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縁切り寺の二十三夜様

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北鎌倉山之内の縁切り寺は、徳川家康に認められた「縁切り定法」のお寺でした。
妻から離縁を希望した場合、埒が明かなければ縁切り寺に駆け込みます。
縁切り寺では離婚の意思を確認し、夫や必要に応じて名主など関係者地縁者を鎌倉に呼びつけます。
そして、お白州(審議を)始めます。
多くの夫は、縁切り寺に駆け込まれて、縁切り定法で決められた白州に座らされてはもう勝ち目は無い、
三行半を書きます。
「私は離縁をします、その後誰と結婚しようが・・・・・構いません」
そんな趣旨です。
 
でも、三行半を書かない頑固な親爺もいます。
この場合、女性は尼になって縁切り寺で三年おつとめします。
おつとめが終われば、晴れて寺から出て、また娑婆の生活を送ることが出来ます。
この段は縁切り寺の先の住職「井上禅定」さんが面白く書いていられます。
 (井上禅定さんは、離縁して欲しい、その場合尼さんになれば誰でも離縁できる、縁切り寺はお白州で即刻離縁が決定される・・・・・巷間言われている事の間違いを指摘です)
 
           
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                                              (縁切り寺は秋の花が盛りです)
 
普通のお寺は先ずお地蔵さんが迎えてくれます。
門を潜って、そのお地蔵さんの位置で、迎えてくださるのは、天女のような菩薩様(石仏)です。
秋になると萩が咲いて、その花陰に隠れてしまいます。
今年は遅れていた白萩が咲き出しました。
真っ白な花の中に朱が混じった萩もあります。
隣の宮城野萩が受粉して、混じってしまったようです。
 
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                                 (この萩の花陰に石仏が隠れておいでです)
 
 
天女のような菩薩様、実は勢至菩薩様です。
阿弥陀様の右に控えるのが観音菩薩、慈悲の菩薩と言われます。
左に控えるのが勢至菩薩、知恵の菩薩と言われます。
阿弥陀三尊は「愛と知恵」で人を救済してくださいます。
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       (三千院極楽往生院阿弥陀三尊から、左が勢至菩薩/合掌している、右が観音菩薩。、三千院HP)
 
勢至菩薩は四角い石柱に彫られています。
その左側面には「宝暦4年4月、講中15人」・・・・書かれています。
1755年の4月に15人(女性)によって建てられた・・・と解ります。
この勢至菩薩は23三夜講の記念碑、所謂二十三夜塔なのです。
こんなに美しい二十三夜塔は滅多にお眼にかかれません。
塔の上部には立派な「笠」が乗っています。
庶民の二十三夜塔ではなく、上級階級の二十三夜塔の印象です。
 
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                               (お下げの髪でお姫様のような勢至菩薩・二十三夜様)
 
 
私は、お寺の方にも、庭師の方にも尋ねてみました。
「この二十三夜様は昔からこの位置でしたか?」
どなたも答えられます。
「私が知る限りこの場所に祀られていました・・・・・」
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                             (記念碑ですから、誰が何時建てたか側面に記録されています)
 
この二十三夜塔は縁切り寺におつとめの尼さん達が建てられた・・・・、と考えるのが妥当でしょう。
尼さんは夫の理解が得られず、已む無く縁切り寺で寝泊りし修行に明け暮れます。
そんな尼さんには三年が期間です。
三年間が「待ちの時間」ですが、一月・一月の重ねなくてはなりません。
毎月、二十三夜に集まります。
二十三夜とは十五夜満月から1週間後、下弦の月に当ります。
お月様が出るのは遅くなって、真夜中の十二時頃、
下弦の月を待つための間、尼さんたちが集います。
その間に、お茶やお菓子も出たことでしょう、
身の上話も出たでしょう、
そして、尼さんとしての修行の導きもあったことでしょう。
女が15人も集まればさぞかし、かしましい事だったでしょう。
でも・・・・、月待ちの集いがあったからこそ、3年間のおつとめも、淋しさも耐えられたのでしょう。
 
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  (白萩はこれからがピークです)
 
このお寺が別名「松が丘御所」と呼ばれます。
二十三夜様を天女のようなデザインにしたのは、
後醍醐天皇の皇女「用堂尼(ようどうに)」や、豊臣秀頼の娘「天秀尼」を意識したからでしょう。
 
白萩の花が咲いて、二十三夜様が一際美しく拝める季節です。
今日から三日後辺りからが最高でしょう。
 
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   (周明菊も咲きはじめ)
 
 
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滝のような萩の花(海蔵寺の石段萩)

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秋が深まるにつれ、様々な花が咲きます。
春の桜の位置にあるのが秋の萩でしょう。
鎌倉の寺寺には萩の名所が数々ありますが、その一つ扇ヶ谷の海蔵寺に出かけました。
 
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                                        (海蔵寺山門下の石段は萩の名所です)
 
台風接近、大雨が降った翌日です。
花は随分散らされてしまいました。
花弁は強い風雨で地面に振り落とされて、流されてしまいました。
 
水の流れ口に溜まった花弁を取り出したのでしょう。
萩の花が塊になって、まるで「おはぎ」のようです。
そういえば、我が家では今年のお彼岸、まだ「おはぎ」を仏壇に供えられていませんよ!」
故父母から「お前の高血糖の為だ!」
クレームが出そうです。
 
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                                            (萩の花団子・・・・・がおはぎ)
萩は「芽(は)」が出る「木」の意味だそうです。
早春に萩はその古木から一斉に芽吹きます。
日本人はその生命力に感動して「はぎ」の名前を付けたのだそうです。
 
此処海蔵寺でも花が終って、木が眠ると株の根元から伐採します。
すると、石段の全体が顔を出します。
スミレが咲き出します。
同時に萩が芽吹きます。
 
萩は夏から生茂ります。
そして花をつけると、細枝は無数の花の重みに垂れ下がります。
石段は萩に埋もれてしまいます。
萩の花を散らして石段を登る人はいません。
みんな、石段を避けて遠回りして本堂に登ります。
 
石段は萩の花が作る「滝」のようです。
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万葉集4500の歌でその三分の一が草花を詠っているそうです。
詠われた草花の中で最も多いのが「萩」の141首だそうです。
次いで多いのが梅の119首、桜は僅か42首だそうです。
日本人は万葉人からして「渋い」というか「侘び・さび」の感覚があったようです。
でも、私が調べたところ大半が相聞歌で萩の花が頭を下げて咲く姿に、恋に焦がれて、思い悩む姿を重ねています。
  秋萩を散らす長雨の降るころは、ひとり起き居(ゐ)て、恋ふる夜ぞ多き
 
台風で萩は花を散らされても、又花をつけます。
散っても、散っても何度も小花をつけるしぶとさが萩にはあるのです。
そんな姿がぱっと咲いて、ぱっと散ってしまう桜と違う所でしょう。
 
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日本人は「はぎ」にどんな漢字を当て嵌めるか、考えました。
「草冠に秋」の字を見つけました。
萩は草本ではなく、木ですが、毎年枯れては芽吹く所は草本類に似てもいます。
漢字の本国中国では「萩」の字は「姫よもぎ」だそうでした。
でも、「姫よもぎ」は「姫蓬」、萩の字は「はぎ」を当て嵌めました。
木偏に春で「椿」、この漢字は日本人が作ったのだそうですが、
この一歩手前、同じ漢字でも対象になる物が違う事が多くあるようです。
 
日本人の「萩」に重なる思いが深かった現れでしょう。
もうじき赤米(古代米)が収穫されます。
赤米を炊くと、萩の花にそっくりです。
弥生時代、米作りから日本人は「萩の花」が大好きだったのでしょう。
 
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彼岸花が咲く川原道(小出川)

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家内が言います。
「小出川の彼岸花、見事だそうよ!」
藤沢の北部、大庭城址のあたりは、片瀬に注ぐ引地川(東)と相模川の支流小出川(西)との分水嶺になります。
小出川は、なだらかな丘陵、水田の中を流れてゆきます。
川の西側の丘陵は慶応大学湘南キャンパス、東側には文京大学や茅ヶ崎里山公園、名門300クラブ立地しています。
大岡越前の浄見寺はじめ寺社が点在しています。
ハイキングには最高なコースです。
 
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                                             (小出川沿いの彼岸花)
 
 
小出川沿いの遊歩道に彼岸花が咲くのだそうです。
実はお彼岸に入って直ぐの土曜日(先週)出かけて見ました。
未だ花は咲く前で、土の中から茎が生え出してきたところでした。
でも、例年なら彼岸花の季節なのでしょう。
観光協会などの模擬店が並んで、焼き芋やら草団子栗おこわなどを販売していました。
でも、花が未だなのでお客さんも少なく、私達を初め多くの人が「腰掛神社の百年祭」(既報告)に向いていました。
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彼岸花は秋の彼岸の頃に咲くのでこの名があるのでしょう。
現世(此岸)から見ると三途の川の向こうが来世(彼岸)になります。
来世側の岸に真っ赤な花が咲いています。
その花のようなので彼岸花と呼んだのかもしれません。
曼珠沙華(まんじゅしゃげ/天上の花)は天国に登る道に咲いている花の意味です。
でも、彼岸花には「地獄花」の別名もあります。
地獄に堕ちる道にも咲いているのでしょう。
 
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   (小出川沿いには白い彼岸花も混じっています)
 
奈良大宇陀の仏隆寺の長い石段には彼岸花が咲きます。
私達は石段を登るとき「天国」を思います。
法華経の曼珠沙華を思いおこします。
同じく、奈良三輪山の脇を登ると正暦寺があります。
その墓地一面に彼岸花が咲きます。
眺めた瞬間背筋が寒くなって、地獄花を思います。
 
同じ花でも、眺める人、咲いた場所で天上の花、地獄の花、正反対のイメージを持ちます。
彼岸花は思っていることでしょう。
「人間は勝手なもんだ・・・・・」と、
 
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                                          (彼岸花の集まる黄揚羽)
 
多分、彼岸花は稲作の伝来と共に我国に遣ってきたものでしょう。
 
彼岸花は全草が猛毒です。
モグラも忌避します。
だから、川の土手や田の畔に意識して植えたのでしょう。
元々、湿地が好きな彼岸花、自生しました。
 
また、一般人は亡くなると土葬されました。
盛り上がった土饅頭に彼岸花を植えました。
野犬や狸に墓を荒らされないようにしたのでしょう。
だから、墓地には必ず彼岸花が自生しています。
 
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里山の間を流れる小川の岸に咲く彼岸花が最も綺麗です。
私の祖母は茅ヶ崎で亡くなりましたが、その時はこの近くの火葬場をつかいました。
一時代前なら、野辺送りもこんな小道を辿ったのでしょう。
野辺送りに彼岸花は似合いすぎています。
この世に残された人達は、彼岸花をしみじみとした思いで、眺めたのでしょう。
だから、日本人の彼岸花にかける思いは深いものがありました。
でも今は霊柩車でサッと通り過ぎてしまいます。
で、彼岸花と呼ばずに「リコリス」、なんてお洒落に呼んだりもします。
 
     廻るめく 天井人を 偲ぶれば 傍らに咲く曼珠沙華
                                      (斉藤茂吉)
 
     秋風の吹きてゐたれば遠方の
                       薄のなかに曼珠沙華赤し
   (斉藤茂吉)
 
