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陰暦併用で生活します(カレンダー作り)

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テレビでは横手のかまくらが映っていました。横浜の中華学校では、連日春節のお稽古に力が入っていることでしょう。もうじき立春旧暦の正月になるからです。
先日の新聞記事では外国人旅行客が日本でのお買い物に落とすお金が2兆円にも及ぶそうです。一人当たり20万円ですからお土産の購買力は眼を見開くほど巨額です。もうじき中国・台湾・韓国(何れも陰暦)の旅行客で京都も東京も賑わう事でしょう。
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横浜中華街での春節では中華学院の生徒さんの獅子舞・龍舞が見られます
 
私達日本人は明治時代初めに従来の陰暦を取りやめ西洋諸国に倣って太陽暦にしました。でも2000年に及ぶ日本文化は陰暦で堆積しています。そこで太陽暦を表にして裏に陰暦を併記して「太陽太陰暦」で生活してきました。陰暦の正月は立春で2月初めごろですから、そもそも旧暦と新暦は一月のスタート時期が異なります。
ですから、新暦を旧暦に換算するときは1ケ月程進めれば(陰暦が遅れてくる)良い事になります。 
立春をはじめとする二十四節気の名称は元々華北地方の季節感で名付けられたものです。立夏や立秋、その他の名称も日本の季節感からすればずいぶん先走っている気がしますが、これらは我々の季節感が鈍っているのではなく、暦の方が日本の自然とはずれているのだと理解すべきものです。立春と聞いたら、ああ華北地方では冬がようやく緩むころなのか、と考えれば良いのです。もともと陰暦は陽暦より1ケ月ほど遅れていることに加えて華北地方は日本より緯度が高いと思えば良いのです。
24節気を考えるとき頭の中で1箇月遅らせたり進めたりするのは不便です。そこで今年は陰暦併用のカレンダーを自作する事にしました。どうせ作るのなら、我家専用というのではなくて、町内会館や小中学校でも使えるように戸塚の風景を使う事にしました。
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「かまくら」は陰暦の正月に行われます。東北地方の祭りは七夕も竿灯もねぶたも陰暦です。東北地方は農業が盛んだからではなく陰暦の文化が馴染んでいるからです。NHKテレビを撮影)
昨今は「陰暦の奨め」を言われる人が目立ち始めました。そうした人の主張は総じて次のようなものです。
「陰暦は農業暦で、陰暦で生活すれば農作業の目安が立つ、陰暦こそ稲作文化圏の暦であって陽暦にはそんな知恵が無い)でも農業暦は陰暦では無くて陽暦こそ農業に適しているのです。春夏秋冬季節の変化は1年で1周地球が太陽の周囲を公転好転する事によって生じます、稲作も麦作も太陽の変化に応じて進めるのが合理的で、月の満ち欠けは関係ありません。そもそも月は15日で地球を一周します。ですから新月を1日にして満月を15日にしました1年間に24回地球を回る事になります。24節気はこれを暦に表現したものです。
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月の満ち欠けが大事なのは妻問婚の習慣です。
先史時代も古代も母系社会では女性の家に男性が通いました。別れ際に女性が尋ねます。
「今夜は良かったは次は何時来て下さるの?」男性は夜空を見上げて答えます。「今夜は13夜如月の3日月齢3だから2日後が満月でその翌日十六夜の月の出過ぎ時刻(酉8時)に来ることにしよう」答えます。次の逢瀬は「4日後の月が出て一時後」と約束されたわけでした。時計が無くても逢瀬の場所と時刻が確実に約束された事になります。陰暦は母系社会でこそ重要であったのでしょう。
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これが2月のカレンダーです。写真は路傍に咲いた正月草(福寿草)です。
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これが4月です。写真は柏尾川の桜を使いました。
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これは7月です。露地の如意輪観音とどくだみの花を使いました。
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これは8月です。写真には柏尾川の精霊流しを使いました。
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これは10月です。戸塚倉田の夕焼けを使いました。
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これが11月です写真は峠の馬頭観音(倉田小学校脇)を使いました。
 
この他に1月は羽化羽化したばかりの隼4兄弟の写真を使いましたし、使わなかったものの愛着のある写真も数多くありますが。まあ、満足ゆける陰暦・陽暦の併用カレンダーが出来上がりました。筆ペンで孫の誕生日やお祝いを書き込めば完成です。
こうしてカレンダーを作っていて思い出しました。
思い出は悪い事が多いものです。
銀行に就職して2年目の仕事が債権の広告作成で、浮世絵カレンダーを作成しました。何時もは公告代理店を通していたのでしたが、カレンダーの作成は直接にK印刷に発注したのでした。というのは印刷会社の営業が「不織布を持ってきてこれで浮世絵カレンダーを作成すればお客さんに喜ばれますよ!」提案があったのでした。そこで客層の好みに合わせて七曜俵を書き加えました。正月明けに某同和問題組織の役員の糾弾を受けました。「自分達は因習によって社会から差別を受けている。お前の銀行は因習である七曜表を印刷している。けしからん!」というのが抗議内容でした。東洋信託銀行の頭取が日比谷の野外音楽堂で謝罪した事件を知らないのか!」凄まれたのでした。私の手には負えそうもありません、総務部の職員にバトンタッチして作成済みカレンダーの焼却を覚悟したのでした。因習として批難されようが伝統として賞賛されようが、いずれにしても私達は歴史の恩恵の上に育っています。陰暦は馴染めば馴染むほど奥深く、生活に潤いをもたらしてくれます。今年は自分好みの「陰暦併用カレンダーを作ったので。これで1年を楽しみながら、過ごそうと思います。
頒布を希望される方は実費1200円+送料でお届けいたします。コメント欄に書きこんでください。
 
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相撲の魂の声を聴いてみたい

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uncyclopedia(百科事典)で相撲を調べると「日本が誇る世界最強の国技」と案内されています。昨日は未だ13日目だと言うのに白鵬の優勝が決定、日本人力士の最期の優勝は2006年1月場所の大関栃東になりますので、以来14年間41場所も優勝していない事になります。
泉下の横綱審議委員内館牧子さんの辛口を聴きたくなります。かっては青青龍に”品位が無い”と嚙み付いた同女子は日本人力士を呼び集めて激を飛ばすことでしょう。そして般若の顔に青筋立ててまくしたてる事でしょう。「あんた達は魂の嘆き声が聞こえないの?お相撲は2000年も昔から続いているのよ。先祖の姿は見えなくても谷風や雷電は風神・雷神になってお相撲を見ているのよ。40場所も優勝できないなんてどうやって申し開きする積りなのよ。男が不甲斐ないんだからこれから女相撲を立ち上げて女相撲に期待しろ、とでも思っているの。」
柔道は世界のスポーツだから金メダルを取れなくても良いけど、相撲は違うのよ、相撲には日本人の魂が宿っているのだから、負けたら歴史や先祖に申し開きできないのよ・・・・。」
 
大分古い話ですが大田大阪府知事が優勝杯を手渡しするために土俵に上がろうとした時でした。相撲協会が反対しました。マスコミも協会寄りの意見で、府知事は泣く泣く諦めたのでした。
土俵に女性が上がってはならない理由それは、それが伝統であるから。伝統は因習と思われようが相撲自体が伝統の上にあるものだから、伝統を否定する事は出来ないでしょう伝統というスタイルを受け継ぎながらその精神を守るのが大切です。
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因習にも根拠があって、女性穢れているから土俵に上がれないと思っている人が多いのでしょう。それは女性だけに月経があるから・・・・、男性も月経のお蔭で産まれるんですから穢れていると避けるのは自己矛盾しています。理屈では「穢れている」という主張は矛盾しているのですが高野山に例え弘法大師のお母さんでも上れないとしたのが平安時代でした。
多分お相撲の始まった縄文時代には男女とも相撲があったのでした。平安時代に母系社会から父兄社会に大転換した時に「女性は穢れている」と屁理屈を付けたのが女性が土俵に上れないとした経緯だったのでしょう。
土俵で力士が四股を踏むのはネットで調べると、多くが大切な下半身の準備運動であると説明していますが、四股を踏むことは『醜女(しこめ疫病神)を押さえつけて、邪気を祓う行為である。』というのが正解です。だからこそ、力士はマワシの上に注連縄を巻いていますし、力士に赤ん坊を抱いてもらうと子供は元気で健康に育つと信じられています。
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四股を踏む白鵬。肌も綺麗だし男前でもあるので筆者は双葉山を思いながら見詰めます。こんな大横綱を見られるなんて幸いだと・・・・相撲は様式美の極にありその動作の一つ一つに魂を見る思いがするのです。世界中に相撲レスリングがありますが此処まで美しくしたのは日本文化の特徴と思います。
四股を踏むに先立って塩を撒きますが塩撒きはネットでは土俵を殺菌消毒する行為と説明していることが多いようです。どうもネットで質問に答えている人は科学的合理的に考える傾向が目立つようです。
塩と石灰を加えた土は三和土(たたき)と言い。堅固で清潔なのです。農家の土間は土俵と同じように手入れされています。その結果厄払いがされているし、力士が傷を負ったり怪我をしないと考えられたのです。神事を見ていれば良く解るものです。
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塩は穢れを祓うのに欠かせません。
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奈良大神神社、この神社の北に相撲神社があってお相撲発祥と言われています。日本書紀には雄略天皇の13年(469年)に雄略天皇が迂舐めウナ女2人に褌を付けさせ相撲を取らせたと記述されていますこれが日本の文献上最初に見られる記述です。
 
私の住む横浜の神社にも土俵は残されています。
ごく最近までは例大祭に際して相撲が奉納されていたのでしょう。今は青年も少ないし、青年団(消防団)も相撲よりもカラオケに関心があるようで、土俵は忘れ去られて雑草が茂り始めています。
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小田原の飯泉観音境内奥の建物が雷電神社。大山道に在ったこの神社では江戸時代から相撲の興行が為され雷電も奉納したそうです。
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同上:雷電の手形雷電の四股名自体が自然への畏敬に溢れた良い名で、五穀豊穣を祈るものです。
筆者は友人と長野県東御市にある雷電の故郷に訪れ温泉に入りました。
一昨年筆者は友人と奥能登、石川県の穴水町を旅行しました。軍艦島を見て魚を戴きました、期待の遠藤君(穴水出身)も伸び悩みのようです。黙している相撲の魂の声を聴けるような相撲取りに早く大成してほしいものです。
雷電とは言いませんが名産の鰤を起こすような気合が表に出る様な四股名が良いと思うのですが・・・・、親方さんよろしくお願いしますよ。大関になったら名を付けようなんて思っているとチャンスを失うかもしれませんよ・・・。
 
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鮟鱇で冬越し

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私が町内にあるデーサービス施設「マナーハウス南横浜」に通い始めたのは昨年5月でした。リハビリに尽力頂きお蔭で介護ランクも3級から、2級にアップする事が出来ました。同僚患者さん達とも仲良く遣っています。既にお顔とお名前は正確に覚えて冗談を言い合う関係です。でも、どなたかお顔が欠けると心配になります。寒中に脳梗塞を発症する人が一番多い上に、昨今はインフルエンザにノロウィールスと病が先行しているんです。
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ミーティングテーブルに飾られた椿の花、昨年は雪が積もって幹が裂けてしまたのでしたが今年は我が家の庭でもう咲き出しています
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此方は慈姑(クワイ)クワイは澤瀉(澤瀉)の仲間で、直ぐに芽を出すのでおせち料理に使われます。慈姑も蓮根も寒くなるほどに美味しくなる野菜です。
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ある日のデーサービス施設のランチメインディッシュは鯵の南蛮漬けガンモドキがつきました制限カロリーの中で5味5法手の込んだ昼食です。
 
ミーティングが終わればお風呂に入れて貰います。私は未だ左手が不自由なので介護婦さんに脱がせてもらいます。私の脳裏にはミーティングの慈姑が消えません。私の股間から元気のない慈姑が顔を出します。隣のおやじさんのは里芋いや八つ頭のように鎮座しています。今日のお風呂はローズの色香です。慈姑も八つ頭も綺麗に洗われて、程よく茹でられてご機嫌でお風呂から出てきました。爺さんたちは血色も良くなって笑顔満面です。
介護婦に洗われて慈姑も八つ頭もご機嫌になり寒中のローズ風呂より出る
 インフルエンザもノロも避けて通らめ
 
