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南方熊楠と栴檀の木

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南方熊楠の遺言は「死んだら故郷の神島に散骨して欲しい」
だったそうです。
そして、死の直前に「紫の花が見える」呟いたそうです。
それは、栴檀の花であろう、一般に言われています。
 
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    (江戸小紋のような栴檀の花、今が見頃です)
 
奈良時代から、熊野地方は「死と再生の聖地」として信仰されていました。
熊野は無数の生物が生育し、死んで、直ぐに蘇生・・・します。
古代人も熊野には生命の神秘を強く感じたのでしょう。
またさまざまな伝説、伝承が息づく地でもありました。
 
熊楠は誕生の地熊野に愛着と畏敬の念を深くもっていました。
そこで、熊野の伝承を筆録し、自然を観察し続けました。
死に直面しても、心は故郷の野山を逍遙していたのでしょう。
死の床に伏しても瞼には映っていたのでしょう。
雨上がりの空に、栴檀の花が咲いて、無数の揚羽蝶が集まってきています。
薫風が吹いて、木漏れ日が差し込んできます。
自然は熊楠に底無しに優しかったと思われます。
 
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  (栴檀の花に遊ぶ青筋揚羽蝶/鎌倉本覚寺にて)
 
私が栴檀の木に興味を持ったのは、ブログ友達「木漏れ日緑岸さん」の記事に栴檀が載っていたからでした。
 
記事を読んで、早速雪ノ下の御宅を往訪しました。
お隣の鏑木清方美術館から塀越しに栴檀の巨木を見上げました。
その美しさに魅了されました。
以来この木を探し回り、鎌倉にも横浜にも相当数あることを知りました。
大きなのは金沢文庫称名寺の境内、三渓園の内苑、そして鎌倉大町に本覚寺です。
中でも最も樹形が良いのは本覚寺境内の栴檀です。
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            (本覚寺 正面恵比須堂前の栴檀の木、左手は人形塚)
 
平安時代末期、大きな社会変革を迎えます。
貴族が没落し、武士が台頭、うねりは中世に向います。
人々は自分個人を助けてくれる「念持仏」を拝みます。
仏像は白檀の木を刻みます。
芳香が枕元を漂ってくれました。
そして、熊野を詣でてさらに海中に沈んでゆきます。
熊野の海には浄土があると信じていました。(補陀落浄土)
そして、再生する事を確信していたのでした。
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「栴檀は双葉より芳し」
と言われます。
「栴檀の木は双葉の時から芳香がする、人も同じで・・・・・・」
そんな意味でしょう。
試しに栴檀の葉を揉んでみました。
芳香は全くありません。青臭さも無く、さわやかなものです。
この慣用句は実は白檀で、栴檀ではないそうです。
 
花札の「梅に鶯」の鶯は「メジロ」だったようなものでしょう。
メジロは姿は良いが、鳴き声がイマイチ。
一方、鶯は鳴き声は素晴らしいのに、姿がダメ、なのです。
本当は白檀なのに、栴檀と言ったのは栴檀の方が姿が良かったからでしょう。
 
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                                     (本覚寺、栴檀に舞う青筋揚羽蝶)
 
栴檀の花には沢山の青筋揚羽蝶が舞っていました。
青虫がこの葉っぱを好むからでしょう。
もうじき、蝉時雨が聞かれることでしょう。
栴檀の幹は蝉さんにとっても大好物なのです。
そして、蝋質の実がなって、ムクドリの大群を集めます。
栴檀は無数の動物を引き寄せています。
熊楠はそんな栴檀の木を承知していました。
ですから、幼児の時から死ぬまで、栴檀の木の下で過ごして居たのでしょう。
 
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     (本覚寺本堂、手前が栴檀の梢)
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(栴檀に似合う青筋揚羽蝶 野草はハルジオン)
 
 
 
 
 
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砂山に咲いた浜昼顔

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街に昼顔の花が咲き始めました。
咲き終えたつつじの生垣に、次は私よ、言わんばかりに昼顔が咲いています。
昼顔が咲き始めれば、海に出れば「浜昼顔」も咲いている筈です。
家内を誘って、浜辺に出かける事にしました。
 
相模湾の砂浜には浜昼顔が咲きます。
三浦半島から西、大磯の浜辺まで、海水浴シーズンが始まるまで、咲き続けます。
で、何処に出かけようかな?
行き先は、金田湾にしました。
金田湾は東に三浦海水浴場、西に金田漁港、更に観音崎灯台に続きます。
正面に房総半島の鋸山、海峡を大きな貨物船が行き来します。
ロケーションが最高なのです。
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                                      (浜大根の花)
 
浜大根の咲く藪を越えて、砂浜に出ました。
咲いています、咲いています、浜昼顔はもう辺り一面咲いています。
低い砂山に、這うようにして咲いています。
向こうの砂山には漁師が網を干しています。
手前の砂山には漁師舟が砂に埋もれています。
向こうの船には「浜千鳥」と書かれています。
そう、この浜辺は海鳥が飛来します。
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      (三浦海岸方面、遠くに網の干し場、手前、廃船を埋めるようにして咲く浜昼顔)
 
浜昼顔は昼顔に似ていますが、遥かに美しい花です。
浜昼顔の方が紅色が濃く、葉っぱは厚くて光沢があります。
葉っぱも拳を握ったような丸い形です。
茎は大半が砂中に埋もれてしまっていて、葉っぱや花が砂の中から顔を出しているようです。
砂丘という生きるには厳しい環境が、美しさを引き立てているのでしょう。
 
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 (海の向こうが房総半島鋸山)
私達夫婦の年齢が解ってしまうかもしれません。
しかし、浜昼顔と言えば思い出す歌謡曲があります。
名前は「君の名は」、です。
 
   君の名は……と たずねし人あり
   その人の 名も知らず
   今日砂山に ただひとり来て
   浜昼顔(はまひるがお)に きいてみる
 
東京大急襲で都心には焼夷弾が降ってきます。
真知子と春樹は逃げ惑いながら、数寄屋橋に辿りつきます。
一夜明けて、二人は生き延びた事を確認しあいます。
「もしも生きていたら、半年後此処で合いましょう。」
約束して分かれます。
でも、二人の運命は・・・・・・。
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 (向こうが金田漁港)
 
浜昼顔の逞しさ、美しさは戦後世代の共感を得ていたのでしょう。
浜昼顔の濃い桜色は、「桜貝」の色でもあります。
「桜貝の歌」も逗子海岸、浪子不動尊下の海沿いに碑があります。
戦後の「時代カラー」だったのかもしれません。
 
砂山に腰掛けて海を眺めます。
今日は鋸山もかすんで見えます。
モグラが穴を開けています。
この砂山の地中にも沢山の餌になる動物が棲んでいるのでしょう。
日本蜜蜂がひっきりなしに浜昼顔に飛んで来ます。
漏斗の花の奥にまで体を嵌め込んでゆきます。
暫くして顔を出します。
見れば、その脚は密が固まって着いています。
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    (砂山にモッコリ上がったのが、モグラのトンネルの窓)
 
浜昼顔も、モグラも、蜜蜂も、浜大根も精一杯生き抜いています。
人間だけが、いろいろ理屈やいい訳を講じて、楽して生きよう、考えているようです。
戦後は遠くなりましたが、良い時代でありました。
 
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      (蜜蜂)
 
 
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「倉田の歴史資産を見直そう」(明治学院大学「戸塚祭」展示)

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今日、5月29日は大忙しです。
私の地元東戸塚小学校、戸塚小学校の「春の運動会」、そして明治学院大学での「戸塚祭」です。
小学校の運動会は8時50分開会です。
開会に合わせて、出かけます。
余りにも早いので、先生方も驚いた様子でしたが・・・・・早々に退散、次に廻ります。
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  (1000人を越える生徒を抱える横浜最大クラスの東戸塚小学校運動会)
 
明治学院大学の戸塚祭の開会式は午後1時、区長さんと「開会宣言」をしなければなりません。
12時に会食、その前に展示をしなければなりません。
 
「大学祭」と言えば学生が主体、近頃の大学のお祭は「模擬店」に「ダンスパフォーマンス」に「フリーマーケット」が流行のようですが、明治学院大学の戸塚祭は少し趣が違います。
学生が主体である事は間違いありませんが、地域と教職員、三者による祭になっています。
でも、教職員の姿は殆ど見ませんから、学生と地域に拠るお祭り、と言う事でしょう。
大学のモットーが「do for others」ですから、こうした試みは自然な事なのでしょう。
 
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 (明治学院大学戸塚祭風景、明日30日も開催されます)
 
