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性神の民俗学3

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秋も深まると雑穀を無性に食べたくなります。
蕎麦も芋も雑炊も今が食べ頃です。屹度雑穀に多いミネラルを冬を控えて私の体が欲求しているのでしょう。

信濃黒姫山の小林一茶も雑穀を食べていました。
マメな性格の一茶は何を食べたか日記に書いていたのでした。
同時にマメな一茶は性の回数も日記しておいたので、最近その日記が話題になって、その勢力の絶倫さが驚嘆されています。
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黒姫山はコスモスで有名です今年も今頃はコスモスが群れ咲いて居る事でしょう写真は南軽井沢浅間山を望むコスモス
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北信濃柏原の小林一茶の住んだ土蔵。江戸に出たものの失意で故郷に戻った一茶は訴訟(原因相続権の主張)をして僅かばかりの田畑を獲得します。50歳で故郷の信州柏原に帰り28歳の妻きくを娶り、3男1女をもうけるが何れも幼くして亡くなってしまいます。この土蔵の壁には一茶夫婦の悲しみが浸みているのです。


ところで今日の本題は達磨さんです。
我が生家は曹洞宗の寺院ですから始祖は達磨大師で高祖で、二祖が(慧可大師/宋の人)で道元禅師は慧可の弟子天童如浄から教わったのでしたから高祖と云う事になります。高祖とは祖先の意味ですから道元禅師は日本における曹洞宗の生みの親程度の意味です。
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これは雪舟筆の「恵可断臂図(えかだんぴず」国宝です。
達磨が少林寺において面壁座禅中、恵可が参禅を請うたが許されませんでし、恵可は自ら左腕を切り落として決意のほどを示したところ、ようやく入門を許されたという有名な禅機の一場面です。リアルにあらわされた二人の面貌と一点を凝視する鋭いまなざし、そして動きの少ない構図が画面全体に息苦しいまでの緊張感を生み出しています。
77歳の老禅僧雪舟のたどりついた境地が現われていると評価されています。

一般に達磨大師は北インドの山岳地帯の生まれと云われています。
其処は照葉樹林帯の西の外れでした。東の外れが日本になります。
達磨さんの禅宗は照葉樹林帯の西端で産まれ中国を経由して日本で支持されます。
照葉樹林文化を代表する教えになりました。
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大黒様も恵比寿様も貫頭着を着ておいでです。それは達磨さんと同じです写真は曹洞宗の本山総持寺の寺務所(庫裏)の玄関。達磨大師はインドや中国の法衣を脱がされて古代の普段着貫頭着に着せかえられておいでです。

達磨さんは一般に赤い巻頭着を着られて手足と頭だけが貫頭着から出ています。
貫頭着は世界中の古いファッションで日本でも先史時代から古代までの衣服は基本的に貫頭着でした。
唯 雪舟や白隠禅師は達磨さんの貫頭着を白く描かれていますが庶民は真っ赤であると思いました。
赤は「招福の色」であり、「厄除けの色」だからです。京都の街も南は朱雀が守り招福厄除けしましたから。庶民は達磨大師を赤く塗って招福厄除けを念じたのでしょう。(赤は南の方角の色です)
色町も同じでした。良いお客が来るように災難が来ない様に真っ赤な達磨さんを祀りました。
一見すると戒律に厳しく”不邪淫戒”を重々禁戒に標榜する禅宗の始祖とは真逆のように思います。妻帯も禁じた禅宗でした、ましてお金で性を売買するような廓の守り仏に達磨さんが祀られるのは理解しがたい様に思われます。
でも遊郭の繁盛に達磨さんは尊ばれたのでした。それは換骨奪胎と云うよりも本末転倒で達磨さんがお知りになったら何と言われることでしょうか?若しかしたえら逆回りでも良いじゃないか?言われるかも知れません。
浅草寺には達磨さんが商われ吉原遊郭関係者が求められましたし。多摩川を渡った川崎大師には堀之内と呼ばれた遊郭が在って遊郭と有名寺院の達磨市は密接な関係に在ったのでした。達磨寺で有名な高崎にも柳川町と云う遊里がありました。
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川崎大師の達磨商店で片目の達磨さんを求めます。願が適えば大師に御礼詣でして両目の入った達磨をお返しします。

遊女は達磨さんを求めました。直ぐに転んでくれて金払いの良いお客が付くように。そしてお客が何度も立つように”起き上がり小法師”と呼ばれる立ち上がり達磨を求めました。「お客が直ぐに自分を好いて横に転んでくれて直ぐに起き上がってまた来店して自分を指名してくれるように」達磨さんを求めたのでした。
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福島の名産玩具は起き上がり小法師です

五月みどりさんは、中森明菜さんの「少女A」にインスパイヤされて「熟女B」を演じました。蟷螂夫人としても人気を博しました。彼女のヒット曲に「1週間に10日来い」がありました。色町ではそんな上客を求めて達磨さんを祀ったのでした。小林一茶の性欲と同じく日本人の欲望は達磨さんも白い貫頭着を赤くして枕元に祀ったのでした。

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御成山の洋館

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今年の秋薔薇は如何だったのでしょうか?鎌倉の薔薇と云えば文学館の前庭と華頂の宮邸庭の薔薇が有名です。
明治22年横須賀線が開通すると鎌倉は東京の別荘として脚光を浴びて当時の資産家が続々と進出して来ました。
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鎌倉文学館は前田候の別荘でした。同じようなロケーションに大谷家別荘(美術館として地域貢献しておいででしたが5年ほど前に閉館されました。大谷家別荘は御成り山の南端由比ヶ浜の眺望が開けたロケーションにあります。

明治23年には加賀藩主だった前田家が由比ヶ浜を見晴らす丘の中腹に聴涛山荘を建立しました(現在の鎌倉文学館)。華頂宮邸はずっと遅れて昭和3年ですから此方は昭和モダニズム建築を代表する建物です(国の登録有形文化財。
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鎌倉浄明寺の衣笠山の山懐にある華頂宮邸次の公開予定は来年年4月9日(土曜日)、10日(日曜日)だそうです。
今日案内する古我邸は華頂宮邸と同じ昭和モダニズム建築に属します。
今小路通り(御成通り)を歩いていると新しい看板が目につきました。珈琲「古我邸」と案内されています。
古我邸は気になっていたので何度もこのブログにかいて来ました。
源氏山の中腹に山小屋風の洋館が聳えているのです。アソコからは由比ヶ浜も見渡せるし前田邸にも勝る大谷邸にも匹敵する眺望の筈です。早速路地に入って古我邸に向かいます。道路面には大きな字で「私道」と書かれています。何しろこの辺りは鎌倉駅徒歩圏の閑静な住宅地です。古我邸が今まで開発されずに放置されてきたのも奇跡ですから何やら複雑な地権者の争いがあるのでしょう。
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これが御成町にある古我邸以前に比べてコロニアルの板張りが黒くなっていました(以前はこげ茶色でしたが)鎌倉三大洋館は何れも別荘で谷戸の中か山の中腹にあります。そして近代日本の初頭を飾る疑似洋風(和洋折衷)建築でした。

門壁にはランチもディナーも予約満席ですが珈琲(300円)は予約も不要なようです。私達は今しがた珈琲を戴いたばかりでしたが・・・、入ってみる事にしました。何時もの様に杖を突いてヨレヨレで坂を上って行くと建物からコンシェルジュが下りて来ました。
「ご予約は?」訊かれました。
「ありません」答えると
「この坂から上は御予約の方しか上れません」と敷地内に深入りする事を拒否されました。
古我さんがどんな方かは知りませんが不快感が残りました。こんな人では珈琲も苦いばかりでワインも酢入って居る事でしょう。私は「珈琲戴けますか?」用意していた言葉を喉に詰まらせて踵を返しました。
その二日後矢代亜紀さんが鎌倉散歩でこのお店を訪れ櫓に貯蔵したスパークリングワインを飲まれておいででした。既に年内は予約で満席と悦に入っておいででしたが・・・・・、何時まで開店人気が続くのか懸念されます。
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芙蓉や水引の花に誘われて坂を上って行くと、私達を目ざとく見つけたコンシェルジュに此処から追い返されてしまいました。

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我邸入口に在る指月庵は三菱の岩崎邸でした。そこの辺りのお屋敷は次々に再開発され小さく分譲されています。脚の便も良いし閑静な文教地区ですから人気も高いのです。
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これは御成町のお屋敷をミニ開発した物件。お金持ちは物件を維持する事も大変なのでしょう。このように物件を手放して戸建分譲する事が増えているようです、大谷家の様に(財)美術館に移したりこの近くの横山氏(漫画家)のように喫茶店(フタバ)に運用するなど知恵を絞らねばならないようです。
私達はこの後御成り小学校を経て図書館に行きました。偶然に図書館ロビーでは古我邸を鎌倉三大洋館の一つとして案内して居ました。
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鎌倉図書館ロビーでは古我邸ジオラマを置いてその説明をしていました

説明の要点は以下の通りで大凡私の疑問に答えてくれていました。
①古我邸の最初の所有者は三菱合資会社の専務理事「荘清次郎」氏で同社の技師「魏志桜井小太郎」に設計させたのでした。
桜井は大正12年に旧丸ビルを設計し翌13年には三菱銀行旧本店を設計した日本人トップの設計士でした。その忙しい盛りの大正14年に三菱の大番頭の鎌倉別荘を作ったのでした。
その後昭和14年どんな事情があったのか古我氏に売却し。
古我氏は一時浜口雄幸氏や近衛文麿氏に賃貸していたそうです。私が勤めた長銀は浜口巖根(雄幸氏の次男)が初代頭取でしたので。同氏もこの洋館で夏休みを過ごされたのでしょう。
建物の中央と左右に在る大きな張り出し窓が特徴で、西洋風の前庭と一体となって、英国にでも来たような雰囲気がありた。向かって右側にはハーフティンバーの妻面があり、左側は2階まで続く半六角形の出窓で左右が非対称で斬新な印象です。屋根は天然スレート葺きの木造2階建てで外壁は板張りのコロニアルです。この辺は御成小学校の講堂と同じです。
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         張り出し窓のある部屋の内部窓からは由比ヶ浜が眺められるようです。出典古我邸ホームページを借用)
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古我邸の玄関出典は前写真と同じ
鎌倉散策から家に戻ってパソコンを叩いてみて驚きました。
インターネットでは楽天トラベル始め大手が50%オフで販売しているのですhttp://www.pw-price.com/?kwd=%E9%8E%8C%E5%80%89+%E5%8F%A4+%E6%88%91+%E9%82%B8&minPrice=&maxPrice=。
という事は年内予約満杯というのは個人ではなくて大手トラベル会社が買い取ったという事でしょう。ランチ3000円ディナー7000円からと云ってもお客さんは半額券で入っているようですし。ネットで確認する限り味もサービスもイマイチのようです。
鎌倉の二階堂で住民の大反対を押し切って三菱地所はマンションを開発しました。次は御成町で開発しよう古我邸を舌舐めずりしてみているのかも知れません。
因みに図書館で訊いて見ました。
古我邸を文化財に指定する予定は在るのですか?」
図書館職員は調べてお答えになりました
「当面そんな予定は在りません」
鎌倉市は文化財に指定する事に臆病になっているのです。
一度文化財に指定すると所有者の開発、利用計画を束縛してしまいます。
数年前鎌倉山の山椒堂が壊され、ミノモンタさんの屋敷になりました(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/26198102.html)同物件も鎌倉市の指定文化財でありましたので、保存運動が燃え盛りました。
羹に懲りて安易に文化財に指定しないのでしょう。
人も自治体も貧したくないものです。

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蝋管式蓄音機の響き

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11月18日は何時も通う図書館のある横浜フォーラムのお祭りです。我が町内にあってずっと案内されていたのですが、町内会行事も重なって一度も「フォーラム祭り」には参加した事はありませんでしたが、暇でもあるし天気にもめぐられたので出かけてみました。芝生の前庭には幾張もテントが張られて模擬店が出ています。私はベトナムのフォー(ラーメン)を戴きランチにしました。魚醤の香りに弱いのです。
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横浜フォーラム図書館の閲覧室から庭の賑いを観るテントの過半が模擬店です。

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これが私のランチのフォー(400円)です。私が魚醤が好きなのは弥生式土器に由来して居ると思います。何れかの機会に弥生式土器で米と魚醤が南方の島々を伝ってッ伝来したであろうという推論を書きたいと思って居ます。
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ジャワの民俗舞踊戸塚も近年は国際化が進んでいます。

