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地蔵信仰とは畢竟「土と水」への祈り。

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今朝も庭の鶉が鳴いて私を起こしてくれました。私は暫く横になったまま考えて過ごします。いよいよ明後日6月28日は日文献研で「地蔵菩薩の系譜」とだいしてはっぴょうします。パワーポイントの準備も配布資料に印刷も終えました、今更草稿を練り直すわけではありませんが、時節にあわせて、飽きの来ない話にする必要はあります。
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今日の話題は方丈記です。鴨長明自画像
 
東日本大震災に前後した最近の風潮、時節は平安時代末期のそれを思わせるものがあります。古代から中世にかけて、社会は混乱し、大震災が発生し「この世は地獄」と思わせました。鴨長明は大原に隠棲し、方丈記を著します。
864年貞観の大地震が発生し、富士山が爆発しました。その様子を実際に見た人は少なかったでしょうが、誰しも「末法時代が近い」思った事でしょう。887年には「仁和地震」が都を壊します。1177年には大火事で都の過半が焼失します。(応天門の変)大火の後都は福原に移ります。
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応天門の変で焼け炎の向こうに仏像が焼失してゆきます(伴大納言絵詞)
貴族の館跡は乞食が住み畑に変わります。方丈記で平氏の政治の愚かさを批判します。更に都は元暦の地震(1181年」続く大飢饉に襲われます。平氏は保元の乱(1156)平治の乱(1159)を経て力を蓄えます清盛の娘徳子は1177年中宮になり、直に安徳天皇を出産します。おごおごる平氏は1184年東大寺興福寺を焼きます。
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 餓鬼草子は飢饉や大震災後の光景を見る思いがします。
社会の悲惨混乱を鴨長明は客観的に著述します、唐木順三氏は長明をを「詠嘆的無常観」と評しましたが、それは不適当で、客観的で、ジャーナリズム精神に満ちています。そのリアリズムは同時代の餓鬼草子や地獄草子を思わせます。
批判の矛先は平清盛にあり、清盛が熱病で亡くなる様は地獄の火車が迎えにきた様を思わせたでしょう。因果応報と思って清盛の最後と平家滅亡を眺めていたと思われます。
 
一方、長明の憐憫の的は建礼門院徳子であったと思われます。
何しろ徳子は生まれた時は普通で(人道」育つにつれて栄華を極め(天道)源平の戦いに修羅を経験し(修羅道),母の時子は安徳天皇を抱いて入水し(地獄道)自らは皇族であるため大原の寂光院に入るほかありませんでした。
若くして6道を経験した建礼門院に同情しきりであったと思われます。
 
方丈とは背の丈四方という事で、一坪の意味です。大原に一坪の草庵を建てて隠棲しして方丈記を書いたのでした。
私は古代末期中世初期に鴨長明のような客観的な目と批判精神があった事に驚きます。
一坪とは畳2枚の面積の事でした。
少し大股で右足、左足二歩の距離に相当します。5間(10歩)6間(12歩)歩四方の土地を1反(300坪)と呼びました。
1っ端の田圃から収穫出来るお米を1石と呼びました、1石は100升(1000合)に相当さいました、1号はお茶碗二杯の量で成人男子の1食相当分です。
ですから、1石は成人男子1年分の食料で、1反は成人男子一人を養う田圃の面積でした。ですから三世代家族なら6反もあれば十分だったのでしょう。
1反の田圃で作れるお米の量は4俵(240キロ」でした。二毛作なら冬場は小麦を作る事になります。おなじ面積でも小麦なら20キロ程度しか収穫出来ません。お米は小麦の12倍も収穫できるのでした。
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太閤検地の図、歩数で田圃を測っています。300坪1反が社会経済を管理する基本単位でした
何故米は小麦の十二倍も収穫できるのか、そのその秘密は水田にあります。
小麦畑の土は乾燥しているのに対し、水田の土は水がシタされています。
光りが田圃に射すと植物性プランクトンが湧きます。ぷらんくとんはさらに動物性のプランクトンを、要するに勇気の肥料を生産し続けるのです。いねは続々生産され続ける肥料の上に根を張っているのですから、小麦の12倍もの収穫、効率を維持できるのです。
お地蔵様はこんな命の秘密を隠した土地の仏様ですから「命の仏」であります。鍵は水と太陽です。
日本は水田があったからこそ、狭い国土であっても人口が多く経済もいち早く近代化したのでした。日本は稲作を基本にした時から土の生命力は育くまれてきました。お地蔵様は信仰の中核にある宿命にあったと言えるでしょう。
と土と水を極限まで大切している、棚田を見ると日本の原型を見る思いがします。水と土を粗末にするような施策は天に唾するようなものと思います。
水の清浄化や土の再生事業が日本の明日を切り開くように思います。
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姥捨てに近い修那羅の石柱「一粒何万倍神」ときざまれています。一粒の米が何万倍にもなる事に感謝したものです。
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修那羅に近い田ごとの月で有名な姥捨て
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能登の白米千枚田先祖の知恵と生きざまを見る思いがします。
 
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十字架の花

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中学校の生物の授業の事でした。白衣の講師が菜の花の構造図を示して「十次花植物と言います」説明されました。私は十字花を十字架と聞き間違えていました。でしたから、長い間ゴルゴダの丘に咲いていた花は黄色い菜の花だと思っていました。同時に親友から礫刑時の奇跡「聖骸布(せいがいふ」、Holy Shroud/聖ベロニカノベール)から教えられていました。ですから、ゴルゴダの丘に咲いていたのは青い花(ベロニカ/オオイヌノフグリに似た花ネモフィア)か、赤い罌粟の花と思っていました。そんな黄色や青や赤の花がキリストの死の悲しみで白化したおものと理解していました。
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菜の花の咲く丘(長野)
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ネモフィラの咲く丘(日立海浜公園」ネモフィラはベロニカのイメージです
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罌粟の花(久里浜花の国)罌粟は中近東原産です。
十字の花で白い花、宗教的な敬虔な花・・・・探してみます。そんな花がゴルゴダの丘を飾っていたと思われます。
最初に思い浮かべるのは百合の花です。純白な百合は十字花ではありませんが、イメージはマリア様です。
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鎌倉長谷の路地裏に咲いた鉄砲百合今年も咲き始めました。
 
梅雨が明ける季節になると白い花が目立ち始めます、涼しげな白い花が好まれることもあるでしょうが、強い日差しに負けない為には白い花が好ましいのでしょう。
鎌倉の路地裏を歩くと鉄砲百合やマーガレットが目につきます。
鎌倉の住人にはキリスト教の信者が多いので、信者が好んで白い花を咲かせているのでしょう。
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梅雨明けが近づくと白い花に青筋揚羽が寄って来ます。
路地裏に十字花の白い花が咲いています。余りの美しさ、シンプルさに目を奪われます。そうです。どくだみの花です。
ドクダミととは毒消しの意味でしょう、梅雨の季節に体にたまった毒素を消し去って健康体を回復してくれる・・そんな漢方の薬にもなります。
どくだみの花の脇には石仏が佇んでいます。
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ドクダミに如意輪観音極楽寺近辺で撮影
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小法師像とどくだみの花(目黒の行人坂にて)
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鎌倉の龍宝寺の境内にはマーガレットの城皮花が咲いています。
 
ドクダミも花ですから、虫を誘っています。どんな蜜を出すのでしょうか?
気になります。
蜜蜂は菜の花、アカシアなどの花から花に飛び回って甘露を集めます。
アカシアの蜜は人気ですが「どくだみの蜜」は人気になりそうもありません。
一度試してみたい好奇心は止まりません。
何しろ一番ゴルゴダの丘に相応しい花なのですから・・・・。
 
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庭のカタツムリ

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「今年はカタツムリが遅い」感じていました紫陽花が咲いたのにカタツムリはどうしたんだろう?感じていました。
カタツムリは殻をもっていなければ、格好も不細工な単なるナメクジです。でも大きな殻を背負って、ゆっくりゆっくり這っているんで可愛らしさもあり「デンデンムシ」とも呼ばれます。でんでんとは、幼児の時玩具として遊んだデンデン太鼓の事でしょう。
デンデン太鼓を背負った虫という意味でしょう。
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庭に散った落ち葉を積み上げておきます。落ち葉は腐葉土に変わります。自家製腐葉土は植木鉢に何かと便利です。でも、冬場は様々な虫の布団になって、茶毒蛾を筆頭に様々な害虫の温床にもなっています。そして、カタツムリも、甲虫もこの腐葉土を食べて育っています。というより甲虫やカタツムリの幼生が落ち葉を食べて腐葉土に変えるていると言った方が適当なのでしょう。
ですから、我が庭は甲虫も大量に出現して夏休みに子供達の狙い場になっています。
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庭に現われた甲虫も落ち葉の布団が育てたもの
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クワガタも落ち葉が育ててくれます。カタツムリの同様です。
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これは斑猫(ハンミョウ)むしをたべにあつまります。綺麗でいて山猫の様に獰猛でさ卯。何時か庭で玉虫も見られないかと期待しています。
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これもカタツムリのような可愛らしさがあります。
カタツムリは蝸牛と書きます。中国人も食べれば美味しい知っていたのでしょうか。エスカルゴとして食用にする西洋人は理解しがたいものがあります。と言って、イタリアンのお店に入れば、エスカルゴでビールを飲んだものです。決して牛肉の味はしなくて、矢張りタニシや栄螺の貝類の味です。オリーブやチーズやハーブの匂いが強くてエスカルゴ自体の味は判別できません。でも、何故かビールのおつまみはイタリアンではエスカルゴです。
と言って、我が庭のカタツムリはエスカルゴにはなりません。
育っている環境が腐葉土ですから衛生的でなく、体内に線虫を隠しているのです。線虫とは回虫や蟯虫の事で、筆者が小学生のころは検便検査をしていました。
中国産のキムチに入っていた、等として問題になっている寄生虫です。
庭のカタツムリ可愛いので眺めるだけにしましょう。欲を出して、線虫を貰ったら面倒なことですし、
笑われてしまいます。
今日6月28日は日吉で日文研の発表です。準備も万端終えました。子供達も親爺の話を聞きたい、と言って聴講してくれるそうです。集まってくれる友人や家族に感謝しながら、話す事に致します。
人間誰しも自分の意志で産まれた訳ではありませんが、自分の意志で死ぬことは許されていません。自殺すれば多くの人を傷つける事になえリマます。人は生まれた時から大きな荷物「何故生きるのか」を背負わされています。死ぬ瞬間まで神は「答え」を求め続けます。この問いはカタツムリの殻のようです。西洋では「最後の審判」で我が国では閻魔大王の前で問われます。そんな答えを地蔵信仰の系譜と名付けて話すつもりです。
こんな機会が死ぬまで続く事を期待し、この機会が持てたことを感謝してカタツムリのように生き抜く覚悟です。
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穀雨に感謝して

