大野寺で枝垂れ桜とを眺めて、私達は今日最期の目的地長谷寺に向かいました
国道156号線(初瀬街道)を西に走ります。道路の左(南側)は深い谷で谷の中段に近鉄電車が走っています。谷底を這う様に流れているのが先刻室生寺、大野寺の門前を流れていた宇陀川です。東西の山が逼っています、坂を下る二つれて山峡は開いてきました。東に「長谷寺近道」の表示が見えて来ました。桜はもう散り始めています、もう長谷寺は散ってしまっただろうか?心配です。
私は大学時代の浅子先生の授業を思い出しています。講義は「法隆寺若草伽藍の評価」でした。
法隆寺には東院伽藍と西院伽藍(夢殿)があります。明治10年に法隆寺西院伽藍南東部の境内から寺院跡が発見されました。
日本書紀では法隆寺は聖徳太子によって607年(推古15年)建立された事になっていますが、日本書紀』には670年(天智9年)焼失したとの記述もあります。、現存する法隆寺東院伽藍が聖徳太子が建立された堂宇であるのか、それとも、地中から発見された寺院跡(若草伽藍が)が最初の法隆寺であって私達が今観ているのは再建された法隆寺であるのか。そんな議論でした。
浅子教授は法隆寺の建材は材木は宇陀の山奥から切り出したもので、て石材は難波の港から大和川を船で運んだお考えでした。大和朝廷は大和川が生命線でを船で下って、朝鮮半島まで攻め込みもしました。
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(額田王)
10日桜巡りの締め括りは長谷寺でした。写真は玉蔓庵跡からの唐の長谷寺の眺め。紫式部もこの辺りから長谷寺を遠望して玉蔓の構想を練ったと思います。写真は1012年撮影。
長い登廊。平安の女官はこの石段を上って観音様に祈ったのでした。【2012年撮影】
難波の港から川を上れば桜井を越えれば瀬が増えて来ます。初瀬より上までは舟は上れません。その為に荷は海柘榴市(三輪山の麓)で下しました。
宇陀川は桜井【古代海柘榴市】辺りから下流を大和川と言います法隆寺建立に際し材木は奥山から海柘榴市辺りに搬出され川を下ったと云われています。また長谷寺観音は難波の海に漂着した楠の霊木を長谷寺に運んで観音を刻み出したと言い伝えられています。大和川は古代の物流の幹線でした。仏教伝来の地記念公園から三輪山を遠望。
2年前海柘榴市から大和川を観た絵。土手の上は桜の並木で菜の花の咲く道を桜井高校の女学生が颯爽と通学していました。遠くは三輪山です。私は気持ちだけは志貴皇子になりました。
私は高校時代の古典の授業を思い出します。
始めて教壇に立たれた碇井先生は平安女流文学を熱っぽく講義してくださいました。
枕草子の初瀬籠り、そして紫式部の初瀬籠りです。
私は宮廷勤務のエリートОLが長谷寺に籠るのが何故だか不思議に思いました。
今でも勤務はストレスが溜まります。名門清原家の期待を背負った清少納言や紫式部が鬱病に陥って長谷寺に療養に出たのでしょうか?女房が沢山長谷寺に籠ったのならば。専門の「療養病棟」が必要になります。紫式部や清少納言は長谷寺の何処に籠ったのだろうか?そこに行ってみたいものだ・・・。それが私の疑問でした。
長谷寺の図筆者入院中に描いたものです。清水寺は長谷寺の京都版のようで舞台も似ていますし。ご本尊も地蔵尊の様式に近い観音様です。
【隠国の初瀬】
隠国(こもりく、「く」は場所、所の意味です隠国は両側から山が迫って、それに囲まれたような所、泊(初)瀬にかかる枕詞で、柿本人麻呂が万葉集巻3-428で、次の歌をよんでいます。
