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阿修羅のモデルは誰?

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昨日は「自利・利他」について所感を述べました。現代社会の行きづまりは総ての人が「自利」で行動するとするアダムスミスの「国富論」が間違いでその延長上に在る新古典派経済学もこの行き詰まりを打破する事は出来ない。近時話題のピケティーはこうした行き詰まりを俯瞰する視点を有した経済学で「自利」の欠陥を是正する「博愛」の視点を提言した事で意義が大きいと述べました。
ところで、自利の対極概念「利他」を述べたのが倶舎論で、その教えは三蔵(玄奘)法師がインドから中国(唐)に伝え、更に玄が経典と共に日本に伝えます。その教義は唯識論で「無着・世親」によって説かれました。浅薄な筆者の知識では説明しかねますが基本的には「認識論で」欧米の認識論は”われ思うゆえに我在り”がスタートですが、世界は一つでは無くて10人人がいれば世界は10もあるといった指摘です。でも世界(地球)は一つしかありません。10人の別々の認識が何処かで一致し調和しないと大混乱に陥ります。全員が自利の行為に走れば社会は大混乱暴動になってしまいます。自利の認識や行為が利他の認識・行為に調和する事が重要です。人間は基本的には自利で行動すると認めながらも利他こそ大切で利他の教えで理想的な国家を作ろうと考えたのでした。
そんな時代背景の中で作られたのが興福寺の阿修羅像です。阿修羅像を作った仏師作らせた人、そしてそのモデルは誰だったのか?推測するのはこの上無い楽しい事でもあります。結論から先に述べれば阿修羅像は戦闘の神ですから異形であって自然です、でもその表情は憂愁を帯びた青年の顔です。私達の感覚からすると二度逆です。戦いの神である怖ろしい顔のはずが、憂いを込めた美しい青年の顔ですから二度逆です。二度も逆になればぐるっと回って元に戻ってしまいます。最澄さんの教えに思い当たります。
”自利とは利他をいふ”真ん中に自分がいます自分は自利に凝り固まっています周囲にも自利を主張する人が群がっています。でも自分の周囲の人達は利他でもありますから暴動も起きませんし仲良く遣っています。一人一人が自利を追いながらも相互の自利がバッティングしないのは全員が利他の精神も兼ね備えているからです。
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今日の話題は興福寺阿修羅像のモデルを考える事です。阿修羅は主尊【この場合釈迦如来像】を守る戦いの神様です。戦いの神様だから三面六臂の異形の神です。でもお顔は憂愁を込めた青年の顔です。この不思議を解釈しようとするのです。(写真は平凡社版日本の美/大仏開眼をコピー)
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ミャンマーのシューミン洞窟寺院の蜘蛛私達は蜘蛛を見ると芥川龍之介の 「蜘蛛の糸」を想いだします。自利の殻に閉じこもっている行為を「悪」とみなし、利他に転じた行為を善と呼んだのでしょう。今日の主人公光明皇后は自身のことを「積善藤家」と呼びました。藤原一族が権謀術数を企て権力を掌中にしたその業悪を積善で償う意識がこの名を付けた所以かも知れません。

【興福寺西金堂】
光明皇后(こうみょうこうごう)は大宝元年(701年)に産まれます。母は橘三千代であり父は藤原不比等でありました。
同年藤原宮子は首皇子(おびとのみこ/後の聖武天皇父は文武天王)を産みます。藤原宮子は 橘三千代の娘でしたから、藤原不比等は天皇の后と皇太子の后で取り囲んだことになります。藤原不比等は藤原氏の氏寺であった山階寺を現在地に移転して興福寺を造営していました。興福寺は平城京を見下ろす一等地でありましたから矢張り不比等は相当な遣り手です。
光明皇后の母三千代は天平5年に亡くなります。すると光明皇后は興福寺西金堂を建立し亡母を慰霊します。
中央に釈迦如来を祀り普賢文殊菩薩を始め十大弟子、八部衆等の諸仏が周囲を囲む仏殿でした。同時代の荘厳な仏殿と言えば東大寺法華堂ですから。東大寺法華堂を2倍ほど大きくした京都東寺の金堂のような荘厳さであった事でしょう。ですから興福寺西金堂は光明皇后聖武天皇の信仰を形にした仏殿だったのでした。その仏殿の外側で周囲の雑踏や混乱から守護する位置に置かれたのが八部衆でした。八部衆のうち6体は動物の顔をしていて毒や欲望を退治する神々でしたが阿修羅と五部浄像の2体だけが人間の顔をしています。私は光明皇后のお好みの青年のイメージを阿修羅に映したと想像致します。そう思うと私の身近に居る叔母さまたちは「今光明子」のようでみんな口をそろえて「阿修羅が良い」仰います。
では西金堂建立の頃光明皇后の周囲に居た青年というと二人います。一人は玄奘の教えと経典を日本に持ち帰った玄、そしてもう一人が橘諸兄のブレーンとして登用された吉備真備ですそしてもう一人は自利利他の実践者「行基」です。私は玄に着いては後世光明皇后と艶聞が流れた事などから若かったころの行基菩薩をイメージ致します。
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東大寺法華堂光明皇后が建立した頃の興福寺西金堂はこんな荘厳な空間であったと想像します中央の不空羂索観音立像の位置に丈六の釈迦如来像四方の四天王の位置に八部衆が位置していたと想像します。東寺の立体曼荼羅を超える空間であったろうと推測します。
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此方は山城蟹満寺(かにまんじ)の釈迦如来像西金堂の本尊はこのような気有壮大な仏像であったろうと推測します。
【仏師】
次に考えるのは誰が仏師であったか?という問題です。天平時代の仏師は総じて官僚です一つは東大寺の像造仏師もう一つが興福寺の仏師でした。興福寺は興福寺司の将軍 万福という名の百済の帰化人と云われています。
阿修羅像の基本技術は脱乾漆造りであり塑像を作ってその周囲に布を巻き布の上に漆を含ませて乾燥させ塑像を壊して作った張子状の仏像です。基本技術は塑像ですから秦の始皇帝の兵馬俑と同じです、その上に漆の技法がオンされたもので、軽いので壊れにくいし着色も容易で長く保存できる等長所も多いのでした。天平時代の秀作と言えばこの八部衆の他唐招提寺の鑑真像等の肖像仏像があります。光明皇后から”誰それさんのイメージで阿修羅像を作ってね”云われれば脱乾漆造りが最適な手法だったのでしょう。
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興福寺西金堂の十大弟子も誰かモデルを設定して像仏したものでしょう。どれも脱乾漆像です。
鎌倉時代興福寺の仏師になった運慶は法相宗の祖無着・世親像を像仏して阿修羅像の横に並べました。阿修羅像の素晴らしさが運慶を刺激して秀作を作らせたのでした。
ところで光明皇后聖武天皇の国造りですが大仏開眼の大目標を建てます。
当時の日本の人口は500万人。大仏開眼は250万人の労力を要したと言いますから二人に一人は奈良の都に行って銅を鋳造し、大仏殿を建立した事になります。こんな大事業は日本では空前絶後でありました。貧弱な国力貧弱な資源でありながら何故こんな大事業が達成できたのか?不思議です。
これを解決したのが行基菩薩でした。既に当時から地獄の思想が浸透していました。”造悪の者は堕ち修善の者は昇る”誰もが確信していました。”地獄に堕ちるのは勘弁願いたい善を為したい”思えば直ぐに善行に励みたいものです。行基という名の生菩薩が道普請している橋工事をしている水利工事をしていると聞くと誰しもがその手伝いに精を出したのでした。奈良盆地には公共工事がアッチコッチで行われ成功していました。自利・利他の行為が行基の指導で成功していたのでした。光明皇后聖武天皇は行基を認めその教化力を利用して大仏開眼を成功させたのでした。
その頃中国では長安と穀倉地帯を繋ぐ大運河を作っていました。沢山の労力が徴用され民心は隋を離れていました。煬帝は滅ぼされてしまいます。大事業を為しても光明皇后は尊敬されました。


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興福寺仏頭の傷跡

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昨日は興福寺西金堂の阿修羅像について書きました。今日は東金堂の床下から発見された仏様の首(一般に興福寺仏頭と呼ばれています)について書いてみます。
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 今日のテーマは興福寺の仏頭です。余りに美しいお顔の裏には人間の為した血塗られた歴史と悲しい業を秘めておいでです。


【白鳳の仏頭発見の経緯】
昭和12年(1937年)この興福寺の東金堂の修理中、須弥座の下より発見されました。戦争の懸念が濃くなる中での発見であった事から。日本中が湧き立った第発見でありました。多分、高松塚古墳の壁画が発見された時の様に日本中が興奮した事でしょう。(発見者は奈良県文化財の技官・黒田義(のりよし)氏で同氏の奥様黒田康子さんのブログに詳細が載っています(http://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-41.html)須弥座下に木箱があって木箱の蓋に次の経緯が墨書されていました。
応永18年(1411)閏10月15日に、春日の東塔の雷火の災を蒙って、東金堂および廻廊などが焼失した。
その際、諸尊秘仏六躰は悉く取出すことができたが、本尊は大綱がなくて取出すことを断念した。
しかし幸いに、災後その御首だけが残っていました。
そこで、その御首を据え奉るために台座を造営した。
将来、堂宇および本尊か再建、再鋳されたならば、この台座をその本尊の御座の下に置いて、御首の久住とせよ。
現在興福寺は再建中ですから御首の久住賭すべくその躯体を鋳造し。昔のお姿を回復するよう期待されているのです。
良く似た例は秋篠寺伎芸天像で仏頭は天平時代ですがお身体は鎌倉時代です。何かの事情で天平時代のお顔が残され、鎌倉時代の仏師がお顔の美しさに感動してお身体を補作して現在の秋篠寺伎芸天像を完成させたのでした。
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天平時代の仏頭に金倉時代のお身体を用意した秋篠寺伎芸天像これは修理とも補修とも言いません。形を残すのが補修であり機能を残すのが修理ですが拝む心を伝えるのは、仏心を湧き立たせるには修理や補修の概念を越えたものが必要です。若しも興福寺の仏頭を蘇らせようとしたらこの仏心の処が一番に難しいでしょう。



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こちらが興福寺東金堂中央の薬師三尊像の須弥壇の下に木箱があ仏頭が収められてありました。
【興福寺の略奪】
さて、この美しい仏頭ですが興福寺のの東金堂に収まる前の経緯がまた複雑怪奇でした。
興福寺は治承4年(1180)の平重衡の兵火に炎上し、その後、文治元年(1185)に東金堂は再建されたが、本尊像の制作までは力及はず、いつ出来るという見込みさえつかない状況でした。このことに業を煮やした興福寺の僧兵が、強引に山田寺の丈六薬師三尊像を略奪して、本尊に据えようとはかったのでした。その時の経緯は時の関白藤原一族の首領(ドン)九条兼実が日記「玉葉」に書き残しています。文治5年(1189)に興福寺を訪れた時には、「山田寺の本尊を強奪した時には問題だとは思ったがこうしてご本尊を拝観するとはなはだこの堂の本尊にふさわしい姿で、これも何かの機縁だろうか」と言って、事件を追認していたのでした。
古代末期には興福寺は畿内要衝に荘園を抱え沢山の僧兵も擁していました。屹度「昔の都の在った飛鳥に行けば適当な仏像が在るだろうからそれを奪って来よう」考えたのでしょう。
今梅雨の季節街には「山法師」が咲いています。山法師は僧兵の被っていた白い頭巾の事です。僧兵は悪い事をしていたんですから。仏様に見破られない様に白い頭巾で顔を隠していたのかもしれません。
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今が見頃の山法師の花。僧兵の被っていた頭巾に似た形をしているから山法師と名付けられましたが。僧兵は悪い事ばかりする部隊だから仏様に顔を隠していたのかもしれません
【山田寺の本尊は誰が何の為に作ったのか】
九条兼実が日記「玉葉」によって興福寺の仏頭は本来は山田寺のご本尊であって興福寺が強奪した事が解ります。ではその山田寺は誰が何の為に建立したのか疑問が深化してゆきます。
日本古代史のスーパーヒロインは先ず光明皇后。そして持統天皇(額田大王)でありましょう。私達が古代が大好きな理由の第一は女性かが活躍した時代だったから、だと思います。万葉集一つとっても女性の歌の方が男性の歌よりも心に響くものがあります。
女性上位の時代の方が日本の文化は大きく芳しく花開くようです。平成もそんな時代なのかも知れません。
持統天皇は天智天皇の第2皇女で母は蘇我倉山田石川麻呂の女遠智の娘でした。
大化の改新は逆賊蘇我氏を藤原鎌足と中兄大王子が滅ぼし、古代律令国家を築く第一歩であったと教わりますが。私は一番の功労者は蘇我倉山田石川麻呂だと思います。石川麻呂は曽我氏本家の蘇我蝦夷(叔父)入鹿(従兄弟」をクーデターで殺害します。改新の功績は鎌足や中兄大王子に奪われますが一番に手を汚し悩んだのは」は間違いなく蘇我倉山田石川麻呂だったのでした。
石川麻呂の屋敷は桜井と飛鳥の中間の山田に在りました。屋敷に寺院を建立します。丁度甘樫丘に蝦夷が自宅を建て法興寺(飛鳥大仏)を建てた様に山田寺を建立しました。
改新の後皇極天皇の御代では右大臣の要職に遇せられましたが異母弟蘇我日向(ひむか)の讒言によって中上大兄皇子の差し向けた物部二田造塩( ( もののべのふたつたのみやつこに攻められて山田寺で自害して果てました。追手の物部二田造塩の名からして石川麻呂の首は塩漬けされて首謀者の中上兄皇子や鎌足が首確認したのでしょう。
こうして仏教導入や革新政策に積極的であった蘇我氏は滅亡してしまいます。
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多武峰縁起に依る大化の改新の図太刀を振り上げて蝦夷の首を打ち落としたのは蘇我倉山田石川麻呂でした。クーデターの現場は飛鳥板葺の宮でお隣が飛鳥大仏(本興寺)でした。
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桜井から阿倍文殊院の前をすり抜け明日香に向かう道沿いに山田があります。向こうの山が蘇我氏本家の在った甘樫丘になります。この付近も住宅が増えて来ました。

)
中上大兄皇子も中臣鎌足もどちらかと言えば守旧派であって、中央集権国家の設立に最も理解が深かったのは曽我氏であり、蘇我氏の中でも財政に強かった蘇我倉山田石川麻呂であったと思うのです。何故かと言えば中央集権国家になって最も打撃を被るのは蘇我氏自身であるからです。蘇我倉山田石川麻呂初常常”自分の財を大事にするか国家を大切にするか”苦衷の決断を探し求めていたことでしょう。中国に倣って中央集権国家の樹立をすれば先ず自らの領地や配下を国家に提供しなくてはなりません(公地公民)日頃考えていたから最期の場面でも一族を諭して自ら頚をくくり逍遥として死に臨んだと思われます。
”我 死してなお、天皇に忠節を尽くすことを誓う”言い残したのでした
明治維新でも似たことが頻繁に起りました。逆賊と罵られた会津の松平容保が実際は忠臣であって、錦の御旗を立てた薩長軍の方が欲得づくであったりして・・・・。いずれにしても蘇我倉山田石川麻呂は英雄であって悲劇の主人公であったのでした。
こうした事を最もわかっていたのは大海人皇子(後の天武天皇)であり額田大王(後の持統天皇)だったと思います。
日本書紀には天武天皇7年(678年)には「丈六仏像を鋳造」とあり、同天皇14年石川麻呂の孫に当る持統天皇が参列され((685年)にはその丈六仏像が開眼されています。近年山田寺も発掘調査が進み、出土した古瓦の編年から日本書紀の記述はおおむね正しい事が確認されています。
」そんな次第でこの美しい興福寺仏頭は持統天皇が中心になって作られたものであると想われます。目的は祖父の蘇我倉山田石川麻呂の鎮魂ですから、石川麻呂の面影を留めようとしたものでしょう。
【仏頭のモデルは誰】
では、次はだれが仏頭のモデルだったかという事です。年齢思想。容貌等からターゲットを絞り込んで行かなくてはなりません。
結論から言うと私は大津皇子(おおつのみこ)だろうと推測します。もう長くなったので今日はこの辺りで筆をおきます。「何故仏頭のモデルが大津皇子」であるのかその事由は別の機会に書く事にしましょう。脳梗塞で横になっていると妄想が膨らみます。妄想病で認知症の心配は無さそうです。
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此方は蘇我氏本家の氏寺法興寺の丈六釈迦如来像。痛々しい程傷んでいますが興福寺が山田寺の薬師像でなくてこのご本尊を強奪する事もあり得たのでした。
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此方は武蔵野深大寺の釈迦如来椅像興福寺仏頭と同じ白鳳時代の銅像です。興福寺仏頭にお身体を御造りするには深大寺のこの像のように美しく大きさは丈六の法興寺を模せばよいのですが・・・。


