Quantcast
Channel: 仮想旅へ
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live

香集寺「百観音」

$
0
0
 現代は全国各地に百観音が見られます。
神奈川県では金沢文庫称名寺の裏山に百観音が祀られています。
作られたのは戦争の足音の忍び寄る昭和10年でした。
 
百観音とは観音様の霊場を1箇所に祀ったものでした。
江戸時代霊場巡りがブームになります。
西国33箇所、坂東33箇所、更に秩父に34箇所の霊場が選ばれて、霊場を巡ればその御利益があると信じられました。
観音霊場を巡れば、自分自身が極楽往生出来る・・・・、ことも子孫が繁栄する事も・・・・、
様々な願いが叶えられると信じられました。
 
イメージ 1
  今日の話題は酒匂川を見下ろす「香集寺」の百観音像、上段は東名高速道路の遮音塀です。
 
でも、33観音の霊場を巡る事は旅の路銀も必要ですし、まして働かない時間が長くなります。
願いは誰しも持っていても観音霊場を巡れる人は稀でした。
一方、江戸幕府が磐石の体制を敷くと築城は無くなりました。
修理するのにも幕府の許可を必要としました。
お城の石垣や基礎作りで、石工は増えていましたが一気に注文が無くなってしまいました。
そこで、彼等は橋の建造、溜池の整備・・・・・、そして石仏作りに転出します。
 
石仏を作って歩く「石工集団」が登場します。
関東で活躍したのは高遠等の信州の石工、そして上州の石工でした。
長野県佐久市鳴滝の岩尾の百観音は大永5年(1525)の作と刻まれています。
現在はこの百観音が最古のものではないか・・・・、思われています。
今年6月末には佐久に隣接する望月に行きました。
その高台に「昭和望月百観音」が祀られていました。
案内には、奉納したのは望月の郷土の5人、彼らが「昭和末法に世相を嘆いて、昭和63年発願、平成1年奉納した」記されていました。
佐久は流石に石仏のふるさと、最も古い百観音、最も新しい百観音、揃っているのかな・・・、思いました。
イメージ 2
               望月を佐久の岩村田に行く途中、山中に「昭和望月百観音」があります。
 
神奈川にも新しい百観音を見つけました。
場所は東名高速大井松田のICを降りて高速道路の下を少し御殿場方面に行った所に在ります。
東名高速道路の厚木・御殿場間の道路拡幅によって香集寺は過半が道路用地になってしまい、
移転する事になったのでした。
香集寺(曹洞宗)は大雄山最乗寺(道了尊)を建立した了庵慧明禅師が建てたお寺です。
古いお寺さんでしたが、道路拡幅の為にはいた仕方ありません。 
その結果、現在地に新築整備されたのでした。(平成1年10月)その折に、境内西側の回廊際に百観音像を祀りました。
 
イメージ 3
    香集寺の本堂、左上に東名が見られます。左側の回廊に沿って百観音が並んでいます。
イメージ 4
     規格が揃っているばかりか、表情も似ています。 
 
四角い基台石の上に丸い石を載せ、その上に観音像を祀っています。
丸石には観音霊場の名とご詠歌が刻まれています。
百体もの観音像が一列に並んだ様は壮観であります。
誰が、何処で刻んだのか、何処の石を使ったのか気になります。
丸い石は黒くて火成岩のようですし、観音像は白くて柔らかい凝灰岩の一種と思われます。石の産地も違う、大量生産技術が活かされた百観音のようです。
それはそれで、昭和を記念する観音像でよいものでしょう。
観音様の表情も、持物の細部も丁寧に刻まれています。
 
イメージ 5
 
「昭和の石工もやるじゃないか・・・・・!」
そんな観音様群です。
東名高速拡幅によって、お寺は立派になりました。
お寺に墓地を求める人も増えました。
何しろ、新宿から1時間足らずで墓参できるのですから、鎌倉の霊園よりずっと便利です。
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

初めての「子供神輿」

$
0
0
私は、町内会長になって今年で9年目です。
「任期は2年、ただし重任を妨げず」が規約です。
ですから、2年やって、後任者が見つからなければもう1期やっても良いです・・・、そんな考えでしょう。
9年もやっては地域にとって良い事ではありません。
ですから、毎年辞意を表明しているのですが・・・・・、
慰留されて、「それだは後任が見つけられるまで・・・・」言っているうちに、もうじき10年になってしまいます。
 
私に住む町は横浜の戸塚駅東口を降りて、柏尾川を渡って、県道「柏尾大船線」に沿った約一キロの区間です。
町名は「上倉田西町内会」です。
北に吉田町、南に下倉田町、豊田町、ずっと南に公田町など「田」が付く地名が続きます。
奈良時代から「柏尾川に沿った田園地帯」であったのでした。
倉田町はお米を納める「倉」があったからこの名が着いたものと思います。
 
イメージ 9
      新品の子供神輿の組み立てから始まりました。
 
一帯の鎮守が「子之八幡社/豊田村社」であります。
戦前までは「豊田村字上倉田」でしたが、人口増加に伴って町名が細分化、
上倉田も30年前に東西南北の4町に分裂しました。
町内会活動の「最適活動が500戸程度」と考えたのでしょう。
その時から上倉田西町内会には「お神輿」がありませんでした。
「お神輿を担ぐ人が居ないから・・・・・」
そんな理由で「お旅所を設えよう・・・」「子供神輿を担ごう・・・・・」そんな意見を退けてきました。
それでも、子供神輿を担ぎたい・・・、
そんな子供たちはお隣の上倉田東町内会のお世話で、担がせて貰って来ました。
 
イメージ 10
   お旅所ではお神輿の飾りつけはこれで良いのだろうか・・・、喧々諤々神道の勉強です。でも地方によって飾   りつけが違うので・・・・、相模方式に統一する事にしました。この後野菜等神様のお供え物に議論が移りま    した。
 
子供の数も減ってきました。
そして、町内も隣近所の交流も減って・・・・、火の気が消えてきました。
町内会活動も、人員の動因に苦労するようになって、低調になってきました。
一方、家に閉じこもった孤独な老人も増えています。
「町を元気にする・・・、顔見知りになる、親睦を進めるには」
課題になっていました。
 
イメージ 3
この、左から二番目が内の町内のお神輿で、新品なんだ・・・・!
 
せめて「子之八幡社の夏の例大祭」で子供神輿を担いで、そのお神輿の為にお旅所を設えたら・・・、
考え、毎年のように「課題」にしてきましたが・・・、前述のように「担ぎ手が居ないので・・・」
却下されてきました。
 
ところが、今年の子供会会長が言って来ました。
「会長、お神輿買ってくださっらた、子供会で担ぎます!」
長年の障害が溶けました。
上倉田西町内はお金持ちです、子供神輿を買うお金はあります。
今年度の予算に「お神輿予算」を計上し、総会で承認してもらいました。
そして、青少年指導員会長に「お祭り委員会」を組織してもらい・・・、
その傘下で、子供会会長にお神輿委員会を、
世話役(老人会)にお旅所委員会を運営してもらいました。
イメージ 4
      お旅所から神輿担ぎのウォーミングアップ開始です。先ずお父さんに教えます。
      お旅所は町内の大工さんの駐車場です。町内の皆さんのお世話になって、ようやく実現です。
 
4月以降、再三協議会を催し・・・・、ようやく、8月の第一土曜日、例大祭になりました。
朝、8時倉庫に収めて置いた「新品のお神輿」を出して、組み立てます。
漆の香りが嬉しいものでした。
誰もが始めてですから・・・、ああじゃない、こうじゃない、大変です。
曲りなりに組み立てて・・・・・、10時に始まる御霊入れの神事に間に合わせます。
真新しいお札を戴いて、納めます。
 
神事が終わればお旅所に移って頂き・・・・、町内にお披露目です。
お神酒に、お米、塩を盛ります。
でも、三宝の用意も、土器の用意もしてありません。
有り合わせで、神様には勘弁していただきます。
何しろ・・・初心者ですから・・・・・・、来年はバッチリ用意させて頂きます。
 
イメージ 7
 
午後1時、子供会のお母さん、お父さん、子供が集まってきます。
既にハッピを子供会に預けていますから、皆さん新品に袖を通しています。
手ぬぐいも・・・・、若い人にはお似合いです。
お神輿を担ぐ講習会が始まります。
先ずはお父さんにやってもらって、
次いで子供たち、
神様は元気な掛け声が、鳴り物が、お好きです。
神輿は勢い良く、上下に揺らさ無ければ、ご機嫌が斜めになってしまいます。
激しく揺すって、声を出して・・・・練習です。
イメージ 8
  この路地を担ぎます。この道が奥州古道で坂上田村麻呂や藤原実方、西行が下りました。
 
東戸塚小学校の樋渡副校長も担任の先生とご一緒に、子供たちの応援に来られました。
子供たちも、一層張り切って、掛け声を発し、お神輿を揺すって担ぎます。
イメージ 6
                   お神輿は鎮守の森に帰還です、石段を登るのはお父様にお任せして・・・。
 
午後3時、鎮守の森に帰って「お神輿帰還祭」の神事です。
子供たちは汗だくです。
お父さんも紅潮して、お母さんが汗を拭く姿も、少し色っぽいです。
炎天下、祝詞を奏上して、玉串を奉奠して・・・・・、お宮に神様がお戻りいただきました。
イメージ 5
子供達は何れ知るでしょう「神事は日本の美俗だと」・・・・、
先ずお祓いに始まり、炎天下の帰還祭の始まりです。
 
子供たちには子之八幡社からノートのプレゼントを戴いて・・・・、
親子してお旅所に戻って、反省会と称して慰労会です。
先ず子供たち一人一人に「おひねり」を上げます。
ポチ袋の中に、百円玉が3枚です。
「3百円だ!」 子供達には喜んでもらいました。
イメージ 2
                      「ああ、疲れた・・・・、ジュースが美味しい、」  無事に終わりました。
 
冷たいビールを戴いて・・・・、
おつまみは十分あります。
なにしろ、お旅所の背中(表通り)はセブンイレブンですから・・・、足りなくなれば買出しです。
「来年もやろう!」お約束して、一本締めで終わりました。
お神輿の収納も、テントの収納もして、最後は椅子テーブル(借り物)をお返しして・・・、おしまいです。
 
初めてのお神輿はいろいろ勉強でしたが・・・、楽しいものでした。
私も、そろそろ引退させ戴く時期が来ているようです。
モウ、やりたい事は殆どしてしてしまったのですから。
 
イメージ 1
                                  夜は盆踊りに興じて、地域のお祭りを楽しみました
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

丹沢湖の湖底に沈んだもの

$
0
0
英国のエコノミスト誌の調査によると、「世界の住みよい都市ランキング」で大阪は12位だったそうです。
日本で「最高に住み良い都市」と評価されました。
この結果にケチをつける気持ちはありませんが・・・・、日本人にとっては意外な結果ではないでしょうか?
だから、TVなどでニュースになりました。
 
生活するうえで重要な「物価」「安全」「税金」「上下水道・電気など普及率」を指標化して比べたものだそうです。
日本の東洋経済が発表する「住みたい都市ランキング」を見れば、
首都圏の近郊都市(吉祥寺など)や琵琶湖周辺の都市(草津など)が上位になっています。
 
私は大阪に2年住みました。
札幌や福岡にも住みました。
私の評価では、札幌や福岡は大阪の上位にあります。
「空気が美味しい」「水が美味い」「景色が良いか」の点で札幌などが優れているからです。
 
イメージ 1
                        横浜の水瓶、丹沢湖。水が土色なのは大雨が降った後だから・・・。
 
横浜の優れている点は「水が美味しい」という事でしょう。
一昔前、水は相模川水系の相模ダム・城山ダムから給水されていました。
しかし、昭和30年代後半からの重要の増加によって新しい水源の確保が急務になりました。
この時に酒匂川水系が注目され、西丹沢の山間に多目的ダムが建造される事になりました。
当初の名前は「酒匂ダム」、実際につけられた名前は「三保ダム」でした。
三保は湖の底に沈んでしまった村(120戸)の名前でした。
三保の名前自体は、玄倉川(くろくら川)、世附川(よづく川)、中川の、
三つの川の合流地点だったからついたのでしょう。
河川は丹沢の山間から流れ出します。
沢登は丹沢の楽しみの一つです。
急峻で滑りやすい沢を登る楽しみは、一方で毎年滑落事故を起こしています。
総て「水のお陰」です。
イメージ 2
   丹沢の西、山の懐に丹沢湖があります。夏は林間学校やキャンプで賑わいます。
   でも、国道246から折れた、道のどん詰まりにあるので、訪れる人も少ないのです。
 
