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軽井沢の山野草に寄せた”親子の思い”

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私の友人の話です。お父様が植物学者で、軽井沢に別荘をお持ちでした。
その庭に山野草を愛しんで育てておいででした。
晩年は多くの時間を軽井沢の自然の中に身を置いて過されたそうです。
そして、友人に「ソロソロ、別荘をお前達の好きなように建て替えたらよい!」話されていたそうです。
 
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     友人の別荘のある南軽井沢、三井の森のお隣です。田圃は耕作を止めたので茅の原に戻ろう     としています。今頃は蛍が乱舞している事でしょう。
 
お父様も亡くなられ、友人も定年退職しました。
お孫さんやら家族が増えました。建物を新築する事にしました。
出来るだけ山野草の庭をそのまま残したい、考えました。
傾斜地の地形に沿って玄関が2階で、上下3階建ての建物にしました。
計画通りお庭は壊されず、山野草を見ながら回遊できるデザインはお父様の時代と変わりません。
庭の南外れに渓流が流れています。
渓流には野鳥も集まります。珍しい蝶が梢の先を飛んでいます。
屹度卵をあの葉の裏に産みつけるのでしょう。
今年初めて蝉の声を聞きました。望遠レンズで覗くと「ヒメハルゼミ」のようです。
蝉とアマガエルとが競って鳴いています。
皆、恋の季節なのでしょう。
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     姫春蝉がしきりに鳴いていました。
     頭上から響いてくるので「蝉時雨」と言うのだな・・・、実感しました。
 
友人は墨絵や鎌倉彫など多趣味な人です。
これからは大半の時間を軽井沢に籠もって製作と自然鑑賞に過すそうです。
お父様の愛しまれた山野草を大事にしながら。
でも、素人の友人はどれが貴重な花なのか、どれが単なる雑草なのか、全く解りません。
暫く、植物達と付き合ってみなければ、判断が付きません。
お父様の使われた図鑑には「花」は載っていても、芽や葉っぱは殆ど出ていませんから。
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   別荘の窓から外を見る。庭は自然のまま、細道を開いて「山野草回遊庭園」にしています。
   生花は庭の瑠璃草の花。
 
ですから、当面は生えてくる草は総て貴重な山野草と思って、面倒を見ざるを得ません。
私に「君は自分よりは植物に詳しいだろうから、一緒に見て欲しい・・・。」
と言われても、軽井沢の山野草は私とて素人です。
でも、興味は大いにあります。最近ようやく植物の美しさに気づくようになりました。
山野草鑑賞には年齢と観察の積み重ねが必要なようです。
 
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                                草薮に埋もれてしまいそうな瑠璃草
 
この時期の軽井沢は春の花が終わって、夏の花が準備をしている、端境期です。
茂みのおくには「瑠璃草」が懸命に咲いていますが、他の草の中に埋もれてしまいそうです。
他の草丈がもう一段伸びる頃には枯れてしまう事でしょう。
名前の通りの瑠璃色です。
別荘の窓から樹木を見詰めていれば、大瑠璃(全身瑠璃色のフィンチ)や赤ゲラを観察出来そうです。
 
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       二人静は今が盛りでした。
 
二人静は今が盛りです。
大葉のような葉っぱの上に二本の花軸が伸びて、その周囲に白い小花が無数に咲いています。
白拍子が二人で舞っているようなので、この名があるのでしょう。
でも、見れば花軸が三本のものも、5本のものまであります。
ならば三人静、五人静、と呼ぶのかもしれません。
それだけ、この環境が二人静には適しているのでしょう。
一人静はもう花が終わって実をつけようとしていました。
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               此方は「三人静?」「5人静?」
 
今、最も目立つのは「九輪草」です。
庭には朱もあれば、白も、ピンクもあります。
綺麗なので山野草と言うより「花壇の花」の印象です。
形は桜草と酷似しています。でも桜草より背丈が高く、一本の茎がスッと伸びています。
そしてその茎の周囲に小花が輪の様になって咲いています。
その形が五重塔の上層屋根上に聳え立っている相輪を思わすのでこの名があるのでしょう。
 
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                 庭には渓流が流れています。その岸辺に咲いた朱色の九輪草
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                此方は白い九輪草
 
庭の端、崖には沢山の百合が蕾をつけています。
友人は「山百合だろう」言っていますが、どうも山百合よりは背丈も低いし、体が華奢なようです。
私は「笹百合」「姫百合」の種ではないかと期待します。
 
百合の傍らで咲いているものがいます。
一見すると「浦島草」「マムシ草」の仲間です。
茎がスックト伸びてその先に仏炎苞を開いています。
でも、明らかに違います。総じて緑色で花の先端だけが紫色をしています。
友人に聞けば「軽井沢テンナンショウ」だそうです。
テンナンショウとは聞きなれないし、覚えにくいのです。
確認すれば「天南星」と書くのだそうです。
なんだ「南十字星」のような名前だな・・・、思いますが、漢方に由来する名前のようです。
 
昨日木喰上人が14歳で出奔して22歳で出家するまで薬屋に奉公した・・・、書きました。
薬の行商の合間に薬草の採取をしていました。
天南星は痰を取り除き、体に溜まった水毒から来る痛みを鎮める働きがあるそうです。
そう思って見詰めると「蒟蒻芋」にも似ています。
改めて仏炎苞の筒部を見ました。淡緑色で白と暗紫色の縦縞模様が入っています。
江戸模様のようでとてもお洒落な感じがします。
舷部の色は暗紫色で著しく長く水平に伸びています。
素適な仏炎苞です。
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            軽井沢テンナンショウ。中々粋でお洒落な花です
 
7月になれば、夏の山野草が咲きだすことでしょう。
友人は、お父様と同じように、この別荘で山野草と一緒に過す事でしょう。
 
友人の肩越しにはお父様も山野草を見詰めておいででしょう。
「そう、この花は健気だから、美しいだろう・・・・、お前もそれが解る歳になったのか・・・」
そんな声を聞いている事でしょう。
 
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                    山吹草の花、名前の通りの花で覚えやすい
 
   ※ 撮影は23年6月13日でした
 
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薩埵峠、麓の宿場の静けさ(寺尾・東倉澤)

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私は由比の町を、新幹線で、東名高速道路で何度も通りました。
山が海にせりだしてきて僅かな空間しかありません。
其処に道路(東名・国道1号線)線路(新幹線・東海道線)が並んで通っています。
何故か惹かれる町なのですが、一度も行った事がありませんでした。
 
元禄12(1699)東海沖で地震が発生、由比一帯には大津波が襲います。
この海岸の町は大被害を生じます。
由比の宿場は未だしも、山際にあった寺尾・東倉澤は壊滅してしまいます。
そこで、宿場は山よりの高台に移ります。
 
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   左上に旅人の姿があります。薩多峠でしょう。その東麓に寺尾・東倉沢の集落がありました。
 
広重の東海道53次の浮世絵があります。
由比から見た富士山が描かれています。岩場が海にせりだした険しい光景です。
良く見れば左上に旅人の姿が見えます。薩埵峠でしょう。
その峠の麓にある宿場が寺尾・東倉澤です。
と言っても由比宿の一部です。
東海道16番目の宿由比を過ぎて、興津まで頑張ろうとした旅人が、
薩埵峠越えを断念して泊まった宿が寺尾・東倉沢だったのでしょう。
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     東倉澤集落、藤屋と言う茶屋があります。その先から峠道に登りはじめます。
     茶屋には幕末山岡鉄舟の故事が残されています。
 
そしてこの宿場集落が高台にあって、鉄道や国道から離れていたので開発がされずに残りました。
お陰で、美しくも懐かしい町並みが残されているのです。
寺尾村は寛政年間(1789~1801)の家数50戸203人だそうです。
一見した所現在も同戸数ながら住人は少ないかもしれません。
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   典型的な2階建て、厨子型の商家建築。左の赤い幟は「桜海老屋」さん。 
 
平地はありま階建てせん。でも豊かな海がありました。
特に此処は特産の桜海老が取れます。
海岸には桜海老が茹でて干されて朱色に染まってしまいます。
更に山には蜜柑や枇杷が栽培されています。
強い日差しと海風が甘い果実をもたらすのでしょう。
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      完熟した枇杷はとても甘く、香しかったです。軒先での無人販売が目立ちます。
 
未だ、朝9時前です。重要文化財の小池家住宅(本陣)は開かれていません。
ボランティアガイドの叔父さんが暇そうにしながら、開館時間を待っているようです。
人影が無かったのですが、行商のトラックがやってきて駐車場に入りました。
お婆さんが買出しです。
乳母車を杖の代わりにして出てこられました。
トラックの荷台に並んだ日常品から欲しいものを指差されています。
私は何故か仏花が目に付いてしまいます。
 
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      寺尾の小池邸(重文)腰掛けているのはボランティアガイドさん。
      その向かいの駐車場に止めて散策します。 
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          町内掲示板と時計台が一緒で、良いデザインです。
 
寺尾・東倉沢は町並みは昔のままですが、住人は過疎、高齢化が進んでしまいました。
 
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   地域住人の貴重な行商売店
 
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  右端は行商トラックで買出しから帰宅するおばあさん。心配げにお婆さんを見送る行商トラックの叔父  さんがいます。  これからお爺さんとの朝食の準備でしょう。朝でも時間が止まっている空間です。  でも、優しさがあります。
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                   美しい格子の民家。玄関先で枇杷と甘夏蜜柑を販売しています。
 
 
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恋人の羅漢像(興津清見寺にて)

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由比宿(東海道16番目の宿)の西端にある集落「寺尾・東倉澤」を越えると、薩埵峠に至ります。
峠を越えると興津宿(17番目の宿)になります。
興津には古代からの名刹、清見寺があります。
少年期、今川の人質として取られた徳川家康が過した寺です。
本堂の裏手、庭に面した3畳間がその部屋でした。
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   清見寺の四脚門、山門との間に東海道線が走っています
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  清見寺、中央が本堂、右手が庫裏、本堂左手の裏山に 500羅漢像が祀られています
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                                    家康の部屋(3畳)の前から庭園を望む
 
島崎藤村は明治5年木曾街道「馬籠宿」の名主の四男に生まれました。
9歳の時に(明治14年)に上京します。
そして新しい時代の教育を受けます。
しかし、故郷では生家は没落し、明治19年には父が牢死します。
 
父は藤村に最も強い影響を及ぼした人物で、「夜明け前の主人公・青山半蔵」として描かれています。
近親相姦など生々しい人生を終えたわけで、藤村はその血に怯えていたと思われます。
共立学校(現開成高校)在学時、洗礼を受けます。
キリスト教に魂の救済を求めたのでしょう。
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                藤村の教え子で、恋人の「佐藤輔子」、許婚と結婚、24歳の若さで無くなる
 
藤村文学の主人公は常に藤村自身です。
「私小説」と評される所以です。
第一作「破戒」の丑松も、第4作「桜の実の熟する時」の捨吉も藤村自身です。
 
捨吉は明治学院大学の寄宿舎に住まいながら通学します。
そこで教会に通います。
教会には年長の才女「繁子」がいました。
大学の先生や生徒等の群像がいます。
彼等と教会で過す事が多くなります。
そこで、彼等と同じように、洗礼も受けます。
 
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                        江戸時代中期(天明年間)の作と言われる500羅漢像
 
青年捨吉は欧米文化を憧れ、染まりながらも、自分自身とのズレを意識しています。
その意識が深まるにつれて、憂愁に満ちた日々を送ります。
 
繁子との交際にも破れます。
勝子との恋愛にも挫折してしまいます。
彼女達も自分自身も幸福になれません。
 
大学の卒業に際して、捨吉はキリスト教を棄教します。
「捨吉」の名自体が棄教を思わせるものでした。
そして旅立ちます。
 
「破戒」では同和問題に挑んだように、
「桜の実の熟する時」では西洋文明では解決できない問題が見え隠れします。
それは「血」とか「家」と言った言葉で表されます。
 
『神は何故に斯く不思議な世界を造ったろう。何故にあるものを美しくし、あるものを殊更醜くしたろう・・・中略・・・・・。何故に平和な神の教会にまで果しなき暗闘を賦与し、富める長老と貧しい執事とを争わすのだろう。』
そんな想いが・・・捨吉を旅立たせたのでした。
 
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棄教した捨吉は清見寺の500羅漢を見詰めます。
「桜の実の熟する時」の最後の場面です。
様々な羅漢の表情に知人・友人の面影を見つけます。
そして、繁子や勝子らの表情を探します。
この羅漢は繁子のようだ・・・・その向こうの羅漢は勝子だ・・・・、羅漢像を見て周ります。
 
しかし、(文章にこそ書かれていませんが)捨吉は自分自身の羅漢像を探していたと思われます。
自分自身の顔や姿を探しながら・・・・・、
未だ探し得ないで・・・・・、次作「家」に歩を進めてゆきます。
 
藤村の掲げたテーマは今も明治時代も変わりません。
日本文化の明治以降150年、抱え込んだままであります。
 
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             自らの仏性を現したような羅漢像、僚友北村透谷のイメージ?     
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             母の面影を宿した羅漢像
 
藤村は晩年を大磯で過します。
大磯と言っても伊藤博文や吉田茂等の邸宅地ではなく、大磯駅に近い小さな平屋です。
文豪藤村の住まいとしては如何にも質素です。
 
住まいから20分ほど北に歩いた地福寺にお墓があります。
本堂の前庭は梅園になっていて、梅の木の根元に墓があります。
正方形の区画で、石の角柱に「島崎藤村の墓」とだけ刻まれています。
戒名はありませんし、勿論キリスト教の名もありません。
隣の区画が奥様静子さんの墓です。
 
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  大磯「地福寺」の藤村(右)妻・静子の墓(右)、角柱に書かれた「島崎藤村の墓」の書は有島生馬。
 
