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桐の秘め事

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吉野山で白山桜を観てから1箇月が経ちましたニュースでは釧路の蝦夷山桜が満開だそうです。
日本列島の桜前線は通過するのに2箇月も懸るのでしょう。その分楽しみも長続きします。日本中の花好き爺さんが桜を追って南から北に旅をしたことでしょう。どの桜も「山桜」です。吉野の山桜は白くて霞の様に見えます。ところが北に行くと蔵王でも釧路でも蝦夷山桜は濃いピンク色です。真っ青な牧場に濃いピンクの蝦夷山桜は良く映えて見えます。山桜とは固有の桜の種では無くて「各地各地の自生の桜」という意味のようです。
ところで私の住む相模では桜が散って1箇月経つと桐の花が咲き出します。我が生家で庭先に鯉幟が立って私が自慢すると姉が裏山を指さして威張ったものでした。指先には杉や楠の梢を見下ろして咲き誇る桐の花がありました。
日本中で桐の花の一番美しい景色は間違いなく「奥会津」只見川線沿線の桐の花だと確信しています。
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奥只見湖に映える桐の湖は只見川をせき止めて出来たものです北越戦争に敗走した河合継之助はこの街道を合図に向けてガトリング砲を携えて逃げ延びて来たもののこの辺りで死んでしまいます。現在は河合継之助記念館がありまあす。司馬遼太郎の小説「峠」を片手にした人達が遣って来ます。
河合継之助が戊辰戦争(北越戦争)に敗れて小千谷から会津に逃げ延びようとした道です。只見川に沿った渓谷に猫の額の様に狭い田圃が作られています。水鏡に桐の花が映った景色の心を奪われました。農夫は田起こしに勤しんでいます。少年は川で釣り糸を垂れていますし少女は蓮華草の花摘みに夢中です。そんな気色の核になっているのが紫色の桐の花房です。鳳凰は桐の花に依ると言われますが。納得する気高さであり平和な景色でした。
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「桐の花」朝顔のように苞状の花の先が五枚に裂けて咲きます。この花が群れて五三に咲いたり大きな房は七五に咲いたりします。(桐花紋(とうかもん)と呼ばれる。七五の桐は天皇家五三桐(ごさんのきり】は一般に使われています。
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私の生活圏にも桐の名木があります。場所は鎌倉の広町緑地です。広町緑地は、鎌倉市の南西部・腰越地域に位置する都市緑地です。 約48haもの広さを誇ります。全体としては丘陵ですが小高い山があり谷戸が複雑に入り組んでいます。小山の名前は「兎山」だったり。「竹ヶ谷古城」であったりします。古城と言っても「砦」であって藤沢の大葉城と大差ありません。後北条氏の山城の跡で特段の遺跡はありません。でも砦の上からの眺望は最高で南には七里ヶ浜の海、西には大山の山脈と富士山も眺望できます。そんな谷戸に桐の大木が二本自生しているのです。私の見立てでは樹齢は70年、戦中又は戦後間もなく植えられたものでしょう。植えたのは鎌倉山の地主さんで多分お寺さんでしょう。お寺さんに女の子が産まれたのでお祝いに桐の木を植えたものの、お寺の山はお檀家の入会地のようなもの。誰もが柴を刈り落ち葉を掻き集めたのでしょう。誰の所有地か意識されないで来たようです。現在の様に都市公園の指定がされると山林も樹木も所有者は鎌倉市民という事になりましょう。
私は毎年この桐の花を見るのを楽しみにしてきました。何度もこのブログにアップしています。今年は足が悪いので観に行けませんでしたが来年は必ず観に行こうと思います。
そう思いながら桐の花を思いやっていると、妄想が湧いてきました。明日のかけて小説に作り上げてみます。
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鎌倉広町緑地の桐の大木彼方に七里ヶ浜の住宅地と海が視られます。このサイズの大木が二本あります。展望台からの景色でハイカーが続々と粉の桐を観に山道を歩いてきます。
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広町緑地には漆の林もあります。目立たない花が咲いてでも実は野鳥などの命を育みます。左奥に見えるのが兎山です。兎も狸も棲息しています。


【桐の秘め事】
和子は湘南モノレール西鎌倉駅を降りて坂道を西に向かいました。パソコンから打ち出したマップをを手にしていましたが、初めての土地ですし谷戸が多い地形ですから心配です。谷戸の奥まで入って迷ったら大変です。でも目指すのは修道院です。「修道院への道は何処ですか?」尋ねるのが安全です。和子は自分と同じ年齢と思えた主婦然としたご婦人に訊いてみました。
主婦は生協で求めた買い物袋を吊り下げたまま迷惑そうにこたえました。
「ああ、修道院ね。このバス道を下って二つ目の信号が御所谷のバス停でその交差点を左折したらマリア小路に入ります。マリア小路を何処までも道なりに行けば修道院の尖塔が見えて来ますから・・・」
和子は鎌倉に転居してきた共稼ぎの主婦です。
夫は大船駅から都心に通勤している商社マンです。和子は結婚と同時に専業主婦をしていたのでしたが。鎌倉に真新しいママンションを購入して転居して以来訪問介護をしているのでした。夫からは「そろそろお母さんを渋谷から鎌倉に引き取ろうよ」相談を受けています。渋谷のマンションを売り払えば鎌倉にも餅が先の茅ヶ崎にも終身介護を売りにしている施設がありますから。夫の提案には即座には同意できません。同居するのか近くに介護付き高齢者住宅を探すのか選択肢はあるのでした。夫の「他人の介護に精出しするくらいなら自分のお母さんの面倒を看てくれよ」言いたげな口ぶりが気になっていました。
でも、今日から修道院のシスター訪問介護が始まる事は本部からメールで添付された「ケア・プラン」で承知していました。
マリア小路の名は生協に出かけるシスターの姿が良く見られたので名が付いたものでしょう。
修道院は終戦後間もなく建てられたもので。当時は修道院の奥が鎌倉山で周囲には何もありませんでした。其処にモノレールが牽かれると真向いの山が片瀬山住宅地に開発されました。すると修道院の前には新鎌倉山という名で一戸建て住宅地に変貌しました。
新鎌倉山住宅地の奥に修道院はありまあした。鎌倉山の緑に真っ白い尖塔が眩しく見えました。
聖堂の前には両手を広げたマリア様の像が立ってまあした。
和子は修道院に配流のは初めてでした。お仕事は修道院に住んでいるシスターのお相手をする事ですが、。ケアカードには「認知症の初期症状あり」とだけ記されているのでした。”シスターはどんな方かしら?私を受け入れてくれるかしら?”不安が頭をもたげます。
その度に自分の義母の表情が重なって見えました。
和子は修道院の門を入りました。聖堂に入ってお祈りしてからシスターの住んでいる寮に向かおうか、一寸躊躇しました。でもマリア様の像が両手を広げて歓迎してくれていたので。マリア様の前で立礼しました。
シスターの節子は修道院のお庭で散った桜の花軸を掃き集めていました。
和子の姿に気付くと笑顔で素早く歩いてきました。
和子はこのシスター(節子)が自分の訪問介護のクライアントであることを直感しました。
職業的な感覚で節子の症状は極めて軽く嬉しい表情が直ぐに出る人は認知症にはならない自分の経験知を想い出しました。
和子は節子の心の奥深くに隠れている事を聞いてみたい衝動に何度もかられました。
七〇歳を超えても美しく品のある節子が何故シスターになったのか?
若かったときはさぞかし美しかったであろうから・・・・、数多の男性から声も掛かったろうに何故ゴッドに仕える道を選んだのか?不思議でなりませんでした。それを教えて貰った時初めてクライアントがヘルパーに心を許した事になる確信していました。
修道院の奥には畑がありました。畑の先はもう鎌倉山で樹林が逼っていました。山の奥から”お母怖い、お母怖い”小綬鶏の啼き声が響いてきました。
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広町緑地の周囲は宅地造成されています。写真は蕎麦の花の面倒を看ている近隣住人
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広町緑地の小綬鶏



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桐花の秘め事(2)

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【早春譜】
和子が節子の訪問看護を始めてから1箇月ほど経った3月の末の事でした。
もう鎌倉山の住宅地では早咲の桜が咲き始め庭のレモンも白い花を咲かせていました。
和子が修道院の門を潜ると節子は庭隅の菜園で畑仕事をしていました。
「今日はシスター」
声を掛けると節子は鼻歌をやめて振り返って和子を視ました。
♪春は名のみの 風の寒さや谷の鶯 歌は思えど時にあらずと 声も立てず時に あらずと 声も立てず 氷解け去り 葦は角ぐむさては時ぞと♪
部屋に戻ると 和子は節子におねだりしました。
「シスター先刻(さっき)歌っていた歌聞かせて下さいな」
「ああ早春譜ね私の故郷の歌なのご存知なら一緒に歌って下さいな!」
和子も早春譜のメロディーは聞きおぼえていました。
で、歌いい出しの”春は名のみの・・・」は唱和出来たのでしたが後半は全く知りませんでした。
節子は歌い続けます。
『春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か』
和子は尊敬の眼差しで節子を仰ぎ見ました。
「これで何処に認知症の懸念があるというのでしょう?」
和子は改めて尋ねました。
「シスターの故郷とは何処なんですか?早春譜に歌われた処ならさぞかし綺麗なのでしょうね?」
「聞いて下さる!私の自慢はね故郷の景色なんですよ」
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水鏡の安曇野街並みの中央に在る森が穂高神社その境内に学校があるので生徒は自転車で穂高神社に向かいます中央の嶺が常念岳その右が北穂高岳になります穂高神社の奥の丘陵に「鐘の鳴る丘」があります。
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安曇野は夫婦道祖神が多いのでも有名です。



「わたしは松本から西に行ったところなんですよ。梓川が中央を流れていて北には志賀高原南は北アルプスに挟まれた広い谷間のような地形で村の中央に穂高神社があって。一般に安曇野と云われているんですよ。古代から安曇氏という豪族がいて穂高神社を核にして栄えていたの、田植えになると田圃に北アルプスが映ってとってもきれいなのよ。私は自転車に乗って穂高神社の隣にあった学校に通っていたの・・・・。学校にはね林檎の樹が何本もあってねもうじき花が咲き出す頃よそして11月になると真っ赤な林檎がたわわに稔って、気が付く枝が折れたり幹が裂けたりしてしまうの林檎って偉いのよね。昨日生協に行ったら信州産紅玉が並んでいたので買って来たわ二人で食べましょうね。」
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節子は勝手に立って白いお皿の上に紅玉を1個乗せて来ました。
そして手際良く皮を剥き始めました。
和子は驚異の眼差しで節子を見詰めました。
白いものが混じっていても髪の毛は豊かで肌も張っています。それに今日は頬に血の気があって、二重の瞼もすっきりしています。
女学生のころはさぞかし綺麗であった事でしょう」
「それで安曇のマドンナさん。恋話/こいはなを聞かせてくださいな」
節子は安曇のマドンナと呼ばれて面喰ってしまったのでしょう。恋の記憶を辿るのが辛いと思ったのでしょうかここで楽しい会話は途切れてしまいました。節子は自分から話題を変えました。
「今日私はね畑にエンドウ豆を撒いたのですよ。1箇月も経てばスナックエンドウが収穫できるでしょうから茹でで一緒に食べましょうね」
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 成長の速いスナックエンドウ花はスイトピーと同じですし(少し位小さいものの)エンドウ豆と同じで柔らくて甘いので観て良し食べて良しの野菜です。
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鎌倉山尾根から西の眺め右前方が広町緑地の森でその西に修道院の建物があります。こんな景色ですし潮風も健康に良いので老健施設が多く立地しています。和子夫婦のような方が多く住んでいます。

【桐を描く人】
4月20日穀雨と呼ばれる頃の事でした。節子の撒いたスナックエンドウも芽をだし順調に天に向けて蔓を伸ばしていました。この様子なら次に和子が訪問介護に来た時には一緒にエンドウを収穫して食べられそうで節子の顔には笑みが湧いてきました。
こんな日は鎌倉山に登って海を眺めたいと思いました。修道院から宗像志功博物館の煉瓦建物を目指して歩き始めました。竹藪を越えれば広町緑地です。その先に版画で著名な宗像志功の別荘があって志功の死後は遺族によって博物館になっているのでした。節子は以前この博物館で釈迦十大弟子を拝して驚嘆した思い出がありました。今日もそのコースを辿ろうかその先のマウンテンという名の喫茶店で珈琲を戴こうか思いながら尾根道を登って行きました。最近は息切れが早くなってきたように感じました。
尾根道から谷戸を眺めると大きな桐の木が二本並んで見えるのでした。桐の花の具合を確認するのも楽しみです。
手前の谷戸の桐の木を見て気付きました。一人の初老の男が画帳を広げて何やら我を忘れた様に絵筆を走らせているのです。
節子はその初老と見て取れる男を見た瞬間に胸の高鳴るものを覚えました。そこで尾根を下って男の傍に行ってみました。
男は既に節子が柴を踏み分ける音に気づいていたのでしょう。笑顔で節子を迎えて挨拶をしました。
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「ようこそカラスさん!お待ちしていました」
節子は少し憮然としたように言い返しました。
「貴方は私をご存知なの?」
「ええ、私は何でも承知していますよ。貴方が今畑で何を作っているかもそれに最近少し調子が変わってきたことも・・・」
「それにあなたは此処で何を描いているのスケッチなら尾根の上から眺めた方が良いのに・・・」
言いながら画帳を不躾に覘くのでした。
すると男は
「相変わらずマドンナは無礼なんだから・・・」呟きながらも心なし嬉しそうでした。
「私はねこの桐の大木を描いているんですよもう1周すれば今年も花を咲かせますよ。幹が皮がこんなに生き生きしているのだから今年の花は期待して良いですよ・・・・・。」
節子は男の描いた桐の幹を見て言いました。
「同じ桐でも蒼桐は緑色で艶々滑々しているのに桐は不細工ね!象さんの皮膚の様に皴皴で凸凹しているじゃない。お婆さんの皮膚のようで好きになれないわ!」
「それに何故貴方は私の事を知っているというの?私は貴方の事何にも知らないわよ!」
男は予期していたように答えました。
「貴方はそのうちに私を想い出しますよ来週此処でまた会いましょう。桐も見事に咲くでしょうし。貴方は記憶を取り戻すでしょうから・・・・」

これからデーサービスに出かけます。今日は日吉でセミナーがあるので帰宅は深夜になります。帰宅後このブログをアップします。このショートストーリーは次回で最終回にする積りです。


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桐花の秘め事(3)

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【リベラルな青年】
上原良治青年は北安曇野の池田村に産まれました。お父さんは寅太郎、母.は芳江の3男でした。父は祖父の始めた「有明医院」の院長を引き継いだ医者でしたから誰もが良治青年が将来は立派なお医者様になるものと期待しているのでした。そして良治も穂高中学を卒業する頃は「自分は医者になるんだ」思う様になっていました。
この辺りでは優秀な子は誰しもがそうするように、高校は松本市の市街地にある「松本深志高校」に通い始めました。
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安曇野の景色中央の冠雪した山が常念岳その右が前穂高その麓の丘陵に鐘の鳴る丘があってその下の森が穂高神社その脇に穂高中学があります。カメラは梓川の土手の上から見ています。上原良治は此処池田村から穂高中学に通学していました。右の道をまっすぐに行くと穂高駅前広場に着き当ります広場の西(右)に碌山美術館があります。

