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人魚と「死」の実相

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奈良のスターバックスで気付きました。紙コップについている絵は人魚に違いない、それもグラマーで尾鰭が二つも在る人魚です。
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此れがスターバックスの商標の人魚です。
処で高校の数学の授業(ベクトル)で三次元の説明を受けました。
ゼロ次元とは方向の無い世界です。「点」に生きる蟻地獄や油虫はゼロ次元の生物でしょう。
1次元とは空間で線だけの世界です。(上下か左右しかありません屹度「蟻」は1次元世界で生きているのでしょう)
2次元とは面のある世界です (上下と前後だけの世界) ですから、マリオの世界のようなイメージです。蛇も百足も二次元世界で生きています。
3次元とはが立体のある世界です人間や鳥は三次元世界で生きています。
では4次元世界とは何でしょうか?
授業では「4次元とは時間の制限の無い世界」と教わりました。SFの「タイム・マシン」が該当します。
昔の人4次元の世界を妄想したのでしょう。御伽草子の「浦島太郎」や「八百比丘尼/やおびくに」伝説がそれです。
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此れは若狭小浜の博物館で展示された八百比丘尼像写真出典毎日新聞https://mainichi.jp/articles/20170503/ddl/k18/040/207000c何故か八百比丘尼伝説は北陸地方に多いのです。何処も洞窟がある事椿の杜が自生していること等共通しています。白山信仰(熊野信仰の兄弟社)の地盤です
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此れは箱根の精進池の池畔にある八百比丘尼の墓と言い伝えられている宝篋印塔の基壇です。精進池は魚が棲まない死の池です。そのイメージが八百比丘尼の伝説を生んだのでしょう。
人魚の肉を食べて、永遠に命があって永遠に美しく在ったために苦しんで洞窟に入って自害したのが八百比丘尼の最期です。四苦(生老病死)は人間である事から避けられない苦しみでありますが、八百比丘尼は「死ねない、老いない」事に耐えられずに自害します。そして竜宮城で快楽を貪んだ浦島太郎は乙姫から預かった「玉手箱」を開けた事から封じ込められていた歳月が煙になって時間が早送りされて老死してしまいます。
人魚の肉を食べて、永遠に命があって永遠に美しく在ったために苦しんで洞窟に入って自害したのが八百比丘尼の最期です。四苦(生老病死)は人間である事から避けられない苦しみでありますが、八百比丘尼は「死ねない、老いない」事に耐えられずに自害します。そして竜宮城で快楽を貪んだ浦島太郎は乙姫から預かった「玉手箱」を開けた事から封じ込められていた歳月が煙になって時間が早送りされて老死してしまいます。
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此れはボロボドール遺跡の須弥壇の四方に刻まれた四門遊観図の一つ、釈迦(中央右)は王城の西門を出ると死者(左端)を観る。これ以前に北門を出た処で出家修行者を観て、南門を出て病人を観て、東門を出て杖にすがる老人を見ている、この観察を経て出家する事を決意します。四門遊観図は次に詳しいhttp://borobudur.travel.coocan.jp/firstmainwallrelief.html
どちらの話も「欲望の儘に長生きするのは惨く、」「歳月を生きて、時期が来たら満足して死を受け入れるのが幸福である」と教えています。お釈迦様も四苦の認識から王城を出て悟ったものの、永遠の命を受けた訳でも無く弟子や動物に見送られて一般の生命と同じく三次元世界で終焉します。人間の幸福は「欲望の儘に長生きする事では無くて、隣人や生物に見守られて満足して死路に旅立つ事」なのでしょう。
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これは法隆寺五重塔の一層北面涅槃像土像 国宝 奈良時代(711年)写真出典法隆寺 
スタバが何故人魚を商標にしたのか訳は知りま私の学生時代はアップルもマックも青息吐息の企業でした。ところがIPaDを開発し、IPhоneで市場を開発すると状況は一変し時価総額世界一の企業になりました。林檎を齧るのは神の教えに背くのですが、あえて大衆の欲望を照準に運営する事で成功したのでした。人類は数千年の歴史の中で欲望を抑える事の知恵を学びました。中世が終えてルネッサンスを迎えて人類は羅針盤を開発して大航海時代に入りました。人間の欲望は先ずセックス(種の保存)と長生きです。大航海時代の欲望を象徴したのが美しい人魚でした。だからルネッサンス時代の人魚はどれも官能的です。ローレライだけは中世的で”欲望に身を任せると破滅する”と警句を発しています。
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此れは立山の民俗博物館のポスターです。立山は山自体が阿弥陀浄土であると同時に山麓には地獄の景色も併せ持っています。修験者の住居であった芦峅寺(あしくらじ)は修験者の宿坊でもありました。ポスターの上半分は布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)の模様で、閻魔大王の前から芦峅寺まで晒しの布を辿って死から生まれ変わると説いています。

処で9月1日には越中八尾に「風の盆」を仲間24人で観に行く予定です。旅行前に調べていると、立山の阿弥陀信仰は越前白山の観音信仰の影響を色濃く受けています。双方とも熊野修験道の地方発展で。義経は羽黒修験に身を変えて身を隠しました越中八尾を私達は「やお」と呼んでいますが当地の人は「やつお」と呼んでいました。漢字は別にしても口語では「やお」です。八百比丘尼の「やお」です。八百比丘尼伝説の発祥は若狭小浜で伝説の地は越前海岸から越中の海岸に集中しています。椿の自生地が在って海岸洞穴が在ると大概が八百比丘尼の入定地です。近くには勾玉石の産出地「翡翠海岸」もあります。海岸洞穴が入定地なら翡翠海岸は誕生地です。要するに越中八尾は八百比丘尼の「八百」ではないのか思いついたのです。
「八尾」と云えば中小企業が集積する東大阪の八尾を想い出しますが「八百」と書けば全国各地にあります。
八百の地名をスポットして行くとその過半が水銀の産出地なのです。水銀は古墳に遺体を腐食させない無機金属です。立山を水源にする神通川は河口住民に「イタイイタイ病」を発症させました。イタイイタイ病は第二の水俣病でした。地名は言葉の呪性や重みを伝えています。漢字に囚われてしまうと日本人の呪術性を見失ってしまいます。





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人魚で思う「死」の意味

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奈良のスターバックスで気付きました。紙コップについている絵は人魚に違いない、それもグラマーで尾鰭が二つも在る人魚です。
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此れがスターバックスの商標の人魚です。
処で高校の数学の授業(ベクトル)で三次元の説明を受けました。
ゼロ次元とは方向の無い世界です。「点」に生きる蟻地獄や油虫はゼロ次元の生物でしょう。
1次元とは空間で線だけの世界です。(上下か左右しかありません屹度「蟻」は1次元世界で生きているのでしょう)
2次元とは面のある世界です (上下と前後だけの世界) ですから、マリオの世界のようなイメージです。蛇も百足も二次元世界で生きています。
3次元とはが立体のある世界です人間や鳥は三次元世界で生きています。
では4次元世界とは何でしょうか?
授業では「4次元とは時間の制限の無い世界」と教わりました。SFの「タイム・マシン」が該当します。
昔の人4次元の世界を妄想したのでしょう。御伽草子の「浦島太郎」や「八百比丘尼/やおびくに」伝説がそれです。
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此れは若狭小浜の博物館で展示された八百比丘尼像写真出典毎日新聞https://mainichi.jp/articles/20170503/ddl/k18/040/207000c何故か八百比丘尼伝説は北陸地方に多いのです。何処も洞窟がある事椿の杜が自生していること等共通しています。白山信仰(熊野信仰の兄弟社)の地盤です。
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これは箱根の芦之湯温泉に近い精進池の遊歩道に建っている八百比丘尼の墓と伝えられる宝篋印塔の基壇。後ろの山が駒が竹で池は魚が棲めない「死の池」です。そんな環境が八百比丘尼の伝説を生んだのかもしれません。以前https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893303.html?m=lc&sv=%C8%A2%BA%AC&sk=0に書きました。
人魚の肉を食べて、永遠に命があって永遠に美しく在ったために苦しんで洞窟に入って自害したのが八百比丘尼の最期です。四苦(生老病死)は人間である事から避けられない苦しみでありますが、八百比丘尼は「死ねない、老いない」事に耐えられずに自害します。そして竜宮城で快楽を貪んだ浦島太郎は乙姫から預かった「玉手箱」を開けた事から封じ込められていた歳月が煙になって時間が早送りされて老死してしまいます。
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此れはボロボドール遺跡の須弥壇の四方に刻まれた四門遊観図の一つ、釈迦(中央右)は王城の西門を出ると死者(左端)を観る。これ以前に北門を出た処で出家修行者を観て、南門を出て病人を観て、東門を出て杖にすがる老人を見ている、この観察を経て出家する事を決意します。四門遊観図は次に詳しいhttp://borobudur.travel.coocan.jp/firstmainwallrelief.html
どちらの話も「欲望の儘に長生きするのは惨く、」「歳月を生きて、時期が来たら満足して死を受け入れるのが幸福である」と教えています。お釈迦様も四苦の認識から王城を出て悟ったものの、永遠の命を受けた訳でも無く弟子や動物に見送られて一般の生命と同じく三次元世界で終焉します。人間の幸福は「欲望の儘に長生きする事では無くて、隣人や生物に見守られて満足して死路に旅立つ事」なのでしょう。
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これは法隆寺五重塔の一層北面涅槃像土像 国宝 奈良時代(711年)写真出典法隆寺                             
スタバが何故人魚を商標にしたのか訳は知りまん。私の学生時代はアップルもマックも青息吐息の企業でした。ところがIPaDを開発し、IPhоneで市場を開発すると状況は一変し時価総額世界一の企業になりました。林檎を齧るのは神の教えに背くのですが、あえて大衆の欲望を照準に運営する事で成功したのでした。人類は数千年の歴史の中で欲望を抑える事の知恵を学びました。中世が終えてルネッサンスを迎えて人類は羅針盤を開発して大航海時代に入りました。人間の欲望は先ずセックス(種の保存)と長生きです。大航海時代の欲望を象徴したのが美しい人魚でした。だからルネッサンス時代の人魚はどれも官能的です。ローレライだけは中世的で”欲望に身を任せると破滅する”と警句を発しています。
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此れは立山の民俗博物館のポスターです。立山は山自体が阿弥陀浄土であると同時に山麓には地獄の景色も併せ持っています。修験者の住居であった芦峅寺(あしくらじ)は修験者の宿坊でもありました。ポスターの上半分は布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)の模様で、閻魔大王の前から芦峅寺まで晒しの布を辿って死から生まれ変わると説いています。

