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今、一番大切にしたいことは何ですか? 内には「健康」外には「地球環境」こう答える方は多いと思います。時代はこんなライフスタイルを「LOHAS」と呼んで期待しています。 先日、二人の太めな厚労副大臣が、メタボリック症候群対策を発表していました。「これから半年ウォーキングに励んで、腹回りを6センチ、体重を5キロ減量する」 出来るかな、公約。 自分の足で歩くと、普段気づかなかったものを発見し、感動したりします。グッドアイディアが閃く事もあります。行き交う人に会釈して、人にも地球にも優しく出来ます。私たちは車依存症から脱却すれば、リッチになれます。 ウォーキングは心身の健康に良いことばかりか、感動があります。私自身のささやかな感動を皆様にお伝えし、共感の輪を広げ、「LOHASU」な世界にご一緒したいと考えて、ブログします。 ところで、副大臣様歩数計をお持ちでしたが、それにUSBをつないで自動記録を残したらどおでしょうか?さらに、ウォーキングデータを「仮想旅」マップに表示したら、国会や霞ヶ関への通勤路が憧れの街道歩きに移行できますよ。 6ヶ月で「腹回りを6センチ縮める」のは切実でも、楽しくありません。6ヶ月で「中仙道」を踏破する計画に変じれば、楽しくなるし、データも残せます。グーグルアースの3Dマップに表示するので、画面は斬新ですよ。2008年4月に「健康指導」が義務付けられますが、一番肝心な「運動データ」が出来上がっています。USB歩数計を使えばメタボ対策は容易になります。 私たちは「LOHAS」な人の輪を広げたいと計画しています。
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    昼食も終えて愈々「八尾の街」に入ります。富山駅も高岡の街も風の盆で沸騰しています。八尾自体は金沢や高岡から立山に参詣する街道にありました。伊勢街道の「鈴鹿」や「宇陀」善光寺街道の「海野」等も参詣宿場町で今も歴史的保存地区として人気です。確認すると八尾の総人口は1万2千人、そんな鄙びた街に3日間で30万人が押し寄せるのですから。受け入れ側も大変です。車の出入りは午後3時以降は出来なくなります。私達は富山に出向中のS君の尽力によって八尾東町の公民館の前に在る町屋の二階を貸し切りました。
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    此れが「風の盆」で賑わう八尾の街の案内図です、街の中心は駅前ではなく八尾おわら資料館の辺りです。桃色で塗った道が「日本の道百選」として整備されています。諏訪町です。私達が陣取ったのは東町の公民館前で八尾おわら資料館の並びでした。鉄道は高山線で手前が高山奥が富山です。7号線は県道で富山と八尾を結ぶ道です。地図の左の方に行くと砺波や高岡に着きます。
    其処で仕出し弁当を取り宴会を催すことにしたのです。八尾東町には銀行が2軒お寺もあるし一番賑わっている街でした。
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    私達が陣取った町屋、二階の窓の下八尾の中心通りで東町の公民館前でした。
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    窓の下では東町の踊り連がコンテスト会場である八尾小学校に向かって出発します。男性の浴衣は昨年も使用したモノだそうでした。

    女性のピンクとオレンジ色の浴衣は今年新調したモノだそうです。少女の市松模様の浴衣も今年町内で新調したモノだそうです。おはら資料館の説明では風の盆で踊りを被露出来るのは23歳までだそうで。昨今の高齢化の波には抗し難くもう2年もしたら規約の変更が必要な気配だそうです。
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    此れは東町の子供です。市松模様に笹竜胆(東町の紋)を散らした浴衣は今年作ったのだそうです。笹竜胆は源氏の紋で帯の下地は黒で揚羽蝶は平家の紋です。子供の浴衣でも凝ったデザインです。東町で新調したのだそうですがモノ入りです。素直に”かわいいね、良くお似合いですよ”云ったらピースサインで写させてくれました。
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    諏訪町の「連」、背後の町屋のような建物はの壁には鐘が吊り下げられているので解るようにお寺(修道寺真宗)です。手前側に地蔵堂が建っていてお地蔵さんも踊りを眺めておいででした。
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    諏訪町の「連」を見物されるお地蔵様
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    此方が日本の道百選の諏訪本通りですこの道の中途で左に折れると諏訪社があります。道の向こうは高岡で手前は立山です。立山詣での宿場街なのです。
    で観れば「東町」「西街「諏訪町」が「風の盆」の「連」では評価されているようです。八尾の街には現在9つの町が在って、各町が「連」を組織して「風の盆」を競っているのだそうです。基本的なメロディーは「薩摩」の小原節でも歌詞は各町によって違うのだそうです。勿論着物も違います。
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    此方は諏訪町の子供達です。向こうの道が「日本の道百選」の通りで、「連」はお寺の門を折れてコンテスト会場に向かいます
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    「おたや階段」の上から鏡町の「連」を観る。この広場で町内の応援を得てイザ八尾小学校(コンテスト会場)に向かいます。
    町屋に入るなり、私達は宴会の肴や酒を買い出しに街に出ました。酒屋は二軒あって、屋台も数多く出ています。
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    此処は西街です。街角に酔芙蓉が咲いていました”酔芙蓉おわら流しに憩いける”
    八尾自体は馬の背に在るような街で坂が多いのです。谷には井田川(神通川の支流)が流れています。
    魚屋が店先で鮎を焼いていました。私はワイフと連れ添って簀子に坐って一匹鮎を食べさせて戴きました。私が鮎を食べていると後から後からお客さんが座って注文します。
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    こちらは鏡町の「おたや階段」の上のお地蔵様です。
    輪踊りも良かったおはら節も良かった何より印象深かったのはおはら町民の地域愛というか故郷に対する誇りでした。翌朝新聞は「風の盆始まる」の特集でしたが、おはら町民の「誇り」を共感する記事で埋め尽くされていました。
    さて、”行は良い良い、帰りは恐い”は天神様の帰り道でしたが、私達は町屋の二階で大宴会をしましたので、車は運転できません。代行運転に委託しました。でも八尾の街にはそんな便利なサービスはありません。ピストン輸送です。最後の車がホテルに着いたのは9/2日の午前様でした。
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    此れは時宗の総本山遊行寺での盆踊りです。全国の輪踊りが紹介されます。
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    此れは秋田の西馬内盆踊りです。顔を黒いオコソ頭巾で隠しているのは死者の霊と子孫との交流を象徴していると考えます。ジャワの「ラマダン」を想い起します。
    盆踊りは中世一遍上人が始めた「踊念仏」が始まりと云われています。私は「おたや階段」の階にこしかけて鏡町の「輪踊りの熱狂を観ています。千年前京都の川原町や鎌倉の長谷の海辺で一遍上人の主導された「念仏踊り」も”こんな風に見物人が多くて踊っている人は少なかったのだろう!”思いました。私の隣には石のお地蔵さんがおられます。長谷も川原街も「地蔵堂」という道場での「念仏踊り」でした。地蔵信仰も中世に起った庶民の信仰でした。庶民が共同体の絆を強くした時代に信仰の面で結束を一段と強めたのでした。
    現代は何故か此処「風の盆」が大人気なのは若しかしたら人間同士の結束を強くしたいといった願望の表れかもしれません。
    孤独に耐えられない現代人は胡弓のむせび泣くような音色に誘われて。輪踊りに興じた想い出を呼び覚ましに八尾の街に群れているのかもしれません。勿論八尾ばかりが人気なのは水上勉等の作家や「風の盆恋歌」等の人気も寄与しているのでしょうが・・・・・。
    中世に始まった盆踊りでしたが、此処越中では近世になると前田利長が藩主になると、教育に腐心します。眼病の子供が産まれると男の子には「按摩」を女の子には「歌舞音曲」のお座敷芸を習わせます。目が悪くても一生を自力で生き抜く術を教えたのでした。その結果越中には「ゴゼ瞽女ごぜ/盲御前」が盛んになります。映画 『はなれ 瞽女おりん』は水上勉が恋をしたために追放された瞽女の美しくも逞しい生き様を映画にしたものでした。


