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鎌倉古道に辛夷な花が咲いて。

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庭の片隅に土筆が芽を出しました。屹度三春の遊郭跡にももうじき芽を出すことでしょう。昨年親友と三春の瀧さくらを観に行って、民俗資料館に寄った処三春には遊郭が在った事を知りました。博物館員に訊いてその崩れかかった遊郭を観て帰りました。三春駒と呼ばれる大人しく頑張り屋の馬を売りに近隣農家が三春に遣って来て。馬を売って小金を手にするとツイツイ遊郭に寄ってしまったのだそうです。
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これは三春の庚申坂の遊郭群。既に廃墟にならんとしています。三春で開かれる馬市で馬を売った帰路で遊んだので一時は栄えたそうです。次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49281224.html
”「男」という動物は何時の時代も何処でも情けないモノなのだ”しみじみ想ったものでした。
馬糞の匂いの浸みた農夫は屹度遊女にゾンザイに扱われた事でしょう。遊女にすれば「こんなところでお金を使ってしまわないで。真っ直ぐに帰りなさい」そんな気持ちも在ったでしょう。軽く扱われた馬っ子は捨て台詞を吐いて木戸を後にします「この土手南瓜二度と来るものか!」
遊女は返し言葉します。
「なにをホザクかこの土筆坊!二度と来るんじゃないよ!叫んで木戸に盛った塩を放り投げます。
傍らの土筆は驚いて坊主頭をひっこめます。
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これが土筆です。日本人は良くぞ土の筆なんて字を宛てたものだと感心します。土筆はスギナの生殖器「花」ですし。童貞が経験する事を「筆を下すとも言います。これも色町の文化でしょうか?写真は矢張り三春の小沢の桜です。この桜は三春での「田植桜」もう少し阿武隈高原に入ると「/馬酔木沢の苗代桜」もありましたです。
土筆が芽を出したのですからもう辛夷も咲き出したに違いありません。私はワイフを誘って東俣野の鎌倉古道に行く事にしました。東俣野の鎌倉古道は鎌倉と町田までは境川の河岸段丘に沿って北上し。町田の先は多摩川沿いに府中の分倍河原から上州を結ぶ中世の軍用道路です。幕府は幕府防衛の為に整備したのでしたが。幕府が反感を靠れると新田義貞はこの古道を南下してきて幕府の息の根を止めました。室町時代には豪族が割拠して。 俣野五郎景平 が遊行寺を創建しました。遊行寺の本堂の東側「俣野権現」が祀られてています。そんな次第で俣野には小栗判官物語の史蹟が多く残されています。古道に沿っては石仏も多いし樹木も生い茂っているのです。
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これが遊行寺の開山である俣野五郎景平 を祀った俣野大権現です。周囲はシャガと山吹が自生しています。ピンクの花弁は杏の落花です。
春の先駆けを探しに古道を歩くのは楽しい事です。3月10日みバスに乗って国道1号線の影取で降りました。バス停の前後には薄紫の辛夷が街路樹に植えられています。既に満開でした。
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国道1号線影取の辺りには辛夷が街路樹に選定されています。この辺りは地建の戸塚土木の管轄です。それが藤沢に入ると百日紅に変わります。排気ガスに強い病中害に強いという他に美しいとか、地域の歴史や文化に馴染んでいること等も選定基準になっているのでしょうか?
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此方は上の辛夷のアップ、心なしか紫が入っていました。
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此方は農家の庭先に咲いた辛夷の大木赤紫が一層濃くムクドリが花弁を食べていました。



東俣野小学校の正門を降りて、介護付老人ホーム「ツクイ・サンシャイン横浜戸塚」の前を過ぎて東俣野公園に向かいます。公園の隣は「俣野園」と云う名の植木屋さんです。(私はそう思っていますが違うかもしれません。悠々自適な植物園です)俣野園さんの園内に大きな辛夷が三、四本自生しているのでそれが今日の一番のお目当てです。
ワイフは無人の野菜販売所で一束50円のほうれん草を2つ買いました。丁度俣野小学校の生徒が集団で歩いて来ました。「今日は!」青空に響くような声で挨拶してくれます。負けまいと腹から挨拶を返しました。先生は最後尾を歩いて来られたのでしたが。教え子の挨拶が立派なので嬉しそうでした。実は家に戻って地域紙を観て知ったのですが東俣野小学校はこの3月で廃校になって近くの汲沢小学校に吸収されるのだそうです。屹度先生と生徒と相談して「今日はお天気も良いので境川の堰堤をお散歩しよう!」そんなルンルンな時に私達老人夫婦が法蓮草を飼っているのを目撃したのでしょう。
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これは俣野園さんの庭の辛夷の大木です。千正男さんの歌う「雪国の春」のような、堀辰夫の「信濃路・大和路」で書かれたような真っ白い辛夷です。未だ咲き始めで来週末が見頃でしょう。
東俣野公園に近づきました。期待通りに辛夷が咲き出しています。何時も辛夷を眺める位置には小さな園児がビニールを敷いてリュックからお弁当を取り出しています。春の遠足にしては未だ早いのに、思って眺めました。
此方は東俣野公園の芝生の上にビニールを敷いてお弁当にしようとしている小さな子。私は幼稚園児と思ったのですが帰宅して地域紙を観た結果この子たちは矢張り東俣野小学校の低学年生と確信しました。想いで作りに東俣野公園に遠足に来たのでしょう。何しろ遠足のお楽しみの一番はお弁当ですから。
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東俣野公園でお弁当を広げようとしている生徒達。その向こうには辛夷が咲いています。
戸塚区東俣野地区は郊外住宅地とにして発展すると期待して東俣野小学校を開校したのでしょう。でもJR戸塚駅にも藤沢駅にも時間距離がありすぎる。戸塚駅も藤沢駅も駅近くの渋滞が酷くて出勤に不便なのが致命的な

三人妻の苦悩

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年寄りの興味は次から次に広がって行きます。
最初は春めいてきた事。夕焼けが綺麗だったので奈良の二上山に心が飛んで、大津の皇子に飛んでいました。
そして大津の皇子の歌から「采女」に「采女」から「女官」に女官から「平仮名」に移って行きました。
      采女の袖吹き返す明日香風都を遠みいたずらに吹く
「平仮名」から次は清少納言や和泉式部に移るのは先輩のYさんでしょう。私は季節がら「蜻蛉日記」に移りました。
【藤原道綱の母とは】
蜻蛉日記の作者として有名ですが作者名はお気の毒に余り知られていません。息子が道綱であった事からその母としか名は無いのです。でも36歌仙の一人ですから、文学史上も大変な人物です。公式系図「尊卑分脈/系図解説書」の中では小野小町、衣通姫と共に本朝三美人に数えられています。蜻蛉日記に依れば、その美しさに目をつけた藤原兼家が執拗に通い詰めて無理矢理妻にされています。ところが兼家は浮気性で、次第に心移りして行きます。婚姻後も半ば捨てられたも同然の扱いでした。道綱を産んだ後も状況は好転せず、兼家は藤原時子の意の儘にされてしまいます。時子は藤原道隆、道兼、道長を産んだのでしたから。藤原本家の母堂として揺るぎの無い地位を確保して行きます。道長は彰子を一条天皇の中宮に嫁がせますので、時子は天皇の祖母になります。道綱母のライバル心は線香花火の様に空しく散るだけでした。でも単なる女の嫉妬で終わらないで最高の日記文学にしているのは、嫉妬心が一歩先に抜けてまるで蜻蛉が穢いヤゴから赤蜻蛉に脱皮した様な名作を残しているのです。今日でいえば夫婦間の軋轢の暴露日記ですが、高僧や聖の諦観にも似た道綱母の境涯が素晴らしいのです。「采女」に始まった私の好奇心は道綱の母に辿り着いてしばし膠着しました。そこで今日は道綱の母を紹介させていただきます。
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今日の話題は右大将藤原道綱の母の素晴らしさです。
道綱が産まれた時 母の父藤原 倫寧(トモヤス) は、陸奥守として京を離れておりました。、道綱母は産まれたばかりの子供を抱いての母子家庭で寂しい生活を送っていました。でも頼りの夫兼家は来なくなってしまいます。
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これは源氏物語絵巻の柏木の場面左上で新生児を抱いているのが光源氏です。源氏の館では正妻の「紫の上」は六条の御息所の死霊にとり憑かれ臥している間に女三の宮は柏木と 密通して子供を産みます。源氏は。自分の子供では無い薫を息子としてを抱いています。源氏の手前が女三の宮と仕える女房です。この後紫の上は源氏の腕の中で落命してしまいます。平安時代は「嫁取り婚」から「婿取り婚」に変化します。飛鳥時代は母系社会で子供を産む女性が家の中核でしたが。平安時代になると荘園制が発展して力のある男性が家の中核に変わります。女性は出産を両親の屋敷に戻って行います。男性は出産に立ち会い、1週間は休暇を取りました(理由はジェンダーではなくて出産に立ち会っているので穢れているとみなされたからです。道綱母も源氏の様な夫を期待したのでしょうが、兼家は他の若い女の家に通うのです。
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女三の宮の産んだ子(薫)の父が柏木とも知らずに抱く光源氏古代の嫁取り婚から中世の婿取り婚に変化する社会でしたから源氏の様に出産にも立ち会い、権力もあって男前で優しい男性が小期待されました。道綱母は夫の兼家に失望して離婚を覚悟します。絵の出典(源氏物語絵巻集英社日本の四方ヲコピー)
子供を産むとトンと遣って来ない兼家に道綱母は怒ります。10月の末頃、3日も兼家が道綱母の家に顔を見せなかったのでした。道綱母は兼家の文箱の中にこれから他所の女に渡すであろう和歌を見つけます。その後遣って来た兼家に”あの歌は何よ!”詰問します。すると兼家は”これから重要な用があるので参内する”、言い残して帰ってしまいます。道綱母は侍従に道兼の後をつけさせます。道兼は町中の陰勘解由小路かげゆこうじ)のどこかにお泊りになりました」と報告を受けます。その翌実兼家が遣って来ます。その時の和歌が百人一首に取られています。
 歎なげきつつ とりぬる夜の あくるまに いかにひさしき ものとかはしる
一人寝る夜 が明けるまでの間がどんなにか長いものであるかをあなたはご存じでしょうか。そんな意味でしょう。晩秋に忘れ去られたように咲いている残菊を自分自身になぞらせて、「チクリ」兼家に文句を言ったのでした。道綱の母が凄いのは『老いの自覚』です。正妻の時子と自分を比較して女の子を産んでいないことを自覚すると養女を迎えます。行動力も在る女性でした。
道綱母は日中に兼家の恰幅の良い姿を観ます。そして .自らの老いて来た姿を確認します。そして離婚を覚悟します。古代の離婚は裁判所も無いのですから、夫が通って来なければ離婚です。時に道綱母は38歳でした。古代の離婚は「床去り」と云いました。「もう一緒に寝ません」そんな意味でしょう。此処からの道綱母の和歌も日記も凄みを増します。.ある夜道綱母は夢を観ます。夢の一つが蛇でした。
蜻蛉日記には「我が腹の内なる蛇ありきて肝を喰う。これを治癒するには顔を水で洗おう」と云う日記でした。昨日嫌な夢を観たわ私の腹の中に蛇がいて私の内臓を喰っているのよ。気持ち悪いので冷たい水で顔を洗ったわ」フロイド心理学的にいえば蛇は男性器で夢は性的不満足なのでしょう。38歳の時道綱母は自邸を売って父の中川の屋敷に移ります。39歳の時藤原遠度(とうのり).に求婚されます。そこで兼家に相談しましたが、
「従兄弟の遠度がしつっこいのは貴方が誰にでも優しくするからでしょう」とつれないのでした。道綱母は怒って次の和歌を兼家に送ります。
今更に如何なる駒かなつくべきすさめぬ草とのがれにし身を
今更誰が私等に寄りつくでしょうか?馬でさえ見向きもしない枯草の様な私ですから・・・・」そんな意味でしょう。
この歌は古今集の「森の下草」を下敷きにしています。
「大荒木の森の下草老いぬれば駒もすさめず刈る人も無し」
「森の下草」とは女性の陰毛を暗喩しています。
平安末期になると40歳に近い女性は夫が健在でも尼そぎをして床去りしました。
尼そぎ戸は髪を切る事です。切ると云っても丸坊主になるのではなくてショートカットする事です。一昨年の平清盛では尼そぎした女性が涙を誘いました。
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尼そぎをした女性この場面は美福門院得子(びふくもんいんなるこ/松雪泰子)です。得子は九尾の狐の玉藻のモデルとも言われました
道綱母は屹度40歳を過ぎても大変に美しかったと確信します。若かった時は本朝3美人に数えられ老いを自覚してからも時に乳母として母として娘の出産や結婚には頼りになる存在だった事でしょう。
古語辞典では盛りを過ぎる事を「さだ過ぎ」と云い女性だけに云います。清少納言も「さだ過ぎ」には悩んだようです。
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道綱の母と藤原兼家の家系図兼家にはなんと8人もの妻がいましたが。時子が正妻で兼家よりも30歳も年上で、道綱母は兼家より7歳若かったのでしたが。何故か次々に嫁を獲ります。嫁と云っても側室とか妾では無くて大輔は同じ屋敷に館を宛がわれていたし。藤原国彰娘も館に住んでいたようです。道綱母だけが実家に戻って別居していたのでしょう。中世になると奥様を館の名前で呼ぶようになります。「北の方」と云えば母屋の北の建物の意味から正妻の意味に変わって行きます。
これまでは蜻蛉日記を根拠に道綱母の暴露日記を辿って来ました。
そのままでは兼家が最悪です。兼家サイドで確認してみます。
兼家は右大臣藤原 師輔(ふじわら の もろすけ藤原北家)の三男として産まれます。(929年)949年には中納言になり藤原北家の一員として順調に権力の中枢を登って行きます。

