Quantcast
Channel: 仮想旅へ
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live

死とエロスと密教の入り口

$
0
0
今年は空海が高野山を開いて120年にあたります、加えてこれだけ天災が続くと天に「”日本を見捨てないで下さい”と祈りたい気持ちになって来ます。
そんな次第で今年は空海が伝えた密教が世上関心を集める様な期待がします。
ズット私は密教は「おどろおどろしくて解り難いし、説明の出来ない」敬遠してきたのですが。
今年は密教を理解したい・・・思っていました。
密教は昨日書いたチベットに始まり。密教の諸仏もチベットの神々が仏教に取り込まれたものでした。飛天も天女も天使もチベットの大空を飛んで天上の神の意志を地上に伝える役割を担うものでした。
空海は仏教には二種類ある,と説いています。
その一つが多くの人が慣れ親しんできた顕教で薬師如来が仏像の姿で現れて言葉(お経)で伝えた教えである(目でも見えるし理屈でも解るので顕教と呼ぶ(法華経などのお経)、。一方仏教の真理そのものは言葉や仏像では説明できないもので大日女以来が説いたた教えである。大日如来は滅多に姿を見せないし理屈では理解し難い。秘密の教えなので衆生は大日如来の教えを信じて感得する他は無いし・・・。
仏教伝来前の日本は汎神論「総ての生き物に霊があり神性が認める宗教的情操)でありまさいたから、貞観大地震等の天災を見て空海の説く密教を受け入れる状況に在ったのでしょう。世界には凡人の人知を超えた真理や世界があるのでしょう。
そんな密教ですが日本に居てはオカルトのような世界でも、密教が誕生したチベットに行けば理解が出来るのかもしれません。
年末タレントの壇蜜さんのチベット紀行がNHKBSプレミアムで放映されていました、私の密教の扉を押し開いてくれたような思いで見つめました。今日はその骨格を概説します。
イメージ 1
方を寺院で囲まれたカトマンズの市街。寺院は祈りの場所であると同時に要塞(城」でありました。四方を高山が囲んでいますが奥(東)がヒマヤラ山脈(最高峰エベレスト)山脈を越えるとチベット(都はラサ)左(北」もヒマヤラ山脈でにマナスルがあります。この方角に北極星が輝き死者の魂はこの方角に上ると考えられます。カトマンズの市街をスン・ニコン川を下って右(南)に下って行きます。南側の寺院で命は誕生すると考えます。京都の町の地勢(北極星の方角を鞍馬山が守り陽が昇る東側に比叡山が聳えるも同じようです。
日本人の8割は自宅で家族に囲まれて最期を迎えたいと念願していると調査報告されています。
ところが実際は8割以上の人が病院で亡くなっています。
壇蜜さんは先ずカトマンズのスワヤンブナート仏舎利塔に行きます。お寺に入るには橋を渡ります。川はビシュヌマティ川と呼びます。何処か御茶ノ水駅下の神田川を髣髴させます。川に面して寺院と白い建物が続いています。白い建物が病院なのです。死期が近づくと家族はこの病院に病人を運びます。
「この人は腎臓も膵臓ももう枯れてしまっています」「今この人は亡くなりました」お医者さんの言葉に壇蜜さんの丸い眼が陰ります。
お医者様と思えた人は実は聖職者で最期の時を神が祝福して下さる、神の意志を伝える役なのでした。家族の死亡を告げられて、家族は泣き崩れますが故人が神に祝福して貰っている事を確信していますから、悲しむだけではありません。再生する、再生したらまた家族で居られる期待していますので、追悼の心の底には喜びも潜んでいるのです。この辺りは万葉集の挽歌を思い位来させます。
遺体は病院室からからテラスに運び出されます。川に面したテラスには薪が組まれています。遺体は家族によって洗われ花に埋もれます。そしてうず宅積み上げられた薪に火がつけられ荼毘に付されます。
イメージ 2
カトマンズ市街を流れるビシュヌマティ川(母なる大河=ガンジズ川の支流川川に面した左端の建物が
病院、その左にパシュパティナート寺院がある。川のテラスが荼毘所で遺骨はそのまま川に流されます。(写真はNHKテレビを複写)
イメージ 3
夕方におなるとパシュパティナート寺院は毘の煙に囲まられます。真っ白い仏舎利塔が並んでいます。
イメージ 4
荼毘に付した遺骨は焼いた薪もろともに川に流してしまいます。作業を見守っているのはご遺族でしょう。どの人の顔にも悲しみは消えているようです。 荼毘壇の左右の石段にははご遺体を水で浄め花で飾ったあとで残されています。
壇蜜さんはカトマンズ到着して直ぐに人間の死ぬ場面に居合わせて旅行気分も吹き飛んだようです。カトマンズの寺院を巡りながら人間の死と生を見詰めようとし始めます。
翌朝訪れた河畔にはお供え物が並んでいます。七輪には炎が燃えて朝餉は故人の好きだった雑炊のようです。朝陽が昇って天空から地上に射しています。故人の魂は光の方向に昇って行ったのでしょう。
壇蜜さんは魂の行方を探すようにカトマンズのお寺を巡ります。
イメージ 5
毘に付した翌朝には故人を追悼する供え物が川べりに並びます。野犬や野鳥が集まって来ます。
ご遺族には故人が神に祝福されて天上に(北斗星に)上った安心感で満ちているのでしょう。
 
壇蜜さんはスワヤンブナート寺院(ユネスコ文化遺産)に向かいます。、カトマンズの中心部から西に3kmほどいった丘の上にあるので400段もの急な石階をカメラマンを気遣いながら登ります。仏塔には仏陀の知恵の目が四面に描かれています。カトマンズの街を守るため四方に眼をを開いているようです壇蜜さんはマニ車をカラコロ・カラコロ回して進みました。
イメージ 6
 チベットには三つの神が見守っていると説きます。3 人の神とは創造神ブラフマー(梵天)、維持神 ヴィシュヌ(日本では弁才天)に対してシヴァ神は破壊を司る。で3神が実は3神一体で様々な場面に現われ。結果的に輪廻を形成します。
イメージ 10
これはお土産用のタンカ(仏画」で中央がシヴァ神で日本に伝来すると大黒天になります。カトマンズは外的に攻撃された時シヴァ神が出現して街を守った事から篤く信仰されました。度の神もおどろおどろしく武器と生首毒蛇を伴い破壊(死)と生活と命(生殖)を司る意匠です。
壇蜜さんは世界最大のヤブユム(抱擁する仏像)が祀られているヒンヅー教寺院に向かいます、金色の抱擁する仏像に驚きますが、偉そうなお坊さんに遠慮もなく、「エロスの意義」を尋ねます。
お坊さんは供花の菊の花を手にして「菊の花の美しさに心を奪われては/束縛されてはなりません。心は自由にしておかなければなりません」と諭されます。エロスは人間の本質であり、生物はエロスが無ければ存続しません。種の保存はエロスのお蔭です・・・。(壇蜜さんの眼が光って帰国後一層エロスに輝きが増しそうな気配です。
私達は顕教の世界で生きて教育を受けて来ました。眼で確認できる事自分の理性で実証できることや経験を積み重ねて世界観を形成してきました。しかし、若しかしたら、真実は眼に見えないのかもしれません。目に見えない霊的な世界でも生き抜くには心を自由にして真実を感得する事が重要でしょう。それが出来なければ心の平安は得られないでしょう。
一昨日は108の煩悩を消し去るために除夜を過ごしました。でも人間は煩悩の極み「エロス」の成果としてこの世に命を授かったのですから煩悩を消すという事は煩悩を否定する事では無くて煩悩を肯定する処にあるような気がします。
この辺りが密教理解の入り口でしょうか?
でも壇蜜さんは容貌も心にもエロスがあると思いました。NHKのディレクターは壇蜜さんのような妖精(?」と11日間も旅が出来て仕事冥利に尽きます。
イメージ 7
壇蜜さんは死もエロスも人は隠したがるでもそのタブーを剥いら自由になって個人のも世界も平和におなれると思うのでした。
イメージ 8
これが金色のヤブユム(抱擁仏) 日本に伝わると歓喜天になり多くは人間ではなく象の顔になっています
イメージ 9
そういえば密教の鬼子母神も愛染明王も煩悩を突き抜けた処の神仏でありました。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 


母子相伝のお雑煮

$
0
0
昨年末に寂聴さんの「秘花」を読みました。
能の大成者・世阿弥。身に覚えのない咎により佐渡へ配流されたのはは、齢七十二の時だした。それから八十過ぎまでの歳月の中、どのように逆境を受け止め、迫り来る老いと向かい合い、そして死を迎えたのか……。世阿弥波の波乱万丈の生涯を世阿弥家族(父の観阿弥、や娘婿の金春禅竹佐渡で看取ってくれた沙 江等の眼を通して描いた大作でありました。「秘すれば花秘せずば花成るべからず」は世阿弥が大成した能の芸道論でした。父観阿弥から世阿弥 禅竹に一子相伝の能の芸道論が伝えられます。世阿弥を配流した足利義教が暗殺され、世阿弥は都に帰る機会を得ますが、これを受け入れません。佐渡の土になる事を選択します。その姿は鬼界島に配流された俊寛を思わせます。、また頭を下げれば許された千利休の気概を思わせます。
私が一子相伝のお雑煮を味わったのは正月明けの京都でした。一子相伝の反対概念は「完全相伝」です。
、血を分けた我が子ひとりだけに伝えに芸道論の奥義を伝え、門外不出にする事によって芸道を「一寸違うことなく後世に伝える」伝承する親子の誇りや気概が察せられます。
1980年代私は長銀大阪支店の融資次長でした。念願の京都の企業(歴史のある倉庫会社)との取引開始に成功して、同社のオーナーから常務のお供として京都の懐石に招待されたのでした。羨む部下や同僚の視線を背にして、じょ社用車の運転席横に座りました。常務はご機嫌で、今日案内された席の中村は室町時代に遡るお茶屋で「亥一子相伝のお雑煮」が売りなんだよ・・・・・。教えてくれました。
藪蕎麦でも神田川(鰻)でも今では全国各地に同名のお店があるのは「完全相伝」だから板場で見た人は同じような味をッ実現できましたし。お蔭で私達はお安く蕎麦屋うな丼を食べる事が出来ます。一子相伝ならそうは行きませんでした、藪蕎麦は高級暖簾になっていたことでしょう。
イメージ 1
京都の割烹「なかむら」出典同社ホームページhttp://r.gnavi.co.jp/k047200/secretary/)
イメージ 2
中村の懐石料理出典同上
「一子相伝」額が框に架ったお部屋に通されて、女将や主人の挨拶を受けます。常務は長銀の大阪支店長であると同時に京都支店の担当役員でありますから、丁寧にあいさつを受けられました。私は緊張しながらも名刺を差し出して受け取ってもらいました。
一度は食べたい思っていた海老芋を戴いて、てよいよ一子相伝のお雑煮が出されました。
私は一子相伝なら「一期一会の覚悟で味わおうと決めて箸をとりました。矢張り京都のお餅は丸餅です。我家の切り餅は歌留多のようで無骨です。お餅からして雅を感じます。お汁は白味噌仕立てです。でも和芥子の苦味と香りがします。お餅は一度湯がいて柔らかくしたうえで白味噌の汁で煮込んでいるようです。
期待の味も私はやっぱり関東の貧乏寺の倅です。お公家さんのお雑煮で育ってはいません。やっぱりお雑煮は関東風の切り餅を焼いて醤油味の汁で煮込んだものに限る、思ってしまいました。
イメージ 3
  これがなかむらの一子相伝のお雑煮です。出典同上)
私は日本中を転勤してきました。ですから日本中のお雑煮を戴いています。
同じ和食の代表としても地方によって大違いです。何処のお雑煮が一番美味しいか?訊けば喧々諤々纏まらない事でしょう。
でも、共通しているのはお餅を戴く事です。お雑煮は神様に供えるお料理神様の食事です。二本のお箸は結界で向かいに歳神様がお座りで自分はこちら側でに御相伴に預かるといったものです。
イメージ 4
  これは鳥取のお雑煮小豆汁でお餅を煮込んでいます。(出典お雑煮全国図鑑 http://www.nikkei.co.jp/category/offtime/tabeb/article.aspx?id=MMGEzq002005012012』是非リンクしてください日本のお雑煮が種々で豊かであることが実感できます。
 
 
イメージ 5
 
イメージ 6
 
全国各地のお雑煮を戴いて来ましたが去年は病院で背中が痛い便意がするのに用が足せない苦しい正月でした。今年はこうしてワイフと向かい合ってお雑煮を戴けます。この一年はワイフは神様でしたから、向かいの座が適当です。一子相伝ではありませんが「母子相伝」のお雑煮でした。お雑煮を腹一杯戴いて洗濯された下着に着替えさせてもらって。お布団で休むことに致しましょう。良いお正月でした。さあ、今日は遊行寺さんに初詣に出かけましょう。
 
