Quantcast
Channel: 仮想旅へ
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live

運慶仏を塗装したのは誰?(瀧山寺)

$
0
0
瀧山寺の運慶仏を拝観し(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49177975.html)て私は次のように推測しました。
イメージ 1
運慶仏マップ(出典芸術新潮の特集号)
1、瀧山寺の中興の住職が寛伝上人が頼朝の従兄弟であった事から頼朝の庇護をうけた。その頼朝が没すると寛伝上人は頼朝の冥福と鎌倉幕府の安泰を祈願して運慶を招致して造仏を依頼した。その結果、奥三河に運慶の仏像が残されたのでした。その後瀧山寺は足利幕府の支援を受け徳川幕府が成立すると三代将軍家光は祖父家康を祀る東照宮を日光を筆頭に各地に祀ります。瀧山寺にも東照宮を造営します。わたしはテッキリこの時に運慶仏も修理されて彩色が為されたものと推測しました。
念の為と思い瀧山寺が脚光を浴びるきっかけとなった芸術新潮(20009年1月)をアマゾンで求めて読んでみました。その文中で運慶研究の第一人者(山本勉氏(清泉女子大教授)が次のように言われておいででした。
『瀧山寺の運慶は本来の彩色ではない近代おそらく明治期に彩色されたものです。当初の彩色を剥がさないまま上に新たな下地を被せて色を塗った為彫がすっかり鈍くなっています。三体の中では帝釈天の塗りがまだしも薄いようです。ただ像そのものの保存状態はとても良い状態です。』
イメージ 2
瀧山寺の帝釈天像。聖観音より一回り小さい像ですが、塗装が薄いので運慶像の彫の息遣いが感じられるようです。甲冑に描かれた宝相華模様や下着の麻の葉模様など絵筆も繊細で美しいと思います。おそらく運慶3体の中で国宝に指定替えがあるとすれば個の帝釈天でしょう。全身写真はhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49177975.htmですl芸術新潮をスキャン
彩色状態が運慶仏の彫の良さを台無しにしているので本来なら国宝なのに重文に留まっているとの認識に間違いは無いのですが、江戸時代初期の彩色では無くて明治時代の彩色が稚拙であった、稚拙と云うよりは手抜きであった事が重文に留まっている理由なのでしょう。考えてみれば江戸時代初期は日本の工芸の全盛期です。光琳や仁斎が活躍した時代に仏像の修復を手抜きしたとは考えられません。でも明治時代なら手抜きもあり得ます。産業革命に成功し生産性が優先される風潮にありました。廃仏毀釈が流行った時代ですから、修復されれば良い程で運慶の蚤の冴えを殺してしまうなど思いもよらなかったのでしょう。生産性優先の誤りに気付いたのは大正から昭和にかけてアールヌーボーの日本版昭和モダニズムの運動でした。
塗り直し修理によって仏像が傷められ、像の本来の姿とはかけ離れ、文化財的価値が損なわれていると思われます。私達は高松塚古墳の壁画が黒カビで汚れてしまったのを嘆き技術が稚拙なら閉まって置いた方が良かった、と思いました。下手な修復なら何もしないでおけば良かったです。
薬師寺の薬師如来は時代の変遷で金箔が剥げて下地の黒漆が露出してしまっていますが。美しいし、持統天皇の情愛が像に写されて時代を経てきた美しさを実感して文化財としての価値がアップしていると確信しています。金箔を貼れば儀軌の通りで白鳳時代の昔の状態に戻せるでしょうが、誰も金箔を貼ろうなんて言い出しません。文化財は最初腕を振るった人も大切ですが、その技や心を守ってきた人々や歴史も大切なのです。
イメージ 3
瀧山寺の梵天像塗装が厚塗りなので運慶の鑿の冴えが隠されてしまっています上段の帝釈天と対で祀られています。全身写真はhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49177975.html
3年前三越のIさんが輪島塗の工房から仏師の工房を照会してくださいました。私達は輪島の総持寺門前にある工房で輪島塗が漆職人や木地職人『仏師)の合作である事を教わりました。仏像の下地である漆を剥がす作業がどれほど大変かは知りませんが。そのまま上塗りしてしまうという心境は非難されて然るべきことでしょう。
そう想って運慶の仏像三体を見ると。帝釈天像は塗も薄く運慶仏の迫力を伝えています。それに比べると梵天像や聖観音像の厚塗りは目立ちます。特に最大の聖観音像は上塗り塗装に亀裂も入ってしまっています。
イメージ 4
山寺聖観音像体内に頼朝の毛髪と歯が埋められています。下地を剥がさないで漆を塗ったので塗装が厚塗りのうえに表面に亀裂も生じて来ています左手は塗装が剥げて下地が透けて見えています。屹度数年のうちに解体修理をすることになって体内の確認(頼朝のDNAも解るでしょう)と塗装のし直しが実施され運慶仏当初の姿が現われると期待します。
現代の匠に漆塗装を上手に剥がして彩色出来る人がいるのでしたなら、再度修復して運慶当初像を再現させてもらいたいものです。
ところで、山本勉氏は何故に清泉女子大の教授で居られるのか不思議です。清泉と云えば我が家の近くのお嬢様も通学しているプロテスタント系の学校です。キリスト教徒のお嬢さんに仏像ガールが沢山いられて。
「瀧山寺の帝釈天イケメンじゃない」とか
「私は東寺の帝釈天の方が好きよ」なんて喋っていることでしょう。私達の恩師の浅子先生もそんな私達の姿を目を細めて見て戴きました。仏像の技も仏像を見詰める眼差しも代々伝えて行かないと。瀧山寺の運慶仏のように残念な事になるように思います。
さて次は何処の運慶仏を拝観に行こうか芸術新潮のページを括りました。すると足利の鑁阿寺の近くに光得寺があることを知りました。真如苑や円成寺の大日如来を髣髴させる金剛界大日如来です。獅子の上に九重の蓮華座を設え大きなお厨子の中で印を結ぶ姿は宇宙の中心におわす大日如来の世界観を一体で表現しているように思えます。
イメージ 5
これが次に行きたい栃木足利光得寺の大日如来像(重要文化財) 真如苑大日如来の二分の一の大きさですが厨子も併せて大日如来の大宇宙を表現しているように窺がえます。



応援クリックお願いします。

 



高野山東京別院のミモザ

$
0
0
明治学院大学のチャペル建物を見学して、国道1号線を渡り高輪二本榎通りに戻りました。
交差点の左には消防署右側に高輪警察署があります。この辺りは要人も多く住まわれていますし大使館も多いので警察も消防署も近隣の安全安心に重責を果たしているのでしょう。緑も多いし、地盤は堅固ですし垂涎の住宅地である事は明治維新からずっと変わらないようです。そのど真ん中に高野山金剛峰寺の東京別院があります。
殆どが壮大な鉄筋コンクリートの近代建築ですから、歴史は浅いものと推測するととんでもない、江戸幕府が出来て間もない明暦元年(1655年)に創建されたのだそうです。明暦3年(1657年に)、明暦の大火(振袖火事)で江戸市中の半分が焼け落ちると高野山は浅草の日輪寺(浅草3丁目)から現在地に移転しました。幕府にすれば住宅密集地から東海道の要衝に移転させるのは都市再開発と併せて軍事的にも理に適った政策だったのでしょう。
昭和2年に(1927年)高野山東京別院に改称し昭和63年(1988)年に現本堂が竣工したそうです。私が就職した頃は本堂が無かったのでしたが、就職してからは何度かこのお寺に焼香に登りました。大手町からは地下鉄を乗り換えて泉岳寺で降りて坂道を登って来ました。せめて増上寺か本願寺、青山斎場で葬儀をしてくれればよいのに社葬を高野山で行うのには訳があるのだろうと思ったものでした。
私はワイフを誘って高輪警察署の隣の西門から高野山東京別院に入りました。






応援クリックお願いします。

 



柘榴坂のエスニックレストラン

$
0
0
高輪を歩き通して腹も空きました。何を何処で食べようか?悩んだ挙句に柘榴坂に出来たアジアンテーストのレストランに行く事にしました。実はそのあたりに思い出があるのでした。
場所は柘榴坂です。昔はこの坂の踊り場に京浜急行電鉄の本社があって。その迎いに1970年ホテルパシフィックを建てました。西武鉄道の品川プリンスと高輪プリンスの中間の位置に巨大なホテルを建てたのですから、思い切ったものと感じました。この土地は旧宮家の跡地を京急と西武が争った因縁の場所でした。
以降京浜急行は決算説明会や釜利谷開発説明会などをこの新設ホテルで実施しました。そんな次第で何度もホテルパシフィックには出かけたのでしたが。会社が期待するような結婚式でホテルに入った事は一度もありませんでした。パシフィックホテルの玄関近くの植え込みを壊してある時から白亜のレストランが出来ました。
イメージ 2
柘榴坂に面したレストランシンガポールの玄関。後ろの建物が京浜急行電鉄のホテルパシフィックです。このレストランによってホテルに入り易くなった上に安定収入になった事でしょう。広いデッキにはテーブルが並んでいて春になればデッキテーブルで食事をするのも楽しい事でしょう。左手にあるのがシンガポールの象徴のマーライオンです。狛犬の下半身が人魚の像です。

何だろう?思えばレストランの入り口に狛犬のようにマー・ライオン(シンガポールの象徴で上半身がライオン、下半身は魚の像)が置かれています。
二本榎通りを高輪教会前で左折すれば柘榴坂です。
この教会は慶安4年(1651)年キリシタン信徒188人もが磔刑されその慰霊碑が祀られています。この記事は以前次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49174274.html
そそて『柘榴坂の仇討」舞台でもあります。(20002年浅田次郎さんの小説で有名になりました。)
イメージ 1
桜田門外の変で主君井伊直助を失った家臣がテロリスト水戸浪士を討った浅田次郎氏小説を2014年映画かしました。
写真出典は種や(近江の銘菓店映画のスポンサーだった。http://taneya.jp/group/zakurozaka/index.html)から転載したものです。

何故か時代の変わり目には血なまぐさい事件が起った坂です。柘榴は真っ赤です。キリシタンは信仰に殉じてて井伊家の家臣は忠誠に従って血を流したのでした。
イメージ 3
シンガポールレストランの水槽に入れられたマッドクラブ。この店に来たら此奴を喰わなければならないでしょう。

イメージ 4
落ち着いた色調のメインダイニング天井も高いしホストの動作も好印象です。シンガポールのサービスは進んでいます。
柘榴坂に面した入り口から入りました。ウッドデッキを通って店内に入れば大きな水槽があって蟹や海老が食べられるを待っています。コロニアル風の建物はシンガポールの風が吹いて居るような雰囲気です。丁度お昼前、近くのオフィスに働いている人で相当の混雑ですが、メインダイニングの天井は高いしホストも礼儀正しいしテキパキしていて好印象です。このお店では上海蟹かマッドクラブのココナッツミルク炒めが売り物なのでしょう。でなければ…シーフードチャーハンも魅力でしたが。私は上海焼きそばワイフはカレー味ビーフンをオーダーしました。一品ものの注文でも全員に前菜サラだが付きました。ビーフンにたっぷりのパクチーが効いていました。
”前菜がビーフンならシーフードチャーハンにすればよかった”ワイフの表情です。
イメージ 5
でもザット見た処200席はあってお隣は近いし話はし難い距離です。左隣にОL二人組が座って話が盛り上がっていました。ビールも進んで・・・・、落ち着いて話したい人には不向きかもしれません。此処は魚市場(フィッシャーマンズワーフ)でザワザワした雰囲気が好きな人向きです。

イメージ 6
私(手前)は上海焼きそば、ワイフは(向かい)はカレービーフンをオーダーしました。何も言わないのにシャアーする小皿と豆板醤を持ってきました。
上海焼きそばは真っ黒で魚醤の風味がたっぷり効いていたのでしたが・・・・、本来の私なら魚醤味は大好物・・・、でも炒めた油が強すぎて食べきれませんでした・・・・。
”シンガポールの食べ物は暑い盛りに食べるモノ3月では合わないね・・・”食べきれないので惜しみながら店を後にしました。お隣の席のお穣さんは。蟹がプリントされたエプロンをつけて。生ビール片手に息軒昂です。
若さには敵わない思いながらデッキに出ると。椅子には順番待ちの人が行列を作っていました。
西武鉄道は株価操作で大きく躓いでしまいましたが、ズット鉄道本業に閉じこもっていた京浜急行は遅れて出発進行した多角化に成功したようです。
京急がホテルの前庭をシンガポールのレストランに貸したのは屹度リーマンショック(2008年」の頃だったのでしょう。プリンスホテルグループも稼働率が低下し磯子プリンスはじめ幾つかのホテルを閉めました。
こうして持ち応えてくれば品川駅周辺は急速に開発が進行し脚光を浴びています。京急は横浜の田舎会社から私鉄の雄に変わろうとしているようです。

応援クリックお願いします。

 


身近になってしまったサバイバーズ・ギルト(生き残り罪悪感)

$
0
0
サバイバーズ・ギルトSurvivor's guilt)が身近になってしまいました。
新年会で友人のI君は軽井沢でのバス事故を話していました。
”「隣の座席の人が亡くなってしまいました。でも自分は生き残った”
”そんな場合生き残った人は自分の堯運を喜ぶのではなくて、生き残った事実に罪悪感を持つらしい・・・・。心的外傷ストレス障害(PTSD)は辛いモノらしい・・・・”
友人の問いかけに私は、こう答えてしまいました
”「仏がお前はもっと生きろ」と命じられと思って、死んだ隣席の人の分も長く生きなければならない”と思えば良いのじゃない・・・・。
でも、この自分の発言にズット疑いを持っていました。
最近も川崎の多摩川少年の横浜地裁での審議が報道されるのを読みながら少年達の心的外傷ストレス障害(PTSD)を考えずばなりませんでした。
少年たちは自分が生き残ったサバイバーズ・ギルトに加えて友人の首にカッターナイフを突きつけた本来の罪悪感に苛まれていることでしょう。
少年の弁護士が”カッターナイフを突きつけなければ自分が殺される”と思った弁護しても加害少年の心的外傷ストレス障害(PTSD)は弁護士の発言で一層深刻化して居るように推測されます。
サバイバーズ・ギルトは古くはナチスのホロコーストを生き延びた人々に見られた精神的病理で知られていました。
ところが、わが国ではJR福知山線脱線事故や東日本大震災と事件事故が続いています、
その生存者の間にこの感情や病理症(状心的外傷後ストレス障害(PTSD)が見られるとして認知度が高まり専門のカウンセラーが生存者にケアしています。

私の義父は蜘蛛幕下症で亡くなったのでしたがワイフは今もって嘆いています。
”お父さんに何でも食べさせてあげれば良かった!お医者さんが腎臓データが悪いというので食べ物を厳しくチェックしてしまった。蜘蛛幕下症で死ぬと解っていれば好きなようにさせてあげれば良かった”言って仏前に義父の好物を供えています。
愛する人が亡くなると”あの時こうしておけば良かった、ああしてあげれば良かった”思いは誰もが持つものです。愛情が深ければ深い程後悔が深いようです。お蔭で私の健康度チェックも厳しいモノがあります。チェックの厳しさは愛情の表現であり私達の友人の期待であるので致し方ありません。私はお医者さんへの定期検診をこまめに実施しその成果をエクセルに入れて見詰めています。
イメージ 6
これが私の血液に糖分が結合している割合を示します。空腹時血糖値よりも重要な血糖値データです。脳梗塞直後は8弱もありました。ワイフの警戒感も強い数値です。
イメージ 7
これが私の血液検査の推移ワイフの眼差しは血糖値とコレストロールに集中しています。何故なら私は長銀在職中に腎臓癌で右腎臓を摘出しているからです。これで透析になったらもうお終いだと思って居ます。この齢になると一人で我慢すれば済む訳ではありません。私の長生きはワイフの命を縮めるのですから・・・・。
私はこのワイフの後悔もサバイバーズ・ギルトも同じようにおもうのです。隣席の人が死んで自分が生存している事実を「「運不運」で割り切れば単純明快です。でもそのように割り切れないのは人間だけが持つ愛情や優しさなのでしょう。その愛情・優しさがあったから、人間は巨大なマンモスを追いかけてアフリカからシベリア尼そしてアラスカからアメリカに渡って行けたのでしょう。日本にもマンモスを追いかけて渡って来ました野尻湖の湖底からはそんな記憶が発見されています。
イメージ 2
最近の世界史の授業では氷河期にマンモスを追って人類が大移動した事から始まっています。
イメージ 3
野尻湖のマンモス博物館写真出典:JR東海ツアーズhttp://guide.travel.co.jp/article/4506/

