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鬼に角が在る事情

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鬼が愛おしいと思うのは鬼が人間の持っている拭い去る事の出来ない性とういうか業を現しているからでしょう。
お嫁さんが美しい衣装に着飾ってくお化粧して最後は「角隠しと」呼ばれる白い布を頭巾に被ります。
嫁げば直に本性を露わにしなければ生き抜けないのを誰もが知っているからです。でも嫁入りの日今日一日は角を隠して綺麗なお嫁さんで居て欲しい”晴れの日”なのだから。
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お嫁さんは白無垢に角隠しが正装です。角隠しは字の通り角を頭巾に隠しているのです。(写真は狐の嫁入り)

そんな次第で更に「鬼の考察」を続けたいと思います。
明日香の畑中の道を歩いて行くと傍らに「鬼の雪隠」が現われて来ます。そしてお隣には「鬼の俎板」も出てきます。明らかに古墳の玄室で玄室を覆っていた盛山の土が崩れ落ちて玄室が露座に出てしまったもので、それを明日香の民が鬼の使った俎板と鬼の使った便器と思ったのでしょう。鬼とは人知を超えた怖ろしい妖怪で妖怪を遡れば現世に強い怨恨を残して死んだ霊に辿り着きます。
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これが飛鳥の鬼の俎板です。玄室の底でありましょう。このまな板の上で鬼が人間を切り刻んだと推測したのでした。
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此方は地獄草子の鬼の俎板の図地獄の鬼が人間を切り刻んで料理にしています。この図は益田鈍翁氏のコレクションを現在は国立博物館が所有しているものです(平安時代末期国宝)
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 この図も益田鈍翁コレクションだった地獄草子鬼が人間の皮を剥いで居ます。猟師が猪等を捕獲して皮を剥いで居た様子が転じて殺生をした人間の地獄の責め苦を推測したものでしょう。この図でも鬼には角は生えていません。鬼に角が出現するのは能が盛んになって能面が彫られ御伽草子が作られて以降です。
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 これが飛鳥の鬼の雪隠上段の写真鬼の俎板とセットで古墳の玄室であったと思います。鬼が霊という意味では鬼の雪隠(便器)の表現は適切なのです。

鬼に角が出現するそのきっかけは近世になって、人間の自己省察の結果だと思います。
古代末期に人倫は乱れ兄弟親族が血で血を洗う惨劇を繰り返します末世を自覚した人は平家物語を始めとして今昔物語などで客観描写をしつつ説教節等で子々孫々に語り伝えようとしました。惨劇物語を舞台に載せてに叙情的な芸能に昇華させたのが能楽でした世阿弥や禅竹は謡曲物語を通して人間の本性を能舞台で表現して見せました。
本来は仏教用語であった”般若”を能面に仕上げました。”般若”とは究極の知恵とか悟りの意味でしたが女性の究極を見詰めた時鬼を見つけたのでした。そこで美しい表面でありながら二本の角を供えた般若面を実現させました。般若の面は下から仰ぎ見れば美しい女性でありながら演者が面を伏せれば角が目に飛び込んできて鬼であることが解りました。普段は美女でも場面が変われば鬼女に変じるそれが真実であると体験しました。
六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ、ろくじょうみやすどころ)は葵の上に嫉妬する上に夕顔を執り殺してしまいます。二本の角が生えて来ました。
”女性は化粧を落とせば般若である”それは近世の人間省察の成果であったのかもしれません。でも能舞台ではその真実を花に包んでオブラートに表現してみせました。
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 月岡 芳年の夕顔の図(六条御息所の生霊は夕顔に憑りついて殺して去るのでした。芳年は六条御息所に角を描いてはいませんが北斎漫画では二本の角が描かれています。


鬼に角を生えさせたのは人間の自然観察の成果であったでしょう。
春日大社や鹿島神宮のお使いの鹿には大きな角が生えていますし。祇園神社の牛頭天王は明らかに立派な角を持った牛さんです。天神様を乗せた牛も善光寺(牛伏寺や布引観音も含めて)の牛も立派な角が二本生えています。神も妖怪も人知を超えた存在は角が証明しているのでした。
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国東真木大堂の大威徳明王像(平安末期)巨大な角の水牛に乗って怒髪が逆巻いて角のように見えます。この仏が本地が祇園神社のご神体牛頭天王なのです。牛頭天王は角が生えています。

自然界で神々しい者は角が生えているものでした。そこで人間も怨念を残して死んだ霊には畏怖の想いも込めて角を生えさせたのでしょう。
路傍に立っている庚申塔(青面金剛)の足下には鬼が踏みつけられて苦しそうに蠢いています。私達はこの像を観ながら以下のように絵解き説明を受けて来ました。
「人間の心の奥には鬼が潜んでいるのだよ、少しでも怠けたり奢ったり妬んだりすると鬼が動き出して悪さをする人は何時でも心を律して鬼に惑わされてはいけないよ。さもないと現世で酷い報いを受けるものだよ・・・・」
日本人は1000年も昔から現世は鬼と菩薩が同居していると知っていました。でも鬼は普段は隠れていて見えないものです。でも突然に出現します。浅間山が噴火すれば鬼が出てきた”鬼押し出し”思いました。元寇が起きれば鬼が攻めてきた。想い国家意識を高めました。明治維新にも同じように国家意識が昂揚し、神国観が色濃くなりました。
今日も参議院では仮想敵国が中国と北朝鮮であると説明して国家意識を高揚させようと煽っています。
私達は半島の愛国心や中国の中華思想には辟易としています。
彼等にとっても日本の国家意識や愛国心は気障りなものでしょう。何時でも反日運動は燃え盛る懸念があります。武力行使を可能にすることが抑止力になるというのは身勝手な言い分で国際社会は未だ我国を信用していないしそもそも日本人の心の傷は70年ではまだ癒されていないと思うのです。
鬼は奢った心の中に潜んでいて油断していると突然に出現する・・・、自覚こそ大切であろうと思うのです。
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庚申塔青面金剛の足下で踏みつけられる鬼。人間は心の奥に潜む鬼を常にコントロールしておかないといけないと教えています。



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悔しいでしょう大江山酒呑童子

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昨日に続いて愛しい鬼について想いを馳せます。京都の左京区大江山があります。
連山を越えれば丹後の国です。このお山に大江山酒呑童子の伝説が残されています。
日本人の鬼伝説の中で最強にして最も哀しい鬼伝説だと思います。御伽草子や錦絵等でお馴染みの伝説ですが先ずは思い出していただくためにご被露させていただきます。
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 大江山酒呑童子の錦絵(歌川芳艶1822-1866 江戸末期出典ウィキぺィア)人肉を食らった頼光ら討伐軍に心を許した酒呑童子は毒酒を吞んで寝込んでしまいます。坂田金時(右)に寝首を掻き切られた酒呑童子の首は宙を舞って頼光(左の兜を噛もうとします。
【御伽草子の大江山酒呑童子物語】
最も栄華を極めた平安京一条天皇も御代でした一握りの摂関家貴族の繁栄の陰には庶民の暗黒の生活が在りました。貧しい人達は隠れ里に棲み夜毎に京の都に出没して夜盗を働き女性を浚って行きました。
帝は都を恐怖に陥れる最大夜盗の大江山酒呑童子の討伐を命じます。
命令を受けたのは源氏の棟梁となるの源頼光と渡辺綱を筆頭とする頼光四天王でした(頼光の他坂田金時碓氷貞光卜部季式)長徳元年(995年)頼光等は大江山に入ります。討伐隊は「神便鬼毒酒」を持参します。酒好きな鬼達を酔わせて討ち取ろうとする作戦でした。毒酒を飲ませるのは伝統手法で鬼達も既に討伐軍の策略はお見通しで毒酒を口にしません、」そんな酒呑童子を欺くために頼光達は鬼の食していた人肉を食べて見せます。すると人間は人肉は絶対に口にしないと確信していた酒呑童子らは警戒心を解いてしまいます。毒酒を飲んで体の自由を失ってしまい頼光達に殺されてしまったのでした。
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坂田金時は幼名を金太郎と云い、箱根外輪山金時山に棲む山姥の子供でした。鬼の子が鬼のボスの首を採った事になえります。
酒呑童子の首は怒りの余り宙を飛んで頼光の兜に嚙み付きましたが。そして叫びます”鬼は偽りを申さず、鬼に二言無いというのに人間ともあろうものが鬼を騙すとは・・・・!”でも頼光の兜は星の形をしていて陰陽師阿倍清明の卜をたてていたので空しく歯ぎしりするだけでした。考えてみれば何処の鬼も人間に騙されてしまいます。
安達ヶ原の鬼婆も”寝室を見ないと約束したのに約束を破られ正体に気付かれてしまいましたし。国東熊野磨崖仏の鬼も人間に騙されて石段の工事をしてしまいました(人間が鶏を日の出より早く鳴かせた)
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国東の熊野磨崖仏の石段は鬼が人間に騙されて一夜で築いたものでした。


力は強くても正直に馬鹿が着くところが鬼の弱点だったのでした。
私は”鬼退治が正義だとするのは過ちだし勝者の詭弁”と思います。
酒呑童子の伝説を言い伝える度毎に語り部も聞き役の子供も「鬼の口惜しさ」や「鬼の哀れを想いやったのだと思います。その結果伝説の始まった10世紀末の話が14世に南北朝時代に御伽草子の物語になったのだと思います。御伽草子は丁度応仁の乱の時代。荒涼とした都の景色や悪党が跋扈した世相が酒呑童子の物語を現実感を持って広がったのでしょう。
【鬼は鉄器を鍛造した奴婢階層だった】
私の学生時代”という月間漫画[ガロ」が在りました。同紙の人気作品は「カムイ伝」でした。
作家は白土三平氏で当時は新進の杉浦日向名子さんも妖怪や廓の話を画いていました。
「カムイ伝」は主として夙川谷に棲む奴婢の忍者の話です。今は夙川と言えば高級住宅地ですが山深い隠れ里だったのでしょう。カムイ達は隠れ里に棲む非人階級家族で家畜の解体と鉄器の鍛造”を営んでいました。酒呑童子は大江山の隠れ里に潜んでいた被差別部落で“鈩(たたら)による鉄器を鍛造して武器を作っていた人達だと思います。
彼等が何らかの事情で帝の意向に背き刀の注文主(源頼光)に反抗した事から策略に陥れられ滅亡させられたと推測します。
鬼に金棒という慣用句や鬼は総じて眼が悪い一つ目であること等は鬼が鍛造業の部落であった事を想わせます。くどいようですが隠れ里の鍛造部落が帝の言いなりにならなかったので討伐されて帝の人気の挽回が為されたのでしょう。平民の不服を満たすには被差別民を討伐する事だったのでした。
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鎌倉常磐のお蕎麦屋さん(秀福の鬼の土人形(この蕎麦屋さんは仏師でも居られます。鬼に金棒は鬼は刀鍛冶であった事を留めていると推測します


「酒呑童子」は、日本の妖怪変化史のうえで最強の妖怪=鬼として、今日までその名を轟かせてている。
 平安京の繁栄―それはひとにぎりの摂関貴族たちの繁栄であり、その影に非常に多くの人々の暗黒の生活がありました。都の正門羅生門には鬼婆が棲み女性の髪を抜いて生計を立てていましたし、貧困と餓えに耐え、生きぬき抵抗した人々の象徴が鬼=酒呑童子であったと思います。
 酒呑童子物語の成立は、南北朝時代(14世紀)ごろまでに、一つの定型化されたものがあったと考えられており、のち、これをもとにして、いろいろな物語がつくられ、絵巻にかかれ、あるいは能の素材となり、歌舞伎や人形浄瑠璃にもとり入れられ、民衆に語り伝えられていった。
酒呑童子は、フィクションの中の妖怪=鬼ではあるけれども、日本の文化史の中で果たした役割は、きわめて大きいものがあります。
そしてその物語の背景となった、破滅しながら、しぶとくあくどく生きた、底辺の人々の怨念が見えかくれすします。
 酒呑童子という名が出る最古のものは、重要文化財となっている「大江山酒天童子絵巻」(逸翁美術館蔵)であるが、この内容は現在私たちが考えている酒呑童子のイメージとはかなりちがっています。


 
まず「酒天童子」であり、童子とは髪の毛をボサボサにした少年の様な恰好であったのでしょう。そんな少年のくせに酒が大の好物であった。また大江山は「鬼かくしの里」であり、「鬼王の城」が在ったの意味でしょう。

そして頼光との酒宴の席での童子の語りの中に、自分は「比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に追い出され大江山にやってきた」とあります。
更に「仁明天皇の嘉祥2年(849)から大江山にすみつき、王威も民力も神仏の加護もうすれる時代の来るのを待っていた」とあるから、神仙思想の影響窺がえます。
 ところで、童子といえば童形の稚児のことで、神の化身でもある。したがって、酒呑童子は、山の神の化身とも考えられるわけだが、酒呑童子は仏教によって、もとすんでいた山を追われた存在だったのでしょう。
それは山の神が仏教に制圧されていく過程であり、酒呑童子を迎えてくれる山は、仏教化されていない山―もっと古い時代から鬼のすんだ山―土着の神々が支配する山である大江山しかなかったのである。
 酒呑童子は、中世に入り、能の発達と共に謡曲「大江山」の主人公として、あるいは日本最初の庶民むけ説話集である「御伽草子」の出現により、
広く民衆の心の中に入り込んでいった。
 中世的怪物退治物語の代表作としての酒呑童子物語には、源氏を標榜した足利将軍家の意向をうけた「頼光=源氏の功名譚」としての要素、地におちた王権を支えようとする人々の願望としての「王権説話」、あるいは「神仏の加護」など多様な内容をもりこんでいるがもう一つ、この大江山に伝わっていた「大江山の鬼伝説」が大きな要因となっていることを見落としてはならない。

 酒呑童子は頼光に欺し殺される。頼光たちは、鬼の仲間だといって近づき、毒酒をのませて自由を奪い、酒呑童子一党を殺したのだ。
このとき酒呑童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった。

 酒呑童子は都の人々にとっては悪者であり、仏教や陰陽道などの信仰にとっても敵であり、妖怪であったが、退治される側の酒呑童子にとってみれば、自分たちが昔からすんでいた土地を奪った武将や陰陽師たち、その中心にいる帝こそが極悪人でありましょう。
 「鬼に横道はない鬼は嘘をつかないなのに人間ともあろうものが鬼を騙し討ちにするとは口惜しい!」酒呑童子の最後の叫びは、土着の神や人々の、更には自然そのものが征服されていくことへの哀しい叫び声であったのかもしれません。
柳田国男は「山人伝」に次のように述べておいでです
『先住民は山から里に下って常民と混交しました。でも一部の人は山に残って「山人」になりました。先祖のうち征服者に帰順した者は「国津神/諏訪の神様のようにを核にしてその霊を祀りました。しかし征服者『帝』に反抗した者は荒神とか邪神と言われ天変地異が在ったり社会が混乱するとその原因とされて/応仁の乱のように)見せしめのように討伐されたのでした。私達は大江山酒呑童子を討伐した源頼光や坂田金時を英雄として崇めません。というより討伐された酒呑童子を哀れに想い共感するのです。


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産穢と死穢(女性禁忌の意味)