朝患者が集まるとミーティングが開かれます。介護スタッフが交代で司会をして、「今日の話題」を話し合います。
1月23日は「メールの日」であり「天麩羅の日」だそうで、語呂合わせで役所や協同組合が指定したんだそうです。
筍の食べ物に話題が移ります。慈姑(クワイ)が筍だそうです。野菜ならクワイが筍なのですか。天麩羅にするには慈姑より蓮根の方が美味しそうです。魚なら白魚でしょうか、それともワカサギでしょうか?色々に想いは飛んで行きます。
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何時もの魚屋で鎮座した鮟鱇君(南部市場から仕入れたもので予約しておけば求められます。
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鮟鱇の半身を2000円で求められます。生物の鮟鱇来も00g付きですからお安いものです。(戸塚飯島にある親身な魚屋さんです」
1月24日(土)は娘夫婦が遊びに来ます。次は「鮟鱇鍋」をやろう。約束しておいたので何時もの魚屋さんに注文しておいた鮟鱇半身を取にお出かけです。ようやく快晴になった野ですが。風が強いのでワイフに先を歩いてもらい風除けにして後に従います。
鮟鱇を食べたさに 妹を風除けにして何時もの辻を曲がる。
 
魚屋さんの店先には色々な筍が並んで”私を食べてね”と誘っているようです。
揚げ物にするなら牡蠣も鬼カサゴ。も白魚もワカサギも行けそうです。鯨の竜田揚げも懐かしいものです。でも鮟鱇鍋に白魚の天麩羅は食事制限域を超えています。今度食べてあげるからね囁いて。予約した鮟鱇と八百屋さんに回って帰宅します。ワイフは片手に鮟鱇片手に野菜を吊るして前を歩いてゆきます。
”老いてはワイフに従え”無口ですが背中が語っています。頼もしく見えます。
陽が沈んで娘夫婦がやってきました。
鮟鱇の魚臭さを抜く方法についてワイフがいろいろ聞いてきます。
行き着くところは何時もと同じ。
”私に食べさせておけば良かったのにね。私は食べていないんだから・・・・、臭くても我慢してね!”娘に同意を求めています。
ワイフは”老いては子に従え”モットーのようです。
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いよいよ鮟鱇鍋の始まりです。
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鮟鱇鍋ももう食べ尽くして、を食べて体が芯から温まり力がつきました。これで風邪をひかずに春を迎えられそうです。筍とは安く体に精を付ける食べ物の意味です。必ずしも竹の子ばかりではありません。
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牡蠣も美味しそう。次回に持ち越すことにしました。
 
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寒中の餃子

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町内のYさんが夕刻に来られて”黄河の餃子”をプレゼントしてくれました。Yさんと黄河さんとは神輿仲間という事だそうで、横浜や湘南で祭りがあると法被に着替えてお一緒に神輿を担ぐ間柄だそうです。
「寒い時には餃子が食べたくなるもんです。」早速夕餉のテーブルに香ばしく焼けた餃子が並びました。
黄河の餃子はテイクアウトが専門で皮がモチモチで美味しいのです。
ご飯のおかずに戴くというよりも、餃子を8個もあればご飯は不要といった食べ物です。今頃は北京の屋台通りに濛々と蒸気をたててお店が並んでいる事でしょう。屋台はお饅頭屋さんと餃子屋さんです。茹でた餃子に醤油タレをかけて戴けば心身ともに温まります。
寒い時には寒い地方の食べ物を戴く事これが食の基本でしょう。でも狗肉(犬の肉)だけは結構です。
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北京の屋台通りの賑い。次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/28256605.html?type=folderlist
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北京の餃子これでご飯もおかずも不要です。同上
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これがとつかの黄河の餃子冷凍でカチンカチンですが解凍せずにそのまま料理します。
工場が戸塚の舞岡にありますので安心ですし美味しいと人気です。
餃子と言えば蒲田のニーハオです。私が起業した時、蒲田に工場と事務所を置きました蒲田の中小企業会館の近くに「羽根つき餃子の 悠好」がありました。 http://blogs.yahoo.co.jp/arapro7/53373514.html
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羽根つき餃子の 悠好の焼き餃子出典前述ホームページ
同店は私の学生時代から有名ですから既に半世紀以上の歴史があると推測します。ところがどのブログを見ても次の様に紹介しています。
『店主の八木功氏は旧満州の旅順(大連)生まれで父が日本人、母は中国人。
第二次世界大戦末期にソ連の侵攻により残留孤児となったる。
中国人と結婚して2人の子を設けたが、生き別れた父から連絡があり1979年に日本に渡る。
日本語を勉強しながら料理の腕を磨き、1983年に「你好」を開業した』
この記事はアドマチック天国『テレビ東京』の紹介が最初でブロガーがその記事をコピーしているために一般に流布している様に推測されます。私の記憶では文化大革命の前から有名店であったと思います。店主が健康な中にもう一度寄って創業の経緯を確認してみたいと思います。いずれにしても以下の点は間違いないようです。
1、華北では寒い冬の家庭料理は餃子が一番でモチモチの水餃子の食感が好まれた。
2、焼き餃子は日本人の好みで盛んになったものであり。羽根つきの羽根は日本人の様に焼く都度鍋を洗って居ては羽根が出来ない事。少し杜撰なほど羽根が出来たり美味しい餃子が料理出来る事。
蒲田の悠好もルーツは大連の家庭料理でした。
大連の餃子を食べたいもんだ誰もが持つ欲求です。
ワイフも息子たちも餃子には眼がありません。横浜中華街に餃子店を探します。一昨年の春節でワイフとその名も「大連」という餃子屋さんを発見して入店しました。
羽根の付き方からしてレースのようでお洒落です。少し汚い店の方が美味そうだ屋台の感覚を逸脱した新感覚の餃子屋さんです。店内には彼岸桜が活けてあって、一見するとワインバーに入った様な感覚です。訊いてみれば麻布十番で創業したとの事です。
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横浜中華街本通りに面して出店した大連ランチセット850円カラ用意されています。
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これが新感覚の餃子店「大連dalian] 此処も行列が出来る気配です。外観からして和と中華が折衷した感覚です。
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ワインバーのような店内オープンキッチンでは厳しいシェフがイケメンぞろいのコックさんを指揮してレース餃子を焼いています。彼岸花の花も心憎いものです。
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これが餃子ランチ850円餃子の羽根がレース編みのように綺麗です。筆者がチェックしたところ小型のフライパン『親子丼用の鍋のようなもの』で焼く小麦粉を溶いた水を注ぎ焼き上げるときにごま油を多めに垂らすと綺麗なレースが出来るようです。
 
今年ももうじき春節です。(2月18日)日本は漢字も食べ物もタダで中国から戴いて当然の様にその恩恵に浴しています。一方パソコンやインターネットは膨大なライセンス料を米国企業に支払っています。漢字を使うたびごとに餃子を食べる度毎にライセンス料を請求されてはたまったものではありません。春節には日本中に中国人が溢れるる事でしょう。そして。日本人が「餃子」に「ラーメン」に「饅頭」どれも中国食文化がルーツであることを確認して・・・・”餃子にワインも良も組み合わせだ”思って帰国する事でしょう。また、日中関係がぬかるみに陥らない様にしっかりと舵取りしてほしいものです。
春節にはワイフを誘って中華街に大連の餃子を食べに出かける事にしましょう。
黄河もあるし王将もあるし大連もある、良い時代です。鮟鱇を食べて餃子を食べて胃腸は好調ですパソコンのキーボードを叩きながら早く左手も動いて頂戴ね擦ります。
 
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鉈彫りの意匠

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上野の国立博物館で「陸奥の仏像展」が始まりました。テレビでも再三報道されています。料金は1000円大人)です。収益金は陸奥の文化財の保存・補修に充てられるそうです。既に前売り券は(900円)は完売してしまったそうで、大変な人気です。仏像ガールが出現して、仏像人気も盛り上がってきたものが。奈良京都で飽きたらず陸奥にまで及んだか?そんな印象が致します。
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こちらは十和田の天台寺聖観音像『静岡銀行のカレンダー』鉈彫りの代表です。丹田の位置に梵字が墨で書かれています。鉈彫りとは観音像の表面が砂丘の砂に残った風紋のような平行模様の事を言います。
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天台寺本堂前の大桂 天台寺の鉈彫り観音は桂の一木造りで神木霊木霊水の信仰の所産と思われます。
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相模大山山麓の日向薬師宝城坊の薬師三尊像こちらも鉈彫りの代表です。素材は桂の一木造りです。
(写真は国立博物館のアルバムをスキャン)
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岩手・成島毘沙門堂の毘沙門天像慈母神像が毘沙門天像を肩車に乗せている意匠です。長谷観音像『長谷観音は大地神が観音損像を肩に乗せておいでです)毘沙門天の両足に鉈彫りの意匠が見られます。写真はNHKテレビ画面を複写
 
テレビで北上川流域の黒岩寺から十和田湖に近い天台寺が紹介されると、私は大学時代の故浅子教授の授業を思い出します。同教授は学生を引率して奈良公園脇の「日吉館」に泊めて奈良の寺寺を巡って下さいました。そして、教室に戻ると相模の仏像を講義されました。日向薬師や弘明寺の観音を紹介されました。天平鎌倉時代の仏像に慣れた私達の眼は相模の仏像に強烈なインパクトを受けたのでした。奈良・京都の仏像はギリシャ彫刻の様に美しい造形で洗練されているのに対し、相模の仏像はデフォルメされているし木肌が粗野で浅黒いのでした。『一般こうした地方色の濃い仏像を「鉈彫り」と呼びます。「鉈彫りは完成仏像化かそれとも製作途上の未完成仏像であるのか」学会でも着意見が分かれている、君たちはどう思うかね?』質問されました。
平安時代の初頭天変地異に人災が重なり人心は混乱します。貞観の大地震に加えて富士山が噴火しました。大和朝廷は阿倍比羅夫を派遣して蝦夷を征伐しようとします。更に平安時代末期に至ると末法時代も極まれると思われる人災天災が重なります。今度は坂上田村麻呂を派遣して陸奥の勇者「阿弖流為」を討伐します。
そうした時代に陸奥の素材を(桂や栢)を用いて陸奥の意匠で仏像を彫らせます。大自然の神々を慰撫し、戦争による死者を慰霊するのが目的の仏像でした。神々を慰撫し空しく戦死した英雄を慰霊するのが目的で巣から。大和朝廷好みの仏像とは自ずと違います。檜の寄木造りではなく神々しい桂や栢の一木で自然の木肌を活かそうとします。檜の肌は白くて滑々しています。京女性の色香がします。一方桂の木肌は浅黒く味噌のような芳香が漂います。田舎娘の健康な体臭がします。天台寺や成島毘沙門堂で仏師は当然の様に都好みでは無くて田舎好みの仏像を彫ろうとしたことでしょう。
巨大な桂の樹を前にして先ず大鉈を振るって木割をしました。木地師の仕事です。次に荒彫りをします。お椀や皿を作る木工木地師の技でした。円鑿で削り上げます。すると丸鑿の跡が残ります。丸鑿の跡を平らに削れば都好みの仏像になりますが此処で考えたことでしょう。此処で完成にしようかそれとも滑々に都好みにお化粧しようか?
そこで仏師は鑿を止めたのでした。
止めれば縄文式土器の表面の様に蛇紋が残る事になります。蛇紋はアイヌ模様の様に呪術性が色濃く。加えて漆が乗り易いし、金箔も張り易いのです。
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鉈彫りの丸鑿の跡はアイヌ模様に通じるものがあります。
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鉈彫りの模様は縄文土器の模様を髣髴させます。呪術性の原点は蛇紋にあり縄文が文化史上間欠泉の様に吹き上がるものだと思うのです。
 
