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ありがたいな!「お稚児さんの舞い」(光明寺お十夜で)

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私達は夢を見ます。
嫌な夢を見れば一日中気分が重くなります。
良い夢、美しい夢を見れば、爽快な気持ちで過ごせます。
屹度、息を引き取る時には夢うつつである事でしょう。
出来る事なら、良い夢、美しい夢の中で現世と”さようなら”をしたいものです。
 
お別れ時に見る夢、其処に音楽があって、天女が舞って、蓮の花弁が天空から落ちてきて、その彼方に阿弥陀様が居られたら・・・・・、
1000年も前から日本人は夢見てきたのでしょう。
 
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                                 (光明寺のある材木座から稲村ガ崎の夕景を見る)
 
 
今日は浄土宗大本山光明寺のお十夜、そのクライマックスです。
明應4年(1495)年、戦国時代民心は荒れ、飢餓に貧困に地獄の相があったことでしょう。
土御門天皇は甚く心を痛ませられ、鎌倉光明寺第九代観譽祐崇上人は宮中に招き、浄土を進講させます。
天皇は感動されました。
戦乱の世の中庶民はさぞかし苦しみ荒んでおろう。
光明寺に勅許を出し、「十夜法要」をして庶民を念仏で救済するように・・・・・・期待する。
以来、500年余り浄土宗の寺寺では毎年十月に「十夜法要」が行われてきました。
「お十夜」と呼ばれ、庶民に全体に、浄土宗の信徒で無い人にも、親しまれてきました。
 
光明寺の長い参道、広い境内は夜店が並び、過ぎ行く秋を楽しむ人波で埋まります。
人波は阿弥陀様に手を合わせ、そのお手から曳かれた布(善の綱)を握る為、延々と列を為します。
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               (光明寺本堂から山門を望む、上部の布は阿弥陀様の指先から曳かれています)
 
引声(※)阿弥陀経の読経が流れます。
引声念仏が流れます。
百人にも及ぶお坊様の読経は唱和して、本堂から材木座の町屋に流れてゆきます。
エンヤの音楽を聴いているような気持ちになります。
お坊様が退場されます。
でも光明寺雅楽の方々は数人本堂にお残りです。
もう、辺りは漆黒の暗闇、8時も近くなりました。
    ※引声:音声に節をつけて、長く声を引いて阿弥陀の称名やお経を唱えるもの
 
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          (本堂内陣の最深部、欄間の天女像が美しく、その奥に阿弥陀様が輝いておいでです)
 
 
お稚児さんが登場です。
錦糸銀糸に輝く衣装です。
頭には宝冠を被っています。
本堂前、欄間に刻まれた天女のようです。
本堂内陣の最奥部、阿弥陀様の前に並びました。
「さあ、私達はこれから阿弥陀様を信仰する功徳を礼賛する為、舞います」
阿弥陀様に手を合わせて、ご挨拶です。
 
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笙(しょう) しちりき、 龍笛が鳴り響きます。
お稚児さんは20人あまりでしょうか、
雅楽に併せて、乙女舞です。
縦になったり、横になったり、輪になって廻ったり・・・・
そして、胸前に垂れたお盆に載せられた蓮の花弁を撒きます。
花弁は中空に舞って、ヒラヒラ舞い落ちてきます。
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私は、ありがたい「阿弥陀礼賛舞」を見詰めます。
藤原頼通は平等院を建立し、その阿弥陀様から曳かれた五色の布を握って、息を引き取ったと言い伝えられます。
それは貴族だから、お金持ちだから出来た事・・・・・、
庶民にとっては出来ないものです。
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                   (平等院、出典ja.wikipedia.org/wiki/平等院)
 
庶民にとって、念仏の心を伝える作法、それが”阿弥陀礼賛舞”だったのかもしれません。
500年も続いた行事には、続いた理由があるものです。
「念仏の道」の尊さやありがたさは、美しい舞や音楽だからこそ万民に伝えられてきた事でしょう。
そして、境内全体に夜店が並んで、ベンチが置かれています。
庶民は、ビールを楽しみ、焼き鳥を頬張り、見上げれば秋の月が煌々と輝いています。
「お十夜」は庶民の祈りと、楽しみと、応えてきたから長く続いているのでしょう。
鎌倉には庶民を救済する事こそ大切、法灯が続いています。
 
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私は、お坊様にお願いして蓮の花弁(散華)を戴きました。
花弁の表には「南無阿弥陀仏」裏には「大本山光明寺」、書かれていました。
幸いに5色の花弁をいただけました。
早速にお仏壇に奉げました。
現世の善行は来世のそれを遥かに凌ぐ功徳があるそうです。
 
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                          .(光明寺でお稚児さんが撒いた散華、早速にお仏壇に供えました)
 
 
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お十夜に流れる「日本の雅楽」

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大本山光明寺のお十夜のクライマックスは”お稚児さんの礼賛舞”、
見詰めていると、心の奥から”ありがたや!”思われてきます。(昨日報告)
終ると、私達はお稚児さんが撒いた”散華”を戴きます。
大切に胸にしまって、大半の人が帰途につきます。
 
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                      (光明寺雅楽隊のお坊様登壇、この後本堂の灯りが消されます)
 
でも、これからが”光明寺雅楽部”による雅楽の奉奏があって、締めが明日朝の”結願法要”になります。
私は、空いた本堂に入って内陣の正面に座らせていただきました。
「何でお寺さんで雅楽を奉奏するのかな?」少し気になります。
でも、疑問以上に期待が高まります。
阿弥陀様をご本尊に初尊が居並ぶ本堂です。
天井の格天井には美しい花が描かれ、欄間には天女が舞っています。
煌びやかな天蓋が架けられて、柱や桁には錦織の天幕が撒かれています。
此処は浄土を現出しているのでしょう。
 
そこで、今まで引声念仏が唱れていました。
屹度、引声のルーツに雅楽があったのでしょう。
雅楽を紐解けば、お神楽などの日本の伝統音楽に行き当たります。
其処に、大陸から伝わった楽曲が混合したものでした。(奈良時代)
鎌倉時代、浄土の教え、念仏の教えを広げるに際して、日本人の耳の底に響いていた雅楽を使ったのは自然なことでしょう。
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                      (内陣の上壇だけに灯されて、幽遠に雅楽が奏上されます)
 
静まり返った本堂の灯りが消されました。
内陣の中央だけに火が灯されて、光明寺雅楽部が登壇します。
二十人余り居られるでしょうか、若草色の法衣を召して、各々笙、 しちりき、 龍笛をお持ちです。
演奏される曲の紹介がありました。(記録できず)
でも、題名は何処か新しそうで・・・・・、500年も続いた演目ではなさそうです・・・・。
 
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 (笙を演奏するお坊さん/お顔を消すのは失礼と懸念してお顔を消していません。ご指摘があれば直ぐに消します)
 
光明寺の雅楽は昭和42年4月、大長寺住職嵒瀬弘道師が、宮内庁式部職楽部より東儀和太郎氏(東儀家14代)を指導者に迎えてスタートしたそうです。
目的は「雅楽を通じての会員相互の親睦をはかる」こと。
大本山光明寺を会処としての定期勉強会を催し、光明寺十夜、開山忌法要等で奏上する事にしているそうです。(浄土宗神奈川教区HPから)
 
想像するに、鎌倉近隣の浄土宗の寺院さんのお坊さんが、志を高くして雅楽を学び始めたのでしょう。
そして私のように、雅楽や声明の響きに誘われて、念仏の教えに心開く者を惹き付ける・・・、
教化活動に活かしているのでしょう。
勿論、お坊さんにとっては、演奏が楽しい事もあるでしょう。
それを法悦と呼ぶのでしょう。
法悦は日本文化の伝統の中にあるから・・・より大きなものがあるのでしょう。
 
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          (お顔を消していないのは、それが失礼と懸念したからです。ご指摘があれば直ぐに改めます)
 
本堂から雅楽の響きが全山に流れてゆきます。
水が高みから流れ出すように、響きは大きく開かれた花頭窓から、境内に流れてゆきます。
ああ、20年も前に高千穂で聞いたお神楽と似ているな・・・・思い出します。
 
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             (雅楽の響きは蓮池/小堀遠州作を越えて、八角堂の阿弥陀様に流れてゆきます)
 
大きな拍手が響いて、30分の演奏はお終いです。
本堂から出て、家路を急ぐ人も居ます。これから夕食でしょう。
今日の法要は全部終りました。
明日(15日)朝から結願法要が催され、今年のお十夜もお終いです。
 
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                        (正面が山門、参道から境内にかけて夜店が並んで、みな楽しげです)
 
私は、本堂内陣を後にしました。 
もう8時過ぎ、でも、境内にも、参道にも夜店が並んでいます。
まだ、縁台は腰掛けて焼き鳥にビールを楽しんでいる人で満席です。
並んで順番待ちの人も居ます。
京都八坂で「今宵会う人 みな 美し・・・・」と詠んだのは与謝野晶子でした。
晶子に模したらば、
「お十夜に 集える人は みな 佳き人哉・・・・・・」  となりましょう。
 
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                   (焼き鳥屋さん、背後は縁台が並んでビールを飲んで・・・・)
 
雅楽の反対側が「俗楽」、
庶民の楽しんだ俗謡やはやり歌があったのでしょう。
大本山のご本尊が仏様なら、市井の石仏も仏でしょう。
どちらも同じく尊いもの、
上下、貴賎の差はないからこそ「文化」でしょう。
 
浄土宗は数多くある日本仏教の中で、文化の真ん中に位置しているように思います。
此処光明寺のお十夜には、上下、貴賎差がなく総てが境内に集まります。
 
「人に、上下貴賎の違いはなく、念仏すれば総てが救われる・・・・・」
「死んであの世で善行を積む事より、生きて現世で善行する方が遥かに尊い・・・・」
そんな、教えを500年も伝えてきたのがお十夜なのでしょう。
長く伝わってきた習俗にはその理由があるものです。
納得させる根拠があるものです。
 
 
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秋こそ心に沁みる朝顔の花

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朝顔と言えば夏の季語、
ところが我が家の朝顔は今頃が見頃です。
我が町を歩いていても、随分目に付きます。
上倉田南、バス停があります。
その横に羽黒三山の記念碑があります。
羽黒山、湯殿山、月山と刻まれた石柱の下部には「右鎌倉へ」、
側面には国家安泰の祈願文の下に「左弘明寺」と刻まれています。
私の町にはお瀧があって、修験者が住んでいました。
修験者が社会貢献しよう、そう思って記念碑に道標の役割を与えたのでしょう。
その背後のフェンスに朝顔の蔓が絡んでいて、今盛んに花をつけています。
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真夏に咲いてこそ「朝顔」でしょう。
でも、何故か秋が深まってから、朝顔が目立つのも事実です。
秋も深まると花の種類が少なくなって来ているから、朝顔が目立つのかもしれません。
でも、それ以上に、花数が多くなっているような気がします。
朝顔の体が疲れて、もうじき枯れてしまう。
だから、精一杯に花を咲かせようとしているのかもしれません。
葉っぱが枯れ初めて、花数も少なくなって、
夏にも増して、花を増やして、命枯れ尽きても子孫を残そう・・・・、
そんな健気な姿を見る思いがします。
だから、秋更けてこそ、朝顔の趣が深いと思います。
 
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   (江戸時代からの園芸ブームの標的が朝顔でした。)
 
高校の授業で、古代朝顔とは桔梗の事であった、教えられた事がありました。
山上憶良が詠んだ「秋の七草」の歌に「朝顔」があるのです。
そこで、憶良は「萩・尾花(ススキ)・葛・撫子・女郎花・藤袴・朝顔」を指折り数えて”秋の七草”としています。
近世になって、演芸が盛んになって、江戸の町では「朝顔市」が開かれたり・・・・
長屋の熊さんも寅さんも、朝顔を栽培しました。
ですから、朝顔は俳句の世界で「夏の花」決められてしまいました。
それでは、憶良の名指した「朝顔」って何だ?
となったのでしょう。
そこで、秋に咲く「桔梗」をあげました。
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(桔梗の花、海蔵寺で 7月2日)
 
万葉集には朝顔が5首詠われています。
    朝顔は、朝露負ひて、咲くといへど、夕影にこそ、咲きまさりけり
歌意は凡そ以下の通りでしょう。
 朝顔は朝露を浴びて咲くと言いますが、夕方に薄くらい光の中でこそ輝いて見えるものですよ。
 
桔梗と朝顔とどちらがこの歌に適当であるかといえば、間違いなく朝顔でしょう。
朝起きて、朝露に濡れる桔梗に感動することは滅多にないでしょう。
夕暮れの中で花が目立つのは紫色の桔梗ではなく、白やピンク、赤い朝顔でしょう。
朝顔は昼日中には萎れる事もありますが、夕方に開くものもあります。
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   (桔梗の花は紫陽花の季節に咲くもの)
 
 
 
ついでにもう一首紹介します。
 我が目妻、人は放くれど、朝顔の、としさへこごと、我は離(さか)るがへ
 
私は妻を心から愛しています。人は妻を引き離そうとしますが、私は朝顔のように妻をいつまでも大切にして話しませんよ。
そんな意味でしょう。
私は桔梗の花も好きですが、この歌も朝顔の方が相応しいと思います。
試しに、女性の方は「私は貴方を永遠に愛します、朝顔の花のように・・・・」と言われた場合と
、「私は桔梗の花のように永遠に愛します」
どちらがハートを感じますか?
私は朝顔の方が勝っていると思います。
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 (海蔵寺玄関前の桔梗の植え込み)
 
 
奈良時代、平安時代の朝顔は大した花ではなかったかもしれません。
千利休が茶花として愛した事から朝顔がクローズアップされ、江戸時代の園芸ブームで様々に開発されました。
そして、俳句の盛行下、いつしか朝顔は夏の花に決められてしまった。
でも、朝顔は夏に咲き始め、秋の深い今頃も咲き続けています。
でいて、秋深くなるにつれて、花の興趣も勝ってきます。
 
私は、秋の七草には「桔梗」ではなく、朝顔だと思います。
何と言っても、桔梗は8月中頃には花を終えて、今は草自体が枯れてきています。
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(朝顔は今頃が最も花が目立つ/拙宅日除けの朝顔)
 