弱い人間が居に残る為には愛情や優しさが不可欠だったのでした。サバイバーズ・ギルトは愛情や優しさの現れだと思うのです。優しい人想像力の豊かな人に限ってサバイバーズ・ギルトに陥ります。マイペースの人にはサバイバーズ・ギルトは無縁なのです。
ところが近代になって個人主義が一般化するにつれて愛情や優しさを発揮する機会が減り、えてして優しさが邪魔をすることが増えてしまいました。結果人一倍優しい人がサバイバーズ・ギルトに陥りPTSDに襲われるのです。
愛情や優しさが大切である事は宗教の根本になって来ました。キリスト教は。神が全人類を平等に愛するように、人間も相互に隣人を愛しなさいと説きました。愛こそ人間が人間らしくしかも逞しく生きる秘訣だからです。でも一対一の愛は「エロス」と呼んで隣人愛と峻別しました。
一方仏教では「愛」を異性等に対する執着として諌めていました。仏教では愛と呼ばずに慈悲と呼びました。
「慈悲」とは"苦を抜き楽を与えること"である、と説明しています。慈悲とは、隣人の不幸を抜き去り、それに替えて幸福を与えることですと教えます。マンモスを追いかける家族や仲間全員をハッピーにするには慈悲こそ大切であると教えたのでした。そんな教えを受けた人類ですから隣人に災いが発生して自分が生き残った場合に罪悪感に陥るのでした。
そう想って観音像を見ると隣人を救う為に右腕は極端に長く人間を苦界から救おうとされていますし、ある観音は釣り糸や網を張って苦界に溺れる人間を救おうとしています。多摩川の冷たい水に溺れた中学生を救おうとされているようでもあります。
イメージ 4
法華寺の11面観音像右腕が極端に長いのは苦界に溺れる人々を救おうとされているため、菩薩像は人間に隣人を助けなさい慈悲しなさいと導いているのでしょう。写真出典平凡社日本の美術をスキャン。
イメージ 5
東大寺法華堂(2月堂)の不空羅索観音菩薩像。不空羂索の「不空」とは「空(むな)しからずの意であり、「羂索」は手に持つ縄(網や釣り糸)を指す。つまり、あらゆる衆生をもれなく救う観音との意です。出典は『週刊朝日百科 日本の国宝52



応援クリックお願いします。

 


蕗の薹が苦い訳

$
0
0
3月になって娘夫婦が何時もより大きなガラス瓶を持って遣って来ました。潅いて、ワイフ手作りの梅干を樽からガラス瓶に入れて持ち帰りました。婿殿がワイフに写真を見せています。何事かと思えばエコー写真で。ベビーが出来たと云うのでした。娘が梅干を欲したのは赤ちゃんが出来たからでしょう。
私は娘に云いました。
”家の梅干は屹度体に良いと思うからしっかり食べてね。でも種だけは食べてはだめだよ!”
3月7日(火)良いお天気に誘われて草摘みに出かけました。娘が酸味を欲しているように私の体は若菜の苦味を欲しているのです。若菜はみんな独特の香りと苦みがあるのですが、冬を越すと何故かあの苦味を無性に食べたくなるのです。
イメージ 9
ベビーを授かった娘は産土の梅干を取に里帰りしました。梅干し君も大喜びでありましょう。勿論梅干造りに丹精を込めたワイフも嬉々としていました。これは今年から運がチェンジしたのかも知れません。
土筆も食べたいのですが何といっても狙いは蕗の薹です。
私の生家の裏山に清水が湧いています。其処から渓流が流れ出していて渓流沿いに蕗の薹が自生しているのです。私は志貴皇子(しきのみこ)の歌を口ずさみながら嬉々として裏山に入りました。

石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも
イメージ 1
蕨は羊歯植物です。人類出現の遥か昔から地球に茂っていたのです。
イメージ 2
山の辺の道では若菜摘みをする習慣が続いています。(長岳寺付近)


期待通り渓流沿いには無数の蕗の薹が芽吹いていました。
デーサービスに持って行く分と家で使う分を摘んで帰りました。
実はワイフは私が突然いなくなったので大慌てしていて、私の顔を見るなり叱られてしまいました。
ワイフも蕗の薹以上に苦味が効いて来ました。
人間には五感があって、その一つ味覚にも五感があると云われています。甘味と苦み塩見酸味そして旨味で
す。
イメージ 6
既に伸び過ぎてきた蕗の薹(蕗の蕾の事です。
イメージ 7
蕗の薹はデーサービスにあげて自分で食べて玄関に活けてあげました。
イメージ 4
これが舌の味覚を感知する器官である味蕾(みらい」の配置図です。イラスト出典st-medicaさんhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%91%B3%E8%A6%9A%E3%81%AE%E5%88%86%E5%B8%83&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
人間の舌には味蕾という知覚器官があって食物は唾液に溶けて味蕾を刺激するのだそうです。
甘味はブドウ糖の甘味を知覚します。人間の脳が疲れて情緒が不安定になり集中力が欠けた時体は甘いモノが食べたいと欲します。
マラソンをして体中に乳酸が蓄積した時には乳酸を排出するように体は酸っぱい食べ物(クエン酸)を欲求します。
夜なべで仕事をして体がだるい時には塩味が食べたくなります。それは体が塩化ナトリウム」等のミネラルを補給するように欲求しているのです。
美味い肉を食べたくなる時もあります。基本的に人間の体はタンパク質でできていますから。蛋白が欲しい時には美味いモノが喰いたくなります。これが味覚でタンパク質の一歩手前”アミノ酸を補給しろ”といった欲求です。アミノ酸や脂肪は幾らでも体内に備蓄できますから。人間は飢え死にしないようにドンドン食べたくなります。
甘味や塩味や酸味や苦味には”もうこれ以上は食べられない”限界点があるのですが蛋白と脂肪には限界を知らせてストップさせる仕組みが無いのです。だからタンパク質や脂肪を過食する食習慣は癖になってしまい。メタボを誘発するのです。
イメージ 5
春の味覚は鰆や海老ばかりでなく若菜です笊に乗っているのは野蒜に根曲り竹の筍に蕨にゼンマイです。皆食べたい
古代人が早春になると若菜摘みをする習慣は美俗であるとともに理に適った風俗だったのでした。
私の体にもそんな習俗が伝承してきて弥生になると気分は志貴皇子になってしまうのです。
イメージ 3
志気の皇子は日本青春像です。百人一首で女性に一番人気は光孝天皇の「君が為春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ」であると確信します。天皇や皇子が斯様に優しい国(文化)は日本の誇るコト事でした。

人間は春になると越冬中に費消してしまった身体に必要なミネラルを補給しようとして苦味のある若菜を食べるように仕組んであるのでしょう。
でも天然の若菜は往々にして毒があります。”毒と薬は紙一重注意しなさい!”サインが独特の苦味なのでしょう。丁度”肉は腐り易いので注意しろ!”サインが酸味や腐敗臭であるような仕組みなのでしょう。
夕食の卓に蕗の薹の天麩羅が上りました。独特の苦味が口中に広がりました。一番に苦いのは蕾でした。蕗の薹も一番大事な処に苦味を蓄積しているんだなあ!納得しながら戴いたのでした.味蕾(未来)の字も蕾(つぼみ)でした。
イメージ 8
今晩のオカズは蕗の薹の天麩羅に野良坊菜の和え物に味噌汁でした

応援クリックお願いします。

 

飛騨のカフェ

$
0
0
先月末に運慶仏を拝観に瀧山寺を詣でました。その山門を修復したのが飛騨の匠で、「逆さ垂木の悲劇」の言い伝えを聞きました。岡崎城のからくり人形も飛騨の匠の作と聞きますし、トヨタ自動車の生みの親豊田自動織機も水車を動力に綿紡績をする技術と確認しました。
一般に飛騨の匠と聞くと「左甚五郎」や「円空」を思い出しますが、飛騨の匠は日本ハイテクのルーツだったのです。
今週初め、片栗の花の咲き具合を確認に戸塚の東俣野に出かけたのですが、偶然に飛騨の匠を主張した大工さんがいる事を知りました。今日はその大工さんの奥さんが運営しているカフェを照会します。

火曜日の事でした
「明日から天気が崩れるそうだ東俣野に片栗の花を観に行こうよ」
ワイフを誘うと
「貴方は気が早いのだから。未だ10日は早いわよ」云いながら家計簿を確認して私を咎めます。
でも一度言い出すと止まらないのが私の欠点で藤沢行きのバスに乗って影取に出かけました。国道一号線影取のバス停から坂を下って境川の堰堤近くが毎年観に行く片栗の自生地です。坂は左脚麻痺の私にとっては大変です。昨年より大分楽になったリハビリの成果を確認しながら拳の花を観つつ急な坂道を下りました。
でもワイフの懸念通りで片栗は未だチューリップの様な双葉を出したばかりで、硬く白い蕾が確認できるだけでした。ここ数日の暖かさで私が騙されただけで、片栗は温度に反応するのではなくて日照時間に反応して花を咲かせるようです。
イメージ 1
これが東俣野の片栗です(昨年撮影)。今年は未だ双葉が出たばかりで10日は早いようです。
イメージ 2
水芭蕉もマダマダ早すぎました。蛙もイモリも啓蟄が過ぎたのにまだ眠っているようでした。
私は今下りて来た坂道を今度は登るだけです。
ワイフは「疲れたでしょう、此処で一休みお茶にしましょう」
云いますが私は
「宝ビスケットのアウトレットが出来たかもしれない。アソコならビスケット食べ放題かもね・・・」
言ってドンドン影取のバス停に戻りました。
農家の庭先に野菜の無人販売が設えてあります。大根も人参も長葱も全部100円です。傍のポストに100円硬貨を投げ入れるシステムです。
イメージ 3
それでも青空を背に黄色いマンサクが咲いてその根元には原木栽培の椎茸が育っていました。
『珈琲+宝ビスケット食べ放題』は私が「・・・・在ったらいいな!」希望的観測で適当に云ったのでしたが・・・。
宝ビスケットの筋向いに喫茶っ店が出来ていました。
実は泉区の天王寺山泉水公園辺りから境川沿いに鎌倉古道を歩いて来ると影取バス停で6キロ、終点に最高の位置なのです。「この辺りに喫茶店が在ったらいいな!」誰もが期待しているモノなのです。
イメージ 4
農家の庭先の無人野菜販売で今晩の惣菜をゲットしました。
イメージ 5
農家の隣に出来たМОKU-CAFE有限会社飛鳥工匠の応接室(展示ルーム)併用の喫茶店でした。店主の奥様に伺うと飛騨古川の出身で素材も飛騨から取り寄せているようでした。
イメージ 6
喫茶室の隣は「ババアのキッチン」の名でみたらし団子に五平餅のアウトレットを予定していまあした(4月1日オープン予定)
お店に入ると材木特有の芳香が漂っています。私の直感はブナとか苞のような照葉樹でしたが女将さんにフローリングの木材を確認すると栗の木だそうです。栗にしては木肌が白いような気がしました。
喫茶室の隣はキッチンで其処ではホウバ味噌に五平餅にみたらし団子を商うそうです。
珈琲をいただきながら私がみたらし団子(1本80円)に興味を示すと女将さんは豆煎餅をサービスしてくれまあした。感じは千葉のピーナッツ煎餅とカリン糖を折衷したようなお菓子で豆は大豆だとの事。
イメージ 7
МОKU-CAFEの室内から外を見る筋向いが宝ビスケットで女将さんの言う事には木曜日にアウトレットをするとの事、最近テレビに出た事から行列が出来るようになったとの事。もうビスケットの焼ける匂いには慣れたそうですが・・・・・。この狭い道に大型車が出入りするので迷惑して居そうでした此処は東俣野小学校の通学路でもあります。

私が安国寺(国宝経蔵が有名)や千光寺(円空で有名)の話をしました女将さんは故郷を誉められて嬉しそうでした。
「片栗の花を観に再訪します。その時には写真を印画してお持ちしますよ・・・・」
云って珈琲店を後にしました。孫が悦びそうな木工玩具が陳列されていました。お値段を聴けば未定のようで
お話好きでも商売気の無い女将さんでした。
私の生活圏に良い店を発見しました。
イメージ 8
これがМОKU-CAFEの珈琲(250円)お皿の上のお菓子はサービスされた飛騨の駄菓子の豆煎餅お皿は女将さんのお母様が趣味で捏ねた焼き物で秋海棠の葉っぱを押し当てたものだそうです。煎餅でなく雛おこしを乗せたら綺麗だろうと思いました。
イメージ 9
これは木工玩具未だ価格未定の様なので次に来た時に孫の玩具に求める事にしました。
飛騨の匠はて奈良時代に始まります私達は中学校の授業で”「国家統一」されると租庸調が始まりました” 教わります。租庸調は古代の税制で米(租)織物等のや特産物(調)を納めたり、一定の労働(庸)をしたのでした。飛騨では田圃もなく、織物も出来ないので奈良の都に出て働きました。飛騨では1里(50戸)毎に匠丁(しょうてい:今の大工)10人を差し出さなければなりませんでした。
平城京の建物の多くは飛騨の匠が居て出来たのでした。世界一の木造建築東大寺大仏殿は最初も再建も修理も飛騨の匠がいて初めて実現したのでした。
何も合掌造りだけが飛騨の匠の成果ではないのです。
珈琲を飲みながら心は薄墨桜に飛んでしまいました。
イメージ 10
これは昨年12月クリスマス用として作成したパステル画です。素材は合掌造りです。合掌造りは結と呼ばれる集団で作業をします。飛騨の匠が大仏殿を建てられたのはハード(匠の技)だけでは無くソフト(結と呼ばれる団結力)だったのでした。最近の事故(原発事故など)を見るとソフトが弱くなっていることを痛感します。


応援クリックお願いします。

 


リハビリの打ち上げは病院の屋上で

$
0
0
3月3日、新戸塚病院http://www.ims.gr.jp/shintotsuka/kawahiramethod/index.html(に通い始めて6か月が経過しました。前半の3か月は2回/週でしたが後半は2回/月で過半は自宅でリハビリして過ごしました。この病院はNHKの試してガッテン”で紹介された脳梗塞の後遺症/片法麻痺を反復促進療法でリハビリさせるユニークな病院なのです。
イメージ 1
3月3日新戸塚の街の街路樹辛夷も満開になりました。
イメージ 2
東戸塚駅前の自由が丘ガーデンの花屋の店先も桃の節句飾りになりました。

