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松茸への未練は止まぬ

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今年は未だ松茸を食べていません。松茸は万葉の時代にも人気の茸だったようで家持は次のように歌っています。
高松(たかまつ)の この峯(みね)も狭(せ)に
       笠立(かさた)てて
 みち盛(さか)りたる 秋(あき)の香(か)のよさ 
 万葉集巻10
高松の峯とは家持の屋敷のあった高円山の山麓だったのでしょう。其処は大和盆地を見下ろす高台で最高のビューだったと思われます。悲劇のの皇子志貴皇子の離宮があったのもこの山麓でした。
今は百毫寺があって万葉の才人の面影を秋萩に偲ぶばかりです。
宮廷歌人、笠金村は志貴皇子を弔んで次のように歌いました。
高円の 野辺(のへ)の秋萩 いたずらに
    咲きか散るらむ 見る人なしに 」  巻2-231 笠金村歌集
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奈良の百毫寺は万葉時代からの萩の名所で家持の屋敷がありました。家持が歌った様に松茸も獲れたのでした。


今年も百毫寺は秋萩に埋もれた事でしょう。でもその奥山に行けば松茸が顔を出したかそれは解りません。
松茸の香りを嗅げば誰でも食べたいと思います。
デモ木耳(きくらげ)や松露やシメジとなると食べるのは憚れます。若しも毒があったら死ぬかもしれないと思うと最初に食べた人は大変な勇気が在って”偉い”と思うのです。
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我が庭に在った椎茸、既にほダ木が腐ってしまったので今年は収穫出来ませんでした。

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庭の堆肥(枯葉)に生えた茸美味しそうですが食べる勇気はありません。
納豆もそうです。納屋に大豆を閉まって置いたら何時の間にか腐って糸を引いている。勿体ない事をした、残念がっても食べようは思わないものでしょう。でも食べた人がいた訳でお蔭で毎日納豆をおかずにご飯が食べられます。
良く”中国人は偉い机以外なら四足は何でも食べてしまう”と云われますが、本当は日本人の方が食いしん坊で偉い様に思うのです。クロマグロに続いてウナギの養殖にトライする日本人を観ていると日本人の喰地の強さに感服します。日本人の喰地の強さは横浜中華街に行っても実感します。中華料理だけでは無くてチベット料理やタイ料理そしてメキシコやトルコ等世界中の料理をエンジョイできます。
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芋煮には茸が欠かせません。鍋のうまみは茸から出るんです。

でも私はヤッパリ日本人秋になれば茸を食べたくて食べたくて仕方ありません。子供の頃栃木の真名子村に叔父のお寺(洞雲寺)が在りました。その裏山はブナ林で祖母と連れ立ってキノコ狩りに行きました。獲った茸はキノコ汁にして食べました。その美味しさは命がけで食べたから味わえたものでしょう。木のを食べたいばかりに戸塚のスーパー東急の野菜売り場を見回りますが松茸はカナダ産ばかりです。ならばと思って隣駅の自由が丘ガーデンに行ってみるのですが国産松茸はお目に架れません。
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マイタケもシメジもブナの森に自生します。落葉広葉樹林のプレゼントです。今は工場で生産されます。群馬長野新潟三県がシェアーを競っています。まるで三国街道ならぬ三国峠の商戦です。東急ストアの店頭で

世界に冠たる喰地の張った国民なのに松茸の神秘は小野小町の顔の様に姿を見せてくれないようです。昨日書いた炭を黒松の林に播けば松露が生えるそうですから松茸も炭を活用すれば出来るかもしれません。
数年前までは韓国産(実は北朝鮮産)の松茸が店頭に並んでいましたし、地方の道路を走っていると露店で販売して居る事もありました。
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松茸は中国産が幅を利かせていました。見た目は松茸ですがラップがしてあるので肝心の香りが解りません。
自由が丘ガーデンで
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此方はカナダ産の松茸です見た目はエリンギかマシュマロの様に見えます。既に国産松茸は筆者の取っては「高嶺の松」のようです。
スーパーの店頭で国産松茸を探しながら考えました。もう国産松茸は諦めて松茸のような香りが魅力と云う「松きのこ/http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/fcf/2603参照ください」を量産して戴くか
チベットやブータンから輸入するなどしたら・・・・・。ブータンの松茸は美味しそうです。ヒマヤラの山麓に自生する松茸なら国産以上に芳香がするでしょうし、ヒマヤラの森の保護にもなります。
先日テレビに映った壇蜜さんはチベットの仏教寺院を巡礼していました。ブータンやチベットの山で壇蜜さんが松茸を見つけて嫣然と微笑んで送ってくれる「日本の殿方に」と呟いて・・・。
ああ、早くチベットの松茸を食べてみたい・・・・、これを煩悩と云うのでしょうか?松茸は姿も香りも五感を刺激するもの総てが煩悩です。煩悩は菩提でもあると聞きます。
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ネパールやブータンは松茸が自生している様に思うのですがどうなんでしょうか?


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鬼への哀惜

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今日は立冬です。朝から冷たい雨も降っていますし予報では、北国ではもう積雪するとの事です。私は冬は苦手です。特に2年前の歳末に脳梗塞を発症して以来その思いを強くしました。恵心僧都源信は往生要集に地獄を詳細しましたが、焦熱地獄と八寒地獄を著し寒さのあまりかさぶたや霜焼けあばた顔になる光景を示しました。古代人にとって暑さ寒さは地獄を思わせるものだったのでしょう。
八寒地獄でも人間を追いたてる鬼がいました。
鬼が最初に形になったのは薬師寺の薬師三尊像の台座に隠れている鬼でしょう。縁の下に潜んで眩しい外界を観ているようです。この構図は多分古事記に依って居る事と思います。何故なら鬼の眼の先には葡萄が在るのです。
鬼は外界に出たいのではなくて葡萄を食べたいのです。鬼はお腹が空いているのです。文字通り飢餓状態にあるのです。古事記では黄泉の国にイザナミに逢いに行ったイザナギの腐敗した遺体を見て逃げて帰ろうとします。イザナミは怒って黄泉醜女(よもつしこめ)に命じてイザナギを追いかけさせます。でも黄泉醜女(よもつしこめ)は飢餓状態にあった鬼だったのでした。イザナギが葡萄を放ると葡萄を食べに行ってしまいます。櫛を投げると筍が生えて来たので筍をムシャ喰いします。更に桃を放ってイザナギは鬼の追跡から逃れたのでした。
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薬師寺の薬師三尊像台座に潜んでいる鬼 鬼は餓えているのでイザナギの放った葡萄や筍や桃をムシャぶり喰いしてしまいます。その隙にイザナギは外界(この世)に戻ります。鬼の目線の先に葡萄が並んでいます。写真は朝日新聞社日本の美術)

木偏に鬼と書いて槐(えんじゅ)と読みます。土偏に鬼なら土塊です。どちらも良い感じの字ではなさそうです。
えんじゅと云う字は多分日本人が作った国字で漢字には無いようです。
す。日本人は地獄の獄卒に奪衣婆と云う悪役を創作しました。
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奪衣婆の図背後の樹木が槐で亡者の衣服を吊るして生前の罪の軽重を測っています。

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地獄絵を描いて有名な川鍋暁斎の「蛇に仕返しをする蛙の図(東京博物館)。ジョサイア・コンドルは明治維新に英国から招聘された建築技師で鹿鳴館やニコライ堂を建築した事で有名ですが。東京大学で教鞭をとり辰野金吾を始め沢山の日本人建築士を育てました。同時に北斎に次いで川鍋暁斎を世界に紹介したのでした。この蛙の図は因果応報と云うか・・・・。

「三途の川」の畔に生えている大木でその樹下に奪衣婆さんがいて亡者の着物を剥いで真っ裸にする役です。その木の名を槐と云うのです。
ウキペィアで引くと槐とはニセアカシアとなっています。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A5私は長い間川岸に生い茂るアカシアの大木を見て奪衣婆さんの木だ思って居たのですが先日高座渋谷の定泉寺さんを詣でると河童さんが寝転がっていて河童さんの傘になっている奇妙な格好の木が在って「槐」と案内されていました。ニセアカシアなら柳の仲間ですがこの樹が槐なら明らかにマメ科の木になります。藤や葛の仲間で「ジャックと豆の木」の木のようです。若しかしたら定泉寺の和尚さんは日本民話より英国民話がお好きなのかも知れません。

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これが槐と思われるニセアカシアの木関東以北の河川の岸辺に良く見かけます。吾妻渓谷は一面この樹が茂っています。勿論特異な奪衣婆信仰が盛んです。
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これが定泉寺の槐の木根元に河童が寝ていました。私の感覚では奪衣婆さんなのですが。

ところで定泉寺の帰り農村レストラン「寄り道」に行きました。ワイフとランチしたのでしたが。お隣に三人組の伯母さんが珈琲を楽しんでました。声が大きいのでその気が無くても話が耳に入って来ます。
どうもご主人の老化対策が話題のようです。どうも最近ご主人が「三途の川」だとか地獄の話題を良くするので寝が浅くなって困るというんです。じっと聞き入っていた聞き役のおばさんがポツリと言いました。
「睡眠薬でも飲ませて早く寝て貰ったら!」
私は笑いを必死に堪えました。

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庚申塔の鬼の図青面金剛の足下で苦しそうです。日本人は施餓鬼とか餓える事に地獄を見て人間の本性に鬼が潜んでいることを自覚してきたと推測します。
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餓鬼草子。京都の河原町辺りと思われますが飢饉で餓え人が洛中に溢れて・・・飢餓への恐怖感が鬼や地獄の様相を想像させました。鬼の姿は薬師寺でも餓鬼草子(鎌倉時代)も同じ飢餓状態の人間の姿で描かれました。
この姿は洋の東西殆ど同じで、飢饉になると人肉を食した人の説話が伝えられて来ました。人間は貧すれば餓えれば人も殺す・・・・この構図を国家レベルにしたものが戦争です。私はコメの自給自足は一番大切で幾らでも輸入すれば食は足りると考えるのは驕りであると考えます。


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銀杏の実

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”今年は松茸を食べそびれそうだ”ぼやいて居たら昨日義兄の3周忌の精進上げで松茸ご飯に土瓶蒸しに恵まれました。主役は薄くスライスされた松茸ですが華は翡翠の様な銀杏の実です。
銀杏の実が抗酸化作用があるのは。銀杏の葉が腐らない事からも予測されます。新聞広告にはサプリメントに銀杏の葉が案内されています。、加齢による物忘れや認知力、認知症、糖尿病性網膜症、緑内障、等に効果があるとされています。抗酸化物質を実に集中させるためでしょうか?銀杏の種の果肉部分には酸化物質酪酸とぺプタン酸という酸化物質が含まれてい て強烈な臭いを発します。
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横浜山下公園前の海岸通りに落ちた銀杏の実植え込みに沢山落ちています。ホテルグランドも迷惑気です

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藤沢遊行寺のシンボル大銀杏この樹は雄なので実は成りませんが。境内には雌の樹も沢山あってご近所の方が拾いに来られます。でも銀杏の葉は腐らないし燃やせないので和尚さんはお掃除に始末に困っておいでのようです。

 あの臭いは、銀杏が鼠やリスに種を食べられない様に種を守る効果があるようです。酪酸の臭いはチーズの臭いでありドリアンの臭いでもあります。
若い男性の靴下の臭いも酪酸の悪臭であります。乙女が靴下の臭いを嫌悪するのは銀杏の自己防衛本能に通じるものかもしれません。
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これが私の銀杏を晒す道具です。水に2日程浸したうえで金網笊の上に乗せて靴で踏みます。すると臭い果肉はズルッと剥け落ちます。種を採り出して天日干しにすると完成です。庭に干した時に野鼠やイタチに取られない様に注意します。
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この銀杏の木は私の生家横浜の盛徳寺の銀杏です。大正天皇即位のお祝いに上倉田村の青年団が植樹して戴いたものです。ですから白寿を越えたばかりです。二本とも雄なので実は成りません。写真は12月初めです。

栃木の真名子の洞雲寺の住職になった叔父は例年今頃になると境内に落ちた銀杏の実を祖母宛てに送って来てくれていました。毎朝境内を箒で掃けば沢山の銀杏が獲れます。銀杏を粗目の竹笊(籠)に入れて渓流に晒しておくと。笊の眼に臭い果肉部分が削られて種だけが笊に残っているのです。屹度栃の実のサポニンも同様の手法でアク抜きしたものと思います。
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折角の栗も未だ青い毬の内にクリシギゾウムシが卵を産み付けているので長持しません
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一方栃の実はサポニンが含まれているので虫もつかないし鼠やリスも食べません縄文人はこの実を水に晒して毒抜きをする方法を発見したので。救荒食物(飢饉時に食べられる実)として貴重でした。信濃川長岡の引水地区には堤防に栃が植えられて築堤と救荒植物の役を果たしていました。写真は南軽井沢の馬取百観音に落ちた栃の実です。

栃の実のムシクイは見たことがありません。ところが栗の実は収穫して3日もすれば虫食いになってしまいます。栗がまだ青い毬で囲まれているうちにクリシギゾウムシ(お米に着くコクゾウムシに似た昆虫)が卵を産み付けているのです。
栃の実や銀杏が毒や悪臭で守られているのは植物の種の保存本能でごく自然な事と思います。縄文時代の人達はその毒や悪臭を水に晒すことで除去してきました。
その生きるための喰う為の知恵が今も存続している神社の手水の作法になっていると思うのです。自分の体に付着した災厄をご神水で洗い清める。禊や祓いと云った神社の作法は縄文人の知恵であったと思うのです。
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トイレに貼られた「銀杏洗い禁止」の貼り紙。マナーも大切にしたいものです。それにしてもトイレで洗った銀杏を食べる人もいるのですね。そんな神経は理解しがたいものがあります。
ところで公園のトイレに「銀杏を洗わないで下さい」注意書きが張られていました。
銀杏を拾って臭い果肉をトイレで洗い流して行く不届きな人が目立っているのでしょう。
勿体ないという気持ちは良く解りますが、公徳心の喪失は嘆かわしいものです。

今年の京都の紅葉は実に見事だそうです。
屹度下賀茂神社のある糺の森も綺麗でしょう。
下賀茂神社には御手洗川が流れています参詣者は川で身を浄めて穢れを払って神前に進みました。私はこの禊の手順は縄文時代に命がけで栃の実を食べた事に由来していると考えます。
銀杏も栃の実も有益な食品ですが食べ過ぎも体に良くありません。酪酸もサポニンも毒ではありますが。使い様では薬であります。神は不要なモノは作られません。アク(悪も灰汁)も善も人間の姿勢次第であります。栃の実も食べ方が問題で悪にも毒にもなりますが善にも薬にもなります。問題は栃を食べる人間の姿勢にあるようです。
身体の汚れは水や石鹸で洗えますが心の汚れは洗えません。京都に名水を飲んで廻って心も体も洗い清めたいものです。
ああ、この秋は京都に行きたい、でも手立てがないので近場で我慢する事にしましょう。
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京都の下賀茂神社御手洗川での斎王代・女人列 御禊(みそぎ)神事 出典はッ京都観光協会のホームページhttp://kyoto-tabiya.com/blog_rakuchu/

