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春一番一過の楽しみ

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昨日は天気予報通りの春一番が吹きました。でも午後からは風が止み青空が広がったので、お散歩に出かける事にしました。
途中何時もお世話になっているデーサービスと図書館を通ります。
先ず、庭の梅の枝を伐って花束を作りました。春一番で豊後梅が咲き出したのです。豊後梅は杏のDNAが混じっているので少し華やいで見えるのです。春を探しに街に出て序に春も届けようと云った魂胆です。
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我家の豊後梅(左想いの儘)右は冬至梅(実梅)でもう散り始めてしまいました。
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君子蘭を獲りこんだビニールを組んだ温室。透明塩ビの波板が剥がされてしまいました。でも葉っぱは生き生きしていて、この冬を越せたことが確認できました。この雨で花芽が伸びていることでしょう。
庭は強風で傷んでいます。君子蘭の温室もビニールが剥がれてしまいました。
ワイフは庭仕事が増えたので大変です。加えて鶉小屋の扉が外れて一羽の鶉が逃げてしまったようです。一羽残りましたが心なしか寂しそうです。何時もは二羽で喧嘩ばかりしているのですが,喧嘩相手でも相手が居なくなるのは鶉とて寂しいのでしょう。
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我家の前の坂の上は私の生家の盛徳寺(山号は福寿山)です。境内に夏ミカンが自生していて。その実が春一番で落果してコロコロ我家まで転げて来ました。

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生家の夏ミカンが転げて県道まで転がってしまいます。県道に転げ出すと自動車に轢かれて街を汚してしまいます。

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春一番一過で鶉さんも一羽になってしまって寂しそうです。
玄関を出ると我が家の前に大きな夏蜜柑が転がっています。夏蜜柑の木は祖母が丹精したモノで、強い風で木から振り落とされて寺の境内から我が家の門迄坂を転がり落ちてきたものです。婆のお届けモノです酢橘代わりに戴く事にしました。夕餉は何にしようか?比内地鶏と芹をたっぷキリタンポ鍋が良さそうです・・・・。ワイフと相談しながら何時もとは違うスーパーと戸塚駅西口に向かいました。
 春一番 婆が届けし橘を 夕餉には戴かむ
この温かさではもうじき梅も散ってしまいそうです。
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柏尾川を旭橋の上から見下ろす。水面が光ってもう春の風情です。土手のハコベも敷ける程に伸びて来ました。中州のガモも枯れて羽毛を飛ばし切ってしまったようです。ガモの羽毛はツンボにするといって苦情を寄せられています。
デーサービスに花束を届けて図書館で返却して柏尾川を渡ります。旭橋から眺める川面はキラキラ春の光りを反射して眩しいばかりです。沢山いたカモメは江の島の海に帰ったようで。雉鳩だけが群れています。枯れた茅の根元からは青い色が覘いて見えます。柏尾川の土手はもうハコベや大犬のフグりが生しているのです。
ワイフが云います。”今日の風の匂いは磯の香りがするわ”確かに磯の香りです。二年前ならバイクを飛ばして海に行ってワカメを拾って居る事でしょう。脳梗塞前には春一番が吹いた翌日は桜貝とワカメを拾って砂浜を往ったり来たりしたものでした。旭橋の袂には壊れたビニール傘が道端に無残な姿を晒しています。
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道端に捨てられた壊れたビニール傘お嬢さんの悲鳴が響いた事でしょう。枯れ薄の根元がもう緑色に変わっていました。
春一番と云えばお洒落なお嬢さんが春服に着替えて裾や髪を悪戯されて困り顔の光景を思い起こします。でもそれは午前中までの事。午後は実に穏やかでお散歩日和です。もう歩きはじめて1時間は経ったでしょうか、少し疲れました。2階はアフタヌーンティー(少し割高)で1階はマクドナルドです。節約するつもりでマックに入る事にしました。100円でアイスコーヒーを座って飲めるのはマックだけです。
マックを出て東急ストアに入ればチョコレートの大廉売です。豆腐チョコを横目で見ながら花屋さんの店先に廻ります。家に戻ったらえんどう豆をプランターに播く事にしました。
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14日はバレンタインデー。聖人が殉職された日をチョコレートで大騒ぎするのは憚れますが、豆腐チョコは少し惹かれました。東急ストアで
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矢張り春の花はスイトピーです。一束129円はリーズナブルですが家で播けば花も実も(えんどう豆)エンジョイ出来ます。
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これが桜貝です。春一番が吹き荒れると砂の中で埋もれていた桜貝が浜辺に吹上げられます。同時に沖合で養殖されていたワカメがちぎれて砂浜に打ち上げられます。そのワカメを拾っても問題ないそうです。拾いワカメの美味しい事は太鼓判です。
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長谷海岸のワカメを干す風景。春一番で養殖ワカメがちぎれて打ち寄せられるので、拾って戻ります。ワカメの味噌汁は最高です。


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イスラム寺院参詣

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2月12日駒場日本民芸館から前田侯爵邸を見学して次は代々木八幡の東京ジャーミーに向かいました。私がもう少し地理に明るかったら、徒歩で行ったのでしたが。先ず下北沢に行き小田急線に乗り換えて代々木八幡に向かいました。私は新婚時代小田急線の鶴川に12年間住みました。前人事課長のお住いを借り上げていましたので大変緊張して遣わしていただきました。鶴川団地の南側に隣接した丘陵の戸建て住宅地でした。団地のセンター街区でお買い物をして朝晩は超満員の小田急線に乗って、代々木八幡で地下鉄千代田線に乗り換え大手町に行き来して居ました。当時から代々木八幡の街にイスラム教の尖塔が在る事に気付いていましたが。八幡宮をお詣りしてもモスレム(東京ジャーミー)には参詣した事はありませんでした。そこでこの機会に参詣してみる事にしたのでした。
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国道413号線に面して(渋谷区大山町にある東京ジャーミー。此処には前身である東京回教学院があったのでしたが、1938年(昭和13年)に設立。老朽化のため取り壊された後、2000年(平成12年)に再建・開堂しました。建築資材もトルコから職人も同国から派遣されたオスマントルコの文化の殿堂です。モスレムの西側には東京回教学院時代の建物が残されていました。
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モスレムの入り口は1階で集会場と喫茶飲食買い物施設になっています。二階が礼拝場(モスク)で1階で身を浄めて靴を脱いでスカーフで顔を隠してモスクに登ります。
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モスクの入り口携帯禁止の張り紙はありますが、撮影禁止の指示はありません(HP上には撮影禁止になっていますが。撮影しても問題にはされていませんでした。
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モスク入口のアーチ素材の大理石もトルコから運んだものだそうです。施行は鹿島建設)
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1階多目的ホールにある洗い場此処で手足を浄めてから裸足で二階のモスクに上がります。
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モスクに昇ると聖職者が案内してくれました。先ず全員がメッカの方角に向いて頭を垂れます。
総じて日本人にイスラム教を馴染んでほしい想いが伝わって好印象でした。

でワイフに「今日はモスレムに行くからスカーフを持参するように前日に言っておくべきだったのでしたが、ツイツイ忘れてしまい。”車内でモスレムに入るのでスカーフある?”云ったところお小言を頂戴してしまいました参詣記念に買っても良いだろうという事で、代々木八幡駅から尖塔を目標に歩きだしました。
モスレム前の道路に大型バスが停車して居ました。東京ジャーミーは今では観光名所になっているようです。私達は大型観光バスの乗員40名と一緒に説明を受けました。
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何といっても圧倒されるのはモスクの天上のアーチ空間です。ステンドグラスの色が鮮やかで、モスク内部空間は荘厳です。偶像崇拝が禁止されているイスラム教ですから、カリグラフィ(アラビア文字の書道)やアラベスク(植物をモチーフとした紋様)、幾何学紋様が多用されて、神(アッラー)の偉大さを表現しているのでしょう。大きなドームは神(アッラ―の創造したの宇宙を表しているのです。
正面やや右がメッカの方角になります。もう2時間も経てばステンドグラスを通して夕陽が大空間に差し込むことでしょう。
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モスク内部正面やや右がメッカの方角で北極星を戴いた塔があります。立っている人は東京ジャーミーの職員(聖職者」で説明しています。その左床に座っているのが一般人聖職者。右の壇はイマーム(導師)が金曜礼拝の時に説教を行うミンバル(説教壇)です。
室内の中段に帯状の紺青色で塗られてアラビア文字が書かれていますがこれはアッラーの偉大な特徴を記してあるカリグラフィ(アラビア文字の書道)です。
【スカーフと豚について】
ところでスカーフですが聖職者はスカーフを含めて衣服は民増の誇りであると説明し”日本人も着物を誇りにした方が良い”と言いたげでした。私は”そんなものかな?”怪訝に思いながら聞いていました。家に戻るとトリニダードトバコで日本人女性が殺害されその知事が”肌を露出していた日本女性も悪い”と言ったところ知事は世論のパワーで罷免されてしまったとのニュースが流れていました。綺麗な女性はその顔を露出しているだけで犯罪であるといった考え方が何処にでもあるものです。極端なのがイスラム世界なのでしょう。
春になれば女性は肌を露出します。鶯だって狐だって春になれば異性を魅了しようとするのが自然の摂理です。でも理性を惑わす誘惑は宗教的には戒めなくてはなりません。方法は二つ女性の色香に惑わされた男性を罰するか、女性がアッチコッチに色香を撒き散らさないように蓋を指せるかどちらかです。スカーフは後者の手段なのでしょう。短すぎるスカートや透け透けのブラウスは前者の視点で問題があります。
ワイフは大きなハンケチで顔を覆って聖職者のお話に耳を傾けて居ました。販売コーナーに行くとハラール認証ラーメンやスカーフが売られていました。
スカーフの件は一応解決として次はハラール認証です。イスラム教では豚も猪も禁食です。
日本の盛り場は豚骨ラーメンの匂いが充満して居ますから彼等は胸が苦しくなることでしょう。仏教徒から見れば豚も羊も兄弟みたいなものです。豚は食べてはいけない、羊は肉も血も総て食べるのは識別困難です。豚は何でも餌にします。人間の排出物も好物にしてしまいます。”豚は不潔な動物である””人間たるモノ清潔にしなくてはならない”教えが少しオーバーになれば豚を食べてはいけない”になるのは自然です.異常に清潔好きな人は居るものです。私のように脳梗塞の後遺症に苦しむモノにとっては豚を禁食にする宗教は合点しやすいモノで。
宗教は一神教多神教といった分類よりも宗教民俗学とか宗教社会学と云った文化人類学的な分類の方が有効であるように思います。少なくともその方が無意味な宗教的な摩擦軋轢を回避させることでしょう。
東京ジャーミーのイスラム教を身近にして貰おうそんな試みは尊いものと思いました。

