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北天院の「母親地蔵尊」

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「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
トンネルの名は上越線の「清水トンネル」でした。
東海道線を東京から出発するとずっと平地を走ります。
保土ヶ谷駅を通過すると坂道が続きます。
そして武蔵野国と相模国の国境のトンネルを抜けます。
名前は「清水谷戸トンネル」
明治20年に開通した、現役最古の鉄道トンネルです。
道路の方はこの国境に向けて権田坂を登ります。
箱根駅伝2区の名物になっています。
 
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           (明治20年開通した現役最古の清水谷戸トンネル/左側。北天院の山を刳り貫いています)
 
私は川上町の熊野神社から、信濃町の「北天院」に向います。
この古刹は国境の山の上にあります。
山の東を「清水谷戸トンネル」が西を横須賀線の「信濃トンネル」が貫通しています。
左右を線路が通っているわけで・・・・「騒がしくないかな・・・・?」
気がかりです。
 
建長寺を創建した蘭渓道隆が逝くと、北条時宗は無学祖元を明州から迎えます。
無学祖元は北天院に草鞋を脱いだ、と伝えられます。
諡は仏光国師、円覚寺を創建します。
円覚寺は山門下を横須賀線が通って、白鷺池を分断されてしまいます。
あの世で仏光国師は呟いておいででしょう。
「明治政府鉄道省は私の寺を目の敵にしているようだ・・・」と。
 
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   (北天院の長い石段、踊り場が幾つもあって、石仏が迎えてくれます)
 
北天院の本堂には、真直ぐで長い石段を登らなくてはなりません。
石段は竹林の中です。
石段の中途踊り場が用意されています。
私達は此処で一休み、石段の下を眺め、山門の屋根を見上げます。
竹林の間に山桜の大木が混じっています。
そして、足元を見れば、石仏が佇んでいます。
 
私の今日の目的はこの中の一体で、「双体の道祖神様」です。
頭を丸めて、僧衣を着た道祖神様で、大切に祀られていました。
 
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                                            (珍しい、馬上の馬頭観音像)
 
その横の石仏に眼を奪われます。
一体は馬頭観音です。
でも、馬の背に乗っておいでです。
馬上の馬頭観音、滅多に見たことはありません。
そして、もう一体は子安地蔵さんです。
四角い基台の上に乗っておいでです。
 
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     (左から馬頭観音、一基おいて庚申塔、双体道祖神、そして今日の話題の子安地蔵尊)
 
お地蔵さんは男性と思っています。
特段根拠は無いのですが・・・・・、
子安地蔵さんは右手に錫杖を持ち、左手で乳児を抱きかかえておいでの事が多いようです。
端正なお顔で正面を向いておいでです。
拝む人に「私は子供を三途の川で守っていますから安心なさい・・・」そんな姿が一般です。
ところがこのお地蔵さんは抱えた乳児を愛しんで、お顔を左に傾けて乳児を覗き込んでいます。
まるで「母親の表情」です。
 
お顔を曲げていますので、バランスが崩れてしまいます。
そこで、真直ぐな筈の錫杖の先端も曲げてしまいました。
ああ、このお地蔵さんは母親なのだ・・・・、思います。
 
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                             (母の面影のお地蔵様。こんなにお顔を傾けているのは珍しい)
 
私は基台を見てみます。
正面には子安地蔵を奉納する4つの願文が刻まれています。
そして、その側面には願主のお名前等が刻まれていました。
文化2年(1805)2月吉日に明仙禅尼さんが立てられた事が解ります。
乳児が両手で持っているものがあります。
玩具ではありません。
本来お地蔵さんが右手に持っているはずの「如意宝珠」を、乳児が預かっているのです。
如意宝珠は「衆生の願い事を想いのままに実現させてくれる珠」です。
 
願主はお名前からすると、明るくて仙人のように欲の無い人だったのでしょう。
その人が、大きな子安地蔵さんを作って、北天院に奉納しました。
コツコツ貯めたお金を払って、「母親のようなお地蔵さんが良いの・・・・」
石工に注文したのでしょう。
母親とは自分の事か・・・・?
ならば、右手の乳児は早世した子供という事でしょう。
でも、如意宝珠を奉げた乳児が早死にする筈はありません。
ならば、母親は自分の親、乳児は自分自身という事でしょう。
 
昔は母親が難産で、出産後の日経てが悪く、亡くなることは度々あったことでした。
「死に別れ・・・」であります。
娘は母親の愛を感謝して育ち、明るい禅尼になられました。
母への報恩の想いがこの子安地蔵を奉納させた・・・考えたいと思います。
あくまで、私の想像ですが・・・。
 
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                                                        小法師像
 
子安地蔵さんで一息ついて、また石段を登ります。
次の踊り場には「小法師像」が二体置かれています。
可愛い、こけしのような童子のお地蔵さんです。
 
流石に北天院の伽藍は禅堂らしい、凛とした清々しい佇まいです。
本堂の右奥に向います。
丁度トンネルの上になるでしょうか。
無縁の仏様が並んでおいでです。
竹林と椿と山桜の木の下です。
ご住職の作為でしょう・・・・。
童女の墓標塔が並んでいます。
大半がお地蔵様です。
後列にはお母様方が並んでおいでです。
大半が如意輪観音様です。
親爺の墓標は無いのかな・・・・?
私は石仏の光背に刻まれた戒名に目を走らせます。
でも、殆どが子供と女性の墓標のようです。
 
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     石仏の右に戒名、左に往年が刻まれています。わざわざ「早世」と刻まれているものもあります。
 
北天院は尼寺だったのかな?
思ったりします。
 
今年は桜が遅いようです。
明日は小学校の入学式、
週末が桜の見頃になるでしょう。
この女達の墓地は山桜の木の下・・・・、
薄幸な女達が集まって、お花見に興じる事でしょう。
ワンカップの日本酒を持って入山したら・・・・、
女性には歓迎されても、ご住職に叱られるかもしれません。
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                           山桜の古木の下で無縁の仏達は眠っておいでです
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    北天院、本堂から山門を見下ろす。堂塔の甍の並びが禅寺らしい佇まいです
 
 
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西林寺の花祭り

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お釈迦様の誕生日は4月8日(陰暦3月3日は陽暦4月5日)、今年は偶々桜が咲く季節に当たりました。
 
『誕生をお祝いする灌仏会を「花祭り」と呼ぶ事にしようじゃないか!』
多分、こんな素敵な考えを実施したのは江戸時代、浄土宗のお坊様でしょう。
 
上野の寛永寺をはじめ、浄土宗のお寺は(増上寺・護国寺など)桜の名所になりました。
桜の花が咲いたら、お釈迦様にお祝いし、お花見をして楽しみ・・・・今年の豊作を予祝する、
そんな国民行事にしたら良い・・・計画したのでしょう。
 
そして思惑通り「花祭り」はお、正月・お盆、に並ぶ日本人の国民行事になりました。
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                              (今日の話題、岡津の西林寺の枝垂れ桜4/4日)
 
 
戸塚宿の江戸見付寄りに、大山道の分岐点があります。
大山道に入って1キロほど西に行くと岡津町に「鶴亀山西林寺」があります。
浄土宗のお寺で、家康の側室「お万の方」の住まいの跡でした。
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                                 柏尾の大山道分岐点
 
境内には様々な教育の遺構が残されています。
寺子屋「不及庵稽古所」、小学校「岡津学舎/明治6年」、原田由右衛門の碑「朴翁居士之碑」、栄隆(寺子屋の教師)の筆子塚・・・・・等等です。
そして先代住職(大橋氏/昨年遷化)は長年戸塚中学の教師をされ、地誌の業績も多く残されておいででした。
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                                          (西林寺の裏山から柏尾方面を望む)
 
お寺の坂を登りきったところに一本の枝垂れ桜の大樹があります。
この枝垂れ桜が戸塚の桜の咲き始めです。
私達の挨拶は「西林寺さんの桜はどうですか?」と言うほど馴染んでいる桜です。
例年3月末には満開なのですが、今年は今日4月5日にずれ込んだようです。
丁度今日は小中学校の入学式、桜もあわせてくれたようです。
枝垂れ桜は170歳と案内されています。
天保時代、寺子屋の教師でもあった大橋さんのご先祖が植えられたものでしょう。
期待通りに立派に成長し、皆を喜ばせています。
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                            (枝垂れ桜には野鳥も集まってきます)
 
枝垂れ桜を見に沢山の人が鶴亀山を登ります。
そして、桜をめでて、お釈迦様に甘茶をかけます。
そして、最後に茶碗一杯、甘茶を戴きます。
 
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お釈迦様が生まれた日、天に9頭もの龍が現れ、香ばしい水(甘露水)を降らせたそうです。
その水を釈迦様は産湯にされました。
そして、三歩歩まれ、「天と地」を指差されたのだそうです。
そこで、花で飾った小さなお堂を作って、水盤を置き、その中央にお釈迦様(誕生仏)を安置します。
私達は小さな柄杓で甘露水を誕生仏におかけします。
 
甘露水として香水を使っていましたが・・・・それでは庶民には遠いものです。
浄土宗のお坊様が江戸時代「甘茶」を開発します。
甘茶蔓と呼ばれる額アジサイの葉っぱを採取して、甘茶に煎じたのでした。
ジュースも無いし、砂糖も貴重な時代でした。
子供達には甘茶は嬉しい甘いドリンクでした。
一升瓶を抱えて、お寺に行って、甘茶を貰って帰りました。
家では、一家全員で甘茶を飲んだのでした。
 
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                           (お釈迦様も枝垂れ桜を見上げておいでです)
 
私の生家は曹洞宗のお寺、甘茶つくりに精を出しました。
井戸端に数株の甘茶蔓が自生していて、露の季節に葉が茂ります。
若い葉っぱを伐採して、筵の上で全身の力を篭めて手揉みします。
青汁が出てきますのでこれを絞って出します。
そして、筵の上で干しあげます。
初夏にかけて、縁側は甘茶の香りが充満します。
夏場に一斗缶につめて置いて、翌年のお花祭りで使用します。
 
甘茶の販売は兄弟三人の仕事でした。
台所(土間)にはひっきりなしに子供達がやってきます。
大きな壜でも小さな壜でも一杯に甘茶を満たします。
子供達は小銭を置いて大切に甘茶を持ち帰りました。
ところが我が生家は石段が長くて、転んで甘茶の入った壜を転がしてしまう子もいれば、
石段おの「きざはし」に壜の底をぶつけて、割ってしまう子も出ます。
泣きじゃくる子に、ありあわせの壜にまた甘茶を入れてあげるのも、私達の仕事でした。
一日が終わると、兄弟で笊に貯められた小銭を山分けします。
お正月以来の収入でした。
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西林寺の本堂は羽衣の大振り袖の向こうです
 
 
 
甘茶は甘いのですが、虫歯を予防してくれました。
また、最近は糖尿病の薬にもなっているそうです。
「甘茶・・・甘いか? 酸っぱいか?」
飲んで見なければ解りません。
人生も65年に及ぶと本来甘い筈の甘茶も辛い思い出になる事も多いようです。
みんな、自分自身のあり方に起因していて、自然に原因は無いのですが・・・・、
兎角、責任は第三者や環境におきたくなるものです。
 
西林寺の甘茶を心して戴きました。
「甘露水、甘露水・・・・・」言いながら、お酒を呑んでいた叔父を思い出しました。
 
鶴亀山から風が吹き降ろしてきます。
枝垂れが揺れます。
花弁が舞いました。
羽衣のようです。
 
 

さあ、ブログも書き終えました。
10時からは入学式です。
可愛い7歳児と、優しいお母様に、お祝いに出かける事にしましょう。
 
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心の眼で見ましょう(入学式で)

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45日は旧暦33日、「花祭り」の日でした。
そして、小中学校の入学式です。
私は午前10時から東戸塚小学校の入学式に出かけました。
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 手を繋いで、新一年生。卒業式の時満開だった辛夷も散りだしました。寒かったので長持ちしました。 
 
 
先ず、皆さん東日本大震災に遭遇された方のために黙祷します。
新一年生も眼を瞑りました。
 
鈴木校長先生がお話をされます。
勿論、一年生に向けて・・・・。
 
先生は植木鉢を持ち上げて、語りかけるように話し始めました。
一年生の目は一斉に青い鉢の上の紅いチューリップの花に注がれます。
 
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 チューリップを抱えて話しかける鈴木校長、先生の目が素敵なので潰しませんでした                             (ご容赦下さい)
 
