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「日馬富士」に礼を尽くせ!

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大リーグで日本人選手が活躍しています。野球は観戦していて楽しいのは「高校野球」でも、アスリート同士のぶつかり遭いを視る迫力は大リーグです。
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高校野球が面白く人気が高いのは高校生の全力プレーと「礼」を重んじる武道の精神が見える事です。日本人はスポーツを神に奉げるモノとしてきましたから、礼を重視して来たのです。名門膳所高校は大敗でしたが、文武両道の爽やかさは坊主頭のようでした。
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大相撲春場所は連日満員御礼の垂れ幕が出て、遠藤など人気力士の活躍がありましたが、貴公俊関の暴力事件で改めて日馬富士事件のあと味の悪さが想い出されました。
大リーグで感心するのは人種差別が無い事です。日本人選手もその「公平・公正・正義(ルール)」な大リーグの運営の恩恵に浴しています。私は先日千秋楽を迎えた大相撲が何時の日にか大リーグの様に世界中のスポーツファンの声援を浴びる日が来ることを願っています。初場所は栃の心(ジョージア)が春場所は「鶴竜」が優勝したのは大相撲が既に国際化している事の現れでした。「公平・公正・正義(ルール)」が世界のスタンダードであると確信しています。相撲が柔道と同じように世界のスポーツに成熟する為には世界のスタンダードに適う様に変革しなくてはなりません。何時までも島国根性から抜け切れないのでは、大リーグのようにはなれません。世界のスタンダードに順じた上で日本固有の武道の基本である「礼の精神」を重んじなくてはなりません。
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これは貴公俊(兄)貴源治(弟)が看板を捧げ持った写真です。この時は貴公俊(兄)も自覚が在ったでしょうが、師匠の「角界の暴力を追放する」と云う主張に反してしまいました。貴乃花親方は青年の将来性を重んじてメンツを捨てて平謝りしました
ところで、春場所が無事に終えた途端にまた不祥事が発覚しました。「貴乃花部屋」の看板力士は『貴公俊と貴源治』の双子の兄弟です十両の貴公俊が付け人に暴行を働いたというのです。
流石に貴公俊は引退を親方に申し出たのですが、貴乃花親方は貴公俊を慰留しました。此処までは人情もあるし、有為の青年の一生を考えれば人倫に沿った行動です。問題になるのは、相撲協会が「貴公俊と貴乃花親方に如何なる処分を下すか?」が次なる問題です。今のところ貴乃花親方の処分は2階級降格、という事で貴公俊の処分は暫く出場停止程度で済ませる気配です。そんな処分で世界の世論が納得させられるのか?大いに疑問です。少なくともモンゴールの人達は納得しないでしょう。相撲協会が大相撲をメジャーリーグの様な評価を得たいと思えば貴公俊も貴乃花も日馬富士と同じ処分にすべきです。
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日馬富士は日本人力士以上に日本人の気質を有した力士でした。だから「礼を失した。貴ノ岩に怒ったのだと思います。
さもなくば、日馬富士に再度土俵に上るチャンスを与えるべきです。横綱から、大関に降格させても良いでしょう。同じ暴力でも、横綱が故郷の若者に「礼」を教える為に拳を握ったのと、付け人が時間を間違えたミスに怒ったのでは、質が違います。司法関係者に訊けば、日馬富士より貴公俊の罪状は重い事になるでしょう。
この際に日馬富士の後援会の諸氏は「日馬富士」にもう一度チャンスを!」署名集めをして相撲協会やスポーツ大臣に提出して、再考を促しては如何でしょうか?私なら「いの一番」に署名します。日馬富士は最初の外国人親方になれる器だと確信しているのです。
「外国人が日本で一度失敗したら命取りと」云った事実は考え直さなくてはなりません。「外国人も日本に長く住めばチャンスを日本人と同じように与えて然るべきです。「朝青竜の振る舞いを横綱に相応しくないと批判」し、日馬富士が暴力行為を働いたから、引退させ同じ行為を日本人力士が行うと酌量すると云った、身贔屓は世界に通用しません。相撲協会は名誉を失った日馬富士に対し「礼を尽くす」べきです。

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弥勒寺の「円空館」の感動

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弥勒寺の裏山を越えた谷間に「円空館」がありました円空館に行くには先ず弥勒寺発掘跡を通って円空墓を越えて次の谷戸に行かなくてはなりません。竹林には竹の伐り跡に杖が射してあります。円空館に向うには杖を使いなさい、そんな心使いでしょう。
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これは関市の円空館のホーム頁http://sekikanko.jp/modules/content/index.php?lid=106&cid=12載っている地域の地図です。円空館は中央の谷戸にあります、此処「ムゲツの里」の地名は古代この地の豪族「ムゲツ氏」に依っています。

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弥勒寺の裏に古代の弥勒寺遺跡発掘跡があります。奥が金堂で手前に東西の塔がある法起寺方式の伽藍が在ったようです。案内板には此処長良川中流域にはムゲツ氏が勢力を有し壬申の乱では大海皇子(天武天皇)軍に組したそうです。しかし中世にかけて廃寺になっていたモノを遊行聖の円空が定住し住職になって大津三井寺の末寺になって再興したのだそうです。

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弥勒寺官衛遺跡群の案内板。官衛とは古代の地方役所の事です。此処が長良川の要衝だった事から官衛に最適だったのでしょう。

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弥勒寺から弥勒寺遺跡を通って、竹林のある山を越して向こうの谷戸に円空館がありました。

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竹林には筍がアッチコッチに頭を出していました。看板が「竹林保護の為筍を採らないで!」促しているのは筍を採る人が多い事の現れでしょう。
円空の好きな人はみんな心使いが出来るのです。裏山の峠を越えると二輪草が咲き出した道の先に屋根の上に明り櫓のついた建物が見えて来まあした。木造建築はまるで「村の分教場」のようです。床の下は池のは防火対策でしょう。そう想うと「法隆寺の隣の中宮寺を想い出しました。中宮寺の本尊は国宝の弥勒菩薩です。池の面を臨み込めば一斉にメダカが散って逃げました。私が鷺か鵜と思ったのでしょう。

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此れが円空館です。村の分教場を想わせる木造建築ですが。屋根の天頂に櫓が在るのは採光の為、建物が池の上にあるのは防火対策でしょう。
パンフレットに依ると円空館には30体の円空仏を所有している事、と弥勒寺官衛遺跡群から出土した「須恵器」や「瓦」を展示している事になっていました。
円空も木喰も自刻像が有名です。木喰の自刻像は33観音に囲まれて嬉しそうな顔でいますが、円空の自刻象は善財童児を想わせる合掌像です。木喰も円空も自刻像を彫ったとは主張しておらず、鑑賞する私達が現代彫刻家がするように自刻像と思い込んだモノでしょう。そんな円空の自刻像の中で一番に有名な像が此処円空館に展示されていました。私達が観て親しんでいる像は右横顔を撮影したモノでした。左眼には深い傷がありました。傷は時間が経って木材が割れた訳では無くて、素材の材木に節が在ったモノです。節が在ったのも偶然と云うか何かの「縁」でしょう。節が在るから仏像を彫るのを止めて廃棄してしまうのではなく、素材の悪さを受け入れて彫ったのでしょう。
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これは円空自刻像と呼ばれる善財童子(不動明王の眷属)です。写真では美しい木目ばかりが見えますが左横顔には痛々しい節目がありました。
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円空自刻像に見入る
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円空館の廊下に貼られたパネルには弥勒寺国衛の発掘時の写真が観られ展示室には出土した須恵器や瓦を見学できます。自然光でパネルや仏像を見せるのは素晴らしいです。
私は円空館の建物が気に入りました。職員に「良い建物ですね!昔の分教場の再利用ですか?」尋ねると館長さんは嬉しそうにして、私を執務室に入れてくれました。壁には「表彰状」が架っていました。この建物は「円空館」として株)佐藤総合計(墨田区)が設計し地元建設会社が建築したものです。竣工2005年(平成15年)7月
円空を故郷の誇りに思い大事にする気持ちは円空好きにとって嬉しいモノでした。
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これが円空館の表彰状竣工は平成15年でも受賞は平成18年でした。
円空館は木造建築の居心地の良さとコンクリートの家打ち放しと自然光で仏像を拝観できる優しさが魅力の博物館です。



