先ず紀行を書く前に刈萱道心物語(石童丸物語)を案内いたします。
この話は高野聖が高野山や信濃善光寺の縁起を話して聞かせたものでした。旅先の囲炉裏端でにお坊さんが布教の一環で話して聞かせたものでした。。有田川沿いに残された道成寺物語も刈萱道心物語も高野聖のお話で、どちらも今昔物語にありますので千年近くも語り継がれてきたおはなしです。
【刈萱道心物語のあらすじ】
太宰府の水城(大宰府を防衛するための土塁)に関守の加藤左衛門繁氏(かとう さえもん しげうじ)が居ました。立派な武人でしたが、この世をはかなんで突然に出家してしまいます。京都に法然上人を訪ね教えを乞いましたが筑紫に残してきた奥方(千里)が追って来る夢を見ます。そこで、更に高野山に入ってで苅萱道心と称して修業の生活を送っていました。
石童丸は父の顔も見ていません。何故自分には父が居ないのか母の千里に尋ねます。
千里は「お前の父上は立派な武士であったが私の心が至らないので出家された」話します。
石童丸が14歳の時でした。父に逢いたい一心で、姉を残して母と二人で遥々京の都に上ります。黒谷の法然上人を訪れると「高野山で修業する」と言って出て行ってしまったと告げられます。
仕方なく二人は高野山に向かいます。高野さんの入り口は学文路(かむろ・和歌山県橋本市)でした。此処で二人は宿をとります。宿のアドバイスに従って石童丸は母を宿に残して一人で山上に登って父を探します。でも広い高野山ですので中々お父さんを探し当てられません。、御廟の橋で一人の僧とすれ違いました。その瞬間に石童丸は懐かしさを覚えます。その僧も”若しかしたら”感づきます。その僧の名は苅萱道心で父だったのでした。
しかし、苅萱道心は息子を抱きかかえたい心を押しとどめて偽りを言います。
「そなたの探し求める父は私の同僚ですでに亡くなった」言いながら墓まで見せたのでした。
この僧こそ石童丸の父、だったのでしたが、「そなたの父は死んだ」と墓まで見せて石童丸を偽ったのでした。石童丸は姉から預かった打掛をお墓に懸けて山を下ります。
一方、石童丸の帰りを待ちながら長旅で病んだいたので亡くなっていました。
石童丸は母の弔いを先刻知った僧にして貰おうとまた高野山に登ります。
苅萱道心も虫が知らせたか山を降りてきて二人は再会します。
石童丸は苅萱道心に「私は母も失ってしまいました、この上は私も出家したいと思います。お弟子にして下さい」お願いいたします。石童丸は「道念」という名を戴きました。
やがて、成人した石堂丸・道念をみとどけた刈萱道心は、断ち切れない親子の情愛を捨てて修行するために石堂丸に告げず信州善光寺に赴き、善光寺如来に導かれて地蔵菩薩を刻んだ。生涯修行を続けた刈萱道心は1214年に「刈萱堂往生寺」で刈萱上人と称され83歳で入滅した。
石堂丸・道念は善光寺の方角に紫雲がなびいたのを見て道心が亡くなった事を察知しました。そこで、善光寺に赴き、父と同じ地蔵菩薩を刻んだといわれている。二基の地蔵菩薩は「刈萱親子地蔵尊」と称され、刈萱上人入寂の地・往生寺に安置されています。
刈萱堂の説教節は刈萱山寂照院西光寺の大黒様がお上手で。道成寺の説経節「日高川入相桜/ひだかがわいりあいさくら』は体験しているのでこの旅行では紀ノ川の説教節を聞きたいと思っていたのでした。
刈萱堂の長押に掲げられた石童丸物語の絵。右から石童丸が高野山に登る場面中央が石童丸が刈萱道心(実は父)に巡り合った場面左は宿に戻ると母の千里が亡くなっていた場面
【石童丸物語の評価】