処で9月1日には越中八尾に「風の盆」を仲間24人で観に行く予定です。旅行前に調べていると、立山の阿弥陀信仰は越前白山の観音信仰の影響を色濃く受けています。双方とも熊野修験道の地方発展で。義経は羽黒修験に身を変えて身を隠しました越中八尾を私達は「やお」と呼んでいますが当地の人は「やつお」と呼んでいました。漢字は別にしても口語では「やお」です。八百比丘尼の「やお」です。八百比丘尼伝説の発祥は若狭小浜で伝説の地は越前海岸から越中の海岸に集中しています。椿の自生地が在って海岸洞穴が在ると大概が八百比丘尼の入定地です。近くには勾玉石の産出地「翡翠海岸」もあります。海岸洞穴が入定地なら翡翠海岸は誕生地です。要するに越中八尾は八百比丘尼の「八百」ではないのか思いついたのです。
「八尾」と云えば中小企業が集積する東大阪の八尾を想い出しますが「八百」と書けば全国各地にあります。
八百の地名をスポットして行くとその過半が水銀の産出地なのです。水銀は古墳に遺体を腐食させない無機金属です。立山を水源にする神通川は河口住民に「イタイイタイ病」を発症させました。イタイイタイ病は第二の水俣病でした。地名は言葉の呪性や重みを伝えています。漢字に囚われてしまうと日本人の呪術性を見失ってしまいます。





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鳳仙花の記憶

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我家の庭は陽当りが悪いので総じて草花は遅咲きです。今年は仏花として千日草と遊び花として鳳仙花を撒きました。ベランダに置いた千日草が咲き出したのでお盆には間に合いましたがは鳳仙花は漸く盛りになりました。
中学生の頃顕微鏡で鳳仙花の茎の横断面を観察したモノでした。茎をスライスしてプレパラートに載せて横断面を観察します。勿論染料は鳳仙花の花を潰してその汁を使いました。


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此れが鳳仙花の茎の断面です。中央にある管が道管と呼び水分が通過します。周辺部にある管が師管と呼び栄養分が通過します道管と師管の間に形成層が在って。形成層の細胞分裂によって茎は太るのです。写真の青い部分は澱粉質が染まったモノです。

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此れは鳳仙花の原種吊舟草です。渓流に自生しています鎌倉中央公園の棚田には群生しています。今頃が見頃です。

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これが鳳仙花です。野山の渓流や池の淵に咲いている吊舟草の仲間です。筒状の花ですから寄ってくる虫も蜜蜂や大型の蝶では無くて小さいか吸い口の細く長い昆虫だけです。可愛い事と誰しもが想い出を宿しているので庭花として愛されています。

鳳仙花への想いは民俗や地方に依らずに少女の記憶に刻まれているようで。沖縄では「てぃんさぐ」と呼ばれ、「てぃんさぐの花」は誰にも愛される民謡です。ウィキぺェアによると「韓国では、爪にホウセンカの汁を塗り、初雪まで色が残っていたら恋が実ると言う伝承がある」そうです。ネイルアートなら未だしも鳳仙花の汁では選択や掃除をセッセ・セッセとしたら、じきに爪の色は消えてしまう事でしょう。女性が齢に依らずに爪を化粧したがるのは昔から変わらないようです。
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此れはベランダに置いたプランターで育てた千日草です。日持ちが良いので盆や彼岸の仏花には最適です。
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此方は庭に置いたプランターで育てている鳳仙花です。水欲しがりですが日陰でも酸性土でも育つので手のかからない田舎娘のような花です。我が庭でも朱・ピンク・紫と多彩なのも長所です。
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夕闇の鳳仙花、幾分花は萎んだようです。カマキリが隠れて蝶や虫を待ち伏せしていました。鳳仙花の花は筒状なので虫は筒の中に入り込んでしまいます。蟷螂にとっては格好の餌場なのでしょう。
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此れは玉川大学の教育博物館に展示している宮川春汀の子供風俗飯事図です。飯事遊びの道具は港北NTにある横浜歴史博物館にも展示されています。

私の生家は寺院でしたから近所の子供達の遊び場でした。本堂の須弥壇の裏には仏具と一緒に供え物の容器や膳が終われていました。仏前用の茶碗や膳は「御飯事遊びの格好の道具でした。私は総じてお寺の小坊主で悪餓鬼でしたが女の子と遊ぶ優しさも併せ持っていました。そこで須弥壇下の戸棚に仕舞われている仏具の容器を持ち出して縁側で御飯事遊びをしました。ご飯は百日紅の落花で赤飯と見做しました。汁モノには鳳仙花を浮かべました。時間が経つと汁に色が滲むのです。問題は主菜でした。葉蘭の葉っぱで鯖にしたり。熊笹を並べて鰯にしました。。暫し遊んでいる中に私の餓鬼の本性が出てきて空蝉や芋虫やバッタをお茶碗に隠して顰蹙をかったり女の子を泣かせたりしました。その幼馴染も今では良いお婆さんになって時折道で挨拶します。
最近実家に残した母様が亡くならたので、会う機会もメッキリ減ってしまいました。
でも鳳仙花で爪を染める事はしませんでした。
友禅染の下絵を描く染料に露草の花を使うと聞きました。露草の染料は洗えば綺麗に消えるので下絵描きには最適なのだそうです。でも露草の花は小さいので採集するのが大変です。鳳仙花なら直ぐに必要量を確保出来そうです。
鳳仙花の花言葉は「私に触れないで」だそうです。理由は直ぐに判ります。鳳仙花の種は苞に仕舞われています。苞が透き通って中の黒い種が透けて見える頃に少しでも触れると苞が弾けて種が遠くまで飛んで行くのです。我家の鳳仙花の種は未だ遠くに飛ぶほどに熟していませんが9月になれば遠くまで飛ばせる程に完熟するでしょう。幼馴染は触れもせず、すぐに泣き出してしまいました。
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此れが鳳仙花の種が仕舞われている苞です。何が触ると苞は手品のビックリ箱のように弾けて中の種が周囲に飛び散ります。





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行く夏を惜しんで・・・・・。

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今夏は雨勝でおかしな夏でした。庭には蝉の死骸が転がって蟻がセッセと解体して巣に運んで行きます。縁の下で蟋蟀も”冬が来るぞ”と啼いています。
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此れは常楽寺阿弥陀堂の軒下に転がっていた蝉の遺体直に蟻さんが地下に運んでしまう事でしょう。以前次に書きました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47490596.html
ショッピングセンターや図書館では子供達が夏休みの自由課題の追い込みをしています。夫々に過ぎ行く夏を惜しんでいるようです。私は今夏雨が多いのを良い事にテレビ高校野球を満喫しました。18日には盛岡大付属高校が5回に満塁本塁打を打ったので盛岡が勝った思えばその裏に愛媛の斎美高校が満塁本塁打を打ち返して振り出しに戻したり、19日の第4試合では9回裏2死から仙台育英が大阪桐蔭に逆転サヨナラ勝をするなど到底プロ野球ではお目に懸れない熱戦とドラマを見せて貰いました。もう高校野球も残り7試合しかないと思うと寂しくなります。

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由比ヶ浜海岸でのフラダンス。これも数年前海浜での音楽禁止で観られなくなってしまいました。加えて今年は海の家での「相席禁止」で鎌倉の浜辺は若者に敬遠されてしまいました。海の家の業者は天気と市当局双方を恨めしく見て居る事でしょう。
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夕闇の由比ヶ浜昼間の喧騒は嘘のような静けさです。もうじき燕も南国に帰ってしまいます。
例年片瀬海岸や由比ヶ浜海岸の海の家に出かけて冷たい飲み物を飲んだりお嬢さんの水着姿を眺めたりしていたのでしたが。今年はエロ親爺からテレビ親爺になってしまいました。
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片瀬海岸に花火。神奈川の花火の掉尾を飾る花火大会で今年は8月22 日(火) 19:00~19:20の予定です。
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江の島神社境内から片瀬海岸を観る。
今年は99回大会この機会に優勝旗を白河の関の北に運んでほしいモノです。

髪型の文化

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お盆も終えてワイフが仏壇を掃除していたら手拭が後から後から出て来ました。私が旅の記念にアッチコッチで買い求めたモノを仏壇の引き出しに閉まって置いてくれたモノです。折しも裏山から日暮蝉が啼き出しました。
私は仏壇の主母の好きだった歌謡曲を想い出しました。
銀杏返しに黒襦子かけて
泣いて別れた  隅田川
想い出します  観音様の
夏(秋)の日暮れの 鐘の声
実は私は最後のフレーズを「蝉の声」と思っていたのです。
母は浅草の道具屋の次女(大阪弁の「こいさん」)だったのです。
島倉千代子さんのファンでしたので気分の良い日は「隅田川」を謳っていました。
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此れは竹久夢二の「黒船屋」です。髪型は銀杏返しで半襟は黒襦子です10代を終えて20歳に近い娘の色香を表現して夢二の代表作です。

 