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根尾谷淡墨桜が教える「命の尊さ」

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今回のツアーは円空仏を親友とめぐることが第一目標でした。当初予定は4月17日出発の予定でしたが、インターネットで「根尾谷淡の淡墨桜」の開花状況を確認すると4月1日にもう5分咲きでした。
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4月5日の根尾谷村の景色、桜は未だ残っていました。遠くの冠雪した山は白山だと思います。
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一杯の駐車場、此処から坂道を5分も歩いて淡墨桜に着きます。駐車料は500円でした。
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大型バスの駐車場には全国各地のお客様を運んできていました。谷の底には樽見鉄道の樽見駅が在って徒歩30分程の距離です。でも急な坂道で歩くのは私には困難です。
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道路の両脇には屋台が在って様々な物産を販売しています。私はこの梅ヶ枝餅に似た「里芋餅」を食べたかったのでしたが友人が無難な「栃餅」を求めました。そして予定通り淡墨桜を観ながら大きな五幣餅を食べてランチにしました
5分咲きの後の天候も良く、気温も高いので急遽4月5日出発する事にしました。根尾谷に近い本巣市の宿は既に予約で埋まっていたので、郡上八幡に宿を抑えて、今回は3人で旅立ちしました。関市の円空館を後にして、一直線に根尾谷に向かいます。高度が高くなるにつれて桜が濃くなって行きます。低地では既に桜は満開でも、高度が高くなるにつれて開花が遅れているのです。桜前線が南から北上するように山の多い岐阜県では低地の岐阜羽島では桜は散り出しても高地では、満開の桜が観られるのです。
朝から未だ何も食べていません、でも「昨年七色紅葉を観た時の様に、樹を観ながら「御幣餅」をたべよう」という事になりました。
右の大木が淡墨桜で「樹高16.3m、幹囲目通り9.91m、枝張りは東西26.90m、南北20.20m」。樹齢は1500余年と推定されます。継体天皇お手植えという伝承もあります。継体天皇と云えば越前に生まれ百済に親しかった天皇ですから、大和と越前の中間の根尾谷に桜を植えたのは納得ですし、樹齢1500年も辻褄が合っています。奥の社は淡墨観音神社でその左に弘法大師を祀った大師堂がありました。写真のように山風が吹き下ろすと、桜吹雪を浴びました。
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何本もの支え木で保護された淡墨桜フワフワの地面からは無数の土筆が頭を出していました。
2年前の春にはこのメンバーで「三春の瀧桜」を観に行きましたが、その時は既に散っていました。元祖瀧桜こそ遅すぎたのでしたが、二代目三代目の瀧桜は何本も観られました。私は今回のツアーで「神代桜」「瀧桜」と併せて三大桜を総て観た事になります。色が綺麗で雅なのは瀧桜、幹が壮大で風格のあるのが神代桜で、命の尊さや美しさでは「淡墨桜」です。三者三様で夫々素晴らしい。淡墨桜の巨木は二本在りました。夫々、根本はテニスコート大の地面をふわふわにして根を保護しています。坂道を登って来て正面に見えるのが親の淡墨桜で奥の観音堂の前の桜が二代目でしょう。
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元々樹勢が衰えていた淡墨桜でしたが、伊勢湾台風1959年(昭和34)で大傷を負い再度根継をして大手術をを経て生き返りました。
淡墨桜は弱っていたのに加えて伊勢湾台風で大打撃を披ってしまいました。再生を訴えたのは着物作家の「宇野千代」氏でした「さくら資料館」は宇野千代さんの情熱や同地の「菊花石」という銘石を展示しています。、
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さくら資料館から薄墨桜を視る。広い芝生を囲んでおもいおもいに春を満喫していました。
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さくら資料館の「宇野千代氏」が桜を見詰める人形。左の桜の打掛と帯は同氏の作品です。

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在りし日の宇野千代氏と同氏の書も展示されていました。
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四季の淡墨桜と菊花石を展示していました。総じて奈良の霞桜に似た白い桜ですが散り際に墨が差すので淡墨桜と名付いたそうです。
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薄墨桜保護の為に伐採された杉の切株。杉の泣き声が聞こえるようです。筆者は安曇野の七色楓のような山紅葉の樹を此処に植樹したら秋にもお客が集まると思うのですが・・・・。
観れば一面土筆が出ていました。気になったのは伐採された杉の根っこです。淡墨桜に良く日光を当てる為に伐り倒したのでしょう。杉にすれば、勝手に植えられて邪魔だとして木に伐り倒されては大変な迷惑でしょう。根尾谷には桜が在るのですから七色紅葉も植えたら良かろうと思いました。伐り倒した杉の根株の跡に紅葉を植えたら、年中集客できそうです。

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墨染め桜の命は絶え絶え

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根尾谷の淡墨桜を存分に観て、次は郡上八幡の「墨染の桜」を観に出かけました。墨染め桜と云えば京都深草の同名の桜を想い出します。有名な伏見の墨染桜の歌ですね。上野岑雄が友人の藤原基経(関白)の死を悲しんで歌った和歌が

深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け      (古今集)

桜はこの歌を聴いてその心を感じます。そして墨染色に咲くようになったという伝説です。
歌は古今和歌集の哀傷歌に収められていますがこの伝説は能や浄瑠璃にも脚色されています。
 でも、謡曲「墨染桜」では歌が少し違います。上野岑雄が「この春ばかり 墨染に咲け」と詠んだ のに対し、桜の精が現れて「この春よりは」と「今年ばかりは」と直すように頼んで消え、その後桜の精が舞をまうと いうものです。
ところで、実際に墨染桜という品種もあります。小さく花弁の細い白い花を付けます。薄墨色に見えるのは、むしろ茎や葉の部分です。『日本人は桜の花と心を通わせてきた』事を痛感させる伝説です。
宿の主人に郡上八幡の名桜を訊けば、「墨染めの桜」が郡上八幡の愛宕神社に在るし、八幡小学校の校庭の桜も名桜だが昨年は病気で幹を伐採してしまったとも言っていました。
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八幡小学校の校庭に在る一本桜は幹を伐られたものの花はしっかり咲いていました。背景に郡上八幡城が見えます。
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幹を伐られる前の八幡小学校の紅枝垂れ桜。
私達は4月6日の早朝雨雲が垂れこめた中、愛宕神社に向かいました。愛宕神社の最深部に絶え絶えの桜の樹が在りました。他の樹木の背が高いので陽当りが悪く枯れ木の天頂部だけが生きて花を付けていました。
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郡上八幡愛宕神社の公園の最深部にある墨染の桜(中央の奥)
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右手前が墨染桜です。樹齢400年のエドヒガンザクラで慶長5年(1600)に八幡城を築いた城主遠藤家の二代目遠藤慶隆がお手植えになったといわれています。花弁を遠くから眺めると花弁の周りが、墨を刷いたように黒く見えることから「墨染めの桜」と名付けられた。花は他の桜に比べて小さく、豪華に咲き誇る様子はないが、風情がある。風情は新古今集にある上野岑雄や僧正遍照の和歌を想わせます。
墨染めと云う事は出家した事です。新古今集を代表する西行法師を唐木順三は「詠嘆的無常観/無常の系譜」と呼びました。僧正遍照も無常を謳って秀でた歌人でした。京都深草の「墨染寺」には有名な墨染桜が在って、近くの歓修寺や小野小町の随心院は桜の名所です。僧正遍照の百人一首の歌は
   天つかぜ 雲の通い路 ふきとじよ をとめの姿 しばしとどめむ
でした。天女のように美しいこのおとめとは小町の事でしょう。小町をいましばし私の元に留めさせよ。と歌うのは僧になっても美しい乙女や桜への煩悩が断ち切れないのでしょう。
私は今年が7回目の歳男です。還暦を越えてもう1周しました。でも乙女も桜も大好きです。
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愛宕神社境内に在った桜の伐採枝。綺麗な桜は病虫害に弱く、処置は病気部分を伐採する事のようです。伐採したら直ぐに焼却しないと効果が無いと思うのですが樹下に患部の枝を積み上げていました。
愛宕神社境内から向かいの山を仰ぎ見ました。向かいの山の頂上には木造城として最古の郡上八幡城が在る筈です。霧が晴れて微かに天主閣の麗姿が見えました。
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手前の桜は愛宕神社の桜吉田川を挟んで向かいの山の山頂に見えるのが八幡城の天主閣です。
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これは其処此処に貼られていた郡上八幡のポスターです。天空の城として人気なのです。宿の主人に撮影スポットを訊くと「堀越峠」だそうです。http://castle.gujohachiman.com/archives/1246
人間世界では「美人薄命」と云います。「薄墨桜」も「墨染めの桜」も「紅枝垂れ桜」も病虫害には弱いモノです。「弱くて、美しい」からこそ日本文化の深層に根差しているのが桜なのでしょう。でも丹精すれば「薄墨桜」も生き返ったし、これから観る予定の「荘川桜」も強い生命力を感じさせるのでしょう。