建物に入ればジャワの民族舞踊を演じています。最近は我が町内にも東南アジアの人が目立ちますからジャワ門族舞踊もベトナム料理も違和感が無くなっています。図書館で本を借り換えて、展示を見て回ります。
展示は何処かで関係のあった組織ばかりです。中々の力作揃いで、販売も進んでいるようでした。
私はワイフを誘って、蝋管式蓄音機の音を聞きに行きました。会場はスタジオです。
フォーラムは1986年男女雇用機会均等法の施行に基づいて出来た箱ものです。
当時は私は未だ現役でしたので記憶も鮮やかでした。確かセクシャルハラスメントを防止する意味で出来た法律で舌が所管した厚労省は全国に箱物を建ててОBの再就職の機会を増やしたのでした。
そんなわけで横浜フォーラムには図書館もスタジオも公会堂もあるのです。立法の趣旨に合って居るものと言えば託児所位のもので、アレコレ余計なモノを作って自分達の守備範囲を拡大したのでした。こんな発想は厚労省に限らず農協も年金もホテルを建てバブルを実演したのでした。
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横浜フォーラムにあるスタジオで蝋管式蓄音機の実演が実施されていました。蓄音機の所有者は渡辺治夫氏で)は横浜蓄音機ミュージアム/090-1882-2011の館長でも居られます.私は品川無線の技師だったと推測しました。レコードを見詰める目の優しさにお人柄が解ります。良い人です。
そんな次第でしたからフォーラムにはスタジオが在るのです。FM横浜にも貸してあげたいような設備です。
そんなスタジオに古風な蝋管式蓄音機を持ち出してレコードをかけて訊かせるというのです。
演奏中に気が付いたのですが戸塚の田谷には品川無線㈱があってグレースというブランド名でレコードプレーヤーのアームやMM型カートリッジを専門に製造していたのです。そんなわけで戸塚には古い蓄音機の技師やファンが多いのでしょう。
私が入室した時にはパティーページの「愛の賛歌」を演奏して居ました。
蝋管式蓄音機が古い事にも驚きましたが音量の大きいのにも驚きました。
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架っているレコードはワイフのリクエストによる千恵美さんのテネシーワルツです。針に伝わった振動音がカートリッジにある橋共鳴に伝わりその音が音の儘で増幅されて聞こえて来るのです。電気信号に転換する事はありません。とことんアナログなのです。
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これがピックアップ針が拾った音をアルミの薄板に伝えその振動が音の儘でスピーカーに伝わって大音量に増幅します。品川無線はピックアップやアームの専門音響メーカーでしたがCDに駆逐されて撤退し工場はニコンに買収され現在はニコン工場になっています。
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これが針です磨滅するので10回程度しか使えないそうです。

私はレコードの駆動装置を入れたボックスの中にアンプがあってレコード針が拾った音を電気信号に転換させてアンプで増幅させてスピーカーを震わせているのだと思って居ました。
横浜の野毛のジャズ喫茶「千草」と同じイメージを持って聞き出していたのでした。
処がとんでもないレコードを回す駆動装置こそモーターですがその他には一切電気は使わず総てがアナログな物理的な音なのでした。
先ず針がレコードの溝を掻いて音を出します。その音をカートリッジがピックアップします。針とレコードが軋む音を共鳴板に伝えその音を蝋管と云うラッパで共鳴さ増幅せて訊かせるのだそうです。大きなラッパの先端は直径50センチもあるようです。
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実演に使われたEМG社/英国の蝋管式蓄音機1932年に製造された350台の一つで渡辺さんが汗を流して再生されたものだそうです。に大きなラッパは当時の電話帳を溶かして作られているそうです。

高音はラッパの根元の狭い処で鳴っていて低音はラッパの先端の広い処で鳴っているのだそうです。
スピーカーでは低音が力があるので高音低音共に響き合って歪んでしまうのだそうです。音をレクトロニクスを介してスピーカを駆動させるのはどうしてもアナログには敵わないのでしょう。
蓄音機はシャンソンに向いているようです。パティーページに続いて江利チエミエリ(テネシーワルツ)が鳴りました。千恵美さんと云えば昨年高倉健さんも天に昇られました。天国のワルツを聴かせているかもしれません。
レコードと云うとCDを聞いた時の驚きがあります。雑音(多くがレコードの針が拾うザーという軋む音、や誇りに依るパチパチ云う音)千恵美委ではろうかん)が消えた時の感動は忘れられません。でもCDの音は神経に触るというか少しも安らぎを得られないやっぱりアナログが良いというので古風なアンプ式音源が人気を回復しているようです。私は蝋管式蓄音機から美輪明宏の「よいとまけの歌」を聞きたいとリクエストしようとして思いつきました。三輪明宏はCDになってから歌ったのです。
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”何で綺麗な大きな音がするのだろう?”子供達が蝋管式蓄音機の中を覘き込みます。渡辺さんは嬉しそうに説明されます。
レコードのザート云う音は軋み音です。針がレコードを削る音です。でもこの音は昔は雑音で嫌だったのでしたが何処か懐かしい安らぎが在るのです。
そう想って記憶を呼び戻すとこの音は潮騒の音に似ています。大磯の小動浜では波が寄せて反す度毎に小石が運ばれてザーッと鳴ります。そのザーの音の間にザブンと波の砕ける音がします。
あの小動の潮騒の音は母のお腹の中で聞いていた音かも知れません。ザーッと言う音は母の動脈の音で波の砕ける音は心臓の音だったのかも知れません。小動浜は昔は「子揺るぎ浜」と書いたのかも知れません。
私はふと思いました私達の教わった数学は10進法です。偶々人間の指が10本だったから10進法に馴染んだだけで本来は二進法が解り易かったのでしょう。家を出たら右に行くか左に行くか二者択一です。生物は動物の植物も男か女です。雨は天から降って地に染入ります。昼は明るく夜は暗いのです。世界は二者で成り立っています。集積回路も二進法で出来ています。デジタルは二進法です
アナログの音に安らぎながら一歩現実に戻れば二進法の世界です。
二進法で割り切れるほど人間も社会も単純ではありません。人間も陽(善)と陰(悪)の二つなら善に向くのが理に適っています日本は濃縮された核物質を大量の保有しています。陽は平和利用で陰は核爆弾でしょう。どちらに使うかは一重に倫理観や宗教観に負うています。今ほど人間性の本質が問われている時代は無い様に思います。



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弥生VS縄文の過ち

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先日鎌倉の御成町の喫茶店レ・サンジュに行ったことを書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48962859.html大変に居心地の良い空間でした。花瓶に何だか雑穀が活けられていました。
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喫茶店レ・サンジュの花瓶に活けられた雑穀てまえの狐の尻尾の様な形をしたものが粟でその右の色の濃いのが稗であろうと思います。黍はサトウキビと云う程ですから背丈が高くて実が黄色いものと推測します。

粟(あわ)だか稗(ひえ)それとも黍(きび)かも知れません。ワイフに訊いてもお嬢さん育ちですから知っているはずありません。
私の脳裏には粟・稗・黍の雑穀三兄弟が駆け巡ります。粟は昔栽培して居ましたから忘れる筈ありません、でも稗と黍は田の草取りで抜いた程度で稔った姿は観たことはありません。ただ長い間文鳥を飼っていたので稗は殻が硬くて黒い事は承知して居ました。稗に似て黄色いのが黍であろうと推測して居ました。
花瓶の雑穀を観ていると無性に雑穀を食べたくなりました。
それは縄文人の私の血が欲求するもののようです。
今TPPで”米を守れ”と大騒ぎですが、日本のお米と東南アジアのお米は全然違います。日本のお米は丸い米で東南アジアの細長い米とは違うのです。あのタイやインドのお米で寿司もお握りも出来ないのです、何しろパサパサですから。私の学生時代発表された文化人類学の成果に梅棹忠雄氏らの照葉樹林文化がありました。北インドヒマヤラの西から始まり西日本まで広がる楠や椎等の照葉樹林に育まれた文化で、米はその下流部沖積平野で育種された穀物でした。その米が薄手の甕(弥生式土器)に入れられて日本に伝わったものと思われます。最初はインダス川やメコン川のデルタで栽培されていた長い米でしたが次第に山岳部に伝わって行くに連れて短日性(日が短くなるに従って結実する寒さに強い品種)の丸い米(長日性一年に何度も収穫できる)に変異していったものと思われます。
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お米の伝播図/青が長日性の長米鍋で煮るか葉っぱで包んでチマキにして食べる(基本的に囲炉裏で柔らかして食べる)赤が短日性の丸米(粘りがある蒸して食べる基本的には竈の文化です)

もう一つが江上波夫氏らが唱えられた騎馬民族説でした。騎馬民族説は蒙古高原にいた騎馬民族が4世紀頃に日本に進出したとするもので、大和朝廷の創設天孫降臨は騎馬民族の征服を予測させる提言でした。
で私のルーツ縄文は派と云うと弥生文化が伝播する遥か前日本列島が大陸と陸続きであった時代にクロマニヨン人が大移動して一部はアリューシャン列島からアフリカアメリカ大陸に渡った時にバイカル湖アンガラ川を渡って来た人たちでありましょう。
縄文人は基本的にはアラスカの原住民と同じで狩猟生活をしていて。団栗の実や稗や蕎麦等の雑穀を食べていたと推測されます。
弥生時代は高々400年で大和朝廷に統一されてしまいます。
一方縄文時代は8000年も継続しました。
”今日死ぬかもしれない明日の食べ物は確保されていない”そんな極限時代を8000年も続けて出来上がった生活の中で培われた信仰や習慣が簡単に拭える筈はありません。
仏教や儒教が伝来しても縄文時代に培った文化や信仰を捨てる訳ありません。何しろ生きてゆくためには今日も明日も食べて行かなければならないのですから・・・・。仏教や儒教が食い物を世話してくれる訳じゃないのですから・・・・・。生きて行くために自分達の信仰をベースにして仏教などの知識を活用したのでしょう。
私達が高校までに教わった歴史の授業には明らかな間違いが二つあります。それは天皇制の創立にかかわる問題です。
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これが縄文遺跡の分布図総じて東日本に多く時代が下るにつれて山の上から海岸線に近づいてきますし密度も減って来ます。出典山川出版日本歴史地図
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弥生遺跡の分布図平野部に集中していますので縄文人とは高度差によって棲み分けしていたと想像します。奈良盆地の唐古遺跡(弥生)と二上山山麓の縄文遺跡や吉野川上流の宮滝遺跡(縄文)等好例です。

「学校で教わった知識の過ち」
1縄文時代の次は弥生時代でその次が古墳時代日本中が変遷したのではないという事:
縄文時代人は山岳で狩猟生活と焼畑農業をしていました。一方弥生人は平原(里)に生活して居ました。狭い国土でも縄文人と弥生人は高度に依って棲み分けして居ました。
2、日本は朝鮮半島よりも文化的にも武力的にも上位にあって、半島は謂わば属国であったとする考え。大和朝廷が確固とした国であったので半島が漢人に攻め込まれると日本に亡命してきたのでこれを受け入れたと云った中華思想で歴史を捉えていた事
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丸米を竈で蒸す図お湯を沸かした甕の上に甑(こしき)を乗せてお米を蒸したのでした。出典:山川出版歴史地図)土師器須恵器は基本的には弥生式土器の後継土器で耐火背に優れ水漏れの無い土器で家の端の土間にこのような竈を設えて食していたのでした

お米を食べるには米を脱穀(外側の殻を籾として剥ぎ取る)精米(米の皮や胚を取り除く)をしなくてはなりません
その道具が臼と杵です。臼と杵を使って脱穀・精米したうえで蒸して柔らかくしなければ食べられません。その道具が竈でした竈でお湯を沸かしてその上に甑を置いて甑に一晩水に浸したお米を乗せて蒸すのです。火のお蔭で硬いお米が食べられるので火は神様として崇められました。一方雑穀は脱穀してそのまま鍋で煮て食べられますし。一度粉に挽いて団子にすれば黍団子や御焼きのようにして囲炉裏端で食べられます。縄文文化は囲炉裏の文化で弥生文化は竈の文化です。
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  縄文式土器囲炉裏に五徳状に石を置いてその上で煮た上部の輪っかは蛇の様な意匠であるが吊るす穴(自在鍵の様に)と思われます。

囲炉裏は部屋の暖房も兼ねています。積雪地帯は囲炉裏が欠かせませんし。蕎麦も稗も保存食飢饉食としては最適です。芋と稗を一緒に煮たものでしょう。勿論猪や山鳥も一緒に煮ます。
一方西日本には早くに米を主食にする弥生人が棲みつきました。弥生人は竈でお米を蒸して食べました。
最初の竈は石を三つ組み合わせた三尊石を用意しまあした。私達が阿弥陀三尊を始め仏像を三尊にしたり枯山水でも石を三つ組み合わせるのは竈の文化の伝統だと確信いたします。
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もう山形では紅葉も散ってしまったでしょう。寒河江川の川原では芋煮会で盛り上がっていることでしょう。
芋煮の竈は三尊石を用意してその上に鍋を置いて里芋と葱を入れて猪の肉を入れてワイワイやりながら食べて冬越しの鋭気を養います。三石は火の神ですし神に守護されて居る思いが強くなります。