兼家は天暦8年(954)、美人の評判高かった道綱母(19歳)を娶ります兼家は26歳でした。この時、兼家には時姫という正妻がありました、時姫の父は摂津の守藤原中正でしたから道綱母とたいして変わりありません。時姫は31歳も年長でしたし、美人である事和歌に秀でていること等では道綱母は正妻に劣る心配は無かった事でしょう。
綱母は平安時代に最も重要な和歌に秀でていたのに対し。兼家は勅撰集に一首も選ばれていない凡庸な人物だったでしょうから。事ある度に道綱母が代作したでしょうし。偶々秀作が出来ても奥さんの代作だと誰しもが想ったでしょう。教養や才能のレベルが違っていたと思われます。屹度兼家は美人の道綱母をゲットする事に熱心でゲットした途端にコンプレックスに陥ったのでしょう。慶応大学にもそんなカップルが幾つもありました。かく云う私もそんな一人かも知れませんが・・・。
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これは源氏物語絵巻の東屋の場面です。不義の子薫は、亡き源氏の面影を宿す浮舟に関心を持って宇治の館に日参します。でも浮舟は自分が受領の娘と云った身分の低さから薫の求愛に引けています。其処で浮船実家に隠れます。母の中将の君模糊の縁談には消極的で娘を屋敷の奥に隠します。
絵の奥に居る緑の上衣を着ているのが浮船です。手前で髪を梳いて貰っているのが中将の君です。面白いのは浮舟が絵本(女絵」と呼ぶを観て居る事です。御簾の陰の女房は何やら物語を読んでいます。
ましたが、道綱を出産したので。既に道綱母は時姫に遠慮もいらない立場になった筈でした。兼家は従兄弟の道長にドンドン差をつけられてしまいます。道長は娘(彰子)を一条天皇の中宮に押し込み、更に彰子の身辺にキラ星のように才能はあっても、美貌は程々の女房を送り込みます。
兼家は道長のライバルにもなりえない単なる色好みだったようです。



藤原道長と二人妻の波乱の生涯。権勢をほしいままにした道長が、唯一、その愛を得るこ
とに苦悩した美貌の女・明子(めいし)。正妻・倫子(りんし)を加えた三人の愛の交錯
。絢爛たる王朝絵巻の中に描き出す書下ろし

諏訪の神様のお怒りか?

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日本中に否世界中に巨人伝説があります。八郎潟の八郎も国東半島の熊野磨崖仏も巨人の伝説です。
ダイダラボッチは大太郎法師と書いている事から強大な力を秘めた僧の意味だったり。鈩(タタラ)に秀でた鍛冶屋の意味かも知れません。記憶に新しいところでは「宮崎駿監督の「もののけ姫」のラストシーンが巨人が森を焼いて鈩(タタラ溶鉱炉)を使って武器を作る、人間の強欲さに怒って鈩や人間の住居を破壊して廻ります。
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霞ヶ浦に近い貝塚は大食漢の巨人がハマグリの貝殻を捨てたものだと云われてきました巣。八ヶ岳は富士山の巨人が山頂を壊したといった伝説もあります。
私の親友にМ君がいます。諏訪の名門「諏訪青陵高校」から慶応でしりあったのですが、学生時代から現在も相互に刺激し合っています。生まれは茅野駅から蓼科山を越えて小県に至る大門街道の道沿いの集落です。学生時代皆で行った事がありますが、懐かしい里山風景が広がっていました。
『最近諏訪の神様(ダイダラボッチ)がお怒りか?』懸念される事故が起こりました。実は今年になって「諏訪湖のお神渡り」が未だ無いのです。加えて高ボッチ山にヘリコプターが墜落して9人も亡くなりました
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これが諏訪湖のお神渡りです。写真出典諏訪博物館http://www.city.suwa.lg.jp/scm/dat/special/omiwatari/
諏訪博物館では以下の様に説明しています。『冬に気温が低下して、諏訪湖の湖面が全面結氷する寒気が数日続くと、氷の厚さが増してゆきます。さらに昼夜の温度差で氷の膨張・収縮がくり返されると、南の岸から北の岸へかけて轟音とともに氷が裂けて、高さ30cmから1m80cmくらいの氷の山脈ができます。これを「御神渡り」と呼びます。伝説では諏訪神社上社の男神・建御名方神(タケミナカタノカミ)が下社の女神・八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)のもとへ通った道筋といわれています。
「女神渡り」は諏訪大社の男神「建御名方神(タケミナカタノ神/上社)が下社の女神「八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)に渡った足跡と信じられて来ました。2013年を最後に近年はこの自然現象が観られなくなってしまいました。神話とか伝説としては、男神が女神を夜這いした事で納得するのですが。考古学的には次のように理解されるのでしょう。
【建御名方神とは】
古事記では建御名方神について次の様に叙述されています。
出雲の神様大国主神が葦原中国(本州)の神々に国譲りを迫った際の話です。大国主神は先ず御子神である事代主神(コトシロヌシ葛城の一言主大神))に建御名方神に対して国を譲るよう迫らせました。建御名方神は反抗し巨大な岩を手先で差し上げながら現れ、建御雷神タケミカヅチ/雷神剣の神でもある)に力競べを申し出た。そして建御雷神の手を掴むと、建御雷神の手は氷や剣に変化した。建御名方神が建御雷神を恐れて下がると、建御雷神は建御名方神の手を握りつぶして投げ飛ばした。建御名方神は逃げ出したが、建御雷神がこれを追い、ついに信濃国の諏訪湖まで追い詰めた、建御名方神を殺そうとした。その時に、建御名神は諏訪から出ないし、大国主神や出雲の神が従っている伊勢の神にも背かない旨、約束した。こうして大和朝廷(伊勢の神)は出雲の神を使って本州の統一を進めて行きます。事代主神や建御雷神と云った出雲の神は建御名方神を追って統一する訳ですが、その進軍路は出雲から糸魚川を経て庄川に沿って内陸部に入って小県郡を経て大門峠を越えて諏訪に入ったのでしょう。当時の諏訪は未だ縄文文化で鉄器も無いし。稲作もイマイチの狩猟焼畑文化だったので、出雲には敵わなかった事でしょう。諏訪の豪族は塩尻峠一帯に集結して出雲の軍に対決したのでしょう
高ボッチ山の麓にある洩矢神社(岡谷市)は諏訪地方に在った土着の神です。祭神は洩矢神(もりやしん)で昨年の御柱祭りを報じたNHKテレビは洩矢神社の神主家の守矢神長官家を報じていました。

万願寺の春

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3月11日(土)に横須賀佐原の満願寺に出かけました。万願寺は運慶風の仏像が5体も残されているので仏像ファンの間では著名ですが毎年彼岸前に文化祭を開催します。ご住職は法話も上手で居られるし実行力もおありです。本堂の須弥壇を幔幕で隠して「春蘭の展示会」をし。お庭ではけんちん汁のお接待をし、竹林では野点を実施されています。毎年の様に遣って来るのですが昔は養老猛さんの講演も聴けました。今年はけんちん汁の接待会場にお若いお坊さんがおられました、訊けば近隣の慈眼院さんのの御子息だそうで、ボランティアのお檀家にも誰からも愛されていました。早春がピッタリの青い坊主頭でツルッと坊主頭を撫でてみたくなりそうです。来月の花祭り(灌仏会)の案内を置いて行きました。
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これが万願寺の文化祭案内状です。運慶は平家が焼いた大仏殿の再建新築の被露に際し南大門の仁王像を始め多くの仏像を納めました。頼朝は関東の御家人を従えて被露供養を警護しました。三浦の佐原十郎は運慶の仏像を真近に観ると三浦一族の菩提寺にも欲しくなり万願寺に彫像を依頼します。御家人の間で居運慶仏がブームになって。北条氏は証菩提寺(韮山)に大江氏は淨願寺(葉山)に運慶本人を招きます。三浦氏は運慶の弟子が観音像や不動明王像を納めて貰います。
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此方が万願寺の本堂です。主会場は本堂の内陣です。本堂の裏は竹林で熊野神社があります。本堂の脇の石段を上ると佐原十郎の墓があってその脇に朽ちかけた感音堂があります。昔は諸仏像はこのお堂に置かれていましたが今は耐火建築の宝物館が出来て其処に納められています。
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境内に入ると直ぐに受付があります。文化祭参加費はズット500円ですが。けんちん汁のお接待と仏像の拝観と本堂での春蘭の鑑賞が出来ます。
本堂では須弥壇を幔幕で隠して春蘭を展示しています。屹度お檀家の方々が春蘭栽培に熱心で競って栽培しているのでしょう。須弥壇の横は位牌棚ですから。ご先祖も作品を観て下さる事になります。春蘭栽培の励みは屹度大きなものがあることでしょう。
本堂の縁側には雪割り桜が並んでいます。人も雪割り桜も縁側の春の陽射しが大好きです。
”雪割り桜は良いなあ”観ているとけんちん汁の接待会場に雪割草の株を即売していました。
「お檀家が栽培したのですか?」訊けば
新潟の栽培農家から仕入れたそうです。NHKの大河ドラマ『天と地と』謙信の逝く場面では紅葉の散る場面で、郷里越後の国に注ぐ愛情を示す場面では「雪割草」を映していました。屹度新潟は雪も深いし、雪割草も濃く自生しているのでしょう。