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八幡城の「夫婦愛の桜」

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八幡城には日文研のグループ旅行で「高山」から白川村を経て帰り際に立ち寄りました。その時の記憶で城内に「一豊と千代」の像の周囲に枝垂れ桜が在った記憶がありましたので、向かってみました。
山内一豊の妻「千代」は、弘治2年(1556)、初代郡上八幡城主遠藤盛数の娘として生まれました。千代が3歳のころ、盛数は病死、母が再婚、義父の敗北、流浪。波乱の一生が始まります。やがて千代は、縁あって尾張の一豊に嫁ぎました。一豊は信長、秀吉、家康に仕え、最後には土佐24万石の大名に出世しました。出世には、『千代の内助の功』があったといわれています。信長の「馬ぞろえ」や関ヶ原前夜の「傘の緒の密書」の逸話は有名です。「馬ぞろえ」とは出陣に際して、将が馬に乗って揃う事で、千代はへそくりを溜めて、夫一豊に相応しい馬を用意したのでした。信長は一豊の出陣の姿を誉めたのでした。
有名な故事を郡上八幡の大手門を潜った広場に在ったのでした。

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城山公園には「馬ぞろえ」の銅像があって、背景に郡上八幡城を仰ぎ見られます。紅枝垂れ桜が満開でした。
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城山公園の駐車場にある馬ぞろえの像(山之内一豊 千代)車は此処まで登れます。無料駐車場です。
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「馬ぞろえ」の像の右は「岸彰神社」です。この公園の脇には大型駐車場が在ります(無料)。
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城山公園からは郡上八幡の旧市街が見渡せます。目の前のお寺は「千代」の両親(遠藤家)の菩提寺「安養寺」です。
郡上八幡の遠藤家については「愛宕神社の墨染の桜」に記されていました。戦で故郷を守ろうとして図らずも落命した勇士を慰めるには墨染の桜は最適です。そして内助の功目覚ましく美貌の女性「千代」に相応しいのは「紅枝垂れ」に勝る桜は無いでしょう。そこで、千代が京都で名馬を求めた様に郡上八幡の市民は京都に行って日本一の円山公園の紅枝垂れの子孫を求めて此処城山公園に植樹したのでしょう。歴史資産と自然資産を見事に調和させた『観光資源』であると思います。


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樽見鉄道の知恵桜

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根尾谷の薄墨桜を視る最寄駅は樽見鉄道の「樽見駅」です。樽見鉄道の駅は無人駅ばかりのようですが「此処が駅だぞ!」云わんばかりに駅舎には数本の桜が囲んでいます。どの駅もビュー・ポイントのようでカメラマンが桜の中を走る一両の可愛い電車を写していました。国鉄が樽見線の廃業を決めて民営化されたのは1984年でした。それまでは住友セメントの製品を運び出す鉄路でしたが、同社が2004年を以って鉄道輸送を廃止する事を表明し、止む無く民営化されたのでした。
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樽見鉄道の木知原駅は無人駅でも桜に囲まれていました。ホームのお嬢さんは所謂「鉄女」のようでした。薄墨桜を観たお客さんはこの駅で途中下車して写真を写すようです。
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木知原駅は長良川を背にしています。途中下車して桜を観て川で遊べば次の列車が直に来るでしょう。
大垣と樽見を結ぶ鉄道ですから観桜客がターゲットです。慌てて線路脇や無人駅に桜の樹を植えて。薄墨桜を目指すお客さんに車窓風景も楽しんで貰おうと考えたのでしょう。という事は私達の観ている桜は30歳を超えた処です。今が見頃と云う事でしょう。
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樽見鉄道は「樽見駅」から「谷汲駅」に向かいます。沿線の目玉は「薄墨桜」と西国霊場万願寺の「華厳寺」です。
私達は谷汲山華厳寺(西国33札所満願の寺)を経て峠を越えて長良川鉄道の沿線を宿をとった郡上八幡に向かいました。途中道路は長良川鉄道に並行して走りました。長良川鉄道は二両編成でした。でも線路脇や駅には桜は余りありませんでした。
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夕刻に郡上八幡に向かう国道で長良川鉄道に追い抜かれる。お客は略乗っていませんでした。
長良川鉄道は美濃太田駅(東海道本線)から美濃、郡上八幡を経て北濃を結ぶ鉄道です。樽見鉄道に較べれば沿線人口も多いし、観光地にも恵まれています。その分樽見鉄道のような苦労も少ないのでしょう。私達は温泉大好きばかりです。郡上八幡旧市街に一番近い温泉である「子宝の湯」に入りました「子宝の湯」は長良川鉄道「水の駅373(みなみ/美並)」に接していました。駅前広場は子宝の湯の駐車場で駅舎は矢張り桜に囲まれていました。
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此れは長良川鉄道の「水の駅373」です。駅の右側に子宝温泉が在ります。私達は夕方に温泉に浸かり翌朝「子安神社/円空」参詣に再訪しました。



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美並の「子安神社」の円空様。

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NHKラジオで「桜前線は北上する」と云いますが岐阜では「幟前線が北上する」と云うのだそうです。春祭りで立てる神社の幟が岐阜の市街地から徐々に富山県境の高地に上るのだそうです。田植えに先立って豊作を祈る祭が次第に北上するというか高地に上って行くのでしょう。岐阜県ならずとも日本列島の「祭幟/まつりのぼり」が桜前線と同じように半月遅れで北上して行くようです。
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神社の参道に掲げられはためく神社幟、写真は筆者の生活圏にある舞岡神社で筆者は湯花神楽を視て餅拾いに出かけます。以前次にアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/39916064.html
4月5日郡上八幡の民宿に泊まったのでしたが、私達は温泉に浸かりたくて「美並」の子宝温泉に出かけました。その土地を知るには「地産品」を食べる事「生水を味わう事」そして「地元の人が入る温泉に浸かる事」だと思っています。温泉に浸かって珈琲牛乳を飲んで、地元の人に「雲海に浮かぶ郡上八幡城の撮影アングルを聞いて、郡上八幡の渡し場に近い民宿に向かいました。
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これは美並町に在る子宝神社の祭幟です。天空の神は風にハタメク幟を目標に地上に降りて来られるのでしょう。
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美並町の「子宝温泉の入り口にある子宝神社鳥居に次に在るのが「舞殿」でその奥が社殿です。
車中で「何で美並の温泉が”子宝の湯”なのか?疑問に思いました。車窓に子宝明神の幟が見えました。小さな疑問も解決させないと済まないのが、私の習性です。
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子宝温泉の玄関に置かれた円空仏。そう、郡上八幡は何処に行っても円空が迎えてくれるのです。
そこで翌朝4月7日星宮神社に向かう前に子宝温泉と子宝明神を再訪しました。
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長良川に懸る橋を渡って子宝小飲泉に向う。向こうの杉林の中に在るのが「子宝神社」です。
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子宝神社の案内板。「此処には赤ちゃんを抱いた観音様がご神体なのか?」思えば社殿の奥に宝物館が在りました。
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子宝神社のご神体と思われる「慈母観音像」抱かれているベビーは円空自身でしょう。何時か実物を拝んでみたいものです。
「子宝神社』が在るから子宝温泉なのでしょう。御利益は神社も温泉も「子授かり」と案内されていました。円空には鬼子母神はあっても慈母観音は記憶に在りません。寿一面観音が円空の母の面影と云われているだけです。
子宝神社の境内にはこの場所が「日本の人口重心の地」と記した碑が建っていました。友人がタブレットで「人口重心」を検索しました。日本人が全員日本列島と云うの名のシーソーに乗ったと想定した場合の重心点が此処子宝神社と云う事だそうです。
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2010年の国勢調査の結果人口重心を求めると此処美並町の子宝神社になるそうです。
子宝神社を詣で納得して神社を後にしました。未だ雨は止みません。次の目的地は向かいの山の中に在る星宮神社です。円空の父は星宮神社の禰宜で母は巫女であったとも云われます。また青年円空は星宮神社の神宮寺であった「粥川寺」で青年時代を過ごし、木地士の技を習得しました。木地士の技が無くては独特な円空仏は実現できませんでした。
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子宝神社の参道から長良川を見返る。
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子宝温泉から次の目的地星宮神社のある山を臨む。