地域として「上倉田地区連合会」は昨年に続いて今年も展示する事になりました。
今年のテーマは「倉田の歴史資産を見直そう」にしました。
 
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    (神奈川新聞5月13日記事、歴史資産を大切にする地域として紹介されました)
 
 
1980年代、明治学院大学の戸塚進出が決定し、慶応大学がその埋蔵物調査を致しました。
予測どうり、縄文式時代から弥生式土器時代まで、倉田第一、倉田第二遺跡が発見され、発掘されました。
発掘品は明治学院大学が保存し、姿が良いもの8点ばかりを図書館に展示しています。
 
倉田は古代には奥州古道が、中世には鎌倉古道が、近世には浦賀道が通っていました。
戸塚の町が近世の宿場町であったことに比べれば、歴史の奥行きははるかに深いものがあります。
それを、見直して、地域資産として活用しよう・・・・・、と言うのが今回のテーマです。
 
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(展示会場は学生ホールの奥の間、最高のロケーションでした)
 
と言っても、今回は「石仏」を中心に説明しました。
お客サンはたいして来ないだろう・・・・・、
私の予測に反して、来るは来るは、応対に、説明に苦労しました。
 
と言うのは、昨夜来の寒さで、鼻風邪を引いてしまっていたからです。
加えて今日は寒い事、寒い事、説明中に鼻水は垂れる、クシャミは出るは、散々でした。
声も涸れて、もうグッタリです。
 
でも、今夏の「夏休み歴史教室」は屹度盛況になることでしょう。
これも、大学当局が連合会長が展示するのだから、良い場所に・・・・と言う事で「学生ホールのラウンジ」を展示場所にしてくれた、お蔭でしょう・・・・。
 
明日は10時から展示です。
お天気なら、更に賑わう事でしょう。
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(展示を見入る人達、手前のテーブルからプロジェクターで壁にパソコン画面を投影、説明しました)
 
 
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こうした、戸塚祭は今年で13回目です。

老婆に風車(城ヶ島を眺める景色)

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真向かいが房総半島の先端です。
海峡の手前が三浦半島の先端部、左(北)に観音山が見えます。
その先が毘沙門湾、古くからの毘沙門堂があります。六合の漁港があって、その先が城ヶ島、城ヶ島の向かいが三崎の町です。更に右(西)には三浦一族が滅亡した油壺のに続きます。
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私達は三浦半島の先端にたって、海を眺めています。
ふと、足許にめをやると、老婆が畑に座って、同じように海を眺めています。
朝から、農作業をして、今頃10時のお茶なのでしょう。
故郷の海を眺めながら、ゆっくりお茶を、至福の一時なのでしょう。
 
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「海と山のある風景」こそ日本人の原風景といえましょう。
特にこの海峡は古代の奥州征伐から中世の源平争乱、そして近世の日本開国まで、歴史の舞台になってきました。
この高台は昔から畑だったのでしょう。
今は大根栽培を終えて、キャベツにカボチャ、そしてスイカが目立ち始めています。
老婆は畑を耕して、夏野菜の植え付けでしょうか・・・・・・。
お家は・・・・屹度海際の漁師の家で、急な坂道を登って働いて、昼には又戻るのでしょう。
 
私にも、老婆にも先刻から気になる音が響いてきます。
そう、北側にある風力発電機の翼の風切音です。
ブルン、ブルン、腹の底にも響くような音です。
不安感を曳き掻きます。
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振り返れば、二基の風車が海風を受けて、廻っています。
宮川風力発電機。
昭和61年、三浦市が計画を立案。
平成09年  風車2基を設置しました。(NEDOと(株)アルココーポレーションの共同事業)
平成14年06月  日本風力開発株式会社の子会社である三浦ウィンドパーク(株)が所有しています。
HPで調べると年間120万キロワット、三浦市の250戸の消費電力に相当するそうです。
でも、発電エネルギーは、風車の照明や宮川公園の維持費に充当されているようです。
建造費は1基1.2億円、2基ですから2.5億円と言う事になります。
頭の中で算盤します。
投資が2.5億、収入が3億(1キロW1,500円と計算)
管理人が2名で、管理費が・・・・・
ソコソコ、行けてる計算になるでしょうか?
少なくとも、横浜港の風車(年間2千万の赤字)よりはズット良いと思います。
何しろ、此処は高台、良い風が吹いてきますから。
 
でも、私は風力発電機の音、風景とのアンバランス、好きになれません。
屹度地中のモグラも「嫌いだ!」文句を言っている事でしょう。
 
 
 
 
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教会の「山ぼうしの花」

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30日は昨日に続いて、明治学院大学での「戸塚祭」です。
私は、鼻水、咳が止まらず、最悪のコンディションです。
でも、休む訳には行きません。
代役はいませんから・・・・・。
 
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     (石段はお祭で飾られています。樅の木の奥には山ぼうしが咲いています)
 
 
今日は日曜日、教会も「お祭」体制です。
キャンバスにポスター看板が立てられています。
オルガンとトランペットのデュオ「高橋博子&築地徹」、主催明治学院大学宗教部。2時開演
私は、早速お出かけです。
 
1時間半の演奏時間。
私の知っているのはJ.S.バッハ「来ませ、聖霊、主なる神」、Gベルディー凱旋行進曲「アイーダ」より、デス。)大半は、初めて聞く宗教曲ばかりです。
演奏者も知りませんでしたが、専門分野では実績のある人のようです。(失礼します)
 
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先週は聖霊の降臨週、そんな季節にちなんだ選曲のようです。
そして、私のような信者でも無い人を対象にした企画なのでしょう。
まして、パイプオルガンにトランペットのデュオは初めてです。
煌びやかなトランペットと古風なパイプオルガンの組み合わせ、どんなものかしら?
興味も尽きません。
 
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   (チャペルの手前に樅の木、その横一帯は山法師が咲いています)
 
 
 「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」
旧約聖書創世記の冒頭です。
トランペットもパイプオルガンも管楽器で、「風を送る」事で音がします。
その響きは、神の「命の息」を思わせるのでしょうか?
人間は土から出来ました、死ねば土に戻ります。
教えは「地蔵信仰」と共通します。
「土と風」は宗教のベースかもしれません。
「千の風になって」の意味は此処にあったのかもしれません。
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   (初めて見ました、チャペルが満席でした、私は立ち見ならぬ立ち聞き、しました)
 
バロック時代のトランペットは丸い音がしました。
写真で解るように、私達の知っているトランペットより小さいようです。
そして、パイプオルガンと良く調和していました。
 
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キリストが復活します。
そして、聖霊が降臨します。
聖霊はオルガンやトランペットの管を風となって降臨するのでしょうか?
そんなことを考えながら教会を後にします。
教会の横に大きな樅の木があります。
その横に山ぼうし(法師)の花が咲いています。
未だ若木ですが、本ほどあるでしょうか。
濃緑の葉っぱの上に真っ白い花が鮮やかです。
花は十字架です。
花の真ん中に雄蕊雌蕊があります。
その姿が「比叡山の山法師」に似ていたからその名が付けられました。
 
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山法師の学名は。「benthamidia japonica」だそうです。
また英名「Japanese Flowering Dogwood」だそうです。
どちらも「日本ハナミズキ」の意味です。
benthamidiaはキリストがゴルゴタの丘を、十字架を背負って登ってゆくとき、少女が駆け寄って汗と血をふいたそうで、その少女の名だそうです。
十字架の木は水木で作られていました。
ハナミズキはその罪に慄いて、大木にはならないそうです。
 
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教会横の石段に山法師の木を植えたのは、真っ白い花が十字架だから、そして聖霊降臨の頃見事に咲くからでは無いでしょうか?
今度、牧師さんに尋ねてみる事にしましょう。
 
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白いクローバー、赤いクローバー

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毎日、毎日冷たい雨が降ります。
雨の降り日は石仏が美しく見えます。
そこで、鎌倉古道、小菅ヶ谷に出かけました。
元禄時代に建立された地蔵・弥勒・聖観音の三体です。
数年前都市計画道路の開通によって、石垣の間に掘られた櫓に祀られています。
風化が進んで、どれが地蔵か見分けもつかなくなってしまいましたが・・・・・、
お蔭で、表情に深みが出来できました。
哲学的な雰囲気です。
雨に石の頤が黒く濡れて光っています。
瞼に涙が溜まっているように見えます。
まるで、キリスト像のようです。
真っ白いカラーが供花されています。
 
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                (鎌倉古道の弥勒像、船越保武氏の24聖人像を思い起こさせます)
 
