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今、一番大切にしたいことは何ですか? 内には「健康」外には「地球環境」こう答える方は多いと思います。時代はこんなライフスタイルを「LOHAS」と呼んで期待しています。 先日、二人の太めな厚労副大臣が、メタボリック症候群対策を発表していました。「これから半年ウォーキングに励んで、腹回りを6センチ、体重を5キロ減量する」 出来るかな、公約。 自分の足で歩くと、普段気づかなかったものを発見し、感動したりします。グッドアイディアが閃く事もあります。行き交う人に会釈して、人にも地球にも優しく出来ます。私たちは車依存症から脱却すれば、リッチになれます。 ウォーキングは心身の健康に良いことばかりか、感動があります。私自身のささやかな感動を皆様にお伝えし、共感の輪を広げ、「LOHASU」な世界にご一緒したいと考えて、ブログします。 ところで、副大臣様歩数計をお持ちでしたが、それにUSBをつないで自動記録を残したらどおでしょうか?さらに、ウォーキングデータを「仮想旅」マップに表示したら、国会や霞ヶ関への通勤路が憧れの街道歩きに移行できますよ。 6ヶ月で「腹回りを6センチ縮める」のは切実でも、楽しくありません。6ヶ月で「中仙道」を踏破する計画に変じれば、楽しくなるし、データも残せます。グーグルアースの3Dマップに表示するので、画面は斬新ですよ。2008年4月に「健康指導」が義務付けられますが、一番肝心な「運動データ」が出来上がっています。USB歩数計を使えばメタボ対策は容易になります。 私たちは「LOHAS」な人の輪を広げたいと計画しています。
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    9月30日日文研の「秋のセミナー」が始まりました。講師はT元慶応大学教授です。慶応大学教授時代に文献学的手法で西行の作品を研究され大著「山家集の校本と研究/笠間書院」 を上梓され、以降は「西欧における日本文化の現状」 をテーマに研鑽を積んでおられます。
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    これは今秋の日文研セミナーの初回講師をされたT教授のライフワーク西行法師]の文献学的成果です。楽天https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E5%B1%B1%E5%AE%B6%E9%9B%86%E3%81%AE%E6%A0%A1%E6%9C%AC%E3%81%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%2F%E7%AC%A0%E9%96%93%E6%9B%B8%E9%99%A2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
    今回はその一環として「ドイツにおける日本文化」を講義されました。幕末のケンぺル(回国奇観)やシーボルト(オランダ東インド会社の医師として来日した博物学者日本紹介の著書はドイツ語で執筆され、コレクションはバイエルン国王が購入しミュンヘンの博物館に展示されている)に始まりブルーノタウト(建築家で桂離宮を欧米に紹介した事で有名)から、現代のマンガアニメから映画食文化や文楽や盆栽や茶や禅、俳句と幅広く日本文化がドイツで愛好されている現状を説明されました。T教授はセーラームーンやドラゴンボールが好まれ、源氏物語が看過されている状況が口惜しい風でしたが、活発な意見が交換されました。
    私は、常々産業革命を終えた西洋文明は「文明の行き詰まり」を予感していたので、「ジャポニズムが人気になり、イザベラ バードの「日本奥地紀行」が英国でベストセラーになり、日本人の礼儀正しさや美しい国土清潔好きな生活スタイルを激讃したと思っていましたから。「日本文化が幕末にドイツに伝播したのはドイツ文化が産業革命後の行き詰まりの一側面ではないのか?」思っていましたので、そんな意見や質問を準備していました。
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    19世紀末盛んになったジャポニズムは産業革命に成功した西洋文化がその行き詰まりを予感して日本文化に関心を高めた成果と思います。写真は10/21日から上野の西洋美術館の案内です。
    ところが大学院のS女史が熱い口調で質問しました。
    「何故私はドイツ文化が好きなのでしょうか?」
    大半のメンバーは「それは貴女の勝手でしょう!」そんな口吻でしたが、S女史が大学院の卒論に「ドイツ文化と日本」を取り上げる予定だと聞くと応援や激励のの意見が寄せられました。
    一般に日本人とドイツ人は性格や趣向が日本人に似ていると云われます。ドイツの徒弟制度(マイスター制度)は「日本の匠の親方制度」に似ていますし、匠の技を駆使した自動車やカメラは日本製とドイツ製は高い信頼を勝ち得ています。でも、ドイツはナチスを経験しました。
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    此れは新潟県三条のPRサイト「磨きマイスター」と自称しています。日本とドイツの徒弟制度は酷似していて、どちらも文化のスパイスになっています。写真出典http://ts-kanamono.com/
    国民性が似ているという事は或る条件が揃えば日本もナチスドイツのように狂気になるという事でしょう。神風特攻隊回天(かいてん/人間魚雷)はナチス以上に狂気でした、狂気と云えば今日はイスラム原理主義者の自爆テロですが、その原型は日本海軍が先の大戦で実施していたのです。我国は米国の先棒を担いで、自爆テロを非難していますが、70年前は集団で自爆テロを遂行していたのです。