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旅行ブログ

子宝温泉の心地良さ

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「地域興し」は地域の価値ある資産を見直すことに始まると思います。地域資産として私が一番に魅力に思うモノは「歴史資産」や「民俗資産」です。次いで貴重なのは「自然資産」だと思います。円空仏も石仏も歴史資産であると同時に民俗資産ですし、素材の材木や石に着目すれば自然資産です。歴史・民俗・自然が微妙に絡み合っている資産に一番感銘します。薄墨桜も荘川桜も歴史・民俗・自然が絡み合った資産であると同時に、先人が桜の命を愛しんで、再生に尽くした説話が残されています。
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子宝温泉の玄関でお客さんを待つ円空仏
旅行の楽しみには「その地の水を知る」事も在ります。長良川流域では幾度も「水の駅」を観ました。
『美味しい水が湧いていますから此処で一休みして水を飲んで行きなさい!』
そんな意図で整備された「水の駅」なのでしょう。
郡上八幡は長良川の上流に位置し、奥美濃の山々から流れ出た吉田川、小駄良川など三つの川が合流するところにあります。宗祇水始め名水があちこちで湧き出ています。
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これは郡上八幡旧市街に湧き出す名水名水百選第1号「宗祇水」です。上段は飲料水、中段は野菜の洗い場下段は衣服の洗濯場になっていて旅人も住人も使い分けています。
美味しい水ですから飲んで良し、浴びて良しでしょう。温泉好きの私達ですから、事前に十分に調査して温泉を選択して出かけます。民宿はコスパが良い事と、色々な民族的な話を聴けることが魅力ですし、予約に際して「食べたい食材」を注文しておくことも出来ます。飯豊の民宿では「熊」を糸魚川の民宿では「茸」を注文しておきました。でも欠点はお風呂が狭い事です。そこで、民宿にチェックインする前に美並町の「子宝温泉」で一風呂浴びて行くことにしました。
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子宝温泉は長良川鉄道の「美並子宝温泉駅」に繋がっています。
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美並子宝温泉駅」は桜の木に囲まれていて温泉の駐車場を兼用しています。駅前広場は農産物の直売場でもあって、朝市の場としては「川の駅373と名付けられているようです。
子宝の湯のウリは、なんといっても全国的にも珍しい「鉄道の駅と併設した」温泉であります。
温泉の出入り口には信号機がつけられています。信号機が鳴ったら走れば列車に乗れるつくりになっています。露天風呂からは桜に埋もれた駅舎が見渡せますし、駅舎の西は長良川越しに広がる山々を眺めながらの入浴は最高の贅沢でした。
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「子宝の湯」の湯船、露天風呂もあって、桜に埋もれた駅舎が望めます。
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露天風呂の先には長良川が流れています。
温泉の泉質はアルカリ性単純温泉(無色・透明)で、神経痛や関節痛に効果があるそうです。すっかり温まった後で飲む地元産のコーヒー牛乳は体にしみいる美味しさです。食堂で観れば蕎麦もラーメンも総じてワンコインで食べられます。
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子宝温泉の泉質分析と効能案内。要するに陰イオン質・酸性の無色無臭の泉質で、リウマチや関節痛に効能が高いようです。
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温泉を出たなら「生水」を飲んで地元産のコーヒー牛乳(110円)を戴きます。食事もビールもワンコインです。



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満願の寺で戴いた「甘茶」の懐かしさ

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薄墨桜を観て、樽見鉄道に沿って走りました。「谷汲駅」の近くを通ります。西国観音霊場の満願の寺が「谷汲山華厳寺」ですから、道路標識にも「華厳寺」の案内が目立ちます。友人と一緒に行ったことのある西国観音霊場を指折り数えました。「イッソ!満願の華厳寺にこの際詣でよう!」丁度灌仏会/4月8日)も直なので良いだろう」という事で、急旅でもないし華厳寺に向かう事にしました。
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此れは華厳寺の参道です。訊けば4月1日が満開で4月5日にはもう大半が散っていました。
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此れは参道にあった御茶屋の庭先の桜です。樹下には簀子が置かれ赤い毛氈が敷かれていました。
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これは華厳寺の山門です。山門が巨大なら、仁王さんも大きく履物の草履も巨大でした。
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此れは仁王様の草履です。横に吊るされているのはお遍路さんが使い古した草履です。満願の寺ならではの光景です。
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此れは山門の天井や梁に貼られた「行者札」です。行者札の多さも満願の寺だからでしょう。
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此方は山門の阿形の仁王様です。
桜が早く咲いたという事は躑躅も石楠花も早く咲くという事です。参道を登ってゆくと左手石段の下に石楠花が咲いていました。石楠花の花陰にはお狐様もおられます。見れば豊川稲荷のお狐様です。(経典を咥えている)伏見稲荷ではありません。案内板には『豊川分霊吨枳尼真天』である、記されています。
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これは豊川分霊吨枳尼真天石段の上に鎮座したお狐様です。
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此方はお狐様の下に咲く石楠花です。
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此れは4月8日灌仏会の為に用意された花祭りの飾りです。右の石段は子供が上って甘茶をお掛けする為のモノでしょう。
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此方は甘露を満たした桶の中に立っていられる誕生仏です。
私の高血糖の体は甘茶を求めています。甘茶はアルカリ飲料で独特の苦味がアルカリの証です。甘茶を作って飲んで育ったのに肉や炭酸飲料を好んで飲食したので私は高血糖になっていたのです。でも、華厳寺の長い参道を登って流石に疲れて甘いモノが欲しくなっていました。豊川分霊吨枳尼真天の境内には美しい姉妹が庭に簀子を出して甘茶の御接待をしていました。一杯百円の貼り紙は流石にシッカリしています。紙コップ一杯の甘茶が身体に染入りました。
甘茶で生き返って長い参道を下ってゆきました。
華厳寺は流石に西国三十三観音霊場巡り満願の寺、土産物屋に混じって遍路グッズの店が多くあります。一番に気付くのが表装の店です。33のお札を集めた記念に軸に表装するサービスを商っています。「幾ら懸るのかな?」思えば材料込みで5千円が標準のようです。
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華厳寺参道に面した仏具店の「井上」お札を軸に表装するサービスが得意です。
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朱印帳を渡せばこのような軸に表装してくれます。屹度ネットでも扱ってくれるでしょう。

私は仏式で結婚しました。結婚指輪に相当するのが数珠でした、お数珠は仲人をして戴いた実相院の佐々木住職が用意してくださいました。私のお数珠は水晶でしたがワイフのお数珠は紫水晶でした。ワイフは大切に使って来ています。私は、頻度も多いこと等も在って、何時しか失くしてしまいました。そんなことも想い出して、華厳寺参道の「井上」というお店で黒檀のお数珠を求めました、千円でした。同じようなお数珠を4月15日建長寺で確認すると5千円でした。建長寺と華厳寺の暖簾の違いにしては格差が在り過ぎです。”良いお数珠が求められた”そう想うだけでも良い旅行でした。
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これが1千円で求めた黒檀の数珠です。今度は大切にして失くさないようにします。



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郡上八幡渡し場の民宿

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4月5日は盛り沢山で流石に疲れました。宿は郡上八幡の長良川に面した「船渡屋http://gujo.com/yado/funatoya/index.htm」にとりました。主人に訊けば築170年の屋敷で。元は山に在った造り酒屋をこの地に移築したのだそうです。船渡屋の屋号は「長良川の渡し場」であった事に因んだそうです。広い縁側はお客さんが座って渡し船を待っていた為のモノでしょう。渡し場の「舟繋ぎ石」は無いモノの、船着き場は今も残っていましたし、渡し舟では無くて鵜飼舟がそれらしく繋留されていました。

荘川桜の硬い蕾

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「根尾谷の薄墨桜」を観て「郡上八幡の墨染桜」も観て、観桜ツアーは順調です。
総じて4月5日でも遅すぎた感がしました。”高い所なら、間に合ったかも知れない”期待が高まります。荘川桜は屹度『三分咲き』ではないか?話しながら、御母衣湖の畔に着きました。車窓には未だ雪が残っています。
荘川桜の大木も二本です。根尾谷桜は親子の二本の大木なら、荘川桜の大木は夫婦の桜なのかも知れません。期待の荘川桜でしたが、未だ堅い蕾でした。
冷たい雨が蕾の先に滴になって光っています。「楽しみにして来たのに早過ぎたね!」呟けば「又次に機会を作って来なさいな!」答えてくれたような気がします。
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此れが御母衣湖畔の荘川桜です、写真出典岐阜県観光サイトhttps://sp.jorudan.co.jp/hanami/spot_223.html
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御母衣ダムの堰堤下には「御母衣ダム記念館」が在りますが。展示の過半は荘川桜の移植事業です。こんな姿勢が続いていたならば、原発事故も起こらなかったでしょうに・・・。写真出典岐阜県観光サイトhttp://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=1095