 
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

クリスマスローズは未だだけれど・・・

$
0
0
1月4日息子の運転で遊行寺に初詣をしました。不自由な体でも、一遍上人の像を仰ぎ見る嬉しさは、言い表し難い「感謝の心」です。日曜日でしたので今年最初の骨董市もあって境内は賑わっていました。大きな蘇鉄の樹はもう雌花が咲き出そうとしています。南国の植物なのに一番寒い時に蕾を開く事もあるまいに思って眺めると。向かいの雄花は未だ未だ雄蕊さえも伸びていませんでした。植物の世界も女性がリードしているようです。我家もこの一年は蘇鉄のようにワイフのリードに従う事になるでしょう。
イメージ 1
1月4日(日曜日)の遊行寺本堂(右端は昨年建立された地蔵堂)その手前に一遍上人像。
イメージ 2
お線香を点ててお詣りできる悦びでした。
イメージ 3
中雀門前の蘇鉄左が雌株右雄株蘇鉄も女性リードで春を迎えるようでした
さあ、ランチは何処にしようか?その前に何処に行うか?考えあぐんだ末私は腰越の本蓮寺さんに行く事にしました。このお寺は毎年何度も通っています。最初は腰越の道祖神を探しているときに。鉢植えの見事な睡蓮を生垣越しに見た時でした。次は本堂の脇に見事な菊鉢の三本造りが並んだ時。そしてクリスマスローズに桜草。ご住職は花の鉢栽培がお得意で花栽培の極意を楽しげに話してくださいます。
イメージ 4
こちらが腰越の本蓮寺(日蓮宗)
「鎌倉文学館での展示(鎌倉に住んだ作家展等で確認すると高木彬光氏はこの寺の周囲に転居されていたようです。鎌倉の一等地は由比ヶ浜を見下ろす南丘陵でした。でもそこは避寒地としては良いものの生活は不便でしたから川端康成氏のように別荘とは別に作業場を確保されていました。この点腰越は酒や肴を求めるにも都心に出るにも便利で合理的な場所でありました。本蓮寺は龍口寺を護持するお寺の一つでした。門松を含めて境内は心配りが行き届いているのはご住職のお人なりをのお蔭です。。
ある時無縁仏の仏塔に供えられた卒塔婆の文字(龍や猪の回向に卒塔婆が建っていました)を訪ねた時、ご住職はさりげなく私の質問を遮られて、「お檀家には知られたくない事もあるんで、戒名や施主の事は話せません・・・」いわれました。
イメージ 5
本蓮寺の無縁仏を合同葬した仏塔。動物や伝説を思わせる戒名が目立ちました。中央には神道の方の墓標もありました。
イメージ 6
本蓮寺は沢山の睡蓮鉢があって夏になれば見事な花を咲かせます。この日は薄氷が張って、氷の下には金魚が蠢いていました。
イメージ 7
これはクリスマスローズの鉢です。咋秋に植え替えられて今春に咲く準備阿新しい土の中で着々と進めている筈です。どの鉢にもクリスマスローズの種の名が丁寧に書かれています。
イメージ 8
本堂の東側北風の当らない場所に並べられたクリスマスローズの鉢。鉢は様々で、親が娘の衣装を選ぶようにご住職は八のデザインを選択しているようです。
以来、私はこのお寺の住職を敬っているのです。この栽培を見るだけでも立派なお坊さんであることが解りますが人の過ちを正す言葉に優しを感じたからでした。
「今年のクリスマスローズは如何かな?桜草は芽を出したかな?」と気懸りなのでした・・・。
ワイフの懸念したとおりにクリスマスローズは未だ咲いていませんでした。でも蕾はたくさん用意していることが確認できました。
イメージ 9
株から花芽(蕾)を付けているクリスマスローズ。これは濃い紫色のようです。
クリスマスローズの原種は中国雲南のキンポウゲだそうです。それが中近東に渡り、イギリスに渡って、花の無いクリスマスの季節に咲きだすので「クリスマスローズの名で売り出したところ人気になって急速に全世界に広まったんだそうです。ネーミングの妙で人気が爆発したのでしょう。日本の「雪割り草」や「福寿草」の方が花の美しさをや花の咲く時期や眺める人の想いを言い表しているようで、
クリスマスローズの名は明らかに誇大な名前です。12月では無くて3月に咲くのですから「迎春花」位の名が適当でしょう。
イメージ 10
これがクリスマスローズです(撮影浄明寺)花の姿もオールドローズでは無くてキンポウゲです。
クリスマスローズが順調に育っている確認したら本堂の北側に回ります。4月の主役桜草の鉢が並んでいるのです。300鉢はあるでしょう。住職は昨年末に植え替え作業を終えられたようです。お道具が未だ収納されていません。
一昨年窺がった時には長野の農協から購入した腐植土を先ずふるいにかけて(動物の幼虫や種を取り除く)矢張りふるいに懸けた川砂や鹿沼土を混合して土を用意して、丁寧に株分けした桜草や、種蒔きした新芽を植え付けておいででした。昨年末も同じ作業を遣り終えてそのまま新年を越されたのが良く解ります。
新しい鉢には「静御前」「紫式部」「舞姫」「虞美人草」等の名札が並んでいます。でも私にはどんな花が咲くのか、名前が花の美しさを的確に表しているのか全く分かりません。とりわけ冬枯れした株は「髑髏小町」を見る思いがします。
イメージ 11
手前沈丁花の花芽も膨らんできましたその右の鉢は桜草の株(根が生きて越年します。)奥の小さな鉢が受精させた種を撒いたもの/新種が期待されます
イメージ 12
 
イメージ 13
これがの越冬根から新芽が芽吹いた桜草、奥ゆかしい名前が「貴方はどんな花が咲くの?」見返り美人に期待する想いがします。
イメージ 14
冬枯れした桜草、枯れた体は新しい命(新芽」を守るように地面をカバーしています。神代の舞と言えばお神楽で天岩戸の踊りを思い出します。えろすです。そう思うと、これも密教の世界です。
 
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

 
 
 
 
・策の

死とエロスと(密教2)

$
0
0
1月3日「死とエロスと密教1」を書きました。壇蜜さんがネパールのカトマンズ寺院の訪問記でした。予め断っておきますが今日の話は歴史学と民俗学にまたがる話で、通説ではありません、筆者が考察と見聞を整理して説明するものです。
壇蜜さんのテレビ画面に王様の住まいの浴室に巨大なコブラが囲っている画面がありました壇蜜さんは怖ろしい毒蛇の表情が可愛いと撫でていました。
イメージ 1
カトマンズの大宮の浴場を囲っているコブラ(NHKのテレビ画面を撮影)
私は直ぐに出雲大社の大きな注連縄を思いだしました。注連縄は2匹の大蛇が交合(大和言葉ではまぐわう)している姿です。筆者は子供の頃盛夏の裏山(通称イタチ山でが絡んでいる二匹の青大将を見つけました。余りの無気味さに恐怖して家に帰りましたが、気になって暫くしてその場所に戻ると未だ絡んだままでした。蛇の交尾の時間は長く、加えて出産の姿は壮絶なのです。一般の蛇は卵から産まれますが、毒蛇は母親の胎内で産まれて産道を破って出生するのです。一晩かけて出生(卵胎生)するので見た人は殆どいないと思われます。
私達は学校で蛇は農耕の神様だと教わりましたが。実際は蛇は「山の神」であったと思われます。今も宮崎の五箇荘では焼畑が行われていますが。先ず山の神に山焼きするお許しを得て山焼きしてそのあとに粟や稗、蕎麦を撒いたと思われます。山焼きすると鳥や鹿は逃げられますが蛇は逃げられません。焼き殺される蛇に慰霊したのが注連縄のるーつとおもいます。蛇の怒りは山崩れや土石流を起こします。だから土石流を「蛇が走ったと歌「龍が走った」というのだとおもいます。鳥取の智頭町の「八咫の大蛇の伝説」は素盞雄大神(スサノオオオカミ)が焼畑農業に成功した話しで、沢崩れを防いで田圃を増やした英雄は、その後出雲平野で農耕にも成功した伝のでした。鍵は大蛇の体内から発見された剣でそれは、砂鉄や銅の精錬技術で飛躍的に農業生産が増加したのでしょう。
蛇のそのルーツを辿れば想像すれば縄文式土器の装飾模様に遡れます。
イメージ 2
 
先史時代の発明は第一に土器次いで石器そして火の利用でありました。
火を利用する事で食物が増えました。土器で食物を貯蔵し。煮炊きが可能になり団栗のシチューが食べれるようになりました。縄目が土器の表面に着いているのは、ススキなどイネ科の植物の断片や灰を加えると土器が硬質で薄く出来る事を知ったからでしょう。漆喰の基本技術は縄文土器の時代に発見されていたと思われます。石器を使って火をおこすことを知りました。だから、竪穴住居の土間に穴を掘って土器を据えて、火打ち石で火を起こしシチュウを煮たのでしょう。
土器は女性をイメージさせました。石器は男性を形作りました。(石棒は男性自身です)。
毒蛇は噛まれればが必定畏怖すべき動物であり、親の産道を破って出生する事も畏怖する事でした。死も生も畏怖の対象で密教の世界です。だから密教の仏には蛇が欠かせません。
旧約聖書のアダムとイブも毒蛇がキーになっています。
イメージ 8
チベットのタンカに描かれたシバ神は日本の弁天のルーツと言われます。○○天と呼ばれる仏像には腕に腰に蛇に巻かせたものが目立ちます。
イメージ 9
宇賀神は(弁才天が本地仏)じゃ蛇そのものの造形です(葉山のお滝く不動尊)
イメージ 3
 土器の進化は火炎土器の意匠になり更に取っ手等に蛇のデザインに変化し呪術性を濃くして行きます。
イメージ 7
縄文土器の意匠には往々にしての蛇が造形されています。
イメージ 4
一方石器は火を起こし、団栗等種を粉に曳くことで食べ物を拡大させました。(石器は男性自身をデザインします)
イメージ 5
土偶自体は女性をデザインしたものでしたがこの円筒土器のように両性を意匠したものも出現します。歓喜天もこのような両性信仰の現われでしょう。が。捨身左の円筒土器には乳房と臍と産道口と二つの結ぶ妊娠線が描かれています。
イメージ 10
此方は昨年国宝に指定された仮面の埴輪ハッキリと臍と産道口が造形されています。。縄文土器は出産の畏怖と祈りがが込められていまさす。これを呪術と言うのも出来るでしょうが・・・・、密教仏像もおなじような畏怖と祈りが込められてると思います。
イメージ 6
カトマンズの抱擁仏私は人間の本質から縄文式土器が両性具有の筒型土器に発展したように仏像も両性交合のエロスが原点であろうと思います。
毒蛇の出生が壮絶であり又死をイメージするのは縄文時代も古代も変わらないと思います。
私達は眼でみえるもの理屈で納得させられる事だけを真実として考えて来ました。
しかし、先史時代も古代も目に見えて理屈で説明できない世界がある事を信じていました。それは陽のあたる樹木と、その裏の日陰の側面と地下に這うねっこのようなものでしょう。陰陽の陰の世界は霊の世界で人間は感性で把握したのでしょう。そうした眼に見えない「陰」または「霊的世界」こそが重要でそれを直感させるのが密教だったのでしょう密教は平安時代末期貞観地震など天変地異の多発した不安の時代に盛行したのはその時代は未だ人間の心の底に縄文時代の感性が残っていたからでしょう。現代科学万能の時代に再び密教が脚光を浴びるのは「現代のがメンタルが混沌としていて個人の心が真っ暗な海を漂流しているからでしょう。

死とエロスと(密教3)

$
0
0
昨日に続いて今日も密教についての私の考察を書かせていただきます。これは一般的に認められた考えでは無く、筆者の見聞や考察を整理したものである事をお断りしておきます。(間違っているかもしれません)
 
ところで、数年前から学校で虐めが昂じてじて殺人に発展する事件が多発しました。その度毎に子供世代から「何故人を殺してはいけないの?」訊かれても現代社会は明確な答えを用意できないできました。生活は豊かになったものの心は貧困であること、命よりもお金が大事であるような考えの世相に嘆く人も多いでしょう。
「人を殺してはいけない」理由が説明できないので「自殺してはいけない」理由も説明できません。命の価値は悲しいほど軽いのです。「葉隠とは死ぬことと見つけたり」といった伝統的な考えも問題ですが。命の重さを説明できない世相こそ深刻です。私の脳裏には
「国民総生産」偏重な日本と「国民総幸福」を国是[とするブータンとどちらが良い国か迷ってしまいます。旅行記事を読むとブータンやネパールに憧れている若い人が多いようです。それは美しい景色もあるでしょうが「蠅も殺さず命を大事にする人々と時間を共にする悦びに気づいているかではないでしょうか?
多分「蠅や雀/のように有害な生物でもその命を大切にする教えは密教の入口だと思うのです。
日本でも大昔そんな主張をする将軍が居ました。日本が平和な一時でした。
 
