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遊行寺の黄色い絨毯

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道端にカタバミや蒲公英の花が咲いていました。気が早いと云うにも程度があります。我家の椿も今が満開で春本番になったらどうなることか気懸りです。この秋は何かやり残したものがあります。箱根の紅葉も観たし三溪園にも出かけました。紅葉は満足したのですが。未だ銀杏を観ていません。例年は日吉で日文研セミナーがあって慶応大学の構内の黄葉を観ているのですが今年の秋は早くにセミナーが終わってしまいましたので黄葉を充分見ていないのです。
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路傍で咲いたカタバミの花、冬の次は春だと言っても、気が早すぎです。
私の評価では銀杏の黄葉が一番見事なのは藤沢の遊行寺です。次いでは大分国東の富貴寺の黄葉も見事でした。
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富貴寺の銀杏の絨毯以前次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46905059.html

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これは藤沢遊行寺の銀杏の絨毯
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若芽も良いもんです。

ところで富貴寺では銀杏の落葉に遭遇しました。特に風もないのに一斉に黄色い葉が舞い散って来ました。私の友人は全身で舞い散る葉を浴びて迦楼羅(カラス天狗)が舞い降りたようだ・・・俳句を吟じました。富貴寺の銀杏の舞い散る様は名物でもあるようでアサヒビールのテレビCМ(福山雅治)にも使われています。http://cm.asahibeer.co.jp/contents/movie/drypremium_zeitaku_premium01_30/player/index.php
昨日12月16日はワイフを誘って藤沢の遊行寺に出かけました。既に銀杏は終わりでしょうが、一面の黄色い絨毯は観られるかもしれない期待したのでした。
期待した通り梢の先の黄葉は既に散り落ちていましたが境内は一面黄色の絨毯が敷かれています。
老夫婦が大木の根元を囲っているベンチに座って、次々に舞い散る迦楼羅を観ています。私達も暫く銀杏の舞い散る様を見上げていました。
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今年の遊行寺の銀杏の絨毯国宝館では有名な一遍聖絵を展示して居ました。素敵な熟年カップルがベンチでサンドウッチを食べていました。国宝館前の掲示板に一遍聖絵のポスターが貼られていました。
裏を見せ表を見せて散る紅葉かなは良寛さんの句ですが一斉に散っていますのでこれでは大量死です
私達もベンチに腰掛けましたが後から後から銀杏の迦楼羅は舞い散って来ます。
何故紅葉は一枚一枚別々に散るのに銀杏は一斉に散るのかしら?私に生じた疑問です。
昔読んだ理科の教科書には次のように出ていました。
1、葉っぱで炭酸同化作用をしますその結果澱粉が葉に蓄積されます。葉に含まれる色素には緑色のクロロフィル(葉緑素)と黄色のカロチノイド(カロチン類とキサントフィル類)があります。量はクロロフィルがカロチノイドよりずっと多いので、夏の間は黄色はめだたず葉は緑色に見えます。秋、気温が低くなると葉のはたらきが弱まり、クロロフィルが分解されます。そのため、クロロフィルにかくされていたカロチノイドの色がめだって黄色になります。銀杏やポプラがの葉が秋に黄色になるのはそのためです。
2、寒くなると葉っぱに蓄積された澱粉は根や幹に運ばれます。葉っぱから根に運ばれるに際し茎を通ります。ところが寒くなると澱粉は茎に蓄積してしまうので剥離層を形成します。剥離層で葉っぱは梢から放たれ落ち葉になります。紅葉は此処の葉っぱに剥離層が出来るのですが銀杏は一斉に剥離層が出来るのです。なので銀杏だけが風が無くても一斉に葉を散らすのです。
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遊行寺の手水越に大銀杏を眺める。

以上が学校の理科的な解説でしょう。
デモ遊行寺で迦楼羅の様に散る様を観ていると銀杏の木の意志が働いている様に思えます。
毎日毎日少しずつ葉を落とすのでは雲水さんは掃き清めるのに大変です。雲水さんのお仕事を楽にするために思い切って纏めて葉を落としている様に思えて来るんです。
一遍さんは桜の花が散る様を観て興奮した弟子たちに向いて
「花の事は花に訊け」と看破されました。同様に衆生に向けて云われることでしょう。
「迦楼羅(銀杏)の事は銀杏に訊け」・・・・・と。遊行寺で迦楼羅を浴びて満足した私達はバスに乗って自宅に帰りました。
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銀杏の向こうに本堂が在ってその右新築の地蔵堂の前に一遍上人像が西向きで(銀杏の木向きで)合掌しておいでです。
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遊行寺の紅葉は放生池の周囲です。池面に映った紅葉を破ってカワセミがダイビングします



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学園の食卓(立教大学第一食堂)

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親友のお父上の展覧会が催されているので池袋の要町に出かけました。つい先日自由学園明日館と熊谷守一美術館に行ったばかりでしたから。要町には再三出かける事になりました光文社ビルからルーテル徳経教会を経て立教大学に向かいました。途中江戸川乱歩文学館がありました。残念ながら今日(12月16日)は休館日で閉ざされた門の井間から稀代の推理作家の自宅を覗き見しました。小さな窓の室内では猟奇殺人事件でも勃発して居そうな何処か無気味な建物です。
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これが江戸川乱歩記念館左隣は立教大学の池袋キャンパスです。
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この樅の木の通りを進むと立教大学の中央に出てきます。立教大学は守衛が居ないオープンキャンパスです。
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立教大学正面突き当りの尖塔のある建物が第一食堂左に旧図書館建物右側に事務所棟が「こ」の字に建っています。に庭の左右に大きな樅の木が立っていて学生の主催するクリスマス実行委に依ってクリスマスツリーの飾りが為されています。

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これは立教大学クリスマス実行委による夜のクリスマスツリー出典は同委員会のホームページのホームページhttp://www.date-navi.com/xmas/rikkyou.html
立教大学は明治8年築地の疎開地に建てられた米国聖公会系のミッション大学です。池袋キャンパスには、大正7年(1918年)に転居しました。時は大正デモクラシーの時代、我国建築界はフランク・ロイド・ライト主導するアールデコが主流でした。個が尊重された明治を経て立憲主義も大衆化されてきました。建築界も沢山の人々の集まる大空間が尊重され教会やホテルや次々に建てられました。立教大学池袋キャンパスのそんな流れの中にあった記念碑的な建築群で、レンガ造りの本館、図書館、チャペルなが、大正時代のキャンパス開設時に建てられたまま現在でも残されており最高の見所は正門から一直線に本館を抜け、突き当りに位置する第一食堂が形成するコの字形の空間です。丸いテーブルと椅子が置かれていて此処の学生が集って談笑する光景は、日本の大学でも他にあまり例を見ない空間だと思います。単純に羨ましいと思います。
戦前のキリスト教学校の建築は、外国人によって設計されることがほとんどでありました。その多くはフランク・ロイド・ライトの弟子達がたちで日本に在住者して設計しました(ガーディナーやヴォーリズ、レーモンド等)ロイドライト系の建物は今も全国至る所に現存しています。軽井沢の教会群も過半がフランク・ロイド・ライトの遺風を引き継いでいます。私達はこの水平線が織りなす大空間に昭和の懐かしさを覚えるのです。
立教大学が築地から池袋に転居するに際し設計したのは無名に近いマーフィとダナという建築家でした。両者とも日本での在住経験はなく、日本では立教大学以外に事例が確認されていませんでした。知名度こそはは決して高いとは言えなません、しかし、日本で活躍したガーディナーやヴォーリズなどとは異なり、大学で正規の建築学を修め、アメリカ東海岸の設計事務所でさまざまな建築の設計に携わっていた。特にマーフィはその後中国などアジア地域でさまざまな建築を手掛けるなど、国際的に活躍していた建築家でありました。移転時の立教大学の指導層の眼の確かだったことが窺がえます。
建築費は米国聖公会宣教師アーサー・ラザフォード・モリス氏の寄付によって建てられたことから、モリス館の愛称がつきます。なお、中央時計台の時計はイギリス・デント社製だそうです。
早起きしていましたので11時でお腹が空いて来ました。そこで第一食堂と云う学食に入りました。先ずその大空間をご覧ください。
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これが第一食堂の大空間です。上品なベージュの壁と木質の袖板窓枠そして天井力感溢れるトラス構造に魅入られました。留学生が目立って外国語が交錯する空間でした。
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此処がほぼ中央でクリスマスツリーが飾られていました。

何といっても魅入られるのは天上でトラス構造が確認できそのさきに天井の裏板も見えます。
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何といっても魅入られるのは天上でトラス構造が確認できそのさきに天井の裏板も見えます。トラスを観ると唐招提寺の補修に際し大屋根を支える空間にトラスを補強材に使って事が想い出されます。昭和の大修理は失敗だったようでトラスは大屋根の歪みを招き千年平成の修理を終えたのでした。この仕事は竹中工務店が実施し次のホームページに詳しいです、http://www.takenaka.co.jp/solution_manage/purpose/traditional/service07/index.html

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これが私の食べたビーフシチュー500円ご飯は豊後高田の新米でした。名物はかつ丼370円だそうです。ご近所の人も多く見られました。
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これは実行委員が製作したステンドグラス。
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キャンパスの紅葉は未だ残っていました。建物は視線の高さまで煉積でした。
立教大学池袋キャンパスは建物も自然も最高で特に学生が生き生きしているのが良かったのでした。改めてミサ(聖公会ではミサと云わないのかな?)に列席したいものです。



日本人の描く最後の晩餐(渡辺禎夫の版画)

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池袋要町でミステリー文学資料館(光文社ビル)を見学しました。お隣は祥雲寺さんです。”葷酒山門に入るを禁ず”碑文のお隣には梟が止まっています。
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光文社ビルの資料室のようなミステリー文学資料館。当ビルの西にミステリー文学の創始者江戸川乱歩の住居が保存されていますので愛好家には恰好なお散歩エリアのようです。

梟という感じは木の上に棲んでいる鳥と書きます。梟のモニュメントの下には短歌が刻まれていました。
短歌は”首かしげ何を観ているどんぐり眼耳を澄ませて町の風を聞く”
ワイフと読んでみますが風の字が判読できません。風の字は構えだけに省略されているのです。作者は高校野球の球児だそうで、その作品を能書家が草書したのでしょう。矢張り字も短歌と同じ球児にすべきだった様に思いました。

池袋は梟を街の鳥にしているのだそうです。此処要町から雑司ヶ谷その先の練馬は畑も森も多かったので梟もたくさん生息していたのでしょう。与謝野晶子も次のように歌っています。
梟よ尾花の谷の月明に啼きし昔を皆取り返せ
晶子は池袋西口から青梅街道を下った杉並区桃井に住居していましたので枯れ尾花に月明かりそして梟の啼き声を聞いたのでしょう.梟の啼く声をライバルだった山川登美子のそれと聞いたのかも知れません
”我が恋を返せ鉄幹を我に返せ”
晶子は明星の太陽であったものの登美子は、明星の月だったのでした。
池袋の街は漫画のメッカでした。雑司ケ谷に近い長崎街には常磐荘がありましたし・・・。
ギャグの感覚で池袋の袋を梟に懸けたのでしょう。多くを詮索する意味も無さそうです。
祥雲寺から
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露地の突き当りにある洞雲寺、本堂大屋根の修復工事中でした。鉄骨のトラスを吊りあげていました。
洞雲寺に向かいました此処は都内では珍しい黄檗宗のお寺さんであり現在地に転居する前は文京区関口にあって境内に芭蕉が住んでいたので「関口芭蕉庵」とも呼ばれていたのでした。行ってみたものの本堂の大屋根の修復工事中でした。写真で見ても解るように構造材は杉や檜で屋根の構造部分だけは鉄骨のトラスでした。木の柱に鉄骨のトラスを接ぎ木して大丈夫なのかなはなはだ疑問に思いながら修復中の本堂の大屋根を見上げました。
基礎を鉄骨で組んで構造部分を木で組むのであれば解り易いのですが・・・・・。
洞雲寺の北側に教会が見えました。私達は教会の尖塔に吸いつけられる様に露地の奥に入りました。
尖塔の下にはルターのポスターが貼られていました。2017年には宗教改革500年を迎える事を教えられました。
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要町の路地裏にある東京池袋教会http://www.jelc-ikebukuro.org/敷地の制限からでしょうコンクリートの打ちっ放しでノアの方船の形をしています。大都会東京の中でノアの方舟でありたいといった主張なのでしょうフィンランドの宣教師によって1907年に始められた教会だそうです。このころはコンクリートの打ちっ放しが流行でした。私の家の近くにある明治学院大学のチャペルもコンクリートの打ち放しです。室内は木がふんだんに使われて温かい空間です。
掲示板の版画に目を奪われました。先ずは写真を見てください。
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ルーテル教会の建物はノアの方舟でした。そしてポスターは最期の晩餐です。キリストのお顔も聖人のお顔もイコン風のお顔です、全員が炬燵食卓を囲んでいます。食卓には大きな尾頭付の鯛が置かれています。そしてお寿司も用意されています最期の晩餐です。みんな一緒にお祈りして分かち合って食べましょう。主に感謝して・・・・、聖なる時間が過ぎようとしています。皆真っ直ぐに向いているのに首を傾けている者が一人います。それはキリストの右隣です。首を横にしている人がユダなのでしょう。
版画には渡辺禎夫とサインされています記されています。
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渡辺禎夫(わたなべさだおhttp://www.philia-museum.jp/kikaku/2011/watanabe_sadao2011-2012.html)は大正2年7月7日生まれます。芹沢介に師事し,型染めを学び版画に技を駆使します。プロテスタンンとで,聖書をテーマに沿いた作品を連作します。平成8年死去。
 イコンと日本の伝統民芸技法が混成し深く篤実なキリスト教信仰の世界を、独自に表現されています。見詰めて居ると瞽是絵を髣髴させます。
ところで。宗教改革を思い起こしてみます。問題の起ったのはイスラム教世界とキリスト教世界との相克でした。中世を通してイスラム世界が優勢でしたが中世末期商業資本がキリスト教世界に蓄積するとキリスト教世界は反抗に出ます。十字軍を組成してローマ帝国の復活を意図します。
ローマ法王は十字軍の派遣を支持します。領主国家もローマ法王もそれが利益だったのでした。領主国家の兵隊は騎士になってイスラム世界に進軍します。ローマ法王は軍費を捻出するために免罪符を発行します。軍費を寄付すれば悪事を働いていたとしても免罪します。そんな証明書でした。そんなことは欺瞞だとして嚙付いたのがルターをはじめとした個人の自覚の高い人達でした。北ヨーロッパで始まった宗教改革の波は全ヨーロッパに広がります。北欧(ドイツ)でルターの始めた宗教改革はフランスに移ります。
カルヴァンはは1536年に「キリスト教綱要」を出版します。宗教改革とカルヴァン主義が主流になります。「神中心主義」とか聖書の原点復帰運動とも指摘された運動でした。
現代に生きる私達はその評価をマックス・ウェバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神1904年」に依っています。中世のキリスト教は資本の蓄積を罪悪と見做していたのに対し(ベニスの商人のように)かカルヴァンによってはじめて利益の追求資本の蓄積が宗教倫理として認められたのでした。
カルヴァンによって商業資本の蓄積が是認されて次の産業資本に転じ産業革命を実現し、ヨーロッパキリスト教世界がイスラムに対し有利にたてたのでした。
明治維新以来日本の社会学者は日本の産業革命が成功した理由をカルヴァン主義に探してきました。大塚久雄先生は石田梅岩を評価しました。
でも明治維新に日本に来た宣教師や教育者たちは口をそろえて日本人お勤勉さや礼儀正しさを評価し日本の維新の成功を確信しました。
カルヴァン主義もプロテスタンティズムも知らない民俗が何故本物のロテスタンと以上に勤勉で倹約して貯金するのか不思議だったと思います。マックス・ウェバーが若し日本を知っていたならば名著の一項に『稲作民族の特徴』を加えてかもしれません。
稲作には時間のゆとりが無いのです。種蒔き苗代田植え草取り刈り入れまで息を注ぐ暇はありません。一日サボる事は家族や村を飢え死にさせることになるのでした。生き延びる為には勤勉に働く倹約するそのことは結果的にはカルヴァン主義と同じ倫理に着地するのですが。そのプロセスが違うのです。
私は渡辺禎夫さんの版画を見ていると日本人のキリスト教の理解も随分進んだものだと感心するのです。
学生の頃遠藤周作さんの沈黙を読んで日本人のキリスト教も地に着いたもんだ思いましたが版画の渡辺禎夫さん、彫刻の船越保武さん、何れもキリスト教が日本人の血液になったと思わせてくれるのです。
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りの人」出典フィリア美術館http://www.philia-museum.jp/blog/に渡辺禎夫さんの作品が展示されているそうです。小渕沢に行ったら見学したいものです。
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ノアの方舟と思われます出典フィリア美術館http://www.philia-museum.jp/blog/



