昨日は「自利・利他」について所感を述べました。現代社会の行きづまりは総ての人が「自利」で行動するとするアダムスミスの「国富論」が間違いでその延長上に在る新古典派経済学もこの行き詰まりを打破する事は出来ない。近時話題のピケティーはこうした行き詰まりを俯瞰する視点を有した経済学で「自利」の欠陥を是正する「博愛」の視点を提言した事で意義が大きいと述べました。
ところで、自利の対極概念「利他」を述べたのが倶舎論で、その教えは三蔵(玄奘)法師がインドから中国(唐)に伝え、更に玄が経典と共に日本に伝えます。その教義は唯識論で「無着・世親」によって説かれました。浅薄な筆者の知識では説明しかねますが基本的には「認識論で」欧米の認識論は”われ思うゆえに我在り”がスタートですが、世界は一つでは無くて10人人がいれば世界は10もあるといった指摘です。でも世界(地球)は一つしかありません。10人の別々の認識が何処かで一致し調和しないと大混乱に陥ります。全員が自利の行為に走れば社会は大混乱暴動になってしまいます。自利の認識や行為が利他の認識・行為に調和する事が重要です。人間は基本的には自利で行動すると認めながらも利他こそ大切で利他の教えで理想的な国家を作ろうと考えたのでした。
そんな時代背景の中で作られたのが興福寺の阿修羅像です。阿修羅像を作った仏師作らせた人、そしてそのモデルは誰だったのか?推測するのはこの上無い楽しい事でもあります。結論から先に述べれば阿修羅像は戦闘の神ですから異形であって自然です、でもその表情は憂愁を帯びた青年の顔です。私達の感覚からすると二度逆です。戦いの神である怖ろしい顔のはずが、憂いを込めた美しい青年の顔ですから二度逆です。二度も逆になればぐるっと回って元に戻ってしまいます。最澄さんの教えに思い当たります。
”自利とは利他をいふ”真ん中に自分がいます自分は自利に凝り固まっています周囲にも自利を主張する人が群がっています。でも自分の周囲の人達は利他でもありますから暴動も起きませんし仲良く遣っています。一人一人が自利を追いながらも相互の自利がバッティングしないのは全員が利他の精神も兼ね備えているからです。
今日の話題は興福寺阿修羅像のモデルを考える事です。阿修羅は主尊【この場合釈迦如来像】を守る戦いの神様です。戦いの神様だから三面六臂の異形の神です。でもお顔は憂愁を込めた青年の顔です。この不思議を解釈しようとするのです。(写真は平凡社版日本の美/大仏開眼をコピー)
ミャンマーのシューミン洞窟寺院の蜘蛛私達は蜘蛛を見ると芥川龍之介の 「蜘蛛の糸」を想いだします。自利の殻に閉じこもっている行為を「悪」とみなし、利他に転じた行為を善と呼んだのでしょう。今日の主人公光明皇后は自身のことを「積善藤家」と呼びました。藤原一族が権謀術数を企て権力を掌中にしたその業悪を積善で償う意識がこの名を付けた所以かも知れません。
【興福寺西金堂】
光明皇后(こうみょうこうごう)は大宝元年(701年)に産まれます。母は橘三千代であり父は藤原不比等でありました。
同年藤原宮子は首皇子(おびとのみこ/後の聖武天皇父は文武天王)を産みます。藤原宮子は 橘三千代の娘でしたから、藤原不比等は天皇の后と皇太子の后で取り囲んだことになります。藤原不比等は藤原氏の氏寺であった山階寺を現在地に移転して興福寺を造営していました。興福寺は平城京を見下ろす一等地でありましたから矢張り不比等は相当な遣り手です。
光明皇后の母三千代は天平5年に亡くなります。すると光明皇后は興福寺西金堂を建立し亡母を慰霊します。