新秋の七草に白秋、茂吉は彼岸花を上げています。
お二人とも彼岸花に”優しかった母”を思いやっているように思います。
この晩秋には茂吉の育った山形に行きます。
「送り人」に描かれた優しさがしみじみ伝わってくる土地柄です。
屹度”曼珠沙華”が相応しい景色でしょう。
 
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悲しみを流す「白萩の花」(宝戒寺にて)

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今年は遅れていた萩の花、今が見頃です。
萩の寺、萩の名所は全国各地にあります。
稲作、赤米と似た「山萩の花」は日本人の感性に強い影響を与えてきたと思います。
そんな中で、最高の名所は奈良高円山の中腹にある「白毫寺(びゃくごうじ)」でしょう。
荒れ寺の土壁を背景にして萩の花が群れて咲きます。
沢山の石仏が佇んでいます。
此処は、奈良の都の焼き場があって、墓地だったのでした。
山の麓は古代の道「山之辺の道」が通っています。
万葉集の古代から萩の名所であったようです。
       高円(たかまど)の  野べの秋萩  いたづらに
                         咲きか散るらむ  見る人なしに
 
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                                  (宝戒寺本堂前の白萩はこれからが見頃)
 
鎌倉の萩の名所は先ず第一に宝戒寺の白萩でしょう。
鎌倉幕府最後の執権北条高時は1333年、新田義貞の軍に追い詰められます。
自邸に火を放ち、裏山にあった東勝寺で一族郎党800名あまりと自害して果てます。
鎌倉幕府滅亡は江戸幕府の最期と同じく、大した抵抗を試みませんでした。
鎌倉の町、江戸の町を無益な大戦から守ったのでした。
 
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                            (白萩に隠れて水子地蔵があって、沢山の風車が廻っています)
 
後醍醐天皇は北条一族を慰霊するために、屋敷の跡地に宝戒寺を建立します。
本尊は地蔵菩薩、「迷わず成仏してくれよ!」
そんな思いが込められているのでしょう。
 
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                                (白萩に子法師像/地蔵が隠れていました)
 
そして、境内には四季折々花が咲き続けます。
春には枝垂れの白梅が有名です。
秋には白萩が咲き乱れます。
今は彼岸花が咲いていますが、それも白い彼岸花です。
ジンジャーも咲いていますが、何れも白い花です。
太子堂の前の百日紅を除けば、白い花が目立ちます。
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                                 (彼岸花)
白い花は亡くなった人の思いや迷いを祓う為でしょうか?
意図せざるとも、「慰霊の寺」には白い花が似合います。
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                                         (ジンジャー)
 
歴史書は後世の人が綴ります。
吾妻鏡でさえ、北条高時は「うつけ執権」と酷評されています。
実態は高時は聡明な人物で自身の役割、運命を悟っていた・・・・と考えるのが自然でしょう。
元寇さえなければ、親爺北条貞時が若死にしなくて、14歳で執権にさえならなければ・・・・・、
様々な思いを押殺して腹を切った事でしょう。
 
様々な歴史や、悲しみを癒すには”白萩”は出来すぎています。
道元禅師の正法眼蔵を平易に纏めたお経(修証義)に次の段があります。
「無常 憑 ( たの ) み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に私に非ず、 命は光陰に移されて暫くも停め難し、紅顔いずこへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし・・・・・」
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       (参道の両側から白萩が迫ってきます、歩けば白露で濡れてしまいます)
 
人間の命は何時絶たれるか誰も解りません。
露命と言う言葉に「白萩」の葉に宿した露を想いうかべます。
人間は「露命」であるからこそ、日々時間を大切に修行に務めなさいよ・・・・、
道元さんの教えは厳しいのでしょうが・・・、
自然を素材にした教えは良く解る気がします。
 
 
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                                   (白萩の中に、酔芙蓉の花)
 
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麗子地蔵さん(江ノ島道雲昌寺)

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藤沢市亀井野、江ノ島道に面して、雲昌寺があります。
北条時政開基の古刹です。今では周囲は宅地化されていますが、以前は周囲は田畑しかないごくありふれた田舎のお寺でした。
曹洞宗のお寺で、ご住職は仏事が無ければ田畑で幸作に励むごく普通の方でした。(私は先代住職と面識がありました)
これは、その山門前の六地蔵さんにヒントを得た、筆者の創作です。
 
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                                    (麗子微笑像、重要文化財、東京国立博物館)
 
雲昌寺の若住職周文には一つ悩みがありました。
山門前の六地蔵さんの頭が無くなってしまったのでした。
お顔の無いお地蔵さんが六体並んだ姿を見る度に心が痛みました。
「お地蔵様を粗末にしてはいけない。新しくお地蔵様を祀りたいものである。でも、お顔の無いお地蔵様をどうしようか・・・・・?」
 
それは、先代住職の時起こった不幸でした。
明治維新が実現し、日本の国は天皇親政に復帰しました。
800年に及ぶ武士の時代が終焉しました。
武士を支えた仏教が嫌われ、神道が重んじられました。
庶民から上流階級までこぞって文化大革命に湧きました。
世にいう「廃仏稀釈」の運動は此処田舎寺まで及んで、境内の石仏も何者かに破壊されました。
熱病にうなされた時代は20年弱で吹き去りました。
でも、各地に台風一過の残骸が残されました。
鎌倉鶴岡八幡宮の仏閣はことごとく壊され、古い仏像も燃やされたり盗まれたりしたのですから、
雲昌寺の傷跡は取るに足りない状況かもしれません。
 
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   (雲昌寺の首無し地蔵尊)
 
 
雲昌寺からは境川が見下ろされます。
川に沿って江ノ島道が続いています。
山門前から下ると、隣の町は善行、藤沢本町、遊行寺前から鵠沼に出ます。
もう、江ノ島の潮風が吹いています。
 
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          (江ノ島道に面した雲昌寺山門、右横に六地蔵が祀られています)
 
 
周文の周囲は大正の風が吹いていました。
長い封建社会が崩壊し、心の底から自由な風が吹き、名実共に新しい時代が遣って来ていました。
理想的な社会を作ろう、新しい民主的な社会を実現しよう・・・・・、
文学界では武者小路 実篤がリーダーで、白樺派と呼ばれました。
実篤が鵠沼に住んでいましたので、多くの文学者芸術家が鵠沼に引っ越してきていました。
岸田劉生も実篤に誘われて大正6年転居してきました。
劉生は結核と診断されて、転地療養に良かろう・・・として来たのでしたが、
何より鵠沼文化人のサロンが気に入りました。
子供も元気に育ちました。
子供の名前は麗子、美しく育って欲しい・・・・そんな親心で名づけたのでしたが、期待通りの娘に育っていました。
 
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ある日実篤は鵠沼サロンに一枚の絵を持ち込んできました。
有名なダビンチの「モナリザ」でした。
その微笑について、喧々諤々意見が交わされました。
皆の論戦を上の空で劉生は聞いていました。
「自分ならモナリザではなく愛娘”麗子”に置き換えて描くだろう」
お河童の黒髪、東洋の微笑・・・・・モチーフは出来上がっていました。
 
 
周文和尚は岸田劉生の麗子像を一目見るなり、その魅力の虜になってしまいました。
時代空気のキーワードは「自我、自由、新しい社会、東洋」
麗子像の微笑は時代空気を端的に表現していました。
周文和尚は馴染みの石屋を呼んで指示しました。
山門前の六地蔵を新しく祀る。
意匠はこの「麗子微笑」にある。
お寺も、お地蔵様も時代と共に変化して行かなければならない。
お地蔵様の表情に”麗子の微笑”を表現して欲しい。
 
石屋は当惑しました。
お地蔵さんは仏像の決まりごと(儀軌)に従えば良い、と思っていましたから・・・・
時代の期待や空気を表現しろ・・・・・なんて指示されても・・・・
困りましたが、すこし嬉しくもなりました。
石屋職人と言うより、芸術家として期待されたような気もしました。
そこで、「やってやろうではないか・・・・」意欲も湧いてきました。
お地蔵さんでも、幼児の体型にしました。
頭が大きく、体は小さく、
お顔も麗子に似せて、横型扁平、鏡餅のようにデザインしました。
でも、あの「東洋の微笑」だけは表現できない・・・・覚悟しました。
法隆寺の釈迦三尊(アルカイックスマイル)や新薬師寺の香薬師像などをジッと見ました。
円空やこけしなども見て廻りました。
細目にして、明日を夢見るようにしてみました。
 
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    (新しく祀られた雲昌寺六地蔵、麗子微笑風です・・・・・)
 
そして、雲昌寺に収めました。
周文和尚さんは
「ウーン、こんなものだろう!お寺もお地蔵もその時代時代の期待に応じて変らなければならない・・・」
呟きました。
 
そして、首無しの六地蔵は山門から続く塀の下に移しました。
新しいお地蔵様が山門横の正位置に祀られました。
でも、首無し地蔵はそのままにしておく事にしました。
人間は時代空気に酔えば狂気になって、昨日まで信じてきたお地蔵様も破壊してしまう、
そんな危うい存在である・・・・その証拠として・・・・首無しのまま祀る事にしました。
 
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地獄花に揚羽蝶

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天候が不順です。
折角”曼珠沙華”が咲き始めたと言うのに、雨続きでは見栄えがしません。
曼珠沙華は青空の下で見れば、天上の花。
雨降りで見れば”地獄花”かもしれません。
天国でも、地獄でも拝める花なら、天国で眺めたいものです。
 
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                                        (曼珠沙華に集まる紋黄揚羽蝶)
 
「人は死んだらどうなるの?」
誰でもが、大昔の人も現代人も問題にしてきました。
 
私達は夢を見ます。
大病を患って、高熱にうなされて・・・・・
いつしか魂が体から離れてしまって、自分の体を遠くから眺めています。
死んだはずの父や母が現れました。
突然母が怖い顔をして叫びます。
「お前は未だコッチの世界に来てはなりません!アッチでやるべき事があります」
気がつくと、魂は浮遊を終えて体に戻っています。
妻や子供が喜んでいます。
「お父さんが生き返った!」・・・・と。
 
 
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                             (称名寺講堂跡にて)
そんな体験をした人が数多く居ました。
生き返って、夢体験を話しました。
そこで、日本人の霊魂感が形成されました。
 
死んでも魂は不滅で、体を離れて空中を浮遊し、来世に向います。
来世では、現世の境まで祖霊達が出て来て・・・・迎えてくれる・・・・・。
 
そんな想像が一般化してきました。
彼岸の行事もこんな夢体験がベースで出来ました。
魂が空中を浮遊している状態は、揚羽蝶のようで・・・・
魂が蛹(体)から離れて、動かなくなった蛹を見ていると・・・・・、
揚羽蝶の完全変態の変化が、「肉体の死滅、霊魂の旅立ち」をイメージさせました。
 
黒い揚羽蝶は平家の家紋です。
「先祖の霊を敬う」デザインになり、揚羽蝶の敷物(角折敷/すみおしき)に供物を捧げました。
揚羽蝶は祖霊・・・・1000年をかけて日本人の意識に沈潜しました。
 