 
藤村の詩人としてのスタートが「若菜集」でした。
『初恋』初め数編の作品は、日本のロマン主義の草分けになりました。
 
そして、第4作が「落梅集」でした。
「千曲川旅情の歌」「椰子の実」など「国民的な歌謡」が納められています。
お墓のデザインはこの落梅集から得たものでしょう。
 
死んだ途端に仏教やキリスト教徒になる訳でもない、
如何にも生真面目で、清潔な、島崎藤村らしいお墓です。
 
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                                 最も、藤村を思わせる500羅漢像
 
 
 
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日本一ハードな石段(久遠寺)

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日本の仏教にはどれ位の宗派・教団があるのか知りませんが、主要なものでも30はあるでしょう。
本山となると、その数倍はあります。
私は、全国各地の本山は登りましたが、唯一身延山久遠寺を詣でたことはありませんでした。
毎年、桜の季節になると「詣でたいものだ・・・」思うのでしたが、ついつい出そびれてしまいました。
先日、赤沢宿と併せて、出掛けました。
 
国道52号線、身延道を東に折れると久遠寺の門前町が続きます。
流石に日蓮宗の本山であり、日蓮上人の聖地であります。
山門前の駐車場に止まります。
本堂前にも駐車が可能なのでしょうが、山門から登るのがお寺参りの礼儀です。
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          久遠寺全景案内図
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              久遠寺山門、一直線(そりの無い)な屋根が印象的です。 
 
久遠寺山門は流石に壮大です。
案内書には日本三大山門の一つに数えられるのだそうです。
余り聞きなれない三大山門です。
奈良の代表は東大寺南大門、京都の代表は南禅寺山門、此処までは異論を唱える人は少ないでしょう。
で、三番目は東京代表の増上寺山門でしょうか?それとも鎌倉の光明寺でしょうか?
色々な意見はあるでしょう。
 
でも、山門下から見上げてみると、三番目は久遠寺山門で間違いない、大きさと美しさがある、確信します。
明治8年、失火により全伽藍が焼失したと記録されていますので、
この山門も100歳程度の建物なのでしょう。
大本山久遠寺に相応しい、壮大な山門です。
屋根に反りが無く、一直線な所などは日蓮上人の面影に合っています。
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  山門を潜ると亀甲模様の石畳、これが歩き難い。石の真ん中を拾って歩を運びます
 
山門を潜ると、石畳が続きます。左右は杉林です。
ゴツゴツした石の上は歩きにくいものです。
亀の甲羅の上を伝い歩くような気がします。
甲羅の真ん中に足を置かないと、安定しません。
この石は富士川の川原石を割って、敷いたものなのでしょう。
お寺の建立は地産地消が原則です。
材木はお寺の山から、石もお寺の近くから採石しました。
明治以降の日蓮宗の信者の総力を挙げて大伽藍の復興に注いだのでしょう。
なにしろ、稀有な宗教人「日蓮上人」の聖地なのですから。
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                        これが今日の話題「菩提梯」と言う名のハードな石段
 
杉の梢の向こうに高い高い石段が透けて見え始めます。
其処が「菩提梯」、本堂に登る石段なのです。
石段の高いのは全国各地で経験しました。
金比羅山の石段も長かったのですが、右に左に折れていましたし、左右に御茶屋がありました。
でも、久遠寺の石段は真直ぐに登っていて、その上石の角が尖っていて、
一段一段の「きざはし」が高いのです。
これは体に応えそうです。
 
石段の前に男坂、女坂、二本の坂道があります。
「お前は無理そうだから、体力と相談して、坂道を来れば良い・・・・」そんな指示のようです。
家内と相談して・・・・、せめて行きは正面を登ろう・・・・、お寺参りの礼儀だし、
人が作った石段なのだから・・・・、その苦労を感謝しながら登らなければ、申し訳ないような気がしましす。
 
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                            ステンレスの手摺を頼りに、マイペースで登る愚妻です 
石段は287段もあって、6箇所踊り場がありました。
7合目が本堂前庭になっていました。
7ブロックの石段が「南無妙法蓮華経」7字の名号に相当するのだそうです。
ですから、下から一段一段登る事は、名号を一字一字登って、悟りに辿るようなものなのでしょう。
だから「菩提(知恵・悟り)」梯の名があるのでしょう。
 
相当に急な石段です。下を見れば眩む想いがします。
足が上がらないので、石の角で蹴躓きそうな懸念がします。
こけたら落命しそうな危険を感じます。
 
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     石の階の隙間から顔を出すトカゲ、私は特に驚きませんが、
     蛇や蜥蜴に驚いて転落する人が出たら大変です。 
 
身延道の基点駿河には石段が目立ちます。
久能山にも秋葉山にも石段が続いています。
石段の石の下には崩れないよう数倍の石が積まれています。
基礎を固めて、最後に表面の四角い石を載せます。
石がグラグラしない様、基礎固めに汗水が注ぎ込まれているのです。
 
この石積みの技術は比叡山延暦寺や滋賀坂本の日吉大社を築いた「穴太衆(あのうしゅう)」が伝えたものでした。
穴太衆は安土城を始め全国各地の城郭建築にその技術を駆使します。
さらに城郭注文がなくなると、寺社建築に活躍します。
駿河の国に、甲斐の国に技術を伝えたのでしょう。
武田信玄の言葉 「人は城人は石垣人は堀 情は味方仇は敵なり」を思い出します。
 
平成33年は日蓮上人生誕800年になるのだそうです。
古来、多くの人がご恩を奉じて身延山久遠寺を登って来ました。
この無名の石工達が作った石段を登って、
日蓮上人の遺骨が祀られている本堂に額ずき、感謝してきたのでした。
 
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                                287段を登りきる頃、五重塔が見えてきます。
 
日蓮は鎌倉幕府に三度に亘り諫言(かんげん)します。
終いに幕府は怒って、佐渡に配流します。
日蓮が許されると、地頭、南部実長は身延山に招きます。
1274(文永11)日蓮はこの地で弟子達を教導し始めます。
忽ち、沢山の教徒が集まります。
1281(弘安4)に自ら久遠寺を建立します。
1282(弘安5)年9月8日、日蓮聖人は両親の墓参のため山を下り、常陸の国に向かいました。
途上の武蔵の国池上で弟子を集め教導に励みます。
しかし、その最中亡くなってしまいます(61)
そして、「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」の遺言をします。
まるで、池上本門寺、身延山久遠寺二つの本山が争う事を予測していたのかもしれません。
 
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    久遠寺の本堂。山門と同じ建築意匠です。屋根が、垂木が一直線な所が特長です。
 
身延山久遠寺の石段は如何にも日蓮上人の聖地に相応しいハードな、譲る所が無い石段です。
ただ只管(ひたすら)登るしかありません。
石段の踊り場で腰をかけていた叔父さんがぼやいていました。
「60歳を越えたらこの石段は無理だよ・・・・!」と。
そう言えば、日蓮上人も60歳を越えてはこの石段を上り下りしませんでした。
 
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      本堂内陣、天井の龍は加山又造画伯の作、これも日本一の龍ではないでしょうか!
 
 
 
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キリスト教殉教者の肖像?

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秀吉の時代にキリスト教の禁教策がとられました。
家康が政権を取ると、スペインとの交易を進めます。
全国各地にセミナリオが建築され、70万人前後の信者がいたとされます。
ところが、2代秀忠の時代、オランダ人三浦按針の進言なども在って、禁教令が2度に亘り発布されます。
更に3代家光の時代になると弾圧の姿勢が明確になります。
元和9(1623)鎌倉小袋谷村近辺にあったキリシタン伝道所において、ヒラリオ孫左衛門夫妻(伝道所の責任者)、フランシスコ・ガルベス神父(フランシスコ会)、それに看彷ジョアン長左衛門、ペトロ喜三郎の5人が捕らえられます。
札ノ辻の刑場において51人の柱と共に処刑されてしまいます。
相模の国でキリスト教殉教者が出たのは鎌倉だけでした。
家康が支援して、家光が弾圧して・・・・・、激変した事が多くの悲劇を生みました。
何故、理知的な家光が弾圧したのか?
その疑問は大事だと思いますが・・・・別の機会に説明することにしましょう。
今日は、鎌倉のキリシタン文化財を説明したいのですから。
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   光照寺山門に掲げられている「クルス紋」、此れは大分竹田の岡城の藩主中川家の家紋。
   これがクルス紋なら薩摩島津家はクルスとなる。
 
小袋谷村に近い光照寺(時宗)は隠れキリシタンを庇護していた・・・・良く言われています。
山門にクルスが飾られている事から、また寺に教会で使われる燭台が残されていますので、そのように言われるのでしょう。
光照寺は宗教人でありますから、キリシタンを密告すれば処刑されるのは目に見えています。
信仰の内容に拠らず命は守らなければなりません。
そこで、寺は宗門改めに際して、総ての人に「檀徒である」証文を書いてあげていたのでしょう。
時宗には誰でも受け入れる豊かな包容力がありました。
山門のクルスはキリスト教の証ではなく、
中川氏(竹田の岡城)の家紋であり、その江戸屋敷の門が移設されたまでのことです。
 
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          藤沢遊行寺放生池のキリシタン灯篭。でも作られた年代などが不明です。
 
時宗の本山遊行寺にはキリシタン灯篭があります。
キリシタン灯篭は、キリシタン信仰上の石造物で、
禁教下には密かに祈りを捧げるための仮託礼拝物でありました。
良く似た意匠の灯篭に織部灯篭があります。
こちらは古田織部に好まれた茶庭や数寄屋造りの庭園に飾られた石灯籠です。
光を灯す灯篭ですから、十字架を立てたような形になるのは仕方ありません。
十字の形は灯篭のデザインの問題であって、一般に信仰の証ではありません。
でも、遊行寺の灯篭は見事なキリシタン灯篭です。
でも、何時頃建てられたのか、歴史がわかりません。
文化財と評する事はできません。
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         東慶寺蒔絵の中から、下右がイエズス会マーク入りの蒔絵
 
光照寺に近い東慶寺(駆け込み寺)には見事な聖餅箱が残されています(重要文化財)
聖餅箱とは教会でパンやぶどう酒(小瓶)を入れてある小さな箱です。
信者は聖餅箱に入れられたパンやワインを戴いて、キリストの苦痛を想います。
多分「曲げ輪技術」、そして素材の「漆器技術」を使って作られたのでしょう。
何れも日本の伝統技術です。
更に、伝統的な葡萄唐草模様、そして蓋の真ん中にイエズス会のマークが描かれています。
どんな経緯で東慶寺に残されたのか解りません。
ですから想像するのですが・・・大きなロマンです。
 
大阪冬の陣で豊臣家は滅亡します。
豊臣秀頼は娘「奈阿姫」を正妻「千姫」に託して亡くなります。
千姫は奈阿姫を養女にします。
その上で祖父家康に談判して、奈阿姫の命を守ります。
東慶寺の入山させること(天秀尼)、その寺「東慶寺」に縁切り寺法を認めさせる事を確認します。
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東慶寺の聖餅箱私はその時の奈阿姫(天秀尼)の事物であったと想像します。
聖餅箱は本来女性の持物ではなく教会の主催者(男性に限定)の持物です。
家康の時代、キリスト教には寛容でした。
ですから、イエズス会が日本で作った聖餅箱を奈阿姫(又は千姫)にプレゼントしたのではないでしょうか。
「大切な物をしまってください・・・・」
以来、400年、松ヶ丘文庫の蔵の中に納まっていたものと思われます。
 
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                  6所神社、殉教者の肖像?と想像する石像。紅花がお似合いです。
 
鎌倉材木座に六所神社があります。
多分その名の通り、材木座にあった神社6社が合祀されて出来た神社と思われます。
その境内には様々な石仏や板碑が置かれています。
ある時、私が見詰めていると、神主さんが出てきて指差しました。
「面白いでしょう!此れは隠れキリシタンの像だと思いますよ・・・」
子供の像です、それも20cmほどの小像です。
私は直感的に子安地蔵尊の子供像だと思っていました。
地蔵様の足元に居て、地蔵尊の裾を握っている子供の像です。
その時はさして関心は持ちませんでした。
でも、矢張り気になります。
 
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         正面から見る、左前の着物、天を仰ぎ見ているのは、
                            救済を求めてか?拷問の苦痛からか?
 
