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百三歳其処に居るだけで社会貢献

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昨日からワイフは張り切っています。
今日23日はワイフの友人の一人が大臣に就任したので「お祝会」を催すというのに、病院に行って初産を終えた親子を引き取って来るという大仕事が予定されているのです。
我家にとっては長男に二人子供が居ますが、二人とも嫁の実家で新生児期を過しましたがお婆ちゃんにとっては「内孫」と云った感覚は無くて、娘が産んだ子こそ「内孫」のようです。
孫の内・外の区別は新生児期を何処で過したかに依るのかもしれません。
ワイフは3週間は居て欲しいようですが、娘は早くアパートに戻りたいようです。
昨日は雨の中にも拘らず家を掃除して新しいエプロンを買ってきました。新しいエプロンで内孫を抱きたいようです。
もうお婆ちゃんですが可愛いモノです。
ところで、私は毎週金曜日はデーサービスに出かけますのでワイフは一人で産院に迎えに行きます。
雨が降っていますが。左手も良くなってきているので傘をさして行けます。
私の通っているデーサービスは小さな施設で家庭的な雰囲気が良い所です。
施設の名は「南横浜マナーハウス」と云います。
マナーハウスの居心地の良さはワイフが良く承知しています。
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これが英国の湖北地方のマナーハウス。騎士の家を民泊の用に活用したもの、人気の理由は英国のおもてなしのマナー(中世の倫理観が生きている)に接する事が理由です。私の通っているデーサービスはケアの精神にマナーを手本にしているのです。
イギリスの湖北地方にある民泊施設をマナーハウスと呼びます。
中世騎士の邸宅を宿泊施設に転用したものですが。手入れの行き届いたイングリッシュガーデン、何百年もの時を経て受け継がれてきたアンティークの空間の中で、優雅な時間が過ごせるようです。
騎士が旅人に寄り添って泊まらせたように施設では利用者に憩いの空間とサービスを提供しています。
スタッフ(介護士とは言いません)。スタッフも利用者同士も家族のような関係にあります。
と云っても利用者の多くは私のように脳梗塞患者です。
脳梗塞患者は「切れやすい」「怒りポイ」等の症状が在ります。
時に利用者が突然怒り出して大声を発し気まずい雰囲気にもなりますし。"i帰りたい帰りたい”と云い出してスタッフを困らせる利用者も居ます。
利用者仲間は顔見知りですから突然に休むと他の利用者が気使いします。
「膝の水を抜くために入院しました来週は来られますよ!」なんて聞いて安堵します。
私が毎月描いている献立ボードの絵も家族的雰囲気の醸成に役立っていると思います。
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これがランチの献立ボードですこの絵が筆者の作品で毎月差し替えて居ます。昨年10月から始めて1年になりますこのチャンスを戴いたので私も他の利用者と仲良くなれましたしお絵かきや短歌作りで脳内が活性化されていると思っています。何よりも12枚もの絵が手許に残りました。
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利用者にとっては「患者扱いされるのは耐えがたいモノです。一方健常者として扱ってもらうと「その気になって」張り合いが出ます。私も左手が不自由でしたから着替えを手伝って貰っていたのでしたが、何時の間にか自分で着替えが出来る様になれました。
利用者同士が交流する事も楽しみの一つです。
勿論学校と同じように挨拶とバイタルチェックから始まります。利用者相互にバイタルを記憶してしまいます。バイタルのデータが悪ければお互いに気遣います。悪ければお風呂に入れませんせん。
体操をしてもお互いを観察します。お互いの状況が良く解ります。
利用者は他の利用者の存在が励みにもなります。
小学校の教室と似たようなモノです。
そんな中で其処に居るだけで励みになsる超お婆ちゃんが居ます。
半年前までは某大手の施設から移って来られたお婆ちゃんで。満百三歳になられます。
最初の頃はランチになると「お代は払っていない!のに食べて良いの?心配で心配でしょうが無いようでしたが。もうご家族が払われていられる事で納得されたようでその言葉も聞かれなくなりました。
超お婆ちゃんが何時もの席に座っているだけで私には励みになります。後30年も活きられるのだ思うだけで元気になれます。
私は百三歳に倉田百三を想い出します。武者小路実篤と一緒に「美しい村運動」に尽力した人です。美しい村はまるで「マナーハウス」のようなモノです。日本中が高齢化を運命づけられています。今春三春の桜を巡っていた時思いました。大震災は災いでしたがこれをきっかけに忘れていたモノを想い出して日本中が美しい村になるような期待と予感を抱きました。
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これは今春廻った三春の初恋桜(田植え桜)です震災後寄り添う姿に「美しき村」を想い出しました。この時のブログはつぎです。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49287185.html
私が親鸞を知ったのは倉田百三の「出家とその弟子」を読んだ時でした。
感動した私は直ぐに「歎異抄」と「愛と認識への出発を読み次には亀井勝一郎を愛読しました。
百三に何か特別の意味があるのか?思いながら二百三高地も調べましたが、倉田百三の名が何故百三と付いたのか未だ解りません今度真宗のお坊さんに訊いてみる事にしましょう。


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「気」と癌の免疫療法

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話題に事欠ない梨園ですが、23日のスポーツ紙には愛之助(44)と女優・藤原紀香(45)の結婚式が大きく報じられていました。挙式が八坂神社では無く神社でなく上賀茂神社であったのは理解できませんが・・・。
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23日の日刊スポーツ藤原紀香さんの結婚には行間に皮肉が感じられる記事でした。明日上賀茂神社で挙式をどのように報道するのか懸念されます。
扇雀さん(扇千景)夫婦のドタバタで多少の事は眼を瞑るというか慣れてしまった私達ですが不惑を過ぎた熟年結婚の先は屹度山谷が在る事でしょう。
一方で中村橋之助不倫報道では三田寛子が記者会見して「私も至らぬ点あり反省」と言ったとか。市井の間隔と梨園の間隔との違和感を持ちました。寛子さんは梨園の人形になろうとしているようです。
攻めるも守るも、疑問符続きの梨園の妻に対し、圧倒的な支持を得ているのが小林真央さんです。自身の乳がんを発表したかと思えば、闘病生活をブログで綴って万人の共感を得て居ます。病気に立ち向かう姿に自らを見ている人が多い事でしょう。全国の癌患者を激励する意味にも是非克服してほしいモノです。
姉の小林麻耶さんも海老蔵さんの姿勢も共感を得ています。
真央さんの闘病姿勢はお二人の人気も挽回させ、歌舞伎界の将来も明るくすることでしょう。醜聞に慣れっこの歌舞伎界ですが久々の”いい話”です。
23日のニュースで慶応大学病院の発表がありました。
癌療法と云えば「放射線療法」と「抗癌剤療法」が常識でしたが、もう一方で「癌は気から」と云うのも世間の感覚でした。
私も二度に亘って癌「腎臓と胃」を手術した後に放射線と抗癌剤を奨められたのでしたが。”切除して貰ったのだから、自分の体はリセットされた後は再発しない様にメンタルに気をつけよう”思って断りました。胃癌手術後3年を過ぎようとしています。27日にはまた内視鏡検査に行きます。
”癌は気から”これは日本人の経験知ですが医学的に検証されていないので公式に認められていませんしましては健康保険の補助対象にもなりません。慶応大学医学部の偉い処はその経験知を医学的に解析して検証するモノのようです。発表内容は専門的で私のような素人には難解ですが、どうも掻い摘んで話すと「癌細胞には単なる癌細胞と癌幹幹細胞の二つが在って、癌幹幹細胞の処置が大事であることは、癌抗原を体内で固定化させて癌幹細胞の活性化を抑制する治療法です。
体内に癌の抗原を固定化させる方法は気を活用するのでしょう。
気は東洋的な世界で未だ未開です。
一方最近は脳の研究が進んで脳内革命によって自分自身の未来をコントロール出来る様になると云われています。
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写真は今週のダイヤモンド誌脳内革命の特集をしてストレス障害や鬱病は気をコントロールする事が重要と説明していました。
脳の研究の中でも記憶を司る「海馬」が重要でストレス障害や鬱病は此処が委縮することで起っていて、海馬の向かいの大脳辺縁に本能や感情の中枢が在ります海馬と勧請中枢大脳の間でビックデータのやり取りが行われ瞬時に決定が為されるようです。
脳内革命の成果を活用すれば鬱病やアルツハイマーを避ける事が出来るばかりか、悪い予感を避けて幸運をゲットできると云います。要点は気の活用のようです。
小林真央さんのように”絶対に癌に負けません。宣戦布告して家族や歌舞伎ファンを味方にして正々堂々と闘病生活する事は経験知からしても勝利の可能性が高いと思います。釈迦やキリストが掌を翳して病気を治癒したのは奇跡では無くて掌から発した気が病気を克服したものと思うのです。
仏像を拝観すると掌の意味を知ります。
施無畏与願印 (せむい・よがんいん)です。左手で生の願い聞き入れて, 右手で衆生の怖れ慄き除くのです。如来 の掌から発する気を示しているのです。私が学生の頃「第三の目」と云う書籍が出版され話題になりました。
額に三つ目の目がある聖人が出現したのでした。聖人は第三の目で衆生の病を見極めて掌を患部に翳すと瞬時に完治してしまうのでした。
手塚治虫さんは「仏陀」を上梓されました。釈迦の前世の少年は第三の目も有して未来を予知する事が出来ました。

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これは唐招提寺の廬舎那仏左手が与願印で衆生の願を聞き入れてくれます。そして右手で衆生の願を実現すべく怖れや慄きを無くす施無畏を結んでいます額の水晶は白毫相という第三の目です。第三の目は可視光線では無くて気を感知する眼だと思うのです。

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これは秦野の日向薬師の薬師三尊像です。前の時代の釈迦如来等と右手左手はチェンジしています。薬師如来は右手の掌で衆生の願を聴いて左手の掌に乗せた薬を差し出しておいでです。施無畏与願印の区別は左右と云うよりも掌の形で覚えないと間違えてしまいます。



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薬缶にみる民芸のデザイン

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私の兄が館林(栃木県)の税務署長に赴任した時の事でした。
父が兄に言いました。「館林の茂林寺」は親戚だから任地では挨拶しておくように!」
栃木県には真名子に叔父が居ましたので、改めて親戚が多いのに驚きました。
そんな次第で茂林寺さんには私は何度も行きました。
昨年も今頃の季節に船越桂(彫刻家)を鑑賞に行ったので立ち寄りました。
茂林寺と云えば分福茶釜で有名です。
【御伽草子の分福茶釜】
先ずは分福茶釜のお話を想い出してください。御伽草子では次のようなお話でした。
茂林寺の和尚さんは骨董品が大好きでした。ある時足利の街(鑁阿寺?)に出て穢い茶釜を買って寺に持ち帰りました。あんまりに汚いので小僧さんに茶釜を磨くよう命じます。小僧さんが洗っている途中に茶釜が痛がります。そこで和尚さんに報告しました。和尚さんは茶釜を水で満たし囲炉裏の火に懸けたところ、何事もなかったので「雑念があるからだ」と小僧さんを叱りました。しかししばらくすると茶釜が熱さに耐え切れず動き出したので気味が悪くなった和尚さんはたまたま近くを通りかかった貧しい古道具屋に茶釜を売ってしまいます。古道具屋はその夜奮発して鯛を買って、食べようとしたところ鯛が無くなっていました。途方にくれる古道具屋でしたが、茶釜を背負ったタヌキが「魚を食べたのは自分です」と白状しました。茶釜は狸が仲間との化け比べで負けて元に戻れなくなったタヌキが化けたものだったのでした。
同情した古道具屋はタヌキが元に戻れるまでの間家に泊めることにする。 タヌキはお礼に、綱渡りをする茶釜で見世物小屋を開くことを提案するプランが大成功して、古道具屋は豊かになり、タヌキも寂しい思いをしなくて済むようになりました。

茶釜の福を受けたのは屹度茂林寺の和尚さんだと思っている人が多いのではないでしょうか?
実は和尚さんは情が薄いので折角のチャンスを失ったのです。逆に福をゲットしたのは情け深い古道具屋でした。
【分福茶釜の解釈】
私話の素材は室町時代です。
茶釜の役割からして。お茶室で使われる湯沸しの茶釜だったのでしょう。
茶室の主は抹茶を点てる為に茶釜でお湯を沸かします。「分福」の名は柄杓でお湯を茶碗に注ぐ動作が客人に福を注ぐ仕草だったのでしょう
茶釜は全体に球形です。丸は福に通じます。
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茶室の軸は熊谷守一画伯の筆丸は茶室でであった人の関係を丸く収めるモノであり福を分けるモノである事かラ好まれたものと思います。写真は白州正子さんの「花日記」でご自宅の庭に咲いた花を生けたものです。茶花は椿と蝋梅で花瓶は平安時代の渥美壺と説明されていました。
南部の鉄瓶の工房で観た事があります。茶釜も鉄瓶も砂で型を作って出来た隙間に溶けた鉄を流しいれて作る鋳物の工房でした、あの球形はコンパス状の道具を使って砂型に球形を刳り抜く事で出来ます。丸の発見は火起し作業だったと思います日本では火起しを回転摩擦式発火法でした(インドネシア等では直線的な火溝式。
縄文時代から日本列島の住人は丸に馴染んでいたのでした。お相撲も四角い台座の上に土俵は丸です。囲炉裏端と同じ四角の中に丸です。
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此方は南部鉄の茶釜です。写真出典古美術佐々木http://www.kobijutsu.ne.jp/products/detail.php?product_id=450。鎌倉時代には我国鋳物技術は鉄仏まで作っていました。

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これは茂林寺境内の分福茶釜のデザイン益子焼
分福茶釜を「鶴の恩返し」に似た「狸の恩返し」と思っている人多いと思います。御伽草子では舌切り雀と同じように情が大事といった説話だったのです。
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これは南部鉄による鉄瓶です。野口英世は自在鍵に吊るした鉄瓶で火傷をしてしまいました美しく美味しいお湯を沸かしてくれる鉄瓶でしたがユーザーにとっては問題もありました