「皆さん、この花を見て下さい。先ほど歓迎の歌を歌ってくれた二年生のお兄さんお姉さんが育てた花ですよ。色や形を良く見てくださいね・・・・」
「さあ、今度は目をつぶって、今見た花を瞼で思い出してください。
花が見えましたか・・・・?」
「皆さんは目を瞑った時、実は心の眼で見ていたのです。心の眼で見るとお顔の目で見るよりももっと本当のことが見えることがあります。
お父さんお母さんに向かい合った時には見えなかった事も、目を瞑ると見える事があります。お友達と喧嘩しました。目を瞑ってお友達を見てください。お友達の気持ちが見えることがあります。これからは心の眼を大切にしてください。」
私は少なからず感動しました。
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  新2年生が3曲歌って新一年生を歓迎しました。「1年経つとあんなに大きくしっかり  するんだ・・・・、」皆が期待を膨らせます。
 
そして、教室の外、植木鉢を見に行きました。
旧一年生は冬が来る前にチューリップの球根を植木鉢に入れて、フカフカの土を被せて、水を撒いた事でしょう。
一年生は球根を手にとっても、花は見えませんでした。
でも、チューリップの花が咲く様を心の眼に見ていた事でしょう・・・・。
そして、この入学式には見事に咲きました。
心の眼で見ていたから、実際に見た花は一層輝いて見えたことでしょう。
そして、校長先生に心の眼で見れば、
お顔の目で見るよりも素敵だと言う事も知ったでしょう。
まるで、レンブラントの絵のように。
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午後は戸塚中学校の入学式でした。
校門の辺りには生徒が「東日本被災者のために義捐を・・・募金をしていました。
体育館は節電されて、薄暗がりです。
黙祷をして、入学式が始まりました。
新一年生の代表挨拶をします。
 
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 戸塚中学の入学式も黙祷に始まりました。大き目の詰襟、膝下までのスカート、初々 しくお似合いでした。
 
「私達は今日入学のお祝いしていただきました。有難うございます。
でも東日本大震災で亡くなった同じ歳の人が沢山います。
生きている人もボランタリー活動で入学式は出来ないでいます。
私達はそうした同じ歳の人の思いを抱きながら、中学生生活をスタートさせます。」
 
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       在校生が校歌をヒロしました。戸塚中学は吹奏楽も合唱も上手です
 
黙祷は英語なら silent prayerです。
目を瞑ることで、大切な部分が見えてきます。
心の眼で見るからです。
 
TVでは公共広告機構のスポットが流れています。
金子みすずの詩が朗読されています。
    そうして、あとで
    さみしくなって、

    「ごめんね」っていうと
    「ごめんね」っていう。

    こだまでしょうか、
    いいえ、誰でも。
 
「こだま」のように「心と心は呼び交い」ます。
素直になれば、響きあう心が誰にでもあります。
目を瞑れば、人の見えなかった大切な部分が見えてきます。
こだまのように呼び交う素直な心が見えてきます。
 
鈴木校長に挨拶して帰りました。
「今日のお話は心に響きました」
先生は笑っておいででした
 
新一年生は193名、6クラスです。
それに倍する数のご家族が集まりました。
幸福な人達です。
お祝いの式に集まれた人全員に向けて話されました。
東戸塚小学校には素晴らしい先生が揃っておいでです。
私は小学校に出かけるのが一番の楽しみです。
 
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     入学記念の写真撮影風景、この写真は皆の心にも焼き付く事でしょう
 
補記:横浜市では数年前から小学校・中学校の連携の下で一貫教育をしています。3月6年生を卒業させ   ると、先生方は中学の入学式に出向いて、詰襟・セーラー服の一年生を見詰めます。屹度眩しく   見える事でしょう。その後も「学校地域懇談会」等で小・中学校は同席する事が多くあります。   良い試みだと思います。
 
 
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立ち彼岸桜が咲いた「浄智寺」

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今日(4月6日)は鎌倉五山の浄智寺に向います。
甘露池を越えると、石段の下に出ます。
鎌倉石が積まれた、なだらかな石段です。
木漏れ日が差し込んでいます。
もうじき石段の両側をシャガの花が埋めることでしょう。
 
遠くに鐘楼門が見えます。
二階建ての竜宮城の門のような形です。
その扁額には「山居幽勝」と書かれています。
朝比奈宗源禅師が書かれたものでしょう。
昔は円覚寺にも肩を並べる壮大な伽藍を構えた大寺でしたが、
今では小さな本堂(曇華殿 )と方丈と、お茶室だけの小さなお寺です。
でも、源氏山の頂まで広い寺域は残しています。
 
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            左が鐘楼門、右が本堂に相当する曇華殿、間に枝垂れ桜
 
朝比奈老師は私達と同じようにこの山を登って帰られました。
そして、つくずく思われたのでしょう。
「此処の住まいは良いなあ!」
そこで、「山居幽勝」と記されたのでしょう。
鐘楼門も自分の裏山の桧を伐採して建てられました。
もう、鎌倉石の採石場はありません。
この、浄智寺の看板のような石段も、いずれは踏めなくなってしまう事でしょう。
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鐘楼門の横には枝垂れ桜が満開になりました。
そして、お茶室の前の「立ち彼岸桜」も満開です。
方丈の屋根の彼方には山桜も咲き始めました。
お寺の奥さまが話されました。
「いつもは先ず立ち彼岸桜が咲きます。
次いで枝垂れが咲き出すと、遅れまいと山桜が咲きます。
でも、今年は寒かった為でしょう・・・・。
三つの桜が同時に咲きだしました。」
私は、
「それは、幸運でした。札幌にいた事があって、梅も桃も桜も同時に咲きました。同じですね・・・!」
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                    山桜と手前が枝垂れ桜
 
境内は樹木が鬱蒼と茂っています。
彼岸桜も杉の木に負けずに背伸びして育ちました。
そこで「立ち彼岸桜」の名前を頂戴し、天然記念物になりました。
屹度、向かいの山から眺めれば、常緑樹の仲に桜が見えることでしょう。
 
桜の木の下には「桜草」が咲いています。
高い空から地面まで桜の花の協奏曲が演じられているようです。
 
私は、決まったコースを通って境内を回ります。
何処からでも立ち彼岸桜は眺められます。
方丈の屋根の上にも、三椏の花越しにも、茶室の上にも・・・・、
何処から見ても、天女が立ち上がったように見渡せます。
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          手前は三椏、奥に土佐水木
 
立ち彼岸が終えたら、次は白雲木の花が咲きだすことでしょう。
四季折々「浄智寺はいいなあ!」思いますが・・・、
矢張りこの桜の季節が最高です。
そのお陰でしょう、立ち彼岸は見事な花を咲かせました。
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                                   お茶室の向こうに立ち彼岸桜
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                                      方丈の向こうに立ち彼岸桜
 
 
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桜の湯元温泉からの眺望

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神奈川県の桜の名所と言えば、先ず第一が小田原城跡公園の桜でしょう。
小田原は二度の戦火に焼かれました。
第一が後北条氏が秀吉・家康の連合軍によって滅亡した時、そして第二が官軍が北上した時でした。
いずれも、箱根の山を越えてきた討伐軍を湯元温泉で迎え撃ちました。
早雲禅寺は秀吉によって焼失し、近くの正眼寺は官軍によって全焼しました。
 
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                                   一夜城への登り道から小田原城を遠望する
 
北条早雲を祖とする後北条氏は小田原に拠点城を構えます。
しかし、軍政上は湯元が重要だったのでしょう。
加えて豊富な湯が沸いていました。
そこで、一族の菩提寺「早雲禅寺」を建立します。
 
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     湯元温泉、温泉街の上に早雲禅寺があります。
 
江戸時代、箱根の山は険しく、雲助や山賊も出没します。
旅人は「箱根越え」を無事に済ませる事を念じた事でしょう。
ですから、箱根の山中にも、此処湯元にも、数多くの地蔵菩薩や道祖神が祀られています。
箱根越えの旅人は此処で英気を養います。
宗祇は旅の途中、この寺で息を引き取ります。
時雨で濡れた事、80歳の年齢での箱根越えは無理もあったのでしょう。
     世にふるも更に時雨のやどり哉 (宗祇 辞世句)
 
芭蕉は自ら侘笠に句を貼ります
      世にふるもさらに宗祇のしくれ哉 (芭蕉)

芭蕉をはじめ漂白の詩人は数多く寺を訪れ、宗祇のように、芭蕉のように生きたい・・・と思います。
     後姿の時雨れて行くか・・・    (山頭火)
 
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                                                 早雲禅寺の枝垂れ桜
 
戦争で逝った人、旅先で落命した人、数多くの霊がこの湯元に眠っています。
慰霊に桜は欠かせません。
小田原城にも、湯元にも沢山の桜を植えてきました。
 
桜を眺めるには、早川の東の急坂を上って、斜面の上から遠望するのが最高です。
斜面の上が石垣山、秀吉が小田原攻めに際して一夜城を築いた場所です。
大きな石垣が一晩で出来たとは思いませんが、此処から眺めれば小田原は目と鼻の先です。
秀吉軍は気勢が上がったでしょうし、後北条軍は敗戦を観念したでしょう。
 
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    手前が正眼寺、筆者の背を登ると曾我堂にいたる。温泉の櫓が見えて、その下が湯元温泉街
 
正眼寺を見下ろす位置、箱根ターンパイクの横に曾我堂があります。
曾我の十郎五郎兄弟が工藤祐経を仇討ちするに際し、正眼寺で地蔵菩薩に祈って出陣したのでした。
そして見事に本懐を遂げると、その供養のために曾我堂を建立しました。
お堂には二体の地蔵菩薩が祀られています。
いずれも鎌倉時代の作で、曾我兄弟酷似と言い伝えられています。
誰が植えたのでしょうか・・・・、
お堂の周囲、登り道には枝垂れ桜が植えられています。
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                曾我堂を見上げる、曾我兄弟を祀るお堂は枝垂れ桜に埋もれていました
 
桜の季節だと言うのに、湯元温泉は人影も見えません。
ソロソロ、湯治客が帰宅する時間です。
湯元の美しさが際立って見えます。
「お抹茶を戴きながら、桜を愛でませんか? 350円です」
旅館の案内が悲鳴のように見えてきます。
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    箱根道祖神(風祭地区、箱根を登る旅人がお顔を撫ぜて行ったのでしょう、摩滅して表情は見えません)
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                                                  湯元温泉街のさくら
 
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紫木蓮の花が咲いて、灌仏会

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4月8日はお釈迦様の誕生日、多くのお寺でお祝いいたしました。
灌仏会には法要があり、秘仏もご開帳される事があります。
私は、せわしなくお寺めぐりです。
お釈迦様に甘茶をおかけし、更に戴きます。
懐かしい甘味が、香りが体の中に染み込むようです。
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                                鎌倉鎖大師さんの灌仏会
 
お釈迦様のお誕生日には様々な奇瑞が生じたそうです。
甘露が天から降ってきました、
天から蓮の花が散ってきました。
花弁が散るさまを「散華」と呼び、今もお寺の慶事には仏殿の甍の上から、五重塔の上層から撒かれています。
 
蓮の花は蓮田や沼に咲くものです、
ですから、天から蓮の花弁が舞い散るのでは、私達は池の底や地の底で生活していることになります。
沼の蓮の花弁が一度天に舞い上がって、その後地上に舞い戻ってくるのか・・・・、
奇瑞とは言え、不可思議な設定だな・・・・、思っていました。
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                                                           白木蓮の花
 
私は駒沢公園の近くの社宅に住んでいました。
此処で幼稚園前の子供を三人育てました。
公園でよく遊ばせたのでした。
公園の南側の出入り口は駒澤大学の正門に並んでいました。
其処に、巨大な白木蓮(辛夷?)がありました。
丁度入学式の頃です。
風も無いのに、一斉に白い花弁が舞い落ちて来ました。
子供も大学生も驚いて、「綺麗!」声を発して、上空を見上げました。
真っ白な蓮の花が青空を埋めていました。
花弁は絶え間なく散ってきました。
 
屹度、花は本来の役割を終えて、地面に戻ろう・・・・としているのでしょう。
子供も家内も花弁を拾いました。
でも、天然の散華は時期に美しさを失ってしまいました。
栞にはなりません。
 
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                             貞宗寺の紫木蓮、竹林に天女が舞い降りたような美しさです
 
私は「はっと」気付きました。
散華の姿は蓮の花弁のような形をしていますが、木蓮でも良いのだ・・・・。
どちらも同じ形をしている、思いました。
 
私の生家の須弥壇の上に飾られた蓮の花を思い出しました。
花や葉っぱは蓮なのに、樹のように幹から枝が伸びています。
こんな植物は見た事がありません。
ああ、木蓮のことなんだ・・・・、思い起こしました。
 
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                                           木蓮の向こうに遊歩道が続いています
木蓮は多くの寺に植えられています。
見て歩くのも楽しみです。
玉縄の貞宗寺には見事な紫木蓮が咲きます。
 
