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”竹春”の美しさ (貞宗寺竹林で)

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大船駅東口、駅頭を下ると沢山の中学生、高校生が家路に向っています。
私は生徒さんとすれ違います。
生徒さん達はそれぞれに談笑しながら歩いてきます。
秋の陽射しは生徒達に一際明るく照らし出しているように感じます。
もう、50年も前、私も向こう側で、同じ制服を着ていました。
 
 
柏尾川から植木の山を眺めると、一際鮮やかな黄葉が二本立っています。
貞宗寺の銀杏が輝いています。
私の足は黄葉に誘われるように、参道を登って行きます。
大銀杏の樹下で、ご住職が竹箒で掃いておいでです。
これから暫くは、大銀杏の落ち葉掃きが続きことでしょう。
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   (鎌倉植木にある貞宗寺はお愛の方縁故の尼寺でした。岡本のマンション群を見下ろす位置にあります)
 
実は私の父も住職でした。
私の箒目を見ながら言ったものでした。
「箒目を見れば、人柄が解るものだよ!」
わたしは、銀杏の葉っぱを掃いた後の竹箒の跡を見ました。
右に左に揺れていました。
以来、箒目が一方に向くよう、掃いた跡も美しいよう、心がけました。
今では、ご住職が箒を使っている姿は滅多に拝みません。
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         (最近は何処の寺でも見かけるお掃除小僧さん、でも箒目をたてるお坊様は見かけなくなりました)
 
ご住職が言われました。
「天然記念物のイチイの木が枯れ始めて、心配なのですよ!」
見れば、確かにイチイの古樹の北半分が枯れてしまったようです。
老衰なのか、それとも虫がついたのか、わかりません。
もしかしたら、烏瓜が絡みつき過ぎたのかもしれません。
烏瓜の青葉が枯れて、朱色の実だけが残った。
気づいたら、イチイの木も枯れ始めていた・・・・・、
ご住職はビックリしたのかもしれません。
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                    (本堂前のイチイの古木/天然記念物、芯木が枯れてしまいました)
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    (あたり一面の木を覆い隠していたカラス瓜、今は朱色の実だけが残っています)
 
私は本堂から、裏手の竹林に向います。
秋は「竹の春」とと言います。
竹が一年中で一番美しい季節なのです。
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           (貞宗寺裏山の竹林、左手本堂の前の木は紫木蓮、春には紫大根の花が一面に咲きます)
 
竹は地下茎で繫がっています。
だから、数十本の竹が実は同じ体なのです。
春になれば、体の生命力を集中して筍を芽生えさせます。
筍は1日に30センチも伸ばします。
全栄養を新しい命に集中します。
ですから、既存の竹は葉を落とします。
春は「竹の秋」と呼ばれます。
秋になれば、筍も大人並の背丈になります。
栄養は竹全体に及びます。
従って最も美しくなります。従って秋が「竹の春」になる訳です。
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でも、それだけではありません。
これから厳しい冬です。
雪が降り積もります。
竹は強靭な力を蓄えて、雪を撥ね退けなくてはなりません。
ですから、体は堅固にならなくてはなりません。
この季節に竹を伐採します。
竹細工は冬の竹を使います。
竹箒も竹垣も冬竹を使います。
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                                  (紅葉の盛りはもう5日ほど後でしょう)
 
11月、今年の防災訓練でも挨拶しました。
「直下型大地震の起きる確率は今後30年間で80%、予測されています」
統計上は凡そ、120年周期で地震がおきるのだそうです。
通常竹には花が咲きません。
でも、イネ科の植物ですから、花が咲き、種がなります。
120年周期で。
種族を残そうと全生命力を種に注ぎます。
結果、竹は枯れてしまいます。
地下茎で繫がっていますから、通常竹林全体が一気に枯れてしまいます。
不気味な光景が現出します。
 
竹に黄金ならぬ種が実ります。
ネズミが大発生します。
翌年、鼠害が発生、飢饉になると言われています。
従って「竹の花」は不吉な予兆として嫌われます。
 
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   (竹林は気をつけて歩かないと女郎蜘蛛の巣を壊してしまいます。腹が倍ほどに膨らんだら出卵して親は死   んでしまいます。もう直ぐです)
 
ご住職はもう竹を伐採されていました。
この竹を使って、境内をもう一段整備される予定なのでしょう。
根元に椎茸を栽培されています。
厚い傘が充実して、美味しそうな椎茸が出来ていました。
私の父も椎茸栽培が大好きで、
境内の椎の木や裏山のクヌギや栗の木の枝を伐採しては、椎茸を植えていました。
収穫した椎茸を焼きながら、ビールを飲んで、楽しんでいました。
 
住職にお声をかけます。
「ご立派な椎茸ができましたね!」
住職は笑いながら応えられます。
「今年はね、秋が遅かったからでしょう。今頃になって椎茸が出てきましてね・・・・・・」
屹度、住職は私の父がしていたように、晩酌のお供に椎茸を頂戴するのでしょう。
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                                 (竹林で今年も収穫された椎茸)
 
私も父と同じ年頃になりました。
キノコも冬野菜も栽培できずに過ごしています。
でも、季節を本当に楽しむのならば少しばかりの菜園をするのが良いのですが。
それも出来ずに、思い出に、目で追いながら、季節を楽しみます。
 
  ひとむらの 竹の春なる 山家かな  (虚子)
 
 
 
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鎌倉の京風庭園を楽しむ。

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鎌倉五山の第一位建長寺は巨福呂坂の背にあります。
坂の踊り場に分岐があって、右折すると亀ヶ谷切通しに繫がります。
その三叉路の高台に長寿寺にあります。
毎年、春と秋、お庭の綺麗な季節に特別拝観するのが慣習になっているようです。
週末、石段下に「今日は特別拝観してますよ!拝観したかったらどうぞ!」
看板が立ちます。
沢山の人が長寿寺に登ります。
 
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   (奈良柳生から移築された観音堂、扉に飛天が描かれています。お堂の左右に老梅、百日紅)
 
「首都圏に居ながら、京風のお庭が見られる」
それが特徴でしょう。
私が小学生の頃は、全くの荒れ寺でした。
境内には茅葺のお堂があって、草叢が茂って、梅林が広がっていました。
寺の後背地の山が広いこと、二つの切通しに面していることから、由緒ある寺だろうと思っていました。
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                        (観音堂裏にはイロハ紅葉が植栽されました)
 
このお寺の由緒や現住職が建長寺ではなく、京都妙心寺から派遣された事など、今春に既述しました。
毎年、京都のお庭に触れたいな・・・・・思うと長寿寺を拝観します。
4年前、最初に訪れた際には、
「何故、鎌倉で京都の庭師が仕事をしなくてはいけないのか?」
気になったものでした。
鎌倉のお庭は瑞泉寺も建長寺も円覚寺も、座して庭をジッと見詰めて、禅機をうかがう様なお庭です。
質素、簡素であり、宇宙観を示すようなお庭が多いものです。
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    (手前は梅林、昔は境内全面が梅林だったように記憶しています)
 
鎌倉では稀な杉苔を全面に貼って、敷き石を回して、イロハ紅葉を植栽して、
緑苔に散った紅葉も楽しむ・・・・・・・、
梅林も整理して、大半は生垣の向こうに隠して、梢の花だけを愛でる様にしました。
本堂前の庭園から裏に廻って、方丈庭園に廻って、お庭を楽しむように設計しました。
方丈庭園から西を向けば、深山幽谷の風情があって、その奥には鳳来山があるようです。
逆に東を向けば、枯山水の向こうに書院が建っていて、
その甍の彼方には建長寺の裏山が借景になっています。
 
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                      (書院の前が枯山水庭園、向こうの小山は建長寺裏に続きます)
 
細部から全体に、全体から細部に、良く設計されたお庭です。
 
鎌倉で紅葉と言えば大半が「山紅葉」です。
紅葉の名勝「瑞泉寺」も略全山が山紅葉でしょう。
山紅葉は大樹になります。
梢の先が紅葉しても、大半が緑のままです。
真っ赤に染まる事は滅多にありません。
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            (書院前の大きな刈り込み、その向こうは深山幽谷、更に鳳来山に続く・・・)
 
一方、いろは紅葉は木全体が真っ赤に染まります。
見た目が華美で、鮮やかです。
庭木として種種改良も重ねられました。
鎌倉宮など限られた処に植栽されていますが、巨木には育ちません。
桜の染井吉野と同じように、紅葉のイロハも早く枯れてしまいます。
栽培種には大事な「生命力」に欠陥があります。
 
こう書けば、鎌倉に相応しいのは古来の山紅葉です。
謡曲「六浦」は青い楓の精のお話です。(金沢文庫称名寺)
勿論、青いままの楓は山紅葉でしかありません。
 
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でも、鎌倉の中にあって、京風の庭園も良いものです。
毎年拝観するにつれて馴染んできました。
もう1週間で見納めです。
週末(金・土・日)にお出かけ下さい。
 
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     (手前観音堂)
 
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半増坊道、石段の楽しみ

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建長寺門前に私学「鎌倉学園」があります。
寺が運営する中高一貫教育の私学です。
学び舎の窓際に曙杉が植えられています。
今、杉は黄金色に輝いています。
落葉松に似ていますが、落葉松より遥かに大きくなり、姿形が美しく雄大です。
男子なら「曙杉」のように育って欲しい!、そんな思いを窺う様な気がします。
 
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                                                  (鎌倉学園の校舎と曙杉)
 
でも、狭いキャンパスです。
グランドは建長寺の仏殿や本堂を通り越して遥か奥、半増坊の道を過ぎて更にその奥、谷戸にあります。
野球部は昔は甲子園にも常連でした。
最近は甲子園まではもう一歩です。
湘南では、湘南高校や鎌倉学園のファンが沢山居ます。
野球部はサッカー部やアメフト部などと仲良く狭いグランドを使っているようです。
 
クラブ活動で「気合を入れる声」が建長寺の境内に木霊します。
 
半増坊道では鎌倉学園の生徒さんとすれ違います。
今時、バンカラな生徒さんに「爽やかな懐かしさ」を感じます。
 
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            (石積みの下が半増坊道です。上は塔頭の天源院)
 
半増道を真っ直ぐ進むと、翌檜(あすなろ)の林にぶつかります。
其処が正統院です。
翌檜の林の奥に「人雷兵士の墓」があります。
人雷とは特攻兵士の事、先の大戦で若くして亡くなった英霊の墓です。
でも、骨は埋まっていません。
英霊の骨は海底の奥深くで・・・、もう消えてしまっている事でしょう。
 
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                          (翌檜の樹下に置かれた母子像、人雷兵士の墓の入り口にあります)
 
正統院の門前が天源院です。
天源院は半増坊道を見下ろす石積みの上にあります。
 
私達はこの石積みを楽しみにしています。
季節を映すキャンバスなのです。
 
春から夏にかけては青葉、若葉が香ります。
半増坊からのやま風が文字通り「青嵐」を吹かせます。
木漏れ日が一双爽やかです。
 
 
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                 (天源院石積みに自生している岩タバコ、梅雨のころ一斉に花をつけます)
 
6月には石積みに自生している「岩タバコ」が一斉に花をつけます。
星形の紫の花弁に、オレンジ色の花芯が可愛いのです。
梅雨の長雨に、花弁は散って、半増坊道を埋めます。
グランドに向う生徒さんたちも目を留めて、落花を踏まないようにしながら、先を急いで行きます。
 
晩秋には、石積みの上には山紅葉が並んでいます。
私達は半増坊道からこの紅葉を見上げます。
紅葉は落葉して道に散り敷かれます。
渓流に漂います。
 
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                     (天源院石積みの下、お地蔵さん。 右側が本堂、方丈庭園があります)
 
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               (岩タバコの葉っぱは上品に枯れて行きます)
 
一昨年Y君は長い癌との闘病記録を残して先に逝ってしまいました。
学生の頃、Y君は戯れに岩タバコの枯葉をクルクルと丸めて、巻きタバコ二しました。
目の前で火をつけて、咽びました。
聞けば、全くタバコの味は無く、牛が食う牧草の臭いしかないそうです。
 
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Y君は「岩タバコ」のような女性が好きだったなあ・・・・・、
女性たちはもう皆良いお婆ちゃんになって、「
孫が美人だ、男に気をつけろ・・・・」
他愛無く喋っているのですが・・・・・。
 
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広重浮世絵「戸塚宿」の最近は・・・・。

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日本橋を朝に発てば、旅人はその日のうちに戸塚宿か藤沢宿に着いた事でしょう。
ですから、大昔から戸塚宿は藤沢宿と競い合う仲にあったようです。
戸塚も藤沢も江ノ島、鎌倉への分岐点でありました。
従って東海道の宿場町であると共に、名勝鎌倉・江ノ島への入り口として賑わったものと思います。
 