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日本女子大の成瀬記念館を探訪する

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ズット気に懸っていた建物があります。日本女子大の成瀬記念館ですです。
立教大学のアール・デコ建築の中でランチを終えて意気揚々と目白台の日本女子大に向かいました。思い込みは悪いものです、私は昭和モダニズム建築の前は疑似洋風建築で英国人コンドルが教えた建築群で成瀬記念講堂はその代表例と思って居ました。昭和女子大が出来たのは明治11年でしたからその講堂もその時の建物と思い込ん、ズット見学したいと思って居たのでした。JR目白駅を降りれば日本女子大行のバスが頻繁に出ています。学習院のキャンバスを透かし見しながら銀杏の並木を東に向かえば5分もしない中に日本女子大に着きます。j大学の構内でバスは折り返して目白駅にピストンします。
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学習院大学の正門、構内に入り難い雰囲気です。
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右側が学習院大学目白通りを東に向かえば直に日本女子大です。
何歳になっても女子大に入る時は胸が騒ぎます。
守衛に「成瀬記念会館を見学させて下さい」来意を告げます。
守衛は「其処ですよ!」背後の赤煉瓦積の建物を示します。
既に大学は冬休みなのでしょうか?女子大生の姿は疎らです。代わって小学生の姿が目立ちます。JRバスを乗り継いで名門学校の初等教育を受けているお金持ちの子弟なのでしょう。日本女子大の門を潜ると高層のビルが林立しています。一番高い建物が百年館で、その横に少しだけ低層の建物が控えています。それらが80年館70年館でおのおの創立記念事業で建てたもののようです。
成瀬記念会館は正門左(西側)に建っていますが1984(昭和59)年に竣工したのでしたから、建学(1906年明治9年)から数えて77年目喜寿の記念事業だったのでしょう。設計は設計者・浦辺鎮太郎氏で大原美術館新館や大仏次郎記念館などを設計した人物なので赤レンガ造りがお得意なようです。工事はコンドルに育てられた清水建設が請け負いました。
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日本女子大正門の景色成瀬記念会館前から見る。紅葉しているのは南京櫨、正面のクリーム色の建物が70年館その右の鼠色の建物が桜楓館その右に香雪館(尖塔のある建物があってバスロータリーに面しています
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バスロータリー前にある尖塔のある建物現在香雪館と名付けられていますが建学頭所からの建物で現在の成瀬記念会館のある場所に建っていたようです。
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成瀬記念会館の全体風景。私は長い間この建物が明治初頭にコンドルの設計で建てられた洋風建築と思い込んでいました。
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この写真が建学頭初のモノのよ正門を挟んで向い合う豊明小学校(左)と豊明館(教育学部校舎)だそうです。これらの建物が赤レンガ積で残っていた事から新しく成瀬記念会館を赤レンガ積で建築したように思われます。でも空地に高層の建築が建ったことから煉瓦が囲った空間は消えてしまったようです。写真の出典は日本女子大のホームページhttp://www.jwu.ac.jp/unv/facilities/naruse_memorial/outline.html

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成瀬記念会館の正面赤い煉瓦積の建物は建学77年に建てられたもので当時日本女子大のキャンバスには煉瓦建築が目立ったことから既存建築に調和させて1961年(昭和36年)に建てられました。
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かっての日本女子大の成瀬記念講堂関東大震災で被災したそうです写真出典日本女子大ホームページhttps://www.jwu.ac.jp/unv/about/building/mejiro_campus.html立教大学第一食堂に似た構造材です。

真新しい赤レンガ積の建築よりもその向かいの尖塔のある建物が気になりました。
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成瀬記念会館の向かいにある香雪館。この建物が建学頭初から使われた講堂であったと思います。

教会建築の様に見えます。日本女子大の資料で確認するとその教会風の建物は成瀬仁蔵氏が大坂(梅花女学院)や大和時代に牧師だったそうで日本女子大の建学の精神に表にこそはキリスト教を出さずとも幅広く女子教育に情熱を注いで,ベースには米国風の開拓向上心が強かったようでした。尖塔のある建物はそんな校風を象徴していたのでしょう。当初は板張りのコロニアル建築だったようですが今はブリキの板で囲っています歴史ある建物にも少し資金を回せば良かったと残念な気持ちで眺めました。
私の事前調査が不十分であった事から成瀬記念会館を見学しただけで日本女子大を後にしました。もっと奥に入ってみれば歴史的な建物も見学できたでしょうに・・・女子大を観て回るといった後ろめたさが災いしたのでした。
成瀬記念会館は大学を卒業して児童文学に功績のあった方々を照会して居ました。
年明けには朝のドラマ”朝が来た”のヒロイン広岡浅子さんの展示を予定しているのでした。
広岡浅子さんは成瀬氏と二人三脚で日本女子大を建学したでした。
そんな次第で、既に広岡浅子さんの遺品が展示され資料も用意されていました。
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成瀬記念館では年が明ければ広岡浅子を展示します。写真の様に能筆家でありました。
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成瀬記念館のパンフレットステンドグラスやフレスコ画「作野旦平氏」が見所です。
ワイフが熱心に「朝が来た」を見ていますので私もつられてみていました。
最初に女子大の入学式風景が舞台でした。だから今回のドラマは女子大の教育に貢献の在った人物である事は承知して居ました。でも納得のゆかない事が二つありました。
その何れも広岡浅子さんの出生に係る事です。
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浅子さんはお転婆で自由奔放な女性に描かれていましたが何故史実に反してそう描いたのか訳が分かりません。
第一が浅子さんが自由奔放でお転婆な女性である事は良いのですが何故「字が下手で姉さんが良妻賢母型の古風な女で描かれた」という事です。成瀬さんへの手紙や色紙(短歌)を見る限り字も上手で短歌も秀作でした。
また浅子さんは京都の両替商「今井」の娘にした事でした。事実は江戸小石川のの三井家でした(改めて調べると京都の出水で育ったようです)。三井家は日本橋を拠点に京都にも店がありましたから、京都で育ったのは、大嘘という訳でも無いでしょうが・・・・。三井の娘ならバックとして申し分はありません。大坂の加賀屋さんも願ったり叶ったりの結婚だったでしょう。浅子が石炭に入れこんだのも「人の三井」なら自然な事です。
ドラマを面白くするために史実を脚色するにも程度がありましょう。才能を隠し「相撲と算盤が好きなお転婆だった」。既に日本一の両替商だった三井の娘で産まれたのに京都の老舗両替商に仕立てるのは疑問に思います。NHKの画面は歴史考証も信頼して観ています。軽々に弄ると信頼を欠きます。ニュースで”僧侶のやらせ”が問題になっていますが、出家する事で戸籍を無くして銀行から借り入れを詐称する・・・そんなドラマ仕立てに迷わされたのもこんな軽軽な姿勢が影響しているのではないかと懸念してしまいます。


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落書きは遊び文化です

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ニューギニアやトンガなどの原始的な生活をしている民族を民俗学者や人類学者が報告していますその成果を以って縄文式土器の文様の解明などが為されています。私が感心する事は未開民族の生活に同行した記録です。彼等の一日は三分の一が狩猟など食物を採集し、調理する事に費やされます。そして残りの過半が遊びの為に費やされ残りの半分は祈りや祭りの為に過ぎて行きます。祈りが食料の確保や子孫の繁栄の為に祈っていることを考えれば生活の半分は食糧確保の為、残りの半分が遊びの為に費やされていると云えるのでしょう。後白河法皇は今様が好きで『遊びをせんとや生まれけむ 戯(たわぬ)れせんとや生まれけん』と歌い次のように述べています。
「(子どもは)遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。遊んでいる子供の声を聴いていると、私の身体は遊びたい!遊びたい!と動いてしまう・・・・・」
その法皇は三十三間堂を建立し祈った訳で。食べる時間と美女を追いかける時間以外は遊びと祈りに過したようです。
何のことはない。縄文人と変わりません。偉い人も遊びたかったのでしたから庶民も遊びたかったのに違いありません。法隆寺や東大寺には屋根裏等に大量の落書きが発見されています。私が描けば犯罪ですが千年も前ですから国宝になっています似顔絵や性器を見ると私も古代人もあんまり変わりません。鳥獣戯画も鳥羽僧正の落書きでしょうから。我が国の文化は落書きに始まって今も変わらないと云えます。
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東大寺屋根裏の落書、異邦人を描いたものでしょう。法隆寺には男性器の落書きがあります。
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これはチベットの民家の壁絵落書きと云うのではなく招福厄除けの呪術でしょう。でも描くに際しては遊び心に満ちていたと思います。落書きにこそ深層心理に宿した文化が表現されると思うのです。
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安曇野の彩色道祖神、子供が彩色します。毎年新しく塗ることによって神のパワーが更新されるとする呪術でしょうが。呪術と遊びは紙の裏表の様に不分離の文化だと思います。

不登校がの社会問題になっています。学校に行っても楽しくないと解っていれば不登校になるのは致し方ありません。学校で一番楽しかったのは自由時間でした。小学生の頃、担任の先生の顔が見えないと副校長先生が教室に顔を出して「1時間目は自由時間にします。2時間目は先生が来られれば先生が授業をし、来られなければ私が授業を致します」云われました。私は自由時間は自由ノートを出してお絵かき落書きしました。絵と云っても落書きでした。遊びが好きで遊びと云えば落書きなのは古代人と変わりません。不登校の理由は授業で押し着せを強いるからで「山彦学校の無着 成恭先生の様に子供と一緒に遊ばせれば」学校好きになる筈です。

私はデーサービスに出かけています。1年余り2回/週でしたがこの11月から週一に減ってしまいました。リハビリの成果です。朝デーサービスに着くと皆献立表を観ます。今日のランチは何かな?月間の献立表はプリントpして渡されているのですが。黒板で改めて確認するのです。職員が黒板に献立を書くのですが黒板の余白に絵を描くのも大変なようで、私にその絵の製作も依頼されていました。
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これが私が世話になっているデーサーぶすの10月の某日の献立黒板でした。私はこの落書き部分に絵を描く事を依頼されていました
11月から献立表の絵を請け負いまあした。その成果が下の絵でした。
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これがデーサービスのランチです。この他におやつががついて1食800円で頑張っています。
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これが11月の献立黒板。夕焼けでカラスが柿の実を啄み落柿を狐が負け惜しみを言いながら食べている絵です
人間は食べなければ命を持続できません。寝なければ体が耐えられません。排出しなければ次の食事が出来なくなります。そしてセックスしなければ種は持続できません。だから神様は更衣した命の営みに少しばかりの快感を付け加えて精々しっかり食べるように仕向けられました。狼や狐には適量以上に小動物を捕獲しないよう習性を刻みました。そして人間には満腹感以上に。過食に伴う病気を用意しました。道元禅師は食事にも「型があって。その習得を修行として教えました。日本人は2千年の歴史の中で食事を分化に育みました。それが懐石料理や和食です。
昔祖母と円卓テーブルで食べた食事も一緒に談笑しながら食べるので美味しいのでした。デーサービスのランチも同じです一期一会,一食一会です。しかつめらしい顔を合わせていては折角心を込めて作って戴いたランチも美味しくありません。旬の味を楽しみながら美味しいね言いながら食べてこそ楽しいものです。其処には栄養を摂取する以上に遊び心があって然るべきです。そんな気持ちでメニュー黒板に絵を描く事にしました。最初は画用紙を買ってクレヨンと水彩で上の餓絵を描いたのでしたが次回からチョークを買いました。そして画用紙を色画用紙にしました。その方が早く描けるからです。
12月はクリスマスです。そこで、白川村の合掌住宅を素材に落書き感覚で御遊び感覚で描いてみました。囲炉裏端に大家族が顔をそろえて食事する気持ちに為れたら良いと思いました。
私が遊ぶながら描いたので楽しい絵になったようで…思いの外好評でした。


