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二つの東海道を観る旅へ

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今日(1月26日)は旧友等との新年会を開催します。私は旅行会の万年幹事ですから”今年は何処に行くの?”期待に答えなくてはなりません。一応昨年の春の旅行会で吉野山の旅館で”来年は命なりけり小夜の中山に行こう”多数決をしていますから。今更何処に行こうか?迷う必要はありません。
其処で昨晩からパワーポイントで旅行プランを作成し始めました。実は旅行はプランすると時が一番楽しいのです。実際に旅に出てしまえば心配事やトラブルが多発して幹事としては楽しい事は少ないのです。前後が一番楽しい、といった意味では旅は男女の逢瀬に似ているのかもしれません。
目的地は「小夜の中山」と聞いてもピンと来ない人が多いのではないでしょうか薄暗い峠道なら日本中沢山あります。奥会津でも阿武隈山中でも薄暗い峠道は数多くあって。旅人は山賊や妖怪が出現しないか?命がけで通った事でしょう。日本中何処にでもありそうな「小夜の中山」でありますが、一番は静岡/遠江の峠道なのです。
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府中とは家康が建てた駿府城の事でその西に鞠子宿があります。鞠子宿と岡部宿の間に宇津谷があります。此処の峠道が「蔦の細道」で古代の東海道で在原業平が奥さんへの手紙を託した処でした。
場所は東名高速を下って静岡ICを越すと直に日本坂トンネルに入ります。同トンネルで越える山が宇津山でこの山の北に宇津の谷があって古代から東海道の難所で在ったのでした。
在原業平は奥様を都に残して東海道を下ります。富士山が未だ煙を吐いていた時代でした。浜名湖を越えると直に日作坂(にっさか」を登ります、更に進むと薄暗い峠道に入りました人は一人も通り過ぎません。心細い思いをしていると見知った旅の僧とすれ違いました。屹度僧も驚いた事でしょう。業平はこの友人(僧」に奥さんへの手紙を託しました其処が「蔦の細道」で以来枕詞にもなっています。宇津谷の西側です。

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これは芦舟 の蔦の細道図屏風/国立博物館)業平は馬に乗って宇津谷に分け入ってゆきます。峠道で友人の僧に遇います。そこで都に置いてきた奥さんに手紙を託しました。
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業平は旧友の僧(後ろ向き)に手紙を託しました。出典上記
この宇津ノ谷越えを「駿河なる宇津の山べのうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり」と、ツタやカエデが生い繁る峠の寂しさを歌ったことから、「蔦の細道」という地名が生まれた。この地名は、鎌倉時代の『東関紀行』や『十六夜日記』にも登場します。日本人なら誰しも知っている故事だったのでしょう。でも一番にこの故事に想いを託して通った人は西行法師だったろうと想像します。
この峠に続くの西の尾根道に「小夜の中山」があるのです。峠の頂上に頂上には久延寺(開基は奈良時代の行基だと伝え られますが詳細は不明です。、夜泣き石伝説です。)西行が此処で次の歌を残します。
年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山.
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峠道は平成になって石畳道に復旧されました。あと1月もすればこんな景色になります。
西行が子泣き石伝説を聞いていたか解りません。
伝説はこの峠で妊婦が山賊に殺され汰ところが現場の石が夜な夜な泣くという噂が立ったこと。久延寺の僧が泣き声に気付いて赤子を拾って育てた事。更にはその子が立派に成長した事と伝説は広がって行きます。
街道は各地の情報がクロスする処ですから「有名な子泣き石伝説」は各地の伝説が混交しているのかもしれません。
童子説話の多い西行さんですから、この歌が万人の共感を呼んでこの説話に影響したのかも知れません。
でもこの歌が日本人のメンタルに深い影響を与えたのは間違いないでしょう。正に言霊(ことだま)を地(31文字」で行くような歌です。
私も友人も青春を一緒に過ごして以来半世紀、この齢で一緒に旅が出来るのは”命あっての悦び”であります。
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一日目は小夜の中山の麓の掛川に宿泊します。
翌朝は真っ直ぐ加茂の菖蒲園に向かいます。日本人は菖蒲好きですから各地に花菖蒲の名所がありますがこの菖蒲は断トツの日本一です。遠江の園芸の伝統は素晴らしく、足利フラワーセンターの藤も遠江の技でしょうが、小堀遠州を産んだ素地は遠江に大きなお寺が普請された成果なのでしょう。加茂の菖蒲園にはその伝統の素晴らしさが五感に訴えてくれます。
二日目は遠江の古刹(油山寺(ゆさんじ)可睡斎/秋葉様の本山)法多山尊永寺を巡りながら、浜名湖畔の舘山寺に宿泊します。
もうじき立春です。立春を過ぎて88日目はお茶摘みの季節ですから。薫風のなか茶畑を眺めながらの旅になる事でしょう。
3日目は舘山寺を出て奥浜名湖を巡ります奥浜名湖は旅行会で既に来たことがありますから湖畔で名物の鰻を賞味しながら時計に逆回りで新居関を観ます。途中幽霊飴で有名な本興寺(以前次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45137761.htmlを巡ります。この伝説は祖母によく聞かされましたが。先の小夜の中山の夜泣き石の影響でありましょう。
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これは飴玉幽霊で有名な本興寺本堂/重要文化財)右側に墓地が広がっています。(墓地から夜な夜な泣き声がするので掘ってみた処飴玉をしゃぶった赤子が見つかったといった伝説湖西市鷲津の飴屋に夕暮れになると若い女が飴を買いに来ていた,といった前段が付いています。
夕方に浜松駅でレンタカーは返却して解散します。小田原新横浜各自都合の良い駅で降りてお帰り下さい。



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新宿段ボール村を回顧する(差別はあの頃発生した)

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長銀で融資畑(不動産ゼネコン電鉄)へので育った私が新宿西口支店に転勤したのはバブル経済の懸念が指摘され始めた1991年でした。戸塚駅から東京駅まで通勤していたのが品川で乗り換え新宿駅地下に出てLタワーと呼ばれる高層ビルの23階が長銀の融資専門支点でした。
新宿駅西口は淀橋浄水場東京都水道局の浄水場)でありました。浄水場を移転させ都庁を移転し副都心化する計画でした。
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旧淀橋浄水場(都水道局)手前のガスタンク2基が東京瓦斯のパークタワーになっています。写真出典:淀橋浄水場史(都)昭和35年に浄水場57haを副都心化する都市計画が決定しました。当初の昼間人口計画は30万人でしたが実際の新宿駅西口の昇降客数は300万人で世界一の渋滞でした。此処にバブルが弾けると路上生活者300人が集まって来ました。
新宿駅の西口に昼間人口30万人の都市を作る計画に欠陥が在ったのでした。駅から職場までの通路に30万人が歩くスペースが確保されていなかったのでした。(実際は一日の昇降客数326万人で世界一の混雑でした)
私はランドプランを立てたパシフィック・コンサルタントに苦言を呈しました.「駅からの地下通路は幅は狭いし、臭いし最悪です」。
困っているうちにこの地下通路にダンボールハウスが目立つようになりました。バブルも弾けて路上生活者が目立って増えだしていたのでした。路上生活者は雨風が防げる地下通路に肩を寄せ合うように集まって来たのでした。彼等は段ボールをガムテープ等で繋いで。ビニールハウス状のテントを作って。其処に寝泊まりして居ました。路上生活が通常でも狭い通路にダンボールハウスを作って占拠し、其処で野良猫がたむろするものですから、耐え難い悪臭が漂っていました。
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図書館で当時新宿駅東口のベルクの副店長であった迫川尚子さんの写真集を借りて来て読みました。写真は沖縄出身の方でお面を被っておどけていたのでしたが君が代が響くと頭を抱えて蹲ったそうです。背後にダンボールハウスが見えます。
”東京の玄関が見苦しい”都庁で対策を練りました。。西口地下通路に『動く歩道』を設置するプランでした朝は西向き『職場方向』に夕方は東向きに(駅方向)歩く歩道を動かせば渋滞も解消するし見苦しい段ボール村も撤去できる「一石二丁」の計画でした。西口地下広場に「不法占拠を強制撤去する」公告が貼られました。東京都実力行使の日が近づくと全国から支援者が西口に集まって来て不穏な雰囲気になりました。
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都庁から駅に向かう地下通路。写真左が車道で歩道上にある柱の陰にダンボールハウスが並びました車道に近い側に「動く歩道」を作るので路上生活者の強制撤去が公示され実行されたのでした。写真には「撤去反対」の幟が見えます。写真出典前記迫川尚子さんの写真集。
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駅から地下通路に通じる広場路上生活者はゴミ箱に捨てられた週刊誌を拾ってきて路上で販売して居ました。新刊300円余りの週刊誌が100円でしたから、私も帰宅時に求めました。カンパの気持ちも在ったように思います。

新宿西口地下広場ダンボール村は、1996年1月24日に生まれ、1998年2月7日に亡くなったのでした。僅か二年余りの「いのち」でありました。少なからず段ボール村に共感を持っていた私でしたが撤去されると快適に通勤出来る事が嬉しく思いました。なんだかんだ言っても自分自身は体制側人間なのだと思い知ったのでした。強制撤去させられた路上生活者は西口通路から地下広場に西口公園に更には上野公園等に散ったのでした。東京都は路上生活者対策を西口地下通路から都内全域に拡散させただけでした。
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中にはアート感覚溢れる段ボールハウスもありました。これが最初の段ボールアートだそうです。瞬く間に段ボールアートは広がりました。路上生活者には心に溜まったものがあるのです。
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1996年1月24日強制撤去が報じられた朝の写真



長銀のОBであった日下氏はソフト化経済センターで「ホームレスの実態調査」を実施しました。私の部下だった人が書いた報告書を興味深く読みました。
今思い返せば”長銀が破綻すれば自分達も何れホームレスになるのかも知れない”予感が在ったのかも知れません。でも実力のある人は林先生の様に予備校教師からタレントに転身したり上場会社の社長になったり請われて日本郵便の役員に転出する人も現れましたが特段のスキルや情熱の無い人には生活難と厭世感が残されたのでした。
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これは厚生労働省の実施している路上生活者実態調査報告。毎年確実に減少していると報告されていますが。調査方法は目視でありますし。ホームレスの動機や意欲については無関心です。安倍首相が本気で一億総活躍社会の実現を標榜するのであれば、路上生活者の意欲を喚起するような姿勢が期待されます。
私は敬愛していた副頭取のお別れの挨拶「野良猫は遺体を晒さない」を忘れられません。
その意味は「猫は落ちぶれても猫族の気位は失わない。尻尾を振って飼い猫にはならない。死ぬ時は遺体を食い散らかないように猛禽類の眼に着かない処で消えて行きます」そんな意味だったのでしょう。
今我国では猫の遺体はゴミとして廃棄処分されます。江戸時代の方が遥かに文化的であり命の尊厳が守られていました。現代は猫は未だしも人間の尊厳さえ軽視されています。今想い起すと差別もヘイトスピーチも新宿段ボール村撤去の頃に始まったように思われます。

その後日本人には思いもよらない事件が頻発しました。
公園にホームレスの遺体が発見されたのでした。若い人がまるでゲーム感覚で「ホームレス狩り」を実施したのでした。テレビで路上生活者を強制撤去する光景を見た若い人が真似たのでした。
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年2015年12月13日新宿戸山公園で発生したホームレス狩り殺人事件(時事ニュース)
社会の差別と云った病理は、無分別な若い人を感化してまるで保健所の実施する「野良犬・野良猫捕獲」のようにホームレスを排除させたように思います。
私の住む戸塚区上倉田でもホームレス差別の感覚は色濃く残っています。
区民の憩いの場所である堤防には昔からベンチが設えてありましたが、人の背丈もあったベンチに仕切りが造られました。ホームレスがベンチで寝転がらないように仕切りを取り付けたのでした。
今も橋脚の下にダンボールハウスを設置してホームレスは生活しています。堤防に胡瓜や小松菜を栽培していたのでしたが県は畑を認めず耕作放棄させました。今は一面ブタクサが繁茂しています。
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筆者の生活圏にある柏尾川のベンチでさえ路上生活者が寝られないように仕切りが設置されました。又以前は堤防空き地で路上生活者が胡瓜や小松菜を栽培していたのでしたがこれも止めさせ今はブタクサが繁茂しています。私は路上生活者にも川原で野菜を育てる権利が在って、それを停止させるのは応仁の乱でも実施されなかったと思います。虐めや差別の心は誰しもが心の底に隠し持っているので。権力者は差別や虐めをしないようにナーバスであって当然と考えます。
「差別はいけないヘイトスピーチは許されない」「基本的人権はホームレスも納税者も変わらず守られねばならない」小学生でも判断できる憲法の精神です。ところが、体制側・権力側で生活しているとついつい忘れやすくなってしまうものです。
路上生活者は「好きでそういう生活をしている」と見られがちであります。
段ボール村を強制撤去した東京都もそうした社会意識を背景に「不法占拠者とは一切話し合わない」という姿勢を崩しませんでした。本来、生活に困窮した人々を支えるべき福祉行政も、「どこの馬の骨かわからない人に生活保護は出せない」と路上生活者への差別意識をむき出しにしていました。

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噓を断罪する。

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昨日のニュースに天皇・皇后両陛下がお揃いでマニラ湾に沈む夕陽を眺めて居られる光景が映りました。
お二人がどんな思いで美しい夕景を見ておいでか想像してみました。
1941年12月「真珠湾」を攻撃した日本軍は直ぐに西に向かい米国の植民地になっていたフィリッピンに進攻したのでした。マッカーサーは「I shall return」言い残してオーストラリアに退却しました。日本軍は石油資源を求めてマレーシアに進攻してゆきます。
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I shall returnプリントされたタバコ函 日本軍が真珠湾からマニラ湾更にインドネシアに進攻する事は予測していたのでしょう。写真出典ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE

1944年マッカーサーは予言通りにマニラに戻って来ます。
アメリカ軍は戦後のフィリッピンの独立を約束してフィリッピン人の歓心を獲得します。米軍の対日本軍反攻作戦はゲリラ戦の様相を呈しました。フィリッピンでの日本軍戦死者は50万人であったのに対し無辜のフィリッピン人市民の死者は100万人を数えました。
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山下清作昭和20年の貼り絵子の貼り絵がどんな経緯で作られたかはわかりません。右側から米軍がせめて来ます。左側の日本軍は銃剣や日本刀で迎え撃っています。爆撃機が落下してきています。右側には戦線には出ていないものの予備兵がスタンバイしています。山下清にも日本軍の劣勢が明白に見えていたのでしょう。この戦場が何処なのか解らないまでもマニラ戦か沖縄戦のように想像します。
両陛下がマニラ湾で夕陽を眺められたお姿を私たち日本人もフィリッピン人も見詰めています。天皇陛下は日本人の代表として贖罪をしにマニラ湾を訪れ、フィリッピン人も日本が再度過ちを犯すことが無いと確信し、心底許す気になっていられるでしょう。たかもしれません。
真珠湾攻撃に始まった太平洋戦争は「大きな噓」が発端でした。
”米国を筆頭に世界を敵に回して勝つ見込みがあるのか?”誰しも疑問に思ったのでしょうが。太平洋の制海権を握りインドネシアの石油を奪えば持久戦になろうとも戦争に勝利する可能性がある。
国民を扇動したのは軍部であり権力者でした。
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京都西陣の釘抜き地蔵「石動寺」の釘抜き絵馬
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宿3丁目太宗寺の閻魔像ッ背中に大きな釘抜きが置かれています。大きな噓を付いた舌を抜くには十分なサイズです。このお寺には弩迫力の奪衣婆も祀られています次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48812292.html