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夏場所も案の定白鵬の優勝で幕を閉じました。夏休み中の私の楽しみはNHKラジオの〝こども電話相談室”高校野球放送が始まる前後に全国から子供の質問が電話で寄せられ、各分野の専門家がお答えをします。素朴な子供の質問を聴くのも楽しいのですが自分でも答えを用意してみます。自分の回答と専門家の回答の差違を見詰めてみるのも楽しいものです。ところがこんな楽しみを国会中継が独占してしまっています。与党の質問は無知蒙昧とみなしている国民に対して行い。答弁も頑迷な国民に向けて行っています。”北朝鮮のミサイルは進化して居ますよ!””中国の脅威は”パネルを使っての説明は仮想敵国が北朝鮮と中国でその脅威を対抗するには抑止力を強化するより仕方ないでしょう・・・・。質問する与党議員と回答する政府が両方とも国民に対して実施しています。そのシナリオは首相官邸の補佐官が書いているのでしょう。ならば補佐官に国会に出席して貰い解答して貰うべきです。私は戦前でも国民と天皇を騙し続けた軍隊という組織自体が信用できないのです。いざ砲火を交えてしまうと軍隊は上部の命令を聞かなくなって爆走してしまうのです。法律や統帥権(戦前までは天皇が持っていました)を無視してしまいました。早くこども電話相談室が始まって欲しい期待する毎日です。
奈良時代は母系社会でした。女性天皇が6人7代であったのに対し男性天皇は6人6代でした。政治も祭事も女性が司っていました。政治も社会もジェンダーだったのでした。その結果親族同士の争いはあっても大きな戦争も無く総じて平和な時代でした。
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日本最初の女帝推古天皇は社会の混乱を抑える事が出来るのは包容力の優れる女帝を擁立する事が賢明であるとの考えで成立しました。平和的な発想は和の考えは女帝だからこそ実現できたのでしょう。そもそも男性の欠陥を補うために女性の遺伝子は1本多いのです、多い部分は包容力だと考えます。
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 これは平安京紫宸殿前で営まれた相撲節会です。豊作と国土平穏を祈願して神様のお好きなお相撲の節会を開催しました。観客には大勢の女官の姿も見えます。図の出典日本相撲協会のHP
http://www.sumo.or.jp/sumo_museum/history
ところが中世になって武力の重要性が増すと父系社会に逆転して戦争や飢饉が多発します。最初にお相撲を取ったのは女性だったのに女性は土俵に上がれなくなりました。女性は家に入るにも敷居を跨げなくなってしまいました。勿論山にも登れません。理由は誰もが知った風に”女性は穢れているから”答えます。でも不思議な事です。女性が穢れている言っている神主さんも修験者もみんな女性のお腹から腹水と共に生まれ落ちたのです。だから自分自身の命も穢れている事になります。穢れを払うには火で焼くか水で洗わなくてはなりません。自己矛盾を解くには早く死ぬ以外に術はありません。多くの人は山の神は女性だから女性は嫉妬するので山に入れないと説明します。ならば醜い女性なら入山は自由なのでしょうか?昨今の山ガールはお洒落だし、嫉妬されやすいように思います第一嫉妬深いのは男性のようです。
どうも”穢れを忌み嫌う”思想は男女ジェンダーの差別を越えた生命の根源に根差した発想のような気がします。
【産みの穢れと死の穢れ】
先日来奪衣婆さんを考えて来ました。奪衣婆さんには二つの顔があります。一つは三途の川で亡者を待ち受けて衣服を剥ぐ役割です。勿論三途の川を渡ってしまえばら黄泉ですから現世に戻れません。もう一つの顔は御産婆さんのそれです。妊婦さんを補助して安産を促し産み落とされた乳児を受けて産湯に浸けて清潔に保ちます。死ぬ事は霊が体を抜けだすことと考えられていました。そして産まれるとは霊が新しい体を見つけて其処に降りる事と考えました。霊が抜けるのが”死”霊が降りるのが”生”でどちらも血を伴います。出血すれば死にますし血が凝固しても死んでしまいます。そして血が体を巡れば生きることになります。
死も誕生も霊【神】が昇天したり降りたりすることです。ですから死の場所も産まれる場所も神聖で清潔でなくてはなりません。全国各地に在った産屋は土間で茅葺の掘っ立て小屋です。小屋には竈が在って此処には火を欠かせません。竈で火を燃やし続けて清浄な空間を維持します清浄でないと厄が母体や乳児に憑りついて病気に刺せるのです。土間を清浄に維持して空間から悪魔祓いをする為に四方の柱は青竹を立てて注連縄で結界を張ります。天上から縄を下します。産婦はその縄を握って俵に身を預けて片膝を立てて産み落とします。横に寝て産み落とすのはへその緒が絡んでしまって死産のリスクが高いのです。御産婆さんは妊婦の安産をリードします。
土俵に女性を登らせないのは女性が穢れているからでは無くて女性と乳児の体を清潔に保ち健康に産後生活を凄いして貰う為です。
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     写真は瀬川清子氏著「女の民族誌」の産屋同じようなモノをこの春月夜野でも見ました。
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 上記写真の近年図写真は次から「アタの雑記」お借りしました。http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E7%94%A3%E5%B1%8B

一方死んだ後の喪の行事も良く似ています。死に近い人は忌屋(小屋)に移します。小屋は産屋にも似た掘っ立て小屋で矢張り茅葺土間、竈が用意されています夜を通して竈では火を灯しておきます。火を絶やすと獣や悪霊に憑りつかれる怖れがあるからです。脈搏が弱くなり息が止まれば死んだとみなされます。竈で沸かしたお湯で湯棺をします、出産の手順のビデオを逆回ししたようなものです。でも大きな違いが一つあります。天に昇った霊は家族に福を残して逝くと信じられ産児は福を持ち去ると考えられているのです。
産屋も忌屋も酷似しています。忌屋は韓国ドラマを見ていると良く出てきます。
それは忌屋は葬儀が終われば燃やしてしまうのです。燃やすことで霊は天上に登り子孫に福を残して逝くからです。私はお茶室の起源は忌屋であろうと推測しています今度訊いて見たいと思っているのですが叱られそうな懸念もあります。


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小町と奪衣婆

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私の産屋は客間の隣4畳半の堀炬燵のある小部屋だったそうです。私はその小部屋に置かれていました。食中毒で嫁ぎ先(沼田)から里帰りしていた叔母は私のことを気遣って狭い部屋に置いておくと鼠に齧られるので部屋を変えるように言っていたそうです。昭和21年春盛徳寺(私の生家)は産穢と死穢が重なっていたのでした。
私の祖母は御産婆さんであり、同時に奪衣婆だったように思います。人生の始まりとお終いを清潔に営むために新しい命と残された家族の命を守る為にお婆さんの知恵と愛情は大切なものでした。キーワードは”清潔”病気(厄)が伝染しない様に細心の注意を必要としました。そんなケヤする気持ちが女性は穢れているといった俗信の生まれた根拠だと確信いたします。

どちらの婆さんも人生の幕開けと幕引きを手伝う重責です。
ですから奪衣婆さんは日本民族の中核に位置していると言えます。奪衣婆さんへの愛おしさが強くなります。
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       山科小野随心院の小野小町像小町と案内されていなければ奪衣婆像です。秋田の曹洞宗の寺院を巡れば同様の奪衣婆が数多く祀られているそうです。健康を取り戻したら秋田の雄物川流域の寺寺を巡りたい次の私の目標です。奪衣婆さんは半跏像(出産の脚組)で如意輪観音のポーズです。
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此方は新宿正受院の奪衣婆像小町像と同じ如意輪観音の半跏像です。頭上の真綿は乳児のお包みと言われています。

【小野小町の墓】



何処の街にっても銀座通りが在ります。神奈川県には鶴見銀座矢向銀座瀬谷銀座芹が谷銀座二俣川銀座と銀座通りは何処にもあります。そしてどの町にも可愛いお嬢さんが居て夫々”鶴見小町””瀬谷小町”とか”二俣川小町”が居た事でしょう。可愛い小娘は小町でした。でも高齢化が進んだので小町も年増になってしまった事でしょう。
会社勤めの時には新人女子は”小町”と呼ばれてチヤホヤされても直に30代になれば”お局”とか”年増”とか呼ばれて正論を口にすれば煙たがられます。愛されて歳を重ねるのは難しい事です。まして奪衣婆さんになるのは稀なお婆さんでありましょう
平安時代内裏の小町も晩年は惨めだったようです。沢山の貴公子に言い寄られ天下の歌人藤原定家に認められたころまでは花だったのでしょうが、本人も何時までも自分は内裏の小町でチヤホヤされることは無いと自覚していたのでしょう。
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月岡芳年作『新形三十六怪撰』の小野小町像、桜吹雪の中に佇む小町を描いています。題材は歌舞伎の演目通称「関の扉」のから。 ―というのがなんとも美しいシチュエーションです。
百人一首には次の歌が取られています。
花の色は うつりにけりな いたづらに   わが身世にふる ながめせしまに小野小町(9番) 『古今集』春・113
歌の意味は次のようなものでしょう。
 桜の花の色は、むなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降 っている間に。ちょうど私の美貌も何れは色あせてしまいます。恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに衰えてしまうものです。殿方よ私が未だ美しいうちに愛してくださいな・・・・。
この歌を定家は「幽玄体」と評します。晩年の小町は様々な伝説を呼び全国各地に小町の墓が祀られます。
「通り小町」とか「髑髏小町」と呼ばれる謡曲も上記小町の歌のイメージが広がったものでしょう。
陸奥の八十島には「通小町」の話が言い伝えられています。旅人(在原業平】が路傍の髑髏に呼び掛けられるお話です。業平は馬頭観音小町は如意輪観音の化身でした。
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月岡芳年作『新形三十六怪撰』の在原業平像、旅先の業平は(慙切頭)なのは帝に戒められていたから庭先から”痛い!痛い!”の鳴き声を聞きます。庭先に骸骨が転がっていてその眼窪に茅が映えていたのでした。骸骨は小野小町で二人は天下の美男美女しめやかに物語したのでした・・・・。

もう4年も前でしたが友人らと群馬県甘楽郡吉井町に小町伝説を巡った事がありました。晩年の小町が顔に痣が出来て故郷の秋田県雄物に帰ろうとした旅の道で吉井町に逗留して塩薬師の伝説を残したのでした。小町の墓は京都を始め秋田等各地に在ります。何処も奪衣婆と混交している事が特長です。
脱衣婆は桃太郎を拾ったお婆さんと同じ選択婆さんで。婆さんが丁寧に洗濯すると女の子はより美人に。男の子は武芸が上手に産まれ変わると言い伝えられているのです。奪衣婆さんが亡者が現世で汚れた衣服を剥がして丁寧に洗濯すればするほど新しい命は美人に産まれると信じられてきたのです。
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群馬県高崎市の郊外にある吉井町の小野塩薬師。秋田に帰る旅の途上小野小町は此処に逗留して病を治癒したと言い伝えられます。この記録は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45725525.html

ところで、私達は学校で次のように教わりました
①、「花」と言えば奈良時代は梅でした桜は平安時代に梅に変わって主役に座りました。何故なら万葉集では桜は殆ど歌われていませんでした。秋の花なら萩春の花なら梅が歌われていました。
しかし私は小町の歌を知り次の歌に接すると万葉集に採録された歌は漢詩得意のインテリ官僚の歌で、人の庶民の心に響いて居た花は桜であったと確信するのです。それも山桜の一種で霞桜と呼ばれる淡いピンクの桜でした。それは聖武天皇が奈良の奥山に自生していた桜を愛でて内裏に移植した伝説(奈良の八重桜)を確認しても解ります。最も好きな花は桜なのだが自分はインテリだから中国式に梅を歌ったのだと思います。
そう想いつく歌が万葉集に採録されています。

桜花時は過ぎねど見る人の恋の盛りと今し散るらむ

小野小町の歌はこの歌と同じ感覚で詠われていると思うのです。
今目の前でハラハラ散って行く桜を見ながら作者は桜の気持ちになって歌っています。
桜の花は今の私を一番愛してくれている。今が私の盛りで一番に美しい時だから・・・・・。
だから私は今貴方の目の前で散って行くのです。色褪せた私を見て欲しくないから永遠に美しい私を記憶しておいてほしいから・・・。
桜の花は平安時代に評価され始めたのではなくて日本人の遺伝子に深く刻まれた花なのです。そうおもうと
小野小町も奪衣婆になって再三思い出される尊い愛おしい存在です。



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霊の姿と声

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今年の夏は早くから日暮が啼き始めました。例年は旧盆明けの頃に鳴きはじめて夏の終わりを告げてくれるのですが・・・・・。盆の入りには蛍が飛んで盆の終いには日暮が教えてくれるものだったのですが。これも異常気象なのでしょうか?これでは、黄泉の霊も何時”藪に戻れば良いのか”解らない事でしょう?
御嶽山に埋まっている霊は早く戻りたい。火山灰の下で見つけてくれることを待ち望んでいることでしょう。岐阜県長野県の捜索隊の方々は本当にご苦労様です。こんな時こそ自衛隊が期待されている様に思います。貧乏な地方自治体の安全課の手では負えない仕事だと思います。
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御嶽山の捜索再開のニュース、写真出典朝日新聞デジタルニュース。火山灰は既にコンクリートに化して遺体捜索は大変に困難であると同時に尊い作業でしょう。

昨日は京都の気温は38度を超えました、鍋底の暑さで炎熱地獄の様だったことでしょう。京都の人が我慢強く工夫上手でも暑さだけは如何ともし難いものがあります。
屹度貴船の川床に足を清流に浸せてお豆腐に舌鼓を打っていることでしょう。貴船は京の都の水源です。奈良でいえば室生の様な神聖なスポットです。貴船では無くて”貴水”が本来では無いのかな思います貴船神社の境内には立派な桂の大樹が在ります。和泉式部も見たのではないかな?思う程の老樹です。昨年の秋には修善寺奥の院に桂の大樹を見に行きました。全国各地の清水の涌く処には桂の大樹が自生しているものです。其処は蛍が飛び交い。日暮が啼き鰍ガエルが生息します。
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鞍馬山を越えれば貴船神社です。学生時代汗を拭き拭き貴船に着いて貴船の川床で生き返りました。脚を清水に浸しながら蝉しぐれを聞き冷たいお豆腐を味わう最高の夏でした。写真出典京都府観光協会http://kyoto-design.jp/special/kibune
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これは雨蛙この蛙が鳴くと雨が降るので”雨を呼ぶ蛙”と呼びましたが、筆者は天の霊が地上の子孫に呼びかける声なので天蛙(あまカエル)と呼んだと思っています。
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これは田圃の土蛙雨蛙の対極にいる蛙。一般に蛙は毎年同じ場所に戻ってきて産卵する帰巣本能が強いので”帰る”から〝蛙”になったと言われますが。筆者は霊が戻るといった感覚も強く影響していると考えます。既に筆者が遊んだ赤蛙は絶滅危惧種に指定されていますし。修善寺の桂川で赤ガエルを見つけて文学的行き詰まりを突き破った島木赤彦さんも蛙さんの現況を心配しておいででしょう。


日本人は目に見えない霊(たま)は必ずあって、その姿は蛍になって、声は日暮や”鰍かえる”になって響いていると思いました。だから蛍や日暮の声を聞くと霊を直感したのでした。貴船はそんな場所でしたから京都で一番の心霊スッポットです。「丑三つ参り」と言えば貴船神社です。それは京の都には一番強い怨念が立ち込めていた事と貴船神社が日本一の心霊スポットだからでしょう。連夜丑三つ時刻に貴船神社を詣で怨恨の的になる人を模した藁人形の心臓に五寸釘を打ち込みます。この詣でを続けて、七日目で満願となって呪う相手が死ぬが、行為を他人に見 られると効力が失せると信じられました。
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横溝正史の「八墓村」死装束で五徳(囲炉裏に鍋を据える道具)を頭上にに載せて灯を灯し、丑三つ時に怨念の標的に摸した藁人形を木の幹に打ち据えて怨念を払う呪術でした。

丁度今頃の季節でした。私は岐阜県中津川市にあったお寺に(叔父が住職)に遊びに行っていました。住職の叔父が朝食の時に私に命じました。”寺(宗泉寺)の裏山の続きに神社が在ってその杉の幹に昨晩藁人形が打ち付けられたようだ。おまえ探して抜いて戻れ”
私は墓場を抜けて熊野神社の境内に行きました。そして杉木立の中で藁人形を探しました。ようやく見つけ出したものの子供の力では五寸釘は抜けませんでした。私は仕方なくバラバラになった藁人形だけを持ち帰りました。叔父は子供の霊力がわら人形を打ち込んだ人の怨念に勝ると思っていたのかもしれません。でも私が帰宅してこのことを祖母に報告したので叔父は祖母の叱りを受けていました。その叔父は岐阜県仏教界の会長を務めた程の人物でしたが晩年脳梗塞を患いリハビリもしないままにベッドの上で亡くなりました。祖母は叔父を〝意気地なし”と言って叱っていましたが。私は意志力でリハビリを進めていますので黄泉の祖母も応援していてくれることでしょう日暮の声ががんばれ!がんばれ!”と聞こえて雨蛙の声が〝人生ソコソコに楽しいもんだケラケラ!”と聞こえてくるような気もします。もうじき我が庭には閻魔コオロギが鳴きだすことでしょう”人生の幕引き準備は進んでいるか?”私の覚悟を急かせるのかもしれませんが。今暫く蛍やセミや蛙と一緒に過ごしたいものです。祖母も奪衣婆になって閻魔さんの助言して下さっていることでしょう。
私は学生時代何度も叔父を見舞いましたが”あの時の藁人形標的は叔父さんだったのではなっかたのかしらの?”訊きそびれてしまいました。

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納豆の文化圏

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昨晩は深夜に救急車がサイレンが響いていました。熱帯夜です。「また、誰かが熱中症で運ばれた」他人の心配をするより先ず自己管理です。夜は玄関先に冷えた麦茶を用意してくれていますので。目が醒めればゴクンと飲みに行きます。