中央に釈迦如来を祀り普賢文殊菩薩を始め十大弟子、八部衆等の諸仏が周囲を囲む仏殿でした。同時代の荘厳な仏殿と言えば東大寺法華堂ですから。東大寺法華堂を2倍ほど大きくした京都東寺の金堂のような荘厳さであった事でしょう。ですから興福寺西金堂は光明皇后聖武天皇の信仰を形にした仏殿だったのでした。その仏殿の外側で周囲の雑踏や混乱から守護する位置に置かれたのが八部衆でした。八部衆のうち6体は動物の顔をしていて毒や欲望を退治する神々でしたが阿修羅と五部浄像の2体だけが人間の顔をしています。私は光明皇后のお好みの青年のイメージを阿修羅に映したと想像致します。そう思うと私の身近に居る叔母さまたちは「今光明子」のようでみんな口をそろえて「阿修羅が良い」仰います。
では西金堂建立の頃光明皇后の周囲に居た青年というと二人います。一人は玄奘の教えと経典を日本に持ち帰った玄、そしてもう一人が橘諸兄のブレーンとして登用された吉備真備ですそしてもう一人は自利利他の実践者「行基」です。私は玄に着いては後世光明皇后と艶聞が流れた事などから若かったころの行基菩薩をイメージ致します。
東大寺法華堂光明皇后が建立した頃の興福寺西金堂はこんな荘厳な空間であったと想像します中央の不空羂索観音立像の位置に丈六の釈迦如来像四方の四天王の位置に八部衆が位置していたと想像します。東寺の立体曼荼羅を超える空間であったろうと推測します。
此方は山城蟹満寺(かにまんじ)の釈迦如来像西金堂の本尊はこのような気有壮大な仏像であったろうと推測します。
【仏師】
次に考えるのは誰が仏師であったか?という問題です。天平時代の仏師は総じて官僚です一つは東大寺の像造仏師もう一つが興福寺の仏師でした。興福寺は興福寺司の将軍 万福という名の百済の帰化人と云われています。
阿修羅像の基本技術は脱乾漆造りであり塑像を作ってその周囲に布を巻き布の上に漆を含ませて乾燥させ塑像を壊して作った張子状の仏像です。基本技術は塑像ですから秦の始皇帝の兵馬俑と同じです、その上に漆の技法がオンされたもので、軽いので壊れにくいし着色も容易で長く保存できる等長所も多いのでした。天平時代の秀作と言えばこの八部衆の他唐招提寺の鑑真像等の肖像仏像があります。光明皇后から”誰それさんのイメージで阿修羅像を作ってね”云われれば脱乾漆造りが最適な手法だったのでしょう。
興福寺西金堂の十大弟子も誰かモデルを設定して像仏したものでしょう。どれも脱乾漆像です。
鎌倉時代興福寺の仏師になった運慶は法相宗の祖無着・世親像を像仏して阿修羅像の横に並べました。阿修羅像の素晴らしさが運慶を刺激して秀作を作らせたのでした。
ところで光明皇后聖武天皇の国造りですが大仏開眼の大目標を建てます。
当時の日本の人口は500万人。大仏開眼は250万人の労力を要したと言いますから二人に一人は奈良の都に行って銅を鋳造し、大仏殿を建立した事になります。こんな大事業は日本では空前絶後でありました。貧弱な国力貧弱な資源でありながら何故こんな大事業が達成できたのか?不思議です。
これを解決したのが行基菩薩でした。既に当時から地獄の思想が浸透していました。”造悪の者は堕ち修善の者は昇る”誰もが確信していました。”地獄に堕ちるのは勘弁願いたい善を為したい”思えば直ぐに善行に励みたいものです。行基という名の生菩薩が道普請している橋工事をしている水利工事をしていると聞くと誰しもがその手伝いに精を出したのでした。奈良盆地には公共工事がアッチコッチで行われ成功していました。自利・利他の行為が行基の指導で成功していたのでした。光明皇后聖武天皇は行基を認めその教化力を利用して大仏開眼を成功させたのでした。
その頃中国では長安と穀倉地帯を繋ぐ大運河を作っていました。沢山の労力が徴用され民心は隋を離れていました。煬帝は滅ぼされてしまいます。大事業を為しても光明皇后は尊敬されました。
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