お釈迦様の教えの第一は不殺生戒でした五戒の第一ふせっしょうかい/ 無暗に生物を殺してはいけない)
お釈迦様が産まれた頃の北インドでは特定の教祖や教典はないものの、霊魂の不滅と生まれ変わりを信じ、殺生を嫌い、一般に肉食はしない。そんな倫理観が常識でした。でも、同時にカーストがある厳しい階級社会でした。お釈迦様は殺生を嫌う倫理を肯定して、カーストによる差別を否定した教えを広め教団を導きました。そうして始まった仏教は中国から日本に伝わります、これが北伝仏教で、一方東南アジアからスリランカインドネシアなど南に伝わった仏教「南伝仏教)がありました。南伝仏教は釈迦と同じように修行を積んで自分自身の救済を求めるもので、創世記の仏教そのものだったのでした。北伝仏教は先ず自分の修行は自分自身が救済され、それが社会の救済につながると確信していました。修行は自分自身の為というより社会全体を救済するために行いました。そんな意味で自分達を大乗仏教と自慢し南伝仏教を小乗仏教と差別しました。大乗仏教は大型客船で、小乗仏教は一人乗りヨットのようなものと区別したのでした。
南伝仏教の方が原始仏教に近く、釈迦の教えにも忠実と思われます。南伝仏教でも東のネパールやブータンに伝わった仏教は地理的に隔離されていたので一番原始仏教を伝えていると考えて良いでしょう。
イメージ 1
     仏教の伝播図:出典阿含宗ホームページhttp://www.agon.org/about/about_000014.phpネパールやブータンは高地で地理的に隔離されていることから創世記仏教(原始仏教)が存続しやすい状況にあったのでしょう。
釈迦の生まれた時代カーストが社会を縛っていました。人は生まれながらにあるカーストに属している。人はカーストの一員としての宗教的な義務を守り、行いを正して神に近づくことで、よりよい来世を得ることが出来るという考えていました。カーストという不条理を完全否定した事から仏教は世界宗教としての資格を有しました。そして見えないもの(霊)を重んじる事で、見える世界を中心に説いた宗教の対極に位置しました。
仏教はその創世から不殺生戒(ふせっしょうかい)を前提に育った宗教だったと思います。それを理屈で説明すると「縁起」という言葉が必要になります。
「原因に縁って結果が起きる」という因果論です。「煩悩があるから苦がある、煩悩が消えれば苦も減る」と説きます。太陽系惑星が太陽を中心にあるように人間も含めて万物は仏(大日如来)を中心に並んでいます。それを俯瞰した説明図が曼荼羅です。曼荼羅図は縁起で繋がった見えるもの見えないもの万物を並べてあります。
私の隣にはワイフが居ます。そして二人の周囲には共通する友人が沢山並んでいます。それらは引力にも似た愛情や友情で引きあっています。若し私が死ねばワイフが、そして友人らが悲しみます。私が死ぬまい生き抜こうとするのは愛情や友情を大切だからです。
中学生に何故人を殺してはいけないのか?何故自殺してはいけないのか?」尋ねられたら「若しも君お母さんが殺されたり自殺したら君は泣くだろう。お母さんも君を失いたくないよね・・・。お母さんを泣かせない為にも、殺しも自殺も許されないのだ」よ。
イメージ 3
     脳の発達曲線元服(18歳)まで脳は体躯の発達に先行して成長します。7.5.3そして14歳をステップに、母親の庇護を離れるようです。出典幼児教育:http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E8%84%B3%E3%81%AE%E7%99%BA%E9%81%94
ところで、産まれてくる時の人間の脳は350gだそうですから毎朝飲むヨーグルトと同じくらいの量でしょう。
胎児が母親の産道を抜けてくるときは頭を上にして地雷の様に回りながら進むんだそうです。
出産は母体にとっては陣痛を伴い命の危機でもありますが、胎児も死に瀕してて生き抜こうとする人生最初の試練なのでしょう。
子供は3歳の頃に800の言葉を覚え7歳で文法を理解するそうです意思の疎通が可能になり14歳(初潮や夢精をみる)の頃にはに脳は成人(1400g)の8割方出来上がるのだそうです。
 
胎児にとって最も安全なのは子宮の中、でも子宮で大きくなって生まれる事は不可能になります。人間は大切な脳のサイズにあわせて産まれて、両親の庇護の下で脳が発達するのです。毒蛇は母親の胎内で卵殻を破り産道を噛み切って出生します。カンガルーやコアラは母親の腹袋の中で育ちます。出生はエロスであるのは、死のリスクを伴っているからでありましょう。
イメージ 2
エロスとはギリシャ神話に登場する恋と性愛を司る神様で美しく弓矢を持っています。
生物は総て種を伝える為にはエロスを発散し受精を重ねます。でもその刹那はいつも危険で死の匂いがします。弘法大師の持たれる法具独鈷も縄文土器の造形(両性埴輪)です。だから独鈷は男性と女性自身の形をしています。松の樹も蘇鉄も男性樹と女性樹は別々です。その間は風が吹いています。植物も動物も雌雄の空間をエロスが埋めて命が連動します。この空間を紐解くのが空や縁起であると思います
イメージ 4
文土器に描かれた出産図(北杜市御所前遺跡出土/能登健著列島の考古学)
イメージ 5
独鈷石(群馬県清水遺跡/今この形状のものは秩父地方の道祖神祭りの祭具にもなっています。
 
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

九つ粥プラン薬膳です。

$
0
0
1月5日は寒の入り。今日が6日が小寒、大寒は1月20日になります。これから寒さもピークで後は少しずつ暖かくなります。お天気次第で気分が昂揚します。テレビでは、「蠟梅が咲いた」報じています。私はワイフに連れ添って貰い原っぱに七草粥の草摘みに出かけてみました。
今年は未年、羊の放牧地は毎日のように変えるそうです。目的は新しい草を充分食べさせる事と、栄養が偏らない様に何種類もの草を食べさせる為だそうです・・・・。羊でも偏食は良くない、ならば人間では尚更なのでしょう。7草粥で7種類の山野草を食べるのはそんな寒のピークを薬膳で乗り越えようとする意図と思います。
イメージ 1
1月7日は7草粥を戴きました。
前日ワイフに連れ添って貰い7草探しに原っぱに未出かけました。何時もの梅林の脇の原っぱはです。春盛りになれば春の七草に加えて野蒜やタンポポも餅草も、蕨も蕗の薹も摘む事が出来ます。でも、七草はなかなか見つけられませんでした。未だ枯草の陰に隠れているようです。それもそのはず、1月7日は陰暦でも陽暦でも大差ありませんが、昔の陰暦では1月27日頃もう節分の直前でした。草摘みにはまだ早すぎるんです。プランターに撒いたデニッシュの若葉が美味しそうです。土手のつわぶきも道路端の立葵の葉もいけそうです。
イメージ 2
プランターのデニッシュはうろ抜く頃会いです。これもすずなです。
「八百屋さんの数え歌」がありました。”♪一は無花果(無花果は草では無いのですが八百屋には並んでいました。 二は人参・♪・・…。と歌います。『♪いちじく、にんじん、さんしょう、しいたけ、ごぼう、むぎ、なす、はす、きゅうり、とうがん♪』蓮、胡瓜冬瓜の辺りは地方によって色々のようですが。
野菜は色々あって、いろいろ食べなくてはいけない。だから野菜屋とか青物屋とは言わないで「八百屋」と呼ぶのかと推測しました。
イメージ 5
つい数か月前の嫁菜、春先に菜っ葉として摘んで食べられていました。柿本人麻呂は奈良春日野で次のように嫁菜を詠いました。
「春日野に 煙(けぶり)立つ見ゆ 娘子(をとめ)らし 春野のうはぎ 摘みて煮らしも
(春日野に煙が立っているのが見える。乙女達が春の野の嫁菜(うはぎ)を摘んで煮ているらしい)。そこで嫁菜名の咲いていた辺りを探しましたが未だ芽吹いていませんでした。
イメージ 6
梅林の下で春草を探すワイフ
イメージ 7
嫁菜は未だでも(ヨモギ)は芽吹いていました。
春草を探しながら(七草の次番は何が良いかな?」考えました。周囲には野蒜が立ち枯れしていました。8番目は野蒜でしょう。野蒜が無ければ「葱」です。分葱でもラッキョウでも韮でも結構です。では9番目は?・・・・・。
自然薯でしょう。7草に根菜類が無いのも不思議です。万葉の乙女が自然薯堀が苦手だったからでしょう。乙女が穴を掘っている姿は絵になりません。でもムカゴ(自然薯の茎芋)狩りなら容易ですし絵にもなります。いずれにしても根菜類が七草に入っていないのは片手落ちです。
イメージ 8
筆者が9七草の押す自然薯のムカゴ我が家の庭にも木通と競っています。最近は八百屋でも並ぶようになりました
イメージ 9
鎌倉野菜の売り場「カンタ村http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47431809.html」ではムカゴを並べていました。これを庭に撒けば確実に自然薯が栽培できます。
子供の頃母によく言われました。”牛蒡や人参は「根気の続く人」を作るんだよ。それにおねしょをしなくなるんだよ”言われたものでした。根菜の代表として牛蒡を咥えて9草にしましょうか?葱のルーツ野蒜はもう黒い種を用意しています。可愛かった花がもう枯れ尽くしています。
イメージ 3
これが野蒜の枯れ尽きた花。枯れても花があるのは紫陽花のようです。
イメージ 4
これが野蒜の花8月に咲きます。線香花火を思わせる清楚で可愛らしい花です。野蒜は韮のような香りがあり分葱の食感があります。厄除けになりそうな山野草です
7日の朝食はくと予測通りの鏡割りの入った餅粥でした。今晩は芹沢山のきりたんぽが食べたくなりました。
七草かゆを食べながら想いました節分会(2月2日には九つ粥を食べましょうか?そのころになれば春草も揃う事でしょう・・・・。その時には棗とクコの実を加えてみましょう。
 
 
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 


 

読売新聞に見る新聞社の責任

$
0
0
民主党は選挙で大敗し野党に転落して、敗因の総括の出来ないまま、先の衆議院議員選挙に突入し、海江田総裁じゃ落選しました。今次の民主党総裁選挙で、ようやく「選挙人の期待を裏切った総括をするものと期待しています。1強5弱では政治に緊張感を失います。国民は二欧米と同じように大政党制を期待しています。
1月7日ラジオでは総裁候補として立った3氏の立候補演説と記者会見の発言を報じていました。そしてその日の読売新聞の夕刊を読みました。夕刊一面トップは労基法改善案で有給休暇を企業責任で取らせるための改善案を報じていました。次が民主党総裁選でした。
イメージ 1
民主党総裁選を報じる1月7日の読売新聞(夕刊)労基法改善案に次ぐ扱いでした)
更にリ更に新聞麺下段にあるコラム(読売寸評)を読んで驚きました。
『野生のカラスは人の言葉を真似ると書き出して。民主党が生き残るためにどんなことを言い出すのか、烏に劣らないような知恵を出して進化したのか関心がある。信頼は出来まい・・・・・?」そんな辛いコラムでした。
私の知る限り新聞のコラムは社説を書いたような実績のある記者がその経験や知性から一段高い位置から世評を俯瞰して書くものです。こんなコラムは民主党を虚仮にしています。議席数こそ減らしていますが民主党を支持している国民は3割を超えています。ですからこのコラムは3割の国民の敵意を買っているんです。
イメージ 2
1月7日読売新聞の夕刊コラム民主党を野生のカラスに揶揄しています。不快極まるコラムでした。
イメージ 5
でも翌朝1月8日の朝刊社説には民主党への期待が書かれていました寄り合い所帯であることは民主党の宿命ですが民主党の原点は中間層『労働者であり』独立路線の模索からj始まるのは自然であり期待するものであります。
自民党支持率は35%前後です。一方民主党支持率は14%ですし、過半数は支持政党なしです。加えて投票率は50%にも満たなかったのです。ですから民主党は落胆する事は無いし、読売新聞からカラス呼ばわりされる理由はありません。国民の多くは民主党が再生することを期待していますし。その第一歩として前々回の大54回衆議院議員総選挙の敗因の総括を確認したいのです。民主党に投票した中間層は民主党が前々回選挙の敗因を総括する中で『政権を任せるに足りる組織であるか自民党に対抗できる主張や視点を見出せるのか』ウォッチしています。そんな期待の政党をカラス呼ばわりするのは新聞社の見識が疑われます。朝日新聞が低調になるる中、一人勝ちの読売新聞の独善が目立ってきてで心配です。
私はそろそろ読売新聞は止めようか?思ったりします。
そんな読売新聞です「読売の独善」というと、渡辺恒夫氏『世にいうナベツネ」を思い出します。
同氏の独善が世評を浴びたのは読売ジャイアンツの人事でした。読売新聞社長のナベツネさんが子会社読売巨人軍の人事を仕切ったという事件でした『世にいう清武の乱(きよたけのらん)』。この件もようやく終息した気配です。
そんな総じて悪名のナベツネさんですが流石と思わせる功績がありました。
日本人が戦争責任を総括できない。とか「戦後の軍事裁判は米国を核とする連合軍の実施したもので日本国民は戦争責任を総括していない」といったし批難や自覚に対して。「ならば新聞のリーダー読売新聞で戦争責任を総括してみよう」と言い出して実施したのはナベツネさんでした。その成果は中国や韓国でも評価されよく読まれていると聞いています。
イメージ 6
イメージ 3
 大本営の意のままに報道した新聞社の組織
イメージ 4
            満州事変以降体制翼賛的な世論形成に貢献したと総括した読売新聞。
 
