鎌倉の明月院道を歩くと、路上に真っ白な花が散る季節になりました。
風車か、プロペラか・・・・・美しい姿です。
驚いて見上げると、頭上に「蔦葛」が山桜の木に絡んで、無数の花をつけています。
葛の名前は「マサカズラ」。
このカズラに「定家」の名前をつけたのは金春禅竹でした。
屹度禅竹はこの花の美しさと、執拗なまでの逞しさに驚嘆したのでしょう。
(頭上を見上げるとカズラの白い花が。明月院門前で)
そして、式子内親王の和歌を思い起こしました。
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば しのぶることのよわりもぞする
凡その歌意は次のようなものでしょう。
「私の命など早く尽きてしまえばよい。長く生きれば、想いを胸に閉じ込めていられなくなるだろうから」
凡その歌意は次のようなものでしょう。
「私の命など早く尽きてしまえばよい。長く生きれば、想いを胸に閉じ込めていられなくなるだろうから」
式子内親王は後白河天皇の第3皇女であり、賀茂の斎院でありました。
(鎌倉石の石段に散ったカズラの花、プロペラのようです)
藤原定家から見れば、内親王は遥かに高貴な育ちであり、同時に神に仕える役にありました。
憧れの人ではありますが、恋情をぶつける訳には行きませんでした。
式子内親王から見れば、こんな事でしょう。
私より年下の定家さんは、和歌の才能に秀でた、素晴らしい人で、私は久しく魅了されています。
定家さんと歌論を交える時は楽しいのですが、この世ではそれ以上の関係にはなれません。
せめて、歌で苦しい、切ない思いを和歌にぶちまけてみました・・・・・・。
(ツツジに絡んだ定家カズラ、既にツツジは枯れ死していました)
私は久しく京都に出かけていません。
今頃嵯峨野では筍が青竹に伸びて、薫風に揺れている事でしょう。
常寂光寺には藤原定家の屋敷跡があります。
此処で小倉百人一首を選んだと言われています。
お隣の嵯峨二尊院には時雨亭跡の碑があります。
謡曲「定家」に戻りましょう。
僧侶が嵯峨野で一夜を明かします。
すると、その旅枕に亡霊が出現します。
亡霊はお墓に僧侶を案内します。
「私は式子内親王です。私が死んで暫くして定家も亡くなりましたが・・・・。お互いの恋情はあの世に行っても止み難く、私のお墓をカズラになって縛っています。この苦しさを解いて下さい・・・。」
(定家カズラは有毒と聞きます。でも、カタツムリが舐めていました)
僧はお経(薬草喩品)読誦します。
するとお墓に絡んでいた葛が解けます。
亡霊が再びお墓から出て、僧に合掌し、報恩の「序ノ舞」を舞うのでした。
定家も式子内親王も和歌の才に秀で、相思相愛でありました。
この謡曲によって二人の思いは日本人の古典になりました。
私達世代も二人に思いを馳せています。
そして、この風車のような真っ白い花を見るにつけ、果たせなかった恋情に溜息するのです。
(浄智寺のスダジイの巨木から垂れ下がった定家カズラ)
大岡越前の母のエピソードがあります。
越前は囲炉裏の前で老母に尋ねます。
「女性は何歳まで色恋の煩悩が続くのか?」
すると母は囲炉裏の灰を火箸で拾って、越前の掌に載せます。
越前は灰の温みを感じます。
女性は死ぬまで煩悩を離れる事はできない・・・悟ります。
大岡越前の話には思い当たる事があります。
私の叔父(僧侶)は岐阜の中津川で老人ホームを経営していました。
叔父は楽しそうに話して聞かせてくれました。
ホームは男性が少なく、女性ばかりが多いのでした。
一人の男性を巡って、数人の女性が刃傷沙汰になる・・・・、そんな事件は茶飯事・・・と聞きました。
でも、警察に届けた事は一度も無かったそうです。
叔父は「歳をとっても恋情冷めがたい」
「それでこそ、生きている証である」
そう思っていたのでしょう。
謡曲「定家」は今も変らず新しい、名作だとおもいます。
(夫婦ではなく、今年生まれのカタツムリの兄弟)
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