こもりくの 泊瀬の山の山の際(ま)に いさよふ雲は妹(いも)にかもあらむ
歌の意味は、詞だけを追えば次の通りでしょう。
泊瀬山の山の上に漂う雲は 愛しいあの少女なのだろうか
でも初瀬が古代人の墓があって霊が行く処であった事を知れば次のような意味になります。
長谷のお山の上に雲が漂っているよ、あの雲は私の愛しい妻が載っているのだろうよ。残された私は寂しいよ。
長谷寺門前の白酒屋さん、本業は奈良漬けのようですが、この季節は草餅団が人気のようです。私達は此処で一服致しました。清少納言も”あなうまし”言われた事でしょう。
草副餅も良かったのですがこの桜羊羹も食べたかった。せいしょうなごんなら羊羹を好まれたでしょう。定子のお土産なら日持ちもするしこの桜羊羹でしょう。主従が桜羊羹を口にしながら屁背観音ンお土産話をする光景を推測すると楽しくなります。
白酒屋の草餅(お店ではくさ福餅と呼んでいます)は焼いて蓬の香りを匂い立てて食します。大宰府の 梅ヶ枝餅の長所も取り入れています。
清少納言は「枕草子」で「市は辰の市・里の市・椿市、大和に数多ある中に、初瀬に詣づる人の必ずそこに泊るは、観音の縁あるにやと心ことなり」と書き、長谷寺の事を事細かに描写しています、長谷寺の古い参道は、東の谷日本杉辺りから椙(すぎ)坂を登ったけど、正面から本堂へ登る道が開けたのは、第66代一条天皇の時(1千年頃)、勅願によって仁王門が移築され、春日社の社司中臣信清が子(信近)の病気平癒を感謝し、回廊を建立してからと述べています。更に牛車で石段の下に乗り付け、「初瀬などに詣でて、局(つぼね)する程、くれ階(はし)のもとに車ひきよせ立てたるに、帯ばかりうちしたる若き法師ばらの、足駄(あしだ)と云ふものを履きて、いささかつつしみもなく、下り上るとて、なにともなき経のはし打ちよみ、倶舎(ぐさ)の頌(す)など誦しつつありしこそ、所につけては可笑しけれ。・・・」と云い、坊さんがさっさとトウ登廊を上がり下りするのに驚き、彼女は手摺に掴まってゆるゆると登り、本堂では灯明が沢山あがって、「仏のきらきら見え給へるは、いみじうたふとき・・・」と書いています。 長谷寺仁王門この位置まで清少納言は牛車で私達はレンタカーで乗り付けました。桜はもう散り始めているし夕暮れも近いので私達は玉蔓庵跡で長谷寺は遠望しただけで宿に向かう事にしました。
私達も清少納言に倣って仁王門の下まで車で乗り付けました。そこから清少納言は長い登廊を手摺に掴まってヨロヨロと登ります。若いお坊さんが足駄(あしだ)の音を立てて先を越して行きます。
枕草子では宿の説明は特にしていません。長谷寺には幾つも市が在ったと記されているので市に宿を取って宿の部屋【局】から長谷寺に参詣したのいでしょう。私達は昨日の夜吉野山の民宿に宿を取って朝晩に金峰山寺に詣でたのでしたが、一日だけではなく一月も続けたことでしょう。一月も長谷観音様の足元で、山籠もりの日々を送れば、清少納言も紫式部も元気溌剌また窮屈な大宮勤めに復帰できたのでしょう。
長谷寺の東與喜山満社と素戔男尊神社の竹林にあった玉蔓庵の跡。先人も源氏物語の舞台を探して此処の景色に惹かれたのでしょう。(大磯の鴫立庵のようなものです)本居宣長は皮肉で評しています。
で、次は紫式部の籠った宿が気になります。江戸時代の国学者も同じような疑問を持って紫式部が眺めた位置に庵を建てたいと思ったのでしょう。
私は2年前その場所を探したのでした。
長谷寺門前を東に廻り込みます。谷川を連歌橋渡ると阪があります。坂道は與喜山満社と素戔男尊神社に続きます。