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イスラム教への偏見を捨てよう

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私は独立して以来再三マレーシアに出張しました。
私の会社が開発したICカードキーの製造をマレーシアのNS系の紹介で当地の中堅企業に委託していたからです。委託先のオーナーは華僑(中国人)でしたがスタッフの多くはマレーシア人でインド人も多く共存して居ました。
ホテルの前にイスラム教徒の女学生の通う学校があってスカーフを被った女学生が通学する姿を美しいと感じて眺めて居ました。
一日の仕事を終えるとホテルの前の公園に出かけました。公園には無数の屋台が出て来ていて中華やカレーやマレーシア料理が並んでいました。共稼ぎが多いし熱い夜ですから皆屋台に出てきて夕食を食べているのでした。多民族国家の明るい一面をエンジョイする事が出来ました。
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マレーシアの屋台(写真はクアラルンプールですが中小都市でも夕方になると公園に屋台が出て住人は家族揃って食べています。中国人インド人マレーシア人が隣同士に座って各々好きな料理を食べています。多民族国家の幸福な時間です。写真出典は旅行社http://tg.tripadvisor.jp/news/advice/jalanalor_kl/)
総じていえば英国植民地で王室があって経済界は華僑が牛耳っている多民族国家でした。
宗教は過半がイスラム教インド人はヒンズー教そしてキリスト教も根強いようでした。彼等が親日的であったのは植民地から解放してくれたのが日本人で、マレーシア独立後のお手本が日本だったからでしょう。日本の看板企業は本田やソニーでした。マレー半島の先端にシンガポールがあります。
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繁栄著しいシンガポール向こうの高層建物ホテル(レーザー光が放たれている)は屋上プールのあるホテルです。この国は元々英国領で東インド会社の開発した貿易都市でした。天然ゴムのプランテーション等の成功でリッチな国になり国が企業を育成する準国家資本主義で成功してきています。そんな明治維新政府の様な国家ですから観光立国や一酸化炭素を排出しないゼロエネルギーを達成しつつあります。クローズアップ現代で報道されました。
シンガポールは英国東インド会社が育てた貿易都市で、国民所得も高くリッチな国です。マレーシアに似た多民族国家で華僑が指導層で印僑も目立ちます。唯日本と違うのは国家が資本主義を推進する体制に在る事です(開発独裁)が公然と実施されています。などを指す住民は、中国人が8割弱マレー系が14%、インド系が8%です。夫々は別々のコミュニティーを形成しています。宗教も多彩で仏教、道教イスラム教キリスト教ヒンドゥー教が共存しています。
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シンガポールのガーデンベイ公園の景色ツリーの様な構築物はボイラーの煙突です。煙突の下には火力発電のプラントが隠れています。火力発電所の燃料源は石油では無くて公園の伐採木です。密林の大木を想わせる煙突にしているのは熱帯雨林を大切にしている事実と観光立地を意識している景観対策です。クローズアップ現代で報道されました。
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シンガポール航空のSAは美人で有名ですし、世界一の評価を得ています。観光立国で国有会社から出発した歴史を秘めています。
叔父さんは民族服「 サロンケバヤ」に弱いのです。
シンガポールは多民族国家であり資本主義国家であり宗教の自由が守られています。
日本と価値観を同じくし、多様な料理や芸能が保存されている楽しい国です。
それでも最近はイスラムテロの懸念も指摘され始めているようです。
処でイスラム教もキリスト教も一神教です。神は唯一でありモーゼもキリストもモハメットも預言者の一人にすぎません。ロシア正教もギリシャ正教もイスラム教も源は同じ兄弟のようなものです。
しかし「イスラム国」(イスラム原理主義の作ろうとしている疑似国家)は、イラク、シリア、更には他の場所で、何千人ものシリア人キリスト教徒を殺害し、追放し、世界の歴史遺産を破壊し、地域からキリスト教の痕跡を組織的に壊滅しようとして怖れられています。
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東京ジャーミーの1階ホールに貼られたポスター(海難1890和歌山県串本町などを舞台に日本とトルコの友情を描いた日土合作映画)
【日本人宗教観の無限抱擁性】
一神教の民族にとって日本人は理解し難い民族のようです。
度々私達日本人は外国人から再三指摘を受けます。
「日本人は産まれるまでは神道で結婚はキリスト教で死んだら仏教で・・・・・・使い分けしている解り難い民族だ」
日本人は「正月はは神道で春から夏にかけては仏教で秋は再び神道で12月はキリスト教で一年の間に宗教を使い分けている、まるで無節操な宗教観でいる。」非難されているように思われてきました。
でも昨今は世界が一神教の兄弟戦争が眼に余って来るに従って「様々な宗教を受容する日本人を評価するような気運が生じて来ています。
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日本人の宗教は季節と共に変わります。出典は日本テレビ画面に出ています
キリスト教とイスラム教は中世以来800年も戦争をしてきました。でも今は是が非でも戦争を止めさせたい。」世界中で願っています。
「平和の実現を第一目標とした場合・・・。どうしたら戦争を止められるのか?」
考えます。イスラム教徒がキリスト教のエホバ(ゴッド)はイスラム教の唯一神アッラーと同じだと考えれば敵愾心も薄くなるのでしょうがそんな複眼の視点は持っていません。
イスラム教もキリスト教もユダヤ教も預言者(キリストやムハンマド)を尊重しキリスト教徒はムハンマドを裏切り者と蔑視します。イスラム教もムハンマドはキリストよりもモーゼよ入りもノアよりも偉大な預言者だと確信しています。同じ根から生えた異なる木は相手が枯れるまで諍いを止める事は無いようです。
かたや日本では仏教伝来時は神道はさておき仏教の先取的な教えを尊重しました「先進文化の受容を目的に宗教を共存させr暫くして仏教の受容を終えると仏教と神道を習合させました。時と場合によって神は仏の姿になる・・・・両者の居場所を使い分ける事で平和的に先進文化を受容したのでした。明治維新の変革も同様でした。先ず産業革命を成功させたスキルの受容を先行させ一番難しいキリスト教や自由平等博愛」と云った精神の受容は後回しにしました。産業革命を成功させることを優先させたのでした。その咎めは戦争で体験したのでしたが・・・・・。
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シンガポールは近代的な大都市であると同時に美しい観光国家でもあります。
中央を少し走れば熱帯樹林に出られ密林には生物多様性が保護されています。国中が公園のようですから公園からは伐採木が出てきます。伐採木を燃料にして火力発電をします。石油に依存することなく公園の樹木を素材にして発電しますので、一酸化炭素ゼロの循環国家を作っています。
21世紀は宗教的対立を避けて「地球世界の樹立」こそ大切だと考えれば、そのモデルはシンガポールやマレーシアに在ると思われます。
どちらもイスラム教徒が過半を占める多民族国家で在り、平和で安産な社会が営まれています。そして熱帯雨林に囲まれている生物多様性が目立つ国土なのです。加えてエネルギー循環が成功しています。
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東京ジャーミーのモスク内部の幾何学模様、この天井を見ているだけでもイスラム教が医学や科学、数学等で世界をリードしてきたことが納得できます兎角情緒的な日本人にはこの装飾を完成させる忍耐力や完璧性はありません。
パリ多発テロの記憶が消えずシリア難民問題の先行きが五里霧中な中兎角イスラム教が非難される気配があります。人類はイスラム文化の恩恵に浴してきました。を保護し、自然循環社会を目標にする公園の様に美しい国家であり。これからは世界をリードする国の様な期待があります。



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臍の緒の民俗学

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今日は先ず最近心がけている「丹田呼吸」について説明します。私はデーサービスに出かけてもリハビリ病院に行っても体幹を鍛えるように運動をさせられます。”体幹を鍛えれば転倒し難くなるし。立っても座っても姿勢が良くなりそうだ”思いながら取り組んでいます。太極拳かヨガをしているような気分です。必ず意識させられるのは腹式呼吸です。腹筋を意識しながらゆっくりと息を吐き尽くし、ゆっくりと息を吸い込みます。腹筋が少し硬くなります。
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朝の健康体操は太極拳かヨガを想わせるもので丹田を意識して大気を吸い込み吐き出す動作を繰り返します。写真はBSTBS
硬くなった当りが「丹田」だと思います。ですから丹田はお臍の周りにあると思って居ます。丹田を意識しながら呼吸し、寝るときは丹田に両手の掌で守るようにして息を整えます。
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石仏の定印も丹田の前で手を組んでいます。
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如意輪観音は半跏していますが丹田に重心が置かれています。人間は丹田に重心が在る姿が一番自然で美しいのです。
ワイフは弓道に励んでいますコツを聴くと”丹田に気を集中させること言います。要するに人間は立っても座っても重心を丹田に置く事が良いようです。
先日テレビで”癌のを再発させない方法”を見ていた所”癌の免疫細胞(NK細胞)を活性化させることが重要でNK細胞は食後にリンパ腺を通って全身に回るので、食後1時間で横になって腹式呼吸をすることが有効である”説明して居ました。何故ならNK細胞を前身に送り出すリンパ腺は丹田にプールされて其処から全身を巡るのだそうです。リンパ腺は心臓の様なポンプ器官が無いので、横になる事で全身を巡るのだそうです。
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血液は心臓から動脈を通って体の各部に送り出され動脈の先端(毛細血管)を経て静脈で心臓に送り返されます。一方リンパ液は体の各部要所にあるリンパ節に溜まります。リンパ節に集まってくる細菌やキラー細胞など有害物質を処置して体外に排出します。リンパ節が膨れると病気が発症するのです。花粉症もそんな疾患の一つです。リンパ腺は静脈に並行して走っています資料出典:リンパ浮腫を理解するために(http://image.search.yahoo.co.jp/search?fr=top_ga1_sa&p=%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%91%E8%85%BA&ei=UTF-8&xargs=10&b=1)
私はリンパが活発に働いて貰うように食後直ぐには横にならないで1時間ほど起きていてからベッドで横になります。そして丹田を意識しながら腹式呼吸します。両の掌を腹筋に当てて呼吸を整え、健康の快復を祈ります。10回も腹式呼吸すると落ち着いて来ますし。少し手足も温まる気がします。そして何か母のお腹に居るような気分になって来ます。
私が掌で守っているのは私の「臍の周りです。臍は臍の緒と云う細い管を介して母の身体(子宮胎盤)に繋がっていた痕跡です。多分臍の緒を介して母のリンパ液が私の体を巡っていて。私を病気や細菌から守っているのでしょう。私が地上に産まれて1箇月余りは母のリンパ液が私の体を守っていてくれた、所謂乳児免疫でした。
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臍の緒は母体のリンパ液等を胎児に送る管で胎児の体の中核に位置しています。リンパと云う体の免疫機能の中核は丹田に位置していると思う根拠です。絵の出典:ウキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%8D%E5%B8%AF
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韓国歴史ドラマの出産シーン「梁」(はり)に紐を吊るして紐を握って出産し易い体形をとります。臍の緒が胎児に絡まない最も合理的な姿なのでしょう。出産時に母体も子供も命の危険に晒される事から厄除けの呪術が盛んに実施されました。日本や朝鮮の竪穴式住居が柱と梁で組み合わされていて、出産は必ず産小屋で行われていました。画面はBSフジ
私は自分の臍の緒を思い出します。
母は私がある日小学校に入学するある日突然に私の臍の緒を見せてくれました。私の臍の緒は桐箱の中で真綿に包まってありました。
”これがお前の臍緒だよ”云いながら桐箱の蓋を開きました。干乾びた細い管はまるでスルメの足のように貧疎に見えたのでした。
私の臍の緒は兄弟の臍の緒と一緒に母の葬儀に際して納棺されました。屹度閻魔大王の前で”私は4人の子供を産み育てました”報告する際に証拠にするのでしょう。閻魔様は仰るでしょう。”そうかお前は4人も子供を産んで育てたのか。それは感心な事だ、処でお前の子供達は如何しているかな?”言いながら浄玻璃( じょうはりのかがみ). で私を含めて4人の子供の生き様を検証する事でしょう。そして何と云われるかは云わない事にしましょう。4人とも自信なさそうですから・・・・。(お母さんご免なさい・・・。)

私のワイフは母子手帳は保存していますが臍の緒を如何しているか?知りません。何で昔の母親は臍の緒を守っていたのか訳は知りません。中世以降父系社会になってしまった事から、自分が誰それの母で在る事を証明するツール立ったのかもしれません(道綱の母の様に)。
乳歯が抜けると上顎の歯は屋根の上に、下顎の歯は地中に埋めたのに比べて臍の緒は大事にされていまあした。
最近乳幼児を殺してしまう母親が目立ちます。神通の苦しみと産まれた時の感動を忘れないように臍の緒を保存する慣習は見直したいものです。


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秩父5番札所金昌寺の慈母観音

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狩野芳崖の慈母観音像下村観山にも似た意匠の観音像があります。乳児を包んだ球は臍の緒を想わせる細い紐で観音様に繋がれています。芳崖も観山も母への報恩の想いで描いたものでしょう。

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聴くに堪えないヘイトスピーチ

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”とうとう国会までヘイトスピーチで穢されてしまったのか!”暗澹とした思いに沈められる丸山参議院議員の発言でした。日本人は米国が好きですし好きな理由の一つに民主主義の三本柱「自由平等博愛」を実現した国造りにあります。子供心に模”リンカーンは偉い人で、オバマ大統領は歴史に留められる人”確信しています。そんな米国人の選んだ大統領に「今、アメリカは 黒人が大統領になっている。建国当初に黒人、奴隷が大統領になるなんて考えもし なかった。」暴言を国会で吐いたのですから。日本は世界中の失笑を買うものです。ヘイトスピーチは一部の偏狭的な愛国主義者が韓国人や北朝鮮人に向けてしているものと思って居たのでしたが、最近は暴走状態にあるようです。テレビで沖縄の辺野古埋立地前でのデモ行動を観ていると左派(反対派」も右派(推進派)も観るに堪えないヘイトスピーチの応酬です。ネット上にもヘイトスピーチの応酬を告発する記事があります。(http://blogs.yahoo.co.jp/kuretakenoyo/37780488.html)

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昨日の夕方のニュース画面丸山参議院議員は憲法審査会の委員は辞任したものの参議院議員としてj働きたいと主張しました。でも政府要人は擁護する姿勢を示さなかったようです。こんな認識では東京弁護士会からも糾弾されることでしょう。


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眼に余る聴くに堪えないヘイトスピーチデモに対し全うなデモ(主張)も目立つようになってきました。この主張の裏には吐き気を催すような反韓デモがありました。http://www.labornetjp.org/news/2013/0421shasinが参考になります。
私は「何時からこんな風に憎悪に満ちたヘイトスピーチが同じ国民の中で行われるようになったのだろうか?」考えます。私達が10代の頃ベトナム平和運動が盛んでした。横須賀でも佐世保でも空母の寄港反対デモや集会が開かれました反対派の集会に賛成派が異論を唱える事もありました。そんな時反対派は”帰れ!帰れ!”とブーイングした事はあっても最低の礼儀は守っていました今は意味不明な憎悪発言が飛び交っています。ヘイトスピーチが止まらなくなったきっかけはラインやツイートが普及し。誰でもが覆面をしたまま発言し出した時に始まったように思います。最初は在日外国人に対する差別や反韓デモでしたが、最近はイスラムへの脅迫や不法在留外国人そして沖縄人にまで矛先が広がってきたように思います。
ヘイトスピーチは日本の社会を根底から崩壊させますこれ以上日本社会が壊れて行き日本人の品位と知性が劣化してゆく姿は見たくないものです。
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沖縄での反基地デモ写真出典(dayjapanhttp://daysjapanblog.seesaa.net/upload/detail/image/12E69C88E58FB7E38398E382A4E38388E382B9E38394E383BCE38381-thumbnail2.jpg.html道路の左側が反基地デモ右側がデモ阻止しようとする右翼の人達日本が壊れて沖縄がどうなるのか懸念されるヘイトの応酬です。
ネット上の2チャンネルは便所の落書きのようなもので。何と書こうか責任は問われません。何時もは見栄や世間体を取り繕っていても自分が何者であるかも問われませんし自由なのですからツイツイ素っ裸の自分自身を露出させてヘイトされた人の悲しみも苦痛も想像しないで暴力の限りを尽くして馬事悪口を吐いてしまいます。ヘイトの仲間はお互いの悪口が増幅して虐めの本性が露出して止めどもないヘイトスピーチが増幅してしまいます。学校で問題になっている虐めもホームレス狩りも多摩川の少年殺害事件に至っては京都の朝鮮人学校に対しる虐め事件を髣髴させました。一人の少年を集団でリンチして殺してしまった事件は日本で産まれた朝鮮人二世に対する集団虐めと同じ構造であると思いました。どちらも行き過ぎたヘイトスピーチを自制させるブレーキ機能が日本社会から失われつつあることを教えていると思います。
日本のヘイトスピーチが国連で議題に登った事がありました。2010年8月レマン湖の畔ジュネーブで開催だれた国連人種差別委員会でした。日本政府は集中砲火を浴びていました。http://www.hurights.or.jp/archives/newsletter/section1/2010/
委員の面々は日本政府に厳しく攻め入りました。
何故日本政府はヘイトスピーチを野放図にしているのか?」
「日本の警察はヘイトスピーチする者を守ることを業務にしているのか?」
「何故日本政府はヘイトスピーチを規制する法整備をしないのか?」
日本政府は沈黙したままで国連人権員会の勧告を聞いて戻りました。
その状態は2010年どころか、2014年になっても一向に改善されず、ほぼ毎年同じことが勧告されていたという。「勧告の内容が同じということは、過去13年、事態は変わってないということだ」と指摘し、勧告を無視し続ける日本政府を「情けない」と言うしかありません。
当時国会周辺では竹島に上陸した李明博大統領のお人形をヘイトデモ隊が踏みにじって反韓を露骨に表現しました。日本のマスコミはこれを無視して慰安婦問題は事実無根であると主張して居ました。
国連人権委員会の勧告さえ満足に対応できない日本政府ですから。世界の世論は日本政府の期待通りには動いてくれません。慰安婦人形も北朝鮮拉致問題も動かせないでいます。
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庚申塔の天邪鬼。人間の心には鬼が巣食っていて人間は油断すると鬼が心を占領してしまいます。「見猿、言わ猿 聴か猿)は鬼に心を奪われない知恵かも知れません。
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これは東寺講堂の立体曼荼羅帝釈天の足下に蹲る邪鬼、人間の本性には鬼が潜むと考えrたれ。人間は勝手気ままに振る舞えばヘイトスピーチをして虐めに溺れる懸念がありました。