でも、改めて確認するとだいぶ違います。
先ず後ろ手に縛られているのです。その上で正座して、顔を上げて天上を見ています。
まるで火あぶりの刑の順番を待つ、転ばなかったキリスト教徒のように見えます。
更に、像を足裏を確認すると、何らかの印が刻まれています。
家紋の様でもあり(5星紋)、印影のようにも見えます。
 
先の5人の殉教者の一人の姿を留めた像のように思えます。
ならば、像の裏の印鑑のようなデザインは何なのか?
疑問は尽きません・・・・。
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                                    肖像の側面、後ろ手に縛られています。
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          肖像の下面、5星紋のような形が見えます。朱色は座布団の染料が移ったものです。
 
もう一つ、私の住む戸塚の冨塚八幡宮の境内に、キリシタンを思わせる地蔵尊があります。
一見すれば、普通のお地蔵様です。
丸い光背(円光背)が付いています。
でも、円光背の位置が問題なのです。
光背は一般に仏像の背後にあって仏像を引き立てる役を荷っています。
したがって仏像の全身、時に上半身を飾っています。
ところがこの地蔵尊の円光背は頭だけを飾っています。
まるで、キリスト教の聖者を飾る光の輪のようです。
一瞬、イコン画を思わせます。
 
でも、それだけです。
この地蔵尊が何を目的に何時頃建立されたのか、わかりません。
 
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     戸塚(旧鎌倉郡)富岡八幡宮境内の石仏群から、中央の地蔵尊がキリスト教を思わせます
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          唯一「曽我彦左」と刻まれています。墓標なら戒名、没年が記されるでしょう。
 
勿論、誰が見てもキリスト教信者を思わせるようなデザインは使われません。
そんな事をすれば、直ぐに捕らえられてしまいます。
一見すれば普通の石仏のように見えますが・・・・、信仰する人が見れば礼拝するようなデザインです。
その分、想像する部分が多く、ロマンであります。
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                 地蔵像はイコン画を思わせます。光背が光輪のようなのです。
 
 
 
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鎌倉に今年も「立ち葵の花」が咲き出しました。

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町にタチアオイ(立ち葵)の花が目立ってきました。
真っ青な空に入道雲が湧いて、そろそろ夏祭りも近づいた頃咲く花です。
背丈が2mも高く伸びます。
そして、毎日花が咲いて、次第、次第に花は上に咲きます。
まるで青空を求めているかのように、天に向かって咲き続けます。
そんな姿が「立ち葵」に名前の由来でしょう。
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                 今日の話題は立ち葵の花、鎌倉(近辺)を紹介します。向かいは由比ガ浜。
 
昭和20年代、私が小学生に登る前でした。
母に連れられて鎌倉の親戚の家に向っていました。
駅で見知らぬ人に風船を戴きました。
私は嬉しくなって風船の紐を手首に結んでもらって、線路沿いに歩きました。
線路脇に赤い美しい花が咲いていました。
立ち葵の花でした。
私も母も見事な花を見上げました。
その瞬間、風船が音を立てて割れてしまいました。
何が起きたか解らなかった私は呆然と風船のあった虚空を見詰めました。
今思えば、立ち葵の葉の縁が風船を傷つけたのでしょう。
「私の花より上に行かないでよ!」立ち葵が風船に手を出したのかも知れません。
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            鎌倉小町の線路際の立ち葵、育てた叔母さんの姿は見なくなってしまいました。 
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       立ち葵に埋もれた恋人(?)を写していた青年、通過する電車を待っていました。
       花はハイビスカスにも似ています。お嬢さんにお似合いです。
 
葵の葉っぱはハートの形をしています。
でも、三つ葉葵はありません。殆どが二つ葵です。
京都三大祭りのスタートは5月半ばに行われる「葵祭り」です。
御所を出た古典行列は加茂川に沿って下鴨神社から上賀茂神社にまで延々と続きます。
平安貴族の姿は私達見物人に深い安堵感を与えてくれます。
1300年も続くお祭りのご利益でしょう。
鴨神社の神紋であり、祭りの名前になっているのが「二葉葵」です。
二葉葵は花が目立たません。樹林の下草などとして生育しています。
 
葵祭りは「豊作や天下の平安」を祈願するお祭りです。
御所も、貴族も、庶民も「今年一年平安に暮らしたい」皆で京都の神様にお祈りするのでしょう。
二葉は植物を観察すれば解ります。殆どの植物が二葉から生育しますから・・・・。
二葉から育って、豊穣と太平を実現してくれます。
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徳川家康が三河松平家の古い家紋から「三つ葉葵」を何故選択したのか・・・?それは解りません。
権力者は、より権威のある家紋を使いたがるものです。
葵を選択した時には「賀茂神社の神紋」が意識されたでしょう。
その上を行く「三つ葉葵」をデザインし、徳川家以外の使用を禁じました。
二つはバランスが悪いと右に左に傾きます。
三つなら安定します。
北条家の三つ鱗紋を含めて、三つ並んだ家紋はデザイン的に安定感がありますし、美しいと感じます。二つ葉ならぬ三つ葉で「天下の平安」を実現しようとするに相応しいデザインでしょう。
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   光明寺山門横に毎年咲く立ち葵の花 
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   上郷、住宅街の教会に咲いた立ち葵の花、寺にも教会にも相応しい花です
 
我が家では納豆が食卓に良く出ます。私が好きだからです。(倅は大嫌いですが)
家内は「オクラ」を刻んで加えます。両者のネバネバが体力を回復してくれるようです。オクラは綺麗な花が咲きます。タチアオイと同じ花なのです。ただ、タチアオイには様々な色がありますが、オクラの花は黄色に決まっています。でも、中々素敵な花です。
もう、今頃は畑に咲いていることでしょう。
 
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   畑に咲いた立ち葵の花、宿根草ですから、毎年毎年、季節が来れば咲いてくれます。
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    これがオクラの花です
 
 
 
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相州春日神社に神鹿バンビ2頭産まれる

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大阪の歌舞伎座を所有する会社で「日本ドリーム観光」と言う会社がありました。
オーナーは松尾國三(明治32~昭和59)氏、同氏は昭和の興行師の異名も持つ、スケールの大きな人物のようでした。
奈良郊外に「奈良ドリームランド」を成功させ、
その勢いで横浜戸塚に「横浜ドリームランド」を開園しました。
日本中が東京オリンピックにわいた昭和39年でした。
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                        相州春日神社の楼門、奈良春日大社を思わせてくれます。
 
経営には紆余曲折こそありました。
モノレール事故が経営に黒雲をもたらし、東京ディズニーランドとの競争に敗れ、手を差し伸べたダイエーの経営再建の最中、処分されました。
今は横浜薬科大学、大規模市民霊園、野球のグランドに変わっています。
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   横浜戸塚、俣野の横浜ドリームランド跡地。高い塔がランドマークの「ホテル・エンパイアー」以前は   塔頂に九輪があったが現在は取り外され、横浜薬科大学の教室などに使用されています。 
 
松尾國三はランドマークにホテルエンパイアーを建築します。
高層ホテルであり、その塔頂に9輪を設えます。
9輪とは五重塔の屋根の上を飾る宝輪で9つの輪は五智如来と四菩薩を表すと言われます。
伽藍のシンボルです。屹度奈良のシンボル興福寺の五重塔をイメージしたのでしょう。
もう一つ、横浜ドリームランドの成功を祈願して、春日大社を勧請しました。
奈良春日大社のデザインで、コンパクトな社にしました。
そして、奈良春日大社にお願いして神鹿を譲り受けました。
神鹿は相州春日大社の西側に設備された鹿苑の中で過してきました。
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                           相州春日神社の社殿。7月末に夏祭りを控えています
 
今年の3月伺った時に、神主さんが言っていました。
「今年も鹿が二頭は産まれるであろう」・・・・・・と。
お顔には鹿が増えてしまって、処分も出来ないし困った事だ・・・・・、書かれていました。関東地方にも春日大社の末社は数多くありますが、神鹿を預かっている所は少ないでしょう。
と言って、鹿を預かったらまた新しい負担が生じるので、何処も受け入れて呉れないのでしょう。
幼稚園だって、何時までも小さくて可愛ければ良いのですが、大きくなれば園児を蹴飛ばしたり、角にかけたりするかもしれません。
産まれるのは良いのだが、もう収容できない・・・・、数が増えれば負担も大きくなるし・・・・、
神主さんの悲鳴が聞こえてくるようです。
 
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                            神主さんの悲鳴をよそに、増え続ける神鹿達
 
9時、朝食の時間です。
今朝は俣野の農家から人参がプレゼントされました。
人参は馬も好きだから、鹿も大好きです。バリバリ食っています。
葉っぱより、赤い芋()が美味しいようです。
人参の山から芋を探して食っています。
先ず美味しい部分を食べて、その後葉っぱを食べる作戦のようです。
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   人参の茎(根)を探す牡鹿・・・・・、喧嘩もしないで仲良くやっています
 
3月に生え出した角はまだ先端が丸く戦いの道具にはならないようです。
牡鹿が仲良く並んで食べています。
牡鹿同士は恋の季節こそ争いますが、普段は至って仲良しのようです。
今年は2頭のバンビが産まれていました。
未だ、人参は食べられないのか?一寸かじって、すぐ食べるのを止めてしまいます。
大人達と少し離れて、母親の後を追って行きます。
母親の小股の中に顔を突っ込んで乳を探しています。
母親は「今はオッパイはダメよ・・・、それより今日は人参のご馳走よ・・・お前も食べなさい」
そんな素振りです。
バンビも離乳食の時期かもしれません。
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             バンビは乳を欲しがっていますが、母親は与えません。
 
神主さんに確認すると現在は16頭だそうです。
これ以上数を増やさないために、口では言い難い様々な苦労があるのでしょう。
もう、横浜ドリームランドがあった事を知る人は少なくなってきました。
何れ、皆が忘れて、この相州春日大社が記憶を留めるだけになることでしょう。
 
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         母親以外も雌鹿はバンビの面倒を見ています。
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      未だ歯が生え揃っていないのか、人参を食べきれない・・・バンビちゃん。
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  俣野のお百姓が野菜をボランティアしていますが、それもタマのこと。
  16頭もの鹿を育てるのは大変な負担でしょう。
 
 
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「浦島太郎」の比較文化的な考察

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私は毎週土曜日に日本文化研究会の研究会に出席しています。(出席しようとしています)
今日は大学生が「日本の昔話を紐解く」と題して発表するそうです。
幹事の話では「18歳未満の人は聞かないで欲しい・・・」との事、
発表の方向が少し解るような気がします。
 
私の道祖神研究も大きく見れば豊穣を司る神であり、「性神」です。
古代の人にとって「エロス」は万物誕生の不可思議であり、驚異であります。
驚きは「昔話」になり、信仰(性神)になりました。
ですから、「昔話」と「性紳」はクロスする部分が沢山あります。
研究会を前に、「浦島太郎」を素材に考えを整理してみます。
 
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    子安の「浦島寺」はJRと京浜急行線とに挟まれた場所にあります。
    此処には浦島太郎親子の墓と、太郎の聖観音像が祀られています。
 
私達が知っている「浦島太郎」の話は、尋常小学校唱歌(1900年明治33)です。
明治政府が滝廉太郎や土井晩翠に依頼して音楽教育に注力します。
その中で名作唱歌を編纂します。
その結果、昔話は歴史的にも、地域的にも様々であったものが、スタンダード型が決定してしまいます。浦島太郎も桃太郎も一寸法師も皆それです。
道祖神が時代によって、地域によってダイナミックに変化します。
昔話も同様で、基本型なんて言うのはナンセンスです。
政府はそんな事をする必要もありません。
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                  浦島寺(正式名慶運寺)の本尊聖観音は浦島太郎が祀ったものでした。
 
浦島太郎が、最初に表れるのは日本書紀、そして丹後の国風土記でした(奈良時代)。
水の江の浦島の子が7日間釣りに出ます。
海で海神(わたつみ)の娘亀姫と出会います。
そして、二人は結婚し海神の宮で3年暮らします。
でも、太郎が「一度故郷に戻りたい」と言うと、玉手箱を渡されます。
故郷の水江村に戻ると昔の面影は無く、知人も誰一人も居ませんでした。
仕方なく、玉手箱を開けると白髪の老人になってしまい、息絶えてしまいました。
そんな話です。
「放生譚(生き物を助けると恩返しがある)」と言った仏教的な香りはありません。
 
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                                         浦島寺門前の亀さん
 
 
室町時代に出来た御伽草子になると、また少し違います。
前半は小学校唱歌と同じですが、最後が違っています。
太郎は両親の墓を詣でます。誰もが死んでしまい、自分の孤独を絶望してしまいます。
玉手箱を開けると白い雲が湧いて、太郎は鶴になって飛び去ってしまいます。
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                        カンゾウの花が咲き出して・・・・、浦島太郎も夢の話です
 
そして、横浜の浦島太郎(子安海岸と向かいの浦島が丘一帯に残る)は随分様子が違っています。
話しの主人公は「父、浦島太夫」「倅、浦島太郎」の話です。
浦島太夫は丹後に赴任していました。
ある日ある太郎は浜辺で亀を救ってあげます。
亀から両親の墓が武蔵国子安の浜辺にあると聞きます。
そこで、子安に行きましたが墓を探しても中々見つかりませんでした。
見かねた乙姫が松明で照らしてくれてやっと墓が見つかりました。
そこで太郎は墓の傍に庵を作って住みました。その庵の聖観音像が慶運寺に祀られています。
昔話ですから、人から人に口伝されます。
既に風土記や御伽草子で有名になっていた「浦島伝説」と「地域の言い伝え」を整合させたのでしょう。パッチワークはお話の常套手段です。
時代変化も在れば、地域によって変化します。ストーリーは絶えず変化します。
変化するから、口伝されてきているのです。
 
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                          浦島小学校の遊具、浦島が丘一帯は浦島太郎一色です。
 
最近、ロマン溢れると理解されてきた「昔話」が、実は「ホラー話」であるとか「エロス話」であるとか・・・、事細かく解説する本が出版されています。
長く昔話が伝えられるのは、話自体に多少の毒味が無ければならないでしょう。
ホラーであったりエロスであったり・・・・。勧善懲悪、動物の報恩話だけでは面白くありません。
子供達は話を聞いて恐怖心が煽られたり、セクシャルな場面を想像したりします。
其処が毒味であって、惹きつけられるポイントです。
別嬪な乙姫様を奥さんにして・・・幸せだろうな。
でも、一人だけ歳を取らずに過ぎてしまい、知っている人も村も無くなってしまったら・・・怖いなあ・・・・・!想像します。
想像する世界が広ければ広いほど、怖ければ怖いほど、タブーな世界(性など)が垣間見れればそれだけ・・・・、口伝される昔話になるのでしょう。
時代や様々な人の洗礼を受けて、残されて来た昔話が名作であり、文化史的価値があるのでしょう。
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                    浦島小学校校門の亀さんは交番初め随所に見られます。
 
 
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半夏生に紅しじみ蝶

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昨日は雑節の「半夏生/はんげしょう」でした。
夏至から数えて11日目になります。
農家にとっては大事な日で、苗代作りから始まって、田植え、代掻き、など一連の農作業を終えて、一休みする季節でありました。
我が家も農地解放後少しばかり残された田圃を家族で自作していました。
母や兄は農作業の重労働に苦労していました。
ですから、半夏生になると安堵していました。
でも、体調を悪くする事も多くありました。
 
私の叔母はこの季節にジャガイモの食中りになり、瞬く間に亡くなりました。
丁度2ヶ月ほど前私が産まれていました。
臨終の時の言葉が「赤ん坊を暗い部屋に置いておくと鼠に齧られるから・・・」だったそうです。
ですから私は「叔母の生まれ代わりだ」とよく言われました。
「叔母(学校の先生)のように勉強が好きになる」と言われました。
 
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                         公園の棚田に棲んでいるカワセミ
 
半夏生の時には「取れたばかりの野菜を食べないように・・・、」とか
「井戸は蓋をしておけ・・・、」等と言われていました。
この季節、人間の手に負えない災いが天から降りてくるからです。
生野菜や生水に注意するように・・・・そんな生活の知恵だったのでしょう。
映画で見る「野辺送り」と呼ぶ葬列は大概がこの季節です。
 
「半夏」という薬草が生えるころであり、
片白草(カタシログサ)がその名の通り草の葉の半分が白く、化粧をしたようにもなります。
ですから半夏生には片白草が白く化粧する頃・・・、と言った意味も重なっているのでしょう。
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   半夏生は鎌倉中央公園の池(昔は溜池)で、今年も綺麗に化粧しました 
 
今年も鎌倉中央公園の池の半夏生は見事に化粧しました。
緑の木立の下に真っ白な葉が広がっている様子は目に爽快です。
私はカメラを構えて昆虫が来ないかジッと待っています。
でも、蝶も虫も殆ど寄り付きません。
蝶や虫が色彩を区別できなくて、緑と白のコントラストだけを識別できるとしたら、こんなに目立つ花は滅多にないと思われます。
ところが、殆ど寄ってこない所を見ると、白だけでは魅力が無いのでしょう。
朱や黄色のような鮮やかな色が無いと、魅力に乏しいのではないでしょうか?
 