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      (夏場の朝顔/拙宅小鳥小屋に絡んで。花数少なし)
 
 
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〔巻第八 一五三七〕
〔巻第八 一五三八〕
山上憶良
 

鎌倉古道、スダジイの古木移植は成功裏に進んでいます。

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昨日1017日は私達の住む町戸塚区上倉田の地域イベント『上倉田連合まつり』が開催されました。
上倉田は戸塚駅の東口からから大船より、6000戸、2万人余りの町です。
4町内・6自治会で「上倉田地区連合町内会」を組成し、私は会長を仰せつかって2年目を迎えています。
連合会の傘下「上倉田歴史教室」は「上倉田の樹木」を展示発表しました。
今日は、その中から一つ「鎌倉古道のスダジイ」をご案内致します。
 
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                 『上倉田の樹木』展示場風景/上倉田歴史教室
 
 
先ずは展示挨拶から
 
 
                     ご挨拶
上倉田町には様々な樹木が青葉を茂らせ、花を咲かせ、実を結んでいます。
この樹は何時、誰が、どんな思いで植えたのだろう?  想像します。
  でも、語り継がなければ、何れ誰も知らない事になってしまいます。
  この樹を先人達はどんな思いで眺め、育てたのだろうか?
  これも、語り継がなければ、忘れ去られてしまいます。
 
  でも、樹木の歴史を知れば昔の上倉田が偲ばれますし、
  先人達の生活や息遣いを知る事ができます。
  私達歴史教室では上倉田の樹木を調べてみました。
 
  散歩のついでに立ち寄ってみて下さい。
  木肌に触れば、その息遣いに掌を通して触れることが出来ます。
  そして、その樹を植えた人、眺めた人、育てた人に想いを馳せて下さい。
  屹度一層上倉田が好きになる事と思いますよ!。
 
 
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  (移植前 、根切り中のスダジイ、鎌倉古道/中道(右)上道(真っ直ぐ)分岐点にあったスダジイ。全体が都市計画道路用地になった)
 
上倉田の樹木として13件を案内しました。
その中で、話題性のある「鎌倉古道のスダジイ」を、以下案内致します。
 
 
            鎌倉古道に佇むスダジイの古木
上倉田町の東、尾根道が続いています。でも、現在は宅地の乱開発で寸断されていますが。
実はこの道が鎌倉古道中道で、「いざ鎌倉」、鎌倉時代の軍用道路でした。
幕府軍が奥州征伐に、そして新田義貞が鎌倉攻めに通った道です。
北条政子も遠馬した道でした。その尾根道にスダジイの古木が聳えています。
 
 
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   (移植後のスダジイ。コモが巻かれ、樹が揺れないようワイヤで地面に固定されています。でも葉っぱは落葉せず順調です) 
 
ところが、当該地が都市計画道路「横浜藤沢線」に組み込まれています。
そこで、2007年から移植プロジェクトが開始されました。
根切りをして、移植先の土地改良を終えて、今年6月末移植を開始しました。
移植先は古道から約100メートル北に下って、舞岡公園内です。
作業は戸塚の小雀にある「生駒造園」と曳家業者のJVでした。
根切りを終えたスダジイの巨木は、根をコモに巻かれて、コロの上に乗せられて、100メートル曳かれてゆきました。
この夏は異常に暑かったし、降雨も少なかったのでした。
移植後のケアは大変だったでしょう。
包帯をグルグル巻いて、何よりも水遣りが大変だった事でしょう。
丹精が続いて、9月は降雨が続きました。
お蔭で、素人目には移植は大成功のように見えます。
 
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    (スダジイの根株、手前の根株に庚申塔が嵌めこまれていました)
 
かっては、古木の根元に「祠」がありました。
町の古老に聞くと「おおぜの神様」と呼んでいたそうです。
でも、見れば何処にもある「庚申塔」です。
この場所が上倉と永野(永谷)の分水嶺であり、隣町から災いが来ない様、福の神だけが通るようチェックして呉れる「賽の神」だったのでしょう。
私は「おおぜ」は「大きな背」と書くものと思っています。
上倉田にとっても、舞岡にとっても「背骨」に当る位置です。
祠は何時の間にかスダジイの股の間にスッポッと埋まってしまいました。
従って正面からしか見えませんでした。
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( 仮置きされた庚申塔、道路側に置かないと道標としての役割を果たさなくなります。現状反対向き、暫くしたら、歴史教室で案内板を作成し、リーズナブルな位置に移すよう具申する予定です)
 
その祠が初めて樹の間から出されました。
正面は三猿が居て、庚申塔です。
その左側面には、左「鎌倉へ」、右「弘明寺」と書かれています。
上倉田に2基ある道標と同じです。
 
古木の移転が完了し、青葉が茂っています。
来春に移植が成功した、確信させるように、若芽が出ることでしょう。
 
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(スダジイから鎌倉方向に500メートル下った場所にある石仏、元禄時代3体のうち弥勒菩薩。スダジイから舞岡公園の中に鎌倉古道は延びています。もうこの辺りしか昔日の面影は残っていません)
 
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爽秋の瑞泉寺にて夢窓疎石を思う

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鎌倉二階堂の最深部に瑞泉寺があります。
鎌倉を代表する花の寺ですが、石段の下、参道入り口に「夢窓国師古道場」書かれた石柱が立っています。
照葉樹林の下をしばらく進むと、山門の前に立ちます。
境内の花々が招いているようです。
お寺の門を潜る時には、大きく息を吸って、吐いて心を整えます。
見上げると山門の扁額に「瑞泉蘭若」と書かれています。
蘭若とは「修行に適した場所」の意味ですから、”夢想国師が建立した古くから伝わる修行道場”
そんな意味でしょう。
 
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                                   (瑞泉寺で、咲き始めた秋明菊)
 
 
夢窓疎石は建治元年(1275)伊勢に生まれます。
九歳で出家し、天台宗に学びますが満たされません。
夢で、達磨大師が座禅する姿を見ます。
”禅”に目覚め、京都建仁寺で無隠円範に学びます。(1293年)
この夢にちなんで、後に自らを夢窓疎石と称した・・・・言い伝えられます。(夢窓疎石の語録)
夢が”禅”と言うウィンドウを開いたから「夢窓」は解ります。
でも、「疎石」は解りかねました。
夏目漱石の「漱石」は口の中を水で洗い清めて、更に「石にそそぎ、流れに枕す」 、
先人のすぐれた詩文を味わい学ぶ、そんな意味でしょう。
疎石とは、座禅に集中して「石をも穿つ.」・・・・・そんな強い精神力を言い表すのでしょうか?
でも、疎の字は「疎水」とも使います。
強い精神力は石をも穿ち、更には尊い水を導く・・・・・そんな意味も持っているかも知れません。
 
若くして疎石は禅僧として光った存在になりました。 
後醍醐天皇の勅請により南禅寺に住します。
そんな、疎石を執権「北条高時」は鎌倉に来る様に請います。
疎石は鎌倉浄智寺、円覚寺に住します。
しかし、飽き足らず瑞泉寺を開き、「禅の道場」を標榜します。
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                    夢窓疎石/京都・妙智院[みょうちいん](8/21から展示)重文
 
瑞泉寺の山は桜や紅葉の名所であり、京都の美しさに通じる自然美があったからかもしれません。
また、山上からは富士山を仰ぎ見る事ができます。
こうした、美しい天然のロケーションが疎石をして、『此処に道場を開こう』決意させたのでしょう。
 
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                               (枯山水庭園に面して、合掌を続ける石仏)
 
 
ところで、北条高時は疎石を鎌倉に下向させた人物です。
相当な人物であったに違いありません。
だからこそ、新田義貞が鎌倉府内に攻め込むと、反攻もせず、自害してしまいます。(1326年)
屹度、自害することを天命と悟っていたのでしょう。
 
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                               (未だ咲き続けている白い芙蓉)
 
後醍醐天皇は疎石に「夢想国師」の号を賜り、京都に戻して臨川寺を開山させます。
更に、建武の親政が崩壊すると、新しい為政者「足利尊氏」「足利直義」の帰依を受けます。
疎石は後醍醐天皇が亡くなると(1339年)、その冥福を祈る寺「天竜寺」を創建します。
多くの門弟を育てました。
門弟の中には、義堂周信、絶海中津など、後に五山文学の中心となります。
臨西禅の本流を築きます。
石を穿って、水が流れるように、人物を輩出しました。
 
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                         (これから暫く見頃の冬桜/水戸光圀お手植えと伝えられています)
 
 
激動した時代、為政者は次ぎ次に転じます。
何れの為政者も「時代を切り開く」強い意志力と展望を持っていた事でしょう。
共通するのは彼らを支えていたのが「禅」の考え、
「石をも穿つ」気迫を以って事態に処する事、
戦国時代に入ると、疎石の開いた山梨恵林寺の快川和尚は、信長に寺を焼かれてしまいます。
その火炎の中で叫びます。
「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自づから涼し」
荒ましい気迫に圧倒されます。
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  (山門横の手水で手・口をそそいでから、道場の門をくぐります)
 
 
私達は柔でして、疎石や快川和尚のような気迫は失せてしまっています。
瑞泉寺の優しい花に癒されて、また明日から真っ直ぐに、正直に生きてゆきましょう・・・・・、
誓って帰ります。
 
でも、瑞泉寺の方丈庭園を見渡します。
秋明菊や水引が乱れ咲く庭の向こうに、大きな岩屋があります。
岩屋を彫刻刀で切る抜いて二つの洞を刳り貫いてあります。
確か一つが「座禅洞」もう一つが「天女洞」・・・・・、
疎石が禅尼志した契機になった夢・・・・・「達磨面壁座禅図」そのままのイメージの洞でありましょう。
 
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                         (洞の壁には崩れかかっていますが仏像が浮かんで見えます)
 
 
自然の中で、不確かなものを削って、削って、最後に残るものは、岩しかありません。
だから達磨大師は岩に囲まれて座禅に励んだ事でしょう。
瑞泉寺は「花の寺」と言っても、白い花が目立ちます。
色も同じ、削って、脱色して、脱落して・・・・・、最後に残った色は白なのでしょう。
だから、屹度白い花が多いのでしょう。
 
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  (瑞泉寺方丈庭園)
 
疎石のメッセージはきつくて、現代人には耐え難いのですが・・・・・、
「古道場」である事は良く解ります。
 
 
 
 
 
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東慶寺若奥様のメッセージ(蒔絵展に寄せて)

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珠玉のようなブログに「まつがおか日記」があります。
筆者は東慶寺の寺夫人と記されていますが、屹度若奥様の事でしょう。
1週間に一度程度で更新されていますが、私は楽しみにしています。
                          (まつがおか日記で検索してください)
 
もう、20年以上前でしょうか?
婦人誌などに、東慶寺寺夫人が取材されていました。
品の良い着物姿、お茶や生け花をされる仕草に、”花”を思いました。
あの人がお嫁さんを迎えて、若夫人がブログ「まつがおか日記」を書き、東慶寺の公式HP(www.tokeiji.com
を作成、メンテされているのでしょう。
此処数年、東慶寺は随分変りました。
隅々まで心使いがなされて、私達は清浄な仏域で胸一杯空気を吸う事が出来ます。
 
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                       (東慶寺若奥様のブログ/まつがおか日記、から転載)
 
写真も、文章も心を打ちます。まるで、歳時記のようなブログです。
上記写真は、この夏咲いたカラス瓜の花です。
夜咲いて、明け方には萎れてしまう儚い花です。
カラス瓜の花を知る人は少ないでしょう。
月夜に飛ぶ蛾を誘って、レース網のような花を咲かせます。
私は今夏も防犯パトロールに際して、この花を捜し求めましたが、
こんなに美しい姿を見ることは出来ませんでした。
 
若奥様は明け方境内に花を摘んで、いけたものでしょう。
花は日中には萎んでしまいますので、花の美しさは瞬間です。
デモ、カメラに収めれば瞬間は固定されます。
ブログに載せれば、花の美しさが沢山の人に案内できます。
同時に、「花のよさ」も自ずと知らせられます。
野生の花はハッとするほど美しく、妖艶な事があります。
 
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                                (東慶寺宝蔵前のコスモス、蒔絵展開催中です)
 
この9月から、東慶寺宝蔵では「東慶寺蒔絵展」が開催されています。
長い伝統をもつ東慶寺です、数々の文化財を収蔵しています。
 
大坂夏の陣(1615年)により豊臣氏は滅亡します。
家康は孫娘千姫の養女を殺すに忍びず、東慶寺に入山させます。
当時7歳だった少女は剃髪し天秀尼となります。
少女はその際に家康に望みを聞かれます。
「開山以来の寺法を守る」約束を取ります。
 
彼女は入山に際し、数々の調度品を持参したようです。
高台寺蒔絵に匹敵する蒔絵が伝えられました。
そのうち16点を展示しています。(12月3日まで)
 
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「初音蒔絵火取母」重文、「年月を松に曳かれてふる人に 今日鶯の初音聞かせよ」の歌、梅、鶯が金薄板に毛彫りされています。火鉢でしょう。巾着のような形は椿の実でしょうか?幼い天秀尼が暖を取ったものでしょう。「火取り鉢」とせず、「火取り母」と呼ばれるのは「娘・天秀尼が火鉢に手を翳しながら母/千姫、の愛情を感じていたからでしょう。)
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                      葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(「まつがおか日記」から転載、重文)
 
「まつがおか日記」には奥様の目線から、蒔絵の紐を新調する気遣い、喜びを伝えておいでです。
奥様は、素晴らしい漆器を現代人も知って、使って欲しい・・・・、そんなお気持ちなのでしょう、
新しく、現代感覚で漆器(蒔絵)を作らせ、案内しておいでです。
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 (東慶寺若奥様が意匠したと思われるお弁当箱、前記宝蔵内で求められます。「まつがおか日記」転載)
                     