でもこうしたマスコミ陣としての良識は朝日や産経にはありませんでした。
私は以来何かと悪役を演じるナベツネさんですが。基本的にはリベラリストでマスコミ人であると安堵し信頼しています。でも、コラムニストの中には読者や国民を小馬鹿にした人がいるようです。一人勝ちがはっきりした今こそふんどしを締めてじゅーなリストとしての期待を果たして欲しいものです。
 
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

 
 

正岡律の輝き

$
0
0
今年の大河ドラマは「花燃ゆ」吉田松陰の妹の眼を通して明治維新とその群像を見詰めるのでしょう。でも視聴率は官兵衛を遥かに下回ったようで平均視聴率は16.7%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)、番組宣伝ばかりが目立ちます。一昨年は明治維新負け組の「新島八重」の眼を通してみた「八重の桜」でしたし。柳の下を狙ったような安易さを感じます。
また、イケメンの男優を並べたドラマは鑑賞に耐えるのか懸念されます。
私はベットに横になって左(南)を見れば庭です。
群青の青空を背にして紅葉が綺麗です。四十雀も飛んできます。
小鳥たちはもう恋の季節に向けて血が騒いでいる気配です。追いかけっこは恋の駆け引きのように見えます。
歳が明けてもの紅葉の葉は未だ梢の先にしがみ付いていて風に揺れています。木扁に風と書いて楓です。
   吹くからに 秋の草木(くさき)の しをるれば 
               むべ山風を 嵐といふらむ(文屋康秀)
    木枯しに庭の紅葉萎るれば
      むべに吹かれるを楓というらむ (パックん)
イメージ 3
ベッドに横になるとガラス戸越しに庭先の紅葉が眼に入ります。手前の黄色くなりかけた葉は山無花果です。その実を野鳥が食べに来ます。梢を四十雀等が追いかけっこをして恋が深まろうとしています。
庭紅葉の樹下にはペットのお墓があります。今のワンちゃんは二代目で初代は癇癪持ちでしたが、この庭に眠っています。昨年の夏我が家の前の道路で車に轢かれてしまったガマガエル君もこの庭で合葬されています。お墓は紅葉で埋もれてしまいます。
)
イメージ 1
ペットのお墓弥勒石仏の手前の川原石は亡くなったペットや野生生物の墓碑です。(笛吹川の河原石です
 
庭木を見ていると自ずと想いは正岡子規に飛んでしまいます。
2年前の今頃ワイフを誘って根岸の子規庵を見学しました。
羽二重団子で休憩して、憚れるようなホテルの露地を歩いてゆくと板塀があってその奥が子規の最期の住まい「子規庵」でした。
首をあげて折々見るや庭の萩 
我病んで冬の蠅にも劣りけり
障子あけて病間あり薔薇を見る
病む人が老いての恋や秋茄子
糸瓜咲いて痰の詰まりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
 
一昨年「坂の上の雲」が放映されました。
子規に漱石そして子規の友人の秋山真之その兄の秋山好古等の近代日本の群像が描かれました。陽の当った人々は誰しも知っていましたが、子規の妹の正岡律こそが時代の陰影を際立てていました。演じたのは菅野美穂さん。質素な着物姿が似合って美しいと思いました日清戦争日露戦争日本が坂を駆け上がった時代に、その陰で支えた明治の気丈な女性を好演していました。
子規の病気は当初は単なる肺結核でしたが最期は脊髄カリエスを併発していました。
背中に穴が開き穴から膿が浸みて出るのでした。律さんは膿の処置(包帯を巻き変える)から便の処置までしたのでした。子規の容態が悪化するにつれて子規の短気が高じます、兄はやり場のない怒りを看護している妹にぶつけるのでした。律はそんな兄に気づかって庭に草花を栽培し兄の癒しに努めます。薔薇も糸瓜も萩も菊も牡丹も子規が病床から激痛を堪えて立ち上がって庭を見て作句したものでしたが、名作の舞台設定は律の丹精のたまものでした。
兄が寝返りを打てば律の真心の花が見えたのでしょう。しして、激痛に耐えて病床から上半身を起こして庭の表情の返歌を愉しんだのでしょう。ですから辞世の糸瓜の句も律の愛情がディレクター役を果たしていたのです。
ところが子規はそんな観音様のような妹に感謝するばかりか悪し気に言いました。「
仰臥漫禄」では木石のような女だの強情で冷淡な女だの悪口を書き連ねます。あまつさえ悪口を文字にされて弟子達にみせるのでした。でも律は耐えるたのでした。
そういえば、観音様は優しくも我慢強いものでした。子規は現代俳句の父として誰しもが尊敬しています。そんな子規の作晩年の品は律が居たたからこそ残されたのでした。またし、高浜虚子から川東碧五郎と続く現代俳句のウェーブは律が居たからこそ盛り上がったものでしょう。
ドラマの後半は律さんの恋心が秋山真之に向かっていた事、秋山真之も律さんの心が解っていたし、好意を抱いていたことが描かれていました。
イメージ 2
正岡律を好演した菅野美穂さん、此処数年美穂さんの演技に何度も涙しました。この少し大きめのお顔が良いのです。小顔が流行りですが美しいとは思いません、何時か小顔ブームの底の浅さを書こうと思っています。(出典NHK)
NHKの日陰の眼から見るドラマは今後とも続く事でしょう。政治も日向ばかり見ないで日陰に目を注いで欲しいものです。
 
 
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

  
  

左義長存続の危機?

$
0
0
1月9日読売新聞に大磯の左義長(国の重要無形民俗文化財)の存続がピンチであるとの記事が出ていました。私の大好きな火祭りが湘南の小動浜(さざれ石の浜辺)で行われるんです、一昨年まで毎年出かけていました。それが存続の危機!これは困った事です。私は新聞記事の行間まで読んでみました。
イメージ 1
 大磯の左義長(国の重要無形民俗文化財)が存続の危機にあると報じる読売新聞記事。突っ込みの浅さを感じます。
私の住む倉田でも左義長は毎年実施されていて止めると言い出したら住人の大顰蹙を浴びるに決まっています。住人は松飾や達磨さんなどの縁起物の処置に困っています。お人形の焚きあげでも寺社に持って行けば1万円程度は覚悟しなくてはなりません。でも左義長に出せば大手を振って処分できるし神主さんの祝詞も奏上して戴けます。そんな貴重な左義長が存続の危機とは思いもよりません。神社の一年間の行事は正月の元旦祭そして8月の夏祭り(収穫祭)11月に7.5.3そして1月中旬の左義長です。何れも氏子の祝い金や祈願者のはつほ料などが収納され、倉田の八幡宮の場合この他に駐車場収入もあります。ですから昨年のようにお伊勢さんの寄付を割り当てられても(20万円)なんとか遣り繰りしてゆけるのです。「左義長だけの収支は如何?」質問されれば答えは窮してしまいますが。胃年間の祭事を無事にこなして氏子の期待に応えるのが神社の運営です。このために氏子は境内の掃除や植物の伐採、その他無償の作務をこなしています。
イメージ 2
これが大磯小動浜の左義長です左義長(さぎちょう、三毬杖)はルーツを内裏の清涼殿前庭で松飾などを小正月に燃やしたことに始まる神事でありました。3本の竹を組んで櫓にして燃やすので三本の毬杖と呼ばれ、その竹が爆竹の様にはれるするので信州や会津ではどんど焼きと呼ばれました。日本を代表する火祭りです。お隣は国府津町向こう山は箱根山右の土手の上が西湘バイパスでその奥に島崎藤村の最期の家があります。
イメージ 3
清涼殿から見た正面が内裏の紫宸殿この空間で小正月に左近の桜の手前で)松飾を焼いたことが左義長の始まりでそれが全国に流布したものでした。清涼殿は天皇が政務をこなし一日を過ごした住居でした。現在私達庶民が松飾を神社に持ち寄って焼いているのと同様な事が内裏で行われていたと知ると面白いと思います。(出典:NHKテレビ) 
読売新聞の記事から解る事は左義長の材料費に200万円を要する事。そして国や県から38万円の助成があること、そして左義長の実施主体が「左義長保存会」であること、です。材料費がそんなにかかるとは俄かに信じられません。左義長の心柱は孟宗竹で無料で山から伐採してきます。後は各家庭から出された松飾やお札縁起物です。200万円は助成金受領時に自治体に提出した収支報告書に記載されたものでしょう。
保存会の実体は助成金の受け入れ組織で神社の外郭組織(勘定)なのでしょう。国や県が直接神社に助成する事は出来ないので保存会を組織して受入れたのでしょう。保存会が大磯観光協会の外郭であれば、大磯の観光業者(海の家や旅館飲食店、タクシー会社他)が負担すれば存続は容易でしょう。ところが、松飾や縁起物のお焚き上げメリットを住人が享受しているので、受益者の住人が2千円から5千円を出し合っているのです。倉田の八幡宮でさえ、氏子は誰でも1万円前後(年間)祝い金を神社に包んでいます。
イメージ 4
左義長は大磯町内に祀られている神社の神事です。此処に集められた松飾を浜に出して松明にして燃やすのです。この小屋に道祖神を祀って子供達が集います。
イメージ 5
さざれ石の浜辺で左義長は赤々と冬空を焦がしまして春を呼び寄せます。
問題を整理すれば1、左義長が神事であるのか観光事業なのか判断する事。神事であれば国や県の助成は違憲である。2観光事業であれば助成金は観光協会収納させ、観光協会はお焚き上げ料金を収納するなど工夫すればよい。住人に依存しないで存続させればよい。でも保存会は左義長ブランドの清酒を売り出すなど現実は観光事業になっているように見えます。大磯の浜辺は海水浴場に投げ釣り場に一年中人が混雑しています。
観光事業の視点で見れば収入の機会は沢山ありそうです。
今年はこの足では左義長見物にも行けそうもありません。
新聞はいたずらに問題があると書き立てるだけではなく落ち処を見定めて報道してほしいものです。
同様の問題(神事か、それとも観光協会の催事か?)は茅ヶ崎の浜降り祭にも言える事ですが、茅ケ崎の方は無事に進んでいるようです。今年も1月14日開催されますが、ややこしい事にならない様に報道してほしいものです。これも地域活性化に役立ちます。
イメージ 6
左義長覇火龍のように起ちあがって瞬間漢字の炎の字に姿を変えます
イメージ 7
9基もの左義長が波打ち際に映えます。裸の男衆が海から上がって炎で体を乾かします。私達はお餅を戴きます。
イメージ 8
海から上がった漁師は体を乾かし、子供達はお餅を焼いて食べるのです。そうして1年間が無病息災厄払い完了です。
 
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

 
 
 

小顔ブームの怪?