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           (広重戸塚宿、橋の手前に道標が建っていて鎌倉道を示している。左の山は大山)
 
安藤広重は東海道53継ぎ「戸塚宿」の風景に、この鎌倉道への分岐点を描きました。
東海道の街道には藁葺きの民家の切妻屋根が続いています。
柏尾川(戸塚宿では大川と呼びました)には橋が架かっています。
当時は「大橋」と呼んでいました。
今は「吉田大橋」と呼んでいます。
 
大橋の江戸見付け寄りの袂には御茶屋がありまし。
幟には「あめや」と書かれています。
「飴や」の意味でしょう、旅に疲れたら甘いものを食べて、また元気を取り戻して、
藤沢宿まで、鎌倉まで頑張ってお出かけ下さい・・・・・・、そんな意味でしょう。
戸塚踏み切りのアンダーパス工事に当って、「あめや」さんは道路用地になって、
先年撤去されてしまいました。
 
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                 (吉田大橋、橋の西側は大踏切の立体化工事進捗中、更地になっています)
 
吉田大橋な広重の浮世絵のイメージを残して建築されています。
街路灯は「ぼんぼり」のデザインで、江戸情緒を留めています。
 
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            (川の中州、水金梅の養殖地、手前では水金梅の自生に成功した。鷺が捕食中)
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     (水草の水金梅、小魚の隠れ家になっています。8月頃開花、)
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吉田大橋の欄干に身をもたれて、川面を覗くと、川の水が澄んでいるのに今更ながら驚きます。
中州に沢山の水鳥が集まっています。
ダイ鷺や青鷺が目立ちます。
水鳥達は中州に集まっています。
中州には水草の「水金梅」が未だ青々と茂っています。
屹度、水金梅の葉陰には沢山の小魚が群れているのでしょう。
 
水鳥達は小魚をハンティングしようと此処に集まって、白鷺はせわしなく歩き回り、
飛び出してくる小魚を長い嘴で咥えます。
五位鷺はジッと静止して、小魚が出てくるのを待っています。
小さなカワセミは鷺達から距離を置いて、川の岸から水面を見詰めています。
それぞれにハンティングのテクニックがあって、見るのも楽しいものがあります。
 
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                                          (青鷺)
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                 (中洲に水鳥が集まるのは野良猫から襲われないので安心だから?)
 
 
堤の桜も紅葉を終えて、枯れ坊主になって来ました。
百舌が梢の先にとまって、キーッ・キーッ、鋭い鳴き声を響かせています。
これから冬、水鳥は一層増えてゆく事でしょう。
今週末にはバードウォッチンググループの「柏尾川野鳥見学会」が催されます。
12月からは柏尾川水際を安全安心にジョギングも出来るように、工事が始まります。
カワセミの会も、菜の花の種を堤防に撒く事でしょう。
東戸塚、戸塚小学校生徒さんの堤防ゴミ拾いも予定されています。
皆、来春の「桜祭り」に照準を合わせています。
様々な人の善意で、柏尾川も綺麗になって、市民の注目を集めるようになってきました。
 
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                   (マンションの間を流れる柏尾川。桜堤防は戸塚の名物でした)
 
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                                     (縄張り争いに飛び立つカワセミ)
 
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”ムベなるかな”垣根の美男蔓

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三沢ホームのCMに流れています。
「バッハが12音階を決めた頃、日本は『間』の文化を築いていました」
”間”は音楽に限らず、絵画では霞や雲の空間処理として、
短歌や俳句でも余韻として重要な役割を果たしているようです。
勿論建築でも、庇や障子、簾、窓や暖簾など、間は随所に見られます。
 
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                  (庭と道の”間”の処理、として使われた四つ目垣/円覚寺黄梅院で)
 
公と私を区切る所、間にあるのが生垣でしょう。
そして、最も親しい垣根が「四つ目垣」です。
四つ目垣とは、真竹を切って、縦・横クロスに組んだ垣根です。
一尺四方の垣の目が四つずつ並ぶので、屹度四つ目垣と呼ばれるのでしょう。
最も単純で、安価に出来ます。
そして、何よりも季節を映し出すキャンパスとして優れているのが四つ目垣です。
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                 (山茶花の咲いた垣根は童謡落ち葉焚きの舞台/円覚寺寿徳庵で)
 
今の季節は童謡「落ち葉焚き」です。
  垣根の垣根の 曲がり角
  たき火だたき火だ 落葉たき
垣根に植わっていたのは「山茶花」でした。
 
夏には真っ白な卯の花が咲いていました。
  卯の花の、匂う垣根に
  時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて
  忍音もらす、夏は来ぬ
春にはカラタチの花が咲いていました。
  からたちの花が咲いたよ。
  白い白い花が咲いたよ。

どの垣根も竹で編んだ垣根でした。
 
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             (早朝の縁切り寺、正面が円覚寺弁天堂、垣根は石畳の右手、茶室前にあります)
 
北鎌倉縁切り寺に、楽しみにしている垣根があります。
参道とお茶室の”間”を処理している垣根です。
垣根の手前には老梅が並んでいます。
人達の目は梅や紫陽花に注がれます。
その足許にひっそりと四つ目の垣根があります。
垣根にムベが絡んでいます。
ムベは香り高い花が咲きます。
そして、晩秋に見事な赤紫の実をつけます。
アケビの実に似ていますが、割れません。
俵のような形をしています。
近江長命寺で赤紫の実を
「ムベなるかな」と誉めあげたのが天智天皇。
以来この蔓は「ムベ」と呼ばれ、馥郁の「郁」の字が当てられました。
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(天智天皇が長命寺近くの老夫婦に「何故長寿なのか?」尋ねた所、「この実を食べてますから」と差し出しました。天皇は「ムベなるかな!」と祝われましたので、ムベと名付けられた、いわれているそうです)
 
 
縁切り寺の正面に円覚寺があります。
境内には数多くの塔頭があります。
塔頭とは円覚寺の貫主さんが引退して、悠々自適に過ごす寺院です。
公が大寺(円覚寺)であり、私が隠居住まいでしょう。
四つ目垣が其処彼処にあります。
 
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    (円覚寺寿徳庵の庭に佇む墓標仏、主人は智性童女、元文5年の夏に逝ったと記されています。無縁にな    った少女を哀れんでお庭に祀ったのでしょう)
 
山茶花の上には山紅葉が見事に染まっています。
四つ目垣の間からは石のお地蔵さんが覗いて見えます。
円覚寺の最も置くに黄梅院があります。
四つ目垣はお茶の木が植えられています。
そして、観音堂に続く道に設えられた垣根には、サネカズラが絡んでいます。
 
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    (サネカズラ/別名美男蔓、の絡んだ垣根、円覚寺黄梅院で)
 
 
今の季節、実蔓(サネカズラ)は真っ赤な実をつけます。
和菓子の「鹿の子」と同じ姿ですが、朱色が見事です。
私が屈んでサネカズラの実にレンズを向けていると、お若い二人が尋ねてきます。
「綺麗な実ですね・・・・!何というのですか?」
私は応えました。
「サネカズラですよ。百人一首で詠われている」
   名にし負はば 逢坂山の さねかづら  人に知られで くるよしもがな
別名が美男蔓、歌舞伎俳優が鬢油にに使ったと言う」
 
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好青年がすかさず言いました。
「では、海老蔵も使っているのかな?」
 
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                                        (黄梅院、垣根の奥の木彫仏)
 
黄梅院のどなたか知りませんが、円空風の木彫をしておいでです。
昔から千手観音が置かれていました。
今日はそのお隣にお地蔵様が置かれています。
多分、松の丸太を刻んだのでしょう。
その左手の脇にキノコが生えだしました。
キノコの名は「霊芝/レイシ」と言われる「サルノコシカケ」です。
猿の腰掛が丁度お盆のような形になっています。
お盆の上に誰かがサネカズラをチョコンと置きました。
 
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海老蔵が歌舞伎の明日を背負ってくれるように、祈っているのでしょうか?
幸も不幸も芸の肥やしにして、名人に育ってくれる事でしょう。
 
今日は「四つ目垣」を書こうか・・・・・!
漫然と書き進めましたら、海老蔵のエールになってしまいました。
歌舞伎に目が無かった故義母が言っていることでしょう。
「今日のブログ、落ちが良かったよ」・・・・・・と。
 
 
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鎌倉「路草展」のエスプリ

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「鎌倉芸術館」の中庭には竹林があります。
竹林の中に小道が通っています。
道筋には灯篭が建っていて、その根元を石蕗(つわぶき)が隠しています。
四方、どちらから眺めても、竹林の小道を散策しているような気持ちにさせてくれます。
私達は展覧会を見て、腰掛けて前面の竹林に目を癒す事が出来ます。
此処は松竹撮影所のあった場所です。
様々な記憶も宿しています。
良く出来た庭です。(デザイン/石本建築設計事務所)
 
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(鎌倉芸術館の中庭、四方をガラスに囲まれて、何処から眺めても小道を歩いているように、設計されています)
 
 
竹林を眺めていると数人のお客さんが展示会場に入って行きます。
掲示には「路草展」と案内されています。
鎌倉中央公園を拠点に小盆栽を楽しんでいるグループがあります。
春は中央公園の展示室で、秋は鎌倉芸術館で展示会をしているのです。
 
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                   (鎌倉路草展、藪柑子の赤い実、別名十両。器とのバランスが妙)
 
 
私は早速ご夫人の後を追って会場に入ります。
「写真撮っていいですか?」訊ねれば
「どうぞ、どうぞお好きなままに・・・・・」とのこと。
照明が電球であるため、黄ばんで写ってしまいます。
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       (来年はウサギで、紅葉の盆栽と雛が楽しくて・・・・・・)
 
盆栽といえば親爺やご隠居の道楽、と思いきや・・・・・、
このグループは少し違うようです。
鎌倉婦人に企業を退職した親爺が同数程度参加している模様です。
作品も昔風の盆栽はありません。
小品ばかりです。
でも、キラッとエスプリが煌めいています。
路傍に咲いた山野草、
その美しさを盆景に移しているのです。
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                                               (大文字草)
 
山野草は花が咲いて最も輝きます。
でも、花が散って、実や種を結んだり、草紅葉に染まって、
根株に生命を宿す季節も美しいものです。
里山の小道を辿っていると、
足元の山野草に気づく事が多々あります。
屈んで、見詰めると、その美しさにハッと驚く事があります。
 
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  (3りんの花と5枚の葉っぱがデザインされている笹竜胆紋)
鎌倉のマークは「笹竜胆」、
屹度源氏の頭領の家紋が笹竜胆であったので、そうしたのでしょう。
何故、清和源氏が笹竜胆にしたのか・・・・・?
それが問題です。
 
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         (こんな冬枯れの中、気高く咲く竜胆をデザインして「笹竜胆」になったと思います)
 
 
清少納言はこの疑問を喝破してくれます。
枕草子に
  「竜胆は枝さし難しなれども、こと花皆霜枯れ果てたるに
      いと花やかなる色合いにして、さし出でたる、いとおかし」
 
霜が降りて草木は枯れてしまったのに、竜胆だけは艶やかに咲いている、そんな竜胆の花を見つけると、大変に興趣を覚える・・・・。
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竜胆の美しさを霜枯れの中に見出して、「竜胆のように美しく逞しくありたい」
願って笹竜胆を紋所にしたのでしょう。
 
そう思うと、「鎌倉路草会」はいかにも鎌倉らしい・・・・・、思うのです。
 
暫く楽しませていただきました。
            (当展示会は11月末の土日で終了してしまいました)
 
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  (ろうや柿)
 
 
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一面黄色い絨毯で・・・・(三渓園春草廬のおもてなし)

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昨夜(12月3日)来の荒天は、紅葉泣かせでありました。
でも、9時過ぎには嘘のような青空が見えて、
早速に散紅葉を見ようと、本牧の三渓園に出かけました。
 
 
外苑の大池にはもう冬の渡り鳥が群れて、ランドマークの三重塔周りの桜は散って、
冬の装いに変ろうとしています。
今日のお目当てはお茶室です。内苑に廻ります。
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            (内苑中央は臨春閣、奥が聴秋閣、その左を辿ると春草廬があります)
 
 
桂離宮を思わせる「臨春閣」
その奥に「聴秋閣」、その東に春草廬が並びます。
山襞や渓流が秋と春のお茶室を分けて、
露地が数々のお茶室を繋いでいます。
 
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   (聴秋閣、二層が仏間。山紅葉は後1週間で最高に染まるでしょう)
 
臨春閣も春草廬も、元は京都宇治の三室戸寺にあったもの。
臨春閣は豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構と云われていました。
最近は紀州徳川家の別荘 巌出御殿(いわでごてん)ではないかと言う説が有力なようです。
いずれにしても、権力者によって建てられ、金満家の手を辿りました。
 
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 (春草廬への露地、奥が建物、手前に石棺、石棺の蓋はその左、銀杏に埋もれています)
 
一方春草廬は元禄年間、河村瑞賢が難波の運河を整備するに際し、
建てた休息所でありました。
春草廬の、向って左、三畳半の茶室があります。
これは信長の弟・織田有楽斉(1547~1621)が建てたものと伝えられます。
河村瑞賢の休息所には当代最高の茶人、織田有楽斉のお茶室が必要だったのでしょう。
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 (正面が織田有楽斉の3畳半の茶室、飛び石の先に躙口。右は水屋、三渓園HPから)
 
役を終ると春草廬は三室戸寺に移ります。
織田有楽斉の小間茶室に八畳の書院風の草庵を併設、併せて使える様にしたのでしょう。
寺の奥書院に普請し、ご夫人用のお茶室として使用されていたのではないでしょうか?
 