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    八尾で「おわら風の盆」を満喫しました。八尾の街を流れているのは神通川の支流の井田川で富山市街に近い沖積地で飛騨から流れてくる熊野川と合流して神通川と名を変えます。私達は学校では「じんつうがわ」と覚えました。ところが道路標識にはローマ字で「じんずうがわ」と書かれています。富山県民は「じんずうがわ」と呼んでいるようです。「じんつうがわ」では「陣痛川」と聞き間違いしてしまいそうですから、「じんずうがわ」が正解なのでしょう。でも神が通われる川の意味でしょうから「じんつう」と濁音にならない方が聞こえが良いような気がします。
    私が高校を卒業する頃連日社会面を賑わせていたのが「神通川イタイイタイ病訴訟でした。それだけにイタイイタイ病記念館は観ておきたいと思い「説明依頼書」を送付しておきました。約束時刻9/2日午前9時に行くと好青年が玄関ロビーに出て待っていてくださいました。
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    ロビーの床には衛星写真の地図がタイル写真で張られています。説明員は足元を指揮棒で指示しながら説明を始めました。


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  • 09/16/17--13:39: 富山のお米
  • 埼玉や武蔵野のお屋敷の屋敷森は欅が多いのです。富山の屋敷森は杉が目立ちます富山の屋敷森の美しさは有名で良く絵や写真の素材になっています。屋敷森の散った景色は一般に「散居村」と呼ばれます。昨年も散居村見たさに山形の米沢の郊外飯豊村の麓に出かけました。飯豊村の散居も樹は杉でした。今年の5月に再訪すると散居村のあちこちに白い花が咲いていました。「あの花はサクランボかそれともf蚊杏か?」訊けば「猿梨」だと教えられました先日横浜高島屋に加山又造を観に行くと「大東北美味いモノ展」が開催されていました。思いがけずに「猿梨」を試食しました。「猿梨」は猿が好んで食べるモノか!実感しました。キウィと無花果のミックスした様な味でした。もうじき飯豊村も紅葉と茸の季節です。再訪したい刺激を受けました。
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    これが富山の屋敷森です屋敷森は家を強風から守る防風林の役目と釜戸で燃やす落ち葉を取る意味と建てかえ用の材木を育てる意味があります。裏日本は総じて杉が多いのに対し関東は檜が多いようです。
    何処に行っても日本のお米は安全だし美味しいモノです。どうして美味しいのかな?ズット考えて来ました。ベトナムに行ってもマレーシアに行ってもお米は美味しいモノでした。でもベトナムやインドシナの長粒米は日本で食べたら美味しくありません。パラパラの長粒米はチャーハンにして食べるか一度粉にしてビーフンや春巻きにして食べると美味しいのです。何故美味しいのかな?インドシナの市場で考えました。
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    未だ9月だというのにスーパーには北国の新米が出揃っています。北海道の「夢ピリカ」に山形の「つや姫」に宮城の「笹錦」に越後の「コシヒカリ」美味しいお米は北が圧勝です。
    これ千葉産でも「笹錦」は笹錦、でも、宮城の笹錦の方が美味しい気がします。如何して千葉の笹錦は本家に劣るのか考えてみました。そうしたら気付きました。美味しいと云われるお米の産地は何処も味噌や醤油や「酢」の産地なのです。味噌も醤油も酢も米麹を原料に時間をかけて醸造して作ります。お寿司の美味しい富山も函館もお酢の産地なのです。函館はお米の他に酢と昆布の産地ですから寿司が美味しいのは自然な事です。千葉も魚は新鮮ですが酢や米がイマイチなのでお寿司の評判は劣ります。
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    此れは3年前の春葛城山の麓一言主神社を詣でて、その後行った「片上醤油の醸造小屋」樽も吉野杉なら羽目板も吉野杉です。何処から何処迄が麹菌が生きているようです。
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    片上醤油の醪樽吉野杉の樽で米麹と大豆を充分に発酵させ、最期は麻袋に醪を入れて搾れば醤油が出来ます。醤油が美味い筈です。
    3年程前に奈良の葛城山の麓にある「片上醤油」を訪問した事がありました、この時は桜を観るツアーだったのでしたが私は醤油を最初に作ったのは「湯浅」の匠とばかり思っていたので、「奈良に帰化した百済人が醤油を伝えたのかもしれない」思って片上醤油に行きました。米麹に加えて国産丸大豆を使って吉野杉の大樽に醸造する姿勢に驚いたのでした。臼杵のフンドー金醤油の工場見学した折にも”米麹の醸造には吉野杉に限る”と教えられました。お米が美味しい評価を得る為には味噌や醤油や酢などの醸造品が美味しくなくてはなりません。
    日本の醤油は醪(もろみ)醤油と呼ばれ、米麹に塩水を加えて醸造して作ります。我が生家でも味噌を樽に漬けこんで野菜を漬けたりしていると味噌の表面に醤油が出来て来ました。これが醪醤油で味噌が姉さんなら醤油は妹の様なモノでした。日本の醤油は醪醤油が基本です。
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    ベトナムの食事はビーフンもフォーも生春巻きも魚醤(ナンプラー)の味付けの妙に依るモノです。
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    ベトナムの僧坊で料理を準備する若いお坊さん。調味料は魚醤です。メコンデルタで獲った魚のうち大きいモノは家族で食べますが小魚やエビは道路で干して魚醤の工場に持って行き魚醤と交換して貰います。魚醤メーカーは仕入れと販売を物物交換できるのです。
    一方タイやベトナムやインドネシアの醤油は魚醤と呼ばれ小魚を陶器の樽に長年漬けこんで醸造して作ります。ベトナムラーメンや生春巻きの美味しさは魚醤の美味しさです。東南アジアの料理の美味しさの秘密は魚醤と呼ばれる「醤油」にあるのだ!確信しました。日本の丸いネバネバしたお米が美味しいのはお握りや卵かけご飯です。御握りや卵かけご飯が美味しいのも醪醤油の味が決め手です。お米それ自体よりも調味料が美味しさの決め手なのです。
    日本の米所ブランド米は総じて北日本に集中しています。夢ピリカに秋田小町に笹錦に越光りにつや姫に・・・・。ブランド米は何処も味噌や醤油の美味しい処です。
    醤油のうま味はタンパク質が分解して出来るyアミノ酸(グルタミン酸)です。日本の醤油は米麹や麦麹で大豆のたんぱく質を発酵させて出来るグルタミン酸です。一方ベトナムやインドシナの醤油は小魚を陶器の瓶に漬けこんで発酵させる事で出来ます。一般にナンプラーと呼びます。秋田の「ショッツル」はハタハタをつけ込んで、輪島の「いしる」も魚醤ですが、此方は鰯をつけ込んで造っていました。鍋の美味しい地方は何れも味噌や醤油の産地です。
    こんなことを考えて居たらこの秋は白神山地に行って不老不死温泉に浸かって「ショッツル鍋」を食べたくなりました。
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    此れは秋田名物の「ショッツル鍋」です。メインの魚は鰰(はたはた)です。汁は魚醤で味付けされています。魚醤も鰰を原材料にした醸造品です。日本でも秋田や輪島に魚醤文化が残っています。