$
0
0
昨年の正倉院展樹下美人を並んで観て思いました。「奈良時代の美人顔は皆顔が大きいのに何で現代は小顔童顔が美人の条件なのだろう?」美人は時代と共に変遷しても現代の小顔贔屓は異常ではないのか、現代の日本文化の幼児性を象徴しているようで、背筋に寒いものを感じました。
童子童女は可愛くても熟女の色香には及びもつきません。
イメージ 1
20014年正倉院展の樹下美人図出典:読売新聞)
どの美人も体の割に顔が大きく、皆丸顔でふっくらしていて、頬紅は血色の良さを示しています。
唐の影響が濃い図であったものの、平安時代江戸時代を通じて、日本の美人図は成熟した女性の色香を表現して来ました。
イメージ 2
初期浮世絵の湯女美人図(大和文華館)身体が柳腰とと言われる細身で顔が大きく、目鼻立ちがすっきりしていてるのが美人の条件でした。
細身の体丸くて大きな顔白い肌黒髪血色の好さが美人の条件でした。
日本人の好みは1000年以上の伝統があったのでした。
それが現代はテレビを見ていると、小顔童顔、頭脳までもが幼児性を示す女性が好まれています。民放のタレント・アナウンサーは原稿を読み間違えても「私は可愛いから良いんじゃないあ」言わんばかりでプロとしての誇りが感じられません。私は小学校に行ったときに子供達の描く絵を視ます。
どの子も一生懸命に顔を描いています。目鼻立ちはすっきり頬は丸く、目の中にはお星さまが光っている。顔を描いています、子供は昔ながらの目鼻立ちなど顔のパーツがはっきりしていて大きな顔が美人のようです。それが大人になるにつれて小顔童顔が美人になってしまうのです。何処で何の為に逆転してしまうのでしょうか?
イメージ 3
  小学1年生が描いた自顔絵共通するのは体の割に顔が大きく、顔のパーツがハッキリしている事です。
小学1年生が書いた自顔絵体の割に顔が大きくパーツがハッキリしているのが特長です。私は学校の廊下に貼られて自顔絵を見ていて思いました。「これは何処かで見た記憶がある」暫くして思いだしましたこの並んだ顔は縄文時代の土偶の仮面です。最近では甲府の釈迦堂遺跡で視ました。
イメージ 4
釈迦堂遺跡の土偶の仮面。土偶に共通するのは顔が大きく顎が発達している事です。
 
顔が大きいと言う事は顎が発達している事です。硬い食べ物をガツガツバリバリ食べなくては顎は発達しません。縄文時代人の大きな顔は顎が充分発達している事を示していて。私達はそうした健康で生命力に溢れた女性を美しいとして憧れてきたのでした。
顎が発達すれば脳の収まる頭蓋も安定します。結果的に額が大きく左右の眼の間が狭くなります。
顎の発達は人間の健康を促し一方では頭脳の明晰さを担保したと思います。
ところが現代の小顔ブームは顎は小さく頬骨は出て童顔である事を理想としているようです。
テレビにはCМも歌謡番組も小顔童顔のオンパレードです。お正月くらいは大人の女性の美しさを堪能したいと思っても没個性の童顔が次々に映っています。
イメージ 5
ほう!この子(西野七瀬さん)が人気ナンバーワンか?感心するばかりです。
日本人が日本かsら発信された漫画やアニメやコスプレが世界で評価されている自慢していますが。果たして臆面もなく自慢していて良いのでしょうか?私は甚だ疑問に思います。日本人が本を読まなくなった、自分の頭脳で考えなくなった、そんな幼児性が文学を遠ざけ絵本や漫画を好んでいるように見えてきます。アニメの絵も表現の手段で文学的な構成力が欠けてしまえば日本アニメも衰退する事でしょう。大きな顔でしっかり自分の脳を鍛えるそんな所から文化は発達すると考えます。今日は成人式、未発達の成人が街で暴走しないよう祈るような気持ちです。
イメージ 6
     美しいのは成熟した女性です。それは1000年以上も変わらぬ日本人の美意識でした。筆者がお正月に見たかった菅野美穂さん(出典:画面上に在り)
 
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

鳥のマディソン郡の橋(浮気)

$
0
0
1月12日の空はは底抜けのブルーでした・午前中は白く薄いお月様がクラゲの様に浮いていました。
庭先には四十雀が遊びに来ています。つい先日までは”ジッ,ジッ”地啼きしていましたが、昨日は「ツツピン ツツピン」と囀りはじめれいるのです。「地啼き」とは季節を問わず一年中に鳴く声で雌雄の違いもありません。鳥さんの喋り声(何らかの情報伝達)です。
イメージ 2
これが四十雀です。写真は枯れた葦を期用に嘴で折って潜んでいる虫を捕食しています。
イメージ 1
これは昨今目立ってきた雉の夫婦(戸塚俣野の境川の堰堤の畑で)3月になれば雉の求愛が始まります。5月には子連れを視る事が出来ます。
イメージ 3
梅の梢の雀、寒いのでふくら雀しています。沢山群れているので。どれがカップルなのか見分けらてません。雀さんも解って居いるのでしょうか?
一方囀りはき、主に繁殖できるまで成長した雌鳥にアピールしようと啼く声です。女性を誘うのですから、イタリアの伊達男のように魅惑的な声を張り上げます。昨日は四十雀でしたからイマイチ囀りに情趣はありませんでしたがもうじき鶯さんが笹鳴きと言わる「チャッチャッ」から、「ホーホケキョ」と囀り始める事でしょう。小鳥の鳴き声にも春の先駆けを見つける悦びがあります。
イメージ 4
これはオシドリに似て親子の愛情が濃いと言われる千鳥戸塚倉田の柏尾川堰堤で撮影
私は暫くベッドから四十雀を眺めれいました。梅の梢に虫でもいるのでしょうか?それとも梅の花芽を摘んでいるのでしょうか?どうもしきりに嘴は動いているようです。梅の梢を雄は雌を追いかけて鬼ごっこのようです。
鴛鴦之契(えんおうのちぎり)と言います、「鴛」は雄のオシドリ、「鴦」は雌のオシドリのことで夫婦仲がとてもいいことのたとえです。でも、実際はオシドリは一生を添い遂げる訳ではなく年によって相手を変えるのだそうです。虎だって狐だって、春になれば求愛しますが相手が去年と同じわけではないようです。
相手を変えた方が、良い子孫が出来るチャンスが増えるでしょうから、同じカップルで居るよりも理に適っています。一方鶴は一生連れ添うと聞きます。鶴は千年と言いますから、千年も夫婦が連れ添うのは素晴らしい事です。結婚式のスピーチは「鴛鴦之契(」よりも「丹頂の契り」の方が適切なような気がします。
イメージ 5
一生連れ添うと言わる。鶴、でも鶴は千年と言いますから千年も連れ添うのでしょうか?だとしたら・・・、雌雄どちらとも辛抱強いものです。(出典画面)
イメージ 6
鷹の仲間のミサゴの夫婦。実はカラスに囲まれて絶体絶命の窮地でありました出典:画面に出ています。
 
ところで、結婚した男が別の女性に言い寄ると「浮気」と言います。ところが夫人が別の男性に心を寄せると「不倫」といいます。女性には貞節である事を要求し、男性には甘いようです。倫理とは所詮男性社会の規範なのでしょう。男女均等社会が進行すれば不倫という言葉は消えて「浮気」だけが使われるのかもしれません。筆者は「不倫は文化だ」とは言えませんが「浮気は情理だ」と思います。社会が変れば男女ともに「浮気」という事でしょう。その頃の結婚式のお祝いスピーチは「鴛鴦の契りを結ぶ」ではなくて「丹頂の契り」に変わっているかも知れ昌えん。長く愛し合って・・・・、という意味では1000年の間に数回の危機(浮気)があるのも情理でしょうから・・・・。久米の仙人さんも長生きしたのは女性の色香に弱かったからでありましょう。野鳥の何処からフェロモンが出ているのか?観察の結果をいずれかの機会に書く事にしましょう。
 
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

 

湯豆腐こそ淡味です。

$
0
0
日々の楽しみにが食べる事があげられます。毎日毎日寒さが進行すると「湯豆腐」が恋しくなります。
ワイフに今晩は何にします?訊かれれば「湯豆腐、南禅寺風」と言えば、気持ちは既に京に飛んでしまいます。
ネットで検索すれば湯豆腐がなんと3500円です。高々湯豆腐が随分お高いものです。
イメージ 1
南禅寺門前茶屋八千代の湯豆腐+八寸http://r.gnavi.co.jp/k749400/menu1/
我が生家では、野菜は庭先畑で採取して、行商のお豆腐屋さんに私が鍋を持って走れば湯豆腐の素材は揃いました。もう一品は卵焼きに沢庵大根で満足でした。
イメージ 2
 昭和30年ころは横浜でもラッパを吹いてお豆腐屋さんの行商が見られました。
青菜が一段と美味しくなってきました。住宅街に散らばっている畑には、白菜も葱も霜を浴びて表面の葉が萎れてしまっています。所謂霜降りの野菜で、野菜自身も自己防衛で、寒さに強い体質に変わっているのです。寒い時に耐寒性に秀でた冬野菜が美味しいに決まっています。
イメージ 3
霜柱にも負けないで育っている法蓮草。これを食べれば風邪などひかないでしょう。
イメージ 4
戸塚の小雀の葱畑向こうの民家は「丘の上美術館3月が近くなればおひなさまがてんじされます。葱は表面の葉っぱが萎れてしまうと甘さや独特の苦みが増すのです。
イメージ 5
これが美味しい「霜降り白菜」元来白菜は中国の北方が原産ですから、寒くなるほど美味しいのです。葉っぱが霜で萎れない様に藁で頭を巻いて締めます。すると白菜は表面の葉っぱを萎れ枯れさせてしょう。防寒体制に入ります。すると甘さが増します。
我が生家ではお豆腐に白菜法蓮草長葱で充分でしたが、ある年から。母が京菜(水菜)を栽培して、湯豆腐に入れました。「京野菜が湯豆腐には最適なんだよ!生煮えで、パリパリ鳴らしながら食べるのが美味しんだよ」母の簡明な説明があって、私は、野菜本来の味が強くなってきているのです。こうなると、青菜を一番おいしく食べる欲が強くなってきます。
 
イメージ 6
最近は鎌倉野菜の販売コーナーでも水菜が進出してきています。湯豆腐用というよりサラダ用として好まれてきたようです。
冬野菜を美味しく食べる、それも青菜本来の味を楽しむ・・・・・、それには湯豆腐が最高だと思います。
サラのお湯に湯がいて調味料を加えずに、青菜本来の味を極立てて食べるには単純に湯掻くだけで食べるのが良いに決っています。それは600年も昔に道元禅師がご指摘されておいでです。典座教訓では「精進の基本は五法五色五味と指示されました。五法とは「生焼く煮る蒸す揚げる」の調理方法を、五色は「緑白黒赤黄」の五色の野菜を揃える事を言います。そして五味とは「甘味塩味 酸味辛味苦味」の五味を言います。更に道元禅師は「淡味」こそ大切にしなさいと諭されておいでです。淡味とは「あっさりした味、薄味」という意味では無くて「野菜そのものの味を大切にしなさい」の意味です。京菜には少しだけ辛味があります。我がワイフは総じて甘いのですが少し辛味があるので京菜風です。辛味をそこ儚く感じる程度の距離が良いんでしょう。
湯豆腐の京菜も淡味が生きているし生かされる料理です。
一昨年奥能登総持寺でお精進を戴きました。あの時は胃を切ったばかりでしたので、勿体なくも食べ残してしまいました。友人達と五観の偈(ごかんのげ)を唱和したことが良い想い出です。昨日は奥能登期待の遠藤君(七輪の玖珠町の出身)は負けてしまいました。何時かは大成してくれるだろう期待は熱いものがあります。「今頃は能登は雪ノ下でしょう」思いながら今夕もお相撲を見て、「今晩は湯豆腐」に「鰤大根+煮豆」ワイフに注文しておくことにしまししょう。
イメージ 7
能登総持寺祖院のお精進。精進五法五色五味の教えを戴きました。
 
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

 

風刺漫画とヘイトスピーチ

$
0
0
今朝は今にも降り出ししそうな重い雲が立ち込めています。ブログに何を書こうかな想いながら食卓を囲みました。テレビではシャルリー・エブド(Charlie Hebdo)の最新号が発刊されてパリ市街では即時に完売世界25か国でも発売され370万部に達すると報道されていいます。
イメージ 1
表紙は預言者「ムハンマドが「私はシャるりー」と書いたカードを掲げながら涙しています。でも表題は「総ては許される」とイスラム教のメッセージが記されています。
私はこの風刺画がイスラム教徒を侮辱したものとは思えません。ムハンマドも今回のテロ事件とその後のフランス社会のアレルギー的な排除感覚を泪していられる様に思います。「天国のムハンマドもご心配されておいでだ」めっせーじとしてイスラム過激派も受け止めて欲しいものです。
 
イメージ 2
表紙は別として内容面にはテロリストが失業したり風刺が効いた漫画が描かれているようでした。(出典NHK朝のニュース)
イスラム教徒を異質として排斥しようとする動向はフランスに留まらずドイツまで広まっている模様で。国連でも危惧しているようです。流石にイスラム国家であるインドネシアではこの世界に広がる「反イスラム過剰反応」を危惧して総じて「表現の自由は重んじなくてはいけないが、信教の自由尊厳を損なっても良いものでは無い」制限を加えています。フランス国内でもイスラム信徒を刺激しないよう良識ある人も多いようです。
イメージ 3
インドネシアでの報道(出典NHK朝ニュース)
イメージ 4
グラン巣の良識派市民の反応(出典:同上)
考えてみればキリスト教世界とイスラム教世界との抗争は13世紀十字軍に遡り。既に6世紀に及びます。その長い歴史の上に今回は格差拡大貧困問題が絡んでいますから、より難しい問題になっています。総じてキリスト教世界が裕福であり、政治をリードしていますのでキリスト教世界の自重や思いやりが不可欠でしょう。デモ行進が370万人もの人波で熱して風刺画新聞が350万部も発刊されると、イスラム京都は一層袋小路に追い込まれてしまいます。一般的なイスラム教徒を過激派に追い込まない様に適当な処で風刺画新聞で端を発したテロ事件を収束させてほしいものです。
そんな風におもいなラニュースを聞いていると、月曜日にNHKで放映されたのクローズアップ現代「ヘイトスピーチ」を思いだしました。
イメージ 5
クローズアップ現代でヘイトスピーチ問題が報じられました。(出典:画面に記載されています)
画面は新宿の新大久保のコーリアンタウンや大坂鶴橋のコリアンタウンをデモ行進する群衆を映していました。「在日韓国人は出ていけ」そのプラカードもシュプレッヒコールも訊くに耐えない下劣極まりなこ言葉です。流石に国連でも看過できずに政府に適正な指導を求めています。フランス以上に恥ずかしい事態です。
イメージ 6
新大久保をデモする反韓国人デモ(出典:前記)
イメージ 7
ヘイトスピーチは自由な意思表示の域を超えて反韓国挑戦をあおるだけで、既に獣表現の範疇に収まるものとは思えません
イメージ 8
此方は大阪の下町鶴橋(焼肉で有名)をデモ行進する人達歴史を知らないお嬢さんが鶴橋大虐殺」をあおっています。
イメージ 13
もう良識ある日本人は視るに耐えないプラカードも見られます。こんな看板建てる人も鶴橋や新大久保では韓国料理を愛玩しているのでしょう。
 