中条流の大転換

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中条 長秀と云えば。挙母(ころも/豊田市)城主で。 剣術の・中条流の創始者であり室町幕府の評定衆。 足利義満の剣術指南役を務めた剣豪としても知られています。今は金沢にあ慈雲寺に墓所があります。南北朝時代に始まる名家ですが、一般に中条流と云えば江戸時代の堕胎専門医として知られています。
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これは江戸時代の堕胎専門医中条流の』出典『北里花雪白無垢』)看板側面に女医者流水表面に朔日丸(毎月1日に服用すると妊娠しないという効能のある服薬丸)そして表通りには大夫がオコソ頭巾を被った女将風の女性を案内しています。医者の二階には手代風の男が医者に袖の下を渡しています。その隣の部屋にはお腹の膨らんだ女将を女医者が脈診しています。江戸時代の避妊方法は噛んだ和紙を膣内に挿入しておき厠で捨てる方法でした。でも妊娠したら堕胎する他方法はありません。堕胎薬は鬼月(ほおずき)や水銀の毒を含んでサポニン中毒になる事でした。鬼月の毒なら(シュウ酸)なら彼岸花や水仙の球根にも蓄積されていますが、中条丸が鬼月(ほうずき」から出来ていたのはその姿だったのでしょう。
私はこの夏も大和郡山の遊郭を観て廻りましたが、何時も花魁(最高ランクの遊女)の立場で考えていました。遊郭街の中核に在るのは源九郎稲荷神社で、神社は楼主(忘八)と呼ばれる不動産屋がスポンサーだったのでしょうが。現代のパチンコ店と警察と闇金融のように悪の三角関係で”持ちつ持たれつ”の関係に在ったのでしょう。花魁や遊女を囲っているのは「置屋」と呼ばれた派遣業者で。置屋は貧者の娘を見受けして花魁に育成して、妓楼(遊郭)に派遣していたのでした。
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此れは今夏見学した大和郡山の妓楼(名前は不詳)妓楼は場所を貸す業者で、花魁を育成して派遣するのは置き屋です。私は妓楼の隣女医師や託児所や私生児の養育機関が無かったか探したのでしたが、見つかりませんでした。吉野大夫のように聡明な遊技が居たのですから。遊郭で生まれた私生児を置き屋が預かって禿(かぶろ)として使うだけでなく、養育機関を整備したように期待したのでしたが・・・・。
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此れは去年友人と行った島原の妓楼の「輪違屋」です。
置屋は貧者に前受金を渡して花魁の年期奉公を約束させました。花魁が苦界(遊郭)から脱出する為には年期奉公を終えるか、良いお客を捉まえて前受金を代返して貰う必要が在ったのでした。去年の夏に京都の島原を観て廻った時は花魁よりも大夫(吉野大夫が著名)に関心がありました。大夫はお座敷で芸を見せる特別職であって、花魁は芸や知識を売りにすると共に性も売りました。結果妊娠しないことが最重要課題になります。中条流は女性専門の医者で。避妊や堕胎を得意にしていました。勿論花魁ともなると妊娠しても性病を患っても追放されてしまいます。それは越中おはらの瞽女(ごぜ)でも変わりません。性を売る商売の厳しい慣習法だったのでしょう。夜鷹も飯盛り女も湯女も総て性を商っていました。貧困な時代女性が生き残る最期の選択が性だったのでしょう。
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これはMOA美術館所蔵の湯女図。湯女は、初めは客の垢を流し髪を洗うのを仕事としたが、次第に容色を飾り、客の酒食の相手をするようになった。
戦国時代に創業した武術家であったものの、平和な江戸時代になって大転換して成功した家は幾つもあります。柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)は柳生宗厳(石舟斎 )の5男ながら柳生新陰流を標榜し、徳川家の剣術指南役(江戸柳生)に就任します。柳生家が関ヶ原の戦いに際し、古来の筒井家等が西軍に組しないよう牽制すると同時に江戸城に出仕し大目付として大任を果たします。戦時に生まれ平時の立役者となった史実はNHKの「春の坂道」でドラマ化されました。もう一人大転換で成功を納めた名家が飯田の山蔭に居城した 小笠原長清(おがさわら ながきよ)です。 小笠原長清から数えて7代目が清経家第7代の常興で後醍醐天皇に仕えて、有職故実に精通します。徳川幕府の馬術弓術指南役として活躍しましたが、小笠原清忠(きよただ)は武家の定まった立居振舞として、『修身論』と『体用論』を纏めます。これが小笠原弓馬術礼法の基本となったモノで、数ある大名や旗本御家人の守らなくてはならない礼法としてワークします。平和な江戸時代に大転換して成功した小笠原家でしたが、昨今はサラリーマンの礼儀やマナーを教える家として「民主主義時代の礼法」として再度転換しようとしているようです。一子相伝の礼法も女性宗家が誕生して、騒がしいようです。
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これは鎌倉の鶴岡八幡宮での流鏑馬です。清和源氏に仕えた小笠原流の面目躍如とした場です。流鏑馬は小笠原家と武田家が実施します。9/16日の例大祭では小笠原家が演武します。写真出典小笠原家http://www8.plala.or.jp/bosatsu/gyoji-maturi/yabusame2.htm
柳生家も小笠原家も中条家も戦国時代に創家しながら江戸時代に大転換して存続してきたのでしたが、私の愛好して来た東芝家は大転換どころでは無かったようです。残念です時代の変遷うねりは常にあるもの、そのうねりをしなやかに乗り越えて行ってほしいモノです。こんなに沢山の教材が歴史にありながら、金も人も技術も必要な資源は全部揃っていながら時代のうねりに飲みこまれてしまうとは。あの世の土光 敏夫(どこう としお)さんも眠っておられず、化けて出そうな雲行きです。

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髪型の文化

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お盆も終えてワイフが仏壇を掃除していたら手拭が後から後から出て来ました。私が旅の記念にアッチコッチで買い求めたモノを仏壇の引き出しに閉まって置いてくれたモノです。折しも裏山から日暮蝉が啼き出しました。
私は仏壇の主母の好きだった歌謡曲を想い出しました。
銀杏返しに黒襦子かけて
泣いて別れた  隅田川
想い出します  観音様の
夏(秋)の日暮れの 鐘の声
実は私は最後のフレーズを「蝉の声」と思っていたのです。
母は浅草の道具屋の次女(大阪弁の「こいさん」)だったのです。
島倉千代子さんのファンでしたので気分の良い日は「隅田川」を謳っていました。

稔るほど頭を垂れる向日葵かな

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例年相模川流域に座間の向日葵を観に行っていたのですが、今年は行きませんでした。実は初夏に「大紫が羽化している」と報じたので大紫センターに行ったのでしたがその近くが花こそ咲いていなかったものの向日葵の名勝地だったので、もう観た気分になっていました。戸塚駅のロータリーの花壇に植えられていた向日葵は既に花も終わって頭を深く垂れています。
稔るほど頭を垂れる稲穂かな
は17文字の諺です。
諺の意味は大凡次の様なモノでしょう。
『米は実が入れば俯きます。一方人格者も徳が積まれる程頭も腰も低くなります。菩薩も慈悲が深い程俯くモノです。他方小人物は年齢や地位や財産が増えるほど高飛車になるモノです。』
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相模川流域の座間の向日葵畑の絵春は一面に蓮華草が咲いて夏は向日葵が咲いて。大山から下りてきた赤蜻蛉が群舞して秋到来を告げています。此れは今年の陰暦カレンダーの葉月の絵です。
ところで処暑も過ぎると向日葵は一斉に頭を垂れてしまいました。頭が重いので流石の強い茎も種の重みに耐え兼ねているのでしょう。向日葵の種はお酒のおツマミにもなるし油にもなります。勿論インコの大好物です。昨今はえごま油亜麻仁油など健康に良い油が流行っていますが、ひまわり油サンフラワーオイル)も
健康や美容に良いという理由で、最近は人気が上がってきています。
、オレイン酸が多量に含まれているので、次の様な効能があるとされています。
①、体内の酸化や活性酵素を防ぎ脳や体の細胞を健康にする。
② 血液をサラサラにする
③ 悪玉(LDL)コレステロールを減少させる
④ 動脈硬化・心筋梗塞の予防
⑤便秘解消、 胃酸過多や胃潰瘍の予防。
どれもこれも私の為に在るような効能ばかりです。早速ワイフに頼んで向日葵オイルのドレッシングを自家製して貰いたいものです。
処で、6年前福島の原発事故の直後です。日本全国で「向日葵プロジェクト」が立ち上がりました。当時の記憶では
『向日葵簗の花は放射能を除染するので、皆で汚染地域に向日葵と菜の花で一年中真黄色にして早期に放射能を除染しよう・・・・』そんなものだったと思います日本中のマスコミは何ら検証する事も無く小中学校の生徒さんが向日葵や菜の花を育てる活動を報道しました。
その後5年も経過したのですが向日葵の除染効果は在ったのでしょうか?何の報道も無いところを見ると。際だって除染効果は無かったのかもしれません。いずれにしても、あれだけ報道したのですから。マスコミの良識として、効果が在ったのか全くなかったのか報道するのが責任でしょう。



川原撫子の花

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8/22の「毎朝ラジオ」で『今日の花は撫子です。撫子の花言葉は”純愛・無邪気・純粋な愛・いつも愛して・思慕・貞節”です」教えてくれました。
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此れが川原撫子です。
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此れは大井川の蓬莱橋下の川原に群生している「虫取り撫子」です。昨年の夏友人と往訪し。種子を採取今年は我が庭に咲いてくれました。花は違いますが、川原のような痩せ地でも逞しく生きる点では、本来の伊勢撫子の逞しさを持っています。次に書きましたhttps://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49811627.html
私は今月観た映画「花戦/はないくさ」での池坊専好(野村萬斎)が鴨川の川原で野垂れ死にした遺体を埋めて川原石を積んで最後に川原に咲いている撫子を供花している場面を想い出しました。
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これは映画「花戦」のチラシ池坊専好は鴨川川原で行き倒れ無縁仏を弔っている中に長谷川等伯縁故の娘を救出する。娘は等伯の野猿を好んで描いていました。専好が右手の桶に入れているのが川原撫子です。
そのうちに川原撫子を是非観たいと思い出しました。撫子が咲いているのは横浜の「三溪園」、川崎の「民家園」、そして、「撫子寺」と云えば長瀞の不動寺に、三浦の「満願寺」に…、アレコレ想いを巡らせました。結局戸塚区役所の屋上庭園に行く事にしました。戸塚区役所は戸塚駅西口再開発の核として新築され。その屋上は温暖化対策として「農園+庭園」となっているのです。撫子の見頃は7月の最終週でした。横浜市長選の期日前投票の折に観に行ったのでしたが屋上は閉まっていて観られませんでした。撫子には遅すぎるとは思いましたが、8/28日ヒョコヒョコ昼食序に出かけました。
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戸塚区役所屋上庭園に咲いた女郎花の花。女郎花の1月前は主役は川原撫子だった筈です。
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此方は同じく吾亦紅の花吾亦紅の足許にある枯れているのが川原撫子で種が一杯です。此処までなれば来年以降手入れをしなくても川原撫子が群生します。
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屋上庭園には天水桶代わりの池(ビオトープ)があります。ビオトープには溝萩や小蒲も群生していました。
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手前から溝萩次が小蒲池を挟んで田圃です。もうじき赤蜻蛉が産卵に集まって来ます。

