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花より桜餅(桜餅文化)

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桜が咲き始めれば桜を食べたくなります。
私の生活圏で桜のお菓子と言えばワイワイ市場(相模農協の経営する農産物市場藤沢市俣野)の桜ロールと鎌倉小町の鎌倉権五郎です。とりわけ鎌倉権五郎の桜餅は見た目でも味でも楽しませてくれます。
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これが相模農協の桜ロールです。
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これが鎌倉権五郎の桜餅です。京風の桜餅に桜の花が添えられているのが愛らしい処です。勿論桜の葉で包まれているので香りも楽しめます。出典;同社ホームページhttp://www.kamakuragoro.co.jp/products/n_sakuramochi.html
関西で桜餅と言えば道明寺です。
道明寺は大坂藤井寺の天満宮に近いお寺でお寺でで最初に作 られたお菓子です。見た通り乾飯の一つで保存食として造られたものでしょう。糯米を水に浸し、吸水した後水を切り糯米の皮を作って案を包んだ和菓子です。糯米に桜の葉の香りが移っている所が奥ゆかしい処のです。
道明寺は京都にも伝播し京の桜餅も道明寺です。
一方江戸では桜餅と言えば長命寺です。
隅田川の堰堤に在る長命寺の門前で山本真六が売り出したものでhttp://www.sakura-mochi.com/店先に茂っていた桜の葉っぱを塩漬けにして餡を包んだ和菓子でした。道明寺が糯米を蒸かすのにたいして長命寺は小麦粉をロールに焼いたものですから。量産も可能です。隅田川の花見客に人気のテーストだったことでしょう。

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これは町内のNPО法人(助け合い戸塚で焼いてくれた長命寺風の桜餅です。
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テレビでは桜の寿司ロールを作っていました。こんなお弁当を持ってお花見に出かけたいものです。


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白鵬の悩み

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私は熱を入れて大相撲をテレビ観戦しています。お相撲は両国でも大阪でも、福岡でも観戦しました。名古屋だけは観た事がありません。札幌では中島公園で巡業していました。砂を被りながら稽古に励む力士を見詰めました。今は月寒のドームで興行しているそうです午後3時テレビのスイッチを入れると、国会中継を映しています。画面の向こうに日本中の高齢者が落胆している姿が見えるようです。高市 早苗総務大臣に訊いてみたいものです。国会中継の視聴率と大相撲の視聴率がどれほど違うのかと?NHKは放送法に基づいて受信料を徴求しています、が国民は否応なくとられます。でも個人は番組を選択できません。法の精神に反しています。「自分は国会中継ではなくてお相撲を観たい」という人は多い筈です。テレビもラジオも国会中継を優先するなら、NHKの運営は国費で賄うべきです。高市 さんでは納得できそうな回答は期待できません早苗さんによりも公私混同の籾井会長なら味のある説明が聞けそうです。
本題の大相撲ですが予測した通り「白鵬」の優勝で終わりました。でも待望白鵬の「優勝インタビュー」でおや?」と思う人が多かった事でしょう。白鵬はちっとも嬉しそうではないのです。インタビュアーの質問にも上の空ですし。白鵬のメンタルに何があったのだろうか?「優勝を決めた一番で自分より日馬富士に声援が多く飛んでいた事が残念だったのだろうか?」人気復活の大相撲の屋台骨は白鵬一人が支えています、他の力士が批判されても白鵬は誉められて当然です。東日本大震災の被災地訪問や土俵のプレゼント等白鵬のしていることは立派で日本人力士も少しは見習ってほしいものです。勧進相撲の精神を惹きついているのは他ならぬ白鵬なのです。
白鵬が四股を踏む姿を見て大地に潜む災い(地震」を払ってほしい念じた人は多かったものと思います。
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今年の正月明治神宮で四股を踏み大地の厄を除く白鵬(写真出典毎日新聞ニュースhttp://mainichi.jp/sports/news/20150108k0000m050017000c.html
25日デーサービスで見た日刊スポーツにこの疑問が取り上げられていました。白鵬は自分の真意が伝わらない事に悩んでいるというのです。日本のマスコミは情報の伝達が拙いのです。情報の字は「情け」を世間に伝えると書きます。白鵬の気持ち(情け」が意に反して伝えられているその悩みなのだそうです。今度の事の起こりは白鳳のお父様が故郷モンゴルで国民栄誉賞を受賞された事に始まりました。白鵬はお父様への祝意として「お父さんはモンゴルの横綱として受賞された20世紀の横綱です。私は日本の大横綱で21世紀の横綱になりました・・・・・・」と言ったのだそうでしたが日本のマスコミは「父は20世紀の横綱自分は21世紀の大横綱」と報じたのでした。白鵬の「情け」を正しく報じたならば「お父様はモンゴル相撲の横綱で倅は日本の大相撲の横綱でこんなに素晴らしい事は無いおめでとう白鵬父子・・・!」となる筈です。ところがこんな報道では白鵬は天狗になっているけしからぬ!」という事になってしまいます。こんな悩みは白鵬のように功を為した人だけに当てはまる事ではありません。美智子妃殿下も雅子様もこんなマスコミの犠牲になられました、少なからず日本国民には「マスコミ不信」の感情があって、マスコミの報道を字面だけでは理解しないその裏に潜む真実を探ってみる癖がついています。筆者も会社員時代にマスコミ不信を経験させられました
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25日日刊スポーツの白鵬の悩みを報じた記事。
大相撲は度々文化摩擦を引き起こします。それは大相撲が古事記の記述に始まり内裏の紫宸殿前庭で「相撲節会に引き継がれ。近世になると勧進相撲/有名寺社で勧進の為に興行する相撲」そして現在の民主時代の相撲に繋がっています。歴史は相撲の歴史は勧進相撲で。今次の大震災からの復興を期して興行されるお相撲こそ本来の姿である事を教えてくれています。その意味では東北の各地に土俵を作っている白鵬こそ正真の歴史の理解者と言えます。小兵の舞の海が故郷の鰺ヶ沢に土俵をプレゼントして四股を踏んでも収まりが悪そうですから誰でも出来る行為ではありません。白鵬だから形に収まります。
既に白鵬は史上最高の横綱です。折しも相撲は日本のスポーツ文化と言うだけでなく。柔道と同じく世界のスポーツ文化になろうとしています。モンゴル相撲には丸い土俵は在りません。草原で倒された方が負け倒せば勝ちです。相撲というよりレスリングです。
土俵を地球に置き換えれば地球は一つ地球上に生きる人間の平和共存を祝うには最適なスポーツですし。地球に災害を避けるよう祈願する行為は地球人類の願望でありましょう。
白鵬の活躍を機会にそろそろ大相撲を日本の国技から地球の祭典にランクアップさせる道を開いて欲しいものです。ユニクロはグローバルな相撲パンツをデザインしてほしいものです。大相撲は世界j中で興行されています。お相撲さんの前座で素人相撲を巣摸プパンツで開催したら面白いと思うのですが・・・。
もう男尊女卑の弊習等で騒いでいる時代ではないでしょう。
日本の土俵がモンゴル人に席巻されている事実は口惜しいものがありますがお相撲が世界に広がるワンステップだと思えば我慢も出来ます。
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い土俵で素手で裸で戦うところが相撲の美しさです。


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狼の民俗学

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買い物から帰ってきたワイフが「堤防の桜が咲き始めましたよ、同じ染井吉野でももう7分咲きの樹もあるのね」息を弾ませて報告します。私は「おませな娘も居るようなもんだよ・・・。」いいます。
今年の4月私達は紀ノ川沿いに遡上して吉野を廻って戻る旅行を計画しています。ネットで開花情報を確認すれば吉野も大宇陀も0~4分咲です。この状況なら4月10日には満開で散り始めになろうと、・・・にんまりします。ワイフが重そうにカートを曳いて帰って来ました。私が図書館に予約しておいた「狼の民俗学/人獣交渉史の研究/菱川晶子著」をとって来てくれたのです。「重かったんだから・・・・確り読んで下さいね」言わんばかりです。私は今回の旅行ルートに日本で最後に発見された狼があるので一度は狼を調べておこうと思ったのでした。「天誅組の墓」と「狼記念碑」が同じ東吉野村に在るのも何かの縁でしょう。

【牧畜文化と稲作文化】
私の学生時代は文化人類学がブームでした。鯖田豊之の「肉食の思想」は仲間の必読書でした。同書に依れば「狼は牧畜文化の敵で、牧畜生活者を脅かす存在だったのでしょう。赤ずきんちゃんでも三匹の子豚でも狼は悪役です、狼は先住民ケルト人の文化を象徴するものでキリストト教や封建領主が席巻した中世社会の敵だったのでしょう。イソップ物語の「狼少年」のお話は如何にもキリスト教文化を思わせます狼はを嘘つき狡猾な者でした。一方近世初頭まで、狼を「大神」と敬ったのが日本などアジアの農耕文化でした。私が小学生の頃は狼と言えば「狼少年ケン」でした。ケンは嘘つきではなく山野を疾走するターザンのようなヒーローでした。中学生になった頃には「シートン動物記」を愛読して「狼王ロボ」が死ぬ場面では落涙が止まりませんでした。私達日本人には狼は「山の神」だとする心が私世代までは継続していたのでした。
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「狼少年ケン」出典アマゾンブックサイト。
菱川晶子氏の「狼の民俗学」は「熊野の本地」の紹介に始まります内容は「熊野縁起物語絵巻」です。本の説話は天竺の十一面観音物語でその説話が日本に本地するのでした。
天竺の国王は千人も妃が居ましたが子宝に恵まれませんでした。当初軽んじられていた妃が十一面観音の加護を得て王子を身籠りました。ところが他の妃やその一族の妬みを一身に受けて身重の妃は山中に追い遣られてしまいます。妃は山中で王子を産み落とします。しかし妃は敵兵によって首をはねられてしまいます。。不思議な事に王子は首のない母親の胸(乳)で三日月も育ちます、更に狼に育てられて山の獣たちに守護されて成長します。王子が七歳になった頃上人に発見され都に上って王に対面します。王は国王の地位を王子に継がせたいと思うものの王子は母を懐かしみ王位は継がずに出家したいと言います。上人は秘法を行じて死んだはずの妃を蘇生させました。王子親子は浅ましいこの国を捨てて住みよい国を探して雲に乗って行きます。
三人が乗った雲は秋津国「紀の国」に行きつきました。其処が熊野三所権現でした。
此処まで読むと「ローマ建国」の物語に似ていることに気づきます。
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妃は山中に連れ出されて敵兵によって首をはねられてしまいました。熊野本地物語出典:狼の民俗学のグラビアページ
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首の無い母親の乳と狼に導かれた獣によって王子は育てられました(熊野本地絵巻出典:狼の民俗学の口絵)
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上人の秘術によって妃は蘇生しました。そして親子三人で棲み良い国を探して雲に乗って、東の向かいましたそして熊野に降り立ったのでした。熊野本地物語出典同上)

狼は牧畜社会に在っては害獣であるものの森林社会や稲作社会に在っては聖獣であったのでした。ヨーロッパがケルト人が多く住んでいた古代は矢張り狼は聖獣だったのでしょう。ローマの建国にも狼は大役を果たしています。
シルウィアがウェスタの巫女に任命されてから4年後、彼女は巫女の身でありながら、軍神マルスの子を宿しました。シルウィアは男児の双子を出産した。ロムルスとレムスでした。しかし、アムーリウスはシルウィアを牢に軟禁します。そして双子を捨てるように命じました。二人はティベレ川に流されたが、すぐに人里離れた陸地に漂着しました漂着したところに山からやって来た狼が咥えて山に入ります。狼が王子に乳を与え、啄木鳥が食料を与えて育てました。。ロムルスはローマを建国しました。

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ローマ建国の伝説を記したローマの銀貨。出典ウィキペディア
「狼の民俗学」では吉野や秩父の狼の言い伝えを採集して「送り狼」や「清めの塩」「狼の眉毛等の言い伝えが伝える狼信仰を解説します。それは明日話すことにしましょう。熊野信仰のキーワードは十一面観音であり聖獣狼(山の神)、更に再生(蘇り)神話でありましょう。壬申の乱では大海人皇子が再起し。南北朝では後醍醐天皇が熊野で再起を祈願しました古代の山岳信仰が中世の農本社会に抵抗したようなものなのでしょう。でも、私達日本人は山の神への畏敬を忘れて久しいようです。狼が絶滅したら猪や鹿が跋扈して損失も大きくなりましたし山の神の怒りも爆発しました、
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未曽有の被害を生じた木曾御岳山の噴火勿論ご神体は山の神でお狼。
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秩父三峰山の狼、狼は「大神」の事であり「大咬み」の意だそうです。口を見れば大咬むの意は解ります柳田国男さんの説だそうです。
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此方は修那羅子安神社の狼です

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狼の民俗学2

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昨日は狼は日欧で「山の神」として崇められてきたこと、ヨーロッパではキリスト教が封建領主と共に覆いかぶさる事によってケルト人の神々が追いやられゆっくりと消滅したものと思われます。赤ずきんちゃんは三匹の子豚等の悪役で登場する狼、やイソップ物語で登場する「狼少年」はキリスト教倫理観に払拭された古代民族の「山の信仰」を残すものでありましょう。
日本列島も有史以前は狼が多く生息して、「山の神」が信仰のトップに居たことでしょう。「山の神」を追い遣ったのが農業社会で、焼き畑農業から水稲栽培に変わりました。大和盆地の底に生活圏が移ると山の神々は盆とを守る四神として残りました四神こそ中国伝来の「東/青竜(せいりゅう)、南の朱雀(すざく)、西の白虎(びゃっこ)北 の玄武(げんぶ)でした。狼は玄武の顔虎のボディーに現われています。
四神を聖獣と言います。想像上の聖なる獣の意味で代表的な聖獣は上記の四神で想像の根拠となるのが蛇(龍)孔雀、狼等でした。この他にも狐(お稲荷様貴狐天皇(ダキニ天 )も聖獣の一つでしょう。狼は焼畑農業の象徴とすれば狼は狐(稲荷明神)に追い遣られたとも考えられます。狐は里に出てきて人間と共存する方法を知っていたので広く棲息出来たのでしたが狼はそんな姑息に生きる事はしませんでしたから絶滅してしまったのかもしれません。
そこで、狼や狐が何故聖獣として敬われたのかが疑問になります。「狐と狼」似ていることがあります。どちらも肉食で、人間の生活を脅かす猪や鼠,鹿等を食べてくれますこの限りでは益獣です。どちらも子育ての名人です。人間が感服するほど親子の愛情がキメ細かいのです。この子育て上手に敬服して戌の日は安産子育ての日になっています。熊野の蘇生神話も狼の子育て上手に依っていました(昨日書きました)。
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薬師寺薬師如来像台座に描かれた玄武顔は狼でしょう。白百戸の虎の顔も狼のそれです。
【送り狼】
今読んでいる菱川晶子氏の「狼の民俗学」は丁寧な作業でち密に民話を採収して考察を続けておいでです。吉野や秩父奥三河に朝日連峰マタギの村を廻って狼の言い伝えを拾って行きます。何処も私の好きな美しい村落でもうじき辛夷の花が咲き出すことでしょう。読んでいて想いつく事がありました。その一つが「送り狼」です。
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今読んでいる「狼の民俗学」学者としての姿勢も内容も久々に感服しています。