イメージ 12
関東大震災の直後流言が飛び交い朝鮮人が殺害されました、読売新聞も標語に朝鮮人「鮮人」と差別用語を用い混乱を煽りました。
イメージ 9
流石に国連でも我が国のヘイトスピーチを問題にして自制を求めています。
私の祖父は盛徳寺の住職であり日野刑務所の懲戒師でありました。懲戒師とは刑務所に努める、囚人の精神的な更生を助ける仕事でした。でしたから日野刑務所を出所したばかりの人が良く往訪してきました。子供心にも怖い人が良く来るもんだ思っていました。祖母に訊くと長生きして一番怖かったのは関東大震災直後に始まった「朝鮮人虐殺」だったといいまsita。関東大震災の直後に「朝鮮人が襲ってくる」流言飛語が飛んだのだそうです。すると、「襲われるより先に襲ってしまえ」とばかりに彼等を殺害されたんだそうで。夕暮れ以降に寺自警団等が周回してくれたんだそうですが朝鮮人よりも自警団が怖くて、人の気配があると、怖くて怖くて寝られなかった。言っていました。
 
日頃の朝鮮人に対する差別的な発言や想いが殺害すると言った犯罪に走らせたのでした。lpのパタリの記憶は次に詳しいのです。http://www.kanaloco.jp/article/77436/cms_id/100721)
今回のヘイトスピーチ問題には二つも疑問があるのですがNHKはその疑問に踏み込む姿勢を見せませんでした。
【疑問1】ヘイトスピーチを連覇するデモに対して何故規制を懸けないのか?
【疑問2】ヘイトスピーチする人は在日韓国人朝鮮人が日本人より優遇されていると主張しているが、その誤解を更生労働省の見解を示すだけで。誤解のの発生する理由を何ら説明しなかった。
イメージ 10
NHKは政府見解を伝達。「特別永住権」は無くて「特別永住許可が与えられていて、該当者は扶養控除が大きく生活保護が厚く、日本人の被害者意識を昂じていると言われているようです。
イメージ 11
ヘイトスピーチに見え隠れする民族差別意識が関東大震災直後の朝鮮人虐殺といった暗い歴史を誘発したと指摘されています。私達は「朝鮮人虐殺」と教わりましたが最近の学校教科書では「殺害」に改められていました。日本政府はもマスコミもヘイトスピーチ問題に向き合う積りは無さそうです。
 
日本でも地球の裏でも民族差別問題が深刻です。社会保障の財源が無くなって日本人のストレスも被害者意識も昂じて来ているようです。一層深刻な場面を観る前にどうにかしたい問題です。法務大臣は要職です。団扇問題で一喜一憂しているようでは役立たずです。
 
 
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

 

感動した歌会始

$
0
0
ローマ法王フランシスコは15日、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載するなどしたフランス週刊紙シャルリエブドについて「他者の信仰をもてあそんではならない」と述べ、表現の自由にも一定の限度があるとの考えを示された。人間が自分の尊厳を大事に思うのならば他人の信仰の尊厳も尊重するのは当然な事です。キリスト世界が十字軍戦争以来対峙してきたイスラム世界に対し始めて歩み寄りを示したわけで、キリスト教会のトップが示した姿勢に過激派も怒りを治めて欲しいし、ヨーロッパ諸国民もイスラム教徒を窮地に負い追い込まないよう自制してほしいものです。
2015年年初から暗いニュースが多かったし、テレビではサリン事件10年阪神神戸大震災20年と辛い記憶を蘇らせ雅う。そんな中で明るいニュース2日本人で良かった2しみじみ思う報道がありました。
昨年末に「27年歌会始入選者が公表されました。その中に若干15歳の神奈川県在住の中学2年生が入っていました。私は凄いなあ、「お題は本で」どんな歌を作ったんだろう?興味が湧いて歌会始本番を楽しみにしてきました。
1月14日皇居宮殿「松の間」で皇后両陛下皇族方のご臨席を仰いで28681首の応募の中から10首が古式にのっとった節回しで朗詠され、作者が立席しました。15歳の少女はセーラー服で背筋をピンと立ちました。紺色のセーラー服には白線が縁取りされていて見覚えがあります。湘南白百合女学院、鎌倉女学院のセーラー服に似ているような・・・、翌朝新聞で確認すれば名門東京女学館の生徒さんだそうです。級友も先生方も卒業生諸姉も万歳だっら事でしょう。どうやらお婆ちゃんが歌を好まれているそうで。お婆ちゃんも松の間に随行したかったことでしょう。
イメージ 1
 入選歌を朗詠され、起立する姿も清々しい横浜市、小林理央さん(15) 写真は産經ニュースから転載

この本に全てがつまつてるわけぢやないだから私が続きを生きる
が里央さんの歌でした。屹度お婆ちゃん好みでは無い事でしょう。俵 万智風というか口語短歌です。口語短歌だからこそ下の句の7.7が力強く響いて聞こえます。少なからず感動してワイフに「彼女の指す「この本」は何だろうか?」話すとワイフは別の歌に感心したと言います。
横浜市、古川文良さん(46)の歌です。
何時もはイマイチの読売新聞のコラム「編集手帳」でも里央さんの歌を素材に、素敵なコラムに仕上がっていました。
世界の本田を創業した本田宋一郎氏が泉下で里央さんの歌を「我が意を得たり」とほくそ笑んでいることでしょう・・・として鬼神も霊も誉めている、結んでいます。同感です。
イメージ 4
 二人して荷解き終へた新居には同じ二冊が並ぶ本棚
ワイフは想い出話をします。結婚して新居で荷解きをした時でした。私が持ってきた本と同じ本をワイフも持っていたので、二冊が本棚に並んだというのです。で、その本は何だっけ?訊けば「歎異抄」であり「縦社会の人間関係/中根千枝」だったそうです。
私達はテレビ画面に見入ります。
私は雅子皇太子妃殿下姿を探しますが御欠席のようでしたが、お歌はご被露されました。ワイフは秋篠宮次女佳子様を見詰めて嬉しそうです。入選した小林里央さんのセーラー服姿はついこの前学習院をご卒業された佳子さまそっくりです。(佳子様のセーラー服姿は毎日新聞の次に掲載されています。http://mainichi.jp/graph/2013/04/08/20130408org00m040008000c/028.html)
イメージ 2
秋篠宮妃紀子さまのお隣に立たれた秋篠宮次女佳子様浅黄色(あさぎいろ )のドレスに刺繍が施されて気品が薫り高く漂うようです。お顔の血色がよくて目に力がおありです。出典産経新聞
 
天皇陛下のお歌は
夕やみのせまる田に入り稔りたる稲の根本に鎌をあてがふ
イメージ 3
昨年9月26日皇居の田で糯米を収穫された天皇陛下。左手で稲中程の茎を握って根元に鎌の刃先を当てて引き抜くように刈るのがコツです。こうして刈り入れされた神饌が伊勢神宮に奉納され国民の安寧を祈願してくださいます。
天皇陛下は毎年皇居で春にはお田植えされて自ら行っている秋には稲刈りをされてお伊勢様に「神饌」として奉納されます。昨年は遷宮の年、今年は国民の安寧を祈って神饌を夕暮れの中刈り入れされたのでしょう。
2千年に及ぶ我が国の歴史伝統の中に皇室が存続している事を僥倖に感じます。
さて来年28年のお題は「人」と発表されました。1億人国民が「人」に思いをはせます。
イスラムとキリスト二つの文化宗教が戦ってきたのも人の為せる歴史であり、助け合ってきたのも人の歴史であります。人の和や絆の大切さ聖徳太子の17条の憲法以来(民族の憲法)でありました。
良いお題を戴いて未だ半年時間があります。誰にでも私にも「松の間」に招かれるチャンスがあるのです。平和で民主的な国です。今日から私の脳裏には羊ならぬ人の字が沢山群れながら浮遊しそうな気配です。
 
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

 
 
 


 

藪に戻るのは必然です。

$
0
0
昨日1月16日は「藪入り」でした。今では馴染みはありませんが、明治時代までは誰も知っていました。「藪入り」とは、「商家などに住み込み奉公していた丁稚や女中 など奉公人が実家(生家を謙虚に藪と評した)へと帰ることのできた休日」です。盆にも実家に戻る事が出来ましたが(7月16日頃)此方は「宿入り」といったそうです。16日は屹度人情落語の「藪入り」を放送するだろう、とNHKラジオを聴いていたんですが藪入りの「や」の字も触れませんでした。こんな時はyou-tubeに限ります。三代目(先代)三遊亭金馬の「藪入り」をチェックしました。https://www.youtube.com/watch?v=3v0E6dO8yrs人情落語の「藪入り」ともうひとつ「艶笑小噺」林家彦六 (八代目 林家正蔵)でも 「藪入り」のある事を知りました。https://www.youtube.com/watch?v=RGXeFup__VY人情落語のあらすじは次の通りです。
イメージ 1
真っ正直の熊五郎は後妻との間に倅(亀吉)が出来ます。亀吉を奉公に出して3年。待ちに待った藪入りの前夜です。熊五郎夫婦は息子が戻ったら「お風呂に入れよう、ご馳走は何を食べさせようか?品川か浅草に行こうか?」楽しい相談に没頭します。翌日背丈の伸びた亀吉が帰って来ます。でも、ふとした拍子に確認した亀吉の財布に15円もの大金があったのでした。「屹度倅がお店のお金を盗んだ」ものと早合点した熊五郎は厳しく亀吉に詰め寄ります。亀吉は次のように説明して両親を安堵させるのでした。
「このお金は私が鼠を捉まえて交番に届けて懸賞金※を当てたもので、主人が預かっていて下され藪入りに際し持たせてくれたのです」(※明治時代ペスト対策として鼠を捕殺して交番に届けると懸賞金が当たるチャンスがありました。
感動した熊五郎はこう諭しました
「これからもご主人を大切にしなさい。これもやっぱりチュウ(=忠)のおかげだ」と落します。
一方、艶笑小噺は男色好みの番頭さんが亀吉に鐘を預けて口封じしたものでした。
 
江戸時代初め人口は600万人程度でしたが、新田の開発農耕馬の活用農夫の開発などによって収穫高が上がり人口も幕末には3000万人に上昇したと言われています。人口の8割強が農業、支配階級の武士は1割足らずでした。昨今武士の家計資料が発見され、武士の家計は火の車であった事が知られています。一方、農家は収入こそ武士に比べれば見劣りしても食うものには困らないし使用人も少ないので遣り繰りは容易だったようです。幕末に懸けて貨幣経済が浸透すると都市人口が増加しますが。総じて都市生活者の生活は農村部に比べて貧困であって、結果都市部の平均寿命は昔も今も短かったようです。加えて一揆や打ち壊しのような暴動も都市部の事件で農村では少ないのでした。
 
イメージ 2
石高500石(500両の旗本の場合収入は150両(換算)に対し武士の家計支出は143両(1両:16万円)残金は7両でこの金額で家族を養わなければなりまっせんでした。(出典:江戸時代江戸東京博物館学芸員市川博明著)
イメージ 3
一方田圃1町(10反)畑5反の農家(板橋)の場合収入は11両でも支出は拮抗していて残金が僅かに在ったのでした。出典同上)
江戸時代も明治時代も農村部の方が寿命は長いし、生活に食うものに困らないし、良かったようです。地方創世が叫ばれている昨今ですが、日本人も農村部に回帰する時代が来ている様に思われます。
           【江戸時代の死亡年齢】緑が農村部で茶色が都市部です。
イメージ 4
5歳未満での死亡率が2割と高いのは男女とも変わりません。各年齢とも農村部の寿命が都市部より長い事が解ります。出典前記)
現代も地方の方が優れている事は指折り数えて沢山あります。基本的には江戸時代の感覚と同じです。
政府が無駄にお金を使わなくても長生きしたい人、人情を求める人は田園に帰るのではないでしょうか。田舎に人口が戻れば出生率も回復する事でしょう。
以下現代でも農村部が都市部に比べて住みやすいと思う根拠を列挙します。
1、農村の方が収入こそ少ないが支出も少ないので生活に余裕が生じやすい。
2、農村の方がストレスが少ない
3、農村の食物の方が美味しいし安心である。
4、農村の方が水も空気も酒も肴も豆腐も美味しい
5、農村の方が育児や介護がし易い
6、農耕が最高に心身の健康に資する。
 