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昨日6月28日は日吉の来往舎者会議室で「地地蔵信仰の系譜」と題して報告をしました、今朝は「思った通り話せました・・・」報告するする積りでしたが、とんだ失敗をしてしまいました。
持参したノートパソコンに発表用の資料や写真集が無かったのでした。
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筆者の講演する様子。声は届いたようですが、ノートパソコンにデータを移し間違って大失態でした
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セミナー終了後クラブで食事会をし、筆者の帰還祝とと旅行の打ち上げを実施しました。
 
何も映らないプロジェクターを見て大慌て、印刷した、手元資料を映写機で写して、その場を凌ぐほかありませんでした。そんな次第で聴衆には私が何を言いたかったのか、鮮明には伝わらなかったものと危惧されます。
そこで今朝から数回に分けて要点をこのブログ上に書きあげたいと思います。
何故こんな大失態をしてしまったのか理由は資料をパワーポイントでデスクトップパソコンで作り、それをノートパソコンにコピーしてじさんしました。ノートパソコンにはアイポイントまで作ってコピーが完了したか確認したのでしたが、実はノートパソコンのハード・ディスクにコピーされていなかったのでした。ノートのアイコンを押して、画面に映っていたのはデスクトップのメモリーに記録されていた、資料だったのでした。
残念がる私に息子が「会社でも同じ失敗をする人が居るよ、会議室で大慌てしてしまう・・・」慰めてくれました。
 
歳と共に親子の立ち位置がが逆転してしまいました。経緯報告はこのくらいにして、それでは本題に入ります。
 
今朝も雨が降っています。
北関東は長雨で、折角実った小麦も長く濡れていると芽吹いてまうかもしれません。麦が実る季節に降る雨ですから「麦雨(ばくう」とか、稲がを育てる雨なので「虚穀雨/こくう」とも言います。
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この長雨、麦の収穫期に降るので麦雨(ばくう)と言います。
 
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有機野菜レストランの看板「この長あめにかんしゃしています。この気持が地蔵信仰に直結しました。(慶応藤沢校舎西にあるゴンパチ)
お米を育ててくれる長雨ですから、怒るわけにはゆきません。
感謝せずばばなりません。
ところで、私達は米作によって命を繋いできました。お米は水田で作ります。
水田を計測する基本単位は縦横2歩(1.8m」の1坪です。1坪は畳二畳分、大人が二人横になって寝られる面積でした。一坪から収穫できるお米の量は3合でした。1合はお茶碗2杯分ですから、一坪で3回分の(1日分)のお米が収穫出来た事になります。一反(300坪」の田圃があれば1000合(100升のお米が出来、成人が一年で食べる米が出来ました。
で、1000合のお米を1石としました。加賀百万石という事は(百万石の収穫があり、100万人分のお米が出来たことを言っています。1石を4つの俵に分けて春夏秋冬、1俵ずつ開いて食べました。1俵は60キロですから、1反の田圃から240キロのお米が出来る事になります。一方麦では一反の畑から20キロの小麦しか収穫出来ません。お米は小麦の12倍も効率が良いのです。日本はイギリスの7割しか国土はありませんが米作によって、10倍近く国土を活用してきたことになります。
麦と米、何故こんな大きな違いが生じるのか、それは土の違いです。
水田は稲が生育するに十分な栄養が蓄積されていたのでした。
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米作の高効率の秘訣は田圃が有機肥料の工場になっていることにあります。プランクトンが様々な生物を育ぐくんでいます。顔を出しているのは土蛙。
と言って、お百姓が肥料を田圃にほどこしたのではありません。お百姓は懸命に田圃に水を張っただけです。その水が太陽に温められて植物性プランクトンを育成します。さらに動物性プランクトンが生育します。プランクトンは死骸になって、肥料になります。お米にタンパク質が多いのは動物性プランクトンの体内に・燐やカリ含まれてるからでした。一方麦畑には特に肥料を作る仕組みはありません。
田圃の不思議さ、命をはぐくむ不思議さに日本人は感謝しました。大地には愛がある・・感じて。「大地の愛」を地蔵菩薩と呼びました。
奈良の長谷寺の観音様は十一面観音ですが、錫杖をもたせて巨岩の上に立っておいでです。
長谷寺(真言宗豊山派本山)の観音様はお地蔵様の特徴も併せ持っておいでです。
長谷の地形は山がちの日本の国土すどこにでもみられませす。長谷寺から棚田が扇状地に広がって、長谷寺から川が流れて田圃に水が張られます。
畑で小麦を作っていたのでは、十分な食料は得られませんでした。地蔵信仰が日本で隆盛した事情の第一が米作であった事でした。キリスト教世界では大地の下は真っ暗で、地獄と畏れられました。日本では大地の下には地獄であるものの、地獄では命が再生する秘密があると思いました。命の再生を司る神をお地蔵様と呼びました。
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米作は労働集約的で重労働ですが、単bに面積当たりの効率は麦作の12倍にも上りました
日本が発展出来た秘密が米作ひいては田圃にありました。この秘密が地蔵信仰隆盛の理由でした。
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大和盆地の谷戸にある長谷寺の本尊は十一面観音ですが、錫杖を持ち、巨岩の上に立っておいでです。長谷道の京都との中間地点にある奈良町で地蔵信仰が勃興した秘密は長谷寺の観音様が地蔵菩薩との折衷した姿にあったと思われます。
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長谷寺の舞台、清水寺も舞台で有名ですが、滝地蔵尊が祀られています
 
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天国と地獄東西比較)

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昨日は「米は麦の12倍も単位面積当たりの収穫量が多くその不思議土地への感謝が地蔵の始まりであろう」そんな話をしました。今日は地獄の話を致します。
守善の者は天国に上り、造悪の者は地獄に堕ちる」洋の東西に同じ教えが浸透しました。どちらも中世封建時代を支えた、倫理宗教観です。
1319年フィレンチェでダンテは神曲を発表します。世界史の授業ではルネッサンスで説明しますので、近代の始まりを告げるかのように思いますが、内容はダンテとアトリーチェが地獄煉獄天国を巡り叙事詩で紹介するもので、中世ローマ教会の教えそのものでありました。ミケランジェロは地獄篇に感動してバチカンのシスティーナ礼拝堂に「最後の審判の地獄風景」を描きます。
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システィーナ礼拝堂に最後の審判上部(天国に相当する辺り中央のにキリストは審判を下していますその左にマリアその左右にヨハネ・ペテロを筆頭に12使徒を描いています。この下(3段目)に煉獄がありその下4段目に地獄が描かれています。
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最下段4段目は地獄の図、右はガロンに追い立てられ地獄への渡し船に乗せられた人々が描かれています。
絵はキリストの右から時計回りに3段目(煉獄)に行き、4段目は地獄に落とされ、地獄から煉獄に引き上げられさらに天国に上る構図です。
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キリストは手を挙げて審判を下していますその右下には生皮(ミケランジェロ)を手にした「バルトロマイ」その右は車輪手にした「聖カタリア」キリストの右顎髭の老人がおじい様が使徒のリーダーペトロです。この段のの下に煉獄地獄が描かれています。12使徒はそれぞれ持ち物を持っています。マリア様の左にx型の十字架を手にした「聖アンデレ」が描かれています。
一般に封建制とは「土地を媒介にした領主と農民との主従関係、ひいては社会経済体制」で」ありローマ教会は倫理宗教面でその関係を堅固にしていました。
「しっかり働き誠実に生きなさい、さすれば天国の神の下に行ける、さもなくば地獄に堕ちる」そんな教えは封建制度を長く堅固に支え続けていました。
スコラ哲学は中世修道院での神学・哲学で「人とが神と教会を介して対峙させるものでした。中世は人と神とは教会を介して接していました。スコラ哲学の手法はギリシャ哲学の「理性」に重きを置いていました。フィレンチェのインテリの間では「教会に代えて、「聖書と理性」を介して神に対峙しようとする風潮が生じました。そんな姿勢がローマ教会を頂点とする教会組織に向けられ「宗教改革を呼び起こします。ダンテの神曲は中「地獄の恐怖」を説きましたが、その手法の中に理性重視といった宗教改革の種子を用意していたのは皮肉ででした。
 
一方日本にもダンテに相当する人物が出現します。比叡山横川の源信です。源信は985年「往生要集」を書きます。阿弥陀浄土とその対極の地獄を説明しました。「阿弥陀様を信じ清く生きれば浄土に生まれ変われる、信じなければ地獄に堕ちる」古代末期の人々にとって、地獄とは冷静に見れば現実の社会・世界の延長上にありました。既に868年「貞観の地震」「富士山爆発」1181年養和の大飢饉」「1177年安元の大火/応天門の変」「1184年南都炎上」等を経験してその凄惨な現実は地獄を想像させたのでした。。厭離穢土は現実の地獄を忌避する気持ちにつながりました。日本各地に浄土寺院が建立され「欣求浄土」が求められます。
人間は天国を推測するより、地獄を危惧する事に長けているようです。洋の東西「天国の説明より地獄の説明」の方が迫力がありました。
「地獄に堕ちる」思い浮かばれる人物は、南都を焼いた張本人「平清盛」でしょう。清盛が熱病で死ぬ様は、炎熱地獄を思わせましたし。天国から地獄まで六道を経験した建礼門院徳子には憐憫の情を深くしたことでしょう。平家物語は、地獄の思想の情緒側面でありました。平家物語は江戸時代和讃に発展します。和讃は日本人が作ったお経でした。サンスクリット(表音文字で書かれた仏典を三蔵法師は漢字(表意文字)に過翻訳しました。その無理はお経を無意味にしました、よんでわかるはずはありません。元来解らないはずのお経を自国語で表したのは多分日本人だけでした。
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地獄図、左は血の川が流れています。地獄に堕ちた人は火の玉を受けて死の苦しみを味わう説明されています。この地獄絵は富士山大爆発で火山弾の恐ろしさを経験したからでしょう。
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地獄に堕ちると先ず三途の川で婆さんに着物を剥がれます。奪衣婆は傍らの懸衣翁という老爺に衣を渡します摘みの軽重によって衣領樹の枝はひなります。(出典:日本の古典地獄絵巻草子)
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左上に奪衣婆によって裸かにされた人が居ます。その下に緑の鬼に曳く大八車があります。これが火車で人が死ぬと地獄の獄卒(鬼」が火車をひいて駆けつけます、天国なら聖衆が迎えに来てくれるんですが・・・・そして、閻魔大王の前に引き出されます、首は既に切り離されて人頭杖の上に載せられていて、鏡の前で生前の行為が映し出されています。右には針山に追いやられている人がその下には悲しんでいるお姫様がいます。その下には体を鋸で曳かれている人・・・地獄の恐ろしさを執拗に描いています。(鎌倉光明寺の扁額)
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地獄の獄卒に体を切り分けられている図。何度も生き返って苦しみは消える事も無いのです。(出典地獄草子)
 
 
 
