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馬山工業団地の想い出

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私が小学生の昭和30年代頃日韓の海上には「李承晩ライン」というものがあって、再三日本漁船が韓国に拿捕される事件が報道されました1951年(昭和26年)「サンフランシスコ平和条約」が締結され翌年から公布されて国際舞台に復帰した日本でしたが、韓国は条約を批准せず昭和27年韓国初代大統領「李承晩」が海上にラインを引き海洋の主権を主張したものでした(韓国では平和ライン、日本では李承晩ラインと呼びました)。子供心にも隣国は難しいと思いました。
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昭和27年韓国は李承晩ラインを設定し侵犯した我国漁船を次々に拿捕しました。
博多港からJRの水中翼船に乗れば2時間で釜山港でした。釜山から東に200キロ足らずで新羅の都のあった慶州でその中間に馬山(場さん)が在りました。釜山は韓国第二の都市でしたし馬山は天然の良港でもありましたから其処に用意された自由貿易地区(工業団地)は日本企業の進出を狙った外資誘致策でした。
私が博多の長銀に赴任した時には既にバブルが破裂していました。昔は問題の無かった食品企業も贈答用の食品が売れない等の理由で資金不足に陥り再建対策に腐心していました。博多の名物明太子の会社もその一つでした。輸血資金を出しても暫くすると出血が止まりません。調べてみるとどうも馬山自由貿易区で袋に穴が開いているようでした。銀行は馬山工業団地の工場を視察して同工場の撤退を申し入れましたが此処で新たな問題が露出しました。自由貿易区に進出するに際して享受した利得や進出中に受益した税制上の特典等を吐き出せと云った事が撤退条件でした。冷静に考えれば工場を閉鎖するには労働者の失業対策として相応の資金が必要ですが、当時の金融常識では海外拠点の撤退に際して立ち退き料が必要とは思いも依りませんでした。
明太子の原料はスケソウダラです。スケソウダラは日本の港に陸揚げされても韓国で陸揚げされても同じです。加えて韓国の労働賃金は日本の三分の一でしたから。馬山で製造した明太子でも福岡の中州で製造した明太子でも変わらない筈です。中州の老舗は順調なのに馬山工場に進出した会社が出血している事態は理解できませんでした。博多子は中州産韓国産を峻別していたのでしたし韓国での資金のフローは何時までも霧の中でした。
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博多の名物明太子も韓国産なら製造原価も易い筈です。昭和3韓国の自由貿易区に進出した日本企業も多くありました。でも国内バブルが破裂すると思いも依らない「撤退費用」が明らかになりました
韓国貿易省にすれば折角優遇した日本企業から税金を取って来た訳でもではありません。製品は親子間で渡され代金は日本の本社にプールされているのですから撤退すると言われたら”関税だけでも支払え”言いたくなるものです。
”進出は容易でも撤退は難しい”つくづく思いました。立場が違えば主張は異なるもので、。どっちも筋は立っているものです。
それでなくても韓国国民は日本帝国主義の犠牲を強いられた強い想いが心に刻まれています。
片や、日本人は”韓国の鉄道などインフラは自分達が整備してあげた”思っています。日本人が口にしなくてもそんな雰囲気が韓国人の自尊心を痛く傷つけられているのです。
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明太子はスケトウタラの卵巣が原料です。最近は地球温暖化の影響でオホーツク海寄りに漁場が移ってきているようです。北方領土問題が解決したら歯舞さんの明太子や蒲鉾が食卓を豊かにしてくれるのかもしれません。

私は明太子工場を出て運動靴の工場や電子部品工場を見て回って翌日は慶州の寺院を見て帰国しました。近くて遠い国韓国を想いました。韓国旅行は疲れます。それは一般人の視線に嫌日を感じるからです。一方ベトナム旅行は楽しいし疲れません。それは親日の眼差しを感じるからです視線をチェンジするオプションは日本側にあります。パク・クネ大統領にある訳ではありません。せめて日韓歴史問題を百済歴史地区のユネスコ文化遺産に指定されたこの機会に初めて日本歴史学者や文学者から謝意を述べる事から始めれば良いと思います。上野博物館の法隆寺館を「日韓友好館」に作りかせて、日韓の歴史展示館にすればと思います。目玉は法隆寺の百済観音ですし。山上憶良ですし。朝鮮磁器です”日本の繁栄は朝鮮民族のお蔭です”感謝を形に表すことが大切です。
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 博多山笠の山上憶良(憶良は筑紫守で新羅唐との国交に尽力した)写真の出典はhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%B1%B1%E3%81%AE%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF&oq=&ei=UTF-8&xargs=3&b=41)



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一生の願一生の功徳

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昨日も一日中雨でした。でも浅草寺に出かける事にしました。私は未だ左手が利かないので右手は杖、左手で傘をさす事が出来ません。合羽を着て汗をかきながら浅草寺にお参りです。
義母は浅草の道具屋さんのお嬢様でした。出がけに仏壇に”これから浅草寺さんをお詣りします”挨拶しましたのでワイフの背中にお母さんが負ぶさった事でしょう。
観音さまのご縁日は「毎月18日」ですが月に一日特別の日が設けられました。「功徳日(くどくび)」と呼ばれる縁日に参拝すると千日お詣りしたご利益が得られると信仰され中でも7月9日10日は「千日詣」と呼ばれていましたが江戸時代中頃には「四万六千日」と呼ばれるようになり、そのご利益は46,000日分(約126年分)に相当するといわれるようになりました。浅草寺では享保年間(1716~36)ごろより(この数については「米一升分の米粒の数が46,000粒にあたり、一升と一生をかけた」洒落だったのです。この説明は浅草寺本堂で流されていました。
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浅草寺門前商店街は4万6千日の特別縁日ポスターが一杯でした。
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浅草寺本堂の賑い
  境内にはほうずきや釣り偲ぶを商う露店が並んでいます。
粋なお姉さんが私の目の前にほうずきを突きだします。”帰りにね”言いながら人の流れに乗って本堂に辿り着きます。
私は銀行勤めの頃、K常務が江戸っ子だったことから、浅草には度々お供しました。でも浅草寺山にはお詣りした事は無く、脳梗塞になる前義母の先祖の墓参をした時に寄った程度で。実質ジックリとお参りするのは初めてです。
ほうずきも良いんですが、なんといっても此処は浅草、粋な浴衣姿のお姉さまを目で追ってしまいます。
噂に違わず外国人旅行者が目立ちます。皆浴衣のおご婦人を見て満足しているようです。東京都も2020年のオリンピックに向けて”浴衣の日”等で江戸浴衣を推奨したら、おもてなしになるのではないかと思います。浴衣を着るには下駄も足袋も必要ですから恩恵を被る伝統産業も数多くありそうです。



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伝法院通りを散歩される浴衣姿のご婦人達。其処だけ陽が当たったように明るく”歩く姿は百合の花”という古い言葉を想いだしました。美しく歩く事は難しい事です。

ほうずきは屹度栃木か茨城の園芸農家が栽培しているのかな?思っていまあしたが訊けば大分の豊後高田で大田花き市場経由で浅草寺の境内で商われているんだそうです。云われてみればもう真っ赤に染まっています。今頃は豊後高田の園芸農家がテレビで売れているのを見て安堵されていることでしょう。これからは盆の入りほうずき市でなくてもほうずきは欠かせない季節の植物です
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ほうずきは鬼灯と書きます。鬼道(地獄餓鬼道に堕ちた霊が道に迷わない様に吊るされた盆提灯のようなものと思われてきましたそれに浅草は吉原にも近かったのでほうずきは馴染みが深かったのでしょう。というのはほうずきは漢方で解熱効果や「癪」「虫の気」咳止め効果がが在ったように云われますし我が生家では酸漿水(ほうずきの抽出液)は化膿した傷や目を洗うのに使いました。また江戸時代は堕胎の薬としても使われていたそうですから。色町では需要があったのでしょう。だから吉原にに近い浅草はほうずきに縁が在ったのかもしれません。
ほうずきの朱色を観ると色と怨みを感じるものです。朱色の腰巻を艶があると思うのは大店の旦那で、悔しいと思うのは売られてきた少女だったのでしょう。
紫式部は玉蔓の頬を(源氏物語巻28/野分の巻)玉鬘酸漿(ほほづき)と表現していました。玉蔓の可愛らしさを真っ黒な髪に赤い頬と言い表しました。ほうずきの「ほう」も”ほほ”が語源でしょう。

ほうずきの薬効の「癪」とは胃癌の事です。「虫の気」とは子供の罹る腹痛の事で漢方では寄生虫が原因と考えました。癪や「虫の気」に効果があるのなら。大量に飲めば堕胎効果があると思ったのでしょう。
今考えればとっても惨い事で現実世界も鬼道であったように思えます生きながら地獄のような色町ではほおずきがどのように眼に移映ったのでしょうか?
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浅草の街は言葉遊び”落語の落ち”に溢れています。そんな洒落好きな気性が4万6千日お詣りしたご利益がある特別縁日を生み出したのでしょう。
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   地口行燈(足元を照らす行燈)に描かれた洒落絵。江戸っ子は駄洒落が昔も今も変わりません。
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浅草は天水桶も粋です。外国人ツーリストも江戸趣味に期待しているのでしょう。

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文学は暗闇で創作される(幽霊の憧憬)

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何処の城下町も山の手は武士が屋敷を構え町人は下町に長屋を借りて住んでいました。江戸の町も町人は隅田川に沿いに住んでいました。ですから隅田川の東側が向島で常世と思われていました。賀茂川の東が鳥辺山でその先が大文字山、風葬の地でした。その隅田川は事は古代から有名だったのでしょう。伊勢物語では主人公は舟に乗って川を渡ろうとします。そして都鳥(を見て都に置いてきた奥様を想いだして泪します。その記憶は「言問橋」「言問い通り」の名に残されています。浅草寺二天門を出て隅田川に向かうと花川戸公園に出ます。この辺りは一面の草原で浅茅ヶ原と呼ばれていたのでした。この公園に史蹟「姥ヶ池」が残されています。
古いブログには浅草寺に懸けられた絵馬に歌川国芳の「一つ家」があると聞いていましたので。本堂の隅々まで見上げましたが期待の絵馬は観られませんでした。国芳の直筆絵馬ともなれば風雨に晒しておけるはず在りません。改めて出直せという事でしょう。
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(写真は歌川国芳が浅草寺に納めた「一つ家」の図。浅草寺に近い浅茅ヶ原に何時しか青侍夫婦と娘が移り住んでいました。夫婦は娘に旅人を誘わせ旅人を石枕に殺めて生活していました。娘は荒んだ生活を諌めたのでしたが。夫婦は生きてゆくためには仕方ないと思っていました。99人を殺めていよいよ100人目というときに娘は旅人と入れ替わって石枕に寝ます。老婆は旅人と思って娘を殺してしまいます。ようやく青侍夫婦は改心したのでした。出典:日本古典体系雨月物語。
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浅草寺本堂外陣の殿上画は天女と龍でした。期待の絵馬はか懸っていませんでした。
浅草寺二天門を後にして東に向かいますこの辺りは大型観光バスが路上駐車していて大混雑です浅草寺が西スカイツリーが東に在る観光地ですから駐車場は必須です
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左が浅草寺本堂右が山門スカイツリー方角(東)に二天門(重文)があるのでそこを出て川に向かうと花川戸公園に出ます、公園内に池が在ってその池h「姥ヶ池」で青侍夫婦の祠があって「一つ家」伝説を留めています。
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ほうずき屋台の向こうに在るのが二天門です。
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浅草寺の西側に花川戸公園(矢印)が在って。い伊勢物語の言問橋は直ぐ近くです。
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これが浅草寺に近い花川戸公園に設えられた「姥が池」祠は青侍夫婦の慰霊碑で中央の石碑は娘を祀ったお稲荷様です。
コンクリートで固められていますので浅茅は映えていませんが姫蒲が生育していました。
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この白いのが浅茅です。穂の出たては少し赤くて舐めると甘かった記憶があります。土手にはスカンポも咲いてスカンポは酸っぱいので楽しかったのでした。ピンクの朝顔のような花は浜昼顔撮影場所鵠沼海岸。
私は常々思っています。”子供も文学も夜つくられる”清少納言も紫式部も寝床で構想を練ったのではないでしょうか?
薄暗闇の中でこそ人間の記憶が蘇り強い情念が湧きおこって創作力が湧くように思います。昔上田郊外の田沢温泉に友人と泊まった事がありました。宿の名は「枡屋さん」。島崎藤村が泊まって「千曲川のスケッチ」を書いた事が自慢でした。私達は長めの良い二階に案内されました。井桁造りの宿で二階には出窓状に手摺が出ていました。藤村もこの手摺に寄りかかって向かいの山脈を観たであろう!欄干に寄りかかると宿の主人に叱られました。皆が体重をかけると欄干が落ちてしまう!
翌朝私達は此処から近い修那羅峠に石仏を拝観に出かけたのでした。私は今夜は座敷童が出るかな思いながら横になりました。すると梯子を軋ませながら降りてくる人の気配に気づきました。天井板の節が目のように見えて来ました。天井板の節目は北斎の百物語「こはだ小平次」を想いださせました。梯子階段のきしみ音は「大蘇芳年の階段の幽霊」を想いださせました。
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    上田郊外の田沢温泉枡屋さんは有形文化財に指定されている懐かしい旅館で「温泉ピンポン」の舞台になりました。筆者はこの旅館で座敷童に逢った記憶がありました。
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これは大蘇芳年の階段の幽霊。枡屋さんのトイレは不便で人が廊下や階段を移動する気配が座敷童や幽霊に感じてしまうのでした。
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これは北斎の百物語「こはだ小平次」この構図は天井板の節目が幽霊の眼に見えたのでしょう。