今年は少し紫陽花を移したそうです。
お蔭で、参道から眺めると、鐘楼前の「四つ目垣」が見渡せるようになりました。
垣根には郁子(ムベ)の実が見えるようになりました。
10月では未だ青くても、大きくなりました。
来月には紫色に染まる事でしょう。
若奥様の気持ち、
「紫陽花は良く見ていただいています、でもその奥に隠れてしまっていた郁子(ムベ)も見てあげてください」
良く解ります。
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私は、鐘楼の礎石に腰掛けて、郁子(ムベ)の実を眺めていました。
参道の向こうから、弾んだ声が響いてきます。
「これから、何処に行こうか!」
「小町通に・・・・・○○×を食べに行かない、美味しいシチューだそうよ!」
お茶席が開けたのでしょう。
お若い女性が、着物姿も良いものです。
大島の召し物には、娘を見守ったお母様のお心も宿っている事でしょう。
お茶会を催していられるのも若奥様です。
 
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                  (垣根のムベ、その向こうに、お茶席が終えて、着物姿の若い女性が・・・・・・)
 
漆器(蒔絵)も同じ、着物も同じ、古いだけでは駄目、眺めるだけでは詰まらない。
今も使ってこそ、その良さが解るもの。
伝統になるもの・・・・・。
東慶寺寺夫人のメッセージが良く解ります。
 
 
   
鎌倉第一の美人は、「江ノ島弁財天」ではありません。
東慶寺の「水月観音」です。
でも、血の流れている美人は「東慶寺若奥様」であると思っています。
私は、未だ面識がありませんが・・・・・。
 
 
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大日坊、ご住職の嘆き

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どうしても避けられない席があって、出羽の国にでかけました。
その折に、見聞きした事をこれから1週間程度の間、紀行致します。
先ずは、大日坊から・・・・・書き出します。
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鶴岡から湯殿山を詣で、山形に到る行者道を「六十里越え街道」と呼びます。
60里はその距離が60里(240キロ)あったからでしょう、
何処かに人生60年、一生に一度は詣でたい、そんな思いも込められていたのかもしれません。
詣でる目的は「湯殿山神社」です。
今TVでは「熊野古道テクテク旅」は放映され、熊野三宮を詣でる道は人気の古道になっています。
 
熊野古道に匹敵する東北の古道が「六十里越え街道」です。
熊野古道が杉林の中を辿るのに比べ、60里越え街道はブナの原生林の間を縫ってゆきます。
美しい自然の中、1000年以上も前から先人が踏み固めた道を辿るのは、
生きる喜びを実感させるものがあります。
 
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                 (60里越え街道はブナの森の中/鶴岡市観光協会HPから)
 
春日局は徳川秀忠の病気治癒願いをかねて、竹千代(家光)が剛健に育つよう、
湯殿山瀧水寺金剛院(略称大日坊)に祈願します。(寛永17年、1640年)
湯殿山は西の高野山に匹敵する「弘法大師空海」によって開かれた聖地だったのでした。
弘法大師は湯殿山大権現を「金胎両部大日如来」に刻まれました。
そして、大日坊のご本尊として祀られます。
湯殿山は女人禁制の山です。
女性や足腰の悪い人は、此処まで詣出る事が出来ました。
大日坊は、室生寺が「女人高野」と呼ばれたその位置にありました。
 
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 (宋から帰国する弘法大師を守った瀧水寺金剛院の権現像、不動明王のようでもあり、河童のように鱗もある。大日坊HPから転載)
 
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   (秘仏金胎両部大日如来の前仏、金剛界大日如来/大日坊HPから)
 
江戸時代末期には瀧水寺金剛院には20もの堂宇が立ち並び、1日1200人もの人が宿泊したそうです。
男性は此処にとまって鋭気を養い、翌日湯殿山御神体に向けて草鞋の紐を結んだ事でしょう。
そして、女性は此処まで来られた悦びを山門の仁王像の前に奉げて帰路についた事でしょう。
湯殿山信仰の高まりが瀧水寺金剛院を、そしてその中核大日坊を支えていた事になります。
 
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     (山門、仁王像の前に奉げられた草履など)
 
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           (大日坊本堂、側面は10間もある。前面は5間で、奥行きが深い建物。側面ビュー)
 
私が最初に大日坊に訪れたのは40年前、その後も数度立寄っています。
もう、30年も前には、旅先の父が倒れてしまい、、急遽私は家内と共に迎えに行きました。
25年も前には鳥海山の麓で結婚式がありました。
その折々に大日坊を訪れました。
今日此処に来ると、旧道は寂しくなり、高速道路が開通しています。
風景は大きくは変っていませんが、過疎化は急速に進んでいます。
 
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 (大日坊のほかは山並みだけが連なる、正面山門、村人が茅葺屋根を補修していました)
 
大日坊のご住職が迎えてくださいました。
充分時間を取って説明したそうです。
「でも、40分程度でお願いします」・・・・申し上げました。
 
以下は、大日坊のご住職の話を私の言葉で綴ったものです。
 
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   (正面弁天像、過疎化が進んだ為でしょう。周囲の寺が無住になり客仏が多く並んでいました。勿論正面は       大日坊の仏様です)
 
明治政府は「神仏分離令」を発布します。
仏教が日本に伝来すると、昔からの神々との関係が議論されます。
日本では、仏が化身となって、神々(権現)として現れた、と考えました。(本地垂迹)
神仏習合思想であったからこそ仏教も普及し、神道も共存できたものでした。
1000年を越える考えが、今日からは「神か仏か」どちらかにしろ!
命令された訳でした。
 
月山の麓、羽黒山では「私は神社です」、命令に従ったので、無事存続できました。
でも、大日坊は反発します。
神仏分離は1000年以上も弘法大師の教えに背きます。
「神も仏も一体です。私のところは・・・・・・」
これを頑迷と思った人、我国は神国だ、確信した人は堂宇に火を放ちます。
そして、東の高野山は大日坊を残して灰燼に帰してしまいます。
昭和11年には地滑り災害に遭遇します。
大日坊は500メートルも下って、現在地に建てかえられます。
 
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  (大日坊、本堂正面。厨子の中に秘仏金胎両部大日如来が祀られています。写真はその前仏)
 
 
明治の住職が、羽黒山神社のように時代の要求に柔軟であったならば、
大日坊は「東の高野山」の威容が残されていた事でしょう。
現在は、堂宇も貧弱になってしまい、ただ本堂一つ、祖師堂、山門が残るだけであります。
湯殿山に詣でる人は自動車で行き、大日坊には足を向けません。
元々、檀家もなければ、新しく墓地を求める人も居ません。
偶々訪れるのは私のような観光客か歴史ファンだけ・・・・・・。
僅かな観光収入では生活も安定しません。
ついつい、明治の住職にボヤキも言いたくなってしまいます。
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(明治の住職の面影を残すか?石段下のお地蔵さん)
 
 
弘法大師の法灯を守る為には、頑固な方が良かったのか?柔軟な方が良かったのか?
判りません。
でも、現住職の説明には納得するものの、何処か羽黒山の繁栄を横目に、怨み節のように聞こえました。
勿論、古美術が好きな私は、羽黒山以上の秀作が多く残されていたであろうに・・・・、
同じ人間によって焼かれてしまった事実が残念でなりません。
 
 
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我死して衆生を救済せしめん(即身仏)

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私が最初に即身仏「真如海上人」を訪れたのは昭和43年、月山の頂が真っ白くなった季節でした。
鶴岡からバスに乗って、60里越え街道を登って、ようやく山麓の大日坊に着きました。
即身仏は本堂の須弥壇の裏に安置されていました。
須弥壇にはご本尊の大日如来(昨日記載)が南面していますから、その背中合わせの位置です。
北面していられました。月山のある方角でした。
私は、薄暗がりの中で、恐る恐るミイラを見詰めました。
住職に「何故、金網の中に居られるのですか?」訊ねました。
「ネズミに食われてしまうからだよ・・・・」
私には、沢山の人が見守る中、生きたまま仏になる光景を想像していました。
自殺と殺人幇助、そんな言葉が脳裏にありました。
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 (即身仏・真如海上人、紅花で染めた法衣は昨年着替えられたそうです。座禅した姿で、流石に手の甲を見せていますが、印を結んでいたら驚異です。大日坊で検索すると着替えの様子がYOU-TUBEで見えます。僅かにお尻に肉が残っているそうです。今は西向きのお部屋に移され樹脂のケースに収まっておいでです。明るい光に照らされていますから細部までよく解ります。)
 
 
62歳になった森敦は紹介状を携えて当地を訪れます。
そして、大日坊のお隣、注連寺に一冬を越します。
寺の庭には桜の古木「七五三掛桜/しめかけさくら」が咲きます。
本堂には即身仏「鉄門海上人」が安置されています。
毎日この二つを見詰め、雪に埋もれて春を待ちます。
桜の咲くのは5月まで待たなくてはなりません。
 
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 (注連寺本堂、右奥に即身仏「鉄門海上人」が安置されています)
 
 
西行法師が”かく死にたい”歌ったのは未だ40代のことでした。
 願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ
 仏には桜の花をたてまつれ 我が後の世を人とぶらはば
 
如月の望月とはお釈迦様のなくなった季節です。
そして、私の墓前に桜を生けて下さいね・・・・、メッセージを託します。
73歳で亡くなります。
その”死に際”が見事で、衆人の願い通りであったからでしょう、死後名声が沸立ちます。
勅撰集の新古今和歌集では一番の扱いを受けます。
日本各地に西行伝説がうまれ、その一生は「西行物語」と、西行絵巻として流布します。
 
森敦の心には「死」の一語が重く圧し掛かっていたと思われます。
 
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                (注連寺本堂西にある七五三掛桜/しめかけさくら。四十雀が集まっていました)
 
 
ある日、森敦の茶碗にカメムシが落ち込みます。
カメムシは茶碗の底から這い上がろうとします。
でも、茶碗は滑々、縁近くまで這い上がって、またストン、底に落ちてしまいます。
何度も、何度も繰り返します。
森敦が手助けしたのでしょうか?ようやく茶碗の縁にまで這い上がると、
ブーン、飛び去ってしまいます。
 
「何だ、茶碗お底から飛べば良かったのに・・・」森敦は思います。
しかし、笑いは一瞬の間で、直ぐに凍りついてしまいます。
「何だ!自分は這い上がろうともしていないではないか、カメムシは笑えない・・・・」
気づきます。
 
この一冬の体験が「月山」を書き上げ、昭和48年第70回芥川賞を受賞します。
死を思い詰めた時、生きる事を悟ったものと思われます。
 
大日如来は南向き、即身仏は北向き、
月山は死者の魂が集まる山、湯殿山は新しい命の現れる霊地・・・・・、
此処は、「生と死」が葉っぱの裏表程度の差しかない事を解らせてくれました。
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          (カメムシ、部屋には入ってきませんでしたが、翌朝車にはたかっていました)
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真如海上人は90歳を越えていました。
折からの冷害は深刻で、世に天明の大飢饉となりました。
麓の村では年貢減免を訴えた所、百姓代表35名が鶴岡の城で殺されてしまいました。
水害があれば橋や築堤工事に人柱が立てられました。
大飢饉であれば・・・・大日坊の上人が即身成仏して、その功徳によって村人を救済してくれる・・・・
そんな期待が盛り上がります。
上人も「我死して衆生を救済さしめん!」覚悟を決めます。
 
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                             (誓願寺の義民碑、礎石に35名の義民の名が刻まれています)
 
真如海上人は木喰行に入りました。
五穀を絶って、木を食べるのが「木喰行」です。
大日坊の周囲はブナやミズナラ、橡などの森です。
その樹皮を剥いで食べました。
皮下脂肪も、筋肉もげっそり痩せ細りました。
次いで、漆を飲みました。
最初は吐いてしまいましたが、次第に慣れ飲めるようになりました。
漆の成分は内臓に沈殿しました。
もう、上人の体を腐食させる懸念は無くなりました。
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   (大日坊境内の地蔵、真ん中は子安地蔵)
 
木喰行を終えれば、次は土中入定(どちゅうにゅうじょう)です。
木箱を作って、上人はその中に収まりました。
大日坊の境内に穴を掘って、箱ごと埋められます。
地中で座禅を組んで、入定し、仏になる日を待ちました。
ある日、地中から聞こえていた鈴の音が止みました。
上人の息が止まったのでした。上人は96歳になっていました。
 
それから千日後、地中から掘り起こされて、「即身仏・真如海上人」が出現しました。
大日坊では三人目の即身仏でした。
百歳にして仏になったですから、日本最高齢の仏でした。
 
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                   (鉄門海上人像、注連寺HPから転載)
 
日本には現在18体の即身仏が確認されています。
最も古い即身仏は鶴見の総持寺にあります。
無際大師(延暦9年・790年)に始まります。
以来1000年の歴史を刻む即身仏の歴史です。
でも、江戸時代、出羽・新潟に集中しています。
時代的にも、地域的にも即身仏が生まれる背景があったのでしょう。
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                   (注連寺七五三掛桜、注連寺HPから)
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                               (注連寺の欄間彫刻は桜)
 
 
以来、300年経ちました。
「死」は避けて通れない人生最大の問題です。
とりわけ現代は、死の恐怖は大きくなっています。
「認知症になって、家族に負担になりたくない・・・・」
「死に際に苦しみたくない・・・・・・」
総じて言えば”ピンピン・コロリ”と死にたい・・・・、
多くの人の願望です。
”我、死して衆生を救済せしめん”・・・・大違いです。
 
”死んでから・・・・生きた”
西行にせよ、真如海上人にせよ、
そして、森敦文学にせよ、
先人の足跡は数多く、鮮烈なのですが・・・・・。
中々、その通りに往けない、そこが煩悩なのでしょう。
 
湯殿山の宿にクラフトテープが置いてあり、添え書きがありました。
「カメムシが出ます、そっと背をテープで貼り付けて、捨ててください」
カメムシは身に危険が及ぶと悪臭を放ちます。
対策を間違えると臭くて夜も眠れないのでしょう。
「生きる為に悪臭を放つ・・・・・」のは理に適っています。
でも、現代人は、自分の為だけに悪臭を放っているようです。
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   (大日坊山門、蛙股の位置に置かれた牛、牛と出羽三山の関係は密接で、丑年に祭事が行われます。月     山などの形が臥牛牛であること、農作業との関係・・・などなど云われています)
 