さげもんの記憶

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万願寺を辞して。去年は三浦海岸の河津さくらを観に行きました、今年は何処に行こうか?暫し考えたのですが、やっぱり海が観たいと思って京浜急行の北久里浜駅に戻って。三崎行きの電車に乗りました。車窓を見詰めて未だ河津桜が残っていれば三崎から大根畑の中を三浦海岸迄歩く積りでした。大根畑の中に賽の神のようにして庚申塔が祀られているのです。でも今年の桜は早かったようで。もう葉桜も過ぎて青葉若葉です。でも電車に乗ってビックリしました。車内広告が春一杯なのです。”何だろう?”思って見詰めると公告主は九州の雄「西日本鉄道」です。
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京浜急行電鉄の車内広告車内全面が雛祭りのさげもんでビックリしました
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車両の壁面に車両の広告ジャックしたスポンサーが顔を出していました。
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これが広告ジャックした西鉄の広告です。春が待ち遠しいでしょう!大宰府に柳川にいらっしゃい春はもう来ていますよ!」そんな呼びかけです私が福岡に居たのは10年前、天神から博多に出て博多で乗り換えて福岡空港に出て飛行機で帰っていましたが、今は空港と天神が西鉄で繋がったようです。
福岡天神が始発駅で大宰府を経て柳川や大牟田に行くのが幹線で久留米にも行けます。私の職場は表が岩田屋(百貨店)裏が親不孝通りでしたから、土曜日の午後は気軽に柳川に出られました。勿論単身寮に戻ってスターレットを転がして一泊旅行もしました。一番便利な処が田主丸で日田にも柳川にも大川にも行くのに便利でした。私は内示を受けてから2年間も博多に塩漬けでした。都合4年間も博多で単身生活を強いられました。この時の勝手気儘が原因か?東京に転勤して間もなく腎臓癌が発覚したのでした。
田主丸に泊まって翌朝東に向かえば秋月で、その先が日田です。日田の小豆町は雛祭りで有名でしたし、柳川は「さげもん」でした。「さげもん」を真似たのが伊豆稲取の「吊るし鄙」で。子供や孫の成長を祈って縁起物を縫って作りお雛様に周りを飾るのでした。そんな子供への愛情は昔も今も変わらないのでしょう。横浜でも「吊るし鄙」作りが盛んで桃の節句には各所で展示されています。
西鉄は地の利を活かして京浜急行沿線の住人に「一足早い春を楽しんで下さい」そんな意図で車両の全面広告を実施したのでしょう。観れば吊広告の真ん中が空いていてその中に「縫い物」が吊り下げられています。更に広告には縫い物の解説がしてあります。私は前後の車両を確認して歩きましたすると5両編成「三崎発泉岳寺行」の全車両が西鉄の広告なのでした。
因みに総ての電車が西鉄一色なのかと思って特急の通過待ちをしている普通電車を観察していると普通電車は通常公告でした。屹度西鉄は特急電車だけを「広告ジャック」したのでしょう。
昨今の車内では大半の人がスマートフォンを観ていますから吊広告の効果が如何程であるか懸念も在りますが。こんな広告であれば観ていて楽しくなります。

藤田田さんはお見通しだった。

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京浜急行の車両で「さげもん」広告を楽しんでいる中に電車は三浦海岸駅に着きました。

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これは三浦海岸駅に近い高台です。東窓からは海が見えて西は田園が広がっています。畑は白菜はお終いで大根は未だ残っています。もうじき前面西瓜畑に変わります。横浜駅から40分品川駅から1時間余りで此処に棲めればもうカリフォルニアのような避寒地です。
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三浦海岸駅前の広場は東南アジアのマーケットです。もうじき河津桜祭りもお終いです。
駅前広場は「桜祭り」のメイン会場のようでで沢山のテントが張られてまるで、マレーシアかベトナムの市場の雰囲気でした。(昔は大根畑を広場にして会場にしていたのでしたが)私は草餅屋を探したのですが、この日は土曜日なのに出て居ませんでした。仕方なしに今晩の惣菜に「マグロのみりん漬け」を求めて駅前を東に三浦海岸に向かいました。「未だ大根干しをしているかな?」若干期待しながら・・・・。「春になると海を観たくなる人」が多いのでしょう。私達を含めて皆カップルです。春の海は薄い青に鶯色を加えたようで、見た目にも温かそうです。ウィンドサー^ファーが水澄ましの様に波間を滑って行きます。南風が波頭を白くしています。向こう岸は房総半島です。兜の様に見えるのは鹿野山でショウ。今頃は名の花が咲き乱れて居る頃でしょう。昔あそこのお寺の住職がトラを飼っていて、丁度今頃トラが檻から逃げ出して大騒ぎでした。虎は射殺されて事件は落着しました。その左が市原であそこの象さんは幸せに暮らしていそうです。あの辺りが安房国の国衙が在った処で、更級日記の舞台だな思ったりします。右に眼をやれば鋸山が観割らせます。突然に視界にカイトが出現しました。改めて見れば三浦海岸にカイト遊びをしているグループが2組あって競っているのです。
暫く階段に腰掛けて海を眺めていましたが。喉を潤したくなりました。先刻通った三叉路にマックがありました。昨年はエッソのガソリンスタンドがあったのですが、撤退して跡地をマックにしたのでした。向かいの出光が勝ち残ったようです。
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三浦海岸の三叉路左に行けば久里浜右に行けば葉山真っ直ぐ向かいに行けば観音崎、手前が三浦海岸駅になります。交差点に在ったエッソのガソリンスタンドがマックに変わっていました。もうオープンカーが走っていました。
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三浦海岸ではカイト遊びをするグループが2組波間にはウィンドサーファーがミズスマシしていました。
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これは以前エッソのガソリンスタンドが在った後に出来たマックの2階ピロティ―の風景です。
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これはマックの2階席です。店員が空いているテーブルを化学布巾で拭いて回っていました。私はマックのサービスが米国製のマニュアルですから、テーブルが汚れている。その限りでは日本では定着しないと思っていました。藤田田さんはフランチャイズのトイレまで観て廻ったと聞かされていました。
私は長銀時代役職柄沢山のカリスマ経営者を知る機会に恵まれました。一番に惹かれた人はリクルートの創業者「江副浩正氏」でした。江副さんには与謝野鉄幹の様なカリスマ性を感じました。私の相手の財務部長も江副さんに私淑しているのが良く解りました。「社長は本当に親身な人で提案の無い人には個別に退職金を大盤盛りして転職を促します。私は幸い役立っているようで未だ転職勧告はありません。」話していました。財務部長は川崎の高層マンションに住んでいましたが、リクルート事件の発覚が川崎市役所でしたので心配したモノでした、江副さんは。厳しさと優しさを併せ持っておいででした。”人工衛星を8つ飛ばして世界中の情報をコントロールするのだ”言っていた、江副さんが転覆しなければリクルートがグーグルになっていたのではないかな?”今も思っても残念でなりません。
マックでドリンクを飲んでいると。社員が布巾を手にして空いたテーブルを拭いて回っていることに気付きました。
その姿を観ていると。日本マクドナルドを創業した藤田田さんを想い出しました。新宿の住友三角ビルに藤田田さんがおいででした。同氏から日本マクドナルドの持ち株会社藤田商店の事業相談を受けました。その要点は
1自分の息子は頭脳は良い(東大在学中)だが、マクドナルドは任せられない、藤田商店の核になる事業を提案してほしい、
2、何故息子に日本マクドナルドを任せられないかは?藤田社長のお答は明快で、『自分の仕事の大半は全国の直営店やフランチャイズを観て廻る事で。キッチンからトイレまで全部自分の眼で観て廻っている』。息子にはこんな業務は出来ない、息子の身の丈にあった事業を藤田商店に作ってあげたいのだ・・・。
この時既に藤田田さんは日本マクドナルドの売却(売却先は米国マクドナルド)を決めていたのでした。結果的には上場(証券市場に売却)は選ばないで、最高価格で売り切ったのでした。
「テーブルも拭かないトイレ掃除も外注する」そんなマクドナルドが「異物混入事件」、や「期限切れの鶏肉事件」を引き起こしたのは自明な事だったのです。
私は藤田田さんはユダヤ人だと直感しました。色々提案したのでしたが藤田田さんから電話があって『息子の仕事は自分が探した。”君はトイザラス”を知らないか?』云われました。
もう一人記憶に残る創業者はソフトバンクの孫正義さんでした。当時は未だ大牟田のパチンコ屋さんの延長でした、ゲームが盛んな時代でしたが。ゲームは一発勝負、一発で終わらない事業はお金を出してゲームソフトを作らせ、ソフトを売ってあげる仕事だと云われていました。私は孫さんに華僑をイメージしました。
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これはマック三浦海岸店前の交差点の信号柱に忘れてあった運動靴です。此処で他の靴に履き替えたのか?乳母車から落してしまったのか?全く解りません。でも気になって仕方ありませんでした。
マックは昨秋にポテトフライの他に「大学芋フライ」を始めました。ようやく」「地に居れば地に従う」姿勢に変わって来たようです。



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ロバと老夫婦

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昨日は(3月17日)は市内の小学校の卒業式でした。私は来賓として招かれ席が教育委員会代表の後ろでした。