南部鉄は現代日本を代表する民芸品です。
民芸と云えば柳宗悦さんを想い出します。
明治の工業化を目の当りにして柳氏は民芸運動を起します。
名著「工藝文化」では産業革命によって量産化された機械を使った生活用の製品と手作りに依る製品(工業製品)を峻別します。工業製品は資本家の利益を極大化させることを宿命にしていますからその美しさを犠牲にします。一方匠の手やシンプルな道具を使ってハンド・メイドされる民芸品は匠の美意識が生きていますし、使う人の愛着も吸い取ります。作者と使用者のリンゲージが在ります。作者は使用者が使い易い様に腐心します。結果的に球形になる事が多いのです。茶釜で云えば出来るだけ沢山のお湯を一度に沸かして冷めない様にするし。4畳半の狭い四角い空間を和ませるには丸いシンプルな格好が選択されました。
柳宗悦氏は民芸品の美を指摘したうえでも工業製品の価値も認めます。民芸品は一部の特権階級や金満家の嗜好を満足するモノになりやすいのに対し。”工業製品は多くの貧乏な大衆に生活用品を提供する便宜を図っている”と指摘するのです。そして工業製品でありながら民芸品の美や「作家とユーザーの交流」を大切にしなくてはならないと力説されます。”工業製品のデザインこそ大切だ”主張されました。
柳宗悦氏は息子の柳宗理氏を日本を代表するデザイナーに育て上げます。
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これが柳宗理氏デザインのアルミの薬缶です。此処まで生活感が滲んでいると尊敬してしまいますもう付喪神(つくもかみ)が宿っていそうです。我が生家の薬缶もこんな風に傷んでいました。これに甘茶を入れて本堂の縁側に置いておいて”お好きに飲んでください”としていました。今春三春に行くと魔法瓶が置かれていて紙コップを使って”飲んでください”呼びかけていました。
柳宗理氏のデザインで代表するモノが薬缶でした。
我が生家にも柳宗理氏の薬缶が在りました。薬缶に1升の水を入れて石油ストーブの上にかけて置けば何時でも焙じ茶を出せました。
鉄瓶の方が美味しいお茶が湧かせたかもしれませんが鉄瓶は火傷をするリスクが多いのでした。
鉄瓶の欠点を補正し使いやすく美しいデザインの薬缶は評価されて昭和の茶の間には必須のアイテムになりました。今でも薬缶は東寺の骨董市に行けば見漬けられるでしょう。今はIHヒーターで使える鉄製が主流です。派手なイタリア製の湯沸しがシステムキッチンには似合うのです。柳宗理さんの薬缶はこの冬のラクビーを見ていれば小道具として出て来るでしょう。女子マネージャが薬缶に水を汲んで失神したラクビー選手のおでこに水をかけます。すると寝転んでいた選手がスックと立ちあがるのです。宗理さんの薬缶は字の通り魔法の薬が溶け込んでいるのです。
もう昔の事(2003年)になってしまいましたが三宅一生氏が中心になって「東京にデザインミュージアムを作ろう」と云った運動をされていました。当時の首相は小泉純一郎氏全く聞き耳を持ちませんでした。肝心の東京都知事は石原 慎太郎(いしはら しんたろうサンでしたが、当時はバブル破裂後の経済立て直しに必死で目先の「新銀行東京」や「歌舞伎町の浄化作戦」や「違法滞在外国人」問題でした。その後のリーダーも映画やコミックに関心が高くデザインに対しては無頓着でした。
でも三宅一生さんは諦めないで「東京にデザインミュージアムを作ろう」運動を継続しておいでです。http://www.2121designsight.jp/program/design_museum_japan/東京オリンピックのアフター対策として「東京デザインミュージアム」も考えて欲しいと思います。
今年の運動を観ると三井不動産が協賛しています。東京ミッドタウン(三井不動産)に行くとデザインの力を印象付けられます。経済対策は目先の姑息な手段では無くてデザインの文化力です。高々薬缶でも日本には室町時代からの文化の堆積が在るのです。

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これが今年の「東京にデザインミュージアムを」運動のポスターです出典は本文中

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大仏の顔に観るペルソナ

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NHKテレビののヒストリアで京都大仏を報じていました。
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NHKのテレビ画面、奈良大仏は千五百年の間に二度被害に遭いましたが京都大仏は五百年の間に4代も入れ替わったのは驚きです。
天正の大地震(1595)に驚いた秀吉が人心の混乱を収める為に奈良に真似て京都に大仏を作ろうとしたのが始まりでした。これが最初の大仏でしたが、大仏とは名ばかりで木製の張子のようなモノだったのでした。張子の大仏の表面は金箔が貼られました。ところが秀吉の大仏は慶長伏見大地震( 1596年)で倒壊し灰になってしまいます。高校の授業でこの時怒った秀吉が大仏めがけて弓を射ったと習いました。矢が自分に戻って来たのか翌年秀吉は亡くなります。
豊臣秀頼は父の遺志を引き継ぎ奈良大仏と同じ金銅仏に着手します。秀頼の大仏は慶長7年(1602年)に火事で溶解してしまいます。家康は江戸城や二条城を建築した中井清正を派遣して京都大仏を完成させます。慶長17年/1612年)3代目の大仏も寛文2年(1662))の地震で小破し、木造で造り直されることになります。この大仏は都名所図絵等に良く書かれていて高さは六丈三尺(約19m)で、奈良大仏(14m)よりもかなり大きかった。しかし、寛政10年(1798年)大仏殿に雷が落ち、本堂・楼門が焼け、木造の大仏も灰燼(かいじん)に帰します。
第4代目の大仏は京都の町衆が中心になり、旧大仏を縮小した肩より上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進します。しかしこれも昭和48年(1973年)深夜の火災によって焼失しています。現在の京都博物館や隣接公園の敷地が大仏殿の跡です。
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京都大仏の大仏殿の跡に建てられた京都博物館。大仏殿の柱が建っていた礎石の位置を示すモニュメントが配置されていました。
テレビで昭和48年に焼失した木造の大仏さんの顔を観ました”この顔何処かで観た記憶が在る”直感でした。
寛永2年(1705年)に東大寺大仏殿を再建した公慶上人のお顔です。
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これは4代目京都大仏のお顔、作ったのは京都の町衆でした。木造で張子のお顔でしたから細長くなるのは仕方無かったのでしょうが、それにしても少し無気味なお顔です。昭和48年に焼失してしまいました。写真出典前と同じヒストリアの画面。
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これは家康が中井清正を派遣して完成した大仏殿。現在の東大寺大仏殿もこの桃山様式の建物で矢鱈に唐破風が目立ちます。屋根の瓦に窓が付いているのは「大仏様のお顔はこの位置」と案内しているのでしょう。出典は前述と同じテレビ
東大寺の大仏も京都大仏もその時の権力者が求心力を高める為に大仏を建立したのです。顔は和辻哲郎の言われたように(面とペルソナ/http://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49911_41926.html)、
顔には人格を表現する役割が在ります。現代を生きている私達は「人格」とは「個性」と同義に使っていますが、人格とは個性と云うよりは役割です。手紙の字を観て差出人の顔を想い出すように。顔には差出人の人格を象徴する役割が在ります。
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これは青いインクが美しい白州正子さんの原稿です。この字を観ると若くて才気利発な白州さんの顔が浮かびます。字には顔には作家の人格を想い出させ、その顔は作家の人格を象徴する役割が在るのです。出典白州正子著花日記)
私達は仏像のお顔に時代時代の特長を覚えます。飛鳥時代、白鳳時代の仏像、天平時代、鎌倉時代の仏像、各々のお顔には時代の美や理想を表現しているものと思っています。飛鳥時代の仏像のお顔に聖徳太子の面影を、奈良薬師寺の諸仏持統天皇の面影を認めます持統天皇の歌を詠むと樹下美人図の丸顔を想います。
顔には時代の全体像を代弁する機能が在るのです。
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我国歴史上の大仏の変遷大仏の顔は時代の政治社会文化を象徴しているのです。同じ大仏でも「誰が何の為にどんな大仏を作ったかを整理しました。

昔戴いた手紙を読む時には当時の差出人の顔が思い浮かびます。恋人の顔は永遠に若々しいのです。それは顔が人格を象徴して記憶させているからです。

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こちらは興福寺の仏頭(伝山田寺本尊)この丸顔で青年のお顔は天平時代初期の社会文化を象徴したもので聖武天皇の大仏さんのペルソナだと思います。
この意味では町衆の顔は京都大仏のお顔だったのでしょう。聖徳太子や持統天皇や聖武天皇の人格を表現する役割は期待されていません。町衆の顔ですから歌舞伎役者の顔で十分だったのでしょう。そう思いながらテレビの京都大仏4代目の顔を観ていると何処となく写楽の顔に似て見えてきます。
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これは写楽の役者絵昨今は写楽の絵は人間の個性を的確に捉えて浮世絵にした、として高く評価されていますが。それは現代視点で江戸時代を見返りした人の指摘で江戸時代の町衆にとっては個性では無くて「粋」とか「いなせ」といった美的な価値観の表現であったと思います。個性の尊重と云うよりは町衆と云った共同体の美的価値観です。
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これは私達が見慣れた東大寺の大仏様(3代目)そう思ってみると京都大仏にも写楽にも似た印象が在ります。それが江戸時代のペルソナです。



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愛おしい狸

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毎月デーサービスの食堂に掛けてある献立表に絵を添えて来ています。昨年11月に始めましたので11月で丸一年になります。数えてみれば12枚も絵を描いた事になります。コツコツ進める事に勝る成果は無いようです。
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これは昨年の11月の献立ボードの絵素材は「木守柿」でした
10月の絵は「証城寺の狸囃子(しょうじょうじのたぬきばやし)にすることにしました。千葉県木更津市の證誠寺に伝わる「狸囃子伝説」に想を得て、作詞:野口雨情 、作曲:中山晋平の名コンビで1925年(大正14年)に童謡「証城寺の狸囃子」が発表されました。私の父はこの童謡が好きで十八番にしていました。酒席で唄い始めると”「狸坊主がセルフソングを歌い出した”と受けていました。そのうちに英語の替え歌のレコードを買ってきて熱心に聴いていました。
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これがデーサービスの献立ボードです。この絵を毎月差し替えて来ました。来月で1年になります。
でも、私は英語版(マンボ調)の「証城寺の狸囃子」を聴く機会はありませんでした。
栃木の真名子にある洞雲寺は叔父(父の弟)が住職をしている山寺でした。叔父は狸では無く小学校の教師も兼任でしたから兎か山羊のような人でした。その叔父の寺の本堂の床下に狸が巣を作っていました。6月になるとまるで飼い猫の様に縁の下から子供を5.6匹連れて出て来るのでした。お墓に供え物の牡丹餅は上がるし、乾いているので本堂の床下は狸の夫婦にとっては最高のロケーションでした。狸の夫婦は何時も連れ添っていて狸の喧嘩(メスを奪い合う)は観た事がありませんでした。狸を観ていて感心するのは糞を縁の下でしないのです。山の中に行って糞をします。猫や洗い熊は良く似ているのに処構わず糞をします。臭くて臭くて閉口しますが狸にはそんな致命的な悪行はありません。
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街の居酒屋には狸ちゃんが親爺を誘っています。美味しい季節です、雉鍋や猪汁は美味くても狸汁はいただけません。
不思議なのは狸汁です。狸は悪食ですから肉は臭くて臭くて食えません。どうしたら狸汁になるのか疑問です。そんな生態ですから総じて人間と狸は良い関係でした。分福茶釜の狸も人間に福を授けてくれました。狐と狸の化かし合いと云いますが狐も狸も総じて人間に福や豊作を授けてくれる良い獣です。
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これは月岡芳年の分福茶釜の絵
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これは館林の茂林寺に置かれている益子焼の分福茶
唯一つ「かちかち山の狸」だけは悪役になっています。
でもかちかち山の狸も最初に爺さんに掴まって狸汁にされそうなところで、婆様を騙してババア汁にして爺さんに食わせるのですから、悪のは爺様と云う事になります。
ところで「証城寺の狸囃子」を描いている最中に分福茶釜を素材にブログをアップしたので、証城寺と描くところを茂林寺と書いてしまいました。
そこで已む無く狸囃しの他に茶釜の狸とかちかち山の狸を掻き加えました。
我が生家では狸は棲息していません。多分裏山は「イタチ山」に続いていたので。狸は攻撃的なイタチに追いやられてしまったのでしょう。鎌倉山には狸が居るので「塵出し注意」の彼方此方に吊るされています。
我家のお隣のお婆さんがそのまた隣のお百姓の物置小屋ににハクビシンが巣食ったので、私に物置を取り壊すよう言ってほしいようです(私は10年も町内会長をしていたので、未だにソンなことを言ってくるのです。。私は”ハクビシンでなくて狸なら良いのに”思いましたが・・・・・期待通りには行かないものです。
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これが10月の献立ボードに添える絵です。和尚さんは私の父に思いを馳せて描きました。でも本堂の扁額に茂林寺と書いてしまったので分福茶釜とかちかち山の狸を描き加えて狸のオールスターにしました。