撫子をせめて供えん路傍仏

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此れは大船植木の久宝寺さんの裏山にひっそりとある如意輪観音です。撫子のイメージにピッタリと思いました。

鍼灸医と理学療法士と。

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私は8月2日奈良で転倒してしまい、左腰と左肩を痛めてしまいました。そこで帰宅後直ぐに町内の「角田接骨院」に診察して貰いました。脳梗塞のリハビリに、何処が良いか迷ってケア・マネージャーに相談した結果、は今の新戸塚病院のリハビリ外来に通院する事でした。新戸塚病院は話題の「促通反復療法(川平法)実施病院で
沢山の理学療法士作業療法士を擁しています。
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此れは奈良から帰宅後通院し始めた近所の接骨院です。
ケアマネージャの意見を参考にして「て理学療法士の方が鍼灸医よりも信頼できるし実績もある」といった評価で、新戸塚病院の外来に往診しました。でも、何処か腑に落ちないというか、鍼灸医にも観て欲しいと云うのが本心でした。そんな折に今夏の転倒事故でした。階段は上がれないし左腕も上げられません。強い筋肉痛が伴うのです。そこで迷わずに近所の角田接骨院に駆け込んだ次第です。
私の感覚では骨折していないだろうが接骨院ではレントゲン撮影するので、原因も対策もハッキリすると思っていました。ところが、レントゲンは撮りません。「骨折の懸念は?」訊けば、
「骨折して居れば痛くて堪りません、この程度なら筋肉が硬くなっているので1週間もすれば痛みも消えるし、腕も上がるようになりますよ」そんな判断でした。
接骨院はレントゲンによる原因究明よりも経験知を優先するのです。
そして、ベンチのように狭いベッドに横になって電気治療が始まりました。
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これが接骨院で実施される電気治療器。赤いコードが陽極で青いコードが陰極です。患部を挟んで両極を取り付け干渉波を流します。患部の筋肉は電気刺激によってピクピク反応します。
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これは干渉波を使って電気治療をしている状況です。
ベンチの様なベッドに寝転ぶと、「電気を掛けます」と云って、吸盤のような電極を患部にペタペタ貼りました。通電すると筋肉がピクピク刺激されます。
鍼灸医に訊けば「干渉波」をかけているとの事。私はオムロン社の低周波治療器を求めて使っているので解ります。どうも低周波の他に中周波、高周波などを同時に掛けて硬くなった筋肉に電気刺激をかけて影響させあうもののようです。干渉波治療が終わると手もみします。
手もみは良い気持ちです。街中に「手もみ屋」が目立つのも良く解ります。
手もみと干渉波治療で約10分次いで「ウォーターべ」に仰向けに寝かされます。ベッドの表面はゴムマットで肩もみの様にして脚から臀部背中から肩にかけて揉みほぐして行きます。私は寝ながら背中の装置を思ひ巡らせました。多分ゴムマットの下はオイルで、オイルの中に肩もみ機のような機械装置が在るのだろう」想像しました。
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此れはウォーターベッドと呼ばれる按摩装置です。赤いシーツの下はゴムマットでその下は水だそうです。ノズルが脚から肩まで移動して筋肉を揉みほぐします。
でも念の為に鍼灸医に確認すると、装置はモットモットシンプルと云うか単純でした。ゴムマットの下は単なる水でノズルが上から下に下から上に動き回るのだそうです。手揉みのような効果はノズルから噴出する水のそれだというのです。スーパー銭湯にあるジェットバブルと同じです。
電気治療が5分手揉みが5分そしてウォーターベッドによる全身揉みが8分、待ち時間を加えても精々30分も在れば1回の治療は終わります。
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此れが接骨院の待合室の壁に貼られたスタッフ及び整体師の自己紹介カードです。
私が「鍼灸医は国家資格か?」と聞けば「厚労大臣」により認証される国家資格だそうです。念の為と思って帰り際に待合室の壁を観ればスタッフと鍼灸医の紹介カードが貼られていて、好きな鍼灸医を指名できるシステムのようです。何かワイフが行きつけにしているヘアーサロンのようなシステムです。それに鍼灸医とは書かれていません「整体師」となっています。鍼灸医と呼んでいるのは古い人と云う事のようです。自宅に戻って「整体師」の資格を確認すると一定期間整体師スクールに通えば自動的に資格は取れるようです。働く場所も理学療法士に較べれば自由なようです。理学療法士は常に医師の指導下でリハビリをさせているのに対し整体師には監督者はいません。理学療法士になるには専門の学校を卒業し国家試験を合格し、一定期間現場訓練が必須のようです。
理学療法士の方が資格取得が難しい事、そして社会的評価が高い事は明白なようです。でも最大の評価ポイントは「治療の効果」測定です。
往診開始後1週間で元の状態には戻りませんでしたが10日目には左腕も上がり、左腰の痛みも消えました。転倒による打ち身捻挫は無くなりましたが、脳梗塞による麻痺の恢復に効果が在ったかは不明です。
私の場合、新戸塚病院でも理学療法士によるリハビリは忍耐を伴います。
脳梗塞発症以来半年以上も動かしていない筋肉を動かすのですから筋肉特に筋肉と骨を繋いでいる腱に激痛を伴います。痛いのを我慢して「痛みの先に幸福がある」と思って只管頑張るだけです。ですから、新戸塚病院で1レッスン終えると体も神経も疲れ果てます。
一方「接骨院」の治療は凝った筋肉が揉み解されるのですから、快適です。ツイツイ眠気が催されます。整体師の方が色々気づかいもしてくれます。ですから、接骨院の方が心地良いのです。
尚、費用は私の場合障碍者扱いになるので接骨病院でもリハビリ病院でも、ちらも実質負担はありません。
9月になれば新戸塚病院での通院(2回/週)が再開される予定です。そうすれば接骨院は止めます。
接骨院のベッドで心地良い想いをするより鬼のような理学療法士の叱責を受けながら錆びてしまった身体を動かす方が私にはあっているようです。要するに接骨院も、理学療法士を抱えたリハビリ専門病院も使い分けと云う事でしょう。


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伎楽面の重み

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私は学生時代和辻哲郎を愛読しました。
「古寺巡礼」を皮切りに「風土」更に岩波文庫の「日本精神史研究」に随筆「面とペルソナ」がありました。屹度著者は大和の仏像を巡礼しながら、法隆寺や正倉院や春日大社で伎楽面(ぎらくめん)を観られたのでしょう。面が仏像の霊性を象徴していることに気付かられて、さらに面を被って舞踊する事によって、古代人が神仏を眼前に観たと、推測されたのでしょう。
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此れが和辻哲郎の「面とペルソナ」を収録した日本精神史研究です。表紙に中宮寺の弥勒菩薩を掲載していることから推測されるように仏像のメンタルを象徴するモノにお顔を捕えているのでしょう。

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これは法隆寺の伎楽面です。伎楽は呉(中国江南地方)から日本へ伝えられた仮面舞踊劇であり日本書紀の推古20年(612年)に記事がある。この面はペルシャの商人か王と思われる。
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これは鎌倉の御陵神社の面掛け行列一番左がこの行列の一番人気「孕み女」で大きく膨らんだお腹を触ると元気な子を授かると言い伝えられています。面掛行列は、鶴岡八幡宮の放生会 で行われていた「舞楽面面掛行列」が御霊神社伝えられたものと云われに倣ったものといわれ、天狗の面をかぶった猿田彦を先頭に・獅子頭、爺・鬼・異形・鼻長・烏天狗・翁・火吹男・福禄寿・おかめ・産婆と並びます。写真の中央にいるのが迦楼羅と呼ばれる仏教の守護神で毒蛇を喰う様に人間の心に宿る邪欲を食い尽くすとされます。

「面」は神仏や霊を顔面だけに集中して表現したモノだったのでしょう。だから、面を被って舞踏すれば恰も衆人の目前に神仏や霊が出現した事になったのでしょう。従って古代人にとって、面は神仏や霊のメンタルを表現するものとしては核心的な意義を持ちました。
一方、ラテン語で「仮面」を意味する「ペルソナ」は時と共に「人格」という意味を獲得していきました。その背後には『顔面の不思議』が働いていた、と思われます。

私は今年、春先に「春日大社展」を、夏には「東博の法隆寺館」に行き伎楽面を幾度も拝観しました。伎楽面を観る度に「面とペルソナ」を想い出していました。
和辻哲郎の思索の座標軸はギリシャローマの古典的な美術美学観であり哲学だったのでした。

一方その対極に居られたのが「折口信夫」先生でした。折口先生の言葉に”民俗学とは畢竟神を探す学問である”があります。折口民俗学は「まれびと信仰」と呼ばれています。
「まれ人ビト」とは著書「国文学の発生」で初めて発表された折口民族学のキー用語で「稀人」と書きます。「客人」の意味です。稀人とは共同体にとっては外部から前触れも無く訪れる外部の客人で、「旅人」や「乞食」や「流しの芸能者」等でありました。道祖神は稀人を村境でチェックする役割があります。稀人が福の神だけではなく「厄病神」も混じっているからです。
稀人は異形な仮面を被っていたといます。人間は異形な稀人が神であるとは気づきません。そこからドラマが始まります。
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をつけたような形ですが共同体に入る稀人をチェックする役割があります。似たモノに福島県田村市の「田村様/坂此れは秋田の人形道祖神です。案山子に仁王の面の上田村麿」があります。次のブログに詳しいです。http://www.geocities.jp/akitasaisei/ninngyou-gaso/00kasima.html
稀人は大概高貴な人が訳あって漂泊の旅に出て艱難辛苦に遇っていたトコロを村人が助けた結果、村に幸運をもたらしてくれた話が多く(貴種流離譚)、古事記の天孫降臨も比叡山の山車も稀人である神を招来する行事です。
【高砂神話】
結婚式で謳われる「高砂」は能の代表です。お話は阿蘇宮の神官が播磨の国、住吉の浦にやってきました。住吉浦は高砂浦同様に松が美しい景勝地です。遠く鐘の音も聞こえてきます。そこに老夫婦(シテとツレ)が来て、松の木陰を掃き清めます。(実はこのお掃除老夫婦は松の精だったのです)
老人は古今和歌集の仮名序を引用して、高砂の松と住吉の松とは相生の松で、離れていても夫婦であるとの伝説を説きます。、松の永遠、夫婦相老(相生)の仲睦まじさを述べる。命あるものは全て、自然の全ては和歌に心を寄せるという。ここで老夫婦は自分達は高砂・住吉の松の精である事を打ち明け、二人は小舟に乗り追風をはらんで消えて行きます。
神官もまた満潮に乗って舟を出し(ここで『高砂や…』となる)、松の精を追って住吉に辿り着きます。すると住吉の神が現われて「天下泰平」「五穀豊穣」「子孫繁栄」を約束してくれます。この時老夫婦が被っていたお面が「尉面 /じょうめん」とよばれる老人の面です。尉面 は高砂だけに使われる面では無く三番叟にも使われます汎用の面なのです。
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これは能の高砂の舞台です。画像出典/結納の白木屋http://e-shirokiya.com/ot_mame_i_taka.html