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モデルは大津の皇子

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昨日は興福寺の仏頭を素材に私が学生時代から抱えてきた〝想い”を書きました。興福寺の仏頭は”持統天皇が祖父の蘇我倉山田石川麻呂の冥福を祈って造仏したものでそのモデルは大津の皇子であろう”と迄を書きました。今日も中心になるのは持統天皇(少女時代は額田の大王皇后時代は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)です。額田の大王は天照大神に乗り移って壬申の乱に大海人皇子を勝利させます。昔の恋人天智天皇には大田皇女との間に生まれた大津の皇子が居ました。大津の皇子は当代最高の人物で次代の天皇としての期待も大きかったと思われます。天武天皇には鸕野讚との間に草壁親王が出来ていました。
天武天皇の次は大津の皇子と草壁天皇と二人が競う事態になっていました。まるで壬申の乱を髣髴させる事態でした。
そんな事態で皇后鸕野讚は病気になってしまいます。日本書紀には天武9年(680年)天武天皇は皇后の病の回復を願って薬師寺の創建に着手したと在ります。期待通りに鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒をしますが今度は天武天皇が倒れてしまい天武は薬師寺の完成を見ずに亡くなってしまいました朱鳥元年(686年10月1日)没。事件は天武天皇の殯(もがり)も終えない同年10月3日に発覚します。大津の皇子に謀反の疑いがあるという事でその部下30人共々逮捕されます。大津の皇子は自害します(享年24歳)が異常に処置が早く処刑は大津の皇子と川島皇子の二人だけで大半の逮捕者は恩赦された事実は大津皇子は無実であり、息子の草壁皇子可愛さのあまり大津の皇子を陥れた持統天皇鵜野讃良が首謀者であった事を推測させます。
鵜野讃良の強い母性が犯した犯罪と思わせます。ところが肝心の草壁皇子は大津皇子の変後2年で病死してしまいます。
例え皇族と云えども謀反人の死骸を葬る事は許されません。大津の皇子の死骸は難波と藤原境を結び竹内街道に転がっていたと想像されますが。大津皇子を慕う姉大伯皇女(おおくのひめみこ)等によって二上山の山頂に葬られたのでしょう。
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夕陽の沈む二上山雄岳(右)に大津皇子雌岳(左)に大夫の後を追った后の山辺皇女(やまのべのひめみこの墓が祀られています。山辺皇女は日本書紀には「被髪徒跣、奔赴殉焉、見者皆歔欷(髪を振り乱して裸足で走り、殉死した。それを見た者は皆嘆き悲しんだ)」とだけ記されています。こうした記述後で書く万葉集の秀歌が折口信夫さんや多くの人の右脳を刺激して名作を欠かせたのだと思います。絵画の世界でもこの景色は当麻曼荼羅図を構想させて平安時代の阿弥陀来迎図を作らせました。日本人の心の故郷の景色だと思います。

この辺りの事は折口信夫さんの「死者の書」に薫り高く著述されています。
葛城山の東側(日向側)には薬師寺が建っていて西側には四天王寺が夕日を浴びています。
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薬師寺一般にこのお寺は天武・持統天皇の夫婦愛が結実したお寺だと言われますが。着工した時はその通りでも竣工した時は大津皇子を処刑した持統天皇の後悔の念と大津皇子の怨霊を封じ込めようとする意図があったと思います。また自ら優れた歌人であった持統天皇が大津の皇子の才能や性格を認めて愛していたからこそ白鳳期の仏像は大津の皇子がモデルであったと思うのです。
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此方は薬師寺東求堂のご本尊聖観音菩薩像。薬師寺で最古の仏像です(薬師三尊よりも古い)眉から鼻筋に向けて流れるような線は興福寺の仏頭にも共通しています。持統天皇お好みの青年の表情です。

さて大津の変に関する日本書紀の記述は至って簡明です。天武天皇の命令によって書き始めた28歳の稗田阿礼がこの辺りは部分的に記憶喪失に陥ったようです。多分時々の実力者に右顧左眄した結果そうなったのでしょう。
ところが万葉集にはそんな役人根性は微塵もありません。大津の皇子の歌が良ければそれを載せています。
日本書紀の行間を埋めて余りあるのが万葉集です。
では以下に万葉集に観る大津の皇子と大津の皇子を愛した人々を紹介しましょう。


夫(天武」も倅(草壁親王)も失った持統天皇は薬師寺を西の京に竣工させます。
薬師寺竣工には当初の”病気の無い極楽を作る”願以上に大津の皇子の怨霊を封じ込める意図が在った事でしょう。大津の皇子をモデルにしたと思われる仏像が二基も祀られているのです。
【万葉集に見る大津の皇子】
【1石川郎女との相聞歌】
万葉集巻第2 107~109番には次が載っています。
あしひきの山のしづくに妹待つと 我立ち濡れぬ山のしづくに【107】

を待つと君が濡れけむあしひきの 山のしづくにならましものを【108】
大船の津守の占に告らむとは まさしく知りて我が二人寝し【109】
107番の歌は大津の皇子が恋人の石川郎女に贈った歌です。
私は貴方を待つとて、山の木々の下に佇んで、私は雫に濡れたました。山の木々から滴り落ちる雫に
これに対して恋人は108番の様に返したのでした。
私も貴方に逢えなくて寂しかったのです。せめてあなたを濡らしたという雫に私もなって貴方をお慰めしてあげたいものです。意味を恋歌として素直に取れば女性らしい可愛げのある一首だと思います。

それにしてもこの相聞歌、不思議なのはなぜ屋敷ではなく山で逢うことになったのかということです。その疑問に答えてくれるのが109番の歌の詞書です。詞書には「大津皇子、石川女郎に密かに合いたまへる時、津守連通(つもりのむらじとほる)の其の事を占(うら)へ露はせれば、皇子の作らす御歌一首として109番が載っているのでした。
私が密かにあなたと会う事は私は常に監視されているので津守連通によって露見してしまう事は承知している。そんな危険を冒しても私は貴方に逢って添い寝をしたいのだ。
こんな直情的で自分に正直な大津皇子は額田大王を髣髴させます皇后鸕野讚にすれば自分に最も似ている大津の皇子です。凡庸な草壁親王さえいなければ大津の皇子を応援していたことでしょう。監視させていたのは皇后鸕野讚自身だったのです。
大津の皇子は危険を冒して山路を越えて伊勢に向かいます。伊勢には信頼していた大伯皇女( おおくのひめみこ )に会いに向かいます。
【2大伯皇女 おおくのひめみこ 】との贈答歌
「大津の皇子が密かに伊勢神宮に下って(ひそ)かに大伯皇女にお会いになったがその折帰られる大津の皇子を大伯皇女が見送って作られた歌二首」と詞書きして
我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁時((あかとき))露に我が立ち濡れし(万2-105)
二人ゆけど行き過ぎかたき秋山をいかにか君が独り越ゆらむ(万2-106)
大伯皇女は伊勢神宮の斎宮で居られました。。青年大津の皇子は周囲が物騒がしくなって信頼を寄せていた実の姉(同じ母)に会いたかったのでしょう。大津の皇子が伊勢に下った情報は藤原京にもたらされます。都人は伊勢に下った熊野を詣でたというと謀反の意思ありと聞こえたのでしょう。大海人皇子も伊勢神宮に詣でて壬申の乱に勝利しました。大伯皇女は正直で実直な弟を心配しつつその姿が見えなくなるまで見送ったのでしょう。105番の歌では「私の弟が大和へ帰るというので、夜が更けて、暁まで立ち尽して見送りました、私は露にびっしょり濡れてしまいましたがお蝶とが阿心配で心配でなりません」
106番の歌は(二人して行っても通過するのが困難な秋の山路を、どうやってあなたが独りで越えて行くというのだろうか。
 大伯皇女は聡明で美しく優しい女性だったのでしょう。姉弟は「安寿と厨子王」を思わせます。
【3大津の皇子の辞世の歌】
大津皇子の死を被(たま)はりし時、磐余(いはれ)の池の堤にして涙を流して作らす御歌一首
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(万3-416)416番の歌は次のような歌意でしょう。
「磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのだろうか」
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磐余の池は何処に在ったのか解りませんが偶々藤原京のの発掘跡が池になって布袋草が自生しています。松の木の辺りが本薬師寺跡になります。この布袋草は飛鳥の夏の風物詩として定着したようです
【4大伯皇女の作る挽歌】
大津皇子の薨((こう))ぜし後、大来皇女((おほくのひめみこ 大伯皇女と同じ))、伊勢の斎宮((いつきのみや))より京に(のぼ)る時に作らす歌二首
神風((かむかぜ))の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに(万2-163)
見まくり我 ) する君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに(万2-164
163番の歌は「伊勢の国にいたほうがよかったのに、どうして私はのこのこやって来たのだろう、あなたはいもしないのに」
164番の歌は「私が会いたかった貴方はもうこの世には居ないというのに私は、どうしてやって来たのだろう、馬が疲れるだけなのに。」
どちらも弟を失った姉の悲しみが良く解ります。
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 修奈良の石仏筆者はこの石仏はズット双体道祖神で女神の方が嬶天下タイプだと思っていましたがこうして大津の皇子の悲劇を書くと「厄除け」「祟りを封じ込める」神像と思えてきました。でもこの推測が正しければ石工も修奈良大天狗も大変なインテリという事になります。







【5大津の皇子を偲ぶ歌】
大来皇女は伊勢から大和に上っても大津の皇子はもうこの世に居ない事を悲しみましたが決して徒労では無かったのでしょう。路傍に晒されていた弟の遺骸を見つけ二上山の山頂に葬ったのでした。大来皇女が大津の皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に悲しみて作られた歌2首として
うつそみの人なる我や明日よりは二上山を 弟背(いろせ)と我 見む(万2-165)
磯の上に生ふる馬酔木(あしび)を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに(万2-166)
165番の歌は次のような歌意でしょう。
現世に留まる人である私は、明日からは、二上山を我が弟として見よう。」
166番は
岩のほとりに生える馬酔木を手折ろうとしても、それを見せるべきあなたがいると、世の人の誰も言ってくれないではないか。」
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薬師寺休みヶ岡八幡宮の神宮皇后像【平安時代初期】国宝、小ぶりですが堂々とした女神像です薬師寺(八幡宮を含めて)は藤原氏一族が厚く祀って厄除け祟り除けの神社としたようです。写真出典:仏像の古代史(関祐二氏著)
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此方は薬師寺の守護神社である休ヶ岡八幡宮の大津の皇子像(国宝)檜の寄木造り鎌倉時代です、何故中世に祀られたか不明ですが薬師寺では祟りのある怖い神像だという事になっています。この悲しげなお顔を拝すると一層祟りが在りそうな気がしてくるから不思議です。出典神宮皇后像と同じ













 
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美しい橘夫人念持仏

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阿修羅像のモデルを想像して以来私の頭は学生時代に奈良の寺寺を巡礼した思い出で埋められてしまいました。今日はその続きで法隆寺に祀られている阿弥陀三尊像(橘夫人念持仏)を紹介させていただきます。法隆寺と言えば玉虫厨子が有名ですから国宝展示館の玉虫厨子は)人だかりですが、橘夫人念持仏は同じ大きさの厨子に収まっているもののいつも閑散としています。
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これが橘夫人念持仏です。厨子の大きさは玉虫厨子と同じ程度ですが総高270㎝。総じて地味なので人気はイマイチ劣るようですが女性的な意匠は素晴らしく目を奪われます。阿弥陀三尊形式ですが主尊の阿弥陀様脇侍の観音・勢至両菩薩とも蓮の台の上に居られます。蓮は水面から茎を伸ばし水面には微妙な漣が描かれています。私達はこの阿弥陀三尊を拝むと芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を想いだします。水面の下は屹度蓮沼地獄でお釈迦様は蓮花の隙間から地獄の様子を窺がわれて蜘蛛の糸を垂れられのでしょう。
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主尊の阿弥陀如来脇侍も含めて童顔で居られます。屏風のような背景には飛天が描かれています如来も飛天も穏やかで女性的な感性に満ちています。興福寺仏頭と同じ白鳳時代の様式であります。一般に阿弥陀信仰というと平安時代に盛行しますが天平時代には善光寺を中心に信仰されこの法隆寺橘夫人念持仏を見ると天平時代に始まった事が解ります。写真は平凡社版日本の美術/法隆寺を複写

法隆寺と言えば聖徳太子であり仏像は鳥仏師の飛鳥仏です。でもこの隆寺橘夫人念持仏は趣を異にしています。
橘夫人とはどんな人でどうした背景で阿弥陀様を朝な夕なに拝まれていたのか想像が広がって行きます。
【奈良のロータスロード】
隆寺橘夫人念持仏についての推測を広げる前に蓮の花に託した日本人の想いを書く事にしましょう。
世界中の民族が次の信仰を持っています。「善行を積めば天国に昇り悪行を働けば地獄に堕ちる天国は天上にあり地獄は地の底にある」誰でも地獄に堕ちるのは嫌ですし願わくば天国に行きたいと思います。地獄を避けて天国に導いてくれるのが宗教であり仏でありました。ですから仏は地獄に根を張って清浄な花を咲かせる蓮の台に座って衆生を導かれておいでです。そんな蓮ですから蓮の糸を素材にした当麻曼荼羅は厚い信仰を集めたのでしょう。先日読んだミャンマーの紀行文ではミャンマーの特産品に蓮糸のショールがありました。日本では芭蕉布が大人気ですから「蓮糸」を織った絽の着物なんて作れば屹度現代の橘夫人は買い求める事でしょう。ところで奈良の秋篠川沿いに蓮の道(ロ-タスロード】があります。近鉄西ノ京駅を降りて先ず薬師寺に次に唐招提寺に更に垂仁天皇陵の淵を通って喜光寺(きこうじ)を巡る道です。唐招提寺の蓮は鑑真和上がお持ちになられた蓮だそうです。喜光寺(きこうじ)の蓮は今頃咲き始めたことでしょう。
私の先輩のМさんは奈良好きが高じて西大寺に転居されました。屹度梅雨の晴れ間の早朝は自宅を出て薬師寺までウォーキングされておいでのことでしょう。路傍に石仏も大事にされていますし。秋篠川堰堤は自転車通学の女学生が黒髪をなびかせて疾走してゆきます。Мさんは西の京に住まわれたのは賢明な選択です。あの環境であれば私の様に成人病を連発する懸念は無い事でしょう。
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奈良西ノ京喜光寺(きこうじ)は蓮の名所です
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奈良喜光寺(きこうじ)は石仏も魅力です。
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我家の仏壇には唐招提寺の蓮の花を飾ります。今年も奈良の蓮が綺麗な季節になりました。樹の実はプラムです
横浜にも蓮の名所は幾つもあります。三溪園も良いし建長寺にも円覚寺にも蓮が咲きます。でも三溪園には寺はありませんし。建長寺や円覚寺の蓮は鉢造りで沼や池ではありません。地獄に根を生やしていなければ蓮とは言えません。矢張り蓮を見るなら西ノ京に勝るロケーションはありません。
さて本題に戻って法隆寺の橘夫人念持仏の話にしましょう。
【橘夫人とは】
県犬養氏(古代の中堅氏族)の県犬養大侶が壬申の乱んで大海人皇子に大海人皇子(天武天皇)た。その娘県犬養 三千代(あがたいぬかい の みちよ)は宮中に出仕した。はじめ敏達天皇の系皇親である美努王(みぬおう)に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)を産む。宮中では阿閉皇女(元明天皇)の信頼を受けた、三千代が宮中の実力者である事を評価され藤原不比等後妻となり、光明子を産んだ。一方不比等の前妻宮子は即位直後の文武天皇夫人となり首皇子(おびとのみこ聖武天皇)を産む。橘夫人から見ると自分の娘が光明皇后になり自分の甥が聖武天皇になった訳になります。更に自分の腹を痛めた息子は皇 親勢力のリーダー橘諸兄であり娘らは藤原氏(外戚勢力)の中核でありました。天皇から見ると父系勢力と母系勢力(藤原氏)のせめぎ合いでありました。どちらにも顔を出すのが橘三千代という事になります。総じていえば古代は母系社会であり。武力政治力が大事になると父系社会にチェンジした訳でその分岐点に居た訳で毎日が「To be, or not to be」であったと思われます。
でも結論から言いますと橘三千代は女性らしく母系(藤原方)をとりました。やっぱり女性は昔も今も娘を頼りにするものなのでしょう。
養老4年(720年)には夫の不比等が死去します。不比等が死ぬと藤原家は4人のリーダーが並び立ちます。(武智麻呂/房前/宇合/麻呂)反藤原勢力は長屋王をリーダーに結集します。此処に藤原4家対長屋王の確執が表面化します。武力資力で勝る藤原4家は先手を打って長屋王を攻めます。(長屋王の変)長屋王を抹殺すると聖武天皇が即位藤原4兄弟の妹光明子が立后します。晴れて藤原一族に反旗を翻す勢力は無くなりました。しかし藤原4兄弟は相次いで病死します。その事態に都人は「長屋王の祟り」と噂します。光明皇后もこのころから「積善の藤家」と自称するようになります。相当に後ろめたい気持ちが在った事でしょう。
当の橘三千代・光明皇后母娘も藤原氏の後押しを良しとしない空気があったのでしょう。
長屋王の変の後は藤原家と距離を置いていったように思えます。
反藤原のお寺であり親蘇我であった法隆寺を厚く守ります。そんな次第で橘夫人が自宅の枕元に祀って朝晩拝んでいた阿弥陀三尊像を法隆寺に寄進したのでしょう。
そう思ってこの阿弥陀三尊を拝見すると橘三千代は藤原(母系)を取るか天皇家(父系)をとるか常に十字架を背負わされていたのでしたが結果的には母系に組しました。どちらを選択してもそこは地獄の苦しみ後悔の海に沈んだことでしょう。しかし多くの人が殺されるとその冥福を祈り自らの来世も願った事でしょう。でも慎ましい女性です。大きなお寺を建てる訳でもなく、自室に背丈余りのお厨子を作って扉を開けば優しく美しい阿弥陀如来が拝めるようにしました。阿弥陀様の背後には天上の女人が舞い。池の水面を見れば蓮が茎を伸ばしています。自分が乗る蓮台ももうじき顔を出してきそうな気配です。
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これは二の宮厳島神社の蓮。私の生活圏では「蓮と寺」のテーマでは鎌倉光明寺の「記主庭園池」の蓮が最高です。