イメージ 5
このように竹藪の中にある生家が藪入りの語源です(家は秩父の民家)
 
 
 
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

 
 
 
 
 
 

子供は街の宝です

$
0
0
戸塚区長から招待状が届きました。「貴人は町内会長になって10年の間尽くしているので表彰します」とのこと。
この十年私がした事、しなかったことの一つに「新年会」があります。「今更新年会だと言って顔を合わせて一杯飲むのも馬鹿らしいし」、それに準備したり後片付けの人も大変だ。思って、止めにしました。
それが「今年は新年会をやろうよ!」意見が出ました。・・・・と言うのは、子供神輿を買って担ぎ始めて3年がたったのでした。ソロソロ中だるみが心配で気合を入れる意味で新年会を催そうよ!」そんな提案でした。
イメージ 1
2014年8月4日町内を練る子供神輿
子供神輿は相応の出費でしたので、法被や太鼓や祭大団扇『うちわ』は毎年少しづつ整備する事にしました。今年は祭り大団扇(3万円を購入し新年会で被露することになりました。、今年は祭り大団扇を買います。その団扇に揮毫をお願いしたい、東戸塚小学校の鈴木国広校長にお願いしました。先生から「なんて書いたらいいの?」尋ねられたそおでしたが、が「それも含めて総てお願いします」答えたんだそうです。
そうしたら。先生は「子供は街の宝」と書いてくださいました。私も訊かれたら屹度、同じ言葉をお願いしたでしょうし、八幡様の神様(大黒様)も頷かれている事でしょう。
先生は全員の期待を一言で祭り大団扇に書いて下さったのでした。
以下は先生のお話です。
『「先生は団扇に何か書いてください」頼まれて大変だったんだよ。団扇には竹の骨があって凸凹しているんだよ、それに、渋も塗ってあるんで、書き難いんだよ。お習字では二度書きは駄目だけど何度も書き加えてレタリングしたんだよ。最後に格好良くしようと思って奥さんに朱印を芋版でを作ってもらってペタンと押したんだよ。君たちは誰もがお父さんお母さんの宝だし、上倉田町の宝でもあるんだよ。そのことを神様の団扇に書いたんだよ。』
イメージ 2
これが鈴木校長先生ご夫婦合作の祭団扇です。
乾杯はジュースで済ませましたが、ご馳走は子供達が好きな唐揚げにピザにお寿司を用意しました。
ゲームに1時間遊んで。残りの1時間は音楽会になりました。校長先生のギターに父兄のバイオリンのデュオが素敵でした。”バイオリンを習いたい”子供の眼が輝いていました。
残ったお菓子やお蜜柑はお土産に持ち帰って戴きました。
”今年も良い事がありそうだ”期待が膨らむ新年会でした。全員で記念撮影をして半年後の藪入りの頃に集まる事を約束しました。町内会もこんなに楽しい事ばかりなら良いのですが。
これも素晴らしい校長先生を迎えたお蔭です。挨拶を含めて地域は大幅に教育パワーが増大しました。こんな校長先生は長く学校に残って戴きたいものです。
イメージ 3
参加者全員で記念撮影、腕を吊っているのが筆者です。
 
 
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

 
 

妖精のようなカタバミの花

$
0
0
窓辺に冬の陽射しが差し込んでいます。何だかピンク色が眼に飛び込んできました。
「何だろう?」近づいて確認しました。
イメージ 1
 ジャコバサボテンの差し葉の鉢から偶然に芽生えて花を付けたカタバミの花。居間の窓辺に妖精が舞い降りた様に見えました。カタバミのは葉三つ葉で傷薬にもなるので重宝されたものでした。武士の家紋にもなっています。
1本の茎の先に五弁の小花が5輪程咲いています。葉は3つ葉で・・・、そうです「カタバミの花が咲き出したのです。私もワイフもカタバミを栽培しているわけでもありません。昨秋ジャコバサボテンの花が終わって、その始末に際して小鉢にジャコバサボテンの傷んだ茎を挿し木しました。その時に使った腐葉土にカタバミの種が混じっていてそれが発芽して、もう開花したのでしょう。
我家では腐葉土を庭の片隅で堆肥と共に作っています。其処に何時の間にかカタバミの種が散っていたのでした。
窓辺に妖精が舞い降りた様に見えます。スプリング・エフェメラル(Spring ephemeral・春の妖精)は、春先に花をつけます。、夏まで葉をつけるて種を飛ばします、あとは地下で過ごす春植物ですから、私達は早春にしか眼に止まりません。どれも花が可愛らしいし背丈も低いので妖精と見違えてしまいます。
カタバミも「春妖精」の一つです。私の住む戸塚で最近は妖精が数多く路傍や雑木林で見つけられる様になりました。今朝はカタバミでしたが。もうじき福寿草そして雪割草、更に片栗が咲けば直に真打の桜が咲き出します。妖精に出くわすこれからの季節が一番良いんです。
イメージ 2
スプリング・エフェメラルの代表「雪割草」は雑木林の中で咲き出します。
イメージ 3
雑木林に続く路傍に咲く福寿草黄色い花が陽の光りをを集めるので花の表面は暖かくなり虫も集まって来ます。撮影場所は境川の河岸段丘東俣野です。
イメージ 4
雑木林の中に祀られていた弁天様の祠に毎年咲いているカタクリの花。撮影場所は前段の福寿草の先です。
今年も福寿草はどうかな?片栗は増えたかな?今から楽しみです節分は立春(2月4日)はもうじき。もう少し我慢です。我慢も楽しみがあるから嫌ではありません。
イメージ 5
此方は春の七草のひとつ(ほとけの座」霜にも負けずに可愛らしい花を付けました。これも春の妖精に見えます。立春までは「仏の座」の気分です。
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

 
 
 

托骨

$
0
0
郷か2日間にわたり「托骨」と題して短編小説を書かせて戴きます。これは筆者が見聞きした文化財を素材にして創作したものであることをお断りしておきます。舞台になっている思川は栃木県北部の地蔵岳を源流にして足尾鉱山から渡良瀬遊水池に流れる川です。川べりにある西方村は隠れキリシタンと言われる地蔵や馬頭観音が潜んでいます
イメージ 1
これが思川です。北は白河との国境で地蔵岳が見えます。下流は渡良瀬遊水池に続きます河原には葦の原っぱが広がっています。写真出典:Wikipedia
【托卵】
第一次近衛内閣が組閣され日本の政府も軍部の独走を抑えきれなくなって来ていた1936年昭和12年の初夏の事でした。新聞には支那品の勃発を報じその年の冬には満州事変を報じ新聞も戦争突入を煽いでいる感がありました。西方村蓮杖寺の住職隆法は小坊主の正法を従えてお檀家の家々を巡っていました。遠くの地蔵岳の頂には黒雲が湧いてきています。夕立が降って雷も来そうな気配です。早く盆の棚経を終えて寺に戻りたい、二人は自然と足を速めていました。思川を渡れば馬頭観音のお堂があってその先にポツンと1戸「川の端」と呼ばれる農家があります。その家で風呪する棚経がが今日午前の最後です。二人が馬頭観音のお堂の前を過ぎようとした時です。
お堂の周囲は葦で囲まれています。葦原からは賑やかな葦切りの声が響いていました。二人が近づくと葦切りの鳴き声はピタリと止まりました。正法は葦切りの啼いていた辺りを眺めると思いがけない光景を目の当たりにしました。葦草の根元近くに葦切りの巣があって、其処から1羽の雛が首を器用に使って背負う様にして卵を巣から地上に落しているのです。正法はお父さんで師匠の隆法に訊きました「あれはなにしているの?」西方小学校の教師でもあった隆法は倅に丁寧に教えてあげました。
あの巣は葦切りの巣なんだよ。葦切りが春になって卵を産むと郭公が遣って来て卵を一つ巣に産み落とすんだ。葦切りの親はそんなことを知らないで。ジット卵を温め続ける。すると最初に郭公の卵が孵化する。郭公の雛は葦切りの卵を巣から落してしまう。葦切りの親は雛が郭公であることに気づかないで一生懸命に餌を与えて育てるんだよ」
「フーン、郭公は声も良いし姿も美しいのに性格は悪いんだね・・・・。それじゃあ葦切りさんが可哀想だ・・・・。」
それが「世の中も自然も不条理に満ちている」正法が最初に気づいた事件でした。
イメージ 2
 大きな郭公を育てる小さな葦切りの親。写真の出典:Wikipedia
イメージ 3
郭公の雛はいち早く孵化して葦切りの卵を捨ててしまいます。出典:http://material.miyazaki-c.ed.jp/ipa/doubutu/tyou_rui/kakkou/IPA-dou620.htm命は因業な遺伝子が刻まれているものです。
那事変は日中戦争に更に日米戦争に拡大して既に冷静なコントロールの効かない事態におちいっていました。西方小学校の校庭では連日出征祝賀会催されていました。蓮杖寺も鐘を戦争の弾に供出していましたからこの戦争の無謀さを薄々気づいていました。隆法も教え画を次々に戦地に送っていました。終に唱和19年正法にも召集令状が届きました。
倅正法が出征する先は南方でした。其処は米軍が豊かな軍事力を活かして反戦に乗り出していたのでした。南方が落ちれば戦場は日本本土になる覚悟せざるを得ません。
見送る隆法には悔悟の念がありました。3年も前正法が結婚したいと言って美しい娘さんを蓮杖寺につれてきたのでした。隆法は娘さんを見るなりある懸念が胸をよぎりました。
若しかしてもの娘さんは「川の端」の娘でかも知れない?
檀家に相談して懸念が現実であった事を知りました。「川の端」とは思い川の葦原にある貧農の家でした。
西方村では「川の端」は部落民だとして避けていたのでした。隠れキリシタンの遺跡もキリシタンが部落に逃げ込んだものだったのでしょう。
隆法がそんな偏見に戦う気力があれば二人は結婚し住職を譲って置いた事でしょう。そうすれば正法に出征礼状が届く事は無かった事でしょう。
自分の偏見が最愛の倅を南方戦線に送る事になった。後悔の念は断ち難いものがあったのでした。
イメージ 4
隠れキリシタン地蔵尊【これは思川流域ではありませんが、同様の地蔵尊が多く祀られているのです。
イメージ 5
川沿いに祀られていることが多い馬頭観音。馬頭観音は馬の霊を慰めた石仏で部落民が信仰を担う事が多かったようです。この先に下の馬頭観音が祀られています。
イメージ 6
 
    【托骨】
続きは明日にさせてください。
 
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

 

托骨(2)