いよいよ最終回となったのが3月3日でした。私は著しい成果を自覚していますので。継続リハビリを希望しましたが、病院は規則通りこれで終了、改めて外来通院を申し込むよう指導されました.j通院開始までは6か月、順番を待っている患者が沢山いるのです。
今日は最終回ですから、再診開始まで6か月は少し長いモノノ、自宅リハビリをしなくてはなりません。今日は宿題の要領を確認しなくてはなりません。感謝と併せて宿題の確認です。
理学療法士の指導は和式のお布団から起き上がる要領を指導しています。左側から起き上がるのは右腕を活かせるので出来るのですが。右側から起き上がるには左腕が強くなければ出来ません。そこで右側起き上がりのトレーニングに集中しています。自宅のベッドで右起き上がりの宿題を確認しました。
緊張でもう喉が枯れて来ました。傍で見ているワイフに一口お茶を飲ませて貰うと
イメージ 3
新戸塚病院の屋上は花壇と菜園が営まれてありました。入院患者のメンタルクリニックには有効な事でしょう。えんどう豆も順調に生育していました。
”今日は屋上に行きましょう”理学療法士は怪談を登るように命じます。お天気も良いから、屋上でトレーニングかと思いましたら、突然に”今日はジョギングしてみましょう、1周目は私が脇を走りますが2週目は一人で走って下さい”命じます。両腕を腰の辺りで屈めて、ユックリユックリ走ってみました”脚と脚が絡まったら怖いな!”思って居たのでしたが、そんな懸念は全くありません。小学生の頃初めてスキップを教えて貰って出来た嬉しさで。通学路も廊下もスキップしてしまったあの時の感動が蘇って来ました。2週目は一人でジョギングしたくなります。
理学療法士は”急がなければ心配ありません脚が絡む事も無いでしょう・・・”言ってくれました。
私はジョギングをすることも初めてでしたし、新戸塚病院の屋上も初めてでした。屋上には花壇があって一部は野菜専門になっています。屹度入院患者のメンタルクリニックも果たすよう設えられたもので、入院患者が育てているものでしょう。屋上の北側に妙なモノが立っていました。遠目にはお地蔵さんのように見えます。病院にお地蔵さんは不似合いですし縁起でもないと眉を顰める人もいる事でしょう。
私はもう1周注文してお地蔵さんの近くに寄って観ました。するとお地蔵さんに見えたのは双体の道祖神さんで上田塩見平スタイルの道祖神でした。

イメージ 4
此方が新戸塚病院の屋上に祀られている双体の道祖神手前の植木鉢は御賽銭で一杯でした。御賽銭で球根や花の種や肥料を買うのかも知れません。
イメージ 5
此方は飛鳥資料館前庭に置かれた二面石。二人に神像が抱き合う姿は道祖神のルーツかも知れません。水道施設でもある事から道教の影響が濃いように思います。
道祖神は別名が「賽の神」病気や災難が病院に遣って来ないように屋上でガードしているのです。魔除け厄病除けには道祖神が最適です。産院の屋上に水天宮さんや淡島様が祀られて居るようなものです。屋上に道祖神を祀った病院の博識に感服しました。見れば道祖神に供えられた茶碗には御賽銭が一杯でした。
屹度お百度参りしている入院患者さんがいるのでしょう。病院の天井は味気ない石膏ボードです。でも石膏ボードのその上に道祖神がいると思えば今晩も良く寝られて、明日の朝には階段を登ってお詣りする事でしょう。
三越デパートの屋上の伏見稲荷産より適地適任の道祖神さんです。
イメージ 8
3月3日雛祭りは淡島様のお祭りで魔や厄を人形に託して流す神事です。この絵はリハビリ施設マナーハウス用に描いたもので。少し誉められました.「いつまでも雛見送りて寧かれと」と添えました。
新戸塚病院を後にしてバス停留所のベンチで座っているとお婆さんが私に声をかけて来ました
”ご主人何度目の通院ですか?”思いがけない質問に私は答えまあした。
”私は初めての脳梗塞でした。でもこんなに惨めな病気だとは思いもよりませんでしたし。家族に懸ける負担も大きなモノがあります。再発は絶対させないぞと肝に銘じています”
答えるとお婆さんはこういう風に云われました
”そう再発させまいと戒めるのが普通ですよね・・・。処が宅の主人は二度目の入院なのです。一度目は6年前で朝食時に発症しました二度目は2年前で二階に上がろうとしたのに脚が上がらなくなってしまいました.新戸塚病院はリハビリは上手なんですが・・・・”何か不満も溜まっているようでした。
私はソロソロリハビリの行く先も見えてきましたからこれからは絶対に再発しない。自分自身の治癒能力の完全復活に注力すべき段階に来たようです。リハビリや運動は要領も身に浸みて来ました。問題は食生活懸念しているのは”何時まで薬を飲み続けるのか?”云った問題のようです。
自由が丘ガーデンは京菓子が並んで私を誘惑します。でも水菜と藤野のお豆腐で我慢して帰る事にしましょう。
イメージ 6
矢張り京菓子の誘惑は強烈ですが今日は我慢です。
イメージ 7
水菜に藤野のお豆腐で京に云った気分になりましょう。


応援クリックお願いします。

 


何時まで続ける?薬漬け

$
0
0
脚の方はジョギングする程に回復してきました。スピードもワイフに遅れまいとする程に普通人並になって来ましたが、多少疲れが早いように感じます。どうも爪先が硬いので、”ドスン・ドスン”と歩くのが災いしているようです。何れ理学療法士に”疲れない歩き方”を教えて貰う事にしましょう。
もう一つ脚の弱点はしゃがめない事です。お相撲さんのする蹲踞(そんきょ」の姿勢がとれないのです。左膝に力が入りません。これではお茶室の蹲踞(つくばい」を潜れません。加えて昆虫や山野草を接写する事が出来ません。そこで毎朝スクワットを始めました。食卓の端を掴んで蹲踞の姿勢を10回ほど繰り返します。
イメージ 5
今日からお相撲も春場所です琴奨菊に期待が集中しますが。何度もチャンスがある訳ではありません。病気に耐えて掴んだチャンスです。ぜひ最初のチャンスをものにしてほしいモノです。写真は相撲も剣道も弓道も蹲踞の姿勢が基本である事を示したかったからです。多分蹲踞の姿勢が丹田に重心が集まってメンタルにも気が集中するのだと思います。建築の蛙股も蹲踞の脚の形です。
春場所初日琴奨菊は曲者の高安をガブリ寄りして勝ちました。先ずは安堵です。(白鳳の蹲踞の写真と差し替えました。
左手も動く気配がしてきました。掌をグー・パー(結んで開いて)は出来ます。でもチョキ(鋏)は未だできません。
左半身の麻痺も徐々に治癒してきて、その悦びは屹度雪国の雪や氷が溶けてゆく感触に似ているものでしょう。
病気から解放されて健康に戻る感触を今回ほど感じたことはありません。腎臓癌の時も胃癌の時も。体に結ばれたチューブ(まるで鎖)を外されると当然のように健康体だと思って好き勝手し始めました。今回は健康に戻ったら再発を絶対にしないように、健康の持続に心がける事に誓っています。
ところで、私の気になっていることがあります。
それはズット薬漬けでいる事です。
リハビリの若草病院から紹介されて通院しています。脳神経科の町医者に通院しているのですが。ズット薬の種類も量も変わりません。
イメージ 1
これが既に3年飲み続けている薬。このうち筆者が苦手にしている薬は最下段のボグリボーズです。薬は毎食前に飲みます。すると胃腸でガスを発生させて結果糖分の吸収を妨げるのですが。常に膨満感をもたらし、便秘を誘発するようです、医者は私の血糖値が規制枠に収まっていることを評価してズット継続しています。私は便秘は良くないし嫌いなので何時か止めたいのですが・・・・・。この薬を使わないでも血糖値が規制枠に収まる体にしたいと思って居ます。前回からジェネリックに変わりました
私は何時か薬漬けはサヨナラしたい、でも二度と脳梗塞の再発はご免したい・・・。想っていたところ図書館で恰好な本を見つけました表題は「9割の病気は自分で治せる」で筆者は医学博士の岡本裕氏です。
本の概要は以下の通りでした。
イメージ 3
1、「健康」とはWHОの定義では「完全に肉体的にも精神的にも福祉の状態」としていますが簡潔に表現すれば”朝の目覚めが良くて体に違和感や痛みが無くて、食事が美味しく食べられて定期的に快適に排便が出来て仕事や勉強が意欲が湧いて、不自由なく活動出来て、他人に思い遣りが出来て・・・・。夜は穏やかに眠りに就ける事」と説明しておいでです。
2、ところで健康な状態で人間は安定するモノではありません。人間の体は60兆個の細胞で出来ていて毎日3000億モノ細胞が死んで産まれて大差を繰り返しているそうです。ですから約一箇月で人間の細胞は入れ替わり、特に人間の血液は20日間で全部入れ替わるのだそうです。お月様の満ち欠けは古い血液と新しい血液の入れ替えと同調して居る事になるのです。
その細胞が死んで新しく生まれる時に異常事態が生じます。癌細胞が産まれますし、死んだ細胞は早く排出しなければなりません。その代謝が上手に進まな状態が病気なのだそうです。
3、健康な状態は長続きしませんが、かといって直ぐに病気に転じる訳ではありません。
 生体には常に健康を継続するように働く自己治癒力があるのです。こんな健康のように見えても少し不安定でと言って病気でも無い状態を未病と云うのだそうです。大仙の尾根道を歩くような西に転んだら病気、東に転べば大丈夫そんな状態が未病と云うのです。
勿論人間は生物ですから生命力があって病気になるまいと働いています。癌細胞が出来ればこれを殺してしまい、体外から細菌が浸入しようとすればこれを防止します。腸内細菌やリンパ液は健康維持に働きます。
イメージ 2
は常に生死(新陳代謝)を繰り返していて人間の体細胞で出来ていて。では病気とはその逆の状態を言います。にあること
病気とは絶え間なく生まれる癌細胞を正常細胞に戻すことも殺すことも出来なくて増殖させたりウィールスや細菌の浸入を防御できずにウィールスなどが体内に蔓延してコントロールできない状態をいうのです。
そして筆者は人間には病気の9割は自己治癒力で退治し健康になる事が出来るので、人は自分の治癒力がパワフルにワークするように努めなさいと教えます。
でも”残りの1割の病気は現代の医学では自己治癒力の範疇では治せないのでお医者さんに助けて貰いなさい”教えます。糖尿病も高血圧も未病の範囲内にあって安易に血圧降下剤や血糖 降下剤に依存する事の弊害を諭します。
薬で血圧や血糖を下げてもその根本原因を治したわけでは無い対症療法で正常値にして治ったと錯誤して根本を治さないと再発しますよ。警告しておいででした。
云われてみれば昔は若い時は自己治癒力が旺盛で風邪を引いても病院に行く事はありませんでしたし。葛湯を飲めば汗をかいて翌朝はケロッと治っていました。下痢をしても梅酢を飲めば一日で正常になってしまいました。
最近は何でも病院に行く傾向にあります。

孔子は弟子の子牛に云いました。
 「吾十有五にして学に志し(志学)、三十にして立ち(而立)、四十にして惑わず(不惑)」
SMAPは40歳にして大迷走しましたが、私は不惑で勤務先の逆境に遭遇しました。未病の状態が10年も継続して腎臓癌が発症しました。撤去されたピンポン球の癌を見詰めて”こんなモノが腎臓にできて俺を苦しめたのか”思いました。コン畜生思って独立しました。でも製造した製品の品質が管理できずに苦労しました。そして未病期間10年を経て胃癌で喀血しました。二度の大病でも不整脈は指摘されこそしたのでしたが根本治療はしませんでした。この間徐々に血糖値が上昇し、糖尿と不整脈を主因にして3年前に脳梗塞を発症したのでした。私も近々に70歳(古希/杜甫の詩)です。古希について孔子は『七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。』 矩を踰えずとは自分自身のメンタルと体が調和して心身ともに健康に過ごす。自己治癒力が横溢している状態のように思えます。
イメージ 4
これが私の空腹時血糖値(基準値は70~110)のデータ。ヘモグロビンA1Cも基準値内にあります。何時まで苦手のボグリボーズを飲み続けるのか?私の疑問です。厚労省は再三基準値を変えます変える度に日本人の糖尿病患者が増えます。病院も製薬会社も病人が増える事は嬉しい事なのです。
ワイフは私に嫌味を言います。
〝あなたは折角お母様が立派な体に産んで下さったのに
、不養生したものだから大病ばかりして…、私が悪いように見えるじゃない”
ワイフの憤りは素直に認めて・・・、でも災いを幸いに変えるのが自分の生き様”考えて二度と大病に懸らないよう自己治癒力を高水準で維持するように努める覚悟です。


応援クリックお願いします。

 


運慶の遺風(三浦満願寺)

$
0
0
三浦佐原の満願寺さんから葉書が届きました、春蘭に「春光日々新」と添えられていました。満願寺の住職は文化人で昨年もお葉書が届き、東京大学名誉教授養老孟司さんのお話も伺えたようでした。でも私はリハビリ途上出かけられませんでした。
今年はワイフが積極的でインターネットで脚の弁を確認していました。私は先月奥三河の瀧山寺で運慶仏を拝観したので、久々に満願寺に登りたいと思って居ましたので、一緒に出掛けました。
イメージ 8
三浦万願寺から送られてきた「春の文化祭」の案内はがき春蘭が爽やかです。
地下鉄で上大岡に、上大岡で京急京急の北久里浜でバスに乗り換えれて、岩戸停留所で降りれば満願寺はすぐ近くです。道路には満願寺の案内看板が立てられていました。

今日は満願寺の仏像を私なりに案内させていただきます。
寺伝では、満願寺の仏像は運慶作と言い伝えられています。でも、一般には慶派の作と云う事で、運慶の弟子(子孫も含めて)と云われています。私の様な素人目にも運慶の作にしては写実力や力強さ迫力に欠けると感じています。運慶の弟子の作とすれば、誰が適当だろうか?私の憶測が広がって行きます。憶測は自由です、小説は史実と骨格に憶測で血肉を付けて動かします。
主人公は運慶の三男の康弁です。康弁は興福寺北円堂の広目天を彫った人物として名を残していますが、長兄次兄は湛慶/持国天、康運/増長天を彫りました。二人の兄は夫々父の一字を貰っているにも拘らず三男の康弁だけが父運慶の字をもらっていない気の毒な仏師なのです。私も同じ三男ですので共感もあります。
頼朝の命令で東大寺が再建されると、運慶は焼失した仏像を収めます。次いで頼朝は鎌倉の谷戸に阿弥陀堂(永福寺)を建立することを決めました。目的は弟の義経の冥福を祈願し。義経の霊が怨霊にならず和霊になって鎌倉の守護神になるように祀り上げる事でした。
阿弥陀堂の落慶供養式典建久3年(1192年)11月25日に康弁は2人の兄と共に列席しました。
永福寺阿弥陀堂の第二層に阿弥陀仏等を収めるのが運慶一門に課された仕事でした。
主尊の阿弥陀如来は父の運慶が、その脇侍の観音菩薩は長兄の湛慶が勢至菩薩は次兄の康運に任されました。そして康弁は長兄の湛慶の補佐をするように命じられたのでした。
先ず運慶が筆を取り阿弥陀三尊の全景を紙に描いて示しました。そして主尊の阿弥陀如来坐像を詳しく描きました。息子たちは阿弥陀如来の脇侍仏をどのように作るのか、夫々にイメージさせました。
イメージ 1
これは葉山淨楽寺の阿弥陀三尊像、運慶作と云われていますが藤原風の優美さもうかがわせています。二階堂永福寺の阿弥陀三尊もこんな風であったと推測されます。でも、サイズはこの倍の丈六でした。
イメージ 2
鎌倉光明寺の阿弥陀堂も二階建てで上層に阿弥陀三尊が祀られています。前池手記主庭園(は睡蓮池で全体として阿弥陀浄土を模しています。写真は観連会のものです。
運慶親子はこれから2年間の間鎌倉に住い永福寺に収める仏像を製作する事になったのでした。
仏所(仏像を彫る作業所)は西御門に用意されました。八幡宮の東で頼朝の居宅にも政所にも近い処でしたから。全国から集まってくる御家人が仏所を覘いて行きました。
三浦の和田義盛も下野の足利 義兼(あしかが よしかね/鑁阿寺を建立した)もそんな見物人の中に居ました。
御家人達は運慶の鑿の冴えに眼を見張りました。巨木の丸太の面を切りだし、蚤の刃先が木端を弾き飛ばすと見る見る仏が姿を現しました。まるで巨材の中に仏が潜んでいて運慶の鑿は仏を隠していた汚れを剥がすような勢いでした。その姿に自分達の理想像を観る想いがしていました。
和田も足利も元々は平家や藤原氏の子孫でしたから仏像と云えば慈悲深くて優美なモノと思って居ました。
ところが時代の荒波は激しく力の無いモノは攻め滅ぼされ、愚鈍なモノは財を略奪されてしまいます。時代の荒波は自らの力で切り拓かなくてはならないと思って居ました、御家人は出来れば運慶の鑿のように生きたいものだ思って居たのでした。
御家人たちは競って自分の国にも運慶仏が欲しいものだ想い出していました。
運慶の西御門仏所はまるで定朝の京都7条仏所のような役割を果たしました。
7条仏所は藤原道長が土御門に法界寺を建立しその阿弥陀如来を定朝が彫った事で盛んになった仏像工場でした。全国の国司が都に登る度毎に時の権力者藤原道長のご機嫌伺いに参上すると決まって道長が愛でた定朝の阿弥陀仏を拝して行くのでした。そして自分もあんなに優雅で美しい阿弥陀仏が欲しいものだ、と思いました。そんな次第で定朝の阿弥陀仏が全国に広がったように、運慶の力感溢れる仏像は全国に特に東国に広まろうとしていたのでした。東国の御家人の間に運慶を憧れる気運が次第に強くなっていました。
イメージ 3
此方は葉山淨楽寺の毘沙門天像運慶作。御家人達は、永福寺の阿弥陀三尊よりも主尊を守る諸仏諸天の力強い姿に心を奪われたモノと思います。写真は(鎌倉御仏巡礼」をスキャンしました。