三保ダムで堰きとめられて、丹沢湖が出来ました。
湖岸に三保の庄屋屋敷に移築、保存しました。
 
イメージ 5
     丹沢湖の湖岸に三保村庄屋屋敷を移築、記念館として展示しています。
 
 
屋敷の中に三保村の歴史や風俗を展示しました。
「美味しい水」「電力」「洪水の危険性」・・・・・、下流に生活する人達為に三保村は犠牲になりました・・・、
今も訴えています。
セピア色にくすんだパネル写真は興味深いものがあります。
 
庄屋屋敷の隣に丹沢湖ビジターセンターがあります。
此方では物産の販売や生物などの案内をしています。
私は「三保村の石仏」の移転先を職員に尋ねてみました。
「道祖神は3基、湖岸にある」マップに記して下さいました。
馬頭観音は・・・・・、親切に案内してくれましたが・・・、なかなか見つかりません。
1箇所に集めようとしたなら・・・・庄屋屋敷の庭先や神社の境内でしょう。
湖の底に沈めてしまうのは、非情です。
でも、1箇所に集めたりせず、湖岸の道路に移したり、そのままに残したようです。
イメージ 6
    丹沢湖記念館内部、土間に生活道具や写真が展示されています
イメージ 7
   自在鉤(じざいかぎ)の魚に角が二本も生えていました。
   百万遍念仏も「悪魔祓い」、悪魔(鬼)に角は欠かせません。
 
最重要であったのは三保村世附の菩提寺「能安寺」の動向であったのでしょう。
同寺では南北朝時代から「世附の百万遍念仏」が行われてきました。
先祖の霊を慰め、地域の安全と悪疫退散を願う神事(仏事?)でした。
写真で見れば、大きな念珠を沢山の村人が送って念じます。
また、お神楽を奉じます。(無形民俗文化財)
そして、幣束(へいそく)を持って家々を回って悪魔を祓い、最後に幣束を川に流します。
 

 
能安寺の住職の生活は多分寺の行事では成り立たず、農業など他の仕事をして、
週末に仏事を兼業していたのでしょう。
そこで、ダムの計画が持ち上がり、移転が問題になりました。
 
大半の村民が山北など麓の町に移転しました。
そこで、企業に勤めたりしたのでした。
能安寺だけが湖岸に移り住んでも、生活が成り立ちません。
山北町向原地区にお寺ごと移転しました。
村を離れた人達は昭和52年から寺に集まって、百万遍念仏を奉じています。
 
イメージ 8
  能安寺の百万遍念仏、踊りはお神楽で、大きな念珠も見えます。
  南北朝時代から700年余り続く神仏混交した「悪魔祓いの祈り」です。
イメージ 9
                        山北の東名高速道路下に移転した能安寺(最近案内した香集寺の隣)
 
 
イメージ 10
       三保村の写真。
イメージ 11
       農家の写真、廊下を追いかけっこしている兄妹、軒裏は養蚕の棚が設えていました
 
今年5月ショッキングなニュースが流れました。
丹沢の新茶に基準値を越す放射能が確認された・・・。
市場に出回っていたお茶は急遽回収されました。
お茶の木は深く刈り込まれて、丸坊主にされました。
葉っぱには放射能を含んだ塵が降りかかっていて、
葉の内部にも放射能が含まれている・・・・懸念したからでした。
 
イメージ 4
   庄屋屋敷の部屋には蜘蛛の巣が張っていて、何度も顔をやられました
 
丸坊主にされたお茶の木は慌てて芽を吹いて、新しい葉を広げました。
今のところ、新葉に放射能は確認されていないようです。
次の心配はお米が放射能に汚染されていないか・・・、心配です。
 
放射能は天空から雨と共に降って来て、稲の根から吸い上げられます。
葉っぱから水は蒸散します。
結果、葉っぱの内部に放射能が蓄積されます。
葉の光合成で作られた澱粉は水に溶けて、お米(種)に蓄えられます。
この時、放射能も葉っぱから種にどの程度移るかが問題です。
 
昔の悪魔は「いもち病」であり「疱瘡」でした。
悪魔は幣束で集めて、最後は水に流してしまいました。
最新の悪魔(放射能)も水で流してくれるはずです。
水で解決してくれるはずです。
そうは思いますが、今しばらく心配です。
 
イメージ 3
              この辺りは美しい馬頭観音が目立ちます。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 

コンクリート護岸に咲いた花(柏尾川)

$
0
0
柏尾川は横浜市戸塚区の柏尾辺りから流れ出し、藤沢で境川に合流し、江ノ島の海に注ぎます。
境川の合流地点まで、全長11キロの2級河川です。
昔から度々氾濫し、再三堤防の嵩上げ、川底の掘り下げ等の治水工事を続けています。
一時はコンクリートで護岸され、水も汚れていましたから、市民にとっては近寄り難い河川でした。
ところが、最近はボランティア団体や小学校の生徒が清掃したり花を育てたりしています。
水も綺麗になり、魚や昆虫も増えました。
野鳥も目だっています。
様々な市民が川に戻ってくるようになりました。
 
イメージ 1
      遠くの橋が吉田大橋、安藤広重が戸塚宿で描いた「米屋/茶店」がありました。
イメージ 7
                   戸塚宿、吉田橋の袂に茶屋があって、左折「鎌倉道」、真直ぐ行くと京へ
 
先日の大雨で心配された水金梅の花も、花こそ流れてしまいましたが、草自体は少しも傷みませんでした。
モウ、大雨以前の花を咲かせています。
蒲の穂も日に日に伸びて、目立ってきているようです。
 
イメージ 2
                   コンクリート護岸の隙間に根付いた垣通し(?) こんなに背丈が低いのは・・・・、
 
川は蛇行しています。
蛇行して流れが強く当たる辺りの堤防は、上から下までコンクリート護岸されています。
亀の甲羅のような模様が辺りを覆っています。
甲羅はコンクリートで出来ています。
その甲羅の継ぎ手に少し隙間があるのでしょう。
隙間に様々な植物が根を張って生きています。
根を出して、コンクリートの先は柔らかな土なのでしょう。
水分も、栄養分も豊富なのでしょう。
だから、その僅かな隙間に発根できれば・・・・・、
コンクリートの護岸は意外と植物にとって、天国なのかもしれません。
 
イメージ 3
   コンクリートブロックの隙間に根付いた花木、花はムクゲに似ていますが・・・、
 
 
昼顔のような蔓性植物が多いのですが、
木も生えています。
吉田大橋から駒止め橋の間に、意外な花が咲いています。
一見してムクゲの様な花なのですが、少し花自体も小さいし、木も太らないようです。
大水が出ても、流れに逆らないしなやかな幹です。
でも、数年毎に治水課職員が伐採しています。
だから、眺められるのは何時までなのか解りません。
7,8本はあるようです。
多分、上流の家の庭から種が流れて、この亀模様の隙間に落ち着いたのでしょう。
 
イメージ 4
 
何処かで見たような花なのですが、名前はわかりません。
東慶寺の紋を潜った辺りに似た花を見た記憶がありますが・・・・・。
名前がわかるまで、このままブログに載せておきましょう。
 
イメージ 5
                                       こんな状態で7,8本根付いています。
イメージ 6
      此方がムクゲです。
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 
 
 
 
 

八幡宮の「雪洞祭り」は「復興の誓」

$
0
0
奈良の春日大社では「節分万灯篭」、「中元万灯篭」が行われます。
もう、800年の歴史のある行事です。
節分には「豊作」を、中元には「祖霊への感謝」を祈り祀ったものでしょう。
春日の森に3000基もの吊り灯篭、石灯籠に灯がともされる姿は幻想的です。
 
京都では五山の送り火、灯篭流しも予定されています。
今年は震災で枯れた松を焚く予定であったところ・・・、放射能騒ぎで取りやめたとのこと。
面倒臭い議論が百出する事を避けたのでしょうが・・・・・、
当初プランは良く出来たプランだったと思います。
 
イメージ 1
                    太鼓橋の向うから雪洞が並びます。正面が社殿
 
奈良や京都の火(灯)祭りには及びませんが、鎌倉では「雪洞(ぼんぼり)祭り」が行われます。
先の大戦の足音が大きくなった1938年(昭和13年)に始まる、約70年の歴史です。
 
8月の立秋を挟んで前後3日程度催されます。
私は昨年はじめて訪れ、少なからず感動しました。
春日の万灯篭に行けなくても、鎌倉の雪洞祭りをエンジョイしよう・・・・、
家内の都合で最終日の昨晩(8月9日)訪れました。
 
イメージ 2
                             巫女さんが雪洞の中に据えられた蝋燭に灯を燈して回ります
 
 
6時半過ぎ、夕闇が迫ると数組に分かれた巫女さんが手分けして雪洞に灯をともして回ります。
綺麗な巫女さんが灯をつけて回る姿は童謡のひな祭りを思い起こします。
「灯りをつけましょ、ぼんぼりに・・・・」
 
でも八幡宮の雪洞は提灯形ではなく、四角いのです。
灯火のつく「キャンバス」です。
雪洞は400基、太鼓橋を渡った参道から社殿まで並びます。
此処はA3サイズの縦型の雪洞です。
更に、参道にクロスする流鏑馬道にも雪洞が並びます。
此方は二周りほど小さいA4横型の規格です。
後藤純男氏(画家)など二つの雪洞を出されていられる方も居られますが、大半は1基のようです。
 
イメージ 3
        金魚屋の看板も雪洞風で情緒があります。浴衣のお嬢さんが可愛らしくて・・・。
 
今年は「大震災」がありました。
日本人の心を翳らしています。
多くの雪洞が「鎮魂」であったり「復興」であったりします。
 
鎌倉の人達誰しもが心を一つにしたのが、800年前の元寇でした。
鎌倉の寺社を初め其処此処で「天災回避」を祈りました。
そして、その次は先の大戦だったのでしょう。
更に、今回の大震災・・・・。
危機がある度に心を一つにして、災難に打克つ事に集中します。
 
イメージ 4
      鎌倉は石原都知事(湘南高校卒)も青春を過ごしました。(手前石原都知事の雪洞)
 
雪洞を眺めていると思います。
これは市民(描いた人)から祖霊(神)への「絵手紙」なんだな・・・。
神はみんなの神ですから、市民は絵手紙を確認する事が出来ます。
そして、様々な思いに、それぞれに共感します。
私も、復興を祈る気持ちに・・・、「その通りだ」思います。
有名な人と、名も無い私が気持ちは変らない・・・・、確認すると嬉しくもなります。
 
イメージ 5
   手前 養老孟司(栄光学園卒)の雪洞。誰もが嫌いな「亀葉コムシ」を描かれました。
   私は月山(森敦)を思い出しました。
 
日が沈んだ7時、舞殿で筝曲演奏が始まりました。
演奏は森川浩恵氏でした。(公式サイトwww.morikawahiroe.com)
古典的というより「現代音楽」のような演奏でした。
美しいドレスの袖や裾が振るわせて、、熱演でした。
沖縄民謡(?)も歌われて・・・・、17弦のお琴と普通のお琴を一人で奏でました。
舞殿前庭で観させて頂きます。
 
イメージ 7
                           舞殿でお琴を演奏しているのは森川浩恵氏でした。
 
けれども、夕凪で暑い事暑い事・・・・、今日は猛暑日、その名残です。
 
人波に推されて、社殿に登ります。
舞殿の上、ほんの20メートルもあがっただけですが、風が吹いています。
由比ガ浜から吹いてくる「海風」が、秋が忍び寄っている事を教えてくれました。
 
