霊の行方に興味を持ち続けていると「イタコ」に関心が移って来ました。そこで「最後のイタコ/八戸松田広子著」を読んでみました。
1972年八戸市にうまれた著者は、現役最年少の「最後のイタコ」と呼ばれています。でもアラフォーの何処にでも居そうな叔母さんです。
幼いころから癇癪持ちでで、加えて病弱で、髄膜炎などにかかり医者からは匙をなげられていたのでしたが。
発病するたびに町内のイタコ(林さん)を呼んで「お祓い」を受けます。明治維新には青森県内にイタコは300人も居たそうで、八戸市内にも各町に一人はイタコが居たのだそうです。町医者の感覚でイタコの伯母さんが居て病気だと言えば祈祷して戴いたのでしょう。千葉県ん葬儀が在ると何処からでもなく「泣き婆さん」が集まって来て・お経を唱和して泣いて死者を弔ってくれますが、青森のイタコは千葉の泣き婆さんのように身近な存在だったのでしょう。
イタコはシャーマンであり、その治療は呪術なのでしょうが、その祈祷により、不思議に病気は回復します。陸奥では医療をイタコも分担していたのでしょう。著者のイタコへの感謝や信頼が弟子入りを決意させます。
でも家族は普通の家庭を大人になって欲しいと期待して反対します。
林イタコも「せめて、高校は卒業しておきなさい」として思い止まらせます。
でも著者は根気強く林イタコに弟子入りを訴えます。
学校では音楽好きなヤンキーな普通の少女でしたが、林イタコのお蔭もあってか癇癪持ちも収まります。
夏休みになるとにはイタコ(林さん)の家に押しかけて家事の手伝いをします。
弟子入りは同年配の子と二人同時でした。同時に弟子入りを果たします。イタコは仏教・神道。どちらにも通じた霊の世界です。お経も祝詞も暗誦します。
お師匠さんのお供をしながらイタコの資質を磨き経験を積みます。そしてイタコの聖地恐山にデビューします。圓通寺の壁の外にイタコ小屋在って、そこで口寄せして死者の魂がイタコの体に降霊する祈祷を行います。
祈祷の前に依頼者に霊が困るような事は言わない注意しておくのだそうですが、死者に恨み辛みを述べたいと思って来る人が多いそうで。そんな場合は死者も困るし、生者も救われずに苦しみは深まるばかりでしょう。
東日本大震災による犠牲者も沢山出ました。
死者を降霊して欲しい需要も増していることでしょう。一方で妖怪がブームであり、占いも人気です。
馴染みの薄い神社にお祈りするより自分の祖先お爺ちゃんお婆ちゃんに守って欲しい想う人は多い事でしょう。
最近は旅行会社の恐山イタコ口寄せツアーも数多く募集されています。最大手はクラブツーリズムで7万円前後でイタコへの予約から謝礼まで総て代行してくれるようです。
これが恐山、宇曽利湖は火口湖で周囲の山が宇曽利山です。湖の手前が圓通寺で現世です。湖の向こうが浄土で、山の頂に霊が集まっていてイタコの口寄せで霊がイタコに降りて口をきくと信じられています。
最後のイタコの表紙死に装束に数珠、修験に通じる姿をしています。装束さえ変えれば普通のアラフォー叔母さんです。
ライフスタイルは時代によって著しく変化します。でも変化しない事もあります。
それは第一に自分自身が生きている今生きているという事実です。
そしてどうせ生きるのなら人間らしく生きるのを楽しく悲しい時は悲しんで生き抜きたい思います。
この二つとも自分が産まれた事実にスタートします。
産まれた事実を素直に認め感謝するほど強く逞しく生きられる事も事実です。
そして自分が子孫に恵まれた事実もこうしてビビッドに生きる事を後押ししてくれます。
変化しない事実を数え上げて行くと、イタコの意味が重く感じられてきます。
イタコの口を通して先祖の声を聞く事は私のように日暮や鰍の声に先祖の声を聞くよりは切迫感が在ります。
そう想うとイタコは期待される職業と思います。そのスキルは仏教や神道に明るいこと以上に人の気持ちをわかる心人の話を聞く能力、現代的な心理学やヒーリング感覚に鋭い事が必要でしょう。
心理が医療に偏らずに宗教心理学とか言うものがあればその需要は大きい事でしょう。
イタコは宗教心理学の素材になると思います。
恐山に向かう遍路路がありました。山形県の遍路道は関東から見れば出羽三山の道でしたが羽黒山の先恐山までの道は「瞽女道」とも呼ばれました。恐山のイタコに向かう道は同時に瞽女が行き交う道でもあったのでした。イタコも瞽女も多くが盲目のの女性でした。イタコが自らの体に死者の霊を口寄せするシャーマン(巫女)でしたが瞽女は三味線や胡弓を抱えて芸能を聞かせていました。
芸能とは主として小栗判官物語や童子丸等の説教節で死者の霊の再生や尊さを説く音曲でした。
遍路路の先が瞽女道であったように両者は似た存在であり機能を有していたと思います。
出羽の天童に出羽桜という老舗酒蔵が在ります。
その酒蔵がご奇特な事に瞽女絵で有名な斉藤真一さんのコレクションをしておいでです。
私が大学を卒業する頃瞽女は脚光を浴びていました。
長岡の杉本キクエさんが人間国宝になったり、篠田監督は岩下志麻さん主演で「映画 『はなれ瞽女おりん』/水上勉原作を発表しました。
斉藤真一氏はパリまで押しかけて藤田嗣二に弟子入りした洋画家でしたが帰国に際して”私の真似をすることなく日本に帰ったら越後や出羽の風物を巡りなさい”諭されます。そこで見つけたものが瞽女だったのでした。
時は終戦直後日本の芸術界も戦争後の喪失感に陥り特に画家は戦争翼賛的であった良心の呵責に苦しんでいました。斉藤真一さん瞽女絵は日本人の伝統とプライドを思い起こさせたものでした。
私はお盆の季節になると斉藤真一さんを想いだします。そして天童の出羽桜酒蔵に斉藤真一美術館に行きたいと思うのです。
篠田監督の「はなれ瞽女おりん」のポスター出典は画面に在ります。
斉藤真一氏の「瞽女」葬儀の場面で棺桶を囲んでいるのは泣き女でしょう。陸奥の女性の悲しみが画面に満ちています。斉藤さんの絵を見ているとムンクの叫びの次の場面「慟哭」を推測します。
斉藤真一氏の瞽女絵は厳しい自然の中に魂の声を聞きながら進む瞽女の姿が描かれています。私は一遍上人絵巻に通じるものを感じます。この絵は越後平野を北極星に向けて歩を進める瞽女を描いたものでしょう。胡弓の音が響いて来るようです。出典斉藤真一美術館
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