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惨劇は突然に?

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連日川崎での中学1年生(上村遼太君(13))殺害事件が報道されています。遼太君の笑顔が素敵だった分、同君が友人や家族に愛されていたことが報道される度に「こんないい子がどうしてあんな惨い目に遭ったのか不条理に思うばかりです。首犯A(18歳)に命じられて冷たい多摩川で泳がされて、ずぶ濡れになって川岸から上ると次はカッターナイフで切り刻まれました。待てよこんな場面はどこかで見た記憶があります。地獄絵には氷河があって、亡者は氷河から上るtっとお次ぎは獄卒に身体を切り刻まれてしまいます。
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氷河の畔で切り刻まれる亡者(益田鈍翁が所有敷いていた地獄草子国宝、怖い場面は人間の奥底に潜む残忍性が露出したものと考えます。)
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地獄極楽草紙(京都金戒光明寺)氷河の手前が現世、左手前に最後の審判場面が右手前に生前の行為が描かれています。氷河の対岸は極楽,左から釈迦如来薬師如来、阿弥陀如来、ミロク菩薩の浄土です
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これは熊野比丘尼が持っていた「熊野の観心十界図。上部の半円には一生が描かれ閻魔地蔵菩薩が見守る前で審判が行われています。心の字が書かれた神鏡の前で裁かれます。上には阿弥陀如来を中心に聖衆が
お迎えに来ています。手前は地獄で釜茹で責め苦や血の池地獄の様相が描かれています。
これ等の地獄絵は平安時代末期、鎌倉時代初期にかけて描かれました。
千年も昔の人達の心の底に地獄の恐怖場面があったのでした。えっしょう。極楽も地獄も人間が考えたものですから,少女が時に天使に時に魔女になるように、人間の両極端の側面が現われたものでしょう。誰でも天使にも悪魔にもなれるのが不思議です。でも。誰もが天使になりたい、悪魔にはなりたくない、思っています。天使が右(プラス)で悪魔が左(マイナス)なら人は生き様んのベクトルを右向きにしておくように心がけなくてはなりません。
主犯Aはあの日に突然に悪魔になった訳ではなくて、徐々に左に進んでいったものと思われます。Aの家族も周辺の人もAが左を向いて居る事に気づていたことでしょう。
上村君もAに殺されるかもしっれない、ラインに書いていたそうです。
筆者が小さい時、夏休に栃木の郊外思川に遊んだものでした。思川の河原で近所の子供達と「地獄遊び」をしました。
遊戯は「缶蹴り」と同じようなもので。鬼(一人)が缶を蹴られる前に全員(フリー)を捕まえます。
フリーは川原石を塔(タワー)に積み合あげます。タワーは積み上げてしまえばフリーが其処に居る限り鬼は捕まえる事は出来ません。そこで遊びの要点はタワーを作る事。鬼はタワーを作られる前に足蹴して壊してしまう事でした。昔も今も河原は子供の遊び場で河原で遊びながら大きく育ったものでした。折角多摩川の河原も綺麗になったというのに惨劇の場面になるなんて、せつなすぎます。

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恩愛地蔵経では地獄の河原で童子g川原石を積ん功徳しようっとしますが、が」出現して川原石を崩してしまいます。多摩川にも鬼が現われるとは思いもしいんでした。写真は佐渡の外海部海岸んです。
こんな悪い予感を「鬼の知らせ」と言いますが。人間は古代も現代も誰もが多少はそんな予知能能力があったのでした。筆者はこの能力を体系的に鍛えたの密教だと思います。
人間がある日突然に悪魔になることは無く、徐々に悪魔性が強く、大きくなるものです。。そして多摩川の惨劇もあの夜突然に起ったものではなく、予兆もあったのでした。
地獄絵図は現代の「写し絵」だから怖いのです。今回の事件を報道で確認するたびに地獄絵図が存続するのは@「怖いもの見たさ」だけではなく、万人の心のひだに悪魔が隠れていると自覚しているからでしょう。犯人Aの残忍性を誰もが自分も持っている感じているのです。
潜んでいる悪魔を抑えなくてはなりません。大切なのは。心に高くアンテナを立てて悪い予兆をキャッチして、悪魔が顕在になる前に、惨事になる前摘んでしまう事です。アンテナを高くする方法は”祈る事”だと思います。
祈る人には神仏はアンテナを介してシグナルを送ってくれます。惨劇を未然に防ぐチャンスは格段にアップするものです

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現世は地獄の写し絵である悲しさ

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昨日は 多摩川の河畔で惨殺された光景が地獄絵を見る想いがする事を話しました。
地獄絵の所有者を調べると稀代の数寄者「益田鈍翁」や「松永耳翁」の名が続きます。
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病草紙(肥満女の図/松永耳翁コレクション中央の巨漢の女性は京都7条の高利貸しの女房で両脇の付き人の肩を借りて立っています。付き人の冷たい視線が印象的です。
地獄絵図は熊野比丘尼や高野聖が持ち歩いていましたし。神社の絵馬にもお寺の納骨堂にも懸けられていましたから、江戸時代の人々っは馴染んでいた事でしょう。でも、怖いもの見たさでジット見詰めてしまいます。
落語家は地獄や幽霊を出し物にして人気を得ました。竃幽霊(へっついゆうれい)「茶漬幽霊」は古典落語で有名ですし。地獄八景亡者戯』(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)は、上方落語の演目の一つで、江戸では『地獄めぐり』として演じられました。前者は立川 談志(たてかわ だんし)さん後者は桂文珍さんバージョンが話題です。市場で八高値がついています。。http://www.amazon.co.jp/%E6%A1%82%E6%96%87%E7%8F%8D-9-%E3%80%8C%E5%9C%B0%E7%8D%84%E5%85%AB%E6%99%AF%E4%BA%A1%E8%80%85%E3%81%AE%E6%88%AF%E3%82%8C%E3%80%8D/dp/B00006K0JC
幽霊や地獄を笑いのネタにするところに逞しさを感じます。
核心は幽霊も地獄も人間が想いついたものであり、人間が見たくない自分自身の核心を表現した「人間の似せ絵」だからでしょう。
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此方は桂雀雀さんの「地獄八景亡者戯」のポスター米朝さんの十八番は文珍さんを経て若手に引き継がれているようです。築地本願寺の高座は是非聞いてみたいものです。
枕は次のように始まるんだそうです。
「地獄にも入学試験があるそうだよ?」
「・・・・・・・」」
「なにしろ受験地獄という程だから狭き門だそうだ」
「一番の名門大学は、知ってるか?」
「東大だろう」
「地獄大学で通称『獄大』で通っている」
「それに昔は三途の川の渡しの柳の木の下に婆さんが居て、着物を剥いで居たんだが最近は廃止されたんだそうだ、終戦後地獄も民主的な運営に改められたそうだ。」
「という事民間裁判員が採用されているのか?」
三途の川を渡ると一方通行大通りがある道の名を知っているか?」
「御堂筋だろう・・・」
「いや最近名称変更され冥土大通り」と呼ばれるようになったんだ突き当りが「埋め田」になる』
恐怖も笑いもッ人次第。できるものなら怖がらずに笑い飛ばして生き抜きたいものです。
梅田に出来たグランドキャバレー「火の玉」に行ったかい?」
「骸骨のラインダンスが人気で・・・・骸骨の小野小町のストリップがトリだそうだ。演出は「小野 篁(おの の たかむらは」だそううだ。
骸骨のストリップなんか見たくないやそれは詐欺だよ・・・」

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歌川国芳の骸骨図。描かれているのは、平将門が討ち取られたあと、その娘とされる滝夜叉姫が呼び出した骸骨の妖怪です。


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浅葱色は命の色です。

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3月13日は新撰組が京都壬生に出来た日でした。このままでは日本は清国同様に列強に蚕食されてしまう、危機感は日本中に広がっていたことでしょう。対策は旧弊を打破して新しい文明を積極的に受け入れて列強に対抗できる国力を付ける事。誰もがそのように気付いても方策はそれぞれでした。その一つが吉田松陰のよに天皇を核にして団結して尊王攘夷すること。対抗する対策がと徳川幕府をコアにして列強に対抗する方策(所謂佐幕)でした。目的は同じでもベクトルは正反対でした。左回りのベクトルを選んだ代表が新撰組だったのでしょう。
立春は過ぎても底冷えのする京都壬生寺にッ新撰組は集まって右回りしようとする尊王攘夷派を力でねじ伏せようとしました。屹度名物の九条葱も美味しい季節だったことでしょう。新撰組は羽織の色を浅葱色にしました。
浅葱色は薄い藍色でしたから、鎌倉武士の色でありました。
女性が紅い腰巻を着た様に武士は着物の裏地に浅葱色を使いました。浅葱色は黴菌を寄せないので負傷しても治癒するのが早かったのでした。命を産むのが赤い腰巻色なら死を遠ざけるのが浅葱色でした。
雛の節句には菱餅が欠かせませんが浅葱色で菱を染めた羽織を着て颯爽と都大路を新撰組が疾走したのでしえした。一番浅葱色が似合ったのは沖田 総司(おきた そうじ)だったことでしょう。田園に出てみれば浅葱色の葱が「今が食べ頃よ!」私を誘います。
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これは葱のルーツの野蒜です。地上部は浅葱色です。
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冬の寒さが葱を甘く柔らかにします。本格手に暖かくなると葱坊主が伸びて苦くなってしまいます。
美味しい葱が食べたいな想いながら横になりました。
パソコンの横の本棚には友人のTさんに戴いた「浅葱色の独り言」があります。私の本棚にはもう10冊も並んでいますから彼女の50代は此処に凝縮されている訳です。
品川宿の喫茶店「黒門横丁」で戴いた時「本の表紙を見て今年は浅葱色ですね」言ったら
貴君が浅葱マダラに乗って」をブログに載せたでしょう・・・・」
言われました。
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これが入院中に書いた浅葱マダラに乗っての絵。私の魂が浅葱マダラに乗って大和や豊後を旅するお話でした。

「どんな風に書かれているんだろう」心配しながら読んでみると、「T君らしい(私もTですので)」と評し貰っていました。
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私の書棚に並んだTさんの随筆集ガーネットがTサンらしく浅葱色は少し地味です
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雛祭りにも浅葱色は欠かせません。

Tさんは大は話しは面白いし、文章も長けておいでです。私のよう頭の回転が鈍いと付いて行くのが大変です。機関銃のように言葉が発射されます。私は彼女とは同期でしたが、タイプっが違うと思ったのか殆ど口交わしませんでした。私は男子校で彼女は女子高出といった経歴から口下手だったのでしょう。
私が2年の時、一度だけ声をかけられました。「今度カンツォーネの発表会があるんだけど・・・・」
彼女は声も透き通って良く響くし大きかったのでした。
私は眩しいばかりで、「自分は声明のようなものが好きなんで・・・」上手に対応出来ませんでした。
それが卒業後とりわけ社会人卒業後に旅行会などで親しくなりました。彼女が太陽で私は月のようなもの。太陽の周りに友人が車座に座ってまるで牢座主のようにして・・・、濁り酒やワインを飲ませって戴いているようです。
彼女がお嫁さんを大事にしていること、お母様を慕っていることなど、この随筆で良く解りました。もう裸の(心の)彼女を観るようで一層眩しいものです。お日様をお三つも書くお名前ですからもう眩しすぎます。阿弥陀様(会天照大神)」眩し過ぎて失明してしまいそうです
彼女は自分は「「クラブのママが適職だったのっかっも知れない」言って居ますが。
その通り想います。私が未だ現職部長だった頃銀座2丁目お稲荷さんの近くに居酒屋「卯波」に行きましたが女将で俳人の鈴木真砂女を想いだすものがあります。ご本人は計算が弱いのが心配だと言っていますが、万事そつのない女将の店では人気が出ません。少し計算が弱いくらいの方が人気が出るものです。それに計算が強いものは身近に沢山いるもんです。ワインバー「独り言」にはお客が集まります。
春は貝が美味しい季節です。付け出しで「青柳と葱の酢味噌合えなんか」出たらもう私は涙です。
出店は目黒の権之助坂 (ごんのすけざか)が良いと思います。私の仲間はあの辺りが一番行き易いし、土地勘もあるんです。
最初は新選組の沖田 総司を書いて締めは「内藤鳴雪」と思って書き出したのでしたが。Tさん話で一杯になってしまいました。雪が降り積もった朝道を歩くとキュッ・キュッと雪が鳴るのです。幕末に左廻りした内藤鳴雪でしいたから雪道で鳴かせ通しだった事でした。同氏の事は別の機会に書く事にしましょう。
私達も還暦をとおに通り越して、浅葱色の良さが判る齢になって来ました。命の色は垢血の色)だけではなく、
死を避ける色、健康で長生きする色でありす。私もTさんに引き攣られて行けばボケないで居られそうです。