深夜ラジオで納豆を探してベトナムの山岳地帯からミャンマーチベットを旅した地理学者の話が流れていました。聞いていると学生時代盛んであった照葉樹林文化圏(上山春俊平)を想いだしました。
1960年代梅棹忠雄や梅原武等と共に新京都学派と呼ばれた文化人類学者達が脚光を浴びました。多くの文化人類学が日本人お皮膚感覚のない世界の僻地の実証的調査に基づいて解析していたのに比べて新京都学派の研究は身近な楠や椎の照葉樹林の観察に始まって。其処に自生している粘菌が味噌や納豆を醸造し、空海や最澄といった密教を育んだ…と説明しました。南方熊楠に社会科学的な手法やマスコミを動員する力もあって新鮮でした。
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 照葉樹林文化を説くのが1960年代盛んでした。この稲作伝播と同じようにチグリスユーフラテス流域に麦作文化圏が在って比較説明した文化論でした。出典照葉樹林文化とは何か」  稲作と同時に納豆と言えば納得感も増します。ラジオでは納豆菌は稲藁にもあるが。桑やイチジクにもあると説明され、無花果が最高と評されていました。出典:佐々木高明著「照葉j樹林文化とは何か中公新書」
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4年前突然に庭の楪(ゆずりは)の木に甲虫が大量に発生して喜んだのでしたが木は枯れてしまい翌年はシメジが生えて今年は納豆菌で真っ白になってしまいました台風で倒れたら危険なので伐採いたしました豊富な納豆菌は生命のサイクルに重要な歯車なので
す。
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楪の枯れ木に最初はシメジが生えてきました。最近は白いものが増えて来ましたこれは納豆菌の金糸でもう芯から腐って来たのだと判断して切り倒しました。




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 ベトナム北部中国国境雲南に近い山岳地帯の棚田。照葉樹林の中に棚田が魚鱗状に続いています。棚田の耕作手順や社会組織は日本の農村と酷似しています勿論納豆を食し豆腐も食べています。
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ベトナム北部山岳民族の田植え風景は50人もの女性が着飾って田植えをします。その作業は日本の早乙女のそれと同じで。女性の意匠には呪術的な意味もあります。母系社会が今も存続していることが解ります。画面を見ていると意匠の模様はアイヌの模様であるし女性は”もののけ姫”でリーダーは阿弖流為だと思えてきます、ああ此処には縄文文化が息づいている思いました何時か元気になったら行ってみたいと思います。画面はNHK”地球で一番美しい瞬間”を複写。
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此方は醪に漬けこんだ奈良漬けお漬物文化も納豆と同じ大豆と枯葉菌の醗酵効果を期待したものです。
沢庵も鮒寿司も皆照葉文化を象徴する食材は湿潤な空気の中で生育する枯葉菌を発酵させたものです。序に説明すれば韓国のキムチも同じで発酵させた上に腐敗しない様に芥子を加えて居る事と。冬の寒さが醗酵を停止させて一年中食べられる様に保存させているのです。韓国だけで売れている”キムチ冷蔵庫”は温度管理して醗酵と保存を最適になるよう管理しているものです。キムチが好きな日本人はカレー納豆が好きになること請け合いです。
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醗酵させれば食材は美味を増しますし保存も効きます。1000年の都京都では青魚(鰆や鰊や鯖)を味噌漬けにする料理が進んだのは理に適っています。



照葉樹林文化論は日本人の歴史文化感覚と風土食生活を同時に俎板に載せて分析してくれたもので、私達にとっては新鮮なものでした。
当時私と同じように啓発された地理学者が政府の援助を受けて東南アジアからヒマヤラにかけての照葉樹林帯を歩いて豆腐や納豆を探し回っていたのでした。
ベトナムと中国の国境に在る雲南の黒納豆の話を聞いているとそれは「日本の浜納豆」じゃないか思い当たります。
そして世界一美味い納豆はインド北部カレーに納豆を混ぜたものだと聞くと私はワイフに頼んで”カレー納豆”にトライして貰いたくなります。少なくともカレーに干しブドウや甘納豆を入れると行けるのですからカレー納豆は美味しいし夏バテには効果がありそうです。


私達が東北のブナ林で嗅ぐ芳香は枯葉が醗酵する香りで。醤油の蔵や納豆蔵の臭いです。
照葉樹林体の湿潤な空気は納豆菌(所謂枯葉菌)を豊富に含んでいて.枯葉菌が有機物(植物蛋白や澱粉)を酸化分解し.旨味や有益な物質に変わります。
大和朝廷が成立した後も,草深い東國(関東以北)は縄文文化を継承し,納豆が農民により食べられていたのでしょう。そこへ前九年の役を平定する為源義家が蝦夷征伐に向かいます。
阿弖流為やもののけ姫はや必死に戦います。敵は鉄器を持って稲作にも秀でた弥生文化人でした。「八幡太郎義家の軍隊は蝦夷の住民が好んで食していた納豆を初めて知りました。
大豆が体に良い事は前々から知っていたのでしたが、ナ納豆にすればもっと美味しいし、保保存食にもなる驚いたに違いありません。
豆腐は弥生の香りがして納豆は姿形も縄文なのは何かの偶然でしょう。
醪は大豆を発酵させて作ります。そして魚を醗酵させれば魚醤が出来ます。ベトナムのラーメンを食べれば魚醤の虜になってしまう美味さです。それは屹度私達の遺伝子に魚醤の味が刻まれているからでしょう。
細菌のお母さんを見ていると醪の味よりもチーズやヨーグルトの方が好きなようです。
ユーラシア大陸の西では乳酸発酵食品が好まれ大陸の東で大豆の醗酵文化が出来たのも風土の為せる技だったのでしょう。
でも私達は「照葉樹林文化圏」に育ってきたのですから今晩も納豆を食べる事にしましょう。
納豆の薬味には鶉の卵に玉葱の微塵切が適当です。
ワイフが今朝裏庭から茗荷を取って来ました。これは屹度納豆になる事でしょう。
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  京都は発酵食品の宝庫です。地蔵盆には大徳寺さんの浜納豆で冷酒を戴きましょう。写真の出典画面上に記載

昨日アマゾンで竹の笊が送られて来ました。これからワイフは梅の実の天日干しを始めるつもりのようです。
我家では毎年広島の原爆慰霊日に干し始め長崎のひで干し上がるようです。
その間ワイフは二階のベランダで大汗をかきます。今年の様子は?梅の樽を覘いてみれば白いものが浮いています。
私は白いのは納豆菌と同じで毒も害も無いというのですが、ワイフは子供達も食べるし言って白い菌を嫌がります。黒カビや青カビが出たら拙いのですが。白いのは問題ない証です。
のネパール,シッキム,ブータン,雲南,ミャンマー,タイの山岳地域に足を踏み入れるにつれ,この地域に共通の食文化として,大豆を納豆菌で発酵させる納豆様発酵大豆があることが明らかになった。このことから翻って,我國の基層文化である縄文時代の後期に大豆はすでに大陸から渡来して,納豆として食べられていたことを容易に想像させるものがある。魚醤やなれずしも「照葉樹林文化圏」の共通の食文化であった。東アジアで数千年の昔栽培化された大豆は,東アジアで先ず納豆菌で発酵して食べられていたと考えられる。納豆は,実は人類の最古の発酵食品なのではないかと思います。
 中華料理の国の隠し味である「豆豉(トウチ」は豆完熟発酵後,食塩やとうがらしを入れて保存性を高めたもので。長江以北ではより後世になって発展したと思われる日本では浜納豆です。
  文人が納豆を食べていた日本列島に,朝鮮半島を経て,麹菌発酵による「醤」を用いる新しい弥生文化が進出し,弥生人が北九州から関西までを制圧した。そして,この地域から縄文人の食文化は失われ,大陸から渡来した食文化が支配した。しかし,同じ九州でも熊襲・隼人の南九州には縄文人が残り,納豆の嗜好が生きつづけた。このような縄文分化と弥生分化の交代並存し,西日本では一般に納豆は食べられない一方九州や関東以北では好んで食べられるといった日本の東西の食文化の明瞭な違いに,その後二千年にわたって影響してきたのでしょう。名古屋人は両方の味を知っていたので八丁味噌や守口漬け等発酵食品を極めたのだと推測します。
納豆は美味しいし。加えて消化が良いし、脳梗塞に有効(血管を強くする)と良い事含めです。今晩は納豆を喰ってぐっすり寝る事にしましょう。
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今年も梅干を付けました。ワイフには天日干しの重労働が待ち受けています。今年は笊をネット(アマゾン)で購入したところベトナム製の笊が届きました。価格競争で国産は及ばないのでしょうが。自然保護の観点から国内産を求めないといけないのでしょう。
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豆腐小僧はメジャーです。一般に竹編の傘を被ってお盆にお豆腐を乗せて長屋の八さんにお豆腐を1丁届ける様な恰好をして描かれます。豆腐がそんなにメジャーな妖怪を作っているのなら”納豆親爺を作ってみたくなります疲れ切った孤独死直前の親爺が納豆ご飯を食べていると死に神に寄り添われている”そんな場面でしょうか?


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イタコと瞽女(ごぜ)

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霊の行方に興味を持ち続けていると「イタコ」に関心が移って来ました。そこで「最後のイタコ/八戸松田広子著」を読んでみました。
1972年八戸市にうまれた著者は、現役最年少の「最後のイタコ」と呼ばれています。でもアラフォーの何処にでも居そうな叔母さんです。
幼いころから癇癪持ちでで、加えて病弱で、髄膜炎などにかかり医者からは匙をなげられていたのでしたが。
発病するたびに町内のイタコ(林さん)を呼んで「お祓い」を受けます。明治維新には青森県内にイタコは300人も居たそうで、八戸市内にも各町に一人はイタコが居たのだそうです。町医者の感覚でイタコの伯母さんが居て病気だと言えば祈祷して戴いたのでしょう。千葉県ん葬儀が在ると何処からでもなく「泣き婆さん」が集まって来て・お経を唱和して泣いて死者を弔ってくれますが、青森のイタコは千葉の泣き婆さんのように身近な存在だったのでしょう。
イタコはシャーマンであり、その治療は呪術なのでしょうが、その祈祷により、不思議に病気は回復します。陸奥では医療をイタコも分担していたのでしょう。著者のイタコへの感謝や信頼が弟子入りを決意させます。
でも家族は普通の家庭を大人になって欲しいと期待して反対します。
林イタコも「せめて、高校は卒業しておきなさい」として思い止まらせます。
でも著者は根気強く林イタコに弟子入りを訴えます。
学校では音楽好きなヤンキーな普通の少女でしたが、林イタコのお蔭もあってか癇癪持ちも収まります。
夏休みになるとにはイタコ(林さん)の家に押しかけて家事の手伝いをします。
弟子入りは同年配の子と二人同時でした。同時に弟子入りを果たします。イタコは仏教・神道。どちらにも通じた霊の世界です。お経も祝詞も暗誦します。
お師匠さんのお供をしながらイタコの資質を磨き経験を積みます。そしてイタコの聖地恐山にデビューします。圓通寺の壁の外にイタコ小屋在って、そこで口寄せして死者の魂がイタコの体に降霊する祈祷を行います。
祈祷の前に依頼者に霊が困るような事は言わない注意しておくのだそうですが、死者に恨み辛みを述べたいと思って来る人が多いそうで。そんな場合は死者も困るし、生者も救われずに苦しみは深まるばかりでしょう。
東日本大震災による犠牲者も沢山出ました。
死者を降霊して欲しい需要も増していることでしょう。一方で妖怪がブームであり、占いも人気です。
馴染みの薄い神社にお祈りするより自分の祖先お爺ちゃんお婆ちゃんに守って欲しい想う人は多い事でしょう。
最近は旅行会社の恐山イタコ口寄せツアーも数多く募集されています。最大手はクラブツーリズムで7万円前後でイタコへの予約から謝礼まで総て代行してくれるようです。
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これが恐山、宇曽利湖は火口湖で周囲の山が宇曽利山です。湖の手前が圓通寺で現世です。湖の向こうが浄土で、山の頂に霊が集まっていてイタコの口寄せで霊がイタコに降りて口をきくと信じられています。


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   最後のイタコの表紙死に装束に数珠、修験に通じる姿をしています。装束さえ変えれば普通のアラフォー叔母さんです。


ライフスタイルは時代によって著しく変化します。でも変化しない事もあります。
それは第一に自分自身が生きている今生きているという事実です。
そしてどうせ生きるのなら人間らしく生きるのを楽しく悲しい時は悲しんで生き抜きたい思います。
この二つとも自分が産まれた事実にスタートします。
産まれた事実を素直に認め感謝するほど強く逞しく生きられる事も事実です。
そして自分が子孫に恵まれた事実もこうしてビビッドに生きる事を後押ししてくれます。
変化しない事実を数え上げて行くと、イタコの意味が重く感じられてきます。
イタコの口を通して先祖の声を聞く事は私のように日暮や鰍の声に先祖の声を聞くよりは切迫感が在ります。
そう想うとイタコは期待される職業と思います。そのスキルは仏教や神道に明るいこと以上に人の気持ちをわかる心人の話を聞く能力、現代的な心理学やヒーリング感覚に鋭い事が必要でしょう。
心理が医療に偏らずに宗教心理学とか言うものがあればその需要は大きい事でしょう。
イタコは宗教心理学の素材になると思います。
恐山に向かう遍路路がありました。山形県の遍路道は関東から見れば出羽三山の道でしたが羽黒山の先恐山までの道は「瞽女道」とも呼ばれました。恐山のイタコに向かう道は同時に瞽女が行き交う道でもあったのでした。イタコも瞽女も多くが盲目のの女性でした。イタコが自らの体に死者の霊を口寄せするシャーマン(巫女)でしたが瞽女は三味線や胡弓を抱えて芸能を聞かせていました。
芸能とは主として小栗判官物語や童子丸等の説教節で死者の霊の再生や尊さを説く音曲でした。
遍路路の先が瞽女道であったように両者は似た存在であり機能を有していたと思います。
出羽の天童に出羽桜という老舗酒蔵が在ります。
その酒蔵がご奇特な事に瞽女絵で有名な斉藤真一さんのコレクションをしておいでです。
私が大学を卒業する頃瞽女は脚光を浴びていました。
長岡の杉本キクエさんが人間国宝になったり、篠田監督は岩下志麻さん主演で「映画 『はなれ瞽女おりん』/水上勉原作を発表しました。
斉藤真一氏はパリまで押しかけて藤田嗣二に弟子入りした洋画家でしたが帰国に際して”私の真似をすることなく日本に帰ったら越後や出羽の風物を巡りなさい”諭されます。そこで見つけたものが瞽女だったのでした。
時は終戦直後日本の芸術界も戦争後の喪失感に陥り特に画家は戦争翼賛的であった良心の呵責に苦しんでいました。斉藤真一さん瞽女絵は日本人の伝統とプライドを思い起こさせたものでした。
私はお盆の季節になると斉藤真一さんを想いだします。そして天童の出羽桜酒蔵に斉藤真一美術館に行きたいと思うのです。
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篠田監督の「はなれ瞽女おりん」のポスター出典は画面に在ります。
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斉藤真一氏の「瞽女」葬儀の場面で棺桶を囲んでいるのは泣き女でしょう。陸奥の女性の悲しみが画面に満ちています。斉藤さんの絵を見ているとムンクの叫びの次の場面「慟哭」を推測します。
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斉藤真一氏の瞽女絵は厳しい自然の中に魂の声を聞きながら進む瞽女の姿が描かれています。私は一遍上人絵巻に通じるものを感じます。この絵は越後平野を北極星に向けて歩を進める瞽女を描いたものでしょう。胡弓の音が響いて来るようです。出典斉藤真一美術館

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旬の夏野菜を食べて

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新聞の折り込みチラシに見る夏野菜の産地も次第に北に移って来ました。西瓜も山形です。勿論”胡瓜・みょうが・大葉”も山形産が目立って来ました。
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スーパーの折り込みチラシの夏野菜も山形産が目立ってきました。私の好物西瓜も地元の三浦西瓜を食べないうちに山形や秋田に飛んでいったようです。

山形の夏野菜と言えば”だし”です。夏野菜を微塵切にしてお豆腐やご飯に乗せて戴きます。一見すれば宮崎の冷汁の具のようにも見えます。旬の野菜を微塵に切って食べる最もおいしく体に良い食べ方で感心します。勿論私は大好きです。
そもそも見て分かるように微塵に切った茄子はお盆の精霊棚に奉げる先祖と分け合って食べるやり方です。そう、沼田の味噌舐め婆を髣髴させます。
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これが山形の名物”だし”夏野菜を微塵に切ってお豆腐や白飯に乗せて戴きます。勿論蕎麦やそうめんの薬味にもなります。白飯に冷えた味噌汁をかけてだしをのせたら宮崎の”冷汁”です。写真出典味の素クックドゥー。