 
人間はどの時代に誰の家で産まれるか選択ができる訳ではありません。偶々生まれ落ちた時代に両親のもとで育ちます。人が正直で勤勉であれば社会は安定して成長する事でしょう。でもその逆であれば社会は混乱して安定しません。教会も寺院も封建的な体制は好ましくその役割を果たしてきました。
でも、理性や科学は教会や寺院の果たした役割に疑問を挟みました、そんな姿勢が近代を用意しました、
近代は神と人を対峙させ「神の様に人も生きる選択をさせました。「地獄天国が実在するのか死んでみなければわからない」事です。でも総じて現代地獄天国をそのまま信じている人は少なくなりました。実は天国地獄を信じていたほうが楽であったのに・・・、
東西の地獄観を比較します。
西洋では煉獄を用意して、地獄に堕ちても天国に救い上げられる可能性を用意しました。一方日本では地獄に堕ちても地獄にはお地蔵様という菩薩が見守っていて救済してくれると考え着くのです。
中世末期、私達の祖先は地蔵菩薩を考え付き、地獄から救われる方法を教えたのでした。こうした考えは前の時代に阿弥陀や観音を信じた時代に用意されていました。
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矢田地蔵縁起絵巻釜茹で地獄から救済してくれる矢田の地蔵尊
 
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地蔵信仰の始まりと天災人災。

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者が学生の頃は「方丈記(鴨長明)は詠嘆的な無常観(唐木順三」と評されていました。ところが、東関東大震災以来、評価が上がっているようです。
1177年安元の大火(応天門の変)以降1181年元暦の大地震、養和の大飢饉と天変地異が続きました。都は荒れ果ててしまいます。今昔物語の「羅生門」にあるように、荒れ果てた都に貧した人が住みつき人心は荒んでいたと思われます。にも拘わら・・・平氏は都を福原に移します。天災と人災を批判し、東大寺などの炎上を見詰めます。
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方丈記の書かれた時代年表、天災と人災が交互して、人々を苦しめました。
長明の眼が客観的であり為政者の過ちを厳しく批判します。そんな姿勢が現代に通じ、現代人の共感を呼んでいるとおもわれます。。
古代末期の惨状は「餓鬼草子に」鮮明に描かれています。
餓鬼とは強欲な死者の事で、死んでから餓鬼道に生まれ変わったものを言います。仏教でいう六道のうち下から二段目で、地獄道の一段上にありました。現実の惨憺たる状況が餓鬼道を想わせるに十分だったのでした。
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「餓鬼草子」都大通りと思われます。人が屈んで排便・排尿をしています。(下駄をはいて用を足すのが習慣のようです」尿や便に餓鬼が群がって来ています。餓鬼は喉が渇くので尿にも便にも群れて来るようです。餓鬼の腹が膨れているのは水が溜まっているからでしょう。餓鬼は餓鬼にしか見えませんでした。
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餓鬼草子」中央に土饅頭と呼ばれた墓がありますその左に餓鬼がいて頭蓋骨を手に骨を手にしています。この餓鬼は墓を掘って、死骸を食べようとしているのでしょう。墓の手前右には女性が行き倒れています。犬が足を食べ始めています左端には棺桶に収まっていた遺体を犬が食べています。こんな惨状が古代末期の都大路で見られたのでしょう。その様子は方丈記の筆と一致するものです。こんな惨状から人間を救済する仏として地蔵が信仰され始めます。
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応天門の変(1177安元大火)の図、火炎が広がって仏像が焼けて行きますこの人災により都は過半が焦土になってしまいます。肝心の平家は都の復興に着手のではなく、福原(神戸)に遷都してしまいます。長明は厳しい口調で失政を非難します。
古代末期の天災人災に端を発した社会の混乱人心の混乱のなか、奈良町で地蔵菩薩が信仰され始め広がって行きます、昨日は奈良町の位置(長谷と京都の中間)に秘密がある指摘しましたが、奈良町が日本人の信心に深く根ざしていたことも重要です。それは西(難波)に向かえば矢田寺、東に向かえば三笠山(地獄谷石窟群)があると言ったロケーションもあります。また地蔵を信仰する信仰の人々が焼け跡に集まって来た事もあげられます。一言で言えば奈良町に新時代を切り開くカオス渦巻いていたのでしょう。この段は明日説明致します。
 
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追善供養して地獄から救済(地獄脱出の東西比較)

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月28日のセミナーは私の準備が悪かったので十分意図したとおり説明が出来ませんでした。2期の岡本さんからメールをいただき「ジオット」の段、ご感想をいただきました。そこで、地獄の東西比較の続きになるのですが、何故スクロベーニ礼拝堂とジオットのフレスコ画を案内したのか説明を致します。
フィレンチェの高利貸しレジナルドは高利貸しで財を成為しました。でもキリスト教はベニスの商人にあるように、高利貸しは悪とみなします。しレジナルドの息子エンリコは父が地獄に堕ちたものと思い心配します。そこで私財を投じてフィレンチェにスクロベーニ礼拝堂を建築します。そしてその壁に当時最高の画家ジオットに依頼して「ゴルゴダの丘で磔刑に遭ったキリストの姿と、親子でスクロベーニ礼拝堂を寄進した意図を描かせます。天空には天使を描きレジナルドを地獄から救出されるよう期待します。、日本流で言えば倅が父に「追善供養のため浅草寺に本堂を建築した様なものです。息子の善行は父がしたものとみなされ、閻魔大王の審判に際しプラスに評価されます。フィレンチェではこの話題が持ちきりだったのでしょう。「追善供養によって高利貸しレジナルドは天国に行けるか否か?」
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ジオット作ゴルゴダの丘で磔刑に遭ったキリストの姿(でスクロベーニ礼拝堂文芸春秋5月号中野京子「名画の語る西洋史」から転載
 
ダンテは神曲において追善供養は認められない、あくまで生前の個人の行為をキリストが審判するのだ・・・と説きます。
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レジナルド親子がスクロベーニ礼拝をマリア様に鬼神している図。追善供養をダンテもローマ教会も認めなかったようです。
一方日本の地獄観は大違いです。
追善供養を認めているというより子供達の追善供養を奨励し、期待しているようです。幸い審判員は閻魔大王を筆頭に10人も居ますのでその審判日を初7日に始まり3年後まで頻繁に行わせ、寄進も法要も期待しているのです。
故人を重要視している西洋と親子((家」を一体とみる日本では随分違うものです。胴体とみる
十王と回忌法要
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お地蔵様を思いついた人々(今昔物語から)

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今日は地蔵信仰を始めた人々を説明いたします。今昔物語巻撒17には「地蔵霊験譚」が並んでいますので、これを概括すれば、どんな人が地蔵信仰を始めたのか大凡が概括できます。
今昔物語の地蔵霊験譚と言えばまず「わらしべ長者」をあげなくてはならないでしょう。
昔々、幾ら働いても働いても貧乏な男がいました。男は長谷寺上ってお祈りしました。すると一寸眠くなってしまい「ご本尊から霊感を授けられます。「寺を下りて真っ直ぐに死に向かいなさいそして最初に手に触れたものを大事にしなさい。」
長谷寺を下って石段で転げてしまいます。気付くと手に藁を握っていました。其処にアブが飛んできます。男はアブを藁で縛って歩き出します。すると男の子が男のアブを欲しがります。男は藁と蜜柑を交換します。次いで蜜柑は絹1反と交換され、絹一反は死にそうな馬一頭に交換され、馬一頭がお屋敷(綺麗なお嫁さん付き)になります。こうして男は長者になる事が出来ました。
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男は長谷寺を下って石段で転んでしまい藁を握っていました、其処から長者へのストーリーが始まります。
男が素直で正直者の長谷寺信者であった事、そして物々交換経済のセンスに長けていたことがポイントです。当時の奈良町は長谷寺への街道にあり、市が立っていたように思います。
次に面白いのは三井寺に近い近江の話です。いっぱ「矢取り地蔵」と呼ばれています検非違使(の平諸道は強い武将で、何度も戦いで勝利していましたが、ある戦いでは窮地に陥り既に矢が付きていました。きゅうちで諸道は氏寺の本尊に向かってお祈りします。すると小僧さんが現われてもr道の脇に座って湖に浮いている敵の放った矢を拾って次々に諸道に矢を挿しだしてくれました。お蔭で諸道は戦いに勝利できました。ふと気づくと、脇の小僧さんの背に矢が当たりました。すると小僧さんはふっと消えてしまいました。諸道が氏寺に戻ると本尊の地蔵菩薩の背に矢が当たった傷跡がありました。
諸道はこ小僧さんがお地蔵様の身代わりになって助けてくれた事情を悟りました。
最後は大分と熊本の境にる小国町熊川温泉にお話です。
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取り矢取り地蔵尊の縁起絵巻中段平諸道(たいらのもろみち)が琵琶湖の畔で奮戦しています。下段で地蔵尊が身代わりになって敵の矢を拾ってくれた事情が説明されます。
 
次はクマの都県と大分県の県境に近い小国村黒川温泉の話です。黒川温泉は渓流に沿った雅趣豊かな温泉です。その渓流を背にして鄙びたお堂が在ってお地蔵様が間stるられています。貧しい塩売りの甚吉とその母親が住んでいました。甚吉青年は商品の潮をお地蔵様にお供えして「母親の病気が治るようにお祈りしていました。
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弘明寺身代わり地蔵尊脇の回向地蔵尊
ある日母親が甚吉青年に言いました。
「私は胃弱でもう食えるものも少ない、昔喰ったマクワ瓜が美味かった」。 甚吉青年は悪い事とは知りながら、畑に出てマクワ瓜を1個盗んで母親に食べさせました。数日後また母親が言います。
「先日喰ったマクワ瓜は美味かった」
甚吉青年は再び畑に盗みに出かけました。でも、今度は畑の主が刀を持って見張っていました。甚吉青年は切られてしまいました。畑の主もマクワ瓜で人を殺したことを後悔していました
翌朝、熊川村の地蔵堂の首が落ちていました。人々はお地蔵様が親孝行の甚吉青年に身代わりになった事を知りました。
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背の高い地蔵尊は倒れると首が折れたり道胴が割れたりします。そんな傷跡が身代わり地蔵尊の説話を産むと思われます
この話では主人公の甚吉青年が働き者であることること商人であることが重要です。そして掌握をおかしても親子の愛嬢が大切でる事がポイントです。
あくじをおこさしても人間らしく生きぬく事を大切に思ったのは古代末期の世相だったのでしょう。羅生門では婆が羅生門の楼上で、若いお姫様の遺体からかみをぬいています。醜い婆美激怒した下男が婆に向かって刀を抜きます。すると婆はこう言い逃れします。
「この姫は美しかったものの蛇を干して干し魚だと偽って生きていた、そん奈悪者の髪を抜いてどこが悪い私も生きぬく為には小悪は犯さずにいられない・・・」
地獄の様に天災人災が重なった世情では生きぬく事が最も大事だったのでした。悪事も生きぬく為親孝行の為には厭えない」そんな倫理観が一般的だったのでしょう。こうした感覚こそが地蔵信仰を生み出した人々の感覚だったように思います。
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鎌倉光触寺の塩なめ地蔵尊
 
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地獄は怖ろしいのか?