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野鳥の人間適応力に期待します。

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「春眠暁を覚えず.  夜来風雨聲 花落知多少」. 漢詩の通りの季節になりました。夜半に降り出した雨が梅の花を散らしてしまった事でしょう。そう想いながら耳を立てれば鶉が騒がしく啼いています。
鶉は冬の間は食が細ってワイフが心配していたのでしたが。もう大丈夫、これからはしっかり卵を産んでくれることでしょう。鶉君が元気で産んでくれないと、納豆が美味しくありません。「処処啼鶉を聞き、我更に長生きをせむ」。等とふざけてみます。鶉の鳴き声に混じって雀の声も響いて来ました。鶉は行儀が悪いのでその食べこぼしに狙って雀の家族が出てくるのです
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昨夜来の雨で梅も散ってしまいました。
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我家の鶉君、暖かくなってので食欲も復活朝から啼きだすようになりました。もうじき卵を生み出す事でしょう筆者は鶉君の卵を戴いて病気回復する意図です。
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我家の雀君、時々居間に飛び込んできますが普段は警戒心が強く私の気配を感じると飛んで逃げてしまいます。
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巣立った燕の坊やたち、燕の子育ては終日見ていても飽きません。親の愛情の深さを燕に例えるのはつば飴の子育てを観察していると納得です。

ワイフがもう。ペットの朝食を遣り終えたのでしょう。ペットが終われば次は私達の朝食の時刻です。
ソロソロ起きようか、私はベッドから立ち上がります。
私が居間に出ると、庭先から雀の家族が飛びたって屋根の上から私の様子をを伺っています。
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ひとまずは屋根に逃げて様子を窺がう雀君
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鎌倉八幡宮の鳩はもう恋の季節です。人間が近くに寄っても逃げたりしません。神のお使いとして信じられてきたので人間には警戒心が失せてしまったのです。ヨーロッパの人は不思議い想いながら眺めて居る事でしょう。

我家の雀はもう30年も私と一緒に生活して来たのですから、
もう警戒心は解いたら良いと思うのですが、一向にッそんな兆しはありません。”人間は怖いもんだ”DNAに深く刻まれているのでしょう。ヨーロッパの雀は人間をそれほど怖がらないようですから日本人が雀は害鳥として捕獲する事を奨励して「鬼がら焼き」にして食べられた怨みが骨身に浸みているのでしょう。
一方鳩はヨーロッパでは食べられますが日本人は食べません。ヨーロッパの鳩は直ぐに逃げるものの日本の鳩は逃げません。上野公園でも八幡宮でも鳩は子供の手が届きそうな距離で遊んでいます。野鳥と人間との距離に関する習性は遺伝的先天性なものでは無く、後発的、人為的な影響によるものでしょう。
その証拠に燕は態々人の生活圏で子育てをします。人の気配がある事が逆に天敵に襲われない安心になっているのです。燕は夏に日本で子育てを終えて
南の中国や台湾に帰って行きます南国でも人間のの生活圏で暮らすのでしょうか?私は知りません。
何でも食べてしまう中国ですから、日本で過ごしたスタイルを改めないと命を持続できない様に思います。
”此処は中国、人間と距離を保とう、此処は日本、人の近くに居れば安心だ”等という分別があるのでしょうか?
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橋脚の上でムクドリを小さく刻む長元坊..実はこの上に巣があるのです。
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橋脚の柱の継手が長元坊の巣です。雛が顔を出して食事を待っています。戸塚俣野(境川沿い)で撮影。毎年沢山のウォッチャーを釘づけしている光景です。
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我家の近くで白鷺を捕食する大鷹後ろの黒いフェンスに鷺を追い込んでゲットしました。この後大鷹はカラスの群れに襲われて折角の食事をカラスに盗まれてしまいました。近くには田鴫の飛来地や青ゲラの生息地もあるのでそれらも心配ですが、やっぱり大鷹は食物連鎖の頂点ですから。大鷹が戻ってきたのは嬉しいし、自慢です。、

私の住む戸塚も自然が戻ってきて野鳥が増えました。最近では増えすぎて問題も出て来て
戸塚駅東口では夕方になると毎日ムクドリの群れが集まって来て〝糞害”が問題になっています。
ムクドリは駅が安全だ分かっているのです。
我家の裏山では大鷹が見られる様になりました。大鷹君にすれば食べ物も増えて生活環境が好転しているのでしょう。大鷹が増える為には巣作りする場所が問題です。数年前までは松の大木も多くありましたからその枝に巣作りも出来たでしょうが今は無くなってしまいまあした。でも、観察していると高圧線鉄塔に止まっていたりしています。隼(我が生活圏ではノスリや長元坊)は鉄塔等の構築物に巣作りしています。
燕や鳩のように人間に適応するように期待するのは無理にしても野鳥には環境変化に適応する能力が潜んでい居いる様に思われます、放っておいても、何れ高層ビルの谷間にビルのアンテナに巣作りする
大鷹や長元坊が出現するように思われます。大鷹保存の為に数百ヘクタールのッ山林を保存する事も有意義でしょうが、都会に順応する猛禽類の能力にも期待し関心をしたいものです。保存保存一辺倒も考え物だと思います。
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  我が家の梅は杏の遺伝子が入っています写真はメジロですが。ホウジロや四十雀も遣って来ます。今年は居間から望遠レンズで眺める事に致します。


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鎌倉での捨聖一遍

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今朝は裏山から”コッチ来い・コッチ来い”と響いて来ます
鶯は”ホー・ホ・ケキョホ・ケキョ”ですから啼き声の主は日蓮上人(法華教)で”仏法僧・仏法僧”と鳴き続ける木の葉ずくはさしずめ聖徳太子かもしれまん。今朝啼いている小綬鶏は阿弥陀様のお誘いのようです。私でさえそんな風い鵜うににきいこえるのですから一遍ん上人に導かれた時衆一団には小綬鶏の啼き声は阿弥陀様の御声にしか聞こえなかったことでしょう。時衆一団は春まだ浅い里の道を急いで峠を越そうとしておいでなのでした。
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一遍聖絵第5段信濃国大井太郎邸(佐久岩村田を遊行する一遍一行先頭が一遍上人後ろが尼の超一超二、超二は聖絵に度々描かれていて妻子説と遊行舞の先導役、とい二説があります。こ後一遍一行は鎌倉に向かいます。
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残雪の中から花咲く里に出ます。一遍上人は佐久で初て遊行踊りをしました。右端は大井太郎にお別れの挨拶をする一遍上人(絵巻は国宝です。毎年っ遊行寺さんの配付されるカレンダーかれなーに使われていますので、筆写は大切に保存しています。
鎌倉での一遍上人は相当の気合が入っておいででした。。鎌倉府内に真っ直ぐ入ろうとされます。得宗家北条一族の館が並ぶ山内をお通ろうとすると、執権の北条時宗が通るので迂回した方が良い、という提案が在ったでしたが、意にかけずに正面から(小袋坂)から入ろうとします。
案の定時衆一団は執権の行列に鉢合わせしてしまいます。
客観的に見れば時衆一団は乞食行列のようなもの、一方今を時めく執権ですから、誰もが時衆一団が道を空けるものと思いましたが
一遍は臆しませんをしません。執権の先導役は一遍上人に向かって道を空けるよう言います。更に「お前は声聞(評判)を高めようとして失礼な態度をとるのだろう」叫ぶと(私は単なる僧で人に念仏を奨めて地獄に堕ちない術を説いているだけですいるだけです。貴方は無益な迫害をおやめなさい)一遍上人は執権行列の先導役に二度も叩かれます。一遍上人の風評は鎌倉府内に響き渡りました。
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右から執権の行列が来ました。小袋坂で両者は鉢合わせしてしまいます時衆一団の先頭を歩いていた一遍上人は執権の行列の先払い役に叩かれますが。少しも臆しませんでした。
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その晩は小袋坂で野営しました、すると村人からもてなし(布施)をして貰いました。翌日時衆一団は片瀬浜に出現します。。
ヤア永している場所は現在の光照寺の辺りと言われています。不思議なのは小袋坂が描かれているのに鶴岡八幡宮の森も社殿も描かれていないことです。一遍聖絵は一遍の略一生の野軌跡を描いた絵巻物で絵筆は「円伊」が詞書きは「聖戒」が書いて一ます。一遍は熊野神社を篤く信仰s手ていたものの、あえて、八幡宮を軽視する事由は在りません。円伊に源氏を軽視する理由が在ったのかも知れません。出典「遊行の美術/神奈川県立博物館)


翌朝時衆の踊る一団は片瀬浜の地蔵堂に出現したのでした。江の島の北、境川の河口は鎌倉時代も賑わっていたあのでしょう。一つは京都や陸奥っへの旅立ちの拠点として、も一つは物流の拠点として、京都の河原町と似た市場であったと思われます。
片瀬の浜辺に櫓を組んで櫓には若い超二とお色気江一杯の超一が上って踊り出します。一遍上人も共に踊りながら「南無阿弥陀仏」書かれたお札『譜賛ン/一遍は四天王寺で教わった』を撒くのでした。
平安時代の阿弥陀信仰は念仏往生を祈るものでした。敢えて言えば『死ぬ一瞬に阿弥陀様が迎えて下さり浄土に往ける、、死ぬ一瞬の恐怖から逃れる教え』でした。。以来1世紀空也上人や法然上人などを経て阿弥陀信仰は大きく変わって来ていました。総てを捨てる事によって最期一瞬だけでなく、念仏を唱えて遊行する時も何時も法悦に浸って居られるそんな教えに進化して居たのっでした。財や愛や権力への執着を捨てれば現実世界は法悦に満たされている・・・、そんな教えに深化して居たのでした。
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片瀬の地蔵堂で時衆一団は念仏踊りを盛行しましった。出典:25年の遊行寺カレンダアーこれが盆踊始まりです。
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片瀬の地蔵堂の櫓に上って踊る時衆の一団見物人が沢山出ていました。『出典;前記』一遍上人と言えば「雲の事は雲に問へ花の事は花に問へ」の名文句がありますが、此処片瀬の遊行念仏中に紫雲が湧いて、天空から花が舞い散って散ってきた来た奇瑞に見物人が騒いだのを見て一遍上人が発した言葉でした。すぐ近くに日蓮上人の「辰口の法難」がありましたし、宗教的な奇瑞に縁のある場所です。
こうして鎌倉での布教に成功した一遍商人一行は東海道を京都に上って布教に励みます。
3月7日片瀬浜で地蔵堂を確認しに行きました。住宅地の中に狭い近隣公園が「地蔵堂公園看板と史蹟案内が出ていました。最近は失跡ウォーk-キングの人も増えっているのでしょう。公園にめんした民家がっ改造して喫茶店を開いていまいした。近くに諏訪神社もありますから、今年は盆踊りを観に来られるかもしれません。
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背側に片瀬川が流れている地蔵堂跡向かい民家が喫茶店です。


