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吉野山の夜(吉野花紀行4)

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五条は大和街道を始め伊勢街道紀州街道等5つもの街道がクロスする要衝で天領でした。山本酒造は家光も激賞したと言い伝えられる「松の友」を看板にする老舗酒蔵です。加えて最近は名産の御所柿を使った「酒ワイン」も好評だそうで。伝統と進取の精神のバランスある醸造蔵と聞きます。今晩の夜会には同醸造所の「松の友/男子用」と「柿ワイン/女性向け」が最適と考え、カーナビを五条旧市街地にセットしました。山本酒造のHPはhttp://homepage3.nifty.com/nara-sake/kuramoto/yamamoto.htmlです
でも旧市街は一方通行ばかりで車で進入禁止です。市役所近くで道を聞きますと。市役所職員が丁寧にお店の位置を案内してくださいました。
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私達が江戸時代の面影を残す五条新町に着く頃は既に外灯に灯が灯りはじめていました。
一ツ橋餅屋で焼餅を食べて江戸時代の町屋を見学する予定だったのでしたが、それも無為になってしまいました。
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右端が山本酒造松の友と柿ワインが新旧の看板商品です
車は五条から山道に入り大淀町に向かいます。大淀で吉野川の北岸を登って行きます。
山肌は谷が吉野杉尾根に桜が咲いて居ます。
大淀町で柿の葉寿司とお酒(春霞)を求めましたがドライバーには負担でした。
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堂本印象さんの描かれた木花咲耶姫
戦いに敗れた山彦が天界から地上に落下して桜の樹の梢に引っ掛かっていたところ,木花咲耶姫に助けられた古事記の伝説が納得の尾根の桜です。この様子なら吉野山は満開で・・・・、期待は膨らむ一方です。
何時もは大手旅行会社のパック旅行で行くのでしたが今回は吉野の宿が満杯と言う事で断られてしまいました。そこで致し方なく宿は民宿の花屋さんに致しました。私達の到着が遅いので外に出て待っていてくれました。吉野は交通規制で下千本駐車場の上には車は上れず、駐車場から中千本まで20分坂道を歩かなくてはならないのでしたが民宿の玄関先に駐車出来るよう手配しておいてくださいました。
夜は忙しいのでした。直ぐに食事食事が終わったらお風呂。金峯山寺の夜間特別公開に、そして私達研究会の知的リーダーT教授による「吉野山と西行法師」の講座を開催します。午前中の時間ロスに就寝するまで追いかけられてしまいまあした。
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夜間特別拝観の金峯山寺蔵王堂のご本尊蔵王権現象この日は金曜日で閉じられていました。出典吉野観光協会
この三尊像の素材が桜であるとの信仰から平安時代300年の間に修験者が桜を植樹した事から日本の桜の代名詞吉野山が桜の山に変わったのでした
古代の大和盆地は一面の湿原であったようです。大和(やまと)とは湿原から山への門と言ったのが始まりと聞きます。吉野はそんな湿原と深い大和の境に在った「佳い野」「好ましい野」の意味だったと言われています。大淀町の辺りが湿原では無いし、山深くも無くて山の幸にも川の幸にも恵まれた住みやすい土地だったでしょう。
宿の壁には吉野のポスターが貼られています。
明日は雨と聞いていますが、朝起きたらどんな桜が目に飛び込んでくるのか楽しみです。
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宿から蔵王堂まではすぐ眼と鼻の先です。8時過ぎ私はワイフに連れ添って貰って蔵王堂に向かいます。蔵王堂の柱は躑躅と聞きますし、蔵王権現は桜と云われてきました。桜も躑躅もそんな大木に育つとは容易くは信じられません。平安時代女性は罪障が深いので往生し難い言われてきました。女性往生を唱えたのは法華経。平家納経の装丁が美しく女性的な事も、蔵王堂が花の咲く木で出来ている事と関連しているのでしょうか?
9時からT教授の講座が始まりました。
A4、8ページのレジュメをご用意されて、吉野山の変遷と西行法師の一生を追って講義をされました。
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講座を進められるT教授私達の興味に沿った心に響く講義内容でした。

私は「精一杯生きる事に」心がけて来ました。
それは何れ死ぬのだ、死ぬときはたった一人で黄泉の路を歩かなければならない自覚の下にあります。
こんな思いは1000以上も前の日本人も変わらなかったことでしょう。
そう思った時日本人は西行法師の次の歌を想い出しました・脳梗塞を発症して以来
これからデーサービスに出かけます。戻り次第このブログを完成させます。


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吉野山での目覚め(吉野花紀行5)

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4月10日目覚めました。何時もは介護ベッドの上ですが今朝は畳に布団です。自力で起き上がるのは大変です。左膝が折れてしまって体重を支えきれません。それでも、ワイフに支えもどうにか立ち上がって、朝食部屋まで歩きます。宿は吉野山の断崖に建っています。玄関が2階で3階が客室、1階が食堂で地階に風呂が設えてあります。何て言う事はありません。テレビで観たヒマヤラのブータンの造りと同じです。宿の主人はこうした造りを「吉野懸崖造りというんだ」自慢気でした。
でも、足の弱い者にはヘビーな造作で、せめてエレベーターが欲しいものです。節約に努めた結果チョイスした民宿ですから贅沢は言えません。
でも吉野の絶景は誰にも公平に広って見えてくれます。食堂の窓の外は満開の霞桜と山桜が並んで見えています。吉野の桜を眺めながらの朝食は贅沢なもんです。
私は仲井の伯母さん(飯盛り役)に訊いて見ました。
「外に見える桜は白山桜/しろやまさくらですね?」
私の期待に反して仲井さんの答えは
「桜の種類は知りません。今年は早く咲いてしまって、昨日は咲いた桜に雪が積もって大変だったのですよ・・・・」
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吉野山の宿は断崖に建った懸崖のような構造です。
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花屋さ朝食風景味噌汁沢庵岩魚の煮つけ、卵焼き焼き海苔の定番に醍醐味の桜気色が添えられます。昨日は筆者のアテンドの失敗から散々でしたが今日こそ期待します。

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朝起きて宿「桜山荘花屋)の窓を開ければ外は吉野山の大通りで金峯山寺蔵王堂の銅鳥居の下でした。
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宿(桜山荘花屋)の筋向いは歯固め地蔵尊(弘願寺)でお隣は葛菓子の専門店で、忙しく開店の準備をしていました。
私は筋向いの歯固め地蔵尊弘願寺に参拝する事にしました。朝食後早速出かけました。滑ったら大変です、恐る恐る足元を確認しながら進みます。
ぜんいんがワゴン車に分乗してこれから奥千本西行庵に向けて出発です。吉野山を車で通れるのは朝9時まで、それまでに中千本(宿の辺り)上千本奥千本を廻って9時までに山を降りなければなりません。
先ずは西行庵に向けて走りますが奥千本のその先の吉野杉の林の中に西行庵が佇んでいた記憶でしたし、昨晩のT教授の講義でも西行庵の根拠として次の和歌を紹介しておいででした、
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奥千本の金峯神社下の杉林の中を西行庵を探して廻りました。左端は義経隠れ堂
とくとくと落つる岩間の苔清水汲み干すほどもなき住まいかな
(大意:苔生した岩の間から ポタポタと湧き出ている清水があるのだが 一人住まいの我が身であるから汲み干す事もない、私の身にあった侘び住まいである事よ・・・・・)
桜は尾根に自生するので清水が湧く事はありません。西行庵は桜の樹間では無くて常緑樹の下に在ったのでしょう。
義経隠れ堂から尾根を歩いて西行庵を探します。でも雨は降り続けるし危険なことこの上ありません。西行庵の確認は諦めて上千本に戻る事に致しました。上千本に戻ると混雑です。駐車スペースは在りませんし、路肩駐車は迷惑になります。
でも全員で記念写真を撮って先ず一安心です。
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上千本から西を見眺望する。西は葛城山向こうの山並みの下が大淀町辺り。吉野川は吉野山の山裾を大きく蛇行して、右の山蔭の下が宮滝(壬申の乱の勃発した場所)になります。私達は宿のあった中千本まで戻って遠望される道を下って宮滝に向かいました。

桜の事を「手弱女/たおやめ」とよびます。日本女性の美しさしとやかさを代弁すること言葉です。我がワイフも学生時代は手弱女でした。今ではその面影も薄らいで「姥桜」の匂いが漂い始めました。これも益荒男であるべき私の甲斐性がなくて介護に手を焼いているからでしょう。自然の成り行きです。手弱女の山桜は雨に濡れて頭を垂れています。花弁の先からは滴が垂れ落ちます。手弱女の洗い髪が艶っぽいように濡れ放題の桜も惹かれるものがあります。長恨歌では楊貴妃の美しさを梨の花に比喩して歌いました。濡れた梨の花は怨みを表現して余りあるのでしょうが、女性の美しさを表現するには桜の艶やかさが最適です。そうおもいながら霞桜に見惚れました。雨は一向に降りやむ気配はないばかりか、谷から雲が湧きあがり頂を翳めて行くばかりでした。
雨の上千本桜を心に焼き付けて次の目的地宮滝に出発しました。
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吉野山上千本からの吉野山全景。
桜と言っても朱鷺色もあれば乳白色の白山桜もあります。早く咲く桜もあれば遅咲きもあってそれぞれに美しいものです。これが全部ピンクの染井吉野であったら興醒めでしょう。吉野山の桜はそれぞれであったそれで美しいのです。雨が降ると雲や靄が桜の花の妖艶さを引き立ててくれるようです。現在道路脇の杉を伐採して桜に植え替えているのですが、杉は谷間に桜は尾根に自生していてこそ自然であり、美しいと思うのですが、
道路に雉が歩いていました。時折猿も顔を見せます。
ちゝはゝのしきりに恋し雉の聲(行基)を思い起こしました。
吉野山は黄泉に逝った霊が集まる処と言うよりは新しい命が生き返る聖地であると思われます。桜の花は天上の神々が舞い降りて新しい命が依ってくる「新生の花」であると思うのです。


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宮滝の静けさ(吉野花紀行6)

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吉野山を下って私達は宮滝に向かいました。吉野川の水量が嵩んで川原に駐車した車に迫っています。吉野「桜の渡し」を越えれば東野の山が妹山で西の山が背山です。此処まで下りて来ると桜はお終い緑が新鮮です。

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桜の渡しを越えて吉野川の東岸に出て南下して行きます。川の東(右)に妹山西(左」に背山が向き合っています。

雨に濡れた桜が瞼から消えません。私は小町の歌を口ずさんでみます。
 花の色は うつりにけりな いたづらに
   わが身世にふる ながめせしまに  『古今集』春・113
紀貫之は、古今集仮名序において)」で、小野小町の歌を評して「あはれなるようにて強からず。いはばよき女の悩める所あるに似たり」と書きました。また新古今集の撰者藤原定家もこの歌を藤原定家は、この歌を「幽玄様」と評して賛辞を惜しみませんでした。幽玄とは、言葉で表している意味を越えて感じられる情緒、イメージの広がり、という意味で、小町の歌はもうう言霊の領域です。
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吉野村歴史資料館で職員の到着を待つ手前は山桜です。鉄筋建物の壁を吉野杉で板張りした吉野らしい意匠です。

車は再び吉野川の西岸に出ました。其処が吉野宮が在った岸辺で現在も吉野村役場がある、吉野の中心地です。村役場に隣接して吉野歴史資料館が建っています。吉野杉の板で壁を囲った吉野の民家の意匠を引き継いだ山村らしい素敵なデザインです。今日は土曜日閉館していましたが電話で村役場に連絡すると間もなく親切な職員が鍵を開けてくださいました。
「皆様の興味は何ですか?」訊いてくれます。
私達は
「壬申の乱の経緯です」答えます。予め写真撮影の許可を伺うと「此処からそちらの展示迄は村所有の文化財です。コッチは橿原考古学研究所からの御借りものですので、こっちは写せません)明確なご指示を受けました。
大化の改新の立役者天智天皇は朝鮮出兵で禍根を残します(白村江の戦い)すると都を琵琶湖畔の大津に移しました。
天智天皇の弟の大海人皇子は吉野の宮滝に引き籠り、野心のないことを示します。
天智天皇は息子の大友皇子を天皇に据えて他界します。天智天皇没後、皇位継承問題が勃発します。総じていえば守旧派が大海人皇子を支持。大化の改新で力を得た革新派が大友皇子を支持したのでしょう。大友皇子挙兵の報が吉野に伝えられます。大海人皇子は宮滝から東吉野の山間を宇陀に更に伊賀から伊勢に進軍します。伊勢で地方豪族を合流させ、大友皇子に対抗できる軍に成長させていました。両軍は瀬田で突します。古代史最大の混乱「壬申の乱」でありました。壬申の乱は古代史のエポックで、同戦を勝利した大海人皇子【天武天皇】は古代律令政治を完成させます。、天武を継いだ持統天皇は古代の文化の花を咲かせます。私達は大和三山に囲まれた藤原京の美しさに思いをやりますが。それは持統天皇・天武天皇の夫婦愛の結晶と映りました。
藤原京を造営しても天武持統の夫婦は度々吉野の宮滝を訪れました
天武天皇は5月の節会にご夫婦揃って吉野に音何れ次の歌を奥様に贈られます。
良き人の
良しと良く見て良しと言いし芳野良く見よ良き人見よ 天武天皇万葉集28
吉野の霊力に感謝して一族郎党が良き人となり再び血で血を洗う戦いにならない様に祈って戒めた歌でありましょう。でも歴史は哀しいもので政争が止むことはありませんでした。吉野とは「芳」「「佳し」の意味であった事が解ります。



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安田 靫彦(やすだ ゆきひこ」画伯作の額田の大王像(足立美術館像)大和三山と元薬師寺等を背景に大和絵の手法を重んじて歴史ロマンを見事に画布に表現しました後述香久山を畝傍山と耳成山とが争った古歌を髣髴させてくれます。額田王のスカート(裳」が白いのは後褐の「白妙の 衣干すてふ、天の香具山」の歌によるものでありましょう。
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平山郁夫画伯作「高燿(たかひか)る藤原京の大殿(おおどの)」国立博物館蔵この絵は龍村美術織物によって緞帳に職られてふ奈良文化会館のステージを飾っている大作です。何れかの機会に龍村の緞帳を見て視たいものです。
壬申の乱は叔父と甥の確執でありましたがその一方で才色兼備の額田の大王を争う兄弟の戦いでもあったのでした。
 春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干すてふ、天の香具山
平山画伯の絵の中央の一番低い山が香具山で左の大きな山が畝傍山で手前が耳成山でしょう、その三つの山に囲まれた平地に藤原京が造営されました造営したのは古代律令国家を完成させた天武天皇 大海人皇子)でありその妃の額田王でした。
茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻1・20・額田王)大意:あの紫草の野を行き その御料地の野を歩いてるとき 野の番人は見て要るかも知れないから ああ あなたそんなに袖を振ふらないでよ・・・・私達の恋がバレテしまうじゃないの。
 紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(巻1・21・大海人皇子) 大意:紫草の紫色のように美しいあなたのことを憎いと思っているとしたら、どうして私はあなたのことをこんなにも恋しく思うのでしょうか。あなたは恋をしてはいけない人妻だというのに
上の贈答歌は教科書に出るほどに有名で、額田王が恋人の大海人皇子との贈答歌と解釈されていますが。池田弥三郎先生は酒席での祝い唄であろうと推測されました。
本気であれば天智天皇の怒りを買ってしまった事でしょう。一方中大兄皇子(なかつおほえのみこ)も二人の恋仲は知っていたようでこの三角関係を次のように歌っています〔近江宮に天の下知らしめしし天皇〕の三山(みやま)の歌一首
香具山(かぐやま)は 畝傍(うねび)ををしと 耳梨(みみなし)と 相(あひ)あらそひき 神世(かみよ)より かくにあるらし 巻一(十三)
香具山は 畝傍山を妻にしようとして 耳梨山と争ったそうだよ 神代からそうであったらしいよ。
兄弟で才色兼備の額田王を争ったのは宮中の誰もが知っていたのでしょうか?それを承知で中大兄皇子は額田王は美人だから自分たち兄弟が争うのは自然で神代の昔からしてきた事だよ・・・自然体を装ったのかもしれません。加えて肝心の額田王が思わせぶりで二人に愁派を送っているのですから、昔から女性は難しいものです。
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成20年廃校になった吉野小学校の跡地に建って吉野歴史資料館は吉野宮があった場所でした。吉野山と吉野川の川原との境に在る踊り場のようなロケーションで眼前に東吉野の象山太平山が迫って見えました。歌碑はカワズ鳴く吉野の川の滝の上馬酔木の花ぞ端に置くな夢「万葉集読人不知ー 歌番号 巻10)揮毫は奈良の国文学者上野誠氏によるもの/歌の意は蛙が鳴いている吉野川に咲いた馬酔木でも粗末にされるなこの花は宮のあった滝の上に咲いた馬酔木なんですよ・・・」