昨年は大銀杏が倒れました。
しかし、絶命と思われた銀杏は新しく息吹いています。
ここ数年、自然(神)は何度も警告を示してきていたようです。
しかし、驕い高ぶる私達は神意に気付かなかったようです。
銀杏をお手本に、復活したいものです。
 
イメージ 6
 
 今日は全体の雰囲気を報告しました。明日は有名人の作品を載せさせていただきます。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

画家達の「雪洞」(鶴岡八幡宮)

$
0
0
明治22 年(1889 )に横須賀線が開通します。
名前の通り、海軍の拠点であった横須賀港と都心を結ぶ「軍用鉄道」でした。
でも、横須賀線開通により沢山の文化人が鎌倉や逗子に住まわせる事になりました。
鎌倉は都心に近い事、保養地としても格好の町であった事、そして文化人を刺激する「歴史と革新」がありました。ですから、文化人は競って鎌倉に住みました。
昔から、鎌倉には革新の気風がありました。
 
イメージ 1
                               昨年円覚寺の新管長になられた横田南嶺さんの雪洞。
 
文学では里見に始まり、 真船豊、大佛次郎、久保田万太郎、川端康成、中山義秀等が鎌倉に住まい、
様々な活動をします。
一方画家達は文学者のように集まる事は無かったようですが、多くの人がアトリエをかねて鎌倉に住みました。
日本画の伊東深水、小倉遊亀、鏑木清方等が鎌倉に住みました。
とりわけ、法隆寺の壁画に携わった前田青邨が鎌倉に住んだ事から、
平山郁夫を初め日本画の主流が鎌倉に集まりました。
その平山画伯も昨年亡くなられたものの、そのお弟子さん(村田林蔵など)が鎌倉に住んでいます。
更に小泉淳作、中島千波などの大家が住んでいられます。
イメージ 2
                                                  中島千波画伯の雪洞
 
また、横山隆一(漫画ふくちゃん)等の漫画家、大船に松竹撮影所があったことから、
俳優が監督にも馴染みな町でありました。
イメージ 8
                                                竹宮恵子さんの雪洞
イメージ 9
                                                   新藤兼人監督の雪洞
 
そうした人達が雪洞祭りに参加されます。
 
今年も、鶴岡八幡宮に400基もの雪洞が並びました。
院展や日展に行けば、どこか疲労感が溜まります。
それは各作家が「今年は自分が大賞を受賞するぞ!」そんな意欲が集まっているからでしょう。
雪洞にはそんな意欲や野心はありません。
ですから、雪洞を見て歩くのは「心地良い」のです。
 
各人が八幡宮の闇の中にぼんやりと浮かび上がる雪洞をイメージして、作品に取り組みます。
八幡宮の神に奉げる絵は、まるで「絵手紙」です。
絵手紙は私達市民にもメッセージとして伝わります。
 
イメージ 10
      故郷中尊寺金色堂を描いた村田林蔵画伯の雪洞
イメージ 11
                                     後藤純男画伯の雪洞(奈良法起寺と思われます)
 
今年の雪洞祭りは昨年とは大違いです。
村田画伯は故郷の中尊寺を描いておいでです。
見ると、中尊寺は震災で大過なくて良かった・・・、思いますし。
この美しい景観を長く伝えたい・・・、思います。
その為にも、被災地の復興を願わずには居られなくなります。
それは、見る私達の方にも、そんな想いがあるからでしょう。
日本人は戦後暫くの間は心を一つに、日本の再興と新しい価値観(平和主義)の実現にいそしみました。
今、再び心を一つにする機会が来たようです。
 
この雪洞、大変な価値でしょう。
過去70年間の作品展を鶴岡会館で毎年展示しています。
此方も楽しみですが・・・、やはり雪洞は灯が燈されると、強い印象が残ります。
 
イメージ 12
川井郁子さん(バイオリン?)の雪洞
イメージ 3
小笠原宗家(弓道・鏑流馬)小笠原清忠氏の雪洞
イメージ 5
朝丘雪路さん(お父様は伊藤深水画伯)の雪洞
イメージ 6
長純士郎画伯の雪洞
イメージ 7
三塩清巳画伯の雪洞(裏磐梯)
イメージ 4
再び村田林蔵画伯の金色堂の雪洞
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

武田薬品湘南研究所はディスクロに本腰を入れて欲しい。

$
0
0
柏尾川沿い、藤沢市村岡に武田薬品工業湘南研究所が完成しました。(平成23年2月)
建設中から、「一体何が出来るのだろうか?地域にとって危険は無いのだろうか?」
心配する声がありました。
私が突然に訪問しても、怪訝に思われるだけだろうな・・・、想像出来ましたが・・・、
「まあ入ってみるか!」
受付に「見学したい!」申し出てみました。
イメージ 1
    藤沢市村岡にある「武田薬品湘南研究所」に偉容。(同社パンフレットの表紙から)
 
藤沢駅西口を出て、大船駅西口に向かう道路を凡そ20分歩くと研究所に出ます。
道の名前は「弥勒寺商店街」、村岡には日蓮宗の古刹弥勒寺があります。
その為でしょうか?
この通りには百日紅が街路樹に植えられています。
白、赤、に加えて薄紫の花も咲いています。
まるで、ライラックのようです。
百日紅は武田薬品前まで続いていますので、同社が寄付したものかもしれません。
 
イメージ 3
 百日紅の街路は藤沢駅から武田薬品前まで続いています。右手が武田薬品湘南研究所です。
イメージ 4
                             武田薬品湘南研究所の全景。窓の少ない建物です。
 
 
受付でカードを書かせられました。
住所、氏名、電話番号、役職を書くようになっていました。
役職は・・・、少し考えて隣町(上倉田)の町内会長・・・、書きました。
すると、担当課に電話して、扱いの指示を受けていました。
その結果を私に伝えました。
「当所は工場見学はしておりません。施設概要のパンフレットをお持ち帰りください・・・」
私が、
「バイオや細菌研究など・・・、伺えますか?」訊けば、
「此処に書かれた事以外は解りません」
 
普段着の私に対しては冷たいものです。
受付は外部委託していますので、そんなものでしょう。
私の武田薬品のイメージが壊れた瞬間でした。
 
イメージ 5
公聴会や環境アセスメントを求めた市民運動(湘南ファイブのHPから転載)
 
 
私が長銀大阪支店に勤めていた頃、御堂筋を少し下ると武田薬品の本社がありました。
奈良の南、大宇陀や葛城は我が国漢方薬の故郷です。
1781年(天明1年)近江屋長兵衞は奈良から大阪の道修町に出て、店舗を構えました。
薬の仲買商店でした。
4代目から武田姓に改め、「近江屋」から「武田長兵衞商店」に名を改めました。
そして、日本一の薬品会社、世界トップレベルの高収益会社(薬品会社として)に成長、
今年は創業230年を迎えたのでした。
 
イメージ 6
      湘南研究所の威容。(同社パンフレットから)この軍艦のような建物は市民の不安感を掻き立てます。
 
英文と日本文と併記されたパンフレットを持ち帰って、読んでみました。
日本各地に散らばっていた研究施設を湘南に統一した事、
湘南は大学や病院にも近い事から研究開発には適当であった事・・・など書かれています。
建物は表から「化学実験棟」「生化学実験棟」一番奥に「動物棟」の順に並んでいます。
5階建ての建物は同一研究部門の縦の動線で、異なる研究部門は横の動線で繋がれているのだそうです。
研究のシステム工学としてよく検討されている事が伺われます。
 
でも、パンフレットには「地域と共に・・・・」大書されています。
これは「今後の課題」としてしか思われません。
巨大な研究棟の中で行われる実験が、地域にとって「安心・安全」であるのか・・・、地域は懸念しています。
少なくとも、ディスクローズする体制は出来ていません。
 
イメージ 7
                                        古刹、弥勒寺。商店街の名前にもなっています
 
でも、藤沢市には30億円の税を払っているのですから・・・、地域に貢献していますし、
税収減に悩む鎌倉市にすれば羨望の研究所でありましょう。
柏尾川の西が藤沢市村岡、東が鎌倉市手広ですから。
でも、柏尾川から細菌が流れ出さないか・・・・?
実験動物の管理や処分は?
そんな心配を打ち消すデータは用意して、何時でも手渡すべきでしょう。
 
イメージ 8
                                  受付棟から外を見ると村岡の城址が正面に見えます。
イメージ 9
                                  正面ゲートの向うにお稲荷様が見えました。
 
受付から外を見れば、村岡の城址の森(古舘)が見えます。
森の頂は御霊神社です。
祭神は鎌倉権五郎景政(後3年の役で活躍)です。
巨大な研究開発施設が地域に受け入れられるには、相応の努力が必要でしょう。
我が町内の「BASF/旧社名日本油脂」は毎年夏祭りを開放しています。
 
高額の税金を払っているから、ディスクローズはそこそこで良いわけでは無いでしょう。
「武田薬品が先進技術を持った高収益企業である事は誰でも承知しています。経済同友会会長会社に相応しい地域との関係を構築すべく、一段の努力が必要」そのように思いました。
湘南には資生堂を初め工場見学に積極的な会社が目立っていますのに。
 
イメージ 2
                         藤沢市村岡の「弥勒寺商店街」は百日紅の街路樹です
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

姫林檎に集まる昆虫達

$
0
0
毎朝、我が家を出る時、注意している事があります。
門の脇に家を建てた時に植えた姫林檎の木があるのですが、
其処で、蝉にオシッコをかけられてしまうのです。
夜を過ごしたり、新しく羽化した成虫が、私に驚いて飛び出すのです。
その飛び出す瞬間にオシッコをするのです。
きっと、身を軽くして飛ぶのでしょう。
私に悪意がある訳ではないのですが・・・、
私も家内も再三かけられてしまいます。
と言っても、家内はオシッコとは知りませんでしたが・・・。
イメージ 1
                             姫林檎の幹で羽化した油蝉、未だ翅に青い筋が通っています
イメージ 7
                              役割を果たした油蝉、鳥か何かに食べられてしまうでしょう。
 
夕暮れ時、を別名「降魔ヶ時」と言います。
昼と夜が入れ替わる時です。
生物も昼型から夜型に入れ替わります。
夕顔や烏瓜など「夜の蝶」を惹きつける植物が開花します。
昆虫も羽化します。
明るい時間に羽化などしていたら、天敵に食べられてしまうから、降魔ヶ時が変態のチャンスなのでしょう。
爬虫類も多くはこの時間に脱皮します。
イメージ 2
                                             姫林檎の幹に集まってくるカブトムシ
 
姫林檎の樹液は美味しいのでしょう。
カミキリムシもカブトムシも集まります。
同時に蜂の巣も出来ます。
オシッコも蜂もカブトムシも皆、私は好みです。
唯、カミキリムシは樹木を枯らしてしまうので困ったものです。
私の好きなイチジクはカミキリムシがたかって、少し大きく育つと根元から喰いちぎってしまいます。
 
イメージ 3
      姫林檎の枝先に足長蜂の巣が出来ていました。黄色い実は姫花梨。(我が家の玄関)
 
姫林檎の脇に玄関灯があります。
この灯りに昆虫が集まります。
昆虫を目標にヤモリが出没します。
ヤモリも脱皮します。
何時もは素早く逃げて隠れるヤモリですが、流石に脱皮の時は動きません。
私のレンズの前で観念したように、静止しています。
ですから、この時に忍者のように壁や天井にへばり付く秘密の足を観察できます。
目の玉も閉じたままです。
愛嬌に満ちた表情です。
イメージ 4
                                   玄関灯に集まる蛾を食べるヤモリ
 
イメージ 5
        夕暮れ時に脱皮するヤモリ、ボケボケしていると蝦蟇(我が庭の主)に食べられてしまいますよ。
 
今晩の降魔ヶ時には「迎え火」を焚く予定です。
家内が用意していました。
私が一寸活躍する時間です。
 
イメージ 6
      お寺の鬼
     (時刻は日篇に寺と書きます。夕暮れ時にお寺の鐘が鳴るのは、これから悪魔の時刻になる      か      ら、早く帰利なさいよ・・・・合図でした。)
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 
 
 
 

今、何故密教か!(金沢文庫「ほとけの図鑑」)