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  半夏生の葉の上で休む紅蜆蝶、花には寄りません。それは花が好みの色ではないからです
 
そう思って辺りを見ると、他の花には蝶も虫も集まっています。
半夏生の傍らで寂しげに咲いている姫ジオンには数匹の紅蜆蝶が止まって、蜜を吸っています。
蝶が鮮やかな色彩を持っている事は多分その色彩が識別できて、
仲間、特に異性(雌)を探すのに適しているのでしょう。
だから、紅蜆が姫ジオンの集まるのは、姫ジオンの白い花弁ではなく、花芯にあるオレンジ色に惹かれているのではないかと思います。
オレンジ色は紅蜆蝶の羽の色だからです。
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  姫ジオンのオレンジ色の部分に集まる紅蜆蝶
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    紅蜆はオレンジ色に集まってくるように観察されます 
 
紅蜆が一頭、半夏生の白い葉っぱに止まりました。
目の先に花があります。
でも、花には全く関心を示さず、羽根を休めているだけです。
 
蝶には全く関心を示されていない半夏生ですが、誰を惹こうとして、化粧しているのか?問題です。
 
昼間見ているだけでは解らないのでしょう。
夜になれば「夜の蝶」ではなく「蛾」が活躍します。
真っ暗闇では多分半夏生だけが浮かんで見えるでしょう。
蛾だけが半夏生を頼りにしているのでしょう。
 
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     宵闇になると蛾が出てきて、半夏生に集まってくる。
 
暗闇で、池の淵で、柳の木の下で、ぼーっと浮かんでいる・・・・、となると牡丹灯篭の世界のようです。
もうじき「怪談」の季節にもなります。
「日本文化の最高の場面が怪談にある・・・・」私はかねがね思っています。
いつか、このブログで「怪談の文化論」を書きたいと思っています。
 
私の父が小坊主だった時の思い出話です。
花の白い、綺麗な娘さんが亡くなりました。
小坊主の父が一人で枕経を読んで、棺桶の番をしていました。
小坊主が死に顔を覗いた瞬間、ボヤっとした大きな物体が虚空に飛び立ちました。
小坊主はハット息が詰まって、腰を抜かしてしまいました。
死者の魂が虚空に飛び立ったと思ったからでした・・・・。
 
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                          木の下闇で目立つ半夏生
 
魂は遺体の上を二度三度宙に舞って、障子戸に止りました。
小坊主が魂が実は「蛾」である、気付くのにしばし時間が懸かりました。
蛾は宵闇に飛んで、白いものに寄るのです。
 
 
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「開成町の道祖神」に思う

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道祖神を見て歩いていると気付く事があります。
最近30年間に建立された道祖神が多いことです。
軽井沢や望月などには「観光資源」として道祖神を新たに建立しています。
そして、特段観光地では無い神奈川の市街地でも新しい道祖神が祀られています。
 
道祖神には「誰が、何時、何の為に」祀り始めたのか、刻まれています。
道祖神の光背や、裏、横、時には台座などに刻まれています。
それを確認すると、一番多いのは「子孫繁栄」、次いで「長寿報恩」です。
高度成長期を支えた人達が、そろそろ人生を振り返る時期が来ました。
願う事は「孫子が長く幸福であること」「長寿を感謝し、ぼける事無く一生を終えたい」願って、道祖神を建立している事がわかります。
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    秦野、東海大近くの道祖神、のうぜんの花に下でなか睦まじく・・・、
    右の道祖神(字塔)が傷んだので新しく平成2年に建立されました。 
 
現代は道祖神という名の神様を信じている人は稀でしょう。
でも、こうした願いは不変的なものです。誰しもの願望でありましょう。
その願望を形にしたい・・・・、思った時「道祖神」と言う形を選択しました。
気持ちや願望は形にすることによって、より確かなものになり、毎日の過し方がポジティブになるものでしょう。
願っていても、言葉にしないで黙っていては、次第に願望は薄くなり、自らの行動を律しては呉れません。
夫婦揃って「道祖神を建立し、長寿報恩」と記せば、お互いの感謝の気持ちは揺ぎ無いものになります。
 
秦野に東海大学があります。
大山の麓は都心への通勤圏であり、山紫水明な住宅地でもあります。
大学の付属病院もあって・・・至れり尽くせりです。都市計画道路が作られ、延命地蔵尊への参拝人も多いようです。
お隣には鶴巻温泉もあります。
賑わうホームセンターの駐車場の片隅に道祖神が祀られていました。
見れば白い御影石に、カップルが仲睦まじく並んでいます。
側面には平成2年に「子孫長大」を祈願して講中で建立した・・・・、刻まれています。
屹度道路の開通に際して道筋にあった道祖神の傷みが激しいので、村民が新造したのでしょう。
その時に、平成の時代感覚で新造しました。
相模の道祖神は「僧の形をしたカップル」であり、素材の石は大山辺りの黒っぽい凝灰岩(火山灰が固まったもの)です。
ところが新造は、素材も形も祖先伝来ではなく、全国的に知れ渡った、信濃千曲川スタイルを採用しました。
多分安曇野スタイルの化粧道祖神にも関心が及んだのでしょうが・・・、
子供が色塗りしてくれるとは限りません。
この辺りは茶作りが盛んです。
 
5月頃、新茶に高濃度の放射能が確認されました。
新茶は廃棄され、茶の木は深く刈り込まれました。
「子孫長大」の為の具体策は「環境保護」であるようです。
水や土や空気によって野菜も、茶も、人も生きてゆきます。
私達の孫子が末永く平和に幸福に生きてゆけるように願うには、
環境を保護する他ありません。
 
秦野の近くに「開成町」があります。
この辺りから足柄にかけてが、「道祖神のルーツ」と言われています。
江戸時代の初め、道祖神が作られ始めました。
そして、数が最も多い地域であります。酒匂川が流れています。
そして網の目のように農業疎水が整備されています。
集落が点在していて、その道筋に、疎水の畔に道祖神が祀られています。
瀬戸屋敷はもう七夕飾りで綺麗です。
 
その横に農作物の販売場があります。
その奥が民俗文化財の展示場になっています。
流石に二宮尊徳の活躍した土地です。報徳思想の現れでしょう。
古い農機具が展示されています。
そして壁には50基ほどの道祖神がパネル写真で展示されています。
私が祭られている場所を確認すると、「道祖神マップを早く作りましょうよ!」声が聞こえてきます。
瀬戸屋敷、アジサイの咲く農道、観光スポットを巡るのも良し、
でも、その土地を良く知るためには、村の中を巡る事でしょう。
 
田圃の中に5,6戸の集落がまとまっています。
彼等は普段から連携しながら農作業などを行いました。
この団結を「結」と呼びました。
信仰については「講」を組織し、道祖神や庚申塔を祀ったのでした。
 
農作業をしながら毎日を過す場所が「現世」です。
亡くなると魂は体を離れて「来世」に行くと考えられていました。
来世は何処にあるのか・・・・、この辺りは先ず箱根が外輪山の妙神ヶ岳(大文字焼きで有名)などに行くと考えられていたでしょう。
魂は来世に行く途上、三途の川を渡らなくてはなりません。
そこで、魂を導いてくれるの「お地蔵様」です。
お地蔵様は唯一来世と現世を事由に往来できる仏様でした。
遺体は土に埋められます。時間が経てば土に戻ってしまいます。
その土から再び新しい命が産まれます。
土は神秘であり、尊い存在でありました。
お地蔵様は「土/地」と「蔵/子宮」を書きます。
で・・・、農民は元気な子供が生まれて、育って、子孫が幸福でありますように・・・・、「道祖神」はカップルのお地蔵様の形にしました。
 
カップルにしたのは、夫婦の営みが無ければ子供は産まれなし、
育てられない事を知っていたからでした。
お地蔵さんが二人並んだ「道祖神」は歴史が下ると、地方に伝播すると様々に変化しました。特に石工の伝統のあった千曲川流域や吾妻川流域ではユニークな神像(祝言像)に変化し、人気になりました。
此処、開成町でも、様々な変化が観察されます。
仏像よりも神像の意匠も組み入れられています。
 
時代の雰囲気、期待やデザインをドンドン取り入れていること自体が、信仰が生きている証左でありましょう。
信仰されなくなってしまえば、ただ取り残されるだけで、変化も新しい意匠も加わりません。
 
開成町に新しい地蔵が祀られています。
名前は「見守り地蔵」さんです。
円空は鉈を振るって仏像を刻みました。
現代人はエンジンカッターで丸太を刻んでいます。
更に、細部を鑿で刻んだのでしょう。
中々の出来栄えです。
何を見守るのかな・・・、人間の平和を見守るのかな・・・・?
覗いてみると「ゴミの放棄」を見守っているのだそうです。
「ゴミ放棄反対!」と叫ぶより「お地蔵さんに見守ってもらった方が効果がある」そのように考えたのでしょう。
ゴミが放棄されそうな目線の届かない場所ではなく、目立つ場所、交通量のある場所に設置されています。
と言う事は「私達は開成町を大事にしています」、そんな主張を表わしているのでしょう。農作物の販売所と同じ行為です。
でも、故郷を大切にしている姿を見ると、嬉しいものです。
 
改めて福島原発事故の痛ましさを思い起こします。
早く、故郷に戻れるようにして差し上げたいものです。
 
 
 
お願い:写真を掲載しようとしていた所、2枚目から突然に「この写真は掲載できません」と拒否されてしまいました。原因が不明です。今晩改めて写真を掲載するよう、トライしてみます。出来ましたら改めてみていただくようお願いします。
 
 
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寺に咲き続ける山百合の花(長寿寺・光触寺)

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今年も梅雨明けをしたかのような暑さです。
猛暑になれば、ノウゼンカズラや夾竹桃の季節です。
くちなしの花も山百合も、もう散り始めました。
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  もう、咲き始めた「カンゾウの花」
 
私の部屋の窓からは向かいの土手が見えます。
毎年、土手にはカンゾウの花芽が沢山出ます。
ところが、お盆入りを間近にすると、草刈をします。
すると、カンゾウの花芽が切られてしまいます。私は、今年も花を見ることが出来ません。
土手の先には寺院(私の生花)があります。
カンゾウの花は昔から、お墓参りの人を迎えてくれていました。
まるで、墓の下に眠る人の思いを表すようです。
秋の彼岸には彼岸花が、お盆の入りにはカンゾウが咲くものです。
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                      今日の話題は山百合の花です。(光触寺にて) 
 
昔は、この辺りにも山百合が自生していました。
山百合は「里山に咲く百合」の意味でしょう。
日本特産の大きな花です。
花弁が外に弧を描きながら広がって咲きます。花の直径は20cmにも及びます。
太さが1センチほどの茎が1メートル以上も伸びて、その先に咲きます。
花が重いので、茎がしなってしまいます。
で、少し風が吹いてもユラーリ・ユラーリと揺れます。
その姿が美しいので美人の比喩「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と言われました。
勿論、花魁道中を表したものでしょう。
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                            此方は山百合のハイブリッド型、(光触寺参道にて)
 
山百合は種を飛ばします。種が地中から発芽して5年も経てば花をつけます。
この間、球根が太ってゆきます。
5年分くらいの滋養が溜まらないと、花をつけられない・・・、と言った次第です。
その後も球根は次第次第に大きく太ります。大きくなればなるほど花の数が増えます。
花数が増せば、山百合の豪華さが増してゆきます。
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   鎌倉の巨福呂坂と亀ヶ谷切通しの三叉路に建つ長寿寺山門、山百合が今盛りです。
 
鎌倉中で最も見栄えの良い山百合は亀ヶ谷切り通しの長寿寺山門でしょう。
境内にも咲いていますが、一株が最大なのは山門に登る石段の上です。
巨福呂坂を建長寺に向って登ってきたお客さんは、角や(流しそうめんの店)のノウゼンカズラの棚を見上げます。そして、頭上から漂ってくる芳香に気付いて辺りを見回します。
角屋の向いは長寿寺で、石段の上の山百合を見つけます。
ノウゼンカズラは素麺を、山百合は拝観を手招きしているようです。
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        長寿寺山門前を飾る山百合は長い歴史を思わせます
 