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角折敷
 
ところで、私が敬愛する画家に熊谷守一がいます。
その画業の評価は別段でお話しすることにして、
最高の作品は「鬼百合に揚羽蝶」であると思います。
多分熊谷画伯の池袋の自邸で、庭に咲いた鬼百合、
真夏の昼下がり、花に誘われて黒揚羽蝶が飛んできたのでしょう。
熊谷守一さんはジッと見詰めていました。
 
揚羽蝶は小刻みに羽根を震わせて、鬼百合の花の芯に向います。
細い吹管をクルクルと伸ばして、花の蕊の奥に潜んだ蜜を吸い取ろうとします。
鬼百合も幽に花を震わせています。
子孫を残せる、喜悦に浸っているようです。
勿論、黒揚羽蝶も同じ、花蜜を吸って、体に栄養を蓄えて・・・・橘の木に産卵する事が出来ます。
花と揚羽蝶を素材に、大自然の呼吸、命の尊厳さを表現します。
 
私達の視線は、揚羽蝶に引き付けられ、次いで右の鬼百合花弁に、更に左の鬼百合に注がれます。
朱色の輪郭線には命が注がれているようです。
真っ青なそら、透明感や緊張感に漲った画面です。
目線は最後に「クマガイ・モリカズ」、画家のサインに落ち着きます。
黒揚羽、鬼百合の輪郭線と同じ朱色の「命の線」でサインは書かれています。
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 (熊谷守一、鬼百合に揚羽蝶。これはインターネットのリトグラフなので、本体の色はもっと濃く、存在感が違います。輪郭線は朱色です)
 
もしも、熊谷守一画伯のお庭に曼珠沙華が咲いていたら・・・・
最高傑作は「曼珠沙華に揚羽蝶」だったかもしれないな・・・・・・?
思いながら、私は曼珠沙華に集まる黒揚羽蝶を見詰めます。
 
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黒揚羽蝶は日本人の霊魂感をあらわす素材です。
蛍以上の存在でしょう。
 
「死」と「生」は紙の裏表です。
死が無ければ、生はありません。
揚羽蝶も冬になって死ななければ、春に新しい命が誕生しない・・・・明白な事です。
 
 
 
 
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鎌倉武士の矜持(大善寺毘沙門天像を見て)

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金沢文庫は神奈川県が「中世の文化遺産」を保存する目的で設立したものです。
勿論、称名寺の隣地にありますので、北条実時の設立した”金沢文庫”の遺産を多く引き継いだものでしょう。
そこで、現在「大善寺毘沙門天像」が展示されています。
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                 (金沢文庫ポスター、11面観音像は称名寺、少し中尊寺様式を感じるが・・・・・)
 
大善寺は横須賀衣笠城に近い位置にあります。
衣笠城は三浦一族の居城、大善寺はその学問所でありました。
其処に祀られきた「毘沙門天像」が平泉中尊寺の増長天像(国宝)と様式的に一致している事が判った・・・、とのことです。
 
奥州征伐に参じた三浦党が平泉の藤原一族を滅亡させた。
直感では、その際、武士の魂「毘沙門天」を持ち帰ったのか・・・・・、思います。
戦争では勝者が敗者の金銀金目の品々を持ち帰ることは良くある事です。
 
でも、展示はそんな単純なものではありません。
鎌倉武士一党は平泉の文化に感動した。
そこで、平泉文化を鎌倉に持ち帰った。
頼朝は幕府を開き、1189年永福寺(義経の冥福を祈る寺)を二階堂に建立、中尊寺や毛越寺の荘厳な仏殿を模した・・・・・・、
従来平泉文化は白水阿弥陀堂が南限である、考えられてきましたが、実は鎌倉まで伝来していたのだ。
平泉様式の毘沙門天が発見されたのは自然なこと、今後鎌倉近辺で、平泉様式の仏像などが発見されると期待されるます。
そんな意図や主張を持った展示です。
(撮影禁止で、葉書も無いので残念ながら紹介出来ません。運慶風でもない、定朝様式でもない、お顔の小さい、ほっそりした、綺麗な毘沙門様です。)
そんな、特別展示でありました。
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私は、「鎌倉武士の矜持」と言った言葉を思い起こしました。
鎌倉武士は戦争では略奪行為はしなかった。
素晴らしい文化を目の当りにすればそれを自らが受容し、自らで実現しようとする。
これこそ、素晴らしい「文化への接し方」だと思われます。
金沢文庫自体がそんな「文化への接し方」を示しています。
北条実時以来の姿勢でしょう。
 
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 ( 称名寺講堂跡は一面の草原で、向こうの丘陵の中腹に北条実時の墓があります)
 
 
 
私は鎌倉武士の魂を持った人物として、かねがね西行法師を思っていました。
西行は1186年(68歳)、平泉に旅立ちます。
東大寺の再建を志した重源上人に「砂金勧進」を依頼されたからでした。
東大寺は親友であった平重衡(しげひら)によって焼かれてしまって、
その再建のため、一仕事を依頼されたのでした。
西行は奥州藤原氏とは縁戚関係にあったのでした。
老体に鞭打って、最期のお努めの為旅立ちます。
   齢たけて また越ゆべしと思いきや 命なりけり小夜の中山
  
この陸奥への旅で源頼朝にも面会しますし、数多くの名作を残します。
また、この旅があって、芭蕉の奥の細道初め、日本文化の伝統「漂浪遍歴の旅文化」がスタートします。
 
    風なびく 富士のけぶりの空に消えて 行方も知らぬ我が思いかな
 
陸奥の旅から戻って、西行は1190年2月16日、弘川寺で亡くなります。
かねての歌の通りに、満月の下でありました。 
     願わくば花の下にて春死なむ その如月の望月のころ
 
北面の武士(宮中警護)であった佐藤義清が何故出家したか?
多くの人が想像しています。
失恋説が最も多く(白州正子、瀬戸内寂聴、辻邦生など)、次いで親友の死(西行物語)などがあります。
 
私は佐藤義清が職業に絶望したから・・・・と考えます。
武士は「最も大切なものを守る役」と心得ていました。
自分は、宮中を守っていました。
ところが、友人の平重衡は東大寺を焼き討ちしてしまいます。
「武士とは自分の命が惜しくなれば仏も敵にしてしまうのか・・・・・」
愕然としました。
 
人間の心の弱さを悟った佐藤義清は武士を辞めて、仏門に入ります。
心の平安を何処までも求める僧、「西行」となったのです。
それが「武士の矜持」・・・心得ていたのでしょう。
でも、根っからの武士、旅先では武士の矜持が顔を出して摩擦を生じます。
大井川の渡しで打ち叩かれたり、修験者に嫌がらせを受けたりします。
    (西行打擲(ちょうちゃく)/岩波新書 西行 高橋英夫著。後述西行物語)
僧でありながら、時折顔を出す武士の矜持が人の反感を受けたのではないでしょうか?
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(称名寺境内、浄土庭園は毛越寺をふた周り小さくしたもの。今年は9月の天候不順で彼岸花はイマイチでした)
 
命を懸けた陸奥旅行が西行を一段と高みに押し上げ、その死後作成された勅撰集「新古今和歌集」では最高の扱い(94首採取)を受けます。
「自分の命が尽きる時をイメージして、その通りに円寂する」姿が理想とされます。
絵巻物「西行物語」が描かれます。
 
「武士の矜持」は文化の伝統を形成していると思われます。
昨今の日本人の姿は実に残念です。
「自分の出世」のためには無実の人を罪人に仕立て上げようとする、検察官。検察組織を守ろうとする上司・・・・職業の倫理、人間としての矜持、何処に忘れてしまったのでしょうか?
 
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   (大井川の渡しで西行法師は荒くれ者に打たれて額から流血してしまいます)
 
 
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紫の花、赤い実、川原の枸杞(クコ)

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柏尾川の土手に枸杞(くこ)が目だつ季節になりました。
落葉灌木で、日当たりの良い湿地が好みのようです。
ですから、毎年刈り草される川の土手が最高の自生地になるのでしょう。
 
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   (柏尾川、川原に咲いた枸杞)
 
春先に芽吹いて葉が茂ります。
紫の花が咲きます。
こ紫の可愛い花です。
茄子科の植物ですから、ナスの花に似ています。
調べると「枸杞の花」は春の季語です。
秋になると、朱い実がなります。
しなやかな枝先に紡錘形の実が鈴なりになります。
繭玉飾りのようで可愛いいものです。
手折ろうと手を差し出すと、鋭い棘で刺されてしまいます。
「枸杞の実」は秋の季語になっています。
 
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                                          (茄子のような枸杞の花)
 
 
花が咲いて、じきに実がなります。
ですから、今頃は花も実も同時に付けています。
春と秋が同居している状況です。
それだけ、種を残す事に貪欲なのでしょう。
 
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  (枸杞は朱い実と紫の花を同時につけています)
 
枸杞に覆いかぶさるように「葛」が伸びています。
葛の花ももうお終いです。
紫の房状の花が垂直に伸びています。
大きな葉っぱの上に出て、目立ちたい、蝶や蜂に見つけて欲しい・・・・背伸びしているようです。
「枸杞の花」は葛の下で息苦しそうです。
 
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                             (下に葛の花、上部に枸杞の花、川原でバトルをしています)
 
「枸杞の実」はお粥にのせられます。
杏仁豆腐の上にも載せられて、朱色はポイントになっています。
生薬で、血圧や血糖値を下げる効果があるそうです。
酒に漬けこんで、強壮剤に、視力アップに効果があると言われています。
一方葛は「葛根湯」の素材になります。
風邪をひけば母が葛湯をこしらえてくれました。
体が温まり、食欲も復活しました。
私は葛、祖母は枸杞にお世話になりました。
 
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                                         (今年はもう、お終い葛の花)
 
 
柏尾川の土手、荒地の花はよく見れば美しい、「華」があります。
そして、私達日本人には長いお付き合いがあるようです。
 
 
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西行法師、出家の理由

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一昨日、西行法師出家の原因は「武士としての職業に疑問を持ったからだ・・・」と書いた所、日文研の高橋さんから「そんな考えもあるのか?」感想を戴きました。
一般には西行(佐藤義清)の出家原因は失恋説が第一であります。
佐藤義清は豊かな荘園領主の家に生まれ、父によって18歳で買官してもらい、鳥羽院の北面の武士になります。
院でグレートマザー「待賢門院璋子」(鳥羽院の皇后、崇徳院と御白河天皇の生母、両者は保元の乱で争う)に憧れます。
高貴であり奔放華麗な女性に弄ばれたのかもしれません。
義清は17歳年上の女性に、
「ただ一度だけよ・・・噂になるから・・・・」言われて、逢瀬を過ごします。
その失恋が原因で出家したとされます。
 
妻子ある男が17も年上の女性と・・・・成就できるとは思っていなかったであろうし、破断するのは必然でありましょう。
失恋したから出家した・・・・と言うのは理解がし難いとおもいます。
特に晩年西行は自分を客観視して歌を詠じています。
後述の「富士の煙」も自分自身が投影されています。
そんな、精神力のある人物が「憧れの女性に、もう会いません」言われた程度で出家するとは思えません。
ただ、西行に恋の歌が数多くあり、それが高貴な人への憧れ、を思わせるので、「失恋説」が主流になっていると思います。
    知らざりき 雲居のよそに見し月の
                   影を袂に宿すべしとは
 