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愛しい鬼さん

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深夜ラジオ(ラジオ深夜便)が何時しか明方ラジオ(毎日ラジオ)に変わって今日11月10日の暦を案内して居ました。「今日は何の日」昨年の今日「高倉健さんが亡くなられました。2012年の今日は森光子さんが2009年の今日は森重久弥さんが鬼籍に入られました。仏壇から義母の声も聞こえそうです。9代目の海老蔵さんも65年の今日でしたよ・・・・・。人が亡くなる事を「鬼籍に入る」と云います。江戸時代お寺は戸籍の役も果たしており現世と来世の戸籍を管理して居ました。子供が産まれたり転居してくれば宗門人別帳とも呼ばれる戸籍簿に書き加えます。そして亡くなれば過去帳とも呼ばれる鬼籍簿に移します。
中国では鬼とは死霊を意味していたそうです(中村光行著鬼の系譜)。中国の鬼(キ)が6世紀後半に日本に入り、日本固有のオニと重なり鬼になったのだという。「オニ」とは祖霊、地霊であり「目1つ」の姿で現されておりました。五来重氏は鬼は山の神で、山の民の守護神である主張されました。(鬼むかし)鬼と云えば大江山の酒呑童子や羅生門の茨木童子を想いだす私は五来説を支持し”鬼は死霊と言うより民族的な神の姿を”彷彿します。前述中村光行氏は大江山は鉄のタタラがあったので製鉄に従事した荒くれ者が棲んでいてその棟梁が酒呑童子であったろう。その荒くれ男たちが夜な夜な都に出てきて女性を奪って行く・・・そんな事態に遭遇して一条天皇は源頼光に命じて退治させたのでした。頼光の戦略は先ず自分達を信用させるために先ず人肉食って次いで酒で酔わせて、退治したのでした。酒呑童子の最期の叫びは「鬼に横道はないのに・・・」横道とは邪道のことで不正と知りながら行動する事です。酒呑童子は人間に騙された悔しさを滲ませたのでした。山の民は里の民に再三騙されて同化された歴史を表しているのでしょう。

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歌川 芳艶(うたがわ よしつや)による酒呑童子右端の頼光等に騙された酒呑童子は首一つになっても逆襲しようとします出典はWikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E5%91%91%E...

一条天皇と云えば皇后が定子(道長の娘)平安時代最も繁栄した時期の天皇です。そんな栄華の時代にも酒呑童子のような悪党が都に出没していたのでした。人肉を食らうのは背徳の味であったこと以上に飢餓が蔓延していたのでしょう。”人肉を食らうと鬼になるぞ!”その戒めは広く膾炙していたようです。前述中村光行氏の著(鬼の系譜)には人為句を食べた因果応報譚が数多く紹介されています。
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これは法隆寺金堂の庇の隅木を支える鬼。鬼は力持ちで人の眼の届かないところで必死に支える縁の下の力持ちの様な気高い存在です。筆者は法隆寺の材木が大和川の源流であった宇陀の森から切り出したものなので、この鬼は方角の守護神であると同時にルーツは宇陀の「山の神」だと思いたいのですが・・・。

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此方は東大寺大仏殿前の香炉を支える鬼さんです。指は足が4本で手は3本の様に見えます。ミッキーマウスも天才バカモンも指が4本でした。こうした感覚が許されて差別を増長させてきたと思います。若しも酒呑童子も都の人達が山に住む人を差別視した産物とおもうのですが。


「今昔物語集 27巻−22 猟師の母」 には母が鬼となりて子を喰らはむとせる話が載っています。安達ヶ原の黒姫も胎児の肝臓を食せば内臓の病が治癒する・・・そんな想いが生んだ蛮行だったのでしょう。原因は飢餓であって、人間の本性が為せる行為とは思えません。仏教はそんな飢餓状態で発生した人肉をも食べる行為を戒めたのでしょう。人間の手には指が5本あります。5本は「慈愛」と「知恵」「貧欲」「嫉妬」「愚痴」を意味しているのだそうです。人間は手をこの5つの何れかを果たすために使うのです。
ところがこのうち慈愛と知恵で指を動かさなければ鬼に堕落してしまうと考えました。
飢餓にあっても人間が人間たる所以は慈愛と知恵で行動する事で。貪欲や嫉妬で本能の任せるままで行動すれば鬼になってしまうと教えたのでした。
古代末期から中世に至る時代は鬼や悪が横行する時代だったのでした。
その歴史は今昔物語で知る事が出来ます。
同時代の地獄草子や餓鬼草子には悍ましい飢饉の光景が描かれています。
飢饉の最中慈悲や知恵で手を使いたいもののそれが出来ず貪欲の余り人肉を食らいました。
紅葉が風次第で裏表を見せるように人の本性も裏表を見せるものなのでしょう。

先週高座渋谷の常泉寺を詣でました。
境内に籔内 佐斗司(やぶうち さとし)氏の作品を視ました。話題になった遷都君は鹿の角が生えていますから鬼のイメージなのでしょう。鬼と云うより「鬼太郎」のイメージかも知れません。

当時遷都君には賛否両論があってヒートアップしました。”菩薩に角が生えている筈はない”私達の常識を覆しているので違和感を覚え否定論も強いものがありました。違和感が在った事は別の人には新鮮に映ったのでしょう。結局は賛成が大勢を占めました。そして今ではユルキャラの先例として評価されているようです。
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高座渋谷の常泉寺に置かれた籔内 佐斗司氏の遷都君。手足の指は5本ですからこの点では菩薩なのです、が大きな角があるという事は鬼なのでしょう。私は法隆寺や東大寺の鬼は尊いと感じますが籔内 佐斗司氏のおには素直に理解できません先人の信じてきた事を軽く視るのは不遜です。
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.常泉寺敷石に置かれた鬼の子/籔内 佐斗司氏作:小さな角はが二本も生えようとしていますこの童子は本格的な鬼に成長するのでしょう。指は手足共に4本になっています。能面の女性は嫉妬に狂うと二本の角が生えて来ます。般若とは知恵ですから知恵が鬼になるとは思えません。女性は男性運次第では観音菩薩にも鬼にもなるという意味でしょうか?私は遷都君印上にこの鬼の童に違和感を覚えました。
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これも常泉寺の「こぼすな様」トイレの入り口にあってトイレを綺麗に使うよう注意を促しています。此方の鬼は一つ角です。明らかに籔内 佐斗司氏は鬼の角2本一本と小さい角の三種類を使い分けておいでです。民俗学者の中村光行氏は著(鬼の系譜)で鬼の角の3タイプを説明されておいでです。人は鬼の性をもっているものの角を隠していますが神仏が観れば角が見えてしまいます。鬼の性は野放図にすれば牛角(焼肉屋ではありません)のように大きく荒々しくなります。


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 これは上村松園さんの描いた六条御息所の生霊。髪の端を噛んで振り返る青い顔には嫉妬に翻弄される姿が現われ,白地の着物に描かれた清楚な藤の花にからむ大きな蜘蛛の巣が,執拗な怨念を不気味に暗示させる。嫉妬の化身となった生霊を品格を損なわずに造形化したものと思われます。能面の増女を思わせます。普段は品位が高く神秘的で端正な女性ですが実は角を隠しています。源氏がの態度の為に嫉妬に狂った六条御息所の額から二本の角が生えて来て般若面にチェンジします。本来は菩薩であるのに時に依り鬼になってしまうのは人間の悲しい性(サガ)と云えるでしょう。出典東京博物館デジタルライブラリー。一方男性は六条御息所のような女性に接したいものだ望んでいます。男の貪欲な性(サガ)も困ったものです。

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病気治癒は神社に始まりました。

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図書館で閲覧していたら目に飛び込んできた本がありました。
背表紙に「病から古代を解く(大同類聚方探索)」と書かれています。
古代史は皆のロマンです。一昨日テレビの三内丸山遺跡も大変なロマンでした。ピラミッドや始皇帝の兵馬俑が築かれた時代に日本では縄文土器を駆使した大集落が出来て”飢饉も戦争も無い自然循環型ユートピアがあった”と聞かされると「真の文明は山を荒らさず、川を汚さず、人を殺さざるべし」と叫んだ佐野の田中 正造を想いだしまた。私は早速に借りて来て読み始めました。
古代史と云えば歴史学者や考古学者更には民俗学者の専門領域の思ひがちですが筆者の槇 佐知子(まき さちこ、1933年 - )は全くの専門外で静岡の相良高校をでて女子美大を経て、古典医学の研究に勤しんだのでした。若い時から万葉仮名に馴染んでいた事と医薬の心得が在った事が古代の医薬への関心を深めたのでしょう。
でもこんなジャンルの本が売れるとは思えません。筆者が偉いのは思いますが、出版社も見上げたものです。
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この本を借りて来ました。大同類聚方の詳細は先に出版されこれは一般向けに照会する目的で再編纂したものだそうです。瀕死の病人を診断しているのか呪術で祈っているのか解りませんが。傘の下で患部を晒しているようです。家人が心配して集まっているのでしょうか?手前の爺さんがシャーマンのようにも見えます。著者は武内の宿祢も神功皇后に仕えたシャーマンと判じておいでです。
は筆者が古本屋さんで黒カビで汚れた冊子を見つけた場面から始まります。表紙には「大同類聚方」と記されていました。大同類聚方とは808年(大同3年)に朝廷が全国の神社等に命じて医薬の知恵を纏めて百巻に収めたモノなのでした。中心に在った神社は奈良三輪のの大神神社。編纂の仕事は阿倍真直でした。
私達が神社に詣でて祈願するのは、1に健康2に幸運です。まして古代であればなおさらの事。「家族の健康」や幸福を祈願したものと思われます。ですから強い国には大きな神社が祀られていて地域の人々の心の中核に神社がが在ったのでしょう。出雲も白山も諏訪も三輪も大きな神社があるの巨大な豪族が勢力を張っていたのは神社の指導力(暦の管理や貴重な水や種籾の保存)に起因していたと思います。
三輪の大神神社の背後は宇陀です。宇陀は武田薬品を始め薬屋さんの出身地ですし、白山の麓は富山で此処も薬屋さんで有名です。神社と医薬や医術は近いモノだったのでしょう。
大和朝廷が出来て人心一新して朝廷の権威を高める為にも医術、薬方を整備する必要があって大同類聚方を編纂したのだと思われます。
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三輪山をご神体に祀る大神神社此処が古代の医薬書「大同類聚方」を編纂したのでした。

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これは挿絵です。妊娠した女性の針の急所を説明した図です。万葉仮名で説明しているので中々読めません
槇 佐知子さんの説明に従えば、源氏物語も随分読み方が変わってきます。

桐壺の更衣はストレスによる「心身症」と聞かされ、「若紫」の帖で、光源氏18歳の時の熱病は瘧病(わらわやみ)で今のマラリアと思われます。柏木は女三宮への募る思いで病床に就き、ついには寝所に忍び一夜を過ごしてしまいます。でも、犯した過ちに苦しみ病に臥せってしまいます。そして最期は寂しく病死してしまいます。死因は反応性鬱病だったのでしょう。
几帳面で生真面目な性格な柏木に同情してしまいます。光源氏のようにふてぶてしければ大丈夫だったのに・・・。
正妻葵の上の出産について、物語では六条の御息所の生霊による難産とありますが、糖尿病前の状態で胎児が通常より大きく育っていたためではかといった推測も可能です。
薫の君は儚く世を去って行きます。私達は高校の授業で光源氏の罪の因果応報と聞かされました、神経性食欲不振症と診断されれば高校生活にも生きた知識になっていたかもしれません。

平安時代末期の病草子には当時の病気の詳細が描かれています。
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国宝の両性の男の図(性器が描かれています。
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国宝病草子の中の「口臭に強い女」
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 病草子の中の肥満な女。総じていえば古代も現代も病気はあまり変わらないという事です。顕微鏡などで病気の原因を究明して進歩したのが近代医学で古代の医術は目に見えない「ものの気」にも広げて病気の原因を求め、治療を呪術に求めました。でも薬は古代も現代も変わりません。天然に生えている薬草やミネラルを薬にしました。近代になって薬草やミネラルの効果的な物質を抽出してその名をつけただけです。醗酵は古代から現代に続く有効なツールです。

そして清少納言や紫式部が長谷寺や石山寺に籠ったのは宇陀や息吹山に近く病気療養の為に寺に籠ったものと思います。
本に出会うのも人に会うのも一期一会です。
運が良かった想いながら『病から古代を解く』の紙背も読もうと思って読み込みます。次は何を読もうか?調べてみれば次がありました。食の本です。病は食に発します。

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                次に読みたい野菜の本これは夕顔でしょうかマクワ瓜でしょうか?
この夏は久隅守景の「夕顔棚納涼図屏風』(東京国立博物館蔵)が人気なりました。次はこの本を借りに行こうか?思えばアマゾンでも取り寄せられるようです。便利な時代になりましたが、この事実が本の文化を疎外して居るようで気になります。
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上の図は久隅守景の夕顔納涼図に触発された月刊誌の表紙絵


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柿の季節です

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里 古りて柿の木持たぬ家も無し(芭蕉)
旅に病んだ芭蕉でしたから里から里に渡り歩いたのでしょう。
峠を越えて鄙びた村里に出たらどの家にも柿の木が在る事よ・・・・
そんな叙景句です。
新聞に模柿の実のみのる季節を報じていました。
偶然に山形県の景色でした。
一つが上山の干し柿の風景。
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山形県上山地区での干し柿の風景を報じる読売新聞。
もう一つが英国人旅行家イザべラ・バードの「日本奥地紀行」でした。明治11年バードは女性一人で馬の背に乗って越後から山形に越えて南陽市に入ります。そこで自然と人間の営みが美しく調和している風景を目の当たりにして「これぞアルカディア/理想郷」と叫んだのでした。
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山形県南陽市米沢平野を見渡す風景バードはこの景色を理想郷と確信しました出典読売新聞日曜版(