昨年は「狼の民俗学」を調べました。狼も面白いけれど狸の方がもっと面白そうです。


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お七夜を民俗学する

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9月19日に娘が出産しました。9月19日を陰暦カレンダーで確認すると、月齢17でした。9月19日は九十九(つくも)と読めますから何時久しく幸せになれそうです。でも娘夫婦は。中々名前を発表しません。訊けば”既に決めてあるんだけれどお七夜になったら発表するの”なんて言います。
私達夫婦は3人子供に恵まれたのでしたが、お七夜をした記憶がありません。何時も現代風の娘夫婦がいつから古風になったのか驚きました。
夕飯は赤飯に私の好きな筑前煮に鯛のお刺身でお祝食です。
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これがお七夜の祝膳でした。私の子育てではお食い初めの記憶や初宮参り(北海道神宮)の記憶はありますが。お七夜の記憶はありませんでした。
赤ちゃんは籠に入っても食卓の傍に置かれました。婿さんが式紙に名を書いて命名しました。
その瞬間に七夜の意味が解りました。
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お七夜は命名式も兼ねているのでした。籠に入れられた赤ちゃんはこれからこの名で一生を過ごすのです。
ネットで調べるとお七夜は昔の子供は早逝したので7日も生きていたお祝と説明していましたがそれは吟味が浅く民俗学的には当ブログの通り体に魂を迎い入れて人格が始まる祝の夜の意味だと思います。
この夜赤ちゃんの体に魂が入ったのです。
出産してから7日間赤ちゃんの身体は単なるキューピー人形のようなモノで身体(殻だ)だったのでしょう。この夜空から魂が身体に入って漸く人間になったのでした。
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これは空蝉です古代人は空蝉を観て身体(殻だ)とハート(魂)の2者を思いつき人格はこの2つが合体した時に始まると思ったのでしょう。
和泉式部の有名な歌に身体と魂を意識した歌が幾つもあります。
物おもへば沢の蛍も我が身より
       あくがれいづる魂かとぞみる
大凡の意味は『貴方が恋しくて思い悩んでいるので貴船川に飛んでいる蛍が自分の魂なんじゃないかと思われます。藤原保昌もこんな歌を贈られて観念した事でしょう。”自分は式部姫の物の怪に囲われた”と。
私の父は「正躬」と云いました。私は正敏ですから、私だけが父の名を一文字引き継いだことになります。5人兄弟で私だけが父の名を引き継いだことは自慢でした。
「躬」の字は滅多に使いません。僅かに凡河内 躬恒(古今集の選者)の名に使われています。【実践躬行】と云えば『理論や信条をそのとおりに自分自身で実際に行うこと』です。
父が常に言行一致して”体も心も頑強の人物だったか?”少し疑問です。実際は”お恍け坊さん”と仇名されていた処からすると名は体を表わさず、逆になったのかもしれませんが。
刑務所の教誨史だった祖母らしい名付けでした。
先日「面とペルソナ」を書いたのですが「名前とペルソナ」も有意味だと思います。
これからの一生孫はこの名で人格を象徴されるのですから。名前と人格は一致している方が良いに決まっています。私の好きな「良寛」さんの名は人格(作品やエピソードで知られている)を的確に象徴しています。
そんな訳で「お七夜」とは赤ちゃんの体に魂が入る夜の意味なのでしょう。だから親も祖父母も赤ちゃんの体を見張って悪い魂が入らない様にウォッチしなくてはなりません。かぐや姫は満月の夜月に帰ったのでしたが。お七夜の夜に月から魂が身体に降りたつのです。
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十五夜の夜、月に帰るかぐや姫(竹取物語(土佐広通、土佐広澄)
式紙に名を書いたと思ったら婿さんはネットで出生届を送っています。。テクノロジーの進歩と共に社会は急激に変化してゆきます。しかし親が子を想う気持ちは変わりません。此処が不変であるからこそ、人生は生きるに値するモノなのでしょう。
ワイフも娘の子を抱いて嬉しそうです。私も漸く藤原道長の気持ちが解るようになりました。娘の子供は息子の子供以上に可愛いのです。
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手形足形を採られた赤ちゃん
赤ちゃんは手形と足形を採られて不機嫌でした。
魂も入って臍の緒も取れて一人前になって行くようです。
私もこれからの人生を余生等と呼ばないで、一刻値千金にして行きたいものです。少なくとも娘の子に会えて更に七夜の意味も解って、生きていればラッキーに続々巡り会えます。
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孫を抱いてワイフも嬉しそうです

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内視鏡検査

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9月25日は私の癌検診、内視鏡検査の日でした。病院は胃を切除したのは2012年6月でした。その年の4月に身延山に桜を観に行き帰宅後吐血、湘南鎌倉病院に緊急入院、癌研にセカンドオピニオンを求め両病院共に全摘を指示されました。そこで湘南鎌倉病院での摘出を決定しました。しかし、実際に手術の段になって当時癌研から湘南鎌倉病院にスカウトされていた執刀医が「胃噴門部胃癌なので、胃の半分を摘出する方針」を示され、私も同意しました。手術は無事に成功し私は21012年6月22日に退院しました。
以来3か月毎に痛飲して検診して来ています。と云っても二度に一度はエコーで次が内視鏡検査です。手術直前の内視鏡検査(所謂胃カメラ)は胃カメラが呑み込めなくて苦しくて困りました。喉から出血してしまうのです。装置を観ればオリンパス製で同社は当時粉飾決算を10年以上もしていたことが発覚、検察がマスコミを操作するように経営陣の作為を発表していました。今の東芝の様に俎板の上の鯉状態だったのでした。
ですから”オリンパスは嫌いだ、早くキャノンが同社を傘下に入れれば良いのに”思っていました。
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これは2012年6月胃癌手術で湘南鎌倉総合病院に入院していた時に撮影した病室から富士山の景色。この2年余り後私は脳梗塞でこの病院に入りましたが。胃癌の入院は手足が利きますから、脳梗塞に較べれば楽なモノでした。この時のブログは次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/1050570.html?m=lc&sv=%B0%DF%B4%E2&sk=0

ところが退院して2年余り後の2014年12月私は脳梗塞を発症してしまいます。救急車で運ばれたのは同じ湘南鎌倉総合病院の脳神経科でした。
私は主治医から厳しく叱られました「胃癌を手術した人は多くが脳梗塞を発症するんだ!内科外科医なんか脳梗塞を知らないから。患者が自分自身でケアしなければいけない」
私は3か月検診で血液検査もしていましたから、斯様な指摘には憤懣遣るかたない想いでした。でも文句を言っても始まりません。
私の執刀医は徳洲会事件で病院が混乱する中同病院を辞めてしまいました。私は以来癌の再発を懸念して湘南鎌倉s皇后病院には欠かさず3か月検診に通院しています。
去る9月25日が内視鏡検査でした。
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朝9時の湘南鎌倉総合病院の1階ロビー。リゾートホテルのような吹き抜け大空間です。この建物は日建設計と熊谷組の作品です。
私の予約時刻は朝9時でした。私が通った学校の生徒と共に大船駅西口に降りたって送迎のマイクロバスに乗り込みます。内視鏡検査室は2階です。数枚の検査承諾書や既往症や服薬報告書等書類を沢山提出します。セルフで血圧と呼吸回数の検査を行って、内視鏡控室に行きます。
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これはセルフの血圧と心拍の測定器です。右手を突っ込んで左手で緑のスイッチを押すと計測が始まります。オムロンのこの装置はユニバーサルデザインではありません。私の様に左手が不自由だとスイッチが押せないのです。スイッチを手前に置けば良いのですが。でもリハビリの成果でセルフ計測が出来ました。此処で私は杖を置き忘れて診察室に入ってから気付いたのでした。
控室でコップ一杯の水を飲まされます。ポカリスェットのような飲料で。看護婦の話では胃の中の泡を消す薬だそうです。何のことは無い「界面活性剤」のような効果のある飲料なのです。でもこの日はグレープフルーツのような味がしました。
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10室も並んだ内視鏡診察室私の新札は5番ルームでした此処の青いベンチで胃の泡を消す薬を飲まされます。此処に坐って居る人はみんな緊張で顔がこわばっています。
私の検査室は5番でした。「今日は運が良い5番とは皆ゴーゴーで軽くて済みそうだ」予感がしました。その途端に私は杖を何処かに忘れて来た事を想い出しました。”先刻セルフで血圧測定した処に忘れたに違いない”話すと。看護婦は眉を曇らせて先生は検査室でお待ちですから真っ直ぐ5番検査室に入って下さい!
”こんなリハビリ爺さんを一人で検診させるとはどんな家族なんだ?”言いたげに「お付添いは居ないのですか?”質問します。
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これは私が忘れた信濃の折り畳み杖です。
私は”娘が初産を辻堂の病院でしたから・・・・、ワイフは孫と一緒です”言った処。最近新築された辻堂駅前の湘南藤沢徳洲会病院」と早理解したのかご機嫌でした。
機械装置は4年前と全く変わらないのに内視鏡検査は楽に終わりました。5番の検査室を出て医師に結果を聴きます。「全く問題は無い!」内視鏡医の診断書と写真を貰いました。
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これが内視鏡科での診断書と写真。写真の右上(白黒)は胃から食道を観た写真です左上は胃から十二腸を観た写真です。二つ穴が開いているのは上が12指腸で、下が食道からのバイパスです。どれも綺麗で心配はないそうでした。
「これがあれば家族も安堵します」お礼を言って診察室を出ました。すると件の看護婦が出てきて喉の麻酔が効いていますからこれから暫くは飲み食いしない様に唾液が貯まったら呑み込まないで吐き出してください、誤嚥したら大変ですから・・・言います。そんな訳で私は30分間休憩室の豪華な椅子の上で過しました。
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これは湘南鎌倉総合病院の外部評価です。医師や看護婦の評価が高く事務員の評価に勝っているようです。それに大半の患者が診察まで待たされる時間は30分以内です。
件の看護婦が遣って来て私の左腕の血を確認します。鎮静剤を打った針後の出血が止まらないのです。
私は”プラザサキ/阻害剤を服薬していますから血が止まらないのですよ”言うと看護師は”ジャア×にしておきましょう”と笑いながら大きな絆創膏で注射針の傷口を塞いでくれました。
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豪華ソファに座って喉の麻酔が醒めるのを待ちます。写真は鎮静剤を打った注射の跡この後私は大目立ちの×マークに絆創膏を張ってモーニングサービスに向かいました。
装置は同じでも随分楽で気持ち良く3か月検診を終えました。今朝は何も食べていないので院内のドトールでモーニングサービスを戴いてワイフに電話報告して帰路は大船駅東口を回ってバスで帰宅しました。
改めて病院で一番大切なのは最新鋭の機械装置では無く、患者に寄り添う気持ちやシステム所謂ソフトに在ると確信したのでした。色々お騒がせだった徳洲会グループでしたが、経営は堅実なようです。ドトールから電話するとワイフの声が弾んでいました。
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10時過ぎの病院内のドトールコヒー


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櫟野寺の秘仏を拝観する。(仏像を観る眼)

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現在東京国立博物館(本館特別5室)にて、特別展「平安の秘仏」-滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち-が開催されます。そこで、研究会の仲間を誘って観に行きました。

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上野の国立博物館も秋の気配が濃くなってきました。
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これが19日観て来た東博の平安の秘仏展

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東博1階の第五室(一番天井が高い)で展示されていました。混雑はソコソコで快適でした。
”瀬田川の渓谷に延暦寺末寺が在って、延暦寺の創建や安土城の木材を伐り出した”そんな話は聞いていたのでしたが、そのお寺が櫟野寺と云い、「櫟」とは「イチイ」の樹の事であると新聞で読みました、良い材木になるので一位と云う官位を授かったのでしょう。日本の材木で云えば堅さでいえば「樫」や「欅」が一番でしょう。光沢や香りで云えば「檜」が一番、腐り難いのでは「栗」か「柿」でそれら並み居る材を押しのけて一番なのですから、大した樹です。
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これは展示されていた仏像20体のお顔です観音や地蔵や薬師如来の状態は良いのですが多くの菩薩や天像は落剥褪色が目立っていました。結果鉈彫りのような仏像もアリ。貞観時代の密教の雰囲気を良く残していまあした。
櫟の樹は高山に行けば良く見られます。高山の工藝「イチイ一刀彫」の素材になっていますし、春慶塗のお盆も材は櫟です。櫟の樹は野麦峠の熊笹に生育しています。なんで櫟の樹が一位なのかズット考えていました。木肌が白くて木目が綺麗な事、そして漆の乗りが良い事。所謂壇木だから仏像、とりわけ念持仏に最適であるから・・・・。色入り考えながら東京博物館に入りました。東博の一番天井の高い5号館に櫟野寺の大観音は鎮座していました。金色が眩しく、長い間秘仏として厨子の奥深くに仕舞われていたことはあります。状態は極めて良いのです。加えて仏像の背中からも拝見できます。ライトが11面の頭頂仏も顕かに見せてくれています。博物館で観る醍醐味です。加えてパネルには11面の総てを写して見せてくれています。解説を読むとこの大観音をはじめ20体の菩薩や毘沙門天や薬師如来も地蔵菩薩も吉祥天も全部が櫟の樹の一木作りで平安仏なのだそうです。
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これがイチイの実です。岐阜県に行けばよく見かけます。遠目で観ると槇かと思いますが近寄って確認すればイチイです。木曽路では表札や俎板にイチイを使ったものは高級品です。
私は「櫟の樹」は「白い肌」と思い込んでいましたから金箔や彩色が落剥して素地が露わになった菩薩像が気に懸りました。櫟の樹は古くなると朱色になるのかしら?不思議に思ったのです。そこで学芸員らしき人に訊いてみました。するとその人は電話で学芸員を呼び出して確認してくれました。
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これは飛騨高山の工芸品「一位一刀彫の高砂人形です。白い上品な木肌と美しい木目更に壇像固有の香りが櫟の材を一位と呼ぶ理由だと思います。写真の出典「結納館のサイトhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%82%A4%E3%83%81%E3%82%A4%E4%B8%80%E5%88%80%E5%BD%AB&search.x=1&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa#mode%3Ddetail%26index%3D379%26st%3D14335大凡30万円位で求められます。
「櫟の樹は古くなると茶褐色に変化するモノノ、菩薩の朱色は壁の色がライトに反射して朱色に見えるので、菩薩の下地に朱泥や朱色の漆を使用したモノでもありません・・・・」そんな学芸員の意見でした。
何のことは無い東博が仏像を際立てて見せる為に朱色のパネル壁に朱色を使用したのが原因だというのです。
だったら無難に白か黒にすればよいのに、
私は過年度の東博の壁を図録で確認してみました「仏像/ 一木にこめられた 祈り/2006年」ではグレイが多くメインの仏像は黒壁を背景にライトアップされていました。昨年の「陸奥の仏像展」でも群像の仏像は灰色の壁を背景にメインの仏像は黒いパネルを背景にしていました。朱色の壁は東博では滅多に使用しないのです。今朱色のパネルを使用したのは、密教の仏である事を意識したからでしょう。櫟野寺のある紫香楽の土の色かも知れません。

滅多に使わない朱色を使ったのは一つのチャレンジの様でした。
今回櫟野寺の秘仏展を開催する事情は2030年に33年ごとに実施してきた御開帳になるのを機会に防火設備の整った宝物庫を建てる事になって暫く同寺の本堂を空ける事になったからのようです。
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櫟野寺の11面観音坐像巨大な厨子に収まっていて2030年の33年ぶりの御開帳の前に展示を企画したモノでした。2030年以降は耐火施設に移されて何時でも拝観できるようになるのかもしれません。右手が薬師如来で左が地蔵菩薩です。
今後は何時参詣して櫟野寺の大観音は拝観できることになるのでしょう。
私達は学生の頃から仏像の拝み方について意見を交わしてきました。主流は「仏像は信仰の対象なのだからお寺の臼暗闇の中で拝むべきだその方が仏像の姿が心に刻まれるし、仏像自体にも昔の人に対しても礼を失う事が無い」そんな主張でした、亀井勝一郎氏や白州正子氏を愛読していた人です。もう一派は「博物館のガラス張りの中で隅々まで照らして観る派」でした。ミロのビーナスやダビデ像を観るような目で仏像をつぶさに見ようとする人で和辻哲郎を愛読する群像でした。東博の主催者は今回も迷ったのでしょう。その結果どちらともいえない赤いパネルをバックに菩薩群像を展示したので、朱色に映えてしまったのでしょう。
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此方は展示室別室のビデオ室で個別の説明をしていました。ビデオで見れば材が一位である事が確認できますし。朱色に見えたのがライトで壁の色が写ったのである事も確かめられました。
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これは特別展の記念グッズ販売コーナーに置かれた紫香楽焼きの狸君。先月は近江の観音展(芸大美術館)が在って、滋賀県は上野を拠点に観光攻勢を仕掛けているようです。”アッチコッチに日本の国宝の数は京都奈良に次いで第三位は滋賀県です。それに滋賀は風光明媚で美味です・・・・・”PRしていました。滋賀県の誘いに乗ってこの晩秋に琵琶湖を周遊する計画です。
偶々朝日新聞が昨日この展覧会を記事にしたようで。メンバーの一人が持参していました。私は読売新聞の記事を読んでいましたので、結果的に両紙を読み比べる事になりました。朝日の記事は旅行雑誌風で何の役にも立たない無駄な記事に読めました。一方読売の記事は櫟野寺が延暦寺の末寺であった事最澄が甲賀の山河を修験者の様に巡ってイチイの大木を見つけてその神々しさに触発されて仏像を彫った(お寺の伝説では作者は最澄になっている)と推測しています。同じ素材でも記者の力量は雲泥の差です、朝日新聞と云えば小川と云う優秀な記者が居て学生の頃は触発されたものでした。捏造記事に揺れている中にこんなに差をつけられたのか?と愕然としました。記者の名を確認するとよみうりは東博の展示責任者に寄稿して貰っているのに対し。朝日新聞は記者の名も伏せていました。公告記事でなければ責任の所在を明示するのが良識だと思うのですが。
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これが朝日新聞の櫟野寺展の記事「美の履歴書」仏像旅行案内のレベルです。
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此方は読売新聞の記事9月7日展示の責任者が書いているだけに密教にまで遡って解説しています。ズシンと心に堕ちるものがありました。朝日新聞と比べて勝っているのは記者の力量では無くて企画力の差でしょう。