絵巻物「西行物語」では親友の死亡が原因、と説明されています。
これも、妻子を捨ててまで出家する理由にはインパクトが無い、と思います。
 
   
私は考えます。
「自分自身の職業(武士)を否定したから・・・・」
 
以下、当説に基づいて、西行の心境を中心に辿ってみます。
 
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                     (西行法師像 MOA美術館、HPから)
 
1186年、69歳の西行は東大寺の重源に依頼されます。
『平家によって焼き討ちされた東大寺大仏の再建も最終段階に到った。
大仏のお体に貼る金が欲しい、砂金勧請の為縁戚の奥州平泉に行って貰えないか!』
 
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                       (重源像/国宝、東大寺 HPから)
 
西行は思い浮かべます。
自分は1118年生まれ、平清盛と同じ生まれであった。
自分は有田川の肥沃な荘園領主佐藤家に生まれ、18歳の時に北面の武士として登用された。
同僚には同じ年の平清盛もいた。
末法と言われた時代は混乱を極め、治安が悪化、事件が起きるたびに武士の力が増大していった。
自分自身も武士ではあったが、天皇や鳥羽院を守るのが本来の役割、
ところが、同僚武士達は天皇や院を差し置いて、力をつけ、逆にあれこれ差配し始めている。
思えば、保元の乱(1156)も平治の乱(1159)も武士の力を際立たせただけであった。
「武士であり続ける事で、自分の心の平安は確保できるだろうか?」
 
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  (平治の乱絵巻、ボストン美術館 HPから)
 
実に現世は「厭離磯土」である。
自分が「欣求浄土」を求めて、1140年出家したのは必然であった。
加えて、清盛の倅、平重衡が東大寺を焼き討ちしたのには驚いた。
大切な存在を守るのが武士の筈なのに、都合が悪ければ仏も壊してしまうのか!
これでは本末転倒している。
自分の人生最後の奉公が東大寺再建の砂金勧請なのも因縁であろう。
平家一族も壇ノ浦に沈んでしまったし・・・。
あの世に逝った清盛の「悪行の功徳に、回向にもなろう・・・。」
陸奥は遠く、命がけではあるが、やってみることにしよう。
 
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こうして、西行は二度目の奥州の旅にでます。
目標が明確であるだけに、精神は軒昂であります。
また、歌人としての心境(詩境)も最も研ぎ澄まされていました。
この旅で西行の最高傑作が数多く作られます。
伊勢を旅立って、富士の裾野をめぐり、藤沢から戸塚、奥州古道を辿ります。
私の近所にも西行の遺跡は数多く残されています。
 
 年たけてまた越えゆべしと思いきや
          命なけり小夜の中山
    
 風になびく 富士の煙の 空にきえて
           行方も知らぬ 我が思ひかな
 
 心なき身にもあわれは知られけり
           鴫たつ沢の秋の夕暮れ
 
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      (あお鴫)
 
 
鎌倉では源頼朝に面談、頼朝より歌道、弓馬の事など矢継ぎ早に質問を受けたものの、「忘却した」と答えたそうです。(吾妻鏡)
しかし、重源の思惑通り、藤原秀衡から砂金450両が鎌倉に送られ、更に東大寺に届けられたそうです。
従って、西行の役割は果たせたのでしょう。
西行の働きもあったでしょうが、東大寺の重源は心底凄い「やり手」だったのでしょう。
お坊さんと言うよりは実業家と言えるでしょうか?
 
西行は旅を終えると西行は故郷に近い南葛城の弘川寺に入ります。
そして、1187年、歌で「こう、死にたい!」詠んだとおりに円寂します。(73歳)
1190年、東大寺では再建成就の法要が営まれます。
源頼朝も参列します。
金色に輝く廬遮那仏 を見詰めながら、頼朝も重源も口にしたかもしれません。
 
「西行とは底知れぬ人物であった」
「西行のお蔭で、金色の仏が完成した」 と。
 
   願わくは花の下にて春死なん
             そのきさらぎの望月のころ
 
この歌は60歳の頃作られたそうです。
花の下で往生したい、とは願望でしょうが、その前に「一生の仕事を為したい」思うものでしょう。
西行は和歌、でしょうが、東大寺再建に貢献したことも、満願の思いで死ねる根拠になっていたことでしょう。
 
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「自分自身を客観視する・・・・」
これは中世のテーマでした。
唐木順三は詠嘆的無常観から客観的無常観への系譜を書き著しました。(鴨長明から道元に)
私は、西行の一生の中にその系譜を見る思いがします。
西行の詩人としての感性が、職業としての武士の矛盾を感じ取り、同僚清盛の最期を予感させたと思います。
従って、心の平安を求めて出家しました。
そして、大仏開眼という目標を与えられて、自分自身を客観視する境地に到った・・・そう考えます。
 
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庭に一本、ナツメの木

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私が家を建てたのは昭和55年でした。
用地には一本の梅の古樹がありましたので、根切りをして敷地の東側に移植しました。
西側には何を植えようかな?
漠然と考えました。
ふと、思い出しました。祖母が口ずさんでいた歌を。
 「庭に一本(ひともと)棗の木 弾丸跡もいちじるく 崩れ残れる民家に 今ぞ相見る二将軍・・・・・」
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               (乃木将軍、背後は自邸の厩舎と思われます。YAHOO百科事典より)
 
私は、祖母の声を聴いたような思いがしました。
「マーちゃん、棗が良いよ!」
で、私は細くて頼りない棗の苗木を買い求めました。
以来35年経ました。
棗の木は幹周り50センチ程度になったでしょうか。
二階建ての屋根の上まで梢を伸ばす大樹になりました。
今年も、沢山の実がなり、庭には落果が散っています。
 
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                                (屋根の上まで梢が伸びてしまった、棗の木)
 
祖母の生家は世田谷弦巻の実相院という吉良家ご縁のお寺でした。
辺りは野菜畑が続き、その向こうに松蔭神社の森陰が見えました。
その参道を馬に乗って乃木将軍が向いました。
長州藩下屋敷で生まれた乃木将軍は度々故郷の師吉田松陰を祀った神社に詣でたそうです。
祖母をはじめ弦巻の子供達は、日露戦争の立役者を出迎えたようです。
 
明治天皇は日露戦争のヤマ「旅順要塞攻略」に当って、
休職中であった乃木を復職させ司令官に任じます。
しかし、ロシア軍の反攻も激しく多くの犠牲を生じます。
乃木も長男勝典、次男保典この戦場で亡くしてしまいます。
 
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旅順要塞攻略後、敵将ステッセリと水師営に会見します。
この時、乃木は敗軍の将ステッセリに礼を尽くします。
カメラマンの要求に抗して、「武人の名誉」を説いて、敗者の写真を撮らせませんでした。
乃木の脳裏には西南戦争で倒した西郷隆盛に対する思いがあったことでしょう。
この時、ステッセリは愛馬を乃木にプレゼントします。
民家の庭の棗の木に繋いであったそうです。 
乃木将軍を讃えた歌はこの「水師営の会見」の場面です。
冒頭に「棗の木」が登場するのは、「武士道の精神」を表すに最適な木であり、実であったからでしょう。
武士道は乃木将軍を介して世界に広がりました。
トルコ人は日本は知らなくても、乃木の名は知るようになりました。(憎いロシアを打ち負かした人物)
 
赤坂乃木坂に乃木将軍の自邸がありました。
その清廉潔白な人柄から多くの人の尊敬を集めました。
大正元年(1912年)明治天皇大葬の日(9月13日)、妻静子と共に自刃します。(享年62歳)
乃木将軍は神格化され、自邸隣地を初め、故郷山口、京都、那須に乃木神社が建立されます。
今も乃木神社横には白馬の厩舎が残され、自邸も自刃した時と同じ状況で保存されています。
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棗の実は青いときに食べると、青林檎と梨の入り混じったような味がします。
果肉が薄いのが残念ですが、美味しいものです。
成熟すると皮が茶色に変じます。
酸っぱ味が減って、カサカサしてしまいます。
でも、この状態で乾して漢方薬にします。
韓国料理、鷄蔘湯(ケサムタン)は鳥の内臓を取り除き、その体腔にもち米など穀物を詰めて作るお粥料理です。
高麗人参や乾かした棗、栗、松の実など薬膳が味をつけ、効果を挙げています。
 
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                          (棗を生で食べるには青から白くなったころが最適です)
 
 
棗は胃腸の消化機能を回復させ、栄養分をしっかり吸収させ、精神を安定させる効果があるそうです。
また、老化を防ぐので、毎日三つ食べれば歳をとらない、不老長寿の効果があるそうです。
中国のホテルでお粥を注文すると、よく棗が添えられています。
日本人は万葉の昔から棗の効能を知っていたようです。
 
茶道ではお抹茶を入れる器を「棗」と呼びます。
勿論、形が棗の実に似ているからでしょう。
でも、何故「棗の実の形」にしたのか、関心があります。
棗の形は印籠の形にも似ています。
印籠は携帯用の薬容れです。
 
究極の入れ物の形が棗だったのか知れません。
また、「茶道のコアが棗にある・・・・」
そんな考えだったのかもしれません。
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     (茶器の加藤銘茶本舗HPから秋の棗、kato-meicha.jp/SHOP/190432/203039/ list.html)
 
私の妄想を追って行くと止めがありません。
今年も棗が庭中に散っています。
時折、台湾リスが寄ってきます。
その度毎に我が家の呑気な番犬が吠え立てます。
困ったものですが・・・・・・。
 
私も、老いが目立ってきました。
今度、天気の良い日に棗を拾って、老化防止に、認知症予防に、食することにしましょうか。
祖母は103歳までボケませんでした。
私には到底及びそうもありません。
「ソロソロ、棗に見向かないと、困った事になるよ・・・・・」
空の彼方から祖母のお小言が聞こえてくるようです。
  
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   (棗の落果)
 
 
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百恵さんの「愛のゴンドラ」に思う

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10月4日夜、何気なくTVのスイッチをオン、NHKのBS2では「SONGS」で、山口百恵パート1を放映していました。私は懐かしさが先立って、聞き入ってしまいました。
懐かしい横須賀の海が映し出され(私はこの海べりを歩いて通学していました)、彼女の生まれが横須賀であったこと、そして「横須賀ストーリー」(1976年)にかけた思いが説明されました。
宇崎竜童、阿木耀子夫妻は翌年1977年、「夢前案内人」を提供、百恵は紅白歌合戦のトリを務めます。
TVでは10代にして大人びて、輝き、艶な少女を映し出します。
 月夜の海に二人の乗ったゴンドラ
 波も立てずにすべってゆきます
 朝の気配が東の空をほんのりと
 ワインこぼした色に染めてゆく
 そんな そんな夢を見ました
 
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                             (www.sonymusic.co.jpより)
 
 
1977年、私達夫婦は札幌にいました。
第一子に恵まれましたし、北海道を満喫、公私とも充実していました。
初めて買った中古車のラジオからは「夢前案内人/愛のゴンドラ」が響いていました。
 