無性に柿を食べたくなる季節です。戸塚駅前に露店が出て柿4つ300円で商っていました。
”お兄さん何処の柿?”訊けば
”これは豊橋の柿だよ柿の本場だよ!”言われます。
私は柿の本場は奈良、西条北に行けば飯田福島山形と思って居るので。豊橋と聞いて驚きでした。
明治維新政府の調査では日本には1000もの柿の種類が在ったそうです。江戸幕府の藩の数より柿の種類が多かったのでしょう。里の数ほど柿の種類があってそれぞれが瑞々しく甘く、たとえ渋い柿でも上手に渋抜きをして食していたのでした。.
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明治維新に調べた処日本の柿の種は1000もあった報告や品種改良の歴史食べ方の工夫はこの著の柿の項(執筆山田昌彦氏)で知りました。日本の果実はヨーロッパ原産モノでも世界一美味しいのは1000年の新種改良と食べ方の工夫の成果です。世界一食いしん坊だった日本人の祖先に感謝です。
柿と云えば柿本人麻呂です。奈良の葛城山の麓に人麻呂神社があります。付近は一面御所柿が植えられています。今頃は葛城古道が一番美しい季節です。葛城古道から大和川に沿って西に向かえば斑鳩道で法隆寺に着きます。
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葛城古道一言主神社から大和三山を遠望する。もう彼岸花はありませんが山の辺古道に匹敵する美しい古道です今年は桜の季節に往訪しました。秋にも行きたかったです。
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
子規が齧っていたのは御所柿だったのでしょう。
渋かろか知らねど柿の初契り
これは私の母の句です。昭和11年私の母は狛江の龍泉寺から戸塚の盛徳寺に嫁ぎました。当時の事ですからお見合い即結婚だったのでした。盛徳寺には巨大な柿の木がありました。でも渋柿で毎年酒樽を譲ってもらい。其処に漬けこんで渋抜きをしました。母も気丈な祖母と複数の小姑に揉まれて辛い日々だったことでしょう。義母や小姑の渋が柿の様に抜けたら良いモノを想いながら樽に柿を漬けこんだのでしょう。
柿が甘かったか渋かったか?訊いたことはありませんが。上山の天日干し柿の様に歳月が渋みを抜いてくれたようです。
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生家盛徳寺駐車場の柿の実色は一人前ですが渋柿で落下するとコロコロ100mも坂を下って行きます。自動車に轢かれて迷惑な柿の実です。
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渋柿も冬になれば渋味も抜けるのでしょうか?それとも野鳥は渋味を感じないのでしょうか?梢に残った柿は野鳥にとっては貴重な越冬食料です。写真は上の渋柿です。鳥はメジロです。

柿が渋いのは果肉に含まれるタンニンの所為です。タンニンと云えばお茶やワインに含まれる抗酸化物質で有難いモノです。ですが、タンニンが舌や口腔粘膜のタンパク質と結合して変性させることによって渋味を生じさせると言われています。柿のタンニン自体が渋いわけではなく、タンニンが唾液に溶けて強い渋味を感じさせるのだそうです。酒に漬けたり天日に晒すことでタンニン不溶化する事で渋味を感じさせなくしたものでした。水や酒や天日で渋味を抜く知恵を日本人は1000年の歴史を経て知ったのでした。渋味(厄)を甘味(福)に変える術をに日本人は体験の中に覚え。その作法を禊とか祓いにして伝えたものと確信します。
ところで鶴岡藩のお殿様は柿の木の瘤を使ってゴルフのドライバーを作って見せました。素材(柿)と技術(こけしなどの木工技術と漆細工)が在った事とゴルフの人気が順風でした。でも堅実さを欠いてバブルに塗れてしまいました。甘かった柿が元の渋さに戻ったと感じられた事でしょう。
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これは横手の柿羊羹昔は柿が甘味の王様でした、出典横手木村屋http://yokote-kimuraya.com/shop/kaki_youkan.htm

もう一つ柿で思い出すのが小学校の国語の教科書に載っていた「柿右衛門」です。有田の陶工柿右衛門の赤絵の苦心談でした。今も有田焼の窯元には柿の実がたわわに稔っています。
美味しい柿ですし万葉集を代表する歌人が柿本人麻呂ですから天平時代が柿の歌が多かろうと思ったものの全くありません。と云う事は万葉集の時代には柿は渋くて食べられなかったのでしょう。
人々はズット赤く実った柿を眺めるだけで過してきました。カラスが喰っている木の実を人間が食えない筈はないと思って天日干しを考案し、更に酒や水に浸けて、晒して渋味を抜いたのでしょう。こんな工夫をするのは室町時代で、以来全国各地で柿の品種改良が進んだのでしょう。
そんな先人たちの1000年に及ぶ苦心の成果で美味しい柿を食べられるし和菓子も食べられるのです。
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14代柿右衛門のぐい飲み写真出典:ネット販売の一番貫http://1bankan.com/shop/goods/goods/goods.php?act=Goods&mode=Detail&id=00000361&key=List&word

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偉大な反戦童謡(サトーハチローさん)

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昨晩の深夜ラジオで明日11月13日は詩人サトーハチローさんの忌日であると放送していました。ラジオからは「リンゴの唄」 「長崎の鐘」 が流れます。「林檎の唄」には多くの国民が励まされ戦後復興に勤しみましたし、「長崎の鐘」には反戦の志を強くしてきました。戦後日本はハチローさんの詩と共に出発進行しました。

更にラジオでは長い間作詞不詳とされてきた「百舌が枯れ木で」の作詞もハチロー氏であると案内しました。ハチロー氏の記念館は岩手県の北上市にあるとも教えてくれました。北上川の畔は宮沢賢次を育み石川啄木を産んだ土地ですからハチローさんにもピッタリだと思います。
北上から少し北上すれば鉈彫りの天台寺ですし「自然真営道」の思想家安藤昌益の産まれた八戸にも近く西に折れれば奥入瀬から三内丸山遺跡です。どれも自然と人間の良い関係を証明してくれています。親友らと百舌が高啼きする季節に巡ってみたいものです。
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三内丸山遺跡の土偶(模作)
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枯れ木の梢で高啼きする百舌。綺麗な小さい鳥ですが意外に獰猛で蛙や虫を梢の先に磔にして冬場の食事にします。百舌の声を聞けば冬越しの準備に勤しまなくてはなりません。でも梢の先には春芽も膨らんできていて冬の先は春が来る期待にも胸を膨らませるのです。

先ずはその歌詞を想いだしてください。
もずが枯木で鳴いているおいらは藁を たたいてる
綿びき車は おばあさんコットン 水車も 廻ってる
みんな去年と 同じだよけれども足んねえ ものがある兄さの薪割る 音が ねえ
兄さは満州に いっただよ
鉄砲が涙で 光っただ
もずよ寒いと 鳴くがよい
兄さはもっと 寒いだろ
この歌は裕次郎や加藤登紀子さんが歌ってベトナム反戦運動が盛んだった時代、私達も歌いました。
当時私達世代は「イムジン河」や「戦争を知らない子供達」を歌っていましたが,詩の格調からして反戦歌のレジェンドになるのはハチローさんの「百舌が枯れ木で」であると確信します。国民の大勢が大勢翼賛する中にあって反戦・博愛を叫ぶことは枯れ木の先っぽで百舌が高啼きするようなものだったことでしょう。ハチローさんの師であった西條八十さんなどは軍歌を作っていたのですから。
満州に出兵する優しい兄さんの捧げ持つ鉄砲が涙で光るのに気付いた人は屹度多くて多くの人の共感を呼んだのでしょう。
ハチローさんが戦後に想いの儘に作詞出来て”本当に良い時代が来た”思われた事でしょう。そんなハチローさんでしたから横浜の片田舎の小学校の校歌の作詞を依頼されて快く作詞して下さったのでしょう。
小学生が勉強してその姿を優しい自然が包んでくれる理想郷を見事に校歌にして下さいました。
東戸塚小学校の校歌は昭和30年ハチローさんが作られました。

私は”こんど新しく校歌が出来ました。みんなで歌えるように練習しましょうね!安西先生のオルガンに合せて
”燕も雁も覘いてく東戸塚の学び舎を・・”歌いました。
明日12日は東戸塚祭りを実施します。
この祭りのお客さんは生徒さんで実行主体は父兄会と地域です。
地域と父兄が協力して子供達をお祭りに誘って学校創立をお祝いします。
私が10年来会長であった上倉田町内会は模擬店と柏尾川の自然をパネル展示してきました。私が脳梗塞を発症した1913年にはパネル展示と併せて「海老釣り」を遣って大好評でした。
今年は私は引退したのでパネルの作成だけを依頼されました。
昨晩ようやく完成しましたので今日は取りに来てくれると思います。
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東戸塚祭りの用意した展示用のパネル左から「生物一杯柏尾川右に「水が澄んだので魚や虫がふえました」そして「魚や虫が増えたので鳥も増えました」の三段パネルになっています。居間に並べて展示前の最終チェックです。
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 校歌「♪燕も雁も覘いてく♪のフレーズをパネルにした部分。東戸塚小学校は柏尾川の近くにあって燕も鴨も馴染みがあります。でも燕の巣作りだけは学校ではもう見られません。駅前のパチンコ屋さんの玄関に巣作りします。
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1913年の展示この冬に私は脳梗塞で倒れました。
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こ2013年好評を得たアメリカザリガニの海老釣り。子供達には好評だったのでしたが海老も寒くて食欲を欠いていて餌に食いつきませんでした。お湯を入れたら良いのかもしれませんが茹で上がったら虐待になってしまいます。早く元気になってまた海老釣りをプレゼンしたいものです。

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盛り場の田の神(たのかん)様

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ブログのお蔭で石仏を愛する知り合いが増えました。知り合いと云ってもそれは私の気持ちで未だどなたともお会いした事はありません。顔は知らなくてもお互いのブログを観ては刺激し合って居ます。「石仏の心http://28401270.at.webry.info/201511/article_2.html」さんのサイトに田の神(他の館)様が載っていました。屹度遠隔地なのだろう思って常泉寺を調べてみたら我が家から海老名に行く途中にあってお寺の前を何度も通り過ぎていたことを知って驚きました。そこでワイフを誘って同寺に登りました。
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常泉寺の双体道祖神大文字草の花陰で嬉しそうでした。関東では道祖神が南九州では田の神様が祀られています。関東の道祖神は「賽の神」であり「穀物神(作神」ですが。k南九州ではその役割を果たしたのが「田の神」でした。

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神奈川県大和の常泉寺の田の神様典型的な僧形のたのかんさまで大きな飯茶碗を左手に大きな飯杓文字を右手にされています。ご住職は境内に相体道祖神も多くお祀りですので薩摩の道祖神として田の神様を置かれたと思いました。境内に2基あります。
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常泉寺の田の神様)此方は庄屋さん姿の田の神様で如何にも福々しくて大黒様のようにも見えます。お茶碗と杓文字をお持ちなので他の神様だと分かります。周囲を沢山の河童さんと羅漢様に囲まれています。

直ぐに常泉寺の田の神様(たのかん様)を書きたいと思ったのですが、かねて気懸りだった池袋東口公園に祀られている田の神様を見てからにしようと思って一昨日行ってきました。以来三日間寝ても覚めても田の神様の事を考え続けて今日ようやくブログアップ致します。
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これが池袋駅東口公園の水天宮横の田の神様4体の田の神様が飯茶碗飯杓文字を持って並んでおいでです典型的な薩摩藩スタイルの田の神様です。池袋から薩摩の豊作を祈っておいでなのでしょうか?何時誰が建立されたのか等解りません。
姿は典型的なお百姓の姿です.継ぎ接ぎだらけのもんぺ姿で描写は細かい地域愛に溢れた秀作だと思います。この神様の右手はソープランドですし。公園内はホームレスが段ボールを敷いて寝ていますし”この国はどうなっているのか?”不思議に思ってしまう都会の片隅です。
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同上のアップ。石は何処にでもある安い安山岩です。彩色が褪せても残っていますし。鯉故意にあばた顔にしてあるところも良い味が出ています。
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田の神様の目線で池袋駅を見る、東口死口公園には野良猫が棲んでいて猫さんを上回るホームレスさんもこの公園を拠点にされています。関東の道祖神は多くの場合男性自身の石や女性自身の石が祀られていますが。薩摩の田の神様は後ろ姿が男性自身になっていることが多いのです。田の神様は男性か女性か議論されるのですが。元来山の神が里に下りたのが田の神様なので、田の神は山の神の男好きで男神だとする意見が多いようです。言われてみると後ろ姿は男性自身のようにも見えます。

想い起すと私は此処数年の間「田の神様」にニアミスし続けています。4年前の初冬には奥能登に日文研の仲間と旅行しました。奥能登は「あえのこと」で有名です。「あえのこと具体的には次の公的サイトをご確認ください」http://www.town.noto.lg.jp/www/event/detail.jsp?common_id=3171はお正月に田の神様を自宅に招いて充分におもてなしをしてお帰り戴く行事で関東でのお彼岸行事のようなものです。先祖を自宅に御帰り戴きゆっくりして戴く、そしてお帰り戴くのが彼岸の行事です、関東でお迎えするのが祖先であるのに対し奥能登では田の神様です。
あえの事のお客様は田の神様でお風呂に入って戴き御馳走とお酒を召し上がって戴きます。神様をおもてなしすることによって新年の豊作を御祈りするのです。
考えを整理しようと思い図書館に「田の神の資料を取り寄せようとしました。するとワイフが本棚に入って私の蔵書の中から月刊誌「日本の石仏/木耳社」を持ってきました。
月刊誌「日本の石仏」が現在も存続しているか知りませんが、私が社会人になって長銀福岡支店に勤務時代に九州の田の神様を知りたいと思って神田のすずらん通りから露地を入って貧疎な出版社を訪れバックナンバーを揃えたのでした。
ページをくくれば大護八郎氏が「薩摩の田の神」について寄稿しておいでです。
私は学生の頃からこの月刊誌を愛読し、
大護さんの文章を読み直して私の考えを整理してこのブログを書いてもみます。

【縄文の山の神VS弥生の田の神】
人間は何時の時代も飢饉に怖れ生きて来ました。
食べ物を恵んでくれる神様を作神と云います。縄文人は山で狩猟生活をしていましたからナラや栗の実を成らせてくれる神様猪をプレゼントしてくれる神様に祈りました。従来は縄文の狩猟生活は原始的で次の弥生に先行するだけの原始人の文化と見下ろされていましたが、近年の三内丸山遺跡の発掘成果によって『縄文人は敢て狩猟の範囲内で持続的な社会文化に留めて来たものである』と高い評価が為されてきました。一方方弥生人は稲作を伝えたものの稲作が貧富の差を産み飢饉耐久性を失ったし、戦争も生んだ』とマイナスの評価をするようになってきました。そんな弥生人や弥生社会を北方騎馬民族が征圧する事は容易で、半島経由で遣ってきた騎馬民族が天孫降臨して大和朝廷を創設したのでした。弥生社会は『田圃で稲の豊作を雑穀の豊作を恵んでくれる作神を田の神として祈って来ました』。
奈良や京都では縄文人は山の中で生活し弥生人は里で生活して居ましたから二つの人種は垂直に分離して生活して居ました。
ところが関東以北と南九州は違いました。関東以北は縄文人が棲んでいましたから朝廷(騎馬民族)から派遣された阿倍比羅夫や坂上田村麻呂によって蝦夷征伐されてしまいますし、南九州の弥生人は隼人の乱によって征服されてしまいます。
関東以北の作神が道祖神であるのはルーツが蝦夷の縄文人にあったから、南九州の作神が田の神なのは初めて稲作を日本に伝えた弥生人がいたからでしょう。大和朝廷を起した騎馬民族は馬と鉄を駆使して先住民族を征服しながらも飢餓にならないためにも作神を重んじて来たのでしょう。
時代が下って農民にも経済力が付いて来ると為政者が祀っている仏像に倣って農民も作神を作りたいと思いました。それも風雨にさらされても存続できる石で作りたいと思いました。そうして出来た作神が山里の双体道祖神であり麓の里の田の神だと確信するのです。
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私が学生時代愛読した月刊誌本棚の奥で埃に塗れていました。この秋田の神に興味を起して棚から引き出しました。