本堂の横から竹林が続いていますが、その入り口にあります。
実に姿が美しく、妖艶な木蓮です。
花弁の外側が赤紫色、そして内側は白いのです。
見上げると、透けて紫と白のグラデーションが見えます。
そして、花弁の隅々まで命を届けた脈も這っています。
 
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                                             竹の足元には花大根が咲きます
 
もう、10年以上も前でしょうか、小泉今日子さんが「木蓮の涙」を歌いました。
    逢いたくて 逢いたくて
     この胸のささやきが あなたを探している  あなたを呼んでいる
     いとしさの花篭 抱えては 微笑んだ あなたを見つめてた 遠い春の・・・・・
 
木蓮の花弁は恋人の面影を宿しているのです。
精霊流しは夏、木蓮の涙は春、どちらも早く逝った男性を思いおこさせます。
どちらも、人間の想いを投影するには充分過ぎるほど美しい花であり行事です。
 
私達日本人は再三の悲しみを自然に託して、涙に洗い流してきました。
日本の自然は時に脅威になりますが、
ずっと長い間は人間を励まし、慈しみ、恩恵を施して呉れます。
 
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                         (男は竹のように、女は紫木蓮のように・・・・・竹に寄り添います)
 
 
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              紫木蓮はこの週末が見納めだと思います
 
 
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春日局の「枝垂れ桜」と「浦島草」

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都心を東西に横断する「春日通り」、古い商店街「春日町」、
いずれの名前の由来は「春日局」です。
春日局は徳川家光の乳母、大奥の実力者でした。
その倅が稲葉正勝、家光は正勝を1632年小田原城の城主に任じます。
更に稲葉正則は老中に任じられますので、稲葉一族は江戸幕府の表と裏を牛耳る事になりました。
 
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                              紹太寺の双体道祖神
 
小田原稲葉一族の菩提寺が「長興山紹太寺」です。
箱根駅伝湯本の中継所辺りから西に登った、山の中腹にあります。
桜の季節、山の斜面に植えられた一本の枝垂れ桜がこのお寺を有名にしています。
植えたのは稲葉正則、「春(日の局)を忘れぬ・・・・」報恩の思いで植えられた、と伝えられています。
ですから少なくとも樹齢は320年と伝えられています。
稲葉一族の御霊屋に近い事から、春日局の慰霊の木として、
自分を含めて子々孫々の墓参に際して、楽しみに植樹したのではないでしょうか。
今も、神奈川県で一番美しい桜の樹です。
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                                      紹太寺の枝垂れ桜、左はその子樹
 
紹太寺の本堂からお霊屋までは急な石段を約20分余り登らなくてはなりません。
駕籠に乗ったまま登るには幅が不足しています。
お殿様はこの石段を息を切らせながら登った事でしょう。
ならば、綺麗な景色、美しい桜、美味しい御茶屋などの設えも必要だった事でしょう。
実際、桜の樹からは相模湾の眺望が開け、今は藪椿の樹下には庵も建っていたそうです。
 
枝垂れ桜は山の斜面にあります。
山側にはスダジイや萱などの常緑自然林です。
従って、海側に向けて大きく左右に枝を広げています。
まるで、大振袖を広げて「綺麗でしょう!」見せ付けているような艶やかさです。
京都円山公園や小石川後楽園等の高名な枝垂れ桜は何れも「庭のシンボルツリー」です。
丸い樹形で、毎年手入れが為されています。
そして濃いピンク色です。
一方紹太寺の枝垂れ桜は・・・・雄大な自然の中で生き抜いてきています。
形は眺めるアングルで様々ですが・・・・野生の逞しさがあります。
私達は、ぼんやり、口を開けて大きな樹を見上げます。
色は淡い桜色ですから、今日のように薄曇りよりも真っ青な青空の方が見栄えが良さそうです。
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お霊屋の周辺には浦島草が自生しています。
浦島草の名はその花から、細く長くひょろひょろした管が釣り糸のように見えるからでしょう。
でも、この花を山野で見つけた時の驚きはそんな御伽噺の印象とはずれています。
向こうからコブラが鎌首を持ち上げて私を見詰めている・・・そんな脅威を感じます。
別名の「蛇草」の方がピッタリです。
 
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                                            浦島草、奥が稲葉一族のお墓
 
春日局に睨まれたら・・・・この蛇草に出合ったような感覚かな・・・思ったりします。
また、御伽噺の浦島物語にしても、不気味な話です。
前半は亀を助ける「放生譚」です。
でも、助けた筈の亀と結婚して、土産に貰った玉手箱を開けたら・・・・・お爺さんになってしまいます。
女と別れたのですから・・・・その恨みは深いのでしょうが・・・。
 (竜宮城の乙姫と結婚した話は江戸時代に創作されたもの、狐蛇など動物が変じた女と夫婦になった話です)
 
浦島物語を不気味だ・・・思えば浦島草の名前は適当でしょう。
この植物がサトイモの中間で、水芭蕉と同じとは思いもつきません。
接写していると、毒気に染まりそうです。
早々と退散です。
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                              此処の浦島草は濃い紫と赤紫、二種が咲いています
 
春日局には枝垂桜と浦島草、両面があったことでしょう。
女は総じて両面があるのでしょうが・・・、
出来れば枝垂れ桜に接したいものです。
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              この椿の木の下に庵があった  桜に接している    
 
さあ、もう寝ないと・・・・、今日は5時半起き、選挙のお仕事があります。
選挙管理委員が居眠りしていたら・・・叱られてしまいます。
もう、交代させてもらわないと・・・いけないのですが、やり手がいません。
 
 
 
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鎌倉山の春望

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「鎌倉山」の名前が昔からあったわけではありません。
後藤慶太が東急線の住宅開発を「田園調布」と呼んだように、
菅原通斎が鎌倉の裏山開発に際し、名付けたものでした。
でも、その名付けの妙や景色の良さ等があいまって、垂涎の住宅別荘地となりました。
売り出したのが昭和4年ですから、住宅開発の草分けになります。
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       (今日の話題は鎌倉山の景色です、もう檑亭からの景色しか昔のよさは残されていません)
 
鎌倉稲村ガ崎から小動岬までの間、白い砂浜が続きます。
名前は七里ガ浜。
浜辺の上には海岸通、そして江ノ電が走っています。
その裏、北側がなだらかな丘陵です。
この丘陵を開発し分譲したわけです。
 
 
菅原通斎は開発に際して、鎌倉山の尾根に道を通しました。
手広地区から常盤に至る尾根道の両側に染井吉野を植えました。
染井吉野は見事に咲いて、昭和40年代には桜の名所になりました。
鎌倉山から見れば、手前にピンクの染井吉野、中程に山桜、そして青い海にぽっかり浮かんだ江ノ島、
その向こうに紺青の山並み、山並みから抜きん出て高く聳える富士山が眺められました。
 
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                              (鎌倉山のメイン通り、昔は桜のトンネル状態でした)
 
しかし、染井吉野の花の見頃は70歳、以降は次第に樹勢が落ちてしまいます。
加えて病虫害に虚弱な体質です。
鎌倉山の桜は毎年見栄えがしなくなってきました。
加えて、ミニ開発が続いて、もうかっての美しい景色は少なくなってきています。
加えて、鎌倉市にも鎌倉山の光景を守ろうとする意欲が充分でないようです。
傾斜地などの開発規制や建築、緑化の約束が必要でしょう。
でも、昔の鎌倉山の美しさを知らない人達が押し寄せて傾斜地を買い求め、
鉄筋コンクリートで大きなよう壁を作り、マッチ箱のような建造物を作ります。
自分勝手な経済行為が美しい景色を啄ばんでしまいます。
 
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     (下は西武の七里ガ浜住宅地、今鎌倉山の斜面は切り開かれてミニ住宅に変じています)
 
ありがたい事に檑亭(らい亭)からの眺めは昔のままです。
母屋からの眺めも素晴らしいのですが、この季節お茶室からの眺めは最高です。
茶室の名前は「月庵/京都数寄屋師木村静兵衛作」と無名庵(寄付された茶室で名が無いので私がつけました)です。
どちらの茶室も今は使われていません。
とりわけ無名庵は藁葺きで、その屋根も傷んでいます。
流石に青いシートこそ被せていませんが、トンビやカラスが藁を巣材として持ち去らないように保護しています。
痛みは激しいのですが、いとおしい姿です。
その待屋の腰掛に座って向かいの山肌を眺めます。
若葉に山桜、竹林、パステルカラーが渾然としています。
谷からは鶯の初音も聞こえてきます。
「いいなあ・・・自分ひとりで独占するのはもったいないなあ・・・・!」
つくずく思います。
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  (月庵から無名庵を見る、遠くが夢殿のコピー八角堂、茶室の屋根はカバーがかかっています)
 
 
無名庵のすこし先には「月庵」があります。
飛び石を伝って行きますが、足元の菫を踏まないように注意しなくてはなりません。
石灯籠が倒れたままです。
3月11日の大地震の所為でしょう。
庭先の灯篭まで手が行き届かないのも致し方ありません。
昨今、檑亭も経営は楽ではないのでしょう。
 
月庵の名は月を見るに最高だからでしょう。
でも、春望も素晴らしいものがあります。
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            (無名庵の縁側に腰掛けて庭先を見る。戌走りの先には春望が開かれています)
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                                                 無名庵前の路地
 
 
あの山の向こうは古代からの東海道です。
国府のあった海老名から藤沢を経て鎌倉から三浦半島走水から房総に続きます。
伝説のく日本武尊もこの道を通って蝦夷征伐に行きました。
中世には西行法師があの道を鎌倉に入りました。
「見返しの松」は有名ですが鎌倉山の山桜を見上げた事でしょう。
奥州平泉から勧進(東大寺)から戻って二年後、息を引き取ります。
視線を西に移せば腰越です。
義経は此処で頼朝の許しを請いますが、追い返されてしまいます。
そして、その首は片瀬に流れ着きます。
そして、新田義貞はこの道を通って鎌倉に攻め入ります。
 
山桜の花陰には悲しい歴史ばかりが隠れているようです。
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                               無名庵待屋からの眺め、ポットのお茶を戴きましょう
 
此処の春望は素晴らしいものがあります。
是非とも長く伝えたいものです。
そして、この忘れ去られそうな文化財を保存するためにも、檑亭に足を運んで欲しいものです。
 
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                 檑亭母屋からの眺め
 
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                 おついで地蔵前の十三重石塔は倒れてしまいました。
 
 
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鎌倉の山桜

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4月12日、未明から強い風が吹いています。
昨日家内と鎌倉を周って、桜見物して戻りました。
今年は心に染み入る見事な桜でした。
春が遅かった分、大島桜も山桜も枝垂れも染井も皆一時に咲きました。
あの桜も、この風が散らせてしまったかもしれない・・・・、思います。
 
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   円海山の桜 山並みの右端が鎌倉カントリー、その左が鎌倉霊園、横浜霊園 吉野山に似ています
 
桜と言えば吉野山に勝るものはありません。
鎌倉の山並みを見ても、吉野山を思い浮かべてしまいます。
吉野山に比べてみて、何が欠けているのか思います。
吉野山は桜を着飾って、霞がたなびきます。
そして桜がすみの中から蔵王堂の大屋根が浮かび上がっています。
鎌倉の山並みは桜が咲いても、信仰の寺の姿が見えません。
遥か彼方に浮かび上がっているのは・・・・鎌倉カントリークラブのクラブハウスです。
そして高圧線の鉄塔が久里浜の火力発電所から続いています。
山並みを大きく削って、霊園が開発されています。
 
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                              鎌倉霊園の桜、霊園は好きではないのですが、桜は見事です。
 
今鎌倉の山並みにゴルフ場を、霊園を開発しようとすれば市民の大反発を受けるでしょう。
もう、40年以上も前でしょうか、当時は反対する人も少なかったのでしょう。
でも、高いところから望めばこれ等の開発に疑問を感じる人が多い事でしょう。
吉野山は霊山でした。
修験道の信者が堂塔を建立し、桜の樹を植えました。
そんな心が1000年以上をかけて美しい吉野山を作りました。
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                                 鎌倉から逗子方向を見る
 
昨日は疲れ休みに檑亭露庵に寄りました。
一昨日も寄ったので、「また来たの!」言われそうです。
でも、歩きつかれた体は甘味を求めてしまいます。
無名庵の縁側に腰掛けて山桜を眺め、お茶を飲みたいと思ったからでした。
私は、ゆっくり眺めていると、家内は隣の月庵を覗いて更に檑亭窯の方に向います。
花が咲いてる、芭蕉の句碑があるの・・・と楽しげです。
 
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句碑の前に立って、読んでみます。
   春もやゝけしきとゝのふ月と桜
 
