北鎌倉山之内の縁切り寺は、徳川家康に認められた「縁切り定法」のお寺でした。
妻から離縁を希望した場合、埒が明かなければ縁切り寺に駆け込みます。
縁切り寺では離婚の意思を確認し、夫や必要に応じて名主など関係者地縁者を鎌倉に呼びつけます。
そして、お白州(審議を)始めます。
多くの夫は、縁切り寺に駆け込まれて、縁切り定法で決められた白州に座らされてはもう勝ち目は無い、
三行半を書きます。
「私は離縁をします、その後誰と結婚しようが・・・・・構いません」
そんな趣旨です。
でも、三行半を書かない頑固な親爺もいます。
この場合、女性は尼になって縁切り寺で三年おつとめします。
おつとめが終われば、晴れて寺から出て、また娑婆の生活を送ることが出来ます。
この段は縁切り寺の先の住職「井上禅定」さんが面白く書いていられます。
(井上禅定さんは、離縁して欲しい、その場合尼さんになれば誰でも離縁できる、縁切り寺はお白州で即刻離縁が決定される・・・・・巷間言われている事の間違いを指摘です)
(縁切り寺は秋の花が盛りです)
普通のお寺は先ずお地蔵さんが迎えてくれます。
門を潜って、そのお地蔵さんの位置で、迎えてくださるのは、天女のような菩薩様(石仏)です。
秋になると萩が咲いて、その花陰に隠れてしまいます。
今年は遅れていた白萩が咲き出しました。
真っ白な花の中に朱が混じった萩もあります。
隣の宮城野萩が受粉して、混じってしまったようです。
(この萩の花陰に石仏が隠れておいでです)
天女のような菩薩様、実は勢至菩薩様です。
阿弥陀様の右に控えるのが観音菩薩、慈悲の菩薩と言われます。
左に控えるのが勢至菩薩、知恵の菩薩と言われます。
阿弥陀三尊は「愛と知恵」で人を救済してくださいます。
(三千院極楽往生院阿弥陀三尊から、左が勢至菩薩/合掌している、右が観音菩薩。、三千院HP)
勢至菩薩は四角い石柱に彫られています。
その左側面には「宝暦4年4月、講中15人」・・・・書かれています。
1755年の4月に15人(女性)によって建てられた・・・と解ります。
この勢至菩薩は23三夜講の記念碑、所謂二十三夜塔なのです。
こんなに美しい二十三夜塔は滅多にお眼にかかれません。
塔の上部には立派な「笠」が乗っています。
庶民の二十三夜塔ではなく、上級階級の二十三夜塔の印象です。
(お下げの髪でお姫様のような勢至菩薩・二十三夜様)
私は、お寺の方にも、庭師の方にも尋ねてみました。
「この二十三夜様は昔からこの位置でしたか?」
どなたも答えられます。
「私が知る限りこの場所に祀られていました・・・・・」
(記念碑ですから、誰が何時建てたか側面に記録されています)
この二十三夜塔は縁切り寺におつとめの尼さん達が建てられた・・・・、と考えるのが妥当でしょう。
尼さんは夫の理解が得られず、已む無く縁切り寺で寝泊りし修行に明け暮れます。
そんな尼さんには三年が期間です。
三年間が「待ちの時間」ですが、一月・一月の重ねなくてはなりません。
毎月、二十三夜に集まります。
二十三夜とは十五夜満月から1週間後、下弦の月に当ります。
お月様が出るのは遅くなって、真夜中の十二時頃、
下弦の月を待つための間、尼さんたちが集います。
その間に、お茶やお菓子も出たことでしょう、
身の上話も出たでしょう、
そして、尼さんとしての修行の導きもあったことでしょう。
女が15人も集まればさぞかし、かしましい事だったでしょう。
でも・・・・、月待ちの集いがあったからこそ、3年間のおつとめも、淋しさも耐えられたのでしょう。
(白萩はこれからがピークです)
このお寺が別名「松が丘御所」と呼ばれます。
二十三夜様を天女のようなデザインにしたのは、
後醍醐天皇の皇女「用堂尼(ようどうに)」や、豊臣秀頼の娘「天秀尼」を意識したからでしょう。
白萩の花が咲いて、二十三夜様が一際美しく拝める季節です。
今日から三日後辺りからが最高でしょう。
(周明菊も咲きはじめ)
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