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前記月刊誌の大護さんの薩摩藩領の田の神の報告から転載彩色して居る事、そして旅の僧侶の姿(高野聖)と武士(公家)の姿農民の姿の3タイプがあること等を解説されておいででした。

私は博多勤務時代宮崎から薩摩に車で良く出かけました。九州は石仏の宝庫で大分の国東や臼杵のそして南九州霧島山の周辺も独自の石仏が祀られていました。関東以北は縄文ルーツの石仏が九州は弥生文化の石仏が多いと直感したものでした。
当時はデジカメでは無かったので写真こそ残せませんでしたが強い印象が刻まれています。
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これは吉野縄文遺跡の石棒、この石を使ってドングリなどを粉に轢いて食べていました。機能面で見れば石臼に先行した食事器具でしたが呪術面でみれば灰汁や渋味を除いて食べやすくする神具でした。その道具が道祖神や田の神の姿になったと思われます。

奈良では山の神は草木が枯れる冬になれば山に登ります、冬は「山の神」になって桜が咲くと山から里に下りて田の神に変わります。冬の食料は獣だったから山の神に祈ったのでした。そして春になれば里に下って稲作に励みました。だから神様は冬は「山の神」で夏は「田の神」に変じるのです。
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これは奈良の山の辺正暦寺に近いレストラン「粟」に近くに置かれた田の神様、奈良では作神の夏型が「田の神」で冬型が「山の神」だと考えていました。一方南九州では作神に冬型は無くて夏型だけが祀られたと考えたようです。奈良では漁師がいたのに対し南九州は家畜や薩摩芋のお蔭で冬の食糧確保の為に山の神に祈る必要が無かったと解釈したいのです。山の上には山の神が祀られています。大護さんの解説では薩摩タイプの田の神は黒潮に沿って四国にも伊豆にも祀られているそうです。特に四国では江戸時代の同時期に田の神と山の神が作られたと報告しておいでです。

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林檎の文化

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11月14日は生憎の雨降りで東戸塚小学校祭りも傘をさして行われました。同校校歌を作詞されたサトーハチローさんの忌日(昭和48年1973年)に当りました。
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14日【土曜日】は生憎の雨天でしたが東戸塚小学校祭りを挙行しました。
昭和20年戦争の焼け跡の残る街に林檎の唄が流れて人々は復興に向けて汗水を流しました。戦後復興の原点は林檎の唄であり、松竹大船撮影所は戦後日本映画の第一作「そよかぜ」の製作に向けて作曲家万城目正さんや、佐々木康監督主演の並木路子さん等の熱気で燃えていた事でしょう。その松竹も今では大船には無くなってしまいました。小学校時代良い子は万城目正音楽学校にお稽古に通って歌手や俳優になるチャンスを狙っていたのでした。
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私の町内では「焼き玉蜀黍の模擬店と「生物一杯柏尾川」を実施しました。
東戸塚小学校では地域の模擬店や展示そして校長先生は故郷の群馬県片品村の林檎を即売されます。先生自らハンドルを握って関越を走って美味しい富士や世界一を仕入れて販売するのです。
屹度生徒の喜ぶ顔を瞼に浮かべて居られるのでしょう。
”先生林檎美味しかったよ。先生の育った片品村は自然一杯で、だから林檎も美味しくなるんでしょうね!”そんな賞賛を聞きたくて赤い林檎を自家用のワゴン車に満載されておいでなのでしょう。
私も林檎を楽しみにしています。
昨日は富士と世界一を3個ずつ求めて帰りました。自宅の居間に置けば家中に芳香が漂いました。
私は林檎が家にあるだけで豊かな気持ちになれます。
林檎を観ながら考えました。
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校長先生の故郷群馬県片品村の林檎(富士と世界一)を求めて帰りました。

〈【林檎の原産地は旧約聖書の舞台である事】
”こんなにおいしい林檎は何処で生まれてどのようにして日本に来たのか”第一の疑問です。
今朝【15日】のテレビニュースも昨日のパリでのISのテロに集中しています。世界中がテロを憎みイスラム文化を差別化しようとしています。でもこの事件を世界史視点で見れば根が深いのです。シリアやイスラエルのある中近東は何度も世界の震源になりました。先ず最初がヒッタイト民俗でした。ヒッタイト民俗は世界で初めて製鉄技術を発明して武器を作りました。特に馬に曳かせる戦車を開発して西に進みギリシャにぶつかります。映画の「ベン・ハ―」の戦車のシーンや「トロイ戦争の木馬」の場面などはヒッタイトの戦車の威力を伝えています。ヒッタイトの東進はの支流の一つが騎馬民族の日本進出で、日本人はこれを天孫降臨大和朝廷成立としました。
ヒッタイトが西に東に進行する時に林檎も中近東からアジアやヨーロッパに伝わりました。
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旧約聖書「出エジプト記」の行き先は中近東で其処は鉄器を開発し圧倒的な武器を有したアッシリアでした。東に進んだ鉄器文化は秦の始皇帝を産み大和朝廷を創設したと考えます。

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キリストの時代を映画化したベンハ―の戦車競走の場面(出典アマゾン)

再度中央アジアが世界を震撼させたのはジンギスカンの蒙古帝国でした。蒙古は東ヨーロッパからアジアまでユーラシアを統一します。強大な蒙古帝国の成立は東西の交流を盛んにしました。東西交流の西側はオスマントルコの都イスタンブールで東側はイタリアのフィレンツェでした。フィレンツェに鳩意味が蓄積しルネッサンスの発火点になりました。再びトルコの林檎は世界に広がります。
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蒙古帝国はユーラシア大陸を横断します。その結果中近東に自生していた林檎は中国や北ヨーロッパに伝わります。中近東の小アジアで生まれた小侯国から発展したオスマントルコはイスラム教を信奉しヨーロッパに攻め込みます。このオスマントルコにヨーロッパがEUのように団結して反抗したのが十字軍です。フィレンチェは東西の交流と戦争の最中に富を蓄積してルネッサンスをサポートしました。当時日本では僧侶が元や宋に留学して禅宗を日本に伝えました。禅にシャマニズムを否定する要素が無かったので宗教戦争の懸念はありませんでした。この時に日本に伝わった林檎は小さくて林檎飴に使っているもので長野県の街路樹などに使われています。(和林檎)一方明治以降に伝わっている林檎を西洋林檎と呼んでいます。

従って今も林檎を使ったトルコ料理が多いのです。
旧約聖書の創世記では林檎は禁断の果実」として登場します。
アダムが悪の果実を齧ってしまった事から人間の堕落が始まったという段はキリスト世界のイスラム文化への偏見に起因しています。因みにアダムは齧った林檎を吐き出したので命は助かります。喉仏に林檎が引っ掛かっていたのでした。此処を私達は扁桃(アーモンド)と呼びます。リンパ腺が集中している所で風邪などの初期症状は扁桃腺炎になります。禁断の木の実は林檎では無くてアーモンドだと思うのです。十字軍で敵概視したヨーロッパのイスラム世界への偏見が林檎に不名誉な伝説を押しつけたものと思います。

禁断の果実と云っても林檎は美味しいし。健康にも有益ですヨーロッパ人は好んで林檎を食べました。林檎への本心(賛美)はウィリアムテルに表れていると思います。一方白雪姫は旧約聖書の世界を引きずっています。
【林檎を齧ったのは誰】
私の学生時代のアアップルコンピューターは死に体でした。アップルのパソコンを使っている人は滅多に居ませんでした。僅かにイラストレーターが使うマニアチックな世界でした。
一方ソニーのパソコンはエリートサラリーマンが愛用して居ました。ウォークマンを成功させたソニーがIパッドを開発しなかったのは不思議でなりません。
ところで、ソフトバンクの孫さんは季節ごとにノートパソコンを買い替えておいでで、ご説明はパソコンの画面を使って為されておいででした。当時から孫さんにはソニーの凋落とアップルの今日が見えていらしたように推測します。
私は証券会社の公開部長でしたから孫さんが天下のNTTを敵にしたような事業計画が資金面で破綻しないか懸念を持ちました。屹度当時のソフトバンクに同様な懸念を持った人が多かったのだろうと思います。
アップルの林檎を齧った商標はビートルズの林檎スターのそれであり、旧約聖書のアダムを思わせるものだったのでした。
アダムが林檎を齧らなかったら。人類は最もおいしい果実を知らなかっただけではなく、文明は発達しなかったでしょう。文明の発達は常にチャレンジが必要であるように思うのです。
麻薬を麻酔薬に使った華岡青洲もチャレンジでした。常識人であれば医術は進歩しませんでした。ソニーは最も技術の先端に居て、良き企業文化を持っていたにも関わらず、ベータ方式で失敗した事に懲りて林檎を齧る勇気を捨ててしまっていたのでした。私は日本を代表していたソニーの凋落を残念に思います。孫さんのような人が社外役員になって居れば今日の体たらくは無かった事でしょう。アップルの商標を見る度に胸が痛みます。
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齧った林檎はビートルズ【林檎スター】と旧約聖書を捩った商標でしょう。ソニーがアップルだったら、今日の日本のエレクトロニクス産業は違った表情をしていたことでしょう。

【日本の林檎の系譜】
日本の林檎は明治維新に始まります。北海道開拓使が林檎の苗木を余市や札幌郊外に植樹します林檎は南北海道から青森で盛んに栽培されました。明治の日本人は林檎の美味しさに西洋文明を感じ競って美味しい林檎の栽培に勤しんだのでしょう。林檎への憧れは島崎藤村の若菜集によく出ています。
明治維新政府にあって、各地の農業試験場が競って美味しい林檎。病虫害に強い林檎の開発をに競いました。
国光や津軽は米国産の林檎を移植したものでした。しかし、1965年前後にはバナナの輸入自由化の煽りを受けて林檎は大不況に見舞われてしまいます。そこで果樹農家は国光や津軽に代わってスターキングやデリシャスが(米国原産)が植え代えて窮地を脱しようとします。
でも米国産の国光や津軽から米国産のデリシャスに代えてもたいして成果は得られません。農業はそんなに甘いものじゃないのでした。日本人好みの美味しい林檎を開発する必要があったのでした。
東北農業試験場(盛岡)では国光とデリシャスの交雑によって1947年実生の新種を開発していました。8年後ようやく播く種するまでにこぎつけます。新種の開発に成功しても果樹園で栽培するまでには多くのプロセスが必要なのでした東北試験場7号を1962年「ふじ」として八百屋の店頭に並ぶようになりました。「ふじ」は最初の交雑試験に成功した藤崎町の「藤」を取ったとも、富士山の名とも山本富士子とも言われています。我が国の林檎生産量も富士の成功によって40万トンから現在では100万トンに増加しました。果樹農家は実生の他「高接ぎ法」という接ぎ木を実施したのでした。国光や紅玉の樹は根や幹はそのままでも枝は「ふじ」に変わったのでした。
この段は主として品種改良の日本史(阿倍和幸著)に依りました
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毎日林檎を戴きます

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林檎の品種改良は糖度と程良い酸味を求めて実施されてきました。「ふじ」は国光とデリシャスの交雑で成功したモノでした(出典品種改良の日本史)
一方もう一つの人気種は「世界一」です。此方は、青森県りんご試験場が、1930(昭和5)年、デリシャスとゴールデンデリシャスを交配した実生3個体の中の一つの個体でしたが、1946(昭和21)年に初結実し、1951(昭和26)年に最初の選抜をしたものでした。試験場の育種圃場が狭いこと、選抜を早めるためなどの理由から、1958(昭和32)年から穂木を配布して試作を一般農家に委託することに致しました。弘前市のりんご栽培家對馬竹五郎氏の園で最初に結実をしました。その果実が極めて大きかったので、對馬氏が「世界一大きいりんごだ」と宣伝したことから、それがそのまま本品種のデビュー及び命名になったそうです。
高品質の林檎とは①糖度が高く同時に適当な酸味も併せ持っている事②肉質が良い事果汁が多い事③芳香 ④色や形。
富士も世界一も親をデリシャスとするものです。兄弟ですから高品質と云う事では大差ありません。世界一は大きいので圧倒的に見栄えが良いものがあります。
林檎は種が大事ですが種で総てが決まるモノでもありません。陽当りや実の数、肥料や農薬によって評価は大きく違ってきます片品村は尾瀬の入り口にあります。みずほの国の美しい天然がATTを好機にする安全で美味しい林檎を栽培するチャンスだと思います。現在世界で一番多く出回っている林檎は富士です。日本に渡ってきて200年足らずの間に世界一の林檎の開発に成功した先人に敬意を払いながらこれから1週間林檎の備蓄もあるので豊かな気持ちで林檎を戴く事にしましょう。
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昨年は奇跡の林檎を観に行きました。岩木山を見渡せすリンゴ畑と秋田美人の菅野美穂さんが良かったのでしたが今年は観たい映画もありません。映画文化も頑張って貰わないといけません。


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懐かしい自由学園の校舎

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日文研セミナーで関西出身のМ君のレポートが在りました。テーマは「阪神間昭和モダニズムに見る都市文化の諸相」と題して関西圏の昭和モダニズム建築を照会して阪急小林一三氏を例にして経済人の活躍を解説されました。М君の強い関西への愛情が好印象でした。
私は当ブログでも再三紹介している様に首都圏の昭和モダニズム建築を見て回っています。横浜にも多く残っていますし。東京に出れば高輪や根津の教会には昭和モダニズムの旗手フランク・ライトロイド自身ではなくともライトに学んだ日本人建築家の作品が多いのも魅力です。阪神間の昭和モダニズム建築は総じて富裕層の私的な建物が多いのに比べて首都圏の昭和モダニズム建築はホテルや教会そして学校建築博物館(上野近代美術館)などパブリックな建築が多いのも特徴です。
以来フランク・ライト・ロイドのモダニズム建築を観に行きたいと思って居ましたので、池袋の自由学園校舎(重要文化財様を観に出かけました。湘南新宿ラインが出来たお蔭で、池袋に出かけるのも楽になりました。戸塚駅で乗れば座ったままで池袋に着いてしまいます。東口に出て水天宮の田の神様を拝んで、次には自由学園に回ります。先ず駅西口に出て劇場通りを池袋消防署に向かってその背後の住宅地の中に自由学園があるのです。
久々の池袋です。立教大学の生徒さんの姿が目に入ります。そうです。池袋目白は学園都市でもあるのです。
立教大学近くのレストランで昼食を取れば隣席の学生さんが就職活動の情報交換をしています。
自由学園は1921年(大正10年)に羽仁吉一氏と羽仁もと子氏が創立した学校です。二人ともジャーナリストであり、特にもと子氏は日本最初の女性新聞記者でありました、結婚後二人は自分達の理想とする社会を作ろうと志し先ず雑誌「婦人の友」を創刊します。更に娘の受けている教育を観て疑問を持ちます。教育は知識の詰め込みでは無い子供の考える力を育てる学校が必要であると考え「自由学園」を創立を志したのでした。そこで教会で知り合った「遠藤新」に相談します。遠藤は帝国ホテルの設計の為に来日していたフランク・ライトロイドを紹介します。
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帝国ホテル本館(重要文化財明治村ホームページを転載)フランク・ライトロイド設計正面ビューは暖炉を観る様な安心感を催させます。今日案内する自由学園の兄貴格の建物です。でも自由学園には大正デモクラシーを育んだ思想が建物に表現されています。