と読んで納得します。
でも、家に戻って確認すると
    春もやゝけしきとゝのふ月と
 
が正しいのでした。
 
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                                             鎌倉山の桜
芭蕉が月ヶ瀬で読んだのだそうです。
月ヶ瀬なら「月と梅」でなければなりません。
でも、大半が桜(字あまり)が適当なような気がします。
 
咲き誇る桜も風で散ってしまいます。
素晴らしい満月も雲が隠して、また明日には欠け始めてしまいます。
私達の人生も、良い時もあればそうでない事もあります。
悲しい事があるので、嬉しい事の喜びが満ちてきます。
 
 
今年の桜ももう数日でお終いです。
陸奥に桜前線が移ることになります。
その頃にはもう少し良くなってきて欲しいものです。
祈ることにしましょう。
 
   散る花を 惜しむ心や とどまりて また来ん春の たねになるべき 
                                             西行
 
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                                  逗子桜山の桜
 
 
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緑園都市に追いやられた双体道祖神の祈り

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一昨年横浜市は開港150年祭でした。
「世界にアピールしよう!」「序に中田市長もアピールしたい!」思ったのでしょう。
その記念誌が配られました。
戸塚区は同誌にまったく記事になっていませんでした。
その時、中田さんは横浜市長を踏み段に国政に関心があるのだな・・・思いました。
市民はそんな姿勢に敏感でした。
今回東国原氏が石原さんに大差で負けたのも同じ、
都民は都政に真っ向から取り組んでくれる人を選んだのでしょう。
都知事を踏み段に雄飛したい・・そんな姿勢を嫌ったように思います。
 
今も、横浜市民オンブズマンは膨大なお祭りの思い違い(赤字)を追求しています。
でも、林新市長は戸塚区で新婚時代を過されたそうで・・・・、中田さんとは大違いです。
 
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            (今日の話題は緑園都市周辺の道祖神です。瀟洒な住宅の向こうに大山が見渡せます)
 
東海道を下って戸塚が近づくと大山・丹沢の山並みが近く大きくなって見えてきます。
江戸の町民は旅が好きで、大山(阿夫利神社)江ノ島弁才天を巡る企画旅行が大人気でした。
戸塚の名瀬を通って大山に、更に江ノ島に回るか、先に江ノ島から回るか・・・・、
お遍路道を順に回るか、逆に回るか・・・・そんな違いだったでしょう。
 
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旅人の安全を守る神様が道祖神でした。
男女ニ体の神様が道の辻で和やかに迎えてくれていました。
道祖神を祀ったのは名瀬村の人達、
彼等は村に災渦がやってこないように、福運が来るように祈って奉納したことでしょう。
太古の時代から「賽の神」は祀り崇められていました。(日本書紀イザナミ・イザナギ、猿田彦命・天鈿女命)
でその姿は、お地蔵様の形を基本に、神像にアレンジしました。
お地蔵様は死後に魂が行く世界、三途の川の淵で守ってくれる仏様でした。
死後の世界は現世とは違うのが普通です。
ところが日本人は井戸は地獄に通じると信じたり、峠の向こうが死後の世界だと思ったり・・・・、
現世と来世は地理的に続いていると信じていました。
だから、地蔵様が道祖神に変わってゆくのはごく自然な考えだったのでしょう。
 
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    尾根道のひっそり佇む双体の道祖神、この環境が良い 下がアップ
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                    (尾根道の道祖神 文政2ねん/1819 像高43 幅24 像高22cm)
 
 
でも、お地蔵様なら一体で充分です。
もっと欲しいのなら6体です。
ところが道祖神は大概が男女ニ体で役割を果たします。
世界中見回しても、二体セットで、あい睦まじい姿の神像は見当たらない事でしょう。
大山阿夫利神社は豊穣の神様です。
夫婦和合、子孫繁栄も叶えてくれます。
ですから、その道筋の祭られた道祖神様は男女のカップルで自然だった事でしょう。
 
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  緑園都市の脇に祀られた道祖神、左端にお掃除道具が吊るされいました
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        (後ろのフェンスの向こうは戸塚カントリークラブ 三頭身の兄妹道祖神)
 
この姿が上州に行くと夫婦が交わった姿になったりします。
地元の人は「歓喜天様」と呼びます。
地域によって呼び名が変わったり、姿を変えたりします。
それは地域の期待や家族の姿が違うからでしょう。
五街道が整備されて始まった道祖神でしたが、ローカルな特長がありました。
大山道の道祖神は基本形が比丘・比丘尼のお地蔵様でした。
 
昭和51年、相模鉄道は緑園都市開発に着工します。
東急電鉄が田園都市計画を推進したのと同じです。(規模は違いますが)
二俣川から新線引いて、緑園都市線としました。
その沿線に住宅開発をしました。
新しい町にはフエリス女学院を誘致しました。
大山道の山の中は突然にニュータウンになりました。
ニュータウンの横には既に戸塚カントリークラブが営業していました。
戸塚カントリーとの境の尾根道も残りましたが・・・・、
多くはフェンスを張って境界にしました。
 
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                           (右がフエリス女学院大学、左が緑園都市)
 
大山道に祭られていた道祖神は疎開をさせられました。
ニュータウンには相応しくない、判断されたのでしょう。
ゴルフ場にフェンスの脇に、お寺の門前に・・・・、
尾根道にも疎開させました。
賽の神は粗末に扱うと「災い」に転じると畏怖されています。
祟らないように・・・・無難なところは余りありません。
  
でも、何にも知らない事は恐ろしい事です。
道祖神はその姿の美しさが見直されると、盗難の対象になりました。
急遽、道祖神様のお足をコンクリートで固めて、身動き出来ないようにしました。
 
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         (名瀬妙法寺前の双体道祖神、文政12/1829年 高81 幅33 像高33cm)
 
道祖神の歴史は1500年を越えるでしょう。
大山道の道祖神の石像はそんなに古くはありません、300年前後でしょう。
そもそも、人間が考え出し、信じた神様ですから、
人間が粗末にするのも、盗んで金に換えるのもかってかもしれません。
しかし、信仰した人達、祭った人達に比べて私達世代は心貧しく、
神々に不遜である事実は目を塞ぎたくなります。
 
 
今回の地震の余震が続きます。
神は「未だ日本人は思い知らないのか!」怒りが解けないようです。
 
昔の人は、この地震に直面したら、神仏の怒りと直感し、祈った事でしょう。
すると、道祖神や地蔵はその祈りを受けてくれます。
そして、元気を出して、また地を耕して、その下の蔵を掘りあてなさい。
そうすれば、また豊穣を繁栄を叶えてあげますよ・・・。(地蔵の意味です)
私達世代はもう祈る知恵を忘れてしまったようです。
 
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                                      戸塚カントリーに近い田園風景
 
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ヘボン博士像の独り言

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私の町内には明治学院大学があります。
この大学はヘボン塾を前身とします。
ヘボンは医師であり宣教師でありました。江戸時代末期安政6年日本にやってきます。
ヘボン式ローマ字を開発、英和辞典・和英辞典を著作しました。
その収益で大学を創始したのですから、
明治維新を支えた人達の英語熱は熱いものがありました。
 
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                       今日の話題、ヘボン先生の胸像
 
ヘボン塾は横浜山の手にありましたから、
横浜戸塚にキャンパスが出来たのは里帰りのようなものです。
横浜キャンパスは丘陵地帯を切り開いて造成しました。
山桜の自生していた美しい丘陵で、鎌倉古道も通っていました。
キャンパスの中央にヘボン先生の胸像が置かれています。
スコットランド人特有のほりの深い、理知的なお顔立ちです。
目は遠い将来を見据えた、札幌農学校のクラーク先生のようなお顔つきです。
教育者の視線はどなたも明日を見ているようです。
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  ヘボン先生の胸像は桜の樹(枝垂れ、山桜、大島桜)を背景にしています
 
ヘボン先生胸像の周囲は桜で囲いました。
昔から自生していた山桜を残しました。
その周囲にベンチを置きました。
桜の木の下で学生達に歓談して欲しい・・・・そんな計らいでしょう。
新しく大島桜も植えました。
そして胸像の真後ろに枝垂れ桜を、メモリアルツリーとして植えました。
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                    枝垂れ桜がメモリアルツリーです
 
毎年、新入生はこの美しいキャンパスを訪れ、新しい教材を購入し、
この桜の木の下で、ヘボン先生を囲んで記念写真を撮りました。
そして、ベンチに腰掛けて新しい友人と歓談しました。
「私の故郷は岩手」
「僕は山梨から出てきたの」
「アパート見つかった?上倉田は家賃が高くて、痴漢が出没するそうよ・・・・」
「学生課に行くと先輩が残していった家電製品を貰えるそうよ・・・・、早く行かなくては・・・」
等と喋って居た筈でした。
 
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           桜の木の下にベンチが置かれて、学生達の歓談の場所になっていますが・・・・・
 
ところが、今年は計画停電や被災地出身の学生がいる事から、
授業開始が57日にずれてしまいました。
でも、4月に入り停電もなくなりました。
今からなら、授業は開始できそうです。
それに、夜学ではないので停電になっても授業は差し支えなさそうです。
私が何故?確認すると、
57日に発表したので今から変更できません」とのことでした。
 
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    人影の無いキャンパス 
 
 
ヘボン先生の胸像は寂しそうです。
せっかく、一年中で一番キャンパスが美しく光り輝いているのに、
主役の学生の姿がありません。
「明治の日本人は違った、好学の眼差しに燃えていた・・・なのに今の大学は、日本人は・・・・」悲嘆されておられるでしょう。
大学もビジネスと思えば、授業があろうが無かろうが、授業料は徴収するのでしょう。しかし、それでは人は育ちません。
プロ野球選手は野球に専心する事で、日本は震災から復興できます。
各人が自分の本分を全うする事で、日本は立ち上がれると思います。
学生は、勉強する事で、ボランタリーする事が本分でしょう。
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大学の谷間を繋ぐ「遠望橋」、此処から富士山の眺めは最高、5月の夕焼けにダイヤモンド富士が見えるはず。名前は藤村作の校歌に由来します。
 
明治学院大学が桜で埋め尽くされているのは、島崎藤村の「桜の実の熟する時」が同大学を舞台に描かれた名作であり、日本人の永遠の課題を問うているからでしょう。
私はヘボン先生も島崎藤村もこの震災を経験していたら、
躊躇無く「計画停電でも授業をしなさい」命じたと確信します。
計画停電だから「授業は1ヶ月も延期します」
そんな軟弱さでは、明日の日本は切り開く事は出来ないでしょう。
 
私は誰もいないキャンパスをお散歩です。
もう鶯はさえずりも上手です。
そして、教会からはパイプオルガンが響いてきました。
屹度、学生が戻ったら、被災者冥福のミサをしよう・・・、
その時のために練習しているのでしょう。
 
鶯とパイプオルガンの協演を聴きながらキャンパスを後にしました。
 
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                 パイプオルガンの練習が響く教会
 
大学の休校は何も明治学院大学に限った事ではありません。
首都圏の大半の大学が右に倣えで、休んでいます。
もう、してもしなくても良いような講義だから・・・・、
東電の発表をネタに休校にしたとしか思えません。
大学だけです、こんなに甘えた行為を選択しているのは。
東電と同じで、市民感覚、危機感覚が大きくずれています。
 
虚しく桜が散ってゆきます。
親入学の生徒達に最も美しい季節に大学生活のスタートを切らせないでいるのは、残念至極です。
この素晴らしいキャンパスに若い声が木霊する、そんな場に居たかったものです。
 
 
 
追記
昨日菅首相は「福島第一原発周囲は人が住めないだろう・・・・10年先まで・・・・20年先まで・・・、そこで高台に新しい町を用意しなくては・・・」発言しました。
私は1週間前、後輩の報告を思い起こしました。
後輩は横浜市の消防署職員で、福島第一原発の20キロ圏内に入り冷却を続けていました。話せない事も多かった事でしょうが・・・・何が一番感銘したか?尋ねました。
すると、こう話してくれました。
「20キロ圏内には未だ沢山の人が残っています。避難命令が出ているから・・・避難を促すと、”私は此処で生まれたのだから此処で死にたい”と言うのです。すると、返す言葉が見つかりませんでした」
更にこういう人も居たそうです。
「この町は原発で栄えていた、原発がなくなれば息子も仕事が無くなってしまう。原発と一緒に歩みたい・・・」と。
 
新しい家(箱)を用意すれば人間は喜んで転居するほど単純ではありません。
生まれ育った土地や生計を離れる事は、死ぬ事以上に辛い事なのです。
人間は自分の本分を果たす事で「生きる喜び」を感じる事ができます。
それは、生れ落ちた土地、自身の職業をおいては考え難いのでしょう。
最後に家(箱)です。
地域住人の本当の希望を聞いてから着手して欲しいものです。
 
