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生贄の社会学

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ネットや新聞を観ていると升添都知事のバッシングは留まるところが無さそうです。都知事自身の苦渋はともかく恩恵に浴したご家族の心労はいかばかりかと思います”慎ましく回転寿司で済ませたモノを日本中からバッシングされたのでは銀座久兵衛にでも連れてって欲しかったわ”思っておいででしょう。それにしても何時の間に政治家は斯様に『せこく』なってしまったのか?愕然とします。こんなせこい人物を首都東京の顔にしていることが恥ずかしく思います。このバッシング何処まで行くのやら?思うと”弁護士の判断を仰ぐ前に自分の判断で引責辞任する事を奨めたいと”思います。その理由は”日本の社会は何時も生贄を求めていて、息苦しい時代には時々生贄を奉げて蘇って来るのです。もう此処まで来たら生贄になるまでは許されないのです。

【長銀の破綻】
長銀が破たんしたのは1977年でした既に「三洋証券」「山一證券」が破綻し「北海道拓殖銀行」も破綻していました。米国のリーマンショックは太平洋を津波が渡る間に強大なうねりになって日本の信用秩序を呑み込もうとしていました。政府大蔵は信用秩序を守る為巨額の資金を銀行等に投入する事を覚悟しました。でも世論が許しません。「公平・公正」であるべきなのを歪めたのは銀行です。銀行に資本充実させて信用秩序は国が守る”姿勢を世界中に示す必要がありました。政府は適当な生贄を探して国民の鬱憤を抜く事を考えたのでした。その白矢の先に在ったのが長銀でした”あのビックバンクが破綻して経営陣が逮捕されたのでは仕方が無い”思ったのでした。。
私はそのプロセスで現職の部長でしたから世論のバッシングの矢面に居ました。銀行員には守秘義務があります。一般には職務上で知った情報は秘密にしておかなければならない、程度の職業上の倫理規定でしたが世論のバッシングに対して『自分達はそんなに罪深いモノでは無い』言いたくても押し黙っていました。その忍耐袋の緒が切れて私は拙著を上梓しました。私の親友は「君は勇気が在るから良いよな」言ってくれましたが間もなく自死してしまいました経営陣の無罪判決が出たのは2009年でした。判決を持って長銀の面々はあの時何が問題であったのか発表されました。私の直接の上司だった鈴木恒夫さんも発表されました。http://toyokeizai.net/articles/-/2885。今思い起こせば私の勇気も判決には良い意味で影響が在ったものと思っています。10年も経ってから発言しても負け者の泣き言にしか聞こえないのですから・・・・・。
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1977年大蔵省の”長銀は債務超過である”に伴い粛々と破綻整理と国費の存続銀行への投入が決まりました。私はその時に拙著を上梓しまあした。経営陣の無罪判決まで10年を要しましたが。この本が判決に際して少なからず役だったのではないかと思っています。

【生贄とは】
生贄(いけにえ)とは、神への供え物として生きた動物を供える事です。旧約聖書の「レビ記」に山羊がスケープゴートになって奉げられ段があります。キリスト教以前の放牧民族時代に山羊が神への捧げものになった慣習が在ったのでしょう。狼に襲われると狼は凶暴な本性を露わにして羊を全部殺してしまいます。食べきれないのに羊を全部噛み殺してしまうのです。何処かのテロリストのように弱者を無差別に殺してしまいます。遊牧民はそんな惨状を観るに忍べずに山羊を狼への生贄に用意したのでしょう。1匹の山羊を犠牲にして羊の群れを守るのは人間の知恵だったのでしょう。そんな生贄の習慣は農業国日本では少し変わった形になりました。狼は大自然です。狼の前の人間と同じように大自然の前では人間は弱い存在でした。洪水が起これば田圃は壊滅してしまいます。干ばつが続けば稲は枯れてしまいます。大自然に優しくしてもらう為に人間は生きた人間を生贄にしました。出雲の八岐大蛇.伝説も生贄の娘(櫛名田姫)を救う話ですし、古墳で発掘される埴輪や秦の始皇帝の兵馬俑も元々は生贄の習慣を改めたモノだったことでしょう。
今年の春に埼玉県幸手の権現堤の桜を観に行きました。
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これは埼玉県(栃木県との境)幸手にある権現堤です。桜堤防の中の水門を見下ろす位置に巡礼親子の塚が祀られています。次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49242783.html

美しい千本桜の堤に人身御供の塚が祀られていました。
江戸時代初期に江戸の町を水害から守るために荒川の付け替えを行い権現堤を築造したのでした。荒川と渡良瀬川が接近する一帯に巨大な堤を作って灌漑池にしたのです。灌漑池は洪水対策の調整池にもなります。堤の南の農民は自分の生活を守ってくれる堤でしたから張り切って築堤工事をしたことでしょう。でも堤の北の農民は田畑が水底に沈んでしまう事になります。不条理な工事をする気になりません。工事が計画通りに進捗しない理由を神意と判断します。そして神に人身御供を出すことに決めます。人身御供を出すことで村の結束が強くなり安定するからです。
此処までは各地である話です。問題は誰を人身御供にするかと云う事です。此処は日光街道も近いし秩父霊場の通り道でもあります。偶々母娘の巡礼が通り過ぎようとしていました。農民はあの親子を人柱に立てようと決めます。親子の命は堤の水門に消えてしまいました。築堤工事は無事に竣工します。しかし、農民は自分達の行為の罪深さに懺悔します。そこで桜に埋もれるような位置に塚を作って慰霊したのでした。

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週刊文春の舛添要一都知事告発第二弾5月8日号)一度火がついてしまうと世論は燃え尽きるまでヒートアップしてしまいます。余りのセコいところが庶民感覚である事が悲しい事実です。
【現代の大神/神は世論です】
新約聖書の時代生贄は狼に奉げられました。近世は大自然に人身御供は奉げられました。何れも牧畜共同体や村落共同体の括りを強くする行為でした。人身御供を出すことで共同体の結束はより固くなり困難を克服できたのでした。では現代は狼や大自然の位置にあるモノは世論です。現代人は世論の前では風に舞う木の葉の様な存在です。抵抗しても無益です吹く風に身を任せるより仕方ありません。
人間は制御不能なモノには素直に従います。かの白河天皇もサイコロの目は制御不能なので従いました。序に云えば比叡山延暦寺の神輿も制御不能だと思いました。何しろ神輿は日吉の神の乗り物でしたから。サッカーでコイントスをして始まるのもコインの裏表が制御不能だから従うのです。
舛添要一さんもみっともない言い訳は止めて世論に従って真実を吐露して辞職をするべきでしょう。
日本の社会が安定して行くためには時々生贄を出して庶民(現代なら下層国民)の鬱憤をガス抜きしてゆく必要があるのです。先日託児所で断られたお母さんが「日本潰れろ」呟いてツイッタ―で炎上しました。
図書館では貧乏対策コーナーが特集されています。
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図書館の「貧困対策コーナー」。日本社会が危機的状況にあることを如実に示しています。これから日本社会は大金持ちと貧困の二層を抱えて如何漂流してゆくのでしょうか?心配です。

日本社会はかってないほど不満が鬱積していて病的というか不安定なのです。フランスやベルギーのようにテロリストを排出する素地は充分です。ソロソロ生贄を必要にしているようです。権現堤のように生贄を出さないと1億総中流総活躍社会は実現できそうにありません。
世論を味方にすればトランプ氏のように勝組になれます。世論に逆らえば負け組です。
今は風上にいるのか風下に居るのか自分の立ち位置を客観視すればどうすべきか明らかです。世論は都知事の交代させ信頼できる人物にオリンピックの表舞台に立って欲しいと期待しています。
国立競技場のデザインやシンボルマークをチェンジしたのも世論でした。国民は信なき都知事を押し立ててオリンピックをしたいとは思っていません。



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遊女の系譜

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今春は三春の瀧桜を親友と観に行きました。磐城のレンタカー会社で訊きました。
「磐城小名浜には遊郭の跡は無いのですか?」
私の脳裏には山形県酒田の遊郭の想い出がありました。”酒田に遊郭が在ったのだから小名浜にはもっと立派な遊郭が在ったに違いない!”でも私の質問はレンタカーの受付員の冷たい視線を浴びただけでした。一昨日の読売新聞に風俗産業の特集記事が掲載されていました。
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読売新聞の日曜版での特集号。主婦が生活苦の為に性風俗店で売春行為をしていることそしてその待機中にカウンセリングしている結果を報じています。こんな国にしてしまった民生の貧困を誰が責任を負ってくれるのでしょうか?自民党は此処からも税金をとろうと思って居る事でしょう。私達が教わった経済学はもっと志が高い経世済民の学でした・・・・。
昨日のニュースでは『警察庁がJKビジネスを取り締まる法律の立法を検討している』と報道されました。私の仲間はJKビジネス?それって何だ?知らない人ばかりでしょう。そこで知った振りをして教えて進ぜましょう。『JKとは女子高生です。女子高生が一緒にお散歩をしたり珈琲を飲んでくれたりするサービスで、お顧客は孤独な老人が多いのです』、何だそれなら向島か谷中の路地奥の安アパートで銘仙を着た叔母さんが話し相手になってくれて耳垢掃除に爪切りでもしてくれて、昨日の残り飯で「冷汁でも食わせてくれた方がズット楽しそうです。それなら私も永井荷風になったような気分に浸れそうです。お店の名前は「玉乃井」で事業の名は老々事業です。前途ある女子高生を犯罪に染めるのは犯罪です。老々ビジネス「玉乃井」なら日産のゴーンさんの言うような”ウィン・ウィンビジネス”です。サービスを売る方の叔母さんにとっても買う方の叔父さんにとっても得なビジネスです。こんな事を書いていると又ワイフのお叱りを受けそうですから。ワイフも好きな西行法師の話題に変えましょう。
西行法師が遊女に恥をかかせられる話があります。西行法師物語にも載っていますし世阿弥の謡曲にもとられていますから相当に有名な話だったようです。
先ず謡曲の江口を照会します。
西行法師は四天王寺を詣で淀川を渡って江口に着きました。折からの夕暮れに加えて突然に雨に降られます。
そこで急遽西行法師は遊女の家に泊めて貰おうとします。
ところが主の遊女から断られてしまいます。  そこで西行法師は
  世の中を厭うまでこそかたからめ、かりの宿りを惜しむ君かな 西行法師(978)
歌の大意は大凡次の通りでしょう。
俗世を避けて出家する)のは難しい事なのに貴方はズット容易い一時 の宿を貸すことさえ惜しむのですね.。
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江口の君と西行法師図『宮川長春画」東京国立博物館蔵)写真の出典は朝日新聞社編西行をスキャン。場面は一夜の宿を遊女に依頼した場面
この歌に対して遊女は次のように返歌致します。
  世を厭ふ人とし聞けばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ (江口の君/新古今978遊女妙)
遊女の歌の意味は大凡次のようなモノでしょう。
あなたは、悩み多い世の中をきらって出家しておられると聞きますので、遊女の宿に泊まるなどと、かりそめの宿に執着なされることは無いでしょう。
江口の渡しは現在の十三の辺りです。私は大阪転勤時代桃山台に社宅がありましたから地下鉄で淀屋橋まで通勤していました。十三は赤提灯と風俗店が混在していて現在の新大久保のコリアタウンのように雑踏の街でした。古代末期中世初頭にも没落貴族や新興武士が入り混じった街だったのでしょう。宿泊期待を和歌でもって断られた西行は屹度悄然とされた事でしょう。
謡曲は旅の僧が江口の渡しを通った際に夢に遊女にが出て来ます。そして遊女は”わたしは普賢菩薩ですと云って消えたのでした。
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北斎に依る江口図旅の僧の夢に現れた遊女は白象に腰掛けた普賢菩薩でした。仮の世での汚れた身であったことを嘆くが、最後には、仏の救いの手が差しのべられて、普賢菩薩と化して白雲に乗り西の空に消え去るという、夢幻の世界が繰り広げられるものでした。

今春観たカラバッジョのマグラダのマリアは宗教改革後重要な聖人でありますが、元々は遊女だと聞いています。遊女がキリストの復活を最初に確認する栄光を勝ち得た事が重要だったのでした。
そもそも遊女は宗教上大切な役割を果たしていました。宗教的な法悦を体現できるのは先ずもって遊女でありまあした。ですから阿国も静御前も皆遊女であります。一遍上人図録も頻繁に遊女が出現しますし。
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一遍上人絵巻伊予の故郷を出た一遍上人のすぐ後ろに従う比丘尼は超壱超弐と云う母娘でありこの親子が信仰による悦び(法悦)を体現しているのでした出典一遍上人図録を複写
上人に同行していた超一超弐と云う比丘尼も遊女のように描かれています。踊り念仏は法悦そのもので彼女らが居て初めて法悦踊り(盆踊りの始まり)が出来たのでしょう。遊女は最初は神を悦ばせる芸能者だったものが近世になると芸を売るだけでは無く体を売るようになります。しかし江戸時代は花魁に観るように遊女はインテリで教養もあるし何より情が深いのでした。それは井原西鶴や近松門左衛門が描き吉川栄治の宮本武蔵に登場する吉野大夫のように人格者になっています。男性の性欲をお金で処理するようにさもしくなったのは遊女のレベルが落ちた事もありますが、お客(男性)にも原因が在るのです。いびつになってしまった性欲は文化も民俗も粗悪にすると思います。JKビジネスは教育基本法に依らずとも反対です。売春禁止法が建前になってしまっていて、大新聞でさえ実質は売春なのに風俗産業だと云っているのは欺瞞に満ちています。”景気が悪くなると男はホームレスになって女性は売春をしている”と噓吹きながら原稿を書く新聞記者は最低な人格です。其処まで解っているのなら人格を否定する売春行為自体を社会から抹殺するようなキャンぺーんをするべきです。私は荷風流の粋で少し卑猥で耽美的な文化であってほしいモノです。せめて性風俗で留めて欲しいモノです。



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何故仏像を彫ったのか?「一切衆生悉有仏性」

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先月澤田瞳子さんの小説『満つる月の如し 仏師・定朝』を読みました長い間私が抱えていた疑問を扱った面白い小説でした。時代は表題でも想像できるように藤原道長の全盛時代です。若き官僚僧「隆範」は比叡山延暦寺を監察する地位にあり延暦寺の造仏を決定できるポジションに居ました。
世相は混乱し延暦寺でさえも戒律の歪みが露見していました。大寺を建て仏像を祀っても社会の混乱は極まり人心は千路に乱れて行きます。「仏とは何なのか」?官僚も仏師も自問しながら末法の時代を迎えていました。。そんな時道長は自邸のあった土御門に法成寺を造営します。丈六の巨体の阿弥陀仏が9基も納められます。都中から沢山の見物人が混濁の世を救ってくれる阿弥陀仏を拝もうと道長の屋敷に集まって来ていました。ところがそこで不祥事が起こります。9条に在った康尚(定朝の師匠)の仏所(仏像の製作工房)から法成寺まで運ぶ間にお顔を破損していたのでした。責任者の探索と善後策が検討されます。一番に懸念されたのは道長の怒りでした。(この事故は有名で貴族の日記に書きとめられています。)
満場の見物人は天才定朝の彫技を確認して喝采する事になったのでした。定朝は衆人の心配を他所にして見事に阿弥陀様のお顔の傷を治して見せたのでした。「隆範」は延暦寺の仏像を定朝に発注する事を決意します。その決意は定朝の腕を確認したもののそれ以上に”仏とは何か?」自問していた自己自身と同じ疑問を定朝が抱えていたからでした。貴族は権謀術策と漁色に明け暮れる一方で、貧しきものは飢えや病に倒れる時代にあって、『仏は何処にいるのか?』あるいは『自分が仏像を彫ることに何の意味があるのか?』と苦悩する定朝の姿は古代末期の万人の悩みでもあったのでしょう。
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此方が澤田瞳子さんの力作「満つる月のごとし」。「満ちる月がごとし」の表題は道長の和歌「この世をば  わが世とぞ思ふ  望月の
 欠けたることも  なしと思へば」からとったものであると同時に定朝の彫った阿弥陀如来のお顔が満月のように穏やかで優しかったからでしょう。その相貌を「尊容如満月/長秋記」と評されました。写真は平等院鳳凰堂の阿弥陀如来(定朝)です。