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   (飛び石の左、大きな石が東大寺の礎石/柱を乗せた石。建物の右が書院風、左に茶室)
 
原三渓翁は大正7年(1918)年、三室戸寺から両物件を譲り受けます。
臨春閣は内苑の池に接して建てられます。
水面に映る月、三重塔に懸る月、
意識の底には桂離宮があったと思われます。
臨春閣の背後には矢張り三室戸寺から「月華殿」を移築しました。
 
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  (左に大銀杏、昨夜来の風雨で地面は落葉で覆われました)
 
春草廬の待屋は大きな銀杏の樹下に用意しました。
待屋のベンチからは大きな石が見えます。
飛鳥古墳(?)の石棺です。
夢窓疎石作と言われる蹲が見えます。
庭先には春日灯篭がたっています。
石の造作は何れも謂れがあって、薀蓄を語れそうです。
 
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待屋からお茶室に入ります。
サネカズラの絡んだ竹垣を辿って、木戸に向います。
敷き石を伝って、露地から木戸を押し開きます。
庭に入ると大きな石があります。
石の真ん中が凸状で、柱が乗っかるように出来ています。
東大寺の礎石です。
大仏殿裏に沢山の礎石がありますが、これほど形の良い礎石は知りません。
もしかしたら、七重塔の礎石かもしれない・・・・、
眺めます。
 
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原三渓翁は春草廬の移築に際して、
大和の遺跡を庭に散りばめたのでしょう。
巨石がお茶席とどんな関係にあるのか、
客人が感心するのか、しないのか良く解りません。
 
私達は、本来あった場所に戻してあげたい・・・・とも思ったりします。
東大寺の礎石も可愛そうだ、石棺に葬られた人もお気の毒だ・・・・、
思ったりします。
 
ふと思い出しました。三好達治の詩を。
 
            雪   
  太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 
春草炉の庭では、雪ではなくて、落葉ですが・・・・・。
落ち葉が散り積もって、
様々な変遷と、その悲しさを風化させてくれるのかもしれません。
 
でも、なんだかんだ言いながらも、私達は三渓園を楽しんでいます。
 
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                 (銀杏が散れば陽射しが入って、春草が一時茂ります)
 
 
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「垂乳根の母」は銀杏の乳根(遊行寺にて)

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私の祖母は小さな背丈で、お多福顔の可愛いおばあちゃんでした。
でも、骨太で7人もの子を育てました。
その、長男が私の父でした。
祖母はお風呂から上がると、居間にどっかりと腰掛けて、ヨイショとばかり、垂れた乳を肩にかけます。
私達孫が嫌な顔をすると、
「この乳のお蔭でお前の父も育ったものだ、だから大事な乳なんだ」
言ったものでした。
 
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                        (私の生家の銀杏、この寺に祖母は嫁入り入山した)
 
子供を産む前の乳を「乳房」、子供を育てるときの乳を「おっぱい」、
孫に自分の役割を伝えるのが「垂れ乳」と呼ぶのでしょう。
でも、大昔から「母」の枕詞は「垂乳根(たらちね」でした。
母の有難みは母乳を与えた時の張りのある乳ではなく、役割を終えた(?)垂れ乳にあったようです。
 
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                                  (遊行寺の大銀杏、今日の話題乳根が垂れています)
 
斉藤茂吉は31歳の若さで母を看取ります。
その悲しみを57首の和歌に託して、アララギに発表します。
 
   死に近き母に添寝のしんしんと   遠田のかはず天に聞ゆる
   
   のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて
            足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり
 
挽歌の絶唱と絶賛されます。
茂吉の立ち位置が固まります。
 
広辞苑で調べると、「たらちね」は「足乳根」と「垂乳根」二つの字が当てられています。
充分おっぱいを吸わせた乳を表せば「足」の字が使われ、形を表せば「垂」の字を充てたのでしょう。
でも、どちらも「根」の字が充てられています。
 
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                                                (報国寺の大銀杏)
 
根っこが地上の樹を支えています。
大樹は地下に地上と同じ根を張っているとも言われます。
根っこが栄養や水を吸い上げるので、木は葉を茂らせます。
根っこの重要性は誰もが認めるものでしょう。
 
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                                          (遊行寺大銀杏、後ろが国宝館)
 
でも、「たらちね」を枕詞にする時、頭にあったものは、銀杏の乳であったと思います。
銀杏が樹齢を重ねて、巨木になると、しばしば枝から「乳根ちちね)」が垂れてきます。
私は祖母の大きな垂れた乳を見ると、鶴岡八幡宮の大銀杏の乳根を思い出していました。
 
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        (八幡宮。手前、折れた根っこから芽吹いた芽も黄葉、向こうは幹からも芽生えた大銀杏)
 
銀杏の樹が何故乳根を垂らすのか、解りません。
松の木も、タブの木も樹齢を重ねると瘤を作ります。
どちらも「脂/やに」を蓄えた塊りです。
でも、銀杏の乳根は脂が溜まったものとは思えません。
おっぱいが溜まりすぎて、ホルスタインのおっぱいが垂れたように見えます。
銀杏(いちょう)の実が銀杏(ぎんなん)、「ぎんなん」は生だと白い乳状の液が出ます。
焼くと、翡翠色に変じます。
だから、もしかしたら「ぎんなん」の乳が溜まったのが「乳根」なのかもしれません。
 
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                                   (大風で広い境内を絨毯にした大銀杏)
 
今年は鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れてしいました。
一番が抜けてしまうと、誰が一番にランクアップするのか?
気になります。
 
一番を判定するに必要なポイント、
先ずは樹齢、次いで歴史や秘話、更に樹形、最後はヤッパリ「乳根」でしょう。
乳根が張っていなければ「銀杏の風格」が備わりません。
 
湘南で言えば、私は遊行寺の大銀杏だと思います。
樹齢は700年と言われています。解説板には幹周り6.8m、樹高16m、(環境省)と書かれていますが、
幹周りは7.1m、樹高は21mだそうです。
環境が良いので、年々成長しているのです。
 
地上6m程度の位置で中心幹が無くなっています。
解説板には昭和57年の台風で芯木が折れてしまったのだそうです。
一昨日、鎌倉では竜巻が吹いたそうですが、そんな風で折れたのでしょう。
芯が折れたので、脇木が一斉に芽吹いた、その結果現在のような丸い樹形が出来たのでしょう。
「日立」のコマーシャル「この木何の木、不思議な木・・・・・」
にピッタリの樹形になりました。
 
遊行寺は時宗の総本山です。
様々な秘話が伝えられています。
また、東海道藤沢宿に位置するため、古来から貴人の宿泊所となりました。
明治維新東征軍の大総督・有栖川宮も、又明治元年の明治天皇東幸の際も、御座所となりました。
 
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                                         (此方は五大明王寺の大銀杏)
 
 
ところで、今日のテーマ「垂乳根」です。
乳根も立派に垂れています。
でも、この銀杏は男です。
従って「ぎんなん」は実りません。
 
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                   (鎌倉荏柄天神社の大銀杏、此方は雌なので銀杏が実ります)
 
朝晩は高校生が樹下を登校して行きます。
市民に親しまれている大樹です。
樹下のベンチに座って、瞑想すれば、お釈迦様の気持ちになれそうな気もします。
日立に言いたいと思います。
樹下に新しいベンチを寄付しなさい。
そして、
「この木何の木、銀杏の木・・・・・」
「ガイド バイ ヒタチエレクトロニクス・・・・」  書きなさい。
 
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                      (正面中雀門、有栖川東征軍総督も明治天皇も門の奥で休まれた)
   
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あの世に行っても酒は止められない。(酒樽墓標)

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先日案内した安藤広重の戸塚宿の浮世絵には、大橋の袂に「左鎌倉」の道標が建っています。
江戸から下って、此処を左折して鎌倉道に入ります。
今も道筋には「真っ直ぐ進めば鎌倉、後退すれば弘明寺」、数基の道標を見ることが出来ます。
 
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                              (鎌倉道、笠間で左折すると今泉に抜ける)
 
笠間の十字路を越すと、今泉不動尊への分岐があります。
その先、白山神社の参道に狂歌の歌碑が建っています。
狂歌師「天廣丸」(あめのひろまろ)(1756~1828)は今泉に生まれました。
 
 くむ酒は 是風流の 眼なり
         月を見るにも 花を見るにも 
 
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         (白山神社の参道入り口にある天廣丸の狂歌碑)
 
江戸時代も半ばに入ると、生活を楽しむ人が多くなったのでしょう。
天廣丸は大変な酒好きだったそうでした。
外出する時には徳利を離さず、羽織には徳利の紋をつけ、粋に出かけたそうです。
そんな姿が江戸庶民の愛されたのでしょう。
ライフワーク「狂歌酒百首」を発刊します。
その冒頭の歌が前記です。
 
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                         (下部にあるのが天廣丸の徳利紋)
 
「酒は百薬の長」とも言われます。
廣丸は長寿を全うします。
いよいよ辞世、辞世の句は墨田区の白髭神社に刻まれています。
 
   心あらば 手向けてくれよ酒と水
             銭のある人 銭のない人
 
お墓参りでは、清めの水をかけて下さるのは嬉しいが、ひとつ「酒も頼みますよ」
そんな言葉を辞世にしました。
酒好きの面目躍如、粋な辞世でありましょう。
 
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    (天廣丸歌碑の奥にある庚申塔、”私は酒に目が無い” 寛文12年-1671-銘、碑面に阿弥陀三尊字、三猿     の浮き彫りが秀逸です)
 
廣丸は昨今有名ですから、上記はご存知の方も多いと思います。
でも、誰も知らない、更にも一段上の「酒好き」が私の住む倉田村に居ました。
            (多分初公開だと思います。戸塚元町の鈴木家に行けば詳細がわかるかもしれません)
 
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(倉田の字を冠した蔵田寺は文化の中心、今年老住職水谷夫妻が相次いで亡くなられました。12月14日寺院葬とうかがっています。私とは隣同士でお世話になりました。合掌)
 
 
浄土宗「蔵田寺」は鎌倉道では大長寺に次ぐ大寺です。
倉田に住む人の菩提寺として親しまれていました。
 
一方戸塚宿では「伊勢屋」が力を持っていました。
主人は「鈴木富永」、富永はインテリでもあり蔵田寺に人を集めては「歌会」を催し、助郷役を協議したり、
力を発揮していたようです。
富永の墓石には江戸歌人の代表「橘千陰」の文が刻まれています。
 
ところで、富永の墓標の傍に、奇妙な石造品があります。
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              (蔵田寺の最奥部、墓地全体を見渡す位置に上記があります)
 
形は明らかに酒樽です。
まだ縄が結んであります。
樽の表面には「慈聠」と刻まれています。
まるで伊勢屋が商っていた酒のブランドのようです。
 
そして、酒樽の裏面を覗くと、ようやくこれが「墓標」だ、と解ります。
名前は鈴木聠蔵、富永の孫に当ります。
 (の字はあて字、耳が扁で作りが円と思われる。字源で調べたが該当が無った)
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(戒名は「慈聠信士」信士の字はレッテルのようにデザインされている)
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(俗称聠蔵、行年46歳と刻まれている)
 
「鈴木聠蔵」は先の「天廣丸」よりも少しだけ前の時代に生きた人物です。
元禄を過ぎると町人文化は此処鎌倉の郡部にまで広まっていました。
生活を楽しむ、限りある時間を可能な限りエンジョイしよう、そんな気風に満ちたのでしょう。
 