私達世代のヒロインは吉永小百合でありましょう。
百恵さんの活躍は何処かで小百合さんを髣髴させるところがありました。
その思いを最も強くしたのがこの「夢先案内人」でした。
私は「いつでも夢を・・・」(橋幸雄さんとデュエット曲)を思い起こしていました。
百恵さんの「伊豆の踊り子」「古都」などを見れば、屹度小百合さんを越すだろう・・・・誰もが期待しました。
でも、惜しまれながら21歳で引退し、普通の奥さんの道を選択します。
その潔さが多くの人の共感を得ます。
幸福はお金では買えない、名誉欲以上に大切なものが人生にはある・・・・・
至極当り前の事と思いますが、それは手にした事が無い人の言い分。
実際にお金や名誉を手にした人が手放す事は難しいことです。
 
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                              (今日の話題は吊り舟草、今が盛りです)
 
「愛のゴンドラ」の歌詞を聴きながら、私はふと思い出しました。
ああ、これは「釣船草」の事だな・・・・・と。
 (ツリフネソウは釣船草と書きます。でも吊り舟草の方が形状を言い表しています。以下吊り舟草と書きます)
 
 
今吊り船草が盛んに咲いています。
私は瀬上市民の森に花見に出かけます。
 
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                      (渓流を埋めるほど咲いた吊り舟草の群生)
 
 
円海山から瀬上川が流れ出します。
その渓流に沿って約2キロ、遊歩道が続いています。
水木の青葉にはアケビやカラスウリなど蔓が絡んでいます。
その下、半日陰に吊り舟草が自生しています。
そして秋になると一斉に赤紫の花をつけるのです。
 
花と言っても、花弁ではなく鍔で、長く筒状に咲きます。
横長の花(鍔)を吊り下げたように咲くので、「吊り舟草」の名前を頂戴しているのでしょう。
先端はトランペットの先のように広がっています。
そして、その尻尾はカタツムリのように巻いています。
巻いた奥から蜜が出ています。
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                   (舟を吊ったような奇妙な形には種を保存する仕組みが潜んでいます)
 
 
虫や蜜蜂が次々に花を訪れます。
開いた入り口から奥に入ります。
吊り舟草は蜜蜂の重みで揺れます。
蜜蜂は蜜を求めて奥へ奥へと進みます。
そして、蜜を貪ります。
花(鍔)は大きく揺れてしまいます。
揺れる度に、受粉が進みます。
吊り舟草が奇妙な形をしているのは、確実に受粉をする為の巧妙な仕組みなのです。
 
子供は吊り舟草を摘んで遊びます。
小指の先に被せます。
すると、帽子を被った小人のように見えます。
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    (吊り舟草、右上には花に集まる虫を捕獲しようと、女郎蜘蛛が待ち構えています)
 
 
吊り舟草の面白さは、もう一つ「種子が飛び散る」事にあります。
鳳仙花を思い起こしてください。
鳳仙花は吊り舟草の仲間です。
 
樽の様な紡錘形の鞘の中に種子が出来ます。
鞘は種子が完熟するの従って薄くなります。
そして何の拍子か、一気に逆反りしてしまいます。
その時に真っ黒い胡麻のような種が遠くまで弾け飛ばされます。
子供は、その様子が面白くて、ソット指先で触ってみます。
 
吊り舟草の花言葉は「私に触れないで下さい」です。
「私は触れられると弾けてしまいます・・・・だから触らないで放っておいてください」
そんな意味でしょう。
 
「私に触れないでください」とは「私をかまって下さいね!」
逆の意味でしょう。
女心は言葉としばしば逆になるものです。
「私を愛して、優しく包んでください」
「愛のゴンドラに乗ったように・・・・・・」
そんな囁きが、言葉にすると
「私に触れないでよ!」
つれない言葉になるのでしょう。
 
男はもう役立たずになってから・・・・女心に気付きます。
 
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畦道に咲いた彼岸花(土地改良事業の過失)

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遠くに見える山は箱根外輪山の明神ヶ岳、向こう側の山肌では大文字焼きが催されます。
旧盆の送り火の行事です。
山襞を流れ落ちる渓流にそって田圃が切り開かれました。
今日は日曜日、兼業農家は一家総出で稲刈りです。
でも、総出でも働き手は3人、夫婦とお爺ちゃんです。
手で刈って、束ねて稲木に稲干しです。
天日で乾かせば、お米はその間も栄養を蓄え、美味しさが増すのです。
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(酒匂川 文命堤から支流、明神ヶ岳に遡る辺り棚田の稲刈風景。昔ながらの美しい里山風景が続いています)
 
 
川は下って酒匂川に合流します。
酒匂川の名は屹度水が美味しいのでつけられたのでしょう。
水が良ければ、魚もお米も美味しい事でしょう。
 
宝永年間(1707)富士山が噴火して降った灰が積もりました。
大飢饉になりました。
でも、最大の天災は大洪水でした。
降った灰が川底に溜まって、浅くなっていたのでした。
二宮尊徳は、その合流する辺り一帯に堤を築きました。(1772年)
先ず、蛇籠(じゃかご)」と呼ばれる、竹や藤蔓などを編んだ袋を作ります。
その中に、川原石や砕石を詰め込みました。
蛇籠を積上げて堤にしたのでした。
堤は約300メートル、文命堤と呼ばれました。
畔も堤も先人の思いが詰まっています。
これを「文明」と言います。
尊徳は文明に命が込められているので、「文命堤」と名づけたのかもしれません。
 
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 (稲を干す風景、こうするとお米は一段美味しくなります。でも、合理化農業では石油を燃やして乾かします)
 
田圃の畦道には真っ赤な彼岸花が咲いています。
畔は田圃に水を張る堤です。
ですから、畔は等高線状に作られます。
農夫が農作業の度に畔を歩きます。
 
畔は隣の田圃との境界でもあります。
稲作は水戦争でもあります。
水戦争は畔を境に行われます。
畔が壊れては大事です。
そこで、畔に彼岸花の球根を植えました。
彼岸花は毒性が強いのです。
ですから、土を食べるミミズが育ちません。
ミミズが居ないとモグラはトンネルを掘りません。
モグラは長いトンネルを掘って、其処に落下してくるミミズを捕食するのです。
モグラのトンネルは堤や畔を決壊させてしまうのです。
稲作の長い歴史は、田の畔に彼岸花を育てました。
 
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私が田圃の畔の彼岸花に見惚れたのは、昭和40年代後半でした。
 
電車は琵琶湖湖畔の大津を出て、若狭に向います。
長浜を越えると、車窓には田園地帯が開けます。
観音の里(水上勉の「湖の琴」の舞台)から、湖北、余呉湖にかけて、田圃には彼岸花の縞模様が描かれていました。
車窓に日本海が見え始めると、その美しさは一層際立ちました。
 
棚田が開けて、その先に真っ青な海、民家が散在して・・・・・、
棚田の畔は彼岸花の網模様でした。
 
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                           (稲刈の夫婦、お爺ちゃんが右手においででした)
 
若狭の棚田は昭和49年ごろ消えてしまいました。
理由は「土地改良区事業」、
棚田を壊して、田圃を100ha規模にして、稲作機械が入れるよう広くしたのでした。※
自然と人為の合作であった畦道は壊されて無くなり、代わってコンクリートブロックが入りました。
トラクターが走れる広域農道が作られました。
(※従来は1反/10haを基準にしていました。1坪 1畝 1反は稲作の基準単位でした)
 
 
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今も琵琶湖湖畔には美しい彼岸花の咲く棚田風景が残されている・・・・と聞きます。
高島町や朽木町の写真を見ます。
でも、若狭の棚田はもっと綺麗でした。
そして、広く続いていました。
 
明治時代にも土地改良工事は行われました。
「耕地整理」と呼ばれ、牛による耕作が可能になるよう、田圃を広くしたのでした。
そして、昭和24年農業の機械化を目的に「土地改良」事業が始まりました。
同時に大量の農薬が使われ、田圃には赤い幟が立てられました。
子供達は田圃の小川で魚とりが出来なくなりました。
農家は、自分が食べるお米と売るお米と分けて耕作し始めました。
泥鰌、蛙やザリガニが死んで浮き上がった田圃を見て思いました。
こんな田圃で出来たお米を食べたくない・・・と。
 
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合理化、機械化、省力化は資本主義の「勝つ手段」です。
しかし、お米つくりで資本主義化は多くの問題を含んでいました。
 
最近、ようやくその問題に気付き始めました。
有機栽培は安全で美味しいお米を作る施策でした。
何のことは無い、昔に戻っただけです。
お蔭で、岡山ではコウノトリも田圃に戻ってきました。
我が横浜でも、其処此処に蛍が飛び交うようになりました。
 
しかし、一度壊した棚田や里山のある風景は戻す事は出来ません。
自然景観は一度壊すと復活は略不能です。
せめて、此処南足柄に見られるような里山風景、棚田風景を残したいものです。
同時に、家族で週末は農作業に勤しむ・・・・・そんな”家族関係”も大切にしたいものです。
 
農業をしていれば、ボケも生じないでしょうし、ピンピン生き生き一生を終えることが出来るでしょうから・・・。
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 先の仕分けで「土地改良事業」も標的になりました。
民主党の発想は「歳出削減」、これだけでは、次世代に”文明(命)”は残せません。
文明は「ライフスタイル」であると思いますから・・・。
 
 
 
 
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相模国の桂の樹

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藤沢駅前南口通りの街路樹は桂です。
藤沢新林公園には桂の林が茂っています。
藤沢や鎌倉には桂が目立ちます。
何故、藤沢に桂が多いの?
思いつくのは、遊行寺の放生池の池畔に桂の古木が在る事。
藤沢が遊行寺の門前町であり、その山号「藤沢山」を市名にしたことから・・・・、
桂の木の良さが何処の自治体より解っていたからかもしれません。
または、相模の文化に「桂の木」は欠かせない・・・・知っているのかもしれません。
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         (遊行寺の桂の大樹)
 
秋がやってくると、桂はいち早く黄葉します。
葉っぱは薄く、丸くハート形です。
落葉すると、直ぐに腐食が進んで芳香が漂います。
醤油を醸造する、あの発酵臭です。
大人も子供も桂の匂いが好きです。
桂の樹下にはベンチがあって、長く座ったり、落ち葉拾いに興じています。
 
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      (藤沢新林公園は桂の林があって、市民はその樹下で思い思いに行く秋を楽しんでいます) 
 
桂は木篇に圭と書きます。
「佳い木」の意味でしょうか?
でも、中国では桂の木は「木犀」のことでした。
桂林は金木犀が茂っていて、月の名所であるから、
桂花酒は金木犀の花弁や香を移したお酒です。
 
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         (藤沢新林 公園、新林小学校からは運動会の練習の声が弾んでいました)
 
呉剛と言う仙人が月に昇りました。
月には桂(金木犀)が茂っていました。
木を伐っても伐ってもまた生えて来ました。
月が満月から順次に欠けて、消えてなくなっても、また満ちてくるように・・・・。
”月と桂”には「死と再生」「不老不死」の信仰が生まれました。
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  (遊行寺には金木犀の林があり、咽るほどの香です。境内が広いので、木々はいずれも大樹です。     向こうの銀杏は湘南一です。/今年、八幡様の銀杏が倒れてしまったので)
 
 
桂の字は日本に伝わると、日本人は木犀とは思いもよらず、「桂」の木を宛てました。
日本人には桂の木の神秘性や生命力、さらには霊力に畏敬の念を持っていたのでしょう。
全国の月の名所には「桂」を宛てました。
桂離宮は「お月様を愛でる為」に設えました。
桂浜も、桂川も月見の名所です。
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               NHK知られざる月の桂離宮( www.nhk.or.jp/special/onair/ 090104.html
 