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    2015年戦後70年に際し慶応大学では学徒動員に反対できなかった悔悟の念を記憶誌を発行して学徒を弔う共に図書館前に回天を展示しました。残念ながら日本もドイツも狂気に走り易い特質が共通しているようです。
    S女史の質問の重さに沈黙してしまいましたが、私は以降ズットその回答を自問自答していました。
    ところが10月のノーベル賞週間に入って「カズオ・イシグロ氏」がノーベル文学賞を受賞したニュースに接して改めてS女史の質問に真面目に答えようとトライしました。
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    此れは英国人「カズオ・イシグロ氏」がノーベル賞を受賞した事を報じる読売新聞、日本中の書店が「村上春樹氏」の受賞を予測して準備していた事を詫びるように村上氏への配慮が記事になっていました。イシグロ氏は日本生まれ両親は日本人であるのに、日本文化と見做されないの何故だろうか?考えた時「日本民族」「日本文化」「日本国」の違いを考えさせられました。
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    早カズオ・イシグロ氏の著書を買いに東戸塚の有隣堂に出かけたのでしたが、平積には村上春樹著を撤去して、昨今の話題作が並べられ、「注文は承ります」言われました。
    S女史の質問は「ドイツ文化」と「日本文化」と云った視点だったのですが、私達はドイツ民族」「日本民族」と受け取ってしまいました。「国家」「文化」「民族」の問題に混線していたのです。
    私達は世界に類を見ない稀少な民族国家で「日本語に代表される日本文化」と「日本国土」と「日本民族」が重複しているのです。
    広辞苑で「民族/エスノス」を曳けば「一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体」と出て来ます。「国土、血縁関係、言語の」等を共有するまとまり、としています。日本民族のアイデンテティー」と云えば「日本民族が日本民族である所以のもの」という意味で、私もT教授も「話し言葉の日本語と書き言葉の平仮名」と答えるでしょう。カンボジア人は「アンコール・ワット」がアイデンティー」ですから国旗に移籍の絵が描かれr手ています。
    一方国民/ネーション」は近世に出来た新しい概念で、国家という法人の構成員の事です。日本人にとって日本国民という概念は明治維新に際して意識されたもので日本国の構成員の意味です。カズオ・イシグロ氏の両親は日本人ですから、同氏が日本国籍を取れば今次の栄誉は日本人の栄誉でしたが、同氏が英国籍を選んで居たのでした。
    結果、先日のような発表になったし、安倍首相は祝意を表しなかったのです。一番概念があやふやなのが「文化」です。「日本文化」とか「ドイツ文化」と云います。「文化」とは文化人類学では「人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体」のことです。日本文化と云えば日本国の成員として馴染んでいる固有の文化という事になります。
    カズオ・イシグロ氏で説明すれば同氏は主として英国の文化を身につけていると自覚されているので英国籍を選んだのでしょう。同氏の文学は『日本文化の脈絡で考えるより英国文学の流れの中にあって英国人としてかんがえる』と自覚されているのでしょう。
    そして読者も日本人による英国の文学と受け止めているのでしょう。一方、村上春樹氏の文学は日本文学なのか「西洋文学」なのか解り難いものがあります。村上文学は世界中で評価されているようですが、レトリックが多用され日本人には馴染み難く、西洋人には馴染み易いのです。
    多分大江健三郎氏や川端康成氏走らない人が多く、村上氏の方が評価されていても、村上文学は国籍不明の文学のように受け止められているのではないでしょうか?だから、毎年最有力候補に挙げられながらスェーデン王室では敬遠されているのでしょう。「日本人による西洋文学」と思われているとしか考えられません。私は早速有隣堂にカズオ・イシグロ氏の著作を求めに行ったのでしたが、平積みされているのは映画やテレビの原作となった話題作ばかりでした。

    S女史は「ドイツ文化が大好きで関心は止む事が無い、一方日本人であることを自覚している」ようです。これから21世紀を通して幾つもの文化を身に付けて行く事は素晴らしいと思います。
    グローバルな人材とは複数の文化を身に付けている人物の事でしょう。
    「ドイツ文化」を研究するほどに「日本文化」への理解が進み、強いては世界中の文化に理解が進むでしょう。今は兎角「イスラムの文化」は敬遠されがちです。「自由平等博愛を標榜するのフランス文化は世界中で敬愛されています。「クラッシック音楽やビアホールや組織的なサッカーはドイツ文化の特長で、品質の高さの根拠になっています。日本文化は複数の文化を吸収出来る文化として期待も大であるようです。S女史がドイツ文化を研鑽して日独二つの文化を止揚して大きな視点を開いて欲しいモノです。さすれば、彼女の人生が数倍楽しいモノになる事でしょう。




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    ツバメと入れ違いに雁が北から渡ってくる季節になりました。陰暦カレンダーには『頃鴻雁来(こうがんきたる)』書かれています。窓から庭を見れば梅の木の梢に隼人瓜がブル下がっているし、瓜に負けじと夕顔が未だ咲いています。向かいの土手には高砂百合が白い花を咲かせています。高砂百合の周囲は背高泡立ち草が咲き誇っています。去年の晩秋には友人と連れ添って琵琶湖をグルッと廻って観音様を拝観しました。長浜の野鳥観察センターでは夕暮れの琵琶湖と波間を漂う雁を楽しみました。センター付属の道の駅レストランでは「鴨蕎麦」を食べました。.鴨(カモ)も雁(ガン)も同じカモ目ですが、小型のカモを鴨と呼び大型のカモを雁と呼ぶようです。