日本に仏教が伝来したのは522年司馬達人(止利仏師の父)と云われています。
このことは日本に仏教を伝えたのは僧侶でもあり仏師でもあった帰化人と云う事です。当時の唐は国際都市でしたから。仏像の技法も多種多様であったのでしょう。石を彫った石仏から土を捏ねた塑像、銅を鋳造した金銅仏そして漆で塗り固めた乾漆像。天平時代はそれら多種多様な素材で仏像が作られていたのでした。鎮護国家の大事業奈良の大仏像を実現させると古代の繁栄は一変して凋落して行きます。凋落の原因に大仏鋳造を契機に発生した水銀公害もありました。鎮護国家のシンボルが古代国家の滅亡を速めたのは時代の皮肉でもありました。東大寺や興福寺の仕組みは官僚構造であり封建的な組織でありました。その官僚組織は仏師の世界にも及び東大寺や興福寺の官営仏所が日本中の仏師を牛耳っていました。
古代朝廷の力が衰え各地に荘園が増え。摂関政治から院政に映る時代、古い時代の殻を破って時代の要求であった和風の優しい仏像を大量に彫ったのが定朝でしたし。中世には貴族に代わって台頭してきた武士のエートスを形にしたのが興福寺仏所で生まれた運慶だったのでした。
定朝の偉大さは時代のリーダー権門貴族が心酔した満月の様な慈悲のお顔の仏像を彫った事でした。それまでの仏像は一木から彫り上げたモノ(密教仏)でしたから。必ず内刳りをしていました。これでは大きな仏像は彫れないし。数多く彫る事も出来ませんでした。定朝はこの困難を一気に解決する「寄木」と云う技法とシステムを編み出したのでした。その技法は先ず素材の樹の使用方法です。大きな丸太状の材木をイメージしてください。
材木を4つに割ります。真ん中の材木は仏像の正中に使用します両脇の材木は像の側面に使用します。そうして彫った四材を組み合わせて巨大な阿弥陀像を組み合わせるのでした。この結果乾燥すると仏像が割れたり歪んだりすることが無くなりますし、一度に四体も九体もの仏像を造像することが可能になったのでした。この方法は仏像の量感を失い正面から拝んだ時の印象を強くしました。同時に腕や持物の基準サイズを決めた事もあって彫刻の分業化によって仏像の量産化も可能になったのでした。院政時代には三三間堂が出来千体以上もの十一面観音が出来ますが。これこそ寄木造りをシステムとして完成させた成果でした。
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これは定朝の師匠「康尚」によると東福寺の塔頭同聚院の不動明王一木作りで重量感のある体躯は密教の色を残すが憤怒の表情も穏やかで優しげで定朝の柔和な仏像への過渡期的な仏像です。
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此方は京都日野にある法界寺の阿弥陀堂定朝の作に依る丈六の阿弥陀像が5体も並んでいます。

ところで最大の問題です。古代律令国家の崩壊時末法の時代に陥る時に「仏とは何か?」「仏とは眼には見えないけど何処に居るのか?」「仏とはどんな性格なのか?」といった問題です。実はこの頃日本中でこの問題が討論されていたのでした。その代表は興福寺の徳一上人であり比叡山の最澄法主でした。
日本に伝来した仏教は人間の心(情)は動物の間で輪廻し共通すると考えました。心(情)は命が終わっても滅することは無くて動物の間を輪廻すると考えたのでした。有情の間を心は巡って行くそれは動物の間だけに限ったものでしたが、日本では動物だけでは無く樹木にも草花にも心が在って草木も含めて輪廻すると考え始めたのでした。最澄に依れば心(仏性)は人間だけでは無く稲にも筍にも宿っているので自分一人で仏になろうとするのは無意味で一蓮托生皆で仏になろうと考えたのでした。一方徳一上人は行き着くところは同じでも先ずは一人一人が仏になるために修行する事に始まると云われたのでしょう。
一般に狩猟は動物の命を奪う行為なので戒律の第一に置かれていました
不殺生戒」は第一番の戒律で「不偸盗戒」や「不邪淫戒」「不飲酒戒」よりも上位にあるのでした。
何故なら自分の心は明日は猪に移っているかも知れません。猪を狩猟して食べる事は自分を喰う事で許され難い行為なのでした。
仏教の教えは米作を奨励して鎮護国家を作ろうとした大和朝廷にとっても好都合でした。狩猟や肉食は避けて米作穀物食が国家統一上有効でしたから不殺生戒を尊重して狩猟生活者を蔑視したのでした。
米作を尊重すれば仏性は稲にも桜にも筍にもあると広げて考えるのは自然でした。
「大般涅槃経」に有名な一説があります「一切衆生悉有仏性」総ての生物には悉く仏性が在る」と云う認識でした。この認識は「草木国土悉有仏性」に転じて鎮護国家思想に発展したのでした。「植物にも仏性がある」と云った考えは日本仏教の柱になったようで鎌倉新仏教の旗手道元禅師は植物の姿に釈迦牟尼仏の姿を観てや谷川のせせらぎの音に仏の声を聴いたのでした。(渓声山色)
今朝なら雨だれの音に観音様を聴くようなことでしょうか?

【三十三間堂の棟木伝説について)】
三十三間堂の棟木について著名な由来譚があります。三十三間堂は後白河上皇が1164年に自身の離宮・法住寺殿の敷地内に一宇の仏堂を建立し、1001体の千手観音像を安置したモノであります。その大棟の木に係る言い伝えです。
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三十三間堂の群像は定朝の寄木造りシステムの成果でした。後白河法皇の建てたこの圧倒的な仏像に人々は末法の時代にあっても生き抜く覚悟を固めた事でしょう。
後白河上皇は頭痛に悩まされていた。そこで熊野で祈願したところ、お告げがありました。」
 「上皇の前世は熊野にあった蓮華坊という僧侶であった。仏道修行の功徳によって今世では、天子の位につかれるくらい高貴の方に生まれてきたが、その蓮華坊の髑髏が熊野の岩田川の底に沈んでいる。その髑髏を貫いて柳の木が生えていて、風が吹くと柳の木が揺れて髑髏に触れ、上皇の頭が痛むのだ」というのでした。
 そこで、川を調べさせたところ、髑髏が見つかり、その髑髏を三十三間堂の千手観音の1体の尊像に塗り込め、さらにその柳の木を伐って、京へ運び、三十三間堂の梁に使ったところ、上皇の頭痛は平癒したという。蓮華王院の名は後白河法皇の前世の蓮華坊の名をとって付けられたのでした。
人間の心と柳の木の心とが輪廻しているとの想いが透けて見える伝説です。
人間として現世を生き抜く事は辛い事が多々あるものです。生き抜く苦しみは古代末期も今もあんまり変わらないものでしょう。古代末期には人々は次のように考えていたようです。人間は死ぬとその魂は体を離れて植物にも移って回りまわって(輪廻して)何れ人間に戻るかも知れない。自分の魂は美しい桜や神々しい大木にそして命を繋ぐお米にも巡るかもしれない。それは因縁で繋がっている。ならば自然に身を任せて現世を仏性の声に耳を傾けながら誠実に生き抜こう。その時の清々しい想いが満月のように慈悲深い阿弥陀様のお顔を想わせたのでしょう。そんな訳で道長は定朝の彫った阿弥陀仏の襷を握って浄土に再生する事を願いつつ黄泉に旅だったのでしょう。
私達は不幸にしてギリシャローマ美術ルネッサンス芸術の洗礼を受けています。その価値観や視線で定朝の仏像を観るので迫力不足に思ってしまいます。逆に天平や鎌倉時代の仏像に価値を見出す傾向があります。道長も後白河法皇も自分自身の救済を願って仏像を彫らせた事は間違いないでしょう。でも個人以前に彼等は時代のリーダーでありましたから人民の平安が無ければ個人の平和も無い事を知っていました。だから九体もの阿弥陀仏と千体もの観音像を祀ったのでした。個人と全体との位置関係を見烏なう事はありませんでした。為政者が自分自身の立ち位置しか見えなくなると新約聖書にある通りに民俗は滅びます。今の日本は個人主義が行き過ぎて小乗に偏って大乗を見失ってしまった様に危惧いたします。
和洋文化の珠玉である定朝の仏像こそ日本仏教の至宝だと確信するのです。



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荊妻の尊さ

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野茨が目立つ季節です。野茨は日本に自生する薔薇ですがオールドローズのような気品もフランスローズの様な華やかさもなく字の通りに鋭い棘が特長の野生種です。蔓バラの基本種であります。
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毎週金曜日は半日をデーサービスで過します。
時々体験で参加される方がおいでです。昨日は私と略同年齢の方が来られて施設の確認とサービスの概要と利用者を観ておられました。私も2年前は”ああだったな”灌漑深く眺めていました。2年前は歩く事もままならず左手も殆んど動かせませんでした。若い奥さんがご主人に連れ添って、その表情の変化をウォッチされておいででした。
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デーサービスの楽しみは昼食でもあります。これは中華丼でした。
私のワイフも”あんな表情で私を観ていたんだろうな”思いました。そのうちにその若い奥様を激励したくなって、声掛けしました。「私も2年前は同じようでしたよ、でも今では杖無しでも通える程になりました。でもリハビリには努力も必要で本人の覚悟が重要ですよ。『荊妻/けいさい』と云う言葉があります。奥様の一言一言が荊(いばら)のように棘が在るのでしょう。リハビリを成功させるには時に『荊妻』になって、リハビリを達成させる事も大切なように思いますよ。
『荊妻』を広辞苑で調べると、後漢の梁鴻 (りょうこう) の妻孟光 (もうこう) が荊 (いばら) のかんざしを挿したという「列女伝」の故事から出た言葉と教えてくれます。
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これは豊国の紅を拭く女(デトロイト美術館)です。女性の美しさは白い肌に僅かな朱色そしてその二色を際立たせる黒髪でした。簪は黒髪のアクセサリーであると同時に耳かきにもなりました。その簪は時と場合によっては武器になりました。そう言えば必殺仕掛人にも簪を使う仕掛け人が居ました。


「糟糠の妻」とはよく聞く言葉です。「酒糟や米糠のような粗末な食事を共にしてきたかけがえのない妻の意味です。この言葉にともにして、苦労を重ねて夫を肋け、家庭を守り、連れ添ってきた妻のことです。慣用句としては「糟糠の妻は堂より下ろさず」と云います。”苦労を共にしてきた妻を立身出世したからと云って云ってお屋敷から追い出すことはしない”と使います。糟糠の妻で想い出すのは山内一豊そして前田利家でしょうか。
政治家や俳優は人気商売ですから糟糠の妻を大切にするのは必須要件です。下積み生活の長かった男優を一人前にするまでは糟糠を食べて我慢した辛抱女房を少し人気が出て来たから若くて眩しい奥さんに鞍替えするようではファンはじきに離れてしまいますし大原麗子さんを不幸に陥れた森進一や学生結婚していた石田純一など最低です。政治家も地方議員や秘書生活が長かったモノが運よく都知事に就任した途端に艶聞を色々取りざたされている升添要一氏は古典の勉強が必要でしょう。
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升添要一氏は初婚はフランス女性次は片山さつき氏(参議院議員大蔵キリア)そして1996年に元夫人1996年に、15歳も現在の妻雅美さんと再々婚したしました。これからは政治資金の私的流用問題から矛先はその下半身に移ることでしょう。もう退け時は過ぎているようです。
「荊妻」と「糟糠の妻」良く似ているようで「荊妻」は謙遜した言葉で愚妻の意味です。私はズット負担をかけ通しですしもう老い先は知れていますから糟糠の妻とも言えません。ズット「糟糠の妻」の儘です。どうも御免なさい!でもリハビリに注力して早く介護負担から解放させてあげる積りです。




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女子には勝てない(今時運動会)

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昨日28日は私の住む東戸塚小学校の運動会でした。生徒さんから招待状を戴いては応援に行かずばなりません。開会式は午前10時、少し前に学校に着くと小学校はまるでキャンプ村。アッチコッチにテントが張られていました。昼食を家族単位でとって貰うので、校庭の隅にテントを張っているのです。

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運動会開始前に学校の隅々に張られてテント。家族で昼食をとるための陣取り合戦は厳しいモノがあります。


私は小学校の理事を仰せつかっていますので3度/年の理事会を始め主要な行事には参加を求められていますがン中学式と運動会には必ず参加しています。とりわけ運動会は皆勤です。
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いよいよ運動会の始まりです。私が小学生の頃は運動会と云えば秋でしたが今は熱中症リスクが高い事や他の学校業にの関係もあって初夏に行われるようになりました28日は天気も暑からず雨も降らずに最高の運動会日和でした。

運動会の徒競走を観ていると何時も山本有三の「真実一路」のラストシーンを想い出します。私でさえ一生懸命に走る生徒の姿に感動しているのですから。”この沢山の観客の中には目頭を熱くしている筈だ”想うだけで感動してしまいます。
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東戸塚小学校の校庭は100m徒競争の距離がとれる恵まれた広さを誇っています。徒競争を観ると「真実一路」のラストシーンを想い出します、今は男女一緒に走るのです。
昭和20年代は皆貧乏でした。学校の近くの文房具屋では再三万引きをしたしないで騒いでいました。教室でも文房具を盗まれた盗んだりしないトラブル続きでした。運動会と云えば友達の運動靴が格好良くてスピードが出そうで羨ましかったモノでした。私の母は桐生女子高校の和裁の先生でしたから私のパンツも晒しで縫ってくれました。手作りの真っ白いなパンツは気持ちよかったのでしたが。なにせ少し大きすぎるので少し屈むとパンツの裾から少年の男性自身が覘けて見えてしまっていました。目敏く私のお芋を確認した悪餓鬼が竹内君のパンツははみ出しパンツだ”はみパン”だと言い出しました。運動会では得意満面だった私でしたがこのあだ名”はみパン”には閉口しました。私の母はそんなことに頓着しないで幾つになっても運動会にはブカブカのパンツを着せて運動会に行かせていました。私の二人の兄もこのデカパンツには閉口したものと推測します。でも、兄は運動会の弁当のお稲荷さんに食あたりしてしまい、以来ズット稲荷ずしが食べられくなってしまいました。我家のルーツは豊川稲荷さんですから稲荷ずしは食べる機会が沢山ありました。その度に兄は運動会で下痢をした苦い思い出がよぎったものと思います。
真実一路のラストシーンでは主人公の義夫は徒競争でわざと負けてしまいます。義夫には産みの母亡くなっていて姉が母代りで育ててくれています。母代りの姉には縁談が在ってもうじき義夫は一人で生きて行かなくてはなりません。小説の冒頭に北原白秋の詩が紹介されます。「真実一路の旅なれど 真実鈴なり 思い出す」運動会には様々な真実が白日に晒されるのでした。
路傍の石の吾一は困難に打ち勝って生き抜く力が在るでしょうが心優しい義夫には吾一の逞しさに欠け、不安が残ります。でも義夫のような少年こそ幸福になって欲しいモノです。
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運動会には欠かせない玉入れは一年生と来春入学予定の幼稚園児保育園児が一緒に行いました。入学して3か月の間にしっかりしてきた1年生に驚くのです。
私は校長先生に挨拶してお隣でお話ししました運動会は楽しみで此処で観ていると真実一路のラストシーンを想い出すこと。沢山の真実がこのグランドに花咲いている事だろう・・・話しました。
「ところで校長先生、私が小学生の頃は徒競走は男女別々にしていましたが今は男女一緒に走るんですね!」「女の子に負けてしまうと男の子はイジケテしまいませんか?」
校長先生はこう言われました。
「負けた男の子が奮起すれば良い事ですし。最近は男女区別しないのが普通です。
近くで私達の話を聞いていたPT0A会長(女性)は「高学年になると女の子の方が早いモノですよ」私は
「大学でも金時計銀時計はどの学部も女性でしたから運動会から女性女性上位なんですね・・・」相槌を打つと
最近の子は「男女共学だと女子に負けてしまうので態々男子校に行くそうですよ」言われます。
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生徒は皆裸足で居ます。裸足の方が気持ちが良い事と騎馬戦や組体操でお友達を気遣う優しさが裸足で居させるそうです。裸足が保育に良い事は疑う余地ありません。でもこのために親爺の会が校庭の石拾いに精を出しているのです。その事実は生徒も皆が見ています。地域で大切にされている事を生徒は知っているし感謝して貰っています。挨拶も自然に出来る素地は生徒の他に先生父兄地域の連係の下に培われています。それにしても皆いい脚をしています。昔はО脚やX脚が目立っていました。
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見惚れてしまった健康で良い形の脚。
所で先生殆どの生徒が裸足で居ますが教育的視点で裸足を奨励しているのですか」先生に尋ねると
応援の子は掃除で裸足になっているようです。子供も裸足が好きで騎馬戦や組体操での友達への思いやりでしょう。このために「親爺の会」では校庭の石拾いをして貰いました。
ペニシリンも土から発見したものですし、大村智先生も土の中から熱帯感染症の特効薬を開発したのでしたから裸足で居る事が健康に良いのでしょうね。日本は湿気が多いので水虫は都会の国民病ですが土に馴染んでいれば健康で居られるでしょうしね・・・・」。
昨日の午後私は日吉の慶応大学の日本文化セミナーで陰陽五行を説明しました。
結論は「日本は瑞穂の国と自称しているけど。瑞々しい稲は綺麗な水と肥沃な土と清浄な大気の三位一体で育つ日本の文化や民俗が滅びるのはこの三つのうち一つでも欠けた時です」説明いたしました。
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これが昨日のセミナーで発表した私の主張の結論のページです。
 