そんな訳で上野の博物館に「陸奥の仏像展」を拝観に行くのが楽しみです。不忍池に冬鳥が帰らない内に出かける事に致しましょう。
 
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「秘花」そして「禁花」

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〝秘すれば花秘されば花にあらず”世阿弥の言葉です。寂聴さんの小説を読んで以来言葉『秘すれば花』が頭から離れません。今頃の佐渡は強風吹きすさび雪舞で一寸先も見えない事でしょう。佐渡での花は「雪割草」でしょうか?それとも・・・・・。花伝書を書きながら世阿弥の脳裏に在ったのは何の花だったのでしょうか?寒椿かも知れない片栗かもしれない・・・、萱草にハマナスに水仙と、佐渡には様々な花が咲きます。
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我家には今年も椿が咲き始めました。でも蕾を食っている虫が潜んでいます。この寒中に卵が孵化して毛虫が産まれて、もう花芽に蕾に潜んでいるのです野に出れば「冬知らず」の花が満開です。「冬知らず」は禁花です。
千利休が切腹したのは天正19年(1591年)2月28日でした。その茶室に生けられていたのが「冬知らず」だったのでした。以来「禁花」の代表です、冬知らずを一目見れば金盞花の仲間である事が解ります。利休に切腹を命じた秀吉好みの「金色」です。「冬知らず」は和敬清寂の反対の極に位置しそうな仏前花です。
「冬知らず」は嫌われているとも知らずに群れ咲いて来るべき春を招いているんです。2月のあの日茶室の縁側の庭先に「冬知らず」なくて「福寿草」が咲いていたら。福寿草が禁花になっていたことでしょう。

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湘南国際村の子安道の路傍に群生している「冬知らず」の花。
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戸塚の東俣野鎌倉古道沿いに咲いた福寿草
禁花も迎春花もどちらも綺麗ですし、生命観に満ち満ちています。好きも嫌いも勝って気儘な人間様が決めたものです。「秘すれば花」とは花の美しさは何れも隠されているもの、人間が花の美しさに気づかなければ見過してしまいます。能舞台で秘された花を観衆に気付かせるのが演技で人が花を演じ観衆が花を愛でるのが花伝書の極意なのでしょう。
今は1月です、今年の桜は何時咲き出すのか楽しみです。
今年は紀伊三井寺から紀ノ川に沿って吉野に上り西行法師の生誕地(龍蔵院」と涅槃寺(弘川寺」を巡るコースの予定です。最近の研究では桜の開花は暖かくなる日に準じるのではなくて寒くなった日によって決まるのだそうです。早く冬になれば早く桜は咲き出すのだそうですから。もう開花予想日は決まっているのだそうです。わくわくしながら開花予想をするまでも無いのですが・・・・。未だ吉野村も開花予想を発表していません。「4月中なら高いお山の何処かで吉野の桜が観れますよ」至ってアバウトな開花予想です。
「秘花」という言葉で思いだすのが「野菜の花」です。吃驚するほど綺麗なのは「ウコンの花です。薄ピンク虹色の水芭蕉のようですし、味のあるのは薩摩芋の花です。小輪の朝顔の花のようです。薩摩芋を収穫して捨てられた芋蔓に咲いたりします。芋畑の片隅で咲いているのを見つけるとその健気さに感心します。
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これが薩摩芋の花です。収穫の終えた芋畑で捨てられた芋蔓に咲いたりします。私は野菜の花こそ秘花であると思います。次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893299.html?m=lc&sv=%BB%A7%CB%E0%B0%F2%A4%CE%B2%D6&sk=0

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荏原製作所への期待(荏原神社で)

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昨年の11月伊豆の松崎に「長八美術館」を見学しました。同旅行の打ち上げ会を兼ねて品川宿に長八の作品を見て回る事に致しました。筆者は2年前の今頃も来たことがありまして。その時は神社の鍵が開かなかったことから品川観光協会に依頼して拝観が可能なようにガイドを依頼しました。仲間は13人荏原神社の境内に集まりました。
江戸とは多摩川隅田川の江の内側の事と思っていましたが最近読んだ「江戸図図禄」では『江戸は品川の木戸(荏原神社の内側の意味』だそうです。という事は江戸を発つ時も江戸に入る時も荏原神社か品川神社に詣でたのでしょう。先ず荏原神社を詣でるのが土地の神様への礼儀です。
流石に江戸前の魚の漁場です。荏原神社は恵比寿様が大きな鯛を抱えてお迎えしてくださいました。
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荏原神社は恵比寿様に食変えられました。避寒桜が咲き出して思わず笑ってしまいます。左側が目黒川ですが、この日の川は澱んでいました。此処の辺りから中目黒辺りまで1キロ1時間の堰堤が現代版桜の名所です。
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荏原神社の社殿、彫刻が目を奪います。
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狛犬も良く出来ています。牡丹の繊細さ、獅子の迫力のある表情がに目を奪われました。屋根の上から龍が顔を出して下界を眺めています「目黒川は清んでいる金?人間は禊を欠かせていないかなチェックしているようです。
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社殿の屋根の上から下界に睨みを効かせる龍『社殿の左右にあります。
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嗣子鳥居脇の避寒桜は既に咲き始めてヒヨドリやメジロを集めています。荏原神社は目黒川に面しています。川の岸辺には桜が植樹されていて中目黒まで薬1里の距離に800本余りの桜並木で都内で桜の名所の一つになっています。荏原神社の目の前の橋が「品川橋」此処から南が「品川宿」北が「北品川宿」更にその北が「新品川宿」だったらそうです。須崎橋には舟着き場があったのだそうですから。海産物は此処から内陸部に運ばれ農産物は内陸部から品川まで運ばれた事でしょう。
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東海道53次品川宿(広重」品が宿は品川浦に接していたことが解ります。大名行列が品川宿で隊列を整備したので一番の賑いになりました。大名は江戸府内に入ったら隊列をおおきく雅にしようと見栄を張りましたので、品川宿の東流社は自ずと増えたのでした。
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品川浦潮干狩りの図。白い脛を露わにして浅利を拾っているのは漁師のおかみさんでしょうか、それとも品川宿の遊女でしょうか?品川浦の貝も海苔も江戸前の人気の食品でした。作:安藤広重3枚画
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御殿山の桜の見物図。品山の下、海との狭間にある家並みが品川宿。御殿山は上野山に並ぶ桜も名所で、品川宿の遊女も居て人気であったと思われます初代歌川広重画3枚揃い。現在の八山橋の辺りからの図でしょう。(品川宿案内所のパネルを複写)
私達は目黒川の川面を見詰めました。春の陽射しが川面で踊っています。そうです荏原製作所の企業マークです。2年目亡くなったМ君のことを想いだしました。同君は荏原製作所の採用が決まった時私に言いました。「自分は天皇家の出資している企業に就職したから先ず倒産の心配はないよ!」誇らしげでした。当時私は長銀の内定が決まっていたので「僕の就職する先は大蔵省が株主なんだよ」言おうと思いましたが思い止まりました。「大蔵省が株主出会った事実が自分の就職先のアキレス腱になるとは思いもよりませんでした。
「М君荏原製作所には目黒川を綺麗にする仕事が残っているよ!」呟きました。彼が生きていれば「NPО法人/目黒川を綺麗にする会」を組織して荏原神社の脇に水質浄化プロジェクトを立ち上げらことでしょう。
品が観光協会のガイドさんに荏原製作所の発祥地を尋ねると目黒川の上流、もっと西だろうとの事でした。今は荏原製作所は羽田空港の近くにあって、多摩川も鮎が遡上するほど綺麗になりました。
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目黒川中目黒辺りの桜、目黒のさんま(落語」は有名ですが、将軍吉宗が品川浦で獲れたの秋刀魚を中目黒(太鼓橋)の農家の庭先で知って、その美味さが忘れられなかっらものと思います。何れの時にか、品川の須崎橋から目黒の太鼓橋辺りまで川を上り下りする舟遊びがしたいものです。

品川宿は200軒もの旅籠があって宿泊の場所である同時に旅立ちの送迎の社交場でもあったようです。江戸に出入りする大名行列も品川で荷解きをして、江戸府内に入る時は正装して共の人数も増やしたんだそうです。江戸っ子は見栄っ張りだから。品川で着替えて颯爽と江戸府内に入ったのでしょう。そんなわけで品川宿は幕領でした。黒門が目黒川の脇にあって夜は木戸を閉めたのでした。黒門の南は品川南宿、北は北品川宿、更に北側(品川駅寄り」は新品川宿と呼ばれたんだそうです。
最近の品川駅周辺の開発は素晴らしく、何れ丸の内を越えた都内一等地になる勢いです。海と空と陸の玄関に近いのですから、品川の栄華は必然でしょう。
品川宿を歩きながら私はキョロキョロ見回しまします。遊郭の名残をとどめている建物は無いかしら?ガイドに訊くと遊郭があったのは其処のマンション、そしてその先の横丁、指差してくれますが何処も開発計画中の「お知らせ看板」がかかっています。基礎コンクリートパイルを打ち込んで真っ黒い砂地が湧き出しています。こんな光景は浦安で遊園地を開発中にも見ました。液状化対策は充分なのでしょうか?少し心配です。
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これは黒門長屋手前の細道が黒門横丁です。此処に黒門があって東海寺(沢庵和尚の寺)の入り口でした。この長屋も取り壊してしまうようで「おしらせ看板」がかかっていました。
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第一京浜国道と並行に走る本通り(旧東海道)アッチコッチでビル建築中で歩きにくい事。コンクリートパイル打ち込みすると品川浦の土が真っ黒に腐って掘り出されていました。



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鏝絵を壊したのは誰?

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昭和30年代盛り場や海水浴場に鬼に軟式ボールをぶつける遊びがありました。巨大な赤鬼がいてその心臓の位置に金属の円盤が設えてあって、ボールを当てると鬼が怒って眼が光らせて大音声の唸り声をあげて、金棒を振り上げるのでした。大人にも子供にも人気で必死にボールを鬼めがけて投げつけていました。
品川宿を歩いていると鬼会式の看板が掲示されています。もうじき節分ですから、私は「鬼にボールを当てる遊具」を懐かしく想い出しました。
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盛り場や海水浴場の小屋に設えられた鬼の居る小屋。鬼の心臓にボールを当てをして遊ばせてくれました。
ボール(1戸10円)が当たると大音声で唸って金棒を振り上げました。幼い時の想い出です。

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品h川神社の節分会の案内。品川宿は節分間近の模様でした。
荏原神社を出て目黒川に沿って東に下り、露地を幾つも曲がると寄木神社の社殿前に出ました。ガイドさんの案内では寄木神社は京都の貴船神社の末社だそうです。貴船も寄木も語感は似ていますが、荏原神社も水神様寄木神社も水神様ということは江戸の町は「水が大切だ」先人も考えたのでしょうか?相模の国には寄木神社が多く祀られています。平塚の寄木神社は相模川の河口部にあって、台風一過に詣でると流木が集まっています。寄木の名はこうした入江に流木が集まる自然現象に所以していると思います。
寒川神社も氷川神社も同じ素盞鳴尊(スサノオ)が主たる祭神です。品川沖に漂着した難破船の木片が素盞鳴尊の分身と信じて祀ったのが始まりと思われます。
今回は品川観光協会に依頼してガイドさんを付けて貰いました。寄木神社の社殿に入って長八さんの鏝絵をまじかで鑑賞できました。神社の内陣は石積の蔵造りです。そして外陣は拝殿空間になっています。内陣の扉が漆喰で固められています。扉を感音開きにすると内側に装飾された鏝絵が観られる仕掛けになっています。
扉の左には天照大神その下に天鈿女命(所謂岡目さん)が扉の右には猿田彦命(さるたひこのみこと/天鈿女命と夫婦)を描いています。
天鈿女命のふくよかなお顔が嬉しいです。胸を開いて豊満な乳房を見せつけています。ガイドさんが説明します。天鈿女命のオッパイが黒ずんでいるのはお乳の出ないお母さんが願掛けしたからです。私の脳裏には漁師が神輿を担いだ帰りにお神酒を戴き、汚い手で豊かな胸を擦っている光景が浮かびました。社殿の下には力石が置かれています、漁師は力石で力自慢を競って勝者がお神酒を飲んで、おっぱいを触れる光栄に浴したと推測するのです。
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寄木神社の内陣は蔵造りです。その扉に鏝絵が飾られてい左上が天大神で左下が天鈿女命右扉が
猿田彦命(所謂ヒョットコ)です。
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左下天鈿女命のオッパイが黒く汚れているのが残念です。
鎌倉の長谷観音も川崎大師も流木に混じって仏像が漂着した奇跡に始まっています。
相模の国にも武蔵野国に主祭神が素盞鳴尊(スサノオ)・奇稲田姫命(クシナダヒメ)・大己貴命(オオナムチ)という出雲系である神社が目立ちます。どれも素盞鳴尊(スサノオ)が三浦の走水から阿安房の国に渡った難儀して櫛灘姫が海に身を捨て、その際に破損した船の流木を祀った事に始まるようです。
私達は寄木神社から善福寺に回ります。善福寺の本堂も蔵造りでその周囲は龍の鏝絵で囲まれているのです。