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一遍上人 at熊野

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昨日は鎌倉での一遍上人を書きました。鎌倉での成功が確信に変わって京都での布教活動に向かいました。話は前後しますが一遍上人絵巻を遡って熊野におけるエピソードを紹介します。一遍上人は熊野で覚醒したのでした。
実は南北朝時代からから室町時代にかけて熊野信仰を一番に盛り上げていったのは、じつは、修験道でも神道でもなく、時衆(のちに時宗)だったのでした。
一遍上人が導く一団が日本全土を遊行し、宗教的法悦の渦を巻き起こして行きました。時衆一団は阿弥陀を奉じる仏教信徒であると同時に熊野の勧進権を独占していたのでした。
鎌倉藤沢には熊野神社が多く祀られているし、藤沢の時宗本山の遊行寺には熊野神社が祀られていますし遊行寺の行事はお経と祝詞が並行して読まれます。
時衆の念仏聖たちは南北朝から室町時代にかけてし、説経節『小栗判官物語』などを通して熊野の聖性を広く庶民に伝え、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広めていったのでした。俣野の花応院には照手姫絵巻など説教節の遺品が多く保存されています。
時衆の念仏聖たちは熊野を特別に聖なる場所と尊崇していました。
その経緯は矢張り一遍上人絵巻第3巻に描かれています。

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難波の四天王寺中央が西門です。
一遍上人は阿弥陀信仰の聖地難波の四天王寺から高野山に向かいます。四天王寺では念仏札を撒いて信徒を増やす方法を習得しました。この不許応報ほうっを一般に融通念仏(ゆうずうねんぶつと言いました。融通念仏とは、一人の念仏で一人が救われるのではなく、何人もの人が互いに念仏を唱えることで、念仏の力が融通しあって、より強い力となって、人々が救われるというものです。
AKB48が一人では迫力もないし、魅力も乏しいものの集団で踊って歌うので、観る者も惹きつけられるし、自分達も楽しい、そんなものだったかも知れません。
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四天王寺に西門、、、門には乞食がたむろしています
浄土の東門とされ念仏聖の拠点であった四天王寺を経て、やはり念仏聖の拠点であった高野山を詣でた後、一遍一団は、阿弥陀の浄土と見なされていた熊野本宮へ向かいました。熊野本宮に向かう道中、一遍にとってショックな出来事がありました。

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が熊野の本宮。本宮に向かう中辺路の道中で一遍居ppン上人は垂絹を垂らした二人の高貴な女性と三人の従者を従えた一人の僧にゆきあいます(図の右)出典一遍上人絵巻第2巻神奈川県立博物館の図録 
熊野の山中で、一遍上人は、市女笠に足首のあたりまで届く長い垂絹を垂らした二人の高貴な女性と三人の従者を従えた一人の僧にゆきあいます。一遍はいつものように念仏札を手渡そうとします。ところが僧は上人の差し出す念仏札を受け取りません。
一遍上人は重ねてお奨めされました。、「一念の信を起こして南無阿弥陀仏と唱えて、この札をお受けなさい」
上人は重ねて尋ねられます。
、「仏の教えを信じる心がないのですか?。なぜお受けにならないのですか?」
念仏札を拒否された。このことに一遍はとてもショックを受けました。
こんなことは初めての体験でした。今までは誰もが素直に念仏札を受け取ってくれました。
僧が言います、
「私はは経典の教えを疑ってはいませんが、信心がどうにも起こらないのです」と。
上人は本意では無かったものの、念仏札を僧にお渡しなさいました。
これを見て、幾人かの道行く者たちもみなことごとく札を受けました。その間に僧はどこかへ消えてしまいまた。
一遍上人はこの事件をあれこれを思惟されます。
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熊野山中で一遍上人の一団は熊野権現の化身の僧に出会います。聖に沿っているのが超一娘が超二
「信心が起こらないので、受け取れば、嘘になってしまう」という僧の言葉は、なるほど、もっともなことで、理にかなっています。
一遍は歩きながら、悩み、煩悶しました。
続きです。熊野本宮に着いた一遍上人は、本宮証誠殿の御前で願意を祈請し御殿の御戸を押し開いて神前に進みました。すると、白髪の山伏が長頭巾をかけてお出になりました。
一遍上人は、「熊野権現であられることよ」とと直感しました。、一心に拝んでいらしゃると、かの山伏は聖の御前にお歩み寄りなさっておっしゃりました。
「融通念仏を勧める僧よ。どうして悪い念仏の勧め方をされるのか。御坊の勧めによって、一切衆生ははじめて往生するわけではない。阿弥陀仏が十劫の昔に悟りを開かれたそのときに、一切衆生の往生は阿弥陀仏によってすでに決定されていることである。信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配らなければならない」と、お告げなさる。眼を見開くと十二、三歳ほどの童子が百人ばかり来て、手をささげて、「その念仏をください」と言って、札を手にとって、「南無阿弥陀仏」と申してどこへともなく去ってしまった。
一遍上人この宗教体験で覚醒したのでした。自分自身がリーダーとして布教するのではない、阿弥陀様がじぶんを介して導いておいでなのだと名の緒だ確信した阿喉で江下確信いたのでした。
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汚い身なりの童子が集まって来て聖の配る念仏札を嬉しそうに預かりました。出典前記
一遍上人は熊野で覚醒して以来『大権現の神託を授かった後、ますます他力本願の深意を了解した』 と言われましいた。  
と語りなさった。
 ここで、山伏姿で現われた熊野本宮の神は「一切衆生の往生は阿弥陀仏によってすでに決定されているのだ」と一遍に語ります。「だから、信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、念仏札を配りなさい」と。阿弥陀仏を本地とする熊野本宮の神の神勅を一遍が受けたこのときを、時宗教団では一遍成道(じょうどう。悟りを開くこと)の年とし、開宗の年としています。また、一遍がそれまでの智真(ちしん)という名を改めて一遍と名乗ったのもこのときからのことで、一遍自身、「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」とまで語っています
熊野から一遍一団はもう一つのあみだ信仰の聖地信濃の善光寺に向かいます。

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常立寺の「想いの儘」

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一遍上人の聖蹟「片瀬の地蔵堂」を拝観して、近くの常立寺に観梅にまわりました。
「西行戻の松も整備されて腰掛用の椅子も設えられました。私のような年配者が江の島道を藤沢の遊行寺から歩き始めたら一休みとばかり此処で腰かける事でしょう。
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これが「西行戻り松」先日西行物語絵巻で紹介しました。狭て貧弱でしたが隣家の壁をバックして貰い休憩が出来るようになりました。以前は次にに紹介しました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/42995092.html
それにしても不思議な事です。四天王寺や高野山、そして吉野熊野にょうな聖地なら両者が共に来られて
故事が残される事ももあるでしょうが当時の片瀬は名も無い田舎の漁師の村です。和歌を極めた西行法師と他力本願の教えを際めた「捨て聖」がこんな狭い所でクロスしていいるのは、西行法師の霊100年後に一遍上人を招いたとしか思えません。
西行戻し松から300mも南に下れば、梅で有名な常立寺です。
参道ではピンク色の愛らしい梅が招いてくれます。
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常行j寺参道、、、道の両脇の梅は「想いの儘」という名の豊後の梅です。
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常行寺本堂前の枝垂れ梅右端に白梅が隣に紅梅が咲いています。人は白梅を見て紅梅を見て満足しま。すると「いっその事一本の木で紅白の梅を見たいものだ、とおっもう事でしょう。紅白の梅を想いの儘み見たい・・・・そんな欲求が豊後で新種の梅を開発させたと思わせます。一番左が新種の梅『想いの儘』です
一昨日から大相撲「春場所」が始まりました。連日の満員御礼で、関係者は安堵してい居る事でしょう。でも何か物足りなさを感じます。白鵬は立派ですが、ヒール役というかライバルが不在なのです。朝青龍が居ないのです。
私は足をひきづって元の特使の墓を詣でます本堂左に立派な石碑があってその下に五輪塔が5基祀られているのです。この墓は 時宗の命により処刑された杜世忠ら元国使の霊を慰撫したもので。青い布が幾重にも巻かれています。
青い布は朝青龍が墓参したもので。同関取は藤沢場所『5月』でモンゴル出身力士を連れだって詣でていたそうです。
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これが元の特使の慰霊碑青い布が巻かれているのがその墓(五輪塔)外交交渉に来た外交官を「問答無用」と殺害した北条時宗は野蛮で、大風が吹かなければ日本は元の属国になっていたことでしょう。こんな短気な男が国を統治していたのかと思うと首筋が寒くなります。作務向くなります。ピンクの枝垂れ梅は「想いの儘」で元の外交官を癒しています。
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常立寺の枝垂れ梅は今週末が見頃です。遠くに見えるのが湘南モノレールンの橋脚です。



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藤沢新林公園の「想いの儘」

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常立寺から江の島道を境川沿いに西に2キロほど行くと、ミネビアの工場が出て来ます。ミネビアの鋸の歯のような工場棟の向かいに新林公園があります。棚田の広がる谷戸を公園として整備したものです。棚田を残して近在の新林小学校と片瀬小学校の農業体験用田圃として活用されています。
田圃には赤ガエルが生息していて、今頃は卵が産み残されている筈です。「今年は如何かな?」産卵を確認しに溜池を覘きます。
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藤沢新林公園の梅林手前が溜池でその山側に棚田が続いています拡がっています。池には赤蛙が生息しカワセミなどの野鳥が観察出来ます。
棚田の半分は菖蒲田として活用されています。地域のお爺さんが菖蒲の手入れをしておいでです。
この日は溜池に棚田に小型のブルが入っていました。水は抜かれてしまっています。畔には姫蒲や半夏生が自生し繁茂していますので手入れをするようです。
赤ガエル君は食物連鎖の始まりに位置する重要な生物ですし、レッドリストにも挙げられているのですから工事の時期は配慮してあげて欲しいものです。
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棚田に産卵された赤ガエル君の卵4月になればお玉杓子で一杯になるんです。
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これが赤ガエルです。
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新林公園の古民家は柄沢の旧家です。建物は天保12年(1841年)に棟上げされたものでした。
新林公園には藤沢市の古民家が移築されています。藁ぶき屋根の古民家は梅林の点景としても効果がありますし。昔の藤沢に想いを馳せる上でも役立っています。この日は未だ7段飾りのお雛様が展示されていました。古民家の屋敷神も満足されておいででしょう。
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一本の樹に紅白の花ピンクの花が気まぐれに咲くので「想いの儘」の名があると思います。凡人なら「源平梅」なんて何する事でしょう。2年前強く刈り込んだので枝には切り口が目立ちます梅の木は強く刈り込むと良い花が咲くようです。でも実が少なくなる・・・・・。
古民家の前庭が梅林です。
藤沢市は梅林に実梅では無くて花梅の代表「想いの儘」を植えました。南高梅のような実梅も検討したのでしょうが花梅で埋めてしまいました。紅梅白梅、そして両者の中間の「想いの儘」です。。昨日書いた常立寺の想いの儘が気に入ったので新林公園の梅林も想いの儘にしたのでしょうか?
若いお母さんがお弁当持参で梅の樹下で茣蓙を敷いて楽しげです。もうじき保育所の子供達も遣って来ることでしょう。トンビが上空で旋回しています。お弁当の唐揚げを狙っているのでしょう。リスがおねだりに集まって来ました。トンビもかカラスも台湾リスも逞しく人間の作った環境変化に即応して増えているようです。
赤ガエル君も棲み易いように工夫してあげたいものです。昔は梅と言えば天神様実のならない梅てなんて子供を産まない嫁さんのようなもので、幾ら美人でも里帰りさせられてしまいました。
来月は有吉佐和子さんの名作「紀ノ川」の舞台を旅行します、南高梅の故郷です。
紀ノ川一帯では実のならない「想いの儘」なんて見向かれない事でしょう。
明日は振袖火事と「想いの儘」について書いてみます。
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古民家には未だ雛飾りが飾られていました。
「想いの儘」のネーミングは見事なのですが振袖火事は「紫ちりめん」の振袖に由来します。我儘お嬢さんの名が「 お梅」なんです。新種の制作者は振袖火事の火元「お梅」を哀れに想って「想いの儘」の名をネーミングに想いついたと思うのです。