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十一面観音思慕

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昨日は友人らと揃って東博に出かけ櫟野寺の十一面観音を拝んで来ました。外国人が多いのにも驚きました。彼等は彫刻と云えばブロンズや大理石を素材にしたものを見慣れていますから。巨大な一木作りの観音像を観てどのように思うのか興味がありました。屹度こんな巨木があった日本の国の豊かな自然を羨んでいるのだろうな?思いながら外国人の表情を観察しました。考えてみれば偶々日本の国の平成に生まれた幸運も思い知りました。自宅に戻って横になっても圧倒的な存在感の十一面観音が浮かんで来ました。
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此方が櫟野寺の十一面観音像です。櫟野寺本堂は昭和43年に焼け落ちました。当時この十一面観音は収蔵庫に移してあったので焼けずに済みました。今次33年ぶりの御開帳に合せて、本堂を耐火設備のあるものに建て替えて収蔵庫から本堂に移すことにしたのでしょう。
坐像で高さ5メートル(蓮台を含む仏像自体は3.3m)と云う事は立像にすれば高さ6丈(10m)と云う事になります。奈良の長谷観音も鎌倉の長谷観音も丈六で新しい麻布長谷寺の本尊も丈六です。
櫟野寺では敢て立像にはせず坐像で丈六を実現したのでしょう。
琵琶湖は東西を比叡山と伊吹山にに挟まれていますそして北には竹部島南は瀬田川が流れ出します。
櫟野寺のある紫香楽は聖武天皇が遷都した処です。
紫香楽京を造営した根拠は、政治的事情(天武天皇勢力から距離を置きたかった?」豊かな穀倉地帯であった事と綺麗な豊かな水と・・・色々あったのでしょう。でも魅力の第一は木材資源であったと思います。
大雨が降れば琵琶湖に流木が貯まって。流木は瀬田川から宇治川を経て淀川から難波の海に注ぎます。当麻寺の道明上人は、霊夢を観ます『近江国高島郡より来た楠の大樹が初瀬の神河浦(かみかわうら)という村に放置されている。それで仏を彫るがよい、・・・・・ですがこの楠は、触れた者は必ず祟られていた恐ろしい木だったので長年放置されていました。しかし徳道上人は「霊験あらたかな木こそ仏にふさわしい」とためらいなく楠を譲り受け、十一面観世音菩薩像の造立にあたりました。そうして彫られたのが長谷寺の11面観音なのでした。
櫟野寺の11面観音は辺長谷寺の観音様と似た生い立ち伝説を持っておいでなのです。
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 此方は奈良の長谷寺の11面観音像写真出典JR東海http://nara.jr-central.co.jp/campaign/hasedera/special/sp_jyu.html
全国の11面観音を想い起すと何れも大河の源流に祀られています。
元々観音様はヒマヤラの山峡インダス川の源流で生まれた信仰ですから、似たようなロケーションなのでしょう。
日本中に良く似た山峡があります神通川(常願寺川)は白山から流れ出します。白山は11面観音の霊山です。伊吹山から流れ出す姉川の河口には徒願寺があります。どちらも11面観音が祀られています。
木津川の源流は笠置です。笠置寺も海住山寺も大御堂観音寺も11面観音がご本尊です。室生寺にも国宝の11面観音が祀られています。千曲川には布引観音が祀られています。
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此方は海住山寺の11面観音海住山寺は山号を補陀落山(観音浄土)と云い本堂板絵の補陀落山渡海図は11面観音を中心に天女菩薩が山頂から里に降りてくる見事な絵です。
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此方は室生寺の11面観音菩薩像自体の美しさと併せて彩色や金工細工の見事さに息を吞む美しさです。水源に対する感謝が美しい11面観音像に昇華したと思うのです。

私達が北米を旅すると川に水が流れていないことに気付きます。ロッキー山脈に降った雨は伏流水になって地下を海に注いでいるのです、日本に降る雨は地中に浸みこみ樹の根に溜め込まれ徐々に流れ出します。ですから川は何時も滔々と流れているのです。河口域の沖積平野は何処も穀倉地帯です。穀倉ならしめているのは水源の森林なのです。古代の人はそんな大木の恵みを経験として知っていて感謝していたのでしょう。だから日本中に長谷寺があって11面観音を祀って豊作を祈願したのでしょう。11面観音の信仰が盛んになったのは平安時代の初期でした。貞観の大地震は起るし蝦夷や熊襲が反旗を翻すは天災地変が多発していました。改めて自然の猛威を知った人達は密教に期待したのでした。密教はヒマヤラをルーツにしていましたし、日本でも修験道と云った山岳宗教が存続していました。
近年我が国は天災地変が続いています。11面観音が期待されているようです。
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これは白山山麓にある岐阜日吉神社の11面観音像下地の胡粉が舞妓さんの白皮肌のようで一瞬吉野水分神社の玉依姫像を想わせてくれます。何時か拝観したいものです。再来年薄墨桜や円空の11面観音と併せてツアーしようかと考えています。

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金融機関の役割

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10月1日の読売新聞は「奨学金問題」を解説していました。そして夕刊を観てを観て驚きました。カラー写真入りトップの記事がりそな銀行の内定式の写真だったのです。
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10月1日の読売新聞夕刊のトップの写真はりそな銀行の内定式を報じていました。こんな時期に内定式を挙行する銀行も銀行なら新聞社も新聞社です。自分の都合しか考えていません。そんな行為が社会をそして学生を損ねて居る事へ配慮が無いのでしょうか?
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これは10/1の読売新聞朝刊で奨学金問題と18歳選挙権を概括していました。我が国は欧米に比べると教育費の対GNP比率が低く奨学金も含めて教育費の国の負担を増して当然と云っているようでした。
私は昭和46年慶応大経済学部の卒業でしたが最初の内定をゲットしたのは年明けの2月でした。それが今の学生は半年前に内定式を実施しているのです。これから来年3月まで何をして過ごせと云うのでしょうか?私が好きなカメラ会社に入ろうとしているのを知った家族は「戦争中に軍需で栄えた企業は辞めとけ。金融機関が良い・・・・。と言って長銀の面接に行くよう奨めました。面接では「貴方は大學生活をどう過ごしましたか?」聴かれました。私は全国各地の文化を観て廻った事を話すと自ずと陶磁器の話に転じました。「織部焼や伊万里焼が日本の文化産業であった事を話しました」。
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これが、大阪東洋陶磁器美術館(旧安宅コレクション)の国宝天目茶碗。小浜酒井家の蔵から安宅家そして現在まで変遷してきました。写真出典同美術館のHPhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%A4%A7%E9%98%AA%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E9%99%B6%E7%A3%81%E5%99%A8%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E3%81%AE%E5%A4%A9%E7%9B%AE%E8%8C%B6%E7%A2%97&aq=-1&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
私が偶々大阪支店の管理職に転勤していた頃に頭取が大阪に来られ”これから『安宅コレクション』を観たいと云われて、私が中の島の美術館(現在の大阪東洋陶磁器美術館)にご供をする機会に恵まれました。
頭取は国宝の天目茶碗(国宝)の前で固まってしまわれました。お顔を看れば目から涙が滲んでおいででした。「頭取どうされましたか?」訊いた私に向かって
「君は小浜に行ったことはあるかね?」訊かれました。
私はお水送りの神事や海に向かって棚田が美しかった記憶を話しました。その棚田が今では潰されて広域農地に変貌してしまった愚策は嘆かわしい申し上げました。
頭取は「僕のお爺さんはね、小浜の雲浜城の城主だったんだよ。この天目は窮して売ったモノなのだよ」言われまあした。
その頭取は人格者でおられて、その後、日銀の政策委員に推されて就任されました、まだ日銀が経世斉民の役割に徹していた時代の事でした。私が全国の文化財を巡っていた事や、陶磁器への愛着があることを頭取は御記憶戴いていたのでした。
オイルショックの後安宅産業は北米の石油事業で失敗伊藤忠商事に引き取られていました。天目茶碗は酒井家から安宅家にそして今は大阪市民に点々としてきたのです。

今年の参議院議員総選挙の論戦で奨学金の国家援助問題が沸騰していました。民主党は大学の費用が高いので奨学金の国費負担を声高に主張していましたし、安倍首相も奨学金の国費補助に前向きでした。
それは18歳選挙権の施行を前に票をゲットしたいと云ったバラ播きに他ありません。
”借りた金を踏み倒せ”そんな公約を掲げる政党が誉められる筈ありません。そんな政党が道徳教育を主張するのですから聞いて呆れます。
また喜んで借りた奨学金を踏み倒そうとする学生の倫理観も疑われしまいます。これでは国の財政も国民の倫理も破綻をきたすことでしょう。
私が就職した頃は就職先から支度金が支給されました。
「これからは君は長銀の行員なのだから、身だしなみには配慮しなさい」そんな手当だと思いました。母に連れ添ってもらって高島屋で初めて背広を設えました。当時の背広は初任給程度でしたから、屹度1か月分の給与を支度金として前払いされたのでしょう。”リソナ銀行の内定式では支度金が支給されたのかな?”思いましたが記事には何も触れていませんでした。
”君達はリソナ銀行の内定を受けたのだから、これからは就職活動は止めること!」本音は学生の囲い込み策なのでしょう。もしもリソナ銀行が良い銀行なら「君は奨学金と云う名の借金を幾ら抱えているの?その半分は祝金として当行が肩代わりするから、残りの半分は君が退職する時に支払いなさい、退職金は奨学金の残債を差し引かせて貰います・・・・」そんな話をすると思います。

産業界は就職即戦力になる人材を求めています。安倍首相もGNPに即寄与する学生の教育を大学に期待してます。その意味ではプロ野球やサッカーと似ています。選手だったら膨大な契約金が支給されます。奨学金と云う名の借金は契約金から差し引かれて然るべきです。
内定と云う形で学生を囲い込んだのですから。利益は企業側にあります。受益者が借金を負担するのは理に適っています。
井原西鶴に伺えば「奨学金と云う名の借金は受益企業が支払って当然」と云うでしょう。「その借金を踏み倒そうとする輩はとんでもない!」「花魁の見受金や前借金は楼主が支払うものだし、花魁に旦那が付いて見受けしようというのなら旦那が借金を肩代わりするのは当然。受益者が欲しい人の借金を清算するのが江戸時代の常識だよ「それを踏み倒せなんて云う社会はお天道様に唾するようなもので、唾は自分の顔に戻って来るに決まっているよ」云う事でしょう。
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これはこの夏拝観した六道の辻珍皇寺の閻魔大王像。日本社会は”ウソをついてはいけない生物の命を無闇に奪ってはいけない”といった教えを仏教伝来以前から守って来てその規範性を前提に成り立ってきました閻魔様の前の鏡は浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)と云い亡者の生前の行為を見える場面も隠れた場面も写すビデオのような鏡です。私達は2千年以上もこの教えを引き継いで安全な社会を形成してきたのですから大切にしたいものです。

経済界は日本人の道徳規範性に恵まれています。自己都合(私益)にかまけて倫理観の強さ(公益)を毀損するような姿勢は避けて欲しいモノです。昨日新聞を観ていたら日銀紙幣を飾っていたのは「和気清麿」に「高橋是清」でした。高潔な人物が日銀券に印刷されているのは「信用こそ大切」だと思っていたからでしょう。
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これは日銀券10円の表で和気清麿が描かれています日本銀行は聖徳太子や和気清麻呂等の偉人を使ってきたのは紙幣が信用によって成立していることを強く意識して来たからでしょう。欧米では権威を大事にしてきたので)国王や将軍をデザインにしてきました。裏は猪と宇佐八幡です。写真は日銀HPhttp://www.buntetsu.net/mbc/i10.htm
全うな政治家なら、例えば長岡の牧野藩や米沢の上杉藩ならどうしたでしょうか?如何に窮したと云えども藩民に借金は踏み倒せ”言う筈はありません。
金融機関も国民の倫理観や規範意識が低下したら経営は成り立たなくなってしまいます。貸し倒引当金は私が勤めていた頃は3%が国内基準でした。それを米国並みに8%にしたのでした。長銀が破綻した前後では毎日のように新聞は8%に届かない銀行を書きたてていました。長銀は辛うじて8%に達していました。でもダイエーやノンバンクへの貸付金を不良貸付と見做されると瞬時に3%にも満たない水準に陥り、国有化を宣せられました。3%の引当率は江戸時代300年の経験値であったのでしたが、西部開拓で一獲千金を狙った米国の8%に引き直すのは無謀である事は明瞭です。
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これは長岡の悠久山の米百俵のモニュメント。河合継之助に導かれた長岡藩は戊辰戦争で灰燼に帰します。静岡の蒲原藩は米百俵を見舞いに送ります。百俵の米を早く分配しろと主張する藩士に対し小林虎三郎(佐久間象山の弟子)は米を分配して喰ってしまえばお終い”明日の長岡の為には米百俵を元手に学校を作って明日の1万俵にしよう”と呼びかけます。長岡洋学校であり学制改革によって県立長岡高校になっています。我国は教育こそ大切と云った価値観が江戸時代を通じて染入っています。高島の中江藤樹も長岡もそうでした。そんな伝統を踏みにじる施策は経済学部卒としては我慢できません。
国政で借りた金を踏み倒す事が議論されるような国が将来繁栄する筈はありません。
万引きが社会問題化しているのも納得です。
金融機関の貸倒引当が8%なら小売業も万引き引き当てが必要になるでしょう来年の期末に棚卸資産の8%を引き当てさせたなら・・・・三越も高島屋も売り上げ高利益率は1%前後です自己資本比率15%前後ありますから一気に債務超過にはなりませんが、当期利益は計算も出来ない事になるでしょう。
メイド・イン・ジャパンの非価格競争力は日本人の高い道徳観や規範性に負っています。日本の国に15百万人も観光客が集まるのは清潔で安全な社会にあります。日本の国が伝染病で蔓延し、犯罪が多発するようであれば世界遺産が幾ら多くとも観光客は遣って来ないでしょう。
ん日本社会も企業も日本人の高い道徳性や規範性の受益者なのです。
銀行や政府が自ら率先して”借金は踏み倒せ”と云うが如き姿勢をとることは自らの首を絞める行為です。