 
 
補足:名作「月山/森敦」について
○ 青年「明」は月山に向います。
町の住職の紹介状を携えて、山麓の寺に籠もります。
周囲には多層の茅葺民家が点在しています。
よそ者を寄せ付けない、寡黙な村でした。
村には娘「文子」が居ました。閉じ込められた集落の中で、文子の溌剌とした美しさが眩しい瞬間もありました。
秋の装いはアッと過ぎ深い雪に閉ざされます。
村人は密造酒の製造に携わります。
春が近づくと闇の酒買い人がやってきて来ます。
村人は寺に集まって念仏を唱え、やがて酒宴を開きます。
明は酒宴の合間に自分の部屋に戻ってみます。
すると、自分の寝所に文子が寝ています。
驚いた明でしたが、ソッとその場を離れてしまいます。
 
村人から文子の生い立ちを聞きます。
文子の母はよそ者の後を追って村を出た女でした。
でも、数年後村に戻って娘を産んで、そのまま死んでしまったのでした。
元旦の朝、文子は明に訴えます。
「お前と一緒にこの村を出れば、幸せになれそうだ・・・・・・」と。
数日後、村外れに男女の行倒れ死体が発見されます。
よそ者の酒買いと駆け落ちした二人でした。
薪を積上げ屍を焼きます。
念仏の声が流れます。
合掌しながら文子は明に呟きます。
「どうしようもないさけ・・・・・・」
 
明は雪に中に燕の屍を見つけます。
越冬しそこねた燕でありましょう。
 
明は僅かに膨らみ始めた木の芽を見詰めます。
月山を下る決意を固めます。
 
 
 
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田麦俣の兜屋根民家を懐かしむ

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昔、月刊誌で「旅」というのがありました。
日本交通公社が大正17年創刊し、昭和49年に閉じてしまいました。
廃刊後は、今のJTB「ルルブ」につながります。
私が愛読した頃には、詩人の岩谷時子、作家の高橋源一郎、写真家の石宮武二、そして画家の向井潤吉など、各界から多士済々、紀行文を寄せていました。
 
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   (田麦俣遠藤家住宅。)
 
 
私が晩秋の田麦俣に出かけたのは、
昭和47年10月号に向井氏の「田麦俣スケッチ旅行記」を読んだからでした。
 
戦時中向井氏は従軍画家となります。
40代半ば、終戦、戦争の束縛から解放されます。
「さてこれから、何を描こうか?」
戦争で深く抉られた心の傷を癒してくれたのは・・・・日本の風光、歴史の温もりだったのでしょう。
入江泰吉(写真家)が大和の風景や仏像に慕ったように、向井は民家のある風景にのめりこんで行きます。
 
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向井潤吉 蘇州(美しい市街地に戦闘機の影が・・・反戦画家と誤解する優しさが画面に滲みます。向井潤吉展より転載)
 
折から我国は高度成長時代、民家は急速に廃れていました。
向井氏は日本全国を歩き回り、民家を描き続けます。
地方によって民家の形は様々で、それぞれに美しくことを絵筆で紹介し続けます。
そんな中で、田麦俣は向井氏が最も愛し、再三訪れた集落でした。
 
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                                         (向井潤吉、田麦俣、向井潤吉展より転載)
 
田麦俣で向井氏は民家に寝泊りします。
寡黙な住人と睦みます。
湯殿山の山深い中、傾斜地には家を建てるには土地も限られています。
加えて冬には深く雪が積もります。
冬場は二階から出入りしなくてはならなくなります。
家は必然があって、多層民家になります。
 
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雪が消えれば湯殿山参拝客が宿泊してゆきます。
1階が主に家族や参拝客の居住用として使われ、2階は下男たちの寝所と作業場・物置として活用、
三階には養蚕の繭棚「厨子」が配置され、さらにその上に物置用の「天井厨子」が設えてありました。
蚕を育てる為には適当な通風と採光が必要になります。
従って屋根を兜のような形状に致しました。
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                         (繭だなが並んだ3階、通風、採光の工夫がなされています)
 

 
民家は住むだけの入れ物ではなく、住人の生計、家族関係、集落との絆、信仰心などで変ってきます。
まさに、「衣・食」同様に「住」は最高の文化なのです。
向井氏は紀行文に民家を描きながら、実は住人の姿や生活を描きたかったのだ・・・・言っています。
昨日森敦の「月山」を紹介しましたが、同氏も向井氏の紀行文を読んで、影響されたと想像します。
馬の背の様な傾斜地に、独特の兜屋根の多層民家が並んだ風景は、
日本中に「東北の白川郷」を印象付けました。
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                              (鶴岡市観光連盟HPから転載)
 
1階には囲炉裏が切ってあり、長押には神棚があって、その横の漆喰壁に明治天皇のlご真影が飾られていました。
田麦俣民家が一番輝いていた時代だったのでしょう。
(”田麦俣・向井潤吉”で検索すると同氏の画業を書いた私のブログがトップで出て来ます。)
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                (1階囲炉裏のある部屋、正面自在鈎の上部に明治天皇ご真影、その横に神棚)
 
向井氏が危惧したとおり、今では田麦俣には多層民家が2戸しか残っていませんでした。
1戸(遠藤家住宅)が鶴岡市文化財として保存され、もう1戸は民宿として営業されていました。
鶴岡市の致道博物館でも、旧渋谷家住宅(国重要文化財)が保存されています。
ですから、今は3戸、向井氏流なら民宿1戸しか残されていないことになります。
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      (2,3階を側面から見る。切妻の上部に草書で「水」と書かれています。千木で大棟を飾っています)
 
民宿の主人でしょう、お一人が屋根の西端で黙々と、茅葺の葺き替え作業をされています。
軒下には未だ刈り入れたばかりの萱を干してあります。
干した萱は来年葺き替える予定でしょう。
 
一般に茅葺屋根の寿命は20年と言われています。
主人は20年をかけて屋根を一周、葺き替えを終えるのでしょう。
そして、また次の20年に向けて、もう1周の作業が開始されます。
 
白川郷では「結い」が結成されて、集落の農家全員で茅葺作業をします。
来年はお隣に作業が移動します。
田麦俣ではもう集落には作業を手伝ってくれる人は一人も居ません。
黙々と、坦々と、一人で作業しなくてはなりません。
一人作業は効率が悪く、危険でありましょう。
 
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      (萱葺き作業に勤しむ主人、尊敬を込めてお顔を消していません。指摘があれば即座に消します)
 
白川郷が保存に成功し、世界遺産になったのは「結い」のお蔭でした。
田麦俣が保存に失敗したのは、そうした組織自体が崩壊してしまったからでしょう。
もう一段掘り下げれば、養蚕業が廃れ、湯殿山参拝客が田麦俣を通らなくなってしまったから。
六十里越え街道が廃れて、新しい道路をビュンビュン車が通るようになったからでした。
新道路開通は経済効果を狙って・・・・、
でも、道路は過疎化を促進し、家族を分散させることが往々にしてあります。
菅総理の言葉を使えば、「最小不幸」どころか、不幸を増大させる事になります。
最小不幸を実現するのは「人間同士の絆」を大事にしなければなりません。
「結い」もその絆のひとつです。
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(妻屋根の部分に窓をつけています。これが兜の謂れです。冬の出入り口、通風、採光、様々な目的があります。兜と棟上部の千木が織りなす美しいアングルです)
 
 
私達は、次の目的地羽黒山に向います。
新しいビュンビュン道路を脇目にして、六十里越え街道を暫く行くことにしました。
もしかしたら、兜屋根民家が残っているかもしれない・・・・、
路傍に石仏が佇んでいるかもしれない・・・・、期待しながら、
もう、失われてしまう「美しい兜屋根民家」を懐かしみながら・・・。
 
 
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                                         (手前民宿、奥が遠藤家住宅)
 
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                        (秋明菊が文字通り多層民家に花を添えていました)
 
 
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”慈恩寺そば”の味はグローバルスタンダード

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山形と言えば「蕎麦」でしょう。
昼食は、「板そば」で有名な「慈恩寺そば」に予約を入れておきました。
村山地方と庄内地方を結ぶ古道が「六十里越え街道」、
国道112号線は、同街道をベースに整備されたました。
同国道を渋滞させるほどの名店だそうです。
 
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                                  (慈恩寺そば、入り口。建物は街道の旅籠風)
 
東北で指折りの古刹慈恩寺の寒河江寄りに、お店はありました。
築120年以上が経つ古民家がお店です。
水戸黄門の一行が旅籠で蕎麦を賞味する、そんな雰囲気のお店で、
黒光りした柱や桁、壁に無造作に飾られた民具の数々に囲まれています。
 
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                           (店内、お客さんは食べ切れないほどの量にビックリ)
 
蕎麦と言えば「蒸篭」に盛られてでるもの・・・・、
ところが、慈恩寺そばは無造作な四角い盆に盛られて出てきました。
寒河江地方ではこうした姿が一般で、「板蕎麦」と呼ばれるのだそうです。
蕎麦は寄り合いでのご馳走、丹精して蕎麦打ちして、沢山食べていただきたい・・・・、
そんな気持ちがこの形状になったと言われています。
そういえば昨年食べた「新潟小千谷のへぎ蕎麦」も同じような形で出されました。(此方は舟を模した)
数名が一緒に盛られた蕎麦を食べる・・・・、
鍋を囲む、芋煮会・芋煮鍋と同じ形なのでしょう。
 
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                          (板蕎麦・YAHOO食べロクより転載。天麩羅は別注文)
 
 
真っ黒い、太い麺でした。
しっかりした”腰”がありました。
期待通りに、強い蕎麦の香りが漂いました。
1枚900円、腹持ちする量でした。
おもてなしの気持ちが満腹させるボリュームになるのでしょう。
全国の蕎麦を食べ歩きましたが、
慈恩寺蕎麦は文字通りの「田舎蕎麦」であり、出羽の文化を象徴している・・・・、そう感じました。
 
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                           (慈恩寺そば店玄関に咲いていた秋明菊、南天も実っていました)
 
もう2年も前のことでしょうか?
1012年の夏のオリンピック招致合戦でフランスとイギリスが激突した事がありました。
思いもかけず敗れたシラク元大統領は悔し紛れに言いました。
「(ロンドンのような)食べ物が不味い都市でオリンピックを開くなんて、最悪だ!」
フランス人は料理の美味い国が文化国家、不味い国は軽蔑しているようです。
その意味では、日本はフランスに匹敵する文化国家でありましょう。
寿司も蕎麦も懐石もすき焼きも・・・・、世界中に伝播しています。
日本人は日本料理で世界中人の尊敬を集めている事になりましょう。
 
私は銀行員時代外債受託の為、再三ロンドンに出張した経験がありました。
「当地の料理を食わせろよ!」私の注文に、
現地スタッフは「ロンドンには食い物は無い、日本料理にしよう・・・・」
毎度同じサントリーの系列店に連れて行かれました。
 
世界を制覇した大英帝国です。
世界の美食を窮めた・・・・と期待して自然です。
日本人なら為し得たでしょう・・・・・。
 
東京では世界中の料理が食べられ・・・・・工夫して”無国籍料理”にしています。
無国籍料理はグローバルな料理の事でしょう。
でも、世界中の美味い素材を同じ鍋で煮ても美味しくなりません。
一つ一つ、素材を生かして、調理の手順を守って・・・・・個性を生かさなければ美味しくなりません。
包丁も器も大切な脇役です。
 
無国籍は一方で”多国籍”でなければならないようです。
多国籍料理は日本人の真骨頂でしょう。
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蕎麦の実を挽きます。
最初に三角錐状の実の核部分が粉になります。
上品な白いお蕎麦になります。
更に石臼を回すと、次第次第にそば粉は黒ずんできます。
実の外殻が挽かれて混じるからです。
見た目は悪くなっても、香は強くなります。
出羽は山がちな国です。
蕎麦や稗・粟と言った雑穀しか出来ない土地が多かったのでしょう。
上品な事より、野性味が強くても、総て食べ尽くす事を重んじたのでしょう。
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               (慈恩寺蕎麦の夫婦蕎麦、900円 YAHOO食べロクから転載)
 
朝日連峰を越えれば会津、此処も蕎麦が美味しい。
更に、只見の山を越えれば越後、こっちも負けず劣らず蕎麦は美味しい。
器も違うし、そば粉のつなぎも違う。
山一つ越えれば、蕎麦は随分違う。
その蕎麦を支える文化が自体が違うから・・・・・。
だから、日本は楽しい。
 
慈恩寺そば・・・・、
古民家で古民具に囲まれて、古い蕎麦猪口で、独特なそばつゆで味わう蕎麦は格別でした。
素朴で、飾り気もなく、素材そのものの味で・・・・。(でも蕎麦粉7/小麦粉3だそうです)
これこそ、正真正銘「田舎蕎麦」でありましょう。
 
さあ、腹も満たされた。
梵字川を遡って、古刹慈恩寺さんに詣でる事にしましょう。
 
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      (慈恩寺近くから、慈恩寺そば店の方角を望む。山の下に梵字川が流れ、その東に蕎麦店がある)
 
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霊気に満ちた出羽の慈恩寺

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”慈恩”とは「慈(いつく)しみの恩」、「あついなさけ」と言った意味でしょう。
慈恩寺の名は、仏様が衆生に対して「厚い情け」に満ちているお寺だからでしょう。
 
ありがたい名前です。
ですから、横浜にも埼玉にも、全国各地に同名のお寺さんがあります。
さあ、これから慈恩宗大本山、出羽寒河江の慈恩寺に詣でる・・・・・、
思うだけでも「ありがたいなあ!」思ってしまいます。
 
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                (慈恩寺裏山からの風景、寒河江市外を望む。寒河江観光協会HPから転載)
 
寒河江川(梵字川)に朱塗りの橋が架かっています。
橋を渡って、曲がりくねった道をクネクネ登ってゆくと、その先に慈恩寺があります。
慈恩寺は葉山(月山連峰の東端/1462m)の麓にあります。
湯殿山の山麓にあるのが大日坊、葉山の麓にあるのが慈恩寺、
どちらも出羽三山信仰の一端を担っていたものでしょう。
勿論主峰は霊山「月山」です。
 
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                          (郷土資料事典山形県から慈恩寺案内)
 
 
行基菩薩が神亀元年(734)に当地を訪れたました。
強く大きな霊感を得て、聖武天皇に報告します。
天皇は天平18年(746)に勅令を発し、婆羅門僧正(ばらもんそうじょう)に建てさせたのが慈恩寺でした。
本尊は行基作「弥勒菩薩」を安置致しました。(寺伝)
 
以来、歴代領主にあつく庇護されたのは、その尊さと同時に、庄内・村山を結ぶ交通・戦略上の要衝にあったからでしょう。
元和8年(1622)最上家のお家騒動により、幕府が直轄、2800石(東北随一)の寺領を寄進されました。
 
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        (慈恩寺パンフレットから部分転載。十二神将像から摩虎羅/まこら、ウサギを頭上に冠していること        からウサギ齢の人の守り神)
 
東北には山一つ越えると、河があって、その畔に古刹があります。
北上川(衣川)を見下ろす位置に中尊寺、会津(阿賀野川・只見川)に勝常寺、山寺も仙台・山形の山峡にあります。それぞれが地域の自然・歴史を反映して独特であります。
それで、興趣が尽きず、旅に誘ってくれます。
慈恩寺も大日坊も同じ、出羽三山信仰、山岳信仰の賜物です。
 
ご住職が本堂前に立ってお待ちいただいていました。
”皆さん、昨年の大晦日NHKの行く年来る年、除夜の鐘を聞きましたか?あれが当慈恩寺です”
急に親しみが湧きます。映像の記憶は確かなものです。
 
本堂は正面9間、奥行き7間の壮大な建物です。
この地方でなければ出来ない茅葺の大屋根は重厚です。
装飾彫刻の随所に桃山時代の特徴を示しています。(国重要文化財)
外陣の欄間上には巨大な絵馬が架けられて、目を引きます。
天井には天女が迎えてくれます。
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         (慈恩寺本堂、重厚な桃山建築、茅葺は未だ7年と云うのにくすんでいるのは長い積雪の為?)
 