現在も何処の墓地でも必ずワンカップの清酒や缶ビールが供えられています。
「癌や腎臓病で好きなお酒を飲ませてあげられなかった・・・・・」
ご家族の思いが、お酒を線香や生花に添えさせたのでしょう。
「お父さん、好きだったお酒、飲ませられなくてご免ね、お持ちしましたからね・・・・・」
 
現代に較べれば、江戸時代半ばは、
「お酒を頼んだよ・・・・」辞世を述べ、
酒樽を墓標にする・・・・・、
遥かに逞しく、粋に人生をエンジョイしていたと思います。
 
どうせ、早晩人生はジ・エンドを迎えます。
延命治療を施し、未練たらしく人生を終えるのは格好が悪いといえましょう。
 
我が故郷の先達の生き様が魅力的であります。
 
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    (横浜最古の庚申塔が蔵田寺では大事に祀られています。他にも地誌として興味ある財が沢山あます)
 
 
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700歳銀杏、世代交代の荘厳さ

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この秋、銀杏について何度か書いてきましたが、最後は大船常楽寺本堂前の銀杏の木を紹介します。
遠くからも良く見える銀杏の木です。
クリスマスツリーのように、スックと立っています。
葉っぱが茂っている時は一本の木の見えますが、
落葉してくるとこれが複数の木の集合体である事が解ります。
背丈15メートル、幹周り60cmくらいの木が10本余り、更に細い分け木を加えれば50本程度はあるでしょうか。
沢山の孫木が背丈を競って真っ直ぐ伸びています。
その結果、一本の銀杏のように見えるのです。
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 (常楽寺の銀杏、真ん中に枯れてしまった親木があって、孫木が集まって一本の木のように見えます)
 
銀杏の群生の前に石板が立っていて、説明が記されています。
 「開山禅師手植えの銀杏樹で、大正六年秋、大風のため傾斜、 同年十二月の大震災で更に傾斜支柱を施す が年々傾斜の度を増す、昭和13年8月30日夜半暴風雨により全く倒尽す。・・・・・・・」
常楽寺は鎌倉幕府三代執権・北条泰時が夫人の母の供養の為、
嘉禎三年(1237年)建立した粟船御堂が始まりと言われています。
また、一般には建長寺の開基「蘭渓道隆」が開山とも言われます。
そんな偉いお坊さんが植えたのがこの銀杏だったのでしょう。
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                             (右が銀杏、奥が本堂、裏山に木曽義高の墓があります)
 
銀杏は黄葉が見事で、目立つ樹木です。
でも、奈良時代、平安時代の記録には出て来ません。
お茶の木と同じく、鎌倉時代に宋から伝わったといわれます。
常楽寺の建立に際し、「珍しい木、銀杏の実る木、仏前を飾るに相応しい木」として植えられたのでしょう。
 
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                                        (常楽寺の銀杏は葉っぱの形も良い)
 
鎌倉鶴岡八幡宮の大銀杏は実朝暗殺に係わる「隠れ銀杏」として有名です。
源頼朝が政権を握ると、清和源氏の氏神であった八幡神は武家統合の象徴となります。
八幡宮を鎌倉の真ん中、京都なら内裏の位置に造営しました。
各地の御家人は挙って鶴岡八幡を勧請するようになります。
八幡宮を飾る位置に銀杏を植樹したのでしょう。
公暁が隠れた時は銀杏の樹齢は50歳、隠れるに充分な太さがあったか・・・一寸疑問ではありますが。
 
今年の3月、「もう春だ」・・・華やいだ気分になった頃、突然に北風が吹きました。
氷雨が雪混じりになって、鶴岡八幡宮の大銀杏に雪が付着、次々に固まりました。
山風が竜巻のようになったのでしょう。
大銀杏は根元から倒れました。
南の舞殿横の広場に倒れてしまいました。
私達は驚いて、現場を見に出かけました。
そして、驚きました。
大銀杏は幹こそ立派でしたが、根っこが腐っていたのでした。
樹を大切にするには根っこを見守らなければならない・・・・思い知らされました。
 
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                (今年3月、根元から倒れた大銀杏、改めて根腐れていた事を知りました)
 
でも、大銀杏は生き返りつつあります。
残された根っこからは無数の芽が吹き、幹を地上に埋めたところ、其処からも若木が生えました。
私達は銀杏の生命力に驚愕し、喝采しました。
大銀杏は言っていることでしょう。
「わしら、銀杏は生きた化石、簡単には死なないもんだ。
東京大空襲、関東大震災、焼け野原になっても、わし等は燃えなんだ。
忘れたか、人間らよ・・・・・」
 
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(黄葉し始めた銀杏、石段の左に根っこ、その左に幹、何れからも新芽が出ています。何れ常楽寺のように孫木が茂り、親木は枯れるでしょう)
 
常楽寺の大銀杏、若木の真ん中に700年を生きた老樹の姿が残っています。
老樹は命を若芽に託して自らは枯れてしまいました。
枯れた樹は柔い樹皮を剥いで、木部を削いで、堅い芯を残しています。
芯樹は骨だけになって、オブジェのようです。
 
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(常楽寺大銀杏の親木は枯れて、皮や肉が削がれて骨だけになっています。周囲には孫木が背丈を競って伸びています)
 
八幡宮の銀杏も今必死に世代を交代させようとしています。
いずれ、常楽寺のように孫樹が育って、一つの「秘話」を完結させるのでしょう。
 
自然界のルールは「世代交代」を成し遂げる事です。
昨今の政治経済を見ていると、人間だけが「自己世代」に執着して、
世代交代を忘れているように思えてなりません。
 
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   (死んで、オブジェになった常楽寺銀杏)
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               (此方は同じ蘭渓道隆お手植えの槙/建長寺)
 
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東慶寺旧仏殿の惨状を嘆く(海老蔵めげるな!)

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昨晩10時のニュースは海老蔵さんの記者会見ニュースで持ちきりでした。
それだけ国民的関心が高いニュースなのでしょう。
でも、一般人なら「盛り場で暴力団のリンチを受けて全治○ヶ月の重傷を負いました」
ニュースにもならない出来事でしょう。
それが、民報もNHKもこぞってトップニュースとして長々報道していました。
 
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 (今日の写真は北鎌倉東慶寺の仏殿、左建物は書院、その左に昭和10年建立された仏殿があります)
 
ニュース報道の基本は「客観・公正・公平」でありましょう。
どこかに欠けていれば、報道とは言えません。
ところが、民放各局とも「海老蔵の発言と、居合わせた人の発言」を比較して、
「海老蔵は真実を言っていないかもしれない・・・」として、
今後の「海老蔵バッシング」を予告していました。
せめて、奥様の居た日本TVは、HNKは、違った報道をしているだろう・・・・、チャンネルを回しましたが、
「海老蔵は謝罪をして、暴力を振るっていない」、と発言しました・・・・。事実の報道していました。
更に、海老蔵は「自分は人間国宝になる男だ!」と自分をうそぶいて居る・・・・、「おごり」を非難しています。
海老蔵さんを擁護する筈の松竹も「無期限自粛」を発表しました。
 
暴力団にリンチされ、さらにマスコミの大攻勢を受けて、可哀想でなりません。
相手は「暴力団で多数」なのに・・・・・・。
被害者が加害者のように扱われています。
 
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             (東慶寺仏殿の前庭、花は姫蔓蕎麦、年中咲いているが今が最も美しい。)
 
思い出すのは、坂田藤十郎(4代目・人間国宝)です。
昭和30年代から浮気を繰り返し、ようやく扇千景と結婚、でも浮気に悪びれる事はありませんでした。
2002年には舞妓さんとホテルで密会、写真週刊誌に自身の陰部を露出させた写真が報道されました。
「人間国宝は下半身に締りが無くても・・・いいもんか!」思いましたが、
夫人の扇千景は「彼は女性が居ないとダメですから・・・、それに女性にもてない夫など・・・つまらない」
と擁護しました。
夫人の度量の大きさにマスコミの関心が移り、藤十郎報道は止みました。
 
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   (東慶寺の旧仏殿、三渓園に移築。この12月に公開中)
 
歌舞伎ファンは、昨晩の海老蔵さんの姿を見て、
「お顔は綺麗だし、目もしっかりしている」 安堵しました。
そして、「無期限自粛」に「何故?」疑問に思い、がっかりしました。
 
歌舞伎は京劇・歌劇に並ぶ日本の演劇文化でありましょう。
海老蔵さんはその屋台骨を負う人物である事に間違いありません。
歌舞伎を愛する人は海老蔵に期待していますし、愛しています。
マスコミには歌舞伎に理解が無いのでしょうか?
藤十郎は叩かないで居て、何故海老蔵をバッシングするのか、私には不思議でなりません。
 
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         (唐様建築の円覚寺舎利殿は今年修復されました)
 
歌舞伎は「かぶく」から始まった芸能、「ふざけて・異常で・放埓」なのは致し方ない・・・・ものでしょう。
常識的でお利口では「華」がありません。
「歌舞伎馬鹿」でなければ、文化を継承し、時代に即して発展はさせられません。
全教科百点のお利口さんの芸など魅力が無いに決まっています。
 
私達は歌舞伎の看板を背負うスターを求めています。
マスコミは「公正に公平に事実に偏見を持ち込まず」、
そして「長い目で海老蔵さんを育てる」眼で見て欲しいものです。
先ず司直の判断を待って、事実を確認し、相手方の言い分を確認して、から「客観・公正・公平」な報道に徹すべきです。
世間の耳目を集められる、視聴率が稼げそうだ・・・・、
そんなことから「面白・おかしく」報道したのでは、海老蔵さんが気の毒だし、歌舞伎文化が萎縮してしまいます。
 
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                  (東慶寺仏殿の内部、壁に筋かいが無造作に打ちつけられて、痛々しい)
 
ところで、今日の写真は三渓園にある「東慶寺仏殿」を載せています。
 
大坂夏の陣(1615年)で、家康は豊臣家を滅亡させます。
家康は当時7歳であった千姫の養女(秀頼の子)の処置に腐心します。
結果、剃髪させ天秀尼とし、東慶寺に入山させます。
天秀尼は「東慶寺開山以来の縁切り寺法」を存続させる事に成功します。
寛永11年(1634年)仏殿が再建されます。
それが、東慶寺の旧仏殿です。
 
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    (唯一の造作、須弥壇。鎌倉彫の歴史を知る上で重要)
 
しかし、明治維新になり縁切寺法も廃止され、寺も存続の危機に遭遇します。
屹度その為でしょうか?
東慶寺仏殿、山門などが売られます。
結果、原三渓に買われ、三渓園に落ち着きます。
でも園内ではポツンと展示されているだけです。
江戸時代300年間、祀られてきたご本尊も、諸仏も、読経の響きもありません。
加えて、安普請の「倒壊対策」が施されたままです。
 
 
そんな東慶寺も先の大戦で空襲を受けます。
そして、建物自体が傾いたそうです。
仏殿が倒壊しないよう、壁には”かすがい”を打ちました。
壁には縦横、×の字のかすがいが目立ちました。
また、唐様、禅宗様の建物です。
柱は粽(ちまき)状の円柱でなくてはなりません。
補強には角柱を立てました。
円柱の間に、無粋な角柱が5本程度混入してしまいました。
 
勿論、重要文化財です。
でも、こんなに惨めな重要文化財は珍しい存在です。
本来あるべき東慶寺には、昭和10年(1935年)和風、流麗な本堂が建っていました。
ですから、もう戻る事もできません。
でも、せめて、建立された当初の姿に戻してあげるべきです。
負傷したところに絆創膏を貼ったままの状態で放置する事は、文化国家とは言えません。
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             (粽状の柱の間に角柱が嵌められ補強されています)
 
今年、同じ唐様の建築物、円覚寺舎利殿(国宝)は修理を終えました。
傷んだままの東慶寺仏殿が放置されたままである事は、
痛々しく思うと同時に日本の文化の底が浅い事を痛感します。
傷ついた海老蔵さんを思い起こします。
 
歌舞伎は次々に看板スターを育てなければ、大相撲のようになってしまいます。
建築文化財は、当初の姿を保って、維持修理に心がけなくては存続しません。
仏像だって建築だって、修理する中で作り方を知り、美しさを再認識し、新しい建築に活かせるものです。
後世、平成時代失われた20年は、経済社会だけではなく、文化も喪失した・・・・・非難されるようで心配です。
 
マスコミには海老蔵報道を「歌舞伎馬鹿」として、暖かく長い眼で見て欲しいものです。
 
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  (三渓園、東慶寺旧仏殿前の渓流は夏に蛍、秋に落ち葉が見事です)
 