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ロマンの伝統「浄瑠璃寺の吉祥天」

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浄瑠璃寺は京都府下木津川を見下ろす丘陵に在ります。京都府と言っても奈良の般若阪を越えて行きます。
私は先ず木津川を渡って向かいの山中(西丘陵)にある海住仙寺を登り再び川を渡って東丘陵の浄瑠璃寺に向かいます。屹度会津八一氏もこのコースで浄瑠璃寺を詣でたのだろうと推測します。
浄瑠璃の名を懐かしみみ雪降る春の山辺を一人行くなり(八一/原文平仮名)
運慶に関心が集中すると最近は貞慶にスポットライトが当たって2012年には奈良国立博物館で『御遠忌800年記念特別展「解脱上人貞慶―鎌倉仏教の本流―』が開催されました。
浄瑠璃寺の吉祥天は貞慶さんの作品は木津川沿いの笠置寺、浄瑠璃寺、海住仙寺に集中しているのです。里山は美しいし、木津川は水清く里に在る寺寺には美しい古仏が居られて夢の光景です。私は何度も巡礼の気持ちで浄瑠璃寺に登ったのでした。
私が登ったのは大学の春休みが多かったのでしたので。大概は秘仏の吉祥天が御開帳されていました。今日は「秘仏の吉祥天」について案内させていただきます。
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此方が浄瑠璃寺の「秘仏の吉祥天」です。長年厨子に収まって居られましたので色褪せが全くなく美しい事この上ありません。
厨子扉絵(梵天帝釈天)は海住仙寺興福寺東金堂の絵画と類似しています。これらを根拠に貞慶上人と「浄瑠璃寺・海住仙寺」との強い関係を確認して貞慶上人の関与を考え、さらに作者の有力候補に快慶を指摘するのが主流になって来ました。貞慶は興福寺の僧侶で鎌倉時代に革新的な指導者でしたが 官僧身分のを捨てて遁世僧になったものでしんらんんお「悪人正機」を先行した偉大な僧でありました。興福寺は運慶一派を要しただけではなく中世の鎌倉仏教を切り開いた偉大な寺院(法相宗』だったのでした。

浄瑠璃寺の吉祥天を一目見ると、鎌倉時代の作とは思えません。昨日まで書いた白鳳時代か平安前期の仏様と見間違います。
というのは鎌倉時代の初めに仏師の世界には白鳳時代に戻ろうといったルネッサンスの風が吹いていたのでした。
平安時代には貴族など支配階級は立派で大きな寺を建立しその中に巨大な阿弥陀様を祀り阿弥陀様の指先に糸を結んでその一端を握りながら死の旅に出ました。そんな軟弱な事では満たされない。何しろ大半の人は貧乏でその日の食べ物にも事欠いているそんな事態で救済されるにはどうしたらよいか考えた時一時代前の白鳳時代に戻ったのでした。
それは法隆寺や室生寺にお手本が残されていました。
快慶が法隆寺や室生寺を詣でたと云った記録は知りませんが”お手本は京都ではなく斑鳩や室生に在る”と知っていたのでしょう。浄瑠璃寺の吉祥天は全体の意匠も朱と緑の色も斑鳩室生を復古させたものでした。
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法隆寺釈迦三尊天蓋の飛天楽人の像童顔で眉毛鼻筋に通った線は白鳳美人の特長です。出典NHK国宝の旅を複写
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此方は室生寺の十一面観音像、浄瑠璃寺の吉祥天像のお手本の様に似ていますし。樹下美人図(薬師寺)を髣髴させます。出典は平凡社版日本の美「室生寺」を複写。
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              薬師寺の樹下美人図(平凡社日本延の美大仏開眼を複写』

私は浄瑠璃寺の吉祥天を拝んでも室生寺の十一面観音を拝んでも薬師寺の樹下美人図を想いだします。そして樹下美人図は万葉集撰者の大伴家持の歌を想いだします。
春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ乙女 (大伴家持万葉集巻19―4159)
一般に次のように解釈されています。
「春の庭園に紅が美しく照り輝いている。桃の花の色が美しく照り映えている道に出で立つ乙女よ。」
作者が春の野に出て桃の花の下に少女が佇んでいたので声掛けした叙景歌なのでしょうが。
詞書きが詞書に「天平勝宝2年3月1日の暮」とある事から聖武天皇の御代修二会を終えて新年を迎えるお祝いの歌であろうとする解釈もあるようです。”下照る”派”天照”を想わせるので。天照大神が天上の神様であり地上の天皇(聖武)とを併せて祝った。と解釈するのです。
でも健康で美しい乙女は子沢山で豊穣を期待させます。この家持の歌は日本の近代詩の草分けも導きました。
島崎藤村の若菜集を代表する詩は「初恋」です。
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未だ上げ初めし前髪の林檎の下に見えしとき」と始まる藤村の初恋は家持の歌を口語体で表現したもので日本のロマン文学の草分けでありました。
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日本の近代文学の草分けになった藤村の若菜集藤村の生家のあった馬篭に行くと藤村の初恋のモデル「冬さん」の写真が掲示されています。ふっくらお凸で頬の膨らんだ樹下美人図通りの少女です。「林檎の歌」そのもののような少女で居られました。
藤村の前に万葉集を評価したのは賀茂真淵そして鎌倉時代は実朝がお手本にしました。藤原定家が実朝の本質才能を見抜いて万葉集をプレゼントしたのでした。そんな次第で日本文化は300年間隔で万葉集への復興運動をしてきたようです。復古運動は文学だけではなく美術仏像の世界でも起こるようです。
浄瑠璃寺の吉祥天像は鎌倉時代の宗教界仏師の世界での復古運動の成果で、私達に感動を呼ぶのは必然です。願わくば吉祥天のように美しい女性が多くなってほしいものです。

追記:ここ1週間学生時代から好きで気になっていた仏像を素材に書いてきました。今日で一休して、明日からはまた本来の随筆に戻ります。


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沖縄が独立する日

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昨日(6月23日)は沖縄戦の最後の日でした。糸満の平和祈念公園では「沖縄戦戦没者追悼式」が開かれ安倍首相や主要閣僚そしてケネディー米国大使が参列されました。翁長知事が「平和宣言」を読み上げ「辺野古移設については沖縄の民意は反対である」述べました。一方安倍首相は場所を国会の延長と錯覚したのか「集団自衛権の必要性」を述べました。会場からは安倍部首相に向けて”帰れ!帰れ!」のシュプレッヒコールがあがりました。この状況は各テレビ局がニュースで放映していました。その事態を読売新聞は「翁長知事は慰霊行事を政治利用している」と批判していました。
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6月23日沖縄慰霊の日を報道する読売新聞
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沖縄の民意と政府の溝が一層深まっている事態を憂慮する記事(24日朝刊)政府の意思を追従し続ける読売新聞も一晩経ったら沖縄の民意とのズレが気になったのでしょうか?

私は沖縄に産まれて生きている友人の顔を想いだしました。
沖縄の人はこの事態をどのように見ているのか心配でしたから。沖縄の住人が”辺野古移設反対”と叫んでいる真意は違うのではないのか?”思うのです。そしてこのまま日本政府が『沖縄の民意を無視し続け、集団的自衛権を主張し続ければどのような将来が予測されるのか?』懸念されるのです。結論から先に述べれば『沖縄住人が住民投票をして琉球国独立を国連で宣言し、日本中が悲しみ中国が微笑む』そんな場面が見えてくるのです。勿論沖縄を失った日本はその国土(領海)の三分の一を失いました。
今日はそんな日が来ない様にこうした懸念の生じる根拠を説明します。
【沖縄の県民性】
もう2年くらい前でした。NHKで「テンペスト」という歴史ドラマが放映されました。主人公は琉球王国の末裔で美しい姫真鶴/孫寧温(仲間由紀恵)でした。琉球は中国(清)にも日本(薩摩藩)のあいだにあって等距離外交をしながら琉球王国としての誇りを失いません。沖縄の住人は強い誇りと歴史と伝統文化を継承しているのです。私達は沖縄の文化に日本文化の祖形としての懐かしさを覚えますが。その美しさに日本とも中国とも違う孤高の美しさが在る事を知っています。
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NHKの歴史ドラマテンペストは琉球王国の最後の姫を描いていました。仲間幸恵さんの民族衣装(紅型)が美しかったのでした琉球文化は「海上の道」本土の文化とは違います。3月ごろ菅さんが「沖縄の民意は別にして政府は法律に従って粛々と辺野古移設を進める」と発言したのでした。翁長知事は即刻が「菅官房長官に嚙み付きました。民主国家では一番重いのは民意ですし「粛々」という言葉は沖縄の住人の一番嫌いな官僚用語なのです。。菅さんは謝罪せざるを得ませんでした。沖縄の人は戦争の記憶から日本政府や軍人の言う事を疑ってかかるのです。というのは歴史的に沖縄の人達は日本政府や薩摩に騙されて苦い思いを重ねているのです。
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沖縄の陶器は本土のそれとは異なります。如何にも海上の道(柳田国男)を思わせます。
【沖縄の人達が本土の役人や軍部が嫌いな理由】
昨日の報道では沖縄戦での死者は20万人に及び沖縄の民間人は9万人実に四人に一人が死んだことになえるそうです。死亡原因の大半が集団自決だったのでした。それは政府や軍部が沖縄戦に重大な覚悟で臨み民間人に「降伏すれば殺される自決するように刷り込まれていたのでした慰霊の日は(日本政府や軍部に騙されて隣人や親類が自決した」悲しい記憶を蘇らせる日なのです。
制海権も制空権も失った軍部は本土決戦を主張しました。それは沖縄戦と同じように民間人を盾に無謀な決戦を挑む戦いでした。幸いにして短波放送で戦況を把握されていた昭和天皇の英断で終戦を迎えたのでしたが。軍隊は民間人を盾にするし危険な前線には民間兵(学徒出陣などに依る)を押し出す卑劣な人達だと見抜いていました。
そんな次第で戦争になると軍隊は豹変するし政府の発表は信用できない事を知り尽くしているのです。
【沖縄独立の民意】
沖縄は独立すべきだ主張する政党は既にありますしその主張は次のようなものでした。日本政府(明治政府)が最終的に1879年に琉球国を滅ぼし、沖縄県として服属させたたのでした。ものである。国連人種差別撤廃委員会に”琉球人を独自の民族と認定し、米軍基地の押し付けを人種差別だとして。「琉球独立」を勧告すべしという主張です。
琉球は世界の工場「中国と日米の中間に位置していますから。独立すれば貿易中継地として経済的にも重要であり繁栄の可能性は高いのでしょう。琉球新報社の調査では「沖縄は独立すべきか自治権を拡大して独立洲になるべきである」の意見は30%に及んでいるそうです。(http://matome.naver.jp/odai/2143333770233411001/2143334147036469903に記事あり」安倍首相や政府の沖縄の民意を一顧だにしない姿勢が続けばいずれ取り返しがつかない事になるでしょう。明治政府に琉球王国は滅ぼされましたが誇り高い琉球の人達はハワイなどに散って未開地の開墾に励みました。
日本の文化や民族は縄文人が先ず居ました。其処に稲作を得意にした弥生人が加わり更に黒潮にのって海洋の血や文化が加わりました。私達はその三つの文化と血を所与のものとして育ちました阿倍さんの姿勢は歴史を逆行させて。琉球独立に向いている様に懸念させます。常に日本の行き先を教えてくれるイングランドは昨年アイルランドを失い。スコットランドも失いかけましたこんな調子で自衛権に固執すると縄文人だけの国家に先細りしそうな懸念を抱きます。
琉球独立の懸念については歴史学者や民俗学者は沈黙するばかりでなく発言をしてほしいものです。読売新聞の様に政府に追従するばかりでは何の為に研究されてこられたのでしょう。

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百済歴史地区への憧れ

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もう30年も前の事です。私は福岡天神のど真ん中に在る長銀福岡支店に勤めていました所謂博多チョンガ(短くして博多チョンでしたから寮のある藤崎から地下鉄で博多港に港からJR九州のホーバークラフト(愛称ビートル)で3時間もあれば釜山に着けました。仕事でも韓国には再三行きました。
隣国でありながら犬猿関係に在りましたがようやく雪融けの気運が濃くなってきました。パク・クネ(朴槿恵)大統領も「反日」だけでは韓国民をリードしきれないと気付き出したのかも知れません。
「明治日本の近代化遺産」に反対して「韓国人が強制労働された側面がある」主張は世界の顰蹙を買い、およそ儒教の国らしくありません。「日本が百済句歴史地区の世界遺産登録認可に協力する」ことを条件に反対意見を取り下げました。安倍首相は「未来志向」を提言して日韓協調を呼びかけていますが、もう一つ理解が得られません。韓国人は安倍首相の提言を「過去を見れば日本の侵略の歴史を見る事になってそれは出来ないから未来を見よう」主張している、と感じてそんな姑息な姿勢を嫌っているのでしょう。
でも幸いな事に「協力を約束した百済歴史地区の歴史は日韓友好、そして日本文化黎明期の歴史を伝えているのです。
1500年前は日韓は良きパートナーであった。日本は韓国帰化人のお蔭で文化の恩恵に浴したし、日本は百済の血を受け入れて日本国の祖形を形成した」確認すれば未来を語る時に両国民の間に流れる「嘘っぽい空気は吹き飛ぶことでしょう。
韓国のユネスコ世界遺産は10「文化遺産は9」です一方日本は17「文化遺産は14」です。昨今の様に矢鱈と世界遺産が増えるとその価値も疑わしくなってしまいますが、私の個人的な価値観では「長崎の軍艦島よりは百済歴史地区の方が高いものがあります。それは百済の方が美しいし、感謝の想いが深いからです。軍艦島は廃墟であって美しくないし、日本人として世界の人々に見て欲しいとは思いません。
そんなことから今日は”日本文化がその黎明期に如何に深く強く韓国の百済人に百済国に世話になったか”書いてみようと思います。
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此方は百済の都であった扶餘(ブヨ)のにある、百済の文化生活を再現した百済文化再現団地。五重塔金堂講堂と並んだ姿は四天王寺を思わせます。見学した人のブログでは安普請なので落胆した意見が多いようですが日本が協力を約束したのはこの安普請を昔の工法によってユネスコの審査に通るように作り変える事ではないかとも懸念されます。
筆者は新羅の都のあった慶州には行きましたが慶州には仏国寺という古刹があっても土壁や煉瓦が目だって法隆寺の木造建築とは趣を異にしていました。その点扶餘(ブヨ)の建築は飛鳥文化を思わせました。写真の出典は韓国オプショナルツアーhttp://www.sedotravel.com/xe/41877