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11面も顔が在る訳

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櫟野寺の巨大な11面観音を観てからズット「何故観音様は11面もあるのだろうか?」考えて来ました。
今私が読んでいる白州正子氏の「11面観音巡礼」によると”11面観音ははインドのバラモン教の十一面の暴神であるエーカダシャがルーツであって仏教が日本に伝来して日本の国が稲作を核にした中央集権国家になり古代末期に旱魃や水害が多発し天然痘が大流行すると密教が盛んになり、国も民も11面観音を祀って平安と豊穣を祈願した”。と説明しています。
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最澄が彫ったと伝えられる櫟野寺の十一面観音。一時代前の渡岸寺の十一面観音に較べると頭頂の11のお顔も日本的と云うか柔和です。今日は何故11面観音が日本の観音の主流だったのかを考えます
出雲神話の八咫の大蛇は8つですところがルーツのインドでは11面であったのでした。
外来文化を受け入れるに際しては多くの場合日本の伝統を重んじて来たのに観音のお顔だけは日本流を捨ててインド流を受容したのは不思議です。でも法隆寺に9面観音が残されていることを考えれば沢山お顔があった程度に受け止めて良いのかもしれません。インドでは11と云う数字は特別な意味が込められていたのかもしれません。二ケタの素数ですし、石塔も11です。サッカーも11人です。インダス川の源流に住む大蛇の神は11面で(エーカダシャ)で一気に人間を呑み込む畏怖すべき神大自然)だったでしょう。でも怖ろしい神がソッポを向かれては人間は旱魃で生きて行けません。
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これは鳳凰山の細谷の棚田です。大雨が降って山津波に遭遇しても再び牛馬を使って棚田を復活しています。
善光寺街道に面して沢山の馬頭観音が祀られているのは棚田復興の為に酷使された牛馬の冥福を祈願したモノです。近年も日本各地で山津波の被害が多発しています。山津波の事を”蛇が走った”と云うのは水神(が山を駆け下ったの意味で。山津波の様子が大蛇を想わせたからでしょう。11面観音はこの大蛇をバラモン教では十一面の暴神であるエーカダシャ中国では11面荒神と呼んでいた「荒ぶる神」でした。以前次に書きましたhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%B1%B1%E6%B4%A5%E6%B3%A2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
まるで台風は怖ろしいものの水田を潤してくれる有難い自然現象である事に似ています。
今日はここ数日考えて来た「日本では何故11面観音が最も愛されてきたか」整理してみます。
【十一と云っても正面は聖観音であること】
11面と云っても菩薩の冠部分にある顔は11面であって、正面は柔和な聖観音であること、そして冠部分のお顔は正面の三面は「寂静面」と言い、菩薩の普段のお顔を表しています。
左三面は瞋面(しんめん、憤怒面)と言います。
右三面は菩薩面に似ているが牙をむき出しています。
後ろの一面は暴悪大笑面と言い、邪気を笑い飛ばし寄せ付けない姿を表している。
頂上には仏面と言い、衆生の災いを払いのける力を表しています。
以上のように元来聖観音なのですが。衆生の期待や必要に応じて11のお顔で衆生の前に現われるという事でしょう。
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これは室生寺の十一面観音室生寺の少し上流に室生龍穴神社が在って室生寺自体が水神の霊地に建立されたのでした。十一面観音は水の神と云うよりは山津波の怖れられた地に住む荒ぶる神を穏やかにしてもらう目的で祀られた…と考えるのが自然なように思います。

十一面観音が祀られている処は何処も水源です。室生寺も笠置寺も櫟野寺も芦峅寺(あしくら寺立山の麓)栢野寺(かやのでら白山の麓)も十一面観音が祀られています。と云うよりも立山や白山は山自体が十一面観音と信じられています。
麓の集落が山津波で壊滅すると人々は翌日に嘘のように美しい姿を表した峰に向かって手を合わせたのでしょう。
昨日の山津波は「自分達が邪悪に汚れたので、観音様は怖ろしいお顔を現されたのだ。これからは正しく清らかな生活に改めますので柔和なお顔を表わして下さい」と・・・・。
私はズット十一面観音を次のように考えて来ました
「観音様は変化仏で様々(33にも)に変化されます。それは現世における人間の期待や欲望が多いのでその欲求に応じて変化されるのだ・・・・・。」ところがズット考えて来た結果考えを改めました。変化するのは人間の方で観音様(大自然)は変化はしない。何時も聖観音のように優しく柔和でおられる。ところが人間の姿勢(大自然への接し方)が変化すると、その変化に合わせて観音様は違ったお顔を向けられる。
要するに私達現代人は個人主義に浸り過ぎたので自己中心で考えると観音様を自分の欲求に合わせて変化させてしまいます。でも観音様から見れば人間の方が度々姿勢を変えるのです。そこで怒ってみたり悲しんでみたり大爆笑したりしているのです。
実はこの違いは大きいのです。近代以降人間は自己中心で大自然(11面観音)に接して来ました。ところが古代から近世までは自己中ではなくて国中であったり氏中であったり家族中であったりしました。
【千手千眼観音菩薩】
この夏私は親友と京都に旅行して西村公朝さんの仏像を観て廻りました。西村仏師の著「生まれて良かった」によると。同氏は中国戦線に赴き千手観音の夢を観られたそうです。千手観音は徴兵される直前まで係っておられた33間堂の千手観音で”帰ってきて我の面倒を看よ”と仰せられたそうです。公朝さんは”戦地から戻ったらそうさせて戴きます。問題は生きて京都に戻れるかです”答えられたそうです。舞鶴から京都に帰った公朝さんは一心不乱に33間堂の千体観音の修理に復帰されます。傷んだ千手観音は漆が剥げ金箔が飛散していたのだそうです。公朝さんは塵のような金箔を仏に感じます。そして塵を集めて宝珠にして自身のお守りにされます。そんな機縁が公朝さんを愛宕念仏寺の住職にします。十一面観音が盛んだったのは平安時代初期で全国で新田の開発が盛んな時代でした。日本中で治水灌漑に努力した時代でした。
弘法大師は全国に溜池を造成され灌漑用水の整備に率先されました。
その手順として水源に11面観音を祀ったのでしょう。その百年前天平時代には千手千眼観音が祀られました。私達は千手に眼を奪われますが、千手の掌には眼が在るのです。先日芸大美術館では千手千足観音(近江高月町正妙寺を観ました「韋駄天を自称された白州正子さんはどのように接せられたのかな?」思って熟読したのでしたが触れられていませんでした。
【陰徳について】
私は鎌倉時代に灰燼に帰した東大寺を再現した重源大勧進を調べています。
歌舞伎の勧進帳で弁慶が安宅関で咎められ窮地を弁慶が勧進帳を読んで主君の義経を打擲する名場面です。あの時弁慶一行が重源の書いた「東大寺勧進の趣意書」を携帯して居れば良かったのでしたが、それが無いのでまるで読んでいるかのようにポーズをしたのでした。重源が東大寺再建の国家的大事業を成功させた要因は数多くありますが日本人の陰徳を大切にする民俗的精神を刺激した事が第一だと思います。
陰徳とは人の見えないところでも善行(徳)を施す事です。千手観音は掌(見えない裏側)にも眼があるので陰徳も観ておられると信じて来たのです。貧富の差は無く誰しもが陰徳を積もうと東大寺再興事業に参加しました。お金の無い人は労働奉仕しました。この他人に見えない善行は先般の東日本大震災でも確認された日本人の道徳観です。
公朝さんは33間堂の千手観音を修理しながら陰徳を観る観音様の眼を意識された事でしょう。
数年前中国の舞踏団が来日し千手観音の舞踊をしその見事さが話題になりました。
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中国の舞踊団に依る千手観音http://mydream.ne.jp/art_02.html踊っている美しい女性は皆身体障害者でおられるきいて二度の驚きでした。掌の目は人間には見えない「氣」を観る眼なのでしょう。


私達は自分の眼で確認できない事は無視するようになってしまいました。
古代の人は目視出来ない事も在ると感じていたから。掌にも眼をつけたのでしょう。
”見えないから悪い事をしても良いんだ”思うのと”他人に見えなくとも善行を積む”のでは大違いです。心や情の字で表わされる見えない大事なコトを観る眼は観音様に備わっていますが、人間にこそ大切な目なのです。11面観音に顔が多いのは神は人間を観ていますよ、他人が観ているかいまいかに依らず神は観ていて信賞必罰しますよ…。そんな意味でしょう。


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大仏再建の大義の

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奈良の大仏様を拝むと、まずその大きさに圧倒されます。でも、私は同時に大きな仏を作るために犠牲になった人々が気懸りになってしまいます。聖武天皇が大仏鋳造を思い立たれた時に反対した人がいたのです。山上憶良は
笠置の奥に生まれます。遣唐使として留学後聖武天皇の側近に採用されます。所謂エリートでしたが、、重税に喘ぐ農民や防人旅立つ夫を見守る妻など、家族への愛情、農民の貧しさなど、社会的な優しさや弱者を鋭く観察した歌を多数詠みます。当然帝の施策は農民の一層苦しめるモノでそれを諌めるのでしたが帝は聴く耳を持ちませんでした。そして出来上がったのが初代の大仏でした。
因みに山上憶良の貧窮問答歌は次の短歌で締めくくられています。
世間を憂しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば。
大伴旅人も山上憶良派だったのでしょう。万葉集に憶良の歌や防人の歌を多く取り上げています。
万葉と云う名は沢山の和歌と云う意味では無くて「万民の和歌」の意味なのでしょう。だからこそ尊いのです。
昨今の日本の国は住み難くなっていますのわたしは憶良の歌を捩って
「日ノ本を憂しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」と歌いたい気持ちです。
日本の国は憂いと恥ずかしさで飛び立ちたいと思うのだけれど鳥じゃないので飛び立つ事も出来ない・・・・」

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此方が現代の奈良大仏です飛鳥大仏の5倍の30丈(背丈で30m座っておいでですから15mの大きさです。因みに鎌倉の大仏は12丈です。
聖武帝以前の仏教は氏家中心のモノでした。曾我氏が蘇我一族の繁栄を祈願して建てたのが元興寺であり山田寺でありましたし聖徳太子家の繁栄を祈願したのが法隆寺や四天王寺でした。仏教と神道との争いは氏族の覇権争いの一面であったのでした。しかし中国伝来の仏教は革新的な文化や知識を併せていましたから、仏教が優勢になります。聖武亭はそんな仏教を国家統一のカルチャーにしようとしたのでした。
蘇我氏の元興寺の釈迦如来を圧倒する威厳に満ちた大仏を作って大和朝廷の威信を天下に示し。求心力の中心にしようとしたのでした。良く似た場面は江戸時代にもありました。
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此方が元興寺の釈迦如来(飛鳥大仏」です。丈六仏です(立ち上がれば背丈が6丈約10m)で仏像の基本サイズにになりました。
振袖火事、明暦3年(1657)で江戸城を含んで江戸の街の過半が灰燼に帰した時でした。
幕閣の大勢は江戸城の新築でした。老中筆頭松平信綱(川越藩)は江戸城の新築に反対します。徳川家綱を説いて江戸城の新築を思いとどまらせます。民が苦しんでいるのに江戸城に資金を注ぎ込む事よりも江戸の街を耐火都市に作り替え、回向院を建立に向わせます。
その後の将軍はその施策を模範としたのでしょう。江戸城は一度も再建されませんでした。幕府は江戸城の再建よりも奈良の大仏の再建を優先させたのです。
私達は明治維新政府の検閲した歴史教育を受けていますから。
江戸城の再建よりも奈良の大仏の再建(1708年)を成し遂げた徳川綱吉を「犬公方」と評し「生類憐みの令」を庶民を苦しめる悪法と教わりました。でも現代っ子は誰でも「生類憐みの令」は正しいと評価するでしょう。

鎌倉時代に重源上人のご苦心で再建された大仏様でしたが、重源に勧進の大役を任じた後白河法皇は開眼供養の時には黄泉に逝かれておいででした。重源上人は自分を支持してくれた後白河法皇に見事に再建した大仏と大仏殿をさぞかし見せたかった事でしょう。

重源上人が心血を注いで再建した二度目の大仏も戦国時代の永禄10年/1657年三好長慶と松永久秀の私粉の戦場になって戦火に焼け落ちてしまいました。その後の覇者になった織田信長や家康も修復のポーズは示したものの本格的着手することは無く、奈良は伊勢道や長谷道の宿場町に甘んじていました。