康弁は阿弥陀三尊のうちの一体も自身に担せて貰えなかったのは自分の力量が無いからだとは思いませんでした。唯、父の運慶が兄達を依怙贔屓しているからだと邪推していました。
実はそれは康弁の僻みで。父の運慶は4人の兄弟夫々の技量も精神力も見極めていたのでした。
康弁は力強い仏像は彫れるし写実の技量もあるが、未だメンタルが若いので肝心の仏の慈悲を表現できないと思って居ました。その為に怖い四天王や力強い仁王像は任せられても知恵や慈悲の深みを表現する事が求められる観音菩薩像は任せられなかったのでした。そこで最初から息子4人には弥勒如来を守護する四天王像は任せたいと考えていました。康弁には広目天を任せる積りでいました。広目天は御家人に最も人気がある上に力感だけでは彫れない悲しみの表情も表現しなくてはならない難しい像だと思って居たからでした。頼朝が弟を殺さなければ幕府を維持できないと判断した悲しみを表現するのは広目天を置いて他にはないと思って居ましたから・・・・、東大寺の戒壇院の広目天に比肩されるほどの憂愁を秘めた広目天を康弁に彫って欲しいと思って居たのでした。運慶は康弁の彫る広目天を毎日見詰めましたが”康弁は未だ若い”と思うばかりでした。親の期待の大きさは未だ子供には解らなかったのでした。
ようやく永福寺の諸仏が完成する頃御家人たちは夫々に運慶親子に声を掛けました
”永福寺の仏には感銘しました是非私の領国にお越しください、そしてあのような尊く力強い仏像を供えてください”
足利 義兼は運慶の招致に成功しました。そこで鑁阿寺に大日如来が収まりました。北条時政は既に願成就院(韮山)に阿弥陀三尊初め諸仏を収めて貰っていました。
もう一つの名門御家人三浦市一族は和田義盛が葉山の淨楽寺に運慶を招きました。三浦一族の佐原十郎義連(よしつら)は康弁を故郷(岩戸山)に呼んで満願寺に仏像(阿弥陀如来)を収めて貰いました。一族の和田の淨楽寺の倍の大きい阿弥陀三尊が完成しました。材木は神武寺山林の檜を使いました。康弁の仏像は運慶の見た目の通りで親の贔屓目で見ても未熟でありました。
イメージ 4
これが万願寺の観音菩薩像淨楽寺の倍の大きさですから万願寺の本尊は丈六であったと思われますこの写真は万願寺の案内板を写したモノですが次のブログに良い写真が出ています。http://members.jcom.home.ne.jp/3352528001/manganji%20yuisho.htm衣文も含めて運慶像に比べれば勢いが無く鈍い感じがするので寺伝では運慶作となっていますが慶派作品と云う事で通っているようです(重要文化財)金箔も剥落して下地の漆も禿げて木粉と檜の白地が表面に出ています。今年案内板が刷新されたので良く解りました。

イメージ 5
此方は万願寺の地蔵菩薩像全体を観ると逞しさと優雅さが混ざった大きな像ですが運慶の迫力に乏しいと感じます。

イメージ 6
万願寺宝物館で住職の説法が行われていました大変な混雑でしたし。座れないので拝観して帰りました。

康弁は運慶と共に鎌倉から興福寺仏所に帰ります。
鎌倉の御家人達に囲まれて楽しかった思い出で満たされていました。
奈良に戻れば京都仏師(院派とか円派と呼ばれる)と競わなくてはなりませんし、種々雑音も入ります奈良が近づくにつれて気が重くなるのでした。
東大寺の仕事は良いから今度はホームグランド興福寺の仕事です。
興福寺で北円堂を修復するので其処に諸仏を収めろ、と云った命令で戻るのでした。
康弁もその兄弟も鎌倉で逞しくなっていました。でも、親爺の運慶は相応に歳を取ってしまいました。眼尻の皴も目立ちます。18歳で円成寺の大日如来を彫った青年の面影は既になく。北円堂の仕事を成し遂げられるか少し心配です。
運慶は北円堂の諸仏を全身全霊を込めて刻みました。
主尊は弥勒如来ですが、初めて彫った仏(円成寺大日如来の体内に自身の名前を書いた紙片を収めた運慶でしたから、北円堂収める仏像は自身のライフワークになると云った予感がありました。
傍には成長した息子達が四天王像を彫っています。
兎角心配の種だった康弁は永福寺や満願寺では未だ未熟であると思いましたが、北円堂の広目天では違っていました。屹度戒壇院の広目天を見詰めたのでしょう。
怒りで手足の筋肉は震えていても、その眼差しや額には悲しみが満ちていました。仏の慈悲を憂愁に表現できたとは・・・、鎌倉で康弁はもう技量も性神も成長していたのです。
不肖と感じられて来た4人の息子達も大仏師になれる人物になって来ました。これで、興福寺仏所の将来も安心です。京都の新興の仏所に後れを取る心配は無医でしょう。
何かと心配だった三男の康弁喪広目天の憂愁を見事に表現しているのでした。
興福寺仏所を再興し東大寺や興福寺の再興に尽くした一生は満足でした。これも仏の慈悲のお陰であると感謝しました。其処で仏の慈悲に感謝する気持ちを無着世親像に表現しようと思いました。それは結果的には自分自身に似てしまったので後世の私達は無着世親像を運慶の自刻像と思って居るのです。
康弁は父の彫る無着世親像を観ながら想いました。父は自分を写そうとしている・・・・。自分を写し終えたら父は死ぬ積りかも知れない。
父は島津(鹿児島)の御家人から呼ばれていました。戦の予感がするので運慶の力強い仏が欲しいのだ・・・それが島津の要求でした。日本を外敵から守る為戦う島津の注文は無視できません。運慶は旅先で死ぬことを覚悟で旅立つのでした。康弁は父の後ろ姿を見送りました。生駒山を越えて難波の海から船に乗れば島津は近いのでした。
それが、康弁が最後に見た父の後ろ姿でした。

北円堂に無着世親像があるので、何時でも父に会う事が出来ます。そして父に会えば”康弁よ!兄弟力を併せて仏の教えを弘めているか・・・・?”父運慶は尋ねるのでした。
イメージ 7
これが興福寺北円堂主尊はあ、弥勒如来で4人の息子達は手分けして四天王像を彫りあげました。運慶は4人の仏師の仕事に満足し、仏の慈悲と感謝しました。其処で弥勒如来の台座に自分自身以下4人の息子と仏師の名前を書いて収めました。最後に仏の慈悲を体現する仏像として無着像世親像を彫りあげ弥勒如来の少し後ろに置きました。無着世親は法相宗の開祖で兄弟仲が良かったのでした。4人の子供達に力を併せて興福寺と興福寺仏所を守れと諭したのでしょう。
イメージ 9
これは興福寺北円堂の無着像。この表情は運慶が不肖の倅康弁を見る眼差しだと思うのです。運慶は死を予感して、4人の息子達に仏像のお手本として父の肖像としてこの像を彫ったのでしょう。世親と二体揃っているのは兄弟仲良くして欲しい…思ったからでしょう。

応援クリックお願いします。

 


満願寺の春蘭

$
0
0
昨日は三浦佐原の満願寺を詣で慶派の仏像を拝観した事を書きました。今日は同寺で開催されていた春蘭について紹介します。先ずは満願寺の招待状をもう一度ご覧下さい。
イメージ 1
これが満願寺の正体葉書で檀家の方々が育てられた春蘭を展示しています。”もうじき春、陽射しに日々新たな気持ちになりますね満願寺に遊びにいらっしゃいけんちん汁を作っておきますよ”そんなメッセージが真っ白い花弁に託されているようです。

葉書にある白い花が春蘭です。一見すると三菱グループの三つ柏(博多の宗像神社の神紋)のようにも見えます。
蘭と云えばシンピジュームやカトレアや胡蝶蘭等西洋蘭が豪華絢爛と咲いています。
元々西洋蘭はイギリスがシンガポールを植民地化して熱帯雨林に自生していた蘭を本国に持ち帰って栽培したのが始まりです。西洋蘭と云うのは間違いで正しくはアジア蘭なんです。シンガポールは蘭と併せて天然ゴムのプランテーションを成功させ現在も農産物が重要な産業になっています。私達が豪華絢爛に咲き誇る西洋蘭が身近になってきたのはシンガポールからの輸入が容易になったからです。兎角派手な西洋蘭に眼を奪われてしまうのは間違いで”日本には昔から地味ではあっても香りが強い冬の寒さにも負けない日本蘭がありますよ”主張しているのが春蘭です。春蘭は花弁が白いか緑が被さっているので目立ちません。田舎の少女が化粧もせずスッピンで野良着で居るようなものです。
イメージ 6
これが満願寺春の文化祭のレジュメです。春蘭の展示会だけだったものが随分活動の幅が膨らんだものです。
源氏物語には田舎生まれ田舎育ちの少女を源氏が見つけて可愛がると大変な美人に成長した・・・・・。そんな話で溢れています。明石の御方も玉蔓も空蝉も夕顔も田舎の娘でした。伊勢物語も源氏物語も日本人は氏・素性よりも育ちを大切にして育ちも良いよりはえてして悪い(田舎育ち)の方が勝っていて。殿方は素性は悪く田舎育ちでも磨けば輝く女性を探す事に熱心だったようです。
イメージ 7
これが満願寺の本堂で文化祭の主会場になっています。左奥竹林の中で野点ののサービスが行われ手前の芝生でけんちん汁(満願寺は建長寺の末寺ですから正統のお味です)本堂の右に庫裏があってその右に宝物館が在って昨日書いた慶派の仏様が収まっておいでです。
中世になると、親鸞も一遍も妻帯します。その奥さんが人物で親鸞の輝きも恵信尼あってこそです。
一遍聖絵(国宝)には一遍の後に着いて来る同行(どうぎょう)の4人、超一(ちょういち)、超二(ちょうに)、念仏房(下女)が描かれていて、わざわざ絵に註書きして在ります。
多分説法にさいして聖絵を開いてまるで紙芝居をするように
一遍上人が先頭を歩きました。奥様の超一は商人の井すぐ後ろ娘の超二はその後ろに下女の念仏坊はお尻を歩きました・・・・”
イメージ 2
一遍聖絵は一遍上人とその家族が何時も一緒に描かれています。
『田舎に、田園に美在り』の発想は近世になっても引き継がれました。
江戸の長屋では人々は野山に出て春蘭や桜草を探して盆栽仕立てにして栽培しました。
そして、春になれば熊さん八さんが自慢し合ったのでした。長屋の僅かな隙間で盆栽仕立てにして栽培して、春になれば大家さんの処で品評会を催しました。大家さんもこの日は新酒を用意して借家人を招き入れたのでした。
イメージ 3
これが本堂で開催されている春蘭の展示会場約200鉢もあったでしょうか10前に比べればますます盛んです。)加えて今年は書や茶道具が展示されていました。右が入口左が須弥壇です。色の濃いのが中国蘭、白いのが日本蘭です。器と蘭のバランスそして蘭のネーミングの妙が楽しみです。
中国蘭も入って来ました。中国人は本来牡丹や芍薬など派手な花が好きだったのでしたが雲南の蘭が広がって、文人たちの栽培が盛んになっていたのでしょう。水墨画や南画に東洋蘭は盛んに描かれました。
満願寺のお檀家には蘭が好きな人が多かったようです。もう20年以上前から本堂を会場にして蘭展を開催しているのです。年々文化活動は範囲を広げているようで今年は作陶や茶道具の展示も為されていました。書道も盛んになってきたようで、須弥壇を幕で閉ざして金沢祥子さんの書が懸けられていました。ご本尊の聖観音様は幕の隙間から”今日は何だろう?賑やかだな!”覘いておいでのようです。
イメージ 4
春蘭の置かれたテーブルには棗(抹茶を入れる容器)が展示されていました。
イメージ 5
春蘭を展示した卓には箸や茶杓(右端)や楊枝や孫の手(左端)も展示され、満願寺のメセナ活動は一層盛んになっていると実感しました。

イメージ 8
これは金澤翔子さんの書小蘭と云うのは翔子さんの号です。翔子と小蘭は語感が似ています。病気(ダウン症)にも絶対にくじけないそんな生き様が春蘭に似ているのかもしれません。

お檀家の方々が精を出して展示して案内しておいでですお接待の精神に満ちています。けんちん汁の接待もあります。まるで高齢者の行う文化祭のようです。皆さん高校生や大学生時代に若返って楽しそうです。近年お寺でジャズや落語会が催されて現代人の寺離れを躍起になって押し留めている姿があります。それが無意味とは思いませんが。伝統に根ざしてきた仏教です。飛んだり跳ねたりするのも露出したいことも否定はしませんが”後ろを見て現在を見て将来を見詰める姿勢を大事にしてほしいモノですb。キリスト教もイスラム教も一神教ですが。仏教だけが過去現在未来の三時代夫々に仏を用意しているのです。
満願寺は源氏の天下を祝って出来たお寺ですが。現代の主役は平凡な市井の人です。平凡な市民の満願を祝う寺であることを確信した文化祭でした。
イメージ 9
さりげなく吊るされた軸は住職の作でしょうか?