12日菅首相の発言は空しく響くばかりでした。
震災発生後1ヶ月も経ったのに・・・。
私には理解できません。
例えば何故、日本中の電力を融通する体制が出来ないのか・・・・、
55Hzと50Hzの転換は技術的にも経済的にも不可能な壁では無い、と思うのですが。
今や天災であった事は事実ですが、人災が私達を暗く覆っています。
 
危機には「口だけ人間」は事態をより深刻にさせるだけです。
多少グレーであっても、田中角栄のように行動力のある人が期待されます。
小澤一郎なら被災地対策、日本の復興を任せられるように・・・期待するのですが。
もうじき、我慢強い東北人も忍耐の緒が切れる事でしょう。
 
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遊行寺の枝垂れ桜と一遍忌

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食卓に「小女子/こうなご」が用意されています。
相模湾で取れた小魚です。
小女子が放射能で汚染されたら、次は鰯でしょう。
千葉の背黒鰯が汚染されたら、鰯大好きな私は残念です。
毎朝鰯の丸干しを食べていられた土光さんが経団連会長であったら・・・・、
卓を叩いて経産省等を叱った事でしょう。
「汚染は人災だ・・・」と。
 
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   今日の話題は遊行寺(藤沢)の枝垂れ桜、本堂の右手、桜の間に一遍上人像
 
鰯が美味しいのはその腸の苦味です。
あの黒い色は何かな・・・・、胃袋に収まった小女子かな?
そして、あの苦味は、屹度鰯の消化液の味かな・・・思います。
 
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                                   一遍上人像は合掌する姿です。
 
遊行寺に放生池があります。
毎年春・秋に放生会が開かれます。
自然世界が、命を食べて循環している・・・その事実を知って、
毎日を感謝しながら生きる、教えを表しているのでしょう。
 
 
池の中にはメダカをはじめ沢山の生命がありますが、
その周囲には命を育む樹木が茂っています。
つい先日までは梅に続いて白木蓮が咲いていました。
そして、桜が散り始めると枝垂桜が盛りになります。
その次は・・・・八重桜です。
 
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     遊行寺の放生池の淵に咲いた枝垂れ桜、湘南第一の枝垂れは今週末が見頃です
 
遊行寺には湘南第一の樹木が揃っています。
銀杏の樹、桂の樹、白木蓮に、そしてこの枝垂桜です。
藤沢市の樹である「藤」がイマイチなのは、樹が茂りすぎているからです。
藤棚はジリ貧が続いています。
植物の世界も動物と同じ、命の連鎖です。
 
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お寺に行くと必ずと言っていいほど、祖師像が祀られています。
真言宗では弘法大師様、浄土宗は法然様、真宗は親鸞聖人、そして日蓮宗は日蓮像・・・・、
何れも托鉢行の姿です。
私は何処か馴染み難く感じています。
 
遊行寺は一遍上人像が迎えてくださいます。
一遍聖絵の遊行の姿を立像にしたものでしょう。
いつでも、何処でも遊行の姿は合掌しています。
 
合掌は「命の連鎖」「命の循環」を知って、生かされている事実に感謝している姿でしょう。
感謝の気持ちは、法悦に高まり、踊りにも転じます。
「南無阿弥陀仏」念じる声も熱を帯びます。
 
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                             桜の下に句碑と墓標があります。主は河野静雲和尚です
 
枝垂れ桜の根元に句碑と墓標が1基ずつあります。
墓標は「静雲(こうのじょううん)」と刻まれています。
句碑には                  
        生きて居て 相遇ふ僧や 一遍忌

と書かれています。          
祖師の法要には全国からお坊さんが遊行寺に集まるのでしょう。
一緒にお経を唱和します。
懐かしい人との再会を喜び合うのでしょう。
そして、来年も一遍忌に同席したい・・・願う事でしょう。
それもこれも、お互いに生きていれば出来る事・・・。
何が起きてあの世からお迎えが来るか解りません。
 
遊行寺の導師の法話が始まります。
でも、うちうと、睡魔が襲ってくるのは長い旅の疲れでしょうか・・・・、
それとも遊行寺の懐に抱かれた安堵感だからでしょうか?
加えて、陽の光が背中にさして、暖かく感じます。
 
       うとうとと 彼岸の法話 ありがたや 
 
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                                  枝垂れの前の緑は湘南随一の桂の木
 
今月21日からは開山忌が始まります。
全国から、今静雲和尚が集まるでしょう。
そして、長旅の草鞋を解いて方丈に集うことでしょう。
目を放生池にやれば枝垂れ桜に注がれます。
墓標に合掌し、句碑を見やります。
俳句の通りだな・・・・思いながら本堂に向う事でしょう。
屹度、静雲和尚も若い僧侶の背に乗って本堂に向うことでしょう。
 
小女子も鰯も、自分より大きな動物に食べられる事になっています。
屹度神は食べられる事に悦びを感じるように仕向けられたのでしょう。
だから、命を失う事に苦痛は伴わないのだそうです。
でも、「放射能に汚染されているから・・・・」、としてゴミとされる事には憤慨する事でしょう。
 
土光さんのような人に食べて欲しい・・・・そう思っているでしょうから。
 
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                                  正面芽吹き始めたのが湘南一の大銀杏
  
(注) 春の開山忌は呑海和尚の周年忌です。一遍忌は秋の開山忌になります。
 
八重桜の記事は 
 
白木蓮の記事は
に書いています。
 
 
 
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中原中也の痛み(妙本寺花海棠)

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毎年桜が散ると花海棠が咲きだします。
今年は春が遅かったので、桜の開花は10日もずれ込みました。
一方、花海棠は例年通り咲きだしました。
お陰で桜と海棠は同時に見ることが出来ました。
こんな事は滅多に無いでしょう。
 
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             今日の話題、鎌倉妙本寺 祖師堂、その前に海棠が咲きます。
 
鎌倉の寺には何故か花海棠が目立ちます。
屹度,鎌倉仏教が中国南宋の影響を色濃く受けたからでしょう。
仏像(清涼寺式)も建築(唐様)も陶磁器(青磁)も南宋の影響です、
ですから中国を代表する花「海棠」も鎌倉には相応しいのでしょう。
 
花海棠の名所「妙本寺」に出かけました。
今年は山門を工事中ですが、例年に無く見事に、そして一層妖艶に咲いています。
私は花海棠を見ると、どうしても高校時代の漢文の授業を思い出してしまいます。
「長恨歌」で楊貴妃の美しさ、
とりわけ入浴した時の色香を「花海棠」に例えています。
楊貴妃の白い肌に血の気が通って、朱に染まる・・・、
その色が「花海棠」でした。
ニキビの高校生には少し刺激の強すぎる描写表現でした。
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 例年花海棠は八重桜(右端)と同時に咲くのですが、今年は枝垂れ桜(左端)
  と一緒に咲きました。右山際に比企一族の墓、手前に一幡(源頼家の息子)の墓が祀られています。
   此処 は鎮魂の寺です。
 
この妙本寺の花海棠の木の下に小林秀雄は中原中也を呼び出します。
そして、一般には「三角関係の和解を得た」事になっています。
先ず、少し長いのですがその時の有様を小林秀雄の文章で紹介します。
         (「中原中也の思いで」 考えるヒントより抜粋)
 
晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。
花びらは死んだ様な空気の中を、まっ直ぐに間断なく、落ちていた。
樹陰の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。
あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひたらと散らすのに、屹度順序も速度も決めているに違いない、何という注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。
驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。
花びらの運動は果てしなく、見入っていると切りがなく、私は急に嫌な気持ちになって来た。我慢が出来なくなってきた。
その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。
私はハッとして立上がり、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。

「お前は、相変わらずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。
彼は、いつもする道化た様な笑いをしてみせた。
 
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   祖師堂の本尊から角塔婆に紐が引かれています。これを握ると本尊に願いが届きます
 
中原中也は明治40年山口湯田温泉の医師の長男として生れます。
文学にのめり込んだ中也青年は山口中学を落第してしまいます。
怒った軍医の親爺は京都の同志社中学に転校させます。
17歳の天性の詩人を待ち受けていたのは、
広島から家出して俳優を志望していた20歳の美女長谷川泰子でした。
二人は川原町で同棲生活を始めます。
 
中也のデカダンス溢れる作品を泰子は涙を流して誉めてくれました。
私の学生時代劇画「同棲時代」がはやりました。
ガラスのように壊れやすい擬似夫婦生活を描いていました。
二人の生活はそれと同じ「ママゴト夫婦生活」だったのでしょう。
2人とも生活力は無く、中也の母からの仕送りが生活の糧でありました。
 
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                中原中也          長谷川泰子
 
1925年(昭和1)中也青年は詩人富永太郎の誘いを受けて上京します。
泰子も二人を追って上京、新宿の戸塚町の中也の下宿(8畳一間)に同棲を続けます。
すると、沢山の文学青年が中也の部屋に集まります。
小林秀雄もそんな一人でした。
泰子は秀雄との初対面を次のように記しています。
 
その人(小林秀雄)は傘を持たず、濡れながら軒下に駆けこんで来て、私を見るなり、「奥さん、雑巾を貸してください」といいました。
私はハッとして、その人を見ました。それまで、私は雨のふる光景を見て、感傷にふけっていたから、急には現実感をよびもどせません。
その人は雨のなかから現われ出たような感じでした。雨に濡れたその人は新鮮に思えました。私は小林秀雄がはじめて訪ねて来た日のことを、こんなふうに覚えております。
 
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中也、秀雄、泰子等が下宿にごろ寝して一晩明かす生活が始まりました。
秀雄から見れば泰子は2歳、中也は更に3歳年下です。
略奪愛は容易いな事だったでしょう。
泰子は中也の部屋を出て、秀雄との同棲生活を始めます。
泰子にすれば、中也の才能を愛していても、年長の秀雄の魅力には及ぶべくも無く、
まして俳優として将来を切り開く為には新しい空間に飛び出す必然があったのでしょう。
三人の間にどんな「愛の葛藤」があったかわかりません。
 
でも間違いないことがあります。
先ず第一に「ガラスのような同棲生活が中也の詩人としての魂を磨いた」事でしょう。
「愛の葛藤」が肉体に耽溺してエロス文学にはならず・・・
壊れやすい、清潔な魂の叫び・・・に結実したと思われます。
 
第二には泰子も秀雄も中也の才能を認めて、愛していた事でしょう。
壊れやすい中也の魂は友人や愛人の激励を受けて、羽ばたいていのでした。
第三は泰子も秀雄も心の底辺に、
「中也には悪い仕打ちをしてしまった・・・罪悪感」があったと思われます。
 
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秀雄も中也も家庭を持ちます。
泰子は取り残されます。泰子は脚本家との間でシングルマザーになります。
気の良い中也は名付け親になります。一方泰子は32歳で実業家の嫁に迎えられます。
しかし、奔放な性格の泰子は離婚、平成5年湯河原の養老院で息をひきとります。
世間は「中也が愛した女」と呼びました。
本人も同名のエッセーを残します。
屹度「私が愛したから中也の詩があったの・・」自負している事でしょう。
そしてそれは間違いない事実でしょう。
 
小林秀雄は中也を呼び出しておきながら、言葉を選んでいて何も言いません。
結核菌が脳を犯し始めていた中也は長い沈黙に耐えられずに、
「もう、いいよ」言いながら寂しく笑います。
秀雄は散ってゆく海棠の花弁を見ながら、
「危険な誘惑だ、・・・若い男女は・・挑発されるだろう」と記しました。(前述)
 
秀雄も中也も海棠の花に泰子の奔放な性格、
体中から発するフェロモン、エロスを思い出していたと思われます。
年長の秀雄が一言「泰子はどうしているだろうかな?」言い出せば、
長いわだかまりが溶けるきっかけも出来たでしょうに・・・。
批評家は最初の一言が出なかったのでしょう。
 
その半年後の11月、中也は他界します。
翌年、秀雄は中也の詩集「在りし日の思い出の歌」を出版します。
そして、泰子は主人の私財を投じさせ「中原中也文学賞」を創始します。
皆、夭逝した詩人の才能を愛していました。
長々書いてしまいましたが、
花海棠を見ると中原中也の魂を思い起こしてしまいます。
 
 
 
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                        略年表

 
  中原中也
  長谷川泰子
  小林秀雄
明治40
0歳/山口湯田にて生、柏村謙介(医師)の長男
3歳/明治37年広島で生まれる
5歳/明治35年東京神田で生まれる
大正2
16歳/山口中学落第、京都立命館中学に転入学
19歳/家出して劇団表現座(京都)に所属。永井龍雄の紹介で中原中也を知る。
 