$
0
0
昭和20年8月12日終戦を迎えると、西方村にも戦争帰還兵が目立つようになってきました。蓮杖寺の住職隆法は教え子で帰還した兵隊さんの挨拶を受けていました。帰還兵たちは口々に戦場の惨劇を報告致しました。「先生僕はビルマ戦線に出されていました。戦争が終わった事、日本が負けたことは知りましたが、終戦から半年自分はヤーゴンの捕虜収容所に囚われ半年強制労役に努めていました。酷暑の地ビルマでは裸同然の姿で、連日の労働で休憩も無く、ジャングルに道を拓き農園を開墾していました。食べるものも無くて鼠を天麩羅に揚げて食卓に出されました。働いているとビルマの小母さんが握り飯を差し入れてくれました。仲間の捕虜の姿が少しづつ減って、順次国に帰還していることを知りました。正法君はフィリッピン戦線に送られていると聞きましたが、何れ私のように帰られると思いますよ・・・・」
イメージ 1
      (ビルマ戦線ヤーゴン捕虜収容所会田雄二氏に「アーロン収容所」の著があって英国の捕虜の扱いは冷酷非道であって、一方ビルマ人民は総じて英国をビルマから追い払った日本兵に好意的であり食料の差し入れや隠避してくれたそうです。写真出典:Wikipedia)
イメージ 2
       (鼠を調理する捕虜収容所の厨房。日本兵捕虜の食料は家畜用飼料で過酷であったようです。英国の処遇は冷酷極まりなかったと聞きます。写真出典Wikipedia)
唱和21年4月は底抜けに青空が広がるの良い天気の日でした。新聞には「戦犯」や「新憲法」の記事が踊っていました。
今朝も蓮杖寺の住職隆法は境内を竹箒で掃いていした。
もう桜は散って、葉桜に変わっていましたが、桜の実に熟せなかった幼い実が沢山地面を覆っていました。隆法は桜の若葉と未熟で散った跡をを掃き集めて蓑に集めていました。田圃の小路を兵隊さんが寺に向かってきます。瞬間”倅の正法かも知れない”期待で心臓が高鳴りました。
兵隊服を着た青年は正法と同時期に出征した靖男でした。靖男は正法の幼友達でしたし、共にフィリッピン戦線に配属されたのでしたビルマやマレー戦線は主として英国軍と戦っていたもののフィリッピン戦線は米軍との攻防でした。「戦力の勝る米軍が相手では正法は生きて帰れまい」覚悟は出来つつありましたが、一縷の望みは捨てきれないで居たのでした。
靖男は隆法住職に向かって訥々と話し始めました。
「僕と正法君とは教育召集の補充兵として同じ乙種兵隊合格でした。
昭和13年秋に宇都宮連隊に召集され1か月の教育終了と同時に除隊翌年6月に水戸工兵連隊に配置され神戸港から出帆し、支那の漢口に上陸しました主として大陸沿岸を守備するのが役割でした。私も正法君も健康でありました。正法君は美登里さんの写真を携えていました。
「結婚をお父様反対されたのが堪えていたのでしょう。帰還したらもう一度お許しを得るんだ!」眼を輝かせていました。
隆法が「私も不憫な事を云ったもんだ後悔している」言葉を喉元に詰まらせました。
靖男は隆法の表情の変化に気づかないふりをしながらマニラ戦線の話を続けました。
それから昭和19年私達はフィリッピンのマニラ港に出征いたしました。米軍の反抗が凄まじくマニラの攻防に日本軍は陸軍も集結させたのでした。フィリッピン戦線は支那とは大違いまるで『天国と地獄』でした。
食料は無い塩も無いので力が入りません毎日味気ないタロ芋を食っていました。日本軍はマニラの市街戦に敗北して私達は山に逃げ込み森林を拠点に反攻を試みようとしました。カタツムリや沢蟹を捕まえて食べました。峠から見下ろすと眼下の村に米軍の戦車が見えました。小
隊長は私達軍歴の浅い者を選んでに『切り込み隊』を編成しました。切り込み兵は対戦車地雷を抱いて敵戦車に体当たりするのでした。私も正法君も何回か戦友の出発を見送りました。私はも正法君と手を取り合って、森林を前進していました。米軍から逃げるのが精一杯でした。密林には米軍の「降伏を促すチラシが飛行家からばら撒かれました。「命を賭して戦うより降伏すれば飯も食えるし故郷の家族とも恋人にも会えるぞ」書いてありました。私も正法君も本心は降伏したい思っていましたが。既に死んでいった戦友の事を思うと自分だけ生き永らえる事に積極的になれませんでした。
私は生まれも育ちも貧乏百姓ですから粗食に耐えられたのでしたが正法君は逃亡生活の中で痩せ細って来ました。進軍は主として夜間に地を這うようにして行われました。何本もの川を渡りました。川を渡る時は正法君の手を強く握りました。川に正法君が流されてしまいそうに思えたのでした。何度も流されかかっった正法君を引き上げました。その度毎に故郷の思川で川遊びした思い出を口にしました。川を下れば海に出られる海は日本に繋がっている、海岸に出ればその先は倖せが待っていると信じていました。
でもパグサンハン川を渡っていた時です。正法君の手は私の手を放してしまいました。慌てた私は川の底を確認したんですが。正法君は既に流されてしまったようで、見つかりませんでした。私は已む無く小隊に戻ったのでした。」
黙って聞いていた隆法でしたが、正法が生きて帰って欲しい期待が見る見るし萎んでゆくのが解るのでした。唯正法が故郷の思川に似た美しいパグサンハン川で亡くなったのか思うとそれも定めであったのだろう、そんな諦めの気持ちが膨らんでくるのでした。
イメージ 3
マニラに近いパグサンハン川の上流。山の表情も含めて日本の河川と似ています。
 
それから10年待余りたっ経た昭和21年の7月でした。稲穂を揺らして風が渡って来ます。もうじき旧盆です。隆法住職は正法を従えて棚経をしたあの日事を思い出して川の端の馬頭観音のお堂に出かけてみました。そう正法が葦切りの托卵を見つけた場所です。お堂の前に立つと真新しい案内板が立っていました此処の観音像も「隠れキリシタン」の遺跡として有名になりお詣りする人も増えているのでしょう。
今朝の新聞には「もはや戦後では無い」大書されていました。でも隆法の戦争は未だ終わっていないのでした。
倅の正法の願い事「幼馴染の美登里と夫婦になりたい、」それを認めなかったばかりに倅は徴兵され、マニラの裏山のパグサンハン川で水死してしまった。自分が倅の純粋な願いを踏みにじったその理に反した行為が逆縁(ぎゃくえん)とは、仏の教えを素直に信じない(縁に背く)こと、またはそのような 救い難い人をいう。順縁の反対語。また、仏法を誹謗したことがかえって仏道に入ること を指して言う場合もある。子供が親に先立って死ぬこと)も指す。その罪業を為した意識が拭えない中は自分には戦争に終わりは無いのだ・・・・思っているのでした。隆法は考えました。
初恋を成就させてあげたい心は人間の理(本性)に適っています。人間の理に逆らう行為が悪業で、子供に先立たれてしまった逆縁も自分の悪業の為せた結果と思うのでした。
その時足元で♪ギョギョシギョギョシ、カカカカカ♪葦切りの鳴き声が響きました。正法の質問のように聞こえてきます。。
「郭公はずるいよ葦切りの巣に子供を産んで葦切りの子供達は皆殺されてしまって、葦切りは郭公の子供を育てるなんて理に適っていないよ。お父さんは私の恋を認めて下さらなかった。私の恋は、理に適っていると自信があるのにお父さんが優先しろという差別にも理があるのですか。差別は人間が言い出した便法であって仏の教えなんですか?」息子の抗議の叫びは葦切りの鳴き声になって隆法の耳に痛く届くのでした。
正法よ「私の過ちであった。許しておくれ。」隆法は葦の蒼芽に向けて手を合わせました。
イメージ 4
中央はクイナ足元の青い芽が葦の新芽です。この芽が青々と伸びたら編んで茅の輪を作ります。神社で行う「茅の輪潜り」の神事に使います。
でも一向に葦切りの鳴き声は止まりそうもありません。
遠くから数人の人が此方に向かってきました。両手で四角い箱を捧げ持っています。白い布で包んであります。そう、西方村の職員が正法の骨箱を届けに来たのでした。年配の厚生課長と思しき人が挨拶しました。
イメージ 5
熊谷守一氏の名作「悲しくてやりきれない」真ん中の学生服の子が抱いているのが骨壺。同画伯は貧困で栄養失調で子供の逆縁に度々遭遇されました。
「和尚さん此方にいらしたのでしたか?お寺に伺ったのでしたが居られなかったのでお探ししました。
実はこの春に本厚生省が 日本遺族会等と戦没者遺骨収集団を組織してフィリッピンに出かけていたんです。ご子息の御遺骨を預かっていますのでお届けいたします。」
隆法住職が恭しく両手で白い箱を受け取りました。その時はこの中から「ゴロン」何かが転がる音が響きました。
隆法は白い布を解きました布の中には箱があって蓋を開けると素焼きの壺がありました。壺の底には小石が5つ収まっていました。そうあの日の葦切りの巣と同じでした。小石は郭公の雛に捨てられた葦切りの卵と同じに見えました。隆法は改めて骨壺を確認しました。其処には簡明に次の様に書かれた紙片がありました。
「昭和19年7月10日一等兵大石正法君はマニラ攻防戦の最中パグサンハン川にて没する。遺骨収集に努めるも空しく同川の川原石を届ける。昭和31年6月日本国戦没者遺骨収集団団長 高野山上田天瑞大僧正。
それから数日後新聞で隆法は九段会館及びマニラでおごそかに戦死者の法要が営まれた事を知りました。そして、隆法は骨壺から小石を二個取り出しました。残りの3個の石は骨壺に納めたままにしておきました。両の手で目の前に石を奉げました。石は隆法の涙で黒く滲みました。石を握ったまま墓地に向かいました。墓地の外れに「川の端の美登里の家の墓がありました。墓石には石蓋があって漆喰で固められています。バールを使って石蓋を動かせば容易に開ける事が出来ました。隆法さんは他家の墓を開けるのは初めてでした。ゴトン重い音をたてて石の空間が覗いて見えました。骨壺が幾つも揃って仲良く並んでいました。その中で一番真新しいのが美登里さんの骨壺です。
隆法は涙しながら呟きました。
美登里さんよ頑固な拙僧を許しておくれよ今日は倅正法の石を届けるよ。正法は戦地から戻ったら改めて私の許しを請い貴方との華燭を結ぼうとしていたんだよ。石はお前さんの脇に置くから仲よくしてやっておくれよ。
「他家の墓に骨を埋める事は尋常ではないけれど。彼の世では二人が結ばれて欲しい」そんな私の想いは仏も許して下さると思うんだよ。」
「ところで正法よこれで良かったのかね?お父さんを許してくれるかね。昔お前に訊かれて「托卵」だと言ったが、私の行為は托骨とでも言おうかな?」「托卵は人間が見れば不条理だが仏が見れば理に適っているかもしれない、托骨は人間界で見れば不法であるが、仏から見れば理に適っているかもしれないよ・・・。
イメージ 6
隠れキリシタン地蔵尊川原石を刻んで優しい地蔵尊を彫り出しています。[大磯の澤田美紀記念館蔵/同記念段アルバムを複写)
 
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

 

霜柱の事

$
0
0
関東地方一帯は「関東ローム層」で覆われています。関東ローム層は粘土質の赤土で水分を良く含みますので、霜柱が良く出来ました。昔は道路が舗装されていないので、運動靴の底に土がくっ付いて困ったものでした。
学校の靴箱の脇には靴の裏底にくっ付いた粘土を削ぎ落す縁が用意されていました。
でも関東ロームは麦栽培にはしていたので、何処の農家も麦を盛んに栽培していました。浅間山の麓群馬の水澤うどん等の名産地があるのは関東ロームのお蔭です。
1万年も昔に浅間山や富士山が噴火して降り積もった火山灰が土壌化して、麦や薩摩芋の栽培に適したお蔭です。
そんな次第で筆者が子供の頃、寒い朝には霜柱が良く見られました。霜柱は麦の根を浮かせてしまうので麦踏が欠かせない農作業でした。私の母は私を背負って麦踏に出かけたものでした。踏まれた麦は大地に良く根付くと同時に株分けが進んで収穫を増やしてくれるのでした。母は晩年腰が曲がって苦労したのですが、麦踏の過労の所為でおんぶして貰った私も加害者でありました。
イメージ 1
法蓮草の畑に立った霜柱
イメージ 2
霜柱が立ち出すと冬野菜が美味しくなります。
イメージ 5
麦踏を待つ麦畑手前の枯草はくっ付き虫の栴檀草。枯れた草これから育つ草生命が交代する季節です。
イメージ 3
向山遼一氏の高遠の油絵農婦の後ろ姿が私の母を思わせます。筆者の居間に懸けてあります。
イメージ 4
母が麦を踏む図
火山灰が土壌化するには土中のバクテリアや山林の腐葉土そしてミミズ等の土中の生物の活動の蓄積が必要です。火山灰のままでは作物は育成出来ません。長い時間と何世代にもわたる農作業の成果が栽培に適した土を育成したのでした。
霜柱という名の植物があります。この名を付けた人は大変な風流人だと感心します。霜柱は冷たいし余計な農作業を必要とされるので嫌われ者です。雪掻きとか雪下ろしのような嫌われものの名です。私の生活圏では大船フラワーセンターの雑木林の中で自生しています。南京櫨の大木の根元に幾株もの霜柱が自生していて、指導員が「此処に霜柱が見えますよ」案内してくださいます。
私は其処で初めて霜柱を視ました。そして説明を受けたのでした。
[霜柱」は紫蘇科の植物で夏は青紫蘇のような顔をしていますが。初夏には白い小さな花を付けます。冬には地上部こそ枯れてしまいますが地下の根は生きていて、地中から水分を吸い上げています。根から水げられた水分は茎も裂け目から滲み出て来てそれが凍ってしまってまるで霜柱が立ったように見えるのです。
イメージ 6
大船フラワーセンターの雑木林南京櫨の樹下に出来た霜柱『植物』の霜柱(自然現象)
鎌倉山には紫蘇が自生しています。
私の敬愛している山崎放代さんの「青紫蘇の花」るは地味でも美しい花に魅せられた事と、その花も葉も食べられるので句集の表題にしたものと思います。
私は方代さんを偲びながら鎌倉山を散策しながら青紫蘇の群落を見つけました。放代さん同様に食いしん坊な私は付近を探し回ります。放代さんは木耳(茸)も見つけておいでなんです。
植物園の霜柱ではなく鎌倉山の霜柱が確認できたら幸いです。泉下の方代さんに教えてあげたいと思うのですが。この冬は家で大人しくしておくことに致さいましょう。
イメージ 7
鎌倉山の青紫蘇の群落。同じ紫蘇科の植物なので今頃は霜柱が出来ているかもしれません。
イメージ 8
青紫蘇に集まる紋黄蝶
 
 
ログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

 
 
 
 
 
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live


Latest Images