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姫神への追憶1

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「原始女性は太陽だった」(平塚雷鳥)「男なんて所詮皆マザコンよ!」(私の親友)女性の方が染色体が1本多いのですから女性の方が男性より力こそ劣っていても知性は高いしデリケートに出来ている筈です。
”彼のマザコンは我慢できないの!でお母さんがいなければ何もできないのですから”。私の親友の呟きです。
”癪に障るは!源氏の君はお母様の面影から離れられないのだから〝(弘徽殿の女御)古代から男性のマザコンに悩む女性は多いものです。
ところが何時しかキリスト教も「仏教も男性優位な教え」になっています。
それは多分両宗教共に原始・古代に出来たモノではなく中世に完成した教えだったからでしょう。原始古代は母系社会でありましたから天照大神がコアであり卑弥呼が男達を率いて居ました。古代の天皇は過半が女性で上手く収まっていました。安倍首相の動向を観ていると再び古代の母系社会を探している様に思えます。
私はそんな母系社会の記憶を姫神に見つけます。
男は筋肉質なのですから力仕事に向いて居て知恵を使う役割は染色体が多くて和を尊ぶ女性に向いて居るのです。そんな次第で今日は姫神の話をします。
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野水分神社の豊玉姫命、日本の聖母像の典型でした。
孫が神武天皇で神を産んだ「安産の神」そして農耕に大切な水(雨)を司る農耕の神として信仰されました
姫神で思い出すのが吉野の水分神社の豊玉姫命です。
先ず美しい事そして福々しさに目を奪われます。
吉野は分水嶺の山です。此処に降った雨が東西に分かれて流れ落ち大和や伊勢や難波の水田を潤し豊作をもたらします。だから、平地の民は吉野の山に向かって豊作を祈りました。
同時に吉野の山は縄文人が住んでいる怖い山でした。縄文人と米作をしている弥生人とはおのずから棲み分けが必要でした。その境の目印に巨木や巨石が選ばれました。そんな巨石や巨樹が結界石になったと推測致します。
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吉野山の結界石高野山には腰掛岩が女人結界になっています。お地蔵さんの背に大きな杉が生えています。桜の樹の枝を折るな始めタブーが多いのが吉野山です。

吉野山には狼が生息しているし。山の民が狩猟生活している棲み分けも必要だし、第一ライフスタイルが山と里では大違いでした。山では熊や鹿を狩猟するには家族で力を合せてしなければなりませんでした。里では田圃を開拓するには協力する必要がありましたが母系よりも父系社会の方が都合が良かったのでした。母系では折角開拓した田圃を分散して相続させなくてはならないし、父系で相続させた方が家が長く栄えるし、山の民の略奪に対しても戦えました。奈良の山の辺に環濠集落が残っているのも中世の父系社会の記憶だと思います。
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山の辺の道菅生の環濠集落
原始古代は母系社会でしたが中世になると父系社会になって父から子に家を守り伝える事を第一にするようになりました。総じて、女性は蔑視されてしまいます。私達は”女性は月経があるので血の穢れがあるので清浄なお山に入れない”伝え聞かされてきました。それは仏教が中世と云う時代の変化に応じただけで原始仏教に釈迦の教義に『変成男子・転女成男』のような女性蔑視は無かったと思います。
近世になると鬼女伝説が説教節や浄瑠璃になって流布します
最も有名なのが「安達ヶ原」の黒塚(能)でしょう。
紀州の僧・東光坊祐慶(熊野聖)阿武隈川の畔安達ヶ原を旅している途中に日が暮れてきました。
岩屋に宿を求めました。岩屋には一人の老婆が住んでいた。祐慶を親切そうに招き入れた老婆は、薪が足りなくなったのでこれから拾いに行くと言い、奥の部屋を絶対に見てはいけないと祐慶に言い残して岩屋から出て行きました。しかし、祐慶が好奇心から戸を開けて奥の部屋をのぞくと、そこには人間の白骨死体が山のように積み上げられていた。驚愕した祐慶は、安達ヶ原で旅人を殺して血肉を貪り食うという鬼婆の噂を思い出し、あの老婆こそが件の鬼婆だと感付き、岩屋から逃げ出しました。
しばらくして岩屋に戻って来た老婆は祐慶の逃走に気付き、恐ろしい鬼婆の姿となって猛烈な速さで追いかけて来た。祐慶のすぐ後ろまでせまる鬼婆。絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩を取り出して必死に経を唱えた。すると祐慶の菩薩像が空へ舞い上がり、光明を放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆から逃れたのでした。鬼婆は命を失ったものの、仏の導きにより成仏した。祐慶は鬼婆を阿武隈川のほとりに葬り、その地は「黒塚」と呼ばれるようになった。鬼婆を得脱(悟り)に導いた観音像は「白真弓観音(白檀観音とも綴る)」と呼ばれ、後に厚い信仰を受けたといいます。
福島県二本松の黒塚明らかに古墳の土が崩れてその玄室が露出した飛鳥の石舞台様なもので阿武隈山地の狩猟民と弥生人の棲み分けの境界を示したものと思われます。
月岡芳年作安達ヶ原の図鬼婆が庖丁を研いで妊婦の腹を割いて胎児の腎臓を取り出そうとする図怖ろしい図ですが死と生の鬩ぎ合いを描いた凄惨な図です。近世胎児の肝臓が肝臓病に効果があると信じられていました。まるで鬼子母神のお話です。
黒塚の説話は浅草寺の浅茅ヶ原の一つ家伝説に引き継がれます。
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これが国芳の「浅茅ヶ原」の図」家で中央の凄まじい形相の鬼婆右手で包丁を構えて刃先は女性に向けられています。部屋の外は隅田川の川原で一面薄や茅が生い茂っています鬼婆の右手衝立の向こうには観音の姿が描かれています。観る者に凄惨な場面が直ぐに起る事を予感させます。庭先の糸瓜や鷺が何を意味しているのか
古代街道が整備されて人々は都から陸奥に旅をするようになりました。しかし陸奥に行くには東京湾は湿地が広がっていましたので陸路を行くのは困難でした。今の浅草寺の東側は一面の薄や茅の原であったので浅茅ヶ原と呼ばれていました。旅人は浅茅ヶ原に迷い込むと難儀でした。とりわけ日が暮れてしまうと大変でした。そんな原っぱに一軒の家が在って火を灯していれば旅人は集蛾灯に集まる蝶の様に火に吸い寄せられたと思われます。そんな場面は全国各地にあってとりわけ有名だったのが浅草の浅茅ヶ原であり阿武隈の安達ヶ原であったのでした。この話は以前次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/MYBLOG/write.html
「里の人は山に山に入るな」戒めは鬼婆の伝説になりましたが、その始まりが姫神が「豊穣の神」であった事は近世になっても「子持ち山姥」とか「金太郎を産んだ金時娘」の様に福の神になります。
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歌麿の子持ち山姥の図金太郎を産んだ話の他に山姥のお産を助けたら山の幸を授かった民話などが残っています。

今頃は飛騨高山の千光寺も紅葉で美しく染まっていることでしょう。あの寺には円空さんの代表作両面宿儺像が祀られています。
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飛騨千光寺の両両面宿儺像
両両面宿儺は正面は山の樵(木地師の)守り神で樵の慈父のようなお顔で強い意志力を表現しています。どちらかと云えば福の神で姫神で居られます。
でも側面のお顔は怖い鬼の顔です。
円空は山の神「宿儺」は普段は慈父の顔をしていても、一時でも邪神を起こすと怖い怖い鬼神に変じる事を知っていたのでしょう。昨年は御嶽山は噴火して80人もの命を召されました。近世になると人の自我も鍛えられ人間や神仏の顔に二面がある事に気付いたのでした。この様に姫神の二つの顔は奪衣婆さんの二面性にも通じるものです。

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カラス瓜も色ずんで。

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藪の烏瓜も朱色に染まって眼を惹きます。
烏瓜さんにすれば「わたしは美味しく熟したの!誰か食べに来てね!」と訴えているのでしょうが。雀もカラスもヒヨドリも誰も見向きません。実は実に不味いのです。
古代人は何度も口にしたことがあるのでしょう。でも余りにも不味いので”こんな苦いモノ悪食のカラスでさえ食うものか!”怒って烏瓜の名がついたものと聞きました。山野草にはカラスや雀やひよどりの名が付くモノが沢山あります。我が庭の「ヒヨドリ上戸」もそんな実です。緋色の実が実に綺麗で目立っていたのですが今年は木通(アケビ)の蔦に負けて消えてしまいました。ヒヨドリが遣って来て
「今年はヒヨドリ上戸が無くなってしまった!どうしよう、種蒔きしておこうとばかりウンコをして飛び去ってゆくようです「。スズメノエンドウ」、「スズメノヤリ」も「カラスのえんどう」「 カラスノゴマ」も不味くて食べられません。
カラス. も雀もヒヨドリも今の季節冬を控えて体力蓄積とばかり何でも食べます。毒性のあるピラカンザスを食べて仮死状態になったヒヨドリが大量発見されて鳥インフルエンザやBSE(口蹄疫)だとか言われて大騒ぎになります。大騒ぎの原因報告が為されませんが大抵が草木の実が鳥の「そのう」前胃食べた実を借り保管しておく器官で醗酵して酔っぱらって仮死状態に陥ったもののようです。我が庭でもヒヨドリがガラス戸に衝突して脳振とうで落ちて来ることがあります。庭犬のチコはヒヨドリで遊んだりしています。
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これはムべの実です。熟したのは色で解りますが鳥や猿は気付きませんそこで木通(アケビ)は実を割って食べて食べてとせがみます。
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これが庭の木通の実です熟した事は紫に色が変化して更に実を割って知らせるます。ムべの上を行く親切さです。

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これがヒヨドリ上戸寒椿の木に絡んでいたのですがこの上から木通が覆って来て消えてしまいまあした。何れまたヒヨドリが種をまいて行く事でしょう。
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野鳥は赤と緑の識別が出来ます烏瓜も色を変えて熟した事を鳥に報せているのです。
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いよいよ冬の訪れを知らせる烏瓜も朱色に染まって来ました。
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これがから烏瓜の花です。烏瓜は虫媒花と云っても綺麗な蝶に花粉を運んでもらうのではなくて。夜の蝶(蛾)に花粉を運んでもらいます。蛾は白黒の判別しか出来ませんから花弁は思い切って暗闇でも目立つように衣装されています。防犯パトロールでこの花を見つけると余りの妖しさにドッキリします。そして夜の街に出かけたくなります。
藪の烏瓜を採取してきました。来年は我が庭で観たいと思って種を採取して気付きました。
種が真っ黒でその上大きな耳の様な突起が付いていてまるで総持寺の大黒様のような形に見えます鎌倉の本覚寺は夷堂として高名で夷堂脇の栴檀の実は夷様に似ているというのでお守りの中にも納まっていますし。皆が拾って行きますが、大黒様の方が人気が高いかもしれません取敢えずは烏瓜の種を財布に入れておいて来春種蒔きをする事に致しましょう。
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 藪で採取した烏瓜暫く玄関の靴箱の上に置いておきました

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これが烏瓜の種です。真っ黒な種は大黒様のように見えます。

烏瓜の名は種が真っ黒であるから付いたのかもしれません。
カラスの名は「黒」(災厄)をパスさせるが語源だという説もあります。
若しかしたら目黒不動尊の藪で出来た烏瓜こそ信仰されて然るべきでしょう。

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「ゴン狐」よりも「手袋狐」が人気です

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日本人は稲作の守り神として狐を霊獣として崇めて来ました。
狸や猪や熊は狩猟して「狸汁」「牡丹鍋」「熊鍋」として食べても狐は食べませんでした。
新実南吉少年はお婆ちゃんに狐の言い伝えを聞きながら育ったのでしょう。
その記憶を「ゴン狐」に書かれました。
南吉少年の生まれは愛知県の半田でした豊川稲荷にも近い穀倉地帯でしたから狐と人間は良い関係だったのでしょう。
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これは鎌倉の佐助稲荷のお狐様大きな尻尾は炎の様であります。紅いゆだれ掛けも火を思わせます。五行説では赤は災いを避けて福をもたらせる色とされていますから。お米は生では食べられません火を通して(蒸すか焚いて食べます。

10月24日土曜日は東戸塚小学校で評議員会がありました。廊下を歩いていると沢山狐の絵が貼られていました。国語の授業で「ゴン狐」を読んだのでしょう。物語の印象に残った場面を絵にしたのだと思われました。ゴン狐と手袋を買いに)は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48947810.html
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 国語の授業は「ごんきつね」になっていました。
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ゴン狐「夜にご馳走を届けるゴンを描いたと思われる絵」

ゴン狐の絵と思って見ていると「手袋を買いに」の絵が混じっていることに気付きました。生徒たちがゴン狐が好きになって先生に南吉さんのもう一つの名作「手袋を買いに」を読んでもらったのかも知れません。
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大雪の中で寒さに凍えたような狐の絵

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狐がお店で間違って狐の手を出してしまった場面の絵。優しい店主は狐だと解っても手袋を売ってくれたのでした。
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子狐が「人間は怖くはないよ」母狐に報告するとお母さん狐は「本当に人間は良いモノなのかしら?」と呟いたものでした。翌朝からは手袋をして元気に雪の中二飛び出したのでした。
ゴン狐は悪戯を悔いたゴンが銃で殺されてしまう悲惨な幕切れでした。
生徒さん達は作者南吉さんの言いたいことを物語を介して考え込んでしまった事でしょう。
南吉さんの生きた時代は戦争に突入する少し前の時代です。人間の善意も優しさも国家に踏み滲まれそうな情勢の時代でした。南吉さんは例え自分が殺されても善意を大切にしたいと言いたかったのでしょう。それに対して「手袋を買いに」は単刀直入です。母狐の問いかけは生徒達に共感を呼んでいるのでしょう。「人間は本当に良いモノなのかしら?」その問いかけは誰にでも届いてきます「自分は本当に良い人なのかしら?そんな人が作っている日本国は良い国なのかしら?ついこの前に全世界を敵に回して戦争したというのに?
問いかけています。其処に銃さえなければ良かったのでした。

