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鯉之助で祝い膳

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娘の安産祈願でオンメ目様に上りました思いの外早く終えてしまったので新しくなった段葛を見て小町通りを散策しました。この日は土曜日大変な混雑です。足元の弱い私はぶつかって転倒したら大変です。すれ違う人の動作を見極めて右に左に身を避けます。”若しかしたら居合道の筋が在るのかも知れない”思いました。
何時もの様に豆屋でつまみ食いしました。後で思うと消化にわるい豆を摘んだのが悪かったのかもしれません、祝い膳で失態をしでかしてしまい娘夫婦に悪い事をしてしまったのでした。
小町通りを出て鎌倉駅前に今日の祝膳の会場「鯉之助」があります。
お祝は別の機会にするとして今日のお食事は娘夫婦にご馳走になる事にしました。
「お父さん何でも遠慮されずに注文して下さい」、娘に言われても、私の胃は胃癌の術後充分に時間が過ぎていません。未だ胃袋は小さいのです。そこでメニューの最初に書いてあった『静御膳』を注文しました「静御膳」が昼のお膳の梅に相当するようです2100円ですから、大変にお安いというかリーズナブルな価格設定なのです。ワイフは瓢箪御前にしました。こっちの方がお祝いに相応しいようです。
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祝膳に選んだ鯉之助の開店直後の様子。
此処このビルは昔何だったのかな?訊けばワイフは
『此処は第一勧銀が在ったのよ。みずほ銀行は今では駅の西口よ』
と小学校中学高校と鎌倉の学校で過した私を差し置いて解説します。加えて
「私達は何時も向こうの個室を遣わせて戴くのよ其処は金庫も在るのよ」
私を遥かに凌ぐ詳しさです。
昭和50年代後半私は長銀の福岡支店で支点経営に携わっていました。
お店は天神大通りに面して向かいは地域一番のデパート岩田屋がありましたし、筋向いは西鉄天神駅で背中は親不孝通りでした。商店街の協議会では常々不満を聞かされていました。
「銀行は夜になると真っ暗で街の賑いの上でマイナスだ、もう少し協力してほしい」何時も苦言を浴びせられました。そこで、博多山笠では若い行員に法被を着させて山笠巡行に参加させました。天神から櫛田神社まではたいした距離では無いのですが、山笠を街の倉に納めると行員は銀行に戻って応接室を占領して休んでいました。
観光都市鎌倉でも目抜きの広場に第一勧銀が居て迷惑だったことでしょう。其処に鎌倉の日本料理屋さんの御代川が「鯉之助」と云う若いブランドで出店したのでした。
でも第一勧銀の前は西武百貨店だったのでしたから。銀行が出店した時だけが間違い(場違いだったのです。銀行は元々が経済の黒子です。黒子が表通りに顔を出すことが間違いだったのでしょう。
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お店に貼られた鯉之助の以前の姿昭和40年代までは西武百貨店でしたが50年代になると第一勧銀が出店I平成20年代になると現在の御代川が鯉之助ブランドで日本料理と寿司店を出店しているのです。
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これは鯉之助の個室で、静かに歓談するには恰好なお部屋です、この時はお弁当が用意されていました、お客様のお土産か、はたまた行楽用に使われるのでしょう。
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棟方志功さんの太った鯉が嬉しい食事を盛り上げてくれます。
私は懐かしいと思いながら銀行ロビーを見渡します。ドンドンお客さんが来店して満席になってしまいました。ワイフの云う様に予約を取っておかなくてはならない繁盛店です。
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鎌倉御代川の新ブランド「鯉之助」の壁に懸った金工細工
私の座った席の後ろの甕には鯉の金細工が懸っています。掛け軸は棟方志功さんの鯉の絵です。
でもよくよく見れば鯉では無くて鯛のように見えます。こんなに肥っていては滝登りは出来ません。
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此方は棟方志功さんの掛け軸御代川大主人に喫す」志功と書かれています。創業者御代川鯉之助氏の嬉しそうなお顔が思い浮かばれる大作だと思います。
棟方志功さんに”これは鯉じゃなくて鯛ですね”と言ったら禿げた頭を掻かれながら仰るでしょう
わだば惚けて鯉も鯛も分別できなくなってしまった”呵々大笑されることでしょう。
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お店を見下ろす位置に神棚が祀られていて恵比須大黒が見渡しておいでです。棟方志功さんはこの恵比寿さんがお好きで鯛と鯉を間違われたのかも知れません。
でもよくよく見れば御代川さんが鯉之助ブランドで出店するお祝いに描かれたのですから鯉よりも恵比寿さんの抱えた鯛の方がピッタリだったようです。
お店の調度を楽しんでいるうちにお料理が用意されました。
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これが私の注文した静御膳(2100円)です。今年初めての鰹のお刺身で縮緬雑魚の乗ったご飯を美味しく一膳戴いてしまいました。そうしたらもう満腹状態で天麩羅も大好物の煮物も食べられなくなってしまいました。若い人に食べて戴きました。折角のお祝いの御馳走を)残念でしたし娘夫婦に”ごめんなさい”言うだけでした
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お隣はワイフの注文した瓢箪御膳です。瓢箪が4段の重箱になっていて一段毎開ける度に声を出す美しさでした。眼にも舌にも感動させ遊び心ある瓢箪御膳だったようです。
実は私はご飯がおいしくてお刺身だけで一膳のご飯を食べてしまいました。マダマダ天麩羅もあれば煮物もあって食べたいのですが既に胃袋さんが”もう充分これ以上は入りません”と悲鳴をあげ始めたのです。屹度小町通りで摘み喰いしたお豆が胃袋で膨らんでいたのでしょう。意地汚く喰意地を張ったのが災いしていざご馳走になったら胃袋に余裕が無くなっていたのでした。娘夫婦に謝りながら箸をつけずに戴いて貰いました。
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これはデザートの南瓜プリン。プリンさえ食べられなくて婿殿に助けて貰いました。

御代川鯉之助氏は築地の新喜楽で評判をとった料理長で政財界人や文化人に知己を得て鎌倉に進出し由比ヶ浜の一の鳥居店を皮切りに湘南で第一の日本料理店になった人物です。鯉之助は御代川の味や日本料理の文化を大切にしながら利用しやすさを追求したブランドのようです。
鎌倉でイタリアンが流行りのようですがヤッパリ日本料理を楽しみたい、そんな人には恰好なお店ですし、ロケーションも良いようです。
私のように鎌倉で育った者には日本料理と云えば山椒亭でしたが御代川さんの活躍で同店は
これから何度も言われることでしょう
”お父さんは安産祈願のお祝の膳の前にお豆を食べ過ぎて、肝心の御膳を食べきれなかった・・・・。”

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余震かはたまた予震だったのか?

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私が床に就いた14日の夜9時過ぎに熊本県で地震が発生しました。14日のラジオ深夜便は熊本の地震で持ちきりでした気象庁の地震予知課長はこの地震が東関東地震の様なプレート型では無くて熊本県西部から北西大分県日田に向かって走る「日奈久断層帯」が引き起こしたもので阪神淡路型の地震である、更に今後とも余震が引き続くので警戒するように注意を促しました。翌朝の新聞もその後の新聞もこの気象庁の判断を鵜呑みして「余震」と報道し続けました。でも素人は専門家のありがちな不遜を察知しました。”これはもっと大きな地震の前触れではないか?”
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14日に発生した熊本地震の報道М6.4と観測され今後の余震を指摘していました。私達は熊本城の石垣や瓦の破損に心を痛めましたが、瓦は落ちやすく(瓦を落とすことで倒壊を防ぐ工夫で在る)石垣も崩れやすく出来ていると教えられて昔の人の知恵に驚かされたのでした。
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14日以降の地震も総て余震と判断してこれカラ本物の大地震が来るとは思ってもみなかったのでした。
不幸なことに、そんな素人の予感が当たってしまったのが昨晩日の変わった4月16日の深夜1時30分でした。ラジオ深夜便は何時もと変わってニュースを報じているのです。またまた地震が熊本で発生しました。更に大分県知事が政府に支援を要請し。地震が活断層に沿って北西に広がったようなのです。
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17日アサ時30分に発生した地震の速報朝のニュースで気象庁はこの地震がМ7.3で阪神淡路級の活断層地震の本震で14日のは前震だったと発表しました。気象庁もマスコミもミスリードでした。
更に悪い事に14日の地震に較べてパワーアップしているのでした。私は大好きな大分の磨崖仏に被害が生じないか懸念しながら眼を閉じました。先ず最初に考えたのは最近天変地異が多いなあ!なぜだろうか?と云った事でした。
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今朝(4月17日のNHKニュース瓦が重いので一階が押しつぶされたり倒れたりしています。熊本城は少しの揺れでも瓦を落として本体は倒れないように工夫されているのだそうです。まるで楓の木が冬になる前に木の葉を落とすようです。
聖書の創世記のノアの方舟は堕落した人間に怒った神が敬虔なノアの夫婦を残して民衆を水に沈めてしまったお話でした。ローマ帝国が享楽に耽るとポンペイの街を火山灰に埋めてしまいました。神が怒られて人間を懲らしめるために天災を引き起こしたのかそうではないのか、それは神様しか知りません。しかし人間は何時も天災が起ると神罰で神が怒られたと考えて自らを律してきました。その結果回り道をしたのかもしれませんが人類は発展して少しづつ幸福に過ごせるようになってきました。冷害に遭遇すると贅沢を禁じて冷害に打克つように穀物を貯蔵しました。山野草も美味しく食べる方法を研究しました。最大多数を幸福にする方法を知恵と呼びその教えが大乗の教えだったのでした。
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これはNHKの16日朝のニュース宇土市役所がゴッホの絵のように捻れてしまった光景。50年も経っていたので横揺れに弱かったのでしょう。
そんな昔ながらの思考方法で”何故神様はお怒りになったのか?”考えてみました。すると、思い当たることがありました。それは今回の地震の活断層が古代からあった問題の活断層で、地震の後に水銀が発掘されたのでした。人間はこの固体と液体の中途半端な金属に神意を感じました。水銀は辰砂(朱色の原料になる鉱物)を溶かしました。辰砂を水銀で溶かして古墳の壁面を朱くしました。それは子宮の色で再生する事が期待されたからでした。仏教が伝来しました。仏様は全身が金色に輝いていました。そこで奈良の大仏も金色に輝かせたいと思いました。金を溶かすのは水銀です金を水銀で溶かして(アマルガム)銅の鋳物の大仏様の体に塗りました。
その上で大仏を温めれば水銀は蒸発しましたから。金だけがまるで金メッキをしたように残りました。
これが日本史上最初の公害でした。”民衆はどうなっても国家(朝廷)が安泰なら良い”身勝手な国家事業でした。次の公害は足尾銅山の鉱毒事件でした。これも銭を大量に作った江戸幕府が銅の精錬の為に渡良瀬川を亜硫酸の廃液で汚したからでした。
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これは中央構造線の説明図これは活断層の位置でもあってこの線に沿って水銀が発掘されました、伊勢も吉野も高野山も聖地は何れも水銀の産地でその不思議さが聖地の根拠になったと思われます。熊本の地震がこの線に沿って北上するのは予測される事なのです。
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これは吉野の丹生都比売神社です。丹生とは辰砂(朱色の鉱物)や水銀のとれるという意味です。私の家から見える丹沢も水銀に依っていると思います。
現代に思いつくのは原子力発電所です。
神はお怒りでしょう
”何故人間共は原子力発電所を活断層の上に作るのだ!。原子力は神の領域である。原子力は命の発生の秘密を隠し置いた秘密の箱で、浅知恵の人間如きが開けるものではない。秘密を守る為に放射能と云うバリアを設定しておいた。水銀や亜硫酸ガスは時間が経てば消滅してしまうが放射能は消せない。放射能は命のメカニズムDNAを破損してしまうように設計したのだから・・・・。昔の日本人は自らの過ちを認めるのに勇気が在ったし素直であったが今は違う。何度も何度も警告してもちっとも解ろうとしない。”

民衆が大切なのか民衆より国家の繁栄が優先されるのか、もう一度考えて見なさい・・・・!
今度の熊本の地震は原発天国九州への警告と思うのです。
今朝になったら14日の地震が本地震で今後余震があるとした気象庁はその誤りを認め16日が本震でした14日のは前震で予震です言い改めました。予震も余震も音では同じです。でも意味は全く違います。
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14日の地震は前震で16日の地震が本震であったと説明する気象庁(出典はNHK)
新聞社も気象庁の発表を活字にして流すだけでは無くて真面目に検証すれば良いのですが素人が心配する
”今の地震も怖かったけれどもっと大きな地震が来るかもしれない”
思えば想定外を繰り返す愚は避けられると思うのですが。

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蛇の目の呪術性

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私は鶉を飼育しています。鶉の姿が良い事と意外に啼き声が可愛いのです。毎朝5時頃夜明けを告げるように”チッチッチッ”と啼いて私を起してくれます。一昨日初めて卵を産んでくれました。実は昨秋にワイフが餌遣りで扉を開けた瞬間に古参の一羽が逃げてしまって、娘の一羽が残っていたのでした。古参の鶉は毎日1個実直に卵を産んでくれたので納豆にかけて食べて来ました。その貴重な叔母さん鶉が居なくなってしまったので、期待は娘鶉に集中していました。3月になっても4月に入っても卵を産まないのでこの鶉は果たして雌なのか?疑惑の目が注がれていました。その娘の筈の鶉が一昨日小さめの卵を産んだものですからワイフは嬉しそうでした。これで、今年は秋一杯美味しい納豆が食べられます。
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これが昨年の秋の我が家の鶉でしたが左の太った叔母さん鶉が逃げてしまいました残ったのは右の娘の鶉でしたが先週末待望の卵を産んでくれて疑惑(こいつは雄ではないか?)を見事に晴らしてくれました。
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鶉が一羽いるだけでソーメンも納豆も味が濃くなります。
ところが鶉は鶏と同じで餌を食い散らかすのです。鶉小屋の周囲には散らかった餌が飛び散ってしまいます。その餌を食べに雀が集まって来ます。雀は可愛いし鶉の孫のように見えますから大歓迎なのですが困るのは鼠です。鼠が来ると青大将も遣って来ます。青大将の大好物が鼠なのです私が庭を散歩していると”キャッ”と耳慣れない悲鳴が聞こえましたそれは青大将に呑み込まれた鼠の最期の悲鳴だったのでした。青大将は鼠を頭から呑み込んでゆきます。鼠は必死に手足を動かしますが窒息死?したか失神したか直に動かなくなってしまい最後に細い尻尾が青大将の口に隠れてしまいました。この間20分あまり青大将の丸い瞳は大きく見開いたままで瞬き一つしませんでした。私が不思議に思うのはあんなに素早く走り回る鼠が何故掴まる前に逃げなかったのか?と云う事です古代人も同じ疑問を持ったのでしょう。そして古代人は蛇の瞳に不可思議なパワーがあって蛇に睨まれると蛙も鼠も剥くんでしまって動けなくなると思ったのでしょう。
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鼠を頭から丸呑みする青大将魅入られてしまう事は青大将の瞳が瞬き一つしない事です。そして不思議なのは何時も素早い鼠が如何して頭から呑み込まれてしまったのかと云う事です。鼠は蛇に自ら呑み込まれていったか金縛りに遭ったとしか思えないのです。若しも頭から呑み込まなかったら蛇は鼠の手足で内臓を壊されてしまう事でしょう。まるで一寸法師を呑み込んだ鬼のように・・・・。こうした不思議が古墳の副葬品銅鏡を産んだのだと思います。
人間とて同じで金縛りに遭ッ田体験と同じだとい思いついたのでしょう。蛇の眼には不思議なパワー(呪術)が在ると直感しましたそこで古墳の中には蛇の眼を模した鏡を副葬しました。
私が小さい時に祖母に手を引かれて蛍狩りに柏尾川に出かけました。両の手を少し膨らませて三笠山のように丸めて掌に蛍を入れてむ
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蛍の灯は夜には青大将の眼に見間違います。
ガラス瓶に集めます。ガラス瓶の中で灯る蛍は大変に綺麗なモノでした。私が身を屈めて葦の根元で光蛍を捕まえようと手を伸ばした時祖母は慌てて私の手を抑えたのでした。祖母は言い放ちました
「其処で光っているのは蛍じゃないの、光っているのは青大将の眼だよ」
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これが丸い斑点模様が蛇の目のようだから蛇の目蝶々です。蛇の目傘やジャノメエリカなど蛇の目は多くあります。蛇の目の呪術性は大変に強いモノで畑にCDを吊るすのは大蛇が潜んでいるので害鳥や害獣が来ないように期待したモノでしょう。