麓は桜は散ってしまったのに、荘川桜は未だ一輪も咲いていません。高度に依って大違いです。
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郡上八幡から荘川桜を観に行くには高速道路で荘川IC迄走ればICを出て10分で着きます。郡上八幡は満開でしたので、荘川桜への期待も膨らみました。
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荘川桜は未だ蕾でした。幹から出た徒長枝の先に蕾が膨らんでました。
御母衣ダムの下流に御母衣ダム記念館が建っています。内容は日本で初めてのロック式ダム開発の記念館と思えば、電源開発が湖底に沈んだ御母衣村への鎮魂のモニュメントのようです。「此処には過って2千人もの人が幸せな日々を過ごしていた。彼等は浄土真宗の篤い信者で、真宗の教えを広めたのは、親鸞の高弟の「嘉念坊善俊/後鳥羽上皇の息子」であった事等を展示しています。荘川桜は「嘉念坊善俊」が村に開い照蓮寺と光輪寺に在った樹齢400年の江戸彼岸桜でした。
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此れが御母衣湖の湖畔に移植された荘川桜、手前が光輪寺に咲いていた桜で。向こうが照蓮寺に咲いていた樹齢400年の江戸彼岸桜です。
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光輪寺にあった江戸彼岸桜
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此方は少し下の段に移植された照蓮寺にあった江戸彼岸桜。荘川桜と云えばこのツインの桜を指します。
電源開発は江戸彼岸桜を移植して、嘉念坊善俊の像を建立したのでした。
野昭和35年、電源開発株式会社による「御母衣(みぼろ)ダム」建設により、荘川村(現荘川町)中野地区が水没することに伴い、同地区光輪寺と照蓮寺の境内にあった老桜も同じ運命になる筈でした。しかし、電源開発(株)初代総裁高碕達之助氏は、この桜を水没から何とか救いたいと考えました。移植など不可能だという声の中、高碕氏の想いを受け止めた多くの専門家や職人たちの力で世紀の 移植事業を成功させ、桜の木を視る位置に嘉念坊善俊の銅像が建てたのでした。
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れは荘川桜を愛で、命を繋いだの歌碑電源開発総裁高碕達之助氏の歌碑
ふるさとは 水底となり 移し来し この老い桜 咲けとこしえに”  
歌碑の脇には進歩の名のもとに、電源開発総裁高碕達之助氏の言葉が刻まれていました。
  『古き姿は次第に失われてゆく。だが、人の力で救えるものは、なんとかして残してゆきたい。古きものは  古きがゆえに尊いのである』
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此れは見御母衣湖を背に荘川桜に向かって手を合わせる嘉念坊善俊の立像です。
良い話はそれで終わりません。荘川桜を観て感動した国鉄バスの車掌さんが荘川桜の実生の苗を栽培して、荘川街道に植えたのでした。荘川桜の子孫が富山に通じる街道を飾っているのです。 この話は昔NHKが特番で放映していました。私は無名のバスの運転手や、先人の篤志のお蔭で文化的な日々を送って人生をエンジョイ出来ているのです。昔は経済界のリーダーは電力会社の指導者でした。松永 安左エ門(茶人としても有名雅号は耳翁)にしても、高碕達之助にしても、志が高く、文化人でした。嘘つき東電社長清水氏も同じ慶応義塾卒業生であった事は悲しい事実です。
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荘川の中流域に在る水記念公園に咲く桜。荘川街道は桜の街道でした。




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「庄川水記念公園」の桜

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昨日は荘川桜は未だ蕾であった事を書きました。でも国鉄バスの車掌の尽力で荘川桜はアッチコッチで観る事が出来ました。その桜のハイライトが荘川が砺波平野に流れ出す注ぎ口にある「水記念公園」の桜でした。五個山辺りでは深い谷間の底を流れていた荘川も砺波平野が近づくと穏やかな「瀞状態」になります。その岸辺を砺波市が整備したモノです。庄川の観光の拠点となる施設で、豊かな水とみどりの景観を生かした遊歩道、水資料館(アクアなないろ館)、ウッドプラザや美術館など、地域の特色を生かした施設が整備され、ゆったりとした空間の中でたっぷりと楽しむことができます。 庄川美術館. 水資料館. 鯉恋の宮、足湯等が整備されていました。
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これが庄川水記念公園の岸辺の桜並木です。向かいの山間にも桜(江戸彼岸桜)が点々と咲いています。並木の染井吉野は樹齢50歳程度、今が女盛りの桜花です。
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桜並木の右貯水池にはブイが浮いていました。このブイの上に乗って左右からロープを引っ張って丸太乗り競技をするのだそうです。材木の村ではの競技です。
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庄川の水辺ですから水芭蕉も咲いていました。
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私達が訪れたのは金曜日でしたが、雨が降り続いて行楽客は出ていませんでした。足湯を無料で使えるレストランも手持無沙汰のようです。
レストランも仕事にならなければ、水車の横に坐っている河童も所在無げな様子です。
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名物の水車の傍らで桜を見詰めていた河童君。
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無料の足湯サービスのあるレストランの庭先、看板には足拭きタオルが100円でした。
観れば寒そうに足湯に浸かったいた親子がレストランに入って行きました。熱いラーメンでも食べるのでしょうか?
私達は庄川沿いを暫く歩きました。道端に「鯉の碑が建っています。鯉を放流する地点だそうです。
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此れが厄払い鯉の放流場です。案内板によると、江戸時代後期の1816年(文化13年)に行われた金屋神明宮の遷宮祭に遡ります。その遷宮祭で供えられていた「神の化身、庄川の主」とされていた鯉が、長時間の神事が終了してもまだ生きていたことから、鯉の生命力にあやかり、鯉に御神酒を飲ませて災厄を託し、庄川に放流したのが起源とされています。以来毎年1月7日に神事が行われるようになって厄年の男女(男性は、数え年25、42歳、女性は、数え年33歳)が「開運」「長寿」などを願い、御神酒を与えられた鯉に一人ひとりが手を触れ、庄川へ放流するそうです。鯉が人形のようにして厄払いしてくれるのです。
「厄払い鯉」に「なるほど」感心して歩いて行くと派手な朱塗りの社があって、「鯉の宮」と案内されています。此方の鯉は単純で自分の「恋」が成就する「恋」と「鯉」の語呂合わせの現代的な商魂の為す社でした。沢山の絵馬が奉納されていました。
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此れが庄川水記念公園にある「鯉恋の宮」です。案内板には玉砂利がセラミックであると案内されていました。写真を撮ってみると向かいの断崖に洞窟があって、注連縄が張られているので、祠が祀られているのでしょう。
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「鯉恋の宮」の社内に結ばれた御神籤とハートの絵馬」