【法隆寺百済観音】について
亀井勝一郎氏は先の戦争に反対し投獄もされた清廉なお人柄でした。多くの人と同じく焼け跡になった日本の国を見て心を痛められました。そして大和国を旅して大和古寺風物詩を書かれました。大和の古仏を巡って心を癒し再起の想いを強くされました。私達は和辻哲郎氏の「古寺巡礼」と亀井勝一郎氏の著は必携の書でありその一字一句を心に刻んで育ちました。「古寺風物詩」という表題より「巡礼」の方が適切と感じられる書だと思います。佐藤ハチローさんも戦争前は戦争翼賛的な詩を書きましたし。宮沢賢冶でさえ「欲しがりません勝つ までは」「や雨にも負けず」はに、国民全体に犠牲と我慢を強要した戦争推進勢力によって 利用されました。その事実に賢治さんは沈黙しておいででした。多くの良心が戦争に対して抑止力にはなりませんでした。そんな後悔を誰しもが抱えていた中で亀井さんが人倫に従って生きられたのは大和の古仏を巡礼したから仏の導きが在ったからでしょう。
亀井さんの古仏巡礼のハイライトは法隆寺の百済観音でした。
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法隆寺百済観音のお顔。百済観音は楠の樹を継ぎ剥ぎして漆を塗って白土(石灰)や木葛で表面を造形した上に着色したものだそうです。その手法は再現(上野の博物館で3体模造品を作ったので手法が解明されました。写真で見ると漆の剥落や色褪せが目立ちます。韓国で展示されると”百済観音は日本人が略奪したものだから韓国に返せ”韓国が言い出す事が心配されますが素材が楠である事等で百済人が日本に帰化して日本の素材で日本の感性で作った考えるのが妥当だと思います。
同時代法隆寺では止利の釈迦三尊像等(北魏様式)が主流でしたが百済観音は全く違った印象を与えてくれます。止利仏師の様式は近寄り難く正面から見られる事しか意識していないのに対し百済観音は親しみやすく傍によって横から見上げる事を意識して作られています。光背(宝珠の形)を支える柱は青竹を模していて日本人の俳句の感性が観られます。
会津八一は次のように賛歌しています。
ほほゑみてうつつごころにありたたすくだらほとけにしくものぞなき 




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百済観音全身像素材は楠で衣文や持物も楠で本体に継ぎ剥ぎしてあります(j平安時代以降の寄木とは異なります)8頭身の長身で居られます。法隆寺の記録で初めて現われるのは室町時代からですので近隣の寺から移された客仏であろうと云われていました、預かった法隆寺では百済様の虚空蔵菩薩と受け止めていたそうです。江戸時代になって別の収納されていた宝冠が見つかり宝冠の中央に阿弥陀の化仏が描かれていたので今日では”百済風の感音菩薩”という意味で「百済観音」の呼び名が一般化しているようです。百済観音像は3体の模造が作られ一体は上野博物館に他の二体はベルリンとロンドンの博物館に展示されているそうです。
ですから。私は百済歴史地区が世界遺産に登録されたら模造仏を寄贈したら良いと考えます。
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隆寺弥勒菩薩像お身体は赤松の木彫で漆を塗って金箔をを貼り付けた漆箔像。ただ裳階や背の内繰等に楠が使用されています。赤松は半島に多く楠は温暖な日本に自生していた事から日本に渡って来てから日本人が補修したのかも知れません。納められた広隆寺は百済からの帰化人が集住した処でした。
もう一体日本には百済というと重要な仏様が在ります明治政府が国宝第一号に指定した京都太秦の広隆寺の弥勒菩薩像です。昭和35年私が未だ中学生の頃でした。京都大学の大学生が弥勒菩薩の美しさに我を忘れて抱きついてしまい
頬に当てられた薬指の指先が折れてしまい折れた指が紛失してしまった事件がありました。三島由紀夫の金閣寺炎上を想いださせる事件でした。弥勒菩薩が余りに美しいので純粋な青年に罪を起こさせてしまったのでした。
当時の記憶では広隆寺の弥勒菩薩像の素材は韓国の赤松でしたので。此方がソウルか扶餘(ブヨ)で開催される百済文化展来会に協力出品すると「お国還り」で済めば良いのですが返さないと言い出しかねません。
百済観音はパリで展示され「日本のビーナス」と紹介されました。室生寺の釈迦如来はベルリンで展示され1939年ヒットラーも目を見張ったと、伝えられています。浴衣を着たヒットラーはこの時の日本古美術展」で撮影されたものでしょう。
外国人に人気がありそうなものは円空の「両面宿儺像」です。
伝統技法の継承や技術の解明の意味もありますので。こうした仏像は模造品を作って世界に寄贈したり貸し出したら如何でしょうか?今では新薬師寺の香薬師像は無くなってしまいましたが。善意で三体が模造されていて私達は模造された香薬師像を見詰めて満足しています。
今から広隆寺弥勒菩薩像を作っておくことを考えます。ソウルの展示会場に模造品を寄贈して次のように書いておきます。
「私は模造仏ですが、本体は1500年前に百済に産まれて日本に渡って来ました”そして未来が大切な事を”日本人に説いてきました。以来日本人は未来を信じて生きて来たようです。今次百済歴史地区が世界遺産に指定されて私も里帰りしたかったのですが代理の仏を向かわせました。今も私は世界遺産京都の仏として世界中の人に未来を指し示しています。日本では私は大切にされていましたので幾度も戦火を潜って来ました、私の子孫百済人は日本に帰化して1500年も経ちましたが今では皆日本人になっています。私にとっては未来には日本も韓国も境は無いのです。」

私は度々このブログで書いてきましたが。原日本人は縄文時代人で縄文式土器の時代は1万年もあります。(この時代に日本人は文化の祖形を作り上げ次いで稲作技術を持った弥生人が渡来すると弥生人とも共存し混血しました。半島で戦争がおこり高句麗が半島を制圧すると百済人は日本に帰化しました。日本の政府は百済人を歓迎して政府の要職に就かせました。そこで百済人は大仏も作りましたし。陶器造りや織物も教えてあげました。日本人は和が大切で和が未来を切り開く信じて疑わなかったのでした。でも何時の時代も日本人原点は縄文人の感覚でした。和の感覚は”自然と和する事が基本”で韓国や中国では食事を金属の器や箸を使うのに対し、日本人は自然の材木や土を使って食事をします、金属には違和感が在るのですが自然素材の木や土には感覚が和合するんです。
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日本文化の祖形縄文ビーナス。(茅野の尖り石遺跡)この造形の抱擁力や豊饒さが外来の文化や民族を受け入れて来たと確信しているのです。


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小便地蔵と小便小僧(一休考)

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図書館に奪衣婆に係る民俗学の著書を注文しておいたところ。メールが届いてワイフが取に行ってくれました。その序に「一休ばなし(とんち小僧の来歴)」を借りて来てくれました。ワイフから”一休さんでも学んで認知症にはならいでね!”メッセージと受け止めて読み始めました。軽い本と思ったら、とんでもない表紙にもあるように原典(狂雲集など)を読む難解な内容でした。
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借りて来てくれた一休禅師の本頓智ばなしは前半だけで大半が狂雲集など原典を読む難解な本でした。





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一休禅師像
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一休さんの頓智ばなしと言えば「屏風絵の虎を捕まえる話」です。室町将軍に難題を課せられ「屏風の虎を追い出してください。さすれば縄で縛って御覧に入れます」と答えました。そんな調子で師の公案に答えたらきつく叱られた事でしょう。
一休さんは有名で人気が在った事から各地に説話が伝えられています。その一つに席の地蔵尊が在ります。現在の亀山市ですから今頃は看板企業のシャープが瀕死の状態で町の灯も消えている事でしょう。関のお地蔵様を民が作ってその開眼供養に通りかかったお坊さんに頼んだところそのお坊さんは出来上がったばかりのお地蔵さんに小便をかけたといった説話です。現在の関の地蔵尊は次のブログに出ていましたのでご覧ください。http://www.hyakugo.co.jp/mie/07/12/page01.html
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      関の地蔵尊の開眼供養で一休が小便をかけたことから人々は慌ててお地蔵様を洗い清めている図です。
私はベッドに横になってもこの説話が伝える意味を考えます。これは私にとっては『公案』です先ず民俗学的なアプローチをします。
日本各地に小便地蔵尊が在るのです。村境には良くお地蔵様が祀られ「賽の神」の役割を果たしていますので。旅人が尿意を催して遣ってしまったところお地蔵様に罹ってしまった事が在ったでしょう。都会のお地蔵様なら犬に小便を掛けられているかもしれません。
里の小便地蔵尊は総じて”夜尿症”を治す役割を担っていることが多いものです。
それに男子たる者その特権は放尿する時の解放感です。私は下野の思川の橋の上から放尿した時の解放感が忘れ難く。橋を渡ると放尿したくなる癖が付いてしまっています。民俗学的には子育ての夜尿症対策として子供の守護仏地蔵尊が出現したのでしょう。
日本では小便地蔵ですがベルギーのブラッセルでは小便小僧です。広場でチョコレートを求めてワッセルを食べて次は小便小僧を確認しました。浜松町駅のホームにでさえある小便小僧の本家本元ですから期待していたのでしたが意外に小さく市民も特段大事にされていなかったので落胆してしまいました。次のブログが良く書けています。http://www.tkago.net/tguide/bel_piss.html調べてみると
悪童ジュリアンが爆弾の導火線に小便をかけて消し、町を救ったという伝説からの由来というもの。悪童と呼ばれるほどのいたずらっ子でありながら、町を救った英雄であるジュリアン少年。この像も「ジュリアン坊や」という愛称で市民から親しまれています。
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                            一休77歳、森女30歳(推定)での邂逅の軸。

ナポレオン軍を相手に小便を垂れたそんな姿勢が世界中から愛された理由なのでしょう。権威や権力や「決まり事」誰しもが軽蔑して「糞くらえ」思っています。それは世界中で共通しているのでしょう。江戸時代は「権威」「権力が威張っていて「お芝居から「着物・食べ物」まで定められていました。関町小便地蔵さんの説話はい休さんの名を借りた権威に対する庶民のレジスタンスだったのかもしれません。一休さんと言えば必ず出てくるのが森女です。
休は自著『狂雲集』で、「森女」への愛を赤裸々に歌っています。
それで、水上勉などは、一休を「エロ坊主」と描いている。大方の書は「森女」は貧しい生まれの
辻女、旅芸人。琵琶弾きか、三味線を弾くゴゼなどと書いている。でも応仁の乱の直後に女の琵琶法師がいる訳も三味線が在った訳でもないので出鱈目な批難としか思えません。若しかしたら70歳を過ぎても美しい盲目の女性に介護された一休さんを妬んで悪口を吐いたのかもしれません。一休も良寛も晩年は優しい女性に介護されて幸せな最期を迎えたのでした。
また「森女」は、“無学な乞食女”とは 思えぬ 気高さと気品が感じられる。


 一休の『狂雲集』をに依れば、「森女」は、かつて、 薪村の酬恩庵まで、一休を訪ねてきている。「森侍者」は
「余の風采を聞いて」訪ねてきたとある。そして「森女」は[王孫」であり、その「美誉」を聞いて、 二人で ある約束事を交わしたというのである。
一休は「森女」のことを「一代の風流美人」といい、 「森女の深恩を もし忘れるようなことがあったら、
あの世で畜生の身に落ちるだろう」と詠じている。
森女との情交は生々しく表現されていて禅僧の作とは信じられないものがあります。
  輿盲女屡春遊    鸞輿の盲女 屡(しばしば)春遊す
  鬱鬱胸襟好慰愁   鬱鬱たる胸襟 愁を慰むるに好し
  遮莫衆生之軽賤   遮莫(さもあらばあれ) 衆生の軽賤することを
  愛看森也美風流   愛し看る 森や 美風流
 美しい車にのって 盲女しばしば春遊び 鬱したる気分にはいい 愁いが慰むどうでもいいよ 人々が下にみるともわが愛し看る森よ はんなりしてるよ
美人陰有水仙花香  美人の陰(ほと)に水仙の花の香有り
盲女のあそこは(陰/ホト)は水仙の香りがする。
私にとっては最後の一句が強烈すぎる刺激です。水上勉氏ならずとも一休さんを70歳を過ぎても大徳寺の住職に栄達しても”とんでもないエロ坊主”だと言いたくなります。

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安達が原の鬼婆考

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私の叔父は福島市の郊外信夫山の麓にある古寺の住職(曹洞宗鎌秀院)でした。夏休みになると福島に逗留し、自転車に乗ってみて回りました。阿武隈山渓の北の端で南には即身仏の貫秀寺(曹洞宗)や鮎滝観音堂等を観て回りました。自転車には玉蜀黍(モロコシ)を茹でて貰い。それを弁当にして貰いました。今では叔父も叔母も他界してしまい親孝行な従兄弟が立派な住職になっています。福島と言えば昔も今も”安達が原の鬼婆です。私は意を決して自転車で安達が原に向かいました。
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   これが阿武隈即身仏の貫秀寺の即身仏(ミイラ)即身仏と言えば湯殿山が有名ですが流石に阿武隈は霊山でこうした史蹟が在るのです。写真出典阿武隈里山王国http://www.tsutaeru-fukushima.jp/?p=7792
福島市内から二本松に向かえば安達が原に阿武隈川の岸辺に黒塚が祀られ真弓山観世寺が安達が原の鬼女伝説のお寺でした。
観世寺の裏山には巨岩が積み重なった岩屋が在ってそれが鬼婆の棲家であって、寺には鬼婆が使った包丁などの凶器がまるで警察署の証拠品のように陳列されていました。この像は次で確認できます。(「安達が原観世寺)http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/fu_kanzeji/kanzeji.htm。岩屋は石舞台古墳のようで古墳の玄室が顕れて露出したものでしょう。京都の風葬地「化野」と同じく此処が風葬地であった事から気味悪がれて「一つ家伝説/後述」として1000年もの間語り継がれてきたものと思われます。
安達が原と言えば月岡芳人が有名ですから先ず同図を紹介します。
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 月岡芳年の「安達ヶ原の図」鬼婆が身重の女性の腹を割こうとして庖丁を研いでいます。この図の右下には壺があって胎児の肝を入れようと用意されています。胎児の肝は肝臓病に効果があると信じられていたようです多分は母親の免疫を胎児経由で摂取できると思ったのでしょう。
この浮世絵は明治政府によって発禁処置を受けましたが猟奇的な構図が問題であったのか。人形浄瑠璃の筋書き(奥州安倍一族の再挙を測るために鬼女が天皇の弟の病気を治癒するために妊婦の腹を割き胎児の肝を取り出す場面が問題にされたのか解りません。いずれにしても明治維新になっても幕末の時代空気を残した浮世絵や浄瑠璃等の庶民文化は人気だったようです。