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長屋二階の不思議空間(黒門カフェ)

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私が住んでいる戸塚にも遊郭がありました。国道1号線(旧東海道)に面した渡辺本陣の脇を入った横町の奥でそれは、不思議な空間でしたし、子供達が近寄ってはいけないタブーの空間でもありました。総二階建ての建物で二階には手摺とガラス戸が付いていました。2階のガラス戸を開くとお蔦が顔を出し、横町の路上には駒形 茂兵衛が見上げていそうな雰囲気です。(一本刀土俵入り/名文句の場面「お蔦さん、棒切れを振り廻してする茂兵衛のこれが、十年前に櫛かんざし、巾着ぐるみ意見を貰った姐さんに、せめてみて貰う駒形の、しがねえ姿の横綱の土俵入りでござんす。」江戸の文化は情けと粋だと思います。
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一本刀土俵入りのポスター。安孫子の遊女お蔦が上州駒方村の駒形 茂兵衛に情けを懸ける場面茶屋女のお蔦(つた)は、持っている巾着や櫛、簪を 茂兵衛に与えて激励します10年後 茂兵衛は横綱になってこの路上で土俵入りを被露します。、出典http://image.search.yahoo.co.jp/search?fr=top_ga1_sa&p=%E3%81%8A%E8%94%A6%E8%8C%82%E5%85%B5%E8%A1%9B&ei=UTF-8&b=21
品川宿を歩いているとそんな二階建ての長屋が目につきます。何処もかしこも取り壊して開発計画が進行しています。
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黒門横丁の二階建て長屋「お知らせ看板が立って近い将来賃貸マンションにッ代わる気配です。モルタルの色を肌色にしているのが何処か思わせぶりです。
我国で売春防止法が施行されたのは、1956年(昭和31年)5月でした。売春はその字の通り「性を売った女性」は刑事罰に処せられますが「性を買った男性は刑事罰になりません」市川房江さんも甘かったのでした。昨今はこのバランスの悪さを訂正する動きにあると思います。
当時小学校を卒業する年齢だった筆者は戸塚の遊郭の先行きがどうなるのか少しだけ気になっていました。その不思議な空間が次第に寂れて行くのが明瞭だったのでした。遊女が囲われていた狭い6畳間には新たに下宿人が入って、普通の人は遠巻きにして生活しました。
今も谷中や千駄木の辺りを歩くとそんな時代の黴臭さが残っているような気がします。
筆者は腎臓癌を患った時入院先日医大病院(千駄木)から抜け出してそんな横町を歩いたものでした。
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江戸時代の長屋の標準形は6畳間で炊事コーナー付きでした。この長屋空間を二階にして1階は家主や遊郭経営者が占拠して客の管理遊女の逃亡をチェックしていたと思われます。(絵の出典「古典落語に見る江戸の暗さい(河合庄次著)6畳間は「情けの空間」でした。
歩数計は既に8000歩を数えて私の疲れも限界が近くなってきました。ガイドさんは鯨塚に回ろうと盛んですが私は喫茶店で休みたくなりました。そこで善福寺に近い黒門カフェに先に入って仲間を待つ事にしました。黒門カフェは黒門横町にある二階建て長屋にある喫茶店なんです。
この辺り喫茶店は他にないのでウォーキングに疲れた人は此処の他に一服する場所はありません。
トイレは1階にしかありません。喫茶は二階の和室です。6畳間が二室あって炬燵が並んでいます。
窓際に炊事道具が並んでいて此処で珈琲を沸かし、軽食なら用意してくれます。
急峻な階段を上らなくては二階に上がれません。私は左足に装具(義足では無い足首を守る歩行補助具)を装着しているので急な階段は昇降に際し危険を伴います。ワイフと友人に連れ添って貰って辛うじて昇降致しました。
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真ん中の道が旧東海道品川宿本通、右に折れると黒門横丁、その角に黒門(東海寺の東門)があったのでこの名が残っているそうです。ベージュ色のモルタル建物の2階に黒門カフェがあります。
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黒門カフェのメニュー、右側の狭い口が入口で、灰って突き当りがトイレ、左に急な階段があって二階に通じます。二階にある6畳二間喫茶室でした。
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この6畳間が喫茶室裸電球に傷んだ畳貼りあわせの唐紙が侘びしいと言うか懐かしさを漂わせます。卓は炬燵でした。炊事場に居る女性がオーナーの娘さん(?)お手伝いをしていました。
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2時半に入店、既にランチタイムは終えてドリンクだけの注文を受けてくれました。珈琲350円が基準で。炬燵の上の駄菓子は道を歩いていて買ったもの。珈琲受けに戴こうとしたところ娘さんに「持ち込みは容赦ください」断れてしまいました。
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珈琲は350円,ロコ・モコ(ハワイスタイルの卵焼きランチカレーが870円でした。
テーブル上の耳かき妖怪のチラシは店主が耳かきサービスをしてくれるのだそうです。膝枕で耳かきをしてくれるそうですが、耳穴がどうなるのか若干の懸念がありそうです。
夕方3時を過ぎると北風も強くなってきました。首をすくめて来ちゃ品川駅まで歩きます。店を出ると黒門カフェの石油ストーブの暖かさが尊くおもえます下駄屋は客も無く暇そうです。久留米絣の綿入り半纏が気になります。
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ミニスカートの女子高生が私の前を闊歩してゆきます。高輪育ちのМさんに伺うと品川女子学院の生徒さんだそうです。チェックのスカートから突き出た脚が眩しく見えます。彼女たちは寒くは無いのでしょう。。
今日も長八さんのお蔭で級友と文化財を廻れて良い一日でした。

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後藤さんの命が想い出させた「危険な道」

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昨夜の深夜ラジオの「日本の歌・心の歌」では万城目正の歌謡曲が流されました。
「旅の夜風」に始まり「東京キッド」「悲しき口笛」「越後獅子の歌(美空ひばり)」が流されました。万城目正さんは隣町大船の松竹撮影所の脇に「万城目正音楽学院」という名の、レッスン教室を経営していましたので。あの娘はどうしたかな?思い出したりしていると、古関裕而の「暁に祈る」や「若鷲の歌」が続き支那事変が近づいてきました。盧溝橋事件が勃発すると家庭で歌われた歌謡曲が「上海帰りの瑠璃」歌謡の『麦と兵隊』、に続き戦後の『岸壁の母』に繋がります。私の脳裏には最近の我国世相の右傾化懸念があります。
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最近は軍歌が歌われているようです。氷川丸(山下埠頭)も戦争遺産です出典http://www.mbok.jp/item/item_417507927.html
昨年昭和天皇実録が公表されて「昭和天皇が戦争反対であったにも拘らず軍部の独走を止められず心ならずも戦争に突入した経緯が公開されました。現天皇はそんな昭和天皇の悔悟の念を良くご存じで、今年はパラオをはじめ激戦地をに慰霊に回られると聞いています。歌謡曲を聴いていると戦争にストップをかけられたのは統帥権(天皇に帰属していた)ではなくて一般世論であっと思われてきます。お気楽に軍歌を口ずさみ上海を日本の盛り場のように思っていた感覚が無謀な戦争に突入させたのだと思います。今年は中華人民共和国では(抗日戦争勝利70周年)の祝典も計画されていると聞きます。
昨今の日中関係を思うと鬱陶しい気持ちになります。
戦前革命の父「孫文」を物心ともに支援したのは日本人でした。日本には沢山の中国人留学生がゐて民間交流も盛んでありました。彼らの意識に共通するのは「西洋風の近代化では無くて東洋風の繁栄を東アジアに実現しようとするもの」でありました。そんな東洋思想が何時の間にか日本も欧米の尻尾を追って中国を植民地化しようとする暴挙になってしまいました。列強の植民地競争の尻馬に乗った日本はキツイお仕置きを受けたのが先の戦争で、被害国中国の傷みはまだ消えていないし植民地にされた恨みつらみは日本に集中するのは自然です。
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これは洗い熊と言っても狸のようですイスラム国を見ていると一見は可愛らしくて、実は凶暴性を秘めている洗い熊を視るような気がします。
でも最近の我国の動向を見ているとあの時の悪夢を髣髴させるものがあります。
そう思いながら布団の中でうつらうつらしていると朝5時思いがけないニュースがラジオから流れて来ました。イスラム国によって後藤さんが処刑されたといった内容の動画がyou-tubeに流されたというのです。今国会中継では積極的平和主義の危うさに質疑が集中しています。イスラム国もフセインのイラク攻撃に始まりました。あの時小泉首相の舵取りが今日を呼び込んだとも言えます。我が国は自衛隊を派遣できませんからお金と運輸の安全性だけを船の航行分担しました。今回は身代金の支払いも禁じられ2人の命を犠牲にし、海外で働く日本人126万人(うち中東1000人)の命を危険に晒してしまいました。欧米が十字軍を派遣したのは13世紀鎌倉時代でした。以来600年以上キリスト教世界とイスラム教世界は戦争をしています我が国は元々どちらにも属しない第三極にいました安全なポジションを捨ててキリスト世界の仲間入りする必然性は無いのです。インドや中国の様にどちらにも距離を置いているのが安全です。欧米の尻馬に乗って”テロと戦う国際社会の一員”になってイスラム過激派を追いこむのは危険な道だと思います。いつか通った道です。
「地球儀を俯瞰する外交」と安倍首相は主張し、世界中に円をばら撒いています。ヨルダンではその円ののし袋に「イスラムの脅威と戦う国に・・・」と余計な事を書き添えた為にイスラム国の標的にされてしまいました。我が国の外交センスは未熟であり、地球儀を俯瞰するのは遠い将来の事のようです。
当面はお隣の韓国と中国北朝鮮と上手にやって行くことだけに専心してほしいものであります。
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難民支援として2万ドル拠出した熨斗袋にイスラムテロリスト戦う国にと書いたばかりに2人の命が失われました。せめてこんあ熨斗袋だったら良かったのに。テロは許されないのだけれど歴史にはテロしか反抗手段が無い場面が多々あります。

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一発芸は文化か?