平安時代以降・・・・、
都では仏像を刻むに際して「ヒノキ」を使用しました。
ヒノキの肌が白くて美しかったから・・・・・、ヒノキの大樹が多かったから・・・・・・、
色々理由はあったでしょう。
ヒノキは木目(年輪)が鮮やかです。
ヒノキの大樹を刳り貫いて仏像にしても、その白い肌に黒漆を塗って、金箔を貼りました。
荘厳になりましたが、ヒノキの良さは消えてしまいました。
何もヒノキでなくても・・・・思います。
 
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                       日向薬師(伊勢原観光協会HPから) 
 
一方地方の相模では、桂の樹を使用する仏師が出現しました。
大山の麓、日向薬師のご本尊も、海寄りの弘明寺観音も・・・・・桂の大樹を使って、一木から彫りだしました。
桂の大樹に霊力を感じていました。
刻むほどに芳香が漂いました。
仏師は恍惚感に満ちました。
で、仕上げに際して、丸鑿で優しく表面を撫でました。
唇に朱を入れて、髪に墨を塗りました。
でも、それ以上に色を塗ったり、装身具で飾る事は慎みました。
桂の霊力、神秘性を生かすには木肌が最高・・・・そう思ったからでした。
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 日向薬師脇待の観音像/日本美術協会HPからwww.nihonbijyutukai.com/news/etc/ hinata.html 
 
相模の国の桂は、仏具や仏壇の細工に使われました。
更には鎌倉彫の素材になって、生活用具に広がってゆきました。
木目が無くて、生地が細やかで、細工がし易かったこと・・・・、
それでいて、細工が長持ちしたからでした。
さらに、明治になると鉛筆に、版画板になって、学用品には欠かせない素材になりました。
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        (鎌倉彫の丸鑿の扱いは日向薬師の鉈彫りに通じるものがあります。素材は同じ桂です) 
 
大人も子供も桂の香に懐かしさを感じています。
桂の大樹の下に座っていると、心底から憩うことが出来、癒されます。
 
藤沢市の職員は桂の木の「癒し効果」を知っていて、街路樹や公園に植えたのかもしれません。
桂の木は「不老不死」の木でありますから・・・・至極自然なことでありましょう。
昔から相模の国は桂の木を大事にして来ましたし、よく似合っていました。
 
  あはれまた いかにながめむ 月のうちに
                 桂の里に 秋は来にけり  (源実朝)
 
明日は「愛染桂」を書く事にします。
 
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 (桂の落ち葉は発酵してお醤油の芳香を漂わせます)
 
 
 
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花も嵐も越えて・・・「愛染かつら」が見守る先は・・・・

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私が今も大事にしているのは大学時代の日本文化研究会(サークル)の仲間です。
学生時代、昼間は寺寺を巡って、疲れた体を引きずって宿に戻りました。
仲間は和辻哲郎派(古寺巡礼に見られるように”形”から仏像に接近する)、亀井勝一郎派(大和古寺風物詩に見られるように”心”から仏像にアプローチする)に別れ、飽きずに意見を交えていました。
 
今日拝観した仏像などの感激を話し、勉強成果を被露すれば、早くに時間が過ぎてしまいます。
少しアルコールが入ると、A君が「旅の夜風」を踊り、皆で唱和しました。
A君はクラブの創始者Nさんから直伝であったそうでした。
 
私達の仲間の伝統は「旅の嵐」でした。
「花も嵐も踏み越えて行くが男の心意気・・・・」
優しかの君 ただ独り・・・・・・」
歌って、踊れば・・・満足して就寝です。
旅の枕に、明日巡礼する古寺に思いを馳せました。
 
「旅の夜風」は愛染桂(映画)の主題歌でした。
川口松太郎が桂の大木(上田温泉・北向観音)に見入って、隣の愛染明王堂をヒントに「愛染桂」を発表したのでした。(第1回直木賞受賞)
 
お話はボンボンの若いお医者様(病院の跡取息子)と、美貌の看護婦さんとの恋愛物語です。
看護婦が子持ちであった事など、周囲の反対や数多くの不運を押し切って恋は成就します。
映画がヒットして、北向観音の桂の大木は注連縄が張られて「縁結びの霊木」になりました。
その落葉を拾って「お守り」にする人も多いようです。
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                   (北向観音愛染桂/上田市HPから)
 
「旅の夜風」歌詞を忘れた方も多いと思いますので、全部留めます。
 
  花も嵐も 踏み越えて            優しかの君 ただ独り
  行くが男の 生きる道             発(た)たせまつりし 旅の空
  泣いてくれるな ほろほろ鳥よ        可愛い子供は 女の生命
  月の比叡(ひえい)を 一人行く        なぜに淋しい 子守唄
  
  加茂の河原に 秋長(た)けて         愛の山河 雲幾重
  肌に夜風が 沁(し)みわたる         心ごころは 隔てても
  おとこ柳が なに泣くものか          待てば来る来る 愛染かつら
  風に揺れるは 影ばかり            やがて芽をふく 春が来る
 
今、改めて歌詞を読み返すと、「なんであんなに盛り上がったのだろう?」
不思議に思い返してしまいます。
映画は昭和13年、松竹大船撮影所の作品でした。
作詞は西条八十、作曲は万城目正、霧島昇・コロンビアローズのデュエットでした。
(クリックして戴ければ聴けます/www.youtube.com/watch?v=NhDXL-7D5r4
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                 (出典、上記曲と同じ)
 
大船には万城目正音楽スクールがあって、私の小学校の同級生は通っていました。
田中絹代さんは鎌倉山に自邸を建てていましたが、(山椒洞/鎌倉市の指定建造物であった)
今では取り壊されてしまいました。
今では、湘南に松竹の面影も無くなってきています。
 
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         (密蔵寺の愛染かつら)
 
小暮実千代は看護婦の一人として端役で出ただけでしたが、それが彼女のデビュー作でありました。
片瀬の密蔵寺に寝泊りしたのだそうです。
昭和30年、愛染明王を祀るご本堂の前にかつらの木を植え”愛染かつら”と命名したのだそうです。
門前の江ノ島道を1キロほど登ると昨日紹介した「藤沢新林公園」です、その先2キロで遊行寺ですから、江ノ島道は桂の木が目立ちます。
 
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       (愛染かつらの周囲は弘法大師像が囲んでいます。境内を一回りすれば四国巡礼と同じご        利益があるのでしょう)
 
小暮さんは2000年亡くなられましたが、愛染かつらは年年歳歳樹形立派になることでしょう。
お墓を建てても、墓参りが無くなれば無縁仏になってしまいます。
樹木を植えれば、緑陰は永遠に人を寄せてくれます。
私のように、小暮実千代て誰だっけ?思って・・・・・、
そうか、愛染桂でデビューした女優さんで・・・、
密蔵寺さんとのご縁を大切にした方か・・・・・、ハートのある女優さんだな!
思い起こしてくれます。
”樹木葬”が増えてきたのが解るような気がします。
 
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実は北向観音の素材も桂です。
愛染明王と桂の関係は深いものがあるようです。
 
鎌倉の覚園寺の本尊は愛染明王ですし、鶴岡八幡様にも愛染堂があって愛染明王が祀られていました。(五島美術館蔵、鎌倉国宝館で展示)
鎖大師にも愛染堂があります。
鎌倉時代以降、煩悩(愛欲)を通り越すと幸福になれる、と言った考えが一般化します。(煩悩即菩提)
恋愛を諦めて、心平安な世界に安らぐのも方法でしょうし、トコトン突き詰めて行くのも方法でしょう。
中世になると、諦めないで、逃げないで正面突破する姿勢が尊ばれたものと思います。
 
「愛を逃げないで・・・・成就したい」
人間本来の願望でしょう。
近世の近松門左衛門の世界に発展します。
願望の依り代は「愛染明王」であり、愛染かつらだったのでしょう。
「恋愛叶うべし・・・・」
御神籤がかつらの梢に固く結ばれています。
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誰が朝青龍に「自業自得」と言えようか!

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私が朝青龍好きになったのは、4年程前でしょうか?
毎年4月初め大相撲地方巡業で藤沢場所が開催されます。
朝青龍は片瀬の常立寺に詣で、蒙古の先人の墓参りをしている、確認したからでした。
常立寺は隣が処刑場で有名な龍の口。
建冶元年(1275年)蒙古の国使「杜世忠」ら5人が鎌倉にやって来たます。
しかし、執権北条時宗によって、処刑され、此処に五輪塔の下で眠っているそうです。
五輪塔に青いマフラー(幟)が巻かれています。
朝青龍が巻いたもので、青は英雄を讃える意味があるのだそうです。
                         (このお墓は相当昔このブログで書きました)
 
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                          (常立寺、蒙古特使の首塚。青い幟は朝青龍の参詣の証)
 
鎌倉長谷観音の前を由比ガ浜通りを500メートルほど進むと、道路左側に大きな欅の木があります。
その根元にも五輪塔があります。
平盛久の首座です。
脇に説明があります。
 
一谷の合戦で敗れた平盛久は捕われ、鎌倉に送られます。
処刑前夜、源頼朝は夢を見ます。
盛久も同じ霊夢を見ます。
刑場で首をはねられようとする刹那、太刀は真二つに折れる、そんな夢でした。
実は盛久は清水の観音様を篤く信仰していたのでした。

頼朝は盛久を赦免し、酒を振舞います。
盛久は感謝の気持ちを舞って見せます。
謡曲「盛久」の舞台です。
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                                (由比ガ浜通り、盛久の首座)
 
鎌倉には同じタイプの故事が数多く残されています。
二階堂、滑川に「歌の橋」があります。
 
1213年、渋川兼守は謀反の疑いで処刑されようとなります。
無実無罪を十の和歌に託して荏柄天神に納めました。
将軍の実朝は、その歌を確認します。
死罪を免れた兼守は感謝して、そのお礼としてこの場所に橋を造り納めます。
 
何れの故事も鎌倉時代の人の奥行きの深さを感じさせます。
頼朝も実朝も処刑を許し、信心の深さや和歌の心を誉め、許してあげます。
 
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                                   ( 右端案内板の背後に五輪塔が隠れています)
 
写真は朝青龍の引退相撲のポスターです。
表題は「自業自得」、
私は目を疑いました。
自業自得には自分の知らない、別の意味があったのかかしら?
広辞苑で確認すると、「自らが作った善悪の業によって、自分の身に報いを受ける事」と出ています。
誰でも思う自業自得の意味しかありません。
自業自得は大阪地検に当て嵌まって、朝青龍は全く違います。
お相撲さんに引退を命じるのは、「死ね」断じるようなものです。
 
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相撲協会は、朝青龍に向って「引退するのも、それは身から出た錆だ、自業自得だ!」
そんな思いで送るのでしょうか?
会社の倫理規定や就業規則を破って、退職になった人を送るに際して、
誰も「自業自得だよな」とは言わないと思われます。
言った人の人品骨柄が疑われます。
「間が悪かったよな、お疲れさん」、言葉を選びます。
 
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                      tvsurf.jp/d/pc/ngr/nsearch?... &kwd=朝青龍 引退相撲 ポスター
 