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17日私の地元の小学校の卒業式でした。何時もの様に8時30分に朝礼が始まりました。校庭の辛夷も花開きはじめました。
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朝礼で校長先生のお話に聞き入る卒業生女子の三分の一は袴姿でまるで女子大の卒業園遊会の様な華やかさです。ボーイフレンドも驚くかな?
開式は9時閉式は11時半、長井い式典でパイプ椅子でお尻が痛くなりました。暫くしてお尻が痛くなったが、痛くない方法があるだろうか?考えて座る姿勢が悪いからだと気付きました。椅子の奥まで、お尻を置かずにパイプ椅子の中央に身体の重心を置き、両手を膝の上に乗せ丹田を意識しました。そして。壇上に登って一人一人卒業証書を受け取って戻る生徒さんの挨拶を受けました。椅子に坐っても腰を45度傾ける様に意識しました。これが正しい座り方か知りませんが、そうしたら、お尻の傷みは嘘の様に消えました。
そのうち今日の卒業式は矢鱈に袴姿が多いな」気付きました。女子の三分の一は袴姿でしょうか?これではまるで女子大の卒業謝恩会だな!気になったので先生に伺いました。
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教育目標が掲げられた体育館で卒業式が厳かに始まりました。
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私の前席が教育委員会代表でしたのでまるで私にお辞儀してくれるようでした。私は座ったままでも正しい姿勢でお辞儀しようとすると不思議にお尻の傷みも尿意も消えてしまいました。
「袴はお母さんかお婆さんのお下がりですか?」
「いや殆どレンタルでしょう」
おこたえでした。
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正しい姿勢でのお辞儀は観ていて清々しく気持ちいいモノです。
私のワイフは弓道に励んでいるので袴姿で稽古場に出かけます。。上衣が紋付の時は試合か昇段試験です。小紋の時は仲間内です。袴は何時も紺か灰の地味なモノです。袴が何時から始まったのか知りません。袴にも流行廃れががあるのでしょう。ある生徒の袴をみて驚きました。まるでプリーツスカートなのです。正面から見れば紺一色なのですが、歩くと袴の裾が割れて鮮やかな麻の葉模様が見えるのです。今時の袴は動作の中で割れて裏地の模様がチラチラ見える様にしているのか!気付きました。それは12一重の裳の様に見えました。
そんな事に気付いたら彼女たちは12歳、道長の長女彰子が中宮になって一条天皇の内裏に上った齢です。
一条天皇は皇后定子がいたのに12歳の彰子を迎えるなんて犯罪者だな思いました。
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12一重の裳(プリーツスカートの様に襲着を覆っているモノ)が袴の始まりでしょう。だとすれば表は紺地で割れたら鮮やかな麻の葉模様が見える新しい袴は伝統に沿ったものでしょう。これは36歌仙絵巻(佐竹本)の小野小町)
卒業証書を授与すれば後は来賓のお祝の言葉です。教育委員会代表はありきたりのお祝をお話されました。
次は私の親しくしているPTA会長のI女史の話です
先ず4駒漫画を見せて話し始めました、1の駒は痩せ細ったロバに老夫婦が連れ添って歩いています。2駒目は老夫婦がロバの背にのっています。3駒目はお爺さん一人がロバに乗って4駒目はお婆さんがロバに乗って尾爺さんは歩いていました。
Iさんは説明します。
今日は街で市場が立つ日です。お爺さんとお婆さんがロバを連れて出かける事にしました。
歩き疲れた二人はロバの背に乗りました。それを観た町の人が云いました”可哀想にあの痩せロバは二人も乗せて”云われたお爺さんはロバから降りました。すると街の人が云いました”あの婆さんは自分一人ロバに乗って屹度強欲婆さんだよ”お婆さんはロバの背から降りてお爺さんを載せました。すると街の人は爺さんを指さして陰口しました。”あの爺さんは自分一人楽をして・・・・”
二人は已む無くロバを降りて最初と同じく自分達はロバに連れ添って歩き出しました。すると街の人はこう言いました”あの年寄りはロバの使い方も知らないようだよ。
処で皆さんはロバの正しい使い方はどれだと思いますか1は誰もロバに乗らない2は二人でロバに乗る3はお婆さんだけロバに乗る4はお爺さんだけロバに乗る、4択です。
このお話は他人の意見は見方で色々でどれも一理あるという事です。これから大人になると同じような場面に遭遇するでしょう。他人の意見は見方によって色々であって。どれも正しい事が多いのです。問題は自分自身です。
もう一つお話します。蝶々です。蝶々になる事を羽化と云います。羽化の前は蛹です。幼虫から蛹になります。どうやって幼虫が蛹になるか知っていますか?幼虫は何度も脱皮を繰り返してイザ蛹になる時は身体の中が溶けてドロドロになってしまいます。ドロドロの状態を経て綺麗な蝶々になるのです。貴方たちはこれから中学生蛹に変わる時です。綺麗な蝶々になるには大事な時を迎えるのです。
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私の卒業式は「蛍の光」と「仰げば尊し」が卒業式の定番でしたが今は違います。でも生徒さんはこの現代的な歌でもウルウルしはじめました。私がうるうるしたのはPTA会長のロバの花葦を聴いた時でした。
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女子は勿論男の子も涙を拭っていました。涙を堪えて天井を観ている子も多くて、12歳は多感なモノです。私の卒業式は「僕は栄光学園に進学するんだ」云うのが嫌だったのかもしれません。でも「電電公社の制服(紺色のジャンパー)に似ていて格好が悪い」と云って嫌がりました。結果兄の着ていた学生服のお下がりを着た記憶があります。
私は、PTA会長の話の通りだと思いました。
そしてIさんに帰り際、話しました。
今日のお祝の言葉実に良かったですよ。私は同感して目頭が熱くなりました。序に一言付言すれば幼虫の体腔内はドロドロになるのですが、同時に透明になるのですよ・・・・。
Iさんは素直に頷いてくれました。こんなこと蚕を飼った団塊世代は常識だったのですが、Iさんは未だ子育て世代ですから・・・。


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餅草の天麩羅

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道端にの新芽が目立ち始めました。新芽を摘んで餅に撞けば草餅ですから餅草と云うのが新芽の呼び名です。
夏になれば生い茂って腰の高さに育ちます。浦島太郎の行った蓬莱山は蓬の茂った仙人が住むという山なのでしょうです。昨秋遊んだ伊吹山は蓬が生い茂った霊山ですから名実共に蓬莱山だったのかもしれません。青葉の蓬を採取して影干しして枯草状の蓬を石臼に轢けばお灸のモグサになると、伊吹山民俗資料館で教わりました。
平清盛の最期は1181年(治承5年)閏2月4日と云いますから丁度今頃(3月20日)と云う事でしょう。九条兼実の『玉葉』には「通風」、藤原定家の『明月記』には「動熱悶絶」とあるそうです。大変な高熱であった事から、東大寺を焼いた仏罰だと噂されました。
NHKの大河ドラマでは。妻の時子は清盛の熱を下げようと水風呂に浸けたり蓬を探しましたが・・・・、敵わず旅立ちました。古代はから蓬は万病の薬だったのでしょう。桃の節句は菱餅を食べます。上段の赤は魔除けで真ん中は白で下段が緑の草餅です。勿論健康長寿を祈ったモノでしょう。「雛餅」と云うべ来いところ、江戸っ子が「菱餅」と訛ったのか菱(ひし)の形が魔除けになると思ったのか判りません。
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日立工場空き地の蓬、枯れているのは背高泡立ち草で。蓬も背高泡立ち草も根からアレロパシー成分(成長抑制剤)を分泌して他の植物の生育を妨げます。蓬も背高泡立ち草も同じキク科の草ですから同じ場所に季節によって棲み分けしていることになります。我家の小菊も新芽が出揃ってきました。宿混草は放っておいても春になると芽を吹いて夏か秋に咲いてくれます。
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これは「仏の座」です。1月には蒲公英のように葉を四方に伸ばします。その恰好が座布団のようで仏像のお座布団の様なのでこの有難い名がついたのでしょう。勿論七草粥に入れられるのですから食べられます。でも写真の様に生育してしまうと硬くて食べられないでしょう。

日立製作所の跡地は夏は背高泡立ち草が群生しますが、今は蓬の若芽である餅草が一斉に芽生えています。青々して実に美味しそうです。屈んで、草摘みしたいのですが人目も在るし出来ません。”喰いたい!食いたい餅草を食いたい”想いが積もって来ました。そこで私の生家の土手に出かけて餅草を摘みました。どうやって食べるか?蓬は菊の仲間です。菊の葉っぱも春菊も天麩羅が最高です。そこでワイフに餅草を渡して天麩羅にするよう云いました。序に土手の「蕗の薹」を探すともう薹立ってしまって到底天麩羅になりそうもありません。土筆も食べたい思ったのですが道端の土筆は近所のお散歩ワンちゃんがオシッコをかけていそうです。
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これは瑞泉寺の諸葛菜(ムラサキハナナ)です、中華料理には出てきますが天麩羅にして食べてみたいものです。菜の花も天麩羅で逝けますから諸葛菜(もいけるでしょう。
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こんな環境で芽を出した土筆なら食べたいのですが道端の土筆は汚そうで到底食べる気になりません。

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これは三浦万願寺の蕗の薹羅漢さんも蕗の薹を「美味しそう!」観ておいでだったのでしょうが、もう薹が立っててしまって食べられません。この写真は先週ですから、我が生家の蕗の薹も花が咲き切ってしまいました。蕾が美味しいのです。
ワイフは蕗の薹も買ってきてくれました。鞘豌豆に金時芋も精進揚げに加えて貰いました。
春は精進揚げが最高です。
蓬の天麩羅は春菊より苦味渋味があって生けました。菊の葉っぱの天麩羅と似ています。
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今日のお惣菜は土手の餅草に蕗の薹の天麩羅です。家計にも身体にも優しい献立です。
毎年春になると食中毒事故が多発します芹にお良く似た毒人参(毒芹)や韮と思って水仙科(彼岸花等)を食べてしまうのです。「何が食べられて何が有毒なのか」それ祖母に教わりもしましたが、兎を飼育していたので知っているのです。兎が食べない草、そしてウンチの状態を観て草を選んで与えました。兎の元気が無い様なら蒲公英や蓬を与えました。兎の体も自分の体も変わりはありません。春になれば餅草が食べたくなるのです。体の欲求に従う事が健康の秘訣です。
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天麩羅食って卒業式の赤飯を戴いて絶好調です。

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お萩と牡丹餅

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「暑さ寒さも彼岸まで」いよいよ「春の彼岸」です。新戸塚病院の訪問外来でのリハビリが始まりました。
私は電車とバスを乗り継いで東戸塚駅の西、名瀬町の病院に2/週のペースで通院です。東戸塚の開発には長銀時代深くかかわりました。長銀も日本ランディック(旧長銀不動産)も無くなってしまいましたが、出来上がったニュータウンは栄えています。東戸塚駅東口には高層マンションが林立し、マンションと駅との動線上に西武百貨店を核にしたオーロラモールがあります。新聞のオリコミチラシに西武とザ・ガーデン(旧社名シェル・ガーデン自由が丘)があります。
ワイフから「フラフラしていると、親爺狩に会いますよ!」云われながらも、モールを歩くのを楽しみにしてお出かけです。19日彼岸の入りの楽しみは「牡丹餅のショッピング」です。私はお寺で育ちましたから、牡丹餅が大好物です。
本堂の仏壇上に奉納された牡丹餅を下してきた、家族で食べ比べです。「○△家の叔母さんの牡丹餅が一番だ…いや△◎家の方が美味しい」なんて言いながら飽きずに牡丹餅を食べ尽くしました。
何しろ戦後でしたから牡丹餅は大ご馳走でした。
私は子供心に牡丹餅の美味しさは糯米の団子と潰し餡の調和だと思います。
(オーロラモールのチラシには「牡丹餅」が出ていました。
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これはオーロラモール、西武のチラシです。日影茶屋(葉山)さんお牡丹餅が案内されていました。

オーロラモールの名店街にもザ・ガーデンの食料品店にも牡丹餅が案内されていました。でも私の記憶している牡丹餅と違います。私の食べたいのは「お皿の上にデンと乗せてお箸で戴く牡丹餅です。日本昔話の関西で桜餅と云えば「道明寺餅」です。関東では「長命寺餅」です。昨日は四葉サロンの恒例のランチで桜餅がデザートにつきました。私は町内の四葉サロンに「倉田歳時記」と云う表題で写真(散文)を展示しています。毎月差し替えるのですから大変です。もう初めて4年ですからパネルも50枚になりました。