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  • 09/17/17--12:43: 日石寺の磨崖仏
  • 台風18号が日本列島を縦断しそうな気配です。テレビの気象予報士が張り切っているように見えるのは自然ですが,心なしか嬉しそうに見えるのは不思議です。
    「風の盆」ツアーは210日の台風被害が無い様に神々に祈ったモノと思います。もう230日ですから、18号台風は随分遅れた台風です。出来れば、米所や果樹所を避けて通り過ぎて欲しいモノです。
    越中八尾の農家は既に刈り入れも終えて、肝心の、生産者米価は今年は1~5%アップだそうで、安堵して居たら、秋の締めは18号台風でハロウィーンに相当する相当する新嘗祭までは多難なようです。11月には鰤起しが吹く事でしょう。
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    ネット上ではブランド米は10000円/30キロで売られているようです。不透明な食管を通さずに好きな産地のお米を直接に農家から買いたくなるものです。写真出典アマゾン/グー10/https://www.amazon.co.jp/s/?ie=UTF8&keywords=%E3%81%8A%E7%B1%B3%EF%BC%91%EF%BC%90&tag=yahhyd-22&index=aps&jp-ad-ap=0&hvadid=217656701253&hvdev=c&ref=pd_sl_4aqmdibwnv_b
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    富山の郊外では刈りいれの最中でした。農家の懸念「台風」の被害にも遇わずに無事に刈りいれが出来て僅かでも米価がアップすれば先ず安堵した事でしょう。
    私達は立山連峰の北の端剣岳の登山口にある「日石寺」に向かいました。田圃はコンバインが刈りいれに走り廻っています。日石寺は磨崖仏ファンの間では憧れのお寺で本堂の奥に巨大な岩があって不動明王の磨崖仏が祀られているのです。写真集で何度も観て来た重文の大磨崖仏ですが、白っぽいので白御影石かと思っていましたが、実際に観てみれば明らかに凝灰岩です。凝灰岩とは字の通り火山灰が堆積して地圧によって岩になったモノです。花崗岩よりは柔らかいので彫刻が容易である上に肌が綺麗で着色も容易なので臼杵の石仏を始め国宝クラスの磨崖仏は大半が凝灰岩です。本堂に鎮座する磨崖仏(まがいぶつ)は中央の不動明王と左右の童子立像などが凝灰岩に彫られています。この凝灰岩はフォッサマグマ(大地溝帯)にも確認できるモノで。1千万年前の岩で、大陸から分離し現在の日本列島の位置に移動したころにつくられた岩石と思われます。この10月末に親友と「塩の道」に沿って石仏行脚する予定で、糸魚川で「フォッサマグマ記念館」に行く予定ですから。確認出来ると思います。凝灰岩は加工しやすい岩石で「塩の道」の石仏も長野高遠の石工の作品が多いようです。
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    日石寺も近い棚田の風景
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    日石寺と富山市街の間には女川があって「弓の里歴史文化展」を開催していました。何時か来てみたいものです。
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    此れが日石寺のご本尊不動明王像です凝灰岩の巨岩に不動明王と脇侍(セイタカ童子とコンガラ童子が刻まれています。千年の歴史がある事に加えて護摩も焚かれたでしょうに白い素肌が保存されています。これも凝灰岩の効果でしょうか?
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    此方は3年前の晩秋に訪れた臼杵の磨崖仏(国宝)です。日石寺磨崖仏と同じ凝灰岩に刻まれていますが。僅かな着色が残されています。
    「日石寺の磨崖仏」は寺伝では「行基」作だそうですが、明らかに平安初期修験道や密教の勃興期に作られたモノでしょう。臼杵の磨崖仏に匹敵する作ですが、臼杵仏が見事に着色されているのに対し日石寺の磨崖仏は凝灰岩の白い肌を活かしています。
    重要な事は凝灰岩の白さの訳です。セメントと同じようなモノと思っても良いのですが。セメントの原料になる石灰岩は海の貝殻等が地圧で固まったモノです。凝灰岩には消炎薬としての薬効成分(ホウ酸)が含まれています。各種アレルギー、自己免疫疾患に効果が期待されます目が充血して居たりすると凝灰岩の溶液が炎症を治癒させるのです。ですから目の薬師は大抵が凝灰岩の地質に立地しています。日石寺の湧水も眼疾に有効なようで。瀧行にも普茶にも眼疾に有効と案内されていました。ワイフも先月白内障の手術を終えたばかりで、眼の表面を労わっています、早速に普茶を戴いていました。
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    これは日石寺の瀧行が行われる「6本瀧」。右端に藤水の案内が為されています。「藤水」は眼病に効果があるといわれている霊水です。1702年、越後のある目の不自由な百姓が、不動明王から「日石寺の滝の脇に藤木がある。その下の水で目を洗え」とお告げを受け、さっそく目を洗ったところ目が開いたそうです。加賀藩は盲目の子供の救済策として男子は按摩に女子はゴゼとしてのスキルを習わせましたが。日石寺の霊水がホウ酸を溶かしていて眼疾に有効であった事も関係していたのでしょう。眼疾のある人には有難い霊水です。
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    6本瀧の隣にある霊水「藤木の水」の表示眼疾に効果があるそうです。名水の表示の背後の大木は多羅葉です。「葉書の木」とも呼ばれ中央郵便局前の植え込みにもありますがこんなに巨大な多羅葉は初めてです。
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    御手水の隣に霊水で沸かした普茶サービスがありました。美味しい焙じ茶でした。
    来年は何処に行こうか?
    皆と相談しました。結果福島県の信夫山に行く事になりました。文学好きには「糯摺り石」が民俗好きには「黒塚」が磨崖仏ファンには観音堂磨崖仏群を観て飯坂温泉に浸かって花を観る旅になりそうです。
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    此れは信夫山の東峰にある磨崖仏です。平安時代後期凝灰岩の大岩に刻まれた石仏群です。
    このブログを以って「今回の「風の盆」ツアーは終了です。
    火山灰の岩山が立山になって、その山麓の神岡精錬所で爆弾を作ろうと亜鉛を精錬する過程でカドミウムを垂れ流しました。その結果「イタイイタイ病」が発症しました。聖地立山に降った雨が地下水になってホウ酸を溶かせば眼疾を直す霊水になり。爆弾を作ろうとすれば「イタイイタイ病に」になりました。4大公害病は水を汚した「水俣病」「阿賀野川公害」は有機水銀が原因でした。土壌をカド二ウムで汚染したのがイタイ大病で、4つ目が四日市ぜんそくでした。硫酸ガスで空気を汚したのでした。日石寺の瀧行は5本落ちています。「地」「水」「火」「風」「空」の5本だそうです。偶々ご婦人が瀧に打たれて水垢離していました。「地」「水」「空」の三種を清浄に保つのが瀧行なのでしょう。古代人は自然と同じく人間の体も心(魂)も清く保つのが「健康長生き」の秘訣である事を知っていたのでしょう。