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正面が象山で吉野の家並みが拡がっていました。流石に此処では吉野桜と妹呼ぶべき「白山桜」が育っていました。
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史資料館の展示物はこの場所は新石器時代と縄文文化がクロスしていることを示しています。山の民(狩猟文化人」と土の民(縄文文化人)が並行して確認できました。
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宮滝遺跡で発掘された土器土器は煮炊きする事で食料の範囲を拡大しました。同時に土器は幼児の魂を封じ込めるための壺棺として使用されました。吉野山は死者の霊が集まって此処で再生すると信じられていたと思われます。大海人皇子も後醍醐天皇も吉野で再生しようとしました。
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吉野歴史資料館の壬申の乱を解説する模型宮滝に潜んでいた大海人皇子は吉野の壇上で大友皇子軍を迎撃すべく挙兵します。壇上中心人物は額田王のつもりでしょうか?
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吉野宮の下壇では兵が武器を手に出陣しようとしています。中心人物は大海人皇子で巫女が見送る位置に居ます。この後大海人皇子は伊勢道鵜を通って宇陀から伊賀更に伊勢に進軍しつつ軍勢を3万人に拡大して大津宮に進みます。
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宮滝の跡地から出土した円筒瓦(鐙瓦)文様は飛鳥の河原寺や浄御原宮から出土した複弁八弁蓮華文軒丸瓦に酷似しています。

私達は大海人皇子の軍と同じ道を通って宇陀に向かいました。ここからは奈良在住のМさんが合流されました。Мさんは黒髪艶々臙脂のクラウンの新車のお似合いで草臥れきった小生とは大違いでありました。働き盛りの時代の過ごし方の違いを思いやりました。
宮滝を更に上流に遡ると、吉野川も細く急流に変わって来ました。川は谷底を流れていますから見えるものは吉野杉の美林です。吉野杉は桜の雅さを引き立てています。所々に吉野杉の製材工場やお箸を作る工場があります。素材の吉野杉は二なるよ石の杉が民家の庭先で干されているのですが、今日は気の毒に雨に濡れてしまっています。
明治維新この山村で古い刀剣を神棚から取り出して尊王攘夷の挙兵をした人たちが居ました。吉村寅太郎を中核にした天誅組でした。今晩NHKテレビでは吉田寅次郎が獄死しそうです。吉村寅太郎維新の虎は長州だけでなく吉野にも居たのでした。
歴史の伊勢道を4台の車に分乗して老いた小野小町や額田の王を載せて藹々と進んでゆきました。
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強い雨が降りしきる中吉野川を上流に宇陀に向かいました。この道が一般に伊勢道と呼ばれています。吉野杉の濃い緑が桜の美しさを引き立てていました。
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吉野川沿いの工場は製材工場でしょう。多くが吉野杉の床柱や天井板をつくっているようです。民家の軒先で名産の割り箸を作っていました。この雨では割り箸も濡れてしまって大儀な事でしょう。





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桜に吠える(吉野花紀行7)

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宮滝の吉野歴史資料館を後に私達は4台の車を連ねて伊勢道を宇陀に向かいました。この道は壬申の乱で大海人皇子が援軍を求めて伊勢に進軍した道です。後部座席のA女さんはしきりに天誅組の吉村寅太郎の話をしています。そう、此処東吉野村は文久3年9月 27日(1863年11月8日))は、幕末の土佐藩 ... 釈放後、再び京都へ上り孝明天皇の 大和行幸の先駆けとなるべく中山忠光を擁立して天誅組の乱を起こした土地なのです。そう.鷲家川の畔から.吉村寅太郎を総裁とした30名ばかりの勤王の志士が旗揚げして、天領五条の代官所を襲撃したのでした。吉田松陰は尊王攘夷を叫ぶだけでしたが実際に行動に移した人物がこの山深い吉野村に出現していたのでした。手弱女伯母さんA女史は益荒男に感心が高いのでしょう。道路脇に天誅組烈士の記念碑が建っています.。私も時代の先駆けとして散った天誅組の墓に手を合わせたいのですが、今日の行程も沢山ですから先を急ぎました。
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木津(こつ)にある宝蔵寺につ)の枝垂れ桜根元に天誅組烈士の池田謙治郎が眠っています。池田謙治郎は、近江国 信楽谷 しがらきだに の郷士で五条。高取城でふんせんしましたが文久3年(1863)8月18日谷尻の奥詰めの堂の向いで 自刃 じじん して、果てました。今回の旅行では天誅組烈士の墓を詣でたのはこの宝蔵寺だけでした。
 
道路の右側は岩場で吉野杉の美林です。左側は吉野川の川上鷲家川です。道幅は狭いので駐車スペースにも事欠きています。
右側岩場の下に狼像が見えて来ました。岩場の洞には祠が在って「山の神」が鎮座しているようです。狼は「山の神の」お使いらしく、祠の方を向いて居ます。大きく口を開き吠えています。狼の向いて居る先には山桜が咲き誇っています。山桜は雨に打たれてしきりなしに散り続けています。既に地表は桜絨毯状態です。


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陀に向かう伊勢街道吉野杉の美林を背景に雨に濡れた桜が艶やかでした右(東)側の川が鷲家川で鷲家村から天誅組は挙兵したのでした(文久3年1863年8月17日)。しかし京都で文久の政変/堺御門の変)が勃発時代は公武合体に傾きます。天誅組は尊王攘夷のあだ花として同年処刑され終焉を迎えました。
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狼の像が見詰める鷲家村の景色地表は桜の花弁が覆っていました。
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狼君は山桜に向いて吠えていました。
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狼の台座には咋者(久保田恵和氏1986年)と刻まれていました。
我が国の狼は明治38年(1905年)鷲家村において捕らえられた若雄(おす)のニホンオオカミが最後の捕獲記録となっているそうです。当時ここ鷲家口の宿屋芳月楼で地元の猟師から、英国より派遣された東亜動物学探検隊員米人マルコム・アンダーソンに8円50銭で買い取られ現在は大英博物館の標本となっているそうです。同標本には、採集地ニホン・ホンド・ワシカグチと記録され動物学上の貴重な資料として永く保存されています。(以上案内板に掲載)1986年にこの狼像のブロンズが出来たことは狼に対する姿勢が変わってきたことによるものでしょう。知床の狼復活運動は世間の耳目を集めていますし。米国では狼が減った事により弊害が指摘されイェローンストン国陸公園では狼が減ったお蔭でヘラ鹿による食害が問題にならなくなったと聞きます。我が国でもカモシカに依る森林苗木の食害対策として狼の再生が真剣に検討されているようです。というのも何と言っても狼は山村の食物連鎖の頂点でありました。頂点が欠けるとピラミッドは崩れてしまうのです。こうした発想は解らないのではないのですが、私は少し抵抗があります。
”狼は怖いから殺した、その結果狼が絶滅して始めて狼が貴重な存在(猪や鹿の天敵)であることが解った、だから狼を復活させよう”
というのでは人間の都合で狼を殺したり保存したり人間の勝手でしかありません
近世まで狼は「大神」であり、人間が山の神を崇める象徴的な存在でした。
人間が大自然に畏怖する具体的な対象が狼でした。狼を知床や白神大地そして大台ケ原入口の吉野村に居てこそ、自然を大切にし、自然を畏怖する事になると確信するのです。
私の好きな秩父神社のお使いも狼ですしお隣の静岡の秋葉神社も狼を祀っています。狼は「大神」とも「大咬み」とも書きます。狼の大きな口を見ると憧れてしまいます。神社の入り口は大抵獅子が鎮座していますが青の位置に狼が居ると嬉しくなってしまいます。
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上田郊外の修那羅山の狼像と山の神の祠
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山の神の祠

蒼く痩せ細った狼は吠えています。
吉野の山の頂に向いて吠え続けます。
山の頂は常世(とこよ/霊が漂う処)であって、主は帝釈天であります。

帝釈天は優しくて動物贔屓です。
兎を天に召したのも帝釈天です。
蒼き狼は知っているのでしょうたいしゃくてんの優しさを。
だから飽きもせず帝釈天に向けて吠え続けているんです。
人間は身勝手すぎる。人間を懲らしめて下さい、そして私達狼族をこの現世(うつしよ)に戻してください。
それとも桜の花に恋してしまったのでしょうか?
さくらよ・・・・お前さんは実に美しい。
今日の雨は強いけど散らないでおくれ私の傍でズット咲き続けておくれ。
また山風が吹き下ろしてくるぞ、でも散るんじゃない
梢にしがみ付いてこの風雨を耐えるんだ頑張りとおせ!
【狼王ロボの話】
私の青春の愛読書はシートン動物記でその中でも「狼王ロボ」の話が好きで何度読み返してもロボが死んでゆく場面は落涙が止まりませんでした。この話はノンフィクションでシートンが有名な動物学者であった事から利口な狼の駆除の相談を受けたこ事に始まります。
お話の舞台はニューメキシコ州北部。 多くの牛、馬、ヒツジなど が放牧される丘と小川の大地。 この広大な牧場地帯に一匹の灰色狼(ロボ)が率いる5匹程の狼の群れが居ました。群としては小さいのでしたが問題はリーダーのロボが利口で人間の知恵も及ばない存在であった事でした。
ロボ率いる狼の群れに、家畜を襲われて深刻な被害を受けていた白人達は最後の手段としてシートンに対策を打って貰おうとしたのでした。ロボは、白人達の仕掛ける多種多様な罠を、次々と看破して破ってしまうのでした。しかし、動物学者でもあるシートンがその知識と知恵を駆使して仕掛けた最後の罠、ロボはとうとう捕縛されてしまいます。
狼は基本的に一夫一婦制です。シートンは狼の群れの足跡を観察していると、ロボが一匹の雌狼に気配りることに気づきます。ロボには敵わない自覚したシートン達はロボの弱点【ブランカと呼ばれた美しい白狼の妻奥さん】に的を絞ってそのブランカを捕縛します。奥さん狼を捕縛して奥さんを助けようと遣って来るロボを鉄砲で撃とうとする策略です。
ロボは毎夜吠え続けながらブランカを探し求めます。でも鉄砲の恐ろしさとその匂いを知っているロボはブランカの折には近づきません。「愛する者を捕まえて囮にするような狡猾な知恵は狼にはありません。人間だけがもつづる賢さです。
シートンは既にロボを尊敬して憧れていましたから自分の立てた狡猾な作戦を恥じるとともにロボに作戦に嵌らない様に近づかない様に期待します。でも、孤高の戦士でもあったロボはそれを拒み、動物の本能すらも超越した強固な意志で、与えられた餌には一切口をつけず、餓死する道を選んでしまいます。
こんな高貴な、ある意味矜持の固まりみたいな動物は狼が「大神」である所以です。
ロボは高潔で崇高で一方人間は醜悪です。
矜持の塊であったロボの姿に人間の生き方を学んだ青少年は数多くいると思います。私もそんな少年の一人でした。
そんな醜悪な人間などお構いなしにロボは、その最愛の妻の為に命を賭け、破れた時は妻の後を追う事を選んだのでした。
 
人間の餌には目も向けずに矜持を守って餓死を良しとしたロボは、ブランカと共に葬られたそうだ。
私は狼が棲んでいた吉野山に戻る事を期待するものです。
夜なく鹿は興趣涌くものですが狼の遠吠えの神々しさには及ばない事でしょう。屹度常世の国からのメッセージに聞こえたことでしょう。最近読んだ良書に「狼の民俗学」があります。次に紹介しました、これも吉野旅行の下準備でした。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48631115.html

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宝蔵寺の枝垂れ桜(吉野花紀行8)

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私達は吉野滝宮から大海人皇子の進路に従って伊勢道を宇陀に向かいます。通じる峠に差しかかりました。車窓からは様々な桜が眺められます。山肌の下に眼を向ければ、渓流には紅葉が一斉に芽吹いていますし、眼を上げれば尾根近くに桜が咲き誇っています。この辺りはきっと紅葉の名所でもあるのでしょう。突然に木津の集落に出ました。読んで字の通り、吉野の良材をこの樵の集落に集めて街に運んだのでしょう。
木津の集落に入ると、前方に綿帽子のように、白い塊が見えて来ました。綿帽子は本堂の甍の上に被さって見えます。綿帽子の背景は吉野杉の美林です。
道路には「桜の宝蔵寺駐車場は此方」案内が出されています。
寺の名所案内によれば、『恵日山 「宝蔵寺」は曹洞宗であるが、 元は高野山真言宗不動院の支坊であった、』記されています。
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宝蔵寺の枝垂れ彼岸桜左奥には八坂神社があってその間に在る彼岸桜は本堂前の彼岸桜『樹齢350年』より少し若い実生の桜と思われます。左自然石は天誅組義士池田謙次郎のの顕彰碑です。レンズが濡れて画面がボケています。
江戸彼岸桜は別名「東桜」とも呼ばれる関東地方に自生してきた桜です。枝垂れるものもあり立ち姿のものもある。変異種が多い桜です。今年も三春の滝桜がテレビで放映されていました。三春の滝桜も甲斐駒ケ岳麓の神代桜も彼岸桜です。一方岐阜県根尾谷の淡墨ザクラも彼岸桜ですが此方は立ち姿で何れも樹齢が15百年、2千年と気の遠くなりそうな歳です。何れにも日本武尊のお手植えと言った伝説を伴っているのは、歳を経た樹木の風格や神々しさを敬ったからでしょう。花の数は多く枝垂れた姿は天女の袖のように艶やかです。だから「糸枝垂れ桜」と呼ばれたり「滝桜」と呼ばれるのでしょう。
関東以北に自生していた彼岸桜がどんな経緯があって、吉野に運ばれたか解りません。関東以北の修験者が吉野に籠った際に持ってきたのかもしれませんし、西行法師を敬愛した遍歴の僧が吉野山に持ち込んだのかもしれません。
でもこの天女の袖を吹き返すような艶やかな姿が余程好まれたのでしょう。此処から伊勢道沿いには白い江戸彼岸の枝垂れ桜の名木が並んでいるのです。最初がこの宝蔵寺で次が宇陀の又兵衛桜、そして仏隆寺の千年桜更に峠を越えれば室生には西光寺の枝垂れ桜、そして大野寺の枝垂れ桜と続きます。難波の雅人達は春が来たのを待って伊勢道を桜に誘われてお伊勢詣でに旅立ったのかもしれません。此処宝蔵寺の枝垂れ桜も宇陀の又兵衛桜も室生西光寺の枝垂れ桜も大野寺のそれも樹齢は350年程度で同世代です。時代は元禄時代。長かった中世の修羅の世相を越えてようやく平和な時代を迎えて文化文政と呼ばれる時代でした。
宝蔵寺を皮切りにこれでもか、これでもか、と桜を巡る旅です。
屹度私島原や吉原では「花魁が美や艶を競ったように・・・・・・私達はお大尽ではありませんが花を巡って桜の色香に酔う積りです。
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此方が三春の滝桜東北復興のシンボルとして熱い眼差しを浴びています出典:産経新聞。日本三大桜はこのほか神代桜(山梨県北杜市)薄墨桜(岐阜県根尾谷)何れも江戸彼岸桜です。江戸彼岸は病虫害に強く長寿なのです。
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宝蔵寺枝垂れ桜の根元には天誅組の烈士池田謙次郎の墓があります。時代をさきがけして22歳で死んだ孤高の烈士に相応しい見事な桜です。t天誅組の乱は高々150年前の出来事です。
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幹の傷みが気になりましたが齢を経た風格十分です。
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静寂な山里に羽衣を翻せかせて天女が舞い降りた様に艶やかです。少し若木が左奥に見えます。


駐車場の片隅で木津村の伯母さんが朝どり搗きたての草餅を商っておいででした。皆で一つづつ求めます。伯母さまは一気に20余りも売れて笑顔です。搗き立てと言ってももう冷え切っていました。餅の皮は堅くても蓬の香りは強く私の胃袋に春を教えてくれました。宇陀はもう峠の先です。宇陀でランチです。


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益荒男を生き返らせた滝桜(吉野花紀行9)

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宝蔵寺の枝垂れ桜を堪能し、伯母様手作りの草餅で腹を満たして私達は次の桜宇陀の滝桜『通称又兵衛桜」を目指しました。家を出る前、NHKで又兵衛桜は生中継していたそうなので、もう満開は過ぎて今日は花吹雪の桜が観られそうです。3年前又兵衛桜を見上げた時は満開で。風が吹くたびに揺れる枝が大振袖のように観られました。今日は加えて花吹雪が観られそうで、楽しみです。
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宇陀の又兵衛桜
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宇陀古舘に咲いた滝桜『通称又兵衛桜』3年前撮影背後の桃が滝桜の白さを引き立てています。桃畑で墓所でもあります。