婿取り婚と嫁取り婚

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古典を読んでいて解らないことが多々あります。高校時代の古文の授業で解らなかった事の一つが「何故光源氏はかくもモテモテで次から次に女性遍歴が出来たのだろうか?」言う事でした。男子校のニキビ顔には刺激が強い上に一夫一妻制しか知らないのですから古代の性のおおらかさや一夫多妻は理解できなかったのでしょう。朝後の歌とて。全く理解の外でした。「男性が女性の部屋を訪れて翌朝別れる事が惜しくて名残惜しさを歌に託するなんて時代も変わりすぎていますし、若干17歳のニキビ顔には理解しろ、」と云うのが無理と云うモノです。
   1,明けぬべく千鳥しば鳴く 白妙の君の手枕いまだ飽かなくに    万葉集
 2 しののめのほがらほがらに明けゆけば をのが衣ぎぬなるぞ哀しき 古今集
1の歌は「君の手枕でもっと寝ていたい」等「よく言うよ」としか思えません。チドリ(夫婦仲が良いので有名)鳴き声で目を覚ましたらもう明け方になっていた。
昨夜お互いの衣を掛け合って同衾したのだが今朝は自分の着物は残して別れなくてはならない。妻の寝顔を横目に見て着物を残して(朝後して)帰らなくてはなりません。
2の歌は妻の気持ちになって歌った朝後の歌でしょう。
「 しののめが明るくなって夜が明けたので目を覚ましてみると、あなたの衣がお布団に掛けてあった。貴方の優しさと残り香を嗅ぐと愛おしい」なんて歌が理解できる高校生がいたら不良です。
清少納言は「春は曙」と指摘しましたが。男運が悪かった彼女の事、こんな歌は知らなかったか、知っていても「いい気味だ!」意地悪叔母さんだったことでしょう。
高校の授業では古代の結婚の講義はありませんでした。古代は家の中核は母親で、結婚は「通い婚」だったので、男は、女のところに通って行きました。娘の部屋に忍んだ男は、互いの衣を相手に重ねて掛けて寝る。そして、朝早くその衣を残して、娘の元から別れて行かなければならなかった。これを『後朝(衣ぎぬ)』といいました。
 娘はは、今度いつ会えるかるのかもわからない。男もしかとは約束できない。そこに恋々たる情趣が生まれ、歌ができたのでしょう。別れは哀しいもの。そして「明日も来てくれるかもしれない」期待も重なります。後朝の歌は、概ね「哀しみ」と「期待」が織りなしているのです。
因みに通いが3晩続くと二人は結婚したものと見做されます。三日目が終わると、露顕(ところあらし)が行われます。現代の被露宴のようなお祝会です。男の従者や家の奉公人等全員に祝の食事とお土産が配られます。
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これは源氏物語絵巻の東屋です。薫は亡くなった父(光源氏)の面影を宿した浮舟(左上)に心を寄せます。浮舟も母の6条の君(左下髪を梳いて貰っている)も身分の違う二人の結婚に反対します。6条の君は動揺する浮舟を部屋の奥に囲い物語を読み聞かせて慰めます。
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これは源氏物語絵巻宿木です右の御簾の陰に居るのが匂宮と浮舟です。匂宮は浮舟に通い続けて三日が過ぎると隣の部屋には女房や6条の君が集まっています。これから露顕(ところあらし/結婚被露宴)が行われるのです。こうして二人は結ばれるのでした。たとえ身分が女が低くて男が高くてもこの図式は変わらず。費用は総て女の家が負担します。こうして匂宮は6条君の婿になるのです。


手に摘みていつしか見む紫のねに通ひける野辺の若草(若紫63)


遊行寺の杏の花

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「杏花」と云えば中信の更埴市森村です。生前義母は上田に疎開していたそうです。若しかしたら更埴の杏を観たかもしれません。石仏好きの私ですから何度も上田近辺に旅をして杏のジャムや美鈴飴を土産にしました。今思うに『上山田温泉に連れて行ってあげれば良かった』残念でなりません。
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これは更埴市森町の杏の咲く風景です。向こうの小山の麓に私の親戚の禅寺もあります。山を越えれば向こう側は真田街です。
梅が散れば期待は桜です。桜の咲く少し前に一斉に咲くのが杏です。
「杏の花を観たい」思って3月19日、藤沢の遊行寺に上りました。
遊行寺の境内には杏の古木が2本ありました。一本は遊行寺の地主神でもある「俣野権現様」の前です。銀杏に囲まれているのでヒョロヒョロ背伸びしています。もう一本は寺務所前に在ったのでしたが先年伐採されて駐車場になってしまいました。「花の事は花に訊け」と喝破された一遍様のお寺にしては参拝客に慮り過ぎです。もう一本は若木で遊行茶屋のベンチの前にあります。
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これは藤沢の遊行寺です。花木の多い遊行寺ですが。とりわけこの放生池池畔の白木蓮が見事です。
私とワイフは遊行茶屋のベンチに腰かけて「(ボタモチは無いの?」注文したのですがボタモチは無いそうです。「俣野権現さんの横の杏花はどうしたの?」尋ねると女将さんは庭師さんを呼んで確認してくれました庭師さんはびっくりして走って俣野権現様に向かい、報告してくれました。
「権現様の杏子は東側が熊野神社の陰になっているので花が遅いだけです。一杯蕾をつけていますよ。」
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向かいが遊行寺の本堂です。遊行茶屋の店先には杏の若木が在って。娘の様な花を咲かせます。濃いピンクの花と臙脂の鍔のコントラストが可愛いの一言です。
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正面の祠が俣野権現手前の細い古木が杏の樹です。梢に沢山の蕾がありました咲くのは10日程後でしょう。
私は遊行寺には庭師が常駐して居る事を始めて知りました。
そこでかねがね気になっていたことを質問しました。
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これがズット気になっていた遊行寺寺務所入り口に在る老樹です。木の樹皮一枚で辛うじて生きています。掌で触ってみると硬くてツルツルしていて。まるで百日紅か花梨の樹皮の様でした。でも木の髄は腐ってしまって洞になっています。
「寺務所の前にある指定銘木の菩提樹の横にある樹は何ですか?」
樹皮だけ見ると花梨のようですが葉っぱは葉書の木/多羅葉)の様にも見えますが・・・・。」
すると庭師さんは
「あれは博奕の木」ですよ。
云われます。私は
「博奕の木だから首の皮1枚なのですね。」
云うと庭師さんは
「そうです、博打打は熱くなって身包みを剥がされて裸にして追い出されます。博奕の樹は百日紅の様に樹皮が剥がれてしまいます。だから博奕の木なんです。」
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これは遠州森町洞雲寺にある森の石松の墓墓石は全国から遣って来る博打打のゲン稼ぎで砕かれてしまっています。現代のお墓は鉄の檻に納まっています。写真の出典は奥三河観光ナビhttp://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=231
私はなるほど納得しました。奥三河森町の洞雲寺には森の石松の墓があります。博打打には森の石松は神の様な存在で石松の墓は壊されてしまっています。
訳を聴くと「石松の墓の破片を懐に入れておくと博奕に勝てるという噂があるんだそうです。現在のお墓は何代目かで、壊されない様に鉄の檻で囲まれていました。

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夫婦別墓の奨め

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昨日(3/21日)は終日雨でした。テレビでは靖国神社の桜が綻んだ、開花宣言です。雨に濡れた桜花が艶めいて見えました。夕飯前にワイフが言います。
「白木蓮が綺麗ですよ。観てあげて下さいね!」
ワイフのお奨めは二階の長男の部屋か,ベランダから眺める事です。
私は二階に上るのが億劫なので「食後に観ますよ」
言ったまま忘れてしまいました。
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暮れ時の白木蓮の花、数日暖かだったので直ぐに咲いてしまいました。ところが咲いた途端に冷たい雨が一日中降って、強い北風が吹き出しました。
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22日朝の白木蓮の花北風が強いので。今日が最期になることでしょう。良く咲いたね!来年も見せてね!呟きます。
ところが今朝(22日)は大風が吹いています。朝食前に白木蓮さんの事を想い出しました。
そこで二階に上りました。ワイフも後から付いてきてくれました。後ろから階段で転げたら支える積りなのでしょう。
二階の窓からは白木蓮の花が目の前に見えますし、美女の横顔を覘く位置になります。
北風が梢を揺らします。白木蓮の枝は大きく揺れています。私はワイフに云います。
「まるで、美人が強い風で鬢が乱れてているようだね!」鈴木春信の浮世絵を想い出しながら同意を求めました。「美女に強風」は「月に叢雲」に似ています。邪魔者が本体の美しさを際立たせます。

先日義母の戒名が「白蓮院」である事を書きました。若しかしたら、今はお仏壇に戻って来て私達と一緒に白木蓮を観ているかもしれません。白木蓮が義母なら北風は癌だったでしょう。長い闘病中の母の面影を宿す純白な花です。
母は自分の義母の納骨式の時に呟きました。
「私は此処のお墓に入るのは厭だわ!だって、お隣の骨と触れ合うのでしょう。」
そのお墓は田圃の隅にありました。パールバックの大地にあるようなお墓で先祖伝来の田畑の隅で田畑を見守るように建っている嫁ぎ先先祖伝来の合同墓地でした。
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これは伊奈児の光前寺の合奏墓地です。遺骸を埋めた土饅頭の墓標に地蔵尊を立てています。多分此処は穴を掘れば何処も人骨が出て来るでしょう。これほどでは無くても義母が嫌った父方のお墓はジメジメした暗い感じでした。
義父はその後直に新しい墓地を求め「○○家の墓」と刻まれた黒御影の角塔を建てました。それから数年後母はその新しい墓地の墓誌の白蓮院の名を刻みました。何時の日にか、ワイフもその横に名を刻む事でしょう。
私は「何処に眠ろうか」?時々考えます。昔、父が生家の裏山で「お前のお墓は此処だぞ!」言った事がありました。今ではその場所も開発されて墓地として売り出されています。
私は「ワイフに何時までも付いて来ないで!」云われなければ、自分でお墓を探さなくてはなりません。
「母さん私もお墓に入れてね!」頼んで「良いわ!入れてあげる」云われれば、古代と同じ母系家族です。