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    「旅行には三つの楽しみがあります。第一は実際に『知らない土地や文化を観て廻る楽しみ』です。旅のプランをするのも楽しみです。そして旅を記録誌に残すの楽しいモノです。記録誌は私が入院中にも随分激励してくれました。「元気になって再度友人と旅に出よう」そんな意欲が脳梗塞リハビリの原動力になりました。
    今記録誌を編集しています。数年前「旅をして宴会するだけでは能が無いので、”俳句で遊ぼう”を始めました。でも「無理に俳句を作らせるのは如何か?」批判も出たのでと投句は自由にしました。今年は季題を決めさせて貰いました「風の盆」「鈴虫」等にさせて戴きました。
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    此れは富山の配置薬売りのお人形です。老舗「広貫堂博物館」の入り口に展示されていました。大風呂敷に行李を包んで肩から背負い家々を訪問して回りました。各家には薬箱を配置して在り、在庫を一杯にして帰りました。半年後に再訪した時には使った薬の代金だけを請求して帰りました。行李の中には薬の他に子供の喜ぶ「紙風船」が入っていました。現代のノベルティーです。
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    此れが魔法の行李で、開ければ薬が次々に出てきて最期の行李を開けると紙風船が出て来るのです。
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    此れが広貫堂で貰った紙風船ですキティーチャン紙風船は3枚で350円でした。此れを参考に紙風船を自作してみる事にしたのです。
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    此れは万葉博物館に展示してあった紙風船です。これを真似れば良かったのです。
    富山の薬売りが持ち歩いていた「紙風船」はアッチコッチで観ました。最初は富山空港のロビーにありました。高岡の万葉資料館にも展示されていました。市販品を買い求めたいとホテルのコンセルジュに相談すると「広貫堂/老舗薬屋」に在るだろうと云う事でした。行ってみると確かに在りました。喉飴を買うと昔のデザインの紙風船を1枚くれました。私は孫用に「キティーチャンデザインの紙風船を買い求めました。
    そして自宅で紙風船を作ることにしました。これも旅の楽しみの一つでしょう。
    先ず素材の紙を買い求めに和紙店に行きました。貰った紙風船を見せると「これは和紙では無いパラフィン紙で洋紙である!」というので有隣堂に行きました。
    パラフィン紙に「家持の和歌」を描きました。つぎには「風の盆」の絵を描きました。絵には自作の俳句も添えてみました。
    出来上がった紙風船を膨らませて気付きました。紙風船の中に照明を入れたら綺麗だろう雪洞のように見えるかもしれない。そこで立方体をボール紙で作って窓を開けて窓にパラフィン紙に描いた絵を張りました。
    出来上がった処で、パラフィン紙の縮れを直す為霧を吹きました。すると俳句の字(墨)も絵の具も流れてしまいました。そんな