ライトは羽仁夫妻の理念に共感し自由学園の校舎の設計を快諾します。こうしてできたのが自由学園の校舎なのでした。勿論ライトの設計ですから水平線の目立つ大空間建築です。そして床や暖炉は大谷石が多く使われています。大正時代はデモクラシーが浸透した小春日和の様な時間でした。日本で婦人参政権も確立したのは大正14年でした。自由学園の創設はそんな時代の空気を代表するモノだったのでした。鈴木三重吉が「赤い鳥/童謡絵本運動]を創刊したのが1923年(大正12年)でしたからそのままデモクラシーが続いたならば日本は幸せだった事でしょう。しかし大正デモクラシー、昭和モダニズムは長続きせず戦争の渦に巻き込まれて消滅してしまいます。昭和モダニズム建築のファンは総じてこんな歴史を悲しむ人に多い様に思います。
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羽仁吉一氏と羽仁もと子氏はジャーナリストでした。特にもと子氏は日本最初の女性新聞記者でありました、二人が子供の教育(知識詰め込み)に疑問を持って大正10年に創設したのが自由学園で、大正デモクラシー昭和モダニズムを体現した建物がフランク・ライト・ロイドの設計した明日館だったのでした。
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この日教室ではセミナーが実施されていました「建物は使ってこそ活きる」考え方は共感です。各地に重文等の指定を受けている建物が在りますが使わないでいるとその価値も解らないし傷みも進行します。
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これは自由学園明日館のパンフレットで玄関(左)講堂(右)です。
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明日館の生垣とフェンスにはボジョーレ・ヌーボを戴いて・・・・案内が出ていました。あの暖炉の前に座ってワインを戴くなんてグッドな企画です。案内ではジャズピアノが演奏されてパスタもついて1000円だそうです。https://ja-jp.facebook.com/myonichikan池袋のお姉さんと渋谷のお嬢さんに声を掛けようかな?

桜紅葉も散り始めていました。平日にも拘わらず見学者も多いようでした。
立教大学のカップルもいて教室の椅子に腰かけて楽しそうです。でも、ももう半年でお別れ短い間に決断を迫られているのかもしれません。昔は電灯をつけず自然光の下で学んでいたそうで態々灯りを消していました。
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明日館の教室立教大のカップルが腰かけて物思いして居ました。丁寧にワックスした床に大きな窓から差し込む冬の光りが優しかったのでした。
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西池袋の住宅街にある自由学園明日館の校舎中央が講堂桜も傘寿を越えて風格が出ていました。
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柊も咲き出してもうじきクリスマスです。
窓から優しい光が二人に注いでいました。若しかしたらあの二人は私達を見て
”私達もあんなになるのかしら?””貴方は屹度半身麻痺して私の介護を必要にするかもね”なんて呟いていたのかもしれません。
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講堂で珈琲を戴く。壁に暖炉が切られていて煤が使用して居る事を示していました。使ってこそ建物は価値があるし長持するものです。この部屋で暖炉に赤々と炎が焚かれてジャズを聴きながらパスタにボジョーレ・ヌーボを戴けるなんて至福な時間でしょう。
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壁に架ったフレスコ画創立10周年の記念事業で生徒さんが力を合作られたのだそうです。明らかに生徒さんにとっても出エジプト記でしょう。創立10周年と云う事は戦争に向けて転げ落ちていた時期でした。生徒にとっての出エジプトは出日本だったのかも知れないと思いました。

歩き疲れた私達は講堂で一服しました。珈琲にクッキーでプラス200円です。座った目の前には大きなフレスコ画が懸っています。係員に訊けば創立10周年の記念事業で生徒さんが描かれたのだそうです。観れば出エジプト記ですがモーゼの姿はありません。羊や農夫も居ません。全員が若い群衆です。羽仁夫婦に導かれて光りに向けて進行している様に見えます。この空気はプロテスタントで私達はカソリックの空気の中で育ちました。少し違いますがヤッパリ宗教的な空間に身を置くと、落ち着きます。

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池袋モンパルナス「熊谷守一美術館」

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池袋駅から水天宮の田の神様次は西池袋の自由学園明日館に更に要町の「熊谷守一美術館に回る事にしました。池袋駅を起点にして反時計回りに一周する事になります。
昔飛騨高山から中津川に抜けて走った事が在りました。
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これが絶筆になった揚羽蝶でこの作品を含めて熊谷守一画伯の主要な作品を展示しています。併せて1階は喫茶。3階は貸画廊になっています。各フロアに次女熊谷榧さんの作品(父譲りの洋画と彫刻)も展示されています。(パンフレットの表紙を複写)

下呂温泉から国道257号線を付知峡恵那峡の岸辺を走れば中津川に着きます。その時の目標は熊谷守一美術館を見学する事でした。熊谷守一は付知の富豪「熊谷孫一郎」(初代岐阜市市長/紡績業山林オーナー)の次男として産まれます。
付知は中央アルプスの南端笠置山の麓にありますが中津川を挟んで向かいに恵那山が聳えています。恵那山の山麓に在るのが馬籠村で島崎藤村を産んだ村でした。藤村は三田英学校(後の慶応義塾)に学びます。熊谷守一も慶応義塾普通部に通います。当時の木曾では進学すると云えば慶応義塾だったのかもしれません。
因みに中津川は洋画の熊谷守一そして日本画の前田青邨を産んでいます。小さな中山道の宿場町ですが山紫水明な風土が偉大な画家を二人も産んだのでした。最近熊谷守一美術館が付知の民間会社(付知土建)から熊谷守一氏の次女熊谷榧さんに移った移ったようです。熊谷榧(かや)さんも実父が偉大だっただけにその遺跡の保存にご苦労されておいでのようです。(新聞記事毎日新聞/http://mainichi.jp/edu/news/20150708ddlk21040076000c.html)山紫水明な上に美食の土地ですし美術館や文学館も多く観光資源に恵まれています、今次リニア新幹線予定駅に指定されたようですから今後の発展が約束されたようなものでしょう。
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前田青邨の描いた恵那山多分このアングルは馬籠の関所跡からの恵那山の山容だと思いますこの夏青邨の絵が地元の小学校に里帰りしたそうです。(出典も含めて毎日新聞)

学生時代から熊谷守一には敬意を抱いていました。社会人になった頃日経新聞が「下手萌のうち」を上梓し画仙人と呼ばれた熊谷守一に強い愛着を覚えました。北斎(画狂人)更に川鍋暁斎(画鬼)そして画仙人の熊谷守一大川の流れと思って居ます。
”下手も絵のうち”には要町の15坪の庭に茣蓙を敷いて地面を這う蟻を見詰めて居る姿を描写していました。
蟻は6本足です。その足を出す順番を観察していた、というのです。
その要町の自宅を美術館にしたのは次女の熊谷榧さんでした1985年(昭和60年)私設として設立、2007年には作品153点を含めて豊島区に寄贈して「豊島区立熊谷守一美術館」になりました。
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この建物が熊谷守一の自宅アトリエで壁の蟻は守一氏の作品をコピーしたものです。この絵でも守一氏が蟻がどんな順番に足を運んだか解るような気がします。”そんな事解ったって何の役にも立たない”思うのは凡人で神の世界に敬意を持たない人です。仙人は蟻を観察しながら神の世界を垣間見ておいでだったのでしょう。
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熊谷守一美術館の玄関昭和60年当時はコンクリートの打ちだしたママが人気でした。設計は「岡英世」氏です。喫茶室は少し低い位置にあって座るとお庭が目の高さに見えます。熊谷守一さんのライフスタイルを熟知された秀作だと思います同氏の事は次に出ています。http://www.jia.or.jp/member/award/25years/2012/main.htm
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熊谷守一美術館玄関には次女の熊谷榧さんの彫られた石像が地面を見詰めて居ます。地面には蟻が働いているのでしょう。熊谷榧さんもアーティストですが偉大な父の業績を世界にアッピールするのに忙しいようです。


大正デモクラシーから昭和の初めにかけてこの辺り都の西北は「池袋モンパリナス」と呼ばれて多くの画家がアトリエを構えていたのでした。パリのモンパルナスはセーヌ川の西岸でブルターニュ地方(田園)を後背地にして多くの画家が住いエコール・ド・パリ派が画業に励んでいた土地だそうです。彼等は印象派やキュビスム(ピカソなどの立体派)のように特別な主張を持つわけではありませんでした、あえて言えばボヘミアンで美しい田園に接しながら自由に自分お描きたいものを自分の感覚で描いていました。日本人お好きなユトリロやルソーもシャガールも更にはレオナール・フジタ(藤田 嗣治)もそんな一人でした。
時代空気はエコール・ド・パリであったのでした。
芸大を出て春日通りを西に行って護国寺で折れれば池袋モンパルナスです。
日本女子大( 成瀬記念講堂は大正時代の洋風建築で重要文化財)もありますし。近辺には美術財は沢山あります。ペーソスのある喫茶店やパブリックな絵の展示場や路上販売施設が在っても良いと思います。
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私達の好きなユトリロのジャンヌ・ダルク通り。喫茶店の並ぶ街並みに画家が集まって自由に個性を発揮しました。共通するテーマはボヘミアン(田園派)だった様に思います。池袋の要町椎名町千早町一帯も池袋モンパルナスが掛け声倒れにならない様に街作りをしてほしいと思うものです。出典はデジタルミュージアムショップ(http://www.digiart.cc/235_4748.html上記は19800円です。

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家やそこで池袋要帳に

河童さんへの哀惜(君は何を言いたいの?)

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先日高座渋谷(大和市)の常泉寺(曹洞宗)で田の神様を拝んだことを書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49008090.html。石仏と花の寺として人気のこのお寺には河童の像(石像や陶器像)が境内に数多く祀られています。住職は先ず羅漢像に次いで河童に興味を集中し、コレクションを増やしたようにお見受けしました。新しい河童さんが比較的狭い境内に込み合っておいでですが何か物足りないものを感じます。それは第一に民話が無いのです。筆者は日田(大分県)や田主丸(福岡県)遠野(岩手県)等に河童を見て来ました。何れも民話が先行してその民話を追う様に河童像が祀られていました民話が無い河童さんは”魂の無い仏像”のようです、更に言えば歴史を経てこそ備わる風格(苔とか黴など)に欠けていたのです。
河童と云う民俗素材を自由な現代人がアレンジしたものと思えば面白いものばかりです。先ずはどんな河童さんか見てください。
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将棋を楽しむ親子(兄弟)河童、傍らにはツワブキの花が咲いて紅葉も散っています。人間の姿を真似た河童さんなのでしょう。
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羅漢と河童の二人連れ。羅漢さんはお爺さんで河童はお孫さんの様に見えます.日向ボッコをしながら釣り糸でも垂れて居るのでしょうか?お爺さんは釣果が無いのでお酒を飲み始めました。
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爺さんがお酒をこぼしてしまうので孫はお酒を注いであげ始めました。

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厭きてしまった孫河童は弟を誘ってお相撲を始めました。
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孫河童はお相撲で疲れてしまいました気が付くとお皿の水が乾いてしまっていたのでした。そこで手水の水でお皿を湿らせました。(此処はトイレの脇にありました。)筆者は河童の皿が乾く事は溜池の貯水が涸れてしまう事と同義だと思って居ます。このことは明日書く事にします。

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11月17日読売新聞記事「酔」の字に”死のイメージ生への揺らぎが感じさせる”としています。
常泉寺の河童さんが現代人が作ったものです。人間の顔で姿で作ったら生々し過ぎるので河童の姿を借りたものです。昨日の新聞に芥川龍之介の河童が発見された記事が載っていました。龍之介は江戸っ子ですからその河童さんは深川の河童です。夜鷹が橋の下に茣蓙を敷いていた頃の河童です。夜鷹のお客さんは隅田川の築堤工事に駆り出されていた土方人夫さんでしたから車に構えて少しニヒルです新聞記事ではこの河童さんは龍之介自殺の気配を匂わせるものだとしています。
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これは日田(大分県)の正吉河童。力持ちの正吉少年が田圃道で河童に相撲を挑まれた民話が残っています(出典水木しげるの妖怪地図/太陽の地図帳)筑後川の川下田主丸にも河童の伝説が残されています。総じて云えば九州の河童は田圃の治水に関係し江戸の河童は江戸の街作り(運河や排水施設)に関係した被差別民の悲しい歴史民俗に端を発し、危険だから運河や川に近づくなと云った戒めとして河童を知らしめたように思います。因みに遠野の河童は夜這いの習俗の中で”父なし子”を間引いた根拠になったように思います。どれも人間の歴史の影の部分を河童が背負ってきたように思うのです。

龍之介の描く河童は自分自身の投影像で時期は関東大震災の直後、川端康成は悲惨な光景の中龍之介は飛ぶように吉原遊郭を見て回っていたと記しています。私は被差別民であった河童の想いが龍之介をして吉原倒壊を眼前にして嬉々とさせた様に思うのです。何れにせよ河童の後ろには歴史的民俗的な意味が潜んでいる様に思われます。私は”河童さん君は一体誰なの?”訊きたくなります。これから暫くこの疑問を思いを抱いて過しましょう。先ずはワイフを誘って浅草に行く事にしましょう。浅草には河童橋がありますし。河童塚のある曹源寺さんがあります。同寺に登る頃には河童に係る私の考えも纏まる頃でしょう。
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                         曹源寺の河童図(広重)