内陣に入ると、密教の臭いがプンプンです。
宮殿(巨大な厨子)にはご本尊の弥勒菩薩をはじめ、普賢菩薩(脇待群)文殊菩薩(脇待群)をはじめ、降三世明王、釈迦如来、地蔵菩薩など30余りの仏像が納められているとの事です。
何れも秘仏で、丑年にご開帳だそうです。(牛と月山との関係は既述)
 
ご住職は写真を使って説明してくださいます。
宮殿内の仏像群は総じて桂など当地の霊木を使用した一木つくり、
着色は唇(朱)に髪(墨)程度で木肌のままのようでした。
群像は東寺を思わせますし、弥勒菩薩は法華寺の十一面観音(光明皇后生き写し)を彷彿、更には相模の日向薬師を思わせます。
霊木に対する畏敬の念は山岳信仰の一つの現れでしょう。
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              (慈恩寺本堂内陣、正面前仏、その奥が宮殿、30数体の秘仏/重文が祀られています。寒              河江観光協会HPから転載)
 
阿弥陀如来像(重文)は京風の藤原様式(定朝様式)、摂関家との関係を思わせます。
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                                 (藤原様式の阿弥陀如来像/出典上記)
 
お隣の薬師堂に廻りました。
薬師三尊は鎌倉時代、慶派の作でありましょう。
背後には十二神将像が囲んでいます。
薄暗闇の中、正面扉が開けられ、差し込んだ光がその厳しい表情を浮きあげています。
(総て重文)
慈恩寺には中尊寺のように国宝にこそ指定されていませんが、
文化財の数や、群像の迫力は東北随一でしょう。
 
ジッと見詰めると、流石に疲れます。
薬師堂を出ると、興奮して、火照った頬に秋の風が冷たく感じます。
もう、夕闇が迫ってきました。
田圃には刈り後の煙が狼煙のように立っています。
これから、葉山の麓を迂回して、湯殿山山麓の宿に向かうことにしました。
 
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                           (慈恩寺薬師堂)
 
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                          (薬師三尊像は慶派様式、慈恩寺パンフレットから部分転載)
 
 
 
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語り尽くせぬ有難み「湯殿山御身体」

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湯殿山ホテルの朝食案内は7時から、
ホテルの奨めに従って、朝食前、朝6時に湯殿山神社本宮を詣でる事にしました。
私の観察する所、このホテルは中年の脱サラ夫婦が運営している様子、
ポッチャリして、よく働く女将さんが奥さん、
山伏風に髭ぼうぼうな親爺が主人。
主人がマイクロバスを運転して、有料道路を登ってゆきます。
約10分、大きな鳥居の前に出ました。
此処は遥拝所、一般の人は此処で車を降りて15分ほど坂道を登らなければならないとの事、
ホテルは特別に朝一番、本宮まで乗りつける事が出来る・・・・との事。
こんなサービスが無ければ、半日を要する行程です。
 
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               (正面湯殿山ホテル、右薬師岳1262m、その奥に弥陀ヶ原があって月山に続きます)
 
 
私の家(横浜戸塚の上倉田)の坂道を20mほど下ると、奥州古道に面します。
と言っても、知っている人は殆ど居ませんが。
唯、この道筋に二基の道標が建っています。
何れも、正面に湯殿山・月山・羽黒山と刻まれ、出羽三山碑である事が解ります。
正面下部には「右鎌倉」、側面には「左弘明寺」、更には「天下泰平・国家安隠」と祈願文字が並んでいます。
 
奥州古道を整備したのは出羽三山の修験者、彼等は国家の安泰を祈願していた、ことが解ります。
また、歌舞伎の勧進帳、義経一行は出羽三山の修験者の姿をしています。
先達の山伏は弁慶で・・・・、
江戸時代の常識では出羽三山の修験者は尊敬され、全国各地を勧進(この場合は東大寺再建)する事を妨げる事は、憚れていたことが解ります。
ですから、湯殿山別当寺の大日坊に一晩1200人も宿泊していた・・・話も納得です。
 
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                  (我が家の近くにある出羽三山道標、上倉田にも修験者が住んでいました)
 
出羽三山詣での入り口は羽黒山です。
鶴岡や酒田から出発すると、羽黒山は月山の登山口に当ります。
月山(1984m)の山頂に月山神社を詣で、稜線を下ると約3時間で湯殿山本宮(1100m)に着くそうです。
出羽三山詣での締めくくりは湯殿山と言う事になります。
私達の泊まった湯殿山ホテルは本宮に湧出する温泉と同じ泉脈、同じ効能があるそうです。
でも、にがりなど泉質がきついので、三倍に薄めて浴室に流しているそうです。
山の稜線を歩いて疲れた体を休めるには最高のロケーションだったのでしょう。
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                              (正面鳥居は湯殿山遥拝所/参篭。ご神体入り口からの遠望)
 
私達は家族の死を看取っていました。
お爺ちゃんが家族に遺言して息を引き取るのを、子供も見詰めていました。
そして、母親が出産するのも同じ部屋で行われていました。
子供も、出産の場面を見詰めていました。
奥座敷で、「オギャー」声が響いて、
家族全員が歓喜に満ちて・・・・、
死も生も、等しく厳粛で、荘厳で、人知の及ばない所にある事を承知していました。
死と生が隣同士である事、輪廻していることも、うっすら意識していました。
母親が死んで、子供が残った・・・・、生まれ替わりは茶飯事でした。
 
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                                (湯殿山本宮入り口のある神牛。右側に石段があります)
 
月山の祭神は字の通り「月夜見尊/つくよみ」です。
多分庄内平野から東に月山を仰ぎ見ると、黒い山容の上にお月様が煌々と輝くのでしょう。
其処は死者の霊が集まる聖地と確信されたのでしょう。
本地仏は阿弥陀如来となっています。
牛が寝そべったような形の稜線を下ったところに、モッコリした巨岩があって、温泉が湧いていました。
此処に霊性を強く感じて、湯殿山神社を祀りました。
祭神は大山祇神、(おおいなる山の神、神産みにおいてイザナギとイザナミの間に産まれた)など。
本地仏は大日如来という事になります。
人が亡くなって魂が月山に集まり、3時間も稜線を下ると、湯殿山に生まれる、そんな位置関係なのでしょう。
 
私達は肉親の生死の場面に立ち会わなくなってしまいました。
だから、出羽三山の有難みが実感できなくなってしまったのでしょう。
 
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               (湯殿山本宮、祓所、右手の戸を潜ると20m先がご神体。でわ三宮公式HPから転載)
 
湯殿山本宮が近づきました。
マイクロバスを降りると、寝そべった牛が出迎えてくれます。
石段を5分も登って、下ると沢に本宮入り口につきました。
先ず裸足になるように言われ、
お守りと人形(ひとがた)をいただき、
御祓いを受け、人形に身体の穢れを移して沢に流しました。(御祓い料500円)
足裏に固い岩を感じます。岩は冷たく悴んでしまいます。
裸足のまま奥に登ってゆくと、いきなり大きな塊り状の岩があります。
大きな幣と鏡が祀ってあり、この巨岩がご神体である事が判ります。
 
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                      (本宮前での山開き式、毎年5月、庄内日報新聞社記事をHPから転載)
 
「滑らないように、ゆっくりと、手すりを握りながら・・・・」
恐る恐る、巨岩の左脇を登ってゆきます。
驚いた事に岩は暖かく、温泉の湯水が岩を伝って降りてきます。
ああ、この暖か味が子宮の温るみか・・・な・・・・・・?、
思います。
 
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(正面石の祠の背後がご神体の巨岩の裾、郷土資料事典山形県人文社、昭和46年より転載、昭和初期の写真と思われる)
 
神主から言われました。
「(湯殿山のご神体については)”語る無かれ”訊くなかれ”」
芭蕉も奥の細道で詠んでいます。
 
   語られぬ 湯殿にぬらす袂かな  芭蕉
 
 
”語るなかれ””訊くなかれ”とは湯殿山の有難みは語りつくせない、幾ら聞いても”訊き尽くせない”
だから、遥々参拝しろ、と言う意味でしょう。
語ったり、聞いたりしたら罰が当る、そんな意味ではないでしょう。
何故なら、出羽三山神社の公式HPにはご神域の写真は数多く出ていますし、
真面目な地誌の本には写真を含めて紹介されています。
 
 
山間の村に行けば何処にも死者の魂が集まる山があります。
京都の大文字焼きの山も箱根の明神岳も霊の集まる山です。
そして、その稜線の下、沢には湧水があって、この水のお蔭でお米が収穫できます。
その湧水が温泉であって、子宮のような温みがあったなら・・・・・
感激も一段と高潮します。
だから・・・・・出羽三山は日本の山岳信仰、修験道のメッカであり続けたのでしょう。
大和の大峰山、九州の英彦山に勝るとも劣りません。
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               (ホテルに貼ってあった六十里越え街道のポスター、本宮の脇を通っています)
 

1時間の予定が、ホテル主人の熱意で遥かにオーバーしてしまいました。
温かい朝食を戴いて、早々に出発です。
ポッチャリ奥様に見送って下さいました。
夫婦共稼ぎ、12月から来年4月までの間は積雪の為休業と案内されています。
中々、営業の環境は厳しいものがあると推察しました。
 
次の目的地は田麦俣多層民家、(3段前報告)です。
黄葉したブナの林を縫って、下ってゆきます。
道は六十里越え街道、通り過ぎる車もありません。
時折路肩に軽自動車が駐車していました。
ドライバーは樵風、キノコの採取だそうです。
止まってしまったような時間、
瞬きする間もなく過ぎ去ってしまう時間、
交錯するような感覚に陥ります。
 
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                     (112号線、旧道を田麦俣多層民家に向う。3ページ前に既述)
 
 
 
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千年杉に、六百年の五重塔

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庄内平野から眺めると、北に富士に似た鳥海山(2236m)、東に月山(1984m)の山並みが眺められます。
肥沃な平野を潤すのは、東に連なる月山の山懐から流れ出す最上川や赤川です。
月山の山並みは庄内平野に向って寝そべっている牛(臥牛)のように見えました。
頭の部分が羽黒山(414m)、背は月山の稜線、そして太股と腹の間、陰所(※)を湯殿山と謂い、これを総称して出羽三山と呼んだのでしょう。
庄内に住む人々にとっては、死んで行き先も出羽三山、生まれてくる神秘も出羽三山、そして五穀豊穣も出羽三山の恵み、と仰いだ事でしょう。
ですから、古代から霊山、修験道の霊場としてあつい尊崇を集めました。
 (※湯殿山を陰所と表現するのは憚れましたが、森敦/月山で使っていました。的確過ぎる・・・・?)
 