ポスターの下部には小さな字で朝青龍のメッセージが書かれています。
 僕はあと2年、大好きな相撲を続けたかった、
 子供の頃からの憧れだった相撲
 体も大きくないのに
 一生懸命やったんだ
 僕はやってきたんだ
 でも
 わがままやりすぎたから 
 まだまだやりたい夢があったのに
 後悔先にたたずで、言葉が身にしみる
 日本の皆さん
 今日まで騒がせてばかりでごめんなさい
 だから、もうこれで最後の日
 ぜひ見守ってください
 ありがとう
 日本の皆さん、ありがとう
 
朝青龍のメッセージを「題」にすると、どうして「自業自得」になるのでしょうか?
「日本の皆さん ありがとう」 が妥当でしょう。
 
このポスターを眼にした石原東京都知事のコメントは二歩先を行っています。
『拝金主義で無闇矢鱈に外国人力士を増やしたから・・・相撲の様式美が失われてしまったのだ・・・・
自業自得は、相撲協会に言ってあげよう。相撲をつまらない物にしたのは相撲協会、お前達自分自身だ!』
 
でも、都知事の酷評も正鵠を射ていません。
例えば、同じ蒙古人の白鵬には古き佳き”日本人”を感じます。
今最も美しいお相撲さんは白鵬でしょう。
技にも仕草にも美しさを感じます。
問題は相撲と言う角界人が、相撲の精神をわきまえているか?
と言った問題でしょう。
それは、日本人外国人の区別はありません。
功労者に「自業自得だ」、贈り言葉をするような精神は最悪です。
 
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          毎日新聞から(mainichi.jp/enta/sports/graph/2007/ 1130/38.html
 
朝青龍の引退に際し、
「お疲れさん、ご苦労さん、お前は良くやってくれた・・・・」
と労わりの言葉を贈れない相撲協会はどうしたものでしょうか?
引退興行自体を広告代理店に委ねてしまった、その結果でしょうか?
それにしても、心の狭さを感じます。
親方衆に可愛い倅を預ける事はもう出来ません。
 
朝青龍の相撲は・・・・・勢い余って、熱中しすぎて、ついつい悪役になってしまいます。
でも、・・・・・一生懸命は疑いなし、八百長の懸念は挟む余地もありません。
 
常立寺の五輪塔、青いマフラーを見る度に朝青龍が好きになります。
 
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           遊行寺今月の標語、秋の空気を胸いっぱい吸うと、清浄な体になるような・・・・
 
 
 
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瘠せたヒキガエル、一斉羽化した足長蜂

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傘をさしながら、夕暮れ時我が家に帰ってきました。
門扉前の道路に何やら蠢いている物体があります。
近寄ってみれば、ヒキガエルです。
馴染みの我が庭に棲むヒキガエルの親爺です。
辛子色で、中々お洒落な親爺です。
それにしても痩せ細ってしまっています。
このブログで、初夏に紹介した時は、もっと太って、威風堂々としていました。(下3枚目の写真)
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ヒキガエルは両生類、冬眠する事は小学生も承知しているでしょうが、実は夏眠もするのです。
今年は猛暑でしたから、長らく寝ていたのでしょう。
それが、ようやく涼しくなったので、ようやく目覚めて、
「ソロソロ、起きて腹でも満たそうか!」出てきたのでしょう。
 
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           (6月27日「愛すべきヒキガエル/無題」で紹介した時の親分。夏眠後は瘠せてしまいました)
 
ヒキガエルは夜行性です。
雨が降ったので、いつもミミズが出てくる道路端に出てきたのでしょう。
此処はヒキガエル君の格好の餌場です。
ミミズは雨水に誘われて地中から這い出し来ます。
道路端は排水溝でもあって、ミミズは度々流されてきます。
此処で待っていれば、美味しいミミズが次々に口の前に流されて来ます。
後は蝦蟇口を”ガバッ”開けば良いだけです。
これから2ヶ月、充分に体力を付けて、また眠る積もりです。
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 (道路は危険です、目の前の縁石を乗り越えて、草薮を越えれば親分のホームグランド、早く帰っておいで!)
 
 
こっちは足長バチ、
アイビーの葉陰に巣を作っていました。
昨日、一斉に羽化しました。
成虫と言ってもマダマダ柔らかい体です。
今しばらく体を乾かして、外骨格がしっかりしたら飛び立つ積もりです。
冬将軍がやってくるまで束の間をしっかり食べて、体力を付けなければなりません。
蜂の食事は虫です。
虫達が生きている間に、ゲットして、体力付けて、雄は男の役割を果たさなければなりません。
雌は木の洞などで越冬する者もいます。
 
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来春になれば、女王蜂は越冬蜂が作った巣に入ります。
そして、先ずは子供を生みます。
無性生殖(卵子だけ)で子を産みますから、子供の量産には最適です。
子供は男ばかり、役割を分担して働きます。
”量の保存”が行われます。
そして、数が適量になった所で、女王蜂は蓄えておいた精子を合体させ、子供を生みます。(両性生殖)
雄蜂に比べればDNAが二倍の子供が出来ます。
勿論DNA二倍は雌蜂です。
”質の保存”が行われるのです。
DNAの差も明白です。自然の摂理は、数は男、質は女、役割を分担しているようです。
 
秋は短時日に過ぎ去ってしまいます。
ヒキガエルも足長バチも、その他の自生生物は、これから懸命に命を伝えなければなりません。
見詰めていると、”ひたむきさ”がどこか”切なく”感じてしまいます。
私もそんな人生の”秋”を送っているからでしょうか?
 
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(今年最後の羽化した足長バチ、蛹は6角形の巣から出て総て成虫になってしまいました。もう数時間経ったら、背黒足長バチは阪神タイガースカラーになって、勇ましく飛び立つでしょう。
数年前、家内が竹箒で蜂の巣を叩いてしまい、散々な目にあいました。再度刺されると一大事です。そこで、アイビーも相当伐採してしまいました。でも・・・蜂は一杯居ます。)
 
 
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散ってこそ美しい「金木犀の花」

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昼過ぎになって、まる一日降っていた雨が上がりました。
楽しみにしていた、金木犀を眺めにお出かけです。
金木犀は香を楽しむもの、花は小さくて小枝の先に密集して咲くものの・・・・あまり目を惹きません。
でも、落花して地面を覆ってしまうと、初雪がうっすらと積もったように見事なのです。
 
行き先は、先ず大長寺(岩瀬町)です。
徳川家康ゆかりの大長寺、その本堂脇、庫裏玄関前に見事な金木犀があります。
樹木が大きい事、そしてその形が美しいのです。
どうして、こんなに見事に丸く刈り込められるのだろう、植木屋さんの技術の極みを感じます。
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          (鎌倉一大きく見事な大長寺の金木犀、手前錦木はもう紅葉しています)
 
期待通りでした。
金木犀の星のような花(実は4弁花ですが)が地面を覆い隠しています。
散った花が雨で流されたのでしょう、大きな塊りになって、模様を描いています。
墓参用の手桶に、苔の上に、落花は散っています。
見上げれば、梢の先の花は疎らです。
でも、此処の金木犀は二度咲きする筈、散り終えればもう一度、花数は減っても、晩秋を飾ってくれる事でしょう。
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     (地面を覆い隠した金木犀の落花。金木犀の花が一番見事な瞬間です)
 
 
夢中になって、カメラを向けている私に、金の雨が次々に降りかかります。
薄くなった髪の毛に、肩に降りかかります。
甘露の雨だなあ!
思います。
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さあ、次は松ヶ岡・東慶寺です。
東慶寺は別名「駆け込み寺」、
駆け込む女性が、草履でも境内に投げ込めば、離縁は凡そなったもの・・・・、役割を担ったお寺でした。
右に「松ヶ岡」、左に「東慶寺」、刻まれた門柱の前に、金木犀、銀木犀が花をつけます。
江戸時代にも木犀が植わっていれば、女性は樹の陰から草履を投げ入れた事でしょう。
ならば、木犀の花は”ようやく、男から解放される”随喜の涙だった事でしょう。
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                  (松ヶ岡、門柱、塀の外に金木犀、銀木犀が花を咲かせます)
 
 
若いカップルはこの寺が「愛の誓いの寺」、と思っているようです。
「わあ!金木犀、いい香」
「銀色の金木犀もあるんだ!」
月の砂漠、金の鞍には王子様、銀の鞍には皇女様・・・・、そんな思いなのでしょうか?
花の前で、「ハイポーズ」、携帯カメラに収まっています。
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今日はこれでお終い・・・・、金木犀が散ってしまえば、もう秋冷の季節、
それにしても、一年が短く感じられます。
 
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   (緑苔に散った金木犀の落ち花)
 
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       (銀木犀の花)
 
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検察官の倫理観はどうなったの?

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明日から光明寺のお十夜です。
本堂の閻魔大王図をみて、食事は鎌倉山檑亭に廻りました。
庭の十王像(石仏)を拝観・・・・・、今日は閻魔様に良く会う日だな・・・思います。
 
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  (光明寺、閻魔大王図)
 
 
毎日のように「大阪地検事件」が報道されています。
昨日(11日)は前田容疑者が証拠隠滅の疑いで起訴され、懲戒免職されました。
報道では今後の焦点は「前田容疑者の上司がどのように係わっていたか?」に移るようです。
最高検察庁は、大阪地検全体の組織犯罪との疑惑を持っているようですし、拘置中の容疑者は「最高検察庁のでっち上げた・・・」全面的に戦う姿勢です。
次第次第に、国民の検察に対する信頼が地に落ちてゆくでしょう。
 
ところで、大阪地検証拠改ざん事件の発端は・・・・郵政不正事件でした。
たしか大阪本社大手電器販売店(B電器)が障害者団体向け割引郵便制度を利用する為、
厚労省に偽の証明書を発行させた、のでした。
厚労省係長が村木局長の指示で偽証明書を発行した・・・・・そんなシナリオで起訴したのでした。
村木局長の無罪が確定したのは良かったのですが・・・・本当の”悪”は誰だったのか、最初の事件は誰がフォローしているのか・・・・証拠改ざんの驚きで吹き飛ばされているようです。
この間の、マスコミの公正を欠いた報道姿勢もたいして非難されていません。
 
一連の事件を、少し距離を置いて俯瞰すると、問われているのは「法曹界の倫理観」であると思われます。
国民は”悪徳の弁護士”には慣れてしまいました。
バブルの時代に土地地上げ屋の片腕を担いだ弁護士、組織暴力団や町金の裏に潜んだ弁護士・・・・「弁護士の拝金主義」はその倫理観の喪失を印象付けました。
警察は・・・・どうかしら?裁判官は?・・・・・でも検察は信頼してきました。
でも、今回の事件は”検察も同じ人間、倫理観はたいして変らない”と印象付けています。
 
そもそも、「人間が人間を裁く」、そんな事が出来るのか・・・・、
でも、安心安全な社会にする為、犯罪を抑制する為には、裁き、断罪しなくてはなりません。
でも、過ちは許されません。”公正・公平・客観的に」実施しなくてはなりません。
 
でも、「公正・公平・客観的」に断ずるのは難しい事です。
でも、しっかりした倫理観が社会に浸透していれば、これが可能になります。
しかし、個人主義が普遍化し、倫理観は希薄になってきました。
 
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                 不邪淫戒を調べる宋帝王・霊巌寺蔵( www.rifnet.or.jp/~nakaie/jyuo.html
 
