私達は夢を見ます。
嫌な夢を見れば一日中気分が重くなります。
良い夢、美しい夢を見れば、爽快な気持ちで過ごせます。
屹度、息を引き取る時には夢うつつである事でしょう。
出来る事なら、良い夢、美しい夢の中で現世と”さようなら”をしたいものです。
お別れ時に見る夢、其処に音楽があって、天女が舞って、蓮の花弁が天空から落ちてきて、その彼方に阿弥陀様が居られたら・・・・・、
1000年も前から日本人は夢見てきたのでしょう。
(光明寺のある材木座から稲村ガ崎の夕景を見る)
今日は浄土宗大本山光明寺のお十夜、そのクライマックスです。
明應4年(1495)年、戦国時代民心は荒れ、飢餓に貧困に地獄の相があったことでしょう。
土御門天皇は甚く心を痛ませられ、鎌倉光明寺第九代観譽祐崇上人は宮中に招き、浄土を進講させます。
天皇は感動されました。
戦乱の世の中庶民はさぞかし苦しみ荒んでおろう。
光明寺に勅許を出し、「十夜法要」をして庶民を念仏で救済するように・・・・・・期待する。
以来、500年余り浄土宗の寺寺では毎年十月に「十夜法要」が行われてきました。
「お十夜」と呼ばれ、庶民に全体に、浄土宗の信徒で無い人にも、親しまれてきました。
光明寺の長い参道、広い境内は夜店が並び、過ぎ行く秋を楽しむ人波で埋まります。
人波は阿弥陀様に手を合わせ、そのお手から曳かれた布(善の綱)を握る為、延々と列を為します。
(光明寺本堂から山門を望む、上部の布は阿弥陀様の指先から曳かれています)
引声(※)阿弥陀経の読経が流れます。
引声念仏が流れます。
百人にも及ぶお坊様の読経は唱和して、本堂から材木座の町屋に流れてゆきます。
エンヤの音楽を聴いているような気持ちになります。
お坊様が退場されます。
でも光明寺雅楽の方々は数人本堂にお残りです。
もう、辺りは漆黒の暗闇、8時も近くなりました。
※引声:音声に節をつけて、長く声を引いて阿弥陀の称名やお経を唱えるもの
(本堂内陣の最深部、欄間の天女像が美しく、その奥に阿弥陀様が輝いておいでです)
お稚児さんが登場です。
錦糸銀糸に輝く衣装です。
頭には宝冠を被っています。
本堂前、欄間に刻まれた天女のようです。
本堂内陣の最奥部、阿弥陀様の前に並びました。
「さあ、私達はこれから阿弥陀様を信仰する功徳を礼賛する為、舞います」
阿弥陀様に手を合わせて、ご挨拶です。
笙(しょう) しちりき、 龍笛が鳴り響きます。
お稚児さんは20人あまりでしょうか、
雅楽に併せて、乙女舞です。
縦になったり、横になったり、輪になって廻ったり・・・・
そして、胸前に垂れたお盆に載せられた蓮の花弁を撒きます。
花弁は中空に舞って、ヒラヒラ舞い落ちてきます。
私は、ありがたい「阿弥陀礼賛舞」を見詰めます。
藤原頼通は平等院を建立し、その阿弥陀様から曳かれた五色の布を握って、息を引き取ったと言い伝えられます。
それは貴族だから、お金持ちだから出来た事・・・・・、
庶民にとっては出来ないものです。
(平等院、出典ja.wikipedia.org/wiki/平等院)
庶民にとって、念仏の心を伝える作法、それが”阿弥陀礼賛舞”だったのかもしれません。
500年も続いた行事には、続いた理由があるものです。
「念仏の道」の尊さやありがたさは、美しい舞や音楽だからこそ万民に伝えられてきた事でしょう。
そして、境内全体に夜店が並んで、ベンチが置かれています。
庶民は、ビールを楽しみ、焼き鳥を頬張り、見上げれば秋の月が煌々と輝いています。
「お十夜」は庶民の祈りと、楽しみと、応えてきたから長く続いているのでしょう。
鎌倉には庶民を救済する事こそ大切、法灯が続いています。
私は、お坊様にお願いして蓮の花弁(散華)を戴きました。
花弁の表には「南無阿弥陀仏」裏には「大本山光明寺」、書かれていました。
幸いに5色の花弁をいただけました。
早速にお仏壇に奉げました。
現世の善行は来世のそれを遥かに凌ぐ功徳があるそうです。
.(光明寺でお稚児さんが撒いた散華、早速にお仏壇に供えました)
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