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羽黒山は庄内平野に迫り出した小山です。
羽黒山神社を祀ると共に、月山・湯殿山三社を合わせて祀られていました。
庄内を治めた領主は先ず、羽黒山を尊び庇護しました。
室町時代には最上義光が大修理、この時建立したのが現存する五重塔(国宝)と思われます。
南北朝時代には武藤政氏も再建に尽力したと伝えられます。
 
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                                (大鳥居から向こうは庄内平野)
 
冬の季節風が日本海を渡ってきます。
月山の山が壁になって上昇気流になります。
その結果、月山の西面は豪雪地帯になり、深い積雪に覆われます。
積雪は農作に恵みをもたらすものの、羽黒山の堂塔には厳しい環境をもたらします。
五重塔を建立するに際し、羽黒山の何処にしようか?考えた事でしょう。
伽藍配置の常識からして、本堂の参道脇にしなくてはなりません。
高い塔ですから、季節風にも、積雪にも耐えなくてはなりません。
 
長い石段(2446段、約2キロ)の中腹に、風の吹き溜まりがあります。
其処には杉の自生林がありました。樹齢400年は越えていたでしょうか?
此処なら、杉が防風林の役割をしてくれます。
そこで、その樹間に五重塔を建立する事にしました。
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                    (五重塔前から三社合祭殿方向を望む、曲がった先左が斎館)
 
 
五重塔の西、20mの位置に杉の巨木があります。
注連縄が張ってあって、「爺杉」と案内されています。
樹齢1000年だそうで、爺さんから見れば、
「五重塔はまだまだ若造、自分が守ってきてやったのだ・・・・」そんな風に言う事でしょう。
爺さんがあれば、婆さんもつき物だ・・・・そお思って探すと、ありました、大きな切り株が。
地上1m程の位置で切り倒された、古株です。
腐った株からは杉の幼木が顔を出しています。
婆杉は明治時代、台風で倒れてしまったそうです。
爺杉、婆杉、その兄弟杉が五重塔を600年余り守ってきたのでしょう。
そして、古代杉の次世代子供達が今も五重塔を守っています。
杉林と五重塔の姿が調和しているからこそ、この塔は尊く、人気があるのでしょう。
 
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                      (手前左が爺杉、正面五重塔、右手前に婆杉の古株が残っています)
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                           (手前婆杉の切り株、奥注連縄がはってあるのが爺杉)
 
 
室町時代は、茶の湯や書院が盛んでありました。
純和風の建築がお寺の堂塔に、陸奥の五重塔にも影響しました。
京都や奈良の寺寺のように、朱塗で緑の蓮子窓、白い壁にはせず、白木の味を活かしました。
屋根には緩やかな反りを加えました。
屋根自体は柿葺き(こけらふき)にしました。柔らかい曲線を活かし、優しげな表情にしました。
初重には縁をつけました。
各重とも組み物は三手先、軒は二軒の構成、「シンプル・イズ・ベスト」と判断しました。
一方では、柱頭柱間に間斗束、腰長押の下に束をたてるなど、古式の技法も尊重しました。
こうして、「純和様の五重塔」が完成しました。(1372年)
 
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                 (五重塔初層、三手先の組み手を初め、シンプルなデザインが目立ちます)
 
 
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                         (右手蜂子神社、仏堂の色彩が濃く、白木の良さを生かしていますい)
 
明治維新、神仏分離令が発布されました。
出羽三山の各神社、寺院にも「神か仏か」選択を迫られました。
羽黒神社は機を見るに敏だったのでしょう。
山門の左右で睨みをきかせていた仁王像を撤去、急遽神像を置いて、随神門(ずいしんもん)と名も変えました。
”此処羽黒山は神域です” 内外に発表したことになります。
更に石段を登って、五重塔に到ります。
五重塔は本来お釈迦様の遺骨を祀るものでしたが、大国主命を祀りました。
主殿の「羽黒山三神合祭殿」はそのままで良しとしても、
境内の仏教系の堂宇は急遽、看板のすげ替えをしました。
 
主殿に繋がる華蔵院は元々は先達寺院の筆頭でしたが、「羽黒山斎館」としました。
斎館とは神社の神主やお巫女さんが参篭し、寝食をとり、ご祈祷に受けた信者が一息つく施設です。
 
花頭窓(蓮の花を模った寺院独特の窓)のお堂も、神殿に替えました。
お蔭で、羽黒山の廃仏稀釈による破壊損失は最小限で食い止められたのでしょう。
大日坊はじめ、真言系の寺院が徹底して壊されたのとは大きな違いでした。
(この紀行文最初の大日坊ご住職の嘆きに既述)
 
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                                 (斎館の玄関から門を望む)
 
 
「たまには精進を戴きたいものだ・・・・」
私達は斎館に昼食を予約しておきました。
長い石段の奥、苔むしたお庭を抜けると、塔頭の玄関に着きます。
案内されて、最奥部の部屋に案内されました。
部屋の前に注連縄が張られています。
「何か変だな?・・・・・」
思って入ると、畳の敷き方も違っています、床の間もあれば、違い棚も付いています。
このお部屋は「勅使の部屋」だそうで・・・・・・、
都から遣ってきた勅使をお迎えする部屋だったそうです。
 
ああ、そうか羽黒山にとっては、現在は私のような一般観光客を勅使並みに扱って呉れるのだ、・・・・・、
妙に納得してしまいました。
 
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                       (お精進、1,500円、お米は今年売り出した”つや姫”で、満足・満足)
 
さあ、腹も満ちたし・・・・・・、
今晩は酒田に宿をとっています。
 
 
 
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酒田、山居倉庫の光と影

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寛文12年(1672)に河村瑞賢は北廻り回船を整備します。
西の堺、東の酒田と呼ばれるほど、酒田は繁栄します。
出羽山麓から流れ出した最上川がブナの自然林から有機物を運び、
庄内平野を日本有数の穀倉地帯にしていました。
酒田からお米や紅花などの特産物を運び出し、堺に運んだのでした。
 
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                                (山居倉庫北側、欅が並んで季節風を防いでいます)
 
 
明治になると、酒田の人々はお米の流通に近代化の工夫を上乗せしました。
50表積みで敏捷に走る舟(小鵜飼船)を開発、川や運河を介して、河口に運びました。
河口では美味しいままで米を全国に流通させる為、倉庫を建築しました。
 
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           (新井田川越しに見る南側の山居倉庫、舟で米を集荷、この倉庫に籾のままストックした)
 
新井田川の河口近く中州に土を盛り、其処に14棟ものお米専門の倉庫を建築しました。
お米は籾殻を付けたままで息をしています。
空気が流れなければ腐ってしまいます。
美味しいお米を食べるには、精米したら直ぐに食卓に上げなくてはなりません。
また、コクゾウムシ等病虫害にも罹り易いのです。
お米倉庫は夏涼しく、冬の季節風に耐えなくてはなりません。
倉庫の軒下に広い開口部を用意し、空気が倉庫内を流れるよう工夫しました。
倉庫の北側には欅の木を植えました。
こうして「低温・通風」にすぐれた、山居倉庫が出来ました。
 
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                  (小鵜飼船、小回りが利く舟で50表の米を積んで倉庫に集荷しました)
明治27年酒田の町は直下型大地震に見舞われます。
直後に発生した火災によって町は8割方焼け落ちてしまいます。
「お米は酒田の命」、酒田の人達は山居倉庫を必死に守った事でしょう。
それから、100年余りが経ちました。
 
今でも倉庫は現役です。
西端の二棟は「酒田夢の倶楽」と名づけた観光施設に致しました。
酒田の資産、お米を全国に発信するのも役割です。
 
お米作りは周期的に冷害に見舞われます。
飢饉に襲われます。
その度ごとに農民は田地を手放さざるを得ませんでした。
 
お蔭で明治維新、酒田の本間家は日本一の大地主に成長します。
貧農の子は「おしん」状態になり、必死に生きようとします。
一方、豪農、豪商は雅に憧れます。
本間家は難波や江戸・京都にも負けない廓を作ります。
名前は「鐙屋(あぶみや)」、(井原西鶴/日本永代蔵)
出羽の娘は元々色白、
山形弁を改め、舞妓言葉を使わせます。
特産の紅を塗れば、もう見た目は祇園に負けず劣らぬ芸子が誕生します。 
雅の陰にはいつも哀しみが潜みます。
 
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                             (今も人気の相馬楼・舞娘/酒田観光協会HPから転載)
 
日本全国を芝居公演で回っていた、辻村寿三郎は1980年代酒田に強く惹かれます。
屹度浄瑠璃の世界から伝わる「廓の陰影」を見たのでしょう。
山居倉庫に「夢の倶楽」計画が持ち上がると、「酒田の雛あそび」というオリジナル人形の制作に着手します。
 
遊女の世界に見立てた雛人形は、往時の華やかで艶やかで、そして陰のある料亭文化を甦らせました。
廓「鐙屋」を再現し、遊女達の他愛の無いい会話や、衣擦れの音、脂粉の香、艶やかなかさね衣装、花魁の簪・・・などなのを表現します。
そして、白粉の中にはキツネ目がキリリと見詰めます。
虚実の底にあるものを諭すかのように・・・・・。
 
私達は、浄瑠璃の世界を髣髴します。
万華鏡の向こうには、嘘の世界の悲しみを垣間見る思いがします。
 
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                         (辻村寿三郎、お人形の展示コーナーから)
 
米の酒田は越後のコシヒカリ、宮城のササニシキ、秋田のアキタコマチに遅れてしまいました。
そこで、十年来のブランド米開発プロジェクトをスタート、今年から売り出しました。
 
名前は「つや姫」、”つや”は漢字に直すと”艶”でしょう。
色が白くて、甘味があって、冷えても(たら)美味しい、のが特徴だそうです。
お米といえば”おにぎり”、おにぎりに最適なお米を開発し、売り出したわけです。
TVでは阿川佐和子さんが目尻に皺を出して、美味しい、アピールしています。
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                         (朝日新聞山形/つや姫売り出しニュース、HPから転載)
 
「酒田夢の倶楽」は庄内の物産館でもあります。
紅花染めに、庄内柿、ラフランス・・・・売りたいものは様々で、並んでいます。
大地主本間家は柿木の瘤を使ってゴルフのクラブを作りました。
パーシモンのドライバーはサラリーマンの憧れになりました。
そして、辻村寿三郎は「花うさぎ」を思いつきます。
 
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                        (寿三郎の花ウサギのデザインが其処此処で売られていました)
 
真っ白で耳の長いウサギさんです。
可愛い簪をつけているのは、廓にデビューした娘さんでしょうか?
 
月山の山の上に出るお月さんにはウサギの姿があります。
ウサギは餓えた人のために自ら燃え盛る火に身を投じました。
帝釈天は哀れんでウサギをお月様に祀ってあげました。
 
お坊さんはウサギを一羽二羽と数えます。
ウサギは鳥だから(四足動物ではない)食べても良い、便法です。
 
ウサギを飼って、また狩猟して、蛋白質を補いました。
可愛くても、食べられてばかりで、哀しみに満ちた動物がウサギです。
 
廓では花ウサギさんが小太りのお大尽に、「夢の思い」を味あわせてあげていた事でしょう。
殺生坊主とお大尽、あんまり変りはありません。
 
日本一の米どころには、お米を美味しく食べさせる工夫と、その陰に哀しみも見た思いがしました。
 
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             (道路の片端に立っているのは稲の天日干しの施設?これも美味しいお米を作る工夫?)
 
 
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秋の最上川の表情

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中々秋冷にはならないと思っていたら、台風が来たり、突然に冷え込んだりして、季節は不順です。
もう、今日から11月、年賀状の販売が始まるなど、慌ただしい事です。
1週間前、私は最上川の畔にいました。
今日はその記憶を綴ります。
 
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       (土門拳写真館は最上川に近い白鳥池にそそり出てありました。冬の満月で渡り鳥で賑やかでした)
 
 
最上川の畔に宿を取りました。
夜のしじまが明ける前から、騒がしく水鳥の声が響いてきます。
お隣にある土門拳写真館、白鳥池の辺りからでしょう。
誰かが白鳥や鴈・鴨に餌付けをしているのかもしれません。
鮮やかな朝焼けです。
屹度今日も天候に恵まれる事でしょう。
 
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                                         (出羽山系の上に朝日がのぼりました)
 
今日は最上川に沿ってのぼります。
刈り入れの終った田圃には点々と白いものが目立ちます。
良く見れば、白鳥が落穂を拾って食べています。
白鳥の向こうには、鳥海山が見渡せます。
もう、庄内平野は積雪を待つばかりのようです。
 
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                             (田圃で落穂を拾っている白鳥の群れ)
 
午前中の予定は最上川の舟くだり、
と言っても、白糸の滝、仙人堂から川を上って、元に戻る船遊びです。
舟下りを営業しているのは二社、JR陸羽西線、古口駅に近い舟番所から下るのが「芭蕉ライン観光(株)」、
高屋駅を見上げる川岸から川を上るのが(有)義経ロマン観光、
私達は義経ロマン観光に乗り合いました。
 
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                            (最上川を下るのが芭蕉丸、上るのが義経丸)
 
 
例年なら最上川は紅葉の真っ最中の筈です、しかし、今年は暑い日が続いて紅葉が遅れています。
山峡の頂が染まり始めたばかりです。(今なら紅葉が川面を埋めているでしょう)
ガイドさんの山形弁に載せられながらの名所めぐりも楽しいもの、
昔はこの辺りは道は無く、舟が人を運びました、
芭蕉も舟で下ったし、義経は舟で上りました。
最上川舟歌も入って、旅情を掻きたててくれます。
対岸の村は既に無住になってしまった、そうです。
 
村に続く小橋の上から、「おしん」はおっ父を見送ったそうです。
「其処にお地蔵さんが見えるでしょう、舟が沈んで川底に沈んだ人も多かった・・・・」 とか・・・。
説明は次第に暗くなってしまいます。
自然の厳しさを思い知ります。
 
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                               (対岸が義経ロマン観光の乗船場)
 
最上川で思い起こす「仙人」が居ます。
名前は「小松均」、
最上川の畔、北村山郡の曹洞宗のお寺に生まれました。
川端龍子に学び、一生を京都大原で自生した、孤高の人物です。
私が同氏の作品に魅せられたのは昭和47年、上野の院展会場でした。
「雪の最上川」の連作が始まったのでした。(1979年院展内閣総理大臣賞)
 
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     (小松均氏作、最上川、仙人堂の辺り。縦2メートル弱、横10メートル程の大作で圧倒されます)
 
 
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(小松均 雪の最上川)
 
 
小松氏は最上川の川原に小屋を建てさせ、小さな横長な窓から風景を見詰めます。
眼前に激流が迸ります。
左手に墨汁、右手に絵筆を握って、大自然に対峙します。
見開いた目を、少し閉じて、次第に風景の骨が見えてきます。
やおら、窓の下に架けられた画板に筆を走らせます。
墨は風景を削るような筆致で、画板に風景を写し取ります。
その風景に対峙する様子は、五輪書の宮本武蔵のようでありましょう。
小松氏の意識下には同郷の偉才斉藤茂吉があったと思われます。
「大原の画仙人」は10年をかけて最上川を描き続けましたが、シリーズを完結出来ずに1989年他界します。
最上川は画仙人のライフワークになりました。
 
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             (画仙人、小松均氏 小松均美術館HPから)
 
 
私達は対岸の仙人堂で舟を降りました。
奥の細道では以下のように記されています。
 
 仙人堂 岸に臨みて立ち 水みなぎって舟あやうし
   五月雨を あつめて早し 最上川
 
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                         (対岸杉林の上が高屋駅、仙人堂からの眺め)
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               (最上川の畔は溝蕎麦が群生していました。これも少雨、温暖の為?)
 