暗闇の中でこそ人間はその本性や深層心理を顕かにします。文学も絵画も暗闇でこそ創作されました
その最たる人物が上田秋成(雨月物語)りで。秋成は源氏物語の六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)や浅茅ヶ原の一つ家伝説を深層心理に蓄えてカオスにして「浅茅が宿」を創作したものと思います。
源氏物語の女性中で誰が好きですか?訊くと多くの人が「夕顔」と答えます。夕顔は控えめな慎ましやかな女性で男性にとっては色々都合の良い女性です。
その夕顔を殺してしまうのが六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)です。人間のおどろおどろしさをあわせもっているのが六条御息所です。”夕顔が良い”何て言う女性は嘘つきで六条御息所が良いという女性は正直でも怖いものです。
そろそろ今年も盆に入ります。怪談の季節です。いずれ「浅草に怪談テーマパーク」が出来る時代が来るような気配を感じます。
西洋人が日本人に絶対追いつけない文化は怪談だと思うのです。何故なら源氏物語から数えて1000年以上の民俗文化の蓄積があるからです。花屋敷遊園地は赤字が溜まらないうちに閉鎖して成人遊園地幽霊屋敷にしたらいいのに思ったりします。
プロデュースするのは大江戸文化村で三井不動産も京成電鉄営団地下鉄も協力します。
いずれかの機会に秋成の「浅茅が宿」を紹介したいと思います。


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浅草の粋

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ワイフの背中にはお母様が負ぶさっています。せっかく浅草に来たんだからお母さんが悦びそうな「粋な」お店を廻りたいものです。地下鉄浅草駅からして粋なデザインが目立ちます。
浅草には外国人が目立ちます。外国人はハンドブック片手に行列を作っています。手にしたハンドブックにはお店が推薦されているのでしょう。コスパの良い店は外国人が並んでいる店のようです。
地下鉄銀座線浅草駅からして粋にデザインされています。ポスターも古き良き時代の面影を留めています。
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雷門は大変な混雑です。
昔も今も浅草の待ち合わせ場所は雷門なのです。
風神雷神に観音様(金龍に天竜)浅草寺にお参りする人は風神雷神に迎えられますが帰りは慈悲の観音様に見送られようです。でも西側の聖観音様は美しく乳当てピッタリしているのに対し東側の観音像には頭に角があるし少し意地悪そうに見えますお見送りに当って”用心するんですよ”とのメッセージでしょうか?
雷門の巨大な提灯も含めて(700キロもあるそうです)は松下幸之助さんの寄進だそうで。松下電器の創業者の御礼参りだそうです。
パナソニックも大赤字続きで往年の覇気は見当たりません。”企業も人も良い事ばかりじゃないよ”メッセージが痛いようです。昔ながらの提灯も良いのですがソーラ提灯などハイテクが在っても良いように思います。
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ご存知雷門風神左が雷神右が風神です。真ん中の提灯も含めて松下幸之助さんの寄進(健康回復御礼)です。右の風神の背中側に鬼形の像が在ります。
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風神の背に祀られた鬼形の像。お寺の説明はこちらは竜神で(反対側が金神/双方合わせて金龍山浅草寺)
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巨大な提灯の底に刻まれた龍の彫刻此処に松下幸之助の字が隠されているそうですが、解りませんでした。

私の脳裏には学生時代読んだ『粋の構造/九鬼周蔵』が浮かんでいます。「いき」とは江戸時代の美意識「粋」のことです。美意識の解析について何故理屈っぽく説明しようとするのか余計解り難いではないかこれを「野暮」というのだ、そう想って積読しておいたのでしたが、私も歳を経て少しだけ解ってきたように思い始めています。粋とは所詮は色町(吉原)の空間だけで通用する美意識で。いい女に逢えるのも偶然です。顔見世で花魁を見初めるのはその媚態に惹かれるから。媚態に惹かれて一夜の恋をするのでしょう。江戸の町人は花魁の何処に色香を感じたかと言えば、着物の「抜き衣紋」。「髷ぐあいや襟足」、接吻した時の舌ざわりなどの「さはり」‥。こういうものが粋の意味体験をつくっていて、それが心の糸にふれて”ゾクッとするほどの色香を感じたのでしょう。遊女も夜鷹も裸になる訳でも触らせるわけでもないのにお客を取るのは色町空間の中で媚態に勝る”粋”といったアッピールをしたからです。
江戸の町人にとって異性が欲しい「恋しい」と思うのは自分の心に「寂しさ」が広がっているから。自分の寂しさの所為で異性を恋しく想い色町に出かけて自分自身を確認したのでしょう。色町では偶然に任せる事になります。遊女はそれとはなしに媚態を見せて男を誘います。でも遊女も”金さえ払って呉れれば誰に抱かれても良いんだ”思ってはいません。無粋(粋で無い事)や野暮はお断りです。力もあるしお金もある教養もあるし血筋も良い。現代風に言えば3K5Kで心立ても優しくなければ、最後は自分を見受けしてくれそうな”意気地”のある男性でなければお相手をしてくれません。
九鬼周蔵は江戸の美意識を西洋の言葉で解析してみせたのでした。
それは九鬼周蔵が西洋哲学を日本に輸入した明治の話です。
現代はグローバルな時代、色町も密室も許可されていません。でも粋は形を変えて旅行客や私の様な遊山客の欲求を満たさなくてはなりません。浅草の街中に粋の工夫が為されているようです。洒落も櫛も浴衣も和食も漬物も粋をアピールしています。ビールも冷酒も粋に飲まそうとしています。
伝法院通りを歩いていると若くて粋な青年が私を誘いに来ました。新宿の歌舞伎町なら”お父さん良い子が居ますよ遊んで行かない”言われそうな客引きです。
怪訝にしているとお兄さんは私を寄席に誘ったのでした。若い芸人は幕間には街に出て客引きをしているのです。
そんな下積生活を重ねて芸人に育つのでしょう。
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芋羊羹の舟和のお店今の目玉は黍団子のようでした。浴衣に赤い襷に色香を感じます。
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浅草公会堂前の景色
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新仲見世の履物屋さんこのお店は国産品ばかりですから少し高いのですが1000円程度の浴衣用の下駄や草履を商う店も多くありました。
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これは櫛屋さん簪もあって楽しいお店です。
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これは漬物屋さん奥に椅子席が在って試食可能で歩き疲れたお客さんが憩っていました。玉葱のワイン付(右端)けは乳房のようで可愛いのですが、少し甘く酸味が欲しいと思いました、食べ比べると黒胡椒が最高でした。
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上の漬物屋さんの栞私はこのお店で玉葱の漬物を求め毎日戴いています。
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漬物やの店先胡瓜も美味しそうですが奥には漬物の試食コーナーがあります。これもおもてなしでしょう。
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  12日の読売新聞のコラム。ミラノ万博で日本館が一番人気なのだそうだ。館内でふるまわれる試食コーナーが人気爆発の要因だそうで、1980年代のカナダ万博で日本車を展示して顰蹙を買った時代との違いを指摘しています。車の品質を売り込むのは「野暮」で煎餅や日本酒を試食試飲させるのが”粋”という事でしょう。
粋が良いのは誰でも知っています。でも野暮が居なければ粋の良さは解りません。私はもう歳ですから身の程をわきまえて粋がらずに野暮でも毎日の生活を楽しみたいものです。時々は浅草に出かけて粋を感じながら。
ところで九鬼周蔵ですが九鬼が粋に関心を持った事情は気の毒な背景があったと聞きます。
九鬼の父は文部官僚の九鬼嘉隆で母は九鬼波津子で波津子は周蔵の妊娠中に岡倉天心と恋に落ち周蔵は生みの父・隆一、精神上の父・岡倉、そして喪われた母という、この3人の狭間でそれは後の精神形成にも大きな影響を与えることとなったと考えられる。九鬼は子供の頃訪ねてくる岡倉を父親と考えたこともあったと記しています。天心は不倫問題で東京芸大を追われますし、九鬼波津子は離別させられてしまいます。九鬼周蔵は京都法然院の静寂の中に寝ておいでです。


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早乙女花の夏が来た

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 東京大空襲(5月25日)が過ぎたら次は 原爆投下(8月12日)、更に終戦記念日(8月15日)が近づいてきて日本中が鎮魂に手を合わせる季節になります。そんな季節に安全保障関連法案を採決しようとするのは父の命日に娘の結婚式をあげようとするようなもの、先ず無理でしょう。日本中が焦土に化した時に見事に咲いたのが夾竹桃だったと聞きます。平和記念公園は夾竹桃が満開でしょう。
我家にも夾竹桃が植わっておりその生命力に閉口しています。枝葉を広げてしまって収拾困難なのです。そんな夾竹桃に勝るのが忍冬(スイカズラ)です。夾竹桃に覆いかぶさって蔓を伸ばし葉を広げています。スイカズラに負けずに蔓を伸ばして葉を広げ花を咲かせるのが屁糞蔓です。鎌や植木鋏を手にして屁糞蔓を伐採します。その途端に悪臭が漂いますこの悪臭が屁糞蔓の名の由来なのでしょう。今年も花が咲き出したので鼻を花に近づけてみました。でも予期した悪臭は全くありません。屁糞蔓の臭いは蔓が切られたり虫に食われたりするときに発するのでしょう。匂いは屁糞蔓の自己防衛策なのです。安全保障関連法案の屁理屈みたいなものです。
戦争は何時でも何処でも「自己防衛」を主張して勃発しました。更に一度戦火を交えると破滅まで暴走してしまうのです。自民党の説明する”三原則”を軍隊が守るとは思えません。
それにしても屁糞蔓とは気の毒な名前です。古代では何と呼ばれていたのか万葉集を調べてみました。
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これが屁糞蔓です「万葉花岡田憲佳を複写)
その結果は万葉集4500首中で屁糞蔓を歌ったのは高宮王の次の一首だけだそうです。
かわらふじに延ひおほとれる屎葛(くそかずら)絶ゆることなく宮仕えせむ(万葉集16-3855)
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我が垣に咲き出した屁糞蔓の花この蔓を伐採すると悪臭がします。手を洗った程度では悪臭は拭えません。秋に黄土色の小さな実がなりますが種になってしまえば臭いません。

高宮王は「王」と着くのですからと皇族関係者という事でしょう。尊い皇族一族が屁糞蔓を歌い込むのは意外です。更にその内容も意外です。かわらふじとは(サイカチ(皁莢)のことで古代は石鹸のように洗剤にしました。
かわらふじの上に生い茂る屁糞蔓のように私は絶えることなく天皇にお仕えします。と謡っているのです。この歌を贈られた天皇はどのように思われるでしょうか?蔓は木の幹を取り巻いて最後は木を殺してしまいます。臣下が忠誠を誓うには不適当な植物です。その上に屁糞蔓は臭くて嫌われ者です。更に川原藤(洗剤)を覆い尽くす屁糞蔓です。天皇を取り込んだ藤原氏を呪詛するような響きにも聞こえます。では高宮王とはどんな人物であったのか?調べると伝不詳としか書かれていません。大津の皇子か葛城王(橘諸兄)に関係あろう?当りを付けて調べても全く分かりません。高宮の名しか考える材料はありません。王族は総じて内裏から遠くは無い高台にすんでいられたでしょうから・・・・。高円山には聖武天皇の離宮もありましたし。志貴皇子の離宮もありました。誰にしても天皇の女婿として権力を高めていた藤原氏に反抗した父系の王族であったのでしょう。
私の ”屁糞蔓じゃあ可哀想”思いは多くの人が想ったのでしょう。
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花を横から眺めるとお灸のように見えますし頂上に火が点いたように見えるので灸花と名付けられました。可愛らしいので早乙女花とも呼ばれました。そう言われてみれば少女のブラウスのプリントに似合いそうです。
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これはもうじき咲き出す鹿の子百合夏に咲く最後の百合です。私は花の雰囲気が早乙女花に似ていると思います。
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此方は酔芙蓉日の丸に咲くところがムクゲと似ていてこれも早乙女花の雰囲気と通じます。酔芙蓉の咲き出すのは旧盆明けです。
写真円覚寺選仏場
様々な名がつけられたのでした。
調べてみると花の可愛らしさや形を名にしたものが多いようです。
ヤイトバナ(灸花とは花を横から見たのでしょう。
まるで”お灸”のように盛り上がっていてその頂上が赤く燃えて見えます。
更に)/サオトメバナ (早乙女花)とも呼ばれています。
可愛らし色形が少女のように見えたからでしょう。
ヤイトバナは爺臭いので好きになれません一方早乙女花は少女の面影に相応しいようです。黒髪に飾れば綺麗でしょう。でも匂いだけは御免です。無臭清浄なサイカチの方が少女にお似合いです。
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これが川原藤でサイカチとも呼ばれました。古代洗剤に使われました。持統天皇の天の香具山の歌はサイカチで洗って真っ白になった衣を天日干ししている光景を歌ったものでした。白い衣は民族的な呪術的な意味が込められていたのでしょう。出典前述
春すぎて 夏来(き)にけらし 白妙(しろたへ)の 衣(ころも)ほすてふ 天(あま)の香具山(かぐやま)

畏れ多く持統天皇を捩れば
 春過ぎて夏来にけらし我家宿の垣に咲きたり 早乙女の花


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創意と工夫節約を忘れたら日本人では無いという事

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日本永代蔵』には、工夫・努力・倹約して富を得てゆく話が ぎっしりつまっています。創業者が知恵を絞り工夫倹約して代を為した話は、二代目三代目が工夫倹約を怠り、 これはお洒落して遊廓などで身上を潰す事を戒める為だったのでしょう日本永代蔵には商業の変化を次のように表現しています
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「西鶴像」。京都の俳人であり医者であった芳賀一晶の作太い指太い眉太い首など西鶴の表情が良くとらえられているものと思います。出典日本古典体系西鶴の挿絵
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洛中洛外図屏風の「橋の上」沢山の行商人が通行人の多い橋の上で商っています。近世初頭は才覚と工夫と節約で財を為すチャンスがあって、そんな努力が尊ばれたのでした西鶴は日本永代蔵にそうした人の努力を賛美したのでした。
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洛中洛外図工夫と倹約努力で財を為した人は河原町に出店しました。表通りには目の色を変えて行商に走る人が通っています。
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大店の二代目三代目は創業者の創意工夫努力を忘れて遊興に耽ります。そんな後継者をボンチとかボンボンと呼びます。ボンボンは「金が金を産むと思い違いをします。ボンボンの所為で大店は傾きます泉下の西鶴翁は現代の日本の姿を心配されておいででしょう。図は「川口遊郭図屏風。西国から逢坂に帰った世の助は船着き場から即座に舟遊びに興じます川は木津川です。世の助が家を傾けたのは江戸時代中期の世相であり町人の関心であったのでしょう。