連歌橋の名は神様に連歌を奉納した事によるそうです。石段の左右は竹藪です。竹藪の中に玉蔓庵の跡が残されています。、
紫式部の「源氏物語」では、玉鬘(たまかずら)の姫君が、故あって身を隠していた筑紫(九州)から乳母の勧めで足を引きずりながら京都から徒歩で来て、4日目に最後の泊まり海柘榴市で、昔は母の夕顔に仕え、今は光源氏に仕えている女人(右近)に巡り合った宿の描写などがこまごまと書かれ、それから初瀬の観音さまに詣でると、現世のご利益があり、その後すぐに
光源氏の六条院の屋敷に引きとられ、華やかな宮廷での暮らしを得ましたが、幸せだったかは疑問です。なお、この物語に想を得たのが、彼女の美貌ゆえの苦悩を主題とした金春禅竹は能「玉鬘(玉葛)」で、能では玉鬘の化身(霊)が、旅の僧を長谷寺の二本杉まで案内して、自分の数奇な運命を語り、僧の回向で玉蔓は成仏いたします。
長谷寺の昭和の名塔
【素戔男尊神社の意味】
古事記も日本書紀も大和朝廷の正当性を説明するする神話です。そのヒーローは日本統一を果たす素戔男尊です。素戔男尊は天照大神の弟です。素戔男尊が武力に秀でた「山の神」であり、は天照大神は多産豊穣の「田の神」です。神話は山の民と里の民のバランスに配慮して二つの民の和のうえに日本の統一国産みを実現させます。
里の民であった人達は元気が無くなると山に登って山の神に祈って気力を回復しまあした。それはまるで森林療法のようであって、長谷籠りだったように思うのです。
なお、国家統一を為したツールが素戔男尊の「草薙の剣」で剣は鉄器文化を象徴する神具でしたし。勾玉は天照大神の宿す霊であったのでしょう。そして鏡は人間の汚れや曇りの無い純白な心を象徴したものと思うのです。
私達は大きな国家社会の一員に組み込まれています。歯車は昔も今もストレス疲れします。それは里の民の運命なのです。山の民だった時代には想像できなかった心の病です。そこで心の病に陥った時には長谷寺のような山寺に籠って心の回復を遂げたのでしょう。山の神のパワーをゲットして、清少納言は京都に帰って哀れ没落する定子を支えたのでした。
【山の神と田の神の衣替え】
冬に山は雪が積もって白くなります。春山は緑に衣装を変えます。冬神は山に登って「山の神」として鎮座しています。春になると山を降りて里に行きます。里に降りれば田の神になります。神古代人はが里に降りるのが5月ですからさつきと呼びます。この時の依代を桜と信じたのでした。私の住んでいるのは相模((さがみ)です「さ神」の字でした。さがみは「田の神」のいみです。田の神のお祭りは各地で呼び名が違います。でも共通するのは「さ」の音が付く事です。三九郎【信州】も火祭りも左義長(神奈川)の火祭りもサイト焼(関東)もみんな同じで「さ/神」の音が付きます。山の神は季節によって移動して田の神になるのです。里の民は心が病になったら山の神の処に帰れば復活できるのです。平安時代はそう信じて長谷に籠ったのでしょう。
私達は玉蔓庵跡から長谷寺を遠望して10日の桜探訪のしめくくりに致しました。
雨が降り続ける中飽かずに眺めましたが体も冷えたので事前に約束しておい長谷寺門前の草団子屋に向かいました。花より団子が共通する欲望です。お店はストーブを焚いてお茶を用意してくださいました。このお店は奈良漬け屋さんで、皆がお土産に買い求めていました。
白酒やの店内草餅2個に熱いお茶のサービスをしてくれました。我が妹は刻みの奈良漬けを求めてくれたので毎日食事が進みます。
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