今朝も庭の鶉が鳴いて私を起こしてくれました。私は暫く横になったまま考えて過ごします。いよいよ明後日6月28日は日文献研で「地蔵菩薩の系譜」とだいしてはっぴょうします。パワーポイントの準備も配布資料に印刷も終えました、今更草稿を練り直すわけではありませんが、時節にあわせて、飽きの来ない話にする必要はあります。
今日の話題は方丈記です。鴨長明自画像
東日本大震災に前後した最近の風潮、時節は平安時代末期のそれを思わせるものがあります。古代から中世にかけて、社会は混乱し、大震災が発生し「この世は地獄」と思わせました。鴨長明は大原に隠棲し、方丈記を著します。
864年貞観の大地震が発生し、富士山が爆発しました。その様子を実際に見た人は少なかったでしょうが、誰しも「末法時代が近い」思った事でしょう。887年には「仁和地震」が都を壊します。1177年には大火事で都の過半が焼失します。(応天門の変)大火の後都は福原に移ります。
応天門の変で焼け炎の向こうに仏像が焼失してゆきます(伴大納言絵詞)
貴族の館跡は乞食が住み畑に変わります。方丈記で平氏の政治の愚かさを批判します。更に都は元暦の地震(1181年」続く大飢饉に襲われます。平氏は保元の乱(1156)平治の乱(1159)を経て力を蓄えます清盛の娘徳子は1177年中宮になり、直に安徳天皇を出産します。おごおごる平氏は1184年東大寺興福寺を焼きます。
餓鬼草子は飢饉や大震災後の光景を見る思いがします。
社会の悲惨混乱を鴨長明は客観的に著述します、唐木順三氏は長明をを「詠嘆的無常観」と評しましたが、それは不適当で、客観的で、ジャーナリズム精神に満ちています。そのリアリズムは同時代の餓鬼草子や地獄草子を思わせます。
批判の矛先は平清盛にあり、清盛が熱病で亡くなる様は地獄の火車が迎えにきた様を思わせたでしょう。因果応報と思って清盛の最後と平家滅亡を眺めていたと思われます。
一方、長明の憐憫の的は建礼門院徳子であったと思われます。
何しろ徳子は生まれた時は普通で(人道」育つにつれて栄華を極め(天道)源平の戦いに修羅を経験し(修羅道),母の時子は安徳天皇を抱いて入水し(地獄道)自らは皇族であるため大原の寂光院に入るほかありませんでした。
若くして6道を経験した建礼門院に同情しきりであったと思われます。
方丈とは背の丈四方という事で、一坪の意味です。大原に一坪の草庵を建てて隠棲しして方丈記を書いたのでした。
私は古代末期中世初期に鴨長明のような客観的な目と批判精神があった事に驚きます。
一坪とは畳2枚の面積の事でした。
少し大股で右足、左足二歩の距離に相当します。5間(10歩)6間(12歩)歩四方の土地を1反(300坪)と呼びました。
1っ端の田圃から収穫出来るお米を1石と呼びました、1石は100升(1000合)に相当さいました、1号はお茶碗二杯の量で成人男子の1食相当分です。
ですから、1石は成人男子1年分の食料で、1反は成人男子一人を養う田圃の面積でした。ですから三世代家族なら6反もあれば十分だったのでしょう。
1反の田圃で作れるお米の量は4俵(240キロ」でした。二毛作なら冬場は小麦を作る事になります。おなじ面積でも小麦なら20キロ程度しか収穫出来ません。お米は小麦の12倍も収穫できるのでした。
太閤検地の図、歩数で田圃を測っています。300坪1反が社会経済を管理する基本単位でした。
何故米は小麦の十二倍も収穫できるのか、そのその秘密は水田にあります。
小麦畑の土は乾燥しているのに対し、水田の土は水がシタされています。
光りが田圃に射すと植物性プランクトンが湧きます。ぷらんくとんはさらに動物性のプランクトンを、要するに勇気の肥料を生産し続けるのです。いねは続々生産され続ける肥料の上に根を張っているのですから、小麦の12倍もの収穫、効率を維持できるのです。
お地蔵様はこんな命の秘密を隠した土地の仏様ですから「命の仏」であります。鍵は水と太陽です。
日本は水田があったからこそ、狭い国土であっても人口が多く経済もいち早く近代化したのでした。日本は稲作を基本にした時から土の生命力は育くまれてきました。お地蔵様は信仰の中核にある宿命にあったと言えるでしょう。
と土と水を極限まで大切している、棚田を見ると日本の原型を見る思いがします。水と土を粗末にするような施策は天に唾するようなものと思います。
水の清浄化や土の再生事業が日本の明日を切り開くように思います。
姥捨てに近い修那羅の石柱「一粒何万倍神」ときざまれています。一粒の米が何万倍にもなる事に感謝したものです。修那羅に近い田ごとの月で有名な姥捨て
能登の白米千枚田先祖の知恵と生きざまを見る思いがします。
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