私が小学生の昭和30年代頃日韓の海上には「李承晩ライン」というものがあって、再三日本漁船が韓国に拿捕される事件が報道されました。1951年(昭和26年)「サンフランシスコ平和条約」が締結され翌年から公布されて国際舞台に復帰した日本でしたが、韓国は条約を批准せず昭和27年韓国初代大統領「李承晩」が海上にラインを引き海洋の主権を主張したものでした(韓国では平和ライン、日本では李承晩ラインと呼びました)。子供心にも隣国は難しいと思いました。
昭和27年韓国は李承晩ラインを設定し侵犯した我国漁船を次々に拿捕しました。
博多港からJRの水中翼船に乗れば2時間で釜山港でした。釜山から東に200キロ足らずで新羅の都のあった慶州でその中間に馬山(場さん)が在りました。釜山は韓国第二の都市でしたし馬山は天然の良港でもありましたから其処に用意された自由貿易地区(工業団地)は日本企業の進出を狙った外資誘致策でした。
私が博多の長銀に赴任した時には既にバブルが破裂していました。昔は問題の無かった食品企業も贈答用の食品が売れない等の理由で資金不足に陥り再建対策に腐心していました。博多の名物明太子の会社もその一つでした。輸血資金を出しても暫くすると出血が止まりません。調べてみるとどうも馬山自由貿易区で袋に穴が開いているようでした。銀行は馬山工業団地の工場を視察して同工場の撤退を申し入れましたが此処で新たな問題が露出しました。自由貿易区に進出するに際して享受した利得や進出中に受益した税制上の特典等を吐き出せと云った事が撤退条件でした。冷静に考えれば工場を閉鎖するには労働者の失業対策として相応の資金が必要ですが、当時の金融常識では海外拠点の撤退に際して立ち退き料が必要とは思いも依りませんでした。
明太子の原料はスケソウダラです。スケソウダラは日本の港に陸揚げされても韓国で陸揚げされても同じです。加えて韓国の労働賃金は日本の三分の一でしたから。馬山で製造した明太子でも福岡の中州で製造した明太子でも変わらない筈です。中州の老舗は順調なのに馬山工場に進出した会社が出血している事態は理解できませんでした。博多子は中州産韓国産を峻別していたのでしたし韓国での資金のフローは何時までも霧の中でした。
博多の名物明太子も韓国産なら製造原価も易い筈です。昭和3韓国の自由貿易区に進出した日本企業も多くありました。でも国内バブルが破裂すると思いも依らない「撤退費用」が明らかになりました。
韓国貿易省にすれば折角優遇した日本企業から税金を取って来た訳でもではありません。製品は親子間で渡され代金は日本の本社にプールされているのですから撤退すると言われたら”関税だけでも支払え”言いたくなるものです。
”進出は容易でも撤退は難しい”つくづく思いました。立場が違えば主張は異なるもので、。どっちも筋は立っているものです。
それでなくても韓国国民は日本帝国主義の犠牲を強いられた強い想いが心に刻まれています。
片や、日本人は”韓国の鉄道などインフラは自分達が整備してあげた”思っています。日本人が口にしなくてもそんな雰囲気が韓国人の自尊心を痛く傷つけられているのです。
明太子はスケトウタラの卵巣が原料です。最近は地球温暖化の影響でオホーツク海寄りに漁場が移ってきているようです。北方領土問題が解決したら歯舞さんの明太子や蒲鉾が食卓を豊かにしてくれるのかもしれません。
私は明太子工場を出て運動靴の工場や電子部品工場を見て回って翌日は慶州の寺院を見て帰国しました。近くて遠い国韓国を想いました。韓国旅行は疲れます。それは一般人の視線に嫌日を感じるからです。一方ベトナム旅行は楽しいし疲れません。それは親日の眼差しを感じるからです視線をチェンジするオプションは日本側にあります。パク・クネ大統領にある訳ではありません。せめて日韓歴史問題を百済歴史地区のユネスコ文化遺産に指定されたこの機会に初めて日本歴史学者や文学者から謝意を述べる事から始めれば良いと思います。上野博物館の法隆寺館を「日韓友好館」に作りかせて、日韓の歴史展示館にすればと思います。目玉は法隆寺の百済観音ですし。山上憶良ですし。朝鮮磁器です”日本の繁栄は朝鮮民族のお蔭です”感謝を形に表すことが大切です。
博多山笠の山上憶良(憶良は筑紫守で新羅唐との国交に尽力した)写真の出典はhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%B1%B1%E3%81%AE%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF&oq=&ei=UTF-8&xargs=3&b=41)
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