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とろろ汁の知恵

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庭を掃除していたワイフが実を拾ってきました。
これ何?直径1センチ余りの大豆のような実です。
何処に在ったの?確認すれば木通(アケビ)の蔓の根元だという事です。
「それならこの実は山の芋(自然薯)の零余子(ムカゴ)だよ。
山の芋が木通と競って茂っていただろ。山の芋は花で子孫を増やすが、一番確実なのは茎から実が出来て、実({零余子/ムカゴ)で子孫を増やすのだよ。」
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お盆の手前にあるのが零余子(ムカゴ)です山の芋(自然薯)は花も咲かせますが一番確実なのが蔦に芋を実らせ(胎芽)で増える方法です。零余子飯にしたり甘辛く煮て食べます。気取った居酒屋でお通しに出したりします。
鼠やリスなどの越冬食になっています。
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これが山の芋の黄葉狐の顔のように見えて私は好きです。。葉っぱが狐顔でなくて猫のようだと鬼芋で苦くて食べられません子供の頃この葉を見つけてその蔓をたどり根元に赤いマジックを塗った割り箸を指しておきます。真冬に山に入って山の芋を掘り起こして食べたのでした。掘った後はその根寝首を土に射しておけば翌年以降も収穫出来ますので最低のマナーでした、写真にはムカゴも見えています。

ワイフも木通(アケビ)の蔦に絡まった自然薯の黄色い葉っぱを想い出したようで納得した様子です。
自然薯を見たら無性にとろろ汁を食べたくなりました。
今晩はとろろ汁を食べようよ。
自然薯があれば良いけど無ければ山の芋でもいいよ・・・・」
ワイフは確認します。
「銀杏の葉っぱか掌みたいなお芋でもいいの?」念を押します。
掌のような芋は大和芋で、それではないよ
ズット前紅葉の季節に静岡の毬子宿の丁子屋でとろろ汁を食べたでしょ。あのお店に実物が展示してあったでしょ。
ワイフは丁子屋の博物館を想い出したようで、自然薯もとろろ汁の完成品も解ったようで夕食の買い物に出かけました。
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これが丸子宿の丁子屋芭蕉句碑等が取り囲んでいます。此処から宇津ノ谷の峠を登ると在原業平で著名な蔦の細道を越えて小夜の中山に向かいます。丁子の名も足腰の痛みを抑える漢方ですから。グッドな屋号であったのでした。
寒い季節には根菜類を食べたいと体が欲求するようです。
牛蒡の天麩羅も食べたいし。一番に精が付くのは自然薯で作ったトロロ汁のようです。
縄文クッキーと云うと自然薯の擦り卸に胡桃や栗の実を混ぜて焼いたもののようです。
私達の祖先はお米よりもズット昔から山の芋を食べて来たのです。
だから諏訪大社の木落神事をテレビで見れば山の芋を食べたくなるのは自然な事なのでしょう。
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縄文鍋の再現、山の芋も煮て蒸して焼いて食べていたと思われます。食いしん坊で探究心の強い日本人だけが生食しました。それがとろろ汁でした。でも滋養分の濃い食べ物は食べ過ぎると問題で貝原益軒は「養生訓」で食べ過ぎを戒めました。精が着きすぎるのだそうです。

黒潮に乗って魚(鰹)も水仙も浜木綿も日本に遣って来たと云われます。盆踊りも醤油も黒潮が運んで来たのかも知れません(海上の道)。
山の芋は東南アジアでは「ヤムイモ」の名でよく食べられるお芋です。民族の主食であり、ボルト選手が常食している滋養分の濃いお芋です。「ヤムイモ」はバナナの葉っぱで包んで蒸したり茹でたりして食べています。それが中国の華南や台湾ではお饅頭の皮に使われたりしています。摩り下ろして生で食べるのは日本人だけです。
生で食べると、口の周りや手が痒くなるので生で食べる事は避けられているのです。
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縄文人が食べたと思われる幼虫のピザ生地は屹度麦粉ではなくて山の芋だったことでしょう。

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黒潮は日本人のルーツを示唆し同時に日本人の食生活を育んできました。
室町時代から近世にかけて工夫熱心な日本人だけが滋養分のあるヤマノイモをより生かして食べたいと思い生で食べる工夫をしたのでした。
山の芋を摺り下ろして鰹のだし汁で伸ばしてご飯(往々にして麦飯)にかけて飲むように食べる事を開発したのでした。もともと山の芋には強力なアミラーゼ(澱粉を消化する酵素)が含まれています。麦飯や玄米食が身体に良いのは誰もが知っていたのでしたが。麦飯も玄米も外皮が硬くて消化が悪く食感も優れません。ところがとろろ汁をかけて食べればアミラーゼのお蔭で消化が促進され食感の悪さも忘れさせてくれます。
アミラーゼは加熱すると効力が無くなってしまいます。山の芋を擂鉢で摺り下ろすことで細胞内にあったアミラーゼが解き放たれます。麦や山の芋の滋養分がスムーズに体内に取り込まれるのです。
江戸時代の人々はアミラーゼは知らなくても体験で知っていたのです。こうした工夫を知恵と呼ぶのでしょう。
江戸っ子はどんぶりにとろろ汁をかけて胃袋に流し込んで颯爽と街に繰り出すのが粋で鯔背だと思いました。そんな江戸の町民が伊勢に京に旅立つと道中の半分の位置に府中(静岡)があって毬子宿がありました。そこは阿倍川や大井川があって川止めがありました。旅の疲れを取るために名物のとろろ汁を食べたのでした。中部山岳から流れ出す清流と富士山の火山灰が山の芋を生育させていたのでしょう。
でもとろろ汁は食べ過ぎると精力が着きすぎます。弥次喜多も毬子でとろろ汁を食べようとしたのですが宿の夫婦が精力が有り余って喧嘩をしていました。従ってとろろ汁を食べ損ねてしまいます。
芭蕉は無事に名物を食べられます。
「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」
あ屹度今頃の季節に芭蕉翁は丸子宿に逗留したのでしょう。

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先ずは山の芋を摺って擂鉢に入れます。更に鰹のだし汁を加えて摺り込みます。
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とろろ汁に好みで青海苔や鶉やシラスを加えてご飯に盛って食べます。ご飯は玄米や麦飯がお勧めです。

私の生家(盛徳寺)の台所には古い擂鉢がありました。擂鉢は愛知の常滑製でした。祖父は常滑の近くで育ったようでしたから。擂鉢は祖父の修行時代の面影を宿していたのかもしれません。父は擂粉木が短くなると裏山に入って山椒の木を伐って来て器用に鉈で擂粉木をこしらえていました。そうして好物の葱の酢味噌和えやとろろ汁を食べていました。あの光景を思い起こすと母は辛抱強くて包容力豊かで擂鉢のようだ想い起します。父はヤッパリ山椒の木のように棘があって武骨な擂粉木のようです。父もそんな自覚が在ったのかも知れません。
鎌倉山の山椒洞に良く連れて行ってくれました。(山椒洞は閉店してしまい今ではその蕎麦亭の擂亭だけが存続しています。擂亭の名は擂粉木を使って丹精してお料理しました。体に滋養をつけるお料理です。そんな意味なのでしょう。

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 常滑豊和製陶の擂鉢ヤフーで5800円(http://www.yamacho-houwa.com/cathand/detail-149860.html)伝統的なデザインです。
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楽天東屋の擂鉢と擂粉木2300円http://item.rakuten.co.jp/shinwashop/azyi00563/。擂鉢と擂粉木のセットは「オカメ・ヒョットコ」以上に夫婦円満を想わせて意味深です。


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蒲公英(たんぽぽ)戦争

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テレビで清の乾隆帝を放映して居ました。乾隆帝は、朝(しんちょう)の基礎を築いた聖帝でした。1636年満州で建国された北中国とモンゴールに跨る王朝でしたが万里の頂上を越えて中国(明王朝)に攻め込み1割足らずの異民族が中国を統一したのでした。乾隆帝は少ない民族が圧倒的に多い漢民族を支配するために民俗を尊重する政策をとります。漢民族や文化を尊重し南蛮東夷と蔑んでいた周辺異民族も尊重しました。その結果民族融和が進み多民族国家が繁栄したのでした。
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乾隆帝(カスティリオーネ画、1758年清朝の基礎を築いた聖帝である事から西洋の騎士風に描かれています。出典はウィキペディアWikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE%E9%9A%86%E...

1割足らずの民族が大多数の漢民族を支配する体制は内から漢民族の反抗を受けました。「太平天国の乱」
同時に外からは産業革命の成果(軍事力など)を以って進攻した列強に蚕食されてしまいます。
乾隆帝の進歩的な知恵も及ばなかったのでした。
中華人民共和国も乾隆帝の知恵には無頓着なようで。独立後は北に進んではロシアと国境紛争(中露紛争)を起し、西ではインドと中印紛争を引き起こし、今また南の海に進出しようとして世界中からブーイングを受けています。私は突然に乾隆帝を称賛したテレビを見ていて「たんぽぽ戦争」を思い起こしました。
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ソロソロ咲き始めた蒲公英の花。日本蒲公英は菊の仲間で小さな花が集まって順々に咲いて行きます。種は羽毛に乗って四方八方風の吹くままに広がって行きます。写真は花の下に花を支える苞片が無いので、日本蒲公英です。
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此方は外来種の西洋蒲公英。一見すると在来蒲公英と同じようですが花の下に花を支える苞片があります西洋蒲公英は寒暖差に弱いので一日の寒暖差の大きい長野県等では在来種が未だ確認しやすいようです。環境庁が外来種ワースト100のトップに西洋蒲公英を指定しているので誰もが悪者に思って居ますが気の毒に思います。

蒲公英戦争とは日本を舞台に在来種の日本蒲公を駆逐しそうな西洋蒲公英の戦いです。往々にして在来種に日本蒲公英が善で攻め込んできた西洋蒲公英を悪としているようです。総じて蒲公英戦争と云うと。
”在来種をも守れ外来種を排除しよう”そんな視点が圧倒的です。
先ずは日本蒲公英と西洋蒲公英の見分け方から確認します。
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これは茅ヶ崎の運河土手に咲いた。白い蒲公英在来種ですが関西以南に多いようです。青い小花はオオイヌノフグリヒョロヒョロした白い小花がはナズナです。小学生の頃先生が図鑑を持たせて野原に出て雑草の名を競争で調べさせてくれました。楽しい授業でした。
日本蒲公英は菊科の植物です。菊と同じように小さな花が集まって咲きます小さな花は順次咲きますので長い間咲いているように見えます。空を飛んでいる蜜蜂には春になるとダントツに目立つ花でしょう。一つ一つの花は小さくても集まると断然目立つのです。そんな日本蒲公英の鎖国の平和は黒船来航で破られます。西洋の荷物に混じって西洋蒲公英の種が潜入してきたのです。西洋蒲公英は横浜の埠頭から全国に広がって行きます。日本蒲公英は異種の花粉としか受粉しないのに対して西洋蒲公英は同じ身体で咲いた花粉とも勾配して種を作れたのです。生物学的には異種花粉と受粉する事によって新種も出来るし大きな種も出来るので優れているのですが。西洋蒲公英はクローンで増えるのです。加えて種が小さいので遠くまで飛びます。更に種の数も在来種を圧倒して居ました。従って横浜の埠頭からアスファルトの割れ目を伝って全国に攻め込んでいったのでした。
西洋蒲公英は都会の空き地やアスファルトの上にも生育して、里山に在来種が目立ったことから。”自然環境の悪化が西洋蒲公英に利して日本蒲公英に仇した・・・。”云われましたが何のことは無い日本蒲公英の女性は男性(花粉)を選り好みしているから、まるで高学歴女性のように3Kにこだわって”私の子供は美男で聡明で金持ちが良い”と言っているので子供に恵まれるチャンスが少なかったのでした。

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これは福寿草蒲公英に似ていますがこちらはキンポウゲ科の花です。蜜蜂は蒲公英とp福寿草の見分けが出来るのでしょうか?
そんなこだわりが無いのが西洋蒲公英です。同じ仲間の花粉を受粉して種を残すのですから女性が”私と同程度の男性なら良いわ結婚してあげる”言って居るようなものです。圧倒的に子孫を残すチャンスは西洋蒲公英に在ったのです。更に想い出してください『メンデルの法則です』赤い花のえんどう豆と白い花のえんどう豆を交配すると第二世代は紅白出る確率は半々です。でも第二世代を作ろうと赤花の雌蕊に白花の花粉を受粉させると第二世代(孫世代)は赤花は四分の一なのに対し白花は四分の三です。赤花は白花に駆逐されてしまうのです。時間が経つにつれて花粉側の種が勝って行くのです。タンポポ戦争ではメンデルの法則に加えてクローン効果があります。日本蒲公英は西洋蒲公英に勝てる可能性は最初から無かったのです。
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蒲公英に集まるのは蜜蜂受粉を確実にするために雌蕊の柱頭は毛糸針のようになっています。
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蒲公英も民俗も同じで子孫を多く増やしたモノが勝者です。少数民族が多数民族を制圧するそんな不自然を歴史は許さないのです。タンポポの種の様に自由で平等で平和な社会が民族の繁栄をもたらすのでしょう。
私は在来蒲公英を見つけると、それだけで幸福(ラッキー)と思うのですが。西洋蒲公英も充分に綺麗だと思います。北海道札幌で三人の子供を育てました。産院の庭は芝生で蒲公英が群れ咲いていました。長女は蒲公英の咲く頃命をいただき、種が風に乗って行く頃に退院しました。同じ日に産まれたベビーは庭に咲いた花に因んで”リラちゃん”お名前が付けられました。私の血統がクローンであるかどうか全く分かりませんが人間も蒲公英も同じ地球j上のプレイヤーである事は間違いありません。民俗で優劣差別をしようとする発想は自然の摂理に反しています。
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蒲公英が咲けば直に蕗の薹も踊子草も咲き出します。撮影場所筆者の家に近い戸塚の倉田。木花は杏です。畑が次々に民家になって行きます。畑の儘なら在来蒲公英が自生していたモノノ、露地はアスファルトに舗装されればもう西洋蒲公英しか生き残れません。