大正13
17歳/中也、20歳の長谷川泰子と同棲を始める
 
大正14
 
18歳/中也は富永太郎(詩人)と共に上京する。
小林秀雄と知り合う
21歳/3月 中也・富永を追って上京。4月/富永の紹介で小林秀雄(23)を知る。
11月、中原と離別し、小林と同棲。
 
大正15
日本大学予科文科入学
 
 
昭和3
 
24歳/5月、小林と離別。
9月、松竹キネマ蒲田撮影所に入社
27歳恭子との同棲生活解消
東大卒業
昭和6
 
山川(演出家)との間で出産、中也が命名。
 
昭和8
東京外国語学校終了 上野孝子と結婚
 
 
 
昭和12
30歳 入院・退院後鎌倉寿福寺近くに転居、「在りし日の歌」清書
結核性脳膜炎で死去
32歳 中垣竹之助(実業家)と結婚
 
 その後
 
平成5年
88歳で湯河原の老人ホームで死去
昭和58年
腎不全で死去 
 
 
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柏尾川の桜堤防も見事でした

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16日は久し振りに大学時代の仲間に会って来ました。
その帰路は遠回りして桜堤防プロムナードを歩きました。
折からの強い風、僅かに残っていた花も散ってゆきます。
天空には煌煌と月が昇って、雲がかかり始めています。
「月に叢雲 花に風」両方を一度に見られるのは幸いなのでしょうか?
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  (戸塚柏尾川の桜堤防、左にBASF/日本油脂、工場があります。)
 
それにしても、今年は桜には充分楽しませて貰いました。
感謝・感謝の桜です。
また来年、楽しみです。
 
現在戸塚区は人口が27万人、横浜市の中では人口は三番目に位置します。
戸塚の歴史はこの川と共に歩んできました。
川が運んだ肥沃な土が沖積して、穀倉地帯になりました。
しかし再三洪水が発生、その度に治水工事として堤防の嵩上げが実施されて来ました。
江戸時代末期の安政3年の築堤工事、
このとき初めて堤防強化とお花見のため「桜木」が堤防に植えられました。
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                      奥が戸塚駅西口再開発地区 、右桜橋
 
明治34年、明治天皇が横須賀線の車窓から洪水の戸塚の村を見られます。
その時「田地が泥海とはひどい。どうにかできないものか」呟かれたそうです。
鎌倉郡長「原田千之助」は豊田村の「小串清一」を指名して、日本最初の耕地整理組合を組織させます。田圃の区画整理事業でした。
その中で一度は安政の桜木を伐採、改めて築かれた高い堤防、延長6キロの上に、
2000本の桜木を植えました。
 
この桜は順調に育ち、昭和戦争前には関東有数の桜の名所になりました。
毎年50軒もの茶屋が出て、芸者さんの三味の音が響き、大賑わいだったそうです。
私の父は寺の住職、一家総出で「貸し茣蓙」をやって稼いだそうでした。
関東近在から桜見物に集まったそうです。
  花しろき 二つの堤 なかに引く      
            柏尾の川の 青き直線         与謝野鉄幹
   花の道 向ひて長く 白きかな
              水の流れは 一筋にして               晶子
 
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               柏尾川の東が上倉田町、西が戸塚町。柏尾川は両町の境ですが、
               接着する場所であって欲しい、思います。 水際の道路は河川管理者の土砂搬               出用道路ですが、此処を周回ジョギングコースに整備してもらいました。
 
しかし太平洋戦争の戦況芳しくなく、薪炭に事欠く有様でした。
昭和19年桜木を伐採してしまいます。
 
戦後、昭和27年小串清一は再度故郷のために立ち上がります。
当時小串は江ノ電の役員であり戸塚観光協会会長でもありました。
率先して桜を植えはじめると、皆がついて行きます。
前回と同じ2000本を民間で植え終えます。
 
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   左、日立戸塚工場。堤防中段をベビーカーを押す人。此の段をジョギングも出来るように整備しても   らいました。
 
しかし、昭和30年代、戸塚は高度成長期に様変わりしてしまいます。
田圃は埋め立てられ工場や住宅に変わってしまいました。
田圃の「雨水調整池」の機能は失われ、流域に雨が降れば即座に柏尾川に流れ込みます。
従って、再び、洪水と堤防の嵩上げ工事が追いかけっこ状態になります。
そのたび毎に桜の木が伐採され、また植えられました。
 
結果、桜が壮年の木もあれば若木もある、混在状態になってしまいました。
人達も柏尾川に近寄る事も無く、川も汚れて、ただ大きな下水状態になってしまいました。
 
ようやく環境保全が叫ばれ、柏尾川を散歩する人も見えてきました。
そこで昭和58年から柏尾川プロムナード計画が進行します。
桜も少しは見られる状態になってきましたし、「桜守りの会」等も活動を開始しました。
 
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      金井地区、将来は此処もジョギングコースに組み入れたい、期待しています。
 
私が上倉田の連合会長になった平成21年、
「柏尾川にジョギングコースを整備する会」を組織しました。
河川管理者の神奈川県治水課、戸塚区区政推進課と定期的な協議会を開始し、整備工事が始まりました。
狙いは柏尾川を見れば直ぐにわかります。
県の治水対策は堤防の嵩上げ工事をする事と、同時に定期的に川底に溜まった土砂の搬出をする事です。従って土砂搬出用の建設機械が入る道路が設えてあるわけです。
この堤防中段をジョギングコースとしても活用できるように整備してもらう・・・そんな計画です。
提案は誰もが賛成してくれました。
県は元々こうした地域の発言を待っていたきらいがありました。
従って財政逼迫下であっても予算がつきました。
 
皇居の周りは5キロです。ジョギングする人の姿が沢山見られます。
柏尾川のジョギングも5.4キロです。
安全に、楽しくジョギングするためには、マナーも大切でしょう。
更に演出があれば一層盛り上がって、地域は元気になります。
 
偶々、戸塚は箱根駅伝の中継地(2区・3区)ジョギングも盛んです。
区民駅伝大会には54チームも参加しています。
早晩、柏尾川に駅伝コースを変更される事を期待しています。
 
私は今年は連合会長を後任に引き継ぎ、ジョギングコースに注力する積りです。
 
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   右奥が金井運動公園(栄区)、栄区まで含めればジョギングコースは8キロ周回コ   ースになります。手前が私のバードウォッチングの基地
 
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柏尾川・桜堤防の歴史

安政31856
柏尾川洪水対策として築堤、その記念に桜を堤防に植樹した。
明治41年(1908
堤改修工事で伐採
明治43年(1910
改修工事完成記念として苗木2000本、大木50本植樹
4kmもの桜のトンネル(両岸の道の両側に並木)
昭和初期(1926
にぎわいの絶頂期、関東屈指の桜の名所となる毎年50軒もの茶屋が軒を連ねる(与謝野晶子等有名人の歌が残されている)
昭和19年(1944
戦時対応として、燃料や木材とするためすべて伐採する。
昭和27年(1952
染井吉野の苗木2000本を延々6kmにわたり植樹(小串清一)
昭和32年(1957
桜まつり再開される
昭和51~55年19761980
増水対策により堤防の嵩上げ工事を実施。現存700本中、措置対象となった450本を伐採、10年ものの若木350本を植栽。
昭和58年~平成5年(19831993
散歩者のため、プロムナード整備
平成22
ジョギングに堤防中断を活用できるよう工事する。
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                              枝垂れ桜の奥は住友電工(栄区)
 
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美しい天然、やさしい道祖神

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1702年芭蕉は「奥の細道」を発刊します。
何故、私(芭蕉)が陸奥に旅立ったのか・・・・、
理由は「道祖神が招いてくれたから・・・・」と説明しました。
ならば、[どんな姿の道祖神でしたか?]
尋ねてみたくなります。
 
芭蕉の時代は私達が見ている石神の道祖神は出初めで、
それも五街道の道筋ばかりでした。(最古の道祖神は寛文9年(1669年)足柄道祖神と思われます)
芭蕉の言うように"奥の細道の道端で手招きするような石像道祖神は無かった"と思われます。
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  芭蕉旅立ちの図、見送る人に「自分には道祖神がついているから心配いらないよ」言ました。
 
 
「陸奥の旅行は危険が多いから止めた方が良いじゃない?」と心配したり、
時に旅先で「もう少しゆっくりして行きなさいな?」
そんな誘いに対し口癖の「断り文句」だったのでした。
「私には道祖神が付いていますから安心していて下さい」とか、
「もっと長居をしたいのですが、あっちの方から道祖神が早く来い・・・、
招いてくれていますので旅立ちます」  (其角著「枯尾花」「芭蕉翁終焉記」)
 
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今日の舞台は茅ヶ崎の香川。もう蓮華が田圃一面に咲いています。蓮華の左が江戸時代の掘割(農業水路)です。正面の丘の上が文理大、左の農家の背後に300クラブが立地しています。
 
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                    蓮華草 、実に季節は早いものです
 
私は学生時代双体道祖神の多い塩田平や安曇野を歩き、道祖神巡りをしていました。
 
そして、時間に余裕が出来た近年、身近な相模の道祖神を見て周っています。
その結果、道祖神も庚申塔も相模国が最も古い事を知りました。
「歴史・数」共に相模国が石仏・石神のルーツでありメッカでありました。
でも、悲しい事が二つあります。
第一は道祖神が地域から邪魔者扱いされ、追いやられているのです。
そして、目の付かない場所にひっそりと置かれているか、
道路わきに排気ガスで汚れてしまっているのです。
第二は盗難に遭遇している事です。美しい道祖神は美術価値を認められ、盗まれています。
屹度、お屋敷や割烹の庭飾りにされているのでしょう。残念な事です。
従って足元をコンクリートで固めてしまっています。
 
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       浄見寺入り口の道祖神、右が堀切水路、奥の山が大山です。
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            左から2体目の双体道祖神、でも光背中央に庚申と書かれています。建立1786年
 
茅ヶ崎駅西口を降りて真直ぐ2キロ余り行き、台地を登ります。郊外に出て、突然に緑が深くなります。名門300クラブがあって、その麓に浄見寺があります。大岡越前の菩提寺であります。
私は家内を連れ立って「道祖神巡り」に嵌っています。
今日は茅ヶ崎香川の道祖神に招かれました。
 
 
この台地一帯を「香川」と呼びます。名に川が付いていますが、水の無い台地です。
殿様は大岡様、名主は三橋勘重郎、
隣の寺尾の小出川(相模川の支流)から掘割を切り開き25町歩の田圃の開発に成功します。
 
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 浄見寺境内にある三橋家母屋、茅葺屋根はトタンでカバーされています。何時しか茅葺に戻してあげ たいのですが。 
 
 
こうした歴史のある土地には「美しい自然・伝統的な風俗」が残されているものです。
道祖神も多く大事に守り続けられています。
浄見寺の道筋には二体の道祖神がお地蔵様などと一緒に並んでいます。
双体道祖神に間違い無いのですが、何故か船形光背の中央に「庚申」と刻まれています。
奉納したのは「庚申講」という事でしょう。でも庚申塔の主尊は「青面金剛」であります。
怖い青面金剛の位置に二体の男女のにこやかな神様(道祖神)が立っておいでです。
 
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    見事な椿、一本の木ですが赤とピンクの花がついていました 
 
日本人には良く似た信仰の形があります。
地蔵信仰は末法時代(平安後期)に急速に普及しました。
少し遅れて閻魔大王(十王信仰)が盛んになります。
お地蔵様は死後守ってくださる仏様です。
一方閻魔大王は生前の行いを審判、断罪する位置にあります。
両者は死者にとって正反対の位置にあるのです。
 
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       左端字に双体道祖神、下がそのアップ。祠には延命地蔵が祀られています
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              双体道祖神の施主は堤の恩恵を受けた久保の氏子と刻まれています
 
ところが”閻魔大王は地蔵菩薩の化身である”、そんな考えが広がりだします。
「日本霊異記」にはこんな話が残されています。
藤原広足が死んで三日後生き返り、地獄の責め苦の有様を報告します。
別れに際し閻魔大王に聞くと、
「自分は閻魔王であるが、お前の国では地蔵菩薩と呼ばれている」と話したという事です。
 
同様に考えれば、”俺は青面金剛だ、お前の悪事を断じる役目だが、普段は道祖神の姿をしている”
という事になります。
 
阿修羅が三つも顔を持っているように、観音像が11面の顔を持っているように、神仏は様々な顔を持ち、時に憤怒像になれば時に菩薩(慈悲)の像にもなるのでしょう。
そう考えれば、庚申塔と道祖神を個別に造像するよりも、一緒にした方が合理的かもしれません。
台地に掘割を築いた合理性が、庚申と道祖神を合体させたのでしょう。
 
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周囲にはもう蓮華草が咲き始めています。
一面のタンポポは黄色い絨毯のようです。
その向こうの小山には文理大があって、その向こう(小田急線寄り)には慶応大学が立地しています。
農家は道路端に「朝取り筍あります」看板を出しています。
 