 
小菅ヶ谷は野村不動産が大規模開発しました。
住宅地は落ち着いた雰囲気です。
プラタナスの街路には、もう「立ち葵の花」が咲いています。
この花の背景は、青空に入道雲がお似合いです。
盛夏はじきにやってくるのでしょう。
 
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近隣公園によって見ました。
雨が降るので、公園には人影がありません。
一面クローバーが生茂っています。
大半が白い花のクローバー、「白詰草」です。
所々に赤い花が混じっています。「赤詰草」とか「紫詰草」と呼ばれています。
子供の頃、クローバーの花を摘んで、首飾りを作ったものでした。
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クローバーは豆科の植物、空気中の窒素を取り込み、体に蓄えます。
ですから、家畜の肥料に最適「馬肥やし草」とも呼ばれました。
私も、この草原に山羊やウサギを育てました。
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私の町内の小学校では「校庭の芝生化」を推進しています。
裸の土ではなく、芝生を植えれば、エコにもなるし、怪我もしないし・・・良い事尽くめなのだそうです。
私は、にわかには信じられません。
砂塵対策であれば、校庭の周囲をクローバーで囲めば充分なような気がします。
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クローバーは帰化植物だそうです。
オランダからギヤマン(ガラス加工品)が輸入されました。
ギヤマンが壊れないように、クローバーを詰めてあったそうです。
そこで、「白詰草」「赤詰め草」と呼ばれました。
 
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来週はお天気が戻るそうです。
そうしたら、この公園にも子供達とお爺さんお婆さんが沢山出てきて、クローバーの上で遊ぶ事でしょう。
クローバーの匂いは良いものです。
牧草の匂いは幸福感を一杯にしてくれます。
 
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一面のひなげしの花(久里浜花の国)

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金田湾に浜昼顔を見物しました。
さて、お腹が空いてきました。
ペリー記念公園の辺りには食堂も数多くあります。
お寿司屋さんもあります。
でも、一面のひなげしの花を眺めながら、お弁当を食べる事にしました。
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今年は寒い為でしょうか?
5月末でも、ひなげしは未だ盛りです。
頭でっかちで、紙のような花弁がユラユラ揺れています。
ひなげしの花の間を、花好きの人たちが、てんでバラバラ、歩き回っています。
写真を撮るひと、パラソルをさして、お散歩を楽しむ人、そして私達のようにお弁当を広げる人、様々です。
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それにしても鮮やかな花弁の色です。
昔、誰かから聞いたことがあります。
フランスの三色旗は青は自由、白は平等、赤は博愛を示すと言います。
その色は青が矢車草、白がマーガレット、赤がひなげしの花だと・・・・。
チューリップや薔薇で無いことがフランスなのでしょう。
まして、革命と言えば「武器や血」を思い起こします。
赤は血の色だ!
思いがちです・・・・。
ポピーの色で、友愛を示すところが、良いところです。
 
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  (ネモフィラの畑に咲いたひなげしの花)
 
ひなげしが日本に伝わったのは、江戸時代。
屹度中国から、渡って来たのでしょう。
名前は「虞美人草」
 楚の項羽(こうう)は長年劉邦(りゅうほう/漢の祖)と覇権を争います。
項羽は愛する虞妃(ぐき)と ともに劉邦の大軍に包囲されてしまいます。        
項羽は最後の出撃をし、 虞妃も自刃して殉じます。
虞妃の墓には美しい花が咲きました。
その花に「虞美人草」、名がつけられました。
 
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最近の美人は、「グラマーなボディーに小顔」が定番のように言われています。
でも、中国も日本も古代は、細身で華奢な体に大きな顔が美人の定番であったようです。
薬師寺の樹下美人図などでは、丸く大きな顔立ちに、朱色の唇が印象的です。
ひなげしの花を思い起こさせます。
 
ひなげしの畑の淵をフラワートレインが走ってゆきます。
満員のお客さんで、ディゼルエンジンの音が息苦しそうです。
今が見頃のひなげしですが、6月6日の2時以降は採取可能になるそうです。
久里浜花の国は「コスモス」の準備に入ります。
それまでの間、又静かになってしまうことでしょう。
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居間がそのまま美術館で(雪堂さんの面影)

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前々からある美術館が気になっていました。
名前は「雪堂美術館」
看板には「金子みすず」、時に「種田山頭火」が特集されています。
ああ、「みすず」や「山頭火」のコレクションがあるのか!
「何れ、入ってみましょう」思っていました。
 
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   (雪堂美術館の入り口、門はお厨子のようなデザインです)
 
家内と駆け込み寺に出かけました。
「山法師」そして「岩がらみ」、を見に出かけたのでした。
二つとも、深緑の葉っぱ、真っ白い花、梅雨前に見事に咲きます。
今年は遅れているようで、来週がピークのようです。
 
その帰路、雪堂美術館の前を通りました。
「入場料・お茶込み500円」の案内に誘われて、初めて入ってみました。
 
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       (コーヒーは蕎麦猪口に入れられて出てきます。菓子つきです)
 
美術館は書家「小田野雪堂」氏のご自宅でありました。
ご夫妻は二階住まい、1階はかっては居間であり、作業場であったようです。
平成19年、84歳で亡くなられると、1階を美術館にし、奥様は二階でお住まいし、
奥様は書道塾を運営されているようでした。
 
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      (雪堂氏自画像)
 
ご自宅を美術館にされている事は、そのお人柄が良くわかります。
書に、絵が添えられています。
書は音楽のような調べを感じます。
絵は酒脱で自由を感じます。
 
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  (東に光、西に夢、は自作)
 
「良いねえ!」
「この山頭火の作品、私も好きですよ」
「雪堂さんのみすずのご理解が・・・良くわかります・・・・」
私の背後で、家の主人、雪堂さんを感じます。
こんな風に言われているようです。
 
「そう、書は理屈や学問では無いのですよ、素直に心を和紙に下ろせば、良いのですよ。拙い書の方が、訴えるのは、書にハートがあるからですよ・・・・・・」
 
最も多いのが金子みすずの詩を素材にした作品です。
良寛さんもありました。
管理人に伺いました。
『雪堂さんは「山頭火」に始まり、次に「みすず」に移り、最後が「良寛」ですか・・・・?
書家は皆さん「良寛」を最高峰に置かれるようですが・・・・・』
 
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長年仕えた風な管理人が話されます。
『お隣の浄智寺にお住まいであった小島寅雄先生が「全国良寛会」を組織しておいででした。
先生が、良寛を紹介してくださいました。
(同氏は鎌倉市長を努めたこともありました。平成15年88歳で亡くなられまし。『八十八の遺言状』 (発行=水書房)た)』
 
管理人は訥々と話を続けます。
雪堂先生は書家というより、自由人で、お付き合いも実業家やお坊さん、ご近所付き合いが深かったようです。書の他に絵も、陶器も、石像も手を染めていられました。
全国各地から「陶土」を取り寄せ、様々な作品を残しておいでです。
 
玄館の石塔も、四方仏の金魚蜂も、先生の作品です。
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改めて、露地を見渡しました。
門が見えます。
門は観音開きで、お厨子の扉のようです。
お住まいは「祈の場所」だったのでしょう。
そう思うと、居間の前に小さな庭が見えます。
池があって、その向こうの岩場には「櫓」が掘られています。
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お住まい自体が、お墓の前に建てられたのでしょう。
岩タバコの蕾が見えます。
もう、10日もすれば満開になることでしょう。
その頃に再訪することにしましょう。
最後に雪堂さんの言葉を紹介しておきます。
 
『桜が咲いていますね。あれ、老木も若木も同じ花なんですよ。
老木だからといって、年とった花ではないですね。若い木だって、青臭い花では
なく、同じ花を咲かしている。  (中略)
(人間は)せっかく生きているんだから、一生懸命生きなくてはね。
一生懸命生きれば、一生懸命死ねますよ。』
 
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   (雪堂美術館HPから)
 
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柏尾川桜堤防の「尾長」

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柏尾川は戸塚区柏尾から流れ出す、河川です。
暴れ川で、大昔から治水が大問題でした。
堤防を築き、堰堤に桜の木を植えました。
幕末でも、柏尾川の桜は名所でした。
 
明治43年、倉田耕地の整備と併せて、柏尾川の堤防の大改修が実施されました。
安政の桜は、明治の桜2千本に植え替えられました。
 
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   (右側が日本油脂工場、貝塚の木に尾長の営巣しています)
 
