう事にしましょう。で我が生家のお隣のお寺(蔵田田)の墓地には酒樽の墓石があります。戸塚宿の鈴木家のご先祖のお墓です。戸塚のような田舎にも狂歌が盛んで酒飲みが居たんです。
イメージ 9
戸塚の蔵田にある酒狂人のお墓
 
汐留の武家屋敷(伊達藩)を発掘した結果出てきたものは大量の徳利でした。伊達藩士は江戸勤めで毎日酒に明け暮れていたのでしょう。今はベイエリアに努めるサラr-マンが居酒屋を飲み歩いています。
伊達藩士は独り身の寂しさを飲んで紛らしていたことでしょう。酒の狂歌が流行ります。
われ死なば備前の土となしてたべ
          徳利となりて永く栄えん
と詠えば、国の奥様が次のようにに諌められたのでした。
私は幸い下戸ですから博多の中州でも札幌の薄野でも沈没の危険はありませんでした。
 望みなら備前の土になしもせん
          もしすり鉢になりし時には
 
貴方が望むなら備前の土にして差し上げ魔性。でも徳利になれれば良いのでしょうが、擂鉢になったららどうされます。  
江戸時代も現代も奥方は棘があるものです。棘でイライラするより奈良漬けでほろ酔いの方が幸せです。
テレビ(家族に乾杯)でも鶴瓶さんはお漬物(やっちゃん漬け)を戴いて嬉しそうでした。私も漬物を戴いて満足しましょう。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

旅行ブログ    

鹿に紅葉

$
0
0
お昼を食べたら一寝りする毎日です。ベッドに横になると障子に庭木の影が映ります。影が動きます。枝ごと揺れる事もあれば葉っぱがヒラヒラ舞って散る事もあります。そんな影絵を見ていると「葉っぱのフレディー」を想い出します。障子を少し開ければ紅葉が目に飛び込みます。
イメージ 1
 
イメージ 2
そう、紅葉を楓と書く意味が解るような気がします。風に揺れるから楓なのでしょう。こんな日は大好きな「鹿鳴集」を読みたいと、ワイフに頼んで書架から持ってきてもらいます。
こがくれて あらそふ らしき さをしか の
              つの の ひびき に よ は くだち つつ
しか なきて かかる さびしき ゆふべ とも 
              しらで ひともす なら の まちかど
イメージ 7
我家の散紅葉ワイフは毎朝お掃除が大変です。
イメージ 3
会津八一は奈良を詠じた歌の名を鹿鳴集とネーミングしたのは、前記の歌は何れも次の猿丸の次の歌を念頭に置いていたのでしょう鹿の寂しげな鳴き声に日本人は100年以上の間人生を仮託してきたのです。
 
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋はかなしき 猿丸大夫
会津八一さんは興福寺の北日吉館(旅館)に逗留して、春日の森の奥山で鳴く鹿を聴かれていたことでしょう。
春日奥山は磨崖仏も多い上に紅葉も見事です。会津八一さんはこの季節に紅葉を踏み分けて歩かれた事でしょう。
日吉館の向かい猿沢池の近くに 「十三鐘の梵鐘(国宝)」があります。興福寺菩提院で、明け七つ(午前4時頃)と暮れ六つ鐘が合計13回搗かれます。案内板には寺小屋でお習字していた少年が、脇に置いておいた草紙(お手本」を鹿が加え猿のを観て思わず手元の文鎮を投げつけたところ鹿の額に当って鹿を殺してしまったのだそうです。お定めに従って少年は死刑になり鹿もろとも埋められてしまいました。近松門左衛門はこの事件を浄瑠璃「十三鐘」に草しました。
イメージ 4
興福寺菩提院門前は見事稲紅葉で染まります。このお寺が13歳の少年の悲劇の舞台になりました。興福寺を隔てた北側が日吉館になり益す。私にとってもワイフにとっても日文研の友人にとっても日吉館は青春の舞台でした。
花札10月の札は鹿です。ソッポを向いた鹿と紅葉がデザインされています。大概はこのデザインは上記の悲劇を描いたものと言われています。私は鹿の鳴き声と紅葉の美しさを…猿丸の歌をデザインしたものと考えます。
イメージ 5
これが10月の花札鹿紅葉です。鹿がソッポを向いているのは悲劇を表していると言われます。
イメージ 6
猿沢の池池の上段春日大社の参道寄りに興福寺菩提院があります。
花札の10月は鹿ですが7月は『萩に猪』です
陰暦の7月は陽暦では8月そろそろ秋風が吹き始める季節です。その季節が何故萩に猪なのか不思議です。
イメージ 8
花札の役札の猪鹿蝶蝶が馬肉ならジビエの三役です。
何故光琳歌留多にこのデザインが選ばれたか不思議です。秋のお終いが鹿なのは解りますが始まりは何故猪なのでしょうか?
イメージ 9
猪が萩の寝床に休む図
猪と言えば猪突猛進で武士が理想とする勇猛を示します。そんな猪が風雅にも萩の花陰で伏しているのです。普段は風雅を愛し、イザというときには子供や主君の為に勇猛を奮い起こす、吾そんな姿が敬愛され花札にデザインされたのでしょう。猪に鹿とくれば次は牡丹です。どれもジビエ料理には欠かせません。鹿も増えすぎたし、昨今は猪が住宅街に出現して怪我をしたりしています。花札に倣って猪も鹿も風雅の心で愛しても、美味しいものは食べたい、そんな気持ちで過ごすことにしましょう。来年はジビエを戴きに甲府か山形のマタギ村にに行きたいものです。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

旅行ブログ    
 
 
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live




Latest Images