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朔風葉を払う

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デーサービスで私の背中を流して下さる介護士さんが赤城山に遊びに行くと言います。介護士さんは演劇好きで国定忠治を演じるので赤城山に仲間と一緒に行くんだそうです
赤城山はもう紅葉も終わって月の赤城山の季節に行くべきでもう遅いよ。今頃は木枯しが吹きすさんで紋次郎の世界だよ。麓の前橋は萩原朔太郎の生地で代表作「月に吠える」は”前橋から眺めた赤城山の月をイメージしていると思うよ”言いました。でも生憎のお天気です赤城山も三国の山脈も冠雪したかもしれません。
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赤城山と小沼朱塗りの神橋は赤城神社のもの麓の前橋辺りから眺めると紅葉で赤い山に見えるので赤い城山と云った意味で赤城山と呼んだものと思います。群馬県伊勢崎市国定町に産まれた国定忠治は天保の飢饉の最中農民の支持をバックに赤城山を根拠に幕府に反逆して義民として敬愛されます上州は中世から権力に反抗して義を通すことを是とする気風が強かったようです。それは朔風に抗する風土が育んだものかもしれません。写真出典じゃらん
木枯しの事を朔風と云います。
朔の字は月偏に逆と書きます。お月様が戻る日の意味で新月を意味します。ですから立冬の初日の意味です。今年の立冬は11月8日でした。来週は23日は小寒でもう本格的な冬に突入します。
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このパネルは生物一杯柏尾川で使ったもの。柏尾川の桜紅葉で落ち葉が命の循環の始まりです。
そんな日に吹き北風を朔風と呼んで『朔風葉を払う』とは”紅葉して梢を飾っていた葉を朔風が払い落とす”の意味でしょう。払い落とされた紅葉は大地を転がって吹き溜まりに身を寄せ合います。昨晩は冷たい雨が降っていました。この雨を紅葉時雨と呼びます。紅葉時雨に濡れた落ち葉は濡れ落ち葉になります。
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この秋の柏尾川保育児が桜の落ち葉を拾っていました。そんな子供達をキジバトが梢から眺めて居ました。
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梢の先のキジバト朔風が次々に紅葉を吹き払って病葉は地面に落ちていました。
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落ち葉は吹き溜まりに身を寄せます。でも落ち葉時雨が濡らせて「濡れ落ち葉」になってしまえば子供も見向いてくれません。土に戻るだけです。
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これは伊勢佐木町通りの落ち葉。桂の落葉です。伊勢佐木町は50年前は横浜の表通りでしたが今では写真の様にイカガワシイ看板と客引きが目立つ裏通りの風情です。落ち葉が舞い散る盛り場です。



朝食を終えるとワイフはいそいそと道路を掃きに出かけました。
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我が庭の落ち葉掃き竹箒は筆者の作成、兎さんは昨年天寿を果たして今は兎小屋は撤去してしまいました。
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これはペットのお墓です。墓標は弥勒菩薩で手前の細石はお大磯の小動海岸で拾ってきたもの。新しいペットを迎えた時に健康長寿を祈って小屋に入れてあげます。天寿を全うしたら此処に戻します。私は弥勒菩薩が落ち葉の音を聞いているように見えて満足しています。因みに上の兎さんは14年も寄り添ってくれました。
私は家の外にも濡れ落ち葉があって大変だね言いかけて見送ります。我が家の落ち葉が道路に落ちて、北風がお隣に運んで行きます。朝一番で道路を掃くのは基本的なご近所マナーなのです。
今月8日が立冬でした。7.5.3も天気は良く無くて落ち葉掃きは大変です。
ワイフは坂道のお掃除を終えて落ち葉を拾ってきました。
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坂道の落ち葉大きくて黄色いのは臭木です。狐の顔の様な黄色い葉は山の芋でオレンジと緑の斑模様は柿の葉で楕円の小さく黄色い葉は梅です。小寒になれば落ち葉も交代します。

大きな黄色い葉っぱは臭木です。これが一番厄介です。他にも柿の葉梅の葉桑の葉も目立ちます。もうじき落ち葉の主役も白木蓮に紅葉に移ります。日本の紅葉はパレットの様に様々な色があります。加えて形も模様も様々です保育児が夢中になって拾い集める訳です。神様は様々な紅葉を用意して日本人の心を優しく和を最高の美徳にするよう整備されたようです。色々あってそれで良いのは花だけでは無くて落ち葉もそうです。
昨晩のオカズは柳葉魚でした。ワイフは”子持ち柳葉魚よ”ご機嫌でした。
私達は最初の子を札幌で授かりました。社宅の隣は魚屋さんで私にとってはご機嫌だったのでしたが知らない魚が多くて・・・柳葉魚をよく食べました。札幌から襟裳に向かう途中に鵡川があります。国産柳葉魚の産地でこの川に柳葉魚が遡上してくるのです。小さいくせに本性は鮭と同じなのです。川岸に柳の木が生えています。柳葉魚の魚影は柳の葉っぱと同じに見えるのです。
ワイフに柳葉魚は親友のI君お手製のお皿に乗せて言いました。
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夕飯のオカズ柳葉魚でした友人手作りのお皿に載せました
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友人手作りの棒葉のお皿に南京櫨の紅葉を乗せました。

柳葉魚は葉っぱのお皿に川の字になって食卓に上りました。香のモノはこの夏一緒に行った京都の柴漬けの胡瓜でした。京都では風呂に入って友人に背中を擦って貰いました。脳梗塞は災難でしたが今は人の優しさを知って幸いだった思う心境になれました。
朔風葉を払いて今更友の温かさを知る
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落ち葉の布団の中から芽を出す蕗の薹
落ち葉が散れば梢には蕾が現われ春の用意をします。地中では落ち葉が春菜の準備を進めています。


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河童を民俗学する2

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先日高座渋谷(大和市)の常泉寺の河童さんを見て来ました(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/MYBLOG/write.html?fid=1098257&pid=49014406&.done=http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49014406.html)。
以来ずっと河童さんの事を考え続けて来ています。河童さんの好物は胡瓜、何故河童さんは胡瓜が好きなのか?胡瓜と云えば八坂神社の神紋、八坂神社や博多の櫛田神社と河童とはどんな関係があるのか?河童さんの姿の特長は頭上のお皿と背中の甲羅、)この姿にはどんな意味が隠されているのか?どれも分析手法は民俗学で中国やインドのスイジンとの関係があれば文化人類学も関係します。私は頭の引き出しを総動員して民俗学してみたいと思います。
先ずは私の生活圏にある河童さんに着いて説明します。
【浸入禁止のサイン】
民俗学には縄張りの民俗と云ったジャンルがあります。猟師は自分の縄張りがあって隣の山に入る事はタブーです。アイヌや朝日連峰の川は鮭が遡上します。山の民は入漁権を制限して自分達の入れる川(澤)を限定します。
縄張りを大切にするのは近海を均等にするとともに種の保存(乱獲しない)の意味もあります。〝此処に侵入してはいけない”警報する意味で妖怪が使われてきました。そう言った伝統は子供の立ち入り禁止の意味で「古い屋敷の「お化け話」とか溜池や淵の河童伝説になりました。
私の生活圏では舞岡公園の「河童池(溜池)や鎌倉湖(精進池/溜池)の河童伝説にも見られます。
どちらも農民が築いた農業用溜池で子供達が池に嵌ってしまわない様に怖い河童が棲んでいるので近寄るなと言い聞かせたものと思います。
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これは鎌倉湖(散在が池。鎌倉岩瀬の田圃の灌漑用溜池で昔から河童が引きずり込むので近寄らない様に諭されました。
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舞岡自然公園にある河童池。少し雨が降るとこの河童さんまで水没してしまいます。

今年の夏も各地の溜池でフェンスを潜って入った子供が水死する痛ましい事故が多発しました。フェンスが無かった時代最も有効な方法はタブーとする事でした。河童が池に引きずり込むと云ったタブーを作ることによって。こうした事故を未然に防いだものでした。
【間引きの釈明】
次に思いつくのは遠野等関東以北に見られる河童伝説です。
柳田国男の遠野物語には次のような河童の記述があります。
「川には河童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。松崎村の川端の家にて、二代まで
続けて河童の子を孕みたる者あり。生まれし子は斬り刻みて、一升樽に入れ、
土中に埋めたり。其形極めて醜怪なるものなりき。」
「遠野には河童が多く棲んでいた。松崎村の川端の家では弐代も続けて河童の子を孕んだ嫁が居た、河童の子は切り刻んで一升樽に入れて土に埋めてしまった河童の胎児は極めて醜いものだった」記しています。利根川水系も間引きはおおくあったようで柳田国男の民俗学の始まりはその間引き絵馬であったと云われます。
貧乏人の子沢山で農業生産力を越えた子供は胎児の時に処置されてしまったのでした。流石に仏教が浸透してくると相当の自責の念に追い込まれたいたのでしょう。そこで思いついたのは胎児は醜悪な子でまるで鬼の子のようであった。だから切り刻んで埋めてしまった・・・・・。そこで関係するのが江戸時代の農村風俗です。
村の若い衆は庄屋の後家さんとかお妾さんをマークします。機会があれば交わりたいと思って出歯亀になってストーカーしています。
後家さんやお妾さんのお腹が突然に大きくなってしまいました。村人は”誰が遣ったのか(犯人なのか?)七日詮索します。犯人が解れば唯ではすみませんそこで思いついたのが”犯人は河童だ!”としたのでしょう。河童さんにすればとんだ濡れ衣ですが、”犯人が河童さんと解ればこれ以上の詮索は止めよう”と云う事で現代で云えば掻把手術の様に胎児を切り刻んでしまったのでしょう河童の背中に甲羅がある理由が出歯亀と関係するかは解りません。
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これは小島功さんの描く河童さん女河童の艶っぽさと男河童の助平そうな表情は父なし子の間引きを想像させるに十分な説得力があるように思います。(出典黄桜酒造http://www.kizakura.co.jp/ja/gallery/index.html)
【義民河童】
もう一つ大事なタイプがあります。それは江戸深川河童橋の河童伝説です。
江戸時代明暦年間に大雨が続き隅田川西岸(浅草寺側)も水没して町民は困っていたのでした屹度この秋の中川の氾濫で水没した常総市のような状態に陥っていたのでしょう。こんな事態でありますから本来は普請奉行が治水対策を実施しなくてはなりません。でも肝心の普請奉行は旗本大名の上屋敷ばかり対策して町民を顧しません。
当地の商人合羽屋喜八が私財を投じ、新堀川(現在の河童橋道具街辺り)の開削の工事を行いました。工事人夫は江戸中から力自慢を集めました。日当の金払いを良くしたので工事の進捗は良好で町民は大喜びしました。でも問題が一つ残りました。普請奉行のメンツが丸つぶれでしたし。土木工事はご禁制でした。事実が公開されれば合羽屋喜八に対するお咎めが問題になります。そこで町民は口を合せて「工事をしたのは隅田川に棲んでいたとされる河童だったと云ったのでした。文化11年(1814年)に喜八が没すると喜八の菩提寺であった曹洞源寺に葬られいつしか「かっぱ寺」と言われるようになりました。
場所は浅草でしたから河童大明神は、 商売繁昌などに霊験があるといわれています。
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河童橋商店街の河童さん
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河童寺の河童さん
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これは正法寺(廃寺)の「縛られ河童」次の伝説が残っています。
天の川の「力丸星」の神は悪戯ばかりして、平和に楽しく暮らしている神々は大変困っていたそうです。皆で注意をしましたが、一向に改心する様子が無く、それを仇に益々悪戯が激しくなってしまいました。見かねた御仏は『地上で百万人の人々に善行を施せば再び天の川に住むことを許す』と言って当時沼地で河童が大勢住んでいたと言われる浅草に「河童」に化身させて追放したそうです。
江戸初期の頃、人々が多く住むようになった浅草に、日夜何処からともなく河童が現れ、通行人に悪戯をしては面白がり、住民は大変迷惑をし、人々が通らなくなってしまったそうです。ある晩正法寺の住職の夢枕に御仏が現れ、改心させて天の川に戻すようにとのお告げを受けたそうです。早速ご住職は村人と相談し「河童の力丸」の大好物のキュウリとお酒を山盛り用意してご馳走し、酔っぱらって高いびきで寝てしまった「河童の力丸」を法力のある荒縄で縛り『我が百万の人から叩かれ、その人々に功徳を授ければ今まで重ねてきた悪行を許し、縄を解いて天の川は返してやる』と諭したところ、観念した「河童の力丸」は荒縄に縛られたままで昼夜正法寺門前に立ち続け、通行人に我が身を木棒で叩かせて痛みに耐える修行を重ね、その人々に御仏の功徳を祈願したそうです。不思議にも病んでいるところを叩くと、その病が治ったとのことです。

そして、ある年の七夕の夜、「河童の力丸」の姿が消え、門前には荒縄だけが残っていました。






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河童を民俗学する3

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昨日は河童のルーツが①縄張りの習俗 ②間引きの釈明 そして③治水工事に拘る義民の3タイプを説明しました。今日は引き続き代表的なタイプを説明いたします。
4【人柱の慰霊】
日本書紀には埴輪の説明があります。「垂仁天皇の皇后日葉酢媛命の崩御に当って従来沢山の従者が殉葬されてきたのに野見宿禰がに異を唱て殉葬を取り止め、出雲の土部に埴輪を作らせることを提言したのでした。。
垂仁天皇はよろこんで、皇后の陵墓に埴輪を建てることにしました。
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埴輪/短甲の武人(埼玉県熊谷市上中条出土)東京国立博物館蔵、重要文化財出典: Wikipediahttp://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E7%A3%90%E6%9C%A8%E9%AB%98%E6%A0%A1%E3%81%AE%E5%9F%B4%E8%BC%AA
この記述は、何も天皇家の陵墓だけでなく、一般に 橋や堤防工事にと人柱が一般に行われていた事が推測されます。
古代の土木工事と云えば先ず溜池の灌漑工事です。
千曲川の中流域塩田平は古代からの穀倉地帯で沢山の灌漑池があります。谷戸に入れば「谷池」とよばれる溜池があります。平地には「皿池」と呼ばれる溜池ががあります。谷池は谷戸の入り口に堰堤を築いて溜池にしたもので皿池は平坦地に円形に堤防を築いて溜池にしたものです。溜池工事の難しさは今も昔も同じで大雨の時には余分な水を排水する仕組みで通常時は低地の田圃に均等に水を配る仕組みです。その難しい仕組みを立樋(たてひ)と、その下から堤を通り外に通じる底樋(そこひ)で作りました。
こうした難所を無事に完成させるために人柱を必要にしました。多くの場合人柱には未婚で美しい乙女、巫女の様な人が選ばれました。出雲の八咫の大蛇伝説は須佐之男命が人柱に決まっていた櫛名田比売を救出したお話に解釈できます。谷池が大蛇の頭なら尻尾は河口になります。須佐之男命が大蛇の尻尾から鉄剣(草薙の剣)を発見します。千代川の河口は砂鉄が採れました。今も奥出雲は鈩の匠が沢山いて玉鋼(たまはがね)を叩いて日本刀を作っておいでです。八咫の大蛇の眼が赤いのは鈩(たたら)と呼ばれた古代の溶鉱炉の炎でありましょう。
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月岡芳年作「素戔嗚尊(すさのおのみこと)出雲の簸川上(ひのかわかみ)に八頭蛇(やまだのおろち)を退治し給う図」(県立古代出雲歴史博物館蔵)Wikipediahttp「簸川上」の名は谷池と立樋を推測させます。

塩田平の皿池にも人柱伝説が多く残されています人柱に立たされた乙女の霊を慰める為に人々は河童明神を立てて祀りました。河童はそんな記憶を留めているのです。

ところで河童の姿を見るとカラス天狗の様な大きな嘴が注目されますアヒルかペンギンの様な嘴です。子供の天狗さんの印象がします。
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 これは興福寺の迦楼羅像(国宝)出典:興福寺ホームページhttp://www.kohfukuji.com/property/cultural/013.html)迦楼羅は人間の邪悪な心を啄む訳で空を飛ばせるようにしたのがカラス天狗で、川で自由に泳げるようにしたのが河童かも知れません。
カラス天狗は翅が付いていますから大空を飛んで人間に自己抑制をするよう諌めてくれます。一方河童は人間が不幸を嘆いていると泳いできて悲しみを癒やしてくれるようです。