昨年のNHK歴史ドラマ「軍師官兵衛」では後藤又兵衛は官兵衛を父の様に慕っていたものの、兄弟の様に育てられた黒田長政とは距離を置いた人物に描かれていました。関ヶ原の前には一旦故郷である播磨国に戻り、黒田家とも細川家とも等距離に居たようでしたが(どちらかと言えば西軍よりか?)大阪夏の陣の局面では豊臣軍の勇将として武勇を天下に轟かせます。既に大阪城に外堀は無い事から、又兵衛は群蝗の如く襲い来る34千人の幕府軍を大和川の峡谷道明寺に迎え撃とうとします。史実としては道明寺の戦いで戦死した事になっていますが、民衆は又兵衛を愛おしみ大和川の源流宇陀村にまで呼び戻したのでした。
宇陀村の古舘には石垣の上に見事な滝桜が自生していました。その麗しい孤高な姿に民衆は又兵衛を髣髴したのでしょう。民衆は菅原道真を敬愛して、道明寺で「菅原伝授手習鑑」が流行ったように宇陀では又兵衛が帰還して秀頼を報じて豊臣の再興に向けて動き出したことになっています。
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又兵衛は大和川の山峡にある道明寺に出て圧倒的な軍勢の幕府軍を迎え討ちました。しかし多勢に無勢その首は敵に持ち帰られないよう道明寺の地中深く埋めさせたと伝えられますが。民衆は英雄を惜しみ大和川の源流宇陀に霊を言聞かせさせたのでした。
左が桜餅『道明寺』右が桜餅の『長命寺/向島』”花より団子は”今も昔も変わりません。「美の壺」画面を転写

散るを惜しむのが桜の嘆きです。英雄も散るを惜しまれました。昨日は赤穂の浅野匠守の忌日でした。「命を落とすこと」「受験などに失敗した事」の隠喩とされました、また軍歌に歌われ尚武の比喩にされました桜は「表は平和」で「裏は戦争」で裏表が真逆の表情をしているのでした。運不運も人生の生死も桜の花びらの裏表の如く見えます。又兵衛も黒田如水の上に散れば幸福な晩年だったことでしょう。でも選択が運命が逆に回った事から又兵衛桜の言い伝えを得て真田幸村に並び称される英雄として日本人の記憶に刻まれることになりました。
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播磨北条の500羅漢像異形の羅漢像の背中には十字架が刻まれたりしていて、細川がラシャにも近かった後藤又兵衛を慕って隠れキリシタンが此処に眠っているのかもしれません。

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桜の精が”あら!もう帰っちゃうの?”言って居るようで。後ろ髪をひかれる思いで、臨時駐車場に戻りました。

いよいよ昼食です。このツアーに先立って先輩のK女子に大和の何処に行かれたいか聞いたことがありました。大先輩のK女史はキリスト教にも造詣が深くて居られるので。私は何時も敬意を抱いております。
するとK女史は眼を瞬かせて『私は人麻呂の「東の野にかぎろいの立つ見えて、かえりみすれば月かたぶきぬ」の歌が好きなんで、その詠われた場所に立ってみたいの。』言われました。歌われたと言われる場所は宇陀の阿騎野で今は公園になっています。そのお庭に車座になってお弁当を広げたいと思っていたのでしたがお天気が許してくれません。そこで「かぎろひの丘万葉公園に隣接した。温泉スパでランチにする事にしました。ロビーには滝桜の油絵が懸っています。大きく開いた窓からは人麻呂が歌った雄大な風景が広がっています。此処でゆっくりお湯につかって阿騎野の景色を眺めるよう、プランしておけばK女史やI君が満足してくれたであろう…思いながら私達の桜よくばりツアーは次の仏隆寺千年桜に向かいました。
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阿騎野おスパのロビーの又兵衛桜の油絵左は大窓で阿騎野の景色が開いて見えます。
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窓の外は阿騎野万葉公園です。柿野本人麻呂像や万葉歌碑が建っています。
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これに筍の炊き込みご飯がついて1080円です。旬の食材を使って抜群のコスパです

降りやまない菜種雨の中老いた益荒男と手弱女の桜ツアーは進みました。路傍に忘れてきた青春を探すような眼差しで・・・・。
さあ、次は僕らが学生時代教わった浅子先生お奨めの推挙仏隆寺です。




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仏隆寺千年桜(吉野花紀行10)

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阿騎野万葉公園でランチを終え、私達は大宇陀の酒蔵通りに出て清酒を求めます。五条で閉まっていた山本酒造の「千代の松」の看板も見えます。何処の酒蔵にするか迷いながら老舗の久保本酒造http://www.miyamizu.jp/category/618.htmlに入りました。奥様お奨めの「初霞」を求めます。にごり酒(どぶ)にも関心があったのでしたが・・・・。これで今晩のお酒は用意できました。私達は次の目的地仏隆寺に名木の「千年桜」を観に向かいます。
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これが大宇陀の旧市街酒蔵通り「通りの左右に酒蔵が軒を構えています。勿論歴史的市街地として指定を受けています
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久保本酒蔵では一押しの「初霞」を求めました。。奥様は丁寧に包下さいました。時間さえあれば見学が出来そうでしたが先を急ぎました。
伊勢街道を榛原に向かいます仏隆寺入口を北に折れれば江戸時代の面影を宿した室生寺道に入ります。
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室生寺道を進むと棚田の奥に仏隆寺の森と名木の千年桜が見えて来ます。
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右上が古刹仏隆寺中央が千年桜これは立彼岸桜で初霞の様に白いのです。周囲は千年桜の実生の子供達でしょう。どれも同じような白い花です。この土手は秋の彼岸には一面朱色の彼岸花で埋め尽くされたのでしたが、近年は猪の食害に逢って絶滅してしまったそうです。猪によって地盤が崩れやすくなったようで至る所「土止め」工事が為されていました。千年桜保護の為にも傾斜地盤の保護が必要に見られます。
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仏隆寺の長い石段はまるで天国への階のようです。
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仏隆寺からは棚田を見おろすことが出来ます開けた方が榛原のまちになります。私達の先生だった浅子氏は榛原駅から仏隆寺口までバズに乗られ、仏隆寺迄歩かれ更に峠を越えて室生寺に向かわれた話されました。今回のルートは浅子先生ご推薦のルートです。ハイライトは明日紹介する室生の里の風景です。女人高野室生寺にはその名に相応しい優しい嫋やかな風景が広がっています。

これから免許証更新手続きの為二俣川に出かけます。帰宅し次第このブログを校正してアップします


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室生寺遠望(吉野花紀行11)

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仏隆寺から室生寺に向かいます。道はカーナビには乗っていません。ですからナビの画面には空を飛んでいるように見えます。心配するドライバーに私は説明します。
「この辺りは室生寺の森で室生寺修復の際は檜を搬出する山だから室生寺には続いているよ。カーナビに乗っていないのは、猪が里に下りて来ない様に設えたフェンスが道路を遮断しているからだよ」。
峠には役行者を祀った祠があります。熊笹の生い茂った峠を越えると檜の森に入ります。道路の左右に苔むした石仏(地蔵菩薩)が迎えてくれます。
この道を浅子教授は歩いて室生寺に入られたのでした。
私は先生の講義こそ空危耳で聞いていても、そんな雑談はしっかり覚えているのです。
戦後亀井勝一郎先生や入江泰吉氏がしたように、戦争で折れた心を奈良の風景や寺社を巡って癒して建て直したように、浅子先生も奈良の風光の中で過ごされたのでした。
特に室生寺がお好きで、「室生寺に行くのなら古人がしたように伊勢道を辿るのが良いよ。朝榛原を出て仏隆寺から峠越をして室生寺に向かう道が一番です。室生寺を見おろす室生の里は優しい景色で棚田が暮れなずんで、室生寺が紫煙に翳んで見える景色は最高ですよ。宿は門前の橋本屋さんが良いんですよ、歩き疲れた体をトロロ汁が癒してくれるのです。」そう、室生寺を写された土門拳氏も橋本屋さんを宿にして大作を成し遂げられたのでした。
そんな訳で私は仲間と浅子先生がご推奨された峠道と風景を皆で視たかったのでした。
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室生の里の西光寺の景色枝垂れの彼岸桜(樹齢300年の向こうに室生寺が見えます。棚田が広がり一面蓮華が咲きます。農家は家族で土起こしをします。
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室生の里の高台に祀られた「山の神」2012年撮影
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室生の里西光寺枝垂れ桜(樹齢300年の江戸彼岸枝垂れ)左の道は仏隆寺から続くハイキング道2012年撮影
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室生の里から室生寺を見渡す。向かいの甍は室生寺の寺務所棟右奥が室生龍穴神社(むろうりゅうけつじんじゃ)で同社の 御祭神は、高龗神 (たかおかみのかみ)や、大山祇命(おおやまつみのみこと)、等の穀神です。檜の美林の中に紅一点の桜がお目立ちです。室生も吉野に似た「山の神の聖地」であると同時に大和の水源で。穀神の住まう処【所謂座/くら】といえます。座とはかまくらの蔵/神が鎮座される住い)のことです。

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 真下が室生寺です。室生寺にも相当数の桜が自生しているようです。

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室生の里棚田の下に室生川が流れていてその対岸に室生寺の伽藍が地勢に沿って広がっています。私達は金堂は五重塔は?奥の院はどのあたりか檜の梢の向こうにイメージしました。このアングルが浅子先生のご推奨だったのでした。私は此処をを皆に見せたかったのでした。最近室生の里でも民宿を始めたそうで。何時か又来てみたいものです。

10日の夜は飛鳥の民宿に泊まったのでしたが、先輩のI氏(仏像に造詣が深い)は室生寺の山門まで来て拝観しなかったのでご不満だったでしょうが、同じく先輩のK氏は遠望しただけで素通りした事を誉めて下さいました。私の足では雨の室生寺を登る事は不可能だったのでしたが・・・・。色々な仲間ですからプラン造りも大変で全員が等しく満足させることは難しいものです。
私の意図は皆が共通してお世話になった浅子先生のお好きな光景に皆と立ちたかったのでした。夜会で宇陀で求めた初霞を飲みながら私は浅子先生の講義の記憶を話し始めたのでしたが不覚にも涙が止まらず屹度聞き取れなかったことでしょう。浅子先生お世話になりました。お蔭で私達は先生を越えて長生きできそうです。加えて先生の指導を受けた学友同士こうして仲良く奈良の風光の中で人生をエンジョイできています。有難うございました。今日こうして皆で仏隆寺から室生寺を巡って来ました。先生のお話の通り素晴らしい景色でした。美しく懐の深い奈良の風光の中で友達と旅行を楽しめる悦びは先生の訓育のお蔭です。有難うございました。(合掌)

【お詫び】これからデーサービスに出かけます。帰宅し次第ブログを校正してアップいたします。


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大野寺弥勒磨崖仏遥拝(吉野花紀行12)

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室生の里から室生寺を遠望遥拝して、私達は川沿いに下って大野寺に向かいました。
もう、30年以上も前、私達はこの道をバスで憧れの室生寺に登ったのでした。
当時の想いで話で車内が湧きたちます。川と同炉の間に、モーテルがあります。学生時代も在ったモーテルでしぶとく未だ営業しているのです。
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大野寺には二本の小糸枝垂れ彼岸桜【樹齢300年】があります。加えて10本の紅枝垂れが植えられていました。紅枝垂れは綺麗ですがこの白い彼岸桜の気高さには敵いません。白拍子と島原の遊び女の違いがあります。矢張り白拍子に憧れてしまいます。雨に濡れて長い振袖を垂らした”姿は”手弱女が濡れ西濡れそ今宵も忍び泣きもせむかたならん”呟いてしまいます。実に匂うが如き色香です。叔父さんには刺激が強すぎます。祇園の遊び女(紅枝垂れ】の方が無難です。
ワイフに采女(うなめ)の裳(スカート)の中に入ったようだね!言ったら睨まれました。

親友のH君が呟きます。
「未だモーテルは営業しているよ、しぶといものだ・・・」
私は答えます。
「モーテルがしぶといというよりも人間の欲は変わらないというものだよ」
「あの頃観た映画があったね!伊賀上野の組紐屋に勤める娘/栗原小巻が若旦那/加藤剛と室生寺で逢引する。」
同期のT女史が反応します。
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 中世から近世に時代を切り開いたのは山城国一揆など農民の封建領主への団結抵抗でした支えた思想は弥勒信仰でした。主人公のカムイは非人階級の忍者でした。



ああ、三浦哲郎さんの忍ぶ川/芥川賞受賞の続編の”忍ぶ糸”ね確か熊井啓監督の」
私はワイフと一緒に観たのでしたがT女史も誰かと観たのかな?
宇陀川の瀬が淀みに変わる辺りに大野寺があります。
大野寺の、開基は役小角と伝えられています。本尊は弥勒菩薩で役小角が修行した聖地と伝えられていまする。室生寺の西の大門に位置 します。宇陀川岸には巨大な花崗岩があってその表面を船形に刳り貫いて弥勒磨崖仏が線刻されています。大野寺には樹齢300年の糸彼岸桜があって、袖の様に垂れた糸桜の隙間から弥勒磨崖仏を遥拝する事が出来ます。
私が学生の頃は入山も無料でしたが、今は人気で門前の田圃は埋め立てられ大型観光バスも駐車しています。入山料も200円で狭い境内は大混雑です。誰もが糸桜越しに磨崖仏の写真を撮ろうとするので並んでしまいます。
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大野寺境内雨で境内は水田状態リハビリシューズの筆者は靴に浸水して難儀しました。傘を刺している人は弥勒磨崖仏を遥拝しています。
【弥勒仏】
仏教では三世仏が敬われます。三世とは過去現在未来です。過去仏は釈迦如来で。お釈迦様が教えを説いてその教えが正しく広まっていた時代の事です。人々は釈迦をお手本に釈迦の様に生きようとしていた時代と言えましょう。釈迦は釈迦族の王子でしたから財も地位も才も総てに恵まれた生い立ちでした。それらを総て捨てて出家して真の自由を追い求めて出家したのでした。そんな姿をお手本に生きようとする時代が過去だったのでした。考えてみれば西行も総てを捨てて出家したのでしたから西行は古仏に倣ったのでしょう。何時の時代も「現在は飢饉もあれば病気も蔓延して地震も津波も戦争も打ち続く」困難な時代です。将来は釈迦入滅後56億7千万年後(遠い未来に)に弥勒菩薩が出現して多くの人を救済して下さる。と説いたのでした。この教えは常に正しい事でしょう。多くの人が「昔は良かった・・・」と口癖で言いますし。未来を信じて今日を生きています。その肝心の今日は病気はするし、貧困と天変地異に悩まされています。「昔は良かった未来は明るい今は苦しいけれど耐え忍んで頑張ろう・・・」そんな生き方は大昔から平成の今日まで続いているのです。筆者は円空の弥勒菩薩を次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46322402.html
大野寺の弥勒磨崖仏は一般に鎌倉時代の作と云われています。西行が出家した頃の作で、奈良では笠置にも巨大な弥勒磨崖仏が彫られていますから、時代雰囲気は弥勒菩薩に期待する事大だったのでしょう。
【弥勒仏と桜】
私の学生時代に「ガロ」という月刊漫画雑誌があって、白戸三平氏のカムイ伝が連載されていました。カムイは夙川の非人部落出身の忍者剣士で時代は戦国時代、戦国領主に抵抗するために農民は団結して抗争したのでした。カムイは時に農民を応援し、時に戦国領主のスパイとして動きます。農民の掲げるは莚旗には”兜率天 の欣求浄土”と記されていました。
そして、戦国領主に戦いを挑みます。山城国一揆が背景でした。笠置の弥勒菩薩も大野寺の弥勒菩薩も農民の信仰の対象で彼らの結束を強くしたのでしょう。「ユートピアを遠い将来でなく明日にでも実現したい、子供の時代は浄土にしたい」、と願って実力行使したのでした。
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大野寺磨崖仏を糸彼岸桜越しに遥拝する。室生のさと西光寺も大野寺も同じ枝垂れの彼岸桜で江戸時代初期に植えられたもののようです【樹齢300年】。どちらも伊勢道にあって室生寺の南と西です。戦国時代の修羅を越して平和な弥勒浄土の時代が来た期待が枝垂れ桜を街道沿いに植えさせたように思いますお接待の心で巡礼を元気づける為に枝垂れ桜を守ってきたのでしょう。撮影は2012年。
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高さ11.5mの大野寺弥勒磨崖仏笠置の弥勒磨崖仏は13メートルもありますが岩が軟弱なので、大野寺の磨崖仏【御影石】の方が状態は優れています。
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此方は中国の峨眉山にある楽山弥勒磨崖仏【像高36メートル】バーミアンの大仏が破壊された現在では世界最大の大仏です。酸性雨による傷みが激しいそうですから早目に拝観しておくのが良いでしょう。中国では弥勒信仰が浸透、白蓮教徒の乱紅巾の乱等多くの反体制運動の契機になったのは弥勒信仰でした。中国も日本も磨崖仏で水源近くにあって穀神として崇められる位置に祀られています。一揆を支えたのは弥勒信仰でした。筆者は吉野室生を巡ると弥勒信仰を想いました。写真の出典/楽山大仏楽山大仏http://ja.wikipedia.org/wiki/ Wikipedia



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玉蔓の長谷寺

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大野寺で枝垂れ桜とを眺めて、私達は今日最期の目的地長谷寺に向かいました
国道156号線(初瀬街道)を西に走ります。道路の左(南側)は深い谷で谷の中段に近鉄電車が走っています。谷底を這う様に流れているのが先刻室生寺、大野寺の門前を流れていた宇陀川です。東西の山が逼っています、坂を下る二つれて山峡は開いてきました。東に「長谷寺近道」の表示が見えて来ました。桜はもう散り始めています、もう長谷寺は散ってしまっただろうか?心配です。