鎌倉には有名人のお墓が沢山あります。
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此方は東慶寺の小林秀雄氏のお墓。生前小林氏は京都に詳しい永井路子氏に依頼してこの鎌倉時代のモノと思われる五輪塔を古物商から買い求め球形の前面に阿弥陀如来を刻んでもらったのだそうです。永井氏の随筆に書かれていました。小林秀雄氏は個人の墓です。
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これは同じく東慶寺に眠る前田青邨氏のお墓です。この新しい五輪塔に画伯は眠っておいでで、奥様は入口に遠慮気味に控えておいでです。
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此方は同じく東慶寺にある仏教哲学者の鈴木大拙氏のお墓です。同氏はご夫婦で同じ五輪の塔の地下に眠っておいでです。
安国論寺には財政改革の土光さんのお墓があります。土光さんほどの人でも「土光家の墓」に先祖共々眠っておいでです。一方東慶寺には個人墓も多くあります。岩波茂雄氏も小林秀雄氏も一人墓です。前田青邨夫妻は同じ墓地でも墓標塔は別々です。奥様の方が一回り小さい五輪塔です。鈴木大拙氏は奥様とご一緒に眠っておいでです。高名な仏教哲学者はあの世でも奥様とご一緒を選ばれたのです。
「嫁が死んだら夫の先祖伝来の『○○家の墓』に埋まる」と云った習慣は明治に始まり、昭和になって一般化したものです。
昨今は「死んでから姑や舅と一緒になるのは厭だわ」意見も多く散骨する人も多いようです。
自分はどうしようか?考えなくてはいけない年齢に届いて来ました。お墓は時代と共に大きく変遷してきました。夫の家の菩提寺にある夫の家の「○○家の墓」に入ると云った考えは江戸時代明治時代に培われた封建的な実に黴臭い発想なのです。私の義母のように『私あのお墓に入るの嫌よ』と我儘を生前に口にするのは素晴らしいと思います。
最近は私は死んだら散骨してほしいわ!口にされるご婦人も多いようです。夫とも姑とも舅とも一緒になる位なら大自然の中に風の様に彷徨っていたいと思うのでしょう。ワイフが果たして如何思っているか知りませんが、ソロソロ決めておかなくてはなりません。そこで、古典を紐解きます。
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これは太秦にある仁和寺です。写真出典京都花見https://matome.naver.jp/odai/2139488669712731901/2139489346817335803
先ず、思い当たるのは藤原倫子(りんし964-1053))です。倫子の母は、母は藤原 穆子(ぼくし」父は。左大臣源雅信でした。倫子は永延元年(987年)道長と結婚して鷹司殿と呼ばれます。倫子は24歳、道長は22歳でした。道長の実父が藤原兼家です。倫子は永延2年(988)に長女彰子(後の一条天皇中宮・上東門院)を、正暦3年(992年)に長男頼道を生みます。更に次女妍子(後の三条天皇中宮)を産みます。長和5(1016)年万寿4年(1027年)道長(62歳)が薨去します。

鳥部野でで火葬され骨は家長の章信(のりのぶ)が首に掛け木幡(こはた/現代の位牌)を手にして宇治に宇治陵を築きます。藤原一族の墓になります。こはたみtまた長女彰子を除く娘三人にも相次いで先立たれ、長暦3年(1039年)に出家、清浄法と号します。曾孫の後冷泉天皇の天喜元年(1053)に90歳で薨去します。夫の道長以上に栄華に満ちた一生でした。
倫子の墓は太秦の仁和寺にあります。夫の道長は宇治陵に祀ったのでしたから相思相愛であった倫子には一緒の墓に眠る気は無かったのでしょう。夫婦別墓は古代の常識で現代の様な父方の家墓に一緒に眠るのは変わっているのでしょう、

桃の花「照手姫」

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遊行寺に杏花と白木蓮を観に行って、更に遊行寺の奥歴代上人墓の東にある長生院に回りました。久々に小栗判官の旧跡を詣でたいと思ったのです。「長生き院」なんて目出度い塔頭の名前です。なぜ[長生院」なのかと云えばこのお寺のご本尊が小栗判官の拝んだ阿弥陀様である事と、小栗判官縁者のお墓が祀られているからでしょう。
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遊行寺の境内の東側この六地蔵の前を北に上って行くと突き当りが長生院です。この日は彼岸中でしたので供花が一杯です。
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これが遊行寺の裏山の裾にある長生院です。この寺に小栗判官物語の史蹟が多く残されています。
小栗判官と10勇士の墓の西側に照る手姫の墓があってその周囲に桃の木が植わっていました。その桃には「照手」と札がついていました。桃の蕾は未だ堅かったのですが、どんな花なのか次の歌大友家持の歌ををイメージしました。
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此方は長生院裏の小栗判官とその十勇士の墓です。この西(左)に照手姫の墓があります。小栗判官のお墓と似た宝篋印塔です。
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此方は池に浮いたように祀られた魚籃観音です。照る手姫を髣髴しました。
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照手姫が招いたのでしょうか?美しい如意輪観音が目立つ墓地です。
春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ乙女。
その数日後大船のフラワーセンターに出かけました。するとこれから植樹しようとする咲きはじめの桃の木が10本近く用意されていました。その名札に「照手」と書かれていました。
”ああ!桃の花『照手』は大船植物園が開発した種なのか!”思ってネットで確認すると私の直感の通りでした。大船フラワーセンターは県立農業試験場でした。早咲きの玉縄桜も此処で開発された桜として有名ですし、芍薬も大船系が圧倒的に多いのです。屹度此処で開発されて近くに長生院の照手姫に因んでこの名をつけたのでしょう。
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此方の桃の花が大船フラワーセンターで植樹を待つ桃の花でその名も「照手」です。
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これが桃の花の新種照手です。写真出典神奈川県http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f450008/p581153.html。県のホームページには大船農業試験場で開発とは記されていませんが、大船産の新種で間違いないでしょう。箒の様な姿の花桃とされていました。
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此方は大船で開発された(?)新種の美しい桜早咲きで「春めき」とネーミングされていました。密集して咲くので舞妓さんの花かんざしにしたいような美しさです。大船産の桜と云うと玉縄桜が有名で3月4日には既に葉桜でしたがこの「春めき」は今が盛んであり、江戸彼岸の可愛らしさがあるので、八幡宮参道段葛の桜も染井吉野でなくてこの春めきにすれば良かったな!なんて思いました。
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手前は大船県立農業試験場だった時代の主事業の芍薬畑です。真っ赤な芽が出ていました。向こうが新種の桜の「春めき」です。私が畑の介して望遠レンズで桜に集まってくるメジロを待っていたら、一斉に飛び立ってしまいました。右側のご婦人が桜の美しさに興じて歓声をあげたのでメジロさんが驚いたのでした。春めきを悦ぶのは人間だけでは無くて鳥もモグラもみんな嬉しいのでしょう。
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小栗判官物語はモテモテの美男で武術の優れた小栗が深沼池の龍に見染められて情を交わしてしまった事から始まります。
ず説教節や浄瑠璃で有名な「小栗判官物語」は説教節で有名ですし、人形浄瑠璃で馴染まれました。
私は小栗判官も10融勇士も豪傑なのに何故戸塚の横山なる盗賊に容易く殺されてしまったのか?不思議でなりませんでした。でも最近ズット古代の「婿取り婚」と中世の嫁取り婚」を考えていて東芝製の古い電球に灯が点く様に気づきました。小栗判官物語は室町時代に出来た説教節で。素材は古代だったのです。婿取り婚時代の言い伝えを素材に「嫁取り婚」時代に普及した再生譚なのです。
明日は岩佐久兵衛版「小栗判官物語」を素材に説明させて貰います。


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小栗判官物語にみる「婿取り婚」「嫁取り婚」

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先日蜻蛉日記を素材に古代の「婿取り婚」と中世の「嫁取り婚」を説明しました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49729114.htmlその概要は次の通りでした。
道綱母(受領の娘)が名門貴族の御曹司藤原兼家(道長の父)に見染められ結婚した迄は誰もが羨む「玉の輿」でしたが、。実際の夫婦生活は正妻時子、(時子も受領の娘)に名誉は独占され、加えて時子の息子達は大栄達するし自分は実家で肩身も狭く細々暮らさざるを得ませんでした。時子に較べれば美人であるし、和歌の才能もあった道綱母の自身のプライドはズタズタに切り裂かれ、髪を下しても兼家は見向いてくれませんでした。そこで自分の夫婦日記を蜻蛉(虫)日記としてお見せします。そんな話でしたが、社会学的に見れば次の様に解説できます。
結婚迄のプロセスは道綱母のサイドから見れば「古代の婿取り婚」でありましたが、兼家は摂政に出世して自邸を紫宸殿に似せて建築してからは兼家サイドの視点に立つと中世的な「嫁取り婚」なのでした。古代の婿取り婚に乗じて兼家は「夜這い」の暁に道綱母のセックスを奪い、実生活では実家に捨て置いて「金のかからない妾」状態で一生を過したのでした。
道綱母は古代と中世の家族制度の変遷の中で貧乏籤を引いた事になります。逆に正妻の時子は年長で兼家にセックスの手ほどき(添臥(そいぶし)をして、そのまま正妻に納まり家父長制度の下で正妻の美味しいところを独占したのでした。
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これが藤原兼家が摂政就任に際し紫宸殿に模して自邸を建てた「東三条殿」の模型です。①が兼家が居た主屋寝殿で②が正妻時子がいた北の対です。④は若い妻 藤原国章の娘 が入りました。妻が沢山居ると正妻は北の対に入り東の対東北の対等幾つも別棟が建てられました。道綱母箱の寝殿に呼ばれなかったのでした。この模型は京博のもので、ウィキペディアから借りました。道長はこの北の対で生まれた事になります。
今日は「小栗判官物語」を素材にして古代の「婿取り婚」と中世の「嫁取り婚」を説明します。
実は私”小栗判官は武勇に優れていたのに何故横浜の戸塚の山賊如きに殺されたのか不思議でならなかった”のでした。最後は二人はハッピーエンドになるのですが、その意味も不明だったのでした。
こんな疑問は、”「嫁取り婚時代」の実話を「婿取り婚」時代のお話にして、語り聞かせた”と考えると氷解したのでした。
【小栗判官物語の実話】
我国説教節の代表的な物語です。熊野信徒がその布教を目的に絵を見せながら説話物語を語り聞かせたモノでした。実話は遊行寺の塔頭「長生院」に残されています。
その実話をベースに遊行寺の僧侶が全国を行脚して語り聞かせ、熊野三社の熊野先達・御師が熊野神社の霊験を広めたのでした。その際に物語の舞台を古代の「婿取り婚」時代に設定したのでした。
実際の事件は室町時代、足利幕府の破綻時でした。話の主人公小栗判官は『上杉禅秀の乱』で常陸の国の小栗満重は上杉禅秀に加担し足利持氏に敗れます。小栗満重の子助重は関東に留まります。相模の俣野で盗賊(横山太郎)に殺されようとしたものの。遊女照手に助けられ荒馬黒鹿毛に乗って遊行寺に逃げ込みます。
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これは遊行寺境内に在る「敵味方供養塔」時宗の僧は戦死者の埋葬をしました。この供養塔は上杉禅秀の乱の死者を合同で埋葬した供養塔です。以前次に書きました。https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E6%95%B5%E5%91%B3%E6%96%B9%E4%BE%9B%E9%A4%8A%E5%A1%94+%E9%81%8A%E8%A1%8C%E5%AF%BA&aq=0&oq=%E6%95%B5%E5%91%B3%E6%96%B9kuyoutou&at=s&ai=VEpisak5QgKw2Ww8QLfm1A&ts=5673&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