応援クリックお願いします。

 

鶴岡八幡宮の桜の悲しみ

$
0
0
京の都は奈良の平城京をコピーして作りました。中心は王城である内裏(御所)です。内裏を中核に南北に朱雀通りその東西都大路を通し東西には一条から9条までの大通りを作りました。一番小さい碁盤は縦横9本の線を引いた9路盤(きゅうろばん)ですから、碁は都の陣取り遊びだったのでしょう。9路盤では淡白なので19本の線を縦横に引いたのでしょう。現に碁盤の線の事を縦「南北)を筋(すじ」横(東西)道(通)と呼んでいます。
頼朝は鎌倉幕府を造営するに際して当然のように平安京を模しました。”此処は武士の造る都である”と天下に示し。全国に散っている武士の求心力を高めようとしたのでしょう。
イメージ 1
大改修工事着手前の壇葛にの鳥居小野田セメントの狛犬も傷んでいました
武士の精神的な支柱は八幡大菩薩でした。それは平城京の末期和気清麻呂が宇佐八幡宮に詣で神意を確かめた結果道鏡を排した事でも神意は天皇であり八幡大菩薩のそれであると思って居たのでした。
其処で平安京の八幡宮(石清水八幡宮)を鎌倉に勧請して。武士の都の中核に置きました。
頼朝の御所は八幡宮の裏に置いて武士の忠誠を確認したのでした。
そんな次第で鎌倉市民は鶴岡八幡宮を中心に据えています。
イメージ 2
京の条理制は内裏を中核に出来ています。鎌倉で内裏の位置にあるのは八幡大菩薩のお住い八幡宮でした。図の出典ウィキペディア

八幡宮の裏山の開発計画が持ち上がった時には市民こぞって反対しましたお蔭で八幡宮の朱色の本殿は緑に映えています。若し市民が猛反対しなければ今頃は八幡宮はマンションに見下ろされていることでしょう。
そんな鎌倉市民が誇りの八幡宮が少し変だぞ”思わせた事件が大銀杏の倒壊事件でした。

イメージ 3
これは大風と氷で倒れてしまった樹齢千年を超すと云われた大銀杏の無残な姿。御神木に注連縄を懸けても髄が腐っていることに気付きませんでした。この時の憤りは次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43003015.html
2011年3月10日の夜した。南岸低気圧が通過して夜半から雨は霙に変わっていました。
大銀杏の枝は氷結して重くなっていました。大銀杏は重くなった枝を必死に支えていたのでしたが、ドンドン氷結が量って重量が増してきていました。裏山越しに吹きすさぶ北風もあって大銀杏は根元から折れてしまったのでした。翌朝八幡宮の前庭には無残に折れた、1000年の遺骸が転がっていました。
私達は遺骸を見詰めてこれは八幡様の啓示かも知れない直感したのでした。
次に八幡宮が市民の感覚とズレている想わせたのが県立近代美術館の撤去を決めた事でした。同美術館は坂倉準三氏が設計したアールデコの建築で当然のように保存運動が持ち上がりました。
八幡宮の境内には東に正倉院を模した国宝館があります。此方が伝統の文化を展示保存します。そして、西には近代美術館があります。此方は昭和モダニズムを代表する建物で市民の誇りです。八幡宮が近代美術館の土地の貸借を更新しないと発表すると、市民から存続の誓願が出されました。神奈川県も頭が痛い問題です。大船フラワーセンターの中にでも現建物を解体移転するのでしょうか?葉山の近代美術館は何時もガラガラのようですのに・・・・。これ以上お金を掛けられないでしょう。

イメージ 4
これが鎌倉市民自慢の県立近代美術館です平家池に面して池の面に出来る漣が建物に映えて綺麗です。この欄干蓮の花がもう眺められないと思うと残念至極です。

唯一つ感服したのは大銀杏は舞殿を避けて倒れた事実でした。舞殿の上に倒れたら被害は甚大だったことでしょう。
静御前の故事を伝える舞殿鶴岡八幡宮舞殿は2006年に竹中工務店によって再建されたばかりでした。
古い建物でしたから耐震建築に建て替える必要があったのでした。舞殿を竣工した結果八幡宮は結婚式等で賑わう様になりました。
イメージ 5
新築された舞殿で色々な祭事神事が催され結婚式を本殿で行い舞殿でご被露するようになりました。

そして八幡宮は若宮大路の専用歩道である段葛の全面改修を発表しました。八幡宮からすれば段葛は参道でありますが、鎌倉市民からすれば緑道のような生活道路です。若宮大路の東側の住民は段葛を横切って鎌倉駅に出かけ買い物にも出かけます。それなのに段葛を横断しにくくなるのは不便です。とりわけ若宮大路東側の商店はお客さんが激減してしまう事が眼に見えています。
そこで壇葛の改修工事計画に反対を表明しました。
八幡宮の言い分は次の通りでした。
1、若宮大路は県道であるものの壇葛は八幡宮の私道であるから参道として整備し直す権利は八幡宮にある。
2、勿論公益に資する道である事から国や自治体の補助は上限迄出して欲しい。
3、この機会に1918年(大正7年)に壇蔓の大改修工事植えた桜の傷みも激しいので伐採して若木に植え替える。
市民の抗議は主として次の二点でした。
1、段葛を横断できる箇所を増やして欲しい
2、老桜を危険だからと言って伐採するのは間違いである
八幡宮は市民の声に対して八幡宮は次のように応じました。
1、現在壇葛を横断出来る箇所は12あるが8か所は確保します。
2、1918年(大正7年)に植えた桜(当初300本残存248本)を個々に診断した結果248本のうち比較的状態が安定している20本は境内の源平池のほとりに移す他の230本再生不可能として伐採し植え替えることにする。
壇葛自体は桜の生育に良いように雨を吸い込むようにする。自動車道は依然としてアスファルトであります。
イメージ 6
壇葛の遮蔽版は半分ほど撤去されて新たに植え替えられた若木とピッカピッカの石灯篭が姿を見せました。撮影は雪の下教会の前「バス停若宮大路から北を見る。段葛をクロスする道が無いので北上しましたが。8か所もあるとは思えませんでした。でもバリアフリーになっていました。

現在の八幡宮は𠮷 田茂穗宮司が中核です同宮司の対応は次に詳しいです。http://blog.livedoor.jp/kikurotakagi/archives/4865206.html。市長は選挙で選ばれます。宮司はせめて鎌倉産まれ鎌倉育ちの人を選んでもらいたいものです。神社本庁に指名権があるのは明治憲法の遺風で、明らかに違憲状態だと確信します。

鎌倉市民は八幡宮や鎌倉市を信任して事態を見守る事にしました。
そんなことも在って私は段葛の工事の進捗状況を確認に出かけました。
工事は舞殿を全面新築した竹中工務店の子会社竹中土木が施工しました。
同社はバブル時代に東戸塚の山林を抱えて四苦八苦していたお荷物だったのが、今では噓のようで本来の仕事に励んでいました。
イメージ 7
作業中の壇葛。中央はアンツーカーのように歩き易いようです。昔は砂利と泥でしたから雨が降るとぬかるんでしまいました。事前の計画では地下は土で表面は吸水しようですので桜は根が張れる事になっている筈です。玉石で囲んだ土塁の上に桜の若木が植えられ。その根元は球龍(龍の髭)が整然と植えられています。事前の計画では昔は躑躅を植えられ在ったのでしたが、根元を塞ぐのは良くないとの事で何も植えられていませんでした。何れ菜の花や諸葛菜(青色大根)でも植えられるのでしょう。遠くに見えるのは二の鳥居です。
3年モノ長い遮蔽版で覆われて見えませんでしたがようやくその大半が撤去されて若木が並んでいます。
新品の石灯篭がまるでプラスチックかコンクリート型製かと思う程にチャチな出来栄えです。世界遺産を標榜するにしてはまるでテーマパークのような安易さです。
イメージ 8
壇葛の東側にある老舗蕎麦屋茶店の「こすず」。今回の壇葛の工事が大打撃になる事でしょう。
鎌倉も京都も伝統の中に進取(革新)の精神が横溢している処が共通しています。
壇葛は伝統の良さをアピールしてほしい舞台です。少なからず落胆して改修されつつある段葛を眺めて来ました。それでも。桜が咲いて石灯籠に苔でも生えれば落ち着いて眺められる事でしょう。
イメージ 9
ピッカピッカの石灯籠。白い御影石製でしょうか?それともホワイトセメントの型押しでしょうか?テーマパークの石灯籠のようで灯が入っても情緒薄そうです。


応援クリックお願いします。

 


小町通りでつまみ食いの楽しみ

$
0
0
段葛の大改修工事を確認して、私は小町通りに入りました。
何故この通りを『小町通り』と呼ぶのか不思議に思って居ます。
此処の住居表示は『鎌倉市雪ノ下』ですから、町の名を採るとすれば『雪の下通り』が正解です。
小町通』は中世には「小町大路」と呼ばれ、若宮大路の東側に南北に走っていた筋なのでした。若宮大路と小町大路の間は有力御家人が軒を連ねていました。若宮大路の西側の筋は「今大路」と呼ばれ、現在の『御成り通』になります。小町大路に沿って、夷堂橋以北を小町(金沢街道の「筋替橋」までの間)とし、以南を大町と呼称していました。ですからこの筋が中世の小町大路ですから小町通りと云えばこの小町大路を想うのが普通です。小町大路の本覚寺の南三浦街道(名越道)との辻に市場が出来て何時も賑わっていました。現在の辻薬師の辺りです。此処には日蓮上人の辻説法跡がありますので鎌倉市民は「辻説法通り」と呼んでいます。
イメージ 1
中世の鎌倉の条里(蘇る中世/平凡社)の図録に筆者が書き加えました。小町の名は現在の宝戒寺から辻説法辺りまでの名でした。

小町市場のある賑やかな通り可愛い娘が買い物に来る通りと云った意味で小町通りの響きがあったので、何時の間にか鎌倉駅から真っ直ぐ八幡様に通じる賑やかな道が「小町通り」と呼び習われるようになったのでしょう。
イメージ 2
賑いの小町通り。横須賀線鎌倉駅が開いて人の流れが鎌倉駅八幡宮に集中するとこの若宮大路の西筋が人混みになりました。この細道に茶店が集中し、近在の娘さんが働きに来たことから小町通りと呼ばれるようになったのでしょう。私が学生だった60年代は晴れ着に白いショールを肩にしたお嬢さんで溢れていましたが、今はそんな時を懐かしむ人が集っています。
原宿駅から明治神宮の表参道に並行して青山通りまで続く通りが「竹下通り」です。原宿駅から竹下町に続く道の意味しょうがこの細い通りに若者が集まってサブカルチャー通りの表情を呈しました。
特に80年代は奇抜な格好を下若者が路上を占拠して踊り狂いました。彼等を「竹下通りの子供達の意味で「竹の子族」と呼びました若しも彼等が可愛ければ「原宿小町」と呼ばれ、通りも「小町通り」になったのでしょう。
鎌倉の小町通りに来ると何故かワクワクします。昭和の匂いが残っているからでしょうか縁のあるお店が軒を連ねているからでしょうか?
良く解りませんが浅草の仲見世や竹下通りの勝組が進出して地元の老舗が迎え討っている様が面白いのかも知れません。戸塚で云えば戸塚の旧家猪熊家が出したイタリアンレストランが善戦しているようですし、私の住む上倉田の酪農農家(小野ファーム)が始めた横浜アイス工房が小町通りで「鎌倉アイス工房」の名で進出なのです。此処はアイスクリームの激戦地です。大仏前でオバマ大統領も立ち寄った「いも吉館」を筆頭にベルギージェラートの「ジェラテリア イル・ブリガンテ」もあります。台湾スイーツの茶房雲母」もあります。
イメージ 3
戸塚倉田村の小野牧場さんは明治学院大学の近くに横浜アイス工房を開店して成功を収めると今年は小町通りに面した一角に「鎌倉アイス工房」をオープンしました。おらが村の小野さんの成功を期待します。

どのお店も中高生が歩きながら舐めています。此処で勝ち組に入れれば”小野ファームも一流”の栄誉をゲットできるでしょう。
イメージ 4
此処は「こもれび緑陰さんのお屋敷を開発して作られたモールの角にある豆屋さん豆好きが集まって何時も大賑わいです。向かいにあるレストランは流行りの猫カフェならぬ猫レスに改装して成功のようです。
イメージ 5
豆屋さんの角から小町通りの南を見ればお隣が聖ミカエル教会ですし裏には鏑木清方記念美術館があります。
人混みは人間の造るカオスで、流行も伝統もカオスの中から発行するモノと思います。作家もこの雑踏の中でアイディアを得る事でしょう。
もう一つの楽しみは駄菓子屋です。煎餅屋に豆屋さん昔懐かしいカルメ焼きも数多く進出していて何処のお店も遠慮なく試食できます。まるでデパ地下状態です。一寸お摘みして気に入ったら買えばよいのです。
お豆も昔はピーナッツや大豆を香ばしく焼いただけでしたが、昨今はピーナッツや大豆を核にして周囲に粉を巻いて揚げています。味付けがタコ焼き風であったり黍団子風であったり、タコスふうであったり、キムチ味であったりグローバルなのです。日本人おあくなき味への欲求がポテトチップス以上に発展しているのです。
イメージ 6
豆屋さんの店先。試食可能になっています。チョイチョイト試食して一番おいしいお豆を買います。このお豆のように気軽に試食してお嫁さんを選べれば・・・・思うのは男の身勝手なのでしょう。何時までも試食を繰り返しているとワイフの額から角が生えて来そうです。

イメージ 7
流行は豆を粉で包んで揚げた駄菓子ですが伝統的な御豆そのものを香ばしく焼いたモノも揃っています。
そしてお煎餅です。若い人も焼き立て煎餅の香ばしさが解るのでしょう。決して安くは無い煎餅を買ってバリバリ美味しそうに食べながら歩いています。私の様な年寄りはもっぱら遠慮気味に「濡れせんべい」を求めて食べ歩きします。
イメージ 8
アイスにお豆にもう一つのトレンドは煎餅です。此処は鎌倉壱番屋の店先です。このお店は私の好きな山形から出て頑張っているんです。煎餅と云えば新潟の印象があるんですが一枚一枚焼いて醤油の香りが活きているのは山形煎餅です。鶴岡や酒田に行かなくても小町通りで山形が味わえるのは嬉しい事です。勿論私は濡れせんべい(形の悪い煎餅は1袋150円のお安さです。
イメージ 9
お爺ちゃんもお孫さんも好きなのはお煎餅ですカルメ焼き(右端)の美味しさなら3代を魅了する事でしょう
そしてもう一つ激戦は漬物屋さんです。漬物と云えば京都で、錦市場通りで漬物が食べたくなります。小町通りでは京都の漬物は「味蔵」で味わえます。京漬物は「近為」もあります。糠漬けの「樽の味」もあります。
二の鳥居前まで足を延ばせば地元の「鎌倉あきもと」も賑わっています。どのお店も漬物を賽の目に切って楊枝で刺して味見できるようにしてくれています。
イメージ 10
お豆煎餅を試食して締めは漬物です「鎌倉味くら」は京漬物のお店です。京漬物は近為さんも出店しています。右側の小路を行くと若宮大路にぶつかります。その角に鎌倉漬物の秋本が出店しています。全国ブランドと地域ブランドが競っている処が良いんです。
イメージ 11
「味くら」では写真の様にししょくをさせてくれます。楊枝一本を持って次々に試食して一番の好みをチョイスし出来ます。この列は京漬物が店先で奥に行くと高山の赤蕪漬けが試食できました。
イメージ 12
この茄子の浅漬けは秋本の看板でもあります。京漬物の「味くですが、郷に入れば郷に従えの意味でしょうか、ほとんどの漬物が揃っています。
意地汚い私は楊枝一本を使いまわしてアレコレ味を確かめられます。
全国の勝組みがまるでデパ地下のように並んだモールですが勿論地元の名店が攻められるだけではありません。豊島屋さんを筆頭に日陰茶屋さんなどは勢いがあります。このモールで全国ブランドに勝てれば日本橋や銀座に出ても大丈夫なのでしょう。
私は日影茶屋さんにエールを送るつもりでその少し高い框を跨ぎました。吊るし雛に桜をテーマにしたバームクーヘンが並んでいてお菓子は文化産業だと痛感しました。眺めていると色留袖の鎌倉夫人が入って来られました。
イメージ 13
日影茶屋の桜ばうむ、和洋の良い所を折衷しようとする姿勢は西の種屋さんのような事業展開です。試食サービスが無いのが残念です。
イメージ 14
日影茶屋で吊るし鄙を見ていたら表通りをお嬢さんの生脚が闊歩してゆきました。お嬢さんのおみ足に春を痛感しました。
イメージ 15
流石に日影茶屋は地元の名店で鎌倉夫人も御贔屓のようです。
イメージ 16
小町通りのモールを楽しんだらこんなお店で休みたいものです。但し血糖値が十分下がったらの事ですが・・・・。

応援クリックお願いします。

 