穂高駅から電車【大糸線】に乗って松本駅でバスに乗り換えて松本城の北側【美ヶ原高原より】に高校はありました。校風は自由でリベラルな事を特徴にしていました。卒業生には新宿中村屋を創業した相馬愛蔵や筑摩書房を創業した古田晁などがいる質実剛健で自由闊達な事を校風とした名門高校でした。
父の寅太郎は古風な人で子育ての躾には厳しいものがありました。「自分自身に対して正直にある事行動については責任を持て」と教えていたのでした。
高校二年の冬良治は父に面と向かって尋ねました。
「私はお父様と同じように医者になりたいと思います。そろそろ志望大学を決めなくてはならないようです。お父様のご意見を聞かせてl下さい」寅太郎は予期していたかのように即座に応えました。
「リョウ、大学は慶応義塾が良いと思うよ。第一に校風がお前にはピッタリでリベラルだし。そして医学部のスキルが伝統的に高いのだよ」
良治は内心心配していたのでした。
父が「新宿戸山の陸軍医学校を推薦したらどうしようか?」心配していたのでした。世間の評価では陸海軍の医学校帝大の医学部の評価が高かったのでした。でも自分には合わない、感じていたのでしたのでした。
改めて父の寅太郎の洞察力を感じ敬愛を高めたのでした。
慶応義塾の医学部に進学して3年目の初夏でした。
太平洋戦争の戦局が好ましくないのは空襲警報が頻繁になるのにつれて感じてきた矢先でした。
突然に学徒出陣が交付されたのでした。
当時の軍隊の統帥権も立法権も天皇に在りましたから学徒出陣が天皇の裁可であれば致し方ないのですが。良治も寅太郎にも天皇がで学徒を戦地に出征させるとは思えませんでした。
感覚的に戦況が思わしくないので軍服を着た狡猾面をした陪審が天皇を騙して学生を前線に送り込もうとしている場面が思い浮かばれるのでした。戦局が悪いので大人数の兵隊を最も危険な前線に送って最期の戦いを挑もうとする南軍の「湊川の戦」が始まろうとしている、肌感覚で思ったのでした。北軍(足利尊氏)圧倒的な戦力の前逢に丸腰でも戦おうとする楠正成親子の戦いが始まろうとしている。肝心の後醍醐天皇は何も知らない。忠臣楠正成親子は犬死するそんな場面が始まろうとしているのでした。
昭和18年10月21日、明治神宮外苑競技場での学徒出陣壮行会に良司は居ました。壮行会を終えた慶応の学生100人は各地の連隊に分散してゆきました。良治は松本の歩兵第五十連隊に入営し、初年兵としての訓練生活が始まる。19年2月 特別操縦見習士官となり、熊谷陸軍飛行学校に入学、神奈川県厚木 の相模教育隊で飛行操縦訓練に励みました。
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 慶応大学は「学徒出陣」を検証しようとしています。先日NHKアーカイブスでも放映されました。写真は明治神宮外苑で挙行された壮行会に出た学生達を三田の丘から送別した場面です。良治もこの中に居たのでした。

 昭和20年4月 良司は陸軍特別攻撃隊第56振武隊員(所謂特攻隊)となると、故郷の安曇野に帰る事が許されました。良司は両親と妹に向かって言うのでした。
「日本は敗れる。俺が戦争で死 ぬのは愛する人達のためです。自分が戦死しても天国にいくから靖国神社には行かないよ」
ハラハラする家族をしり目に池田村の実家から乳房橋の袂で見送る家族に向かって「さようなら」と3度も言って別れを告げたのでした。
家族には良治が「最期の別れ」に来たことが良く解っていたのでした。知覧(陸軍特攻隊員の出撃基地)に戻った良治は遺書を一気に書き上げるのでした。昭和20年5月10日良治は今生最期の夜を迎えます。机に向かって安曇野に残した人々を思いやるのでした。
良治の残した”所感”は「聞けわだつみの声」の白眉となる遺書を記したのでした。
此処では要約を紹介します。

私は明確にいえばリベラリズム(自由主義)に憧れていました。日本が真に永久に続くためにはベラリズムが必要であると思ったからです。
これは今は馬鹿な事に聞こえるかも知れません。
それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。
しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、ベラリズムそ合理的なる主義だと思います。
戦争において勝敗を得んとすれば、その国の主義を見れば事前において判明すると思います。
人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦(かちいくさ)は火を見るより明らかであると思います。
日本を昔日の大英帝国の如くせんとする、私の理想は空しく敗れました。
この上は、ただ日本のリベラリズムの為に、喜んで命を捧げます。
権力主義、全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも、必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。
我々はその真理を、今次世界大戦の枢軸国家において見る事が出来ると思います。
ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツもまた、既に敗れ、今や権力主義国家は、土台石の壊れた建造物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。
この戦争が終わったら日本の国はリベラルな精神の充満した国になっていて欲しいものです。
明日は自由主義者が一人この世から去って行き ます。その人の後姿は淋(さび)しいですが、心中満足で一杯です。願わくば・・・・
此処まで書いて良治は最後の煙草に火をつけました。
その煙草の空き箱の白い面を出して歌を書きました
最初はお母様を思い浮かべました。
 出撃の朝の楽しき一服は わがたらちねの賜(たま)いしものなり
次に中学時代の初恋の人を思い浮かべました。
 我は発つ 願わくば美しき君の一生にリベラリズムの光 さんざめくことを
昭和20年5月10日6時30分、第1攻撃隊を先頭に知覧飛行場を離陸。良司が、沖縄島西北方の海面にいる敵艦船に突入したのは午前 9時でありました。良治の享年22歳のことでありました。
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北安曇野池田村に建つ上原良治氏の慰霊碑、美しい安曇野の景色や人物を臼井吉見氏「安曇野」に書きました。臼井 吉見(うすい よしみ/筑摩書房経営)は小説「安曇野」を著し、木下尚江、荻原守衛(彫刻・絵画)、井口喜源治ら安曇野に結ばれた若い群像を描いて見せました。)
現代の私達の幸福、は良治のこのように尊い犠牲の上に築かれているのです。生憎な事に明日は良治氏の70回忌になるのです

【安曇野のマドンナ】
節子が良治の母(芳江)から戦死の訃報を聞かされたのは昭和20年6月の事でした。節子は田植えを終えて泥に汚れた手足を乳房川の流れに灌いでいると。土手の上から芳江に声かけられたのでした。
”特攻隊員として西沖縄の海に逝った”、聞かされた瞬間に節子の脳には白雲が湧いた感覚に眩暈を覚えました。白雲は前穂高岳の上にも浮いて見えました。その麓に目線を下すと。なだらかな丘陵の上に教会の尖塔が見えました。
更に近景に目線を移すと良治と過した穂高中学の学び舎が見えましたその西にも教会の尖塔と鐘がみえました。それは碌山美術館の尖塔でした。尖塔が涙で崩れてしまうのでした。
尖塔に続く道、それは節子が黒髪をなびかせて自転車で通学した道でしたが、その道を肩を落として黒服で歩いてこちらに向かって来るシスターの姿がありました。それが安曇野のマドンナの50年後の姿だったのでした。
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安曇野のシンボル碌山美術館。何故か修道院のような建物です。赤レンガとアイビーの絡んだ雰囲気が人気です。何故か上田の無言館(窪島誠一郎氏の業績)も修道院を模した建物です。戦争を抗議するのは修道院に限らないのですがキリストが最も嫌う罪行が戦争だから反戦を主張しようとすると修道院になるのかもしれません。
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                               節子のイメージ(無言館ノート)転載
もう1日、明日でこの創作をジ・エンドにする予定です。



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桐花の秘め事(4)

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5月10日(日曜日)節子はベッドの上で陽の光でおこされました。
修道院寮の窓を開けると強い日差しと朝の空気が部屋を満たすのでした。
”主は今日も私を祝福して下さる”節子の心はは悦びに満たされるのでした。
窓からは畑も見えます。
今日は訪問ヘルパーの和子が来る日です。
和子が来たら一緒にスナックエンドーを収穫して食べましょう。
そして日曜のミサで使うパンを求めに鎌倉山に登ってみましょう。先日司祭がパンが水っぽいと言われていたのを思いだしました。
それに桐の樹をスケッチしていた変った老人の言葉も気にかかりました『1週間後此処で逢いましょう、それまでに私が誰であるか思いだすでしょう』節子は一目見た時”懐かしさ”を覚えたのでした。あの老人はズット昔に逢ったのかも知れない。
でも老人が”自分をズット見守ってきた”言うのも気になりました。
そんな次第で午前中に鎌倉山に登ってパンを求めましょう。その道は修道院の裏山の尾根道を辿って桐の樹を経由して。戻った頃に和子が来るでしょうから、一緒にスナックエンドウを収穫して、料理して食べましょう。大凡のプランを立てました。
畑に出てみるとスナックエンドウは蔓の先で立派に育って蔓にブル下がっていました。
グリーンの鞘の中には三つのお豆が膨らんでいるようです。
お豆が早く私を食べてね!催促しているようです。
”後でね和子が来たらね”・・・・呟きました。
エンドウは次々に花を咲かせています。
小さくても立派なスィトピーの花です。
シジミチョウが小さくても蝶であるように・・・・。
節子はエンドウの花を一つ摘みました。そして鼻に充てて香りを確認しました。花は礼服のポッケに入れました。
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これがエンドウ豆の花です。大きくしたのがスィートピーです、ですからスィートピーの花が終われば小さいながらもエンドウ豆が実ります。
節子はエンドウ豆を確認して畑の脇を鎌倉山の幹線道路に向けて登りはじめました。
春が過ぎ去るのは早いものでもう桜の樹は青葉に変わって来ています。
今日の節子は黒い法服を着てもハイテンションです。
思いがけず歌い出しました。♪若葉が街に 急に萌えだしたある日私が 知らないうちに 愛は悦びそれとも泪何時か私も解るでしょう♪歌ってシスターである私が解るはずないでしょう・・・・”苦笑いしてしまいました。
尾根道をしばらく歩くと見えて来ました二本の大桐がもう見事に満開です。一遍上人に湧きあがった紫雲とは
桐の花のことだったのかも?思う程に見事な桐の花です。
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        鎌倉山広町緑地の桐の大木


”あの変な老人今日も来ているかしら?”節子は1週間前の事を思い出して桐の木の根元を視ました。
居ますいます今日は画帳の他に水彩絵の具も持参しているようです。
先週と同じ場所に腰掛けて夢中で鉛筆を走らせているようです。
節子は挨拶しました。
「お早うございます。今日はスケッチ日和というもんでしょうね。風は爽やかだし、空はどこまでもブルーですし。
老人は今日は少し小綺麗な服装で居るようです。
人懐っこい笑みを浮かべて節子を迎えました。
「お待ちしましたよ、小綬鶏が”もっと待ってもっと待って”というので修道院への道を下らずに此処でスケッチしながら待っていました。それで私を思い出してくださいましたか?」少し悪戯っぽい眼で節子を見上げました。
牢人の位置からでは節子が眩しいのでしょう。眼を細めていましたが」
節子が黙っていると老人は謎々遊びを楽しむように呟くように詩吟じ始めました。
「まだあげ初めし前髪の. 林檎のもとに見えしとき」
「やさしく白き手をのべて林檎をわれにあたへしは薄紅の秋の実に人恋そめし始めなり」
「未だ解らないのそれじゃここに座って」いいながら老人は自分の右脇に手拭を敷きました。
節子に”此処に座れ”という意味なのでしょう。老人と言っても殿方です。少し躊躇はしながらも節子はちょこんと手拭の上に腰を下ろしました。
「菫さんお婆ちゃんのお尻に敷かれて可哀想」呟きました。
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これが立壺菫芭蕉が「山路来て何やらゆかし菫草」と吟じたのはこの菫で尾根道に佳く自生しています。
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これは片栗春の妖精花(スプリング・エフェメラル)の代表的な花です。
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此方は二輪草の群生前述の立壺菫や片栗の後に地面を覆います。

老人は
「気にしなくても大丈夫ですよ菫は強い植物で貴方のお尻に敷かれても直に立ち直りますよ。お日様さえ当たれば」
「菫さんはこの桐の葉っぱが茂る前の少しの間だけ咲く妖精のような花なんですよ。桐が生い茂れば地面には陽が差し込まない。だから背丈の低い植物は育たない。桐が生い茂って秋には葉を落として、春に陽が差しだすと草は一斉に芽を出す。一番に咲くのが菫や片栗なんですよ。言いながら少し先を指さしました。指先には数株の片栗が寄り添って俯き加減に花を咲かせていました。
菫も片栗も向こうの二輪草と競っていて、少しでも遅れると背丈の高い二輪草に負けてしまう。だから早春の瞬時が命を燃やせる儚い花なんですよ」老人は一気に喋りましたそして
「シスター未だ私を思いだせませんか?随分沢山ヒントを出したのに・・・」
節子はムッとして言いました
「勿体ぶって意地悪しないで名乗りなさいよ。貴方は私を知っていて私は貴方を思いだせない」これじゃお話が少しも楽しくないじゃないの!」
老人は怒った節子の表情を楽しげに覘きながら言います。
「未だ思い出さないのなら思い出させて差し上げます。そのまま仰向けに寝て下さい!」
「まあ悪いお爺さん”レディーに寝ろ”と言うなんて。それに私は主に仕える身よ」
憤って見せたものの節子は自分でも驚くほど従順に仰向けになっていました。
節子の顔に桐の葉陰が陰影を落とします。節子の眼には、大桐の幹は真っ直ぐに天に向けて伸びていて自分が紫雲の天蓋に守られている様にみえるのでした。
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これが桐の花房。個々の花は桔梗のようにベルのような形をしています。それが集まって房状に咲きます。この花は自らの重みで愕から離れて落下してきます。この時一輪一輪がクルクル回りながら落下傘の様に地面に落ちて来ます。一般に花の散る事を散華と呼びお釈迦様を始め聖人の涅槃を荘厳するのですが。法然院では椿や木蓮など季節の花弁の大きな花を使っているようです。桐の散華は荘厳であると同時に狂言のような滑稽な面白さがあります。

天蓋からは次々に桐の花が落ちて来ます。
桐の花は全体では花房のように見えますが一つ一つは教会の尖塔に吊るされた鐘のような形で・・・、クルクル回りながら落下傘の様に落下してきます。そして地面を覆った菫の上に着地するのです。
地上に落ちた時は『天から降りた小人(妖精)がこれから楽園で遊ぶんだ]叫んでいる様に見えるのです。
節子は初めて見る桐の花の散る様が面白いので少女の様に笑ってしまうのでした。
老人は節子が桐の花に見入っている節子を愛おしそうに見ていたのでしたが
「もう私を思い出したでしょう?」
「未だ思い出せないのですか?」じれったそうに言いました。
そして
じゃあ思い出させて差し上げます。
いいながら節子に顔を近づけて来ました。
節子の鼻腔をタバコと男の匂いが刺しました。
「まあお爺ちゃんだと思っていたら随分に大胆なのね」声を出そうとした瞬間です。節子の顔に迫ってきた黒い影が白化け現象に罹ったように見えました。
その時節子には解ったのでした。この不良老人が実は中学校で同窓だった「安曇野のマドンナ」であることが。
そして昭和20年のあの日沖縄の海に逝った良治が50年もの間自分を見守って来てくれた事を感謝するのでした。
紫雲と思っていた天蓋に良治の顔がうかんで見えました。
節子は毎日「天に召されたい」祈ってきたのでしたが良治に招かれて天空に昇って行ったのでした。
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     桐に鳳凰の図(狩野探幽)桐には鳳凰が住むと云われます。鳳凰は厄災を摘み食いし雨をもたらす豊穣平和を招く鳥とされています。お神輿や平等院の屋根に置かれているのが鳳凰です。そんな鳥が住むのが桐の樹ですから天皇家や豊臣家足利家が家紋にしたのでしょう。縁起の良い木だとされまあす。