私は以来蛍狩りには細心の注意を払うようになりました。
古代人も蛇の眼が光るので蛇は他界にも現世にも自由に往き来出来るモノと思ったのでしょう。そこで魂の再生を願って古墳は蛇の形にしたのでしょう。太陽は昼間の神様で蛇は夜の神様、太陽は現世の王者で蛇は他界の主であると云った発想は世界中に在ったようです。私達はエジプトやメキシコののピラミッドで太陽と蛇の関係を教えて貰っていますしってしまうと体験していました。
銅鏡のルーツは蛇の目のパワーであって三種の神器の筆頭は「八咫鏡」であって大蛇の体内に在った鏡でした。
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これが三角神獣鏡です。『魏志倭人伝』は、魏の皇帝が、倭の女王に銅鏡百枚を与えたと記されていたことと桜井の奈良県茶臼山古墳出土(箸墓に近い)から大量に出土した事から邪馬台国の奈良説の根拠とされました。この鏡はまるで蛇をМRIで横断面をとったようなもので外側が三角の鱗で中心が背骨(紐を通す)で仙人(神人)が四方に座っています、神人は中国の銅鏡の考えで生死を司ろっていると思われたのでした。 写真の出典はウキぺディア(「八咫鏡https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%92%AB%E9%8F%A1)

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里桜の不運

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4月17日テレビは朝からズット熊本地震の惨状を報道しています。画面を見ていると気分が滅入って来ます。
屹度東日本大震災で被害に遭った方々はあの時のトラウマが蘇って憂鬱になっておられるのではないでしょぷか?
横浜は朝から暴風雨が吹き荒れて電車も運転を見合わせています、例年ならゴールデンウィークの直前の今頃は海に山に行楽に出ているのに今年は生憎の自然です。窓から眺めると白い花が風に揺られています。あの木は何だろうと尋ねれば私の誕生祝に里帰りしていた娘が確認に行ってくれました。そして片手に花水木の小枝を持ってきました、早速仏壇の花瓶に活けました。
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窓から眺めると突然に庭の梅の枝越しに白い花が見えました。この嵐で梅の実も随分落ちてしまいました。
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これは仏壇横のお供え棚で此処に牡丹餅等を供えます窓から眺めた花水木に満天星の花を添えました。
夕飯の惣菜を買いに出たワイフが八重桜の花びらを幾つも拾って帰って来ました。見れば普賢象と云う名の薄いピンク色の桜です。お寺(私の生家)の参道に咲く八重桜です。花を支える柄が長いのでブラブラと垂れ下がって咲いています。屹度この大風に揺られて千切り落されてしまったのでしょう。参道は自動車も通ります。轢かれてしまえば無残です。折角咲いたの二人の目にも留まらずに潰されてしまうのは可哀想でなりません。
ワイフは其処で拾ってきてコップに活けたのでした。
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ワイフが拾ってきた八重桜コップに活けて愛でてあげました。もうじき雌蕊が象の鼻のように突出して来ます。
この大風で先日観てきた秩父清雲禅寺の枝垂れ桜も全部散ってしまった事でしょう。
今年の桜は咲きはじめが早く咲いてから花冷えした事から10日間も長い間咲いてくれました。人も桜を満喫しましたし、桜も嬉しかった事でしょう。でも八重桜は気の毒な事にイザ本番になった途端にこの嵐です。
命の綱の梢から振り落とされて、瞬く間に地上に落下してしまいました。
花の命の短い事は既知の事ですが、山桜に較べて里桜(八重桜の古名)の運命の違いが大きすぎます。
そんな意味ではもっともっと気の毒な桜があります。
福島の桜です。折角咲いても誰も観てくれません。福島の桜さんこそ一番可哀想です。”花は咲く”と人間は歌っているもののイザ自分が咲いても誰も観てくれません。
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これは藤沢の遊行寺の八重桜の普賢象です、上品な白い花と花の中心から出ている雌蕊が象の鼻に似ているので普賢菩薩が乗られる象のようだというので普賢象の名を戴いていると思います。
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遊行寺のシンボル大銀杏が若芽を出す頃里桜が一斉に咲き出します。もうじき遊行寺は開基祭ですからその準備も進んでいます。
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遊行寺の参道はかって両側を里桜が囲んでいましたから桜の花のトを通って本堂に出るようでした。古木が参詣人を怪我させてはいけないと懸念して大半を伐採してしまいました。残念でなりません
私の生活圏で一番見事な八重桜は藤沢の遊行寺さんです。石畳の参道の両側に八重の桜の樹が並んでいたので八重桜のトンネルでした。毎年若い修行僧が散った桜を掃いて掃除していましたが。石畳の隙間に散った桜が挟まって掃除を終えるのが難儀でした。そんな桜も5年ほど前に切り倒されてしまいました。古木が倒れて参詣客を傷つけたら大変といった配慮だったのでしょう。花に訊くまでもなく切り倒したのは悔やまれます。
でも福島桜よりもマシです。私は学生時代浅子先生に引き連れられていわきの白水阿弥陀堂を参詣した事がありました。先年久々に参詣した処昔は田圃だったところも含めて見事に浄土式庭園が修復され阿弥陀堂の周囲には紅枝垂れ桜が植樹されていました。何時かは桜の季節に再訪して他界の先生に、話したいものだと思って居ましたそこで今週末に友人2人と連れ立っていわきから三春に観桜ツアーする事にしました。この大風が瀧桜を吹き飛ばさないように祈っている次第です。
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これが普賢菩薩像です白い象の背中に蓮華座を乗せ普賢菩薩が蓮華座の上に坐しておいでですこれは大倉集古館のモノで国宝です出典ウィキペディア
追記:文中里桜と八重桜の言葉が混乱して使ってしまいましたが。古代に一般に咲いていた山の桜(関東なら大島桜や山桜)関西なら霞桜)に対して里の屋敷の庭に植えた桜を里桜と云います。その代表が奈良の八重桜でした。ある時、三笠山(現在の 若草山)の奧、、聖武天皇が八重桜を見つけ、それを宮中に移し 植えたら、咲いた花が余りにも美しく珍しいので、光明皇后をはじめ、宮廷人に大いに愛でたのでした。伊勢大輔の「古の奈良の都の八重桜けふここのへに に ほひぬるかな」は里桜を詠った和歌です。八重桜は山桜が5弁なのに対し花弁が多い事を指摘した名前で、里桜は自然種ではなく愛玩種である事を 指摘した名前です。



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宝ビスケットのアウトレットセール

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私の住む横浜の戸塚は食品工場が多いのです。
多分横浜新道や第三京浜が完成した昭和30年代に首都圏
消費地へのアクセスが評価されて食品メーカーが続々と進出してきたのでしょう。私の家のある地域防災拠点のエリア内に山崎製パン工場が在って緊急時支援の約束を戴いていますから万一自身が在った場合にも1食くらいは安心でしょう。山崎パンの少し北には第一パンもあります。
パン工場見下ろす矢沢の台地の上にはカステラの文明堂があります。陸を下れば紀文工場も進出しています。何処の工場もアウトレットに熱心です。普段イースト菌の醗酵する匂いでご近所に迷惑をかけていると云った自覚が在って、地元対策の意味もあるのでしょう。
食いしん坊の私ですからほとんどのアウトレットに行きました。でも一つだけ行っていないところが在って気になっていました。それは戸塚区東俣野町にある「宝ビスケットです」
国道一号線を走ると「宝ビスケット」のマスコットのアヒル君電柱看板にが架っています。多分仕入販売をトラック便に依存して居る事から運転手に的確に道案内しているのでしょう。
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これが戸塚区東俣野にある宝ビスケット戸塚工場4月12日は月1回のアウトレットセールの日で職員が駐車場の整理に販売要員に大挙参加していました。既に長い行列が出来ていて朝9時半に到着した私達でしたが1時間も行列に並ばされました「横浜ロマン」など特定の商品がどうしても欲しいのでなければ午後1時頃に到着するのが賢明だと思いました。
ズット以前宝ビスケットの守衛さんにアウトレットの日時を確認しておきました。アウトレットは毎月第二木曜日午前10時に始まるのでした。そこで4月12日(木)に出かけてみました。空は生憎の雨模様でしたがバスに乗って遥々影取のバス停で降りて龍長院(曹洞宗)さんの道を真っ直ぐ西に進めば境川の河岸段丘を下る際の位置に宝ビスケットの工場があります。この細道は原宿から折れて大山に至る参詣道ですから其処此処に不動尊や馬頭観音や庚申塔等の石仏や石神が祀られています。鎌倉古道とも交差する歴史の散歩道ですからウォーカーも沢山歩いています。最近は住宅開発も盛んですし高齢者介護施設も目立ってきています。宝ビスケットは工場の製品出荷ヤードに急遽テントを張ってアウトレット会場を設えていました。
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私の生活圏にあるローソン上倉田。ローソンのマークはブリキの牛乳函です。私は不味かった学校給食の想い出が在るので好きになれません。コーポレートカラーは良いのですが…、何時かビスケット業界もコンビニの支配下に下るような気がします。
私は終戦直後に産まれ学校給食で育ちました。食糧難ではありましたが生家が米作を営んでいましたし。野菜も作っていましたからひもじい想いはしないで育ちました。
他方学校給食は不味いモノでした。コッペパンはカサカサしていましたし。脱脂粉乳のミルクは饂飩粉を水で溶いたようなものでした。その不味さに閉口して居た時、山羊のミルクを飲んだ事がありました。私の叔父さんが栃木市郊外の山寺の住職をしていて体が弱かったので山羊を飼って生乳を飲んでいたのでした。祖母が生乳のお裾分けを受けてそれが私にも廻ってきたものでした。
少し青臭くても生のミルクの美味しさは子供心にも驚異でした。戦後米国は豊作で小麦や脱脂粉乳を戦後援助物資として日本に贈られたものでした。米国にすれば国内の農業支援であり日本の学童に家畜の餌を与えるようなものだったのでしょう。私達はこの饂飩粉ミルクを飲めば米国人のように大きな体になれるんだと教えられて鼻をつまんで饂飩粉ミルクを一気飲みしました。あの頃のお菓子と云えば何といってもビスケットがナンバーワンでした。動物ビスケットやABCビスケットを嬉々と食べていました。今ではそんなビスケット会社の大半が消えてしまった中で、宝ビスケットは今なお善戦し一線で活躍しているようです。
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宝ビスケットのアウトレット会場は商品の出荷ヤードであります。皆試食しながら進むので中々レジに辿り着けません半日仕事です。
会社の沿革を調べるとhttp://mrs.living.jp/yokohama/shopping/reporter/1910863昭和21年(1946年)創業と云う事なので私と同じ歳になります。これは少し難儀はしても食べなくてはなりません。
キャラメルコーンを主製品とする東ハトは民事再生手続きを進めて来ていましたが、先般山崎製パングループの傘下に入って再建の道を辿る事になりました。
ATTが進んでビスケットは現在の関税率20%の壁が取り外されます国内メーカーの環境は一層難しいモノになるでしょう。主力販路がコンビニである以上販売力のある大手の系列化が進むのは必然で外資の進出も増えるでしょう。宝ビスケットが今後とも生き残るのは棘の道と思われますが。食は文化でありとりわけお菓子は嗜好品ですから・・・色々あって欲しいモノです。ロッテやグリコや森永そして明治ばかりでは面白くありません。宝ビスケットにエールを送るのが浜っ子の心意気です。気儘に試食しながら適当にスーパーの買い物籠に投げ込みました。それでも、1キロ弱総額1000円弱を買い込みました。40年前父に連れられて御徒町駅前の”仁木の菓子”に買い出しに行った時の様な状態になりました。家では豊島屋のハトサブレーの函に詰め込みましたが、入りきれません。これから半年間はお菓子を買う必要は無さそうです。
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宝ビスケットのアウトレットセール会場風景皆試食しながら買い求めるので中々行列が進みません。この日は雨模様なのでテントを張っていました。
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11時過ぎのアウトレット会場私が並んだ10時は一番混雑するピークで12時前後が買い安い時間のようです。
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宝ビスケットの定番グラハム(二枚のビスケットで人気のバニラクリームかチョコクリームを挟んだもの)で今日はお三時です。300円で500gもあるのでもう向こう半年間のお三時は在庫充分です)総じていえば市価の6掛け(4割引き)の価格設定でしょうか・・・・。安いというより地域支援の心意気です。私達は人気商品「横浜ロマン」は買えませんでした。

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雪形の間違い

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私はお世話になっているデーサービスのお献立ボードを飾る絵を描いています。先ずはどんなものか下の写真で見ておいてください。
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これは3月の献立表のボード。鳥取の流し雛に次の句を添えてみました ”何時までも雛見送りて寧(やす)かれと”
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これは現在使われている4月の献立ボードです明科聖高原の入学式風景をイメージして描きました。
句は次のように添えました瞳似の孫は今日から一年生
因みにこれを始めたのは昨年12月でした次が最初の作品です雪の白川郷にトナカイのそりを描きました。この時は句は未だ添えて居ませんでした。でもこれが思いの外好評でもう一枚描いてくれと頼まれもしました。誉められるとその気になるのは生まれつきの性格で段々熱を帯びて来ます。
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これが献立ボードの始まり白川郷にトナカイでした。この写真は追加注文で作成したものです。