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正直は信頼を勝ち取ります

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学校評議員会が終われば授業参観です。全学年の時間表を渡されました。
”お好きな授業を参観してください”という事です。
何時もは、自分の好きな理科(生物)にするか国語にするのでしたが
今年は「道徳」の授業を見学する事にしました。
というのは今年の3月下村博文文科相が発言しました。
「子供たちには道徳の授業での議論を通じて、様々な考え方があることを学んでほしい」と話した道徳の授業を必須とします。
私は”様々な考え方があることを学んでほしい”という言葉は本音では無くて「公共心や国家愛を学んでほしい」と云いたかったのではないのかしら?疑っているのです。
そもそも、私達は戦争の反省を教育勅語等に求め道徳や宗教に国家が関与する事は禁忌にしてきたのでした。それが戦後70年になって国が道徳教育に前のめりになるのは危険に感じるのです。
今国民が想っている道徳と云えば「虐めや自殺が社会問題化」し、「公共のマナーや燐人い対する優しい心」の必要性でしょう、昨今公共心や隣人に対する優しさや欠けて虐めや自殺が増えていますのでこうしたテーマ道徳教育のなら多くの人が賛成するかもしれません。
でも誰が道徳を教えるのか?と聞かされれば「国家」と聞くと心配です道徳教育の権利や義務は両親や地域にあると思います。
国が学習指導要領を作成して教科書を選定して・・・・そんな「国家の関与」は否定されるものと思って居ます。
従って”教育現場は困って混乱しているだろうな?
”私は推測して4年生の道徳の教室に入って性との後ろに立っていました。
アーム吊りをして杖をして爺さんが立っているのに生徒さんが気付きました。
父兄が生徒用の椅子を運んでくれましたので私だけが椅子に座って性と目線で授業に参加したのでした。
私の娘と同年齢くらいの先生が黒板に大きく「正直」と書きました。
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道徳の授業の風景この日は「正直」について皆で考えて意見を出し合う形で進められました。
生徒達は国語辞典を引いて正直の意味を確認しました。
先生は先ずプリントを配りましたプリントには質問と答えの欄が用意されていてプリントに従って書いて行けば自分の考えを整理できるように出来ているようです。
私も「正直とは何か?」考えて答えを用意しました。
先生は黒板に
「心が正しく嘘を言わない事」と書きました。
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先生は黒板に質問を書き生徒に答えを言わせて簡明に黒板に書いて行かれました。
その上で生徒さんに「何故人は正直に行動するのか?」質問しました。
その答えを用意する教材に先生は用意した説話を読んで聞かせました。
私はイソップ物語の「狼少年」を予測して居ました。
もう一方では今昔物語のマクワ瓜を盗んだ孝行息子の話を想いだしていました。(この話は以前親孝行の為なら盗みも是認される話として次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48163778.html)。昔は正直は大切な徳目だがそれ以上に大切なのは孝養心や愛情だと思われてきました。
先生は私の予測と違って「エイブの物語」を始められました
【エイブの物語】
エイブが村の雑貨屋さんで働いていました。夜になって今日の売り上げを整理して居ました今日の売り上げを集計して現金の残高が在って居れば良いのですが・・・・、この日は6.5セント現金が多すぎる事に気付いたのでした。シマッタ、釣銭を渡し間違ってしまった思い出したのです。今日のお客様との遣り取りを思い返すと村外れの奥さんに渡したお釣りを少なくしてしまった事を想いだしたのでした。
如何しようか?思い悩んだのは一瞬でエイブはコートを着て北風の吹く中を村外れまで出かけていたのでした。
6.5セントをポケットにしまって今日中に届けたいと思ったのでした。
その奥さんの家までは10キロもありました。
深夜エイブに起こされた奥さんは不審そうに玄関まで出て来ました。そして釣銭を差し出したエイブに驚嘆の声を発しました”ヤッパリ貴方は正直エイブだわ!”
先生はエイブの物語の各場面を黒板に貼って質問を書いて行きます。
最初は釣銭を間違えたことに気付いた場面
次に10キロの夜道を奥様の家に向かう場面
最期に釣銭を渡して晴々した場面
生徒も私もエイブになったつもりで考えてみます。
生徒から質問が出ました
「先生!6セントは今のお金で幾らなの?」
「6円位です」すると
「何だ6円なら届けなくても明日でも次の日でも返せばいいじゃないの・・・」
正直な印象が口を次いで出ます。
先生は性と目線で訊かれます?
君なら幾ら位ならば返しに出かけますか?
生徒は答えます

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正直者のエイブは16代大統領になりました。(写真出典はウキペディア)
「6万円位かな…、と言ってもお釣りに6万円は無いか・・・」言って笑います。
先生はエイブは16代米国大統領になったエイブラハム・リンカーの事です。
生徒が言いましたは。
”世の中がエイブサンばかりなら良いのにね”
先生も生徒も参観者も頷くのでした。
全員の脳裏には欠陥マンションに産地偽証農産物に排気ガス詐称の自動車決算偽証(東芝)等が浮かんでいたのでした。
正直者ばかりの世の中なら如何に住みよい事でしょう。
生徒達はグループに別れて意見を出し合って発表しました。
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プリントを観ながらグループで意見を戦わせて整理したうえで発表しました。
最後に先生は生徒に訊きました
「正直に言って如何だった聞かせてください!」
たくさん手が挙がりました。4年生にもなると 誰もが「嘘ついてしまおうか・・・正直しようか?」
迷った経験があるのです。生徒は勇気をもって正直した後の清々しさと正直した事によってゲットした信頼を口にしていました。

文部大臣にも聞かせたい道徳の授業でした。道徳のテーマには「命」「優しさ」「貧富」等幾つもあるようです。次の機会でも道徳の授業に参加して生徒さんと一緒に考えたいと思いました。

ところで、道徳の先には哲学や宗教が見え隠れします。
お坊さんは5戒(不飲酒戒)でお酒は飲めない事になっています。でもお酒の誘惑には勝てません、其処で般若湯と嘘をついて隠れて飲んでいました。お坊さんはビールを「麦般若」ウィスキーを「洋般若」と呼んで何でも飲みます。教会ではビールやワインを醸造してきました。人間性に深く根差した道徳を求めたいと思いました。日本人は道徳は使い分けだと思ってきたようです。


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半跏像の尊さ

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いよいよ今週末に私は慶応大学の日吉公舎来往者塔でレポートします。表題は「奪衣婆像の変遷」です。
声が出るかしら?心配もありますが準備も万端出来上がりました。今更構成を変える事は出来ませんがどんな話題を挿入しようか?寝ても覚めても考えています。そんな次第で私の脳裏は全国の奪衣婆さんで一杯です。そこで今朝は奪衣婆信仰の原点「座位出産」について書く事にします。
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奪衣婆信仰の変遷(三途の川から桃太郎に…)のレポート。30枚のパワーポイント画面を二面分配で30部プリントアウトしました。エプソンの老いぼれプリンターがフルに駆動してくれました。
ところで私の今迄の人生で最高に輝いた時は最初の子が産まれた時でした。
多くの人が同じ経験をしていることでしょう。
札幌で長女が産まれました。退院後1週間ほどして帰宅するとワイフが泣いていました。
訳を聞くとワイフは産後乳が膨って痛かったのだそうです。そこで銀行(務勤先)の総に訊くと外科医を紹介してくれたので其処に行った処乳の下を切られてしまったのだそうで・・・・。
確認するとその外科医は軍医さんだったそうで。何でも何処でも切ってしまうのだそうです。ワイフは乳にメスを当てられてショックだったのでしょう。でもあの時カットしなければ「乳癌になっていたかもしれない」思えば幸いだったのかもしれません。
暫くして母が来てくれました。母もワイフも乳児と一緒に1箇月の北の都の生活を楽しんだのでした。家族が心を一つにして宝の様な時間が過ぎたのでした。
朱産時に家族が心を一つにして母体と新しい命を守ろうとする気持ちは昔から少しも変わらないものでしょう。縄文時代の土偶を見るとそのことが良く解ります。
竪穴住居の真ん中で囲炉裏に火を焚いて部屋を暖かくして、災厄を消し去った清浄な空間で出産の時を迎えます。母親は椅子に座って心と体の準備を整えます。母親の良心も夫も母体を見詰めます。竪穴住居の天上からは藁で編んだ綱が垂れて居ます。神通で顔を歪めながらも母体は綱を両手で掴んで腰を浮かせたり骨盤を左右にずらせます。母親の股の間から頭が覘いて来ます。乳児は自力で旋回しながら窮屈な産道を進んできます。お婆さんが娘の股の下に手を差し伸べて胎児が落下する前に受け止めようとします。
大量に出血します。お爺さんは出血が大地に吸われてしまわない様に注意して藁で血を受け止めます。血が災厄を招かない様に焼くか川に流してしまうのがお爺さんの役割です。
”オギャー”胎児の泣き声が竪穴住居に響きます。住居の外では同じ縄文部落の仲間の歓声も響きました。
出産は家族だけではなく部落全員の喜びでもあったのでした。
そんなわけで出産の神秘は部落全員が共有する祈りであったのでしょう。
祈りは土偶になって縄文集落に祀られまあした。
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茅野の尖石遺跡の縄文ビーナス(国宝)のコピー(作者は遠藤玲子氏、同氏著書「母性賛歌」を複写)
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青森三内丸山古墳の土偶此方は立位出産の場面です。コピー製作は遠藤玲子氏出典は上と同じ。
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此方は福島飯坂町の東湯の上遺跡の土偶(縄文後期)座位出産を示す。コピーで遠藤玲子氏製作出典は上と同じ


縄文土偶の意匠は仏教伝来後も引き継がれました。
というのは座位出産は最も安全で母体にも良い出産方法だったのでした。
というのは人間は系統樹的には、二足歩行する事によって類人猿と分化したのでした。その結果頭を使い両手で道具を作って活用する術を学んだのでした。
でもその反面頭が大きい肩が張る、身体的特徴が生じたのでした。頭が大きい肩が張っている特長は出産時のリスクになりました。死産や出産時母体の死亡は平安時代でさえ高かったのでした。栄花物語では、登場する高貴な経産婦47人中11人(23.4%)がお産で亡くなっ たとあります。一条天皇の中宮定子(清少納言が仕えた)でさえ出産時に亡くなっています。
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中宮寺弥勒菩薩像如意輪観音も含んでこのポーズに仏の慈愛を表現していると思います
古代の仏像である斑鳩中宮寺の弥勒菩薩も太秦広隆寺の如意輪観音像も半跏像です。半跏像は座位出産のポーズなのです。母親が苦痛に耐えながらも愛おしい子供を産む一番に尊い姿なのです。
この姿は洋の東西に共通します。エジプトルクソール神殿の壁画も座位出産の様子を描いています。
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出典岩波科学ライブラリー「人は何故難産なのか/奈良貴史著)
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同上写真座位出産が壁画に描かれています。
そして近代です。
奪衣婆像は十王経に基づいて三途の川の川原で亡者の衣服を剥ぐ閻魔様の腱族の一人と教えられていたのでしたが日本人は大きな変革を与えます。奪衣婆さんを川の岸の岩場に座らせて半跏像にしたのでした。そして死者を再生させる仏に奪胎させたのでした。
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新宿正受院の奪衣婆像右手には亡者の着ていた死に装束を剥いで握っていますが頭上に真綿の包着を被っています。包着は所謂「お包み」で産着の事です。奪衣婆は安産と新生児の守り神に変じて行きました

新宿こうして土偶から新宿の歌舞伎町に祀られている奪衣婆まで辿ってみると人間は縄文時代から約1億年経過したもののあんまり変わりはありません。
命の始まりの尊厳さは少しも変わらず人間はその事実の前で唯怖れ慄くだけです。
謙虚に怖れ慄く心に幸いが宿るものと確信するのです。
医学が進んで出産は病院で迎えるようになりました
加えて帝王切開や出産促進剤や無痛分娩が安易に行われる様になったと思います。
医学の進歩が命の尊厳さを軽視させるようであってはならないと思うのです。