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日本のルネッサンス運慶の仏像

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一昨日定朝の仏像を書きました思い返せば全国各地の仏像を観て歩きました。
昨日のセミナーで奈良の大仏さんのレポートをしました。大仏のお身体を金で鍍金する過程で水銀公害を惹起したと云った推測です。
金銅仏の作り方は1500年前と今も殆んど変わりません。京都の太秦や富山の高岡には銅の鋳物の匠が居て、奈良の大仏と同じ手順で金銅仏を作っています。私も生家の観音様を確認しに再三太秦の工房に行ったものでした。
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これが私の生家の観音像。祖母の貯めたお金で京都の太秦にある仏具屋さんに発注して鋳造して貰いました。この像でも4回に分けて台座から全身を鋳上げて戴きました。儀軌通りにするにはこの上に金箔を貼る事になるのですが。古代は金を水銀で溶かしたアマルガムを塗って水銀を蒸発させたのでした。
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此方は明日香にある岡寺の如意輪観音像塑像です。大仏鋳造の手順は最初に抗した塑像を練上げて張子を作り隙間に溶かした銅を流し込んでブロンズの大仏を作り最後に表面に金箔を貼ったのでした。

その作り方は先ず泥を捏ねて塑像を作ります。塑像の表面を5センチほど削ってその外側にもう一層粘土で囲みます。そうしてできた粘土の隙間に溶けた銅を流し込みますそうして出来た銅の張子のような仏像が出来上がります。そうして出来た銅の仏像の肌を儀軌通りに金色にしなければなりません。偶々宮城県の多賀城の近くで金が発見されました。金を銅の表面に貼って儀軌通りの神々しい大仏に完成させます。今なら金箔を貼るのでしょうが、当時はアマルガム鍍金方法が採用されました。具体的には金を水銀で溶いて銅の表面に塗ったのでした。水銀は発見された時は固体ですが液体にも気体にも変わります。今年は水俣病が発覚して60年でしたが13百年前にも水俣病が都を襲っていたのでした。
金を水銀で溶いて銅の表面に塗って温めれば水銀は蒸発して薄く金が銅像の表面を覆うのでした。
昔の旅行会で大仏様のお膝に登らせて戴いた事がありました。台座の蓮弁でおおらかな天平大仏の容姿は確認できて感激しました。私達が見上げる大仏様のお顔は異様に映ります。蓮弁の廬舎那仏と目の前の大仏のお顔を見比べて仏師の力量が衰えた事を痛切に思ったのでした。
惜しいのは運慶が作ったと思われる大仏のお顔で。永禄10年(1567年)松永久秀の兵火によって焼け落ちてしまいました。若し残っていれば間違いなく運慶が全霊を込めて作ったものどんな尊顔であったのか拝んでみたいものです。
でもおおよそ推測が可能です。運慶が指揮を振った東大寺再建事業の直前に成し遂げた興福寺南円堂の主尊と似たお顔だったことでしょう。そのお顔は興福寺仏頭(伝山田寺仏頭)を手本にしたと思うのです。
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運慶が大仏修復でお手本にしたと思われる興福寺仏頭、運慶は興福寺再建に際して北円堂の諸仏の彫刻を指揮しました。南円堂のすぐ前に在る中金堂は京都仏師の円派が任せられました。その中金堂の地下からこの仏塔が発見された事実は運慶がこの仏頭をお手本にしていたことを推測させるに充分です。
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これは運慶が彫ったと伝えられる西金堂の釈迦物仏の仏頭です。興福寺には二つの仏頭が残されているのです。一つが前の写真の伝山田寺仏頭でもう一つがもお耳も伝山田寺仏頭に似ています。運慶は数多くの天平仏に囲まれていましたかルネッサンスの旗手になる事が出来たのでした。まsるで日本のミケランジェロです。
聖武天皇が発願されて完成した大仏さんは治請承4年(1180年)に焼け落ちました。平重衡の兵が奈良の街を焼いたのでした古代が南都焼き討ちと共に焼失したのでしたが、、建久6年(1195年)から建仁3年(1203年)東大寺再建の機運が盛り上がります。一方は源頼朝による武家政権の樹立でありもう一方は重源による勧進の成功でありました。既にこの日を見通して運慶の父康慶派蓮華王院や東寺の修復に参加していました。古いお寺を修復するに際して定朝を祖とする九条仏所(民営)は力量不足で奈良仏師(官営)に期待が寄せられたのでしょう。運慶は東寺修復などで古仏を学ぶ機会に恵まれていました。そんな功績で康慶は評価され朝廷から大仏師と云った称号と併せて僧侶としても高い地位(法橋等)を獲得します。運慶が獅子奮迅の活躍をして東大寺の大仏は再現したのでしたが、その大仏も松永久秀の兵火によって永禄10年(1567年)焼け落ちてしまいます。元禄時代宮津の公慶上人が露座の大仏さんを観て再建を発願します。慶安元年(1648年)大仏殿を修復完了します。私達が拝んでいるのはこの時の成果です。若しも秀吉や家康が新時代の後継者の自覚が在ったのなら、東大寺の再建に着手すべきでした。聚楽亭や日光東照宮に着工する資金が在ったのなら聖武天皇の志しを継ぐ者として大仏さんの修復をすべきでした。
間違いない事は聖武天皇の大仏が一番素晴らしかった事。そして運慶が修復した中世の大仏も劣らず素晴らしいモノであったと確信するのです。聖武天皇の大仏様も運慶の大仏様も行基や重源が戦争の無い太平な時代を願って勧進したもので戦争の傷跡を修復したのでした。平和な時代を享受した民族は子孫が再び戦火を浴びる事が無いよう細心の注意を払わなければならない責任を先祖からも子孫からも負わされていると思うものです
一昨日は定朝の阿弥陀像を説明しました。
定朝の偉大さは和様の様式を仏像と云うジャンルで完成させた事と仏書と云う仕事場で分業システム(寄木造り)を整備した事でした。定朝の仕事場は定朝の弟子の「円派」「院派」に引き継がれます。「円派・院派」は双方とも民間工房でした。一方奈良には東大寺興福寺と云った官営工房がありました。官営工房を引き継いでいたのが運慶の父の康慶でした。康慶は相当のヤリ手(政治手腕が在った)だったようです。蓮華王院の修復工事が終わると大仏師の称号と同時に僧侶としても僧綱位と云う高僧とに与えられる地位を得ます。仏師として初めて僧綱位を朝廷から授かったのは定朝でしたから康慶は定朝に並ぶ地位を得たことになります。すると康慶は仏師と称号を息子の運慶に譲ります。そして自身の兄は成朝(音読/じょうちょう)とし慶派一派の地位を不動のものにします。
慶派発展の基礎を築いた康慶の前に康朝初め何代もあります。運慶は傑出した天才であった事は間違いありませんが突然に出現した訳でも無く長岳寺初め幾つものお寺に慶派仏像が残っていて定朝と運慶の間を埋めてくれています。
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方は奈良山辺長岳寺の阿弥陀三尊像です。玉眼陥入した初期の仏像ですが定朝風の柔和な表情脇侍の観音(右)勢至(左のの脚が半跏になっている処等運慶では考えられない姿です。

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これは定朝以降の仏師の流れ資料出典は運慶研究の第一人者山本勉氏出典は芸術新潮2009年1月号)
慶派が定朝直系の円派や院派よりも恵まれたのは2点ありました。
その第一は奈良は沢山のお手本となる仏像が在った事そして第二に東大寺修復のスポンサーになった源頼朝に近かった事でした。

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これが円照寺大日如来像一般に運慶18歳の時の彫像と云われています。木彫金箔を貼っていましたが金箔が剥げ落ち下地の漆が表面に出て漆も酸化して黒ずんでいます運慶の技と歳月が美しさを際立てています。
その仏像を最初に拝観したのは昭和46年2月粉雪の降る柳生路を歩いて円成寺の門を潜ると。和風の本堂のご本尊は阿弥陀如来でその北側に運慶の大日如来が結跏趺坐しておいででした。連子合格子を通して弱い光が大日如来の横顔を照らしていました。ご本尊を圧倒する存在感でありました。応対して下さった堂守さん(奥様)に尋ねるとこの仏像は運慶の作で境内の多宝塔のご本尊であったもののお寺が貧乏をしたので鎌倉の長寿寺堂屋を売却して今は本堂にお移り戴いていると伺いました。
その後円成寺さんは努力されて多宝塔を新築され今では運慶の大日如来はお戻りになられておいでです。でも新築された多宝塔では昔日の感動を呼び覚ましてくれません。連子格子を通した光りは博物館のライトアップに似た効果が在ったのでしょうし。私が既に青春時代の感受性を失ってしまった現実もあるのでしょう。
でも殆どの写真集ではこの昔の大日如来像を掲載しています。多くの写真家が私と同じ感慨をもってこの像を観ているようです。
頼朝がスポンサーになると奈良の復興は加速されます。康慶は東大寺修復に運慶を呼び戻します。その契機は重源が勧進に成功したからでしょう。勿論その背後には武士の棟梁頼朝が居ました。
運慶は一門を指揮して東大寺の諸仏を彫ります。私達は南大門の仁王像を驚嘆しながら見上げますが実は運慶は大仏殿の中でも獅子奮迅の活躍をします。当然ご本尊の廬舎那仏の修復です。廬舎那仏の脇侍は観音を快慶が虚空蔵を運慶康慶が彫りました。更に廬舎那仏の光背を運慶が指揮して作りました後背には16体もの丈六仏(座っていますから半丈六です)を賭けました。

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「大日如来像台座裏の墨書」運慶承安永元年(1175)十一月廿四日始之 給料物上品八丈絹肆拾参(四十三)疋也 已上御身料也 奉渡安元弐年丙申十月十九日 大仏師康慶 実弟子運慶(花押) です。これほどの大作ですから1年は要したでしょう、でも代金は43斤の絹だけでした。そして運慶自身の花押があって身分を康慶 実弟子としています。自意識が古代のそれとは違って居る事を如実に示しています。大正年間この台座裏の墨書発見が運慶研究の端緒にになりました。写真出典は上と同じ芸術新潮です。
に第一は優れた教材と云うかお手本が身近に在った事でした。フィレンチェでルネッサンスが起ったのは身近なローマに行けばギリシャローマのお手本が見られたからでしょう。ミケランジェロが出現したのもお手本が身近に在ったからでしょう。もう一つが政治経済と云った下部構造の大変化が在った事です。
元々東大寺興福寺が焼け落ちた原因は平重衡の兵火でした。奈良の人達には当初から平家嫌い源氏好きの風土が在ったのでしょう。朝廷や時の権力者後白河法皇との関係は父の康慶が担当し。仏師としての注文は息子の運慶に任せたのでしょう。運慶は若くして東国に下りますその作風は直ぐに源氏の有力御家人の心を掴みました。無常な社会を平面的に眺めるだけでは無く。現実を立体的に捉えて現実を力や工夫で変革しようとした東国武士にとっては平面的な院派円派の仏像は物足りなく見えて立体的で力強い運慶の仏像が好みであった事は間違いないでしょう。
既に運慶は柳生の円成寺で画期的な仏像を完成させていました。関東に下った運慶は伊豆韮山の願成就院を初め葉山の淨楽寺等で関東武士好みの仏像を彫って行きます。
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これは伊豆韮山の願成就院の本尊阿弥陀如来像立体的で量感が豊かです。運慶作と判明しているものの玉眼は入っていません。
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此方は興福寺北円堂の弥勒如来を中尊にして手前右に無着像左に世と運慶の三尊が並ぶのは圧巻です。

運慶の肖像彫刻や書を観るとその人物像が髣髴されます。奈良には優れた肖像彫刻が残っていたことと時代が個性尊重されていたからでした。私達は俊乗堂に上って重源像に接した事がありました。無着世親像は素晴らしくその精神性の高さを窺がい知るモノですが。重源像には強靱な忍耐力を思わせました。街に出れば頑固な職人や穢い作業も厭わない農夫等に良く見かけそうな老人です。
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左は唐招提寺の鑑真像右は北円堂の無着像 高僧の精神性の高さを窺がわせます。

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此方は俊乗堂に上って重源像です。高僧と云うより全国各地を勧進して浄財を集めた苦労と、寄付した人の願いや面影が現われていると思いました。写真出典は前述芸術新潮

運慶仏がマルクスの言う「上部構造なら」下部構造は武家政権です。勿論古代と同じ米本位制の封建社会で素が商工業者も目立ち始めました。個人の自我意識が目立つようになり仏教も国家仏教(鎮護国家)から部族や個人を守護する宗教に転じました家族の核が夫婦でありますから。仏教も妻帯を首肯し餓えるよりも家族を守る祖先や子孫を大切にするように変わりました。説話や口承文学が盛んになります絵巻物や盆踊りなどの布教ツールも揃って行きました。現代を生きる私達の知る仏教の宗派は大半が揃いました。
考えてみれば私達の文化や習俗マルクスの云う下部構造は運慶の時代に略出来上がっていた事になります。
定朝の時代古代の下部構造は大和朝廷と云う名の王政国家であり「公地公民」であり国民は国王から委託された田圃を耕し租庸調と云う名の税を納め時には国防の為に兵役に徴せられました。そんな時代のパックス帝を文化的に体現していたのは藤原道長であり後白河方向でした。
中世の下部構造は「御恩と奉公」で。略奪から家族や部族を守ってくれるご恩に奉公を以って役立つ契約関係が基礎にありました。個人は夫婦関係が核になり、略奪の危険が在れば家族や村は自力で自己防衛するために武器を持ちました。家族に危険が迫れば鋤を刀や槍に持ち替えて外敵と戦いました。家族や村を守るために「講」とか「結」と云った共同体の紐を堅固にしました。そんな下部構造の頂点は頼朝でした。頼朝を頂点にした下部構造の上に構築された文化が運慶に依る仏像であると思うのです。
頼朝が死ぬと運慶は愕然としたことでしょう。その喪失感を運慶は岡崎の瀧山寺に残しています。
最後に運慶は頼朝の面影を残し冥途を祈って瀧山寺に諸仏を残しました。
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此方は瀧山寺の聖観音像運慶が頼朝の冥福を祈った言い伝えられます。
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此方は瀧山寺の帝釈天像頼朝の面影と云えばこちらかもしれません、写真出典瀧山寺のポストカード