翌月のボードを描くのに1箇月の余裕がありますからその間に構想を煉って皆が悦びそうな絵を描きます。今は5月の絵を作成中です。
5月と云えば鯉幟です。私が脳梗塞を発症した3年前の5月に友人4人と安曇野に水鏡を観に行きました。期待通りに田植えが始まり水田には北アルプスが水鏡していました。私達は村外れの道祖神を探して巡りました。田圃の畔には花菖蒲が咲いていました。遠くには鯉幟が山風をはらんではためいていました。
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日本の田園の美しさを代表する水鏡の張った安曇野このイメージを5月の献立ボードの絵にしたいと思ったのでしたが・・・・。
描いて暫くの間眺めています。眺めて居る度に構想がドンドンチェンジして行きます。先日の大雨の日に思いました「今年は春が早いので穀雨かも知れない」
朧月夜になると翌日は雨が降ってその雨が穀物には恵みの雨になるので穀雨と呼ばれるのです。
快晴で鯉幟と水鏡のイメージは朧月夜で夕暮れ子供は遊びに夢中で夕飯の用意が出来たので末っ子が”御飯よ・・・”呼びに出てくる光景にチェンジしました。最初に昼間のイメージで描いていたので夕暮れにするのは簡単です。紫色の水彩絵の具をクレヨン画の上に乗せれば夕暮れに場面変更が実現しました。
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これが製作途上の5月の献立ボードの絵です。田圃の細い畦道に牛が悠々と草を食んでいるので怖くて通り抜けられなかった想い出を画面にしようとしました。遠景の北アルプスに浮かんだ雪形を陰影で描いてしまいました。そこで慌てて雪形を本来の残雪で陽影に描き替えました。お蔭で一時は白い馬と黒い馬二頭が北アルプスに出来てしまいました。句は”薫風に泳ぐや鯉に花菖蒲”としました。

向こうの山は北アルプスですアルプスに「雪形」を描きたいと思いつきました。安曇野でも隣の白馬でも残雪が馬や兎の形で現われると田植えを始めるのです。山の神が田に下りてくる先駆けを雪形と信じていたのです。私は素晴らしい知恵だとかねがね思って居ました。だからどうしても雪形を書き加えたいと思ったのでした。そこで最初の前穂高山と思って描いた山のお腹に紫の水彩で馬を描きました。出来た絵を眺めていて気づきました。雪形は雪の残した影では無くて残雪そのものの姿で在る筈だったと紫の水彩で描くのは間違いで白く残さなくてはならないのでした。そこで急遽変更です。雪形の位置をずらして画面の中央にしました前穂高山の中腹に描いた馬は山蔭に変更です。最後に霞を描きます。霞は適当に山裾にパステルで描けば出来上がりです。クレヨンにに水彩に最後にパステルを加えれば再三の構想の変更にも耐えて5月の献立ボードの完成です。
皆が何と評価するか今から楽しみです。こんなチャンスを与えてくれたデーサービスにも感謝です。
五月が完成したらもう6月の構想を練るのです。
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これが試行錯誤を繰り返して完成した5月の献立ボードの絵です。パステルが飛び散らないようにニスで固定させて完成です。
そんなこんなで絵の構想は日毎に変化します。出来栄えはともかく自己満足の塊ですがボケ防止には有効なようです。

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色々な大根の花

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お刺身も天麩羅も御蕎麦も大好物です。でも美味しいからと云ってお刺身ばかりは食べられません天麩羅もそうです。時々大根に箸を移さなければ飽きてしまいます。大根程主役を引き立てる野菜はありません。と云って風呂吹き大根やおでんやブリ大根では大根単体でも主役を張れます。万葉の時代から大根は愛されてきたのでしょう。施餓鬼の精霊棚でも神社の新嘗祭でも神饌(しんせん)として三宝の上に恭しく載っているのは大根です。神前に少し太り気味の巫女さんが大根を神前に供えるのを見ていると私の視線は上に(三宝に)下に(巫女さんのおみ足に)キョロキョロしてしまいます。屹度万葉人も同じでドッチの大根も大好きだったのでしょう。

デモ畑の大根はソロソロ夏野菜に場所を空けなくてはなりません空しく花を咲かせるだけです。
花を咲かせればご自慢の太い根っこも中はスカスカで美味しくないのです。そこで引き抜かれて放って置かれて畑の肥料になるばかりです。何処か哀れを誘います。でも種をつければ翌年も生育します。大根も菜種と同じ十字架(花)植物ですから種を絞ればオイルがとれます。菜種油が菜の花の種からとるのに対して殆ど総ての野菜の種からオイルがとれます。大根の種からもサラッとした無色無臭のラディッシュオイルがとれます。
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これが大根の花です。色が白いだけで十字の花弁は菜種と同じです。菜種が咽かえるような女性の匂いなのに対して大根の花はサッパリとして無臭です。
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大根の花に寄って来るのは紋白蝶です。菜種は強い匂いを発して遠くからでも蜜蜂をおびき寄せるのに対して嗅覚の鈍い紋白蝶を呼ぶのが大根ですから白ければそれで十分なのでしょう。
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食べ頃を過ぎて畑に放って置かれた青首大根夏野菜の肥料になるだけで哀れです。手前は次の畑の主役のブロッコリーです。

一方野生種の大根の代表は浜大根です由比ヶ浜にも三浦半島の諸磯の浜辺にも浜大根は群生しています。浜大根の花弁は白が基調ですが紫が花の芯に宿っています。純白の大根よりも野生の方が心惹かれるのは光源氏と同じ遊び心でしょうか?私は何時も穀雨の季節になると由比ヶ浜に浜大根の花を観に出かけます由比ヶ浜の浜辺の隅には浜大根が自生しているのです。梅雨明けには浜辺の主役を浜木綿や浜昼顔に譲らなくてはなりません。主役を張れるのは穀雨から七夕までの束の間なのです。サーファーは夏を待てずに海遊びに夢中です。そんなサーファーたちを横目にお嬢さんが潮騒を聞きたくて浜辺に仰向けに寝ています空を見れば夢が見えるのかも知れません潮騒は心臓の鼓動と一緒で癒してくれるのでしょう。浜大根の花はお嬢さんの情を掻き立てるのかも知れません。夏になれば恋も燃え上がる事でしょう。
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穀雨を過ぎて七夕までの束の間に咲き誇る由比ヶ浜の浜大根の花
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由比ヶ浜の潮騒を聞きながら仰向けに寝てしまったお嬢さん。サーファーもカラスも彼女を見向いていないようです。
戯れに浜大根の根をひきぬいてみると根は太いモノの髭根でとても抜けません。悔し紛れに茎を齧ってみれば辛いと云った期待は裏腹に苦いだけです。
諸磯のバーベキュウをした後では肉は用意したものの野菜は忘れたそんな青年が浜大根を引きぬいで食べようとしたのでしょう。根も茎も散乱しています。屹度余りの苦さに思はずぺッ・ペッと吐いたのでしょう。浜大根の精は屹度呟いた事でしょう。野生の女はそんなに甘くは無いのよ・・・。と
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これは由比ヶ浜の浜昼顔の花です。
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手前は由比ヶ浜に咲く浜木綿の花正面は材木座海岸に近い光明寺の大山門が見えています。



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罪を背負ってくれる花ならば(十字架植物)

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昨日は大好きな大根に因んで「大根の花」を書きました。
書き終えてブログにアップした途端に一つ疑問が生じました。大根は何故にあんなに苦いのだろう。そして十字架植物なんていう罪深い名を被せられたのか?
苦い辛いは大根の立場に立てば虫に食われないためでしょう。クレソンだってワサビだって辛いのは虫に食われないためでしょう。キャベツを食べる時虫が付いているキャベツは甘いと思って間違いありません。
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これは鎌倉の貞宗寺の花大根です。この植物は所謂救荒植物(飢饉の時にも食べる植物)で軍師の諸葛孔明が栽培させたことから諸葛采とも呼ばれます。貞宗寺には見事な紫木蓮があって樹下に花大根が咲いていたのでしたが近年檀信徒会館鵜を新築されたのでこの夢のような空間は無くなってしまいました。
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この花大根は鎌倉の浄智寺さんの境内(境内と云うよりお山です)雑草にも負けないし病虫害にも強いので救荒植物には最適です。中華料理では油炒めで食べます。
『一寸の虫にも五分の魂』と云いますが「一寸の虫にも甘い辛い」が解るのでしょう
東日本大震災の直後”除染の為に向日葵を植えようと云った運動が盛り上がりました。.
”チェルノブイリでは向日葵を植えた効果で放射能の除染が進んだそんなアナウンスをした報道機関が在ったのでした。
それが今では福島の現状はと云えば向日葵が話題にもなりません。僅かに除染に菜の花を栽培しようと云った運動が在るだけです。
インターネットで調べてみると水耕栽培なら放射能を向日葵は除染するものの土を汚染した放射能は土の金属と化合してしまうので除染できないのだそうです。
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此方は鎌倉の東慶寺門前の花大根蓼に似ていて如何にも苦そうな表情をしています
東電も政府も福島の純朴な農民の為に真剣に除染プロジェクトに取り組むのが贖罪と云うものでしょう。
東電は帰還できない人の農地を借り上げて除染植物を栽培して貰い、その収穫物を買い上げるのが誠意と云うもののような気がします。除染活動をしないのは不誠実極まりません。
東電は既に十字架に磔になったようなものですから除染プロジェクトを福島農民の許しを請う姿勢で取り組むべきであります。ところで十字架植物が総じて苦かったり辛かったりするのは地球を放射能で汚した罪悪を神に許しを請うチャンスが潜んでいるからではないのか?と思いました。
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これは遊行寺の放生池の縁に自生しているクレソン(和蘭芥子)こんなものを食べる虫も居るんだ!驚いて観察しているとどうも次の写真の蛇の目蝶々の幼虫のようでした。
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クレソンの花も十字架です。花に寄って来たのはもうボロ・ボロの蛇の目蝶々でした。
十字架植物の代表菜の花を栽培してバイオエネルギーにすれば除染と省エネを一石二鳥で行えるような期待を持ったのです。菜種油をバイオガソリンとして使えば大気汚染の原因にならないのか?疑問はありますが大丈夫だそうです。
福島県を菜の花で真黄色にして”幸せの黄色い菜種”にしてみれば如何なものでしょうか?
十字架は人間の欲望の為にキリストが原罪を背負われたと云った教義から若しかしたら、十字架植物が人間の罪を解いてくれるチャンスを隠し持っているかもしれない」と思ったでした。
そんな話は『風の谷のナウシカ』で読みました。人間が世界征服を目論んで放射能兵器(巨神兵』を操ります。世界は放射能で汚染されます(腐海の毒)。放射能(腐海の毒)を除去してくれる昆虫が(オーム)が出現します。ナウシカの勇気と愛情がオームに通じてオームは除染してくれて世界は清浄に戻ります。
十字架植物に除染する能力が潜んでいるかもしれない思ったのです。以上漫画的な発想で効果があると云った科学的な根拠やデータが在る訳ではないのですが・・・。
そんなことを真剣に実施する人が居るんですね次のNPОが実施して”菜種を育てて除染しよう”と云った運動を真面目に実行しているのです。(http://saigaijyouhou.com/blog-entry-5680.html)

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風の谷ナウシカは放射能汚染を除染するお話でした。放射能を除染する能力を持ったオームはナウシカの勇気と愛情を理解してナウシカの導きに従って風の谷にやって来て村を放射能の毒から救済したのでした。それは黄色い平原でした。

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これはワサビの花ですこれも十字架植物です。

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花が咲いたら(磐越花紀行1/いわき龍門寺)

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昨年の春は日本文化研究会ОB会の仲間20名と奥吉野の観桜ツアーに行きました。今年は何処に行こうか?正月に考えましたテレビではフィギュアスケートの羽入選手が復興支援ソング”花が咲く”に乗って華麗にそべっています。”花は咲く”は美しいメロディーです気ですがそこ歌詞に不可解な部分があります。
花は 花は 花は咲く
いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く
私は何を残しただろう
歌詞は美しく咲く花に託した応援なのでしょうが。最後のフレーズ”私は何を残しただろう”は応援には響きません。
”貴方は何を残しましたか?”尋ねられて胸を張って答えられる火は稀でしょう。私は答えに窮してしまい”精一杯やったのでしたが、唯運が悪かったそれで何も残せませんでした。”呟くだけです被災された人も多くが故郷の美しい山河を観ながらに、運が味方しなかと涙するだけでしょう。私は何を残しただろう”は被災者にとってはむごすぎるフレーズです。
官製応援ソングの欠点でしょう。反感を持っているのは私だけでは無く、花そのものも思って居るでしょう。折角精一杯最多の二誰も観てくれない、誉めてくれない”恨み辛みも言いたくなるのではないでしょうか?ならば福島に桜を意味てあげよう”思っ磐越桜ツアーを企画し、ました。今回も同期の4名と一緒逢うる予定だったのでしたが。肝心の親友М君が首を痛められて同行できませんでした。М君は今年は”御柱祭り”で盛り上がった諏訪大社の小山の育った人でしたが、磐越地方にもその末社が多くあります。そんな話もしたかったのでしたが、3人で2泊三日の旅を終えて昨晩帰宅しました。
今回のツアーは”花が咲いたら観てあげよう
折角精一杯最多の二放射能汚染で誰も見てあげないのでは桜さんに申し訳ない”そんな気持ちで磐越の桜を見て回る事にしたのでした。
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今回は”山に咲く桜を観てあげよう”と云ったツアーでした、。これは21日の朝一番に白水阿弥陀堂を出て戻る時に観た阿弥陀堂の向かい(南側)の自然山林です。鶯色と濃い緑とピンクの山桜と白い大島桜が濃き混ぜて美しいと思いました。

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これは徳一上人の遺跡を巡ろうと四倉から玉山鉱山の裏にある八茎寺に行こうとした時に観た景色です。右奥の杉山の向こうに八茎寺が在ると期待したのでしたが道を登ると右が二葉町左は小野町に繋がる筈でしたが。右も左の通行規制(放射能の為)されていました道路斜面にはウドもタラの芽も見捨てられていました。

知的好奇心では先ずは古代の徳一上人、2番目は中世の山椒大夫安寿姫と厨子王丸の軌跡を観る事でした。
いわきの地名は中世の初頭にこの地を治めた磐木(いわき)氏の名に由来します。龍門寺は岩城の国主岩城氏の菩提寺です。私達は磐木の名は安寿と厨子王丸の父親が磐木の判官であった事を知っています。あの悲しい物語はこの地がルーツで、安寿姫と厨子王丸は母親に手を引かれて磐越道を越後まで歩き、親不知沖で人買に浚われ遭難してしまいます。

私達は磐木駅に降りるとレンタカーに乗りかえ磐木氏の菩提寺龍門寺の門を潜りました。私達に気付かれた住職さんが庫裏から出て来られました。
私は大きな声でご挨拶して住職さんの立ち姿の美しさに私は思わず合掌してしまいました。私は昨今お坊さんの動作が自然になって来たようです。
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これが磐木の名のルーツである磐木氏の菩提寺龍門寺の山門です。立派な仁王像が迎えてくれました