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仏教では心も迷いのある世界が6種類もあってそこを輪廻すると説きます。多分冷静に自然世界を観察して、6つのタイプを見分けたのでしょう。自分の住んでいる世界が中の上の人間道で、その上には上の上の天道がある、自分の下には動物たちの住む畜生道が、あって、時には命をかけて戦わずばならない修羅道がある、その下には餓鬼道があって、此処に落ちれば喰う事にも飲む事にも困難する。そして最下段には最も怖い地獄道があって、責め苦に会う。
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誰しも一番上位の天道に行きたいと思うものです。
浦島太郎も竜宮城に行き、乙姫様の歓待を受けましたがほんの数日で飽きてしまい「帰りたい」言いだして恐ろしい玉手箱を土産に受け取りました。
故郷にに戻ってみたのです。もう知っている人は誰も居ない、竜宮城の一日は人間界の何年だったのでした・・・・。家庭やコミュニティーから疎外された浦島太郎は玉手箱を開くと、老人になってしまい間もなく息が絶えてしまいます。
どうも天道よりも人道の方が良さそうな気がしてきます。
乙姫様の歓待も一時は楽しいものの、すぐに飽きてしまいます。
こんな思いは筆者も温泉旅行で度々経験しています。
「ああ、極楽極楽」良い思いで居るのは温泉に浸かっているときだけで、直に我が家に戻りたくなってしまいます。
手塚治虫や、熊谷守一に訊けば「天道や人道は御免だ、昆虫道があれば其処に行きたい」言う事でしょう。
天道も地獄道も所詮は人間が考えたもの、人間の性(差が)を越える事は出来ません。地獄草子を見ていると気付く事があります。
地獄で責め苦を受けているのは悪事を働きそうな貴族や武士・百姓ではなくて何れも僧侶なのです。筆者の感覚では地獄の責め苦絵おうけそうなのは南都を焼いた平清盛であろうと思うのですが、お坊さんが地獄の獄卒の責め苦を受けています。
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比丘や比丘尼に火の弾が降って来ています。これは鳥を食った比丘や比丘尼が火になった鳥に襲われている飛火地獄です。
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地獄の赤鬼によって牢に閉じ込められていた比丘たちは外に出されます。恐怖のあまり火を吐いてています。(沸尿地獄ふっし地獄)
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牢から出された比丘は熱した糞尿が流れる川に追い立てられます「上段図とセットで沸尿地獄益田家所有)
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解身地獄は動物を食べた比丘が陥る地獄で、まな板の上で獄卒によって体を切り裂かれます。比丘はまな板の上で手を合わせて許しを乞うています。一度体を切り刻まれても直ぐに元通りになって、何度でも切り刻まれる苦痛が続くのだそうです。
い地獄草子で地獄の責め苦に遭っているのに比丘や比丘尼が多いのは、比丘や比丘尼に見せた絵であったからか、又は比丘や比丘尼が一般人から見ても問題で反感を被っていたからでしょうか?古代末期から肉食は行われていた事、そして肉食が禁じられていたことが解ります。
地獄は怖ろしい、特に破戒した覚えのあるた比丘や比丘尼には恐ろしかったのでしょう。私は日本人ですから地獄草子を見ると怖いと思います。で、西洋の地獄図を見ると。巨大なサタンがいてにんげんをくっています。惨椎のですがたいして怖くありません。それこそ文化的な違いによるものなのでしょう。
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。 メディチ家の聖廟(サンロレッチオ聖堂)のフレスコ画サタンが人間を食っている姿は怖いと言うより滑稽に感じます。イメージ 7
 「地獄の門」は、ダンテの神曲「地獄篇を」を素材にロダンが「地獄はこの入口に始まるとしめしたもの、門の中央に考える人が居るのは理性(ギリシャ哲学」を重要視するものでありましょう。【上野の西洋美術館)
明日は地蔵が死を見守り地獄から救済して、生「命」を授けるそんな考えを説明します。死から生が始まるそんな循環する思想(輪廻転生)が稲作に共通します。この項の最初の段に戻ります。
 
 
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大地からの再生

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先ず御伽話しの「花咲翁/はなさかせのおきな」を想い出してください。
正直爺さんの住む家の白い犬が「ここ掘れわんわん」と鳴くので、で掘ると、大判小判がざっくざく出て来ました。
隣の性悪爺さんこれを見て、犬を借りて「ここ掘れわんわん」と掘ると、ゴミがざっくざく出て来ました。
性悪爺さんキレて犬を撲殺します。
正直爺さんは、悲しんで墓を作り、木を植えました。現代の樹木葬です。
すると間もなく大樹に育ちました。、犬が再び夢枕に立って「樹を切って臼を作れ」と言うので、墓の木で臼を作り、餅をつくと財宝がざっくざく。
性悪爺さん、臼を借りて餅をつくが、汚物がざっくざく。
キレた性悪爺さん臼を割って薪にしてしまいました。
正直爺さん、悲しんで灰をもらって帰るも、またもや夢枕に犬が現れ、「灰を枯れ木に撒いてくれ」と
枯れ木に灰を撒くと枯れ木に花が咲来ました。
花を見た殿さまからご褒美を戴きました。
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もう一つ梶井基次郎に「桜の樹下には遺体が埋められている」エッセーがあります。
桜の「さ」は早苗早乙女の「さ」で稲の意味だそうです。
昔は家族が亡くなると桜の樹下にその亡骸を埋めて、米の収穫が多いように見守って欲しい」と念じたと思われます。
花咲翁の犬は白で吉兆を意味していたのでしょう。白は今風に言えば樹木葬されます。犬の遺体を栄養にして樹は大木に成長して、臼になります。
正直爺さんがこの臼で餅を搗くとお宝が出て来ます。
意地悪爺さんが餅を搗くと汚物になってしまいます。
意地悪爺さんは怒って臼を焼いてしまいます。
夢に現れた白のお告げに従って、その灰を撒くと枯れ木に花が咲きます。
正直爺さんが2度も意地悪爺さんの言いなりになって大事な白や臼を意地悪爺さんに預けたのも疑問ですが・・・・、話の展開だけをを見ると地蔵信仰に通じるところが目立ちます。
一つは白を埋めたお墓の木から臼が出来た事、そしてもう一つが臼の灰を撒くと枯れ木に花(桜)が咲いたことです。
白は二度も死んでいますが、その魂は生き返って正直爺さんに福をもたらしています。
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若草山、観ての通りの前方後円墳で二段目の上に地蔵石が祀られています。(写真は奈良県のホームページから転載しました。)若草山の右手の森が春日山自然林でその中に地獄谷石窟群があります。その右(南)が高円山で死者の霊があつまります。この景色は死者と命の再生の空間です。
本題に戻って奈良町です。奈良町の目の前が若草山です。1月の第4週の土曜の夜に山焼きが行われます。奈良の人は新年を迎えた喜びに湧きます。
若草山自体が前方後円墳:鶯塚古墳でありお墓なのです。若草山二重目には牛墓(3m余りの 地蔵石)があり「南無春日大明神」と銘刻され地蔵仏を刻んであります。
若草山の隣が高円山で古代からこの山の山頂に死者の霊が集まると信じられてきました。二つの山の山峡にッ渓流があって、地獄谷に石窟群があります。石窟群中にある地蔵石仏が日本最古の六地蔵と言われています。
3月の1周に東大寺では修二会が催されます。若狭井から水が汲まれいよいよ、今年も稲作が始まるのです。
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沼田の地蔵桜、さくらの樹下は墓地で赤いのは地蔵様です。谷川岳の雪解けが棚田を潤して、いよいよ苗代から早苗を引き上げて田植えを始めます。
 
 
上の写真をご覧ください。棚田の中央に壮大な桜が咲いています。樹下に赤く見えているのがお地蔵様です。お百姓は「苗代桜」と呼んで、桜が咲いたら棚田に水をみずをいれて苗代をつくるのです。桜の樹下の苗代で育てた苗を田圃に田植えします。桜の樹下で芽吹いた苗は良く実るのです。
この桜の樹下にはお地蔵様が祀られているので「地蔵桜」とも呼ばれているそうです。お地蔵様が、しいてはお墓に眠っている祖先が今年の豊作を見詰めてくれると信じているのです。
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広島県千生まれの花田植え早乙女が田に下りて早苗を植えます。(写真は日本tvのニュース画面です。
亡くなった祖先ですが、再生して稲の命になってくれている・・・、
大地の下は怖い怖い地獄ですが。地獄にはお地蔵様がおられて、命を再生させて、地上を楽園にしてくれる(稲の豊作)と信じたのでしょう。
弥勒菩薩はあの世ではなくの地上をの楽園にするもので、一面稲穂が垂れていました。人々は天空の極楽よりも地上の楽園を夢見たのです。何故なら地上には愛する家族や知人がいるからです。浦島太郎のようにはなりたくなかったのでしょう。
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石山本願寺の戦いで顕如がかざした莚旗「進まば往生極楽、退かば無間地獄
」 戦って死ねば極楽往生、逃げて生き延びても地獄行き、戦ってこの地上を極楽にしたい、強い意志願望が窺がえます・
 
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地獄の呪縛を解いて何処に行くのか?

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封建制度とは「 「feudalism」とは。意味は土地を媒介とした主従関係をいいます。」封建領主は領内の農民が黙々と働き、納税してくれる事、が安定につながります。
(修禅の者は天国に上る造悪の者は地獄に堕ちる」と言った教えは、農民領民を土地に束縛し、安定した年貢を確保するうえで有効だっでした。各地に封建領主が分散していましたがローマ教皇からハプスブルグ家が行皇帝の帝冠を授かると、封建領主の頂点に皇帝がいて、宗教的な権威としてローマ教皇が君臨すると言った中世封建体制が確立していました。
 