5、【厄病を防いでくれる河童明神】
人間の体は大半が水分だそうです水が不足すれば熱中症になってしまいます。河童さんは頭の水が乾けば死んでしまいます。河童の頭の皿を見ていると涸れ上がった平池を想いだしてしまいます。河童のお皿は人間に水を大切にするように水を綺麗にすることの重要性を教えているようです。だから河童は水神と見做されて祀られています。京都は水の美味しい都です。八坂神社の御神水は「、「祇園神水」と呼ばれて特別視されています。八坂神社の御神体は素戔嗚尊です。本地仏は牛頭大王です。牛頭大王は病気などの災厄を喰って防いでくれると信仰されています。
京都の都も再三疫病が蔓延しました。古代貞観5年(西暦863年)に平安京の広大な庭園だった神泉苑で、仏教経典の読経、神楽・田楽や踊りなども行う御霊会を行った記録があります。中世では鴨長明の方丈記に、「野垂れ死にした人の亡骸で鴨川が堰き止められたなどとも書かれている程です。。病草子や餓鬼草子には賀茂川の川原に集まった病人や遺体が描かれています。疫病は鞍馬の山から疫病が流れてくると思った事でしょう。そこで祇園の祭りをして牛頭天王に疫病を退治して欲しいと祈願したの画技御祇園祭の始まりでした。
牛頭天王の眷属が河童でした。河童は牛頭天王の期待に応じて賀茂川を自由に泳いで厄病を見つけて牛頭天王に差し出して牛頭天王に食べて貰った…そう信じていたのでした。祇園の山鉾巡行も博多の山鉾も牛頭天王に神輿に乗って戴き街の隅々までチェックして戴く行事でした。
ところで八坂神社の神紋(家紋)は「瓜の花を注連縄で囲っている」姿です。この図形が胡瓜の断面と似ているので京都でも博多でも胡瓜は食べません。胡瓜は河童さんの好物でもあるので河童さんにお供えするのです。
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これは国東木大堂の大威徳明王像(牛頭天王」とも云われます。以前次に書きましたhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=gozutennnou国宝の牛頭天王図(高野山)は疫病を取って喰う図になっています。Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E...

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これは河童橋商店街のお花屋さんにあった河童の花鉢

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イエズス会宣教師「フランシスコザビエル像」17世紀初期、神戸市立博物館
ところで上掲は有名なザビエル像です気になるのは髪の毛です頭頂だけがお皿状に禿げています。江戸時代の人は宣教師を見て”河童が街にやってきた”と思った事でしょう。日本人はその頭と同じように衣服が気になったのでしょう。今ならマントを着ていると思うのですが。頭が気になったので宣教師に”その着物は何と云うのか?2尋ねる前に合羽(河童)と呼んだのかも知れません。国定忠治のような任侠の人がその便利性機能性を評価して好んで着たのでしょう。
宣教師と河童は興味があります。洗礼の儀式で頭を下げて頭に聖水を注いでいる行事は何処か河童さんを思わせますし。”少女の髪型を何故河童と呼ぶようになったのか?”民俗学は次々に興味を引き出してくれます。髪型の河童は可愛いからでしょう。明日は河童の問題が古くても現代人の問題である事を芥川龍之介の河童を素材に話してみたいと思います。


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龍之介河童の文明批判

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今年も上高地の河童橋は見事に紅葉し、河童橋は沢山の観光客で賑わった事でしょう。
梓川の源流大正池に近い河童橋は芥川龍之介が1927年(昭和2年)に発表した 小説である「河童」を着想し、執筆したのが上高地あった事からそこに架る吊り橋に冠した橋名です。「河童」は 当時の日本社会、あるいは人間社会を痛烈に風刺、批判した小説であり、 同じ年の芥川の自殺の動機を考える上でも重要な作品の一つであるといえます。龍之介は師と仰いだ夏目漱石を 大正5年(1916年)失いました。漱石が「猫」の眼を通して借りて人間や社会を批判(風刺)したのでしたが、龍之介は「河童」を使って当時の人間社会を批判したのでした。
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既に龍之介は文壇で地位を固めていましたから、社会や文明の批判をしなければそれなりの一生を送れたのでしょうが、龍之介の地勢や気性は安易な生き方を許さず、批判精神を活動させたのでしょう。しかしそうした姿勢は、大正デモクラシーから戦争に転げ落ちようとした時代には大変な負担をかけたようで・・・龍之介の精神は病んでいたのでした。その行き着くところ大正12年の自殺(巣鴨・慈眼寺二墓)でした。
    これから出かけます。帰宅次第アップします。

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飢饉を想う

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11月21の読売新聞夕刊のコラム(春秋)に鴨長明が出ていました。以来3日の間ズット飢饉の事を考えています先ずはその読売のコラムを読んでみてください。
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鴨長明と云えば方丈記の作者です。名前からしても賀茂川の畔に粗末な方丈の掘っ立て小屋を建てて住んでいたのでしょう。”居住まいは貧疎でも精神は貴族である”言いたげに世相を概観したのが方丈記で。唐木順三は詠嘆的な無常観と評しました。上記コラムは長明を「簡素な生活は乱世を生きる知恵だった」と評してミニマリストとしての生き方を見直そう…言いたげです。
でも中世初期の「養和の飢饉」等を記していますし。多くの農民は飢饉に際して生きるすべを都に求めて賀茂川の川原に集まって来ていたのでした。その情景は地獄草子(国宝)や餓鬼草子に描かれています。
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養和の飢饉の光景を描いたと云われる餓鬼草子
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地獄草子の部分お棺を開いて犬が食らい餓えた人が人骨をしゃぶっています。この手前には牛頭を被った人が顔を隠して人肉を食らっている場面があります。牛を食べたり人肉を食らっても飢餓から助かりたい欲望の後ろめたさがの江戸時代には妖怪の牛鬼を産んだと思われます。
でも都に逃げ出したのはごく一部で大半は田圃を捨てて山に逃げ込んだことでしょう。
山に逃げ込めば荘園領主が追いかけて来ることもないし。山には食べ物もあると期待されたのでしたから。
今世界の課題になっている「シリア難民問題」は中世以降戦前まで日本国内で頻発しました。
菊池勇夫氏の(食と餓えの日本史)によれば3年おきに飢饉が発生したと云われます。
方丈記の評価は飢饉の描写にあると思います。その概要は
『養和の頃とか、久しくなりて、たしかにも覚えず。二年があひだ、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春・夏ひでり、秋・冬、大風・洪水など、良からぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず」と述べて、「京のならひ、何わざにつけても、源は、田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ」と記しています。都は農産業が無いので何事においても地方の農業生産に依存しているにもかかわらず年貢が入って来ないので食料不足になる、にもかかわらず地方から人が都に流入するものだから、都の飢餓は深刻になる。
『方丈記』では京都市中の死者を4万2300人と記し、「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち有様、目もあてられぬ事多かり」として都に遺体が溢れて各所で異臭を放っていたことが記されています。また、死者のあまりの多さに供養が追い付かず、仁和寺の僧侶がが死者の額に「阿」の字を記して回ったとも伝える。
人間は「困窮した時にこそその人の品性が現われる」と云われますが。社会や国家も同様でしょう。飢餓に瀕した時に国家や民族の品性が露わになると思われます。江戸時代の天明の飢饉では惨状を「人肉相食い」と表現しています。
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木村金秋(1833-1917)による「天明飢饉図」「奥州凶歳飢民牛馬を喰う図」であり、飢饉時には牛馬や犬猫を食べざるを得なかった様子が描かれています。右下に牛を齧っている人が描かれています。左には食べ尽くされて骨が残った牛が描かれています。
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牛鬼図佐脇嵩之百怪図巻より出典Wikipedia佐脇嵩之百怪図巻東北では家畜や人肉を食べるとこの妖怪になってしまうと言い伝えられました。牛の角を生やした鬼蜘蛛のような姿です。



家族の肉を食らっても自分の飢えを忍びたいとするのは人間も生物だからでしょう。
でも人間には自己抑制の理性も併せ持っています。「生き延びたい」欲望と「でも畢竟人間でありたい」とする理性が相克します。日本人は仁徳天皇の昔から「トップは庶民が餓えない様に。庶民は勤勉に働く事を天から与えられた役割としてきました。
読売新聞は日本を代表するマスコミでありますから、飢饉の時代に貧富の格差が拡大する気配が高まっている時代にかの鴨長明を軽く視て欲しくは無いものです。長明は”行政の誤りが飢饉を招来し、地方の怒りは木曾義仲をして都に攻め込ませた”指摘しています。今日本政府は軍事大国の一員としてISを敵にして、肝心のシリア難民の受け入れには眼を瞑っています。
ISのテロは困ったものです。ISだってテロの非人間性は自覚しているでしょう。でも問題の源は江戸時代の飢饉と変わりません。江戸時代は鎖国で島国の中で経済は循環して居ました。貨幣経済の進展は貧富の差を産み。農業生産の増大は一層の貧富の差の拡大を生じました。3年間隔で豊作と凶作が繰り返される度毎に富める人には一層富が蓄積し貧者は更に貧困になったのでした。その矛盾を一揆や打ち壊しが突いたと思われます。領主は一揆や打ち壊しを取り締まりました。ISのテロを憎んで空爆するようなものでした。しかし徒に飢饉を起した領主は無能の責任を問われて切腹させられたのでした。天明の大飢饉の死者数を杉田玄白は2万人と記録していますが『後見草』(のちみぐさ)飢饉は人間の体力を奪い疫病を流行させます。菅江 真澄(すがえますみ)は陸奥を紀行して人口が三分の一にも減ったと指摘しています。
近年世界の関心を集めているのが八甲田山山麓の三内丸山遺跡です。遺跡の発掘が進むにつれて『縄文時代には飢饉が無かった』事が明らかになりつつあるのです。狩猟民族だったのですから,不猟であれば餓えてしまいそうですが、実は雑食だったのです。春は若草を摘んで食料とし。夏は魚を取って秋は栗などの木の実を食べて冬は猪や鹿を狩りして食料にしていたのです。土器を世界で最初に作ったのは食料の貯蔵にも煮炊きする事で食料の範囲を急拡大したのでした。そして自然の恵みの範囲内で食べるライフスタイルが飢えを経験しないで済ませてくれたのでした。自然の循環にライフスタイルを合わせたので飢饉をしないで済んだのでした。最近考古学者の発見でようやくこうした事が判明してきたのですが東北八戸には江戸時代にこのことを指摘した学者が出現して居ました。町医者の安藤昌益の「自然真営道」がそれでした。日本の学者は古代に理想社会が在ったとロマンする傾向があるようです。
シリア難民問題も地球上の人間の数が地球のキャパを越えてきたことを示唆しているのかも知れません。人間が増大したのですからライフスタイルを身の程にあったものするか人間である事を諦めて修羅道に堕ちる事を覚悟しなければならないのかも知れません個人主義や資本主義の終着駅は修羅の世界である事は戦争が証明しています。
ミニマムで生活する事jは地球資源の限界があるのですから当然です。
でも私が気になるのは飢饉になっても人間としての品格は保ちたいと思うのです。
読売新聞のコラムに戻りますが・・・・・。鴨長明は方丈に寝起きしながらも、ジャーナリストの眼で養和の飢饉を観察していたのです。読売新聞もジャーナリストとしての矜持があるであろうに・・・、思うのです。日本は良いスラム世界からも評価される国でありたいと期待するのですが・・・・。

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元暦の大地震図(平家物語絵巻)方丈記では仁和寺の隆暁法院が死者を埋葬するにも多すぎて死者の額に「阿」の字を書いて回ったのだが左京とおりだけで42300人を数えたそうだ・・・」記しています。出典集英社版方丈記の挿絵)

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土佐広周の鴨長明(図室町時代)琵琶を脇に置いて血色の良い叔父さんに描かれています。出典前記と同じ


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震災で地獄を呈した吉原

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一昨日芥川龍之介の河童を書きました。
河童は大正デモクラシーの社会を見詰めた時代の秀才の風刺であり。主人公は精神病者であった事は龍之介自身が精神病を病んでいたことを自覚していたのでしょう。龍之介河童の異常に大きな頭や眼が精神病の外形症状を示していたと思われます。
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吉原大門の石版画見返りの柳の向こうに寄せ棟の廓が並んでいます。お客は「張り見世」と呼ばれるコーナーで遊女を選んで店に入りました。廓に門があって裏は運河でしたから遊女は此処から出る事は至難でした。こうした隔離された出島の様なロケーションで舌から震災に際して遊女たちの逃げ場は無かったものと思います。炎熱地獄の中で遊女は吉原稲荷の池に向かったのでした。

大正12年(1919年)河童を書き上げると同年関東大震災を体験します。龍之介は川端康成と連れ立って被災した吉原に訪れます。康成はまた震災後の吉原遊郭を見物に出かけた処死骸が累々と重なるは悲惨な光景の中を快活に飛ぶように歩いていたと言います。その悍ましい光景は羅生門等に描かれた地獄絵の光景だったことでしょう。
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関東大震災の最大の悲劇は火災の発生でした。吉原も燃えて遊女は吉原稲荷の池に向けて逃げて池に飛び込むのでした。この石版画は吉原稲荷神社の境内に貼られていて震災直後の惨状を伝えています。
岡本かの子も龍之介の病状に気付き心配して居ましたその記憶を「鶴は悩みき」に纏めました(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48962859.html)また斉藤茂吉は精神病の処方箋に青酸カリを渡していました。致死量を超える毒薬で昭和2年(1927年)7月24日逝ったのでした。
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向島から見た吉原炎上の石版画、火焔地獄の中人は隅田川から運河に逃げ込んだのでした。

龍之介の辞世は次の通りでした。
橋の上ゆ胡瓜なくれは水ひひきすなはち見ゆる禿の頭
【辞世句の解釈】
橋の上とはこの世とあの世とを境している三途の川に渡っている橋の事でしょう。彼の世に行こうと自分が進んで行くと。胡瓜も食べ尽くしたので水面が見えて其処には自分の姿が映って見えた。映った自分の姿も禿げ頭でちっとも変わらないではないか!。自分はあの世に行っても現世と変わらぬ龍之介河童の儘である。死んだらどうなるのか思い悩んできたのだが悩むことは無い、自殺についての煩悶を乗り越えた心境で私はこの世に別れを告げます。
そんな心境だったのでした。」
子の心境は被災した吉原を見物して累々と重なった遊女達の死骸の上を飛び回った体験が生んだ句だったと推測します。
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これは吉原の稲荷池から引き揚げられた遊女の水死体の写真。この写真には後日談がありました。従軍慰安婦問題に際して韓国人ジャーナリストが「震災の後日本軍は韓国人を虐殺して下衣も脱がして朝鮮人女性を辱しめたと告発したのでした。その虚偽は直ぐにバレましたが、不幸な遊女を弔すべきところ下着も露わにするなど下劣な事の極みです。韓国人ジャーナリストが日本人の品位の低さを告発したものと思えば恥じ入るばかりです。この顛末は次に詳しいですhttp://blog.goo.ne.jp/azuma-kurabu/e/58db832bc224327c8fe9701f225d649a
私はワイフを誘って河童寺から吉原稲荷神社に向かいました。を詣でる事にしました。吉原稲荷神社は台東区立病院を挟んで東西に二社祀られていました。昔は1社だけでその境内の池を遊女の慰霊碑を兼ねて整備した事から2社あるように見えるのでしょう。1社であっても大きな稲荷社であったようです。
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此方が吉原稲荷神社
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上の吉原稲荷社から西に100mの距離にある稲荷社。左の壁画は芸大の学生のボランティアのよるもの中央は慰霊の観音様参詣者が時折訪れます此処には震災の惨状を伝える絵や新聞が掲示されています。
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吉原稲荷神社の池は狭くなってしまいましたが錦を纏った鯉が無心に遊んでいました。