    鴨を家禽化したものが『アヒル』、雁を家禽化したものが『ガチョウ』とネットでは解説していました。
    北京ダッグとは北京烤鴨と書いていますから、北京のアヒルの意味でしょう。琵琶湖の鴨蕎麦は美味でした。鴨肉は入っていなくて肉団子が転がっていただけなのでしたが、肉団子は肉の他に骨も叩いて入っているのでしょう。野性の濃い味が絶妙でした。
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    此れは長浜の野鳥センターです。野鳥の観察と道の駅とレストランの複合施設です。鴨蕎麦は実に美味しかった。
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    此れが道の駅レストランの鴨蕎麦です。鴨の肉も骨の叩いた団子が良い味を出していました。鴨と云えば「鴨鋤」でしょうが、庶民は鴨蕎麦で大満足です。「鴻雁来りて」「鳥屋に走る」心境です。

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    我家と駅の中間に「南横浜フォーラム」があります。そのロビーに大きなテルテル坊主が吊り下げられています。今月末に「フォーラム祭り」を開催するのでどうしても「お天気」を願っているのです。お天気を神頼みする気持ちは良く解るのですが公共の施設で坊主を吊るすのは少し違和感があります。そこで「てるてる坊主」を民俗学的手法で考察してみる事にしました。
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    此れは我家から徒歩5分に在る横浜南フォーラムのロビーに吊るされた「てるてる坊主」星の王子様の衣装ですが、一見して違和感が漂います。
    先ず童謡のてるてる坊主の歌詞を確認してみます。作曲は中山晋平氏ですが作詞は浅原鏡村氏です。浅村氏は安曇野の池田町に生まれ磐城の平で育ちました。池田町は道祖神の宝庫ですから、安曇野の子供達が無意識に謳っていた童歌を収録したのでしょう。
    作詞・浅原鏡村  作曲・中山晋平
    (1番)
    てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
    いつかの夢の空のよに 晴れたら金の鈴あげよ
    (2番)
    てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
    わたしの願いを聞いたなら あまいお酒をたんと飲ましょ
    (3番)
    てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
    それでも曇って泣いてたら そなたの首をチョンと切るぞ
    問題は3番の『お天気にしてくれなかったら”お前の首をチョンと切る”』と云ったフレーズです。
    【折口信夫の『被差別の民俗学』】
    首吊りは最も楽な人殺しの方法と思われます。
    日本の刑法でも死刑は罪人が最も苦しまないで済むという理由で絞首刑が死刑の方法として選ばれています。頸動脈を圧迫するので脳の機能が損なわれるので苦しむ時間が瞬時に殺せるのでしょう。高校時代兄の書架に「13階段の道」という本がありました。ニュルンベルクの戦犯の処刑の本で、多分法学部の学生だった兄が60年安保闘争に絡んで読んだモノでしょう。内容は連合軍はドイツの政治家・軍人を捕えて絞首刑に送ったドキュメントでした。東京裁判ではA級戦犯もBC級戦犯も絞首刑が施行され、遺骨は米軍により東京湾に散骨されたそうです。
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    此れは埼玉県幸手市の権現堤の桜です。権現堤は下流の田圃の洪水対策として築造したものですが再三決壊したので通りすがりの巡礼の娘に白羽を立てて堤に埋めたのでした。
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    此れは権現堤に建っている人柱になった不幸な母娘を弔った碑です。
    【テルテル坊主でテルテル巫女で無い訳】
    坊さんは暦を掌り、天候を祈祷する役割期待を背負っていましたから、農民はお坊さんに「明日天気になれ」「雨が降って田植えが出来ますように!」祈って貰ったのでした。だから「テルテル坊主」で神主に祈って貰ったのなら「テルテル巫女」があったのでしょう。「テルテル巫女」なら、顔が白くて、赤い袴の巫女さんで可愛かった事でしょう。楽しそうです。今度何かの折に「テルテル巫女」を作ってみる事にしましょう。
    畑に種を撒いた翌日に雨が降ってくれれば発芽間違いありません」
    童謡の「てるてる坊主」では子供達が親がお寺のお坊さんが「明日は天気にして下さい!」祈って貰っているのを見て、子供なりに「お天気の祈りはお坊さんに頼む」モノと思い込んでいたのでしょう。
    【生贄の民俗学】
    農村共同体で「堤防が決壊して困る」「頑丈な橋を渡したい」等と祈願する場合良く「生贄」が神様に供えられました。「生贄」は世界中何処にも何時の時代にも在ったようで、「インカ」の古墳にも「殷・周の古代中国の古墳からも遺骨が発見されています。
    日本にも各地に「生贄」の遺骨が確認されています。桜の名所である埼玉の幸手の「権現堤」も通リの「生贄」の娘が権現になっています。通りすがりの若い娘(巡礼)が(人柱)に選ばれて堤の地神に奉げられたのでした。出雲神話の八咫の大蛇と同じように、地神の生贄としてに捧げたモノと思われます。
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    此れは宮崎市日南市に日南市小会議所が建てた人柱の碑です、写真出典http://www.miyazaki-cci.or.jp/nichinan/blog2/2008/04/post-168.html