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「江戸大火」と「想いの儘」

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関東地方は連日の天気で空気はカラカラです。加えて南西の強風が吹き止みません、春の火災予運動が続いています。火災の原因の第一は放火です。もう5年も前でした。区内俣野の住友家別荘(重要文化財)が放火され全焼してしまったのも今頃でした。その1か月後には車で30分ほど南にある吉田茂邸(大磯町)も焼けてしまいました。此方も放火でした。吉田茂邸は直ぐに再建計画が発表され今月工事着工いたしました。でも住友家別荘は再建したい方針が出ているだけで、着工の機運は盛り上がりません、何しろ横浜市は財政的にお金が苦しいのです。住友家別荘の焼失直後の写真は当ブログでも報告しましたが現況は次のブログに書かれています。http://hamarepo.com/story.php?story_id=1764。その後事故の検証不十分な横浜市は金沢区に在った河合玉堂旧宅も焼失してしまいました。
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我家は花より団子、梅/想いの儘よりヅンダロール(宮城県)です。今日のお茶うけは受けは被災地のヅンダロールです。
江戸三大大火と言えば『明暦の大火/明暦3年1月18日。天和の大火/天和2年1682年12月28日。明和の大火/明和9年2月29日』を言います。どれも今頃の季節に起った惨事でした。
このうち特に有名なのは明暦の大火で一般に振袖火事と呼ばれています。次いで有名なのは天和の大火で此方は井原西鶴が「好色五人女」に書き有名になりました。振袖火事と八百屋お七の大火とが混同している気配があります。どちらもうら若い少女の恋心が火事の原因になっているからです。哀れな少女の薄幸が思いやられるのです。
振袖火事には次の伝承があります。

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八百屋お七図(月岡芳年作)出典ウキペディア



江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(数えで17才)は、本郷の本妙寺に母と墓参に行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。呆然ンと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気に戻っては、赤面して下を向いてしまいます。梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまう。名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていた服と同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だした。だがいたましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らしてしまいました。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやりました。

当時こういう棺に掛けられた遺品などは寺男たちが貰って良い事になっていました。この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘きの(16)のものとなる。ところがこの娘もしばらくの後に病となって亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれました。寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16)の手に渡る。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺に掛けられ、本妙寺に運び込まれてきました。
さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ちあがったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となてしまいました。
もう一つ天和の大火は一般に八百屋お七の火事として膾炙しています。
というのは井原西鶴が「好色5人女」として書き。浄瑠璃歌舞伎に始まりお芝居歌謡曲などの素材に広がっているのです。
史実は多くの識者によって調べられ次のようであったようです。
天和の火事で八百屋・八兵衛は、旦那寺であった本郷の吉祥寺に避難しました。八兵衛は娘のお七を同行させます。ところがこの寺には美男で悪の小姓(生田庄之介)が居ました(西鶴は小姓を吉三郎と名付てています。やがて二人は恋仲になります。本郷に新居が再建されると、お七一家はその寺を引き払いましたが、お七は寺小姓への想いが募るばかり。そこでもう一度火事が起きたら会えるかも知れないと、寺小姓に会いたい一心で自宅に放火してしまいます。火はすぐに消し止められ小火に留まりましたが、お七は捕縛されて鈴ヶ森の刑場で火炙りの刑にに処せられてしまいます。この事から、「天和の火災」は一般に「お七火事」とも呼ばれるようになってしまいます。
お七は放火犯でもないし、処刑されてしまった可哀想な少女だったわけでした。初心な少女の恋心そして薄幸な一生哀れさはが仮名傘大火の中で燃え尽きる耽美的な場面が日本人の美意識を刺激して史実を覆す戯曲を創作させたのでしょう。
豊後の田舎で梅の栽培に腐心していた人が新種の花梅を開発してその名を「想いの儘」にしました。
世の中知らずのお嬢様を思わせる奔放で綺麗な花と気まぐれに紅白の花を咲かせる様が「縮緬模様の振袖」を想わせたのでしょう。日本人は「八百屋お七」が好きなように豊後梅「想いの儘」が好きになりました。
ハイカラさんのようなお転婆なじゃじゃ馬娘は困りものですが・・・・、初心な娘は憧れでもあります。
江戸時代も現代も変わりません。
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我が庭のメモリアルツリー「想いの儘」灌木の肥後椿も「想いの儘」です豊後と肥後は隣同士同じ名を付けたのも偶然ですし、私が梅と椿を植えたのも偶然です。鳥の巣は四十雀用ですが穴が大きすぎたのか使って呉れません。
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我家の想いの儘今が盛りです。筆者も何時迄眺められか解りませんから、この春は綺麗盛りを目に焼き付けたいと思ってみています。こ尾の参道が筆者の生家と墓地に続きます。
2年前の晩秋には能登の七尾市の郊外山の寺寺院群を友人らと歩きました。思いがけず「八百屋お七の供養塔に遭遇しました。八百屋お七のルーツがこんな田舎に在るとは意外でしたし。日蓮宗の信徒とも知りませんでした。
今頃は雪に埋もれて居る事でしょう。もうしばらくすれば藪椿が咲いて桜も散りだすことでしょう。それでは坂本冬実のド演歌「夜桜お七」でもUチューブで聞くとしましょう。
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七尾市山の寺群山の寺寺群 長寿寺にあるお七の家族の墓。都内にも目黒行人坂の大円寺や白山の大円寺にもお七の墓があります。
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you-tubeは便利で楽しいのですが。坂も良冬実さんの振り袖姿も流石に寄る年波には勝てないようで、歌は好いんですが振り袖姿は無理があるようです。綺麗だったころを思い出しながら西鶴の「八百屋お七恋緋桜)の世界で遊びましょう


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時代錯誤の「桜井の別れ」

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私がブログを書き上げている最中テレビではマッサンをオンエアーそろそろニッカウィスキー物語も佳境を迎えます。ワイフはもう眼がウルウル状態のようです。サントリーや大阪関係者の不興を煽ったものの、高視聴率を叩いてNHKも満足していることでしょう。さて今日は13日金曜日、私はデーサービスに出かけます。9時40分に迎えの車が来ますのでそれまでにこのブログをアップさせなくてはなりません、デーサービスでは皆で歌を詠います。最近の歌は難しいので、歌えません。自ずから唱歌や軍歌が歌われます、屹度今日は「桜井の別れ/楠正成を顕彰する戦前の唱歌)が歌われることでしょう。桜井と言えば奈良の三輪山の麓と思うと山崎なのです。正成は僅か500騎を率いて5万の尊氏の軍に向かい、湊川の戦いで命を散らします。この故事が桜散る”や”同期の桜”として詠われ多くの青年の命を散らしました。我が国には反戦の思想は生まれず、戦士の美学が助長されまあした。今国会の論戦を聞いていると「2.26事件」(5.15事件」から中華事変に突入した時代が再現されているような寒さを覚えます。似た状況とは貧富の差が拡大していた事、財界の賄賂が横行されていた事、そして関東大震災が発生した事です。
楠木正成の軍旗は菊水が描かれ『非理法権天』と書かれていたとされています。
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桜井の別れ図 松岡映丘筆」楠正成は桜井で息子正行に命じて故郷の母の元に帰還する事を命じます。正行は父に従って尊氏との決戦に赴きたいと言い張ります。

これから年度末です。道路工事は駆け込みで増えますので渋滞が増えます。同時に警察の道路交通科は違反者の摘発に精を出します。我家の近くに歩行者専用道路が在ります。元々は農業用水路の畦道でしたが、線路の下を潜っているので自転車やバイクが頻繁に通ります。正規の横断道路に回れば30分は遠回りになりますから。宅配ピザ屋のバイクは此処を通りたくなるのです。
警察官は町内会の掲示板の陰に潜んでバイクや自転車に反則切符を切ります。歩行者専用道路だから、バイクや自転車は下りて押して通らなくてはならないのです。
法より理が勝ると思っている人達からみれば意地悪な姿勢で悪法です。とても「おもてなしの国」には思えない事でしょう。
逆に我が町内の図書館は中国人の大声で困惑しています。『図書館では大声でお喋りしてはいけない』それはマナーであり「理」で禁じられた行為なのです。原則(国際基準ともいえる)は理が法に勝っているのです。
そう思うと鼠トリ」も不愉快です。この用語は警察官が考えたのでしたら一層問題です。国民を鼠と見ているのが不愉快です。
皆さん不愉快な鼠トリにひっ刈らない様に道の両脇に注意を払って走行しましょう。
それはさておき今年の4月は千早城にも寄るつもりです。


非理法権天』と書いて
「非ハ理ニ勝タズ、理ハ法ニ勝タズ、法ハ権ニ勝タズ、権ハ天ニ勝タズ」 と訓読するのだそうです。無理ですが・・・・。
意味は道理は法式(法)に劣位し、法式は権威(権)に劣位し、権威は天道(天)に劣位するという事で、人間として為すべきは天命に従って(本来の意味では天命とは天皇の命令では無い)動くもので、天を欺くことはできないの意味です。問題は「理ハ法ニ勝タズ」の処です。
日本人の法律の観念を特徴づけているのです。
米国に行ってもヨーロッパでも東南アジアでも、歩行者は赤信号で止まっていません。彼等は理を法よりも重んじているのです。
「悪法と言えども法は法である」 何て言って命を散らしたのはソクラテスだけです。でも一般にソクラテスは悪法の無い隣の都市に移住できたのにも拘らずにステイしたのでしたから。前提として移住する自由が保証されていたのです。
ビートルズは信号機のない歩道を闊歩してゆきます。


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道を渡るビートルズの面々次のように言われています。ジョンは白いスーツで長髪にひげを蓄えていて「神父」を、リンゴは黒いスーツを着た「葬儀屋」で、ジョージはデニムシャツにジーンズ姿の堀人」を意味しています。そしポール1だけが裸足です。ポールが死んだことを意味しているのだそうです出典:アマゾンの中古レコード販売サイト。
「理は法に勝る」のが国際感覚です。今朝も国会では吉田松陰先生のお言葉が金科玉条のごとく飛び回っています。今この国は少しずつ狂いを生じている様に思えてなりません。折から「戦艦武蔵」が発見されました。その戦旗に「非理法権天」なんて言葉が発見されないと良いと思うのですが。
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先の大戦で散った命を浮かべたらお堀端は桜に隠れてしまう事でしょう。大和郡山城の石積みは墓や石仏が使われています。千鳥ヶ淵もお堀は散った桜で埋められてしまいます。桜を平和の象徴、命の象徴として観て居たいものです。戦死を美化するようなことが無いようにしたいものです。








 
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腰越のクリスマスローズ

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もう。数年前から一株クリスマスローズが欲しいと思って園芸店の店先を観ているのですが、中々好みの種が見つかりません。クリスマスローズは種によって色も形も様々で、中々好みの種に遭遇しないのです。私の生活圏では大船のフラワーセンターにある薄紫の花が良いんですが・・・・・、フラワーセンターの売店で分けてくれるわけでもありません。同センターの「霜柱」も欲しい種です。センターの園芸植物についてそれぞれ「株分けの時期」挿し木の可能性等を案内してくれたら「株分け」枝打ち」の時期に訪れて分けて戴くのですが。そんな便宜は図ってくれないようです。
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大船フラワーセンターのクリスマスローズ頭上の桜の花が咲く頃には紫の花(実は鍔)は緑色に変わってしまいます。
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豊国寺のクリスマスローズ垣の藪椿の根元を飾っています。
フラワーセンターの近くの龍宝寺さんや慈眼寺さんは株分けの時期に矢車草や雛菊、芍薬の株(根)を分けてくれるのですが・・・・・。
私は何処にクリスマスローズを観に出かけようか?迷ってしまいます。というのは鎌倉の寺寺では競ってクリスマスローズを栽培しているのです。前記のフラ和^センターに近い寺院の他にも鎌倉の寺では浄明寺さんや豊国寺(竹の寺)では椿など灌木の根元にさりげなくクリスマスローズが植えてあって、密やかに花を咲かせているんです。
クリスマスローズはキンポウゲ科の草本ですから薔薇ではありません。元々は薔薇好きなイギリス人が冬でもバラの花を観たい飾りたい、と思って開発した園芸草本だったのでしょう。だから日本人が移入するに際して日本人の季節感に合わせてネーミングすれば良かったのでしょう。
同じキンポウゲ科の花が「雪割草」ですから「雪割り薔薇」なんて名づければミスマッチが無かったのでしょう。
名の適否は別にして花は情緒がありますし。日陰でも生育する処は和風庭園向きです。
坪庭や禅寺の四ツ目の竹垣の根元で咲いて居るクリスマスローズを見つけると、お茶室で迎えてくれる「茶花」を想い出します。
「何処に観に出かけようか?」色々迷った挙句に腰越の「本龍寺」に出かける事にしました。実は1月にも一度ワイフと一緒に来たんですが、その時は未だ蕾が出そろった状態で「クリスマスローズ」の名に騙されたものでした。
だから「もう咲いたであろう・・」そう思って出かけたのでした。
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本龍寺は江ノ電腰越駅から北に3分の位置に在ります。腰越駅は狭いのでホームに止まっても藤沢寄りのに2両しか扉は開きません。
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本龍寺のクリスマスローズ種も案内してくれています。
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千年昔も「メタボ病」で・・・・・。