【最後の晩餐】
その頃修道院では「パンが無い」というので騒ぎになっていました。
ミサは「最期の晩餐」を演出する祭礼ですからパンと葡萄酒は欠かせないのです。ミサの準備は節子の任務でしたから節子の姿が見えないと騒ぎになっていました。その騒ぎの最中に和子は修道院に着きました。
大半のシスターは節子は認知症なので何処かに放浪しているのだろうと言います。多くのシスターは西鎌倉の駅前に向かっていました。駅前を節子が放浪していると予測したのでした。
和子は先週の節子の言動を必死に想い起しました。節子の認知症は軽い症状であり大事にはなっていない筈だ確信しました。
皆が街を探している事自体が間違いで節子は好きな鎌倉山の方角に向かったのだろう、推測しました。
広い鎌倉山の中で何処に向かったか?
思い出しました。「桐の花」のことを言っていたから桐の木の処に居る筈だ和子は胸騒ぎを感じて尾根道を急ぎました。
遠くに桐の大木が見えて来ました。その根元に黒いものが目に飛び込みました。
瞬間に”若しかして、まさか”心臓が止まる思いがしました。
近づくにつれて芳香が漂っていることに気付きました。その芳香は桐の花の匂いかと思ったのでしたが、少し違うようです。その匂いは節子の体から発しているのでした。
「シスターどうしたのですか?」
草叢で仰向けに寝ている節子の顔には数輪の桐の花が埋めようとしていました。
和子が節子の上半身を起こしました。
節子から発する匂いは馥郁としたものでした。
その匂いが節子の体の芯から発している。
和子が気付いて
「まあシスターたら!」さけぼうとすると
節子少女の様に羞恥の表情で和子には微笑んでみせたのでした。
節子は沖縄戦から70年の平成26年5月10日大桐の散華の中天に昇ったのでした。

【墓参】
節子の死亡診断書には雲幕下出血と書かれていました。
節子の葬儀は修道院でしめやかに執り行われました
和子は司祭に頼まれました。節子の生家は安曇野の池田村である事を始めて確認しました。
日本の習慣からすれば49日までに届ければ良いのでしょうが。和子は安曇野が日本を代表する美しい田園が広がっていることを調べました。そこで6月の初めに安曇野に向かいました。
安曇野では節子が「安曇野のマドンナ」と呼ばれていた事。そして節子の初恋の相手が良治であり70年前の沖縄戦で亡くなった陸軍の特攻隊員であった事を知りました。良治の菩提寺も節子の菩提寺も同じ池田村の万年寺であることを確認しました。和子は節子の初恋の人という良治に惹かれました。そこでクラフトパークに祀られた良治の慰霊碑にを廻りました。その碑文が次のように読んだのでした。
セっチャン僕は君が好きだったよ、でも明日は特攻隊員として敵戦艦に刺し違えなくてはならない。僕は屹度沖縄の海底に沈んでしまう事だろう。そうしたら海神(わだつみ)になってセッチャンを守ってあげるよ。僕達は戦争の時代に産まれた事だけが不幸でした。
僕等が夢見たリベラルな国であったならば二人は”生きる道祖神”として安曇野で平和な一生をすごいせただろうに」
万年寺に遺骨を届けて2時間後和子は上田で途中下車し。無言館に居ました。
無言館は鎌倉山の修道院に似た建物でした。無言館に一枚の水彩画があってそのモデルが「安曇野のマドンナ」であろうと聞いたのでしたから。
浴衣姿の少女を見ていると絵の中から話しかけられたように思いました。
「和子さんお世話になりました。私は貴方に体のケアをお願いしたつもりなのに心のケアに始まり看取って貰った上に埋葬までご面倒をおかけしてしまいました。貴方は私の恋話が聞きたいと言われたけど。安曇野に行かれたんだから良く解ったでしょう。
私の初恋の人はテニス部のキャプテンで。運動も上手だし成績は優秀だし、マスクも素敵で、そう私もマドンナと呼ばれた美人だったからお似合いだったのよ。相思相愛で自然に行けば私達は安曇野の有明病院の院長婦人に収まっていたかもね?でも太平洋戦争で良治は特攻隊員になってしまって総ては夢に消えてしまったわ。でも。良治は70年も私を見守って天蓋の中から私を迎えに来てくれたのよ。それもドラマチックにね。私達安曇野の乳房川の土手で初めて接吻したのよ。その時も桐の花が散ってきたの。
私ね鎌倉山のの桐の樹の下で良治に挑まれてね安曇野の続きが始まったのよ・・・・・。70年も秘めてきた続きがスイッチオンしたと思ったら直ぐに頭がショート(漏電)してしまったようね。だから貴方に私の恥ずかしい匂いを嗅がれてしまったわ・・・。内緒よ。
私達は不幸でしたがそれは産まれた時代が最悪だったから。でも貴方たちは幸せな一生を過ごしてほしいと願っているの。大事なのは精神のリベラルよ。良治に何度も聞かされたわ天上でも又聞かされると思うわよ。リベラルとは自由主義と訳されるけど。一人一人が自分自身の本性を鍛えるの本性が善であると確信出来たら自由に自分の頭で考えて何にも束縛されずに自由に意見を述べあるのよ。歴史は全体主義や権力が専横になった時に誤りを生じるののよ、それで何時も泣くのは女なのよね。だからリベラルを大切にするのよ。貴方の本心がお母様を大切にしたいというのなら、お母様を大船のマンションにお迎えしなさいな。本性(善)に反した時にはその選択の先には大きな後悔が待っているものよ。
和子は新幹線の椅子に座りながら決心しました。
今晩夫に言おう
「私ねこれから生き方を改めるの何時でも最善と思う事を実行する事にしたの、だから、お母様を早目に引っ越していただきましょう。一緒にああじゃないこうじゃない言い合う事もボケない秘訣よ。」
節子の笑顔が脳裏に浮かぶのでした。


4回にわたりお付き合いいただき感謝いたします。



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春はえんどう豆

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明方ラジオ深夜便から流れる音楽で眼を醒ましました。
ラジオからは平城山のメロディーが流れていました。
「平城山」と書いて「ならやま」と読みます。じゃ、「ならやま」って何処聞かれれば誰しもが「三笠山」と答えます。
安倍仲麻呂も故国日本を懐かしんで「三笠の山にいでし月かも」と詠いました。
私の瞼に三笠山の優しい嫋やかな姿が浮かびました。
”ああ、寝過ごしてしまった”悔やまれます。昨晩はゲストに早稲田大学名誉教授の「大橋一章」さんが出られたのだ、私はネットで前々から確認していたのでした。会津八一記念館の館長で居られた大橋教授ですからどんなお話が聞けるかズット楽しみにしていたのでしたのに。
これからはパソコンでラジオを録音予約し置く事にしましょう。
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向こうの山が三笠山(観光名は若草山)奈良の都を囲んでいる山は総て平城山(ならやま)というのでしょうが、飛鳥時代が好きな人は三輪山を指し、天平時代が好きな人は三笠山を指していました。

ワイフは私の眼ざめに気付いたようで「もう起きますか」訊いてきます。私は「もう一寝」言いながら横になりましたがもう眠気は吹き飛んでしまいました。例によって妄想が頭を占めてしまいます。
先ず思い出したのは「何故清少納言は”春は曙”と言ったのか、又はこの言葉が枕草子を代表するようになったのか?現代の歌謡曲もヒットする香どうかは最初のフレーズで略決まりです♪若葉が急に街に溢れだし”のフレーズが共感を呼びました。勿論天地真理さんは実に可愛かった事もありましたが・・・・。
高校の授業では『春の夜明けの”さやけさ”を表現して簡潔明朗であるけし』教わりました。
でも私は違った考えを持っています。朝とは夫と別れる時です。
昨夜に遣ってきた夫が今朝は帰るのです。
朝は「衣々」「後朝」/両方とも「きぬぎぬ」と読む。夫と別れる時刻です。
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 ”春は曙”の名文句は愛する当事者には理解困難な事で夜が明けるのを恨んだのが真実でしょう。
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嘉多川歌麿の「後朝の図」”後朝”というより「朝帰りの図」です。平安時代は家主が女性で男性は一夜夫であり中世から家主は男性で現在のような一夫一婦制が普通になったのですから。この図は遊郭から朝帰りするときの風情を描いたもので。男が帰った後のk気怠い情緒を描いています。

清少納言に熱愛していた男性がいて又は真実愛していたのなら「春の朝」はおぞましい嫌いな時だったことでしょう。
でも「そんな暁の別れの時」が好きだという事は清少納言はモテなくてそのファンもモテない女性が多かたのでしょう。
それはさておき普通に愛し愛されて同じ屋根の下で寝起き出来るのは幸いな事です。
さて気になる言葉が「きぬぎぬ」です。「衣々」の字からして絹と絹が擂れる音でしょう。
夕方家の主である女性が寝ていると廊下を近づいて来る人の気配がします。
そうです、あの方が絹の音を偲ばせて私の寝所に来るのです。
モテない清少納言は胸がたかなります。
今晩の殿方は藤原実方さんかしら?それとも若さが魅力の藤原行政サンかしら。源経房さんでも良いわよ。
なんて思っていたことでしょう。
そうして一夜睦みあって
明るくなると殿方は帰って行きます。
この時の字が「後朝きぬぎぬ」です。”一夜夫”は絹の音を残して帰って行きます。
そんな時が「良い」何て言うののは”少なからず変だ”としか思えません。
夜は黄昏から始まります。
ようやく日が暮れて愛する人が遣って来ます。でも薄暗くて「貴方は誰」訊きたくなってしまいます。清少納言は「貴方は誰実方さん?」なんて聞いたのでしょう。
「だから夜の始まりを「誰そ彼」と書いて「黄昏時」と言いました夜は睦みあい、夜が明け始めます。
東の空が明るくなってきます。でも朝の雲が朝日を遮ってくれています。この時間帯をつづいて「東雲」「篠目」(しののめ)と呼びます。そして、「曙」(あけぼの)を経て「朝ぼらけ」になります。前掲の藤原道綱の「未だ恨めしき朝ぼらけかな」は愛する人と後朝して牛車の中で”もっと長く睦合って居たかったなあ!」
呟いた歌です。普通感覚では清少納言の感覚よりも藤原道綱の方が共感を持ちます。高校生の頃は”平安時代は戸主が母親で妻問い婚であった”なんて知りませんでしたから。古文の先生に今更質問してみたいものです。
 

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昨晩の夕食のロールキャベツ彩に絹鞘豌豆を入れました。今年のエンドウ豆は育ちが悪くて少ししか収穫できなかったので、筆者の好きな味噌炒めや天麩羅は八百屋で求める事にしましょう。
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プランター栽培している絹サヤ豌豆を収穫する。


昨日の晩はロールキャベツを戴きました。野菜と鶏肉を煮込んで味が濃く美味しかったのでした。
ワイフは庭で収穫した絹鞘豌豆/えんどうを使いました。
豌豆の「豌」とは眉毛のことです。眉毛の豆というのは天平美人のゲジゲジ眉毛を思い出させます。豆の納まっている鞘が眉毛の様だといった意味でしょう。
そうエンドウ豆はツタンカーメンの棺にも入っていた高級食物で日本には中国経由で遣唐使によって伝わったとされます。
妄想爺さんは妄想を更に膨らませます。絹鞘のヘタを外した時ポロッと鞘の中のお豆が転げて出ました。そうグリーンピースがポロッと転げて出たのです。
藤原実方が寝所でびっくりしました。瘠せ形だと思っていた清少納言が十二単を脱くと意外に豊かなビーンズ「乳」だったのです。

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 天平時代の美人はえんどう豆のような眉毛でした。(樹下美人図)



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雨の桜狩

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昨日は早くに目が覚めてしまって、隣のワイフの寝息を耳にして居たら、枕草子を思い出し、「朝後/きりぎぬ」を思い出し。絹鞘豌豆に連想は飛火してしまいました。そんなブログをアップしたとたんにyahooが「枕草子を種にもうひとつ書きませんか!」誘ってくれました。「枕草子」をネタに書けと云われればなんぼでも書けます。屹度諸兄もそうでしょう。そこで今朝はもう一つ書いてみます

かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしもしらじな燃ゆる思ひを

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「いぶきのさしも草 さしもしらじな燃ゆる思ひを」と歌われたさしも草とは蓬の事です。未だ若い蓬は草餅の素材になり成長すればお灸のモグサになります。私達は花より団子で各名所で草餅を戴きました。

上の歌は藤原実方の歌で百人一首に採られています。実方の燃える思いの向こう側に居た人は誰だか謎ですが一般的には清少納言であったろうと、言われています。

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桜の下で雨宿り実方を思い出させてくれました(大野寺で撮影)


事件は「桜狩」で起きます。「桜狩」とは宮中総出で野山に出て行う桜の鑑賞ウォーキングのようなもので。京都の都ですから東山か嵯峨野にでも出かけたのでしょう。今の清水も嵐山も桜の名所です。
「桜狩」の総大将は一条天皇でしたから、中宮の定子もその女官の清少納言も連れ添っていたのでしょう。ところが突然に雨が降り出したのでした。絹の衣服は雨に弱いもの皆大慌てで雨宿りしました。
それでも桜を堪能して御所に戻りました。
御所では
「今年の桜は良かった。桜が綺麗だったという事は今年は豊作が予測されるので目出度い目出度い。みんな浮かれています。
そしてお決まりの「歌会」が始まります。満座の殿上人が桜狩を素材に歌を発表し合うのです。
藤原実方はつぎをお被露目しました。
 桜がり 雨はふりきぬおなじくは ぬるとも花の かげにやどらむ 
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私達も桜狩りツアーに出たのでしたが雨に閉口しました。でも雨に濡れた桜は一段と艶やかでしたし。泪の手弱女を見るようでゾクゾクしたのでした。(写真は室生寺)

物歌の大意は「お花見の最中に雨が降って来ました。皆濡れてしまいます、どうせ濡れるのなら私は桜と一緒に濡れようと花陰で雨宿りしましょう。月形半平太の「春雨じゃ濡れて参ろう」そんな心境でしょうか。

「雨宿り」と言うと佐田まさしのヒット曲を思い出します。
私が社会人になった頃ヒットしました。
雨が降ってきたので民家の庇の下で雨宿りしていたら、その主に逢ってロマンスが生まれたそんなシチュエーションでした。屹度長崎のオランダ坂で活水女学院大学がありますから雨宿りをしたのは女学生のアパートで、横浜なら山手の潮汲坂辺りでしょう、女子大はフェリス女子大学です。
実方の歌は宮中、満座の激賞を浴びます。
そんな中で、若い藤原行成が呟きます。だけが批評します。
「技巧に過ぎて、嘘っぽいなあ!」・・・・・。
この評に、短気な実方は怒って行成の冠を鷲掴みして、庭に打ち捨てます。
誰も核心を批判されるとカットするものです。
でも若いに似ず行成は大人の風にして、庭に降りて冠くを拾います。
始終を見ていた一条天皇は実方の粗暴を叱ります。
「枕詞には陸奥の3松がある、その中でも阿古耶の松はまだその所在が解らない。これを見て来い」
と命じます。
命令の意味する所は
「お前のような気性の荒い男は陸奥の守が適当だ、陸奥の守に左遷を命じる」
阿古耶の松を確認したら直ぐに都に戻れる・・・・そう思った実方は家族を残して陸奥に向います。
 