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スーパーのチラシの京豆富(豆腐)茗荷や生姜が薬味で乗っていますが山形風の”だし”の方が魅力的です。
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お盆の精霊棚先祖の霊と夏野菜を分け合って食べましょうと言った発想で出来ています写真の西瓜の間にあるのは蓮の葉に盛られたお餅と矢張り蓮の葉に盛られたお茄子の微塵切です。夏野菜の微塵切は福神漬けにも通じる知恵だと思います。(写真は山形県鶴岡のもの。我が生家と同じです)
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ワイフがお友達から戴いた夏野菜のいろいろ。白赤緑三色の野菜を食べれば暑さも凌げることでしょう。


”暑い時には夏野菜を食べる”先人の知恵です。
芭蕉も山形の暑さに閉口したのでしょう。
羽黒から舟に乗って鶴岡の門人(医者)の家に逗留した芭蕉翁は酒田では次のように吟じておいでです。
暑き日を海に入れたり最上川
夏の強い日差しが一日中芭頭上に照り輝いていて、蕉翁を苦しめました。その暑さに原因であった太陽が日本海に沈んでゆきます。最上川の水量が太陽を海に沈めてくれて明日は涼しくしてくれそうに期待されます。
涼しさや海に入れたる最上川
元禄2年(1689)3月27日に江戸を発った芭蕉一行は6月12日に出羽鶴岡に到達します。
今日8月5日は大聖寺で吉崎牛蒡を経て永平寺に向かわれます。
屹度各地の門人にもてなしを受けて筍の御馳走を戴いて鋭気を養って、出立された事でしょう。
凡庸な私ですから。ワイフが貰って来た夏野菜を芭蕉翁のように食して大好きな秋を迎える事にしましょう。
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デーサービスのランチのノッペ汁
デーサービスの料理も夏野菜が続きます。
先日は「のっぺ汁」を美味しく戴きました。”のっぺ”は”農兵”の促音だろうと思います。元々は禅寺で残った野菜を捨てないで細かく刻んで、煮しめて最後に葛のとろみをつけたものでけんちん汁に通じる食べ物だろうと思います。芭蕉翁は先人の西行さんを慕って旧跡を巡った訳ですから古寺巡礼をして行く先々で先人の知恵を体に取り込んだものと思います。私の従兄弟の和尚さんは何れも農業や教師を兼職していてみんな農であり僧であります。僧の食事は体に良いものばかりです。西行も芭蕉も長命であったのは自然に任せた生き様ばかりでは無くて菜食の知恵が在ったと思います。
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これは昨日のランチの八宝菜八宝菜とは八種類の野菜という意味ではなく色々な野菜の意味です。中華でも夏には旬の野菜をたくさん食べて夏越をしなさいと教えていたのでしょう。
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今が旬の夏野菜。ニュータイプもあって目移りしてしまいます。


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軍隊は存在悪であること

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昨日8月5日はようやく「夏休みこども電話相談室http://www.nhk.or.jp/radiosp/kodomoq/sensei.html」が聞けました。今年は「参議院の国会中継が優先されて恒例の人気番組が控えられてしまったのでした。全国の高齢者はこの番組を楽しみにしているのに国会中継を聞かせれてづトレスが溜まった事でしょう。折角始まった「こども電話相談室」ですが今日からは高校野球に代わられてしまいます。昨日の質問は「放射能」に関する質問が集中していました。
多分、原子爆弾が投下された8月6日8日が近付いたから、そして東海原子力発電所の臨界事故の被害が大きくて子供心に原爆の理不尽が強い疑問になっているからでしょう。加えてテレビでは放射能被曝の恐ろしさを伝える番組が続いています。
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古代ローマの水着もビキニでした。人間の本性はビキニに向かっているのでしょう。
私達世代が放射のプ汚染の恐ろしさを知ったのはビキニ群島で放射能に汚染されたマグロを獲って帰った第五福竜丸自己でした。この後女性の水着にビキニが目だってニキビ出だした私達はアグネスラムポスターに見入ったのでしたが、原爆実験の大胆さや米国の身勝手さを揶揄して既存の概念を破壊的威力を原爆にたとえ、て「ビキニ」と命名してこの水着を売り出したのでした。当時意匠権の概念が在ればビキニ水着のメーカーはマイクロソフト並みの企業に成長していたことでしょう。
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アグネスラムさんのビキニは衝撃でした。原爆の破壊力はビキニのそれと同じ平和的であって欲しいものです。
NHKのヒストリアでは戦後70年を意識した番組が続いています。私達は日本国憲法の基本「平和主義」「戦争放棄」の否定は国際法の否定であると思いました。そんな疑問を今年の5月志位共産党委員長は安倍首相に質問したのでした安倍首相は「ポツダム宣言についてその部分をつまびらかに 読んでおりません」答えました。私達は唖然としました。
だからでしょう、2週にわたってNHKはヒストリアでポツダム宣言受託の舞台裏を放映しました。先週は米国外交官のグレーの行動を放映しました。

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ポツダム宣言の受諾がもう少し早かったら広島や長崎の悲劇は避けられたのでした画面はNHKのヒストリアを撮影
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米国外交官グレーは日本の国情に明るく戦争を早期に終らせるには日本の戦後の国体を保証してあげる事だと判断して精力的に活動してくれました。
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一方米国の世論は統帥権を持つ天皇の責任を追及して到底日本国民。まして軍人の忍耐を超える過激なモノでした。その為グレーはポツダムの会議には外されてしまいます。その為もあって日本のポツダム宣言受諾は遅れてしまいます。
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グレーの尽力によって戦後の日本が立憲君主制国家のイメージが湧きます。これを持って鈴木貫太郎内閣は陸軍のクーデターを防ぎながら終戦を迎えるシナリオを書く事が出来たのでした。再三天皇を迎えて御前会議を開き昭和天皇の終戦の聖断を導き出したのでした。阿南陸軍大臣は割腹自殺し、軍部の暴走は杞憂に終わる事が出来ました。
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グレーと鈴木貫太郎とは旧知で厚い信頼があったのでした。




グレーは日本の陸軍が本土決戦を主張している事を知っていました。しかし本土決戦に応じれば1000万人もの民間人が命を落とすだろうと危惧していました。それを避けるには、日本に速やかに終戦を判断させなくてはならない、日本が終戦を決断するには”天皇制の存続を日本国民の選択に委ねる”事を執拗に説いて鈴木貫太郎との信頼関係を礎にしてポツダム宣言の受託に誘導してくれたのでした。
そして昨夜のヒストリアでは日本サイドの説明をしました。鈴木貫太郎は陸軍大臣であり侍従長として昭和天皇の信任厚った事。更に鈴木侍従長は2・26事件で青年将校に狙撃された事。昭和天皇は開戦も望んでいなかったし、戦況を見極め早期の終戦を期待されていた事等説明しました。
鈴木内閣の組閣に際しては陸軍が反対しました。でも昭和天皇は終戦を実行する内閣として鈴木貫太郎に頭を下げて就任して戴いたものでしたから陸軍も従ったのでした。何といっても昭和天皇も鈴木首相も陸軍の将校らが自爆する事を怖れていたのでした。戦争も劣勢な時に国内が内戦に陥ったら将来は描けません。昭和天皇はもとより終戦を望んでおられのでしたから陸軍の自爆を未然に防ぎながら終戦を迎えるために天皇が国民に訴える玉音放送が用意されたのでした。
江戸っ子にすれば江戸幕府の無血開城に次ぐ大事件だった事でしたが。平穏理に終戦を迎えられたのでした。日本人は蛤御門事件に始まり2・26事件5・15事件戊辰戦争の彰義隊や白虎隊の悲劇などを通して軍隊とは制御が不能になる組織である事を知っていましたから。玉音放送で無事に終戦を迎えられたのでした。
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今朝の広島平和式典
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今朝の平和公園原爆ドームNHKニュース
がそのシナリオに沿っているとわかれば陸軍は再びクーデターを起こす事を怖れていたのでした。
再三の御前会議の結果ポツダム宣言の受託を国体の維持の条件だけに抑えて決定したのでした。
軍隊には軍隊固有の個性があります。平時に国民の期待や首相の指示に従うと思われる軍隊でもいざとなると組織維持のために豹変する者です。明治憲法でも徴兵制はありませんでしたにもかかわらず学徒動員が実施され本土決戦では国民全員が命を懸けて戦う事を命じていました。
阿倍首相が如何に説明しようとも軍隊は劣勢になると制御不能になって、独り歩きするものなのです。
自衛隊が防衛の為に切れ目なく活動できる体制は安全を保障する体制ではなく、抑止力と思っていた軍隊は自爆しやすいものなのです。
軍隊は無い方が良い、でも軍隊が在れば安心だと思うのは軍隊が必要悪であって。米国の市民がライフルを持っているのに似ています。チンピラヤクザが懐に匕首を隠し、不良少年がサバイバルナイフを携行しているのにも似ています。ライフルを持つ市民に”なぜそんなに危険な武器を持っているのか?”尋ねれば「自衛の為で自衛は州法で認められた権利である」と主張します。でも其処にライフルがあれば時に暴発してしまいます。ライフルは存在悪なのですから。人間は不完全なもので必要悪と思って用意していたものが管理が甘くなると悪の本性が現われてしまうものです。自衛の兵隊に寝首を掻かれた人を数えると枚挙(まいきょ)に遑(いとま)がありません。「安全保障法案」とは聞こえが良くとも明智光秀に自由裁量を与える様な危険な政策です。自衛隊の中に明智光秀が絶対に出ないなんて言えないのですから・・・・。
護衛の為に持っていた少年のサバイバルナイフが恐喝や虐めの道具になってしまいます。
軍隊は持っている国のシビリアンコントロールが可能かどうか?それは民主主義の熟成度合いによると思います。日本の民主主義は未だ中学生レベルで信頼に足る水準では無いと思います。近隣諸国も日本の若さを懸念していると思います。

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活人剣と殺人剣

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週二度通所するデーサービスのお遊びで「西瓜割」をしました床に白いビニールシートを敷きその上に巨大な三浦西瓜を鎮座させて目隠したうえで木刀で叩き割ります。非力と思われる人から西瓜割にトライして、私の番になりました。右手で木刀を振り上げれば”もう少し左”声が懸ります。微調整したうえで、一気に木刀を振り下ろします。”ボコッ”鈍い音がして手応えがありました。目隠しを外せば。西瓜には微かに裂け目が入ってビニールシートに赤い西瓜液が溢れています。私の口から思わず発してしまいました”破水させてしまった”「綺麗に西瓜を割れずに西瓜は血を流したようだ」その印象を破水と表現してしまったのでした。


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デーサービスでの西瓜割風景西瓜は綺麗に割れずに赤い液が溢れ出してしまいました。

西瓜割は盛り上がりましたが食べ物を試し割する後味の悪さが残りました。席に戻って私は山田浅右衛門を想いだしました。
旗本の「山田浅右衛門貞武」は幕府の御様御用(おためしごよう)という刀の目利き役に就任します。でも刀が切れるか切れないか試し切の必要が発生します。江戸時代の最高刑は死刑であり斬首でしたそこで、浅右衛門は斬首役にも任じられます。山田貞武は自らの技を子孫に伝える為に山田浅右衛門家のみが御様御用の役目を務める体制を上申しそれが認められます。
刀は武器ですから〝よく切れる事”が重要です。山田家は”刀の目利き”としての役割を果たします。山田浅右衛門の鑑定は何よりも尊重されたのでした。
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これが山田浅右衛門が使った胴田貫の模造刀(熊本の肥後虎製作6万円)http://www.higotora.com/ksmmbig.htm橋本佐内も吉田松陰もこの胴田貫によって死んだのでした。


そして、斬首された死体の内臓は薬として特に労咳や肺病の薬として珍重されました。
女性の小指は遊郭から求められたそうです(遊女の約束の証拠として小指が求められた)
「試し切り」は鬼のような行為です。
太平洋戦争の戦犯と云えども靖国神社に葬った国です。その是非は別にして「罪は憎めど人は憎まず」というのが日本人の歴史的な感覚です。山田浅右衛門は人体を試し切として斬首した上に、その遺体を切り刻んで薬にするなどは鬼畜にも劣る。浅右衛門は四谷に勝興寺を建立します。自らの罪行を悔いて死者の冥福を弔うものかと思えば、そうとばかりは限らなかったようです。女性を斬首した後にうなじに後れ毛が揺れていた等といった俳句ものこっているのですから魂までも鬼になってしまっていたのでしょう。そもそも死に際して辞世の句を残した人の為にも俳句ぐらいは明るくなっていたいというのが動機だったようですので、死んで逝く人の痛みが解るような心境では無かったのでしょう。
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これは山田浅右衛門をモデルに対極の活人剣柳生一族との相克を描いた「子連れ狼」原作:小池 一夫 劇画:小島 剛夕で人気でした

私の学生時代に流行ったコミックに「子連れ狼」が在りました。モデルは山田浅右衛門で。柳生烈堂の策に嵌って全国を巡る話でした。柳生の剣が”活人剣”というのに対して拝一刀(山田浅右衛門)の剣は「殺人剣」でした。決まり文句が”冥府魔道を彷徨う殺人剣」で怨恨の剣でした。
試し切の特権は山田家の幸運を運んだのでしたが実際は災いだったのかも知れません。
明治になると欧風化を急いだ政府でしたが死刑制度は存続していて斬首がその手法でした。斬首は死者にも遺体にも負荷が大きいので欧米では絞首刑や銃殺刑または絞首刑が一般的で明治14年に斬首刑は取り止められました。最後の斬首刑は先日往訪した沼田の「高橋おでん」でした。
最後の犠牲者が最高の美人だったこと、人の心を打った事実もも何かの偶然でしょう
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これが沼田の姦婦と言われた高橋おでんの図おでんの話は先日書きました。


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熱したアスファルト

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家に戻ろうとして足元に居るアブラゼミを見つけて歩みを止めました。
アブラゼミは二匹お尻が繋がっています。そう地上に出て1週間ようやくカップルになれて今愛を交わしているのです。私は先を歩いていたワイフを呼び止めました。
”まあ!油セミは鳴き声も熱くて灼熱地獄の様なのにアスファルトの上でお暑い事ですね!”素朴な感想でした。
そう暑いのは今がピークで今日(8日)は立秋です8月23日は処暑で9日は白露になります。秋の扉の真前です。
油セミの横にはもう。蟻さんが集めって来ています。何時までも交わっていたらアブラゼミは蟻の餌食になってしまいます。雄はもう満足して雌を自由にしてあげないと子孫を地中に残すチャンスも失ってしまいます子種を残したら、雄は子種を残したら女郎蜘蛛やカマキリのように雌に食べられてしまうのが自然の摂理に適っているようです。若しかしたら人間もそうなのかも知れません。
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種の保存大役を終えた油セミは蟻の解体されて気に戻って行きます。(写真は大船常楽寺の境内です。)

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私の足下でお熱い最中の油セミのカップル良く見れば羽根の筋は青くて羽化して間もないようです。
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このまま長い間交わっていれば油セミは命取りになってしまいます。何しろアスファルトはフライパンのように熱いし、近くには死体介錯の蟻が群れているのですから・・・・。

この1週間の暑さは尋常ではありませんでした、熱中症による死者は80人を超えたようです。
その原因には地球温暖化を始め幾つも指摘されていますが。身近なところはアスファルト塗装でありましょう。昔地面だった農道もだだちゃ豆を栽培していた畦道も舗装されてしまいました。学校の校庭もアスファルトが敷かれていますし。ビルの屋上も防水の為と言って真っ黒なタールで固められています。
建長寺の境内でさえアスファルトで塗装されています。神社や)寺院の境内の塗装こそ間違いです。
私の身近なところでは鶴岡八幡宮の段葛です。段葛は土でしたが人間が踏み固めたのでそして両脇の県道がアスファルトなので、根が窒息してしまいました。そこで今年から工事を始め名物の桜を伐採してしまうのです。
段葛も車道も熱くならないような。通水性若しくは赤外線を反射する舗装にする工夫が必要なように思います。
昨日の日刊スポーツにはこんなアスファルト道路の上でオリンピックマラソンをしたらどうなるの?特集記事を組んでいました。
沖縄サンゴ礁で顔に泥を塗った朝日新聞グループです。
暑さに強い都市造りのキャンペーンでも張られたら良いように思いますマラソンコースの舗装は通水性赤外線を反射させるものにしま明日。そして応援する観客は柄杓を片手にそいて”打ち水”をします。京都の路地裏の心使いが世界のアスリートをおもてなしします。
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建長寺の境内も無機質なアスファルト舗装が為されています、有の輪廻を説く仏教の聖地に相応しくありません。ご本尊(ん地蔵尊)に因んだ大地に戻すべきです。
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8月7日日刊スポーツ(朝日新聞系列)の記事”オリンピックのマラソをこのフライパンアスファルトの上ででするのか”懸念しています。朝日新聞の失われた共感を回復するには恰好な素材だと思うのですが・・・・・・。