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1週間ほど前日刊スポーツ芸能欄にビートたけし氏が大写しされて居ました。同氏が「お笑いブームは終わった、今後10年間はお笑いは駄目だろう・・・・!」どうも新聞社が記事ネタが底をついたので、系列テレビ局の「『ビートたけしのTVタックル』での発言を核に膨らませたような記事でした。そんな要旨の発言でであったもののお笑いの大御所の発言だけに関心を集めたようです。
日刊スポーツは朝日新聞の系列会社ですから、新聞社も記事が無ければテレビのおこぼれを拾うようになったんだと、寂しく感じました。
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お笑いは今後10年は駄目だと主張したビートたけし氏(日刊スポーツ)
この時私は、もう40年近く前に社会評論家の大宅壮一が生み出した流行語『1億総白痴化』発言を想い出しました。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると、人間 の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの批判でした。総白痴化は病状が進行して新聞記者にも蔓延してきたようです。
振り返ってテレビのスイッチを押せば。どの局も同じような番組ばかりで「B級グルメ」に「AKB48」に「お馬鹿タレントを揃えたクイズ番組」に肝心の芸人は「一発芸」を競っています。
テ一方、テレビの1億総白痴化は民法からNHKにも感染し看板番組の「大河ドラマ”花燃ゆ”」も白痴症状が出て来ました。
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NHKの”花燃ゆ”のポスター。「3丁目の夕陽」を思わせる安易な作成でイケメンぞろいの学園ドラマが透けて見えます。
昨年来のNHKの番組宣伝もいけませんでした。視聴者を白痴と決め込んでいりようでした。”花燃ゆ”は松下村塾という熱血学園で「久坂玄随・伊藤博文始め明治の英傑が繰り広げた熱血学園ドラマ」カリスマ教師吉田松陰の志を引き継ぐ学園ドラマをお楽しみください」。こんなコピーはNHKの本心なのでしょうが、大きな過ちがあります。一つは私達日本人はNHKの作る大河ドラマをフィクションとは思っていないのです。史実に忠実に作成していると信頼しているのです。
自ら「大河ドラマをフィクションですと言ってしまうのは大失態です。二つ目は視聴者の多くは安心して見られる演技を期待しているのです。イケメンと可愛い子(AKB48のように)ばかりを視たいと思ってはいないのです。視聴率の稼げそうなタレントを揃えれば視聴率が上がると思っているのは、不愉快極まりません。
何れこんな安易な姿勢は問題を惹き起こしそうな気がします。何しろ近代日本人は長州藩嫌いですから。長州は近代日本の弊害(官僚制)の始まりであるとして、嫌う人が多いのです。昨晩はもう、江戸の居酒屋で桂小五郎と西郷隆盛を旧知の間にしてしまいました。予め坂本竜馬の活躍舞台を抹殺してしまいました。西郷さんや竜馬を軽視する明治維新なんてマグロの無い寿司みたいなもんです。
私達は総じて西郷隆盛や坂本竜馬は好きですが、山形有朋や伊藤博文・木戸 孝允は好きではありません。
長州出身者には官僚臭さが抜けないからです。勝ったものの視点から見た歴史程面白く無いモノはありません。「八重の桜」「軍師官兵衛」が人気だったのは負け組の視点だったからでした。
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荻野アンナの落語本(フランス語併読)落語も国際化しているのです。英語版も多くあります。
私の楽しみの一つにラジオ深夜便の「古典落語」があります古典落語とは一般に江戸時代から明治時代に作 られた落語」を指します。古典と言っても高々100年しか経っていません。古典と呼ばれても最初は新作落語だったのでした。新作落語が「古典と呼ばれる根拠は笑いの普遍性を供えていると評価された時に古典の評価がつくのでした・笑いの普遍性とは何かと言えば鎌倉時代室町時代の中世に遡ります。狂言や今昔物語に見られる諧謔の精神です。権威や権力を笑い飛ばす健康な市井のスピリットでした。
今の一発芸は「変顔」と同じでほんの一時滑稽ですが笑ったらもうお終いで。何にも心に残りません。B級グルメと同じで一時腹を満たして呉れればもうお終いで記憶にも残りません。
古典落語の代表作を二つ紹介します。
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目黒のさんま震災した大船渡から運ばれます。黒焦げで脂がのって情が深いのが庶民の味です。将軍は偉くても秋刀魚を食べられないので気の毒です。
一つが「目黒の秋刀魚」です。秋晴れのある日、将軍「吉宗」は遠乗りして目黒不動尊辺りにやってきました。
吉宗は腹が空いていたのでした。
近くの農家から、秋刀魚を焼くいい匂いが漂っております。ご家来が「かような腹ぺこの折りには、秋刀魚で一膳茶漬けを食したい」と呟いてしまいます。吉宗はこれを聞きつけ「自分もぜひ秋刀魚というものを食してみたい」とご家来に所望します。
さあ困ったご家来は「秋刀魚とは下魚でございますゆえ、お上のお口にはいりますような魚ではございません」
といったものの、お殿様のお言いつけではしかたがない。 何とか農家のおじいさんに頼んで焼いた秋刀魚を譲ってもらういました。
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古典落語は今昔物語以上に面白いのは私が近代人だからでしょう。
吉宗はは、生まれてはじめての秋刀魚がすっかり気にいられた。お腹が空いていたことも合わさって忘れられない味になってしまいました。
ところが屋敷に帰っても、食卓に秋刀魚のような下魚は出てきません。
ある日のこと、大名のお座敷に呼ばれます。
「なにかお好みのお料理はございませんでしょうか。なんなりとお申し付けくださいまし」というご家老の申し出に、すかさず秋刀魚を注文しました。
大名はは驚いて、日本橋魚河岸から最上級の秋刀魚をとり寄せます。「このように脂が多いものをさしあげて、もしお体に触っては一大事」と、十分に蒸したうえ、小骨を丁寧に抜いて将軍の膳に出しました。
「なに、これが秋刀魚と申すか。まちがいではないのか?」吉宗は怪訝です。
「これ、秋刀魚よ久しかったのう!」
「これは不味い何処から仕入れた?」
「日本橋からです・・・」家老は答えました
吉宗はすかさず言われました。
「日本橋ではいかん、秋刀魚は目黒だ」
「たしか、もっと黒く焦げておったはずじゃが・・・?」

もう一題「てんしき」の話です。
何処にでもいそうな和尚さんの話です。
総じて物知りですが少々「知ったかぶり」をする野が欠点でした。
ある日のこと腹痛がひどくなりました早速町医者を呼んで薬を煎じて貰い横になりました。少し楽になると町医者が尋ねました。「てんしき/転失気はありますか?」和尚さんは尋ねられた意味が解りません。でも見栄を張って「ありません」と答えました。でも「てんしき」がきになります。そこで小坊主さんに「てんしきを借りてこい」と命じました。小坊主さんはお寺の門前の花屋に向かって「和尚さんの注文でてんしきをお貸しください!」しかし花屋の親爺も「てんしき」の意味が解りません。そこでこう答えました。「昨日まで2つあったのだが、もう使わないので捨ててしまった」そこで小坊主さんはご隠居の家に向かいます。ご隠居なら「てんしき」をお持ちだろう。でも尋ねてみると。「お漬物の実にして食べてしまった」答えました。小坊主さんは観念して和尚さんに報告しました「花屋の主はあげたしまった、しご隠居は食べてしまったそうでお借りできませんでした。 ところで「てんしき」とは何でしょうか?」和尚さんはこう答えます。「てんしきを教えるのは容易いがそれではお前の為にならない。これからお薬を貰いに医者の所に行ってその序に訊いて来なさい」
そこで小坊主さんは町医者に訊きました。町医者は「てんしき」とは転んで気を失うと書く。「屁(おなら)をする事だよ」教えて呉れました。
小坊主さんは「大人は誰もてんしきを知らないで知ったかぶりをしていたことに気づきました。そこでお寺に戻って和尚さんにこう報告しました。「てんしきとは盃のことでした」和尚は答えます
「そうか、てんしきは盃の事か忘れては駄目だよ!]
和尚はようやくてんしきの意味が解って安堵しました。
それから数日経って町医者がお寺に往診に来ました。
和尚は「待っていました」とばかり床の間から蒔絵の盃を出してきて私はてんしき道楽で何時かは先生とてんしきを交わそうとお待ちしていました」いいながら盃になみなみと般若湯を注ぎました。町医者は慌てて「てんしき」を説明しました。
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「医術j書の傷寒論に「てんしき」があって屁(おなら)のことをてんしきと呼びます。
和尚は小坊主にたぶらかされた事に気づいたのですがこう続けます。
「さようです綿私どもの寺での屁(おなら)のことをてんしきと呼ぶんです」
医者は怪訝な顔をして和尚さんを見詰めました。和尚さんは
「そうです盃を重ねるうちに酔っぱらってブーブーいう奴が多いもんですから」
酒飲のブーブー言う癖と屁を「サゲ」にしています。
二つの古典落語を紹介しました。
秋刀魚は炭焼きにしてジュージュー言わせて食べるの美味しいのに将軍は秋刀魚も美味しく食べられない気の毒なものだ…、和尚さんは何時でも偉そうにして知ったかぶりをして見栄っ張りなものだ、そんな庶民から見た批評精神が生き生きとしています。
「毎度毎度 馬鹿馬鹿し話ですが・・・・」と落語は始まりますが、馬鹿馬鹿しいだけではなく健全な批判精神や深い人情がベースにあるのです。笑いは頭と尻だけで真ん中は万人に共通する人情であり諧謔精神です。
日本のお笑いもそろそろ一発芸を脱して古典のスピリッツを想い出しても良さそうな時期です。


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偶像というけれども

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2月2日、私は横になって寂聴さんの「白道」を読んでいました。西行法師の出家の訳を考えるのが目的です。
古代末期院政の混乱期と現在が似ている様に思えてなりません。唆青年佐藤義清は古代王朝文化に育ちながら自身は武士であって、自己矛盾した存在でありました。そんな義清が永福門院の美しさに溺れたのは、矛盾した自分自身の行く先は出家しかなかったのは頷けるように思うのです。それにしても現代は古代末期中世初期に似た世相です。
私の枕元にあるラジオは終日国会を中継しています。
質問の一番バッターは民主党です。切り込みの鈍さにイライラしてきました。国民の聞きたいのは2点です。
1.政府与党が徒に欧米寄りにプレゼンスしたためにイスラム国の標的にされたのではないのか?
2、日本人救出の為なら自衛隊を紛争地にも派遣するのか?
民主党はこうした質問をする事がイスラム国より又はテロリストの思うつぼに嵌ると勘違いして、質問の矛先が鈍っているんです。これでは政府与党の親米的右寄り運営にブレーキはかかりません。
ワイフがラマ玉古代オリエントの美術書を図書館から借りて来てくれました。私はページをくくり斜め読みします。
シリアの古代遺跡の写真が続き土器から青銅器文字鉄器に出土品が並んでいます。
どれも私たち日本の文化のルーツです。なのにイスラム教と聞くと異質のものを感じます。
今日は何故私達はイスラム教知らずで嫌いなのか考えてみます。
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イスラム教偶像禁止の悲劇」
数年前バーミアンの大仏をイスラム教徒が爆破しました。あの時も今回の後藤さん殺害と同じようにショックでした。イスラム教徒は何故偶像を禁止するのか?という問題から考えます。
シリアの辺りは古代から東西南北の文化がクロスする場所でした。最初に発生したのは麦と羊を主とした農業・牧畜業でした。ですから日本の縄文式分と同じく沢山の神々が出現します。一番眼を惹くのが大地母神です。縄文ビーナスと瓜二つです。
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シリア一帯はキリスト教発祥の土地でありユダヤ教の聖地でもあります。どちらも「偶像崇拝の禁止」を重大な戒律にしています。この戒律が7世紀イスラム教が発祥すると一層厳しくなりま受け継がれています。同じ一神教であれば名前だけの違いです。アッラーと呼ぼうがヤーベと呼ぼうか表音文字では大きな違いはありません。区別し難く教義自体が似ていれば無理してでも違いをはっきりさせ、優劣を競いたくなるものが人情です。後発のイスラム教は先発のユダヤ教キリスト教との違いを峻別させるために偶像禁止などの戒律を厳格にしたのでありましょう。原始仏教も偶像は禁止されていました。其処にギリシャ文化が浸透してきたことから理想的な肉体を持った仏陀が描かれたしキリスト世界ではマリアや聖画が描かれたのでした。
日本でも明治維新になると仏像破壊が盛んに実施されました世に廃仏毀釈と呼びます。隣の人が偶像を崇拝していると、これを否定するには手っ取り早く破壊してしまう事です。ですからイスラム教徒の破壊行為は多くの人の本心であるのです。
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これからデーサービスに出かけます。帰宅後このブログを完成させます。

成長企業の採用戦略

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2015年になって約1箇月昨夜遅まきながら初夢を見ました。
私が採用試験の重役面接を受けているのです
「ところで君の自己申告書に卒業論文は”成長企業の採用戦略”と書いているが、その視点と結論を手短に話したまえ」と質問されて。私が答えているのです。
「毎年20人採用している企業が2社あります。一方はオールラウンダーを20人採用しています。もう一方は専門職やIT等特定スキルの優れた学生を選りすぐって採用しています。一定期間後比較したらどちらの企業が成長しているだろうか?」そんな設問を実証的に調べようとしたものです。すると私は重役から集中的に質問の砲火を浴びているのです。私は苦し塗れに説明を繰り返します。
「10年後の会社の企業風土企業文化をどのように描くかによって目的に違いがありますが、採用戦略も企業の中期目標を達成するための主要な手段です。企業の人員が人事部も営業部も企画部もスタッフが金太郎飴の様にオールラウンダー揃いでしたら、どうなるでしょうか?一方特定スキルに秀でた人材のミックスなら実現可能でしょうか?そんな疑問です。特定分野のスキルのある人を集めて適材適所に配置したら企業の成長は確実かと言えばそうでもなさそうです。
私の実際の卒業論文は全く違ったもんでしたが。このテーマについて必死に答弁を繰り返しているのです。
流石に目覚めると頭の芯に疲れを感じました。
「何で採用試験の夢を見たんだろう」私はかんがえてみました。
思い当たるのは昨日の体験でした。
昨日は節分でした。デーサービスから帰宅して4時何時ものように珈琲とヨーグルトを戴きました。
ワイフは友人からお土産に麻布十番のお豆を戴いたのでこれを食べました。
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テレビも節分モードでしたイメージ 2
これが麻布十番「まめげん」の「おとぼけまめ」