今日「送り狼」と言えば悪いの意味しかありません。ワインバーで飲み明かしました。「男はもう遅いから家まで送ってあげるよ」優しそうに囁きます。でも仔羊は「この人も本性は狼で”送り狼”と察知して、やんわりとお断りします。お店の出口には盛り塩があります。
吉野でも狼は多く居たそうです。樵が山道を歩いて行くと狼が後を付いて来るんだそうです。狼は樵の隙を見て襲いかかるわけではありません。樵が小便をするのを待っているんだそうです。人間の小便には塩分があるからミネラルがあるから、小便を舐めたくてついて来るのだそうです。そんな狼の習性が「送り狼」の語源だと菱川氏は推論します。樵は家に戻ると狼に「ご苦労さん」言わんばかりに一つまみ塩を玄関に撒くのだそうです。狼は喜んで塩を舐めて山に戻ります。
人間が数人で歩いたり牛を連れて歩いたりすると列の最後尾を襲うのだそうです。そこで縄を曳いたり褌を引きずって歩けば襲われないそうです。最後の手段として荷物、荷物が無ければ草鞋を放れば狼は草履に襲い掛かるそうです。
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鎌倉一二所光触寺の塩なめ地蔵尊金沢の塩売り商人がお地蔵さんに盛り塩をして居ました。鎌倉市内を行商して帰りにお参りすると盛った塩が無くなっていました。商人はお地蔵さんが舐めて下さったと思って商売に励ました実際は山犬等が舐めたのでしょう。生物万物への布施の精神が垣間見られます。筆者は菱川晶子氏の「狼の民俗学」を読みながら盛り塩についての考えを改めました。

【盛り塩】
盛り塩の起こりは一般に次のように言われています。
晋代の武帝という王が、後宮にいる女性を訪ねる際のことです。宮中には沢山の美女がいたため、羊車が停まったと局を夜伽とすることにした武帝。後宮にいた胡国出身の女性・胡貴嬪は武帝を惹きつけるため、戸口に羊の好きな竹の葉を差し、塩水を撒いて羊車を引き寄せ、武帝の寵愛を独り占めしたというものです。でも、日本に羊が入ってきたのは明治時代であるので、日本の盛り塩の起源とするには無理があると思います塩で浄める厄払いをするといった神道の考えが妥当でしょう。
狼は獰猛ですから食い殺されるかもしれません。食い殺されずに家まで送ってくれた感謝の気持ちが厄を払って幸いを招いてくれる・・・・そんな意味で塩を撒いたのでしょう。そんな習慣がお相撲さんの塩撒きになったし、葬式のお浄め塩になったと思うのです。私達の習慣には狼と共存していた時代の残滓が数多く残されているようです。
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地獄草子に描かれた鉄がい所/奈良国立博物館人を騙した人が陥る地獄」 火を吐く狼が罪人を責めます。火で衣服が焼けて丸裸で逃げ回っています。怖くて糞尿を垂れ流しています。火を噴く狼は中世版ゴジラのようです。 出典は朝日新聞社版地獄草子
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藤沢白幡神社のこま犬は獅子では無くて山犬です。狼と考えて良いでしょう。
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此方は豊川稲荷の狐さん。千体もの狐に観られると背筋に冷たいものが走ります。九尾の狐の故事が示す通り狐の母親の愛情は凄いものがあります。
【狼の眉毛】
菱川氏は狼の眉毛に考察を拡げます。
新潟県長岡に極端な貧乏な樵が居ました。樵は食い物は無いし鍋も無いので長者から鍋を借りて鍋の底にこびり付いた飯を削いで食べていました。それが噂になって「鍋洗い」と呼ばれて馬鹿にされていました。「もう死んでしまおう」思った樵は狼の住む山に登ります。どうせ死ぬんなら狼に布施して死のう思ったのでした。山に登った樵は大声で狼を呼びました。「狼よう!おまんまが来たからオイラヲ食って呉れよう!」何度読んでも狼は姿を見せませんでした。「狼ようお願いだよう俺を食って呉れよう。俺は食べる事も出来ずに馬鹿にされるだけだから、いっそ狼に食われてしまいたいんだよう・・・・・」すると竹藪を分けて一匹の狼が姿を現しました。狼は樵に向かって言いまあした。
「お前は真人間だから俺はお前を食う事は出来ないよ。」
樵は重ねて狼に頼みます。
「俺はお前に食べて貰いたいと思ってやってきたのに。未だ肉も付いているぞ!」
すると狼は
「そんな事よりお前にいいものをあげよう」と言って狼は自分の額に生えていた眉毛を一本抜いて樵に渡しました。
「この眉毛を通して人間を見れば人間の本性が見えますよ。」
そこで樵は狼の眉毛を貰って帰りました。樵は村に戻って長者の家に行きます。そして長者の家で働かせて貰う事になりました、長者に狼の眉毛の話をした処、長者は狼の眉毛を貸してほしいとせがみます。そして長者が狼の眉毛越しに樵を視ました。
すっかり樵の人間性を見詰めた長者は樵を婿に迎える事にしました」
このように新潟のには、「狼から眉毛を貰って長者になる幸運譚が数多くあって、それを菱川さんは採収されていくつかのパターンに分類されて報告されておいでです。
山道を歩いていて偶々狼の出産現場を見てしまいます。樵はその話を村長にすると「村長は今晩狼がお前を食い殺しに来る」話します。そこで樵は門前の大木に登って夜を明かすことにします。案の定狼の群れが遣って来ます。狼は木に沿って立ちあがって肩車にして樵の足元に登って来ます。そして肩車の梯子はもう少しで樵の足を噛む処まで迫って来ました。樵は鋸を叩いて金属音を発しました。すると狼は退散しました。
狼に人間の本性を見分ける能力があると思うのは狼が「山の神」と信じているからでしょう。そんな能力の根源が眉毛に在ると考えるのは第三の眼【仏像の白毫相】と同じです。神仏が人間の本性を見通されているそんな思いが「狼の眉毛」の民話でありましょう。


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枝垂れに魅せられる訳

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昨日も今日も暖かくて桜前線は北上の足を速めていることでしょう。私は瞼を閉じて枝垂れ桜を想い出します。京都の円山公園は良かった平安神宮の枝垂れは紅が濃いし、東京本郷の六義園の枝垂れも見事だった。4年前山梨身延山久遠寺で観た桜も良かったが滋雲寺の滝桜も見事だった。でも久遠寺から戻って喀血したし、滋雲寺さんの帰路に転倒したし枝垂れ桜を見る度に命を縮めて来たような気がします。滋雲寺は京都の妙心寺の末寺ですからあの滝桜は円山公園の紅枝垂れの遺伝子が繋がっているのでしょう。枝垂れ桜は彼岸桜の特別変異種だそうで、彼岸桜の生地関東で生まれた種でしたが、都人の雅な感覚が桜の女王に磨き上げて。また関東に里帰りしたものでしょう。でも私は三春の滝桜も角館の桜もまだ見ていません。桜は関西以南でも名所は在りますが、一番綺麗なのは少し寒い東北だと聞きます。残雪を残す阿武隈山系を背景にしてこそ三春の滝桜は紅色を妖艶に輝かせるのでしょう。今年は奈良紀伊に西行桜を巡りますが来年以降は東北に行きたいものです。文明の利器のお蔭で東北も近くなりました。昨日【3月27日】は芭蕉が奥の細道に旅立った日でした。旧暦の3月27日は新暦の5月16日です。鰹が魚屋に並んだ頃に出発すれば陸奥の桜を満喫できることでしょう。
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久遠寺の枝垂れ桜花越しに堂塔を眺めると枝垂れの桜花はまるで花の天蓋を思わせました。
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   奈良大宇陀の又兵衛桜も紅枝垂れ桜です。娘道成寺の舞台を見るように雅で妖艶です。
4年前観た久遠寺の紅枝垂れも見事でした。久遠寺に入山する前夜私達は久遠時の東七面山の山麓に在る講人宿に宿泊しました。鰍沢に雨畑硯の「雨宮嫡太郎氏」の工房を三越のIさんの引率で見学しました。七面山から産出される蒼黒い泥板岩を削って硯にしたものが雨畑石でした。硯の淵に鰍蛙が海を見詰めているデザインが心に止まりました。その意匠が先代【大12代雨宮弥兵衛】の得意としたものだそうです。鰍蛙は同地に自生している事と小野東風の故事に因んだ意匠なのでしょう。この時の記録は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46209605.html
【小野東風の故事】
小野家は小野妹子・小野篁以来の名門でしたが讒言によりお家は廃れ篁は隠岐に配流されてしまいます。東風は小野家再興を託された人物で学問も秀でていました。そんな英才の呼ばれ高ったものの習字しては破る捨てる日々が続いていました。凡人が見れば秀でた書であるものの東風には満足できずに丸めてゴミ屑として捨てられていたのでした。誰もが尋ねます。
「上手に書けているのに何が不満なのですか?」
東風は答えます。
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          鳥居清広「小野東風図」
「今の私の書は唐国の書のコピーです。私は国風の書を目指しているのです。」
書き疲れた東風は屋敷を出ます。屋敷の近くには東寺がありましたのでその池の周りに来ていました。
池の周囲には柳が茂っていました。東風が見やると一匹の蛙が柳の垂れちゃ枝先に向かってピョンととびはねています。
蛙は柳の枝先に止まっている虫を捕まえようとして飛んでいたのでした。ピョンピョン、何度跳ねても柳の枝先には届きません。
東風は思います。柳のの枝先には飛び跳ねなくても幹を廻れば行けるものを。いい加減に諦めるか考え直して見たら良いのに蛙は頭を使わないものだ・・・」
でもそう思った瞬間に気づきました。何度も失敗するでも又トライするそれは自分の書と同じものだ・・・・。
雨宮硯は書家に東風の故事を知らしめるデザインなのでしょう。
私の仲間には敬愛する書家が沢山います。
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これが雨宮家の硯の代表的デザイン。名物の鰍蛙が硯の陸と海を見詰めて墨の状態を見極めています。墨を擂る動作が大切なのでしょう。
処で今日の主題は枝垂れ桜が何故桜の女王になったかという事です
それは第一に枝垂れの樹形が日本人の美的情緒に最もアッピールしていたという事でしょう。
日本の池には滝があります。西洋の庭には噴水があります。噴水は綺麗でも見ていると疲れてしまいます。物は上から下に垂れていたほうが自然で癒されるものです。クリスマスツリーは先の尖った樅の樹です。樅の樹形は喉に骨が突き刺さるようでよろしくありませんお釈迦様は摩耶夫人はルンビニーの園無憂樹の花を愛でた時にお産まれになられました。落ちるのが自然で噴き上がるのは困ります。垂れて醜いのは乳房くらいです。でも少し垂れ気味の方が美しいと江戸時代の人は思っていたようです。文化が成熟すれば「垂れ乳」が評価されることでしょう、近いうちに群馬県片品村に垂れ乳を探しに同好のМ君らと出かけたいものです。(嬶天下の群馬県は何故かに奪衣婆が多く、皆少し垂れ気味の乳房なのです勿論素晴らし枝垂れ桜も数多くあります。
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目黒不動尊の奪衣婆垂れた乳に目を奪われます。
垂れている方が美しいと思う事と、もう一つ垂れていたほうが神々しいので神の依代になったと思われる事です。古代人は空から雷鳴が轟き大樹に落雷するのを見て、神は天から地上に降りてきた思った事でしょう。まるで天神様のように。天神は何処にでも下りて来るのではなくて美しい神々しい木を選んで下りて来られる思ったのでしょう。怖ろしい天神に限らず美しい天女も同様と思ったのでしょう。枝垂れ桜の大木こそ神が特に穀神が下りて来られるのに相応しいと信じたと思います。
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 大宰府に配流された菅原道真は高山に登って天に無実を訴えます。するとその声が天に届いて天神になります(北野天神縁起絵巻」ッ出典朝日新聞社版日本の美」
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道真は鬼神になって黒雲に乗って冥界巡りに出かけます。黒雲の同乗しているのは吉野金峯山寺で修業していた日蔵上人です。北野天神縁起絵巻出典同上
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道真と日蔵は冥界を巡って地獄に行きます地獄では罪人がお仕置きを受けていまあした。地獄の獄卒に惨忍にされ獣に食われていました。獣は狼をベースに虎や獅子がアレンジされています。此処にも熊野の信仰が垣間見られるようです。道真を貶めた人たちはこの地獄に堕ちると説明したのでしょう。出典同上




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北帰行

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新聞を広げます。左手が不自由だと上手に新聞を広げらません。でも綺麗な写真が目に飛び込んできました。
京都では都踊りの通し稽古をお披露目したとの事だそうです。ブルーの友禅に朱の帯舞台の桜色が目に鮮やかです。着物は友禅で帯は西陣で踊りは「京舞」で・・・・、要するに都踊りは京都の総合文化でだからこそ「総踊り」と呼ぶのでしょう。吉井勇ならずとも祇園で宿をとっていれば今頃は4月1日の幕開きを控えてお稽古に熱が入って、三味線の音と共に寝て三味の音で目覚める事でしょう。果たしてどんな夢を見るのか期待できそうです。
私はネットで龍村を確認します。主の帯は同社が収めたようです。西陣とは応仁の乱で山名宗前が陣をとったから、美しいモノには陰があるものです。京都の雅な文化は陰影が濃いものです。ネットで都踊りをチェックすればユーチューブで舞台を確認できます。便利な時代が来たものです。新幹線で出かければ今晩は祇園に宿泊できそうです。http://www.miyako-odori.jp
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京都の春を彩る都踊り出典都踊り公式ホームページユーチューブを複写衣装は大丸京都店経由で西陣友禅の匠会社が収めました
治4年(1871年)首都が東京に移ると京都の人達は強い危機感を覚えました対策として京都博覧会を実施すると同時に
博覧会に娯楽性を添えることを思いつき、祇園万亭(現 一力亭)の主人杉浦治郎右衞門に意見を求め、 春季の博覧会の附博覧(つけはくらん:余興の意)として、祇園の芸舞妓のお茶と歌舞を公開することにしました。

そこで、杉浦治郎右衞門は、祇園新地舞踊師匠の片山春子(三世井上八千代)などと共に、伊勢古市の『亀の子踊』などを参考に、 お座敷舞という形式ではなく集団での『舞』を考えました。これが都踊りの始まりで、今年は第143回ですから150年に近い歴史を重ねているのです、
http://www.miyako-odori.jp/history/index.htm
宝塚歌劇が1913年(大正2年)始まりですから、レビューとしては都踊りの方は遥かに古く芸も伝統芸だったのでした。
危機感は革新を呼ぶものです。
私がワイフと都鳥をエンジョイしたのはもう15年も前でした。あの頃阪神タイガースが優勝しました京都ではトテチトシャン。大坂では道頓堀でドボンしていました。今年は久々タイガースが元気なようで、都踊りにも行きたいものです。先立つ資金がありませんが・・・。
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 立礼(りゅうれい)式お点前は京都博覧会開催に際して都踊りと同時に始まりました。写真の出典は都踊りの公式サイトhttp://www.miyako-odori.jp/miyako/
伝統の裏千家は、外国人が多く来るのを予想して、裏千家第11代家元玄々斎宗室宗匠が我が国で初めて、 立礼(りゅうれい)様式の点前を創案し、これに基づいて芸舞妓は、円椅子に掛けてお点前を披露しました。私達は芸子さん舞妓さんにお点前を楽しむ事が出来ますし。お茶屋では桜会席膳と踊りを見て目も舌も満足させられるのです。

