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サンマルクカフェの偽り

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我家の前の県道は(柏尾大船線)は古くは奥州古道で由緒のある古代の古道です。我家と大船笠間十字路の中間点に飯島交差点が在ります。飯島は昔から須藤さんというお百姓が大地主でその須藤さんの店でイタリアンレストランのサイゼリアがあったのですがこの夏に閉店してしまいこの秋サンマルクカフェが出店しました。http://r.gnavi.co.jp/bjxkjrm90000/
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私の生活圏に新規にオープンしたサンマルク・カフェ飯島店多分地元の須藤家のフランチャイズと思われます。

私は月一通院している脳神経科に通院していますのでその序に初めて入店してみました。
サンマルクには思い出深いものがあります。私が某中堅証券会社の公開部長をしていた時に岡山支店から店頭に公開する計画している有望な会社が在る、ベーカリーレストランで全国展開をするには公開する事が有効である・・・との意見でした。私はかって気懸りであった山口のファーストリテイリング(ユニクロ)と併せて出張しました。
私は銀行時代神戸屋パンの創業した新業態(オープンキッチンとベーカリーレストラン)を知っていましたので岡山のベーカリーレストランの成功は予測できました。
私の勤務した証券会社は期待通りの引き受けシェア―をゲットできました。
そのベーカリーレストランがサンマルクでした。
私が社名の由来を聞くとサンマルクとはと パリに在った古代東方教会の修道院の名で、修道士サンマルク聖マルク)に由来するのだそうです。”心を込めた手作りの天然酵母パンを焼き立てでお出しする”美味しさと静謐な空間で食事の楽しさを満喫して貰う・・・・・・・、そんなコンセプトだったのでしょう。
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静謐な空間が保たれ落ち着いた室内。パソコンの電源も欲しい処です。

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広いテーブルは新聞や雑誌を読むにもゆったりしていていいものです。
私の第一印象は修道院で作ったパンの意味か?ならばモンサンミッシェルの方が日本人には受けるだろうに思いましたが、そんな事を先方に言ったら肝心のシェアーが獲れません。口を噤んでしまいました。
当時人気の任天堂のゲーム”スーパーマリオ”のお名前を拝借した安易なものだろう思ったのでした。
私の生活圏では鳥が丘等に進出して「行列が出来るファミレス」でした。でも私の評価ではレストラン神戸屋の方が上でした。公開すれば安い資本が大量に入って来ます。でも他人のお金は絶え間ない成長と配当を約束する事なのです。修道院のパンを提供したい志と一致させるのは至難な業です。


サンマルクは公開後も順調に成長し、今ではいまでは東証一部に上場しています。
でもその会社四季報を確認して驚きました正社員は60人で非正規社員が10倍の600人なのです。修道院の焼き立てパンを食べさせるのがコンセプトならこんな人員構成になる筈はありません。
株価維持の為には利益率を維持しなければなりません。利益重視の為には利益の上がりそうな業態は何でも食いつきたくなります。
パスタが良さそうに思えば鎌倉パスタの名前フランチャイズ展開しましたし。寿司店が魅力に見えれば函館寿司の名で打って出ました。
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サンマルクカフェ飯島店のディスプレイ、ハイカロリーで甘いものばかりで、修道院のコンセプトには不似合いなメニューです。ワンコインでランチが出来るコンセプトは飯島の地域性にマッチしているのですが、主要顧客が高年齢層であることを配慮すれば健康志向が欲しいものです。
ところで我が家の近所に新設されたサンマルクカフェ飯島店ですが、業態は名古屋のコメダ珈琲のコピーでした。落ち着いたインテリア豊富なメニューそして沢山の新聞雑誌…何れもコメダ珈琲かはたまた星野珈琲に来たようでした。そんな次第で近所にコメダ珈琲が出店したと思えば満足です。
でも東方教会の修道院の名を冠したのですから、それらしいパンを食べさせてもらいたいものです。
鎌倉にはドイツパンの「ベルグフェルド」があります。北ヨーロッパは痩せ地ですのでライ麦しか育ちません。ですから浅黒いけれども滋味のあるライ麦パンしかできません。
私が大学に入る直前に映画「ライ麦畑でつかまえて/原作D・J・サリンジャー」を観に行きました。落ちこぼれた青年のお話でした。落ちこぼれ青年は逆境に抗して少女に恋したり逞しく生きて行きます。当時の時局はベトナム戦争への批判が渦巻きヒッピーが目だっていました。時代は権力や資本に迎合するよりは孤独でも自然児として人間らしく生きてゆくことに価値を認めて居ました。
私の友人は寝袋を担いで京都駅前や札幌の大通り公園で野宿して居ました。
ドイツパンにはライ麦パンの味がします。でもサン・マルクのパンは甘いしハイカロリーで不健康な味がします。
ですから私もワイフも不満です。
サン・マルクカフェはコメダ珈琲との差別化の意味でこそ、修道院の健康自然食品に徹してみたら如何でしょうか?
いずれにしても安易なネーミングに始まり業態展開何れも、サンマルクカフェは応援したありません。
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サンマルクカフェのカウンター基本的には顧客のセルフサービスでショップでパンを焼いています。コメダ珈琲よりも省力化が進んでいます。
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豊富な雑誌や新聞をゆっくり閲覧できるのも名古屋方式のコーヒーショップのそれです。
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午後3時でもお店は閑散としていました。これではオーナーはサイゼリアの方が良かった思って居る事でしょう。




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朝日新聞にエールを

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従軍慰安婦報道に端を発して朝日新聞の状況が青息吐息であろうと推測されます。日本の民主主義が二大政党が拮抗する中で運営されてきたように日本のマスコミも読売朝日の二大マスコミによってバランスを保ってきました。
私は朝日新聞で育って社会人になっては読売に代えたままです。でも最近はその報道姿勢生じた疑問が次第に大きくなるばかりです。
新聞社の力量はそのコラムを読めば大凡判断できますが。読売のコラムは総じて大味です。昨日安倍首相は国連でシリア難民問題に900億円余りを支援すると表明して更に安保法制が成立して「積極的に世界の平和に貢献する」と演説しました。
元 国連難民高等弁務官の緒方貞子さんは「シリア難民に目をそらして何が積極的平和阿主義なのだ!」苦言を呈しておいででした。安倍首相の積極的平和阿主義とは嘘で国家の平和を追求でして人間の安全や平和をもと忌めるものではないと叱責されている様に思います。
想い起せば現代のシリア難民問題もイラク戦争に端を発しました。
ブッシュ大統領がイラクに大量破壊兵器を隠し持っていると喧伝しイラク戦争を開戦しました。
当時日本は「当時日本は金は出しても姿は見えない」非難を受けていました。
日本は平成6年PKО法(国連平和維持活動)を通して自衛隊をペルシャ湾に派遣しました。
目的通りにフセインは追放されましたが、新たにISを産み、難民問題も引き起こしたものでした。
自衛隊は当初はペルシャ湾に投げ込まれた機雷を掃除する掃海艇でしたが現在は海賊を追い払っています。
日本人の感覚では平和とは国民の安全で幸福な生活を送る最重要な前提であった国家の平和ではありません最も国民の平和は国家の平和が無くては不可能ではありませんが現代国民の名で国家を守ろうとする嫌いがあります。国家が国体と呼ばわれたのはつい70年前でした。以来日本人は国家は信用できない、国民こそ主役だと思ってきました。
積極的平和主義と云いながらも主役は人間の命ではなく国家であるというのはシリア難民の命を守ろうとしないでお金で済まそうとする姿勢に如実に現われています。
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今年の1月30日の読売新聞夕刊/後藤健二さんがISに処刑された事件の影響でNGОの活動も困難になったと報じて居ました

横浜ではベトナム難民を受け入れた住宅団地が目立ちます。実際に同じ団地に住めばいろいろ問題はあるのでしょうが。日本人社会の懐の深さは難民の受け入れも可能と思います。
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泉区下飯田の銀杏団地で行われるお祭り同団地はベトナム難民を引き受けて以来多国籍住人が融和しています。私の住む戸塚区にも外国人が目立つ最近ですベトナム料理だけでなくシリアやアラビアの料理も食べたいものです
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今朝の読売新聞(9月30日)安倍首相は安全保障法案も通り国連総会の席上で積極的平和主義を宣言したものの970億円の支援金を投じるだけで難民を受け入れるとは言いませんでした。イラク戦争では自衛隊をペルシャ湾に派遣したのでしたが、私には人間の命を軽視している様にしか見えません。お金で済まそうとする姿勢は昔から侮蔑されていたのでしたが・・・。

朝日新聞は安保法案通過後も総力を挙げて同法案が国民の支持を受けて居ない事を訴求する姿勢であります。この安保国会の審議を経て日本国民は問題の核心と危険性を察知して「憲法改正を発議されたら反対する」予習を済ませた様に思います。
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今週の週刊朝日は朝日新聞は安保法案反対の姿勢を貫くと宣言しています。私も安倍首相の自己陶酔が日本の国民の命を危険に晒すと懸念しています。

憲法問題こそが最重要でありましょう。安倍首相も憲法改正を先にすべきでした。順番を間違えたので憲法軽視と映ってしまいました。今後安保法の違憲訴訟が各地で起こるでしょう。その度毎に”安保法は憲法に違反する”判決が出ることでしょう。なにしろナイキ基地訴訟でさえ、自衛隊は憲法違反であると札幌高裁で判決されたのでしたから・・・・。
日本が正しい進路を選択するためにはマスコミが木鐸として相応しい役割を果たす事が肝要です。現状の様に横柄な読売新聞の一人勝ちでは心もとないと思います。朝日新聞にこそ張り切って貰って右寄りに曲がりすぎた舵を戻して欲しいものです。
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15夜の日の読売新聞のコラム野口雨情の作詞本居長世の作曲15夜お月さんを学童疎開の過去に併せて書いていました。私なら田端義男の歌った「帰り船」を素材に書きます。
歌詞は次の通りで南太平洋から帰還する兵隊さんがお月様を観て唄うものでした。この時代は反戦嫌戦精神が満ちて居ました。
  波の背の背に 揺られて揺れて
  月の潮路の かえり船
  霞む故国よ 小島の沖じゃ
  夢もわびしく よみがえる

筆者はサンマルク・カフェで珈琲を飲みながら朝日新聞の活字を懐かしく読みました。天声人語も読売の編集手帳より共感を得ました。更に俳句や短歌の投稿欄も秀作が多く載っていました。
私が朝日新聞を読んでいると脇からワイフが言います。
「我家は読売で良いのよ、消費者にとっては(チラシ広告の多い)読売が好都合なのよ」当面は読売をとっても図書館やサンマルクで朝日を読み比べる事になりそうです。
いずれにしてもマスコミは国民の耳です。朝日新聞にも頑張って貰わなくてはなりません。
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同じ日の朝日新聞のコラム(天声人語)初恋にかぶせて十五夜をコラムしていました。兎模様を天使の悪戯にしている段は気に食いませんが(日本人なら帝釈天の故事/兎の捨身慈悲行を誉めた説話/http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48354280.htmlを描いて欲しいものですし実にその晩に伊勢で月見の女子高生が殺害された事件も起こりました。
国語の教師なら朝日のコラムの方が秀作と評すると思います。

国民はGNP600兆円など期待していません。慎ましくとも平和で安全な毎日を送りたいと願っています。今回の安保国会で日本は二分してしまいました。安倍首相の自己陶酔で沖縄をカタルーニャ州の二の舞にしないよう願うばかりです。カタルーニャ州はスペインから独立する機運にあると報じられています。沖縄の民意を軽視し続けるとカタルーニャ州のように成ると懸念します。

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曼珠沙華は血の涙

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彼岸の中日友人のI君の鎌倉彫の作品が展示されているので鎌倉芸術館に行った事は先日ブログアップしました。(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48929277.html)日文研の同期性が久々に9人も集まりました。前回は2年前A女が毎日新聞社の主催する書道展で入賞した時に上野の美術館に集まりました丁度不忍池に蓮が咲き出す季節でした。その前は4年も前で梅の咲き出す季節でした、東慶寺に集まって、浄明寺で昼食をとったのでした。その時笑顔を見せていたМ君はその翌年の冬に大分杵築の温泉で脳溢血で帰らぬ人になってしまわれました。
そんな訳でこれからは何時会ってもその機会が今生のお別れになるとも限りません、友人に会う機会を大切にして毎日を送ろうと思いました。I君の提案もあって昼食後鎌倉芸術館に近い常楽寺(元建長寺」に登りました。道すがらH君もその奥様もМ君も皆俳句の話題で盛り上がっていました。I君は先ず季語を探せば5字が埋まるので残りの10字を並べれば出来上がりなので、”季語を探すのが大事だ”言っているようです。H君が”穴惑い”をしっているか?言います。
奥さんが穴惑いとは『秋の彼岸を過ぎても,冬眠のための穴にこもら ないでいる蛇』を言うのよ。 説明されます。
私は我が庭に棲みついている巨大な青大将の事を想いうかべました。今日は暖かいのでテラスの上で日光浴をしているかもしれません。臆病なチコ(愛犬)は怯えていそうです。
私は毎日ワイフに導かれて無事にリハビリしています。穴惑いする蛇の気持ちが良く解ります。
これからは寒いので地中に隠れなくてはなりません。それは解っていても少ない時間でも「ひなたぼっこ」をして居たいものです。
恐妻に導かれて日々好日なり穴惑い
70歳の俺がそんなにモテるはずがない穴惑い(筆者川柳)
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のんびり道路で穴惑いしていると轢かれてしまいます。(慶応大学藤沢キャンバス前道路で)
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沼田川場村の吉祥寺の観音石仏の肩で暖を取る蜥蜴、穴に入る前が”穴惑い”なら穴から出てきた蛇は”穴歓喜”でしょうか?