「私の従兄弟に福島信夫山の麓に古舘鎌秀院(れんしゅういん)があります。」話しますと。
鎌秀院さんならお世話になっています息子さんも立派に晋山されましたよ。(晋山とは曹洞宗のお寺の住職になるために充分に修行を積んで、寺の住職となるためには、所定の修行を積み、資格を得たと判断され曹洞宗管長より住職の辞令が交付されたこと)。ならば貴方は竹内さんですね。
「そうです。横浜の盛徳寺の三男として産まれましたが、還暦を過ぎてから仏心が湧いてきて、今回は花を観てあげよう思ってこれから三春まで旅をします。」
「ところで。此方は磐木氏の菩提で居られましたなら安寿と厨子王丸の記憶に繋がるモノはおありですか?」
残念ながら当寺にはありません三春の天寧寺さんにはお地蔵様が残されていますよ。この庭の桜も三春滝桜の種ですよ。今年も見事に咲いてくれました。
「此方は震災の被害も無かったようで良かったですね?申し上げれば、)対先年まで瓦屋根だったのでしたが、銅板葺に変えた直後に震災が遣って来ました。瓦のままでしたら本堂は倒壊していたかもしれません運が良かったと思って居ます。山門も随分揺れて台座石と柱は5センチも外れてしまいましたが屋根が茅葺で軽かったのが幸いしました。
そして本堂の扉を開けて内陣を見せてくださいまあした。私が首からカメラを吊るしているのをみて写真を写しても良いですよ言って下さいました。
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前面が11間もある立派な本堂の入り口右に「立春大吉」のお札が貼られてありましたお天気も良いし今年もこのツアーも吉続きのような期待が膨らみました。
私達が本堂に登っているのに気づかれて御子息が来られました。
この人は信夫山の鎌秀院竹内さんの従兄弟だそうで、竹内さんは息子さんの晋山も終えられて」言って戴きました。従兄弟でも私よりは10歳も年下でしたが親しい間柄です。ちなみに晋山とは充分言修行を積み人格識見とも住職として認められると曹洞宗宗務管長に認められた人の事です。こうして従兄弟が誉められると嬉しくなってきます。ご住職は息子さんへのエールも在ったのでしょう。
私が副住職とお呼びすると少し気恥しい風でした。私は葵坊主頭が可愛らしく眺めたのでした。
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龍門寺の本堂左に座っておいで方がご住職ご本尊は釈迦如来でしたが欄間の彫刻(中央が龍右が獅子)が見事でした。
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欄間の彫刻の獅子
私達は数年前会津の勝常寺に徳一上人を偲びました。その後最初に行う儀式が「晋山式」初代朝義氏公が施御朱印70石の寺領を受けました。
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本堂から山門を眺める。5センチも柱がズレてしまったそうですが山門に傾きや歪みは無いようです。
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台座から柱が5センチもズレテしまったと云われましたが既に修復は終えているのでしょう。ピッタリ正位置に柱は立っているようでした。
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これは迫力の仁王像(写真は住職に戴いたパンフレットをスキャンしたものです)
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これが三春滝桜の子だそうです。今年も見事に咲いたそうですが既に葉桜状態でした。これで樹齢50年だそうです。滝桜の種は成長が遅いようです。明日21日に三春に泊まります是非とも散らずにもっていて欲しいと願いながら。瀧桜の若木を見詰めました。
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これは昭和36年に三春の瀧桜の実生桜を植樹したものだそうです。写真の出典は上と同じです。
 
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此方は磐木と三春の中間に位置する小野町(小野小町の生誕の地と言い伝えられるの夏井の千本桜です。桜は娘鯉幟は男の子青空ならもっともっときれいだったでしょう。この道を古代徳一上人は会津に向かわれ会津に仏教の理想卿を築かれました。中世には安寿姫と厨子王丸が京に向けて歩を進めました。
そんなことで2泊三日で磐木から三春まで桜を探しながら古代と中世の文化を訪ねて帰ったのでした。今日からしばらくの間その紀行記を書きます。
実は予め言っておくと三春の瀧桜は既に終わっていて地元の人に訊けば今は会津が満開だから猪苗代湖の湖畔の桜を観に行けと奨められました。これから桜前線を追う方は会津から米沢蔵王山ろくに向かわれることをお勧めします。
いつか三春から会津坂下更に朝日連峰の麓を米沢から最上川に沿って大石田から天童に桜と共に北上してみたいものです。

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幻の八茎寺(磐越桜紀行2)

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磐木の源になった磐木氏の菩提寺龍門寺を辞していよいよ四倉の山奥に八茎寺(はっけい寺)を目指して出発しました。その途中三島八幡宮を詣でました。伊豆の三島神社の末社というよりも源氏(八万太郎義家)を祀った神社の意味でしょう。”屹度道に迷うだろう”予感がしたので、道路地図をプリントして来まあした。
先ずは八茎村の公民館を目指して其処で聞いてみる事にしまあした。私はカーナビの画面を見詰め、後部座席のI君はタブレットPCの位置情報を確認しています。6個の眼でっ確認しながらの八茎寺詣でです。
”何故に八茎寺を詣でるのか?”答えは明解です。古代末期に徳一上人が下校して此処に寺を創建したからです。
私達は会津の坂下に勝常寺や磐梯山の中腹に恵日寺を観て回りました。国宝の薬師如来の暗闇の中に徳一上人の像を確認しました。徳一上人は会津に奈良にも劣らない仏の国を作ったのです。徳一上人が福島に仏国を作った知恵の多くは医療や薬草の知識だったのでしょう。何処もご本尊は薬師如来です。磐木での三薬師霊場がありますがその筆頭が小此れから詣でる八茎寺なのです。
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これが八茎寺の仁王像寄木造りの木芯だけが残されて寄木の大半が紛失してしまったもののお顔だけは今も残って阿形吽形の仁王像であった事を伝えています。この写真が私を誘っていたのでした。写真出典茨城県郷土文化振興財団http://ibabun.com/aruku21.html
ようやく八茎公民館にを探し当てました。焼亡倉庫はありましたが公民館の建物はありません。民家の前の畑で種蒔きをしていた農夫に確認しました。
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八茎公民館前の民家で農夫に八茎寺への道を教えて戴きました指さしたお山の先に八茎薬師が祀られていると教えて戴いたのでしたが・・・・。
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勝常寺の徳一上人像、下の国宝の薬師如来像の陰においでです。木芯の上に木糞漆を上乗せした像のようですが傷みも進んでいます。それでも強い意志力を想わせる面相で居られます。今回の旅行では高蔵寺で徳一上人像を排する事が出来ました。写真出典湯川村ホームページhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%BE%B3%E4%B8%80%E4%B8%8A%E4%BA%BA&search.x=1&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
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これが会津坂下の勝常寺の薬師如来像この大きな像の左月光菩薩との隙間に上の徳一上人像が座っておいでです。写真出典同上

【徳一上人について】
徳一上人は奈良興福寺に居た法相宗の僧密教が盛んになる時代で最澄との間でやり取りされた三一論争(教義論争)に敗れて(嫌気がさして)下向します。
茨木から磐木更に会津に行って布教に成功します。
国宝の点数では京都に次いで多いのは奈良此処までは当然として第三位は東京では無くて福島なのです。
福島に国宝が多いのは徳一上人の活躍に依るモノなのです。
教義論争とは最澄の教えが法華経に依っていて、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には悟りを得られる)と説く(一乗説)に対して徳一さんは三乗は一乗を導くための方便と云い小乗こそ大事である、”小乗こそ大事”である事を理解するには大乗と小乗の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説きました。同じ宗教内の対立程悲しい事はありません。キリスト教の教義対立は百年戦争の原因になりましたし。イスラム教の対立は深刻です。「どちらが正しいか?」論争は往々にして自分の方が宗祖の教えに近いと主張し「原理主義」を標榜します。時代は刻々と変化します。末法の時代には密教こそ人民を救済する方法だったのでしょうが、徳一さんは個人の修行こそ大切で個人を救えなくては何も始まらないと教えたのでしょう。
個人の自覚を重んじる現代は最澄さんより徳一さんを評価するかもしれません。
私のように病気になると自分の健康になりたいと云った意志力が無くては病気は治癒しません。大乗も小乗の自覚や努力が在ってこそでしょう。
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此方は磐木の湯本に近い高蔵寺三重塔の1層におわす徳一上人像、紀行では最後に参詣しました。
すると農夫は丁寧に教えてくれまあした。焼亡小屋の三叉路を左に回って上り坂を登り切ったら左折その次を右折道なりに行けば集落の共同y墓地に出るから其処で車を降りて歩けば300mで八茎(はちくき八茎)寺ですよ。
私は八茎(はっけい」ではなくて八茎(はちくき)である事を知りました。横浜で八茎(はっけい)といえば八景で景色が良いとの意味です。茎なら薬草の意味のようです。屹度八茎寺とは薬草の獲れる寺の意味なのかもしれません。

私達は八茎公民館前で叔父さんに訊きました。
「八茎寺(はっけい寺)さんへの道を教えてください」
私達は叔父さんの云われる通り道を確認しながら出発進行しました。
坂を登りきると広い広域林道に出ました左は小野町で右は南相馬です。どちらに行こうとしても進入禁止の柵が張られていました。
四倉小野間の道路は汚染地域を走るので進入禁止なのです。農夫の云った通りに右折して急な坂道を登りました。しかし次の目標共同墓地は見当たりません、また民家に入って確認しました。少し戻って今度は左折しろと伊の事でした。
「其処は舗装道路ですかこの車で上れますか?」念押ししました。
舗装道路医で乗用車でも登れる確認しました。農夫の傍らにはタラの芽が芽吹いていました上手そうです。
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細道を登りきると四倉小野の立派な林道(?)に出ました。八茎寺は正面の山に向けて杉林の横を登った先と教えられました。
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立派な林道を小野町方向に行くと直ぐに進入禁止になっていました。
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八茎寺麓の自然林山桜が盛りでクヌギが一斉に新芽を出していました。東京では桜が散ったら若葉が突然に街を覆います”聖子ちゃんの若葉が急に街に溢れだし”です。見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける/素性法師 古今和歌集を思い出す美しさです。”見渡せば桜若葉をこき混ぜてやまづとぞ春の錦なりけり”と云った景色でした。
Uターンして再度出発進行です。運転席からは右側の舗装面が見えます。舗装のアッチコッチが割れて崩れそうな気配だったのでした。屹度震災の後こんな細道までは改修の手が回らないのでしょう。車は左側に寄ってしまいました。道路左のU字溝に脱輪してしまいました。私は脱輪事故は成れています。右後輪に丸太を突っ込むことを提案しました。見れば間伐材が伐採されたまま放置されています。I君は腐りかけた間伐材を避けて堅そうな丸太を運んできました。丸太を二本右後輪にあてがってユックリバックした処脱出に成功しました。レンタカーですから木津の状態を心配しましたが全くの無傷でした。
腹も空いて来まあしたし。此処で八茎寺参拝は断念する事にしました。そこで八茎寺の小山に手を合わせて次の目的地四倉港に向かう事にしました。
徳一上人が”再度参詣しなさい、それまでは命もあるよ・・・・”云われて居るような気がしました。

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脱輪現場から慎重にバックして戻りました。道路の谷側のアスファルトが割れ目だらけで山より(写真の右)に寄りすぎたのが脱輪事故の原因でした。  

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実は此処に私は10代前半に何度も来ているのです。
私の叔父さんが早稲田大学の理工学部鉱山科を卒業し日本鉱業に入社して此処の玉山鉱山の技師として働いていました。
私の祖母は一番可愛い(気が良い)嫁さんだという事でこのサラリーマンの家に遊びに行きました。その他の息子は総じて婿養子としてお寺の住職に収まっていましたので、祖母にすれば住職の母堂と云えども窮屈な気がしたのでしょう。
日鉄鉱業の社宅は玉山温泉を見下ろす位置にありました。夏には四倉の海水浴場に遊びました。
秋には社宅の裏山にキノコ採りに春には山菜取りに出かけまあした。叔父さんはこの地面の下数百メートルで「採掘しているのだよ、鉱山を見せてあげる」云われて、ジープに乗せられ玉山鉱山の竪鉱に連れて行かれエレベーターで地下深くを見せて貰いました。
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 これがスカルン鉱床の代表的採鉱石の柘榴石です。地底のマグマが地殻を割いて噴出してケイ酸塩鉱物となったものです。出典ウキペディア
私の生家には鉱石がゴロゴロ転がっていました。鉄や銅は唯の石で特段の印象は無かったのでしたが子供心にも綺麗な意思がありました輝石と云われる結晶のある石でした。所謂ケイ酸塩鉱物で柘榴石や水晶等を観て遊んでいました。玉山鉱山は日鉄鉱業が採掘したスカルン鉱床でした地球の深部にある熱いマントルが地殻の割れ目から熱水を吐き出すと石灰岩と交代して炭酸塩岩となり、炭酸塩岩が輝石や柘榴石等の結晶を残すのでした。
叔父さんこの石なら本堂の床下に転がっていたよ・・・・・!
私は云いました。おじさんは
「私がリュックに担いで持ち帰ったものだよ。山路や峠道を歩いていても岩を見つけると割ってみる、貴重な鉱石や宝石を発見する事が出来るんだよ」。
その後この叔父はブラジルに行ってしまいました。

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これは玉山温泉の藤屋さんこの旅館の庭に卓球台が置いてあって私は其処で遊んでいました。私の生家にも卓球台が在って風が吹いて居たり不規則に弾むボールへの対応が上手でしたのでここではチャンピオンでした。昭和30年代は湯治婆温泉でしたがずいぶん立派になったものでした。
日本の国は地震が多いのは災難です。
でも地震があるから鉱物も金も銀も銅も産出しますし日本海溝にはレアメタルが堆積していると聞かされています。災難は時々遣って来ますが恵みは長いモノです。
地殻には幾つも断層が走っているお蔭で温泉もあるし、鉱物にも恵まれています。
多分昭和30年代後半鉱山技師を粗末にしたのでたいした地震学者が育たなかったのでしょう。叔父が地震の方に転進して居たら役に立ったと思います。
エレクトロニクス産業の退潮もその技術者を粗末にしたので、彼等を優遇した韓国や台湾の企業の支配下に陥ってしまったのでしょう。
日本の国土には無数に活断層が走っていると聞かされています。
でも地殻の割れ目に金を始め貴重な金属が堆積しているのです。
此処は阿武隈山系の東の際です。あぶくま洞も近い事からスカルン鉱床が在るのは必定だったのでしょう。

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八茎寺に行く道をUターンして四倉港に向かいました。放射能さえなければ福の満ちる里です。耕作して出来る作物は懸念はあっても食べているのでしょう。こういった風景を見ていると眼に見えないものには注意をしなくてはならない。解らない事(原子力)には手を染めてはいけないと思うのです

私達は八茎寺詣でを断念して四倉港に向かいました。60年前海水浴した砂浜は津波でどうなったか気になっていたのでした。
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 磐越桜紀行3(四倉港道の駅)

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四倉[ よつくら)に向けて浜街道を(国道6号線)を北上します。交差点の信号に三倉と書かれていました。
冷害が多い地方でしたから,倉を幾つも整備したのでしょう。私の町も上倉田で隣は下倉田です。皆で倉を整備して冷害や飢饉に備えようとする知恵は大乗の教えです。個人で備蓄するのは小乗の知恵です。
”小乗こそ基本だ”主張された徳一上人が開いたお寺がハチ茎寺でした。
八茎からに東に進んで常磐道の下を潜れば太平洋が見えます。其処が四倉港で隣には海水浴場が在った記憶です。
四倉港から浜街道(国道6号線)を北上すれば隣は楢葉町でその北が福島原発の立地していた大熊町双葉町です。原発を破壊した津波は四倉の港も襲ったのでした。原発の北や北東の町は今も帰還困難地域です。あの日(3月11日)は南風が吹いていたので、放射能は風下の南相馬から浪江町飯館村に流れました。風上の四倉は軽傷で済んだのでした。懐かしい四倉は復興も早く進んでいるようで、自分の目で見ておきたいと思いました。若しも1月早く大津波が襲っていたら、磐城も四倉も放射能で汚染されて50万人も人々が流浪していたことでしょう