【安達ヶ原伝説】
ところで安達ヶ原の伝説は次のようなものになっています。
神亀年間(726年)の頃。紀伊の僧侶「東光坊祐慶が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、岩屋に宿を求めました。。岩屋には一人の老婆が住んでいました。祐慶を親切そうに招き入れた老婆は、これから薪を拾いに行くが”奥の部屋を決して見てはいけない”と祐慶に言い残しました。しかし、祐慶が好奇心から戸を開けて奥の部屋を覘くと、そこには人間の白骨死体が山のように積み上げられていました。祐慶は、安達ヶ原にはで旅人を殺して血肉を貪り食うという平維盛の故事を思い出し、あの老婆こそが件の鬼婆だと感付き、岩屋から逃げ出しました。
しかし岩屋に戻って来た老婆は祐慶の逃走に気付き、恐ろしい鬼婆の姿となって猛烈な速さで追いかけて来ました。。祐慶のすぐ後ろまでせまる鬼婆。絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩を取り出して必死に経を唱えた。すると祐慶の菩薩像が空へ舞い上がり、光明を放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆を仕留めたのでした。
鬼婆は命を失ったものの、仏の導きにより成仏しました。祐慶は鬼婆を阿武隈川のほとりに葬り、その墓はは「黒塚」と呼ばれるようになりました。
この話は如意輪観音の法力を伝える仏教説話の構図を取っていますが明らかに「一つ家伝説で先行した浅草観音の【浅茅ヶ原伝説】の影響を認める事が出来ます。次に「一つ家伝説」浅茅ヶ原伝説を説明しますが先ずは国芳の浮世絵を見てください。
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これが国芳の「浅茅ヶ原」の図」家で中央の凄まじい形相の鬼婆右手で包丁を構えて刃先は女性に向けられています。部屋の外は隅田川の川原で一面薄や茅が生い茂っています鬼婆の右手衝立の向こうには観音の姿が描かれています。観る者に凄惨な場面が直ぐに起る事を予感させます。庭先の糸瓜や鷺が何を意味しているのか
古代街道が整備されて人々は都から陸奥に旅をするようになりました。しかし陸奥に行くには東京湾は湿地が広がっていましたので陸路を行くのは困難でした。今の浅草寺の東側は一面の薄や茅の原であったので浅茅ヶ原と呼ばれていました。旅人は浅茅ヶ原に迷い込むと難儀でした。とりわけ日が暮れてしまうと大変でした。そんな原っぱに一軒の家が在って火を灯していれば旅人は集蛾灯に集まる蝶の様に火に吸い寄せられたと思われます。そんな場面は全国各地にあってとりわけ有名だったのが浅草の浅茅ヶ原であり阿武隈の安達ヶ原であったのでした。
【浅茅ヶ原伝説の概要】
奈良時代奥州と下総を結ぶ陸路は隅田川沿いに広がっていた「浅茅ヶ原」を通っていました。宿泊できるような場所がまったくない荒地で、旅人たちは唯一の人家であるあばら家に宿を借りていました。ある時から青侍の夫婦と娘がの家族がこの一軒家に棲みついたのでした。実は老婆は旅人を泊めると見せかけ、寝床を襲って石枕で頭を叩き割って殺害し、亡骸は近くの池に投げ捨て、奪った金品で生計を立てるという非道な鬼婆だったのでした。娘はその行いを諌めていたが、聞き入れられることありませんでした。
老婆の殺した旅人が999人に達したある日、1人旅の稚児が宿を借りた。老婆は躊躇することなく、寝床についた稚児の頭を石で叩き割った。しかし寝床の中の亡骸をよく見ると、それは自分の娘だったのでした。娘は稚児に変装して身代わりとなり、自分の命をもって老婆の行いを咎めようとしていたのでした。
老婆が自分の行いを悔いていたところ、家を訪れていた稚児が現れた。実は稚児は、老婆の行いを哀れんだ浅草寺の観音菩薩の化身でありあり、老婆に人道を説くために稚児の姿で家を訪れたのでしたた。その後は、観音菩薩の力で竜に化した老婆が娘の亡骸とともに池へ消えたのでした。
浅草寺にはこの伝説を描いた絵馬が懸っていると聞きます。近いうちに拝観したいとおもっているのですが。
国芳は絵馬を描いて浅草寺に懸けていたと聞きます。ブログで書いている人が居ないか確認したところ次にありました。

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 出典鬼女伝説と民民俗(笠間良彦)より



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橋の袂の白拍子

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昨夜は夢見が悪かった。夢が精神状態を表すものだとすれば、もう重症です。自らの欲求が夢にられるものなら、明日からは寝際にもっといいことを考えながら寝に着く事にしましょう。
私は何時もの仲間と京都を旅しています。河原町から賀茂川を渡って河東の鳥野辺六道珍皇寺を廻り其処帰路の事でした。私達は賀茂川を渡ろうと橋の袂まで来ました。来た時には誰もいなかったのでしたが。槐の樹の根元に白衣の人影が在って私達を手招きします。
誰かと観れば透き通る程に真っ白な顔をしています巫女のようでもあり白拍子にも見えます。

私は白拍子に訊きます
「貴方は誰ですか?私に何か御用ですか?」
白拍子は答えます。
「私はこの橋の橋守です。この橋はあの世とこの世を繋ぐ橋でもあり現世と未来を繋ぐ橋でもあります。私はこの橋を渡って良い人と渡れない人との仕分けを任されているのです。」
処で、貴方にはこの橋が真っ直ぐで向こう岸が見えますか?」
私は見えた様に答えます。
「橋は雁形しているようですし向こう岸は翳んでいるようです・・・・」
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「貴方は八つ橋に見えるのですね。そんな人は向こう岸には戻れないのです。向こう岸に戻れるのは橋が真っ直ぐに見える筈でそんな人だけが橋の中央をまっすぐに進めば良いのです。貴方は此処に留まって戴きます。
私は白拍子の指示に従って槐の樹下の大岩に腰掛けました。
すると突然に白拍子は私のズボンをおろし私の股間に顔を埋めました。私は制止しようとしましたが思う様に手足が動きません。顔をあげた白拍子は”これはペペロンチーノの味だ”言いました。
私は嫌な夢から覚めて思い出します。一昨日一休禅師の狂雲集を読んで『森野/一休の老後を看護した盲女』水仙の香りのフレーズが頭を離れないのでしたし。一休さんは橋の真ん中を渡った(頓智噺)や寝る直前にテレビでローマ街道を見たのでした。そんな記憶が脳裏に混然としてこんな夢になったのかもしれません。鳥野辺六道珍皇寺h(公式サイトttp://www.rokudou.jp/legend)/は小野篁の「黄泉がえりの井戸」で有名なお寺ですし。白拍子は遊び女と奪衣婆が合体したものでしょう。勿論賀茂川は三途の川でもあります。
明日からはもっと軽くて楽しい事を想いながら寝る事にしましょう
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   これは九品仏浄真寺の奪衣婆像です。奪衣婆は三途の川の岩の上で白装束で片膝をついて如意輪観音御ポーズで亡者を待っています。民俗学的に視ればローレライに似ています。
昨夜の夢見は悪かったのですが、たった今、ナデシコジャパンは快勝してくれました。有難うございます。彼の世の白拍子よりもこの世のナデシコです。元気が出ました。
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「クチナシ」腐(くたし)の雨

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今年は桜も早く卯の花も早くに咲いてしまいました。卯の花の咲く頃に音もなく静かに降る長雨を「卯の花くたし」と呼びます。「くたし」は「腐し」と書いて長雨が卯の花を腐らせるといった意味です。ワイフが袴の裾を泥跳ねしないかと気遣いながら弓道場に出かけます。長い弓が濡れないように気遣いも大変です。雨は着物も道具も駄目にしてしまいます。
”真っ白い卯の花を散らして茶色に腐らせてしまう・・・・・”、というのはつぶさに観察したきれいな言葉です。この季節白い花と言えばまずは百合に次いで浜木綿で百合です。白い花は日本でも西洋でも純潔を象徴するものです。

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  これが卯の花今年は我が庭では充分に咲いて楽しめたのでしたが鎌倉切通しには見に出かけられませんでした。撮影扇ガ谷阿仏尼の墓)
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これは定家蔓のはなこの美しくも怨みの花も春の終いの長雨で腐ってしまいます。(撮影日吉慶応大キャンバス)
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これは鉄砲百合(マリアリリー) 純潔の花を腐らすのも長雨です。(撮影場所長谷の露地)
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これは浜木綿(浜木綿)の花この白い花も長雨で腐るように散ってしまいます。撮影場所由比ヶ浜

「卯の花くたし」は美しい白い花が長雨で傷んで徐々に黄ばんで最期は散ってしまい土に戻ってしまう…。
何処か小野小町の一生を思わせます。更に散る直前の美しさが最も輝くのです。浜木綿も百合も屹度小野小町の歌心に共感しながら土に戻っていることでしょう。
花の色は うつりにけりな いたづらに   わが身世にふる ながめせしまに

今年は梅雨入りも遅く”卯の花くたし”に浸る時間も無く梅雨入りしてしまいました。6月27日(土)にはワイフを誘って図書館までお出かけしました目的は「雨月物語」を借りる事。
待つ女の想いは怨みに変わって妖怪になって憎い男を呪うとおもうのです。民俗学と文学と双方に跨る世界が雨月物語だと思うのです。一昨日浅茅ヶ原を書きましたが「浅茅が宿」の舞台です。浅茅ヶ原は純潔な女が待つ長さに耐えきれずに妖怪になるお話です。この件は次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46415861.html
図書館の生垣はクチナシですからクチナシを見るのも楽しみです。
クチナシはもう満開で芳香が町行く人の足を止めていました。
でも先週から横浜も梅雨入りしているのでクチナシの白い花ももう黄ばんできました。”クチナシくたし”の雨なんです。図書館の前庭は芝が張ってあったのでしたが何時の間にかクローバーが自生して白い爪の花を咲かせていました。小さな女の子がお父さんを追いかけて遊んでいます。
前庭を見ながらワイフが言います。来年は孫が小学校に昇ります。ランドセルは7万はするようですよ・・・・。年金生活は切り詰めてお祝いをする事を楽しみにして行けば”クチナシくたし”にも耐えて長生きできそうです。
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図書館の生垣はクチナシで道行く人を楽しませてくれます
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クチナシは本格的な梅雨入りで咲くと直ぐに白いビロードのような花弁は黄ばんで腐り始めてしまいます「クチナシくだし」と呼びたくなる所以です。
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これが我が家に近い図書館
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図書館の前庭で遊ぶ親子庭の白爪草が優しげです。女の子が隠れているのが楠です。この樹が古代長谷観音や百済観音の素材になりました。私達の孫もこの子の年恰好で来春は小学校に上る楽しみがあります。孫の成長と次の季節が楽しみで長生きできるそんな仕組みが出来ているようです。そんな摂理を”仏”と呼んだのでしょうか?
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これは山法師の花白い花の爽やかさが少年僧の坊主頭のようです。

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トイレの文化

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読売新聞のコラムにトイレの事が載っていました。「トイレの神様」という歌が流行った事。そして中国人が日本製のトイレを爆買いして帰る事を紹介して”人を見るよりトイレを見れ”と結んでいました。
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政府の有識者会議でトイレを中国に売り込む作戦を協議したととも紹介されていました。
私は脳梗塞で入院中に薬が合わずに極端な便秘に悩まされました。でもその時気付いた事もありました。排便する時に快感が在るのです。便を眺めて”これが私の悩まして居たのか!”思いましたそして看護婦さんに報告します。”バナナ一本出ました”看護婦さんはトイレであんまり踏んばらないで下さいよ。踏ん張った途端に脳溢血になる患者さんが居るんですよ。便秘が強くなったら私が掻きだしてあげますから”
私は旬を食べる楽しみは重々解っていたのでしたが排出する喜びもある事をこの時知りました。以来生まれる時の喜びと同じように死ぬ時にも悦びが在りそうだな?淡い期待を持つようになりました
”便所に神様が居るというのは過ちで、便所には厄がある”というのが正しいと思います。昔から”トイレで転ぶ”と云いました。トイレで死んだ人が多かったのでしょう。
トイレから出てこないどうしたのか不審に思って覗いて見たら死んでいたそんな時にトイレで転んだ、と言っていたのでした。そこでトイレには蔵王権現のような姿の仏像を祀って厄を払いました。
日本語にはトイレを言い表す言葉が沢山あります。その過半は漢字ですからトイレ文化は中国の影響を強く受けているのです。
東司とは禅宗寺院のトイレです。雪隠も中国の禅僧の名が由来です。厠という字もトイレが川に在った事が由来しているのでしょう。便所は便をする処の意味でしょう。これらの漢字を中国人に見せたら何という事でしょうか?トイレの事を厕所(セェソー)とか 洗手间(シーシュオジェン)とか書くようです。北京空港でも香港国際空港でも中国のトイレは快適ではありません。ましては市街地や観光地の公衆トイレの汚さや扉が無い事には驚くばかりです。トイレが探せないので中国には行きたくない人も多い事でしょう。それにしても日中の”現代のトイレ文化の格差”は鮮明です。日本はトイレ文化の最先進国でしょう。



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奥浜名湖の禅寺「「可睡斎」のトイレ中央は烏枢沙摩明王トイレを大切にするのは禅の修行の根幹でした。日本人は中国に渡ってトイレを綺麗に使う事を学んだのでした。雪隠や東司と云ったトイレの字も禅で学んだのでした。
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昔ながらの大便器「青絵の陶器」と「落し紙」が印象的です。便器の前方の塀(ドーム)のような部分を「金隠し」と呼びます、女性が使用しても金隠しです。「金隠し」とは「衣隠し」が由来で長い着物の裾を汚さないための「塀」です。裾を金隠しの陰に閉まって後ろ向きに屈みますそしてオマルを穴の上に置いてその上に便をしたそうです。
清潔にするのはトイレに潜んでいる厄病に罹らないためでした。

トイレに感激して便器を爆買いしているのでしょうが。事はそんなに簡単な事ではありません。便器を買って自宅に取り付けようとしてもそれは不可能だからです。先ず問題は水道です。水道の水が均質で水圧が安定していなくてはなりません。更に下水道も整備されていなくてはなりません。便が水で流されても下水の浄化施設まで流れて行かなければなりません。アジアインフラ投資銀行(AIIB)の最初の投資案件は北京や香港の水道設備かも知れません。
30年前香港国際空港に降り立った時にはトイレの貧弱さに驚きましたし広州に行っても変わりませんでした。20年前深浅のホテルゴルフ場プロジェクトを観に行ったとき、トイレは全然変わっていない事に失望しました。高層ホテルの眼下は畑が広がっていて農民は肥桶を担いで人糞を撒いていました。畑には人糞と落し紙が舞っていました。その光景は昭和30年代の横浜の景色でありました。でしたから野菜炒めも硬い鶏肉も美味しくいただきました。
最近面白い本を読みました斉藤たま氏の著で「便所の民族試」です。沖縄のトイレが紹介さsれていました。(取材は昭和40年代)
沖縄ではトイレは。トイレは養豚舎の一角にあります。庭先のトイレに行って用を足したままにしておきます。すると豚さんが綺麗に食べ尽くしてしまうのだそうです。そこで豚便所と呼ぶのだそうです。春に子豚を買ってきます。この時「この豚は糞を食うか?確認するのだそうです。子豚の業者は売りに出す前に糞に芋の皮や茎を混ぜて糞を食う習慣づけをしておくのだそうです。糞を食って豚はスクスク育ちます。年末には食べられる位な大きさに育つのだそうです。筆者が豚便所に屈むとブタさんがやってきてお尻を舐めらたそうです。
私は前に見たブータン紀行誌を想いだしました。ブータンの民家は3階が仏間で先祖を祀っていて2階が生活空間で1階(半地下)が家畜小屋で二階で用を済ませると便を豚が食べてしまうのです。エコだなあ感心したのでした。ブータンは急峻な斜面で生活しているのですから垂直に分化した住居になっているのでしょうが庭先の豚便所もエコです。
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 ブータンの民家2階のトイレで用を足すと1階に住んでいる豚さんが食べてしまい何時も清潔です。壁に描いてある蜘蛛の絵などは招福厄除けです。

次いで問題なのは公徳心です。トイレ程使う人のマナーが問われる施設はありません。中国人のマナーが世界水準に到達するのには相当の時間と自覚が必要な事でしょう。
我が生家は寺でしたから障子も襖を数多く年末になると張替が大変な作業でした。先ず家中の障子を流し場に持ってきます。ザット水をかけて障子を湿らせます。その上で一節の竹を障子の上を転がして巻き取ります。するとトイレットペーパー状の古い障子巻が出来上がります。これを便所に置いて落し紙に使ったのでした。新聞紙などより拭き取り易く柔らかいものでした。
大便の事を「糞」と呼びます。糞は臭いから転じたものでしょうから臭いのは自然です。猫のそれは人間同様に臭いものです。牛も臭いものです。臭い糞は水分が多いものです。セルロースの多い糞はあんまり臭くありません。馬の糞は燃料になる程のもので殆ど臭くありません。慶応大学の湘南キャンバスは酪農農家の中央に作りました。でも牛糞の臭さは我慢できる水準ではありません。後から進出した大学ですから「臭い」と文句も言えないのでしょう。学生たちは忍耐を強いられています。
ところで便所の事を”憚り”と云いますはばかりとは大便をするときに屈んで横幅が広がるからです。電車で足を開いて二人分の座席をを占領している人を見ると”憚っているな”思います。
トイレは御不浄と云ったり閑処(かんじょ)とも言います
もう20年もも前でしたが女性のトイレから出火した事が在りました。女子行員でトイレで煙草を吸う人が居たのでした。緊張した仕事から放たれてトイレで一服していたのがついつい吸った煙草の火種が紙に燃え移って火災報知機が感知したのでした。”閑処で官女が火をつけた”どうしよう考えたのでしたが・・・。
私は工員に対策(ABC)を作らせて本店総務部長に報告書を書きました。
原因は解ってても対策には困りました。燃えない灰皿を置くとか、いろいろ対策案は出たのでしたが。神経質な総務部長を納得させるような妙案は出ませんでした。男性も女性もトイレ空間は貴重な空間であるのは昔も今も変わらないようです。