長寿寺には「山百合の奇勝」があります。石段の上には数十の花が咲いています。
見事な花に見とれていると、その遥か上方にも花が咲いているのです。
其処には大きな欅の木が繁っています。
その幹、10メートルほどの位置でカットされているのです。
多分落雷の仕業でしょう。
樹の天辺に落ちた雷は、幹を下って、地上10メートルほどの位置で直接地中に走ったのでしょう。
上半身を焼かれ、裂かれた欅は慌てて新芽を伸ばしました。
その結果、地上10mの位置で一坪位の卓(茶ぶ台)が出来ました。
茶ぶ台の周りを新芽が囲んで、新しい幹に育ちました。
その真ん中には洞が出来ました。
その洞に山百合の種が飛んできて、発根しました。そして、毎年毎年、山百合が咲きます。
巨福呂坂を通る人を二階席から、三階席から見下ろしています。
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   欅の幹の上にうろが出来て 、其処にやまゆりが咲いています。
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昔の金澤街道は朝比奈の切り通しを越えていました。
今も切り通しは鎌倉時代のそのままに残されています。
旧道と新道との境に「光触寺」が在ります。
この辺りは谷戸が深く入込んでいます。良く手入れされた谷戸があります。
毎年、綺麗に草刈が為されています。
その急峻な土手に山百合や蛍袋が自生していて、刈られずに残されています。
土手の下のほうは岩場ですから、草刈をするのも命がけです。
落ちれば、岩場に掘られた櫓(墓場)の住人になってしまうかもしれません。
でも、山百合や蛍袋を刈らずに残してあげたい・・・、そんな思いやりが尊いと思います。
多分、この辺りは光触寺の無縁墓地なのでしょう。
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  光触寺裏山に咲いたやまゆりのはな
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  裏山は土手に山百合や蛍袋、岩場には岩タバコや常盤忍草が繁茂して、見てるだけで楽しいです。
 
光触寺には「塩舐め地蔵」や「頬焼き阿弥陀」等の説話が残されています。
お寺の仏像に係る説話ですから、仏教の香りのする説話です。
人間の望ましい在り方を諭すような教えです。
此処の山百合を眺めていると、お寺の教えは今も生きているのだな・・・、思います。
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  光触寺の裏山には山百合が咲いて、その下の岩場には櫓が掘られて、無縁仏が眠っています。
 
 
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旧暦の奨め(七夕祭りの不都合)

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今日は7月7日、七夕です。
我が家でも家内が庭の竹を伐って、ささやかな飾り付けをしました。
この年になると短冊には毎年「健康長寿」を一番に書いています。
私は、ここ数年波乱続きですが、今のところ健康だけが守られています。
先ずは感謝・感謝です。
 
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         開成町、瀬戸屋敷七夕飾り。町民ボランタリーの作品でしょうか?
         楽しんで作られています。 
何処の幼稚園にも庭には七夕が飾られています。
今の子は幼稚園でも字が書けます。驚きです。
短冊を渡されて「願い事を書きましょうね!」先生に促されて、字が書けない子はいじけてしまうだろうな・・・・、想像します。
江戸時代は大半の人は字が書けませんでした。
でも浮世絵で見れば、今と変わらない七夕飾りをしています。
長屋の人達は大家さんに頼んで短冊に書いてもらっていたのかもしれません。
願い事は「針仕事が出来ますように」「機織が出来ますように」「算盤が出来ますように」
お稽古事が大半でした。
「恋人が出来ますように」「お金持ちになりますように」なんて言う願い事は最近の風潮です。
そんな、スキルアップの願い事を書いた短冊を結んで、
笹の葉飾りを共同井戸の淵に飾りました。
七夕が終われば、川に流しました。
短冊は川から海に流れて、海の彼方の神様に届けられます。
 
ところで、7月7日今夜も雨の天気予報です。
天の川の見えない七夕では節気祝いにもなり難いものです。
本来は旧暦(7月7日)で行っていた行事、それが法律で新暦が採用されて・・・・・、
約1ヶ月早まってしまいました。
お陰で、天の川を挟んで離れていた二人が逢瀬を迎える・・・・、
ロマンチックな場面を見ることも出来ません。
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       鎌倉鶴岡八幡宮の七夕飾り。ここは天然の竹が使われています
 
旧暦の七夕は上弦の月になります。月明かりが弱く、星空がことさらに目立ちます。
天の川も彦星も牽牛星も観察しやすいのです。
それに、大抵は快晴の夜です。
太陽暦では満月に遭遇すれば見難くなってしまいます。
 
更に行事の内容を見れば、旧暦で始めて意味がわかる事が沢山あります。
先ずは笹の葉飾りです。
竹笹を伐って短冊などを吊るします。
竹笹は神や霊が降臨する寄代(よりしろ)です。
お盆で飾る精霊棚も四方を竹笹で囲います。
地鎮祭も四方を竹笹を立てて注連縄で結界を張ります。
竹笹は神や霊の降臨する常緑なのです。
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   鶴岡八幡宮舞殿前の七夕飾り、ここはプラスチックの竹です。
   これでは神は降臨しません。
 
八幡宮では願い事を短冊ではなく「えんじゅの葉」を使っています。
「えんじゅ」は常緑で大きな葉っぱです。
形は柏に似ています。榊に似て神の降臨する葉っぱです。
その葉に「復興を果たしますように」とか「結婚成就」「就職達成」等と願いが書かれています。
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  えんじゅの葉の形をした色紙に願い事を書いて注連縄に結びます。(初穂料500円)カップルが次々に  結んでゆきます。舞殿で舞った静御前もお気の毒です。
 
七夕祭りは万葉集にも出てきます。
一般に歯、平安時代、主として宮中で行われていた盆の行事が主となって、江戸時代には町民にまで親しまれた。
何れも、お盆の行事なのでした。
それが、戦後になって新暦になって、お盆行事からかけ離れてしまいました。(盆行事も新暦で実施される地方もありますが)
しかし、頑なに仙台を始め東北地方では旧盆で行われます。
こちらの方が新暦よりも遥かに意味合いも、星座も見られる、味わい深い行事になります。
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         八幡宮、本殿。大きな楠球と吹流しが綺麗に飾られています。
     雅なデザインは平安時代からでしょうか?
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わが国は世界各国と歩調を合わせて「太陽暦」とする、決定は妥当でしたが・・・・。農作業に密接に係わって来た大意陰暦の扱いは民間任せにしてきました。既に一次産業の地位が低くなったから特段の配慮は必要なかったのでしょう。しかし、風習や行事を考えると、太陰暦の扱いに配慮が必要であったと思います。
せめて、神社の七夕祭りは太陰暦で実施してほしいものだと思います。
彩り豊かなクス球、吹流し等色彩華やかな八幡宮の七夕飾りです
今晩はお神楽や琵琶も奉納されると聞いています。雨が上がれば出かけたいものです。
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   今晩は浴衣の似合うお嬢さんが数多く見られるかも・・・・!
   おじさんは琵琶や神楽よりも其方の方が楽しみだったりして・・・。
 
 
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鶴岡八幡宮「舞殿の七夕祭り」

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朝方降っていた雨も昼前には止みました。でも、厚い雲が空を覆っています。
今日(7月7日)は七夕様です。 
7月7日の夕方にお祭りするので、七夕と書くのでしょう。
七を「たな」と読み夕を「ばた」と読むことは七夕以外にありません。
「たな」とは棚幡のこと、「ばた」とは「機織(はたおり)の道具でしょう。
お米が豊作であるように祈り、機織が上手に出来るように祈願した神事「棚幡祭りが」、
何時しか、暦の字をあてて「七夕」にしたのでしょう。
日本人のアイディアでしょうから、中国人には通じないと想像します。
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  七夕祭りの行われる舞台が「舞殿」です。
 鎌倉の町は京都で言えば「御所」の位置に八幡宮があります。真直ぐ彼方が由比ガ浜です。
 
 
八幡宮の七夕祭り神事は八幡宮の舞殿で行われます。
八幡宮の本殿から真直ぐ南に石段があって、その下の広場の真ん中に「舞殿」があります。
舞殿は八幡宮本殿の拝殿であり、同時に神楽などを奉納する舞台でもあります。
古くは静御前が白拍子姿で舞って見せました。
その折にも、源頼朝や政子が観た事でしょう。
今日は、政子らの位置にテントが張られて八幡宮の幼稚園児が揃っています。
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                        午後5時、舞殿ではいよいよ七夕神事が始まりました。
 
舞殿は四方に「七夕」が飾られています。竹笹にクス珠、吹流し、人形など昔ながらの飾りがされています。
そして、本殿の神様に向けて「精霊棚」が設えてあります。
精霊棚には「水桶」「野菜」「果実」更には「鮑に鯛」「五色の糸」「五色の布」「古代のパン」「饅頭」などが奉納されました。勿論お神酒も・・・。
お寺のお盆(施餓鬼会)の精霊棚とまったく変わりません。
と言うより、お寺が神社のお盆の行事を真似たのではないでしょうか?
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    七夕の精霊だな、お寺のお盆の精霊棚との違いは、楽器と幡程度でしょう。
 
精霊棚は祖先の霊(神)を招くに際し用意した「おもてなし」です。
祖霊達は天から、竹笹に降臨します。そして用意されたご馳走や織物を戴きます。
更に、琴や琵琶の音曲、神楽踊りを楽しんで・・・・、お帰りになります。
「今回の七夕のご馳走は良かった、・・・・では今年も豊作や平和を約束しよう」
祖霊(神)にはご機嫌良く天に昇ってもらいます。
 
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   巫女さんが神楽にあわせて舞いました。
  私達は自ずと白拍子舞の静御前に思いを馳せてしまいます。
 
祖霊(神)は元来「人」であったもの、ご馳走も、お酒も、美女の舞も・・・みんな大好きです。(私も好きです) 大歓迎していただいたら、期待に応えてくれる筈です。
5時過ぎでは、未だ八幡宮の境内は明るいのです。
加えて今日は曇天で、お星様は見えるはずがありません。
神主さんの祝詞が奏上されます。私は聞き耳を立てますが・・・・、よく聞けません。
多分、今年の豊作や大震災からの復興を祈願したものでしょう。
震災が本来の神事を思い起こさせてくれました。
自然(環境)と人間との位置関係を改めて問い質してくれています。
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      私の目には美しい巫女さんが神様をおもてなしするおどりに見えました。
 
鶴岡幼稚園の園児さんが舞殿に上りました。
お遊戯を神様に奉納します。
テープから「勇気100%(光源氏)」が流れます。
子供たちは手足を力一杯振って踊ります。
境内では学校帰りの女学生も手拍子します。
平和な景色です。
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                 鶴岡幼稚園、園児のお遊戯も奉納されました
 
私は静御前の悲話を思い起こしました。
吾東鑑(幕府の史書)では、雪の吉野山で捕らえられた静御前は鎌倉に送られます。
4月8日に鶴岡八幡宮で舞います。
7月29日に男子を出産しましたが、男子であったため、由比ヶ浜に捨てられました。
舞殿から真直ぐ1キロも下れば由比ガ浜です。
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悲話が悲しければ悲しいほど、現代の平和の有難みに感謝しなければならないのでしょう。
でも、それは現代の平和に恵まれた私たちの言い草で、静御前の恨み、つらみは晴らす事も出来なかった事でしょう。
 
舞殿から東に300メート程行けば、武道館前に出ます。
其処に「静御前の桜」が植えられています。
私は思います。
舞殿を垣間見る樹陰に静御前の悲しみを閉じ込める祠を建ててあげれば・・・、良いのに」
この、舞殿では舞週末のように「舞殿結婚式」が行われます。
余りに、静御前に気の毒でなりません。
「静御前様、すいません。私達は幸せになります」
そんな、挨拶が必要でしょう。
形に表すためには「静御前の祠」です。
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    神前に手向けられた琴、螺鈿の鶴のしるしは鶴岡八幡宮の神紋です。
 
政子の配慮により解放された静御前は義経の面影を追って旅に出ます。
彼女の足跡は全国各地に伝説として残されているようです。
郡山で亡くなったという伝説も有力です。
鶴岡八幡宮の静御前の桜はその墓地の桜の子孫だそうです。
 
精霊棚には琵琶と琴が添えられていました。見事な螺鈿細工が施されていました。
尋ねれば近年、七夕祭りのために用意したのだそうです。
全面装飾しているのは、実際に演奏には供しないからだそうです。
それにしてもよく出来ています。
 
八幡宮に残されている甲冑も美しすぎます。
実際に戦場では使わないで、神のお好みの美しさを実現したようです。
神様は、美しいことに最も敏感だったのではないでしょうか?
そんな気持ちは、親父の気持ちと同じです。
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    同じく神前に手向けられた琵琶、実は腹の方「裏側」も黒漆、螺鈿の細工があって、全身が装飾品でした。
   本来は共鳴するように作られていなければなりません。神様をもてなす為には、何においても「美しい事」の   ようです。
 
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緋色のカンナ(子安の浜辺で)

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赤い色には沢山の種類があります。
夏の甲子園の優勝旗は「深紅」、正真の紅色の意味でしょう。
女将さんの腰巻の赤は紅赤、血の色で病を避ける呪文の色でしょう。
「青丹よし」とは奈良の都の枕詞、青は春日の森の常緑樹の緑色でしょう、丹は朱色と同じで春日大社や東大寺の寺の柱の色でしょう。
伏見稲荷の鳥居の色です。
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   日の話題は「緋色」、緋色は「火色」とおもいます。応天門の変を素材にした「伴大納言絵詞」から
 
茜色(あかねいろ)は茜(植物)の根っこで染めた色で、夕焼けの色です。
同じ茜の根から得た色で、明るい赤色を「緋色」と呼びます。
屹度、スカーレットも同じような色だと思います。
緋色の「緋」の語源が不詳です。確かな事は言えませんが、私は「火」を想像します。
 
火は家や体を燃え尽くします。
燃えた後には灰しか残りません。
焼け尽くせば総ての汚れや罪業が消滅します。そして灰しか残りません。
水は体や心を清めてくれますが、火は一瞬に消滅させてくれます。
古代人は火の色に深い畏敬の念を抱いたと思います。
 