関東大震災の後日本は景気の下降局面を迎えます。資本家や軍部は閉塞状況の中半島から大陸に進出する事を企てます農村は疲弊し富山では米騒動が勃発します。都市の下層民は生活に窮し労働争議が多発します。
そんな不安定な世相の中でも大正13年には普通選挙法が施行され。デモクラシーの潮流は流れていたのでした。昭和2年龍之介が自殺したのは昭和3年山東出兵満州事変の直前でした。
中国各地で軍部は関東軍と戦火を交え昭和7年には血盟団事件が起こり満州国の建国宣言がなされ5.15事件が起こりました。既に熱くなった国民は情報から隔離され。適正な判断が出来ない状況に陥っていました。
日本は昭和8年には国際連盟を脱退し昭和11年の2.26事件昭和12年の盧溝橋事件(日中戦争勃発)昭和16年真珠湾攻撃に陥ってしまいます。
繁栄を極めると落日は早いのです。ローマもそうでした。”パックスロマーナ”はローマ分裂の始まりでした。日本史上も平家然り足利然りで繁栄を極めると凋落は直ぐ始まっていました。
明治維新に始まった日本近代化の道も日清日露の踊り場を越えて更に上ろうとしたのでしたが。明治維新政府や社会にはブレーキ装置を欠いていたので見る見る無謀な戦争に突入してしまいました。
それだけに束の間の大正デモクラシーと昭和モダニズムが輝いて見えるのです。
龍之介河童も長生きして震災ならぬ戦災を観ずに橋を渡ったのでしたから賢明だったのかもしれません。菊池寛と云う素晴らしい友人にも恵まれていたのでしたから・・・。



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小寒にこそ橘

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11月23日には新嘗祭と七五三で賑う靖国神社で爆弾が破裂して大騒ぎ、肌寒い思いをしました。同日は小寒でしたから。今朝の寒さも致し方ありません。娘が柚子を持ってきてくれました。先日ブログに”風呂吹き大根”を書いたのを読んだようです実獲りたいと10年も前に庭に柚子を植えたのですが、一度も実を収穫する事もないうちに台木のカラタチが勝ってしまい接いだ柚子は枯れてしまったのでした。カラタチは強くてワイフは再三カラタチの棘で指に刺して泣いています。
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これが枳殻(カラタチ)の実です。白秋が歌った様に金色いろの丸い丸い球です。棘が強いので、お屋敷の垣根等に使われています。地力があるので、柑橘類の台木によく使われています。
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玄関の下駄箱に活けた柚子の実田谷の農家(山崎放大さんを面倒見した)で戴きました。紫の実はムべです。
本来ならば
 柚子初めて黄なり小寒の朝
なんて吟じてオツに居られるのでしたが・・・・・・。
22日冬瓜を貰って来たので。冬瓜の吸い物にユズの香りづけして楽しむことにしましょう。
柚子も代々も酢橘もカラタチも皆「橘」の子孫です。
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これが千葉の白子の農家から戴いた冬瓜あんまり大きいので農夫を誉めた処”持って行け”と云う事になりました。ワイフは困った顔をしていましたが旬の野菜を食べる事は喜びです喜んで持って帰ったのでしたが、家で無表情な冬瓜を見ていると悪戯をしたくなりました。最初は”妖怪ノッペラボウ”にしようと思ったのですが。娘が柚子と落ち葉を拾ってきたので妖怪”山爺”にしました。一つ眼で蓑を着た山鬼です。チョークで描いていますので拭けば綺麗になります。

橘と云えば右近の橘、桜と云共に紫宸殿を飾る日本の代表樹です。
奈良西ノ京唐招提寺から西に近鉄線の踏切を渡って秋篠川を遡れば垂仁天皇の陵があります。古墳の水の中に小さな小島があります。それが田道間守の墓(陪塚)で、田道間守は、神仙が住むという不老不死の山、蓬莱山に妙薬を求めて旅立ちます。そして橘を探し当てて都に戻ったのでしたが、既に垂仁天皇陵は亡くなられていたので、田道間守は大泣きして陪臣として垂仁天皇陵の周濠の中に控えているのだそうです。
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これが近鉄尼ヶ辻駅の西側にある垂仁天皇陵濠の中の小島が田道間守の墓(陪塚)です。
敏達天皇の後裔葛城王は聖武天皇の御代に橘諸兄を名乗ります。
当時の右大臣藤原仲麻呂との争いの中で
”私は天皇に対して忠実な臣下です。丁度垂仁天皇の陪臣であった田道間守・・・のように”そう公言して聖武天皇に認めて貰ったようなものだったのでしょぷ・・・。
橘諸兄の母は橘三千代ですから光明皇后は妹と云う事になります聖武天皇夫妻の信任も厚かったのでしたが讒言に遭い引退してしまいます。
その息子橘奈良麻呂は藤原仲麻呂と競うものの、密告によって滅亡してしまいます。(奈良麻呂の乱)
橘氏は父系の血、母系の血を繋いだ藤原氏と覇を争っったものの母系(台木)は強く、父系(接ぎ木)では太刀打ちできなかったのでしょう。父は母と競っても勝てない…1000年以上前から少しも変わりません。
今日のブログは少し無理もあって疲れました。もう10時ですから蜜柑でも食べる事にしましょう。蜜柑も橘、古代から冬越しの健康長寿の恵みです。
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これは法隆寺の橘夫人念持仏。池の中から顔を出した睡蓮の花を台座にした阿弥陀三尊を拝む意匠でつくられています。橘三千代が朝晩祈った阿弥陀様と言い伝えられています。藤原不比等と再婚した夫人でしたが天皇家の父方と母方が相争う先が見えていたのかも知れません。写真(朝日新聞日本の美)

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レモンも橘の仲間です。藤沢の片瀬山で撮影


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コンビニからコミュニケーションストアに・・・・。

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左半身麻痺のリハビリに新戸塚病院に通い始めたのが今年の8月でした。3か月の間は週2回のペースで通院しました。1回1時間作業療法士が私の手を取って指を揉んで低周波を通わせ、腕を上下し肘で屈伸させます。同じ動作を50回も繰り返すことで脳に動作を覚え込ませるのがポイントでした。
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促通反復療法を実施する新戸塚病院http://www.ims.gr.jp/shintotsuka/での作業療法士のリハビリ治療風景低周波を掛けながら指先を反復して動かします。

暫くすると、澱んでいた血液が流れ出すような快感があります、そして私はついウトウト寝てしまいます。
作業療法士さんからは”眼を覚まして指先を見てください”小言を言われます。
何度もお小言を頂戴して私は”肘を曲げて、薬指と親指で抓んで”等と脳の指示を念じながらリハビリをするようにしました。以来リハビリの成果も明らかになってきました。
3か月を経て卒業試験を受けて”成果如実”ということでリハビリ継続が認められました。10月からは2週間に1回通院するようになりました。作業療法士が私の姿勢が悪いと指摘し、並行して理学療法を奨めました。理学療法士の目的は私の体幹を鍛える事です。猫背と左に傾き気味の体型を真っ直ぐ立って真っ直ぐ歩くようにすることが目標です。私も発病前から自分の歩く姿座る姿が格好悪いと思って居たので。理学療法士に見て貰うのは大賛成です。それに体幹を鍛えれば腕も容易に上がるように思えたのでした。
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理学療法士による座っての体幹訓練風景。体幹を鍛える事で左腕が動き始めました。勿論心なしか歩く姿勢も格好良くなったと思います。
作業療法士の指導を受けているときは仏像の印相を想いうかべました。理学療法士の指導を受ける時には自分の骸骨を思い浮べて骸骨が左右バランスして格好が良いか傾いていないか思いました。そして大腿骨や骨盤を繋ぐ腱や筋肉の収縮するイメージを作りながらリハビリしています。
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2クールのリハビリを終えると外は真っ暗です。川上町からバスで東戸塚駅に戻って戸塚駅まで戻ります。
2週間に一度ですが、各1時間、2時間のリハビリトレーニングを終えると喉も乾くしグッタリ疲れます。
帰りのバス(新戸塚病院→東戸塚駅)を待つ頃には辺りは真っ暗です。通い始めた頃には陽射しも高く西陽が熱かったのでしたが、今はもう真っ暗ですし木枯しに肩を窄めています。
東戸塚駅にはナチュラル・ローソンがあります。
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東戸塚駅にはナチュラル・ローソンのフリーコーナー
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東戸塚駅にはナチュラル・ローソンの珈琲コーナー150円から~210円で薫り高い珈琲が戴けます。
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珈琲とケーキを戴いて帰ります。

このコンビニは道路に臨んだ窓際に座席が並んでいます。
”曳きたての珈琲を飲んでください”粋なコーナーです。
私はワイフとこのコンビニで曳きたて珈琲を戴きながらケーキを食べます。ローソンのモンブランとは美味しいので話題なのです。でも大きいので二人で一つを分け合って戴きます。我ながら慎ましいものです。
隣の席には塾に通う小学生が座って、宿題やら幾何の問題を解いています。
私は覗き込んでしまいます。
私が教えてあげようとするのをワイフは押し留めます。
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こんなサービスもありますから温めてらーめんやスープにお湯をかけて戴く事も出来ます。
【コンビニは萬屋だった】
昭和30年代までは何処の街にも「萬屋/よろずや」がありました。萬屋は何でも売っていますよの意味だったのでした。
でも看板商品はタバコと塩とお米と酒でした。この4商品は何れも取扱い許可制でした。タバコと酒は大蔵省【財務省】理由は税を一時保管する事になりますので、タバコと塩は専売公社から仕入れたからでした。
萬屋では以上4品目と切手を販売し店先には縁台が置いてあって縁台に座って世間話をしながらバス待ちして居ました。お店に入れば駄菓子と玩具を商っていました。お婆ちゃんが座って街の人がお店に来るのを待っていまあした。
萬屋に行けば街に病人がいる事結婚式があること何処の家の子が成績が良いか虐めっ子であるのか皆わかりました。情報が萬屋経由で伝わっていたのでした。萬屋のお婆ちゃんはそんじょそこらの伯母さんと違います。情報の何たるかを充分に承知していたのでした。悪い情報が街に伝播すると困った事【噂】になります。本当に意味ある情報だけを篩にかけて流します。
春になれば種や苗を仕入れます。一番必要な季節に必要なモノを仕入れるのです。そして種や苗を買い忘れた人が来れば何処の誰の処に行けば分けてくれそうだか教えてくれました。私が叔父が住職していた栃木県真名子にも萬屋がありました。叔父【住職】が病気がちだったので山羊を飼っていました。山羊は乳を取るにも草刈にも適していましたし。山羊を放牧した後に里芋を植えると良かったのでした。真名子の三圃制が実施されていたのでした。何処の農家で山羊の子が産まれて余っている何て云うう情報も萬屋で教えて貰いました。
萬屋は行政にとっても住人にとっても必要なお店だったのでした。
【萬屋を店終いさせたのは大規模店舗法でした】
昭和30年代になってスーパーが出現しました。スーパーは何でも商っているという意味では萬屋でした。戸塚の街にも西友ダイエー二大スーパーが進出して萬屋は苦境に陥りまあした。これ以上スーパーが進出しては困る既存の商店は「大規模小売店舗法」を支持してスーパーの寡占を阻止しようとしました。
大規模店舗を規制された西友はファミリーマートをダイエーはローソンをヨーカドーはセブンイレブンを作ります。萬屋をボランタリーチェーン化したのでした。萬屋のお婆ちゃんにとっては巨艦のようなスーパーを規制できたと思ったら自分と同じような小さな何でも屋が100m先にも出来たのです。おまけに何を仕入れたらよいのか如何売ったら良いのか悩む事も無くなりまあした。コンビニチェーンに加入すればお店に出なくても仕入れから販売決算まで総てをコンビニの本部が遣ってくれます。加えて自分の事業承継者と期待する子供のハートもコンビニは奪ってしまっていました。
コンビニは街道沿いの萬屋を次に次にコンビニに変えてしまいました。
「コンビニ難民対策)
今や小売業の主役はコンビニになってしまいました。
私の様に戸塚駅のスターバックスコーヒーは避けてローソンで済ませてしまう人も増えていることでしょう。
行政も福祉施策のインフラにコンビニを置いているようです。
人間食べなくては生きて行けません。災害時の緊急食糧飲料や薬などを配給する拠点にコンビニを想定する事が現実的です。道路網を整備する事も良いでしょうがイザというときには駐車場がフェリーポートになるようなコンビニを農山間地に整備した方が喫緊の課題には対処できそうです。コンビニには防災対策倉庫も設備し心肺蘇生装置【AED】の他に無線装置等も整備すれば安心でしょう。
今湘南では津波の時に避難出来そうな高台や堅牢な建物の指定を急いでいます。山間部ではコンビニを防災対策拠点として医療拠点として見直す事も有効でしょう。
私の生活圏ではローソンとセブンイレブンが凌ぎを競っています。一時のパチンコ屋さんの優勝劣敗を競っているようです。国民経済的には大きなロスだと思います。最近はネットスーパーと競っていますし、宅配も実施しています。クリーニングや保険の取り扱いまでしています。住民としては徒歩圏に数店のコンビニが24時間営業して居る事は心強いものがありますが。一方で地方はどうなっているの?心配になります。

【コンビニに情報を……】
其処で提案です。
既にコンビニは小売業を寡占していますし。その勢いは喫茶店やレストランにとっても脅威になっています。我が町内でもコンビニの店前には子供達がウン子座りをして群れています。コンビニに萬屋時代の様な情報拠点にすることを期待します。
私の町内の掲示板には次のような情報が掲載されていますこれを人の集まるコンビニに移すのです。
①訃報、②お祭り、③防災訓練 ④運動会 5町内一斉清掃
③ペット情報【見つけてください。里親募集します】
④更に新聞の取次ぎ機能【新聞配達員に粗品を持たせて訪問勧誘するくらいならナチュラルローソンのカウンターに新聞を置いて閲覧自由として購読の取次ぎをさせる。関西文化の退潮が懸念される昨今ですからローソンは朝日新聞の取次ぎを始めたら如何でしょうか?

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