    日本の神は大半が土地神で出雲の神様「大国主命」も比叡山の神様「日吉神」も土地の神です。神は清いモノが好きで穢れたモノは嫌いですから、生贄には娘が選ばれて首吊りされたモノでしょう。年寄りでは神様は喜ばないし増して首を切っては出血で穢れてしまいます。
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    アステカの生贄の儀式。胸を裂き、心臓を取り出して神に捧げる。穢れを嫌った日本では生贄にも出血を伴わない人柱や人身御供が選ばれました。出典はウィキペディア
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    これはピネサロが描いた中世の絞首刑です。絞首刑は世界的に普遍した死刑執行方法だったのでした。出典ウィキペディアhttps://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E3%83%94%E3%82%B5%E3%83%8D%E3%83%AD%E3%81%8C%E6%8F%8F%E3%81%84%E3%81%9F%E7%B5%9E%E9%A6%96%E5%88%91%E3%81%AE%E6%A7%98%E5%AD%90&ei=UTF-8&fr=top_ga1
    「折口信夫氏」に「被差別の民俗学」と云う名の著書があります。日本各地の被差別部落を調べられたものです。折口先生は「穢多・非人」と呼ばれた被差別民は生贄の予備民だとお考えだったのではないでしょうか?もし、そうであれば「穢多・非人」というと「近世初期以降、封建的身分制で 最下層に位置づけられた人々」説明されて来ました。私達は藤村の「破戒」を読んでいますから、 「穢多・非人」とは仏教の考えが基本で、家畜の解体等血に塗れた汚らわしい仕事をする人達と理解して来ましたが、『生贄を供する人達が』ルーツだったら歴史は古代から先史時代にも遡ります。「穢多・非人」のルーツが仏教か神道か何れにしても、男女参画センターに相応しく無い事になります。

     3年前広島の住宅地が山津波で流されました。「蛇崩(じゃくずれ)」「蛇抜(じゃぬけ)」と呼ばれるものです。そのな大雨は木曾でも山津波を引き起こしました。中世なら生贄が必要な場面だったのでしょう。
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    此れは木曾の洗馬宿の木曽川沿いの橋昔から木曾は土石流が頻発2014年7月にも大災害が起こりました。流石に現代は人柱を建てるなんて誰も考えませんが昔は先ず生贄を地神に奉げようとしたのでした。
    流石に童謡のてるてる坊主では3番の歌詞は削除されたのでした。生贄が嫌われたのではなくて「首をチョン切る」のが相応しくないと判断されたのでしょう。
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    我家の隼人瓜が道にぶら下っています。テルテル坊主を観るようで楽しいです。通りすがりの人も見上げて行きます。

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  • 10/13/17--12:21: 天井の美学
  • 私の住んでいる横浜の戸塚では今更アスベスト問題でキナ臭い状態です。
    発端は例によって昭和30年、40年代に建築された老朽ビルの建て替え問題です。場所は原宿交差点のビル芙蓉ハイツですhttps://www.livable.co.jp/kounyu/m/library/mansion-119602/。近くには国立原宿病院や大正団地(旧住宅公団)がありますから大騒ぎ必至です。
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    戸塚原宿の芙蓉ハイツの建て替えに際して解体時のアスベストが問題になっています。昭和40年代のビルはアスベストが必ずと言っていい程使われていました。今時アスベストが問題になるとは今住んでいる人も穏やかではないでしょう。
    横浜市は遺骨灰の処理問題(遺骨灰を業者に処分を任せていたのでしたが、灰に金やプラチナが混じっている事を看過してゴミとして扱っていた。臍帯血問題に似た杜撰さでした。)やら今次のアスベスト問題などでカジノ誘致どころではないようです。もっともっと民生を丁寧に進めて貰わなくては困ります。
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    此れは横浜最大の久保山斎場です。写真出典楽天の葬儀サイトhttps://plaza.rakuten.co.jp/6x6r3p9/diary/201209140000/の「火葬場アレコレ」
    先日芸大美術館でバーミアン大仏の天上画をみて感服しました。天井にエンジェルが飛んでいるのです。日本の法隆寺では釈迦三尊の天蓋や平等院阿弥陀堂の天蓋に相当する位置です。
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    平等院鳳凰堂の天上を飾る天蓋。
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    此れは芸大美術館の「素心伝心(クローン文化財」でのバーミアン石窟の天上部分。
    処で私はルーティンで2回/週新戸塚病院にリハビリ通院しています。過半の時間をベッドに仰向けに伏して作業療法士の指示に従って腕や指先を動かしています。病院の天上は何処も石膏ボードです。どのメーカ―のボードも白いセメント風で石綿こそ使っていないでしょうが、味気ないモノです。田浦の歯医者さんは院長がサーファーなので天井にカモメが飛んでいます。高々カモメが一羽でも「アレはジョナサンかな?」想ったりして気が晴れます。