私達日本人は”噓をついてはいけない。嘘つきは閻魔様に舌を抜かれます”教えられて育ちました。
一方”噓も方便”逆の諺も伝わっています。
京都西陣の釘抜き地蔵には無数のの釘抜き絵馬が懸っています。釘抜きは苦労を抜くの意味です。閻魔様が舌を抜く意味ではなさそうです。一方新宿三丁目の太宗寺には巨大な釘抜きが壁に懸っています。「鬼に金棒」ならぬ「閻魔に舌抜き」です。私の様な小者の舌なら京都の釘ぬき地蔵で充分です。閻魔様が使う舌抜きは大物の舌用であります。太平洋戦争の発端を作った「大嘘つきの舌」に適当です。
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裸の大将こと山下清さんの代表作「長岡の大花火」精神病理学者であった式場隆三郎博士の指導の賜物のだったようですが。精神薄弱の病理がシュールな貼り絵に成果を得たもののようです。放浪癖が在って軽々に嘘をついた山下少年が放浪中の出来事を綴らせ、貼り絵に描かせた成果がこの作品だったようです。我が国は戦前に童話や童謡が盛んで突然の戦争で総てがストップしてしまいました。終戦と同時に昭和モダニズム文化が再燃しました。山下清が評価されたのもそんな背景があったと思われます。
昭和天皇は貼り絵の様子(市川に在った八幡学園)をご覧になり次の歌を残されました。貼り紙を まなふすかたの いとほしも さとりのたらぬ子も励みつつ、和歌も贖罪も国民の象徴たる天皇の行為でありお心でしょう。
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葉県市川にあった八幡学園此処で式場隆三郎先生の指導を受けたことが山下清の幸運でした。

最近デーサービスが「山下清」さんの画集を買ってくれました。私は食後じっくりと読み、絵を見詰めて居ます。
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山下清の描いた蝶々
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これは山下清の綴った「放浪日記」。放浪した時の体験を綴らせ絵に描かせたのは当初は「お仕置き」「反省」の意味もあったようです。山下少年は仕方なく綴り絵を描いたようですが。その成果を認められて嬉々として製作に向かったようでした。此処にも小さな噓が隠れていました。山下少年は警察官に補導されると困るので上手に嘘を用意して少しでも放浪を長く続けようとしました。この文章には蝶々を観察した時の喜びが綴られています。

私が御成小学校に転校したのは小学生5年の時でした。そのクラスに式場さんという優等生が居ました。男子で一番成績の良かったのが式場君で女子は島森書店のお嬢さんでした。
ある日式場君に”家に遊びに来ないか!”誘われました。
私でさえ式場君のお父様(式場隆三郎氏)は著名な精神病理学者で「裸の大将」こと山下清の指導者である事を知っていました。寿福寺の少し手前のお宅に伺いました。暫く遊んだ、後お八に「カレーライスを出していただきました。私はこのカレーライスは山下清も大好物なんだろうな?思いながら戴きました。
式場先生は新潟医科大学のご出身でした。山下清の代表作「花火」は長岡の河川敷で花火を見た時の興奮を貼り絵したものでした。
私はデーサービスでしみじみと花火を見詰めました。するとこの絵は噓が一杯で在る事に気付きました。一つの画面に花火師が火をつけてシュルシュルと花火が天の昇ってドカンと大輪の花が咲き観衆が”美しい”溜息をつきます。そんな一刻一刻変化する場面を一枚の画面に圧縮しています。

考えてみれば日本の文化は源氏物語も鳥獣戯画も嘘で満ち満ちています一番の興奮を的確に伝えるには噓は避けられないのです。「噓も方便」の諺は最も重要な事を真実を伝える為には必要な手法なのです。それは近松の「虚実皮膜論」や世阿弥の「花伝書」にも見える文化論です。

昨日の国会中継を見ていて、憤慨しました。大きな噓や権力者が付く噓が目立つのです甘利大臣は権力者です。贈賄を受けたか否かは本人が胸に手を当てれば明らかな事です。国会の審議を中断しても本人の説明責任を果たすのに2日も必要なのは贈賄を受けているからでしょう。2日の時間は贈賄側を説得するか何か姑息な手段を講じるに要する時間なのでしょう。
嘘つきを匿おうとする自民党は”相手が悪かった”とか”筋が悪かった”言っています。相手が良ければ贈賄など問題でないと謂わんばかりです。衝いてはいけない噓もあれば衝いて良い噓もあります。でも権力者は決してどんな嘘でもついてはいけません。権力者の噓は無辜の市民を不幸に陥れます。先の戦争もそうでしたし、原発事故も権力者の噓が係わっていました。再度日本が噓に苦しまないためには、噓の軽重を問い時には強く断罪する覚悟が重要です。


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救いは耳から

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昨日は「裸の大将」こと山下清さんの話をしました山下清さんの絵について精神病理学博士式場隆三郎先生は次のように言っておいででした。厳しい社会情勢の中でどうしたら知恵おくれの子どもたちを守り育て,実社会に送り出せるかは難しい命題でした八幡学園には知恵おくれの子供達沢山集まって来ました。何処子供も原石で放っておけば苔が生えてしまいます。八幡学園で教育訓練を受けさせます。しかし清は学園が嫌いで逃げ出してしまいます。先生の眼を盗んで市川の街に出ても巡査に見つかって学園に戻されました。
清が逃亡して仙台で巡査に補導された時の日記です。
清は巡査に呼び止められました。お前は
「学園は何をしている?」
「旅をしています」
「お前は何を喰っている?」
「私はお貰で食べています。
「腹が空いたら盗みもするだろう?」
「そんなことはしません。必ず誰かが食べ物を下さいます。
「お前の荷物を調べる。此処に在る百円札3枚は如何したのだ何処かで盗んできたのだろう?」
「違います。食べ物を下さい。お願いすると硬貨を下さる事があります。硬貨を両替してゆくと百円札になるのです・・・・。」
清には八幡学園の教師も巡査の様に見えていたようです。自分の自由を束縛して、生きようとする意志を無視する。・・・・・・。
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山下清が入っていた市川の八幡学園(精神薄弱者収容施設)校舎と圃場戸を鉄条網で囲っていたようです。清は此処での生活が自由を束縛されていると感じていたようで再三遍歴放浪の旅に出ました。その体験が日記(裸の大将)と貼り絵になったのでした。日記にの行間にも貼り絵の紙裏にも式場先生の愛情が隠れていたように思います。

巡査の補導された清は式場先生の下に戻されます。
式場先生は清を叱るのではなく…。
「放浪中の出来事を綴って、みなさい絵に描いて見なさい・・・・。」
と言って原稿用紙と貼り絵の道具を渡したのでした。
清は夢中に貼り絵に打ち込みました。貼り絵に白い画面が少しでも残ったら叱られるとでも思っていたのでしょうか無心に全画面を貼り絵で埋めました。戦争画も鉄条網も貼り絵にするとシュールに見えました。
先生と清の交流は絵を介して行われました、清は絵を認められて嬉々として貼り絵をしました。式場先生の精神病理学のスキルは「患者さんの心の声を聴く事」だったのでした。
山下清の作品(日記と貼り絵)は本人の式場先生の合作ともいえるモノだったのでした。私達昭和の人間は昭和の生んだ文化財として山下清の作品を残せました。
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放浪に出た清は勿来の関に行きます。海岸沿いのトンネルでは線路工夫が働いていました。砂浜には海水浴客が遊んでいます。この先仙台で巡査に掴まって千葉に戻されます。(昭和24年27歳)
現代に欠けている事は心の声を聴く耳を誰も学校の先生も家族も…持ち合わせていない事の様に思えます。

私は登校拒否や虐め問題の解決策も此処に在るように確信しました。
学校に行けば苛められるかもしれない、そんな心配は登校拒否に繋がります。嫌な学校は鉄条網の向こうに在るようです。教室で先生は教科書を読ませて要点を黒板に書くだけで「…してはいけません」まるで巡査の様に”いけません・駄目です”を連発します学校も社会も弱い者締めばかりが目立っています。人間の本性は自由に生きたいのです。清の様に自分の思言うままに街を放浪し.蝶々や蟻さんと対話して食べ物を貰って(托鉢して自分の命の命じるままに生きたいのです。式場先生はかは精神病理学者で清の声が聞こえたのでしょぷ。清も先生が自分の貼り絵を誉めてくれることに母親の愛情を感じていたのでしょう。
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今度は江の島に逃亡します。昭和24年27歳。何故か平和な筈の空に爆撃機が飛んでいます。戦争体験の無い私達世代も戦車やゼロ戦戦闘機を描いたものでした。

ところで『聴く事こそ大切だ』と思うと不思議に思う事があります。
観音菩薩の事です。音を観る菩薩様ですから耳を立てて衆生の声を聴いて下さる菩薩が感音なのです。阿弥陀如来の脇侍から出発して信仰の中核になります。衆生は観音様のお力が無限と信じ”観自在菩薩行、深般若波羅蜜多時”と風呪しています。そして漢音様を自由勝手に変化させました。どんな人でも助けて欲しい期待して千手にしました。眼も千つけて千手千眼にしましたでも本来は千耳であって然るべきです。千耳観音でくどいので千の耳は避けたのかも知れません。でも聖徳太子は一度に8人もの人の声を聴き分けたと言い伝えられます。聴く事が救いの始めである事は間違いないようです。
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三十三間の千手観音国宝 鎌倉時代 湛慶作観音は衆生の声を聴くのが得意ですから耳が良いのです。

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..寺子屋と学校の違い

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日本では「文盲率」と言います。文字の読み書きのできる人の割合でっすからグローバルの用語では「識字率」です。私達は識字率は日本が100%で世界一だと思って居ますが、それは過去の事で江戸時代末期の江戸での事です。今では日本の上にキューバや韓国があります。何故だかどうしてこんなことになってしまったのか?その解答は「教育の現場は地域や家庭に在って現代に日本は地域も家庭も崩壊してきていることにあるのです。今日はこのことを説明します。
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世界の識字率マップ出典ウキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%98%E5%AD%97%E7%8E%87%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%9B%BD%E9%A0%86%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88殆どが99%ですが日本は36位でキューバやチリハンガリーなどが上位で農業国ほど識字率が高いのです。
アヘン戦争で中国を蚕食した列強はアジアの東端の日本に遣って来て開国を迫りました。そして日本を観察しました。先ず国土が緑で美しい事国民が礼儀正しい事更に識字率が高い事に気付きました。当時のリーダー英国でさえ識字率は25%でしたから脅威だったのでしょう。その秘密を寺子屋に見つけ本国に報告しました。国家の防衛力は軍隊ではなく文化障壁であったのは昔も今も変わらないのでした。
寺小屋がどんな仕組みであったか杉浦日向子さんが興味深く解説しておいでです(出典お江戸風流散歩)
そもそも寺子屋はお寺の住職が檀家の子弟を預かって教えたことに始まりますが、実は江戸市中に4000もあって蕎麦屋の数に匹敵するほど多かったのでした。長屋住いの痩せ浪人は長屋の子供達を預かりました。夫婦共働きの住人は浪人宅に子供を預けて働きに出ました。小唄の師匠は娘さんを預かって三味線や琴踊りを教えました。教科書は室町時代からの常識を整理した「庭訓往来」を初等教科書にして呉服屋の倅には「商売往来」を大工の倅には「番匠往来を」百姓の倅には「百姓往来」を教科書にしました。どれもこれも実学の上に厳しく躾を鍛えられました。両親にすれば家の近くの寺小屋に子供を預けておけば読み書き算盤も社会人としてのマナーも教えて貰えるし。職業を継ぐ基礎知識もおしえとぇ呉れるのですから。大助かりでした。
子供は寺子屋に行けばお友達も沢山いるし。お友達が教えてくれるもする。加えて八つ時今の午後3時)にはお菓子もくれるこんな良い所は無かったでしょう。
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渡辺崋山の寺子屋図今風に云えば学級崩壊の状態でお習字に厭きた子供達は遊びほうけ居眠りしています。そのうち先生は年長者を叱って廊下に立たせたり雑巾がけをさせたりします。学級崩壊を招いた子供は深く反省して二度と同じ過ちはしないのでした。
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寺子屋を英国に報告した挿絵武士が教本を音読しているものの子供達は遊んだり居眠りしたりしています、こんな光景(自由学級)は無着盛況氏の「山びこ学校/山形県上山市や安曇野の「トンガリ帽子の時計台」や日曜学校(教会や寺院)に引き継がれました


寺子屋の精神は明治維新政府の学校制度では無視させられ真逆の方向に向けられてしまいました。何しろ明治政府は富国強兵策を標榜し優秀な軍人技術者官僚を育てる事に教育目標を定めたのでしたから。大学を最高学府にした教育のフィエラルキーは教育を受ける者の個性を抹殺するもので楽しい筈ありません。農家や大工や呉服屋の倅に「親の仕事より兵隊の方が良い。官僚になれば親孝行になる」と教えても子供達は納得できません。現代で見れば子供は親の仕事の後ろ姿が見えません眼に見えない仕事を教える事は困難です。解り易いのは親の所得の過多だけです。貧乏な家の子供は親を軽視する傾向が出てしまいます。「労働に貴賤は無く」「労働の尊さ」を基本にした実学を教えない教育は只管家庭崩壊を招くだけです。
江戸時代寺小屋で実施してきた全人教育は明治維新政府によって破壊されてしまいました。本来親が持っていた子供の教育義務権利は国家に奪われてしまいました”お前のお父様の仕事は社会に役立っている”寺子屋で教わって胸を張って家に帰っていたのが、今では「家の家が貧乏なのはお父さんの仕事に原因がある」そう思いながら帰宅するのでしょう。家庭崩壊が識字率の低下を招くのは必然です。日本文化の継承の為にも実学の大切さを教え教科書の検定制度は止めたしモノです。
昨日まで山下清さんの作品を見て来ましたが、その延長上(昔に)に寺子屋がありました。

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千葉房総富津の真福寺の地蔵尊次に書きました。寺子屋もお共たちが成人して住職宥慶和尚の御恩に報いる為に建立したものです。http://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%AF%8C%E6%B4%A5%E7%9C%9F%E7%A6%8F%E5%AF%BA%E5%9C%B0%E8%94%B5&aq=-1&oq=&ei=UTF-8


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雷おこしの文化。

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昨日は江戸時代に寺小屋に在ったのに学校では消えてしまった事を考えました。識字率は江戸時出汁100%でしたのに現代は貧困や家庭崩壊で識字率は100ではありません。
戸時代の時間は日の出日の入りを基準にしてその間を10等分しました。「暮れ六つ」と云えば夕暮れの6時(刻)の意味で明け六つと云えば明け方の6時(刻」の意味でした。
私達は腕時計を携帯し1日を24時間に分けて1時間を60分1分を60秒にしていますから、ぼんやりしていると遅刻をしてしまいます。「6時に雷門でデートしましょう」と約束すれば江戸時代なら誰もが夕方の6つ時に雷門に向かいました。私達は時計を見ながらデートに間に合わせなくてはなりません。浅草寺の暮れ六つの梵鐘が鳴らなくても陽の沈む時には雷門に居なければ、駄目男の烙印が押されてしまいました。何しろ恋人も自分も同じお日様を見て時刻を測っているのですから言い訳無用なのでした。皆が同じ時計を使っているのは何かと便利でした。
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江戸時代の時刻表日の出日の入りを基準にしてこの間を10等分したのでしたから夏と冬では時刻が違いました。私達の体内時計に沿ったもので、日の出とともに起き出して仕事を始める日の入りと共に家に入って夜なべの仕事をしたり寝たりするのが良い生活習慣でした。全員が同じような不定時法生活をしていたのでコミュニケーションは充分に保てたのでした。
「明け六つ」と云えば明け方の6時刻の意味で現代時計で云えば上図の様に午後3時になります。「暮れ六つ」と云えば日の沈む6時刻で現代感覚では夜の9時になります。明け六つに起きた子供達は朝ご飯を食べて寺小屋に向かいます。お父さんも職場に出勤します。お母さんは大店に奉公に出かけます。昼の九つ(正午)を過ぎるとお八の時刻になります。私達は3時に食べても昔ながらのお八の名を残しています。
寺小屋では「今日も良くお勉強したね」ご褒美にお八のお菓子を出ます。子供達はおやつを貰って満足です「明日も寺小屋に来よう」思います。
お八の文化は駄菓子となって引き継がれました。先日雑司ヶ谷鬼子母神に行った時にも駄菓子屋が繁盛して居ました。昭和の懐かしさも相俟ってついつい駄菓子屋に引き寄せられてしまいます。頬張ります。分子たのでしたからす現代の時計は1日を24時間にして前半12時間後半12時間に区分しています、ですから江戸時代の一時(1時間)は現代時計では約2時間になりました。
1月28日新年会で乃木坂に出かけました。少し早かったので六本木ミッドタウンに寄って時間潰しをしました。
ミッドタウンにはスケート場があります。虎屋さんのお店の前にテーブルが在って此処で休憩してから乃木坂の新年会会場に向かう事にしました。椅子に座って珈琲を飲みながら近辺を見渡します。