明治の桜も、先の世界大戦の物資窮乏のおり、薪炭用に伐採されてしまいました。
その桜並木の復活を願って、昭和28年、再度2千本の桜が植えられました。
当時、私は小学校の入学時、東戸塚小学校の校長先生のご挨拶が「桜の木」を大事にしよう・・・・でした。
 
丁度、6月の今頃、桜の実が紫に熟して、
「食べたいな!」欲求を刺激されていまいした。
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  (桜の実)
 
その、昭和の桜も度重なる、洪水対策として堤防の嵩上げ工事が続きました。
桜は、600本に減少、樹高もマチマチになってしまいました。
名所としても知名度も低下したままであります。
 
昭和の桜並木が残っている場所があります。
倉田の日本油脂工場脇であります。
桜も見事ですが、赤レンガの歩道もお洒落です。
樹下には連翹や雪柳などの低木が咲きます。
 
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   (尾長)
 
この並木を棲家にしているのが、「尾長」です。
尾長は「カケス」の仲間、雑食性で、性格も凶暴なところがあります。
カエルやトカゲ、から木の実も食べます。
他の野鳥の雛を襲ったり、暴れ者です。
この桜並木がお好みなのは、桜の木に虫が集まり、実も美味しいから・・・・・
そして、日本油脂工場の垣根に貝塚の木が植えられているからです。
この木の陰に営巣して、子育てをします。
 
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  (尾長のカップル)
 
啼き声も「ギューイ、ギューイギュイギュイギュイ」と、錆付いた自転車のような、不快な音です。
でも、見た目はなかなか美しいものがあります。
頭の上半分は黒く、下半分は白いのです。
そして、背中は青灰色です。
翼は青く、名前の通りに尾羽は長く、飛ぶ姿は中々に優雅です。
 
留鳥ですから、一年中目に付きます。
でも、6月の今頃が最も目立ちます。
「ギューイ、ギューイ」異様な鳴き声に驚いて桜の木の梢を見上げます。
緑陰に、数カップルの尾長が愛の交歓中です。
尾長は子育ての間中は「一夫一婦」を守ります。
そこで、雄鳥は雌鳥に食べ物のプレゼントです。
雌鳥は大きく嘴を開いて、お食事プレゼントを受け入れています。
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  (尾長の愛の交歓)
 
もう、成婚したカップルは「貝塚イブキ」の茂みの中で、巣作りです。
枯れ草や枯れ枝でしょう、セッセセッセと運んで、営巣作業中です。
巣作りは夫婦共同作業です。
 
6月の半ばには孵化する事でしょう。
夏明けには巣離れになることでしょう。
柏尾川の川面を、群れを成した尾長が飛び交う事でしょう。
 
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(私の属する町内会連合では柏尾川堰堤を周回ジョギングコースに整備してもらい、区民駅伝を誘致する運動をしています。今年5月神奈川新聞記事から・・・・)
 
 
 
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白蛇の悲話(影取池の伝説)

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私の住む、戸塚から1号線を下ると、渋滞工事中の原宿、その先が「影取」、遊行寺坂を下ると、「鉄砲宿」、「大鋸」と続きます。
前々から、何か謂れのありそうな知名だな・・・・?
思っていました。
地名を紐解いてゆくと、悲しい伝説に辿り着くのです。
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  (遊行寺坂、鉄砲宿のバス停。この辺りは桜と松の並木が残っていて、東海道の面影を残しています)
 
遊行寺の北東側に「大鋸」という部落がありました。
名から解るように「木挽き職人」が住んでいました。
戦国時代の城郭需要、更には江戸時代にはって、遊行寺の普請や藤原宿の需要が旺盛でした。
木から板や柱を挽いていました。
その名主「森」さんの屋敷は滝川に沿ってあり、大きな池がありました。
その池に、一匹の白い蛇が棲むようになり、庄屋さんは「おはん」と名前をつけ、可愛がっていました。
 
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 (影取の葱畑、昔は田圃であったと思われます。真ん中に滝川が流れています)
 
「おはん」は日に日に成長し、大蛇になりました。
ところが、成長に反比例して、庄屋さんは貧乏になってしまいました。
「おはん」は、庄屋さんを気の毒に思い、屋敷を出て、滝川の上流にあった「溜池」に移り住みました。
 
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(諏訪神社、表が東海道、裏には溜池の「影取池」がありました)
 
「おはん」は大きな体です。
池に棲んで、何か食べ物が無いか物色しました。
見れば、東海道を旅人が通り過ぎます。
池面に映った旅人を水ごと一呑みにしました。
「人を呑んだつもり」、空腹を満たしていました。
 
でも、影を呑まれた旅人は気味悪がりました。
「気色が失せて、病気になったり、若死にする」 噂になってしまいました。
この溜池はいつしか「影取池」と名付けられてしまいました。
 
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        (影取辺りの庚申塔、地神)
 
近在の人は、「おはん」を退治しようと試みます。
でも、「おはん」は利口な白蛇です。
捕まりもしなければ、猟師の鉄砲にも逃げてしまいます。
村人は私案投げ出しの有様でした。
誰かが言いました。
庄屋さんの声色を使って「おはん」を呼び出してみよう・・・!
 
「鉄砲宿」に住んでいた腕利きの猟師が構えていました。
そして「おはん」「おはん」・・・、池面に向って呼びかけました。
「おはん」は主人の声に喜んで、池面から顔を出しました。
その瞬間、「ズドン」鉄砲が鳴り渡りました。
哀れな「おはん」は白い体を池に浮かべてしまいました。
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                         (鉄砲宿の案内板、絵は「戸塚カルタ」のデザイン)
 
影取池は諏訪神社の裏にありました。
「影取」にも「大鋸」にも、「玉縄」にも諏訪神社があります。
諏訪神社のご神体は「大蛇」です。
 
悲しすぎる「おはん」の伝説は、諏訪信仰と密接な関係があったのでしょう。
白い大蛇を騙して殺して、良い筈はありません。
「その祟り」を村人は恐れ慄いた事でしょう。
でも、村が栄える為には、「影を呑む大蛇」は退治しなければなりませんでした。
それが、「村人が生き残る為に必要な悪」だったのでしょう・・・。
そこで、伝説となって、村人は「おはん」を語りつなぎました。
 
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(伝説を話していただいた石井さん、正面の森が住友家別荘/重文2年前焼失)
 
 
 
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ジャガイモの花

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梅雨が近づく今頃を「麦秋」と呼びます。
私の住む倉田の畑も、麦が実りの時期を迎えています。
誰が小麦を作っているのか、知りません。
でも、この麦で作ったパンやウドンを食べてみたいものです。
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    (収穫が近づいた小麦畑)
 
麦畑に続いて馬鈴薯の畑が続いています。
今、一面花がついています。
馬鈴薯は形が馬につけた「鈴」に似ていたからでしょう。
ジャガイモ、という名もあります。
「ジャカルタ芋」を短くした名前でしょう。
江戸時代、ジャカルタから伝わり、飢饉対策の作物として、有難い存在だったのでしょう。
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  (ジャガイモ畑、紫は男爵芋ですが、白いのはメークインかな?)
 
 
ジャガイモは茄子の仲間です。
ですから、茄子と同じような紫の花をつけます。
茄子の花は「千に一つの無駄花も無い」と言われます。
花には必ず実が付くのです。
でも、弟分のジャガイモの花には意味が無いようです。
ジャガイモの種は見たことがありません。
子孫は芋から増えます。
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   (茄子に色形、全く同じジャガイモの花)
 
ところで、私にはジャガイモに「ある思い」があります。
私は4月生まれ、お寺の三男でした。
寺には小姑が二人も居て、学校の先生をしていました。
その一人が「ジャガイモ」を食べて食中毒になったのでした。
ジャガイモ種芋は暗がりに閉まって置き、薄暗がりに持ち出します。
すると、太陽の光に反応し、緑が射して、新芽を噴出します。
この芽の位置を測って、種芋を適当にカットして、切り口に灰で消毒してから、畑に埋めます。
小姑は種芋を食べて、食中毒に罹ったのでしょう。
生まれたばかりの私が小部屋に置かれていました。
私を心配して「暗がりでネズミに齧られたら大変だ」
言いながら、息絶えたと聞きます。
昭和21年の6月でありました。
丁度、紫の花を咲かせる季節でした。
 
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   (こっちは白いジャガイモ)
 
私が最初に転勤したのは北海道,最初の子供は5月に授かりました。
桜が散って、リラの花が咲いていました。
6月になって、郊外には一面にジャガイモの花が咲きました。
ジャガイモ畑の向こうに羊蹄山が聳えていました。
爽風が流れて、生命に満ちていました。
 