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片栗が俯いているのには訳があるのです

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福寿草がそして、蒲公英(たんぽぽ)が咲き出せば片栗の花が気になります。私の生家の裏山の台地に祠が祀られていました。祖母に訊くと”屹度落ち武者が殺された祠だろうから・・・、近づくのではないよ!”云われました。
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これは雪割草(キンポウゲ科)です。上を向いて一斉に咲くのは蜜蜂に見つけて欲しいからです。
尾根道は鎌倉古道で随所に五輪塔や祠が祀られていたのでした。そんな台地に片栗が咲いたのでした。祠の周囲はお百姓が柴を刈って、落葉を掻き集めて居ましたので、片栗には絶好の生育環境だったのでしょう。その日も何とはなしに台地の下に来ていました。何気なく見上げると片栗の花を見つけました。俯き加減に咲いた花が私を呼んで板の出でした。私が台地に登ると、何時もの祠の前にお人形が捨てられていました。大切に飾られている筈の雛人形は露に濡れてお顔も髪も傷んでおられました。私は荒んだ雛人形に不吉な予感がしたのでした。
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片栗は墓地や祠(ホコラ)に良く咲いているものです。それは里の人が丁寧に柴刈をしたり落葉を掃いて片栗の自生環境を整備して来たからです。祠は思いがけずに死んだ人(旅人や落武者)の霊を慰撫するものです。写真は相模原の城山枯葉は栗の落ち葉です。

それから数日後生家の檀家総代の家で不幸がありました。私をかわいがってくれた叔母さんが外便所の梁に腰紐を吊るして首を括ってしまったのでした。コーセン(屋号)で呼ばれた鈴木家は光宣と云う名の地侍落ち武者の墓でありました。
昔は戸塚の里山にも片栗は随分自生していたものでした。その片栗が全く無くなってしまったのは食糧難の時代に人間に食べられてしまったのかそれ以上に人間が柴刈も落ち葉を掻き集める事もしなくなったのがいけないのでしょう。人間の質素で慎ましいライフスタイルが片栗の自生環境を形成していたのです。
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塚区東俣野の片栗鎌倉古道の境川の河岸段丘の祠台地に自生しています。
片栗の花が昭和の自然環境に自生していたように。片栗は昭和の少女を想わせる花でした。俯いて咲く姿や雌蕊や葉っぱの先端に露を宿している姿は少女の)睫毛に光る涙を想わせます。
青年は少女の睫毛に光る涙に驚いたもののかける言葉を呑み込んで唯沈黙するだけです・・・・。
昭和の男性は往々にしてそんな苦くも淡い記憶を心の奥深く潜めているものです。
だから・・・・・・。片栗の花に昭和を想い起すのでしょう。
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俯いて咲く片栗のはな雄蕊が睫毛の様に長く伸びています。花弁の奥にレースの網目が覘けて見えるのは「卒業の」のタイツを脱ぐシーンを想い起します。撮影場所東俣野3年前に樹木を伐採したので陽の光が差し込むようになりました。
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片栗の咲くのは早春の一時だけです。他の草が背丈を伸ばし樹木が生い茂るまでの2週間ほどの間に受粉を終えなければなりません。その為には優秀な花粉を専門の蝶々に運んで貰って確実に優秀なDNAを残さなくてはなりません。片栗が思わせぶりに俯いて咲いているのには訳があるのです。写真に説明が挿入されているのは某所で展示したからです。

今年も片栗を探しに出かける事でしょう。幸いに戸塚区内にも片栗の自生地が残っています。
処で、片栗の花が俯いて咲くのにも訳があるのです。
片栗も虫媒花です。花粉を運んでくれる虫が蜜蜂なら蒲公英のように上を向いて咲いているのが理に適っています。でも片栗は蜜蜂では無くて蝶々に期待しているのです。
蝶々の冬越しには様々なタイプがあります。一番多いのが蛹次いで卵そして成虫があります。参考ブログhttp://www.geocities.jp/makitateha/ettoutai.html
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これが早春に飛び回る姫岐阜蝶です。この蝶々が軽井沢や安曇野では水が温むと蛹か羽化して、飛び回って片栗の花粉を運んで受粉して回ります。片栗専門のキューピットに相応しい美しい蝶々です。横浜ではキアゲハや紅シジミが花粉を運んでいます。写真出典ウキペディア
立春が過ぎて雪が雨に変わり氷が溶けると、蛹から蝶々(成虫)が飛び出します。片栗はそんな春先に飛び出してくる蝶々を待っていて花を咲かせるのです。軽井沢や安曇野なら美しい岐阜蝶が片栗を探して舞います。片栗を見つけるとその花弁に6本の足で必死に掴まります。そして長いストローのような管を片栗の花の芯に差し込んで蜜を吸い取ります。蝶々に少し意地悪に俯いて咲くのは受粉のチャンスが最大になるようにしたストラップなのです。昭和の少女が思わせぶりに涙を見せて、一番真剣な青年を見極めるように片栗にも知恵があってワザと蝶々に意地悪しているのです。
でも早春の蝶々は数も少ないのですから。思い切って上向きに咲けば蜜蜂が寄って来そうなものです。
片栗は蜜蜂では無くて蝶々に期待しているのです。タンポポの様に何処にでも咲いているのであれば受粉のチャンスが多いのでしょうが稀にしか咲いていない片栗です。片栗の花粉を専門に運んでくれる虫が欲しいものです。片栗専門の虫が岐阜蝶等の大型蝶々なのです。片栗専門の運び屋に稀にしか咲かない片栗の優秀な遺伝子を運んで貰うために故意に俯いて咲いているのです。
青年は少女の俯いた姿には弱く特に涙にはコロッと傾いてしまうものです。
古事記の時代から女性は手弱女男性は益荒男と云われてきました。そんな男女のキューピット役を蝶々が担ってきたのです。


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左手をリハビリする

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脳梗塞を発症して2年3か月を経過しました。出血直後は救急処置に湘南鎌倉病院、次いでリハビリ病院に金沢八景の若草病院に転院しました。どちらの病院でも快報の兆しが無く”車椅子生活で、奥様の介護を前提に右手で何でもできるように訓練させられて来ました。リハビリの目標が『介護者の負担をミニマムにする』だったのでした。若草病院は良く出来た病院で退院した方と患者の交流会ががありました。右手だけでも料理も洗濯も出来る。退院された方の工夫と頑張りを見せつけられました。若草病院は3か月で退院させられました。自宅は右手だけで生活できるように手摺と車椅子スペースを確保する工事をしました。自宅に戻るとケアマネージャーと相談の理学療法士の訪問とデーサービスに2回/週行くことにしました。この頃の目標も介護を前提に介護者(ワイフ)の負担をミニマムにすることでした。私のリハビリ目標が「脳梗塞発症前のように一人で自由に動ける事」にチェンジしたのは新戸塚病院http://www.ims.gr.jp/shintotsuka/kawahiramethod/index.htmlの外来に往訪するようになってからでした。その頃NHKテレビのクローズアップ現代でリハビリに『促通反復療法』が有効である紹介されたのでした。ワイフが調べた結果東戸塚駅まで行けば促通反復療法の新戸塚病院があることを確認して早速外来通院の申し込みをしました。しかし順番待ちの患者さんが多くて私の番が来るまで3か月待たされました。新戸塚病院の外来に通院し始めて初めて治療目的が『介護を前提にせず自分で何でもできるように」なりました。理学療法士と協議して『貴方のリハビリ目標は脳梗塞発症前の状態に戻すことですね』確認し合うと思わず落涙してしまう感動がありました。若くて知的な女性療法士が天使のように見えたのでした。昨年の6月から2回/週の通院が始まりました。そして今日(2月23日)がその最終日になります。前回のリハビリでは卒業前チェックがありました。チェックシートを前にして「左手を使っているか否か確認したのでした。
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これは自宅で実施しているリハビリ用具。私は左半身麻痺ですから。左手のリハビリが重点です。三食前に左手のトレーニングをします。左からタオルでテーブルを拭きます。次いで細いモノを左手だけで立てます。ついで選択鋏を使います。次いで胡桃やボールやおはじきを拾って運びます.最後に薬を開けて飲みます。宿題トレーニングは必須です。

「ドアを左手で開けていますか?
「フォークを左手で握っていますか?」
「茶箪笥や冷蔵庫の扉を左手で開けていますか?」
矢継早に質問されます。
私はついつい可笑しくなってしまいます。
ワイフが傍で私を咎めました。
ドアも扉も住文化食文化は右利きを前提にしているのです。それを左手を使っていますか?と云った質問は可笑しいのです。私は女性の理学療法士に
「左手を使っていますよ・・・。小用の時には左手でオチンチンを支えています」
言おうとして笑ってしまったのです。ワイフはそれを察知して止めたのでした。
知的な作業療法士は不真面目な患者に向けて強い口調で言います。
右利き用のドアでも扉でも左手を意識して使って下さい。さもないと今以上にはリハビリは進捗しません。」
私もワイフも神妙な面持ちで答えました。
「左右どちらでも良い場合も含めて左手が使えるところでは意識して左手を使います。」
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ベルギーブリュッセルの小便小僧爆破しようとしかけた爆弾の導火線を小便をかけて消し、 町を救った少年がいたという武勇伝説を肖像にしたもの先般のパリ同時多発テロの犯人がブリュッセルに潜んでいたという事実は皮肉に感じました。ベルギーもお隣のルクセンブルグにも故国愛の強い文化財が残されています。日本に渡った小便小僧も左手を添えています。トイレで右手を添えている男性が居ればその人は異常です。

以来私はズット右手と左手の使い分けとその理由を考えて来ました。
ベッドで横になっても右利きの文化を考えます。絵巻物もお経も巻物は左手で支えて右手で拡げますご飯を食べる時は左手でお茶碗を持ってお箸は右手で持ちます。
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お経も絵巻物も左手を添えて右手で開くように出来ています。人間の眼は左から右に動きやすいし、左から始まった方が使いやすいのですが何故か上の様に出来ています。従って絵巻物を読む時には全部開いてから読み始め無くてはなりません。書き易いけど読みにくいのがお経や絵巻物です。
左手を使うのはトイレでお尻を拭くときだけです。小用でオチンチンを支えるのに左手を使うのも同じ習慣でしょう。この左手を不浄の時に使う習慣はインドが始まりのようで。インドではお尻を拭くとき左手を水に浸して拭くのだそうです。その習慣が西に東に伝播して西洋人は右手で握手し左手は穢い事に使い分けたようです。中国や日本の文字は右から左に書いて行くのに比べて西洋やアラビアの文字は左から右に書き進め全体としては上から下に向かいます。その違いは何故生じたのか?疑問になります。

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朝顔も昼顔も総じて時計回りに(ネジ回り)伸びて行きます。デモ植物自身の視点に立てば反時計回りです。右巻き左巻きそれは見る人の視点によるという事のようです。
ネジで云えばネジの頭を見下ろして時計回りに回転させればネジは前進します。屹度人間は右利きが多くて時計回りの方が力が入るからなのでしょう。でもネジ本体にしてみれば反時計回しにされている事になります。小学生が”朝顔は右回りそれとも左回り?”質問された時と同じです。小学生の視点に立てば右回り(時計回り)なのですが朝顔になったつもりで見れば反時計回りに伸びて行くのです。
「右回り・左回り」の疑問は小学生の時の記憶に繋がります。昭和20年代少年は皆坊主頭でした。シラミが多かったので坊主頭が清潔だったからでしょう。並んだ坊主を見ていると旋毛が右回りと左回りがある事に気付来ます。左巻の坊主を捕まえて”お前は左巻きでクルクルパーだ”言ったものでした。今なら早速虐めで制止させられたのでしょうがあの頃は怪我でもさせなければ虐めは問題にされませんでした。「何故旋毛は右巻きと左巻きがあるの?」次に疑問が広がります。
私は次のように確信しています。
お母さんの狭い産道を進む時は頭を下にして。右に左に回旋しながら進むそうです。必ずしもネジと同じように右回りでも無ければ左回りでも無いそうです。出産時のお母さんの横臥した姿勢や月の位置に依って最初に左に回ったり右に回ったりするのでしょう。時時計回りで進むか反時計回りにするかそれはベビーの随意で、同時に偶然が決する事なのでしょう。旋毛の右巻きが利口で左巻きが馬鹿であるなんて根拠が無さそうです。
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鎌倉大仏は何故か螺髪が左巻です。写真出典「大仏百科」http://www.nkdaibutsu.com/difference/rahotu.html
私は如来さんの頭を想い出します。螺髪と呼ばれる巻貝状の髪の毛が覆っています。如来の螺髪は右巻きか左巻か?さらなる疑問です。
この疑問は仏像ファンなら大方ご存知だと思います。インドの文化が右優先でしたから螺髪は右巻きです。ガンダーラはギリシャ風のストレートヘアーです。ところが鎌倉の大仏(阿弥陀如来)だけが左巻なのです。何故だか解りませんが。上から視線(貴族朝廷)で見れば右優先、だけれど下から視線(武士や農民)から見れば左巻優先だったのかもしれません。
陰陽道では左は陰で縁起が悪い右(東)が陽で運気が良いとされてきました。丹下左膳が強いのは自分だけ左利きだったからで右利きは戦い難かったのでしょう。。寝ながら左利きの文化を考えていると同道巡りでどっちでも変わらない大事なのは自分の視点で視点を何時でも変えられる複眼を持つ事が重要だと思いつきました。いずれにしても今日で新戸塚病院の外来は退院です。退院後の自分自身のトレーニング法を確認して必要に応じて外来で診て戴く事にして帰ろうと思って居ます。