この辺りは銀行員時代隅々まで実査した処。其処此処に山っ気のあるデベロッパーが集まって来ていました。お砂糖の塊は六本木にあった自衛隊の檜町駐屯地でした。デベロッパーはあの手この手を使って周辺の物件を買収して、大規模開発利益を先取りしようとするものでした。
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東京ミッドタウンと毛利庭園の間にあるスケートリンク。ミッドタウン内の公開空地にカフェテラスがあります。ミッドタウン内でテークアウトできます。3月9日まで1500円/おとなだっそうです。

この辺りは毛利藩の家屋敷でした。明治時代に入ると陸軍駐屯地になりましたが終戦に伴い米国に接収され米軍将校の宿舎として活用され。サンフランシスコ講和条約発効後1960年に日本に変換されて防衛庁の本庁舎に設置されていました。1988年(昭和63年)多極分散型国土形成促進法に基づき、防衛庁を含む行政機関の移転が閣議決定されました。
過半の土地は国の所有ですから、大蔵省(理財局)と東京都が跡地利用計画を策定します。デベロッパーは砂糖の塊に集まる蟻のように国有地の周辺に集まって来ました。大きな集客力の施設が出来たら小判鮫商法をしようと狙ったものと思います。元々六本木は有象無象が集まる怪しげな土地柄でしたから。難しい筋も集まって来ました。
当該地の赤坂寄りには森ビルが中核になり霊南坂教会等に移転して貰いサントリーホールや全日空卯ホテルが進出しました。六本木ヒルズは矢張り森ビルが中核になりテレビ朝日やハイアットホテルが進出しました。
既にどのプロジェクトも成功を確信して居ましたから自衛隊の檜町駐屯地跡地プロジェクトの成功は誰しも確信するモノでした。
コンペの結果中核デベロッパーに三井不動産が決定しました。プロジェクトの名は「東京ミッドタウン」と決定しました。何のことは無いプロジェクト名も「東京三井不動産」なのですから、この東京最後で最大の複合都市施設は三井不動産の手中に収まったのでした。全国から集まってきたデベロッパーは関ヶ原ならぬ六本木に屍を晒し、本丸は三井不動産の手に落ちたのでした。
虎屋さんのお店は昔から「お菓子文化の歴史」や「地方のお菓子」を紹介しています。今次は「遊びのお菓子」を照会して居ました。

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ミットタウン内虎屋の「笑う和菓子」の展示コーナー
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浅草寺雷門の「お越し」かわいすぎて」割って食べられませこ300円です。おこしは駄菓子であり続けているようです。

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これが雷門脇にある雷門常磐堂出典同社ホームページhttp://tokiwado.tokyo/shop/kaminarimon-honten.html

お茶席の和菓子が大人の遊びなら遊びの文化に紹介されているのは子供のお菓子駄菓子文化でしょぷ。寺子屋でお八に貰った子供の感動がそのまま大事にしているようです。
おこしは原料は「粟/あわ」でした。粟を蒸して麦芽糖等の飴で固めた駄菓子です。
粟は我が生家でも栽培して居ました。もち米を撞いた後は粟を蒸して撞きました。かきもちにしたのでした古くなってカチカチになったお餅はあられ餅に粟はかき餅にしました。どちらも自家製のお八でした。生家が寺小屋であったり、戦時中に疎開してきた学童を預かった記憶から駄菓子作りを伝えていたのでしょう。子供心にもかき餅が焼ける時の香ばしさは最高でした。干しイモも懐かしい駄菓子でした。
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これは山形鶴岡の「おきつねはん」です。頃砂糖を使った小豆菓子で北前船の歴史を留める駄菓子です。400円


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麦踏と子育て

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私の母の想い出です。
母は都下狛江の泉龍寺(http://www.senryuji.or.jp/)の長女として産まれました。大寺のお嬢さんでしたから、家事もせずにまして、田畑を耕すこと等もせずに育ったのでした。父に縁談を奨められたのは小田原の最乗寺の住職梅田老子でありました。そふが副住職でしたから。縁談は自然な流れに在ったのでしょう。父の遺稿集によると、母は女学校(大妻)の特待生で桐生高校の教師をしていたとの事。申し分お嬢様なのでしたが。盛徳寺に比べれば今も昔も龍泉寺は格が違う大寺でした。そこで祖母が勇んで狛江に赴き調査を下との事でした。結果ショプワ11ん年結婚の運びになりました。母は父の事は何も知らずまして自分が祖母に事前面接を受けた事も気付かなかったようです。
  渋かろか知らねど柿の初契り
これが母の作句でした。
盛徳寺に嫁いで母は村の娘さんを集めて和裁や習字を教えていました。
母の生活が一変したのが敗戦に伴う「農地解放」でした。盛徳寺は阿波蜂須賀家の寺院でしたから檀家は居ませんでした。生活できたのは寺領の田畑が在ったからで、それを手放すと僅かばかりの田圃と裏山だけが残りまあした。8反もあって自作すれば、れば大人3人子供4人は食べて行ける数字だったのでしょう。
母は一人で近所の農家の伯母様に農作業を教えて戴き懸命に田畑を耕しました。
   朝露や百姓の手ほどき 不馴れにて
   子を負いて星をいただき麦を踏む。
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デーサービスの2月のランチメニューを知らせる黒板に麦踏の絵を描く事にしました。チョークの粉で手も服も汚れてしまいます。

母は授業参観にももんぺ姿で顔に泥をつけたまま出てきました。
私はそんな母に「他所のお母さんの様に綺麗にしてきてよ!・・・・」云いました。母は思い出話になると決まってこの話をしました。
母にとっては子育ての時が一番に充実していたし、楽しかったようでした。
2月4日は立春です。
この様子では立春を越しても春寒が続く事でしょう。
母の十八番の歌は「冬気色/狭さ霧消ゆる 湊江の 舟に白し朝の霜 と「早春譜/春は名のみの風の寒さや」と」でした。冬気色と早春譜を変わり番に唄っていました。
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一面霜が降りて霜柱が立った麦畑。麦踏と土起こしが豊作の為には欠かせません。栄区上郷の麦畑です。
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一面に広がった麦畑群馬県は麦の美味しい穀倉地帯で。日清製粉も水沢饂飩も麦踏の成果です。


母が私を背負って踏んでいた麦畑は今は工場になって最近その工場も日立が手放して大規模な商業住宅に開発される噂です。母の苦労が子孫に伝えられずに残念です。
ところで、戸塚にも昔は麦畑が広がっていました。
田圃は毎年稲を栽培できますが、麦は連作出来ないのでした。麦の間に粟やトウモロコシ薩摩芋などを挟まないと不作になってしまいました。
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麦踏に精を出す。舞岡で畔の間の土を掘り起し麦を踏む事で逞しい麦が育ちます。
麦は子育てと同じように手が罹りました。先ずは麦踏です。丁度今頃の季節です。麦畑に一面霜が降りて地面に霜柱が立ちます。麦と霜柱もろともに踏みつけるのが麦踏です。麦は踏まれる事で浮いてしまった根が大地に埋め戻されます。同時に踏みつけられた麦の茎はエチレン(植物ホルモン)を分泌し、茎はより太くなって株も穂も大きくなります。麦踏される事で麦は逞しく育つのです。まるで、子供が逆境に遭遇して苛められる事でより逞しく育つ事にも似ているようです。
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完成した麦踏のチョーク絵
「可愛い子には旅をさせろ」と言います長銀破綻以来逆風の私ですが「今更」の感がします。子供達には申し訳ないのですが「子孫に美田を残さず」を伝えたいと思うばかりです。

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「愛」と「家族」

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昨日は日文研の仲間と日本橋三越に出かけました。三越美術部に居られるI先輩が「愛と絆」と題する企画展を実施されたのでこれを皆で鑑賞し。同氏の半世紀に亘る業績を賞賛しようといった目論見でした。
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これが三越新館ギャラリーで開催された「愛と絆」展のポスター内容的にはシャガール(愛)と高山辰夫(絆)の展覧会でした。日文研の先輩(仲間)の定年回顧展の趣でした。シャガール(愛)も高山辰夫(絆)も私達世代の愛(性)と知性(哲学)を形にしたものですから、しみじみI先輩は良い人生を三越で過されたものと羨ましく感じました。これからどのくらいの時間が許されているのかもしれませんがマダマダ時間はゆっくり進むようです。仲間と一緒に時間(旅)をご一緒したいと思いました。
私は就職に際し。好きだったカメラの趣味を生かして日本工学を始め2社の内定を得ていたのでしたが。
父や兄に銀行を強く奨められ友人に訝しく思われながらも長銀に行く事にしたのでした。
そんな私に比べてI先輩は日本美術が好きなので三越の美術部への配属を希望したのでした。
三越美術部ともなると二つの役割がありました。その一つが日本を代表する作家の作品を売買する事です。もう一つは若手作家の育成や伝統の技の継承です。前者の収益で後者の事業をしているようなもので、代表作家とコレクターとの仲介業務には大変な苦労と見識が必要で在った事でしょう。そんな二つの役割を見事に果たして停年を迎えたI先輩でしたが、今も請われて新幹線通勤を続けておいでです。
一つ目の仕事の代表作家が高山辰夫画伯でコレクターが吉野石膏の須藤永一郎オーナーでありました。http://www.yg-artfoundation.or.jp/
今回は吉野石膏にI先輩が繋いだ作品を山形を始め全国のの美術館からお借りして一堂に展覧したのでした(後援読売新聞社)
吉野石膏は「タイガーボード」の商品名で有名な建築ボードの専業メーカーです。
1901年(明治34年)山形の吉野鉱山(現南陽市)で石膏原石を採掘したのが事業の始まりでした。
米国で石膏ボードが開発されると基本アイディアを採用し我国でも製造を始めます。
世界的にダイオキシン鉱毒が社会問題になり更に石綿(アスベスト)の粉塵が肺癌の原因になると指摘された事から業界は縮小します。このような状況下吉野石膏はアスベストを使わないボードの開発を推進し(http://yoshino-gypsum.com/pdf/asubesuto.pdf#search='%E5%90%89%E9%87%8E%E7%9F%B3%E8%86%8F%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%88')現在では市場占有率80z%に及ぶ優良企業です。
吉野石膏は頑固なオーナー企業でオーナーの信条が経営に反映しているようです。
吉野と云えば修験道の総本山吉野山「蔵王権現」です。蔵王権現は修験道のご神体で吉野鉱山の名も蔵王山の名も東の修験道の聖地出羽だからでしょう。信念の強さ家族や地域の絆の強さは出羽特有のものです。日本人の「絆」を表現するには出羽が格好なのは昔から変わらないようです。
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吉野山蔵王堂のご本尊蔵王権現像(国宝)観光ポスターを複写。吉野石膏の名は創業地吉野鉱山の名に因み蔵王山への信仰にも依るモノでしょう。信仰とか地縁とかおよそ資本主義の対極にある価値観がこの企業を律しているようです。昨年観桜に行ったのでしたが平日の深夜でしたので御開帳して居ませんでした。
ポスターを一見した時思いました”「愛と絆」とは変わった表題だな?”
展覧会を観てI先輩の意図は良く解りました。「愛」とはシャガールの描いた愛情の事で、シャガール自身がロシア系ユダヤ人)で在った事からナチスの迫害に逢い、米国に亡命し。生涯、妻ベラ(ベラ・ローゼンフェルト)を一途に敬愛していたこと、ベラへの愛や結婚をテーマとした作品を多く製作しました。須藤永一郎オーナーは、終戦を経てシャガールを熱愛されたそうでその大作を多く所有されたそうです。戦争への憎しみ平和や愛情の尊さを終戦を機会に痛感されたからシャガールの愛の夢想の世界に癒されたのでしょう。色彩が魔術の様なシャガールに比べれば高山辰夫さんの作品は白黒の地味な世界です。
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シャガールの「天使と恋人たち」絵葉書を複写(シャガールが恋人ベラ・ローゼンフェルトと添い寝し天使が祝福している夢想のような場面です。私達が学生だった頃同棲時代と云った劇画が人気でした。シャガールは私小説の世界です。竹久夢二にも似ています。
高山辰夫画伯は同世代の東山魁夷画伯や杉山寧画伯に比べれば地味で哲学的で難解な作家でした。日展でも院展でも同室で展示され他の二人の作品の前には黒山の人だかりなのに比べて気の毒なほど見入る人は少なかったようです。高山辰夫は国東の根元の美しい杵築の街で育ちます。其処は臼杵の石仏を始め熊野磨崖仏など石仏の宝庫です。高山少年は石仏に囲まれて育ったのでした。石仏の存在が高山少年のメンタルに深い影響を与えた事でしょぷ。1000年を超えて人間に強い宗教的インスピレーションを与え続ける造形を理想としたことでしょう。その宗教的衝動は密教であり造形は石仏の彫法だったと憶測します。高山画伯の作品に感動した友人の井上靖氏は「聖家族」と名付けられたのでした。大作家が「聖家族」と名付けられたので「聖家族」が一般化したようです。でも高山画伯はこの表題に御不満だったようで「自分は何も聖家族を描いたわけでは無い」云われておいででした。そこでI先輩は画伯の意を汲んで「因縁」とか「輪廻」とか名づけたかったのでしょうが「愛と因縁」では語呂合わせが上手くありません。そこで「縁」の意味で「絆」とされたように推測しま舌(本人に確認したのではありません私の推測です)
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高山辰夫画伯の聖家族Ⅷ1993年絵葉書を複写中央の母の関東衣は仏像のような衣文が描かれています.紙の表面の繊維が毛羽立って立体感がありました。画面が全体に土色に変じて来ているI先輩の印象で、それも計算された変化であろうという事でした。