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これは現在実施されている放射能汚染による規制区域図です。風向きが北西であった事から岩城も日立も更には東京も軽傷で済みました。自然現象に日向と日陰(陰陽)があるように3.11の風向きが陰陽を分けたのでした。
道の駅「四倉」でランチです。施設に入ると200万人入館の横断幕が懸っていて復興のパッションと勢いが実感できました。セルフスタイルの食堂はほぼ満席の活況でした。私達は人気№1の海鮮丼(千円)を注文しました。こうやって3人で食堂で食べていると学食に居るような気分になって来ます。
建物の壁と云う壁には地域の文化財や催事案内が貼られています。
窓の外に広がる砂浜は凧揚げに最適なのでしょう。凧絵が目立ちますもうじき諏訪神社の春の例大祭のようです。お神輿が海に入るのかも知れません。でも担ぎ手が不足しているようです。担ぎ手募集の案内は茅ヶ崎や江の島のお祭りと事情は変わらないようです。
1階は物産の販売に使われていました。私達は今晩の酒の肴を探して陳列商品を見て回りました。この季節目に留まるのは山菜です八茎山で観た蕨もゼンマイもタラの芽も売られています。でもどの山菜も「新潟県産」と案内されていました。私でさえ上流が帰還禁止区域なら下流の町の山菜は汚染されているかもしれないと思います。地域愛が強くても放射能の汚染は避けたいごく自然な感覚です。四倉漁港と海水浴場の砂浜との境に河があります。その河口で工事が進んでいます。大型クレーンにダンプやコンクリートミキサー車が頻繁に出入りしています。訊けば水門工事だそうです。四倉から小名浜塩屋崎の海岸はズット防潮堤の工事を進めていました。砂防林を防潮堤に変えているのです。白砂青松の海浜は万里の長城のような防潮堤を築いているのでした。
”津波は怖い”痛い程身に浸みました。でもコンクリートの防潮堤で海との関係を断ってしまう事には疑問を持ちます。そもそも生命は波打ち際で産まれたものでした。その波打ち際を否定する行為は自己否定に通じます。海の恵みを感謝し同時に津波を避けるそんな知恵は無かったのでしょうか?この防潮堤工事は日本人の自然への不遜を感じます。その身勝手さは既に諫早湾の河口堰問題で経験してきました。
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四倉の海水浴場子供遊具とカラフルなテントがありました絵は四倉は海の幸富山の恵みが豊かな郷土とアピールしています。私達はパビリオンは子供遊園地と思って入りませんでした。改めて眺めてみると津波の惨劇と復興方針を説明した施設かも知れない、思いました。
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窓の外では水門工事が進行していました。水門の先防潮堤の高さは10メートルだそうで、震災の時の津波は7メートルでしたからこれで十分な高さなのでしょう。この高さで小名浜から塩屋崎更に北茨木と延伸させるのでしょうか?
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道の駅「四倉」の食堂から東南方向を見る。遠くの岬は塩屋崎です。
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地域情報コーナー来館者200万人の張り紙に熱意が感じられました。
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岩城の凧絵だそうです。鯉に腰を下ろした小町娘でしょうか?凧では風に吹かれて着物の裾がはだけて困ってしまいそうです。やっぱし八幡太郎義家だろうと思って凧絵を見て回ったのですが平和な現代武将は人気が無いようです。
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セルフ方式で満席の活況でした。
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これが人気№1(食べログ」の海鮮丼千円わかめの味噌汁が美味しかったです。
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1階の販売コーナー旬の山菜は新潟産でした。
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元々防砂林で白砂青松の美を演じていた黒松林は伐採され防潮堤に変わろうとしています。防潮堤で城壁を築くより防災高層住宅を建築して海と親密な生活をする方が賢明だと思うのですが…。疑問満載の防潮堤工事です。



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美しい鎌倉時代の磨崖仏(磐越桜紀行4)

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四倉を出た私達は浜街道を南下して塩屋崎に寄りました。塩屋崎から西に向かって勿来より先に住吉の遍照院に行く事にしました。このお寺の裏山には美しい鎌倉時代の磨崖仏が在るのです。

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これが塩屋崎灯台駐車場には美空ひばりの案内がなされひばりさんの写真の前に立つと演歌が流れました。木下恵助監督の”喜びも悲しみも幾歳月”は何の案内はありませんでした。私は灯台守の歌の方が好きですが。湾内あった手前の集落は津波で壊滅だったようでした。(レストランに写真が貼られてありました)
明るいうちに参詣しなければ暗闇で良く見えない懸念があります。午後1時遍照院に着きました。ブラスバンドが賑やかに響いています。お寺の隣は学校(小名浜第三小学校)なのです。春の運動会も近いようです。遍照院の本堂横にはこのお寺が尋常小学校であった事を記していました。屹度小名浜第三小学校は遍照院さんに用地を譲って貰って出来たのでしょう。
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正面が遍照院さんの本堂その裏山南側(左)の側面岩に磨崖仏があります。
境内に入って真っ直ぐ本堂で合掌していると畑で草むしりをしておられた大黒様(住職の奥様)が来られました。
まがいの仏様を拝観したいと…。申し上げると私の不自由な足元を見ながら本堂裏に導いてくださいました。
”崖は急だし、蜂が居るかもしれないから下から見上げるだけにして下さいね!”念押しされます。
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大黒様が私達を磨崖仏に案内してくださいました正面の小山の中段に歴代住職の墓が在ってその脇に磨崖仏が点々として彫られています。
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磨崖仏前から東(海側)を望む近隣は小名浜の工業団地に伴う住宅地で下の段は一般檀家の墓地で学校は本堂の北側(左隣)にあります。
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此処は歴代住職の墓地背後に(櫓/やぐら)が掘られていて五輪塔が立っていました。鎌倉の櫓は黒い砂岩ですが此処は白い砂岩ですから総じて明るく綺麗です。
この石仏は一般に住吉磨崖仏と呼ばれ石仏愛好者の間では有名です。有名な主因は第一に美しい事です。
美しさの主因は鎌倉時代の確かな石工の技と石が美しい模様を描いていることにあります。多分小名浜の砂浜にあった砂が地中で圧縮され砂岩になったものが隆起してできた岩壁に石工が阿弥陀仏を彫ったものでしょう。
次に有名なのは風化が激しいのです。保存策を講じなければ早晩風化し尽くされてしまいます。
石仏が信仰の対象と考えれば風化して消えてしまうのも無常の摂理に沿ったものです。無策で放置するべきでしょう。しかし文化財と考えれば臼杵の石仏のように保護対策を講じる事が必要です。
写真では何度も観たことがありましたが自分の目で観て拝みたいと思って居たのでした。念願かなっての住吉阿弥陀仏の参詣です。
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これが阿弥陀三尊磨崖仏大黒さんのお話では藪の中で申し訳ないと思って前面の樹木を伐採した処風化が加速したそうです。風が砂を吹き飛ばして石仏に衝突させること、そして水分を含んだ上に凍結する事が風化を進行させるのでしょう。

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阿弥陀三尊の主尊像蜘蛛の巣の奥に柔和な阿弥陀様が”春を満喫されておいででした。右の観音像は風化の信仰が激しくパラッパラッと剥げ落ちているようで痛々しいのです。美しさは鎌倉時代の石工の確かな技量に加えて沖積層の縞模様の美しさにあると思います。
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此方の阿弥陀様は1尊だけですが首から胸にかけての損傷が激しいようです。
私の生活圏での鎌倉時代磨崖仏と云えば第一に箱根の25菩薩磨崖仏(重要文化財(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893303.html?m=lc&sv=%C8%A2%BA%AC&sk=0)です。箱根は花崗岩ですから風化の心配はありません。でも凝灰岩の臼杵や砂岩の此処住吉は別です。
簡単な方法は直接風が当たらないように前面を遮蔽する事でしょう。樹脂で石仏の表層を強化する方法も考えられます。千年も耐えてきた阿弥陀様ですからその美しさを子孫に伝えたいものです。
大黒様に

「阿弥陀様の傷みは激しいよ言うですが、何か対策されないのですか?」
尋ねた処
「人間が考えたものではねえ・・・・!」と云われ保存対策には冷めた表情で居られました。大黒さんは原発で科学不信に陥られているのか、それとも小名浜の工業団地の公害にお怒りなのかもしれない推測しました。
住吉磨崖仏は少し無理をしてもどうしても子々孫々に残したい想う美しい文化遺産であると確信します。
私達は住吉の遍照院を辞して、いよいよ勿来の関に向かいました。
浜通りにはこの住吉磨崖仏の他に南相馬には平安時代の磨崖仏(大悲山磨崖仏http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E5%8D%97%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E7%A3%A8%E5%B4%96%E4%BB%8F)があります。臼杵の磨崖仏に較べられる美しさと聞きます。今回も住吉から南相馬に行くプランもありましたしかし常磐線も常磐道も通じて居ませんから断念しました原発からの距離では大悲山も住吉も同じ程度です。違ったのはあの日の風向きだけで陰陽を分けたのでした。


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「嫌い!嫌い!」も気が在るから勿来の関(磐越桜紀行5)

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住吉の磨崖仏を拝観した私達は又浜街道を南下して勿来の関を目指しました。山側の常磐線と平行に走ります。勿来駅を越すとじきに勿来の関は右折の案内が出て来ました。道なりに進むと丘陵に入って行きます。山全体が公園として整備されているのです。カーナビの目的地は「勿来文学館」に設定しました。名勝地なのに駐車場は閑散としています。「本日休館」の表示が吊り下げられていました。タブレットでグーグルマップを見ていたI君が云います。”この道は周回しているから高い処に行けば全体が見えるよ!”勿来文学館を見下ろす高台から新設なった吹風殿(すいふうでん平安時代の寝殿造りを再現したモノ)を見渡しました。
吹風殿を見下ろす高台からほんの百メートル先に勿来文学館が在ってその先に弓立ての松八幡太郎義家像があります。弓立ての松の下に勿来の関跡の石柱が立っていてその南北に祠が祀られていました。北が「陸奥の宮」、南が「関東の宮」と案内されています。陸奥の宮とは塩釜神社の意味でしょうか関東の宮とは鹿島神社の事でしょうか?神も勿来の関を境界にしているので人も従え・・・そんな意味なのでしょう。
高校時代の古文の授業を想い出します。勿来は『来る』の未然形で『来るな』の意味です。八幡太郎義家が蝦夷を征伐して”ここを境にしてこっちには来るな”と云う意味で勿来と呼ばれた地名なのでしょう。
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勿来文学館に新築された寝殿造りの建物
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これは勿来歴史文学館、生憎金曜日はは休館でした。建物の右側提灯の吊るされている細道を登ると勿来の関跡に続きます。その細道の両側に古典短歌や近代短歌が刻まれた歌碑が林立しています。

ところで私達は高校の授業で前九年の役は「衣川の戦い」と教わりました。
衣川は宮城県多賀城の北平泉にあります。
敗走する阿倍貞任に向かい義家が、
 「衣のたて(館)はほころびにけり」と叫ぶと、
 振り返った貞任が、
「年を経し糸の乱れの苦しさに」と返したと云います。
 これは、義家の下の句に対して、即座に上の句を返した貞任の教養の高さを述べたものとしても有名です。上の句と下の句を繋げてみれば見事に歌になっています。
この故事に依れば勿来の関は此処磐城の南ではなくて北上川の岩手県の南と云う事になります。何処が勿来の関だったのか諸説あるようですが。この施設は「勿来の関は何処だったのか?』議論を封殺するような地域「福島県いわき市)の施設です。
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勿来の関跡にある八幡太郎義家像背後の赤松が弓立ての松その根元に根元だけになった笠懸けの松もありました。弓立ての松は鎌倉の御霊神社にもあります。『を立てる』とは邪気を払う呪術だったのでしょう。お相撲も取口が終わると弓を立ててて邪気を払うような仕草『弓取引)をします。

勿来関には大きな赤松が在って弓懸けの松と案内されています。馬上の義家は威風堂々として格好良いです。義家像からその一方少し下った位置に「安倍宗任の涙石」があります。「前九年の役」の勝者は義家です。義家の歌は
ふくかぜを なこそのせきと おもへとも みちもせにちる山桜かな
歌の大意は[吹いてくれるなよと命じているのに、春風が吹き道は踏み場もない程、花でいっぱいだ!]と云った意味でしょう。勝者には山桜の散るのを惜しむ余裕がありました。
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関所道は山桜が地って八幡太郎義家の歌のようでした。
一方兄弟紛争に始まった戦いであに阿倍貞任(兄)は討ち死にします。その部下の太郎次郎が主君の仇を果たそうと義家の陣中に忍び込みます。偶々二人を見つけた阿倍宗貞(弟)は二人の忠義に感銘してハラハラ涙を落します。その涙が固まって石になったと言い伝えられているのだそうです。歴史はいつも勝者に味方して伝えられます伝説は敗者の方に情を寄せていることが多いような気がします。
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尾形月耕の日本花図絵から義家の図出典ウィキペディア)吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな

同行の二人は大変な健脚ですから。私がボッケッとしている間に塩屋埼では灯台の天辺まで行ってきましたし此処勿来の関でも遊歩道を一周してきて歌碑を一巡していたのです。車内での話題は今確認してきた勿来の歌でもちきりです。中でも和泉式部と小野小町が気に入ったようでした。
なこそとは 誰かは云いし いはねとも
          心にすうる 関とこそみれ  /和泉式部
意味は大凡次のようなものでしょう。この歌の前に式部と男性には遣り取りがあって和泉式部が”あんたなんて嫌いだから来ないで”とでも云っていたのでしょう。”でもヤッパリ来てほしい”と思ってこの歌を贈ったのでしょう。「来ないでなんて誰が言ったの?いいえ言ってないわ。あなたが勿来関みたいな心の壁をつくって私に会いに来ないだけでしょう。」勝手な女でこんな女性に悩まされた男性は多い筈です。

和泉式部は可愛い女性のように思えます。
小野小町の歌は
みるめ刈る 海女の往来の 湊路に
            勿来関を われすえなくに/  小野小町
私とあなたの間に「勿来の関がある訳じゃないのに貴方は最近逢いに来て下さらないのね…と云った意味でしょう。海松布(ミルメ)とは一見すると松のような海藻の事です。私は海藻のように心乱れているのに…あなたは冷たいのだから・・・・・「勿来の関」は、男性にとっては地上の勢力の境であったのに対して女性にとっては愛情の境であったのでしょう。男性は境を頑健にしたいと思い女性は境を邪魔に思いました。勿来は「賽の神」にも通じて境界や結界を示す意味で多用されました。だから歌枕にもなったのでした。そう考えると勿来の関のアッチコッチに注連縄が張られていました。
式部タイプ小町タイプの女性はどちらも同期にも数人はいました。
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勿来の関は其処此処に注連縄が張られていました。関が政治的な境を示す事と同時に心や信仰の境界を意味していたからでしょう。