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高輪の縄文遺跡

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去年の夏には利根川上流月夜野に矢瀬遺跡を見学しました。以来暫く縄文遺跡を観ていません。そう想うと無性に縄文遺跡を訪れたくなってきます。私の町内にも倉田原遺跡と云う縄文遺跡があって。慶応大学で発掘し、現在は町内にある明治学院大学の図書館に文化財を所蔵(一部展示)されていますが、昔日の面影は全く解りません。
我家から一番行き易い縄文遺跡と云えば大森駅に近い大森貝塚ですがもう何度も行きました。他にもあるだろうと思って調べていた所,ありました。高輪泉岳寺の西側お寺を見下ろす位置に「三田台遺跡http://www.city.minato.tokyo.jp/shisetsu/koen/takanawa/03.html」があるのです。
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二本榎通りのあちこちにマップがあるので散策には格好です。
地図で確認すれば大盛貝塚とほぼ同じロケーションです。どちらも品川沖を見下ろす高台の中腹です。慶応大学の学生さんなら、三田台遺跡は三田の学び舎からは目と鼻の先です。魚籃坂や泉岳寺に向かえば三田台を越えてその先が伊皿子坂(イサラコサカ)で左折してだらだら坂を下れば泉岳寺になります。伊皿子坂を右折すれば魚籃坂です。高松の宮様のお屋敷も近くです。赤穂浪士の切腹跡の史蹟もあります。
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交差点左が明治学院大学方面 手前の道が「二本榎通り」で奥が慶応大学途中左手に高松宮邸があり右手に三田台公園があります。向こうに(北向き)に赤穂浪士自刃の跡があってその先が高松宮邸跡です。
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此方が高松宮邸です。私が学生時代は警察官が常駐して居ましたが今は主も居られませんし跡地の利用は皇室典範問題も絡んで五里霧中です。噂によると住友商事が買収して億ションにして売り出されるそうです。
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これが赤穂浪士自刃の跡です。後ろの建物は都営高輪アパートです。
その先右側にある承教寺の山門前に大きな榎が二本在ってその幹高い位置に注連縄が張られていたそうです。ですからこの道を二本榎通りと呼びこの一帯を高輪と呼んだのだそうです。江戸っ子は高輪の注連縄を潜って品川宿に入りました。この先が桜の名所の御殿山でした。
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これが高輪の謂れになった承教寺の山門から見た本堂です。
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山門前に祀られた狛犬、承教寺は英一蝶(錦絵の革命者)の墓があるので一蝶のデザインかと思ったら道教の狛犬は総じてこんなにおめでたい姿なのだそうです。お顔も松竹梅が散りばめられていました。
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これが三田台公園です。公園の下は泉岳寺で地下鉄泉岳寺駅の周囲は高層のオフィスが林立して居ます。商売上手のJR東日本は此処に山手線の新駅を計画しているそうです。


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コンクリート製の竪穴住居が造られていますが内部は縄文時代の素材でフィギアでk縄文人の生活を再現させています。近づくとライトアップして音声ガイドが流れる仕組みです。
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これは貝塚の地層を展示したものです。
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三田台遺跡の案内板。持っているのは埼玉県熊谷の野原古墳から出土した踊る埴輪です。国立博物館蔵国宝で時代も違うし発掘場所も違います。港区の知的感覚が疑われます。それこそ縄文人も”ビックリポン”でしょう。
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此方も三田台遺跡の案内で砂場の脇にあります。此方は重文の土偶でありは土偶 群馬県吾妻郡東吾妻遺跡から出土したものです。縄文時代ですし。縄文の意匠が身体にされていますからコッチは上段の埴輪ほどの問題はありません。いずれにせよ縄文遺跡を近隣公園にして跡地を残したのは賢明です。

二本榎通りは北側に縄文遺跡があって一番南に隠れキリシタン処刑の碑があります。慶応大学側から歩きはじめれば歴史年表通りの順に遺跡が並んでいます。レストランも古物商もお寺も石仏も数多く楽しい道です。

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化粧地蔵の民俗学

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三田台遺跡を観て私は幽霊坂に向かいましたこの辺りは東を向いても西を向いても坂ばかりです。細道の両側は石壁で壁の上からは塔婆が覘いて見えます。まるで卒塔婆が通行人をチェックしているようです。私はこんな風景はは見慣れているので怖くもなんとも無いのですが,常人なら薄気味悪い事でしょう。まして幽霊坂なんていう名が付いているのですから。都内には坂が多いし寺も多いので幽霊坂は各地にあるようです。先月も東京女子大の西を歩いていて幽霊坂を登って成瀬記念館に着きました。
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二本榎通りから右折西に向かうと幽霊坂があります。細い下り坂の両側はお寺で塀の上から卒塔婆が覘いて見えます。夜には怖くて通れない事でしょう。見ての通り防犯灯も街路灯も無いのは幽霊坂の雰囲気を壊さないためでしょう。住人には拘りがあって、安心安全より雰囲気を優先しているようです。

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今でも高輪の二本榎通りには骨董店が数多く営業しています。江戸時代にもこの辺りは寺町で古道具が活躍していたことでしょう。
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私の目的は幽霊坂の略真ん中にある玉鵬寺(右)です。山門は高橋是清翁寄進と案内されていました。山門の東に立派なお堂が建っていてこの中に化粧地蔵尊が祀られているのです。

ところで学生時代度々日吉校舎から三田公舎に行きました。東急線で先ず学芸大駅に行きます。駅近くの目黒通りで東京駅行きのバスを拾って白金を越えて清正黌を越えれば直に慶応三田でした。濟々黌と云えば熊本の名門高校で屹度藩校の名を冠したのでしょう。でも加藤清正の名がルーツなのでしょう。屹度義理堅い肥後モッコスが殿様は細川に代わっても清正公に愛着や恩義を感じて藩校の名にヨミだけを残して漢字は濟々黌を当てたのだと思います。今度何かの機会が在ったら濟々黌ОBに確認してみる事にしましょう。そしてこの幽霊坂の辺りに細川家の上屋敷が在ったのでしょう。今でもお屋敷に在った椎の巨木が残っているそうです。
細川と云えば細川護煕さん(16代細川家当主)です。昨年は全国で春画展を開催しましたし茶器のこれlくションでも有名です。落語の井戸茶碗』にも登場する。人情に篤い殿様だったようです。少し遠回りになりますが落語の「井戸茶碗』を紹介します。今日の本題に通所要る江戸時代の人情や粋に通じるお話ですから。
【古典落語の井戸茶碗】
麻布谷町に住む、くず屋の清兵衛が居ました。古道具を扱うと、自分はもうかるが、他人に損をさせるので、
それが嫌だと言う程の正直一途な男で、人呼んで「正直清兵衛」。で屑しか買わない古道具屋でした。
ある日、濟々黌の裏長屋に入っていくと、歳の頃十八、九の、大変に器量はいいが、身なりが粗末な娘に呼び止められます。娘の父親で千代田卜斎(ちよだ・ぼくさい)と名乗浪人の持っている仏像を買ってほしいというのでした。うらぶれてはいるが、人品卑しからぬ浪人でした。正直清兵衛は仏像を取敢えず200文で預かる事にします。「200文より高く売れたら超過分を折半しよう・・・・」
清兵衛は長屋に持ち帰って繫々と仏像を眺めます。埃と煤に汚れています。清兵衛は細川家の家臣の高木佐久左衛門に仏像を持って行き300文で売る事に成功しました。高木は仏像を少しでも綺麗にして差し上げようと思ってぬるま湯に浸けて見ました。すると仏像の台座の裏に貼られていた紙が剥げ落ちて仏像の体内から何とと50両の金貨が現われました。
慌てた高木は清兵衛の長屋を訪れます。
高木は「仏像は買ったが五十両は買った覚えはない。自分の物ではないので、売り主(清兵衛)に返したい」主張します。清兵衛は卜斎を訪れ事の顛末を報告して50両を卜斎に受け取らせようとしますが卜斎は受け取ろうとしません。「売った仏像から何が出ようとも自分の物ではない」卜斎の主張でした。清兵衛は高木と卜斎の間で右往左往するばかりでした。正直者ばかりの間では埒があきません。
そこで長屋の家主に相談すると家主は次の提案をしてくれました。
家主は「高木に二十両、卜斎に二十両、清兵衛に十両」の案を出したのでした。大岡越前の名裁判は「三方一両損」でしたが今回は「三方両得」案でした。高木は納得するが、卜斎は納得しません。
そこで卜斎の使っていた小汚い茶碗を20両で買い受ける事にしました。これで三方が収まったのでした。高木の手元には20両の金と小汚い茶碗が残りました。
この美談が細川の殿様の耳に入り、「茶碗が見たい」と言う。高木が茶碗をお見せすると、たまたま、出入りの目利きが拝見し、これが何と名器「井戸の茶碗」だと判り、殿様が三百両で買い上げる事になったのでした。
 この300両をを見て高木は考え込んでしまいます。清兵衛も困ります。そこで、、先例にならい半分の百五十両を卜斎の元に届けると、卜斎も困ったが考えたあげく、「もう私には渡す物もない。独身の高木殿は正直なお方の様だから娘を嫁に差し上げたい。結納代わりなら金を受け取る」と、言います。
   早速清兵衛は高木にこの事を伝えて、「良い娘だからお貰いになりなさい。今は貧乏でひどいナリをしているが、高木様の手で磨いてご覧なさい、美人になりますよ・・・」。
すると高木、「いやぁ、もう磨くのはよそう。また小判が出るといけない(落語のオチです」。
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これが細川家所蔵の井戸茶碗のイメージです。出典細川 護光 | 柿傳ギャラリーhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?fr=top_ga1_sa&p=%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E3%80%8C%E4%BA%95%E6%88%B8%E8%8C%B6%E7%A2%97&ei=UTF-8&xargs=4&b=61
私達が玉鵬寺の山門を潜ると右手に山門を寄進したのは高橋是清翁であると案内がしてありました。高橋是清のお墓は祖母の生家世田谷弦巻の実相院にあります。ご住職にこの話もしようと思ったのでしたが立ち話が長くなるので止めてしまいました。私の疑問はこの化粧地蔵尊が何時から誰によって化粧されるようになったかという事でした。
私は日本中で化粧されたお地蔵様を見て来ました。
北から数えれば青森から佐渡にも白く化粧されたお地蔵様が祀られています。特に青森では化粧されたお地蔵さんを”お白様”と呼んでいます。白く化粧しなければお白様にはなりません。私の生活圏にも藤沢のメルシャンワイン前には化粧された双体道祖神が化粧地蔵尊と呼ばれて祀られています。
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これが藤沢の化粧地蔵尊。私はこの近くに有名な飯盛り女の墓がある事からお化粧したのは藤沢宿の飯盛り女だと思って居たのでした。佐渡や津軽の化粧地蔵も同地に遊郭こそなかったものの瞽女ごぜ)(旅芸人で求めに応じて春も商った)が祈ったものと思ってきたのでした。
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これは京都の街中の地蔵尊地蔵盆のお祭りに際して子供達の成育を祈って子供達によって化粧されますお雛様の感覚に似た霊力祈願です。去年のじぞうぼんでは友人らと満喫しました。
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これは足柄峠(矢倉往還)の化粧地蔵尊以前次に書きました/足柄峠の白塗り地蔵尊http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43868992.html。白いのは小麦粉で。安産祈願とされていました。足柄と云えば金太郎で力持ちの男の子を授かるよう祈願したのでしょうが・・・。



化粧地蔵尊は足柄峠にも祀られています。足柄峠の地蔵尊は小麦粉を塗されて真っ白でした。
そして化粧と云えば安曇野の彩色道祖神です。彩色地蔵尊は足助から木曾にかけても目立ちます。
更に京都の街中のお地蔵様も彩色されていてお顔は真っ白に塗られてまるで舞妓さんのようです。
彩色されるのはその呪力に期待して毎年新しいパワー(霊力や呪力)を期待して綺麗に塗ったものでしょう。私が見て来たものは多くが色町が近くて遊女が痘痕を消すこと色白美人になれる事を期待して祈ったようです。ですから、品川や目黒の遊女が高輪まで”わたしを綺麗にして・・・私の梅毒を治癒して・・・・”お詣りに来たものと推測していたのでした目黒の5百羅漢寺の寄進者にも遊女が目立ちますし。蛸薬師も梅毒に依る膿を吸い出してくれると期待したものと思ってきたのでした。ご住職の説明はそんな私の生半可の知識や推量を頭から否定するもので延命地蔵尊の御p利益を期待する江戸の善男善女の信仰が白くお化粧する事で。近年は可愛くなりたいという普通の女性や肌の衰えが懸念される叔母さま方の参詣が盛んだという事で。お寺ではベビーパウダーを置いて”お使いください”としているようです。
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これが玉鵬寺の化粧地蔵尊です。お顔だけでは無くて全身が真っ白に化粧されています。白御影石の膝元にはベビーパウダーが置かれていました。紅が散っているのは口紅でしょうか?
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ワイフも化粧地蔵尊に白粉して霊力を授かろうとしていました。



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キリシタン処刑の記憶

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長崎のキリシタン教会群の世界遺産登録申請は取り下げの方向だそうです。国宝の浦上天主堂でさえ1,862年(文久2年)の竣工ですから。歴史的遺産は稀にしかありません。確かに五島列島や平戸の島影に教会が建っている光景は美しいし、ロマンを掻きたてられるのですが、精々100年余りの歴史しかありません。”気持ちはわかるが遺産と呼ばれるほどのドキュメントが不足している”そしりは免れられません。いっそ方向転換して、キリスト教文化の受容プロセスをユネスコの文化遺産に申請したらどうだろうか?思います。
日本中に分散している明治の近代化遺産が認められたのですから。ヨーロッパで発祥したキリスト教がユーラシア大陸の東の涯でどのようにして受容されたかといった事実はユネスコとしてもローマ法王もご関心が高いと思います。何しろ日本人でローマ法王が聖人として認めたのは「日本26聖人」をはじめ「日本205福者殉教者」など、有名無名の多くの信仰の先人たちを生み出してきたのでした。その多くが命を賭して敬虔な信仰を守り通したのですから。ヨーロッパの聖人の様に教会や修道院を建てた、とか寄付金をした。と云った種のものとは質が違うのです。
西洋から見れば日本人のキリスト教は日本の習俗や神道や仏教に染まっていて純粋では無い、批判があるでしょうが。今日的には習俗や文化と習合して行く事実にこそ価値があると思われます。宗教の純粋性を突き詰めれば原理主義に嵌って無益な摩擦軋轢を生じる事になります。地球上にはあるように色々な民族が生きているように色々な宗教画共存してお互いを認め合う事が大切なようです。
その意味では。キリスト教が禁教として弾圧されにも拘らず300年もの間地下に潜伏して脈々と伝えられてきた事実をユネスコにアピールしたいものです。
例えば大磯の「澤田美喜 記念館」を見ても鎌倉東慶寺の「イエズス会紋章入り葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱」等は500年近い歴史がありますし、歴史の厚みについては充分なモノと思います。
常々以上のように思って居ましたので。鎌倉で捕縛された隠れキリシタンが小伝馬町の牢屋に入れられ三田の「札の辻」で処刑されたその遺跡にはかねがね参詣したいと思って居ました。
そんな次第で三田台の縄文遺跡を観て明治学院大学のチャペルを見学して最後は高輪柘榴坂の高輪教会に行きました。高輪教会のホームページはhttp://www.catakanawa.com/about/edojun/index.htmです