新聞は隅から隅まで目を通します。
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 アホウドリの移転が順調に進んでいることを報じた読売新聞移転に際してしては京都の西嶋製作所http://www4.ocn.ne.jp/~nishio/gallery/04.htmlのレプリカが大量に使用されまあした。レプリカやジオラマを作る技術も京都に蓄積されているのです。
”小笠原の媒【なこうど】島でアホウドリが初めて孵した”出ていました。鳥島がアホウドリの自生地であるものの。活火山であることから八丈島のように噴火したらアホウドリが地球上から絶滅してしまう危機感を持った山階鳥類研究所が媒【なこうど】島に一部移転させるプロジェクトでした。担当されたのが黒田 清子(くろだ さやこ様/美智子妃殿下の第一子)屹度このニュースには天皇皇后両陛下もお喜びでしょう。ヨーロッパ人はこの鳥に鷹【イーグル】の上をのアロバとロス」の名を冠し、敬意を表しましたなのに日本人は「アホウドリ」なんていう侮蔑的な名を付けました。せめてもの罪滅ぼしに媒【なこうど】島移転プロジェクトに取り組んだ成果でありましょう。もう一つ鳥の記事がありました。
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放鳥された佐渡の朱鷺が野生同士で番になって黒松の樹上で営巣していると言った記事でした。朱鷺の野生化プロジェクトも順調に進んでいるようです。この記事にはもう一つ嬉しいニュースが付いているのです。佐渡で新種の蛙が発見されたのでした。朱鷺保護対策として餌になる蛙を保護した結果進取の蛙を発見したんだそうです。神は心がけの善い人には思いもよらぬご褒美を用意してくれるようです。神は心がけの悪い人には次々に災難を呼び寄せるようで。原発の方は次第次第に窮地に泥濘に嵌り込んでゆくようです.
皇族が率先して野生の命を大切にすることの範を示されているにも関わらず民間人の行為は醜いものがあります。白鳥にボーガンの矢で射ぬいたものが居たのでした。白鳥は故郷のシベリアに戻れずに絶命してしまいました。
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ボーガンの矢を撃たれて引き抜こうとする白鳥。
桜も咲き始めたら白鳥や鶴はシベリアに帰って結婚し子供を産んで秋には日本に戻らねばなりません。如何に日本が棲み難くても彼等の遺伝子には南風が吹いたら北帰行するように書き込まれているのです。白鳥も鶴も一斉に北帰行に旅立ちます。彼等は一生連れ添うのです。人間のように勝手気儘に結ばれたり離れたりできません。毎年。連れ合いが羽根を痛めて飛べないのをケヤする姿を見せられます。大切な羽を痛めてしまえば命を失ったも同然です。
「貴方、シベリアに帰りましょうよ次の上昇気流に乗って天空に舞いあがりましょうよ!」連れ合いは負傷した相手を励まします。でも風切る羽根を失った鶴は空しくジャンプするだけです。そんな鶴の恋愛情や気高い姿が民話「鶴の恩返し」を生んだのでしょう。
北帰行の季節が終われば日本の山里に蕭然とした鶴がのこされていますし。津軽の海辺には材木が残されています。(北帰行する弦や雁が海上で休むために用意した材木)
桜が咲いて浮かれているのは私のような極楽とんぼだけで。野生の鶴や白鳥は過酷な仕打ちに耐えているのです。
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鍋鶴の鶴の北帰行写真出典朝日新聞ニュース。

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命の教え(密教3)

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命の輝く春になって落胆する事故や事件が続きます。多摩川では中学生が切り刻まれ船橋の進学校では教師が産まれたばかりの子猫を学校の庭に生き埋めしたり、ドイツでは鬱病の副操縦士が乗客乗り組員150人もの命を道ずれにアルプスに激突するなど人間の身勝手さは御し難いものがあります。一方インドでは感電した猿を仲間が揺すったり噛んだり果ては水に浸けて生き返らせたりして、神は動物好き人間嫌いになられることでしょう。
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多摩川での中学生殺害事件は震撼とさせました

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 インドでの猿の感電事件。感電死した風の仲間の猿を救出するため感電猿を水に浸けて覚醒させます。世界j中の人間は猿に命の尊さを教えました。出典NHKテレビ
こんな時は手塚治さんの名作「仏陀」を読み返すのが良いもんです。「命の尊さを描いた作品」でこれ以上の作品は無い、と確信しているのです。
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手塚治のブッタ狼はタッタ少年を育てまた餌となるとも他の生き物の命の尊さをタッタ少年に教え込みます。
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釈迦(シッダルダ)はタッタ少年(盤粗肴を貼った坊や)とデーパ(目を苦行で焼いた青年)とアッサジの森で苦行をします

手塚治さんは釈迦の登場する前のバラモン社会を説明します。アーリア人が芯っ進出して不条理なカースト社会で人々は心の不安を抱えています。人々はジャータカ伝説(火に兎が飛び込んで腹を空かした僧に布施した伝説)を追い求めます。釈迦以前にシュードラ階級の少年タッタを登場させます。タッタ少年は動物と交流できます。少年の額から発せられるテレパシーが動物のそれと交信するのです。タッタ少年は狼に教えられます。命を奪うのは自らの子供達の命を養うときだけで。無意味な殺傷はいけないと・・・・。
タッタ少年は額に盤粗肴を貼って描かれています。盤粗肴を剥がせば第三の眼が在るのでしょう。
私は密教の始まりについて次のように考えています。
1、人間は他の動物同様に本来は4つ脚だった。でも後ろ足で立ち上がって二足歩行し前足を手にする自由を得たことによって動物から離れて人類になった。その頃は視覚と理性で判断していたがそれでは十分に安心安全を確保できません。そこで額に第三の眼を発達させました。題三の目によって。テレパシー(霊感)を駆使する事によって自らの安心立命を確保したのでした、しかしそれは古代以前のことであって有史時代に知性理性が発達。霊視能力は衰退してしまいました。知性理性を支えたのは視覚でしたから人間だけが視覚偏重したのでした。霊感を覚醒させる教えが密教なのです。
2、密教の入り口は霊感を強くすることですから。動物と同じように自然界に自らを裸で置き、額で感じようとすることでしょう。
その為には聖なる事に敏感になり。祈る習慣を身に着ける事でした。動物も植物もその命がテレパシーを発するので、命を慈しむ気持ちや姿勢が聖なるものに敏感になれるのでしょう。
3そんな次第で。昨今の事故事件は現代人が生命の尊厳を忘れたか「生命の尊厳とは人間の命のことだ」と不遜になっているからでしょう。命は聖なるもので。「聖なるものを崇める気持ちを復活させる事こそ」重要だと考えるものです。
文学も舞台芸術も古典と呼ばれている名作は何れも命の尊厳さを聖なる事を表現したものばかりです。下は鶴の恩返しの舞台です。鶴は自らの命である羽根を使って反物を織り上げようとします。我が国の古典は演劇も和歌も命の尊さを教えるものばかりです。
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鶴の恩返し舞台出典;都踊りの公式サイト



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大多喜の猪シチューの味

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息子の仕事の都合で彼岸中に墓参りが出来ずに居ましたが、3月29日ワイフと3人で出かけました。ワイフの両親は房総半島の白子海岸に在ります。黒松の砂防林と大きな波が打ち寄せる99里ヶ浜です。お墓の近くには海抜2メートルの標識も在るし菩提寺には元禄津波の慰霊仏群も祀られています。アクアラインを通って、木更津に出ると圏央道が出来たので一層お墓が近くなりました。以前は房総横断道路を走っていましたから便利になったものです。
圏央道には動物注意に標識が数多くあります。狸の図が目に入ります。木更津は證誠寺の狸囃しが有名ですからなるほどと思います。
日本で最初に鉄道が走った時品川の八山橋で狸が次々に鉄道に轢かれたそうでしたから獣は動くものに反応するのでしょう。狸が消えれば次は猪です。「狼の民俗学」を読んでいたからでしょうか?猪が食べたくなります。「墓参りを終えたら少し遠回りして大多喜でジビエを食べる事にしました。松平10万石大多喜城の桜は未だ蕾のようですが。真っ白いお城が陽光に映えています。。目的は大多喜郊外の竹庵http://otaki-takenoko.main.jp/eat.htmlです。この店はテレビで有名で、春になると必ずこのお店と筍掘りの体験ががテレビに取材されます。私は竹林を有した農家で裏山で筍彫が出来るのかと思っていましたが、ドライブイン風のお店で高齢ご夫婦が力を合わせて運営しておいででした。そんなわけですから、昔風の農家の味でしたし、舌脚、サービスは垢ぬけしないまでも真心のおもてなしとコスパは最高でした。
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大多喜の里山レストラン「竹庵」の店頭、朝掘りの筍が並んでいました。2本~3本で2000円でしたが、午後1時で大半が売れ残っていました。向こうの意道路が国道465号線で右手(西)が養老渓谷になります。
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竹庵はテレビ受けが良いんです。
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これが猪のシチュー定職1800円。猪肉のシチューには筍も添えられていますし。筍の煮しめに蕗煮そして鹿肉の佃煮も添えられています。
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食後はお抹茶とプラムの水羊羹で一服できます。
山菜定食や唐揚げ定食筍定食もあります。どの定食も漬物や筍などの煮しめそして鹿肉の佃煮お抹茶つきです。コスパは納得の内容です。
猪肉は「山鯨」と呼ばれます。猪は運動量が多いので筋肉質で血液が濃いのでしょう。軟くて脂身の強い豚肉に慣れた私には猪肉は筋肉がしっかりしていて噛めば噛むほどに肉の味が口中に広がりました。猪肉を牡丹とも山鯨と呼ぶのも解りませんでしたが赤肉が強い事猪の血液が濃くて亜鉛や鉄分のミネラルが多いのでしょう。豚の脂身はしつっこいのですが猪の油はサッパリしています。噛むほどに私の体が悦んで「骨をガタガタ言わせているのが感じられました。猪と言えば私が脳梗塞を発症する直前愛知県と岐阜の境に在るた香嵐渓に紅葉狩りに行きました。足助の井筒亀(いづかめ/猪料理の名店)の入ろうと迷ったのでしたが、入りませんでした。以来3年越しの猪の味でした。あんまりおいしいのでシチューの汁に白飯を混ぜて平らげてしまいました。
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猪シチューの汁に白飯を混ぜて猪君の命を有難く完食しました。
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花札の猪鹿蝶はジビエ三役です。他の役札に比べると異色です。
思えば最近はジビエが人気です。ジビエは元々狩場を持っている貴族の食べる料理ですから、庶民が食べる家畜とは異なります味が濃いのはミネラルが豊かで体に良い証拠でしょう。最近の調査では国内の野生のイノシシの数は3万頭でその被害は300億円と聞きます(農水省野生鳥獣害防止マニュアル/http://www.maff.go.jp/j/seisan/tyozyu/higai/h_manual/h26_03/pdf/data0_6.pdf#search='%E9%87%8E%E7%94%9F%E3%81%AE%E7%8C%AA%E3%81%AE%E6%95%B0'。地方ではジビエを真剣に検討していると聞きます。でも野生ですから寄生虫や細菌の検査が重要で猟をはじめ解体、料理各ステップで問題をクリヤーしなくては販売できません。日本も私のような庶民も西洋貴族の味覚に興味を示し始めたのです。
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これは足助(愛知県)の井筒亀の駐車場に干された猪の皮一冬越せば運の無かった猪の記憶が並ぶのでしょう。



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ムーミン谷に春風吹いて・・・。

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竹庵で猪のシチューと筍を食べて私の体は喜んでいます。帰路は養老渓谷を経て圏央道アクアライン経由を走る事に致しました。大多喜街道はいすみ鉄道と並行して走ります「いすみ鉄道」の線路は菜の花が飾っています。線路脇の土手では菜の花に埋もれてカメラマンが列車を待っています。いすみ鉄道(いすみてつどう)は旧国鉄木原線を引き継いだ大原上総中野(27キロ)の鉄道で上総中野では小湊線と接続お木更津まで走ります。房総半島を笠懸に横断する鉄道です。沿線自治体などが出資する第三セクター方式の鉄道で開業以来慢性的な赤字経営に瀕していましたが、2007年10月29日に行われたいすみ鉄道再生会議で、公募により鳥越亮氏が社長に就任し。同氏のアイディアと地域の愛情によって収支は黒転シ順調なようです。(社長のブログ:http://isumi.rail.shop-pro.jp/?cid=23908」ムーミン谷の々人々」。
そんな訳で私達はいすみ鉄道の看板駅「国吉駅」に向かいました。
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菜の花の中を進むムーミン列車(ポスター複写)
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この土手の上が線路です。カメラマンは菜の花越しに撮影しようと花の中で蹲って辛抱強く待ちます。
線路は「夷隅川の谷あいを走っています。その地形が「ムーミン谷」を想わせたのでしょう。東京横浜の都会人は何時もムーミン谷に憧れています。私が猪や筍を食べたいと想うのもムーミンが好きだからです。ムーミン谷は秩父鉄道(飯能)にもあります。日本の都会人はムーミンが好きなのです。
ムーミンはフィンランドのトーベ ・ヤンソンの童話です。フィンランドとはフン族の国の意味でしょう。フン族とは5世紀に南ロシアに居た山岳民族で、 草原地帯から東には アルタイ山脈を越えてモンゴル高原に入り、中国や韓国に至ります。一方に西にも広がりポーランドゲルマン民族を近辺に居たゲルマン民族を追い遣ります。ゲルマン民族は西に追い遣られローマ帝国に浸入します。ローマ帝国は東西に分裂しさせ暗黒に陥ります。フン族が彼らが東西に拡大したのは騎馬を巧みに操ったからでしょう。鯖田豊之の「肉食の思想」風に言えば。騎馬民族のフン族が「去勢の技術」を進化させることによって優秀な軍馬と羊の育成に成功した事から古代末期の民族大移動と中世末期の匈奴帝国(ジンギスカン)の帝国を実現した事になったのいでしょう。
フン族の民族文化は日本にも伝わり、日本にも東北蝦夷には環状列石が幾つも発見されています。狼信仰や山の神」の信仰も日本文化に色濃いものがあります。そんな文化の記憶がムーミン谷を懐かしんでいるのかもしれません。
日本人にフィンランドやスコットランドの湖北地方が好きで、ケルト文化が好きなのも山の民であった記憶が為せるものでしょう。
息子の車のCDは何時もエンヤが懸っていました。私は塩谷を聞くたびにアイヌの祭り(イヨ万マンテの夜など)やストンヘンジを想い出していました。
こんな話はまた別の機会に書く事にしていすみ鉄道のムーミン谷を紹介しましょう。
私達が「国吉駅」に着くと2両連結のムーミン車両が駅に停車していました。単線ですから対向車線の停車待ちのようで。乗客は駅舎に降りて駅舎売店で土産物を買ったり記念撮影をしています。お嬢さんは素敵なおみ脚と二の腕を見せびらかせています。叔父さんの眼には眩しく見えます。ホームの桜は未だ1部咲きです。駅舎には満開の桜と菜の花を散らして走るムーミン電車が貼られています。私はポスターを複写して我慢しました。
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菜の花色の列車は鈍行でオレンジ色の列車は急行です。どの車両も一世を画した車両と聞きます。
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いすみ鉄道は一日切符(乗り降り自由)が1000円です。もう春一杯の井出達のお嬢さんがキャピキャピしていました。後4日もしたら桜も満開になる事でしょう
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国吉駅の売店土産物や記念品が集められています。でもワイフが濡れせんべいを買った様に絶対的な土産物が無い事が残念です。
ワイフも国吉駅駅舎で何か求めています。何かと思ったら「濡れせんべい」でした
「濡れせんべいは美味しいけどいすみ鉄道では無くて銚子電鉄の名物だよ」私は言います。発車のベルが鳴ります。
何時の間にか急行列車が来て、急行列車が出発するのです。先頭2両は食堂車イタリア料理の喜八レストランが人気のようです。http://www.isumirail.co.jp/gurume/2509。喜八レストランも何れはジビエが売りになる事でしょう。伊勢エビも良いんですがムーミンに伊勢海老は無関係です。ムーミン谷にはジビエがお似合いです。
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急行列車は先頭2両が食堂車でレストラン喜八のイタリアンが楽しめます。
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千葉県には不採算鉄道に銚子電鉄もあります。同社のか看板商品は特産の生醤油を使った濡れせんべいでして、いすみ鉄道でも売られていました。銚子電鉄にも鳥越亮氏のような人物が出現して消滅の危機から救ってほしいものです。財政援助に依らずに住人の地域愛と都会人の自然回帰を刺激するようなアイディアマンが期待されます。
私は品川発の修学旅行列車で。銚子駅でセーラー服のお嬢さん、詰襟のお兄さんが出迎えてくれれば喜んで乗るのですが。勿論列車で食べるのは牛乳に揚げパンの給食です。