歌碑の大半は西行や和泉式部小野小町など古典短歌ですが、斉藤茂吉などの近代短歌もありました。住吉石仏の積層の美しさのように日本の和歌は本歌取りと云った文化の積層の美しさにあると思い知らされました。近代短歌の巨匠斉藤茂吉は
みちのくの 勿来へ入らむ 山がひに 梅干ふふむ あれとあがつま  斉藤茂吉
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これが斉藤茂吉の歌碑です。山路に沿って歌碑が点々と立っています。

歌の大意は陸奥の勿来に向かう山道で私と妻は梅干を口にして歩きました。と云った事でしょうか。茂吉にしては淡々としていて感動に乏しいような気がします。少しがっかりしました。式部や小町や西行を踏まえた歌を示して欲しかったです。
式部は恋の遊戯を楽しんでいる風情があります一方小町の方は素直で可愛いような気がします。でも二人とも恋路を邪魔する関を問題にしています、故意に男性を遠ざける姿勢は”寄ってこないで、でも矢張り親しくして欲しいわ・・・!」姿勢は現代の感覚にも通じていて可愛らしいです。でも式部は少し恋の手練れで小町の方が素直で可愛いような気がします。今晩は湯本に泊まって明日は小町の産まれた小野町に行きます。
小町も式部も勿来でこの歌を歌ったわけでは無くて都で恋歌を作った迄でしょう。
一方西行は磐越の道を福島に向かいました。勿来で次のように歌いました。
あづま路や 忍ぶの里に やすらひて 名こその関を こえぞわづらふ (西行)
『東路の信夫の里に滞在していると、勿来関を越えて行くか行くまいか悩むことだ。
信夫の里は私の従兄弟が住職(古舘鎌秀院)-をしている処で忍染めでも有名です。信夫と「忍ぶ」が掛詞になっています。信夫の掛詞を留意すれば大意は次のようになるでしょう。
東路の信夫の里に滞在していると、勿来関を越えて行くか行くまいか悩むことだ。私は誰にも言えない忍ぶ恋をして悩んでいるのです・・・・・。恋の相手は式部以上に恋(色)の手練れの藤原 璋子(待賢門院)との説もあります(寂聴さんの百道)
でも西行の歌に依れば鎌倉時代初頭には勿来の関は信夫の里(福島市)よりも北の多賀城辺りに在ったと考えずばなりません。矢張り式部や小町の歌は都での室内プレイかと思うと西行は旅に出て現地で歌ったのでしたからリアリティーが違います。
西行の和歌は勿来の関は此処磐城では無く岩手県であると云っているのに福島(岩城)に歌碑まで作っているのは強説に過ぎます。なんだかんだ喋りながら勿来の関跡を後にしました。
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勿来の関からは太平洋がま近に見えました。矢張り桜は山桜が綺麗だ想わせる景色でした。


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柳桜の阿弥陀堂(磐越桜紀行6)

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湯本温泉にゆっくり浸かりました。友人に背中を流して貰っても、私がお返えしする事は出来ません、左腕のリハビリに注力して次の機会に背中の流し合いが出来るようにしたいものです。
夕飯を取ながら明日の予定を協議しました。友人が”朝一番で白水阿弥陀堂に行こう”提案します。
どうも”阿弥陀堂は人気で静かな中に参詣しよう”と云う事でした。そこで湯本温泉から真っ直ぐ白水に向かいました。
昭和47年の晩秋、私達は浅子教授に引率されてこの阿弥陀堂を訪れました。常磐線の内郷駅を降りて西に向かいました。谷戸から田圃が開けていてその谷戸の奥に願成寺があってそのお堂として田圃の奥に阿弥陀堂が建っていました。
今は内郷駅の近くに在った田圃は埋め立てられて震災仮設住宅が建っていました。
3年前来た時は新築でしたが今はもう相応に傷んで来ています。人達も狭い仮設住宅から早く自宅に戻りたいことでしょう。
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朝一番8時過ぎに登った白水阿弥陀堂後ろの小山に山桜が目立ちました。
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明治35年頃の白水阿弥陀堂。浅子教授はこうした時代の姿が印象強く、昭和47年白水阿弥陀堂に私達を引き攣れて下さったのでした。こんな時代が在ったのでは鏡絵も板絵も残っていないのは致し方ありません。でもこの写真ではこけら葺きでは無くて茅葺だったようです。創建当初は杮葺きで近世は茅葺だったのでしょう。(写真出典いわき市)

阿弥陀堂は方形の建物に杮(こけら」葺きの三角錐の屋根が載っていました。「この建物は平泉の中尊寺金色堂と同じ造形です。、永暦元年(1160年)、藤原清衡の娘・徳姫が建立した平安時代末期の阿弥陀堂です」に始まり平安時代建築の細部の講義を聞きました」
かっては浄土庭園だった園地は刈穂の跡が点々と広がっていました。
その阿弥陀堂が国宝の指定を受けて田圃も昔の浄土庭園に復旧させたのでした。
今回こうして友人と参詣すればいずれ常世の浅子教授に報告が出来ます。
「先生お連れ戴いた白水の阿弥陀堂を観てまいりました。桜が満開で柳の緑も眼に痛い程鮮やかでした。阿弥陀堂は浄土庭園共に見事に復活していました。」私が気付いたことは以下の通りです。
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白水阿弥陀堂は山桜がお似合いだと思いました。平安神宮は紅枝垂れですが・・・。

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 これが白水阿弥陀堂の内陣です。中尊寺の金色堂より二回りは大きいのですが雨風に晒されたので状態は悪いのです中央の阿弥陀坐像で84㎝脇侍の観音勢至立像で100㎝(パンフレット)です。鏡絵(阿弥陀像の背後の板絵)は全く解りません。左の壁板の内側に顔料が残っていて私丹は地獄絵に見えました僧は迦陵頻伽と云っていましたが。須弥壇下の敷板にボコボコ穴が開いているので訊くと独楽回しで出来た傷との事でした。(写真は日本の美35小学館)をスキャン。
1、再建に際して旧材を極力再利用しました。軒下の縁側板も腐った部分は新材に継げ替えて、パッチワークしてありましたれ垂木も旧材を逆さまにして再利用したようです。
2、内陣の床板は無数の凹みがありましたが。それは独楽(駒)回しで付いた傷でしたがあえて傷のついた床板を残しました。
3、内陣の装飾は金色堂は鮮やかな螺鈿細工と漆で荘厳されていましたが白水阿弥陀堂は復旧されませんでした。唯框の部分だけが再現されていて空色の下地に宝相華模様が描かれていました。框を観て内陣全体をイメージしてみなさいと云った意図のようでした。
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阿弥陀堂の縁側の板は旧材を再利用したのでパッチワークでした
阿弥陀三尊の背後の鏡板の絵は解りませんでした。富貴寺阿弥陀堂の鏡板に較べると状態はズット悪いモノでした。でも内陣外板の内側に絵がぼんやり浮かんでいました。観た瞬間地獄絵だと思いましたが僧に訊けば迦陵頻伽(極楽に飛んでいる想像上の鳥下半身は鳥で上半身は美女で描かれる。姿も声も美しい)との事でした。翅は確認できましたが肝心の上半身の美女は確認できず、私は地獄絵だろうと判断しました。
屹度先生はこう仰って私のレポートに合格をつけて下さるでしょう。
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阿弥陀堂から南を観る縁側の上には履物の置き場がありました。縁側が履物で埋まる程観光客が押し寄せるようです。軒下の閉口垂木が見えますがこれも旧材を再利用していました。
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阿弥陀堂の後ろ(北)に集められた石仏群十九夜塔や如意輪観音が目立ちますが内郷一体の開発によって此処に遷座されたのだそうです。
浅子教授のお言葉(私の想像)
”そうですか桜と柳が春を謳歌している最中に行かれましたか・・・・。良かったね、私も観たかったですよ。
床板に独楽の傷が在ったというのは私も気付かなかったですよ。旧材を大切にすることは基本ですね。外板の内側の絵が地獄絵か迦陵頻伽かそれは大問題ですね。徳姫が描かせた絵なら迦陵頻伽でしょうが、再建や補修時に描き書換えた可能性もありますから・・・・。奥州藤原氏の最期を想えば地獄絵と思うのもアリでしょうね。”
暗闇の阿弥陀堂を出ると外光が眩しく目に差し込みました。正面の小山に若葉の緑と山桜がコキ混ぜられて鮮やかでした。見わたせば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける(素性法師)の歌の通りです。白水も棲めば都ですから・・・。
何よりも浄土庭園の周囲に植えられた柳の緑が鮮烈で啄木の歌をおもいだしました。

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山桜も良いのですが柳の青が眼に浸みました。黒いのはウミウで青鷺にマガモも未だ北に帰っていませんでした。



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阿弥陀堂を出ると目の前に桜や柳の鮮やかな色彩が眼に飛び込みました。平橋太鼓橋を渡って浄土庭園の外に帰ります。
お年寄りがウォーキングされています。
訊けば
1周500mで朝晩6周するのが日課だそうです。このお年寄りは内郷駅の近くにある震災仮設住宅にお住いなのかもしれません。仮設住宅は狭いので都には感じられないでしょうが・・・・。
私は願成寺で猪の根付を求めました。ワイフの弓にピッタリと思いましたし、ちなみに猪はワイフの歳です。
この旅ではもう一つ犬を求めなくてはなりません。娘に赤ちゃんが出来たからです。
長生きすれば悲しい事もありますが嬉しい事にも多く遭遇するモノです。
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阿弥陀堂を周回ウォーキングする人が沢山おられます。1周500mは数えやすいです。心も体も健康になるようです。だから浄土庭園なのでしょう。
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足元の猪除けの電気防御線で現実に戻されました。


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小町の里の懸命桜(磐越桜紀行7

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白水阿弥陀堂を後にして私達は次の目的地小野町に向かいました。
昨夏は小町の育った京都山科の随身院を参詣しましたし数年前は群馬富岡の薬師寺に小町塚を尋ねました。小町程日本人の興味を引く人物は無いでしょう。全国各地に生誕地やて終焉地(お墓)がありますし。小町の薬師や小町の湯、小町の泉(顔を写した)があります。それは日本人の美人への憧れであり、小町の歌に対する共感からでしょう。
小町の誕生地に向かうだけでも私の胸はワクワクします。”今小町”に逢えるかもしれない期待が膨らみます。常磐道は北が阿武隈山稜南は那須や白川山渓が迫っていますその山間を縫うように磐越街道が走っています。北西にに向かえば猪苗代方角に走ります。天気予報では”今日は雨”でしたが、お天気も山も笑ってくれているようです、降雨の懸念は無いモノの青空は望めそうもありません。北の山中に走っている道が「四倉小野街道」なのでしょう。山峡を流れる川が夏井川で川の淵に小野町が在るのです。阿武隈とはアイヌ語で神(鮭)が上る川の意味だと聞いたことがありますから夏井川も鮭が遡上するのかもしれません。原発はその神を汚染したのですから神のお怒りはいかばかり大きいモノがありましょう。
私達はカーナビの目的地を「小野町歴史伝承館」に設定しました。磐越高速道を小野町ICで降りると直に岩城街道(41号線)に出ました、古い商店街は今も賑わっているようで「小町通り」と表示されています。鎌倉を始め全国各地に小町通りはありますが此処が本家本元の小町通です。
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これが本家本元の小町通りで小町娘とランチしたいと食堂をキョロキョロ探しました。
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これが小野町庁舎手前の八つ橋のある池は小町生誕記念園地にあるモノで、橋の上が舞台のようなデザインになっていました。小野小町生誕記念碑前から撮影。
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小野町のマスコットは子桜ちゃんで公用車は軽4輪でした。この車で出掛けようとしていた女性職員二人に街のソールフードはラーメンであり仙台屋を推薦されました。(明日ブログにアップします)
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これは小野町のバイクのナンバープレート。欲しくて尋ねましたが勿論小野町住人でないとこのナンバープレートは使えないのでした。
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これが小野町図書館手作りの温かみと図書の多さに驚きました。
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これは小野町歴史伝承館と図書館の通路に在る託児コーナー若いお母さんに可愛い赤ちゃんで小町娘に育つのはじきですね!」申し上げるとにっこり笑って下さいました。
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小野町の鳥が時鳥であるという事なら田植えが始まればあの啼き声を存分に聞けるのでしょう。木が桜でなくて杉と云う事は桜では食べて行けないと思って居たからでしょう。
と小野町歴史伝承館で沢山資料を戴きました。資料の中には桜の案内がありました。その案内に従って小野町をアッチコッチ走り回ってみました。

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これが小野町の歴史伝承館で戴いた文化財マップ真ん中の鉄道は磐越東線で、平行に走っている道路は岩城街道(県道41号線)で県道の右に左に寄り添うように流れている川が夏井川です。夏井川の下流に夏井千本桜の名所がありますこんな立派な案内を配布するのですから小野町は立派です。因みに小野町の人口は1.2万人です。


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夏井川支流のリカチャン人形とリカチャンキャッスル(タカラ)

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リカチャンの向かいには小町像が・・・・・。
夏井川の支流にタカラのリカチャンキャッスルが在って、西側の欄干にはリカチャン人形が立っていました。向かい側の欄干には小野小町が立っていました。私達は小野町歴史伝承館で戴いた案内に従って赤沼の無量寺さんに向かいました。八茎寺で懲りたので道を確認しながら進行します。友人のモバイルノートパソコンが頼りです。
赤沼無量寺は今朝拝観した白水阿弥陀堂と瓜二つの阿弥陀堂でありました。内郷が白水で此方は赤沼です。浄土庭園に部分は埋められ一部はゲートボール場に大半は田圃になっています。昭和47年整備前の白水阿弥陀堂を観るような感じです。
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赤沼無量寺の全景手前の土筆の出ている砂山はゲートボール場の砂です。
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赤沼無量寺の全景赤いブリキ屋根のお堂は阿弥陀堂でした。お堂の上の岡は村の共同墓地のようでした。お墓もお寺も村の共同管理なのでしょう。こんなに美しいお寺なら寺守りをしても良いなと感じたのでした・・・。

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阿弥陀堂の前の枝垂れ桜。樹齢4百年だそうで髄は腐って皮一枚で命を保っているようでした。懸命に生きて花を咲かせている姿の神々しさにしばし見惚れてしまいました。左下は村のゲートボール場で右側は畑と田圃が広がって蛙が賑やかに啼いていました。
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これが無量寺の枝垂れ桜のアップです。一重の枝垂れですが少し花弁が丸みを帯びていてまるで舞妓さんの簪のような可愛らしさでした・・・。
無量寺のお堂はしっかり鍵がかかっていましたので覗いても主尊の阿弥陀像は見えませんでした。でも先刻戴いた小野町の文化財マップによると白水阿弥陀堂のご本尊とほぼ同じ大きさの阿弥陀如来が祀られている事になっています。私達は扉に額を押し当てて暗闇の須弥壇を見詰めました。
写真で見る限り県指定重要文化財でありながら良く整備されていて状態は極めて良好なようです。平安時代末期の貴重な仏像をこんな粗末な警備状況下に放置しておいて良いのか心配でなりません。こうしてブログにアップする事も控えなくてはならないのかもしれません。そんな意味では私のような叔父さんは無量寺の堂守、桜守りとして小野町に転居する必要があるのかもしれません。
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阿弥陀堂はしっかり扉が塞がれていました。千羽鶴とクス玉飾りが奉げられていました。