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狐窪で栃尾の油揚げ

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立秋の8日、午前中は東戸塚名瀬にある新戸塚病院に出かけました。かねての予定通り西武百貨店に寄る事にしました。東戸塚には思い出が沢山詰まっています。
この辺りを川上とか信濃と呼んでいました。柏尾川の川上といった意味なのでしょう。信濃のように辺鄙な所だっといった意味でした。私の生家の盛徳寺の組寺の寺院がこの奥深い地に幾つもありましたから私は狐や狸の出そうな尾根道を父のお供をしながら歩いたものでした。そしてサラリーマン時代は此処を買い占めた会社とその開発に夢を託したデベロッパーと腐心しました。
駅舎には山形のポスターと吉永小百合さんが”おいでませ山形へ”誘っています。山形は人情が深いし美味しい幸が満載だし温泉は多彩ですし、このまま山形に行きたくなります。
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駅舎は山形のポスターが貼られていました左から銀山温泉羽黒山芋煮料理でしょう。
元々この辺りは山ばかりでしたが、名門戸塚カントリークラブが立地して横浜新道のICがあったので。デベロッパーが買い占めたものでした。ですからJRの東戸塚駅計画が実施されなかったならば永久に市街化調整区域のまま凍結されていたものなのでした。其処に駅が出来て高層マンションが立ち並び有隣堂やコナカの本社が移転して第一生命などの研修施設が立地して今日の繁栄が実現したものでした。
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東戸塚駅前ロータリーのまんまえは西武百貨店とオーロラと呼ぶモールです。その周囲は高層マンションで囲まれています。背後のマンションは熊谷組と長銀不動産(旧名)が事業主体でした。銀行は消えても何も残せませんでしたが東戸塚のタウンは今も栄えています。
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オーロラモール8回から西の眺望東戸塚駅の向こうの高層ビルに有隣堂が在り右の建物は第一生命研修所です戸塚カントリーはその右奥(北)に広がっています。
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西武百貨店とオーロラモールにはコスパ重視のショップが並んでいます。これはワンコインでカレーが食べられる店です。安くてもこだわりがあるように見えます。

新戸塚病院でリハビリを終えて私とワイフは予定通り西武百貨店に廻りました。私は食いしん坊ですし今日は作業療法士から”リハビリを効果的にするにはお肉も食べた方が良いですよ”ご指導が在りました。ワイフも神妙に聞いてくれていましたので。今日は何でも美味そうなものを求められそうです。食品街では「諸国名産市」が開催されていました。私は「ズんダおはぎ」に目が止まります。おはぎは筋肉にはならないでしょう。でもズンダの原料は大豆です。甘味店の前で足を止めたことにワイフは怪訝そうです。そこでお隣の屋台に寄りました。その店は越後長岡から山形鹿に行く街道にある栃尾の油揚げです。
栃尾には秋葉神社があってその参詣人が休んで油揚げを食べたのでした。私も国道341号線の道の駅で食べた記憶があります。でも油揚げ一枚が480円と少し高い気もします売り子の親爺はワイフの気配を感じてか上手に売り込みます。長葱を微塵に切って芥子味噌を和えて油揚げに挟んで食すというのです。微塵切の包丁の手を休めずに油を引かないフライパンできつね色に焼いて食べる事・・・色々アドバイスします。
見本を見れば油揚げをバンズにしたハンバーグみたいにも見えます。チキン立田ハンバーグでバンズが油揚げのようです。
私は秋葉神社の狼は油揚げが好物なのか訊いて見たかったのですが、私の背後に子供つれの若いサラリーマンが並んだので止めました。屹度今晩は油揚げを肴にして冷たいビールを”グイッ”とやる作戦なのでしょう。浴衣姿の若奥さんが寄り添ったりして・・・・・邪推が転がり出しそうです。そう信濃の北天院の裏山には狐が棲んでいる噂した記憶もあります。
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これはズンダお萩
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微塵に切った葱を芥子味噌に和えて、油揚げに挟みます。
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赤いのは一味芥子でもう一方の味噌は甘味だそうです。
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油揚げの腹を切って芥子味噌和えを挟めば出来上がりです。後は家でフライパンできつね色の焦げ目が出来るまで焼けば出来上がりです。
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私の後に並んだ親子も求めていました。
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夕食の主菜は栃尾の油揚げでした。長岡に行った気がしました。栃尾の秋葉神社は石川雲蝶の彫刻(日本のミケランジェロと呼ばれる)でも有名ですし、石仏(道祖神)でも惹かれる街です。http://www.pref.niigata.lg.jp/nagaoka/1227643309203.htmlに詳し

戸塚に籠っていても栃尾の油揚げも食べられるし便利な時代が来たものです。一昔前までは狐窪が在って狐の住む鄙びた村だと思っていたのでしたが・・・・。

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出産の人類学

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興味の始まりは三途の川の川守の奪衣婆でした。数多く奪衣婆の石仏を見て回るうちにその乳房が二タイプある事に気付きました。多くがその時の字通りに垂れた乳房です。9人も10人も子供を育てた勲章のように萎れて垂れ下がった乳房です。ついついその尊さに頭を垂れてしまう乳房です。美しかった母が健康に子供を育てたその証で衰弱しきった乳房です。屹度古代人もそう思ったので「母」の枕詞に垂乳根とつけたのでしょう。
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新宿の太宗寺の奪衣婆像肋骨の浮き上がった胸にビロンビロンと乳房が垂れています。これでこそ三途の川の
川守の奪衣婆さんです。奪衣婆さんの役目は現世から来世に渡ろうとする旅人をチェックする事です。川を渡って常世の国に行けばもう戻れません。この川岸で旅人の着物を奪って現世での罪の重さを計量します。向こうの川岸ではお地蔵様が迎えに来て下さっています。


ところが幾体もの奪衣婆さんを見ているうちにふくよかで未だ乳がでそうな乳房を付けている像がありました。”これじゃ婆さんじゃない”私の第一印象でしたが、幾つも見ているうちにわざと乳房を豊かにしたのであって、間違えたのであるまいと思い出しました。特に沼田の味噌舐め婆を見るとそうした思いが強くなりました。奪衣婆さんの乳は未だ本来の授乳の役割を果たさなければならないのではないか?思ったのです。
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此方は鎌倉の長谷寺の奪衣婆さん乳房も乳首も未だ本来の機能が果たせそうにふくよかです。

垂乳根の奪衣婆さんと豊乳の奪衣婆さんを繋いでくれた昔話がありました。それは金太郎を産んで育てた足柄山の金時娘(本来は山姥)と桃を拾って桃太郎を育てたお婆さんです。二人とも本来は山姥でありながら鬼退治をした英雄を育てたのでしたから貧乳であっては不可能です。仮名草子を見た子供から豊乳のお婆さんを見て納得したのでしょう。
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此方は沼田の慈母観音ホルスタインの様な乳房を持った観音様です。これなら金太郎も桃太郎も育つでしょう。

今青森はネブタ祭りで熱い頃でしょう。
ネブタの表面は勇壮な武者絵が描かれています。でも裏面は違います。青森市ではお経が書かれていたり津軽では幽霊が描かれています。メンコや団扇の裏表のようなもので表は”晴れ”でも裏は〝穢”が描かれています。奪衣婆は”穢”であってもその裏返せば”晴れ”になるのではないか?思う様になりました。その変化は近世になって中世の仏教色が減じて生じたのでしょう。
そんな思いを強くしたのが”小町伝説”でした小野小町は絶世の美女であり才女でありましたがその晩年は惨めであったと言い伝えられます。小町像は奪衣婆像を模して描かれます。伝小町像は秋田に幾つもありますがどれも奪衣婆です。
小野小町への哀惜は奪衣婆の垂乳根を豊乳にしたのかもしれません。
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松本牛伏寺の奪衣婆像豊乳と垂乳根の間の様です。半跏で半島から日本の出産時の姿をしています。如意輪観音や弥勒菩薩像の脚組は産婦の出産姿勢です。だから奪衣婆はお産を想わせたのでしょう。
ところで人生の始まりは御産婆さんが導いてくれます。そして幕引きは奪衣婆さんです。私達人間も動物と同じで母体の海で命を授かります高校の授業で教わった”個体発生は系統発生を繰り返す”の通りで。私達は母体の子宮内の海水の中で細胞分裂を繰り返し命を授かるのです。そして最期は再びお婆さんの導きで常世に旅立ちます。その最初も最期も血がつきものです。
血が穢いものと忌み嫌いタブーとする考えは母体と子供を大切にする思いに発したのだろう・・・、先日書きました。最近図書館で「人は何故難産なのか/奈良貴史岩波科学ライブラリー」をみつけ読みました。人類学者の解析は出産の出血をタブーにする訳を良く教えてくれました。
それは簡明に説明すれば人間は二足歩行を始めたその結果大脳が発達出来た。アフリカの密林で樹上生活をしていた類人猿が地上に降りて二足歩行を始めた結果脳が発達してホモサピエンスになったのでした。
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これは津軽の立ネブタの表面左は大江山酒呑童子で右は地元の英雄阿弖流為です。
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此方は立佞武多の裏面で幽霊図が描かれています。表が”晴れ”で裏が”穢”表が生で裏が死なのでしょう。又は表が現世裏が常世とも言えます。表がお地蔵さんで裏が奪衣婆なのでしょう。
でも二足歩行になって脳が発達すると難しい事が起ります。
胎児が産道を経て出産が困難なのです。産道の幅まで頭蓋骨が成長してから出産します。乳児は右回りに回転しながら狭い産道を前進します。そして真っ暗だった母親の体内から大量の羊水と共に地上に登場するのです。
人間の特長である大きな大脳を保護するために哺乳類の中では一番困難な出産をするのです。勿論、胎児サイドも工夫が在ります。頭蓋骨が硬くならないうちに出産するのです。未だ頭蓋は幾つものお椀状の骨の組み合わせ状態で出産します。頭蓋が柔らかいので産道が狭くても羊水を潤滑油にして出て来れるのです。そんな次第ですから母体も乳児も出産時が一番に危険です。狼や山猫は羊水の臭いを嗅ぎつけて襲ってくるかもしれません。加えて病原菌に対する抵抗能力も充分では無いのです。私達は産院の完全看護の環境で出産しますから「出産の穢れ」というと迷信だと思いますが「出産の穢れ」は母子の命を保護する目的で古代人が信じた生活の知恵でした。
3年前甲府の釈迦堂遺跡の展示は見事でした。

展示室のパネルに子供の笑顔が並んでいるのです。そして市松に縄文人の土偶仮面が並んでいます。どの土偶仮面も狭い産道を抜けて顔を出した赤ちゃんの顔です。縄文人も現代人と同じで子供が生まれた時は嬉しくて大きな感動を伴った事でしょう。出産土偶は全国各地から発見されています。釈迦堂遺跡の西八ヶ岳の山麓尖り石遺跡には縄文ビーナス(国宝)も生命の神秘を恐れ慄いています。
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甲府釈迦堂遺跡に入り口の展示此処の白眉は出産土偶で壁面には土偶の顔と現代の子供の顔のパネルが並んでいます。
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釈迦堂遺跡出土の出産土偶をあしらった土器私は壺の丸みが臨月の母体を思わせ産道から出た顔が神々しく思われるのです。
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「人は何故難産なのか/奈良貴史さんの説明。座位出産の壁画が残されているそうです妊婦は半跏姿勢で介助者(産婆)が手伝うのが洋の東西の出産スタイルだったのでしょう。弥勒菩薩像が半跏思惟像なのは出産が人生の一大事であるとの想いからでしょう。

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脱臼の災難『幽霊さんさよなら)

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私が脳梗塞を発症したのは2013年の12月29日でした。鎌倉のウォーキング仲間と麻雀を遊んでいる最中に発症し即刻鎌倉にある湘南総合病院(徳守会)に運ばれ緊急治療を終えました。年明けに金沢文庫にあるリハビリ専門病院に転院半年間治療に専念しました。でも、左半身の麻痺は治らず、左脚は不十分でも義肢をはめて何とか動けるようになりましたが左手が全く動く気配を見せませんでした。洗面所の鏡に映る自分自身を見ると悲しくなるほど貧弱な自分が居ました。第一に顔の左半分が麻痺しているので左に歪んでいました。言語療法士は意識して左の顔面の筋肉を揉みほぐすように指導しました。同時に舌を口腔内で動かすように、不二家のペコちゃんのような顔にすれば言語もはっきりする・・・・、指導を受けました。一生懸命努力しましたがヘルペス(唇に出来る水痘)に懸ってしまいました。

私は前年に胃を切除していましたので、食欲が在りませんでした。”60歳まで体を大事にして来なかった罪科が一時に顕在化した”自覚しました。体は見る見る痩せ細って67キロから20キロ減じました。20キロ減じるのなら脂肪が減ってくれれば嬉しいのですが。困った事に筋肉が消えてゆくのです。最初に左腕が骨と皮だけになりました。次には左脚の筋肉がこけ堕ちてしまいました。左脚は動かせないから痩せて、一方右脚は左の分もワークしていましたから現状維持していました。浴室の鏡で見ると左右の脚のアンバランスがハッキリ見て取れました。でも歩き出せれば何れ左脚は元のようになって左右が均衡するものと思っていました。
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筆者近撮左肩が脱臼しているので左に傾いています。顔の歪みは目立たなくなってきました7日は新戸塚病院での促進反復療法前です。
でも左手は動く気配がありませんでした。左の腕を動かそう、左の手を動かそうと思っても意志が指先にまで伝わりません。”左手で物を握るのは如何すれば良いのだろう?”思い当たらないのです。
作業療法士は”左手を見て握っている姿をイメージして下さい”言いながら左の掌に積み木を乗せてくれるのですが摘めません。病院からは”左腕は動かせなくても自分で何もできるように心がけて下さい”言われて退院し継続して自宅でリハビリするよう指導してくれました。自宅には通所リハビリの療法士が通ってくれましたが左手のリハビリは断念してしまいました。

私の左手を動けせない最大の理由は、『左肩の脱臼に在る』、と推測できました私の左腕は筋肉が落ちるのと同時に少しずつ落ちて到頭脱臼状態に陥っていたのでした。私は左肩だけがストンと落ちてしまって左の傾いてしまっているのでした。体が左に傾いてしまっていて無理に歩くので左膝が痛み出しました。体は左手も右手も均衡して左脚も右脚もバランスしていてこそ正常機能するのです。
「左肩の脱臼」を放置しては左手が動く事も美しく早く歩く事も出来ません。
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左肩の脱臼写真左肩が固定しないと上腕が動かず肘関節が固定しないと左腕が動きません更に左手首が固定しないと左手が動きません支点を固定させるには筋肉とその先端の靭帯がしっかりしないとなりません。私はやせ衰えた間に筋肉が溶けてなくなって、左肩から腕が脱臼してしまったのです。写真は札幌羊がおか病院からお借りしましたhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E8%84%B1%E8%87%BC+%E8%82%A9#mode%3Ddetail%26index%3D9%26st%3D185

ワイフが「促通反復療法/川平法」を探してくれました。7月から川平法を実施している新戸塚病院に通い始めました。当面は週2回で1回1時間ですが。幸いなことに優秀な作業療法士さんが担当してくれて、自宅での訓練もアドバイスしてくれます。ワイフも熱心に聞いて写真を撮って我が家のベッドで反復してくれています。
その成果でしょうか?脱臼している時間が短くなってきました。
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これが促進反復療法の教科書です。筆者は既に二人2機関の作業療法士に匙を投げられたので、これに頼るだけの状況にあります。
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リハビリの様子。左手を動かす訓練。左腕に低周波振動を与えて神経を呼び覚まして手首指先に動作を反復させて覚え込ませます。この時脳から「動かすんだ!」命令を発するのがポイントだそうです。
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動作は肩・肘・手首を支点にして順番に指先まで進めます。低周波振動機の端末はは肩と上腕の靭帯の辺りに貼られています。
作業療法士さんは支点を抑えて動かすコツを指導してくださいます。
脱臼していると左腕が重くて不快感は大変に大きなものがありました。
ワイフが訊きます「脱臼が治るとどんな感じ?」
私は答えます。
「左肩に負ぶさっていたものが美人の幽霊が”さようならお達者で”」と言って消え去ったような感触だよ」
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左肩が脱臼している感覚は左肩に鉛を背負った感覚で幽霊を負ぶさっているようです
言いながら私は友人の忠告を想いだします。
「君はお墓が好きで何処にでもドンドン行って写真を撮って来る。墓場で怖い霊に憑りつかれるかもしれないからやめにした方が良いよ」
霊にしてみれば孤独で墓場に眠っていた所に変な親爺が突然に現われ名前を呼んで/墓標を読んで」いるのですから、暫くこの親爺の背中に負ぶさって娑婆を見て歩くか・・・・」思ったかもしれません。
私が50代まではお婆ちゃんが私の守護霊で守っていてくれたかもしれませんが、還暦以降は見放されていたのかもしれませんから。私は無防備で全国の霊の中を徘徊して居たのでしょう。
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これは駒ヶ根光前寺の賽の河原山津波で沢山の人が生き埋めになった場所なのでしょう。土饅頭が幾つも並んで地蔵石仏が墓標になっています。筆者はこの墓地で霊を拾ったと自覚しているのです。杉木立の向こうで無数の地蔵菩薩に見詰められた瞬間背筋と頭髪に冷気が走りました。今後はこうした霊地を訪れるときはしっかり霊にも解るように慰霊のお経を唱えてはいる事に致します。