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お産の観音様

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昨日は洋の東西も縄文時代から椅子に座って出産したのものであり、椅子に座ることで産道が開かれて胎児が出やすくなるのでしょう。胎児も自分の重力を利用して前進した方が楽でしょう。
なのに病院での出産する重力の法則に反して出産させられるのは、お医者さんの楽な姿勢だからでしょう。
私達は民族の興亡を武力による征圧とか病気の蔓延と推測してきましたが。例えば中央アジアに居たアーリア人が鉄の武器を駆使して古代インドの都市国家を滅亡させたり、鉄砲を駆使したスペイン人がマヤ文明を滅亡させたと推測してきました。(マヤ文明の滅亡にはヨーロッパの伝染病が無防備な原住民に蔓延した、と云った説もあります。
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 奪衣婆さんのこの格好が一番出産に適っているのです。写真は松本の牛伏寺奪衣婆像(室町時代)韓国の歴史ドラマでの出産シーンはこの像の前に藁縄が垂れ下がっていて妊婦は縄を両手で握って腰を浮かして出産しています胎児にも母体にもこの座位出産が一番理に適っているのでしょう。
でも出生率がホンの2%落ちても5世代100年も経過すると数学では滅亡に向かってしまいます。一方の民族が子供を産む悦びを忘れて2%出生率が低下したとします。その子の世代も出生率の低下傾向が変わらなかったとします。マイナス2%が5世代続くと人口は9割になってしまいます。そして30世代(500年)も経てば人口は半分以下になってしまいます。
今年頃の女性に子供を産むことに躊躇する理由をアンケートすると最大の理由が「出産時の苦痛が怖いから」ついで次が「美しさが損なわれそうだから」だそうです。女性であることが母性を上回っているのでしょう。(出典(岩波科学ライブラリー「人は何故難産なのか奈良貴著)
一般に観音信仰が日本に伝わったのは飛鳥時代と云われています。平安時代には藤原道長が長谷寺に参篭し(11面観音)紫式部が石山寺に籠り(如意輪観音)清水寺(11面観音)粉が寺河寺(千手観音)等が賑わいます。藤原氏は天皇の外戚になる事を目標にしました。ですから娘が皇后として次の天皇を産むことを希求した訳で出産の観音様をとりわけ篤く信仰したのでした。沢山の観音の中でも出産の観音様である如意輪観音は重んじられまあした。藤原氏の想いは庶民や農村部でも変わりません。如意輪観音は19夜若しくは22夜の主尊として月待ち講の主尊として安産祈願の対象になりました。
私達が關東や信濃で見つける石仏で最も多いのが如意輪観音です。如意輪観音が半跏の姿で佇んでいるのを拝観すると私は妊婦さんが出産時に死亡されたその無念さに想いを馳せて合掌せざるを得ません。
民俗誌では「観音の筵/むしろを借りて産辱に敷く(山梨)とか「観音のお札を産室の壁に逆さに貼る(山梨)伝わっています。
横浜には子安と云う漁村がありました。今でも神奈川沖の穴子の名産地です。私の親友のK君の故郷です。子安の地名が子安貝が獲れたからかと推測していたのですが子安講が盛んであったからのようです。
葉山にも子安村があります。此処も子安講が盛んだったようで。巨大な子安の意志が鎮座していて森戸神社には子種を授かった御礼の細石が多く奉納されています。この件は以前次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44671128.html
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葉山森戸神社の子安石。筆者は元々は子安貝(竹取物語)だったものが何時しか細石(さざれ石)になったものと思います。

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長野原雲林寺の慈母観音像吾妻渓谷の母らしい逞しさと健康美にみちた感音石仏です、赤い衣文が女性らしさと呪術を思わせます。
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秩父5番霊場金昌寺の慈母観音像今頃は紅葉に囲まれて居る事でしょう。

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長野東御の如意輪観音像この観音様が1番で100番が旧鹿沢温泉に祀られている千手観音です。この辺りは胡桃の産地です胡桃お萩を食べたい季節です、この近くに「道の駅雷電」があります。雷電の様に逞しい男の子が欲しい人が祈った事でしょう。

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大船植木の久宝寺のお庭に祀られている如意輪観音、私は出産時に亡くなられ方の墓標仏と思って居ます。成人女性の墓標は大概如意輪観音です。人生は思う様にならないもので「ン如意輪」の名はあんまりにも皮肉です。

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鎌倉淨智寺墓地の櫓に祀られた如意輪観音ジット落ち葉の音を聞いておられるようです。今頃は目の前は団栗が転がっていることでしょう。

こうやって今まで拝観してきた如意輪観音の事を書いていると軽井沢の堀辰夫の[如意輪観音さんは今どうしておいでだろうか?]推測だけは自由に飛んで行きます。以前次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46748021.html
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堀辰夫が愛した信濃追分宿の如意輪観音像。周囲はどうだん躑躅ですから今頃が一番綺麗でしょう。親友のI君が用意してくれる焼き栗を齧りながら拝観したいものです。



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健康データを確認

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残暑の厳しかった8月の末に新戸塚病院(http://www.ims.gr.jp/shintotsuka/)にりリハビリ通院を始めました。金沢文庫の若草病院では
「これ以上のリハビリは自宅でして下さい。既に奥様の負担範囲内に回復できたと判断します」そんなご意見で6月には自宅に戻っていたのです。
私の目標は”日文研の友人と日本中の史蹟を巡りたいそんな体力を回復したい”ですからこの程度で納得できません。焼岳の麓玉川温泉の露天風呂に友人と一緒に入るのが目標です。そんな訳で納得できないでいるとワイフが反復療法を探し出して我が家から通える範囲内に新戸塚病院があるのを発見してくれたのでした。
場所は東戸塚駅から東バスも通っていました。この場所は思い出も深い処で徳翁寺という古刹がありました。私は父のお供をしながらこの古刹の施餓鬼会に行っていたのでした。山門脇に大きな楠がありました。楠の樹に小坊主さん(現住職)が登って沢山のお檀家や組寺の住職が集まって来るのを眺めていました。
するとその小坊主はやおら足を広げて樹下を通る人達に小便を降らしたのでした。
この話は長い間坊さんらの口に乗っていました。私は”お気の毒に何時迄云われるのだろう”思っていました。
今では徳翁寺の住職も貫禄が出て居る事でしょう、この辺りも見違えるほど開けて来ました。
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東戸塚駅東の川上町にある徳翁寺この辺りは狸の住む山寺と思って居たのですが近くにフエリス女子大が転居してきたりで一変しました。

私は歩行訓練で新しい街を歩きます。庭先の柿の実もたわわに稔っていますし。花梨の実も放置されています。裕福になったものです。食べ物も豊富ですから、狸も戻ってくるかもしれません。
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後の建物は新戸塚病院の病棟です。庭には花梨が実っていました。こんなにたくさん成ったら来年は痩せ細ってお休みでしょう。
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新戸塚病院と徳翁寺の間にある民家柿も蜜柑もたわわに稔っていました。

新戸塚病院の治療法は反復訓練法と云います。低周波を筋肉に流しながら同じ動作を50回ほど繰り返し反復させます。神経にその動作を覚えさせるのがポイントのようです。昔英語の教科書を何度も声を出して読んで覚えたようなものでしょう。反復訓練法を開始して2箇月ほどはあんまり効果が出ませんでした。作業療法士さんから「寝ないで下さい」何度も叱られてしまいました。娘と同じ歳位の療法士が手を揉んでくれるとどうしても眼を瞑ってしまうのです。1箇月前から意識を変えて指を腕を動かすことに意識を集中するようにし始めました。すると驚く程に成果が現われるようになりました。以前は指や腕を動かそうと思っても筋肉はどれも不随意筋肉で動かし方が解らなかったのでしたが。眼で指や手を見詰めて「摘め!」「摘め!」「上がれ!上がれ!」と念じると動き出すのでした。まるで脳からの指令が詰まっていた神経細胞を伝わって指や手の筋肉を動かすようです。一方私は若草病院に入院中激痩せして左手の筋肉が無くなってしまいました。すると上腕筋と肩甲骨を繋いでいた筋肉も激痩せして上腕を保持できなくなって脱臼してしまいました。脱臼を治癒する為にも体幹を鍛える事が大切と云った判断から理学療法も開始しました。
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作業療法士による反復療法風景。低周波を流しながら指や腕を反復して動かします。当初は良い気持ちになって寝てしまったのでしたが。近時動かない指先や手を睨んで”動け”と念じるようにしてから動き出しました。まるで詰まっていた下水道に水が流れだしたような感覚です。
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理学療法士による歩行訓練。私は左肩が脱臼していた事もあって体が左下がり左向きになってしまいます。真っ直ぐ早く歩く訓練は体幹を鍛える事がポイントのようです。作業療法士の肩に両手をかけて真っ直ぐ早足で歩く事を訓練します。”来年の秋は友人と野天風呂に入りたい”欲望が身体を動かします。
作業療法理学療理学療法二つのレッスンを終えると喉が渇いてしまいますし。疲労感もあります。
一方で私は月1回脳神経外科に通院しています。山崎脳神経科では3か月おきに血液検査をしています。2年前の12月脳梗塞を発症した原因の一つに柿や梨を食べ過ぎて糖分が高くなっていたことが考えられます。何しろ私は果物に目が無いのです。あの年は桃をたらふく食べて秋には栗と柿に梨立て続けに食べていまあした。加えて焼き芋に凝っていたのでした。ワイフからも息子からも「あれで糖尿病にならない筈はない」酷評されていました今はワイフの常時監視下にありますので果物の飽食はありませんが。血液検査結果には厳しく眼を牽き付かせています。山崎先生は笑顔で「ノープロブレムです」言われますがワイフは厳しく「前回より悪くなったわよ」言います。そこでパソコンにデータを打ち込む事にしました。
最大の懸案は脳梗塞の再発であり、もう一つは腎臓病のリスクです。私は55歳の時長銀問題の渦中に腎臓癌を発症して右の腎臓を摘出してしまったのです。片腎臓で居るのですから”腎臓が悪くなった透析だ”となったらもう大変です。ですから血液検査では血糖値と腎臓値に気を配る事にしました。
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若草病院を退院後現在まで1年半の血液検査のデータ推移血糖値としては一番上のヘモグロビンA1Cが重要と云われています何れのデータも基準値の間を上下してきています。

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同じく此処1年半の腎臓データの推移先ず問題ないようです基準値の間を上下してきています。
健康は食生活と運動量が鍵と云われているようです。豊川稲荷のお狐さんが鍵とお経(知恵)を咥えているように。食生活と運動を心がけて脳も鍛えながら人生の第4コーナーを廻りたいと思って居ます。勿論家族や友人に囲まれながら・・・・・。そんな次第で今日は体も動くし。中身も問題ないようだ・・・報告させていただきました。


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狼への畏怖

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道を歩いているとクリスタルな芳香が漂ってきます。心に染入る落ち着かせる香りです。「何かしら?」見上げれば柊の花(ヒイラギ)が今を盛りに咲いて居るのです。柊は木犀科の灌木ですから芳香は木犀譲りです。木犀程に媚びた香りではなく初冬の風のように清澄な香りです。
木枯しには柊の香りは良く似合います。
木偏に冬と書いて「柊/ひいらぎ」日本人が作った国字です。木偏に「春」で椿、夏で「榎/えのき」秋で楸(ひさぎ)です。榎は緑陰を作ってくれます。楸は柏の事で葉が枯れると風に縫吹かれて「カサコソ」となります。鈴懸の様木です。
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柊の花、この花を観るとクリスマスも近づいたと思います。この香りはシャネルの 香水 クリスタル を想いださせます。
紅葉前線は関東地方まで下って来ましたもう奥多摩御岳山の当りは今週末が見頃かも知れません。御岳山と云うと最近素晴らしい本を読みました。表題は「狼の護符」で図書館が推薦して居ましたし。今春は吉野山で日本最後の狼の像も観ましたので狼に関心が高まっていました。そう言われれば我が家の台所の竈の柱にも狼の護符が長い事貼られていました。
著者の小倉 美惠子氏は川崎市宮前区土橋の農家に生まれた人で生家に貼られていた真っ黒の狼の護符を求めて多摩川を遡って御岳山に辿り着いたそんな構成の風土愛の濃い叙事詩のような本でした。勿論こんなことに関心を持たれるのですから民俗学の素養も充分にお餅ですし、フィールドワークのセンスが優れておいでです。私も小田急線沿線の鶴川に2年間住んでいましたしたので土地感はありました。今では多摩ニュータウンにも近い高級住宅地ですが40年も前は葱畑に芋畑その向こうに雑木林が在ってその麓に藁ぶき屋根と欅の屋敷森(防風林)が点々としている郊外でした。
懐かしさと狼への愛着とで一気に読み終わりまあした。
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これが小倉 美惠子氏の珠玉の著書「狼の護符」この護符は少し歳の人なら見た記憶があると思います、庚申講のそれと同じで記憶に残るお札です。
著者は多摩川の河口から順次川を遡って行きます。30年ほど前に多摩川が氾濫して狛江の民家が激流に呑み込まれてしまった災害がありました。昔の多摩川は大変な暴れ川だったそうで。等々力と云えば大田区の高級住宅街ですが。川崎市にもあります。多摩川が暴れて等々力村を貫通して東西に二分してしまった名残だそうです。多摩川を遡って行けば中流域は河岸段丘で梨や葡萄の産地になります。そこを開発して人口30万人の多摩ニュータウンにしたのでした。昔の農家には竈があって御岳さんの護符が必ず貼られていたようです。多摩川流域の農家は御岳山のから流れだす多摩川の恩恵で農作物が出来、死ねば自分の魂も御岳山に戻ると信じていたのでした。同時に御岳山には祖先の霊が宿っていて子孫である自分ら家族を災厄から守って下さると信じていたのでした。
御岳信仰とは「山の神」の信仰であり武蔵の御岳山もその一つであり木曾の御嶽山も伯耆大山も御岳山であります。吉野の金峰山が総本山で地方の御岳山信仰は国御岳と呼ばれるそうです。「山の神」が御岳山の神様で関西以西の山の神は里に下りて「田の神」に変じます。でも関東以北の山の神はズット山に居座って山の神の儘です。山が近いので仰ぎ見れば神を実感できたのでしょう。
山の神のお使いが山の王者「狼」です。だから御岳神社の護符に狼がデザインされているし狼の石像が狛犬の様に祀られているのです。
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狼は「山の神」です神意は狼の行動で表現されます。(もののけ姫)から

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これが日本最後の狼像吉野村。最期の狼が御岳山総本山の吉野金峯山で発見されたのも何かの縁だったのでしょう。これ以上鹿や猪の食害が大きくなるのでしたらアメリカのイエローストーン国立公園のように狼の育成保護も検討されて然るべきでしょう。
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吉野の隣室生の「山の神」宇陀から吉野にかけては今でも「山の神」の祠が良く見かけられます。