 
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「男の顔は履歴書」/伊藤博文なら適切だが・・・・・

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伊藤博文の野島別邸(金沢八景)が修築公開されて、今年は2年目になります。
昨年も紅葉の季節に訪れました。
先ず、川合玉堂の別邸を見学して、次に金沢文庫称名寺、最後が野島伊藤博文別邸の順です。
風光明媚で、歴史や文化財に富んだ、良いコースです。
 
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 (伊藤博文の野島別邸、故郷の萩を思わす漁村風景が選ばれたのでしょう。当初は2棟だけでしたが、継ぎ足   しして5棟の茅葺屋根になりました)
 
昨年はパンフレットも無く、公開に漕ぎ着けた・・・・・そんな雰囲気でしたが、
流石に1年たつと立派なパンフも出来、HPも完成しました。
そして、客間にはテーブルセッティングされ、求めればお茶のサービスも受けられます。(500円)
目線の行かない壁などには伊藤博文の経歴が案内されています。
この別邸は伊藤博文が中心になって作成した「明治憲法」の草稿を練った場所であります。
だから、歴史価値があって、ロマンを掻き立ててくれます。
 
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  (客室、座卓にセットされていました。お客の背に金屏風がありました。公開1年してソフトも充実してきました)
 
折りしも、先日「龍馬伝」の最終会が放送され、続いて「坂の上の雲」が予告されています。
松下村塾に集まった英才の面々の写真が展示されています。
流石に高杉晋作は時代を創る才気に溢れた面相です。木戸孝允も然りです。
中央にドカッと座っています。
で、此処の主人伊藤博文は・・・・探すと、どう贔屓目に見てもぼんくらの風貌です。
いつも端っこにいますし、小太りで、田舎侍で、才気を感じません。
 
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                     (中央高杉晋作、右伊藤博文、展示から)
 
客間には晩年の写真が飾られています。
1,000円札のお顔より少し太った、若い時の姿のようです。
でも、威厳があって、明治時代を背負ってきた、そんな気概を感じられます。
お隣にはご夫人の写真も架けられています。
夫唱婦随、地で行くような似たお顔立ちです。
梅子夫人は元芸者のお梅、
ポッチャリ美人だったのかもしれませんが、晩年、勲章を沢山懸けた姿は「伊藤博文の妻」に相応しい姿です。
明治元老の妻、そんな座が厳格そうな面相にしたのでしょう。
何処から見ても芸者さんだった、思いもよりません。
お龍さんも龍馬がもう十年生きながらえたら・・・・・、
横須賀くんだりまで流れてゆかなくても・・・良かったのに・・・、
不運を痛感します。
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                                  (伊藤博文夫婦の写真、展示から)
 
家内は私に相槌を求めます。
「伊藤博文て、若い時はイマイチの顔立ちだったのね・・・・・!」
私は思い出しました。大宅壮一の言を・・・・。
    『顔は男の履歴書である』
顔に自信が無い私は、好きになれない箴言であります。
で、本人の大宅壮一の顔は、確認すれば、
いかにもジャーナリストらしく、顎の張った、眼鏡の奥から鋭い眼光を感じます。
「ああ、大宅壮一は自分の顔に自信があったのだ・・・・・」思ったりします。
 
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                 (居間から牡丹園方向を見る。広い縁側に冬日が差し込んで、畳まで・・・・)
 
顔の美醜は生まれつきの面もあります。
一方、履歴書には学歴、職歴を主として家族の事、賞罰の事、様々記します。
 「学歴無し、職業はありきたり、賞罰無し、家族は平々凡々・・・・・」
人生には運・不運がつきものです。
往々にして、努力しても、成果が出ない人もあります。
人生の幕引きの際提出する履歴書があれば・・・、
「以上、総括すれば私の人生は運がありませんでした・・・・」
書きたくなる人が多い事でしょう。
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                          (大宅壮一氏)
でも、顔には、深い皺が刻まれ、眼が澄んで、人生や人格が面に出て居る人が沢山居ます。
リンカーンの箴言もあります。
「男は40歳になれば自分の顔に責任を持たねばならない」
此方の方が抵抗が在りません。
 
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           (瑞泉寺、大宅氏碑文)
 
この箴言は高度成長下の昭和40年、学生ヤクザの大物安藤昇に色紙を渡され、揮毫したものだそうです。
安藤昇の顔相を目の前にして、同人の喜びそうな言を咄嗟に書いたものでしょう。
でも、時の流行語になりました。
 
当時、じゃあ「女の顔は・・・・」
訊ねられて、「女の顔は請求書だ(藤本義一)」「女の顔は領収書だ」など言われました。
請求書はクラブなど水商売の筋から寄せられるもの。
いずれにしても嫌な言葉です。
 
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  (中央が客間棟、左が居間棟、カメラの後ろが海で、八景島シーパラダイスが正面に見えます。野島の南が日産の追浜工場/横須賀で、横浜市は同社Gから譲リ受け、修復工事をしていましたが、昨年から一般公開をはじめ、今年は展示などソフトも充実して来ました。見学無料です)
 
私が頻繁に出かける先に鎌倉瑞泉寺があります。
吉田松陰にも縁故のお寺です。
境内に大宅壮一の碑があって、前述造語が刻まれています。
 
大宅壮一氏は無神論者ではなかったのか!
無宗教を標榜していたのではなかったのか?
思いますが、死後の棲家に瑞泉寺を選ばれました。
「何故ですか?」
訊ねれば、屹度
「君、あの世で一人じゃジャーナリストが成り立たないじゃないか!」
更に、
「仲間と喋ったり、マージャンもやりたいからね・・・・、仲間が多く眠っている瑞泉寺にしたよ」
「じゃあ戒名は?仏教徒になったの?」訊ねれば、
「君、人と話すとき、マージャンの精算をする時、名無しじゃ始まらないじゃないか!」
ジャーナリストとは「人好き」なのでしょう。
 
「男の顔は履歴書である」
私はあんまり好きにになれません。
せめて
「年齢を重ねたら、男は自分の顔に責任を持て」
なら、首を縦に振れるのですが。
 
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   (瑞泉寺の方丈前の紅葉、山門、参道の山紅葉は12月中旬から始まります。)
 
 
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川合玉堂さんの二松庵(明日・臨時公開)

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金沢八景にある玉堂別邸には2007年9月に訪れました。
 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/24903526.html (文化財指定の経緯を書いています)
その時、案内してくれたボランティアガイドさんが、
「此処の紅葉は素晴らしい、12月初めなのでその頃またお越しなさい」 誘ってくれました。
 
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                                          (玉堂別邸の柴門)
 
ところが公開日は毎月第一土曜日だけ、12月は4日と言う事になります。(この秋に限り12月11日も公開)
屹度見学者が集中して、混雑するだろうな?
危惧しながら早朝から出かけました。
 
玉堂さんが此処に訪れたのは大正7年、既に文展審査員であり芸大日本画教授であり、
画壇では最高の位置に居ました。
2000坪の丘陵を買い取り、ご自身の美意識を数奇屋に実現したのでした。
偶々、二本の黒松が聳えていたので「二松庵」と名付けました。
扁額には敬愛する良寛さんの書から「双・松・庵」の字を探して、刻ませました。
 
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                                              (二松庵の玄関口)
 
元々、金沢の地は風光明媚で有名でした。
加えて里山あり、苫屋あり、歴史あり、山の上から眺める金沢八景は屹度画才を刺激したのでしょう。
職場の芸大からは電車で横浜に、其処から舟で六浦港まで1時間、そんな位置関係も適当だったのでしょう。
この画室で画業に勤しんだのだ、昭和11年まで約20年間、奥多摩に転居されました。
真珠湾攻撃は昭和16年でしたから、転居の原因は金沢八景が騒がしくなり、画業に妨げになったのでしょう。
二松庵の裏山にトンネルが掘られて、昭和8年京浜急行が走り抜けるようになりました。
徒歩二分の位置に京急「富浦駅」がオープンしました。
車両の轟音、駅頭の雑踏が流れては集中力を喪失させたのでしょう。
 
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                     (正面が二松庵の居間、この部屋が玉堂さんの画室でした)
 
元々、玉堂さんは山庭に渓流を流させました。
さらに、せせらぎの音にも注文をつけます。
「3色(音)、いや5色にするように」
庭師の大胡隆冶氏に命じていたのでした。
 
今では二本の松も枯れてしまいました。
交通至便になる事は、玉堂さんの画室としては無価値になったのでしょう。
 
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    (二松庵の山庭から茅葺屋根を見上げる。山の中を京浜急行のトンネルが通っています)
 
今では渓流も、池も水は枯れています。
でも、クヌギ林が葉を落として、山楓が染まり始めて、イロハ楓は今が盛りです。
老梅も固い蕾を用意しています。
数奇屋の建物も、灯篭も、どれもこれも玉堂さんが愛でたものでしょう。
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       (茶室)
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                               (茶室の囲炉裏で善哉と楽しむ図)
 
画室(居間)に座れば、落葉するクヌギの葉音が、山風吹き下りて楓の梢を摺らせて・・・・・、
瞑想すれば、画家の創作意欲が頂点に達して、絵筆が進んだことでしょう。
疲れたら、縁側から庭に出て、裏山を逍遙し、茶室に戻って一服、
やおら、画室の唐紙を開いた事でしょう。
 
私達は玉堂さんの面影を探しながら、二松庵を散策します。
でも、この混雑では到底無理な事・・・・・・、
サッと眺めて、山庭を巡って帰らざるを得ません。(建物には入れません)
 
皮肉な事に、玉堂さんの絵手紙が掲示されています。
「友が雪の中、遠方から来てくれた。嬉しいので善哉を食べる事にした。
みんなで囲んで食べる善哉は美味しかった。
時間の経つのは早いもの。雪が降り積もって、松の枝雪の重さに絶え絶えだ。
雪を払ってあげると、枝は”ああ助かった”とばかりに元に戻った」
そんな楽しい一時がしたためてありました。
こんな時間を玉堂さんは愛していたのでしょう。
 
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  (居間兼画室、玉堂さんは広い縁側に出て、自然を観察し、吹く風を楽しみ、海を眺めた事でしょう)
 
二松庵の見頃は先ず紅葉の季節、次いで老梅の咲く2月でしょう。
その季節はせめて月1回ではなく、何度も公開して欲しいものであります。
ボランテイアの方々も、「もっとお見せしたいのだが・・・・・」言っています。
二松庵を訪れる人の多くが伊藤博文の野島別邸を訪れます。
此方は毎日公開しています。
どちらも、横浜市の所有で、横浜市が文化財指定をしています。
 
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    (野島の伊藤博文別邸、客間。庭に出て左、山の方向に玉堂さんの二松庵があります)
 
伊藤博文別邸は横浜市資源循環局が、玉堂さんの二松庵は金沢区役所の区政推進課が管理しています。
担当課が違うから、利用者にすると不便を指摘したくなります。
福祉健康課が音頭をとる等して、
「健康ウォーキング」のコースとして、周遊出来るようにならして欲しいものです。
 
まあ、文句は別として、明日11日は最高の筈です。
大半の紅葉は山楓で、明日頃が見頃でしょう。
加えて、見学者も少ない筈です。
何故なら、臨時公開のニュースは先週往訪した人しか知っていないでしょうから。
お時間が許せば、是非お出かけ下さい。
 
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                       (金沢文庫も近く、文化財散歩には最適です)
 
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龍宝寺、冬の陽射しの嬉しさ

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久々に玉縄の龍宝寺さんに出かけました。
3年前に山門、そして今年は古民家(重要文化財)の茅葺の葺き替えを終えました。
嬉しい年越しを迎えられそうです。
 
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      (龍宝寺、手前冬桜、奥左から曙杉、その右桐、本堂前にピラカンザスの実、ムクドリが集まります)
 
山門潜れば、玉縄幼稚園、手つくりのクリスマスのお飾りも楽しげです。
もう、花梨の実も落ちてしまいました。
冬陽が差し込んで、石仏の影が長く伸びています。
畑では、枯れた草花の整理をしておいでです。
初夏に一斉に咲いた芍薬の末枯れ(うらかれ/葉先から枯れ始め根元は未だ枯れていない)を伐採、
いずれ、畑の片隅で焼いてしまう事でしょう。
芍薬を焼くとどんな香がするのでしょうか?
妙薬の枯葉ですから、妙香でしょうか?
 