恵比須ビールのポスター

$
0
0
三浦佐原の満願寺を詣で、慶派仏を拝んで春蘭を鑑賞しました。けんちん汁のお接待を受けたもののお腹も空いて来ました。昔来た時には参道に石窯パンのお店があったので其処で食べようとしたのでしたが。もうお店は閉店して工場に特化したとの事、屹度三浦も住宅が増えたので街中に販売店を建てたか、レストランに納めているのでしょう。満願寺の参道に出店して事業の夢が満願したのでしょう。食べ損ねてしまいましたが満願でおめでたい事です。
国道に華屋与兵衛がありました。其処でランチとも思ったのですが。
どうせ寿司屋に入るのなら”海を見ながら食べたいものだ”思い直して。バスに乗って野比まで出かけました。野比駅まで出れば三崎口は眼の先です。海は見えるし未だ名物の河津桜が咲き残っているかもしれません。
処が河津桜はもうとっくに散ってしまっていますし。期待の寿司屋はありません。記憶に残っているのは「焼きカレーの店です。でも野比駅から歩くのでは距離がありすぎです。仕方なしに野比駅周辺を海に向いて歩く事にしました。野比駅前の道は変わっていて『尻擦り坂』と呼びます。坂が急なので第八車の尻を擦ってしまったのでしょう。
大八車に何が載っていたのかは解りません。
イメージ 1
京急野比駅の東は野比海岸です。見晴らしが良いのとカーブでこの交差点は交通事故が多発するのでしょう。横断歩道にお地蔵さんが注意を促していました。海の向こうは房総半島の鋸山です。
京急野比駅の駅裏に妙な名前の飯屋がありました。幟旗が立っています。うす汚いガラス戸越しに中を覘くとサラリーマンがカウンターに座ってランチ中です
イメージ 2
今日のランチの予定は当初は寿司屋だったのですが”豚飯花/ぶためしはな”に変更しました。メニューは看板通りの豚肉を使ったランチだけでした。
お店は常連客でソコソコ賑わっていました。店主は”先ず食券を買え”と促します。ワイフが食券の自動販売機の前で迷っていると”今の時間はランチ定食がお勧めです”と命令口調です。
カウンターに腰掛けた私達に背を向けたまま言います。
”バラは油が濃いのでロースだけにしておきます”
どうもランチ定食は豚肉の生姜焼きでバラやロースをミックスしてあるようですが、私の脳梗塞を看破してロースだけにしたようです。野比海岸には海軍病院が在りました。現在はアルコール中毒症の専門病院になっていますが病院や老健施設が多いのです。店主の気遣いは地域密着の成果なのでしょう。
「家に戻ったら息子に”」忍辱臭い”って言われそうだね」話しながら久々の生姜焼きを戴きました。
イメージ 3
これが豚飯花のランチ定食680円です。キャベツの千切の上にショウガ焼きされた薄肉が4枚乗っていてスープが付いていました。
壁にポスターが貼られています。
カメラを向けながら店主に伺うと、開店に際してサッポロビールが遣って来てポスターをプレゼントして帰ったのだそうです。
イメージ 4
豚肉花の壁に貼られたポスター。サッポロビールのプレゼントだそうです。
イメージ 8
サッポロビールのポスターと東映のポスターが貼られていました


イメージ 5
註書きでこのポスターは復刻版を新しく作った事が判ります。原画を誰が製作しモデルが誰であったかは全く解りません。

子の美人画は鏑木清方でしょうか?訊くとレンジ前から出てきてポスターの裏を捲りました。でもポスターの作者は解りません。唯絵の外に”お酒は20歳未満は飲めません、妊娠中は控えましょう”。とプリントされています。と云う事は近年このような昭和初期のレトロなポスターが人気なので贈答用に復刻印刷したのでしょう。私も恵比須ビール記念館に行けば求められるかもしれません。
それにしても、絽の着物を召した女性はふくよかです。オカメがおですし、お乳は頬のように豊かそうで、絽の下で呼吸しているようです。
イメージ 6
壽屋(ことぶきや、現サントリー)売り出したスィートワインのポスター日本初のヌードでした。大正末期から昭和にかけては自由が横溢した時代空気だったのでした。写真出典はオールポスターズhttp://www.allposters.co.jp/-st/Gustav-Klimt-Posters_c25781_.htm
このポスターが作られたのは大正末期から昭和の始めだったのでしょう。ヨーロッパではアールヌーボーの時代を迎え、建築にも意匠にもデザインが重視されました。グスタフ・クリムトのポスターが街中に氾濫しました。
日本でもそんな世界の潮流に乗って竹久夢二が活躍してサッポロビールもサントリーも三越も高島屋も斬新な
イメージ 7
これはグスタフ・クリムトのポスターです復刻版が多く摺られていますからヤフーで3000円位で購入できます。写真出典オールポスターズhttp://www.allposters.co.jp/-st/Gustav-Klimt-Posters_c25781_.htm
ポスターで購買心を煽ったのでしょう。
こんなオカメ美人に”おひとつ如何ですか?”
奨められたらもう飲むばっかりです。
イメージ 9
原麗子さんUTUBEhttp://middle-edge.jp/articles/I0001680に出ています。
もうだいぶ昔ですが大原麗子さんがサントリーのテレビCМに出ていました。
最初は呟くように「少し愛してズット愛して・・・・」と言っていました。
次のCМは
「そんなに飲ませてどうするの?訊く場面でした
世の中の殿方は
〝訊くは愚かなり”と思ったものでした。
豚の生姜焼きは良き時代の味がしました。

応援クリックお願いします。

 

木通(アケビ)の妙

$
0
0
野比駅から京浜急行に乗ります私は車内広告を見回します。流石に京急車内です。京急デパートで開催されている「大東北展」に眼を惹かれました。鶯色のソフトクリームは宇治でしたら抹茶ソフトでしょう、でも東北ではダダチャソフトです。だだちゃ豆で作ったソフトクリームが食べたくなりました。
イメージ 1
これが京急上大岡駅に貼られた京急デパートの催事「大東北展」のポスターこれと同じものが車内広告されていました。
電車はでも横須賀中央駅に止まりました。此処で降りればさいか屋が在ってどぶ板通りが続いています。寄って行きたいと思うもののダダチャソフトを食べたい一心で上大岡駅に直行です。。JRの車内広告なら横浜高島屋でしょうが京急ですから京急デパートが優先されるのでしょう。上大岡駅は横浜市港南区の区役所が立地し横浜の副都心として新横浜や港北センター地区と並んで大発展しました。
明日は3.11です。日本人にとって歴史を刻む日になってしまいました。日本人にとっては8.6(広島原爆)8.9(長崎原爆)8.15(終戦記念日)と同じように日付だけで通じる忘れられない日になってしまいました。その日に向けて東北に心を寄せたい・・・そんな企画なのでしょう。
私も大好きな東北ですが、東北の復興を期待する気持ちと同時に東北の物産を食べたい買いたい、そんな気が在っての入場です。会場は大混雑で、あちこちに行列が出来ていて、店員がお客さんの整美に大童です。一番の長い行列は眺めれば会津やないまちの小島屋さんです。名刹円蔵寺(福満虚空蔵尊が厚く信仰されています)の門前にあって名物の「泡マンジュウ」を商っていました。私は店員に「「小島屋さんは火事に逢った記憶していますが復活されたんですね!」声をかけたものの全く無視されてしまいました。
イメージ 2
大東北展は大変な混雑でした午後3時最長の行列が出来た福島会津柳津町の粟マンジュウ小島屋さんでした。
私は店員でなくてアルバイトなのかと思いましたが、事実は違うようです。
老舗の岩井屋さんが2013年の秋に全焼してしまうと会津のスイーツとして沢山の菓子舗が粟マンジュウの販売に競ったようです。小島屋さんは火事騒ぎの後で露出した勝ち組の筆頭なのでしょう。
イメージ 3
これが粟マンジュウの岩井屋さんが全焼した写真。柳津でも会津でも粟マンジュウの売り出しに競っています。次のホームパージに詳しいです。http://www.yanaidu.com/awa/awa.html岩井屋さんは復活したそうです。次のホームページに福島民報の記事が載っていました。災いを泡に流してしまった故事から円蔵寺虚空蔵菩薩が賑わったと聞きます。岩井屋さんの復活は喜ばしい事です。
イメージ 4
此方は山形のズンダ餅北上堂の店先
イメージ 5
私の狙いは北上堂のズンダソフトクリームでした。
会場の入り口で木通細工の職人さんが木通の蔓で買い物籠を編んでおいででした。商品が数多く展示されています。素材は木通(アケビ)と山ブドウが半々です。木通の方が艶があって華を感じます。山ブドウは只管侘び色で錆びた感じです。木通の籠は使う程に素朴な味が濃くなり光沢も増せば堅固になるものです。民芸の良さを代表する製品です。商っておいでなのは米沢市の「鷹山」ホームページはhttp://www.yozando.jp/
鷹山の名は会津の名殿様上杉鷹山の名を借りたものでしょう。
イメージ 6
鷹山堂の木通や山ブドウの籠細工コーナー総じて焦げ茶色の籠は山ブドウでアバウト17万円程度艶のある籠は木通を編んでいました。木通だと半額で商われていました。
上杉家は関ヶ原では西軍に組します、その責めを負い会津120万石から米沢15万石に国替えを命じられます。
石高が十分の一に減ったのですから家臣もリストラしなくては成り立ちません。処が上杉の家臣は上杉に仕えたことを誇りにし殿様もそんな家臣を大事にしようとします。。しかし天はそんな上杉家と家臣に試練を課します。
天明の大飢饉などが米沢を襲います。上杉鷹山は救荒穀物の栽培を奨め、山野草の食べ方を導きます。そして家臣の冬場の内職に細工物を奨励したのでした。それがこの木通細工であり米沢絣でありお鷹ぽっぽ(水木細工の人形)だったのでした。長屋住いの浪人が内職で番傘を作っていたように上杉家のお侍は木通で籠を編み奥方は機織り機の前に座って絣を織ったのでした。昨今の大企業に比べると大違いであったのでした。

イメージ 8
籠の案内山ブドウばかりで木通が載っていないのは素材の確保に困難しているのかもしれませんし、山ブドウを販売したいからでしょう、展示場にはどちらも並んでいました。

イメージ 7
これが鷹山堂の案内お鷹ぽっぽも上杉鷹山が家臣を指導した成果でした。
藤沢周平の海坂藩はそんな大家族制の米沢藩の純粋形のようなものでした。たそがれ清兵衛も文四郎(蝉しぐれ)も片桐宗蔵(隠し剣)も清貧に在りながらも人間性を失わずに一途に生き抜こうとして読者の胸を打ちました。
私は鷹山の職人さんの手が止まった隙を見計らって声を掛けました。「木通の蔓は何時頃収穫するのですか?」我が家にも木通が在って毎年刈り込んではその若い蔦を干しておくのですが。折れ易くて到底籠に編む粘りが無いのです。すると職人さんが教えてくれました。
木通は7月に若い蔓を収穫して風通しのよ皮日陰で陰干しします。初冬になれば乾き切った蔓を取り出してこうして編んで製品にするのです・・・・」
イメージ 9
見れば木通製は大凡8万円程度。長く使える事を考えれば決して高くは無いのでしょうが、今の私には高値の花です。もう時刻は3時過ぎ名物の蕎麦も完売のようで蕎麦職人はのんびりしているようでした。蕎麦コーナーのテーブルを休憩用、飲食用に開放すれば良いのに思いながらお目当てのだだちゃソフトをペロリ舐めました。ダダチャ豆の風味は8月のそれには及ばないように感じました。枝豆を完全に磨り潰したのが間違いでもう少し枝豆の舌触りを残した方が美味でしょう。

イメージ 10
これが我が庭の古株の木通棚が壊れてしまったので今は地に這っています。近々に棚を作ってあげて絡ませる積りです。木通は雌雄異株ですからこの古株は叔母さんです。元気な雄の株を近くに置かないと実は結実しないのです。

イメージ 11
これが木通の花です。鹿の角のように出ているのが雌花の柱頭です。昨年までは山に入って雄花を採取してきて筆で受粉をさせていましたが・・・・今年はとうとうお婿さんを迎えてあげました。
イメージ 12
このパンジーの左に並んだ4つの鉢がネットで購入した木通です。この中二家の熟女にあうお婿さんがいる事と期待しているのですが・・・・。
イメージ 13
これは昨年結実した木通の実。今年はもっともっと姿の良い実が実ってパカーンと口を開いて腸を魅せるものと期待しているのです
が・・・・。

イメージ 15
こんな風にパカーンと口を開いた木通を庭で栽培するのが目標です。
イメージ 14
脳梗塞で倒れる前は木通にヒヨドリ上戸の実でお正月を迎えました。木通が実って開くと運が開けるような気がするのです。運気が開けると云った事では柳津虚空堂の粟マンジュウも同じです。

我家に戻るともう白木蓮も散って次の主役木通の蕾が膨らんでいました。昨年は一つしか実らなかった木通で舌から今年はお婿さんを探してあげようとインターネットで木通の苗を4本も購入しました。今は鉢植えしてありますが4本とも芽吹いています。未だ幼くてもしっかりと雄花を咲かせて我が家の熟女木通を稔らせて貰わなくてはなりません。そもそも木通(アケビ)の名は開いた実の意味だったのでしょうから実がならなければ萎み(しぼみ)になってしまいます。
ところで木通の漢字は木を通すと書くのですから気(木)を通すになります。気を通すとは体に溜まった毒や不要物を排出する意味ですから体に良いに決まっています。
又我が家では南側に植えてありますからここ数年の間我が家に漂っていた陰気を追い払ってくれるかもしれません。熱い視線を古い木通と新参の木通に注ぎました。


応援クリックお願いします。

 

