秋も深まると雑穀を無性に食べたくなります。
蕎麦も芋も雑炊も今が食べ頃です。屹度雑穀に多いミネラルを冬を控えて私の体が欲求しているのでしょう。
信濃黒姫山の小林一茶も雑穀を食べていました。
マメな性格の一茶は何を食べたか日記に書いていたのでした。
同時にマメな一茶は性の回数も日記しておいたので、最近その日記が話題になって、その勢力の絶倫さが驚嘆されています。
黒姫山はコスモスで有名です今年も今頃はコスモスが群れ咲いて居る事でしょう写真は南軽井沢浅間山を望むコスモス。
北信濃柏原の小林一茶の住んだ土蔵。江戸に出たものの失意で故郷に戻った一茶は訴訟(原因相続権の主張)をして僅かばかりの田畑を獲得します。50歳で故郷の信州柏原に帰り28歳の妻きくを娶り、3男1女をもうけるが何れも幼くして亡くなってしまいます。この土蔵の壁には一茶夫婦の悲しみが浸みているのです。
ところで今日の本題は達磨さんです。
我が生家は曹洞宗の寺院ですから始祖は達磨大師で高祖で、二祖が(慧可大師/宋の人)で道元禅師は慧可の弟子天童如浄から教わったのでしたから高祖と云う事になります。高祖とは祖先の意味ですから道元禅師は日本における曹洞宗の生みの親程度の意味です。
これは雪舟筆の「恵可断臂図(えかだんぴず」国宝です。
達磨が少林寺において面壁座禅中、恵可が参禅を請うたが許されませんでし、恵可は自ら左腕を切り落として決意のほどを示したところ、ようやく入門を許されたという有名な禅機の一場面です。リアルにあらわされた二人の面貌と一点を凝視する鋭いまなざし、そして動きの少ない構図が画面全体に息苦しいまでの緊張感を生み出しています。
77歳の老禅僧雪舟のたどりついた境地が現われていると評価されています。
一般に達磨大師は北インドの山岳地帯の生まれと云われています。
其処は照葉樹林帯の西の外れでした。東の外れが日本になります。
達磨さんの禅宗は照葉樹林帯の西端で産まれ中国を経由して日本で支持されます。
照葉樹林文化を代表する教えになりました。
大黒様も恵比寿様も貫頭着を着ておいでです。それは達磨さんと同じです写真は曹洞宗の本山総持寺の寺務所(庫裏)の玄関。達磨大師はインドや中国の法衣を脱がされて古代の普段着貫頭着に着せかえられておいでです。
達磨さんは一般に赤い巻頭着を着られて手足と頭だけが貫頭着から出ています。
貫頭着は世界中の古いファッションで日本でも先史時代から古代までの衣服は基本的に貫頭着でした。
唯 雪舟や白隠禅師は達磨さんの貫頭着を白く描かれていますが庶民は真っ赤であると思いました。
赤は「招福の色」であり、「厄除けの色」だからです。京都の街も南は朱雀が守り招福厄除けしましたから。庶民は達磨大師を赤く塗って招福厄除けを念じたのでしょう。(赤は南の方角の色です)
色町も同じでした。良いお客が来るように災難が来ない様に真っ赤な達磨さんを祀りました。
一見すると戒律に厳しく”不邪淫戒”を重々禁戒に標榜する禅宗の始祖とは真逆のように思います。妻帯も禁じた禅宗でした、ましてお金で性を売買するような廓の守り仏に達磨さんが祀られるのは理解しがたい様に思われます。
でも遊郭の繁盛に達磨さんは尊ばれたのでした。それは換骨奪胎と云うよりも本末転倒で達磨さんがお知りになったら何と言われることでしょうか?若しかしたえら逆回りでも良いじゃないか?言われるかも知れません。
浅草寺には達磨さんが商われ吉原遊郭関係者が求められましたし。多摩川を渡った川崎大師には堀之内と呼ばれた遊郭が在って遊郭と有名寺院の達磨市は密接な関係に在ったのでした。達磨寺で有名な高崎にも柳川町と云う遊里がありました。
川崎大師の達磨商店で片目の達磨さんを求めます。願が適えば大師に御礼詣でして両目の入った達磨をお返しします。
遊女は達磨さんを求めました。直ぐに転んでくれて金払いの良いお客が付くように。そしてお客が何度も立つように”起き上がり小法師”と呼ばれる立ち上がり達磨を求めました。「お客が直ぐに自分を好いて横に転んでくれて直ぐに起き上がってまた来店して自分を指名してくれるように」達磨さんを求めたのでした。
福島の名産玩具は起き上がり小法師です
五月みどりさんは、中森明菜さんの「少女A」にインスパイヤされて「熟女B」を演じました。蟷螂夫人としても人気を博しました。彼女のヒット曲に「1週間に10日来い」がありました。色町ではそんな上客を求めて達磨さんを祀ったのでした。小林一茶の性欲と同じく日本人の欲望は達磨さんも白い貫頭着を赤くして枕元に祀ったのでした。