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    此れは病院の待合室です。何時も無愛想な部屋もハロウィンの飾りつけがあるだけで柔い雰囲気になります。ましてベッドの上の天井ですから真っ白な石膏ボードでアスベストの危険は無いのかしら?思わせるのは最悪です。イスラム寺院の天井に北極星が在るように「ノー・アスベスト」を付けても良いと思います。仏教ではさしずめ「」

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    此れはサイゼリアの天井に貼られているエンジェルの絵です。病院では流石にエンジェルは厭ですがせめて花や雲の写真でも散らばせてくれれば気分もポジティブにいられるのですが・・・・。
    一方イタリアンレストランの「サイゼリア」の天上には「最期の晩餐」やエンジェルが描かれています。流石に最期の晩餐ならサイゼリアは御免こうむりたいものですが、石膏ボードよりは遥かに益しで気持ちも華やぎます。病院の天井はもう少し工夫する余地が大であるような気がします。私の生家の天井は何処にも在る棹天井で杉の木の柾目でしたが、所々節の穴が空いていて天井から邪気か鬼が覘いている様な気がして眠りにつけないことがありました。
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    天井板は杉や檜の柾目が普通ですが節穴が一つでも空いていると眠れないものです。
    天井の節穴は困りますが病院の天井はもう少し工夫があっても良さそうな気がします。須藤恒雄吉野石膏会長は美術コレクターとして高名な方ですから、現代日本人の住まいの天井に相応しい天井ボードを開発して私達の生活を潤して欲しいモノです。吉野石膏は吉野さんの興した会社かと思っていたら山形の置賜にあった吉野鉱山をルーツにした会社だそうです。ならば、一層の事日本の伝統を活かした美しい天井ボードを作って欲しいモノです。仏教ではさしずめ「善財童子」が適当でしょう。昆虫なら天道虫(てんとう虫)です。石膏ボードの片隅に天道虫が居て「何かしら?」想わせて、実はあれは天道虫でアスベストの心配も全くない安全な石膏ボードなんだよ!」なんて言うのも良いと思います。天道虫は讀んで字の通り「太陽神」の「天道」』から取られた尊い虫なのです。
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    此れが天道虫です。黒丸がテンあるからてんとう虫ではありません。実は7つです。道教に則った由緒ある虫です。勿論葉ダニを喰う益虫です。



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  • 10/14/17--12:27: 「塩の道」足助街道
  • 三河の岡崎に住んでいる長男が”娘の学習発表会(昔風に云えば学芸会)があるので遊びに来い!”云ってきました。そこでワイフと連れ添って10/13日、出かけて来ました。14日無事に帰宅しました。私の父方のルーツは岡崎から三河の海に面した吉良ですので、忠臣蔵は大嫌いでした。と云うのは吉良家の主要産業(稼業)は塩の生産でしたから。塩を吉良の浜辺で生産し、岡崎までは水路で運び岡崎からは足助街道を馬に背負わせて足助まで運び足助から先は信州飯田の馬方に運んで貰って、松本や甲斐の国に運んだのでした。足助は三河の馬方から、信州飯田の馬方に中継する拠点として賑わいました。信州飯田の百姓は副業として2・3頭の馬を連ねてその背に塩を主として茶,魚,綿,米穀,酒,タバコ,麻等を運びました。一般に善光寺道で馬の背で運搬した農民を中馬と云いますが。特に足助街道の事を「中馬街道」と呼ぶようです。従って足助には見事な馬頭観音が多く残されています。今までも足助街道の馬頭観音を観て来ましたのでこの機会に馬頭観音以外の文化財を観ようと思って出かけました。

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    足助の旅館は次々に閉鎖されてきているようです。一方でペンションも出来ているようです。
    私は何処に泊まろうかネットで調べ電話で確認しました。以前在った「三島屋」は既に閉店してしまったとの事でした。
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    天保年間に建立していた呉服屋を明治になって旅館に改装した三島屋さん、先年閉店されてしまいました。
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    閉店してしまった三島館の窓はテープで消されてありました。
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    此れが私の選んだ足助中馬街道に面した「山城屋」右奥が飯田方面、左に行くと坂を下って足助の繁華街に至ります。私の部屋は二階の左側で一番見晴らしの良い部屋でした。玄関の藁のブラシ状のモノは火縄花火の道具で「おしめ様」と呼び注連縄と同じように飾られているモノです。どの家も玄関に吊るされていました。
    現在遣っている旅籠時代の面影を残しているのは「玉田屋旅館」と「山城屋旅館」の二軒だけとの事、前者は江戸時代の建物である事は評価されても二階にトイレが無いとの事。夜中にトイレを使うのに1階まで階段を下りるのは苦痛です。そこで二階にトイレが設備されている山城屋旅館に泊まる事にしました。一泊2食8000円です。私の決断の後押しをしたのは山城屋は馬宿だったという事でした。
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    此れは川崎民家園に移築されている奥州の馬宿「鈴木家住宅/重文」です。写真の右側に人の泊まる部屋があってその枕元に馬が繋がれていたのです。