今日は、河辺には溝蕎麦が咲き乱れています。
今年は雨が少ないので、水位が1.5メートルも低いとのこと。
お蔭で、花の群生が楽しめられたのでしょう。
 
自然は穏やかな表情も、一瞬にして厳しい表情も見せます。
その落差が大きいほど人間は神々しく感じ、畏敬の念を深くするものでしょう。
 
溝蕎麦が咲いて、蜜蜂が遊んで・・・・、
今日は最上川の笑顔が覘けました。
 
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                 (溝蕎麦は蕎麦と同じタデ科の植物、でも蕎麦の材料にはなりません)
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                                   (仙人堂社殿から最上川を望む)
 
 
 
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月山山峡、神代杉の話(幻想の森)

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JR東日本の「大人の休日」も発足3年目を迎えました。
広告塔の吉永小百合さんが、いつものシットリ和服姿からチェンジ、
パンツにリュックのトレッキング姿も新鮮です。
美女がそっと右手の掌を古木に添えて、巨木の息吹に耳を立てます。
「貴方は、神代の昔から生きてきたのね・・・・・、何があったの?聞かせてね!」
囁いているようです。
 
そんなCMに魅せられて、
私達は「幻想の森」を目指しました。
白糸の滝ドライブインで道順を確認、注意しながら進みます。
鶴岡街道(国道47号線・JR陸羽西線沿い)を500mほど上ると、小さな看板「神代杉・幻想の森」を見つけます。
JRの陸橋(土湯橋)を潜ると、林道に入ります。
看板には、此処から2.3キロとあります。
でも、山形の林道は凸凹です。
轍が極端に凹んでいて、両輪の間は山になってしまっています。
車の底がガツン・ゴツン擦っています。
レンタカーでもあり、「まあ、いいか」 
興味先行で前進するばかりです。
樹齢50年ばかり、杉板にするなら適当な樹林を過ぎると、急に開けて未だ植林したての樹林に出ました。
植林して7~8年でしょうか?
「植林は日本生命の社会事業である」 そんな看板が立っています。
幻想の森は、今や大手企業のPR合戦のようです。
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   (山形は巨木の宝庫、県内の古木ガイドマップ、山形県観光協会HPから)
 
林道の突き当りが目指す「幻想の森」でありました。
駐車場は5台ほど、降りたところに「マムシに注意」、注意を促しています。
散策し易いように、通路には木っ端が敷かれて居ます。
異様な形をした杉の古木が迫ってきます。
 
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                                               (幻想の森に続く林道)
 
”神代杉”とは「神武天皇が出現する以前からの杉」、の意味でしょう。
神代檜とは言いませんから、杉の大木の荘厳さ、神々しさが「神代杉」の名を預かっているのでしょう。
月山の山麓は8割以上が森林だそうです。
そして、その大半が手づかずの自然林(原生林)、次々に巨木の森が発見されています。
宮駿の「もののけ姫」の森、「しし神様」が棲む森が此処にはありました。
 
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   (幻想の森、特長は蛸足状の古木、幾世代にわたる消長がこの奇妙な形になったと思われます)
 
 
誰が、何時ごろ、「幻想の森」、ネーミングしたのか知りません。
コピーライターの頭には屹度「幻想交響曲」があったことでしょう。
 
幻想とは「実際に無いものがあるように見える事」です。
ですから、”幻想の森”とは、実際に見たことも無いのに、
私達の心象の奥に潜んでいる”森のイメージ”、の意味でしょう。
私達の祖先、縄文時代の森、アイヌのコタンの森、モノノケ姫の育った森、そんなイメージ通りの森、
と言った意味でしょう。
でも、実際に目の前にあって、手を触れられるのですから、幻想ではありません。
「貴方の森にかける幻想が此処にはありますよ」そんな呼びかけでしょうか。
 
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ここは、最上川山峡、月山の山麓、北側斜面です。
北西の季節風が大雪を降らせ、この山峡は風の通り道になります。
強風がこの山峡に吹き込んで、つむじ風は更に勢いをまして、谷底から吹き上がることでしょう。
 
神代杉の巨木は烈風に幹を折られてしまいました。
一本の杉が折られると、隣の杉も、その隣も、将棋倒しに幹を折られてしまいました。
森は沢山の樹がスクラムを組んで、季節風に耐えてきたのです。
スクラムは壊されてしまいました。
 
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でも、神代杉の生命力は枯れる事はありません。
折れた幹の外側から、”ひこばえ”が芽吹き出してきました。
ひこばえ達か競って天空に向って背を伸ばしました。
また、スクラムも組みました。
 
何時しか親樹は腐って土に戻りました。
子供達は親を栄養にして、更に樹勢を増しました。
そして、又新しく神代杉の森を形成しました。
そうして、蛸足のような、幻想の森が出来ました。
 
激しい季節風と、北側斜面・山峡の地形、そして底知れない杉の生命力が作った、といえましょう。
平成の人々は、「森の神秘・神々しさ」を思い出し、「幻想の森」、名づけました。
神々しい杉の森、といえば「三輪山/大和」「春日の森/春日大社」など数多くあります。
でも、幻想にふさわしい森は此処を置いて他に無いと思います。
 
PS,現状は乗用車で行くには覚悟が必要、白糸の滝ドライブイン、またはJR高尾駅から歩く事がお薦めのよう   です。(約1時間)JRが「大人の休日/63歳以上」で案内するのは少し適正を欠いている様にも思われま    す。
 
 
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日本一の大けやき(東根小学校)

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”日本一”と聞くと、ツイツイ見てみたくなります。
日本一の菊人形、とか日本一の藤の花、なんて聞かされて、アッチコッチに出かけました。
”東根の欅(けやき)は日本唯一の天然記念物” ”東根の欅は東の横綱” と案内されると、
どうしても自分の目で確認してみたくなりました。
 
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         (東根の大欅は旧東根城の本丸跡にあります。その案内図、東根観光協会HPから)
 
 
山形県は福島との県境を、蔵王を主峰とする那須火山帯に、
そして、県央に月山を主峰にする奥羽山脈、二本の背骨が通っています。
その山間に最上川が流れています。
山間地方を「村山」と呼び、北から新庄、尾花沢、東根、天童、山形、上山、と最上川に沿って街が連っています。
何れにも温泉が出て、城下町であった事など、良く似た地誌を残しています。
 
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                  (東根小学校の正門/北側、を入った処にある大けやき)
 
”聞くに勝る”とは東根の大欅でした。
余りの威容に口をあんぐり、ただ見上げてしまいました。
特に驚いたのはその幹の太さ、
案内には「幹周り15.7m、径は5m、樹高は26m、1500年になろう」と記されています。
 
更に、案内には、
『この欅は雌で、明治初年までは20m離れた位置に雄の欅もあって、一対でありましたが残念な事に雄株は枯れてしまいました・・・・』 とも書かれています。
 
そうか、羽黒山では「爺杉」を見たが、「婆杉」は倒れてしまった。
東根では「婆欅」は顕在で「爺欅」は枯れてしまったのか・・・・、思い起こします。
(立ち枯れ、明治18年)
 
ジッと見ると、一本の欅ではなく、二本の欅があって、余り離れていなかったからでしょう。
二本の木は何時しか寄り添って、「人の字形」になって、合体してしまったようです。
僅かに真ん中に子供が潜れるほどの洞が出来ています。
「股の真ん中に穴があるから雌なのかな?」
なんて、俗な事を思い浮かべ、ついニンヤリしてしまいます。
 
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                (二本の合体樹と思われる大欅。根元を保護されているからでしょう、樹勢は盛んです)
 
この欅の大木は東根城の本丸の位置だったそうです。
此処は最上川の河岸段丘の最上位にあります。
軍略上の要地であった事に加えて、池や沼が自然の外濠になっていたのでしょう。
南北朝時代(貞和3年、1347年)、小田島長義は二本の欅の下に小田島城を築きます。
その後、応永2年(1395)に天童頼直の四男、頼高が入城、姓を東根に改めます。
 
戦国時代に入ると、最上氏(山形城を本拠)と天童氏(天童城を本拠)が村山地方の覇権を競います。
弱勢の城主達は合従連衡して「天童八盾」を結び、南の最上氏に抵抗します。
最上氏は姦策を企て、東根氏の重臣「里見源右衛門景佐」を寝返りさせます。
此処に最上氏、天童氏の拮抗は崩れます。
 
東根城は落城、里見景佐が最上氏に臣従する事で1.2万石で迎えられます。
景佐は領国経営を積極的に行い、城下町の整備に実績を残します。
関ヶ原の戦いでは東軍に組し、上杉勢と対峙します。
しかし、元和8年に最上氏が改易になると里見氏も阿波蜂須賀家に預りの身となり、東根城は廃城となってしまいます。
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里見景佐の御霊屋(おたまや)
 
三の丸跡には養源寺が建立され、里見景佐の御霊屋(おたまや)があります。
寛文8年には山形城主「松平忠弘」が下野に転封します。
東根領は松平氏の飛領地となり、東根城二の丸に陣屋が設けられます。
更に、寛保2年からは天領となり明治に至ります。
 
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     (東根城の外濠は現在龍興寺沼は公園として整備されています。柳の上が大欅、その左が東根小学校)
 
維新政府はこの東根城本丸跡に、尋常小学校等を整備します。
雄の欅は学校のグランドに近かったから、根を踏まれてしまったのかもしれません。
だから、立ち枯れしたのでしょう。
 
欅(けやき)は木目が綺麗で硬い、最上質の木です。
だから「稀有な木」からこの名を貰っているのでしょう。
一般には「楡/にれ」と呼ばれています。
 
「♪楡の木陰で弾む声・・・・・・♪♪」
舟木一雄の高校三年生の一節です。
私も青春をこの歌と共に過ごしました。
東根小学校の生徒さんはこの大樹の下で、
「お早うございます」
「さようなら」
元気に挨拶している事でしょう。
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         (向こうに見えるのは晋光寺の梵鐘、櫓の上にのっていました。手前欅見通りのハナミズキ)
 
 
小学校のグランドの南西の角には土俵が出来ていて、櫓まで建っています。
「此処はお相撲が盛んなのだ」
そう思うと、山形は隣の秋田に劣らず相撲人気が高く、柏戸など名力士を輩出していました。
 
欅の大木から見れば、人間の歴史など短いものでありましょう。
でも、現在が最も幸福に思っていることでしょう。
何故なら、子供達に仰ぎ見られて、緑陰を提供、黄葉してスケッチされて、木枯らしから守ってあげている・・・・から・・・・・・です。
 
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                         (東根小学校のグランドの端には土俵ガ整備されていました)
 
 
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梅ヶ枝清水の叔母さんは「ひえつき節」がお得意で・・・

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昨日、最上川を見下ろす河岸段丘にあった欅の話を書きました。
南北朝時代に欅の樹下に本丸を築き、幾多の変遷を経て、明治には尋常小学校になって・・・・、
人間の営みを見つめてきました。
その大欅の周囲は古豪の郷、古い蔵屋敷が散在しています。
その中に、今日の昼食をとる「梅ヶ枝清水/めがすず」があります。
 
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     (梅ヶ枝清水の玄関口、ニコニコ叔母さんの似顔絵が出迎えてくれます。今日はこの叔母さんの話です)
 
 
カーナビ(電話番号入力)ではお城一帯が目的地です。
流石に城下町、道が判り難いのは致し方ありません。
人に聞いて、ようやく目指す古民家が見えてきました。
玄関に人懐っこそうな叔母さんのイラストが架けられて、出迎えてくれます。
この人が店主の「横尾千代乃」さん、名物叔母さんなのでしょう。
                    
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       (紅花染めの着物がかけられた座敷、左が座敷童子が出ると言われる奥座敷)
 
お食事は蔵にご用意します。
お待ちいただく間は別室でお待ち下さい。
私達はお茶をいれて戴きます。
そう、此処は名前が示すとおり「名水百選」なのです。美味しく戴きました。
千代乃おばさんは話し上手、
奥座敷を案内して、写真を写すように奨めます。
何故ならこの部屋には「座敷童子/ざしきわらし」が居るので、写るかもしれない・・・・・、
 
                               
                           (店主の千代乃叔母さん。梅ヶ枝清水のHPから転載)              
 
私が玄関横の木に実った「赤い実」を訊ねます、見事な朱色でしたので。
すると、千代乃おばさんは突然歌いだしました。
 
 ♪・・・庭の山茱萸(さんしゅゆ)木 なる鈴かけて ヨーホイ、すず鳴るときゃ 出ておじゃれよー
     鈴の鳴るときゃ 何と言うて出ましょ 駒に水やろと 言うて出ましょよー
     那須の大八 鶴富おいて ヨーホイ 椎葉たつときゃ 目になみだよー・・・・・♪
 
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宮崎椎葉の「ひえつき節」です。
私の祖母もこの民謡がお得意でした。(私は山椒と思っていました。山椒では歌詞にあっていません)
「これが山茱萸の実ですよ、綺麗でしょう」
「長細いさくらんぼのようですね・・・・」
 
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                                (春三月咲く山茱萸の花、花も実も印象深い)
 
玄関前に井戸がありました。
庭は畑に続いていて、野菜の洗い場としても活用しているようです。
 
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                                             (井戸)
梅ヶ枝とはお姫様の名前で、東根城主の弟「東根広台」の奥方だったそうです。
 ある日、夫が山に鷹巣があると聞き、幼鳥を取りに行きます。
ところが誤って岩から落下、亡くなってしまいました。
姫は悲しみの余り泉に身を投げて、後を追ったそうです。
その泉がこの古豪の庭にあるのだそうです。
 
という事はこの家はお姫様(梅ヶ枝)の実家という事かもしれません。
一般に、梅ヶ枝清水と書いて「めがすず」と呼ぶのも当地のこの悲恋の話に思いを馳せているからでしょう。
 
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                                        (案内板には悲恋の謂れが書かれていました)
 