私達夫婦が子育てに夢中だった頃、母を誘って「栗拾い」に興じました。
母は孫が栗の棘で指を痛めないか気遣いしながらも、愉し気でした。
あの栗拾いは何処の山だったのか、判明しません。
栗林は枯れたようなのです。
 
「あの時の栗林は何処だったでしょうかね?」
道祖神に尋ねてみます。
でも、あの頃はこの道祖神に気付居ていませんでした。
だから、道祖神も教えてくれませんし、私の記憶もよみがえって来ません。
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                   山桜の下、蘇芳の木の下に道祖神が祀られています 
 
 
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放生会を飾る八重桜

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昨夜来の強い雨が降っています。
これで、筍もドット出てくる事でしょう。川では鯉が産卵し、初鰹の話題も聞こえます。
生命に満ち満ちた季節を迎えます。
私達は生物の命を戴いて生きています。
この事実を知って感謝する行事が「放生会」、今週末の23日に催される寺が多いようです。
例年、放生会を迎える頃咲きだす花があります。
八重桜です。
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         今日の話題、遊行寺の境内を埋めるように咲く「八重桜」。向こうは藤沢の市街地。
 
 
八重桜を見に、私達夫婦は藤沢の遊行寺に向います。
門前の境川を跨ぐ丹塗りの橋を越して、黒門を潜ります。
門からは100メートル余りがなだらかな坂道です。
この参道の両側に八重桜が植えられています。
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                           遊行寺黒門、門を潜ると聖域は八重桜の園です。
 
壮年の八重桜は薄紅色の花を全身に咲かせます。
八重桜は細く長い花柄の先に咲きます。
沢山の花弁が集まって少女が使う「ボンボン」のような形です。
花が重たいので、下向きに咲きます。
私達は、木の下から花を見上げると、花は笑顔で迎えてくれているようです。
遊行寺の八重桜は「普賢象」と呼ばれる上品な桜です。
花の芯から1本の蕊が突出しています。まるで象さんの鼻のようです。
その形が普賢菩薩を背に乗せた象のように見えるので、この名があるのでしょう。
普賢象を新種開発した人も素晴らしいのですが、名付けした人も中々です。
 
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    花の中から出た蕊が象の鼻のように見えるので「普賢象」と名付けられました。
   八重桜のスタンダード
 
実は私達夫婦は昨年もこの八重桜を見物に出かけました。
もう、花吹雪の状態でした。
長い坂道に数人の若いお坊さんが出て、竹箒で散った花を、楠の病葉を集めていました。
坊主頭と作務衣が良く似合っておいです。
でも、掃いても掃いても後から花弁が散ってきます。
「今日は掃かないで、数日まとめてお掃除されたらどうですか?」
尋ねてみたい気持ちになりました。
 
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  咲き始めの八重桜、坂道の向こうで樹齢700年の大銀杏が待っていて呉れます。
 
今年は少し開花が遅れています、満開には少し早目です。
楡の木も、銀杏の木も新芽を噴出しています。
花の隙間からは若葉が透けて見えます。
この花を塩漬けにして「桜湯」にします。
うっすらと梅酢が香ります。
結婚式の時には欠かせません。
いつから「桜湯」が始まったか知りませんが・・・・、如何にも結婚を寿ぐには最適な習わしだと思います。
平安朝、一条天皇が興福寺から贈られた八重桜を指して、歌を所望しました。
紫式部に譲られた伊勢大輔は即興で詠って見せます。
 
       いにしえの 奈良の都の 八重桜
          今日九重に匂いぬるかな
この歌心が桜湯に伝わっているように思います。
 
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        遊行寺参道の八重桜、朝晩は藤嶺藤沢学園の生徒さんが通ります
 
八重桜は奈良県の県花です。
それも伊勢大輔のお陰でしょう。
でも、奈良公園には八重桜は見当たらなかったように記憶しています。
平城宮跡にも植えられてないように思います。(最近は見ていませんが)
多分一番有名なのは、大阪造幣局の「通り抜け」でしょう。
でも、もっと綺麗なのは新宿御苑でしょう。
東北・関東大震災で、春の園遊会も今年はありません。
ゆっくり八重桜を鑑賞するには最高かもしれません。
 
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   八重桜のルーツは奈良興福寺、同寺こそ八重桜が似合うと思います。右端は桜見物の幼稚園児
   大銀杏の向こうが一遍上人聖絵を収蔵する国宝館。この辺りだけ濃いピンクの関山が咲きます。
 
遊行寺の八重桜は有名ではありませんが、周囲との環境が素晴らしいのです。
放生会を飾っています。
是非、今週末お出かけ下さい。
 
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         八重桜の薄紅と楡の若緑が新鮮です。
 
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美しい遊行寺「放生池」

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元禄7年(1694)五代将軍綱吉は「生類憐れみの令」発布します。その中に次の段がありました。
「江戸市中の金魚・銀魚(白)を所持いたすものは、その数など正直に報告し差し出すべし」 
こうして江戸市中の金魚・銀魚が集められ、この遊行寺の池にも放生されました。
今年も423日に放生会がこの放生池で行われています。
 
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                            (今年の枝垂れ桜は放生会まで持ちそうな気配です)
 
池の逆の位置には「敵味方供養塔」があります。
応永23年(1416年)上杉禅秀の乱で戦死した人を敵味方の差別無く祀った墓標です。
敵も見方も同じ尊い命・・・・そんな考えは魚も人も同じ命・・・・と考えることに不思議はありません。
「南無阿弥陀仏」書かれた名号が一遍上人の教えの尊さを伝えているようです。
 
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           (今年は枝垂れ桜と躑躅が同時に見られました。桜と観音堂との間が放生池です)
 
放生池の手前部分に浅瀬があって、鯉など大きな魚が入れない部分を作っています。
其処が絶滅危惧種「藤沢めだか」の飼育場です。
私達は、此処でメダカの学校を覗こうと目を凝らします。
 
放生池は禅寺の「心字池」でも、阿弥陀浄土の庭園池でもないようです。
今流で言えばビオトープ、生命を等しく大切にする、そんな池なのでしょう。
私達は疲れた時池を見ると癒されます。
池はお母さんの子宮を思い起こさせてくれるからかもしれません。
 
放生池の周囲は四季の草花で飾られています。
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                                  (観音様を祝うがように花筏ができていました)
 
今年は未だ枝垂れ桜が咲いています。
流石に散り始めて、水面に花筏を流しています。(19日)
筏の真ん中に観音様がいらっしゃいます。
時々、腹をすかした鯉が大きく口を開けて花弁を呑み込んでいます。
腹の足しになっているのか疑問です。
 
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                    (花が重いので垂れ下がった桜花、やっぱり枝垂れは桜の女王様です)
 
静かな放生池が急に賑やかになりました。
近くの幼稚園児がやってきたのでした。
どうやらザリガニ釣りに来たようです。
糸の先に鶏肉が結ばれているようです。
棹を池に垂らせば、直にザリガニが掴んだようです。
恐る恐る引き上げます。
歓声が響きます。
保護の先生は子供達が池に落ちはしないか心配でなりません。
心配なら放生池に連れて来なければ良いのですが、園児に見せたい宝物がこの池にはあるのです。
それを経験させたくて、危険を冒して連れて来ました。
やさしい、男らしい先生です。
この子達は屹度23日、お稚児行列をして放生会の主役になるのでしょう。
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          ザリガニ釣りに興じる園児達。大人は池は危険だから近づかないように・・・教えてきましたが、          それではいけないようです
 
釣り上げられたザリガニは紅い鋏を広げて子供達を威嚇しています。
威嚇しながら後ずさりして、機を見て池に逃げ戻ろうとしています。
子供達は最初からザリガニを池に放してあげる積りですから、容器を持ってきていません。
池に逃げられたので、また池に糸を垂れています。
 
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                                   園児に目を配る先生、優しい青年でした。
 
放生池は金魚などの生命を放す池ではなく、生命を身近に接触する池のようです。
子供達がザリガニ釣りに興じる事によって、多くを学び、優しい大人に育って欲しいものです。
 
遊行寺は実に素晴らしいお寺です。
時宗総本山、そんな厳しさは微塵もありません。
いつでも、誰でも優しく迎えてくれます。
 
もう、池の周りの春ボタンも石楠花も蕾が膨らんできました。
躑躅も咲きだしています。
今年も遊行寺と共に季節を楽しんでいます。
 
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                              後ろが遊行寺方丈、宗務所、その前に池があります
 
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飯盛り女のお地蔵様(藤沢宿)

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今日の話は「藤沢の飯盛り女」です。
先ず飯盛り女を説明させていただきます。
徳川家康は江戸幕府を開くと1601年には東海道の整備に着手します。
元々街道沿いにあった村を「宿場」に指定し、宿場住人に無税の特典を与えます。
一方で、宿場に必要な「伝馬」や「夫役」(道路普請や伝馬の仕事)を負わせます。
 
宿場では夕方になると客引き合戦が行われます。
客引き役は「留女/とめおんな」と呼ばれていました。
「旅人さん、12200文でいかが?お風呂はお湯で、ご飯はお代わり自由よ。
おまけに明日朝には”握り飯”をつけとくわよ・・・・・」
弥次郎兵衛と喜多八は保土ヶ谷宿で留女に強引に腕を引かれました。
「お泊まりは よい程ヶ谷と とめ女 戸塚手前は 放さざりけり」
(東海道中膝栗毛/「戸塚手前は」は「と捕まっては」と掛詞になっています)
と詠んで、保土ヶ谷宿をパスして、戸塚宿に宿泊しました。
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             藤沢には古い街道の面影が点景として残っています。これは紙屋です。
 
戸塚の次が「藤沢宿」です。
藤沢宿では宿場の負担をこなす見返りとして、「飯盛り女」を認めさせていました。
飯盛り女は旅籠で飯盛りなど女中役をこなし、夜には慰めを提供する「旅籠の私娼」でありました。
幕末には藤沢は80軒もの旅籠(木賃宿を含め)があって、各2人の飯盛り女が公認されていたのですから、100人前後の娼婦がいたことになります。
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       (藤沢本町永勝寺、左手に案内板があるのは「飯盛り女の墓」を説明しています)
 
藤沢宿の略真ん中、本町に永勝寺(真宗)があります。
賑やかな東海道から路地を100mほど入った静かなお寺です。
その山門を潜ると左手に3間四方の墓地があります。
真ん中に主人の墓標があって、その周りを39基の四角い角塔(一般人のお墓)が囲んでいます。
角塔は長さが2尺(60cm)安山岩には2人の法名が刻まれています。
墓標の背には俗名と没年、そして施主名が刻まれています。
このお墓が「飯盛り女」なのです。
前置きが長くなりましたが、今日はこの墓地に眠る「幸薄かった女達」の話です。
 
 
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 (左の部屋では給仕係りの女中がいます。右の布団部屋では2人の女中が化粧をしています。これが飯盛り女でこれから「旅人に春を売ります」)
 
伊豆の韮山から、小松屋源蔵は藤沢に遣って来ます。
小松屋の屋号は故郷の名産「小松石」から取りました。藤沢宿では新参の旅籠でした。
店の繁盛の秘訣は「良い飯盛り女を揃える事」源蔵は考えました。
「店の看板は飯盛り女である。お客を呼び込む女は“明るく元気で健康なこと、暗くて青白い顔をした女は抱く気にならない”。」
そこで、次の方針を決めました。
『稼ぎの良い飯盛り女も、悪い飯盛り女も差別しない、家族のように扱う。
病気になったら必ず休ませる。一日に三人以上の男の相手はさせない・・・・』
その代わり、代官所には定法に従って飯盛り女は2人と届けました。
実際にはもっと多くの女が旅人に春を貢いでいたのでした。
 
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       藤沢渡内の双体道祖神、(願主四谷村は本町に近い。文政4年1821)
 
女は主として陸奥の少女が「借金の質」として集められていました。
貧農は冷害などで「種籾」にも事欠きました。
仕方なく貧農は借金をします。
貸主は器量の良い娘のいる農家には貸し金をします。
そして、借金の返済が遅延すると、娘を預かります。
もう、少女は7歳にもなれば連れて行かれてしまいます。
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藤沢市高倉稲荷社下の双体道祖神など
 
小松屋にも女衒から世話された少女が数名いました。
彼女達には女中見習いのような雑事をさせながら育てられました。
源蔵と一緒に、家族のように働いて、家族のように食事もしました。
でも少女達は17歳にもなれば、旅人に抱かれるように強いました。
少女達もそれが定め、と思って諦めていました。
 