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最期の晩餐は絶対に猪です。

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「山の神」狼の事を考えていたら狼の気持ちが乗り移ったのか猪を食べたくなり大多喜の竹庵に行った話は一昨日しました。実は好運なことに猪の生肉を大量に戴き毎日のように猪料理を戴いています。一昨日は味噌煮を昨日はカレーでそして根菜を入れて猪汁にして私の胃袋に収まっています。お蔭で体力も気力も充実しています。

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手塚治さんの描く狼像。狼は「大神」「大咬」が語源だというとおりに神々しく「山の神」の威風があります。
というのは29日墓参りした序に知り合いの農家に寄って今年の田圃の耕作依頼をしに寄りました。するとご主人が庭先の陽だまりで大きな肉塊の切り分けをしておいででした。私はそれが猪の肉だと瞬時に解りました。何しろ牡丹肉の名の通り朱色が濃いのです。ご主人ににじり寄り色々聞いてみました。白子町でも猪の害が問題になって農家が自主防衛のために仕掛け(罠)を畑に仕掛けてあるのです。偶々成人の猪が懸ったので農家同士で分配したのだそうです。でも屠殺皮むき解体・血抜き」は山で行ったので、肉に毛が付いているわ精肉に解体するには大変な苦労なんだそうです。筋肉に沿って肉を包んでいる腱を丁寧に剥がさないと肉が硬くて噛みきれないのだそうですご主人はナイフを砥石に擦りながら腱を抜いて行かれます。そして「良い時に来られた好きなだけ持ち帰りなさい」仰って奥様に庭先の野菜を採るように指示されます庭先には真っ青なにんにくが生い茂っています。倅は車が臭くなるのの無口です。私は猪の肉に憑りついた血の塊に見入ります。赤黒くベッタリと肉に付いています。血だ!古代人が穢れとして忌み嫌った血だ!思います。
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前脚を解体精肉にするご主人
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腹の肉を精肉処理されるご主人の手元
焼畑農業時代山の民はこの叔父さんと同じように猪を屠殺して血抜きをしたことでしょう。猪の地が大地に浸み込みます、血抜きを怠れば肉は早く腐ってしまいます。そんなわけで血は穢れたもの、忌み嫌われるもの一方焼畑で使う火は穢れを払うもの清浄なものと確信したのでしょう。(こうした考察は民俗学者の宮田昇氏が詳しいもの(女の民俗学など)家に戻ると新聞に高野山の「血曼荼羅」がコンピューターグラフィックで再現された記事が載っていました。高野山も吉野も狼が居なくなって久しく猪の食害に困っていると聞きます。高野山は聖域で女性が入山できないのも女性が血に穢れている(月経や初潮)と言った偏見に起因しているものでしょう。山の神は女性であり、古代は母権社会古代は女性天皇が普通だったのでしたから・・・・、山の民が里の神「田の神に席巻された歴史は大和朝廷のと統一に軌を同じくします。大和朝廷が男の武力で統一される中で、女性は男の下に位置し沢山の差別や偏見を受けたものでしょう。この辺りは柳田国男氏の「姫の民俗学が示唆し富んでいます。)
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高野山の血曼荼羅(一般には赤曼荼羅)をコンピュータグラフィックで再現した記事(読売新聞)


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これが棒忍辱これが生が就くんです。野蒜と玉ねぎの掛けあわせのようです。生味噌で戴きます。
猪肉を連日戴きます。
ご主人の一押しは串差しの焼き肉です。塩コショウして焼き上げます。
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翌日は私の注文で猪肉の味噌煮込みです。味噌は八丁味噌が最高です。ワイフは筍も一緒に煮込んでくれました添えた野菜は棒忍辱です。ワイフは滋養が付くのは良いものの着きすぎで血糖値が上がらないかと心配気です。

私の体は喜んでいます。屹度亜鉛や鉄のミネラルが不足気味だったのでしょう。乾いた大地に慈雨がしみいるようにミネラルが体に行き渡るようです。その気になって新聞を見たら亜鉛が味覚を刺激するのだそうです。亜鉛不足は味覚を鈍らせるので、砂糖や塩を過剰に摂取させるんだそうです。
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最期の晩餐に何を食べたいか?落語家は鯨と主張していました。海の鯨より山の鯨の方が美味しい事をご存知でないようです。明日は猪のカレーです。落語家に教えてあげたい気になります。
昔本栖湖の湖畔で食べたことがありました。もう名物の富士桜が咲いたか気になります。
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最後の晩餐は鯨を食べたい気勢を上げる木久蔵師匠。被災地支援の思惑を外せば私達は山の民ですから「山の鯨」と呼ばれる猪の方が美味しいと思うのですが・・・。


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アスファルトに咲いた菫草

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昨日4月2日はお花見日和来週は吉野山ですから、近所のお花見は今のうちに済ませておかなければなりません、週間予報を調べて出かける事にしました。
そこでワイフと二人で先ずJR藤沢駅そして遊行寺を巡って鎌倉古道を俣野に出かけました。遊行寺は俣野五郎景平が開基です。実は10日前にも春を探しに俣野には来ましたその時は息子と娘夫婦5人で来たのでしたが肝心の花は桜も片栗もまだ蕾でした。ところが10日後の昨日はもう春は行き過ぎようとしていました。楽しみにしていた片栗はもう萎れてしまって「来年また来てください」囁かれたようでした。水芭蕉も咲き終わろうとしていますし脇の土手には菫が群れ咲いて居ます。
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10日前は顔をだしたばかりの土筆坊でしたがもう杉菜になろうとしていました。撮影場所鎌倉古道俣野の畦道
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もう水芭蕉も最後です。撮影場所俣野園の古池(許可を求めれば気持ちよく見せて戴けます)
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土手には立壺菫がむ群れ咲いい居ました撮影場所同上俣野園の園地)
水芭蕉と菫を見れば私もワイフも野ざらし紀行を想い出します。
山路来てなにやらゆかし菫草 芭蕉
芭蕉は大津から逢坂山を越えて伊賀に向かいました。峠道で友人桐葉の娘が法持寺に眠っていることを想い起こし墓参に遠回りしました。その山路に咲いて居たのが菫でした。菫の逞しくも一途な生命力に感動し、同時に可愛い盛りに逝った娘を憐れんで吟じた句でした。
鎌倉古道を東に折れて影取のバス停に向かいます。影取は大きな池があって池に住む大蛇の伝説の残る土地です。
殺生を禁じられた大蛇が池に映った人影を呑み込むことによって飢えを我慢したものの鉄砲で撃たれてしまった哀れなお話ですが何処か熊野信仰の匂いが嗅ぎ取れます。
バスに乗って日立入口で下車します。此処八坂神社前で東海道から三浦道が分岐します。分岐点には「左鎌倉」と刻まれた阿弥陀庚申塔がありました。
私はワイフに導かれて一歩一歩確実に歩きます眼は真東を向きますが、足元にも気配りいたします。倒れたらリハビリの努力が水泡に帰してしまいます。日立製作所正門前まで来ました。もう我家の朱色の屋根も見えます。倉田の山は桜が多いのです。あの桜山も今年が見納めかも知れません。と言うのは都市計画道路の道路用地になっていて近々工事が始まるのです。父も叔父もッて等の裏山で莚を貸して小遣い稼ぎをしていたそうです。昔は盛徳寺の裏山は絶好のお花見会場だったのでしょう。近景は大島などの山桜中景にかしおがわと桜堤防が見渡せて菜の花畑が広がり遠景は丹沢を裾に富士山が仰ぎ見られたのでした。父は茣蓙を貸して小遣い稼ぎに汗していたそうです。そんな風景も都市計画道路で跡形なく消えてしまう事でしょう。
ふと足元を確認するとガードレールの陰に菫が見えました。芭蕉が吟じた立壺菫では無くて園芸用の濃い紫の菫です。「野路菫」です。アスファルトに根を張って健気に花を咲かせています。アスファルトに咲く花は数多きありますが、この野路菫程に綺麗な花は少ない事でしょう。何処かのお婆ちゃんが園芸店で菫を求めて来てこのガードレールに身を委ねて一服したのかもしれません。その時トラックが走って菫の種がアスファルトの上に散って。雨が種をアスファルトの溝に運んでそこで発根したのかもしれません。でもアスファルトの上では御日様が良く当たります。年々菫の株が増えてこの春は5株にも増えて夫々に花を付けたのでしょう。
アスファルトに咲いた菫花
何故此処に?訊いてみる
居心地如何?訊いて見る
答えは私の顔に出ているでしょ!囁き声が響きたり
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三浦道日立入口の道路に咲いた「野路菫の花」道路の向こうが日立戸塚戸塚工場です。此処に阿弥陀庚申塔(道路標識兼務)が立っていました。

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倉田の山並み筆者の生家盛徳寺の裏山は大島桜山桜の山でしたが都市計画道路になっていて今年の花が最期と心配されます。
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昨日の柏尾川堤防の花見風景


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佳子様の袖吹き返すいたずらな風

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昨日(4月3日)は神武天皇祭でした。明治31年の4月3日に奈良県の神武天皇陵一帯を森林に整備して橿原神宮を建立したのでした。今日は畝傍御陵も神武御陵も桜が舞い散っていることでしょう。明日からは寒の戻って私が行く4月10日まで桜が長持ちしてほしいものです、今頃は明日香を見下ろす渡す甘樫丘も桜が囲んでいることでしょう。
甘樫丘の頂に登れば西に多武峰、東に神武天皇陵、その彼方に二上山が眺められます。二上山の雄嶺・雌嶺には天智天皇の皇子である志貴皇子が眠っておられます。
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向こうのお岡が甘樫の岡その彼方が二上山、手前の五輪塔が曽我イルカの首塚大化の改新の舞台になった飛鳥板葺の宮跡は一面蓮華草が咲きます。

甘樫の岡の頂には志貴皇子の歌を刻んだ歌碑が建っています。
釆女の 袖吹き返す 明日香風 都をとおみ いたづらに 吹く    
都の美しさを象徴する采女は天皇とともに新都藤原京に遷ってしまった。明日香は一気に寂れてしまって昔は采女の袖を吹き返して板替えした風も今日はいたずらに吹くだけです。
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折口信夫氏の文庫本の「死者の書」と「神の嫁」が載っていました。
先日は折口信夫氏の「死者の書」を読みました。「死者の書」は非業の死を遂げた志貴皇子の魂の蘇りを著した名作でした。私は折口氏に「神の嫁」も著作がある事を知り続けて読みました「神の嫁」の表題から斎宮の話かと思ったのでしたが内容は釆女を民俗学的に考察したものでした。
[采女]とは大和朝廷の創立期に地方や大和近隣の豪族が自分の自慢の娘さんを宮中に宮仕えさせてその勢力拡大や情報の取得をしたものが始まりであのカラフルな縦縞のロングスカートをはいた高松塚古墳の女子像がそれでした。歴史は学問ですから実証的な根拠が必要です、小説は歴史と物語の中間で読者や作家の推理力が自由に活かされるので面白いものです。折口信夫の業績は民俗学と小説とがのクロスする辺りにあるので一層興趣が尽かないものです。この齢になってわかるくらいなら学生時代に勉強すれば良かった、折口学の門の前を何度も素通りしてきたのでした。
でも高松塚古墳の女子像はをよく見ると、袖が明日香風に翻る程に長くはありません。
志貴皇子の詠われた「袖ふきかえす」服装とは高松塚より 袖はもっと長く、振袖のように雅なモノだったのでしょう。
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4月3日の新聞は秋篠宮佳子様の写真が載っていました。先日お洋服がシャネルと報じられて物議を醸されましたが報道陣の誤報と判じられ国民の佳子様人気はさらに盛り上がりました。気品があって清楚な美しさは志貴皇子時代から大和男子の憧れでしたから・・・。佳子様の美しさと成長を確認されて天皇陛下も美智子妃殿下も目を細めてお喜びされた事でしょう。小泉内閣時代に皇室典範問題で国民は心配しました。
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一斉に報道された佳子様の天皇陛下ご訪問筆者はこの美しを見て志貴皇子の歌(釆女の 袖吹き返す 明日香風)を想い出しました。
皇室典範が改変されなければ皇位継承権第3位が秋篠宮の第一子男子の悠仁親王になります。でも改変して女性天皇の道を開こうとする意見も強かったのでした。でも秋篠宮家に博仁親王がお生まれりなるとこの問題も消えてしまいました。
日本の文化や伝統を重んじれば男系一統を守るのでしょうがグローバルにも憲法でも男女の差別は不適当です。
今私達の世代で決めるのではなく次々世代の判断に委ねようとすることになったというべきでしょう。歴史を紐解くと保元平治の乱を始め国の乱れは誰の子か紛糾し田事に因を発しています。こうして佳子様のご成長を見るにつけ次の国母は秋篠宮紀子さま贔屓になってしまいます。私は天皇制は嫌いですが天皇家は我が国の家庭の模範型であってほしいと期待するものです。
私(老人)の心配は続きます。佳子様に式子内親王のような苦しみは経験されないでほしいという事です。式子内親王は後白河法皇の第3皇女であられました尊い御身分に加えて美しく聡明であられた事から鴨の斎宮に任じられまあす。鴨神社の歌巫女として神の面倒を看る大役でした。神の巫女は恋愛も許されません。斎宮を下りられても恋愛は禁じられていました彼女の才能は和歌に注がれます。
霊の緒よ絶えねば絶えね永らへば忍ぶることの弱りもぞする
ながめつる 今日は昔に なりぬとも 軒端の梅は われを忘るな
忍ぶ恋歌を、歌われます。昔の人も現代人も式子内親王の「想われ人」は誰であったか気になります。鎌倉時代も室町時代も式子内親王の想う相手は古今集の撰者藤原定家であろうと推測して金春禅竹は謡曲「定家」を創作します。
式子内親王の霊の緒が定家の恋の妄執で苦しくて黄泉から現世に蘇ってくる戯曲でした。現代になると恋の相手は法然上人であったとする推論が発表されます。「想われ人は法然」石丸晶子氏斎宮に処女性は絶対条件でした。それが斎宮を下りても強要されたのは惨い事です。「道ならぬ恋」は永遠のテーマで、相手を神なのか延暦寺の僧侶であったのかあんまり変わらないと思います。
でも私は志貴皇子の歌が好きですから金春禅竹派です。昨日は京都も桜は満開であったと聞きます。定家の住まいのあった小倉山から二尊院辺りは桜が美しく沢山の花見客が式子内親王や藤原定家に想いを馳せて居る事でしょう。佳子様は式子内親王のように苦しまなくて自由に恋愛も楽しんで欲しいものだと思います。佳子様が袖にされた学習院ではご両親が地誌や歴史のサークルで恋をされました。木曾の奈良井宿で偶々入ったお店でお二人の写真を見つけました。仲良く囲炉裏端で寛がれておいででした。今頃は木曾路にはかたかごの花(片栗)も咲き出したことでしょう。
早春の光さやけく木々の間に 咲きそめにけるかたかごの花 秋篠宮紀子妃殿下
この歌は次に書いたことがありました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/42655259.html