    馬宿とは旅人と馬を一緒に同じ宿の下に泊めるという事です。荷主にすれば荷も馬も盗まれたら大変です。そこで馬主の目の届く先に馬を繋いでおける馬宿が人気だったのです。
    午前11時山城屋に入ってリュックを預けました。
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    坂道の左に在るのが山城屋旅館です。この町は山野草の目立つ街で手前は藤袴です。山城屋の並びの洋装店の女将は藤袴に「浅葱斑/渡の大型蝶)が来るのを楽しみにしていました。
    そして、前回食べ損ねた「猪鍋」を食べに井筒亀(いづかめ)に向かいました。
    山城屋に入ると銀髪のお婆様が大歓迎してくれました。”よう来なさった、なぜ当宿を選んだのか?”質問されます。訊けばお婆さんは昭和27年にこの旅館に嫁に来たのだそうで、生まれも育ちも稲武(いねぶ)だそうです。前回私は浜松からレンタカーで新城を経て鳳来寺山を廻り足助に向かった時に稲武は通りました団栗の里と云う名で叔母さんたちが集まって道の駅でお喋りしながらお餅や「栗どら焼き」を手作りして販売していました。
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    道の駅稲武のレストランは農家の叔母さんが五平餅やトン汁でもてなしてくれました。
    私はああ、あの美しくも楽しい村から足助の馬宿に嫁に来たのか!感慨深く聴かせてもらいました。山城屋旅館の創業は明治20年で、嫁入りした頃は家族や使用人を含めて13人も同じ屋根の下で寝泊まりしていたのだが今は倅と二人きりになってしまった。
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    この人が山城屋のお婆ちゃん、85歳、今朝寝起きに脚を痛めてしまった、そうですが、お婆チャンのお蔭で廊下も階段も手摺が付いていたし、お風呂には我家に在る介護椅子があり、私には大変居心地が良かったのでした。
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    御茶間でお婆ちゃんと一緒に撮って貰いました。
    一昨年までは三島屋さんと二軒で競っていたので張合いも在ったが今では自分の所も何時暖簾を閉じようかと気が気でない。こうして奇特なお客さんが来てくれると嬉しくて嬉しくて」云いながらお茶を注いでくれました。と云ってもお茶菓子は何も出ません、経費節減なのでしょう。昭和30年代までは中馬のお客も多かったし、富山や大和の薬の行商が定宿にしてくれていた昭和40年代にはダム建築の人達が使ってくれていたが、今は客が来るのは香嵐渓の紅葉や3月の雛祭りだけで、過半は閑古鳥が啼いている状況だというのです。
    「今は息子と二人で細々と宿の火を灯しているが何時まで続けられるか?」息子さんは女嫌いですか?」訊けば、「唯縁が無かっただけの事です・・・・。」
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    朝の中馬道山城屋二階から見渡す。
    翌朝散歩に出ると偶然三島屋さんの女将さんと話が出来ました。
    私は山城屋さんに泊まった事お婆ちゃんが足を痛められた事等話しました。すると三島屋さんはこう言われました。
    「山城屋さんは足助では評判の美人でしたよ!」
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    三島屋さんの女将さん玄関入り口には「歴史的建造物であり観光資源である印の馬蹄が貼られています。足助は豊田氏に合併され、東大都市工学部に基本調査をして貰い観光開発の基本プランを作成して貰いました。要約すれば美しい自然資源と歴史的な資源(家並や石仏や街道)を活かした町造りです。
    私は今朝起きようとして足を痛めてしまった事もあって弱気に陥ってしまいました。
    お婆ちゃんは若い時にはさぞかしお綺麗だったことでしょう。

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  • 10/16/17--12:52: 足助の町興しプラン
  • 山城屋さんのお茶の間で東大都市工学部作成の足助開発報告書を閲覧しました。表題は「歴史町作り」とされていますので、歴史資源に着目したモノでしょう。都市デザイン研究室森助教の仕事で2008年に提出されています。
    歴史町造りは私も共感するモノで、森助教授は高山や神田淡路町や神楽坂や鞆. 佐原. 神楽坂.  浅草等に並んで足助もターゲットにして調査をしていますから、我国で歴史資源を活かした町造りの基本設計には一番評価の高い教室なのでしょう。
    今回が二度目の足助往訪でしたがそれでもこの調査報告に従って町造りが進められ、町民も協力している現状が良く解ります。
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    此れが東大都市工学部工学科森教室の作成した足助の調査報告書です。町興しの為の基礎調査でありましょう。
    先ず挙げられるのが香積寺下に整備されている「三州屋敷」です。足助周辺に散在していた民家を巴川の堰堤近くに移築して、匠を集めて道具の展示や民芸品の手作りする様子を見せていました。

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  • 10/17/17--12:19: 足助の中馬柿
  • 3年前に足助に来たのは蓬莱山に紅葉を観てから細谷の千枚田を観てから足助に回って来ました。
    既に12月に入っていましたから香嵐渓の紅葉は散ってしまい香積寺の和尚さんは掃いては散る紅葉を掃き集めて居られました。
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    此れは香積寺の散紅葉掃き集めるのも大変ですが側溝に散った紅葉はモット厄介です。向こうで溝を掃除されているのが住職さんです。