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    9/19日台風一過で底抜けの青空です。こんな日は田園に出て彼岸花でも観たいと思いました。一番近くなら慶応大学藤沢キャンバスの下の小出川の堰堤です。でもネットで確認すると小出川の彼岸花祭りは9/23日との事、そこで19日は生田の川崎民家園に行く事にしました。思惑は多摩川の鮎を昼に食べる事です。実は昨年も出かけたのでしたが、お店(笙と云う名の蕎麦屋)は夕方に開店するとの事で。昨年は食べられませんでした。余程私には縁が無いお店のようで、9/19日も”知れの都合で開店は午後5時です”案内が貼られていて、多摩川の鮎は食べられませんでした、期待通り民家園の中の菖蒲田の畔道には彼岸花が咲いていました。屹度田圃の中には「仏土壌」が潜んでいるのでしょう。仏土壌は秋になると土の中に隠れてしまいます。そして翌年田植えの季節になるとノコノコ田圃に姿を現します。お百姓が泥鰌は死んでしまったと思っていたモノが、突然に出現するので驚異の念を込めて「仏泥鰌」とネーミングしたのでしょう。
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    此れは川崎民家園の菖蒲田です畔に赤い彼岸花が咲いていました。この田圃に「仏泥鰌」が生息しているのです。
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    水槽の底に居るのが仏泥鰌(日本の固有種)です口髭が生えている様に見えるのも愛嬌です。鮒や吉のぼり(ハゼ」も見えます。写真は柏尾川の追い込み漁をした時のモノ。
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    此れは川崎民家園の庭に置かれた「屋敷守」の五輪塔。脇に白い彼岸花が咲いていました。
    民家園は未だ夏モードで十五夜団子を飾るのは9/30日(土)だそうです。いつ来ても川崎民家園の美しさには感服します。今日は茨城や房総の民家の「雨樋」について書きます。
    雨樋で有名なのは国宝の石清水八幡宮の雨樋です。八幡造りである御本殿の内殿と外殿の「相の間」に架かる雨樋で一般に織田信長公寄進の「黄金の雨樋」と呼ばれています。
     天正7(1579)年12月、信長公が雨に遭って山崎寶積寺に逗留の際、岩清水八幡宮の雨樋が朽ちて、雨漏りがしていることを聞き及び修理を命じます。翌、天正8年8月には木製から唐金の雨樋に造り替えられました。これには、もし再び当宮に天災などの有事が起こった際には、この「黄金の雨樋」を換金し軍費に充てようとしたのだそうです。
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    これが国宝の石清水八幡宮の本殿と拝殿の間に在る「金の雨樋)です。樋の厚さも金箔貼りであるかもわかりませんが一般には純金の雨樋でイザと云う時には軍費に充当されるのだったそうです。
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    此れは桂離宮の雨樋です。桂離宮では屋根の重なりは下地で処理されていて石清水八幡宮のような雨樋は使われていないものの。庇の下には竹を割った雨樋が使用されています。寺院や内裏では雨樋を使わずに雨が地面に落下する場所(犬走り)には砂利を敷いたり溝を掘ったりします。

    建物を長く持たせるには「雨漏り」対策が最重要です。雨漏りし易い場所は決まっています。棟の天辺に屋根と屋根の継ぎ目です。「古屋の雨漏り」の民話はこの事実を伝えるモノです。神社や寺院の場合は拝殿と本殿、本堂と庫裏や東司等屋根と屋根の継ぎ目が必ずあるモノです。そこでその継ぎ目に「雨樋」を設置したのでした。
    でも民家となると状況は少し違います。本屋は家族が寝る部屋だったり仏間だったり団欒の部屋(囲炉裏)だったりします。そして本屋に準じる部屋が「家畜」の部屋だったり作業部屋(土間)だったりします。
    房総や筑波の民家では本屋と土間の間の屋根の継ぎ目に巨大な柱を刳り空いてカヌーの様な雨樋を作って吊るしているのです。それが実に美しいと思いました。美しさの秘訣は「実用」に徹している事です。

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    此方は川崎民家園の「五個荘の家」です。神通川は飛騨を流れる時は宮川と云い「合掌造り」の間を縫って日本海に注いでいるのです。
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    これは五個荘の合掌造りの天井の梁(はり)です。豪雪で根曲りしたブナの木を組み合わせて天井裏の木組を作って豪雪と屋根の重みに耐えたのでした。これこそ「民芸美」だと確信するモノです。
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    此れが国重文の作田家住宅です。次に民家園の解説が載っています。http://www.nihonminkaen.jp/facility/old_folk_house/11_sakuda_house/左が母屋で家族の生活空間です。右が鰯漁の物置小屋です、二棟の間に下の写真の雨樋が設えられています。右の物置小屋には鰯漁に必需な「櫓」や網が仕舞われています。土間で鰯を茹でて直ぐに庭に筵を敷いて乾かすのです。
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    作田家住宅の雨樋。巨大な栗の木の幹を割って中をカヌー状に刳り貫いて雨樋にしています。樋という字は木篇で竹編や竹冠でないところを観ると中国でも木を刳り貫いて樋を作っていたのでしょう。
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    此れは川崎民家園の大田家旧宅(国の重文)民家園は次に解説しています。http://www.nihonminkaen.jp/facility/old_folk_house/14_ota_house/分棟型(ぶんとうがた)の民家です。大戸口(おおどぐち)を入ると広い空間がひろがっています。ドマの右手がウマヤ、左手が主屋(おもや)です。主屋は日常生活の場であるヒロマ、寝室であるヘヤ、そして畳敷きのザシキに分かれます。
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    此れは大田家住宅の馬屋と本屋を繋ぐ雨樋です。此方も栗の木が素材だそうです。

    南部の曲屋では母屋と馬屋との接点をどのように処理しているのだろうか?思って工藤家住宅(国重文http://www.nihonminkaen.jp/facility/old_folk_house/22_kudo_house/)に回ってみました。煙が濛々と立ち上がっています。囲炉裏で職員が薪を燃やしているのです。昨日までの台風の余波で薪が濡れていたのでしょう。でも燻すには十分すぎる煙です。
    私が火災報知器が作動しませんか?尋ねればこの建物にも3機報知機は設置されているのですが、薪を燃やす前にスイッチをオフにしておくのだそうです。スイッチをオンに戻すことを忘れたら大変です。
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    此れが工藤家住宅(国重文)です。右が母屋でL字形に馬屋が繋がっています。この部分に雨樋が使われていないか確認したのですが、雨樋は使わずに屋根の下地で処理されていました。屹度頑丈な桜の樹皮等で接続部を処理したのでしょう。