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   (こちらは、蕎麦の花)
 
もう、八百屋さんの店頭には「新ジャガ」が並んでいます。
畑に新ジャガが出来ると、祖母は茹でて叔母の仏壇に供えていました。
 
新ジャガの薄皮のつるつるした姿は、可愛らしく、勿論最高に美味しいのでした。
勿論、戦後食べ物の不足した頃には尊い存在で、幾多の命を繋いだ事でしょう。
でも、新芽には毒がありました。
勿論、ジャガイモが子孫を残すための、自衛の為の「毒」なのでしょう。
 
命の不思議を感じます。
それだけに、ジャガイモの存在の大きさを理解します。
そしてその花に魅せられてしまいます。
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   (畑の脇に咲いたニワゼキショウの花。小田急団地のお庭から種が飛んできたのでしょう)
 
 
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オオヨシキリと女子高生

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早朝、金井遊水池にバードウォッチングに出かけました。
金井、お隣の長沼、田谷は私の住む倉田と併せて、鎌倉郡豊田村でありました。
柏尾川の中流域、穀倉地帯でありましょう。
 
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 (金井遊水池の葦原、此処がオオヨシキリの営巣地)
 
金井遊水池は、住友電工の進出に際して、工場東側と柏尾川本流との間に広大な遊水池を用意したものです。
ゲリラ豪雨が生じた際など、一時雨水を溜め込んで、流域の洪水を未然に防止します。
普段は浅瀬のプール状の池です。
四方を堤防で囲われていますから、野鳥にとっては天国です。
恐い猫も人も侵入しません。
思う存分に、食べて、子育てして、北に南に渡って行きます。
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 (オオヨシキリ、大きく嘴を開いて、青空に向けて叫ぶ、そんな姿を撮影しようと長い間頑張ったのでしたが・・・)
 
今朝は賑やかです。
葦原(ヨシハラ)から甲高い声が、「ギョギョシ、ギョギョシ、ケケシ」
響き渡っています。
 
「オオヨシキリ」でしょう。
私は、葦原を見詰めます。
います、います、オオヨシキリがいます。
時折、葦の茎の中段まで姿を見せます。
屹度、もう少し下段にカップ状の巣があって、母親が抱卵しているのでしょう。
初夏になると東南アジアから日本に渡って来る典型的な「夏鳥」です。
子育てを終えれば、又越冬地に戻ってゆきます。
 
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                           (葦原の向こうにはカイツブリが子育て特訓中)
 
 
鶯の仲間だそうです。
鶯と言い、オオヨシキリ、そしてヒバリも、何れも姿は雀のようで見栄えがしませんが、鳴き声は一級です。
何で?  あんなに美声なんだろう!
不思議です。
トンビやカラスに見つからないのか・・・・?
心配にもなります。
 
葦原の向こうから、カイツブリの鳴き声も聞こえます。
此方は、子供も生まれて、水面で飛翔や食餌の特訓中です。
甲高い、馬鹿でかい鳴き声が遊水池に響きます。
 
 
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  (金井高校の生徒さんの通学は自転車で・・・・)
 
私の背後にで、「チリリン・チリリン」自転車が鳴りました。
金井高校の生徒さんの通学時間になりました。
住宅地から離れて、交通不便な場所に建っています。
大半の生徒さんが自転車通学です。
バードウォッチングに夢中な叔父さんへ、自転車からの合図でしょう。
 
川風を張らんで、女学生の髪が光ります。
短めなスカートの下に、力強くペダルを踏む脚が眩しく見えます。
遊水池の自然も、人間世界も、命に満ち満ちています。
だから、初夏は素敵です。
 
通学路の街路樹は「山法師」です。
学生さんと逆行して、社会人やOLさんが、住友電工の工場に足早に向ってゆきます。
私も、通学・通勤を半世紀続けてきました。
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          (左が住友電工工場、道路右が金井高校。山法師の街路樹が爽やかです)
 
オオヨシキリのように自分を主張したこともありました。
子育ても終えました。
「あと残された時間はどれだけあるか、解りませんが・・・・・何をしようかな?」
自問自答しながら・・・・・・。
バードウォッチングを続けます。
「自然観察」は奥が深いから・・・・・・、飽く事がありません。
 
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 (ヒメシオンに青筋揚羽蝶)
 
 
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座禅岩に咲いた「岩がらみ」(東慶寺にて)

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「花の寺・東慶寺」では、境内に咲く花が最も映える季節がやってきました。
数種類のアジサイや岩タバコ、そして菖蒲等が緑をバックに、一気に咲きます。
数ある花の中でも、最も緑に映えるのが「岩ガラミ」です。
 
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                                (東慶寺花菖蒲、6月7日3部咲き)
 
私が、小学生の頃(50年前)の東慶寺さんと言えば、老いた梅の木が並んでいて、境内の奥は野菜畑でした。
閑静で寂れたお寺でしたが、年々歳々手入れを加えて、花木を植えました。
里芋に代えて花菖蒲を植え、名実共に「花の寺」に相応しくなりました。
 
現住職夫人は生花やお茶に深い造詣がおありです。
夫人が中心になって、「花の寺プロジェクト」が進行したのでしょう。
夫人はブログ「まつがおか日記」を書かれています。http://tokeiji.exblog.jp/
花暦のようなブログです。
私達夫婦はこのブログを確認してから、「花の寺」を参詣します。
 
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  (岩タバコ、6月7日二分咲き、1週間後満開の予想)
 
本堂は四方流れの流麗な建物です。
岩がらみの「特別参観季節」(今年は6月1日~6月15日)に限って、本堂の周囲に回廊を設置します。
私達は、この特設回廊を巡って、「岩がらみ」を鑑賞します。
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       (岩がらみはこの1本、驚く生命力です)
 
本堂の裏山は「松が丘文庫」です。
同文庫には駆け込み寺の裁判記録など多くの蔵書が保存されています。
大きな岩がデンと座っていて、その上には竹林があって、文庫はその奥です。
 
巨岩に「岩がらみ」が張り付いています。
本堂の幅(5間)以上に大きな岩です。
でも、良く見れば岩がらみはたった一本です。
蔓性植物ですが、自身の重みも大変なものがあることでしょう。
茎から気根が生えていて、その根が岩に食い込み、重い体を支えているようです。
深緑の葉っぱが巨岩の表一面を覆っています。
そして、一見「額アジサイ」のような丸い花が咲いています。
 
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  (岩がらみ、ハートの形の葉っぱの影に岩タバコの花が覗いています)
 
白い花弁のように見えるのは、実は「額片」なのだそうです。
無数の花が、その白い額の真ん中に集まっています。
まるで、白い花の緞帳のようです。
 
私は夫人に尋ねてみます。
「見事な岩がらみですが、樹齢は何歳くらいになりますか?」
答えてくださいます。
「此処に植えられてもう30年になるでしょうか?」
「では、先代の井上禅定師のお手植えですか?」
「いや、当時、座禅会に参加された方が、岩がらみが良いですよ・・・・、と植えられたのですよ」
見れば、巨岩の北端に櫓があります。
櫓で座禅した事もあったかも知れません。
 
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    (一枚岩の陰に掘られた櫓)
 
私は達磨大師の故事を思い起こしました。
インドから中国に渡った達磨大師は禅を伝えます。
巨岩に岩場に向って只管座禅に努められます。
「面壁九年」、お蔭で、手足が弱って、達磨サンには手足が無くなってしまいました。
日本人はその姿を「面壁達磨図」、墨絵に描きました。
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  (巨岩に這った、岩がらみ。上部に松が丘文庫があります)
 
二祖慧可禅師は達磨大師に尋ねます。
「私は安心が得られません・・・・。私は苦しいのです、是非教えてください!」
自分の肘を切って差し出します。
すると、達磨大師は答えられます。
「肘ではなくて、貴方の心を差し出しなさい。そうすれば教えて差し上げます」
弟子は答えます。
「心を差し出そうと思いましたが・・・・それは形がないので差し出せません・・・」
優しく、達磨大師は諭されました。
「私は安心を指し示しましたよ・・・そなたの答えに安心はあるのです。」
    (原文は漢文、訳は筆者の作)
 
この話が禅問答の始まりでした。
ですから、座禅をするような方は必ずご存知の話です。
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(この状態で岩がらみは4分咲きだそうデス)
 