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五個山「相の原の」合掌村

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合掌村と云えば誰しもが「岐阜県白川村」の合掌村を思い浮べます。私の住む横浜三溪園の合掌民家は白川村の御母衣ダムの湖の底に沈む運命に在った「矢箆原(やのはら)」家の民家を1960年に移築したものです。
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これは三溪園にある合掌造りの矢箆原家住宅(重文)です。御母衣ダムの水底に沈む運命だったものを荘川桜同様に救出して三溪園に移築したものです。左の坂を下ると荘川桜が咲きます。今年はもう散ってしまったでしょう。
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此れは川崎の生田に在る日本民家園の合掌造り民家の山田家住宅(重文)です。三溪園の合掌造りより一回り小さいのですが美しさは抜群です。
一方川崎民家園の合掌造りは五箇山の山田家を1967年に移築したものです。山田家住宅は18世紀の建物で蓮如上人が宿泊されたという伝説も残っています。総じて云えば、白川村の合掌造りは大きくて壮大です。一方五箇山の合掌造りはこじんまりしていて白川村のそれに較べれば二回りも小さいのです。その分小家族の温もりを感じます。昨秋八尾で「風の盆」をエンジョイしたのでしたが、立山の向こう(南)は五箇山だと思いながら見渡しました。「何時かまた来たい」思ったのでしたが意外に早く来られました。私達は五箇山で一泊し。最後の目的地は「高岡」にしました。五箇山の名の由来は5つの山が在って、その谷間に5つの村が在る事に由来するそうです。どの谷も深いので村民は肩を寄せ合って共同生活を強いられます。その結果美しいモノノ白川村よりも小さい合掌民家が建てられたのでしょう。私達は先ず村上家住宅(重文)と岩瀬家住宅(重文)のある菅沼地区を視て廻りました。
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此れは菅沼の合掌集落です。菅沼は相の倉よりも100m程低い位置に在ります。
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此れは菅沼合掌集落に在る岩瀬家住宅「国の重文」
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これは菅沼にある村上家住宅「国重文」
友人は満足せず、合掌民家が家並を形成している「相倉/あいのくら」地区に行きたいと言うので、峠を登りました。峠を越えると突然に大きな駐車場があって、「駐車料金は500円、此処からは徒歩で村内を散策してください』指示されました。白川村は観光客で混雑して「竹下通り」を歩いている様な気になってしまうのですが。相倉は合掌民家のテーマパークを歩いている感がしてきます。外国人が多いのに驚きでした。
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これが五箇山の相の荘合掌村の入り口です。此処の集落には徒歩でしか入れません。
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未だ雪が斑に残っていました。雪が溶ければ田起しをするのでしょう。
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民家の三分の一は民宿や紙漉きなど観光業で生計を保っていました。
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辛夷が咲いて田起しを促しているようでした。
白川村の雑踏に閉口した人には閑静な五箇山の相ノ荘合掌村は好印象でしょう。外国人ツーリストもネットで調べたのでしょう。民宿に泊まって日本の山村ライフを満喫しているようです。


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砺波瑞泉寺に視る「匠の技」

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砺波の水記念公園から更に山を下って五箇山の登り口の位置に蓮如上人の古刹「瑞泉寺」が在ります。瑞泉寺は蓮如上人開基の名刹ですが、それ以上に欄間等の彫刻の技で有名です。浄土真宗の篤信の信者が此処砺波に住んでいた事が日本一彫刻の匠の町を作ったのでしょう。勿論庄川の上流には、飛騨の匠が居て、左甚五郎を排出した歴史も影響したのでしょう。
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此れは瑞泉寺本堂です、雪囲いを外したばかりでした。右端の銅像は蓮如上人かと思えば親鸞聖人でした。
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未だ境内には雪が残っていましたが、紅枝垂れ桜が満開でした。銅像は親鸞聖人です。
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椿が散って、染井吉野も散って、瑞泉寺は雨でこそ在っても春爛漫でした
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宝物館から境内を見渡す。黄色い花は「連翹」で「一気に春が来た」感じでした。
砺波の瑞泉寺は1390年本願寺第5代綽如(しゃくにょ)上人が開基で、ご小松天皇の勅願所で夏には聖徳太子の絵解き説法で有名だそうです。宝物殿にはその絵解きの掛け軸や聖徳太子像が展示されていました。三度も焼失したのだそうですが、その度毎に浄土真宗の教団組織を活かして再建したのだそうです。火事は砺波の民衆にとって災難だったでしょうが、伝統の匠の技の継承の意味では幸いだったのかもしれません。私が裸足で廊下を歩いていると係員が追いかけてきて「スリッパを履け」と口煩く言ってきました。私は「転ぶと危険なので裸足の方が安全だ!」断ると。「本堂」「太子堂」「宝物館」と歩いて巡る時渡り廊下が濡れていたので。「濡れないように」心遣いであったようです。「他人の好意は先ず受け止める事が大事だ」と気付きました。
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本堂正面向拝を飾る装飾彫刻本堂と向拝の間に在るのは海老虹梁で重垂木の下に在るのが
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要所要所には解説が付いています。でも係員の説明したのは匠の名前のようでした。
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本堂の装飾彫刻のうち下の段が間斗束上に在るのが蟇股彫刻で写真は獅子です。
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これは本堂の主屋と向拝を繋ぐ海老虹梁です。虹梁の先端を飾る出鼻も凝っています。
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何といっても装飾彫刻のハイライトは欄間彫刻です。内陣と大広間の境の柱には観音開きの障子戸があってその上部には金色の天女が欄間彫刻されていました。
スリッパ以上に係員が熱心だったのは「欄間」や「向背」や「蛙股」や「間斗束彫刻でした。彫刻の下には解説が貼ってあったのですが。それでは事足りず「何代目名人の何某が彫ったと説明してくれました。私が余り関心が無いので残念そうでした。郷土の誇りの名人だったのでしょう。
天井や欄間ばかりを見上げていると流石に首が凝って来ました。その中に敷居に躓きそうです。



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砺波瑞泉寺門前町の「おもてなし」

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瑞泉寺で彫刻を満喫して顎が疲れました。私達は門前町を暫く散策する事にしました。在る饅頭屋さんの店先で立ち止まると「仕掛け」装置が動いて「お茶をどうぞ!」呼びかけてくれました。饅頭屋の店内を覘くと女将さんが微笑んでいます。店内には簀子が在って、「腰かけて御饅頭を食べて下さい。」渋茶をサービスします、そんな仕組みのようです。女将さんは私の娘と同じ年頃、お話も上手です。
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瑞泉寺門前の八軒通りに面した「田舎饅頭」の店先、店内で女将が操作すると「お茶をどうぞ!」と云ったからくりが作動します。からくりにマンマと嵌ってお店に入りました。
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これも田舎饅頭の店内にあった「からくり」です。ペダルを踏むとからくり人形が鑿を振います。
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ほうじ茶はサービスです。田舎饅頭(100円)は甘さ控えめ拝観で疲れた人には最高の一服です。
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「からくりで」で遊んで作品を視て田舎饅頭で一服して。話し上手な女将さんと会話を楽しんで楽しいお店でした。
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富山の女性は必ずしも美人とは云えなくても話し上手で気立てが良い人が多いようです。
店先に引き攣れて向かいの屋根を指さします。屋根の上に猫が昼寝しています。待てよ先刻から雨が降り止まない、猫が昼寝している筈が無い、思えば屋根の猫も砺波の匠の技だそうです。
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田舎饅頭「よしむら」の店頭https://tabelog.com/toyama/A1605/A160502/16005542/
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田舎饅頭「よしむら」の向いのお店の屋根の「昼寝猫」
そういわれると瑞泉寺境内で左甚五郎の彫刻も観ました。「眠り猫」ならぬ「昼寝猫」です。
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砺波美術館の玄関脇に設えられた電話ボックスも良い味出していました。
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通りの電信柱にも雲中供養仏が飾られていました。瑞泉寺の門前は街中美術館の様です。これは飽きません。
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店に入ればドアの取っ手が「猫ちゃん」でした。思わず手を引っ込めて手が汚れて居ない事を確かめてしまいます。


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五箇山「菅沼」のフランス仕込み「ジビエ料理」

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私は旅に出ると心してその地方の食べ物を戴きます。特に「ジビエ」には目が無いのです。飯豊村には熊を食べに出かけました。五箇山を走れば「熊だ、鹿だ、猪だ」ジビエの看板が目に付きます。今年の2月テレビ東京で「バス旅行の旅」を放映していました。路線バスに乗って、サイコロを振ってサイコロの眼の数だけ、進み、そこでレストランを見つけて何かを戴く「ゲーム+旅行h/ttp://www.tv-tokyo.co.jp/rosenbus/」ゲームでした。太川陽介&蛭子能収が菅沼を旅して居ました。そして雪道に埋まりながら辿り着いた先が「仮」と書かれたレストランで、そこがフランス帰りの無口で真面目な店主が調理するジビエレストランでした。そこで今回のツアーでは必ず、レストラン「仮」でジビエを食べようと決めて居ました。幾つもあった「ジビエ看板」を素通りして、ひたすら、「仮」レストランを目指しました。
「仮」レストランは図らずも菅沼の中心地「岩瀬家住宅/重文」の真ん前に在りました。
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此れが菅沼の中心にある大駐車場の前に在るドライブイン「仮」です。良く見れば「赤尾」とも書かれています。
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「仮」レストランは岩瀬家住宅「重文」の目の前に在りました。
私は元来食いしん坊です。「鹿カレー」と「猪の棒葉味噌焼き」と「豆腐ステーキ」を注文しました。友人は「そんなに沢山食えるかよ?」呆れ顔ですが、食欲は何にも勝る欲望です。何しろ私の身体がジビエ料理に含まれているミネラルを欲しているのです。
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レストランの真ん前が大駐車場でその向こうに合掌集落の岩瀬家住宅「重文」が見渡せます。駐車場の端に在る建物はトイレです。
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これがレストラン「仮」のメニューです。この日は「熊汁セット」も「鴨雑炊」も無いので
私達は鹿肉カレーをとって、「猪肉の棒葉焼」と「豆腐ステーキ」を一皿とって3人でシェアーしました。
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友人も美味しそうに食べて居ましたが、ビールを飲みたい風でした。
レストランンのオーナーでもあるシェフが応対してくれました。蛭子さんは本当に来訪神の恵比寿様のようでであると言いながら事業が順調に動き出したのでしょう。自信に満ち溢れて居ました。テレビ放映の時は独り者で惨めを極めて居ましたがこの日はお手伝いの女性が居ました。「実は結婚したのです」期待したのですが、二人ともそんな風は在りませんでした。レストランが順調に回転しさえすれば。嫁さん探しは難しく無いでしょう。
肝心のお味ですが、素材が良いのですから勿論大変に美味しかったです。次回来る時は御握りセット「熊汁付」か「鴨雑炊」を戴く事にしましょう。
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これは猪肉の棒葉焼です。高山なら「飛騨牛」ですが牛より猪の方が美味しいに決まっています。
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事業が順調に回って自信に満ちているオーナーシェフ。壁の色紙が太川陽介と蛭子能収氏のテレビ撮影時にサインしたものです。