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                             (冬桜、本堂前に玉縄幼稚園の園児が記念撮影)
 
桜が満開です。
秋には10月桜、今では冬桜と呼びのが適当でしょう。
四十雀がせわしく梢を飛び回っています。
春の桜に較べれば、花弁を支える鍔(がく)がしっかりしていて、木枯らしが吹いても耐えています。
樹下には6,7人青年がベンチに腰掛けて、談笑しています。
何処かの特殊学級の生徒さんでしょう。
手振り身振りで表現しています。
屹度、龍宝寺のお庭の素晴らしさを伝えているのでしょう。
自然には教わる事が多いもの、私も同感です。
 
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 (冬桜の樹下、ベンチに腰掛けている特殊学級の生徒さん達、手前のピラカンザスにムクドリが集まってくる。  頭上に四十雀が集まり、桜の花弁を食べています)
 
芍薬畑の隅には蜜蜂の箱が置かれています。
屹度、今年は充分な恩恵を恵んでくれた事でしょう。
芍薬は名の通り、妙薬。ならば芍薬畑で出来た密も貴重でしょう。
 
幼稚園の生徒さんが出てきました。
頭に熊さん、ウサギさん、馬さんなどのお面を乗せています。
屹度、クリスマス会のお稽古を終えたことでしょう。
石段に並びます、そして記念撮影です。
もうじきご家族を招いてクリスマス会で発表しすることでしょう。
 
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                             (手前黄花コスモス、冬桜、本堂前で園児の記念撮影)
 
本堂の周りはコスモスが自生して、一杯の花をつけました。
今、又背丈の低い茎を伸ばして、一斉に新しい花をつけています。
秋に花を終えたので伐採した所、慌てて新芽を伸ばして、その先に花を咲かせたのでしょう。
素晴らしい生命力を感じさせます。
 
本堂の前には曙杉が大きく育っています。
もう、本堂の大棟を遥かに見下ろすほどです。
何で、この木は立錐形なのだろうか?
不思議な気がします。
北が裏山、東は本堂、西は裏山、前面が南で開けています。
お隣の桐は右に左に曲がっています。
松や楠なら南に向けて伸びそうですが、曙杉は真っ直ぐ青空に向いて伸びて、四方に均等に梢を伸ばします。
                        
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  (本堂の前、東西に曙杉が育っています)
 
先代住職は子供好き、
ご自身は幼稚園に留めましたが、横須賀にあった清泉女学院、栄光学園を誘致されました。
そんな気持ちが曙杉を植えさせたのでしょう。
そう思って境内を見渡すと、本堂の左右に1本ずつ、同じように真っ直ぐ伸びています。
薬師寺では東西に塔があります。
龍宝寺の塔は「曙杉」、そんなようにも見えます。
 
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                                   (江戸時代の墓標がある一角)
 
私は境内を一回り、西側に新井白石の墓標があります。
この一角は、江戸時代のお墓が並んでいます。
墓標を見詰めると、半分以上は童子童女のお墓です。
と言う事は、昔は折角「オギャー」と生まれても、二人に一人は成人になれなかったのでしょう。
七・五・三や成人のお祝いはさぞかし嬉しかった事でしょう。
でも、こうして墓標が建てられたのは、江戸時代になって裕福になったからでしょう。
その前、戦国時代までは庶民が死んでも土葬されるだけ、まして子供が死んでも・・・・・・。
卒塔婆から石の墓標が出来て、生きた記録が残されるようになりました。
 
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                               男の子の墓標はお地蔵様でした。
 
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           (女の子をお守りする観音様。指先まで丁寧に刻まれています)
 
冬陽が山紅葉の間から差し込んできます。
子供の手は可愛いので、「紅葉」と形容されます。
イロハ紅葉は、指を数えるように「イ・ロ・ハ・ニ・ホ・・・・」と数える事から名付けられたと言われます。
 
私は、お地蔵様(墓標)に掌を触れます。
私はビックリして手を退きます。
陽を浴びたお地蔵さまは驚くほど温かいのです。
「叔父さん、何するの・・・・?」
元禄の童女に咎められた、そんな気がしました。
 
幼稚園の前を通って、山門を潜って帰路につきます。
園児の歌声が聞こえます。
特殊学校の生徒さんは、まだまだ冬桜の樹下で自然のお勉強のようです。
 
先代住職の魂が其処此処に感じられる龍宝寺さんです。
ご子息はセッセッと芍薬畑の手入れをしておいでです。
私の父と龍宝寺さん・無我相山黙仙寺の三人は仲良しでした。
私が栄光学園に進学しなかったら、今頃・・・・・・?
縁が無かったのも「不思議な縁」というものでしょう。
 
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  (龍宝寺の芍薬、今年5月25日撮影)
 
 
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”日本一の白椿”倒れる(龍口寺)

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今年の鎌倉は厄年だったようです。
冬もあけて、そろそろ桜の花も咲こうかといったころ、突然に冬の季節風が吹きました。
雪が付着して、竜巻でも起きたのでしょう、八幡様の銀杏が倒れてしまいました。
鎌倉市民は勿論、鎌倉を愛する人は心を痛めました。
 
 
12月2日夜半、鎌倉は再び強風に見舞われました。
盛りを前に、紅葉散らしの強風を恨めしく思いました。
風は南風だったのでした。
海に近い妙法寺の屋根瓦が吹き飛び、
材木座五所神社の神殿には大木が折れて倒れ掛かり、屋根を崩しました。
でも、報道ではこの程度の損傷でありました。
 
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     (今日の話題は龍口寺、本堂手前、裸の木は百日紅、その左奥に白椿があります)
 
ところが、もっと、もっと大きな損失があったのでした。
被害地は「日蓮上人の龍之口の法難」で有名な「龍口寺」です。
このお寺は別名「椿寺」とも言われます。
本堂の前庭に日本一と言われた白椿の大樹がありました。
そして、本堂の裏山は真っ赤な藪椿が自生しているのです。
 
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                                     (2004年頃の龍口寺の白椿)
 
私達はこの名跡を登って、玉砂利に一面散り敷いた白椿を見つめました。
そして椿の大樹を見上げました。
真っ青な青空に深緑の葉っぱ、原色をバックに真っ白な花、
私達は改めて感嘆の声を発しました。
 
本堂から裏山に登って五重塔に向います。
細い山道は藪椿のトンネルです。
此方は真っ赤な花、「白椿・赤椿」の妙を楽しみました。
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2007年2月、椿を見たいと思って龍口寺を登りました。
ところが、椿の大樹は見る影も無く衰えていました。
「何故!どうしてこんなにみすぼらしくなってしまったの・・・・?」
私達の疑問を一本の案内板が説明してくれました。
「近年急増している台湾リスの食害によって・・・・こんなに傷ついてしまいました・・・・。」
 
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    (2007年2月5日撮影した案内板。白椿の右側が腐ってきていました。この部分から折れました)
 
冬には食べ物が少なくなってしまいます。
加えてリスは前歯がドンドン育ってしまいます。
そこで、リスは椿の樹皮や花を好んで食べるのです。
椿は悲鳴をあげていました。
 
樹勢が衰えると同時に虫がつきました。
椿の木部を食い始めていたのでした。
木部は人間で言えば骨格部分、骨にカミキリムシの幼虫などが食い込み、もろくなっていたのでした。
 
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   (2007年2月5日撮影した白椿、枝先は枯れていますが、ポツンポツンと咲き始めています。手前の幹が根元   から折れてしまいました)
 
白い椿はお嫁入り衣装の「綿帽子」を思わせます。
ならば、さしずめ台湾リスやカミキリムシは街道に巣食う「ゴマノハエ」でしょう。
綺麗なお嫁さんをいたぶります。
私は「無残な白椿」と題して、惨状をレポートしました。(2007年2月5日)
 
 
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                                   (伊藤博文野島別邸の玄関白椿)
 
 
12月2日は、妙法寺を襲った大風が江ノ島、片瀬にも吹きすさんだのでしょう。
白椿の大樹は虫食い部分から折れてしまいました。
でも、辛うじて、もう一本が残っています。
正しくは、地上数十センチのところで二股に分かれていたのでした。
その太い方が折れてしまって、細い方は辛うじて残ったのでした。
 
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                  (手前折れて、丸太に切られた白椿、奥は生き残った白椿。腐った幹が痛々しい)
 
太い方は参詣客の邪魔にならないように、もう丸太状に切断され、近寄らないように注意書きがなされています。
もう一方は根元近くは虫に食われて、木部はボロボロです。
維菅束部は首の皮半分が繫がっています。
多分、風上の大樹が折れて、その枝木が風下の細い木を守ったのでしょう。
私は娘を守った姉を思いました。
 
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椿は日本の伝統です。
「木」篇に「春」の字は日本人が開発した漢字です。
中国では椿を「海石榴」と書きます。
海の向こうから渡ってきた石榴(ざくろ)を表しています。
海の向こうとは日本の事、日本から伝わった石榴の意味です。
万葉集でも盛んに詠われました。
中世には全国各地に五百比丘尼伝説をうみました。
 
千利休は白椿から侘助を開発し、椿は茶花に欠かせない”花”になりました。
長い戦乱が終ると、「椿の新種開発」がブームになりました。
椿の落花のさまは「潔し」として、武士に好まれるようになりました。
そうして、名実共に椿は”日本を代表する花”となりました。
ベネディクトの「菊と刀」は「椿と刀」がより適切だったと思います。
何故なら、椿は「刀の鍔」からネーミングされたといわれます。
菊は天皇家を表すものの、中国から伝わったものですし・・・・。
 
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 (龍口寺本堂前に生き残った白椿、根元には折れた椿の残骸が・・・・、此処まで放置してきた事が悔やまれる)
 
私が倒れた椿を愛しんでいると、龍口寺の方が寄って来られました。
「日本一と言われた白椿が・・・・残念でなりません。せめて、残された一本を守りたいのですが・・・・。
倒れると直ぐに藤沢市職員が来て、樹木医も来て・・・・診断結果を待っているのですよ。
今は応急処理で、枝先を支えていますが、しっかりした対策をしなければならないと思っています」
 
きっとこのお婆さんは70年も白椿に見守られて生きてきたのでしょう。
だから、白椿が無くなることは、心底辛く、耐え難い事でしょう。
屹度今頃、藤沢市も樹木医も龍口寺も心を合わせて残された白椿の対策をしている事でしょう。
私達もその努力に期待することにしましょう。
 
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(毎日新聞記事/資生堂CMから転載)
 
 
鎌倉市には資生堂も立地しています。
工場は椿で囲まれています。
2006年から資生堂は「赤椿・白椿」で髪製品の販促をしています。
資生堂の看板は椿、社運をかけた事業でしょう。
 
日本を代表する女優さんが真っ白なドレスを装い、黒髪をなびかせる姿で艶を競っています。
「日本女性は綺麗だな、知的でもあるし・・・・最重要なのは黒髪だな・・・・」思います。
序に私は仲間由紀恵さんが最も黒髪が美しいと思います。(それはどうでもよいのですが)
 
身近な鎌倉工場長に手紙でも書いて、資生堂は和歌山の椿を保存するのも良し・・・・、
しかし、「足元の白椿の保存」に尽力戴ければ、CSRはもう一段ステップアップしますよ・・・・・。
そんな提言をしてみましょう。
 
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 (椿の魅力は、強い生命力、艶やかな美しさ、そして健気に耐える姿、・・・・)
 
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稲荷寿司の文化(豊川稲荷門前の山彦)

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私の祖父竹内周三は豊川稲荷に務め、一方祖母竹内ノブは世田谷にある実相院(吉良家墓所)の次女でありました。豪徳寺の住職大島師の媒酌によって結婚した次第でした。
でも、竹内周三が若くして逝った事もあって、父方の系統は全く無頓着で育ちました。
祖父、父の生前に父方のルーツを聞いておくべきでしたが、もう知っている人も少なくなってしまいました。
今春、豊川稲荷を参詣した時には、大伽藍に少なからず感激しましたが・・・・、
でも夜でしたので、霊狐塚には寄りませんでした。(私は気にしないのですが、家内が敬遠しますので・・・・)
そこで、今秋には日の明るいうちに、奥の院の脇を越えて、霊狐塚に向いました。
 
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   (豊川稲荷妙厳寺の庫裏棟)
 
お稲荷様の本社は京都の伏見稲荷で、朱色の鳥居が続いています。
ところが、二番手の豊川稲荷は白地に荼枳尼天(ダキニテン)と朱書きされた幟がはためいています。
伏見稲荷は日本古来の豊穣神であり、
一方豊川稲荷は、荼枳尼天(本地仏)を祀る「妙厳寺」というお寺であります。
荼枳尼天は白い狐に乗って、背に稲束を背負っている女神であります。
神道・仏教の違いが形や雰囲気に現れてきます。
一方、各家・各地方にあるお稲荷様は地域や家を守る神様で・・・・・、
同じお稲荷様でも、様々な形になっています。
でも、「豊に暮らしたい、一族が繁栄したい・・・・」願いは同じでありましょう。
 