何時も時代も日本人は民族の故郷奈良への愛着は強く江戸時代の中期に二人の僧が出現します。一人が公慶上人で上人は大仏殿跡の叢で雨に濡れた大仏の姿を確認して再建を誓います。公慶は宮津の生まれで東大寺の下級僧でした中々の策士でもあったのでしょう。江戸に出て幕閣に手向山八幡宮の再建の為の勧進許可を申し出ます。すると幕閣は「八幡具も良いけれど最大の課題は大仏伝であろう・・・・!」指摘を受けます。その瞬間に大仏殿再建は幕府事業になってしまったのでした。次いで公慶上人は奈良出身の隆光に会います。隆光は桂昌院(綱吉の乳母)にも近く実力者であったのでした。隆光は若いのに殊勝な僧侶だと思い公慶を綱吉に引き合わせます。
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これは公慶上人像(東大寺/重文)リヤルな肖像彫刻で鰓が張っておられるのは頑固な性格だったのでしょう。充血しているのは眼疾で出血されておいでで皆が心配していたのでしょう。
結果公慶は「東大寺勧進職」の役職を任じられます。東大寺に戻った公慶は蔵の中から重源の使った勧進用具を持ち出します。でも勧進方法は独自のモノを考えます江戸をはじめ大都市や有名寺院に勧進の取次所(江戸では一橋の護持院(一橋大學建学の地)なって貰うのでした。重源さんは各地に別所を用意し第八車に「東大寺大勧進」の幟を立てて廻ったのに較べれば進んでいました講談でも公慶上人や重源上人が取り上げられました。江戸の街でお水取りの二月堂の観音様を開扉しました。方歌舞伎では勧進帳が人気になりました。寺院も吉原の大夫も人気商売で人が集まらなければ始まりません。
近世らしい情報戦略と取次の手法で勧進しようとしたのでしたその姿勢を端的に示すのが公慶上人の言葉です。
一人一人の仏心を集めて大仏を作るのだ
”勧進は幾らしたら良いの”今も昔も誰もが想う事です。その疑問に答える言葉が公慶上人の言葉だったのでした。公慶上人は江戸から朝廷に勧進を願い出ます。大仏殿再建は私事業では無く聖武帝に始まる国家事業だと説明します。朝廷も名門公家も勧進をします。大仏再建は全国民事業になったのでした。2020オリンピックや豊洲市場事業が特定の私企業や政治家の事業と勘繰られています。天平時代も現代も貧富の差がありました。「誰の為の大仏なのか何の為の大仏なのか」明確な事業であったからこそ13百年も前の仏像が再建を繰り返してきているのです。公慶上人も偉かったし、幕府の役人も将軍も大義をわきまえていたから江戸城よりも大仏を再建したのでした。
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これは東大寺の. 五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀如来。大仏殿の裏の勧進堂に前褐公慶上人像と併せて祀られていますので、私達は江戸時代再建の際に大仏のモデルとして彫られた如来坐像と思い込んでしまいます。アフロヘア―が目につきますが。菩薩が気の遠くなる長時間民衆の救済の為に祈っておいでだったので螺髪が巨大になってしまった…、と説明されています。




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障害を考える

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最近相次いで悲しい、しかも根の深そうな事件が神奈川県で建て続けに発生しました。最初の事件は津久井湖の近く「県立津久井山百合園」で刃物を持った元介護職員が浸入し19人を殺害し26人が重傷を負った事件でした。
犯人の動機や思想的背景が明らかになるにつれて何処かに”ネオナチズム”と云うか歪んだ愛国者の姿が浮かび上がって来るだけに背筋に寒いモノが走るのです。犯人は自身の行為が身体障害者と云う社会的なお荷物を抹殺する事で社会貢献すると確信しているのです。一億総働く社会を実現するには先ず働かざる者を抹殺しようとするそんな面影がチラ付きます。「楢山節孝」ではもう働けなくなった老人は姥捨て山に捨て去られます。津久井湖の湖畔山百合や片栗が群れ咲く里山に身障老人が棄てられている其処に狂気の青年が押し入って惨殺している光景が見えるようです。
今日も国会中継では「一億総労働社会」と「介護離職ゼロ」が声高に主張されています。身障者を殺害する事は二つの目標を同時に達成する事になるのです。身障者は働けませんし、居なくなれば介護職員は他の職場で働けるのです。私も脳梗塞で半身麻痺の苦しみを味わいました。政府は「一億総労働社会の実現」をモットーにあげる時に「働きたくても働けない人」の事を考えたのでしょうか?このスローガンには身体障害者を居ずらくする冷たさがあります。
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これは津久井山百合園を訪問している黒岩知事です写真出典は知事のブログ「黒岩日記http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/chiji/p1061216.html」です
被害者の名前が伏せられて数だけ報道している県警や施設の姿勢に疑問を感じました。名前を伏せるのは身障者の身内の世間体に気づかいしているのでしょうか?身障者と云えども立派な人格で今次の不幸を弔う姿勢が欠けています。津久井山百合園の事件が明らかになる前に今度は横浜線の大口駅に近い小小口病院で事件が発生しました。未だ特定の犯人は見つかっていないようですが。
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写真は記者会見する林横浜市長”早く対応すれば良かった”という言葉にはご自身の得意分野での失態と前兆現象に対して厳しく対応して置けば事件は未然に防げたのに・・・・口惜しさが滲んでいました。社員出典横浜市http://image.search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A2RCK.49MPNX9X0AwywdOfx7?p=%E3%81%8A%E3%81%8A%E3%81%90%E3%81%A1%E7%97%85%E9%99%A2+%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E6%9E%97%E5%B8%82%E9%95%B7&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
大口病院の事件は既に二人の患者が点滴注射に界面活性剤を混入させられ内部犯行の方向で県警が捜査中ですが病院の内部管理体制が問題とされているようです。
折しもパラリンピックを観て身体に障害があっても雄々しく生きようとする人間の姿に感動した直後だけに心無い蛮行に心を痛めたのでした。
ところで私は9月19日に娘の子(孫)に恵まれました。今年の桜の季節に娘夫婦が面を併せて”お父さんお話があるんです”と言いました。少なからず緊張したのですが”私達赤chンが出来たのです”言いながらエコー写真を見せました。エコーの写真と云えば私は胃癌の定期検診で観ています。写真には娘のお腹に宿った命の姿を捉えていました。私は娘は何故子供に恵まれないのだろう。心配でしたが意識して触れないでいるうちに適齢期を過ぎていまいました。でも頑健な子供だったし運動も得意でしたから・・まだチャンスはあると期待していましたそれに子供のいない生活は味気ないモノです。この朗報を待ち続けていたのです。念の為確認した処女の子だそうです。エコーで其処まで解るのか?不思議に思いました。
序に「出生前検査」をしたのか訊いてみました。すると娘は毅然として答えました「していません!」”お父さんは何故そんなことを聴くの出生前検査の結果に依らずとも私は産むのよ」言っているようでした。
私は愚問を発した事を悔やむとともに。娘が大人になったと痛感して嬉しくなりました。
お七夜のお祝も終わり日に日に赤ちゃんの泣き声が大きく響くようになってきましたし。指も自在に動かし。足も良く動いて産着を剥いでしまいます。高年齢出産の懸念は払拭されました。

津久井被害者の

棟梁の資質

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此処1箇月東大寺の勧進職の事を考えていました図書館にネットで注文して行基菩薩や重源上人の著を読みました。二人に共通する事があります。二人とも東大寺の僧正【僧のトップ】と云う地位に就いたことと同時に建築工事の棟梁だったのです。棟梁と沢山の大工さんや左官屋さんを束ねるトップですでも、棟・梁の字に疑問を持っていました。「棟」の字も「梁」の字も建物の梁です。建築する時の手順は①基礎工事②柱を立てる工事③棟上げ工事です。棟梁はこの三工事共に指導をします。作業は1、.2.3の順に行います。1がしっかり出来ていないと2は確実に実施できません、3は2までがしっかり出来ていないと行えません。日本は地震国です。柱がしっかり立つ事で地震に強い建物が出来るのでしょう。だから諏訪大社では御柱祭が挙行されるのでしょう。棟梁と云わずして「棟柱」なら柱と梁で建物らしくなります。
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これは鎌倉時代の石山寺縁起絵巻です。瀬田川を見下ろす岩場に鐘(多分銅鐸だった)が発見されたので此処にお寺を建立しようと決まり僧と役人/匠の司)が指示を与えて石山寺が出来ました・・・そんな説明のように思います。東大寺の大仏殿建立の総ての責任と権限を負わされたのが東大寺勧進職でした。既に大八車があって大工は槍カンナや曲尺を使っていました。
昨日の夜体風18号の風が吹いていました。大風でも我が家の屋根は大丈夫かな?少し心配しました。屋根の上のアンテナが吹き飛んでお隣の太陽光発電機を壊したら大事です。その時梁の重要性に気付きました。梁がしっかり付いてこそ建物は頑丈に出来上がるのではない。直下型地震なら柱がじゅうよいうですが。長期地震波は柱と梁の作る構造体が吸収する詩。少なくとも大風を遣り過すのは梁であるのだろう。だから唐招提寺の梁が折れる夢を観た僧が勧進和上の最期が近い事を悟って肖像彫刻を作ったのでしょう。
桓武天皇は平安京の羅生門の建築途上で何度も棟梁を呼びつけて羅城門の庇が大きすぎるので大風に耐えられ無いだろう、庇を浅くするよう命じたと云います(羅生門の鬼)でも、棟梁は天皇の命令に従わずに深い庇の儘竣工させたと語り継がれています。棟梁は大風よりも雨露で建物が傷むリスクを避けたかったのでしょう。
江戸時代の東大寺勧進職の公慶上人の事を調べていたら、公慶上人は先に露座の大仏様を修復させ次いで大仏殿に着工したそうです(大勧進物語吉川弘文館平岡定海東大寺執事長)。その苦労と頑張りは並大抵では無かったようですが。昔も今も地縁人脈が生きて隆光そして桂昌院の支援を受けて現在の大伽藍を復興させたのでした。同著でも大棟の経緯が詳細に書かれていました。柱の用材は集まっても大棟になる大木は中々見つかりません。幕府の役人も総動員して探させると霧島山の麓の白鳥神社(ご神体は素戔男尊)の参道に松の巨木が見つかったのでした。公慶上人は喜んで薩摩に赴き船に曳かせて瀬戸内海から木津川木津から奈良坂を越えて東大寺大仏殿に運びます。幾つも轆轤(滑車)を使って大棟を柱に乗せて上棟式を無事に終える事が出来ました。
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天平時代の行基は最初の勧進職、鎌倉時代の重源も勧進職でしたが、二人とも大工事の棟梁でありました。
写真は東大寺南大門の構造を示す天平時代藤原時代までは梁を柱に組んで構造を為していましたが重源は柱に穴をあけて貫にして梁を単純にしました柱に枡を汲んで庇を支える仕組みを規格化した事も在って建築用材の節約に成功しました。重源は優れた棟梁だったのでした。
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これは藤沢の遊行寺本堂の海老虹梁、広い内陣を作っているので前のめりに歪まないように外陣の柱に海老虹梁で支えています。こうした構造は同じ鎌倉時代でも唐様と云われます。
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此方は民家の屋根裏で確認できる梁です。自然木の栗や松を組んで屋根裏の重量を柱で支えています。屋根の天辺に在るのが棟になります。日本の民家は軸受工法で縦の力を支える柱と横の力を均衡させる梁や棟との均衡の上に成り立っています。棟梁は民家を百年持たせようと思えば百年後の力の均衡を考えて材木の癖を読んで上手に組み合わせなくてはならない神業です。
私は大仏殿の大棟は当然のように檜だと思い込んでいました。と云うのは学生時代に西岡常一さん(当時は法隆寺宮大工)を読んで檜の優れている事を頭に叩き込まれていたのでした。
「まさか東大寺執事長の著に間違いはあるまい」思いながら西岡常一さんの著を読み直すことにしました。物置に在る筈なのですが脚が悪いので探すのも億劫です。そこで図書館で探すと文庫本になっていました。肩書も薬師寺宮大工に変わっていました。やっぱし檜の激讃は変わらず東大寺の大棟が松である事に違和感を覚えました。でも次の件を読むと東大寺の大棟が松である事も納得出来ました。
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此方は現在の大仏殿です。桃山風の唐派風が目立つ建物ですが。最大の難関は大棟を東西に渡す上棟式でありました。先に露座の大仏の修復を終えた公慶上人は先ず柱を立ててその上に大棟をあげました。難事業を手向け山八幡宮の淨域で無血で終えるには棟梁の指揮が適切である必要がありました。
法隆寺の檜は樹齢1300年だったものを伐採したモノであること。500年後の鎌倉時代には我国には既に檜の大木は見当たらず。法隆寺でさえ鎌倉時代の修復には欅や杉等の材が止むを得ず使われている事実、更に500年後であったのであるから檜等見つかる筈無く松(多分滑り松とも呼ばれる赤松)が使用された事。加えて白鳥神社で見つかったと云った吉兆であった事。が考えられます。
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これが読み直した西岡常一さんの「木に学べ」梅原猛さんの「隠された十字架」法隆寺の中門のカンヌキ状の柱は聖徳太子の怨霊を閉じ込めたものだと云った推察は驚いた記憶がありましたが西岡さんにかかると”何の仏教を知らない素人が・・」云わんばかりにケチョンケチョンでした。痛快でした
【素戔男尊のこと】
西岡さんの「木に学べ」には樹と素戔男尊の事について次のように紹介していました。
素戔男尊と云えば天照大神の弟で荒ぶる神です。余りにも乱暴なので天照大神は岩屋に隠れてしまいます。
その素戔男尊が頬の髭を抜いて出来たのが杉の樹で。胸毛を抜いて生えたのが檜で、尻の毛を抜いて生えたのが槇の樹で、眉毛を抜いて生えたのが樟の樹だというのです(根拠日本書紀)だから檜で瑞宮(神社)を建て杉と樟は浮き宝(船)にして槇は棺にしろと云うのです。
松については述べられていませんでしたが。白鳥神社のご神体は素戔男尊ですし、大工さんの神様は法隆寺を建てた聖徳太子です。公慶上人が大棟の用材が白鳥神社で見つかったと云う報告は吉兆と響いたことでしょう。
旧丸ビルの地中柱も赤松でした。大棟が雨漏りで腐る事が多い事から水を弾く滑り松(赤松)は棟に適材だったのでしょう。

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これが大仏勧進物語東大寺の執務長の著ですから間違いや推測は無い事でしょう。私のような美術史愛好者は行基や重源は愛好するモノノ。往々にして現代の大仏や大仏殿を低く視るキライがあります。これは間違いで一番その努力の青果の恩恵に浴しているのです。この著によって江戸時代に命を賭して露座の大仏に本堂を建てられた公慶上人を尊敬するようになりました。
その後5百年で又大仏殿は大修理を必要にしました。原因は雨漏りでした。
考えてみれば家と云う字は屋根の下に猪と書きます。猪は神仏への御供物の意味でしょう。屋根が大事なのです。屋根を支えるのが大棟です。大棟が腐らないように松を使ったのは檜が見つかなかったとはいえ明断でした。公慶上人は先も見越した名棟梁だったのでした。
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これは上棟式のイラストです。前橋の民家再生会社(TDホームのHPからお借りしましたhttp://td-maebashi.com/blog/?p=991昔は上棟式では棟の上からお餅や銭を撒いたモノでした。上棟式が終わると幣にお神酒をかけて棟梁はじめ関係者で祝膳を食べたものでした。