М君はそんな話題を聴いていたのかどうか?苦吟の最中のような表情でしたが一昨日メールで俳句を送って来てくれまあした。私がアルバムを作るので、その際に使って呉れれば幸いだ!そんな積もりでしょう。こんな句も在ったのですから。
「穴惑い六十路の恋や街の灯や」(М)
М君自身は句作に夢中でも私達の声は聞こえていたのでしょう。
六十路の恋とは何のことなのか厳しく訊いて見ないといけないようです。
「青春の恋セピアに色あせて穴惑い」なら特段問題は無いのですが・・・・・。もう不惑も過ぎて四半世紀経っています。。
「いつの日か仏の門へ萩散華」(М)
この句は鎌倉芸術館からバス通りを十五分も歩いて常楽寺の山門通りに入って直ぐ白萩の花がもう散り始めていたのでその花を吟じたのでしょう。
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バス通りから常楽寺の参道に折れた角に白萩が咲いて居ました。道路は真っ白に散華して居ました。向こうの茅葺屋根が常楽寺(元建長寺)山門です。
М君の作品には次もありました。
大姫や狂いて木槿咲き乱る」
М君は木槿(ムクゲ)の花を吟じて居ました。でも私は菫(スミレ)と解釈しました。大姫とは頼朝と政子の間に出来た姫の事です。
常楽寺の裏山の山中に二基の五輪塔が在ります、一基は「木曽塚」と呼ばれ木曽義仲 の長男・木曽義高の墓と伝えられます。
1183年(寿永2年 )3月、源頼朝と木曽義仲の武力衝突しましたが、義仲が子義高を鎌倉に人質として差し出す ことで和議が成立します。義高は、頼朝の娘大姫の許嫁という名目で鎌倉に送られますが二人は政略結婚と云えども真実愛し合います。
1184年(寿永3年)正月20日、義経らが木曽義仲を討ち取ると、頼朝は義高を誅殺するよう命を下します。これを知った大姫は、義高に女装させて逃がします。しかしすぐに事が露見し義高は捕縛され処刑されて果てます。(1184年(寿永3年)4月26日)。その義高の墓が常楽寺の裏山に祀られているのです。もう一基は泰時の 娘の墓と案内されていますが大姫の墓であるという説もあります。
М君はこの故事を吟じたものと思います。木槿(ムクゲ)を吟じています。確かに参道にも境内にも未だ木槿は咲いて居ましたが一番に目に着いたのは夏菫(なつすみれ)でした。
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常楽寺阿弥陀堂の参道石畳の縁は夏菫の花(トレニア)が縁取りしていました。筆者はМ君の句を夏の残りの木槿よりも今が盛んな夏菫と解釈しました。
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常楽寺の墓地竹藪の中でも逞しく咲いた彼岸花(曼珠沙華とも呼びます)
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左のドデンと重量感のある五輪塔が3代執権北条泰時の墓この奥の崖の中腹に木曾殿の墓が祀られています。


夏菫は味わい深く敷かれた石畳の縁に群れ咲いていました。恰も本堂の阿弥陀様の前に導くようでありました。阿弥陀堂と義高の墓の間に大姫の墓も祀られていてその周囲は彼岸花が咲いて居る筈です。
М君がこんなに吟じてくれたのなら木曽義高の墓まで登れば良かったのでしたが、其処まで思いつきませんでした。М君の事ですから夏菫ではなく曼珠沙華を吟じた事でしょう。私には曼珠沙華の雄蕊が簪の様に吹き出た姿は父親の薄情を怨み嘆いた大姫のまつ毛の様に見えるのです。М君の力量ならどんな風に吟じるか楽しみです。山口百恵さんが歌った曼珠沙華の様に吟じたかもしれません。長崎物語は「ジャがタラお春の悲愛の歌で女の怨念を赤い花なら曼珠沙華・・・・」と謡ったものでした。女の怨みは怖いもので血の涙は曼珠沙華にピッタリです。阿木耀子さんは流石に女を表現するのに長けておいでで曼珠沙華を素材に少女の百恵さんに歌わせたのでした。
曼珠沙華 姫の怨みか 血の涙
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曼珠沙華は路傍で咲いて居ます。このお地蔵様は旅路で衰弱死して投げ捨てられた霊を弔っているのでしょうか。手前は野萩です。
撮影寿福寺近くの墓地


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水引の送り迎え

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我家の門と玄関の間は柊の垣根と満天星の植え込みが左右を挟んでいます。柊は腕に触れても痛いので不評ですが厄除けになると思って毎年強めに刈込してきました。節分の日には柊の垣根の角に鰯をぶら下げて願掛けにしてきました。その柊の根元に十年来水引が自生してきています。
水引は反日蔭が好きなので垣根の下は好環境なのでしょう。冬は枯れてしまって消えてしまいますが根だけ残って早春には芽吹いてきます。夏中は葉を拡げます。その葉っぱが露を含んで革靴を濡らすのが厄介です。でもこの地味で忍びの野草をワイフは大事にしています。私が入院した時も退院して戻った時もこの水引が送り迎えしてくれました。我家の苦楽を観て来てくれた水引ですが今年も小さな花を付け今が見頃です、昨日も新戸塚病院(リハビリ)から戻ると、愛犬が左手から右から水引が出迎えてくれました。水引は気が利いていて花を上から見れば赤一色であるものの花の裏が白いので風に揺れると紅白に見えるのです。友禅の着物の表裏を観るようで”粋”な花です。
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妙本寺の祖師堂前に自生している凌霄花の花この蔓の根元を水引草が囲っています。
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これは我が家の玄関先に自生している水引草です。この野草は蓼科なので毛虫を寄せ付けませんし小花がが紐状に咲く様子は可愛いものです。小花は表が赤でも、鍔が白いので花が翻ると紅白に見えます。私はこの花の送り迎えを受けて一日を過ごしています。

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我家では凌霄花ならぬ木通(あけび)が水引草を見下ろして居ます。今年は1個しかなっていません。水引草は私の健康を心配してくれているようですが木通は呑気なもんでブラブラブル下がっています。去年は、裏山に登って受粉させたので10個も実ったのでしたが今年の春は私は山に入れなかったので受粉が不十分でした。来年は足も回復させて沢山稔らせてあげたいものです・・・。

水引の起源は飛鳥時代まで遡るのだそうです。来日した中国王朝(随)の使者の贈答品に紅白の麻ひもが結ばれており、その後、宮中への献上品にも紅白の麻ひもを結ぶようになり、やがて庶民にも広まって日本文化として定着したといわれています。
今では神社のご祝儀にも孫の進学祝いも水引で結んだご祝儀袋で飾られています結婚式のご祝儀の結びを「結び切り」にするか「蝶結び」にするか慎重に選択しなければ大恥をかいてしまいます。
水引にはいくつかの種類があり、それぞれ意味が込められているのです。人生は「晴れ」と「穢/俗」の繰り返しです。水引は「穢れ/災難」と晴れ「目出度い祝行事」を締めくくる大切な願望を託して居るのです。
鎌倉のお寺にも水引の名所が幾つもあります。私の好きなスポットは比企谷(ひきがやつ)の妙本寺の境内です。桜の名所であった妙本寺さんの祖師堂前に凌霄花を誰かが植えられました(多分千代の住職でしょう)凌霄花はスクスク伸びて桜の幹を這い上りました。そしてまるで大蛇の様に桜の幹を締め上げ先ず右側の桜を枯らしてしまいました。
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これが妙本寺の二天門奥が祖師堂周囲を桜と花海棠が囲んでいますが左の帝釈天の裏に凌霄花が自生しています。
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妙本寺の名物祖師堂前の海棠
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 二天門前の桜の樹に絡みついた凌霄花の足元を水引が隠しています。緋色の落花は凌霄花です。水引草はまるで桜を殺す凌霄花の残酷さを覆っている様に見えます。以前次に書きましたhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E5%A6%99%E6%9C%AC%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%87%8C%E9%9C%84%E8%8A%B1#mode%3Ddetail%26index%3D27%26st%3D1015
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桜を殺して繁茂する凌霄花を見下ろして居るのは木鼻です毒のある凌霄花の花を好んでカラス揚羽が飛来します。蜘蛛の巣はカラス揚羽蝶を待ち受けています。静寂な妙本寺の境内ですが生物の生死の舞台になっています。木鼻は獅子と獏(バク/邪気を払う象の様な空想上の動物)です。

そして現在は左の桜の樹と死闘を演じています。
その桜の枯れかけた幹と凌霄花の根元を水引草が取り巻いているのです。
桜が勝てば紅白の祝い水引で凌霄花が勝てば桜の死を弔む白黒水引でしょう。
今年も水引草に締めて貰って神無月、今年も後三月を残すばかりになってしまいました。

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琉球独立の日

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連日国慶節に伴い中国の観光客による「爆買い」が報道されています。日本経済も「爆買い」頼りでは底が浅いものだと思います。同時に中国人旅行客によるトラブルも報道され、そのマナーの悪さに眉根を曇らせます「やっぱり奴らは中華思想に凝り固まっていて日本は東夷だと思って居るのだろう」思ったりします。
でも私達日本人も30年前は集団で女性はパリやローマのブランドショップに押しかけ中年オヤジは農協ツアーで台北やソウルバンコクなどに売春ツアーに押しかけたものでした。あの頃は世界中の眉を顰めさせていたのでしょう。

である呉の太伯の子孫であるから、日本こそは中華であると主張し始めます。更に、明の遺臣であった朱舜水は清(北方民族)に屈服する事を嫌い日本に亡命し、日本こそが中華であると主張しました。山鹿素行も「中朝事実」を著し日本こそが中華であると主張します。これが水戸学にも影響し。幕末の尊王攘夷論の根拠になりましたし、天皇を現人神として崇める神国思想に陥りました。
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日本で長く使われた行基図奈良の都を中核に全国 四方を俯瞰しています
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大日本沿海略図慶応3年(1867)に木版印刷で刊行された日本図です原本はマテオリッチによる世界全図であったでしょうが。勝海舟が幕末に編纂したものだそうです。このころはロシアの南下が懸念されて居た為でしょう北方が詳しく琉球は小さく描かれていて態々「攘夷の形勢を確認するための地図であると断り書きがしてあります。

人間一人一人が自己中心主義に陥るのは「生命保存」の本能で致し方ないのですが、国が自己中心主義に陥ると周りの人民にとっては迷惑千万です。そして天災や戦争の危機が訪れると中華思想は愛国心に点火してしまいます。想い起せば日本が朝鮮半島に攻め込んだのは神話の世界の神功皇后の三韓征伐(199年ころ)に始まり天智天皇の白村江の戦い(663年)豊臣秀吉の朝鮮出兵(元禄の役1592/慶長の役/1598更に)そして日韓併合1910年に続きました。其処に共通するのは日本人による中華思想です。日本人目線で朝鮮半島を見下しています。隼人の乱や蝦夷を征伐したように朝鮮半島の蛮人を征伐したと云ってきたのでした。
関ヶ原の戦いが終わると目ざとく鹿児島の薩摩藩は幕府に願い出て琉球征伐に派兵します。そして琉球を属領とします。琉球尚王朝は人民を率いてしま図軍を迎え討ったのでしたが鉄砲を主体に親しまず軍には抗せず1年足らずで降伏してしまいます。
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島津藩に敗れた琉球は清国に朝貢すると同時に島津藩ンに年貢を納め奉行を受け入れます。この頃位の様子はNHKのドラマ「テンペスト」で観られました。琉球は政治は王さまが行い祭りは巫女の指図を受ける祭政一致でありました。仲間幸恵さんが美しく愛国心に満ちた皇女(巫女)を見事に演じられていました。
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琉球最期の皇女の抵抗を描いたテンペスト。日本の中華思想が沖縄人民の怒りを買っていると思うのですが・・・・。
韓国人が日本の似非中華思想を毛嫌いするのは歴史を俯瞰すれば致し方ないと思います。でも沖縄の人民にすれば大違いです。先の大戦でも一番の戦場に化して大勢の犠牲者を出した。尊な事実が在った上に今次は「日本政府が日本の安全保障の為に軍事基地を拡張する」そしてその手順も日本の国内法に従って粛々と進めて行く(管官房長官)と云われると怒り心頭に徹する事情は良く解ります。
新聞紙上ではクルド人がトルコから独立する気配を報じていますし。昨年はアイルランドからケルト人が独立しました。スペインでさえカタルーニャ・ナショナリズムと独立運動が燃え盛ろうとしています。何処も原因は似たり寄ったりの自分中心主義=中華思想です。ソロソロ私達は沖縄県民の視点で国を考えないと取り返しのつかない事になるように懸念します。
私は職業上で沖縄企業や人を多く知っています。彼等の悩みが解るような気がするんです。
琉球首長が国連で琉球国の独立回復を訴えています。中国が応援演説をしています
琉球首長の訴えの根拠は次の諸点です。
①琉球は薩摩と清国と等距離を保ち長年平和裏に過して来た
②然るに琉球は薩摩藩に侵略されたものである。
③太平洋戦争終了後日本政府は沖縄を本島(沖縄本島)と島部分(先島と呼んだ)に分割して清国に分島を提案した。(八重島宮古島)米国大統領グラントの提案で日本は先島を譲渡する代わりに清国との通商回復を提言した(内原英聡法政大学教授論文)
いずれにしてもグローバルな時代に中華思想は許されません。


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山門の奪衣婆さん(府中高保寺)

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私は10月31日慶応大学日吉来往者中会議室で日本文化研究会セミナーにおいて「奪衣婆の変遷」とだいして報告をする事になっています。子供のころから馴染みのあった奪衣婆さんですのでソロソロ自分の考えも整理しておきたいと考え今春は利根川上流沼田の味噌舐め奪衣婆も巡りました。想い起せば3年前脳梗塞を発症する直前の秋には千曲川川中島の典厩寺にも詣でたのでした。次は多摩川中流域の奪衣婆さんを確認したいと思い府中高保寺の奪衣婆さんを詣でに出かけました。
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分倍河原駅前ロータリーの新田義貞像目的の高保寺は右側(南向き)市街地の奥にあります。
戸塚駅から湘南新宿ラインにのって武蔵小杉に出て南武線に乗り換え分倍河原駅を降りて5分程歩けば高保寺です。駅舎ホームから見れば西側に東芝があって駅前ロータリーに新田義貞像が立っています。1333年
後醍醐天皇の宣旨に応じて下野の足利尊氏は京都の六波羅を攻め上り、上野の新田義貞は鎌倉幕府に10万の兵を進めます。一方執権北条高時はほぼ同数の軍勢で新田軍を迎え討ちます。両者は鎌倉街道を進み多摩川の両岸で対峙しました。分倍河原の名前は蚊多摩川を挟んで両軍が向かい合ったからと思い込んでいましたが、駅前の住居表示を観て「分梅ヶ原」が本来の地名で何時しか単純化して現在の名に変えたようです。分倍河原では”倍返し”のようで古名の方が趣があります。分倍河原の戦いに勝利した新田軍が稲村ケ崎の戦場に到達した時には幕府軍の数倍の軍勢に膨れて居ました。関東の地頭や地侍は機に乗じるのに敏感ですぐさま勝ち戦に乗ったのでした。
高保寺は足利尊氏が全国に建てた安国寺の武蔵の寺で古くは臨済宗の古刹でしたが現在は曹洞宗のお寺です。この寺から下流に10キロ下れば私の母の生家泉龍寺(狛江」ですから。母も従兄弟(現住職)も馴染みのお寺でしょう。泉龍寺は東大寺の建立を進言した良弁と聞いていますので歴史は泉龍寺の方が在る事になります。一昨日台風21号の余波で強風が吹いた為でしょう。境内には沢山の銀杏が落ちて居ました。石仏も銀杏は苦手な事でしょう。「葷酒山門に入るを許さず」と書かれていますが銀杏は生えているので臭くとも追い出せません。銀杏は火災防止と仏の教えを諭す教材なのです。
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もう色づき始めた銀杏が石仏の傍らに落ちて居ました。
そう想って本堂を拝むと本堂前には4本の伽羅の木と百日紅と高野槇の大樹が茂っていました高保寺の境内は大樹で鬱蒼としていて何れの大樹も東京都の指定古木と指名されているようです。
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これが高保寺本堂(享和3年(11803年)右手に楠の大木本堂前の左右に高野槇そして4本の伽羅1本の百日紅が本堂を荘厳するように囲っていました。この他にも山門横に葉書の木(タラヨウ」等が自生していて植物を観るだけでも十分に楽しいお寺さんです。天水桶には足利の家紋が飾られています。また本堂正面の扁額「等持院」は尊氏の法名です。