沢山の人の支援でようやく脱臼完治左手が動く状態をイメージ出来て来ました。
将来完治できれば、幽霊さんともおさらばです。
悪い事続きでしたが、私は密教に関心を持った大事な契機でした。

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愛らしい「豆腐小僧」

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横浜は朝から雨です。流石に立秋を過ぎれば過ごしやすくなってきました。朝顔も咲き始めました。日暮も良く鳴きだしましたし。秋告げ蝉とも呼ばれる「ツク・ツク法師」も「惜しい」「惜しい・夏が惜しい」と啼いています。
お盆になると毎年テレビは怪談物が流行るのです、今年は期待に反して全くありません。どうしたのかと思って居れば昨晩は「所さんの日本の出番/TBS」では”妖怪と暮らす日本人の不思議”として江戸時代の妖怪特集を放送していました。
今年は怪談者は止めて妖怪に集中しているようです。
東京国立博物館もこの夏は大徳寺真珠庵からお預かりしている百鬼夜行図絵巻(土佐光起作重文)を展示して世間の関心に敏感に応じているようです。
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夏はやっぱりお化け屋敷が人気です。平塚の七夕祭り会場では毎年化け物屋敷が人気です。この様子では来年は平成生まれのキャラクターものを展示した妖怪広場になるかも知れません。
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今年のお盆は恒例の幽霊がお休みなのは妖怪ウォッチ人気の為のようです。でも化け物がブームになった江戸時代盛期と現代は世相として共通する事があるようです。西洋の妖怪と言えばドラキュラとか狼男とかアインシュタインですが日本の妖怪は生活の隣に居て怖くは無くて良くも悪くも人間の性格特長を体現しているようです。これは江戸時代の化け物にも現代の妖怪にも共通する事です。現代っ子は江戸時代の平民と同じで冷静に大人や社会を見ているという事でしょう。
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江戸時代初期には沢山の百鬼夜行絵巻が描かれました上から3枚目の絵巻が真珠庵の土佐光起作の百鬼夜行絵巻だと思います。
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お寺で赤鬼が唐櫃を開けると中からぞろぞろ化け物が飛び出してきます。パンドラの箱を開ける花咲か爺さんで欲張り婆さんが大きな葛を開けると化け物が出てきた場面を想いださせます。
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唐櫃から出てきた化け物は仏具の化け物ばかりです。カラス天狗の様な化け物は頭にお経を結わえています。その手前は鐘を被った化け物で後の化け物は頭にドラ(シンバルの様な仏具)をその向こうは払子(心の塵を掃く仏具)です。何れも粗末にされた仏具の
化けものです。付喪神(つくもがみ)の伝統を思わせます。お坊さんやお寺への皮肉でしょうか?でもお日様が昇ると化け物は唐櫃に逃げ隠れるようです。画面はNHKのEテレ日曜美術館
私は「所さんの日本の出番/TBS」をじっと見つめたものの、ディレクターの勉強不足を悲しく思いました。
妖怪と妖精(西洋)の区別も妖怪と幽霊の分別も曖昧なまま。外人女性を浅草の花屋敷の「化け物屋敷」に入れてキャー・キャー言わせてしてやったりの風情で居ます。最後には私の愛する豆腐小僧を取り上げました。そして”妖怪と人間が隣同士に生活して日常を楽しくしている”と結びました。”妖怪は現代の妖怪ウォッチ”に繋がるものですが。そんなに底が浅いもんじゃないよ。化け物が人気なのは日本文化の伝統を踏まえ不変的な人間性に根差しているからだと思うのです。豆腐小僧は文化人類学であり心理学の素材なのです。
今日はそんな憤りから”「小僧の神様」である豆腐小僧”を案内いたします。
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これが豆腐小僧です。竹編の傘を被ってニコニコして紅葉模様の豆腐を御盆にのせて運んできます。でもお人よしの豆腐小僧は人間を怖がっています。人間を見ると豆腐を落として逃げてしまいます。筆者は丁稚奉公の小僧さんへの哀惜がこんな妖怪を思いつかせたと思います。志賀直哉の「小僧の神様」は小僧さんがいつかは鰻を食べたいと願っていると在る時素敵な老人が現われて小僧さんを鰻屋さんに連れて行ってご馳走してくれたのでした。その恵比寿さんの様な老人を小僧は神様と思って奉公に励みました。




日本語には「化け物」が在りました妖怪は漢字です。化け物が出現したのは絵平安時代の末期京都の市街に毎夜毎夜百鬼が横行していると恐れおののき始めて蚊等でしょう。応仁の乱は身近に百鬼が居る気配を感じさせました。江戸時代に入って平和を実感すると怖かった百鬼を懐かしみ始め、ました。百鬼絵巻が好んで描かれ、百鬼図鑑ともいえる草双紙が発行されました。
草双紙では妖怪と書いてわざわざ化け物とルビをつけていました。化け物を調べると次のように説明されています。
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百鬼を解説した草双紙の数々化け物尽くしで人気だったようです。この後寛政時代になると絵図を入れこんで安価な「黄表紙」が発刊され化け物ブームが爆発したのでした。
『動植物や無生物が人の姿をとって現れるもの。 キツネ・タヌキなどの化けたものや、柳の精・桜の精・雪女郎など。また、一つ目小僧・大 入道・ろくろ首などあやしい姿をしたもの。お化け。妖怪。』柳田国男は化け物を土地に着くお化けとして幽霊は怨恨を残して死んだ霊が怨みを晴らすために現世に舞い戻るモノと判別しています。ですから化け物は出現する場所が特定されていますが幽霊は怨みの相手が移動すればその人につれて出現します。場所が特定されていないのです。
【黄表紙の隆盛】
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黄表紙「箱入り娘面屋人魚」の画面出典は黄表紙さんからお借りしました。http://blog.goo.ne.jp/ayanoririko/e/23fb1305220e59...
妖怪(化け物)が流行したのは江戸時代中期で草双紙から更に廉価な黄表紙が販売され、人気作家山東京伝(1761~1816)が登場します。「箱入り娘面屋人魚(寛政3年1791」が人気を博します、浦島太郎が竜宮城でなした娘が江戸の登場するのです。下半身は鱗がピカピカ光り、スパンコールのように輝いて艶めいているのですふくよかな乳房にサクランボの様な乳首です。江戸では遊女になって大人気になりますが生臭いのが欠点でした。人魚の幻想的なエロティシズムと所詮は動物であるといった矛盾が悲しみになって惹きつけられたのでした。人魚は生魚をムシャムシャと食べます。美しい人魚なのですが尻尾に近い処から縄の様な脱糞をします。(金魚のウンコのようなものでしょう。脱糞する時の人魚の表情は幻滅です。美しい遊女もウンコをするし、その時の表情は見られたものではないと言って馬鹿にするのが河童です。「人魚は美しいのか?醜いのか?」永遠の疑問ですが河童は美しいものが観られたと思って満足して死んで逝きます。
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安藤広重の描いた河童図。出典は「大江戸化け物細見の挿絵です。


山東京伝の前には土佐光起がいて百鬼夜行絵図を描いています(大徳寺真珠庵蔵)。
百鬼夜行絵図は上記に掲載しましたが。突然にこうした絵が出現した訳ではなく人間以外の生物にもそして道具にも霊がついているといった信仰が在った事と、鳥羽僧正の鳥獣戯画以来の皮肉風刺精神が存続していたのでしょう。
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唐櫃から出てきた化け物は仏具の化け物ばかりです。カラス天狗の様な化け物は頭にお経を結わえています。その手前は鐘を被った化け物で後の化け物は頭にドラ(シンバルの様な仏具)をその向こうは払子(心の塵を掃く仏具)です。一番後ろに竈が居ます。何れも粗末にされた仏具などの化けものです。
付喪神(つくもがみ)の伝統を思わせます。お坊さんやお寺への皮肉でしょうか?でもお日様が昇ると化け物は唐櫃に逃げ隠れるようです。画面はNHKのEテレ日曜美術館。
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これは別の化け物絵巻中央にお歯黒を染めている女主人がが居ます。女官は鏡を持っていたのでしたが主人の顔の恐ろしさで眼を塞いでしまいました。御簾の裾かをめくって怖いもの見たさの女官が興味津々恐ろしさ半分で覘いています。風刺精神に満ちていて現代にも通じる場面です。化粧妖怪は古今東西居るのでしょう。


付喪神、つくも神
付喪神、とは、長い年月を経た道具や生物(狐・狸 など)や自然物に神や精霊(霊魂)などが宿った ... また「多種多様な万物(九十九種類) 」をさすともされています。
長く使った筆にも箒にも番傘にも精霊が籠っていて使い古したから捨てたのではその霊の仕返しが在ると信じられていたのでした。ですから筆塚とか茶筅塚とか針塚等に祀ってそんな道具の霊を慰めるのでした。そうした万物に霊が宿る「つくもがみ」という感覚が化け物を豊かにして、黄表紙といった媒体にも恵まれて江戸時代盛期に化け物文化が隆盛し浮世絵の天才や役者絵の才能ある人が競って妖怪を創作し発表して江戸庶民は化け物を身近に感じてたのしんでいたのでしょう。

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これは伊藤若冲の付喪神茶碗や茶筅等のお道具が化け物になっています。写真日曜美術館【Eテレ】を複写。
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襖を開けてみればお道具が不満だらけの様子で怒って居ます。
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粗末にして捨てられた道具がゴミ捨て場で相談して人間に仕返しをしようとしました。其処に古文先生が現われて妖怪になって人間に教えて遣れとアドバイスしました。
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壁に耳あり障子に目あり。
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歌川国芳画の見越し入道。見越し入道は妖怪の親分ですが妖怪長屋の御隠居のようで、お気楽な性格で配下の妖怪にも軽んじられています。図中の首の長いのが見越し入道で入道雲のそれでもあります。
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これは親の脛を齧る妖怪です江戸時代も今も変わりません。(出典大江戸化け物細見ガットアダム著)
妖怪のキーワードは創造力風刺そして伝統です。その一つでも欠けると文化になれません。







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枝豆前線北上す。

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枝豆という野菜が大豆とは別にある訳ではありません。大豆は古代からあった野菜の豆で、田圃の畔などに植えられて食べられてきた食材でした。
その大豆の未成熟青いうちに収穫したものが枝豆です。
大豆が成熟した豆なのに対して枝豆はまだ青くて見た目も美しいし。豆本来の味、青い野菜の香りが生きています。
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 お盆の精霊棚にお供えするのも祖霊のお好みのお野菜です。ビールに枝豆も供えましょうか?
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これが枝豆です未成熟の大豆が枝豆です大豆が滋養分豊かであるの居は常識、その大豆をまだ若いうちに食べるのですから枝豆は体にも良いし美味しいのは自明な事です。因みに大豆を節分で撒いて鬼を追い遣るのは家の内に居た鬼が豆を追いかけて外に出るからです。


最近は西洋人も枝豆の味が解ってきたようで、ビールにはポテトチップやソーセージよりも枝豆を注文する人が目立つそうです。
私は枝豆に眼が無いので。東戸塚に在る新戸塚病院に通院するたびに駅前ビルの東急ストアの野菜売り場を覘いて行きます。
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東戸塚駅前東急ストアの野菜売り場に並んだ枝豆手前が筆者の好きな山形鶴岡のだだちゃ豆その奥の天狗印枝豆は群馬県の沼田産です。
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此方は新潟産の黒崎枝豆 山形産は今の時期枝豆市場をリードしています。
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此方は福岡産の枝豆(茶々丸)もう緑色がくすんできて大豆に近くなってきています。価格も鶴岡と同じでは劣勢のようです。
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出羽産は枝豆で市場をリードしてトマトも今が一番うまそうです。山形はお米(つや姫」も和菓子も漬物もお酒も商売上手です。本間の殿様以来の伝統でしょうか?


西瓜も何時しか産地が秋田まで北上してしまいました。もうじき北海道長沼産が出始めたら今年の西瓜はお終いです。
でも枝豆は今が盛りで群馬県の妻恋高原や新潟産と山形産が競っています。
先ずは山形産の『だだちゃ豆』を求めました。パック用の袋にはだだちゃ豆の由来がプリントされています。
鶴岡のお殿様が屹度今頃の季節でしょう、献上された枝豆を食し「何処のだだちゃだ?この枝豆を作ったのは?」尋ねたのだそうです。
庄内藩の殿様と言えば誰もが「本間ゴルフ」の本田家を想い出します。その本間四朗三郎の子孫が創業したのが本間ゴルフです。今も残る柿の木の瘤を使ってパーシモンヘッドのゴルフクラブを製造しました。
本間殿様がだだちゃの名付をしたとだだちゃ豆の入ったビニール袋に印刷されているんです。
ならばお私も”盆の夕方枝豆をツマミにすれば殿さま気分に耽れる”という事でしょう。

事の起こりはす川越藩の失政でした老中の水野忠邦は川越藩主松平斉典を庄内藩に領地替えしようとします。幕府より3藩に対し領地替(川越藩松平氏を庄内へ、庄内藩酒井氏を長岡へ、長岡藩牧野氏を川越へ)を用意させます。
庄内藩主・酒井忠器(ただたか)は、幕府の命であり仕方なく長岡へ移る準備をしますが、これを阻止しようとしたのが庄内藩の農民たちです。。庄内藩の百姓は悪名高い川越藩主が来たら困る反対に立ちあがりました。、の結果酒田の豪商であった本間光丘が藩主に収まったのでした。(荘内騒動)以来藩主・家臣・領民の結束が固いのが出羽の特長です。藤沢周平の小説が人情の機微に明るいのはだだちゃ豆が美味しいのと同じ土壌に根を張っているのです。
そんな次第なのでしょうだだちゃ豆のパックには生産しただだちゃ(お百姓さん)の名前もプリントされていました。
農産物の生産地表示は平成11年にJAS法が改正され常識になりましたが私の好きな荘内はその先の生産者名までもが表示されているのです。
本間の殿様も本間ゴルフでは渋面だったでしょうが、ダダチャでは満足されておいででしょう。
ダダチャ一袋298円ですから三日に分けて楽しんで十分なパフォーマンスでした。
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これはダダチャ餅の餡をヨーグルトにかけて食べたもの。
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仙台土産のズンダ大福台紙に置いたのはダダチャの袋。生産者の名前と本間の殿様の家紋(カタバミ)があしらわれています。

深夜仙台に出張していた次男がお土産に「ズンダ大福」を買ってきてくれました。蔵王を越えて宮城仙台藩に来ればだだちゃはズンダと名を変えます。何でズンダなのだ?訊けば伊達の殿様が枝豆を刀の柄で捏ねて豆をヌタ状にしたので「豆ヌタ」がズンダの語源だと聞きます。
東北の殿様は農産物のエピソードが豊かです。
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これは西武百貨店のズンダお萩幾ら枝豆が好きでもお高いような気がします。ズンダは求めやすいお高くないのが必要条件です。迷った挙句に食べそびれました。
日本列島は南北に長いので桜の花は長く楽しめるし野菜も果物も長い間エンジョイ出来ます。嬉しい事です。
充分に枝豆をお腹に閉まって来年を迎える事にしましょう。

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1日目はだだちゃ豆に永平寺の護摩豆腐でご機嫌な夕飯でした。
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二日目は永平寺白護摩豆腐に〆鯖にだだちゃ豆これなら長寿間違いなし思って戴きました。



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迎え火を焚いて

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55歳の時、勤務先の長銀が破綻に瀕して以来私は逆運のようでした、そして此処3年体のアッチ・コッチが軋んでいます。私の守護霊に見放されたような気がして。また戻って来てもらって、”守って欲しい”願う気になりました。私の最強の守護霊は祖母です。祖母の居所を私は知っています。祖母が世田谷の鶴巻から戸塚の盛徳寺に嫁入りしたのは明治35年でした。当時の豊田村は300戸余り”東京の嫁さんに田舎暮らしが合わないで帰られたら困る”村の世話役小野さんが結婚・入山記念に境内に百日紅を植えてくださいました。祖母はその木を大切にして落ち葉を根元に掃き溜めて育てました。祖母は102歳の長寿を全うして、悦びも悲しさもその百日紅に閉じ込めて来たのでしたから。お盆になれば寺の裏山から百日紅の花に下りてきている筈です。そんな次第で百日紅の花を一枝手折って我が家の仏壇に供える事にしました。午後3時ワイフに付き添って貰って盛徳寺に登りました。30メートルほどの石段を登りました。私は思い出話をしました。