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12月の献立黒板黒の画用紙を使ってチョークで描きましたさいごにラッカーで表面を固めています
直ぐに一月が経ってしまいます。1月は如何しようか?しばし考えました。第一は地獄谷温泉でお湯に浸かるお猿さんにしようかと思いました。猿は来年の干支でもありますし、デーサービスではお風呂に入れて貰ってもいるからです。でも結果的には次の絵に致しました。横手のカマクラで新春を寿ぐ絵です。何て評されるか心配と期待が入り混じった小学校で落書きした時の様な気分です。
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これが来春1月の献立看板の絵です。素材は横手のカマクラです。画用紙を紺青色にしました。雪の洞に水神様を祀って炬燵に入って新年をお祝いします。お隣の仲良し兄妹もやって来ました。


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柿の文化史

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戴きものの柿の実も美味しく食べているうちに残りが少なくなってしまいました。最期の一個は柿羊羹にして貰うつもりです。頂物は先輩のお庭に稔ったもので次郎柿だそうです。今日は大好きな柿が日本文化に果たした功績を書きたいと思います。
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スーパーで売られている次郎柿東日本では富有柿と次郎柿が多くて奈良柿【御所柿】は滅多に観ません。種はもう圧迫されて確認できないサイズです。これでは亀田製菓【柿の種のメーカー】も渋い顔でしょう。】
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戴きものの次郎柿沢山戴いたのでしたが残り少なくなってしまいました。ヨーグルトと一緒にお八に食べました。最期は羊羹にしたいと期待しています。
柿は典型的な照葉樹で、西日本に生育地が多いようです。多分南方から渡って来て日本の山野に自生したものでしょう。氷河期が過ぎて日本列島が温暖化した頃です。古代、柿本人麻呂は柿の木の里の名門豪族だったのでしょう。人麻呂の産まれた島根県益田市は柿の産地でもあります。梅原猛は「水底の歌」を書き表して沖の鴨島で処刑されたと主張されました。
鴨山の 岩根し枕(ま)ける 我をかも 知らにと妹(いも)が 待ちつつあるらむ (巻2-223)
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里山に実っている「木守柿」野鳥は冬越しの糧にします。
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南アルプスの麓にある高森町は市田柿の産地です。干し柿と云えば市田柿とあんぽ柿(山形福島」で柿のある里山風景は日本人の原風景だと思います。善光寺街道を天竜川沿いに下る街道は石仏の宝庫でもあります。3年前も馬頭観音を探してワイフと行きました。
私の叔父は福島市の郊外信夫山の麓に近い古舘にある鎌秀院と云うお寺の住職でした。お寺の境内に柿の巨木が在って例年正月には名物の「あんぽ柿」を贈って来ていました。勿論祖母に食べて貰う為に命がけで柿の実を収穫して軒先で天日干ししたものでした。その甘い事美味しい事例えようがないものでした。何時もは私に分けてくれた祖母でしたのに柿は血圧を下げるし熟睡も出来るので年寄りが食べるものだよ・・」なんて言いながら一人で食べていました。
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あんぽ柿を天日に干す風景干すことで柿の渋味(タンニン)が固まって唾液に溶けなくなるので渋味が無くなり甘くなります。縄文人が発見した食べ方だったのでしょう縄文遺跡や藤原宮跡からも大量の柿の種も発見されています。

あんぽ柿は今でも福島県から山形県の名産です。鶴岡の本間家(殿様)は柿の古木を使ってゴルフクラブを生産しました。バブルで汚れなければ今頃は地域おこしの旗手としてモテ囃されていたことでしょう。ズンダ餅と併せて人気産業になっていたと思われます。でも柿の枝は折れやすいうものバブルに加えてリーマンショックに耐えられませんでした。
私の小学校時代国語の教科書に酒田柿右衛門が載っていました。白磁青磁の有田で柿右衛門が夕陽に輝く柿の実を眺めていてその美しさに惹かれて赤絵を開発する情熱を記した文章でした。
今も地方を旅すると梢に柿の実が残されています。一般に「木守柿」と呼ばれている風習です。柳田国男は木守柿を『トビの餅・トビの米』に書いて自然の神に対する御礼(お年玉)のようななものだと説明しました。歳神様稲神への供え物は野鳥の冬越しの食べ物になっています。
木守柿の優しい風習が柿右衛門の赤絵を生んだともいえるのでしょう。
日本一の柿の産地は奈良の五条です。正岡子規の名作は五条の柿(一般に御所柿と呼ばれます)を吟じたものと云われています。
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これは柿右衛門窯の赤絵です出典はヤフーショッピング一番館http://1bankan.com/shop/goods/goods/goods.php?act=Goods&mode=Detail&id=00001060&key=Tag&word
柿食えば鐘ががなるなり法隆寺
この有名句は境内の鏡池の畔に句碑として立っています。
【柿渋の事】
柿の実は青いうちはズット渋いのです、渋さの原因はタンニンがあるからですタンニンはポリフェノールの一つで抗酸化物質です。ポリフェノールと聞くと獲りこみたくなるのが高齢者です。秋になると甘柿のタンニンは水溶性から不溶性に変わります。甘柿を切ると、黒いゴマのような斑点がありますがそれの護摩マが不溶性になったタンニンです。一方炭水化物も果糖に変じていますから美味しいのです。こうしたタンニンの変化を古代人は経験で知っていて天日干しにしたり酒に漬けたりしていたのでした。そして甘柿を発見したのが室町時代でしたから。其角は嵯峨野に庵を営み柿の木を植えたのでしょう【洛柿舎】山頭火も終焉の地「一草庵」に柿の木を植えていたそうで恩師萩原井泉水を松山の庵に迎えた時には一草庵の柿を捥いで恩師をもてなしたそうです、『この記事も以前書きました】柿は様々な場面に阿面色を添えて来たのです。ところで柿と云えば赤味の強い橙色ですが柿渋の色も乙なものです。日本の染色には欠かせない紅型の型も和紙を柿渋に浸して堅固にした上で彫刻刀で刻んで作ります。
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番傘の防水効果も柿渋を塗ることで可能になります。
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この茶色が柿渋の色です。青い柿を砕いた汁に弁柄を加えて出来た溶液に晒しを染めれば柿渋色に染まるのだそうです。
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祇園の一力の外壁一般に弁柄【酸化鉄の色】と云われますがこの艶な色は無機な鉄の錆びた色では無くて有機の柿渋の色です。
ところで私の散歩道の柏尾川の堰堤に柿の木があります。河川管理者の神奈川県が本来桜の並木にしようとしたものの、野鳥保護の為に故意に柿の木を植えたものと思います。今は野鳥が群れています。ジョガーも若い御婦人も柿の実を踏んでまるでウンコを踏んだような顔をしています。野鳥の気が解らないのです。野鳥も折角の人間のプレゼントなのですからもっと大切に行儀よく食べて欲しいものです。
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これは柏尾川堤防に実った柿今は野鳥が群れています。後ろの建物はUR【住都公団】の上倉田団地です。
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柿の実を食い散らかしたので鋪道は汚れてしまいました。野鳥さんもマナーを大事にしてほしいものです。

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横手の名産の柿羊羹。柿を素材にしたお茶菓子は各地にありますが私は愛知岡崎の【栗柿】岐阜土屋の【延寿柿】大分耶馬渓の巻柿が好きです。


柿の学名は「ディオスプロス・カキ」 で”神様の食べ物の”意味だそうで。それ程”美味しいと”いう意味か”飢饉時にも食べられる”の意味か良く解りません。でも有史以前から大事な果物であったのは確かでしょう。でも学名に日本語が使われている事実は西洋人が日本が原産であると考え違ったのでしょう。それ程に日本お柿は美味しいし日本文化に深く浸みこんでいたのでしょう。それもこれも神様の果物を人間だけが食べ尽くしてしまうのではなく、野鳥にもお裾分けしてあげよう、そんな優しさに起因していると思います。この秋は先輩の家の庭になった次郎柿をおすそ分けして戴いたので充分に楽しめました。感謝して冬越し致しましょう。




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板葺屋根の風景宿根木)

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昨日は照葉樹の代表「柿」が日本の文化史に深く入り込んでいる事実を果実を中心に書きました。今日は偶々新国立競技場の設計が木をふんだんに使った和風のデザインに決定した事も在って材木としての柿を書いてみたいと思います。私の生家の玄関に一つだけ自慢がありました。
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今年は次郎柿を戴いたので心底柿を楽しみまあした。今日は建材としての柿を書いてみます。
玄関の上り框(かまち)に柿の材が使われていたのです。柿の木は本堂裏にあった大木で。庫裏の建て替えの時に欅と一緒に柿の木を伐ったのでした。柿の材は黒い錆色に染まっていてまるで大砲の筒のように横たわっていました。父も祖母もその框が自慢で沓脱石と併せて良く磨いていました。
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上がり框と脚下照顧の札。玄関は家の顔です。履き物が綺麗にそろっている家は、家族みんなの心がそろえて自分の足元を日々顧て居る事を示して、お客さんにも呼びかけているのです。
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建長寺で戴いた栞。下は運水産の下足美しく揃えられています。上栞は上り框の上の廊下を雑巾掛けしている雲水の修行姿です。

『脚下照顧』の札こそ立てませんでしたが、私でさえ下足を揃える習慣がつきました。柿の材は堅く艶も鉄隗のようですから。禅家では好まれ田ものでした。経机や書院机には一番は柿で次は桑だと聞いたことがあります。書院造り国宝東求堂『銀閣寺)の屋根は杮葺き『こけらふき)です。柿の字を使っていますが柿の材を使っているのではありません。檜や椹(さわら)の材を薄く剥いだ板を重ねて葺くものです。檜の薄板で葺いた屋根を何故柿葺きと呼ぶのかズット疑問に思って居ました。
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1998年9月22日、台風7号で破損した国宝の室生寺五重塔この屋根は檜皮葺きですが室生寺の金堂釈堂などは杮葺きで檜を皮も芯も使い切っています。
もう15年近く昔の事でしたが風台風が通過して室生寺が痛んだことがありました。国宝の五重の途に杉の大木が倒れて美しい屋根が壊れてしまいました。屋根は檜の表皮で葺かれていました一般に「檜皮葺き(ひはだふき)と呼ばれています。檜の表皮は樹脂分が濃い事から雨水を防ぐので塔屋が長持ちします。一方檜の表皮の下を剥いで葺いた杮は燃えやすいのが欠点です。室生寺は広大な森を有していますので修復の材料を総て寺の檜の森で済ませてしまいました。今年は伊勢神宮の遷宮を無事に済ませました。大きな寺社はその裏山で自生した材木で建て替えが出来るようになっているものです。
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これが杮葺きです。檜の薄板を剥いで屋根を重ねて葺きます。個の薄板を「こけら」と呼びます。「こけら」とは木の端っこの意味で、檜の芯は柱になって周辺部分は板になって更に外側は屋根をふく材料にしたものと思います。円空が仏像を彫って出来た余材で作った人形のような仏像を木端仏(こっぱぶつ)と呼びますが。どちらも語源は「木端」だと想像します。こけら葺きは出来立てこそ白いのですが時間を経るごとに黒くなって柿の材の風味に変わります。従って木端葺き更にこけらふきに転じたと思います。
ところで「こけら葺き」の風景は奈良京都では度々目にしますが、心に染入る美しい景色があります。
秩父の山里にも吾妻峡や木曾谷の民家もこけらで葺かれてその上に川原石が置かれています。
何処も檜の山林があって余材のこけらが出る地方です。
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これは木曽路妻籠の民家です。檜の余材を薄く剥いで川原石を置き石にしています。板の色は黒錆色で柿の木の肌の色(渋の色)です。木曾の檜材を余すところなく使う手法と風土に寄り添った生き方が民家に現われていて美しいと思います。
こうした技術者が少なくなっていることが悔やまれます。
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これも木曾の妻籠の民家こけらで葺いて川原石で重石をしています。葺き替えた直後は檜の肌色ですが直に黒ずんで柿の色になってしまいます。
檜の高く売れる部材は荒川や木曾川を筏で流して売ってしまいますが余材は自家消費します。薄板にして屋根を葺いてその上に谷風で飛ばされない様に石を重しに置いたのです。材木を大切に使った景色は美しく旅人の心を打ちます。木曾や秩父の置き石屋根の繋がる景色も良いのですが佐渡の宿根木の景色こそ最高です。
宿根木は佐渡市の最南端にあって小木港と呼ばれています。新潟県では唯一、国の重要伝統的建物保存地区に指定されています。北前船の寄港地として船大工の街として発展した街で相川金山で産出された金を運び出す街でした。佐渡には美林が少ないので秋田や青森から材を運んで宿根木で北前船を造船したのでした。造船の余材で屋根を葺いたのでした。こけらの薄板がシベリア風で吹き飛ばされないというに海岸から石を運んで屋根に乗せまあした。石は縄で縛って転げ落ちない様に工夫されています。
船を造る優秀な大工が建てる家ですから技は間違いありません。まるで船のような二階建ての家が狭い通路にひしめき合っています。
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佐渡宿根木の置き石屋根の繋がる風景
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置き石をしっかり繋いでおかないとずり落ちてしまいます。こうなると「古家の水漏れ」が心配です。写真は奥能登の民家。
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宿根木の露地二階建てでまるで船の様な造りの家も見えます。流石に北前船の船大工の街です。小木には民俗博物館もあり船大工の技や道具を展示解説してくれます宿根木の向かいは良寛さんの産まれた出雲埼です。街も人も心に浸みるモノばかりです。越後はお米と酒が美味しいだけではありません。