私は豆げんは知っていましたが看板商品を口にするのは初めてです。
「おとぼけ豆は風味があって美味しんだけども「おのろけ豆」とか「お色気豆」なんて言うものがあったら自分はそっちを求めるな」言います。ワイフは私の発言を無視しています。
「おのろけ豆」は大豆を焼いてかき餅状に米粉で固め、表面に和三盆砂糖を塗します。
お色気豆は豆はお多福豆で、和三盆砂糖に紅色を塗します。
「今日は福沢先生の命日だから麻布の善福寺では盛大な法要を営んでいるだろうな?」
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麻生の善福寺左手の大銀杏の近くにに福沢先生ご夫妻のお墓があります。銀杏は都内最古の大木で親鸞聖人が使用された杖が発根した樹齢800年近い老樹で空襲で傷んだものの現在は至って元気です。中央の高層ビルは元麻布ヒル(三井不動産)反建築反対運動の中、灯明のデザインにしたことで許可が下りました
もう一つは昨日のデーサービスでの体験でした。
朝10時何時も世話になっているデーサービスに入りました。天気も良かったのですがこの日は看護士も何処か元気で張り切っています。朝のミーティングでその原因は直ぐに解りました。この日は地元の飯島中学校の生徒さんの職業体験で5人の男子中学生を受け入れていたのでした。
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デーサービスの朝ミーティング中学2年生(13歳)の職業体験を受け入れていました。
中学2年生は「ユーザーにとっては孫のようなものですが、介護士にとっては息子のようなものです。みんなが元気になるのは自然です。
中学生に質問が出ます。
「将来の夢は?」窺がえば
「僕は科学者になりたいんです」明快な回答です。
昼食を一緒にとって午後は一緒に遊びます。
鬼にお手玉をぶつける競技でした。
赤鬼の其処此処に穴が開いているので穴を通せば得点になります。そう品川宿の善福寺で長八の鏝絵(都文化財)の眼が破損していた原因のボール当て競技です。
流石に中学生は上手でしたがユーザーの中では筆者が最高得点でした。
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これが「鬼は外ゲーム」お手玉を穴に通して得点を競いました。
で半日中学生と過ごして最後に中学生から印象を聞きました。
「福祉施設に職場体験すると聞いて”そんな時代何だな”とも思いましたが、すごく緊張しました。でも一緒に過ごすと、楽しかったし皆さんがお元気なのに驚きました。こんなお仕事なら自分も遣れそうだな思いました。」そんな発言が5人から聞かれました。最後は社長が挨拶して閉めました。中学生は拍手で送られて胸を張って帰りました。これから学校に戻って「職場体験報告書」を書くのでしょう。
夕食は海苔巻に鰯の目刺しでした。そんな夜の夢でしたから卒論と採用試験だったのでしょう。
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「豆撒き」を終えて夕食はいつも通りの節分風景でした。



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今昔物語の普遍性

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図書館から寂聴さんの書かれた今[昔物語お]借りて来て通読しました。
今更の今昔物語りですから、お話は殆ど総て承知しています。私の興味は寂聴さんがどのお話を評価されどのように現代語訳して居られるかを確認する事にありました。
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今昔物語集は、各説話の全てが「今ハ昔」という書き出しから始まっている事に由来する便宜的な名です。約1000のお話の大半が仏教説話であり、天竺や中国の話や、本邦でも有名寺院の奇跡や奇談が多いのですが、注目されているのは25巻から28巻通通称、世俗え説話と呼ばれているお話です......................つ輪..........................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................................


























































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































骸骨とと媾まぐわった話(今昔物語2)

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昨日は今昔物語の巻26の本朝奇談の中から蕪に淫行した結果蕪を食べた娘が孕んでしまった話を照会しました。今昔物語には人間が、蛇に犯され て蛇の子を生む女性の話(巻第二十四 第9)や、その他、蛇と人とが交わる話や死んだ女に憑りつかれて死ぬ男があり後世の雨月物語や怪談に影響したと思われます。多くが妖怪の仕業で偉いお坊さんが登場して妖怪を治める事でエンディングを迎えます。人間が植物と交わって子をなす話は前記だけです。一方死者と生者との交流も数多くあり、大半が死者が現世に残した想いや怨みを晴らす構成にになっています。死者の怨念が消えないで生者に災いを為す、と考えられていたのです。
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これは骸骨小町の図です。骸骨は小野小町のそれで茅が出て眼が痛い痛いと泣くのでした。

今日紹介する話(今昔物語巻454話)はこの逆です。、「死者への愛情」中々消えなかった話です。
都の下級武士義輔は学問はイマイチでしたが武芸には秀でていました。そこを見込まれ貴族の警護役を仕事にしていました。貴族が出かけるときの警護が仕事でしたから定職とはいえず、好きな女性と交際しても結婚までは話は進展出来ませんでした。でもマスクは良いし体躯も立派でしたからモテる青年武士でありました。気立てのよい美しい姫君(珠依姫)が山科の村に住んでいました。義輔は馬を繰って夜毎通っていました。

義輔は遊び人を自称していましたが、「私の妻はこの女しかない」思っていました。
ある年の弥生、義輔の友人が東国の国司に任じられました。
国司に任じられた男は義輔を誘いました。
「今まで警護役を務めて戴いて感謝している。この春に相模の国の国司に任じられた。そこで一緒に来てほしい。これからは定職と思っていただいて結構だ。ついては単身では心配だろうから・・・・女性を紹介したい。家柄も器量も申し分なしだ・・・・。」
義輔は瞬間珠依姫の事が頭をよぎったのでしたが、結婚を約束した訳でもないし生来お気楽な性格なので、総てを友人に任せました。そして友人の紹介してくれた姫と結婚しました。相模への旅支度の品々は姫の家で用意してくれました。
葉月になって卯の花も咲き出す頃国司の一団が相模の国に向かって旅立って行きました。
行列の先頭にはを馬に乗った義輔の雄姿がありました。
山科の国に差しかかると、珠依姫の家が見渡せました。
義輔は家に向かって呟きました。
さようなら珠依姫。お元気でいてください。私は相模の国に向かいます。貴方に交える事はもう二度とないでしょうが、貴方は幸福を掴んで下さい・・・。」
それから10年は経ったでしょうか。相模国の国司の一団が西に向かっていました逢坂山も越えたのでもう一つ峠を越えれば都の家並みが見えるのです。行列の足並みは殊更に元気になって先を急いでいるように見えました。義輔は再び珠依姫の屋敷の屋根を遠目に見ながら進みました。
その日の夕刻でした。義輔は都から馬を馳せて珠依姫の館に来ました。
でも館の庭は八重葎が茫々と生い茂っていて昔日の面影はありませんでした。でも館の奥に灯りが認められました。義輔は灯りに誘われて奥に進みました。見覚えのある姫の寝所には薄絹を着た珠依姫がポツンと座っていました。珠依姫に向かって義輔は言いました。
私は相模の国の国司の警護役として10年間勤めて来ました、これからしばらくは都に住みます。貴方を屋敷に迎えたいと思っています。」
「嬉しい!」聞こえたでしょうか。突然に義輔の首が重たいと感じました。珠依姫の両の腕が義輔の首に巻かれたのでした。義輔は姫の薄絹の袖に手を通して珠依姫の体を強く抱きました。珠依姫の体は思いのほか華奢に思えました屹度苦労が重なって痩せ細ったのだろう・・・・」思いました。
逢坂山の方角(東」から暁烏の鳴き声が響いてきました。カラスの啼き声で義輔は目を覚ましました。朝陽が蔀戸越しに射してきました。抱いている珠依姫を見て義輔は驚愕の声をあげました。
首に巻かれている両腕も自分の胸に凭れてきている頭も絡んでいる両脚も骸骨なのでした。
義輔は庭に飛んで出てお隣の家に駆け込みました。
隣家から話を聞かされて義輔は珠依姫が2年前に亡くなった事を知りました。
「お隣の珠依姫には通ってくる都人も居たようなのでしたが縁が遠く、5年前に両親が亡くなりました。すると家人も一人減り二人減って誰も珠依姫を面倒見なくなりました。姫は痩せ細って一昨年の神無月の23夜に亡くなりました。」
義介は寝所に戻って昨夜抱いた骸骨を拾って、庭の築山に埋めました。
他所の日の午後。峠の向こうの清水寺のお坊さんの風呪するお経がきこえました。
原作ではお坊さんがお経をあげたので義輔は珠依姫の亡霊に憑り殺されないで済んだ…、となっていますが、寂聴さんの口語訳ではお坊さんの段は省略されています。寂聴さんは仏教説話にしてしまっては面白くないと思われたのでしょう青年武士の愛情を浮き彫りさせた方が良いと判断されました。私も同感です。

有品の巻かせましたに中々の良い男でモテモテでした。でも官職も無いので結婚できずに居ました。消えやらず、死者と交わってしまうお話ですことが多いのです。はの話など多くがと人間との交わりで、蛇が人 と交わろうと欲する話が数話、採られています。 人と蛇とが交わる話 ...食べて子を産んだ話をしました。、今日は奇談の極め付け「遺骸と媾った「まぐあう/セックスする古語」話をします。この話を見つけたのは「日本人の死生観」を調べた時に、「生きている人と死んだ人」の交流として記憶に留めたものでした。
今昔物語には純情な青年の想いが良く登場します。現代にも通じる話が目立ちます。
美しい姫にアプローチするのですが姫は難題を取り付けて相手にしてくれません。そこで青年は姫への想いを断ち切ろうとして「姫のオマル/排泄物の受け箱」を奪い去り、ウンコを嗅いでみるのですが想いは断ち難く結局死んでしまいます。佐藤義清も永福門院のオマルを奪えば出家しないで済んだだろう・・・・。なんて想像します。
(これからデーサービスに出かけます帰宅した夕方に完成させます)



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木の文化・石の文化

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我国には民俗学の蓄積がありました。私の学生時代(昭和60年代後半)には文化人類学が盛んになり鯖田豊之の「肉食の思想」は学生の必読書でした。日本人は米食だから精神も化も米食文化の色が濃く、欧米の肉食文化とは自ずと違うものである。そんな考察でした。当時私の仲間は仲井千恵氏の「縦社会の人間関係」を教材に勉強会をしていました。その影響もあって「肉食の思想」は改めて「石造の文化」と改め、”日本文化は木造の文化で欧米は「石造の文化」といった視線で解析した方が切れが良いのではないかしら?”なんて言い合っていました。
私は脳梗塞を患い布団に横になっていると「木造の文化」が一層適切だと思う様になってきました。
と、言うのは私の肉体も精神もエイジング(加齢)が進行してきます。昨日もデーサービスでお風呂に入り。自分の手足を揉むと。静脈が浮きあがって来たし、首筋にも皮膚がたるんできました。自分は「歩く加齢臭」と自嘲したくなりましたが、奈良の堂塔を想い出すとエイジングの美しさを想い出すと、エイジングは悪いもんじゃない思えるのです。私の掌は唐招提寺の柱の触感を覚えれいます。ギリシャの神殿のような列柱ですが勿論檜の丸柱です。エンタシスと呼ばれる膨らみが特長です。木肌は柔らかい木質部が風化して硬い角質部が浮きあがっれいます。柱を触れば温もりが残っています。でも、愛おしいと撫で回せば棘が刺ってしまいます。
おほてら の まろき はしら の つきかげ を 
つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ
(会津八一) 
木は細工がし易いのですが有機物ですから風化しやすく、永久ではありません。エイジングが進行し最後は土に還元してしまいます。エイジングは避けられないのですから永久にするには建て替えの技術を伝承しなくてはなりません。昨年の出雲大社や伊勢神宮の遷宮も木造文化の必然です。そして風雨化は避けられないのですから、風化サウル中での美しさを追求する事になります。唐招提寺も建築後1000年経った時の美しさをイメージして建築したと思われます。
一方石造文化は石は半永久的ですから腐る心配もないし風化も配慮する必要は少ない事でしょう。でも石自体は重くて堅いのでその特徴を押さえて建築する必要があります。建物の下段は上部の井重さに耐えられる様に頑丈に大きく積み上げます。上部は軽くしますので自然と尖塔形にアーチ状になります。自ずと放物線が多くなるのに対し木造文化は水平線や緩やかな反りが多くなります。唐招提寺金堂の大棟も緩やかに反っていますし、日本刀も揺るやかに反り返っています。
橋を例に石造文化と木造文化を比較してみましょう。
橋をデザインする時日本人も欧米人も虹をイメージしたと思います。天空に七色の虹が出ると人間は現世と天上世界(来世)を繋ぐ橋と考えたと思われます。だから基本デザインは「レインボウ」だったのでしょう。
神社には太鼓橋を渡って参詣するように設計しました。
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八幡宮の太鼓橋。太鼓の名が付いていますがイメージはレインボウでしょう。石は湯河原産の小松石(安山岩」です。
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岩国の錦帯橋石積の橋脚と木組みの橋の組み合わせの妙です。筆者は体風の度ごとにこの橋がどうなったか心配します。若しも木質部が流されてしまったら再建は困難だと思うのです。屹度虹のデザインは諦められて直線状の橋(まるで嵐山の渡月橋のような)になってしまう事でしょう。
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錦帯橋の木組み。世界で一番美しい木造の橋だと、確信しています。写真出典「日本の木造建築藤森照信著)
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此方はスペインゴルドバのローマ橋綺麗なアーチ橋は石造文化を代表するものです。写真はHISの観光案内サイトから借用。
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此方はスペインバルセロナの/ サグラダファミリア教会。天を刺すような尖塔と上部の重量を支えるアーチ曲線は石造文化の特長です。幾何学の進歩は石造の合理性追求がもたらしたものでしょう。