$
0
0
博物館の展示は随分前から用意するのでしょう。
上野の東京国立博物館では「空海と密教美術展」を開催しています。
2年も前には計画を立てて、東寺を初め様々な先に支援・協力を依頼していたのでしょう。
私は、プランナーの才覚を尊敬します。
「何故、今、空海と密教を訴えたいのか・・・・?」
当時は、自民党政権のたらい回しが批難され、財政が破綻して、就職難で・・・・・、
日本人が歩く先が見えなくなっていました。
そして、プランナーは「東日本大震災」を予測していたのかも知れません。
イメージ 1
             東京国立博物館「空海と密教美術展」ポスター
 
桓武天皇は平城京に居て確信していました。
奈良の都に居ては日本の将来は無い。
奈良では甍を並べた大寺が、政治に干渉して来る。
「仏教が何たるか!」混迷の極みである。
 
そこで、新世代の「最澄」「空海」を遣唐使として送り、新時代を切り開く仏教を伝えるよう期待します。
そして、平安京遷都を推進します。
時に陸奥では「貞観大地震」が発生しました。
東日本大震災と同じ規模でありました。
 
イメージ 2
 
空海は考えます。
大自然(神)は怒っている。
寺は都大路にあってはならない、神の住まう山上に建てなくてはならない。
高野山に寺を建てました。
大自然に神意を伺い、神意に則って僧侶が修行し、国や大衆の平安を祈願しました。
それから1200年、今改めて「自然と人間」「文明と国家」の関係が問われているようです。
 
イメージ 3
                称名寺(金沢文庫)は海から寺までの道に百日紅が植えられています
 
地方の博物館もその展示には頭を悩ましている事でしょう。
「神奈川県立金沢文庫」では、今中々に優れた展示をしています。
テーマは「ほとけのずかん」です。
東京国立博物館の「空海と密教」に通じるものがあります。
 
イメージ 4
                                          金沢文庫「ほとけのずかん」展示案内
 
空海から200年後、密教は一層盛んになっていました。
様々な国難、元寇などの災難に遇して、個人も国も仏に祈願する事が増えていました。
多種多様な仏の姿や功徳を整理して解説する必要が生じていました。
そこで、金沢文庫(称名寺)では「仏の図鑑」を整理しました。
 
長い巻物に、仏様の図像を描き、特徴や何処の寺院に代表的な仏像が祀られているか、記しました。
仏師はこの図鑑を見て彫像した事でしょうし、お寺は加持祈祷する時にも便利だったことでしょう。
そして、祈願する人達にとっても、わかりやすい図鑑だった事でしょう。
 
イメージ 5
                   「諸尊図像集」から天部(天王寺の四天王)
 
「諸尊図像集」「図像抄」「別尊雑記」「覚禅抄」(何れも鎌倉時代、重要文化財)が展示されています。
鎌倉時代の巻物が紙魚にも食われず、汚れも無く、色彩が大変に綺麗です。
金沢文庫の保存管理が優れていた事が良くわかります。
そして、図も説明も納得の状況です。
子供が見れば、「仏像図鑑」は「ロボット図鑑」や「怪獣図鑑」と同じよう実見える事でしょう。
怪獣の特徴や性格はその姿や武器に現れています。
仏像の功徳もその姿や表情、印相に現れています。
図鑑は解り易いのが長所です。
 
イメージ 6
     密教の法要を図説した学芸員の説明(息災法、増益法)
 
もう一つ、私が常々感心している事があります。
金沢文庫は学芸員の能力が高いのです。
 
展示物の案内の文章の一句一句に感心します。
そして、解説の図像に敬服しています。
実に解りやすいのです。
 
今「仏像ガール」が活躍しています。
彼女に好き嫌いがある訳ではありませんが・・・、
金沢文庫の学芸員さんの識見の深さに感心します。
 
因みに漫画(上下)を見てください。
金沢文庫の仏教文化のストックがこうした識見を育てているのでしょう。
また、そうした学芸委員を育てているのでしょう。
 
イメージ 7
   同じく学芸員の説明図(敬愛法、調伏法)、実にストレートで解りやすい。誰しも経験している事でしょう。
 
イメージ 8
                      金沢文庫の楽しみ「かき氷」(喫茶コーナー・ともしびで、200円)
イメージ 9
                              称名寺境内の石仏には空蝉がたかっていました。
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 
 
 

お盆と百日紅(祖母の記憶)

$
0
0
私の祖母は小まめに手紙を書き、短歌を作る人でした。
その80歳のお祝いに、私は祖母の散文を纏めて著作集「大川の水絶えず」を作って差し上げました。
昭和42年、私は大学の1年生でした。
 
昭和63年、102歳で天寿を全うしました。
私は長銀の本店融資5部の次長職にありました。
親族を中心に祖母への感謝の気持ちを綴って頂き、「大川観音に捧ぐ」を印刷しました。
 
イメージ 1
              私が祖母の著作や追悼文を整理した本
 
今年も「猿滑の花」が咲いています。
その幹がツルツルで、木登り上手の「猿も滑るだろう」と言うのでこの名があるのでしょう。
また、お盆の頃から秋の彼岸まで、長く咲くので「百日紅」の名も戴いています。
 
私の生花、横浜戸塚の盛徳寺にも百日紅があって、今年も咲きました。
でも、年々花の勢いが衰えてきています。
枝を下ろした後から腐り始めて、幹に洞が広がっています。
百日紅は枝を下ろさないと花つきが悪いのですが、
傷跡を処理しないと腐りやすいのです。
木の健康を守ることは、修行でしょう。
 
祖母は世田谷弦巻にある実相院の次女として生まれました。(明治19年)
実相院は世田谷城主吉良家の7代「吉良氏朝夫婦」(実相院殿前従四位下学翁玄参大居士、鶴松院快窓寿慶大姉)の閑居地でした。
明治の宰相「高橋是清」の墓もあります。
吉良家の菩提寺は豪徳寺ですから、同寺の末寺の位置にあったのでしょう。
江戸時代には(慶安元年・1648)に10石の御朱印状を拝領しています。
 
祖母は度々私(内孫の末っ子)を連れて里帰りしました。
兄佐々木義宣和尚(慶応大学教授)は人懐っこい人でした。
私は「ビー玉の叔父様」と呼んでいました。
私に、綺麗なビー玉を用意してくれていたからでした。
きっと「世田谷のぼろ市」で求めたものでしょう。
祖母は物心共に実相院の支援を受けていたものと思います。
 
イメージ 10
                                世田谷弦巻実相院
 
イメージ 2
                                        井草の観泉寺
イメージ 3
                                         狛江の龍泉寺
実相院には3姉妹が居ました。
姉は青山の「龍泉寺」に、妹は杉並区井草にある「観泉寺」に嫁ぎました。
因みに母は狛江の「泉龍寺」です。
何れも、私の生家に比べれば遥かに大寺でしたから・・・、子供心に思いました。
どうして、盛徳寺ばかりが貧乏寺なのだろう・・・・。
私の従兄弟、従兄弟には住職が多いのです。
 
イメージ 6
          盛徳寺の百日紅、樹勢の衰えは右手に洞が出来た為・・・。(「黒い部分)
 
明治42年、祖母は徳翁寺住職松本方丈のお世話により、
竹内周三(赤坂、豊川稲荷会計係)と結婚し、盛徳寺に住職しました。
祖母の記録によると盛徳寺は50俵の寺納米を有し、檀家は持ちませんでした。(阿波蜂須賀家の寺でした)
豊田村では「世田谷のお姫様が盛徳寺に来てくれた。これで安心だ。」
歓迎してくれたのでした。
そこで、喜んで欲しい・・・、思いを込めて、結婚記念樹を植えてくれました。
その一本が、本堂前の百日紅だそうです。
「お寺には銀杏と百日紅が無いとさまにならない・・・」
言いながら、小野様(農家)が植えて帰り、面倒を見てくれたそうです。
 
イメージ 7
    百日紅の西側には観音像が建っています。昭和60年、祖母ノブの100歳のお祝いで開眼しました。
 
今では百日紅の関係者は皆逝ってしまいました。
小野様のご遺族もお爺さんが盛徳寺の百日紅や銀杏を植えたことは知りません。
私が話すと・・・「そんなこともあったろうに・・・」言うだけです。
 
 
イメージ 4
                                  私の生家盛徳寺の大川観音像。手前は銀杏
 
昭和60年、私は長銀大阪支店の次長として勤務していました。
父から命令がありました。
「これから、京都の太秦にある仏具屋に行って観音像を作ってくるように。
100歳のお祝いに観音様の開眼をしたい・・・。
祖母の蓄えを観音像に残したい・・・・。 」
 
丁度今頃、日航ジャンボ機の墜落事故がありました。
私は、毎日のように北御堂(葬儀施設)で参列していました。
通常でも忙しい上に、もう一つ負担が生じました。
 
京都太秦まで、京福電車とバスを乗り継いで出かけました。
3丈もある観音像でしたが、原型は日展作家のものでした。
鋳型から溶出する度ごとに作業場に出かけて、立ち会いました。
奈良の大仏もこんな手順で作ったのか・・・、思いながら見詰めていました。
 
 
イメージ 5
 
世田谷のお嬢さんが新婚で鎌倉郡豊田村の無住の寺に入りました。
しかし、頼みの寺納米は農地解放によってなくなりました。
更に、主人竹内周三は40代で逝ってしまいます。
ノブは長男(私の父)と苦難を共にします。
寺の周囲に僅かな田圃が残っていました。
これを家族で耕しました。
実相院の兄のお世話も戴いたでしょう。
逞しく、子供を育てて、苦難を克服しました。
 
その時の支えが観音様であり、観音様の垂示「大川の流れに・・・」でありました。
其処で、観音様の名は「大川観音」になりました。
美空ひばりの歌「川の流れに・・・」にあるように、流れは人生に通じるものがありましょう。
更に、水は「慈悲」に通じるものがあります。
偶々でしょうが、親戚の寺寺は「泉」の名が付いています。
 
イメージ 9
     竹内ノブの主人竹内周三は、小田原道了尊最乗寺の住職織田雪巌の弟子でした。
     この百日紅を仰ぎ見たことでしょう。百日紅は仏教の聖樹です。
 
水の流れは総てを忘れ去らせるものでもあります。
こうして、ブログに書いておけば、思い起こしてくれるかもしれません。
 
木にも歴史がありますし、金銅仏にも石仏にも人の想いが込められているものです。
「今年も百日紅が綺麗に咲いたなあ・・・」
褒める事は生き抜いた人達に思いを馳せる事でもあります。
 
「お盆」とはそうした感謝する気持ちを呼び覚ます行事でもありましょう。
我が家では「迎え火」も炊かれました。
 
イメージ 8
      祖母「竹内ノブ」の葬儀の様子
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

「ゴマの花」が健康の源です

$
0
0
柏尾川の堤防沿いの緑地を「横浜市民農園」として利用されています。
100坪前後の区画を市民が借りて農作物を栽培しています。
「農作業」は健康増進効果があると思います。
労働が健康な体を維持してくれると共に、植物を見守ることは心を癒す効果があるでしょう。
農業は「agriculture」、文化の源です。
昔から高僧や武術家は野菜作りに精を出したりしていました。
ボケたり、認知症等には無関係でありました。
農業は健康の源でもありましょう。
イメージ 1
                                 横浜市民農園のゴマ。今は花が咲いています。
 
その市民農地に「ゴマ」が目立っています。
多分、健康指向で、「ゴマを自分で育てて、セサミンを欠かさず摂取しよう」、そんな姿勢が見えるようです。
ゴマの花は中々綺麗なものです。
薄紫の色も奥ゆかしいものがありますが、筒状の花の姿も良いものです。
月見草と同じように咲き始めて、順次上に上に花芽が伸びてゆきます。
花が咲き終えてれば、種子が出来ます。
種子が鞘の中で次第に充実します。
葉で光合成した澱粉が種子に溜まります。
澱粉は脂肪に変じます。
そして高い栄養価のゴマの種になると、鞘は弾けます。
鞘の中からゴマの種子が飛び出します。
「開け!ゴマ」の状態になります。
イメージ 2
            ゴマの花、薄紫で筒状の花は桐の花にも似ています。花の下には種が熟しつつあります。
            背後をJRが通り過ぎています。
 