    今横浜高島屋では「柳宗悦の日本民芸館の展示を開催しています。副題には「美は旅をして見つけた」案内しています。旅をして観る最高の美は民家です。何故なら衣食住総てに関るのが民芸であり、民芸美の究極は庶民の日常生活と生活用具の合理性に在ると思うからです。幾ら美しい生活用具でも輸入品では意味はありません。その地方地方に産出する固有の素材でなくてはなりません。山形の木通細工が美しいのもあの山地に自生していた蔓を素材に農民が囲炉裏端で編んだのだから民芸美なのです。陶器はその地の粘土を使うから石仏はその地の意志を使うから美しいのです。高級な白御影の石仏よりも安山岩や凝灰岩を刻んだ彫刻に美を感じるのは自然な事です。最後に民家の究極の美である天井の梁組をお見せします。
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    これは前出99里の作田家住宅(鰯漁の網元の家)の梁です。天然の素材を巧妙に組み合わせて頑丈な構造を形成しています。


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    9/20日は彼岸の入りです。台風一過で庭は大荒れです。我家の彼岸花も彼岸入り前に強風で倒されてしまいました。でも、彼岸花に代わって菊芋の花が咲き出しました。コスモスに似た黄色い花です。私の生家の畑にも自生していました。檀家の方がお墓参りに来られて供花を忘れたら菊芋の花を手折って墓前に生けて帰られたモノでした。本郷の菊坂は寺町で農家が菊を栽培して販売していたそうですが、菊芋なら花も芋も有益です。美人で才能にも恵まれた樋口一葉のような菊芋です。
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    此れが庭で漸く咲き出した菊芋の花です。このお芋が血糖サプリメント人気№1なのです。花が終えたら芋を採取しようかな?
    処で私の陰暦併用カレンダーによると9/20日は24節季の「燕帰る」月齢29で新月です。燕は南国から田植えの季節に日本にやって来て、子供を育てて再び南国に旅立つのですが、日本生まれの若者にすれば生国は日本なのですから「燕帰る」は親の事で「燕去る」とか「燕旅立つ」が正解だろうと思います。私の親友のI君の軽井沢の別荘で「燕」の旅立ちに遭遇した事があります浅間山の南麓です。
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    此れは浅間山の南麓から集団で南国に帰ろうとしている燕です。
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    喉元の朱がはっきりしているのは親鳥ですから「燕帰る」は正しいのですが朱が薄いのは今年生まれた若鳥ですから「燕去る」が適正な表現です。
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    戸塚駅前のパチンコ店の珈琲自販機の傘の上で育った燕です。
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    珈琲自販機の傘の上で育った燕も順調に育って秋になると、季節風に乗って南国に旅立ちます。戸塚は未だ自然が残されているので、観察の楽しみもあります。
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    これは戸塚石前のパチンコ店の珈琲自販機の傘の上の燕の巣です。若鳥が産まれて育って十分役割を果たして立派に見えます。来年の田植えの季節になれば又同じ親が戻って来るのでしょうか?
    電線や屋根の上に無数の燕が群れて上昇気流を待っているのです。時刻は夕方でしたから、猛禽類に襲われない夜中に台湾を目指して飛ぶのでしょう。
    でも森昌子さんの演歌に「越冬燕」があります。昌子さんは「悲しみ本線日本海」等もヒットさせていますので、私は越冬燕」では無くて「越中燕」のような気がしています。今月越中八尾で「風の盆」を楽しんだのでしたがあの屋敷森の中に旅立つ事を忘れて越冬を覚悟した燕が居るのかもしれません。「越冬燕」とは病気や何かの事情が出来て南国に渡らずに残った燕、若しくは其処が居心地が良すぎて居残ってしまった燕の事でしょう。日本の家屋が温かくて食物にも事欠かなければ居残っってしまう燕も居そうです。
    日本人は総じて燕を大切にしています身近に燕を観察しているので燕の深い情愛を理解しているからでしょう斉藤茂吉さんの母の挽歌は燕に託して万人の胸を打つ歌です。燕が巣作りする家は繁栄すると云います。「祖先が燕になって高砂の島に渡って富を運んで戻ってくる」と信じられたのかもしれません。
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    此れはフィンランドの作家「オスカーワイルド」原作の「幸福な王子」の表紙写真出典アマゾンhttps://www.amazon.co.jp/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E3%81%AE%E7%8E%8B%E5%AD%90-%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC-%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89/dp/4893094874
    北欧は日本に似ていることが時々指摘します。「幸福の皇子」は越冬燕の話です。公園の銅像の王子様の金の衣を燕が貧乏なこの家に運びます。お蔭で貧乏な子供は食べ物にも恵まれて生き延びます。ところが王子の金の衣が無くなってしまうと王子は自分の眼(ルビー」を持って行くように燕に指示します。王子は貧乏な子供が生き延びた事を悦びますが翌朝銅像の足許に燕が凍死している事実が発見されます。童話の最期がハッピーエンドで無く現実的なのはお国柄でしょうが。