日本の石造文化と云ったら石仏や石庭が想い出されます。
石仏が多く建造され出したのは平安時代末期院政の混乱期でした。以来」1000年近く経って石仏も風化の運命に晒されています。。運命に身を任せる今が石仏が一番美しく輝く年齢を迎えているように思います。今年の4月に私は友人と連れたって葛城山の麓の弘川寺に行く予定です。同寺は西行法師が寂滅された処です。
願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃 
の歌碑とお墓が桜の樹下に詣でる予定です。
西行法師が寂滅されたのは歌の通りは旧暦の2月15日でした。今年は陽暦の何日になるのかなる?
想いながら先月作った陰暦併用カレンダー(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48524966.html」で確認しましたすると今年は4月3日が西行忌にあたる事が解りました。序に確認すれば同日は満月で「仏滅」です。吉野の宿では西行法師の文献学研究では第一人者のT教授(私達のメンタルリーダー)の講座をお願いしています。西行法師に一遍上人に友引されそうな人生に恵まれています。こうした考え方自体は法華経の教えであり、木造の文化なのでしょう。私の魂魄も木造の柔らかさに包まれてきました。
注記:西行法師がが歌れたた如月の望月の日(2月15日)はお釈迦様の亡くなった日「涅槃忌」の意味でもありました。
最近は多くのお寺が3月15日に涅槃忌を実施されていられますが、それは陰暦を陽暦に直すには1箇月遅らせれば良いと言う習慣からくるもので。お月様の満ち欠けをもって計算すると今年の様に更に半月遅れる事になります。陰暦カレンダーが必要な理由でもあります


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「ずんだ餅」の文化

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連日紀ノ川市で発生した幼児猿品事件が報道されています。昨日は犯人と思しき人物が逮捕されました。テレビ画面には坊主頭の成人とその名が報道されました。容疑者の両親が教育関係者であった事そして被害者も容疑者も同じ町内であるも解りました。当初は被害者の親の無念を推測して心を痛めていましたが、昨日からは容疑者の親の気持ちを慮って胸が裂ける様な痛みをを覚えます。
少年は小学5年生、学校から自宅に戻るとランドセルを放り出して、近所の田圃に出かけたそうです。屹度春を見つけようとしたのでしょう。畦道にはもう三界草もオオイヌノフグリも咲き出していたことでしょう。そして赤ガエルも産卵したかもしれません。少年は春を見つけた嬉しさで目を輝かせたことでしょう。でも三界草の名にも似て悪魔が忍び寄っていたのでした。紀ノ川市は有吉佐和子氏の名作で有名な「紀ノ川」の中流域河岸段丘に開ける街です。上流には慈尊院、河口には紀伊三井寺があり、千年以上も前から「命の尊さを教えてきた土地でした。春になれば桃源郷に変わって一目万本の桃畑が見渡せるんです。名刹粉河寺も龍蔵院(西行法師の生誕の寺)もこの町にあります。容疑者の名前はN桜州「華岡青洲」の名を戴いたようです。紀ノ川市の自慢です。あんまりに皮肉が重なっていてで加害者の両親の心の傷が心配です。
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もう咲き出した三界草葉っぱの上にカタツムリの眼のようにして花が三段に咲きます、一段目が下界を2段目が虚空を三段目が天上を観ているようなので三界を見る花の意味で三界草の名が付いたと思われます。他の雑草が伸びれば埋もれてしまいます。別名が「仏の座」です。
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樹木が茂る前に花を咲かせる「大犬のふぐり」




害者少年は田圃の畔からから田圃の中を覗き込みます。目線の先にはクラゲの様な日本赤蛙の卵が見えます。
少年の御足もとに三界草に大犬のふぐりが飾っています。
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田圃に産み落とされた日本赤ガエルの卵
もう2か月ゲルもすれば少年の家の近くの田圃も田起こしの季節です。
農夫が田圃の土を起こして畔に土を塗ります。鋤の背を鏝のようにして田圃の泥を畔に塗るのです。塗る事によって畔が強化されます。畔が壊れやすいと田圃の水が抜けてしまうのです。田起こしの作業は稲作の一番の重労働です。畔の土塗を終えたら農夫はその上に大豆を撒きます。これが畔豆(あぜまめ)です。畔豆を植えれば雑草除けにもなるし畔が堅固になります。そして出来た大豆は味噌など貴重な調味料であり蛋白源になるのです。
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冬が近い鳥海山羽黒山に近い田園には白鳥が群れて落穂を食べています。田圃の水を溜める堤防役をする畔には大豆が植えられていました。ずんだ餅の枝豆餡子の原料になります。

もう4年くらいも昔でしたが、私は山形県酒田市を旅していした。最上川河口部にある「土門拳」記念館から大川に沿って最上川を荘内に上ってていました。北には鳥海山が長い裾を伸ばして秀麗に見えました。田圃にはもう無数の白鳥ウが遊んで落穂を食べていました。
この時の記録は「秋の井最上川」と題して次に血尾題して書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44237456.html
田圃には青い豆が育っています。稲の刈りいれが終わると同時に大豆を撒いていたのでした。大豆は豆が青いうちは「枝豆」と呼んで野菜として食べます。ところが枯れて茶色になれば大豆です。酒田一帯はお正月には「ずんだ餅」は欠かせないのです。枝豆を青いうちに収穫してすりこ木で潰して砂糖を加えれば「ずんだの餡が出来ます。「ずんだ」の語源は伊達正宗が戦時²に城中で武士に命じれ作らせた戦時食料ですから、仙台土産によく使われます。
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東北4県の地域興しキャラクターは「ずん子ちゃん」です。勿論図んだ餅からきているのです。可愛くて餅肌で武道が得意な少し古風なお嬢さんキャラなのです。弓道の胸当てが大きいのは巨乳なのかな、そう言えばNHKの山形局に巨乳のアナウンサーが居ましたね
出典はオフィス東北ずん子http://zunko.jp/
私はずんだ餅ならには荘内の大石田が最高だと信じています。大石田は尊敬する斉藤茂吉の生まれた地ですし。子規も芭蕉も逗留していますし、画仙人の小松均も大石田で大作「最上川」を描き画境を極めました。
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小松均画伯の最上川断崖上に見えるのは月山です。
荘内と言えば上杉鷹山です。越後から品疎な荘内に転封させられた鷹山は新田開発に努めます。でも一番に開発が困難だったのは大石田だっら事でしょう。田圃にするのに一番困るのは石です。石田という名は「石が転がっている困った田圃の意味で、石田さんの先祖は貧農だっら事でしょう。でもそれが大石だったら更に手に負えません。最上川の”大石が転がっていてお手上げの一帯だと思われてやけっぱちの名が付いたのでしょう。
でも痩せた土地で収穫したほど作物は美味しいものです。肥沃な畑で収穫された蕎麦や麦よりも痩せた畑で収穫された物の方が美味なのです。畔豆だってそうでしょう。大石田のずんだ餅が仙台よりおいしい事には確信があります。仙台味噌より米沢味噌の方が、仙台牛よりも米沢牛の方が「宮城コシヒカリ」より「山雀艶姫」の方が美味しいのです。
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これが大石田のずんだ餅」です。お餅は艶があってモチモチ鶯色のずんだの餡子は舌触りも良く(漉し餡と粒餡子の中間)荘内地方の風土・文化を代表する食べ物です。山形の物産はは紅・さくらんぼだけではありません。

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白道

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今年の旅行は4月9日(木)に羽田を発って、関空を経て最初の目的地が加太町の淡島神社、次にお隣の紀伊三井寺。紀川沿いに大和街道を北に龍蔵院(西行の生誕地)に向かいます青洲の里で桃畑を眺めながらランチして九度山の慈尊院を詣でて吉野山中千本に泊まります。良く10日(金)は東吉野を経て宇陀の又兵衛桜から伊勢道を通って仏隆寺更に峠越えして室生寺に室小川沿いに下って大野寺から長谷寺を経て宿泊は飛鳥です。翌日は飛鳥川を上って稲渕から葛城山の麓の一言神社から当麻寺でランチして竹内街道を太子町から弘川寺(西行寂滅の寺)藤井寺の葛井寺を経て関空に戻って夕暮れ時のフライトで羽田に戻ります。
桜の名所を巡るわけですから。”西行法師が出家した理由”位は理解しておきたいものだ思いながら、寂聴さんの「百道」を読みました。
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白道(びゃくどう)とは二河白道図の細道の事を云うのでしょう。
平安末期以来百道図は数多く描かれました。手前側が現世です。現世には沢山の化け物や獣が居ます。
目の前に大河が流れていて、川の向こうに阿弥陀仏が居られて迎えようと用意されています。此方側と向こう岸とは丸太橋が渡されています。細い丸太の上を阿弥陀様の岸に渡らなくてはなりません。背中の化け物が襲いかかって来そうな気配です。でもお釈迦様が守って下さっています。慌てたり急ぐと丸太から足を滑らして川に落下しそうです。右に落ちれば凍える様な氷の川です。左に落ちれば炎が燃え盛っています。
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これが平安時代から信仰されてきている二河白道図。亡者は荒れ狂う川を渡って百道を阿弥陀様の足元に向います。出典:北岡技芳堂製同社HPhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E4%BA%8C%E6%B2%B3%E7%99%BD%E9%81%93%E5%9B%B3&oq=&ei=UTF-8&xargs=3&b=1/古物商25万円の掛け軸寂聴さんが「百道」と名付けたのは西行法師の人生がまるでこの細い百道を辿っ多様なものだ…、と言われたのでしょう。


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崇徳上皇図(歌川国芳)隠岐から讃岐で没した崇徳上皇は怨霊になって祟ってやると呪詛した。出典- Wikipedia