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これは長野県修那羅子安神社に祀られた狼。この像を見る度に柳田国男氏の狼は「大咬み」が語源だという説を思い起こします。
狼は「山の神」です。海の上が怒られて大津波を起こしたと思ったら、山の神もお怒りのようで山を穢した私達に爆発噴火山津波とお仕置きが続いているようです。
山の神はブナの木を大事にされ、猪も猿も狐も仲良く住めるように配慮されていたのに人間が針葉樹に植え替えてしまいました。お怒りはごもっともで、杉花粉ヒノキ花粉で人も犬もやられてしまいました、その針葉樹も手入れをしないので山津波を起こされました。富士山の噴火は1854年 (嘉永7年・安政元年)が直近でその前は1707年宝永4年、更に100年程前の864年(貞観6年)だったそうです。何れも歴史上の社会変動の大きかった時代です。自然災害が社会の変革を誘発させたのか。社会の混乱を大神(狼)が怒って災害を起こさせたのか解りませんが現在が社会や世相が混乱して居る事は間違いないようです。昔の人のように自然への大神へ畏怖する心を呼び覚まして、大神にたいして謙虚に過ごしたいものです。そう思うと御岳山の護符も素敵なデザインです。

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風呂吹き大根

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通所介護施設の自己負担も今年の夏から倍になりました。デーサービスに行く日数も週2回から週1回に半減しました自己負担額自体は変わりません。厚労省の役人の思惑通りになるのも癪ですが、私の障害ランクも3から2にランクアップしたのでしたし、致し方ありません。
この様子なら障害者手帳も返却する日もそれほど遠くないかもしれません。
デーサービスに通う楽しみの一つが「ゆったり入れるお風呂」です。
介護婦さんの後ろ姿を眺めながら浴室に浸かっていると「浮世風呂」の世界に飛んでしまいます。
もう一つの楽しみがワイワイ世間話をしながら食べるランチです。
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ある日のデーサービスのランチ豚シャブがメインでした。
デーサービスの食堂は居間でありリハビリルームでもあります。入ると「今日のランチは何かしら?」献立表を観ます。私は1年前にも「献立表」を記した黒板に楽しい意匠を凝らすよう依頼されていました。長い間忘れていたのでしたが感謝の気持ちで作ってみました道具は画用紙にパステルで絵を描いて黒板の上下を飾る事にしました。楽しくランチを食べる雰囲気を大事にしたいと思いました。パステルで描いたまでは良かったのでしたが、時間が経つと絵の具が落剥してしまいます。そこで透明なニスで固定させることにしました。そうして出来た献立表が下の絵です。里山の処は毎月差し替えする事になります。
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献立を案内する黒板。上部にお爺さんお婆さんの笑顔下部に季節の絵を飾る事にしました。下部は毎月差し替えます。カラスが柿を啄み狐が落ちた柿を食べている夕焼け風景です。

嚥下の運動をしていよいよランチが配膳されました。今日のメインは秋刀魚の唐揚げで副菜は「風呂吹き大根でした。
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29日のランチです。秋刀魚の唐揚げに風呂吹き大根に隠元の胡麻和えでした。

私は先ず最初に風呂吹き大根を楽しみに箸を伸ばしました。クリスマスイブに先輩T氏のお宅で風呂吹き大根を戴いた思い出がありましたから・・・・。お出汁の浸みこ大根に柚子味噌の香り漂っていました。猫舌の私は吹いて少し冷ましながら美味しくいただきました。あれ?これは風呂吹き大根じゃなくて”味噌田楽だな!”思いながら戴きました。私は味噌田楽は好物ですから田楽ならそれで良いんですが、風呂吹き大根と聞くと八丁味噌のかかった大根では無くて柚子味噌の薫り高いお大根が食べたくなってしまっています。
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これが、29日の風呂吹き大根です。本格的にするなら前夜の内に大根を煮なくてはならないのでしょうがデーサービスでは朝仕込み始めて昼に出さなくてはなりません。贅沢は言えませんが八丁味噌ではなくて柚子味噌で戴きたいものです。
七五三の料理も大根出ねば調わず」と云います。 日本人は大根が大好きで七五三の祝い膳にも大根が出ないと満足しないという諺です。
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我家の味噌田楽 
「大根どきの医者いらず」
大根の収穫どきにはみんな健康になり、医者がいらなくなるという意味です。大根はお腹の調子を整え、消化をよくするはたらきがあり、昔から体によいものとされてきました。初冬は根菜類が美味しい季節です。”大根は頭が美味しい牛蒡は御尻が美味しい”、母に教わりました。
昨夜のラジオ深夜便には小林綾子さんが出て大根飯の美味しさを力説されていました。「おしん大根飯」は昆布出汁が命だそうです。http://cookpad.com/recipe/1171126(味の素の大根飯サイトです)
山形の漬物は古漬けが多くて塩辛いのです。大根飯はさっぱりしていて熱いか美味しいのでしょう。フーフー吹いて冷ましながら食べるのが流儀なのでしょう。
屹度風呂吹き大根もお風呂に吹き竹を使って火をつけるように吹きながら食べるのが流儀と云うものでしょう。
T先輩のお宅で戴いた「風呂吹き大根は美味しかった」思い出しながら八丁味噌田楽を美味しく戴きまあした。
厨房の伯母さん御馳走様でした。今日は悪口を書いたのではありません。私は大根が好きなんです。

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蟷螂君もうじき冬だよ!

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今年は秋が足早に過ぎ去って行ったと云うのに庭先でも道端でも蟷螂の姿があります。
梅の木の梢には百舌が止まって啼いています。
百舌のモズの速贄(はやにえ)です。百舌は姿は可愛いのに獰猛な肉食鳥で昆虫や蜥蜴(とかげ)を捕まえて梢の先に田楽刺ししておくのです。私は「百舌の速贄」と呼ぶべきところ「百舌の磔(はりつけ)と呼んでいました。
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我家の前の坂道(お寺の参道)に登場した蟷螂君。眼が小さい単眼なので相手の全体像は見えません。動く相手に飛びかかって斧で相手を抑え付けて堅牢な顎を使って獲物を丸齧りします。コオロギやバッタが獲物になります。数日後こんなところで見栄を切っていたので車に轢かれて死骸を晒していました。

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これは佐久平の五郎丸新田の大日如来に掴まっていた蟷螂君こんな目立つところに居れば百舌の餌食になってしまいましよ。向こうの山が浅間山です。今年はラクビーの五郎丸君(東福岡高校→早稲田)が男をあげました。そう想うと大日様が指で結んだ 智拳印が五郎丸選手の精神統一の姿を思わせました。五郎兵衛米新田は佐久以外にも全国にあります五郎丸選手の祖先は全国で新田開発したのでしょう。
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これが五郎丸新田の大日如来の全景筆者の注文で友人に大日如来の 智拳印を確認させてもらいました。この後大日如来の台座の上に大きな青大将の脱殻を見つけて驚きました。

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これが大蟷螂の卵です。蟷螂は卵で越冬して来春暖かくなると孵化して小さな蟷螂が無数に現われます。写真はススキの葉に産まれた卵です。
蟷螂君も早く卵を産んでしまわないと、百舌の獲物になってしまいそうです。
庭を見回してみても中々蟷螂の卵は見当たりません。
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これは百舌の百舌の速贄になった赤蛙です。百舌は晩秋に里に下りてきて捕まえた獲物を梢に晒します。獲物は木枯しに晒されて干物になってしまいます。百舌は雪が降って食べ物が無くなるとこの速贄を探して食べると云われますが本当でしょうか?相当数の忘れ物もあるような気がします。百舌にとって蟷螂は逃げないし目立つので恰好な獲物になっていることでしょう。

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キーボードの上に出現した蟷螂君それにしても汚いキーボードです。蟷螂君は汚れを指摘しに来たのかもしれません。

蟷螂が獲物を狙うときに前の両足を頭上にかざす姿が、斧を振るう格好に似ています。
だから「蟷螂の斧」と云います。ボクサーが両手の拳を胸のにかざしてファイティングポーズをとるのに似ています。庭先で飼犬のチコに蟷螂がおのをふるおうとする姿を見ると「ロッキー」のテーマが響いて来るようです。
今年も蟷螂君には楽しませてもらいました。
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交尾を終えると雄の蟷螂は雌蟷螂に食べられてしまいます。男たるもの我が身の宿命に想いを馳せます。自分は益荒男の本懐を成し遂げたであろうかしら?雄の最期が雌に食べ尽くされてしまう処は女郎蜘蛛にも共通します。



虫の世界では蟷螂君の斧は大きな脅威ともなろうが、いくら蟷 螂君のの向う気が強くとも、これしきの斧をもってしては、小虫以外の大きな相手に対してはまったく威力のあろう筈はありません。
 「蟷螂の斧」とは、弱者が自分の分や力をわきまえないでただ気ばかりが壮大で大敵に当ったり、盲進したりするのことを云うのです。赤蜻蛉と同じような意味合いであります。
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赤蜻蛉も蟷螂と同じで前進する事しかしません。従って益荒男の姿として尊ばれます。
と云っても蟷螂君にはスズメバチの様な針も毒もありませんし。蜘蛛のように捕まえてのような道具もありません。両の腕で獲物を掴んで丸齧りするだけです。
所詮は車や犬に適うはずありません。益荒男の精神は見上げたモノでも其処は修羅の道あえなく命を落とすだけです。
我家の前の道路はお寺の参道です。今日もお墓参りの車が通ります。道路で見栄を切っていた蟷螂君はあえなくラジアルタイヤに轢かれてしまいました。益荒男振りも今はもうぺしゃんこで後は蟻さんがお掃除してくれるでしょう。わたしは一本気のまで成仏した蟷螂君の修羅道での冥福を祈るだけです。
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アスファルト道路で死骸を晒した蟷螂君
赤蜻蛉も蟷螂と同じで前進する事しかしません。従って益荒男の姿として尊ばれます。



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冬薔薇

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昨日は日大藤沢校舎での秋祭り「藤桜祭」に行ってキャンバスの樹木について書きました。
今日は引き続いて同校舎内に設えてある薔薇園について書きます。
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これが日大藤沢校舎内西側の実験農場の手前にある薔薇園です向こうのヒマヤラ杉の並木の奥が校舎です。
数年前まで私達の仲間は旅行に出て連歌をしたり「俳句で遊ぼう」をして遊んでいました。
「俳句で遊ぼう」は旅先で句作をして作品を照会します。確か酒田での夜だったと思います。
土門拳写真館の庭に薔薇が咲いて池には白鳥が飛来して居ました。某先輩が次の作品を発表されました
精一杯生きて古希路や冬薔薇
この作品の作者を当てるのがお遊びです。俳句の内容は”精一杯生きて来て70代になった冬薔薇が見事に咲いたことよ”人生を振り返って冬薔薇を愛でる自画自賛ともいえる内容です。年齢こそわかりますが全員が略該当します。決め手になったのは「誰が冬薔薇/ふゆそうび」なんて言う難しい漢字をサラサラ書けるかという事で結局こんな難しい字を覚えている人は滅多では無いTさんに違いないという事で略全員が正解を出してしまいました。
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薄いピンク色の薔薇も魅力です。花弁の先が濃い色に変じますので形も良くなります。接吻しようとすれば変態と蔑まれますが薔薇はそんな酷い事は言いません。
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それ程に薔薇と云う字は欠き難いものです。そして歳時記では薔薇は夏ですが、冬の薔薇はまた良いものです。
若い時には気付かない美しさにみちて居ます。先ず冬空を背景に懸命に咲いている姿が尊いものです。加えて花弁の先が霜枯れていたりします。霜降り野菜は冬野菜の代名詞で「霜にあたると甘くなる」と云われています。法蓮草も白菜も葉先が霜枯れてからがが美味しいのです。
薔薇も同じで花弁の先が北国の林檎娘の頬っぺたのように赤くなってからが美しいのです。
そんな次第でワイフと連れ添って校舎の西側に広がっている薔薇園に向かいました。
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冬薔薇は色が濃い事も香りが強い事も魅力です。
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薔薇の実も美しくて珊瑚を思わせます。それにしても棘が痛そうです。
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家に戻って岩手県の物産コーナーで求めた紅岩手(富士の岩手版)を食べました。お皿は友人のI君の手作りです。紅い葉っぱは校舎内に散っていた南京櫨の落ち葉です。

林檎が赤くなると医者は青くなると言いますし。大根は医者いらずとも言います。林檎も大根も美味しいのが冬です。大根は大きすぎて持てないので岩手の林檎を二つ求めて帰りました。リンゴの皮に多く含まれる「リンゴポリフェノールを胃袋に送り込んで満足な一日を終えました。
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立派な大根に青々した葱これが冬越しの体力をつけてくれます。この立派な大根で風呂位吹き大根にして食べた胃のでしたが。車で無いので止めました。日大の生徒さんの作る野菜は立派過ぎます。