恋人の実方が陸奥に左遷された清少納言は驚き悲しみます。
そこで次の歌を贈ります
思ひだにかからぬ山のさせも草 誰か伊吹の里は告げしそ

 貴方が息吹の里にまで行かなくてはならない・・・とはただ驚くばかりです。
冒頭の百人一首に採られた実方の歌はその返歌でした。
 
ところで陸奥の守に着任した実方でしたが「阿古耶の松」探しに苦心します。
末の松山(宮城県多賀城)は直ぐに確認します何しろ恋人の清少納言の父上の清原元輔が歌ったのでしたから
 契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末(すゑ)の松山 波越さじとは
歌の大意は次のようなものでしょう。
 私(男性)は約束したのに!、お互いに泣いて涙に濡れた着物の袖を絞りながら。末の松山を波が越すことなんてあり得ないように、決して心変わりはしないと。
ところでこの歌は先の東日本大震災の時に話題になりました。松原が津波で根こそぎやられてしまったのに奇跡的に一本松 が残ったのでした。復興のシンボルになったのでした。貞観の大地震でも大津波が東北を襲い多賀城近辺も津波が襲ったものの、松だけが残って人々を励まし続けたのあろう、1500年も前に先祖は同じような眼差しで松を見上げたに違いない・・・。そんな話題でした。
そんな思いは「想定外」の一言で済ませようとする行政に砂を噛む思いをさせられたのでした。
でも希望の松は枯れてしまいました。人達が松の生態を熟知していて塩分を含んだ土を入れ替えてあげれば根が生き続けて樹自体も枯れずに済んだのでしょう。木は根が命、それはお地蔵様を信仰してきた民族の常識だった筈でした。
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岩手県 陸前高田市の『高田松原』に残った一本松。平安時代貞観大地震に被災した人達は多賀城の松を残{したのに波/災害を防いだ松として大切にして残したのに元現代人は見殺しにして枯らせてしまいました。私は被災建物を原爆ドームのように残そうとする位ならなんでこの松を生き残らせようとしなかったのか憤慨します。「命の大切さ」を大人も子供も忘れてしまったのが残念です。能舞台に鏡板に松が描かれて居たり廊下に「影向の松」がある意味を思い出すことが大切です。
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横浜久良岐能楽堂の能舞台鏡板の松(神が依る松)は平福百穂の筆道行きの廊下に影迎松が三本あります。松の生命力は復興のシンボルなのです。写真出典:http://www.kuraki-noh.jp/outline.html
ところで陸奥の守に赴任した実方でしたが
実方の夢枕に塩釜神社の神が現れます。
「阿古耶の松は最上浦平清水千歳山にある」と告げます。 
実方は旅支度を整えて最上に向います。
途中、名取郡笠島村塩出で道祖神の前を通り過ぎようとします。
人が忠告します。
「この道祖神には怨霊が居るので下馬して通るように・・・・でないと祟ります」
でも、人の忠告など聞く耳を持たない実方でした。
乗馬したまま通り過ぎようとすると突然に馬が暴れ出し、もんどり打って実方は鞍から落ちてしまいます。
これが原因で実方は陸奥の守着任後3年、40歳で亡くなったと伝えられています。
都には戻れなかったわけで哀れな最期でした。清少納言のお父様の歌われたさしも草をお灸にして我慢強くしていれば良かったのに・・・。
「郷に入れば郷に従え」常識でしたが中央のエリート官僚の不遜さが命取りになって馬に蹴飛ばされて死んだのでした。何処かの国の大臣も沖縄の事は沖縄の人の意見を聞かないと命取りになりますよ・・・。
追記;鎌倉の藤原実方は以前次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43852907.html

 
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霊木信仰の系譜(1)

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5月9日(金)に筆者は慶応大学日吉校舎で「霊木信仰の系譜」と題して長年考察を加えてきた日本人の霊木信仰について発表する機会に恵まれました。そこで今日から数回に分けてその発表を概説させていただきます。
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五月九日銀杏の青葉が清々しい慶応日吉キャンバス。


【昭和40年代の鉈彫り像の総論】
昭和42年私は日本文化研究会の指導教授浅古勝二郎先生の講義を受けていました。
相模国には日向薬師や弘明寺に異色の仏像が残されている。それは鉈彫り像と呼ばれる仏像で表面はリズミカルな丸鑿の跡が残されている。仏像の素材は桂である。彫技が総じて素朴というか垢ぬけて居ない仏像なのでこれが完成像なのか未完成(漆を塗り金箔を貼る前)像なのか学会でも意見が分かれている。浅古教授は「鉈彫りは完成像で意図して丸鑿の跡を残したものである」そんなご意見【結論】でした。丸鑿の跡は鎌倉彫のようで、それが美しいとみる人は完成像と主張し、奈良や京都の仏像を見慣れた人は未完成像と主張しました。”どう思うか、というよりどう感じるか?”では科学とは言えません。
教授にはその後も奈良を連れて戴き室生寺や法隆寺の壇像の前で「平安時代前期はこうした木の香りが漂うような木像が盛んに彫られた」説明して戴きました。「奈良仏師が翻波式衣文を刻んでいるとき東の国では鉈彫りを刻んでいた」当時の私の理解でした。
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    これが大山山ろく日向薬師の鉈彫り像3年前上野博物館での「木像展」の中心展示でしたし,現在金沢文庫の県立博物館でも展示されてています。神奈川県民誇りの「おらが故郷の仏様」です。

昨年東京国立博物館で「陸奥の仏像展」が開催されました。同会場で私は鉈彫りの最高傑作「天台寺の聖観音像を拝観できました。天台寺は瀬戸内寂聴さんが一時管主になられていたので著明ですし、国産漆の産地としても有名です。植物の植生も鉈彫りには相応しい土地であります。私は真近に鉈彫りの鑿の阿多を確認してこれは完成像に間違いないと確信しました。当時の仏師は専門の興福寺仏所や六波羅仏所を除けば修験者が寺社の注文に応じて鑿を振るったものでしょう。
彫仏もする修験者が仏像の儀軌(約束事)に縛られることは無かったでしょう。彼等は当時は修験道が成立して間もなくは神道と仏教の習合直後でしたから修験者は仏像の儀軌よりも神道の「霊木崇拝」が勝っていたと思われます。どんな姿勢で仏像を彫ったのか想像する時恰好な素材があります。それは長谷寺縁起です。
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天台寺聖観音像鉈彫りの頂点にある仏像です。丸鑿の跡がリズミカルで心地よいものがあります。

【長谷寺縁起物語】
長谷寺の実質的な始まりは徳道による十一面観音の造像にあったとみられる。その造像にあたっての霊験譚は、『縁起』では次のように示される。
  近江国の白蓮華谷に、長さ十余丈の楠の倒木があり、洪水で大津の郷に流れ着いて里の人たちに祟りを及ぼした。後にこの木によって仏像を作ろうとした人々によって大和国八木や当麻に運ばれたが、やはり祟りがあった。霊夢に従って徳道はこの荒ぶる霊木をもらいうけ、泊瀬で十一面観音の造像を誓願し、729(神亀6)年、地蔵菩薩と不空羂索観音の化身である二人の仏師(稽文会・稽主勲)によって、三日間で高さ二丈六尺(約787.3㎝)の像が造り上げられた。そして、にわかに起こった暴風雨によって地中から出現した金剛宝盤石上に安置された。前近代の人々にとっては、  長谷寺本堂に安置される本尊十一面観音立像は、総高10メートルを超える(1048.0㎝)。現存する長谷寺観音像は中世に造られた木彫仏として日本最大である。
重要なのは長谷寺獣一面観音像の素材は巨大な楠の倒木であった事。そしてその倒木は各地で祟っていた事。祟りのある倒木を仏像に彫りあげる事によって平安時代に日本で最も力のある救済仏に転じた事であります。倒木に鑿を充てる事で仏像に変える訳ですから一鑿一鑿彫る度毎に強い祈りを込めたのでしょう。
私が日本文化研究会の仲間と小千谷の小栗山観音堂(木喰観音堂】を訪れた時地元の保存会の会長さんが木喰上人の彫像の様子が次のようであったと言い伝えられている説明されました。
彫像する様子をのぞき見てはならないと、厳命したうえで観音堂下の滝で体を清め五体投地して飲みを振るったそうです。
そのように加持祈祷しながら彫あげた仏像ですから。当初から漆を塗って金箔を貼る計画は無かったと思います。
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吉野山金峯山寺蔵王堂の蔵王権現像役行者が蔵王権現を感得して桜の大木を素材に蔵王権現像を彫ったと言い伝えられた事から桜を霊木と信じました。修験者が吉野山に入る度毎に桜の苗を植えたので全山が白山桜で埋め尽くされました。(写真は同寺ホームページを転載)
【密教の隆盛】
病気勝ちであり政敵も多かった桓武天皇が即位します。古代律令制国家は綻びが目立ってきていました。加えて畿内の人は体験しなかったものの。東国では天変地異が連続していました。貞観大地震、富士山噴火の惨状を聞くにつけて不安が増大します。社会不安、自然災害の原因と対策は考えた時旧来の仏教【顕教】は無能でした。しかし、結果【不安や災害】の原因には目に見えないものがあると説く教えが【密教】出現します。桓武天皇は役に立たない顕教を捨てて新しい価値観の実現を目標に都を奈良から京都に移転します。東大寺に代わって東寺が創建されます。東大寺の大仏の前でお経を読んでいた光景は一変して東寺や延暦寺の不動明王の前で護摩を焚き加持祈祷をする光景が日常になりました。密教は眼には見えない”気”が原因になって結果をもたらと考える教えです。強く願えば【祈祷すれば】病気や災厄を免れるし、呪詛をつよくすれば敵を叩けると思ったのでした。
そんな時代に東国や山上で彫られた仏像が鉈彫り像でありました。お経に書かれた儀軌を重んじて仏像を製作する事よりも念じながら仏像を製作する事が大切になりました。長谷寺の十一面観音の様に厄災【祟り】をもたらす霊木を祈り込めて彫って念持仏に変えたのでした。相模平野は富士山噴火で凶作になりました。大山の桂の大木を切り倒して薬師三尊像を彫りました。陸奥では天台寺で同じように十和田の山の桂を切り倒して聖観音像を彫りました。地震災害が再発しない様に願いを込めました。

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の宿る立木に直接に鑿を当てて彫った円空像)、立木の萱に彫られた子安観音像です。
立木であったので樹の裂け目から観音像が覗いて拝めて円空さんも予期しなかった劇的な効果が現われました。
円空は近世ですが、中世以降東北では立木観音像が多く彫られています。

【神道の霊木信仰】
仏教が伝来した時既に日本の文化は仏教を吸収できる程度に成熟していたのでした。
神道は大和朝廷の正当性を説明するほどに完成していた処に仏教が伝来し金銅仏や乾漆像塑像など圧倒的な威厳を持った仏像がもたらされ日本人は度胆を抜かれたのでしょう。そこで我らが神様も仏像の様にして偶像化しようとしたのでして素材に選んだのが塑像の芯木として使われた木材でした。
元々神は大木に依る(宿る)と信じていた彼等が大木で神像仏像を刻みだしたのでした。長谷寺観音像のように霊木を彫って像にしたのですから。
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   吉野水分神社の玉依姫命坐像(神武天皇の母)神仏合体像の初期像

このブログは敬愛する浅古勝次郎先生にレポートするものです。
先生単位戴けますか?

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発表会の光景ОBを中心に30人ほど集まってくれました。皆筆者の学窓です。交代で発表します。今回はテーマに興味を持つ事とリハビリに努める私への応援の気持ちで出席して戴いたのでした。







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台風一過して「葵祭はもうすぐ」

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5月13日は台風一過の好天気でした。我家の庭は熟す前の青梅が撒き散らされて,道路にまで転がっています。朝早くからワイフは
庭から道路を掃いています。
早目に咲き出していたお隣の立葵も可哀想になぎなぎ倒されてしまいました。庭の君子欄は花弁を吹き飛ばされて子房を露わにしています。子房が青梅をキャッチしています。
我家の狭い庭にも台風は事件をもたらしたのでした。
私は三十三間堂の風神像雷神像を思い出しました。古代の人にとっては台風は風神であり雷神であったのでしょう。

プランターの春菊も倒れてしまい玄関に飾られました
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体風の大風で吹き倒されてしまった立葵の花道路を掃いているのは我がワイフです。
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我家の青梅は熟す前に落ちてしまいました。
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君子欄は花弁を吹き飛ばされて大切な子房が露わになってしまいましたが子房で青梅をキャッチしていました。
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でもマユミだけは花を散らさせずに残っていました秋には美しい実を見せてくれます。
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吹き倒された春菊は玄関に飾られました。春菊は天麩羅におしたしに最期は仏花に重宝していますが・・・。もう今年もお終いです。
「京都葵祭は”御霊祭り”です】
立葵を見ると日本人なら明日の京都の「葵祭」を思い出します。私も足さえ自由ならば友人を誘って青葉の京都にで葵祭を見物しに出かけた事でしょう。
葵祭の名前は応仁の乱以来長い間廃れていた賀茂神社の祭礼を徳川家がスポンサーになって復活させたので敬意をこめて「賀茂神社の祭礼を葵祭と呼んだもので。始まったのは桓武天皇が弟の早良(さわら)親王の怨霊を慰撫するために始めた御霊会でした。
平城京から平安京に遷した事で敵を多く作った、桓武天皇には天変地異ばかりでなく私的に後ろめたい想いもありました。
それは自分の弟で、皇太子の座にあっ「早良(さわら)親王」を「藤原種継暗殺事件」の首謀者と決めつけ、一言の弁明もできないまま幽閉され、配流の途中に皇太子て亡くなってしまったもでした。桓武天皇はこの早良親王の怨霊に怯え続けることになります。
そのため、早良親王の霊を祀るとともに、延暦19年、同親王に崇道(すどう)天皇を追号します。同時に平安京遷都以前から京都盆地の地に在った「神様賀茂神社」に早良親王の魂を祀り込め御所から行列を仕立てて御祭文と御幣物を供える「路頭の儀」を始めました。これが青い松の始まりでした。
長い歴史の間にこの行列に工夫も凝らされ斎王代(さいおうだい)として日本人の憧れ「式子内親王」 や源氏物語の女性たちが登場するようになりました。源氏物語の「牛車争い」(「紫の上」の牛車と弘徽殿の女御の牛車とが路上で衝突して争った場面)等が行列に装いと彩を添えてくれます。平安朝の行列が「動く博物館」としての愉しみと「今年の式子氏内親王は誰」「今年の葵上は誰」とホップな話題を提供しているのです。因みの今年の斎王代は神戸女学院に学ぶ素敵なお嬢さんです。http://rhinoos.xyz/archives/4586.html

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京都の神様は比叡山山麓の御蔭神社から下賀茂神社に降りて来られています。ですから御所から下賀茂神社に神様を出迎える祭事が葵祭です。葵の名は祭事復活に大恩のあった桂昌院に因んで名を遺したものです。因みに桂昌院は大仏殿の再建も成し遂げた怪物のような女性です。御簾の上には神様がお座りなるのですが葵祭では斎王(神が降りた巫女)が載ります。斎王代には当世最高の女性(美しい事知的であり心が清純であること等々)が当たります。
葵祭は伝統の動く博物館でありながら、常に新しい話題を提供しようとする姿勢が目立ちます。今年は早々と斎王代を発表して祭りへの期待を膨らませています。今年の斎王代は神戸女学院在学の女子大生で一見して佳子様に似ておいででした。一方では「葵の上」や「弘徽殿の女御」等様々な女性にも機会があるので楽しいです。

昨日書き始めた霊木信仰の係りで説明すれば、以下の様になります。
古代人は天災も(目には視えない魂」が原因で起こると考えました。魂は悪い魂(災厄霊)も善なる魂(豊穣の霊や福の霊)も天上にある常世にあると思いました。だから災厄も福も天から降りて来て天に聳える大樹に依るのでした。
桓武天皇は災厄の原因は自分が見捨てた早良親王の祟りであると考え、早良親王の悪霊を祀り込めることによって御所の守護神に転じようとして始めたのが「葵祭」でした。葵は草でありますから葵の葉や花が脚光を浴びる事はありません。
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牛車も綺麗ですし。誰が乗っているかも興味が尽きません「牛車の争い/葵上VS弘徽殿の女御」なんて言う見せ場もあります。

5月に葵祭が終われば2月後にはいよいよ祇園祭です。
祇園祭は京都祇園で行われるから畢竟祇園祭りなのでしょうが、祇園の名は平家物語の祇園精舎に起因します。祇園精舎のような理想郷の意味でしょう。祇園とは災いも無く心配もなく平和で幸福感に満ち足りた天国の様な処の意味でしょう。
祇園の産土神は八坂神社で主祭神は神話のスーパーヒーローの素戔嗚尊です。仏教では祇園精舎の守護神は牛頭天王がですから、素戔嗚尊も牛頭天王も平和な「地域を守護してくれるパワフルな神」、「厄除けの神」という事になります。
素戔嗚尊は豪華絢爛な山鉾に乗られて祇園の街(川原町3条から4条の街区を巡行して災厄を隅々まで追い払うのです。京都は怨霊の街です。1500年の間の権力闘争の積み重ねによって。その土は幾多の血が浸みこんでいます。そうして京都に住み着いてきた悪霊を払拭するために御所は葵祭を主宰し、町衆は祇園祭を主宰したのでした。葵祭りも祇園祭も基本的には同じ御霊会なのです。