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本堂前から山門を眺める左に高野槇右に伽羅(沙羅双樹が茂っていました。
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山門(明治5年建立)を本堂側から見返ると右の大樹が葉書の木(タラヨウ」子供が屈んでいるのは蝉の遺体を蟻が運んでいるのを見詰めて居たものです。山門の右手は水子地蔵尊が並んでいます。山門の向こう側が正面で仁王様が居られその裏手の左右に地蔵尊と奪衣婆が祀られています。
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山門正面の仁王像一木造りで現代的な木彫の雰囲気が漂います。裏側の地蔵尊像奪衣婆像も含めて山門と同時期(明治5年)の作と考えて良いでしょう。総て金網で囲まれています。
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上の阿形仁王像(北向き)の裏に祀られた地蔵尊像足元の童児像が楽しい

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仁王像裏に祀られた奪衣婆像
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奪衣婆さんはまるでローレライの様に岩場の上に半跏しています、岩場の四方を鬼が囲っています。
岩肌には何故か茸が生えています丸いのは六文銭かと思えば菊の花です。奪衣婆さんの上の木に懸っている洗濯物のような衣は亡者が着ていた衣服で奪衣婆が亡者から剥ぎ取って衣領樹に懸けて生前の罪の計測をしているもの、手にしている衣は亡者が生き返って娑婆に戻る時に着せてあげるもの(産着)
筆者は明治の作と推測するものの仏師の技は江戸匠の技であると確信します。幸田露伴の五重塔、「のっそり十兵衛のような匠を思わせます。
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奪衣婆さんの西側には水子地蔵尊が祀られていました。私が水子さんの前に立つと風車が一斉に廻り始めて首筋に寒いものが走りました。近くの小学校では運動会でその歓声が響いてきました。明日は高保寺の幼稚園で運動会ですから水子の霊も見物に出かける事でしょう。
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明日は高保寺幼稚園の運動会です。向こうの入母屋が本堂です。
【府中に奪衣婆が祀られている事情】
江戸から東海道を下れば最初の宿場が品川甲州街道を下れば府中でした。
どちらも旅立った気安さからか色町と栄えました。飯盛り女と呼ばれた女性が旅人の慰みのお相手をしました。飯盛り女は幕府公認の娼婦で多くが農村部の娘さんが借金の質に取られたものでした。そんな哀れな飯盛り女の信仰の対象が飯盛り女なのでした。多摩川の河畔の分倍河原は三途の川の渡し守奪衣婆さんのロケーションにピッタリであった事に加えて飯盛り女の生れ変わり願望を聞き入れてくれる地獄の女神だったのでした。


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狐と日本文化①

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今朝のNHK「お早う日本」に山形市内から眺めた蔵王山が中継されていました。蔵王はもう秋の装いです。
宮本輝の錦繍の冒頭は蔵王のケーブルのゴンドラに男女が偶然に乗り合わせた場面から始まりました。二人は幼馴染だったのでした。分別がつくまでに歳を重ねても忘れ難いのは青春時代の恋心です。火打ち石で火が点くように二人の心には燃え出すものが在ったのでした。眼下には緑の這松ときつね色の白樺そして真っ赤なナナカマドが錦の綾を為しています。

ワイフは出かけました。
お昼は如何しますか?訊かれたので
「お稲荷さんが食べたい」答えました。本当は円覚寺門前の「光泉」のお稲荷さんが食べたのですが米八のお稲荷でもセブンイレブンのお稲荷さんでもかなりいけるのです。
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これが円覚寺門前の光泉の稲荷ずし包紙の笹は篠田の狐をイメージさせたものでしょう。小津安二郎監督が大好きだったと伺います。
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お昼は私の好物お稲荷さんです。食卓の木通(あけび」は庭で実ったもの茗荷も我が家の自生で今年最後です。
私が長銀の大阪支店に転勤したのは昭和60年でしたからあれから30年も経ったことになります。次長に昇格してはりきっていました。
私が長銀の大阪支店の中間管理職として栄転したのは昭和60年でした。赴任した途端に日航機が墜落しその騒がしさが静まった途端に”阪神タイガースが優勝して大坂は騒がしい都市だなあ”思いました。残業を覚悟した夕方小腹が空くと支点の裏のうどんの「松葉」に行って名物の「きつねうどん」を食べて残業に勤しみました。
大坂松葉のきつねうどんは大きな油揚げが一枚甘辛く煮てドデンと乗っているのでした。
京都に行けば油揚げが短冊に刻まれています。支点の裏には箱寿司を創業したという「吉野寿司」が在りましたし。松場も元々は本業は寿司屋だったそうです。でも形勢は冴えなかったので、かけうどんの上に油揚げを乗せて「きつねうどんとして売り出した処 繁栄したとの事でした。
だから「きつねうどん」であって「狐蕎麦」は無いのです。
狐が関西なら狸が関東でした。
本来は天麩羅蕎麦を食いたいのですが天麩羅の具は高いので「具を抜いた」天かす蕎麦で我慢しようとする江戸っ子がい多かったのでした・・・。
天麩羅蕎麦を注文したいところ懐が寒いので「具ぬき」の蕎麦を見栄を張って洒落て「タヌキ蕎麦」洒落たのだそうです。狸蕎麦もきつねうどんも出汁が命です。

ところで我が生家の裏山の尾根道を歩くと10分ほどで「狐窪」に出ます。倉田はほぼ真ん中に渓流があって「送り橋」と呼んでいます。
送り橋の地名は「野火送りの葬列で黄泉との繋ぐ橋」」の意味でしたから葬列は送り橋を渡って山に遺体を埋めました。山には横穴古墳の玄室のような穴が幾つも空いていてその横穴に狐が棲んでいたのでした。狐は遺体が届くので喰うに困らないし。棲家も近くて恰好な生育環境だったのでしょう。戸塚の倉田は狐の天国だったのでした。その狐の丘陵も今は開拓されて小田急不動産の住宅にその南は明治学院大学が立地しています。
祖母は狐の話を良くしてくれました。
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我が生家の裏山の尾根道(野庭路標識の実方塚はこの小山の上に在った埋め墓でしたが都市計画道路にあったため30メートルほど西に移されてしまいました。山裾に狐の穴が幾つも潜んでいます。明治学院の生徒さんがこの道を多く通ります。町内では痴漢が頻繁に出現するので注意しています。女子大生がアパートから近道をしてこの尾根を歩くのです。ところで実方とは「 よをこめて 鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」百人一首の実方ですhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43852907.htmlに書きました。
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松村松園作六条御息所狐が憑いた顔をして描かれています。六条御息所の生霊が葵上を殺してしまいます。稲作の聖獣の狐が中世になると人に災いを為すものに代わってしまいます。
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「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」と謡われた葛の葉の図 
安倍保名)が信太の森を訪れた際、狩人に追われていた白狐を助けてやるが、その際に怪我をしてしまいます。
そこに葛の葉という女性がやってきて、保名を介抱して家まで送りとどける。葛の葉が保名を見舞っているうち、いつしか二人は恋仲となり、結婚して童子丸という子供をもうけます。童子丸が5歳のとき、葛の葉の正体が保名に助けられた白狐であることが知れてしまう。次の一首を残して、葛の葉は信太の森へと帰ってゆきます。童子丸は成人になって阿倍清明と名乗ります。古代までは狐は聖獣でした。
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横浜ではもう葛の花も散ってしまいましたが秋風が吹くと葛の葉裏に逆さ藤のような花が覘きます。麗人の着物の裾が割れて白い脛が見えた様に息を止める瞬間です。

私の祖母は太めで顔はオカメさんでしたから狐か狸か分別すれば、タヌキ顔でした。
その影響でしょうか?私の好みは狸顔の女性でした。
でも縄文人が弥生人を憧れた様に狐顔に惹かれる事もありましたが。
狐タイプの人には冷たくされる事の方が多かったようでした。)宮本輝さんも同じ経験が在ったのではないでしょうか?先週失楽園の川島なお美さんが惜しまれて壮絶な人生に幕を閉じられました。私は失楽園の次は錦繍ではないかな思って居たのでしたが。川島さんの錦繍「亜紀」は見る事が出来ません。
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川島なお美さんの葬儀を伝える新聞(日刊スポーツ」左上に参列した石田純一氏のコメントが載っています「川島さんの代表作失楽園の当初の配役が自分で辞退したので古家一行氏になった・・・ごめんね」と言っています。石田氏は「浮気は文化だ」と大言壮語した人物。器の小さい事が天下に知れ渡りました。故人もファンも不愉快なコメントでした。それにしても重い戒名です。屹度ご主人(鎧塚さん)にも生前の戒名が出来ていてお二人がペアになっているのでしょうか?


日本の文化は狐と狸の相克のように思います。狐と狸二つのタイプが混交しているのです。まるで「狐うどん」と「タヌキ蕎麦」のように。狐は関西狸は関東に多く棲息したにも拘わらず、狐の親元伏見稲荷も安倍清明(葛の葉)も関西なのに、お稲荷さんや狐付きは関東に多いのです。筆者はズット文化と獣の関係を考えて来ました。その第一が狐です。
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鳥獣戯画の弓の場面蛙と兎とは相撲と弓で競います。判定を狐が受持ちました。この図では左奥から蛙が矢を放ち兎は準備しています。蓮の的に矢が当たりました。狐は尻尾を抱えて”当りました”と言って尻尾の先を燃やしました兎が一匹蛙がインチキをしないか見詰めて居ます。平安時代までは狐は聖獣として崇められていたようです。

明日は「山の神の使い」であった狐が「稲作の守り神」に転じた経緯を推論します。


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狐と日本文化②田に降りた山の神

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私は学生時代時間を作っては大和に向かいました。日常は仏事で住職のお手伝いをして貯めたお金で大和に向かいました。
夜11時急行横浜駅から銀河に乗れば朝の6時に京都駅に着きました。
近鉄奈良線に乗り換えて奈良に向かいました。車窓から山科の山々を眺めます。東山丘陵がなだらかに続きます。朝霞の中に醍醐寺の山そして、伏見稲荷の山が柔らかな山容を現しし始めます表します。
西大寺を過ぎれば三笠山が見え山脈は高円山巻向山に続き南端に三輪山が現われます。
伏見の稲荷山と大和の三輪山には特別な有難味を感じます。同時に二つのご神体山に共通点がある事に気付きました。
それは ご神体と云えば伏見稲荷山より比叡山の山脈の方がずっと高いし立派なのに、三輪山より多武峰の方が大きいのに何故低い稲荷山や三輪山がご神体として崇められたか?と云う事です。
稲荷山と三輪玉に共通する事はどちらも盆地の南で巾着袋の首の位置にある事です。稲荷山は京都盆地の南三輪山は奈良盆地の南で、どちらも宇治川、大和川が近くを流れています。近隣の山に降った雨が巾着袋の首に溜まって古代は湿地帯であった事です。稲荷山を拠点として湿地帯を開拓して稲田を開墾し三輪山を拠点にして田圃を開墾したので藤原京を更に平城京を築いたと思うのです。
伏見稲荷自体が古墳のようですしその周囲にも古墳が取り囲まれています(黄金塚1号墳・2号墳)そして三輪山の周囲にも箸墓古墳を始め唐古古墳などが在ります。
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伏見稲荷神社は三笠山に酷似した三つの山でこの山自体が古墳でした。その玄室に狐が自生していたのでしょう。
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伏見稲荷のお宮は古墳の玄室であったと思われます。
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伏見の稲荷山は古墳狐が多く自生していた小山であったと思われます
稲荷伏見の一帯は新羅の帰化人「秦氏」が棲みついた処でした。
秦氏は雄略天皇の時代には朝廷の要職に就き治水工事に機織りに能力を発揮していたのだそうです。彼等がお稲荷さんを信仰し松尾大社を建立したのでした。
弥勒菩薩で有名な太秦の広隆寺も秦氏が建立したものでした。
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秦氏は京都盆地の北源に広隆寺を建立し南端に伏見稲荷を祀りました。筆者は最初に太秦で稲作を初めに続いて伏見稲荷一体の湿地を開墾して稲作を広めたものと推測します。
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伏見稲荷の創建された頃の歴史年表(出典吉弘文館)



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手前藤原京向かいの低い山が天の香具山その向こうに三輪山が見える。古代人は何故高い山より低く里山風のお山をご神体として崇めたのか不思議でした。香具山と三輪山の間に大和川が流れています。一体は湿地帯であったものを治水干拓事業を成功させ人々は山から田に下りてきたのでした。

古事記から窺がう限り大和朝廷を開いた我らが日本の祖先は武力に長けた好戦的な種族であったようです。国産みの話は鉾で他部族の併合は剣で成し遂げました。
日本の祖先は天から高い山の頂に下りて、更に山を降りて葦原を草薙の剣で刈り取って行きました。
その経緯は素戔男尊と日本武尊という英雄によって遂行されたのでした。
素戔男尊が出雲で取得した草薙剣を手にして日本武尊は湿原の葦を刈り払って進軍しました。
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高天原におりたイザナミイザナギは協力して鉾で地上世界を掻き混ぜて国造りをしたのでした。このプロセスは山から平地に縄文人が下りた話であると推測します。
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日本武尊は湿原に下りて葦を草薙の剣で刈り払い火を放って大和朝廷統一を成し遂げました。
この神話は武力で国家統一を遂行した事と火を使った(焼畑のスキルを活用した事を意味していると推測します。
私達は「大和」の字から日本人はその最初から平和を好んだ人々と思う傾向がありますが実はその逆で戦いが得意の背の低い民俗だったのでしょう。中国の史書魏志倭人伝(三国史)や後漢書東夷伝を読むと当時の日本人は小さくて(倭)100余りの国に別れていて常時戦いをしていて、入墨をしていて呪術を良くしている…と記されています。要するに縄文人は山に住む民俗であって日本の誕生は山の民が平地に下りて来た話なのでしょう。
元々日本の森は照葉樹林ですから木の実は豊富で猪や兎など狩猟に適していました。喰うのに困って山の民が平地に下りて来た訳ではありません。山でも良いのだけれど平地の方がもっと良さそうなので山を降りたのでしょう。
以下を大和を舞台に説明します。
大和(ヤマト)とは私は”平和を大事にする”と思い込んでいましたが、「山に囲まれた処」の意味なのでしょう。高円山の百毫寺から奈良盆地を眺めて居ると実感します。大和は四方を青い山(高い山」で囲まれているのです。実は沢山の部族が居て戦争ばかりしているので聖徳太子が「和を大切にしなさい」と説いたのでしょう。
里に下りるきっかけは稲作だったのでしょう。
宮崎の椎葉村では未だ焼畑時代が残されています。焼畑して最初の年には蕎麦を撒きます。蕎麦は毎年作る訳に行きません。翌年はまた別の山を焼いて蕎麦を作るのです。一方水田は不思議な事に毎年同じ田圃に稲を植えれば良いのです。労力は焼畑に比べて水田は遥かに恵まれています。水田の不思議に魅了された山の民は平地に下りて来ました。そして蕎麦の実を稲の種籾に変えようとしたのでした。
縄文人は高天原(葛城山や多武峰)から麓に降りてこようと思いました。でも水田を開墾する技術はありませんでした。治水開墾技術は帰化人(飛鳥の南淵請安南淵)が教えてくれました。大和朝廷は上手に帰化人を遇しそのスキルを国家建設の基礎技術に活用したのでした。
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田原本の唐古・鍵遺跡の復活櫓向こうの山脈が巻向山その右手に三輪山が在ります。写真は唐古遺跡のパンフより