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台風一過喜樹の実拾い

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10月6日(木)は台風一過の青空でした。テレビでは韓国南部の港町の被害をう報じています。台風が北にそれて助かりました。韓国の被災者にはお気の毒ですが、久々の青空です何処かに出かけたくなりました。こんな日はお寺に住んでいた頃は裏山に出かけて木の実を拾ったものでした。裏山には大きな栗の樹や団栗や椎の樹がありましたので。大風の翌朝は誰よりも早く出かけて拾いまくったモノでした。祖母に作って貰った頭駄袋を吊り下げて色々な木の実を拾いました。その裏山も墓地に開発されてしまったので。出かけても蚊に食われるだけです。
ツラツラ考えた挙句に大船のフラワーセンターに出かけました。
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大船観音戦前に着工し、昭和30年頃まではコンクリートの打ちっ放しでした。私が中学生だった40年代に蛍光セメントが開発され現状のように真っ白に出来上がりました。白い塗料を塗った訳でも無いのに何時も純白なのは好きになれません。ましてお顔は法華寺の十一面観音で菩薩の頭頂を11面の菩薩で無く阿弥陀立像にしたところ等大胆に過ぎます。法華寺さんは許可したとは思えません。戦前はこうした事も無頓着だったのでしょう。
バスと電車を乗り継いで隣駅の大船駅西口に降りたちました。此処から柏尾川に沿って1キロも下ればフラワーセンターです。フラワーセンターも財源不足の県は閉鎖の計画もあったようですが。鎌倉市民の猛反対にあって存続しているようです。昔はこのマンションは富岡ハム(現鎌倉ハム)の工場だったな!、随分変わったものだ、思いながら歩きます。豆大福屋さんも細々お店は続けているようです。この通りは”爺婆通り”フラワーセンターに行く爺婆が目立つ通りの意味です。爺婆を見下ろす位置に観音様がおいでです。最近は爺婆目当てに鎌倉ハムさんが応接室を開放して喫茶店にしました。名物は「日本最初のサンドイッチ」で、美味しいのですがバリアフリーでない事雑誌新聞のサービスがが無い事など爺婆のニーズには無頓着のようです。山崎陸橋の向こうに新設されたコメダ珈琲等研究したら良いと想うのですが、このままでは工場に続いて富岡さんのお屋敷も何れマンションに変わってしまうかも知れません。
千代の富岡さんは遊行寺の敵味方供養塔のお隣に「畜産供養塔」を立てられました。現在の鎌倉ハムは遊行寺のお祭りに協賛さえしていないようです。
私達がフラワーxっセンターに入ると丁度保育園児が変える処でした。私と同じように台風一過で木の実(団栗や鈴懸の実)拾いに来たのでしょう。私も保育園児も発想は変わらないようです。
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台風一過の大船フラワーセンター保育園児に入れ替わるようにして入りました。
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秋色が深まった昨日のフラワーセンターです。向こうの銀杏が色づいたら百舌も鳴き出すことでしょう、この日は吾亦紅こそ咲いていましたが、未だ赤蜻蛉は富んで居ませんでした。もうじき虫も蛙も隠れてしまいます。隠れる前に百舌が縄張りを主張します。今朝は寒くなって百舌が啼いています。ワイフに”百舌の高啼き75日と云うから後75日で初霜だよ!お前が高鳴りしたら「怒ったら」1週間で切れるかもね・・・・”言ったら御機嫌悪くなりました。
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これは大カマキリです。もう交尾も終えてお母さんのお腹はパンパンです。早く卵を産んでしまわないと百舌に食べられてしまいますよ

先ず鈴懸の下を通って銀杏の林に行きました銀杏を拾うチャンスがありそうだ思ったのでした。
案の定銀杏は沢山落ちていてアスファルトの上で踏みつぶされていました。
『さて拾おうか!』思って腰を屈めようとすると保育園児が”臭いネね銀杏は、銀杏は臭いネ”鼻を摘みながら通り過ぎました。私は拾うのを止めました。車で来たならトランクに入れておけば良いのですが、帰宅するにはバス電車を乗り継がなければなりません、電車で「臭いネこの爺さん臭いネ』言われたら堪ったモノではありません今度来る時はビニール袋では無くて密封瓶を用意してくることにしましょう。
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銀杏の林の地面は踏み場もない程銀杏が散っていました。飽食の時代だからでしょうか誰も見向きません。黒い実は数日前に落ちたもので黄色いのは新しい実です。臭いのはこの実の果皮で美味しいのは銀杏の実の胚乳です。果皮が腐敗する時の臭いが堪らない悪臭を放つもので。昔は掃き集めて焚け籠に入れて渓流に据えておきました。そうして半日もすれは臭い果皮は水で洗い落されて種子だけが残っていました。滋養分は多いし、貴重な食糧でした。

銀杏拾いは断念して次の狙いは喜樹の実です。私は毎年喜樹の実を観るのを楽しみにしています。それに私は古希です次のハードルは喜寿ですから。観ておかなければ宿題を忘れた謗りを受けるような気になります。喜樹の実は期待通り沢山なってぶら下がっていました。つい先刻まで保育園児がこの実を拾って遊んだような形跡があります。どんな風にして遊んでいたのか見て観たかったです。女の子は髪飾りかな?イヤリングかな?男の子は雪合戦のようにしてブッツケあったのかな?思います。
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右側の菩提樹のような大樹が喜樹です一見すると水木の仲間のようです。葉っぱだ観れな桑に似ています。案内板にはハッカの成分が在るとされていました。そこで葉っぱを潰して匂いを嗅いだのでしたがハッカのような爽快な香りは無くて青い匂いがしました。家に帰ってインターネットで調べると日本大学薬学部がr次の様に説明していました。

『中国原産のヌマミズキ科カンレンボク Camptotheca acuminataは、強い生命力と多くの実をつけることから、子孫繁栄にたとえられる喜びの木として喜樹(キジュ)と呼ばれています。

従来、庭木、街路樹や加工材として用いられてきましたが、抗ガン効果が知られたことから、cancer tree、tree of life、happy treeなどとも呼ばれます。』
本当に喜樹に相応しい薬効のある樹なのです。先ず家の花瓶に生けて明日はデーサービスお土産に持って行って喜樹にあやかって皆と長寿を悦ぶことにしましょう。
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これが喜樹の実です。何処か雲丹を想わせる面白い格好をしています。こんなに沢山なるという事は子沢山子孫繁栄を思わせます。

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喜樹の実を花瓶に活けてみました。花瓶に描かれた模様は梶の葉で諏訪大社の神紋です。喜樹が沼水木科の植物と云う事は梶とも親戚と云う事でしょう。偶々のそいれこそ偶然でした。

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此方はフラワーセンター日本庭園の柘榴の樹もう誰かが拾ってしまったのか実は一つも落ちていませんでした。




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ガネーシャ(福の神)の笑顔

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大船駅西口の元富岡ハム工場跡地に出来たマンション1階にネパールレストランの「ムスカン」がありますその隣は「積み木の店」という麻雀屋さんで私が高校の友人と遊んでいた処です。6年も前までは親娘で営業していたフランス料理店だったのでしたが5年も前に閉店して今はネパールレストランになっています。お店の前の通りは愛称「爺婆通り」でフラワーセンターに往き来する人で賑わうのですが今は、爺婆は無料バス券を持っていますので通行人は減ってしまいました。賑わっているのは玉縄小学校や鎌倉市役所玉縄分所に来る人ぐらいです。そんな次第で駅から歩いて5分ほどの距離にありながら、レストランの立地としては優れていませんマンション1階はモールになっているのですが何処も不況で出退店が続いています。
ネパールレストラ(ンムスカン)については以前このブログで紹介した事も在りました。
その時はネパール青年男性3人で店を切り守りしていました。その時”「ムスカン」てどういう意味だ?”聴いた処「ムスカンとは笑顔の意味だ”日本でレストランをするなら笑顔を大事にしろと教わったので、お店の名前にしたんだ言われました。”それにしても嬉しそうだね?”尋ねると。”もうじきネパールに帰ってお嫁さんを連れて来るんだ!”教えてくれました。如何しているかな?心配していたのでしたが営業しているようです。私はワイフと一緒に3年ぶりに入店してみました。実は嫁さんの笑顔を拝めるかな・・・・!多少の期待もあったのでした。
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これがディック大船の1階モールにあるネパールレストランのムスカンです。店の前の通りが大船フラワーセンターに行く近道なのですが近年お年寄りは無料バス券を持っているのでレストランリッチとしては妙味が無くなって来ています。私はカレーが敷きな事もあって3年ぶりに入店してみました。
お店の様子も価格設定も働いている青年3人組も変わっていませんでした。相変わらず壁にはネパール風の神棚が設えてあってネパールの福徳神ガネーシャが祀られています。
中華レストランなら関羽か媽祖が祀られているし日本ではお稲荷様恵比須か大黒が祀られて居るような位置です大きな象の鼻を持ったガネーシャ(観音様)です。日本に渡って来るとガネーシャは歓喜天になってしまいます。
歓喜天は二頭の象の抱擁する姿で表現されています。日本では子育て上手は犬なので水天宮等のお守りは犬ですが、インドやネパールでは象なのでしょう。子育て中の親象に悪戯すると子供を守ろうとする親象の怒りを買い大変な事になるそうです。だからガネーシャは子孫繁栄商売繁盛の神様なのでしょう。
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これが壁に設えられたネパールの福徳神ガネーシャの祭壇ですネパールの民俗人形も飾られてそれらしくなってきました。
私は壁に貼られた山岳写真を観て教えて貰いますこの山の名前は?親切に教えてくれましたが、写真を良く見れば名前も標高も記載されています。
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ヒマヤラの山脈を背景にしたネパールの雄大な景色向かいの丘陵の上の建物は寺院か?と訊けばホテルだとの事表題の『ムスタン・レンジ』を店名の「ムスカン」と勘違いしてしまいました。GМのムスタングの名が示しように至高と云う意味なのでしょう。ネットで調べるとネパールはムスタン王国を母体としているようです。
壁にはビールの広告の貼られています。
”ネパールのビール”と聞けば想い出すことがあります。
中学の道徳の教材です。
金持ちの英国人がネパールの少年にお金を預けます。”市場に行ってビールを買ってきて欲しい”
ところが少年は出かけたまま戻って来ません。3日経っても戻りません。使用人は言います。「少年は金を持ち逃げしたに違いない。来月には又麓の街で市場が開かれるのでそれまで待てば良いでしょう」
お金持ちは半ば諦めていました。お金は惜しくなかったのでしたが、少年に騙された事を腹立たしく思っていました・・・・・。処が4日経って6日目の夕方でした。少年はビールを頭陀袋入れて戻って来たのでした。お金持ちは少年ンを質しました。”今まで何処で何をしていたんだ!”少年は答えました。”市場でビールを探したのですが。売り切れたのか見当たらず、山を越えてその向こうの街の市場に行ってみました。ネパールの市場は移動市場で今日此処の麓の街で市場が開かれれば翌日は峠を越えてそのまた向こうの市場に移るのです、お金持ちは何にも知らずにお金さえあればビールは買えると思っていたのでしたその上に少年が金を持ち逃げしたと思い込んでいた自分自身が恥ずかしくなりました。まるで「走るメロス/太宰治」のようなお話です。
今ではドイツの会社の技術指導でネパールでもビールの醸造が始まったようです商標名は『エベレスト・ビール』ですが現地ではムスタンビールで売られているようです。ムスカンの店内にはムスタンビール)ムスタンミネラルのポスターが貼られていました。
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これがムスタンビールのポスターです。世界商標はエベレストビールの名で売られているよです
私もワイフもランチセット700円を注文しました。相変わらず巨大なナンが付いて来ます。圧倒的なボリュームですが隣のサラリーマンはお代わり(無料)を注文していました。私にもお代わりとか「替え玉/博多ラーメン」等を恥じらいも無く注文していた時期もありました。屹度ムスタンビールも飲んだことでしょう。
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これがランチセット700円です。ナンのお代わりは無料です。でもこれを完食するだけで大変です。

青年が食器を取に来ました私はラッシーを注文しました。ラッシーとは山羊の乳で作った乳酸飲料です。
中学の同級生に前園君が居ました。ヤクルトのオーナーの倅でしたでも学校に馴染めず中学で中退してしまいました前園君の邸宅は柏尾川のズット南で藤沢の松ヶ丘でした。屹度ヤクルトは酸っぱかった事でしょう。
ラッシーを届けて来た青年に訊きました彼女は日本に連れて来たの?
漸く青年は笑顔を見せて”今は一緒に住んでいます。”でもネパールにはいつ帰れるか解りません”。日本での生活が若い夫婦にとって快適なのか辛いのか全く解りかねます。
でも何時かは奥さんの笑顔がムスカンのお店で見られる事を楽しみにすることにしましょう。
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グリーンのTシャツの青年がムスカン創業の一人で3年前に奥さんを連れ戻った好青年です。あの位置が定位置でドアボーイをしています。何時か奥さんの笑顔を店名(ムスカン)の看板になったら良いいのですが。