「何事にも動じない、まるで岩のような心『平常心』を得たい。」
誰でも望むことでしょう。
でも、心は常に揺り動いて、掴みどころがありません。
 
風も心と同じように、姿形がありません。
でも・・・岩がらみの葉っぱを、白い花を揺り動かして、風が渡ってゆきます。
私達は、花の揺れに気づいて、風が渡った事を知ります。
心も、悲しい事、辛い事、嬉しい事、揺り動く事によって、その存在が解ります。
 
昨晩、家内は幼稚園時代からの旧友の通夜に参列して、遅くに帰りました。
話に拠ると、故人の勉強部屋に通されて、しばし、お友達と歓談出来たそうです。
故人も、半世紀ぶりにお友達を迎えて、喜ばれた事でしょう。
会葬御礼の差出人はご本人でした。
大腸癌を患い、覚悟の死路の旅立ちだったのでしょう。
故人のメッセージを読みながら、思いました。
「人には目に見えないものが沢山ある」
目に見えないものに気付く人こそ、ハートがある人だ・・・・と。
 
 
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(本堂の前にはの石塔、四方に阿弥陀様等如来が彫られています)
 
ラジオで菅新総理の演説が流れています。
「自分はお遍路した、53札所まで、88札所まで満願したいが、中断する事にしよう・・・・」
まるで「お遍路」のPRをしているようです。
お遍路をしたければ一人で出かければよい、まして、53で途中でやめないで、88ヶ所巡りたければそうすれば良いだけのことです。
巡礼は「目に見えないもの」を求めて歩くもの、わざわざ人目につくそうにするところには、「嘘」を感じます。
些細な嘘でも混じれば、平常心は乱れてしまう事でしょう。
「苛菅/イラカン」は見たくありません。
(とは言っても、管内閣に期待せざるを得ないところが現実です)
 
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 (咲き始めた柏葉アジサイ。岩がらみも同じ「ユキノシタ科」の植物だそうです。)
 
追記
「岩がらみ」の見学時間は制限されています。午前11時~12時 午後1時~2時です。
 
 
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陶芸の楽しみ(田谷の陶業の里)

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此処数日の雨で、横浜の南、田谷の田圃でも田植えが始まりました。
水鏡に変じた水田を眺めると、「横浜もいいなあ!」とおもいます。
田圃の向こうは小雀の丘陵です。
その中には「公文国際学園」のキャンパスもあります。
田谷の洞窟もあの丘の麓です。
 
泰山木の花が咲いています。
遠目にも白い花が鮮やかです。
その裏に、「陶郷/すえのさと」と言う窯があります。
泰山木に誘われて、陶郷に建学です。
 
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     (枇杷の木の向こう、柴垣が陶郷の入り口です)
 
陶郷の作品には、私達は親しんでいます。
戸塚界隈で「九つ井」という名の田舎料理店があります。
「お袋の味」を売り物にする、懐かしいお料理です。
その器を此処「陶郷」で作っているのです。
 
もう少し南には魯山人の窯「星岡窯」がありました。
魯山人は天下の美食家、美味しく戴く為には器も大切・・・・
そんな意図で山崎の山を借りて窯を開き、若手の作家を集めたのでしょう。
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      (陶郷の展示場入り口、柿の木の下にモニュメントが・・・)
 
「九つ井」は料理店や工場給食をベースにして、器作りをして、更に「丘の上美術館」を運営しています。
一般に言えば企業のメセナ活動に入るのでしょうが、何処から何処までが本業で、その先が文化活動か判然としません。
「美味しいものを食べたい」「泥んこ遊びもしたい」それは人間の欲求でありましょう。
「泥を煉って器を作りたい」それは縄文時代から人間の遺伝子に刻まれています。
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    (作業場、数多くの轆轤があって、此処が陶芸教室にもなります)
 
田谷の丘陵の中腹に「陶郷」があります。
熟した枇杷の木の下を潜って、作業場に入ります。
正面の民家が展示場で、脇の民家にロクロや土をこねる作業台があります。
広い芝生の其処此処に様々な作品置かれています。
作者の意図通りに展示されているわけですから、作品が最も輝いて見えるのでしょう。
 
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  (自然光に作品が輝いて見えます)
 
「陶郷」の主人と思われる人が応対してくれました。
私も地域の人、直ぐに身元がばれてしまいました。
私の倅と同じ高校を卒業、大学に、そして窯業に志したそうです。
陶芸教室も主宰し、自由に作品を作らせているとのこと。
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(陶器と同じくガラス器も展示されています)
 
 
楽しみながら作陶していれば、窯出しした時の喜びは屹度大きなものがあることでしょう。
その喜びは素直に見る人に伝わって来ます。
昔ながらの「招き猫」も、「信楽狸」も現代人の意匠に依れば、斬新な作品になります。
「福が来たら良いな!」
「お客さんが沢山来て欲しいな!」
そう思いながら、土を捏ねると・・・・・・
出来た作品が民家の中に展示されていました。
 
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展示場から出ると、後ろの山に「朴葉」の大木が茂っていました。
あの器で「朴葉味噌」料理を戴いたら・・・・・、
思いながら帰宅しました。
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  (お庭のワンちゃん)
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                        (玄館の招き猫)
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     (招き猫+表札+蚊とり線香入れ)
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    (靴べらたて)
 
 
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「生き物が共に楽しむ」・・・・・三渓園の花菖蒲

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今年は春先から寒い日が続いたので、花菖蒲も開花が遅れているようです。
そう思って、先日東慶寺を参詣したら、思いの外花菖蒲が4分咲きでした。
少し慌てて、家内を誘って、本牧三渓園に出かけました。
私は最近になって、「三渓園の花菖蒲が関東第一」と確信しているのです。
 
泰山木が咲き出した正門を潜って園内に入ります。
すると、大池が眼前に広がります。
池の向こうの小山の上に、三渓園のシンボル三重塔が眺められます。
そして、池の周囲には見事に花菖蒲が咲いています。
 
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海風が吹き渡ってきます。
池面に漣が起って、光が眩しく散っています。
満開の花菖蒲が豊かな花弁を揺らしています。
花菖蒲の根元に眼をやれば、無数の亀ヶ甲羅干しを楽しんでいます。
 
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今から、10年ほど前までは三渓園の花菖蒲も大した事はありませんでした。
池の淵に細長い菖蒲畑を用意し、花をつけていました。
菖蒲は三渓園の点景でしかありませんでした。
その後、大池の周囲に菖蒲畑を広げました。
更に北側の池畔に、八橋(※)を設え、その南(池側)に花菖蒲を一面植えました。
八橋の北側は半化粧を植えました。
     ※伊勢物語の意匠をデザインした雁形した橋
 
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半化粧は直ぐに繁茂しましたが、花菖蒲は大人に成熟し、大輪の花をつけるには5年は要したでしょう。
庭師の思惑通り、花菖蒲は見事に成熟致しました。
 
明治神宮の花菖蒲も見事です。
モネの睡蓮を眺めるような詩的な雰囲気に満ちています。
堀切菖蒲園も、花単体は見事です。
でも、視線の先には高速道路が走っていて、花を楽しむ気分にはなりきれません。
 
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三渓園の展示館では「原三渓の書」が展時されていました。
原三渓は南画家として評価が定着していますが、書家としても一流だったようです。
その書の大半が仏教から引用されているようでした。
私は一枚の扁額を見詰めました。
三渓園の園内、いずれかの建物の室内に飾られていたのでしょう。
「群生和楽/ぐんしょうわらく」と書かれています。
 
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群生とは「あらゆる生き物」の意味でしょう。人も亀も池の鯉も・・・花菖蒲も・・・・・。
和楽とは、共にうちとけて楽しむ、の意味でしょう。
総ての生き物が相和して、この6月の良い季節を楽しむ・・・・。
 
三渓園には明治時代、廃仏毀釈で苦しんだ寺院から数多くの文化財を集め、園内に設置しました。
東大寺大仏殿の礎石や東慶寺の本堂等が並んでいます。
文化財のコレクションに、眉を顰める時もありました。
でも、こうして三渓園を一般公開して、私のような者も「群生和楽」の理想を眼前にする事が出来ます。
幸いな事です。
横浜市が譲渡を受け、名勝に指定され、年々手入れが行き届いて来ているように思います。
 
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「駆け込み寺」墓前の紅花

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駆け込み寺本堂を出て、裏山に向いました。
杉木立の奥に、この尼五山を創建し、法灯を守り続けた尼さんが眠っておいでです。
そのお墓参りも、私達夫婦の楽しみの一つです。
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(墓地の岩場に咲いた岩タバコ)
 