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    此れは前回伺った時の羅漢仏紅葉も散って梢が寒々としていました。次にブログアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/GALLERY/show_image.html?id=47754871&no=0
    羅漢仏(香積寺11世住職の三栄和尚が香嵐渓に紅葉を植えたと伝えられます。三栄和尚の慰霊碑の周囲を羅漢仏が囲っています)だけが散り紅葉を満喫していました。
    その折に重要文化財の鈴木家住宅を訪れたのでしたが、修復工事中で外から見るだけでした。中馬街道を挟んで向かいに和菓子の両口屋が道に簀子を出していたので其処に腰掛けて、両口屋の銘菓「中馬柿」を戴きました。それは大変に美味で、今回も味をしめて同店に入りました。雨模様だったので外で食べる訳にも行きません。そこで室内で戴く事にしました。今回も女将さんが焙じ茶を出してくれました。
    私の好きな両口屋のお菓子は餡が栗きんとんで皮が市田柿(干し柿)です。前回窺がった時には向かいの家のお嫁さんが栗きんとんで有名な中津川から嫁いで来たので、「餡は栗きんとん皮は飯田の市田柿」を思いついたとの事でした。私は中津川も飯田も大好きだし。栗きんとんにも市田柿にも目が無いので、中馬柿は大賛成です。このようにして『人が移動する事によって新しい和菓子という文化が出来る』と教えられたのでした。
    す屋(中津川の栗きんとんの名店)の栗きんとんは300円/1個もする銘菓ですのでそう頻繁には食べられません。両口屋の栗きんとんは250円/中馬柿は300円ですので1個ずつ求めて女将さんに半分に切って貰いました。節約したわけでは無くて美味しいモノは少し戴く事で満足感は膨らむと思っている事と健康の為です。
    私は言います「足助には良い喫茶店がありますが、こうして簀子に坐らせて貰いながら景色を眺めつつ美味を戴くのが最高です。ズットこうしたサービスを続けて下さい。鈴木家住宅の改修工事が終われば両口屋さんは大繁盛しますよ。」
    すると女将さんは印刷物で確認しながら言われます
    「改修工事が竣工するのは平成33年です。それまでもつか心配です」
    私は女将さんの言葉の意味が解りかねました。後3年余りです心配されるのは両口屋さんなのか女将さんの健康なのか」即座には判断できませんでした。それと云うのも足助には撤退したお店が多いのです。急速な高齢化の為か後継者難が理由なのか解りませんでした。
    女将さんは奥に入って「栗おこわ」は如何ですか?
    誘われました。
    「私は栗おこわも大好きなのですが生憎その先の井筒亀さんで猪鍋を戴いたばかりなので結構です」お断りしました。次回来る時には両口屋さんの「栗おこわ」を覚えておくことにしましょう。
    足助は和菓子の素材に恵まれている所為か、お大尽が多く居た所為か銘菓が多いような気がします。

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  • 10/18/17--12:56: 足助の藤袴
  • 10月中旬親友のI君からメールが入りました。同君は冬以外は殆ど軽井沢の別荘で鴨長明のような生活を送っているのです。長明と違うのは同君が自転車を駆使している事とジーンズを履いている事とテニスが好きなことくらいで、山栗が道路に落ちて居れば拾って食べて、畑を耕作して野菜を作り、五味子 (ごみし)が獲れたと云っては果実酒にしていますし「茸狩」を楽しんでいます。
    メールには軽井沢に藤袴の群落があって、「浅葱斑が百頭も群れていた」というのです。私が二、三頭の浅葱斑を見つけてこのブログにアップして喜んでいるのを知っているからでしょう。
    浅葱斑は藤袴の密が好きです。浅葱斑を増やすには藤袴を育てる事が大切です。
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    此れは白い藤袴の蜜を吸いに寄って来た浅葱斑です。鎌倉の東慶寺の藤袴に集まった浅葱斑は暫し体力を養って稲村ケ崎から台湾に飛び立ちます。だから日本人は台湾を「高砂」と呼ぶのかもしれません。新鮮組はこの大型蝶の美しさを羽織にしたのでしょう。

    処で播磨はりまの瓢水ひようすいという俳人の作に次が有名です。
    手に取るなやはり野に置け蓮華草
    瓢水が友人が遊女を見受けしようとするのを諌めて作った句だそうです。
    この句の「野」を「原」に代えて蓮華草を「撫子」に変えれば舞台は島原か「祇園(白川)」になるでしょう。実は瓢水は「野」と「原」を混同しているのです。実は字余りになってしまいますが「野」よりも「原」の方が植物生態学上は妥当なのです。
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    此れは大井川の蓬莱橋の下の川原に自生した虫取り撫子の群落。洪水の後に撫子は好んで繁茂します。藤袴も川原が好きなようです。というのは日当たりの良い木や背丈の高い植物が生育しない荒れ地を好むからでしょう。
    「野原」と一言で云いますが「原」は自然状態の草地で「野」は人間が焼畑などで手を加えた後草地になったモノを云います。奈良の飛火野や若草山は鹿の牧草地として保護されてきたモノですから「野」です。天平時代娘が若菜を摘んだのは原であって野ではありません。額田大王が天武に贈った歌は紫野でした。其処は薬草の畑があったからです。
     あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る
    福島の放射能汚染で耕作放棄された草地は一度人間の手が加えられて