鎌倉山の十王像、
閻魔大王を筆頭に10人の裁判官が居ます。
裁判官は役割が決まっています。
証拠主義に従って、生前の所業を断じます。
「不邪淫戒」を専門に調べる「宋帝王」
不妄語戒」(うそ偽りを言ってはならない)を担任する「五官王」
不殺生戒」」を担当する「初洪王」
そして、生前の行為を断じて、死後の行き先が決まります。
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  嘘をつかなかったか調べる五官王・舌を抜かれています。霊巌寺蔵( www.rifnet.or.jp/~nakaie/jyuo.html
 
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                 (鎌倉山十王像)
 
以前、TVのスイッチをオンすれば「遠山の金さん」が活躍していました。
お白州に引き出された悪人が言います。
「北町奉行様、疑いは別として、証拠がありますか?」しらを切ります。
やおら金四郎は片肌を脱いで桜の刺青を見せつけます。
「この桜吹雪に見覚えがねえとは言わせねえぜ」
 
桃太郎侍にも、共通する倫理観がありました。
「嘘をついてはいけない、人間や社会は騙せても、お天道様は見ていなさる」
 
お天道様とは、先ずは「太陽」のこと、そして太陽が隅々まで暗闇を明かすように、人間の行為や心の奥まで見透かしている・・・・超自然的な存在・・・・、として信じられていました。
人間の限界、法の限界、を意識していたからこそ、お天道様の存在が信じられ、社会は営まれていたのでしょう。
 
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お天道様や閻魔大王が社会倫理観から薄くなった現在、司法全体の「公正・公平」を担保する事は難しくなってきました。
冤罪は無尽蔵にある・・・・そんな懸念を抱かせます。
いつ、自分が冤罪に引き込まれるか・・・心配になるでしょう。
まして、司法制度改正と称して、「裁判員裁判」が始まり、「検察審査会法を改正」して素人の目を入れたとなると、一層冤罪のリスクが高まっていると思われます。
大衆の目は動じ易く、風評などによって動じ易いからです。
「魔女狩り」を筆頭に組織的に冤罪で散った命は沢山あったでしょう。
まして、現代のようにマスメディアによってコントロールされている状況下、一層心配です。
 
 
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  ( 庚申塔の主尊、青面金剛像も閻魔大王と似て、人間の行為を審判します。江ノ島道・亀井野雲昌寺)
 
 
「人間が人間を裁判する事には限界がある」
自明な事と思います。
裁判は極めてプロフェッショナルな領域でしょう。
厳格な倫理観をベースに、客観的な証拠集め、鋭い洞察力、公正な判断力・・・・・
様々な適正能力・スキル、そして高潔な人格が期待されます。
私は”貴方が候補です”連絡があれば、必ずお断りします。
理由は、私の宗教観です。言うつもりです。
 
「司法制度の民主化」
耳障りは良いのですが、日本全体が「不幸な蟻地獄」に陥って行く心配がしてきます。
閻魔様は信じていませんが、過ちの上に過ちを上塗りする、そんな生き様はしたくないからです。
 
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秋色の鎌倉山

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湘南で最高の絶景といえば、先ず「鎌倉山」でありましょう。
山桜の咲く春も良いのですが、秋草が咲いて虫の音がなきやまない秋も良いものです。
遠く伊豆の山並みが箱根山、続いて丹沢大山に連なります。
その遥か上に富士山が顔を出し、
紫色に染まった相模野が広がって、手前には湘南の海辺が湾曲しています。
そして、手前に江ノ島が望めます。
 
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  (富士山の真下の位置に山椒洞母屋/人見絹代旧宅、がありました)
 
大仏のある長谷地獄谷から、七里ガ浜に沿って約100m程の丘陵が続いています。
西端が腰越です。
この2キロ余り、深沢の丘陵を昭和初年、菅原通済が別荘地として開発を始めました。
勿論、湘南随一の風光が売り物でした。
政財界の実力者、棟方志功など文化人が買い求めました。
湘南の季節の移り変わりを楽しみ、仕事をする上でも良い立地だったのでしょう。
 
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  (夢殿コピーの八角堂は修理中、施設の維持は大変でしょう)
 
菅原通済は開発会社の事務所を計画地で最高のビューポイントに用意しました。
開発会社の事務所であると同時に、文化活動の拠点にしたかったのでしょう。
戸塚の豪農猪熊氏の旧宅を移築し、食事のできる施設にしました。
広大な傾斜地を庭園に整備し、斑鳩夢殿を模した八角堂を建築しました。(多分観音堂のつもりでしょう)
お茶屋を作り、登り窯を設え、お店で使う容器を作らせました。
谷向こうの山崎では北大路魯山人が星岡窯を構え盛んに作品つくりに精を出しました。
国東から、全国各地から石仏を集め、散策路の其処此処に置きました。
 
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 (野薊の向こうが檑亭/旧・猪熊邸母屋)
 
 
コンセプトは「湘南の風光の中で、季節の移り変わりを、目で、耳で、舌で・・・・・五感総てで楽しむ・・・・」。
そして、鎌倉山の良さを実感してもらって、別荘地を買い求めて貰おう・・・・そんな計画だったのでしょう。
先ず、近衛文麿に入居してもらう、堤義明の協力を得る・・・・事業計画も周到で、垂涎の別荘地は成功しました。
 
昭和40年代、モノレールが出来て、都心まで1時間あまりで通勤可能になりました。
傾斜地にはマンションが建ち、橋桁を建てて、文化住宅が建ち始めました。
4年程前でしたでしょうか?
みのもんた氏も山椒洞跡地の一部を買い取り、自宅(?)を建てました。
 
何時しか、道路の両脇に植えた染井吉野も齢を経て、見栄えも悪くなってきました。
桜が朽ち始めるのと平行して、何時しか、鎌倉山は何処にでもある住宅地に変じてきたようです。
 
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                             (散策路の周りに咲いた吾亦紅)
 
昭和44年(1969)、通済の鎌倉山開発会社は檑亭(らい亭・旧清香苑)www.raitei.com/2menu.html として営業を開始します。
鎌倉の奥座敷として好評を博します。
我が家でも回忌法要のあとの会食は決まって山椒洞を使いました。
今は、もう取り壊されてしまいました。
 
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  (八角堂の基段に嵌めこまれた古代瓦)
 
女将さんは、鎌倉山の歴史を身をもって頑張ってきました。
今では、檑亭の門番をしておいでです。
この施設を歯を食いしばって持ち続けておいでです。
 
 
私達夫婦は、お蕎麦を食べて、お庭を周遊して、秋草を楽しんで戻ってきました。
女将さんはキンカンを持って待っておいでです。
 
実は十六羅漢を巡って戻って来たのでした。
羅漢は竹薮の中・・・・
私達夫婦はやぶ蚊に食われっ放しでした。
特に家内は散々で、二の腕を、脚を掻いています。
キンカンを使いながら談笑です。
 
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女将さんから確認しました。
山椒洞の母屋(鎌倉市景観重要建築物)を壊したのは、みのもんた氏に売却したからでは無く・・・
和様建築の維持が困難だったから。
跡地は所有(ものもんた氏の邸宅はその西側)しているとのことでした。
絶景のポイントです。
じっくり検討して、文化財・風光財となるような利用計画をプランして欲しいものです。
 
それにしても、頑張り屋の女将さんです。
 
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 (竹林、見た目は綺麗ですが、藪蚊の集中攻撃を受けて受けてしまいます)
 
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(羅漢さんも肩を藪蚊で食われて、痒そうです)
 
 
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儚い花「夕顔」

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明け方に咲くから「朝顔」、昼間に咲くので「昼顔」、夕方に咲き始めるので「夕顔」、
古人はそう名づけたのでしょう。
でも、夕方に咲いても、翌朝には萎れてしまいます。
そして、その花はもうお終いです。
翌日も咲く事はありません。
実に、儚い花です。
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       (東慶寺の夕顔)
 
 
東慶寺では毎年お茶室の入り口に夕顔を咲かせています。
今年は花菖蒲畑まで広げようと、竹で井桁を組みました。
井桁の上に夕顔の蔓を這わせて、一面夕顔を愛でようと・・・・・そんな意匠です。
私は何度も見にきましたが、ヤッパリ夕方にならなければ咲かないようです。
もう、秋も深くなってきました。
陽の沈むのも早くなってきました。
東慶寺の閉門時間、5時直前に入山してみました。
拝観受付はもう閉めてしまいました。
全山人影はありません。
 
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本堂前を進んで、道の突き当たりに如来様がお座りです。
道は此処で少し右に折れて、墓地に続きます。
左手にはお茶室の柴門が佇んでいます。
仏様のお背中から夕顔の咲く畑になります。
 
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夕顔は花弁も花芯の蕊も、総てが真っ白です。
夕闇の中に、大きな真っ白な花が、浮き上がっています。
ゾッと背筋に冷たいものが走ります。
向こうの墓地から霊が出てきて、夕顔の花の周囲に漂っているようです。
 
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  (手前が夕顔、白壁は松ヶ丘宝物館、奥の闇の中が墓地)
 
 
ある夕刻、高貴で美男子が訊ねてきました。
舘の垣に絡んだ花の名を尋ねられました。
「夕顔ですよ」一花とって差し上げました。
 
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  (東慶寺で咲き始めた藤袴の花、夜に出てくる蛾や蝶も変ってくる)
 
 
その晩以来高貴なお方は名を隠して、足繁く訪れました。
舘の女性の奥ゆかしさに惹かれてしまったようです。
でも、慎ましやかな女性は名前も聞かず、といって、受け入れる事もありませんでした。
都の噂話になったら、高貴なお方も迷惑でありましょうし・・・・、不幸な予感がしていたのかもしれません。
 
でも、ある晩ツイツイ、外で逢瀬を迎えることになってしまいました。
寂れた某院での密会です。
美男子は矢鱈張り切っています。
女性は恐れおののいています。
そのあばら家に、悪霊が棲んでいる、感じていたのでした。
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予感の通り、怨霊が出てきました。
女性にとり付いて、人事不省に、命を引き取ってしまいます。
そして、美男子に向って恨み言を言います。
「なんで、あんたはこんな下賎な女にまで言い寄るのですか!」
 
美男子の名は光源氏、怨霊の名は六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)、女性の名は、ただ「夕顔」と言われました。
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    徳川美術館源氏物語絵巻(国宝」から「宿木」(夕顔の場面は未詳です)
 
 
『源氏物語』五十四帖の巻の一つで、第4帖の「夕顔」です。
紫式部は屹度夕顔が好きだったのでしょう。
だから、物語の冒頭に、こんな暗い話を載せたのでしょう。
第20帖には「朝顔」が登場します。
此方は氏素性の高貴な、童女の話です。
 
平安時代、宮中の人達は毎日を雅で優雅に過ごしながらも、何処か不安に慄いていたのでしょう。
だからこそ、美しい夕顔の花に惹かれ、そして悲しく暗いイメージを抱いたのでしょう。
東慶寺で、夕顔を見詰めていると、そんな古代人の息遣いが解る様な気になりました。
 
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   (夜になると折り目正しく花を閉じた芙蓉の花)
 
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                     (夕顔の実、皮を薄く削って、干すと干瓢になります)
 
 
 
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