京都にはもう一つ秋に時代祭があります。此方は新しいお祭りで第4回内国博覧会(1895年明治28年遷都)1100年事業が京都で開催されました。その時のパビリオンを平安神宮にして桓武天皇と孝明天王(明治天皇の父)を主祭神にしました。云わば京都を都にした最初と最後の天皇を祀ったのでした。今年は「花燃ゆ」ですから勤王の御旗を先頭にした維新勤皇隊行列が屹度人気になる事でしょう。でも気の毒な事に新撰組は登場できません。時代行列は秋にも観光客を呼びたい京都観光協会の思惑で続いている祭りのようです。葵祭りや祇園祭と併せて三大祭りと呼ぶのは不遜だと思います。葵祭りに今年は行けそうもありません。せめて、テレビで見る事に致しましょう。


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美穂の松原/影向の松

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霊木信仰の話をして以来霊木が頭から離れません。日本の霊木で即座に思うのは松の樹です。樹形の良い松の大木は影向の松(ようごう)と呼ばれ、能舞台の板鏡に描かれたり将軍の謁見の間の障壁画等にも欠かせません。
「影向/ようごう」とは影と日向と書きますので「神仏が仮の姿をとって現れること」です。神仏の降臨の意味で「権現」と同じ意味です。松の姿に神々しさを覚えて本来姿形の無い神仏が松の姿を借りて降臨した、確信してきたのでしょう。影向の松は全国各地の大名庭園や寺社で見かけます。高松の栗林公園も本郷の六義園も兼六園もランドマークは影向の松です。
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狩野探幽 「松鷹図」影向の松といえばこの絵を思い出します。
でも何といっても影向の松の代表は美保の松原の羽衣松でしょう。台風一過の13日ワイフに連れ添って貰って出かけて来ました。美保の松原は何度も来ているのですがどうも記憶が薄れていたので霊木として松原を見るのは初めてです。全国各地の海浜に美しい松原があります。松原は防砂林として燃料(枯れ松葉)として大切にされてきたものでしょう。同時に松が潮風に強いとか松ぼっくりが浮くので潮に運ばれた等の事情があったのでしょう。
ケルト人がヒマヤラ杉をクリスマスツリーにしたように日本人は松の樹を拝んできました。
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平安神宮も栗林公園も兼六園も庭園の中心は「影向の松」です。日本人は絵の中核に影向の松があると安心するのです。法隆寺の中核が五重塔であるように。法隆寺五重塔の屋根の反りは影向の松のよいにリズミカルです。

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美保の松原お決まりのアングル白砂青松の筈ですが此処は富士山の麓安山岩の砂で黒砂でした。もう2週間もしたら浜昼顔が咲き出すことでしょう。
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これが天の羽衣先代が枯れてしまったのでこの松が昭和22年二代目の羽衣松に指名されたそうです。これでも樹齢は680ねんだそうです。檜や杉に比べると松は寿命が短いようです。でもこの羽衣松は「西行戻り松」の様に海(東)に向いて居て影向の松の様に姿が良くありません。
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美保の松原二代目羽衣松と同世代の黒松が林立しています。
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この道が通称「神の道」と呼ばれる美穂神社と海を繋ぐ参道です。美保の松原と書きますが神社名は美穂で穀神であることを示しています。


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此方は若い松です。門松を思わす姿です。若いものの新芽が伸びて花を付けようとしていました。
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羽衣と言えばこんな形を想い出します。これは「影向の桜」ともいえる姿形です。(写真は室生西光寺)
影向と聞くと川崎の影向寺を思い出します。慶応大学の西脇順三郎先生が再三白鳳の薬師仏を拝観に訪れたお寺でにも日吉キャンスにも近いのです。此処は「影向の銀杏」です。「影向の楠」「影向の杉」影向の栢」など神々しい霊木は色々ですが、やっぱり松が一番すわりが良いようです。
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此方は影向の銀杏(葛城一言神社)

影向の樹は何れも神仏の素材になる可能性が高いのですが桜(蔵王権現)も栢(給烏浜の観音堂の11面観音)楠(法隆寺百済観音像長谷寺11面観音像)松(広隆寺弥勒菩薩像)桂(天台寺聖観音像)銀杏(小栗観音堂の木喰仏)等々様々な樹種が神仏の素材に使われています。日本人は適材適所に詳しく古事記には既に「ヒノキは宮殿に、スギとクスノキは舟に、マキは棺に使え」と、それぞれの樹種の使い分けを解析しています。私の仲間が檜の露天風呂が好きなのは1500年の歴史を引き継いでいる訳で理に適っているのです。

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奪衣婆の温み

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「今日は草冠の付く漢字を思い出しましょう」デーサービスでの朝のミーティングです。皆思い出した漢字を口にします。司会者はあんまり漢字が得意ではないのか即座には書けません。「クサ」ってどんな字だったかしら?「早くのクサが草ですよ」。「草が化けたら花ですよ」草が古くなれば苦くなりますよこの辺りまでは正常なんですが直ぐに脱線します。女が古くなれば姑ですし腰の曲がった女は姥ですよ。デーサービスの半分以上は女性の高齢者ですから女偏の漢字に興味が移ると雰囲気が悪くなります。
私は草冠の字はさておき気持ちは群馬県の片品村に飛んで行ってしまっています。
何故かと言えば今月末に友人の軽井沢の別荘に遊びに行き軽井沢を拠点に片品村から竜神温泉にかけて石仏巡りを計画しているのです。付き合って貰う友人は同期の親友です。今までも随分同行して貰いました。とりわけ別荘のオーナーI君は事前に軽井沢の図書館で調べておいてくれるので効率よく石仏を拝観して廻れます。今回片品村竜神温泉を選んだのは此処に奪衣婆の秀作が多いからです。)何故群馬県の山間部に奪衣婆が多いのか?群馬県は「山の神」信仰が色濃く残っていたので山姥と十王信仰が混交して奪衣婆が人気になっているように思えます。
古希に近い爺さんが4人でカカア殿下の意群馬県の祠を奪衣婆を探して巡る光景は楽しそうです。
【艶めいた奪衣婆】
私が最初に奪衣婆に興味を抱いたのは鎌倉の長谷寺でした。観光客の集客に熱心な同寺では境内を整備する一環で境内に幾つも地蔵尊を配置しました「仲良し地蔵尊」とか「花想い地蔵尊」とか時代受けしたネーミングと意匠で地蔵を並べ池の淵には奪衣婆を配置しました。その奪衣婆が下の写真で、お乳が張って若々しいのが奇妙なのです。
作家は奪衣婆がお婆さんであることを忘れたのか乳は歳を重ねると垂れる事を知らないのかいずれにしても不可解でした。
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 これが長谷寺(鎌倉)の奪衣婆像です。お乳が張って若々しいのが怪訝に思ってきましたが、最近は考えが変って来ました。この件は以前に次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44504936.html
【十王経の奪衣婆】
私は中世に彫られて祀られてきたそれこそ沢庵の様に萎れて垂れたお乳こそ尊いし枕詞「垂乳根」に相応しいと思ってきたのでした。
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 これが従来感覚の正統派の奪衣婆像(牛伏寺)室町時檜の寄木造り
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地獄草子の奪衣婆亡者の着物を剥いで懸衣翁(けんえおう)に渡します翁は河辺の衣領樹(えりょうじゅ)に衣を懸けて亡者の生前の罪の重さを測ります。
奪衣婆(だつえば)は「葬頭河(しょうずが)の鬼婆」ともよばれて恐れられてきたものです。根拠は中国で生まれた十王経(偽経)で、三途(さんず)の川のほとりにいて川を渡ってくる亡者の衣類をはぎ取って、河辺の衣領樹(えりょうじゅ/柳のような樹)に上って待っている懸衣翁(けんえおう)に渡します。翁はそれを枝にかけて枝のたわみ方によって亡者の生前の罪の軽重を測ります。そこから亡者は閻魔(えんま)の庁へ送られることになるといいます。こうしたいい伝えから、いつ頃からか奪衣婆像は十王像とともに置かれるようになりました。 そんな次第で地獄で最初に逢うのがこの奪衣婆でありそれから地獄の責め苦が始まるのですから”怖い人”として伝えられてきました。ところが幾つも奪衣婆を見ていると鬼婆だと思っていた婆さんが意外と愛嬌が在ったりまだまだ吸えば乳がでそうなほど張りがあるのです。
【民話の世界の奪衣婆】
「奪衣婆が怖いだけの存在ではなさそうだ」思い出したきっかけは民話でした。
お話は山形の湯殿山の麓の村で採取されたものです
幼馴染の二人が指切りして約束しました。一生連れ添う事を約束します。
二人は目出度く夫婦になり家族も為したのでしたがもう年齢ですそこでもう一度約束しました。
「俺が先に死んでもお前は再婚せずに居て欲しい。私が先に死んでも貴方は後家をとらずに居て欲しい」お互いにどちらが先に亡くなっても後添えなどとらずに来世で二人きりで逢おうと約束したのでした。
ところが夫が先に亡くなってしまいました。
ある冬の世残された媼は炬燵に入って思います。
「貴方は屹度寒いでしょうね。合わせ半纏を明日お届けしますよ。それからお茶も届けますよ」
翌朝媼は寒河江川の畔に祀られた地蔵尊に半纏と茶葉を届けました。
ところで地蔵尊にはイタコ(口寄せをする巫女その際の楽器は梓弓(あずさゆみ)と呼ばれる弓状の楽器を使います。が来ていました
媼はイタコにあの世で爺さんは如何しているか口寄せして貰いました。
イタコは梓弓をビロン・ビロンと鳴らせて話し始めました。
”婆さんや私は楽しく遣っているよ心配は要らない。
閻魔大王も庄屋さんのようにうん良い人で、私に葬頭河さんという女性を紹介してくれただよ。その人が気立ては良くてお茶も入れてくれるし、歳は25歳で未だ女盛りなんだよ」
イタコの口寄せを聞いた途端に媼は怒りだしました。
「悔しいあの人ったら後添えはとらないってあんなに約束したのにあの世では早々後添えをとったんだって。それも女盛りだなんて厭らしい。
奪衣婆は怖い怖い地獄の入り口にいる「意地悪婆さん」であると同時に地獄では女性特有の気立ての良さを特徴とする看護婦の様な人なのでしょう。
乳幼児を失った親はあの世で奪衣婆が授乳をしてくれるそんな期待やイメージが在ったのでしょう。でしたから奪衣婆は垂乳根ではなく張りのある乳である必要があったのでしょう。
脱衣婆は「山の神」が「山姥」に転じて安達が原の鬼婆にも変じ。同時に乳飲み子には彼の世での乳母であり身障者にとっては面倒見の良い看護婦に変じたのでしょう。
いずれにせよ日本一のカカア殿下の国群馬県で拝観する奪衣婆が今から楽しみです。
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国東富貴寺の十王像中央が閻魔像一番右が奪衣婆奪衣婆は閻魔に次ぐ人気像です。

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此方は別所温泉北向き観音の十王像千曲川沿いには布引観音にも奪衣婆の秀作が祀られています。




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青春の味?「久能山石垣イチゴ」

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私が幼いころはイチゴは貴重でした。畑の一角にイチゴの苗を植えてあり収穫するのを楽しみにしていましたが。それはカラスやムクドリも楽しみにしていたようでカラスに取られないように収穫するのが難儀でした。我家には畑が無いのでイチゴ競争こそ無いものの今は無花果の収穫を競っています。カラスは色盲と聞いているのですが無花果の熟するのは目ざとく、大半の収穫はカラスに先行されてしまい。私は呆然とカラスの食べ跡を眺めるだけです。琵琶のように無花果も袋懸けをしないと食べられそうにありません。でも私にはカラスと競う方が適当で楽しくもあります。ことしももうじきカラスと競おうかな?思いながらまだ固い無花果の花芽を見詰めています。
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久能山石垣イチゴは東名静岡ICから海岸通りを出て太平洋沿いにあります。久能山には日本平から入る人が多いのですがそれは裏参道で表参道は海からです。
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久能山東照宮の表参道に石垣イチゴのお店が集積しています。
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石垣イチゴ農家は売店も兼営しています。2パック1200円ですから目標は2パックを食べる事です。

そんなイチゴでしたから偶に本堂のご本尊に石垣イチゴがあがると堂内が甘い香りに包まれて、仏様のお下がりを戴くのが楽しみでした。
イチゴと言えば久能山の石垣イチゴが在るだけで今のように栃木の栃乙女とか女蜂とか「嵯峨豊の香」とか「岐阜の濃姫」とか多種多様というか「多産地・多種類」です。先月旅行で食べた飛鳥ルビーも美味しかった。飛鳥ルビーは甘さと香りが優れて女峰であると感じました。
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石垣の上にビニールハウスで覆っています。山頂が久能山東照宮の東門
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石垣ビニールハウス栽培の久能山イチゴ給水パイプがはいかん配管されています。
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石垣の熱が促成栽培を促し石垣なので泥の撥ね返しが無いので生活感があります。石垣の石の隙間には雑草が花を咲かせていました。

今年の春はイチゴを充分に味わっていないのでワイフと連れ立って久能山にイチゴ狩りに出かけました。台風一過の13日でしたのでお天気は爽快胃腸も元気いちご狩りには最高のコンディションです。売店には2パック1200円で朝どりイチゴが並んでいます。よし2パック分食べれば本手か、思いながらビニールハウスに入りました。私の記憶では久能山の石垣イチゴは石垣の隙間にイチゴの苗を植えたものでビニールハウスの囲いなんてありませんでした。潮風がイチゴを強くするし石垣が温かいのでイチゴの早逝栽培が可能だったと記憶しています。今は石垣をビニールハウスで囲った上に塩ビの配管をして自動給水も行っているようです。
私は足が悪いのでイチゴ屋さんが気づかいして二人だけを一棟のビニールハウスを割り当ててくれました。ハウス内はもう初夏の暑さですし、蜜蜂が飛び交っていました。
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蜜蜂が活躍しています。
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練乳を与えられましたがイチゴは甘いし香り立っていますので練乳は不要でした。味に自信があれば練乳は不要です。栃乙女も群馬の女峰も練乳は使いません。

「栃木だ」「群馬だ」「飛鳥だ」「佐賀だ」「博多だ」各地のイチゴを食べて来ましたが、日本のイチゴが甘い事と香り立つ事では抜群です。カリフォルニアやハワイのイチゴは見た目は綺麗でも美味しくありません
私が学生時代荒井由美の「いちご白書をもう一度」が流行っていました。甘酸っぱい記憶は青春そのものでした。
銀行員時代カルフォルニアのパーム・スプリングスのホテルでデザートにイチゴを食べました。カリフォルニアのイチゴは日本人が戦前戦後に移民して「日本の美味しいイチゴを大陸でも栽培したい」、として始めたそうです。ただ水っぽいだけのイチゴを食べながら想いました。イチゴは種を移しただけでは出来ない・・・土から作らないと・・・・・思いました。砂の上で水だけやっても、美味しいイチゴは出来ないのでしょう。久能山イチゴは「章姫」とネーミングされていました。章姫とは天璋院章姫の事でしょう。日本人は甘さも酸っぱさも濃いものが好きです。岐阜の濃姫には章姫は負けそうです。久能山の石垣イチゴが日本一であり続けるのは大変なようです。

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日本の進む道【何故人を殺してはいけないの?】

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今年の3月「昭和天皇実録」が公表され販売されました。即座に販売開始され思いの外の売れ行きだそうです。
今昭和と聞くと「良い時代だった」「家族も教育もしっかりしていたし・・・」ある種の懐かしさ共感を持って響いて来ます。
この時期に昭和天皇実録を発表するのには何か裏があるのだろう?と推測すれば今年が戦後70年にあたる事で安倍首相は「戦後70年」を俯瞰して世界に向けてメッセージを発表し集団的自衛権等を「平和安全法案」として通そうとしています。
三党併記でっポイントを整理した読売新聞記事これで平和安全法制と呼ぶのは羊頭狗肉で見苦しい?