尉面は総じて翁のお顔で顔全体が程よく痩せ細り優しい口元目元をしています。でも、眉間に皴を寄せており、今にも怒りだしそうな表情に見えます神は常態では優しく手も人間の心掛けが悪ければ怒りの神に豹変する事を示しています。シテが俯いて次の瞬間に怒れる神になるのです。世阿弥は「風刺花伝」に物まねが大事な事を説き、「神を真似るには時に鬼懸かりになる事が大切だ」と書いています。

【肉付きの面】
日本各地に肉付きの面と呼ばれる伝説の面があります。一番有名なのは蓮如上人の建てられた吉崎御坊に残る伝説のお面です。嫁威谷(よめおどしだに)は(同あわら温泉嫁威)に伝わる「肉付きの面」としても知られています。このお面の伝説は”姑が兎角気に障る嫁を脅してやろう”、と、鬼女の面を被って夜道で嫁を待ち伏せします。ところがその鬼女の面が顔に張り付いてしまって外せないのです。嫁が姑を憐れんで阿弥陀様に念仏した処面は外れたモノノ姑の顔の肉が張り付いていたというのです。写真を観れば般若の面でも無いし力士の面か鬼の面です。
信心が大切である事を諭した仏像の伝説は数多くあります。鎌倉の12社の頬焼き阿弥陀もそうです。
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これが吉崎御坊の肉付きの面です。この面については次のブログが詳しいです。http://bqspot.com/hokuriku/fukui/252
肉付の面を観た時修善寺物語(岡本綺堂作)と同じ力士面、仁王面に見えました。今でも地方のお寺を詣でると本堂の柱に阿吽の仁王面が懸けられていることがあります。本来なら山門に仁王像を祀りたいのですが費用の問題もあるのでお面で済ませているのでしょう。岡本綺堂が観た面もそんな仁王面だったのに歌舞伎作家であった綺堂によって頼家の顔に死相が浮かんでしまう話になったのかもしれません。
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此れは修善寺物語創作のヒントになった修善寺の吽形面、私は修善寺が仁王像の代わりに阿形吽形の面を柱に懸けていたモノと想像します。
仏教伝来と仮面伝来とどちらが早かったか?解りません。
中国から伝来したのは漢字に仏教に道教に儒教に数えきれません。
でも和辻哲郎の「面とペルソナ」にあるように人格の究極は神で神にも神としての「神格」があるのでしょう。
仏を写そうと仏像を刻めば仏像のお顔に人間が期待する「慈悲」が表現されます。
法隆寺に残された面に獅子頭があって、今も獅子舞に神社の入り口に祀られていることを想えば仏像以上に日本文化の真髄となって継承されてきた文化が伎楽面だと思います。

【女面の系譜】
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此方が吉野水分神社の玉依姫神像です。建長3年(1251年)後白河法皇の第6皇女宣陽門院(せんようもんいん)の発願で彫像
日本一美しい女性神像と確信しているのが吉野水分神社の玉依姫神像です。浄瑠璃寺の吉祥天女も美しいが吉野に残っている事実やそのふくよかな表情や胡粉の白さを観ていると嬉しくなってしまいます。中世後半室町時代に能面が作られると美しい女性の面が求められます。
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美しい女性の顔は花です。子面とか若女【左上段】から年齢に応じて数多くの面が刻まれました。女の面は時に豊穣の神になり高砂のように長寿の子孫繁栄の神になり、般若の鬼にも転じます。写真出典NHK(美の壺)
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子面でも角度によって表情は大きく異なります。出典上記

古代に中国から日本に伝わった伎楽面と舞踊面は中世には田植えの際に催されるえ豊作祈願行事の田楽になります。田楽を催したのは田楽座でした。田楽座は在地領主とも結びつき、流鏑馬や相撲等と共に神事行事に組み込まれます。大和猿楽四座と呼ばれた金春(こんぱる)座,金剛座(も宝生座,観世座も有名神社や寺院の有する荘園での田楽から南北朝時代にスタートして、室井町時代に世阿弥を生んで能として完成しました。そんな次第ですから大和の仏師が能面打ちをしたものと考えられます。古来傑出した能面作者を「十作」と称しました。日光、弥勒、夜叉、文蔵、小牛、赤鶴(しゃくづる)、龍右衛門、日氷(ひみ)、越智(えち)、三光坊の10名でしたが、その名からも仏師が転業した事が推測されます。
伎楽面は当麻寺の25菩薩の面掛け行列でも会津願成寺でも世田谷浄真寺にも伝わります。どれも阿弥陀如来の来迎を祈る行道です。面の役割が古代に始まり現代まで継承されてきた民俗文化です。



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花言葉は「男嫌い」です。

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毎日夕方になると庭を見回ります。今年は夕顔が良く咲いてくれるので、観て廻るのです。白州正子さんの随筆に「夕顔」があって、白州さんは夕顔の開花の瞬間を観たいと、[注視していると,夕顔はチットモ咲いてくれない、気難しい花だ!」評しておいでです。
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毎夕咲いてくれる夕顔です。
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夕方6時頃所謂逢魔が時が一番綺麗に見える夕顔です。「小料理/夕顔」が在れば、今晩も寄道しそうです。逆時計回りの花弁が開く時に衣擦れの音がしないかと期待してしまいます。
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此れは月下美人の花です。夜咲く花は白が多いようです。月下美人は花の白さよりも香りの強さで虫を誘うのでしょう。
月下美人は時間をかけてユルユル咲きます。そして芳香を放つのです。白州さんは夕顔が左巻きの捻りん坊ですから花開くときに”パッ”と音がする期待したのかもしれません。私も白州さんを真似て庭先で夕顔の蕾を見詰めているのですが、一度も夕顔の花開く瞬間に出くわす機会はありませんでした。
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これが烏瓜の花です、烏瓜は木通(あけび)と同じく雌雄異株ですので、雌株と雄株を栽培しなければ実がなりません。面倒な植物です。筆者は雄花と雌花の見分け方を知りません。何故かヒレ・ヒレの刺繍を観ていると皆雌花のような気がしてきます。
夕顔の横に烏瓜もあります。烏瓜は3年前に種を採取して庭に播いたものです。
烏瓜は宿根草で、体が充実しなければ花は咲きませんソロソロ咲いてくれそうな様子ですから期待していました。
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これは咲き終えた翌朝の烏瓜の花屑。花屑に付いているオレンジ色の虫は瓜葉虫です。もう烏瓜の実が用意されています。
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烏瓜の葉っぱは未だ8月なのに黄葉してきました。瓜葉虫の食害かも知れません。瓜葉虫が出現すると厄介なのです。
夕顔と烏瓜とどちらも日陰に咲く花です。朝顔や向日葵が日向が好きな優等生とすれば夕顔や烏瓜は日陰が好みの劣等生です。今年は白粉花も育てました。白粉花も夜に咲くのですから。我が庭は日陰者揃いです。後は月見草で日陰者カルテットが出来上がります。
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此れは白粉花です。種を潰すと白粉が出来ますのでこの名が付いたものと思います。この花も夕暮れを待って花開きます。
私は朝顔を観ながら昨夜咲いた花を観て廻ります。夕顔は萎んだ風船のように惨めな姿です。夕顔の隣には烏瓜の花屑が残っていました。という事は昨夜烏瓜が咲いていた事になります。
私は注意散漫で烏瓜の花を観そびれてしまったのです。念の為に烏瓜の花言葉を調べてみました」。
「男嫌い」「誠実」「二面性」と出ていました。
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此れも昨晩咲いた烏瓜の花屑です。未だレースが残っています。オレンジ色の子虫は瓜葉虫です。
「男嫌い」と「誠実」は真逆です。”夜中に花が咲く”自体が天邪鬼な性格です。でも、その花は真っ白な絹のレース編みのハンカチのようで高貴な感じがします。上の写真は我家の烏瓜ではありませんが屹度こんな花が昨夜咲いていた筈です。我家の烏瓜は花言葉のように「男嫌い」で私に観られないように忍んで咲いていたのでしょう。
白州正子さんが育てた夕顔は女嫌いであったのかもしれませんが我家の烏瓜は「男嫌い」のようです。烏瓜の花屑にはもう瓜葉虫が付いていました。私は祖母の手伝いをしながら胡瓜やまくわ瓜を栽培した事がありました。天敵は瓜葉虫と12星のテントウムシでした。これが付くと瓜が大きく結実しません。少ない中は爪で潰しましたがそのうち手に負えなくなります。するとボルドー液と呼ばれる農薬(緑青)を噴霧して葉っぱを緑青の毒で覆うより仕方なかったのでした。今我が庭は南瓜と隼人瓜の収穫直前です。瓜葉虫が付いたら大変です。烏瓜は「男嫌い」という花言葉が付くのですから。虫も付かないでいて欲しいモノです。ところが虫を誘っているのかもしれません。困ったモノです。諺「男嫌いに虫が付く」の通りです。兎角女は御し難いモノ。とりわけ夜咲く花は御し難いもののようです。
せめて来年は烏瓜は断念して同じ仲間の「蛇瓜」を栽培する事にしましょうか?ソロソロ蛇瓜も収穫期です。大船フラワーセンターに出かけて種をお裾分けしてくれるようお願いする事にしましょう。花も実も楽しめるのは蛇瓜です。
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此れは大船フラワーセンターの蛇瓜の棚です。蛇の様な瓜がブル下がっていて気味悪いモノですが。花は烏瓜と全く同じ白いレースのハンカチです。どんな味がするのか興味深々です。前訊いた時にはゴーヤに似て苦いと云われました。蛇瓜のチャンプルなんて行けそうな気がします。