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式子内親王図(狩野探幽)筆者は定家への恋を(謡曲の定家)を次に書いたことがあります。()http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45167460.html




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女人禁制が教える事

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大坂場所は予測通白鵬の優勝で無事終えましたが、肝心の白鵬の顔に笑みが無かった事が気懸りです。白鵬が「家には山の神が居ますから自分の優勝は神のお蔭です」言ったのは初場所のインタビューでした。日本文化に造詣の深い白鵬ですから奥さんの事を「山の神」と呼べたのでしょう。4月1日白鵬は高野山金剛峰寺で奉納の四股を踏みました。弘法大師の開山1200年の祝い行事で聖地の大地神を祓い清めたのでした。4月2日には九段の靖国神社で四股を踏みました。4月3日は藤沢辰口の常立寺に墓参りしていました。同寺には5人の蒙古国史が惨殺されて眠っているのです。朝青龍が墓参して以来藤沢場所の始まるのに際してモンゴル出身力士が墓参しているのです。
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靖国神社での奉納相撲(写真出典産経スポーツ)
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高野山金剛峰寺で奉納する白鵬お坊さんが多勢見詰めています。出典報知新聞社)
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藤沢の常立寺で蒙古国使の墓を墓参する横綱白鵬(出典:神奈川新聞)朝青龍以来湘南に住む人にとっては季節を知らせる行事になりました。

土俵は聖界と俗界とを区別する結界です
お相撲の土俵には女性は上れません土俵の形からも明らかなように土俵は結界であり円の内側は清浄域で円の外側は俗界不浄域なのです。女性は結界の内には入れないと考えるのが「女人禁制」の考えでお相撲がグローバルでジェンダーになる時代ですから何れかには廃棄される思い込みでしょう。女人禁制の高野山でさえ世界遺産に指定されて女性は入山規制も無ければ女性風呂も女性トイレも用意されています。女人禁制はモンゴルの霊山では今日も守られているようですから、白鵬の方がお相撲の女性禁制に抵抗があるかも知れません。何しろ奥様を「山の神」と呼ぶほど古風なのですから(愛妻家という方が適切かもしれませんが)
【誰もが女性は穢れているからというけれども】
そこで何故女性が禁制となっているのか?考えてみます。ネットで調べると殆どが女性は血穢しているから・・・・禁制されていると説明して当然のようにしています。
動物はき大量の羊水と共に産み落とされます。そして大量に出血すれば死んでしまいます。人間の生死は血穢と共にあります。血は穢れているのでタブーであるのなら人間自身もタブーを犯した存在にになってしまいます。
人間自身の存在も肯定した考えが気になります。昨今はモンゴルやチベットの民族習慣がテレビで紹介されます。遺伝子科学まで習熟した私達より未開でシャーマニズムと低く見られている山の民ですが彼らの方が幸福そうに見えるのです。そこで文明人は競って未開の山の民を見聞して「幸福の鍵」を探そうとしているのです。
山の民は、有史以前の日本人にとってもチベットの人にとっても生死は理解を越える畏怖すべき出来事に変わりありません。
眼に見えるものは肉体だけで生死はなぜ起きるのか眼には見えません。そこで山の民は霊(霊の緒)が肉体に入れば生、肉体を離れれば死と考えて、霊の緒は空中を地中を彷徨うものと考えたのでした。そして忌まわしい病気も不幸も災厄といった目に見えない厄病の種が浮遊してもたらすと考えたのでしょう。
結界は聖域に霊の緒を留め、外域から災厄が入ってこない様に境界を示したものだったのでしょう。山の民の時代は聖域は山の上が主で人間は狩猟と果実の採取で命をたもっていました。そして焼畑農業を想いつきました。山を下れば湿地で底に足を踏み込めば蛭やツツガムシに犯されます。山を下れば疫病が蔓延した穢れた世界だったのでした。(穢れるは気が枯れるとも怪我をするとも書きます)。高野山や吉野山は先史時代からの聖域だったのでした。そこは血穢があったものの、霊の緒が漂い、生死が輪廻する世界でチベットの霊山と同じように尊崇された霊域でした。
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ブータンの切り立つ崖にあるタクツァン寺院女性禁制は世界中に在ります、女性禁制は女性が穢れていると単純に考えるのでなく、危険だから女性を遠ざける、とか女性の体を保護するそんな考えも在ったのかもしれません。出典BS朝日宮本亜門が行く「しあわせの国ブータン」画面を複写

【農耕民族の出現】
日向の高天原に降りた神々は稲作技術を携えて東に向かいます。古事記に依れば神武天皇の東征の始まりでした。農耕民は吉野山の麓から奈良の中原に進出して湿地を開墾して稲作を始めます。山の民は里の民と交わります。里の民の生産合理性と山の民の権威が合体して大和朝廷は国家の統一に成功します。稲作民族の宗教観や世界観が山の民族の宗教観に勝ります。里の民は湿地を開墾します。主要な作業は湿地から余分な水分を抜き泥地を堅固にする作業でした。そんな作業が相撲の動作に残されました。山の民は母系社会でしたが里の民は強い父権を核にする男系社会でした。男系の思想が女系の思想を凌駕すると女性が血穢によって忌られる思想を勢いづかせ、「聖域には女性禁制」の思想を普遍化しました。
男系社会は女性を禁制にしておいた方が都合が以下の事情で良かったのでした。
1、里の民の政権を確立しやすい(山の民を政治権力から遠ざけられる。)
2、父系社会の方が母系社会より安定的である(親族の争いが起り難い】
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奈良「山の辺」正暦寺近くの祀られた「田の神様」山の神は女性でしたが「田の神」は男性でした、稲作が大規模な灌漑土木事業を必要とし、強い政権が出現してからこそ可能だったからでした。猪も狼も多産で子育てが上手ですから山の神のお使いになりました。
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三輪山の山裾には箸墓があります。箸墓は倭迹迹日百襲姫命伝承墓であると同時に巨大な溜池です。里の民である姫の家に三輪山の大蛇が通い婚姻する民話が伝えられています。民俗学的には里の民が山の民と結婚して、権威と武力を有してさらに強大化した事実を伝えていると理解されています。この近くに田の神があり、三輪山の岩屋に大蛇の住まい言い伝えられその北には相撲発祥の神社があります。
【幾つもの間違った説明】
1【山の神が嫉妬するから】女性禁制の理由を山の神が嫉妬するからと説明する事が多いのです。トンネルが開通したりスーパー林道のの開通記念に女性が参加する事を拒まれると「大抵神様が嫉妬するので・・・・」説明されますが、
神様が人間の女性に嫉妬する筈はありません。神様はそんなに俗ではないですから。
2、【血穢によって穢されると災難が遣って来るから】
血穢と言った感覚自体が自分自身の否定です。血穢を伴って生まれた自分ですがそれが災難という事は自己矛盾です。
3、【女性が入ると修行の妨げになるから】
これは一理あると思います。久米の仙人でさえ女性のチラチラを見て神通力を失って空から落下したように、高野山や吉野山の修験者お坊様の修行の妨げになる心配があります。
4、【女性の保護の考え】
これは柳田国男等の民俗学者の考えです。女性が出産したり月経があった時長い月経小屋, 産屋(炭焼小屋の様な簡素な家。此処で付添い人に見守られて大事を済ませ体を休めた)女性の体に出血の負担が生じた時に女性を病気や重労働から保護する目的で女性禁制の空間を用意した。
【女人禁制の根拠】
道元様も親鸞様も女人禁制ほど馬鹿げたルールは無いと看破されています。私もグローバルでジェンダーな時代伝統の女性禁制の文化をどのように理解すべきか考えて来ました。結果次のように説明したいと思います。
1、私達は歴史上稀なほどに物に恵まれています。でもそれでも飽き足らずもっともっと物への欲望は満たされません。もっと欲しいもっと異性にもてたい欲望は底なしです。欲望を「穢れた心」と置き換えて、下さい、穢れを除いた禊した心でいれば幸福感は隣に居る事でしょう。欲望【穢れ】の増幅を停止したその先に心の平安ががあるという教えです。欲望【穢れ】を停止して精神を清浄に保つの意が修行で、修行の日常的でいつでもテンションが変らない状態が悟りだと推測するのです。女人禁制は修行するうえで重要な外部環境なのです。キリスト教世界でも女人禁制は在りますし。女性が修行する場には男子禁制もありうるのです。
既に祇園祭の山車にも秋田竿灯にも津軽ネブタにも博多山笠にも女性は乗っています。天照は女神ですが粋で綺麗な女性が好きな男神も沢山いて女性禁制は稀な世界です。本来日本文化は女性的で中国や韓国文化はb男性的です。日本文化は純粋培養する特長があるので禊の色が濃いのです。日本文化がグローバル化した暁には「日本には二本文化にも女性禁制の考えがあった」事実が希少で文化遺産に指定化されるかもしれません。


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乳母桜の民話

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深夜ラジオ(ラジオ宅急便)から「望郷のバラード」が響いて来ます。今夜のお客さんは「天満 敦子」さんです。敦子さんは繊細で哀愁の漂うバイオリンのイメージとは打って変わって太い声で居られます。それにお話の面白い方のようです。音源は南相馬での震災復興支援コンサートでの録音だそうです。「ふるさと」「ジュピター」が流れます。彼女は縁があるし無伴奏なので震災地のコンサートには打ってつけなのだそうです。彼女のお母様は南相馬のご出身でしたのでご親戚が同地に多く居られ4人も被災されて居られるそうです。とりわけ乳母として育てられた叔母様は津波にさらわれ未だみつかないで居られるそうです。
敦子さんが演奏中に突然に「ガボッ・ガボッ」と耳鳴りがしたんだそうです。天満 敦子さんはその瞬間に「アッチャン私は此処よ」水底からの叔母さんの声を聞いたんだそうです。
私は「好い話だなあ!」思いながら聞きました。これこそ「現代の民話」だなあ、と思いました。
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これが相模第一の桜の銘木長興山紹太寺の枝垂れ桜。此処は稲葉家の墓所ですから春日局の乳母桜と呼ばれてもいいのですが・・・。
音楽家にとっては耳こそ命でしょうから叔母様の「命のメッセージ」は耳に届いたのでしょう。
敦子さんの乳母だった人の震災民話でした。
日本中に乳母姥桜が咲いています。姥桜とも書きます、この場合は/歯の無い桜の意味で年寄りのくせに妙に艶っぽい女性を揶揄しています。乳母桜は字の通り乳色の花を咲かせる桜の意味です。民話に採収されているうばさくらは乳母のほうです。)の。乳母とはお母様に乳が出ない時に、に出産間もない人に乳母になって貰い空いている方の乳房をあてがった事に由来します。神様はそんな場合も想定して乳房を二つ下さったのでしょう。決して好き者のお父さんを慰めるために用意されたのではありません。天満 敦子さんの場合はまさに乳母の字が該当します。南相馬は三春に近く桜の名所です。
ところで有名な乳母と言えば徳川家光の乳母「春日局で」です。 稲葉正成の妻でしたが徳川家の乳母【家光】になるために離婚して大奥に入ります。
稲葉家の墓は小田原の長興山紹太寺にあります。同墓所には見事な枝垂れ桜があって相模第一の名木です。でも乳母桜と呼ばれていません。理由は春日局が愛情深い乳母のイメージが無くて逆に政治家としてのイメージが強いからでしょう。
乳母桜の民話は全国各地に残っています。愛媛の大宝寺(松山)の乳母桜は小泉八雲が「怪談」に採取した乳母桜です。(http://www.tate-mono.com/sakura/cat0001/1000000002.html)京都の安国寺(綾瀬)の乳母桜も有名です。http://hukumusume.com/douwa/kisetu/hanami/html/06.htm
小田原の桜は毎年のように観に行ってこのブログでも紹介しました。今年も屹度見事に咲いたことでしょう。
日本最大の民話は古事記です。
【現代の民話】
字を持たない人達が語り伝えたものが民話で、民話は語り手が同時に聞き手であることが特長です。村人の共同体験が民話なのです。現代を生きている私達は辛い事に東日本大震災を経験しました。
敦子さんの話は多くの人が共感し話題にもし易いので「も現代の民話」ですし、
屹度「原子力発電所の放射能被害も」沢山の現代民話を生んでいることでしょう。
戦争世代が戦争体験を、沖縄の人が戦争体験を広島長崎の人が原爆や空襲を民話として次世代に残そうとして語り伝えようとするので「現代に民話」になっています。上田郊外の「無言館の画学生の絵も民話以上の民話性があります。そうした民話と同じように私達現代人も「自然災害や放射能を「平成民話」として残す責務があるようです。
【根尾谷の薄墨桜】も現代の民話になりました。
乳母桜と聞くと思い出す銘木がもう一本あります。岐阜県根尾谷の薄墨桜です。この春もテレビで中継されていました。薄墨桜は樹齢1500年も凄い事なのですが宇野千代さんを筆頭にして傷んだ桜を守って、枯れ始めた桜がまた息を吹き返したそんな話が添えられていることが民話的で良いんです。宇野千代さんの温かみも「桜乳母」と呼びたくなるようなお人柄で春日の局とは逆位置で良いんです。
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根尾谷の薄墨桜NHKテレビを複写
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宇野千代さんの桜のうちかけ作家としても着物デザイナーとしても有名ですが、お人柄も素晴らしいので薄墨桜の蘇りに成功したのでした。
【荘川桜も乳母桜です】
根尾谷も良いんですが岐阜県にはもう一本乳母桜と呼びたい名木があります。
庄川峡御母衣ダムの湖畔に咲く「荘川桜」です。どんな桜か確認したい人は民宿のHPを確認してください。http://www.shokawa.net/archives/category/%E8%8D%98%E5%B7%9D%E6%A1%9C%E9%96%8B%E8%8A%B1%E6%83%85%E5%A0%B1
御母衣ダム建設によって荘川村はダムの底に消えてしまいましたが。村に在った桜は湖の湖畔に移植され見事に活根したのでした。また合掌造りの民家(旧矢箆原家住宅重要文化財】は横浜の三溪園に移築されました。http://www.sankeien.or.jp/kokenchiku/yanoharake.html。荘川桜は旧国鉄バスの運転手が日本海から太平洋を結ぶバス通りを荘川桜で飾ろうとして御母衣の桜を実生で育てて植えた話です。中学校の国語の教科書にも採用されていますから今では「稲わらの火」以上の民話です。