高輪教会は品川駅西口を出て西武プリンスホテルと京急のパシフックホテルの間にある急な坂を登って尾根道 二本榎通り)に折れる門にあります。
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高輪教会は品川駅西口柘榴坂を登り切った処にあります。この坂道は昔は日航のASさんが大勢通っていました。彼女たちの常宿が在ったのです。珍さんの中華飯店(マーボ豆腐で有名)も健在でした。
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坂をを登ると左上から見下ろす位置に殉教者顕彰碑が出現します背後は近代的な高輪教会が建っています。
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高輪教会の庭にはキリスト像が迎えてくれます。
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高輪教会の壁に懸けられた札の辻でのキリシタン殉教の図。188名の隠れキリシタンが棄教命令を聴かずに殉教したのでした。

家光のキリシタン弾圧端凄まじく札の辻で1623年188名が殉教し江戸市中では200名もが殉教したのだそうです。詳細は前掲の高輪教会のホームページをご参照ください。この二本榎通りは元禄十六年(1703年)2月4日、赤穂浪士47人が切腹します。赤穂浪士に礼を尽くしたのは細川家でした。私は国道1号線と海岸通りに向かう交差点を札が辻と呼ぶのは赤穂浪士が吉良の首を取って泉岳寺に凱旋した時に渡った辻である事からこの名が付いたと推測しています。
今朝は2月26日)はこれから新幹線に乗って岡崎に名鉄戦で東岡崎バスに乗り換えて焚き山寺に向かいます。時々縄文遺跡を観たくなるのと同じように運慶を拝みたくなるのです80年前の今日皇道派の青年将校がクーデターを起こしました。所謂2.26事件でした。愛国心の強い青年達が農村の疲弊一方で政財界の腐敗に憤ったのでした。でも青年達の熱い信条とは裏腹にクーデターは国家を極端に右傾化させ、大東亜戦争への坂を下り落ちてしまいます。歴史は皮肉なモノです。新幹線の車内では家永裁判を読むことにしましょう。昨今の文部行政を達観すると家永裁判があったこと等昔日の感があります。
此処20年の間に教科書も随分内容が変わって来ました。私が学んだのは日本人は同じ民族で旧石器時代縄文時代弥生時代そして古墳時代を通じて同じ日本人が日本列島に居て変遷してきたと教わりました。ところが最近は遺伝子科学の進歩によって。日本人は南中国にインドネシア内モンゴル等のDNAの混血だと解って来ました。大和朝廷は多民族が仲良くする(和を尊ぶ)国家だと宣言したものだったのでした。戦艦大和は名前からして矛盾しており太平洋の藻屑と消えたのは必然だったのでしょう。キリシタン大虐殺も間違いであり私達は驕り高ぶると大間違いを再三犯す民族のようです。”井の中の蛙にならないように自戒”しなくてはいけないようです。

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藤村の青春の香り(明治学院大学のチャペル)

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何といっても青春の甘美な想いは”年上の女性との恋”に勝るものは無いと確信しています。まして木曾の山奥で育った島崎藤村でしたなら尚更の事だったことでしょう。日本の近代化に醒めて行こうとする青年藤村が上京して美しい年上の女性を見染めたのがチャペルであったならまるでマリア様を慕う様に微熱が昂じて高熱に菟づいた事でしょう。そんな藤村の自伝小説が「桜の実野宿する時」です。主人公の捨吉は藤村に間違いありません。ならば繁子は誰がモデルであったのか興味が尽きません。何度も明治学院大学の前は通ったのですが、初めて大学の門を入ってみました。
「チャペルを見たい、のですが・・・・!」
「捨吉が繁子を見染めた舞台のチャペルはこのキャンバスのチャペルだと思っていいのですか?」
守衛に確認すると。流石に同じ思いで尋ねる人が多いのでしょう。次の様に回答されました。
『「桜の実の熟する時」の舞台になった教会高輪台教会http://www.geocities.jp/takanawachurch/だと思います。』高輪台教会はプロテスタントの教会でその建物は昭和モダニズム/ライト風の建物として高く評価されています。
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これが二本榎通りにある高輪教会。現在のチャペルは昭和初年に建てられたライト風建築ですが。藤村の時代は明治学院のチャペルと同じネオゴチック風建築だったことでしょう。
確かにチャペルが大学内に在ったらば捨吉は頻繁に繁子と会う事になってしまいます。大学を離れて相応の距離に教会があったので故意に繁子に会わずにいた小説の状況には国道1号線を渡って高輪台にまで出かけてゆく距離感が恋の微熱を高熱にアップさせるには最適です。
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明治学院大学の正門を入った処左側の煉瓦積ゴチック建築がチャペル1916(大正5)年設計はW.Mヴォーリズ東京都港区有形文化財
。右側銀杏の木の奥の煉瓦の建物が歴史資料館、1890年(明治23年)神学部校舎兼図書館として建立されたもの。東京都港区有形文化財

守衛は更にいいました。
「建物の中には入れません。外からの見学だけになります。ただ記念館には大学の歴史資料を展示してあるので入れます。若しも建物の内部を見学されたいのなら文化の日頃に開放しますのでその頃に再訪してください。
この日はもう大学は春休みのようで体育会の生徒だけがチラホラ見えました。
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インブリー館典型的なコロニアル建築で1889(明治22)年竣工国の重要文化財です。奥の高層建物が教室棟で赤レンガが統一感を醸成しています。
明治20年代に高輪台の学舎に学んでいた主人公岸本捨吉は、年上の繁子との交際に破れ、新しい生活を求めて実社会へ出て行く。しかし、そこで遭遇した勝子との恋愛にも挫折した捨吉は西京への旅に出る――。作品の行間には少年の日の幸福の象徴である桜の実にも似た甘ずっぱい懐かしさが漂い、同時に恐ろしい程に覚醒した青春の憂鬱が漂う、日本の傑れた青春文学であると思います。
歴史資料館に入りました。
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歴史資料館の藤村のコーナー
ヘボン塾以来の歴史が展示され日本の近代化に果たした明治学院の歴史が誇らしげに展示されていました。
キャンバスには桜の大木が何本もありました。どれも染井吉野で大学と同じ程度の齢(歴史)を経ているようです。今年は東京の桜の開花予想が3月25日と云う事は4月5日頃が満開で桜の実が熟する頃は連休明け卯の花が咲き出す頃になる事でしょう。桜が咲いたら再訪したい明治の建物群でありました

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滝山寺の運慶

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小田原で新幹線こだまに乗り換えて豊橋に豊橋で名鉄線で東岡崎に、バスターミナルで「このバスは瀧山(タキヤマデラ」に行きますね!確認すれば怪訝な顔をされて「瀧山寺(タキサンジ」ですねと確認されてしまいます。

NHKの天璋院篤姫では「大奥総取締瀧山(タキヤマ)と紹介されていまし、「瀧山寺にタキヤマデラ」では湯桶読みです。学校では重箱読みもも駄目教わりました。でもこのお寺は古代から音訓にはアバウトだったようで瀧山寺(タキサンジと敬意を持って呼ばれて来たようでした。
拝観券にもパンフレットにもタキサンジと記されています。
東岡崎駅からバスに揺られて鳳来寺山の方角に分け入って行きます。山間は翳んでいます。じっと見つめれば杉花粉が舞っているのです。
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此れが瀧山寺の拝観券ですtakisannjiとルビが付されていました。平安時代末期と云われる本堂は勝沼の大善寺(国宝)を想わせる雄大でがっちりした建物でした。この本堂の前庭で鬼祓いの神事が節分に営まれます
現在の本堂は、明治四十三年頃に解体・大修理をしたものだそうですが、現住職山田亮盛師の著に依ればカラスの被害で雨漏りが生じがひどく先年あるが、桧皮ぶきの寄せ棟造りで、ことに肘木の彫刻は極めて雄々しく、虹梁・木鼻・蟇股(かえるまた)等と共に鎌倉建築の特徴をよく表している。
 また、和様・唐様・天竺様を取り入れた様式は、何れもが当代の名工の手になった会心の作で、唐様建築が行われ始めた鎌倉建長寺の建立に先立つこと三十年、藤原文化から鎌倉文化への様式の過渡期に当たり、古い伝統を守りながら早くも大胆に新来の様式を加味していることは評価の高い所以です
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瀧山寺本堂で催される鬼祓いの神事この鬼が被るお面も運慶作と云われています(寺伝)
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瀧山寺の運慶作と伝えられる鬼面が、燃え盛る炎の中から鏡餅を持って登場し、天下泰平・五穀豊穣を約束する節分の神事です(今年も2月20日に無事終わりました。).お面を見た途端に修善寺の鬼面(岡本綺堂の修善寺物語の素材になった)を思い出しました。宝物館にはこの他に12面の菩薩面が保管されていました。菩薩面は当麻寺のそれを想わせてくれました。宝物館は運慶が中心ですが古代から中世にかけての民族の宝庫でもあります。
ところで本堂の左(西側)に鬼塚が祀られていて薬師石仏が立っています。
鳳来寺山の修験者が鬼祭りに強引に参加して”自分達は日常坐臥沐浴潔斎している”からと言って。素顔のままお面を被った処、お面が剥がれないようになってしまい窒息死してしまったので。境内に埋めたのだそうです。
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本堂西に祀られた鬼塚鳳来寺山の修験者が七日間の斎戒沐浴をせずに面を被ったので窒息死してしまった故事を伝えています。
  そもそも瀧山寺の開基は役行者で門前の谷川の河底に金色に輝く薬師仏を見つけてこの寺に祀ったのが始まりだそうです。
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瀧山寺下のバス停、この辺りの川底で金色の薬師仏を発見したのがお寺の始まりだそうです。渓流の名は青木川で岡崎市内で乙川に名を変え更に下流で矢作川と合流して三河湾に注ぎます、道路は大沼街道で鳳来寺山に向かいます。鳳来寺の麓の道は善光寺に通じます。左の家は昔は水車で綿を紡いでいたそうです。岡崎市内には今も綿の紡績機工場が幾つもあります。トヨタの奥田 碩(おくだ ひろし)さんも岡崎のご出身でした。岡崎は家康が天下を制しましたが今はトヨタが制しています。
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護摩が焚かれて真っ黒な瀧山寺本堂の内陣
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瀧山寺本堂の内陣の垂木には源氏の笹竜胆のちょうちんが吊るされていました。平安末期の風格ある建物でした。此方が重文で勝沼の大善寺本堂が国宝なのは細部の意匠でしょう・・・。
やがて400年後、保安年間(1120〜24年)、比叡山で修行した仏泉上人永救(ぶっせんしょうにんえいぐ)が、仏法興隆のためこの地に来住。荒廃してしまっていた吉祥寺跡に再び霊場を建てます。
物部氏の外護により本堂を造営しました。上人を慕って弟子入りするものは跡を絶たず、境内には360もの寺院が建立され、そのころに官府の命によって寺名を「瀧山寺」と改めました。
 その後、物部氏に替わり熱田大宮司家が大壇那となり、熱田大宮司季範夫妻の孫、寛伝上人が登場します。源義朝は熱田大宮司家藤原季範娘の娘を正妻に迎えます(由良御前)。由良御前は頼朝を産みます。寛伝上人は頼朝とは従兄弟だったのでした。その結果瀧山寺は頼朝の庇護を受け400石を扶持されます。頼朝の庇護によって瀧山寺は整備されます鎌倉幕府は頼朝を失うと仏師運慶を呼び寄せ各地の寺院にに運慶の仏像を奉納します。此処瀧山寺でも運慶湛慶の親子が呼ばれて仏像を彫ります。聖観音には頼朝の歯と髪の毛を体内に収めて頼朝の再生を祈ったのでした。(寺伝)、実際に聖観音をエックス線で透視するとお顔の奥に歯と髪が確認されたのでした。
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これが源頼朝と等身大の聖観音像体内に頼朝の歯と髪が収まっているとの寺伝がありました。
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 聖観音像をエックス線を通じてみると
現住職の山田亮盛さんは弁も筆も立つ方のようで、運慶仏が海外流出の危機で話題になっったおり芸術新潮で運慶を特集結果当瀧山寺に注目が集まり参詣人も急増したそうです。私達の仲間のIさんが活躍されて足利で発見された運慶仏を国内に押し留めたご努力が瀧山寺に脚光を浴びさせたようです。
古代から中世そして近世には徳川家の支援を得てきた結果、瀧山寺には檀家が無いのです。民主主義の現代檀家の無いお寺は存続も困難です。今、こうして瀧山寺が運慶で世上の注目を浴びたのは干天の慈雨の感があるのでしょう。
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運慶が脚光を浴びた芸術新潮の「運慶特集号」、表紙が足利で発見された運慶作の大日如来像/写真出典はアマゾン
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日本中で注目を浴びた運慶仏は真如苑の理解によって国内に留まりましたし、改めて運慶に注目を喚起しました。
瀧山寺参詣は覚悟して居ましたから急な険しい石段も頑張って登りました。でも本堂から宝物館へのの道は命がけでした。道では無くて澤なのです。幸い乾いていましたから恐る恐る杖を突いて下ったのでしたが滑ったら今迄のリハビリの苦心が水泡に帰してしまいます。
岡崎駅でお寺に宝物館見学を予約したのでしたが。「今日は臨時に休館にしているとの事・・・・」誰も居ない事はあるまいと思って本坊に向かいました。すると既に船橋から来たと云親娘がお願いしておりました。若住職が鍵を持って遣って来ました。帰りのバスは暫くありません。其処でバス通りを歩いて下る事にしました。3年前の晩秋に足助街道を歩きました。大沼街道も足助街道に似て居るような気がしたのでした。
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此方は運慶湛慶作と伝えられる梵天像彩色が鮮やかなのは徳川家光の功績なのでしょう。家光は200石加増し650石の扶持になりました。江戸時代の彩色補修があったので重文指定なのでしょう。家光の善意が災いして国宝になっていないのは皮肉のようです。宝物館では像の後ろまで廻れます。後ろから見上げると梵天さんの肉付きが素晴らしくまるで秋篠寺の伎芸天のようでした。
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此方は運慶湛慶作と伝えられる帝釈天像以上三葉とも絵葉書をスキャンしたものです。