さて本題の狐と稲作の関係ですが先ずは新羅人が狐に強い霊性を感じていて秦氏が大切にしていたことが考えられます。韓国の九尾の狐伝説は死者の魂が復活する話です。稲成り・稲生り(いねなり)が稲荷の語源だと思われます。秦氏が稲の豊作を祈って稲荷を祀ったのでしょう。問題はその稲作の守り神のお使いに何故狐が任じられたのでしょうか?その根拠は次であろうと推測します。
①狐は稲作の大敵である鼠の天敵であった事
②狐の尻尾がたわわに稔った稲の穂を連想させたこと
③米は保存しやすく食べる時は焚けば良かった事。焚くに際しては弥生式土器が不可欠であり火を起こした事。狐は狐火にあるように火を管理できる神秘性が在った事。火と米と弥生土器のお蔭で縄文人は定住生活が可能になった事。
そんな次第で山の民が平原に下りて来ましたが。山の時代の信仰は引きずっていました。山の神は田の神に変わりました。里に下りても他の部族の略奪から米を守る為に山の民の武力を必要にしたので山の民が田の民に変貌したのではなくて両者が融和したのでした。融和のプロセスは三輪山の伝説が示唆してくれます。
神代の時代三輪山の麓に美しい活玉依姫(イクタマヨリビメ)が居ました。姫のもとに夜な夜な通う男がありました、が、その素性を知りたいと一夜衣の裾に糸を刺して翌日これを頼りに尋ねて行くと、大和の国三輪の山の窟まで続いていていました窟の中を覘くと喉に針を刺に刺された大蛇が居ました。そこでこの婿君は三輪の神様即大物主一名大国主神であることが解ったのでしたでした。
苧環 (おだまき糸巻きのこと)には未だ糸が三回りのこっていました。ですからこのお山を三輪山と呼ぶのです。
代表的な「異類婚姻譚」で異部族同士の結びつきを意味します。
狐も蛇も稲の害獣鼠の天敵ですので三輪山伝説は狐でも良かったのでしょうが。蛇である事は三輪山が大和の水田の水源だったからでしょう。

もう大和も伏見も稲刈りは終えたことでしょう。ブログを書きながら心は飛んでしまいました。
昨晩はTTP交渉が無事に合意できたニュースが流れました。略同時に大村智・北里大特別栄誉教授のノーベル賞受賞の朗報が届きました。昨年の山中教授は iPS細胞という最先端の医療研究で受賞前から期待されていました。一方大村教授のお仕事は泥の中から微生物を発見してその微生物から寄生虫を駆除する化合物を探した業績と聞きます。如何にも地味な仕事ですが10億人もの命を救う効果があるそうです。再生医療はお金持ちなら大喜びでしょうが・・・・、寄生虫駆除は貧しい人の命を守るお仕事でしょう。先端医療は目立つもののこうした地道な泥を掻き混ぜる仕事にこそ尊いものを感じます。TTPで日本の田畑が見捨てられないように美しい田畑は民族の遺産であります。金持ちの企業ばかりがが悦ぶ政策ではなくて国土を守ってきた農民が期待する方向に政策を舵切きりしてほしいものです。
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写真は鏝絵の天才長八の狐


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狐と日本文化3江戸の稲荷

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「江戸名物、伊勢屋、稲荷に犬の糞」という言葉がありまあす。江戸の町を歩いていると、この三つが矢鱈に目立つという事です。お稲荷様は2日前に書いた通りに伏見のお稲荷様が始まりです。そのお膝元の京都は地蔵尊が多いのに江戸の街はお狐様です。何故稲荷が江戸に多いのか?
今日は、その疑問を私なりに説明したいと思います。
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菱田春草作「月下狐」。菱田春草は30代で夭逝した。反骨の日本画家で、時の画壇からの評価はひくい。輪郭をぼやっと描く手法がよくわからんが好かれなかったとの事。明治42年に描いた「落葉」は国の重要文化財に指定されています。この絵を観ると私は萩原朔太郎の「月に吠える」を想いだします。月に狐どちらも美しく孤高な精神を思わせます。今の季節にピッタリの絵だと思います。狐は「コーン」「コーン」「コ・コーン」と吠えています。


最近は都心の狐日本橋や銀座が脚光を浴びています。私の住む戸塚からも行き易くなりました。
諺の通りに日本橋にも銀座にもお稲荷様が目立ちます。
私がサラリーマン時代日本経済新聞に梅原猛氏と寂聴さんの対談が載っていました。
寂聴さんの「銀座に生きる」が話題でした。
同書のモデルになったのが鈴木真砂女さん、今も銀座で小料理屋「卯波」に出て居られると知って早速に出かけてみました。
後年鈴木真砂女氏は「お稲荷さんの露地」を書いておいでのように私はビルの間の露地にある「幸稲荷」を目指して出かけました。お稲荷さんの手前に小料理屋「卯波」がありました。
真砂女氏は「今朝日経に載ったもんだから今日はサラr-マンが多いのよね・・・・!」言わんばかりの鋭い目で私達を目遣りました。
ところで真砂女氏は50歳で海軍士官と不倫の恋に落ち、出征する彼を追って鴨川を出奔してしまいます。そして銀座1丁目に「卯波」という小料理屋を開店したのでした。保証人は丹羽文雄氏だったそうです。その後は「女将俳人」として生涯を過ごし、2003年に96歳で亡くなられました。
一時卯波は閉店を余儀なくされたようですが今は殊勝なお孫さんが商っておいでだそうです。
女将に冷たくされては居酒屋に行っても楽しくありません。私は壁に貼られた色紙を観て早々にお店を辞しました。
卯波の露地の突き当りが幸稲荷さんでした。
私はお稲荷さんの眼に女将の眼差しを思い起こしました。
真砂女さんは美人ですが愛想が無いので小料理店は向かないと、思ったのでした。
今年友人のT女から真砂女さん直筆の手紙を見せて戴きました。
T女のお父様が高名な作家でおられたので真砂女さんがT女のお父上に充てた「来店礼状だったのでしたが。その数に驚きました。8通ほどは会ったのでした。一人身の美人がこれほど筆まめに手紙を出したのは”何か事情が在ったのかもしれない?”
美しい文字を追っても文面は解りかねました。”艶っぽい箇所が無いかと”探したのでしたが・・・・、
細い筆跡が真砂女の細面と柳腰を思い出させただけでした。
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鈴木眞砂女さんの俳文集表紙に描かれているのが小料理屋「卯波の露地に祀られた幸稲荷さん。
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現在の幸稲荷さん卯波もビルの中に入ってしまいました。
銀座電通の裏にはビルに入った豊岩稲荷神社があります。火防のご利益があると信じられています。
一方最近話題なのはは歌舞伎座の横にあったお稲荷さんです。
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銀座電通裏の豊岩稲荷神社
歌舞伎座の新築に際して出来上がった歌舞伎座タワービルも計画されましたので、
お稲荷さんはの新築に際してタワービル内に吸収されてしまいました。
新しい銀座 歌舞伎座の御稲荷さんは道路にも面しているしお詣りしやすいのですが。何故かご機嫌が斜めのようです。
遷座後歌舞伎役者の不幸が続いています。「お稲荷様の祟りじゃ!」言われかねません。お稲荷さんは田圃の神様ですから鉄筋コンクリートの臭いや湿気が嫌いなのかも知れません。お稲荷様の土は伏見稲荷さんから運んでその上にお社を建てれば良かったのかもしれません。


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歌舞伎座タワービル内に遷座された歌舞伎稲荷神社お狐さんはこんな清潔な空間は嫌いに決まっています。
藪がお好きなのです。歌舞伎界に不幸が続く限りこの空間はお狐様好みに変える必要があるように思います。

ソロソロ本題に戻しましょう。
お稲荷様は基本的に稲作の豊穣を司る神様でした。その伏見稲荷が関東に遣って来ると笠間稲荷や王寺稲荷の様に稲の豊作を祈る神様になり更には土地神「産土神」になりました。
江戸の街には大名の上座敷が集中します。そして大名は米蔵を日本橋から銀座界隈に整備します。米蔵は運河の縁に建てました。
米蔵の脇にはお稲荷様を祀りました。
当時大名も貨幣経済に巻き込まれれて藩の財政は米の相場に強い影響を受けていたのでした。
そこでお稲荷さんに米相場が強い様に(お米が高く売れるように)祈願したのでした。
中世まではお米が沢山とれますようにお稲荷さんに祈っていたものが
近世になると「お米が高く売れますように」祈ったのでした。そんな次第で江戸の下町には蔵稲荷が多く建てられました。銀座日本橋にお稲荷さんが多いのはこうした大名が祀ってお祈りしたものでした。
一方江戸の山の手上屋敷にもお稲荷様を建立しました。
江戸の名物は火事でした。火事は自分が火の元になる心配もありますが、類焼する事も心配でした。火が自分お屋敷の方に来ない様に祈るためにお稲荷さんを屋敷内に祀ったのが屋敷稲荷でした。本郷や麹町にあるお稲荷さんは過半が屋敷稲荷です。
四谷3丁目に近い「お岩稲荷」は四谷怪談で有名ですが屋敷稲荷であったと思います。
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何故お稲荷様が火防のご利益があったと信じられたのかは
狐が火のお使いと信じられていたからです。2日前鳥獣戯画で狐が尻尾の先で火を灯している場面を案内したようにの狐は火の方向を決定すると信じられていたのでした。
振袖火事の時に人々は火の勢いのむ椋方角を心配した事でしょう。「向こうに行け向こうに行け」と祈る先がお稲荷様でした。
それは日本武尊が焼津で草薙の剣を使って火の向きを変えた伝説にも由来する、
火の向きを神に祈るのは焼き畑時代に源を発する民族の知恵でした。
伏見稲荷は田圃の神様でその使いが狐でした。
古代に始まった稲荷信仰でしたが、中世になると武家の守護神(鎌倉の佐助稲荷のように)になります。
江戸時代に貨幣経済が浸透すると、米の相場を祈る神様として更に火防の神様として信仰されたのでした。人の祈りの内容によって柔軟に目的を変じるアメーバのように神仏が形を変えるのは他の神仏と変わりませんその柔軟さが一神教では無い長所です。一方各地の有名寺院は有力スポンサーを失うと江戸に末社を建立しました我が曹洞宗も江戸に永平寺別院を建て豊川稲荷の末社を赤坂に建てました。私の祖父は三河の生まれでしたが。赤坂の豊川稲荷の会計係りに転じ更には小田原の大雄山最乗寺に移り祖母と結婚して戸塚の盛徳寺に入りました。そんな訳で我が一族は狐には頭が上がらないのです。明日は新美南吉 の「ゴン狐」を素材に日本人の狐に寄せる想いを書いてみます。それで狐と日本人はお終いです。



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狐と日本文化④ゴン狐にみる。

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私達の知っている狐の民話と云えば「狐は人間を騙す悪役」が多いのです。私も祖母に狐の話をして貰うと大概が狐は悪者で人間を騙すのですが最期は勧善懲悪で悪行に懲りて良い狐になって山に戻って行きます。
屹度新見南吉少年もお婆ちゃんから「悪賢い狐」のお話を聞かされて育ったのでしょう。
南吉少年大正2年に知多半島の岩滑(現半田市)の畳職人渡辺家の二男として生まれます。ところが4歳の時実母りゑ(りえ)は30歳の若さで他界し家には継母が入ります。8歳の時実母りゑ(りえ)の実家新実家に養子として引き取られ御婆様に育てられます。この幼年期の体験が狐の名作を生んだ背景と思われます。南吉少年は優秀であった事に南吉少年が育った大正時代は加えて当時は大正リベラリズムが盛んで鈴木三重吉が赤い鳥を創刊するなど童謡や童話が盛んでありました。芥川龍之介でさえ今昔物語を素材に「蜘蛛の糸」など児童文学を発表します。南吉少年の心にお婆ちゃんの狐の民話を思い起こして母への愛おしさを情熱にして創作の意欲が高まっていったものと思われます。
岩滑小学校の卒業式で卒業生の代表として読んだ答辞に次の俳句を入れて参列者を感動させたと云われています。
たんぽぽの いく日ふまれて 今日の花」
「栴檀は双葉より芳し」と云われますが12歳にしてその才能を発露していたのでした。
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 [ 手袋を買いに」
(あらすじ)雪の朝の事でした。表で遊んで帰った子狐のの冷え切った手を握りながら、母さん狐は手袋を買ってやろうと思いました。そこで、母さん狐は子狐の片手を握って人間の子供の手に変えました。そして子狐に、町の帽子屋へ行って戸を少しだけ開けたら、人間の方の手を出して「手袋をください」と言うように、と教えました。間違って狐の手を出してしまうと酷い目に遭いますよ。
子狐は町に着くと帽子屋を見つけ戸を叩きました。帽子屋が戸を開けた拍子に差し込んだ光がまぶしくて、子狐はつい間違って狐の方の手を出して、「手袋をください」と言ってしまいました。
帽子屋は、すぐ狐だと分かったのでしたが出されたお金が本物であることを確認すると黙って手袋を渡してやりました。帰り道、家の中から子狐は考えましたに「人間ってちっとも恐かない」と、そして母さん狐に言いました
「僕は間違って狐の手を出したけれど帽子屋本当に人間はいいものかしら」
「最初の作品」本当に人間て良いものなのかしら?」この問いかけがこの童話の核心でありましょう。新実南吉の初稿の母狐の呟きは次の通りであったと聞きます。「人間て本当に良いものなのかしら?本当に人間が良いものなら、その人間を騙そうとした私は、とんだ悪いことをしたことになるのね。」
【ゴン狐】
ゴン狐は1932年1月『赤い鳥』に載せられた日本を代表する童話です。言葉が綺麗なので小学校の教科書にも 載っています。私はサッカーの中山選手がテレビに映るとゴン狐頑張れ声援して居ました
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(あらすじ)
両親のいない小狐ごんは村へ出てきては悪戯ばかりして村人を困らせていました。
ある日ごんは兵十が川で魚を捕っているのを見つけ、兵十が捕った魚やウナギを逃すという悪戯をしてしまいます。
それから十日ほど後、兵十の母親の葬列を見たごんは、あのとき逃がしたウナギは兵十が病気の母親のために用意していたものだと知り、後悔します。
ごんは、ウナギを逃がした償いのつもりで、鰯を盗んで兵十の家に投げ込みました。
翌日、兵十は「鰯泥棒」と云われて殴られてしまいます。
ごんは反省する。それからごんは自分の力で償いをしようとして栗を拾い松茸を採って兵十の家に届けました。
兵十は毎日届けられる栗や松茸の意味が判らず、知り合いの加助の助言で神様のおかげだと思い込むようになってしまう。それを聞いてごんは寂しくなりました。
その翌日、ごんが家に忍び込んだ気配に気づいた兵十は、またいたずらに来たのだと思い、ごんを撃ってしまいます。
兵十はゴンを抱き上げながら、土間を観ると積み上げられた栗や松茸に気付いたのでした。
ゴンに声を掛けました
「ゴンお前だったのか!何時も何時も栗を呉れたのは・・・!」
ゴンは意識が遠のく中で頷きました。
兵十は火縄銃を土間に落しました。未だ銃口からは青い煙が昇っていました。
兵十は青い煙がゴンの魂であると思いました。
ゴンは死に際であっても、嬉しかったのでした。