柴又帝釈天の龍女成仏図彫刻

$
0
0
昨日は
一日中雨が随分降りました。庭の草木も濡れて嬉しそうでした。もう散り切ってしまった梅の梢に鶯が来て啼いています。
ケキョケキョ囀っているんですが未だ若すぎて”ホーホケキョ・ホーホケキョ”とは啼けません。
練習すれば何れ上手に啼けるのか、暖かさが増して「男性ホルモンが身体に満ちるようになったら啼けるのか」知りません。
目白捕獲の名人なら知っているかもしれません。名人は私の高校の先輩で麻雀の仲間です。あの時(麻雀の最中に私の脳梗塞が発症した)は大変にお世話になりました。
”ソロソロまた会いたい”会えば麻雀をすることになります。そんな虫ならぬ鳥の報せかも知れません。
鶯も”ホーホケキョ・ホーホケキョ”と啼くので愛されたのでしょう。
”ホーホケキョ・ホーホケキョ”は”法 報蓮華経”と聞こえます。
日本人に一番親しまれたお経は南無妙報蓮華経”でしたが聖徳太子の時代から省略して法華経と呼ばれました。私達は高校の授業で聖徳太子を教わり、その功績の一つに仏教を推奨した事と知りました。『三経義疏』を表著したと教わりましたが、法華義疏(615年)だけが聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存しているものの、『勝鬘経義疏』・『維摩経義疏』に関しては後代の写本と云われています。
イメージ 1
これが法華義疏(法華経の注釈本)永らく法隆寺に伝えられていましたが明治になって法隆寺は皇室に献上したので現在は御物になっています。写真の出典ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%B5%8C%E7%BE%A9%E7%96%8F
次に法華経を眼にするのは平家納経です。お経は未だしもその扉絵が有名です。法華経の扉絵には有名な”龍女成仏”が描かれています。
イメージ 2
平家納経(厳島神社)の法華経の扉絵の龍女成仏の図右下の少女(8歳の龍女)が釈迦に龍女が釈尊に宝珠を手渡している場面を描いていますは。法華経は釈迦の逸話を幾つも編纂して在りますがこの龍所成仏図は特に有名で9世紀になると儒教が浸透し女性は罪業が深いので往生出来ない(女人五障)と説かれました。女性は往生出来ないものの一度男性に変じて(転女成仏(てんにょじょうぶつ)・女人変成(にょにんへんじょう)から成仏すると解説されました。『女性が穢れているので、男性に劣る」と云った考えは本来なかったものの、儒教や男子中心の社会が形成する中でこうした考えを仏教に依っていると説明したものと考えます。写真出典朝日新聞社日本の美術をスキャン
イメージ 3
これも平家納経の扉絵です。9世紀になると末法思想が普遍化し特に女性は往生出来ないと考えられました。この時代密教が隆盛したものの頼みの密教でさえ女性の穢れを是認し比叡山にも高野山にも上れませんでしたそこで唯一女性往生を説いた法華経が尊ばれました。命を賭して往生を願った扉絵と考えます
私達は民主主義教育を受けています。誰も女性が穢れているなんて考えませんし。女性の方が男性より優れていると考える人の方が多いのではないでしょうか?女性優位論は学生時代も感じていましたが社会人いなると一層その感を強くしました。何しろ女性の方が男性より染色体が1本多いのですから、創世記(聖書)では神は最初アダムを作り、次いでイブを作りましたが、アダムを作ったものの出来が悪かったので遺伝子情報を精査してイブを作りなおしてアダムの欠陥(性格が荒々しい優しさや愛に欠ける)をイブで訂正したうえで、イブの性格が雄性になって遺伝するように工夫したと推測するのです。その意味では先史時代女王(卑弥呼やハトシェプスト女王)がトップであった時代の方が平和で幸福であったように思われます。
イメージ 4
3月10日お天気に誘われて柴又の帝釈天に出かけました。我家からは東京の東側は交通機関が無くて行き難かったのでしたが。最近はJRが地下鉄や私鉄と通じて行き易くなったのでした。柴又と云えば映画の寅さんで有名ですが古美術ファンの間では帝釈天の彫刻が凄いという事で有名なのです。憧れの柴又に着きました。先ず観光案内所に行って情報や地図をゲットします。大正建築で有名な山本亭は修理工事中で入れないと確認しました。そこで寅さん記念館や矢切の渡しには行かず帝釈天をじっくり拝観して午後は在原業平の縛り地蔵に回る事にしました。参道の賑いは予測通りです。この雑踏が良いのです。ランチをする店をチョイスして三門を潜りました。山門の番人役はどんな仏像なのか興味があります。
イメージ 5
此方は左手におられるのが広目天で、右側は増長天です。須弥山(仏)の四方を守護するのが四天王で東大寺戒壇院には東西南北の夫々を持国天増長天広目天多聞天がガードしています。このうち東方を守る持国天です。12天では東方を守るのは帝釈天になっています。持国天と帝釈天が同じであれば単純ですが、帝釈天は天のリーダーで須弥山に住んでいます。須弥山の番人とは別格なのです。柴又帝釈天(題経寺)では)本堂に帝釈天がおわして四天王は四方を守護しているのでしょう。
イメージ 6
右手に居るのが増長天です。帝釈天がを本堂に祀られて、山門の東西を増長天と広目天が警護しているのです。



本堂の左手右手にに泉があって手水するようになっています。小さな祠があってその岩屋の屋根に沢山の白蛇が祀られていました龍女の信仰でしょうか?蛇は矢張り薄気味悪いモノです。
イメージ 7
大経寺本堂の左手には湧き水があってその岩屋の上には沢山の白蛇が置かれていました。白蛇が咥えている巻物は法華経でしょう。

ところで題経寺は帝釈堂が中央に位置して在ります。帝釈堂の東側に本堂があります。
私は帝釈堂の内陣に入って天井に天蓋では無くてシャンデリアが懸っている何てモダンだな感心して眺めました。帝釈堂の外廊下(縁側)を廻って彫刻を見て回りました。あんまり上ばかりを見ていて転んだら大変です。廊下はそのまま本堂に繋がっていました。彫刻に魅了された参詣客は自然と彫刻を見て回る仕組みになっているようです。そして私は法華経の龍女成仏の彫刻を見入る事になったのでした。
イメージ 13
此方が帝釈堂の天井。格天井に天蓋ならぬシャンデリアが燦然と輝いています。矢張り都会のお寺さんです。

本堂は設計林門作、棟梁坂田溜吉の指導のもとに作られました、内陣外側の胴羽目彫刻10枚は法華経説話を題材にして、加藤虎之助・金子光清・木嶋江運・石川信光・横谷光一・石川銀次郎・加府藤正一・山本一芳・今関光次・小林直光等の彫刻師により制作されました。大正12年(1923)に完成しました。処が、関東大震災によって、すべて焼失しました。直後から再建を発願して10枚の胴羽目彫刻は昭和9年に完成したそうです。幸いにして稀有の技を持った東京の匠は昭和の初めはまだ健在だったことが幸いしたのでした。関東大震災で例え焼失してしまっても人間が生きていれば技が伝承されて居れば再興させる事が可能なのでしょう。
さて今日の本題龍女成仏の彫刻を彫ったのは山本一芳氏でした。
私は彫刻師に興味が在ったので受付に訊いてみました彫刻師は富山の井波(欄間彫刻で著名)でもないし千葉でもないとのこと昭和の初めには東京には未だ職人が居たんだそうです。
イメージ 8
本堂下段の彫刻群縁の下を彫刻が覆って居ます隅木の部分は龍が彫ってあって龍が本堂の重量を支えているように見えます。波の彫刻や花鳥干支の動物が彫刻されているのを見ると波の伊八を髣髴してしまいます。
イメージ 9
圧倒的な本堂内陣外側の胴羽目彫刻本堂が前面4間奥行3間で出来ていますから壁は全部で(奥行6枚裏4枚)10面あります。各面に法華経を素材にした説話が彫られています。まるでバチカンのフレスコ画を見るような興奮を覚えるのでした。写真の中央柱の左手の胴羽目彫刻が龍女成仏の図です。
イメージ 10
北西の角の胴羽目彫刻が山本一芳氏の作である事と龍女成仏の説話を説明して在りました。
イメージ 11
中央が釈迦仏でその手前のに波の上合掌しているのが8歳の少女の龍女です。龍女は利発で教えに通じていました。彼女は一つの宝珠を持っていました。その宝珠は宇宙に匹敵する貴重な宝物でしたが龍女は惜しげもなく釈迦に与えようとしました。それは真心で最高の悟りを求めて釈迦に帰依する姿勢でした。釈迦は龍女の真心を知って「善い哉善い哉」と言って龍女の成仏を認めたのでした。
イメージ 12
山本一芳氏が彫った事と寄付したのが鈴木源次郎氏であった事を示す板細部に至るまで丁寧に彫られた力作である事が解ります。波の表現は伊八のそれを真似たようです。こんな力作が10枚も連続しているので見飽きることもないし時間が過ぎてしまいました。

龍女成仏は日本の文化史の中でも重要ですし、未だに女性蔑視差別の原因に挙げられる銃よ言う名テーマです。ですから先ず第一に上げましたが明日はもう一枚「病即消滅」の説話を紹介します。


応援クリックお願いします。

 









増長天

帝釈


  

柴又帝釈天の「病即消滅」の彫刻の冴え

$
0
0
昨日は柴又帝釈天の本堂内陣外側の胴羽目彫刻の醍面(北西の角)の龍女成仏図の彫刻を照会しました。今日は角の柱を回って隣の第8面『病即消滅図」を照会します。先ず全面をご覧ください。下の写真の正面柱の左が龍女成仏図でその右が病即消滅図になります。
イメージ 1
これが帝釈天本堂の内陣外側の胴羽目彫刻です。正面の柱の左が第7面(龍女成仏)で柱の右が第8面(病即消滅)になります。法華経に説かれた釈迦説話の劇的な10場面が見事に木彫されているのです。
天井から見てみますと天井部分には牛が刻まれています。その下には天女が刻まれていてその下がいよいよ法華経の病即消滅の場面になります。
図の中心は建物の中に結跏趺坐されています。お釈迦様は薬王菩薩の兄弟に向けて、説教をされておいでです。そして大勢の弟子たちが説教に耳を傾けています。
薬王菩薩薬上菩薩よ”汝は当に神通の力をもって法華経を守護すべし。。 法華経はインド人の病の良薬である。もし病人が法華経 を聞くことを得ば、病はただちに消滅して不老不死になるであろう”ん。 お釈迦様の前には控えている二人の従者が薬王菩薩と薬上菩薩の兄弟なのです。
イメージ 3
天井との境の彫刻牛とその下には蓮台を捧げ持った天女がとんでいますその下目線の位置に法華経の「病即消滅」の場面が彫られています。
イメージ 4
これが「病即消滅」の図目線は左上の病に苦しむ老人と看病する倅の場面、その下には薬を調剤するために薬研や乳鉢を使う人がいます。蘇鉄の樹を隔てて右下には釈迦の説法を聴き入る弟子たちがが居て弟子の上段に二人の従者が居ます。二人は薬王菩薩と薬上菩薩の兄弟で、二人とも薬を良くした功徳を評価された菩薩でした。精舎の建物の中には説法をされる釈迦如来のお姿が見えています。

イメージ 2
これが最下段の彫刻群舞する鶴と床の上には説明が書かれたパネルが置かれていました
以上が第8面の全容です彫刻の作者は今関光次です。
此処は千葉に近く、房総には日蓮上人の聖跡も多くあって帝釈天信仰も法華経も大切にされる土地です。帝釈天を参詣する人はこの彫刻を見詰めて信心の大切さを諭されたのでしょう。上段の写真のアップを以下に載せます。
イメージ 5
これは年老いた親を介護する息子の場面でしょうか。四苦八苦の四苦は「生老病死」ですが、病は本人の苦しみだけでは無く愛する家族も道連れにするだけに深刻です
幸いに日本は世界一の長寿国になりましたがお蔭でこのような場面が身近に発生しています。釈迦やキリストは手を翳しただけで病を治したそんな説話が多いのですが。釈迦の身体的特徴である白毫相(額にある白い球)は釈迦の零派で今もお母さんが病気の子に御凸を接触させて〝痛いの痛いの飛んでKと念じると頭痛が不思議に消えてしまう様なモノでしょう。法華経を念じれば病は治癒するとは信じる力の不可思議さを諭すモノでしょう。
イメージ 6
これは薬研や乳鉢を使って薬を調剤する薬師の場面です。左下には彫刻した今関光次の名もあります
持統天皇は天武天皇が病になると薬師寺を建立しました。光明皇后は聖武天皇が病に伏すと新薬師寺を建立し仏に病気治癒を祈願しました。釈迦は言われるでしょう。
”何も精舎(寺)を建立しなくても良いのだ、法華経を唱えればお前の愛する人の病気は即座に治癒するであろう・・・・・”
病気の苦しみは1000年の昔からズット人間を苦しめて来ました。医学は日進月歩で進歩して様々な薬が作られ手術などの治療法は進歩しました。でも病気は次々に新しいタイプが発生して。まるで医学と病気の鬼ごっこ状態であります。近代医学では解明できない奇病や難病が現代人を苦しめます。変わらないのは如何なる時代も如何なる病気も家族の愛情や本人の信心が(意欲)が病気を治すという事です。法華経の尊さこそが病気に打克つ総てなのです。
東京の庶民は薬師寺を建てる資力はありませんが法華経を唱える事は出来ます。
像法の時代には薬師如来を建てました。そして末法の時代になると日蓮上人が登場して薬王菩薩と信じられたのでした。
帝釈天の彫刻の素晴らしさは山門を見ても其処此処で確認できます。でも帝釈堂の裏の胴羽目彫刻は圧巻です。ぜひ拝観するようお勧めいたします(書院やお庭と併せて400円の入場券が必要です。流石に日本仏教の中核を為した法華経です。明日はもう一つ釈迦の一生を著した「千載給仕の図(第6面)を照会させていただきます。




応援クリックお願いします。

 




柴又帝釈天の「千載給仕の図」の尊さ

$
0
0
昨日までは柴又帝釈天の帝釈堂の外側の胴羽目彫刻から第7面「龍女成仏」第8面「病即消滅」を案内しました。
今日は順不同で第6面「千載給仕の図」を照会させていただきます。先ずはこの彫刻のある位置と全体を説明いたします。
イメージ 1
手前の角の柱から見て右が第8面「病即消滅」でその左が第7面(龍女成仏)でその左が第6面になります。この写真で見ると一番左が第5面(多宝塔出現の図(石川銀次郎彫刻)でその右が第6面(千載給仕/加藤正一彫刻)更にその右が第7面龍女成仏(山本一芳彫刻)第8面「病即消滅」今関光次第9面(常不軽功徳の図/小林直光)、第10面(法師守護の図/加藤寅之助彫刻)になります。
イメージ 2
これが第5面「多宝塔出現の図」この図は私(釈迦)が現世を去った後に法華経を説く仏が出現したら私は地中から出現して「素晴らしい素晴らしい」と言って褒め称えるであろう。人々は歓喜して仏塔を礼拝し法悦に浸るであろう。
イメージ 3
これが第9面「常不軽菩薩品」の図です。。手前左の比丘尼が大勢に苛められています。比丘尼は逃げながら叫びました「貴方たちは皆仏になる資質を持った方々です。そんな人なのに私を苛めるのは自らを軽んじる事ですよ!」すると人々はこの比丘尼を常不軽と呼ぶようになりました。右手前には川の畔で焚火で暖を取っている人がいますすると船が遣って来ました。炎を見て助けに来たのでしょう。法華経は寒い川で溺れた人を救済してくれる有難いお経なのです。この図を見ていると多摩川で苛めて殺された少年を想い出してしまいます。法華経は不滅だとつくづく思います。
イメージ 4
これが最後の第10面「法師守護の図」です。精舎の中でいよいよ涅槃を迎えようとしているのが私(釈迦)です。天上界からは沢山の雲上菩薩がお迎えに来ています。臨終を迎えようとしている私ですが、昨日までは精舎で教えを説いていましたし、その前は岩屋に籠って修行をしていました。この場面が善10面の最初で全体のお手本になったのでした。腕の良い9人の職人はこの作品を見て、どのように彫ったら同じように彫れるか容易に真似できたのでしょう。現代はアーティストの時代で芸術家が尊ばれますが昭和は職人の時代だったのでした。

10枚もの法華経説話を素材にした彫刻を見詰めると流石に軽い眩暈を覚えます。システ-ナ礼拝堂は一人の天才ミケランジェロが精魂込めて描いたものでしたが、柴又帝釈天は10人もの彫刻師が同じような欅材に鑿を立てて削り出したのでした。それでいてまるで一人の匠が彫ったかのような成果を生じたのは驚きです。私が”凄いな!どんな経緯で10人もの匠を集めたのかな?”思いながら進むとその答えが廊下に掲示されていました。
”帝釈堂を彫刻説話で取り囲みたい”思いついたのはこのお寺の16世日済上人だそうです。
加藤寅之助氏に第10面の「法師守護」の図を彫刻して貰いましたが。折からの関東大震災によってその彫刻も焼失してしまいました。関東大震災の復興の中で柴又帝釈天も再建され初期の法華経の説話彫刻も動き出したのでした。柴又は江戸川を挟んで東は房総です。房総には波の伊八をルーツに舌優秀な職人が沢山いたのでした。職人たちの腕が高い水準だったので、「法師守護の図」を手本に全く同一人が彫ったかのような木彫が揃えられたのでしょう。9人もの匠が良くも揃ったものだと驚きです。昭和の前半には我国のクラフト水準は斯様に高かったのでした。
イメージ 5
これが千載給仕の図です。私(釈迦)は真実の教えを求めて国王の位も捨てて阿私仙と云う名の仙人に教えを聴くために仙人の住む山に登りました。仙人に木の実を取ってギフトしたり、薪を拾い集めたり水汲みをしたりして千年もの間仕えました。その真心が仙人に通じて法華経を教わったのでした。
以下については千載給仕の図を場面場面で説明いたします。
以下は千載給仕の図を場面を追いながら案内します。先ずは山奥に住む阿私仙と云う名の仙人です。右上に居られて書を読んでいます。
イメージ 6
右上には岩屋に籠った阿私仙と云う仙人が法華経を講じています。その左手に居るのが私(釈迦)で木の実を拾っています。水を汲んで薪を拾って仙人のお食事のお世話をしたのでした。
イメージ 7
私(釈迦)は山中に分け入って薪を拾い集めました。
イメージ 8
私は谷川に下りて水を汲みました。