農民から見れば年貢を領主におさめ、領主は領土と領民を皇帝に安堵され、宗教的には教会(ローマ教皇)を介して神に従いました。怠惰にして年貢を納めなければ地獄に堕ちるプレッシャーであった事でしょう。
「地獄の呪縛」を自ら解いたのは「直接神の声を聴いてそれに従おう」とする姿勢でした。教会が「贖罪賦」を発行することに疑問を抱いたのでした。ならば自分の頭で考えて、理性を磨き、自分の心を純粋にして、良心を鋭くして、聖書を読んで、教会に委ねずに自分で考え行動しようとし始めます。
贖罪とはキリスト教で,人々の罪をあがない,人類を救うために,イエス-キリストが十字架にかかったとする教義で、教会に奉納奉仕する事で罪が減じられるとした説法、又は証明書を贖罪賦と呼びました。
ルネッサンス運動のギリシャ哲学に戻ろうとする中でこうした思想が育まれたのでしょう。
ナポレオン一世が、戦争では封建領主を打ち破り、農民らを封建体制から解放しました。同時に倫理面では自分達を呪縛してきた「地獄の教義」であったと思われます。
ベートーベンの英雄交響曲を聴いているとドイツ農民らがナポレオンを歓待した気持ちが良く解ります。ナポレオンがロシア解放戦争で敗北すると、封建領主たちはプロイセン公国を打ち立てて、中世に培った自分達の権益を復活させます。教会の保守勢力もその一翼を担います。その結果近世に入っても中世的な思想や倫理観がヨーロッパに残ります。制度的には教会税がそれで、ドイツでは今も所得の8%程度が徴収されています。その為でしょう、聖職者は所得が安定し、役人化してしまい、人々のキリスト教離れが目立ってきました。昨今聖職者の堕落やスキャンダルが批判の的になって来ているようです。地獄の呪縛を解いても「自分もキリストの様に生きよう、聖書に従って生きよう」心に決めても、それは言うに優しく実行は困難です。ニーチェの様に生きられる人は滅多にいるもんではありません。ロダンの地獄門の下で佇んで、地獄には行きたくない、されど自分はどっちに向いて歩もうか考えてしまいます。
同様な混沌とした状況が現代の日本でもあります。
日本人は古代末期に、地獄であっても「地獄には地蔵菩薩が守っていて下さる」素晴らしい考えに思いつきました。
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帯解寺は最も権威ある子安地蔵尊です。
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奈良帯解寺の水子地蔵群。同寺の本尊が変わったような錯覚を覚えます。
奈良町を少し南に下ると帯解寺があります。古代文徳天皇の皇后(藤原明子)にご懐妊の朗報をもたらさいた子安地蔵尊で、江戸時代にはお江の方、現代では美智子妃殿下が安産祈願をされた由緒あるお寺です。
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鎌倉長谷寺の水子地蔵尊
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鎌倉宝戒寺の水子地蔵尊風車が並んでいますが
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水子地蔵尊のお背中には施主年月がペンキでかかれています。筆者にはこの感覚が解りません
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塚の親縁寺の延命地蔵尊の周囲には水子の回向地蔵が並んで人間の姿に寒々した気持ちにさせられます。枇杷の実を誰も取らないので落ちて腐っています。風車も枇杷も空しいものです。
でも、今同寺に上ると驚きます。。境内には石塀に沿って棚が続いて棚には小さなこけしのようなじ回向地蔵が並んでいるのです。どの地蔵も同じ鋳型で作られているので同じ乳飲み人形のような表情です。そして水子地蔵の間には無数の風車が立っていてカラカラ空しく回り続けて通けています。                    子安地蔵尊だったのは昔で今は「水子地蔵尊」なのです。
水子地蔵に変わってしまった原因は性が自由になったからでしょう。
性が自由になってプレイによって命を受けた胎児が壊されたのでしょう。水子を放置すれば祟ります。風評が娘たちに流れました。聖職者は死を戒め、生を諭すものでしたが、どうも、大事な方を見過ごして「祟りの風評」を正さないのは職責を放棄している様に思えます。聖職者は命の尊さを教える者でありましょう。
 
子を育つ自覚無き娘(戸)の腹に宿りし命こそ哀れ成なり
帯解の古寺に水子の風車止まらず。
洋の東西で現代人は地獄の呪縛から解き放たれました。でも、地獄に背を向けて何処に向けて歩こうとしているのか方向がまだ定まりません。
理性重視は科学の進歩を促しがし、教会の常識を正しました。地獄の存在を証明できません。脳科学の進歩は臨死体験や地獄見聞録を解説して地獄は脳の海馬に蓄積した知識や見聞が夢になって現われたものだと解説しました。暫くの間「科学と地獄は折り合いが悪かったのでしたが、祈る気持ちが人間を強くすることは誰しも経験しているようですし、医学界でもそのような指導が目につきます。
「何も信じない、祈る事さえしない人よりも」「神を信じ神に祈る人の方が強く、逞しく病気も克服しているようです。
古代末期の日本でも、地獄の地蔵を信じ、祈る事で強く逞しく生きました。そして「あの世ではなく現世を極楽にしよう」としました。
 
東西の聖職者は怠慢で地獄の呪縛を解いて何処に行けば良いのか向き先を指示してくれそうもありません。唯一教えてくれるのは「地獄の沙汰も金次第」諺だけです。
我々の子孫がこの夥しい水子地蔵尊を眺めて「平成時代は命を粗末にしていた時代だったのか!」思うだろうと思うでしょう。私達はもっと良いものを子孫に残したいと・・・・思うのですが。
地蔵信仰の話を延々としてきました。明日からは日常に戻って歳時記の様にして日々を報告してゆきます。
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円覚寺の閻魔様弓矢が並んでいるのは弓道場に兼用されているからです。
 
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排出する悦び

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 入院中の事でした。毎日毎日米粥を食べさせられうんざりしている時、菜のおしたしを食べてその苦味に春が近い事を知った話は以前書きました。以来出された食事は味わいながら完食するようにしました。
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病院での食事
でも、私の胃袋は術後間もないので、満腹状態に不満を漏らしているようでした。一方、腸の働きも緩慢で、便秘気味な毎日でした。そんなお食前の薬が変わりました。食物の吸収を悪くする、ボブリホープという丸薬になりました。
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上の段が食前薬の簿ボブリホープ
 
医師は「この薬は糖分の吸収を妨げるので食後血糖値を抑制する効果があるものの、腹に膨満感が出るのが欠点である」、説明しました。
膨満感が出るという事は腹にガスがが溜まる事であろうから吸収が悪くなるのは当然で、嫌な予感がしていました。案の定薬を変えると便秘とおならに悩まされるようになりました。
ボブリホープは効果ががあって血糖値は急速に低下しました。今も自宅で服薬しています。ヘモグロビンA1Cは5.7になりました。
でも便秘になって初めて知った事もありました。便を輩出する事の快感です。
食べる事は私の体にとって栄養を同化する作業で、命を保つには大切ですから、食べる事に快感が伴うのでしょう。
一方排出する事は体にとって不要なものを体外に出す、異化作業で、ですから、これも命にはには欠かせません、どちらにも快感を伴うのはごく自然です。
便座に座りながら快感を味わい、大便をしみじみと眺めます。そして、”ありがとう、さようなら”を言います。
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これは粘土用のへらです。糞掻きへらは竹製で用を足した後左手でへらを握り肛門の辺りをサット掻いたものと想像します。
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写真はは遠州三山(法多山・油山寺)のひとつ可睡斎のトイレ(東司)左中央に烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)が祀られています。円不動明王のような火炎を背負っていて、火の力で不浄のものを除く力があると信じられてしんじられていました。禅も東司も中国がルーツなのに中国のトイレの不清潔さは目を覆うものがあります。
 
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お箸は大切に扱います。昨年能登総持寺で戴いた長寿箸を大事にしています。昨日は半夏生でしたので蛸を戴きました。
 
大小の便の報告を看護婦にします。看護婦は看護記録に書き留めます。バナナ一本、バナナにとっては迷惑な事と思いました。バナナの色と柔らかさと匂いが健康な便の基準なのでしょう。健全な腸はバナナのような大便を用意するのでしょう。
私は大便を終えた安堵で、ベットに横になります。そして亡父の事を想い出しました。父は禅宗の坊さんですから私の師でもあります。
横になって考えるのは無門関の有名な公案です。
ある僧が、弟子の雲門文偃(うんもんぶんえん)に尋ねました。
 「仏というのは、どんなものですか?」
文偃は応えます。
 「糞をかき取るヘラだ!」
それで正解、師から文偃は禅の修行成果があった、と認められます。
子の話は一般に次のように理解されていると思われます。
禅の師匠は、弟子の意識を覚醒させるため、しばしばショックを与えるような言動をして、悟りに導こうとしました。これも、そのひとつでありましょう。
仏というのは、修行者にとって究極の目標であり尊い、神聖なものです。
文偃は神聖な仏をそれを「糞をかき取るヘラ」のようなものだと言ってのけたのでした。
つまり、世の中でもっとも汚らしい物だといっ言ったのでした。
神仏への冒涜だと非難されて然るべきでありましょう。
でも文偃が「仏は私のが目標で、この世界で最も尊い神聖なものです」答えたら
「神仏以外の一般のモノは総て尊くない、無価値である・・・・」という意味も言外に留めています。
文偃は「仏は大切。でも仏以外の者モノも総て大切・・・・」言いたかったので、「糞掻きへら」と答えたのでしょう。
食べる事は大切です、ですからお箸は大事に扱います。でも排便する事も同じように大事です。だったら、排出するときの道具「糞掻きへら」もお箸と同じように大切なのでしょう。
神仏は神聖で、世俗は神聖でないぞ粗末に扱って良いといった区別は人間が勝手に思っているもので、偏見でありましょう。道元さんは物事を正視する事こそ大切であると、説かれました。偏見を捨てて、正面から見ることが総てのはじまりです。
食べる事/同化作用、排出する事/異化作用」どちらも私の命にとっては等しく重要です。
私は何れあの世で父に「無門関」の答えを報告したいと思いました。
親爺はどんな顔で私の答を聞いてくれるでしょうか?
楽しみであります。
私はベッドの横になって、背中の痛みを感じながら、無門関の公案を次々に思い出しました。そして、私なりに答えを導いてみますした。
今次の病気で私の答えも少しさまになってきたように思います。
次の機会に別の話をしましょう。
それは
犬のようなものにも、仏性(仏の性質)がありますか?と言った問です。
 
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戸塚の推奨「米屋の茶屋の団子」

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6月28日日本文化研究会でのセミナーで私が発表しました発表は約2時間質疑応答の間にお茶を出します。お茶うけを何にするか・・・・、私の為に態々日吉に集まって下さるので、毎回何をお出しするか考えます。今回は「みたらし団子」にしました。戸塚は和菓子屋が多く、和菓子が美味しいのです。
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日本文化研究会セミナー風景みたらし団子を食べながら団欒しています。
広重の絵でも、戸塚宿は茶店が描かれています。
下の写真は江戸見付に近い吉田大橋の袂の米屋です。
絵には元町別れ道と書かれていますし、橋の箸の袂には「左鎌倉え」と刻まれた道標が描かれています。
柏尾川に沿って田圃が広がっています。此処から吉田、倉田、豊田と田圃の中を道は続きます。一里も鎌倉道を歩けば駆け込み寺川柳で有名は「離れ山」駆け込み寺松ヶ丘はも眼の先です。
一人の女性が茶店から出て馬追いに近寄るっています。此処から鎌倉まで馬に乗ろうとしているのかも知れません。米屋の軒先には沢山の講中札が吊り下がっています。講の指定した茶店だったのでしょう。
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米屋が商っている茶店ですから、お得意名物はお団子でしょう。
餅米ではなくうるち米を曳いてて作っ立団子を竹串に刺してさして焼いた。団子です。
お団子は4個つなぎで、4文ですから、寛永通宝1枚で清算できました。
今も戸塚では数店がみたらし団子を競って作っています。
コンビニで売っているお団子は白玉粉(素材はもち米)ですからもちもちしていて、歯にくっ付きます。
良いお団子はうるち米ですから風味が違います。
私が日本文化研究会に持ち込んだ「みたらし団子」は伝統的な製造を踏襲している「叶周山庵」さんの製造です。
同社は朝から魚沼コシヒカリを粉に曳いて作っているそうです。
店主は、一回購入すると10回以上「ありがとう」を連発つする、腰の低い親爺です。
奥さんが傍でご主人を見詰めておいでです。
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叶周山庵のみたらし団子、江戸風で4個を竹串に刺しています。
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これが叶周山庵の店頭です。新商品の開発も熱心ですが、一番ののお勧めは団子です。
戸塚宿京見付に近い大坂にあります。近くは道行きで有名な「お軽・関平」の場面で、その碑がマンションの入口で小さくしています。
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戸塚宿の京見付側は大坂でしたここにも茶屋があって「お軽・関平」の戸塚山中の場面です。叶周山庵はこの道の左手前に位置しています。
東海道中膝栗毛で戸塚宿陰嚢を大きく膨らした乞食がいて、道路端に大金玉を曝してお金を貰いうけていたようでした。大きく膨れた陰嚢は象皮病と呼ばれ、蚊が媒介するマラリアにに似た寄生虫による病害で、陰嚢水腫 であったようです。
西郷隆盛は採算明治天皇の随員として藤沢の遊行寺に入っていますが、隆盛も大金玉で陸軍大将でありながら、馬に乗れなかったそうです。戸塚を通るときは大金玉の故事をを想い出して苦々しく思った事でしょう。
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東海道中膝栗毛の挿絵。戸塚の大金玉を見て飯盛女が腰を抜かしています。
 