私は大学時代の浅子先生の授業を思い出しています。講義は「法隆寺若草伽藍の評価」でした。
法隆寺には東院伽藍と西院伽藍(夢殿)があります。明治10年に法隆寺西院伽藍南東部の境内から寺院跡が発見されました。
日本書紀では法隆寺は聖徳太子によって607年(推古15年)建立された事になっていますが、日本書紀』には670年(天智9年)焼失したとの記述もあります。、現存する法隆寺東院伽藍が聖徳太子が建立された堂宇であるのか、それとも、地中から発見された寺院跡(若草伽藍が)が最初の法隆寺であって私達が今観ているのは再建された法隆寺であるのか。そんな議論でした。
浅子教授は法隆寺の建材は材木は宇陀の山奥から切り出したもので、て石材は難波の港から大和川を船で運んだお考えでした。大和朝廷は大和川が生命線でを船で下って、朝鮮半島まで攻め込みもしました。
 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(額田王)

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10日桜巡りの締め括りは長谷寺でした。写真は玉蔓庵跡からの唐の長谷寺の眺め。紫式部もこの辺りから長谷寺を遠望して玉蔓の構想を練ったと思います。写真は1012年撮影。
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長い登廊。平安の女官はこの石段を上って観音様に祈ったのでした。【2012年撮影】

難波の港から川を上れば桜井を越えれば瀬が増えて来ます。初瀬より上までは舟は上れません。その為に荷は海柘榴市(三輪山の麓)で下しました。
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宇陀川は桜井【古代海柘榴市】辺りから下流を大和川と言います法隆寺建立に際し材木は奥山から海柘榴市辺りに搬出され川を下ったと云われています。また長谷寺観音は難波の海に漂着した楠の霊木を長谷寺に運んで観音を刻み出したと言い伝えられています。大和川は古代の物流の幹線でした。仏教伝来の地記念公園から三輪山を遠望。
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2年前海柘榴市から大和川を観た絵。土手の上は桜の並木で菜の花の咲く道を桜井高校の女学生が颯爽と通学していました。遠くは三輪山です。私は気持ちだけは志貴皇子になりました。



私は高校時代の古典の授業を思い出します。
始めて教壇に立たれた碇井先生は平安女流文学を熱っぽく講義してくださいました。
枕草子の初瀬籠り、そして紫式部の初瀬籠りです。
私は宮廷勤務のエリートОLが長谷寺に籠るのが何故だか不思議に思いました。
今でも勤務はストレスが溜まります。名門清原家の期待を背負った清少納言や紫式部が鬱病に陥って長谷寺に療養に出たのでしょうか?女房が沢山長谷寺に籠ったのならば。専門の「療養病棟」が必要になります。紫式部や清少納言は長谷寺の何処に籠ったのだろうか?そこに行ってみたいものだ・・・。それが私の疑問でした。
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長谷寺の図筆者入院中に描いたものです。清水寺は長谷寺の京都版のようで舞台も似ていますし。ご本尊も地蔵尊の様式に近い観音様です。

【隠国の初瀬】
隠国(こもりく、「く」は場所、所の意味です隠国は両側から山が迫って、それに囲まれたような所、泊(初)瀬にかかる枕詞で、柿本人麻呂が万葉集巻3-428で、次の歌をよんでいます。
       こもりくの 泊瀬の山の山の際(ま)に いさよふ雲は妹(いも)にかもあらむ
歌の意味は、詞だけを追えば次の通りでしょう。
泊瀬山の山の上に漂う雲は 愛しいあの少女なのだろうか
でも初瀬が古代人の墓があって霊が行く処であった事を知れば次のような意味になります。
長谷のお山の上に雲が漂っているよ、あの雲は私の愛しい妻が載っているのだろうよ。残された私は寂しいよ。
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長谷寺門前の白酒屋さん、本業は奈良漬けのようですが、この季節は草餅団が人気のようです。私達は此処で一服致しました。清少納言も”あなうまし”言われた事でしょう。
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草副餅も良かったのですがこの桜羊羹も食べたかった。せいしょうなごんなら羊羹を好まれたでしょう。定子のお土産なら日持ちもするしこの桜羊羹でしょう。主従が桜羊羹を口にしながら屁背観音ンお土産話をする光景を推測すると楽しくなります。
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白酒屋の草餅(お店ではくさ福餅と呼んでいます)は焼いて蓬の香りを匂い立てて食します。大宰府の 梅ヶ枝餅の長所も取り入れています。

清少納言は「枕草子」で「市は辰の市・里の市・椿市、大和に数多ある中に、初瀬に詣づる人の必ずそこに泊るは、観音の縁あるにやと心ことなり」と書き、長谷寺の事を事細かに描写しています、長谷寺の古い参道は、東の谷日本杉辺りから椙(すぎ)坂を登ったけど、正面から本堂へ登る道が開けたのは、第66代一条天皇の時(1千年頃)、勅願によって仁王門が移築され、春日社の社司中臣信清が子(信近)の病気平癒を感謝し、回廊を建立してからと述べています。更に牛車で石段の下に乗り付け、「初瀬などに詣でて、局(つぼね)する程、くれ階(はし)のもとに車ひきよせ立てたるに、帯ばかりうちしたる若き法師ばらの、足駄(あしだ)と云ふものを履きて、いささかつつしみもなく、下り上るとて、なにともなき経のはし打ちよみ、倶舎(ぐさ)の頌(す)など誦しつつありしこそ、所につけては可笑しけれ。・・・」と云い、坊さんがさっさとトウ登廊を上がり下りするのに驚き、彼女は手摺に掴まってゆるゆると登り、本堂では灯明が沢山あがって、「仏のきらきら見え給へるは、いみじうたふとき・・・」と書いています。
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長谷寺仁王門この位置まで清少納言は牛車で私達はレンタカーで乗り付けました。桜はもう散り始めているし夕暮れも近いので私達は玉蔓庵跡で長谷寺は遠望しただけで宿に向かう事にしました。

私達も清少納言に倣って仁王門の下まで車で乗り付けました。そこから清少納言は長い登廊を手摺に掴まってヨロヨロと登ります。若いお坊さんが足駄(あしだ)の音を立てて先を越して行きます。
枕草子では宿の説明は特にしていません。長谷寺には幾つも市が在ったと記されているので市に宿を取って宿の部屋【局】から長谷寺に参詣したのいでしょう。私達は昨日の夜吉野山の民宿に宿を取って朝晩に金峰山寺に詣でたのでしたが、一日だけではなく一月も続けたことでしょう。一月も長谷観音様の足元で、山籠もりの日々を送れば、清少納言も紫式部も元気溌剌また窮屈な大宮勤めに復帰できたのでしょう。
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長谷寺の東與喜山満社と素戔男尊神社の竹林にあった玉蔓庵の跡。先人も源氏物語の舞台を探して此処の景色に惹かれたのでしょう。(大磯の鴫立庵のようなものです)本居宣長は皮肉で評しています。

で、次は紫式部の籠った宿が気になります。江戸時代の国学者も同じような疑問を持って紫式部が眺めた位置に庵を建てたいと思ったのでしょう。
私は2年前その場所を探したのでした。
長谷寺門前を東に廻り込みます。谷川を連歌橋渡ると阪があります。坂道は與喜山満社と素戔男尊神社に続きます。
連歌橋の名は神様に連歌を奉納した事によるそうです。石段の左右は竹藪です。竹藪の中に玉蔓庵の跡が残されています。、
菅笠日記によれば、本居宣長が通ったときにはまだ玉鬘庵があったそうである。桜井市HPhttps://ja.foursquare.com/v/%E7%8E%89%E9%AC%98%E5%BA%B5%E8%B7%A1/50fb7bd3e4b0870dabce6b3d

紫式部の「源氏物語」では、玉鬘(たまかずら)の姫君が、故あって身を隠していた筑紫(九州)から乳母の勧めで足を引きずりながら京都から徒歩で来て、4日目に最後の泊まり海柘榴市で、昔は母の夕顔に仕え、今は光源氏に仕えている女人(右近)に巡り合った宿の描写などがこまごまと書かれ、それから初瀬の観音さまに詣でると、現世のご利益があり、その後すぐに
光源氏の六条院の屋敷に引きとられ、華やかな宮廷での暮らしを得ましたが、幸せだったかは疑問です。なお、この物語に想を得たのが、彼女の美貌ゆえの苦悩を主題とした金春禅竹は能「玉鬘(玉葛)」で、能では玉鬘の化身(霊)が、旅の僧を長谷寺の二本杉まで案内して、自分の数奇な運命を語り、僧の回向で玉蔓は成仏いたします。
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長谷寺の昭和の名塔


【素戔男尊神社の意味】
古事記も日本書紀も大和朝廷の正当性を説明するする神話です。そのヒーローは日本統一を果たす素戔男尊です。素戔男尊は天照大神の弟です。素戔男尊が武力に秀でた「山の神」であり、は天照大神は多産豊穣の「田の神」です。神話は山の民と里の民のバランスに配慮して二つの民の和のうえに日本の統一国産みを実現させます。
里の民であった人達は元気が無くなると山に登って山の神に祈って気力を回復しまあした。それはまるで森林療法のようであって、長谷籠りだったように思うのです。
なお、国家統一を為したツールが素戔男尊の「草薙の剣」で剣は鉄器文化を象徴する神具でしたし。勾玉は天照大神の宿す霊であったのでしょう。そして鏡は人間の汚れや曇りの無い純白な心を象徴したものと思うのです。
私達は大きな国家社会の一員に組み込まれています。歯車は昔も今もストレス疲れします。それは里の民の運命なのです。山の民だった時代には想像できなかった心の病です。そこで心の病に陥った時には長谷寺のような山寺に籠って心の回復を遂げたのでしょう。山の神のパワーをゲットして、清少納言は京都に帰って哀れ没落する定子を支えたのでした。
【山の神と田の神の衣替え】
冬に山は雪が積もって白くなります。春山は緑に衣装を変えます。冬神は山に登って「山の神」として鎮座しています。春になると山を降りて里に行きます。里に降りれば田の神になります。神古代人はが里に降りるのが5月ですからさつきと呼びます。この時の依代を桜と信じたのでした。私の住んでいるのは相模((さがみ)です「さ神」の字でした。さがみは「田の神」のいみです。田の神のお祭りは各地で呼び名が違います。でも共通するのは「さ」の音が付く事です。三九郎【信州】も火祭りも左義長(神奈川)の火祭りもサイト焼(関東)もみんな同じで「さ/神」の音が付きます。山の神は季節によって移動して田の神になるのです。里の民は心が病になったら山の神の処に帰れば復活できるのです。平安時代はそう信じて長谷に籠ったのでしょう。

私達は玉蔓庵跡から長谷寺を遠望して10日の桜探訪のしめくくりに致しました。
雨が降り続ける中飽かずに眺めましたが体も冷えたので事前に約束しておい長谷寺門前の草団子屋に向かいました。花より団子が共通する欲望です。お店はストーブを焚いてお茶を用意してくださいました。このお店は奈良漬け屋さんで、皆がお土産に買い求めていました。
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白酒やの店内草餅2個に熱いお茶のサービスをしてくれました。我が妹は刻みの奈良漬けを求めてくれたので毎日食事が進みます。



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明日香の疑似性神事(吉野花紀行12)

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4月10日の泊りは飛鳥川に沿ったペンションです熟睡できました。隣のベッドで微かな寝息が聞こえます。窓の外は桜並木で.未だ梢には花が残っています。でも、期待のお天気は今朝もまだ雨が上がっていません。多武峰の頂は雲の中です
今日の行程は。先ず石舞台古墳を見て、(見ると言っても小高い処から見下ろす程度で)、次いで飛鳥川を川沿いに登って稲渕栢森で勧請縄を見て、高取城を巡って、葛城の一言神社さんを詣でて、お昼は当麻寺西南院でとり、更に竹内街道を越えて西行さんの眠る弘川寺を巡って関空発夕方6時半のフライトで羽田に帰る予定です。弘川寺のご住職にはT先生からご案内をお願いしていますのでその時刻(午後2時)には着いていなくてはなりません。
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石舞台古墳(蘇我馬子の墓の玄室が露出したものと云われます。昔はこの玄室の大岩を舞台にして芸能を演じたのでしょう。現在は周囲が整備され飛鳥最大の観光地になりました。

実はスタートの石舞台から躓いてしまい、栢森への分岐路を誤ってしまいました。期せずして多武峰談山神社から聖林寺を巡って葛城に着いたのでした。そんな次第で稲渕栢森の勧請縄は観られませんでした。でも、今日のブログはは当初プランに従って案内いたします。そんな次第で実際の行程ではなく計画した行程を案内しながら「穀霊が依る桜」を説明します。
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甘樫の丘の東正面が飛鳥座神社です。その南に多武峰が聳えています。

【飛鳥座神社の御田祭り】
折口信夫先生のは祖父は飛鳥座神社(あすかいますじんじゃ)の神主で居られました。折口先生はそれが誇らしかったようで慶応の学生を連れて明日香巡りをされていたそうです。甘樫の丘に登れば真正面(東)に飛鳥座神社があります。
学生だった頃、私は飛鳥の民宿に泊まって当時既に話題であった飛鳥の奇祭「おんだまつり」を観に出かけたことがありました。近年飛鳥座神社には神楽殿が新築されましたので,奇祭は神楽殿の舞台で催されています。テレビで取り上げられますので有名になりました。「飛鳥神社」とは「山の神がおわす飛鳥の神社」の意味でしょう。ご神体は4柱で何れも山の神です。4柱とは大山津見命、猿田彦の命大山祇命(つみ)と久久乃之知命/木の神です。山の神は天狗の面を冠り、お多福面を被った(天鈿女命/うずめのみこ)天鈿女命を追って田圃の中で疑似性行為を演じます。人間の演じる性行為が神々を刺激して稲作の豊穣が約束されると期待したものなのでしょう。
氷の張った田圃で行う奇祭は民族の原点を刺激するものでありました。
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天岩戸神社の天鈿女命、天鈿女命が面白おかしく踊るので岩戸に隠れた天照大神は岩戸を開けてしまいました。天鈿女命は岡目ともいわれる不美人ですが、福面で福マンで居られるのです。写真出典:ウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%82%BA%E3%83%A1
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飛鳥座神社の「おんだ祭り」山の神が田の神(おか目さん)の誘いにのって性行為に及びます。翁(ヒョットコ面)が囃したり肝心な場面では目隠ししたりして爆笑を買います。私の学生時代は凍り付いた田圃の中で演じられました。田圃の匂いの強い神楽(又は催馬楽)です。
【香久山からの国見】
多武峰は飛鳥の何処からも見上げられる高い山です。その裾は西に天の香具山に流れています。
舒明天皇(天智天皇の父)は天の香具山に登られ国見をします。
大和にはは 郡山あれど とりよろふ 天の香久山 登り立ち 國見をすれば 國原は煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし國ぞ 蜻蛉島大和の國は
大意:大和には多くの山があるが、とりわけて立派に装っている天の香具山、その頂に登り立って国見をすると、大和の海の様に広がったの野原にある家々からは竈のの煙が立ち、民は平和に暮らしているし、野原には鴎(カモメ)が飛び交っている。美しい国だなあ、蜻蛉島大和の国は・・・・。

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飛鳥板葺の宮跡後ろの五輪塔が蘇我入鹿の首塚少女の背後の丘が甘樫丘
 
多武峰に登ると「山の神」の祠が幾つも見られます。親大陸派であった蘇我氏はこのお山(守旧派のシンボル)に登る事が憚れたのでしょう。中大兄王子は鎌足と多武峰でクーデター(大化の改新)を画策します。鎌足は天智天皇から最高の冠位(大職冠)を賜り、談山神社のご神体に祀られます。ご利益は鎌足稲荷の名が表す通りお米の豊穣です。鎌はお米の収穫の際に使われる農機具です。
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法隆寺五重塔に飾られている鎌はお米の豊作を祈るものです。
【飛鳥川にかかる勧請縄】
私は石舞台を見てから稲渕に回りふたつの勧請縄を見て回る計画だったのでしたが、祝戸の三叉路で狭い道を選ばず広い道を進んでしまい多武峰に行ってしまいました。稲渕には美しい棚田が広がっています。聖徳太子の遣隋使によって帰化した南淵請安の屋敷が在った処です。南淵請安は稲作を教え棚田を切り開くとともに国家のあるべき姿を若い中大兄皇子に説いたのでした。現在の奥飛鳥の景観は当時のものというよりその後1400年の歳月が作り上げたものです。、春の桜、秋の彼岸花何れも「日本は良いなあ!」つくづく思わせる日本人の故郷の景色です。http://www.asukamura.jp/chosa_hokoku/kiyo/imgs/08.pdf#search='%E5%8D%97%E6%B7%B5%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%B3'
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奥飛鳥栢森の勧請縄注連縄に女性が吊るされています。
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奥飛鳥稲淵の勧請縄(注連縄)には男性が吊るされています。疑似性行為が田の神を刺激して水と共に下流の田を潤し豊穣を約束するものと信じられたのでしょう。花は紫木蓮