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これが筆者の生家盛徳寺の百日紅祖母の結婚と入山記念に地元の世話人が植えて下さいました樹齢113年です。
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百日紅は旧盆と秋の彼岸に花の盛りを迎えます。だから参詣者は1咲いて居るのか?驚いて猿滑りと書くところを百日紅の字を充てたのでした。筆者はこの花を赤飯にして樹下に茣蓙を敷いて、ままごと遊びをしました。今年はこの一枝を手折って仏壇に供える事にしました。
「この石段でお酒の底が抜けてしまって大泣きした事が在ったのだよ」
「叔父さんが遊びに来ると私は大きな風呂敷を持たされて小野焦商店にお酒を買いに出されました。1升瓶を風呂敷きに包んでもらって吊るして歩いてきます。でも最後に石段が待ち受けていて腕が下がると一升瓶の底が石段に触れてしまうのでした。すると瓶の底だけが抜けてドットお酒が流れ出してしまうのでした。」
「私の鳴き声に気付いた祖母が飛んで来て私を慰め父を叱ってくれたのでした。
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筆者宅から生家の盛徳寺を見る向こうの石段は昔は鎌倉石積でしたこの石段で一升瓶の底を抜いてしまったのでした。

私は想い出話をワイフにそして祖母の霊にもきこえるように話しました。
この百日紅は二度咲きします。
最初に咲くのは旧盆の頃です。盛徳寺の施餓鬼会は8月10日ですから。10日には最初の花盛りになります。二度目の花は秋の彼岸に咲き揃います。寺に参詣者が集まる時に一番美しく咲くのです。
この百日紅には夜鶏が止まって寝ていました。
境内に放し飼いされている鶏でしたので、猫やイタチに襲われない様に百日紅の樹上が安全だと知っていたのでしょう。参詣人が樹上の鶏を見上げて嬉しそうでした。
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これが新婚当初の筆者の祖母少しばかり当時としてはモダンな女性でしたので豊田村も里帰りしないよう気づかいしていたようです
13日の日暮れ時になりました。
ワイフは門に盆提灯を吊るして迎え火の用意をしました3年前までは私がしてきた作業です。
私は茄子と胡瓜に足を取り付けて牛と馬を用意しました。その年は白い茄子を求めて牛を作りましたのでワイフと義母は「今年の乗り物は白いのね!」言って喜んでくれそうだなんて話したのでした。
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これは3年前の送り火白い茄子で作った牛が彼岸に帰ろうとしています。
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これは3年前筆者が作った牛馬この年は白い茄子と青い茄子で霊の乗り物にしたのでした。
でも今は左手が利かないので何も出来ません。ワイフが全部用意し迎え火も焚いてくれました。
夕方になれば涼しい風が吹き出して火が中々つきません。ワイフの後ろ髪を優しく揺らして吹き抜けてゆきます。見ればワイフの髪も薄くなり白いものも目立ってきたようです。風が囁いて行くようです
「お前達も歳になってようやく見えないものにも気づき始めたようだね・・・・」
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今年はワイフが迎え火を焚いてくれました。牛馬はワイフの手作りです。「胡瓜の馬は大きいので義父義母二人乗りが可能でしょう」話しました。秋風が吹いて火付きが悪かったでしたがワイフの髪が薄く白くなったことに気付いたのでした。昔は脛齧り妖怪が流行ったようですが、最近の私は「嫁老かし妖怪」に憑りつかれたようで。祖母に加えて義父母にも守護霊になって欲しい心境です。
ワイフの後ろ姿を見ていたら出来ました。
門火焚く妹の背に秋風吹いて白くなりし髪を揺らして部屋に入る。
来る年は我癒えて迎え火焚かせ給え 我が垂乳根の霊たちよ。
部屋に戻れば百日紅が赤々と燃えて私達を迎えてくれました。
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これが仏壇横に飾った百日紅一度目の花はもう散ろうとしていますが二度目の花が彼岸に咲こうと膨らんできています。
わたしは岩手の天台寺さんの観音様を真似て左手で与願印を結んでみたいと思うのですが左手左指が未だ痺れていて出来ません。このカレンダーを見てトレーニングに励んでいるのですが、来年は完治させて天台寺や津軽のネブタを見て回りたいものです。



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鴎外が改竄した「山椒大夫」

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テレビで恐山のイタコ(八戸市在住)を放映していました。イタコの口寄せの言葉を聞いていると”これは抑揚も文言も説教節である”気付きました。そこで改めて図書館に行き伊藤比呂美さんの著新訳説教節を借りて来て「小栗判官」「山椒大夫」「身毒丸」を読みました。改めて日本の文学も舞台もその脊椎に走っているのは説教節であることを確認したのでした。私達の祖先は説教節を聞かされて、生活の折々に説教節の各場面を想いだし、貧乏にも耐えて人間としての矜持を崩さず生きてきたのでした。
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これが伊藤比呂美著の新訳説教節小栗判官は遊行寺と熊野の御利益がしんとくまるは清水と四天王寺のそして、山椒大夫は金焼き地蔵尊の御利益が説かれています。何れも男性は助演で主役は女性です。小栗判官よりも死んだ小栗を熊野の温泉に湯治させて蘇生させた照手姫が、しんとくまる(弱法師)を蘇生させた 乙姫の方が逞しく生き生き描かれています。そして厨子王丸よりも安寿姫の方がしっかりしているし信仰も篤いし運命を切り開く力も強いように描かれています。とりわけ折口信夫先生の死者の書はしんとくまるや小栗判官の蘇生の場面を髣髴させます。折口信夫先生も説教節に強い影響を受けておられたのでしょう。
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前著説教節の挿絵中央の大きな野点傘の下で説教節を講じているのが説教師三味線や胡弓を携えれば瞽女になるのでしょう。
聴衆は寛ぎながら聞き入って泪しています。

娘道成寺を聞いては”純粋な女性を弄んだ男は最低で地獄の炎に焼かれる。たとえ熊野の修験者でも許されない”思ったのでした。そして山椒大夫の過酷な運命に耐える姉弟に泪しながらも自分の仕事を果たす勇気を得たのでした。山椒大夫と言えば森鴎外の小説を想いだします。そして、絵本の「安寿と厨子王の物語」を想いだします。明治の文豪が説教節を編纂してその部分を同名で発表したものでしたから日本人は山椒大夫を歪んで記憶してしまったのです。今日は説教節の何たるかを説明しようと山椒大夫を例にして案内いたします。説教節の山椒大夫は以下の4つのお話で構成されています。鴎外先生がその前半姉弟の苦労物語だけを切り取ったので私達は山椒大夫と聞くと「人身売買された子供の苦労物語」と思ってしまうのです。鴎外先生も発表直後世間の批判を浴びたのでしょう。そこで山椒大夫で一番心を打たれるのは姉弟愛である、そこでその愛を書きたいと思って、その虐め物語の部分を書いたのだ、言い訳しておいでです。ならば解説で全体の構成を案内して〝虐めに耐えた姉弟はその後どうなったの説明するべきでした。それが原作に対する礼儀だと思うのです。こんな姿勢は芥川龍之介にも引き継がれ今昔物語を素材にしながら。原作の部分を勝手気儘に抽出して編纂する事が何の躊躇もなく行われてきたのでした。説教節も今昔物語も長い間日本人の心筋に訴えてきた話ですから。それを口語文にリライトすれば名作と評されるのは当然です。では以下に山椒大夫を構成しているお話を説明いたします。
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山椒大夫の親子が引き裂かれる場面、母様と姥のうわたきは別々の舟に買われて生き別れてしまいます。
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森鴎外の山椒大夫安寿は海に潮汲みに厨子王丸は山に柴刈りに出されました。

【1、過酷な運命に弄ばれた姉弟の愛の物語】
岩城の判官政氏は陸奥5国(陸奥・陸中・陸前・岩代・磐城)の領主でしたが讒言により筑紫国へ左遷されてしまいます。厨子王丸の父に会いたい願に親子3人と姥あわせて4人で都を目指して登ります。当時は岩城から越後を通って都に登っていたのでしょう。直江津辺りで親不知を超える為に船に乗りますが人買に売られてしまいます。母は買われて佐渡に乳母(姥竹/うばたけ)は責任を感じて入水してしまいます。安寿と厨子王は丹後の山椒大夫に買われて奴婢として働かされます。
丹後の山椒大夫の屋敷で安寿姫13歳は潮汲み(塩田用)を命じられ厨子王丸7歳は山に柴刈に行かされます。でも二人とも深窓育ちですから仕事は捗りません。優しい村人が協力してくれるのでしたが意地悪な山椒大夫とその三男に虐めぬかれます。でも姉は弟を労り弟は姉に気づかいしながら二人は頑張り抜きます。
鴎外は主として此処まで姉弟の強い愛情を描いて見せます。鴎外自身はお話の全体を書かないでこの部分だけを抽出した理由を「姉弟の愛が崇高だから・・・」と説明しています。
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これは上田から松本街道を西に修那羅峠に祀られた双体道祖神筆者はこの道祖神のイメージが安寿姫と厨子王丸の姉弟と思っています。中世から姉さん女房は「金のわらじを履いてでも探せ」と思われていたのかもしれません。私の最近は同感です。
【2、金焼き地蔵尊のお話】
母様は安寿姫の守護仏として地蔵尊を持たせます。そして厨子王丸には岩城の判官政氏の家系図を持たせ手いました。安寿姫が厨子王丸に山椒大夫の屋敷から逃げよう、提案するのでしたが厨子王丸にはその勇気がありません。其処を三郎に聞かれてしまいました。安寿姫はお仕置きとして額に焼き鏝で印を付けられてしまいます。「山椒大夫の奴婢であるといった印だったのでしょう。でも翌日になると安寿姫の額に付けられた焼き跡は消えていました。お地蔵様が身代わりになっていて下さったのでした。安寿姫は二人して逃げる事を断念します。そして厨子王丸に都に逃げる算段を教えます。草履は逆に穿く事、先ず国分寺に逃げ込んで聖に匿って貰う事。厨子王丸は安寿姫のお地蔵様も持たされて小屋を出ます。安寿は弟を逃がしたことを責められ殺されてしまいます。厨子王丸は丹後の国分寺に逃げ込むと山椒大夫の一行が寺に押しかけて来ます。厨子王丸は見つかってしまうのでしたが、その瞬間にお地蔵様が光ったので助かります。
厨子王丸は京都の清水寺に預かられます、更に難波の四天王寺に小僧として引き取られます。小僧は参詣客にお茶を汲み雑用をするのが仕事の最下層の雑用係りでした。
その頃京都の院家には子供が出来ませんでした。院の奥方は清水寺に「子供を授かりたい」願掛けに行きます。すると観音様から「難波の四天王寺に稚児がいる・・」お告げを授かります。
奥方は四天王寺に稚児を探しに出かけます。そして厨子王丸を探し出して息子に引き取ったのでした。厨子王丸は家系図を見せて父の赦免を願い出ます。厨子王丸はその出自が判明すると。陸奥5か国の国主を命じられます。すると厨子王丸は丹後1か国で結構ですと申し出ます。
「何と欲のない事を帝は不審に思われます。厨子王丸が姉の安寿姫を想っていることを知ります。すると陸奥5か国に丹後も加えて国主に人いられたのでした。
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此方は鎌倉十二倉光触寺の「頬焼き阿弥陀/http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/40171688.htmlに書きました」中世には各地に身代わり地蔵尊や阿弥陀様が祀られ伝説も数多く伝えられてきました。
【厨子王丸の仕返しの物語】
厨子王丸は丹後の国主として国分寺を訪れます。更に山椒大夫の屋敷に行き安寿姫を探します。しかし姉様の姿は見えないばかりか虐め殺された事を知ります。山椒大夫もその息子の三郎も国主が厨子王丸であるとは思いもしませんでした。そこで、”もっと広い領地が欲しい”願い出ます。すると厨子王丸は”一番広い国を遣わす”言われて山椒大夫に黄泉行を命じます。砂浜に山椒大夫を埋めて首だけを地上に出させます。その首を竹鋸曳の刑に処したのでした。鋸挽きは最も重い刑でしたが竹製の鋸では切れが悪いし最悪の刑でした。そして鋸を引くのは三郎の役目でした。厨子王丸の復讐だったのでした。でも悪人は三郎まででその兄の二郎は館の継承を認められまあした。
厨子王丸は母を探して佐渡に渡ります。
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厨子王は佐渡の館で鳥追いの媼を見つけましたその媼が母様でした。

屋敷の庭に茣蓙が曳かれその上で老婆が粟に寄る雀を追い遣っていました。その老婆は足が不自由で加えて盲目になっていました。逃げない様に足の腱を切られてしまっていたのでした。盲目なのは泣きすぎたからでした。厨子王丸は老婆の歌に耳を傾けます。
「安寿恋しやほうやれ」「姥竹(うばたけ竹)恋しやほうやれ」言っては体を茣蓙に投げ出すのでした。厨子王丸は老婆に近寄って言います
「何と奇妙な鳥の追い方をする人だ。もう一度歌って下さい所領をあげましょう」言いました。
すると老婆は鳴り子の縄に手を掛けながら答えました。
「何の所領など要りません。私はこうして雀を追うのが仕事です。でも歌えと命じられるのなら歌います。
「安寿恋しやほうやれほ、厨子王恋しやほうやれほ」
厨子王はとうとう母を探し出したのでした。
「母様私は厨子王で」
老婆は怪訝そうに。
「私には安寿と厨子王二人の子が居ましたが生き別れてしまい。二人とも行方は解りません目の見えぬ者を騙してはいけません」
厨子王は懐からお地蔵様を取り出して老婆の眼に足に押し当てました。すると老婆の眼が開き立ちあがる事が出来るようになっていました。
そうして厨子王丸は母を見つけ筑紫からは父を迎えて親子三人幸せを回復できたのでした。
以上が説教節の山椒大夫です。文豪鴎外にすれば説教節を書いたのでは名折れだと思えたのでしょうか?
でも私は説教節の山椒大夫の方が座りが良いように思います。少なくても安寿と厨子王に共感した読者は安心できます。
それにしても気の毒なのは安寿姫です。名前と違って彼女だけが過酷な運命を甘んじて受けて死んでしまったのでした。筆者は介護用品ブランドの安寿に違和感を覚えます。
アロンアルファ【瞬間接着剤】で成功したアロン化成は東亜合成の子会社で琵琶湖湖畔に立地しました。そして近年介護グッズを安寿のブランドで展開して順調な発展をしています。苦労はしても晩年幸福だった母の名は 「玉木」これではブランドになりませんから「安寿姫のの母」の意味なのでしょうが・・・・

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『菊と刀』再考

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昨日は70回目の終戦記念日で、天皇陛下のお言葉に初めて「戦争を反省して」というお言葉が使われました。
私達は天皇と寄り添われた美智子妃殿下のお姿に安堵すると同時に、昭和も遠い昔になったものだ、痛感いたしました。
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15日の戦没者追悼式でお言葉を述べられた天皇陛下お言葉に初めて「反省」の言葉を使われました。反省と悔悟は昭和天皇がお使いになられたかった言葉だったことでしょう。私達は美智子妃殿下のお姿を確認して安堵もしました。

その前日、安倍首相の「戦後70年談話」が発表されました。
私達は21世紀懇談会のメンバーを知っていましたから。その内容は大凡予測出来ていました。
座長が西室日本郵政社長であること。同氏が元々は東芝の経営者であり。今次の東芝の不正会計問題の根源であった事から。毀誉褒貶する人物であり、決して戦後70年を総括できる人格で無い事は知っていました。
懇談会のメンバーに遺族や女性の意見を代表するような人物も居なければ宗教界からも歴史学者も入っていませんでした。人選の段階から70年談話は国民の総意とはかけ離れていたのです。ですから多くは期待できませんでした。