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  • 09/21/17--12:14: 「鮎」ラーメンの味
  • 9/18日多摩川の鮎を食べようと登戸に出かけましたが、目指した「笙」(生田駅近く)」は開店は午後5時と案内されていました。屹度増水した多摩川の影響で鮎の仕入れが出来なかったのでしょう。
    一度鮎が食べたいと思うと制御不能になってしまう私です。ネットで「多摩川+鮎+地名」で検索しました。地名の処に多摩川園とか二子多摩川とか和泉多摩川とか適当に入れて探してみました。結果二子多摩川に「鮎ラーメン」を見つけました。
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    これは「鮎ラーメン」です600円写真出典「食べログ」此れは夜のメニューの塩ラーメンで、日中はつけ麺だけになります(1200円)
    其処でワイフを誘って「にこたまに塩ラーメンを食べに行こう!」ネットには塩ラーメンの写真が載っていました。一見すると京都に「鰊そば」のような姿で、鰊の代わりに塩焼きの鮎が載っているのです。私は昭和50年代初め目黒の東が丘社宅に住んでいました。駒澤大学駅から地下鉄に乗れば直に双子多摩川で川を越せば川崎市高津です。
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    右(西)のビルが玉川高島屋の本館で左が駐車場ビルこの駐車場ビルの東側に多摩川商店街があって其処に目標の「鮎ラーメン」がありました。
    駒沢から上り電車に乗ればすぐに三軒茶屋で下り電車に乗れば双子多摩川で当時から「にこたま」には晴の日の語感が在ったのでした。ワイフも久々の「にこたま行き」は好感触のようです。自由が丘で乗り換えれて九品仏から「等々力」「上野毛」ワイフが女学生時代を過ごした駅を通過して双子多摩川に着けば、既に私達は土地感ゼロのお上りさん状態です。肝心の246号道路が頭上を走っています。加えて高島屋デパートが本館南館に加えて専門店モールや駐車場ビルが在るので、京都や横浜や日本橋店よりも巨大に見えます。
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    多摩川高島屋専門店街ビル
    本館の裏双子多摩川小学校の校門近くに双子多摩川通りがあります。ブランド通りが噓の様な昔ながらの商店街です。子供達の描いた絵が街を飾って懐かしさに満ちた通りです。通りをキョロキョロしながら歩いていると「鮎を焼く香ばしい香りが漂って来ました。カウンターが7席しかないラーメン店に「鮎」の字を抜いた暖簾が架っていました。店先には椅子が4脚置かれていて行列のお客の便宜を図っています。私達も並んでいる中に胃液も分泌されて鮎ラーメンを食べる体勢は用意されました。
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    これは鮎ラーメンのある多摩川商店街通りです。ガス工事中の処の右側が目指す鮎ラーメンでした。
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    下駄ばきマンションの1階は飲食店が多く鮎ラーメンの隣りはイタリアンでした。
    何処から観ても30代の夫婦二人で店を切り盛りしているようです。店内の壁に高山の神社のお札が貼られていました。念の為にと思って「この鮎は多摩川産の鮎では無いの?」訊けば岐阜産だと云います。「長良川ですか?」訊き直せば「そうだ」と答えて「鮎はヤッパリ長良川だと云われます。
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    通りには鮎の一夜干しの道具が置かれていました。
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    鮎ラーメンのガラス戸に貼られた案内。夜は塩ラーメンで9月中の600円昼はつけ麺で1200円です。
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    一見して夫婦と思われる二人で店を切り盛りしていました。女性は勘定やお茶出し、男性はラーメンを調理していました。手が空くと鮎の骨抜きをしていました。
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    此れが私達が食べた鮎のつけ麺です。左端の竹椀に入っているのが漬け垂れで、鮎の骨の煮凝りでジェル状でした。隠れているのがご飯で鮎の骨の出汁で焚いています。ご飯の左が鮎骨の出汁でご飯に掛けて戴きます。香のモノは赤蕪漬けでした。
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    これは鮎のつけ麺を戴いた後で用意された鮎の茶飯です。鮎の骨で採った出汁を漬けだれと一緒にご飯にかけて山椒を振って赤蕪漬けで戴きました。
    長良川の源流は大日岳で同じひるが高原から庄川や宮川が流れ出し、高山を経て神通川に名を変えます。神通川や宮川の鮎と云わずに長良川の鮎というのは風評を意識しているのでしょう。
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    此れは鮎ラーメンの店内に貼られていた高山に在る山桜神社の馬頭祭りの絵馬の手拭です。この二人は高山に強い愛着があるのでしょう。

    どうしても食べてみたかった多摩川に戻ってきた鮎ですが登戸でも駄目二子多摩川でも駄目でした。
    でも鮎は干しても鮎で味が濃くなったようです。次回は「塩ラーメン」の季節に来たいものです。来た道を戻って二子多摩川駅に向かいます。ワイフは「五島美術館のお庭に萩が咲いているかもよ!」言って等々力駅まで歩きたそうです。観れば高島屋の催事場では「大北海道展」を開催中との事。柳葉魚(ししゃも)かほっけでも買おうか思って入ってみました。


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    どうしても食べたたかった多摩川の鮎でしたがそれも敵いませんでした。