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憧れの「風の盆」へ

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今週末の8/31日に「越中風の盆」を観に何時もの仲間と富山に旅立ちます。旅行代理店にチケットと併せてマップを送ってくれるようお願いしておいたのでしたが、送ってくれない模様です。そこで、何時ものように有楽町の交通会館ビルにある「富山県観光案内所」に行こうと思っていた処、日本橋三越の並び「日本橋北詰」に富山県観光案内所が新設されていることを知りました。
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此れが日本橋北詰にある富山県観光案内所です。
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此れが観光案内所で戴いたマップとパンフ等です。
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富山県観光案内所の展示。民芸と郷土食と民族が展示されていました。名物の鱒の押し寿司も食品だけでなく木工などの工芸も欠かせません。
そこで、マップ等を貰いに8/28日日本橋に出かけました。丸の内大手町で三菱地所がオフィス街再開発を推進しているのに対し、三井不動産は八重洲北口から常磐橋を経て室町(江戸通り」を「都心型スマートシティ」と名づけて再開発しようとしています。丸の内が皇居の関係もあって容積率や眺望の制約があるのに較べれば日本橋再開発にはそんな規制はありません、逆に「伝統」や「老舗」が拠点にしているなど歴史資源に恵まれています。そこで地方自治体は有楽町の交通会館から日本橋に観光案内所の拡充を図っているようです。
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近代的なビル裏が露地の儘活用されているのも楽しいモノです。丸の内では考えられません。

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此れはコレド室町に出店している「鶴屋吉信」の店頭を飾っている「コスモス」と題した干菓子です。
私は現役サラリーマン時代第一證券(現つばさ証券)の公開営業部長を任じられていました。新規公開市場の育成が国策となって、店頭市場が新設され、ソフトバンクやユニクロが店頭登録された時期です。この2社は店頭から一部市場に移っていますが・・・・。
証券会社は銀行より朝は2時間早く夜は4時間遅い職場でした。朝8時には会議も朝礼も終えて営業マンを送り出します。8時に全員を送り出して安堵していた処全員が営業室に戻って来ました「今朝は地下鉄が動いていない」報告でした。テレビのスイッチを押すと「地下鉄サリン事件」が発生して銀座線は改札も閉鎖されていたのでした。
今想い起せば朝礼で私がトチッタので命が救われた社員が居たのかも知れません。
その私が働いた第一証券の店頭も現在は奈良県の観光案内所「奈良まほろば館」になっています。
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三越前の金ぴかビルが旧第一証券の本店でした隣の山本海苔は大学のクラスメートでした。現在は奈良県の観光案内所になっています。

今回の旅行はОBが22人で現役大学院生2人の大所帯です。初めて22回は超えました。レンタカーのドライバー初め高齢化に伴う問題も顕在化してきました。今夏の様な一人旅も収穫が多いのですが矢張り友と旅行する楽しみに比べれば記憶に浅くなります。
共に旅行して八尾の町屋を借りて「旅の夜風」を踊るのが楽しみです。
楽しみを思い浮べながら何時ものように絵を描いてみました。

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愚かな日本の税制

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毎年年末になると不愉快になります。というのは年末に税制調査会が翌年度の方針を答申するからです。平安時代から国家は来年度の税収を目論見。
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これは信貴山縁起絵巻の「飛び蔵」の場面です。強欲な受領は徴税した米を自分の蔵に隠匿します。命蓮が神通力を行使して、山崎の長者のもとに托鉢に使用する鉢を飛ばして、米を庶民の許に奪回したお話です。斯様に庶民は徴税者に怨恨していました。
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任地に赴く受領、元々は国司でしたが古代末期になると侍を擁し行政司法警察権も確保しました。

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薬子の変に乗じて藤原冬嗣は蔵人頭に出世します(嵯峨天皇)藤原北家の栄華は道長の時代に頂点に至りますが。契機は蔵人の頭に就任した事でした。財政を牛耳る事は国家を手中にすることでした。
その税収見通しに応じて翌年度の歳出プランを立てて来ました。国司に任じられた受領層は徴税に励み、併せて軍事警察権も保持しました。具体的には侍を擁して税収も私福も肥やしたのでした。庶民は古代以来税に対する敵愾心を抱いてきたのです。そして行政のトップ太政大臣は国家の財産及び歳出計画を蔵人と呼ばれる財政官僚に委ねました。蔵人頭は今でいう大蔵大臣です。先般、森友問題で批判を浴びていた佐川宣寿(のぶひさ)・理財局長は財務省のナンバー3であったものがが今次国税庁長官に栄転しました。首相(古代の太政大臣)の期待に応えて噓の答弁を貫いた事実を評価されたのでしょう。
安倍首相は就任以来「地方創生」を云い続けています。ところが地方は人口の減少。高齢化、産業の枯渇、駅前商店街のシャッター通り化と期待するような変化は全く無いばかりか「地方消滅」が進行しています。地方創生の目的で進めた加計学園問題は「地方創生は大儀であって本音は資金源に確保しようとする姦策であると疑われています。
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これは東海道と横浜環状4号線が交差していた原宿交差点。写真の様に片道2車線の東海道がアンダーパスして環状4号が平面の儘でした。事業費は膨大になりました。このように中央省庁に任せておくと国費は使い放題です。抜本改正策は地方に徴税の権限を譲って、予算の貼り付けも執行も地方に委任するだけで済むと確信します。古代からの因習を踏襲していることが間違いです。
私の住む戸塚には昔から原宿交差点と云う渋滞個所がありました。実際の立体交差工事を実施したのは横浜地建でした。大きい方の道路が東海道(国道1号線)で細い方は県道(原宿六浦線横浜環状4号線)でした。実際の工事は細い道路を優先して平面の儘進めて、太い方の道路をトンネルにしたのでした。「何故か?」訊くまでも無く役人根性は中央優先で地方は劣位なのです。中央官僚の仕事を優先させるために非合理的な工事をしたのです。
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此れは奈良の筒井駅前商店街です。法隆寺に近い事から何度も通った駅前でしたが人影も疎らで、シャッターの閉じている店が目立ちました。駅前に人を戻す方が郊外にショッピングセンターを誘致するより遥かに経済合理性があります。予算を中央官僚が牛耳っているので、こんな間違いが横行していると考えます。「地方創生」は財政を含めて権限を地方に譲れば良いと思うのです。順番は先ず税収策です。
諸悪の根源は日本の税制に在ります。現在のように先ず国税を納めさせて次に地方税を査定する、そんなやり方だから、税務官僚ばかりが威張っているのです。若しも地方税を優先させて税務官僚は地方公務員であれば。無駄なお金の使い方はしません。知事や市長が身近な処で眼を光らせて無駄な税金の使い方をしていないかチェックするからです。駅前商店街がシャッター通理の儘に放置して、都市計画道路を拡充してそのロードサイドにショッピングセンターを助成するような愚策はしないでしょう。
ロードサイドのショッピングセンターに出店できるのは大資本の全国ブランドだけです。
昨春福島を旅行して痛感しました。駅前にあった「たいら百貨店」は既にないし駅前も閑散としていました。
加えて津波遇った四倉漁港は新しい商店街が出来ていました。私達は四倉港の復興商店街で海鮮丼を食べながら、復興予算の執行の不思議を想いました。いわき市の郊外は避難者住宅が並んでいます。避難者住宅は揃いも揃って。郊外の山里です。それは中央の役人が机の上でプランするからです。地方に任せればいわき駅前のシャッター通りに建設するかもしれません。辺鄙な山里に新築するよりファンダメンタルの揃っている駅前の方が遥かに安く出来るし、避難者の生活も便利なのです。
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磐城の避難者住宅。僻地の田圃を埋め立てて瀟洒に建ててありますが、総ていわき市に任せればシャッター通りになったいわき駅前に作ったかもしれません。
”国破れて官僚だけが栄える”この悲しい現状を改めるの位は日本の税制を地方税優先に改めるだけで良いのです。

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山無花果と無花果と

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朝食を取っていると窓の外に烏の気配がします。
庭の無花果の実を食べに烏が来たようです。去年も無花果は全部烏に食べられてしまって私の口には入りませんでした。食後庭に出て無花果を確認しました。確かに無花果は熟し始めています。烏は無花果が食べ頃に近づいた事を如何して知っているのか知りません。でも今のうちに食べなければこの家の主人に取られてしまう事を知っているのでしょう。そんな訳で烏と私は無花果の奪い合いです。そこで、少し若いのですが先端が色づいてきた無花果を捥ぎました。無花果は「未だ若くてよ!」言いたげに果実の首から乳液を滲ませました。
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此れは我家の西側の窓の下に植えられている無花果の実です。手前は未だ青いのですが向こう向きの実は熟し始めています。
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此れはもう少し熟し始めた無花果です
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未だ若いモノの無花果を収穫して樹を確認すると噛み切り虫の食害の跡を確認しました。そこで傷に殺虫剤を注入してあげました。
我家の東側には野生の山無花果が生えています。無花果のような実こそ成りますが、これは山無花果と呼ばれる桑に似た樹木なのです。私が植えたのではなくて冬鳥のツグミかヒヨドリが種を落として行ったモノです。
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これが我家の庭の東側に自生している山無花果です。観て解るように無花果の名は実だけで樹木は桑に似ています。
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此れが山無花果の実です。
烏に「お前の食べる無花果は庭の東側にあるのでこの無花果は主人の私が食べる分」教えたいものです。でも、烏とて山無花果より庭木の無花果の方が美味しい事は解っているのでしょう。山無花果には全く無関心のようです。
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朝食には庭で採れた無花果にヨーグルトをかけて戴きました。これで烏に先んじれました。



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夏水仙を切ったのは誰だ?