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徳川家光と瀧山寺

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昨日は奥三河の古刹瀧山寺が古代に創設され、頼朝の庇護を受け運慶親子によって三基の仏像が奉納され
鬼の面や仁王像も彫られた(寺伝)と云った事を書きました。そして近世には徳川の天下になります。参代将軍徳川家光は日光に駿府(静岡)に東照宮を造営し徳川一族発祥の三河にも瀧山東照宮を造営します。(鳳来寺山にも重文の東照宮がありますが・・・。
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これは鳳来寺山の東照宮鬱蒼とした杉木立の中に鮮やかな色彩の本殿が眩しく輝いていました。
幕府が実権を握って自信もついてきた頃で諸大名は幕府の権威に従順になっていましたので瀧山寺にも鳳来寺山にも豪華絢爛な東照宮を造営できたのでしょう。本堂の少し右奥(東北)側に瀧山寺東照宮が控えていました。
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これが瀧山寺東照宮です。沢山の石灯籠は造営に参加した大名の家紋が刻まれています
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東照宮脇に並んだ石灯籠住職の著述によると或る日”家紋の拓本を取らせてほしい”という人が来たので認めた処朱泥で拓本を取られたので家紋が朱色に染まってしまったそうです。昔の朱は水銀が混じっていたので洗う程度では色が抜けないのです。左側が本堂で本堂の裏は日吉神社で現在修復中でした。錆びたトタン板で覆っているようですから予算が無いのでしょう。
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東照宮の西側は本堂です。巨大な天水桶が置かれていますがこれは屹度八丁味噌の樽だったのでしょう。でも、水は抜けてしまっていました。本堂も東照宮も明日書く予定の仁王門もどれも重要文化財です給水栓が頼りです。
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これは瀧山東照宮拝殿向背の軒回り屋根の下の垂木懸魚梁の装飾更に斗の組物等が豪華絢爛として眼を奪われます。でも上段の鳳来寺山東照宮が金色なのに比べると落ち着いた感じがします。
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拝殿正面のアップです。幾重もある梁の表面に葵の紋そして宝相華模様蛙股の間には干支が刻まれています。この装飾も家光の御機嫌を損ねないように各地の大名が忠誠を示そうと尽力した成果だったのでしょう。
昨日書いた運慶の仏像http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49177975.htmlもこの時に彩色されたので運慶仏の重厚さを損ねてしまったものと想像します。仏像のお身体を肌色に塗ったのがそもそもの間違いで金箔を貼って置けば今頃は国宝だった事でしょう。手前のの梁の彩色は聖観音や梵天の配色と共通しているように思います。
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拝殿中央の蛙股。お股の中央に刻まれた彫刻は白鷺と(澤瀉/おもだか)で毛利家や酒井家などが家紋に採用した。



瀧山寺は古代中そして近世と何れの時代にも時の権力者の庇護を受けました。その結果お寺には何層もの文化が折り重なっています。重なった文化や歴史の厚みと現代も鬼追い火祭り神事が継続していること等民俗文化財も多く魅力が尽きません。そして現代は民主主義の時代、ですから強大な権力者に代わって大衆の期待に答えなくてはなりません。大衆の期待とは五穀豊穣。福徳円満そして、厄除け健康です。私もリハビリ達成を祈願して貧者の一投を賽銭箱に宝物館に支払って意気揚々と古刹を後にしました。
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命を懸けた飛騨の匠

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瀧山寺を後にバス停に戻ると、バスは出たばかりで次のバスには1時間も待たずばなりませんでした。そこで私達は青木川に沿って街道を下る事にしました。バス停を二つ下れば仁王門前になります。来る時に車窓から確認した風景です。足助街道にどことなく似た風景です。足助街道には化粧地蔵尊や馬頭観音が多く見られましたから。此処大沼街道でも石仏に会えるかもしれません。横断歩道の信号機スイッチにミミズクがデザインされていました。そうこの街道をズット行けば、仏法僧(木の葉ミミズク)で有名な鳳来寺山に行けるのです。そう此処は岡崎と鳳来寺(新城)の中間にあるのです。
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大沼街道を岡崎に向かう家並みは街道の雰囲気を今に伝える庇の長い建物が続いていまあした。左の家々の背中側に青木川が流れています。
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横断歩道の押しボタン式信号機です「木の葉警部」と名付けられていました。下り坂なのでスピードを出す車が多いようです。
暫く歩くと前方に朱塗りの仁王門が見えてきました。仁王門前には此処より東瀧山寺神領の石柱が立っています。此処から瀧山寺まではバス停で二つ1キロはあるでしょう大変に大きなお寺だったのです仁王門前には石灯籠が立っていました。石灯篭には秋葉山(火伏の神様)の文字が刻まれています。近代的な消火栓とご当地の火伏の神様が重要文化財を守っているのです。
重厚壮大な山門ですから屹度頼朝時代に創建されたものでしょう。でも瀧山寺の解説では次のように案内されています。http://takisanji.net/jihou_keidai_sanmon.html
『文永四年(1267年)、飛騨権守藤原光延(飛騨の内匠)が建立したもので、三間一戸の壮大な楼門である。柿(こけら)ぶきの思い切り張り出した大屋根の勾配はゆるやかではないが反転があり、軸部はやや狭小であるが構造形式もよく整い、鎌倉時代の特色である雄建美がある。
 門の両側に控える仁王像は運慶仏師の作だといわれており、正面に掲げられた「瀧山寺」の扁額は日本三蹟の一人である藤原行成の八代の孫、行純の子で世尊流の書家の作である。
  また、三門の大屋根にある尾垂木が一カ所だけ逆さになっており、三門の完成後ある老婆が「内匠の建てしもこの違いがあるかな」とつぶやいたのを聞き、深く恥じて三門の階上よりノミをくわえて飛び降り、喉元を突いて自害した。その場所に一本の椿が生え、年々美しい花が咲いたが実を結ぶことはなかったと伝えられる。村人はこの椿を「内匠霊花」と呼び、ここに「飛騨権守藤原光延之塚」を築いた。現在三門の手前(西北)にあるのがそれである。』
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この写真は北(上流)からみた瀧山寺山門常夜灯には秋葉山と刻まれていました。
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南側から観た瀧山寺の山門三間の壮大な楼門です。左側に石碑が祀られていますがこれが逆さ垂木を恥じて楼門の欄干から投身自殺した守藤原光延の墓です。山門の両袖には仁王像(寺伝では運慶作)が置かれています。
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東側から見上げた山門前面は3間ですが側面は2間ですので細見です。奥の建物は常磐小学校の校舎です。
飛騨権守藤原光延が建立したのではなく、江戸時代に修復再建したのでしょう。屹度飛騨権守藤原光延はようやく訪れた平和な時代に戦火で焼け朽ち果てた全国の寺社の再建に大忙しだった事でしょう。瀧山寺では昨日書いた瀧山寺東照宮の建築に併せて山門の修復も重なったのでしょう。その超多忙の所為か解りませんが尾垂木を逆さに付けてしまったのだそうです。垂木とは天上裏の板を支える横木(梁)の事です。天井板の上に瓦がが載ります。瓦が重い事と濡れ易いので早くに傷みます。唐招提寺でも修復に際し、垂木は継いだりして再利用するのが普通です。再利用と云う事は垂木の天地を逆にして使う事です。藤原光延が垂木の天地を逆さまにしてしまった。この事を素人の婆さんに指摘されたのを恥じて楼門の上から喉元に鑿を押しつけたまま落下して自殺したと言い伝えて来たのです。同じような場面は幸田露伴の五重塔でもあります。
江戸谷中の感応寺(かんのうじの五重塔の建築を請け負ったのが谷中の「のっそり十兵衛」といい匠でした。
竣工後嵐に襲われます。「のっそり十兵衛」は五重塔に登って天地神明に向かって凄みます。
「自分は命を懸けて五重塔を建てました、若しも五重塔が倒壊すれば自分は投身自殺して果てる覚悟である。」
十兵衛の気迫を感じてか五重塔は嵐を遣り過すことが出来ました。
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これが逆さまに取り付けてしまった尾垂木です写真出典は瀧山寺の案内書からスキャン。但し案内書には守藤原光延が故意に逆さまにした(完璧な仕事は満ちた月が欠けはじめるように不吉なので故意に不完全にする縁起担ぎでもあったと記されています。
昨日は港北ニュータウンの高層マンションの杭手抜き工事の全面建て替えが決定しました。手抜き工事や構造計算の誤魔化しなど昨今の日本の匠の体質は眼を覆うものがあります藤原光延やのっそり十兵衛の子孫とは思えません。
山門前には見事な白椿が咲いていました。この椿は守藤原光延の魂を慰めるかのように自生して来たものと云われていました。その川沿いには藪椿と水仙が咲き誇っていました。
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瀧山寺山門の白玉椿、山紅葉が硬い芽を膨らませていました。周囲には桜の木も多く椿の次は桜、順番を待っているのです。

山門の周囲はフェンスで囲まれているので仁王像は遠くから眺めるほか術がありません。運慶の仁王像と云えば先年修復された東大寺南大門のに仁王像が有名ですのでツイツイ同像と比較してしまいます。矢張り素人の私の目では江戸時代の塗装が目についてしまいます。
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仁王門の吽形の仁王像(寺伝では運慶作となっています。塗装着色が目についてしまって力感溢れる東大寺南大門の仁王像に較べると迫力が足りないように感じてしまいますが・・・。
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これは瀧山寺山門に祀られている吽形の仁王像。丹塗りが目についてしまって運慶の作かどうか判断に難しいと思います。

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瀧山寺小坊の石仏群

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瀧山寺の山中に石仏が目立ちました。私達は瀧山寺下のバス停から二停留所下りましたその途中道路山側に私に注がれる視線を感じました。其処は小さなお堂が在ってその前庭に石仏群が祀られているのです。其処はお寺の境内に続いていて、庫裏の裏に当ります。庫裏には洗濯物が干してあり子育て中の夫婦がお寺を守っているようです。お寺の名は弘願寺で浄土真宗大谷派と案内されていました。
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大沼街道に面した浄土真宗大谷派弘願寺の入り口この辺りは白御影石の産地のようで立派な石積みの上にお寺がありました。
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土真宗大谷派弘願寺の山門を見上げる
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土真宗大谷派弘願寺の法語と3月の法要案内


一昨日書いたように徳川家光の庇護によって瀧山寺本坊浄蓮院は栄えました。
でも過半の小坊は衰退を余儀なくされていたことでしょう。そんな小坊の一つが商人の信仰を集めて浄土真宗大谷派弘願寺に改宗・改名したのでしょう。
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瀧山寺のは数多くの石仏が祀られています。山は白御影石がゴロゴロ転がっているので鑿さえあれば石仏を彫る事が出来ます。
浄土真宗大谷派の信仰が境内に御堂と石仏群を祀らせたようです。石仏を彫るには最高の素材白御影が青木川の川原に転がっています。石工がコツコツと石仏群を彫りあげて行ったと思われます。先ず6観音像を彫りあげて次には6地蔵象を彫りました。12基の石仏を並べると皆が褒め上げました。そこでその中間の空き地に十王像を祀る事にしました。先ず中央に閻魔大王を彫って次に奪衣婆を彫り順次9基の王像を彫り11基をひな壇に据えました。住職が獄門首と浄玻璃という鏡も作るようにアドバイスしました。そして一揃い完成すると最後に地蔵立像を据えました。住職は閻魔大王は黄泉の世界の姿で現世ではお地蔵さんの姿で人を導くとお話しされました。商人は納得して生業に励みました。お堂がありました。お堂の前庭に6地蔵尊がと6観音像が並んでいます。そそて二組そして十王像が祀られていました。お堂はの広い境内に接していましたから。

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弘願寺の境内に続くお堂正面が阿弥陀堂で左の建物が庫裏になります。石仏は庫裏の白い塀に沿って手前に整備されていました。背後の山は瀧山寺の本坊に繋がっています。
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大沼街道に一番近い位置に六観音像が並んでいます。塀の向こうは弘願寺の庫裏でこの六観音に並行して六地蔵が並んでいます。
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六観音に続いて六地蔵が並んでいます。塀の向こうには弘願寺を守る住職家族の洗濯物が干してありました。お地蔵さんのお顔を塞いだ梅の木苔が環境の良さを示していました。
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六観音と六地蔵の真ん中にひな壇が築かれ十王像が並んでいました。前列左から獄門首奪衣婆そして浄玻璃(生前の行為を記録して映すDVD)が並んでいます。閻魔大王の背後の立像は閻魔さんの本来の姿の地蔵立像です。
昔は天台宗瀧山寺の6坊の一つだったのでしょう。現に坊も昔はと呼ばれていたそうですから。本坊が時の権力者の庇護を受けて栄えていた江戸時代中期に小さな坊は一向信徒の信心を集め浄土真宗に改宗した事は容易に想像できます。徳川家光の庇護で瀧山寺本坊は繁栄し、小坊の一つが商人の信仰を得て大谷派に転宗したのでしょう。
私は10王像に惹かれて境内を観て回りました。そしてお堂を蔀戸の間から覗くと立派な阿弥陀三尊が祀られていましたのみが瀧山寺本坊として残っています。
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十王像が揃っていると壮観です。屹度江戸時代十王信仰地蔵信仰そして阿弥陀浄土を信じた商人たちがこのお寺を守ってきたのでしょう。そんな信仰が弘願寺の法語にも記されているようです。
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これは人頭杖というか獄門首と云おうか…。どちらも童子の表情です。此処で親は子供に正直な生き方を教えたのでしょう。
岡崎と云えば三河商人であり三河武士です。背筋を正して生業に勤しむ姿は工夫を凝らしからくり人形や豊田佐吉の自動織機を開発しました.弘願寺の向かいは青木川で川沿いにガラ紡績の工場が並んでいました。ガラ紡績とは綿を紡ぐに際して水車を動力にした工場の事でした。江戸時代此処に近い足助では鈴木正三と云う経済学者を産んだ土地柄であり豊田佐吉もこの地の人でありました。日本近代化の原動力になった勤勉さや工夫や努力を惜しまない気風はこんな小坊の石仏に確認する事が出来ます。
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これがお堂の内部立派な阿弥陀三尊と地蔵立像が祀られていました。天蓋は雲を模したものでしょうか。清浄な空間でありました。



