吉野山で白山桜を観てから1箇月が経ちましたニュースでは釧路の蝦夷山桜が満開だそうです。
日本列島の桜前線は通過するのに2箇月も懸るのでしょう。その分楽しみも長続きします。日本中の花好き爺さんが桜を追って南から北に旅をしたことでしょう。どの桜も「山桜」です。吉野の山桜は白くて霞の様に見えます。ところが北に行くと蔵王でも釧路でも蝦夷山桜は濃いピンク色です。真っ青な牧場に濃いピンクの蝦夷山桜は良く映えて見えます。山桜とは固有の桜の種では無くて「各地各地の自生の桜」という意味のようです。
ところで私の住む相模では桜が散って1箇月経つと桐の花が咲き出します。我が生家で庭先に鯉幟が立って私が自慢すると姉が裏山を指さして威張ったものでした。指先には杉や楠の梢を見下ろして咲き誇る桐の花がありました。
日本中で桐の花の一番美しい景色は間違いなく「奥会津」只見川線沿線の桐の花だと確信しています。
奥只見湖に映える桐の湖は只見川をせき止めて出来たものです北越戦争に敗走した河合継之助はこの街道を合図に向けてガトリング砲を携えて逃げ延びて来たもののこの辺りで死んでしまいます。現在は河合継之助記念館がありまあす。司馬遼太郎の小説「峠」を片手にした人達が遣って来ます。
河合継之助が戊辰戦争(北越戦争)に敗れて小千谷から会津に逃げ延びようとした道です。只見川に沿った渓谷に猫の額の様に狭い田圃が作られています。水鏡に桐の花が映った景色の心を奪われました。農夫は田起こしに勤しんでいます。少年は川で釣り糸を垂れていますし少女は蓮華草の花摘みに夢中です。そんな気色の核になっているのが紫色の桐の花房です。鳳凰は桐の花に依ると言われますが。納得する気高さであり平和な景色でした。
「桐の花」朝顔のように苞状の花の先が五枚に裂けて咲きます。この花が群れて五三に咲いたり大きな房は七五に咲いたりします。(桐花紋(とうかもん)と呼ばれる。七五の桐は天皇家五三桐(ごさんのきり】は一般に使われています。
私の生活圏にも桐の名木があります。場所は鎌倉の広町緑地です。広町緑地は、鎌倉市の南西部・腰越地域に位置する都市緑地です。 約48haもの広さを誇ります。全体としては丘陵ですが小高い山があり谷戸が複雑に入り組んでいます。小山の名前は「兎山」だったり。「竹ヶ谷古城」であったりします。古城と言っても「砦」であって藤沢の大葉城と大差ありません。後北条氏の山城の跡で特段の遺跡はありません。でも砦の上からの眺望は最高で南には七里ヶ浜の海、西には大山の山脈と富士山も眺望できます。そんな谷戸に桐の大木が二本自生しているのです。私の見立てでは樹齢は70年、戦中又は戦後間もなく植えられたものでしょう。植えたのは鎌倉山の地主さんで多分お寺さんでしょう。お寺さんに女の子が産まれたのでお祝いに桐の木を植えたものの、お寺の山はお檀家の入会地のようなもの。誰もが柴を刈り落ち葉を掻き集めたのでしょう。誰の所有地か意識されないで来たようです。現在の様に都市公園の指定がされると山林も樹木も所有者は鎌倉市民という事になりましょう。
私は毎年この桐の花を見るのを楽しみにしてきました。何度もこのブログにアップしています。今年は足が悪いので観に行けませんでしたが来年は必ず観に行こうと思います。
そう思いながら桐の花を思いやっていると、妄想が湧いてきました。明日のかけて小説に作り上げてみます。
鎌倉広町緑地の桐の大木彼方に七里ヶ浜の住宅地と海が視られます。このサイズの大木が二本あります。展望台からの景色でハイカーが続々と粉の桐を観に山道を歩いてきます。
広町緑地には漆の林もあります。目立たない花が咲いてでも実は野鳥などの命を育みます。左奥に見えるのが兎山です。兎も狸も棲息しています。
【桐の秘め事】