聖徳太子は冠位十二階を定め、最高位は「紫」二番目に尊い色に「緋色」を決めました。
緋色は巫女さんの緋袴の色になりました。
平家物語では「緋色の鎧」が平家の公達を飾りました。
いずれも「穢れない色」「尊い色」でありました。
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                     国宝の緋色の鎧(春日大社)
盛夏が近づくにつれて緋色が目に付きます。
緋扇の花、野カンゾウの花、凌霄花(ノウゼン蔓の花)、いずれも緋色です。
 
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                                  縁側の、緋扇の花
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                               葉山の「のうぜん蔓」も緋色です。
 
もうひとつ、緋色を見つけました。
見つけた場所は、三浦半島西海岸を葉山の長者岬から立岩に向かう断崖の中腹です。
この辺りは沖合いに出ると、海が急に深くなっているのでしょう、遊泳禁止区域になっているようです。
波が岸辺に打ち寄せています。岸は黒い小石が埋めています。
この小石が波に洗われて、音を立てます。
小石は円く卵のようになります。
ですから、「子安石」と呼ばれて、子安信仰の対象になっています。(森戸神社の項参照)
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   遠く見えるのが「長者岬」その根元に「ホテル音羽の森」があります。断崖にカンナが自生しています。
 
断崖の中腹にはススキや松が自生しています。
そして所々にカンナも自生していて、盛夏にかけて花を一斉に咲かせます。
その色が緋色なのです。
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  「カンナ」の葉は大きな団扇のようです。きっと「里芋」の仲間のでしょう
 
カンナの葉っぱは大きな団扇のようです。
強風が吹き荒びますから、この形は好ましくないように思います。
ススキのように細ければ、風を受けないで済みますが、カンナの姿風をまともに受けてしまいます。
でも、強靭な体は海風を耐えて大きな花を咲かせています。
花は雄鶏の鶏冠を思わせます。
 
カンナは江戸時代はじめ(1600年代)スペインから伝わったと言われています。
でも江戸時代を通してあんまり好まれなかったようです。
でも強靭な生命力で日本の野山に自生しました。
そして群落となっているようです。
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   この浜辺に、人影がないのは沖合いが急に深くなっていて、危険だからでしょう。海岸通りを行く車からはこ  のカンナの群生は見えません。駐車場もありません。
 
もう、1ヶ月もすれば野分が吹いてくるでしょう。
そうすれば流石のカンナも自慢の葉っぱが破れてしまうことでしょう。
破れても、花を咲かせ、地中の芋を太らせます。
そして芋から新しい芽を沢山生えさせて、群落は更に大きく育つことでしょう。
 
緋色は罪業を消滅させる「火の色」でしょうが、
カンナにとっては強靭な生命力を示す色でもあるようです。
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   緋色と緑が新鮮なカンナの花、今暫く楽しめそうです。この色は「スカーレット」が適当でしょう。
   でも、日本の色なら「緋色」です。
  
 
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「家蜘蛛」のお母さん、ヤモリの親父

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こんな話をすると「お前は、どんな家に住んでいるのか?」疑問に思われるでしょう。
でも、私にとっては可愛い動物ですので、紹介させていただきます。
 
先ずは、巨大な蜘蛛です。脚を開くと幅は15cmくらいあるでしょう。
それが居間の壁にへばり付いています。
昼間は何処に隠れているのか姿を見せません。
夜、電灯を灯すと姿を見せます。
家内も慣れてしまって驚きはしませんが、嫁が見つけたりすると大声を発します。
元々、蜘蛛は嫌われ者ですから、それにこの蜘蛛は異常に巨大ですから、
いたし方ありません。
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       壁と天井の隅にうずくまる「脚高蜘蛛」、一般には「家蜘蛛」と呼ばれています。(拙宅の居間で)
 
名前はアシダカ蜘蛛、多分「脚高」と書くのでしょう。
一般には「家蜘蛛」と呼ばれていて、古い家に棲んでいます。
そして、電灯に集まってくる蛾や昆虫を捕食します。
ゴキブリも食べる・・・・、聞きますが食べている姿は見たことはありません。
大きい割りと臆病な性格のようで、私がカメラを向けると後ずさりします。
更にクローズアップしようと近づくと、一気に逃げようとします。
 
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    私がレンズを向けたところ、逃げ出した家蜘蛛、お腹には大きな袋、ここに子蜘蛛が育っています。
 
今は、腹に白い座布団を抱いています。
座布団は細みな体に比べて遥かに大きいので、目立ちます。
この座布団の中に子蜘蛛が育っています。
もうじき、座布団の皮を破って大挙出現してくるのです。
まあ、増えるのは程々にして置いて欲しいものです。
これ以上増えすぎれば「不気味」で、嫁も孫も寄って来なくなるかもしれません。
 
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         我が家の室外玄関灯、この灯りに様々な昆虫類が集まってきます。
         それをヤモリが待ち受けています。
 
我が家で、家蜘蛛に似た「食生活」を送っている住人がいます。
ヤモリ(家守)です。
玄関の壁や天井にへばり付いています。
壁の色がベージュですので、同色に変じています。
タイルのところではレンガ色に変じています。見事な変色、保護色です。
じっと動かないで「玄関灯」に集まってくる蛾や昆虫を待ち受けています。
ですから、ヤモリが潜んでいるのは私と家内しか知りません。
外来者はまず気づかないと思います。
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           瞬時の技で、蛾を咥えたヤモリ、吸盤のついた足の指先、変色など魅力が満載されたボディー           の持ち主です。
 
電灯に虫が集まってくるのを、遠くからジッと見詰めているのでしょう。
そして、スルスルと近づいて、飛んでいる蛾や昆虫に飛びついて大きな口で喰らえます。
カメレオンのように長い舌が伸びるわけでもないので、実に忍者のような技です。
ヤモリの方はゴキブリも食べています。
食べ残しの翅を見れば解ります。
 
 
実は私は鳩や鶉を飼っていますので、その餌(糠やトウモロコシ)を室外に置いています。
その入れ物にゴキブリが忍び込んでしまうのです。
そのゴキブリをヤモリ食べます。
そして、そのヤモリを蝦蟇蛙が食べます。
我が家の食物連鎖の頂点は蝦蟇蛙と青大将です。
 
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     私が接写を試みると、闇の中に消えてしまいました。天井から壁に、壁から柱に飛ぶんです。
 
以前はお隣から、苦情がたびたび出ました。
「お宅の庭木に蛇が登って気味悪いのでどうにかして欲しい・・・・」そんなクレームでした。
「スズメバチの巣を駆除して欲しい・・・」そんな注文もありました。
「私は坊主の生まれですから・・・・、生物の悲しがる事は致しません」
総てお断わりして来ました。
まあ、お経も読んでもらったし・・・・・、
あいつは変わり者で致し方ない・・・、思われているでしょう。
最近は苦情もなくなりましたが、生物は数を増しています。
諦められたので「白い目」で見られているのでしょう。
 
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      我が家の食物連鎖の頂点に位置する蝦蟇蛙君。ヤモリも一呑みです。
 
私は、玄関に出てヤモリを観察します。
背中で家内の声が響きます。
「ヤモリ好きは結構ですから・・・・ドアを閉めて下さいな!蚊が入ってきますから・・・・」
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             犬の残飯をあさる雀、今年も子雀(右)を見せてくれています
 
カメラのフラッシュを焚くとヤモリの皮膚のヌメッとした感触が出ません。
電灯だけだと黄色く写ってしまいます。
玄関(室内側)の灯りが欲しいのですが・・・・、
家内が蚊に食われてしまうのは忍び難いので、ドアを閉めます。
ヤモリも可愛いものです。
写真では男か女か判別出来ません。
でも、ヤモリの身のこなしは「クノイチ」では出来ません。
親父の忍者です。
 
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  此方は、アイビーに巣食った脚長蜂、家内は何度か被災しています。
  これを竹箒で叩き落そうとすれば、それは怒られるに決まっています。
 
 
 
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美しい「鵠沼の蓮池」

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今年は春が遅かったので、桜も卯の花も遅咲きでした。
ところが、7月10日もう梅雨明けしたとのです。
去年は7月22日に見に行った「鵠沼の蓮池」に出かけました。
蓮池は、江ノ電「柳小路」駅から数分のところにあります。
京福電鉄に「出町柳駅」があります。
駅名も、町の雰囲気も京都に似ています。
 
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 柳小路駅から、線路沿いに藤沢に向かうと「蓮池」があります。
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  「蓮池」の周辺は明るい住宅地で、颯爽とお嬢さんが自転車で通り過ぎてゆきます
 
藤沢の鵠沼と言えば、湘南の垂涎の住宅地です。
一昔前までは黒松の林が続き、お屋敷は広がっていました。
武者小路実篤ら白樺派の文学者が、岸田劉生ら画家が住んだ町でした。
片瀬山など丘陵から見下ろせば、鵠沼が境川と引地川に挟まれた河口である事が判ります。
河口の川原には沼が7つもあったそうです。
ところが、住宅地として開発が進み沼は次々に埋め立てられました。
住民は「これではいけない!」立ち上がって、大小二つの沼を残し、公園にするよう動きました。
お陰で、ここだけが「鵠沼」の面影を残す事に成功しました。
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葦原や柳の木もあって、昔の面影が髣髴されます。
鵠沼の「鵠」とは白い鳥のこと、白鳥はまだしも、カモメや都鳥(ユリカモメ)が群れていたのでしょう。
古代の東海道は国府のあった海老名から藤沢、更に鎌倉に通じていました。
従って多くの人が鵠沼の畔を歩いたと思われます。
 
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                            蓮池の周囲は葦原が残されています
 
西行法師は1186年鎌倉に下ります。
一般に東大寺再建の勧請を頼朝に依頼するためであったと言われています。
そして「砥上ヶ原」(茅ヶ崎)にやってきます。名前からは小石がゴロゴロ転がっている原っぱの印象です。
此処で、以下の二首を歌っています。(西行物語)
 
柴迷う(まどう)葛の繁みに妻篭めて 砥上ヶ原に牡鹿鳴くなり
 
更に同日の夕方
  心なき身にもあわれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ
この「三夕歌」の場所は一般に「大磯」と言われていますが、
歌を蔽っている寂寥感は「鵠沼」以外には考え難いと思われます。
今では蓮池に僅かに残っている葦原ですが、西行の頃は辺り一面が葦原であったでしょう。
 
西行は日暮れ時に葦原を急ぎます。
すると、突然に足元から一羽の鴫が飛び去りました。
西行は大きな羽音に驚いて、夕闇の中に飛び去る鴫を見送ります。
その晩は腰越で宿を取ったと思います。
腰越で「西行見返りの松」の故事を残しています。
 
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      蓮池の赤い蓮は今が身頃です
 
鵠沼から境川を登ると「白旗神社」があります。
神社から300m程下に「義経首洗い井戸」が在ります。
衣川の戦から義経の首は腰越に運ばれます。
頼朝の命を受けて和田義盛は首を確認します。
義経・弁慶の首はその晩消えてなくなります。
引き潮が沖に流し、さらに満ち潮に乗って境川を上って、葦原で発見されたのだそうです。
人々は稀代の英雄の哀れを痛感し、ねんごろに首を洗い、丁寧に埋葬しました。
頼朝も義経の恨みを封じ込める意味で「白旗神社」の建立を認めます。
鵠沼は西行が歌ったとおりに「悲しみ」と「寂寥」に満ちた場所でありました。
 
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    池は子供達の遊び場です。ご父兄がベンチに座って見つめています
 
何時頃から鵠沼に赤い蓮を咲き始めたのか解かりません。
蓮は泥の中に根や茎を伸ばして行きます。
そして、地下茎が伸びた分、夏には見事な花を咲かせます。
とりわけ泥中から清く美しい花を咲かせる尊さが、浄土を思わせてくれます。
そう思うと鵠沼には赤い蓮が似合っていると思われます。
鵠沼の歴史が悲しい分、赤い蓮が美しいと思われます。
 
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     赤い蓮は芍薬のような印象です。地下茎に沿って、順次に花を咲かせてゆきます 
 
子供達は網を持って何やら掬っています。
大声がして、巨大なオタマジャクシを捕まえたようです。
蓮の根本では「グェー・グェー」牛蛙が唸っています。
俺の倅を苛めるな・・・・、とでも言っているのでしょうか。
 
トンボが水面をチョンチョン、尻尾で叩いています。
大きな鯉が水面の生き物を狙っています。
牛蛙とて同じです。
黄揚羽蝶や青筋揚羽蝶が泥を舐めています。
この泥には豊富なミネラルが含まれているのでしょう。
此処は昆虫にとって天国のようですが、ボヤボヤしていると直ぐに命を落としてしまいます。
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         左が黄揚羽蝶、右が青筋揚羽蝶、泥を舐めています。沼の底のこの土が蓮を育てます。
 
蓮の花は「蓮台」と言い、仏様の台座になりました。
蓮の根っこが泥中で滋養分を吸って、綺麗な花を咲かせ、仏の台座を用意してくれるのでしょう。
そんな生態が人間の共感を呼びました。
現実世界が苦界であり、汚れや悲しみに満ちていて、耐え難い・・・・。
でも、もしかしたら・・・、救済されるかもしれない。
この世界でも、又は来世では、平和で幸福に過ごせるかもしれない・・・・、思いました。
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何故かって・・・・・!
それは、蓮の花を見たからです。
泥沼に生きて、清浄な花を咲かせる・・・・、その姿を見ると、
この花をお手本に生きたい・・・・、思ったことでしょう。
自分自身も、苦界に生き抜いて、綺麗な花を咲かせて・・・・・、仏様に座って戴きたい・・・、
思いました。
 