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奥三河で始まった日本の産業革命

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私達が高校で教わった産業革命は蒸気機関の発明に始まりました。蒸気機関とはボイラーで発生させた蒸気の圧力でシリンダーの中のピストンを動かし、その運動で動力を得る往復動機関をいいます。蒸気機関の発明によって紡績機が作られ鉄道も船も動かしました。ですから,日本の産業革命もボイラーを沸かせるための石炭が重要でありました。でも石炭が充分に在った訳ではありません。充分にあるのは水力です。安曇野に産まれた臥雲辰致(お坊さん)は水力で動かす綿紡績機を発明します。同紡績機を初めて設置して綿紡績を始めたのが此処瀧山寺の青木川の堰堤だったのだそうです。堰堤に工場棟を建てて川に水車を張り出します。水車の回転運動で綿糸を紡ぐのでした。綿は壺に埋め込みます。壺の上部から糸を引き出します。引き出された糸は張力の加減で太くも細くも出来ます。壺は水力で回転します.その回転する音がガラガラ云ったので「ガラ紡績」と云ったのでした。瀧山寺下には「ガラ紡績発祥の地」。素材の綿は三河平野で栽培されていたのでした。
トヨタ自動織機もそうしたガラ紡績を得意にしたものでした。ガラ紡績の回転運動を自動車の4輪にすれば自動車が出来ますので、紡績と自動車は近い装置だったのでした。
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左側の家はガラ紡績工場の後に建ってモノです。バス停の横にガラ紡績発祥の地の掲示がなされていました。此処で紡がれた綿糸を船で運んで岡崎の工場で綿布にしたのでした。
岡崎の市内には今も綿糸機械の工場が目立ちます。青木川に沿って岡崎市内に入ると川の名は乙川と名を変えます。乙川は岡崎城の外堀のような役目を果たしています。
乙川の堰堤近くに郷土館(旧額田郡公会堂及物産陳列所)があります。此の建物は建物は、大正2年(1913)に額田郡公会堂・物産陳列所として当時の洋風建築を忠実に採り入れて建てられたもので、国の重要文化財になっています。3年前まではガラ紡績機も展示されていたそうですが。現在は耐震対策が施されていないので使用されていません。トヨタ自動車の産業機械博物館(http://www.tcmit.org/exhibition/textile/に行けば確認できるそうです。
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これがガラ紡績機筒の中に綿が詰まっています。筒から糸が引っ張られています。水力で筒を回転させることによって綿糸が紡がれてきます。糸の張力を強くすると糸は細くなります。こうしてできた綿糸を布に致します写真の出典は楽天ですhttp://item.rakuten.co.jp/craftcafe/ns8177-iv/

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これがトヨタの自動織機です。
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これは岡崎の市役所近くにあるかっての産業博物館です(国の重要文化財)大正2年(1913)竣工3年前まではさ産業や物産の展示館としてまた今頃はお雛様を展示してきたのでしたが。現在は耐震対策が不十分なので使用もされていないし内部の見学も出来ません。欄間風の漆喰等憎らしい程お洒落です。もうじきアールヌーボーの時代に入ります。外壁はコロニアル板葺です。屋根は三河の塩葺き瓦です。
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これが旧額田郡公会堂建物です。此方も産業博物館と同じ大正2年(1913)竣工の国の重要文化財ですが現在は使われていません。耐震対策と言っても筋違をバタバタ張ったのでは味わいが消えてしまいます。悩ましいのですが対策して使用するようにしないと建物自体の寿命が短くなりそうです。「グラッときたら逃げろ」程度の指示で時々窓を開けるなどして少しは、使いたいものです。玄関ホール上の櫛の歯状の欄干などが眼を牽くゴチック風の味もあるコロニアル建築です。
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岡崎市内に戻るともう夕焼けでした。河は青木川の本流である乙川です。右寄りの常緑樹の陰に岡崎城があります。
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夜は岡崎城はライトアップされていました。
夜は岡崎城の向かいにあるグランドホテルに泊まりました。
ワイフに背中を流して貰いぐっすり眠りました。明け方手足が痙攣しました。昨日たくさん歩いたこととお風呂で温まったお蔭でしょう。痙攣は手足に神経が通い出す前兆のように思いました。文化財を言巡りながら徐々にリハビリが進捗健康体は近いようです。

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風格の大樹寺

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今回岡崎に旅したきっかけは長男夫婦の娘が卒園するとい言うので「そのお別れ会」を観る事でした嫁さんのご両親と私達と息子夫婦と孫二人合計8人で食事をしました。「ところで午後は如何する?」息子に訊かれて岡崎に来たのだから大樹寺の「一光千体の阿弥陀様を拝んで帰るよ」答えました。ご当地は新美南吉(半田市)の記念館があってかねがね行きたいと思って居たのですが。時間を考えると新美南吉記念館は出直して行かずばならないようです。
息子に車で大樹寺迄送って貰いました。伝馬町から足助街道を豊田に向かって走って左折すれば大樹寺の巨大な山門が聳えて見えます。山門を見上げた時の第一印象は港区芝の増上寺山門を見上げた印象に似ています。
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今回の旅は息子夫婦の長女の「卒園お別れ会」を観るのが目的でした。お遊戯やお歌をセキレイホールで観たのでした。
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これが大樹寺の山門(愛知県文化財)です寛永18年(1641年)徳川家光が建立増上寺山門(国の重文)は元和8年(1622)建立ですから大樹寺の方が歴史もあります。山門前の道を東(に行った交差点が足助街道になります。バス停は足助街道交差点まで行かないとありません。岡崎を代表する史跡ですが足の便は悪いのです。 家康が桶狭間の戦いから逃げ帰って大樹寺に隠れます。すると織田方の野武士が寺を囲みました。大樹寺の祖洞和尚が山門のカンヌキを引き抜いて野武士を退散させました。家康はこのカンヌキを「貫木神かんぬきじん」として宝にしました。本堂左手に祀られていました。長さ3m(2間余り)の10センチ角の角材で刀傷が残っています。
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これは山門の下から大樹寺小学校の校庭越しに大樹寺総門を見た処です。総門越に岡崎城(南に)の天守閣が見られます

私が大樹寺さんを詣でるのは二度目です。前回は桜も散ってしまう季節でした。前回は宝物館も無かったので国の重要文化財の襖絵は見学できませんでしたが、今回は本堂からグルット回って宝物館の襖絵も将軍の御成りの間(書院)や大名の控えの間(書院)も見学できました。加えて徳川家代々の位牌堂も拝観できました。松平8代徳川14代の等身の位牌が並んださまは壮観でしたし。家康公の木像や於大の方の木像(現代作家のモノ)も見学できました
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大樹寺本堂欣求浄土と懸った柱の左手に貫木神が祀られていました。
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此方が大樹寺のご本尊阿弥陀如来坐像本尊の阿弥陀如来像(像高約140センチ、いわゆる半丈六の坐像) 
穏やかで端麗な像容で、流石に徳川家の菩提寺ですから、ご本尊も伝統に根差した阿弥陀様です。平安時代後・末期の定朝様式を示しています。後背に無数の(千体の)阿弥陀様が懸仏されていますので、一般に一光千体の阿弥陀様と呼ばれています。写真はパンフレットの写真をスキャンしました。
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これが位牌堂に祀られている徳川家康像教科書にもこの像が載っていました。この右横に於大の方の肖像彫刻が置かれていました。写真はパンフレットをスキャンしたものです。
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本堂前宝物館前に置かれた家康の石像も新設されました。この像も上段の木像を模したものです。前述の通り家康の人生観の確立と危機を救った大樹寺でしたから自身と子孫の骨は大樹寺に埋めるよう遺言したのでした。
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大樹寺書院前庭に自生している巨大なスダジイ竹垣の前には羅漢の石像が並んでいました。スダジイの落ち葉の陰に虫が隠れているのでしょう。沢山の白腹(ムクドリの様な野鳥)が落ち葉を蹴散らかして虫を漁っていました。
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この部屋は将軍の御成りの間です。伝統的な書院造りであり、襖絵は大和絵の絵師冷泉為恭(れいぜいためちか」による作であります。この部屋の右手に大名の控えの間が連なっています。立派に用意しても一度も使われた事は無かったでしょう。
 出来たのは安政4年(1857年)でした9年後の1867年には大政奉還する訳ですから 15代将軍徳川慶喜の時局の感覚を疑ってしまいます。これもパンフレットをスキャンしました。
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此方は大樹寺の多宝塔右側塀の向こうは広い墓地です。大樹寺多宝塔は室町時代の遺風を伝える京都風(小倉山常寂光寺の多宝塔を髣髴させます。蛙股など細部の意匠も眼を見張るものがあります。(重要文化財、室町時代 天文四年 1535年建立、桧皮葺、高さ 約13m)私の直感では京都から移築したか京都の宮大工に発注したか、どちらかと思います。

大樹寺を辞して岡崎駅に戻ろうとすると大樹寺の受けつの方が私に向かってこられました。
そして「バスに乗ってお帰りでしょう。バス停まで距離があるので此方の方がお車に乗せて下さるそうですよ。」
見れば駐車場で叔父さんが私達に笑顔を向けていました。
御厚意に感謝して真っ白いマークエックスの助手席に腰掛けました。
叔父さんは話し好きで伊賀八幡宮は観たか?」訊きます。
私は前回来たときは桜が散る頃で、枯れ蓮の八幡宮は観たことが無いと答えました。
すると叔父さんは
「じゃあこれから伊賀八幡宮に行きましょう。そのあと岡崎駅までお送りしますよ」
私達は御厚意に甘える事にしました。


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臣下との絆を示す伊賀八幡宮

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大樹寺の受付のお坊さんの御配慮で、地元の人に岡崎駅まで自家用車に乗せて貰えることになりました。
その人が”是非伊賀八幡宮に参詣して帰りなさい”と云う事で御厚意に甘えて伊賀八幡宮に寄る事になりました。
先ずは伊賀八幡宮を説明します。第一印象では『伊賀の隠者の信じていた八幡宮を伊賀モノが家康に仕える事になったようになったので故郷の伊賀から三河に遷座した』と推測しますが。実は実際は逆で『八幡宮は家康を遡る事松平家4代松平親忠の創建(文明2年(1470年)で松平家の氏神であったものを、伊賀モノがその功績を評価されて氏神も守なくて伊賀八幡宮と呼ばれたのでした』。勿論伊賀忍者の住む一帯を伊賀町と呼びました。

本能寺の変」に際して家康は堺に居たのでしたが、明智光秀の追っ手を逃れて伊賀越えをして本拠地岡崎に脱出しました。窮地を助けられた家康はの伊賀忍者への信頼を強くしたのでしょう。岡崎城の西足助街道の要衝地に伊賀忍者を住まわせました。その結果八幡宮の名も伊賀八幡社と呼ばれるようになりました。天下人になった家康は伊賀八幡社の改築を行い。江戸城に於いても本丸の西側に伊賀モノを住まわせました。今も半蔵門の名になって伊賀忍者と家康の関係を伝えています。更に三代将軍家光は社殿を拡張し寛永13年1636年、祖父家康(東照大権現)を祭神に加えました。
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これが伊賀八幡の随神門。方形の蓮池が在って池の中央にを造の太鼓橋がある中国風の庭園(国の重要文化財)で蓮が有名です(写真の出典は岡崎市観光案内)。
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蓮の季節が見頃なのですが今は一面枯れ蓮です。でも重文の石造太鼓橋は良く見えました。全体的に道教のお庭を感じます。社殿は蓬莱山のような位置にある事になります。
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これが伊賀八幡宮前池。方形の池の中央に石造りの太鼓橋があって全体として道教の池の趣です。家光が整備したもので鳥居も含めて国の重文です。

件の地元の人が説明してくださいます。随神門で神域を守っているのが(お寺の山門の仁王像の位置にいるのが)本多忠勝公であるとの事です。家康公及び徳川幕府の人使いの上手さを痛感します。
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随神門で神域を警護するのは本多忠勝公です。三門の仁王像の位置にあります。三河武士の結束の強さや家康と臣下と強い繋がりを思わせます。
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髄神門の本多忠勝公の背には東将大権現像が祀られていました。

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伊賀八幡宮随神門
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随神門蛙股には枇杷を食べているお猿さんが彫られていました。地元の人も朱塗りの建物の褪色が目立っています。水銀が使えなくなったのが速く褪色してしまう事情です。
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此れも蛙股です。蓮の実を食べている兎でしょうか。厚塗りが目立ちます。
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この蛙股は瓜を食べているイタチでしょうか?
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これが本殿の正面家光建立寛永13年1636年垂木は金色で組み物はブルー梁は龍が描かれ両端は象鼻が飾っています。
岡崎駅から名鉄線で豊橋に、同駅で豊川稲荷門前の壷屋さんお御稲荷さんを求めて新幹線の中で食べ終わる頃には列車は熱海を過ぎていました。小田原駅で乗り換えて旅を終えました。
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豊川稲荷門前の壷屋のお稲荷さんを食べて三河の食べ納めになりました。私の祖父は豊川稲荷のお坊さん(会計係)でしたので豊川稲荷には強い想いがあるのです。
憧れの運慶仏を心行くまで堪能し。味噌煮込みうどんを食べて孫と楽しい時間を過して、大樹寺さん始め幾つもの御厚意を受けて良い旅でした。これで身体が快方に向かわない筈ありません。

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