(評価)
「ゴン狐」のオリジナルは猟師の口伝であったようです。口伝ではゴンは兵十の母親の葬儀を観た処で終わっており「以来ゴン狐は人間に悪戯をしないようになりました・・・」でお終いお終いでしたが、南吉さんがそのあとのゴン狐の最期迄を加えているのです。
従って新実南吉さんは「真心を尽くして死んで行く狐の充足した想いを書き加えたのでした。
想い起せば美しい初恋もストーカーも紙一重です。人間の想いは善意(表)であっても悪意(裏)であっても最後が裏表どちらに現われるかは解りません。「ごんぎつね」で、南吉さんは「すれちがいの哀しさとか運命の不条理」を説きたかったのでしょう。
生きていれば、時にゴン狐の様に酷い最期を観る事があるモノです。
最後の青い煙は兵十の後悔の象徴でもあるでしょう。
先入観から、取り返しのつかないことをしてしまう人間の愚かさは大小あっても誰しもが経験しながら大人になって行くものです。
先日新実南吉さんの生家に伊勢湾を挟んで向かいの伊勢でスーパームーンの夜 不可思議な事件が発覚しました。
伊勢市街を見下ろす虎尾山の山頂で高校3年の波田泉有さんが死亡していたのでした。少女の遺体の傍には加害者容疑の少女友人と凶器が確認されました。
事件現場は伊勢市出身の作家、橋本紡(つむぐ)さんのライトノベル「半分の月がのぼる空」の舞台として知られる、「恋愛の聖地」でしたし、少女はSNSに18歳までに死にたいと書き込んでいたそうです。
兎角汚い現代の日本の世相です。清いうちに死にたい、それも恋人の手で殉じたい想うのも乙女心でしょう。
容疑者は少女に頼まれて殺して自分も死ぬ積りで居たと供述しているそうです。これから警察当局が事件の真相を確認して。検察当局に報告するのでしょうが、私は死んで行く少女の意識にゴン狐の最期をダブらせてしまうのです。
私も少年時代は少しの家出願望や自殺願望がありました。私の少年時代は昭和20年代家族や近隣がしっかり見守ってくれていましたから。事件も起こさずに成人できました。でも現代の世相は遥かに悪くなっています。
ゴン狐への共感が事件の遠因であったのなら新実南吉さんが気の毒です。
せめて人間社会の不条理の確認と肉親や友人近隣が少年少女に無関心で居てはならないと云った警告で留めて欲しいものです。
この事件の究明は別として狐は人間に身近で知恵があるので昔も今も説話には恰好な素材であります。
何吉さんの故郷半田はブログの友人「夢結館http://blogs.yahoo.co.jp/kobachan1957friend」さんがお住いで曼珠沙華が見事な処だ阿そうです。我が生家も年々曼珠沙華が増えて来ていますし。狐の剃刀(曼珠沙華の仲間)も自生しています。曼珠沙華も狐の剃刀も狐火の様にハッとする美しさです。
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これが彼岸花科の狐の剃刀です伏見稲荷の千本鳥居は”子宮の血の色炎の色”と云われますが。この花の方が血の色を思わせます。剃刀の名は花弁が床屋さんの使っている剃刀のように鋭く細いからでしょう。


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南瓜の美味しい季節になりました

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私は南瓜が好物です。一番に好きな食べ方は精進揚げなのですが、健康を考えてI君の教えてくれた温野菜で食卓に良く上ります。街に出れば八百屋の店先に並んだ南瓜を見て回ります。最近は目新しい南瓜が増えましたし、楽しみも増えました。
南瓜は歳時記では「冬至南瓜」という様に冬です。
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八百屋の店先に並んだ見慣れない南瓜
昨日が寒露でしたからこれからは日に日に甘くなってきます。昔は柏尾川の土手にも南瓜が実っていました。「土手南瓜」という奴で荒れ地でも育つので畑を持たない人が土手で栽培していたものでした。3年くらい前にはホームレスの人が橋の下にダンボールで囲って住んでその近くで南瓜を栽培して居ました。今は「如何しているかな?」覘いてみればイタドリが生い茂って花を咲かせています。
ところで「おたんこなす」という言葉があります。出来損ないの小さい茄子のことで、元々遊郭の女性が嫌な客をそう呼んでいたんだそうです。つまり「短小野郎の役立たず!もう二度と来るな!・・・」という差別言葉だそうです。
「おたんこなす」と蔑視された客は遊女に「なんだこの土手南瓜が、頼まれても二度と来ない!」と言って差別用語の応酬をしたんだそうで・・・・。
土手は陽当りが良いので陽が陽が当たりすぎては割れてしまいます。土手南瓜とは遊女の体が割れてしまって締まらない、役立たず」の意味でしょう。どっちもどっち、。土手南瓜に短小茄子では上手くゆくはずありません。
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これは”へぼ南瓜”大きくて大味のかぼちゃの意味で土手南瓜と同じく差別用語です。牛の餌にでもなるのでしょうか?

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これは割れすぎてしまった苦瓜、ウリ科の野菜は完熟すると苦味が消えて甘くなります。割れるのは野鳥に食べて貰う為のアッピールで種も美味しくなります。南瓜も種が食べられます。



今年も街には南瓜が目立つ季節になりました。今月末はハロウィンですから・・・、南瓜を食べてワクチンを打ってこの冬を健康に遣り過そう…と云った意気込みなのでしょうが。商店街とケーキ屋さんの気合が一段と入っています。ハロウィンはケルト民の収穫祭と聞いていますし、シンデレラは南瓜の馬車と鼠の馬ですから、南瓜は北ヨーロッパが原産地と思って居ました。ところがウィキペディアで確認すると南瓜はアメリカが原産地で世界1周を成し遂げたポルトガル人がヨーロッパにカンボジアに伝え、更に日本に伝来したのだそうです。どうもシンデレラ物語はケルト人の民話を素材にして大航海時代以降の作家が創作したものでしょう。
日本に南瓜が伝来すると食いしん坊の日本人はアレコレ食し、健康に良い事を確認して歳時記にも加えるほど親しい野菜に昇格したのでしょう。
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浜元町のハロウィン。何時もは子供撮影用のコーナーをワンちゃんが占領していまあした。この後ワンちゃんに代わってハロウィン化粧をした子供達がこの場所でカメラに収まっていました。ペットと子供の分別がついているのかしら?不思議に思いました。
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これは山形産の雪化粧という新種南瓜です断面を観ると栗南瓜ようでホクホクとした食感が得られそうです。お米も果物も野菜も美味しい山形です。この南瓜を入れて芋煮ならぬ南瓜煮を食べてみたいものです。具は水団と猪肉と牛蒡です。調味料は味噌です。この南瓜を観ていると桜田淳子さんを想いだしました。白い肌の可愛い歌手でしたが統一教会の看板のようになってしまい消えてしまったようです。森昌子さんは男運に恵まれなかったようですが歌手としては存在感を増しておいでですしもう一人山口百恵さんは御子息がテレビにも出たり幸福そうにして居る様なのに三人娘の中で一番好きだった淳子さんが一番貧乏くじをひてしまったようです。
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私の住む戸塚のルーテル保育園のフェンスに絡んだ南瓜は先の雪化粧でした。ハロウィンの日にケーキにでもして食べられるのでしょうか?
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此方は瓢箪のような形の南瓜先の雪化粧と同じ栗南瓜で甘くてホクホク加えて皮が薄いなど長所満載の憂愁南瓜です。http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%81%8B%E3%81%BC%E3%81%A1%E3%82%83%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%81&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt来年は我が家の庭先で栽培してみたいと思います。写真は鎌倉関谷の野菜売り場で撮影。
 
ハロウィンで観て遊ぶ、来る冬に向けて食べて強い体を作る南瓜・・・。の南瓜さんは色々です。色々あって楽しませてくれます。でも本命は食用の南瓜です。
小さい時祖母に南瓜作りを教えて貰いました。台所で出来たゴミを畑の隅に穴を掘って埋めておきます。堆肥を時間をかけてつくるのです。その堆肥の上に土をかぶせてその上に栗南瓜の苗を植えます。苗の若葉を虫に食われない様にネットで囲みます。苗が1メートルも這いだしたら畑の外に向くように導きます。何処でも育つ南瓜ですから土手の日当たりの良い方に向かわせるのです。
7月になったら花がつきます。南瓜は雄花と雌花が同じ株に別々につきます。花の下部に子房と呼ぶごく小さい南瓜の実がついているのが雌花です。雄花の花粉を採取して雌花の柱頭に着けます。人工授粉させるのです。後は南瓜の葉っぱが虫(十二星天道虫等」に食われてしまわないか見守ります。出来た南瓜は畑に放っておきます。そして食べたくなったら採って来て食べるのです。
イモ類は凍ると腐ってしまいますが南瓜は腐らないし。外気温が寒くなる程美味しくなるのです。
何処か子育てに似た処が在るのが南瓜です。最初にも書いた通り南瓜が一番おいしいのは天麩羅です。父の好きだった牛蒡も天麩羅が一番です。牛蒡と南瓜天麩羅とけんちん汁にして食べたいものです。屹度あの世の祖母も父も同じ思いでしょう。そんな南瓜と牛蒡を食べて体を治すことにしましょう。天麩羅は一昨日ワイフが揚げてくれて食べました。来年は自家製の南瓜を食べたいものです。







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野薊と寒露

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秋の始まりは白露(今年は9月8日)に始まります。空気が冷えて水蒸気が草の葉に着いたりして秋が来たことを教えてくれるのです。その露が常托感じられるのが寒露(今年は10月8日でした)で冬の訪れを知らせてくれます。
寒露が降りたと思ったら床下の閻魔コオロギの鳴き声も絶え絶えになって来ました。庭に出れば蟷螂が何処に卵を産もうか彷徨っています。チコ(庭犬)は目ざとく蟷螂を見つけて遊んでいます。小さくても肉食の蟷螂のお母さんは蟷螂の斧を振りかざして犬に立ち向かって行きます。
こんな状況を眺めて居ると自分自身が神になったように思えてきます。若しかしたら今の自分の様に神は天空の向こうから私を眺めて居られるのかも知れません。
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これが白露です。秋になって空気中の水蒸気が放射冷却で草の葉に露になって宿ります。露に陽が射して水晶のように輝くのが白露です。
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白露が一段と進んで露が冷たく思われる晩秋には寒露と呼ばれます。赤紫の花は野薊です。蜘蛛の巣は女郎蜘蛛の巣です。この頃女郎蜘蛛は懸命に食べて大きくなります。そして産卵します。越冬は卵でします。寒露は蜘蛛の巣に宿ってレース編みの様に輝きます。
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筆者の靴に絡みつく蟷螂君この後庭犬のチコに挑んでゆきました。
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私のキーボードに載ってお邪魔をする蟷螂君蟷螂君は”もう少しキーボードを掃除しろよ!”言わんばかりにお結び眼を向けました。
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これが閻魔コウロギその顔が迫力があるので閻魔の名がついているものです。激しい性格で共食いをするので怖がって閻魔の名がついたのかも知れません。中国人は激しい性格を使って共食いさせて遊びます。闘蟋(とうしつ)と呼ぶ1200年もの歴史を有しています。日本人は邯鄲の枕(かんたんのまくら)と云って鳴き声の美しさを競わせました。鳴き声は冬の到来を知らせるとして想いを託して居たものと思います。

街を歩いていると夏までは艶やかに咲いて居た薊の花が白い羽毛を飛ばしています。
薊は葉の先端が尖っていますしとりわけ花鍔に棘があるので綺麗でも手折る事は憚れます。路傍の花も棘のお蔭で沢山の種を稔らせ秋風に乗って四方八方に子孫を拡げて行きます。歳時記では春から夏の植物です。見るからに紅花の兄弟に見えます。違うのは紅花はオレンジ色なのに野薊は赤い色が違うだけです。
紅花も黄色いのは虫を呼び寄せる間だけで受粉を終えれば薊と同じ紅色に変わってしまいます。
紅花も薊も菊科の植物です。だから薊も紅花も菊と同じように食べられるのでしょう。
私のペットだった兎君も元気が無くなると薊やタンポポを採取してきてあげました。薊やタンポポを食べると兎は活力を戻しました。合成資料よりズット良い食べ物でした。紅花オイルは体の酸化作用を防止すると聞きますので兎君も薊を食べると酸化した身体を元に戻していたのかも知れません。
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薊の花は赤紫です。
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此方が紅花です。薊と同じで色だけが黄色いのはなのは虫を呼ぶためです。この花を何度も晒して紅の色素を取り出して染料や化粧用の紅を抽出します。
薊と云えば私の世代は「薊の歌」を想いだします。
「命短し恋いせ乙女 赤い唇褪せぬ間に・・・」歌います。デーサービスでも良く歌う歌です。
お仲間はそれぞれ薊の花にどんな思いを託して居るのか解りませんが矢張り薊には青春を想いださせる力があるようです。
私は薊の歌を歌いながら気持ちは最近坂本冬実がカバーした「赤い蛍」を想いました。私が好きなフレーズは
「もしも私が死んだなら
胸の乳房をつき破り
赤い螢が翔ぶでしょう」
このフレーズはスーパームーンの夜に亡くなった女子高生を思い出させられます。
でも薊も人間も変わらない命です。
清明である以上道端の薊と同じように羽毛を飛ばしてから一生を閉じらせてあげたいものです。
棘が女子高生の家族に友人に刺さったままで、長い間疼いて取れない事でしょう。自殺願望は所詮は我儘で隣人を如何に苦しめるものであるのか解って欲しいものです。女子高生は文学少女だったようでしたから薊の花を手折れば自殺願望が自分の我儘ある事に気付いた事でしょうに。

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狐と日本文化6(狐憑依)