鵠沼の沼に蓮を栽培しよう・・・・、
鵠沼住人の的確な判断だった・・・、思いました。
 
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     鵠沼で見つけたピンクの夾竹桃、原爆の花の面影は無くて・・・・、お洒落な色です。
 
 
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水金梅の花園で糸トンボの秘め事が・・・・・

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ハマユウの花の北限は三浦半島の佐島と聞きます。
「水金梅/ミズキンバイ」の北限は横浜戸塚の柏尾川と言われています。
昨今ハマユウは何処でも見られますが、水金梅は絶滅危惧種と聞かされています。
「そんな!水金梅が絶滅危惧種になるなんて・・・・、俄には信じられません」
何処にでもあった水生植物でしたから。
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今日の話題は柏尾川の水金梅です。水辺に咲く、金色の梅の花の意味でしょう。夏中咲き続けます。
 
柏尾川は度々洪水になります。
私の住む上倉田には「笈川」姓が多いのですが、徳川家康を蓑を背負うようにおぶって洪水の柏尾川を渡ったので、そのご褒美として「笈川」の姓を賜ったのだそうです。
及川と書かずに「笈」と竹冠がつくのはその為だそうです。
400年も前から洪水が頻発していたのですから、田圃が埋め立てられた現在です。
洪水リスクが増大しています。
そこで、県では5年ごとのように川底を掘りあげます。
少しでも水が良く流れるように、洪水にならないように、そんな対策です。
その度ごとに「水金梅」が掘り出されて捨てられていました。
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  水金梅の群生地、向こうの橋は「吉田大橋」、江戸情緒のデザインは安藤広重の戸塚宿「こめや/お   茶屋」が描かれたから、川に沿って鎌倉道が東海道と分岐しています 
 
もう、5年も以上前でしょうか。川底の堀上げに際して、水金梅保存プロジェクトが実施されました。
水金梅を区内の小学校の池などに植えたり、金井にある雨水調整池に大規模な移植地を用意しました。工事は区内小雀にある「生駒造園土木」でした。
移植した翌年には咲き出しました。水金梅の移植は成功でした。
でも、今では移植地は水金梅以外の植物が覆っています。
姫蒲や葦が繁茂して、水金梅は僅かに水面に漂っています。
移植地に土が埋まって、他の植物にも生育に適した環境になってしまったようです。
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   水金梅は浮き草のように繁茂しています。この下は魚や昆虫が格好の隠れ場所となっています。
 
一方、東戸塚小学校の池には見事に今年も咲いています。
子供達は池のほとりで水金梅の花の陰に居るメダカを見たり、海老つりをしたり、ヤゴを網で掬ったり・・・・、楽しんでいます。
 
一方、柏尾川では、水金梅は何時しか回復しています。
これから、9月ごろまでズット花を咲かせ続けます。
何のことは無い・・・・、人間が手を加えないところのほうが、見事に回復しているのです。
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    東戸塚小学校の池にも水金梅が咲いています。生徒は遊びながら学習しています。
 
小学校の池は水が流れるわけではありません。雨水の水溜りのようなものです。
日照りが続くと水道の蛇口を開きます。
ですから、清流とは程遠い「水溜り」です。でも、水金梅は生育しています。
水金梅は汚い水で生育して、水の汚れを除去する役割があります。
清流でない方が育つようです。
 
絶滅危惧種になった、理由は「農薬」にあったのです。
戸塚に田圃が多かった時代、頻繁に農薬がまかれました。
農薬は田から柏尾川に流れ出しました。
その結果、魚や昆虫を殺したように、植物も絶滅の淵に追いやったのでした。
都市化が進んで、田圃が無くなった、同時に川も汚れた・・・・・、でも、農薬が流れなくなった・・・。
そうしたら水金梅が復活したのでした。
今は、多分、水金梅にとって、柏尾川は最高な生育環境にあるような気がします。
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                            水金梅の横は露草が群生しています
 
私は、柏尾川の水際に降りて観察です。
水金梅は茎を浮かせて、水上を這うように広がってゆきます。
その葉裏は生物の格好な隠れ場所です。
メダカが泳いでいます。川海老がくっ付いています。
私の姿を察知すると、さっと水金梅の陰に隠れます。
 
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    水金梅に寄って来た紅蜆蝶
 
様々なトンボが居ます。
どのトンボも縄張りを持っているようで、雌のトンボがやってくるのを待ち構えています。
雄が来れば体当たりをするようにして撃退します。
もう深紅の赤トンボが居ます。
尻尾を垂直にて立てています。まるで体操で逆さに十字懸垂をしたような格好です。
尻尾の先端は雌を捕まえる「取手」があります。
そして、胸の腹寄りに生殖器があります。
ですから、雌を捕まえようと構えているのです。
その形は、「トンボ鉛筆」のデザインです。
私達はトンボが水平に飛んでいる姿を良く見ます。平和な姿です。
逆立ちしている姿は滅多に見ません。
でも、トンボ鉛筆は商標を逆立ちをした姿にしました。求愛の格好なのです。
「お客さん・・・・、私を末永く使ってください」そんな姿勢の表れなのでしょうか?
 
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                 トンボ鉛筆の商標どおりの姿で求愛(?)する赤トンボ
 
赤トンボも塩辛トンボも体が太いのですが、糸トンボは体も細く、羽も繊細です。
でも、同じように水金梅の上で求愛しています。
雌が飛んでくると、さっと数匹の雄が寄ってきます。
雄は尻尾の先の取っ手で雌の頭部を掴みます。もう逃さないぞ・・・、そんな意気込みが伺われます。
すると、雌は自分の尻尾の先端を雄の胸にある生殖器に差し込みます。
こうして雌雄が合体します。
縦長の体が合体するのですから・・・・、細い体はおおきくしなります。
しなった体はハートの形になります。
 
合体した雌雄のトンボに新たに雄のトンボが寄ってきます。
「僕にも遣らせて・・・!」そんな声が聞こえるようです。
でも、それは野暮なこと・・・・・、合体したままでハートは場所を変えます。
トンボの愛の時間は長いのです。
合体したままカッププルは水金梅の茎に止まります。
そして、雌は尻尾の先の産卵器を茎に差し込みす。
茎の中に卵を産み付けます。
産み終わったら、また体をハートにしならせて、受精します。
受精と産卵を繰り返して・・・・、役割を終えたら、死んでしまうのです。
 
 
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  このままの格好で動き回る「アオモン糸トンボ」のカップル、青いのが雄、黄色いのが雌
 
家内が用意してくれた水筒ももう残り少なくなってしまいました。
熱中症も心配です。
水金梅の花園を後にしました。
 
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   水金梅の上で一休み、糸トンボ
 
 
 
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気高く咲く「佐島の浜木綿」の花(吉野秀雄の想い)

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吉野秀雄は明治35年7月に群馬県高崎市で生まれました。
大正11年慶応義塾大学経済学部に進学します。
ところが、同13年に喀血して帰郷、長年にわたる療養生活が始まります。
発病をきっかけに正岡子規ら「アララギ派」の文学を読みます。
そして自らも歌を詠みます。昭和6年鎌倉に転居、私淑していた会津八一等に会います。
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     今日のテーマは「佐島の浜木綿」の花です。此花には歌人吉野秀雄の想いが託されています。
     背景は箱根山
 
 
昭和29年7月、吉野は友人から連絡を受けます。
「横須賀の佐島にハマユウが咲き出したらしいよ!」
鎌倉の小町に住んでいた吉野はバスに乗ります。
逗子で三崎方面行きのバス乗り換えます。
バスは葉山の海水浴場を縫って走ります。
最初は満員でした。一色海岸、森戸海岸、長者岬海岸、秋谷海岸次第に乗客は減ってゆきます。
芦屋では吉野一人しか乗っていませんでした。
バス停から坂道を下って、佐島の漁港に向かいます。
漁港の入り口に橋が架かっていて、その先が「天神島」です。
佐島の天神様の磯がハマユウの自生地なのでした。
 
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   森戸海岸の風景 左端に江ノ島が望めます
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   長者岬、その付け根高台(写真右端)にホテル音羽の森があります。手前子安の浜辺
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 佐島漁港
 
天神社の鳥居の横に吉野の歌碑と、横須賀市の解説文が建立されています。
   この島を北限とする浜木綿の
   身を寄せ合うがごとき茂りよ
   草質(くさだち)といえど 逞し浜おもと
   佐島の磯に いのち根づきし   (寒蝉集)
 
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  佐島天満宮、手前が浜木綿。森は野鳥の棲家です。この左端に吉野秀雄の歌碑が建っています。
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  吉野秀雄歌碑、浜木綿の生命力の逞しさと気高さが歌われています 
 
佐島の磯は溶岩流で出来ています。
波が浸食し荒々しい磯が広がっています。
磯と天神様の森との間の狭い空間に砂地が続いていて、海浜植物が自生しています。
今、一番目に付くのが「スカシユリ」です。
強風に耐えるために背丈は短いのですが、大輪のオレンジの花が咲いています。
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     手前が「スカシユリ」、奥が浜木綿の花
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                              スカシユリの群落、背後が天満宮の森
 
そして、浜木綿が寄り添うように生えています。
大きな緑の株は「万年青/おもと」を思わせます。
ですから姿を見れば「浜万年青/(浜に自生するおもと)」の名はピッタリです。
 
でも、浜木綿(はまゆう)が一般名です。
木綿(ゆう)とは神主さんが使う神具で、楮(こうぞ)の枝を裂いて繊維を表面にしたもの、
神主さんが振るって「お祓い」をします。
浜に咲く「木綿」のような花、と言った意味でしょう。
水仙ほど強くはありません、微かな芳香が漂います。
そして、強い光、真っ青な空、海に負けずに純白に咲いています。
 
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      佐島の浜木綿、正面の雲の下に富士山が見える筈です。左に江ノ島が見えます
 
       
吉野は浜木綿の花が咲くのを心待ちにしていたのでしょう。
そして、その姿を「逞しい」と感じ、「いのち」の尊さを感じ入ったのでした。
吉野は病根と戦いながら昭和42年(享年65歳)亡くなります。
そして、こよなく愛した「瑞泉寺」に眠ります。
山門の横に碑が立っています。吉野の生き様を表す短文です。
 
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               瑞泉寺、吉野秀雄歌碑。同寺で最も目立つ位置に建っています
 
   死をいとひ 生をおそれ人間の ゆれ定まらぬこころ知るのみ     吉野秀雄
 
その斜め向かいに吉野を慕った山崎方代の歌碑が立っています」
  手の平に豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る 
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                             瑞泉寺のある山崎方代の歌碑

きっと瑞泉寺の当時の住職が選んだのでしょう。
「吉野は生死の不安を指摘し、不安自体が人間である」と言っています。
道元さんの言葉にもあります。
一方山崎方代は「(そんな事はさておき)、毎日を大好きなお豆腐を戴いて楽しんで生きてゆきます」
そんな姿勢です。良寛さんを髣髴させます。
遊行の精神を思わせます。
 
禅の姿には「吉野秀雄」「山崎方代」二つの正反対の道があるのだよ・・・・。
貴方はお好きな方を選べばよい・・・・、瑞泉寺住職の教えでありましょう。
 
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                慶応大学の浜木綿、三田校舎南校舎前を埋めています。大学のHPから転載
 
ところで、慶応大学三田校舎の南門を入ると、土手一杯に「浜木綿」が植わっています。
学生さん達はこの花を知りません。
何故かと言えば花が咲く時期は「夏休み」だからです。
だから、この株の先を何気なく素通りしてゆきます。
 
この文章を書くに際して慶応大学のホームページで確認してみました。
すると、昭和33年大学の100周年記念事業に際して塾員「柳弥五郎氏/元海南市市長」が植えたのでした。
日吉の記念館前に植えられた浜木綿は霜枯れしてしまったが、
三田校舎は懸命な霜除け対策が奏功して見事に根付いたのだそうです。
昨今は温暖化していますので、そんな苦労も無くなったのでしょうが。
もちろん、浜木綿が芳しく、姿が尊いから選ばれたのでしょう。
「浜木綿のように逞しく、かつ知的に、純粋に生きてほしい」塾生へのメッセージでありましょう。
それは、吉野秀雄が浜木綿を愛した理由とも共通するものです。
暑い夏、青い空、紺碧の海に浜木綿は似合いすぎます。
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浜木綿は磯に咲いていてこそ、美しいものです。
 
 
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金縛り体験(幽霊の比較文化論①)

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これから数回に分けて、「幽霊を素材に日英比較文化論」を論じたいとおもいます。
まず最初に、私の「金縛り体験」をお話します。
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    幕末明治の奇人「河鍋暁斎」の幽霊図、神田川の生首を写生したと言われます。
 
幽霊の日英比較分化論
 
1、私の「金縛り体験」
私の生家は禅寺でした。二人の兄は社会人になって、大学生だった私は祖母と両親と4人でお寺を守っていました。
父は住職と言うより実業家でしたから、私は父の住職の仕事を補助していました。
簡単な通夜や棚行、近隣の仏事では小坊主の私が出かけていました。
 
初夏の今頃になると必ず「金縛り」に遭っていました。
何時も寝入って暫らく経った2時ころでした。
死に装束の男が雨戸の向こうからスッと私のベットの枕元に現れました。
私は既に目を覚ましてその男の顔を見詰めます。見た事も無い普通の男でした。
やおら男は両の腕に力をこめて私の喉元を締め上げます。
私は声を発することも、手足をバタつかせることもできません。
何しろ金縛りとかこの事で、全身の筋肉が硬直してしまうのです。
暫らくすると男は満足したかのように消えました。
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   有名な応挙の幽霊「お雪」、足の無い幽霊は江戸時代、序瑠璃が起源と言われます。でもこ       の図が美しくも恨みを帯びた表情で、上半身だけだったことから・・・・、その後の幽霊も足がありま   せんでした。
 