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昨日(3月14日)の朝刊に文化審議会の答申が載っていました。2体の仏像が国宝に39件が重要文化財に指定するように文部科学相に答申されたのでした
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私は新たに重要文化財に指定される病草紙の断簡に目が留まりました。病草紙は幾度も見ていますが何れも国宝と思っていたのでした。
と言うのはこの絵自体が数奇な歴史を経ているのです。病草紙は、一人の絵師の作では無くて数人の絵師の作を並べて絵巻物にして「病気はこんなに苦しく怖ろしいものですよ、食欲等の欲望に身をかまけていると餓鬼が寄ってきてこんなに怖ろしい病気や奇形になってしまいます」そんな意図で描かれた絵巻物でした、鎌倉時代初めの作で当初の規模は不明だすが、江戸時代の後期には17図あったことが知られておりました。
それが明治時代に国外流出の危機に瀕すると益田鈍翁をリーダーとする数寄者との松永耳庵や原三溪が断簡にして分割して所有していたものでした。地獄草紙や餓鬼草紙に並び称される写実的な絵巻物で、絵の脇には簡明な説明が説話風に記述されています。美的な価値と併せて社会史等の歴史的な価値を評価されています。絵巻物を見ているとは”こんな奇病が在りましたよ。””こんな病気に罹ったら苦しいでしょうね?”そんな声が聞こえて来るようです。国宝指定の大半は京都国立博物に収まっています。)」「息の臭い女」とか「肥満の女」「不眠症の女」など現代人も患っている場面が幾つもあるところが面白いのです。
今回は国宝指定に漏れていた「背骨の曲がった男」等が重文の指定を受けるのでした。
千年前も現代も病気の悩みは変わらないと痛感し、健康の大切さを思い知らされます。源信の往生要集は地獄や阿弥陀浄土の説明で圧倒的な支持を得ましたが支持の前提は「現実世界」が「病老死」の苦界であることの認識でした。死後の世界は六道図に描かれましたが現世の苦しさも説話的に描いたものだったのでしょう。
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上図が「肥満の女」です。京都7条に住む高利貸しの女房ですが超肥満で下女の肩を借りないと立って経っていられないのでした居られないのでした。こんなに太ったら苦しいでしょうねそんな作者の眼が下女の冷ややかな目つきになって主人の女房に向けられている所が傑作です。
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出典(朝日新聞社版日本の美餓鬼草子)
上図は餓鬼草子に描かれた貴族の図です。美食して酒を飲み歌舞音曲にうつつを抜かしています。左右の貴族には小さな餓鬼が寄り添っています。一般に欲食餓鬼と呼ばれている餓鬼で「庚申信仰の三尸(さんし)」に展開するものと思います。貴族は裕福であってもぶくぶく太って色欲溺れて餓鬼に蚕食されてしまう…説話しているものと思います。
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上図は藤原道長の図です。もうでぶでぶで「起き上がりこぶし」のようです。腹回りは4尺は在りそうでメタボもメタボ限界を超えています。こんなに太っていては格好悪くて、紫式部も光源氏のモデル失格の烙印を押さざるを得なかったでしょう。
そんな認識から道長の図は糖尿病のモデルになって切手にも採用されています。屹度あの世で道長は悔やんでいることでしょう。
「現役の時はモテてモテて困ったのだが、糖尿病で死ぬは千年後の人達に下げすんで見られえるは情けない事だ・・・・・!」と。
道長は糖尿病で亡くなりますし。上杉謙信でさえ脳梗塞で亡くなりました。謙信の場合は運動量も豊富だったのでしたが酒と急に冷えたのが原因で出血したようです。
今日は古代の過食による病気を題材にしましたが明日は排出の際の病気を報告します。いずれにしても健康は昔も今も幸福の原点です。自ら戒めて毎日を生きたいと思います。

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千年前も胃腸病で苦しんだのだ(病草紙が教えてくれる事)

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昨日は病草紙に描かれた「肥満病」そして「糖尿病」や「脳梗塞」を紹介しました今日はもう一つ循環器系の病気を紹介します。「四苦八苦」と言います。四苦とは1、生苦  2、老苦  3、病苦  4、死苦 この身体的苦にこれに次を加えてメンタルな苦痛を併せて八苦です。5、愛別離苦(あいべつりく) 6、怨憎会苦(おんぞうえく) 7、求不得苦(ぐふとっく)  8、五陰盛苦(ごおんじょうく) 。
我家の生活圏に「HAC/ハックドラッグストア 」があります。静岡三島市にあった薬屋さんが発展したものです。社名の謂れを確認した事はありませんが四苦八苦から解き放って健康を誘ってくれるお店と云った意味でしょう。
近年イオングル-プに入ったとの事、以来私は滅多に行く事はありません。他のドラッグストアと全く違わないのが面白くないのです。
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出典」朝日新聞社日本の美(餓鬼草紙国宝)
上図は餓鬼草紙似描かれた「伺便餓鬼/しべんがき」です。場所は京都の都大路で築地の塀の陰で用を足す老若男女が屈んでいます。その糞尿を狙って餓鬼が虎視眈々と狙っています。人間たちは総じて虚ろな浮かぬ表情をしているのは胃腸病を患っているからでしょう、一方糞尿を食べようとしている餓鬼は愛嬌があったり驚いていたりして表情が生き生きとして描かれています。絵師のアイロニーが感じられます。
ところで、人間の眼には餓鬼は映りません。人間の眼には餓鬼は犬に見えるのです。中央の太めの女性は大便をするかのように屈んでいますが下駄をはいています。下駄を穿く事で着物の裾を汚さなかったのでしょう。ベルサイユ宮殿のお庭の植え込みの陰で貴婦人がはいひーを穿いて用を足していたと言われる事を想い出す光景です。
古代末期から中世にかけて都は胃腸病の患者が多くて、都中が糞尿まみれであったようです
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出典」朝日新聞社日本の美(餓鬼草紙国宝)
餓鬼草紙の伺便餓鬼に続いては「疾行餓鬼/しっこうがき」が描かれています。疾行餓鬼とは死者が出ると素早く死体に寄って死体を食らう餓鬼です。生前に病人に与えられるべき食べ物や霊前に供えられたお供え物を食べてしまった僧が疾行餓鬼になります。疾行餓鬼は犬に後れたら死肉を食べられません。墓饅頭の陰では犬と争う疾行餓鬼が居ます。餓鬼草子の絵師はにはこの世の末おぞましい光景が醒めた目で描いています。
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出典:朝日新聞社「日本の美」(餓鬼草紙国宝)
病草紙の肛門が幾つもある男の図詞書きには「尻の孔数多(あまた)ありけり」で、幾つもの尻の穴から大便をするのを妻らしき女がのぞいている。明らかに痔ろうである。「屎まる(排便する)とき、孔毎(あなごと)に出て煩らはしかりけり」と、その苦痛が表現されている。排便の様子を見ているのはこの男の嫁であろうか身を屈めて食いいる様に肛門を見詰めています。
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出典」朝日新聞社日本の美(餓鬼草紙国宝)
上図は「霍乱の女」縁側で女が水のような下痢と嘔吐をしており、家族が介抱している。当時、霍乱とは通常は急性の胃腸障害を意味していた。庭先には便を食べようとする犬が来ています。
今年病草紙断簡が重要文化財に答申されたので二日にわたり「食べ過ぎ」と「胃腸障害」を取り上げてみました。四苦八苦心身の病気であれば快食・快便は至上の喜びです。この悦びは病気の苦しみを味わった人にしかわかりません。四苦八苦した人だけが至上の喜びを知っているのでしょう。
私が未だ中学生の頃「第三の眼」という本が話題になって読みました。ラマ教の僧が額に眼が在って、その第三の目で病気を見極め将来を見極められるというのです。まるで「神の手」ならぬ「神の眼」です。釈迦もキリストもそんな超能力を備えておいでだったのでしょう。私のような凡人にも若しかしたら第三の眼の潜在能力があるのかもしれません。身体的特徴は釈迦やキリストも同じホモ.サピエンスなのですから。使っていないので能力が退化してしまったまでで、鍛えれば磨けば。第三の眼で見えるのかもしれません
如来の白毫相の位置に眼が在ったのかもしれません。そこで額に気を集中して祈れば徐々に第三の眼の汚れが拭き取れて来るのかもしれません。最近「病は気から」「脳を鍛えれば病は克服できる」そんな本や言葉が目につきます。
こんな発想も密教なのかも知れません。私も気を集中して自分の病気は気力で治癒してもう一つ味わった事のない甘露を味わいたいものです。苦楽を共にしてくれるワイフや友人が元気なうちに・・・もう半月もすれば桜咲く大和路に行く事が出来ます。楽しみです。楽しみを追いながら心身が回復してゆく・・・・・、あの時脳梗塞でストップしてくれた脳溢血に至らずに済んだほんの紙一重だったのでしょうが幸いでありました。感謝し祈る事から密教の門を潜れるような気がします。

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山から里へ桜花

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昨夜来の雨で庭は濡れています。豊後梅の花弁を散らせて四十雀が阿遊んでいます。この雨で白木蓮の蕾は更にに膨らんだようです。花瓶の白木蓮は先に満開でもう花弁は開き切ってしまいました。
「恥ずかしげもなく花芯を見せてしまっています。花の精に教えてあげたいと思います。”秘すれば花、秘さざれば恥じ”と・・・・。
テレビでは
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テレビではこの雨で桜前線も北上する事でしょう…伝えています。私は瞼に高円山を思い浮かべます。
今頃は名物の五弁の椿が緑苔に散って山桜や霞桜が蕾を膨らませていることでしょう。
高円山の山麓に在る百毫寺は天智天皇の第7皇子志貴皇子の没後、その山荘跡を寺としたことから始まると伝えられる景勝の寺院です。有名な次の歌もこの寺の周囲で今の季節に歌われたものでしょう。
岩(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の 萌え出づる春になりにけるかも」(岩の上を流れる滝の上に蕨が芽を出し、春を感じることよ)
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高円山の西隣は三笠山で聖武天皇は三笠山の山中で珍しい桜を見つけて採取され内裏の庭にお手植えされました。光明皇后を始め宮人は揃ってこの桜を誉めそやしました。その桜が奈良の八重桜で今も奈良の市花になっていますし、東大寺大仏殿裏の鏡池周辺は奈良の八重桜を始め紅枝垂れ桜や山桜等の桜花(所謂庭桜)が競う様に花を咲かせます(天平桜の博物館の観があります。
会津八一も此処で詠っておいでですが、今此処を歩かれれば屹度満足されることでしょう。
春来ぬと今か諸人行き返り仏の庭に花咲くらしも(原文全部平仮名)
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大仏殿裏はさながら天平桜の博物館のようです。これは紅枝垂れ桜ですが鏡池の畔には奈良の八重桜も自生しています。戒壇院印から正倉院転害門等を逍遥するのは至福の時間です。