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宿根木の置き石屋根。薄板は秋田や青森の針葉樹の余材を剥いで屋根に葺きます。薄板に剥ぐ技は経木(古代お経は薄板に書いた)や曲げわっぱ(弁当箱)の技術でもあります。。粗末な屋根ですが民族の英知が詰まっていると思います。
私達は一遍上人絵巻や餓鬼草子絵巻で庶民の家は粗末な掘っ立て小屋で家は板葺で石置きであった事を知っています。私達日本人が最も安心立命を得る住居は杮葺き石置き屋根の家であると確信します私達は新建材で作った量産住宅に住んでシックハウス症候群に悩んでいます。脚下照顧の精神に立ち戻って生きる事が自分も含めて人類の持続的な生き方を照らしている様に思います。
こんなことを書いていると直ぐにでも宿根木に行きたくなりました。両津から宿根木に至り里山には朱鷺の姿も眺められる事でしょう。



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手作り柿羊羹

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”これが最後の柿ですからね!”ワイフが言いながら柿羊羹を珈琲受けに作ってくれました。
”どうやって作ったの?”訊けば
”柿の皮をむいて蔕を取ってミキサーにかけて寒天で固めたの。柚子のしぼり汁を加えたけど・・・・”言います。
”果物を水菓子と云うけども、水菓子そのもののお味だね菓子と云うにはコクが足りないようだけど・・・・”6分4分で満足なのですが、一応不足分の4分を指摘しました。
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友人から戴いた瑞々しい次郎柿を毎日楽しみましたがもう最後になってしまいました。
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これが最後の柿でした、羊羹にして食べさせて貰いました。
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熟柿はヨーグルと一緒に食べましたこれもおやつです。
藤原京跡から沢山の柿の種が出土したそうです。
持統・文武天皇ご夫妻が秋の夜長を干し柿を食べていたかと思うと楽しくなります日本各地に干し柿の銘菓があります。3年前私が脳梗塞を発症した直前には愛知の足助に旅をしました。足助は善光寺街道の市田柿の文化圏にあるようで干し柿が盛んにつくられていました。重要文化財伊藤家の向かいには「両口屋」さんがあって「中馬柿」を作っておいででした(http://www.machikuru.jp/ryoguchiya/)栗金団を干し柿で巻いたお菓子で、何のことはない木曾谷の栗金団と伊那谷の市田柿を合わせたようなお菓子でした。栗金団も市田柿も美味しいのですが、両方を足しても美味しいとは限りません。でも中馬柿は実に美味しいのです。栗も柿も縄文時代からの貴重な食糧でしたから、マッチングは良いのでしょう。
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これが足助の鈴木家の向こう側が塩の道/三州街道です。手前が川で紅葉で有名な香嵐渓に続いています。鈴木家は木材と陸運で栄えた豪商でした。


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これが両口屋の柿栗菓子の「塩の道」です270円。木曾の栗金団を伊那谷の市田柿で巻いたようなお菓子ですが栗と柿はお友達でマッチングがよいのでした。私達はこれを求めて近くのお蕎麦屋「塩の道づれ家」で戴きました。
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鈴木家の京好みの格子戸塩の道に面しています。菓子匠の両口屋の向かいです。この町屋については次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47763924.html
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塩の道の馬頭観音像(足助)。彩色石仏は木曾に多く彫は伊那の高遠石工を思わせます。足助宿の入り口に祀られています。この石仏は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47757040.html
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足助と伊那を繋ぐ街道沿いには立派な馬頭観音が多く祀られています。
ところでもう一つ忘れられない柿の銘菓があります。場所は青の洞門(菊池寛の恩讐の彼方へ)で有名な耶馬渓の岩国川の下流にあります。菓子匠の名は「へ屋傳六ですhttp://www.heyadenroku.com/
耶馬渓橋を岩国川に沿って中津川に向かって下れば立派なお屋敷が川向こうに見えて来ます其処が菓子匠の工場兼お店です。
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これがへ屋傳六の柿巻です。幾つもの銘菓の中でこれが相伝の菓子です。ふ福沢諭吉先生も口にされた事でしょう。見た目の通り河底柿(筆柿のような柿で川原で自生しているモノでしょう)を干し柿にして伊達巻状に丸めたお菓子です。
私は

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これが耶馬渓橋(8連のめがね橋で国の有形土木文化財です台風で傷みましたが修復されたと思います。山国川沿いに柿が目立ちます。この記事は以前次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46889041.html
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馬渓の紅葉見事な安山岩の石柱と紅葉と松が美しく歴史と美味と温泉が迎えてくれる景勝地です。此処の筆柿が美味しいのです。
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耶馬渓は山紫水明です。


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濡れ落ち葉に想う

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一昨日は夜半から冷たい雨が降っていました、深夜ラジオでは山下達郎の歌声が流れて来ます。「雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろうSilent night, Holy night)庭先からは紅葉の散る音がしてきます。雨に濡れた紅葉が笹の葉に落ち止まないようです。この秋楽しませてくれた紅葉も今晩が最後のようです。
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ベッドに仰向けになって外を見れば山茶花が咲いて見えますその上に紅葉が染まっています。
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山茶花の上には紅葉が覆いかぶさっています。緑の葉は山無花果です。野鳥が種をまいておいたもので毎年実るのですが硬くて食べられません。逆光で写すので黒づんでしまいますが本当は実に綺麗で、四十雀が遊びに来ます。
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我家の紅葉もう椿が咲き始めました。
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眼を覚ましてみれば紅葉は散ってしまいもう濡れ落ち葉状態です。これを掃き集めるのは大変です。私が倒れて以来盆栽も土造りも掃除も全部ワイフが一人でこなしています。
濡れ落ち葉掃く妹日毎に逞しくなり聖夜も越したり
夕飯にはには燻製した七面鳥が卓を飾りました。居間には主役だった電飾のクリスマスツリーが華やいでいます。今晩は二人きりのイブです。クリスマスプレゼントに腐心していた頃が懐かしく思われてきます。クリスマスは子供楽しみでありましたが、実は親の悦びでもあったのでした。
ワイフがポツリと云います。
「もうじき12月27日3周忌ですね・・・。」
私は2年前のはクリスマスの翌日に早々と松飾を終えて翌日高校の仲間と遊びに麻雀に出かけて脳梗塞を発症したのでした。
「大変な事になった、ワイフにも子供達にも迷惑をかけてしまう」と云うのが第一脳裏を占めましたがリハビリに勤めれば2年も経てばどうにかなりそうな事を聞かされました。
クリスマスも子育てに夢中だったこ頃が良かったものでありました。脳梗塞もそのおかげで家族や友人自然等に感謝する思いを強くしましたし、良い事も相半ばしていました。少なくともこの秋は紅葉の始めから終わりまでをつくづく眺める事が出来ました。早朝からワイフは箒の音を立てて掃き集めて腐葉土に埋め込んでいるようです。
パソコンに向かいながら眼を庭に移せば庭先に雀の親子が連れ添っています。ワンちゃんの餌を親雀が盗んでいます。それを嘴で上手に砕いて二羽の小雀に食べさせています。雀は草種も木の実も犬の餌も何でも食べるから環境適応能力が高いのでしょう。でも今年は二羽しか子育て出来なかったのは青大将かカラス(何れも天敵です)の悲劇に遭遇したのかも知れません。でも雀の親子は幸せそうです。来週は寒波が襲うと聞いています。寒くなればふくら雀を見る事が出来るでしょう。
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庭先で遊ぶ雀の親子ワンちゃんの食べ残しを食べに来ます。



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クリスマスツリーを民俗学する

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12月25日今日はキリストの誕生祭です。お釈迦様の誕生祭は「花祭りです。日本に仏教が伝来したのは552年(欽明天皇13年)とされています。仏教徒は世界で5億人うち1億人足らずが日本人ですし、仏教寺院の数7万寺も30万体の仏像の数も日本は世界一です。
加えて最古のお経も木造寺院(法隆寺)も日本にあります。
日本に仏教が伝来したのは百済経由であり。仏教の受容を巡って国内は混乱しました。でも直に軋轢は解消してしまいます。、釈迦の誕生祭「灌仏会/花祭り」は仏教伝来前からあった日本人の信仰を吸収したのでした。
日本人は仏教伝来前から農作業を控えて、山野に出て「田の神様や「山の神様」を祀る祭礼が慣習になっていました。太陰暦の春分の日過ぎに一致したのが釈迦の誕生祭(灌仏会)が一致していたのでした。その結果お釈様に産湯(甘茶)をかけてお祝いする事に抵抗はありませんでした。キリストの誕生日は太陽暦の冬至を過ぎた頃でした。
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4月8日は灌仏会です。お釈迦様の誕生祭は偶々「田の神様」や「山の神様」のお祭りでしたので日本では「花祭り」として歓迎され、仏教受容の素地になりました。甘茶はお釈迦様の産湯と解釈されたと思います。
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キリスト誕生の場面を再現したプレゼピオ写真は立教大学チャペル。羊飼いの家の馬屋で冬至の季節にお生まれになられました。

キリスト教が産んだのはは辺境の遊牧民族(ヘブライ人)でした。ヘブライ人の生んだ教えは彼等が好戦的であり血で血を洗う歴史を重ねていた事から”愛・特に博愛の尊さを諭す教え”でした。キリスト教が幸運だったことはヘブライ人の民俗信仰が先ずギリシャローマに伝播した事でした。
今でも哲学と云えばギリシャローマです。キリスト教はギリシャ哲学の洗礼を受けて人類の普遍性を得たと思われます。聖書はギリシャ人の理性を介してをラテン語(ギリシャ語)で著されました。
中世になると神聖ローマ帝国(北ヨーロッパ)にゲルマン人が侵攻してきました。ゲルマン人は中央アジアの蒙古人に攻められていましたから、止むを得ずヨーロッパの森に攻め込んできたのでした。ゲルマン人は元々森の狩猟民族で、森の精霊を信仰して居ました。キリスト教が今度は未開のゲルマン人の精霊信仰を獲りこみました。
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立教大がキャンパスのクリスマスツリー25日の3時半頃撮影。ようやくツリーに灯が灯りました。この後私達はチャペルでパイプオルガンをユックリ聴いて帰路に着きました。30メートルもある2本の樅の木は大正5年築地の居留地から現地に移転した時に植えられたランドマークの木でした。この樅の木もチャペルも関東大震災や空襲を経て尊い姿を見せているのです。
森の精霊は森一番の大樹「樅の木」に憑依すると信じられていました。クリスマスツリーがキリスト誕生祭のシンボルになったのでした。精霊が常緑樹に憑依すると考えるのは日本の門松やドンド火の火祭りも同じです。日本の門松飾りが霊(魂」飾りであるのに対し、クリスマスツリーの朱い球青い球は林檎(神の知恵)と説明されました。明治維新になってキリスト教徒がクリスマスツリーを飾ってキリストの誕生祭をするのを観た日本人は特段違和感を持ちませんでした。釈迦の誕生祭や門松やドンド焼きで馴染んでいたからです。。電球や最近ではLED灯が開発されてクリスマスツリーは一層煌びやかになりました。冬至を過ぎて新年の歳神様を迎えるには最適なお祭りになりまあした。

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午後6時の立教大学のクリスマスツリードンドン見物人が増えて来ました。
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二本の樅の木の向こうに見えるのが立教大学のチャペルです。チャペルは明日書きます。

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これは大磯小動海岸のドンド門松等を積み上げて小正月に燃やします魂(餅)に憑依した歳神様を食べて健康招福厄除けを祈願します。クリスマスツリーと類似した行事です。普遍的な世界宗教も民俗信仰を獲りこむことによって膾炙してきたのでした。

博愛が難しい事は昨日のローマ教皇のメッセージでも良く解ります。イスラム教もキリスト教も同じ根から育った世界宗教でした。でも両者の抗争は十字軍以来既に500年を経過して一層難しい局面を見せています。
普遍的な世界宗教も民俗信仰を獲りこむことによって膾炙してきたのでした。隣人を愛す事博愛の難しさと尊さを改めて知るクリスマスでした。
普遍的な世界宗教も民俗信仰を獲りこむことによって膾炙してきたのでした。イスラム教もキリスト教も当初は貧しかった民族の民俗信仰であったその事実を再認識して謙虚に共生する生き方を探したら良いのに思ったりします。
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これは大磯の左義長です。先のドンドを一斉に燃やします。正月明け寒に入れば直に火祭りです。季節の巡りに揺られて一年が速く過ぎて行きます。
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チャペルのパイプオルガン

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クリスマスツリーを観に立教大学に出かけました。午前中は雑司ヶ谷教会と宣教師の館を廻りましたのでチャペルでの礼拝には参加できませんでした。でもチャペルの煉瓦積の壁に近づくとパイプオルガンの響きがチャペル全体で響いて来るようです。
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25日午前中は雑司ケ谷霊園に近い雑司ヶ谷教会を訪れました宣教師の家は修復中で入れませんでした(来年3月末まで)宣教師通りのデザインにコロニアル建築の面影を見て暗くなるまで目白台で過して立教大学のチャペルに向かいました。
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この建物が立教大学のチャペルです。煉瓦積建築で大正5年竣工でしたから丁度旧丸ビルの工事が始まった頃に相当します三菱1号館はゴシック建築に対し旧丸ビルはアール・デコ建築で、大正デモクラシー昭和モダニズム建築の代表するモノでした。このチャペルもアールデコを色濃く残している(大空間建築+装飾建築)です。この近くの自由学園明日館も同じタイプの建築です。何故か目白通り沿い西池袋はプロテスタント宗教建築が多いのです。丸ビルの基礎杭は松の木で岩盤まで届いていませんでしたからこの教会も松の杭の上に乗っているのでしょう。でも関東大震災にも空襲にも耐えてきました。
私達はパイプオルガンに誘われてチャペルの玄関に向かいました。扉は開いていました”仏教徒もどうぞお入りください”そう感じました。午後5時を過ぎてしまいましたので、既に総ての行事は終えていて、奏者が練習を兼ねてオルガンをひているようです。
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これは立教大学チャペルの西側ステンドグラス中から観て見たくなります。
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チャペルの扉は開いていました。