毎晩続くので、私は祖母に相談しました。
私の部屋が庫裏の西側の離れで、窓の外には古井戸がありました。
祖母は事なげに言います。
「ああ、霊が井戸から出入りするのだよ。でも、お前に恨みがある訳でもないから、そのうち悪さをしなくなるよ・・・。お前は大事な倅だから、心配は無いよ。」
 
そして、さらに自分の体験を話してくれました。
祖母が熱病にうなされた時の事でした。
祖母の魂は自身の体を抜けて浮遊し始めました。
遥か上方から布団に包まれた自分の体を眺めていました。
体を後にして祖母の魂は見慣れた大川の畔に来ていました。
向こう岸には実相院(祖母の実家・在世田谷)住職だった両親の姿が見えました。
祖母は懐かしさで駆け寄ろうとしました。
その時、母が手を上げて「川を渡るな!」遮りました。
ハット気づくと魂は元の体に収まっていました。熱も退いていました。
そのまま、川を渡っていたら、黄泉の国であったろう・・・、言いました。
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                 墓地の古井戸(竹で囲われています)
 
私の金縛り体験はこのように考えました。
”金縛りは体の成長が骨と筋肉とバランスが崩れた時、筋肉が硬直する現象”でありましょう。
ただその時幽霊を見たのは自分自身の潜在意識にあった「恐怖感覚」からでした。”
 
祖母が三途の川を見てきた経験も、熱病の最中に潜在意識が夢の形で現れたのでしょう。
「夢」体験が体と霊魂は別で、もしも死んでも、霊魂は生き続けて、空中をさまよい、さらにどこか「死後の世界」往くと考えました。
そうした「潜在意識」は長年民族に蓄積した「死生観」が現れるのでしょう。
私は「民族の死生観」こそ、幽霊を考える基本部分と考えます。
 
私の金縛りの体験は社会人になる頃には消えて無くなりました。
私が残虐な性格で蛇やウサギを殺したりしていれば、はたまた誰かに強い恨みを抱かれている・・・・、自覚があれば、金縛りは更に深入りしたのかもしれません。
他人の恨みを自覚していれば、金縛り体験は深入りして「幽霊」になって苦しめられた事でしょう。
幽霊は「夢」体験が深く影響しています。 
 
 
②「日本民族の死生観」
夏になると「怪談」や「オカルト話」が活発になります。
お盆になれば、「死んだら・・・どうなるの?」子供に聞かれます。
何と答えるでしょうか?
 
古代、奈良時代の人は「死んだら体は腐ります、魂は黄泉(よみ)に行きます」答えたでしょう。
ならば、黄泉は何処にあるのですか? 尋ねれば、
「この地中の奥深く、地底にあります」答えました。
それは、大地を深く観察していて、その不可思議で神妙な力を恐れていたからでしょう。
木が土に埋もれれば1年もすれば地中に腐って消えてしまいます。
ところが、其処から新しい芽吹きがあって、次世代の木が育ちます。
人間の体も腐ってしまいますが、魂は地中に一時を過ごし、再生する・・・・、考えたのは自然でした。
 
死体を土中に埋めない地方もあります。
焼けば煙が昇って、灰が残ります。魂は天上に上った・・・考えました。
鳥葬にする民族も、魂は天上に上って、いずれ下界に舞い戻る・・・・、考えました。
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霊が棲むのは山の上(京都大文字山)
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霊の行く先は海底の竜宮城?(小田急江ノ島駅)
 
また、別の地方では死者の魂は近くの山上に集まる・・・、と考えました。
山の上で子孫の営みを見詰めていて、毎年盆には旧家に戻ると考えました。
 
また、平安時代には海の底に宮殿があって、魂はその宮殿に憩うと考えました。
熊野の海は有名でしたし、平家の公達やお姫様も入水して魂の宮殿に急ぎました。
 
古代日本には以上4つの死生観がありました。
「死後は地下の世界に」考えるのは、弥生の稲作文化人の死生観と言えましょう。
「死後は天上に昇る」考えは、チベット等騎馬民族の死生観と思われます。
また、「死後は魂が山に登る」と考えるのは、縄文時代人の死生観でしょう。
「死後は海底の宮殿に」考えは南方海洋民族の死生観です。
日本列島に4つもの死生観が共存していたことになります。
それは、現在まで形を変えつつも存続してきています。
日本人の死生観を見れば「多民族国家」であった事が解ります。
 
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  日本人の死生観は水平(山と海)、垂直(天上と地下)の4方向が共存しています。これは日本  民族のルーツとも似ています。この中で地底(黄泉)が幽霊に最も多く関係しました。
 
ところが、キリスト教や仏教と言った大きな世界宗教の死生観は違っています。
死んだら・・・・、生前の行為の善悪行為によって、死後魂は別の世界に往くと考えました。
其処には時間と言う概念があって・・・、「魂の未来の棲家」が説明されました。
魂は「神の国」「仏の膝元」でゆっくり過ごす、とか地獄に堕ちる・・・と説明されました。
「天国や地獄は何処にあるの?」そんな疑問を挟む余地はありませんでした。
世界宗教は自分にとって「過去」「現在」「未来」を説明するものでしたから。
 
平安時代には日本人の死生観には「死んだら地下に、死んだら天上に、死んだら山の上に、死んだら海底に」みんな揃っていました。
そして、仏教が浸透してもこうした考えは変りませんでした。
江戸時代葬式仏教と言われた時には、仏教の方がこうした死生観に歩み寄りました。
 
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   墓地の横穴、トンネルが黄泉の国との連絡口で、此処から幽霊が現世に出現して恨みを   晴らすと考えました。(この写真と幽霊は関係ありません)
 
③「日本人の幽霊観」
死者の魂が現世に未練を残して、現れると考えたのが「幽霊」でした。
幽霊が現れるのは、現世の人に「悪い事をした」自覚や後悔がある時に出現します。
古代にはそうした自覚が無かった(そんな悪い事はしなかった)ので幽霊はありませんでした。
菅原道真も、平将門も怨霊になって祟りますが、幽霊にはなりません。
鎌倉時代、権謀術数を弄して親兄弟を殺しても、昨日の友を殺しても・・・、幽霊にはなりません。
平家物語には平家の亡霊が海中に出現しても、人に災いを為すものではありませんでした。
義経は非情な頼朝に幽霊になって祟る事はありませんでした。
頼朝も祟りを恐れて祀り篭めました。
 
 
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    妙本寺「蛇苦止堂 蛇形の井戸」、比企一族の滅亡に際し若狭局が身を投げました。
 
柳田国男は幽霊と妖怪(おばけ)を区別しています。
妖怪は一定の場所に居て不特定の人に現れます。
一方幽霊は特定の人に対して出現し、その恨みを果たすまで執拗に出現します。
その区分の中間、あいまいな妖怪や幽霊もありますが、今日でもこの区分は有効でしょう。
江戸時代には、妖怪も幽霊も大活躍した・・・・、人々の持て囃された次第でした。
御伽草子が出版され、口承で伝えられ、浄瑠璃や歌舞伎で演じられ、様々な絵師によって幽霊や妖怪が描かれました。
そうした作品(文化)が人々に評価されると、さらに文化は蓄積し・・・これでもか、これでもか・・・・、もっと恐ろしい幽霊が登場しました。
「ホラー文化」は更なる極みに向かって推し進められました。
最近では「リング」や「オーデション」が発表され、日本の幽霊文化はグローバルになりました。
日本とイギリス、洋の東西に幽霊文化の双璧があります。
 
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                              葛飾北斎、妖怪図
 
現実の人間世界は嘘や偽りに満ちています。
そこで、現世に恨みを残して死んでゆく者も数多く居ます。
そうした魂が死後の世界から現世に出現して、恨みを晴らそうとします。
それが幽霊です。
そんな幽霊の主張です。
幽霊の主張は「正しい」、死して勧善懲悪の裁きがある・・・・、
人々は納得して、拍手喝采しました。
一方では暑い夏には「怖いもの見たさ・・・・」もありましたし、
人間は誰しも「自分自身の心の奥底にある冷酷さ」を意識していました。
まかり間違えれば自分も「幽霊に苛まれるかもしれない」
人間の欲望(業とか罪)の自覚していました。
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            上村松園「六条御息所図」。明治のセンスで源氏物語を描くと・・・、こうなる。 
 
「愛を裏切られた者」の復讐の魂は、地中深く潜みました。
地下の魂が地上に現れる、その出入り口は決まっていました。
井戸や池(川)穴(トンネル)でした。出口からスーッと恨みの相手の前に出現します。
一方、人々も人間世界では嘘があっても、幽霊の主張に嘘は無い・・・、信じていました。勧善懲悪は現世では実現できなったが、幽霊になって実現された・・・・、そんな幽霊話は納得行くお話しでした。
 
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  鎌倉の心霊スポット「小坪トンネル」。通行量が無いこと、歩行者との分離帯が無いこと  から・・・・、ハットする事があります。心霊スポットは死後の世界とつながる「出入り  口」があります。
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             小坪トンネルの両側はお地蔵さんが祀られています 
 
 
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比企ヶ谷の炎(ノウゼンカズラの花)

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夏になると鎌倉の町にはノウゼンカズラ(凌霄花)の花を良く見かけます。
凌霄花と書いて「ノウゼンカズラ」と読むのは困難です。
和名が「のうぜん」で漢名が「凌霄花」なのでしょう。
凌の字は「凌駕」の「凌(しのぐ)」、「霄」は空の意味ですから、夏空を凌ぐように咲く花の意味でしょう。
”紺碧の空を覆うように、炎のように鮮やかな色で咲く花・・・”そんな事になりましょう。
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                         鎌倉比企ヶ谷にある妙本寺に咲く 凌霄花(ノウゼン蔓)
 
鎌倉の比企ヶ谷「妙本寺」に名物の凌霄花があります。
二天門の下に、まるで仁王像のように左右に咲いています。
前は桜の木に絡んで咲いていたのでしたが・・・・、何時しか桜の古木を覆い尽くしてしまいました。
そして、凌霄花の毒が桜を枯れ死にさせ、今では桜の姿が隠れてしまいました。
左右どちらの凌霄花についても棚を用意しなくてはならないようです。
 
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    この凌霄花の真ん中に桜の幹があります。花の毒で枯れ死にしてしまったものです。
 
私の母が友人から凌霄花の苗を戴いて、本堂の前に植えました。
直に大きく育って、お盆の季節には見事な花を咲かせました。
私が余りの美しさに見上げていると、「見上げては駄目だよ・・・!」咎められました。
「凌霄花の露には毒があって、目に入れば目が潰れる、・・・」と。
そんな怖い花なら、お寺には相応しくないな・・・・、思いました。
でも、凌霄花の花は何処かで見た色だな・・・・、思っています。
 
凌霄花は愛染明王の体の色、不動明王の光背、火炎の色です。
「緋色」で、煩悩を焼き尽くす色です。

 
1203年、建仁3年9月、比企ヶ谷は戦火で炎上します。
今でこそ古刹「妙本寺」がありますが、此処は比企一族の館がありました。
 
比企義員は頼朝の蜂起を支えた有力御家人でもありました。
娘の「若狭の局」は源頼家に嫁し、長男「一幡」を産みます。
将軍頼朝の外戚として筆頭御家人の位置に居た北条時政でしたが、
その地位は比企義員に奪われる事になりそうです。
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ところで「親と子が争った時、貴方ならどちらを味方しますか?」
尋ねられれば、大半の人は「子を応援する」と答えるでしょう。
まして自分が母親ならば、子供を守るのが自然です。
ところが、頼朝の妻政子は違いました。
 
頼朝が事故死して、長男の頼家が征夷大将軍に着任します。
この時点で、将軍家の独裁体制を継続するか、
それとも有力御家人の合議体制にするか・・・紛糾します。
北条時政は御家人の合議体制を主張、一方頼家は父頼朝のように実権を掌握しようとします。
両勢力が拮抗します。
 
政子は、両勢力の調停役を担います。
倅頼家の期待を担い、一方で父北条時政らの注文を聞きます。
しかし、その役割を果たしえず、父北条時政の陰謀を黙認してしまいます。
時政は比企義員を名越の私邸に案内し、惨殺してしまいます。
そして、他の御家人と連携して比企ヶ谷の一族を攻め立たのでした。
若狭の局は井戸に身を投げ、一幡の小袖も焼けて発見されます。(比企の乱1203年、建仁3年9月)
 
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       凌霄花の後ろの五輪塔、塔婆が祀られています。これが6歳で亡くなった一幡の墓です。
 
比企一族は滅亡し、頼家は修善寺に配流され、さらに時政の刺客によって殺されてしまいます。
比企能員の末子「能本」はこのとき、満二歳でした。
出家し、更に日蓮の弟子になります。
義員の私邸跡に妙本字を建立、その慰霊に務めます。
 
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    アジサイの陰の並ぶ五輪塔が比企一族の墓
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                                 若狭の局が身を投げた蛇苦止堂「蛇形の井戸」
 
政子は次男実朝を将軍にします。
しかし、実権は既に北条一門に移っていました。
実朝(三代将軍)は公曉(くぎょう)によって暗殺されます。
政子は「尼将軍」として実権を掌握します。
一方、実朝の首は公曉が持って彷徨します。
秦野の山の「御首塚」(みしるしづか)に埋められています。
 
政子の子供は二人とも将軍にはなりましたが、非業の死を遂げています。
政子は実朝の墓(寿福寺)の隣に眠っています。
子供達への罪滅ぼしでしょうか・・・・、
でも「実朝よ、お前にも気の毒な事をした。」と言おうにも実朝には首が在りません。
 
源頼家の墓は修善寺温泉、惨殺された湯船を見下ろす高台にあります。
 
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            凌霄花の花の色は愛染明王の色(緋色)です
 
政子がその罪の深さを責められているように思います。
「罪の深さ」を仏教では「業」と呼ぶのでしょう。
業を消滅させるには「禊(みそぎ)」では及びません。
火炎で燃やし尽くすしか術は無いようです。
 
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                                凌霄花には何故か黒い揚羽蝶が集まってきます
 
 
 
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