「昔は利発や才覚で金儲けが出来たが最近は金が金を産むように変わってしまった、知恵や才覚は軽んじられているのは嘆かわしい。総じて大店が三代も続く事は無くなってしまった・・・・・。」
西鶴はそんな大店京都の但馬屋の跡取息子「世の助」の女性遍歴を描きます(好色一代男)とにかく、驚くのは、世之介の調子のよさ。度を超す女好きです。大店は傾き世の助は 海の彼方にあるという女だけ毛の島を目指して船出し、それきり消息が絶えてしまいます。
関西でボンチとかボンボンとか極楽蜻蛉と言えばそんな身上を潰す道楽息子の事です。私は最近の東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員長を見ているとボンボン「世の助」を髣髴します。
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今朝のNHKニュース画面から新国立競技場建設計画を見直さないで進める事についても世論調査の結果では80%を超える人が反対しています。
今私達はギリシャの財政破たん問題を対岸の火事とは思っていません。このままでは日本国は同じ道を歩むと思っています。だから消費税の増税も我慢しています。破綻するよりましだ思っているからです。だから国是は”切り詰めるは切り詰める節約は美徳で工夫が大切だ”思っていますし政治家もそうあって当然だ思っています。西鶴翁の精神は日本国民に浸透しているのです。
ところが森東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員長は見直す姿勢を示さないばかりか東京都の負担を強いて「そもそも都がオリンピックの誘致を進めて来たんだ!うそぶいています。現在の2520億円の建設計画でも屋根が無くて屋根付きにすればプラス900億円かかるそうです。3400億円もの巨費を投じたプロジェクトがどうなるかは明白です。

太平洋戦争で巨艦大和がワークできなかったように巨艦は沈没する運命にありましょう。東京ディズニーランドは初期投資300億円でした東京ドームは400億円でした。という事は新国立競技場は東京ディズニーランド並み、東京ドームの8倍の集客をしなければ生き残れない事になります。毎日ディズニーランドのように人を集めるにはどんな工夫があるというのでしょうか?国民は無謀な計画であることを皮膚感覚で察知しているので見直しを求めているのです。
森東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員長がオリンピックに不適格な人物であることをは国民は既に知っています。それは昨年のソチ冬季オリンピックの発言でした。およそ公人らしからぬスポーツ精神に欠けた発言でした。
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今年のウィンタースポーツに楽しみを残してくれた浅田真央選手写真出典:朝日新聞デジタルニュース写真はソチでフリー演技を終えた瞬間です。流石に朝日のカメラマンで真央さんの感動を見事に切り取っておいでです。
女史個人の演技でした。勿論日本国民は全員が浅田真央選手を応援してテレビを見詰めていましたところが前半の既定の演技で真央さんはトリプルアクセルに失敗して転倒してしまいました。誰もが息を殺して転倒の瞬間を見詰め眼を赤く腫らした真央選手に応援していました。”一日休んでフリーでは選手生活の総てを懸けます”彼女の決意を聴きフリーの演技をテレビの前で見詰めました。期待通りにフリーでは最高得点を挙げて選手生活を締めくくったのでした。でも誰しも散る花を惜しむように真央さんならまだできる切磋琢磨した鈴木明子さんは未だ頑張っていたじゃないか?期待して彼女の去就を見守りましたそんな時森委員長の発言が在りました
。”やっぱりあの子は転んでしまった(自分)あの子は肝心な時に転ぶので団体戦には相応しくないと思っていたのだが、案の定転んでしまったhttp://www.landerblue.co.jp/blog/?p=11065”そんな発言でネットは怒りのファンの発言で炎上していました。
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”リオオリンピックのように間に合わないといけないので見直しは出来ない。最初にオリンピック誘致を決めたのは東京都だったのだから東京都は500億円は負担すべきだ”と開き直る森さん貴方は西鶴爺さんに学ぶべきです。出典NHKテレビ画面


森さんは公人ですからアマチュア選手の真央さんを批判するのは問題です。
私人が公人を批判するのは自然ですがその逆は許されません。
流石に森さんは孫に叱られたと言っていましたが。謝罪のつもりなら真央さんに向けてするべきでした。森さんは弱くなってしまった早稲田大学のラクビー部の立て直しに専念されるのが適当なな器でありましょう。森さんが京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員長で居る限りこの問題は国民の期待する方向で快活される可能性は皆無です。今の調子では現在の計画の儘見込み着工されてようやくワールドラクビーに間に合って。でも屋根無しで東京オリンピックパラリンピックは酷暑の中開催され。何人もの人が熱中症で倒れた・・・、そんな場面が現出しそうで心配です。



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片思い花

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連日の暑さには閉口します。この暑さの中でこそ目立ちだしたのが向日葵です。
何故か花弁が数枚取れてしまった向日葵がありました。意地悪なアスファルトの熱風が花弁をちぎったのかもしれません。
それとも昨晩出た妖怪が”好き、嫌い好き、”と恋占いをしたのかもしれません。屹度最後まで行ったら”嫌い”になってしまうので止めたのでしょう。私は共学だったのは小学生の時だけでした。学校の裏山の御成り山源氏山に遊びに出かけると女子はタンポポやマーガレットの花を摘んで”片思い両想い”と呟きながら恋占いをしていました。マーガレットは恋占いに最適ですが。お金持ちならガーベラが、大女なら向日葵が適当でしょう。
そんなことを想っていたら昔の人はどんな風に恋占いをしたのか?興味が湧いてきました。そこで僅かな知識を叩いて万葉人の恋占いを書いてみたいと思います。
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 最近は背丈の低い向日葵が目立つようになりました野鳥保護の為にも向日葵は格好です。撮影は鵠沼海浜公園
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向日葵を見ると天照大神を想うのは私だけでしょうか?青空の彼方に天照大神が透けて見える気がします。撮影座間の農地
恋占いの代表花マーガレットを確認してみます。『好き、嫌い、好き、嫌い・・・』と唱えながら一枚ずつ花びらをちぎります。何時でも何処でもいいわけでは無くて。正午に太陽に向かって始めるのが正式だそうです。ところがマーガレットの花弁の数は決まっていなくて、だいたい5~20枚くらいの間なのですが、実はほとんどが奇数枚。
 だから、かなりの確率で「愛している」「両想い」で終わることになるのです。だから少女は恋占いが好きなのでしょう。”おみくじ”と同じで悪い占いばかり出たら占う人はいなくなってしまいます。サイコロ(サイ)の出目の和が、丁 (偶数)か、半(奇数)かを客が予想して賭ける丁半でも迷ったら半『奇数』に賭けるのが理に適っているようです。

恋は昔も今も片思いに始まります。 
片思いの切なさを古代人は草叢にひっそり咲く百合の花に託しました
片思いの歌先ず最初は大伴家持の奥様になった大伴坂上郎女です。
夏の野の繁みに咲ける姫ゆりの知らえぬ恋は苦しきものぞ第8巻1500番
大伴坂上郎女さんの姿が姫ゆりに重なって愛おしいばかりです。こんな歌を贈られたら家持ならずとも射止められた事でしょう。
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これは笹ユリです。現代は姫百合と言えば沖縄のそれを想いますが私は緋色の姫ゆりより草叢にひっそり咲いて居る笹ユリの方が片思いに相応しいと思います。写真は「万葉花/岡田憲佳著」を転写。古代人は初夜に笹ユリを飾ったと国文学者の書で学んだことがあります。
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これは山百合です。大伴坂上郎女は大伴家の令嬢で坂上(高円山の上の方)に住んでいたのでしょうから山百合でも良さそうです。(多分家持君が夜這いするには山百合の咲く坂道を息を喘ぎながら登った事でしょう。

次は家持の歌です。
思ふらむ人にあらなくにねもころに心尽くして恋ふる我かも
家持は万葉集の編者でしたので大伴坂上郎女の片思いの歌にこの歌を返歌として編纂する事も可能だったのでしょうが。故意か無意識か二つの歌は別々に編纂して在ります。そのうえこれは現代の女性の人気を失うような歌です。
現代語にすれば次の様な歌でした
私を思ってくれる人でもないのに 貴方は繰り返し繰り返し あれこれと尽くし 片思いしているんだ・・・・。
家持君の片思いの歌は幾つもあります。次が大伴坂上郎女への返歌だったかも知れません。
人間の心のベクトルは何時も一方通行ですキューピットの矢のように一方向きで何時もすれ違いです。
片思いの矢が左右から飛んで来てぶつかる両想いになる事はありません。
片思いに耐えてこそ両想い(相思相愛)への道が開けるものです。家持の私人としての叙情性は片思いの時に育まれたものでしょう。
益荒男と思える我やかくばかりみつれやみつれ片思いせむ第4巻719番
 自この歌で大伴坂上郎女さんゲットしたのかもしれませんし、少なくとも現代女性の家持君の人気は挽回できたようです。現代語にすれば次の様なものでしょいう。
自分は自身をたくましい男だと自負していたのに こんなにも 恋やつれするほどの 片思いをしているよ
さて片思いがどちらから始まったかはわかりませんが何時しか心は通じ両想いになります。
万葉集では想いが通じると女性は大胆に男性を誘います
人の見る上は結びて人の見ぬ下紐したひも開けて恋ふる日ぞ多き(柿本人麻呂)
現代語にすれば次の様な意味でしょう。
「人の目に着き易い上着の紐は結んでおきますが人目の付かない下着の紐は解いておいているのよ。貴方が恋しく思もう日が多いのです」
人麻呂の歌は代詠でしょう。歌聖らしからぬ大胆でかつ品の無い歌です。
矢張り歌は花を素材に歌ってこそ品があって想いも込められるものです。

万葉集では合歓の花を素材にしています。
昼は咲き、夜は恋ひ寝る、合歓木(ねぶ)の花、君のみ見めや、戯奴(わけ)さへに見よ(巻8の1461 紀 郎女)
歌の意味は次のようなものでしょう。
昼に咲いて、夜には恋しい想いを抱いて寝るという合歓の花花を私だけに見させないで。ほら、貴方もここに来て一緒に見ましょうよ(一緒に寝ましょう!。紀女郎は、家持より年上で人妻でした。戯奴(わけ)、というのは目下の人を呼びかける言葉です。若い大伴家持をちょっとからかったような歌です。年長の女性が若い男性を悪戯うのは何時の時代もあるものです。家持君は紀女郎お姉さんもゲットしてしまうのですから実に益荒男ですね。実はこの後家持君は笠女郎という若くて才能豊かな女性も愛します。この辺りは次のブログに詳しく書かれています。http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/column10.html
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これが合歓の花です。この花の姿に人妻紀郎女さんのよがり声を想ったら病気でしょうか?合歓の花は夕暮れから咲き出すのでそして濃いピンク色が艶っぽいのでこの名や字が充てられたのでしょう。



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江戸最迫力の奪衣婆さん

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今日は(7月16日)は藪入り(やぶいり)です。 江戸時代までは商家の奉公人は1月16日と年2 回のこの藪入りの時だけ、お店を休んで実家(藪)に帰ることができました。明治になって「週」 の制度が入ってからもこの風習は続いていましたが、昭和初期には毎週日曜日が休日になってまでこの風習は消えてしまいました。
この日は閻魔様の縁日でもあります。そのため「地獄の釜のふたが開く」と言われ、海に出ることを禁じてきました。この日に地獄の十王詣でをする人もあり、藪入りで帰った人が故郷の閻魔堂にお参りに行く風習もありました。縁日には見世物や屋台が露店が並んで賑わったものでした。
今日は台風来週が懸念されていましたので、私はワイフに相談して昨日(7月15日)に江戸の閻魔様詣でに出かけました。
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江戸六閻魔江戸から地方に向かう主要な街道の閻魔様が祀られ六閻魔と謂われました。閻魔は地蔵尊の仮の姿ですから六閻魔は同時に六地蔵が祀られました。出典巣鴨真性寺パンフレットを転載
JR営団地下鉄丸ノ内線を乗り継いで新宿御苑前。大橋ビルの地下に出ました。このビルは更生法が適用されたエルカクエイが断末魔を迎えた場所です。何度も何度も通ったビルですが今はもう私は浦島さんの状態で目指す太宗寺が解りません。
そう新宿通りから歌舞伎通りに抜ける近道が太宗寺の境内を横切る位置に在るのです。汗を拭き拭きビルの角を曲がれば薄れていた記憶が蘇りました。今晩(15日の夜)は盆踊りが予定されているのでしょう。沢山の提灯が飾られ住人や事業者の寄付や御霊前が貼られていました。
台風次第で此処は盆踊りで大賑わいする事でしょう。普段は花園神社の境内に寄り添うカップルも藪入りの夜は太宋寺の盆踊りに集うのでしょう。屹度伊勢丹にお勤めの売り子さんも浴衣に着替えて閻魔さんを喜ばせるのでしょう。
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15日11時の太宗寺境内新宿6丁目盆踊り会場になっています。右の瓦葺きの建物が閻魔堂で正面の枕の様な白い建物が本堂です。境内中央に盆踊りの櫓が建っています。本堂の裏側が花園通りでその先に歌舞伎町が広がっています。
甲州街道の最初の宿場は高井戸宿(日本橋から4里16キロ)と遠い事からその中間に新しい宿(新宿を)設えました。其処は高遠藩の内藤家の)領地でしたから内藤新宿とも呼ばれました。太宗寺は内藤家の菩提寺でもありました。
品川も千住もそうであったように新宿は盛り場として賑わいます。遊び女が客を引き賭博場が出来。芝居小屋が並んで江戸の三悪揃い踏み状態になります。今の歌舞伎町の状態が江戸時代に現出したのでした。特に賑わったのが"藪の入り"でご主人から小遣いを貰った若い小僧さんが日頃の憂さを晴らして散財したのでした。
里に帰る途中で新宿の太宗寺で閻魔様お地蔵様にお参りして親元への道を急いだことでしょう。
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丈六の銅像のお地蔵さんが参拝客を迎えてくださいます。その右側が閻魔堂で閻魔堂の向かいが三日月不動尊のお堂です。
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閻魔堂はお線香濛々で見えません
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これが閻魔様壁に巨大な舌抜きの道具が用意されていますこれなら牛の様な舌でも抜かれてしまいそうです。江戸時代初めに鎌倉円応寺の閻魔像奪衣婆像を品川で転じた事から、江戸っ子は閻魔様と奪衣婆とは夫婦であると勘違いし、造形も円応寺のそれに似て作られた…誰かの著書で読んだ記憶があります。
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此方が太宗寺の奪衣婆さんこちらこそ円応寺の像に似ています痩せ細って浮き出たあばら骨垂れた乳は山姥を髣髴させます奪衣ばの半跏不坐(結跏趺坐の略式坐法、片足を他の片足の腿上に組んですわる坐法)は布団が一般化する前の出産姿勢ですし姥神の安産(多産)霊力もあって地蔵信仰の奪衣婆は近世になると子種安産願望を満たす現世利益の神になったように思います。都内最迫力の奪衣婆さんです。奪衣婆は三途の川で亡者の衣服を剥ぐのが仕事です。遊女はお客を裸にするのが仕事です。遊女にとって良いお客が取れるように願った事と妊娠しない様に願ったのが奪衣婆人気の要点でした。
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此方は境内東の閻魔堂の向かいの三日月不動明堂に祀られている不動明王。発心因縁十王経に依れば十王の忌日は第一(初7日泰広王が亡者の審議に当ります 泰広王(しんこうおう)」が生前の殺生を調べます。泰広王は不動明王の本地(化身として日本 の地に現れたです王のうち五番目の王が閻魔大王(えんまだいおう)です。閻魔大王は35日目に審判を下し、来世(次に生まれ変わる世界)が言いわたします。閻魔様の本地は地蔵尊です。イメージ 8