I先輩に確認できたことは以下の事でした。
一見して墨絵の様に見えますが素材は墨では無く黒辰砂http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/shijyo/detail.asp?record=604と云う鉱物(水銀)であること白い色彩は胡粉牡蠣の貝殻を粉末に砕いた顔料で博多人形のお顔に塗ったりする)であること画面絹布では無く和紙で在る事。表面が臼杵の石仏のような質感が在るのは和紙の繊維が毛羽立っていること等興味深く伺いました。
I先輩が吉野さんに仲介された頃はもっと白黒の濃い画面だったそうですが、今見ると少し土の色が滲みだしているそうです。書院の壁が時間の経過とともに変色するように高山画伯は色の変化を予測されていたとの事でした。言われてみれば豊後の石仏も1000年の経過とともに色彩も変わった事ででしょう。I先輩の説明に耳を傾けて居た瞬間私は耶馬渓羅漢寺の五百羅漢像の中に在った家族羅漢を想い出しました。苔だか黴が生して微妙な土色に変わって来ていたのです。高山画伯はイコン画のような宗教絵画では無くて大分の風土と其処に産まれた家族の絆を描きたかったものと思いました。
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高山辰夫画伯聖家族Ⅹ激流の縁で身体を寄せ合う家族が描かれています。耶馬渓の青の洞門(菊池寛のp恩讐の彼方へで有名)を歩む母子のようです。この川を見下ろす位置に羅漢寺があります
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高山辰夫画伯の聖家族を観た瞬間想い出した耶馬渓羅漢寺の羅漢像色感と言い、絆の字の意味と言い(母子が紐を掴んで支え合って断崖の隘路を伝った/親不知でなくて母は子に紐を握らせた)

私は吉野石膏が、須藤永一郎オーナーが正解だと確信しました。文化活動に熱心な企業は幾つもあります。出光興産も出光 佐三サンが指導していた時代はメセナ活動も活発で企業もチャレンジして居ました。でも公開してしまったらメセナ活動よりも資本利益率が問題になります。ブリジストン石橋家がオーナーとして尊敬されていた時代は八重洲口に美術館を持ち素晴らしい企業風土を誇っていました。でも。公開して世界のトップで居続ける為には人事も資本主義の効率を求めました。平成13年小泉さんの時代に大量解雇問題で人事課長は”ブリジストンはそんな会社では無い”抗議をして社内で割腹自殺して果てました。石橋家は久留米の名門で地元生まれの青木繁や坂本 繁二郎を庇護しました。でも人事課長が目の前で割腹して抗議したその事態に血の気が退いたことでしょう。サントリ―はメセナ活動も盛んでどうするのか?関心を集めます。
でも大半の企業が公開を選ぶのは資本力と併せて企業の承継を問題にしているからでしょう。公開した方が財産の承継が容易になると思って居るからでしょう。吉野石膏が未公開でワンマンの儘存続するようエールを送ります。

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羅漢寺の500羅漢像

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奈良まほろば店の想い出

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私はバブルが破裂した直後の2年間人事部付きで第一證券(現つばさ証券)(の公開部長として出向して居ました。ですから長銀の一番大切な時期に外に出されていたのでした。第一證券は山梨県で育った総合証券でしたから、証券会社の総ての機能を供えていました。
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三越の中央通り向かいが第一證券ビルでした。金ぴかのビルですからお客さんへの説明には便利でしたがバブルを連想させました今は奈良県の物産館(奈良まほろば館)が進出しています。上層階は清水建設の東京営業部が使っていました。筆者はバブル破裂気配が濃くなってきた1991年(平成3年)から1993年(同5年)この証券会社の公開部長の任に就いていました。長銀の破綻が1998年の金融検査翌年の粉飾決算逮捕でしたから、私のの長銀復帰後は傷だらけ泥まみれの毎日でした。
私は澄田智日銀総裁時代に膨張した過剰流動性がバブルを生み、三重野総裁のオーバーキル政策でバブルの傷口が深くなったと信じていますから今次の黒田日銀のマイナス金利政策は、日本を何処に連れて行くの?心配でなりません。想い起せばに過剰流動性対策を怠った結果株式と土地に資金が集中し実体経済にはむかいませんでした。結果貧富の格差が拡大し、世論はバブル退治に傾きました。後任の三重野総裁は地価と株価を庶民でも手の届く水準に回復すると公言し膨らみきった風船に針を刺しました。結果風船は空気抜きできずに爆発して失われた20年がスタートしたのでした。行政が貨幣に悪戯した時は天下は乱れます。実体経済に向いた時には善政が敷かれます。

企業は成長に従って間接金融(銀行から借り入れる)から直接金融(証券市場から調達する)に移行するものです。超銀が企業の成長性を診断し系列の第一證券に紹介して株式を公開する仕事をしていました。ですから。長銀の取引先で元気な会社に赴き公開を奨めるのが主要な業務でした。公開すれば金利の要らない資金が手許に入りますし。仕入れ販売の両面で強化されます加えて、公開後の資本構成を計画する事で事業を次世代に承継する事も可能になります。でも公開審査を経なければなりません。公開審査は東京証券取引所の審査官が行いますが。第一證券も審査官ОBを採用して審査をパスできるような体制を準備して居ました。公開審査の要点は、投資家が投資しても安全なような企業の意思決定体制や「財務諸表」が迅速正確に作成できる体制が整備されているか(定量・定性的体制)キャッシュフロー分析付加価値分析。更にはコーポレートガバナンスに耐える企業のデイスクローズ姿勢を診断します。そして公開直前3期の財務諸表を整備して東証の審査を受験するのでした。実際に公開できるか否かは別にして公開に耐える社内体制を整備する事は企業経営者にとっては名誉な事ですし。その成果は企業にとって無形の財産になります。企業も3年後を基準年にして公開するアドバルーンを上げる事によって社員の眼の色も変わって来ます。”長銀の行員が第一證券の公開部長を連れてきた”そんな事実を誇らしげにしてくれました。山梨県企業で公開を標榜している企業は数社ありました。山梨の地場企業と云えば宝石加工業に飲食業。カッパ・クリエイトを始め数社が第一證券主幹事で公開できました。でも総じていえばバブルの時に甘言に嵌ってしまった企業が多いのでした。
”3年後公開と標榜しているので公開できないと落胆が大きいし、信用不安にもなってしまうかもしれない”泣き着かれる事もありました。
こんな状況で公開したら証券会社のおお客さんに損失させてしまうかもしれない懸念になりました。
銀行員の時には銀行借り入れを謝絶する事に迷いは無かったのでしたが、公開で熱くなったオーナーに公開断念させるのは難しいものでした。
証券会社の朝は早く、一日の作戦は朝礼で、指示しなければなりません。出向と云えども現場の部長でしたから早く出勤しなければなりません。幸いなことに横須賀線が総武線と接続して戸塚駅から新日本橋駅まで直行できました。新日本橋駅から三越前まで歩毛羽職場でした。。第一證券のお隣は海苔の山本山で、大学時代同クラスだった山本君(山本海苔副社長)が居ました。仕事が上手く進めば鰻の宮川でランチを食べ、愚痴は砂場の晩酌セットで吐き出す毎日でした。
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第一證券の真向かいが三越でした。三越の北側は三井本館ビル(壇琢磨がテロに遭遇したビルその北が三井の再開発ビルです。その海側(東)にコレド日本橋のビルがあります。どのビルも三井不動産のお膝元ですから。三井不動産のリーダーシップが如何なく発揮されています。

2月1日は三越で展覧会を見る事にしていました。(昨日書きました)そこで再開発が進んで一変した日本橋の街並みを見て回る事にしました。第一證券ビルはどうなったの?見れば1階は「大和まほろば館」野の暖簾が懸っています。八重洲駅のコンコースにあった奈良県物産館が三越前に転居してきたのです。八重洲には国際観光ビルが在って。各県の物産館が進出して居ました。国際観光グループもバブルで失速して同ビルを取り壊したようで。各県の物産館が散ったのでしょう。奈良県が三越前に転居するとその二軒隣に島根県が転居し石見神楽の案内をしています。古代ファンは日本橋で遊べるようになったのでした。
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中央通りの歩道から「奈良まほろば館」のショーウィンドーを見ると野菜売り場が目につきます。DVDには今年は橿原神宮の神武天皇二千六百年大祭が斎行される…、案内が映されていました。店内に入ればお水取りに若草山の山焼きに明日香の予祝祭りなど等春を迎えるお祭りが案内されていました。
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第一証券時代のお客様の出入口には警備員ならぬ新薬師寺のバサラ大将の複製が立っていました。一番目のつく位置に野菜が並んでいて「毎日送ってくる」案内して在りました。毎日「明日香鍋」や「明日香ルビー」をいただけるのは魅力です。
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冬野菜が並んでいました。もう1箇月もすれば飛火野で収穫された蕨やゼンマイも並ぶことでしょう。
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奈良と云えば大和柿吊るし柿食べたいのでしたがお高く福島や山形のあんぽ柿が私の照準でありました。吊るし柿は諦め蕨餅に触手を伸ばすことにしました。
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三越の成功で関東に進出した伏見稲荷神社は日本橋に無数に勧請されました。提灯で見ればこの小路は「稲荷小路」です、
福徳稲荷神社(山口県下関市)は日本橋再開発でコレド日本橋の路地裏に移っておいででした。左右のビルは複合商業施設コレド日本橋で。その奥は薬会社が集積しています。木喰少年も日本橋の薬屋に奉公に出たのでした、慣習に合わなかったのか全国行脚して大山神社の護符を配るようになり。護符から仏像に移ったのでした。私は脳梗塞のリハビリを祈願して帰りましたが更に漢方薬を求める人も多いものと思いました。この辺りにはピップフジモト等「エレキバン」「ゲルマニウムバン」や「トルマリンリンク」を製造販売する企業の創業地でもありました。
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日本橋宮川は鰻をリーズナブルに食べさせてくれます。ランチで2100円は納得です。私が通っていた頃も割安感がありました。三越でも高島屋にも出店しています。元々は和歌山の有田の魚屋で築地にもお店があるし首都圏のターミナルには多く出店しています。日本橋は河岸が在った処で(築地の前)この近くにはの名店が多く「大江戸」もあります。証券マンは仕事が上手くゆくと鰻屋か天ぷら屋に行ってもっと相場が上がりますようにゲンを担いだものでした。愚痴る時は何故か蕎麦屋に向かいました。屹度兜町の料理屋は株価が登った日は鰻か天ぷら屋が仕入れに励み。株価が下がった日は蕎麦屋が蕎麦打ちに励んだことでしょう。

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耳毛の効用

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成徳寺(私の生家」の本堂の脇に小部屋がありました。その小部屋は組寺のご住職が応援に来られた折にお待ち頂いたり、法衣にお着換え頂く6畳くらいの小部屋で、外廊下伝いに回ると東司(トイレの事)に繋がっていました。この小部屋の床の間には寒山拾得図が懸っていました。仙人が山奥で耳を傍立て眉を上げて何かの空気を読んでいるような掛け軸でした
ある冬、私を可愛がってくれた檀家総代の家の伯母さんが首つり自死されました。便所の梁に着物の腰紐をかけて首を吊ったそうでした。私は本堂の隅の裏の東司の梁に朱色の腰紐を掛けて首を吊った伯母さんを想像しました。以来トイレが怖くなり、その羽目板や天井板の節目が寒山拾得図の目ん玉の様に見えてなりませんでした。
私は薄気味悪いのでこの部屋には決して入りませんでした何か怖い魔物がこの部屋に潜んでいるように思ったのでした。長兄がこの部屋に製図版を置いて機械工具の製図を描いていたので”兄さんはこの部屋で寝て怖くないの?”訊いた事もありました。
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これが寒山拾得図。禅寺には必ず数福はあったものです。寒山と拾得は中国・唐代の僧で、奇行が多く、文殊・普賢の化身と称された。その飄逸(ひょういつ)な姿を組み合わせて、中国や日本の禅宗寺院に所属する画僧がしばしば絵に描いている所謂禅機画で普通う寒山(文殊)は巻物を手にし、拾得(普賢)は箒を持ちます鋭い目は真実を見定める眼力を意味し大きな耳はく風や大気の声を聴いたのでしょう。巨大な鼻は嗅覚も鋭く意志も堅固である事を想わせます。髪の毛を始め鼻毛も耳毛も茫茫として伸びています。
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髭茫茫の伝統は達磨大師に始まり屈原(侫臣の奸策により楚の亡びるのを見るに忍びず、屈原が怒りと共に汨羅江に入水自死したと言い伝えられます。「絵は横山大観」

寒山拾得は上図の様に髪の毛は茫茫と伸び放題で、顎鬚も睫毛も鼻毛も耳毛迄もが突出しています。睫毛が長いのは目にゴミが入らないようにする為でしょう。
鼻毛は穢い空気や冷たい外気が肺に入って、痛めないように肺を守るのが役目でしょう。人間の体で毛の生えている個所はその内部の器官が重要でそれを保護するためであるようです。
ならば耳毛は何故生えているのでしょうか?気になりだすとどうしようも無いのが私の性格です。何時もの床屋さんで訊いてみました。笑髪と云う名の理髪店の主人は話し好きで、普段は私の耳元でひきりなしに世間話をしてきます。江戸時代の「浮世床」の現代版です。一通り頭髪のカットが終わったのを確認して私から話しかけました。”耳毛をカットしてくれない!”
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式亭三馬『浮世床』の挿絵落語の浮世床にあるように床屋は街の社交場でありました。浮世風呂で綺麗になって床屋で髪や髭を剃って貰って粋で鯔背になって街を風を切って歩いたのでしょう。ところで床屋の代金は10銭(杉浦日向子さん)だったようですから今の貨幣価値で云えば牛丼かカレーライス(600円)でしたのでインフレになっているようです。
店主は直ぐに「耳毛剃り」を握って外耳をグルッと耳たぶまで剃ってくれました。私は続けて注文します。耳穴も剃って沿って呉れない!”店主は素早く耳毛剃りの刃を耳穴に差し込みます。装置は電動髭剃りの刃の部分が細長く刃が耳を傷めないように金網でカバーして在ります。この隙間装置で安全に迅速に耳毛を処理してくれました。私は店主に話しかけます。
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トンボ目の簪,(東銀座の歌舞伎座の仲店)簪の先端は耳かきになっています。浮世風呂でサッパリしたお客は風呂屋の二階に昇って綺麗なお姉さまに耳掃除して貰いました。お姉さまは傍らの座布団を引き寄せてお客を膝枕して。やおら髪に刺した簪を抜いて息を吹きかけ耳掃除をしてくれたのでした。風呂屋は入浴料と座敷料の二か所営業で成り立っていました。今年道後温泉の「坊ちゃん湯」(重文)は改修していますが。何処まで江戸風にするのか楽しみです。

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昨年東品川の喫茶店で「耳掻きババア」なる店を見つけました。都会では耳かきサービスなるソフトが流行っているのか思って「耳かき」を検索していると写真のお嬢さんに遭遇しました。「山本耳かき店http://www.yamamotomimikaki.com/」は秋葉原を核に展開して居るようでサウナに入って写真の様なお嬢さんに耳かきして貰って5500円のようです。こんな可愛い「耳かき小町」が痒い処を面倒見てくれるのでは脳梗塞のお爺さんには毒のようです。写真出典(前述)。近辺には燕湯(有形重要文化財の銭湯)もある事ですから。何時か仲間を誘っていってみたいものです。