飯盛り女の仕事は体に応えました。
早死にするのが極く普通でした。
飯盛り女が死ぬと、源蔵は永勝寺で葬式を挙げて、自分の家の墓地に埋めました。
法名も貰って、立派な墓標に刻んであげました。
最初のお墓は宝暦11年(1761)でしたが、40年の間(享和/1801年)に39もの墓標が並び、80人近い飯盛り女が眠る事になりました。
毎年毎年増える墓標を見詰めながら源蔵は深いため息をついていました。
「どの子も良い子ばかりでありました。高々20代で亡くなったのでは、私の罪は如何ばかり深いものがあるだろうか・・・・」
一方、飯盛り女は死んだらお葬式も、お墓も、法名ももらえて、回向もしてもらえる。
屹度、極楽に行ける・・・、信じていました。源蔵を慕っていました。
 
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 永勝寺にはこの墓標塔と同じ2行書きの角塔が39基も並んでいます。
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                       飯盛り女の墓は小松屋源蔵が祀ったものでした 
 
飯盛り女には深く心を抉る事がありました。
男に抱かれれば、妊娠してしまう事もあります。
子供を産んでも育てる事は出来ません。
流産してくれればそれは幸いなのですが・・・・・、
「オギャー」声が聞こえたと思うと、次の瞬間には冷たい静寂が漂います。
旅籠の男役が間引いてしまったのです。
飯盛り女は子供の泣き声だけが記憶に残りました。
自分のお腹の子の顔も知りませんでした。
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  徳満寺絵馬、産まれたばかりの乳児の首を女中が・・・・/柳田国男が発表
 
小松屋の店を出て、上方見附を越すと引地川が流れています。
その先に双体の道祖神が祀られていました。
道祖神ですから、藤沢宿に宿泊した旅人の「旅の安全」を守護する神様でした。
でも、この道祖神はこけしの様に小さくて可愛くて・・・・、
さらにお地蔵さんの姿をしていました。
飯盛り女はこの道祖神の前に屈んで手を合わせました。
「お地蔵様、私のお腹の子を極楽にお導きください、そして次に生まれ変わる時にはお金持ちの家に生まれるようにしてください・・・・」
目を開けると、お地蔵さんはニッコリ笑っておいででした。
「お前の罪は問わないから・・・・、子供は極楽に届けよう・・・・、しかしお前が泣いてばかりでは叶わない。何故なら赤子は閻魔様の前で“お前の母が泣いているのはお前の罪だ”叱責されるから。
だから、もう涙を拭きなさい」
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(双体道祖神、一般に化粧地蔵と呼ばれている。安曇野では一般的な色塗りも相模の国では滅多に見ない。横浜でも1基あるのみだと思います。)
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藤沢本町の先、メルシャンのワイン工場の向かいに祀られています。祠が鉄作りなのは、傷みを防ぐためにやさしい措置だと思います。道祖神の前に口紅が奉納されていますが、使い途上なので何処か艶めいて感じられます。
 
飯盛り女は少し元気になりました。
そして、道祖神に何かして差し上げたい・・・思いました。
でも、何にもありません。
あるのは化粧道具だけでした。
紅と白粉、男に抱かれる時の道具だけでした。
そこで、さらに屈んで、白粉を塗って、紅を差しました。
道祖神は為されるままに笑っておいででした。
「止めてよ、お母さん。そんなに塗ったら恥ずかしいよ!」
声が聞こえたような気がしました。
飯盛り女も楽しくなってきました。
 
飯盛り女の悲しみは次第次第に癒えてくるようでした。
 
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 藤沢市城南の双体道祖神寛政9年(1797)年、飯盛り女の道祖神に近い。風化していな ければ・・・ こんな姿だったでしょう
 
 
補記:双体道祖神(俗称化粧地蔵)を飯盛り女と結びつける考えは私だけ(?)です。
    しかし、この双体道祖神だけが化粧されている謂れを考えると、こうした想像に妥当性があると思    います。
    妥当性は別として、100人もの私娼がいて、彼女達が宿場町の財源をか弱い体で稼いでいた事、    そして、20代のうら若さで毎年2人(小松屋)も命を落としていたことも事実です。
    さらに、藤沢宿では小松屋だけがお墓を立て、家族のように葬っていた事実は同人の経営感覚     が「新しい時代/明治」を思わせます。
    「心学/石田梅岩」を思い起こすのは私だけでは無いでしょう。
 
 
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雉が住む「茅ヶ崎の里山」景色

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茅ヶ崎と言うとサザンビーチに烏帽子岩、海の印象が強いのですが、田園風景も素晴らしいものがあります。
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                        (湘南平からの茅ヶ崎の砂浜風景。遠く江ノ島が見えます)
 
茅ヶ崎駅から茅ヶ崎遠藤線を西に進むと、急な坂になります。ここから始まる台地が茅ヶ崎の里山です。台地の東斜面に300クラブ、湘南カントリークラブ、そして芙蓉カントリークラブと南北に連なっています。見るからに古墳など史跡が散在していそうな景色です。
更に西に進むと7曲がりの坂を登って小出の交差点に出ます。
右に曲がれば慶応大学、左に曲がれば文教大学のキャンパスに通じます。
田園地帯は文教の顔も持ちました。
 
茅ヶ崎里山公園はこの一帯を里山公園として保存したものです。
公園の鬱蒼と茂った照葉樹林の下を細道が通じています。
分かれ道には道標が建っていて、「腰掛神社」を案内しています。
私は「腰掛」の謂れのありそうな名に惹かれて、神社に向います。
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里山の景色
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腰掛神社本殿、左が舞楽殿 
 
腰掛神社は台地の西斜面にあります。
もう正面が大山です。
本殿の左脇には台形の石があります。
日本武尊が東征の際にこの玉石に腰掛けて大山を眺めて休憩した・・・・
そんな伝説があって、この名があるのだそうです。
磐座(いわくら/神様が降臨する聖なる巨石)であります。箱根神社等にも見られます。
腰掛けるには少し大きいし、注連縄もはってありますから触れもしません。
境内には鐘楼があって、神仏習合の記憶を留めています。
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日本武尊の腰掛石、この辺りが古代の東海道であったのでしょう
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腰掛神社前の庚申塔、日輪・月輪を両手の掌に奉げたデザインが素晴らしい。
日本武尊を髣髴させる青面金剛像です
 
腰掛神社の下、田園地帯の真ん中を南北に小出川が流れています。
川には数百メートル毎に水門が設えてあり、水田に水を引けるように工夫されています。
この土手を菜の花が埋めています。
春に菜の花、初夏には野萱草(かんぞう、キスゲの仲間)、秋には彼岸花が咲きます。
湘南の住人を魅了してやまない景色です。
 
おばさんが屈んでいます。ノビロでしょうか、蓬でしょうか、草摘みをしています。
雲雀もあがれば、見知らぬ野鳥も恋の駆け引きに夢中です。
私は何だろう? カメラを望遠にして覗き込みます。
 
 
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                小出川はそのまま農業用水路のようです。両岸を埋める菜の花
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                                 彼岸花の咲いた小出川(昨年9月9日)
 
りんご畑の下は「カラスノエンドウ/野生のスイトピーのような植物」が生い茂っています。
其処に、真っ赤な物が見えます。
若しかしたら・・・・そう雉です。派手で大きなオスの雉です。
雉は日本の国鳥、桃太郎の御伽噺でも準主役です。
私達には馴染みの気性の荒い鳥です。
屹度、里山の保全施策の一環で、放鳥したのでしょう。
野草摘みのおばさんに「雉ですねえ・・・・」
話しかけると、住み着いていますし、此処は縄張りですから、度々見られますよ・・・、
感激も無い様で・・・雉はもう日常の風景のようです。
私は雉が「カラスノエンドウ」の中から出て、
蓮華草の咲いた田圃や、菜の花の土手に行ったら良いなあ・・・思いながらレンズを向けます。
既に雉は私の存在に気付き警戒しているようです。
でも、せわしくなく動きながら、なにやら啄ばんでいます。
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                       りんご畑の下を縄張り確認のため歩いている雉
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     雉の向こうは林檎の若木、草がカラスノエンドウ。
 
林檎も梨も花が咲いています。柿も芽を出しています。
里山は果樹園でもあります。
そう、筍を求めて帰ることにしましょう。
今晩は「朧月夜」になりそうです。
   菜の花畠に、入り日薄れ
   見わたす山の端、霞ふかし
   春風そよふく、空を見れば
   夕月かりて、におい淡し
 
茅ヶ崎の里山を眺めていると、高野辰之の故郷信州野沢温泉にいるようです。
ここで胸いっぱい菜の花の香りを吸い込んで、信州に居る気になりましょう。
 
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                               小出川はこの先、相模川に合流します
 
 
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頼朝時代の相模川橋脚と金精様

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昨日は茅ヶ崎の里山風景を報告しました。
流れていたのが小出川、茅ヶ崎市柳島で相模川に合流します。
この一帯は関東大震災で隆起しました。
すると、合流点近くの田圃から巨大な橋脚が7本も出てきました。
驚いて発掘すると橋の杭は計10本、
ヒノキ製で年輪測定の結果1126年から1260年の材と推定されました。
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                         (田圃の中から出現した橋桁。桜が散っていました)
 
橋の規模は2メートル間隔で三本一列の橋脚、10メートル間隔で4列並んでいたと解りました。
橋の全長は50メートル、こんな橋が何箇所かあって相模川本流を渡る事ができたのでしょう。
 
「吾妻鏡」には稲毛重成が妻(北条政子の妹)の供養の為に1198年に建立した、と記されています。
従ってこの橋脚は鎌倉時代に相模川に架けられた大橋であると推論されています。
橋脚は水中から出すと腐って崩れてしまいます。
そこで、現在はプラスチック製の模造品が並んでいます。
直径70センチもの太い柱が10本も並んでいる姿は壮観です。
加えて桜が舞い散り、水面は桜で埋められいます。
花筏は通り越して「花絨毯」状態です。
 
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ある人の中には「これは金精様(男根がご神体の性器信仰)だ)と言います。
でも、鎌倉時代にこれほどの規模の金精様を祀ったとは思えません。やっぱり橋脚でしょう。
ちなみに源頼朝は竣工祝いの帰路、落馬してしまいます。
これが原因で亡くなってしまいました。従って、相模川の河口一帯を「馬入川」と呼んだそうです。
私は江戸時代軍事的な事情で橋を架けなかった、馬の背に乗って川を渡ったので「馬入川」と呼んだと思っていました。
 
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                                            調査時の写真
この辺りは茅ヶ崎市柳島、浜降り祭の盛んな地域です。
橋脚から少し浜の方に神社の守りが見えます。
此処が「柳島八幡神社」です。
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柳島八幡神社、鐘楼の前に新旧の道祖神が並んでいました
 
今日の私の目的は神社に祀られている筈の「双体道祖神」です。
田園風景の向こうに瀟洒な住宅があって、その中にこんもりとした森がって、
其処が八幡神社です。
ありました。
鳥居を潜って本殿の右手に鐘楼があります。
その前に古い道祖神が1基、新しい道祖神が1基並んでいます。
新しい道祖神は如何にも現代人の作品らしく、男女の神が仲良く頬を寄せ合っています。
屹度、平成になってから奉納された、新時代道祖神でしょう。
 
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  (道祖神が傷んだので、新しい御影石の道祖神が祀られました)
 
こんな風に「神様らしからぬ道祖神も有りだな・・・」思いながら本殿の裏に周りました。
すると御神輿の収納庫の後ろに、古いタブの木があって、注連縄が張られています。
注連縄の下には「大きな洞」が出来ています。
そして、その前に新しい金精様が祀られていました。
樹の肌を見れば未だ1年もたっていないでしょう。
性器信仰の現れです。
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                (中央が真新しい金精様、背後のタブの木に洞があって、性器信仰です)
 
多分作ったのもこの近所の氏子のお爺さん、祀ったのも同じお爺さんでしょう。
「近頃は隣近所も遠くなった・・・」嘆きながら金精様を彫りました。
近くの瀟洒な家にお住まいのお母さんから「子供の教育上好ましくない!」眉をひそめられました。
お爺さん達は構わず、「教育上好ましくないと思うなら八幡様に来なければ良い。金精様が無ければ性教育も出来ないじゃないか!どうかしているよ!」
なんて、言い合ったかも知れません。
 
それにしても迫力に乏しい金精様だな・・・・!思いました。
おじいちゃん達が自分のそれを見ながら彫ったのかもしれません。
 
茅ヶ崎柳島には古いもの、新しいものがおっ立っています。
どちらも、見ていて元気が出ます。
浜降り祭は茅ヶ崎の名物、若いお母さんもお爺ちゃんも、皆して盛り上げて欲しいものです。
 
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    (直径60センチのヒノキが金精様とは思えません。それも鎌倉時代です) 
 
 
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