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私が図書館やデーサービスに出かける道に薊が生えていて今年も見事に咲き始めました。可愛い花ですが花額や葉っぱに棘が生えています。「可愛い田舎娘に手を付けて痛い想いをしたのは誰だったかな?」想い起します。
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此れが薊の花です。美しい反面額や葉っぱに棘があります。ついつい手折ろうとすると痛い想いをしてしまいます。
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逆境此れは伊勢物語24段梓弓です。東下りしてに在った昔男は田舎女と慎ましやかな生活をしていましたが。都に栄転します。田舎女と別れて3年、その女を垣間見ます。そして恋文(歌)を送ります。
伊勢物語の東下りは皆そんなテーマでした。10・12・14・15段は何れも昔男が東下りして田舎娘の純情と素朴な美しさに惹かれる話でした。都の公達はハイカラでインテリでお金持ちの娘よりも純粋で素朴で素肌の綺麗な娘に憧れていたのでしょう。そんなお話のハイライトは24段です。梓弓の段として有名な24段では、「片田舎」で女と慎ましく暮らしていた昔男は、宮仕えすることになって都に帰京します。都で3年も勤めると、女は捨てられたものと覚悟しますが、健気に言い寄って来た男を避けて昔男を心待ちします。ある時昔男は片田舎の女に手紙を出します。「今夜結婚しましょう」昔男は手紙の通り田舎女の家に出かけます。ところが田舎女は戸を閉じた儘開けてくれません。昔男が迎え入れてくれない訳を尋ねます。すると田舎女は次の歌を示します。
あらたまの年の三年待ちわびてただ今宵こそ新枕すれ。
私は一年また一年と新年を迎えて今年で三年目今晩新しい夫を迎えて枕するのです。
昔男はその田舎女がかって自分が不遇だった時代の妻である事を悟り次の歌を返します。
梓弓真弓つき弓年を経て我がせしがごとうるはしみよせ
真弓のように私が貴方にしたように新しい夫を如何か大切にして差し上げて下さい。
と言ってその場を去ろうとすると田舎女は次の歌を示しました。
梓弓引けど引かねど昔より心は君に寄りしものを
梓弓を引くか引かぬか、そんなことはどうでも良いのです。私はズット貴方の事を深く思って来たのです。
それでも昔男は田舎女の家に行かずに都に帰ってしまいました。田舎女は深く悲しんで昔男の後を追ったのでしたが、到頭清水の湧く処で行き倒れてしまいました。
私は思います。昔男の心は薊の棘に刺されたような傷を負った事でしょう。
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これが夏水仙です。彼岸花より少し早く咲きます。鎌倉では萩の宝戒寺が名所です。
そう想うと道端の薊と夏水仙の取り合わせは良く出来ています。昔男(業平)は都に戻れは公達です。でも田舎では唯の色男です。現実的に田舎女と夫婦関係を戻す訳には行きません。薊の花に想いを残しても夏水仙の艶やかさに惹かれてしまいます。処で私の生活圏に咲いていた夏水仙ですが何時の間にか花は切られてしまいました。路傍の美しい花を切って自分の家に飾ろうとする気持ちが解らないわけではありませんが、どんな気分で花を観るのでしょうか?疑問です。一方薊の方は切られずに今も咲き続けています。棘の効果なのでしょう。
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此れが道端に咲き出した薊の花です。背後にピンクの夏水仙が咲いていました。私の散歩の楽しみだったのでしたが・・・・・。
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手前の夏水仙の花は誰かに切られてしまいました。薊は逢い方が切られたのを悲しんでか花を咲かせるのを止めてしまいました。



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空蟬の目立つ季節です。

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騒がしかった空蝉、空蟬(うつせみ)とは、. 夏中騒がしく啼き通しだった蝉も静かになって庭先には空蝉が目立つ季節になりました。蝉も啼き疲れて遺体を地面に転がせて、蟻さんに地中に運んで貰っています。
イソップの「蟻とキリギリス」以上に日本人には共感を誘う光景です。無常観を想わせるからです。
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騒がしかった蝉も姿を隠しました。

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蝉も遺体を庭に転がしていますがその遺体も蟻さんの命を養います。
NHKのクールジャパンでは外国人が蝉など昆虫に日本人が寄せる感情に不思議に思っている事をテーマにしていました。私達は学校の理科の授業で完全変態を習っています。ですから、蝉の成虫が常態で空蝉は蛹の抜け殻だと知っています。でも紫式部を始め古代人は蛹が常態と思っていました。そこで空蝉こそ常態で「現人(うつしおみ)」と考えていました。空蝉は「現人(うつしおみ)」が 訛ったものでした。現世の意味で使っていたのですから現代国語とは真逆の意味でした。
「夜這い」して朝を迎えて別れを告げる時女性の十二単を空蝉と思って残り香を嗅いて別れを惜しんだのでした。
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俵屋此れは宗達の源氏物語絵巻「空蝉」の場面です。若い光源氏はさして美しくも無い女性に好意を寄せますがつれなく扱われます。強引に夜這いすると一枚の着物を残し逃げ去ったのでした。源氏はセミの抜け殻によそえて送った和歌から「女性の名は「空蝉」と呼ばれます。

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蝉の抜け殻が庭木に幾つもくっ付いています。蝉の三態は日本人の世界観に強い影響を残しているようです。
深夜ラジオに広島の宮島の方が出て居て話しておいででした。宮島辺りでは「空蝉/蝉の抜け殻」の事を「孫爺」と呼ぶのだそうです一つの「宮島地方の方言」と云えば言語学の解説なのでしょうが方言には地方の感覚や先人の想いが宿されていて興味深いモノがあります。横浜では「蝉の抜け殻」でしたが南大阪では「うごうご」と呼ばれていたそうです。江戸川区では「ノコノコ」これらは蛹が地上に出て緩慢に動く様子を表現したのでしょうが詳しいのは「蝉の家」http://zikade.world.coocan.jp/nameofnymph.htmlですが、「孫爺」には哲学が感じられます。蝉の成虫から見れば抜け殻は爺で、子が出来れば孫も産まれます。
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此れは鎌倉の浄智寺の三世仏坐像左から阿弥陀如来釈迦如来(中央)弥勒如来です。
蛹が孫なのでしょう浄智寺 曇華殿には三世仏坐像 が祀られています。阿弥陀、釈迦、弥勒の三世仏です。それぞれ、過去、現在、未来の如来を示しています。現世が釈迦(中央」ですから左右が過去未来仏と云う事になります。「孫爺」というか「爺孫」という事になります。過去があるから未来もある。現代を生きる自分は過去と未来を繋ぐ役割が在る、そんな意味でしょう。




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日石寺の団子屋さん。

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昨日9/2日深夜に帰宅しました。実は何時もの仲間22人で越中富山八尾の「風の盆」を観て戻ったのでした。「風の盆」の記事は数日後のアップする事にして。今日は9/2日にランチを取った大岩山日石寺の門前茶屋の事をアップさせていただきます。その茶屋の名は「だんごや」で築130年だそうなのです、130年前と云うとモースが大森貝塚を発見した頃、博物学者のモースは日本各地のしゃしん人文・民族を写真に残してくれました。

今私が讀んでいる「逝きし世の面影/和辻哲郎文化賞受賞」も(その頃の日本を欧米人は地球上に残されたユートピア」に見詰めたと書いています。”産業革命が物質文明を育んだモノの、逆に精神の崩壊を招いてしまった、”指摘したのでした。欧米が産業革命に燃えた頃我国では「勤勉革命」が進行したと説きます。私の学んだ慶応大学は総じてマルクス経済学が主流でしたから、産業革命の次には「共産革命」を期待していたのでしたが、今世界を眺めれば「マルクス主義を信奉する人も国もありません」欧米を主にした資本主義の対極にあるのは「イスラム主義」で、総じて云えば「物質文明への疑問」が動機のように思います。資本(お金)を働かせるのが資本主義なら人が汗水して働くのを良しとするのが勤勉革命です。狭い国土の我国の発展の可能性は領土主義や覇権主義で無く鎖国をしても全員が勤勉に働く事によって幸福になろうとしたのでした。
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此れは渡辺京二著「逝きし世の面影」です。130年前に日本を訪れた欧米人は「この国こそ地球に残されたユートピアだ」と激賞した事実を並べています。それはそうでしょう。ハリスは下田で「お吉」を小泉八雲は松江で「小泉セツ」を奥さんに迎えました小うるさい母国の女性に較べれが風俗も含めて日本はユートピアに思えた事でしょう。
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これは大森貝塚を発見したモースが写した明治初期の旅芸人の親子。立山の修験者が尊敬され全国から立山の参詣者が押し寄せた時代です。
立山連峰は雄山を中心とした峰々と北側の剣岳を主峰とした峰々があります。
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9/2日朝ANAホテルの窓から東立山連峰を望む。正面が立山の主峰雄山左(北」が剣岳)になります。八尾は写真の右側金沢や高岡に通じる宿場町です。八尾を流れる川が「井田川」で「高山から流れ出る宮川が熊野川と名を変えて合流し神通川になります。「井田川」と熊野川の合流点辺りが「イタイイタイ病」の被災地になります。
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此れが立山曼荼羅です。4面の絵の右端の山が雄山で頂上に在るのが「室堂」です。室堂の谷向かいの岩屋に阿弥陀如来が出現しています、これは天平時代に佐伯有頼がこの岩屋で感得したという故事を絵にしたものです。左のお月様の辺りが剣岳で阿弥陀如来(立像)が聖衆を従えて来迎しています。中段には地獄の諸相が描かれています。下段右が芦峅寺で白い晒しの上を衆人が渡って来ます。これが布橋灌頂で川の右端(現世)から橋を渡れば来世でお坊さんや修験が迎えに出て来ています。泉鏡花の「高野聖」に在るように立山は現世に地獄と極楽を体験できる聖地なのです。歴史的には熊野→白山→立山と伝播したと考えられます。