”有難う。何故か私は耳毛が濃いのですよ・・・。処で何故耳毛が伸びるのでしょうかね。耳毛に何の効用があるのか全く分かりません。”
店主は考えたうえで云われます。
そんなこと知りませんは…。床屋では無く耳鼻咽喉科の先生に訊いて見なさいよ・・・・。
そんな次第が在って山崎脳神経外科の山崎先生に行った定期検診の折に訊いてみました。脳神経外科は脳梗塞の処置医として1/月で通っているのですが、山崎先生は耳鼻咽喉科のお医者さんでもあるのです。病院の待合室は普段は脳神経外科の患者が多いのですがこの寒さでインフルエンザの患者が急増しました。待合室の患者さんには診察室での会話が響いて来ます。
私が
”先生昔から気になって仕方ないのですが何故耳毛が生えるのですか?”付添いのワイフは”変なこと聞かないの”私の肩をつつきます。待合室の患者さんの苛立つ表情が見えるようです。山崎先生は鷹揚に答えられました。「男らしい人に耳毛が伸びるのですよ・・・。その証に女性は耳毛は伸びません。耳毛の伸びた女性を見たことがありますか?
そう言われると昔「家の女房には髭が在る」と云われましたが、あれは泥鰌の様に口元から髭が伸びているのであって、耳毛ではありませんよね・・・。
ワイフは立ちあがって診察室を出ようとしています。私は満足しました「男っぽい人は耳毛が伸びる」それで十分考えるヒントは得られました。
寒山も拾得も屈原に似て、現世の愚劣さや堕落した僧侶道士を痛罵して都を離れて山に閑居しました。強固な事故疎外者としての矜持を保ち山中で一生を終えたのでした。その生き様と作品は鴨長明や吉田建工を刺激し。室町時代の禅僧の範となったのでした。伸びきった鼻毛も耳毛も自由人として生きる気概を示して誇らしいものだったのでしょう。髭は達磨大師にも屈原にも寒山拾得にも誇らしげに伸び放題です。鮒には髭が無い、髭のあるのは鯉ばかりです。自由人であるか否かの判別ポイントは髭の有無のように思います。
耳の奥には運動バランスを測る三半規管があります。三半規管が鈍れば木から落ちるか崖から落下する事でしょう。寒山拾得が厳しい山中で自生したのは運動神経が発達していて危機予知能力が十分に備わっていたからでしょう。耳毛も鼻毛も自由人としての気概や矜持を象徴していたと思うのです。
そう考えると私も異常に早く伸びる耳毛を嫌う事は止める事にしましょう。

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大坂副都心計画の未熟さ

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昨日はテレビもラジオも終日衆院予算委の審議を中継して居ました。午前中は前原委員が黒田日銀総裁にマイナス金利はモルヒネの様なもので、失敗したらどうなるのだ?攻め揚げました。実体経済が実質マイナスの状態で金利をマイナスにしてまで銀行に融資を迫れば銀行はいたたまれずに融資をすることでしょう。余資を日銀に預ければ目減りしてしまうのですから、借りてくれるのなら。カジノ(ギャンブル)でも風俗でも借りてくれるのなら借りてくれとなるでしょう。今まともな借入案件と云えば「中小企業の海外進出」とか農業法人でしょう。でも20年前は借入先が無いので不動産屋株式に集中しました。その結果がバブルで。現在の財政破たんもバブルから這い上がるために市場に金を注ぎこんだのが理由でした。黒田さんはマイナス金利で国民の預貯金が目減りするわけでは無い、とか欧米ではマイナス金利の国も多い。とか説明して居ました。来週くらいには反黒田の経済学者の集中砲火を浴びる様な予感がします。
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衆院予算委でマイナス金利実施が庶民の生活を圧迫するモノでは無く、金融面からアベノミクス第三の矢を促すものだと説明する黒田日銀総裁。権限を玩具にして国民を窮地に陥れないのか?心配でなりません。
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民主党の前原誠司委員は「アベノミクスの金融緩和策はトリクルダウン(※)を目指したもので、謂わばレーガノミクスの日本版で「富める者が富んだ後に、貧しい者ににも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウンする)としたもので、現時点では既に破綻の兆しが出ている。、貧富の格差が拡大するばかりである。」と批判を強めました。マイナス金利は中間所得層の貯蓄を目減りさせるさせるだけで「庶民の貯蓄の底抜けを促す」と批判を強めました。黒田総裁は日本経済全体の底上げ策だと主張した事から、”底抜けか底上げか”議論が交錯しました。

午後には下地幹郎氏(大阪維新の会政調会長)が質問に立ちました。民主党への嫌味節を長々と述べたあと。大坂副都心構想を縷々述べました。
私達は維新の会には少なからず期待して居ました。大坂府が慢性的に低調になっているのは大阪府と大阪市の二重行政に在るからだといった指摘は的を射ていると確信していたからでr巣。東京都も同様でしたから石原慎太郎さんはエールを送りました。神奈川県も二重行政のロスが目立っています。
地方の二重行政の是正は国政のロスも解消するモノとイメージを膨らせました。これなら北欧の「緑の党」にも似て新自由主義的改革政党が出来ると想わせました。「平和で社会正義の通ったエコロジー社会を目指すモノと期待したのでした。ところが下地幹郎氏の大坂副都心構想は遥かに内容が乏しいモノでした。
東京一極集中の弊害や震災懸念も大きくなってきた。首都機能を地方に分散させるべきである。文化庁や宮内庁は京都に大阪には司法(国際裁判所最高裁判所)や中小企業庁を移転させ。移転を契機に大坂の復活(カジノと関空と新首都機能を目指すというものでした。何のことは無い『日本全体の機能を損なっても大坂だけは元気になりたい』といった我儘極まりない野望なのです。これでは大阪が地方のリーダーシップは獲れません。国土のバランスある成長発展を考えるなら東京に次ぐ機能が期待されるのは大阪では無く名古屋か福岡でしょう。下地幹郎氏が副首都副首都と云う度毎に名古屋や福岡の人達の”それは違うでしょう”声が聞こえるようでした。今地震(横浜は震度4)があり、「朝が来た」が始まりました。明治の大坂の人は日本全体を見ていたのに平成の人は大坂の事しか見えていません。寂しい限りです。

処で副都心構想は1960年頃にも議論されました。行政府は霞が関に残して、国会を阿武隈高原か那須塩原に移転しよう、とか富士高原が良いとか岐阜関ヶ原が良いとか3地区のうち何処が良いか?真剣に話題になっていました。石原慎太郎さんは反対されていました、
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これが1960年プランされた阿武隈高原を副都心にするプラン、その後サリン事件などが起こって現実味を増したのでしたが利益相反する者も多く実現されませんでした。

先行していた阿武隈高原は今は放射能汚染で「帰宅困難・住居制限区域」に指定されていますし。国会候補地はいまや汚染土壌の廃棄候補地になっています。富士高原も富士山噴火時の総合的な避難対策が話題になっています。
人間が勝手気儘に欲で眼が曇って我田引水すれば神はその欲を咎めるモノです。古代に天変地異が起こる度に人は神に謝罪をして都を移しました。首都機能を欲に絡んで大阪に移せば日本は良くなるのでしょうか?
一極集中には経済合理性があります。行政機能が地方分散されれば社会的コストは膨大になります。官僚の出張費だけでも膨張する事でしょう。民主主義は一堂に会して議論を尽くすことが重要です。民主主義が機能しなくなるリスクも生じます。維新の会の計画は次に出ています。http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1443714479/関空と新設するカジノ施設と司法(国際裁判所や最高裁判所)施設を三極に大坂を副首都にレベルアップしようとするものです。喜ぶのはカジノホテルで働こうとするおばちゃんと山口組位でしょう。
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これが大坂カジノプラン。こんなものに国費が投入されるのなら税金を払いたくなくなります。国政政党の考えるレベルではありません。
流石に安倍首相は維新の会の面目を重んじ即座には否定しませんでした。野党共闘を阻んでくれるだけで維新の党は価値があると睨んだのでしょう。

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恵方巻きが広まった訳

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昨日(2月5日)はデーサービスに出かけました。昨年の2月は2回/週であったデーサービスも自己負担が増した事や身障レベルの引き下げ(レベルの向上)もあって1回/週に半減してしまった次第です。ランチやゲームが終わればお八です。
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今日の話題は関西で習慣であった恵方巻きが日本中に流行ってきた理由を考えモノです。私は大阪に転勤して皆が海苔巻を齧っているのを見て驚きました。そのうちコンビニが店先に並べて急速に市民権を得てきたように思います。
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デーサービスの2月5日のランチは「豆腐ハンバーグ」に小松菜(鶯菜)の和え物でした。
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デーサービスでのお遊びは”鬼は外ゲームでした。介護士さんはお客様を遊ばせるのに一生懸命です。
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お遊びが終わればお八です。この日は”恵方巻き”を手作りして自作をを食べる事にしてありました。海苔は喉に詰まるリスクがあるのでお稲荷さんにして酢飯と具を入れて巻く事にしてありました。説明に従えばお八が自作出来る手順になって用意されていました。この他に胡瓜の千切が具に入っていました棒鱈か鰊の甘露煮が具に入れば関西人も評価したでしょう。
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これが私の自作のお八の恵方巻きでした。

今日のお八は”恵方巻き”との事。節分の特別企画です。丁寧に手洗いやうがいを実施します。インフルエンザやノロウィールス対策です。高齢者は風邪から肺炎に重症になってしまう事が多いのです。今は医学が進歩したので病気の原因は細菌だウィールスだ究明されていますが顕微鏡も無かった昔は病気の原因は眼に見えない『魔』とか『厄』と考えていました。災厄が都を襲うと寺社総出で加持祈祷をしました『魔除け』「災厄忌避』が目的でした。魔モノの眷属が鬼ですから鬼遣らい『追儺』の神事は宮中から市中に広がりました。
”鬼は外”と言って豆を撒くのは魔モノの眼を払い神事でした。
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2月3日節分の我が家の夕飯は目刺(関東風)と恵方巻き(関西風)と折衷様でした。
関東では節分には目刺を食べて柊を飾る程度でしたが。最近は恵方巻きを食べるのが習慣になって来ました。そこでデーサービスで節分の特別お八として恵方巻きを作って食べる事にしたのでした。
私は自作の恵方巻きを食べながら恵方巻きが国民的行事になった理由を考えました。先ずは海苔巻を食べる謂れです。一見して海苔巻は鬼の七つ道具の一つ金棒を想い起こさせます。
鬼の方角に向いて鬼の鉄棒を食べて見せて驚かせるのが目的でしょう鬼が島の絵本にも鬼退治された後に金棒が放置されていました。桃太郎が鬼の武器を取り上げて自分の武器に鋳直したとも考えられます。
更に海苔巻の形です。明らかに海苔巻の形は色も含めて尊いお経や絵巻物の形をしています。平家納経の姿です。平家納経を自らの体内に取り込めば効果覿面ご利益絶大に思われます。
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恵方巻きは日本人が昔も今もこの形に敬意を持っていた事から急速に全国に広がったと考えます。写真出典はアマゾンの中古本http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E5%AE%9D-%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%B4%8D%E7%B5%8C%E2%80%95%E5%85%A8%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%B7%BB%E3%81%AE%E7%BE%8E%E3%81%A8%E8%AC%8E-%E5%B0%8F%E6%9D%BE-%E8%8C%82%E7%BE%8E/dp/4864030545)
そう思いつくと私はお稲荷さんのお狐を思い出しました。豊川稲荷のお狐さんは一方が鍵を咥えていますがもう一方はお経を咥えています。魔除け厄除けの御利益があるお経を咥えています。
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豊川稲荷のお狐さん伏見稲荷のお狐は「タマ」か「鍵」を咥えていますが豊川稲荷では「経典」か「鍵」を咥えています。
つい一月前におせち料理では昆布巻きをいただきました一般におせちで昆布巻きを食べるのは「悦ぶ」の語呂合わせと味が良い為と云われていますが。昆布巻きも伊達巻もその形がお経や絵巻物等知恵が詰まったものを想わせた…から、考え付きました。
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「おせちの昆布巻」きは悦ぶの語呂合わせ以上にこの形の尊さに在ったと思われます。写真出典(北海道の通販ショップhttp://jonetsu.hokkaido-love.net/tag/)
尊い姿を体内に取り込む想いが恵方巻きを全国区に押し上げたと考えるのです。食べ物ですから1美味しい2滋養が在る事が重要ですが同様に3形が美しい4謂われがある。のソフト価値(3.4)も重要であると思うのです。


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下司は男の性です。

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昨年の紅白歌合戦ででした。次は紅軍「」下司の極み乙女さんです。
有働アナウンサーが紹介しましたラップ調の「「私以外私じゃないの」を歌いました。凄い名前だな思いながら「下司の極み乙女」の顔を見詰めました。私は初めて聞いたので「歌詞を間違えたのは気付きませんでした。「どうせNHKの視聴者歌詞を間違えても構うものか」思って居たらそれこそ下司の極みでエンタテーナーの風上にも置けない輩です。その後甘利大臣が不評のマイナンバーカードのPRに唄った歌がその「「「私以外私じゃないの」だったのでしたから、皆下司繋がりで神罰が下ったのでしょう。
下司の極み乙女と聞いた瞬間私は学生時代観た映画を想い出しました。映画の名は「北斎漫画でした。老人北斎が娘を大蛸に悪戯させ世間を驚かせた浮世絵を描いたのでした、88歳を超えても性に異常に執心を燃やせる北斎(尾形拳と体当たりの演技を魅せた樋口加奈子に見ったものでした。そでも松竹のポスターが街に溢れると下司の極みと思って眉を歪める人が多かったモノでした。
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北斎漫画のポスター(松竹)北斎老人が介護してくれる娘の直を蛸に悪戯させてその光景を観て浮世絵bの筆を走らせた鬼気迫る性への執着を尾形拳さんと樋口加奈子さんが演じました(新藤権人監督)映像出典前記)
新聞の広告欄(週刊誌広告)を観ていたらタレントのベッキーさんが下司の極みの槍玉に上がって叩かれていることを知りました。私はベッキーさんの恋の相手があの下司の極みのリーダーが川谷絵音氏で彼が既婚者であって当人同士がその事実(略奪愛、不倫)である事を知っているのでありました・・・・・。
世間常識からいえば不倫の川谷絵音氏が責められるところ、人気のあるベッキーさんが一身に集中砲火を浴びてタレント活動を休止している事情も解りました。
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文春の報道に端を発してテレビから相次いで降板されるベッキーさんと不倫の張本人の川谷絵音氏。画面はフジテレビの画面複写
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リテラシーの旧勢力(新聞テレビは話題払底の季節に好材料とばかり不倫騒動を取り上げました。でもマスコミの矛先は倫理観の弱い川谷絵音氏。よりもベッキーさんに向けられています。
でも不審な事があります。この報道の火種を付けたのがあの甘利大臣を追い落とした文芸春秋社であって、その情報リースがラインであった事でした。文芸春秋社は二人のラインを覗き見して暴露したのでした。愛の交歓を盗み見してそれを天下の公器である週刊誌に掲載する権利は在る筈がありません。私達国民も愛の場面を映されて新聞などメディアに乗せられたのでは堪ったモノではありません。プライバシー侵害を防ぐ権利は誰しもが持っている筈です。文芸春秋社とて「国民の知る権利」を盾に芸能人のプライバシーを無視できる、とは思って居ないでしょう。
プライバシーが政治家の様な公人であればプライバシーは主張出来ません。スマップの分裂騒動と言いこうした暴露合戦の背後には「他人のプライバシーを覘き見したがる知たがる下司の極みを感じます。日本は世界一治安の良い国なのに世界一痴漢がおおいのはこの下司の心情が脱せないからでしょう。
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ベッキーさんは明るい表情可愛らしさもあってラインのPRに一役買っていました。ベッキーさんの古いリテラシー反抗はラインから始めるのが適当でしょう。テレビよりもラインの方が強いのは明瞭です。そしてもう一言彼の子を宿してしてしまう事です。日本の倫理観は”命は地球より重たい”が根本です。子を宿した母を世論は尊重します。
私の携帯はいまだにガラ系ですから、ラインは出来ません。日文研の友人の仲でもガラ系は我が夫婦だけのようでもう今はモバイルです、ワイフも時々格安モバイルの広告を見ています.携帯はガラ系で充分パソコンがあるからモバイルは不要と思って居るのは私だけになりそうです机の上に広辞苑を置いて満足している私は既にリテラシーの進歩に置いて行かれているのかもしれません。
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パソコンの脇に広辞苑を置いて私は何処までもガラ系人間です。今回のベッキー騒動もスマップ騒動も既存のメディアからリテラシーがモバイルに移る過渡期の騒ぎの様に思います。江戸時代末期に北斎が浮世絵で世間を驚かせたようにリテラシーの変化であろうと思います。
そう思ってテレビを見ると一時は元気の良かったフジテレビは業績不冴えで四苦八苦のようです。原因はテレビを見ていたお客さんが情報リテラシーをテレビ画面からモバイルに移したからでしょう。モバイルの普及ラインの楽しさがテレビ顧客を奪っているのでしょう。今回ラインのヒーローベッキーさんを降板させて頑迷な叔母さんの期待(略奪愛するような小娘は少しくらい可愛いからと言ってチヤホヤするなと云った世論)に答えるのは何処か間違いの様な気がします。
「原節子も吉永小百合も綺麗だけどそれは銀幕の上で価値がある事、略奪愛も結構、性があるから命は世代を超えて継承される。ベッキーさん早く川谷絵音さんの子を宿しなさい。そうしたら貴方の勝よ!子供を産まない女は天命に唾しているのよ」そんな意見がラインから噴出して来そうな期待があります。
偶々でしょうが昨年は大英小博物館で春画展が開催され永青文庫(細川護煕氏主催)が全国の博物館で展開されました戦中は戦争画が称揚され。世界の藤田でさえ戦争画を描きました。一方江戸時代盛んであった春画は細川家にさえ重用されたように大事にされて嫁ぐ娘に持たせました。ところが戦争画が持て囃された時期に否定されてしまいました。私達は少子化が社会問題に直面する時代になって再び春画に社会権を認めようとしているようです。


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何処に向かうのか?日本の職業モラルは?