【小栗判官物語】
多くの川原者を擁した時宗の僧は遊行(盆踊りの原型)をはじめ、小栗判官物語を創作して説教節にそいて言い聞かせて全国を行脚しました。岩佐又兵衛は元禄時代に古浄瑠璃の台本に絵を添えて絵巻物にしました。一般に浄瑠璃物語と呼ばれ人口に膾炙したのでしたが、一番の力作が小栗判官物語です。東京美術出版の絵巻物を素材にして以下説させていただきます。
小栗判官は京の都の貴族の家に生まれます。男前の事に加えて武術にも秀でていましたからモテモテでした。
嫁を早くとるように説諭されましたが一向にその気になりません「何所ぞに良い娘が居ないか?」フラついているうちに深沼池の龍神に見染められてしまいます。龍神は美しい娘に変身して小栗を誘います。とうとう、小栗は龍神と情を交わしてしまいました。
「龍神と交わった」評判になると小栗は常陸の国に配流されてしまいます。
小栗は常陸の国から遥々東海道を京の都に向かいます。同行したのは10勇士でした。戸塚の俣野で大変に美しい姫が居る事を聴きます。娘は俣野の郷氏「横山の娘照手」でした。其処で自分の眼で確認します。照手に心を奪われた小栗は切々と恋文を書きます。恋文は照手に響きます。

困ったもんだ!カミキリムシ

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お隣の琵琶の木が枯れてしまいました。お隣は旧家で先代までは農業を営んでいて、今は戸塚駅近くの貸しビル業を営んでいますが、毎年植木屋さんを入れて管理して貰っています。私の子供のころから羨むほど大きな枇杷の実が熟していた銘木でした。枇杷が枯れるのですから「カイガラムシ」の食害に遭ったのかと思って垣根越しに観察するとどうもカミキリムシの食害に遭ったようです。枯れ木の幹に7ミリ程度の穴が幾つも見えます。

お庭の石仏

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私が最初に石仏を求めたのは地下鉄サリン事件の起きた1995年(平成7年)でした。
当時私は第一證券と云う総合証券会社に出向して。公開部長を拝命していました。当時はソフトバンクやユニクロ等が店頭に登録した時期で、公開市場には話題が多くても玉石混交で。期待通り株価が上がらないと、投資家は公開市場離れをしました。公開部は公開企業から引く受けた株式を投資家に嵌めこむのが仕事、一方株式部は投資家に喜んで貰うのが歓びですから、私は株式部と公開企業との間で双方から叱られて、苦労した時期でした。
そんな時の癒しで昼休みには向かいの三越に出かけました。三越の美術売場で新作の陶器や仏像を観て廻っていました。三越の美術売場には新作石仏も展示即売されていました。或る日当時の私でも手の届く作品が展示されました。作家名は四国今治で石仏彫刻をして40年の馬越正八氏でした。穏やかで丸顔の如来さんで「弥勒如来」と案内していました。一見して欲しくなりました。「身近に置いて一日中眺めて居たい」想いました。価格は17万円でした。今では到底手の届かない値段ですが、当時の私には少し我慢をすれば買える価格でした。
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これが私の求めた馬越氏の彫った弥勒如来です。この絵葉書は同氏のお庭で撮影したものでしょう。
今治は好きな町である上に我が生家にも縁が深い事も何かの縁だと思いました。
弥勒如来は和室の前庭竹林の中に据えました。そのうちに可愛がっていた兎が亡くなりました。また庭の主であった、巨大な蝦蟇ガエルが蝦蟇合戦で負傷して戻りました。バケツに入れて目の前に好物のミミズも置いたのでしたが、見向いてもくれず亡くなりました。その都度庭に穴を掘って埋葬しました。笛吹川の川原で拾ってきた石にラッカーで戒名を記しました。弥勒如来は彼等の墓標にしました。
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これが馬越氏の弥勒如来です。兎と蝦蟇蛙の墓標になっています。周囲の雑草は露草とシャガです。楕円形の石は墓誌の積りです。
退職してからも全国各地を回っています。最近は新作石仏も良く見かけます。欲しいと思う事も多いのですが、お財布に余裕はありません。神様は私の事を良くご存知で、時間と金、どちらかは必ず不足にしておいでのようです。小人は金も時間もあると不全を為すのでしょう。でも此処数年はそれでも心配されたのか健康も不充足にされました。でも、リハビリによって健康に自信が在った時代には気付かなかった発見も多くしました。
数日前ネットで新作石仏が出ていることを知りました。最初は福岡の作家で「田の神様」が出ていました。奈良正暦寺下の田の神様に似た素朴な像でした。3万円も出せば落せるだろう入札しておいたのでしたが落札できず結果的には5万円で落札された事を知りました。今月に入って那須塩原の関正利氏の作品を見つけました。
塩原神社には高名な閻魔大王像も祀られています。好きな土地です。気に入ったので適当に入札しておきました。お地蔵様に3千円双体道祖神に5千円です。現役時代に較べれば天と地の差がある価格です。塩原の関氏には気の毒な価格差です。
結果的には2点とも落札しました。一昨日玉ねぎの段ボールに入って届きました。ワイフは何を買ったのか怪訝そうです。次には何処に置くのか不安気です。
わたしは道祖神は門から入った場所に置きました。馬酔木の花陰に据えました。道祖神は賽の神ですから招福除厄の任を果たしやすい位置です。一方お地蔵様は柿の苗の足元に据えました。折から咲き出したナズナ(俗称ぺんぺん草)がお似合いです。
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門を入った処に据えた双体道祖神です。那須の石材で下半身は一体で上半身が男女の神像です。もうシャガが咲き出しました。
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雨に濡れると表情がハッキリするのが石仏の面白いところです。
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此方はお地蔵さんです。柿の苗を活けた植木鉢の上に据えました。白い花弁は頭上の白木蓮です。白い小花はナズナ(ぺんぺん草)です。
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空豆の天麩羅

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俣野の畑でも空豆の花が咲いていました。花を観た途端に空豆が食べたくなりました。
スーパーのチラシには長崎や熊本産の空豆が出回り始めました。私は「最期の晩餐では空豆を、天麩羅で戴きたいね!」呟きました。
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これが空豆の花です。花が空を向いて咲けば実も空を向いて稔ります。
ワイフは「脳梗塞までして、懲りない人ね!」なんて言いながらも「空豆の天麩羅」は満更でもないようです。
ネットでレシピなど検索していると思ったら思惑通りに、夕飯に精進揚げが用意されました。素材は空豆を入れ込んだ「掻揚」アスパラに蕗の薹、そして庭に生えた蓬の若芽(俗称餅草)をあげてくれました。
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これが今晩のメイン空豆です。大きな鞘にお豆が3,4個真綿に包って入っています。
メインは掻揚です。空豆に新ジャガに新玉ねぎに蟹窯を用意してくれました。蕗の薹も、蓬の精進揚げは息子は苦手です。幸い今晩は息子は博多に出張です。屹度そんなこともあって、ワイフは精進揚げに前向きになったのでしょう。
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掻揚の素材は剥いた空豆がメインで新ジャガに新玉ねぎそれに色添えに蟹蒲鉾です。
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今晩の夕飯は空豆の掻揚天に餅草に蕗の薹の精進揚げです。
昔ピラミッドの棺の中に空豆が入っていたと聞いた覚えがあります。若しかしたらエジプトでも死者の魂は空に上ると考えたのかもしれません。だったら「ジャックと豆の木」は天空にある霊の国にジャックが昇って鬼の宝物を盗んで地上に戻った寓話なのでしょう。そう考えると空豆の花は白(霊か雲)にブルーそして黒(鬼)です。
食いしん坊の私は”花の綺麗な藤の実が若しも空豆の様に柔らければ良いのにな!”想いました。そうしたら思う存分空豆を食べられるし、「ジャックと豆の木」の豆の木とは藤であると主張できたのに・・・・。想うのです。
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これは山梨笛吹川沿いの町内会館の庭先に在る藤棚です。藤の根元にある石仏は23夜様(勢至菩薩)です。花が終われば空豆に似た鞘が沢山ブラ下がります。でも硬くて到底食べられません。採取して粉にすれば良いのでしょうが・・・・。何時か藤豆の饅頭を食べてみたいものです。

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洗濯する女性

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今春既に2度も俣野に「片栗の花」を観に出かけました。でも、二度ともまだ早く片栗は硬い蕾でした。今週末には見頃になりそうな期待が高まります。私が片栗の花が好きなのはその美しさもあるし、希少な山野草(絶滅危惧種)である事ももありますが、次の家持の和歌に依る事も大きいのです。
もののふの 八十娘子らが 汲みまがふ. 寺井の上の かたかごの花. (大伴家持 万葉集巻19- 4143. )
私はズットこんな場面をイメージしていました。
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これは東俣野に咲く片栗の花です。葉っぱが緑と紫のマダラ模様なのはでんぷん質が多いからです。昔から片栗粉にしてでんぷんを食してきました。
国司のなって赴任地(越中国)に下っていった大伴家持が白山の麓の寺を通り過ぎようとした時です。お寺の井戸に娘が集まって井戸水を汲みながら何やら楽しげにお喋りしている。其処だけに陽射しが差して春が来た様に華やいでいる、その井戸の傍らには片栗の花が楚々として咲いている事よ・・・・・・。
私は娘達が集まっているのは朝餉に使う水を汲んで家に戻ってこれから飯を炊き汁を用意するモノと思っていました。
ところが最近『古代の女房の生活』を調べている中に「扇面法華経」(四天王寺国宝)の絵を観ていたら女性が井戸端に集まって石の上に洗濯物を乗せて、足踏みして洗って居る絵がありました。
ならば家持が観た娘達も井戸端に集まって洗濯をしていたのでしょう。水汲みなら直ぐに井戸端を離れてしまいます。洗濯なら暫く井戸端に居なくてはなりません。娘達は白い脛を見せて世間話に興じながら国司の視線に気づいていないのでしょう。女は古代からお喋り好きで特に井戸端会議が好きだったのでしょう。
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これが扇面法華経の図、娘が井戸端に集まっています。娘の脇には盥が在って娘は洗濯物を足で踏んでいます。一方下女風の女は裸の童子の手を曳いています。頭上には水を入れた桶を乗せています。
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一方此方の扇面法華経では下女が盥に入れた洗濯物をモノ干しに干しています。
多摩川べりの世田谷に砧があります。「砧を打つ」とは麻布を木槌でトントンと叩く事です。屹度多摩川の河川敷は麻が自生していて、女が布に織って更に砧に打って布を柔らかく光沢を出したのでしょう、砧と云えば次の和歌を想い出します。
み吉野の 山の秋風 小夜(さよ)ふけてふるさと寒く 衣打つなり
           参議雅経(古今集94番)
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和歌の大意は次の様なモノでしょう。『夜が更けて来ると山里は一段と寒くなってきました。此処昔は都のあった吉野砧を打つ音が響いて来る事よ・・・・』
砧は和歌にも絵にも描かれましたが紫式部は夕顔で上手に使っています。
『雨夜の品定め』で源氏は市井の女性が素敵で在る事を聞かされていました。源氏は偶然に乳母の館に泊まります。お隣は貧素な屋敷で、生け垣に夕顔が咲いていました。源氏はその屋敷の女性を垣間見て関心が高まります。歌を贈りますが。女は身分の違いから源氏を受け入れません。源氏はそれでも燐家に忍びます。二人は縁に出て8月15日の満月を眺めます。すると何処からともなくトントンと砧を打つ音が響いて来ます。乳母の屋敷は5条でしたから、屹度鴨川5条の川原で誰かが砧を打っていたのでしょう。でも翌朝、夕顔が萎れる時間に女は息を引き取ります。源氏は夕顔は六条御息所の生霊に取り殺された事を察知します。
紫式部は「式部」と云うのですから女官としては中級でしょう。でも和漢の才は豊富だし書も出来る人物でしたから道長が娘の彰子の相手に白羽の矢を立てたのでしょう。今で云えば和漢の才が長けた専門職でした。そんな女官がどんな生活をしていたかは紫式部日記等の日記文学に残されています。でも日記文学は狭い宮中の人だけが読者です。面白いのは庶民的な視座です。その意味では東博の「病草紙」があります。女官の登場するのは「口臭の臭い女」と「顔に痣のある女」です。
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これは東博の病草子の「息の臭い女です。右の上着を着ているのが主人で一重の女性は従者でしょう。
前者は女主人が従者二人に訊いています。
「如何?私の吐く息く無いかしら?」
すると従者は主人を指さして大笑いしています。
「とっても臭くてよ!貴方様は口うからもオナラが出ているんじゃないのかしら!」
女主人は怒りのでも無く一緒に笑っています。
平安時代のパワーエリートは庶民の生活も熟知していたし、息の臭いのも痣があるのも気にしていました。現代のОLや上級職女性と少しも変わらない可愛い女性だと思うと愛おしさが増します。