昭和天皇実録を通読すれば昭和天皇は終始米国との開戦は反対であったこと、終戦前には戦況が好ましくない事を受信されていて軍部の報告に猜疑の眼でうけておられ一刻も早く終戦を期待されていた事、戦争責任を避けようとされなかったこと等が印象に残ります。安倍首相は昭和憲法を占領軍から押し付けられたもので、これを自前のものに改めるのは民族の権利だ、と主張しています。
戦後70年で目覚ましい回復を示した功績は先ずだ第一に民族の努力。第二に昭和憲法に守られて国費が総て民生に回せた事実があるでしょう。憲法9条に支えられた繁栄を享受しながら、その憲法を「押し付け」と断じるのは品位に欠けますし、国際法上にも違反していると懸念されます。というのは昭和憲法発布前に日本はハーグ条約に調印しポツダム宣言を受諾しているのです。日本の「不戦の誓い」は国民の総意であるだけでなく全世界に約束しているのです。
自衛隊を地球の裏にも戦争地域にも派遣するというのは国際法上違反の「国家の品位」に係る問題です。
私達は北朝鮮の「核外交」に顰蹙しています。核放棄をやくそくして国連の支援を受けながら再三にわたり核実験やミサイルを発射して国際支援を取り付けます。詐欺国家とか「ならず者国家」として蔑まれています。日本もポツダム宣言やハーグ条約を無視すれば北朝鮮を批判できません。
私達は先の大戦を未消化で来ています。私達の学生時代は戦争未消化の責任が天皇制の存続にあった」そんな風潮の中で過ごしました。だから天皇制と聞くとどこかおぞましいものを感じていました。
それが天皇は平和外交を期待され戦争を最後まで回避したいと思われていた。原爆や東京大空襲前に終戦したいと思われていたと確認すると今度は戦争責任の矛先が変って来ました。
先ず読売新聞をはじめとしたマスコミが検証をはじめました。
「体制翼賛的な論調が国民を戦争に煽ったのではないのか?無謀な戦争に突入した責任。一億玉砕の断末魔まで冷静な眼を失っていたマスコミの自己批判が目立ちました。その前には宗教界の自己批判もありまいた。最近は学徒出陣に協力的であった大学の検証も続いています。
私達は「自由・平等」を信じて育てられました。
今でも私達の共通で最大の価値観は「人間の類の基本的人権は自由であり、平等である」と思っています。
私達はそんな教育を受けて来ましたでも自分の自由は他人の自由に衝突してしまいます。人間は生まれながらにして平等でない事は経験的に知っています。自由と平等を標榜する国家の利害が対立すれば必ず戦争に突入します。その時にはナショナリズムを叫ぶリーダーが登場します。
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安全保障法案(自民党は平和安全法案と呼ぶが)を詳細に報じる読売新聞マスコミは「体制翼賛的であった」と検証した成果を活かして再度戦争に陥らないよう木鐸としての役割を果たしてほしいものです。
【人殺しは何故いけないの?】
昭和27年こんな事件が報道されました
「日教組の全国大会で一人の高校生が質問したのでした
”先生!何故人を殺してはいけないのですか?」
居並ぶ先生方は突然の核心を突いた質問に驚いて返答できませんでした。学校で教わった英雄は信長も秀吉も沢山の人を殺しているのですから・・・。
居並ぶ先生方は即座に答えられませんでした。マスコミは「こんな回答も出来ない先生は如何なるものか?そんな先生を束ねる日教組は意味があるのか?」そんな取り上げをしました。でも優秀な筈の文部官僚も先生もこの答えが見いだせずに来ています。
【人種平等法案の新進性】
第一次世界大戦後のパリ講和条約の共通認識は「民族自決でした。戦争の発端になった中近東には沢山の国花が出来ました。日本は本気で「人種平等法案」を提出しました1919年(大正8年)1月14日。この時点では「自由・平等のフランス革命の思想」が一番浸透していたのでした。でも白人各国の反対を受け否決されてしまいました。「白人が優先される世界に異論を唱え黄色い人も肌の黒い人も平等です」そんな世界の理想を提言したのでしたが・・・この時日本には大東亜共栄圏の幻想が生まれたのかも知れません。
1937年「昭和12年」後)とは日本は那事変(しなじへん】に突入します。国際連盟を脱退し、当時の毛沢東率いる中華人民共和国は軍隊も弱く戦闘機もありませんでしたから陸軍が戦闘するには容易でした。先ず戦闘機で空爆して戦意を喪失した民族を蹂躙するのは楽だったことでしょう。
兵力に勝る国が劣る国を攻めるのは卑怯者の行為で武士道では批難されます。
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外貨獲得しているパンダを食肉にするなど現在の中国は品位に欠けます。
【学校の集団リンチ事件】
ライン殺人事件(屋川崎高校生)や集団リンチ事件(大津)など学校で頻発した弱い者苛め事件は武士道の生きていた時代には考えられませんでした。
テレビではイスラムのゲリラが無人爆撃機の標的にされて家も家族も破壊されています。強い国が弱い国を苛めているとしか見えません。「あの泥の家にはゲリラが隠れているかもしれない」という理由で無人爆撃機が空から爆弾を投下します。高校生にそんな卑怯者の戦いが是認され自分達が行った集団リンチが批難されるのか解らないでしょう。
【ヘッジファンドという名の妖怪】
私がヘッジファンドを知ったのは平成10年頃でした。
最初は為替リスクを避けよいうとして先物を予約するテクニカルなツールでしたから難しいとは思いませんでした。
でも、イギリス最古の銀行であるベアリングバンクが倒産しその原因が一人のトレーダが未承認取引によって14億ドルもの莫大な損失を出しうみ倒産に追いやる事を知ってヘッジファンドの恐ろしさを知りました将来の差損差損を負担して自己資金の数十倍もの投資が可能になる手法が流行っていたのでした。既にバブル破綻の標的にされていた筆者の勤める長銀はトレーダーの間で次の標的にされ「長銀が破綻する」にかけるトレーダーが急激に増えてヘッジファンドによって事は「破綻」に賭けられていたのでした。トレーダーは日本政府が長銀が破綻した時の財政出動を先読みしてまんまとマネーゲームに勝利したのでした。
今日本はアベノミクスで株高貿易収支も黒字に転換しました。でも肝心の財政は赤字のままです。
日本の国債を先物「安」に賭けるチャンスを猪虎視眈々と狙っていることでしょう。
会社の意思決定は株主総会の多数決で決します。民主主義資本主義の原則で、今では誰も疑義をはさみません。でも私の学生時代会社は誰のものか?と問われれば「社員のもの「消費者のもの」と答えていました。「經世濟民(けいせいさいみん」は福沢諭吉先生が「Economy」の訳語として弘めましたから。
でもヘッジファンドはどんな結果をもたらそうが数学理論に裏打ちされていますから「禁止」させる事は出来ません。
資本主義は自由平等の大義の上に在って「格差極大」に突き進む性悪な体制なんです。
ヘッジファンドをコントロールするには自由平等に上回る価値観を見つける必要があるようです。
それはつい50年前までは身近にあったのに。
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蛯名SAのトイレ日本のトイレの清潔さ快適さは世界一です。品位あるる日本人はトイレに観る事が出来ます。世界を旅すると痛感します。

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「視えない手」の先にあるもの

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昨日の待ちの夕方のニュースで私の住む戸塚で起きた事件が流れました。高校生が母祖母を刺殺したのでした。最近は切れやすい若者が増えたようです。また、一昨日は川崎の簡易宿泊施設の火災によって5人も焼死してしまいました。
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月17日焼失し5人の命を奪った簡易宿泊施設は実体は貧困ビジネスでした。こんな国に何時からなってしまったのか?テレビ朝日画面
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 現場検証作業違法建築で消防施設などの欠陥が明白になって来ました。「平和立法」も大事ですが。足許の安全安心を大切にしてほしいものです。出典テレビ朝日
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マスコミも貧困ビジネスを糾弾し始めました。戸塚の町内には空きアパートや倒産ホテルが貧困ビジネスの標的になって街は荒んで来ています。
簡易宿泊施設は昔は横浜にも沢山ありました。横浜港に近い野毛等に集積していて港湾労働者が寝泊まりしていたのでした。そんな施設が宿泊施設ではなくなり。「貧困ビジネス」の対象になっているのです。昔の「蛸部屋」のような劣悪な部屋に貧困状態にある人を詰め込んで生活保護を受給させ、寮費や食事代の名目でこれを搾取するビジネスです。私の町内にも昔はビジネスホテルだったホテルが破綻倒産して清算手続きに応じた会社が簡易宿泊施設に改造し、所謂貧困ビジネスを展開しています。この業者は知恵者で施設向かいに風俗店を開業「高齢者が生活保護を受けながら衣食住とアチラノ楽しみにも応じているようです。住民としてはウォッチしているのですが…実態は解りません。
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テレビ朝日の画面簡易宿泊所が集積していて何れも貧困ビジネスに利用されていると報じています。

横浜戸塚の住宅地として垂涎の戸塚ですが実体は荒んだ地域であります。
私が成長した昭和30年代は蛍が飛ぶ美しくも慎ましい、老人が大切にされるい田園でした。
当時に比べれば現代は日本人の心の貧困が目立っているのです。
【貧困ビジネス発端は国富論】
「こんな故郷にどうしてなってしまったのか?」考えれば思い当たります。「国富論」です。
産業革命に成功し地球を収めた英国は「自由」を謳歌しました。
でも次の疑問が生じます。
「このまま各人が自由を主張し自由に経済活動をしていったらどうなるのか?」
自分の自由は隣人の自由に衝突するし、英国の繁栄はインドを収奪する事に負うている。
このまま自由を主張すると神に裁かれるのではないだろうか?」心配になりました。
こんな疑問に答えたのが「国富論」でした。「国富論」はアダムスミスの唱えた論文で『諸 国民の富の性質と原因に関する研究』を略して「国富論」と呼びますは。私は大学の教養課程の経済原論で学びました。
国富論が発表された1776年には日本では江戸では浅間山が大噴火しました。英国からアメリカが独立を勝ち得た年でありました。
産業革命に成功して将来に対して楽天的な気運が充満していたのでした。アダムスミスは初めて経済問題を体系的に解析してみようと試みたのでした。
主として労働価値と資本との関係を分析したもので労働単価の決定メカニズムが労働力の供給と需要が一致する価格が「労働価値」で自由に放任すれば「見えざる手/invisible hand of God」で自動的に決定される。説いたもので古典派経済学と呼ばれました。需要と供給とのバランスで価格が決定するという分析は労働価格だけではなく商品価格にも適用されます。
でも、神の見えない手「invisible hand of God」に任せていてはどうも良くはならない批判が生じてきました。
そこで、需要を刺激コントロールして、価格を操作しようとする考え方が主流になります。
それがケインズで、私が学生から新社会人になった頃はケインズ学派が主流でありました。
先ず国家は「完全雇用GDPを達成する事を目標にします。そして『豊かな社会での富の中の貧困』という逆説を克服することを目的とした総需要を管理する政策(インズ政策)を実施しようとするものでした。
日本の大蔵省の官僚は忠実なケインズ学徒でしたから不況の懸念が生じる度毎に需要喚起策として財政投融資を実施しましたその成果が現在の膨大な財政赤字でした。
流石にケインズ政策では完全雇用は達成できそうもないと思ったのでしょう。最近は新古典学派が経済政策の主流になりました。今度は需要サイドよりも労働力の供給サイドにインパクトを与えようとしました。
労働市場の完全雇用は実現困難なのです。現代の様に物流革命が進むと市場はイギリスや日本のような地理的に隔離されていません。日本の労働市場は中国やインドの労働市場と競合していますし、新しくロボットさえ登場してきています。完全雇用なんて絵に描いた餅のようなものです。私達日本人は常に後進国の安い労働力の脅威にさらされているのです。
経済学者はこんな事態に対して労働価格が伸縮的であるため新古典派経済学が有効であるとしています。安倍首相は日本人の労働価値を中国の労働価値やロボットの労働力に競わせるように自由化させようとしています。それは資本の期待する政策でもあります。労働の供給サイドは長い労働争議の結果労働者の保護が為されています。そこで労働者を保護する施策を一枚一枚剥がして労働力供給サイドの弾力性を確保したのでした。
新古典派は古典派と変わらず『総ての人は自分の利益を最大化することを目的に行動するという仮定にもとづいた思考実験であり、それを経済政策に実施しようとするものです。すべての国民が「あくまで『自分の利益だけを極大にしようとしてそれを是認するような社会にしたらどうなるのでしょうか?」かんがえるだけで悍ましくなります。それが貧困ビジネスを助長し、ブラック企業の背を押すことになります。
学問には上下卑賤があります。経済学は所詮は社会政策論です。
その上位に倫理学や哲学があります。アダムスミスが「見えざる手/invisible hand of God」に任せれば神が導いてくれると説いたのは思考停止した事で。今見直すとこれ以上は「どんな国を目標にするのか倫理や哲学の問題です」と言えばよかったのです。
神は思考停止をお許しされません。人類にお尋ねです。地球は二つとないこのまま自分勝手に地球資源を浪費すれば温暖化は一層深刻になる。戦争は地球の破壊に繋がるなる。どのように地球上で生きたいのか?改めて問われているようです。神の手は相変わらず見えませんが、神が手を動かされた成果は確認できます。時に「9.11同時多発テロ」だったり。「貧困ビジネスの焼け跡」だったりします。日本をどんな国にしたいのか地球を青い星のまま楽園のまま未来に引き継ぎたいのか目標をハッキリさせなくてはなりません。
日本の国はアダムスミスの思考停止に甘んじていてはなりません。