駆け込み寺の谷戸の西側に大きな岩場があります。
岩場には岩タバコが茂っています。
岩タバコを背に、阿弥陀如来(坐像)が迎えてくださいます。
阿弥陀様の目の先に数多くの卵塔が建っています。
卵を垂直立てたような形が、尼さんの墓標です。
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  (駆け込み寺 歴代庵主様の墓地)
 
墓標の列を追って行くと、小さな櫓に辿りつきます。
櫓の中には1基の五輪塔が建っています。
其処に、覚山尼様が眠っておいでです。
 
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北条時宗は向かい(山の内の北側)の円覚寺に眠っています。
時宗の妻覚山尼は、谷戸の南側に東慶寺を創建し1285年(弘安8)、此処で眠っています。
覚山尼は「妻が寺に駆け込んで3年間修行すれば離縁できる」という縁切り寺法を定めたといわれます。
以来「駆込寺」「縁切寺」として知られるようになりました。
大阪冬の陣で豊臣氏が滅亡します。
豊臣秀頼の娘天秀尼の扱いが問題になります。
千姫が祖父家康に働きかけます。
家康は「縁切り寺法」を認め、天秀尼を庵主として一生を過ごさせます。
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   (覚山尼に供花された紅花)
 
800年に及ぶ尼さんの歴史が延々と続きました。
鎌倉尼五山も、筆頭の東慶寺だけが存続できたのも、「縁切り寺法」が認められたからでしょう。
 
沢山の卵塔に一輪ずつ紅花が供えられていましす。
薄暗い墓地の中で、仏前の紅花だけが、ポツンと灯って居るようです。
そう、6月は紅花の咲く季節なのでしょう。
 
紅花といえば出羽の国が有名ですが、平安時代には安房の長南町で栽培されたそうです。
桓武天皇勅願寺「長福寿寺」の境内には広大な紅花畑があって、栽培されています。
屹度、今頃は満開で、参詣客が見とれている事でしょう。
 
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   (紅花、背景は阿弥陀様)
 
紅花はエジプト原産といわれ、日本にはシルクロードを経て4 - 5世紀ごろに渡来したといわれています。
藤の木古墳の彩色にも紅花が使われていた、報告を読んだ事がありました。
姿形も、棘がある事も、薊(あざみ)に良く似ています。
「命短し、恋せや乙女・・・・」
薊の歌も紅花のイメージを追っているのでは無いでしょうか?
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    (此方の供花はトルコ桔梗)
 
覚山尼も天秀尼も、紅をさしたことでしょう。
庵主様だからこそ、美しくなくてはなりません。
色香が無くては、魅力が失せていては人を導けないでしょう。
 
目の前に紅花をそえられて、覚山尼をはじめ先達の尼さん達は微笑んでいる事でしょう。
「あの世でも唇に紅をさせ・・・・そう申すのか・・・・!今更ながら・・・」      と。
 
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枇杷の実の「お裾分け」

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街に熟した枇杷が目立ってきました。
大半が採られずに、放置されています。
カラスやムクドリなどが美味しい、美味しい頂戴しているようです。
食べれば美味しいのに・・・・、勿体無い気がします。
 
私の実家にも枇杷の大樹がありました。
枇杷の木はお寺には必ずといっていいほどありました。
お釈迦様はこの枇杷の木を「大薬王樹」、そして枇杷の
葉を「無憂扇」と言われたそうです。
境内の東南の角に植えられていました。
屹度、病気になったら、お寺に行けばどうにかしてくれる・・・・そんな期待があったのでしょう。
 
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                           (英国領事館の家、庭の枇杷が伐採されていました)
 
私は木に登って、手でもぎります。
沢山の昆虫が集まって、実から出る汁を吸っています。
昆虫を狙って青大将も登っています。
何度も、枇杷の木で青大将に遭遇、ビックリしたものでした。
私が採った枇杷の実を家族で食べました。
 
桃栗三年、柿八年、「枇杷は9年でなりかねる」、と言います。
もう、5年も前に「種無し枇杷」が開発されましたが、実際に私達が口に出来るまでには、未だ数年は待たなければならないでしょう。
滋養のある木を育てるには長い年月を要するようです。
 
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  (横浜山の手の洋館、英国領事館の家。此方は北側、逆の位置に枇杷の木が植わっています)
 
家内と、薔薇を見に行こう、横浜山手に出かけました。
目的は、英国領事館であった洋館です。
その前庭には薔薇が植えられています。
行ってみると、芝生の庭に枇杷の枝が伐採されています。
どれもこれも、黄色い実が着いています。
植木職人が領事館の東南の角にある、枇杷の木を伐採したのでした。
訊ねると、こんなお返事でした。
「この枇杷は未だ酸っぱくて、カラスも食べませんよ!。でも、もう暫くすればカラスが集まってくるでしょう。そこで今のうちに伐採してしまうのですよ。食べられませんが、絵に描くには良いでしょう。」
と言って、一枝譲って呉れました。
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我が家から2分ほどの位置にY内科医院がありました。
ご主人が亡くなられ、ご子息は社会に出て、奥様がお一人でお住まいです。
その奥様から言われていました。
「カラスが群れる前に枇杷を収穫してくださいよ!」
そこで、町内一斉清掃が終えた12日午後、高枝バサミを持って収穫に出かけました。
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      (Y医院のお庭、奥に枇杷の木)
 
Y医院は赤ひげのような街医者でした。
九大医学部卒、腕は一級でした。
ある日、患者さんの完治祝いに、安房の枇杷をいただいたそうです。
余りに美味しかったので、奥様が種をまき、30年余り、二階の窓まで伸びる大樹になりました。
で・・・・今年は久々の豊作だったようです。
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私が高枝はさみでもぎ取り、奥様が受け取ります。
瞬く間にビニール袋は枇杷の実で一杯になります。
「では先生、私はこれだけ戴きます。先生に看取って貰った、祖母の仏前に供えます」
奥様は仰られます。
「では、残りはご近所にお裾分けいたしましょう・・・・・・」
私は、奥様のお友達の家に配って廻りました。
「Y医院のお庭の枇杷です。お裾分けです。」
 
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  (お裾分け、一家分)
 
八百屋で買った枇杷とは全く違います。
甘く、酸っぱく、香が濃厚です。
味が濃いのです。
ふと、思い出しました。
「和楽だなあ・・・・!」と
 
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  (仏前に供えた、我が家のお裾分け分)
 
 
 
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蛍袋は咲いたが、蛍は未だですか!

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今年は、未だ、未だ「蛍が飛び出した・・・・」連絡がありません。
昨年は6月6日、舞岡公園で蛍の観察会を実施しました。
今年は未だ連絡が無いので、電話してみましたが・・・・。未だとのこと。
そこで、円海山山裾の瀬上川に出てみましたが・・・・、此方も未だのようで・・・・。
掲示板に出る筈の「頭数報告」も未掲出でした。
もう、蛍袋は咲いているというのに・・・・・・。
 
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                      (瀬上川、毎年数百頭の蛍が飛び交います・・・今年は未だです)
 
昨夜のNHK大河ドラマ「龍馬伝」のサブタイトルは「蛍の愛」でした。
いつも気丈で古風な妻「富」が牢獄の夫「武市半平太」に蛍を贈ります。
半平太は、薄暗がりの牢屋の中空を飛ぶ蛍に涙します。
蛍に富を見たのでしょう。
 
日本人は古代から、魂は蛍となって、体から遊離して漂うと信じられていました。
和泉式部は貴舟神社に白夜参りをします。
貴船神社の御手洗川に飛ぶ蛍を見ます。
  物おもへば沢の蛍も我が身より あくがれいづる 魂たま かとぞみる
 
歌の意味は凡そ以下の通りでしょう。
貴方の事を思い詰めて、私は貴舟神社に百夜参りをしています。
沢に蛍が飛び交います。私の体から抜け出した魂のようです・・・・・。
こんな歌を寄せられたら、男は観念する事でしょう。
 
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                    (蛍の咲く頃に、蛍袋は花をつけます・・・・でも今年は)
 
蛍狩をしました。
でも、蛍を入れる篭もありません。
ふと見れば、ホタルブクロが咲いています。
その袋の中に、そっと蛍を入れて代える事にしましょう。
蛍は花の中で光り続けています。
まるで、岐阜提灯のようで・・・綺麗ですが、はかなくもあります。
 
蛍袋はそんな意味でネーミングされたのでしょう。
 
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(野生の蛍袋は白のほかに薄紫があります)
 
一昔前『火垂るの墓』(ほたるのはか)という悲しい話をテレビで見ました。
野坂昭如による私小説でした。
戦後の物資不足の中、妹は食べるものも無く、命を落とします。
兄は泣く泣く土饅頭を掘って、妹を埋めます。
墓の周りを蛍が飛び交います。
妹は死んでも、魂は蛍になって遊離しました。
 