 
数年前童謡の「団子三兄弟」が流行りました。歌では団子は3個でしたが、江戸っ子は4個です。3個では三文で寛永通宝(1枚4文)で払ったらお釣りをもらわなくてはなりません。江戸っ子は不本意に思いました。一方京都ではお団子は5個です。一番上の玉が一段大きくて頭になります。。その下に四肢がついていて計5個になんです。団子のルーツが京都の下鴨神社が行う『 御手洗祭り』を語源とするそうです。
みたらし団子は形(ひとかた)を模したものなのです。そう解れば5個でないと落ち着きません。
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京風のお団子は5個。みたらし茶屋のホームページから転載
上の写真は下賀茂神社に近い「みたらし茶屋」のお団子です。頭のお団子の焼け跡が目鼻
のようにも見えて来ます。団子は仏事で供えるお菓子で、牡丹餅は神事で供えるもの、どちらも、ちょっと一服して、腹持ちの足しになります。地方地方によって変わっているのも楽しいものです。
 
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織姫様の呟き

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私は1週間に2回火曜日金曜日にデイサービスに行きます。送り迎えしてもらい、お風呂に入れて貰い、食事をして、、リハビリで歩いたり発声したりして半日過ごします。先週初めに、竹が用意され、七夕飾りを作りました。私にも短冊を渡され「願い事を書」くように言われました。私は筆で「独立歩行」と書き、紫陽花とカタツムリの絵を描きました。絵を添えたのは私だけの事もあって、短冊は好評でした。
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我が家の七夕飾り、短冊はカタツムリではなく亀にしました。
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これは平塚の七夕飾り(昨年撮影」飾り物は当初は布や糸でありましたが江戸時代に紙になりました、ht吹き流しは織物が上手に織れますように布切れを飾ったものですし。網は豊漁であるように祈ったものでした。一つ一つに仕事が上手に出来るように祈る意味が込められているのです。
 
「竹内さんは何でもご存じだからお聞きします。七夕飾りは笹の葉を使いますが、何故笹竹なのですか?、柳などの木でも葉はサラサラ鳴りますね?」訊かれました。
私は答えました。「柳では幽霊が出てきてしまいますよ・・・・。竹だから神様が依って来るんで。門松だっ地鎭祭だって竹を飾って、いるでしょう・・・・・神様は青々した笹竹がお好きなのですよ。」答えました。
神様とは天帝とその娘の織姫様と恋人の牽牛の事です。天帝は娘の織姫と農夫の月牽牛が忍んで遭う事に怒って、年に一回7月7日に限定したのです。ですから7月7日に七夕祭りをして神が天から地上に降りて戴きやすいように笹竹を飾って願い事を短冊に書くのです。
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皇居神田でのお田植え風景(毎日新聞」昭和天皇が始められました。
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ベトナムの田植え風景、中国やベトナムでは。農業上手は牛の扱いが上手な農夫(牽牛)だったのでしょう。筆者はこのブログでもブいた通りベトナムの高地ダラットにも行きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/27464282.html 棚田が広がり、農夫ガ水牛を曳いて田起こしをしていました。稲作も絹織物も中国が先進地域で、日本は遅れて技術導入したのでした。日本が牛を稲作に活用したのは江戸時代初頭でした。昭和天皇は昭和2年、皇居内に神殿を作られ、お田植えを始められました。
自らが牽牛である姿を示されたのでした。国民の大半は農業をしていた時代ですから、田に下りて泥にまみれて田植えを率先される事で、農業の尊さを国民に示されたのでしょう。
国民のトップが米作をする国は他にはない事でしょう、ブータン国王やタイの国王でさえ稲作を種まきから刈り入れまでされていないと想像します。
一方、明治4年 昭憲皇太后は養蚕を始められました。当時は、女性が機織りが出来て一人前と思われる時代でしたから昭憲皇太后(明治天皇妃)はその模範を示されたのでした。またそれが養蚕業を国の基幹産業に育てようとした国策にも一致していたのでしょう。「皇后陛下が織姫になる」そんな姿が富岡製糸場を作らせ、足利や桐生結城など各地の織物業を育てたのでしょう。そんな姿が歴代皇后に引き継がれ、200年以上たちました。養蚕業が廃れた現代でも美智子妃殿下は織姫で居られます。
美智子妃殿下は桑の葉を摘んで蚕に与え、育てておいでです。
皇后陛下のお優しいまなざしが蚕に注がれている写真を見る度に思います。
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皇居の紅葉山の御養蚕所で蚕に桑の葉を与えられる美智子妃殿下(写真は前述)
「これこそ、我が国の伝統文化であり自分は、日本に生まれて幸いであった。」と。
我が庭にも桑の木がありますが我が家の妃は蚕を「気持ち悪いと」無視します。
美智子妃殿下が織姫であることは、蚕を育て、糸に紡ぎ、布に織る総ての作業をご自身でなされて居られる事です。。最後の布に折るところだけでは織物業は成り立ちません、蚕を育てる事から始まります。
養蚕業が単なる産業ではなく奥が深い文化である事にフランスは気付いたのでしょう。
今年2月に「パリ日本文化会館」で皇室養蚕展:が開かれ評判になりました。イメージ 1
パリ日本文化会館」での皇室養蚕展の光景(毎日新聞から掲載:http://mainichi.jp/feature/koushitsu/news/20140219k0000e040189000c.html)
富岡製糸場がユネスコの文化遺産に指定され、群馬県は大喜びです。フランス人も自国の機械が富岡製糸場に導入されていた事実に誇りを持ったことでしょう。そして200年余りも機械を使い続けて来た日本人に驚いたことでしょう。こうした驚きは。皇后陛下が蚕を育て絹織物の全工程をされている事を知って納得し、、日本の文化の奥深さを知った事でしょう。皇室の養蚕は明治4年昭憲皇太后に始まり、200年以上も経った現在も伝統として大切に引き継いでこられました。
牽牛と織姫は日本人の祖形として守られてきているのです。それも現代日本の象徴皇室に於いて・・・。
 
 
現代は日本国内で絹が既に輸出品としての往時の地位を失いました。皇室の養蚕が産業の奨励の対象とは全くかけ離れてしまった平成の時代にあって,皇后陛下がなおご養蚕を続けておられるのは,国内で未だ熱心にこの伝統文化を守っている人々に対する共感お気持ちでしょう。絹という,この美しいものを蚕から作る技術が日本から失われることのないよう願われ,手作りする事の尊さや喜びを国民に大切にしてほしい、総ての伝統工芸に携わる人々へのエールでありましょう。,今,皇居の紅葉山の御養蚕所では,養蚕の最盛期,日本の養蚕家が行っていたとほぼ等しい手作業が,春または初夏の2ヶ月間行われているのです。皇后陛下は日々の公務の間を縫い,この作業のほぼ全ての工程に関わっておられます。
序に申しあげれば安倍さんは「アニメやゲーム医療が日本の国策産業になる」思っておいでのようですが、それらは平塚の七夕祭りのようなものです。祭りが終わればプラスチックのゴミだけが残ります。所詮は使い捨てであって仙台の七夕のようになるには伝統の素材から大切にしなければなりません。
日本人が皇室を模範に「牽牛と織姫にならなくてはいけないと思う」のですが。
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半夏ですから要ケアです。

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台風8号の猛威が南国を襲っています。
山梨や山形では急いで、プラムやさくらんぼうの収穫をしていることでしょう。
夏至から数えて11日目をげ「半夏」と呼び、季節が不順なので、注意を促してきていましたが。今年はその通りになりそうな気配です。
我が家に庭にはドクダミが白い花を咲かせています。。どくだみの仲間である、半夏生も、その名の通り半夏の頃には緑の葉の半分を白く化粧させます。水辺で夕闇の中で半夏生がぼやっと浮かび上がっている様は幽霊が出そうな無気味さです。
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鎌倉中央公園の半夏生昨年撮影
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夏生は湿地に咲きますので様々な生き物が生息しています。白いのは夜の闇の中で虫や蛾を誘うからです
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此方は藤沢新林公園の半夏生
半夏生が咲く頃は夏野菜のお出初めで一際野菜美味しいい季節でもあります。
ソラマメも出始、隠元豆も、さやえんどうも、駄々茶豆も枝豆も出始めが旬です。
八百屋の店先ではブロッコリーも目につきます。筆者は「糖尿病ブロックリーと呼んで心して食べるようにしています。
「半夏の季節には生野菜は控えて魚を食べるべし…。」そう祖母には教わりました。
というのはこの季節に祖母は娘を食中毒で亡くしたのでしたが、その原因が生野菜だと悔やんでいたのでした。
そんな次第で、私は夏野菜を天麩羅で食べて来ました。
夏野菜の代表「茄子」も天麩羅が美味しいし綺麗です。
 
この季節の魚はサッパリとして爽やかなお味です。
京都の鱧料理も、博多のおこぜもも槍イカも大分の城下カレイも今が旬です。どれも爽やかでさっぱりした味や歯触りが魅力です。
江戸っ子は「青柳」か「蛸」でしょう。蛸と言えば」明石蛸」関西が本場のように思いますが、三浦の佐島の蛸もブランド品です。
何時からか「半夏には蛸を食うべし」言われるようになりました。
筆者は青柳と蛸を食べたい思って、馴染みの魚屋に連れて行ってもらいました。
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馴染みの魚屋の店先、佐島の蛸は右手前、中央に青柳が並んでいました。
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蛸と言えば蛸焼きです。(平塚の七夕で。
蛸の字は虫が扁になっています。中国人は蛸を虫の仲間(多分蜘蛛)だと思っていたのでしょう。日本の漁師や寿司屋は海の恵みだと理解していましたから魚を扁にしました。
半夏生が葉っぱなのか花なのか難しいのと同じように蛸は虫なのか魚のか判別し難かったのでしょう。
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蛸の字を魚扁にしたのは日本人のようです。写真はお魚カルタ(神経衰弱)より
 