石童丸は千年近くも語り継がれてきた説教節です。説教節は中世に始まった文芸であり近世になると浄瑠璃や義太夫節の祖形になりました。中世は識字率も低かったので物語を耳で聞いて、自分の言葉で話して聞かせました。耳で聞けば知識が増えますが話すことで知識が知識以上のもの((生き方とか信条)に昇華したと思われます。私達は知識が過剰であり、倫理や宗教的信条に乏しいのは知識偏重の結果だと思うのです。私達は知識を増やすばかりでなく、知識を自分の言葉で表現し、知識を生きる知恵に昇華する事こそ大切だと思うのです。私も祖母の話してくれた昔話を情操にして育ちました。孫も大きくなったことです。そろそろ話して聞かせなくてはならない立場になったようです。でも孫に「何故父は子供に嘘をついたの?」訊かれると返事に窮してしまいそうです。石童丸物語をそ語り継ぐためには「親子の情愛に修行が勝る」事情を説明できないといけないようです。
学辺路(かむろ)駅の踏切dで高野山に行く電車を待ちます。高野山は今年開山1200年紅葉があしらわれた車両でした。
【刈萱堂紀行】
慈尊院を後にして大和街道を五条に向けて少し登ります。高野山線九度山駅を越えると学辺路(かむろ)駅の踏切に出ました。
私達の次の目的地は学辺路大師刈萱堂です。学辺路(かむろ)とは読み難い地名です。熊野古道は熊野本宮への遍路道に大辺路や小辺路等がありますから、学辺路とは高野山経由で熊野本宮に向かう辺路路の意味でしょう。
慈尊院の奥に刈萱堂があって、中世はこの学辺路に宿屋があって、宿から高野山の壇上に登ったのでしょう。
刈萱堂は高野山参詣道の中腹にありました。向かいの山は葛城山で麓は九度山で谷あいに紀ノ川(この辺りは橋本川】が蛇行しています。そろそろ夕暮れが迫って来ました。隘路を前方から選挙カーがやって来ます。流石に笑顔ですれ違いを待っててくれました。
私が大学の名を言って「石童丸物語の説教節」を聞きたいと予約していたのでしたが。苅萱堂保存会の岩橋会長は午後2時には私達が関空から来るものと期待して待機して下さっていたのでした。流石にご立腹の風で中々お怒りを収めて下さいません。私は自分の軽率さから岩橋さんにも仲間にも不快をかけてしまって身を置く隙間も探せない気持ちでありました。連絡や目的地のカーナビ設定さえしっかりしておけば岩橋さんにも我が仲間にも良い想い出だけが残された筈でした。とりわけ岩橋さんは高野山大学の五来重氏(宗教民俗学者)のお弟子さんのようですし、私の仲間も石仏研究などで五来氏の業績には敬意を持っているので、こんな気まずさを味わう筈は無かったのでしたが・・・・。岩橋さん本当に失礼しました。この場を使ってお詫び申し上げます。お孫さんは私達の後輩だそうで社会人としての御成功をお祈りいたします。
岩橋さんは熱心な方で同時に篤信の方で居られましたもとより過ちは私個人にだけあるのでしたので。帰宅して直ぐに感謝とお詫びの電話をしたところ笑ってくれました。お怒りは溶いてくださったのでした。皆さんもアバウトに説明を求める事は慎みましょう。
これが苅萱堂保存会の尽力で竣工した西光寺刈萱堂堂内の長押には浄財を寄付された人の膨大なお名前が貼られていました。
刈萱堂は高野山道に在って、眼下に紀ノ川向かいに葛城連山が迫っているそんなロケーションに在ります。此処が学辺路大師として慕われているのです。
刈萱堂内陣で岩橋会長の御説明を拝聴します。壁に長押に欄間に説明パネルが貼られていました。
刈萱堂内陣正面左から千里御前(母)石童丸刈萱道心(父)玉屋主人(宿屋の主人)4体の肖像仏像(江戸時代中期/橋本市文化財」が並んでいます。江戸時代石童丸物語は寺子屋の教材だったのでしょう。
人魚人のミイラを説明される岩橋さん、テレビに良く出るミイラですが私達が興味を示さなかったのも残念な風でした。
これが母親の千里の像
此方は刈萱道心の像
次の目的地は五条の旧市街です。もう充分早く吉野山に行こうよ!雰囲気を背にして五条の旧市街に向かいました。既に谷底に流れる川は暗闇に沈んでいました。
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