三日月不動尊堂から閻魔堂を見るビルの向こうが新宿通りでその200m先に新宿御苑が広がっています新宿御苑も含めて高遠内藤家の領と言われています。
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此方は不動堂の脇に祀られている塩かけ地蔵尊もう塩で固まっておいでです。流石に大江戸で鎌倉の塩なめ地蔵尊や足柄の粉かけ地蔵尊に較べると懸けられた塩の量が違います。塩をかけると皮膚が綺麗になる色白になるという事で遊女の信仰を得たのでした。イボやあばたニキビを取る等の効果があるそうです。太宗寺さんは民間信仰の博物館の様なお寺さんです。
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太宗寺の案内板
内藤家墓所をお詣りして太宗寺を後に次に正受院に向かいました。



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御産婆さんと奪衣婆さん

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昨夜は大変な雨でした。庭のワンちゃんも濡れて寝られないでしょうし巣立ちしたばかりの雀さん家族も難儀している事でしょう。喜んでいるのは雨蛙位なものでしょう。寝苦しい感じて体を捻った途端です。左肩がポッキとなりました。どうかしたかな?左肩に左腕の重みを感じます。右手で触ってみれば亜脱臼が治ったのです左手の指さきも僅かに動く気配です。左腕の麻痺は回復してきているのです。15日藪入りで三途の川の奪衣婆さんを詣でたご利益かも知れません。
我国の地獄思想は古代末期に始まり。鎌倉時代初期に一般化しました。地獄には閻魔大王を筆頭に10人の大王が居て亡者は各大王に個別に尋問(10審制)を受けて最終的に閻魔大王が結審すると信じられました。それが近世とりわけ幕末明治になると厄除け転楽(厄を落として楽に転じる)現世利益に変わって行きます。”死んでも来世は楽に過ごしたい”願は”死にたくはないこの世で楽に暮らしたい”想いは地獄の思想を変えていったのでした。閻魔様は物分りが良い親爺に変換し。三途の川に待ち受ける奪衣婆も心底怖い婆さんから優しい御産婆さんの特長を兼ね備えるように変わったのでした。
こうした宗教の変化を換骨奪胎として批難する考えもあるでしょうが逞しい民衆の欲求として是認する人も居ます。筆者も学生時代は正法眼蔵随聞記」や歎異抄を読んで民間信仰を低く見ていましたが長い間民間の石仏や仏像を巡り歩いているうちに民間信仰に惹かれるようになりました。先月観た沼田の味噌舐め婆を観たり私の好きな貞心尼(良寛様を看取られた美貌の庵主が閻魔堂の堂守だったと聞くと民間信仰へ一層重心を移すようになりました。
昨日書いた新宿の太宗寺の閻魔様は寺に盗みに入った泥棒を捉えたというニュース(瓦版)で人気になり藪入りの習慣や遊郭が在った事から繁盛しました。その太宗寺の背中合わせに歌舞伎通りに面して正受院というお寺がありました。
此処の奪衣婆は幕末には太宗寺の閻魔様を凌ぐ人気になります。奪衣婆人気に一役買ったのが歌川国邦の錦絵でした。
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正受院の奪衣婆の御利益を報じた錦絵(歌川国芳)右上から昔々たいそう願を叶えて下さるお婆さんが居ました。そのお婆さんに願をかければ人間でも牛馬でも鼠でも叶えて下さいました。牛馬は力が出るように鼠は猫に逢わぬよう願いをかけたのでした。遊女は顔のあばたが治癒するよう。子供の疳の虫封じに人波は途切れず四谷にまで線香の香りがとどいたそうでした。
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これが正受院の奪衣婆堂右側が歌舞伎通りになります奪衣婆堂なのですが額も幟も「子育て老婆尊」と書かれています。
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雨戸が閉じられていますが簡単に開いて蔀戸の隙間から奪衣婆さんを拝する事が出来ます。
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これが正受院の奪衣婆さん一般に”綿の婆様”と呼ばれています左膝を立てて右手に衣を握って頭には頭巾状の真綿を被っておいでです。案内には田安徳川家で見つかったものですが、嘉永2年(1849)に田安家の縁が深かった正受院に安置されたの者でした。弘化4年(1847年)盗賊5人がこの寺に押し入ったのでしたが逮捕されたのはこの”綿の婆様”の力と評判が立って江戸中に話題になりました。ところでこの奪衣婆も小野篁の作と言い伝えられています。小野篁は小野妹子以来の学者一族で小野小町の祖父にあたります。閻魔大王の補佐役として毎晩地獄に降り(京都六道珍皇寺)書記をしたと伝えられます。秋田は小野一族の領で小町伝説が数多く残されています。晩年の小町像は何れも奪衣婆を髣髴させます。閻魔大王の結審内容は小野篁が書いたもので人間として再生する事が期待されました。再生するとは赤ちゃんとして産まれ代わる訳で、奪衣婆は御産婆さんに変身するわけで頭上の真綿をベビーの包みにする訳でしょう。
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正受院の無縁仏塔正面地蔵尊の上の段に如意輪観音がその上の地蔵尊はお名前が幻光童女と刻まれていました。大半が江戸時代後半の仏様で居られました。
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これは出産土偶半跏夫座の姿勢は出産の姿勢で如意輪観音にも引き継がれてゆくもの、奪衣婆の姿勢にも通じます。青森県で数多く出土しています。







正受院の奪衣婆堂の隣に立派な針塚が建っていました。建てたのは新宿の和裁服装協同組合だそうで。毎年2月の針供養には和服のお嬢様が揃ってお詣りされるそうです。民間信仰は自分の願望によって逞しく変身します。お寺も民間人の期待に応えるために仏を変化させて行きます。
お針供養は鎌倉では絵柄天神社が有名です。明治通りを渋谷方向に行けば和装洋装の学校や企業が軒を並べています。何時しかお針供養にこの寺を詣でたいものです。帰り際に無縁仏に手を合わせました。どの仏も排気ガスを浴びて煤けておいでです加えて今日の日射光はきついものがあります。如意輪観音さんのお名前は幻光子。産まれて直ぐに幻のように亡くなられたのでしょう。お母様は奪衣婆さんに拝んで”次は健康な子を授けてくださいそして貴方が御産婆さんになって下さい”手を合わせた事でしょう。
私達は針供養を観たので巣鴨のとげぬき地蔵に向かう事にしました。



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とげぬき地蔵の赤いパンツ

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正受院で綿婆あ(奪衣婆)さんを拝んで、次は何処に行こうか迷いました出がけには小石川の蒟蒻閻魔(源覚寺)に回ろうと思っていたのでしたが針供養を見ると巣鴨のとげぬき地蔵に足が向かいました。今月は浅草のほうずき市を詣で、とげぬき地蔵を拝んで・・・・・、ワイフは後は柴又の帝釈天に行きたくなったのか三つの江戸っ子の旧跡寺院が混線しているようです。
新宿御苑前から地下鉄に戻り新宿駅で山手線に乗り換え巣鴨に向かいます。巣鴨駅を降りれば目の前が中山道(17号線)何処を向いても「とげぬき地蔵」の案内が目に入ります。もう私達もお婆ちゃんの原宿「とげぬき地蔵通が似合う夫婦になっているのですお婆ちゃんが歩きやすいように鋪道にはいろいろ配慮がしてあります。横断歩道の音楽は何故かカラスの鳴き声です。鋪道にはアーケードが設えてあり雨傘と日陰を提供してくれています。
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JR巣鴨駅前は中山道(国道17号線で駅前アーケードにはソーラパネルの屋根が張られて傘をささないでも歩きやすく出来ています。奥の三叉路から旧中山道で地蔵通り商店街が始まります。お婆さんの好きそうな甘味どころお爺さんのたむろする碁会所が目立ちます。
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此処が旧中山道三叉路で此処から庚申堂まで地蔵通り商店街が続きます。この日は藪入りでしたが余りに暑いので人出が少なかったようです。お婆さんも熱中症が怖いので家に閉じこもっていたのでしょう右側建物は巣鴨信金本店その奥に創価学会の戸田会館が聳えていました。
地蔵通り商店街に入ってすぐ左に真性寺(真言宗)があります。此処が江戸六閻魔六地蔵尊の一つです。明日16日が閻魔祭りだそうでその準備も出来ていました。
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突き当りが江戸六閻魔六地蔵の真性寺閻魔さんが地獄の釜の蓋を開けて地上を窺がっている看板が良く出来ています。屹度明日来れば地蔵絵と絵解き法話が聞かれるのでしょう。寄席もあるとなれば地獄八景亡者戯(米朝さんの十八番でした)が聞けたかもしれません。来年来なさいという事でしょう。
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これが江戸六地蔵尊の一つ真性寺の地蔵尊新宿の太宗寺と同じ大きさ意匠ですが。儀軌に従ったので同じ様に出来たのか。同じ工房で鋳られたので似ているのか解りません。
真性寺の参道を出て地蔵通りの向かいに「巣鴨ンのお尻」が鎮座しています”巣鴨ン”はユルキャラでそのドナルドダックの様なお尻が鎮座しています。肛門と思しき当りが黒ずんでいます。子供がお尻の穴に手を突っ込んでいるのです。
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これが真性寺門前のスガモンのお尻。子供がお尻を触ってお婆ちゃんの下の世話が懸らないようお願いしているもののようです。
変わったものが飾られていると思ったのですが直ぐに気付きました地獄絵図に糞尿地獄が在るのです。亡者が地獄の獄卒に追いかけられて逃げると其処が糞尿の池で溺れてしまう地獄絵図です。快便は年寄りの願いです。地蔵通りには赤いパンツを商っている店がが数多くあります。”赤パンツ”は巣鴨の名物のようです。
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巣鴨には赤いパンツが目立ちます赤い襦袢は江戸の艶だったのでしょうが、赤いパンツは艶も色気もありません。昔は赤い褌で遠泳したものでしたが・・・・・。
赤い色は火や血も象徴します。 だからこそ人々は、赤い色に呪力を感じ、そこに生命を感じます。お婆ちゃんの心配が”下”に在り。だからこそお地蔵様のゆだれ掛けの赤い色をパンツにして腰の病気除けのお守りにしたいのでしょう。
そもそもとげぬき地蔵の由緒は胃腸に患った病気の原因を快癒する事に在りました。
昔毛利家の女中が裁縫中に誤って針を呑み込んでしまいました。呑み込んだ針は抜けません。そこでは曹洞宗萬頂山高岩寺(在湯島)のお札を呑み込んだところ針はお札に刺さって抜けたという事でした。現代の感覚でいえば次のような事でしょう。毛利家の御女中が田舎から湯島の屋敷に登るようになりました。ところが環境の変化と極度の緊張の為に重い便秘に懸ってしまいました。どうしたんだ?上臈の質問に女中は誤って針を飲んでしまいました「実家に戻って静養させて下さい」。上臈は強度の便秘に陥ったものと判断し。高岩寺に参拝させ、お地蔵様のお札を飲ませたのでした。その結果便秘は治癒し硬い便が出たのでした。お地蔵様の腹巻が霊験のあるのは誰でも知っています。ならばお地蔵様のお札を飲んでしまえば胃腸病は体の中から治癒します。
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これは真性寺の清潔なトイレ入り口にはトイレの神様が見守ってくれています。
紅いパンツはもう色気も艶もどうでもよくなったお婆さんが快便を願って穿くように案内しているのでしょう。
元気なお婆さんが地蔵通り商店街を闊歩して美味しいお店で食べてお喋りを楽しんでいます。
私達は掻き氷屋に入ろう出来れば天然氷屋さんに入ろうと思ってお店を探していました。
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高岩寺檀信徒会館
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高岩寺の石仏群手前の井戸は地獄の入り口でしょうか?
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高岩寺門前の古いパン屋さん喜福堂店内にイートインコーナーが在って飲み食い出来ます。
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これがズンダ餡パンです