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淡竹の筍

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毎年梅雨前になると東北地方で山菜取りの人が熊に襲われた事件が騒がしくなります。それでなくても年々田舎の山と里との境界が曖昧になって来ていたのですから、今年は熊事件が多発しているようです。相模では狼が「おおかみ」と畏敬されていましたが、蝦夷地では大神に位置していたのが熊でしたから、大神の逆鱗に触れた里人が多発しているようです。
東北・北海道の人が大神のエリアに侵入する目的は根曲り竹の筍をとる為です。この筍が美味しい事は間違いありません。淡白な味で孟宗竹の筍にある”えぐみ”が全くないのです。熊さんも根曲り竹の筍が大好きで竹藪で顔合わせする事になってしまって恐怖で茫然自失した熊さんに引っ掻かれて殺されてしまうのでしょう。
根曲り竹程ではないのですが、少し似た淡白なお味の筍があります。
所謂和竹と呼ばれる淡竹(はちく)の筍です。はちくと云う字が良く解りませんが多分淡竹で良いのだと思います。破竹ですと”破竹の勢い”になってしまいます。八竹ですと竹の節と節の距離が八寸の意味でしょう。茶道具の茶筅や茶杓の素材になっている竹が淡竹です。京都や房総の団扇も淡竹の竹を骨にしています。勿論禅寺の竹箒も大概は淡竹の竹で軸も先も作ります。
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これは光琳の団扇です。京の団扇も房総の団扇も骨は淡竹で作っていました。京都の竹林が孟宗竹である事は残念でなりません消費者が竹と云えば筍で筍の商品価値(質と量が揃わないと商品にならない)悪しき商品主義が跋扈しているからです。私の好きな大分の竹林は未だ淡竹が多いので竹細工が今も盛んです。
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これは別府の竹細工国東半島は淡竹の竹林が多いので竹細工の伝統が今も存続しています私は竹取物語は九州の被差別民に伝わった伝説がルーツと思っています。写真出典別府竹細工組合http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E5%88%A5%E5%BA%9C%E3%81%AE%E7%AB%B9%E7%B4%B0%E5%B7%A5

京都の淡交社はこの淡竹を冠にした出版社だと思います。淡竹のように美しく強靱な出版社であると云った自負が窺がえる良い名前だと思います。
ところで、私の生家では本堂の裏に竹藪が在って淡竹の美しい竹林でした。梅雨の季節になると気が狂ったように淡竹の筍が頭をもたげて来ました。雪が積もれば淡竹竹は地面に伏して雪の重みに耐えます。
私は父に命じられて竹を起しに竹林に入りました。すると竹の陰に小綬鶏の家族が潜んでいたりしたものでした。積もった雪を少し退かせれば後は淡竹が”ああ苦しかった。小坊主のお蔭で助かった”言わんばかりに立ち上がって来るのでした。昨年の夏地蔵盆を観に嵯峨野大覚寺に行きました。竹林は総て孟宗竹でした。光琳や宗達が使った扇子の骨は淡竹でしたでしょうから、光琳宗達更に西行法師が待賢門院璋子の庵を訪れた折に観たであろう竹林は今日とは違った淡竹竹の美林だったろう、と思うのです。
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これは水江 東穹の五合庵の良寛さんの図です。同氏の絵は横浜高島屋や総持寺で良く見かけます。この図では孟宗竹が描かれていますが実際に五合庵に自生しているのは淡竹でした。良寛さんに相応しいのは孟宗竹ではなくて淡竹竹です。

数年前国上山の五合庵を見学した時。良寛さんの故事の筍は淡竹である事を確認しました。床下から頭をもたげた筍が孟宗竹では味が悪いのです。優しい風情で腰の強い淡竹であるからこそ良寛さんは床板を剥がしてあげたのでしょう。私は淡竹の淡白な味が大好きです。梅雨になると鎌倉の野菜市場に行って筍を求めていましたた。
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これは鎌倉の青果市場の売場です。此処に梅雨になると淡竹の筍が並びます。鎌倉には淡竹を育てている農家が沢山あるのです。JAにすれば孟宗竹の筍は商品になる(商品の量と質が揃うので」ところが実際に美味しい淡竹は商品にならないので農家が自己消費するか私の様な好き者がこのんで買い求めるのです。
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鎌倉青果市場で並んだ筍左の一山500円は孟宗竹で梅雨に入って遅れて出てきた孟宗竹です。右のビニール袋に入っているのが淡竹の茹で上げ筍です。350円で三本食べるところは淡竹の方が断然多いし、味も淡竹の方が淡白で美味しいモノですし、鰹節の出汁も良く浸みこみます。賢明な鎌倉夫人は淡竹を選択します。
今年は先日枇杷に惹かれて南房州に行きましたが土産物売り場に淡竹の筍が並んでいました。私は目敏く筍を見つけて買い求めました。生家ではみそ汁の具に使っていましたが。鰹節の出汁で煮ても美味しいのです。あの世の母は”倅は淡竹を食べさせて育てたのに何故性格が捻れてしまったのか?根曲りになってしまった”言って嘆いているかもしれません。私は竹が好きですから庭に竹を植えました今凄い勢いで筍を生やしています。
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我が庭に顔を出した筍落ちているのは青梅です。竹の種類は黒竹とか黄金竹と呼ばれる淡竹と呉竹の中間種で良く見かける竹です。お隣の目隠しに和室の外に植えましたが露地を占領しております。この程度地表に頭を出したらワイフが鎌で首を打擲して回っています。
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コッチは梅の木の樹下に自生している万年青(オモト)です。今年二株に増えたのでワイフは悦んでいます。孫が増えるころには万年青の実が赤くなっていることでしょう。
ワイフは鎌を以って頭を削いで歩いています。まるで安達ヶ原の鬼婆のようです。何故かと云うと筍を放って置くと庭中竹林になってしまって収集できなくなるからです。筍の内に殺処分しておくのが最も合理的なのです。
私はこの竹が淡竹であったなら美味しいのに羨ましげに眺めるだけです。
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此方は南房総の「道の駅」の野菜売り場に並んだ淡竹の筍売場梅雨に入ると並びます。太いのと細いのが並んでいますが。柔らかくて美味しいのは少し太めで先っぽが緑のモノです。筍は一日で1メートルも伸びるので半日採るのが遅くなると硬くなってしまいます
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これが房総から帰った夜の一品です。一般に淡竹の筍は筍を生のまま(糠で茹でる必要はない)鰹節の出汁で煮ます。今晩は私の母の流儀で淡竹筍を生の鰹(なまり節)と一緒に煮て貰いました。ブリ大根のように野菜と蛋白質を同時に食べる合理性が子沢山であった母の生き様でした。この夜は母の流儀で筍を美味しく戴きました。
これ


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燕巣立つ

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深夜ラジオが朝ラジオに代わると今日6月1日は1911年平塚雷鳥が青踏社を創設した日だと案内していました.青踏とは麦踏の事でしょう麦が収穫を迎える季節に平塚雷鳥が「女性解放運動」を始めてアッチコッチから批難や抵抗を受けたことでしょう。その苦難を麦踏に模して青踏の字を被せたのでしょう。史実は平塚雷鳥がイギリスの女性が穿いていた青い靴下のように自由民権に目覚めようと主張したのだそうです。平塚雷鳥が期待したように日本の社会の女性のポジションは高くなったようです。今日から女子高生も夏服です。横浜のセシリア女学院は青い靴下が新鮮で可愛いと話題のようです。http://www.cecilia.ac.jp/environment/uniform.html
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燕は前年使った巣に翌年戻るのかそうではないのか?色々な意見が在るようです。日本人が燕に託した想いは深いモノがあります。写真は戸塚駅東口のパチンコ店の珈琲自販機の屋根の上に巣食った燕です。今年はこの巣は使われていません。多分カラスに襲撃されたためだと推測します。

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今年も燕の巣立ちの季節を迎えました。燕の兄弟は生存競争に打ち勝とうと懸命です。
「今日は何の日」の案内が終わると突然に燕の帰巣本能が紹介されました。
過日野鳥研究家が「燕は毎年前年に作った巣に戻って来るように見えても実は戻って来るのはたった1%で大半は新しい巣をつくる」話したのだそうです。その見解に対して毎年燕を迎えて巣立ちを見送っている方から反論がNHKに寄せられたのだそうです。NHKラジオで口火を切ったのは野鳥の専門家ですから相当の根拠が在ったものと思います。でも燕が好きで見守っている人には毎年姿を見せる燕は同じ夫婦に見えるのでしょう。そう見えるのは自然な心情です。
でも実際は専門家の見解が正しいのでしょう。燕の命は短い事から同じように見えても夫婦がペアで前年の巣に戻る確率は低いのでしょう。人間の想いが込められた事と科学的な真実とは往々にして違うものです。
鮭の子供が生まれた川に遡上するように燕の子孫が翌年以降も同じ巣に戻るのでしょう。燕が好きな人も燕の親子の見分けがつかないだけのような気がします。親子代々同じ巣を使っていると考えた方が愛着も濃くなるものです。
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農家の納屋に巣食った燕
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燕のベビーには巣の外に糞をするマナーが在るようで可愛い黄門を全開で糞出しします。この糞の匂いを伝って青大将が夜に襲うのです。燕は青大将や猛禽や猫に襲われないように人間の近くに巣をつくるのです。農家は燕の巣食う家には福が来ると信じて燕を可愛がります。燕の巣の素材を見れば藁と泥で奈良の塑像『仏像』と同じです。燕の巣を観ていたら中華料理屋さんに行きたくなりました。

我が生家でも経験がありました。庫裏の玄関の梁に燕が巣作りするのでしたが。青大将が襲うのです。そこで祖母は玄関の内側に巣作りさせました。朝戸をあけて燕を見送り夕方燕が戻っていることを確認してから戸を閉めていました。平塚雷鳥は青年画家「奥村博史」と恋に落ちます。青年画家は世間のバッシングに耐えられずに雷鳥に手紙を遺して巣立ちます。手紙には『若い燕は飛び立ちます』書かれていました。私は狩人の「あずさ二号」の歌声を聴くたびに奥村博史を”私は梓2号に乗って旅立ちます”のサビは青年画家が雷鳥の温もりを捨てて独歩する意味なのでしょう。世間はこの手紙に飛びついて「若い燕」は流行語になりました。

もうじき燕は1回目の巣立ちを迎えます。燕の嘴は真黄色で顔中が嘴のように大きく開きます。
親ツバメが自分の嘴の中二餌を入れてくれるようにアッピールするのです。
考えてみれば私のように兄弟が多い事は生まれつき兄弟こそライバルだったのでしょう。口が大きく開いて目立つ黄色い子供ほど育つもので親も可愛いモノだったのでしょう。
さて月が代われば私はデーサービスの献立表に使う絵を差し替える仕事があります。5月は田植えを終えた水鏡に映る鯉幟を描きました。総じて好評でした。そこで気を良くして6月には何を描こうか考えました。先ず思いついたのは麦秋です。風が吹き渡り麦の穂が揺れる景色、青空に雲雀が飛んで子供達が麦藁帽子で遊んでいる景色を考えました。場所は下野薬師寺辺りです。麦畑の向こうにマロニエ(栃)やアカシアの花が咲いています。でも止めにして燕の巣立ちにしました、場所のイメージは相模の大山の麓の秦野「日向薬師」の辺りです。農家の梁から巣立った燕の兄弟は眼の先のモノ干し棹に止まりました。坊やの洗濯物には遠慮して棹にチョコンと止まって両親に声を掛けます。”僕はお家を出て物干しに居るからお昼は此処で食べるよ・・・・」お父さんも燕もお母さん燕も張り切って飛び回ります。田圃に紫陽花の花陰に青虫が隠れている筈です。たらふく子供達に青虫を食べさせたいと滑空します。燕が低く飛ぶ時はお天気が崩れると言います。昆虫は濡れるのが嫌なので葉陰などに隠れているからです。隠れた虫を捕まえる為に燕は地表スレスレに飛ぶのです。
案の定雨が降って来ました。雨は田圃に水紋を描きます。屋根瓦を濡らしています。紫陽花の花陰からカタツムリが這い出しました。青蛙も賑やかに啼き出しました。でも子供達は遊んでいたくてお家には帰りません。
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先ず燕の兄弟を描きました
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最後に雨を降らせました。「水無月とは名ばかりの雨また雨」「燕の子睦まじて物干しを独占(占め)たり」と句を添えてみました。


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翔子さんの親離れ

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昨日は燕の巣立ちを書きました。テレビでは放鳥された朱鷺が野生で卵を抱いて幼鳥が巣立った放映していました。一方岡山ではコウノトリの巣立ちのニュースも聞かれました。朱鷺は土壌や蛙を食べて育つのでしょうから、自然が回復してきた証拠でしょう。驚いたのはコウノトリで大きな青大将を餌にしようと突っ突いているのです。1メートルもある青大将をどうやって食いちぎって子供にあげるのか興味津々だったのですが。青大将の逆襲に驚いて放棄してしまいました。大鷹のように食いちぎるには爪と嘴を連携して動かすスキルが必要でしょう。
親鳥から見れば子供の巣立ちですが、子供にとっては親離れです巣立ちは子供から見れば『希望』であるものの、親鳥から見れば『別離』であり悲しさと悦びが入り混じったモノでしょう。
自然はそのままで人間に無尽の知恵を教えてくれるようです。
私でさえテレビに映った朱鷺やコウノトリに感動して”おめでとうお母さん””子供達よ!ボン・ボヤージュ”呟いてしまうのですから天災に泣いた方々はいかばかりか激励を受ける事でしょう。
『自然は素晴らしい』言い尽くされた陳腐な言葉ですが。毎日慎ましやかに暮らしていると足元に自然が在った”気付くものです『雨蛙の啼き声に眼が醒めた』『足元を見たら蟻が行列していた』言い換えるだけで俳句になりそうな気がします。度熊谷守一さんの絵は小さな生物を描きながら大自然を描かれたもので俳句みたいなものだ思えてきます。
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熊谷守一画伯の蟻、庭先にパン屑を播いて寄ってくる蟻を描いたものでしょう。一日中画伯は庭先で蟻を観察しておいでだったそうです。小さな蟻を見ながら大自然を見詰めておいでだったのでしょう。この図は熊谷守一美術館(池袋)の外壁(コンクリートの打放し)に使われています。
5月の初めに今年も建長寺に牡丹を観に出かけました。
今年は桜も早かったし春牡丹も早くから咲き出してゴールデンウィーク後半では既に盛りは過ぎてしまっていました。日本一の牡丹は奈良の長谷寺でしょう、長谷寺の牡丹は十二単の華やかさを思わせます。近年整備してきている建長寺の牡丹は長谷寺に較べれば千年も若造ですが。お坊さんの丹精の成果で見事に咲いています。屹度牡丹を育てる事と修行を積むことは同じような事なのでしょう。長谷寺の牡丹は石積みの見事さと長い回廊の美しさが牡丹の美しさを引き立てているのでしょう。一方建長寺の牡丹にも長谷寺にも劣らない歴史があります。樹齢千年を超す柏槇が牡丹のバックに育っているのです。千年の歳月を生きた老樹が牡丹の若木の花を引き立てているのです。千年の生き様の見事さも若木の美しさも相互に引き立て合っているのでしょう。その理をまざまざと教えてくれる建長寺の境内です。