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昔から、蛍の飛び交う様を「源平蛍合戦」と表しました。
 
源氏蛍は大型で渓流に現れます。
源氏蛍が追えた頃、田圃に小さな蛍が現れます。
平家蛍です。
二種の蛍が同時に飛び交う事はありませんが、蛍を見ると日本人はこう思いました。
「未だ、源氏の武将、平家の公達の魂は合戦をいしている」と、
侘しいものの、美しいものだ・・・・無常を詠嘆します。
 
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源氏の蛍も、平家の蛍も、一緒に蛍袋に入れてあげれば、魂は合戦をやめて浄土に落ち着く事が出来るかもしれません。
 
今日6月14日、夜来の雨です。
いよいよ梅雨入りだそうです。
梅雨入りすれば、蛍も羽化するかもしれません。
今週末には舞岡公園も、瀬上川も、今泉不動尊も、蛍が見られることでしょう。
 
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(蛍袋は桔梗の仲間です。桔梗は上向きに咲いて、蛍袋は下向きに咲きます)
 
 
 
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いじらしい「山ぢさ」の花

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14日、夜半の雨、遅れていた梅雨入りです。
私は、朝からソワソワしてしまいます。
鎌倉半増坊道に「山ぢさ」の花を見に行くのです。
 
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    (梅雨いりした建長寺仏殿)
 
梅雨入りのころ鎌倉には「岩たばこ」が咲きます。
葉っぱが大きくて「タバコの葉」に似ていること、そして岩場を好んで咲くので「岩タバコ」の名が付いているのでしょう。
でも、万葉人はタバコなど知りませんでした。
それで、何とこの花を呼んでいたのか・・・・?
柿本人麻呂の一首から、「山ぢさ」の名ではないか・・・思われています。
 
      山ぢさの 白露しげみ うらぶるる 
                心も深く わが恋止まず
 
歌の意味は凡そ以下の通りでしょう。
「山ぢさ」の花は白露の重さに首をうな垂れています。
私の心も山ぢさの花のように深く沈んでいます。
何故って? 私の貴方への恋心は止む時が無いのですから・・・・。
 
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                          (半増坊道、鎌倉石の石垣に自生している山ぢさの花)
 
「山ぢさ」をエゴの木、と言う説もあるようです。
でも、金平糖のような可愛い花の姿、降り続ける梅雨に濡れて、花の頭を垂れている姿を見れば、写真の花が最適です。
私は、この一首のイメージが大好きです。
そこで、梅雨を待って、山ぢさの花を見に半増坊道に出かけるのです。
 
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    (石垣の上には青楓が繁っています。紅葉も見事です)
 
建長寺に入りました。
鎌倉学園の野球部の生徒がグランドから戻ってきます。
グランドは半増坊の下なのです。
朝練習が終って、これから授業が始まるのでしょう。
もう、夏の甲子園に向けて、県大会が始まります。
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         (お地蔵様の背は山ぢさの花が)
 
生徒に逆行して、本堂の横を通って、正統院の前に出ます。
その石垣に山ぢさが自生しているのです。
艶のある大きな葉っぱから、花茎が伸びます。
茎の先に紅紫色の花がつきます。
花弁は5枚、でも花弁が筒型ですので、星のように見えます。
石垣の上は山楓が葉を繁らせています。
梅雨が葉を伝い、茎を伝い、花の先端に溜まります。
百露が光ります。
 
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 (石垣の下、路上には落花が並んでいます)
 
百露の重みに耐えかねた花が散ります。
落花が路上に溜まっています。
高い石垣の下には落花が一列に並んでいます。
「山ぢさ」の花が「いじらしく」「可愛く」思えます。
 
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石垣に沿って半増坊道を登ると、翌檜(あすなろ)の林があります。
林を抜けると正統院です。
林の中に「乳児を抱いた女性像」があります。
女性像の向こうに「人雷戦死の碑」が見えます。
人雷とは特攻兵士のこと、
正統院住職であった竹谷行康氏は辛うじて戦地から生還したそうです。
戦友と力を合わせて同院裏山の洞窟に「神雷隊戦士の碑」を建立しました。
829名の戦没者の名が刻まれています。
昭和40年の除幕式には、従軍記者であった作家の川端康成氏や山岡荘八氏も参列したそうです。
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                         (特攻戦没者の妻子の像)
山ぢさを愛でる事も平和だから・・・・。
高校野球に熱中できるのも平和の賜物です。
翌檜の林の向こうでは安らかに英霊も眠っていられる事でしょう。
どれもこれも、郷土が平和だから・・・・・。
 
同じ涙も恋で落としたいもの、戦争では二度と流さないようにしたいものです。イメージ 8
 
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生活道路の「立ち葵」の花

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鎌倉駅の北、今小路踏切を渡ろうとして、ビックリしました。
線路沿いが明るいのです。
驚いて見詰めました。
朱、ピンク、白、紫、様々な花が咲き誇っています。
そう、背の丈以上に伸びた立ち葵が、妍を競うように、一斉に咲いています。
 
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立ち葵は茎の下の方から咲き出します。
順次に花は上方に向います。
青空に向けて、花は次々に咲き続けます。
私は、この花を見ると八木重吉の得意なフレーズ「煌々と昇ってみないか!」を思い起こします。
凛とした姿、天空を目指す姿が眩しく見えるからです。
 
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八木重吉は立ち葵の花を見なかったのでしょうか?
もしも、この花を見ていたら、こんな風に詠んだかもしれません。
 
  それが、真っ青に澄み渡った日ならば
  そして君の心が 悲しみにうずく日ならば
  君は立ち葵の花のように 誰よりも もっと高く、高く
  煌々と青空に向けて、昇ってゆきたいと思わないか
                            (戯作)
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線路沿いの細道の奥は雪ノ下の住宅地です。
お屋敷の主婦が、買い物袋を携えて、日傘をさして、通り過ぎます。
立ち葵の花が、お見送りして、またお出迎えします。
主婦は立ち葵の花を嬉しそうに眺めます。
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鎌倉駅で停車していた電車がゆっくり動き出します。
立ち葵の幹が大きく揺れます。
電車の乗客も、車窓からこの見事な花を眺めている事でしょう。
電車が通り過ぎてしまうと、立ち葵は何事も無かったように、また青空に向けて背伸びしているようです。
 
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線路沿いに200メートルは咲いているでしょう。
「誰が丹精したのかな?」
思いながら、入ったり来たりします。
一軒の古びた小さな家があります。
その猫の額ほどのお庭に、立ち葵が咲いています。
屹度、この家の方が庭の立ち葵を株分けして、線路沿いに植えたのでしょう・・・・。
容易に想像できました。
 
通りがかりのお婆さんに訊ねてみました。
「見事な立ち葵ですが、何方の丹精だかご存知ありますか?」
「其処の家のお婆さんですよ。私が鎌倉に引越ししたのは18年前、その頃にはもう立ち葵が咲いていました」
私は、板葺きのお宅を改めて見詰めます。
板塀にはビッシリ蔦が絡まっています。
植物がお好きなのでしょう。
 
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  (立ち葵を丹精しているお婆さんのお家)
 
「立ち葵」は善光寺の家紋です。
でも、葉っぱがデザインされていて、肝腎の花ではありません。
 
京都の葵祭では御車に葵の葉っぱを飾ります。
此方も目立つ花ではありません。
 
ご存知徳川家の三つ葵の家紋も葉っぱです。
立ち葵の花がこんなに見事なのに、あえて家紋は葉っぱばかりです。
不思議にも思えますが、理由は簡単です。
花が見事なのは、葉っぱが立派だから。
粗末な葉っぱからは、貧素な花しか咲きません。
ですから、葉脈がくっきりとした葉っぱがデザインされているのでしょう。
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                            善光寺の家紋「立ち葵」
 
件の丹精されているお婆さんも、花が咲き出せば、もう用は無い。
咲き始めるまで、葉っぱを育てるのが最も大切な時期なのでしょう。
 
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この線路道の東側は、小町通です。
観光客がごった返ししている、賑わいの商店街です。
主婦は小町通に用はありません。
お買い物は、もう少し先、駅前まで歩かなければなりません。
お買い物カートを引きずってゆく姿は、お気の毒な気もします。
 
でも、立ち葵を育てて、花を愛でて、季節を楽しんで・・・、
鎌倉はヤッパリ良いなあ・・・・・
思うのです。
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