ところが私は古いパン屋さんの看板に書かれた”ずんだ庵パン”に惹かれて入ってしまいました。
私は”ズンダ”に極端に弱いのです於〇店のお嬢さんにズンダ餡パンと鶯豆餡パンとどう違うのか?訊いて見たくなりました。えんどう豆が原料なら鶯豆餡パンで枝豆が原料ならズンダ餡パンに決まっています。隣の八百屋さんの店先に冬瓜と夕顔が並んでいましたの八百屋の叔父さんに冬瓜と夕顔とどう違うのか聞いたところ叱られてしまいました。
今度は優しく答えて欲しいと思ったのでしたが。気が退けて聞けませんでした。お店を出た途端でした。私の眼の前に女学生が歩いてきて悪戯の風がスカートを巻き上げました。私は女学生にぶつかると思ったので。目をつぶりました。ワイフに言いましたこのお店に入ったから熱中症にならなかった。若し入らないでいたら。脳梗塞を再発していたかもしれない。そうしたら”とげぬき地蔵通りでお爺ちゃん熱中症で死亡”としてニュースになったかも知れない。
ワイフは私が正しく報道させますよ。”ロリコン爺さん女学生のパンツを見て脳溢血死”
”人生良い事も悪い事もあるのだから日々楽しみながら過ごしなさい”とげぬき地蔵さんの教えと思い、ワイフの”庚申堂迄歩いて都電に乗って帰りましょうし”提案に従って西日に向かって歩き続けました。歩きながら想いました赤いパンツは嫌だなやっぱりパンツは白に限る日本人は赤は呪術の色であるものの穢れの色でもありました一方白は穢れ無き神が降臨する色であります。。


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巣鴨のお猿さん(庚申堂)

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7月22日は杉浦日向子さんの命日です。2005年47歳の若さで惜しまれて逝かれました。「コメディ―お江戸でござる」の時代考証をされる笑顔を懐かしく思っていたところ。北斎の娘を描いた「百日紅」のロードショーが始まるというので。近々に観に行く事にしました。彼女の著に「百物語」があります。
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2005年7月22日亡くなられた杉浦日名子さん。魅力のあるお人柄でした。今夏北斎の娘を描いた「百日紅」がhttp://sarusuberi-movie.com/index.html上映されるそうで近々観に行く積りです。
日向子さんの漫画「百物語」は江戸の御旦那の家に入った植木職人が旦那の耳汚しに怪奇譚を放して聞かせるものです。
何れもショートストーリーばかりですが。江戸時代は庶民の生活の傍に、障子一枚板戸一枚向こう側には霊が居て時には妖怪になって現われるのでした。妖怪と言っても元々は人間の霊であったり動物の霊であったりするもので、霊が強ければ情が深ければ妖怪に変じるものでした。生きざまによっては死者の霊を恐れ慄きながら生活せずばならず、妖怪を畏怖していたし。正しく生きれば妖怪が守護してくれるものだったのでしょう。身近に妖怪を感じながら生きる事は人間らしさを満喫できることに通じていたのでしょう。
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杉浦日向名子さんの「百物語」から
江戸落語に「庚申待ち」が在ります。産の十八番でした。
落語は日本橋博労町の大黒屋金兵衛という旅籠屋で「庚申待」の日に、店を休み、町内の人達を集め夜明かしで話をやり続けると云うものです。説教じみた庚申の話ばかりでは面白くありません。場内がドット涌くような滑稽話も加えられてそれが江戸落語のネタになったものでしょう。
日本橋から中山道を下ると最初の宿が板橋でその中間にあった巣鴨庚申塔はお茶屋が在って賑わっていたようです。賑いの中心は巣鴨のとげぬき地蔵であり王子街道との分岐点であった庚申塔であったのでした。
とげぬき地蔵「高岩寺」を出て一服した私達は庚申塔に向かいました。とげぬき地蔵通りを入口から出口迄歩いたことになります。
私は何処か世田谷のぼろ市(三軒茶屋)」みたいだな思って歩くのを楽しみました。道の先に踏切が在って都電の姿が見えます。都電荒川線「庚申塔」駅があの辺りなのでしょう。
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地蔵通りに面して庚申塔が建っています。小さなお堂ですが綺麗に掃除されていて大切にされていることが良く解ります。8月12日にお祭りと案内されていました。
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案内板の同版画広重の江戸名所図会を銅版にしたもの右上に更新塔が建っています。上(北)への道は王寺道で手前の大通りが中山道でしょう。お茶屋は三軒並んでいて駕籠かき飛脚露店などが見えます。近在の男は庚申の依るに庚申塔に集まって徹夜して絆を固めあったのでした。説教節ばかりでは飽きてしまいます。落語や義太夫節はこの暇つぶしも在って進歩したものでしょう。
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向かって左側の庚申塔のシンボル三猿まるでこま犬のような位置に祀られています。
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此方は右側のお猿さん
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お手水も清潔で信夫草が涼しげです。
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都電荒川線に乗って大塚から池袋で湘南新宿ラインに乗り代えて帰宅しました。思いの外我が家に近いので驚きでした。
ところで落語の庚申待ちを紹介します。
【試し切り】
夜の四つ頃お茶の水に来ると、茶飯屋の流しが来た。そこに現れたのが武士で、「エイっ」と言って茶飯屋の親父に切りつけると、体をかわした親父がお鉢で避けたが飯が飛び散った。これなんだと言うので、「試し斬り」と返事が返ってきたが、「それは茶飯斬り」だと馬鹿っ話をしている。

【玉の輿】
金具付きの駕籠に乗るような出世した娘が居た。美人だった上、腕力があって、ちょっかいを出す男連中をひとひねりしてしまう。あるとき、ムジナを捕まえ、ムジナ汁にしたが気味悪がって誰も食べないので一人で平らげた。それを聞きつけた殿様が、屋敷に上げ、そのうち手が付いて男の子を生んで、お世取りを生んだので出世した。
「女ムジナ汁を食って玉の輿に乗る」と言うから。
ムジナの話が出たところで狐の話となれば何といっても江戸では王子のお稲荷様です。
子の庚申堂の辻を北に向かえば王子のお稲荷さんです。
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  これも広重の江戸名所図会の「王子の狐」です
【王子の狐】
王子の狐は、昔から人を化かすことで有名だった。
ある男、王子稲荷に参詣した帰り道、一匹の狐が美女に化けるところを見かける。どうやらこれから人を化かそうという腹らしい。
そこで男、『ここはひとつ、化かされた振りをしてやれ』と、大胆にも狐に声をかけた。「お玉ちゃん、俺だよ、熊だ。よければ、そこの店で食事でも」と知り合いのふりをすると、「あら熊さん、お久しぶり」とカモを見付けたと思った狐も合わせてくる。
かくして近くの料理屋・扇屋に上がり込んだ二人油揚げや天麩羅などを注文し、差しつ差されつやっていると、狐のお玉ちゃんはすっかり酔いつぶれ、すやすやと眠ってしまった。そこで男、土産に卵焼きまで包ませ、「勘定は女が払う」と言い残すや、図々しい奴で狐を置いてさっさと帰ってしまいました。
しばらくして、店の者に起こされた狐のお玉ちゃん、男が帰ってしまったと聞いて驚いた。びっくりしたあまり、耳がピンと立ち、尻尾がにゅっと生える始末。正体露見に今度は店の者が驚いて狐を追いかけ回し、狐はほうほうの体で逃げ出した。
狐を化かした男、友人に吹聴するが
「ひどいことをしたもんだ。狐は執念深いぞ」と脅かされ、青くなって翌日、王子まで詫びにやってくる。
巣穴とおぼしきあたりで遊んでいた子狐に「昨日は悪いことをした。謝っといてくれ」と手土産を言付けた。
穴の中では痛い目にあった母狐がうんうん唸っている。子狐、「今、人間がきて、謝りながらこれを置いていった」と母狐に手土産を渡す。警戒しながら開けてみると、中身は美味そうな牡丹餅。
子狐「母ちゃん、美味しそうだよ。食べてもいいかい?」
母狐「いけないよ!馬の糞かもしれない」
私達日本人は素敵な文化の中で培われてきたものです。日向子さんのように粋なお姉さんは絶滅危惧人間になって来たようです。毎日お相撲を観ながら砂被りにお姉さんを探すのですが。今は名古屋場所日向子さんは見当たりません。2020年の夏は「おもてなし」の姿勢も込めて日本女性は涼しげに浴衣を着るそんな催しをしても良さそうです。

 



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阿吽の狛犬

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暑いのに加えて蚊が出て来ました。私は左手が不自由なので痒い処に薬を塗れません。ワイフに頼んで其処でもないソッチでもない大騒ぎです。50年連れ添っても「阿吽の呼吸」とは行きません。阿吽とは梵字でていました。
「阿」は口を開いて最初に出す音、「吽」は口を閉じて出す最後の音であり、 そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされます。50音表でも「あ」が最初で「ん」が最後になっています。人間も産まれて最初に「アギャー」と泣いて、臨終は「ン」と唸ります。
奈良の東大寺の南大門にも阿吽の仁王像がてさらに、
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東大寺南大門の仁王像右が阿形【運慶作】左が吽形【快慶作】と言い伝えられていますます。この弩迫力が神社仏閣の入り口にガード役の神将像や狛犬を作らせてきたと思います。また日光東照宮の狛犬が全国の神社の入り口に狛犬を置かせたきっかけになったと思われます。
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豊後両子寺の阿吽の仁王像
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今日の話題は神社の参道で睨みを利かせる狛犬です。三越のライオンもピラミッドのスフィンクスも狛犬の様なもので神社の聖域に邪気や穢れたものが新融資内容に警護しているいます。写真は江の島神社の節分ですが節分から半年経ってもう夏越のお祭りです。

私は脳梗塞のリハビリで毎日発声トレーニングに励んでいます。「あ」「ン」早口言葉するたびに私の脳裏に浮かぶのは豊川稲荷さんの御狐さんです。
お稲荷さんのご本尊は「荼枳尼天(だきにてん)」でそのお使いが狐ですから脇持の位置に阿吽の狐が居ます。阿形の狐は宝珠を咥えていますが吽形の狐は経典を咥えています。
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豊川稲荷のお狐さん。阿吽の狐が並んで別世界に迷い込んだような気になります。
巣鴨の庚申塔を拝して気付きました。
ご本尊は「猿田彦大神」でしてその参道の左右に祀られているお猿さんですから。やっぱり阿吽で居られるのが普通です。ところが巣鴨庚申塔では左右どちらも吽形なのです。
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巣鴨庚申塔の右側の狛犬ならぬ狛猿さん。右側は本来「阿形」ですからお口を開いて「あー」と言って居なくてはいけないのですが「ン」と口を噤んでいます。
こう思って狛犬を探せば秩父の三峰神社の狼も「阿吽の狼」になっているのでしょうか?駒ヶ根光前寺の早太郎は狼犬(ですが木像)ですが。阿吽の記憶はありません修那羅の狼は大きく口を開いた阿形です。
天神様のお使いの牛さんは寝そべっていて口は閉じたままです。
ところで。阿吽のどちらが先かで何時も迷ってしまいます。
薬師如来の脇侍は日光菩薩と月光菩薩です。阿弥陀様の脇侍は観音菩薩と勢至菩薩です。日光が月光の先なのか?観音様は勢至様より偉いのか?日本人の感覚では左の方が清いので先行しますが仏様の世界は中国風で右の方が先行して居そうです。京都ではお雛様御妃様【左】お内裏様【右】はの順に並べます。日本風は阿吽の吽が先で阿は後です。阿吽が生死を表現しているとすれば、先に死んで後に産まれます。死生観というべきです。でも中国風では逆で阿吽の順です生死観となります。漢字で左遷と言えば閑職に追いやられる事で右が左より偉い事になります。この疑問は明治時代にも論争になり大正天皇の御結婚式に際して国際感覚を優先したのだそうです。西洋では男性はか弱い女性を守らなければならないので左に御妃を置き、右手で剣を抜いたのだそうです。だからレディーと歩くときは左側にレディーを位置させ右側を歩く事になるのでしょう。我家では車道側をワイフが歩いて私を自動車の危険から防いで居てくれます。でも駅の階段やエスカレーターではわたしは手摺の位置からして道の右端を歩かざるを得ません。右側を歩くと健常者の邪魔になってしまいます。弱者は左強者は右これが国際感覚なのですから、明治人の感覚は正しかったのでしょう。関西風の駅舎での歩行の左優先は止めにして”お急ぎの人は右側をどうぞ”と統一する事が良さそうです。遠い将来に東大寺南大門の仁王像が左右入れ替わる事になるかも知れません。私達日本人は死生観も生死観もほとんど変わりないと思っているのですから。








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江戸の忍風鈴(川崎大師風鈴市で)