キリスト教は先ずギリシャローマに伝播した事から理性に依る整合性を経てラテン語による聖書を得て更に宗教の荘厳さを増す音楽や賛美歌を得て、絵画を加えて神学を核にした宗教文化に昇華したのだと思いますゴシック建築やパイプオルガンが無くて聖書だけであればキリスト教は世界宗教になりえなかったでしょう。単に「遊牧民族のヘブライ人の信じたも民俗信仰」の位置づけだったことでしょう既に成熟していたギリシャローマ(ヘレニズム)文化の中二伝播した事から信仰の周辺を彩る文化を吸収し、信仰の荘厳さを増して、信心を深めていったものと思います。
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チャペルの大空間煉瓦積の壁の上に木造のトラスを組み立て大屋根を支える構造です。落ち着いた木質の壁にはイコン画や窓(ステンドグラス嵌め)壁絵が飾られていました。圧倒的なパイプオルガンが大空間を揺るがしていました。
私達の耳にする聖歌もローマに遡ります(グレゴリオ聖歌)。日本人も「清しこの夜」を歌えない人は少なく、聖歌のお蔭でキリスト教の尊さを感じているものと思われます。
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この日の午前中は此処で少年少女聖歌隊が讃美歌を歌っていたことでしょう。無事にクリスマスの行事も終えて安堵感が漂う空間でパイプオルガンが響いていました。
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パイプオルガンは練習で奏じているようでした。でも外は風が強いし次第に人が集まって来ました。このパイプオルガンは2013年10月に納入されたもので詳しくは次に案内されています。http://www.rikkyo.ac.jp/news/2013/10/13428/大学の伝統音楽に対する真摯な姿勢が解ります。金属パイプに風を送ってフルートの様に音を響かせます。音の数だけパイプが必要になります。圧倒的な響きが天上の神の声を想わせたのでしょう。

私は10代をカソリックの学校で育ったことから信者の友人も多く、何時しか兄弟の中でも倫理観がとズレてしまいました。結果”変わり者”扱いされてきました。私の理性はカソリックですので行動は兄弟と違ってしまいました。でも私の情操は曹洞宗でありました。私の兄弟両親ははドップリの曹洞宗ですから一致する事は土台無理があったようです。
遠藤周作氏「沈黙」は「踏み絵」を思いついた棄教者の良心の呵責を描いた名作ですが異教徒の私がチャペルの扉を開ける時に十字を切らずの低頭合掌する度毎に治沈黙する他に術の無かった棄教者の痛みを想像するのでした。
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ルーテル教会の掲示板に貼られた渡辺禎夫氏の版画「最後の晩餐」ここには情操と理性の調和が表現されていると思いました。

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チャペル二階への螺旋階段脇に収められた聖書。印刷機の普及が宗教改革をを引き起こしました宗教は人類をリードしますがテクノロジーは宗教の普及に寄与しました。テクノロジーも聖歌もチャペルもパイプオルガンも皆テクノロジーです。テクノロジーの進歩をもたらすのは理性でした。

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学習院大学の建築群を観る

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25日午前中は雑司ケ谷で鬼子母神様を詣で、ランチは学習院大学で摂ろうと決めて行きました。正門で守衛に建造物の見学を申し出ます。
すると聞きもしないのに
「今日は既に冬休みなので学食は総て閉じています」言われました。
私は
「松本楼もお休みですか?」尋ねれば、
「コンビニは開いていますから・・・・」言われます。
そして、建造物(国の夕景登録文化財7棟)と学食パンフレットを渡してくれました。
私のように学内を見学し、学食でランチするような人が多いようです。
胸に「見学許可証」をぶら下げて、学内をアッチコッチお上りさんさせていただきました。
学内では警備員に何度もすれ違いまあした。

学習院の起源は、幕末の京都に設けられた公家の教育機関でありました。
光格天皇は朝廷の権威の復活を強く意識し、平安時代におかれた大学寮以来の教育機関を構想します。続く仁孝天皇の時代に公家のための学問所を作る計画が決まり、孝明天皇に代わった1847(弘化4)年3月、京都御所の東側に学問所の設置が実現し、講義が開始されました。翌々年の1849(嘉永2)年に、「学習院」の額(=勅額)が下賜されて、学習院の名称が定まりました。

明治政府が京都から東京に移ると、1871(明治4)年、明治天皇は華族に向けて、勅諭を出します。「華族は国民の範とならなくてはいけないので独自の教育機関の設立をする、として明治10年/1877)年、華族学校を神田錦町に開設しました。校名は京都時代を継承して学習院としました。現在の学習院は、この時を創立としています。
神田錦町の学習院の校舎は1886(明治19)年に火災で焼失したため、一時期虎の門の元工部大学校に移転した後、1890(明治23)年に四谷に新たな校舎を建設しました。しかし四谷校舎の本館は1894(明治27)年の地震で使用できなくなり、1896(明治29)年に北豊島郡高田村(目白)へ三度目の移転が決まります。現キャンパスはこの3度目の移転によるものです。昭和20年の東京大空襲では目白キャンパスの大半が焼失してしまいます。

1947(昭和22)年4月には、現在の学校制度の根幹である学校教育法と教育基本法が施行されました。
学習院も同年度より私立学校としてスタートします。経営の舵取りを担う院長には、前文部大臣の安倍能成が就任し、学校経営の再建に取り組みました。
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JR目白駅の真ん前にある学習院大学正門。篆書体の文字は私立大学としてスタートした最初の学長「阿倍能生」氏の揮毫です。厳めしいので入り難そうですが、守衛さんは親切ですし、見学に値する文化財が豊富です。学食も利用できるので入ってみる事をお勧めします。
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年が明ければ卒業式シーズンです。レンタル業者の看板が帰郷する学生にアピールして居ました。
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守衛さんに戴いた学内の案内。学食や本屋やコンビニ等も案内されています見開きの中には大きな地図がプリントされていますし。文化財の建物には個別に解説が為されています。後で説明するように明治初年の疑似洋風建築からネオ・ゴチック建築アール・デコ建築など並んでいるので明治村を観ているような想いがします。
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これが疑似洋風建築の「北別館/旧資料館」です。
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今はL字型の「北別館/旧資料館」ですが元々はコの字型だったそうです。手前の噴水池は木の葉が落ちて大変な状態でした。庭にあるのは桜の老大樹です。横に這った幹は右手も左手も腐っていました。

私達は古い順に建物を見学して回る事にしました。先ず向かったがです。木立の中にコロニアル葺きの木造建築が観られました。塔屋こそありませんが札幌の時計塔のような建物です。設計したのは工部大学校(現東大)でコンドルに師事した多くの学校建築を為した久留正道でした。
同氏の作品は都内に多く東京音楽学校奏楽堂重要文化財/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%A5%8F%E6%A5%BD%E5%A0%82始め数多く残されています。この建物は資料館その前は図書館として利用されていた古き良き時代の薫り高い建物ですが昭年54年にコの字の比翼が切り離され現在のL字形になったそうです。用務員さんが池に落ちた木の葉を掬い上げていましたが、木の葉は止め処も無く散って来ます。掬っても掬っても水面を覆ってしまいます。賽の河原の鬼を想い出す光景でありました。庭には老桜が根を張っていましたがその幹は既に腐っていて何時まで花を咲かし続けられるか覚束ない風情でした北別館はまだしも周囲に高層の建物が増えたので光や風が塞がれてしまったのが災いしているのでしょう。老桜を愛でられるのは今の中と云う事でしょう。
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これが東別館(旧皇族寮」で木造二階建てです。右側は図書館で学生が真剣に閲覧していました。
次に回ったのは東別館(旧皇族寮)です。この木造二階建て建物は大正2年に皇族学生の寮として建てられ昭和10年代まで使われたもので大学の案内では秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう秩父宮擁仁親王も此処で過されたとの事でした。
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東別館(旧皇族寮の西側側面
東別館(旧皇族寮の西側側面から「乃木館」に回りました。学習院は明治41(1908)年に目白移転を機に6棟の寄宿舎が建てられ、開寮と同時に第10代乃木希典院長は総寮部内の一室に起臥しました。学生と寝食を共にしてその薫陶にあたったのでした。同院長の逝去後、院長の居室であった総寮部を「乃木館」として保存し、昭和19(1944)年ごろ現在の場所に移築したのでした。「乃木館」の西は崖でその下は「血洗い池」の案内が為されていました。元々は灌漑池であったものが構内の防火池になりそのうちに高田の馬場の決闘で著名な堀部安兵衛が血刀や体を洗ったという伝説が語られて「血洗い池」と云った生々しい名が被されたものでしょう。鬱蒼と茂ったスダジイの間に水面が光っていました。
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この建物が「乃木館」です裏(西)が血洗い池になります。秩父宮雍仁親王は屹度薄暗い寮に押し込まれて寮を出れば乃木院長に睨まれて屹度息苦しかった事でしょう。
乃木館の東側を観れば飛び石の向こうに南1号館が迫って見えます。
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乃木館から東を見ると正面に南1号館が見えます
このネオ・ゴシック様式の建物は関東大震災直後の昭和2年に耐震性考慮して建てられたコンクリート建築で。設計は宮内省内匠寮です(東京都庭園美術館の朝香の宮邸と同じ)。東大の本郷キャンパスと同じ雰囲気を持った建物で現在も活用されています。窓枠デザインは花頭形で如何にもアール・デコ様式ですが。素材がアルミ窓枠です。予算的に建築当初の様式を踏襲する事は無理だったのでしょうが、少し残念な気もします
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南1号館の玄関外形はネオ・ゴチック様式ですが内装はアール・デコの大空間で細部の意匠にアール・デコが認められます。アール・デコは工場大量生産の無機質もののアンチテーゼとして起こった文化運動でしたので扉が木質なのは当然として窓枠をアルミサッシにしているのは残念至極です
南1号館の横には西1号館が建っています。此方は昭和5年(1930)に建てられました内部はステンドグラスや暖炉の施設が凝らしてあるそうです。
一応5棟を見て回りました。私達はグランドの横から平屋建ての武道場に出ました。稽古着が物干しに吊るされているので此処が武道場である事は直ぐに解りました。武道場の脇木には真赤なイイギリが実っていました。野鳥に人気の木の実ですが未だ野鳥は集まっていませんでした。都会ではムクドリもヒヨドリも餌が豊富なので冬本番に残しているのかも知れません。
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武道場脇に実っていたイイギリの実



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門松を民俗学する

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昨日(12月28日)に門松を飾りました。2年前の29日に門松を飾った翌朝に脳梗塞を発症したものですから。29日(弐重苦を呼ぶ)30日(一夜飾り)を避けて今年は28日にしようとワイフと相談しておいたのでした。竹は庭で採って松は遊行寺さんで貰って何とか格好をつけていたのですが、今年は若松を買いました。松飾はご近所さんから戴きました。
門松(かどまつ)は松や竹などの常磐木で用意した正月飾りの事で。新年の季語にもなっています。神社の欅の梢の先に緑があると驚きます。其処に”神が宿ったのではないか?”。思ったりします。
京都の都人が正月に年神様を迎える為に里に出て若松を祀ったのが始まりと聞きます。松は「常緑であることに加えて祀るに繋がるから門祭りが門松に転じたのでしょう博多の祝い愛でた唄も若松です。
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枯れ木の先のヤドリキを見ると神が降りたかと見紛いますあの時の驚きが門松の始まりの様に思います。ヤドリキは酒屋さんの「杉球」の祖形のようにも思います。
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能舞台には鏡の松は欠かせません。祝の披露目には竹も用意されるようです。写真はBSNHKの古典芸能番組を撮影

祝い目出度の若松様よ 若松様よ
枝も栄ゆりゃ葉もしゅげる
エーイーショウエ エーイショウエー
で一本締めで終わります。
能舞台には必ず松が描かれています。松羽目・まつばめ)、日本の文化を象徴する樹木ともなっていなす。
正月に玄関に松を飾る習慣は平安時代に始まり室町時代には現在のスタイルに固まったようです。それでも関東と関西では門松こそ違いますが竹飾りは相当に違います。関東では真竹を使って切り先を竹槍のように鋭くカットしますが関西では三本立てこそ同じですが平たくカットします.尚武の風が關東に強いのに対し関西は雅というか和の精神を感じます。
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洛中洛外図に描かれた門松。室町通り辺りの町屋で忙しく松飾をする光景が大和絵で描かれています。重要文化財千葉国立博物館蔵

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 竹槍を想わせる関東風の門松竹の先を削ぐのは魔除けの意味なのでしょうが。尚武を強く感じます。
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京都祇園の一力の門松関東の門松には見栄を感じますが京都の門松は門松飾りのルーツでありながらも,さりげなく美を感じます。