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田長鳥啼いて

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今朝は未だ暗いうちから鶯が啼いていました。
ついこの前「今年は鶯が啼かないね?」心配していたのでしたが。
春告げ鳥が夏になってから啼きだすなんて我が家の鶯は主人に似て怠け者かズボラ者です。
もう田植えの季節ですから「田長鳥/たおさどり時鳥の事」の順番です。
我家の周囲には既に卯の花は散り始めていますし。グミも赤い実を稔らせています。
昨日はデーサービスで「夏は来ぬ」を歌ったばかりでしたから。♪卯の花の匂う垣根に時鳥はやもき啼きて・・・。♪
私の好きな歌詞は2番以降です。
歌っていた仲間から「歌詞の意味が解らない」疑問が呈せられました。
夏は来ぬの「来ぬ」の「ぬ」が否定の助詞ではなく「来た」の意味で完了の助詞である、説明して納得して貰いまあした。
でも私が説明したいのは早乙女が裾を濡らして田植えをする光景です。此処が最高のエロティズムです。
そして田植え歌です。田植え歌は肉体労働を癒すだけでなく田の神様に豊作を祈願する歌です。
田の神様は早乙女の白い脛が好きですし。悪戯好きですから裾を濡らして脛に泥跳ねをします。
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田植えを終えた山田の景色【版画は斉藤清氏】この景色は奥会津と思われます。
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田植えを終えた安曇野
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「夏は来ぬ」の歌詞の良さは言葉の美しさ嫋やかさと併せて労働歌【田植え】の喜びを残していることでしょう。
早乙女が裳裾濡らして玉苗(たまなえ)植うる光景は珠玉の風景です。上の写真は諏訪の県会議員さんのブログからお借りしました。早乙女の白い肌が目に浸みます。このパワーが苗に移って豊作をもたらすことでしょう。
最晩年の母は私の顔見る度に口にしました。
「お前は授業参観に行くと”お母さんもう少し綺麗な格好をして学校に来てよ”僕は恥ずかしいと思うよ”
当時の我が家は農地解放の後僅かに残された自作の田圃を母が耕作していました。桐生の女学校の先生だった母が初めての農作業に腐心して、手足に着いた泥も流さずに授業参観に駈け込んだのでした。次は母の俳句です。
 朝露や百姓の手ほどき 不馴れにて
先日お 百姓仕事手ほどきして下さった片岡さんに聞かされました。
「お母様は何にも知らないお嬢さんで田植えの季節にはこんなこともありましたよ。畔を草刈りしていて振り返るとお母様の手許にマムシがいてとぐろを巻いている私はお母様を後退させて鎌でマムシの首を切ったの」
「片岡さんの処置が無ければ私は生まれなかったかもしれませんね?」
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昔の早乙女は美しくも逞しかったものです。
田植え歌を聴きたいと思ってyou-tubeをオンしてみました。ところが殆どが先の「夏は来ぬ」で労働歌としての「田植え歌」は聴けませんでした唯一白川村(岐阜)で採録したものがありました。https://www.youtube.com/watch?v=o4bG_tFffeM
先日新聞に丸の内のビルで田植えをした記事が載っていました。太陽光ではありませんLEDが輝いています。
本当は紺色のスーツのОLさんが絣に着替えてな背を植えています。田の神様は居そうにありません。三菱地所もこんな形だけするよりも遣るべきことがありそうです。これじゃあ守護仏の平櫛田中さんの観音様も台無しです。(筆者は銀行員時代に大手町ビルの屋上に平櫛田中氏の観音像を拝観する機会に恵まれました)
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丸の内のビルで挙行されたお田植え風景写真は読売新聞。管理されたビル内では早乙女さんにエロティズムは感じませんし、それでは田の神様も無反応です。
【2番】
五月雨の注ぐ山田に
早乙女(さおとめ)が、裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる、夏は来ぬ
【5番】
橘の薫る軒端の窓近く
蛍飛び交い
おこたり諌(いさ)むる、夏は来ぬ
【6番】
五月(さつき)やみ、蛍飛びかい
水鶏(くいな)鳴き、卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす、夏は来ぬ
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デーサービスで歌った佐々木信綱作詞の「夏は来ぬ」花瓶の空木は筆者の庭に咲いたものです。
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此方は卯の花に俵グミの実どちらも筆者の庭で採ったものをデーサービスに飾ったものです。
最近は「乙女」はし「死語」になりつつあるようです。ましては、早乙女も稀にしか見られません。今年も田圃は早乙女ならぬ「早媼」ばかりで田の神様も苦笑いでしょう。
可愛くて元気なAKB48が早乙女になって田圃に入れば屹度絵になって田の神様もご機嫌を直して下さると思います。下の写真のような安キャバレーのお姉さんの真似事を止めて若いのだから若い時の美しさを発揮して日本を地方から元気にさせて欲しいものです。
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日刊スポーツに連載されているAKB48の唇。60年代安キャバレーのお姉さんは名刺やハンケチに唇を写して「また来てください」と渡してくれたものでした。これを背広の内ポケットに入れ忘れておくとワイフに叱られたものでしたし。名刺入れに閉まっておくと肝心な時に寺V運の名詞と間違って差し出したりして大恥をかいたりするものでした。
一昨年訪れた奥能登白米千枚田にAKB48が「裾を濡らせて玉苗を植える」となれば奥能登全体が湧き立って人口の逆流が起こるかもしれません。
来週はI君の別荘のある軽井沢から片品村に行く予定です。田長鳥/たおさどりホトトギスは其処で訊く楽しみにしておきましょう。

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雉も鳴かずば(犀川悲話)

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愛鳥週間に入りました。我家の雀さんは今年も上手に子育て中で親子の姿が眼を楽しませてくれています。グミの実をムクドリが群れて食べに来ています。グミは数も少ないのでもう暫く眺めて居たいのですがムクドリは委細構わず啄んで行きます。もうじきカワセミも燕も幼鳥が目立つ季節です。裏山で雉も鳴く事でしょう。「雉の啼き声を聴くと安曇野の犀川の悲話を思い出します。
綺麗な川や湖には何故か悲しい民話が残されているものです。私の生活圏では箱根のお玉ヶ池にも悲話がのこされています。長野松本の犀川が梓川に名を変える辺りにに「米路橋」があります此処にも悲話が残されているのです。今では有名な伝説ですが1957年松谷みよ子さん採取して発表されて以来知られるものになったのでした。
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聖高原を降りると信州新町があります。岸辺には有島生馬記念館(鎌倉極楽寺から移転したもの信州新町美術館もあります。実に風光も明媚で文化の色濃い土地です
【お千代の悲話】
犀川に近い寒村に弥平と娘のお千代が慎ましく生活していました。ところがお千代は病気になってしまいました。寝床でお千代は弥平に言います。
「私小豆の入ったご飯が食べたい」
それはまだお母さんがいた頃親子三人で食べたご飯を想い出していたのでした。弥平は娘が愛おしくてなりません。そこで庄屋さんの蔵に忍び入り祝用に貯蔵して在った「小豆と糯米」を盗んで娘に食べさせました。するとお千代はみるみる健康を回復します。
お千代は手毬歌遊びをしましたその歌に「小豆のお飯美味しいな!」歌ってしまいます。貧乏なお百姓の子供達ばかりですから「小豆ご飯」なんて滅多な事では食べられません。お千代の手毬歌が発端になって弥平の泥棒が発覚してしまいました。ある年の事でした。村人が庄屋さんの家に集まって相談していました。昨年の秋に流されてしまった「橋を建て直そう」計画でした。橋を堅固に建てるために人柱を建てる事になりました。「誰を人柱にしようか?」其処まで話が進んだところで。村の衆は「弥平を人柱にすんべえ!」目配せしていました。誰しも人柱には立ちたくありません。それに盗人を働いた弥平であれば文句もあるまい思ったのでした。
お千代は何日も何日も泣き続けました。
「自分が手毬歌で歌ったばかりに大切なお父さんが人柱になって殺されてしまった!」
それからお千代は一言も口を利かなくなってしまいました。村人もお千代は唖(おし』になったと思いました。
それから何年もの年月が流れました。猟師がキジの鳴く声を聞いて鉄砲で撃ち落としました。キジの落ちたところに向かうとお千代がキジを抱いて立っていました。」
猟師が近寄ってお千代から雉を受け取ろうと両手を差し出すと
お千代は雉の遺体を見詰めながら呟きました。
「雉よ、おまえも鳴かなければ撃たれないですんだものを」
猟師は驚いて叫びました
「お千代!お前は唖と違うか?何時から口が効けるようになったんか?」
お千代は猟師に背を向けると山の中に消えてしまいました。
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我家の周囲でも雉の放鳥によって記事が目立つようになってきました。もうじき親子連れの雉の家族が目を楽しませてくれることでしょう。
【悲話の背景】
犀川の名は妙な名前です。犀なんて言う動物は馴染みはありませんでした。犀川とは大変な暴れ川で治水が困難征(さい)服困難の意味でしょう。犀川流域は古代から安曇氏という豪族が強い指導力で治水工事をした歴史があるようです。松本平には小泉小太郎の伝説も残されています
治水工事やお城を建てるに際して大地の神の加護を乞う為に人命をいけにえのようにして奉げたのでした。これは日本だけではなくシャーマニズムには共通する神事で東南アジアには多く確認できます。久米路橋再建に際して人柱を建てた事は中世的な感覚では特段異常ではないと思われます。でも時代が下って近代に近くなるに従って人柱の非人間性が糾弾されたのでしょう。
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もうじき燕も巣立って賑やかになります。
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黍団子は半分ずつ

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テレビをオンすれば奇妙な犬(ソフトバンクCМ)と桃太郎(AUのCМ)が映っています。
そろそろ早慶戦の季節です。1957年早慶戦での慶応応援団席の事件です。
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AUのCМに登場した桃太郎浦島太郎や金太郎バージョンも登場してきました松田 翔太も良い俳優だと思いますが、このCМは好きになれませんでした。
一人の学生が早稲田の応援ルックで慶応応援団の中に登場しました。当然のように応援席は騒然としました。その事態にコメントを求められた大宅壮一さんは一億総白痴化(いちおくそうはくちか)と評しました。テレビしか見ていない人間ばかりだと国民は白痴化すると懸念したのでした。”大学生も白痴化している”感慨だったのでした。
「ドローン事件の主犯が高校生であった」報道されています。
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善光寺浅草寺で少年はドローンを飛ばしました。日本テレビ「宮根屋」を撮影。事件の報道はドローン購入資金「15万円」がユーチューブのアクセス数に応じた安定収入だったことが判明して、企業の責任に移りつつあるようです。

少年がどんな犯罪名で起訴されるのか解りませんが盗撮した映像をインターネットのユーチューブにオンすれば社会にどんな混乱を引き起こすか想像できなかったという意味では白痴化の一現象と言えます。どうも私の感覚ではユーチューブの載せるとアクセス数に応じて広告収入が得られるシステムに批判が集中すると思われます。
今AUのUユーチューブ広告を視ていると。ユーチューブに”動画を載せるとアクセス数に応じて50万100万円の安定収入が得られる”マニアックな少年にを誘っています。動画に反社会的なものが載ったらどうするのか企業には無頓着だったようです。
このような問題は企業のコンプライアンス(倫理)がワークしていなければ、起らないのですがユーチューブにはコンプライアンス感覚が希薄なのでしょう。更にAUの販促部も白痴化が進行しているようです。
ライバルのソフトバンクが順調であり広告効果が大きいと思えば似たような企画を打ち出します。それが松井翔太を主演にした「桃太郎物語」です。視聴者が幼児化していると思えば広告セクションも白痴化しているようです。
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桃太郎は鬼が島を攻めて金銀財宝珊瑚を持ち帰りました海賊というか侵略行為でしょう。
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小さな桃太郎が鬼を退治する話は教育勅語の童話版でした。

【黍団子は三つか四つか】
桃太郎が鬼が島を攻めるに際してお婆さんは黍団子を持たせます。私達は三つ作ってもらった、と教わりました。
犬猿雉をお供にするに際して黍団子をあげるのですから三個あればピッタリです。でも三個では桃太郎の分が足りません。四個にするか雉は半分にして桃太郎と分けなければなりません。岡山の昔話では半分に分けた事になっているそうです。(松谷みよ子氏調査)
1934年(昭和9年)「教育勅語・桃太郎訓話」が発表出版され。桃太郎は国民精神の昂揚に一役躱されたそうです。私も兵隊服を着て鬼が島(中国)に出征する絵を見た記憶があります。昭和6年には満州事変が勃発し昭和8ねんには国際連盟を脱退し日本はファッシズムに舵を切っていました。桃太郎は侵略戦争を鼓吹する教材として利用されていたのでした。
民話は庶民が語り伝えるからこそ民話であって、国家が思惑を持って筆を加えた瞬間から民話の命を失ってしまうものです。軍部が手を加えてからは民話ではありません。
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戦前の桃太郎は侵略行為を是認するヒーローでした。

中高齢者世代には桃太郎と聞くと苦い記憶が蘇って来るものです。戦後70年のこの年に桃太郎を使うという事はAUにはグローバルな感覚が喪失しているとしか思えません。
今日も嫌なCМが流れています。

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卵ご飯に泥鰌汁

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私は脳梗塞の後遺症対策として2回/週デーサービスに出かけます。お風呂を使って運動したり発声したりして半日過ごします。新聞は読売と日刊スポーツを読む事が出来ます。スポーツ新聞を見ていると景気が好転していることを実感します。最近はタクシーや建設関係の求人広告が増えているのです。一方で高齢者ビジネスの広告も目立ちます。
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最近の新聞広告の求人欄は景気回復を実感させます。そんな中で朝日新聞の配達員募集が目立つのは同社の窮状を暗示しているのでしょう。
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 スポーツ新聞には強精剤や回春剤の広告が目立ちます。
介護食や旅行広告がそれです。デーサービスのヘッドハンティングも盛んなようで新しく施設が出来ると既存の施設で働き盛りの人材を引き抜く行為も活発なようです。福祉ビジネスも仁義なき戦いのようです。
お風呂も戴いて新聞を読むのが楽しみでもあります。この1週間のの広告では新茶の広告卵の広告が私の眼を惹きました。卵の広告は卵ご飯が色鮮やかに印刷されています。「卵ご飯」は美味しいし体に精が付くそんなアピールです。そんな隣には精力剤の広告もあります。二つを見ていると私はついニヤニヤしてしまいました。
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生卵の記事広告この下に販売広告が載っています。
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井原西鶴:江戸時代初期のライトノベル作家の。この図はまるで上方落語のお師匠のような図です。浮世草子の作者で俳句も良くしました。

【生卵は大変なご馳走でした】
「何だかTさん嬉しそうですね?」訊かれます。
私は答えます。
卵の広告が出ていて美味しそうですね!私は生卵を見ていたら「井原西鶴の好色一代女」を思い出しました。
卵は代表的な強精食品のひとつだったことがうかがわれます。
私の生家の寺には仏前に卵が良く奉げられました。
お百姓が庭飼いの鶏が産んだ卵を拾い集めて籾殻の中に入れて仏前に奉げられるのです。
暫くすれば卵は仏前から下げられて家族の食卓に供されます。お檀家は年老いた祖母の体調を見舞ってご本尊にお下がりは祖母に心遣いだったのでしょう。それほどに生の卵は  
それはそれは大変貴重な食べ物だったのでした  
 暖かい卵ご飯と味噌汁があれば大御馳走でした。
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吉原風俗図絵(出典;日本の古典井原西鶴。廓の二階は大部屋で屏風で仕切って遊女がお客をひきこんでいます。遊女にはかむろ(少女)や三味線弾きも見えます。この遊女は自分の部屋を持たず、大部屋を衝立で区切っている「廻し部屋」でお客と過ごす遊女で、吉原では最下級のランクですからお客も相応の階層でありましょう。これらの見世は遊女を時間売りするので、切見世女郎と呼ばれました。遊女は大体が年増(30代以上)で、格子のない店先でお客を誘ったりしていました。お酒や食事を運ぶひとのすがたもあります。                

ところで好色一代女ですが、 
「しつっこくて、患わしい男を始末するには朝晩生卵と泥鰌汁を食べさせて言い寄れば男は直に逝く」という話が出ているのです。
男は、女が自分が好きだと勘違いして精の付く食べ物をご馳走してくれて肌を逢せて呉れる喜んでいたのでした。実はそれは誤解で実は患わしいので早死にさせる魂胆だったのでした。何も知らずに死んだ男は不幸だったのか?それとも幸いだったのか。早死にさせた女は毒婦なのか観音様なのか考えていたのですよ?
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片品村の水芭蕉。


実は私は来週尾瀬の入り口片品村に友達と行きます。
片品村にも水芭蕉が咲いて居ます。片品村は貧乏な村だったので女は良く働くんです。そんな風土が世紀の毒婦と呼ばれた「高橋お伝」を生みました。高橋お伝が毒婦だったのか聖女だったのかは葉っぱの裏表どちらかと考えていまあした。群馬の人達は誰もがそんな思いを抱いていたようにおもうのです。だから月夜野には奪衣婆が多くその奪衣婆も本来は怖ろしい筈なのに乳房を若々しくさせて怖いというより懐かしさが漂う表情に刻まれたと思うのです。
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「高橋オ伝」の図:オ伝は沼田月夜野で生まれたものの貧農がご禁制のたばこの栽培をして沼田藩の財政を助けた事から悲話が始まります。オ伝は生来のの悪人ではなく貧しさと男の強欲に流された哀れな人物だった、そんな見方もあります。図録は上・中・下とも同一。「芳川春濤閲 岡本起泉綴」として「其名も高橋毒婦之阿伝/東京奇聞」「嶋田一郎梅雨日記」「白菖阿繁顛末」「坂東彦三倭一流」「澤村田之助曙草紙」「幻阿竹噂聞書」「川上行義復讐奇談」他5点を挙げる出典:近代書誌・近代画像データベースhttp://base1.nijl.ac.jp/~kindai/img/YKHC/YKHC-00098/YKHC-00098-04.jpg
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これは鎌倉長谷寺の新しい奪衣婆像、月夜野一帯には口に味噌を付けた奪衣婆が多くみられるのです。帰ってきたらブログにアップします。