 
福沢諭吉は「学問のすすめ」を著します。
我が国の近代化を推進しました。
その幼時向けとも言うべき著書に『日々の教え』があります。
福沢が二人の息子の為に話したものです。
 
その中に「桃太郎の鬼退治」があります。
「悪い鬼を退治した事は善き事なり」
しかし、「宝を持ち帰ってお爺さんお婆さんにあげるは、”盗人言うべき悪いことなり”」
と断じています。
 
イメージ 3
   柏尾川に咲いた「大待宵草」、月見草の仲間はゴマに似た種子をつけます。
   鞘に実った種子を鞘が乾いて弾ける事で、飛ばします。この様が「開けゴマ」の呪文の謂れだと思います。
 
私は小学校の時演じた舞台劇「アリババと40人の盗賊/千夜一夜物語」を思い出します。
 
アリババは、山で薪を拾っている時、盗賊団が奪った宝の隠し場所目撃します。
「開け!ゴマ/open sesame」呪文を唱えれば岩場の扉が開きます。
「閉じよ!ゴマ」と言えば扉は閉じます。
一部始終を見ていたアリババは早速に忍び込んで財宝を手に入れ家に帰りました。
兄のカシムはアリババからその話を聞、自身も隠し場所に忍び込みます。
ところが、宝に夢中になってしまい、「閉じよゴマ」の呪文を忘れてしまいました。
 
カシムは盗賊たちに見つかり、バラバラに切り刻まれて殺されてしまいます。
アリババは、兄の死体を持ち帰り葬儀をあげます。
しかし、盗賊団はアリババを探し出し、殺そうとします。
盗賊団は油を入れる壷の中に隠れてアリババの館に忍び込みます。
聡明な女奴隷モルジアナの知恵で、盗賊達は頭から煮えたぎった油を注がれ退治されてしまいます。
モルジアナはアリババの息子の妻となりました。
 
私はこの盗賊団の一員で、油を注がれた時
「熱いよ!」断末魔の叫びをあげて死ぬ役でした。
役が嫌な訳では無いのですが・・・、
子分と言えども、煮えたぎった油で殺されるのが理不尽、思っていました。
 
イメージ 4
      ゴマの花は綺麗なので、園芸用にも開発されています
 
福沢諭吉なら、
「40人もの盗賊団を退治するは善き事なり。
されど、盗賊と言えども40人も油地獄で殺すは赦され難き蛮行なり」
断じる様に思います。
 
柏尾川の市民農園のゴマも後1ヶ月もしたら、収穫でしょう。
「開けゴマ」、真っ黒い種が鞘から飛び出す事でしょう。
「open sesame」は健康な一生を約束してくれる「呪文」なのかもしれません。
 
イメージ 5
                              此方はひまわり、夏に出来る種子は「脂肪分」が豊富です。
 
父はゴマを育てて、擂り粉木で擦ってはご飯に、野菜に降り掛けて食していました。
我が家でも、味噌汁にかけて、そば汁にもかけて食べています。
唯、市販品です。
市民農園のゴマは美味しいんだろうな・・・・?
想像します。
私は農業経験もあるし、農業意欲もあるのですが、肝心の農地がありません。
農から離れるとcultureからも、健康からも見放されるように思っています。
 
イメージ 6
                                       ゴマの隣で咲いている「落花生」の花
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 
 
 

残念!形だけの灯篭流し

$
0
0
夏の暑さもお盆の送りを済ませると、秋の気配が濃くなるものです。
灯篭流しを見ていると、様々な想いが流されてゆきます。
今年の灯篭の灯りに涙した人も多かった事でしょう。
涙が悲しみを癒してくれるように、灯篭の灯りに少し元気を取り戻した人もいたことでしょう。
 
イメージ 1
                                    灯篭流しの行われる戸塚の柏尾川
 
夕暮れ時を待って、柏尾川の灯篭流しに出かけました。
雲の色にも、頭を下げた向日葵の花にも秋を知ります。
戸塚での灯篭流しは桜橋架橋で灯篭を流し、高島橋架橋で回収します。
僅か300メートル足らずの間です。
 
戸塚の灯篭流しの歴史は解りません。
主催者は「戸塚観光協会」です。
観光協会自体が戦後に出来たものでしょうから、新しい行事でしょう。
隣の大船の「首塚祭り、灯篭流し」に比べればマダマダひよこのような歴史です。
 
イメージ 2
      玉縄の首塚祭り(2010年): http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/41644779.htmlに記述
 
 
1526年(大永6年)、安房の里見氏が船に乗って弱体化した鎌倉に攻め込みます。
鎌倉を守る北条氏時は玉縄城に立てこもり、必死に防戦します。
柏尾川の東に北条軍、東に里見軍が対峙し、川原で攻防戦が繰り広げられました。
渡内、甘糟等の鎌倉郷士の活躍で、里見軍を撤退させます。
終戦に際して両軍は首を交換し、柏尾川の川べりに埋葬しました。
 
これが「玉縄首塚」で、玉縄祭りは龍宝寺を筆頭にしたお寺さんが一緒に追善法要をします。
祭りの主催者は「玉縄首塚顕彰会」です。
500年は越す、鎌倉武士の魂を伝える行事です。
 
イメージ 7
   柏尾川に面した戸塚小学校の校庭が盆踊り会場です。
 
500年も続いたと思われる「首塚祭り」ですが、今年は中止になりました。
残念で為りません。
中止を知らせる案内には、大震災で節電しなければならないこと、
もしも、祭り開催中にもしも停電になったら、危険が発生する・・・、
理由が書かれています。
 
大震災があって、たくさんの犠牲者が発生し、多くの人が悲しんでいる。
だからこそ、「悲しみを流して、生きる意欲を呼び覚ます」灯篭流しをして欲しい・・・、
思いますが。
同じ事実は受け止めによって正反対の結論を導き出します。
 
イメージ 8
                           柏尾川の灯篭流し、奥が戸塚駅です。
 
京都では五山の送り火が焚かれ、嵐山渡月橋では灯篭が流されました。
死者の霊は山に戻りました。
また別の霊は桂川を下って、海底の安楽の宮に戻ったことでしょう。
 
今年は陸前高田の被災した松の木を京都の五山の送り火に焚く計画でした。
しかし、二転三転し、結局放射能で汚染されている・・・、理由で中止になりました。
代わって、松は成田山で焚かれる事になりました。
 
一番大事なことは「送られる霊」、そして「送る人の想い」でしょう。
「送られる霊」は人と同じで喜怒哀楽が激しいもの、同時に「眼も悪いし、耳も遠い」のです。
だから、送り火を焚いて安全にお山に戻っていただくし、灯篭に乗って戴くのでしょう。
 
放射能のお陰で日本人の心が一つ出ないことを露呈してしまいました。
 
イメージ 6
               川面に灯篭の陰が揺れて、幻想の中に癒されているようです                          
戸塚の灯篭流しは昨年よりは賑わいがありませんでした。
また、本来の灯篭流しとは少し違っていました。
 
灯篭を1畳程の板の上に並べて、板に紐をつけて人が運んでいました。
そうすることでどんな効果があるのか・・・・?
灯篭の回収が素早く出来て、主催者は楽なのでしょう。
でも、灯篭を眺める人は興ざめです。
これでは「灯篭流し」ではなく「灯篭運び」です。
 
イメージ 4
 今年の灯篭は大きな板の上に乗せられていて、その板に紐をつけて人が引っ張って行きます。
 盛り上がらないのは小賢しい人為です。因みに昨年の灯篭流しは次の通りでした。
イメージ 3
   2010年の灯篭流し、一つ一つの灯篭がそれぞれに流れてゆきます。詳細は次のブログ
                            http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43858437.html
 
美しい歳時記も、人為で詰まらない観光行事になり下がってしまいます。
川の流れのままに、灯篭の陰がユラユラ揺れる・・・、そこに詩情もあれば、魂も漂って行くのでしょうに・・・。
 
私は、早々に引き上げて帰りました。
我が家の門の外で送り火を焚きました。
盆提灯が三つ灯っていました。
イメージ 5
                                                    我が家の「送り火」
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 
 

「鯵の押し寿司の物語

$
0
0
JR大船駅、観音口を降りると、首塚の前に「大船フラワーセンター」に向かう細道があります。
この道を地元では「爺婆通り」と呼んでいます。
名前の通り、高齢者の姿を良く見かけるからです。
理由は簡単、お年よりは「花が好き」な事に加えて、
フラワーセンターの入場料が不要だからです。(現在100円、一般350円)
だから、爺婆通りにはお年寄りがよく通ります。
 
イメージ 5
      大船軒の「茶のみ処」の看板
 
その細道にこの8月4日看板が立ちました。
「茶飲み処開店、大船軒」
メニューが置かれています。
コーヒーが300円、「鯵の押し寿司」600円、「サンドイッチ」700円(ドリンク付き)「お任せ弁当」1000円、
中々リーズナブルな価格設定です。www.ofunaken.co.jp/page029.html
イメージ 1
     昭和41年頃の大船軒(HP転載) 観音様の手前、柏尾川に沿って「鎌倉ハム富岡商会工場、大船軒(本      社)が見えます。この1階、応接室が「茶飲み処」として開放されたのです。
 
私はかねてから「大船軒本社社屋/昭和6年」には興味がありました。
「昭和レトロ」では言い尽くせない、美しく、機能的な建物と思いました。
初夏には百合が咲き、秋には花水木が紅葉し、真っ赤な実をつけます。
その向うに丸窓を持った、モルタル一部煉瓦貼りの建物がそびえているのです。
床にガラスが使われているのは工場の採光の為でしょう、
工場は丘陵の岩壁の中にも広がっているそうです。
食品の薫蒸や室温管理にも効果があるのでしょう。
 
建物の1階は配送ヤードになっています。
2階以上は本社機能の他、大半が工場施設になっています。
柏尾川が度々洪水しまから、洪水対策でもある設計です。
昭和モダニズムを理解します。
 
イメージ 2
   昭和6年建築された大船軒本社・工場。昭和6年は鎌倉御用邸が廃止され、御成小学校開校の年でした。
イメージ 6
     昭和6年当時の本社工場(調理室)、この建物には富岡周蔵のアイディアを感じます。
 
早速に入店しました。
お店は本社応接室を開放したものでしょう。8脚程度のテーブルが置かれ、
部屋の隅には商品が陳列されています。
壁には秋葉様(多分)と鎌倉鶴岡八幡宮のお札が祀られています。
サンドイッチを注文し、壁のパネルを見詰めていると、
ウェートレスが会社案内のファイルを持ってきてくれました。
大船軒、富岡商会と言えば、鎌倉で最も歴史の在る会社の一つです。
私は改めてその歴史を確認しました。
 
イメージ 9
     日本最初のサンドイッチ、コーヒーセットで700円。大船軒のメセナ活動です。
 
鎌倉ハム創業者「富岡周蔵」の名は鎌倉では有名です。でも、その生い立ちは・・・・、私は始めて知りました。
 
富岡周蔵は日本橋の呉服問屋に勤めていました。
薩摩の家老小松立帯刀の娘と結婚します。
昭和21年、横須賀線が開通します。
東海道線大船駅から海軍の拠点「横須賀港」を繋ぐ軍用鉄道でした。
 
時の内閣総理大臣は黒田清隆でした。(初代は伊藤博文、三代は山県有朋)
黒田は西郷隆盛が西南戦争で没し、大久保利通が亡くなった後、薩摩の中心人物でした。
黒田のアドバイスもあって、大船駅の近くに旅館を経営します。
この建物が現在の社長富岡氏の私邸だそうです。
イメージ 7
                             明治21年新線の始発駅になった大船
 
黒田は富岡にアドバイスします。
「外遊するとサンドイッチを食するのだ・・・、これを大船駅で売ったらどうだ?」
富岡は明治25年、ハムを輸入してサンドイッチの販売を開始します。
販売を始めてみると、美味しかった事と、洋風の珍しさから、たちまち売り切れたそうでした。
偶々、戸塚でウイリアム、カーチス(英国人)がハムを製造していた事から、
日本人の好みに合わせたハムを製造させました。
これが「鎌倉ハム」の始まりでした。(戸塚は鎌倉郡であり、戦後横浜市に編入されました)
 