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李ジャムは初恋の味

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我家の犬小屋の脇には一本の李の木が在ります。李と書いて「すもも」と読みます。万葉集では白桃の事を「毛桃」と呼んでいますが李は「酸っぱい桃」の意味でしょう。その通り酸っぱい桃は酸味と甘味が混じってまるで"初恋の味"です。
大伴家持の次の歌は何れも李の花を歌ったものと云われています。
春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子(をとめ)
吾が園の 李の花か 庭に散る  はだれのいまだ 残りたるかも
家持は大きな屋敷を構えていたのでしょう。そして庭には桃と李も混植されていて紅白の花が競って咲いて居たのかもしれません。
紅い桃の樹下には少女が佇んでいる春爛漫の光景です
李の歌は李の白い花弁が散って斑雪(マダラ雪)のようだ・・・・、歌っています。この歌は春は名のみの・・・・、早春賦か名残雪のような迎春の歌のようです。
我家の李も今春は白い花を沢山付けました

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これが李の花です。遠目に見れば雪柳の様に純白です。小花が沢山付くので花摘みをしないと実が小さくなってしまいます。
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李の木は犬小屋の脇なので野鳥は寄って来ないで居たのでしたが・・・・・・。
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朝食前に李を収穫します。
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李はヨーグルをかけて戴きます。李の種は杏仁形(飛鳥仏の眼)で硬いのが邪魔です。
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李はジャムにしました。
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李ジャムは杏ジャムに比べれば風味は及ばないものの酸味と甘味のミックスが微妙で捨てがたい味です。
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此方は李と同時に作った梅ジャム.梅ジャムは李に較べると酸味が強いのですが。このオレンジ色もアントシアンの色です。交互に食べれば飽きる事もありません。

今年も李の実が熟す季節になりました。実が赤くなったのはアントシアンの所為でしょう。アントシアンと言えば抗酸化作用物質でアンチエージング効果が期待されます。テレビのスイッチを押せばアンチエージングだ、血管の老化予防だと”耳にタコ”が出来そうです。李の朱色がその証なのです。李と言えば日本産のプラム。洋風のプラムがプルーンです。
私たち夫婦は毎朝ヨーグルトを李にかけて食します。それでも食べきれません。ワイフは李ジャムを作りました。同時に梅ジャムも作りましたので梅とプラムを交互に食べています。梅ジャムは酸味が強いのですが李ジャムは甘味も舌に強く残ります。
犬が怖いので遠目に見ていたムクドリ夫婦はもう我慢できないと云わんばかりに飛んで来て李を食べ始めました。鋭い嘴を果肉に突き刺して次々に食べて行きます。そんなムクドリを見ていて我が家の雀の家族も李の木に止まって口移しにしながら食べて行きます。私は李を食べて野鳥も食べに遣って来て穏やかな時間が過ぎて行きます
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ムクドリの夫婦が遣って来て李を食べ始めました。
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雀の家族も李が大好きな様子です。口移しにして食べて行きます。

大伴家持は万葉集を編纂したと言われる人物です。我が国叙景歌の創始者で四季折々移り変わる景色や花を素材にしながら豊かに心情を表現する術を示しました。李を始め様々な花に託して伝えました。日本文化は万葉風と呼んで時代の変わり目には、(江戸初期や明治維新には万葉風が時代を導きました。李は相反する酸味甘味が混在しています。この味は子供には解りません。子供は抹茶スイーツでも食べていれば良いのです。ハーゲンダッツのスイーツは美味しくても食べ過ぎれば糖尿病を招き動脈硬化を呼び起こします。夜と昼が交互し夏と冬が循環するように酸味と甘味の絡み合いの良さが解ってからこそ人生の醍醐味が在るようです。
大伴家持に感謝しながら旬の味李を食べる事にしましょう。
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これは合歓の花右の歌は恋人の紀郎女が家持に贈った相聞歌です。『出典:万葉歌『矢富巖夫著』
紀郎女が恋人の家持に贈った歌です。
『昼は華やかに咲き、夜はひっそりと恋に焦がれて寝る合歓木の花 私だけが見ていてよいであろうか、貴方も見てくださいな』そんな歌です。郎女お嬢さんは貴公子の家持が今晩逢いに来て欲しいそんなメッセージだったのでしょう。これに対し家持は次のように返歌したのでした。
我妹子が 形見の合歓木は 花のみに 咲きてけだしく 実にならじかも
家持の歌の大意は『あなたの形見の合歓木の木は、花だけ咲いて、おそらくは実はならないでしょう。』そんな意味で”実はならないでしょう/今晩は行かないよ”そんな肘鉄の歌を返したのでした。家持君はこの時は体調が悪かったのでしょうか?それともダブルブッキングになってしまったのでしょうか?全く分かりませんが思いの外呆気ないつれない返事です。郎女お嬢さんがお気の毒です。
屹度思った事でしょう。合歓の花はえんどう豆の様な実がなるのを家持君は知らないの?合歓の実は李や桃の様に美味しくないだけで花『女』には実があるのに、家持君はまだまだ坊やなのね・・・・!」
家持君ぼやぼやして余裕を漕いでいると他の人にお嬢さんを取られてしまいますよ。李の実のように・・・。





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半夏生に想う

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今日は7月2日半夏生です。半夏生は72候の一つの暦日で夏至から11日目としていました
この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)と言い、大雨になることが多いそうです。そう言えば昨晩夕食に酢だこを食べていたら天気予報で梅雨前線に加えて台風か数多く出来そうだと伝えていました暦通りに不純な季節です。
多分この頃は田植え疲れで体力が落ちてきた処に食中毒が流行って天候不順で体調悪化する厄払いに半夏生と云ったのでしょう。厄払いに厄になりそうな”蛸を喰ってしまえというのが習慣になっているのかもしれません。いずれにしても蛸君にとっては大変な災難です。京都で蛸薬師と言えば永福寺東京では目黒の成就院です。今日は賑わっているのでしょうか?目黒銀座通りで”蛸どんぶりでも売り出したら人気になるかも知れません。どんぶりの上に甘く煮付けた蛸一匹を載せたシンプルなどんぶりで紅生姜を添えます。味は北海道森町の烏賊飯[ いかめし」と同じです。こんなことを書いていたら自分でも”蛸どんぶりを”食べたくなりました。
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 目黒の蛸薬師(成就院)の看板(絵馬)蛸の姿を見ると「眼病に効く薬師さん」というよりも「吹き出物や毒(膿)を吸い出す」霊験がありそうに見えてきます。目黒は色町でしたから。「花魁の病気に効く」信仰が集まったのかもしれません。
ところで(貴方は楽器が出来ますか?」訊かれると私は「小さい時は木魚を叩いていました」答えました。
父に寺には何故木魚は此処に在るのか?」訊いた処こう答えられました。木魚はお坊さん同士の合図の道具で「”これでお経を止めますよとか次に移りますよ!」合図に叩くんだよ”それにお経を読んでいると聞いていても眠くなるので惰眠を貪るな!”戒めでもあるのだ。」教えられました。木魚に鱗が付いているのは龍の意味でしょう。いっその事「木魚のデザインを蛸ちゃんにすれば良さそうな気もします」。父にそのことを言えば「蛸よりも狸の方が良いぞ」言われそうです。
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木魚は龍を模したものだそうですが蛸か狸でも良さそうな気がします。もうじき盆入りです。木魚に親しむ季節でもあります
私の想いは誰しも考えるようで葉山の新善光寺では居眠り小僧さんが置かれていました。
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木魚は惰眠を貪るな!戒めに叩くのだそうです。葉山新善光寺
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   此方は狸木魚のイメージです。館林茂林寺の文福茶釜と木更津の證誠寺の狸が混ざった様な意匠です。(在修那羅山)

ところで『半夏生に蛸を食べる』件です。
『厄は毒を喰って払う』そんな感覚なら食べたら霊験のありそうな者はいくらでもあります。先ず思いつくのは蜂や甲虫の蛹です。夏でもない春でもない中途半端な季節なので半夏生なんでしょうから。虫でもない蛆でもないまして成虫では無い、中途半端な形態が蛹です。蛹の内に食ってしまえば厄に打ち勝てそうな気がします。怖ろしいスズメバチも今なら蛹ですから危険も少ないし滋養分もたっぷりです。屹度今頃は上海の市場ではゲテモノが並んでいて”中国4000年の薬膳”と言って蛹や百足が並んでいることでしょう。

ところで中途半端は気持ち悪いものです。でも中途半端だからこそ見えるものもあるようです。例えば歌舞伎の女形(おやま)です。男が女性に扮するからこそ女性の色香が表現できるのでしょう。
折口信夫氏は日本文化の起源和歌の世界でご指摘で居られました『女歌を男性が読むことで女性が歌うより以上に恋情が濃く表現できた』日本文化はその生まれから鵺『ヌエ』的な色が濃いのかもしれません。男性的な女性が人気になり女性的な男性が持て囃されるのは必定なのかも知れません。もう30年もするとお神輿は女神輿がハイライトになってお相撲もラクビーも女性が四股を踏んでスクラムを組んで観戦しているのは男性になるのかもしれません。
女は女らしくナデシコで居て欲しいものです。たとえ棘や毒があっても実は変えないで欲しいものですし。男は男らしくあって欲しいものです。半夏生のようなハーフは困りものです。
最後に今が見頃の半夏生を載せておきます。
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鎌倉中央公園『山崎』の半夏生の群落本格的な暑さが来る前の瞬時の涼しさです。
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もう半月もすれば白い葉っぱも緑になってしまい半夏生の面影は無くなってしまいます。
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葉っぱが白いので蝶や蛾が誘われて来ます。
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これが川原ナデシコ『撮影戸塚区役所屋上の庭園』
テレビではナデシコジャパンVSイングランドの戦いが始まります。ローズよりナデシコの方が強いのは風が吹けば解ります。ローズは直ぐに散ってしまいますがナデシコは実がなるまで散りません。ナデシコを見ていると川澄選手を想います。戦いの場所(カナダ)はアウェーですが黒髪を吹かせて走り抜いてください。

【追記】こんなことを書いたら偶然に川澄選手が蹴ったボールがイギリスDFのオウンゴールを呼んでナデシコが勝ちました。オウンゴールこそ半夏生そのもののような気がします。ローズの泣き顔も心に残りました

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父親の乳

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ワイフが「残りのスモモは鳥さんにあげる事にしましょうね!」言う。何のことかと思えばもう梢に実っているスモモも数が減ってきている。花も楽しんだし実も食べたしジャムでも保存した。眼にも(花)鼻にも(香り)舌(実)にも楽しませて戴いたご機嫌な庭木です。
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今年も十二分に楽しませてくれたスモモの実ももうおしまいです。
未だ梢には実が残っているのですが。鳥の啄んだ傷がついていて其処に小蠅が来るようになってきました。加えてワイフがムクドリがスモモを屋根の上で食している証拠を見つけました。役立たずのワンちゃんですがスモモの木の脇に寝ています。ムクドリも怖いのでスモモを咥えて屋根の上で食べてきたのでしょう。
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屋根の上のスモモの種ムクドリが此処でスモモを食べた跡です。
これ以上欲張ってスモモを食べるよりもムクドリに上げた方が健康の為にも良いし・・・・勿論ムクドリも喜んでくれるでしょう。
スモモが終われば次は無花果(イチジク」です。庭に出てみれば無花果はまだ青くて硬そうです。後半月も経って藪入りの頃には熟して食べ頃になるでしょう。
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ムクドリ君も”今年のスモモはもうお終いで次は無花果の番だな・・・・!」思って居る事でしょう。
私は庭を観て横になります。スモモに無花果となれば大伴家持を想いだします。
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これが犬イチジク『山無花果とも言います万葉時代は”ちち”と呼びました、この画面は万葉花(岡田憲佳著』を複写させていただきました。
家持の父は旅人です。父旅人が大宰府に赴任するに際しては父母(丹比郎女)に従って大宰府に行って居ます。加えて大宰府では母を亡くし西下してきた叔母の大伴坂上朗女に育てられました。大伴家は武人の家で地方勤務が多かったのでしょう。旅人はそんな自身を揶揄して付けた名かも知れません。家持は奈良の高円山に屋敷を構えられたので父親に充て付けのように「家持」と呼ばれたのかも知れません。いずれにしても地方勤務の多い役人の倅が家持でしたからその優しさや叙情性育った環境に育まれたものと思います。無花果の歌も家持の優しさが色濃く表現されています。

ちちの実の 父の命 柞葉の母の命 凡ろかに 情つくして 念ふらむ

この短歌は防人の長歌の一部で、歌の詞書に「勇士の名を振食むことを慕う歌」とあります。「父の実」は父の枕詞で犬無花果の事です。「柞葉(ははそば)は母の枕詞でクヌギ(団栗)のことです。
全体では次のような歌でしょう。『無花果は父の命であるしクヌギ(団栗)は母の命です。父母の命を受けて命のある私ですから父母の御恩を片時も疎かにする事は無く感謝の想いを尽くして観る事にしよう。』

ちちの実は鎌倉の山にも数多く自生しています。我が庭にも植えたのではないのですが何時の間にか芽生えてきて生い茂っています。多分件のムクドリ君が落していったものでしょう。実こそ熟しませんが。朴葉のように大きな葉っぱは緑陰を提供してくれます。
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これが我が家の犬イチジクの実です。筆者はベッドに横になると眼の先がこの緑のグラデーションになります。これはムクドリ君の私へのプレゼントでした。
これが我が家の犬無花果です。秋になっても硬くて食べられません。でも夏中緑陰を提供してくれます。屹度高円山の家持の屋敷にもスモモと併せてこの犬イチジクが自生していたのでしょう。
イチジクが何故父の枕詞なのかそれは犬イチジクの事を「ちち」と呼んだからその語呂合わせで父の枕詞なのでしょうが根本に遡れば大和言葉で何故犬イチジク『ちち』の事を『ちち」とよんだか?疑問に落ち着きます。以下は私の妄想で一般的な解釈ではありません。無花果は折ると傷口から白い樹液が滲み出てくるのです。それは乳に似ています。犬無花果の実は父の乳首に似て何の役にも立たないのですが、乳は止め処も無く流します。母の乳は豊満で美味しい乳を呉れますが父の乳首は一見役立たずでも無尽蔵に乳を含んでいるのです。
家持は父母に常に感謝する想いを表現してきた武人でした。そんな男性は女性にも優しいものです。珠玉の相聞歌も数多くあります。男勝りに歌った額田の大王よりもキメ細やかな家持の恋の歌は女性的な叙情に満ちています。私も地方勤務が長かった企業戦士でした。これからの時間は家持を勉強しながら感謝の情を念じながら過ごすことにしましょう。
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これがイチジクの葉っぱ白桃はスモモもお終いですからそろそろ桃を食べましょうワイフが求めて来てくれたものです。
ワイフに無花果の葉っぱを取って来てもらいました。歯の傷口からは白い乳が滲んでいます。
私は万葉人がイチジクの事を『ちち』と呼んだのは無花果が乳を流すからだと思うよ自説を説明しました。
そして訊きました。
アダムとイブは楽園に遊んで蛇の誘いに負けて禁断の林檎を食べました。でも直ぐに神の謝罪を請いました。神は腰に無花果の葉で隠す事を教えました。林檎の実を食べたのですから林檎の葉っぱで腰を隠せば良かったのにわざわざ無花果の葉っぱを使わせたのは何故でしょうか?イチジクは葉こそ大きいのですが大きく裂けているので余計にチラチラして欲情を催させてしまいます。
もうじき海開きです。由比ヶ浜に行ってフラダンスでも見たくなってきました私は腰振りチラチラに弱いのです。
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由比ヶ浜のフラダンスは鳴り物禁止条例で今年も無いのでしょうか?
 