    「後は野になれ山となれ!」と見放されているので、草茫々でも原とは云いません。一方謡曲「黒塚」で有名な浅茅が原は自然の儘ですから「原」であって「野」ではありません。
    山上憶良は秋の七草を謳いました。
    当時春の七草は誰もが知っていたので「自分は秋の山野草が好きだ!」主張したのでしょう。
    春の七草は乙女が摘んで口にするモノですから何れも食用です。一方秋の七草は何れも薬草であって仏前供花になります。憶良が下級官吏だった事もあるのでしょう。そして春の七草はどれも原で自生する草で秋の七草は総じて野に咲く草花です。焼畑を放棄した跡に生える草です。
    処で本題の足助の藤袴に戻りましょう。
    私は山城屋のを探して「ジャスト」と云う名の衣料品店の店先で女将さんに旅館の位置を聞きました。ジャストの店先には藤袴が植えられていました。
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    山城屋の並びにある衣料品の「ジャスト」とその女将さん
    私が藤袴を誉めると女将さんはこう言われました。
    「私が藤袴を育てているのはこの花に集まってくる浅葱斑を見たいからですよ。今日は雨だから来ないけどこの秋もたくさん来てくれたんですよ!」


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  • 10/19/17--12:11: 足助の土人形
  • 昨日は塩の道「中馬街道」に咲く藤袴を代表に山野草を大事にしている事実をアップしました。今日はもう一つ塩の道を飾っている土人形をご案内します。
    土人形とは日本古来の伝統工芸品の人形で、低火力の素焼きの人形に胡粉をかけて表面を泥絵具で彩色した人形です。素朴な味わいが多くの人々に愛されています。昨年は春に福島の三春人形の作業を観ましたし、京都の「伏見人形」も観ました。考えてみれば素焼きの人形と云う事では埴輪も土人形ですから。日本人のDNAには土人形の愛らしさが刻み込まれているのでしょう。素朴な土人形には豪華絢爛な雛人形には無い思い入れがあるモノです。足助の「町門」土人形は陶器製で本来は泥絵具で絵付されるものですが、陶器製で釉薬で色づけされています。山の向こうは瀬戸・多治見ですから焼結は陶器窯に外注したのかも知れません。
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    此れがお馴染みの伏見土人形です。博多人形と共に土人形の典型です。一方三春初め全国各地に素朴な土人形が数多くあります
    塩の道に面して木製の行灯が設えらてあり其処に土人形が飾られています。
    中には土人形を店内に陳列してあったりします。
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    此れは塩の道に面して行灯に置かれた足助の土人形です。お人形は大黒様ですから街の復活繁栄を見詰めているのでしょう。視線の先をお婆ちゃんが坂道を登って行きました。
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    山城屋の先観音山の登り口に置かれた土人形は黒い招き猫でした。黒猫は嫌われていますが、黒いまねきねこは魔除けのご利益があると云われています。 このネコちゃんは足助の街に飯田方面から入って来るかもしれない厄をガードしているのでしょう。、向かいに普通の招き猫が置かれていてが厄除け白が招福です。
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    これは潮の道「中馬街道」に面した写真屋の脇に置かれた福助人形。叶福助がフルネームで『甲子夜話には『睦まじう夫婦仲よく見る品は不老富貴に叶う福助』と書かれていますから私達夫婦も福助にあやかって福を授けられるかも知れません。
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    これは歯医者の門に置かれた福助人形沢山見ていると「街角土人形」は足助町で一括して規格を揃えて注文したようです。一般の土人形里高熱で焼いて痛み難くしているようです。
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    これも観音山の登り口に置かれた招き猫です。2つ上の黒い猫と対になっています。観音山の頂上は足助の街を見下ろす景勝地だそうです。
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    此れは戌人形です。一般に犬は多産で子育て上手ですから「安産子育ての守り神」として大切にされますが旅行で携帯すると旅の災厄除けになると云われます。
    以上が塩の道に置かれた足助の土人形ですが本来の泥絵具で彩色した足助土人形は骨董店の店先や老舗の和装店の店内に飾られたりしています。
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    此れは骨董店の店先に置かれた足助土人形の寿老人ですお値段は良い処でしょう。
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    これは着物店の天内長押に置かれた巡礼人形多分「傾城阿波の鳴門 順礼(じゅんれい)歌の段」が素材でしょう。

    足助では毎年3月に雛祭りを実施していて、土人形が主役なのでしょう。江戸や京都のお雛様は一般の商家では求め難ったでしょうから素朴な土人形で娘の健やかな成長と幸福を祈ったモノと思います。丁度雛祭りの季節に足助では片栗も咲くようです。次に足助の山城屋を訪れるのは雛祭りの頃にしましょう。
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    足助の塩の道「中馬街道」の山城屋の前の美容院のガラス戸に貼られた儘の「足助雛祭り」のポスター。