私達は世界史で習いました。石器文化の次は青銅器文化その次は鉄器を手にしたアーリア人がインドに侵攻します。アーリア人の移動と鉄でつくられた武器を手にした民族はユーラシア大陸を混乱に陥れます。
ペルシア人はイラン高原に移住し、ギリシア人はギリシャに移住します。ラテン人はイタリア半島に移住し、ゲルマン人もドイツ周辺に移住しました。彼等は何れも先住民を圧殺しました。文字文化を誇ったハンムラビ王国は鉄器を手にした野蛮人によって滅ぼされます。
ところが日本では山に住んでいた新石器文明人(狩猟焼畑民族)を土器を持って稲作を知った弥生人が浸透してきました。弥生人は稲作技術を持っていましたし鉄器も持っていました。弥生人が鉄器で新石器人を滅ぼすことは容易だったのでしょうが。弥生人は先住民と平和的に共存する道を選択しました。土器は煮炊きする事によって食料の範囲を拡大しましたし鉄器は鎌や鋤になりお米の収穫量を飛躍的に拡大したのでした。
古代は「鉄を武器にして先住民を征服する事がグローバルスタンダードだった」のに対し日本は鉄を農機具に使用し食べ物の拡大に使用したのでした。人間が平和的で調和的だったことは同時に神々の世界でも行われました。新石器人(または縄文人)は狩猟・焼畑を生業にしていましたから「山の神」を信じていたのでした。一方弥生人は稲作が生業でしたから「田の神」を信じていました。それから1000年田の神はお稲荷様になって日本最大数の神社になります。
田の神(天鈿女命)は山の神(大山津見命や猿田彦命)と結婚し姻戚を保ちました。以来日本人は「和が一番大事」の思想が徹底しています。桜の花に降りた美しい木花咲耶姫(穀神)は山の神である大山津見(おおやまづみ)の娘でした。古事記では山の神と田の神が親子関係である事が多々あります。
古事記は壬申の乱で勝利した天武天皇が稗田阿礼に命じて編纂させたものです。
天武天皇は古事記を『山の民里の民の争乱が再び起こらない様に両方のメンツが立つ物語になるように注文した』のではないでしょうか?
飛鳥にいてホッとするのは飛鳥の景色が美しい事に加えて山の民と里の民が平和的に共存している中にどっぷり浸かって居られるからでしょう。
最初に書いた通り私はナビに間違えてしまったので勧請縄を案内できなかったのでした。私の、折口先生が屹度慶応の学生を連れて回られたであろう奥飛鳥の性の神々を巡りプランは水泡に帰してしまいました。
・・・・・でも間違ったお蔭で遠目ではありましたが、鎌足の談山神社と聖林寺を詣でたのでした。聖林寺は談山神社のの別院として鎌足の長子・定慧(じょうえ)が創建した。稲作に霊験のある寺院です。


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葛城一言神社(吉野花紀行13)

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飛鳥から西を望めば高い山並みが見えます。葛城山の連山です。山脈の東の果が二上山でその縊れを通っているのが我国最古の官道「竹内街道」で。今日4月11日の行程は最初が葛城山の北側(飛鳥より)にある一言神社最後が葛城山の南側(河内寄り)にある弘川寺です。葛城山は山の神の聖地で役行者も久米の仙人さんもこのお山に育ちました。

飛鳥の入り口久米寺は久米の仙人さんの建てられたお寺で。その絵馬を絵馬を見る度に楽しくなります。孫悟空の様に雲に乗っていた仙人さんが地上を見おろした途端に女性の白い脛が目に入って、仙人パワー(仙術)を失って落下してしまったんだそうです。(今昔
語)
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久米の仙人は吉野の山に住んで都に材木を運んでいたが修行の結果仙術を取得したものの。下界の女性の脛を見て仙術を失ったのでした。
一言神社は関西「いちげんさん」と呼ばれる。では良く知られた神社です。
京都の茶屋で「いちげんさんはお断りします」と入店を断られることが多々あります。
私は「一限」と「一言」の区別がつかずに怪訝に思っていました。そんな経験もあって飛鳥の北の談山神社大神神社と併せて葛城の一言神社を詣でたいかねがね思っていたのでした。
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葛城一言神社への参道葛城の山脈は雲の中に隠れていました。左(南が吉野山になります。葛城山の役行者は吉野山との間に石橋を築いたと言われるのは役行者が吉野山の材木を都に運んだ事に依っているのでしょう。

言主大神は古事記にも登場します。
第二十一代雄略天皇(幼武尊)が葛城山に狩をされた時のことでした。天皇は自分と同じ服装の偉そうな一行を確認します。
天皇は尋ねられます「お前は朱の服を着て何者だ!」するとその一行の長が答えました。
「自分は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」その姿が神々しく強い神力を示していたのでした。そこで天皇は一言主大神に御神徳を感じられ深く崇敬されました。すぐさまご自身の大御刀・弓矢にはじまり従者達の衣服もを一言主大神に奉献したと伝えられています。
その後大和朝廷の力がアップすると天皇と一言大神は同列になり、中世になると一言大神は役行者の下位に組せられます。古代は天皇(伊勢神宮)も全国各地の大神との力関係は拮抗していたのでしょう。
「一言」は「言霊」を思わせます。日本の言霊信仰が一言さんの信仰を全国に広めてきたのでしょう以下「言霊」について説明します。
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一言神社の土手は孟宗竹の林で筍が顔を出していましたが猪が喰い散らしてありました。猪が葛城山の山中から出没して害をなしているのでしょう。雄略天皇は幼武尊とも呼ばれます。日本武尊が息吹山で大きな 白い猪に敗れた化身した(伊吹山の神に負けた」故事から猪の為すが儘にしているのでしょうか?筍は猪にとっても美味しいのでしょう。 .
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手前は湯神楽に使うお鍋大鍋の上に桜が散っていました。
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葛一言神社の社殿
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樹齢1200年と云われる名木の銀杏はもう芽吹いていました。





【言霊信仰とは】
言霊とは”言葉に宿ると信じられた霊的な力”です。何度も何度も「南無阿弥陀仏」と称名を唱えるのも仏の真言を唱えるのも言葉に霊力があると信じているからです。
私達は科学の力を知っていますので結果が出ると原因が何であったか分析します。原因と結果は双方とも歴然とした事実で両者は因果関係で結ばれていると教わっているし、経験しているのです。
でもこうした科学的な考えが一般化していなかった時代、原因は何であったのか解り難い(目に見えない)事がおおかったのでした。そんな原因が解らないときに人は原因は目に見えない霊(霊)の仕業だと思いました。天変地異が起きると原因は不合業な死を遂げた霊の祟りであるとか誰かが呪詛しているとか眼には見えない原因が潜んでいると思いました。目に見えない原因で日常的に思い当たるのが言霊です。
今回のツアーの出発に際してもつい”自分は雨男/女だからお天気は雨だろう”口にしてしまうと、実際にも雨になってしまった…、そんな経験をしました。これが言霊です。戦争中「日本は神国だから、神風が吹いて勝利する」誰もが信じていました。理性的に考えれば資源に恵まれた米国を敵にして勝てない事は解っていたし。松魂油を燃料にしたゼロ型戦闘機では勝てっこない解っていても「降参した方が良い」と言い出すことはできませんでした。それは「負けるかもしれない」口に出したらその「負けるかもしれない」が言霊になって実際に負けるだろう・・・・信じていたのでした。言霊信仰が理性的な発想や自由な発言を妨げていたのです。以上は言霊のベクトルがマイナスに向いた場合です。でも多くは言霊のベクトルはプラスに向いて居るのが普通です。
「私はМさんが好きです結ばせて下さい」「私は健康を回復してМと老後を慎ましく暮らしてその時を迎えたいのです」口に出して祈ればそれが実現する事が多いのです。
【和歌こそ言霊です】
じっと祝詞を聞いて居れば解ります。祝詞は素直な大和言葉で解り易く出来ています。祝詞を口にすれば祝詞は脳に記憶されて現実がその通りになる事でしょう。そうした経験が言霊なのでしょう。大和の万葉集には言霊のスペシャリストが居ました。名前は柿野本人麻呂で私の好きな円空も人麻呂像を多く彫っている事実は円空も言霊信仰をしていたのでしょう。
柿野本人麻呂の歌の多くは挽歌であり相聞歌です。死者の霊が安らかであらんことを言霊にしたのが挽歌であり恋愛の成就を言葉に変えたのが相聞歌です。
和歌はとりわけ万葉集は言霊の総集編です。だから現代人の私達は万葉集に惹かれるのでしょう。解り易い大和言葉で純粋な願いをストレートに言の葉に移すことが肝心なのでしょう。
私達の指導者のT教授は専門の西行法師に限らず定家や和泉式部や式子内親王の歌を沢山記憶されておいでで。最高のタイミングで和歌を紹介されます。既にT教授の脳は西行法師らの言の葉に染まっておいでなのでしょう。美しい調べで混じり気無い心を言の葉に移した和歌は時空を超えて私達を誘ってくれるようです。少なくてもT教授の和歌のパワーで美しい言の葉が美しい心情操を育ててくれることを知りました。私も言の葉の魔力に気付くのが遅くなってしまいましたが、今からでも勉強したい気力だけは湧いて来ました。そんな次第で私自身の為に祝詞を作ってみました。何時か一言さんにお参りして大神に奏上する事にしたいものです。
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社務所前には大きな無患子の木がありました。実が境内に散る事でしょう(無患子の実は数珠や羽子板の羽根に使います)

【病気平癒祈願祝詞】 やまいへいゆきがんののりと(これは自ですので。文中名前や年月日を適宜に変えれば言霊の導きあるものと思います。病気は気から・・と云われますから気が言の葉で強くなれば治癒も早まる事でしょう。
かけまくも畏き葛城の一言の神社に申します。 一言の大神 大泊瀬幼武尊
のお前に恐み恐み白す

大神達の高き貴き大御稜威のい照り輝きて
うしは来ます竹内の翁が脳梗塞の病にに負へて
悩み煩ひ 日に異に重り行く状なれば
やからうから とちともまで うれひなげかひ なすすべしらに
家族親族友人等愁ひ嘆かひ為す術知らに
かしこかれども いまはとしごろあふぎまつりと たふとびたてまつる
畏かれども 今は年頃仰ぎ奉り尊び奉る
この病をば 癒し給える大神たちの御霊の冬を かがふりまつるより他はあらじとして
この病をば癒し給へる大神達の恩頼を蒙り奉るより他は有らじと為て
今日( 月  の吉日に)竹内の翁がお前に参り拝み
礼代の幣帛捧げ奉りて
悩む病を春の泡雪の消ゆるが如く迅く速けく癒し給ひて
時に儚き命長く現身みの世の長いと在らしめ給ひ
常磐に堅磐に寿命長く現身の世の長き人と有らしめ給ひ
やぬちやすく 穏やかに和やかに 守り恵み給へと 畏み畏み申す
 家内安く平穏に和かに守り恵み幸へ給へと 恐み恐み白す


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天然記念物のおおいちょうには幾つも乳が垂れて木が重そうでした。人間にも体が細いのに巨乳の人がします。屹度肩が凝る事でしょう。


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一言神社からの帰路向かいの山が高取で明日香はその山の向こうになります。雄略天皇の宮は三輪山の麓に在ったと言われていますからずいぶん遠くまで狩りに出ていたのでした

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一言神社から北を見る。溜池の向こうに御所の街並みが広がって、カタツムリが「焦るなゆっくりゆっくり回復するぞ!」一言さんの御託宣のように見えました。銀杏は雄花の蕾を用意していました










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散り桜の当麻寺(吉野花紀行14)

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葛城一言神社を後にして私達は片上醤油に向かいました。此処は古代のやり方で醤油(ひしお)を醸造し販売しているのです。お店は貯蔵倉の片隅にありました。大きな樽の前に可愛い小瓶が並んでいます。
工場全体が醤油の醗酵する香りが充満しています。ひしおの香りを嗅いでいるだけで私の胃腸は元気になりそうな気がしてきます。
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こちらが片上醤油
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此方が醸造蔵にある販売コーナー。古代ひしおの醸造樽のの上で販売しています。

車は葛城山の麓を西に向かいます。この道は昔何度も通った道です。レストランが目立つようになりました。葛城古道をハイキングする人が増えてレストラン需要もあるのでしょう。道の辻辻に葛城古道の案内が為されています。櫛羅村(くじらむら)辻が目につきました。この字で鯨(クジラ)と読むとはしりませんでした。次の目的地当麻も朝鮮の匂いのする地名です。
古事記に出てくる王仁(わに因幡の白兎)も朝鮮半島と指摘する学説も読んだ記憶があります。都の西難波寄りには帰化人がおおく地名にも残っているのでしょう。若しかしたら古代ひしおの醸造法も半島から伝わったのかもしれません。

私は運転席の横に座って葛城山の山肌を見詰めます。山脈の陰(谷)には針葉樹が尾根には桜やクヌギの落葉広葉樹がそして若葉を芽吹いているのは楠や椎の照葉広葉樹でしょう。三種の樹木が混在しています。吉野山も修験者が桜の苗木を植える前は屹度子の山脈と同じ表情をしていたことでしょう。竹内の辻を越えると二上山が目前に見えて来ました中景に当麻寺の二つの塔が見えて来ました。天平時代の二塔を仰ぎ見ながら農作業に励む・・・・そんな毎日は屹度幸福な事でしょう。
二上山を見ると私達は大津の皇子の悲劇に思いを遣ります。折口信夫先生の「死者の書」です。
【死者の書の背景】大化の改新に成功した中大兄皇子天智天皇は大群を率いて九州入りをしますが,母斉明天皇が病死し,朝鮮半島での激しい戦で倭軍も敗退します(白村江の戦)。中大兄皇子はすぐさま都に戻って国防を強化した。667年には飛鳥から大津に都を遷都し,668年1月天智天皇として即位します。       
天智天皇は大津宮で幼い大津皇子を可愛がりました。高市皇子,草壁皇子の次に生まれた大津皇子は天智天皇の弟大海人皇子にとっても大切な我が子であった。しかし,天智天皇が後継者として我が子の大友皇子にしようとします。大海人皇子は天智天皇の真意を見抜いて高市皇子と大津皇子を大津宮に残して吉野に退いてしまいます。言わばこの大津の皇子は大海人皇子が天智天皇にに反抗しないための人質のようなものでりました。しかし大津の天智天皇軍は大海人皇子を滅ぼそうと兵を起こします。大海人皇子は伊勢を経て大津に攻め入ります【壬申の乱】
壬申の乱に勝利した大海人皇子は都を明日香に戻し、天武天皇として即位し大和朝廷の礎を築きました。
しかし、天武天皇が崩御した翌月の686年10月2日,川島皇子の密告によって謀反の疑いをかけられ,大津の皇子は自害しますた。24歳の若さであった。これは鵜野讃良皇女が自分の実の子の草壁皇子を次の天皇にするためにはかったことだとも言われるが不明。大津皇子の妃の山辺皇女(耳面刀自)は裸足で髪をふり乱して駆けつけ同日殉死しました。二人の遺骸は二上山の雄嶺雌嶺に夫々葬られました折口信夫氏の名作「死者の書」は当麻寺を訪れた美しい娘(藤原南家の郎女(いらつめ)を自分が愛した『耳面刀自』と思い違いをして蘇ります。黄泉から蘇りの場面がおどろおどろしく描かれています。
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二上山の入り日は中世日本人の彼岸観に強い影響を与え「山越え阿弥陀図のモチーフになりました。この山の麓の源信が往生要集を著し、麓の当麻寺に中将姫伝説の当麻曼荼羅図が残されていたからでしょう。
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当麻寺は東西の両塔(左が東塔/天平時代国宝 右が西塔/平安初期国宝)が揃って見られるのはこの寺だけです。二上山の北山麓にあるので薬師寺のような南面した伽藍ではありません。古代人は二つのタイプのお花見をしていたと思われます。一つは聖武天皇タイプで宮中や屋敷に桜を植えて花の美しさを鑑賞するタイプで、中国の詩文の梅の花見を桜の花見におきかえたものです。もう一つが里の農民が行った「春山入り」で農民が”春が来た”と浮かれて山に入って若草積に興じたり弁当を食べたものでこの二つが融合して競歩の改革の頃から現在の「お花見」が流行ったものと思います。
若草色は楠や椎の照葉広葉樹林で桜やクヌギの落葉広葉樹林と濃い緑の針葉樹林が三つ巴になっています。桜の吉野山も修験者が桜を植樹する前はこんな景色だった事でしょう。

ランチは当麻寺でお精進を食べようと思っていました。何処で戴くか?有名なのは中将姫の中将院です此処は当麻寺のシンボル当麻曼荼羅図を収めている中条堂を守ってきた塔頭です。私は西南院にしました。西南院は当麻寺の西塔を守ってきた塔頭で東西の両塔が眺められるのです。曼荼羅が良いか国宝の塔が良いか選択です。
車を当麻寺の西に回しました。道幅は狭いしくねくねしているし暗渠が多いのでドライバーは苦労です。それでもどうにか当麻寺西南院に一番近い駐車場に辿り着きました。でも私が電話した時間より早く着いてしまい、十分にお庭や境内を見て回る時間がありました。
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ここが当麻寺西南院当麻寺西塔を守ってきた塔頭です。
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西南院に入ると当麻寺のユルキャラ「蓮花ちゃん」が迎えてくれました。西南院のお嬢さんが縫い包みに入っているようです。正面が重要文化財の観音像が祀られている本堂で此処でご住職の御説明を受けました。私達は庫裏に繋がった方丈の間でお精進を戴きました。
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此方が方丈庭園から見た西塔もうシャクナゲが満開でした。素晴らしい水琴窟が二基もありました。
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方丈庭園の池には西塔が影を映していました。連日の雨で緑苔が鮮やかでした。
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本堂は石楠花で飾られていました。当麻寺も油で穢される被害が生じていて困っているそうです。
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西南院の紅枝垂れはもうお終い背景の大屋根は講堂(重文鎌倉時代