雄山には山頂に「室堂」があって麓には芦峅寺に宿坊がありました。
私達が観た「風の盆」は越前金沢や越中高岡から雄山に参詣する街道に栄えた宿場町だったのでした。
立山連峰の南の主峰が雄山で北の主峰が剣岳でした。
私達の旅行最後のランチは剣岳麓の遥拝所であった「大岩山日石寺」宿坊であった「だんごや」でとりました。
首都圏で云えば高尾山や大山が良く似ています。
山頂が聖地(山頂霊地)で)その麓には参詣客の宿泊する宿坊がありました。
それも明治初年までのことで、日帰りが一般化して、修験道も廃れると、宿坊も変身して「お茶屋」になっています。
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此れが剣岳の上り口に在る大岩山日石寺の本尊の磨崖仏の不動明王像。石質も時代も臼杵磨崖仏と同じ凝灰岩、平安初期です。写真は「だんごや」のガラス戸の貼られていたポスターです。
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日石寺石段の下には二軒の茶屋が競っています。右が大岩屋で左が私達が入った「だんごや」です。
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「だんごや」の店先の縁台、此処に腰掛けてだんごに渋茶を戴くのでしょう。お店の長所は湧水で秋海棠の花が咲いていました。
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「だんごや」の玄関の池、此処にイワナでも入れておくのかと思ったら池の底が開いていました。湧水は豊富なのです。
「私が食べたいものが皆が食べたいモノ」確信しています。
そこで「だんごや」のメニューの中から「ソーメン/400円」と団子「500円」を注文しました。
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築130年の「だんごや」の玄関。

壁を観ると「イワナ」の絵が架っています。訊けば「700円/1本」とのこと。二人で1匹」として注文しました。仲居さんから「串刺して焼くので半分に出来ません」断られます。そこで頭と尻尾に切って出してください」頼みます。
き時間は20分との事。
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これは「だんごや」の調理場です。三世代で一生懸命築130年の暖簾を守っています。
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此れがソーメン400円です。シンプルで美味しいのでしたが冷たいのと腰のしっかりしているので私の胃袋(胃がん手術後5年余り)の強い拒否を受けてしまいました。
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ソーメンを口にした途端に胃袋が拒否したのでお団子(500円)イワナ(半分なので350円)も殆ど食べられませんでした。
「キッチンを覘いたり、「串刺し焼きのイワナを半分にしろ」言ったり五月蠅い爺さんだ言いたげな仲居さんでしたが、私がお婆さんと親しげに話している様子を見て態度を軟化して、注文は総て応じてくれました。
此処までは順調だったのでしたがソーメンを口にすると私の胃袋が怒りだしました。ソーメンの腰がしっかりしていた事と冷たい水に驚いて痙攣を始めたのです。食いしん坊が自分の我儘でアレコレ注文し、肝心要の胃袋の拒否に遇って食べられません。
次の目的地はs広貫堂(富山の配置薬の老舗)です。車は市街地を走りました。私は手拭を口に充てて吐き気を我慢しました。
幾ら美味しい食べ物でも、胃袋に拒絶されたら何にもなりません。


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薬屋さんの紙風船

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昭和30年代「集積回路」が開発され、ICチップの量産が話題になりました。ICチップは産業のコメと呼ばれ、ICチップの生産の優劣が国際競争力を決めると云われ、日本の国際競争力はダントツと確信されてていました。ところが昭和60年代香港国際空港でもヒースロー空港でもロス空港でもパナソニックやソニーの看板は観られなくなってサムソンやLGが目立ちだしました。それでも東芝のノートパソコンは善戦していました。半導体のメモリー製造技術で先行していたからでした。処が今ではその技術や製造装置を売却しても存続が可能か?否か?予断が許されない窮地に陥ってしまいました。何故こんな事になってしまったのだろうか?私達は「ジャパンアズナンバーワン」から,気が付いたら、韓国にも台湾にも追い抜かれて落ちこぼれてしまったのでした。追い抜かれたのは日本人の全員が天狗の鼻になって、世界の成金になって女はブランド品を買い漁り男は色を漁ってネオン街を大手を振って歩いていた時代でした。世界中から農協さん社長さんと呼ばれて顧る事を忘れていました役人は役人で「ノーパンシャブシャブ」にうつつを抜かしていた一時がありました。あの頃アメリカでは東芝のテレビやラジカセを壊していました。でも、GLは復活しなくても、IBMは駄目でも、アップルやグーグルやマイクロソフトが起業しました。そうした新興企業はソフトの革命を起こして、ソフトウェアーでジャパンを圧倒しました。ジャパンもソフトが競争の場になる事は気付いていたのでしたが、ジャストシステムの日本語ワープロソフト「一太郎」こそ生き残っていますが、既に「ワード」負けて終い。表計算ソフトは「エクセル」に圧倒されて和製の計算ソフトは名前すら忘れ去られてしまいました。まして画像処理ソフトに至っては日本はフィールドに影も形もありません。
でもソフトこそ我国の得意とする分野でした。それを痛感するのが富山の「置き薬」事業です。
薬がICなら、その販売方法がソフトでアップルやマイクロソフトが席捲した分野です。
昭和30年代に育った人なら「富山の薬売り」は鮮やかに記憶しているのです。
我家にも半年ごとに「薬売り」の叔父さんが来て大きな行李を縁側に開いて「置き薬」の蓋を開いて在庫をチェックしました。そして減った分を補って帰りました。半年の間に使用した薬の代金を払えば済んだのでした。
子供は薬売りの叔父さんのくれる紙風船を楽しみにして待っていました。
下痢になれば「熊の胃」と呼ばれる熊の肝臓を飲みました。大変に苦かったので屹度肝臓ばかりではなくて胆嚢だったのでしょう。風邪を引いたと思えば六神丸を飲みました。人間の内臓は五臓六腑と云われます。六腑を守る薬の意味でしょう。風水では四方守護は青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)の四神です。天神と地神を加えれば六神になります。自分自身の体を四方天地から守護してくれる薬の意味で万能薬「六神丸」と名付けたのでしょう。後白河法皇を嘆かせたサイコロの目も6つです。薬売りはサイコロの風船をお土産に置き薬を行商したのでした。上人は山梨の貧農の子に生まれたて青年は薬の行商人の後を追って江戸の本所に出ます。しかし商人の仕事には馴染めず、大山神社のお札を配る行者の道に入ります。そして個個の家に自作のお札を配る仕事から豪農や村の為に仏像を彫る仕事に転業します。

私は八尾の街の「紙屋」に行けばあの六神丸の紙風船が買えるモノと期待していました。9/1日八尾の街を歩いて「紙屋」さんに「玩具屋」さんを探して回ったのでしたが見つかりませんでした。「数年前までは在ったのでしたが!」気の毒そうに云われます。
そこで9/2日ANAホテルを出る前のコンセルジェに相談しました。「置く薬屋の紙風船」なら「広貫堂」で求められるでしょう、教えてくれました。そこで、日石寺の次は「広貫堂」に向かいました。
偶々私は吐き気を催していましたので「広貫堂」の資料館に入るなりトイレでソーメンを戻しました。
そして係員に我が症状言ったところ「熊の彙」と六神丸をくれました。水で飲めば懐かしい苦さが口中に広がりました。もう大丈夫、納得して紙風船(350円)と喉飴(600円」を求めました。
紙風船は一つあれば充分、後で家で作る時の教材になれば良いのです。友人達もそれぞれにサプリメントか漢方感覚で買い求めていました。観ていると一枚紙風船をノベルティーに添えられていました。
コpンせるじぇにつれ

富山水墨画美術館に視る故郷愛

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私は日本全国の美術館を観て歩きました。
美術館の立地には主として次の3タイプがあります。
【1】作家の生まれ育った故郷に立地しているモノ
【2】作家の没した土地に立地しているモノ、往々にして人生を終えた屋敷を改築したりしています。
【3】作家の画業で転機になった土地に立地しているモノ。
人間は生まれ育った土地や歴史・文化と切り離してはあり得ません。
作品を理解する上で作家の生立ち等を知るうえではその美術館に出かける事が最重要です。
私は富山に水墨画美術館が出来た事は知りませんでした。
同じ裏日本の鳥取県安芸市には「足立美術館」があります。安来出身の実業家、足立全康氏によって開かれた美術館で庭園も含めて人気の美術館です。昭和45年開館して、海外ででは桂離宮を凌ぐ人気だそうですが、見学料が2800円と聴くと疑問符が付きます。
一方富山県には「富山水墨画美術館」が開館には平成11年(1999)に出来ました。
私達の仲間のI氏の推薦もあって、予定を変更して神通川にほど近い富山水墨画美術館を訪れました。
「富山の水墨画と云えば誰だったかな?」長谷川等伯なら隣県の越前七尾だし・・・・」
疑問に思いながら富山水墨画美術館の門を潜りました。門の扁額には「芳友書」と落款が押されています。
「芳友」戸は誰なのか?画家の号なのか?、茶人の号なのか?サッパリ解りません。
常設展示は富岡鉄斎に横山体幹に竹内栖鳳とありきたりです。
仲間は学芸員の後に従って説明を受けています。
今回は地域に縁の深い作家の作品を展示しているのだそうです。

1927年富山県砺波市に生まれた下保昭は、1946年に開催された第1回富山県展で富山市長賞を受賞し、画家になることを決心する。1949年に安嶋雨晶の紹介で西山翠嶂の青甲社に入門する。国内外の雄大な風景を取材し、黒色を主体とする画面のなかに、大自然の沸き立つ生命観をダイナミックにあらわした日本画で高い評価を得て、菊華賞や文部大臣賞など、数々の受賞を重ねる。1988年に長年所属していた日展を退会してしてからは、自己の内面を色濃く反映させた墨による表現が主流になり、静謐で気迫のこもった、深遠な水墨画の世界を確立した。
。近代水墨画を中心とした日本美術を紹介する美術館。横山大観・富岡鉄斎らの水墨画、郷土の日本画家下保昭(かほあきら)の作品などを常設展示。企画展も行う。
下保昭/昭和2年3月3日生まれ。西山翠嶂(すいしょう)に師事。昭和25年日展に初入選,以後同展で活躍,42年「遥」で文部大臣賞,44年日展評議員。60年「水墨黄山」のシリーズで芸術選奨文部大臣賞。63年日展を脱退して無所属。
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