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7月20日は「海の日」です。昔は由比ヶ浜に出かけました。フラダンスのショーなどが観られたのでした。でも、鎌倉市は音楽を流すことを禁じたので。もう実施されません。
鎌倉の海は鎌倉市民ならずとも首都圏に住む人の公共財なのですから。”音楽を禁じる”ことなどせずに”飲酒を禁じる”程度に抑える事は出来ないものでしょうか?
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由比ヶ浜のフラダンス。健康なダンスも条例によって出来ない様になってしまいました。これは立教女学院のお嬢様のフラです。本場ワイキキでも拝めないダンスです、
さて今日はどう過ごそうかな?というわけで川崎大師の風鈴市に出かける事にしました。日中は暑いので3時過ぎに出発して。夕涼みの時間に大師さんに着くようにしました。
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京急大師駅の駅前から大師様への表参道が始まります。此処から大師境内を東回りに半周して真南から仲見世通りに入ります。ポスターは20日に実施されたサンバカーニバル筆者は夕方に参詣したので盆踊りを見て来ました。
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表参道のもんじゃ焼き屋さん”スナックおばんクラブ”のネーミングは適格なのでしょうが顧客誘引力に問題がありそうです。
横浜で京急に乗換え京急川崎で大師線に乗り換えて大師駅から川崎大師に入ります。駅は大師の北にあります。でもお寺は南向きに出来ていますから。アーケードを抜けて仲見世通りを抜けて南大門を潜らなくては境内に入れません。足の不自由な私にとっては北にも門【裏門】があればいいのに思ったりします。でも仲見世や石仏を見る楽しみはあります。
鰻屋の暖簾が降ろされて「お詫び」が張られています。”今日は穴子が売り切れてしまいましたのでお店を閉めます明日お越しください”案内して在ります。24日は土用です。日本人なら鰻を食べたいものpです。のはところが鰻は高いし、幸い穴子なら手が届きます。それに羽田沖は江戸前穴子の産地です。今日はサンバカーニバルもあったので穴子の蒲焼ばかりが売り切れてしまったのでしょう。矢張り川崎大師は下町で良いもんです。
大師の風鈴市は今年で20年目だそうです。全国各地の風鈴3万個も集められているそうです。境内西側の広場に葦簀を張って風鈴の屋台が並んでいます。葦簀の天上からは霧が降って来ます涼しいのですし冷たい麦茶のサービスもあります。川崎大師さんもライバルは浅草寺や巣鴨のとげぬき地蔵さん。サービス競争アイディア競争も激しいものがあるようです。
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表参道を右折すれば仲見世通りで第山門が正面です店の両側は咳きとめの”トントン飴”が競っています。街中が葛餅屋や達磨屋さんが競っています。
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境内西側の風鈴市の屋台葦簀に3万個もの風鈴が吊るされて水蒸気の冷気が噴き降りて来ます。加えて冷たい麦茶のサービスが在ります。
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風鈴市は五重塔の真下です。地元川崎市の風鈴は宙吹きガラス細工でした。
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此方は長野県諏訪地方のアールヌーボーの雰囲気の風鈴
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此方は江戸の〝吊り忍”風鈴です。風鈴の音と信夫草と耳からも眼からも涼しさを誘う、伝統の風鈴です。
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浴衣のお嬢さんが吊り忍を”可愛い”いいながら手にしていました。ぶら下がった玉を手にして可愛いは無いと思いました、昔の吊り忍はこんな苔玉ではありませんでした。
私は一回り観て江戸の吊り忍のコーナーで法被を着たお嬢さんに尋ねてみました。
この吊り忍は何処で育てたのですが?
「私の処は江戸川ですが吊り忍自体は大分で栽培しています。」
「先週浅草寺のほうずき市で何処で生育しているのか聞いたのでしたがやっぱり大分だそうでした。」
「お大師さんは大分と縁が深いのですね!」
私は「苔玉は問題ですね!」訊いて見たかったのですが変態爺さんと思われそうでやめました。
江戸の吊り忍は朽木を組んで弥次郎兵衛を作って微妙なバランスで吊るしたものです。
やっぱり江戸の風鈴は江戸切子でしょう思って探したらありました懐かしいガラスのの風鈴です。
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これが懐かしい江戸風鈴です。
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本堂前庭では8時まで盆踊りナラヌ風鈴市音頭が踊られていました。
”そうかヤッパリ大分か!”思いました。私の九州時代大分知事は平林さんで一村一品運動が盛んでした。元々通産省の役人だった知事は何が地域を盛んにするか熱心に取り組み大分にワールドカップを誘致し全国に向けて通用する一村一品を起こしました。地方創世はバブルが破裂した瞬間から必要だったのでした。
信夫草と言えば古代から福島(信夫山)でしたが、今では大分とは驚きました。2年前臼杵の石仏を巡った時石仏に信夫草が茂っていたことを想いだしました。石仏の保存には迷惑な信夫草ですが大分の風土には適した植物なのでしょう。
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臼杵石仏中のホキ石仏第一群第四龕(地蔵十王像)岩壁に生えているのが信夫草です。環境が悪くても耐えて信夫草は生育します。


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川崎大師さんの奪衣婆さん

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川崎大師さんは石仏の宝庫でもあります。私達が参詣したのは夕方でしたから、有名な馬頭観音さんも庚申塔も閉じられていました。
日本橋の馬喰が旅人を乗せて大師さんまで来るとどんな暴れ馬でも大人しくなるというので馬が繋がれた場所に馬頭観音様が祀られてきたそうです。大師さんの境内は隅々まで知っている筈の私ですが。近年池が整備され清浄な空間に整備されました。池にはもう蓮が咲き出していますし。実のなりだした棗の樹下には金色に輝くお釈迦様が居られます。東南アジア出身者も大師さんに憩い故国を懐かしんでいられる事でしょう。そう思ってベトナムやミャンマーの屋台を探したのでしたが、矢張り屋台は焼きそばとタコ焼きばかりでした。大師さんにお願いして。東南アジアの屋台文化の見本市のようにしたら楽しいのに思いました。大師さんの境内を一歩出ればタイ料理屋さんなどがあるのですし。なにしろかわさきは韓国焼肉も有名なのですから屋台の市場には最適です。
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菩提樹の様な泰山木樹下のお釈迦様像。中低木は棗で既に実がついていました。お釈迦様の背後の建物は信徒会館でその向こうの仏塔は薬師堂です。
私の目的は大師さんの奪脱衣場衣婆さんです。先週は新宿の奪衣婆さんを詣でました。何故か奪衣婆さんは色町に多く祀られているのです。ですから私の奪衣婆巡りは色町巡りになってしまいます。来月は京都祇園に近い六道珍皇寺や千本ゑんま堂(引接寺)を詣でる予定ですが何れも色町に近いのです。
奪衣婆さんは地獄の三途の川の畔で亡者の衣服を剥ぐのが役目です。遊女もお客の衣服を脱がせるのが仕事です。遊女には親しみのある観念上の仏様だったのでしょう。観念上の仏教は現実の色町が苦界である事を知らされると観念が現実に通じて奪衣婆さんは現世でも救済して下さる仏様に転じてきたのでしょう。
そんな想い(仮説)を証明してくれそうなのが大師さんの奪衣婆さんなのです。一般に奪衣婆さんは鬼婆なのですが。大師さんの奪衣婆さんは怖くないのです。といって優しく美しいというわけでもないのですが。怖くは無い奪衣婆さんは祈れば美肌になると信じられて来ました。今回拝むと美肌に加えて白い歯にも霊験があると案内されていました。
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奪衣婆さんは三途の川の渡り場(現世の岸辺)に居て亡者に衣服を剥いで槐の枝に懸ける仕事をします。善人はお地蔵さんが黄泉に案内してくださいますが悪人は蛇が屯し龍が待ち受ける川を歩いて渡らなくてはなりまっせんし10人の判事の審判を次々に受ける事になります。血の池地獄や針山地獄の責め苦を受けなくてはなりません。因果応報は観念上の問題ですが現世で良い事をすれば良い事がある(現世利益)となると。より現実的になります。近世になると人達は現世利益を求めより積極的に生きようとするようになりました。
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大師さんの信徒会館前に丸られているしょうずかさん(昔から美肌の霊験が有名でしたが何時の間にか白い歯の霊験もオンされるようになっていました。
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こちらが大師さんの奪衣婆さん(お寺では「しょうづか」と呼んでおられますは「葬頭河(そうづか)」を訛って下さ意味を込めて呼んでいるのです。紺の麻の葉模様の下着に上っ張りは綺麗なプリント柄でお洒落です。屹度信心の深いお檀家が用意されているのでしょう。墓地の入り口に位置しています
奪衣婆さんのお肌は真っ黒です。岩が安山岩でかった事に加えて墓地の入り口ですので盆の迎え火送り火で煤けてしまったのでしょう。私の興味は御婆様のお乳です。枕詞通りの垂乳根なのかそれとも若々しい豊かな胸なのか気になりましたが。お洋服がきつく着せられておいでですので確認できません。無理して覗き込めば奪衣婆さんの罰が当たりそうです。そこで大人しく帰る事にしました。
奪衣婆さんを拝めばもう用は済みました。それにしても蒸し暑いので信徒会館で一服するすることにしました。
トイレは広くて清潔ですし冷房が効いています。
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広々として冷房の効いた信徒会館のロビーステンドグラスは中央が迦陵頻伽(天女の姿をした霊鳥」その左が釈迦降魔成道図右は釈迦涅槃図何れも大作です。ガラス細工は川崎の誇りです。
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ステンドグラスの釈迦降魔成道図。お釈迦様の菩提樹樹下での成道を邪魔するようにマーラの様々な誘惑をしているもののい誘惑に打ち勝って悟りを得られた図。豊かな乳房が誘惑であるというのは真実でしょうが悪とは言い切れません。
そう想うとお釈迦様のお乳も母の乳です。この後修行に疲れたお釈迦様は生死の境を彷徨われますが少女の差し入れたスジャータで回復されます。
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此方は鎌倉長谷寺の奪衣婆さん若々しいお乳で居られます。

私は信徒会館の管理人に訊きました。
「しょうづかさんのお乳は垂れておいですか?それとも張っておいでですか?」
怪訝そうなお顔をされて管理人は答えられました
「しょうづかさんはお婆さんですから垂乳根だと思いますよ。でも私達は拝んだことはありません。お坊さんが定期的に着せ替えされていますからお坊さんに聞いてください」



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川崎大師のくず餅

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川崎大師の本堂前で繰り広げられる盆踊りならぬ「大師風鈴音頭」の演舞をしばらく眺めて私達は大師さんを後にしました茶屋に入りたくなります。入山前に良く見ておきました。お店は何といってもくず餅の住吉屋さんです。「大師のくず餅」は有名で大師の周辺には10店近くあります。横綱格の住吉屋さんでも本店総本店を始め暖簾分けかと思う数点が在ります。何時ものくず餅の上にマザー牧場のアイスクリームをオンしたデザートも魅力的です。
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老舗住吉屋総本店表参道店のショーウィンドーには麩饅頭とアイスでくず餅を案内していました。大師のくず餅は葛粉を使ったものではなく。小麦粉を何度も何度も水に晒してグルテンと澱粉を抽出して、グルテンは麩に澱粉は水に溶いて蒸して板蒟蒻状にします。後者がくず餅です。
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住吉屋総本店仲見世店のショーウィンドーの商品案内縁日限定の4→200円がお得感満載です。

大師さんのお土産と言えば,この[くず餅」か(トントン飴/喉飴」です。どちらも幾つもの暖簾が競っています。豊川稲荷門前の稲荷ずしもそうでしたが、一店だけでなく複数のお店が競い合ってこそ進歩し、お客も惹かれるものです。
葛と言えば吉野山の「葛きり」です。葛を心太状に湯がいて冷やした上に、甘い黒蜜に浮かべて食します。葛粉の上品な香りと涼やかな景色が魅力です。私は葛きりを食べる時「楠正成の菊水紋」を食べる様な気分になります。
でも川崎のは大分違います。希少な葛粉では量産不可能です。
そんなことは天保時代にはお見通しだったようで住吉屋の先祖は”葛も澱粉小麦粉も澱粉”と割り切って小麦粉で葛餅を量産したのでした。でも江戸っ子の批難を予測して。吉野の葛餅ではないよ,大師さんのくず餅だよ!という意味で”長寿を寿ぐお餅”という意味で「久寿餅」とネーミングしました。
私達はお得感満載に釣られて仲見世の住吉屋総本店に入りました。疲れた脚が冷房の効いた店内で生き返るようです。
イメージ 3住吉屋総本店仲見世店は山門前ですからすぐわかりますが。写真の狛犬が鎮座しています。屹度店主は大師様の番犬の様な意気込みで出店しておいでなのでしょう。でも狛犬の意匠は狛犬ならぬ狛獅子です。阿吽の置き方も左右逆です。「正しくは阿形が右」
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大師さんは夜8時まで”風鈴音頭踊り”で盛り上がります。お婆ちゃんも腰がスックと立って今晩は若返りのようです。
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山門右にあるのが住吉屋総本店仲見世店です。参詣がえりの一服にお土産に賑わっておいでです。
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大師名物の達磨さんに久寿餅この陳列の前は素通りできません加えて店内は冷え冷えですから、ついつい足が向いてしまうのです。
求め忘れた方は川崎駅にも売店が在ります。
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 これが”吉野の葛きり”です。写真の青楓が菊なら菊水紋です。

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住吉屋の久寿餅を一皿戴いて体も冷やして満足して帰宅です。先ずは京急大師駅まで15分の歩行です。
毎週奪衣婆さんに導かれて都心周辺の古刹巡りです。脚も随分確かになって来ました。来週は新吉原の「浄閑寺」に行く事にしましょうか?来月はいよいよ京都で六道珍皇寺千本ゑんま堂(引接寺)にお出かけです京都は町全体が地獄であり極楽である街です。祇園から賀茂川を渡れば地獄の釜の蓋が在ります。大汗かいて極楽から地獄詣での旅です。
友人の迷惑にならないようもう少しし足を鍛えておきましょう。
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大師さんの厄除けの御利益で疲れを知らずに踊り明かすおばあちゃん達。これも奪衣婆さんのお蔭でしょう。



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今日は鰻の命日で

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今日は土用の丑の日です。鰻さんは今頃は一番痩せ細っていて脂がのって美味しいのは冬ですから,夏の最中に食べられるのは”夏バテ対策に土用の丑の日に食べよう”提案した平賀源内に恨み節でしょう。
金子美鈴風に云えば”今日は鰻の命日で 体を三枚に捌かれて 炎熱地獄に焼きあげられて お店じゃ鬼等が舌鼓”
平賀源内がエレキテルを発見したのは電気鰻の仕返しかも知れません。
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ペットの合同慰霊葬(鎌倉の光明寺で、せめて今日は鰻の合同供養をしたら良さそうなモノを・・・・、養鰻業組合さん。日本鰻の怨霊は末代まで祟りますよ。
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鎌倉の鯨塚