和子は湘南モノレール西鎌倉駅を降りて坂道を西に向かいました。パソコンから打ち出したマップをを手にしていましたが、初めての土地ですし谷戸が多い地形ですから心配です。谷戸の奥まで入って迷ったら大変です。でも目指すのは修道院です。「修道院への道は何処ですか?」尋ねるのが安全です。和子は自分と同じ年齢と思えた主婦然としたご婦人に訊いてみました。
主婦は生協で求めた買い物袋を吊り下げたまま迷惑そうにこたえました。
「ああ、修道院ね。このバス道を下って二つ目の信号が御所谷のバス停でその交差点を左折したらマリア小路に入ります。マリア小路を何処までも道なりに行けば修道院の尖塔が見えて来ますから・・・」
和子は鎌倉に転居してきた共稼ぎの主婦です。
夫は大船駅から都心に通勤している商社マンです。和子は結婚と同時に専業主婦をしていたのでしたが。鎌倉に真新しいママンションを購入して転居して以来訪問介護をしているのでした。夫からは「そろそろお母さんを渋谷から鎌倉に引き取ろうよ」相談を受けています。渋谷のマンションを売り払えば鎌倉にも餅が先の茅ヶ崎にも終身介護を売りにしている施設がありますから。夫の提案には即座には同意できません。同居するのか近くに介護付き高齢者住宅を探すのか選択肢はあるのでした。夫の「他人の介護に精出しするくらいなら自分のお母さんの面倒を看てくれよ」言いたげな口ぶりが気になっていました。
でも、今日から修道院のシスター訪問介護が始まる事は本部からメールで添付された「ケア・プラン」で承知していました。
マリア小路の名は生協に出かけるシスターの姿が良く見られたので名が付いたものでしょう。
修道院は終戦後間もなく建てられたもので。当時は修道院の奥が鎌倉山で周囲には何もありませんでした。其処にモノレールが牽かれると真向いの山が片瀬山住宅地に開発されました。すると修道院の前には新鎌倉山という名で一戸建て住宅地に変貌しました。
新鎌倉山住宅地の奥に修道院はありまあした。鎌倉山の緑に真っ白い尖塔が眩しく見えました。
聖堂の前には両手を広げたマリア様の像が立ってまあした。
和子は修道院に配流のは初めてでした。お仕事は修道院に住んでいるシスターのお相手をする事ですが、。ケアカードには「認知症の初期症状あり」とだけ記されているのでした。”シスターはどんな方かしら?私を受け入れてくれるかしら?”不安が頭をもたげます。
その度に自分の義母の表情が重なって見えました。
和子は修道院の門を入りました。聖堂に入ってお祈りしてからシスターの住んでいる寮に向かおうか、一寸躊躇しました。でもマリア様の像が両手を広げて歓迎してくれていたので。マリア様の前で立礼しました。
シスターの節子は修道院のお庭で散った桜の花軸を掃き集めていました。
和子の姿に気付くと笑顔で素早く歩いてきました。
和子はこのシスター(節子)が自分の訪問介護のクライアントであることを直感しました。
職業的な感覚で節子の症状は極めて軽く嬉しい表情が直ぐに出る人は認知症にはならない自分の経験知を想い出しました。
和子は節子の心の奥深くに隠れている事を聞いてみたい衝動に何度もかられました。
七〇歳を超えても美しく品のある節子が何故シスターになったのか?
若かったときはさぞかし美しかったであろうから・・・・、数多の男性から声も掛かったろうに何故ゴッドに仕える道を選んだのか?不思議でなりませんでした。それを教えて貰った時初めてクライアントがヘルパーに心を許した事になる確信していました。
修道院の奥には畑がありました。畑の先はもう鎌倉山で樹林が逼っていました。山の奥から”お母怖い、お母怖い”小綬鶏の啼き声が響いてきました。
広町緑地の周囲は宅地造成されています。写真は蕎麦の花の面倒を看ている近隣住人
広町緑地の小綬鶏
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