このブログを書いている最中ブラジルはドイツに1対7で大敗しました。ブラジルファンにとってはそれこそ思いもしなかった災いで、半夏生を髣髴させたことでしょう。
今思えば、半夏はエースのネイマールの骨折に始まったようです。
7月2日にブラジルファンは、蛸パエリアを食べておけばよかったのかも知れません。筆者は半夏の晩に蛸を戴きました。毎年江の島神社で茅の輪潜りをしてきたんですが今年はしていませんでしたので・・・。
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蛸のパエリア筆者ならアサリと蛸とカボチャでお米を蒸したいと思います屹度美味しい私カラフルで楽しいでしょう。写真はお料理ブログhttp://cookpad.com/recipe/2134971からてんさいさせていただきました。
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パエリアも良いけど江戸っ子は蛸は山葵しょうゆです。これで、半夏wも無事に越せるでしょう。
今年は江の島神社の茅の輪潜りもしていませんでしたし。
 
 
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手作りジャムだから・・・。

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台風8号は未だ沖縄だと言うのに、良く雨が降ります。
ラジオでは南木曽の「読み書き」で土石流が発生、中学2年の少年が犠牲になった、報道しています。
台風が梅雨前線を刺激したことに依る惨事なのでしょうが、これから台風は接近するだけに心配です。
読み書きには2年前日文研の仲間と出かけました。V字谷の底に木曾川が流れ、深い谷あいの壁に寄り添うように集落が並んでいます。そんな地形ですから「読み書き発電所/日本近代土木遺産」が設備されたのでしょう。寝床に横になりながら、ソロソロおきてワールドカップ(オランダ対アルゼンチンを見ようか」考えますが、脳裏には読み書きの土石流の光景が想われます。2年前は錦秋でした。
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南木曾読み書きこの谷で弩さえ気流が発生した事になります。
 
家内が無花果を取って来ました。「もう、鳥に食べられてしまった。熟してきたのを良く見ているんだから・・・・!」呟いています。私は「ブルーベリーも熟する頃だろうから。ブルーベリーも食べられちゃうだろうね!」言います。
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お隣の枇杷を食べ尽くしたらヒヨドリは我が庭の果実を狙っています。
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少し色づき始めたブルーベリーこの後紫に変われば収穫です。ヒヨドリは青さがひけば啄みに来ます。
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庭先の無花果未だ真っ青なのにヒヨドリが食べに来ます。
 
無花果もブルーベリーも毎年ヒヨドリに食べられてしまいます。ヒヨドリはお隣の枇杷をつつきながら、次は隣の無花果とブルーベリーだ思いながら毎日見回るっているのでしょう。
私は昨年、桑の実でジャムを作って楽しみました。私が作ったジャムですから砂糖が入り過ぎ・・・・・、
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桑の実のジャム昨年のもの砂糖が入り過ぎで糖尿病を加速したかな?
 
入院中に先輩から荷物が届けられました。開けると酢橘が二個そして白くて綺麗な壜入っていまさいた。鬢の蓋をあけるとオレンジ色のマーマレードが詰められていました。
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2年前南木曾に出かけた先輩から戴いた柚子のマーマレード
先輩から「佐藤の取り過ぎには注意して。私手作りのマーマレードを食べて糖分の過剰摂取に注意しなさいよ!」そんなメッセージを感じます。
退院してきてからは、マーマレードを少しずつ戴きました。随分沢山でしたが、もう鬢の底が見えて来ました。
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柚子のマーマレードは少しずついただきましたが。もう残り少なくなってしまいました。
家内は梅ジャムを作ると言っています。梅ジャムより先に「プラムジャム」が食卓に上るようになりました。プラムは柔らかいので、ヨーグルトにかけて戴きます
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プラムのジャムはヨーグルトに欠けて戴いています。
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プラムはそのまま食べて良し、ジャムにもなります。
そのうちにヒヨドリさんが遠慮してくれればブルーベリーか、無花果のジャムも食卓に出て来ることでしょう。
食べられるかもしれません。
ジャムが無いと朝食のパンが味気なく感じられてしまいます。
脳梗塞になってしまった以上、既製品のジャムはたべられそうもありません。先輩の心使いや家内のチェックを受けたジャムだけが楽しみになります。何れにしても、これからは自分が食べたいものを作って食べるかった食べる事は避けて、先輩や家内の配慮を感謝しながら戴く事に致しましょう。
 
 
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日中のトイレに見る文化の違い

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世界中の国が熱狂したワールドカップも残り二試合になりました。試合自体も面白いのですが、国民性の違いも垣間見られて興味が尽きません。帰国した韓国選手に飴玉を投げつけたり監督が引責辞任させられたり、暴動でバスが焼かれたりしました。日本の選手が敗戦に涙しながらも試合のピッチに礼をして、退場し、応援した観客がゴミ拾いをしたり・・・。当局も総てが日本人であったら楽なんだが・・・・!。思っていることでしょう。
サッカーの母国イギリスも世界一のリーグ戦を持つイタリアやスペインも早々敗退してしまいました。彼等の落胆は我が国を遥かに凌ぐものでしょう。イギリスはウィンブルドンの様にサッカーも自国開催にすればよかった思ってていることでしょう。
ところで、先日禅寺のトイレの話をしました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48170494.html今日もトイレの話をします。
栄西も道元も中国に渡って禅をまなび日本に伝えました。禅寺のトイレは東司と呼び大切にしてきたのは当時(宋代)の中国が清潔好きで万事に渡り節度があったからでしょう。
昨今は我が国に外国人旅行客も目立つようになってきました。彼らは改めて鎌倉の禅寺のトイレに驚いて帰る事でしょう。
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藤沢の天嶽院ン簿トイレ、何時も綺麗に掃除されています。
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天嶽院のトイレに花生け。
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天嶽院のトイレには「トイレの神様烏枢沙摩明王(うすさまみょうおうが祀られています。
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可睡斎のトイレ(東司)左中央に烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう
総じてトイレは「便をするところ」と理解されているようですが、日本だけは「化粧室」と案内している様に、便をする処と言うより「身だしなみを整える場所」と理解しています。
中国のトイレ事情は最悪・最低です。
お隣との境が無い…などは文化の違いと言えばそれだけのことでしょうが、水洗トイレでも、紙は流せません、脇のボックスに入れておかなくてはなりません。紙を流すと下水道が詰まってしまうのです。
日本の水洗トイレやウォシュレットが良いからと言っても導入できません、水道自体の品質が管理されていないので、すぐに詰まってしまうのだそうです。中国は空気もPМ2.5で汚染されていますし、川も汚い事汚い事、ゴミも重金属も流れているようです。食べ物が口に入るところからして便として排出するところまで無神経なんです。
禅寺が台所を典座と言って大切にしていることに比べると。大違いです。
今の中国人には国土を綺麗に使うそんな姿勢や気持ちが全くないのでしょう。、何れ健康被害などのお仕置きが出るまで気が付かない事でしょう。
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北京於胡同美しい街路の片隅に公共のトイレがあります。その中が汚れていること日本人には耐えられません。(筆者は北京オリンピック直前に胡同を見に行きました。)
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鵜胡同のトイレ建物、向こうの血尾想中の建物は北京そごうデパート。街が汚れて居ればトイレが汚いのも空気が汚染されていることも仕方ありません。
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私は北京国際空港でもも香港国際空港でも中国人の後には並ばないようにしています。出入国審査でも入関検査でも、中国人の後に並ぶと待たされてしまいます。官吏が自国民を厳しくチェックしているんです。日本の赤いパスポートを見ただけで官吏は信頼して通してくれますので、日本人の列に従って進むのが気持ちよく海外旅行するコツです。中国の官吏は日本嫌いであっても、日本人の規範性には信頼を寄せているのです。
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北京マラソンでのトイレ風景。大気汚染と併せてこの無神経さが中国嫌いを世界に広めました。写真:划词关闭划词中国の報道は移設トイレの準備不足を反省していましたが、根はもっと深くランナーは小便をしたくなることの予測が無かったことでしょう。
禅は中国で始まっても禅の精神は中国には全く残っていないようです。日本には禅のスピリットは純粋培養されてより一層リファインされて、一般生活の場面でも、活かされているようです。ごみ袋を持ってスタンドを清掃している応援客を見ていて清々しく感じたのは日本人だけではなくブラジル人もそう感じたのでしょう。彼等もごみ袋を持参するようになったのだそうです。
中国や韓国が如何に日本を悪く言おうとも、世界中で日本人や日本の文化は敬愛され尊敬されているのは間違いありません。
それは「中国のトイレと日本のトイレどちらが好きですか?」訊く様ななものです。綺麗で可愛いのが世界中どこでも好まれています。
 
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永遠の旅人

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台風一過底抜けの青空と炎暑が遣って来ました。
窓ガラスの向こうには緋色の塊が見えます。
そう、向かいの土手に今年も藪萱草が咲き出したのです。そう、この花が咲き出せばももうじき祇園祭りでその先は盆です。
綺麗な藪萱草も盆までの命です。盆には藪は刈られてしまいます。
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咲き始めた藪萱草の花、万葉人はこの花を「忘れ草」と呼びました。このオレンジ色が灼熱の恋心を思い起こしたのでしょう。筆者はこのはなをみると振袖火事のお七を思い起こします。米国人は「風と共に去りぬ」のオハラを思い起こすでしょう。どちらも灼熱の恋、地獄の業火が共通しています。
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日本人はこの濃いオレンジ色(スカー-レット)を緋色と呼びました。火の色を思い起こしたものでしょう。
 
 
盛夏になれば緋色の花が目立ちます。
家内は庭の片隅から檜扇の花を切って玄関に生けました。
「茗荷やドクダミは福を呼びそうもないから、檜扇を大事にしようかしら・・・・!」なんて呟いています。そう,家に居ても初夏の白い花から盛夏の緋色の花に季節は巡ってくれます。
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ひおうぎの花この花が咲くと夏祭りの金魚掬いを想い出します
芭蕉は奥の細道序文に「月日は百代の過客にして、行き交う人もまた旅人なり」と書きました。日本人は「人生は永遠の旅人」と教わって来ました。
昨日の新聞を見れば萱草の仲間のニッコウキスゲが映っていました。
「バスに乗って尾瀬ヶ原に行きませんか!」誘っています。私も健康であったなら今頃はバスに乗って鳩待峠辺りかも知れません。
でも現実は介護ベッドの上です。
でも芭蕉が教えてくれたように、私は家に居ても季節の方が勝手に巡ってくれて旅をしたようにしてくれます。
もうじき庭先に鬼百合が咲いて、揚羽蝶を招いてくれることでしょう。暑くてもそれも楽しみです。
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鬼百合に揚羽蝶、熊谷守一のテーマです。熊谷守一は南こそにちかい付知峡に生まれ育ちました。その絵画は「生と死を見詰めたものと」思います。 
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鎌倉妙本寺の凌霄花は梅雨明けの季節が見頃です。
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鎌倉妙本寺の凌霄花
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鎌倉妙本寺の弐天門毘沙門天の背後に凌霄花が咲きます。
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じょれも緋色狐の剃刀「かまくらの広町緑地」で
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これも緋色デイゴの花(鎌倉の龍口寺)
 