聖武天皇が三笠の山で採取された桜を宮中にお手植えされたほどですから都の官人は競って自邸に桜を手植えした事でしょう。
山に咲いて田植えの時期を知らせると信じられた霊木は天平時代の盛んな時期に屋敷に移植され美しさを競ったのでした。
桓武天皇は守旧勢力の反対を押し切って都を京都に移します。その息子平城天皇はもう一度都を奈良に戻しました。
都人にとって奈良の都は捨てがたいものがあったのでしょう。
そんな思いは一条天皇の御代に「奈良の八重桜」を京都に移植しようと致します。しかし興福寺の僧がこの挙動を反対すると、毎年奈良から「八重桜」一枝が京都の内裏に贈られる様になりました。都人は奈良の故宮から贈られた桜を愛でました。
有名な伊勢大夫は並み居る先輩を差し置いてb中宮彰子から詠う機会を与えられます。それが
いにしへの 奈良の都の 八重桜  けふ九重に にほひぬるかな     伊勢大輔
でした。京都紫宸殿の前庭には左近の桜、右近の橘が植えられています。
左近府の役人右近府の役人はそれぞれこの樹を目印にして天皇の前に並んで指示を待ったのでした。平城宮では如何だったのか興味があるところです。
結論を先に結えば平城京当初は左近の桜は「左近の梅」だったとされますが、前述のように桜を里に植えて愛玩するブームによって何時しか桜に植え替えられたのでしょう。京都の宮中では最初から左近に植えられていたのは桜でした。それも吉野山から移植された山桜でした。その後、内裏が焼けたりして左近の桜は何度も植え替えられましたが吉野の山桜だけは頑なに守られました。
吉野山が日本の桜のルーツであること、そして日本人の心抒情性を代表しているからでしょう。
元より左近の桜は豊年満作を祈願する樹である事、右近の橘は永遠を祈願したものであるから安易に変える訳には行きません。
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左近の桜/出典BSNHK内裏の美
京都内裏紫宸殿前に咲く左近の桜は吉野山の山桜であります。その美しさは古代から日本人の共感を呼ぶものでした。
大和朝廷の東征を成功させた神武天皇は木花咲耶姫の第三皇子でした。木花咲耶姫(浅間大社のご神体)の美しさは山桜のそれであると私達は確信しているのです。
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堂本印象作の木花咲耶姫



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土着の霞桜

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私は横になって庭先の白木蓮を見上げます。白木蓮は紺碧の空に向かって純白の花弁を開いています。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」では真っ白な睡蓮の花陰からお釈迦様が池の底を覗いてみるところからお話が始まりました。私は思います。芥川は何故お釈迦様視線でお話を始めたんだろう、地獄視線で話を始める事は考えなかったのか?
新聞雑誌には有名大学の合格者数を競うランキングが目立ってきました。もう1箇月もすれば大学のキャンパスは新入生の歓声が響く事でしょう。わたしは故浅子先生の講義を想い出します。広い階段教室の教壇で浅子先生は法隆寺の再建・非再建論争を説いておいでです。大学生になったばかりの私は未だ一度も法隆寺に行ったことはありませんでした。
法隆寺の主要伽藍を西院と呼び、夢殿を中核にした伽藍が東院でその中間から焼けた瓦が出土したその伽藍(四天王寺式伽藍)を「若草伽藍」と呼び天智天皇の御代に焼失した創建当初の伽藍であったそんな主張でした。浅子教授の講義は若草伽藍の評価は別として、建材は何処から運ばれたのか?講義は続きました。礎石は二上山の石切り場からヒノキ材は室生寺周辺の山から切り出されそれぞれ大和川を筏に組んで運ばれたであろう・・・・、そんな講義でした。どの地名も訊いたことがあります。でも行った事はありませんでした。霞のかかったような頭脳で私は奈良の光景を思い浮かべます。
石舞台古墳の大岩は多武峰から運び出されました、大水で明日香川を転げ落ちてきた大岩を運び出したものでしょう。
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石舞台古墳。この大岩は多武峰から崩れ落ちてきたものでしょう。最近ライトアップされるようになりました。菜の花と桜の匂いで叔父さんもついつい若返ってしまいそうです。

石舞台古墳から明日香川(この辺りでは冬野川と呼ぶ)に沿って3キロほど高取縫向かった登ると美しい棚田が拡がります。地名は「稲淵」中国からの帰化人「南淵請安先生の墓が桜の土盛りの上に植わっています。
その下流栢森の明日香川の上には奇妙な注連縄が懸っています。妙な造作物が無ければ単なる勧請縄(災いの浸入を防ぐ結界)ですが縄で編んだそれは男女のシンボルです。注連縄に吊るされたシンボルは風に吹かれて微妙に動きます。そうして出来た命のシンボルが川を下って下流の田畑を豊作に導くと信じられたのでしょう。折しも山の桜は散って花弁を花筏に組んで流れ下って行きます桜は豊穣の神の使者とする信仰が発生した所以でした。
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栢森の勧請注連縄思わせぶりな細工が施されています。豊穣祈願の意図です。
この辺りからはもう東吉野。明日香から吉野は栢等の常緑照葉樹の樹林帯だったのでしょう。それを大和朝廷は切り開いて桜やクヌギの落葉広葉樹林に植え替えたのでしょう。同時に焼畑を廃止して水田にした。水田の経済力(大和朝廷)が焼畑の経済力(隼人や熊襲)を圧倒して大和朝廷の統一が成功した…考えるのが民族的な考えでしょう。


吉野川は奈良の五条まで流れ出しと南に方向チェンジして紀ノ川に名を変えて紀伊三井寺で和歌の浦に流れ出します。大河の峡谷の左右に小山が左右に迫って来ます。その山の名が歌舞伎で有名な妹背山です。
万葉の時代桜を詠ったのは殆どが男性で愛する相手を桜に見立てていました。
純粋な恋愛を悲劇に変えてしまうのは洋の東西を問わず権力欲です(妹背山は和製のロメオとジュリエットです)

あしひきの山桜花 日並べてかく 咲きたればいと恋いめやも(万葉集真希山部赤人)

意味/もしも山桜が何日も咲き続けているの井なら、こんなに恋しいとは思わないでしょうに。時期に散ってしまうのですから私はこんな風に強く惹かれてしまうのです。(貴方に…)
男性は美しくも儚く嫋やかな桜に託して恋心を詠いました。歌を贈られた女性も自身を桜に喩えられれば満更では無かった事でしょう。男女の情を通わせるには桜は最良のツールでした。日本人の叙情歌は桜によって育まれたのでした美しい桜は三笠山や高円山に登らなくても自邸の庭で見たいのが人情でありましょうし。文結びに使うにも好都合です。平城京の都人は競って美しい桜を採取して庭に植えたことでしょう。山桜は里に下ろされ貴族の庭を飾る里桜になり、一層の発展を確実にしました。
室生に二本の桜の銘木があります。一本が仏隆寺の千年桜です。物凄く立派な霞桜です。霞桜とは山に咲くので山桜と呼んでも間違いではないのでしょうが色が霞のように白いのです。大島桜よりも遠目にぼやっとかすんで見えます。
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これが仏隆寺の千年桜霞桜の自生種で蕾の時は少し紅が挿していますが満開になると白いか棲か雲のようにかすんで見えます。この石段の両側は秋になると彼岸花で埋もれてしまいます。近年猪の被害で消えてしまいました、次は千年桜がピンチです。
仏隆寺の長い石段の途中で根を張って土砂崩れを防ぐように生き抜いています。その凄まじい生mり力神々しさに感服して千年桜のネーミングを冠したのでしょう。御母衣の薄墨桜も韮崎の神代桜も樹齢数千年と言われ伝説をもっている名木ですが霞桜ではなく彼岸桜です。野生種自生種という意味では霞桜が第一です。2年前に訪れた時には土を猪に荒らされたのが理由で傷んでいました(根元を埋めている彼岸花の球根を食べようとして猪が土を掘り起こしてその土が雨で流されてしまっているのです。
仏隆寺から室生寺に向かう峠道には役行者や山の神の祠が祀られています。そして室生寺川の下流には大野寺があって大野寺の境内には紅枝垂れ桜があって枝垂れ桜の裾越しに弥勒大石仏を遥拝できるロケーションになっています。現世に在って弥勒浄土を観想出来るように設計されているのです。
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食べ物が豊作でなければ飢饉になってしまいます。現世を浄土にするには先ず豊穣が前提です。弥勒さまの川に桜の花弁が流されると、人々は豊穣が約束されて安堵した事でしょう。室生寺川は名張かわとなって伊勢湾に流れ込みますが。分水嶺の南の宇陀を流れる川は長谷寺の門前から大和川」になって法隆寺を経て王寺から難波の海に注がれます。

ところで吉野山の桜です。
一般に吉野山が桜の名所になったs理由を次のように説明されてきていました。吉野山金峯山寺の開山は役行者で同人が蔵王権現を観想して蔵王権現を桜の大樹を使って彫あげたことから。修験者が桜の苗を手に山に登って手植えして戻った。厚い信仰の結果全山桜山の奇跡が起こった・・・…、伝えられています。そう思って全国の修験の霊場を廻ると。必ずしも桜山ばかりではありません。
北から数えれば羽黒山も日光山も桜山とは言い切れません。桜の混成林です。富士山周辺の七面山も桜ばかりではありません。伯耆の大山も同様です。蔵王権現の素材が桜だから吉野山が桜の名所になった…、というのは誰かの創作でしょう。
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   出典:山種美術館コレクション奥村土牛さんも吉野山の美しさは霞桜と思われて「霞か雲か?」に描かれました。近景だけが山桜で遠景は霞桜です。

吉野程になると様々な説話を組み込みたくなりのが人情ですし、修験道の先達は一般人に訊かれるたびにそう答えるのに慣れていたのでしょう・・・・。蔵王権現様が桜で作られているのなら羽黒山や伯耆大山寺のご神体も桜で全山桜山でないのは何故ですか?私は天邪鬼で聞きたくなってしまいます。吉野山は山桜の霊地であって瑞穂の国日本のルーツであったから。更に壬申の乱、南北朝時代等々幾多の歴史的悲劇の舞台になってきたこと、その哀れを桜の美しさが叙情してきた・・・、そんな感情の堆積が吉野山だけを全山桜山にしてきたのでしょう。

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紅枝垂れ桜の出現

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昨日(3月19日)は彼岸の入りでした、テレビニュースでは熊本で六本木で桜が開花したのでした。開花を待つ今頃が一番胸が高鳴って嬉しい季節です。何処に行こうか?頭が巡ります。
テレビにはJRの広告が映ります”美しい紅枝垂れ桜がライトアップされています。桜が映っている池は平安神宮の鏡池です。私は与謝野晶子のあの歌を想い出します。
清水へ祇園をよぎる桜月夜 今宵会う人みな美しき”
晶子の歩いた道を想像します。白川沿いの歩道から祇園を越えて丸山公園で銘木の紅枝垂れを見て最後は清水さんまで歩いたのでしょうか?夜桜は桜の美しさを際立たせますし。紅枝垂れ桜の妖艶さは渡辺純一氏をもってしても表現し尽くせないものでしょう。そして、女性は美しい桜を見ると何故かいい顔になるものです。
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桓武天皇を祀った平安神宮岩手の塩釜神社から贈られた紅枝垂れ桜がお庭のシンボルツリーで平安京の美を表現しています
出典JR西日本
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東山魁夷さんの桜円山公園の夜桜を描かれたものです。この桜は八坂神社が祇園感神院と呼ばれていた頃、その坊の一つ宝寿院の庭に咲いて居た枝垂れ桜の銘木でしたので円山公園のシンボルになっていました。晶子が歌った明治時代が美しさのピークで樹勢は次第に衰え、昭和22年に枯れてしまいました。
現在の枝垂れ桜は初代の実生で2代目、私と略同じ歳になります。これからが樹勢が際立って行く事でしょう。