イメージ 8
      観音山に続く丘陵の麓に設備された富岡商会・鎌倉ハムの工場。現在工場は鎌倉の岩瀬       に、貯蔵庫は戸塚の平戸に立地しています。写真の工場はマンションに変じてしまいました。
 
大船軒のサンドイッチはスタンダードにはなりましたが、何処の駅でも売られるようになりました。
そこで富岡は「鯵の押し寿司」を発売します。(大正2年)
相模湾では鯵が湧くように取れた事、そして油が乗って美味しかったのでした。
これを、強めの酢できって、大阪の押し寿司風に処理しました。
大船松竹撮影所のスタッフも、俳優さんの弁当にも好評でした。
全国的に有名な「駅弁」に成長しました。
 
イメージ 10
    昭和5年当時の鯵の押し寿司。由比ガ浜の海水浴風景がデザインされていました。
 
私の母も押し寿司が好物でした。
兄や私のPTAがあると、必ず押し寿司を求めて帰ってきました。
昭和40年代までは300円程度だったと思います。
今では1300円です。
駅弁にしては高くなってしまいました。
      注:家内の指摘で調べてみると9貫(960円)から数種類の品揃えがあって、1300円は一人では食べ      きれないそうです。
イメージ 4
    現在の大船軒の鯵の押し寿司(1300円) 、他に9貫960円のお弁当があって、売れ筋です。
 
イメージ 11
そばやせんべい、多角化しているようです。
イメージ 12
                                             駅弁売りの人形
 
隣の横浜駅には「崎陽軒」というお化けのような強い会社があります。
鯵ならば小田原港が本場・・・、言わんばかりに小田原駅でも「鯵の押し寿司」は販売されています。
大船で頑張り続ける事は容易ではないと思います。
まして、「ハム」は海外とも、大手とも競合が激しいのです。
加えて、愛着を持ってきた私達地元の応援団も
「1300円は高いよ・・・!」 文句を言います。
三代目社長は暖簾を維持するのに大変でしょう。
 
でも、期待しています。
鎌倉の歴史と文化を担った会社ですから。
 
イメージ 3
     平成の工場も昭和の工場と意匠をそろえています。その左奥がオーナーの富岡氏の邸宅
 

 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

六地蔵と御成小の旧講堂

$
0
0
鎌倉市民に親しまれている辻(交差点)は一番が「下馬」、二番目が「六地蔵」でしょう。
下馬は若宮大路を八幡様に参拝するに際し、此処から歩いたからこの名があるのでしょう。
由比ガ浜通りの起点でもあります。
由比ガ浜通りを西に行くと5本も(6本?)も通りが交じった辻があります。
北に向かう通りが「御成通り」、鎌倉時代は「今大路」と呼ばれていました。
 
この辻に六体の地蔵が祀られたので,六地蔵と呼ばれています。
六地蔵の辺り、由比ガ浜通りには鎌倉の老舗が軒を連ねています。
古本屋(公文堂書店)に刀の砥ぎ屋(菊一)骨董品屋が3軒(華陶・喜楽美術店・ギャラリータキヤ)
うなぎの鶴屋、蕨餅の小すず、井上蒲鉾等等・・・・・,歩くのも楽しい町です。
この商店街のマークが「六地蔵」です。
 
最近「鎌倉道の駅」が新設されました。
今は鎌倉の商店は「小町通商店街」の一人勝ち状態ですが、由比ガ浜通りも「これではいけない」
本腰を入れ始めたのでしょう。
 
イメージ 5
由比ガ浜通りに新設された「町の駅鎌倉」
 
イメージ 1
     謡曲「盛久」の碑は由比ガ浜通りにあります。blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44122920.html
 
この六地蔵の辻に「鎌倉カトリック教会」があります。
私の親友篠崎栄君の誘いもあって、良く出かけました。
教会の行事が終わると、卓球台を出してきて、仲間と暗くなるまで興じました。
今でも、教会は50年前と変りません。
 
篠崎君は同期で一、二の秀才でしたから東大の何れの学部にも入れると思われましたが、
「神学」を修めたい・・・・、と文学部に入学しました。
今は殆ど帰国しません。
極楽寺にあったお屋敷も料理店に売却、姿は殆ど見せないようです。
名前を検索、その著書(神学やキリスト以前のイエスなど)を確認して・・・・、
懐かしく、嬉しく思っています。
 
イメージ 2
    六地蔵尊は百日紅の樹下に佇んでおいでです。向かいの路地を入るとカトリック教会があります。
 
教会の前の路地を辻に出れば、黒い六地蔵があります。
地蔵は赤い百日紅の樹下に佇んでいます。
 
由比ガ浜通りは古代の東海道です。
日本武尊は弟橘媛命をつれて国府津の「こゆるぎ」から鎌倉を経て三浦半島の走水から安房に渡りました。
ですから由比ガ浜通りには鎌倉開府以前からの史跡が数多くあります。
 
イメージ 6
                                   六地蔵は文化文政の頃の建立と思われます
 
頼朝は今大路の中間点(御成り小学校辺り)に問注所(裁判所)を置きました。
そして、六地蔵の辻に処刑場を設置しました。
遺体は目と鼻の先、由比ガ浜の浜辺に埋めたものと思われます。
 
六地蔵の南(浜辺側)には和田塚がありますし、北には裁許橋(佐助川に架かる)があります。
この橋の上で頼朝は西行を見つけた、と言い伝えられています。
更に北に行けば、鎌倉に所領の安堵を求めて登った阿仏尼の墓があります。
イメージ 7
                      佐助川に架かる裁許橋、問注所の南にあったと思われます。
 
六地蔵は「誰が、何時ごろ、何の為に作ったか?」疑問が生じます。
脇に句碑が建てられています。
   夏草やつわものどもが夢のあと
 
奥の細道、衣川の句です。(毛越寺に句碑あり)
建立したのは「松尾百遊」という。
建立したのが1786年、芭蕉が亡くなって約百年が経過しています。
松尾百遊は鎌倉の雪ノ下で旅館業を経営していた・・・・、とあります。
以上を総合すると、以下のように推測するのが妥当と思われます。
 1、江戸時代も文化文政時代になると江ノ島鎌倉を旅行する人が多くなった。
 2、一方俳句も盛んで、特に俳聖「芭蕉」を慕う俳人が多かった。
 3、そこで、松尾百遊は旅館への道標に六地蔵と句碑を建立し、旅人誘致に役立てた。
 
イメージ 4
   マンションが目立ち始めた御成通り。橋が裁許橋。この辺りから南は未だ電柱が立っています。
 
 
600年も前に処刑された人の霊の往生を願って六地域を奉じた・・・・、とは考えがたいものです。
地域の振興策として六地蔵を建立、
更に、鎌倉が武士の都であった事を、芭蕉の句碑で偲ばせたのでしょう。
昔は「鎌倉温泉・香風園」と言う旅館が亀ヶ谷の切通しにありました。
川端康成の仕事場でもあった・・・、説明を受けた事があります。
今では瀟洒なマンションが建っています。
鎌倉の旅館も苦戦しているようです。
 
  
六地蔵を御成り通りを北に登ると、御成小学校が見えてきます。
御成りの名前は此処に御用邸があったから・・・・、
御用邸の閉鎖は昭和6年、その跡地に小学校(後に中学校も)が建設されます。
木造2階建ての建物が建設させ、その東に講堂が建設されました。(昭和8年)
構造的には西洋的な技術で、意匠は和様でありました。
私が通った頃(昭和33年卒業)は50人学級で各学年6クラス程度はありました。
1800人程度のマンモス学校でした。
だから、校庭の奪い合いも大変でした。
 
イメージ 3
御成小学校の校庭、今は十分に広いのですが、昔は御成中学校との共用でもあって、子供が溢れていまし   た。草叢など出来る余地はありませんでした。左が御成山、向うが源氏山。手前の建物は鎌倉市役所。
 
 
  
古い校舎は次第に取り壊され、新しい建物に変りました。
学級も3クラス、33人程度になったようです。(600人程度か?)
当時の面影を残しているのが講堂です。
屋根の上に2つの望楼が印象的です。
明治の望楼は洋風でしたが、昭和の望楼はお寺の塔のようです。
 
これも時代空気の為せる技でしょう。
設計者は不明ですが、施工は蔵並長勝・鈴木富蔵・三橋幾蔵です。
鎌倉の土地柄、神社仏閣の建築を得意にした大工さんが大空間を作ったのでしょう。
屋根の下には平行な垂木が並んでいます。
和様の意匠が落ち着きと伝統を感じさせます。
その上で、講堂という大空間を完成させたのでした。
昭和モダニズムの代表的建造物だと確信しています。
 
イメージ 9
   裁許橋から御成小学校の旧講堂を見る。通りが「今大路/現御成通り」。この辺りだけ電柱の地中化工事    が出来ています。
 
 
最近は「昭和レトロ」が人気です。
大富豪のお屋敷が相次いで重要文化財の指定を受けています。
ステンドグラスとれんじ窓、書院作り・・・・、などが組み合わされたりしています。
また、下町や長屋の風景も保存されようとしています。
本来的な意味ではこの旧講堂こそ「昭和モダニズム」の価値があると思います。
明治初頭の開智学校(松本)、中込学校(佐久)等が重文であるのだから、
昭和初頭の御成小学校旧講堂も同程度の価値があると思います。
 
 昭和モダニズム:モダニズムとは「市民が台頭して、市民が使う大空間を有する建物」を言います。
            日本で「昭和モダニズム」と言うと、「昭和の時代空気を反映した機能的な建物」を言います。

 
平行垂木の先には「トタン製の樋」がありましたが、もう大半が腐って堕ちています。
屋根材も錆が目立ちます。
本来は板塀であった筈ですが、錆びたトタン板が打ち付けられて居ます。
痛々しい限りです。
 
松尾百遊の六地蔵や芭蕉句碑の建立も地域振興であったように、
今大路の代表的建物「御成小学校旧講堂」も地域の為に保存して欲しいものです。
「町の駅」も良し、電柱の地中化も必要、そしてこの昭和の建物も・・・・。
鎌倉は遣らねばならない事は沢山あります。
でも、財政がそれを許さないようです。
 
イメージ 8
                  寺社建築の意匠が目立つ旧講堂。(望楼・懸魚が確認できます)
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 
 

造化と風化(石仏の運命)

$
0
0
三浦半島の佐島漁港は地元相模湾を魚場とする港の中では最大でしょう。
今では漁港としても、マリーナとして人気があります。
また、海鳥が多く、海浜植物も多く自生していますので、観察する楽しみもあります。
 
イメージ 1
 佐島港、向うの森が天神島、ハマユウの自生地です。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45378828.html
 右手前に玩具の北原氏の屋敷があります。
 
もうひとつ、古くからの漁港ですから文化財も多く残されています。
港を見下ろす高台に福本寺、海に面して東蔵寺があります。
寺伝によるとどちらも室町時代の創建のようです。
この辺りは「福本」姓の人が多い事などから、郷士が建てたお寺でしょう。
 
どちらの寺も石仏が目立ちますが、今日は海に面した東蔵寺の庚申塔を案内します。
場所は港を巡る道路に面した石垣の中断にあります。
きっと、以前は路肩に祀られていたのでしょう。
道路を拡幅する・・・・、その為にお寺の石垣に櫓を掘ってその中に納めました。
信者の目線の高さに祀ったので、お参りもしやすくなりました。
今でも、献花が絶えません。
イメージ 2
  佐島東蔵寺の庚申等4基、真ん中の青面金剛像は背骨しか残していません。
  もう煎餅の様に薄くなってしまいました。左端は骸骨状態、右の一基のみ6手の青面金剛であった事が解りま  す。
 
 
 
ところで「造化」と言う言葉があります。
天地自然がその力で「万物を創造する事」です。
三浦半島の台地は、砂に噴火によって積もった灰等が堆積し、
地中深く圧縮されて作られました。(「凝灰岩」「砂岩」「シルト岩」)
人々は様々な岩石の中から比較的硬そうな凝灰質砂岩を選んで、石仏を彫りました。
人間が「造化に人為を」加えて石仏にしたのでした。
これを加工といい、石器時代以来加工の程度がドンドン進化してきています。
原子力発電所も加工の一つでしょう。
加工の集積を「文明」と呼ぶのかもしれません。
 