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仲間と新年会で顔を合わせると話題は「軽井沢バス事故」に集中しました。
と云うのは事故現場を皆が知っていたからでした。
伊香保温泉に浸かって翌日は軽井沢に更に志賀高原から草津温泉を巡って温泉ツアーでは必ず通る七曲りでした。国土交通省はた事業用自動車事故調査委員会を設置して事故原因の分析に着手しました。バス事故が連続していたこと。世論の矛先が同省に厳しい事を察知して第三者機関の意見として事故彦原因を公表したかったのでしょう。以降権限のある長野県警と事故調調査委員会の発表が交互しました。
国交省の判断は事故原因を運転手の運転操作ミスと判断し、その原因を同省のガイドする価格の半額以下で受託したバス会社の杜撰さに在ると断じてバス会社の事業許可を取り消ししました。
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15人の命をもろともに谷底に転落した大型バス、事故原因を国交省は運転ミスと断じて対策として無理な受注を禁じたのでしたが。真の原因は違うと思います。私は無理を強いられて運転していた派遣ドライバーが気の毒でなりません。写真の出典NHKオンラインhttp://www3.nhk.or.jp/news/gad/tokusetsu/bustenraku0115.html
若い子供を失った親の嘆きは深まる一方です。
15人もの命を一瞬で奪った悲惨な事故です。事故発生の第一報はNHKのテレビでした。前橋支局の職員が事故現場から実況生中継しました。女性アナウンサーは七曲りの左でガードレールに接触して次のコーナを曲がりきれずに右の谷底に転落した事、道路には雪も結氷も無かった事を指摘して居ました。民放各局は翌日から事故原因究明はさておき若い命を失った家族の嘆きを伝えました。
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私は派遣運転手の家族の嘆きや苦しみを思いました。
派遣運転手はバス会社で採用されて(昨年12月)未だ1箇月で今回が6回目の運転で大型(7トン)は不馴れでありました。
ESPの契約社員となったものの。雇用時に健康診断をしておらず、以前の健康診断結果も把握していなかったそうでした。
私が最悲惨に思ったのは運転手の御遺族が遺体を引き取れずにいる事実でした。
ESPは派遣社員の家族も知らないで採用していたのでした。御遺族もご遺体を引き取りたいのでしょうが世間の厳しい眼が注がれている中、スポットライトを浴びたくないのでしょう。
未だ、運転ミスの原因を病気で無い事を検証する為ご遺体を更に詳しく調べる必要が在るのかも知れません。運転手は自らのハンドル操作で13人もの若い命と同僚ドライバーと14人の魂を道連れにして黄泉に旅立っているのです。黄泉への井旅で皆から口々に言われていることでしょう。
「運転手さん!何処に連れて行こうとしているの?ホテルの灯りは見えないじゃないのこの暗い道の先にスキー場が本当に在るの?」

65歳になっても車を運転しなくてはならないのは過酷です。旧旧両の22万円/月では満たされた生活は出来ません。もう少しお金が欲しいと願って転職したのでしょう。転職先も儲け主義の会社でした。健康診断もしないし訓練時間も設けてくれません。「安い労働力だから採用したので直ぐハンドルを握らせました。それは、下級老人の悲しさです。ESPも下請中小企業の哀れさです。死んだ人は誰を恨んだら良いのか何処を正せば良いのか全く分かりません。
軽井沢バス事故の哀しさが消えないうちにまた唖然とする事件が発覚しました。期限切れ廃棄処分される筈のトンカツがスーパーで販売されていたのでした。
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週刊誌(週刊朝日)紙上では廃棄食品の横流しの追求が今盛んです。マクドナルドもこの事件で「▽□よりましか…!想われて客戻りするかもしれません厚労省は業界の方を向いていますから国民の関心にこたえようとしません。消費者は何処のお店で横流し食品を売っていたのか知りたいのですが・・・。
”貧乏人はカレーを食え”暴言を吐いたのは池田勇人(昭和25年)でした。”云わんばかりです。
日本人は貧乏人は廃棄カツを喰え”を想います。何時から日本人は職業モラルをいとも簡単に失ってしまったのでしょうか?暗澹としてきます。
私は小泉政権下竹中平蔵が派遣業法を改正した頃から職業モラルの破綻が目立ってきたと思います。
私がサラリーマン時代は「株」パソナは南部靖之氏が代表でしたが何時しか竹中平蔵(慶応大学教授)が会長に収まっています。竹中氏が「正社員を廃止し派遣社員を公にしてくれた」そのご恩に報いたのかもしれません。日本社会のモラルを粉砕した竹中平蔵氏は慶応義塾の伝統に相応しくありません。今や大学教授のお面を被った政商です。何れ職業モラルが地に堕ちた追及で竹中平蔵氏が追い落とされる時代が来ることでしょう。
モラルハザードが機能しなくなった現象で最も批難されるべきは甘利大臣です。それは大臣と云った公職にある事権限を持っている事です。フィリッピンパブの酒池肉林に溺れ素性の解らない土建屋さんの口利きをURにするなど飛んでも無い事です。安倍政権のモラルハザード喪失はドミノ現象を呼びかねません。必死に甘利大臣を切って此処で持ち応えようとしています。
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イドインジャパンは日本人及び日本社会の高い職業モラルへの信頼によって培われてきたのでしたが。政治を先頭に職業モラルの失墜によって死語になろうとしています。ポスターはソニーの失速を素材にNHKが問うた傑作でした。
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メイドインジャパンはハイテクに限らずローテクであっても職人の高いモラールによって美しいく長持する民具として残って来ています。写真出典朝日デジタルニュースの南部鉄器展http://www.asahi.com/event/AIC201401140007.html。モラル


職業モラルを地に落してしまう拝金主義は早期に打ち破って。信頼され尊敬されるニッ本を取り戻さなくてはならないと思います。現政権が学校で「道徳の時間」を設けようとしているのですが。何を教えようとしているのか疑問です。江戸時代の寺子屋で使われていた教科書は「庭訓往来など往来モノと呼ばれていた草紙で”親の職業の素晴らしさ”を教えていました。
『お父さんの作った道具は最高だろう!』「お父さんの細工は素晴らしいモノで誰からも敬われている』そんな高い職業モラルが日本社会を平和で安心安全な社会を形成して居ました。ベクトルを逆にしなくてはならないようです。



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軟水の有難味

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娘夫婦が箱根温泉の土産で「湯の花饅頭」を買ってきてくれました。箱根も大涌谷の噴煙も収まってお客さんが戻って来たそうです。竹の皮で包んだ手の込んだ饅頭でした。饅頭と云うよりは「粽」に似ていました。昨日は春節でしたから中華街は大賑わいだった事でしょう。例年中華饅頭を咥えながら龍舞いや獅子舞を見物したものでしたが…。今年は家で大人しくしています。
箱根湯本温泉の「湯の花饅頭」。竹皮で牛皮餅を包んでチマキ状にした饅頭です。
饅頭(マントウ)は延喜式にも出て来ていますから中国から伝来した食べ物で小麦粉を練って作った皮で餡子(点心)を包んで蒸して食べる食べ物だったのでしょう。その餡を小豆や野菜にして菓子に変えたのが日本人で饅頭(マンジュウ)と呼んだのでした。ですから中国では主食に、日本ではお茶うけかお八に戴くようです。
処で、お米の食べ方です。日本ではお米を洗って水を張ってそのまま焚きますが。中国を始め東南アジアではお米を蒸して食べます蒸して食べるのは水が悪いからです。「かんすい」と言って炭酸ナトリウムを多く含んだアルカリ水なのです。炭酸ナトリウムを防ぐ目的でお米を蒸して食べるのです。中国人が電気釜を爆買して行きますが、かん水で焚くのならご飯は美味しくないので無意味です。チャーハンや雑炊でお米を食べるのならかん水で焚いて食べるのが最適です。
中国人が小麦粉で麺を打つ時にも、饅頭を作る時にもかん水を使います。炭酸ナトリウム(重層)を含んだ水ですから。小麦を練ったお団子を寝かせればふっくらしてきます。美味しい麺や饅頭になるのです。
一方日本の水は軟水(中性)ですからお米はそのまま焚けば美味しくなります。小麦粉も癖の無い饂飩(うどん)やソーメンになります。体に優しい軟水の効果です。
ラーメンは大好きでしたが。総てかん水の効果です。かんすいを小麦粉に加えると蛋白質((グルテン)に作用し、弾力が増してコシが出て来ます。これは、グルテンが無機質、アルカリ性の物質に出会うと収斂する性質があるからです。小麦粉に軟水を加えたのではコシが出て来ません。ラーメンとソーメンの違いはコシの有無でその原因は水に在ったのです。
私は後半生に癌・糖尿病・脳梗塞と生活習慣病三兄弟にヤラレテしまいました。今、原因を冷静に思い起こすととんこつラーメンに原因があるように思います。
博多に単身赴任した時にとんこつラーメンに嵌ってしまいました。九州のラーメンはかん水で練り込んだ麺でして、加えてとんこつスープは中華麺に合うのです。灌水で練り込んだ麺をかん水スープで食べたのですから。糖尿が進行していたのでしょう。糖尿体質は癌を誘発しますし。動脈硬化を招きます。あの時糖尿体質をインシェリン注射など姑息な方法で治ったと思ったのが落とし穴でした。糖尿体質は消化器系に癌を産み血管系に動脈硬化を進行させていたのでしょう。今更ながら、深く反省します。
私の体が”ラーメンは嫌いだ!ソーメンが好きだ”言っていたのは十分わかっていました。
インスタントラーメンを食べると胃腸が暫く不調をきたしていたのです。でも、蕎麦やソーメンを食べると胃腸はニコニコしていました。
これが三輪ソーメン出典Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BC%AA%三輪ソーメンが岡山に伝播し、讃岐の小麦が瀬戸内海を渡って都に送られる途上で小豆島ソーメンになったと思われます。
麺が日本に伝来してくるとじきにソーメンが出来たようです。伝説によると大和三輪において紀元前91年(崇神天王7年)、大物主命の五世の孫である大田子根子命が大神神社の大神主に任ぜられ、その十二世の孫である従五位上大神朝臣狭井久些の次男穀主が初めて作ったと言います。(出典ウィキペディア)
中国伝来の麺を見て三輪の人がその水で麺を打ったところソーメンが出来たのでしょう。でも軟水ではコシが出ません。其処からが日本人の本領発揮工夫が加えられました。
小麦粉を三輪の軟水で捏ねて暫く寝かせます。その上でまた小麦粉の団子を取り出して細く伸ばします手延べソーメンの技を工夫します。重要だったのは手延べする為に使った植物油(綿実油)でした。麺の表面に油を塗布する事で細く長く伸ばしたのでした。
慶応大学藤沢キャンパスに近い農村レストラン「ゴンパチ」のほうとうです。ほうとうは小麦粉を軟水で捏ねるまではソーメンと同じですが。油を塗って手延べさせる作業がありません。ソーメンの喉越の良さは油を塗りながら細く伸ばす作業にあります。
そうして出来た細い麺を冬の寒風に晒しました。その結果麺は乾燥しきって真っ白に仕上がります。乾燥したソーメンを食べるのは夏です。梅雨の季節に乾燥ソーメンは少しだけ水分を吸収します。その結果ソーメンは醗酵し始めます。乾燥給水を繰り返すとソーメンは少し表面に黴を生やします。夏を2回ほど越したソーメンが一番おいしいそうです。(出典河野友美著食味往来220ページ)三輪の気候と人々の工夫がソーメンを誕生させたのでしょう。京都の都人はソーメンを好んだそうで延喜式では大和を始め播磨や小豆島からも税として納められたそうです。
大和川海柘榴市の三輪ソーメンを干す景色今年は3月末にはこの堰堤も桜が咲き菜の花が埋め尽くすことでしょう。
今頃は大和川の堰堤の民家ではソーメンを干す景色が広がっていることでしょう。
奈良ではソーメンを、栃木では乾瓢を干し茅野(諏訪)では寒天を干す風景が綺麗な事でしょう。岡山では切干し大根です。切干し大根とソーメンの産地は重なっていることが多いのです。岡山の切干し大根は次のブログに良い写真が出ていました。http://kiriboshi.exblog.jp/どれもこれも皸(アカギレ)が出来る辛い冬の作業です。でも美味しい食べ物を作る為には大切な作業です。私達日本人は軟水で産湯をつかって育ちました。一生を軟水を命にして生きるのが自然ですツウぶってかん水のラーメンを食べたり昆布出汁でなくてとんこつのスープなんかを啜ったのが万病の原因でした。そう想い起すと東南アジアで下痢を起こしやすいのは腐った水を飲むからでは無くてかん水を飲むからで水に負けないためには軟水のミネラルを飲まなくてはならないようです。

かん水から炭酸ナトリウムを除去するには湯沸しすることが重要です。鉄瓶で湯沸しするのは炭酸ナトリウムを除去する作業で鉄瓶の注ぎ口や底に炭酸ナトリウムが固まって来ます。
お酒を初めて造った三輪はソーメンも初めて作りました。冬の寒風干しもソーメン製造に欠かせないきつい作業です。冬来たりなば春も遠からじ・・・。もうじき桃が咲いて桜も咲く事でしょう。

春節も過ぎてひと雨降る事に春が近づいて来ます。春が待たれるワクワクする季節です。何度も春をエンジョイできるように日本の水で身体を満たすことにしましょう。「霜降り野菜のちゃんぽん」等見向きもしないで納戸の奥からお中元で戴いたソーメンを取り出してニュウ麺と称して戴く事にしましょう。少しくらい黴が生えても体には益がある事でしょう。

        
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森林政策の貧困

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随分陽が長くなってきました。そして、暖かくなりましたこの季節になると何時も”日本の森林政策はどうなっているのだ!”思います。昨年京都の嵐山で遊んだ時には此処の森林は日本の財産だ!確信したものでした。常緑樹と紅葉などの照葉樹のコントラストが美しく。この景色が昔は天龍寺の所有であったものが今は一面国有林ですから。未来永劫美しい景色が伝承される事でしょう。