【佐村河内氏の交響曲第一番】
敦子さんの話を聞いていて想い出した本が在りました。佐村河内守氏の交響曲第一番です。
守氏は冒頭カーフェリーの甲板から海に身を投げます。闇の中を沈んでゆきます。読者は安徳天皇の最期を想います。
守氏の耳からゴボッ・ゴボッ海水が浸水してきます。暗い闇の中で小さな光は消えそうでまだ消えません・・・・。
音楽家の命である聴力を失う場面が陰鬱な空気の中で描写されてゆきます。交響曲第一番は音楽も高いレベルでしたがゴーストライターも一級の力量でした。

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最近の読書で響いたもの左から「折口信夫集」「現代の民話」そして「交響曲第一番」
【胎児体験】
最近「胎児体験」とか「胎児教育」の話を良く聞きます。私達は胎児の時代に子宮内の羊水の中で母親と交信しているのだそうです。だから出産までの時間を胎内環境を良くしておくことが大切だと説きます。
私は終戦直後に産まれました。母は身内が戦地から無事に帰還する事を祈って過ごす毎日でした。だからでしょうか?私は高熱が出ると決まって真っ暗な闇の中を落下してゆく夢を必ず見るのです。地球から地球外に堕ちてゆくような地底に沈むようなそんな夢です。あの不安感は屹度私の胎児体験であろうと思っています。私の胎児体験は母体が戦地に赴いたままで帰還しない実兄の最期の場面の悪夢だった様に思うのです。その胎児体験は私の最期の時にまた再現するだろう・・・それが恐怖でなりません。最近では某病院ですごく旧式のCTスキャンの装置に入った時あの恐怖の胎児体験が再現しました。

ところで、様々な体験が民話として存続するには次の要件が必要なように思います。
1、同時代人に共通する共同体体験であること
2、人間の普遍性に根ざした話である事。
3、話したくなるし聞きたくなる話である事
4、場面がイメージしやすい事
上記照らし合わせれば敦子さんや宇野千代さんの話は民話に適合していますが春日局の乳母桜や交響曲第一番私の胎児体験は民話には成り得ません。



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電信柱の無い風景

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私は不評の団塊世代です。戦後ベビーブームで生じた鬼子行くところ行くところ摩擦を生じて来ました。入試も入社も同世代が多い分競争も激しく、知育偏重の教育を受けました。「何でも知っている子が優秀で、知らない子は落ちこぼれでした。団塊の名付け親は堺屋太一氏で、「戦後世代」と言えば済むものを「団塊世代」と呼んだのは通産官僚の悪い習癖でありました。人を個性で無くマスで捉えようとする発想は官僚の分析手法です。次に官僚が使う行政手法は法律やマニュアルに従って「粛々」と取進める事です。菅官房長官は普天間問題で再三「移設工事を「粛々と進める」との発言を繰り返して通産官僚臭のする嫌な言葉遣いだと思っていた所沖縄県の翁長知事から「上から目線だ」とかみつかれ、今後は改める訂正しましたが。小此木彦三郎(神奈川出身の通産大臣)の畑を引き継いだ所詮は秘書が適当な人物です。官房長官は荷が重すぎます。
通産官僚が書いた処方箋を実施しているだけの安倍自民党です。所詮戦後ベビーの私達は団塊扱いされて福祉予算圧縮の対象として母数(マス)扱いされるだけでしょう。
堺屋太一氏は贔屓の維新の会が蛇行して、そろそろ年貢の納め時のようです。発想自体が官僚で独創性に欠けているんですから。国の基本は産業で、産業は企業だとする発想は明治維新以来のもので、戦後民主主義の発想では無いのですから。
知育偏重の中で私は同世代の中ではサラリーマン時代までは勝ち組に居ましたが、就職先が破たんして以来負け組に入ってしまいました。加えて病気も重なり見える景色も変わって来ました。
例えば舗道です。自宅から駅まで歩道の幅が狭い上に上に電信柱が立っていて歩き難くて困りました。そこで行政とNTTと折衝し電信柱を移設して貰いました。みんなに喜ばれましたが、その後左足が不自由になり、その歩道も車道側に傾斜阿して居たり凸凹が激しいので危険であることが解りました。転倒したらリハビリ努力も水の泡です。注意深くして歩いていた所、アスファルトに咲いた野路菫を見つけました。菫の知識が悦びを増幅させてくれました。
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歩道のアスファルトに咲いた野路菫は私が杖を突いて歩くようになったので見つけた悦びでした。芭蕉の「山路来て…の句が悦びを大きくしてくれまあした。この記事はttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48642660.htmlに書きました
視線が変ると見える景色も違って見えるものです。
水戸の偕楽園に近い千波湖の黒鳥が7羽も撲殺された事件が世情を賑わしたのは2008年の今頃でした。本来ならシベリアに北帰行する季節なのに残っていたので発見されたのでした。水戸名刹所のメンツをかけた調べの結果犯人の中学生が解りました。
私は鹿島の神様のお怒りを懸念しました。古事記では日本武尊がの死ぬ場面を白鳥(八尋白智鳥)になって東に飛び去ったと話されていますし。その遺志を引き継いだ神武天皇は熊野で八咫のカラスに導かれたとも話されています。

神は白鳥や黒鳥に憑依しているのです。神が憑依している鳥を無意味に撲殺すれば神のお怒りを受けるのは覚悟せずばなりません。まして鹿島の神様は力が強くて地震を抑える力もお持ちなのですから。鹿島の神がお怒りになれば地震も津波も起りかねません。懸念通り3年後に大震災が発生してしまいました。鹿島で地震が起きたのは貞観11年869年7月9日)の貞観大地震発生でした。その災害にも負けずに生き残ったのが枕詞の「末の松山」でしたし次の大地震は安政の大地震」1855年でした。貞観地震の後には前九年後三年の役が発生し安政の大地震の後には戊辰戦争と天災は地変も呼び起こしています。
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地震を納める鹿島大明神を描いた鯰絵の呪符(神奈川県立博物館の鯰絵のポスターを転写)
歴史は繰り返さない様に戒める為には神意を無視した人間の驕りを戒めなくてはなりません。
そんな風に想っていた所テレビに神意に沿った景色が映っていて清々しい気持ちになりました。
宮本亜門さんがブータンを訪れて「倖せの秘訣」を探す紀行でした。ブータンの風景を楽しみに見ていたのでしたが。宮本さんはブータンの景色に電信柱が無い事に気づかれます。
ヨーロッパでは電信柱が無いのが普通です。それは景色自体が資産だから(スイス)など。
道路が狭いので電信柱を立てる空間が無い(大半)」。中世の道路を大切にしているから…等々色々考えられます。ところがブータンでは、電線が鶴の飛行の邪魔になりから・・・・電信柱を禁じているのだそうです。
鶴はヒマヤラを飛び越えて来る仏のお使いだから大切にしているのだそうです。
神仏は日本とブータンとどちらがお好きになられるでしょうか?それは明白です。
ご自身の乗り物である鳥を大切にするブータンに目を細め、鳥を撲殺する日本を戒める事でしょう。
私達は人間の目でしか気色を視ません。鶴の目で気色を見るそんな習慣があれば景色は随分違って見えるものでしょう。
少なくても弥生時代末期古墳時代の始まる頃は日本人の祖先はブータン人と同じように鳥に神仏を感じ崇めていたのでした。科学が如何に進歩しても神意を大切にする気持ち姿勢が無い限り倖せにはなれないのでしょう。
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ブータンの景色電信柱や高圧線が見えません、理由は神仏のお使いである尾黒鶴の保護のためだそうです。出典BS朝日の画面を複写)
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ブータンの里山を寄宿先に帰る宮本亜門さん。電線は地中化してあり家の近くで引きこんでいます。一般に家は三階建てで神仏の空間が3階2階は家族の住空間1階は家畜の空間です。生活の廃物は下の階の家畜が処分してくれます。
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スコットランドの農家電線は全く見えません。景色と遺産を大切にしているからでしょう。

私がアスファルトに咲いた菫に気づいたように視線を変えれば思いも依らなかった景色が見えてくるものです。
通産官僚的な視線が日本をリードしている限り国民は幸せになれないようです。
今の政府は沖縄に言って居るように行っている様に見えます。「君らは琉球人なのだから日本から出ていけ」
私達は民主主義の知識を入れこまれています。
民主主義の主権者は個個の人間だと。此処の人間が尊重されるのならば沖縄の自治も意見も尊重されなくてはなりません。
教えられた知識が知恵になって国民の幸せに役立つには試練があるようです。私は沖縄が好きですから締め出すような発想は嫌いです。

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甍に散る桜

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菜の花のおしたしの苦味が強くなってきました。今朝は寒くて雨が降りやみません。そう、菜種梅雨なのです。菜の花が菜種を稔らせるには欠かせない雨なのでしょう。私は明日の今頃は紀伊三井寺に居る予定です。有吉佐和子さんの紀ノ川に沿って高野山の刈萱堂まで遡り、夜は吉野山に泊まる予定です。屹度宮滝も大淀も妹背山も花筏でしょう。菜種梅雨も桜さんに優しく吹いてもうしばし花の命を散らさないでいて欲しいものです。
【初層は万葉集です】
私達の桜への想いは千年を超える堆積です。最初の層は万葉集です。
春雉(きぎし)鳴く、高円)の辺(へ)に、桜花、散りて流らふ、見む人もがも(万葉集真希0/1866詠み人知らず)
大凡の意味は『高円山で啼いている雉の声が響いてきます。御山には桜の花が風で舞い散っています。私は一人ですが一緒に観てくれる人が居ればいいのに)青春の憂愁は2千年前も今日も変わらないものなのでしょう。私達の仲間で皆から尊敬されている人にT慶応大学名誉教授が居られます。文献学を地道に重ねた上に西行を研究された業績は先年『西行集の校本と研究(笠間叢書)』を上梓されました。同氏の生家はこの山の麓と窺がっています。山を下って奈良高校に通学された姿が想われます。百毫寺は万葉集: 志貴皇子(しきのみこ」の宮があった跡だそうです。
百毫寺から明日香の方角を遠望すれば二上山が見渡せます。天智天皇の皇子として産まれた志貴皇子は歌心も優しく文武に秀でた人だったのでしょうが、鴨の翅に霜が積もったのに気づく繊細さは身内に愛されても権謀術数に長けた人達にとっては陥れるのは容易だったのでしょう。
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志貴皇子の宮の跡と言われる百毫寺奈良の市街地を見おろす位置に在り正面【西】が生駒山南に目を移すと二上山が遠望できます。その山の頂が志貴皇子の陵になります。高円山は志貴皇子の憂愁漂う山です。
采女の袖吹きかえす明日香風都を遠みいたずらに吹く(万葉集巻1)
石ばしる垂水の上のさ蕨の出づる春になりにけるかも(万葉集巻8)
葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒)き夕は、大和し思ほゆ(万葉集巻1)
T青年が西行法師に傾倒された最大の理由は成長された高円山の風景の中に在ったような気がします。
【2層は古今集です】
平安時代王朝絵巻のように華麗に花開いた文化の素材は桜でした。源氏物語も桜の花弁を素材にして表現したのでした。
花の色は うつりにけりな いたづらに   わが身世にふる ながめせしまに 小野小町(9番) 『古今集』春・1
いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬるかな(伊勢大輔)
【第3の層は新古今集です】
平安時代一条天皇を囲って出来た王朝サロンは鎌倉時代には後鳥羽天皇(後鳥羽院)に引き継がれます。
後鳥羽のサロンには二人のスターが居ました。男性は西行で女性は鴨斎院式子内親王でした。二人とも美男美女であり歌も心も敬愛されていました。王朝文化の残照としては最適な人物で後世にも強い影響を与えました。
能楽の「西行桜」も「定家」も二人が形も心も共感されていたからこそできたものでしょう。
はかなくて 過ぎにしかたを 数ふれば 花にもの思ふ 春ぞ経にける (式子内親王)

はかなく過ぎ去ってしまった年月を数えてみれば、花に物思いする春ばかりが心に残っている(…でも、毎年春に美しい姿を見せてくれる桜には、感謝の気持ちもあるのよ) この歌、晩年の式子内親王が自らの来し方を、桜になぞらえて詠んだ歌のように思います。我が仲間のT女子も再起活発な才媛で居られますが屹度こんな心境でワインをチビチビしながら散る桜を眺めて居る事でしょう。勝手に想像していると
「勝手にしてよ!」
私は「オヤジの同情など真っ平御免だから!それにブログに書くなんて違反よ!」嚙み付かれそうです。
惜しめども 常ならぬ世の 花なれば 今はこの身を 西に求めむ(鳥羽法皇)
鳥羽法皇ご自身も桜花に託して心情を吐露されました。
花散らで 月は曇らぬ よなりせば ものを思はぬ わが身ならまし (西行)
仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば
既に誰の眼にも華やかであった貴族社会は終焉し、忌まわしい武家社会が到来していることは明白でした。
武家社会は修羅社会であり畜生道にも劣る時代です。でも心は華やかであった王朝文化を懐かしみこの世の現実を無常と受け止め心は過去の王朝の雅に残しました。力では武士に適わないまでも文化や情緒では京の都が上だ自負していたことでしょう。
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写真は東慶寺に眠る小林秀雄氏の墓毎年彼岸花が供えられているのは西行研究でも先達であった同氏の心を前記西行の歌に因んだものなのでしょう。また小林秀雄氏は宇野千代氏に根尾谷の薄墨桜を紹介された事が契機になって宇野千代氏のハートに火がついて枯れそうな継体天皇お手植えの老樹を蘇らしたそうです。無常を映す素材としては桜に勝るものはありません。

【第4層現代では三好達治氏です】
東大寺大仏殿の背後に草叢が拡がっています。草叢の茂みに大きな礎石が転がっていますから好い気になって歩いていると転げてしまう危険があります。その草叢は平家に焼討された前代の大仏殿の敷地なのです。その礎石に思いを遣った人物は多かったのでしょう。三溪園はじめ各地のお庭に分散しているようです。
でも本来あった場所にこそ留めておきたいもので。この草叢が珠玉の文学を生んでいます。
うつろひし みだう に たちて ぬばたまの いし の ひとみ の なに を か も みる 【会津八一】
会津八一氏は戒壇院の四天王像を拝観してこの草叢を通って帰ろうとした折に作られたものでしょう。会津八一氏はこのモチーフがお好みで次の歌も有名です。
びるばくしゃ まゆねよせたる まなざしを 
   まなこにみつつ あきののをゆく                      会津八一

はる きぬ と いま か もろびと ゆき かへり 
              ほとけ の には に はな さく らし も

三好達治さんの現代詩に「甃(いし)のうへ」があります
私達は志貴皇子の「采女の袖吹きかえす明日香風都を遠みいたずらに吹く(万葉集巻1)」を思い起こします。
東大文学部の学生だった詩人は東大寺大仏殿の雑踏を後にしてその裏の礎石の残った草叢に来たのでしょう。
天空から桜の花が舞い散って来ます。
紀友則でしたら「しずこころなく花の散るらむ」と詠嘆して過ぎ去ったのでしたが。青春の憂愁に満ちた達治青年は舞い散る桜の中を通り過ぎようとするお乙女達にに眼を止めます。
乙女たちは何やら楽しげに語らいあっています。
黒髪に花弁は降り続けます。乙女は桜の花に気づいて大仏殿の甍を見上げます。
見上げた先には大仏殿の庇の先の風鐸があります。
乙女達は風鐸の風の音を聞いたのでしょうか?
でも風鐸を見上げるとまた歩いて行ってしまいました。
青年達治君は草叢に一人遺されてしまいました。まるで庇の先の風鐸の様に。
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大仏殿裏北側に戒壇院があります。会津八一氏は戒壇院で四天王を拝観して歌を残しました。大仏殿裏の草叢は歌や詩の心を惹起させるようです。