イメージ 3
  一番形を留めている青面金剛像、背の模様は岩場に咲いた塩の結晶。
  塩と風砂が石仏の風化を進めたものです。葉鶏頭(仏)、と榊(神)が供えられています。
 
 
でも、石仏は風雨に晒されて、次第に形を崩して行きます。
海から吹き付ける風に舞った砂が衝突した事もありましょう。
更に、潮風が塩を吹きつけ、塩が溜まって、凝灰岩を溶かしたこともありましょう。
次第次第に石仏は姿を為さなくなりました。
 
青面金剛のそら恐ろしい形相も、様々な持ち物も判別出来なくなってしまいました。
右端の庚申塔だけが主尊の青面金剛の形を留めています。
真ん中の庚申塔は青面金剛も大方崩れてしまって、石塔自体が二つに折れてしまいそうな気配です。
左端の青面金剛は骸骨状態です。
イメージ 4
   最も大きくて、傷んだ庚申塔。主尊の青面金剛は背骨しか形を残していません。足元に在った筈の三猿も    形を留めていません。お供物はトンビが持ち去ってしまったのでしょう。包装紙が残されていました。
 
石が当初の砂や土に戻ることを「風化」と言います。
造化と風化は繰り返します。
生命の繰り返しを仏教では「輪廻」と呼んでみました。
古事記では造化の三神を話してくれました。
でも、神自体が死ねば腐る・・・、説明も加えました。
 
青面金剛とて、風化して加工前の砂土に戻るのは定めでありましょう。
崩れ落ちる直前が最も美しく輝く瞬間です。
人々は形が崩れてもお参りする事を欠かしていません。
秋を知らせる「葉鶏頭」が青面金剛の美しさを引き立てるようです。
 
イメージ 5
 
石仏の前を300m程行くと、すし屋の「沖次郎」があります。
私は、食道楽で、寿司も好き、てんぷらも、そばも・・・・、みんな食べたいのです。
冷たいおそばに、てんぷらが4つ、寿司3貫がついて680円のお値段です。
 
家内とゆっくりと寛いで・・・・、次はデザートです。
10分ほど山側に行くと「関口牧場」があります。
此処のソフトクリームがまた美味しいのです。(大型で300円)
乳牛の強いにおいが、美味しさの証だろう・・・、我慢しながら車の中で頂きます。
 
佐島は私達夫婦の欲求を総て満たしてくれる処です。
裏山は京急が大規模開発を進めています。
通勤は無理ですが、老後避寒地としては良いところです。
 
イメージ 6
 
イメージ 7
             沖次郎の昼の定食680円のお安さ。
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 
 
 

虫の主張「蓼が一番美味しいのです」

$
0
0
高校野球も決勝戦を終えました。
勝負はツーアウトから、光星高校の守りでした。
3回裏のデットボールから、ポテンヒット。
思わぬピンチに、ムキになって投げた初球をホームランされてしまいました。
力の差は無いにも拘らず、大差の勝敗になってしまいました。(残念!)
でも、高校野球は面白い。
夜のジャイアンツ×スワローズの試合を見ながら、呟きます。
プロ野球は飛ばないボールにして一段面白くなくなった。
私は「筋書きの無いドラマ」を期待して、TVをつけるのに・・・・。
ドラマとは程遠い、冗長なゲームです。
 
イメージ 1
           今日の話題「柏尾川の川べりに自生している蓼」、もう花が咲き出しています。
 
夕方に柏尾川を散歩しました。
うす暗くなると、月見草や白粉花、そして烏瓜などが咲き出すからです。
既に、川鵜は腹一杯食べて,電線の上でお休みです。
きっと、此処で夜を明かすのでしょう。
それとも、鎌倉中央公園の森等に在るだろう巣に帰るのでしょうか?
川べりにはカルガモの親子が寝ています。
母親だけが私の気配を感じて目を覚まして首をもたげました。
子供達は寝たままです。
2週間前見た時に比べれば随分大きくなりました。
イメージ 2
               土手の白粉花。夕方咲き出す「夜型の花」です。黒い種を磨り潰すと白粉が出来ます。
 
土手にはもう「蓼/たで」の花が咲いています。
子供の頃「赤まんま」として、お飯事で遊んだ花です。
お父さん役の私は、口に入れます。
暫くは味もありませんでしたが・・・、辛い事、辛い事。
女の子に好かれるのは、危険を冒さなければならない・・・・、最初に知った出来事でした。
川原には数珠の実も出来るし、白粉の粉を作ったり・・・・・、遊びに事欠きませんでした。
 
イメージ 3
    川べりで寝ているカルガモの家族。お母さんだけが目を覚ましています。
 
蓼の色が浅いのは種類の為でしょうか?
それとも、秋が深まれば朱色が濃くなるのでしょうか?
「蓼食う虫も好き好き」諺で言います。
『他にも草があるにも拘わらず、苦い蓼の葉を食う虫が居るように、人の好みは多様で理解し難い』
そんな意味でしょう。
でも、蓼の葉は虫食いが多いし、様々な昆虫が集まってきています。
人間だって、鮎は焼いて「蓼酢」で食べます。(蓼酢は柳蓼の葉を磨り潰して作った調味料)
川魚の香ばしさが蓼酢で引き立ちます。
 
イメージ 4
                 最上川の蓼の花。
 
咲き出した花を目指して沢山の昆虫が集まってきています。
目立つのは紅蜆蝶、粟のような花に集まっています。
もう、翅はギザギザに破れています。
草叢には蜘蛛の巣がありますから、其処で捕まって、必死に脱出してきた証でしょうか?
 
イメージ 5
                                       蓼の花の蜜を吸う、紅蜆蝶。翅は負傷だらけ。
 
コガネムシは花を食べています。
傍では合体した夫婦も居ます。
身動き一つしません。
受精を終えれば、卵を蓼の茎に産み付けるのでしょうか?
イメージ 6
                                 コガネムシ(?)は蓼の花陰で合体しています
 
コガネムシの横には・・・・、カメムシが居ます。
臭いので嫌われ者ですが、良く見れば中々お洒落な模様です。
陣羽織を羽織っているようで、伊達者です。
まだ、雌は気が向かないのでしょうか?
雄を残して逃げ回っています。
イメージ 7
       雌を追い回しているカメムシのお兄さん
 
赤トンボが休んでいます。
休みながら、川下から飛んでくる雌を待ち受けているのでしょう。
でも、もうじき暗くなります。
早く、安全な葉陰を探して、今晩を明かす用意をした方が良さそうです。
天気予報では夜半から雨ですから・・・・、
堤防の上のネズミモチの葉陰に隠れた方が良さそうです・・・よ。
 
イメージ 8
        蓼の草叢で休み赤トンボも鮮やかに染まっています。
        川原に集まるメスを待ち伏せしているものと思います。
 
治水課の調査では柏尾川に最も多い魚影は「鮎」と聞いています。(調査地点阿久和川の柏尾川合流地点)
私の目には解りませんが、今頃は太った鮎が沢山泳いでいる事でしょう。
投網で捕って、川原で焼いて、蓼酢を用意して・・・・・、
酒を温めれば・・・・・、野趣も極まるでしょう。
柏尾川には漁業権が設定されていませんから・・・・・、自由だそうです。(治水課確認済み)
昨年、川べりに公園も整備されました。
テントを張っている人も目に付くようになってきました。
 
イメージ 9
   夏に刈った草が枯れて、腐り始めました。枯れ草を掘り返して、団子虫等を啄ばんでいる「ムクドリの群れ。
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 
 
 
 
 
 
 

鬼灯(ほうずき)が色付きました

$
0
0
「鬼灯/ほおずき」が色づきました。
鎌倉岩瀬の大長寺さんには鬼火が自生しています。
お檀家は本堂で法要を済ませ、お墓に参ります。
その道筋に銀杏の古木があります。
太い銀杏の根元を鬼灯が埋めています。
施餓鬼会やその後のお盆の墓参りに、一枝採って墓前に奉げなさいよ・・・、
そんな意図が感じられます。
イメージ 1
  岩瀬の大長寺は徳川家康が名付けたと言われます。
  お籠から降りなくても済むように、石段は横長です。時折、お盆に墓参する 人が見えます。
 
鬼灯と言えば、浅草の「ほうずき市」が有名です。(7月9日、10日頃)
7月(新盆)では鬼灯は色づいていませんから、ほうずき市は植木屋さんが日照調整して色付けさせたものでしょう。
旧盆に咲くからこそ鬼灯と呼ばれ、「お盆の飾り」に欠かせないのでしょう。
 
イメージ 2
  大長寺は本堂の裏に墓地が広がっています。道筋に鬼灯が自生しています。
 
祖先の霊は成仏できるまでは「鬼」であると説明されます。
施餓鬼の法要はそんな祖先の霊(鬼)に追善する行事です。
 
鬼は人間と同じで目も弱いし、夜道は苦手です。
その鬼の足元を照らして、迷わず子孫の家に一時戻って欲しい・・・・、
そんな行事が「迎え火」であり「送り火」であります。
苧殻(オガラ)を焚いた灯、バリバリと焼ける音等でご先祖を導きます。
更に仏間や玄関先には「盆提灯」が吊るされていました。
加えて、天然の盆提灯が灯れば鬼は喜ぶでしょう。
それには「ほおずき/鬼灯」が最適でした。
江戸時代になって、庶民にも先祖を大切にする気持ちの余裕が出来て、
お地蔵様の信仰が普遍化して、盆が年中行事になって・・・・・、
鬼灯がクローズアップされたのでしょう。
イメージ 3
                                大長寺の鬼灯には空蝉がついていました。
 
鬼灯は万葉集には全く歌われていませんでした。
(万葉集の「想い草」は鬼灯であるという意見もありますが、「南蛮煙管」だと思います)
日本文化に登場するのは主として江戸時代のようです。
やはり、夏の施餓鬼会や盆の行事が一般化して、それに相応しい花として愛されたからでしょう。
良く観察すれば、赤い袋は「顎」であり、ピーマンのようです。
葉っぱも茄子のようです。
 
浅草寺のほおずき市は室町時代の故事に始まると言われています。
(観音様のお告げで、ほうずきを食べさせて子供の病気が治癒した)
でも、説話を含めて「ほうずき市」は江戸時代のアイディアや商才に始まったように想像します。
朝顔市も同様です。
 
 イメージ 4
   此方は東慶寺の鬼灯、お茶室への路地にあります。
   一本でも、辺りが明るく見えます。
 
「ほおづき」という和言葉は「カメムシ/古名ホウ」が好んで集まるので、
「ホウが好き」が由来と言われています。
日本人は「ほおずき」の字に「鬼灯」という和製漢字をあてはめました。
 
私の子供の頃は、女の子が鬼灯の赤い玉を取り出し、
その首から楊枝の先で丁寧に、ゆっくりと種子を取り除いて、袋を取り出しました。
其れを咥えて、「キュッ・キュッ」と鳴らしました。
その動作で赤い頬が膨らんで・・・・、その様が可愛いので「頬突き」と呼んだのではないかな・・・。
少し、無理があるかな・・・・・・・・?
勿論、私の妄想です。
 
イメージ 5
                    如意輪観音(無縁仏)に奉げられた鬼火(葉山新善光寺にて)
 
イメージ 6
     延命地蔵尊、川原石(道祖神)に奉げられた鬼火、竜胆と季節感ある献花です。
イメージ 7
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

茗荷が一斉に花芽を出しました

$
0
0
高校野球が終わると、NHKラジオでは「子供電話相談室」が再開されます。
私は、ラジオをかけて、パソコンのキーボードに向かってブログを書こうとしています。
 