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西南院書院で戴いたお精進(2500円)お造り(右端)は蒟蒻でしたし、筍ご飯も嬉しかたです。
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お精進を戴いていると視線を感じました脇を見ると障子の向こうから沢山の鬼が視ていました。

これからデーサービスに出かけます、帰宅次第ブログアップします。


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西行終焉の弘川寺(吉野花紀行15)

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私達は当麻寺でお精進でお腹も出来て、竹内街道を葛城山の南麓に出ました。この旅行も最後の目的地弘川寺に向かいます。
T教授は弘川寺で講演を頼まれた事もあって、ご住職高志慈観さんにご案内をお願いしていました、お約束の時刻は午後2時でしたので今日は朝から早目早目に動いてきています。葛城山の頂近くには高圧線が張られています。あの辺りが弘川寺でしょうか?ならば、未だ桜も間に合いそうです。でも、道脇の桜は既に散ってしまっています。この旅では既に桜を飽きずに眺めて来ました「これでもか!これでもか!未だ満足でないか!」と見て来ましたでも、西行法師終焉の地となればまた別です。満開の桜の下で拝みたいものです。「桜も月も満開で満月で観たいのが凡人である所以です。私達は兼好では無いのですから。
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葛城山の南麓の眺め頂に高圧線が走っていてあの辺りが弘川寺であろうと思いながら登って行きます。麓はもう桜は散ってしまいましたが頂はまだ残って居そうで期待しながら登りました。それにしても我が祖国は何処に行っても高圧線や電柱が風景を穢しています。地震で困難に遭遇しているチベットは高い山に囲まれていますが電線は地中化されていますから景色を損なっていません。仏教が山を越えて遣って来た。山を越えて飛んでくる鶴を保護するために電線を地中に埋めているんだそうです。
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弘川寺の山の下は大坂の市街化の先端にあるようでした。田圃には蓮華草が咲いて居ました。
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弘川寺は山桜は散って(右)八重が満開(中央)でした。建物は庫裏でこの奥に西行記念館がありました。
西行と言えば
 願はくは 花のしたにて 春死なむ その如月の 望月のころ
 そして後人が墓を参れば花を供えて下さいお願いした次の歌を想い出します。
「ほとけには 桜の花をたてまつれ 我が後の世を 人とぶらはば。
願った通りに桜が満開の望月に涅槃を迎えたのでした。全くお釈迦様と同じように。西行法師にはお釈迦様と同じように出家して遍歴放浪の旅に明けて最後は同じように望月に涅槃を迎えたいと願ったのでしょう。お釈迦様は沙羅双樹の花(真っ白い花弁)が散華する中で神仏の祝福を受けながらされる往生できれば良いなあア!と31文字に歌い実際もその通りに亡くなったので賞賛をあびたのでした。でも長い間西行終焉の地は解りませんでした。
西行終焉の540年後(江戸中期1732年)、西行を深く慕い弘川寺に移り住んだ広島の歌僧・似雲法師が、西行の墳墓を発見しましたた。以降、似雲法師は西行が愛した桜の木を、墓を囲むように千本も植えて、心からの弔いとしました。墳墓上の老いた山桜を始め、今では1500本の桜が墓を抱く山を覆っています。
次の私の疑問は何故西行法師は此処弘川寺を終焉の地に選んだのだろうか?その疑問です。私の理想は自宅で我がワイフに手を握ってもらいながら死出の旅立ちをする事です。西行法師は妻子も捨てたのですから、何処で死んでも良さそうなものです。高野山でも吉野山でも良さそうです。でも。何故葛城山の山頂だったのか。解りませんでした。この疑問を弘川寺住職の高志慈観さんがさりげなく説明してくださいました。住職には「西行への憧れと題して次のサイトがありますhttp://pilgrimari.exblog.jp/5022875)
私なりに言葉を繋げれば次のようになると思います。
古代が終焉し、中世に移って総てが無常に滅んで行きました。西行法師は私淑していた空寂上人を慕って葛城山の弘川寺に入って庵を結んだのでしたこのお寺からは浪花の彼方に沈む太陽が眺められますし。紫雲の底には四天王寺も煙っているのですそれこそ自身の名に相応しい場所です。空寂上人は後鳥羽院上皇が病気になったときに弘川寺に入って祈りしたところ病気が治ったのでした。
後鳥羽院上皇が来られて
山深みこのはの下の隠し水なかれの末は滝つ瀬の音”と詠みます
矢張り西行と言えども人間です。心の通い合う師(友)と一緒に過ごしたかったのでしょう。その寺が後鳥羽院上の縁が深ければ尚更です。しかし、思いがけなく体調を崩され亡くなってしまったので、空寂上人に看取られての最期でした。西行物語には方丈で横たわる西行法師、看取られる空寂上人、そして庭先には散り桜が描かれています。日本人の理想とする死出の旅立ちでした。
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行臨終の弘川寺の図庭には桜が満開で部屋では僧侶が阿弥陀様の前で団欒の風です。人生を全うした西行さんが阿弥陀様に迎えられる日ですから、涙は無いようです。紺青の池と薄紅の桜と宗達の筆は劇的な場面を描いています。部屋には墨染めの僧が看取って死に装束の西行さんの涅槃の場面が描かれています。【蜂須賀本俵屋宗達筆】

西行堂には文覚上人が彫ったと伝える西行像(桜を材にしたという)を始め数体の西行像や西行物語や西行富士を眺める図等著明な展示が幾つもありますまた有名作家の西行法師を主人公にした小説論文も数多く収納展示されていました。私達の師T教授の著作も並んでいました。数多くの写本のある西行法師の歌集を並べて検証する地道な調査ですから、研究者にわだけには、特に古文書の読解を苦手にする研究者には評価される研究書ですから一般受けし難いものでしょう。西行記念館の片隅に師の心血を注がれた著作が並んでいるのを確認した時熱いものが胸に込み上げてきたのでした。
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            私達の師T教授の著書「西行集の校本と研究」


弘川寺の本堂右の穂急路を登って15分山の中腹に西行法師の墓とその墓を発見して周囲を西行の歌の通りに桜1000本を植樹した歌僧・似雲法師の墓が祀られています。
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樹齢350年の海棠はもう散り始めていまあした。葛城山の南北では季節の進み具合が大違いでした奥の建物が西行記念館で桜と紅葉の季節だけ開館されるそうです。
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右の建物が庫裏です。この広いお庭が方丈庭園という事で。細道を登れば西行似雲法師のお墓に辿れることになります。蜂須賀本西行物語の涅槃の場面を髣髴させるお庭です。

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庫裏はお部屋も廊下も西行文化財の展示が為されていたたのしいものがありました。
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弘川寺の西行堂(多分文覚上人作の西行像がおさまっていたのでしょう。此処は紅葉も名所のようです。

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この建物が西行記念館記念館前の桜は期待の白山桜(霞桜)ではなくて染井吉野でした。西行法師の慣れ親しんだ白山桜でないと待賢門院藤原 璋子(ふじわら の しょうし のイメージに沿いません。染井吉野は種が乱れていて西行も嫌いでしょう(寂聴さんはの”百道”において白河天皇が孫の鳥羽天皇の中宮に璋子を押し、青年西行の道ならぬ恋を描きました。
西行は嵯峨にあった
待賢門院璋子の住んでいた屋敷に「堀川と呼ばれた女房を」尋ねます、
尋ぬとも 風の伝にも聞かじかし 花と散りにし君が行くへを
尋ねてみても、風の便りにさえも聞くことはできませんでした…。璋子さんはもう花が散るようにお亡くなりになったのですから・・・。
すると堀川の女房は次のように歌を返します。
吹く風の 行くへしらするものならば 花と散るにもおくれざらまし
 吹く風が璋子さまの行方を教えてくれるものならば、
 私も花となって一緒に散ってしまいたいものです。
死んでしまうとどうなるのか?それは誰も解りません。解るのは死んでしまった事実は生き残った人の心にだけ事実になる事です。祖そういった意味では西行法師は1000年も前に亡くなりましたが私達の心に生きているのです。

旅はそれ自体も楽しいのですが帰ってから想い出すのも楽しいものです。
たった2泊三日の旅を書きだしたら15回を数えてしまいました。気が付いたらもう町は牡丹も散って藤が咲き出しました。吉野の山も今頃は藤の花が咲いて居る事でしょう。
談山神社の十三塔の遥か上に藤の花房が垂れ下がって蹴鞠が催されていることでしょう。明日からは又日常に戻って日記の如くにブログアップします。お付き合い感謝いたします。

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大和の民家の聖俗空間

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五条は紀ノ川に沿って走る紀州街道が南北の道とクロスするのが五条です。五条から北に行けば奈良の中心街から京都に南に下れば吉野を経て熊野に出られます。高野山の登り口橋本も吉野川の対岸ですから五条とは五差路の意味でしょう。今回の吉野花紀行を通して私は折口信夫先生の著「花の話」に導かれてきました。同著で折口先生は古代人々は桜の花で稲の稔に係る神意を見てきた。花が長く美しく咲いた年は豊作で早く散ったりしてしまえば凶作になると信じていた、と説かれました。だからさくらの「さ」は穀霊の事で「くら」は「座」のこと穀霊の降臨する処と説明されました。大和の山を見れば春になるといち早く山の頂に桜が咲きます。山に神が降りてに里に田の神が徐々に下って来られると思ったのでした。弥生の末には雨(穀雨)が降ってさつきや五月雨の「さ」も穀霊の「さ」で早乙女が田植えをします。去年は伊勢神宮の式年遷宮で盛り上がりました。新築された内宮を眩しく眺めたものでした。我が町内の八幡様にも割り当てがあって捻出するのが大儀でした。我が町内の神様も穀霊(子之八幡社)ですから、お祝いは当然ですでも昨今の風潮では式年遷宮の費用を割り当て式に決めるのは難しい事になりそうです。京都の葵祭の下賀茂神社でさえ、境内をマンションに分譲するというので大紛糾していると聞きますから。

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伊勢神宮の内宮昨年は式年遷宮で新築されました。全国各地の神社はが負担して膨大な費用を捻出したのでした。2000年も前の建築様式がそうして守られてきたのでした。筆者はこの姿を見ると吉野のお山と同じだと思います。屋根は山の形ですし。大棟に乗っている千木は神様の依代で穀霊は千木を目安に降臨されるのです。そして白木の建物は神様好みの清明な空間です。汚れや穢れは微塵もありません。
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これが住居の埴輪です。中央の大きな建屋が神様のお住いで入口の様に設えられた小屋は作業所であり倉庫なのでしょう。
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  銅鐸にも高蔵と思われる建物が描かれています。
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典型的な大和棟の民家竹内街道

私は五条で大和棟の民家をの見学したいと思っていまあした。ところが時間ロスがあって五条に着いたのはもう夕暮れでしたから、民家の見学も銘酒の購入も酒の魚(柿の葉寿司)もどれもままなりませんでした。
大和の民家は日本一美しいし、大和の歴史をそのまま表現しているのです。というのは伊勢神宮の内宮や銅鐸に描かれた家屋そして埴輪の姿に大和の民家は似ているのです私は思います『ギリシャやペルシャの神殿は神そのもののようで威圧的であり人を寄り付けない雰囲気なのに、伊勢神宮のそれは大和の民家と変わらないじゃないか。』『日本の神々の住まう神社は人間の民家と変わらないじゃないか?』『だから日本に産まれて良かった・・・・。』と
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これが典型的な大和棟です山の辺竹内の環濠集落です。中央の立錐形の建屋が母屋で母屋は聖なる空間で神棚や仏間があります、周囲の小さな小屋は作業棟であったり物置であったりします。隅には土蔵があって庭は土間続きで作業空間になっています。母屋以外は俗な空間で俗な空間で農作業や炊事洗濯が行われます。
大和棟は聖俗空間が外から見ても明白に区別されています。それは大和棟の葺き方にも表れています。母屋の屋根は茅葺きですから山の神を象徴しています。そしてその周辺や小屋は瓦葺です。瓦葺は燃えない長所がありますが土器文化を象徴するものです。大和棟は山の神と田の神が共存している「和」の空間なのです

勿論民家は庶民が寝起きするのですからライフスタイルが変われば民家の意匠も変わって当然です。家畜が大事にされた時代、家畜に変わってトラクターや計4輪トラックが重宝している現代では民家は変わって自然です。でも基本的には変わらない部分もあるのです。

変わらない部分を大切に頑なに守っているのが大和の民家(大和棟)なのです。私の様に古い人間には頑なな大和棟を見ると安堵しますし、美しいと思います。

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   大和棟の民家三角錐の母屋は茅葺ですが周辺の小屋は瓦葺です。聖なる空間は茅葺で俗なる空間は瓦で葺かれています。棟の上には小屋と呼ばれる煙抜きの小屋根が付いています。西洋建築なら煙突の役目をするもので。小屋から竈で燃やした煙が出て行きます。サンタクロースが煙突から出入りするように山の神は屋根小屋から出入りするのでしょう。

民家はその地方地方の風土にあわせて歴史や伝統を引き継ぎ民族の生活文化の場となってきたものです。ですから民族の特長を最も適切に表現しており美しいものです。私達日本人の民家は材木で出来ていますから焼けてしまうのが最大の弱みです。でも材木の組み合わせ方次第では地震に強い長所もあります。西洋の建築は石で出来ていますから長持ちします。中世の建築も今日に続いています。長持ちするのは技術が廃れ易い事も意味しています。ギリシャローマの建物を見ると私達は圧倒されコンプレックスに陥りますが、我が日本は世界最大、最古の木造建築を有していますし。その建築手法を現在も引き継いでいます。式年遷宮を終えてこんな木造建築を自慢して民家を誇っていいように思うのです。湘南の民家はこの季節大棟の植えたいちはつが咲いたりしています。

茅葺屋根が黒髪でイチハツの花が簪のように見えて楽しいものです。川崎の日本民家園は次に書いたことがあります。イチハツや山藤が咲くと見に行きたくなります。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45536721.html



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北越雪譜の尊さ

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民俗学の本を読んでいると再三「北越雪譜」が引用されています。著明な本なんだから一、度は眼を通しておきたい思って図書館から借りて来てもらいました。案の定強い感銘を受けました。この本を中学生の頃にでも読んでおけば私の一生も随分に違ったものになった事でしょうそんな次第で今日は「北越雪譜」の紹介をさせていただきます。「北越雪譜」は江戸後期天保時代(1937年)に江戸で出版されたベストセラーです作者は現在の南魚沼郡塩沢で名産の縮の仲買商や質屋を営んでいた鈴木牧之です。初編は雪の成因や結晶のスケッチ烏など科学的な分析が主であります。二巻以降は雪国の逸話が編纂されています。印象に残るのは「雪中で熊に助られたマタギの話」や「雪の滝壺で鮭を採る男の最期」などでどれも厳しい自然の中で自然『神』を敬いながら、質実に生き抜こうとする雪国の人々の姿が深い敬愛の下に描かれています。今日的に見れば単に風土記的な興趣のみならず,科学的随筆とも称せられるもので、よくもこんな真面目で質実な本が出版されベストセラーになったというのは驚きであります。当時のベストセラーと言えば山東京伝戯作本や滝沢馬琴の読本や十返舎 一九の滑稽本と教わっていたのでした。戯作本読本滑稽本が並べば後エロ本があれば現代の出版事情と変わりません。よくぞ『北越雪譜』のように地味で真面目な本が売れたものだと驚きです。その分、当時の江戸の庶民は質実でしかも科学的に社会や自然を視ようとする気風にも満ちていたのでした。
私が直ぐに好きになってしまった話は幾つもあるのですが、その中でも心に残った話を紹介します。
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【雪中に峠を越えた話】
屹度三国峠でしょうか、夕暮れに峠を越えようとする二人連れがいました。一人は塩沢縮を商う商人でしょうかもう一人は塩沢村の農夫の様でした。雪国の陽はつるべ落としと言います。明るいうちに峠を越えなければ最悪の事になります。二人は無口で道を急ぎます。ようやく峠に辿り着きました。後は一気に坂を下れば塩沢村に入れます。山脈の向こうには八海山の兜のような頂が見えます。残照に輝いて見えます。農夫は故郷の山脈が見えて安堵したのでしょう、急に腹を空かしたのを想い出しました。そこで隣の商人に言いました。「もう塩沢が見えてきたもう安心だ一服していこう」そうして担いだ風呂敷を開いてお握りを取り出しました。お握りは二個ありました。商人もお握りを見ると食べたくなりました。そこでお百姓に頼みました。
「そのお握りを私に譲ってほしい、懐には800文ある。このお金は塩沢縮を買い付ける為に持ってきたものでこれが私の全財産だ。」そう頼まれた瞬間に農夫の脳裏には家で自分の帰りを待つ奥さんの顔が浮かびました。
奥さんは雪の上に布を晒して塩沢縮を作り上げます。奥さんの苦労の結晶が塩沢縮であり、それが精々200文で到底800文には及びません。妻を楽にさせるにはこの際800文でお握りを譲ってしまおう、妻も喜ぶに違いあるまい。農夫は800文でお握りを手放してしまいました。それが間違いでした。峠道を下りだすと急に風が強くなりました。農夫は寒いと感じ始めました。一方商人は元気を回復足取りもしっかりしてきました。
農夫の妻は家で夫の帰りを心配していました。囲炉裏には火を焚き夫の好きな田舎汁も用意されて夫の帰りを待っていました。
時々風が戸を叩きました。「オッカア今戻ったぞ!」夫の顔が戸口に見えるような思いがしました。
ところが戸を開いたのは商人で肝心の夫は商人の背に負ぶされていたのでした。
商人は奥さんに言いました。
今朝二人で須川宿を発ったのでしたが陽の沈むのが早くて峠ではもう夕暮れに差しかかっていました。峠で一服してあとは下り道だからもう安心だと思ったのでしたが、農夫は私に握り飯を譲ってくれたもんだから、風に体温を奪われて凍死してしまわれた。それでもこうして家に戻れたのは私の耳元で囁いてくれたから
「此処を曲がってその先のお地蔵様の辻を右に折れれば突き当りが家だ」
私が死ななかったのはこの人の優しさのお蔭だ。心から感謝しています・・・。だからこうしておぶってきました。
奥さんは800文の銭を握りながら呟くのでした
「お前さん。お前さんの命は。800文じゃないんだよ私にとっては値千金だよ・・・・」そんなことも知らんかったの。
商人は奥さんと一緒に泣くだけでした。
翌朝塩沢村では慎ましやかな葬儀が営まれました。
新しい美味しそうなお握りがお仏前に供えられていました。
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北越雪譜のイメージ斉藤清氏の版画