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湘南には幾つもの大学が立地していて夫々に文化祭を実施致します。私が一番面白いし楽しみにしているのは日本大学の藤沢キャンバスで実施される「藤桜祭」です。
大学は境川の東側の河岸段丘に立地しています。この秋の台風では桜の大木が倒れて道をふさいでしまいました。今年も9月31日に始まり3日間です昨年もワイフに連れて行ってもらいました。
キャンバスの中には博物館http://www.brs.nihon-u.ac.jp/facilities/museum.htmlあります。この博物館は旧日大農学部、旧東京獣医畜産学部が所有して いた標本を整備したもので、待様な生物の剥製や骨格が展示されて居ますのでたり興味は尽きません。私は「オコジョ/真っ白い狐聖獣として崇められた」の剥製を見詰めて時間を忘れてしまいます。
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日大藤沢キャンパス内にある博物館
一番の勉強になったのは稲の展示です。
生物資源科学部 の創世記の先生が研究された成果を私の様な素人も解るようにパネルで展示したもので農業の生産工学を思わせる内容でした。一粒の麦を畑に播いても20粒の麦しかできませんが米を田圃に播けばなら200粒もできるのだそうです。加えて田圃は蛙や泥鰌や蛍を育てます。生物の多様性を保証する揺り籠なのです。泥鰌は朱鷺の餌になります。田圃が一粒の米を200粒に増やすその秘密は田圃が陽の光を吸収し植物性プランクトンの育成工場になっているからだそうです。植物プランクトンの育成工場は稲にとっては肥料工場のようなもの。日本では天然の水耕栽培を弥生時代に始めていたことになります。
活発な学生とお祭りを楽しみながら農業っていいなあ、思えてくるのが藤桜祭です。

さて、狐と日本文化の考察ですが一応伏見稲荷に始まって江戸の町の米蔵稲荷まで説明しました、でも”何か欠けている”思って居ました、それが「狐の憑依現象」である事に気付きました。所謂狐憑/狐付き、修験者の祈祷呪術による「狐落し」です。中島敦「狐憑」は有名ですし・・・。
江戸時代狐憑(きつねつき)と判断された病気は多発していたようです。
現代で云えば精神錯乱とかヒステリー症状なのでしょうが江戸時代には野狐の霊に取り憑かれたと判断され修験者や呪術者を招いてお祓いをしたり体を叩いたり犬を嗾けたり狼の護符を貼って体から狐を追い出す(狐落し)することで健康を回復させたのでした。「狐憑き・狐落し」は日本人の死生観にも通じる基本的な考え方ですので更に説明いたします。
日本人は人間も動物も同じで身体と魂に二分されると考えて居ました。
身体から魂が抜けだすことが死で古代人は常態が死であると思って居ました。魂が体に入ったら命が始まるのです。それはまるで死んだ籾殻が水を吸収して芽吹くようなものでした。そして魂が身体を抜けだす状態が死で死と生は循環するのです。死が先で生が後から続くので日本人は死生観と云いました。これを生が先で死が後からついて来ると看破したのが中世の道元禅師であると考えます人間を中心に考えれば生が先行するのが自然です。
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古墳から発掘される勾玉は魂が身体を見つけて再生する事を祈願しています。

狐憑きは人間の魂がボケッとした隙に野狐の魂が入ってしまった状態を言うのでした。修験者の中には悪い奴がいて狐憑きや狐落しを作為をもってする不届きな輩も出現したので話が複雑になってしまいます。
私達日本人の祖先は家の中が安全な空間で家の外は危険な空間とわきまえて居ました家の中は聖なる空間で外は汚れた(穢れた)空間だと思ったのでした外から家に入る時は体に着いた汚れや穢れを祓います。だからお相撲では土俵に上がる前に塩を撒いて穢れを除きます。葬式から帰ったら門で死穢を清めます。家に入る時は下足に着いた穢れが家に入らない様に靴を脱ぎます。お箸では取箸と自分の箸を使い分けます。中華料理で中国人は誰もが自分の箸で大皿から料理を取りますが日本人は取箸を使います。同じ箸文化ですが日本と中国では根本のところが違うのです。
更に地中は穢れていて天は清いと考えます。川も上流が清く下流は穢れているのです。川で身を清めて魂も体も健康で居ようと努めます。
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イザナギは黄泉に愛するイザナミを探しに出かけましたがイザナの体は腐乱して居ました。怖くなったイザナギは黄泉から逃げ帰ろうとします。イザナミの魂はイザナギを追いかけますようやくイザナギは逃げ帰って黄泉で穢れた体を水で浄めます(禊をした) イザナギが体を洗うと、さまざまな神様が生まれ、 最後に顔を洗った時にいよいよ決定版ということで三柱の神々が生まれます。
左目からは天照大神(アマテラスオオミカミ)、
右目からは月詠尊(ツクヨミノミコト)、
鼻を洗うと素戔嗚尊(スサノオノミコト)が生まれます。素戔嗚尊に殺された月詠尊の口から米が吐き出されました。

ところで米と秦氏伏見稲荷の関係ですが以下の様に考えます。
日本に帰化した秦氏は稲作の適地に南山城の稲荷山に住みついで水田の開墾に成功します。山に住んでいた縄文人は進んで山から下りてきて稲荷山の麓に竪穴住居を作って住いすいでんで稲作します。稲作に必要な種籾は秦氏から貰います。縄文人は一粒の米が200倍にも増えるのに驚嘆しまあした。その不思議は稲荷様の力だと信じました。
秦氏の成功を国家組織に転用したのが古代の国家体制(公地公民の制など)でした。
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秦氏が伏見稲荷で成功した体制を国家レベルにかくだいしたものが古代の国家体制でお稲荷様の位置に座ったものが古代仏教だったと思います。
南山城の秦氏の成功した様な形は全国各地の稲荷神社(産土神タイプ)に見られます。
例えば佐久の稲荷神社も諏訪神社もそんな一つです。
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佐久の岩村田鼻顔稲荷神社(はなづらいなりじんじゃ)の絵馬ならぬ絵狐
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佐久の鼻顔稲荷神社(はなづらいなりじんじゃ)の土人形

種籾又は神苗を農民に渡して200倍に増えた米を領主(豪族)と農民の間で分配したものとえます。お稲荷様の国家仏教とが精神的な支柱になっていたのではないでしょうか。
TPPが纏まって政府も経済界も大喜びのようです。でもTPPが地方全面崩壊の決定打になりそうだと危惧します。狭い国土に沢山の人間が仲良く生きるのが日本の所与の条件で古代も現代も変わりません。加えて安全な美味しい食品と云った注文も加わります。天災に見舞われることを考え合わせれば国際競争力が劣ろうと現在の水田でお米を作るのが最適です。
最初の日大藤沢の生物資源科学部に行くと思います学生達が人生設計がし易い様に農業に夢を託せるように政策選択をしてほしいものです。狭い国土に多くの人間が住んで同時に多様な生物(動物昆虫)が共生出来る知恵は秦氏以来の水田を大切にすることにあると思います。


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性神の民俗学1

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テレビで福島裏磐梯の紅葉を報じています今年は夏暑く寒さが急激に遣って来たので紅葉は一段と見事だそうです。私は友人を誘って南会津に行きたいな思います。我家からの最短ルートはいろは坂から金精峠を越えて会津街道を北上します。紅葉と渓谷の美しい街道です。想います「金精峠」と云うのだから屹度大きな金精様が祀られているに違いない。今春は友人と吾妻渓谷中之条町の道祖神を巡りました。吾妻街道の金精様は小振りでしたが金精峠の金精様は山の神も驚嘆される立派なサイズと確信しているのです。何しろ川崎の金精祭りで神輿に担がれる金精様は大きいのですから・・・・。そんな次第で今日から数回に分けて日本の性神を紹介してみたいと思います。下ネタが多くなりますがお付き合い下さい。
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吾妻街道中之条の道祖神手前に沢山の金精様が囲んでおいでです。

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川崎金山神社の金精様お神輿に張子の金精様を乗せて”なんじゃマラこんなマラ”と掛け声を振り上げて川崎大師の周りを巡ります。この祭りはhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47220751.htmlに書きました。ピンクの金精様は新しくてエリザベスと呼ばれています。此方の神輿を担いでいるのは女性やハーフの方です。川崎に金山神社が招致されているのは製鉄業(フイゴが欠かせません)の関連です。
ところで今六本木のサントリー美術館で春画展が催されています。
パリのピナコテーク・ド・パリ美術館で「芸者の時代における春画」展が開催されているようですが外人は日本男性のアレが立派であるのに驚いて”歌麿”と呼ぶそうです。歌麿とは春画の作者の名で一般の日本男性は歌麿に迷惑しているのです。
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週刊文春の春画ブームを報じる記事筆者は江戸エロスよりも根が深い縄文人の”生命への敬虔な驚き”と理解したいのですが・・・。
でも態々「芸者の時代」と断りを入れているのはフランス人の国際感覚なのでしょう。
私は春画のように矮小な文化では無くて金精様を展示してほしかった想うのです。
藁人形の道祖神を観たらパリジャンヌには大受けすると思うのです
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秋田湯沢の鹿島様巨大な藁人形には巨大な金精様が取り付けられます。同様な藁人形を筆者は長野県聖高原の大岡村新潟県魚沼で観た記憶があります。秋田の湯沢だけが鹿島様と呼ばれて賽の神の色彩が強いようで他は単に道祖神と呼ばれています。
性神の始まりは古事記に見られます
イザナミとイザナギはお互いの体を見つめ合います。
そしてイザナギのアレを確認しますイザナミが誘って二人は交わります。その結果出来た子供は骨が無い蛭子でした。二人は葦で作った船に乗せて蛭子を流してしまいます。二人は禊をして再び交わります。今度はイザナギがリードしました。その結果生まれた子供が天照大神と月読尊であり素戔男尊でありました。
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陽石は道祖神が一般化される以前からの神の依る石でした(写真は吉野の博物館)

鎌倉の大町滑川の縁にも蛭子神社が祀られています。最初の子供が不具だったから海に流してしまったのは惨い事ですが縄文時代には魂の再生を信じていたのでしたから葦船に載せて海の彼方に送って再生をいのいったのでした。輪廻の世界観があったので再生を祈って実を浄めて交わったのでした。その結果日本創世の神々が産まれたのでした。
この夏私は友人と京都の下鴨神社を詣でました鞍馬方角の門より入りましたので、手水で身を口を浄めました、でも正しくは御手洗川(ミタラシ川)を渡って手足を浄めるのがお作法なのでしょう。
伊勢神宮も五十鈴川に架る橋(宇治橋)も古代には無かったと聞きます。
葉山の森戸神社の禊橋の案内にも「神社に参拝するにはこの川で禊をした」と書かれています。
ですから川は上流ほど清く下流に行く程汚れている穢れて居る事になります。人が川を汚すと災いは下流に滞り海底から災難が襲う事になります。水俣病やイタイイタイ病や今般の鬼怒川災害を思い起こさせます。
文芸春秋の同級生交歓の連載が在ります。財界の鞍馬天狗と評された中山素平さん(興銀副頭取から開銀創設)が一ツ橋大学水泳部時代の写真が載っていました。全員が赤褌をつけて居ました。文春の記事は当時は海で泳ぐことが多かったので若しも鮫が出たら褌を解いて陸に向いて逃げるのだと説明でした。
でも最近読んだ「便所の民族誌/斉藤たま」によると赤褌も赤腰巻も災難除けの呪術と説明して居ました、海底や水底に漂っている悪霊が人間の体に侵入すると溺死してしまうので赤いものを体に着けて魔除けにしたのだと説いていました。体に魔が浸入するのは尻の穴なので腰を赤い布で覆ったと説明して居ました確かに溺死した遺体を確認すれば肛門が開いてしまっています、肛門から魔が浸入し無いように魔除けと考えた方が良さそうです。
魔除けが赤褌や赤腰巻であったように金精様は災難が村に入ってこない様に結界を示す役を果たしてきました。
先の斉藤たま氏は同著で山で災難に逢いそうになったら男性は自分のアレを曝すと助かると説明しておいででした。何でも山の神は男性のアレがお好きであれを見せれば助けて下さるそうです。でも筆者の様に粗末なアレでは山の神は助けて下さらないかもしれません、やっぱり歌麿でなければ駄目かもしれません。それだからでしょう。秋田でも新潟でも金精様は大笑いするほど巨大なのです。斉藤たま氏は女性の立小便も詳しく説いておいでです。立小便は男だけに許された特技と喜んでいたのですが。野良仕事の多かった昔ですから立小便を余儀なくされたのでしょう。着物の裾を金隠しの向こうに行くようにして便器に屈むのだそうです。丁度洋式便器に座る直前の格好になります。そして排出したそうです。そんな訳で着物の着方が男女で違うのだそうです。
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青絵の和式便器左端の起ちあがった部分が”金隠し”男性自身を書くすので金隠しなのでしょうが女性が使って着物の裾を汚さない様にするのが目的でした。
私が長銀の大阪支店の自重をして居た頃初めて船場の実力者と取引に成功した事が在りました。その方には大変に良くして戴き船場の優良企業を次々に紹介して戴きました。ある時上司の常務と一緒にお相撲を案内されました。砂被りで観戦した後今里新地の料亭に案内されました。事前に「お宅の常務の三味線は生田流で良いですか?」尋ねられた理由は解りました。
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大坂の今里新地の料亭街昔は色町でしたが娼妓は存在せず芸妓置屋と料理屋だけで構成される情緒のある料亭街です。コーリアタウンの生駒山寄りに在ります。

今里新地は、「特殊料理屋」の営業が許可された場所で、娼妓は存在せず芸妓置屋と料理屋から構成されたいわば二業地でした。お座敷は駒方茂兵衛がお蔦を見初めたような廓の二階でした其処で私は船場の実力者に訊きました。
小錦さんは”お嫁さんを貰って嬉しそうですがあれでどうやって交わるのでしょうか?”
実力者は優しく教えてくださいました。
”女性が後ろ向きになって男性のお腹に体重を預けてするのですよ”
”洋式トイレのようにするんですね”
私の疑問は氷塊のように溶けたのでした。
この段は悪意も何もありまっせん。お気を悪くされたらごめんなさい。


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性神の民俗学2

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農家の庭先の栗も収穫されました。神社の森の団栗も転がっています。テレビでは東御市のクルミの収穫風景を報じています。
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南軽井沢姫街道に在る馬取百観音栃の大木の下に眠っておいでです。この秋も沢山の栃の実で痛んだことでしょう。
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望月の「万治の石仏/有名な諏訪大社の阿弥陀石仏と同じ石工の作品」も団栗の樹下に祀られています。
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東御から万座に行く街道には百観音が100メートル間隔で祀られています、これはその50番にある馬頭観音です。ブナや胡桃の林を越えてニセアカシヤとブナの混成林ににあります。此処より上ると落葉松林に変わります。