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建長寺に今年も咲いた牡丹背景の柏槇は蘭渓道隆お手植えの天然記念物の老樹で相互に美しさを引き立てているようです。
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摘み取られた花でも流石に牡丹です王者の風格と芳香が漂っています。お地蔵さんに被せてあげました。
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金沢翔子さんの書品展のポスター「毛筆 太筆」を抱えて大書する姿は男勝りに見えますし書も漢字ばかりのお経や漢詩です。これからは大和言葉を仮名入りで書いて行かれる様です。今後は強さと優しさを表現されることでしょう。ファンとしては楽しみです。
金沢翔子さんの書展に行きました。会場は建長寺方丈に隣接する応真閣と云う名の檀信徒会館の二階大広間です。先ずお坊さんの先導で般若心経を唱和します。次いで建長寺さんのご挨拶があって翔子さんが笑顔で挨拶されまあした。お母様が『今年で翔子も30歳になりましたのでこれからは独り立ちする事にして別居しました・・・」娘に劣らない満面の笑顔でのご挨拶でした。”そうか翔子は30歳で親元から飛翔するのか!”思いながら親子のお顔を見詰めました。
翔子さんは生まれながらのダウン症でした。お母様は「この子と一緒に死のう」と思われたそうです。
でも思い直して共に生き抜く道を選びました。娘を観察する中で書を奨められました。翔子さんの書は男勝りと云うか勇壮な漢字が多いのです。私の推測では翔子さんの性格では雄大な書で漢字が似合うと思われたのでしょう。ですからお母様がお経や漢詩を選んで翔子さんが書にしたためて作品になったと思います。
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左は「不死鳥」と大書されました「美しき心を」もって不死鳥の如く飛翔する親子の想いを観る書でした。
書は漢字に始まるのでしょうが日本の書は漢字交じりの大和言葉で在るべきと思います。何しろ漢字ばかりだと読み難いし何と書いてあるのか解らない限り書は解らないと思うからです。
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今回の書で一番心に残った書はこの「言霊/ことたま」でした。言霊とは言葉に宿ると信じられた霊的な力のことです。心を込めた言葉が人と人とを繋ぎます。日本人は大和言葉の優しさで伝える言葉が自分自身を救い、家族や隣人とを繋いで逞しく強く生きる事を教えてくれます。30歳になって独り立ちする翔子さんは天性の優しさを大切にして大恩を受けたお母様の胸から飛び立つのでしょう。言霊を書で表現できる類まれなスキルを以って
翔子さんの書の良さが今回ほど理解できた事はありませんでした。お母様おめでとうございましたこれから寂しく思われる事もおありでしょうが・・・・。適当な距離を以って娘を見守って言霊を書ける書家に鍛えて下さい。





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特別公開始まる(縁切り寺の岩からみ)

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6月2日は横浜市の開港記念日です。横浜の臨港部でパレードが挙行され夜には盛大に花火が催されます。朝同居している次男が”今晩は家で食べない”言って出かけました。”デートかな!”少し動揺してしまいます。それで今日は通常なら馬車道に出かけて竜舞や獅子舞を見物するのですが。縁切り寺の岩カラミの特別公開が始まったので北鎌倉の松ヶ丘に出かけました。特別公開の日程は次の通りです。
6月1日(水)~6月12日(日)平日(2回)11:00~12:00  13:00~14:00土・日曜日(1回) 9:00~10:00
そんなわけで平日の11時の公開に併せて出かけたのでした。
朝10時北鎌倉駅は大混雑です。
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北鎌倉山内の東慶寺この観音石仏の裏に松ヶ丘文庫のある小山があります。その岩場に今日の話題岩カラミが自生しているのです。観音様の前には紫陽花、背には山法師の花が咲いて石仏を荘厳しているようです。
縁切り寺は中学高校の友人の生家でありますからその昔も良く承知しています。昔は我が生家と変わらない寂しいお寺でした。強いて違いを上げれば私の生家は巨木の梅の木柿の木が茂っているのに対し駆け込み寺は貧疎な老梅が列を為して並んでいました。唯盛徳寺(我が生家)は同じ禅寺でも曹洞禅ですから鄙の匂いが強く匂い、駆け込み寺は臨済ぜんですから知的雰囲気の濃い歴史の重みを感じさせていました。当時は本堂の裏に巨大な岩カラミが自生している等全く知りませんでした。
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東慶寺の本堂この本堂の裏が松が丘文庫でその大岩に岩カラミがじせいしているのです。6月2日11時の公開には長い列が出来て開門を待っていました。写真のように境内に並んだ行列は本堂の濡れ縁に設えられた縁側を回って本堂の裏に向かいます。
明治時代初頭の廃仏毀釈に苦しんだ駆け込み寺でしたから本堂も売却(現在は三溪園内にあります)し、爪の先に灯を灯す姿勢で本堂を再建したのでしょう。大貧乏した井上禅定和尚は檀信徒をリードして本堂を再建し、境内の美化に心がけ、様々な教化活動や文化事業に専心された結果今日の様な東慶寺の高い評価を勝ち得たのでありましょう。向かいの谷戸の明月院が紫陽花寺として人気が上がるのに対し。駆け込み寺は早春の梅や水仙では先行しても梅雨に入れば人波は明月院に向けて流れてしまいます。40年ほど前にお檀家の方が本堂裏の一枚の大岩を見られて”この大岩は岩カラミに最適です”言われて岩の下に一本の岩カラミを植えられたそうです。元々駆け込み寺のお檀家はインテリが多いのですから。植物に詳しい方もおられたのでしょう。
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これが東慶寺の岩カラミの花、一見したところは葛の蔦に鍔紫陽花が咲いた様な印象です。これは岩カラミの蔦の中央部分で根元部分は未だ5分咲きで先端部分は散ろうとしていました。例年より早く咲き出したお寺では云っておいででしたので6月12日までは持たないかも知れません。
神奈川県の岩カラミと云えば箱根の強羅公園にある白雲洞/益田鈍翁の茶室)が有名です。白雲洞自体が大岩に依りかかるように建っていますが其処に岩カラミがビッシリと這って花を咲かせます。近代の数寄茶の旗手がその美的センスで岩カラミを植えたのでしたから誰もが”流石”と頷く岩カラミと大岩と茶室との組み合わせです。
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本堂の濡れ縁が回廊式に設えてありますのでこれを巡って一周すれば岩カラミの全体を観察できます。手前左に根っこが生えていて右に向けて蔓の幹が伸びています。その姿は山藤か葛のようです。そして花は鍔紫陽花です。
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東慶寺の本堂のご本尊は阿弥陀様です須弥壇の後ろは壁で遮られていますが若しも透明なら岩カラミが阿弥陀様を荘厳して居る事になります。正面の阿弥陀様の左の曲碌に坐っておられる方が開山の覚山尼でしょう。仏様や開山様の後ろに花をイメージしてみました。

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鈍翁が建てた強羅公園にある近代茶室の白雲洞巨大な岩が軒先にあその大岩に岩カラミが這っています。。下の段の茶室との間にある大蛇の様な蔦が岩カラミの幹です。このお茶室は面白くて北(明神ヶ岳の方角)に下って行くと温泉の湯船が設えられています。
客人は白雲洞に上ったら温泉で汗を流してからお茶室にあがり接待を受ける仕組みなのでしょう。”ああいい風呂だった”といいながら茶室の縁側に出ると目の前に岩カラミの花が白い雲のように咲いているのを見上げたのでしょう。今も着物を召されたご婦人がお点前して下さいます。(御抹茶500円干菓子付)

益田鈍翁は三井財閥の番頭で、三井物産の実質創業者で居られました。
『人の三井組織の三菱』の評は総じて三井Gの誉め言葉ですが、益田鈍翁が良き伝統の始まりと云えましょう。鈍翁さんがスイスを見聞され始めたのが箱根登山鉄道であり強羅のリゾート開発でした。強羅を開発して白雲洞を建ててその庭に岩カラミを植えられたのでした。箱根登山鉄道の保線区職員は昭和48年線路沿線に紫陽花を植え始めました。
保線区職員にすれば紫陽花を植える事で雑草を排除出来るし綺麗でお客さんに喜ばれる一石二鳥の効果が期待されたのでしょう。こうしたアイディアも鈍翁さんの岩カラミを観た事から出た自然な発想だったのでしょう。箱根登山鉄道は我国最初のDIY店ビーバートザン(登山)を始めます。人の三井が登山鉄道にも生きているのです。
去年は6月に強羅から仙石原に遊びました。6月後半にでも紫陽花を観に登山鉄道に乗りに行きましょう。
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これは昨年の箱根登山鉄道の紫陽花次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47381518.html



岩カラミを観て帰宅しました。庭にはワイフが挿し木した鍔紫陽花が夏の日差しを浴びていました。
先日お隣の御主人が庭木を剪定されて早咲きの鍔紫陽花の小枝が切り捨てられたのでした。ワイフがこれを戴き発根処理をした上でプランターに挿し木したのです。鍔紫陽花はワイフからもらった生きるチャンスを活かそうと必死のようです。期待通り根を出したら地面に下ろしてあげて我が庭にも鍔紫陽花が自生する事になるでしょう。
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これは我が庭でワイフが挿し木で活かそうとしている鍔紫陽花の花です。
私が入院した折には友人などから菊や沈丁花を戴きました。私は顔を横にして花瓶の花を観ていまあした。ある時花瓶の中で発根し始めた事に気付きました。そこでワイフに頼んで植木鉢に植えて貰いました。幸い今年も背丈を伸ばして花をつける準備をしています。
友人にも激励されましたがお見舞いの植物にもお手本を見せられた想いがしたのでした。
ワイフはあの時の体験を良しとしてお隣の鍔紫陽花を咲かせるようトライしているようです。

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岩タバコの楽園を支える愛情

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昨日は東慶寺駆け込み寺に今年も見事に咲き始めた岩カラミの花を報告しました。この季節鎌倉の岩場には岩タバコの花が咲きます東慶寺の山野草は実に綺麗で厭きる事はありません。建長寺の牡丹も文学館のバラも良いのですが櫓に五輪塔が祀られていて、石仏があってその周囲に雪の下や蛍袋やドクダミが咲いていると人間が細工した花よりも山野草の方が数段美しいと思うものです。
岩カラミに誘われて東慶寺に登ったのですが岩カラミの公開までの1時間先ずは開山の覚山尼さんのお墓参りをしました。本堂の前を通って墓地の入り口にも大きな岩場があります。多くの禅寺では六地蔵がおられる位置です。小さなおこけしのように可愛く美しいお地蔵様が祀られています。お地蔵さんの背中は大岩ですがその大岩の表面に一面岩タバコが自生しているのです。
大岩自体の地質が砂岩で保湿性が高いので苔むしています。その苔に根を張って岩タバコが生きているのです。この大岩に生きられるのは先ず第一に苔(銭苔山苔)で次いで可能なのが岩タバコなのでしょう。でもススキやタンポポなどは種に綿毛が付いていて飛んできます。この大岩を岩タバコの楽園に保存するには岩タバコへの無尽な愛情が必要なのです。お檀家や職人さんがピンセットを手にして大岩の表面に生えた岩タバコ以外の雑草を抜いているのです。お百姓が稲を収穫するのに田の草取りに精出すように岩タバコの美しい楽園を観る為には大変な労力を要しているのです。
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これは東慶寺墓地の入り口に祀られたこけしの様なお地蔵様大岩の凹みにポツンとおいでです。大岩に自生している岩タバコが美しくお地蔵様を荘厳(飾って)しています。
東慶寺さんの墓地には岩タバコが何処にでも自生しています。一番に勢いのよいのが。歴代住職の墓地です。特に開山の覚山尼さんの墓地は見事です。
覚山尼さんのお墓は大岩を刳り貫いたカマクラ(櫓)で古風な五輪塔が墓標です。
岩屋の入り口に梁にも岩タバコが自生していてまるで櫓を飾るアーチのようです。
艶やかな深緑の葉っぱに金平糖の様な星形の花が垂れ下がっています。覚山尼と云えば第8代執権・北条時宗 の正室で9代執権北条貞時の母です。貞時の承認を得て松ヶ丘に東慶寺を建立し、夫の暴力などに苦しむ女性を救済する政策を行なったと言われ、これが東慶寺が縁切り寺になった事由と言い伝えられています。そんな訳で男性にとっては煙たい良妻賢母の鏡です。天照大神の妹月夜見を思わす人です。金平糖のような岩タバコの花はお似合いです。
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これは東慶寺歴代住職墓地にある大岩を埋め尽くす岩タバコの群生です。
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これが東慶寺歴代住職の墓標です。右の比較的新しい卵塔が先年亡くなられて現在の美しい東慶寺を築かれた井禅定師のお墓で正面が佐藤禅忠師の墓
先年学生時代の友人Y君が夭逝されました。
在る秋の日の午後です。当時はベトナム反戦運動が盛んで授業は突然に休講になってしまいました。
日本文化研究会の部室に集まったメンバーにY君も居ました。
”午後は如何する?”誰からともなく聞かれます。
こんな時私はメンバーを募って麻雀荘に行ったものでしたが。この日はY君は私には冷ややかで”東慶寺に水月観音様を拝観に行こう!”提案しました。屹度好きなタイプの女性の期待に応じたのでしょう。
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 東慶寺の水月観音写真の出典(鎌倉みほとけ巡礼(大日本絵画)をスキャン
女性達も水月観音は大好きで部室の書庫には東慶寺の仏様綴った写真本も置かれていました。
そんな次第で大挙して日吉から北鎌倉に出かけました。東慶寺の櫓を覆っていた岩タバコは既に枯れて茶色の葉をだらしなく岩の上から垂らしていました。

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此方が開山の覚山尼さんのお墓です。鎌倉石の岩屋を鑿で彫り貫いた櫓(カマクラ)と凛とした五輪塔そして岩屋を覆った岩タバコの花が調和した美しいお墓です。
Y君は岩タバコの枯葉をとって丸めて”これは煙草だから美味いんだよ”言いながらライターで火をつけました。ところがY君は蒸せって直ぐに捨ててしまいました「どんな味だった?」
訊けば”藁を吸って居るような味気なさで唯煙たいだけだ!」云っていました。
それはその筈岩タバコが本当に煙草の味がしたら大変で『東慶寺の岩タバコ』が名物になって女性からの縁切りプレゼントになっていたかもしれません。
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岩タバコの名前はこの艶やかで大きな葉っぱに依っています。星形の花が美しく可愛いいのです。
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阿弥陀様の背も大きな岩屋で岩タバコが群生しています。仏像の光としても供花としても岩タバコは似合いすぎています。
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 仏像を飾ろう(荘厳しよう)として後背が付けられます。此方は法華寺の十一面観音で蓮のウテナに立たれた観音様の背後を蓮の花や葉が飾っています。同様な意匠は長岳寺の阿弥陀三尊の光背を宝相華模様で飾っているのに観たりできます。でも彫刻より生の花の方が良いと思うのです。







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美しい二十三夜様(月待ち講1)

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二日続けて東慶寺の岩カラミ、岩タバコの花を紹介しました。今日は東慶寺の魅力の一つ石仏それも入口に祀られた二十三夜様を紹介します。
昨晩日本文化研究会のセミナーで親友のI君が江戸の暦を報告されました。
私は何れ「月待ち講」をレポートしようと思っていました。
「月待ち講」は民衆の視点から日本文化を考えるには最良の視点だと思っているのです。
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東慶寺の門を潜って本堂と庫裏に行く分岐点の角に二十三夜塔が祀られています。石仏の背後にには紫陽花が先周囲の萩も秋を控えて育っています。
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二十三夜様勢至菩薩のアップです。私はこの石仏を観る度にかぐや姫を想い出します。竹取物語はかぐや姫が月に上る場面で終わりますが。月に上るとは死ぬこと(月山がそうであるように)そしてかぐや姫の魂は人間界を去って天上界を往復する(輪廻する)と説明しているのだと思います。二十三夜講に集まった信者は自らをかぐや姫に移してまた一月お月様が見守って下さる地上で悲しみに耐えて生き抜いたのだと思います。

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此方の二十三夜塔は群馬県倉渕村のモノです。お顔も可愛いし合掌した両手も少女のようです。後背の葉っぱは山吹のようにも竜胆のようにも見えます。

