現代は全国各地に百観音が見られます。
神奈川県では金沢文庫称名寺の裏山に百観音が祀られています。
作られたのは戦争の足音の忍び寄る昭和10年でした。
百観音とは観音様の霊場を1箇所に祀ったものでした。
江戸時代霊場巡りがブームになります。
西国33箇所、坂東33箇所、更に秩父に34箇所の霊場が選ばれて、霊場を巡ればその御利益があると信じられました。
観音霊場を巡れば、自分自身が極楽往生出来る・・・・、ことも子孫が繁栄する事も・・・・、
様々な願いが叶えられると信じられました。
今日の話題は酒匂川を見下ろす「香集寺」の百観音像、上段は東名高速道路の遮音塀です。
でも、33観音の霊場を巡る事は旅の路銀も必要ですし、まして働かない時間が長くなります。
願いは誰しも持っていても観音霊場を巡れる人は稀でした。
一方、江戸幕府が磐石の体制を敷くと築城は無くなりました。
修理するのにも幕府の許可を必要としました。
お城の石垣や基礎作りで、石工は増えていましたが一気に注文が無くなってしまいました。
そこで、彼等は橋の建造、溜池の整備・・・・・、そして石仏作りに転出します。
石仏を作って歩く「石工集団」が登場します。
関東で活躍したのは高遠等の信州の石工、そして上州の石工でした。
長野県佐久市鳴滝の岩尾の百観音は大永5年(1525)の作と刻まれています。
現在はこの百観音が最古のものではないか・・・・、思われています。
今年6月末には佐久に隣接する望月に行きました。
その高台に「昭和望月百観音」が祀られていました。
案内には、奉納したのは望月の郷土の5人、彼らが「昭和末法に世相を嘆いて、昭和63年発願、平成1年奉納した」記されていました。
佐久は流石に石仏のふるさと、最も古い百観音、最も新しい百観音、揃っているのかな・・・、思いました。
望月を佐久の岩村田に行く途中、山中に「昭和望月百観音」があります。
神奈川にも新しい百観音を見つけました。
場所は東名高速大井松田のICを降りて高速道路の下を少し御殿場方面に行った所に在ります。
東名高速道路の厚木・御殿場間の道路拡幅によって香集寺は過半が道路用地になってしまい、
移転する事になったのでした。
香集寺(曹洞宗)は大雄山最乗寺(道了尊)を建立した了庵慧明禅師が建てたお寺です。
古いお寺さんでしたが、道路拡幅の為にはいた仕方ありません。
その結果、現在地に新築整備されたのでした。(平成1年10月)その折に、境内西側の回廊際に百観音像を祀りました。
香集寺の本堂、左上に東名が見られます。左側の回廊に沿って百観音が並んでいます。
規格が揃っているばかりか、表情も似ています。
四角い基台石の上に丸い石を載せ、その上に観音像を祀っています。
丸石には観音霊場の名とご詠歌が刻まれています。
百体もの観音像が一列に並んだ様は壮観であります。
誰が、何処で刻んだのか、何処の石を使ったのか気になります。
丸い石は黒くて火成岩のようですし、観音像は白くて柔らかい凝灰岩の一種と思われます。石の産地も違う、大量生産技術が活かされた百観音のようです。
それはそれで、昭和を記念する観音像でよいものでしょう。
観音様の表情も、持物の細部も丁寧に刻まれています。
「昭和の石工もやるじゃないか・・・・・!」
そんな観音様群です。
東名高速拡幅によって、お寺は立派になりました。
お寺に墓地を求める人も増えました。
何しろ、新宿から1時間足らずで墓参できるのですから、鎌倉の霊園よりずっと便利です。
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