ところで、我が家の門松ですが、今年は縁起を担いで28日に終えました。
朝早くからワイフと私が動きだしたものですからワンちゃんもそわそわしています。
 
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陽向にカーペットを出して居眠りしていたワンちゃんは私達の気配を感じて動き出しました。
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先ず玄関にお飾りを供えました。今年はもう椿が満開です。
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ワイフは私の発症以来手際良さが増して、逞しくなりました。
gennkannまつ玄関扉にお飾りをすれば、次は門に松飾です。
竹は庭の竹を伐りました。今年育った竹ですから青々していてもまだ若いので直に萎びてしまいます。でも元旦の朝までは散る事も無いでしょう。松と組み合わせて出来上がりです。でも赤いものが無いと寂しい感じです。年神様は野鳥と同じ眼を持っていて空の上から地上の赤いものを目敏く見つけて、降りてくるると思います。其処で庭を見回して赤いものを探します。今年は南天の実も大きく実っていますし、万両も良く実りました。でも採るのは可哀想なので、達磨の実にしようと確認すれば未だ青い儘です。
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門に門松を飾ってみましたが緑ばかりでは寂しげです緑に紅一点を加えたいと思いました。庭にある紅いモノと云えば寒椿に烏瓜位のものです。烏瓜は、悪食の)烏さえ食べないそうですから歳神様も嫌いかもしれません。間違いなくお好きなのは柿でしょう。市田柿(干し柿)ならば歳神様の憑代に最適です。野鳥が好きと云う事では筆柿も良いし蜜柑も良さそうです。イメージ 10
これが筆柿です(市田柿はこの干し柿です)野鳥が大好きです。背景は館桜です。
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この烏瓜は種を採るために玄関で干しているものです。烏瓜の名は不味いので悪食のカラスや鼠さえ見向かないものと思います。歳神様も御嫌いでしょう。人間も野鳥も大好きなモノを神様もお好みと思います。
大晦日の日に野鳥好みの朱い実を飾る事にしましょう。今年の門松は28日に準備を終えて画龍点睛の朱いモノは大晦日に用意する事に致しました。
大晦日には室内に鏡餅を飾ります。鏡には神様が宿ると信じられてきたのです古代の鏡と云えば先ずは水鏡で水面を鏡に喩えて水面に神が降りると考えたのでしょう。神様の憑代に餅で作った鏡を供えて歳紙様をお迎えして正月明けの七草粥で戴いたのでした。鏡餅は正月明けには網の目の様に複雑にひび割れていますし、底には青カビが生えています。
ひび割れと青カビを見ていると古代の占い「太占(ふとま」を想いだします。太占とは鹿や猪の肩甲骨を焼いて出来たひび割れで神意を占った呪術です。後漢書では鬼道と評しました。後漢書で鬼”道を習慣にしている”と蔑まれた習慣を今も継続している日本人を彼等はあきれてみる事でしょう。
日本人はたかが占いと思って居ても占いが好きです。
占いを信じる信じないは別にして占いをするアプローチが好きなのです。神社に詣でる時にも作法があります。作法にのっとって神前に佇んで”神様お願いがあります”念じて柏手を打ちますその時の清々しさが好きなのでしょう。
門に門松を立ててrドアにお飾りをして室内に鏡餅を供えて歳神様をお迎えするそんな作法が好きなのです。
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12月25日の雑司ヶ谷大鳥神社は既に初詣の準備も終えて境内は掃き清めて茅の輪も設えてありました。
初詣の清々しさは自分の心も持ち様で。嫌な事穢れた事を払い去って歳神様をお迎えできるようにまっさらな心になる事でしょう。アプローチを作法通りに行う事が重要です。門松飾りも同じです。
洛中洛外図屏風にも門松飾りを活き活きした町衆の姿に表現されています。近代国家日本に千年もの間
、慣習が守られてきたことのポイントは結果よりも作法を重んじてきた来たことにあると思います。
私は毎年遊行寺に詣でますが来年は寒川神社にも廻ろうかと思います寒川神社では青森のねぷたを用意したそうですから・・・、楽しみです。





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雑司ヶ谷鬼子母神の懐かしさ

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先日は巣鴨の疣取り地蔵尊から庚申塔を巡り都電に乗って大塚経由で帰宅しました。大塚の先は雑司ケ谷である事はその時に知りました。
お墓参りの好きな私でしたから、雑司ケ谷霊園には泉鏡花を始め島村抱月竹久夢二永井荷風等が眠っておいでです、いずれ墓参したいと思って居ましたが、脳梗塞以来左肩や左脚に霊が乗り移っているような気がして、その時はは墓参は止める事にしました。今回も霊園の木立を横目に見ながら進みます。
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都電雑司ヶ谷駅に近い雑司ケ谷霊園。お正月を控えてお墓掃除を終えているようでした。野鳥や野良猫がお供えを狙って姿を見せていました。
都電は大塚駅を出ると左右に急旋回し次は激しいアップダウンです。雑司ケ谷もその先の目白台も強い山・谷だったようです。「山手線の外側には下町風景が残っているなあ!」実感します。車窓に大鳥神社が見えました。次が鬼子母神前です。
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JR大塚駅の線路下に都電の駅があります。都電大塚駅から西に進めば早稲田の手前が雑司ヶ谷です。
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都電は満員でズット立ち通しでした。
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鬼子母神駅から大塚駅方向を見返せば急な谷坂を都電が登って来ます。左の高層ビルは池袋サンシャインです。線路左が大鳥神社です。
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大鳥神社前踏切を通る都電車体には「命を教える帝京大学」と広告されていました。この辺りは隘路続きで一方通行の迷路ばかりです。たまに広い道に出ると「カメラ警戒中/日本女子大学」なんて案内されていていました。叔父さんはウロウロしない方が無難です。
鬼子母神駅前から鬼子母神堂の参道が始まります。細い産道の両側に大きな欅が並んでいます、広重の江戸名所図でもお茶屋の前に欅が描かれていますから樹齢は3百年は経て居る事でしょう。残念なことに樹勢は極めて悪く腐って髄を見せている木も目立ちます。保存会も組織されて活動しているようです。欅は冬は防風林とにもなる武蔵野には欠かせない風物です。
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これが鬼子母神産道の始まりです突き当りのマンションを左折すれば直ぐに鬼子母神堂です。広重の絵では参道の両側はお茶屋が軒を連ねて賑わっていたようです。
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案内所に貼られていた広重の江戸名所図の雑司ヶ谷鬼子母神図立派な茶屋が軒を連ね晴れ着の婦人が参詣しています。左のご被人は子供の手をひいています。子供はミミズクの提灯(ススキで編んだ縁起物の玩具)を持っています。右端の一団のご婦人は屹度遊女でしょう彼女たちは性病治癒や水子供養に鬼子母神を篤く信仰していたのでしょう左の茶屋を覘いている二人連れの男は店(見世)の格子から遊女を物色しているのでしょう。雑司ケ谷は青梅街道沿いの遊び場でもありました。
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これは雑司ヶ谷案内処の店内この日(25日)が店じまいでした。手前の3000円の玩具がミミズク提灯で、ススキの穂を編んで作るのだそうです。ミミズクは不苦労ですし縁起物(ミミズク頭巾のように)なのでした。池袋が街のシンボルにミミズクを選んだのは「袋」の語呂合わせだけでは無く歴史があったのでした。


鬼子母神堂の境内に入ると木枯しが舞ってきました。既に散った銀杏や欅の木の葉を巻き上げて迫って来ます。境内に箒がそれこそ「放棄」されています。寺男が幾ら掃いても木枯しが吹き散らすので風神の悪戯に怒って箒を投げ捨てたようです。
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参道を左折すると正面に鬼子母神堂が見えてきます、既に初詣を受ける準備も完了した様子でした。
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名物の銀杏の大樹の下には箒が投げ捨てられていました。木枯しが止むまで掃除をしても何の役に立たないと悟ったのでしょう鳥居は境内に勧請された武芳稲荷神社(たけよし稲荷)
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これが大銀杏。案内には、樹齢600年を越すとされるイチョウの巨木で幹の周り8メートルもあり、都の天然記念物に指定されています。植えられたのは応永年間ですから、足利義満が生きた頃の時代です。鬼子母神のお堂建立より250年以上も前の事でした。流石に垂れ乳も立派です。
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これは境内にある駄菓子屋さんの上川口屋さん叔母様が店番をしておいででした創業は1781年と書かれていますから田沼意次の時代と云う事になります。
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鬼子母神正面石の仁王像が迎えてくれます
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境内北側に佇む鬼子母神像
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鬼子母神本堂の金網弐貼られたザクロの絵馬は次に依っていると云われます。インドに子供を食べる鬼神「可梨帝母」がいて皆困っていた。それを耳にしたお釈迦様は、可梨帝母の子供を取り上げ「これからは人肉を食べない様にその代りザクロを食べるように言い聞かせました。可梨帝母はお釈迦様との約束をよく守ったため、お釈迦様は可梨帝母に子育ての神様「鬼子母神」となることをお許しになりました。これは仏教説話でザクロは実が沢山着く事から思いついたものでしょう。キリスト教でも生母はザクロを手にされています。

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本堂前の天水桶は鉄鍋でした。関東大震災や空襲の時の炊き出しに使われたのでしょうか風格の滲んだ大鍋でした。
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大黒堂はお茶屋を兼ねているような作りでした。お正月には此処で甘酒やお饅頭を戴けるのでしょう。大黒様もお正月を”もういくつ寝ると・・・”お待ちの風情でした。
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ミミズクに見送られて次の目的地学習院大学に向かいました。

今日は案内しませんでしたが鬼子母神堂には絵馬が沢山掛かっていました。江戸時代のものが30点明治以降も含めて50点も懸っているそうです。何かの機会が在ったらじっくり鑑賞したいものです。お腹も空いて来ました、此処はお稲荷様も立派ですから御蕎麦屋さん(神田の藪蕎麦の出生の地)にも行きたかったのですが。学習院大学の学食が魅力で空き腹を抱えて木枯しの中目白台に向かいました。以来今朝もワイフは風邪声で悩んでいます。鬼子母神は古いモノを大切に伝え守っている懐かしさ滲む処です。戦後漫画文化を築いた漫画家達も雑司ケ谷の優しさ懐かしさを嗅覚して南長崎の常磐荘に集まったのでしょう。

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狐の文化史

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新聞に小さな記事が載っていました。”原発の荒れ果てた施設内に狐が出入りしている”東電が発表したというのです。東海村から西に100キロも行けば那須の殺生ヶ原です。怨霊になった狐が通り掛かりの旅人を食い殺すという伝説の地です。以来数日間狐の事が脳裏に宿ってしまいました。元々私は狐好きです。祖母には世田谷の弦巻には狐が多く棲息していた事。祖母が庭先で魚を焼いたりしていると狐が盗みに来るので、火のついた薪を投げつけて”女だと思って馬鹿にするな”追っ払ったこと等聞かされました。生家の実相院は狐の餌場だったようです。狐の巣は直ぐ先の松陰神社の窪地に在って、そこから夕暮れになると実相院に出かけて、ネズミや墓に供えられたお供物を漁って居たようなのでした。祖母は狐は愛情の濃い動物で人間に悪意が無ければ災いを為すことはない。人間に悪意があって狐の怨みを買うような事をしなければ人間を守護してくれる・・・・話してくれました。
何のことはない祖母の選んだお婿さんは豊川稲荷東京別院(赤坂)に勤務していたお坊さんなのでしたから吒枳尼天(だきにてん)を背に乗せた狐を守護神だと信じていたのです。
でも狐は良くすれば人間の味方(守護神)になるのに対し。悪しくすればその恨みを買い仇を為すのです。
守護神の代表例が「葛の葉」ですし、悪い例が那須野の殺生石なのです。
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28日東電が発表した事故原発施設内に侵入した狐。毛艶が極端に悪い様に見えます。此処に侵入したのは餌になる鼠が生息しているのか。事故前にも残飯漁りに来た記憶が在ったからでしょう。今頃は充分食べて巣に戻って子を産まなくてはなりません。子供が放射能に汚染されていて狐の怨みを買わないかと懸念されます。写真出典朝日新聞デジタル版http://10pic.jp/detail.html?id=h_100000_0_26167702
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月岡芳年作の「葛の葉きつね童子にわかるるの図」。童子丸(阿倍野清明)に別れを告げる葛の葉(清明の母)母を恋い慕う子が清明です。障子の影に映った母の顔は既に狐に戻っています。陽では人間の母陰では狐です。出典:ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E3%81%AE%E8%91%89
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元は信太の森に住んでいた狐であるが、安部保名に助けられ、恩返しにと「葛の葉」と名乗り女性の姿で現れる。そして保名と結婚した後子供も作る。この子供は名前を童子丸と言い、この子が後の安倍晴明である。最後には正体が信太の森で助けられた狐だとばれてしまい、歌を一首詠んで去ってしまう。出典同上
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鳥獣戯画の蛙と兎が弓で越そ競う場面で判定員は狐で行っています。弓が的に当たると狐の尻尾に火が点く仕組みのようです。古代から人間は狐に神意を感じていたのでしょう。



信太の森に棲んでいた狐は人間の善意によって人の嫁になり天才陰陽師阿倍野清明を生みました。異類婚姻譚としては蛇と結婚した姫(三輪大社)と同じタイプです。
一方那須野の狐は人間に怨恨を持った狐の話です。
元々那須は火山から発生する猛毒ガスによって多くの旅人が亡くなった危険な場所だったのでしょう。那須を越えてその先が白河の関でした。陸奥に向かった旅人は那須を越え更に白河を超えるまでは緊張を解かれなかったことでしょう。そんあ危険な場所に「玉藻の狐伝説」が重なりました。
玉藻前は鳥羽上皇が寵愛した女性でした元々は九尾の狐でしたが美女に化けて鳥羽上皇に近づいたのでしたが阿倍清明に依って見破られ数万の軍勢によって殺害されて、石となってしまいます。その後、至る徳2年(1385年)に玄翁和尚によって打ち砕かれ、そのかけらが全に飛び散ります。
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これも月岡芳年の那須野殺生石の図那須野の火口に鎮座していた大石に憑依していたのは玉藻前の怨霊で怨霊はまるで雁の翼に乗ったように全国に飛び散り各地で災いを為します。この話は能にも浄瑠璃にも草双紙にも獲りこまれます。狐に対する人間の祟りを怖れる気持ちの現れでしょう。出典ウィキペディアhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E6%AE%BA%E7%94%9F%E7%9F%B3%E6%9C%88%E5%B2%A1%E8%8A%B3%E5%B9%B4









妖怪を生むのも怨霊や幽霊を生んだのも人間の心でしょう。陰陽道は人間の側面も善悪陽陰二つの面があると解釈しました。狐は狐です。人間以上に生きる事に貪欲で子育てに秀でています。その姿を見知っていた人間は狐に他の動物には無い霊性や神性を感じていたのでしょう。
その為に狐は百狐になり吒枳尼天(だきにてん)の乗り物になりました。原発狐が九尾の子狐を産んだりしないように祈るばかりです。放射能が狐の遺伝子に悪戯して奇形を産んだら屹度千円前と同じように狐の恨みを買う事になるでしょう。殺生石のように日本全国に怨霊が飛び散って原発事故が起こったら大変です。
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狐と人間の良い関係を表現したゴン狐の絵
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美しい自然カラスとも狐とも分け隔てなく共存する事にこそ幸福があると思うのです。絵は「猿蟹合戦」ならずとも「猿狐合戦」です。