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これが無量寺の阿弥陀三尊像(大きさも主尊が坐像90㎝で脇侍の観音勢至が立像108㎝である事も白水阿弥陀堂と酷似しています。金箔が張られた状態も良く柔和な表情も平安末期を確信させる秀作ですから早期に国の重文指定にランクアップさせる必要があるでしょう。こんな鄙にこんなに立派な仏像が在るとは日本は豊かな国です。金箔を貼って修理したのは天正11年1583年だったそうで16世紀の技はたいしたものでした。この頃は田村5万石の統治下にあったのでしたから、田村氏のレベルの高さが伺われます。
写真出典小野町の文化財マップ/小野町作成)

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小野町小町で食巡り(磐越桜紀行8

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朝早くに湯元温泉を出発して白水阿弥陀堂を経て小野町で、赤沼無量寺の阿弥陀堂を観てお腹も空いて来ました。そこで、小野町の歴史伝承館の職員に伺った小野町のソールフード仙台屋のラーメンを食べる事にしました。戴いたパンフレットを観ても、タブレットで「食べログ」で検索しても口コミでも最高の評価でしたから、大いに期待されます。
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これが小野町役場が編纂したパンフレットの表紙です。高々1.2万人の過疎の町で観る地域愛に感服しました。この小冊子に27店が紹介されていました。
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これが「小野町小町食巡り」の仙台屋の載っているページ(お店番号8)料金750円は実際は700円でした、近々値上げを予定しているのかもしれません。
駐車場も店内も満席で12時過ぎで既に行列が出来ていました。メニューはラーメン並700円と大盛り800円の2種類だけです。食ログでは並でも十分なボリュームで大盛りは奨めない書かれていました。そこで3人とも同じ並みラーメンを注文しました。15分程待つと普通丼に表面張力で盛り上がったラーメンが目の前に置かれました”これは美味そうだ、でも食べきれまい”わたしの直感でした。隣の卓を観ると可愛いお嬢さんを連れた親子4人がスープもろとも完食していました。スープまで飲み干すのが小野町仙台屋のお客さんのマナーのようです。
高々1.2万人の人口しかいない町にこんなモンスター級の人気店が在っては他の店は経営に窮していないか心配です。後から後からお客さんが入って来て衝立の後ろから。暖簾の外まで行列が続いています。若い店員は注文を聞き、カウンターに座れ小座敷に上がれテーブル席に座れとテキパキとお客をさばいています。これもメニューがラーメンしかないし、トッピングなども聞かない単品営業の強みでしょう。
美味しさの秘訣を件のヤリ手ウェートレスに訊くと地元産の醤油でチャーシューを煮て、そのタレでスープをとる事と出汁は昔ながらの煮干しだそうでした。ラーメン名前は同じでも食材が違います。”ソールフードがラーメン”は納得でした。
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これが満員で混雑の店内です、建築関係の人役場の職員タクシーの運転手家族連れが目立ちますメニューはお酒の他にラーメン並と大盛りだけです。
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見た目も味も昭和の懐かしいお味です。丼一杯に入っていますから食べきれませんでした。
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三世代でラーメンを美味しそうに戴くご家族お嬢さんの笑顔が美味しさを証明しています。私もお婆ちゃんに連れられて良くラーメンを食べたものでした。(お顔に薄くモザイクを懸けています)

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これが「小野町小町食巡り」のオリーブの載っているページ(お店番号21)『料金ランチ定食1000円で珈琲シフォンケーキ付』は申し訳ないお値段ですし、最高のロケーションでお味でした。



実は小野町にはそれこそ”味を占めて”22日帰り際のランチにも寄ったのでした。目的は”オリーブ”洋食屋さんです。このお店は”小野町で桜を観ながらランチをとる”と検索して見つかったお店です。
21日に坂本屋さんに入らなかったらこのお店に来る予定だったのでした。22日は曇っていて少し寒かったのでしたが私の友人二人は真冬でもTシャツ1枚で過す習慣ですから寒さは少しも応えません。テラス席で目の前が青々とした麦畑、遠くに杉林中程に桜並木を観ながらこのツアー最後の食事を楽しみました。食べログでは小野町№4の評価でした。推薦メニューはハンバーグでした。そこでハンバーグランチを注文しました。オリーブのように溌剌としたお嬢さん(?)がウェートレスをしていて好感が持てました。牛肉もしっかりしているしデミグラスソースも良く出来ていました。景色もサービスもお味も満足でした。
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これが小野町の洋食レストランオリーブの全景です県道349号線に面しています。
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オリーブの店内ロッジ風の建物でトラス構造の見える天井もお洒落です。
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テラス席から見える景色青々と伸びる麦の穂と桜と杉林のコントラストに見入りました。
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これがハンバーグランチ定食千円です。スープは味噌汁でお箸で戴きました。
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珈琲にシフォンケーキ迄付いています。満足!満足!
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私達が帰ると看板娘のオリーブさんが席の後片付けをしていました。
人口が少ない上に過疎の進行が早いのは飲食業の経営環境としては最悪でしょう。でも小野町の人は創意工夫で地域の食材を活かして美味しい食事を提供しています小野町も三春も江戸時代の三分の一以下に人口は縮小してしまいました。私達は歴史は前に進むものと教わって来ました。でも小野町は戦後逆回転してしまったようです。江戸時代よりもバックしてしまいました。しかしこうして旅をすると、地域愛のある限り人は田園に戻ると確信するモノです。空気は美味しいし勿論食べ物は美味しいし、人は優しいし、景色は綺麗で生物に溢れているのですから・・・・・イザベラ・ バードならずともエデンの園は東京にはなく小野や三春にあると確信するモノです。

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観られて本望夏井の千本桜(磐越桜紀行9)

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旅行から帰ってNHKテレビを観ていたら福島県東海原発のある双葉町富岡の桜並木が映っていました。帰還困難地域ですから桜は満開なのに人は誰も観てくれません。人に代わって猪の家族が街を占拠してカメラマンが桜を写していると威嚇する有様であるとの事でした。
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帰還困難地域の胃自治体ではホームページを再開しています。全国に疎開された町民に何れは帰って来て貰いたいと期待を込めているのでしょう。http://www.town.okuma.fukushima.jp/syashinkan/?p=919
富岡町の桜は樹齢100年の染井吉野ですが、人も観てくれないのに健気に咲く様子は杜甫の春望を越える悲しみを秘めています。『. 國破れて 山河在り , 城春にし て 草木深し』” 時に感じて 花にも涙を濺ぎ, 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす” のフレーズは人間視点ですが富岡町の花の視点に立てば次の様に嘆いていることでしょう。
『毒雨降って、人は去り 我は今年も咲いたけれども愛でる人もいない 猪だけが擦り寄って来る 人の情けは鬼畜にも劣るもである』
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磐越東線夏井駅が夏井千本桜を観るには最適な駅です。この線路を2両編成の車両はゆっくりと走っていました。左の桜は枝垂れの彼岸桜右の桜は染井吉野です。
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夏井川の堰堤5キロの両岸に染井吉野千本が花を咲かせます川の水は向こうに(東)に流れて四倉で太平洋に注がれます。古代はこの川にも鮭が遡上して阿武隈山渓に登っていたのでしょう。小野小町の生誕地は此処から4キロほど上流(西側)にあります。
ところで、この富岡の桜に感動して小野町夏井でも千本桜があります。昭和47年夏井川流域の農業改善事業が竣工しその記念に夏猪川の堰堤5キロに染井吉野を植樹して50年、今では東北を代表する桜の名所になりました。小野町の西には日本三大桜の一つ三春の瀧桜がありますから磐越東街道はさながら桜街道になるのです。今年は瀧桜(枝垂れ彼岸)の開花が早かったので、夏井の千本桜に期待が寄せられます。ランチのラーメンも終えて私達は小野町から岩城街道を東に戻りました。線路の右(南)側に桜並木が見えてきます。何時もそうですが、チラチラ桜の花が見えると初恋の人に会うようなドキドキ感で昂揚してきます。夏井駅に近い臨時駐車場に車を止めると目ざとく駐車料金の徴収に来ました(500円)私達は初めて3人そろって記念写真のシャッターを押して貰いました。千本桜の頭上には鯉幟が閃いています。千本桜に千匹鯉幟だね云えば鯉幟も単位は本だそうで千本鯉幟で良いそうです。千本桜に千本鯉です。この日は木曜日、屋台はありましたが閉店のようでした。
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夏井川の上流方向(三春方向)を観る屋台のテントはあっても休業していました。千本鯉が気持ちよさそうに泳いでいました。
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千本鯉幟の向こうに見えるのは光明寺(浄土宗)その前の緑は諏訪神社の森で巨大な爺婆の杉が並んでいます。諏訪神社の右に千本桜を見下ろす展望台がありました。
夏井の千本桜は堤防の上から水際から観られていますし。展望台からも見下ろされて嬉しい事でしょう。その嬉しさは都踊り(京都南座)の舞台に上がった舞妓さんの気持ちにも似たものかもしれません。一方富岡の千本桜はお気の毒で可哀想で言葉になりません。
私達叔父さん三人の桜の探訪はこれから三春に向かいます。


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諏訪神社の千年夫婦杉(磐越桜紀行10)

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夏井の千本桜を観た私達は千本桜を千年の見下ろす位置にある諏訪神社を参詣しました。友人が最近霊木を観て回る楽しみに目覚めた僧でこの旅行の直前にも海老名の大欅を観て来たそうです。去年は奈良東吉野仏隆寺の千年桜に圧倒されたのも霊木に目覚める契機になったのかもしれません。霊木の杉と云えばこのメンバーで昨年の5月に吾妻渓谷の矢倉に神代杉を拝観しました。夏井諏訪神社のお目当ては爺杉姥杉と呼ばれる樹齢千年の夫婦杉です。
千年と云えば丁度此処小野町で小町が産まれた頃になります。私達は千本鯉幟の下を北に向かって諏訪神社の森に上がりました、巨大な夫婦杉は遠くからもそれとわかる存在感です。夫婦杉に近づくにつれてその参道に巨大なお釜が見えてきました。神社の参道で手作り土産物を商っておられる地元敬老会のご婦人に伺えばこの巨大な釜は地元の酒屋の廃棄品だそうで。使っていないそうです。この巨大釜で芋煮や団子汁(ダゴ汁)を作れば屹度売れるだろうに思いました。と云ってもこの巨大なお釜を乗せる竃を作るのも大変な作業になりそうです。
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小野町夏井の諏訪神社駐車場に置かれた巨大なお釜村祭りや飢饉の際の炊き出し用かと思えば町の酒屋が閉業したので廃棄品だそうです。でもこれだけ大きなお釜ですから九十九神(つくもかみ)もついていそうで、芋煮会やお花見で活用してほしいモノです。お釜の先は磐越東線の線路で向こうに夏井川の千本桜も見えます
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これは諏訪神社前の駐車場で地元老人会が手作りの「梟」を商っておられました。わたしは甘納豆を摘んで右手前の梟をワイフの二つ目のお土産に求めました。梟のように可愛らしいお婆さんでした、屹度半世紀前は夏井の小町とい呼ばれていたのでしょう・・・。

遠くで見ても圧倒的な爺杉姥杉でしたが根元まで行くと余りの大きさに驚きツイツイ笑ってしまいました。藁ってしまったのは千年杉の神々しさに較べて我が身の貧弱さを思い知らされたからでしょう。千年の杉に較べれば古希の私は取るに足らない存在です。
屹度縄文人も巨木に較べて自分の小ささを感じ入ったのでしょう。
だから巨大な霊木に神が降臨すると直感したのでしょう。
出雲大社も三内丸山古墳も巨木を立てて社としてその空間で祭事や政治を執り行いました。その信仰が今も存続していて人の霊を柱と呼んでいますし。諏訪大社の境内には4本の御柱を立てて神様(建御名方神/タケミナカタカミ)の降臨を待っています。今年は御柱の式年遷宮に当たり4社16本の巨大な樅の木を守屋山から取出し、危険を冒して運びだし諏訪大社の境内に立てます。
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今年の諏訪神社の『木落』祭事この後、滑り落ちる大木は巨大な蛇のようでした。写真は産経新聞http://www.sankei.com/photo/story/news/160403/sty1604030006-n1.htmlよりお借りしました。
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三内丸山古墳の住居と櫓この櫓は高さ14.7mで出雲大社の神殿の高さと同じです。高い処は神にも近いわけで此処で神事や政治を執り行ったのでした。写真はNHKテレビ画面を撮影。
杉やクスや栢では無くてモミ(クリスマスツリーに使う)である事から新約聖書との関係を云われたりもします。常緑樹であり巨木になる事から東西の民族が共通して霊木だと思ったのであり、聖書が諏訪信仰に影響したと考えるのは飛躍し過ぎと思います。
要するに樹木の霊性を畏怖する呪術はケルト人にも縄文人にも共通して、両民族共に巨大な樅の木に霊性を直感したのでしょう。
今年テレビで木落しを観ていて思いました直径1メートルを超える樅の木が崖を一気に落下する様は蛇がハイスピードで獲物を追う姿を想わせました。山津波や雲仙普賢岳の火砕流を想い出させました。諏訪湖のお身渡や長崎諏訪神社のオクンチの竜神踊りも蛇(龍)の奇跡であり祭事です。
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人間は地面の上で生きています。下を見れば大地であり頭の上は空です。若し自分が死ねば体は土に戻ります。こころ(霊)は空に昇ると信じました。その空は又神の住まわれる世界で、眼には見えない神は地上に下りて来ると信じました。降りて手段が大木を伝ったり雷になったりすると信じられたのでしょう。出雲大社高層な社であったのは地上の人間から観て大空により近くにあると信じたからでしょう。ゴチック建設の教会が天に突き刺すような尖塔が林立しているいるのは出雲大社や諏訪大社の御柱にも通じるモノがあると思います。