小学生の女の子が電話で質問しています。
「野原には美しい花が咲きます。雑草と言うけど、何故雑草と言うのですか?」
先生は尋ねます。
「○△子さんはどんな花が美しいと思いますか?」
女の子は答えます。
「私は、白爪草や大犬のフグリが美しいとお思います」
先生は、話しました。
「昭和天皇のお言葉です。”雑草と言う名の植物はありません。人間の都合で雑草と呼ぶのは適切ではありません。”
野菜や穀物は人間が力を注がないと育ちません。野原などで自然に生えている植物を雑草と呼ぶのです。
でも、雑草にも名前があります。綺麗な花も咲きます。
でも、人間の都合で「掃き溜め草」とか「屁糞かずら」なんていう名が付いて居たりします」
イメージ 1
           今が盛りの「屁糞かずら」、雨に濡れて一層綺麗です。
 
女の子は「先生も、昭和天皇も自分と同じ意見なのだ・・・・!」
嬉しくなって、お礼を言って電話を切りました。
聴取者の多くも、同意権でしょう。
そして感心します。
「今の小学生は野に咲く花の美しさに気付いているのだ・・・・・」
日本人はドンドン優しい国民になっています。
 
イメージ 2
   我が家の裏手には何時しか茗荷が自生しています。落ち葉を根元に敷いてあげています。
 
外は今日も雨です。
一昨日までけたたましかった蝉も沈黙しています。
私は屁糞かずらの花を見に、庭に出ます。
今が盛りです。
ワイングラスのような形の花です。
花の中心が臙脂色で、カップの外周が白い色です。
日の丸のようなバランスです。
雨露がグラスに溢れています。
 
私は、思い出しました。
「この雨で茗荷が芽を出しているだろう・・・」
家の裏に回ります。
狭いながらも茗荷が自生しているのです。
でも、今年の夏は暑くて、盆があけても茗荷は花芽を出しませんでした。
素麺や冷奴に茗荷は欠かせない薬味です。
私は今夏何度か肩を落として素麺・冷奴をいただきました。
イメージ 3
  茗荷の花芽。これを食べます。この花芽は芯から白い花弁が咲いてしまっています。
  少し採取が遅かった・・・・。でも薬味としては問題はありません。
 
出ています、出ています。
茗荷の茎の脇から茗荷の花芽が出て、大半は白い花弁まで出ています。
花弁が出ては八百屋では売れないのでしょうが・・・・、私は気にしません。
早速に摘みますが、家内と二人では精々3個も在れば十分です。
花芽は食べられないで・・・・、ナメクジやカタツムリに舐められてしまうことでしょう。
まあ、それも仕方ありません。
今年もブルーベルーが実ったのですが、完熟する前に雀に全部食べられてしまいました。
イメージ 8
3本も採取すれば1回の薬味には十分です
                                             
茗荷もウコンも生姜の仲間です。
どれも、これも体に良く、薬効も高いものがあります。
でも、茗荷だけは「食べるともの忘れが激しくなる・・・」
悪いイメージがあります。
「茗荷の宿」と言う「宿賃を取り忘れた夫婦」の話(落語)もあるほどです。
 
イメージ 4
       茗荷と同じ仲間(生姜科)のウコンの花。
       カレーのような薬味になるのかしら・・・・?
 
お釈迦様の話です。
でも、漢字のお話ですから、中国で出来た話でしょう。
 
釈迦の弟子の「周利槃特」は物忘れが激しかったのでした。自分の名前さえ忘れてしまいます。
そこでお釈迦様は首に名札をかけさせました。
周利槃特が亡くなりました。
そのお墓には見慣れない草が生えていました。
其処で、お弟子さんはこの草を「茗荷」と名付けました。
”彼は自分の名前を荷って苦労していたなあ・・・・”思い出して、「名」を「荷う」と名を付けたのでした。
 
”茗荷を食べると物忘れをする・・・” 俗信をうみました。
イメージ 5
 
茗荷谷は茗荷を育てる農家が多かったのでしょう。
茗荷は湿っぽい土地を好みます。
夏から秋にかけて、雨が降り出しと花芽を一気に咲かし始めるのでしょう。
この雨で庭の草木も息を吹き返しました。
カタツムリも子供が出回りました。
あと3ヶ月、冬眠するまで時間はありません。
シッカリ、舐めて育たなくてはなりません。
イメージ 6
                                     雨を待って出てきたカタツムリ
 
イメージ 7
                                  一寸茗荷の脇に、お出ましした沢蟹君
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

 
 

江ノ島の陰影(無縁仏に水着美女)

$
0
0
京都嵯峨野に壇林寺があります。
絶世の美女、壇林皇后(嵯峨天皇の后)のお寺です。
皇后は遺言されます。
「私の体を、そのままに野に晒しなさい」
美しかったご遺体は、醜く腐り、野犬に食われて、骨になります。
更に、風に吹かれて骨は散ります。
皇后は自らの体を介して「禅」を説いた、と言われます。
その姿は「壇林皇后九想縁起絵詞」として描かれました。
イメージ 1
                  美女「壇林皇后の図」(梅若大社)、これを含めて散骨するまで9図が描かれます。
 
 
 
8月も20日を過ぎると、雨の日が増えてしまいました。
由比ガ浜の海水浴場では、海水浴客も減って、「海の家」の撤退も始まりました。
夏が過ぎて行く寂しさが漂います。
石仏鑑賞もかねて、江ノ島に出かけました。
 
イメージ 2
     江ノ島、手前片瀬海水浴場(8月25日) 江ノ島の左側がオリンピックヨット会場。
     江ノ島の断崖に横穴が掘られ、位牌が祀られています。
 
江ノ島前の横断歩道を渡ると、黒く焼けたお兄さんが「客呼び」の声を張り上げています。
「お嬢さん、海の家は決まっていませんか・・・・?」
水着に着替えて、荷物を預かってもらい、シャワーも必要です。
海の家は海水浴の必需施設です。
江ノ島は我が国で最も集客する海水浴場です。
由比ガ浜や逗子海岸が家族連れが多いのに対し、江ノ島(片瀬海岸)はグループが目立つようです。
砂浜、海の家、の他にレストランやホテルなど、施設が集積している効果もあるのでしょう。
若い男女にとっては、海水浴の他にも沢山の楽しみがあって、欲求に答えてくれます。
イメージ 5
                                 水遊びは子供たち、若い男女は甲羅干し
イメージ 6
    江ノ島片瀬海水浴場の強みはレストランやホテルなど都市型施設が集積していること。
 
私はかき氷(350円)をいただきながら、砂浜を眺めます。
白い肌のお嬢さんはビキニで甲羅干しをしています。
若い男性が、声をかけたりしています。
波打ち際で浮き輪を使って遊んでいるのは、子供ばかりです。
子供は思っていることでしょう。
「お兄さん、お姉さんは海岸に何しに来たのかしら・・・・?」
大きくなったら分かるものです。
イメージ 7
                                        江ノ島神社参道の賑わい
イメージ 8
     江ノ島裏通りの静寂。右奥、断崖に横穴(石窟)が掘られて無縁仏が祀られています。
 
江ノ島神社は参詣客で賑わっています。
銅の鳥居を東に折れると、江ノ島の裏通りです。
人影は全くありません。
民宿も看板だけ、多くが休業のようです。
江ノ島の民宿は流行らない、ホテルにしなくちゃ・・・、駄目なのでしょう。
 
裏通りの、民家の陰に「延命寺」があります。
ここに、目指す石仏(無縁仏)があります。
 
イメージ 9
                                           延命寺墓地の馬頭観音
イメージ 10
                              無縁塔の下段に固められた十一面観音像
 
延命寺と言っても、お寺の本堂がある訳ではありません。
正確には「延命寺納骨堂」とか「延命寺墓地」と言うべきでしょう。
延命寺が鎌倉の寺(下馬)であるのか、藤沢の寺であるのか・・・・、全く分かりません。
何処にもありそうな、有難い名前です。
 
閻魔大王が鎮座している石窟の奥が納骨堂になっています。
真新しい卒塔婆がコインロッカーのような納骨箱に捧げられています。
「此処は何なのかしら・・・・?」
疑問は石窟の入り口の案内板を見て、解けました。
 
明治36年6月、江ノ島に集中豪雨が降りました。
延命寺の墓地は崖崩れで壊滅になりました。
そこで、急遽藤沢市と有志の志で、江ノ島神社の土地を使って、この石窟を掘りました。
そして、誰の骨だか、何処の家の墓だか・・・・、分からなくなってしまった霊を・・・・・、この石窟に祀りました。
イメージ 11
                延命寺石窟の経緯の案内板(藤沢市と個人の名が並んでいます。延命寺の名がない)
 
石窟墓地の前は民家があって、裏通りがあります。
その前に明るい公園を設え、その前にヨットハーバーを設備しました。
昭和39年、東京オリンピック(ヨット会場)の直前の天災だったのでした。
崖崩れした墓地は、早く片付けてしまう必要があったのでしょう。
 
無縁の墓標は享保、正徳、江戸時代前中半が多いようです。
どんな経緯で江ノ島に埋められたのか、分かりません。
誰も詣でないので、集められてコンクリートで塔のように積み上げられました。
下の段の仏は胸まで土に埋もれておいでです。
ジメジメして気持ち悪くはないかしら・・・?
少し、心配です。
イメージ 3
      江ノ島に横穴(石窟)を掘って、中を納骨堂にしました。正面は閻魔大王。
 
賑わいの裏には静寂がある、
繁栄も長続きすることなく、衰退に向かう。
溌剌と、ビキニ姿が眩しいお嬢さんも、何れは老いて・・・・・、
判り切った事ですが、実際に双方を目の前にすると、複雑な気持ちになります。
 
イメージ 4
                                                        美しい聖観音像
 
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
 

秋に駆け足「円覚寺」

$
0
0
立秋も過ぎて、蝉も「ツクツクホウシ」が目立つようになりました。
長いと思って油断していた夏休みも、もうじきお終い。
夏休みの宿題に追い込みをかけていたのは昔の事でした。
今でも、この鳴き声を聞くと、あの頃を思い出します。
 
「ツクツクホウシ」漢字に直せば、「尽く・尽く法師」と書くのでしょうか?
「ご先祖に、尽くせ、尽くせ・・・、と”父母恩重経”ばかりを唱えるお坊さん」の事かもしれません。
そう思うと、我が家の庭にも飛んできてお経をあげてくれます。
きっと、故父母も「お前の下手なお経より、蝉の方が有難味がある・・・・!」
言っている事でしょう。
 
イメージ 1
                                                   円覚寺山門
8月28日、日曜日に北鎌倉円覚寺を詣でました。
円覚寺には参禅の機会が沢山用意されています。
第2、第4日曜日、参禅会(無料)が催されます。
先ず法話があって、次に座禅を組む事ができます。
大方丈に入りきれないほどの人気です。
 
若い女性が目立つのは、どんな意味があるのでしょうか。
美しい座禅の姿を眺めるのは、うれしいことです。
 
方丈の前庭には百体の観音像が祀られています。
白雲木の緑陰の下で、眠っておいでのように穏やかです。
でも、こちらは膝を立てて、少し艶っぽ過ぎます。
 
ツクツク法師の声は聞こえますが、姿はなかなか確認できません。
私は老眼が進んだのでしょうか?
 
イメージ 2
    円覚寺勅旨門の前に咲いた野ボタンの花、奥が方丈で日曜参禅をさせていただける
 
イメージ 3
                      方丈では座禅を指導してもらえます。手前は柏槙の老木
 
方丈の勅旨門には野ボタンが咲き出しました。
その下の選仏堂(座禅堂)にも睡芙蓉が咲き始めています。
もう、花景色は秋模様です。
池の水面には赤とんぼが飛んで行きます。
秋風に向かって飛ぶのは、その気持ちが良いからでしょうか?
流れに逆らうのがトンボの習性だからでしょうか?
ならば、私もトンボなのかもしれません、随分逆らって生きてきました。
 
イメージ 4
         白雲木も実り始めています。この木に蝉が集まり、その緑陰に百観音が祀られています
イメージ 5
                           如意輪観音(百観音の中から)木陰は白雲木。
イメージ 8
                                        咲き出した睡芙蓉の花 茅葺屋根は選仏堂。
 
仏日庵(開基方丈時宗の廟所)の朝顔は、最期の精を出して、懸命に咲いています。
円覚寺は夏から秋に駆けて行きます。
 
イメージ 6
 
イメージ 7
 
 
 
 
 
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live




Latest Images