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反核平和運動がノーベル平和賞を受賞できない事由

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今年も10月3日にノーベル賞(生理学)の受賞者が発表され大隅良典氏が受賞され、日本人は意気軒昂になりました。4日以降に得意の物理学や化学賞が発表されるので”今年は幾つ”期待をしました。6日の朝のテレビでは〝今日はノーベル平和賞が発表されます”報道していました。大隅さんは下馬評も高かったのは期待通り予想通りだったのでしょう。民放各局も受賞対象になった『オート・.ファージ』を的確に説明していました。
今や生理学は日本の十八番分野になっているようです。昨年の大村智博士が感染症に有効な寄生虫の研究そして大隅博士が細胞の自己食と云った命の自己防衛機能でしたから。昔から東洋人が経験知と知っていた分野のような気がします。日本の生理学が東洋医学と西洋医学の両分野に明るい事が受賞に有利になっているように思われます。来年以降もズット期待できるのでしょう。
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大隅博士の記者会見の光景大隅博士は東大卒だそうで背景のパネルは東大にしたかったのでしょう、これで東大のノーベル賞が京大のそれを越えたそうですが・・・・。
ところでノーベル平和賞受賞はコロンビアのサントス大統領と発表され、事務局が受賞事由をこまごまと説明していました。コロンビアの内紛を収拾する努力が評価されたのでした。「大統領の職責にある以上内紛を収拾する努力を傾注するのは当然です。そんな当然な行為が受賞対象になったのは世界中に内紛が多発しているからでしょう。コロンビア大統領が受賞するなら以前のソマリアやチュ王アフリカ以南の南アフリカにも受賞候補は沢山いた事でしょう。今年マスコミがノーベル平和賞に期待したのは『日本の反核戦争運動が受賞するかもしれない』期待したのかもしれません。
核戦争反対は国民の合意です。そして今年はオバマ大統領も来日されて核戦争反対の足を一歩踏み込まれました長年の間原爆症に苦しみながら反核を訴えてきた人は沢山いられます。そんな人たちを代表して誰かが受賞するかもしれない期待していたのでしょう。でも現実は期待は空振りでした。”何故国民の総意反核運動はノーベル平和賞の対象にならないのか”考えてみました。
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これが折鶴ですオバマ大統領が折られたモノとは違いますが美しい伝統です。ノーモア広島の運動は折鶴のように凛として美しく整然と推進してほしいモノです。
【佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した理由】
半世紀前佐藤栄作首相はノーべル平和賞を受賞しました。その根拠は「日本がり非核三原則を制定してそれが評価されたからでした。ところが現代の日本はその頃のリベラルな空気は忘れられて防衛大臣が「核武装も選択肢の一つ」だと嘯いていますし、日本の最大の軍需企業(三菱重工)はミサイル技術(ロケット)も高いし、核爆発の技術も持っています。非核三原則は今や色褪せてしまった。世界は日本の国を信用していないでしょう日本は半年も在れば核保有国になってしまうかもしれない・・・・・。現に国の予算は防衛庁の「役に立つ軍事研究に110億円もの予算を注ぎ込んで、防衛庁から企業や大学に公布されようとしています。私達は役にたつかどうかわからない基礎研究こそ大事だと教わったのですが・・・・。
不明瞭な原水爆禁止運動】
日本には「日本原水爆禁止運動協議会」通称「原水協」と「核兵器廃絶・平和建設国民会議/通称「核禁会議」」の2つがあります。前者は自民党系で主として国労の労働者がリードしています。後者は旧社会党系で「総評系」と云われています。国民の想いが一つであっても運動する組織が分裂して居ては表彰するのも難しくなるでしょう。同和運動も同様です。国民は「差別反対」でまとまっているのに運動組織は「部落解放同盟」と「日本同和会全国連合会」の2つに分かれています。目的が同じようなモノなのでショウから小異を捨てて大同に付く事は出来ないのでしょうか!。

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無縁墓を考える(両墓制の変遷1)

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もう4年も前の事でした。思い立って奈良の山の辺の道を歩いてみました。百毫寺の参道から高円山巻向山と続く山脈の麓を南に南に進みます。奈良盆地が見渡せる美しい景色が続きます古代から日本人が愛した景色ですから、志賀直哉も写真家の入江泰吉さんも此処に住まわれたのでしょう。私は学生時代に友人のY君と何度も歩きました路傍には無人の山菜売場が出ていたり万葉歌碑が立っていたりして楽しませてくれます。此処は中世地蔵信仰の発祥地ですから長岳寺様式と呼ばれるこけしのような地蔵尊が目立ちますその過半は墓標仏です。
私は石仏巡礼が好きですから夢中で写真を撮りました。仏の座の紫の花が石仏を彩って、桜が散って美しい景色でした。その時のブログは次に掲載しました。山の辺の道」は衾道http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47215624.html
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これは高円山の麓の無縁墓地の墓標石仏と石仏を彩る仏の座(春の七草)です。この石仏も接収されてしまう運命です。もう観る事は出来なくなっているかもしれません。
その石仏の無縁墓に奈良市の公告が出ていました。それが下の写真でした、奈良市が無縁墓地を接収し新しい墓地に作り換えると同時に前面道路を拡幅するというのです。その近くには無縁仏の墓標をピラミッドのように積み上げた無縁仏塔(倶会一処塔)が出来ていました。屹度この墓は掘り起こされて埋まっていた骨は集められて石室に納められて下の写真のような塔に地底に収容されるのでしょう。
戦国時代郡山城の築城に際して秀吉の実弟羽柴秀長はお城の石が足りないので近隣の墓石や石仏を集めて城に積み上げました。郡山城の石垣にはお地蔵様が積まれています。
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これは山の辺の道に無縁墓標仏や墓石を搭状に積み上げた仏塔です。倶会一処を地で見せたような塔で悲しくなります。手前に貼られているのが奈良市の接収を案内する公告です。
ところで



天皇の葬儀(両墓制を考える2)

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昭和天皇の大喪儀が行われたのは1989年の1月7日でした。
私は大手町の長銀に勤務していました。当時私はゼネコンの融資担当部の中間管理職でした。
年末も正月明けも来客は誰もがポケットベルを携帯していました。ポケットベルとは今の携帯電話の呼び出し機能だけの装置で。出先で鞄のポケットベルが鳴ったら直ぐにデスクに折り返し電話をすることになっていたのでした。
東京系のゼネコンは総じてのんびり構えていましたが、竹中工務店と大林組の2社は緊張していました。
昭和天皇が崩御されたら先ずは神式で葬儀を挙行します。この葬儀場(殯宮)を設えるのが大林組だったのでした。神式の葬儀は天皇家の私的行事として行われ、次いで仏式で明治神宮外苑で葬儀が行われました。仏式葬儀場の設営は竹中工務店に命じられていたのでした。
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懐かしい昭和天皇
私の処に来客されるのは財務担当ですから葬儀場設営の直接窓口ではありませんが、各々役割が決まっているし服装の準備もあるようでその緊張感は面と向かっても伝わって来ました。何故天皇の公共内に葬場を設え緊張感を漂わせていました。
天皇の葬儀が神式仏式の二度に分かれている理由の一つは日本国憲法20条の3項の「政教分離」にあり、「大喪の義」は、特定の宗教による儀式としてはいけないからでした。その苦肉の策が前者の式は天皇家の私的な行事であって後者は首相が主宰する葬儀と理解されていたのでした。
皇居内で神式で挙行されるのが(もがり )で一時葬儀そして仏式で挙行されたのが2次葬儀だったのでした。新宿御苑から武蔵野陵墓までお送りする式が葬列が「大喪の礼」とされて、昭和天皇は其処で永眠されておいでなのです。
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これは昭和天皇の「大喪儀」の写真出典宮内庁皇居内の殯宮から外苑に設えられた葬儀場にご遺体が移されました。
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これは明治神宮外苑で挙行された大喪の儀です。仏式の葬儀は国民の習慣と見做して葬儀場はお寺のように作られました。

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これは大喪の儀を終えて多摩御陵に向かう葬列です。
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これは昭和天皇の眠られる多摩御陵です。お墓は伝統的な土饅頭をかたどっています。・葬儀は前半が神式で中半が仏式で最期が神式です。今上天皇は先般生前退位のご発言をされ天皇の(もがり)についてお言葉にされ自分は火葬にして欲しいと云われました。屹度昭和天皇の大葬の儀の事を思い浮べて国民の負担を軽くして国民と同じ形で葬って欲しいし。何時までも国民に弔って欲しい、思われたのでしょう。


天皇の葬儀は飛鳥時代から天平時代までは神式でのみ行われてきましたが、奈良時代持統天皇の御代に仏式に代わったと云われます。
通説になっているのは我が国は原則土葬で神式に葬儀を挙行してきたものを持統天皇は熱心な仏教信者で自分自身も夫の文武天皇も火葬仏式で葬儀したと云うモノです。
以降江戸時代までは仏式の葬儀が続いていたのでしたが、明治天皇の葬儀からはは神式になります(戻されます)明治天皇の殯宮は東京の青山練兵場「明治神宮と外苑」に設営され陵墓は桃山御霊になりました。
「神式にすべきか仏式にすべき」二論にロン分かれて居た時に唱和憲に代わって政教分離になってしまいました。そこで神式仏式二つ行う事にしたのでした。偶然に国民は両墓性に慣れていましたから、”仏式葬儀を国費で営むのは憲法違反だ”と主張する人も居なくてスムーズに着地しているのでしょう。
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此方は飛鳥の天武持統天皇の御陵。このご夫婦の天皇の御陵を観ていると今上天皇のお仲の良いお姿を髣髴します。今頃は柿も熟して居る事でしょう。

殯屋とは(両墓制の変遷4)

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日本の霊柩車がネパールやブータンなどマヤ教地帯に人気だそうです。
それもその筈で日本の密教はルーツがネパール仏教なのですから、霊柩車のデザインは元々ネパールの山岳地帯で、殯宮(ひんきゅう)や殯屋(もがりや)を自動車に取り付けたのが霊柩車なのですから、ラマ教民族にすれば霊柩車の殯宮を取り外してインダス川の岸辺で焼いてしまいたいことでしょう。何れ霊柩車で無く四輪駆動の軽トラックに殯宮ごと積んでインダス川の岸辺で荼毘にふす様になるかもしれません。
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これが宮型霊柩車です。動く殯宮と云った自動車です。チベット仏教の地で評価されるのは当然です。

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これはブータンのタクツァン僧院五色の経旗が風にはためく光景は三朝温泉の投入堂のようです。
昨年タレントの壇蜜さんがラマ教文化圏を旅したテレビを放映していました
昨年タレントの壇蜜さんがチベットやブータンのラマ教寺院を巡る旅をしてテレビで放映していました。
私は壇蜜さんの容姿が観音菩薩のように見えたのでした。
考えてみればタクツァン僧院(ブータン)は大山の麓の投入堂を思わせますし。高野山の幡はタルチョー(お経の書かれた五色の旗)に似ています。密教で信奉された如意輪観音はラマ教の観音様をルーツにしているのでしょう。風に乗って飛んで行く如意輪と云えば信貴山縁起絵巻を想い出します。
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これは信貴山縁起絵巻の護法童子が如意輪を伴って出現し強欲者の蔵から米俵を民にプレゼントする場面。如意輪はラマ教寺院のマニ車のようです。

日本密教は空海や最澄が唐に渡って同時代に中国で盛んであったチベット伝来の密教を我国に伝えた事に始まります。当時の我国指導者は桓武天皇の孫の嵯峨天皇でした。平安文化の始まる直前に密教が日本仏教の主流になったのでしたから、我国仏教間にチベット仏教色が色濃い事は自然ななことなのです。
壇蜜さんのチベット旅行では、二つの葬儀の場面をとらえていました。
一つは遺体をインダス川の支流の川原に晒す場面でした。晒された遺体は動物が喰うか腐敗して骨だけが残されます。こうして野原や川原に晒す葬儀が一次葬儀です。一次葬儀は遺体の肉など柔らかい部分を剥がして骨だけにします。その後遺族は骨を拾って丁寧に洗って二度目の葬儀をします。二度目ですから再葬儀とでも言いましょうか。再葬儀では骨を壺などに納めて仏壇やお寺の納骨堂に納めます。この場面を観ていると「晒す」とは「放る」ことで「放る」は「葬る」に転じたと思われました。
一方「殯宮」に納められた遺体はインダス川の本流に面した荼毘所に運ばれます。
荼毘所はインダス川の水面に突き出たテラスの上に用意されています。荼毘所は日本の焼き場のような施設でご遺体を殯宮と一緒に薪の上に乗せて一気に焼いてしまいます。
日本では火が燃え切った処で骨を拾うのですが、チベットでは骨も燃え残りも一緒にテラスからインダス川に流していました。前の川原や野原に晒す方法が風葬なら後者のインダス川に流してしまいう方法は「水葬」です。水葬は南海の島々に多く伝えられていますし、風葬は信州に残されています。
第一京都でも鳥野辺は風葬の場所で六波羅は水葬を思わせます。

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これは信州伊那の光前寺の賽の川原。多分此処は土石流で多数の人が亡くなったのでその全域を墓地にしたものでしょう。災害で沢山の人が不慮の死を遂げた時そのままに放置せざるを得ません。こうした墓が典型的な一次墓(埋め墓」です。その後遺体が発見されてその遺体が誰だか確認できた場合は骨を拾って洗って仏壇やお寺に祀りますこれが二次墓で参り墓と呼びます。私の生活圏でも権田坂に「投げ入れ堂」が残されています。この記事は次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/23025759.html
東海道の旅人が権田坂で行倒れになると谷底に投げ入れたので「投げ入れ堂」と呼ばれ馬頭観音や地蔵尊が祀られています。投入れ堂が一次墓であって参り墓があるのかは解りません。
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これはチベットの川原の一次葬です。川原に朴っ放っておく事で遺体は腐敗して骨だけになります。その後改めて骨を拾って改めて葬儀するのです。遺体が原型を留めなくなるまで家族は傍によって泣いて故人を慰めます。この光景を観ていると日本の通夜(一晩遺体を見守りその枕もとで泣く習慣がある)を想い出します。
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川の岸辺にはテラスがあって此処で殯屋もろとも遺体は荼毘に付されます。遺骨の大半と燃え残りは川に流されます。
この光景を観ていると平安時代の鴨川六波羅を想います。

上掲写真は川原に並んだ埋め墓です
古代人は家族が死ぬと先ず一次葬儀をして、暫くの間を置いてから二次葬儀をしたのでしょう。一次葬儀は死臭がしたり体液が滲んだりして兎角穢い体を骨だけにすることを目的にした応急処置のようなモノです。そして再葬して二次処理では永遠に祀って故人を弔う為の葬儀でした。二度に分けて葬儀をするのは次の様な死生観や霊魂観があったからでしょう。
「荒霊と和霊」
家族が死んだ直後は故人の記憶が未だ鮮やかです。遺体も未だ形が残っています。この間は魂は未だ現世への未練や時に怨みを残しているものです。でも暫く時間が経てば故人の遺体も姿形が無くなってしまう様に故人の記憶も薄らいでしまいます。時に荒霊であった魂も穏やかな和霊に転じていると期待されます。二次葬儀は”荒霊よさようならこれからは和霊になって子孫をお守りください”そんな儀式なのです。
此処まで書くと胃想像されると思います日本で最初に仏式葬儀をさせた持統天皇は一般に愛した天武天皇の健康を祈願して薬師寺を建てた事になっていますが壬申の乱で殺された大海人皇子の荒霊を慰撫する為薬師寺を創建し、自身も愛する息子(文武天皇/聖武天皇の父)を守護する和霊になりたいと念じて仏式葬儀をしたのでしょう。そして嵯峨天皇は先年亡くなって荒霊になって災いを為している菅原道真を和霊に転じて都の平和を守護するように念じて北野天神を祀り。その大役を弘法太子に任せたのでしょう。弘法大師は
死者の魂を荒霊から和霊に転じる祈祷師だったのでしょう。
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これは北野天神絵巻古代の人は人が亡くなると暫くの間は魂は現世に残って荒霊といして災いを為すと考えました、故人の遺体が原型を留めなくなった頃再度葬儀をして祀れば和霊に転じて守護してくれると考えました。平安時代初期転変地変が重なると災いの原因を菅原道真の遺恨と直感しました。荒霊を和霊に転じる祈祷師が弘法大師と崇めたのでした。


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