阿倍首相の70年談話は私達の予測の範囲内に在りました。村山首相や河野談話のキーワードは総て含まれていましたし、私は狐に抓まれたような気分に陥りました。
こんな凡庸な談話なら「1年も前から大騒ぎさせないでこの日に突然に発表すれば良かった」思いました。
そうすれば韓国にも中国にも盟友の米国からも色々言われずに”その通りです、頑張ってください”で済まされたものを・・・、
「東京裁判を見直す」とか「日本国憲法は押し付けられたもので国民の総意でない」とか「ポツダム宣言の内容も受諾した経緯も知らない・・・」とか言ったものですから、もっと極端な談話かも知れない、懸念していました。
世界中から懸念され中韓両国からは”歴史修正主義国”といった不名誉な呼ばわれ方をしました。
従って14日の70年談話は安倍首相の本音では無いのではないか?本意は別の処「憲法の第9条の改正」に在るのではないか?思わせました。
私達日本人でさえそう感じたのでしたから中韓両国やフィリッピンやタイなど迷惑をかけた国々も信用してくれません。問題は今後に持ち越された・・・・、一定の距離を置いているようです。
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中韓両国は70談話を評価せず様子見を決め込んだようです。この半年の政治姿勢で日本の右傾化の懸念を深めていたので素直に談話を信用できなかったのでしょう。
8月6日私は広島の平和式典の来賓席にケネディー米国大使を確認しました同大使は9日の長崎平和式典にも臨席戴いていました。どんなお気持ちで座られていたのでしょうか。”17万人の無辜の市民が一瞬に命を失った”そんな言葉を聞くたびに米国の責めを一身に背負っておられたのでしょう。
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長崎の平和式典田上 富久市長は高々と平和宣言を読み上げました。宣言の後には昨今の国政の方向を懸念していると付け加えられました。長崎では24万市民のうち7万人がそして広島では14万人が一瞬にして亡くなられました。安倍首相の挨拶は市民の野次で聞き取れない状態でした。(写真は朝日新聞デジタルニュース)
広島市長も長崎市長も安全保障法案への懸念を述べられました。その度毎にテレビカメラは安倍首相の表情の変化を追っていました。
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東京裁判を報じる毎日新聞
日本人は原爆を投下した米軍を許せないでいます。

原爆の開発者も投下した兵隊も良心の呵責で苦しんでいますそして米国国民の多くは今も次のように主張しています。
「日本は中々降伏しないものだから米軍兵士の命を日本上陸戦で沖縄戦のように失わないために原爆を投下した」問題は米軍に在ったのではない「本土決戦を主張している日本の軍部に在ったのだ」
それも一面の真実だったことでしょう。て広島も長崎も日本最大の造船所で戦艦を建造していた事実からも原爆投下の標的にされたのだと思います。
その証拠に。米国は広島長崎を標的にしても奈良・京都に空爆はしませんでした。自分達は日本の文化を重んじているので爆撃しない、でも日本の軍隊は敵なので空爆もすれば原爆も投下した。

軍隊があるから戦争を挑まれるのであり、無ければ平和で居られます。軍隊が安倍首相の言う様に抑止力になった例は世界史上無い事でしょう。抑止力は文化であり平和であります。
現代のように情報が行き交いグローバル化した状態では文化の抑止力の方が軍隊のそれより信頼が置けるものでしょう。
終戦が近くなってくると米国は日本の占領戦略を練り始めました。
文化人類学者ルース・べネディクトに委託して日本人及び日本文化の基礎研究をさせたのでした。
その成果が「菊と刀」でした。
日本の文化人類学もこの著を原点に発展したのでした。
私も学生時代に何度も読み直し友人と議論したのでした。
でも、一つだけ不本意な処が在りました。内容からすれば「桜と刀」であるべきです。
日本をトータルで理解するには「桜と刀」が適切な表題です。桜を愛好する平和な民族であるものの。危機に瀕すると切れ味鋭い日本刀を持って命を賭して戦う野蛮な民族でもある。
その行動基準は『「恥じ」を嫌い「名誉」を重んじる事でした』。
赤穂浪士が主君の恥を晴らし名誉を回復するために残虐な討ち入りを果たしその行為を誉めるのは米国人には理解し難いものだが普段は美しい菊造りを丹念に行っていた武士が恥を嫌い栄誉が得られれば、命がけで日本刀を取って戦う」と解析すれば神風特攻隊も人間魚雷も理解できたのでした。”クレージー”だと思った人間魚雷を実施した海軍は旗頭に菊を飾っていました(陸軍は桜)。勿論菊は天皇家の紋章です。
「桜と刀」は本来は「桜と刀」であったものが”菊(天皇)を敬愛する国民で菊(天皇)に恥をかかせるならば日本人全員が人間魚雷になって米国に立ち向かって来る・・・・” 警告暗示する報告書であったのでした。
米国は『日本人を降伏させるには日本人を辱めてはいけない名誉ある撤退の道をつけなくてはいけない』、として終戦のシナリオを書きました。
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 米国を震撼させた神風特攻隊は陸軍の戦略でした。
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これは海軍の開発した人間魚雷「回天」この夏慶応大学三田公舎にも展示されました。学徒動員に反対できなかった大学の悔悟の念が見えました。

焦点は天皇の戦争責任であった事でしょう。昭和天皇はかって侍従長であった鈴木貫太郎を首相に任命していました。鈴木は米国外交官グレーとは旧知でありました。グレーは天皇名誉を重んじながら日本が降伏できる道を探します。そしてポツダム宣言に立憲君主国家の道を残し、日本国民が天皇制を存続できる含みをを持たせます。結果日本はポツダム宣言を受託して終戦の詔を国民は聴く事が出来て、命拾いが出来たのでした。
クーデターを計画していた軍部は大人しく玉音放送を聞き阿南陸軍大臣は割腹して果てました。
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阿南陸軍大臣は軍部の暴発を押し留め玉音放送を聞くと「一死大罪を謝す」と書き残し自刃して果てたのでした。
沢山の疎開の学童を預かっていた私の父母も安心して防空壕を出る事が出来ました。
てようやく腕枕出来て私の命が芽生えたのでした。私は昭和21年4月に産まれました。私は戦争を知らない子供ですが「菊と刀」の有難味は承知しています。
ところで天皇の戦争責任は問わない事を決めた米国です。それでは米国の世論が収まりません。
誰かに戦争責任を取らせなくてはなりません。
東京裁判は日本国民に向けて開かれた法廷ではなく、どちらかと言えば米国の市民に対して開かれた法廷でありました。結果として戦争責任は東条英機以下枢要な軍部幹部にとらせました。
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     東京裁判の報道毎日新聞100人が戦犯として死刑が宣告されました。
約100人が死刑に処されたのでしたが戦争責任は軍人の誰しもが背負っていたことでしょう。上官が責任が重くて私刑になっても自分は兵隊であったのだから責任は軽くて終戦後は平和に軍人恩給を貰って平安に暮らせるのはおかしな事です。戦争責任は置いておいて枢要な軍人の命を引き替えにして戦後の体制とりわけ天皇制が存続できたのですから、戦犯を英霊として靖国神社に祀りたくなるものでした。戊辰戦争や西南戦争で亡くなった軍人を祀った靖国神社に戦犯を合葬して祀ったのでした。それは日本人の総意でもなければ。勿論中韓両国を始め戦場となったアジア各国も容認し難い事でありましょう。
今年は昭和天皇実録が上梓され、戦争が何故起きたのか、何故無謀な戦いが押し留められなかったのか事情が明るみに出されました。また日本赤十字社の資料など民間のデータも公開され戦争は開戦は容易でも終戦は難しい事。戦争の最大の犠牲者は女性や子供であることが国民の共通認識になりました。「不戦の誓い」は共通の想いです。でも不戦の為には軍隊を持つ方が良いのか軍隊が何時でも何処でも開戦出来るようにした方が良いのか、今のまま平和憲法を頑迷に守るのが良いのか迷う処です。
米国が「菊と刀」で日本を真摯に研究したようにイスラム文化も研究すべきだと思います。キリスト教文化圏とイスラムとが戦争を繰り返す現代、日本が米国と共に世界の平和に貢献するには軍隊を持たず戦争はしない国家として両者の中間でイスラム諸国とも信頼される文化国家平和国家と存続する方が賢明だと思うのですが軍隊の抑止力は米国の専担とし、日本は幾つもの文化や価値観の媒酌人に徹するのが良いように思います。
手法は文化人類学です。
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  桜咲く靖国神社天皇制国家の形態を存続し戦勝国の不満を果たすためには戦争責任者を特定し死刑を宣告せざるを得ませんでした。戦犯を線引きした不条理から戦犯を靖国神社に祀るという事になりました。其処に首相等公人が参詣する事は被害を受けた国にすれば許し難い事でしょう。日本の感覚は国際常識では通用しません。いつか国際常識に遭った葬祭場を作る必要があります。




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花茗荷の花陰で泣いた少女の泪

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暫く前から居間にカバーをされた本が在ります。ワイフに聴くと大切な友人が上梓した句集という事です。
カバーは近江八幡に在る菓子匠「種や」さんの包み紙です。聞けば
「この句集はお友達の帯子のもので、自分の知らない帯子の30年が記されているので。ジックリ時間をかけて読むの」と答えます。
ワイフはお友達の30年間を種やさんの水菓子を味わう様に読むつもりなのでしょう。
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帯子さんが上梓された句集「父の声」筆者の親友でご両親を送り子育てを終えられた普通の主婦の30年間の星霜が17文字に鮮やかに彩り豊かに写生されていました。帯子さんは俳句を知らなければ斯様に強く逞しく美しくは生きられなかっただろうに思われます。その意味では句会に誘って下さったお友達指導された鈴木澪さん西村和子さんらの知友に恵まれたのが幸いでした

私がお友達の帯子さんにお目にかかったのは私達のの結婚式でした。
帯子さんは”お名前のようにお着物の似合う花のある女性だな”私の印象でした。
ワイフのお友達は私の友でもありたいものです。そこでワイフに先んじて読ませてもらい、少なからず感動と写生のコツを教わった気がしました。そこで今日のブログに載せました。
ところで、それに私もこの数年和歌や俳句に友人を誘って作り始めました。それはこのブログでも紹介してきています。
友人のI君の別荘では、同君が作った「ゴミ酒」を飲みながら連歌で遊びます。無駄話に興じているより俳句や和歌を作って被露して観想を言い合う方が生産的ですし、遥かに楽しいのです。
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この実葛の実を酒に漬けたのがゴミ酒と呼ぶ薬膳酒です。何処か帯子さんの面影を宿している様に思います。

幸いに仲間のМ君は勤務先の句会に参加しており。リーダーとしての力量も識見もあるので、私は記憶係に徹していれば済みます。こんなたしなみを続ければ私も帯子さんには及ばずとも30年もの人生の星霜を記せるかもしれません。

句集の表題は「父の声」です。
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夏は白い花が目立ちますこれは山百合ですが、白い花の中でも白眉は花茗荷であると思います。

春雨や母帰り来ぬ夕まぐれ
帯子さん10歳の時の句でお父様が誉めて下さったのだそうです。
そして「父の声」の表題は次の句からとられたのでした。私も夕方母は帰ってこないし腹は空いた、心細いと思った事が再三ありました。

冬の虹ふと父の声聞こえたる
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これは3年前能登で観た冬の虹です帯子さんは天上から聞こえるお父様の声を聞いた様な気になられたのでした。


帯子さんは碑文谷の旧家に育ったお嬢様で、次の句を読めば解ります。
食べきらぬうちにまた筍とどく
朧夜や目黒に狸の出る話
庭先の筍は大地からの土産物食べても食べても次々に生えて来ます。でも育つに任せておけば竹林は荒れてしまいます。食べるのと生えるのと追いかけっこのようなものです。
そんな竹林の陰には狸も出没したのでしょう。
祖母の生家(鶴巻の実相院高橋是清が眠っています)の床下では狸が子育てしていたと聞きます。
屹度帯子さんは、今も育ちの良さを推測させる素敵なおばあ様で居られる事でしょう。
でも良い齢を重ねる事は言うは易しく実施する事は難しい事です。昨今は美しく老いる事の難しさを痛感します。老いるには子を育て親を見送り幾つもの愛別離苦を繰り返さなくてはなりません。
句集にはお母様を見送った前後の心の移ろいを記しておいでです。
娘たることに疲れし藪柑子
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これが藪柑子です。花の無い冬の庭にポツンと美しい実をつけます、一人娘の帯子さんはこの実のようにかけがいの無い存在だったことでしょう。お母様の期待に沿って美しい優しい娘で居る事は”疲れる”私も娘に訊いてみたいものです。(写真は鎌倉の竹の寺此処には千両万両十両と4種類の朱い実がなっています。

寒紅を拭い病室訪ひにけり
垂乳根の香ばかりの髪洗いたり
実紫幾年母に仕えたる
天寿とて別れは別れ冬の雨
お母様の美しき輝いて居た時を知っているのは娘だけでしょう。そんなお母様がやせ衰えて行くを見るのは辛いものが在った事でしょうお庭の紫式部の実にはお母様の美しさを今も留めているのでしょう。その根元には朱色の藪柑子が実っています。お母様は紫式部で娘は藪柑子です。
帯子さんは愛別離苦を俳句に託す事で、人生の陰影を俳句に託す事で生きて来られたのでしょう。
そんな娘を父は天上から眺めて虹になって見詰め応援されていたのでしょう。娘もそれを肌で感じていました
そこで句集の表題を「父の声」にしてご両親の墓前に捧げられたのでしょう。
”天寿を全うされて、お疲れ様でした”は喪主帯子さんに投げかけられたありきたりの弔意です。でも薄くなったお母様の髪を洗う悲しみは子を持った母親にしかわからない深い悲しみでしょう。
寒紅とは唇の紅を落として病室を見舞いしたという事でしょう。最近ではこうした心遣いというか矜持のある人は稀になって来ました。
帯子さんの素直さが純粋さが恬淡と悲しみを表現しておいでです。
お父様を送った時の句は次の通りでした。
病床の父菖蒲湯で体拭く
父逝きし今年の紅葉美しき
御両親を送った頃帯子さんは俳号を「七緒」と名付られました。緒とは紐の事です。奈良の伊賀上野組紐屋が軒を連ねています。美しい七色の糸で組んだ紐が「七緒」なのでしょう。能登に「七尾市」が在って花嫁暖簾で有名です。「七尾」は「七緒」であろうと推測します。七色の「緒」ですからこの上なく美しい紐です。
帯子さんに相応しい美しく艶めいた俳号だと思います。
帯の様な人生を締めて色鮮やかに表現したいそんなお考えが俳号に現われているのでしょう。
ワイフと帯子さんを繋いでいるのは田園調布の女学校時代です。二人に共通する場面の歌を探してみました
ワイフからは女学校の裏に釣堀があって其処への道に沢蟹が居た、と聞かされていました。
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これが沢蟹です。清水の涌く処に生息します我が家の庭にも時々現れます。睡蓮鉢に入れておくのですが直に脱出されてしまいます。
花茗荷校舎の裏に泣きに来て
女学校で何が在ったのか解りません。
まさか虐めがあったのではないでしょう。
でも女学生は花茗荷の陰で泪を流したのでした。
屹度女学生はその花が洋花でジンジャーと呼ばれている事、和名が花茗荷という事は俳句を始めてから知った事でしょう。
花茗荷の咲く季節は丁度今頃です。茗荷は生姜の仲間の薬膳の野菜ですから今が旬です。
東慶寺の墓所の入り口にも真っ白な花が咲く茗荷が自生しています。
私の生家も墓地の入り口に茗荷畑が在ってお盆で墓参りされた方が古い塔婆を捨てて帰りました。そしてお盆の送り火の日に古塔婆を焼いたのでした。それは実家に戻っていた霊が目印になるように赤々と燃えるのでした祖母は私が道の中央に突っ立っていると「其処は霊がお墓に戻る道だからどきなさい」注意してくれたのでした。大文字焼きならぬ「墓場の古塔婆焼」きでした。
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これが花茗荷です。ジンジャーと聞けばお分かりかと思います。夕闇にこの花を見つけると紋白蝶が群舞しているのか見紛うばかりの美しさです。白い花は死に装束を思わせます。鎌倉では東慶寺の墓所に見事に咲いて居ます。
カソリックでは純潔を大事にします。マリア様の美しさを白百合に託します。
純白こそ大切なのです。
帯子さんが人目を避けて校舎裏で泣いているのを白い茗荷の花が寄り添っていたのでしょう。

私は茗荷が好きで味噌漬けにして豆腐の薬味に刻んで食べます。

茗荷を食べ過ぎると物覚えが悪くなる言われてきました。
お釈迦様のお弟子に自分の名さえ忘れてしまう認知症気味のお弟子さんが居られたので。お釈迦様は「この者の名は茗荷という」書いた札を持たせて托鉢に出されたそうです。お釈迦様のお札が効いて茗荷さんの托鉢の成果(お布施)が何時も一番で羨ましがれたのだそうです。
無駄な知識は修行の妨げになるいっそ真っ白で居た方が修行の成果が上がるというものでしょう。
ワイフも帯子さん等とお友達で七色に人生を過ごして更に素敵なお婆さんになって行って欲しいものです。
女学生の頃の花茗荷のような美しさを失わないで・・・・・・。

私も気負わず恬淡と短歌や俳句に日常を写して人生を満喫したいものです。





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