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紅白歌合戦に見る歌謡文化の衰退

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7時15分テレビには紅白歌合戦が始まりました。もうじき娘夫婦が顔を出す予定です。二人とも勤め先から我が家に集合して元旦に主人方の実家に年賀のご挨拶する予定です。
ワイフは午後から台所に入ったきりです。出汁取りの香りがして直にお煮しめに入ったようです。台所にも小さなテレビがありますので、脇眼で紅白歌合戦を確認しながらのおせち作りです。昭和30年代40年代にも同じ光景でした。私達子供は堀炬燵でラジオを聞きながら夕飯が出来るのを待っていました。母は台所に入ったきりで何の面倒も見てくれませんでした。
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青い山脈の撮影は北アルプスでは無くて中央アルプスを西に東に南アルプスを背負う木曾谷の中津川でしたが、私は藤山一郎さんの歌声を聴くたびにこの写真の安曇野を思い浮べます。自転車の先には穂高神社があってその先前穂高岳の手前に鐘の鳴る丘(戦争孤児院)があるのです。
藤山一郎さんが直立不動の姿勢で「青い山脈」を「長崎の鐘(ながさきのかね)」歌っていました。河田正子さんは「鐘の鳴る丘」を歌いました。紅白歌合戦を放送するのはラジオでしたから、歌手は聞き取り易いように正確に聞き取り易いように発声してくれました。
「青い山脈(東宝/今井監督)の撮影に岐阜県中津川にあった叔父が住職寺「宗泉寺」が使われました。
今井監督以下の撮影隊がお寺の庫裏に寝泊まりして夏目川や木曽川の土手で撮影しました。
昨年は主演の原節子さんも亡くなりました。石坂洋次郎の原作から作詞したのは西條八十さんで作曲したのは服部良一さんでした。お二人とも戦争から解放された悦びを主題歌に乗せたようでした。関係者は既に鬼籍に入られました。当時国民は、紅白を聞いて「戦争は終わって平和の喜びに浸りました。そして民主主義の将来に明るいイメージを作りました。

「自由」には「平等」と「博愛」の精神が欠かせない事などは戦後歌謡曲で教わりました。自分一人が自由に固執すれば社会は舵を失った飛行機のように墜落してしまう事を教わっていました。そうして「二度と戦争を起こさない事。人間の命は地球よりも重い」と教わりました。ところが今年も紅白を聞いていると戦後を築いた歌謡曲はもう姿形を残していない事を寂しく思いました。
幾ら真剣に聴いていても歌詞が解らないのです。歌詞を大切にしない歌謡曲はメッセージ性を失っています。私が頷けた歌詞は「よいとまけの歌」とか「花が咲く」とか「時代」「千曲川」等数少ないものでした。
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前半は子供が観ていることを意識してかテレビアニメキャラが目立ちました。
歌詞は聞き取れないし「紅白歌合戦」では無くて「遊戯大会」か「ダンス舞踊大会」の様相を呈して居ました。メイドギャルが舞台でお遊戯合戦をして”可愛い!可愛い!”と云って満足して居るようであります。
これでは東京デズニーランドでアトラクションを見ているようだ思って居たら本物のデズニーランドのキャラクターが踊りはじめました。
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最初はアニメ祭りの様相でしたがTDLがスポンサーの様なお遊戯に変わりました。
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私は可愛い娘が好きですから少女の群舞が嫌いではないのですが今回の紅白歌合戦は多すぎて食症気味でした。
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「NBA48」とか「AKB48」とかもう私には区別不能です。皆同じ様に見えてしまうのは私が老化して居る為でしょうか?それとも同じような群れる少女歌謡団が多すぎる為でしょうか?歌にメッセージ性が弱い事が最大の問題だと思います。「人生は青い鳥だと思ってきました紙飛行機の喩える感覚には着いて行けません。

大宅壮一さんがテレビが茶の間を席捲した様を見て「一億総薄痴化」と評されましたが、昨晩のテレビ画面は大宅さんの懸念された通りの「茶の間を痴呆化」するような画面でした。無意味で不愉快な裸が露出していました。
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矢鱈に野郎の裸の露出が目立ちました観る方は男の乳首を見るのは不愉快です。女性客が観たいと思って居ると錯誤していると違いますか?
テレビ制作者は一億総幼児視しているとしか思えません。それとも日本文化自体が幼児化しているのかも知れません。電車に乗っていてもいい大人が携帯ゲームに夢中ですし、新聞を読んでいる人も少なくなってしまいました芥川賞も活字文化から逸脱してしまったようです。

言葉は言霊とも言います古代人は言葉を覚え漢字を知った悦びで和歌に自身の想いを託しました。言葉は人間の想いを伝えるツールになって言霊と呼ばれ、神が宿るモノと信じられました。塔婆に梵字を書けば言霊の呪力によって邪悪な霊を防ぎ死者の魂は救済されると信じられました。
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小林幸子さんの千本桜。千本桜と聞けば「義経千本桜」で吉野山静御前を想い出しますこの画面はコンピュータグラフィックのお遊びで千本桜を冠するのは不愉快です。

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画面には矢鱈とレーザー光線を使っていたので眼が痛みました。子供には良くないし老人は疲れます。

紅白歌合戦は来年からラジオで聴く事にしましょう。日本の歌謡曲文化が衰退してきていることを痛感させる紅白歌合戦でした。先ず言葉を大切にした歌詞を作ることが大切でしょう。

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花餅の民俗学

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お正月元旦は穏やかな良い日でした。ワンちゃんも昨夕お散歩に連れて行って貰って満足そうです。それでも、”今朝も連れていけ”とばかりガラス窓に齧りついて大好きな娘婿を見詰めて居ます。
おせちを戴きながら、想いました。
「二年前は集中治療室に居たものが、今年は我が家に居られる。幸いであります。
晦日から泊まっていた夫婦に今日の予定を聞けば
「今晩は婿さんの家に年賀に行く予定で、それまではお付き合いしてくれる」との事でした。そこで三溪園に向かいました。
・・・・・、と、云うのは昨年末「柿」を満喫して毎日柿の事を考えていました。

そんな次第で年末に図書館から柿右衛門の図書を借りて読んでおりました。
以下同書の概略を説明します。
著者は14代柿右衛門さんで私は同氏とは博多時代御面識を戴いておりました。有田商工会議所会頭だった蒲池さんのご紹介で柿右衛門さんに御面識戴きました。当時上司の竹内常務がs人気の経済学者でありましたので私はそのお供をしました。
その時は解らなかったのですが人間国宝柿右衛門は実は14代柿右衛門個人が指定されたのではなくて柿右衛門窯といった窯業の工房が国宝に指定されていたのです。
そんな解説がこの著には丁寧に説明されていました。
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その要旨は次の通りでした。
1、柿右衛門窯は初代に始まり自分で14代目に工房でありますが、工房には3つの手仕事があって専門の職人が居ます。先ず素材になる土を採取して捏ねる「ろくろ」、次が米のとぎ汁の様な乳白色に焼く「濁手」更に濁手素肌の上に絵の具で模様を描く「赤絵」の作業が在って、その各々に専門の職人が居て「ろくろ」「濁手」「赤絵」の三つの職人による焼き物が柿右衛門窯である事・・・・。
赤絵に余白がって余白こそが重要であるように。素材の磁石(泉山で採掘)には多少の不純物が混じっていてこそ風合いが出るのだそうです。
絵付けも同様で赤い色を出すだけなら不純物を完全に化学的に除去した化学染料を使えば良いのですが、不純物を完璧に排除しては心を打つ赤色は出せないそうで、不純物にこそ役割があるのだそうです。柿右衛門窯は不純物又は余白にこそ、美が宿る」事を知っている職人が力を合わせて茶碗や皿を焼く工房と云う事になるそうです。14代の前の12代、13代は「ろくろ」、「濁手」の職人を育てて14代に継いだもので戸籍は「酒井田 正」氏であっても世間では14代柿右衛門で通っているのですし、人間国宝にも指定されているのです。
私達が国語の教科書で教わった柿右衛門はスーパーヒーローであり艱難辛苦の末に赤絵を開発したと描かれていましたが、本当に偉かったのは職人を鍛えて分業によって景徳鎮窯に勝る磁器を製造する工房を作った事だったのです。そのお蔭で初代柿右衛門が亡くなっても14代まで綿々と高級磁器が製造できているのです。
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初代から14代まで430年もの間柿右衛門の赤絵を作り続ける工房を作った事が柿右衛門の素晴らしい事です。


私達世代は「個人主義」の中で教育を受けて来ました、だから個性を強調した絵を描いたり詩を作ると誉められました。個性を殺した作品は評価されませんでした。でもそれは戦後間もない時代であって、最近は再び工房や職人の仕事を評価阿する時代に変わって来ました。
鎌倉彫でも木曾漆器でも作家個人名よりも工房名が目立ってきました。
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鎌倉彫後藤俊太郎作「椿」明治の後藤運久以来当主は承継されて最近は後藤家当主後藤圭子氏が継いで居られます。運慶から数えて29代に当るそうです。何時か鎌倉彫も工房として人間国宝の指定を受ける日が来ることを期待します。出典:http://www.kamakurabori.org/history.html
鎌倉彫は、文様を彫る「木彫り」-生漆を塗る「木固め」-肌を整える「下地」―漆を塗り、肌を整える「中塗り」-上塗り漆を塗り、まこもの粉を蒔きつける「上塗り」-水砥の粉をつけて研ぐ「研出し」-生上味漆を塗って拭ききる「摺漆(すりうるし)」という工程を重ねて出来上がります。形は柿右衛門窯と同じようなものです。

似たような形は佐久の田圃にもあります。
千曲川の東の望月側の河岸段丘は五郎兵衛新田と呼ばれる田圃がひらいています。江戸時代に市川五郎兵衛によって灌漑池が開墾され用水が整備され肥沃な美田になったものです。今では此処で産出されるお米は美味しいので魚沼コシヒカリ以上の値段がついています。一般にこの辺りの田圃は五郎兵衛新田と呼ばれ個人名では呼ばれていません。五郎兵衛さんの子孫が営々と耕してきた実績が評価されているのです。
最近は農産物も農夫個人の名が着いてきています。
デモ昔は、個人名では無くて「○□家)で栽培された事実を重んじていました
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個人名よりも工房の名が重んじられたように田圃の名も個人名よりも家の名で呼ばれてきました。写真は五郎兵衛新田の中央に祀られている大日如来子の大日様は有名な諏訪大社裏の万治の石仏に似ています。
14代柿右衛門を継いだ「酒井田 正」氏は多摩美大学でデッサンを学ばれました。個人としては絵付けを得意とされて然るべきでしょうが、柿右衛門窯としての評価は余白を活かすことにあると力説されておいでです。
個人よりも家(工房」や土地(田圃)を重んじる考えは日本の伝統だと思います。
伝統は不思議な力があって命のプールの様な感じです。
個人が死ぬと命は「祖霊」と云うプールに溜まってプールから再び地上に現われるように考えられます。
若しも子供のうちに死ねば直に地上に現われるものと期待され葬式も上げて貰えません。葬式自体は(もがり)に始まります。死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願う行事でした私達は日本古代の「(もがり)」を昭和天皇の葬儀で体験しました。葬儀は通夜と本葬の二つの行事で出来ていますが、通夜は死者の肉体から魂が離れる事を見守る(悪霊が憑依しないように警戒する)行事で葬儀を経て魂は命のプールに送られます
そんな儀礼感覚を宿しているのが餅花だと思います。
今の季節木々は枯れています。その枯れ木に花咲き爺さんは愛犬の灰を撒いて一斉に花を咲かせました。
枯れ木に花を咲かせるのは死んだ犬(人)を焼いた灰なのです。枯れ木の枝先に餅を使って花を咲かせます、これが花もp治鼻で餅で、花餅は正月明けに食べれば命が身体に漲って健康に一年を過ごせます。
お正月には花餅を観たいとと想って、私は三溪園に行きたかったのでした。

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これが花餅です。柳などの枯れ枝に紅白の餅を丸めて着けます。更に縁起物のお飾りに願い事を書いて吊るします。年神様は花餅に宿っていて人々の願いを聞き入れて下さいます。農家には豊作や家人の招福が聞き入れられます。
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花餅が飾られている三溪園の旧矢内原家この合掌造りの家(重要文化財)は庄川沿いの御母衣に在った家で御母衣ダムの湖底に沈む運命にあったのでしたが今は三溪園に移築されています。
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旧矢内原家の囲炉裏端に飾られた花餅

餅の名は米作農家での名前で養蚕農家では同じものを「繭球」と呼びます。養蚕業の盛んな山梨や信濃では繭が良く出来るようにお餅を繭球に似て飾ったのでした。
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庭に自生した桑の木に作られた山蚕の繭

年は娘夫婦と三溪園で遊んで綺麗な花餅が観られて佳い年になりそうです。
三溪園の臥龍梅も沢山蕾をつけていました。
命がプールになってまた地上に出現するといった感覚は
奈良のお水取りにも窺がえます。若狭の鵜の森で黄泉の国に下った命は二月堂の前の井戸に湧き出します。人々は若狭井に若水を汲んで新しい命を獲りこみます。呪術と評せば身も蓋もありませんが。自分自身に個に執着するより命溢れるポジティブな生き方が出来るものです。今年も脳梗塞の災いを教訓にして、家族や友人と一緒に過ごし時間を大切にしてポジティブに生きたいものです。

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合掌村のお正月をイメージ

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真冬の青森ねぶたの輝き(寒川神社の元旦祭)

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1月2日箱根駅伝往路も芦ノ湖に着いたのを確認して初詣に出かけました。戸塚からバスで先ず遊行寺に更に藤沢駅から茅ヶ崎駅、同駅で相模線で5つ目の駅が「宮前」です。駅のホームが狭いのに加えて参詣者が多いので入場制限しています。
駅から東に500mも歩けば神門に出られます。丁度夕暮れで陽は富士山のシルエットにしていました。
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寒川神社に着く前に夕暮れになってしまいました日が沈むと急に寒く感じられました