現代の桜の銘木は大半が枝垂れ桜です。三春の滝桜も奈良大宇陀の又兵衛桜も江戸彼岸の枝垂れ桜でした。
それらは白っぽい枝垂れ桜で病虫害に樹勢強くどれも千年以上の樹齢を数えています。現在主流の染井吉野が70年程度で衰えてしまうのに比べて長寿大木になる事が特別です。
唯一欠点があるとすれば色が白い事と花弁が小さくて小輪なので地味な感じがする事でした。京都には名庭が多くあります。千年の庭師が綿々と庭木の栽培を続けていました近衛家の庭に濃い紅色で大輪の枝垂れ桜が発見されましたそれが紅枝垂れ桜でした。紅枝垂れは各地の大名にも持て囃され六義園のシンボルツリーにもなりましたし。勝持寺や弘川寺など西行法師縁故の寺にも植えられました。敬愛する西行法師の墓に供えたい思って植えられた紅枝垂れが「西行桜」と呼ばれたのでした。西行法師が心を託したのは第一に山桜そして霞のような霞桜でしたが「今一番綺麗な桜を西行の霊に手向けたい」と思った時に灯った時にためらいなく現在最もきれいな桜を選んだ結果が紅枝垂れ桜を選ばせたのでしょう。
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奈良大宇陀の又兵衛桜は彼岸桜の枝垂れですでも白っぽく紅枝垂れに比べれば彼岸桜の遺伝子が勝っています。
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奈良三輪山の紅枝垂れ桜向こうは大和三山現在は紅枝垂れ桜が圧勝です。湘南では遊行寺に見事な紅枝垂れがあります。

天平時代に殿上人は平城山に咲いて居た桜をに自邸に移植して屋敷で眺めていました。そうして山桜は里桜になりました。光源氏が鄙を廻って美女を探したように殿上人は競って美しい桜を自邸に移植した事でしょう。
聖武天皇が奈良の八重桜を探し出したように。
関東地方の自生種で彼岸桜があります。丁度彼岸になると咲くのでその名が付いていたのでしょう。江戸彼岸とも東彼岸とも呼ばれていました小輪一重の愛らしい桜でした。その江戸彼岸桜の突然変異種で取る禅変異種で枝垂れの桜が発見されました。その愛らしい姿からそして病虫害に強い特質から都人達を忽ちに魅了した事でしょう。都の枝垂れ桜ブームは全国各地に飛び火した事でしょう。

天平時代に桜が選ばれ競って屋敷に植えられました。そして貴族は桜を愛おしむように鄙の女性に恋心を伝えました。
詠うのは男性で女性への贈答歌でした。
それが平安時代になると大きく変化しました。主として詠うのは女性で桜をありのままに描写する事に集中していました。花が散る様を描写すれば無常感はその先に、散った桜を見れば老いて醜悪になる自分自身を予感していました。人間の弱さも美しさも代弁する者が桜でしたそんな桜を唯美したのが平安時代の桜でした。
源氏物語の朧月夜では源氏は紫宸殿の隣弘徽殿の部屋で少女を見初めて抱きしめます。目の前は左近の桜が咲き誇っています。
一時の衝動で美しい少女を抱きしめればその先に地獄がある事は誰もが知っていたと思われます。でも唯美的な生き方をする人はブレーキがありません。源氏の将来は宇治十帖で因果応報になります。
それは望月であった平安文化が徐々に翳りを見せ始める。そんな世紀末を予感させるものでした。
以下古今集に採取された桜の歌を拾い上げてみます。どれも彼岸桜枝垂れ桜を思わせるものばかりです。
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氏物語花宴(はなのえん)土佐光起絵出典:朝日新聞社/日本の美(源氏物語絵巻)
紫宸殿の桜の宴が催され、源氏の君は優れた詩才と舞いを披露した。夜が更けて源氏の君は酔い心地で藤壺の辺りを窺い歩いたがどこも戸締りは堅く隙がなかった。そのまま弘徽殿の細殿に立ち寄るとそこは戸が開いた。忍び込むと若い女がきれいな声で「朧月夜に似るものぞなき」と口ずさみながら歩いてくる。源氏の君は嬉しくて女の袖を捉え廂の間に抱き下ろした。女は源氏の君と知って拒むふうもない。まもなく夜が開け2人は慌しく互いの扇を交換して別れた

1  ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ    紀友則・古今和歌集、百人一首

2  もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし   前大僧正行尊・小倉百人一首

3  花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり  入道前太政大臣・百人一首

4  世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし   在原業平・古今和歌集

5  花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに 小野小町・百人一首



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桜のルーツは大島桜です。

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一昨日深夜ラジオで桂米朝(かつら・べいちょう、さんの「果てな?の茶碗/茶巾」を聞きました。そうしたら今朝のテレビで同じ茶巾を演じる米朝さんが映っていました。上方落語の中興の祖が肺炎で逝ったのでした。この春は落語歌舞伎と訃報が続きます。寂しいものですが、落語界は新進も育っているようです。新進の古典落語を聞く機会もある事でしょう。
昨日までは、日本の桜は大和朝廷の統一と共に平城京の城内に植えられてきたものであること。元来は山桜か霞桜であった事ところが関東の彼岸桜が山桜と交配され枝垂れ桜の突然変異種種が産まれた事。の庭で紅枝垂れ桜が発見されると。大名庭園のシンボルに紅枝垂れ桜が好まれて銘木として全国各地の名園のハイライトに紅枝垂れが君臨していること、そして西行桜と呼ばれるのも紅枝垂れであることを話しました。
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鎌倉天園遠望円海山から鎌倉カントリークラブ方向を眺めるとまるで吉野山のような桜が遠望できます。実朝さんに教えてあげたい気がします。
今日は日本の桜のもう一本の柱「大島桜」をお話しします。
私の住む横浜の丘陵には沢山の桜が自生しています。その大半が白い花弁に緑の双葉が爽やかな「大島」と呼ばれる桜なのです。実朝は1213年定家から万葉集を贈られました。喜んだ実朝は自作を集大成して「金槐和歌集」を編纂して定家先生に観て貰います。その内容は吉野や紀伊の桜を詠ったものばかりでした。当時は京都も鎌倉も西行崇拝の気運で満ちていたのでしょう。実朝は行ったことも無い吉野や糸井峠を知名に桜を詠っています。
み吉野は 山も霞て白雪の降りにし里に 春はきにけり(金槐和歌集1-1)
み吉野の山の山守花を見て 長長し日をあかずもあるかな(同48)
実朝の足元には西行好みの「大島桜」が自生して見事に咲き誇っていながら、実朝は見事な大島桜を眺めながら、まだ見てもいない吉野や紀伊の桜を詠っていたのでした。
青年は何時もこんな間違いや滑稽をしでかしているものです。最愛の人はえてして身近にいるものです。遠くの町やテレビ画面の向こうに居るものではありません。
頼朝以来の御家人はそんな実朝に舌打ちしていたことでしょう。
源氏が三代で滅亡してしまったのは武家の棟梁でありながら文化的には都を憧れていたその矛盾の中に潜んでいたのかもしれませんし、桜自体に死の影があったのでした。
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鎌倉山の春気色右の白っぽい桜が大島桜鎌倉には大島桜の大木が自生しています。桜が炭用、樺細工用の多く自生していました。
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鎌倉天園(建長寺裏)の桜近景は山桜、山桜は双葉が花と同時に出揃います。その双葉が朱色ですが大島は双葉が青いので全体に爽やかな印象を与えます。また大島は香りが良いので桜餅を包む葉に使用されます。伊豆は大島が自生しているので桜餅の葉っぱの産地になっています。
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鎌倉山の蕾亭からの景色
この大島桜に江戸彼岸桜を掛け合わせて出来たのが染井吉野でした。出来た時期が幕末でしたので。戊辰戦争やその後の日清戦争日露戦争の慰霊のために染井吉野は九段の靖国神社に植えられました。
染井吉野は瞬く間に全国の忠魂碑を飾るように植樹され、今日のように桜と言えば染井吉野になりました。
京都の紅枝垂れが全国の桜を席巻したように新都東京の染井吉野が全国の桜の名所を埋め尽くしたのでした。

子規は桜を虫曽いた訳ではありませんが、江戸時代の和歌を否定するあまり殆ど見向きしませんでした。でしたからアララギの歌では桜は素材にされませんでした。改めて桜を見直したのが若山牧水でその場所も伊豆でありました。
伊豆も湯ヶ島天城峠を越えて河津桜の名所に辿る行程飾る大島桜でありました(踊り子道)。
薄紅に葉はいち早く萌英でて咲かむとすなり山桜花
うらうらと照れる光にけぶりあいて咲きしづもれる山桜花
花も葉も光りしめらひ 我の上えに 笑みかたむける山桜花
瀬瀬走る やまめうぐひの うろくずの 美しき春の山桜花
岩陰に立ちて我が観る 淵の上に桜暇なく散りておるなり(大正11年牧水37歳)
桜は山桜に始まり山桜に終わるのでしょう。日本の文化は旅に始まり旅に終わるように・・・・。

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「聖」から「俗」へ桜花

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20日の朝刊に浅田真央さんの卒業写真が載っていました。新聞は白黒写真でしたがカラーで観たくなります、デーサービスに行ってスポーツ新聞で確認すると全身が写っていました。晴れ着の左胸には大きな牡丹の花が描かれていました。裾に?振袖に期待通りに桜が描かれていました源氏物語の桜襲(桜色に鶯色でしたが現代では桜色に紫色なのでしょう。紫色の袴に桜色の振袖がお似合いでした。。真央さんの大輪の笑顔を沢山の花が祝福しているようです。
真央さんの選手生活後半は一変して困難でありましたし、お母様を失われました。困難や悲しみを乗り越えて臨んだ卒業式でしたからお母様にもお見せしたい笑顔であったでしょう。こんな場面には日本人はずっと桜を描いてきました
地球温暖化で桜咲くは入学式でしたが今では卒業式になってしまいました。真央さんの写真を日本中の小母さんが真央さんのお母様目線で眺めて”おめでとう”呟いた事でしょう。叔父さんも小声でおめでとう言わせていただきます。
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浅田真央さんの卒業写真/出典は毎日新聞社
花宴は天平時代に始まり平安時代には紫宸殿の前庭で左近の桜の開花を待って実施されていたのでした。花宴の後、朧月夜 に誘われてふと入り込んだ弘徽殿で、源氏は若い姫君(朧月夜の君/弘徽殿の女御の妹)と契りを交わします。源氏物語の読者たちは紫宸殿の庇の先で起こった事件に心を躍らせたことでしょう。源氏は架空の人物ではなく藤原道長で契りを交わした人は誰か?推測できたのでしたから・・・。
桜の花宴は内裏で始まり後世になれば市街地でも武家の屋敷でも盛んに実施されました。
その最たるものは秀吉の吉野の花見であり、吉野山を京の都の近くに設立して実施した醍醐の花見だったのでしょう。醍醐の山々は既に照葉樹林に戻ってしまいましたが、一時は秀吉によって全山桜に植え替えられていたのでしたが落葉広葉樹林は照葉樹林に回帰してしまうのでした。
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醍醐の花見の雅を描かれた土牛さんの桜図醍醐のシンボルツリーも紅枝垂れ桜でした。
「春高楼の花の宴」で始まる荒城の月の碑は(作詞土井晩翠)は會津鶴ヶ城/戊辰戦争)竹田岡城/西南戦争。弘前城(戊辰戦争)に立っています。私達日本人のDNAには平家物語の「盛者必衰の理/ことわり」が刻みこまれていますし、人生の美学に昇華されていました。薩摩の守忠紀の悲話(一谷嫩軍記)も金門五山桐(キンモンゴサンノキり/大盗賊・石川五右衛門)も義経千本桜も仮名手本衷心蔵/浅野匠の守」も日本人の叙情は桜に託されました。
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日本刀の鍔には好んで桜がでデザインされました。命の始まりとお終いを象徴したのが桜でした。
日本人は「何故自分が産まれたのか?どのようにして死ぬのか?」考える時桜に問いかけてきたのでした。