ひえつき節も悲恋の話です。
800年前、壇ノ浦で敗れた平家の残党は椎葉村に隠れます。
源平の合戦で功をあげた那須与一宗高は平家追討の役に当ります。
弟「大八郎宗久」は椎葉に入ります。
しかし、大八郎は村人の慎ましやかな生活を知ると、追討よりも、椎葉に一緒に住む事を選びます。
そして、平清盛の末盈、鶴富姫との出会い、二人の間に子供をもうけてしまいます。
しかし、鎌倉から下向命令が出ます。
大八郎は鶴富姫に命じます。
生まれてくる子が男なら下野に下るように、女の子なら椎葉村で隠れて生きるように・・・・・。
そして、二人は別れてしまいます。
 
 
「めがすず」の叔母さんがひえつき節が好きなのも、納得です。
 
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                     (左側赤い屋根が梅が枝清水、ポスの背にある高い方の木が山茱萸)
 
暫く古民家の座敷を楽しんでいると、昼食の蕎麦の用意が出来ました。
初日に戴いた「慈恩寺蕎麦」は正真正銘の田舎蕎麦でした、
でも城下の古民家で戴く山形蕎麦は、色白で、上品でもありました。
昆布の巻物も、胡桃を使ったそば汁も美味しいものでした。
蔵の奥にも着物が飾られ、紅花染めが見事でした。
誰もが、想いを「梅ヶ枝」に馳せていた事でしょう。
 
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                          (思いのほかお蕎麦の量があって・・・これで800円です)
 
 
門前にバスが到着しました。
お食事コースになっているのでしょう。
千代乃叔母さんは、「いらっしゃいませー、」
玄関にお迎えに出ています。
まさに千代乃叔母さんにとっては”天職”です。
 
十匹余り、日向ぼっこをしていた猫が一斉に散りました。
 
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              (犬は主人に似てくる、よく言われますが、猫も千代乃叔母さんに似ているようでした)
 
 
これで山形旅行記派お終いです。
明日から、また身近な話をさせて戴きます。
よろしくお願いします。
 
 
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アルコール病棟の庭に咲いた「龍舌蘭」の花

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久里浜港から浦賀の町に入るには「尻擦り坂」を越えなければなりません。
何故この名があるのか、前々から興味がありました。
浦賀の港に貨物を運ぶ大八車の尻を擦るほど急な坂だったのでしょうが、
その時の荷物が何であったのか?気になります。
干鰯(ほしか)であったのか、それとも幕末東京湾口に設置した、大砲を運んだのか、
気になります。
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                                   (東京湾口を警護した大砲)
 
「尻擦り通り」のもう一本海側の通りが「ペリー通り」です。
ペリーが上陸した(1853年・嘉永6年、久里浜港)、記念公園に面しています。
ペリー通りを久里浜港から西に行くと、急に淋しくなります。
前面が浦賀水道、相模湾、背後が小高い山です。
 
風光明媚で、ハワイの裏オアフに来たような感覚です。
海を見下ろす高台に飾らないレストランが点在しています。
窓からはサーフィンに興じる人たちや、椰子の並木が見晴らせます。
秋から冬にかけては、海沿いにユッカ蘭が咲きます。
 
明治時代に伝わったこの花は一般に「龍舌蘭」と呼ばれました。
日本名を「厚葉君が代蘭」、厚葉は葉っぱが剣のように厚く堅く細長いから、
「君が代」は高貴であったからでしょう。
お屋敷に競って植えられたようですが、砂地に適正があったからでしょう、
相模湾の海岸一帯に自生しています。
 
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  (高台のレストランからの眺め、向かいが房総半島鋸山、手前がペリー通り、サーファーが遊んでいて、裏オ  アフ、ノースショワーの雰囲気)
 
久里浜少年院の前を過ぎて暫く走ると、右手に海岸段丘が続きます。
その土手に沢山のユッカ蘭が咲いています。
真っ青な空を背景に、真っ白な花が咲いた様は印象的です。
 
「ユッカ蘭が今年も咲いているね・・・・・」
家内に話しかけながら進むと、一段と見事な花が土手の上に見えました。
国立アルコールセンターの新入路です。
私達は花に誘われてアルコールセンターに入りました。
 
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                               (アルコーリセンター進入路、石垣の上のユッカ蘭の花)
 
 
病棟は東南向きに建っています。
部屋の中には沢山の患者さんが秋の陽射しを浴びながら、光る海を眺めている事でしょう。
その窓の外に、意外な植物が成育しています。
龍舌蘭、そのものであるようです。
 
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(左がアルコール病棟、窓下に育っている龍舌蘭、左2本は昨年咲いたのでしょう、今は枯れています。右三本は今年咲いて今は枯れ始めています。でも、大きな葉っぱが勢いが良いので、来年以降も咲く事が期待できます)
 
 
龍舌蘭の名前は、その葉っぱが龍の舌を思わせたからでしょう。
龍の舌が茂っています。
その芯から真っ直ぐ竹のような茎が伸びて、5~7mはあるでしょうか、
その先は細く枝分かれしていて、青い実が沢山結実しています。
地面には無数の落ちた実が散っています。
 
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                                      (芝生に落ちた龍舌蘭の実)
 
 
龍舌蘭は一生に一度花を咲かせる、と聞きます。
栄養を厚く大きな葉っぱに蓄積して、約50年、充分な蓄積が出来てから一気に茎を伸ばします。
そして、夏に地味な浅黄色の花を咲かせます。
そして、種を残して、本体は枯れてしまいます。
唯、根っこだけは生きていて、翌春新しい芽を伸ばすそうです。
 
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                (此方はユッカ蘭、でも多くの人がこれを龍舌蘭と思っています。左端が龍舌蘭)
 
 
私は、病院の受付に回って訊ねます。
病棟前の蘭は「龍舌蘭」ですよね?
聞きますが、お若い職員さんは全くご存知で無いようです。
そこで、一見して高齢の看護士さんに聞きました。
間違いなく龍舌蘭だそうです。
 
アルコールセンターの経緯を説明しなければなりません。 
1942年野比海軍病院が発足します。
1945年海軍は解体させられ、国立久里浜病院となります。更に1947年国立療養所久里浜病院と改称します。
1963年 国立医療機関として初のアルコ-ル専門病棟設置します。
1989年にはWHOアルコ-ル関連問題研究・研修センタ-に指定され、現在に到るそうです。
ですから、この龍舌蘭は海軍病院が設立された時(1942年)に植えられたのか、
1963年アルコール専門病棟が建設された時に植えられたのでしょう。
前者なら70年、後者なら50年ぶりに花を咲かせ、実を着けたことになります。
屹度先人は話したと思います。
「この植物葉っぱは立派だが、どんな花を咲かせるのでしょうね?」
 その疑問を実際に見らる訳です。
 
 
『そうですか?
やっぱり龍舌蘭ですか!
一生に一度しか咲かせない花なら見てみたいものだった・・・・』
話すと、看護士さんは言います。
「1ヶ月ほど咲いていたでしょうか、でも目立たない地味な花でしたよ・・・・」 
 
「龍舌蘭はテキーラの材料、アルコール専門病棟の窓から眺められるのは
少し皮肉なような感じもしますね・・・」
「ユッカ蘭も龍舌蘭の仲間、そこで、姉妹を揃えたのかも知れませんね・・・・」
 
「ああそうか・・・・・、テキーラが一般的になったのはメキシコオリンピックから、
病院の庭にテキーラの木を植える筈無いものね・・・・」、
思いました。
 
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真っ白な蘭の花が、青い海、群青の空に染まずに咲いています。
私は思いました。
八木重吉の詩集『秋の瞳』の一節を
 
           龍舌蘭
   かなしみの ほのほのごとく
   さぶしさのほのほの ごとく
   りゆうぜつらんの しづけさは
   豁然(かつぜん)たる 大空を 仰ぎたちたり
 
 
                     
八木重吉はユッカ蘭を見て、この詩を思いついたのでしょう。
重吉は27歳でこの処女詩集を発行します。(1925年)
翌年結核を発症します。(茅ヶ崎で療養生活)
29歳で亡くなります。(1927年10月27日)
茅ヶ崎の寓居の近辺にはユッカ蘭が咲いていたと思われます。
   ※豁然(かつぜん)①打ち開けるさま ②迷いがにわかにとけるさま(広辞苑)
    毎日毎日悲しみや淋しさに打ちひしがれてきた私だが、大空を背に咲いている    龍舌蘭を見て、突然迷いが晴れた。嬉しい、感謝の気持ちだ・・・。
    そんな詩だと思います。
 
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                      (八木重吉ja.wikipedia.org/wiki/転載)
 
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夫婦合作には適わない(菊花展コンテスト)

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10月の最終週に始まり、1ヶ月の間菊花展が各地で開催されています。
私の生活圏でも、本牧の三渓園、川崎大師、鶴岡八幡宮、そして大船フラワーセンターなどが有名です。
この季節、七五三の祝い式が神社で行われますが、何処の社にも菊の花が飾られているようです。
菊の花が皇室のご紋章として公式に定められたのは明治2年、
明治11年には赤坂仮皇居で「菊花拝観」を開催。明治13年からは「観菊会」となります。
全国的に菊花展が盛り上がりました。
 
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                              (大船フラワーセンター菊花展、管物3本作り展示)
 
私も、菊花作りには思い出があります。
祖母が倉田町で「菊花会」を催し、毎年近隣町と合同で区役所で展示発表会を実施していました。
発表会が終了すれば直ぐに翌年の菊花作りが始まります。
茎を根元からバッサリ切って、新芽を出させます。
新芽を欠いて、苗床に移して、1年かけて育てます。
堆肥つくりが肝腎です。落ち葉を掻き集めて堆肥床に入れて、発酵熟成した堆肥を選んで使います。
ウナギやの秘伝のタレ汁のようなものです。
 
雨が降る、風が吹く、その度に祖母の指示で、30を越す菊鉢を納屋に運んで、また日向に運び出しました。
 
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                                (大船フラワーセンター菊花展、厚物1本作り展示)
 
菊を日本に伝えたのは多分遣唐使でしょう。
中国では菊は「不老長寿」の妙薬として珍重していました。
「重陽の節句」(旧暦9月9日)には「菊酒」を飲み交わし、長寿を祝ったと伝えられています。
 
日本では平安時代、中国の故事に倣って「長寿の祝い行事」に菊酒を飲み交わしました。
菊花を栽培し、その美しさを競い、更に菊を歌った和歌を競います。
江戸時代にも菊の栽培熱が昂じます。
多数の品種が開発され、庶民の間でも「「菊合わせ」と呼ばれる品評会が開催されます。
文化文政年間、巣鴨染井の植木屋さんが「菊人形」を発表すると、見世物としても話題沸騰、全国に広がりました。
染井の植木屋さんは「春のさくら」「秋の菊人形」、文化貢献した訳でした。
菊文化は本家の中国よりも、日本で大輪の花を咲かせました。
 
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       (大船フラワーセンター菊花展、展示風景、臙脂色のキャップの人は審査員)
 
私達日本人には1,000年を越える菊への愛着が伝えられています。
戦争が終ると再び菊花作りが盛んになり、各地で菊花展が開催されるようになりました。
 
11月5日大船フラワーセンターに出かけました。
勿論、今年の菊は如何かな?
思って。
例年通り、展示小屋が設置され、紫の天幕が張られて、沢山の作品が展示されています。
で、30人は居るでしょうか?沢山の人が小屋の前で、作品をチェックしています。
今日は、審査委員に拠る品評の日なのでした。
私は、審査員に聞いてみました。
 
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                                                (厚もの 7本仕立て)
 
審査員は菊の生産者でもあります。
審査員の名前も、製作者の名前も伏せて、数十項目にわたって評価します。
その評価を集めて、優秀作をセレクトします。
最後は数名(6名くらい)で、優秀作だけを並べて、優劣を競います。
そして、鎌倉市長賞をはじめ受賞者を決定します。
 
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                                            (管物 7本したて)
 
私が聞いた人の作品は最終選択の場にまで残っていました。
訊ねます。
「今年の暑さは菊花作りに影響したでしょう?」
「そう、暑かったので、菊の花が10日ほど遅れていました。今日に照準を合わせて咲かせなくてはならないので・・・・・、暗箱に入れました。菊は短日性植物なので、夜が長くなると花をつける訳で、・・・・でも1週間ほど早められた状態で、少し未だ早かった・・・・・・」
 
「此処の菊花展、歴史があるのでしょうね?」
「いや、今回で48回目だよ、まだまだ歴史は浅い。
私の住む秦野(大山神社)の菊花展は小田急より歴史があるんだよ」
 
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  (最終審査風景、真剣な眼差しがポイントなのでお顔を隠しませんでした。ご指摘があれば修正します)
 
最終審査者は葉っぱを見詰めたり、花を上から見たり、横から見たり、
指差しして、同僚審査員と意見を交わしています。
生産者は審査員の口元を見詰めます。
どうも、花芯が中央にあるか、花芯の盛り上がりが揃っているか・・・・、
そのポイントが、作品の品格を最終的に決定したようです。
県職員が決定に従って、受賞を示す短冊を吊るしてゆきます。
 
生産者が呟きました。
「○○さんには適わない。あの人は夫婦で丹精してなさる。
私は二つの眼で見詰めているのだが、○○さんは4つの眼で見詰めている・・・・・」
 
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 (右側が一次審査委員/生産者。左が採集審査員、真剣な眼差しがポイントなのでお顔を隠しませんでした。)
 
夫婦合作、家族合作だからこそ、菊花作りは面白いのでしょう。
「奥が深いもんだ・・・・・」
「だからこそ、1000年以上も続いているのだろう。菊栽培こそ文化だな」
思いました。
 
 
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「厚もの」の菊の花、酢の物にしたら美味しいだろうな?
あの、深緑色の葉っぱ、天麩羅にしたら・・・・食べてみたいもんだ!
思いながら、帰途に着きました。
不謹慎かもしれませんが、私はあの味が忘れられません。
 
 
審査は午後1時に始まり、発表は3時過ぎ、
そして授賞式は未だ先のことだそうです。
受賞した夫婦は、11月末、展示が終ったら、屹度、食べるんだろうな・・・、
夫婦揃って不老長寿のために・・・・。
これこそ、至高の願い事なのでしょう。
 
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