私は数年来親友T君の南軽井沢にある別荘を拠点に石仏行脚を満喫しています。
この秋は大人しく家に居ますが、「あの石仏は今頃如何しているかな?」想いを馳せます。
と云っても石仏が表情を変える訳はないので石仏の周囲の風景を思い遣るのです。
すると或る事に気付きました。多くの石仏がブナの木の樹下に祀られているのです。
ブナと云っても幾つも種類があります。
常緑の椎もブナ科の植物ですし。胡桃も栃も落葉樹ですがブナ科です。
共通するのは堅い殻で包まれた実がなる事です。一般にこの硬い実を団栗と呼んでいます。
私は”石仏は団栗が似合うな”と思います。
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色々あってもどれも団栗です。どれも似ているので”団栗の背比べ”と云いますが見詰めれば夫々違って夫々可愛いものです。上段の袴を被っているのがクヌギで、下段の細長く小さいのがシラカシです。カシや椎は常緑樹クヌギや栗や栃は落葉広葉樹で随分違います。でも何れもブナ科の植物です。

童謡の”ドングリコロコロ”では団栗は「転がってお池に嵌ってしまい泥鰌さんに遊んでもらいます」
でも私の感覚では団栗は石のお地蔵さんに当って”ごめんなさい”で次いで睨めっこ遊びでもしている風です。
でも長い間睨めっこをしているとリスや猪に食べられてしまいます。早く根を出して芽吹かなくてはなりません。

団栗の実がコロコロ転がるのはなるべく遠くに転がって行って種を広げる思惑があるからでしょう。ですからブナ科の植物は親木から谷側に繁殖します。尾根に運んでくれるのはリスやカケスです。ブナの葉は落葉して布団の様に大地を覆います、落ち葉の布団は水を吸っていますから団栗の実は直に根を出して芽吹きます。更に落ち葉は若木の栄養になります。ブナの森は総て理に適っているのです。
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ブナの林、団栗の実が転がるので谷側は樹林が密生してしまいます。団栗の実が沢山の獣を養います。団栗の葉は川になって海に注いで魚貝を養います。生命の源はブナの森林にあると云えます。日本人もこのブナ林で長い間生きて来まあした。日本人お信仰の祖形はこのブナ林にあると思います。だからブナ林が私達日本人が一番に癒されるのだと思います。

私達の祖先はこのブナ林で猪やリスと同じように団栗の実を食べていたのでしょう。主要な食べ物は鹿や猪など山の獣でした。でも食べるものに困ったらブナ林を探し回って、長芋(自然薯)や天南星(里芋の仲間)を探してその根を生で食べたのでしょう。主に狩猟、秋には団栗を拾って不足したらイモ類の根を掘って生活して居ました。
そのうちにいも類を栽培する事を覚えたと思います。イモ類はその身体の一部を土に埋めておけば宿根草として翌年も収穫できるのです。年を経るごとに農業のウェートが増えて行き終には稲作が伝わってきて農業革命が起ります。その農業革命の契機が帰化した秦氏でその神が伏見稲荷であったと思うのです。
さて農業革命以前のブナ林の民ですが彼等は狩猟神である「山の神」を信じていたと思われます。
イモ類の根っこには毒が在りましたし(天南星や彼岸花等)の球根には毒がありました。
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天南星の実根っこには里芋に似たお芋が出来ます。でもはシュウ酸カルシウムを多く含んでいます。よく長野県でムクドリの大量死が報道されますが大半がこの玉蜀黍の様な実やピラピカンサの実を食べて食害に当ったものと思います。

山の民は天南星の芋や彼岸花の球根を生噛りして病気に陥りました。
デモ何時しか食べる方法を知りました。それは先ず、摺り潰す事でした。磨り潰す道具として臼と杵を想いつきました臼の凹んだ部分に杵の凸部分を押し当てて芋や球根団栗を磨り潰しました。
更に磨り潰して出来た餅状のモノを水に晒せば毒が消えて食べても大丈夫である事も知りました。次にそうして出来たモノを煮る事を覚えました。
臼と杵は人間が造った神具になりました。石臼とか石棒が縄文遺跡から発掘されています。
凸凹はオカメとヒョットコになってお神楽には欠かせない脇役になりました
石棒は男性自身に形も似て居ました。そこで毒(厄」を防ぐ賽の神に祀られました
水に晒す手順は禊になりました。
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オカメヒョットコは臼と杵を象徴していると思います
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            会津の道祖神 無土器時代の石棒を遺跡から発掘して祀っている様に思います





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カオスは時代の踊り場

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今年の7月NHKスペシャル「プラネットアース」で地球上の生命誕生の顛末を放映して居ました。
40億年前、原始地球が多くの天体と衝突、合体を繰り返して大雨が降って、海の誕生した、その海底で熱水が噴出して生まれた細胞が集合離散を繰り返して生物の歴史が始まる。、地球の壮大な歴史はカンブリア紀の不思議な生物はオーストラリア西海岸の渚の潮水の中で光合成するシアノバクテリアが増殖した事が生命の起源でした。
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NHKプラネットアースhttp://getnews.jp/archives/939182)
私は興味深く見たのでしたが現代の科学も古代の神話と同じ結論なのだ、不思議に納得したのでした。
というのは渚に光が射して無数のバクテリアが発生してバクテリア同士が集合離散、弱肉強食している状態をギリシャ人は「カオス」と呼んで、旧約聖書の天地創造では神は3日目に植物を、5日目に魚と鳥を、6日目に獣と家畜そして神に似せた人を造った、とされました。
一方日本の国造りの神話では高天原に降り立ったイザナミとイザナギが地上を見下ろしました。地上は一面の葦原でしたが、その葦原に鉾で差回して日本列島を造りました。
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天瓊を以て滄海を探るの図(小林永濯画、左がイザナミ右がイザナギイザナギが武力『鉾』を用いて地上を平定した事を推測させます。私はこの絵を見る度に杜氏が「かい棒」を使って大樽の中ゲル状の液体を掻き混ぜる姿を想いうかべます。
旧約聖書 日本神話(古事記)共にカオスの常態の中から創造しています。”カオスの中かから創造された”神話”は現代科学に基づく推測(仮説)に符合するのでした。
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奈良御坊の片上醤油における古代醤油の醸造風景これがカオスです。杜氏がこのカオスを掻き混ぜる光景が国造りを髣髴させます。
カオスを掻き混ぜて醤油や酒を造りますし、沈殿した澱粉を晒して葛粉や塩を抽出しました。陰陽五行説では光りは上方に神は天空に陰は地に闇は地中(地獄は地下に)ある事になります。古事記を編纂した太安万侶の時代には陰陽五行はインテリの共通知識だったのでしょう。

私の学生時代は60年安保が終わってその熱の冷めやらない時代でした。
当時も学生市民(主として労働組合)は安保で同盟した米国に疑問を挟みベトナム反戦運動やナイキ基地反対闘争に参加していました。佐世保に横須賀に原子力空母エンタープライズが入港する反対運動で熱したのでした。
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佐世保橋で空母エンタープライズの寄港を阻止しようとする市民に全国から学生が応援に駆け付け機動隊と衝突しました。空母の寄港でさえこの混乱だったのに現代は武器の製造輸出も積極的に行おうとするのは隔世の感があります。佐世保で反対した三菱重工の労働者は今はもう冷めて潜水艦を造っているのでしょうか?写真出典http://blogumanome.blog.fc2.com/blog-entry-213.html)

私達の流行語は”混沌”てした。大学のキャンパスは様々なタイプの学生で埋まっていました。
『慶応大学の医学部はベトナム戦争で使われる生物兵器の研究をしているらしい?』究明するために塾長を呼んで確認しよう!学生集会が開催されるので講義は閉講されました。時間が余って仕方なく部室に集まりました。時代は混沌としていました。
自分自身の頭も心も混沌としていました。
60年代70年代初頭にかけて社会も個人も混沌としてどっちに向いたら良いのか迷っていました。
その状態はまるで古事記の日本創世神話と酷似していたように思います。
私達はイザナギイザナ視のようにキャンパスを彷徨い混沌の中から抜け出す道を探していました。
鉾で混沌とした

安全保障法案は通りましたが。世論調査では反対意見が6割を超えていますし。朝日新聞などは同法案は何時でも取り消し可能だとして世論をリードする姿勢です。
阿倍首相は沖縄担当相芋と地元選出の参議院議員島尻安伊子さんを指名されました。でも任が重たいようで地元の新聞社の総叩きにあっているようです。昨日は翁長知事が辺野古埋め立ての取り止めを命じましたが島尻安伊子さん沖縄県民に選ばれたのを忘れて安倍首相にえらばれたような発言を繰り返しています。このようすでは来年の7月には落選して民主主義の基本を確認する事でしょう。
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今次の内閣改造で沖縄相に就任した島尻あい子氏『新基地建設に反対する市民運動を「責任のない市民運動」と発言し、物議を醸した』。 写真出典:沖縄タイムズ
「混沌」は日本の歴史の転換期に起る現象でした。
大和朝廷の成立以前は300もの群小国が乱立して居ましたし。平安時代から鎌倉時代への転換期も、戦国時代も混沌としていました。江戸時代から明治に移る幕末維新も混沌とした世相でした。
デモ何れも混沌も収めたのは武力でした。
歴史は軍事で勝った者が勝つ、造ると示してきました。ですから、混乱すると必ず為政者は軍事力を掌中に収めたのでした。
この意味では日本民族は好戦的な民族でありました。
カオスは新しい時代新しい文化を作るには必要な状態ですがら1960年代以来の日米安保のカオスがソロソロ収束する時期なのでしょうが武力への依存心の強い日本人が軍事力を拡大しそのコントロールを誤ると歴史は繰り返されることになります。
辺野古の問題は時代の踊り場日本の選択の機会であります。先の大戦の様に武力に頼って国を誤らせない様に冷静に選択しなくてはなりませんその大切な担当大臣として島尻氏の動向が心配です。
イザナミイザナギの国造り神話は多くの事を教えてくれますが日本の国が団栗の森で産まれて仲良しの男女が交わって出来た「国産み」に留めて武力に過信する過ちは繰り返してはなりません。参院選挙は歳が明けたら直です。


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鰍を食べたい

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この秋、私は要介護ランクも3から2にランクアップ致しました。これも友人の励ましやリハビリ関係される方々のご尽力のお蔭であります。デーサービスに行くのも週2から週1に半減してしまいました。職員の皆さんには「機会が減ったのは寂しいけれどリハビリの成果だから喜ばなくてはね・・・」なんて言われています。
デーサービス施設は我が家から徒歩5分の距離にあります。でも、朝晩送り迎えしてくれます。
朝10時に施設にお客さん(患者さん)が集まります。
集まると直にミーティングが始まります。暦の確認等に続いて”旬の食べ物”の話に盛り上がります。ホワイトボードに「鯔」の字が書かれました。誰もこの字が読めません。旬の食べ物で魚偏ですから”泥鰌だ””秋味(鮭)”だ食べたい魚の名を言ってみますがどれも外れです。「ぼらと読みます」正解が明かされました。
私は「ボラなんて臭くて食えないよ。其処の柏尾川にも今頃は群れを成して海から遡上してきている、強いていえば卵を取ってカラスミにして酒の肴にするくらいだよ」言いました。
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柏尾川にはボラが群を為して片瀬の海から遡上しますがあおさぎがゲットします。でもボラの肉は臭いので食べられません
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ボラは食用になりませんが卵は干してカラスミにします。珍味で酒の肴には格好です。写真は屋久島のあきもとの商品案内http://www.nipponselect.com/shop/g/gS05640007?utm_source=yahoo&utm_medium=cpc高価なのが欠点です(60gで6000円)

ボラの話をしているうちに泥鰌が無性に食いたくなりました。そこでワイフに”今泥鰌を喰っておけば絶対に風邪をひかない”等と適当な事を言って、馴染みの魚屋さんにバスに乗って泥鰌を買いに行きました。
例年今頃は丸々太った鮎と樽の中には生きた泥鰌を入れて商っているのですが今年は未だだとの事です。どうも大分産の泥鰌を南部市場で仕入れて居る様なのですが今年は未だ入荷して居ないのでまた来てくれとの事でした。
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これが泥鰌の定番の土壌鍋、私のサラリーマン時代は向島の駒形泥鰌が渋谷にも店を出しているので風気味になると必ず出かけました。葱の微塵切はサービスでお代わり自由でした。葱と泥鰌を汗を流して食べれば店を出るころには風邪は引っ込んでいたもんでした。駒形泥鰌も鯨屋も追い出されて今は109になってしまいました。
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大分県宇佐市印内町の名産泥鰌綺麗な湧き水で飼育されたので泥臭くないそうです。写真は上記土壌鍋共に印内町のHP/http://www.oita-shoku.jp/shoku.php?shoku=1&no=43

昔は稲刈りを終えたら田圃脇の水路に網を入れ仕掛けをして泥鰌は取放題だったのに今は貴重な魚です。現在でも柏尾川に網を入れれば簡単に取れます。
何時か柏尾川の川原で芋煮会をしたいのですが芋煮の鍋に柏尾川の泥鰌も入れたいと思って居ます。管理者である県(戸塚土木)に確認したところは
「柏尾川には漁業権が設定されていないのでご自由にどうぞ、でも会長火を起こすなら警察に言っておいた方が良いですよ・・・・・」アドバイスされました。
泥鰌は先送りになったのでしたが今度は河鹿が喰いたくなりました。
2年前柏尾川に入って「追い込み漁」をしたのでしたがその成果は泥鰌以上にハゼが多かったのです。柏尾川のハゼは「よしのぼり」と呼びますが何処から見ても河鹿なのです。河鹿は一字で「鰍」と書きます。魚偏に秋ですから秋が旬の魚は鰍なのです。魚偏に春ならサワラ(鰆)でした。
ハゼは天麩羅が最高ですから鰍も天麩羅が良いのでしょう。
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柏尾川のよしのぼり、江戸前のハゼと有明海のムツゴロウの混じった様な顔をしています。
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北斎の富岳36景鰍沢の図。富士川鰍沢の急流で投網している漁師を描いて絶妙です。空気は秋を思わせます。鮎や鰍が網にかかって重そうです。川に落ちたらお終いです。

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柏尾川の生物黒いのがヨシノボリ小さくても藻屑蟹も居ました。
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泥鰌も居ますがヨシノボリの方が多いようです。鯉のようなのは鮒です。鰻や川穴子が取れたこともありましたし昨今はブラックバスも目立ってきました。
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ヨシノボリは周囲の色で合せて変色しますので茶色いと鰍に相応しい様に見えます。
今年は柏尾川に入って子供達と追い込み漁は出来ませんでしたが来年は実施し東戸塚小学校祭りで「海老釣り遊び」を再開したいものです。
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2年前の柏尾川追い込み漁の風景地域が子供達に呼びかけて柏尾川に入って生物の多様性を確認します。