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京都を代表する嵐山渡月橋の景色も紅葉(照葉樹)と常緑樹のコントラストが醸成しています。この景色も国有林ですから借景は守られることでしょう。
戦後復興資材としての木材不足から造林拡大政策が採られました。照葉樹林を伐採して杉や檜等の針葉樹を植樹したのでした。ところが、国内産木材の価格低迷から植えたばかりの針葉樹林を手入れせずに木材を輸入に依存するようになります。その結果様々な弊害が生じました。
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日本の山林は一貫して自然林(クヌギやナラの照葉樹)を伐採して針葉樹(杉や檜)に植え替えて来ました。その結果花粉症を始め数多くの弊害が目立ってきました。私は林野庁の短視眼的な主導では無く地球的環境保全の視点で作り換える必要があると思います。それは山の神や縄文文化への回帰でもあります。資料出典:森林林業学習館http://www.shinrin-ringyou.com/ringyou/
1.脆弱な国土を招きました。山林は木が根を張っているので水を蓄えています。ところが木が根を張っていないので少し雨が降り続ければ土砂崩れ(鉄砲水)を誘発してしまいました。(水源涵養機能の欠陥)
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森林がダムと呼ばれる理由は根っこの保水機能を指しています。森林が痩せれば鉄砲水土砂崩れを誘発します資料出典林野庁:http://www.rinya.maff.go.jp/j/keikaku/tamenteki/con_2_4.html
2、保健機能の喪失。若木のまま放置された杉や檜は春になると膨大な花粉を飛ばします。その為に花粉症と云うアレルギーで苦しむ人を急膨張させました。
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今年も懸念される杉花粉写真出典:大阪医科大学地味咽喉科http://www.osaka-med.ac.jp/deps/oto2/html/kahun/kahun01.html杉花粉は若木の状態で杉のきを放置手入れを怠った為に杉の木が必死に子孫を残そうと入している行為であります。杉の木の手入れを怠らなければ70歳にもなれば杉は花も少なくなって花粉も飛ばないものと思います。
3、生物多様性保全機能の喪失海洋資源保全機能の喪失
日本の国土の原生的な森林生態系を失い希少生物の生育棲息を破壊しました。(高山植物やユリなどの伝統植物カワウソなどの動物が絶滅してしまいました。
照葉樹林の落ち葉が海洋に流れて海洋資源を育てたのに照葉樹林が亡くなった事から海が痩せて魚や貝が生育しなくなりました。(鰊やハタハタ、シシャモや牡蠣が取れなくなってしまいました)
要するに戦後木材の生産機能にだけ目を奪われて、日本中の山に里にあったクヌギやナラ等の照葉樹を伐採して杉や檜に植え替えたのでしたが儲からないので、道半ばで放置して木材は熱帯林を輸入したのでした。
そんなその場凌ぎの森林政策は平成8年になってようやく見直されました。残されたのは次の三悪でした。
①傷ついた山林②林業を断念した里人③林野庁の累積赤字
問題は所管が大失態を来した農林省(林野庁)の所管で見直しが進められた事です。結果国民の期待に背いた儘です。国民の期待する事は以下の通りだと思うのですが
【日本の山林に期待する事】
1、保健レクリエーション機能:自然、身近な自然との触れ合いが適切に(生態系に従って)管理されていて都会人が森林で快適に憩う事が出来る。
2文化保全機能:史蹟や名勝の借景として環境として森林は重要です。伊勢神宮の森や吉野山の桜や杉の森が該当します。勿論嵐山の紅葉等国民が国宝資産同様に大切に思って居ます
3、安全安心な環境昨今は台風の豪雨でなくても長梅雨でさえ土砂崩れや鉄砲水を引き起こします。安全な山林であって欲しいものです。
4、CО2吸収機能
昨年はパリでコップ21が開催されゼロエミッションにすることが目標にされました。ゼロエミッションとは一年に排出できる、CО2は1年で吸収出来る、CО2の範囲内にすることです。現状以上に、CО2を増やして地球を温暖化させないためには、ゼロエミッションにすることが目標になると考えた訳でした。日本はズット
CО2の排出枠を後進国から買ってきました。ところが各国が各々ゼロエミッションにする、ことを義務付けすれば日本は元々森林が多いのでCО2吸収量は大きくて排出枠に余裕があるのかも知れません。
こうした視点で世界の世論をリードしてゆくためには農林省の主導では無くて旧国土庁や環境省等が主導する必要があります。
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日本の森林は過半が針葉樹です。生物多様性は広葉樹が揺り籠になっています。コナラ【団栗】以下広葉樹を保護する事で生物多様性が担保され魚介類も豊富に育ちます。近時動物が里に下りてきて悪さをするのは広葉樹が少なくなったせいです。資料出典:森林林業学習館http://www.shinrin-ringyou.com/ringyou/
ところで昨年はJRのレストランでジビエのハンバーグが売られていましたが今年はジビエハンバーグを商って居ません。でもインターネットでは手ごろな価格で鹿肉が販売されています。昨日はNHKの「アサイチ」でさえ山梨県早川町の鹿肉料理が紹介されていました。鹿肉は癖が無いしサッパリしていて美味しいのです。日本人もヨーロッパを旅行して鹿肉の美味しさを知った人が多くなったので日本の里山レストランで鹿肉が食べられるのは嬉しい事です。鹿肉なら美味しいのは伊那谷の大鹿村です。マタギの文化の残る大鹿村は農村歌舞伎や後醍醐天皇の史蹟そしてそれらの融合で「日本で一番美しい村」としても知られています。
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鹿の食害、鹿は食べ物が無くなると杉や檜も皮も食べてしまいます。こうして枯れた杉林の保水力が無くなって澤に鉄砲水が駆け下ります。昨年は何度もこの災害を経験しました。
南アルプスの高山植物そして高山蝶々を保存する意味で鹿が増えすぎるのは阻止しなくてはなりません「大鹿村復活の為にも狼再生プロジェクトは大鹿村で始めて欲しいものです。

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長野県伊那谷の大鹿村南アルプスのボディーにトンネルを掘ってリニアの工事が進行しています。リニアは甲府の次は飯田次は中津川大鹿村に陽が当たる事は無さそうです。大鹿村のホームページはhttp://www.vill.ooshika.nagano.jp/です

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これが大鹿村の鹿肉です。出典楽天http://www.vill.ooshika.nagano.jp/kankou/tokusanhin/oosikajibie/キロ1000円程度です。大鹿村に行けばジビエレストランは数多くあります。美味しいジビエを食べて健康になりそれが山村のプラスになれば一石三鳥です。
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丸山 直樹氏 狼協会主催」の著書鹿や猪等の天敵狼の復活を訴えておいでです。大鹿村の下流(天竜川)には狼を神に祀る秋葉神社などが祀られています狼復活は日本人が忘れて久しい「自然への畏敬」を思い出させる象徴です。出典アマゾンhttp://www.amazon.co.jp/%E4%B8%B8%E5%B1%B1-%E7%9B%B4%E6%A8%B9/e/B00J2L55Z8/ref=dp_byline_cont_book_1


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民芸美の法門

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5年前秋に小栗観音堂を訪れ木喰仏を拝観しました。3年前の春には山梨の丸畑を訪れ木喰仏を見て回りました。
その後暫く観ていません。木喰恋しさで駒場の日本民芸館に行く事にしました。昨日は民芸館別館(柳井宗悦私邸)も開いていると云うので勇んで出かけたのでした。
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駒場東大の西隣にある日本民芸館の新聞記事。中央が民芸館のシンボル木喰自刻像。その右奥にある甕棺(江戸時代の骨壺)が素晴らしかったです。
私が日本民芸館を最初に訪れたのは昭和41年でした。浅子先生の鎌倉彫の講義で民芸運動を知り東大駒場キャンパスバスの西に日本民芸運動の聖地があると知ったのでした。
そこで拝見した木喰自刻像に見入ってしまったのでした。数年前甲府の山梨県立美術館で木喰像を見学した折。日本民芸館木喰自刻像発見の経緯を知りました。
以来私はこの有名な像は実は木喰自身の自刻像では無くて、参拝客に触らせる『賓頭廬尊者像(びんずるそんじゃ ぞう)。 賓頭廬尊者像はお釈迦様のお弟子である十六羅漢 (じゅうろくらかん)の筆頭で「びんずるさん」と よばれ親しまれています。 病気を治す力があるとされ、撫でるとその部位の病気が治る 』と考えられていました。基本的には羅漢像ですからそのモデルを自分自身に模した可能性はありますが、木喰が自分を彫刻して善男善女に拝ませたとは考え難いのでした。
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これが日本民芸館のハイライト木喰の自刻像。昨日針葉樹を植えた山林政策は誤りで生物多様性を推進するには広葉樹こそ大切である説明しましたが木喰像は多くが広葉樹が使われています。
自刻像と言い出したのは西洋文化に慣れた美術愛好家で。ミケランジェロの最期の晩餐やダビンチの自画像を見慣れて木喰の羅漢像を自刻像と言い出したと思うのです。この根拠は明日詳述する事にして、今日は今回の展示で一番に感動した事を書く事にします。それはこの民芸館の焦眉がアールヌーボー(美術運動)にあったことです。
孟母三遷を実施する賢い人達が駒場には集まっているようで、東大駒場キャンバスの東は瀟洒な戸建て住宅マンションが密集して居ました。花水木の通りを5分も歩くと日本民芸館に着きました。玄関には紅白の梅が満開で目白も集まって来ています。目白が一杯でも此処は目黒区駒場です、駄洒落を思いつきながらいかつい建物に入りました。職員が私の足元を気遣ってエレベーターの利用を進めて下さいます。
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これが日本民芸館の玄関関東大震災後暫く京都に転居していた柳宗悦は東京に戻って、そのコレクションを東京博物館に寄贈しようとしたのでしたが拒否されます。仕方なく柳は大原 孫三郎(クラレ創業者大原美術館設立者の庇護を受けて駒場に住み日本民芸館を設立します。この建物1936年竣工は内部は洋風外見憲和風で柳が設計したものだそうです。道路向かいに西館が在ってそこが宗悦家族の住居でした。バーナードリーチが滞在していたこともあって1階は洋風です。紅白の梅が盛りでした
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日本民芸館の1階ホールは大空間で造作こそ和風ですが洋館のような設計でした。
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日本民芸館の道路向かいは柳宗悦の私邸でしたお城の様な長屋門を潜ると土間でようふうな生活スタイルです。
日本民芸館は主として江戸時代の生活用具をコレクションしていますが、昭和10年代の作品も数多くあります。
河合寛次郎も浜田庄司も棟方志功も昭和13年の作です。
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日本民芸館の2階展示室壁には棟方志功の版画が並んでいました。柳宗悦の業績には民芸美を発見した事と同じく同時代に民芸作家を育てた事もありました。それは西洋美が主流だった時代アジアの美術の再認識でもありました。(写真はパンフレットをコピー)
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これは棟方志功の阿修羅像。前を見て後ろを見て横を見て疾風の如く走る阿修羅像は劇画のような迫力があります。昭和13年絵葉書を複写
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 此方は河合寛次郎の花瓶(丸文草花文)昭和12年
昭和13年(1938年)は近衞 文麿(このえ ふみまろが内閣を組織したものの松岡洋右(外相)や軍閥(東条英機等)を御しきれず、シナ事変が起きると「国民党政権は相手にせず」と放置し。、「大正デモクラシー」を経て日本に根付くと思われていた議会制政治は死を迎えてしまいます。。日本は一気に戦争に転げ込んでしまいましたそんな危険を予感してか?日本の民芸運動は大きな花を咲かせたのでした。
民芸運動は先ずパリで起こります。
工業化大量生産に始まった生活用具の粗悪化に対しアールヌーボー(新しい芸術)と云う美術運動が起こります。パリ万博では日本の手作り美術品が人気を博しました。そんな美術運動が童話や竹久夢二の絵画や黒崎義介の絵本等を産みました。蝋燭の灯りが消える寸前に大きく燃え盛るように昭和モダニズムの花が燃え盛ったのでした。
柳宗悦に見いだされた棟方志功も河合寛次郎もこの頃最高の作品を作れたのでした。柳井宗悦は流石に目利きで彼等職人作家の最も優れた作品を収集したのでしょう。
昨今はプラスチックの生活用具が溢れています。プラスチックは射出成型すればどんな形の生活用具も大量に廉価に製造できます。プラスチックのお蔭で随分便利になりました。日本海に出れば海岸はプラスチックのゴミが大量に漂着しています。名物の「鳴き砂」は踏んでも鳴かなくなってしまいました。波で粉砕されたプラスチックの粉砕ゴミが砂が擦れて音を出すのを邪魔してしまっているのです。
木工具や陶器であったならゴミにならずに土に戻っていたはずでしたのに。プラスチックですから腐らないのです。人間は文明の始めから輪廻を発見して居ました。自然は産まれれば死ぬ同化作用と異化作用を繰り返しているのだと。異化作用は腐敗とか酸化とか醗酵と呼ばれて土に戻る現象でした。そして同化作用とは土から命を育み食物連鎖を繰り返す現象でした。仏教はこの輪廻に身を任せる生き方を実践する事で仏になれる、教えた宗教であり生き様でした。
近代は大量生産でこの輪廻の教えに逆行してしまいました。今工場生産されたプラスチックゴミは微細になって海底に沈み深海魚の胃袋に蓄積して何れ人間に対し怨みを果たそうとしているようです。
私達は大量生産大量廃棄のライフスタイルを改め民芸美の生活用具をリ・ユースする江戸時代の生活に戻る事が賢明のように思うのです。「美の法門」と云う看板は仏教的な教えが滲んでいます。
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「美の法門」のポスター写真の阿弥陀様は大津絵だそうです。私はイコン画のような印象を持ちました。



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木喰自刻像の贔屓

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昨日は駒場の日本民芸館について書きました。今日はその看板木喰の自刻像について長年抱いてきた疑問について書かせていただきます。問題の自刻像は次の仏像です。
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この像が日本民芸館のハイライト。木喰の自刻像と云われ柳宗悦等の日本民芸運動の推進力になった仏像でした
見れば何処にでも居そうなお爺さんで。歯の無い口で沢庵をバリバリ食って居そうです。
この像を柳宗悦が「木喰自刻像」として発表したのではないのですが、マスコミや一般人が「木喰の自刻像」と評し、柳もそれを否定しなかったので一般に木喰自刻像と呼ばれ、次々に木喰自刻像が各地で発見されたのでした。この像発見の経緯は次の通りでした。甲府の木喰展において案内して居ました。
1942年大正13年6月9日、『柳宗悦は甲府を訪れます。すると甲府の古美術コレクターが
”これを見てくれこっちも観てくれと言って”古陶器や古布を持ってきます。屹度今の「何でも鑑定団」のような光景だったのでしょう。
その時に木喰仏像像を持ってきた人があったのでした。『仏像は鎌倉時代までで、近世には観るモノは無い』という考えが当時の常識でしたから、柳は発見された丸畑に飛んで行き、同村の社で「四国堂心願鏡』を発見します。四国堂は木喰が故郷に錦を飾って建立した社で、四国遍路路を一堂に設えた社でした。四国堂心願鏡は建立の目的を木喰が記したものでした。更に近隣の民家に木喰仏が保存されていることを確信します。(五来重著微笑仏)棟方志功も師の柳が発見した木喰自刻像に強く影響された事でしょう。棟方志功の版画の観音様の笑顔は木喰ぶ像の笑顔を髣髴させるものがあります。
ところで柳宗悦の経歴ですが、東京帝國大学在学中に白樺派に属します。白樺派は武者小路実篤や志賀直哉をリーダーににした文芸運動で、横溢する自由主義の空気を背景に、理想主義・人道主義・個人主義的な運動でした。
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システィーナ礼拝堂の「最期の審判」に描かれたバルトロマイ(12使徒の一人で、生皮を剥がれて殉教した)をミケランジェロは自画像として描きました。西洋の近代は自分自身を見つめる事からスタートしました。