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大仏殿西側の回廊伊勢大輔)の奈良の八重桜は逆の位置です

甃(いし)のうへ  三好達治
  あはれ花びらながれ
 をみなごに花びらながれ
 おみなごしめやかに語らひあゆみ
 うららかの跫音<あしおと>空にながれ
 をりふしに瞳をあげて
 翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
 み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ
 廂(ひさし)々に
 風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば
 ひとりなる
 わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ  
三好達治の詩に触発されたからでしょうか?それとも伊勢大輔の歌でしょうか?
東大寺では大仏殿裏の草叢に桜を植樹されておいでです。冠のような姿の枝垂れが目を奪います。私は奈良の八重桜を探して草叢をアッチコッチ歩き回ります。もう日暮れて来ました。そろそろ横浜に帰らなくてはなりません。
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大仏殿裏の紅枝垂れ桜この桜を奈良の八重桜と思い違いをする人も多いでしょう。
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我家に咲いた山吹の花大田道灌の「蓑」の故事で有名な山吹も伊勢大輔の奈良の八重桜を知っていなければはじまりません。ところで我が家では北側に山吹が自生しています。風水的には南に山吹を咲かせないと金運にソッポを向かれるのでしょうか?お金が入って来るより出て行く方が圧倒的に多くて・・・・山吹さんの移転も考えようかと思います。
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 春日野の桜背景は三笠山
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奈良公園内の鷺池と浮見堂遠景は春日大社の森
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池に花弁が散って出来た花筏 白い花弁は万葉風(志貴皇子】なら朱鷺色は新古今風(式子内親王)朱鷺色のグラデーションは古今風(小野小町」かも知れません、日本文化の歌心は花筏のように層を為しています。

【お詫び】
そんな次第で明日早朝に出発して2泊3日で奈良旅行に出ます。その間ブログはお休みさせていただきます。想えば昨年の今頃は脳梗塞のリハビリ専門病院で泣いていました。旅行に出かけられるようになったのは感動です。家族友人そしてリハビリを手伝って戴いた方々に感謝します。では来週からまたお付き合い下さい。


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パイプ椅子13時間の拷問

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月11日深夜観桜旅行から帰宅しました。我家の露地に向かった県道を左折した途端に家の飼犬の啼き声が響いて来ました。ワン君が「親爺が無事に帰ってきたのを喜んでくれているのか。ワイフに「腹減ったぞ」訴えているのか不明です。
鶉チャンもチッチ・チッチ忙しく啼き続けています。ワイフが観に行けば6個も卵が転がっていたそうで、一日2個づつ生み続けていたことになります。鶉チャンが「お疲れ様でした、これで精機を取り戻してね!」エールを送られた気分です。明日から納豆攻めに遭う事でしょう。
何時もなら旅に同行してくれた仲間に御礼メールを出すのですが…、ワイフから「明日は早いのですから早く寝なさい!」指示を受けて、べッドに転がって深い眠りに就きました。
私は統一地方選挙横浜市戸塚区第20投票所の投票管理者の指名を受けています。
朝7時に投票所の会場を宣言しなくてはなりません。マニュアル通りに投票所及び投票所周辺の投票環境をチェックします。
そんな次第で6時にはバスに乗って駅東口の投票所に向かいました。ワイフが連れ添ってくれます。
第20投票所の管理者の指名を名を受けて10年になります。立会人も職員ももう何度も一緒に仕事をして来ていますから慣れています。
慣れた頃が一番事故を起こしやすいものです。また私語をしたりしてお叱りを受けやすいものです。ミーティングで戒めあいます。
8時に「投票所の開所」を宣言します。第20投票所は戸塚スポーツセンターですので開票所も併設されています。選管のお偉いさんもマスコミも多く集まっているので、少しのミスもお目立ちになってしまいます。兎角お目立ちの投票所ですので投票者も意地悪な質問をします。投票箱の鍵を開けたら締めて投票箱を開票所に納入するまで強い責任感と緊張が求められます。
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投票所周囲のチェックポスターなどが公平に公正に扱われて投票人が迷わないで来られるか?チェックを行します。
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投票所内の投票環境チェック投票人の導線が適正に導かれているかパソコンの操作を確認して、投票所内外の環境チェックを行ってミーテイングです。銀行員時代の朝礼を想い出します。
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これが投票所のパイプ椅子です。此処に13時間座って投票人を確認し続けるのは大変な負担です。おまけにパイプ椅子は尻が痛くなるのです。
無事に投票所の開所が終わり投票が始まりました。一安心です。
でもこれからが長いのです。私はパイプ椅子に座って1時間、尻が痛くなってきました。私は入院中に痩せてしまって尻の肉が削げ落ちてしまいました。尾てい骨がパイプ椅子の鉄板に刺して痛いのです。
仕方なくワイフに電話してパソコンに使っている座布団を持ってきてくれるよう頼みました。
私が子供を持ったころ校長先生が上梓してくれた著「日本の父へ」を想い出しました。「お尻に二つの丘があるのは躾の為である。子供を育てるには心優しいだけでは不十分で尻を叩きなさい」
体罰は子供に対して、力的苦痛を与える罰で受けた子供は、暴力的苦痛をうけますが。お仕置きで尻を叩かれると子供は精神的な激励と感じるものです」そんな内容であったと思います。耳を猪引っ張られたり頬を抓られるのは苦痛ですが「父にお尻を叩かれると子供は父の激励と受け止めるのです。
投票開始後選管本部から電話がありました。今回の選挙は市会議員県会議員県知事選挙ですので投票は3種あります。投票の過ちが発生したとの注意です。投票人の動作を目で追います。三つある投票箱に正しく用紙を使って投票するまでを目で追いかけます
私の頭は美しかった旅行の景色が浮かんで消えません。紀ノ川、吉野、宇陀そして葛城山の桜が瞼に浮かんできます。そんな次第で眼は投票人を追い、頭は短歌俳句に注ぎました。古人に倣って31文字もしくは17文字に桜の美しさや命を託したいと勤める事にしました。
旅行は生憎のお天気でしたが下千本は散り始め中千本は満開で上千本が三分咲奥千本は咲き初めでした。桜は峰全体に自生していて暖気は麓から次第に頂に向けて昇って行くのでしょうから、桜の花も下から上に向けて順次咲いて行くのでしょう。加えて白っぽい桜もあれば朱鷺色の桜もあって。それぞれが煙のような雨に濡れて湯上りの様に艶っぽいのでした。常緑の木々を背景に桜の際立っています。神話の春の神(木花咲耶姫)が桜の樹に舞い降りたのが納得です。雲や霞が醜い物(建物など)を隠しています。
美しく雄大な旅行の光景を31文字に表そうとアレコレ推敲します。でも言い表せられません。
 早く咲く花もあれば遅きもあり
 白く咲く花もあれば朱鷺に咲くもあり
 花夫々に迎えたり煙霧隠れたり吉野山
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吉野山は早咲遅咲き白い花朱鷺色の花桜でも個性色々で競い合い助け合う桜の花明日からはこの旅行記をブログアップします。

ようやくランチになりました。弁当は各自が1000円を負担して買い求めます。職員さんが代表して「米八」のおこわ弁当を買ってきてくれました。なんとおこわは桜が入っていました。桜の色と菜の緑が綺麗です。
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ランチは米八のおこわ弁当「桜おこわ」で吉野に連れ戻されました。

午後5時からは投票者も疎らになりました。これから3時間睡魔との戦いです。
目をつぶって短歌をかんがえていると眠ってしまうかもしれません、そこで意識して別な事を考えることにしました。
昔は投票時間は6時まででした何故8時までにしたのでしょうか?
時間を2時間延長すれば投票率がアップすると期待しているのでしょう。
「投票率のアップ」を期待しているのは誰でしょう?
普通選挙の権利を獲得する為に先人は血の戦いをして奪い取ったのでした。尊い普通選挙権でしたが13時間も投票所を開いていても50%に満たない投票率です。誰がやっても変わらない程平和で安全だと思っているから低投票率なのでしょう。投票率を低くから高くにあげるのに私の尻を痛くしてお金をかける必要があるのか疑問です。投票時間を6時に戻せば開票事務負担も軽くなりますので、費用負担は軽くなるでしょう。
投票人は出口に用意しておいた「投票証明書」を持ち帰る人が多くありました。
日曜勤務の人が持ち帰れば投票の為に職場を離れる証明に用意されているものです。
近くのマクドナルドやすき家の社員が持ち帰れば時間給をカットされないのでしょうか?甚だ疑問です。
昔は小涌園ホテル(箱根の人気リゾート)の割引をして貰えるサービスがありました。
投票証明書所の作成を民間に委託して証明書の裏面を公告スペースにして持参者に割引サービスにすれば、投票率も上昇するし、コストも削減できそうです。私の町内なら「戸塚美味いもの会」なの手をあげて協力する事でしょう。そんなことを始めると所得の低い層の投票率がアップするでしょうから、政党によっては強い影響もあることでしょう。
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これがs投票証明書です。読書の際の栞に使うのでしょうか、意外に求める人が多くいられました。
13時間も硬い椅子に座っていれエコノミー症候群に陥る危険があります。そこでペットボトルの麦茶を買って飲みます。時々足首や足を上下させて運動をします。上半身の屈伸もリハビリ施設で教わったよいに実施します。
13時間の拷問に耐えて適正な選挙を確認致しました。多分今回が最後の選挙責任者の受任になる事でしょう。こうして戸塚区トップの投票率を確保でl来たのでした。(というのは毎回1,2位の投票率を確保してきたのでした。
夜8時投票所の閉鎖を宣言して、投票箱の鍵をかけて集計会場に持ち込んで後片付けをすればお終いです。9時家に戻った時にはもう投票速報が出ていました。

明日からは紀ノ川沿いから吉野大宇陀日葛城山麓の旅行記をブログアップいたします。


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紀伊三井寺の花絨毯(吉野花紀行1)

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4月9日10時私達は関西空港に降り立ちました。当初計画では空港から淡島神社、紀伊三井寺に詣でる予定でしたが、
「今日は押せ押せになりそうだ予感があって、メンバーは既に孫の話に夢中になる年齢ばかり淡島様には失礼して、真っ直ぐ紀伊三井寺に向かいました。(淡島神社は相模にも末社が多くある安産の淡島神社の本社です。紀ノ川沿いには命の聖地が数多くあるのです。)
和歌山市内の桜はもう散り始め、桜の名所三井寺の桜が気懸りです。
湯浅に向かう大通りを北に折れれば正面が紀伊三井寺です。
門前商店街の奥に三井寺の朱塗りの山門が見えました。
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国道を北に折れると紀伊三井寺が正面に迫っていました。期待の桜はは散り始め商店は名産の蜜柑を道路に出して商っていまあした。店先の庇の下には燕が忙しく巣作りをしていて春早い紀伊三井寺は夏に向かってひた走っている風でした。

俳聖芭蕉は貞享4年(1687)に江戸を発ち旅に出ました。芭蕉は45歳51歳で没しますのでもう最晩年です。淡島神社の面している名勝和歌の浦では、。
 行春を  和歌の浦にて 追付たり
と吟じて名勝紀伊三井寺の桜への期待を膨らませました。
ところが紀伊三井寺は昔も今もいち早く桜が咲いたのでしょう。
芭蕉が詣でた時には既に散り始めていたようでした。その惜しむ心を次のように吟じました。
石段の途中で芭蕉句碑を見つけて必死に読みます、自然石に次のように刻まれていると判読できました。
みあぐれば さくらしもうて 紀三井寺」
私達の気持ちと芭蕉の俳句はピッタリでした。
俳聖と同じで嬉しくなります。
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芭蕉句碑
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紀伊三井寺の石段は急なうえに231段もあります。私は石段の下不動堂の前で皆が参詣してくるのを待つ事にしました。ワイフに石段を登り切れば和歌の浦が見渡せるので行くように言ったのでしたが、私が勝手に動かないか心配で不動堂の周辺で芭蕉句碑や結縁坂(紀伊国屋門左衛門の結縁由緒)清水を見ていました。
石段にも不動堂の甍の上にも桜が散って貼り付いています。
甍は本格的な行基葺きです。可愛らしい花弁を浮き立たせています。黒髪に簪、寺の甍には桜の花弁がお似合いです。
芭蕉句碑の手前には一条の滝が落ちています。清水寺の「音羽の滝」と同じアングルです。清水寺には比叡山延暦寺に注いだ雨が湧きだす清水で子育ての霊験が信じられています。此処紀伊三井寺の清水は高野山金剛峰寺に降り注いだ甘露が岩に染入って三井寺の境内で滝になって落ちているのです。
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行基葺きの本瓦に桜の花弁が積もっていました。
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不動堂の棟飾りの瓦には菊の花が模様され、桜の花弁の哀れを際立たせている様にも見えました。


葉桜の山蔭に石段(きざはし)高く、私には登るのは無理と判断して不動堂に詣でて引き返しました。
参道商店は道路上に蜜柑を山の様に積んで商っています。三宝柑と案内しています。
一般に凸ポンと呼ばれている甘い蜜柑です。
でこポンの名は夏ミカンの頭がおでこの様に出っ張っているからポンはポンカンのように甘いからその名があるのでしょう。
江戸時代地紀伊藩は蜜柑の生産を奨励しました。あるミカン農家が偶然に甘くて香しい蜜柑を見つけました。そこで三宝に載せて恭しくお殿様に献上しました。紀伊藩はこの蜜柑はお殿様の蜜柑であると宣言「三宝蜜柑」と名付けて紀伊藩の外に出すことを禁じました。
今晩友人と食べたいと思ったのでしたがKさんが買い求めて呉れまあした。
夜三宝蜜柑を手にしてクイズを出しまた。
「三宝と言えば仏法僧です。では三宝蜜柑の三宝とは何でしょうか?」

三宝とは「オッパイ二つと出臍で何れも母親の愛情は尊い事を示します」
大体そんな意見が大半でした。オッパイにしたら少し乳首が大きすぎる様な気がします。
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今日4月14日はオレンジデーだそうです。2月14日の「バレンタインデー」で愛を告白し、3月14日の「ホワイトデー」でその返礼をした後で、その二人の愛情を確かなものとする日。オレンジ(またはオレンジ色のプレゼントで結婚ファミリー造りにもう一歩前進する日なのだそうです。

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紀伊、三井寺の清水不動明王の前で落ちて、花を浮かべて石段の脇を流れて行きます。

芭蕉句碑の脇からは清水が滝になって落ちていました。芭蕉もこの清水で喉を潤したかもしれない思いましたが飲む用意はされていませんでした。清水寺(音羽の滝)では皆が競う様にして飲んでいるのですが。和歌山市中で清水が汚れる危険があるのでしょうか?
飲みたい思うものの、いたずらに流れ落ちて花を浮かべて和歌の浦に注ぐようです。
奥深き高野の嶺より涌き出でし甘露水花を浮かべて海に流れん


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慈尊院の姥桜(吉野花紀行2)