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     (お稲荷様の原風景、稲をホダに架けて干す風景。この時の感謝の気持ち、来年も豊作であって欲し        い・・・祈願する気持ちが稲荷信仰のルーツでしょう)
 
稲荷とは書いた字の通り、実った稲穂を束ねて乾かす時、棹に架け干ししました。
農民は感謝の気持ちで垂れ下がった稲穂を見詰めました。
其処に神を実感し「稲荷神」と名付けました。
私は案山子は「田の神」に由来し、鳥居は「稲架掛け(はさがけ)」に始まる、確信しています。
 
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                        (豊川稲荷霊狐塚、狐に見詰められてギョッとします)
 
 
境内の最深部に狐の霊の集まる塚はありました。
数百を超え、千に及ぶ狐がコッチを見ています。
狐は一匹でも気味が悪い所があります。
眼が遇うと憑かれそうな気にもなりますし、眼をそらせると化かされるような思いにもなります。
よく見れば、新しい狐もあります。
古い狐は石の丸彫りです。
これは、石仏を彫るより大変だ! 思います。
祖父周三はこのあたりのお寺の三男だったのでしょう。
出納係を仰せつかり、このお狐様のお掃除をしていたのでしょう。
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              (古い狐は丸彫で、大変な作業でしたでしょう。経典を咥えています)
 
今回の目標の一つに、「創業のお稲荷さん」を食べる事にありました。
豊川稲荷の門前にある「山彦」が始めたものと言われています。
相当のアイディアマンだったのでしょう。
 
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      (門前そば山彦、稲荷寿司を始めた店と言われています)
 
禅宗寺院の門前には必ず豆腐屋さんがあります。
お豆腐がお精進のポイントだから。
で、豆腐をスライスして油揚げにすれば、栄養価も上がりますし、保存食にもなります。
 
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                                  (豊川稲荷の門前町風景)
 
一方、狐は農作の大敵「ネズミ」を退治する、ありがたい存在です。
狐に喜んで戴くには、ネズミを捕まえて、油揚げして奉げるのがベストでしたが、中々大変です。
そこで、油揚げを代用品として奉げました。
 
油揚げが其処にあって、お寿司が流行り始めて、門前には沢山の善男善女が参拝している・・・・・。
そこで、寿司飯に椎茸や胡桃・ひじき等を混ぜ「五目寿司飯」にしました。
甘く煮た油揚げの中に「五目寿司飯」を詰めて、米俵のようにしました。
大黒さんの乗っておいでのあの「俵」です。
形も味も価格も謂れも総て良し、参詣客は競って稲荷寿司を注文しました。
時は天保時代、豊川稲荷門前のファーストフードは全国に広がりました。
 
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 (山彦での売れ筋、きしめん稲荷セット。お稲荷さんは東京以上に甘味が強くありました。尾張地方の味は関東 風+関西風が重なった「濃い味」にあるようです。ウナギもウドンも・・・・・)
 
お稲荷さんは、江戸歌舞伎で幕間のお弁当になりました。
演目は大人気の「助六」でした。
助六寿司の始まりです。
一方、大阪では・・・・・、油揚げを三角に切て、お稲荷さんも三角錐にしました。
江戸っ子は米俵、難波じゃ三角、違いを意識したのかもしれません。
何処から考えても俵型の方が合理的だと思います。
難波っ子は頑固でもあります。
 
歳を越せば直ぐに節句、
最近は全国のコンビニで「恵方巻き」を販売しています。
25年前、大阪に転勤した時には異様に感じました。
今では慣れてしまいましたが、ヤッパリ少し違和感があります。
東京には東京の節句があります。
私は、太い海苔巻きを一本食らうより、稲荷寿司の方が「福が来る」ような気がします。
 
尾張地方の食文化は最高だと実感している昨今です。
息子夫婦も此処に住居を構えました。
祖父が招いたものかもしれない・・・・・、思いながら出かけています。
 
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                                (散歩も楽しい門前町)
 
 
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土光敏夫さんに訊く(安国論寺で墓参り)

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昨今の状況は、「何時か通った道」のように思えます。
先ず歴史を振り返ってみましょう。
 
第一次世界大戦後日本社会は慢性的な不況に陥ります。
片岡蔵相の失言に端を発して「昭和金融恐慌/昭和2年・1927年」が発生します。
濱口雄幸内閣は産業合理化政策を推進、井上準之助蔵相は緊縮財政、金解禁を実施します。
中小企業の倒産が急増し、町には失業者があふれ出し、国民の生活は困窮を窮めます。
「何故、お金が廻らないの? 三井財閥がドル買いに走っているから・・・・・・」
噂が流れます。
 
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             (今日の写真は安国論寺、日蓮上人の聖蹟であり、土光敏夫さんが眠っておいでです)
 
 
井上準之助蔵相は昭和7年2月9日、選挙会場で射殺されます。
次いで3月5日、三井財閥のトップ暖琢磨が三井本館の玄関前で凶弾に倒れます。
犯人は、茨城大洗に住む日蓮宗の僧「井上日召」に率いられた右翼青年でありました。
彼等は「国家革新」を唱え、「血盟団」を組織「一人一殺」を標榜していました。
右翼テロは桜田門外の変を思わせました。
 
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           (土光敏夫さんのお墓は本堂の真後ろ、竹林の前にあります)
 
国家革新の思想は社会的に期待されてもいたのでしょう。
濱口雄幸首相は東京駅で、政財界のトップが相次いで凶弾に倒れました。
(ちなみに私の勤めた長銀の二代頭取濱口巌根は雄幸の次男でした)
海軍青年将校によって「5.15事件」が引き起こされ、
更に2.26事件に広がり、シビリアンコントロールは効かなくなり、
満州事変に転がってゆきます。
 
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    (土光さんの頭上、枇杷の花が咲き始めました。6月中旬毎年実がなります)
 
私は銀行員時代三井不動産の社長応接に鞄持ちで通された事がありました。
「此処が暖琢磨の応接室か!」 歴史の舞台に座って興奮しました。
「でも、狭い部屋だな」第一印象でした。
そんな疑問に、
「この応接室には控えの間が三方にありました、どちらにも逃げ道がありました・・・」
私は二条城の槍の間(護衛の武士が隠れる部屋)、吉良上野介の寝室を思い起こしました。
テロは予測していたのだが・・・・防げなかったのでしょう。
 
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              (本堂の庇を背景に真っ白い山茶花が咲きます/鎌倉市指定記念樹)
 
12月14日、菅総理が発言しました。
「法人税を欧米並みの35%に減税する。減税によって投資が拡大し、雇用が増えるので・・・・、必要な財源は努力する」
同日、硫黄島の遺骨収集作業を視察します。
「遺骨収集は国の責任だ」発言します。
 
遺骨を拾うポーズを見せるより、やるべき事があるだろう、
「国の最大の責任は国家の安心安全だ・・・・・」と言いたくなります。
投資を拡大したいのなら「投資優遇策」を、
雇用を促進したいのなら「新卒採用減税」を講じるのが正道でしょう。
菅総理への期待はしぼむ一方です。
 
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その前日、TVには蓮舫行政刷新相と中学生の討論がニュースになっていました。
中学生の主張は「子供手当ては現金のバラマキだ、税金の使い道が間違いだ」
今朝のTVでは報道していました。
高校生の9割弱が「日本の将来に不安を感じている・・・・」
生徒達は「財政の破綻」「年金の破綻」、一方現実を直視しない政財界の極楽トンボに失望しているのでしょう。
 
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(軽自動車で駆けつけたお嬢さんが大きなTVカメラで山茶花を映していました。聞けば「今年は山茶花が見事に咲いたから、今晩6時にオンエアします。見てくださいね・・・・・・」鎌倉ケーブルテレビは全部この人に任せているんだ・・・・好感を抱きました。)
 
 
法人税減税の恩恵に浴する企業は、約3割の儲かっている企業だけです。
7割の企業は法人税を納める必要はありません。赤字なのですから。
赤字の企業を対処するのが「最小不幸社会の実現」でありましょう。
エコポイントなどの一時凌ぎ、需要の先取りではなく、本格的な対策を必要にしています。
本格的な対策は中学生が「日本の将来を期待する・・・・」ものでありましょう。
 
経団連の米倉会長は一応法人税減税を歓迎するポーズを示しました。
でも、租税特別措置を継続する事がもっと重要、釘を刺す事は忘れませんでした。
庶民にはこの間の遣り取りを見て白けました。
 
菅総理は「儲かっている企業には減税してあげるから、もっと応援(献金)するように、」発言したに過ぎません。
「黒字法人に減税」「個人増税」は民主党のスローガン”国民の生活第一”が大嘘であった事を示しています。
 
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   (有名な海棠はもう枯れてしまったのかもしれません。孫木が三本出ていました)
 
 
今、横須賀追浜の町は静まり返っています。
沢山あった居酒屋はもう暖簾を閉じてしまっています。
追浜は日産自動車の城下町、会社の方策が町を暗くしてしまいました。
今年から主力車「マーチ」を全面的に海外生産にシフトしたのでした。
日本で製造して海外に輸出するより、消費地に近い海外で生産し、日本に輸出するにしました。
日本で蓄積した資金は海外に投資され、日本の職場は狭められ、経済の流れの外に弾き飛ばされています。
内閣はこうした企業動向をチェンジさせる事が重要です。
「海外投資に税を課し、国内投資に長期減税する」・・・などなど考えられます。
幸い我国は政治・社会リスクは低く、工場立地のファンダメンタルズは良好です。
欠けているのは内需です。
抜本対策は「内需振興策」です。
 
ゴーン社長の昨年度報酬は8.7億円でした。
このお金は内需に寄与しません。
でも、年収300万世帯の所得増は内需に繫がります。
萎んでしまった中流家庭の復権が大事です。
 
私は、いたたまれなく感じて、鎌倉安国論寺に土光敏夫さんの墓を詣でる事にしました。
土光さんは石川島播磨重工、東芝を再建し、経団連会長、臨時行政調査会会長を最後に引退されました。
もう20年も前、NHKではそのお人柄をオンエアしました。
休日返上で仕事に生涯を懸け、私生活は簡素清貧でいられました。
昼はカレーか蕎麦、夜はメザシを食べられ、庭先で野菜つくりをし、ご夫婦で食されている姿に共感しました。年収は5千万円、でも大半は人材の教育に使われていました。だから、土光さんの進める施策に歯を食いしばって従いました。
 
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   (土光敏夫の墓石は無く、土光家の墓に一緒に埋もれておいでです。生花が香っていました)
 
愕いた事に墓前には新しい供花が奉げられていました。
土光さんは経団連トップでした。
貴方なら「法人税減税をどう評価されますか?」、
「貴方の進められた行革は床の間に置き忘れてしまいました。どうしたら良いのでしょう、この国は?」
聞きに墓前を訪れた人も居たのかもしれません。
屹度「中学生の意見の方がましだ・・・・」仰られることでしょう。
正論だから・・・・。
 
安国論寺は日蓮上人が「立正安国論」を執筆し、幕府に呈上したお寺。
怒った北条時頼は日蓮を龍ノ口の刑場に送ります。
日蓮は自説を折りません・・・・・・。
そんなお寺です。土光さんに相応しいお寺でしょう。
 
井上日も日蓮宗徒、昭和恐慌下の我国を憂いての凶行でありました。
平成の今、9割もの高校生が将来に不安を感じている状況下は、看過出来ないところがあります。
政治家が詭弁を使い、財界が上手く利用しようとする。
7割の企業が赤字で、大半の中小企業が塗炭の苦しみに喘ぐ、学校を出ても就職口は無い。
 
憂国の士が巷間に溢れ、青年がテロに走った昭和史が思い起こされてきます。
 
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                           (手水を見詰めるお地蔵さんはもう正月モードで)
 
 
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姫街道・三明寺の石仏群

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姫街道と呼ばれる街道は全国各地にあります。
最も有名なのは東海道の姫街道でしょう。
京都を出た女性の旅人が豊川の「御油宿」までやってきました。
ここで、浜名湖の南、新居関を通る東海道(本街道)を進むか、浜名湖の北、峠道こそ多いものの距離が短い脇道を進むか選択しました。
脇街道は「川止め」リスクが少ない事、総じて追い剥ぎ等の危険が少ない事、から女性が多く選択しました。
その為「姫街道」と呼ばれています。
以上が一般的な説明です。
でも、両方を通ってみると大きな違いがある事が解ります。
姫街道には古刹が連なっています。
「行基菩薩開基で」「聖武天皇ゆかりの」「後醍醐天皇が・・・・・」などの縁起が沢山あります。
元々の奥州古道、阿倍比羅夫や在原業平が通った道は姫街道の方であった。
東海道(本道)は江戸時代に本道として整備された新道であった・・・・・。
善行寺への道にも通じる古代の道が「姫街道」とも言えるでしょう。
 