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婿取り婚と嫁取り婚

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古典を読んでいて解らないことが多々あります。高校時代の古文の授業で解らなかった事の一つが「何故光源氏はかくもモテモテで次から次に女性遍歴が出来たのだろうか?」言う事でした。男子校のニキビ顔には刺激が強い上に一夫一妻制しか知らないのですから古代の性のおおらかさや一夫多妻は理解できなかったのでしょう。朝後の歌とて。全く理解の外でした。「男性が女性の部屋を訪れて翌朝別れる事が惜しくて名残惜しさを歌に託するなんて時代も変わりすぎていますし、若干17歳のニキビ顔には理解しろ、」と云うのが無理と云うモノです。
   1,明けぬべく千鳥しば鳴く 白妙の君の手枕いまだ飽かなくに    万葉集
 2 しののめのほがらほがらに明けゆけば をのが衣ぎぬなるぞ哀しき 古今集
1の歌は「君の手枕でもっと寝ていたい」等「よく言うよ」としか思えません。チドリ(夫婦仲が良いので有名)鳴き声で目を覚ましたらもう明け方になっていた。
昨夜お互いの衣を掛け合って同衾したのだが今朝は自分の着物は残して別れなくてはならない。妻の寝顔を横目に見て着物を残して(朝後して)帰らなくてはなりません。
2の歌は妻の気持ちになって歌った朝後の歌でしょう。
「 しののめが明るくなって夜が明けたので目を覚ましてみると、あなたの衣がお布団に掛けてあった。貴方の優しさと残り香を嗅ぐと愛おしい」なんて歌が理解できる高校生がいたら不良です。
清少納言は「春は曙」と指摘しましたが。男運が悪かった彼女の事、こんな歌は知らなかったか、知っていても「いい気味だ!」意地悪叔母さんだったことでしょう。
高校の授業では古代の結婚の講義はありませんでした。古代は家の中核は母親で、結婚は「通い婚」だったので、男は、女のところに通って行きました。娘の部屋に忍んだ男は、互いの衣を相手に重ねて掛けて寝る。そして、朝早くその衣を残して、娘の元から別れて行かなければならなかった。これを『後朝(衣ぎぬ)』といいました。
 娘はは、今度いつ会えるかるのかもわからない。男もしかとは約束できない。そこに恋々たる情趣が生まれ、歌ができたのでしょう。別れは哀しいもの。そして「明日も来てくれるかもしれない」期待も重なります。後朝の歌は、概ね「哀しみ」と「期待」が織りなしているのです。
因みに通いが3晩続くと二人は結婚したものと見做されます。三日目が終わると、露顕(ところあらし)が行われます。現代の被露宴のようなお祝会です。男の従者や家の奉公人等全員に祝の食事とお土産が配られます。
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これは源氏物語絵巻の東屋です。薫は亡くなった父(光源氏)の面影を宿した浮舟(左上)に心を寄せます。浮舟も母の6条の君(左下髪を梳いて貰っている)も身分の違う二人の結婚に反対します。6条の君は動揺する浮舟を部屋の奥に囲い物語を読み聞かせて慰めます。
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これは源氏物語絵巻宿木です右の御簾の陰に居るのが匂宮と浮舟です。匂宮は浮舟に通い続けて三日が過ぎると隣の部屋には女房や6条の君が集まっています。これから露顕(ところあらし/結婚被露宴)が行われるのです。こうして二人は結ばれるのでした。たとえ身分が女が低くて男が高くてもこの図式は変わらず。費用は総て女の家が負担します。こうして匂宮は6条君の婿になるのです。
手に摘みていつしか見む紫のねに通ひける野辺の若草(若紫63)
これは源氏が美しい少女(稚児)を見つけて歌った歌です。大意は源氏が若紫について、野辺の若草に擬えて 
  ”早く手に摘み入れて、早く見たいものだ”歌ったものです。
光源氏は桐壷の更衣の子で母の顔は知りません。桐壷の面影を求めて藤壺の女御に恋します。藤壺が里帰りした機会に密通を果たします。藤壺は男子を出産します(この子は次の帝になります。源氏の桐壷更衣への執着は継続して若紫を育てて「紫の上」として迎えるのです。

古代は根本的には母系社会です。母を核にしてイチゴや里芋が小芋や子株を増やす様にして氏族を拡大して行きます。天皇家の祖先も同様だったのでしょう。だから天照大神と云う名の女神を親芋にして一族を拡大した。女性の御名たる所以は子供を産む事です。子供を産んで氏族を拡大していったのに対し男は戦いに秀でています。古代社会は不比等が整備した律令制度の様に国土も国民も天皇家のモノだとしました(公地公民制」。
一方政争が増えて荘園の私有が認められると社会は父系社会に転じます。母系社会が「通い婚」「婿取り婚」であったのに対し父系社会は「嫁取り婚」に180度転換します。変革期が院政時代であり、平家が天下を獲った時代でした。
変革期に残された最高の文学が道綱の母が残した蜻蛉日記です。
舞台は最高権力を思ひの儘にした藤原北家。藤原兼家は妻に30歳も年上の時子を迎えます。更に兼家は本朝三美人と評判で和歌の妙手道綱母を迎えます。兼家は摂政就任に際し紫宸殿に似せて東三条邸を築きました。そして時子を北の館に迎えます。館には東の館もありました。道綱母は東の館に迎えられるものと期待します。でも東の館に迎えたのは道綱母よりズット若い藤原国章の娘でした。蜻蛉日記の名は「世の女房達よ。女房は三Kを夢見ます。光り源氏のような白馬の貴公子が何時か迎えに来てくれる…。私もそう夢見ていました。でも光源氏は物語の世界で現実は惨いモノです。私は誰しも羨む摂政の妻に迎えられまあしたが。夫の浮気性好色は私を地獄に落しました。私は髪を切って抗議したのでしたが空しいモノでした。そこでこの日記を蜻蛉日記と名付けました(かげろうは蜻蛉か陽炎の掛詞でしょう。)


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これは蜻蛉日記の一場面絵は石山寺縁起絵巻です。この場面は道綱母(先頭の市女笠の女性/多分髪の毛を落としています)が養女と従者を連れて逢坂山を越える場面

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遊行寺の杏の花

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「杏花」と云えば中信の更埴市森村です。生前義母は上田に疎開していたそうです。若しかしたら更埴の杏を観たかもしれません。石仏好きの私ですから何度も上田近辺に旅をして杏のジャムや美鈴飴を土産にしました。今思うに『上山田温泉に連れて行ってあげれば良かった』残念でなりません。
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これは更埴市森町の杏の咲く風景です。向こうの小山の麓に私の親戚の禅寺もあります。山を越えれば向こう側は真田街です。
梅が散れば期待は桜です。桜の咲く少し前に一斉に咲くのが杏です。
「杏の花を観たい」思って3月19日、藤沢の遊行寺に上りました。
遊行寺の境内には杏の古木が2本ありました。一本は遊行寺の地主神でもある「俣野権現様」の前です。銀杏に囲まれているのでヒョロヒョロ背伸びしています。もう一本は寺務所前に在ったのでしたが先年伐採されて駐車場になってしまいました。「花の事は花に訊け」と喝破された一遍様のお寺にしては参拝客に慮り過ぎです。もう一本は若木で遊行茶屋のベンチの前にあります。
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これは藤沢の遊行寺です。花木の多い遊行寺ですが。とりわけこの放生池池畔の白木蓮が見事です。
私とワイフは遊行茶屋のベンチに腰かけて「(ボタモチは無いの?」注文したのですがボタモチは無いそうです。「俣野権現さんの横の杏花はどうしたの?」尋ねると女将さんは庭師さんを呼んで確認してくれました庭師さんはびっくりして走って俣野権現様に向かい、報告してくれました。
「権現様の杏子は東側が熊野神社の陰になっているので花が遅いだけです。一杯蕾をつけていますよ。」
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向かいが遊行寺の本堂です。遊行茶屋の店先には杏の若木が在って。娘の様な花を咲かせます。濃いピンクの花と臙脂の鍔のコントラストが可愛いの一言です。
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正面の祠が俣野権現手前の細い古木が杏の樹です。梢に沢山の蕾がありました咲くのは10日程後でしょう。
私は遊行寺には庭師が常駐して居る事を始めて知りました。
そこでかねがね気になっていたことを質問しました。
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これがズット気になっていた遊行寺寺務所入り口に在る老樹です。木の樹皮一枚で辛うじて生きています。掌で触ってみると硬くてツルツルしていて。まるで百日紅か花梨の樹皮の様でした。でも木の髄は腐ってしまって洞になっています。
「寺務所の前にある指定銘木の菩提樹の横にある樹は何ですか?」
樹皮だけ見ると花梨のようですが葉っぱは葉書の木/多羅葉)の様にも見えますが・・・・。」
すると庭師さんは
「あれは博奕の木」ですよ。
云われます。私は
「博奕の木だから首の皮1枚なのですね。」
云うと庭師さんは
「そうです、博打打は熱くなって身包みを剥がされて裸にして追い出されます。博奕の樹は百日紅の様に樹皮が剥がれてしまいます。だから博奕の木なんです。」
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これは遠州森町洞雲寺にある森の石松の墓墓石は全国から遣って来る博打打のゲン稼ぎで砕かれてしまっています。現代のお墓は鉄の檻に納まっています。写真の出典は奥三河観光ナビhttp://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=231
私はなるほど納得しました。奥三河森町の洞雲寺には森の石松の墓があります。博打打には森の石松は神の様な存在で石松の墓は壊されてしまっています。
訳を聴くと「石松の墓の破片を懐に入れておくと博奕に勝てるという噂があるんだそうです。現在のお墓は何代目かで、壊されない様に鉄の檻で囲まれていました。

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