私はこの話が心に浸みました。
そこで先ずワイフに話して聞かせました。
次いでデーサービスで話して聞かせました。
良い話は読むだけでは駄目で話して聞かせてじぶんとおなじ感動を聞き手に残して初めて読んだことになると思ったからです。こう想う様になったのは吉野花紀行で刈萱堂で石童丸物語を経験したからでした。
総じていえばお握りの価値を見誤ったとして農夫が責められていました。命あってこそお金の価値があるもので、命を失えばお金に価値は無いというのが大多数の意見でした。
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北越雪譜のイメージ斉藤清さんの版画北越は木喰上人も長逗留した信仰の篤い土地です。
私は商人の命が農夫の命と引き換えに残された事実とそれに気付いて感謝した商人の姿こそ尊いと思いました。今の子供に訊かせれば何と答える事でしょうか?屹度「お握りを山分けすれば良かったのに」言う事でしょう。現代っ子は民主教育が行き渡り公平公正が常識になっているのですから。私はもう古くなった常識を伝えていると確信するのですがすなわち「命は自分だけのものでは無く、隣人から引き継ぎ与えられるのなのだ」
また「熊に助られた猟師の話」など【山の神】をインスピレーションさせるいい話です。また「滝壺で鮭を獲るる男の話」は現代でもありそうな愛情が一寸したすれ違いで悲劇になってしまう話でした。どれもこれも素晴らしい民話です。今年も今頃は北越は雪が溶けて雪割草の群落が花開いて妖精が山の神を田の神に変身させていることでしょう。


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槇は緑に牡丹は紅で(建長寺の牡丹)

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吉野山の桜に浸っている間に海棠も藤も終わってしまいました。矢張り牡丹は楽しんでおきたい思って私の生活圏の何処に牡丹を観に行こうかワイフと協議しました。金沢文庫の伊藤博文別荘、藤沢遊行寺の放生池鎌倉鶴岡八幡宮等々候補が上がってやっぱり建長寺に出かける事に致しました。何故建長寺にしたのか?それはこれから書いてみます。牡丹の花の生命力が一番に輝いて見えるからです。
先の旅行でも長谷寺当麻寺等牡丹の名所は数多く行きましたが牡丹はまだ蕾でした。。何処の牡丹も陰影の濃い場所に自生させているのです。伽藍の陰。庇の下や石垣の隅等牡丹は総じて人目のつかない陰影の場所に育って日陰を日向に変えてしまう花なのです。逆境に育って見事に花を咲かせるそんなドラマチックな花なんです。長谷寺でいえば。長い登廊を登る時、私達は平安の女房の翳りの表情を思い浮かべます。紫式部や清少納言の霊がその石垣の陰に潜んでいて此方を見ていそうだそんな視線を感じながら観音様の舞台に向けて進んで行きます。
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   長谷寺は牡丹の名所。私達は「隠国(こもりく)の長谷寺」で王朝女房の姿を思い浮かべます。牡丹の雅や妖艶さは女房の容姿を髣髴させます。

清少納言の視線だ感じて振り返るとそこには大振りな白い牡丹が咲いていたりするのです。
そんな陰影が”生と死の陰影”が牡丹にはあるのです。私の生活圏で「生と死の陰影」を強く感じさせるのは建長寺の牡丹です。そんな理由を付けてワイフに連れ添って貰って今年も建長寺にバスと電車を乗り継いで向かいまあした。
今日、5月2日は土曜日ですから鎌倉学園は授業中です。教室には新入生も揃って賑やかです。教室の窓から見渡せる向かいの山【東斜面】は墓地です。建長寺の境内には樹齢750年の柏槙(ビャクシン)が並んでいます開山蘭渓道隆が宋から伝えたものと云われています。柏槙の根元を埋め尽くしているのが牡丹なのです。
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建長寺の東の丘陵墓地から見れば山門と鐘楼の向こうに鎌倉学園の校舎が見えま山門の下では説法が始まりました。
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この日は陽射しも強いので山門の下の日陰で説法がを聞けました。お鬢つる吊る様はもう体中撫でられてピカピカでした山門には爽やかな山風が吹き渡って、牡丹の芳香を運んでくれていました。
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山門と講堂の間には樹齢750年の柏槙が7本もあって生い茂っています。その根元には花の王者牡丹が美を競っています。もう散り始めましたが連休中は楽しめそうです。
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柏槙は姿が美しくく泰然自若然としています。時に台風で折れたりしても自らの力で治癒してしまいます。そんな姿に学びなさいという意味で柏槙が植えられたのでしょう。宋の蘇東坡(そとうば)は、「柳緑 花紅 真面目」と読みました。この日も春の盛りで。目の前にある春の景色を目の当たりにして「柳は緑色で、花は紅に染まり、これが本来のありのままの姿そのままだ」と詠嘆したのです。人間も本来の姿でありたいものです。この光景にこそ禅の教えが隠されているのでしょう。

私が中学生の頃は建長寺の境内は一面砂利が轢かれていました。高校生の頃には葉鶏頭など草本が栽培されたりしていました。それがいつの間にかボタン園に変わっていたのです。
5年ほど前お手入れされていたお坊さんに伺ったところ「お詣りして下さる方に喜んでもらう為にボタンを植えるようになった」とのご説明でした。「丹精が大変でしょうね?」お聞きすると、雲水さんが落ち葉を掃き集めて堆肥にする花が終われば根元を掘り起こして堆肥を埋め込む、そうした繰り返しを重ねれば牡丹は正直なもので見事に咲いてくれるのでまた手入れを重ねるんです」そんな説明でした。以来毎年建長寺に登るのが習慣になってきたのです。
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牡丹と柏槙のコントラストは、「柳緑 花紅 真面目」の命題を考える最高の素材であると思います。植物の陰影であるとともに二種の植物が相互に助け合っている事実が人間の在り方を示していると思うのです。牡丹は白槙の樹下に根を張っているので見事な花を咲かせられるのです。

此処建長寺の建った処は鎌倉幕府の処刑場で「地獄谷」と呼ばれる死霊の集まる場所でした処刑された遺体は土饅頭に埋められます。土には粘菌やバクテリアがいて最高の浄化能力があるのです。今は落ち葉を腐らせてて堆肥を作るのですが鎌倉時代は遺体を土に浄化還元していたのでした。ですから建長寺のご本尊は昔から地蔵菩薩です。地蔵菩薩の聖地だから牡丹も良く生育するのです。
少しでも俳句に志した人は正岡子規の恩恵を受けています。20年ほど前私は腎臓癌の手術で根津の病院に居ました。そんな事もあって根津神社や谷中に出向いたものでした、子規庵の道路向かいに「書道博物館」がありまあした。当時はこの博物館が洋画家であり書家でもあった中村不折の作品を所蔵したものであることを知りませんでした。で。門前を素通りしてしまいました。何しろこの辺りは風俗ホテルが林立していて歩くのも憚れる環境でしたから・・・・。子規も不折も眉を顰める地域環境なのでしたから・・・・。
子規の最高の作品は間違いなく「病床六尺」でありましょう。
【子規の牡丹】
「病床六尺」は子規の「闘病日記」です「病床六尺」これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。」で始まる簡潔で美しい俳句日記です
明治35年5月5日に始まり同年9月17日まで120回余り書き綴られています。毎日のように顔を出すのが河東碧梧桐で門人は子規を慕ってお見舞いをして文机の上に書かれた俳句日記を読むのを日課にしていたようです。「病床六尺」の発表に先立って子規は「牡丹句録)を発表します。同文書の添え書きを河東碧梧桐がして、読者の理解を容易にしていますので子規の門下で一番は河東碧梧桐であることを公表したようなものなのでしょう。
河東碧梧桐は次のように説明しています。巻頭に牡丹の絵があるのは中村不折が描いたもので子規の墨蹟が古雅で瀟洒であるので牡丹の紅が矍奕【かくえき】として燃え出すようである。今(子規を送って)この句録を誌上に掲載するのは昔の夢を笑うようなもので天の幸いであります。
5月9日は熱が出て昼夜とも焦熱地獄に在るようであった、朝栗鼠骨二(?)が牡丹鉢を抱えてきたお礼に「薄氷」と書いて渡した。。大輪の薄紅の牡丹であった。西洋料理を夕飯に戴いた。昼夜二度服薬した。でも夜は発汗が激しくて眠りが浅かった。
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中村不折の描いた病床の子規。子規は中村不折から貰った絵の具で絵をかいています。子規は絵の具の事を油絵具とは言わずに「泥絵具」と言っていました。子規の俳句は「写生」「写実」と云われますがこの言葉自体が中村不折から教わった言葉であり文学思想だったのでしょう。中村不折の出世が漱石の「吾輩は猫である」の挿絵で在った事実とを考えると子規も不折も相互に影響し合った良い関係だったようです。

薄様に花包みある牡丹かな
鉢植えの牡丹もらひし病かな
一輪の牡丹輝く病間かな
蓑笠をかけし古家の牡丹かな
この夜初めて時鳥を聴く
床の間の牡丹の闇やほととぎす
5月10日余りの苦しさに何の為に長らえているのか疑問に思う。
死なんか、死なんか薬を仰いで死のうと思うと今の苦しさに比べれば私の命は少しも惜しくは無い。そこで、一生の晴れのお別れ会として「死別の句会を催すことにした。参会者には香典の代わりに花又は菓子を持ってくるように命じた。思うに任せて食い尽くして死んで行くのなら如何に嬉しかろうか?(原文は文語筆者が現代語に転換した)
林檎食うて牡丹の前に死なんかな
牡丹散る病の床の静けさよ
二片散って牡丹の形変わりけり
牡丹散って芭蕉の像ぞ残りける
子規の病床では花弁2枚が散ったのでしたが
建長寺の牡丹はもう緑苔を覆い隠すほど散っていました
そこで・・・。

牡丹散って子規の生き様伝えけり
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コケを覆い隠すほどに散ってしまった牡丹の花弁



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paradoxに陥った奇兵隊(憲法を考える)

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昨夜の深夜ラジオで橋幸男さんの「長州にて候」が流れていました。高杉晋作を誉める歌です。セリフも入って熱唱です。歴史ドラマ”花燃ゆ”も昨晩は坂本竜馬が登場していよいよ佳境に入ろうとしています。橋さんの歌も人気になりそうな予感がします。https://www.youtube.com/watch?v=iSoeqDTQryY
昨日は憲法記念日日曜討論【NHKテレビ)も憲法記念日特集では政府・与党が進める「安全保障法制」 の整備について扱われていました。」集団的自衛権の行使容認や自衛隊による外国軍隊への後方 支援など議論されていました。定刻のニュースでは(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150503/k10010069151000.html)を報じるなどNHKテレビは憲法改正派のプロパガンダ機関になったように感じさえします。
私達は学校で日本の憲法には三原則があると教わりました。「国民主義」「基本的人権」そして「平和主義」がそれでした。
サラリーマン時代スイスで日本の憲法について訊かれた事がありました。私は誇らしげに憲法の三原則について話しました。
すると三つの原則があるのは解ったがその中で一番の柱になるものは何なのか?重ねて質問を受けました。
その時は即座に応えられなかったので以来ズット考えて来ました。
最近ようやく日本の憲法の中心柱が解って来ましたそれは「個人の尊重」でありリベラリズムとも表現されます。古人の尊重を視点にすると「平和主義」も「基本的人権」も綺麗に説明できるのです。
スイスの引き受け幹事銀行は日本の憲法の柱はリバラリズムだ」答えれば安心して社債を引き受けてくれた事でしょう。ヨーロッパ人は日本の奇跡はエコノミックアニマルの所為であって本当の理由は解らないでいるのです。日本お奇跡はリベラリズムだ理解すれば日本は今以上に尊敬され事業も進めやすいのです。
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安曇野とアルプスを見下ろし池田町の高台に上原良治氏の慰霊碑は建っています同氏の遺書の通りに日本の風土にはリベラリズムがピッタリです。
【特攻隊学徒の叫びリベラリズムの国日本】
リベラリズムと言えば「聞け!わだつみの声」に載っていたは上原良治氏http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E8%89%AF%E5%8F%B8の遺書を想い出します。同氏は慶応大学経済学部の学生でしたが学徒出陣によって徴兵され1943年12月1日に陸軍入営熊谷陸軍学校に入校1945年5月11日1日、陸軍特別攻撃隊第56振武隊員として知覧から出撃、約50時間後に沖縄の嘉手納に突入して戦死享年22歳でした。その遺書が壮絶で心を打つものなのです。そしてリベラリズムこそ「終戦後の日本の姿であると信じ、リベラリズムを高らかに歌い。憎むは時代を覆った全体主義の時代空気であると看破していたのでした。


上野氏はリベラリズムこそ人間の本性にあった主義であるから、リベラリズムに根差した国が戦争に勝利し、対極の全体主義国家は戦争に負けると喝破しています。上野氏の悲劇を強いたのは日本陸軍でした。
日本陸軍は高杉晋作が作った奇兵隊を前身にしていました。
西郷隆盛等は武士を中核にした軍隊を主張していたのでしたが、西南戦争で農民兵に敗れると、軍隊は専門の陸海軍の兵隊さんを中核に編成されました。そして戦時下に陥れば平民も学生も徴収する事が当然だったのでした。
戦争の形勢が悪くなると専門軍人は危険な前線には出ず。まして死が必定な特攻隊などは学徒兵や民間人を充てたのでした。
高杉晋作の奇兵隊は志は清く高かったものの、行く末は特攻隊だったのでした。
若しかしたらこの場面を想定していたのでしょうか?日本陸軍は徽章に桜を採用しました。高杉晋作や山縣有朋には桜を徽章に被った学徒兵が太平洋洋上で命を散らす場面は想いもしなかったことでしょう。
でも歴史的事実は惨いもので「日本の未来を切り開くために作った奇兵隊が悲劇の顛末を迎えるのでした。
日本国憲法は”個人を守る目的”で制定されされ、政府は個人を守らなくてはなりません。だから政府には基本的に徴兵する権限は無いのです。でもいざ戦争になると全体主義が色濃くなって徴兵制も施行されてしまいます。
でも全体主義は個々人の叫びは黙殺してしまうそれは歴史が何度も留めています。日清戦争でも日露戦争でも戦争反対は個人の叫びであって全体主義に追い遣られてしまったのでした。
”日本陸軍馬鹿野郎”叫びながらリベラリズムは全体主義に準じてしまったのでした。

私達は日本国憲法に守られていたからこそ。平和な戦後70年を過ごし、未曽有な繁栄と世界の尊敬を勝ち得て来ました。
だから戦後70年は日本国憲法に感謝し、その主義(リバラリズム)をおさらいする機会だと確信するものです。
ところが政治もマスコミも恩恵のある憲法を軽視しております。これでは泉下の上原氏を始めとした特攻兵隊は眠れない想いで居られる事でしょう。
安倍首相の米議会での演説は世界中で疑問符が付いたことでしょう。
「日本は戦後70年一貫して平和主義を通してきました。それは大半の外国人が首肯してくれるでしょう。今後は一歩積極的になって世界平和の役割を果たそうと思うのです。その意味で軍隊を機動的に派遣できるようにします」