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愛しい科の木(しなのき」

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日文研での「奪衣婆信仰」のレポートは10月31日終わりました。
でも、突然に頭が混乱する事態に陥りました。
私のレポートの中核は奪衣婆信仰は縄文時代の信仰に根差したもので中世の山姥に引き継がれ、近世に庶民に信仰され産婆さんになって桃を拾ったお婆さんに変じたと云った推論でした。その中で縄文人と弥生人は地域的に分離して住み分けていた縄文人は「山の神」を信仰し弥生人は「田の神/お稲荷さんなど」を信仰していた。古代国家は稲作に基づく律令国家でしたので「山の神」を怖れ差別していたのが「黒塚」や「浅茅ヶ原」伝説になったのでした。
そんな推論の理解を進める意味で「縄文人は団栗なのの木の実が鳴るブナ(落葉広葉樹)の森で生活し、弥生人は
樫等の照葉樹林帯で生活していた。と説明しました。”ブナと樫は生息域が違います。樫は積雪地帯には生育できず。ブナは耐寒力があるものの、夏の暑さには弱くて生息できません”と説明すべきところ”ブナと樫の生息域の棲み分けが”混乱してしまいました。突然の混乱で慌ててしまいました。
11月1日は楽しみにしてきた日大生物資源学部(藤沢)の文化祭(藤桜祭」です。
先ず戸塚駅に出てッJRで藤沢に藤沢からは小田急で六会駅に出ます。六会駅の西口を出れば目の前が日大の生物資源学部です。小田急線善行駅を出れば車窓には日大の試験農場が広がっています。温室ガラスが光っているのは電照菊か四季咲き薔薇を栽培しているのでしょう。湘南に日大の生物資源学部がある事は素晴らしい事です。孟母三遷の故事は形を変えて現代も生きているようです。
日大の農場で野菜や牧牛を見て居れば良い子が育ちそうですし。お母さんは安心して子供を産んで育ててくれそうです。
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11月1日2日は日大藤沢キャンバスで大学祭です。日大は時代に先行して農林産業を生産工学の視点で観たようです。
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日大藤沢キャンバスのマップ。校舎の南と西は農圃で囲まれていますし校舎自体が演習林の中に散っているようなグランドデザインです。
11時六会駅を降りるともう沢山お人が帰って来ます。皆さん葱や大根を抱えておいでです。屹度相模原や藤沢市内からこの日を楽しみにして買い出しに来て居られるのでしょう。
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日大藤沢キャンパスのアプローチは黄葉した桂の並木道です。今日話題の科の木は桂とクヌギの中間の様な落葉広葉樹です。
駅から校舎までの道は桂の木が植わっています。桂の木はお味噌が熟成する時の香りがします。
沿う味噌や醤油屋さんのお蔵に漂う香りです。
公舎には楠の林を通り過ぎて入ります。10月桜が今満開です。藤桜祭りを名ばかりにしない様に健気に咲いて居ます。春咲くのが桜ですが秋に咲く桜は強くて花弁は散りません懸命に木枯しに耐える姿が愛おしいし、香りも強いものがあります。
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楠の森を背景に咲いて居た十月桜健気にお祭りを飾っていました。

生物資源学部は演習林の中にあるようなものです。
多摩丘陵そのままの樹林の中の校舎が建っているようなものですから学生達は雑木林の中で青春しているようなものです。私の様な外物は樹林と青年の姿を見ているだけで元気が貰えます。遭難藤沢は照葉樹林帯と落葉広葉樹林体がクロスしていますので屋よ皮文化を育んだ森と縄文の森が両方名が眺められます。入口は楠ですが中には水木やクヌギが目立ちますし。先日の台風で折れた桜の大木も並んでいます。
南側の校舎は緑陰を作るように樅の木が並んでいます。
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校舎の間の白樫と翌檜の林には「同居人」と題したオブジェが置かれていました作者は芸術学部の専任講師の鞍掛純一氏でした。
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此方は楠の森に置かれた蜻蛉のオブジェ(鞍掛純一氏作)

私達は先ず博物館に入りました。此処の博物館は標本コレクションが前身ですので有名なのです。目的は狼の標本骨格を見る事。次いで日本狐とオコジョの標本を観たいと思ったのです。職員が説明しようと構えて居ます。残念なのは写真を写せない事です。せめてノーフラッシュなら許可して欲しいものです。
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これがキャンパスのシンボルツリーの「南京櫨」見事に紅葉し始めて居ました。大きな幹には「ハゼの木はその実を使って蝋燭にした」説明がなされていました。
もう見事に紅葉した南京櫨の木を眺めながら農女達が食事をしています。私も日向のベンチに腰掛けました。ワイフが模擬店に行ってズンダ餅や水餃子を運んで来てくれます。明日の天気は雨の予報が出て居る為でしょう。学生さん達は焼き鳥1本30円と売り切り作戦に変更したようです。野菜の叩き売りも葱一束(7本くらい)40円と吃驚する安さです。ワイフも会場に行ったのでしたが余りの熱狂に恐れをなして戻って来ました。
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これが野菜の叩き売り会場学生が掲げている獲りたての長葱が一束40円の安さでした。此処に住めば安全な野菜を毎日眺めながらお安く食べられます。
私はクヌギの林を通りながら想いました。「このキャンパスで炭を作りたいものだ」
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標本と骨格のコレクションが有名な日大の博物館
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これは木材の展示品落葉広葉樹の栃の木を見て「栃木県」を同じく「科の木をみて信濃の国を想いました。両国とも縄文文化圏です。
今頃は縄文遺跡を囲んでいる信濃の木も黄葉して枯葉を落し始めて居る事でしょう。私は「科の神社」(上山田温泉)の遺跡を想い出していました。
縄文人は科の木の樹皮を剥いで叩いて貫頭着を作って寒さを防ぎました。私はアイスクリームを食べる時は科の木で作ったシャジで掬って食べました。今はロープも匙もシャツも石油で作ります。そうした道具は循環しないので地球を汚す一方です。腐らないバクテリアに分解されない素材は便利でも慎むべきです。科の木の方がアイスは美味しいに決まっています。
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科の林を背景にした土偶


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キャンパスの冬薔薇

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昨日は日大藤沢校舎での秋祭り「藤桜祭」に行ってキャンバスの樹木について書きました。
今日は引き続いて同校舎内に設えてある薔薇園について書きます。
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これが日大藤沢校舎内西側の実験農場の手前にある薔薇園です向こうのヒマヤラ杉の並木の奥が校舎です。
数年前まで私達の仲間は旅行に出て,連歌をしたり「俳句で遊ぼう」をして遊んでいました。
「俳句で遊ぼう」は各人が旅先で句作をして作品を照会します。確か酒田での夜だったと思います。
土門拳写真館の庭に薔薇が咲いて池には白鳥が飛来して居ました。某先輩が次のような俳句をを発表されました(これは私の記憶でだいぶ違っていたかもしれませんが・・・・)
精一杯生きて古希路や冬薔薇

この作品の作者を当てるのがお遊びです。俳句の内容は”精一杯生きて来て70代になった冬薔薇が見事に咲いたことよ”人生を振り返って冬薔薇を愛でる自画自賛ともいえる内容です。「誰の作品か?」年齢こそわかりますが全員が大凡同年齢です。決め手になったのは「誰が冬薔薇/ふゆそうび」なんて言う難しい漢字をサラサラ書けるかという事で結局こんな難しい字を覚えている人は滅多では無いTさんに違いないという事で略全員が正解を出してしまいました。
薔薇の漢字を覚えたいと思って見詰め直してみました。植物だから『草冠にして十の字を書いてその左右から人が見上げてて最後に壇上に乗せれば薔薇の「薔」の字です。薇の字はやっぱり草冠に微妙の微の字を書きます微は薔薇の「ラ」の音を表現しています。もう私もT先輩と同じく薔薇を漢字で書けます。
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薄いピンク色の薔薇も魅力です。花弁の先が濃い色に変じますので形も良くなります。接吻しようとすれば変態と蔑まれますが薔薇はそんな酷い事は言いません。
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日大の薔薇園には様々な種類の薔薇を自生させていてその種の開発者の名前国名等が案内されています子の黄色いバラを見るとみミッチミラー合唱団の「テキサス黄色いバラ」が紺碧の空に響くようでした。

それ程に薔薇と云う字は欠き難いものです。そして歳時記では薔薇は夏ですが、冬の薔薇はまた良いものです。
若い時には気付かない美しさにみちて居ます。先ず冬空を背景に懸命に咲いている姿が尊いものです。加えて花弁の先が霜枯れていたりします。霜降り野菜は冬野菜の代名詞で「霜にあたると甘くなる」と云われています。法蓮草も白菜も葉先が霜枯れてからがが美味しいのです。
薔薇も同じで花弁の先が北国の林檎娘の頬っぺたのように赤くなってからが美しいのです。
そんな次第でワイフと連れ添って校舎の西側に広がっている薔薇園に向かいました。
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冬薔薇は色が濃い事も香りが強い事も魅力です。この真紅の薔薇は「熱情」と案内されていましたので、さながら「風と共に去りぬのスカーレット・オハラ」です
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冬薔薇は実も楽しみです。まるで赤い珊瑚のようです。
直売所では何でも150円で販売しています。大束の葱も太い太い三浦大根も150円です。牛蒡も5本で150円です里芋も薩摩金時も相当量で150円です。行列を作って皆が買って帰ります。私達は持って帰るのが大儀に感じられたので諦めました。
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この大根が1本150円で学生が実習農園からリヤカーで次々に運んできます。
野菜を諦めた私達は岩手の農産物販売所に行きました。新米と真っ赤な林檎が眼を牽きました。
林檎が赤くなると医者は青くなると言いますし。大根は医者いらずとも言います。林檎も大根も美味しいのが冬です。大根は大きすぎて持てないので岩手の林檎を二つ求めて帰りました。リンゴの皮に多く含まれる「リンゴポリフェノールを胃袋に送り込んで満足な一日を終えました。
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これは紅岩手(富士の岩手版)を食べました。お皿は友人のI君の手作りです。紅い葉っぱは校舎内に散っていた南京櫨の落ち葉です

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芥川龍之介の蜜柑

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昨晩のラジオ深夜便で朗読三本立てを流していました。
副題に「心に物語の灯を」と題していましたので"寝ながら読書の秋を楽しもう”と云った怠惰ながらも貪欲な企画です。
内容は芥川龍之介 著「蜜柑(みかん)」を松本一路アナウンサーが朗読し、太宰治 著「リイズ」を迎康子アナウンサーが朗読し。夏目漱石 著「夢十夜」を石澤典夫アナウンサーが朗読しました。
偶々昨日はワイフが和弓のお仲間から露地植え野蜜柑を貰って帰宅しましたので。
蜜柑には縁のある一日でした。
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ワイフが戴いて帰った露地植えの蜜柑。お皿は友人のI君の手作りを貰ったもので、最近は貰い物で生活している感じです。
【蜜柑のあらすじ】
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龍之介の蜜柑はJR横須賀駅でケタタマシク下駄の音を響かせて飛び乗った少女がいた事から話が始まります。
筆者(24歳の龍之介/当時横須賀の海軍機関学校の英語教師として勤務する為、鎌倉の借家から横須賀線に乗って通勤していました)。
横須賀線のニ等車(グリーン車両)に乗っていると下駄の音を響かせて飛び乗った少女が居ました。
曇った冬の日暮れでした。筆者には「疲労と倦怠感」が襲っていました。
筆者は少女を一瞥して不快に思います。
何しろ汚くて不潔感が漂っているのです。そして頬っぺたはアカギレしています。加えて少女は汽車の窓を下そうとします(昔の窓は下ろして開けたのでした)。窓を開ければ冷たい外気が入って来ます。少女は3等車両に行くべきなのに間違えて2等車両に乗った上に傍若無人にふるまっているのです。インテリの筆者は不快感を行動に表そうとさえします。
汽車が トンネルに入りました汽車の煤煙が車両に充満します。筆者は眼と喉を煤煙に襲われてて咳き込みます。
声を発して少女の行動を押し留めようとした途端に汽車は踏切に差しかかりました。
踏切には少年が三人並んで手を振っていました、何れも少年も貧疎な服装をしていますが、懸命に汽車に向かって手を振っていました。
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これがJRの田浦トンネルを駅舎の高架橋から見る中央の下り線が明治22年(1889)の横須賀線開通時に完成した最も古いトンネルです一番右が上り線で、複線化に伴い大正13年(1924)に増設されました。一番大きいトンネルは、昭和18年(1943)軍需輸送の引き込み線用として造られたものです。ですから龍之介の蜜柑は中央のトンネルでの出来事と云う事になります。因みに私はこの田浦駅から高校のある長浦まで四〇分程歩いていたのでした。

屹度”お姉さん御達者でね!早くた戻って来てね!”叫んでいたのでしょうが轟音で筆者は聞き取れません。でも少女が弟達に投げた蜜柑だけが目に飛び込んできたのでした。筆者は直ぐに状況を把握しました。自分の横に居る穢い少女は横須賀の家族から離れて都会に奉公に出るのでしょう。そして少女の弟達がこの踏切まで見送りに出ているのです。
疲労と倦怠に沈んでいた作者に新鮮な電流が流れた瞬間でもありました。この頃、龍之介は恩師の漱石を失い喪失感に沈んでいたのでした。
私は朗読を聞き終えて、少年たちが線路内に入って姉さんが投げた蜜柑を拾う姿を想像しました。蜜柑は傷ついていたかもしれません。でも弟達は蜜柑を口に運んでその酸っぱさに姉の辛酸な将来を噛みしめていたことでしょう。
60年も前に読んだ短編小説もこの年齢になると味わいも変わって、名作と評される所以も納得します。
【蜜柑の描かれた踏切は何処か?】
引き続いて何処のトンネルで何処の踏切だったのだろうか想像します。第一の候補は田浦トンネルです。
横須賀線の横須賀駅の次は田浦駅で田浦駅は前後をトンネルで挟まれています。横須賀寄りのトンネルが七釜トンネルで逗子寄りのトンネルが田浦トンネルです。
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名越切通しから鎌倉方面を眺めるこの下を通っているトンネルが名越トンネルです。左の四方流れの建物が長勝寺の本堂で横須賀線車両の最後尾辺りに名越の踏切があります。踏切の北側に安国論寺があってこの辺りは日蓮上人の聖蹟寺院が立て込んでいます。