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吉野山茶碗
そんな日本人のハートを本居宣長は次のように述べて見せました。
いにしえの大和心を人問わば朝日に匂う山桜花。
宴は大勢の仲間と桜を観る光景でしたが一人の憂鬱も桜は癒してくれました。
晶子が今宵逢う人皆美しと詠った祇園の桜でしたが明治43年二十歳そこそこの吉井勇は一人で居ました。
そして青年の憂鬱を次のように詠って見せました。
かにかくに祇園はこいし 寝るときも 枕の下を水のながるるの
円山のベンチに凭りて(もたれて)あはれにも娼婦の遊ぶ春の夕暮れ
衰えし舞姫あはれ円山に来ては落花を踏みて帰りぬ。
未だ書生の吉井勇は娼婦と舞姫と舞妓とその違いも判らなかったのでしょう・男性は女性を見ると柔肌をイメージするのが常でしょう。桜の妖しさは匂いも含めて性を誘うものでした。
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色町に桜は欠かせないものでした。江戸の吉原を飾ったのが染井吉野でしたそれも本郷染井村の植木職人がリース方式で吉原を飾ったものでした。染井吉野は色町の花として靖国神社の供花として全国に広まったものでした。それは桜の美しさと儚さと二つの特長の行き着くところでした。明日は今何かと問題の染井吉野の話を致します。

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染井吉野の宿命

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目黒川の桜も鎌倉段葛の桜も傷みが激しく、大風の度毎に倒れたりして交通障害を引き起こしています。切り倒してみると髄が腐食して空洞であります。倒れても致し方ない想われる状態です。今問題になっている染井吉野は戦後間もなく植えられたものです。終戦後植えられた染井吉野は私と同じ団塊世代です。私も戦後の桜も自分の意志で産まれたというより終戦後の平和待望の世情の中で偶々命を預かったものでした。ですかラ同じ歳の染井吉野が悪く言われると、肩身の狭い思いをしています。どちらも晩年に批判を浴びています。
。”染井吉野は人工種で見た目は綺麗だが病気に弱い”言われてきました。その度に団塊世代は逆境に弱いと批判されている様に感じて来ましたが。弘前城の染井吉野は樹齢120歳と聞きますので、矢張り育つ環境が大切と云う事でしょう。
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これは江戸彼岸の枝垂れ桜(撮影は遊行寺)
染井吉野は大島の雌蕊に江戸彼岸の花粉が受粉した結果出来た種と言われています。幕末に発見され人気を博して新都東京のシンボルとして全国に広がりました。明治10年西南戦争が終了すると明治政府は上野山を恩師公園として染井吉野を植えて西郷隆盛を祀りました。約洲に神社を建立し戊辰戦争の慰霊をし。染井吉野を植えると会津も弘前も戦場は桜の園地に変わりました

染井吉野の出生を素材にした小説があります。皆川博子さんによる「恋紅」(昭和61年直木賞)です。吉原遊郭「笹屋」の一人娘「おゆう」は慶応4年(1868)幕府崩壊によって戦場と化す懸念のあった江戸を離れる事に致になります。。笹屋の主は出入りの植木職人本郷染井村の「植徳」に娘を預けます。「おゆう」は植徳の弟「友吉」と連れ立って伊豆に疎開します。伊豆では大島桜が自生していました。おゆうは見慣れない真っ白い桜の実をとって帰り、育ててみます。すると5年目に白い花を咲かせました染井村の植木職人はおゆうの育てた桜を「吉野」と名付ました。おゆうは幼い木に花を咲かせる「吉野」深く魅せられます。笹屋には薄幸の娘が多く苦界に身を沈めていました。「きつ」もそんな一人でした。利発なおゆうは自分の幸福のの陰にはきつの涙がある事を知っていました薄幸のきつが亡くなります。そのお墓の土饅頭の上に新しい桜が育ち見事な花を付けました。それは大島桜のように大輪で娘らしいピンク色の桜でした・・・。

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新吉原の図明和の大火の後幕府は日本橋に在った遊郭を現在の人形町辺りに移しました。新吉原が江戸での公娼街になります。大通りに桜が植えられていますがこの桜が本郷染井村の植木職人の仕事で今流でいえば「リース業」でした。染井吉野は江戸の吉原の賑いや艶を全国にアピールしたのでした。
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横浜大岡川の桜これも戦後育ちの染井吉野です。
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鎌倉の天園ハイキングコースの遠望コース桜の大半は大島桜です。池は瀬上池(農業用ため池)筆者は吉野山のようでこの景色が好きです。今年はみられます。
良く練られた小説ですが・・・・、染井吉野を見ているとそんな話しも在ったであろう推測される美しさと哀れさを兼ね備えています。
ところで、今日で1週間毎日桜を素材に書いてきました。天平時代は山桜と霞桜が好まれ、山の桜が内裏に植えられ平安時代には里桜がブームになり。彼岸桜が京都に近衛家の庭で運ばれ紅枝垂れが発見されました。紅枝垂れは雅で公家好みで。美しかったので大名に好まれて全国の大名庭園を席巻しました。円山公園や醍醐寺の紅枝垂れ桜が全国に広がりました。西行桜と呼ばれる枝垂れ桜は大抵この紅枝垂れです。更に幕末には染井吉野が開発されて新政府の維新を全国に知らしめました。日新日露戦争を経て国威のの発揚は染井吉野も一役買いました。でも国力を越えた戦争は資源渇望をきたし全国の染井吉野は伐採されて薪炭に変わりました。伐採された染井吉野でしたが終戦を経て平和待望の風潮の中、全国で一斉に植えられましたが、染井吉野も70歳を迎えて優性遺伝子の掛け合わせ、病虫害に弱い欠点が露出して、昨今寿命が尽きようとしています。
折から伊豆の河津を始め早咲きの桜が開発され好まれています。最近のブームは花期が長い種のようです。綺麗でもパッと散ってしまう桜では無くて綺麗な花が長持ちするそんな種が好まれているようです。考えてみれば日本人は都合の良い桜を千年以上も探してきたのでした。
日本人は悲しみも喜びも桜の花に託して叙情してきました。この民族的な蓄積は文化的な堆積となっています。これから毎日のように桜前線北上のニュースが流れます。その度毎に全国の名桜に思いを馳せられるのは楽しい事です。日本人は桜前線がオホーツク海に沈むまで2箇月近くも桜を楽しめる訳で。幸いです。
でも桜は唯一残念なことがあります。桜が美しいばかりに早く散ってしまう事です。日本人は散る桜の美しさに酔ってしまったのか?死に際の潔さを誇張して死を怖がらないばかりか美化する歴史がありました。明日は最後に「死と桜」を題材に話をします。
梶井 基次郎(かじい もとじろう)が1928年(昭和3年)に発表した詩(?)「桜の樹の下に は遺体が埋まっているという」という短文が象徴する死生観です。
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群馬県片品村の発地の桜桜は命であると同時に死を印象付けるものでした








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死と桜

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先月読売新聞のコラム「編集手帳」に池田弥三郎氏のノートが書かれていました。当時池田氏は慶応大学の学生で折口信夫氏は国学院大学の教授でしたから、池田氏は他大学の講義も受講していたのでしょう。http://www.milkjapan.com/2000bn12.htm編集子はl教授も学生も素晴らしけいと評していました。
処で折口信夫氏の講義は「民族伝承学」だったことまでは解っているのですがその内容が気になります。私の推測する処は折口民俗学の集大成である「死者の書」を書き上げるまでの伝承の採録や作品の舞台であった二上山やその麓の当麻寺、当麻寺の曼荼羅図等を素材にしていたと思うのです。ノートは講義の要点を記したものでしょうが、。講師と学生双方の力量や熱意があって初めて出来上がるものでしょう。碩学二人の合作であるノートですので、一度は拝見したいものです。
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山の辺三輪から見ると二上山の山頂に陽が沈みます丁度彼岸の季節です。
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大倉集古館保有の山越え阿弥陀図「山越阿弥陀図」冷泉為恭手前が当麻寺で桜が見えます。雄山(右)雌山(左)の二上山の間から阿弥陀如来が来迎している図です。折口信夫はこの絵から「死者の書」を想いついたと言われていますこの絵では桜は黄泉と現世の結界を示すように扱われています、桜の上は聖なる死者の世界です。
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当麻寺の桜。東西二つの塔が桜越しに見られます。
「死者の書」は、エジプトの記録でもないし、チベットのベーダ(説教文学)でもありません。折口信夫(釋遑空)の小説です。
小説は二上山に葬られていた耳面刀自(ミミモノトジ大津皇子の妃)が黄泉から生き返る場面から始まります。耳面刀自は藤原鎌足の娘で天武天皇の第三皇子大津皇子の妃でした。天智天皇の子・大津皇子が壬申の乱で天智天皇の弟大海皇子(天武天皇)が勝利すると天武帝の子大津の皇子(天武天皇の子)の時代が来るものと誰もが推測していましたが。大津皇子は藤原不比等やその娘(持統天皇)によって「謀反の反の疑い」で持統天皇によって死に追い込まれます。大津の皇子の遺体は二上山の雄山に耳面刀自は行方知れずとされました。
それからおよそ100年、二上山に埋葬されていた二人のの霊が目を覚ますところから物語は始まります。大津の皇子の霊が不比等の孫娘(外郎)が妃の耳面刀自と思い違いをしたのが原因でした。二上山に眠る大湯の皇子の霊は妃の面影を宿す娘に呼び覚まされます、大津の皇子の霊は感覚が覚醒してゆきます。
 「地中で感覚が次第に蘇って来ます。雨水が浸みこんで感覚が徐かに覚めて行きます。まるで蛇が冬眠から覚めるように。
郎女(藤原南家の姫)は、二上山に現れる幻影(郎女を恋人と思い込む大津皇子の亡霊)に誘われるように、ふもとの万法蔵院(当麻寺)に入り込み、女人禁制を破った咎を贖います、死者の亡霊を慰めるため、蓮糸で織った布に曼荼羅を描きます。藤原南家の郎女(娘)が女人禁制の二上山に登ります。人の現世と仏の浄土の狭間を超えて言霊が交錯しながらストーリーは進み、当麻曼荼羅が完成します。画面は白昼夢にも似ています。桜が咲き始めた二上山の山頂から阿弥陀如来が現われて聖衆菩薩が当麻寺の境内に降りて来ています。その図は中国から伝わりながらも日本の風土に馴染んだ光景でありました。

 「死者の書」が世に出たのが1943年(昭和18)。日本は日中戦争・太平洋戦争の泥沼で喘いでいた。同年秋の学徒出陣パレードには折口信夫の意に反して。「死者の書」を抱えて戦場へ散った学生も少なくないと聞きます。
その後の広島長崎そして福島の惨状を見ると。「死者の書」は、私たちに「生きるとは何か、死ぬとは何か」を問いかけて来ます。
桜は巫女の言葉「さきがけ」が語源という説もあります。日本人の最期には必ず桜が散ります。
浅野匠の守の切腹の場面にも義経千本桜も道成寺も散る桜が日本人お美観を強く刺激します。
でも万葉集の桜が生を美しい女性を賛美するツールでした。それが中世以降に散る事を死ぬことを美化するツールになってしまいました。
私達は生きる事を賛美し謳歌する花が桜であるように古代からの伝統を大切にしたいものです。
梶井基次郎の「桜の樹の下には 屍体したいが埋まっている」の短文は衝撃的でありました。でもその内容は文学的にも民俗学的にも内容の乏しいものでありました。日本人の美学美術史では世阿弥の花伝書以来言い古されてきたものでしたから・・・・。

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小林秀雄氏の墓毎年綺麗な桜が墓前に奉げられています。五輪塔も美しいし彼岸桜も美しいです。美学に詳しい秀雄氏にピッタリです。(しゃしんは東慶寺の墓所)
桜の開花を心待ちしながら桜を素材に書き綴って来ましたが今日で桜話は一休みいたします。



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