梅雨入りの季節この旧尼寺に上る楽しみの一つに二十三夜様を観る楽しみがあります。祀られている場所は石段を登りきって真っ直ぐ行けば本堂で右に折れれば庫裏その別れ道の角に立っておいでです。二十三夜様とは月待ち講の二十三日に行われる信者の集いです。此処は尼寺でしたから二十三夜には尼さんや山之内の信者 ご婦人)が「月の出」と共にこの二十三夜様の前に集まって本堂に上るのでしょう。この日の主尊は勢至菩薩です。勢至菩薩にお祈りして、それから庵主様を囲んで世間話やら人生相談をして。お月様が一番に花街焼いた時刻に解散したのでしょう。封建時代に生きた女だけの集まりが「女講」で男の集い「庚申講」に較べれば酒は出ないし女の愚痴や心配事悲しい身の上話が多かった事でしょう。そんな話をし終えて胸に詰まっていたものを吐き出したら解散です。丁度お月様もその晩一番に輝きを増したようです。お月様にお別れします次回の二十三夜講は来月の同じ下弦を過ぎた三日月の晩で集合時刻も集合場所も決まっています。時刻や場所を間違える心配は全くありません。
お月様と云えば先ず満月(望月)が一番でしょう。満月の晩の月待ち講は主尊が阿弥陀様ですから、本堂の須弥壇上にも境内にも墓地にも数体祀られています。
満月講が終われば翌日は十六夜(いざよい)講です更に翌日が十七夜(立待ち月)その翌日が十八夜(居待月)十夜(寝待夜)で何れも如意輪観音が主尊です。月待ち講の過半が観音様が主尊です、女性が観音様を拝むのは女性固有の心情をお月様が良く聞き届けてくれるからかも知れません。
それにしても東慶寺の二十三夜様は美しいお姿です。二十三夜様の名は二十三夜講の主尊であるという意味で正しくは勢至菩薩です。阿弥陀如来の左の脇侍です。右側には菩薩様の大スター観音菩薩ですから少しばかり影の薄い菩薩様です。二十三夜様が終われば次の月待ち講は二十六夜講(主尊は愛染明王)まで暫くありません。お月様は28日でひと回りですからまた新月から満月に向かいます。
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月の満ち欠けの仕組み。月待ち講は満月以降に集中しています。満月が次第に欠けて三日月に変わる過程の方に女性は共感したのかもしれません。今日の話題23夜様は上図の左半分の見える下弦の月(弓張月)になります。

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これは月齢カレンダーです。これは見慣れた七曜表仕立てに改めてありますが太陰暦仕立てなら毎月左上の角が1日(朔日)になり次第に満月(15日)に向かいますそして28日に新月になってお終いになります。画像の出典はhttp://star.gs/cgi-bin/getucal1.cgiで同様のサービスは幾つもあります月齢カレンダーで検索してみてください。
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これは昨年筆者が使用した手作りの陰暦カレンダーです。
ところで主尊の勢至菩薩です。阿弥陀三尊は阿弥陀如来を中尊にしてその左右を固める脇侍であります右手の
観音菩薩は死者の霊を乗せる蓮台を持ち死者の喉の渇きを潤す水瓶もお持ちです、一方勢至菩薩は持物は無く唯一合掌しておいでです。阿弥陀三尊全体で見れば死者の魂を天上に迎えて魂の再生を祈る、輪廻を前提とした役割分担を説いていると考えます。私の敬愛する一遍上人流にすれば他力に委ね阿弥陀様に帰依する事によって自分の魂は永遠の安楽を得ると云えましょう。
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これは大原三千院往生極楽院の阿弥陀三尊です。阿弥陀如来に帰依し他力に徹すれば観音菩薩の持った蓮台に魂が乗って天上世界に上り勢至菩薩の祈りに依って再生できます。と説明していると思うのです。

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本当は農業指導員になりたかった。

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今年の春は福島の三春に有名な滝桜を観に出かけました。ところが桜は既に散っていましたので。桜を探して阿武隈山地の奥へ奥へと入って行きました一番山奥の馬酔木沢では苗代桜を観てその手前では田植え桜を観る事になりました。
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これは三春町の中心部から阿武隈高原に分け入った馬酔木沢にあった苗代桜。田圃は総て電気柵で囲われていました。向こうのお堂の周囲に咲いているのが苗代桜でこの桜が咲いたら籾種を苗代に撒いて苗作りに着手するのだそうです。
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これは小沢の桜と呼ばれている田植え桜です。この花が咲く頃に田植えをしなさいと教える暦の役をしています。
どちらも米作の暦(日ヨミ)になる桜でありました。小学校の時の教科書に雪形が出ていました。”安曇野では北アルプスの山容に白馬の雪形が現われたら田植えをするのです”教わったのでした。
ところで昨晩夢を観ました。私は沢山の農民に囲まれて責任を追及されているのです。まるで升添都知事のようです。何をしたのかと云うと私は農業指導員で、どうも苗の発根剤を苗代に投入させたのでその責任を追及されているのでした。弁償するにしても私には何も資力はありません。進退詰まった場面で眼が醒めました。」
その年は苗代作りが遅れて種籾を播くのが遅れたので私はその遅れを取り戻すために成長ホルモンを苗代に流し込んで稲の成長を促進させたのでした。その失敗糊塗策が収穫後のお米の調査(放射能)によって白日に晒されて、お米が売れなくなってしまったのです。
『ホルモン剤や薬剤を田圃に投入するのはインチキで桜や雪形など自然の暦に従って米を作るのが最適である』そんなことを痛感させる夢でした。
何故こんな夢を観たのだろうか?想い起しました。そうしたら成長促進剤はワイフがお隣から戴いた鍔紫陽花を挿し木するというので大昔に買い置いたホルモン剤を切り口に充分に塗布させたのいでした。
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お隣が伐採した鍔紫陽花に発根促進剤を塗布して挿し木したのでした。
もう一つは北海道の駒ケ岳の麓で行方不明だった7歳の坊やが無事に見つかったニュースを聞きました。坊やが置き去りにされた直後に北海道は雪が降りました。東京では夏日だというのに北海道は雪が降るのです。坊やはこの寒さに耐えられただろうか日本中の大人は顔を曇らせたのでしょうその時私は宮沢賢治を想い出して眠ったのでした。賢治は宮城県の農業指導員でした。
有名な”雨にも負けず風にも負けず”誰が何をした”説明されていませんこれを補うと”寡黙な農夫は雨にも負けずに米造りに勤しむ”風にも負けずに田圃で働く・・・・・”となっていたと思うのです。もう一つこれも著名な『風の又三郎』の冒頭です。は窮地に在ったのです。『どっどど どどうど どどうど どどう青いくるみも吹きとばせ すっぱいかりんも吹きとばせどっどど どどうど どどうど どどう.』です。学校の硝子窓を震わせて”どっどど どどうど どどうど どどう”冷たい風が吹いてきたのでしょう。東北地方では梅雨明けの頃『やませ』と呼ばれる強い風が吹き下すのです。やませが吹けば東北地方では必ず冷害になります。菅江 真澄(すがえ ますみ)は天保の大飢饉の惨状を人肉も喰らうと日記に留めました。宮沢賢治は農民を見守りながら雨にも風にも負けない生きざまを詩に童話に留めたのでしょう。
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これは我国民俗学の嚆矢と呼ばれる菅江真澄の肖像画です(秋田県立博物館)私達は天保の飢饉の惨状を表現した日記『人々は餓えに瀕して家畜を食らい人肉を食らった』によって記憶していますが。短歌sに”春雨にふる枝の梅のした滴 香ぐは浸み草や萌由良無”と添えてあります絵も歌も自筆だそうで大変な文人だったのでしょう。歌の大意は春雨が梅の花咲く下枝を伝って地面に落ちて来ている。屹度梅の香りも滴に浸みこんでいて草も萌え出す事だろう…。と云った意味ですが。滴が藩主(佐竹藩)の慈愛で、草は農民と思えば良く出来た歌だと思います。写真出典/なぜ和歌を詠むのか(錦仁著)笠間書院。
来週は小学校の時の同窓会があります。先生も不自由なお身体を鞭打ってご出席くださると聞いています。
先生に”有難うございました”言えるチャンスも残り少ないと思うので久々に出席する事に致しました。小学校時代を回想しながら寝に着けばもっと良い夢見が出来るのかもしれません。今晩は初恋のシーンでも夢見したいものです。窮地に陥ってホルモン剤を田圃に流すなど有機栽培米にあり得ない事です。日本人は嘘つきを嫌悪してきました。政治家は言うに及ばず、自動車でもマスコミでも家庭でも学校でも噓が多すぎます。日本製品や社会のクオリティーの高さは正直に在ったのです。自然(神)も正直モノが大好きなようです。私は銀行員でしたが、本当は農業指導員になりたかった想う昨今です。

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九品仏浄真寺の教える事

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昨日は明け方に見た夢の話を書きました。
私は”もう一度生まれ変われるなら職業は農業をしたかった、宮沢賢治のように・・・・”思っているので、農業指導員になった夢を観たのでしょう。有機農法の筈が成長促進剤を苗代に撒いてその責任を追及される夢を観たのは、銀行員でも農業でも職業倫理が大切と云う事でしょう。
私の夢は『もう一度人生が在ったならば…想うパターン』で、近松門左衛門の人情モノには”「曽根崎心中」にも「心中天網島も」同じです。『この世では自分達の想いは遂げられなかった、そこで二人同時にあの世に逝ってて再びこの世に戻って結婚しよう』、と思ったのでした。来世を想うのも輪廻観ですし、前世を想うのも輪廻観です。来世を観るか前世を観るか方角が違うだけです。夢見が来世に向かうのは未来を観ているからで、前世に向かうのは過去に拘っているからでしょう。
そう思うと北鎌倉の浄智寺に釈迦阿弥陀弥勒の三仏が並んでいるのも理解できます。
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北鎌倉浄智寺の「曇華殿」の三仏。左から薬師如来『過去仏』、釈迦如来(現在仏)、弥勒如来(未来仏)が並んでます。人は夢を観て”なぜこんな夢を観たのかしら”思うと自分の過去・未来に向けて考えたのでしょう。
 
私の父方のルーツは世田谷の実相院で母方は狛江の泉龍寺です二人の縁を介したのは豪徳寺でした。
豪徳寺は関東公方の名門吉良家の世田谷城の跡に建っている古刹です実相院はその吉良氏朝夫婦の隠居地で吉良家の菩提寺でした。http://www.tesshow.jp/setagaya/temple_tsurumaki_jisso.html
そんな訳ですから九品仏浄真寺さんの説話は良く聞かされて育ちました。
浄真寺の境内は元々は吉良家の奥沢城でありました。ところが秀吉の小田原征伐(1675年)の後廃城になり当地のの名主七左衛門が寺地として貰い受け珂碩(かせき)が同地に浄真寺を開山しようとしました。
珂碩は僧であり同時に実力のある仏師であって諸国を造仏して回っていたのでした。延宝6年(1678)に武蔵国
奥沢村に遣って来ていたのでした。その時にも多摩川は氾濫して人々は困っていたのでした。
奥沢で名主七左衛門宅に逗留して浄真寺の建立に尽力します。
珂碩上人像は次の映像で説明されています。http://www.kagakueizo.org/movie/education/539/
お寺の中央は本堂です。本堂には現在仏釈迦如来を安置する事にしました。
次に本堂に向き合う形に二河白道の位置に阿弥陀様を祀る事にしました。江戸の万民の平安を祈る為には
阿弥陀様は一体では済みません。将軍も名主も水飲み百姓も多摩川べりの貧民も皆が平安に生活出来る様に九種の阿弥陀様を安置できるお堂(三仏堂)を建てそれぞれに阿弥陀様を3体づつお祀りしたのです。
お堂も完成しました九体の阿弥陀如来も出来上がりました。でも最後の作業が終えなかったのでした。
それは阿弥陀様のお身体が素地の木肌だったのでした。儀軌では阿弥陀様のお身体は金色に輝いて居る事になっています。名主七左衛門の資力では此処までが精一杯で珂碩は浄真寺の一〇体の仏が金色に輝く姿を観ずに亡くなってしまいます。
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此方が九品仏浄真寺さんの御本尊本堂の釈迦如来像
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これは本堂の向かいに三棟並んだ三仏堂のうち一番北の上品堂、此処にも上品上生の阿弥陀様から上品中生上品下生の三体の阿弥陀様が並んでおいでです。
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これは浄瑠璃寺の9体の阿弥陀像此方は半丈六ですが国宝です。何しろ古代仏ですから一方浄真寺さんのそれは丈六で弩迫力なのですが江戸時代ですから文化財の指定はありません。古代は評価が高く近世はハナから低い扱いなのです。


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本堂と三仏堂(阿弥陀堂)の間は緑地で桜が咲いています。境内全体はまるで二河白道図です。今年の春の浄真寺は次に書きました。


九品仏は私のルーツでもあり、ワイフが女学生時代を過ごした街でもあるので良く出かけます今年もお花見に
出かけました。珂碩の阿弥陀様は解体修理中でした。解体修理と云っても丈六仏九体の解体修理ですから
大事業日程も費用も巨額でしょう。屹度事業が完了すれば重要文化財に指定されることでしょう。
総じて江戸時代の仏像は評価が低くて残念です。円空も木喰もファンは多いし、日本人のメンタルに
強い影響を与えています九品仏が重要文化財に指定されて江戸時代の民俗文化財が見直されることを
期待したいものです。

珂磧上人は息を引き取るに際して強い想いを遺した事でしょう。そんな人物の面影は賓頭盧尊者(びんつる様)
を想わすお姿に良く表現されています。前述フェースブック。

 この珂磧上人の因果が会津に起ります。会津松平家の奥方に男子が産まれましたがその乳児が 
両手を硬く握りしめたまま泣いてばかりでした。お乳を飲みません、。そこで占い師に看て貰います。
占い師は次のように述べます。

「屋敷中の人にこの乳児を抱かせると泣き止むであろう」、
そこで屋敷中の人々に次々と抱かせてあやしてみたが、泣き止む気配は全くありませんでした。
最後に残った粥炊きの老人に抱かせてみると、やっと泣き止んで、握っていた掌を開きました。
何とその掌にはなんと「珂磧」と書かれた紙が入っていたと言うのです。
 因みに、この老人は元は珂磧和尚に仕えていたでしたが
和尚が臨終の間際に「仏の造立を果たさずに死ぬのは無念だ。
もう一度生まれて事業を完成してから極楽浄土を願うことにする。
転生看取ったのがその飯炊き老人だったのでした。
私の再生の際はきっとお前に会えるだろう」といい残して死んだ当の相手だったのでした。

浄真寺の境内に入ると石畳の道の右側に閻魔堂があります。閻魔堂には大きな閻魔様と奪衣婆さんが祀られています。閻魔様と奪衣婆さんはあの世で魂の再生を司る神仏です。浄真寺の入り口自由が丘の町の方角にお二人が並んで祀られています。
浄真寺さんは目黒通りの近くにあります。西側には駒沢通りがあります。駒沢通りには祐天寺があります。
祐天寺は怪談累ヶ淵(かさねがふち)で有名なお寺です。
祐天上人は寛永14年(1637年)福島県いわき市四倉町上仁井田で生まれました四倉は4月に親友と旅行しました。そして昨年洪水に見舞われた那珂川の水街道で治水工事に腐心されます。
その渕に伝えられていた伝説を鶴屋南北が怪談に仕立てたのが眞景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)でした。
本当は此処で怪談のストーリーを紹介したいのですが以前祐天寺の記事で書いた記憶もあるし此処で書き出すとブログではなくなってしまうのでカットします。
大凡のストーリーは女好きの百姓が嫁を殺して若い後家を娶ると、生まれる子供の掌に痣があって『』の字に判読されたのでした。それは殺された嫁の怨みが累々と引き継がれていたからでした。祐天上人は怨みを現世に残して死んだ女に『怨むよりは未来の衆生済度』に努めよと諭します。その結果女の魂は救われ幽霊も出なくなったのでした。”過去を観るな未来を観ろ”と云うのは日中日韓関係だけでは無く稲作民族の知恵だったのかもしれません。
何か4月に福島を旅して以来何時も稲作の視点で考えるようになってしまった、ワンパターンに嵌ってしまったようです。
祐天寺は永らく工事中でした。累塚の入ったお堂の壁に巨大な絵が懸っていたのですが、ずっと観られませんでした。ソロソロ工事も終えた頃でしょうからもう一度観に行きたいと思ってブログを観ていたら出ていました。次のブログが良く撮れています。http://blog.livedoor.jp/fank10jasu/archives/26078924.html
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これは浄真寺さんの奪衣婆像ですこの像が自由が丘寄りに祀られているのは、珂磧上人の生まれ変りにも奪衣婆さんが役だっての意味なのでしょう。
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これは豊国画の眞景累ヶ淵の浮世絵風ポスター祐天上人役を市川団十郎お菊役を松本栄三郎が演じています。