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垣根の野萱草

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パソコンのキーボードを叩いている私の目線の先には野萱草の花が見えます。土手に毎年野萱草が咲くのです。藪入り前に一度咲いて藪入りが明けて旧暦盆入りの頃に二度目が咲きます。
野萱草は和名が「忘れ草」です。西洋では「忘れな草」がありす。恋人が「私を忘れないで下さい」と言ってプレゼントするのが「忘れな草」です。忘れ草は逆のネーミングです。辛い事耐えがたい事をいっその事、忘れてしまいたいと思って眺めるのが「忘れ草」です。
忘れ草と言えば私は家持の歌を想いだします。


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忘れ草を素材に恋心を歌った家持の歌(出典:万葉花岡田憲佳)

れ草 垣もしみみに 植ゑたれど 醜(しこ)の醜草(しこぐさ) なほ恋ひにけり (巻12-3062)

歌の大意は次のようなことでしょう。恋の苦しみを忘れるという、忘れ草を垣根にびっしりと、『下着の紐のように)植えたけれど、
なんという、ダメのダメ草なんだ。効きめなんかありはしない。やっぱり私は貴方を恋い焦がれているじゃないか!忘れ草とは名ばかりで、醜(しこ)い花である事よ自分を茶化して歌って恋心を唄っています。
家持は越中富山の国司になって赴任します。奥様は幼馴染の大伴坂上大嬢(おおとも の さかのうえ の おおいらつめ)という正妻がいましたから奥様も同行しました。家持には笠郎女(かさのいらつめ)という愛人(当時は”妾”と呼んだ/妾は天皇に后がいて更衣がいた様に倫理的に責められるものではありませんでした)、笠郎女は家持にせっせと恋歌を送ります。家持は笠郎女の才能が好きだったのでしょう。万葉集には24首もの作品を載せています。一方自分の返歌は2首だけです。家持は笠郎女に攻められ通しのようです。晩年家持は大伴坂上大嬢をに先立たれます。すると正妻に紀郎女が座ります。紀郎女は家持にとっては年上の女性だったのでした。二人の間の愛の歌は官能的であります。
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これは合歓の花今頃は鳥海山の西象潟はこの花が咲き誇っていることでしょう。撮影明治学院大学の横浜キャンパス。
昼は咲き夜は恋ひ 寝(ぬ)る 合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや 戯奴(わけ)さへに見よ(1461)

昼は華やかに咲き、夜はひっそりと恋に焦がれて寝る私です。私だけこんな目にあってよいでしょうか、あなただって同じ目をみなさいよこんな歌を贈られたら家持君は紀郎女さんの寝所にいそいそと出かけた事でしょう。合歓の花は共寝の象徴だったのです。私の学生時代は新婚旅行の宿に「合歓の郷」リゾートが人気でした。
ところで先の忘れ草の歌ですが。家持が誰に贈った歌であるのか解りません。亡婦とか亡妾とでも詞書して在れば解るのですが何も記されていません。万葉集編纂に当り大伴家の名誉の為に家持は故意に伏せたのかもしれません。正妻2人妾2人計4人の誰との相聞歌であるのか興味深いものですが。想像をたくましくするだけです。
大伴坂上大嬢を正妻に迎える前に家持には若い妾がいたようで家のあった高円山近辺には次の歌が残されています。
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これが野辺の容花(かほばな)昼顔の事です。高円山の野辺送りにさいしてこの花が咲いて居たのでしょう。

圓の野辺の容花(かほばな)面影に見えつつ妹は忘れかねつも(1630)
その妾さんとの間には子供もあったようでした。最初のお妾さんとの想いは断ち難く庭先に撫子を植えて面影花にしたのでした。
 又家持が砌(みぎり)の上(へ)の瞿麦(なでしこ)の花を見てよめる歌一首
  秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑし屋戸の石竹(なでしこ)咲きにけるかも(464)
歌の大意は『秋が来たら この花を見ながらわたしを偲んでくださいねと言っていたおまえが植えた庭の撫子が咲いたんだなあ。』
そんな意味でしょう。
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これが野萱草『忘れ草』撮影鎌倉明月院道
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藪萱草の花撮影場所鎌倉長勝寺赤木圭一郎慰霊碑前

ところで先日新幹線車内で焼身自殺したお爺さんが居られました。動機や背景はこれから明らかにされるのでしょうが。背筋に寒いものが走った人が多かったのではないでしょうか?ご本人には年金の受取額に不満があったように報道されています。生活は苦しいし話し相手も居ない。天涯孤独の寂しさ貧じさをその年齢で味わうのは気の毒です日本国憲法では国民は文化的な生活を送る生存権が認められている筈ですが・・・・。
家持は地方生活が長く大宰府にも関係した事から庶民感覚も強かったのでしょう。野辺の花に託して自分の想いを歌った歌がしみじみ心に浸みます。お爺ちゃんも当初予定通り掛川駅で降りて花菖蒲や野萱草に癒されれば焼身自殺等思い止まったのでしょうが・・・。私は神武天皇はじめ古代人の国見に思いを馳せます。天皇は宮中が荒れたので建て替えを進言されたのに対し香具山の頂に登って国見をして「民の竈」を確認されました。竈から煙のあがっているのを確認してから宮中の改築を決断されたと言います。現在の政府は先ず経団連に意見を聞き経団連が軽減税率反対と云われればその意見に靡きます。米国の軍事費負担を建て替わろうとします。焼身お爺さんの訴えたかったことに耳を傾けようとはしません。
万葉時代は文明こそ未発達でしたが、文化的な生活を大切にする風が吹いていました。私の生活力体力では奥さん一人で充分ですが家持君は正妻二人妾二人の間に珠玉の叙情歌を薫り高く残してくれました。万葉集とは万民集の意味です。天皇や大王の歌が採集されているのは当然ですが名も無い農夫やお妾防人も含めて万民の歌を分け隔てなく集めています。焼身お爺さんは誰からも誹謗され今黄泉への道を肩を落として歩いて居る事でしょう。お爺さん産まれた時代が悪かった家持の時代だったら良かったのにね。言ってあげたくなりますし。)回向のお経を読んで差し上げたくなります。
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一見すると野萱草のように見えますが近くで確認すれば透かし百合です。野萱草は百合の仲間です。撮影江ノ電稲村ヶ崎プリンスホテル下。

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桃太郎と奪衣婆の間

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「悪貨は良貨を駆逐する」グレシャムの法則のは、”金本位制の経済学の法則”でした
現在では現在では経済法則から離れて、悪人(物)がのさばる社会では善人(物)が追い払われるという意味で使わているようです。一方テレビを見ているとソフトバンクのCМは犬が主人公でAUは浦島太郎や桃太郎が登場し、文化も幼稚性が目立っているようです。「文化は幼児が知性を凌駕しているようです)NHKの大河ドラマも若い人好みの漫画のようで知性が感じられなくなってきました。
桃太郎の場面です。お婆さんは川で洗濯をしていますと。上流から巨大な桃が流れて来ました。
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洗濯していたお婆さんはいち早く桃に気付いたのでしたが携帯電話が鳴って気を取られていた間に桃は流れて行ってしまいます。でも他の場面では桃をパッカーンと割る場面がありましたから桃から産まれた桃太郎は継承しているのでしょう。私はこの場面を見ていると多摩川の砧を想います。
多摩川は八王子調布砧から田園調布を経て羽田沖で海に注ぎます。何処も繊維関連の土地でした。古代の布は先ず麻でした麻を柔らかくするには麻の茎を川原石の上で砧で叩いて汚れや邪魔な表皮を除きました。砧で叩けば叩く程柔らかい繊維が出来るし繊維は純白になったのでした。私の実母は砧の多摩川の西向かい狛江の龍泉寺の長女でしたので。砧も調布も馴染みが在りました。調布には重機ミシン等繊維産業になじみの深い企業も進出していました。
万葉集にも多摩川の砧の歌があります。

多摩川に曝(さら)す手作てづくり)さらさらに 何なにそ この児の ここだ愛かなしき (万葉集14‐3373) 
 
多摩川の清流に 愛しい娘が 税として都に送る手織の布を曝している。
サラサラと流れる澄んだ水に、布はアクがとれて  さらさらに(新しく新しく 白く)なる。  
どうして この娘は こんなにこんなに(さらにさらに)可愛いのだろうか!
”サラサラに”の表現は七夕の歌”笹の葉サラサラ”を想いださせます。唱歌が東歌を真似たのでしょう。白い脛を清流に浸せて砧を打ち続ける少女は今も昔も愛おしいものです。調布の布多天神社には麻を晒す乙女が描かれた絵馬が懸っています。
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                                           調布の布多天神社の絵馬
乙女は 麻を砧で叩いて布にします。
一方お婆さんは布を砧で叩いてお洗濯するのが仕事です。お爺さんは里山に柴刈りに出てお婆さんは多摩川でお洗濯するのが日課だったのでしょう。でもその日は上流から大きな桃が流れて来ました。多摩川の上流には高尾山のような霊山が在ります。幸いが上流から流れ着く事は度々あったのでしょう。老夫婦は桃を仲良く食べました。そうしたら桃は若返りの妙薬で突然に青春を回復しました。
お爺さんはお婆さんに囁いたのでした。
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「箕田源二郎/絵、代田昇『桃太郎』洗い桶は新生児の産湯にも死湯棺にも使うし洗濯にも使う日用品でした。女性の一生はは水汲みに始まり死に水まで水と共にありました。今日の話題は民族的なアプローチですが洗濯というキーワードが生死双方に通じている事です。

「桃を食べたら若返ってしまったよ・・・・」お婆さんは恥らいながら
「まあ!お爺さんたら未だ明るいうちからどうしたんですか?」躊躇しながら床を敷いたのでした。そうしたら子供が出来てしまって・・・・。桃のように大きくお腹が膨らんでしまいました。里人はお婆さんに何があったのかしら?あの歳で子供が出来るなんて?噂しましたが元気な赤ちゃんがパッカーンと生まれました。老夫婦は”桃で若返って出来た子供だから名前は桃太郎にしよう”決めました。
桃太郎は元気に育って里山の雉や犬や猿を従えていました。そこで三匹の仲間を従えて多摩川を下って鬼が島を攻めに行きました。
老夫婦は桃太郎の活躍で幸福な晩年を送りました。
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これが三途の川の川守奪衣婆さん(写真は長谷寺の卍池)筆者の奪衣婆の関心はこの像の乳房が若々しい事に始まりました。奪衣婆は亡者にとって怖いものではなく優しい味方なのではないかと思ったのでした。怖いだけならローレライと同じです。

老夫婦は桃を食べた事に始まる幸いを思い起こしました。そして何か多摩川に御恩返しをしたいと思う様になりました。老夫婦の家は多摩川の東砧(調布)でしたので川の西はあの世だと思っていました。死んだら川を渡って常世に行くのだ思っていたのでした。そして常世から何れは川を渡って現世に戻るものと思っていました。人の霊は常世に行って戻るのですから、そのお役に立ちたいものだ思ったのでした、そこで多摩川を渡る〝渡し守”になる事にしました。
そこで多摩川の東に居て洗濯をして居る事にしました。桃太郎の産湯で使った桶を使って洗濯をする事にしました。洗濯は亡者が現世で行った悪事を洗い流すことでした。洗い流さずに常世に行けば閻魔さまに処罰されてしまいます。お婆さんに十分綺麗に洗濯して戴き晴れがましい顔で閻魔様の前に座ったのでした。閻魔さまに早目の現世帰還を認めて貰いました、現世に帰還した霊は多摩川を渡ると真っ白で柔らかい産着(お包み)を貰いました。桃太郎のお婆さんは今度は三途の川の奪衣婆と呼ばれるようになっていました。
なお、奪衣婆と産着(お包み)については別の機会に書く事にします。


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遠田の蛙

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友人が山形に行ったのでと言ってダダ茶豆饅頭を届けてくださいました。
友人の故郷は山形の鶴岡ですからダダ茶豆が特産です。饅頭の皮はカステラですので仙台銘菓『萩の月』の餡子がダダ茶のようなものでひと口口にすると目の前に月山の山容が思い浮かびました。
昨年秋には大石田故郷の人のお土産に「ずんだ餅」を戴きました。
私は「ダダ茶とずんだとどう違うのか?」訊いたところ。同じ山形でも月山を挟んで庄内ではだだ茶と呼び村山ではずんだと」呼ぶのだそうだ。だだ茶とは親爺の意味で,”ずんだ”とは豆を打つの意味で青い枝豆を打って餡子にした食べ物の意味だそうです。どちらも昭和30年代までは『お母さんが擂鉢ですりこ木を回して作る』のでしょうからお袋さんの味でしょう。
”お袋が作ってもだだちゃとは此れいか如何に?”疑問です。鶴岡も上山もふるさと納税を推進していて納税すればだだちゃをプレゼントしてくれているようですから。雀の涙ほどの協力ですがお豆欲しさに考えようか思ったりします。
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これが大石田のずんだ餅ですお豆腐屋さんの人気商品です。味噌漬けも大石田産です
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 これが鶴岡のだだちゃ豆のお菓子でした。同じ山形のたかが枝豆ですが名前が違います。でもどちらもおふくろの味です。


だだ茶のずんだも枝豆でルーツは京都丹波の黒豆です。
黒豆を田圃の畔に撒いて大豆にして食用にしていたものを青い枝豆の内に収穫して食べているものです。
ですから味も香りも触感は枝豆と同じです。江戸時代北前船で栄えた庄内です。京風の料理も浸透し黒豆も栽培されていたのでしょう。田圃の畔の有効利用にも黒豆が活用されていたのでしょうが。真っ黒になる前に食べた方が美味しそうです。お父さんが青いうちに食べだしたのがだだちゃの始まりだったのでしょう。

ところで、我が庭にはまだ雨蛙がしきりなしに鳴いています。「あま蛙」とキーボードを打って転換すると雨蛙となります。私は天蛙と期待しているのに・・・・。雨を呼ぶから雨蛙なのでしょう、天から聞こえるので天蛙だと思うのですが。
、というのは私の脳裏には尊敬する歌人斉藤茂吉の歌があるからです。
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これは土蛙です
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田圃の赤蛙澤瀉の花に集まってくる虫を待っているのでしょうか?でも目玉は背後のレンズに向いているようです。

 みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる
 死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる
 のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母はしにたまふ

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雨蛙は声が良いのです何しろ鰍蛙は雨蛙の仲間ですから姿も声も良雨蛙です。。
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雨蛙雨を呼びます。皮膚が乾くと死んでしまいます。皮膚は水を含むように粘液質ですので毒性があります。雨蛙を触った手で眼を触ると良くありません。毒蛇は天蛙の毒が唾液腺に蓄積しているからです。
斉藤茂吉さんは、流石にアララギを代表する歌人です。たった3首ですが起承転結のスタイルに収まっています。
第一首は東京に居た茂吉は”母危篤”の電報で電車に飛び乗ったのでした。慌てふためいて上野駅で上山行の列車に飛び乗る茂吉さんが思い浮かびます。
母の死に目に立ち会いたい子の想いが伝わる第一首です。
村山上山の駅頭から生家に飛んで行ったのでしょう。
次の場面では息子は死の床の母の傍に布団を敷いて添い寝しています。
家の周囲は青田が広がっています。でも暗闇で静寂が包んでいます。
その静寂を一層強めるかのように鰍蛙が鳴いています。
鰍蛙は天上から聞こえるようです。

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もうじき燕も巣離れする季節です。

お母様の魂を天上から呼んでいるかのようです。
翌朝お母様は息を引き取っていました。
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送り人のポスターチェロを弾くバックは月山です。野辺送り『右下』の場面も鶴岡に近い田中の小路です。山形は伝統的に命を尊ぶ土地なのでしょう。其処心が美しい田園と心を伝えて来ている様に思います。ずんだ餅はお霊前に最高だと思います。

息子には感謝の気持ちと。添い寝できた満足感が満ちているのでした。
ふと見上げれば生家の梁(柱の上の横木)に喉の赤い燕が二つ止まっていました。
昨夜母の命は消えてしまいましたが今朝は生家に命が戻っているのでした。
茂吉の精神は近代短歌を育みましたし。その子は北 杜夫であり斉藤太でありました。
私の父方のルーツは世田谷の実相院という名のお寺で愛知の吉良家の江戸菩提寺であり屋敷跡の寺でした。実相院の名は全国各地の寺院に在りますが、斉藤茂吉の愛語『実相観入』を山号にしたものでありましょう。
子規以来近代短歌は「写生」を重要視しましたが斉藤茂吉に至り『表面的な写生で終わらずに、対象に自己を投入して、自己と対象とが一つになった世界を具象的に写そうとしました。』先の歌でいえば 鰍蛙が鳴いていましたとか燕が二羽いました表現しながら。天に聞こえる喉が赤いと言い添えて自分が生物に溶け込んで一緒になっているのです。
茂吉の師子規にも鰍蛙の名句があります。