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    (三明寺本堂、側面。幟は豊川弁天、石仏は弘法大師と観音がお揃いの四国お遍路霊場巡り)
 
 
姫街道の方が歴史資産に恵まれ、奥三河、奥浜名湖の風光が明媚であります。
そして、昔からの風情が残されています。
ですから、姫街道はウォーキングの人気になっています。
 
御油の松並木を過ぎて、田園地帯を通って、ソロソロ豊川を渡ろうか・・・・・、
姫街道の前方に美しい三重塔が見えてきます。
古刹「三明寺」です。
旅人は、お参りして行こう、一寸一休みもして・・・・・・、足を速めたことでしょう。
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                               (三明寺三重塔、周囲を石仏群が囲んでいます)
 
三明寺は大宝2年(702年)文武天皇の命により僧覚淵が建立と伝えられます。
一般に「豊川弁財天」と呼ばれています。
平安時代国司の大江定基が力壽姫の死をいたんで、等身大の弁財天を祀りました。
私は見たこともありませんが、裸で真っ白いお肌で、十二単のお着物を着せています。
12年に一度ご開帳、そのときに十二単を着替えられるそうです。
もしかしたら素裸の弁天様を拝めるのかもしれません。
考えてみれば、江ノ島の弁天様も裸ですし、上半身裸と思われていた鶴岡八幡宮の弁天様(重文)も腰の物を脱いでみると全身裸でした。
何故、我国の弁財天は裸が多いのか・・・・・、興味深いテーマだとも思います。
 
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          (銀杏の葉っぱと実が散って歩けないほど・・・・、最も目立つのは四国霊場巡りの石仏)
 
南北朝時代には後醍醐天皇の第11皇子無文元遷禅師が再興に尽力します。
この時に曹洞宗に改められます。同時に三重塔が建立されます。
ですから、一層、二層の造作は和様で、第三層は唐様のデザインになっています。
垂木一つをとっても、二層までがシンプルな平行垂木、三層が扇垂木(重垂木)、
上層に向うにつれて祈りが強くなっています。
(ちなみに金閣寺・銀閣寺も一層は書院風、二層は唐様の仏間になっています。この三重塔は和様・唐様が折衷した様式の始まりと思われます)
 
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     (夢を見ているようなお顔の如意輪観音。石質が色御影石?のようで石仏に適している事、奥三河の石        工の技が優れていて、優雅であること・・・・等等魅力に溢れています)
 
時代の変遷と共に、三明寺はその時代の祈りを伝えてきました。
何といっても、旅人の心を引き寄せたのは膨大な数の石仏でしょう。
先ず目立つのは四国お遍路の石仏です。
八十八霊場の名が刻まれ、ご本尊(概して観音様)が右に、弘法大師が左に、まるでお内裏様のように祀られています。
そして、もう一群の石仏は西国三十三観音霊場です。
この二つに嵌らない石仏も幾つか見られます。(近隣から運び込まれたのかもしれません)
 
近隣の人達からしてみれば・・・・・・,こんなことになりましょう。
一生に一度は西国観音霊場を巡りたい、
更に、四国のお遍路にも・・・・・・。
でも、それは無理でしょう。家を離れれば農業も空いてしまうし・・・・家族に、村にも迷惑をかけてしまう。
せめて、身近に霊場があれば・・・・・・。
 
三明寺を詣でれば、霊場の出先が祀られています。
毎日、毎日、一体ずつ巡っても、「88+33」で半年近くかかります。
信仰の思いは空間を越えて届くと思われました。
 
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             (三重塔裏の千手観音、丁寧な作りで端正な観音様の表情を見せています)
 
こうした百体観音が祀られるようになったのは、江戸時代中頃から。
二百年、三百年もの間、石仏は沢山の人達の祈りを受け止めてきました。
何時しか風化して、石仏に丸味が出てきて、表情も優しくなって、血の気も出てきました。
そして、今も大切にされています。
赤い毛糸で編んだキャップに、可愛いゆだれ掛けが着せられて、嬉し気に見えます。
 
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  (馬頭観音像、左弘法大師像。偶々お顔の頬に色味が刺して、魅力を感じます。三重にも重ねられたユダレ   掛けが信仰が続いている事を示しています)
 
 
姫街道を歩く旅人は三明寺の緑陰で一休み、
「同行二人」弘法大師様のご加護を信じて、やおら腰を上げて出発した事でしょう。
豊川稲荷の門前で名物のお稲荷様を戴こうか?
その次は、「とろろ麦飯」にしようか・・・・。
姫街道には神仏のお加護があって、美味しいものが沢山あって・・・・・、
加えて安全だ・・・・・・。
 
私も暫く姫街道に行くことが増えそうです。
 
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                                   (本来の三面の馬頭観音像)
 
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      (路傍、豊川を越えたところにある馬頭観音像。旅人を守る(水難よけ)目的だったのでしょう)
 
 
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葉書の大樹とお稲荷さん(三明寺にて)

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昨日は豊川の三明寺の石仏を紹介しました。
同寺にもう一つ、紹介したいものがあります。
それは、それも途轍もない大きな「葉書の木」なのです。
 
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            (向こうが庫裏、手前が大木、右に本堂があります)
 
三明寺の本堂を見上げます。
甍の上に一本の大樹が眼を引きます、梢には深い緑の葉が茂っています。
私達夫婦は大樹を見ると嬉しくなって、樹下に向います。
 
本堂の裏には庫裏があって、その間が庭になっています。
野菜や菊、花木が栽培されています。
寺の奥様の姿が見えます。洗濯を干そうとされているようです。
大樹は「泰山木かな?」思って近づきましたが、どこか違います。
樹皮が部分的に白くて、象の脚のような雰囲気です。
モチノキ似にいます。
でも葉っぱが楕円で大きく、葉っぱの淵はギザギザしていて鋸歯のようです。
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            (右本堂、渡り廊下で庫裏に繫がっています)
 
私と家内二人で木を見上げ、幹を触っていると奥様が来られました。
質問した所、
「此れは多羅樹、一般には葉書の木とも言われます。こうして葉裏に字が書けるでしょう」
説明して下さいます。
私は答えます。
「私の家の近く、成福寺さんの本堂の前にも多羅はあります。でもこんなに大樹になるんですね。雄大な樹ですね!」
私達は落ち葉を拾います。
「小学生に葉書にして届けよう・・・・」思っています。
奥様は「枝を持って行きなさい」、仰って大樹の根元から生え出した孫木を手折ってくださいます。
”お寺の榊みたいだな”感じながら、奉げ持って帰ります。
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                                 (多羅樹の根元)
 
多羅樹は元来インドにあった樹木です。
”沙羅の木””多羅の木”何れも仏教に馴染みの深い木で、仏典にも再三出てきます。
多羅の葉にはお経の梵字を書いたものでしょう。
勿論お寺に、特に暖かい地方のお寺で見かけます。
屹度、室町時代、盛んになった日宋貿易で日本に伝わったものでしょう。
 
戦国時代には武士がこの葉を使って、情報の遣り取りをしたのだそうです。
足軽大将が足軽に「援軍送れ」とでも書いて持たせたのでしょう。
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そして平成9年、葉書(端書?)の木として、東京郵便局の正面に植えられました。
「これは郵便の木です」看板も立てられました。
郵政民営化がこの木の脚光を浴びせたのかもしれません。
 
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 (成福寺本堂、左右に銀杏、銀杏の左に沙羅の木があります。銀杏も沙羅の木も燃えないのでお寺の  火災除けの目的もあったのでしょう。勿論本堂を引き立てる樹ですが)
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                  (半年前正福寺の葉書の葉、長く持つようです)
 
三明寺を歩き回って、腹も空いてきました。 
ふと思い出しました。笠智衆さんのことを。
笠さんは小津安二郎監督と共に「父ありき」「晩春」などを演じた男優です。
小津監督と笠さんとは大のお稲荷さん好き、
撮影の昼休みには円覚寺門前の「光泉」迄出かけ、白鷺池に面した椅子に腰掛、お稲荷さんを戴いたそうです。
途中、巨福呂踏切を渡らなくてはなりません。踏み切りで電車の通過を待った事もあったでしょう。
踏み切りに面して成福寺があります。
笠さんは熊本のお寺の長男、同じ親鸞上人のお寺に懐かしさを覚えた事でしょう。
ご家族共々多羅の木の傍で眠っておいでです。
 
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            (成福寺山門、横須賀線が面しています。右手に無縁仏が並んでいます)
 
茅葺の山門を潜ると、左手に数体の無縁仏が迎えてくれます。
殆どが童子・童女の墓標です。
そんな中に、笠智衆さんを思わせる仏があります。
観音だか?地蔵だか?風化も進んで判定できません。
骨だけが残されています。
安山岩系の石は柔いので、早くに土に戻ってしまいます。
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                                  (笠智衆さん、HPから転載)
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                        (此方は笠さんを髣髴させる?山門下の石仏)
家内を誘います。
私達もこれからお稲荷さんを食べに行きましょう。豊川稲荷門前の「山彦」に・・・・。
 
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    (円覚寺白鷺池に面した光泉の助六、最近は店内では戴けなくなり、テイクアウト専門になっています) 
 
 
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観音崎のアロエ

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私が始めてアロエを知ったのは50年も前のことでした。
祖母が何処からか奇妙な植物を貰って来て、庭に植えました。
何かと聞けば「医者要らず」と言う、
この茎の樹液は傷薬になるし、便秘薬にもなる。
高血圧にも糖尿病にも効果があるので、「医者要らず」だと言う。
 
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                                (今日の話題はアロエ、三浦の砂浜に自生しているアロエ)
 
 
数年経つと、茎の先に朱色の花をつけました。
秋が過ぎて、淋しくなった庭に花を咲かせていました。
私も家族も霜焼けや赤切れ、切り傷が絶えませんでしたが、誰も祖母の育てた「医者要らず」を試す事はありませんでした。
 
昭和60年代、その「医者要らず」が急に町に目立ち始めました。
新得住宅の玄関先に、旧家の庭先に、朱色の花が眼だって来ました。
名前は「アロエ」、原産地はアラビア半島で、乾燥地なら暑さ寒さにも強く、
放って置けば茎が伸びて、群生してゆきました。
スペイン瓦の屋根に白い壁、そんなイスラム風の家屋にアロエは良く似合いました。
 
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                              (三浦半島金田湾海水浴場に咲いたアロエ)
 
三浦半島の先端には湾の浦々に漁港があります。
その舟着き場に必ずと言っていいほどアロエが咲いています。
他の雑草に負けずに背丈を延ばして、例の特徴のある花を咲かせています。
真っ青な海、白い砂浜、苫屋・・・・、そんな風景に良く似合っています。
アロエも日本の景色にマッチしてきました。
 
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                          (ボート乗り場の脇に咲いたアロエ)
 
私はアロエを漁港に植えたのは「医者要らず」としてだろう、思います。
漁師に生傷は耐えません。
でも「オロナイン軟膏」を持ち合わせていません。
で、傍にあった「医者要らず」の葉っぱを手折って、樹液を塗ったのでしょう。
そんな植物が砂浜に、苫屋に育っていれば何かと便利です。
医者要らずは半世紀で日本の風景に生きる市民権を得たと言えましょう。
ブタクサ(セイタカアワダチソウ)は目立ち始めて未だ30年、市民権は得ていません。
嫌われ草です。
 
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                          (観音崎京急ホテルから観音崎灯台を見る)
 
50年前、私は中学生になりました。
急に友達が沢山出来ました。
三浦半島の先にも友人は住んでいました。
利発で、発想がキラッと光る、ルックスも恵まれた友人がいました。
「観音崎観光ホテル」のオーナーの倅でした。
観音崎灯台が最も美しく見えるロケーションに、
プライベートビーチを持った、瀟洒なホテルでした。
オーナーは遊歩道に蘇鉄を植えました。
蘇鉄の根元にアロエを植えました。
 
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(観音崎京急ホテル玄関、以前は地域オーナーの経営で観音崎観光ホテルとして愛されて居ました)
 
今は名前に「京急」の冠をオンしました。
私の友人は今どうしているか、知りません。
でも、感覚の秀でた人でしたので、ホテルとは違った世界で活躍している、
そんな気がします。
 
 
今年もアロエの目立つ季節が巡ってきました。
様々な思いがこの花に託されています。
 
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 (蘇鉄や椰子、アロエは先代オーナーが植えたもの・・・・・・、最初のアイディアが優れていた)
 
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