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如意輪観音の憂愁(月待講2)

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私は学生時代から略半世紀全国の石仏を行脚してきました。
石仏の祀られている位置は地形を見れば大凡見当がつきます。箱根でも信州の峠でも、真っ直ぐな道の脇には祀られていません曲がり角の先や大きな樹の下や大岩の陰に祀られて居たりします。それは人生に似ています。順調で真っ直ぐに歩んでいけば良い時はあんまり変化はありません。角を曲がると、転換期を越えると風向きが変わったりします。逆境の方が面白い事が多いようです。旅をしてもそうです。峠道を越えたり曲がりくねった道を越えると風景が一変して風向きが変わったりします。私の住む戸塚には駅伝で有名な権田坂があります、坂の屈折した処に「投げ入れ堂」があります。行倒れの旅人の遺骸を谷に投げ入れたので其処に慰霊のお堂を建てたのだそうです。箱根の地蔵石仏群も道のくねった処に、祀られています。
現代は交通安全の視点で道の曲がった箇所で注意が必要です。私は道の曲がった箇所に石仏が無いかキョロキョロします。お地蔵様があれば旅人の墓標であったり慰霊塔でしょうし。馬頭観音なら其処で疲れ切った運搬馬の心臓が破裂したのでしょう。そして如意輪観音ならご婦人が其処で一生を終えたり。麓の女性が此処まで登ってお祈りしたのでしょう。
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如意輪観音(観心寺)右膝を上げて足裏で左の足裏を合わせる姿妖艶で美しく同時に憂いを表現した朝鮮半島民俗のポーズだと思います。
如意輪観音は片膝を上げ、そこに肘をかけて指先を頬に当てている思惟の姿です足裏は両方を合わせており、輪王座と呼ばれる姿勢です。「チャングムの誓い」で女官が片膝を建ててる姿を観て日本風感覚で見れば”はしたない”のですが憂いを表現するには良い姿だと思いました。同時にそういえばあの格好は如意輪観音だと思いました。が如意輪観音の特徴です。どうすれば人々を救えるのかと悩んでいる姿だとされています。ほとんどが6本の手の六臂像で造られており、手には如意宝珠と法輪(輪宝)を持っています。
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此方は葉山の新善光寺さんの墓地に在る墓標塔です右側の戒名はお母さんの名で左側の名は母を追うように早逝した娘さんでしょうか?いずれにしても墓標を建てた人の悲しさや優しさを表した墓標です。

昨年の真夏に友人と大津の石山寺に上りました。石山寺を琵琶湖に源を発する瀬田川を見下ろす大岩の上に建てられたお寺で月見の名所であります。高校時代に紫式部が源氏物語の構想を練ったお寺と説明されました1004(寛弘元)年に式部は7日間も籠もったのでしたから石山寺を出るころには源氏物語の3帖辺りまでは出来上がっていたのコアも知れません。琵琶湖に映る月を見れば様々な思いが交錯した事でしょう。紫式部だけではなく藤原道綱のの「蜻蛉(かげろう)日記の作者」、和泉式部の「和泉式部日記」では、夫や恋人の愛情が薄れたため、このお寺に上ってご本尊の如意輪観音に救いを求めたのでしょう。才子の清少納言もしっかり者の菅原孝標女(たかすえのむすめ)「更級(さらしな)日記」も如意輪観音を拝みました。古代から中世近世も如意輪観音は女性の悲しさや憂いを聞いて如意の如く転じて来たのでしょう。
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此方は鎖大師青蓮寺の墓地の如意輪観音像
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此方も葉山新善光寺の如意輪観音像
昨日は月待ち講は女性がメインであった事二十三夜講は勢至菩薩が主尊出会った事を書きましたが密教が盛んであった平安時代の前半に如意輪観音を主尊に祀ったお寺(石山寺や室生寺や観心寺)であった事から月待ち講も如意輪観音を主尊にすることが多かったようです。十五夜を過ぎれば十七夜(立待ち)月も十八夜(居待月)も十九夜(寝待夜)も主尊は如意輪観音様でした。月待ち講と云えばは二十三夜講が目立ちますが古代から近世まで女性の心に寄り添ってきたのは如意輪観音だと確信するモノです。
最後に有名な軽井沢追分にあるの堀辰夫の石仏を照会します。追分の石仏として有名ですが何のことは無いこれも如意輪観音です。今年の秋は何処に行こうかな?塩の道(千国街道)に沿って石仏行脚をしたいものだ…、カラ松の林を越えて街道を越えると如意輪観音が待って居そうな気がしてきます。

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巳待ち講(月待ち講3)

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急中山道を追分宿から西に向かって佐久市に入って蓬田に着くと(中山道二十四番目の宿場)街道に面して八幡神社があります。その社殿は重要文化財です。境内には高良神社など幾つもの分社も勧請されています。その一つ弁天神社の脇に弩迫力の蛇が彫られていました。弁天様の神使が蛇ですから「何のことは無い」と最初観た時は思いました。私の生活圏には有名な銭荒井弁天を始め幾つも弁天様が祀られていますから蛇の石仏に喜んでいては前に進みません。江の島弁才天の洞窟等蛇だらけです。
此処二日間月待ち講の事を考えていたらあの蛇の石仏も巳待ち講のモニュメントに違いないと思いつきました。今度行ったら蛇の裏に回って確認してみる事にしました。
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山無花果食べ頃ですよ・・・・。

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6月5日関東地方も梅雨入り宣言です。梅雨とはよく言ったもので我が家の梅の実も黄色く熟して庭に落ちています。梅雨が終われば桃の美味しい季節です。でも、我が家にはプラムが実るし無花果も食べられます。
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我家の梅の実(昨年撮影)、梅雨に入ったのでもうじきこの程度に色づけば梅干に最適になります。梅雨とは梅の実の収穫時と云った意味です。
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梅が熟せば従兄弟のプラムも熟します。ツグミ君は良く知っていて食べに来ます。ツグミの食べ方はお行儀が悪くて実を突いて穴をあけては隣の実を突きます。完食するのなら我慢するのですが。
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これがわ我が家に生えてきた山無花果です。此処に種を播いたのはツグミ君です。この灌木の上部に梅の老樹が生えています。
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これが山無花果の実です。真紅に熟した実は見た目と違って柔らかいのです。
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山無花果を収穫して試に齧ってみました。

花果はお隣が樹木を伐採してくれたので、陽が当たるようになり今年は甘くなりそうで楽しみです。昨年は台所のガラス戸越しに色づき具合を確認して戴きました。実は無花果を狙っているのは私だけでは無くてツグミやヒヨドリムクドリも狙っているのです。彼等は嘴と云った道具が在るので無花果の先端の甘い所を突っ突いて食べてしまいます。
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これが我が家の無花果です。葉っぱの上には赤いカミキリムシが見えています。無花果の害虫カミキリムシ対策を梅雨明けには実施しないと無花果はその髄をカミキリムシに食い尽くされてしまいます。
ですから彼等が突っ突く前に収穫しないと私の口に入らないのです。我家の庭には山無花果の樹があります。
私が植えたのではないのですが。梅の大木の樹下に背を伸ばしています果樹の無花果に似て葉っぱは大きいのですが薄いのです。何処か桑に似ていて大きな葉っぱが重なって陰影を作っています。私がベッドに寝転ぶと自然と大きな葉の重なりが眼に飛び込んできます。その葉の先に出来た緑のビー玉が日に日に赤く染まってルビーのビー玉に変わって来ました。この無花果が山無花果で此処に撒いたのは他ならぬツグミやヒヨドリなのです。私は山無花果の実をとってみました。赤く色づいた実は意外と柔らかくて我が家のペットのワンちゃんの乳首のようです。次いで齧ってみました。青臭い匂いが口中に広がるだろう懸念していたのですがそんなことは無くグミに似たお味でした。特段エグミは無いしジャムにはなりそうです。以前桑の実で作ったジャムほどの出来栄えになりそうです。
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この白い花はプラムです。花を食べに来ているのはツグミです。
ツグミ君が好きなのはこの山無花果の味なんだ人間が工夫して作った無花果には遥かに及ばない・・・・。でもツグミ君は人間が工夫した無花果なんて甘くてヌルヌルしていて美味しくない思って居る事でしょう。
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今年ももうじきプラムの収穫期になります。生でも美味しいしジャムにもしても行けます。

そこで私からツグミやヒヨドリ君への提案です。無花果のオーナーは私で山無花果の主人は君達です。「私は山無花果を採らないから、君達も無花果を突っ突く事は止しにしてくれないか!」


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「齢長けて」旅行記1

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私が脳梗塞に倒れたのは2年半前でした。鎌倉の病院に友人が運んでくれて、急性期治療が始まりました。
目を覚ますと私の左手を揉み擦ってくれるワイフが居ました。
あの時は涙が止まりませんでした。
でもどこか冷静で、友人は死んでしまったが自分は死ななかった、その境目は何であったのか思い巡らしていました。あれこれ考えた挙句に大凡次のような信念に着地しました。
『脳梗塞で死んでしまえば苦しみも無く楽だったろうに』、でも神仏はそれを許さなかった。人生は『自分一人のモノでは無い、”お前には妻一人子供3人の家族に恵ませた、それで一人で天国に旅立てるのは許されない、残された家族は哀しむばかりではないではないか!”
神仏の命令は『自分の体と能力を使い切って、炭が白い灰になるまで生き切ってから天国でも地獄でも旅立て、家族に生き様、死にざまを見せてから旅立ちなさい』『一人で黄泉に行くのは小乗の教えで、十分に生き切って黄泉に旅立つのが大乗の教えである・・・。と
50歳から全国を巡って地図を作製したのは伊能忠敬で、70歳で陸奥に旅だって大仏様の再建に尽力し終えなければあの世に行けなかったのでした”望月の夜に死にたいと願った西行法師でしたが、東大寺の大仏が金色に荘厳する金を平泉から勧進し終えてから黄泉に旅立ったのでした。重源の期待に充分に応えて大乗の法師として満月に上れたのでしょう。
『人間最後の10年、人生のホームストレートを如何に走りきるかが大事で其処の小乗と大乗の違いがあると・・・・』。身を挺して教えて居られるようです。
以来私はリハビリは自分一人の為ではない家族のためだし、屹度友人も観ていると思うようになりました。リハビリも大乗の行為だと思うようになると片手間では済まされません。
友人との旅行会もリハビリの目標になりました。昨年は吉野山の桜を巡り西行法師のお墓に詣でました。
そして今年は小夜の中山を巡る事にしました私の仲間は西行法師に心酔している人が多いので、今回の旅行会は20人の大所帯になりました。文学の世界で、美学の世界で、民俗学の世界で西行を学ぶ人が多いので、平均年齢洲70歳ながらも学生時代の様な旅になりました。
今日から数日間その旅行記を記します。ブログにしては堅い記事が多くなるでしょうがしばし、お付き合いください。
6月8日(水)、いよいよ、旅立ちです。私は万年幹事で今回で25回目の旅行会です、天気予報通りの曇り空でいつ降り出すか懸念されましたが、新幹線が富士川を渡る頃には富士山も美しい姿を見せてくれました。
私は何時も何時も少なからずミスを犯して仲間に友人に迷惑をかけています。毎回反省をして、善後策を講じてて来ました。今回は自動車保険をフルにかけてその内容もチェックする事にしました。今回は大手保険会社に勤めていた友人のМ君にも同席して貰いレンタカーの借り受けに立ち会ってもらいました。このことが最後に役立ってくれたのでした。それは何れ説明します。
先ず新幹線で静岡駅に、レンタカー3台に分乗して宇津谷の毬子宿に向かいました。鞠子の名物とろろ汁で昼食、友人のI君は「東海道は中山道に較べると江戸時代の面影が残っていないね!」少し不満気です。
私はこれから向かう宇津谷の峠には江戸時代の面影が残っているから期待してよ・・・」話します。
カーナビに宇津谷のお羽織屋(おはおりや)をインプットします。
お羽織屋の駐車場も以前に比べれば整備されましたが街道の雰囲気は少しも変わりません。中山道の馬籠宿のような雰囲気です。
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これが宇津谷の峠の茶屋街です。宇津谷峠の峠下(鞠子側)の茶屋です。峠の岡部宿側は「蔦の細道」と呼ばれる古代の細道です。
お羽織屋に入って名物の十団子(昔は10個で700円でした)を注文したのでしたが。今はもう作っていないとの事、土間に置かれた車椅子に不安が過ります。
「秀吉に下賜されたと言い伝えられるお羽織は観られますか?」尋ねれば60歳程の女将が裏木戸を回って庭に回るよう言います。

お羽織は奥座敷の床の間に飾られていて。其処には大女将(石川ときさん)が私達20人が揃うのを笑顔で迎えてくださいました。大女将は良く通る澄んだ声で案内して下さりました。以下私の冗長な文ですが端麗なお婆さん講談だと思って読んでください。
「この集落は宇津谷の峠の北にある寂しい部落でした。小田原攻めに向かう秀吉の軍馬が峠を越えて来ました馬にも草履を履かせます。部落の主で石川忠左衛門(先祖)は頭の回る人だったのでしょう、秀吉に向かって4つの草履を差し出します。
「怪訝な表情の秀吉に向かって石川忠左衛門は言います。「残りの1足はお帰りの際に差し上げます」
草履取から成りあがった秀吉は石川忠左衛門の意図を寸座に読み解きます。
「馬は4つ足だからと云って4足の草履を出してはは縁起が悪い、そこで3足を用意し戦勝して帰り際に残りの1足を差し出すとは戦勝を確信していること」。にんまりします。
更に目の前の小山の名を尋ねます。すると”この山は勝山です”と答えます
勝の樹なんて聞きません。「この山は栗の樹が自生しているので”勝山”です。答えます。搗ち栗を勝栗かちぐりに懸けたのでしょう。
秀吉はその石川忠左衛門主に羽織を下賜します。羽織は鎧の上から重ね着したモノでしたから大きなものでした。白絹の要所に赤い絹が散らばった派手な羽織だったのでしょう。以来主は「お羽織屋」が屋号になりました
この羽織は昭和三十年代末に上野博物館で展示されました。その時に博物館で修理してくれました。
江戸時代を通して大名が太閤のお羽織を観たいというので、衣装箱から出し入れしたので裾が綻んでしまいましたし、手垢で汚れてしまいました、昭和の修繕で美しく蘇ったお羽織も床の間に吊るしておいて30年も経ては褪せてしまいました。』
大女将がのお話を語り終えると、期せずして拍手が湧きました。
訊けば御年95歳との事でした。こうして旅人に先祖の話をすることで体力も気力も軒昂なのでしょう。先刻応対してくれた女将は終始笑顔で大女将の説明を聞いておられました。
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これはお羽織屋のパンフレットを複写した絵で左の紅茶碗が家康が右の絵青江茶碗は慶喜が下賜したモノ勿論展示されていました。
”お婆様お若いころはさぞ美しかったでしょうね!”
友人の言葉にも反応されませんでした。「当然」と思われたか「聞きなれていると思われたのか解りませんでした。でもお羽織屋に寄れば縁起の良い羽織が観られるし美しい娘が笑顔でお接待してくれるそんな穏やかな日々が続いていたことでしょう。
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此れもお羽織屋作成のパンフレットのコピーです。三春の殿さまが伊勢詣での折に小田原を発ち鞠子から宇津谷峠を越えてお羽織屋の十団子を商う茶屋に寄った紀行をお抱え絵師中村寛永亭が日誌に記したもの。
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流暢に名調子で説明して下さったおお女将の「石川ときさん」右側の男性が見ているのが徳川慶喜下賜の青絵茶碗その右の赤い茶碗は家康下賜の楽茶碗だと思います。
そこで『石川土ときさん』のお若い時の写真を確認してみました流石に20代の写真は無いようですが70代からのお姿は沢山ありまあした。駿河路の旅のガイドブックに良く出ておいでで。多分県の観光局の大事な地元タレントだったのでしょう。http://www.city.shizuoka.jp/000714255.pdf#search='%E7%A7%80%E5%90%89%E3%81%AE%E7%BE%BD%E7%B9%94%E6%98%AD%E5%92%8C%E3%81%AE%E4%BF%AE%E7%B9%95'
石川土ときさんに較べれば私達は皆、若造です。石川さんのように矍鑠として働き社会の役に立つためには体も頭脳もスキルも鍛え磨かなくてはならないようです。
今回は「齢長けて」がテーマだと思いましたが、ぼんやり時間を費消して居ては石川さんのように美しい老人にはなれないようです。
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お羽織屋を取材した記事が多く案内されていました。
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右側がお羽織屋この日は火鉢などの民具が置かれて)縁台には山菜を陳列されてましたがもう少し早ければ筍や枇杷が陳列されていたでしょう。名物の十団子の幟が消えているのは石川ときさんがもう作られなくなったからでしょう。若女将に団子作りを伝承してほしいモノです。この後私達は坂を登って集落を見下ろし更に明治のトンネルを潜って蔦の細道に行く事にしていました。この石畳道を地元のッ軽トラックが走り去るのを観てワゴン車でこの道を登りました其処で左折できずに、軽い自損事故を起こしてしまいました。
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宇津谷の集落の道は明治のトンネルに続いています。この日は石段に手摺をつける工事をpしていました
仲間の一人は東海道を歩く旅にチャレンジ中だそうで。「今日は下見だ」と張り切っていました。もう七十を過ぎれば自分の体や心を総べる技を取得しています。でも、自分一人で自己管理するのは大変です。連れ合いや友人のチェックを叱咤激励の材料にして石川ときさんのように素敵な老人になりたいものです。