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新茶の季節です

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今朝は朝方夢を見て興奮のあまり目覚めました。
私は日本橋にある証券会社の店長です(サラリーマン時代出向先でそんな経験がありましたので)
その店頭ロビーが大混乱で。私は「てんてこ舞い」しているのです。
原因は店頭で「新茶のサービス」を開始したのでした。
お茶は静岡の掛川から取り寄せました。テラー職員には絣に赤い襷を着用させました。ロビーの一角には赤い毛氈を敷き「野点傘」も立てました。お菓子は追分羊羹を取り寄せました。
テーブルのメニュー立には新茶は「日本橋三越さんに納品している石部商店様(証券会社の向かい)のご厚意に依ります」コピーを入れました。お菓子は清水の名産「追分羊羹」でこれは三井不動産様のご厚意を頂戴しています。案内しました。大型画面には掛川の茶所の景色と美味しいお茶の点て方が映っています。ロビーは今日ばかりは掛川茶の店先のようです。石部商店さんのホームページはhttps://www.facebook.com/nishikienを証券会社のロビーに引越しした様なものでした
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掛川産の新茶の広告が目立つ季節になりました。
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掛川の茶畑。機械で刈られていますので整然としています。
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これが清水の銘菓追分羊羹。http://www.oiwakeyokan.com/追分羊羹は東海道と清水港道(久能山道)との追分に在る300年を超える老舗です。追分羊羹は外郎と羊羹の折衷のような食感で筍の皮の香りが羊羹に浸み込んでいる風味が良いものです。徳川慶喜御贔屓の茶屋だったそうで。徳川慶喜は大政奉還後駿府に入ってこの茶店に度々お越しになったそうです。今年は神君家康崩御後400年です。

何時もは閑散としているロビーなのですが今日はお祭り騒ぎです。
何故こんな夢を見たのか?思い当たります。
昨日のyahoo画面にこんな記事が終日出ていたのでした。
日本で唯一、スターバックスがない“スタバ空白地”として知られる鳥取県に5月23日(土)、スターバックス コーヒー シャミネ鳥取店がオープンし。徹夜組1000人が行列した。10年も前にモスクワにマクドナルドが出店してニュースになった記事を思い出すニュースでした。
スターバックスはそんなに憧れられているのか?感慨があります。私の感覚では何故あんなに高いコーヒーが人気なのか不思議です。マレーシアにいってもホーチミンでもベトナムコーヒーがあるのに何故スターバックスが人気なのか不思議です。それこそスターバックスには抜群の非価格競争力があるのでしょう。日本人は東南アジアに行ったら現地のドリンクを飲みたいものです。

鳥取にスターバックスが無かったのは鳥取は総じて大坂商圏であって、コスパが優先される気風があると想われていた事。そして珈琲文化が浅かった事、第一人口が少ない事等があるのでしょうが1000人も並んだという事は鳥取市民にはスターバックスコンプレックスが在ったのでしょう。スターバックスコンプレックスを逆手に取るとすれば鳥取資本としては「鳥取信用金庫」か民芸店の「匠」でしょう。どちらも店頭にスターバックスを誘致しそうなカルチャーをお持ちです。匠は民芸の柳宗悦 生家の事業です。
【お茶の記憶】
今日【5月25日】は朝から寒いのです。こんな88夜過ぎの冷え込みは新茶の大敵です。
私の生家は寺でしたのでお茶の消費量は馬鹿になりませんでした。そこでお茶は家族で自家製造していました。畑の隅や方丈庭園の植え込みにはお茶の樹が植えられていましたので。冷え込む前に新茶を積んで家族総出で茶を作りました。先ずアルミ鋳物鍋の内底に和紙を張ります。七輪で炭を起こし鍋を掛けます。鍋に摘み取った茶を入れます。すると新茶の若葉は蒸されます。蒸された茶を手で揉みます。すると茶の若葉は丸まります。丸まった若葉を莚の上で天日に干しあげて乾燥させれば新茶の完成です。こうして家族総出で手作りしたお茶を桐箱に入れて一年間使い切ります。
こうしてできた茶ですから美味しいこと香りが深い事は間違いありません。檀家さんは家族が精を出してお茶を作っている事をを良くご存知でした。加えて良く茶柱が立ってお客さんに喜ばれたものでした。茶柱は茶の中にお茶の樹の軸【小枝】が混じったものでした。寺も世代が代わってお茶の樹は見捨てられてしまいました。お茶の樹はもう今では野放図に育ってしまい。到底茶摘みなど出来そうもありません。
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我が生家に近い畑のお茶の樹。昔は横浜でも原家の隅土手にはお茶の樹が植えられてどの家でもお茶を自家製造していました。
祖母はこのお茶の樹を【実を付けたままで】茶花に使っていました。(写真の蒼い実)。
こうして茶も自家製造する人は居なくなり。専門店から買うのでしょう。もちろん、自家製造の方が非価格競争力がありますし。美味しいのですが。我家には山茶花と桑こそありますがお茶の樹はありません。何時か自分で作ってみたいものです。出来たらお仏壇に奉げましょう。
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     「茶柱が立つとは大黒柱が立つ事を連想させるので吉兆として喜ばれるのです。

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相撲に教わる教育の権限

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大相撲夏場所も終わりました。期待の新星「照之富士」が優勝し同部屋の日馬富士も存在感を示しました。期待の大関陣はそれなりに活躍して面白い場所でした。日本人期待の遠藤も後半戦に6勝し[勝つ味」を思い出したようで、来場所に期待を繋げました。
一時は閑散としたお相撲でしたが、テレビ画面からも熱戦が伝わります。気が付くのは外国人観客が多い事とお着物の女性客が目立ったことでした。照之富士の優勝インタビューを聞いていて感心しました。好漢照之富士の第一声が両親への感謝の言葉だったのでした。と、言っても、「強い体に産んでくれたお母さん有難う」と言ったのではありません。モンゴルから出国して大相撲にチャレンジするチャンスを呉れた両親への感謝を口にしたのでした。日本人感覚でいえば「フルブライトで米国大学に留学するようなもの」でしょうか?でも日本人留学生は照之富士のように感謝を口にしません。日本人は親が教育投資をするのは当然と思っているのです。照之富士に清々しさを覚えたのは私だけでは無かったものと思います。親が子供に人生にチャレンジする機会を与えようとして。精一杯の努力をして、子供が期待に応えて、親に感謝する。ごく自然な倫理であり太古から自然に営まれてきたのですが今日はそれも稀にしか見られなくなってしまいました。
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5月場所は照之富士の優勝で終わりました。
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好漢照之富士両親への感謝発言に好印象を持った人が多かったと思います。
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連敗でうな垂れる「遠藤」折角結っった大銀杏が無念です。照之富に追い越されてしまいましたがそろそろ四股名も付けて貰って再起してほしいものです。


昨年12月に教育基本法が改正されました。先日は新聞紙上に「教育免許を国にする法案が踊っていましたし。教育基本法が改正されたので教育行政組織も改正されるのです。従来は各自治体(教育委員会に)に在った教師の任免権を国家にしようとするのです。読売新聞の社説は政府案を首肯していました。
既に日教組も組織は弱体化していますので目立って反対する者も居そうにありません。教育権も国にありマスコミも政権に寄り添っています。こんな構図は嫌な記憶を呼び覚まします。そう「教育勅語」が発布され軍部が指揮権という首輪を外して中国に攻め入った記憶です。あの時も政府は大企業にベッタリで、若い下士官兵は眼を充血させてテロに向かっていました。貧乏だった庶民は総じて青年将校に味方していました。日本もドイツもイタリアも皆民主国家でした。でもポピュリズムが蔓延して独裁者を期待していました。政治システムは民主主義であっても一人一人がしっかりしていないとポピュリズムの機関車は走り出すと制御不能になってしまうのです。
【昭和実録が示した事】
今年3月昭和実録が刊行され既に第三刷が刊行されています。相当な人気です同実録を読んで印象深い事は下記三点でした。
①昭和天皇は戦争を阻止しようと諦めていなかったそして早期の終戦を期待されていた。
②と言っても軍隊の統帥権は天皇に在ったのは事実で戦争責任は果たす覚悟で占領軍を迎えた。
③上記2点を以って戦争責任が「天皇制」に在るとは言えません。逆に戦争責任は軍部の専横やそれを許した世論【ポピュリズム】に在る。マスコミも教育も軍国主義のポピュリズムを煽るばかりで軍部の専横を許しました。
④昭和天皇は戦後全国を行幸される事に熱心でそんな姿と平和憲法が日本の復活を支えました。昭和天皇は何よりも日本国が世界に歓迎された事を喜ばれました。
【教師の任免権を国に任せて良いのか?】
私は人間にとって最も基本的な役割は「子供を教育する事」にあると確信します。子供がいくら立派に育っても親は親であり子供は子供です。中江藤樹の母親も空海の母親も死ぬまで母親でありました。だからこそ今も親も子も尊崇されています。
親が親であることを放棄し。子供が親を敬愛する事を忘れては人倫は廃れてしまいます。教育基本法を改悪して教育の執行権を国に統一しようとする国には照之富士のようなお相撲さんを育てる可能性は無いと思います。民主主義は歴史上最高のシステムでありましょう。でも民主主義は大きな危険性を孕んでいるのです。
ギリシャがはポリスに集まった人民による民主主義国家でしたが、ポピュリズムが蔓延すると隣同士のポリス国家から見捨てられてしまいます。そしてマケドニアのアレキサンダー大王に蹂躙されてしまいます。一人一人の意見を多数決にして決めようとするシステムは口達者を育てて健全な良識を撲殺してポピュリズムを蔓延させやすいのです。
私は今次の「教育基本法の改正」や「安全保障体制の改正」を安倍さんのポピュリズムと思います。我が国のポピュリズムは小泉内閣の頃から目立ってきました。
「国の基本は教育にある」私達は「米百俵」の説話で熟知しています。
昨年の教育基本法の改正以来の教育改正は大きな錯誤があります。「教育の権利が親に在る」事を見過しているのです。「国が衰える兆しがある」誰もが危機感を持っています。そこで親の権利を国家が奪って「国の繁栄に寄与するような人材の育成に邁進するように改悪しようとしているのです。
江戸時代に昔は親は字も書けないし算数も出来ないので子供を寺小屋に預けました。でも教育は親の喜びであることからその権利を放棄した事はありませんでした。
「人間としてすべきことしてはいけない事は厳しく躾けました。「算数が出来ないので桃太郎には黍団子を3個しか持たせませんでした。でも桃太郎を聞いた子供は桃太郎は黍団子を雉と半分ずつにした、と聞きました。それは「優しさこそ男の誇り」でありに「卑怯者」こそ最も忌み嫌われる者だと共育されたからでした。
私も小学生の頃はお相撲が好きでした。
隣の教室のクラス担任が病欠すると度々合同授業が実施されました。合同授業は音楽や体操が行われました。一人の教師が二クラスの授業が容易に出来たからでした。
一緒に歌を唄って校庭に出てドッチボールやソフトボールの対抗戦に興じました。
ボールゲームが終わるとお相撲をしました二クラスの代表3人を選出して勝ち抜きをするのです。今の高校生の柔道の団体戦と同じです。先鋒副将大将の順に対戦します。私は背筋が強いので投げ技が得意でした。先鋒が負けても副将が負けても大将さえ負けなければクラスは勝ちです。勝負は組んだ瞬間に解ります。派手に投げる事は出来ても投げずに受け身をし易いように投げるのが大将の役割でした。背中をそっと地面に落してあげるのが相撲だと思っていました。私は先生の信任とクラス仲間の高評価を受けた場面でした。
地方に行くと神社に未だ土俵が残っているのを見る事が多くあります。日本人のお相撲さんを育てるには土俵も大切ですが相撲の心を育てる事も大切です。受け身をしらない子供。武道の心得の無い子供が相撲を取ると怪我人が増えてしまいます。昔は武道の心得などは教えなくても伝わってたものでした。
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 山形鶴岡市三瀬の気比神社(石塚志郎宮司)の奉納相撲大会が写真山形や秋田の神社や学校には土俵が良くあります。お相撲の環境は揃っているのですがお相撲を教える世代が(親や爺様」がいないのが問題です写真出典は山形新聞http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E7%9B%B8%E6%92%B2


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俯いて咲く花

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我家の紫陽花も色ずんで来ました。屹度鎌倉の岩タバコの花も咲き始めていることでしょう。
今年は浄智寺の白雲木もエゴの花も見過したので岩タバコはしっかり観に行きたいものです
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東慶寺の岩タバコの花。岩タバコは万葉集では「やまぢさ」と呼ばれていました『息の緒(を)に 思へるわれを 山ぢさの 花にか君が 移ろひぬらむ』   巻7‐1360          
 大意は:私は命を懸けて貴方の事を想っているのに貴方はもう心変わりをしてしまったのでしょうか。
                             
岩タバコの花が綺麗だと思うわけは、俯いて咲くからです。金平糖のような星形の花が俯いて咲くのです。花が空を向いて上向きに咲いて居たら可愛いいとは思わないでしょう。日本人が好きな花は何故か俯いて咲きます。百合の花でも山百合や笹ユリは俯き加減に咲きます。欧米人が好きなマリアリリーは上向きにさきます。
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日本人大好き笹ユリは下向きに咲きます
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マリアリリーは横向きに咲きます。撮影場所鎌倉長谷の路地裏
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山桜の花は俯いて咲きます。
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片栗の花は俯きに咲いてこそ可愛らしいのです。
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蛍袋ももうすぐに咲き出すことでしょう。


片栗も蛍袋も菫も下向きです。そう思ったら桜の花も山桜や大島桜は下向きに咲きます。でも、多くの八重桜は薔薇と同じように下向きには咲きません。此処まで確認していたら、古代人が桜の花が稲の作柄の予兆と信じた訳が解ったような気がしてきました。どの著作も桜はその年の稲作の予兆と信じられました。見事に咲けば長く咲けば豊作で花が貧弱だったり直に散ってしまったら不作になる、判断しました・・・・。そんな風に書かれています。でも真実は『山桜が俯き加減に咲く姿を見て古代人は稲穂が垂れて豊作になる景色をを想像していたのです』が正解だと確信したのです。麦は大麦も小麦も燕麦も皆上向きに稔ります。下向きに稔るのはお米だけで
す。トウモロコシも上向きですが粟も稗も下向きに。頭を垂れて稔ります。
だからでしょう、日本人は上向きが苦手で下向きが好みなのでしょう。
日本人は「おもてなし」の庭園には滝を造作します。一方欧米人は噴水を造作します。水は上から下に落ちて方円の器を満たすのが自然の摂理です。下から天空に噴き上がるのは間歇泉か火山の噴火で良いものはありません自然の摂理に反しています。
梅雨に入れば岩タバコもお終いです。来週マデニは観に行く事にしましょう。季節の進むのが早すぎて見物がもう間に合いません。
神様がもう人生は最終コーナーなんだから自然に抱かれて心安らかに過ごしなさいそんな思い遣りなのでしょう。心安らかに過ごすには俯き加減に少女のような恥じらいを含んだ花に勝る花は思い当たりません。
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赤坂のホテルニューオータニ東京の庭視線の中央には滝があります。欧米なら噴水があってライトアップされていることでしょう。
この滝で滝修行をしたいお客様が熱望したらニューオータニは如何なる対応をするのでしょうか?日本文化のグローバル化と共に変な外国人も増える事と思います。この疑問は六本木のミッドタウン公園の庭を見ていても思います。
滝はいいなあ!おもいます。そう思うと近年に上野公園の噴水は減らされてしまいました。いずれ日比谷公園の噴水も無くなって滝だけになってしまう事でしょう。

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