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紀伊三井寺を後にJR和歌山駅に向かいました。関西から参加される方をピックアップします。車は猫ちゃん駅長で有名な和歌山電鐵貴志川線貴志駅に向かいます。同駅の喫茶室で一服する予定でした。カーナビに電話番号を入力したものの、駅舎が猫の形をしている、目標に進むのでしたが、中々着かないばかりか別の駅に出てしまいました。ようやく着いた先は個人住宅、どうも駅長さんの家の電話が駅舎に転送される仕組みになっていたようでした。こんなトラブルは次のランチ予約先でも生じてしまい、大きな時間ロスを生じてしまいました。計画では西行法師の生誕地と云われる田仲荘の龍蔵院、紀ノ川万葉公園(妹背山)等を巡る予定でしたが、総てをカットして、橋本の慈尊院に向かう事にしました。カーナビは24号線(大和街道)を避けて阪和道路を選択します。お蔭で紀ノ川の景色を堪能する事は出来ませんでした。桃畑菜の花名の彼方に妹山と背山が向かい合う景色を視たいと念じていたのでしたが、眺められませんでした。「健康を回復して又出直して来い」そんな産土神の御意向でありましょう。
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橋本橋から下流を紀ノ川と呼びます。有吉佐和子さんの「紀ノ川」は主人公(はな)が5艙の舟に乗って此処から下流のの旧家・真谷家への縁嫁ぐ場面から始まります。凛として美しい花の人生は紀ノ川に浮かぶ花筏の様に始まったのでした。花は爺から説かれました。「紀ノ川の嫁入りはのう、流れに逆らうてはならんのやえ。みんな流れにそうてきたんや。自然に逆らうのはなによりもいかんこっちゃ」そんな言葉を噛みしめながら少しの諦観と男の子を生んで育てる期待を背負い、慈尊院に「乳絵馬」を奉げたのでした・・・・・・。

橋本ICを下りて河岸段丘を下ると橋本の市街です。紀ノ川を橋本橋を渡れば大和街道(国道24号線)で、橋の東詰には膨大な数の鯉幟がはためいていました。鯉幟の下川淵の葦は未だ枯れたままです。もうじき緑の茅芽を一斉に噴き出すことでしょう。
大和街道を上流に(五条方向)に折れて200mもしたら憧れてきた慈尊院の参道です。
慈尊院は大型観光バスが出入りして騒がしくなっていました。
期待の桜はもう散り始めています。
ワイフは私を先導して山門を潜りました。白い江戸彼岸桜がワイフの髪に懸ります。女が老いて「姥」という字です。姥桜が頭をよぎります。ワイフの抗議が聞こえるようです。私を老いさせたのは誰のせいなの?「女は盛りを過ぎても美しさや色気がある」という意味で姥という字があるのよ。
民俗学的には乳母桜が正解でしょう。全国各地に乳母桜伝説があります。昨日のラジオでは盛岡の樹齢350年の石割さくらが見事に咲いて居るとの事でした。桜の色が乳白色である事、命と同じく尊い事から乳母桜の字が充てられたのでしょう。
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慈尊院山門
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慈尊院の江戸彼岸枝垂れ桜もう朱鷺色は褪せて乳白色でした。舌左端は弘法大師像慈尊院は高野山の寺務所であり弘法大師のお母様玉依御前(たまよりごぜん)が讃岐から遥々此処まで来られたものの高野山は女人結界の地であるので此処に留め置かれその代わり弘法大師が9回/月高野山を下りて来られたので九度山と呼ばれました。以来慈尊院は女人高野山で女性の結縁の聖地なのです。
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慈尊院多宝塔上から二段目の鳥居の横から高野山に登る石道が始まります。高野山迄は道程で、今も一町(109m)ごとに卒塔婆石が残されています。歴代天皇を始め庶民が、1200年もの間踏み固めてきた信仰の表参道です。
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この石の卒塔婆が高野山表参道の道標です。1丁(100m)毎に立っています。
この日はご本尊弥勒如来(弥勒と慈尊は同じ意味ですから慈尊院は弥勒院の意味です)特別開帳をしていました。ご本尊はお厨子の中ですから見られないも同然で、私達は写真パネルでご尊像の迫力を感じました。
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写真パネルの弥勒如来像木造一木の平安前期の仏で迫力があります。世界遺産登録を機会に公開されました。次に鮮明な写真がアップされています。https://www.pinterest.com/pin/416231190536249079/

弥勒堂の西面柱に沢山の乳絵馬が懸っていました。絵馬の乳は平面画ですかが乳絵馬は二つの乳房が立体で奉げられているので妙になまめいて見えます。私達の新婚旅行で参詣したのが岡山吉備津の軽部じんじゃでした。あの時はオッパイに圧倒されましたがhttp://guide.travel.co.jp/article/8165/こうして慈尊院で拝観すると落ち着いて見えます。
我が頼りの乳母桜もオッパイ神様のお蔭で3人も無事に子育てを終えました。もう役目も終えて乳癌にならないようお願いするだけです。名実ともに乳母桜の年齢になりました。
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弥勒堂に紙面の柱に懸けられた乳絵馬、撮影禁止は本堂内特別開帳中の弥勒如来にレンズを向けてはならないの意味です。
イメージ 8子授け・子育て乳の出を祈願した乳絵馬全国各地から参拝されています。厚労省も祈願されたら良いのでしょうに・・・・。
慈尊院の境内を出て高野山の方角を仰ぎ見ます。立派な民家がありました。紀ノ川の花は九度山の旧家の娘でした。慈尊院の奥の民家は花の生家の様に豪壮で凛とした美しさを漂わせる家に見えました。
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慈尊院の奥の民家切妻の大屋根がシンプルで豪壮です。大棟こトタン屋根で覆っていますが茅葺きです。茅は紀ノ川の川原で採収し麦わらは段々畑で収穫したものでしょう。今では村の絆も弱くなって茅葺屋根は維持できなくなっているかもしれません
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慈尊院境内に祀られた地蔵尊、背後の築地壁が美しい築地も紀ノ川の川原砂に麦藁を混ぜて村民が築地に叩き上げて作ったものでしょう。
現代は高野山は女人禁制ではありません。女人禁制は「女性が穢れているから」とか「山の神が嫉妬するから入山できないと説きます。でも誰もがそんな説明を納得していません。私達は穢れている筈の女性のお腹から大量の出血を伴って生まれるんですから。そんな説明に弘法大師のお母様(玉依御前)は弘法大師の制止を振り切ってお山に登ろうとして落雷を受けてしまわれます。幸い弘法大師が袈裟をお掛けして守られました。そればかりか高野山も高尾山も女性が来てくれなくては始まりません。昔も今も変わらないのは尊いのは命であって、命を宿す子宮と命を育てる乳です。乳が出ない女性は乳母に頼んで空いている方の乳を借りました。慈尊院は命の尊さを教えて下さる聖地であります。ワイフはお守りを求めているようでした。子供達に想いを遣っているのでしょうか?

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刈萱堂の悲話(吉野花紀行3)

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先ず紀行を書く前に刈萱道心物語(石童丸物語)を案内いたします。
この話は高野聖が高野山や信濃善光寺の縁起を話して聞かせたものでした。旅先の囲炉裏端でにお坊さんが布教の一環で話して聞かせたものでした。。有田川沿いに残された道成寺物語も刈萱道心物語も高野聖のお話で、どちらも今昔物語にありますので千年近くも語り継がれてきたおはなしです。
【刈萱道心物語のあらすじ】
太宰府の水城(大宰府を防衛するための土塁)に関守の加藤左衛門繁氏(かとう さえもん しげうじ)が居ました。立派な武人でしたが、この世をはかなんで突然に出家してしまいます。京都に法然上人を訪ね教えを乞いましたが筑紫に残してきた奥方(千里)が追って来る夢を見ます。そこで、更に高野山に入ってで苅萱道心と称して修業の生活を送っていました。
石童丸は父の顔も見ていません。何故自分には父が居ないのか母の千里に尋ねます。
千里は「お前の父上は立派な武士であったが私の心が至らないので出家された」話します。
石童丸が14歳の時でした。父に逢いたい一心で、姉を残して母と二人で遥々京の都に上ります。黒谷の法然上人を訪れると「高野山で修業する」と言って出て行ってしまったと告げられます。
仕方なく二人は高野山に向かいます。高野さんの入り口は学文路(かむろ・和歌山県橋本市)でした。此処で二人は宿をとります。宿のアドバイスに従って石童丸は母を宿に残して一人で山上に登って父を探します。でも広い高野山ですので中々お父さんを探し当てられません。、御廟の橋で一人の僧とすれ違いました。その瞬間に石童丸は懐かしさを覚えます。その僧も”若しかしたら”感づきます。その僧の名は苅萱道心で父だったのでした。
しかし、苅萱道心は息子を抱きかかえたい心を押しとどめて偽りを言います。
「そなたの探し求める父は私の同僚ですでに亡くなった」言いながら墓まで見せたのでした。
この僧こそ石童丸の父、だったのでしたが、「そなたの父は死んだ」と墓まで見せて石童丸を偽ったのでした。石童丸は姉から預かった打掛をお墓に懸けて山を下ります。
一方、石童丸の帰りを待ちながら長旅で病んだいたので亡くなっていました。
石童丸は母の弔いを先刻知った僧にして貰おうとまた高野山に登ります。
苅萱道心も虫が知らせたか山を降りてきて二人は再会します。
石童丸は苅萱道心に「私は母も失ってしまいました、この上は私も出家したいと思います。お弟子にして下さい」お願いいたします。石童丸は「道念」という名を戴きました。
 やがて、成人した石堂丸・道念をみとどけた刈萱道心は、断ち切れない親子の情愛を捨てて修行するために石堂丸に告げず信州善光寺に赴き、善光寺如来に導かれて地蔵菩薩を刻んだ。生涯修行を続けた刈萱道心は1214年に「刈萱堂往生寺」で刈萱上人と称され83歳で入滅した。
 石堂丸・道念は善光寺の方角に紫雲がなびいたのを見て道心が亡くなった事を察知しました。そこで、善光寺に赴き、父と同じ地蔵菩薩を刻んだといわれている。二基の地蔵菩薩は「刈萱親子地蔵尊」と称され、刈萱上人入寂の地・往生寺に安置されています。
刈萱堂の説教節は刈萱山寂照院西光寺の大黒様がお上手で。道成寺の説経節「日高川入相桜/ひだかがわいりあいさくら』は体験しているのでこの旅行では紀ノ川の説教節を聞きたいと思っていたのでした。
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刈萱堂の長押に掲げられた石童丸物語の絵。右から石童丸が高野山に登る場面中央が石童丸が刈萱道心(実は父)に巡り合った場面左は宿に戻ると母の千里が亡くなっていた場面

【石童丸物語の評価】
石童丸は千年近くも語り継がれてきた説教節です。説教節は中世に始まった文芸であり近世になると浄瑠璃や義太夫節の祖形になりました。中世は識字率も低かったので物語を耳で聞いて、自分の言葉で話して聞かせました。耳で聞けば知識が増えますが話すことで知識が知識以上のもの((生き方とか信条)に昇華したと思われます。私達は知識が過剰であり、倫理や宗教的信条に乏しいのは知識偏重の結果だと思うのです。私達は知識を増やすばかりでなく、知識を自分の言葉で表現し、知識を生きる知恵に昇華する事こそ大切だと思うのです。私も祖母の話してくれた昔話を情操にして育ちました。孫も大きくなったことです。そろそろ話して聞かせなくてはならない立場になったようです。でも孫に「何故父は子供に嘘をついたの?」訊かれると返事に窮してしまいそうです。石童丸物語をそ語り継ぐためには「親子の情愛に修行が勝る」事情を説明できないといけないようです。
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学辺路(かむろ)駅の踏切dで高野山に行く電車を待ちます。高野山は今年開山1200年紅葉があしらわれた車両でした。
【刈萱堂紀行】
慈尊院を後にして大和街道を五条に向けて少し登ります。高野山線九度山駅を越えると学辺路(かむろ)駅の踏切に出ました。
私達の次の目的地は学辺路大師刈萱堂です。学辺路(かむろ)とは読み難い地名です。熊野古道は熊野本宮への遍路道に大辺路や小辺路等がありますから、学辺路とは高野山経由で熊野本宮に向かう辺路路の意味でしょう。
慈尊院の奥に刈萱堂があって、中世はこの学辺路に宿屋があって、宿から高野山の壇上に登ったのでしょう。
刈萱堂は高野山参詣道の中腹にありました。向かいの山は葛城山で麓は九度山で谷あいに紀ノ川(この辺りは橋本川】が蛇行しています。そろそろ夕暮れが迫って来ました。隘路を前方から選挙カーがやって来ます。流石に笑顔ですれ違いを待っててくれました。
私の足が不自由なものですからドライバーのH君は本堂の間近まで言って呉れようとしてくれます。この辺りが刈萱道心が庵を建てて修行に励んだ場所だったのでしょう。江戸時代には石童丸の寺として賑いも在ったようでしたが、廃れてしまっていました。それを地域の人達が力を集めて西林地(浄土宗)に接して刈萱堂を建立して、石童丸物語の普及に勤められた人達が居ました。岩橋哲也氏を核にした学文路苅萱堂保存会でした。.http://asamoyoshi.net/ishidou/karukaya/index.cgi1922年現在の刈萱堂が完成しました。
私が大学の名を言って「石童丸物語の説教節」を聞きたいと予約していたのでしたが。苅萱堂保存会の岩橋会長は午後2時には私達が関空から来るものと期待して待機して下さっていたのでした。流石にご立腹の風で中々お怒りを収めて下さいません。私は自分の軽率さから岩橋さんにも仲間にも不快をかけてしまって身を置く隙間も探せない気持ちでありました。連絡や目的地のカーナビ設定さえしっかりしておけば岩橋さんにも我が仲間にも良い想い出だけが残された筈でした。とりわけ岩橋さんは高野山大学の五来重氏(宗教民俗学者)のお弟子さんのようですし、私の仲間も石仏研究などで五来氏の業績には敬意を持っているので、こんな気まずさを味わう筈は無かったのでしたが・・・・。岩橋さん本当に失礼しました。この場を使ってお詫び申し上げます。お孫さんは私達の後輩だそうで社会人としての御成功をお祈りいたします。
岩橋さんは熱心な方で同時に篤信の方で居られましたもとより過ちは私個人にだけあるのでしたので。帰宅して直ぐに感謝とお詫びの電話をしたところ笑ってくれました。お怒りは溶いてくださったのでした。皆さんもアバウトに説明を求める事は慎みましょう。
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これが苅萱堂保存会の尽力で竣工した西光寺刈萱堂堂内の長押には浄財を寄付された人の膨大なお名前が貼られていました。
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刈萱堂は高野山道に在って、眼下に紀ノ川向かいに葛城連山が迫っているそんなロケーションに在ります。此処が学辺路大師として慕われているのです。
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刈萱堂内陣で岩橋会長の御説明を拝聴します。壁に長押に欄間に説明パネルが貼られていました。
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刈萱堂内陣正面左から千里御前(母)石童丸刈萱道心(父)玉屋主人(宿屋の主人)4体の肖像仏像(江戸時代中期/橋本市文化財」が並んでいます。江戸時代石童丸物語は寺子屋の教材だったのでしょう。
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人魚人のミイラを説明される岩橋さん、テレビに良く出るミイラですが私達が興味を示さなかったのも残念な風でした。
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これが母親の千里の像
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此方は刈萱道心の像
次の目的地は五条の旧市街です。もう充分早く吉野山に行こうよ!雰囲気を背にして五条の旧市街に向かいました。既に谷底に流れる川は暗闇に沈んでいました。

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