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齢長けて旅行記2

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宇津谷峠のお羽織屋でお婆さんに激励されて、私達は次の目的地蔦の細道に向かいました。ところで宇津谷の地名ですが、日本の美術史に深い影響を与えた地名です。
私は「美しい谷のある峠」と記憶してきましたが、実際に行ってみると解ります。蔦が生い茂って屋根のように覆いかぶさっている峠の意味でしょう。と云うのは「宇」とは屋根の意味ですから讃岐の宇田津(塩田で有名)は大屋根の家が沢山ある港町に意味でしょう。
古代人は東海道(官道)にある蔦の細道に強い感傷を抱いていたようです。蔦の細道を越えれば富士山が眺められるし未開な蝦夷地に踏み込む事になる・・・・・。光琳の団扇に芦舟や宗達の屏風絵に蔦の細道は再三描かれ日本人の美意識を刺激してきました。
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これは光琳の蔦の細道団扇手前のブルーの 狩 衣(かりぎぬ)を着ているのは在原業平で峠道で旧知の修験僧に遇います。そこで都に残した人に手紙(和歌)を託します。写真出典(日本の美術光琳と宗達)光琳のこの団扇は人気だったようで業平と修験者と馬の位置を変えた団扇が何本もあります。
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これは蔦の細道図屏風(芦舟)で岩屋の間の細道を業平主従が越えて行こうとするとその前を笈を背負った修験者が居ました旧知の修験者でしたので都に残してきた妻に和歌/駿河なる 宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」を託しましたこの屋根のように頭上を覆った岩屋と蔦の姿が宇津谷峠の名の謂れでしょう。
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濃い緑色は土坡と呼ばれこの屏風では暗闇の細道を金色は空と岩屋を表現しています。岩屋には緑の蔦が絡んでいます。絵の賛は烏丸光広が業平の和歌とその言葉書きが次の通り書かれています。
行さきもつたのした道しけるより花は昨日のあとのやまふみ
夏山のしつくを見えは青葉もや今一入のつたのしたみち
宇津の山蔦の青葉のしけりつつゆめにもうとき花の面影
書もあへすみやこに送る玉章よいてことつてむひとはいつらは
あとつけていくらの人のかよふらんちよもかはらぬ蔦の細道

茂りてそむかしの跡も残りけるたとらはたとれ蔦のほそ道
ゆかりて見る宇津の山辺はうつしゑのまことわすれてゆめかとそおもふ

江戸時代初期に京都の文化サロンでは伊勢物語を素材に競って作品を発表したようです。この屏風は相国寺で見学できます。

上の屏風はは宗達の描いた蔦の細道です。宗達は緑の生い茂った蔦の細道を描いて見せました。
この屏風絵は左右二枚の屏風で右左入れ替えても絵柄が続くように出来ています。まるで種田山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」を捩って「分け入っても分け入っても蔦の細道」に見えます。
古代から此処宇津谷は東海道の難所だったのでしょう。古代には業平や西行が難儀しながら210mの峠を越しました。峠では富士の山頂を仰ぎ見た事でしょう。そして近世には秀吉が十万に及ぶ軍勢を率いて小田原攻めに越して行きました。平和な時代になると広重が絵に留めました。この難所を越える為にトンネルを掘ったのは明治9年(1876)でした。以降大正、昭和、平成の4本のトンネルがこの山を貫通しています。私達は明治のトンネルを観ようとお羽織屋を後にしてトンネルに向かいました。
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これが明治9年(1876)宇津ノ谷峠に初めてでき たトンネル木枠で内部を支えた日本初の有料トンネルでしたが、失火に より岸壁が崩落 し、通過できなくなりました。 明治37年によりレンガで固めた現在のトンネルになりました。車は通れませんが自転車は通行可能です。
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 明治のトンネル入り口に祀られていた板碑殉職した工夫の慰霊塔でしょう。ドクダミと鍔紫陽花が咲いていました。
お羽織屋を出ると目の前を軽トラが走ってトンネルに向かいました軽トラにつられて出発してしまいました。これが過ちで急がば回れで本道に戻れば良かったのですが狭い上に急な坂道でしたからワゴン車の底(腹)を擦ってしまいました。これも宇津谷の地神が「宇津の谷を舐めるのじゃないぞ!」警告だったのかもしれません。
冷や汗をかきかき明治のトンネルにつきました。トンネル入り口には常夜灯があって3基の板碑が祀られていました。トンネルの掘削工事で殉職された方の慰霊碑でしょう。。昭和のトンネルを越えて岡部側に出て「蔦の細道公園」に行くつもりでしたが。昭和のトンネルは工事中の為本堂の1号線(岡谷バイパス)に戻って岡谷側に出ました。昔も今も岡谷側の方が景色が良かったのでしょう。広重も鞠子側は丁子屋(とろろ汁の有名店)を描いただけで、宇津谷の険しい景色は岡谷側からのみ描いています。渓谷に沿って登ると美しく整備された「蔦の細道公園」があります、幾つも休憩所が整備され、ユックリと古代に想いを馳せられるように配慮されています。
当初は業平茶屋で休んで名物の10団子を食べる積りだったのですが昨日書いた通りお婆ちゃんも高齢で今は作っていないようですから、そこそこの球形で済ませ、次の目的地小夜の中山に向かいました。
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岡谷側から蔦の細道公園に入る左手は山で右手に渓流が流れていましたこの辺りは蔦では無くて定家蔓が自生していました。定家蔓は風車のような花を咲かせていました定家蔓を観ると何時も憧れの式子内親王を想います。この道を進めば宇津谷峠に続きます。左手の小屋は業平茶屋(無料休憩所)です。
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業平茶屋の壁に貼られた広重の浮世絵、岡部の山間に細道があって旅人が行き交っています。文明の利器に恵まれた私達ですがこうした歴史の道を保存し、歴史資料を展示してくれている事は有難い事です。
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道筋には蔀戸をデザインした掲示に先人の歌を案内しています。この兼好法師の歌も業平の歌の本歌取です。ひと夜ねしかやの松尾の跡もなし 夢かうつつか宇津の山ごえ
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此方は藤原定家の歌です。都にも いまや 衣をうつの山 夕霜はらふ 蔦の下道 
公園にはこの二人の他阿仏尼等の歌も掲示されていますので。気が利いています。
先の宗達の屏風絵に賛した烏丸光広の歌”書もあへすみやこに送る玉章よいてことつてむひとはいつらは”こそありませんが、如何に業平の31文字が日本人の心筋に響いてきたかが解ります。ところで肝心の業平の和歌ですが此処の公園には無くて峠道の頂に歌碑が建っています。峠の頂まで行った人のご褒美のようです。
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蔦の細道公園、江戸時代の東海道は右の尾根道です。左は渓流ですが何度も流れの位置を変えたようで幾つもの砂防ダムが設えてありました。中央の大きな樹は「マロニエ」と現代風に案内されていました。栃と案内すればいいモノを・・・・・。
アッチコッチにマタタビの白い葉が目につきました。白い色は涼し気でいいものです。

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齢長けて旅行記3(小夜の中山)

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私達は蔦の細道を後にして次の目的地「小夜の中山」にカーナビの目的地をセットしました。皆小夜の中山には格別の思い入れがあります。
西行の歌は数多く暗誦しているもののこの年齢になると、次の歌に格別の想いが通ってくるようになりました。
「年たけてまた越ゆべしと思 ひきや命なりけり小夜の中山
先ずは発句の「齢長けて」です、そしてと第4句の「命なりけり」です。
私も既に古希を迎え、既に友人を二人送っています」
こうして、仲間20人と一緒に旅を楽しめるのは「命があっての幸いです」
西行法師が京都の都を下って平泉に行くには「逢坂山」次いで「小夜の中山」更に「箱根山」を越えねばなりません。
出家して間もない26歳の壮年で一度小夜の中山を越えたのでした。それは陸奥の歌枕の地を自身の目で確かめる陸奥への旅で、武士の道は捨てて歌人として一生を過そう覚悟を固める旅だったでしょう。
そして、西行69歳の時、東大寺再建のために重源法主に依頼されて砂金勧請に藤原秀衡を訪ねます。西行はその目的を果たし、砂金450両が東大寺に送られましたが、西行が平泉を後にした翌年の文治3年(1187)義経を匿った事由で奥州藤原氏は滅亡します。奥州藤原氏が滅亡したその翌年、西行は73歳の生涯を閉じます。
先の西行の和歌は歴史ドラマの中で出来たモノなのでした。
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此方は東大寺の重源像(国宝)写真出典芸術新潮/運慶特集号)、私達は15年ほど前の旅行会で重源像をまじかに拝観する幸運に恵まれました。運慶を筆頭にした南都の仏師のリアリズムは高僧重源をまるで平泉の農夫のように骨格が頑丈で、尖った頬骨や首筋に浮き出た血管までも写し取っていました。そのリアリズムのお蔭で東大寺再建が難事業であった事を窺がい知る想いがしました。西行法師の命も削って大仏が再建されたのでしょう。

「小夜の中山」と云えば今も「夜泣き石」で有名です。江戸時代も有名だったのでしょう。広重の東海道53次の浮世絵にも描かれています。江戸を出た旅人は大磯で「虎御前の石」を観て次は「小夜の中山の夜泣き石」を観て伝説を確認し、土産話にしたのでしょう。
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広重の東海道53次日坂の図これは掛川宿を出て日坂の登り口に差し掛かった場面です。道の真ん中に転がっている巨大な漬物石が「夜泣き石」です。旅人は足を止めて伝説の夜泣き石を眺めています。坂を登り切れば子育て観音で知られた久延寺になります。写真は読売新聞のノベルティーを複写。現在も日坂の登り道(旧道)は隘路で軽トラしか通れません。芭蕉が休んだ松の木は若木に植え替えられていました。でもこの細道の大半は昼なお暗き照葉樹林であったと思います。
小夜の中山には現在4つの夜泣き石が祀られています。第一は久延寺境内にある夜泣き石で弘法大師が見詰めておられます。案内板には殺された母親を弔う為に弘法大師が夜泣き石に仏号を刻んだのだそうです。そして第二がこの広重の絵で小夜の中山の麓のバイパスの脇の公園に祀られています。其処には小泉屋と云う名のレストランがあって子育て飴を商っています。三つ目は旧東海道の叢に埋もれています。ところで夜泣き石の彼方の青い山が無間山(栗ヶ岳532mで観音寺があります。この寺の鐘を撞くと現世で大金持ちになれるけれど来世では無間地獄に落ちると言い伝えられています。誰しも”鐘を撞こうか撞くまいか”迷う事でしょう。

【浄瑠璃傾城無間之鐘(けいせいむげんのかね】
ところで肝心の夜泣き石の伝説ですが浄瑠璃をベースに説明すると次の通りです。
その昔。小夜の中山に住む「お石」と云う女が菊川の遊里に働きに出ていました。その帰りに中山の峠道で突然にお腹が痛くなりました。苦しんでいる処に轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱しました。轟業右衛門はお石が金を持っていることに気付いて切り殺して金を奪って逃亡します。
その時お石は懐妊していたのでした。傷口から子供が産まれ丸石に乗り移って夜毎に泣いているのでした。里人はその泣き声に怯えて誰云うと無くその石を「夜泣き石」と呼ぶようになりました。傷口から産まれた子は「音八」と名付けられ久延寺の和尚に預けられ飴で育てられました。立派な若者に成長した音八は大和の国の刀研ぎ師に弟子入りしました。
其処に或る日轟業右衛門が刀を研ごうと遣って来ます。
刃こぼれを問われると「昔小夜の中山で丸石を切った時に出来た刃こぼれである」と説明します。
音八は母の仇打ちであると名乗って怨みを果たします。
その後弘法大師がお石の霊を憐み「住吉懐妊女夜泣き松三界万霊」と刻んだのでした。
弘法大師の段は講釈師の創作として、江戸庶民は誰しも知る伝説だったようです。
浄瑠璃の宣伝も兼ねたのでしょう「小夜の中山鐘の由来」が歌川豊貞等によって製作されます。

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これは豊国による小夜の中山図。浄瑠璃の宣伝用に製作されたのでした「お石」は菊川宿の飯盛り女(女郎)の印象だったようです。また別の図は轟業右衛門が無間地獄に落ちたことを想わせる図もあります
江戸時代までは小夜の中山は照葉樹林の下闇に続く薄暗い細道だったのでしょう。何時下闇の中から山賊が出現するかもしれない・・・。掛川宿から金谷宿までの細道は緊張を強いられる道だったと思われます。
でも現在は違います。尾根の両側は綺麗に手入れされた茶畑が広がっていました。丁度一番茶の茶摘みの最中でした。二番茶を摘むためには少し強めに刈り込みます。緑の茶畑と茶色の茶畑(刈込を終えた)がツートンで鮮やかな模様を描いていました。
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小夜の中山の辺りは菊川茶の名で出荷されている茶畑です。畑の中に立っている扇風機は88夜頃に頻発する霜除けです
昔は紺の絣に赤い襷の茶摘み娘が見られたのですが、今は茶摘みバリカンを二人で作動させて茶摘みしていました。お蔭で茶摘みした後は綺麗な波紋のようになっています。写真の手前右手奥が久延寺です。
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方は久延寺境内の宝篋印塔は左が[月小夜姫の墓」と刻まれていますから浄瑠璃のお石の墓でしょう。右は「三位頼政卿の墓」と刻まれていますから鵺(ぬえ)退治で有名な源頼政の墓でしょう。中空から山賊が出現して旅人が困っていたのを源頼政が退治した、そんなストーリーを思わせます。
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月小夜姫の墓に並んで本堂の観音堂の左には弘法大師が並んでいます。背後の大木はスダジイでこうした照葉樹が生い茂っていたものが明治時代以降一面茶畑になったものと思われます。
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久延寺観音堂の右手前境内に鎮座している夜泣き石見下ろしているのは弘法大師でドクダミの花が咲いていました。
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仏号が刻まれているというので探しましたがこのアングルだと仏の字が見えるようでした。

ところで小夜の中山伝説に似た伝説は数多くあります。謡曲の「黒塚」は阿武隈川に近い安達ヶ原に残る鬼婆伝説ですし謡曲「浅茅が原」は隅田川の東浅草寺創建に係る一つ家伝説です。三つの伝説はどれも似ています。小夜の中山伝説が浅茅が原に更に安達ケ原に影響したのか?その逆か解りませんが黒塚も浅茅が原も仏教説話の匂いが強いのに対して小夜の中山には抒情性が濃く文学的な魅力が濃いのは西行法師の歌があるからでしょうこの話はこの紀行の最後に書きたいと思います。


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