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「高岡古城公園」の彫刻群像。

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昨秋私達は高岡を旅しました。「我国有数の仏具の町高岡ですから、また来ることもあろう」予感していたのでしたが、半年後の春に来れるとは思っても居ませんでした。前回は鋳物博物館や瑞龍寺や金屋町や御車会館を観たので今回は高岡古城を観たいと思いました。何しろ、「高岡の桜の名所」と云えば第一に「古城公園」を推薦されていました。古城公園に入ると、市職員が昨夜の嵐の跡清掃をしていました。職員に銘木や景色の良い所を確認すると。博物館の屋上を開放しているので、「そこから見渡せば良い」推奨されました。案の定博物館は古い建物で階段しか在りません。屋上に出ると、若い市職員が案内していました。私達は職員に訊きます。「立山は戸の方向?「雨晴海岸、二上山は?」職員は親切に説明してくれました。高山の自慢なのですから・・・・、屹度訊いて欲しかったのでしょう。
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此れは高岡の古城公園の外濠です。染井吉野は散り始めていました。
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市職員が大風一過の公園を清掃していました。職員が古城公園の見所を案内してくれました。
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職員が博物館の屋上で案内してくれていました。御着物のご婦人は博物館の中でお点前をしてくれていたようです。本来ならこの屋上に毛氈を敷きお点前のサービスをしてくれたのかもしれません。
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遠方の丘が二上山でその右が雨晴海岸になります。手前の樹木が古城公園です。
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博物館屋上の下は高岡古城公園です。
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この銅像は高岡城を開いた前田利長公です。この前田家二代目が鉄砲鍛冶を堺から高岡にひきつれたので、銅器の町高岡が出来ました
古城公園入口にはで高岡城を開いた高山右近の像が在りました。城内には高岡発展の基礎を築いた前田利長公の銅像を確認しました。富山城にも同じ銅像を観た記憶がありました。
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高岡古城公園の入り口にある高山右近像。写真出典ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91
良く見れば古城公園の芝生の周囲に銅像が並んでいます。箱根の「彫刻の森美術館」よりも有名な彫刻家の作品が並んでいます。想像するに高岡市が有名彫刻家の許可を取り付けて市内の職人にブロンズ像を作らせたものでしょう。
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高岡古城公園の芝生の外周にはブロンズ像がさながら「彫刻の城」の様に並んでいました。その外は崖で外濠が囲んでいます。
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北村西望氏の「夢」
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芝生の外周にブロンズが並んでいました。どれも日本を代表する彫刻家の作品でした。
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此れも北村西望氏の「熱風」
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此れは長谷川義起氏の「国技」
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此れは円蔦勝三氏の「若葉」
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此れは斉藤素顔氏の「行路」という名の作品(一見してカレーの市民/ロダン」を思わせました。
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荻原守衛(碌山)作のブロンズ像博物館の玄関横に在ります。
古城公園に満足して出ようとすると公園内の神社で国際結婚式が行われていました。日本固有の神前結婚式に参列した外国人女性がタクシーで披露苑会場に向おうとしていました。日本人以上に綺麗に着物を着こなしています。
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神前結婚式から披露園会場に向かう外国人女性。綺麗に着物を着こなしているので女子高生も見入っていました。


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旅行ブログ

信夫山の忍捩摺観音

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百人一首の源融(嵯峨天皇の皇子)の歌は次の通りです。
    陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰(たれ)ゆゑに
           乱れそめにし われならなくに

                        河原左大臣(14番) 『古今集』恋四・724
歌の意味は次の様なモノでしょう。
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 此れは源融です。賀茂川の近くに屋敷が在ったので「川原の左大臣」と記されています。光源氏のモデルには種々説が在りますが皇子である事歌の名手である事を列挙すれば源融が一番候補でしょう。
【歌の大意】
私の心は、陸奥で織られる「しのぶもじずり」の摺り衣の模様のように、乱れてしまいました。いったい誰のせいでしょう。私のせいではなくて貴方の所為ですよ・・・・。
私の新婚当初、町田の映画館で、三浦哲郎氏の「忍ぶ川/芥川賞」を観ました。当時私は宇都宮の西を流れる「思い川」を思い浮べながら加藤剛と栗原小巻を見詰めました。松竹も観客動員で気を良くしたのでしょう、続いて「忍ぶ糸」を映画化しました。映画は伊賀上野の組紐屋の職子の娘が紐屋の息子への恋心が組紐に出てしまうのでした。組紐屋の女将は息子と娘の恋を禁じます。二人は忍んで女人高野室生寺で逢引します。更に、高山に旅して高山祭りを観ながら結ばれます。
組紐を結ぶ行為が「忍ぶ恋」を象徴します。私は「忍ぶ川」「忍ぶ糸」の連作を読み映画も観ながら、三浦哲郎氏が源融の和歌をヒントに原作を著したモノと確信しました。私は『何時か「信夫文字摺石」を友人と一緒に観たいものだ』思い続けていました。福島旅行の最初の目的地「信夫文字摺石」のある文字摺観音にしました。
福島駅西口から阿武隈川を渡った先の山裾に文字摺観音が在りました。真西に信夫山が見渡せます。
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これは文字摺観音の多宝塔です。
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これは元禄年間に建立された文字摺石の案内碑です元禄年間も名物であったものの「何事も不明?」とされていたようです。・
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芭蕉は「奥の細道」でも文字摺石を訪れています。でも、俳句は残さず、同行の曽良が次のように吟じています。【早苗とる手もとや昔しのぶ摺り】。(早乙女たちが早苗をとって田植えをしています。その鮮やかな手振りに、昔のしのぶ摺りの様子が偲ばれてならないのです・・・。
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これが文字摺石と呼ばれる巨大な石【鏡石】です。解説によると源融が按察使として此処に来たところで美しい娘(虎女)と昵懇になった。源融は別れるに際し「3年後迎えに来る」約束します。虎女は3年待ったものの「想い人」は来てくれません。鏡石に願をかけると。石の表面に源融の顔が浮かびました。虎女の想いは達せらずに没してしまいます。大岩の表面に模様があるので源融の顔に見えたのでしょう。でも、信夫の里は織物の産地なので忍ぶ草の染物を名産にしました。「忍ぶ草」には2説あって一つが吊り信夫に使う「羊歯植物です。写真に写っているのが羊歯植物の忍ぶ草です。これを正しいとすれば渋い緑の染物でしょう。もう一つが「捻れ草」です。赤紫の小花が付く捻れ草は如何にも恋心のモツレを思わせます。
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此れが「捩花」です、梅雨の最中に咲く可愛い花です。二本の茎が寄り添い捻れながら伸びて小花をつけます。強い雑草で我が家にも毎年咲きます。鎌倉では淨楽寺の本堂前の芝生に群生しています。
その日の夜はT教授にお願いして「福島の歌枕」を講義して戴きました。最初に講義して戴いたのが源融のこの「信夫文字摺石」を歌枕にする歌でした。源融は源氏物語の主人公光源氏のモデルと云われる平安貴族の理想像です。T教授は源融から芭蕉にそして智恵子抄の高村光太郎と智恵子に及びました。
恋は不倫であるか否かに依らず、命を燃焼させ、純愛も千路にに縺れるモノです。純愛は忍ぶ美しさも併せ持ちます。歌枕にすることは、源融(光源氏)の恋心をイメージの上で重複させ、美しさと苦しさを万人に想わせる、極めて文化的、歴史的な表現手法です。