全国各地で鯨や牛の霊は祀られているのに鰯や鰻の塚は聴いたことがありません。
せめて神田川や日本橋の大エビなど鰻の名店で鰻供養が為されているかと思えばそんな形跡もありません。鰻の怨恨が日本人に及んだのか、数年先には鰻はもう食べられなくなるそうです。
鰻の故郷マリアナ海溝の海上で産まれた台風が鰻族の風人雷神になって今年も日本を来襲してきています。
土用に入れば幽霊の出番です。
毎年心霊スポットというと京都の見泥池が話題になります。賀茂川上流の池ですが。本来は禊の池であったろうと推測します。此処に長い髪の幽霊が出てタクシーに乗るという噂なのです。
テレビでは近くの精神病院の患者が脱出して池に嵌ってその霊がタクシーを止めて街に出回ると言うのです。良く病院から名誉棄損・事業妨害で告訴されないものだと不思議です。
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西伊豆町の電気柵の感電死事故を伝えるニュース。山のイノシシや鹿の食害防止用の電気柵装置によって感電死を招きました。鹿や猪は山の民の相方でした。里の文化と山の文化の端境で生じた残念な事故でした。山の民の神が山を下って里に出現した時に山姥になり山姥は里や町の民に伝わって奪衣婆になったとおもいます。

私の子供のころの経験です。学校の帰り路運河の脇を通りました。運河の岸辺には小魚が集まっています。小魚や子虫を狙って鰻が良く寝そべっていました。鰻の棲家は変わりません。何処に居たか確認して改めて捕まえに出かけました。でも鰻の寝そべっていた岸辺は滑り易く危険なのです。溜池や運河の水難事故の大半は鰻や蛙の誘惑が起因していると思います。西伊豆町の電気柵で感電死事故の在ったのも同じで水辺には子供を誘う魚が多く姿を見せるのです。
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柏尾川の追い込み漁行事今年も参加できそうもありません。3年前は鰻に藻屑蟹が獲れて子供を驚かせたのでしたが。
ところで今年も今頃はもう奥日光はニッコウキスゲが咲き誇っていることでしょう。日光には観世音菩薩の補陀落山を始め、阿弥陀如来の極楽浄土、 薬師如来の浄瑠璃浄土、と皆揃っています。 .私達日本人お先祖は浄土や極楽は天上に在ると信じていました。天上の浄土が「高天原」で山上世界に神々が居ると信じていました天上の神々が.日本の国を産んだと考えていたのでした。其処にインド生まれの仏教や中国生まれの道教が伝播してきました。仏教は.補陀落浄土や浄瑠璃浄土阿弥陀浄土を説きますそして浄土の反対概念の地獄を説きました道教は須弥山と閻魔大王等を説きました。でもそんな形而上的な説明は日本人には理解でl来ませんでした。理解しやすのは自分達の目に見え経験した山上世界だけでした。そこで高天原をイメージして浄土を理解しました。死んだら自分の霊は高天原のような高野さんに登るに違いない、其処は弘法大師の霊廟も祀られているし・・・・自分の霊は東山の山中に登るに違いない其処は親鸞聖人が荼毘に臥された霊地であるし・・・・・、そんな次第で人々は高野山や大谷霊廟に競って埋められたのでした。日光は皆極楽のように美しい事と同時にお隣は地獄の景色もありました。山に尾根と谷があるように尾根は極楽で谷は地獄でありました。日光に地獄谷や地獄寺があり、高野山に近い大嶺山の金峯山地獄では。山伏は断崖上から逆さに吊るされて地獄を垣間見る修行に励み疑似地獄体験をしますし。善光寺では戒壇地下を巡って疑似地獄めぐりをガイドしています。恐山に行っても立山室堂に行っても浄土のお隣に地獄が在ります。日本人にとっては浄土は地獄の隣りあわせとして水平面上、時に垂直線上に在ると受け止められてきました
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吉野上千本カラらの景色、今年の春は吉野山に旅行しました。宿は銅鳥居(発心門)の下でした。鳥居から上は檀上世界で浄土ととらえられていました。
  吉野なる銅(かねの鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞ嬉しき
大嶺山上ヶ岳の行場で有名な「西の覘き」の断崖の上から逆さに吊るされて唱える歌は
 有難や西の覘きに懺悔して弥陀の浄土に入るぞ嬉しき
美しい花の吉野ですが地獄と浄土と隣り合わせであるところが古事記の世界と変わらないのです。
新宗教や往々にして文字でで表現され形而上的に学問的に伝播します。そして人は形而上的な思想が形而下の偶像的なモノより上位と思われてきました。宗教思想や学問は民間宗教よりレベルが高く民間宗教は劣ると思ってきましたがそれは間違いで。人間は身近な景色や経験と照らし合わせて信じてきたのでした。形而上的な宗門の教えより素朴な信仰の方が尊い事が度々あるものです。親鸞聖人の教行信証こそ尊いものと思われてきましたが解り易い恵信尼の真筆消息(手紙)のほうが教化するパワーがある事もあるのです。宗教が死んだ人にとっては役に立たず生きている人にこそやくだつものと期待すれば民間宗教の方が効果があるモノでありましょう。
!”鰯の頭も信心”なら”鰻の頭(兜」も信心”漠然とブログを書いて居たら神田の鰻屋で兜を焼いて貰ってな、生ビールでが飲みたくなってきました。う鰻の兜焼きで思い出しました今日は土用の丑の日であると同時に「、「河童忌」なのですね、芥川龍之介はインテリだから頭でっかちで鰻の兜のようでした

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「楢山節考」を再考する。

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昭和33年私が小学校を卒業する頃でした。隣町大船にある松竹撮影所で木下恵助監督による「楢山節考」が撮影され街中にポスターが貼られました。私はお婆ちゃん子でしたから”お婆ちゃんを山奥に捨てて来るなんて言う事は”想像も出来ませんでした。でも木下監督は町の誇りでもありましたし、エキストラで協力したりしたこともあって観に出かけました。
次に「楢山節考」のポスターが街中に貼られたのは昭和58年大学生になった頃でした。監督は今村昌平さんで街中に尾形拳さん坂本すみ子さんの濡れ場ポスターが貼られて目に飛び込んできました。
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東映今村昌平監督による「楢山節考」のポスター出典http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E6%A5%A2%E5%B1%B1%E7%AF%80%E8%80%83
木下監督のも今村監督のも原作は深沢七郎さんの「楢山節考」です。原作も「楢山節」であり「「楢山節」ではありません。美しい棚田風景の中で自然と人間の情愛が描かれているのですが親子の情愛を描くかエロスを描くかによって作品は随分違っているものです。でもエロスが無くては子供も産まれませんし子子孫孫棚田は守れませんから今村監督作品の方が正統だったのかもしれません。少なくてもカンヌでパルム・ドールを受賞したのでしたから。今村作品の勝という事でしょうか?
福島の安達ヶ原の鬼婆浅草寺の浅茅ヶ原そして奪衣婆を考えて来ると「楢山節考」も民俗学的に観たくなります。作品の舞台は大半の人が長野県聖高原の麓浅科村で姥捨ては冠着山で「田毎の月」を想います。でも実際は舞台は山梨県の笛吹川の水源八代郡境村です。境村の南は私が敬愛する山崎放代さんが産まれた右左村(うばくち村)です。私の直感では右左は乳母か姥が適当かと思います。その南は木喰さんの生地丸畑で麓には笛吹川が迂回して富士川でその南が身延山修験の聖地七面山から南アルプスに繋がります。
「楢山節考」の舞台は山と里が交錯する場所扇状地です。古代山の民は山を下って里に下りて共同体を作って稲作を始めました。
山の民の信仰は山に置き忘れて里では里の神を祀りました。「山の神」は山に遺棄され「田の神」が信じられたのでした。山と里の境には結界が張られ里の民が山に迷い込むと山姥に食い殺されると畏怖されました。安達ヶ原の鬼婆も雪女も山姥の顛末だったのでした。棚田を耕すようになると民は初めて共同体を形成しました。共同体にはその絆を強固にするルールが生まれます。
①結婚し子孫を残せるのは長男だけである
②他家から食料を盗むのは重罪である
③村落住人は共同して労働に勤しまなくてはならない。
④齢70を迎えた老人は『楢山参り』に出なければならない
先日NHKで「世界で一番美しい時」という番組でベトナムの棚田をオンエアしていました。上記の①~③の掟がワークしていました。
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NHKテレビ「世界で一番美しい瞬間」のベトナムの棚田風景番組は共同体は母系社会で母から娘に伝えられる社会が最も堅固な絆で結ばれ子子孫孫続く「里の民」であることを教えてくれました。娘たちの美しい刺繍は棚田を表現しているそうです。私は腰を曲げて田植えする早乙女たちの姿に豊作の呪術を想いだしました。(股倉覘きは豊作の予祝行事でした)
農作には母系社会が最適です。何故なら女性しか子供は産めないし、母と娘の親子関係は何にもまして強いものがあるからです。
武力が大切になると急激に母系社会は崩れて父系社会に変貌します。祭りや政治を束ねていた女王は退き男が牛耳るようになります。中世になると女性は祀りにも政治にも遠ざけられます。仏教も修験道も神道も女性は穢れているとされて斎場に入れなくなりました。山に捨てられた媼は妖怪になっていましたが聖人に救済される立場になってしまいます。安達ヶ原の鬼婆も浅茅ヶ原の鬼婆も観音様や修験者に調伏されてしまいます。
父系社会になっても男が子供を産める訳ではありません。山姥は鬼婆になっても子供を産む神秘的な能力は存続し続けます。金時山の山姥は金太郎を産んで大江山の妖怪を退治します。
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月岡芳年の「安達ヶ原一つ家の図(明治18年)右下のあばら骨の鬼婆(山姥)が庖丁を研いで鋭い眼光で妊婦を睨みあげ何事か叫んでいます。山姥は生殖力が枯渇した枯葉色の皮膚をしています。一方妊婦は豊穣で生殖能力が旺盛な色艶をしています。妊婦は子孫を獲得する宝の存在であり山姥は子供を産めない無価値な存在ですその鮮やかな対照がこの絵には登場しない父系社会の視線で描かれています。(国立博物館蔵)
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此方は喜多川歌麿の金太郎母子像「一般に「子持ち山姥」と呼ばれた図です素材は近松の「子持ち山姥」に取られていて豊かな乳房を吸う金太郎も描かれていて山姥変化する。

近松は山姥を次のように説明します。
”山姥は鬼にも非ず人にも非ず生処も知れず宿も無し人倫離れ市山に籠れば山巡り”不運に山に迷い込んだ人を食い殺す鬼女の山姥と息子によって山に捨てられた哀れな姥捨ての老女が合体しています。
其処に若い男性が老婆は若返り金太郎を身籠って立派に育て上げるのです。鉞を担いだ金太郎は山の神でありました。円空の両面宿儺(りょうめんすくな)にも通じるお話です。





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鬼の指が3本で仙人の指は6本である事情

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私が脳梗塞を発症してもうじき2年になります。未だ左腕左手は麻痺したままで自由に動かせません。
最初に治癒してくれた湘南鎌倉病院でも、転院先の金沢文庫若草病院でも左脚は未だしも左手の完治は難しいと言われました。でも左手が自由に動かせなくては。茶碗も持てないし。彫刻刀も持てません、下着の着替えも出来ません。ワイフがNHKで報道した「促通反復療法」http://www.roken.or.jp/medical/wp/archives/368を隣駅の「新戸塚病院」で実施していることを確認して同病院の予審を受けました。その結果治癒する可能性があるというので昨日25日から通院し始めました。当面は週2回一か月間の通院です。1回約1時間同じ動作を50回程度々反復して筋肉や脳神経に覚え込ませるように左手を動かします。
私を担当して下さるのは作業療法士のNさん。娘と同じ年頃ですベッドに横になって先ず前腕を動かし次いで上腕、次に左前腕最後に五本の指を動かします。前腕を動かすには肩を固定化して前腕を意図する方向に動かせます。上腕を動かすためには肘を固定化し指を動かすためには手首を固定化する感覚が重要なようです。小学校の時に覚えた支点動点作業点の感覚を神経細胞群に記憶させるようです。N療法士は支点を抑えてリズミカルに動かした回数を口ずさみます。
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新戸塚病院でのリハビリ訓練(促通反復療法)腕に貼っているのは低周波振動機。低周波で神経を起こして反復動作させて麻痺している左腕を覚まそうとします
30回40回回数を重ねる度毎に動かせる感覚が解ってくるような感触を覚えます。
私は横になって隣の患者さんの治療を目で追っています。そう半年前の私が隣のベットに居るようです。この調子なら何れジャンケン・ポンの「グー・チョキ・パー」が出来そうな気がしてきます。Nさんから注意の言葉が発せられます。「何処を見ているのですか?動かそうとする指先を見てください!」
私は自分の思うままに動かない指を見詰めて居て、鬼の事を想いだしました。
鬼は3本指ですのでジャンケンも出来ません。日本で最初の鬼は薬師寺の薬師如来像の台座にに描かれています。
古代の鬼は5本指でしたが中世以降3本指になってしまいますそれは自然観察と共に説教節の影響であった事でしょう。
”無益な殺生を繰り返すと来世は餓鬼に産まれ代わりますよ・・・・餓鬼とは馬の指を見れば解るでしょう蛙や山椒魚を見れば解るでしょう、人間は5本指なのに餓鬼は3本だったりしているでしょう・・・・・。」
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薬師如来の台座に描かれた鬼。この時代には鬼は手足共に5本指でした。ところが中世以降手の指先は減って3本になってしまいます。それは蛙などの生物の観察の結果だと思います”生物を無意味に殺生すると来世は牛か鶏か蛙のようになってしまいますよ”説教節の影響だと思います。
24日は河童忌でした昭和2年芥川龍之介が睡眠薬自殺して果てたのでした。
龍之介はその感性で自分自身と日本の将来を懐疑していたのかもしれません。ニヒルな精神は河童を好ませたのでしょうが。矢張り3本指で描いておいでです。”自殺したら来世は河童になって日本を批判してやろう・・・・!”思っていたのかもしれません。
テレビでは又吉さん の『火花』で持ちっきりです。一発屋で終わるかこれからが難しい事でしょう。一発屋で苦しめば賞賛は「重圧の責め苦」に転じて龍之介のように自殺の道が待ち受けているかもしれません。今後が大切でしょう。
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芥川龍之介の描く河童は三本指です。鬼と理解されていたのでしょう。良く溺死すると河童に淵に牽き込まれたと言われますが死後硬直した指先が曲がらないので三本指に思えて河童にやられたと思ったと想像します。筆者は龍之介の河童より色気満々の小島功さんの河童の方が好きですが・・・。
ところで先日のテレビで安藤広重の東海道53次の浮世絵に描かれている駕籠担ぎの指が6本であるとの指摘がなされていました。私の住む戸塚宿でも籠担ぎの指が6本になっていました。普通はワザと6本に描いてコピーや贋作対策にしたのでしょうがテレビでは道教の影響で仙人が籠担ぎをしていたと思わせたと解説していました。
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 広重の「浜名湖御油宿の図」飯炊き女が籠の客を強引に旅籠に牽き込もうとしています。この絵では判明し難いのですが駕籠担ぎの指は6本に描かれています。
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広重の三島宿の図駕籠担ぎの指は明らかに多く6本に描かれています。(写真は読売新聞社のギフトを複写)