  長い摂関政治(天皇の母系が摂関職に就いて実権を握った)が終わると次は父系の系統が実権を掌握する院政の時代になりました。天皇が退位すると「上皇」になり、天皇には自分の子をつけて、権勢をふるい、さらに上皇が出家すれば「法皇」となります。「天皇→上皇→法皇」の権力循環サイクルが始まりました。院政の推進者は白河上皇でありました。 白河上皇は、子供の堀河天皇を就けました。でも堀川天皇が早逝されると、はその息子で4歳の鳥羽天皇を就任させ、自らは上皇として本格的な院政を敷きます。白河上皇は、院御所の北面に警護のための詰所を設け、親衛の武士団を組織した。官位で四位や五位の武士は上北面、六位のものは下北面に詰めた。佐藤義清(後の西行」は北面の武士として院の警護に当たりました。
藤原 璋子は藤原公実の娘として生まれます。藤原公実は白河天皇の近臣であり、璋子は美人であった事から白河天皇は中宮として迎えます。二人の間に生まれた皇太子が堀川天皇に就いたのでした。しかし堀川天皇は早逝してしまいます。すると白河院は孫の鳥羽を天皇に就けて自らは出家して白河法皇になり、実権は手放しません。璋子も出家して待賢門院となります。
鳥羽天皇は藤原得子(後の美副門院)を皇后に璋子を中宮に迎えていました。璋子はお爺さんの愛人であり天皇の中宮であっらのでした。
この辺の事はNHKテレビ「平清盛でも描かれていましたが現代の感覚では解り難い部分です。
この時点で璋子は時の実権者の寵愛を独り占めして、崇徳天皇の母親であっらのでしたから、最強の女性だったのでした。系統を記せば次の通りです。
白河(法皇)→堀河(白河の子)→鳥羽(堀河の子)→崇徳(実は白河の子)→近衛(鳥羽の子)→後白河(鳥羽の子)。
璋子にとって翳が差してきたのは1129年、白河法皇が崩御し、鳥羽院は崇徳天皇に位を譲り自らは上皇になって院政を志した始めた頃からでした。
白河法皇の後ろ盾を失った中宮・璋子にかわり、鳥羽院は第一子の崇徳を軽んじて弟達(後白河・近衛天皇)を重んじたのでした。実権は近衛天皇・後白河法皇に移りました。崇徳上皇は軽んじられ白河法皇の後ろ盾を失った中宮・璋子にかわり、美副門院が後宮を掌握します。こうした混乱や複雑なパワー・バランスが保元の乱の呼び水になったのでした。
佐藤義清は古代の終焉美を待賢門院に視て、中世の悲惨を崇徳上皇に視たのでしょう。
義清出家の理由をNHKテレビでは友人の突然の死にあると説明していましたがこれは一番可能性は薄いし、文学的に面白みのない解釈でした。
寂聴さんは美しい待賢門院への恋情を貫く為、短歌をツールにして高貴な方への恋心を昇華させるためとお考えの様です。
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出典東京国立博物館台琳派展 画俵屋宗達
西行物語絵巻、佐藤義清が娘(4歳が泣き寄るのを)出家の妨げになる、と蹴落とす場面恋情を表現するのに長けていた義清でしたが。妻子への想いや謝罪を詠うものは一首もありません。この辺の感覚が現代人とずれているのは当時と今との社会観の違いでしょう。

今朝はパソコンがご機嫌悪くて時間もかかってしまっらし疲れてしまいました。そこで、吉野や紀伊の桜に想いを馳せて横になる事にしましょう。
私達日本人は桜の国に産まれて幸いです。今朝もテレビではシリアの景色が映っています。霞がかかって緑が濃い日本の春だからこそ桜は美しく。その上に1000年以上の昔の人の想いが桜の花に濃い陰影を重ねています。こうした桜礼賛の感覚が時に「同期の桜」の感覚になって、大勢翼賛になってしまいます。桜は平和と命のシンボルとして大切に見守って行きたいものです。鎌倉の段葛の桜はもう伐採してしまったか?気になります。近々チェックに行く事にしましょうか?人それぞれですが人生は誰でもが百道を辿るもののようです。「狭き門より入れ」とは少年時代に教えられました。晩年になって「狭い道を進め右にも左にも落ちてはいけない」教わる思いがしました。
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 奈良山の辺の桜吹雪
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奈良宇陀の又兵衛桜
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奈良室生の桜



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道祖神の過ち

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昨日は寒かった。連日天気予報では「今日はこの冬一番の寒さです」案内しているのですが、連日この冬一番の寒さを更新しているようです。ワイフは友人と相模平野の中央中井に出かけました。北西は大山が東は吾妻山が東は湘南平の山々に囲まれています。シベリア高気圧が丹沢山系で雪を降らせ。乾いたt寒風が吹きすさぶ土地柄です爪雷風が。着物袴では寒いに決まっています。鼻水を垂らしながら弓道に励んでいるかと思えば、心配です。
そう思えば私もたまの日曜日に星が輝く早朝にゴルフバックを積み込んで埼玉県秩父山系の山岳ゴルフ場に出かけたものでした。
夕方、ワイフが元気に戻って来ました。手にJR二の宮駅で貰った「二の宮石仏ガイド」を持っています。三つ折り観音開きパンフレットの表には可愛い道祖神が映っていました。
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これが表紙の石仏ガイド(作:二の宮観光協会)
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石仏と言っても道祖神ばかりです道祖神の石造年石の素材や造形などのデータがプリントされていました。表紙の道祖神は中央列中段の西光寺境内平成5年の作でした。
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石仏ガイドには親切なマップが付いていました。
そうです。二の宮駅の西側は山頂に吾妻神社が祀られた吾妻山が聳えていて,参詣道は椿のトンネル、山頂は菜の花畑です。ワイフと登ったのは5年も昔でしょうか?
表紙の道祖神は相模二の宮「川匂神社に行く途上にある寺です。川匂神社は昔風に節分祭を執り行うので、2年前ワイフと行きました。この時の記事は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47018724.htm
双体道祖神はお寺さんが作られたものです。仏像なら儀軌で細かく決まっていますから造形に裁量の余地は無いモノの、道祖神には決まり事は無いので、作者の自由です。敢えて言え参拝者の欲求に応じて作るものでしょう。最近は道祖神の注文が多いようで、よく、浴石材店の店頭で道祖神が展示されているのを見かけます。西念寺の道祖神も住職が見かけて気に入って求められたものでしょう。
神奈川県でも茅ヶ崎や横浜皇大神宮境内に新時代の道祖神を確認できます。でもいずれもが、相模の国スタイルでは無くて千曲川筑摩スタイルなんです。
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相模スタイルの道祖神は二体のお地蔵さんです。写真は茅ヶ崎郊外http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893303.html?m=lc&sv=%C6%BB%C1%C4%BF%C0&sk=0等に書きました
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これは筆者の家の近く田谷の道祖神、歳か衛各道路に寄って何処かに遷座されることになりそうですが少し心配です。(藤沢に行ってしまいそうで・・・・・)
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筑摩スタイルの道祖神別所温泉裏の野倉
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安曇野穂高スタイルの道祖神彩色は子供が学用品で塗ったものです。三九郎の火祭りが盛んでなければこうはなえいません。
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吾妻スタイル(上州)の道祖神

相模スタイルは二体の地蔵尊が並んでいる造形であるのに対し、筑摩は夫婦の神像が仲睦まじく並んでいます。それが安曇野穂高に行くと彩色されています。でまた群馬吾妻川流域では男女の神像が愛撫していて見詰めるのが恥ずかしくなるような「アブナ絵」のような造形です。古い順に言えば相模スタイルが最古で次いで筑摩穂高一番新しいのが吾妻スタイルです。
でも人気から言えば筑摩買穂高が一番でしょう。でも彩色には子供の協力が必要ですから手間のかからない筑摩スタイルが多いようです。
私は相模で産まれたので相模では相模スタイルを大事にするのが本来だと確信します。こんな指摘をすれば西念寺のご住職も面目を失われることでしょう。地域文化は地域の歴史や産業生活スタイルの変遷に応じて変わっているからこそ面白いので。どの地方に行っても同じであっれは少しも面白くありません。相模は頑なに相模デザインを踏襲して欲しいものです。
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横浜皇大神宮も道祖神、先の禰宜が故郷の石屋で5基もの道祖神を求めたので境内に筑摩スタイルの道祖神が祀られています。近くの厳島神社にもあります。

に二宮観光協会作成のパンレットを手にしながらワイフと話します。
「このガイドに従って石仏巡りするのは何時でしょうかね?」
「私が運転する車で行く事にするか!」
「貴方が運転するのは危険でしょう・・・・・当分の処見通し暗いようね」
当面は身体頭脳共に安定する事が目標のようです。新しい道祖神古い道祖神相模の道祖神は混乱しているようですが…どちらも健康や厄を防いでくれることでしょう。


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西行物語の愉しみ

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何時の間にか図書館の返却が月曜日に集中し、同時に借入する習慣になって来ました。”「百道」を返却しますから何を借りますか”ワイフが訊きます。そこで「西行物語絵巻画を視たい」言っておいたところ。ワイフがぶつぶつ言いながら帰って来ました。「重たくて重たくて西瓜を持ち帰るようでしたよ」言います。見ればB4版で5㎝もある豪華美術本です。早速に開いてみれば、徳川黎明会が所蔵する徳川本と蜂須賀本(阿波の蜂須賀家に在ったもの俵屋宋達の筆)両方がのっていますし、年表や家系図など充実しているので美術本であると同時に歴史家の目を通してもあるのです。巻頭言も宮本常一が書いておいでですから美術・歴史・民俗宗教学者の目を通して西行を立体的に解きほぐした本なのでしょう。借入期間は2週間、これからは何時でも居間で開いてみる事が出来ます。
昔は徳川家や蜂須賀家のお殿様しか見られなかった絵巻物が、自宅の居間で視られると葉便利な時代に産まれたもんです。今朝のテレビでは河津桜が咲き出した報道しています。今年の4月西行の生誕地から隠棲地寂滅地の桜を見る旅に出ます。その前に絵巻物を良く見ておくことが出来ます。
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さい
央西行物語絵巻は西行が鳥羽院の北面の武士に就任したところから始まります。佐藤一族は藤原秀郷の子孫で紀伊の国田仲荘を所領にして代々宮中の衛府に勤める名門でありました、佐藤義清は1135年(保延1年)18歳で鳥羽院の北面の武士に任じられたのでした。武勇に秀でていたばかりでなく蹴鞠にも和歌にも故実にも通じて男の色気満ち満ちていたのでした。鳥羽院にも認められていたことでしょうし。女官にも好意を抱いて咲いて萌逢って居た頃でしょう貰っていたことでしょう。
鳥羽院の障子(襖)絵が更新されました。鳥羽院は見事な絵に満足されましたが「誰か絵に添えて和歌を読め」と命じます。
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左に公家が3人(源経信・大江匡房・藤原基俊)が鳥羽院の殿上に侍しています。座敷の障子(襖絵」に添えて歌を詠えとの鳥羽院の命令を受けても思案投げ首の風です。空しく目の前に硯と短冊が用意されています。一番右に黒い束帯姿の人がいます。これが佐藤義清です。公家の装束が浅葱色の直衣に紫の指衣貫(さしぎぬ/ズボン)で一際美しいのに比べて武官である義清は特別です。此方は宗達筆です。

義清は和歌を詠んでみせます。鳥羽院は賞として太刀を中宮の待賢門院璋子より御衣を賜りました。
このようにして義清は警護の武士でありながら和歌などの才能にも恵まれ鳥羽院にも中宮にも重んじられました。
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義清は院より太刀を中宮璋子より御衣を賜ります。
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義清は待賢門院璋子を御簾の隙間に垣間見しました。その美しさに一瞬にして心を奪われてしまいます。

義清の同僚に佐藤範康(のりやす)が居ました。鳥羽院は「二人して明朝出仕するよう。ところがその日の朝になると、範康は頓死していたのでした。義清は改めて人の命の儚さを痛感したのでした。そしていよいよ出家への想いを強くするのでした。この時鳥羽院は義清らに何を伝えようとしたのか?全く分かりません。
鳥羽院は早くに退位して崇徳に天皇位を譲っていました。歴史は鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り永治次1年(1141年)近衛天皇を実現しました。混乱の原因は鳥羽院の混乱によって引き起こされたものでありました。鳥羽院の子崇徳は実は叔父の白河法皇であると思い込んでいたのでした。
源氏物語でも伊勢物語でも母と娘2世代と交わる事はありませんでしたが、彰子は美しすぎたので父とも情交してその子(崇徳)を自分の子と偽って天皇にした。思い込んでいたのでした。崇徳を退位させて、得子の子(近衛天皇)を実現します。この後は崇徳上皇は都に戻る事も無く、後宮は得子が牛耳って彰子は陰ってしまいます。義清は鳥羽院に似合う事も無く立ち去ってしまうのでした。
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鳥羽院の屋敷に出かけると武装した侍が大勢供奉し二人の席がよういされていました。左上は検非違使の役人たちでその右手前の空席が席を立ってしまった義清の席空席のの左が頓死した範康のピンチヒッターでしょう。

のでした。この白河天皇の淫欲と、美しすぎた彰子が引き起こした上皇であると)は肉親に裏切られるとは思っても見なかったことでしょうがでしたが、、鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、体仁親王を即位させた()。その東宮に誰が就くのか気になっていたと思われます。
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