既に西洋的な主義思想にに馴染んでいた我国ではルネッサンスのリーダーのミケランジェロやダビンチが宗教画の大作の中自分自身をモデルにした人物を描いていました。自分自身を見直すこと自画像を描く事が個人主義の原点と理解していたのでしたから、木喰の仏像の人間味が観た途端に「木喰の自刻像」と早合点したのでした。木喰が農民の礼拝対象に一宿一飯の恩義に彫った仏像を自刻像と思い込んだのでした。
お地蔵さんを彫れば親爺に似てしまいます。観音像を彫ってさしあげっれば垂乳根の母に見えてしまいます。傑作であればある程自刻像や母の素顔に似てしまいます。
重要なのは木喰自身が「これは木喰を刻んだもものだ」と言っていない事です。そんなことを言いそうなのは運慶ぐらいでしょう。木喰は彫った仏像に製作年月日と自分の名と目的(願い事)を書きましたが。その像が自分自身であるとは書きませんでした。
でも木喰は自分自身の顔は意識していたようで版画で製作した護符には河童に似た自画像が描かれています。自画像がある以上自刻像と云うのは強ち間違いとは言えないかもしれません。
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新潟県長岡市小国で発見された「八木/はちぼく図」木喰は自分自身が88歳の米寿を迎えた事を祝って「木喰の身は八木(はちぼく)や明 けの春 面白そうな御慶(ぎょけい)と云うと歌っておいでです。内容からして河童さんの様な姿は米寿の木喰自身でしょう。
絵の木喰さんは少しだけ髪の毛が生えています。仏像が自身像とすればマル禿げで少なくなった髪の毛を自慢にしていたことになります。
ところで」全国を行脚遊行した木喰さんですが、一番好きな処が新潟の魚沼でした。故郷の甲斐の丸畑を薬売りに連れられて出奔した木喰少年は日本橋の丁稚生活は苦痛だったのでしょう、真言の和讃を吟じながら行脚します(こうした僧侶を高野聖と呼びます)魚沼の小地谷では長期間逗留し仏像や上のようなお札を多く残します。
農民の期待は五穀豊穣と子孫繁栄を実現する観音像でした。33観音像を多く彫ります。
魚沼川の河岸段丘には楢や銀杏桂の大木が自生して居ました。木喰はお弟子(木喰白道)とこの大木を伐り出します。そして先ず二つに割ります祖も丸い面(外側)を正面にして像を彫りはじめます。
因みに先人の円空は丸木を4つに割ってその角面を正面にして仏像を彫りました。
木割の結果端材が残ってしまいます。そんな端材をどうしようか?考えた末33観音像をお世話する仏像を彫ろうと思いついたのではないでしょうか?村人衆人環視の元で木喰さんが端材に向かいます。お百姓は思った事でしょう。「もう33観音像は出来上がっているのに木喰は何を彫ろうとしているのだろう?端材で臼でも作ろうと思って居たのに・・・!」
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木喰84歳の自身像日本民芸館蔵

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これは長岡の宝生寺の木喰自身像です。全面がすり減ってお顔が消えてしまったのは子供が水遊びやそり遊びに興じた結果だと云われています(文化1年)木喰87歳の時の像です。この自身像は同寺に祀られている33観音像の守り役の様な小像で、親しみのある表情ですので子供の遊び相手に最適だったのでしょう。

農民の目の前で作られた像はまるで農民自身のようです。観方次第では木喰さんの様にも見えます。観音様の面倒見役だと理解しました。面倒見役の像が完成したと思ったら木喰は裏返しをして像の背中を彫りだし始めます。これは「内刳り」と呼ばれる仏像が乾燥しても割れないようにする工夫でした。でも子供達はこれは舟に似ている思いました。その結果夏には水遊び(舟)に冬にはソリ遊びに使いました。その結果新潟の木喰像はお顔が削れてしまいました。長岡郊外宝生寺の33観音の木喰自刻像もそんな結果お顔は完全に消えてしまっています。
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西宮の東光寺の自身像この像は西宮神社の夷様を意識して彫られたものと思われます。文化4年木喰90歳の時の像です。

木喰さんが自分自身を彫ろうと意識したのかそうでないのか?それは解りません当時の高野聖が一般にどんな風に考えていたかも考慮に入れる必要があるでしょう。でも彫刻する人の精神が崇高であればある程作品も崇高になるものでしょう。
彫刻する人は心の中の理想を形にするモノだと考えるからです。青年運慶は古代が崩壊する時代に理想とする姿を大日如来に彫ったものと思います。理想像が自身像に似るのは必然だと思うのです。でも自分自身を仏像にして衆人に拝ませたいといった想いが在ったとすればその像は醜悪なモノになって人々を導く尊さに欠けた事でしょう。
ですから。昭和モダニズムの時代にマスコミも皆が木喰自身像と呼んだのは自分自身も木喰像のように笑顔の素敵な博愛の人になりたいと思ったまでで・・・・・、それこそ大乗仏教に相応しい仏像と云えましょう。
何処の寺に行っても本堂横に参拝客に触らせる『賓頭廬尊者像(おびんずるそんじゃ ぞう)」があるモノです。参拝客はおびんずるさんのお身体を触って帰ります。おびんずるさんはお釈迦様のお弟子である十六羅漢 (じゅうろくらかん)の筆頭です。 病気を治す力があるとされ、撫でるとその部位の病気が治る 』と考えられていました。木喰さんは端材でおびんずるさんで作りました。そのおびんずるさんが木喰自身像に見えたのではないかと考えます。
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参考文献は上の本です。一番左から木喰展の目録(神戸新聞社木喰生誕290年(2007年)右に鹿島出版会の木喰仏で美術愛好家の鑑賞対象でした。一番右が微笑仏(五来重淡交社は昭和41年)この頃から木喰を民俗学的素材として考えるようになりました

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昭和モダニズムのゴチック洋館「前田侯爵邸)

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日本民芸館を見学して眼も脚も疲れました。そこで次は民芸館の北隣にある前田侯爵邸に向かう事にしました。
実はこの洋館に喫茶サービスがあって人気だと聞いたのでした。
民芸館で道順を聞きます。
「時計回りに駒場公園を廻って北から入るのが道順ですが。反時計回りに駒場公園を廻って南口からは行った方がズット近いですよ」アドバイスしてくれました。少しでも早く喫茶したい私は当然のように駒場公園南口に向かいました。
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これが前田侯爵邸のパンフから抜粋した位置案内
マンションと戸建住宅の間にある小路を辿ると駒場公園南口が見えてきました。鬱蒼と茂ったスダジイの森の奥に芝生の庭があって大きな洋館が見えてきました。案内人に確認した処。加賀100万石前田家は上野寛永寺の西本郷にかけて上屋敷を構えていたのだそうです。関東大震災後本郷のお屋敷を東大本郷キャンバスの拡張などの為に東大農学部の在った駒場のキャンパスと等価交換したのだそうです。本郷に在った前田家の赤門や黒門(上野博物館)は残してきました。駒場の農学部は教養学部になり、農学部は本郷キャンパスに隣接した弥生町に移転しました。
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駒場公園南口から前田侯爵邸の庭に向かう紅梅が咲いて冬鳥が群れていました

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前田侯爵邸の芝生はお花見には最高のようです写真出典目黒区HPhttps://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/rekishi/hokubu/kyumaeda.html次には桜が咲いた頃この芝生の上でお弁当を広げましょう。
本郷から駒場に移転した前田家第16代当主の利為(としなり)は昭和4年昭和4年(1929)に洋館の建設に着工します。施行は宮内庁宮内省内匠寮工務課技師の高橋貞太郎でした。洋館1階は晩餐会を行なう重要な社交の場で、2階は家族の生活の場にしました。この様式は白金の朝香宮邸(現庭園美術館)にも共通するものです。
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前田侯爵邸の玄関アプローチ
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玄関ホール二階に繋がる階段があって細かな細工が目を奪います。大理石などはイタリアから取り寄せたそうです。
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玄関ホール奥には庭に面して喫茶コーナーがあります。上品な叔母様がコーヒーをいれてくださいました。この椅子に座って庭先の桜の散る様を見て居たいものです。前田侯爵の気分になれるでしょうか。
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喫茶室の名はマルキス(marquis)です。珈琲は350円ですカフェラテカップチーノ(写真)は400円で一枚ビスケットが添えられていました。案内人に訊くとマルキス(marquis)とは侯爵の意味だそうでした。湯沸し室が遠いので珈琲を運ぶのが大変に見えました。
拝観料は無料ですから喫茶室に入ったと思えばコスパは最高ですし。伯母さんはよく勉強していて何でも教えてくださいました。
 洋館の南には広大な芝庭が広がり、洋館北には和館を作りました。和館には茶室も備え、築山と流れに囲まれた回遊式の庭園が、趣を変えながらも有機的につなげてみました。和洋を有機的に合理的に接合させる試みは建築の世界では「昭和モダニズム」と呼ばれています。広い社交場を用意し併せて4畳半の茶室も作るそれは和洋折衷では無くて、和洋の良い所どりをして生活を豊かにするモノでした。建物の外観はチューダー調のゴチック様式でありながら細部の意匠は和洋も混じって肝心の工事は伝統的日本の大工さん(職人)がしました。元々レンガを積み上げる建築よりも軸受の和式建築の方が難しい技を必要にしました。日本の大工さんがゴシック建築を習得する事は容易い事で。大工たちは様々な工夫をする余地が在ったのでしょう。玄関の巨大な空間を劇的に見せる階段の手摺には宝相華模様の細工をしてみました。細工は欄間を得意にした職人が施しました。天井は宮大工が格天井を設えました。構造材は様式で(震災後でしたので鉄筋コンクリートにしました。細部意匠は和式が多用されました。昭和モダニズム建築は従来の天皇制国家(明治国家)から現代の民主国家への変化を衣食住の全面で支えたハードウェア―でした。我家の玄関ホールもささやかな居間も現代の個人主義家族のそれであり昭和モダニズムに端を発するものです。
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階段の手摺の空間を飾った宝相華唐草模様。欄間職人なら容易な細工だったことでしょう。

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二階の居間全員が天上を見上げています。天井は伝統的な格天井でその四隅が外されていました。天井裏に空調設備をいれてその検証を(施工業者と目黒区が実施していたようです。一昨年この物件は国の重要文化財に格上げされ改修を実施したのでした。筆者が利用したエレベーターも新設されていました。右端のマスクの男性が施工業者で施工ポイントを説明左のバインダーを持った女性が施工の可否をチェックして居ました。もうじき和館の改修工事に入るそうですから、和洋館両方見ようと思えば桜の季節が最適でしょう。

前田侯爵家の鎌倉別荘(昭和23年竣工)は鎌倉近代文学館として活用されています。鎌倉近代文学館は見学料も高いし(400円)珈琲のサービスもありません。加えて職員は横柄です、写真を撮らせてもくれません。
運営が鎌倉市文化財団)である事と目黒区である事の違いでしょう。矢張り目黒区は良いなあ思いました。
もう午後1時です空腹感が強くなりました帰りは正門を出て東大キャンバスを東に見ながら井の頭線の東大前に向かいます。駒場小学校の生徒が下校してきました。屹度裕福な家庭のお子様なのでしょう。
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前田侯爵邸正門を入った処のヒマヤラ杉の植え込み庭の桜もこのヒマヤラ杉も樹齢70年を超えて風格充分でした。


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駒場孟母三遷の街

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前田侯爵邸を出るともう午後2時過ぎです。流石に腹が減って眩暈がしそうです。出かけるときはランチは下北沢でと思って居たのでしたがもう我慢できません。民芸館通りに面した喫茶店に入ってランチすることにしました。古い蕎麦屋に鰻屋そして小洒落た喫茶店が数店ありました。その中からスープセットが美味しそうな喫茶店コロラドに入りました。既に二組のお客さんが大声で話しています。私は近辺の松濤マダムが居るのかと期待していたのでしたが拍子抜けです。私と同じように日本民芸館に行った帰路のようで、そんな話題で持ちきりのようでした。私の脳裏には孟母三遷の故事が浮かんでいます。
「孟母」とは、孟子の母親のことです。。
「三遷」とは、住居を三度移し変えた事です。
孟子の家族は、はじめ墓場の近くに住んでいたが、孟子が葬式ごっこをして遊ぶので、市場の近くに引っ越した処今度は、孟子は商人の真似ばかりして遊ぶので、学校の近くに引っ越したのでした。
すると孟子は礼儀作法の真似ごとをするようになり、孟子の母は「この地こそ子供にふさわしい」と言って、その地に落ち着いたという故事です。今なら学区制がありますから有名学校の学区は人気があります。東大前なら家庭教師を探すのも駅前の掲示板に「家庭教師求」と貼れば良いでしょうし。コンパばかりしている大学生よりも東大前なら子育てに良い環境でしょう。加えて此処は静かで緑の濃い環境です。大きなお屋敷は少ないようですが渋谷区松濤の延長の高級感が溢れています。
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喫茶店コロラドの前は井の頭線駒場東大前の駅舎で。生徒さんが帰宅する時刻でしたこの道を東に行けば松涛美術館でその先は東急文化村です。次は美術館巡りをすることにしましょう。
 孟母三遷の街だな”思いながら家々を眺めると家にはお金を懸けられても庭木には手が回らないようです。庭木が茫茫と伸びている家も目立ちます。”桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿”言いますが梅の小枝が徒長した茫茫のです。そう言っている我が家の豊後梅も徒長枝が伸びてしまってご近所から”梅伐らぬ馬鹿”思われていることでしょう。早くリハビリを達成して私が刈込をしないと梅さんも小馬鹿にされて可哀想です。 他人の振り見て我が身を振り返るのが適当で安易に他人を批判しないのが賢明なようです。
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一見して二世帯住宅の玄関の白梅昨年の枝が徒長してしまって茫々です。この徒長枝を伐らないと梅の形は崩れてしまうし木自体が充実しません。高級住宅地ですが庭木までお金が回らないのは私と同じです。
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喫茶店コロラドのランチセット手前がクラムチャウダー、向こう@ワイフ)がミニストローネセット(850円税抜き)でした、これに珈琲が付きます。
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コロラドの壁に貼られたポスター。この店は近所の住民の喫茶室であり、民芸館やびじゅつかんを巡る人のオアシスなのでしょう。
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コロラドの店内最近はバリスタ流行りですので珈琲サイフォンで沸かしたコヒーが懐かしく想えます。

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我家の梅の木(豊後梅)昨年伸びた徒長枝が花をつけています。松竹梅三つの植物に共通するのは強靭な成長力です。松も竹も新芽の伸びる力は弩迫力です。そして梅も花が終わると新芽が伸び出して徒長枝になります(写真の中央右まっすぐ伸びた竹のような枝が徒長枝です)。この梅の木1本でも植木屋さんを入れると10万円もかかりますので、徒長枝は伸び放題です。


今日は2月14日バレンタインデーです。夜半から雨が降りだし強い南風も吹き出しました。庭の白梅もこれで散ってしまう事でしょう。でも豊後梅(想いのまま)は咲き出すことでしょう。どちらの梅も私が脳梗塞で倒れて以来手入れをしていませんから徒長枝が気儘に伸びています。でも昨年伸びた徒長枝には花が咲き実もなります。梅の木を育てるのは育児に通じるところがあります。日光が愛情なら、剪定は躾でしょう。どちらが欠けても行き過ぎてもなりません。名古屋の孫が卒園のお遊戯をするので爺さん婆さんも観に来てお誘いが来ています。梅の花も孫の笑顔も私達を励まして”死ぬまで生きろ楽しめ”激励しているようです。この齢になったら周囲の期待に身を任せる事にしましょう。

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