鰍鳴いて鳴いて石ころ多き小川かな。

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これが鹿教湯温泉谷川には鰍が生息し蛍が飛びます渓流沿いに温泉が並んでいて奥に薬師堂と文殊堂が建っています。
私は子規の歌は上田郊外の鹿教湯温泉だと推測しています。水が綺麗な事鰍が多く棲息している事更に鰍の語源の鹿が見つけた温泉である事など等ピッタリです。混浴露天風呂に入って鰍を聴くなんて今頃は最高でしょう。何時も紅葉の鹿教湯温泉に行ってきました。今度は蛍の季節に行く事にしましょう。荘内の巨人土門拳は脳梗塞に倒れて鹿教湯温泉に逗留し、湯治療に成功されました。
月山の麓は骨格の頑丈な益荒男を輩出したのでした。

私は庭の雨蛙に耳を傾けながら”上山温泉鹿教湯温泉どっちに行こうか?”想いを巡らします。
ところで雨蛙は三本指ですし、縄文式土器には蛇以上に造形されています。私達日本人は蛙とともに生死を繰り返してきたのでした。
何時までも日本の山河は清く美しくして霊の依る自然にしておきたいものであります。
明日は鰍蛙に見る日本人の死生観を書いてみます。


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蘇りの蛙

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私の勤務した長銀は旧国有地で背に将門の首塚が祀られていました。首塚は巨大一枚の板碑でその周囲は夥しい数のガマ蛙が置かれていました。蝦蟇にぎょっとして人は尋ねます。
将門さんと蝦蟇はどういう関係にあるのか?」
この辺りは銀行商社が本社を連ねている処ですので転勤を命じられたサラリーマンが『無事に本社の戻れるように無事帰るように蛙に願かけしているのだよ』「なんだ無事帰るの語呂合わせか」納得する人が多いようです。
でも蛙のパワーは単なる語呂合わせではありません。日本人の蛙にかけた思いの深さはそんな薄っぺらなものではないのです。
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これが大手町の旧長銀本店横の将門の首塚首塚を守るように4匹のガマガエルが守っています。ガマガエルは将門の出生地(下総佐倉) 棲息しています。

蛙が最初に日本文化に登場するのは縄文式土器です。縄文式土器の文様には火焔や蛇が有名ですがそれ以上に蛙が多いのです。壺の丸い腹や大きく開いた口を蛙口にデザインしたりしています。縄文時代人は土器を使って煮炊きしました。土器によって食べ物は飛躍的に拡大しましたし、病気も減ったのでした。同時に死者の遺体は土器に入れて土中に埋めました。それは死者の霊(霊)がいずれ蘇ると信じていたからでした。蘇るように祈る気持ちは蛙の姿になって土器の縄文模様になったと思われます。

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縄文土器の模様蛙の脚の姿を模しているようですし、指先は3本になっています。出典茅野市尖り石縄文考古館
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山梨県釈迦堂遺跡の縄文は半人間半蛙が描かれています。

菜種梅雨の季節に田畑を起こします。すると土中から土の塊が転がり出てきます。
「何だろう?」見詰めると土くれと思ったのは蛙だったのです。冬眠から無理矢理醒まされて迷惑そうです。でも暫くすると手足を伸ばして動き出します。縄文時代人もこんな体験をしていたのでしょう。土になって死んでいた蛙が動きだした、蘇ったのだ!」思って神々しさを覚えたのでしょう。落雷を見て将門が蘇ったと信じた様に家族が亡くなると早く蘇って欲しい祈りながら蛙模様のついた土器に遺体を収めたのでしょう。
ところで草枕と言えば「旅」の枕詞です。旅をすれば草を枕に野宿しなければなりません。旅の反対は家(妻)です。家では「手枕」で寝ます。夫婦並んで手枕で寝るのです。そして死ねば「石枕」です。石枕は水葬や鳥葬を思わせます。先日書いた安達ヶ原も浅茅ヶ原も石枕で旅人は亡くなっています。古墳の石棺は石枕です、死者が蘇って欲しくなければ石を抱かせたり石で蓋をしたりしました。誰しも手枕が一番です。女性が大好きな大伴家持は手枕でありたい父(旅人)のように旅枕は御免だ思っていたのでしょう。

ところで禅宗寺院には思いも依らないところにエロスが隠れています。その一つが釘隠しです。明らかに乳房の形をしていますその証拠に乳房の形の上に乳首も乳輪もデザインされていますお坊さんが好きな酒を断てずに般若湯と呼んで隠れて飲んだように女性を捨てきれずに扉の釘隠しに乳房を作らせたのかもしれません。漱石も円覚寺に入山するに際してこの釘隠しに気付いておられれば名作「門」も違った書き出しになっていたことでしょう。門は主人公の宗助が親友の安井を裏切って、その妻である御米を略奪婚したが、罪悪感から救いを求める様を 描いた小説でした。鎌倉の寺を歩いて居れば蛙又と呼ばれる禅宗様のデザインに目を奪われます。
蛙又とは建物の梁や貫き(横木)を繋ぐ建物のパーツです。
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これは釘隠しです。建物の細部ですが釘の頭の無粋さを隠すと同時腐食防止用に釘隠しが設えられています。禅宗寺院では乳の形を模した釘隠しが多用されています筆者は「乳隠し」と呼んで顰蹙を買った記憶があります。


写真を見てください。柱の上部には貫きと呼ばれる横木が置かれています。横木同士を繋いで縦揺れに強くするパーツとして古代は束が用いられていましたが中世以降は単純な束に代えて蛙の脚をデザインした蛙股が好んで使われたのでした。
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鎌倉英勝寺仏殿の蟇股蛙の脚を股の間から覗いた格好をしています。英勝寺仏殿は蛙又の間に干支の動物がおさまっています。
禅宗寺院建物にはの妻飾りに懸魚と呼ばれる魚の尾鰭がデザインされています。蛙股も懸魚も火事除けの呪術と云われていますが。私はそれ以上のものを直感するのです。
蛙の指は三本です。勿論人間に比べれば少ないのですが。三本指は四天王の足下に蹲っている天邪鬼も三本指です。でも如来は指の間に広がっている縵網相(三十二相の第五)がついています。縵網相とは蛙の水掻きの事です。
(ところで、三本指は差別用語として禁じられています)
寺院は蛙の観察に依拠する意匠に満ちているのです。解説は総て後世の人間の後付けです。
禅宗寺院を建てた中世の人は”どんな思いを込めて蛙のデザインを採用したのでしょうか?”

私は縄文時代の人と同じで霊の黄泉がえり(蘇生)を信じて蛙をアッチコッチにデザインしたように想像するのです。
一寸話は飛びますが6月に東京国立博物館で開かれた高山寺展は盛況で大混雑だったそうです。
日本人は鳥獣戯画が大好きなのには改めて感心します。
一般に鳥獣戯画は古代末期鎌倉初期に鳥羽僧正覚猷(園城寺住職)によって描かれた人間や世相を観察した絵であるとされています。
幾つもの場面がありますが総じていえば蛙と兎の競争がテーマのようです。兎と蛙は弓矢で争い次は相撲で争います。審判役は立派な僧衣を着た僧正で、お猿さんになっています。お猿さんは鳥羽僧正覚猷自身のことでしょうか?兎は弓矢でも相撲でも蛙に負けてしまいます。
何で兎と蛙が争う事になったのかその事情は絵からは解りません。そこで想像するだけです。
日本人は死ぬと魂はお月様に昇ると考えて来ました。問題は兎になっているか蛙になっているかのの問題です。お月様に現われる影が兎か蛙かの争いです。兎派は日本人の感性主張派です。一方中国では死ぬと蛙になって月に登ると考えていました。蛙は中国派です。古代末期は遣唐使も廃止されて国風文化が盛んになる変革期でした。兎と蛙の争いは中国派(漢文派)と日本派(平仮名派)の争いを風刺したものであろうと思うのです。歴史は兎が勝ってお月様には兎が棲んでいると信じられたのでしたが。鳥羽僧正覚猷は蛙に味方して漢文派だったのでしょう。
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兎と蛙の争いの第一ラウンドは弓で競われて蛙が勝利します。出典功山寺秘宝展(国立博物館)
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鳥獣戯画では兎と蛙の争いの決着は相撲に持ち越されて結局相撲でも蛙が兎に勝ちます。出典東京国立博物館高山寺の秘宝展HPhttp://www.chojugiga2015.jp/
このように見て来ると昨日書いた斉藤茂吉の”遠田の蛙天に聞こえる”は縄文時代からの長い歴史と文化の蓄積の上に表現された鰍蛙で尊いものに想われてくるのです。
今日は七夕です茂吉さんのお墓は月山の麓上山です。今晩も鰍の声は天上から響いて来ることでしょう。
私も庭の笹の葉を切って短冊を吊るしました。
短冊も昨年のもの使い回し
昨年の短冊を一枚は流用してもう一枚は感謝を記しました
天の川空の二人に遠慮しつつ 50年逢いし幸いイメージ 8
今年の短冊の一枚はは昨年と同じです。
鰍は清流にしか済まないと言われますが今では全国各地に復活しているようです。3年前は富士川の上流鰍澤に行きました。そこで最高に素晴らしい硯を視ました硯職人は14代雨宮弥兵衛氏(13代は名人の名をほしいままにした職人で硯の池を鰍が見詰めている意匠を得意にされていました。私は職人の手先を呆然と見つめました。
蛙と言えば雨宮硯を想いだします。(このブログでも書きました)
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                       山梨の鰍澤の雨宮硯硯の陸と海を親子の鰍が見詰めている意匠です。



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姑息な外務大臣

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米国の国務長官は国務大臣のトップであると同時に外務大臣を兼任している重要ポストですから歴代国務長官は次期大統領候補であったりします。ところで日本の外務大臣は小物が多いようです。昨日の新聞には”ユネスコの文化遺産に日本の近代化遺産群が承認された”がトップで報道されていました。でもラジオのニュースでは先ず佐藤悟国連大使の発言が流れました。「近代化遺産群の中には1940年代に本人の意思に反して強制労働を強いられた人が居りそうした事実を展示する用意がある」が。おやおや、ユネスコの登録承認には”付帯条件”が付いたのだ、知りました。その直後に同大使の発言を否定する岸田外務大臣の発言が流されていました。岸田大臣は佐藤大使の「強制労働」の発言について「『強制労働』を意味するものでない」と説明し、。さらに、財産請求権の問題は完全に解決済みとする従来の日本政府の立場に変わりがないことを強調ししました。
既に韓国ではこの矛盾を指摘して大騒ぎのようです。
ようやく日韓正常化の軌道に乗ったかと期待したのに新しい火種にもう火がボウボウです。
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ようやく日韓両国が握手できたと思ったのにユネスコの議場で新たな火種が露呈してしまいました。
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7月7日の読売新聞には明治日本の近代化資産の目玉軍艦島(端島炭鉱)の紹介記事が在りました。これを整備し其処に”この炭鉱には朝鮮半島から徴用された人達が強制労働させられていました”案内する事になっているというのです。それではまるで博多の色町跡に従軍慰安婦の銅像を建てるようなものです。
そもそも国連大使は外務大臣の部下でありますから。佐藤大使は国連の場で発言して上司から梯子を外された事になりお気の毒です。こんな上司の下では働きたくないと思っておられることでしょう。
外務省には大使ポストが沢山あって、何れも日本石を代表して外国と折衝しています。屹度難しい問題が山積しているのでしょう。だから米国では外務大臣は最優秀な人物を抜擢して国会の承認も必要としているのでしょう。
一方日本の外務大臣はどうなんでしょうか?今回も難しい事は先送りして日韓首脳の会談を優先させたのでしょう。だから近代化遺産の負の側面を無視して韓国外務大臣の言う事を鵜呑みしたように推測されます。
これでは安倍首相が村山談話や河野談話を否定し見直そうと言っても、その足元で同じ轍を踏んでいることになります。

ところが昨日は読売新聞は何も書いていなかったのですが今朝の社説では韓国を非難していいます。
まともなマスコミ人なら”近代化における負の側面”を指摘するものです。
高島炭鉱の粉じん事故は私の記憶にもありますし。その前近代的タコ部屋で脱走しようとすると私刑も在ったそうでした。
日本の近代化には暗い側面が在ってそれは女工哀史や蟹工船等で糾弾されてきたのでしたが、その被害者に40年代の韓国人が含まれていたとなると問題は国際化します。
三菱鉱業には記録も残っていることでしょう。韓国の指摘通りに強制徴用が在ったのなら私企業として韓国に民事責任を負うべきであります。
沈黙していることに疑問を持ちます。また三菱重工も長崎造船所で強制徴用が在ったのか否か主張すべきです。両者とも韓国の法廷で説明したい様子ですがこうなってしまうと日韓国民に対して説明する責任があると思います。

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7月8日の読売新聞於社説日本の近代化の負の側面は無視して韓国の政治工作が問題の発火点だと指摘しています。マスコミとして視野の狭さに愕然とします。これでは社会文化の木鐸になりえません。泥沼にはまり込むばかりです。

福岡県の田川に行けば炭鉱の博物館が在って、過酷だった炭鉱労働の記憶が保存されています。当時炭鉱の鉱夫だった山本作兵衛さんの記憶を辿った絵画が展示されています。同絵は「アンネの日記」などと並ぶ国連の記憶遺産に指定されています。韓国の指摘は過酷な労働に韓国人を徴用して無理して働かせた」というものです。
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  山本作兵衛さんの炭鉱で働く炭鉱夫の絵過酷な労働条件と併せて脱走も出来ない非人道的な側面を指摘しています。
日本の近代化を支えたエネルギーは地獄の底から掘り出す黒いダイヤでした。日本が非西洋で最初に近代化に成功した国です。何時の時代でも成長には負の側面を伴うものです。この視点を忘れない事が大切だと思えば韓国の指摘に腹を立てる事もありません。

果たして実際に韓国人を無理強いしてつれて来てこの炭鉱で働かせていたのでしょうか?
日本の国が韓国人を連れてきた歴史は古くからあります。
最初は百済を助けて新羅と唐と戦った663年(天智2年 )で天智天皇軍は敗走し壬申の乱の遠因になりました。
有名な額田大王の次の歌もこの時に天智天皇軍を見送る歌でした
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
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                  広隆寺弥勒菩薩像百済文化最高の仏像が日本に在るのは気がかりです。

以前書いた法隆寺の百済観音は百済から帰化した人が日本の楠の樹で作った仏像でした。
一方京都太秦子隆広隆寺の弥勒菩薩は日本に帰化した百済人(秦氏)が持ち帰ったものと云われています。何故なら此方は半島の赤松が素材だからです。
もう一人偉大な人物が百済から日本に帰化しました、それは山上憶良でした。憶良は高校時代貧窮問答歌絵を作った人物として教わりましたが偉大なな国際人で日本と日中(唐)新羅(朝鮮)との協議に活躍し、漢詩から転じて和歌の創生にも貢献しました。秋の七草の選定は憶良の歌に依りました。
岸田外務大臣に憶良の様な国際感覚を求めるのは無理でしょうがせめて憶良のように同胞を大切にする熱いハートは持っていて欲しいものです。
憶良はいずれかの機会に紹介する積りです。
我が国には国文科を卒業した人万葉集ファンは多いものです。そうした人は防人の歌に戻って今次の安全保障問題に発言してほしいものです。
防人は国内で命を失うのならまだしも、海外で死ぬ無念さは計り知れないものがあります。自衛隊員に防人の無念を味あわせてはいけません。

 韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして

防人に行くお父さんが出征にさいして、裾を放さないで泣きすがる子供を想いだして歌った歌です。
、「母親も死んでしまってもういないのに国に置きざりにしてきてしまった」と・・・胸が張り裂ける悲しみを歌に託して後世に残してくれました。。 態々唐「韓」衣を着ているのは異国に戦争に出るからです。この歌を万葉集に繰り入れた大伴家持は立派な人です。
更につぎの「海ゆかば」は家持の歌でしたが、これは海軍歌にも使われたので嫌な記憶のある人も多い事でしょう。
 海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)  山行かば 草生(くさむ)す屍  大君の 辺(へ)にこそ死なめ  かへりみはせじ
最近の政府動向を見ていると少なからず心配になって来ます。1500年も昔の苦い記憶が蘇るような気がします。海にも陸にも自衛隊員の屍が累々としそうです。

白村江の戦いに次ぐのが秀吉の朝鮮戦争でした。この時は朝鮮の陶工を連れ戻り日本の窯業は大発展しました。
明日は李承晩ラインについて書きます。

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