私は中学から高校一年迄四年間通学で田浦駅で乗り降りして居ました。でも小説では筆者は少女を一瞥してからしわくちゃの新聞を取り出して読み始めています。時間は相当経過していますから田浦トンネルではなさそうです。で・・・・次のトンネルはと云えばまで逗子駅と鎌倉駅の真ん中に在る名越トンネルです。トンネルを出ると直に踏切(名越踏切)がありますので小説蜜柑にはピッタリ符合します。
此処のトンネルは西側に自動車専用のトンネルが在って。トンネルの上は有名な「名越の切通し」もあります。
名門三浦一族が敗走した古戦場でもあり現在火葬場もあるのでトンネルは心霊スポットとして有名でもあります。
何しろ名越の名は古くは「難越」(なこし)と書いた程ですから古跡なのです。私は候補二つのうち後者の名越トンネルが蜜柑の舞台だと判断します、
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芥川龍之介は由比ヶ浜にあった海浜ホテルに近い野間洗濯店の離れに借家されていました。海の近くでした。


横須賀の津久井浜には蜜柑園が幾つもあります。三浦半島の海に面した斜面は蜜柑畑が似合うのです。もう三浦は水仙も咲き出しているかもしれません。

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コウロギも去って

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i 親友のМ君からメールが届きました。同君が風邪をこじらせていた事と最近作の俳句が書かれていました。ご批判くださいと言って戴きましたが,既にМ君は句作では私の師匠であり。批判などおこがましくて出来ません。
でも風邪で横になりながらも、同君の心が3年前の今頃友人4人で”浅間から川中島に遊んだ時の想い出に飛んでいたことが良く解ります。あの時は紅葉に染まり始めていた頃で典厩寺で奪衣婆を拝み、庭の見事な山茱萸の実を口にしました。ご住職に”稗つき節に歌われた赤い実がこんなに渋いとは思いもしませんでした”感想を述べると笑われまあした。私も想いは同じです。今年の紅葉は稀に見る美しさだそうです。信濃の国には行けないものの・・・・、今日はМ君の俳句を照会しながら私も晩秋の信濃の国に遊びたいと思います。
「身をまかす麓のコスモス浅間越え
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浅間山東山麓中山道姫街道のコスモスの花
私達が遊んだのは浅間山の夕景が見事に見渡せるお山の東山麓でした。
姫街道と呼ばれる間道を山に向かえば突き当りが信濃追分宿で小諸から千曲川に沿って下れば川中島に着きます。
浅間山麓での宿はI君の別荘で同君が採取しておいてくれた山栗を齧り、茸を食べ、五味酒を飲んで放談を楽しみました。”
身を任す”とは友人のI君に体を預けると云った信頼感を表現しています。
I君に”これからどこに行こうか?何を喰おうか?酒は何にしようか?”尋ねられる度毎に
”僕等は君の行きたい処が僕の行きたいよ、君の食べたい「山の幸」なら僕も一緒するよ、君の漬けた酒なら喜んで飲むよそんな感慨を言い表しています。
昔「闇鍋」という鍋物がありました。同じ鍋を仲間で箸を入れて食べました。食材は皆が適当に投げ込みました。何が箸に当るかそれは闇にありますので解りません。運が悪ければ草履を食べさせられるかもしれません。仲間を信じているからこそ闇鍋は食べられるものです。任せられる旅こそ楽しいし心から寛げるものでした。
コスモスの咲く姫街道を下ると軽井沢の町が近くなります。
蕎麦畑は花畑に変わります。
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コスモスの街道は蕎麦畑に繋がります。
街が近づくと畑には千日草や百日草が栽培されていました。
これらの花は日持ちが長いので仏花に最適なのです。
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これが千日紅の花です。赤爪草を吾亦紅に似せたような可愛らしい花です。仏前花に最適です。向こうの林の中二は三井のゴルフ場が広がっています。
花畑には秋虫が茂く啼いて居ました。
多分花畑に敷かれた藁の下に秋虫が棲んでいるのでしょう。
秋虫の雄は恋心で命がけで雌を呼んでいるのです。男が女に求愛する事を人間は煩悩と呼んで苦しみの原因だと判じました。でも私達の命は煩悩の結果貰ったものです。煩悩が無ければ秋虫も人間も同じで種は絶えてしまいます。
性愛を重々禁戒として否定する事は命を否定する事になってしまいます。千日草が美しい事も乙女が綺麗な事も同じ煩悩の為せる業です。
今頃は高千穂の御神楽も盛んに舞われている事でしょう。農家の縁側では天鈿女命鈿女(アメノウズメ/オカメ)さんの丸いお尻を猿田彦が追いかけ命の初めは存続も煩悩があってこそ存続するのです。
鈴虫やはや煩悩の百千草
М君はその啼き声がお祭りのお囃子のように聞こえたのでしょう。次の句作をしました。
鈴虫や百鬼夜行の囃し唄
千日紅の花はお祭り提灯のようにも見えます。
私のベッドの下にも秋虫が茂く啼いていました。
出も秋虫の名は美しい鈴虫では無くて少しガサツなコオロギの啼き声でした。
鈴虫が柳腰のお師匠さんの三味線ならコウロギのそれは津軽三味線の様な響きです。
私は閻魔コウロギの姿を想い出します。
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これが閻魔コウロギです。複眼の眼が大きいので眼を剥いて怒っている閻魔様のように見えるので怖い名を頂戴したのか共食いをするからかそれとも床下から響いて来るので地獄から聞こえて来るように聞こえるのか良く解りませんが、どれも言い当てているように思います。
古代は秋虫の事を総て纏めてきりぎりす(螽斯)と呼んでいたそうです。でも中世になってきりぎりす(螽斯)からこおろぎ(蟋蟀)が分かれたそうです。庶民の観察眼螽斯と蟋蟀が姿形も違うし啼き声も違うと気付かせたのでしょう。中世の職業の分化は”機織り”や”馬追い”も螽斯から独立させました。
そのきっかけを教える歌が次だそうです。
秋風に綻びぬらし藤袴(ふじばかま)つづりさせてふきりぎりす鳴く」(古今集在原棟梁)
大意は次のようなものです。。
キリギリスは姿は良くても啼き声は「ギッチョ・ギッチョ」と味気ない声でしか啼けません。
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これがきりぎりす(螽斯)です。ギッチョ・ギッチョ」と味気ない声でしか啼けません。古代は秋虫を総てきりぎりす(螽斯)と呼んでいましたが中世になってからこおろぎ(蟋蟀)を始め機織りや馬追いが分化してきました。写真の擬宝珠は鎌倉妙法寺祖師堂の手摺りです。


『秋風も吹き出して冬も近づきました藤袴の花も綻んできたように着物も綻びが目立ってきた。螽斯も綻びを綴れとしきりに啼いて居る事よ』
そんな訳ですから、螽斯と呼んでも蟋蟀の啼く声を指している事は間違いないでしょう。
秋の夜長に祖母は蟋蟀の啼く声を聞きながら私に次のように説明してくれました。
アレは地下で閻魔蟋蟀が教えてくれているんだよ。
「もうじき寒い冬が来るから機させ裾させ寒さが来るぞ!今のうちに急いで着物の綻びを綴れ!」と・・・・。
М君は百鬼夜行の囃し唄に聞こえたのでしたが、やっぱり私には閻魔様の忠告のように聞こえてしまいます。

煎餅蒲団に入る前に体を暖めんと囲炉裏
懸命に婆や吹く炭火に 手を翳す。
床下で閻魔が呟く 囲炉裏端

もう閻魔コオロギも天命を果たし終えて往生したのでしょうか霜月の夜は静寂そのものです。

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これが川中島典厩寺の東洋一のビックサイズの閻魔様3年前М君ら4人で詣でました。
 







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炭の文化

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昭和50年代初め私は長岡ニュータウンの造成事業に参加する為同地に出向して居ました。同事業は時の首相田中角栄さんのお膝元で兎に角厳しい目で見られていました。その予算管理が私の仕事で。予算の申請と原価管理が仕事でした。従って新潟県庁に出かける機会も多多ありました。長岡から新潟県庁に行くには高速道を通れば1時間で行ける筈でしたが。その日は30分も遅刻してしまいました。というのは北陸道が通常100キロの最高速度のところが収穫期になると70キロに3割下げられてしまうのでした。従って時間もかかってしまいます。高速道路を走るとどの田圃も収穫を終えて束ねた稲を干して更に脱穀を終えると枯れた雑草や稲の刈跡を焼いているのです。また脱穀した跡に残った籾殻を山に積んで燻蒸しているのです。
籾殻の燻蒸によって生じる煙は高々と昇ってまるで火山の様でした。そんな事情で生じる田圃の煙が越後平野に漂って速度制限を必要にさせていたのでした。
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刈り上げ後の田圃の野焼き風景畔の雑草や稲の切株を燃やすことによって害虫を処分すると同時に田圃に炭を撒いて土壌改良する効果が期待されます。
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田圃で籾殻焼きを一斉に始めると視界不良になって高速道路も低速に速度制限が為されます。
収穫後の田圃で野焼きする事はウンカ等の病害虫を殺処分し翌年の収穫を約束する「虫送り」行事位に考えていました。
ところが。偶然図書館で見つけた炭の本が真実はもっともっと奥が深いものだと理解したのでした。

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月刊誌「現代農業」に蓄積した「農業技術」の研究成果を総結集した一冊です。結局は”炭の活用”に在ったのでした。lこの本が今日の話題のエキスです。表紙の黒い炭は籾殻を燻蒸した「籾殻燻蒸炭」でこのパワーが凄いのです。

速道路の速度制限があったのでした。
文学者の塩田 丸男さんの著書に『畑の字は漢字には無い日本人が作った国字である』と書かれていました。中国人にとって農耕地とは「田」であって、畑は中国の風土に無い、と説明されていました。
私が中国の田園風景で眺めたのは一面の菜の花畑や葱畑でしたので直ぐには納得できませんでしたが、奥地に入っても水田が広がっていることは事実でした。
日本人が畑と云う字を作った事情を考えると。字の意味に合点が行きます。夏は畔で区切って水を張った水田ですが刈り入れを終えたら火を放って燃やし尽くします。燃やす事で病虫害の原因を撲滅して炭が残ります。
その炭を田圃に播いて土壌を改良します。毎年毎年水を張って火で焚いて炭を撒いて土壌を生き反す、その繰り返しを実施します。
ヨーロッパでは麦を作ると翌年麦は栽培できません。翌年はクローバーを生やしてその翌年は放牧します。クローバーに寄生する建立バクテリアが土壌を活性化させて牧牛の糞尿が土壌を豊穣にします。そんな訳で主食の麦は3年に一度栽培するのです。これを三圃制と云います。日本の田圃では収穫の後に火で燃やすので「稲の連作」が可能になったのでした。
では何故日本人が収穫後田圃を燃やすことを知ったのか?それは焼畑農業が稲作伝来後も存続していたからです。
稲作が普及し農業の中核が米作になっても日本人の大半は米ではなく雑穀と呼ばれた粟や稗を食べていました。飢饉の懸念が起きれば急いで救荒作物である雑穀や芋を植えて来るべき冷害に備えたのでした。
里山に上って雑木を伐採し焼いて畑にして雑穀を撒いたのでした。雑穀は焼畑農業に適していたのでした。
弥生人は縄文人の焼畑農業を真似て収穫後の田圃に火を放ったのでした。
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籾殻を燻炭する風景猛烈な煙が起ちます。籾殻炭をこの後田圃に播きます。籾殻炭の不思議な効果が土壌に及ぼします。

越後平野を煙濛々高速道路を渋滞させた燻蒸炭は精々土中の腐敗菌を殺す(消毒)する、程度に軽く考えていました。ところが先の炭の本は炭が超音波を発して微生物を吸い寄せると説明していまあす。微生物は空中の窒素を吸着する根粒バクテリア(主として豆類の根っこに寄生します)やVA菌根菌(根っこに共生する黴で稲の根を生育させる)共生菌(稲の根っこについて物質交換をしながら生育する共生微生物枯草菌(空気中の枯草等に広く着く好気性細菌味噌醤油のもろみや納豆菌もこの仲間です)。
私達は炭の威力と云うと水質汚濁を浄化させたり室内や車内の臭気を吸い取るといった効能ばかりに目を奪われていましたがこの本を読むとそんなマイナスを除去するだけでなく。空気中の窒素や二酸化炭素を吸着して栄養素に還元する効果があることを実証的に説明しているのです。
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籾殻炭を敷いた稲の苗は根っこが良く成長します。(出典前出「炭」のグラビア)
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南瓜の苗も燻蒸炭を使用すると活発に細根を伸ばします。(点線の下が籾殻炭に浸かっていた。出典前出)

そんな次第で私は改めて縄文人の恩恵に大きさに感謝したのでした。今年の秋は庭先で落ち葉を焚いて炭を作る事にしようと思います。ご近所の苦情に気遣いながら・・・も。


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