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これは千年発掘された柱の跡から先史時代の出雲大社の社殿を復元させた図地上48メートルの高さであったと説明しています。図の出典島根県http://www.pref.shimane.lg.jp/admin/seisaku/koho/esque/2007/No62/p3-4.html
諏訪大社の神は建御名方神(タケミナカタノカミ)です。出雲大社の神大国主命(オオクニヌシノミコト)の子供であります。建御名方神は大国主命が決めた国譲りの時に最後まで抵抗しします。一方天照大神の命令で国譲りを進めたのが建御雷神(タケミカヅチノカミ)でした。建御雷神は大国主命にに国を譲るように命じます。大国主命は”息子に訊いてくれ!”と当事者感覚の希薄な答えをします。建御雷神は建御名方神と相撲で決着をつける事になります。建御名方神が大木の神様なら建御雷神(雷の神様)に適うはずありません。建御名方神は全く歯が立ちませんでした、追いつめられは諏訪湖へ逃げ込み、『もうここからは出てこないから許してくれ』と観念します。因みに建御雷神(雷の神様)は鹿島神宮の神になります。一番に力が在って武道にも長けた神様である事から地震も治める事が出来ると信じられました。
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これは江戸時代に流行った鯰絵地震が起きないように震災特需で儲かるように念じるお札になりました。大鯰に乗って鯰に指図しているのが鹿島の神様/建御雷神(雷の神様です。大黒様が打ち出の小槌を振って小判を降らせているのは震災特需で大儲けを期待させたからです。(鎌倉近代美術館での鯰絵展のポスターを撮影)
ところで私の住む相模の国で一番多い神社は八幡宮次いで目立つのが諏訪神社です。私の通った高校も近くに諏訪神社が祀られていました。玉縄城の天守閣は諏訪壇と呼ばれ諏訪神社の祭壇でありました。今頃行けば屹度山藤が荘厳して居る事でしょう。
磐越街道も旅行していると諏訪神社が目立ちます。伊勢神宮→鹿島神宮と云った日本の本流の神様に対して出雲大社→諏訪大社と云った被征服民の神様の流れなのでしょうか。でも被征服民の神様は山の神であり、樹木神であり蛇の神(祖霊神)であります。負けた様に見せかけ実は雌伏して無駄な戦いを避けた一番賢明な神であったようです。無益な武力戦争や経済戦争(名目GNPを極大にする競争)は止めて平和と民族の実質的な豊かさを目標にしてほしいモノです。神々しい爺婆の杉に柏手を打って諏訪神社を後にしました。
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これは諏訪神社の神宮寺の光明寺の参道に祀られた恵比須大黒様(大国主命の本地仏)
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此方は諏訪神社のお隣の光明寺(神宮寺)和尚さんが村人と庭先に出て桜を眺めておいででした。
千年と云えば鶴を思い出します。鶴の夫婦愛は堅くて一生連れ添うそうです。と云う事は千年もの間夫婦の絆は守るという事でしょう。長生きするのは難しい事でしょう。それ以上に長く夫婦愛を育む事も稀有な事です。ここの夫婦杉は千年も連れ添っているのが凄いと思いました、見上げればもう千年も行けそうな樹勢です。私達夫婦も千年杉にあやかりたいと思って老人会が丹精を込めた梟を求めました。
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これが老人会のお婆さんが商っていた幸福梟さん
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梟さんのお背中には招き猫さんが居ました欲張りの私にはピッタリでした



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有為の奥山を越えて徳一上人の万福寺(磐越桜紀行11)

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今回の旅は奈良興福寺の徳一上人が三一宗学論争(小乗と大乗とどちらが優れているかの論争)で最澄に敗れ(嫌気がさして)陸奥に理想の仏教国を築こうとして旅立った足跡を辿って来ました。勿来越えて陸奥に入ると四倉の八茎で八茎寺を建立します。徳一上人は磐越を夏井川の渓流沿いに小野町に入ります。そして大同2年(807年)に満福寺を建立します。次いで会津に入り、807年(大同2年)磐梯山の南麓に慧日寺を創建します。東堂山万福寺は後年会津に入って恵日寺や坂下に勝常寺を建立するわけですから西の会津の寺院群に対し東のお寺の意味で「東堂山」と山号を付いたのかもしれません。
夏井川の支流(右支夏井川)を上って行くと集落の名は「田母神」となります。そして地域の名は「小野山の神」です。
飯豊山(福島県と山形県の境にある朝日連峰の飯豊山とは異なります)が山の神で、その麓は田圃あるので田母神なのかもしれません。飯豊山も磐梯山と同じく修験道の霊山ですし穀倉地帯の田母神と会津坂下、どちらも良く似た地勢にあります。徳一上人が陸奥に理想の仏国を作ると志して磐城から小野に小野から更に会津に「有為の山」を越えて夢を追って行ったのでしょう。
「田の神」「山の神」の地名の推測の正否は別として矢鱈と神が多い土地です。何処か飛騨高山の千光寺を訪ねた時の記憶が蘇ります。田母神集落を越すと万福寺の山門が見えてきました。
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土手の下を夏井川の支流右支夏井川(梵天川遠くの山脈は阿武隈山系の大滝根山(1192mと思われます、この川に沿って飯豊山の山陰に登って行きます。この辺りが田母神で一帯を「小野山の神」と呼びます。所々に枝垂れ桜が咲いていました。この下流に小野赤沼の無量寺がある事になります。
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正面の山が飯豊山その下の杉林が目指す東塔山万福寺があります。
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突き当りが万福寺で杉林の中に山門が隠れていたようです。私達は道なりに進んで本坊下まで車で乗り付けました。何処か光前寺(駒ヶ根)を想わせる景色です。
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万福寺本坊下の駐車場で豊年羅漢と名付けられた羅漢さんが笑顔で迎えてくれました。
山門下には数体の羅漢さんが置かれています。「昭和五百羅漢」としてPRしている羅漢の一部をお寺の表玄関に祀ったのでしょう。私の脚ではこの表門から本堂まで歩くのは先ず困難です屹度本坊まで車で行ける筈だっ期待して三門はパスして奥に奥に登って行きます。道は細く杉林の中を縫うように登って行きますこの雰囲気も飛騨高山の千光寺と同じです。突然に道は開けて本坊下の駐車場に出ました。山容も千光寺のようでしたが本坊の建物も千光寺の本坊のようでした。駐車場の周囲にも五百羅漢が置かれています。昭和羅漢と呼ばれていますから昭和に発起した羅漢群なのでしょう。昭和五百羅漢と云えば長野県望月でも、千葉県鋸山でも拝観しました。昭和と云う時代が個性を重んじ全体主義を憎んだので各地で羅漢さんを建立したのでしょう。
私は「其処からはマイペースで拝観するから・・・君達は遠慮無く先に行ってください」申し上げます。石段は所々手摺もありますが転んだら大変です。私のリハビリもカウントゼロになってしまいますし。友達の旅行気分も萎れて終います。
”自分の為友人の為”慎重に石段を上ります。去年の夏は石山寺の石段でも同じ体験をしました。各地の霊山を参詣しながら私の脚も着実に回復軌道に乗っている事実が嬉しい限りです。
それにしても此処の羅漢さんは『飲兵衛』が多いのに驚きます。昭和に発起して平成に建立された羅漢さんが多いようですから。私達の子孫が観た時には「昭和は良い時代だと思ったが飲兵衛にとって良い時代だったのか」と思われそうです。此処に来るまでに酪農農家を多く見たので家畜を大事に育てる羅漢さんが祀られていても良さそうな気がします。
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此方は平成に建立された呑兵衛羅漢さん小原庄助さんのつもりでしょうか?誰かの結婚式で使った角樽が奉げられていました。
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此方はオーソドックスな羅漢像で椿の花陰で枯れ紫陽花の向こうにで花見をしておいででした。
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石段に並んだ羅漢さん薬缶の口から直飲みしているのは屹度pお。法衣も酒臭くなっていそうです。
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此方のお坊さんは少しだけ上品に盃で美酒を平らげていました。杉の洞で人目を隠れて居る積りでしょうか?
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向こうが万福寺の本坊です、大きな辛夷が満開でした。
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仁王門の向こうに羅漢さんが4体覘けて見えました。右下の羅漢さんは鰻でも獲ったのでしょうか?うなぎうけ(鰻筌)を真剣に見詰めて居ます。煙草も美味いし西瓜も美味しいし・・・、たらふく食ったら寝る事にしましょうか?

羅漢は個性が重んじられた昭和時代に見直されました。万福寺(現在は浄土宗)さんは飛騨高山の千光寺のように特別な文化財に恵まれていません。
そこで大自然の中に個性的な羅漢さんを配置してお客さんを集めようとしているのでしょう。
ところで、近年日本人の死生観も急速に変化しています。散骨や自然葬が支持されれば此処飯豊山と阿武隈山に挟まれた美しい自然の中で眠りたいという人が増える事でしょう。大都会でコインロッカーの中に閉じ込められるのは嫌だと思えばこの東塔山の山中に眠れば毎日がキャンプするようなものでしょう。飲兵衛や読書好きや思索する羅漢さんはどれも故人の個性でしょう。
桜が咲いたら種を播きます。種は芽が出て苗になります。五月雨が降ったら卯の花が咲くので田植えをして秋になれば稲穂が垂れます。季節の道理に従えばお米が食べられます。その不思議に気付けば大自然を神と呼ばずに居られなくなるでしょう。
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読書好きも個性です。
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愛妻も恐妻も立派な個性です。自然葬をした人を弔う人は羅漢さんに故人の面影を見つける事でしょう。

羅漢像を拝観して回って気になりました。昭和の羅漢と云う事は我が世代の羅漢と云う事です。少し”時代に媚びているのではないか”と気になったのでした。
個性を大切にすることは人間の普遍性に基づく価値観ですから後世の人も批判は出来ないでしょう。でも表現技法が観る人に媚びているように見えるのです。其処まで表現しなくても良さそうなモノを要するにしつこいのです。脂ぎっているのです。もう少しサラッと表現して欲しいものです。
万福寺は徳一上人が開基である事は確かなようですがそれを証明するような資料が残っていないことが残念です。でも北茨木から岩城そして田村郡小野執着が会津の坂下徳一上人の足跡は行基のように全く分からないわけでは無く解っています。その足跡を辿る事は悦びであります徳一上人も『いろは歌』( いろはにほへと ちりぬるを)を口ずさみながらこの道を会津に向けて歩かれた事でしょう。私達の桜を探す旅は更に続きます。


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地蔵が先か?桜が先か?(磐越桜紀行12)

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徳一上人の万福寺を後に私達はいよいよこのツアーの第一の目的滝桜のある三春に向けて出発しました。
4月21日は天気予報は雨でしたがどうにか持ち応えてくれました夕方になると、冷気も増してきました。
滝桜は樹齢千年だそうですがその子供や孫の桜を見て回るのも楽しみです。滝桜の数ある子桜の中でも、私達は先ず地蔵桜(田村郡三春町)を目指しました。地蔵桜は郡山市中田町にある樹齢400年の枝垂れ桜なのです。謂わば滝桜の長女ともいえる見事な枝垂れ桜なのです。
三春町の桜番付によると東の正横綱が瀧桜であるのに対して西の正横綱を張っているのが地蔵桜なのです。私達は幾つもの山里を越えると突然に桃源郷に出ました。其処が地蔵桜のある中田町木目沢字岡ノ内の集落
でした。
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これが郡山市が作成した枝垂れ桜の番付表です地蔵桜は西の正横綱に評されていました。


イメージ 1県道49号線岩城街道から地蔵桜の案内が出ています。主要地方道三春石川線は地蔵桜と瀧桜を繋ぐ桜のメインルートで大型観光バスがこの二つの枝垂れ桜を目指して走っていました。地蔵桜が近ずくと花桃が目立ってきました。
屹度滝桜を観て”もっともっと桜を観たい”欲張りさんが多いのでしょう。昨年私達は吉野山で奥千本桜を観て十兵衛桜を観て更に欲張って仏隆寺の千年桜から大野寺の弥勒桜を観て回りました。もっと見たいと思えば西の正横綱の地蔵桜に足を延ばす人が多いのでしょう。そこで集落では村に桃の木を植樹しました、どれもこれも地蔵桜を際立たせる為の引き立て役です。
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これが葉桜に変わろうとしていた地蔵桜です。次回はもう少し早く来て下さいな!言われたような思いがしました。大型観光バスが3台も来ていました。ツアー会社が瀧桜はもうお終いだったようで”ならば地蔵さんに行こうか!”廻って来たようでした。私達は滝桜はもう散ってしまった情報を娘桜の前で聞いたのでした。
三春の名は此処は春が遅いので梅の花も桃の花も桜も同時に咲いて春が来るので三春と云うのだそうです。流石に梅は散っていましたが花桃は未だ盛りの美しさを保っていました。村外れの高台の斜面地に地蔵桜がありました。桜は三春滝桜の娘といわれる紅枝垂れ桜で樹齢は約400年と言われています。その名のとおり、紅色に染まる花弁は妖艶で多くの観光客を唸らせているそうです。桜の下に地蔵堂がありました。参拝すると各地に祀られている延命地蔵尊が一基祀られていました。
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紅枝垂れ桜の根元には小さな祠が祀られていて中には延命地蔵様が鎮座されておいででした。根元はフカフカで紫大根の花が咲いていました樹勢はますます盛んに見えました。
地蔵尊が先か紅枝垂れが先か解りませんが、常識的には枝垂れ桜が先で村外れに瀧桜の実生桜を植えた処見事に育った。何時しか村の聖なる空間になっていた。村人は春になると桜の樹下で筵を敷いて弁当酒を持ち寄って花見に興じたのでしょう。”今年も農作業に精魂込めよう”誓いあってその次には”農作業に精魂込めるに健康が大事”健康に留意して働いて来年もこの桜の樹下でお花見をしたいものだ”言った事でしょう。
その為には延命地蔵尊をこの桜の樹下に祀ろうではないか!”と云う事で桜の樹下に祠を立てて延命地蔵尊を祀ったのでしょう。
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地蔵桜の樹下の祠に祀られていた延命地蔵尊、津軽のおしら様と同じようにお顔は白く塗られておいででした。
梶井基次郎超短編小説に”桜の樹の下”があります。桜の樹が余りにも美しく妖艶なのであの桜の樹下には遺体が埋まっていると推測するのです。浅野内匠頭の切腹場面には必ず桜が散りますし、軍歌(同期の桜)でも桜には死の匂いが漂います。桜の美しさは人間の死を連想させるのです。
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これは梶井基次郎氏の「桜の樹の下には屍体が埋まっている」のイメージの桜お地蔵さんは埋葬された人の墓標と思われます。.これは地蔵(墓)が先で。後から桜が植えられたものでしょう。写真は沼田の上発地で私が脳梗塞で倒れた年の最初の春に親友が一緒に旅行できなかった私に届けてくれたモノです。
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地蔵桜を守っている中田町木目沢字岡ノ内の集落は空きスペースに花木を植えて集落を花で飾っておいでです。福島は麗しい島『国』であると思いました。



さて夕暮れ迫って来ました。いよいよ三春に入ります。三春では情報をゲットする目的もあって最初に三春歴史民俗博物館に行きました。同博物館は福聚寺の境内にありました。
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これは三春歴史民俗博物館の駐車場脇の則地に植えられた紅枝垂れです、今が盛りに咲いていました博物館職員に確認したところ瀧桜は一重の枝垂れ桜でありこの樹は八重の枝垂れ桜だそうです。一重の枝垂れが咲いて1週間ほど遅れて八重の枝垂れが咲くのだそうです。
地蔵桜は地蔵が先に咲いていた村の処に聖なる空間に延命地蔵尊を祀ったのか?それとも村の共同墓地に瀧桜の実生の若木を植えたのか?解りませんが、私は先にも書いたように先に村の家々を見下ろす位置に滝桜の苗を植えた(400年前)そして桜の樹下で村人が集う様になってから、延命名地蔵を祀ったように思うのです。一般に地蔵信仰が盛んになるのは都では応仁の乱の頃で此処三春の辺りでは天明の飢饉(1770年代杉田玄白は人肉を食らう飢饉と記している)の頃からであろうと思うからです。地域愛が先に在って桜を植えてその後
”皆で長生きしようね・・・・。その為にもお地蔵さんに守って貰おうね!”云い合いながら延命地蔵尊を祀ったと考えるのが自然だと思うのです。

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