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蕎麦の季節です。

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信濃では月と仏とおらが蕎麦
小林一茶の代表句と云えましょう。
中秋が過ぎて天が高くなり空気がピンと張って風が頬に冷たく感じられる様になれば蕎麦を食いたくなります。
」は蕎麦花の一面に広がる白の起伏から妖気漂う山里の光景ともとれるが、前書き文化14年(1817)55歳の頃です。
「老いの身は今から寒さも苦になりて」と前書きして。
山鼻やそばの白さもぞっとする
一茶の庵のあった北信濃黒姫山の山麓は冬の到来も早いし歳を感じて未だ残っている蕎麦の白い花を観てもぞっとしたのでしょう。
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一面の蕎麦畑向こうの山は黒姫山ならぬ浅間山です。蕎麦は夏に咲くものと秋に咲くものと2タイプがある救荒作物です。信州やと東北では米の作柄が悪いと急遽蕎麦を撒いて飢饉に供えたものと思います。蕎麦は縄文遺跡から良く出土しますし。現代も蕎麦の産地は山形岩手新潟長野と縄文地帯に多いのは歴史と風土の為せる成果だと思います。穀物(米麦)は弥生文化地帯で雑穀(粟や稗や蕎麦は縄文ちたいです。

一茶は若気の至りで江戸に上りましたが大都会に馴染めず晩年に故郷黒姫山に戻りました。
江戸では蕎麦が人気で100万人都市に4千件もの蕎麦屋が在ったそうです。(杉浦日向子著大江戸美味草紙)これに屋台の蕎麦屋(夜鷹蕎麦)を加えたら現代の喫茶店とハンバーグ店以上の密度であった事でしょう。
何で江戸っ子は蕎麦が好きだったのか?諸説あるでしょうが、江戸っ子は縄文人なのでその遺伝子が雑穀の味を求めさせた事と小腹が空いたら寛永通宝で4枚(16文)で食べられた安さと軽便さが性急な江戸っ子に受けたと思います。
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夜鷹蕎麦の図(国立博物館所蔵の近世職人尽絵図/出典は杉浦日向子著大江戸美味草紙のグラビアを複写)著者は夜鷹は筵を抱えた街娼で寒いと好んで屋台の蕎麦を食べたのい屋台の蕎麦を夜鷹蕎麦と呼ぶようになったとせつめいしています。このスタイルが後年屋台のラーメン/チャルメラになったそうです。店で商う蕎麦が二八蕎麦と云う様に①6文であったのに対し夜鷹蕎麦は6、7文と格安でしたから夜鷹はお客を一人取ると24文(寛永通宝6枚」蕎麦代金を払っても銭が2枚残る事になります。因みに夜鷹は帯は解かず裾を広げるだけだったそうです。ファーストフードでフィースト風俗だったそうです杉浦女史の受け売りです。

私も同じ遺伝子を受け継いでいます。中秋が過ぎたので「新蕎麦」を喰いたくなりました。
其処で頭を巡らせました。何処の店に行こうか?
屹度江戸っ子も同じように迷ったのでしょう。
本町の砂場にしようか、それとも神田明神下の藪蕎麦にしようか?
「一昨年藪蕎麦は焼けたから新店に移っているだろう藪は酒も美味いし蕎麦前(酒の肴)を美味いやっぱし藪に行こう!」なんて言ったのでしょう。
私は御成町の「竹扇」にしようか段葛の「こ寿々」にしようか提案します。
「こ寿々」のそば粉は木曾の御嶽山の麓の開田高原と聞いていますので。一茶の故郷には近い事になります。でもワイフと協議の結果馴染みの濃い竹扇に行く事にしました。何しろ竹扇のある御成町は私の母校の門前にあるのですから・・・。
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鎌倉駅の西側の通り(今今大路(いまおおじ)」は御成通と一般に呼ばれています。明治時代此処に御用邸があって明治天皇が静養に御成りになられたからでした。戦後皇室から下賜されて御成小学校ができたのでした。門看板の字は高浜虚子の筆になります。
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ですから

静謐な喫茶店(御成町レ・ザンジュ)

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戸塚駅から鎌倉駅まで横須賀線電車を待ちます。ところが、湘南新宿ラインの事故で電車は大幅遅れです。
新線の開通は鎌倉市民は渋谷にも新宿池袋にも近くなったのですが。遅延も増えたようです。便利を追い求めれば不都合も増えるのは仕方ありません。
今日は好天気週末のお天気は崩れる予報なのでしょう。電車は満席です。
大船を過ぎれば北の方角に大型クレーンが何本も建っています。方角から考えるに資生堂お鎌倉工場跡地の開発工事が始まったのでしょう。大型クレーンは高層建築物の基礎杭を打ち込むもの、三井不動産の港北ニュータウンセンター街区の欠陥工事が思いやられます。匠の国日本は何時の間に堕落してしまったのでしょうか?毎日の新聞は役人の汚職と警察官の犯罪事件で埋められています。日本人の職業倫理感は髄まで腐ってしまったようです。
今日の目標は御成町竹扇で新蕎麦を食う事。その前に御成町を散策するコースを考えます。
先ず鎌倉駅西口を降りて珈琲を戴こう。お店はホテルニュー鎌倉にしよう。「岡本かの子」が芥川龍之介に会い「鶴は悩みき」の構想を得たというホテルです。「鶴」は芥川の事何故「龍」や「河童」でなく鶴にしたのか解りません。
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鎌倉駅ホームの真ん前にあるホテルニュー鎌倉私が小学生の頃(昭和20年代末)から変わりません。
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ホテルニュー鎌倉http://www.newkamakura.com/room.aspの玄関此処の右側がロビーで喫茶のサービスが在ったはずなのですが今はそのロビーも客室になって素泊まり専用(6000円~15000円)になっていました。朝食夕食は近所の施設を案内して居ました。
ホテルニュー鎌倉は建物こそ昔の儘でしたが今は素泊まり専用で、喫茶はありませんでした。其処でワイフと協議して近くにある喫茶店レ・サンジュに向かう事にしました。
ホームに沿って北に2分も歩けばレ・サンジュhttp://lesanges.co.jp/shop/index.htmです。
このお店は私が小学生の頃はありませんでしたが子供達が中学生の頃は在ってワイフは「一度行きたい」思って居たそうなので意見は一致しました。店主に訊けば開店して35年だそうです。既にお店も店員も風格が備わっています。
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レ・サンジュの店構え秋の収穫祭と云う事で栗や南瓜のケーキが揃っていました。
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ケーキと飲み物を自由に選んでテーブル席でゆっくり戴けるサービスです。
最近は鎌倉でも名古屋スタイルの喫茶店が増えて星野珈琲やコメダ珈琲が目立っているのですがレ・サンジュは南仏ニースの別荘をイメージした喫茶店なのだそうです。
エントランスの床も南仏風のタイルで敷かれていますし。壁の吹付もオレンジ色の瓦屋根も南仏の青い海軽い風に似合いそうです。
ミモザの葉が風に揺らいでいました。春になれば卵黄のように黄色い花が咲く事でしょう。樹下には木製のベンチが置かれています。満席の時は「このベンチでお待ちください」そんな意図のようです。また待つ事を少しも苦にしないそんなお客様を対象にしているのでしょう。名古屋スタイルとは真逆のコンセプトのようです。
でも御成町には老舗の小川軒もあればサンルイ島も出店しています。ケーキ屋さんの激戦地でもあるのです。そこで本店として35年もやってきているのですから大したものです。自由が丘のモンブランの様なものです。モンブランと違うのはお客の層が違う事此処は子供や学生はいません。
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テーブル席は中庭に面しています。中庭には小鳥の水飲み場が在ったりして草花と野鳥を観ながら時間が過ぎて行きます。
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壁のゴブラン織りのタペストリー収穫祭の風景のようです王族も農民も外に出て豊作をお祝いしているようです。でも騎士が目立ち上方にお城が描かれています。中宮寺の天寿国繍帳とは大違いです。
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これが中宮寺の天寿国繍帳中央やや右の蓮の上に再生された聖徳太子が織られています。左右の上方には餅つきしている兎が居る月があります。天女や亀(甲羅にお経が織られています)タペストリーの技は同じルーツでも日本に伝来すると随分違うものです。

にゴブラン織りの逆の位置には三光鳥の精描画が懸っています。
ピアノのバロック音楽が流れていると思ったら何時の間にか月光に変わっていました。
何時まで居ても良さそうな雰囲気です。
何時もは喫茶店で新分雑誌を漁り読みしている私ですが静かに読書をして居たい気持ちになりました。
今年の夏は楽しかった京都にも行ったし・・・・・。想いだしました。
突然に「鳥の空音」を想いだしました。京都から小野小町の旧居を求めて逢坂の関を越えたのでした。
清少納言は恋人の嘘を「鳥の空音」に模して牽制したのでした。
祖の歌が次の通りでした。
夜をこめて鳥の空音は謀るともよに逢坂の関は許さじ
聖徳太子は天国に再生出来たのかそれは確かめようがありません。でも次の事だけは嘘偽りが無いでしょう。鳥の空音のはずありません。
それは第一に
妃の橘大郎女 が聖徳太子を心底愛しておいでであった事と、同妃が朝な夕に天寿国繍帳を拝して幸せであった事です。
聖徳太子が天国で再生出来たかそれは鳥の空音かもしれませんが・・・・。橘大郎女の心には再生して同妃が死ぬまでは生き続けていたことでしょう。
私もソロソロ「終活」の季節です。鳥の空音も聞き分けたいものです。
もう少し居たい心を残しながらお店を後にしました。
屹度このお店は昔は山茶花の生垣のある民家だったのでしょう。咲き出しの乙女の様な山茶花に見送られて御成町の散策に出かけました。
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レ・ザンジュの駐車場はもう山茶花が先き出していました
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鎌倉駅のホームから見た「レ・ザンジュ」スペイン瓦にミモザの木が調和しています。如何にも鎌倉夫人が来られました。

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校庭の大欅(御成小学校)

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舟木和夫さんは高校三年生で「赤い夕陽が校舎を包み楡の木陰に弾む声」と歌いました。学校に楡の木はピッタリです。
5年ほど前私は日文研の仲間と山形東根を旅行しました。東根小学校の校庭に在る日本一の大欅を観に行きました。欅は楡科の樹木で建材の名前です。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44247292.html
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これが山形県東根小学校にある大欅、子の大木は樹木番付東の正横綱にランクされています。
校庭では子供達が運動会を控えて練習に励んでいました。校庭の対角には相撲の土俵が在りました。
流石に大樹番付東の横綱の大樹です二本のお股の間から向こうが見えるのも愛嬌で樹勢益々盛んな風でありました。
子供達は「掌を太陽に」欅は梢を青空に広げているようでした。欅と子供達は共助の関係ですからこの環境なら欅は更に成長し続ける事でしょう。
先日の東戸塚小学校の評議員会で子供達の体育能力が向上しているとの報告がありました。子供の体力下降トレンドが逆転した事は好ましい事で多分朝食を取る子が増えたのが要因であろう、解説も為されました。
十分な朝食は体力も知力も向上させるようです。
私は評議員会で校庭を芝生にしたのも良かったがお相撲の土俵も描いてあげたらどうでしょうか?提案したのでしたが無視されてしまいました。
私は農業もさせられていたので足腰が強く相撲は代の得意でした。御成小学校ではクラス対抗相撲が盛んでわたしはクラスメートの視線を浴びながらにクラス代表で出て居ました。
御成小学校も運動会の練習に励んでいました。
徒競争は図書館前からスタートして欅の横がゴールです。
生徒は欅の木を目標に走って欅に迎えて貰います。ゴールすれば心臓が大きく鼓動しています。欅の幹に耳を当てれば欅の鼓動も聞こえます。ルネッサンス絵画では楡の樹下に女神とそのベビーが遊んでいます。
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藤代清次さんは楡の木を素材に影絵を製作されました。子供と楡は共生しているイメージなのです。同氏のアトリエのあった馬込の「珈琲楡の木http://speedm2998.exblog.jp/22406579/」は藤代清次さんのアトリエ居間の様な空間のようです。

私のクラス担任だった石井先生は生物に関心がおありで度々御成山に登って尾根伝いに源氏山から長谷大仏裏まで連れて行って下さいました。私の情操も観察眼も石井先生が鍛えて下さりました。
私とワイフが校庭で山を眺めて居ると声を掛けられました。
〝私は昭和28年の卒業生で楡の木を眺めたくてやって来ました”
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図書館前から御成り小学校校庭を観る。正面の建物が鎌倉市役所。市役所の背に在る山が源氏山その手前が御成り山尾根を左に(西)に歩けば大仏裏に出られます。今日の話題は源氏山の下に見える大欅です。
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今日の話題の大欅右の建物が鎌倉市役所幹上3m程の位置で大きな枝が伐り落されて断面が露出しています。欅の周囲には根を保護するために柵をして在りますがこれでは不十分で土を耕して木を保護する下草を植える必要があります。
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御成り小学校の玄関長押の上に架った校章は天皇家から下賜された経緯を示す五三の桐です。玄関横には青桐が植わっていてもう実をつけて居ました。
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玄関横の掲示板に張られた作品御成り山と欅の木に対する生徒さんの優しさが出ていていい作品でした。木の子は茸だけでは無くて
子供も木の子のようです。

挨拶します。校門には「校内に入るには許可を求めてください」案内が為されていたのでしたが、私は黙って入ってしまったのでした。
楡の木も昨今勢いが衰えて枝が折れたりしているんです。そこで3本ほど大きな枝を切り落としました。
見れば確かに太い枝が伐られています。傷跡は放置されています、傷跡から雑菌が入って腐らないか心配です。
東根小学校の欅は根回りを保護していますが御成小学校は根の周りは踏み固められています。欅の根が呼吸できないで居るのが元気がない原因でしょう。石井先生が居られたならば枝を伐ると同時に根回りの保護をされた事でしょう。根回り保護のチャンスは何度もありました。一つが御成中学校を移転させ跡地に鎌倉市役所を移転させた時です。欅の根周りを保護するチャンスでした。もう一つは昭和35年頃この校庭の地下から中世の屋敷跡が発掘された時です(今小路西遺)跡。その発掘跡を埋め戻す時がチャンスでした。
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御成小学校校庭発掘風景(今小路西遺):出典は鎌倉市https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/t_aug.html
校門の南には講堂が遺風を留めています。見上げれば破風は腐ってしまって既にレースの様です。大風が吹いたら欅の倒壊も心配ですが講堂の方がもっと心配です。
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これが御成小学校講堂小生もこの講堂で卒業式をして貰いました。寺院建築と近代的なコロニアル建築が合体した。昭和モダニズム建築で保護の運動が為されているのですが鎌倉市は貧乏所帯で荒れるに任せられています。貧乏老後を思わせる惨めな姿です。空気を入れ替え光を取り込む棟の上の櫓も破風も腐って来ています。保存問題は次のブログに詳しいく書かれています。http://blog.livedoor.jp/kikurotakagi/archives/cat_112701.html
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講堂の破風も腐ってレースの様な状態です。鎌倉市民には愛着は在っても貧乏で如何とも為し難いのです。
お世話になった講堂も既にヨレヨレですし欅も寄る年波に打ち克てそうには見えません。私も左半身が麻痺した状態です。欅に講堂に見送られて御成小学校を後にしました。
背後から声を掛けられたような気がしました。
”でも。お前は未だ良いじゃないか奥さんと孫子に囲まれているじゃないか!”
半世紀ぶりに欅にエールを貰った気がしました。

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