私が最初に初詣に寒川神社に登ったのはもう5年も前でしたその頃ネブタに興味が盛り上がっていました。
青森の三内丸山古墳の全容が次第に解って来て、テレビでは阿弖流為をドラマ化して居ました。大和朝廷が平和に暮らしていた阿弖流為をリーダーにした熊襲を征伐するドラマに先祖が殺される義憤を感じました。鉄器で作った武器で縄文人を圧猿する事は他愛無い事でした。その鎮魂の心がネブタの原点であると思ったのでした。宮崎監督はアニメ「もののけ姫」を製作しました。
そんな次第で寒川神社の神門を飾る「迎春ネブタ」を観たいと思ったのでした。
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これが寒川神社神門を飾った青森ねぶたです、今年も昨年に続き北村蓮明氏の製作でテーマは「海彦・山彦」でした。二人の間に女神は木花咲くや姫でしょう。
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これが今年のネブタ「海彦・山彦」のアップです。
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これは平成23年のかぐや姫 千葉作龍作)出典寒川神社HPhttp://samukawajinjya.jp/info/in05_02.html
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これは平成26年の天の岩戸(北村蓮明作」出典http://samukawajinjya.jp/info/index.cgi?c=zoom&pk=105

寒川神社が何故お正月を青森ねぶたで飾るようになったのかその目的は不詳です。
ネブタが真夏の盆の季節で死者のイメージがあるのに対し正月は真冬の生の季節です。私達は正月に生命の誕生を祈念しお折り返しのお盆に死者の冥福を祈念します。青森ねぶたは死者の冥福を祈るために大きな雪洞を作ります。ならば正月も雪洞を飾って生命の輪廻を祈願しようとしたのかもしれません。理屈は別にして大きなネブタを盆だけ飾るのでは勿体ない気がします。神門の前で寒さに身を縮めながらもネブタを見上げると生きていることが嬉しく思われてきます。迎春の気持ちを華やかにしてくれるネブタです。今年は「海彦・山彦」で二人の男神の間に挟まれた美女は屹度木花開耶姫きのはな昨夜姫」でしょう。茅ヶ崎海岸では毎年海と山が浜辺で神輿を出して戦います。「海彦・山彦」の争いを今も続けています。
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寒川神社本殿前大混雑でこれ以上は私の脚では危険で近づけません。

本殿からの帰路は屋台の間を廻ります。焼きそばソースの焦げる匂いいか焼きに焼き鳥の臭いが混じって空き腹を刺激します。結婚式場前にテントが張られ休憩しながら屋台の食べ物を戴けます。
法被を着たお姉さんが枡酒を注いでいます。叔父さんは枡酒を飲みながらかがり火で暖を取っています。私は甘酒と八福餅で一服しました。お姉さんに
「八福餅は伊勢の赤福のようなお味ですか?」
訊いた処こんな答えが返って来ました。
「赤福は食べたことが無いので解りません」
私は帰りがけに言いました。
「赤福に似ているけど赤福より美味しいし見た目も綺麗ですよ・・・」
期待通りに綺麗な笑顔を返してくれました。
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これが寒川神社門前の八福餅小龍包のような形ですがお餅に漉し餡を包んだ餅がし(12個1080円)で片瀬龍口寺門前の「ご難ぼたもち」や伊勢の赤福に似たお味です。夏にはズンダもあるようです。


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箱根駅伝マスターズの提案

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ネットで”国際語になった日本語”を検索すると沢山出て来ます。最近では「津波」が少し古いのが「腹切」「芸者」戦後のもので「カラオケ」「漫画」。食べ物で「寿司」「納豆」「すき焼き」「わさび」スポーツで「柔道」「駅伝」等が出て来ます。
一方「慰安婦」とか「アダルトビデオ」とか不名誉な世界語も目立ちます。
「勿体ない」とか「おもてなし」等は名誉な世界語でしょう。今後は工業製品や医療用語での世界語も増えて来ることでしょう。神風とか腹切はいかがかと思いますが食べ物もスポーツもグローバルな文化であって嬉しい世界語です。そんな前置きで今日は箱根駅伝の話をさせていただきます。
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東海道53次石薬師(現在の鈴鹿峠)の「駅」の図(広重画」飛脚と籠担ぎそして゛伝馬が確認できます。駅の中には役人がいて文の伝達伝馬の利用の確認などの事務をこなしているようです。飛脚が文を運ぶ為に走りぬいで文箱を運ぶ作業が駅伝のルーツと思われます。
駅伝」は古代の「駅制度」「伝馬制度」に始まる交通用語でした。律令国家が成立すると国家を管理するために街道を整備し間隔を置いて「駅」を設置して駅には複数の馬を待機させて国家の指令や役人が地方に行き易く整備したのでした。駅と伝馬を略して駅伝で最初に競技として駅伝を始めたのは読売新聞社社会部長であった土岐善麿で東京遷都50周年記念事業として、京都三条大橋を出発して上野の不忍池まで23区間508キロを昼夜を問わずに走り抜けたものだったそうです。実施したのは1917年4月27日だったそうですから(ウィキペディア)来年は箱根駅伝に際し駅伝発祥100年でにぎにぎしく実施される事でしょう。今年は往路も復路も青山学院が圧勝でした。同校が強すぎて興味は10位以内にに何処の学校が入るか11位以下(来年の出場に際しては予選会で上位に入らなくてはならなくなる)、そして襷が引き継がれなくなって繰り上げ一斉スタート場面に集中してしまいました。
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箱根駅伝は風光明媚な湘南を通り起伏の富んだ地形の中を走るのが楽しい所以でしょう。(日本テレビ画面を撮影)
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二の宮駅に近い宮の坂を越える往路ランナー山坂が多く曲がりくねっているのでその度毎に前後のランナーとの距離が解ります。二の宮では節分の鬼追いの祭りがもうじき行われます。(日本テレビ画面を撮影)
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箱根駅伝往路テレビ観戦の楽しみは箱根で眺める富士山の景色です。(日本テレビ画面を撮影)
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翌朝は新聞で確認します。往路も復路も青山学院大の完勝を伝え伝の不甲斐なさを責めたり青山学院の強さの秘密を解説するような記事はありませんでした。
レースとしては興味が半減してしまいましたが。テレビ解説をしていた瀬古氏も渡辺氏も(二人とも早稲田大の駅伝部長だった)青山の選手層の厚みを羨ましげに誉めるだけで。伝統校の敗因については何も語りませんでした。瀬古氏が”この実績をオリンピックに繋いでください”云うのを聞くと「駅伝は盛り上がってもマラソンランナーが育たない現実を改めて疑問に思うのでした。
「名選手名監督になれず」は野球の世界だけではなく駅伝でも当て嵌まるようです。
私の記憶では駅伝と云えば中央大学に始まり順天堂大学早稲田大。私の地元の神奈川大も優勝した事がありました。伝統校が強く新鋭大学が競ってこそ興味が増すものです。
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私の住む戸塚も箱根駅伝の2区.3区引き継ぎ所である事が自慢です。マンホールの蓋にも駅伝がデザインされています。
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おせちも食べ尽くせば箱根駅伝も最終章です。
意地悪な私はかっての名選手瀬古氏渡辺氏が襷を継ぐ場面が観たくなりました。
云ってみれば「箱根駅伝マスターズ版」です。女子駅伝は今年も立命館の圧勝でしたがあの時も都大路を駆け抜けるのではなくて三条大橋スタートで逢坂山を越えて(旧東海道)瀬田の唐橋を折り返すコースなら興趣も増すだろうに想いながら見ていました。
箱根駅伝マスターズ版」は各大学がОB選手で襷をつなぎます。箱根往復も10区間でなくとも適宜で良いでしょう。5キロ10キロ20キロをミックスしまあす。ランナーも30代40代50代60代以上と混成です。どの区間にどの世代の選手を走らせるかは各大学ОB選手団に任せます。読売新聞社始め地元医師会も後援します。早稲田なら40代が渡辺氏で50代が瀬古氏になるでしょう.最終区間は短くすれば最高齢ランナーがテープ(錦)を切る事になるでしょう。
今年も箱根の山登りで力走した神野選手(青山)を見詰めながら私は初代山の神と評された 柏原竜二氏( 東洋大)を思い出していました。
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青山学院大学V1もV2も箱根登り坂で主将でもあった神野選手の功績が大きかったと思います。同選手は記憶に残る名選手になるでしょうがと東洋大を優勝に導いた柏原選手の記憶は強烈でまたみてみたいものです。
日本中にかっての名選手の現在の勇姿を観たい思って居る人は多いでしょう。早稲田ОBの森元首相もオール早稲田の見せ場を作るために読売新聞社や陸連に呼びかけて欲しいものです。
政治家としては印象の薄い森さんでしたが、今次の陸上競技場問題の名誉挽回にもなる事でしょう。

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大発会風景

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昨日1月4日は仕事始めでした。サラリーマン諸氏にとっては短すぎる正月休みに加えて丸1周働きづめになるので溜息ものでしょう。特に晴れ着で出社しなくてはならない、東証や銀行証券のテラーの職員さんは、多分朝5時ごろから着付屋さんに出かけなくてはならなくて、グッタリお疲れだったことでしょう。私はサラリーマン時代銀行と証券会社の営業部長を務めたので晴れ着で初仕事をする事を依頼された職員さんの溜息が理解できます。
テレビで見ている限り。東証の第発会も大証もたいして変わりませんでしたが。京都府丁の仕事始めは少し違いました。大証や東証では大振袖の晴れ着を着飾ったお嬢さんが目立ちましたが京都府庁では色留袖の職員が多く着物姿も板についていました。襷をかけて細腕を丸出ししてテキパキ仕事を片付ける姿は頼もしく同時に艶っぽく見えたことでしょう。大振袖のお嬢さんにすれば、職場男性とお見合いするような気分でいられる事でしょう。
午前中の仕事を終えれば男性職員に誘われて神田明神や氷川神社に証券会社なら兜神社に詣でる事でしょう。
”そのまま、帰宅しても良いですよ、帰宅出張扱いにしておきますから・・・・”そんな配慮をしたものでした。
ところが、昨日の相場は一時600円もの大暴落で御屠蘇気分も吹っ飛んだ事でしょう。
報道では午前中に発表された中国の商工業指数が悪かった事でした。日本の2016年度予算は法人税収1900億円増になっています。企業業績は順調で1900億円も法人税収が伸びると予測しているわけですから。日本株も続伸すると期待するのが一般人の予測です、”ドッコイそんなに株価は甘いものじゃないよ”大発会の株かは冷や水を浴びせたのでした。
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東証大発会の光景大振袖で着飾って職場に出勤した職員さん達、晴れ着のように相場も目出度ければ良いのですが、相場は天邪鬼が悪戯するので想うようには行きませんでした。写真は毎日新聞デジタル版を借用(http://mainichi.jp/graphs/20160104/hpj/00m/020/001000g/3)
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此方は大証の大発会の光景。東証と一見すれば同じですが”大株締め”のスタイル(手締め)も東京都違います写真出典朝日新聞デジタル版http://mainichi.jp/graphs/20160104/hpj/00m/020/001000g/3)


私が証券会社の営イ業部長だった時代は早朝の打ち合わせに際して先ずNYの実績や為替を報告し、一日の営業方針を打ち合わせしました。当時は米国がくしゃみをすれば東京は風邪を引くと揶揄されました。今は米国だけでなく中国も加わって東京の行方は米中両国に目配せしなければならなくなったようです。現在の営業マンは私の時代より遥かに大変で勉強しなければ役に立たないようです。
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私が株式相場の神様なら晴れ着の女性の健気さに感動して右肩上がりに上昇させるのですが相場の神様は天邪鬼で▼600円と冷や水を浴びせたのでした。写真はBSNHK
でも考えようによっては地球レベルでは東証が最初に商いが始まるのですから。グローバル証券会社は営業方針会議を東京から発信する役割があるのでしょう。証券マンは勉強しなければなりませんが世界をリードするトレーダーになるチャンスに恵まれているという事でしょう。
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これは1月4日の神田明神の光景。丘の上の狭い境内を埋め尽くす人波ですから大振出の女性が近寄るのは避けた方が良さそうです。
ところで、問題は中国です。4日こそ取引所を閉めてしまったので、▼600円で下がり止めで終えましたがアダムスミスの「見えざる手」を教え込まれた西方社会では禁じ手です。一層中国市場への不信感を増幅しました。
加えて中国には大きなリスクがあります。最大のリスクは自然環境リスクです。

上海が年末地崩れでし
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中国の深圳の土砂崩れ写真出典新華社(http://jp.xinhuanet.com/2015-12/22/c_134938101.htm)深圳は上海に近い事も上海株価が急落した要因だったでしょう。土の色を見ると黄土高原の土砂の色です。中国人の社会的な公徳心の欠陥の戒めの光景で「民心荒んで国破れる」と思います。こうした事を二度と起こさない国家になるまで中国は世界の震源です。
大気汚染も土壌汚染も中国は地球の限界に近づいています。これ以上空気中の、微小粒子状物質PМ2.5を増やし地中のヒ素等の有害物質を許容できません。加えて中国人は地峡上の四分の一の人口なのに農地は十分の一しかありません、人口過剰で食料不足は目に見えています。中国の高成長は環境を汚染し農村部の少数民族を向上労働力に押し出すことで達成してきました。日本で地方の公害を生みながら地方の若い労働力を沿岸工場地帯に押し出すことで高度成長を達成してきました。日本で高度成長はオイルショックや公害でブレーキがかかりブレーキペダルを踏まないでどうにかなるだろう、とアクセルから足を放さないできた結果バブルを生んで、更に大きな財政欠陥を生みました。最近になってようやく自立する道を見つけた段階です。中国は日本を反面教師にしていますから。同じような轍を踏まないとは思いますが中国経済が自立的に運営されるには相当大きな山谷を越える必要があるでしょう。昨年末日本の年金機構の運用実績が報告され8兆円もの損失と報じられました。
損失の原因は中国株式の不冴えとして日本年金機構も厚労省も年金生活者の溜息に無関心でいました。昨日1日で年金の損失は更に何兆円増えたことでしょうか?私のサラリー-マン時代は年金ファンドの運用先は国債など信用度の高いものに限定されていました。今次中国主導のアジア開発銀行(AIIB)の格付けは放棄されました。格付けさえ受けられない国の株式に年金ファンドを運用している状態では年金加入者は先細りするに決まっています。
大発会で健気に晴れ着で職場に出社している大和撫子を観ていると、憤りが高じてきてしまいます。

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