道教や神仙思想の影響で広重の足の指が6本ならば盛んに描かれた寒山拾得図や市区林の七賢図も6本指で描かれている筈です。テレビの解説は眉唾ものでしょう。
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   「寒山拾得図」神仙思想の影響で広重の指が6本ならばこの図も6本指で然るべきです。矢張り贋作対策として故意に指を6本にしたと考えるのが妥当でしょう。人間が自分の指は5本であるのに比して仙人は6本で鬼は3本と少なく思いついたのでした。それは妥当であるのか否かは別にして5本の指を活用した匠の技を大切にすべきものだと思います。

脳梗塞を患って厄でしたが鬼にまで想いが広がって幸いでした。


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閻魔張の記憶

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もうじき施餓鬼です。今頃は父は毎晩過去帳を手本にして卒塔婆を書いていました。過去帳とは住職が記録しているお檀家の死亡録です。慣用表現の「鬼籍に入る」とは、過去帳に(亡くなった人の情報が) 記載されるようになるという意味で、人が「死ぬ」という意味である。閻魔大王が保管している鬼籍の事を「閻魔帳」と云います。私の生家のある横浜市戸塚区の倉田町は小野という家が多く父は屋号で呼んで区別していました。父の頭脳には現世での戸籍簿(住民票台帳)と冥界での戸籍簿(過去帳)が併存していたのでした。過去帳は卒塔婆を書くのに必要な戒名を始め回忌法要の実施状況が記載されていました。
さっこんはこの過去帳もパソコンに入力化されていてプリントボタンを押せば卒塔婆もプリントアウトされれば回忌法要案内も発送されるようになっています。これでは和尚さんは最初に認知症になってしまいそうです。
閻魔張とは閻魔大王が亡者の生前の罪悪を書きつけ ておくという帳簿でした。
閻魔大王の審判に際しては閻魔の前に浄玻璃鏡( じょうはりのかがみ)が置かれていて、閻魔大王は鏡に映った亡者の生前の姿を見て判決を下していました。今風ならDVDで確認していたのです。人間の営む法廷に比べれば公正公平に十分配慮が為されていました。
私が通学した栄光学園という学校はカソリック系の学校でしたが先生は閻魔帳を保管していました。一義的には出席簿ですが。毎日の学業姿勢や試験の結果等が記録されていたものと思います。試験の成績が60点を下回ると赤点と呼ばれ、朱筆のアンダーラインが曳かれました。このアンダーラインを「赤座布団」と呼び、赤座布団が3つ以上並ぶと進学できないし。2年を超えて進学出来ない場合は退学を勧告されました。そんな怖いノートでしたから「閻魔帳」と呼んでいたものと思います。閻魔帳に相当する記録簿はカソリックにもありそうなものですがわざわざ仏教の言葉が慣用されていたのでした。
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浄玻璃鏡は閻魔大王が亡者の審判に際して生前の行為を再生させるDVDのような装置でした。大王の観ているのが判決文でこれを綴った継図ったノート閻魔帳です。因みに閻魔の左手にいて補佐している書記官が小野篁です。

「ところで昨日に続いて今日は鬼の考察を致します。
日本で鬼が広く膾炙して怖れられるのは中世以降でした。中世に現世で鬼のような人間を見続けた事、仏教に地獄が意識された事から、地獄に堕ちた亡者が地獄の獄卒【鬼】を怖れその鬼が冥界から現世に出現したと思ったのでした。でもそんな鬼の概念は突然に現われたのではなく古代日本人の深層心理下に鬼が居ました。
【古事記の鬼】
古事記には「黄泉津醜女(ヨモツシコメ)」が登場します。
「黄泉津醜女(ヨモツシコメ)」はイザナミの命令を受けてイザナギを追いかけます。イザナギは冥界から現世に通じる、「黄泉津比良坂」を必死に逃げます。、黄泉津醜女とは解り易い名前です。黄泉の国の醜い顔の女の意味でしょう。
掴まりそうになるとイザナギは髪飾りを投げ捨てます。すると髪飾りは葡萄の実になります。黄泉津醜女は美味そうな葡萄の実を貪ります。薬師寺の薬師如来像の台座に潜んでいる鬼は葡萄に囲いまれています。黄泉津醜女は食いしん坊だったのでした。黄泉津醜女は葡萄を食い尽くすと再びイザナギを追いかけ出します。また追いつかれそうになると今度は櫛を投げ捨てました。櫛は忽ち筍に変わります。醜女は筍も好物でした。再び筍をガツガツと食べ始めます。筍を食べ尽くすと再び追いかけっこは始まります。
またイザナギは捕まりそうになります。もう目の前に現世の陽の光が見え始めた処で坂道の脇に大きな桃の木が在りました。イザナギハ桃の実を三つ採って醜女に投げつけます。すると醜女は桃の神通力に恐れをなして逃げ戻って行ったのでした。
桃は邪気を払う果物で,陽の光を好む植物です。陰陽の「陽」の極に位置しています。醜女は陰を好むので、桃は苦手なのです。
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      奈良桜井の箸墓古墳玄室近くに大量の桃の種が発掘されました。亡者の黄泉がえりに際して鬼が付いてこない様に葬儀に際して桃を供えたものと思います。

このような冥界【彼の世】と現世観のあった日本に仏教が伝来しました課題末期に奈良の当麻寺に源信が登場し「往生要集」を著作します。そこで浄土と対比して地獄のイメージが定着します。人間は浄土よりも地獄をイメージするのに長けていたようです。地獄の怖ろしげなイメージは拡幅してゆきます。古代末期は肉親同士の争いが多かった為でしょうか?死者の怨霊が地獄から現世に出現して報復する事を怖れました。天変地異があれば怨霊が鬼に姿を変えて仕返ししたものと推測しました。中世初頭には優れた仏師が登場して鬼を彫って見せました。
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興福寺龍灯鬼像80センチ弱とう小柄な像ですが(1215年)に法橋康弁作で弩迫力です。天灯鬼【阿形】とセットの吽形の像です。

この古代末期に小野篁が出現します。彼は古代小野妹子に発する名門学者の家の出身でしたが、毎夜毎夜庭先の井戸を通って地下の閻魔大王の補佐をしたという事でした。閻魔大王の読み上げる判決文は小野篁が筆記していたというのです。冥界と現世現世と黄泉は往復出来ると考えられていたのでしたそれは古事記の世界と変わりありませんでした。
藤原良相は小野篁の助命嘆願によって生き返ります。(宇治拾遺物語)
また篁の歌は百人一首にも採られています。
わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕(こ)ぎ出でぬと   人には告げよ 海人(あま)の釣り舟   参議篁(11番)
遣唐使で派遣されたのでしたが船が難破しそうに見えたので乗船を拒否します。すると篁は嵯峨天皇の怒りに触れ隠岐に配流されてしまいます。その時に詠ったのが上記に歌で都の友人に伝えて欲しいと漁師に伝言を依頼したものでした。隠岐はその後後鳥羽院も流されますし怨恨の残る鬼の住みそうな島であります。
来月の22日には小野篁の屋敷跡の六道珍皇寺を詣でる予定です。篁象も鬼の像も初めて拝観します。
奈良の高円山にも地獄との通路が残されています。百毫寺の山麓に横穴が在ってそれが地獄の通路と言われています。百毫寺にも立派な閻魔像が祀られています。高円山も鳥野辺と同じで古代の風葬の地と言われています。
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これが百毫寺の閻魔大王像。慶派の立派な像です。鎌倉円応寺の閻魔像(運慶作と言い伝えられています)にも勝る迫力です
もうじき百毫寺は山萩が咲き始める事でしょう。

今ほど『嘘も方便』『力や金こそ大事』とされている時代はありません。せめて夏は「嘘つきは舌を抜かれる」とか「信義こそ大切」想い起したいものです。「鬼を怖れる心を蘇らせたいものです。

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味噌と貧乏神

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私が小学生の頃です。担任の教師から”お父様はお元気ですか?”訊かれて私は”父は貧乏神に憑りつかれて金欠病だ”言っています。と答えたのだそうです。父は晩酌をしながらその思い出を楽しそうに話していました父は私を貧乏寺の住職にはしたくないと思って銀行勤めを推奨したのでした。ですから私の勤めた長銀の破綻が報道される度毎に心配していました。今頃はあの世で悔やんでいることでしょう。親子と云えども子供の人生は子供のもの責任の負えない部分は子供の責任に任せるべきでした。私の部屋の天井板には木目がありました。その木目が鬼の眼のように見えて寝つきが悪かったのでしたが。その天上裏の梁に貧乏神が棲んでいると感じていました。所々節目が抜けて光が差し込むことが在りました。天井や雨戸から差し込む陽の光は鬼の視線だと思っていました。
そんな体験は物置で行う味噌の漬けこみ作業の度に思いを強くしたものでした。田圃の畔や低苗地と呼ばれた柏尾川の堰堤の畑で大豆を作っていました。2月に大豆を茹でて麦麹と一緒に味噌ダルに漬け込みます。そして2年も寝かせれば味噌が出来たのでした。
子供心に何故味噌に変じるのが不思議でした。祖母に聞くと祖母は物置の天上裏には鬼が居て鬼が味噌の熟成を見守っているのだよ。教えてくれたのでした。味噌も納豆も家に棲む菌類が醗酵させて出来るのでしょう。我が生家の寺にも数百年引き継がれた細菌が居て祖の細菌のお蔭で先祖代々のお味噌を食べて来られたのでしょう。父がその菌類を貧乏神と呼んだまでで祖母に聞けば天上に棲んでいるのは貧乏神では無くて「福の神」だよ、教えてくれた事でしょう。
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日本昔話の「古家の漏/もり」お婆さんの「世の中で一番怖いのは古家の雨漏りだよ・・・。という話を天井裏で聞いた狼は風の音に驚いて天上裏から逃げて行きます。
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今日本の田園は全国で廃屋になろうとしています。貧乏神も廃屋になってしまえば棲む事も出来なくなります。貧乏神は勤勉な人が好きで勤勉怠惰(貧乏)の追いかけっこを楽しんでいるのです。江戸落語の貧乏神の小話はそんな健康な精神に満ちています。此処まで怠惰に慣れてしまうと、もう貧乏神も見捨ててしまう事でしょう。
ところで節分には豆撒きをします。煎った大豆を「鬼は外福は内』叫んで鬼めがけて投げつけるのです。私は長い事「何故大事な大豆を投げるのか?」不思議に思っていました。最近中村光行氏の著「鬼の系譜」を読んでいたらその理由を説明してくれていました。
取材したのは大阪の船場の大店でした。難波の商人は節分に味噌を焼いてお盆に乗せて屋敷中を歩くのだそうです。屋敷中に焼き味噌の芳香が漂います。すると貧乏神は味噌に惹かれて味噌にくっ付いて来るのだそうです。そこで味噌を丸め込みます。貧乏神は焼き味噌に丸め込まれてしまいます。そうして出来た焼き味噌団子(貧乏神取り込み済み)を運河に流してしまうのだそうです。貧号神は勤勉な人が苦手です。でも大好物は味噌なのだそうです。豆撒に大豆を使うのは豆が礫のように痛いからではなくて美味しいからだそうです。貧乏神が”ゴキブリホイホイ”のように捕獲されて廃棄されてしまうのだそうです。
そう考えると先々月沼田で観て回った『味噌舐め婆』も先祖代々の命の命脈を繋ぐと同時に家に棲んでいる貧乏神対策なのかもしれません。
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これは5月に詣でた沼田の味噌舐め奪衣婆さん。私は味噌舐め婆は”家に居て亡者を三途の川で見送る(奪衣婆)であると同時に罪を洗い落とし新しい命を家に迎える産婆さんの役割がある”と思いました。お味噌を口に塗るのは先祖と同じ共同体に居るといった意識の為せる業だと思っていました。(写真は沼田真田家菩提寺の天桂寺)
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これは岡崎八丁味噌の味噌倉「カクキュウ」毎日硬い味噌せんべいを食べているんですが冷たい八丁味噌ソフトを舐めたくなる連日の暑さです。岡崎は孫もいるし歴史もあるし美味しいし、民俗も豊かで良い処です。今年は奈良の葛城で古代の味噌(ひしお)を観ました。流石に岡崎は商いが上手です。

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