信夫山の岩谷洞の磨崖仏

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此れが信夫山の東山麓の岩谷に彫られた磨崖仏です。此処まで登るのも大変です。
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60体も在る磨崖仏が全部平安時代前期の作ではありません。大半が旅行や羽黒山詣でが盛んになった江戸時代の作です。勿論古代中世の石仏が美しいのですから、一生懸命古仏を探しました。
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此れは江戸時代の観音菩薩です。観音霊場の名や奉納年が刻まれています。
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此れは岩谷の正面の聖観音菩薩ですが寛永6年の奉納である事が刻まれています。
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これが私が平安前期(鎌倉時代?)の阿弥陀三尊と判断した石仏こうした櫓の様式は鎌倉で良く視ます。
信夫郡の文字摺観音を詣でて私達は再び阿武隈川の西岸の信夫山の麓に戻りました。信夫山の裾の岩屋に平安時代前期の磨崖仏が残っているのです坂上田村麿を派遣して平安王朝は蝦夷を従属させたのでしょう。白河の関は蝦夷の軍が越えてはならない関であるとすれば大河阿武隈川は蝦夷が敷いた攻防線だったことでしょう。阿武隈川を臨んで信夫山の東山麓の岩場に磨崖仏を彫ったのは。蝦夷から災厄が遣って来ないように「賽の神」の役割を担っていたのかもしれません。
私は事前に写真を視ていたので60体もの石仏が彫られているのに感服していたのでしたが、実際に観ると大半が江戸時代に彫られたモノでした。でも確かに平安時代か鎌倉時代に彫られた石仏も混じっているように思えます。石質は凝灰岩ですから彫り易く色彩も良いのですが。脆いのが欠点です。脚下には風化して落下した岩が転がっています。
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此れは大分県臼杵の磨崖仏(国宝)です。以前次にアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893303.html?m=lc&sv=%B1%B1%B5%CF&sk=0臼杵は阿蘇山の火山灰が地圧で凝灰岩になったもの。日本の古代石仏は凝灰岩を素材にしたモノに秀逸な作が多く、中世になると花崗岩が多くなります。
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これは今回の旅の最後に拝観した南相馬の大悲山の磨崖仏(阿弥陀如来)これも凝灰岩です。古代人の鍛工技術では花崗岩に細工する事は出来ず、凝灰岩が素材的にも最適だったと思われます。臼杵は阿蘇山、福島の信夫山は那須火山帯の磐梯山や安達太良山等の火山灰が地圧で凝灰岩になったモノでした。
磨崖仏見学は臼杵でも熊野でも難儀しました登る時には事故は無いのですが下りで滑ると大変です。咲き始めた山藤や躑躅に眼をとられて滑ったりしないように気を付けて麓に下りました。
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岩谷からの下り道向こうの岩場が磨崖仏を彫られた場所です。
この旅で私達は幾つもの大草鞋を観ましたが、岩谷観音の大草鞋は12mも在る巨大なモノでした。信夫山は大草鞋信仰の中心のようで、出羽三山詣での旅人も此処で一服し、併せて旅路の安全を祈願したのでしょう。新幹線福島駅の看板や岩谷観音の看板を視ると。運動会の「ムカデ競争」ならぬ「草鞋競争」を楽しんでいたようです。能登に行けば村や部落が「神輿をぶつけて「喧嘩祭り」をしていますが、飛脚が競った様に「草鞋競争」をしたようです。博多の山傘で山車が速さを競うように福島では大草鞋を担いで速さを競ったのでしょう。
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駐車場脇に飾られた「大草鞋を奉納する祭り」風景。初夏に福島市内から岩谷観音に競って大草鞋を奉納するようです。こうした祭りが福島人の結束力、強い絆を培ってきたのでしょう。
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新幹線福島駅西口に飾られた大草鞋看板には「草鞋祭り」「草鞋競争」が8月5日、6日に行われると案内されていました。
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こちらは岩谷観音の阿武隈川を挟んで東に在る、小倉山「大蔵寺」の大草鞋です。大蔵寺の神宮は「足尾大神」で足尾大神は栃木の足の神様です。私の住む戸塚にも南谷羽黒神社の脇に大草鞋が在りますが。作る手順は先ず竹を4本組んで枠を作り、次に藁を編んで大草履の形にします。
信夫三山 暁詣り. 信夫三山とは福島市のシンボル信夫山の,月山、羽黒山、湯殿山の三つの神社を指す。もともと修験者のいた信夫山だが、江戸時代、福島の嶋屋の飛脚連中が健脚を祈願して石塔を奉納した。言い伝えによると、かつて羽黒神社に仁王門があったとき、仁王様の足の大きさに合った大わらじを奉納したのが、始まりとか。大わらじは長さ12mで80有余人の担ぎ手により市内を巡り羽黒神社わきの大杉につるされていたが、昭和51年8月に羽黒神社の焼失と共に、この大杉も焼けてしまったので、現在は鉄塔に吊るされているそうです。
大草鞋も岩谷観音の磨崖仏も「信夫の里」に災厄が来ないように「賽の神」の役割を果たしてきたものでしょう。

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信夫山文庫でランチ

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朝から「文字摺り観音」から「岩谷観音」を巡るとお腹も空いて来ました。今日のランチは信夫山公園内にある「信夫山文庫」という名の「茶屋」です。ネットで観ると「ランチは880円と廉価です。店の名前「信夫山文庫」も興味を惹きました。私の仲間は読書好きが多いのです。期待をして信夫山文庫にランチの予約を入れておきました。
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[天神様への細道」の途中に「信夫山文庫」はありました。向こうの朱色の鳥居が天神様です。
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これが目指す「信夫山文庫」の玄関です。暖簾には「本カフェ」とコメントされていました。「古本屋か」思われて素通りされてしまいそうな店構いです。
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「信夫山文庫」玄関のメッセージ。店主に訊くと「店主は読書好き」で信夫山の茶店を購入して「読書+喫茶」をコンセプトに開店した処賛同者が善意で蔵書を寄付していったので、現在のように本屋の呈を表するようになったのだそうです。昔の茶店ですから畳の小部屋が幾つも在りました。「畳の上に寝そべって読書三昧、珈琲を戴ける・・・・。」北杜雄の世界のようです。蔵書を観れば、顧客の幅は廣いというか、雑多のようです。
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此れがレジであり「カウンター」です。奥がキッチンです。右端のノートに借りたい本の名と自分の名を書けば貸出出来ます。旅行者は宅急便で返本すれば良いそうです。
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「信夫山文庫」のマスコットは「シノブン」という信夫山の姿です。まるでモグラが読書しながら居眠りしてしまった様な姿(筆者の姿)です。盲目のモグラが読書する筈ありません。ウィットに富んだ店主です。
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中庭に面して長い廊下があり、小部屋が並んでいます。普段は個室5室で営業しているようです。私達は予約しておいたので4部屋をぶち抜きで使わせて戴けました。
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私達の為に小部屋4室をぶち抜いて待っていてくれました。窓際には机が並んでいて蔵書を展示して在りました。気になった本を借りて座布団を枕に腹這いになって読書して過ごす、スタイルです。
電話番号でもナビは入らないので、住所地でナビを入れましたが中々信夫山文庫は見当たりません。電話で確認すると『「信夫山公園」の駐車場に駐車して、天神様の参道を下って来れば信夫山文庫に着きます』
気安く言われますが一向に見つけられません。スマートフォンを片手に探して漸く「信夫山文庫」を見つけられました。私は幹事ですから、見つかると「ホット」安堵します。
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この「火薬ご飯」がランチ880円でした。この他に珈琲が付きます。野菜は美味しいし、ボリュームも充分でした。メニューに「蒲公英珈琲」がありました。
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此れはカウンターに置かれていたフリーペーパーです。筆者はてっきり表紙の女性が店主かと思って話しかけると「私はこんなにメタボじゃなくてよ!」伐り返されてしまいました。カウンター横には「良い家庭教師紹介します」書いたポスターが貼られていましたので。信夫山文庫は地域情報の交流する場所でもあるようです。
地方の文化は「食事」と読書に特徴があるモノです。火薬ご飯も野菜の煮物も味噌汁も美味しかったのですが、ゆったりと仕事を楽しむ女将さんも魅力がありました。
信夫山公園は桜も紅葉も名所のようです。又、何時の日か信夫山公園の信夫山文庫に寛ぐ日が来るような予感がしました。


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