彫刻の拝観には400円の入場券を求めなくてはなりませんが、庫裏(書院造り)を拝観し、庭園も楽しめます。
イメージ 9
帝釈堂から渡り廊下で庫裏の書院に回れますお庭も楽しめます。
イメージ 10
お庭を眺める絶好の位置にお茶のサービス(無料)がありますお向こうに江戸川が流れていて矢切の渡しを越えれば向こうは松戸で野菊の墓(伊藤左千夫)の世界です。
イメージ 11
一番奥の書院の床の間の柱は南天だそうです。横山大観の屏風絵など大作も見学できます。

私は昭和戦後の生まれです。100年後200年後昭和はどのように評価されるのでしょうか?世界を敵に回して無謀な戦争をしたアホな時代。広島長崎に原爆を投下されたのに凝りもせず原子力発電に走って結果福島では原子力発電所のメルトダウンを招いた二度も世界に恥をかいた馬鹿な時代と言われることでしょう。唯その度にオリンピックを招致して復興に向けて力を集中した時代との評価もあると思います。腕の良い職人が沢山いて関東大震災からの復興を成し遂げた・・・そんな評価が在って、その歴史的な証拠に柴又の子の彫刻群が長い間大切に見守られることでしょう。

応援クリックお願いします。

 



お猿さんと帝釈天

$
0
0
昨日まで4日間にわたって柴又帝釈天の本堂 内陣外側の 胴羽目に彫刻された法華経説話を照会してきました。書きはじめたら終日法華経の事を考えている自分自身が在りました。この調子で後1週間残りの説話彫刻を照会したいのですがその間も房総市原に行ったり、銀座に行ったりしましたので、帝釈天はソロソロ打ち上げたいと思います。そこで今日は帝釈天のお猿さん彫刻を照会させていただき次ます。
庚申塔を探して旅に出ると主尊は一般に青面金剛(仏教系)か猿田彦(神道系)ですが。青面金剛では無くて帝釈天が刻まれていることが在ります。一般に庚申信仰のルーツは道教で道教の神(天帝に庚申の日の夜体中の三尸(さんし)」が本人の行状を報告すると説いています。三尸が身体から抜け出ないように一晩中寝ないでチェックします。そして三尸(が天帝に”言わない、聞かない、見ない”の意図で三猿を約束させました。そんな次第で三匹のお猿さんは庚申信仰の看板の役割を果たしてきました。お猿さんでも特に比叡山麓の坂本のお猿さんは日吉神社の紳使として尊ばれました。
イメージ 1
主尊は猿田彦でも庚申信仰の看板は三猿でした(三浦半島で撮影)
イメージ 2
庚申信仰の主尊は帝釈天でした写真は江の島道の諏訪神社下、この辺りは日蓮宗の聖跡寺院が集積して居る為か主尊が帝釈天の庚申塔が多いのです。
イメージ 3
此方は鎌倉瑞泉寺の庚申塔主尊は帝釈天と不動明王の合体した様な青面金剛像。私はこの像がアンパンマンみたいで好きです。

イメージ 4
これは江の島の群猿庚申塔日吉神社の神使の猿が33匹も刻まれています。お猿さんだけで庚申塔である事が解ります。

庚申信仰は道教と仏教と神道の三つを前身として日本人が作り上げた混合宗教だったのでした。ですから主尊は帝釈天(仏教)であり天帝(道教)であり猿田彦(神道)でありました。三者は同一であって出現する場所で姿を変えると説明されたのでしたが(インドでは帝釈天であったものが中国では天帝になって日本では猿田彦に姿を変える/本地垂迹)のです。処がお猿さんだけは共通していました。そもそも三猿自体がインドがルーツだったのでした。
イメージ 5
銀座の日動画廊の入り口に鎮座している石像は道教寺院の門番(仁王像)です。
帝釈天天帝の信仰のルーツは北極星にあると思います。北半球の人々は星空を見上げて無数の星を確認しました。無数の星を見詰めて居ると総ての星が北極星を中心に廻っていることに気付きました.”天の星は北極星を中心に廻っているならば北極星は天帝の住む星なのだ。
釈迦が釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタとして生まれる前世にに置いても釈迦の修行を守り、釈迦が仏陀となって後は梵天と共に仏法守護の善神となったのが帝釈天でした。
紫禁城は天子が政治を執行する建物で紫宸殿は天皇の執務場所です。中国では紫禁城が日本では紫宸殿が天帝の北極星のよようにな物でありました地上の中心になる建物と信じられました。単純化すれば日本人には”天帝=北極星=天之御中主神=天皇.”と認識されたのでした。

柴又駅を降りて寅さんのお出迎えを受けて柴又街道を渡ると堀川の中にお猿さんがいました。
イメージ 6
帝釈天街中の三猿さん。
イメージ 7
帝釈天題経寺の書院の庭にはお猿さんが祀られていました。

帝釈堂の扉の欄間など彫刻箇所は幾つもあります。干支が彫られて居たり流石に庚申猿が刻まれています。彫刻師もお猿さんを彫る時には一段と気合が入ってギアアップした事でしょう。どの彫刻も見事なんですがお猿さんは格別に気合が入っているようです。

イメージ 8
これは帝釈堂の南面に刻まれた彫刻です。老猿が桃の実を握っています。桃には、魔除けの力があるとか、不老長寿とか、若返りの薬と信じられて来ました。
西王母は、仙境(崑崙山)に住む仙女で不老長寿の桃を持っていましたが,桃は3千年に一度しか稔りませんでした。 漢の武帝が長寿を願っていることを聞くと西王母は桃の実を献上します。、
その西王母の桃の園に侵入して、その天の桃の実を勝手に食べたのが、孫悟空でした。
イメージ 9
帝釈堂扉の欄間彫刻は左に犬右に鼠でした。
イメージ 10
帝釈堂扉の欄間彫刻は右に打ち出の小槌に犬右に鼠でした。
法華経説話彫刻も見事ですし。説話を読み解くのも楽しいのですがこのように処狭しと飾られた彫刻が数多くどれも見て楽しい、読んで知恵が湧くモノばかりです。
柴又帝釈天は寅さんばかりでななく。昭和の文化の香りが残っている良い所です。

応援クリックお願いします。

 

縛られ地蔵は隅田川から江戸川に引越ししました(金町の南蔵院)

$
0
0
帝釈天の参道で鰻をいただいて”さてこれから何処に行こうか?”調べてみました。”しばられ地蔵”が紹介されていました。縛られ地蔵なら聞いたことがあるし地方を旅していて拝観した事も度々ありました。お地蔵様を縄で縛って願掛けしてある形態です。大岡越前の話も著名ですが柴又の近くだとは知りませんでした。これは一度は自分の眼で確認しておきたいものだ、想ってお詣りする事にしました。京成電車で柴又から隣の金町に出ます。金町駅からバスに乗って水元公園に向けて走れば5分ほどで縛られ地蔵のバス停がありました。バス停から2分でお寺さんに着きました。お寺の名は南蔵院では正式名は「業平山東泉寺南蔵院」と書かれていました。業平山とはあの伊勢物語の在原業平の事です。
イメージ 1
「業平山東泉寺南蔵院の南門住宅街の奥にお寺が在りました。お寺の裏側に水元公園が広がっているようです。かきつばたの季節になったらきっと賑わう事でしょう。
高校の授業では伊勢物語は次のように教わりました。
イメージ 2
尾形光琳カ八つ橋屏風。春先に都を発った在原業平は「三河の国八橋」(現知立市)で都に置いてきた奥様を懐かしみ、からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふと歌いました。写真出典日本の古典(集英社の挿絵)
イメージ 3
俵屋宗達の団扇絵「蔦の細道」/在原の業平が宇津山に至ると既に秋も深まっていました。蔦の紅葉した細道を辿ると知り合いの僧に遇いました。業平は僧に都の奥様宛に手紙を託しました駿河なる宇津 の山べのうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり写真出典は日本の古典伊勢物語集英社の挿絵。
イメージ 4
更に東路を下ると業平は隅田川の畔に出ました。渡り場から船に乗ると波間に浮かぶ鳥が見えました。あの鳥は何だ?尋ねると「都鳥」です、答えが返って来ましたそこで業平が「名にし負はばいざこと問はん都鳥わが思ふ人はありやなしやと」と歌うと船の一行は感極まって船板を叩いたのでした。「江戸名所図会」隅田川の渡し 隅田川東岸

業平は富士山のを眺めて蔦の細道で奥さん宛ての手紙を旅の僧侶に託して更に東に下ります。そして隅田川の畔で群れ遊ぶ鳥をみつけます。
「あの鳥は何という鳥ですか?」訊けば
「あれは都鳥(ゆりかもめ)です」教わります。そこで業平は再び奥様を想い起します。
名にし負はばいざこと問はん都鳥わが思ふ人はありやなしやと」
この物語が涙を絞るので隅田川の渡し場に「言問橋」が在ります。浅草寺と向島に懸る重要な橋です。
大岡越前の話も南蔵院ですから。業平山南蔵院は元々は浅草にあってそれが何時しか。此処水元公園に移転してきたのでしょう。看板の縛られ地蔵尊共々に・・・・。
南蔵院のホームページhttp://shibararejizo.or.jp/history.htmに出ています。
大正12年関東大震災で浅草の南蔵院は焼失してしまい。早速にこの水元公園に移転する事で新築着工して昭和8年にに移転竣工したのでした。
本堂の右手に聖徳太子のお堂が在ってその右に石のお地蔵さんが立っておられます。その祠の右手に荒縄が沢山吊るされています。一本100円のお賽銭を入れて荒縄を手にしてお地蔵様に巻き付けます。私は左手が不自由なので固結びするするのに難儀してしまいます。
”お地蔵様貴方を上手に縛れるように左手を治してください”念じて縄で縛りました。毎年大晦日に縄を解くそうですから、今年は3か月で既に縛る余裕もない程ガンジガラメ状態です。庶民の願いは大岡越前の時代から強く色々でお地蔵様もハードワークのようです絵馬も沢山懸っていて就職願望が強いようです。時節柄仕方ない事でしょう。
イメージ 5
これが業平山東泉寺南蔵院の境内全景左側から本堂松の木の北側に聖徳太子堂があって右端にあるのが地蔵堂でその真ん中に簡単な祠が建っていて石地蔵が祀られています。その石地蔵が下の写真の縛られ地蔵です。

イメージ 6
これが縛られ地蔵損です。右手前の梁に荒縄が吊るされているのでお賽銭を入れて縄を手にしてお地蔵さんを縛ります。大晦日にはお寺さんが縄を解いて新年の準備をされるそうですから私の願も年内に叶えて貰えそうな気がしてきました。

イメージ 7
一杯絵馬が懸っていました。
イメージ 8


境内の東には立派な藤棚があって。お嬢さんが牛の背中に跨っていました。すると牛は願ことを叶えて下さるようです。おしとやかな人用には小さな牛も置かれていました。向こうのお堂が地蔵堂です。



応援クリックお願いします。

 

数寄屋橋に出現した圧巻の立佞武多

$
0
0
テレビのニュースで銀座4丁目の交差点にあるソニービルに、津軽の「立佞武多/たちねぶた」が出ていると流されました。今年の正月には寒川神社に初詣して、同神社楼門に吊るされた青森佞武多を見て来ました。銀座に佞武多を飾ったのは北海道新幹線の開通に期待する観光事業組合なのでしょうが、物見高いのが私の性格ですし、こうした機会にセッセと出かける事でリハビリも進捗しそうです。其処で、ワイフを誘って出かけました。
ワイフも久々の銀ブラで嬉しそうです。
イメージ 1
午後3時数寄屋橋交差点に着きましたソニービル入口の空地に立佞武多を確認しました。これから夕闇になって立佞武多に灯が灯るまで銀座で時間潰しです。でも流石に銀座時間を潰すには十分すぎるほど遊び場だ在ります。ソニービルの隣は日動画廊ですし、その隣は熊本県の物産館ですし・・・・。
イメージ 2
私がカメラを持っているのを確認した津軽観光組合のスタッフが私達をステージに上げて記念写真を撮ってくれました。

立佞武多は、今から約1世紀前の明治中期から大正初期にかけて行われた五所川原市の伝統民俗行事です。
佞武多のルーツには諸説あるようです。最も古くは「坂上田村麻呂が蝦夷征伐に際して佞武多を作って敵を油断させた説」でしたが、北前船が津軽に寄港して京都の祇園祭の習俗が津軽にも伝播した。「祇園祭りの花形山鉾を津軽の素材で真似して作って、盆の供養とした」と考えるのが有力なようです。ルーツは蝦夷征伐でも盛んになったのは、祇園祭の地方伝播であったようにおもいます。
今年も旧盆(8月4日~8日)高さ約12間(約21メートル)のものが、数百人の若者によって担がれ、町内を練り歩くそうです。”新幹線も止まるし是非津軽に来て下さい”津軽も熱が籠っています。
戦後復活した五所川原の立佞武多でしたが、電気の普及により、街中に電線が張り巡らされ、佞武多は次第に小型化されて高さ約4.5メートルに縮小されていたそうです。
しかし平成8年1枚の写真を元に、五所川原の有志たちにより、高さ20メートル強のねぷたを復元させ、「立佞武多」と命名しました。その威容と五所川原人の気概は全国的な反響を呼びました。
本格的に取り組まれた「立佞武多プロジェクト」によって駅前からの運行コース上の電線は地中に埋められ、立佞武多の運行を待つことになります。平成10年8月5日、ついに立佞武多は五所川原市内を練り歩き、多くの人がその威容を仰ぎ見れることとなりました。高さ22メートル、総重量16トンの立佞武多が30人もの若者により曳かれ、街中を煉る姿は祇園の山鉾や博多の山笠にも勝る平成のお祭りです。佞武多は青森佞武多(横に大きい)が渋谷センター街を煉っていますから、いっそ立佞武多は銀座の中央通りを煉ったらどうでしょうか?
震災復興もこのような情熱によってはじめて可能になるものでしょう。
イメージ 3
通行人は巨大で迫力溢れる立佞武多を見上げて記念写真を撮って行きます。私達は佞武多が灯るまで銀座で時間潰しです。
ソニービルと比べてみれば立佞武多の義経は7階の高さに届いています。今年の夏は五所川原は大賑わいすることでしょう。佞武多にはテーマが書かれています。「義経 北行伝説・青森~函館を翔ける」と書かれています。津軽は平泉で敗走した義経主従が大陸に向けて出港した処なのです。そしてジンギスカンになってその子孫が博多に攻め込みます。津軽はロマンの土地なんです。
私達は2時間余り銀ブラして各地の物産館を巡って暗くなって再び立佞武多の前に立ちました。灯りは蛍光灯かLEDでしょう。夕闇の中で鮮やかに輝いていました。矢張り2時間余り待った甲斐がありました。一時は叩かれて火が消えそうだった不二家さんも復活して賑わっているようです。
イメージ 4
数寄屋橋交差点前を見下ろす義経の立佞武多です。

イメージ 5
東芝ビル(昔は阪急デパートがテナントでした)から見た立佞武多晴海通りを介して向かいが不二家です。あの頃は不二家が倒産しても東芝やソニーと云った日本の看板企業が苦境に立つとは想像も出来ませんでした。横に寝そべった青森佞武多を立ててみるそれ程の転換をしなくては復活は困難なのかもしれません。
息子の帰宅予定は8時過ぎです。夕食の支度もあります。私達は夕食は終えましたが、そろそろ帰宅しなくてはなりません。何時か五所川原で本番の立佞武多を観たいものです。
後ろ髪を引かれる想いで有楽町駅に向かいました。
イメージ 6
これが五所川原で練っている立佞武多です。写真出典はソニービルの立佞武多で貰った五所川原環境組合作成のパンフレットをスキャンしたものです。


応援クリックお願いします。

 


Viewing all 2868 articles
Browse latest View live




Latest Images