その論理の飛躍について行けないか欺瞞を感じる事でしょう。
何時の時代も為政者は平和を口にして市民に銃を持たせました。平和を口にして武器を捨てたのが日本国憲法でしただから世界中の尊敬も集めましたし、上原氏のようなリベラリストの叫び声を聞いて世界中が日本人の平和主義が本物だと信じてくれました。
加えて武士道精神が広まって来ました。「武士道と刀を手にして人を制する事では無くて刀を捨てて人を活かすことである」そんな教えは世界中で日本にしかありません。
近年少し中国が出過ぎたからと言って。南シナ海や中東にまで軍隊を派遣しようとする安倍首相の姿勢は尊敬を裏返して冷笑を浴びるものです。やっぱり日本人の平和主義はお仕着せで日本人は少しも変わっていないじゃないか?思って居る事でしょう。
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武士道とは「死ぬことと見つけたり【葉隠】は有名ですが、生死を分かつ場面に遭遇したならば「生きる道を選ばず「死への道を選ぶのが正しいと看破した文句であって、柳生 石舟斎の時代から「武士道とは活人剣で殺人剣に非ず」世界に冠たる戦争放棄の精神でした。写真はアマゾンサイト

リベラリズムと言えば「きけわだつみの声」に載っていたは上原良治氏http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E8%89%AF%E5%8F%B8の遺書を想い出します。同氏は慶応大学経済学部の学生でしたが学徒出陣によって徴兵され1943年12月1日に陸軍入営熊谷陸軍学校に入校1945年5月11日1日、陸軍特別攻撃隊第56振武隊員として知覧から出撃、約50時間後に沖縄の嘉手納に突入して戦死享年22歳でした。その遺書が壮絶なのでした。そしてリベラリズムを来るべき時代のリベラリズムを高らかに歌い。憎むは時代を覆った全体主義の時代空気であると看破していたのでした。
少し長いのですが上原良治氏の遺書【聞けわだつみの声】を紹介します。


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信州安曇野池田村の夫婦道祖神(穂高神社境内の道祖神記念館に掲示された道祖神の拓本です)

【特攻隊兵士の遺書】
私は明確にいえばリベラリズム【自由主義】に憧れていました。日本が真に永久に続くためにはベラリズムが必要であると思ったからです。
これは馬鹿な事に聞こえるかも知れません。
それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。
しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、ベラリズムそ合理的なる主義だと思います。
戦争において勝敗をえんとすれば、その国の主義を見れば事前において判明すると思います。
人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦(かちいくさ)は火を見るより明らかであると思います。
日本を昔日の大英帝国の如くせんとする、私の理想は空しく敗れました。
この上は、ただ日本の自由、独立のため、喜んで命を捧げます。

権力主義、全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも、必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。
我々はその真理を、今次世界大戦の枢軸国家において見る事が出来ると思います。
ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツもまた、既に敗れ、今や権力主義国家は、土台石の壊れた建造物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。
真理の普遍さは今、現実によって証明されつつ、過去において歴史が示したごとく、未来永久に自由の偉大さを証明して行くと思われます。
空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事は確かです。
操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の航空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。
理性をもって考えたなら実に考えられぬ事でも強いて考えうれば、彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。
精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。
一器械である吾人は何も云う権利もありませんが、ただ、願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです。
こんな精神状態で征ったならもちろん、死んでも何にもならないかも知れません。
故に最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。
 愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。
 天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。
明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽わらぬ心境は以上述べたごとくです。
 何も系統だてず、思ったままを雑然と述べた事を許して下さい。

上原良司氏は美しい信州安曇野を見下ろす池田町の生まれで居られました。池田町は西に北アルプスの山脈が見渡せて辻辻には夫婦道祖神が視られる夢のような土地です。同氏の命がもう少し遅く授かったならば今頃は過疎村のお爺さんでありましょう。
池田村はスイスを思わせる美しい田園です。今日本で国民皆兵とか徴兵令と言えば大反対にあうでしょう。でも世界常識ではスイスも韓国も国民皆兵なんです。今の全体的な風潮は危険な方に向いて居ます。憲法の尊さに目をつむっているのが原因だと思うのです。
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鹿児島知覧の特攻平和会館 - 出典:Wikipediahttp://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E7%9F%A5%E8%A6%A7建屋が陸軍の徽章である桜がデザインされています。故人は屹度このデザインは嫌いでしょう。でも全体主義者がこのデザインを採用して特攻平和会館等という意味不明矛盾だらけのネーミングをしたのでしょう。私の祖母が視たら憤る事でしょう。


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五活病と言うけれど

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今日は端午の節句いよいよ薫風のさつきです。今日は子供達の作った鯉幟も川風を孕んで気持ちよさそうに泳いでいることでしょう。世界中に旗は数多くありますが鯉幟ほど素敵な旗(幟)は無いと思います。テレビでは小千谷(新潟)の錦鯉業者が廉価なインドネシアの業者と価格競争を強いられていると報道しています。アラブの石油長者に錦鯉の非価格競争力を理解させるのは大変そうです。鯉は風が吹けば龍に変わります。風という目に見えない神が作用して鯉が龍に変じるのでしょう。幟に毘沙門天なんて書くのよりズット粋です。粋や粋が解らなければ小千谷の錦鯉の良さは解らないのかもしれません。いっそのこと錦鯉単体で売り込むのではなく、庭園造りや水の管理餌やり等の錦鯉の周辺ソフトと共にセットで売り込んだ方が良さそうです。テレビを見ていて私は新潟県の商工課に『日本庭園の企業と造水業者と餌業者のコンソーシャムを組成して売り込んだら良いだろう』提案したくなりました。アラブの石油王のお庭には竜宮城のような日本庭園があって、高価な水がコンピューター制御で何時も綺麗に管理されています。真っ青な水には行ける宝石錦鯉が悠々と泳いでいます。以上総てを新潟県の企業連合体が請け負っています・・・。

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鯉幟の話題が錦鯉に逸れてしまいました。「五月」と書いてさつきとよみます。さつきの「さ」は田の神の「さ」です。ササ(酒)も早乙女も五月雨も「さ」は田の神の「さ」です。5月は風が吹いて自然は神々が活発に動き出します。そんな5月には昔うから病気が流行ったのでしょう。端午の節句には菖蒲の葉っぱを用いて邪気を払いました。
筆写はこのブログを書き上げたらデーサービスに出かけて朝ぶろを戴きます。快活なおばさんが私の体を洗ってくれます。湯舟は菖蒲湯でしょう。昔の人が神社を詣でる前に川に入って体を禊ぎ浄めました。その川の岸辺には菖蒲が育っていて菖蒲は水を清めていたのでしょう。そんな習慣が菖蒲湯になって伝えられているのでしょう。勿論菖蒲の香りは良いものです。でも匂いだけを比べればバラやハーブに負けます。自然を観察した成果が菖蒲湯になって伝えられているのでしょう。
五月は身体の病気だけではなく心の病気が心配な季節です。
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日本中の神社には禊祓いをする水場があって菖蒲が自生して邪気を払っています。
所謂「五月病」の事です。
半世紀前の今頃私は日吉のキャンバスに居ました。銀杏の若葉が濛々と燃え始めようとする中で、欝な気持ちに沈んでいました。漱石の三四郎のような気分で疎外感を感じていました。今もキャンバスにはそんな欝な学生が沢山いる事でしょう。
そんな一方で新社会人も就職して100日五月病に堕ち込んでこんな筈じゃなかった退職しようか?想いが心をよぎっていることでしょう。そんな新社会人を部下に預かった上司も憂鬱です。今頃なら経営者から「新人は2億円相当の投資である。2億円の投資を預けるからしっかり育てるよう」注文が出されています。そんな新人が退職しようものなら管理職不適格の烙印が押され。出世レースから落後してしまいます。競争社会は新社会人にも中間管理職にも5月病を強いるのです。
私が銀行で管理職だった時代にも5月は思いもしない事故が多発したものでした今日は書きませんが博多どんたくの季節は厄でありました。
新人の3割は採用後3年以内に退職してしまいます。今を時めく林先生もそんな一人であったのでした。でも職場(長銀)を早くに見限って予備校教師への転職をしたことが今日の成功の第一歩だったのでした。
人間塞翁が馬で何が成功の要因になるのか解らないものです。
私と林先生較べるのは気が退けるのですが、あえて何処が違っていたのかお話して退職を想っている新社会人にアドバイスしたいと思います。
私は採用されて直ぐに本店の債券貯蓄部にはいぞくされました。債券貯蓄部とは都銀の渉外係と同じで外回りして大口預金者を取り込むのが仕事でした。1月1千万が新規集金のノルマのようなもので、そのラインを越えない人は駄目の烙印が押されるそんな感覚でした。夕方外回りから帰って大きな手提げカバンから現金を机の上に積んで「入金伝票」を添えて上司に預けます。同僚そして女子行員の視線が集中しました。視線を感じながら大金を預ける快感が毎日続きました。この快感が続く限り五月病は無縁でした。
銀行が退ければ皆で神田の居酒屋に出かけました。
同僚に訊かれました「何故君は毎日稼ぎがあるのか?」訊かれたのでした。私はこんな風に答えていました。
お客さんとの最初の一言が大切で「屹度断られるだろう」思っているとお客さんはいち早く察知して”今は忙しいから。次はアポイントを入れてからきてね”言われてしまいます。
野球のバッターボックスに入るようなもので”打てる”思ってバッターボックスに入るものと”バットに当たるかしら?”思って入る者とではすでに勝負がついている。要は打てると確信する事。第一打席では凡退でも次の打席ではヒットを打てるように工夫する事。でありました。ヒットする為には敵を知る事。味方(長銀)の取引先の個人を選べばヒットの確立があがる等と得意になって話しました。
私の机には長銀の得意先名簿や長銀役員の派遣先名簿が置かれていましたし。秘書室からはトップの接待計画の写しが送られてきていまあした。接待のあった翌日には築地の料亭の勝手口に行きましたし、新橋の検番には芸子さんのマンションを教えて戴きました。札幌支店では支店長室に出入りしていたマンション業者の営業マンと昵懇になり、マンションのオーナーを教えて貰いました。当時市川房江さんの活躍で風営法が強化されその世界の資金は長銀の無記名債券に流れて来ていました。
要するに「コネは無いイケメンでもない、度胸も無い…無い無い尽くしの自分であっても長銀の名刺を預かればお客さんとの距離を縮めるコネがある強みもある・・・・あるあるにポジションチェンジが出来たのでした。
五月病になる前にあれも無いこれも無いネガティブ発想はやめてこれがあるこれは強みであるといったポジティブ発想にチェンジしてみる事でありました。
こんな事でしたから私は総じて上司に認められ長銀の前半生は順調でありました。加えて個性的で知的刺激に溢れた上司にも恵まれました。林先生が五月病になっていた時には順調満帆でした。退職など考えたことは一度もありまっせんでした。私に向いてきた順風が逆風に変わったのはバブルが弾けて長銀の不良債権が問題になりだした頃からでした。尊敬していた三井不動産の江戸秀雄さんが突然に引退され「この重症は回復するのに3年はかかる」発言して後任に田中社長を指名されました。三井不動産でさえバブルの清算には3年が懸りその重い十字架を田中さんに託されたのでしょう。長銀には江戸さんのような経営者はいなかったのでした。杉浦さんはバブルの清算を託すべきところを隠蔽を指示されました。私は少し文章が書けましたので銀行の内外で発言するようになって煙たがられる位置に変わってしましました。丁度昭和天皇が崩御され私は”昭和は終わったこれから風向きが変るぞ”感じた直後でした。

これからデーサービスに出かけます帰宅次第ブログを再アップします。

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中世武士の出家の理由

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花の吉野を巡ってからもう一か月になって今日(5月6日)は立夏です。この間私は西行が刈萱道心が何故出家したのか?ズット考えていました。この二人の伝説は似たところが幾つもあります。その第一は二人とも中世の新興の武士だった事です。西行は北面の武士で宮中を警護するエリート武士、刈萱道心は大宰府を守る屈強の武士でした。姓を佐藤・加藤と名乗っていたことは藤原家の一統だったのでしょう。第二の類似点は出家に至る経緯です。西行は盃に散った桜の花弁を見て刈萱道心も同じ事情で無常を痛感して出家した事になっています。でも流石に後世の人々はこれでは満足せず。寂聴さんは西行は道ならぬ恋(藤原 璋子(ふじわら の しょうし )の破綻が出家の理由であると想像し(白道)刈萱物語では刈萱道心の妻と妾の醜い嫉妬心を目のあたりにして出家を決心した事になっています。
そんな理由は男の身勝手というもので江戸時代の人ならまだしも現代人は誰も納得しません。私はこの辺の事情を上手く説明できないかズット考えていました。するとワイフが図書館に行って一冊の本を借りて戻りました。表題は歴史の中の家族と結婚/服藤早苗監修)でした。読んでみると面白く目から鱗の想いがしました。同著にそいながら、西行刈萱道心二人のエリート武士が何故出家したのか?説明を致します。
それにしても私は孫悟空のようなもので。好き勝手やっているようですが何時もワイフの懐の中を飛び回っているようです。西行出家の興味もお釈迦様の手の内にあるようなもので、苦笑いです。
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読本では加藤繁氏は帰宅すると、妻と妾は一見して仲良くしているのですが髪の毛が蛇の様に逆立って見えました。嫉妬心に恐れをなして出家を決意した事になっています。問題は古代の母子家族制度(母と子を核にして夫が応報する家族制度から中世的な家父長的家族制度への移行期にあったのでした。

【恋が結婚に即決した万葉時代】
万葉集に次があります。
魂合えば相寝るものを小山田の鹿猪田守る事母子守らすも(万葉集3000)
歌の大意「お互いに惹かれあったのだから直ぐに共に寝てしまいたいのにお母さんがまるで田圃を荒らしにやってくる鹿や猪を追っ払う様に私を見守っているので私は貴方を迎い入れられないのです・・・。)
心が逢ったら直ぐに交わってしまいたい、恋は直情的にセックスに直行するのが万葉集時代の特長でした。僅かに制約があるとすれば家長である母の許可で母の許可さえあれば毎夜恋人を家に迎い入れられたのでした。母の思惑は良家の男、金持ちの息子を迎い入れ自身の家族の栄達に利することくらいでしょう。
だから問題は美しい娘を見つけたら名前と住所を聞く事でこれが成功すれば女性から”いいわよ”のサインをゲットしたようなものでした。昨今の若人がメイルアドレスの交換を終えたらもうホテルに誘えるそう早合点するようなものでしょう。
万葉集には名前と住所を聞く歌が数多くあります。
どれも求愛の歌でありその返歌でありました。
紫は灰指すものそ海石榴市の八十の巷に逢える子は誰(万葉集3001)
歌の大意:海石榴市の八十の巷であった貴方貴方のお名前は何なの教えてくださいな!。
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海石榴市の八十の巷にに歌われた三輪山の麓海石榴市の集落
返歌
たらちねの母の呼ぶ名を申さめど道行く人を誰と知りてか(万葉集3002)
歌の大意:
私のお母様の名前を教えろって言うの、でも私は道行く貴方の名前を知らないので教えられまえんことよ。
私は貴方の事を知らないので(お母様の許可は得られません。貴方こそ自分の名を先に名乗りなさいよ・・・。
何時の時代も深窓の令嬢は簡単に住所やメールアドレスは教えてくれないのでした。
結婚の許可を与えるのは母だったのが特長です。この事実は王朝時代も基本的には変わらないのでした。
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                  源氏物語絵巻(東屋)徳川美術館では源氏の屋敷に沢山の美女が囲われています。
【通い婚から同居に】
万葉時代の家族の基本単位は「母+子供」で夫は夜や農繁期に通って来るものでした。
でも貧富の差が大きくなると夫は妻の家に定住し、時に夫の家に妻が迎い入れられるようになります。
光源氏やそのモデル藤原道長のように富と権力を掌中にすると。妻を屋敷に迎い入れるようになりました。同居した方が何かと便利ですし、権力を拡大するうえでも好都合だったのでしょう。でも男性の欲望は底無しですから。次々に別の女性に目移りがしてしまいます。天皇に正妻【皇后】に中宮や愛妾がいた様に貴族や豪族も正妻の他に愛妾を持つものが出現します。万葉時代は母系を核にした一夫一婦制だったものが平安時代になると父系を核にした一夫多妻多妾制度に変わって来ました。
特に鎌倉時代に移る頃には方丈政子の様に夫を自分で選択する気丈な女性が出現します。
武力や富が権力を決定する中世になると家父長的な家族制度が一般化します。
家父長的な家族制度が武力を充実させ、富の集中に効果があったからでしょう。
そんな時代変化の中で変化の主体である武士階級である西行であり刈萱道心でありました。
私達は家父長的な家族制度【明治民法】に慣れて来ました。だから、西行が妻子を捨ててもその身勝手を責める声は聞こえなかったのです。しかし昭和憲法の施行によって基本的人権が尊重されると西行の行為は批難されてしまいます。そこで昨今の西行物語では妻子も弘川寺で出家させたりしてジェンダーに沿った改変が行われているようです。西行が信仰武士勢力の代表的存在である以上妻子を捨てて出家し歌を極めようとした生き方は首肯されたのでした。大切なのは家族を捨ててまでゲットしようとした真の自由と珠玉の作品【和歌】でした。


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