 
テレビでは昨日の南木曾出の土石流の惨事を報道しています。
兄さんを失った兄弟は屹度呆然と今日の青空を見上げて居る事でしょう。つい先刻まで枕を並べて寝ていた兄さんが今朝は天に召されてしまいました。天を見上げれば底抜けに青いだけです。
人々は言います。土石流は蛇が走ったんだよ・・・と。
土石流が起こる直前は龍のような雨が降ったよ、キナ臭い匂いがしたよ。そして地滑りの跡は白い御影石がゴロゴロ転がっていました。まるで、木曽川に棲んでいた龍が沢を上っててんに揚ったように見えるんでしょう。緑の木檜の森林に白い沢だけが無気味に目立ちます。まるで、常緑樹に架った蛇の抜け殻のようです。
 
兄弟は木曾谷の風土を恨む事も出来ません、故郷の山も谷も恩愛の彼方です。私達は残った兄弟の成長と兄さんの冥福を祈るだけです。
兄弟は仲良しで屹度世「読書下記小学校」に通った事でしょう。福沢桃助が勉学の重要性を説いて作られた学校です。
木曾谷には上松や中津川等に蛇が走った跡や説話が数多く残されています、どれもが土石流です。残された兄弟はこれからの長い人生、梅雨あけの豪雨と、萱草の花を見るたびに想い出すことでしょう、「2014年7月8日未明の憂き事」を・・・。
でも木曾を恨まず逞しく人生の旅を進んでほしいものです。
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南木曾読書ダム(土木遺産)にかかる吊り橋、向こう岸の袂に蛇が走った土石流の火碑がありました。今回の惨事もこのような地形で発生したのでしょう。
 
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う、咲き始めた藪萱草。万葉人は「忘れ草」と呼びました。我は恋で身を焦がしても、貴方は見向いてくれない
この憂さを「忘れ草」に託しました。筆者は(振袖火事の七を思い出します。米国人なら風もに去りぬ」の、オハラでしょう。どちらも灼熱の恋と地獄のお業火が共通しています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

肌色は何処に行ったの?

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私の住む戸塚にもインドレストラン、ブラジルレストランが目立つようになってきました。隣の長後寄りには銀杏団地があり、ベトナムのボートピープルを受け入れて以来、ベトナムやタイレストランが多くあって、それだけでも楽しかったのですが、最近は一層多国籍化が進んだように思います。
我が家の窓から西を見ればコンフォール上倉田団地が見渡せます。
同団地内でもヒジャブで顔を覆った女性が目立つようになりました。
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私の住む戸塚柏尾川の東(右岸」はコンフォール倉田団地があり外国人が目立つようになってきました。
黒いスカーフは暑そうですが、薄い絹のサリーを着こんだ女性やアオザイを着た女性を見ると涼しそうで、しばらく眺め手しまいます。彼女らは民族衣装にプライドを持っているのでしょう。
アジア系の外国人が増えれば学校にその子弟が通学します。
運動会でも文化祭でも、アジア系の子女は屈託なく元気に過ごしているようです。子供が元気ならお母様方も元気です。母子共に,日本社会に溶け込んでいることが確信できます。最近では、日本の国際化は米国よりはるかに先行しているように思われます。
米国でのコーリアンやイスラム系民族への蔑視は根強いものがあって、度々問題になっています。帰国子女や留学生からも米国での差別の報告は良く耳にします。
町内に住む外国人については、町内会では「ゴミ出しに問題があると」とか「挨拶を返さない」など批判もあるようですが、図書館で大声でしゃべくりまわす中国人に比べれば日本のルールやマナーを順守しているように思います。
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(ベトナムレストラン「フォー・モティティ」) のアサリのフォー。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45982925.htmlに書きました。
小学校では「肌色」と呼ばないそうです。
肌の黒いインド人に「肌色のクレヨン渡してください」と言えばインド人は傷つくかもしれません。そんな心使いが日本人に「肌色」を敬遠させ、薄橙(うすだいだい)・とかペールオレンジと呼ばせているようです。
日本女性の理想の肌の色は肌色でしたが、国際化が進んで、表現も変わってきたようです。
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筆者愛用の色鉛筆の肌色
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古いクレヨンは肌色と書かれていましたが、多くはイエローに変わっていました。
柔肌の 熱き血潮に 触れもみで寂しからずや 道を説く君(与謝野晶子」
テレビでは真木よう子さんがトヨタ車のCМに出ています。
私達日本人は少し火照った若い女性の肌を思い起こします。「どんな色?」訊かれればピーチと答えるのでしょうか・・・・・。
肌色表現の廃止は差別への過剰対応のように思います、日本女性の美の憧れが「肌色」ですから、「薄橙色」なんて呼ばずに肌色と言えば外国人は「日本人お肌の色と」理解してくれることでしょう。
そんな事より問題は日本の社会に昨今顕著になっている差別でしょう。
私の小学生のころ「母の日」には赤いカーネーションを胸に刺して家に帰りました、「お母さんありがとう」と書かれた栞がついていました。お母さんの居ない子は白いカーネーションを胸に刺しました。
当時のの私は「お母さんの居ない子が可哀想だと思いました。何で学校に行ってまで「自分は母無し子だ」差別されなくてはいけないのだろう・・・・・、思っているだろうと思うと気の毒でなりませんでした。白いカーネーションに「お母さん安らかにお眠りください」天国へのメッセージが付いているとは気づきませんでした。
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白いカーネーションは「天国のお母さん安らかに」そんなメッセージでした。
日本社会にはまだまだ根強い差別が残っているようです。
昨今の日本社会は弱者への差別偏見に満ちています、最近は高齢者や生活困窮者への差別が目立ってきているようです。また多くの人がが差別していることに鈍感なような気がします。
公務員や大企業就職者が優れていて、中小企業就職者や、派遣社員や子を産まない女性が差別されています。今更部落問題矢ハンセン病を指摘する事も無いでしょう。 しかし、ホームレスの人が寂しい公園で殴り殺されたりしています。ホームレスは汚い無益だと観られているのです。種田山頭火もホームレスですし、河原者は能や庭園を造りました。日本文化の奥深い処にはホームレスが居ます。
 政府は差別に対して無頓着に過ぎます。最近の労働行政は正規雇用者が優先されていて、非正規労働者は限界雇用者の扱いです。私達も「お勤め先は?」と聞いて、大企業であれば一目置いたり、派遣社員であれば、無意識下に軽視しているのではないでしょうか?これから、消費税が10%に上がれば、被差別日本人はさらに苦しき生活を強いられるでしょう。差別の充満は経済成長を阻み社会を不安定にします。屹度2020年にはオリンピックに浮かれた金満日本人と、オリンピック公園を占拠したホームレスがいて、社会の二極化が一層深刻になっていることでしょう。今の調子ですと、日本にも暴動がおきかねません。熱帯夜が開けて今朝は少し過ごしやすいのですが、ブラジルは今日も負けて、暴動が起きそうで心配です。
 
 
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切通しを飾るり山百合の花

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ついこの前まで、頭の上で雨蛙が鳴いていたのに、今朝はニーニーセ蝉が鳴いて「今日は暑くなるぞ!」と告げています。このセミは小さくて地味なものですが、梅雨明けの頃に泣き出します。昨日の晴天を地中で感じ取って地上にノコノコとこ這い出したのでしょう。新盆(にーボン)を告げるので、ニーニー蝉と思っています。夏の終いを知らせるのが「ツク・ツク法師」で夏の始まりを知らせるのがニーニーセミです。
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京都の祇園祭山鉾巡行は7月17日です、今日からは4条通りに並んだお旅所に行けば山鉾を観られる事でしょう。今日14日は戸塚八坂神社の天王祭ですから私の住む戸塚は大賑いするです。今では戸塚にしか残されていないのこされていない「お札撒き」が賑やかにく行われます。この足では筆者は出かけられそうもありません。おとなしくして家に居て鎮守の賑いを聞いていることに致しましょう。
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戸塚天王祭のお札撒きの光景http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47436117.htmlhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43697465.html幕末には東海道の総ての宿場で営まれ、この騒ぎが「おかげ参り」や「良いじゃないか運動」に利用されたと言われます。
筆者が毎年観てきたのに今年は見られないものがもう一つあります
それは鎌倉の朝比奈切り通しの「山百合の花です。
鎌倉の町は前が海、背は山で囲まれています。山は天然の城で防御するために道は切通しにしてあります。断崖の上には陣取って攻めてくる敵に上から落石し、矢を射って、防ぐのでしょう。この要塞を「切り技岸」と呼んでいます。
崖の中腹、切り技岸の上に、崖の中腹に山百合が咲くのです。
昔は雑木林のそこここに咲いていた山百合ですが、心無い人が持ち去ってしまった事、人が柴刈をしなくなったことから、滅多に見られなくなってしまいました。ところが朝比奈の切通しだけは柴狩りを丁寧に行っているので、毎年見事に山百合が咲くのです。
私達は切通しの下を歩いてく来ます。突然に芳香に囲まれて驚いて頭上を見上げると山百合が嫣然と見下ろしているんです。
私は花魁道中を見物している通行人のような感覚に陥ります。
「・・・・・・歩く姿は百合の花」その通りの艶やかさです。
あの艶やかさが忘れられずに毎年切通しを廻って山百合巡りをしてきました。
やまつりさんはいっているかもしれません
「今年は戸塚の田舎っぺが来ないじゃないの。どうしたのかしら?折角もいちねんたったのでもう一輪増やして・・・・頭が重くて閉口しているというのに・・・」
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 同上の山百合の花
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此方は北鎌倉の長寿寺の山門に咲く山百合欅の大樹の穴にも咲いています。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/34282960.htmlに書きました。
切通しの崖には櫓が掘られていて五輪塔が置かれています。古人のお墓です。
お墓の主も山百合を楽しんでいることでしょう。
鎌倉を守り大差悦に思う気持ちは山百合と同じだ・・・・思っていることでしょう。
ツタンカーメンのミイラには矢車草がおかれていたそうですし、纒向遺跡(奈良・縄文)の墓からは紅花の花粉が発見されたと聞きます。
墓に花を供えるそんな心情は時代と場所を選ばないものなのでしょう。
旧盆に入れば原爆や終戦記念日を迎えます。日本の熱い季節です。
沖縄ではひめゆりの塔に、花が供えられることでしょう。
ひめゆりは野萱草に似た緋色(血の色)の花です。
日本人は思っています。ひめゆりは結構です。山百合でありたいと思います。
政子の墓にも実朝の墓にも山百合が似合います。
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東慶寺覚山尼のお墓にはひめゆりの様に鮮やかな桔梗が供えられていました。櫓のお墓と供花は良く似合います。
このブログを書いているとワールドカップも終わりました。1か月世界中を熱くしてくれました。終わってみれば下馬評通りにドイツが優勝しました。
祇園祭も新盆が終わる頃には冷めて居る事でしょう。
山百合は鹿の子ゆりにニーニーぜみはクマゼミに交代していることでしょう。
そのころには私の歩行もしっかりしていればよいのですが、もしかして汗疹に苦しんでいたりして少し心配です。
 
 
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