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  • 09/22/17--12:22: 旅と民芸(柳宗悦)
  • 9/20日出かけた目的の一つが横浜高島屋で開催される「柳宗悦展」を観る為でした。水曜日の午前10時に開店を待って高島屋に入りました。
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    開店前の横浜高島屋。ブロンズ像は待ち合わせスポットでこの像の台座に「あら「今日は」/ 工藤健(KUDOU,Takeshi)(1937-)の1985年横浜高島屋開店25周年記念事業』と表示されていました。
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    開店と同時に入ると美人の店員さんに一斉に挨拶されてドキドキしてしまいます。
    高島屋の1階は化粧品売り場です。硝子戸が開くと同時に入店すると生きたマネキンのような美人が揃って挨拶してくれます。爺が恥ずかしげにマネキンの挨拶の放列を縫ってエレベーターに乗り込み8階の催事場に向かいます。8階催事場は「バーゲン品売り場」と「展覧会会場」が隣接しています。
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    8階催事場に展覧会場があります。
    駒場の日本民芸館には時々出かけますので、収納品は良く知っている積りです。でも「旅と民芸」の副題が付いている以上、柳宗悦氏が旅好きであった以上に訴えたいことが在るのでしょう。旅好きと云えば芭蕉が想い出されますが、旅をしなければ句作は生まれません。旅が趣味である以上に避けられない手段だったのでしょう。
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    此れは芹沢圭介氏作日本民芸地図、マップ上にドットした民芸品は山形福島の密度が高くなっています。
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    此れはポスターの背景に使われた上記日本民芸図です作者は芹沢圭介氏で同氏が日本民芸館に納めた染色品でしょう。原型は有田焼等で良く視ます。
    展覧会場に入ると、日本全国の古地図が貼られていて、柳宗悦が好んだ民芸品を地図上で示してありました。
    私の記憶では柳宗悦の生まれは鳥取です。鳥取や島根が多いのかと期待すれば明らかに一番多いのは山形で次いで福島です。山形福島は民芸王国の感がします。
    倉敷に富山に鳥取今では日本各地に「民芸館」が在るのは柳宗悦の始めた民芸運動が共感を以って受け止められたその成果でしょう。私が社会人になって始めて柳宗悦の偉大さを教えられたのは鳥取信用金庫の理事長さんでした。というのは昭和50年代初頭私は鳥取信金から呼ばれて当時夢千代日記(吉永小百合主演』で人気が盛り上がってきた湯村温泉の看板旅館の建て替え資金の貸し出しの検討を依頼されたのでした。長銀には代理貸し制度が在ったので。長銀が鳥取信金を介して貸出すればニーズは満たせますが刈りいれ人は金利の他に鳥取信金に保証料を払わなければなりません。当時で0.3%が保証料でしたから、直接貸し出しの方が借入人にも喜ばれるし、湯村温泉の老舗旅館の建て替えの合理性判断も鳥取信金と長銀でたいして違わないものです。鳥取信金の理事長は一通りの説明を終えると「お昼でも案内しましょう」言って下さいました。お店は信金の真向かいにある「匠」と云う名の割烹でした。信金の説明では鳥取に柳宗悦の理解者であった医者が居て、そのコレクションを活かして匠と云う名の割烹を始めたのだそうです。同氏一族は「銀座8丁目銀座電通の並びに民芸品店も営んでいる」案内されました。昼も松葉蟹夜も松葉蟹を戴いて直接貸し出しが出来て”このお布団は小百合さんがお休みになられたお布団ですよ!」なんて言われて夢心地でありました。
    福島三春の人形も現代三春で商われている張子人形に較べれば柳宗悦の審美眼に適った品は違います。
    改めて驚いた民芸品が幾つも観ました。
    一つが下の写真です。米俵の上に坐っておいでですから「大黒様」でしょう、魅了されるのは右手にクルス(十字架)を握っている事です。
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    此れが米俵に坐っておいでの大黒様です。一見すると木彫のようですが大黒様のお顔を観ると砂の様な粒粒もあるので「鉄製(鋳物)かも知れません。何処で採取されたのか興味が尽きません。若しも隠れキリシタンの遺品であったなら・・・・。最高です。写真は公式絵葉書をスキャン。
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    此れは「白掛け飴差市逗子甕」です。形からして沖縄のお墓です。この白い甕に水葬して洗われた遺骨を拾って納めたのでしょう。私のように頭が大きいと頭蓋骨だけで満杯になってしまいそうです。
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    これは昆虫図です。馬追いと蟋蟀を横目に蝦蟇蛙が冬眠に向かう様な図で伊藤若冲にもありそうな名作です。

    芭蕉が旅をしたのは句作のインスピレーションを得る為だったのでしょう。柳宗悦が旅をしたのは素晴らしい民芸品を探して古街道を巡ったのでしょう。木喰仏を山梨で見つけた時の感動が推し量られます。
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    此方が柳宗悦が山梨の丸畑で見つけた木喰上人自刻象数ある木喰自刻像の中で一番有名な像です。
    隠れキリシタンに匂いのする大黒様を見つけた時の感動は如何許りだったか?想像するのは楽しい事でした。

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  • 09/22/17--12:45: 栗きんとんの商標権
  • 八百屋の店先に栗の実が目立つようになりました。横浜の八百屋では茨城産が主流です。茨城産は大半が里栗で田圃を埋め立てたり野菜畑に栗の木を植えたモノですから大きな実の割に水っぽい印象があります。茨城のゴルフ場の帰りで良く見かけたのでしたが殆ど買いませんでした。美味しい栗は「山栗」ですから、木曾の中津川や恵那上田から小布施にかけての明科郡に勝る栗は無いと確信しています。今頃は桜井丹精堂やら小布施堂やらが栗の味を競っていることでしょう。童謡「里の秋」で謳われているように、日本人にとって栗は縄文時代のDNAに刻まれた食品ですから哀愁が込められています。栗が無ければ縄文時代人は生きながらえなかったでしょうから、日本のルーツは弥生文化とか古墳文化となって陰影の浅いモノになってしまった事でしょう。極端な事を云えば我国神社が伊勢神宮や三輪大社だけで、諏訪大社も三島大社も鹿島神宮も無い事になってしまいます。寂しい限りです。
    相模国にも栗の産地があります。殆どが大山や丹沢の山麓です。少し離れますが茅ヶ崎の里山公園や300クラブの近隣には「栗拾い農園」もあります。9/20日高島屋に行きましたので和菓子フロアーに行って中津川の「すや」さんの栗きんとんを買い求めました。昭和30年代私は祖母に連れられて中津川に在る叔父のお寺に良く出かけました。お寺の名前は「大石山宗泉寺」で叔父の名は「大石好文」と云いました私の父は僧侶としての地位はイマイチでしたが叔父や叔母の力があったので、地方に住職ポストが空くと次々に弟を晋山(住職にする事)させまあした。その場合先住住職の一族からお嫁さんを戴き婿養子に入ったので下から苗字が変わりました。その宗泉寺の檀家が「すや」さんでしたから、自ずとお菓子と云えばすやの「栗きんとん」戴きました。今想い起せば贅沢この上ない事です。
    栗きんとんは見た目も美しいし茶菓子には最適ですから、すやが独自に開発したのかというと、そんなことはありませんでした。旧家では何処でも自家製の栗きんとんを作っていたのです。栗を茹でて鬼皮と渋皮を剥いで、裏漉ししてできたきんとんを巾着に絞れば栗きんとんが出来ます。
    でも、「すや」はいち早くこの栗きんとんを中津川宿の名物にしてうりだしたのでした、
    広重もすやの栗きんとんを戴いたようで浮世絵に残しています。今ではすやだけでなく「南陽軒」とか「松月堂」等が進出してすやの地位を脅かしているようです。ネットでは栗きんとんのランキングが盛んです。「中津川栗きんとんのランキングhttps://travel-noted.jp/posts/664
    ニューフェースが追い上げてもすやの評価はびくともしないでしょう。何故なら高島屋や西武等有名百貨店は「すや」しか扱っていないからです。一方「たねや」さんや日影茶屋等は栗きんとんを作っています。どれもすやの栗きんとんに酷似した巾着デザインです。既に400年は経過している事等の理由で商標権も成立していないのでしょう。
    洋菓子の栗と云えばモンブランです。
    恵那や